HOME   »  満州国
Tag | 満州国

当時の米人ジャーナリストは中国排日の原因をどう記述しているか~~中国排日5

前回まで4回に分けて、GHQに焚書処分された長野朗氏の2つの著書の文章を当時の新聞記事とあわせて紹介したが、戦前の日本人の文章や新聞記事は信用できないという人も少なくないだろう。
そこで、今回はアメリカ人ジャーナリストのフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ氏が1938年(昭和13年)11月に著した、”Behind the News in China”(邦訳『中国の戦争宣伝の内幕』:芙蓉書房出版)という書物を紹介することにしたい。

無題

この本の中でウィリアムズ氏は、アメリカ人の視点で、中国が排日に至った経緯をこう述べている。

「日本は、…アメリカやヨーロッパに若者を留学させた。やがて日本は西洋列強が新しく見出した保護すべき友人という立場から、対等のライバルとみなす程度まで競争力を貯め、成長してきた。
彼ら(西洋列強国)の態度は変わった。日本の背中をやさしく叩いて、『お前はいい子だ』とはもう言わなくなった。彼らは態度を変え、団結して対抗するようになった。気が利いており、かつ危険なプロパガンダなのだが、日本の商品や国民に対する差別によって日本は世界中にその名誉を毀損され、人々に嫌われただけではなかった。日本をなだめすかして鎖国の孤立から引きずり出したあの西洋列強が、ゆっくりとそして段々と日本の工業生産物を世界の市場から締め出し始めたのだった。」(田中秀雄訳『中国の戦争宣伝の内幕』p.13-14)

中国の戦争宣伝の内幕

要するに西洋諸国は、わが国がこんなに早く西洋技術を修得して西洋のライバル国となるとは考えてもいなかったのである。西洋諸国は自国の製品を日本市場に売りつけて、日本から富を吸い上げるつもりだったのが、逆に西洋諸国の販売国に日本製品が食い込んで行った。それがアメリカをはじめとする西洋諸国には不愉快であったのだ。
そこで彼らは、わが国に対して「危険なプロパガンダ」を使ってでも、日本商品を市場から締め出そうとしたのである。
長野氏の著作では最初に排日を仕掛けたのは英米であったと書かれていたが、アメリカ人であるウィリアムズ氏も長野氏と同じことを書いていることに注目したい。

では当時の中国はどうであったのか。ウィリアムズ氏はこう書いている。

「日本には中国というよき教訓の対象となる国がある。隣国で大きく、その重い図体であえぎあえぎしていた。四億五千万の人々が住んでいながら、自らの足で立つこともできないでいた。貧困と悲惨にどっぷりと浸かっていた。その豊かな国土は軍閥によって強奪、掠奪され、西洋列強によって富が吸い取られていた。…

日本は西洋列強のライバルとなった。中国は彼らの奴隷となった。それゆえに日本は自分が一人の味方もいない事を思い知らされた。そして中国は、かつて外国人を殺戮し掠奪したという過去も忘れられて、突然同情と援助に値する国家と国民というように持ち上げられたのだ。」(同上書p.14-15)

このように、中国民衆は長い間、軍閥と西洋列強によって搾取されるばかりであったのだが、西洋列国が「危険なプロパガンダ」により日本商品を市場から排除する際に、中国を支援して排日思想を植え付けて民衆にそれを煽ったために、わが国は世界で孤立していくことになってしまったということになる。

西洋諸国が日本との貿易を避けようとするので、新たなビジネスを開拓せざるを得なくなったわが国は、当時掠奪と殺戮を繰り返す約30万の匪賊が横行していた満州に目をつけ、その地から張学良ら軍閥と傭兵匪賊集団を放逐し、学校や鉄道を作り工場などを誘致して、満州を北支人が嫉妬するほどの国に変えてしまったのである。

img20120927001900280.jpg

しかし、わが国に新たな危機が到来する。ウィリアムズ氏の文章を続けよう。

「この危機はソビエトロシアからやってきた。西洋諸国は中国で経済計画を作成していた。特にその中の一国は中国に大きな権益を持っていた。ソビエトロシアは政治的計画を作成していた。極東に起きたドラマにおけるソビエトの役割はまだほとんど語られていない。だから私が話そう。モスクワが日本と中国との間に戦争の火を点じたのだ。…

この四五年、ソビエトは中国に足場を持とうとしていた。…
共産主義者たちは飢える数百万の中国人を使って、金持ちや蒋介石、そして彼の南京の軍閥政府、そしてすべての外国人相手に戦わせようと慎重に計画していた。彼らは差し押さえた金持ちの財産、安楽な生活、有り余る食い物をすべての飢えた苦力たちに保証したのだ。…
蒋介石は驚き、『反日』という方法で中国を統一する考えに絶望的にしがみついた。そして彼や金持たちから大衆の視線をそらそうとしたのだ。いくつかの西洋列強からも彼はひそかにそれを奨励された。蒋介石は中国共産党の戦列についに加わった。

日本は中国だけでなく、国家を超えた反日計画に直面していることを理解した。それは西洋列強とリンクしていたのだ。日本が、またある西洋国家さえもが中国の混乱に秩序を与えてくれると期待していた蒋介石は日本の敵と合流した。しかし日本は果実に錐で穴をあけるような反日の嵐が遠くまで広がり、侮辱と周期的な自国民の殺害に至っても平和的であろうとした。」(同上書p.21-22)

ソ連満州の武装共産党員

ソビエトはさらに日本と中国を戦わせようと圧力をかけていく。これは以前このブログで書いた通り、スターリンは日中を戦わせてわが国を消耗させ、さらに日本をアメリカと戦わせて敗北させて、わが国を共産主義陣営に取り込む戦略であったのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

中国にせよ西洋列強にしても、満州の発展をそのまま放置して彼らのプロパガンダの嘘が明らかになってしまうことは、極めて都合の悪い事であった。ウィリアムズ氏はこう書いている。

満州とコミンテルン

「新しくできた満州国蒋介石やその配下の軍閥にとって目の上のたんこぶか、喉に刺さったとげのようなものであった。それは中国共産党にもロシアのボルシェヴィキにとってもそうであった。というのも、貧相きわまる満州から、幸福と繁栄の帝国に満州国は変貌を遂げていたからだ。日本が傀儡政権をうち立て、満州人を搾取しているというプロパガンダが世界的に広まっていてもである。日本の統治であっても、疑いなく満州帝国は繁栄をきわめるだろう。満州国の清潔で賑やかな町と村、よく秩序だった生活、近代的な鉄道と、中国本土の惨めで貧しい、紊乱した状態を比較してみるがいい。たちどころに南京政府もソビエトロシアも秩序というものからほど遠い事が理解されるだろう。

そういう時に西安事件が起こったのだ。それから北京の近くの盧溝橋での日中両国間の敵意の爆発までには大した時間はかからなかった。宣戦布告なき戦争である。真実はまだわからない。しかしその背後にあるものを見ようとする者には、真実は知れ渡っているのである。」(同上書p.23-24)

西安事件というのは前回の記事で書いた通り、1936年12月に反共の蒋介石が張学良に拉致・監禁された事件で、それ以降蒋介石はソビエトのコントロール下に置かれるようになる。
西安事件のあと、中国共産党はわが国を戦争に巻き込むために何をやったか。ウィリアムズ氏はこう書いている。

「…中国共産党は日本人を血祭りに挙げることに決めた。もし日本人が二、三千名殺されたして、誰が対応するのだ。虐殺は日本を激昂させるだろう。自国民を殺されて行動を起こさない国はない。面目は立たない。日本人虐殺は日本との戦争になるだろう。蒋介石も戦わざるを得なくなる。

そしてまた、蒋介石は南京で新たに軍隊を熱狂的に作り直そうとしていた。そしてこれによって中国中にさらに大きなスケールでの日本人男女、子供の虐殺がはじまることになった。これには朝鮮人も含まれる。防御方法を持たない無辜の日本人たちは、家で、店で屠殺され、町や村の街路で暴徒に殺された。数えきれない多数の日本人、朝鮮人たちがこうして死んだ。孤立したコミュニティで殺されていく。」(同上書p.32-33)

こういう史実はほとんどわが国では知らされておらず、日本人は中国大陸で悪いことをしてきたと多くの日本人は学校やテレビ番組などで教え込まれてきた。
以前にこのブログでも通州事件のことを書いたが、中国大陸でこの時期に大量に虐殺されたのは日本人の方なのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

この通州事件のことをウィリアムズ氏はこう書いている。
「私が住んでいた北支の150マイル以内のところに、200名の男女、子供たちが住んでいたが、共産主義者によって殺された。20名はほんの子供のような少女だった。家から連れ出され、焼いたワイヤーで喉を繋がれて、村の通りに生きたまま吊り下げられていた。空中にぶらぶらされる拷問である。共産党員は野蛮人のように遠吠えしながら、揺れる身体を銃弾で穴だらけにした。
日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供らの虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして1日中続いた。家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見した時には、ほとんどの場合、男女の区別もつかなかった。多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。水は彼らの血で赤く染まっていた。何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。…
…中国人たちは焼けたワイヤーを鼻から喉へと通し、両耳を叩いて鼓膜を破り、彼らの『助けてくれ』との叫びを聞こえなくさせた。目玉を抉り出し、自分の拷問者を見られなくした。」(同上書p.33-34)

img20120925074523948.jpg

通州事件のことは、以前このブログで詳しく書いたので繰り返さないが、死亡者の名簿も現場の写真も、生存者の手記も残されている。わが国では新聞や雑誌にも詳しく報道されている。ウィリアムズ氏の手記には誇張はないと思う。

しかし、この様な酷い事をした中国兵をせっかく日本軍が摑まえても、「罪を憎んで人を憎まず」のサムライ精神で臨み、「もうああいうことをしてはいけない。さあ行け。」と説いて帰したというのである。その点は、尖閣事件における不法侵入者に対する今回の日本政府の対応と似ている。
通州事件」の際に、わが国が世界に対して、このような残虐きわまりない行為を訴えていれば、世界が中国を非難していたのだろうが、日本側は中国側の酷い行為を世界にアピールしなかったために、世界は中国でこのような虐殺行為があったことを知られていないとウィリアムズ氏は書いている。ちなみにこの本が刊行されたのは、「通州事件」が起きてからわずか1年4か月しか経っていないのだ。

「…もし他の国でこういうことが起きれば、そのニュースは世界中に広まって、その恐ろしさに縮み上がるだろう。そして殺された人々の国は直ちに行動を起こすだろう。しかし、日本人は宣伝が下手である。…

中国にいる外国人には驚きとしか思えないのだが、日本はすぐには動かない。彼らは共産主義者によって虐殺が遂行されていたことが分っていた。また西洋諸国が日本を貿易市場から締め出した以上、北支との間でビジネスをしなければならないことが分っていた。率直に言って、中国とは戦争をしたくなかったのである。中国政府がロシアのボルシェヴィズムの罠に絡め取られていることも分っていた。しかしそれでも中国との人々とは戦争をしたくはなかったのである。なぜなら中国は隣国であり、もし望むならば、生きていくためのなくてはならないお客様だったのである。」(同上書p.36)

日本人は我慢強い民族であるが故に、わが国を蒋介石との戦争に引きずり込むために、中国共産党はここまで卑劣な行為で挑発をしなければならなかったのかも知れないが、歴史の真実は、こんな酷いことをされても、わが国は世界にアピールすることもせず、中国と戦おうともしなかったのである。

しかしながら戦後占領軍によって、このような「戦勝国にとって都合の悪い史実」が封印され、「わが国が侵略国家であり、戦争責任はわが国にある」という薄っぺらい歴史観を、日本人は戦勝国から押し付けられてしまった。
学校で学んできた歴史も、マスコミによる昭和史の解説も、いずれも同じ歴史観で語られるために、ほとんどの日本人がその歴史観に洗脳されてしまっているのが現状だ。しかし、中国や韓国や北朝鮮のような言論の自由がない国が、彼らの主張する歴史を声高にわが国に押し付けようとすることには、余程の魂胆があると考えるべきではないのか。

いずれ近現代史は全面的に書き換えられる日がるだろうが、その為には多くの日本人が現在流布されている歴史観の誤りに気がつき、正しい歴史を世界に広める強い意志が不可欠である。なぜなら、中国にせよ韓国にせよロシアにせよアメリカにせよ、わが国が「戦勝国にとって都合の良い」歴史観に洗脳されていることが、それぞれの国の国益に叶うからである。わかりやすく言うと、戦争の原因をすべてわが国に擦り付けることができるだけでなく、少し圧力をかけるだけでわが国から資金援助を得ることも可能だからである。
史実はその歴史観とは程遠いものであったのだが、彼らはいくら真実が明らかになっても、わが国がその歴史観を変えないように、様々な圧力をかけてくるだろう。
なぜならわが国が歴史の真実を知りそれを世界に広めることは、彼らの国はわが国から資金援助が得られないばかりではなく、今度は彼らの国が「戦争犯罪者」の汚名を被ることになりかねないからだ。

パール博士顕彰碑

戦勝国が我が国を裁いた東京裁判の11人の判事の中でただ一人、日本人被告全員無罪の判決を下したインド代表判事のラダビノード・パール氏の顕彰碑が東京都千代田区にあり、その碑にはこう刻まれている。
「時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には、その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求するであろう」

第二次大戦が終わって67年以上が経過した。そろそろ日本人も真実の歴史に目覚めるべき時ではないだろうか。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加




関連記事

関東軍が満州を制圧し満州国が建国されたことを当時の世界はどう見ていたのか

昭和6年(1931)9月18日の柳条湖事件に端を発して満州事変が勃発し、関東軍により満州全土が占領されて、その後満州は関東軍の主導の下に中華民国からの独立を宣言し、昭和7年(1932)3月1日に満州国が建国された。満州国の元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が就いた。

溥儀
溥儀

この満州国については、一般的な教科書では次のように記されている。

「しかし、軍事・外交はもとより、内政の実権も関東軍や日本時官吏がにぎっており、満州国は日本が事実上支配するものとなった。日本のこうした行動は、不戦条約*および9か国条約に違反するものとして国際的な非難をあびた。」(『もういちど読む 山川の日本史』p.297)
*不戦条約:1928年、仏のブリアンと米のケロッグが提唱して実現した戦争を否定する初の国際条約。ケロッグ・ブリアン条約とも言う。

このような文章を読むと、わが国が全世界から非難されたような印象を受けるのだが、満州事変のあと国連から派遣された調査団によってレポートされた『リットン報告書』では相当程度わが国の立場を認めていた。

昭和7年9月11日 大阪毎日新聞 日本は正当 英紙の満州問題視

また満州国は当時の世界60か国の内20か国がのちに承認し、ソ連のような建国以来国境紛争を繰り返した国さえも事実上承認の関係にあったのである。
世界の3分の1が承認しているような満州国を支援したわが国が「国際的な非難を浴びた」とわが国の教科書が書くのは、国民を「自虐史観」に誘導し固定化する意図を感じるところなのだが、この点について当時の論調はどのようなものであったのか。

昭和7年10月28日 神戸又新日報 ロシア事実上満洲国を承認

まずわが国が「不戦条約」に違反したかどうかだが、そもそも1928年に成立した「不戦条約」は単純に戦争を放棄するというものではなく、自衛のための武力行使は認められていたことは重要なポイントである。
前回の記事で書いたように、日清戦争の頃は満州人の故地である満州の人口はわずか数百万人であったのだが、そこに中国は3千万の漢人を送り込んで排日運動を仕掛け、ソ連も赤化工作を仕掛けて何度も暴動を起こし、わが国が多額の投資をしてインフラを整備し築き上げてきた満州の権益を奪う動きをしていたのである。わが国の行動が自国の権益を守るための自衛行為だと認知されていたなら条約違反にはあたらないことになる

満州事変と世界の声

国立国会図書館デジタルコレクションに、満州事変の1か月後に出版された『満洲事変と世界の声』という本が公開されている。この書物は主要国の新聞や雑誌の当時の論調をまとめたものだが、わが国が「不戦条約」に違反したかどうかについては、アメリカのファーイースタン・レビュー誌のG.ブロンソン.リーの論文(要約)がわかりやすい。この人物はその後満州国外交部顧問に就任していることを付記しておく。

George-Bronson-Rea.jpg
【G.ブロンソン.リー】

「日本は満州に15億円の投資を為しているばかりではなく、その経済的必要、国防の安全、国家の名誉と威厳をかけている。…
 この満州における日本の既得権益問題が解決されなければ、日支通商も日支親善もあり得ない。中村大尉事件、万宝山事件、朝鮮における支那人虐殺事件その他三百余件が日支間に未解決のまま残されている。支那*はその解決策として、国際連盟**、ケロッグ不戦条約その他世界の同情を利用して日本の武力を封じ、一方ボイコットを以て日本を経済的に圧迫しようとしている。日本がこと満州の既得権に関する限り絶対に第三国の干渉を排除し、必要とあれば全世界をも相手取って争うことを辞せないことを誓っていることを支那は忘れているのである。しかのみならず、支那はケロッグ・ブリアン不戦条約について重大な見落としをしている。すなわちこの不戦条約には自己防御および既得権擁護の権利の場合が保留されていることを見落としているのである。…満州における支那の宗主権は日本といえども認めている。しからば支那はその宗主権を如何に行使したか。国際の信義を重んじたか、満州の福利を計ったか、治安を維持したか、また外国資本からなる企業を保護したか?…
 満州の支那官憲は七十億ドルもの無価値な紙幣を発行して農民から穀物をとり上げ、それを現金に代えて巨大な軍隊を養い、将軍連の私腹を肥やしていた。支那は盛んに国際的道徳を説くが、日本が事実をもって説くところも聴く者をして肯かせるものがある。支那は日本の侵略を説き不戦条約違反だとするが、日本からしてみれば自己防御と言うだろう。元来国際公法なるものは国際の伝統、習慣および力から成るのであって口先ばかりの理屈ではない。支那は自己の外交を支持する力を以てせず、ボイコット、ストライキその他の排外運動なるものを武器として戦う。支那は常に国内の戦争ばかりしていて、ろくに自分の国を治めないで外国の干渉は排撃するが、外国と事が起こると第三国の干渉を希望している。今日の紛争の種は支那が撒いたようなものだ。即ち国内を治めず、国家の権力に伴って存する義務を怠っていた結果である。」
*支那:現在の中国本土。
**国際連盟:1920年1月20日に正式に発足した国際機関。本部はジュネーブにあった。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146591/94

また同上書で、英国のタイムズ紙(同年10月16日付)に掲載されたT.O.Pブランド氏の論考も紹介されている。文中のジュネーブというのは国際連盟のことを指している。

支那国民党は、南京および奉天において日本に対する敵対的政策を遂行していたもので、それは激烈なる反日宣伝やあらゆる種類の破壊的行動によって示されていた。これは支那外交の伝統的手段に全く一致するもので、この煽動政策は日本をして合法的権益を自衛せしむる上に、武力に訴える立場まで引きずりこむこむことで、日本がこの軍事行動をとるや支那はこれをもってケロッグ条約や連盟に抵触するとなしてこれを訴え、連盟および米国の干渉を誘起せんとするものである。
 この支那の取っている政策の真の目的は満州における日本の権益を廃棄せしむるか、またはその根本的改定にあるもので、国民党の首領らはワシントンおよびジュネーブの雰囲気がこの目的遂行に十分合致せるものなることを知りつくしている。支那はワシントン会議以来他の条約国との交渉に於いて条約の義務を平気で無視し、または破棄することに成功している。今回支那がことさらに事件を起こして日本の満州における権益を排除すべき見解をとって、ジュネーブに訴え出たことは敢えて驚くに当たらぬ事実である

 しかしながらすべてこの理論的政策をまず差しおいて、日本が合法的権利の範囲内で活動した結果、満州が無秩序な支那の砂漠の嵐の中に反映せるオアシスとなっている状態は貴重な事実であらねばならぬ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146591/22

このように中国に対して厳しくてわが国に理解を示す論調もあれば、その逆もまた存在するのだが、ソ連や中国のように侵略行為としてわが国を厳しく非難する論調は決して多くなく、軍部が政府の指示を得ずに動いた問題点は指摘しつつも、わが国の自衛のための行動と評する論調をいくつも見出すことが出来る。

再び冒頭の教科書の記述に戻って、次にわが国が「9か国条約」に違反していたかについて考えてみたい。

この条約は大正11年(1922)のワシントン会議に出席したアメリカ、イギリス、オランダ、イタリア、フランス、ベルギー、ポルトガル、日本、中華民国間で締結された中国に関する条約で、各国に中国の主権、独立そして領土及び行政的保全を尊重させ、門戸開放・機会均等・主権尊重などが定められているのだが、中国側にも軍事力と軍事費の削減努力を行う義務などが定められており、中国に関して言えば、彼らはこの決議を全く無視して兵力を増やし続けたことを指摘せざるを得ない。

支那国軍隊の削減に関する決議

日本外交文書デジタルアーカイブ ワシントン会議極東問題の決議内容が公開されていて、次のURLの第9章第1節にのp.348に、(7)支那陸軍兵力縮小に関する決議の訳文が出ている。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/tt-4.html

満州国建国の正当性を弁護する

G.ブロンソン.リーの著書『満州国建国の正当性を弁護する』によると、1921年当時の中国軍は約百万人と見積もられていて、その後大幅に増加したという。

「『チャイナ・イヤー・ブック』(1932年)は、非正規軍を除外してその戦力を2,245,536人と見積もっている。南京政府の軍事独裁者、蒋介石の私兵は百万である。これに加えて承認政府の軍隊と独立した軍閥があり、武装した匪賊、そして共産軍がおよそ二百万である。銃器を携行する中国人は合計するとざっと五百万で、これが人民を餌食にし、外国の承認を求め、外国が管理して集めた歳入を享受しようと、覇権を求めてお互いに戦い合っているのである。」(『満州国建国の正当性を弁護する』p.269)

このように中国は決議に違反して兵力を大幅に拡大していったわけだが、国際正義の観点からこのような国の主権を尊重することが優先されるべきだとは思えない。そしてわが国は、柳条湖事件以降経った数万の兵力で、わずか5か月の間に満州全土を占領してしまったのである。

昭和4年1月8日 東京朝日新聞 英・米・独からの対支輸出が激増

満州事変直後においては中国の方を批判する論調が少なからずあったにもかかわらず、なぜその後、世界の多くの国は日本に非難の矛先を向けていったのだろうか。
G.ブロンソン.リーは、同上書で非常に興味深いことを述べている。

合衆国政府と種々の我が世論機関は日本にひどく批判的だが、それは日本が海軍制限条約の改訂を望まないからである。日本は2・2・2の同率条件が認められれば、日本は海軍を削減するつもりだと請け合っているにもかかわらず、我々が聞き知るすべては、日本が極東を支配し、我々の貿易を閉ざそうとしているということだ。…
 他の一面は最も浅薄な観察者でもよく理解できる。中国の外国貿易は現在、政府がその力を維持するための主要な歳入源となっており、それは過去七年間の二千五百万から三千万の人々の死の原因となっている。関税で集まったお金は軍隊維持のために費やされ、人々を食い物にして彼らの外国製品購買能力を破壊するのだ。我々は外国の法律も、アメリカ上院決議も干渉できない武器密売の光景をここに見る。あらゆる国が、このぞっとするビジネスの分け前を得ようとしている。彼ら”死の商人”は、増加する関税収入に担保された長期貸付で裏取引を行う一方、外交や政府の支持を得て、その特製品を売るのである。外国貿易が武器代金を支払うことになるのだ。
 世界は九か国条約に違反したとして日本を非難する。告発は自由である。しかし貿易と儲けの為に中国の条約違反に目を閉ざしたその他の七か国はどうなのだ?関税自主権を認められた中国は資金をつぎ込んで正規軍を百万から三百万に増やし、第一次世界大戦の戦死者の五倍の人間を殺すことを可能にした。日本は自衛のために条約に違反したかもしれない。しかし日本を告発する者は、つまらない貿易の利益を得んがために中国の条約違反を大めに見た廉で、世論という法廷の前では有罪を宣告されるのである。」(同上書 p.272~273)

内戦の続く中国は、欧米の『死の商人』からすれば極めて魅力的な武器のマーケットであったことは言うまでもないだろう。G.ブロンソン.リーは中国が大量の武器を買っていたことについてこう述べている。
「満州の張家の統治時代には、人々は銃剣を突き付けられ、労役の産物と交換に七十億ドルの不換紙幣を無理やり押し付けられた。その他の省では土地税が二十年から五十年先まで取られている。阿片の栽培と販売が幾つかの省の軍隊を維持する収入となっている。その他の方法でも人民はその抑圧者に財産を搾り取られているのだ。」(同上書 p.271)

昭和7年11月27日 大阪毎日新聞 支那に延びる欧米の大資本

このように収奪された資金のかなりの部分が武器弾薬や軍用車などの購入に充てられたことは想像に難くない。前回記事でわが国が満州の都市建設などのために投資した金額は17億円と書いたが、ドルに換算すると5~6億ドル程度である。張作霖・張学良の時代の満州では、その何倍もの金が内戦の為に使われた可能性が高いのである。

『死の商人』にとっては、争いが続く限りはいくらでも武器・弾薬を売ることができる。そして、もし中国の内戦の泥沼に日本を引き摺り込むことができれば、さらに儲けることができると考えていたのではなかったか。

しかしながら、中国兵よりも圧倒的に少数の関東軍が、たちまちのうちに満州を制圧してしまった。武器・弾薬をもっと売りたい彼らからすれば、関東軍が満州を鎮圧してこの地域が平和となることは決して好ましいことではなかったことは誰でもわかるだろう。

昭和7年8月2日 中外商業日報 対支貿易に於ける日米の地位顛倒す

以前このブログで、大正8年(1919)から中国の排日が始まり、その背後に英米の勢力が活発に動いていたことを書いたことがある。
上の画像は昭和7年(1932)8月2日の中外商業新報の記事であるが、中国の日貨排斥運動を機にアメリカの対中国貿易が、日本、イギリスを追い抜いて一気に首位に踊り出たことが報道されている。アメリカが主張していた中国大陸の「門戸開放」は、中国に排日を仕掛けることで実を結んだことを知るべきではないだろうか。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加



【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

第一次大戦以降、中国の排日運動を背後から操ったのはどこの国だったのか~~中国排日その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-238.html

米英が仕掛けた中国の排日運動はそれからどうなったのか~~中国排日その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-239.html

中国の排日が我が国を激しく挑発するに至った経緯~~中国排日3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-240.html

中国全土に及んだ「排日」がいかに広められ、誰が利用したのか~~中国排日4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-241.html

当時の米人ジャーナリストは中国排日の原因をどう記述しているか~~中国排日5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-242.html





関連記事

リットン調査団と国際連盟を利用してわが国を孤立化させた列強は何を狙っていたのか

前回の記事のなかで、昭和6年(1931)9月の満州事変以降関東軍が満州全土を占領した頃の世界には、わが国に理解を示す論調が少なからずあったことを述べた。

その翌年3月に満州国が成立し、わが国は「国際的な非難をあびた」と教科書などで記されているのだが、このように書かれる根拠はその後の国際連盟の動きにあると思われる。

わが国が国際連盟を脱退した経緯について、『もういちど読む 山川の日本史』では次のように記されている

中国政府は満州事変を武力侵攻であるとして、国際連盟にうったえた。1932(昭和7)年、国際連盟は実情を調査するためにリットン調査団を派遣し、同年10月、リットン報告書を公表した。その内容は、満州に対する中国の主権を認め、満州国の独立を否定してはいたが、満州における日本の特殊権益には理解を示し、満州に自治権をもった政府をつくるという、かなり妥協的なものであった。しかし、軍部や国内世論の強いつき上げで、斎藤実内閣はリットン報告書の公表の直前、日満議定書をむすんで満州国を正式に承認していた。
 1933(昭和8)年2月、国際連盟臨時総会がリットン報告書にもとづいて、満州を占領している日本軍の撤退などをもとめる勧告案を圧倒的多数で可決すると、同年3月、日本はついに国際連盟脱退を通告した(1935年発効)
 こうして日本は、国際協調路線から大きく方向転換して、孤立化への道を歩むことになった。」(『もういちど読む 山川の日本史』p.298)

リットン調査団の報告の内容がポイントになるような書き方だが、この調査団は昭和7年(1932)に結成され、3月から3か月にわたり満州、日本、中国を調査し、8月より北京で調査報告書の作成が開始され、10月2日に報告書が世界に公表されている。

この報告内容には色々問題があり、批判的な論調が世界で少なくなかったことを紹介しておこう。そもそも暴動の相次ぐ中国で日本軍が撤退したら、再び治安が乱れていずれ武力紛争に発展することは誰でも容易に想像できることであったのだ。

世界は、この調査団がわが国に不利な報告を出すことは予め分かっていたようで、報告が公表される前から批判記事が出ている。
いつものように神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫で、「リットン調査団」をキーワードで検索すると42本の記事を確認することが出来る。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/

昭和7年9月11日 大阪毎日新聞 日本は正当 英紙の満州問題視

昭和7年(1932)9月11日付(リットン報告書公表前)の大阪毎日新聞の記事に、イギリスのサタデー・レビュー誌の論調が紹介されている。

国際連盟が何をいい、リットン調査団が何を報告しようとも日本の満洲における権益は確固不抜である。支那のそれは山に湧いた霧の如くで満洲国は支那のものでなく支那のものだったこともない、支那が満洲との境界に長城を築いて満洲人の入冠を防いだ事実は明かにこれを物語っている、しかし満洲人の入って来るのを防ぐことは出来なかった、満洲人は支那に入ってきて遂に全く支那に吸収されてしまったのである、その後日本はその背後地を援助して朝鮮から進出したが、右進出までは満洲には遊牧の民等何百万がいたに過ぎない、今や支那の政治家たちはこれまで全く支那のものでなかった土地を取戻そうと企てている。かくのごとく鬼面の狂言に過ぎない無理押により日本の苦心経営の果実を掴み取りしようとしているのである。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10162180&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

昭和7年10月5日 大阪時事新報 ポーランド代表は曰う 結論は牽強附会

またリットン報告書が公表されたのちのポーランドの主張が、10月5日付の大阪時事新報に出ている。
「ポーランド代表方面の意見は、リットン調査団の蒐集した各種の条項は寧ろ強く日本の主張の正しい事を示しているに拘らず調査団の結論は日本に不利なるものとなるに至っている。第一リットン報告書それ自身が、支那には秩序回復し正常なる状態を改組する能力なき事を明瞭にしている調査団も、満洲の原状復帰の不可能なる事を予期して居るではないか。日本の特殊の経済的財政的権益を認める時は日本の特殊行動も亦正当化されるのであると極めて事の判った正論を表明している。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10164045&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

ポーランドが指摘しているように、リットン調査団の報告は相当程度わが国の主張を織り込んでおり、第三章ではわが国の満州における権益について認め、第六章では日本兵の行状は善良で略奪や虐殺事例がないことも書かれている。しかしながら重要な事実誤認が存在したのである。

渡部昇一氏は『リットン報告書』の解説でこう述べている。
「それは『満州はシナの一部である』とする結論だ。
《従来、東三省(満州)はつねにシナや列強がシナの一部と認めていた地域で、同地方におけるシナ政府の法律上の権限に異議が唱えられたことはない。》(第三章)
《右の地域(満州)は法律的には完全にシナの一部分である。》(第九章)

 こうした記述が歴史的に見てまったくの誤りであることは言うまでもない。後述するように『満州』は、溥儀を最後の皇帝(ラストエンペラー)とする満州族が支配していた土地であり、万里の長城の外にあって、元来は漢人(シナ人)の立ち入りは禁じられていた『封禁の地』でもあった。断じて『シナの一部』などではないのである。」(『リットン報告書』P.14)

このブログでも何度も書いてきた通り満州は満州族の故地であり、清王朝以前ではこの地が漢人王朝に支配されたことがない地域であった。

満州の日本の勢力圏

満州の面積は当時の日本の面積の約三倍で、日清戦争の頃の満州の人口は5~6百万人に過ぎなかった。そのうち漢人の人口は2~3百万人程度だったようだが、その後わが国を中心とする投資によりインフラの整備が進むと大量の漢人が流入して、1938年頃には漢人だけで30百万人となり全体の9割が漢人になってしまったのである。
満州人は故地である満州を漢人支配から取り返そうと独立運動を展開していたのだが、リットン報告書の第6章にはその満州人の独立運動を日本軍は利用したとし、「現在の政権[満州国]を純粋かつ自発的な独立運動によって出現したものと考えるわけにはいかない」と結論付けている
そもそも独立を果たした国のほとんどが、どこかの国の支援を得ていた。第一次大戦後に欧米列強は「民族自決主義」を提唱したのであるが、満州人に関しては独立することを認めないというのはおかしな議論である。

そして、リットン報告書の結論はあきらかに中国寄りになっている。
たとえば報告書の「第九章解決の原則および条件」には、こう書かれている。

七 満州の自治
 満州における政府は、シナの主権および行政的保全と一致し、東三省の地方的状況や特徴に応じられるように工夫された広範な自治を確保するものに改められるべきである。新しい文治制度は善良な政治の本質的要求を満足するよう構成・運用される必要がある。
八 内部的秩序および外部的侵略に対する保証
 満州の内部的秩序は有効な地方憲兵隊によって確保され、外部的侵略に対する安全は憲兵隊以外のいっさいの武装隊の撤退と関係国間における不可侵条約の締結によって与えられること
。」(同上書 P.315)

満州は漢人が治めることにするので関東軍は撤退せよと述べている部分だが、漢人の地方憲兵隊ではこれまで相次ぐ暴動事件を止めることが出来ず、居留民の犠牲が何人も出たことから関東軍が動いた経緯を全く無視している。漢人の地方憲兵隊に任せても満州の平和が維持できないことはそれまでの歴史が証明しているのだ。

昭和7年11月26日 大阪毎日新聞 リ卿、勝手に答弁出来ぬ

当時の新聞を調べていくと、リットン調査団の中にも意見の違いがあったようだ。
昭和7年(1932)11月26日の大阪毎日新聞によると、団長のリットン卿(英国)は、クローデル(仏国)の主張により、国際連盟の理事会で自由に発言することが出来なかったようなのである。
こういう記事を読むと国際連盟やリットン報告書に何かキナ臭いものを感じるところなのだが、当時の新聞の記事を探していくと、これらの組織の問題点について興味深い解説をしている記事が見つかった。

昭和8年2月24日 神戸又新日報 連盟を掌中に日本を孤立へ フリーメーソンの正体

上の画像は昭和8年(1933)2月24日の神戸又新日報の記事だが、国際連盟のメンバーや、リットン調査団のメンバーに某秘密結社のメンバーが少なからずいることが指摘されている。この結社は「全世界の弱き国不平をもつ国などを煽動し擾乱を起さん」とし、その秘密結社と国際連盟との関係について、その結社の機関誌にこう書かれているという。
「指導精神から考えて連盟はユダヤの運動に深い関係を持っており吾々ユダヤ人は連盟の最初の具体的提案者で、連盟はユダヤ民族に世界的放浪生活をさせている根本原因を政治的に解決するものである
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10014432&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

古代ローマ帝国によって国を滅ぼされたユダヤ人にとっては、母国を建設することが永年の民族の悲願であったわけだが、そのためには世界の紛争を拡大して大国を疲弊させ、さらに世界を攪乱していくことでユダヤ人が世界の支配的地位に立つことができると考えていたという。

200px-JacobSchiff.jpg
【ヤコブ・シフ】

日露戦争の際にわが国は、ユダヤ人で前述の某秘密結社のメンバーであるヤコブ・シフの支援を受けて戦費を調達しているが、シフはその後レーニン、とロッキーに資金提供してロシア革命を支援した人物でもある。

もし国際連盟やリットン調査団がこの秘密結社と関係があったとすれば、わが国が連盟脱退に至ったことは、彼らが世界を攪乱させていく戦略の中で仕組まれていたという解釈が成り立つことになるのだが、このような考え方は当時において決して珍しいものではなかったと思われる。
神戸大学の新聞文庫や国立国会図書館のデジタルコレクションでこの秘密結社の名前を入れて検索すると、多数の記事や著作がヒットすることに多くの方が驚かれることであろう。

昭和7年3月26日 大阪時事新報 米露両国の如く連盟を脱退せよ

わが国が国際連盟脱退するべきとの意見が出てきたのは、リットン調査団が満州で調査を開始した頃から始まっている。上の画像はわが国の新聞で最初に連盟脱退論が報じられた昭和7年(1932)3月26日付の大阪時事新報の記事である。

国際連盟にはアメリカもソ連も参加しておらず、参加国は欧州が中心であったため東洋の問題解決に欧州国の考え方で臨むことには限界があり、わが国が連盟を相手に交渉を重ねても極東事態を悪化させるばかりで、世界平和に悪影響を及ぼす結果になりかねないとする考えが、外務及び陸軍部内で有力になりつつあると伝えている。

昭和7年(1932)6月に出版された『列国は日本をどう見る : 不穏事件に対する列国の輿論』という本を読むと、上記記事のわずか2日後に、ニューヨークタイムズでわが国が『連盟脱退をも辞せざる決心である』との記事が出たという。アメリカだけではなく、フランスも同じ日に記事が出ているのだが、その反応の速さに驚かざるを得ない。

列国は日本をどう見る -

この本には当時の各国の論説が紹介されているが、4月1日付のエコ・ド・パリ掲載のベナクルス氏の論説を紹介したい。

(日本が連盟を脱退するようになれば)日支問題は連盟の手を離れるにいたり、また連盟自身は日、米、露の三大国を失い、全く欧州のみの連盟と化してしまう。しかも、日本が満州の門戸を開放している限りは、米国の反対には頓着なしに他の数国にその満州における地位を容認させることに成功するだろう。こうなれば不戦条約もまた打撃を被ることとなる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1269665/146

同上書でカナダのテレグラフ・ジャーナル紙も日本の立場に立って論評している。
三大海軍国無きの日米二国が連盟の圏外に立つことになったならば、連盟の使命遂行は不可能となってしまうであろう。もし日本が連盟を脱退するならば、その理由は国家の利益が到底容認し難き不当の侵害を受けたからだというであろう。今次の事変において、支那に罪なしとは言いえない。そうして支那との交渉方法は、他のいずれの国よりも、日本が最もよく知っているのである。たとえ、日本の主張が不当であるとしても、日本は被害者なることを熱心に闡明(せんめい)して、それを枉(ま)げようとはしない。その主張に反して、連盟の一員成るがゆえに、重大なる国権の侵害を甘受しなければならないとなれば、日本たるものの憤懣もさこそと察せられる。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1269665/148

昭和7年9月22日 大阪毎日新聞 日本の対満政策に反対 米国、露骨に運動を開始

この国際連盟にはアメリカは正式には参加していなかったのだが、アメリカは自他ともに認める世界第一の富強国である。国際連盟としても重要な議題についてはアメリカを外すわけにはいかず、三顧の礼を尽くしてアメリカにオブザーバーの参加を要請していたという。

アメリカの戦略については同上書の著者志賀哲郎氏の解説がわかりやすい。
「日本の連盟脱退説がアメリカにおいても相当のセンセーションを巻き起こしたことは既に述べたとおりであるが、元来連盟加盟国でもなんでもないアメリカが、いったいどうして日本の連盟脱退についてそれほど騒ぎまわるのであろうか?。これはアメリカが連盟を利用して日本の行動を掣肘(せいちゅう)しようと思っているからである。少なくともアメリカが単独でやるよりは、連盟という大所帯の尻をつっついて、日本に干渉させた方がより利巧であり効果的だと信じているからである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1269665/146


昭和7年10月4日 大阪日日新聞 最も大なる失望は米政府が感じる

しかし、リットン調査団の報告の内容はアメリカが期待していたような内容とは程遠かったようだ。昭和7年(1932)10月4日付の大阪日日新聞に、軍事評論家の池崎忠孝氏はこう述べている。
従来のアメリカ合衆国の主張たる不戦条約及び九ヶ国条約の侵犯は、国際連盟は認めなかったのである
 スチムソン外交の基礎は此処に崩壊すべく、米国従来の対日態度の論理的根拠を失い、スチムソン国務長官の面目は丸潰れとなったのである。リットン報告に最も大きな失望を感ずるものは米国である」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10163755&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

国際連盟脱退

これからどのような多数派工作が行われたかは定かではないが、、昭和8年(1933)2月の国際連盟総会にて満州における中国の統治権を承認し日本軍の撤退を求める報告案が出され、44か国中42か国の賛成(日本反対、シャム[現在のタイ]棄権)となり、松岡洋右ほか日本代表団は議場から退場したわけだが、その後欧米の主要国は日本商品に高関税を賦課して日本商品を排斥する動きに出たのである。

昭和8年6月11日 大阪時事新報 英国のやり方は国民の感情を害す

上の画像は昭和8年6月11日付の大阪時事新報の記事であるが、わが国が国連を脱退したタイミングで、わが国が開拓した市場を奪い取ろうとして主要国が動き出したことは注目に値する。リットン調査団報告に基づいて国際連盟で決議したことを演出することによって、わが国を孤立させ、追い詰めていこうとした列強が何を狙っていたかは明らかではないのか。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

カリフォルニア州の排日運動が、日露戦争後に急拡大した背景を考える~~米国排日1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-260.html

日露戦争後のアメリカにおける日本人差別の実態~~米国排日2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-261.html

米人弁護士が書いた日露戦争後のカリフォルニアの排日運動~~米国排日3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-262.html

日露戦争以降、わが国は米国黒人の希望の星であった~~米国排日4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-263.html

パリ講和会議で人種差別撤廃案を提出した日本とその後の黒人暴動など~~米国排日5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-264.html

関東大震災のあと日本支援に立ち上がった米国黒人たち~~米国排日6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-265.html









関連記事

満州人が各地で独立運動を起こしていたことが教科書などで書かれないのはなぜか

前回の記事で、『リットン報告書』の内容は相当程度わが国の主張を織り込んでいながら、結論はかなり中国寄りになっていたことを書いた。このブログで何度も書いてきたように満州満州族の故地であったのだが、この地に大量の漢人が流入したために人口の9割以上が漢人になってしまっていた。『リットン報告書』では満州を漢人が治める地として認め、関東軍の撤退を求めたわけだが、この問題をわが国に当てはめて考えると、もし人口540万人の北海道に数千万の移民を送り込んだ国があったとした場合に、北海道の主権を大量の移民を送り込んだ側に認めるとするのがリットン報告書の考え方なのである。

眼前に迫る世界大戦と英米赤露の襲来

そもそもその当時の満州地区の民族別の人口構成はどのようなものであったのだろうか。
昭和7年に出版されて戦後GHQ焚書とされた『眼前に迫る世界大戦と英米赤露の襲来』という本があり、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている。そこには満州国の版図と民族別人口構成についてこう記されている。

満州

満州国は普通われらが満蒙と呼ぶ土地の総称である。即ち奉天、吉林、黒竜江、熱河省の四省を含み、その面積は…日本の内地面積の約三倍にあたる。しかも人口は三千四百万、日本人口の半ばにも達しない。
 しかしこれを民族別的に観るときは、満州人の起こった所でありその郷土でありながら、現実には漢人によって大勢力を支配されその比率は漢人九十五に対し純満州人は五ないし十の割合にしか過ぎない。即ち新国家の旗のもとに生活する純満蒙人は二百万ないし三百万人で、他の多部分は漢人である。また新国家に参加する蒙古人は四~五十万人、日本人は昭和五年末の調査によると二十二万二百九十五人、同朝鮮人五万五千十一人である。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442250/76

紫禁城全景 『北京の展望』(昭和14年刊)
紫禁城全景 『北京の展望』(昭和14年刊)】

1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した清(しん)は、満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝であるが、清朝皇帝は満州族の故地である満州に漢人が住み着くことがないように、この地域を「封禁の地」として漢人が立ち入ることを禁止していて、昔の人口は数百万程度にすぎなかったという。
ところが阿片戦争以降ロシアの南下の脅威が増大し、清国政府はロシア人に踏み込まれるくらいなら漢人の方がましだと判断して、次第に漢人の満州移住を認めていき、日清戦争以降は移住を全面解禁したのである。その結果三千万もの漢人が満州に流入してきて、住民の大多数が漢人となってしまったという。リットン報告書』では、満州人と漢人との関係についてこう述べている。

リットン報告書

満州人は漢人とほとんど完全に同化されている。もっとも吉林と黒龍江においては、なお少数、政治上重要ではない満州人の植民地があって、二か国語を話す満州人が残存している。中華民国の成立以来、満州民族はその特権的地位を失った。
 …満州における漢人の証言によれば、(満州国の)すべての権力は日本人の手に握られ、彼ら・満州人の提議は容れられることがないため失望を感じつつあるという。満州人の血が流れているもののあいだには先帝(宣統帝・溥儀)に対する精神的な忠誠の念がまだ残っているといっても、顕著な民族意識を持った満州人の運動は存在しない。」(ビジネス社『リットン報告書』p.268)

リットン調査団は漢人からの証言をそのまま鵜呑みにして、満州人は漢人と同化したと述べているのだが、そんなことは絶対にありえない。満州人による独立運動はかなり以前から存在していたことは少し当時の記録を調べれば誰でもわかる

故宮入りする前の幼い溥儀
【故宮入りする前の幼い溥儀

満州人の独立運動のことを書く前に、清朝最後の皇帝となった宣統帝溥儀(ふぎ)のことを補足しておこう。溥儀は1906年に北京に生まれ1908年にわずか2歳10か月で第12代清朝皇帝(宣統帝)となった。
1911年に辛亥革命が起こり、翌年に溥儀は退位させられしばらく紫禁城で監視されながら生活していたのだが、1924年の北京政変で紫禁城から退去させられることとなる。

紫禁城の黄昏

清朝最後の皇帝溥儀の家庭教師を務めたレジナルド・ジョンソンの『紫禁城の黄昏』に、満州人による独立運動のことが書かれた新聞記事がいくつか紹介されている。

【1919年6月23日付 ノース・チャイナ・デイリー・ニュース紙】
増税したことと管理が腐敗したことにより、国民は満州皇帝の復帰を望むようになっている。満州朝廷も悪かったけれども、共和国はその十倍も悪いと人々は思っている。満州王朝を恋しがる声は人里離れた辺鄙なところで聞こえるだけでなく、他の地方でも満州朝廷の再建の望みはまだあるという声を耳にする。」(『紫禁城の黄昏(下)』祥伝社 p.58)

【1919年9月9日付 ノース・チャイナ・デイリー・メール紙】
シナで共和主義を試みたものの、蓋を開けてみれば能なしだと分かったということだ。シナの国土の屋台骨である商人階級や中流上層階級は、内輪争いにうんざりしている。どのような形にせよ、十八省に平和を保障する政府なら、人々は諸手を挙げて支持すると断じて疑わない。

前皇帝の復辟を望み、密かに支持する人たちが強く主張するのは、共和制主義者がこの国を破壊しているということだ。つまり、いかに荒療治であっても、共和制主義者を片付けて、かつての平和と繁栄を取り戻さなければならないのである
。」(同上書 p.70~71)

【1921年5月21日付 ノース・チャイナ・スタンダード紙(北京)】
「シナ当局が掴んでいる確かな報道によると粛親王(しゅくしんのう)*と前総督の升允(しょういん)が掲げた政策の目的は、シナで満州王朝を復古することである。しかし、もしこれができなければ、満州の君主制主義者たちは『満州人のための満州を』と叫びながら、まず手始めに奉天で、衰退に向かっている満州王国を再建することに望みを託すだろう、とその報道は付け加えている。これにはシナの官吏たちもびっくり仰天している。というのも、アタマン・セミョノフ**と粛親王が共同で推進する運動が、現在の外蒙古の深刻な情勢と絡み合うことを怖れているからだ。」(同上書 p.74)
*粛親王:愛新覚羅善耆(あいしんかくらぜんき)。清の皇族で、太祖ヌルハチの孫ホーゲに始まる粛親王を継いだ。
**アタマン・セミョノフ:白系ロシアの反革命派のコサック首長。


また同上書で、辛亥革命後に急進的な政治思想を持つ指導者たちが出版した『曙光』という雑誌に、1921年に発表された記事の一部が紹介されている。
「農民たちは自由が何を意味するかを知らず、参政権や政府がどのような概念なのかも知らない。彼らが知っているのは、地税を払わねばならぬことと、日々の生活の糧を得る術だけである。村の市場へ行けば、次のようなことを尋ねてくる村人に出くわすはずだ。『宣統帝陛下はお達者か』とか『今は何方が宮廷を治めていらっしゃるのか』。そして何度も何度もこのような願いやら不平やらを聞かされるのだ。『こんな不作で、俺たちはどうなるのか。俺たちには、いいことなんぞ、ひとつも起こらない。本物の龍が、天子様がもう一度お出ましにならねばな』。」(同上書 p.60)

このように辛亥革命後の中国は混乱が続き、商人階級や中流上層階級のほか地方の農民の多くは満州人の王朝である清の復活を望んでいたのだが、この記事の出た1921年の時点の溥儀の年齢はまだ15歳と若く、監視されている紫禁城では外部の勢力と接触することは困難であった。

大正11年3月30日 大阪朝日新聞 粛親王遂に起たず

当時旅順にいた皇族の粛親王が、清朝の遺臣とともに清の復活のための活動をしていたのだが、志半ばにして大正11年(1922)3月に逝去されてしまっている。

その後中国の武力統一を図る軍閥同士の戦闘が活発化し、1924年の北京政変で馮玉祥(ふうぎょくしょう)と孫岳が北京を支配することとなり、紫禁城に軍隊を送りこんで溥儀とその側近らを紫禁城から強制退去させている。

レジナルド・ジョンストン
【レジナルド・ジョンストン】

溥儀は醇親王の王宮である北府に一時的に身を寄せたがその場所も安全ではなく、どこかの国の公使館に庇護してもらおうと動き出す。まず知人のいるドイツ病院に向かい、側近のジョンストンがイギリス、オランダ、日本の公館に対して庇護の依頼をしている間に、溥儀はジョンストンとは別に、自らの意思で日本公使館を訪れていたのである。

溥儀は約3か月間日本公使館に滞在した後、1925年2月から1931年の11月まで天津の日本租界で逗留生活をしたが、わが国はは決して歓待しなかったのである。ジョンストンの同上書にはこう記されている。
「1925年から1931年までのいつでも良い。万が一でも日本政府が、日本で皇帝を暖かく歓迎すると少しでも匂わせていたら、皇帝は単調でつまらない天津の生活を捨て、美しい京都の近郊か、天下無双の富士山の見える田園の別荘で、自由にのびのびと生活できる機会が訪れたと大喜びしたことだろう。だが日本政府は、皇帝にそのようなそぶりを見せなかったのだ。それどころか、日本や、日本の租借地である満州の関東州に皇帝がいては、日本政府が『ひどく困惑する』ことになるという旨を、私を通して、間接的に皇帝に伝えたほどである。」(同上書 p.367~368)

昭和6年10月1日 大阪朝日新聞 満洲独立を叫ぶ諸団体側面観

昭和6年(1931)9月の柳条湖事件を機に、悪政を続けてきた張学良政権打倒を旗印として満州各地で独立運動が起きている。上の画像は同年10月1日の大阪朝日新聞だが、このような運動に関しては多くの新聞が報じており、注目すべきは日本軍がまだ進出していない地域でも発生しているという点である。
リットン報告書には「顕著な民族意識を持った満州人の運動は存在しない」と記されているのだが、明らかな誤りであると指摘するしかない。

昭和6年9月30日 大阪毎日新聞 満蒙独立運動に絶対に干渉せぬ

上の画像は9月30日付の大阪毎日新聞の記事だが、このような満州の独立運動に関してわが国は、列国の誤解を招来することがなきよう、何人たりとも関与させないことを29日の閣議で決定したことを伝えている。

昭和6年11月4日 大阪朝日新聞 有力な人を得れば満蒙独立は可能

その後、各地でばらばらで動いてきた独立運動が、宣統帝溥儀を擁立することでまとまっていくのであるが、11月4日付の大阪朝日新聞で、地方維持委員会の袁金鎧(えんきんがい)は「信望のある有力者をして東北を統一せしむる」と答えている。溥儀が天津から動くのはその9日後の11月13日のことである。

昭和6年11月14日 大阪毎日新聞 宣統廃帝を擁立し満蒙独立国建設

そして11月14日付の大阪毎日新聞はこう伝えている。
「張学良政権倒壊後の東北には事実上これに代るべき実力者なく、一方満洲民族の名門たる清朝の末裔を擁立することは満洲のみならず蒙古を併合して独立国を建設するに容易なる事由があるので遂に宣統廃帝を擁立するに最後的決定を見、従来排擠的関係にあった袁金鎧、閻朝璽、于沖漢ら巨頭もこれに賛意を表するに至った
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10164248&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

『紫禁城の黄昏(下)』を読むと、溥儀はギリギリまで天津の日本租界にいて11月13日に自分の意思で満州に向かったとある。

ジョンストンはこう書いている。
シナ人は、日本人が皇帝を誘拐し、その意志に反して連れ去ったように見せかけようと躍起になっていた。その誘拐説はヨーロッパ人の間でも広く流布していて、それを信じる者も大勢いた。だが、それは真っ赤な嘘である。…皇帝は本人の自由意思で天津を去り満州に向かったのであり、その旅の忠実な道づれは鄭孝胥と息子の鄭垂だけであった。」(同上書 p.393~394)

満州国が正式に建国されたのはその翌年(1932)の3月1日で、元首には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就いている。溥儀は満州族の皇帝として、満州族の故地に戻ることを決意したのである

満州国政府組織系統及重要職員表
満州国政府組織系統及重要職員表】

またリットン報告書には「満州における漢人の証言によれば、(満州国の)すべての権力は日本人の手に握られ」とあるのだが、昭和7年(1932)版の『現代中華民国満洲国人名鑑』を確認しても、重要職のリストに22人中5人の日本人名を見つけることが出来るだけだ。しかも「長」という名の付くポストに就いたのは法制局長の三宅福馬ただ一人である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1238338/333

日本植民地の真実

わが国では満州国を日本や関東軍の傀儡国家とみなす歴史叙述が多いのだが、この点について黄文雄氏は『日本植民地の真実』でこう解説している。

満州国を『傀儡国家』と見なし、長城以北の諸民族の協和を目指す新国家の再建を否定するのは、明らかに『天に二日なく、地に二王なし』とする中華帝国史観の国家観に他ならない。現在、中国におけるかつての満州国の『正式呼称』は『偽満州国傀儡政権』である。満州国を呼ぶに際し、必ず『偽満州国』との言い換えにこだわるのも、中華絶対主義に基づく心理の表れだ。それに従う日本の学者は少なくないが、『偽満州国』論など鵜呑みにしては、歴史的事実は直視できなくなる。」(『日本植民地の真実』p.280)

確かにわが国は満州国の建国にあたり支援的役割を果たし、建国後も支援したことは事実である。しかし、出来たばかりの満州国が生き残るために、どこか強い国の支援を受けようとすることは当たり前のことではないのか
わが国が満州国を支援することは、無政府状態にあった満州の治安を回復させ居留民を守ると同時に、これまで多額の投資をしてきた満州における我が国の権益を守る目的から都合が良かったのであろうが、満州国もまた関東軍の軍事力により治安が回復し、満州が日本の支援により経済発展することを期待したことは間違いないところだろう。
このような互恵関係をわが国と結んだことで満州国が『傀儡国家』などと呼ばれるのであれば、世界中の小国のほとんどがどこかの国の『傀儡国家』になってしまうことにならないか。

このように満州国の成立に至るわが国の歴史記述はおかしなことだらけなのだが、なぜこのようなことになるのであろうか。このことは、もし満州人が独立国家をつくる動きがあった真実を歴史叙述の中で描いた場合にどうなるのかを考えればある程度察しがつく。
このブログで何度か書いてきたことだが、わが国民は戦後の長きにわたり『戦勝国にとって都合の良い歴史=自虐史観』を押し付けられ、学校やマスコミなどで繰り返し擦り込まれてきた。
よくよく考えればわかることなのだが、『自虐史観』というものは、関東軍なりわが国がよほど悪者でなければ成り立たない。もし関東軍が、治安が悪化していた満州におけるわが国の権益を守るために満州を平定した経緯や、満州国の成立が満州族の自発的な独立運動があったという史実がキチンと描かれていたならば、『自虐史観』は説得力を失うことは確実なのだ。

当時の記録などで事実と認定できる内容を大量に無視することで成り立っているような歴史観は、ネットなどで歴史の真実が国民に知られるようになるにつれていずれ消えていく運命にあると考えるのは私ばかりではないだろう。
中韓が声高に主張するような歴史叙述が、全面的に書き換えられる日が一日も早く来ることを祈りたい。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加





【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

蒋介石はなぜ外国人居留地であった上海で日本軍と戦ったのか~~中国排日6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-243.html

プロパガンダでわが国に罪を擦り付け、世界を「反日」に誘導した中国~~中国排日7
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-244.html

「南京大虐殺」の真実を追う~~中国排日8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-245.html

盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html








関連記事

満州国にわが国が莫大な投資をして築き上げたインフラを掠奪した中国

前回の記事で関東軍が満州の匪賊を討伐したことを書いたが、それまでの満州は、法治はおろか人治すらなく、軍閥・匪賊が支配、跋扈する無法地帯であった。

黄文雄氏は『日本の植民地の真実』でこう解説しておられる。
そのような状況を一変させ、近代的法治社会の基礎を築き上げ、産業の発展を軌道に乗せたのが関東軍であり、新設の警察制度であった。この軍閥、匪賊社会をわずかな期間で一挙に近代社会に作り変えた功績は、近代アジアにおける歴史の奇跡として銘記されるべきだろう。」(『日本の植民地の真実』p.302)

関東軍が満州の匪賊を討伐したといっても、それで匪賊が完全にいなくなるようなものでもなく、治安維持のためには武装警察の力が不可欠であった。
「そこで民生部警務司の下に警察制度が整備された。日本の陸軍士官学校出身の臧式毅(ぞうしきき)民政部長の下で、初代の警務司長には偉才の甘粕正彦が就任し、警察の組織化が推進された。
 こうした結果、中国との一部国境地帯を除き、満州の治安は良好となり、僻地においても列車旅行が可能になった。
」(同上書p.303)

その後満州国は近代的法治社会の基礎を築き上げ、産業の発展を軌道に乗せていくのであるが、国家の理念がしっかりしていてかつ官吏が余程優秀でなければそうはいかないだろう。しかしながら建国直後の満州国の人口の大半は漢人で、他に満州人、朝鮮人、日本人と民族は様々で、考え方もまたバラバラで、8割は文字が読めない人々であった。

満州国建国宣言

満州国が成立した1932年3月1日に対外に発表された『満州国建国宣言』には、「王道」という中華思想と「楽土」という仏教思想、さらに「民族協和」という多民族社会の共存共栄と、近代的な産業社会と法治国家の建設が謳われている。かなり長文なので後半部分の一部だけを紹介したい。

「竊(ひそか)に惟(おも)ふに政は道に本づき道は天に基く、新国家建設の旨は一に天に順(したが)ひ民を安んずるを主とす、施政は必ず真正の民意に徇(したが)ひ私見を存する事を容さず、凡(およ)そ新国家の領土内に居住する者は皆種族の岐視、尊卑の分別なし、原有の漢族、満族、蒙族及日本、朝鮮の各族を除く外、即ち其他の国人と雖(いえど)も長久に居住を願ふ者も亦(また)平等の待遇を享くる事を得、其当に得べき権利を保障し、其をして絲毫(しごう)の侵損あらしめず、並に極力往日の黒暗政治を鏟除(さんじょ)し、法律の改良を求め、地方自治を励行し広く人材を収めて賢俊を登用し、実を奨励し金融を統一し富源を開闢し生計を維持し警政を調練し匪禍を粛正す、更に進んで言へば教育の普及は当に礼教を崇ぶべし、王道主義を実行して必ず境内一切の民族をして煕々皓々(ききこうこう)として春台に登るが如くならしめ、東亜永久の光栄を保ちて世界政治の模型となさんとす。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1908621/40

駒井徳三
【駒井徳三】

満州国政府最初の総務長官に就任した駒井徳三が昭和8年(1933)に著した『大満洲国建設録』という本がある。民族や思想の違いを乗り越えてできたばかりの満州国をリードしていくために、彼は最初に何をしなければならないと考えたのか。

「満州国政府最初の総務長官としての私は、日系官吏を代表して、排日系、中立系、親日系その他私の考え雑然たる満州国官吏を強く握りしめて、これを立国の意図通りにリードして行くべき必要と責任とを痛切に感じた。では、それがためには、満州国における政治は何処までも公明正大に強く、明るく、朗らかでなければならぬ。苟(いやしく)も従来軍閥政権の下に醸(かも)された賄賂政治的臭気ならびにスパイ政治的暗影を徹底的に排撃しなければならぬと思った。と同時にこの際私が是非とも実行しなければならぬとしたところは、満州国における中央集権制の確立、群(むらが)り来たる各種利権屋の排除、紊乱極まれる幣制の統一、更に進んでは満州国を一個の完全なる独立国家として我が祖国日本に承認せしめることであり、これこそ新国家の誕生をことぶく最大の祝辞であり、私の果たさねばならぬ重大任務であると確信し、私はひたむきに駑馬(どば)に鞭(むちう)ちて勇往邁進した。
 …
 私は今、何故に私が中央集権制の確立を強く主張したかについて、少しくその理由を語るべき必要を感ずる。…私はこう考える。支那における政治の腐敗混乱はもともと地方分権制にその禍根が存したのであって、各地方の有力なる省長なり督軍なりが各々自己の権勢にまかせて各自勝手に振る舞ったことから現在の如き不安なる状態に陥ったものである。そこで各省の省長はこれを文官とし、中央民政部総長の指導監督の下に置かしめ、また別に各省に警備司令なるものを設け、これに軍権を持たしめ、それは中央政府の軍政部総長の指揮統括の下に置き、更に財政の中央集中を行って、中央から派遣された税務監督機関ならびに税務署が各々その収税の任に当たり、中央の財政部総長が厳重に監督するといったような中央集中政治組織の確立を、名目的に非ず実質的に実現することが緊急焦眉の問題であると固く信じた。更にまたこれは交通のことに関しても同様で、各地の鉄道、通信機関を交通部に従属せしめて、その監督を受けしめることが必要であった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1234668/81

しかしながら、誕生したばかりの満州国に実務能力の高い官吏がいるわけではなく、優秀な日本人官吏を送り込んで指導させることにしたものの、日本人が多すぎても拙いので日本人官吏は全体の2割程度にとどめようとした。それでも駒井は漢人相手に随分苦労をしている。中国人のやることは今も昔も非常によく似ていると思う。

「三千万民衆とか五族の民とか言っても、満州国国民の大部分は漢民族である。漢民族は相寄り相扶けて一つの国家を構成すべき国民的集結力に欠けるところがあるが、しかし、民族社会を築き営む上に於いては一種独特の手腕を持つ優秀民族である。なるほど今日のいわゆる文化的科学的知識に於いては日本人が漢人より数等優れているかもしれない。ところが、いわゆる智恵かけひきに至っては日本人は到底漢人の敵ではない。この一種特異な民族を日本人の有する単純、請求、かつ率直なる知識、財力、武力を以て永久に誘掖指導していくということは容易ならぬことである。夷を以て夷を制するというのは漢民族が数千年来採り来った伝統的対外政策である。満州国が一つの独立国家として出現し、そこに若干の日本人が相当なる地位に入り込んだとして如何ほどの事を為し得ようか? 否むしろ日本従来の行き方を以てしては、必ず彼らに逆に巻き込まれるおそれなしとしない。幾多の先例はこれを事実の上に明示しているではないか? 彼らを以て直ちに日本人と心から融和提携し得る民族だと思うのは非常な誤算であり、飼い犬に手を噛まれるようなことにならぬとも限らぬ。まず満州国政府要路に或る日本人が入ったとすれば、その声望権威と対抗すべく、彼らの私設秘書である日本人を使って、日本本国の有力なる官民に対して盛んにそれら日系官吏の悪弊を放たしめ、結局その任に堪えざらしむるの策に出る如きは、彼ら一流の不愉快なる常套手段であり、朝飯前の片手間仕事である。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1234668/118

このような連中を多数抱えて、少数の日本人官吏がわが国の国益中心に満州国の政策を誘導することなどできるはずがないと思うのは私ばかりではないだろう。彼らは満州国のそれぞれの民族が納得できるような、公明正大な施策を行うことに心掛けたことを知るべきである。

新京 最高法院
【新京 最高法院】

例えば、近代化を推進するために前近代的で人治的な法令や制度はことごとく廃止されて、建国の理念に基づいたものに置き換えられていった。また近代司法制度確立のため、1936年に法院(裁判所)組織法が制定され、新京の最高法院の下に新京、奉天、ハルビン、牡丹江、錦州、チチハルの6高等法院、その下に29の地方法院、さらにその下に129の区法院が設置され、司法と行政を兼ねていた司法公署、兼理司法県公署は廃止されて三権分立が達成された。
さらに日本政府は昭和12年(1937)12月に、満州国における日本人が享受する治外法権を撤廃し、満州鉄道付属地の行政権も満州国に移譲している。

また貨幣制度や税制も大幅な改正が実施された。
黄文雄氏は、満州のこれまでの制度上の問題点についてこう解説しておられる。
満州では、張作霖父子に限らず、各地の軍閥のほとんどが通貨の乱発で民衆を収奪していた。たとえば湯玉麟(とうぎょくりん)支配下の熱河省では、同省政府経営の熱河興業銀行が1926 (大正15) 年から3回にわたって異なる『熱河票』を発行し、そのたびに従来の紙幣を無効にして民衆の財産を収奪した。
 満州の軍閥にとって安定していた財源が租税であり、専売制度だった。租税徴収では簡単な請負徴収制度が採られ、超過税収額が奨励金として交付されるため、税吏は競って苛酷な取り立てに走っている。手っ取り早く蓄財できる徴税局長のポストは売買の対象となり、局長が代われば、その一族郎党で構成されていた局員も代わる。局長職の競売も軍閥にとっては大きな収入源となった。
税金の名目も多く、130余種に上ったこともあった。」(『近現代史集中講座 台湾・朝鮮・満州篇』p.190)

満州中央銀行
【満州中央銀行】

黄文雄氏によると、満州建国直後に設立された満州中央銀行が、公私各種の旧金融機関から継承した紙幣は、幣種15、券種136種に及んだそうだが、銀本位制が採用されたのち1932年に新通貨が発行され、わずか2年足らずで旧通貨との引き換えが進み、通貨の統一をはかることに成功したという。

満州中央銀行が発行した最初の一円紙幣

また軍閥支配下の時代は、満州では財政予算の大半が軍閥の軍備や内政に消えてしまい、インフラ整備はほとんど行われなかったのだが、満州国建国により鉄道、港湾、空港などの交通網整備から、農業・鉱工業などの産業開発、治山治水、電力供給、都市改修などの工事が積極的に行われた。

大連満鉄本社
【大連満鉄本社】

わが国が日露戦争以降満州国崩壊までに投資した金額は100~117億円と推定されているが、満州国の国家予算は1932年が1.4億円、1942年が8.2億円というから、如何にわが国が満州に多額の投資をしたかがわかる。

豊満ダム

南満州鉄道が吉林市を流れる松花江の上流に建設した豊満ダムの最大出力は70万キロワット、朝鮮窒素肥料(現在のチッソ)が鴨緑江に建設した水豊ダムの最大出力は60万キロワットというが、当時の日本本土の水力発電規模は合計で280万キロワットというから、投資規模の大きさは半端なものではない。ちなみに現在の日本最大の出力を誇る奥只見ダムが56万キロワットなのである。
当時豊満ダムの視察に訪れたフィリピン外相は「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカの支配下で40年が経過している。だが住民の生活向上に役立つものは一つも作っていない。満州は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか」と歓声を発したことが、案内をした満州電業理事長・松井仁夫の著書『語り部の満州』に書かれているという。

鞍山製鉄所
【鞍山製鉄所】

上の画像は鞍山の昭和製鋼所だが、この工場は175万トンの製鉄と100万トンの製鋼が可能で、当時国内の製鉄総生産量の大半を占めていた日本製鉄八幡製鉄所と遜色のない規模であった。
戦時体制下の満州では「一業一社」制度が採用され、大規模工場が多数建設されて、急速な産業発展を遂げ、人口は建国時(1932)の29百万人が、1942年には44百万人まで増加したという。

満州景観 写真帖 新京
【新京】

「満州国」という独立国家の存在を認めたくない中国は、今もこの国を日本の「傀儡国家」と定義し、日本軍による虐殺や搾取があったと主張しているのだが、この点について黄文雄氏は著書でこう述べておられる。

もしも本当に満州が阿鼻叫喚の地獄であったなら、なぜ満州国建国後に、年間100万人を超える中国人が『万里の長城』を超えて流れ込んだのだろう。
 人間なら誰であれ、自ら進んで虐殺の大地には入り込みはしないはずだ。
こうした至極当然の疑問について、中国人学者は何も答えられない。『日本軍に強制連行されたのだ』と弁明する者もいたが、もちろん、それはまったく根拠のない話だ。数万の関東軍がどうして、年に百万もの中国流民を強制連行できるというのか。また、その必要性は、どこにもない。
 …
 満州国は13年余と短命であったが、それでも東亜大陸の一角に戦闘機まで造れる大産業国家が忽然と出現したことは、人類史上の奇跡に近い。当時の中国人にとっては、戦乱も飢饉もなく、私有財産も安全も保障され、しかも進んだ教育、医療を受けられるこの国は桃源郷だった。」(同上書 p.205-206)

満州国は終戦直前までは比較的平和であったのだが、1945年8月8日に対日宣戦布告したソ連は同日満州に侵攻した。関東軍首脳は撤退を決定し、8月10日に特別列車で脱出を図ったため、取り残された日本人居留民は酷い目に遭ったのだが、このことは以前このブログで書いたので繰り返さない。

ソ連軍のあと、ハゲタカのように満州を襲ったのが中国である。黄文雄氏はこう解説しておられる。
ソ連軍が満州に侵攻しはじめた翌日、中国共産党も満州占領を指令している。当時、満州の重工業は全中国の約90パーセントを占めており、事実上中国の生命線だったのである。
 号令一下、共産党軍は、ソ連軍と入れ替わるかたちで各地から続々と満州に侵入し、10月には国民党軍も進駐してきた。初期の戦闘では米式装備の精鋭部隊を投入した国民党軍が優勢で、共産党軍は一時、鉄道沿線都市から農村、さらに山林へと撤退したものの、やがて反撃に出る。このように、本格的な国共内戦は満州国の遺産をめぐって開始されたのである。」(同上書 p.211-212)

この戦いは1948年10月まで続いて、満州はほぼ共産党の手中に収まったのだが、林彪の報告によると、この戦いで殲滅された国民党軍は40万人以上、共産党軍の死者は6万人だったという。
こうして掠奪に成功した満州国のインフラの遺産が、長い間中国経済の屋台骨を支えてきたことは言うまでもない。

しかしそのような史実は、中国共産党の歴史を格調高く描く上では余程都合が悪いのであろう。彼らの行為を正当化するために、満州国は中国の歴史叙述の中で『偽満州国』などと呼ばれ、満州に巨額の投資をした日本企業も貶められることとなる。

豊満ダム万人坑

例えば先ほど紹介した豊満ダムの建設に15万人の中国人が徴用され、苛酷な環境の下で強制労働を強いられ15千人が死亡し、松花江右岸の河岸段丘に棄てられたと中国は主張し、『豊満万人坑遺骨館』を建設して大量の人骨等を展示している。旧満州国だけでこのように『万人坑』と称して人骨等を展示する建物が20ヶ所以上あるようだが、中国が主張しているようなことが本当にあったかどうかについては読者のみなさんの判断に委ねることとしたい。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加



【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-224.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

ソ連占領下から引揚げてきた日本人の塗炭の苦しみを忘れるな
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-407.html

なぜ中国大陸に大量の日本人孤児や婦人が残されたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-408.html

なぜわが国は『シベリア抑留』の実態解明調査を怠ってきたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-446.html

飯田市の観光を楽しんだのち、「満蒙開拓」とは何だったのかを考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-520.html





関連記事
FC2カウンター
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。キーワードを含む全てのブログ記事のリストと、記事の最初の文章が表示されます。記事を探す場合は、カテゴリーで記事を追うよりも探しやすいです。
リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
最新記事
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
QRコード
QRコード
RSSリンクの表示
タグクラウド

年別アーカイブ一覧
RSS登録er
おすすめ商品
ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
おきてがみ
ブログサークル
ブログサークル
ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!
文字を大きく・小さく
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    人気ページランキング
    集計スタート時期が良くわかりませんが、おそらく2016年の夏ごろから現在までの記事アクセスランキングです。
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    読書
    このブログで採り上げた本のいくつかを紹介します
    三田村武夫の 『戦争と共産主義』復刻版

    同上 電子書籍

    同上 自由選書版

    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史