HOME   »  火災旋風
Tag | 火災旋風

関東大震災の教訓は活かされているのか。火災旋風と津波被害など~~その1

大正12年(1923)9月1日の午前11時58分ごろ、相模湾の北部を震源地とするマグニチュード7.9の地震は「関東大震災」と命名され、東京、神奈川を中心に約10万5千人の死亡・行方不明者が出た大災害であった。

関東大震災1

多くの犠牲者が出たが、火災による死者が最も多く9万1千人を数え、東京本所被服廠跡では4万4千人が無残の焼死を遂げたそうだ。次のURLには、東京本所被服廠跡の写真が掲載されているが、大空襲でもあったかのような悲惨さで、とても正視できるものではない。
http://ktoh-n.blog.so-net.ne.jp/2007-08-16-1

なぜそんなに火災による死者が多かったのかというと、お昼頃であったために多くの家庭で主婦が炊事のために竈(かまど)で火を使っているところに多くの木造家屋が倒壊したこと。さらに具合が悪いことに、この日は能登半島近くの台風の影響もあり、関東地方の風がかなり強かったという。

多くの焼死者が出た東京本所被服廠跡とは今の横網町公園のことだが、地震のあった前年に被服廠は赤羽に移転し、跡地を東京市が買い取って公園として整備したそうだ。

近くの人々がこの場所を絶好の避難場と考えて家財道具を背負って集まってきたのだが、午後4時ごろにこの公園に地震の火災が「火災旋風」となってこの公園を襲い、人々が持ちこんだ家財道具にも飛び火して、人々は逃げ場を失って焼死してしまった。

火災旋風」とは、激しい炎が空気(酸素)を消費し、火災の発生していない場所から空気を取り込むことで局地的に生じる上昇気流のことで、Wikipediaによると、

「地震や空襲などによる都市部での広範囲の火災や、山火事などによって、炎をともなう旋風が発生し、さらに大きな被害をもたらす現象。鉄の沸点をも超える超々高温の炎の竜巻である。」とある。

また「個々に発生した火災が空気(酸素)を消費し、火災の発生していない周囲から空気を取り込むことで、局地的な上昇気流が生じる。これによって、燃焼している中心部分から熱された空気が上層へ吐き出され、それが炎をともなった旋風になる。さらに、これが空気のあるほうへ動いていき、 被害が拡大していく。火災旋風の内部は秒速百メートル以上に達する炎の旋風であり、高温のガスや炎を吸い込み呼吸器を損傷したことによる窒息死が多く見られる。 火災旋風は、都市中心部では、ビル風によって発生する可能性が指摘されている。」のだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%81%BD%E6%97%8B%E9%A2%A8

2008英国バンガーの農園の火災旋風

上の画像はネットで見つけたイギリスの火災旋風の画像だが、関東大震災の時の火災旋風の大きさは100m~200mとも言われており、その風速によって直径30cm以上の木がねじ折られたことから秒速80m前後と推測されている。またこの風により、何百人もの人々が空中に巻き上げられ、石垣に顔と歯が叩きつけられたりしていたという証言もがあるようで、この現象は想像を絶するエネルギーを伴うものであり、「旋風」というよりも「竜巻」と表現した方が適切のような気がする。
http://www.fdma.go.jp/ugoki/h2108/2108_24.pdf

関東大震災焼失地域

上の図は関東大震災の翌日の午前九時の段階で焼失した場所を赤く塗りつぶしたものである。焼失地域はこの日のうちに更に拡大したのだが、黒い○で囲った場所は焼けなかった。 この場所は神田和泉町と佐久町なのだが、この町内の人々は避難することよりも共同で消火活動に当たることで、町を火炎から守ったのだ。

『被害の激しかった下町地区の中で、ぽっかりと島のように白く浮かび上がる地域がある。一日午後四時ごろ、南風に煽られて神田方面から燃えてきた火は神田川南岸に及び、佐久間町一帯にも盛んに火の粉を振りまいた。この時町内の人々は結束して、避難よりも延焼を防ぐ努力を優先した。続いて夜八時ごろ、秋葉 原駅方面から襲ってくる火に対してもひるむことなく消火活動を続け、二日午前一時ごろには火をくい止めた。更に二日午前朝八時には蔵前方面から猛火で延焼 の恐れが出てきたが、長時間にわたる必死の消火活動の末、午後六時ごろまでに完全に消し止めた。実に丸一日以上に及ぶ町内の人々の努力が実り、この町を火災から守ったのであった。』(「新編 千代田区史」)

この防火活動の感動的な物語が、「伝えたいふるさとの100話」というサイトに出ている。
http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/1_all/jirei/100furusato/html/furusato027.htm

町の大人たちが頭から水を浴び、ガソリンポンプ車を使って徹夜で火を食い止めた物語は多くの人に読んで欲しいと思う。こんな大規模な火事になれば電気はもちろんのこと、水道も断水して使えない。消防車も使えなくなる条件下で、住民がこのように団結して火と格闘して町を守ったことは、教科書に載せるなどして後世に伝えられるべきではないかと思う。

防火守護地

神田和泉町にある和泉小学校の脇には、この時の町の人々の消火活動を讃えた「防火守護地」と書いた石碑が建てられているそうだ。

関東大震災時に「火災旋風」により東京だけでなく横浜でも同様に多くの焼死者が出たのだが、詳しい事は良くわからなかった。

横浜火災地図

この時の横浜の火災区域の地図が見つかったが、横浜の市街地の大半が焼けていることがわかる。
次のURLでは東京と横浜の火災旋風の発生起点とその移動を示した図面が紹介されているが、「発表禁止」という赤い文字が横浜の図面にあるそうだ。おそらく長い間公表されてこなかったのではないだろうか。真実を一般に公表しないのは、昔も今も良く似ている。
http://www.ailab7.com/senpuu.html

以上かけ足で関東大震災における火災を振り返ってみたが、今のわが国の都心部でこの大震災の教訓がどれほど活かされているかと考えると不安な気持ちになってしまう。
日本人の悪い癖で、嫌な思い出はなるべく早く忘れてしまおうとして、大きな被害が出た原因が充分に追及されないまま何世代かが入れ替わってしまって、今では、ほとんどの人は普段から何の準備も対策もしていないのが現実ではないか。

大正期よりかは家屋が燃えにくくなっているという人もいるかもしれないが、阪神大震災の時にも神戸市長田区で小規模ながら火災旋風が見られたらしい。
もし関東大震災のような地震が風の強い日に発生し、古くて木造の家屋が密集している地域の家屋を多数倒壊させたとしたら非常に怖い事が起こる。消防車は全国平均で人口10万人当たりに4.7台、東京では2.5台なのだそうだが、この台数では大規模火災の鎮火は難しいのではないか。

昔はいざという時に使える貯水池や貯水槽などがあったし、井戸のある家も少なくなかった。地域の消火用具も持っていたし、なによりも地域共同体が健全に機能して住民の団結があり、地域での防火訓練も実施されていた。それらがいざという時には、火災の延焼を食い止めるために機能することが期待できたが、それらのほとんどを喪失してしまった今は、住んでいる街をどうやって火災から守ることができようか。

大火災が発生すれば停電や断水が起こる可能性が高いし、消防署は一部を消火する能力しかない。水道が使えたとしても、あちこちで火災が起これば大量の水が消火のために必要となり、水量不足となって蛇口からちょろちょろと出るだけでは使いものにならないだろう。
そのような悪条件下でも、住民が団結して、自主的に消火活動ができる地域が都心部にどれだけ存在するのだろうか。

先程のWikipediaには、最後に非常にいやなことを指摘している。

「東京湾を震源とする南関東直下地震が、 夕方6時ごろに発生した場合、都内数千箇所で火災が起こると試算されている。風速15mの風が吹いていた場合、東京の住宅街・オフィスビル周辺などに巨大な火災旋風が発生するおそれがある。ただし、1923年の関東大震災は、夏場の昼に地震が起き、火災旋風も発生している。火災が密集すれば季節に関係なく 発生する可能性がある。」

今回の東日本大震災で東北地方の人々は何度も津波を経験し、同じ過ちを繰り返してきていると思った人がいたとしても、それは東京も横浜も同じなのである。また、関東大震災の被災経験から学ぼうとしない他の大都市も同じである。

東日本大震災を機に、都市の防災対策はどうあるべきか、あまりにもわが国の重要機能が集中している首都圏の脆弱さをどう改善させていくか、首都圏の機能分散化も含めて考えるべきだと思う。

次回は、関東大震災と津波などについて書いてみたい。

****************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加



関連記事

『明暦の大火』の火元の謎を追う

明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、猛烈な火が江戸を襲い、江戸市街の約6割が焼け、特に江戸開府以来の古い市街地はほぼすべてが焼失し、焼死者が十万人余を数えたという大火災が発生した。世に言う「明暦の大火」である。

むさしあぶみ

この大火の様子が『むさしあぶみ』という当時の書物に詳細に記載されている。
作家隆慶太郎氏が、自らの歴史小説で参考にした史料をHPの「文献資料室」で公開しておられて、『むさしあぶみ』の「明暦の大火」の記述の一部を原文で読むことができる。
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg146.html

そこには、
「…去年霜月の比より今日にいたるまて。既に八十日ばかり雨一滴もふらて乾切たる家のうへに。火のこ(粉)おちかゝりはげしき風に吹たてられて。車輪のごとくなる猛火地にほとはしり。町中に引出し火急をのがれてうちすてたる車長持ハ。辻小路につミあひひしめく間に。猛火さきさきへもえ渡りしかバ目の前に京橋より中橋にいたるまで。四方の橋一度にどうど焼落る。…」
と、前年の11月以来80日ばかり雨が降らず、空気が乾燥していたうえに当日は朝から強い風が吹いて、炎が「車輪のように」渦を巻き地を這うように延焼していった様子が記されている。

以前このブログで、関東大震災の時に東京で「火災旋風」が発生したことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-23.html

火災旋風

Wikipediaによると「火災旋風」とは、「地震や空襲などによる都市部での広範囲の火災や、山火事などによって、炎をともなう旋風が発生し、さらに大きな被害をもたらす現象。鉄の沸点をも超える超々高温の炎の竜巻」で、激しい炎が空気(酸素)を消費し、火災の発生していない場所から空気を取り込むことで螺旋状に局地的に上昇気流が起こる。
関東大震災の火災旋風の大きさは高さが100m~200mとも言われており、その風速によって直径30cm以上の木がねじ折られたことから秒速80m前後の火災旋風が発生したと推測されているのだが、「車輪のごとくなる猛火」という表現から「明暦の大火」でもこの火災旋風が起こったことが推測される。
『むさしあぶみ』には、次のような記述もある。

「おびたゝしき旋風ふきて。猛火さかりになり。十町廿町をへだてゝ飛こえ飛こえもえあがりもえあがりけるほどに。前後さらにわきまえなく。諸人にけまどひて焔にこがされ煙にむせび。…あそこ爰の堀溝に百人弐百人ばかりづゝ死にたをれてなしといふ所もなし。」

1町は109.09mであるから、火炎が1~2km近く飛び越えて延焼していったというのは誇張もあるかもしれないが、火炎が長距離を飛ぶことは火災旋風の典型的な現象で関東大震災でも実際にあった事なのである。

meirekitaika1657地図

次のURLで明暦の大火で焼失した地域が特定されているが、炎は江戸城の御濠を飛び越えて江戸城の天守閣や本丸御殿などを焼き払い、江戸城で焼けなかったのは西の丸だけであった。さらに火災旋風は隅田川をも飛び超えて、対岸の深川地区をも延焼させていることがわかる。大きな公園や川があっても、火災旋風が起これば風向き次第で火はそれくらいの幅を飛び越えて行くものなのだ。
http://imai-aud.co.jp/Bieyasu.htm

隅田川

この明暦の大火を「振袖火事」とよく言われるのは、恋の病で臥せったまま2年前の1月18日に死んでしまったウメノという若い女性の振袖がキノという手に女性わたり、キノも翌年の1月18日に亡くなり、その振袖が今度はイクという女性の手に渡ったのだがイクも次の年の同じ日に死んでしまった。そこでこの振袖を本妙寺で供養することとなり、火の中に投げ込んだところ、つむじ風によって振袖が舞い上がり、本堂に飛び込んで燃え広がったという言い伝えがあることによる。
この「振袖火事」の物語は言うまでもなく後世の作り話なのだが、この明暦の大火の出火元については江戸本郷丸山町の本妙寺とほとんどの本に書かれている。上の地図で見ると、火元は3か所あるようだが、最初の火元は本妙寺だ。

ところが、この大火の火元とされている本妙寺のHPには驚くべきことが書かれている。重要な部分を引用してみる。
http://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/

「…しかし、本当は本妙寺は火元ではない。幕府の要請により(本妙寺が)火元の汚名をかぶったのである。
理由は、当時、江戸は火事が多く、幕府は 火元に対しては厳罰をもって対処してきたが、 当山に対しては一切お咎めなしであった。
それだけでなく、大火から三年後には 客殿、庫裡を、六年後には本堂を復興し、 十年後には当山が日蓮門下、勝劣派の 触頭(ふれがしら)*に任ぜられている。
(*触頭とは、幕府からの通達を配下の寺院への伝達や、本山や配下の寺からの幕府への訴願、諸届を上申達する役)
これはむしろ異例な厚遇である。
さらに、当山に隣接して風上にあった老中の 阿部忠秋家から毎年当山へ明暦の大火の供養料が 大正十二年の関東大震災にいたるまで260年余に わたり 奉納されていた。
この事実からして、これは一般に伝わる 本妙寺火元説を覆するものである。」

阿部家と本妙寺地図

本妙寺の主張は、本当の火元は老中の阿部忠秋であり、本妙寺は幕府の要請により本妙寺が火元を被ったと言っているのだ。当時の風向きと阿部忠秋家と本妙寺との位置関係をしめす地図が、本妙寺のHPで紹介されている。それぞれはほとんど隣同士にあり、老中の阿部邸のほうが風上に位置していることがわかる。
http://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/taika/ezu.htm

明和9年(1772)の目黒行人坂の大火の時には、火元となった大円寺は無宿者の放火であったにもかかわらず50年間再建が許されなかったのだそうだが、本妙寺がこの時に何の罪も問われなかったのはどう考えてもおかしなことだ。
またこの明暦の大火の後に69の寺院が移動を命ぜられたのだが、火元となった本妙寺が本郷から動かなかったのも理解しがたい。

そもそも阿部家の菩提寺は浅草蔵前の浄土宗西福寺で、本妙寺の檀家ではなかったようだ。
また幕府は、明暦の大火の後に、大火の犠牲者となった人々を供養する目的で、両国に回向院という寺を設立している。ならば、阿部忠秋家が供養料を奉納すべき寺院は回向院ではないのか。
この阿部家の供養料は半端な金額ではなかったらしいのだが、檀家でもない阿部家が何故260年余にわたり本妙寺に奉納したかは大きな謎である。

本妙寺のHPにはさらに詳しいレポートがリンクされている。
http://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/taika/hurikaji.pdf

これによると
「大火の処理にあたっては、筆頭老中松平伊豆守や久世大和守等が中心となって協議の結果、この大災害が阿部家の失火が原因とあっては、阿部忠秋が老中という幕府の中枢にあることを考えると、大衆の怨恨の的になることは必至であり、ひいては幕府の威信の失墜は免れず、以後の江戸復興等の政策遂行に重大な支障を招く結果につながりかねない。阿部家の責任を追求するより、大混乱を静め、江戸を復興させ、幕府の威信を保つことが大切であるとの結論にたっし、阿部家と隣接して風下にあった本妙寺に理由を説明して、阿部家に代わって失火の火元という汚名を引受けることを要請し、本妙寺も幕府の要請に応じて火元の汚名を引き受け、幕府の威信の失墜を防ぎ、その後の政策遂行に支障をきたさないよう協力し、ひいては、阿部一族を失火の責任から救うという結果につながったわけである。」との説明だ。

明暦の~1

この説明では明暦の大火は阿部家の失火が原因であり、その責任を被った本妙寺が優遇されたことはある程度説明がつくのだが、つい先程指摘したように火元がほかに二箇所ある。本妙寺が焼けた翌日に、風上の火の気のない場所で二箇所も新たな火災が発生したのは極めて不自然な事で、普通に考えれば放火があったと考えるべきだと思うのだが、当時の幕府の記録では放火犯を捕まえた記録はない。
『徳川実紀』には正月二十四日に神田の牢人有賀藤五郎という人物を挙動不審で捕まえているが、その牢人を処罰した記録はないそうだ。

そこで幕府が放火に関与しているのではないかという説もあり、それが結構有力説となっているようだ。

先程の本妙寺のレポートにも紹介されているが、江戸災害史研究家の黒木喬氏によると、明暦の大火は江戸幕府が関与し、その黒幕は松平信綱だと推定しておられるのだがこのレポートは結構面白い。この説は、新人物文庫の『仕組まれた日本史』の中でも黒木氏本人がレポートしておられるので、内容を紹介してみよう。

久世広之という人物がいる。将軍家綱に仕え老中まで上り詰めた大名で、延宝七年(1679)に71歳で没し四谷の別邸に葬られたのだが、後に広之の子の重之が本妙寺を菩提寺にし、広之の戒名を「中興檀越自證院殿心光日悟大居士」としている。「中興檀越」という字は、久世広之が本妙寺の中興に大きく貢献した檀家であったことを意味する。子の久世重之も老中にまで上り詰めた人物だが、何故広之が「中興檀越」なのか。

久世広之がスピード出世を遂げたのは、都市計画を担当していた老中松平信綱に目をかけられてからだと言うから興味深い。

慶安五年(1652)に広之は江戸府内の巡検を行い、『承応録』によると、旗本で屋敷を持たぬ者が600人いて、この日の巡検で約400人分を確保したという。翌年には築地奉行が任命されて、不足する武家屋敷地を造成するために、赤坂・小石川・小日向などの山の手方面の水田や木挽町海岸の埋め立てが開始され、明暦元年(1655)には広之は寺社奉行・町奉行・勘定頭とともに宅地点検を実施するなど、松平信綱の都市政策に深くかかわっていたようなのだ。

そして明暦二年の七月十一日には、六月に任命されたばかりの屋敷小割奉行を加えたメンバーが信綱邸に集結しているのだが、この日に松平信綱が江戸城に登城していないこともわかっている。余程重要な都市計画の大綱が信綱邸で議論されたのではないかと黒木喬氏は推定している。明暦の大火はこの会議から半年後に起こっている出来事なのだ。

黒木氏の表現を借りると、
「昔も今も都市計画の実行は補償費がばかにならない。日本橋人形町にあった吉原遊郭の浅草移転だけで一万五百両(一説では一万五千両)が支出されている。計画を迅速に達成するには、大きな火事がおこって、きれいさっぱり焼けてくれるのが一番よいのである。」

実際に幕府が放火に関与したとの証明はできないが、きれいに焼けて欲しいぐらいのことを強く期待していてもおかしくないし、そう解釈しないと説明できないことが多すぎるのである。

「明暦の大火後、道路の拡張、武家屋敷・寺社・町屋の移動、広小路・火除地の設定など、矢継ぎ早に都市改造が断行された。手際が鮮やかだったのは、すでに基本計画が立案されていたからだろう。」となかなか説得力がある。

久世広之は、大火後に江戸城再建の総奉行として活躍し、寛文二年(1662)には若年寄に就任し、その翌年に老中に就任している。
一方本妙寺は寛文六年(1667)に日蓮宗勝劣派の触頭(ふれがしら)職になっているのだが、日蓮宗勝劣派には五派あって、その中で一番大きいのは妙満寺派の五百八十余寺、ついで八品派三百二十余寺、興門派二百九十余寺、本成寺派百八十寺、本際寺派十余寺の順なのだが、本妙寺は少数派の本成寺派に属していながら触頭職に昇進しているのも奇妙なことである。
大火の火元とされながら、また老中の久世広之が檀家でもなかった時期に、なぜ本妙寺が異例の昇進を遂げたかは、老中久世広之らのつながりがなくしてあり得ないと考えるのが自然だろう。

黒木喬氏も書いておられるが、松平信綱も久世広之も、この大火で火災旋風がおこって、江戸城の天守閣も本丸御殿や焼けてしまうとは想定していなかったことだろう。

江戸城

江戸城の天守閣はこの「明暦の大火」で焼失した後は、二度と建てられることはなかったのだが、江戸の都市計画の実行は淡々と進められたのである。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加


関連記事
FC2カウンター
ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。キーワードを含む全てのブログ記事のリストと、記事の最初の文章が表示されます。記事を探す場合は、カテゴリーで記事を追うよりも探しやすいです。
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
最新記事
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
QRコード
QRコード
RSSリンクの表示
タグクラウド

年別アーカイブ一覧
RSS登録er
おすすめ商品
ブログサークル
ブログサークル
ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!
人気ページランキング
集計スタート時期が良くわかりませんが、おそらく2016年の夏ごろから現在までの記事アクセスランキングです。
ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
おきてがみ blogram
ブログランキングならblogram
文字を大きく・小さく
    月間人気記事ランキング
    個別記事への直接アクセス数の今月1日からの合計値です。毎月末にリセットされます。このブログのアクセスのうち6割以上は検索サイト経由、約2割は何らかのリンクを辿って、過去の記事のURLに直接アクセス頂いています。
    51位以降のランキングは、リンク集の「『しばやんの日々』今月の人気ページランキング (上位500)」をクリックしてください。
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    読書
    このブログで採り上げた本のいくつかを紹介します
    三田村武夫の 『戦争と共産主義』復刻版

    同上 電子書籍

    同上 自由選書版

    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史