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関東軍が満州を制圧し満州国が建国されたことを当時の世界はどう見ていたのか

昭和6年(1931)9月18日の柳条湖事件に端を発して満州事変が勃発し、関東軍により満州全土が占領されて、その後満州は関東軍の主導の下に中華民国からの独立を宣言し、昭和7年(1932)3月1日に満州国が建国された。満州国の元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が就いた。

溥儀
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この満州国については、一般的な教科書では次のように記されている。

「しかし、軍事・外交はもとより、内政の実権も関東軍や日本時官吏がにぎっており、満州国は日本が事実上支配するものとなった。日本のこうした行動は、不戦条約*および9か国条約に違反するものとして国際的な非難をあびた。」(『もういちど読む 山川の日本史』p.297)
*不戦条約:1928年、仏のブリアンと米のケロッグが提唱して実現した戦争を否定する初の国際条約。ケロッグ・ブリアン条約とも言う。

このような文章を読むと、わが国が全世界から非難されたような印象を受けるのだが、満州事変のあと国連から派遣された調査団によってレポートされた『リットン報告書』では相当程度わが国の立場を認めていた。

昭和7年9月11日 大阪毎日新聞 日本は正当 英紙の満州問題視

また満州国は当時の世界60か国の内20か国がのちに承認し、ソ連のような建国以来国境紛争を繰り返した国さえも事実上承認の関係にあったのである。
世界の3分の1が承認しているような満州国を支援したわが国が「国際的な非難を浴びた」とわが国の教科書が書くのは、国民を「自虐史観」に誘導し固定化する意図を感じるところなのだが、この点について当時の論調はどのようなものであったのか。

昭和7年10月28日 神戸又新日報 ロシア事実上満洲国を承認

まずわが国が「不戦条約」に違反したかどうかだが、そもそも1928年に成立した「不戦条約」は単純に戦争を放棄するというものではなく、自衛のための武力行使は認められていたことは重要なポイントである。
前回の記事で書いたように、日清戦争の頃は満州人の故地である満州の人口はわずか数百万人であったのだが、そこに中国は3千万の漢人を送り込んで排日運動を仕掛け、ソ連も赤化工作を仕掛けて何度も暴動を起こし、わが国が多額の投資をしてインフラを整備し築き上げてきた満州の権益を奪う動きをしていたのである。わが国の行動が自国の権益を守るための自衛行為だと認知されていたなら条約違反にはあたらないことになる

満州事変と世界の声

国立国会図書館デジタルコレクションに、満州事変の1か月後に出版された『満洲事変と世界の声』という本が公開されている。この書物は主要国の新聞や雑誌の当時の論調をまとめたものだが、わが国が「不戦条約」に違反したかどうかについては、アメリカのファーイースタン・レビュー誌のG.ブロンソン.リーの論文(要約)がわかりやすい。この人物はその後満州国外交部顧問に就任していることを付記しておく。

George-Bronson-Rea.jpg
【G.ブロンソン.リー】

「日本は満州に15億円の投資を為しているばかりではなく、その経済的必要、国防の安全、国家の名誉と威厳をかけている。…
 この満州における日本の既得権益問題が解決されなければ、日支通商も日支親善もあり得ない。中村大尉事件、万宝山事件、朝鮮における支那人虐殺事件その他三百余件が日支間に未解決のまま残されている。支那*はその解決策として、国際連盟**、ケロッグ不戦条約その他世界の同情を利用して日本の武力を封じ、一方ボイコットを以て日本を経済的に圧迫しようとしている。日本がこと満州の既得権に関する限り絶対に第三国の干渉を排除し、必要とあれば全世界をも相手取って争うことを辞せないことを誓っていることを支那は忘れているのである。しかのみならず、支那はケロッグ・ブリアン不戦条約について重大な見落としをしている。すなわちこの不戦条約には自己防御および既得権擁護の権利の場合が保留されていることを見落としているのである。…満州における支那の宗主権は日本といえども認めている。しからば支那はその宗主権を如何に行使したか。国際の信義を重んじたか、満州の福利を計ったか、治安を維持したか、また外国資本からなる企業を保護したか?…
 満州の支那官憲は七十億ドルもの無価値な紙幣を発行して農民から穀物をとり上げ、それを現金に代えて巨大な軍隊を養い、将軍連の私腹を肥やしていた。支那は盛んに国際的道徳を説くが、日本が事実をもって説くところも聴く者をして肯かせるものがある。支那は日本の侵略を説き不戦条約違反だとするが、日本からしてみれば自己防御と言うだろう。元来国際公法なるものは国際の伝統、習慣および力から成るのであって口先ばかりの理屈ではない。支那は自己の外交を支持する力を以てせず、ボイコット、ストライキその他の排外運動なるものを武器として戦う。支那は常に国内の戦争ばかりしていて、ろくに自分の国を治めないで外国の干渉は排撃するが、外国と事が起こると第三国の干渉を希望している。今日の紛争の種は支那が撒いたようなものだ。即ち国内を治めず、国家の権力に伴って存する義務を怠っていた結果である。」
*支那:現在の中国本土。
**国際連盟:1920年1月20日に正式に発足した国際機関。本部はジュネーブにあった。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146591/94

また同上書で、英国のタイムズ紙(同年10月16日付)に掲載されたT.O.Pブランド氏の論考も紹介されている。文中のジュネーブというのは国際連盟のことを指している。

支那国民党は、南京および奉天において日本に対する敵対的政策を遂行していたもので、それは激烈なる反日宣伝やあらゆる種類の破壊的行動によって示されていた。これは支那外交の伝統的手段に全く一致するもので、この煽動政策は日本をして合法的権益を自衛せしむる上に、武力に訴える立場まで引きずりこむこむことで、日本がこの軍事行動をとるや支那はこれをもってケロッグ条約や連盟に抵触するとなしてこれを訴え、連盟および米国の干渉を誘起せんとするものである。
 この支那の取っている政策の真の目的は満州における日本の権益を廃棄せしむるか、またはその根本的改定にあるもので、国民党の首領らはワシントンおよびジュネーブの雰囲気がこの目的遂行に十分合致せるものなることを知りつくしている。支那はワシントン会議以来他の条約国との交渉に於いて条約の義務を平気で無視し、または破棄することに成功している。今回支那がことさらに事件を起こして日本の満州における権益を排除すべき見解をとって、ジュネーブに訴え出たことは敢えて驚くに当たらぬ事実である

 しかしながらすべてこの理論的政策をまず差しおいて、日本が合法的権利の範囲内で活動した結果、満州が無秩序な支那の砂漠の嵐の中に反映せるオアシスとなっている状態は貴重な事実であらねばならぬ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146591/22

このように中国に対して厳しくてわが国に理解を示す論調もあれば、その逆もまた存在するのだが、ソ連や中国のように侵略行為としてわが国を厳しく非難する論調は決して多くなく、軍部が政府の指示を得ずに動いた問題点は指摘しつつも、わが国の自衛のための行動と評する論調をいくつも見出すことが出来る。

再び冒頭の教科書の記述に戻って、次にわが国が「9か国条約」に違反していたかについて考えてみたい。

この条約は大正11年(1922)のワシントン会議に出席したアメリカ、イギリス、オランダ、イタリア、フランス、ベルギー、ポルトガル、日本、中華民国間で締結された中国に関する条約で、各国に中国の主権、独立そして領土及び行政的保全を尊重させ、門戸開放・機会均等・主権尊重などが定められているのだが、中国側にも軍事力と軍事費の削減努力を行う義務などが定められており、中国に関して言えば、彼らはこの決議を全く無視して兵力を増やし続けたことを指摘せざるを得ない。

支那国軍隊の削減に関する決議

日本外交文書デジタルアーカイブ ワシントン会議極東問題の決議内容が公開されていて、次のURLの第9章第1節にのp.348に、(7)支那陸軍兵力縮小に関する決議の訳文が出ている。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/tt-4.html

満州国建国の正当性を弁護する

G.ブロンソン.リーの著書『満州国建国の正当性を弁護する』によると、1921年当時の中国軍は約百万人と見積もられていて、その後大幅に増加したという。

「『チャイナ・イヤー・ブック』(1932年)は、非正規軍を除外してその戦力を2,245,536人と見積もっている。南京政府の軍事独裁者、蒋介石の私兵は百万である。これに加えて承認政府の軍隊と独立した軍閥があり、武装した匪賊、そして共産軍がおよそ二百万である。銃器を携行する中国人は合計するとざっと五百万で、これが人民を餌食にし、外国の承認を求め、外国が管理して集めた歳入を享受しようと、覇権を求めてお互いに戦い合っているのである。」(『満州国建国の正当性を弁護する』p.269)

このように中国は決議に違反して兵力を大幅に拡大していったわけだが、国際正義の観点からこのような国の主権を尊重することが優先されるべきだとは思えない。そしてわが国は、柳条湖事件以降経った数万の兵力で、わずか5か月の間に満州全土を占領してしまったのである。

昭和4年1月8日 東京朝日新聞 英・米・独からの対支輸出が激増

満州事変直後においては中国の方を批判する論調が少なからずあったにもかかわらず、なぜその後、世界の多くの国は日本に非難の矛先を向けていったのだろうか。
G.ブロンソン.リーは、同上書で非常に興味深いことを述べている。

合衆国政府と種々の我が世論機関は日本にひどく批判的だが、それは日本が海軍制限条約の改訂を望まないからである。日本は2・2・2の同率条件が認められれば、日本は海軍を削減するつもりだと請け合っているにもかかわらず、我々が聞き知るすべては、日本が極東を支配し、我々の貿易を閉ざそうとしているということだ。…
 他の一面は最も浅薄な観察者でもよく理解できる。中国の外国貿易は現在、政府がその力を維持するための主要な歳入源となっており、それは過去七年間の二千五百万から三千万の人々の死の原因となっている。関税で集まったお金は軍隊維持のために費やされ、人々を食い物にして彼らの外国製品購買能力を破壊するのだ。我々は外国の法律も、アメリカ上院決議も干渉できない武器密売の光景をここに見る。あらゆる国が、このぞっとするビジネスの分け前を得ようとしている。彼ら”死の商人”は、増加する関税収入に担保された長期貸付で裏取引を行う一方、外交や政府の支持を得て、その特製品を売るのである。外国貿易が武器代金を支払うことになるのだ。
 世界は九か国条約に違反したとして日本を非難する。告発は自由である。しかし貿易と儲けの為に中国の条約違反に目を閉ざしたその他の七か国はどうなのだ?関税自主権を認められた中国は資金をつぎ込んで正規軍を百万から三百万に増やし、第一次世界大戦の戦死者の五倍の人間を殺すことを可能にした。日本は自衛のために条約に違反したかもしれない。しかし日本を告発する者は、つまらない貿易の利益を得んがために中国の条約違反を大めに見た廉で、世論という法廷の前では有罪を宣告されるのである。」(同上書 p.272~273)

内戦の続く中国は、欧米の『死の商人』からすれば極めて魅力的な武器のマーケットであったことは言うまでもないだろう。G.ブロンソン.リーは中国が大量の武器を買っていたことについてこう述べている。
「満州の張家の統治時代には、人々は銃剣を突き付けられ、労役の産物と交換に七十億ドルの不換紙幣を無理やり押し付けられた。その他の省では土地税が二十年から五十年先まで取られている。阿片の栽培と販売が幾つかの省の軍隊を維持する収入となっている。その他の方法でも人民はその抑圧者に財産を搾り取られているのだ。」(同上書 p.271)

昭和7年11月27日 大阪毎日新聞 支那に延びる欧米の大資本

このように収奪された資金のかなりの部分が武器弾薬や軍用車などの購入に充てられたことは想像に難くない。前回記事でわが国が満州の都市建設などのために投資した金額は17億円と書いたが、ドルに換算すると5~6億ドル程度である。張作霖・張学良の時代の満州では、その何倍もの金が内戦の為に使われた可能性が高いのである。

『死の商人』にとっては、争いが続く限りはいくらでも武器・弾薬を売ることができる。そして、もし中国の内戦の泥沼に日本を引き摺り込むことができれば、さらに儲けることができると考えていたのではなかったか。

しかしながら、中国兵よりも圧倒的に少数の関東軍が、たちまちのうちに満州を制圧してしまった。武器・弾薬をもっと売りたい彼らからすれば、関東軍が満州を鎮圧してこの地域が平和となることは決して好ましいことではなかったことは誰でもわかるだろう。

昭和7年8月2日 中外商業日報 対支貿易に於ける日米の地位顛倒す

以前このブログで、大正8年(1919)から中国の排日が始まり、その背後に英米の勢力が活発に動いていたことを書いたことがある。
上の画像は昭和7年(1932)8月2日の中外商業新報の記事であるが、中国の日貨排斥運動を機にアメリカの対中国貿易が、日本、イギリスを追い抜いて一気に首位に踊り出たことが報道されている。アメリカが主張していた中国大陸の「門戸開放」は、中国に排日を仕掛けることで実を結んだことを知るべきではないだろうか。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

第一次大戦以降、中国の排日運動を背後から操ったのはどこの国だったのか~~中国排日その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-238.html

米英が仕掛けた中国の排日運動はそれからどうなったのか~~中国排日その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-239.html

中国の排日が我が国を激しく挑発するに至った経緯~~中国排日3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-240.html

中国全土に及んだ「排日」がいかに広められ、誰が利用したのか~~中国排日4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-241.html

当時の米人ジャーナリストは中国排日の原因をどう記述しているか~~中国排日5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-242.html





関連記事

満州人が各地で独立運動を起こしていたことが教科書などで書かれないのはなぜか

前回の記事で、『リットン報告書』の内容は相当程度わが国の主張を織り込んでいながら、結論はかなり中国寄りになっていたことを書いた。このブログで何度も書いてきたように満州満州族の故地であったのだが、この地に大量の漢人が流入したために人口の9割以上が漢人になってしまっていた。『リットン報告書』では満州を漢人が治める地として認め、関東軍の撤退を求めたわけだが、この問題をわが国に当てはめて考えると、もし人口540万人の北海道に数千万の移民を送り込んだ国があったとした場合に、北海道の主権を大量の移民を送り込んだ側に認めるとするのがリットン報告書の考え方なのである。

眼前に迫る世界大戦と英米赤露の襲来

そもそもその当時の満州地区の民族別の人口構成はどのようなものであったのだろうか。
昭和7年に出版されて戦後GHQ焚書とされた『眼前に迫る世界大戦と英米赤露の襲来』という本があり、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている。そこには満州国の版図と民族別人口構成についてこう記されている。

満州

満州国は普通われらが満蒙と呼ぶ土地の総称である。即ち奉天、吉林、黒竜江、熱河省の四省を含み、その面積は…日本の内地面積の約三倍にあたる。しかも人口は三千四百万、日本人口の半ばにも達しない。
 しかしこれを民族別的に観るときは、満州人の起こった所でありその郷土でありながら、現実には漢人によって大勢力を支配されその比率は漢人九十五に対し純満州人は五ないし十の割合にしか過ぎない。即ち新国家の旗のもとに生活する純満蒙人は二百万ないし三百万人で、他の多部分は漢人である。また新国家に参加する蒙古人は四~五十万人、日本人は昭和五年末の調査によると二十二万二百九十五人、同朝鮮人五万五千十一人である。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442250/76

紫禁城全景 『北京の展望』(昭和14年刊)
紫禁城全景 『北京の展望』(昭和14年刊)】

1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した清(しん)は、満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝であるが、清朝皇帝は満州族の故地である満州に漢人が住み着くことがないように、この地域を「封禁の地」として漢人が立ち入ることを禁止していて、昔の人口は数百万程度にすぎなかったという。
ところが阿片戦争以降ロシアの南下の脅威が増大し、清国政府はロシア人に踏み込まれるくらいなら漢人の方がましだと判断して、次第に漢人の満州移住を認めていき、日清戦争以降は移住を全面解禁したのである。その結果三千万もの漢人が満州に流入してきて、住民の大多数が漢人となってしまったという。リットン報告書』では、満州人と漢人との関係についてこう述べている。

リットン報告書

満州人は漢人とほとんど完全に同化されている。もっとも吉林と黒龍江においては、なお少数、政治上重要ではない満州人の植民地があって、二か国語を話す満州人が残存している。中華民国の成立以来、満州民族はその特権的地位を失った。
 …満州における漢人の証言によれば、(満州国の)すべての権力は日本人の手に握られ、彼ら・満州人の提議は容れられることがないため失望を感じつつあるという。満州人の血が流れているもののあいだには先帝(宣統帝・溥儀)に対する精神的な忠誠の念がまだ残っているといっても、顕著な民族意識を持った満州人の運動は存在しない。」(ビジネス社『リットン報告書』p.268)

リットン調査団は漢人からの証言をそのまま鵜呑みにして、満州人は漢人と同化したと述べているのだが、そんなことは絶対にありえない。満州人による独立運動はかなり以前から存在していたことは少し当時の記録を調べれば誰でもわかる

故宮入りする前の幼い溥儀
【故宮入りする前の幼い溥儀

満州人の独立運動のことを書く前に、清朝最後の皇帝となった宣統帝溥儀(ふぎ)のことを補足しておこう。溥儀は1906年に北京に生まれ1908年にわずか2歳10か月で第12代清朝皇帝(宣統帝)となった。
1911年に辛亥革命が起こり、翌年に溥儀は退位させられしばらく紫禁城で監視されながら生活していたのだが、1924年の北京政変で紫禁城から退去させられることとなる。

紫禁城の黄昏

清朝最後の皇帝溥儀の家庭教師を務めたレジナルド・ジョンソンの『紫禁城の黄昏』に、満州人による独立運動のことが書かれた新聞記事がいくつか紹介されている。

【1919年6月23日付 ノース・チャイナ・デイリー・ニュース紙】
増税したことと管理が腐敗したことにより、国民は満州皇帝の復帰を望むようになっている。満州朝廷も悪かったけれども、共和国はその十倍も悪いと人々は思っている。満州王朝を恋しがる声は人里離れた辺鄙なところで聞こえるだけでなく、他の地方でも満州朝廷の再建の望みはまだあるという声を耳にする。」(『紫禁城の黄昏(下)』祥伝社 p.58)

【1919年9月9日付 ノース・チャイナ・デイリー・メール紙】
シナで共和主義を試みたものの、蓋を開けてみれば能なしだと分かったということだ。シナの国土の屋台骨である商人階級や中流上層階級は、内輪争いにうんざりしている。どのような形にせよ、十八省に平和を保障する政府なら、人々は諸手を挙げて支持すると断じて疑わない。

前皇帝の復辟を望み、密かに支持する人たちが強く主張するのは、共和制主義者がこの国を破壊しているということだ。つまり、いかに荒療治であっても、共和制主義者を片付けて、かつての平和と繁栄を取り戻さなければならないのである
。」(同上書 p.70~71)

【1921年5月21日付 ノース・チャイナ・スタンダード紙(北京)】
「シナ当局が掴んでいる確かな報道によると粛親王(しゅくしんのう)*と前総督の升允(しょういん)が掲げた政策の目的は、シナで満州王朝を復古することである。しかし、もしこれができなければ、満州の君主制主義者たちは『満州人のための満州を』と叫びながら、まず手始めに奉天で、衰退に向かっている満州王国を再建することに望みを託すだろう、とその報道は付け加えている。これにはシナの官吏たちもびっくり仰天している。というのも、アタマン・セミョノフ**と粛親王が共同で推進する運動が、現在の外蒙古の深刻な情勢と絡み合うことを怖れているからだ。」(同上書 p.74)
*粛親王:愛新覚羅善耆(あいしんかくらぜんき)。清の皇族で、太祖ヌルハチの孫ホーゲに始まる粛親王を継いだ。
**アタマン・セミョノフ:白系ロシアの反革命派のコサック首長。


また同上書で、辛亥革命後に急進的な政治思想を持つ指導者たちが出版した『曙光』という雑誌に、1921年に発表された記事の一部が紹介されている。
「農民たちは自由が何を意味するかを知らず、参政権や政府がどのような概念なのかも知らない。彼らが知っているのは、地税を払わねばならぬことと、日々の生活の糧を得る術だけである。村の市場へ行けば、次のようなことを尋ねてくる村人に出くわすはずだ。『宣統帝陛下はお達者か』とか『今は何方が宮廷を治めていらっしゃるのか』。そして何度も何度もこのような願いやら不平やらを聞かされるのだ。『こんな不作で、俺たちはどうなるのか。俺たちには、いいことなんぞ、ひとつも起こらない。本物の龍が、天子様がもう一度お出ましにならねばな』。」(同上書 p.60)

このように辛亥革命後の中国は混乱が続き、商人階級や中流上層階級のほか地方の農民の多くは満州人の王朝である清の復活を望んでいたのだが、この記事の出た1921年の時点の溥儀の年齢はまだ15歳と若く、監視されている紫禁城では外部の勢力と接触することは困難であった。

大正11年3月30日 大阪朝日新聞 粛親王遂に起たず

当時旅順にいた皇族の粛親王が、清朝の遺臣とともに清の復活のための活動をしていたのだが、志半ばにして大正11年(1922)3月に逝去されてしまっている。

その後中国の武力統一を図る軍閥同士の戦闘が活発化し、1924年の北京政変で馮玉祥(ふうぎょくしょう)と孫岳が北京を支配することとなり、紫禁城に軍隊を送りこんで溥儀とその側近らを紫禁城から強制退去させている。

レジナルド・ジョンストン
【レジナルド・ジョンストン】

溥儀は醇親王の王宮である北府に一時的に身を寄せたがその場所も安全ではなく、どこかの国の公使館に庇護してもらおうと動き出す。まず知人のいるドイツ病院に向かい、側近のジョンストンがイギリス、オランダ、日本の公館に対して庇護の依頼をしている間に、溥儀はジョンストンとは別に、自らの意思で日本公使館を訪れていたのである。

溥儀は約3か月間日本公使館に滞在した後、1925年2月から1931年の11月まで天津の日本租界で逗留生活をしたが、わが国はは決して歓待しなかったのである。ジョンストンの同上書にはこう記されている。
「1925年から1931年までのいつでも良い。万が一でも日本政府が、日本で皇帝を暖かく歓迎すると少しでも匂わせていたら、皇帝は単調でつまらない天津の生活を捨て、美しい京都の近郊か、天下無双の富士山の見える田園の別荘で、自由にのびのびと生活できる機会が訪れたと大喜びしたことだろう。だが日本政府は、皇帝にそのようなそぶりを見せなかったのだ。それどころか、日本や、日本の租借地である満州の関東州に皇帝がいては、日本政府が『ひどく困惑する』ことになるという旨を、私を通して、間接的に皇帝に伝えたほどである。」(同上書 p.367~368)

昭和6年10月1日 大阪朝日新聞 満洲独立を叫ぶ諸団体側面観

昭和6年(1931)9月の柳条湖事件を機に、悪政を続けてきた張学良政権打倒を旗印として満州各地で独立運動が起きている。上の画像は同年10月1日の大阪朝日新聞だが、このような運動に関しては多くの新聞が報じており、注目すべきは日本軍がまだ進出していない地域でも発生しているという点である。
リットン報告書には「顕著な民族意識を持った満州人の運動は存在しない」と記されているのだが、明らかな誤りであると指摘するしかない。

昭和6年9月30日 大阪毎日新聞 満蒙独立運動に絶対に干渉せぬ

上の画像は9月30日付の大阪毎日新聞の記事だが、このような満州の独立運動に関してわが国は、列国の誤解を招来することがなきよう、何人たりとも関与させないことを29日の閣議で決定したことを伝えている。

昭和6年11月4日 大阪朝日新聞 有力な人を得れば満蒙独立は可能

その後、各地でばらばらで動いてきた独立運動が、宣統帝溥儀を擁立することでまとまっていくのであるが、11月4日付の大阪朝日新聞で、地方維持委員会の袁金鎧(えんきんがい)は「信望のある有力者をして東北を統一せしむる」と答えている。溥儀が天津から動くのはその9日後の11月13日のことである。

昭和6年11月14日 大阪毎日新聞 宣統廃帝を擁立し満蒙独立国建設

そして11月14日付の大阪毎日新聞はこう伝えている。
「張学良政権倒壊後の東北には事実上これに代るべき実力者なく、一方満洲民族の名門たる清朝の末裔を擁立することは満洲のみならず蒙古を併合して独立国を建設するに容易なる事由があるので遂に宣統廃帝を擁立するに最後的決定を見、従来排擠的関係にあった袁金鎧、閻朝璽、于沖漢ら巨頭もこれに賛意を表するに至った
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10164248&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

『紫禁城の黄昏(下)』を読むと、溥儀はギリギリまで天津の日本租界にいて11月13日に自分の意思で満州に向かったとある。

ジョンストンはこう書いている。
シナ人は、日本人が皇帝を誘拐し、その意志に反して連れ去ったように見せかけようと躍起になっていた。その誘拐説はヨーロッパ人の間でも広く流布していて、それを信じる者も大勢いた。だが、それは真っ赤な嘘である。…皇帝は本人の自由意思で天津を去り満州に向かったのであり、その旅の忠実な道づれは鄭孝胥と息子の鄭垂だけであった。」(同上書 p.393~394)

満州国が正式に建国されたのはその翌年(1932)の3月1日で、元首には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就いている。溥儀は満州族の皇帝として、満州族の故地に戻ることを決意したのである

満州国政府組織系統及重要職員表
満州国政府組織系統及重要職員表】

またリットン報告書には「満州における漢人の証言によれば、(満州国の)すべての権力は日本人の手に握られ」とあるのだが、昭和7年(1932)版の『現代中華民国満洲国人名鑑』を確認しても、重要職のリストに22人中5人の日本人名を見つけることが出来るだけだ。しかも「長」という名の付くポストに就いたのは法制局長の三宅福馬ただ一人である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1238338/333

日本植民地の真実

わが国では満州国を日本や関東軍の傀儡国家とみなす歴史叙述が多いのだが、この点について黄文雄氏は『日本植民地の真実』でこう解説している。

満州国を『傀儡国家』と見なし、長城以北の諸民族の協和を目指す新国家の再建を否定するのは、明らかに『天に二日なく、地に二王なし』とする中華帝国史観の国家観に他ならない。現在、中国におけるかつての満州国の『正式呼称』は『偽満州国傀儡政権』である。満州国を呼ぶに際し、必ず『偽満州国』との言い換えにこだわるのも、中華絶対主義に基づく心理の表れだ。それに従う日本の学者は少なくないが、『偽満州国』論など鵜呑みにしては、歴史的事実は直視できなくなる。」(『日本植民地の真実』p.280)

確かにわが国は満州国の建国にあたり支援的役割を果たし、建国後も支援したことは事実である。しかし、出来たばかりの満州国が生き残るために、どこか強い国の支援を受けようとすることは当たり前のことではないのか
わが国が満州国を支援することは、無政府状態にあった満州の治安を回復させ居留民を守ると同時に、これまで多額の投資をしてきた満州における我が国の権益を守る目的から都合が良かったのであろうが、満州国もまた関東軍の軍事力により治安が回復し、満州が日本の支援により経済発展することを期待したことは間違いないところだろう。
このような互恵関係をわが国と結んだことで満州国が『傀儡国家』などと呼ばれるのであれば、世界中の小国のほとんどがどこかの国の『傀儡国家』になってしまうことにならないか。

このように満州国の成立に至るわが国の歴史記述はおかしなことだらけなのだが、なぜこのようなことになるのであろうか。このことは、もし満州人が独立国家をつくる動きがあった真実を歴史叙述の中で描いた場合にどうなるのかを考えればある程度察しがつく。
このブログで何度か書いてきたことだが、わが国民は戦後の長きにわたり『戦勝国にとって都合の良い歴史=自虐史観』を押し付けられ、学校やマスコミなどで繰り返し擦り込まれてきた。
よくよく考えればわかることなのだが、『自虐史観』というものは、関東軍なりわが国がよほど悪者でなければ成り立たない。もし関東軍が、治安が悪化していた満州におけるわが国の権益を守るために満州を平定した経緯や、満州国の成立が満州族の自発的な独立運動があったという史実がキチンと描かれていたならば、『自虐史観』は説得力を失うことは確実なのだ。

当時の記録などで事実と認定できる内容を大量に無視することで成り立っているような歴史観は、ネットなどで歴史の真実が国民に知られるようになるにつれていずれ消えていく運命にあると考えるのは私ばかりではないだろう。
中韓が声高に主張するような歴史叙述が、全面的に書き換えられる日が一日も早く来ることを祈りたい。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

蒋介石はなぜ外国人居留地であった上海で日本軍と戦ったのか~~中国排日6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-243.html

プロパガンダでわが国に罪を擦り付け、世界を「反日」に誘導した中国~~中国排日7
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「南京大虐殺」の真実を追う~~中国排日8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-245.html

盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html








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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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