HOME   »  王政復古
Tag | 王政復古

王政復古の大号令の出た直後に京都が戦火に巻き込まれてもおかしくなかった

前回の記事で1867年(慶応3)年12月9日に岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発し、夕刻に開かれた小御所会議で徳川慶喜に対する『辞官納地』を決定し、実質上の武力討幕方針を決めたことを書いた。
当時京都には幕府陸軍5千余人、会津藩兵2千余人、桑名藩兵千余人、その他あわせて1万人余の幕府軍がいたのだが、彼らは討幕派による「王政復古の大号令」や慶喜に対する『辞官納地』の決定に、どのような反応を示したのであろうか。

国立国会図書館デジタルコレクションに大正7年刊の『徳川慶喜公伝.』が公開されている。その巻4に、幕府軍の反応が記されている。(文中の「公」は慶喜を意味している。)

徳川慶喜公伝

「旗本の将士をはじめ、会津・桑名・彦根・津・大垣諸藩は、王政復古の発令を聞くや、皆結束して二条城に集まり、松平肥前守、松平越中守もまた入城す。…中にも会桑二藩の士・遊撃隊の兵士等は、烈火の如くに憤り、頻りに討薩を論じて止まず。皆曰く『将軍家既に政権を奉還あり。朝廷にても今後の大事を公議世論に依りて定めんとて諸大名を召されたれば、万機の事、諸大名会同の上に決し給うべきを、俄に今日の事に及ばれしは何事ぞや。よしや改革を急がるるの事情ありとも、在京の諸大名何ぞ五藩*に限らん。然るに諸藩に謀らず、将軍家をも疎外(そがい)して、かかる大変革を行われしは、嚮(さき)に将軍家に下されたる御沙汰にも背き、諸大名を召されたる御趣旨にも合わず、これ全く薩藩が二三の公卿と謀り、幼冲の天皇を擁して私意を遂げんとするものなり。打捨て置かば徳川家は夷滅さられ、天下は擾乱(じょうらん)せん。彼等既に兵力を以て禁闕(きんけつ:皇居)**を擁する上は、とかくの議論は無用なり。ただ速やかに討薩の表を上りて、君側の奸を除かざるべからず』と。公は固くこれを制して暴動を禁じ給いければ群議の間に日は暮れたり。若年寄兼陸軍奉行竹中丹後守重固**らは、公の決断し給わざるを慨嘆し、板倉伊賀守***に迫りて、『嗚呼将軍家の御心底こそ甲斐なけれ。御決心さえあれば会桑はいうに及ばず、満城の将士孰れも公憤に募れり。一戦して薩賊を撃捷すべきは易々たるのみ』と、或は怒り、或は泣きて之を訴う。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953149/156
*五藩:王政復古の大号令のあとの朝議に参加した薩摩・土佐・芸州・尾張・越前の五藩
**竹中丹後守重固(しげかた):江戸幕府後期の旗本。幕府陸軍創設後は陸軍奉行として天狗党征伐や長州征伐で活躍し、慶応3年(1867)若年寄並陸軍奉行に就任。
***板倉伊賀守:板倉勝静(かつきよ)。幕末の江戸幕府の奏者番・寺社奉行・老中首座。


竹中重固
【竹中重固】

このように、幕府軍の兵たちは暴発寸前となっていたのだが、徳川慶喜がそれをさせなかったことが記されている。

では討幕軍の立場で書かれた書物では、幕府軍はどのように描かれているのか。明治43年刊の『大久保利通伝 中巻』に、この時の幕府軍の様子や、京都が天下分け目の戦いの戦場となることを恐れて、逃げ惑う民衆で京都が大混乱したことが記されており、『徳川慶喜公伝.』の記述が決して誇張でないことが確認できる。

二条城二の丸御殿

「…幕兵及び会・桑等の幕府党は、悉く二条城に集まりて、城の内外に屯集したり。幕府党は、この大変革をもって薩藩士たる利通および西郷らが二三の京紳に結び、幼帝を擁して第二の徳川氏たらんと謀るものなりとて、激昂すること最も甚しく、あるいは直に薩邸を襲撃せんと唱え、殆んど制止すべからざる形勢となり。動乱の機は、まさに旦夕に迫れる状況なりき。京師の市民は、元治元年の兵火に懲りしが今日は之にまして、天子と将軍家との天下分目の戦争なりとて、上下貴賤の別なく、人心恟々として安する所を知らず、あるいは近郷に匿れ、あるいは南都に逃れる等、非常の混雑を極めたり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781139/164

蛤御門の変の大火

文中の「元治元年の兵火」とは1864年に薩摩藩・会津藩が長州藩を京都から駆逐した「禁門の変(蛤御門の変)」を指している。この時長州勢は、長州藩屋敷に火を放って逃走し、また会津勢も長州藩士が隠れているとされた家屋に火を放ったため、またたく間に火が拡がって、北は一条通から南は七条通りの広い範囲が焼け、本能寺も東本願寺も焼けてしまう大火災となり京都の27千世帯が焼失したという。(「どんどん焼け」)上の画像は『京都大火略図』で図の右側が北にあたり、赤い部分がこの時に焼失した地域を示している。
Wikipediaによると禁門の変の時の幕府軍は約3200名とあり、王政復古の大号令の時は幕府軍だけでもその3倍はいたので、京都の民衆が大火を恐れて逃げ惑ったのは当然の事なのだ。

話を、二条城に集まった幕府軍の話に戻そう。
小御所会議の翌日(10日)に、尾張藩の徳川慶勝、越前藩の松平慶永(春嶽)が二条城に向かい、慶喜に対して、将軍職辞職と辞官納地が朝議で決定したことを諭達したのだが、その会議で決まったことはすでに二条城の兵士達にも洩れ伝わっていたという。
徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第65巻』に、松平春嶽に同行した越前藩の中根雪江の手記が引用されており、中根雪江はその時の二条城の様子をこのように記録している。

中根雪江
【中根雪江】

「…今日御城中之形勢、旗本幷(ならびに)会桑之諸士、多くは甲冑を帯し、抜身(ぬきみ)の槍(やり)を立て、草鞋を穿(うがち)ながら御座敷処々に充満して、強暴之声焔尤甚し。二候(徳川義勝、松平慶永)御平服にて、其中を御押分け被成候而之御往来、甚(はなはだ)危殆にて、御伴せし吾輩に於て、懸念を極めたり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/190

松平春嶽
【松平春嶽】

また松平春嶽の手記も残されていて、徳富蘇峰の著書に引用されている。これを読むと、二条城が戦闘の準備に入っていたことは確かである。

「実に二条城の形勢畏るべし。今にも剣にて突殺さるるやに覚え申し候。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/195
「さて、城中の塩梅(あんばい)は、やはり慶喜公はじめ、薩長土藩の士と、戦端を専ら開くことを主張せらるる様、憶測なれど考えられ候。いかんとなれば、老中はじめ藤堂その外御譜代大名、紀州その他の諸大名、兵隊の書付調べ、また玉薬、即ち弾薬の調べこれあり、慶喜公手元にては、鉄砲弾薬の調べこれあり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/196

松平春嶽はここで内乱となることは避けるべきだと考え、慶喜公に対して、ここで幕府から戦端を開いては朝敵となり、300年続いた徳川家も消えてしまうことになると述べ、慶喜の考えを問うたのだが、慶喜には幕府軍から戦端を開く考えはなく、将軍職辞職と辞官納地の件については異存ないが、すぐにでも暴発しそうな幕軍の人心を鎮めてから請けることにしたいと答えたという。

徳川慶喜
【徳川慶喜】

その翌日の二条城の様子が『徳川慶喜公伝. 巻4』に出ている。
11日に至りては、二条城内外の紛擾益(ますます)甚だしく、討薩の声喧しくして、殺気彌(いよいよ)揚がり、会薩の二藩士市中に行逢いて刃傷(にんじょう)に及ぶもあり、戦乱の爆発は必至の勢となる。中にも老中格松平豊前守、若年寄兼陸軍奉行竹中丹後守等は過激なる挙兵論者にして(七年史戊辰始末)板倉伊賀守の沈重なるさえ、書を関東の同列に飛ばして、歩騎砲の三兵及び軍艦の西上を促し足る程なりき(稲葉家文書)。此の日公は親しく諸隊長を引見して曰く『我等割腹せりと聞かば、汝ら如何ようにもなすべし。我等斯くてあらん間は決して妄動すべからず』と、厳に達せらる (昔夢会筆記) 。されども公は尚心安からず思召し、命じて旗本の兵五千余人、会藩の兵三千余人、桑藩の兵千五百余人を城中に集めて、外に出づるを禁じたり。城門の通行は入る者よりも出づる者を取締りしは、専ら暴挙を伏せがんとの用意なるべし。たまたま薩藩の兵城下に迫る由風説ありて、何人の指図ともなく、大手廻りの土塀に矢狭間を切り開きしかば、目付の驚きて制止せる事あり。また薩藩の兵、竹屋町押し寄せたりという風説ありし時、衆益々忿怒し、相争うて出でんとす。会藩士手代木直右衛門・中根雪江・酒井十之丞を見て『先んずる時は人を制す。今之を討たずんば戦機を失わん。卿ら如何に思う』と血眼になりて詰問せしかば、両人はその虚伝なるを説き、且つ『闕下に乱階を開かば朝敵も同様なり』と弁論して、纔(わずか)に宥むることを得し事あり。然れども将士の憤怒は極度に達し、一戦して薩藩に報いんと、殆んど狂せるが如く、叱咤・慷慨、殺気天を衝く (丁卯日記*) 。公もさすがに薩長が朝廷を擁して革新の政を布きたる手段には、不満の情おわしたらんも、天下・国家のためにこれを容忍せられ、極めて少恩なる復古令に甘従し、激昂に激昂を重ねたる幾万の家臣を抑制し、断乎として挙兵の衆議を却け給えり。此の際における公の苦衷は、唯公の知る所にして、後人の推測の及ぶところにあらざるべし。」
*『丁卯日記(ていぼうにっき)』:越前藩の中根雪江の日記。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953149/158

このように徳川慶喜は、城門から出る者を取締り、血気にはやる家臣達を鎮めることに努め、断固として挙兵することを許さなかったのである。

松平春嶽の手記によると、
「慶喜公言う、家来ども頻(しき)りに兵端を開き候よう申し聞き候えども、余は朝廷に対し恐れ入り奉り、且つは祖先の汚名を千歳に流すことは、決て致さず候間、」とあり、慶喜は幕府が朝敵の汚名を蒙りたくないとの思いが強かったようなのだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/197

板倉勝静
【板倉勝静】

老中筆頭の板倉勝静(かつきよ)も記録を残している。板倉自身の考えが書かれているのだろうが、慶喜も同様な考えであったのだと思う。
簡単に意訳すると、
「薩摩は天皇を擁しており、薩摩を討伐しようとすることは、朝廷に向かって発砲することになる。こちらから戦端を開けば、彼らの術中に陥って我々は朝敵とされてしまうことだろう。決して軽挙妄動すべきではない。
そのうえ二条城では幕兵の鎮撫は難しく、またこの城は防御に適した城ではない。そのうえ、狭い地域に住宅が密集している京都で火が放たれば、またたく間に拡がって都の大半が焼けてしまうことになり、多くの犠牲者が出ることが避けられない
。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/208

かくして二条城では京都から大坂に向かうことが決議され、12日になって慶喜は二条城を離れて大坂城に向かっているのだが、慶喜が喧噪の京都を去ったのは他にも理由がありそうだ。
「王政復古の大号令」で武力討幕派が政権の中枢を握ったことは確かなのだが彼らは少数派であり、多くの諸侯は平和解決を望んでいたのである。その点については次回に記す事と致したい。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

西郷との会談で江戸城の無血開城を実現させた勝海舟は西郷の遺児支援に奔走した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-164.html

江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html

静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-365.html

徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-367.html

このエントリーをはてなブックマークに追加

関連記事

武力解決派の挑発に乗ってしまった徳川幕府

前回の記事で、慶応3年(1867)12月9日の『王政復古の大号令』のあと、幕府の家臣や幕府軍の兵士が将軍・徳川慶喜のいる二条城に集まり、「薩摩を討伐せよ」と殺気立ったのだが、慶喜は「ここで戦端を開けば彼らの術中にはまって我らが朝敵とされてしまう」と、血気にはやる家臣達を鎮めることに努め、12日に二条城から大坂城に向かったことを書いた。

武力解決派は、強引なやり方で御所を占拠し政権を奪取したとはいえ少数派にすぎず、諸侯の大多数は平和解決を望んでいたという。では彼らはどう動いたのか。

山内容堂
【山内容堂】

9日の『王政復古の大号令』の出た夕刻に開かれた小御所会議で、『短刀』で発言を封じられた土佐藩の山内容堂は、12日に意見書を朝廷に奏上している。

鈴木荘一氏の『開国の真実』に、その内容が要約されているので紹介したい。

「いまや市中には薩・長・芸と会津・桑名の各藩兵らが対峙し、情勢は緊迫している。このまま日を過ごせば不測の禍乱(からん)が生ずるのは明白である。既に王政一新の基本はほぼ定まったから、すみやかに戒厳を緩め、議事制度を起こし、諸侯に会同を命じて、朝廷の御趣意は公明正大でいささかも偏頗(へんぱ)でないことを宣明せらるべきである。また慶喜が官一等を下り政府の経費を献上すべきは勿論であるが、慶喜にそうさせるのならば、諸侯一同もこれにならうべきである。」(『開国の真実』p.322)

この意見書を原文で読みたい場合は、『国立国会図書館デジタルコレクション』で徳富蘇峰の『近世日本国民史 第65巻』に出ているので参照いただきたいが、蘇峰の解説がわかりやすいので引用させていただく。

「公議と言うは、衆議である。衆議と言うは、多数決である。多数決と言えば、武力解決派から見れば、俗論である。故に彼等は口には公議を唱えるも、決して多数の俗論に一任するを欲しない。されば山内容堂の意見書は、直ちに彼らの弱点を撞いて、多数もて彼等の横暴を制せんと試みたのだ。…
 徳川慶喜はもとより諸侯の列に就くべき順序となりている。されど辞官、献地等のごとき問題は、単に命令もて、之を催告すべきものではない。すべからく松平春嶽に一任して、その宜しきを得せしめよ。朝廷はただ速やかに公議政体の実を挙げ、改革本来の目的に向かって進むべし
との意見だ。思うにこの意見は、穏和派のそれを代表したるものと見て大過なかるべく、土佐一派は、上に容堂あり、下に後藤象二郎ありて、専ら此事に周旋、奔走しつつあった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/212

このような意見書を出したのは土佐藩だけではなかった。
土佐が意見書を奏上した日と同じ12日に、阿波、筑前、肥後、久留米、盛岡、柳川、二本松、肥前、対馬、新発田の諸藩を糾合し、連名の意見書を二条城に届けている。

徳富蘇峰はその意見書の原文を紹介したのち、こう解説している。
あたかも申し合わせたるが如く、山内容堂の意見書と符合している。これは一面朝廷に向かって、寛裕、公平に、二条摂政、徳川内府等を措置せんことを勧告すると同時に、他面には岩倉、薩摩藩に対しての抗議である。而していわゆる『衆議の帰す所』は、山内容堂にとりても、彼らにとりても、その尤も味方とする所にして、彼等が公議もしくは衆議の一点張りもて、その楯(たて)ともなし、矛(ほこ)ともなし、これを以て最上唯一の武器としたるは、如何に多数が、彼等の味方であったかがわかる。
…もし、今日の議事法もて之を律せば、諸藩会議の結果は、おそらく穏和党の勝利に帰したであろうと察せられる
。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/214

薩長にとっては幕府方の会津桑名兵を挑発して、両藩を叩くことで旧体制を粉砕する目論見が外れたのみならず、諸藩からの意見書が出たことで方針転換を余儀なくされることとなった。

徳川慶喜
【徳川慶喜】

一方、徳川慶喜は、巻き返しをはかるべく様々な手を打っている。

鈴木荘一氏は『開国の真実』で、こう解説している。
「慶喜は既に12月9日頃、京都から江戸に急報を発し幕府陸軍部隊と幕府海軍の艦隊に来援を命じている。いずれも幕府が手塩にかけて育てた陸海の精鋭である。大坂城へ入った後も、慶喜は大坂から江戸に急使を遣わして更なる援軍を要請し、シャノワン等フランス軍事教官団にも大坂城への参集を求めた。援軍の要請を受けた江戸では緊迫した京都情勢が充分に伝わっておらず、リグン部員の動員は手際よくいかなかったらしいが、開陽、富士山丸、蟠龍丸など新鋭軍艦は12月下旬頃までに大坂港に集結したようだ。こうして慶喜は、大坂城を拠点として軍事的優位の確立を図った
 徳川慶喜は外交面でも手を打った。12月16日、イギリス、フランス、オランダ、プロシャ、イタリアの六ヶ国の公使を引見し、その席で小御所会議の結論を非難し、
『旗本・譜代諸藩は薩長の暴戻の罪を責め『兵を挙げる外なし』と自分に迫るが、自分から乱階を開くのは好ましくないから、ひとまず下坂した。自分は全国民と同心協力して正理を貫こうと願っているので、諸外国は日本の内政に干渉してはならない。自分は外交責任者として外国との条約を守る』
 と自分の立場を述べ、徳川政権の正当性を諸外国に認めさせた。国際社会から認められた政権が正統政権とみなされる。徳川慶喜はこうして岩倉具視や大久保利通等に対し外交的勝利を勝ち取った。

『納地』の問題も、大久保利通等の『徳川家の領地をすべて取り上げる』という主張はうやむやになってしまい、結局、徳川家と諸大名が所領の一定割合を朝廷費用のために献上する、という話にスリ替わった。しかも献上する費用の分担率は、徳川慶喜が主宰する諸大名会議で決定する、というように骨抜きとなった。こうなれば幕府にとって実害はない。
徳川慶喜は朝廷からの『辞官納地の諭書(さとししょ)』への返事として、ためらうことなく諒解の意思を示し、『辞官の儀は前内大臣と称すべく、政務御用途の儀は天下の公論を以て御確定あそばさるべし、との御沙汰の趣、謹んで承りぬ』
との『請け書』を朝廷に提出した。暮も押し詰まった12月28日のことである。」(同上書 p.323-324)

大阪城

このようにして徳川慶喜は二条城から大坂城に移って見事に巻き返しに成功したのだが、その後なぜ武力解決派が勢いづいたのか。その点については、大坂・京都から江戸に視点を移す必要がある。

当時幕府の幹部は大坂に詰めていて、江戸には佐幕藩の藩兵が市中取締りの警護にあたっていた。
一方薩摩藩は三田の薩摩藩邸を根拠地として倒幕・尊王攘夷の浪士を集めて、放火や掠奪・暴行を繰り返して幕府に対する挑発行為を繰り返していたという。

鈴木荘一氏の解説を続けよう。
「慶喜の大政奉還によって武力討幕の名分を失った西郷隆盛は、江戸市中攪乱により武力討幕のきっかけを作ろうとした
 相楽総三等は五百人からなる浪士団を組織し、富商・富豪に押し入って金品を強奪する非合法活動を行った。毎夜のように鉄砲をかかえ抜刀した正体不明の無頼の浪人集団が三十人、五十人と徒党を組んで押し入った。日本橋金吹町の公儀御用達播磨屋(はりまや)新右衛門方に押し入った賊は一万八千両の大金を強奪した。浅草蔵前の札差(ふださし)伊勢屋では、大胆にも舟で乗りつけた賊三十余人に襲われ、三万両を奪われる被害に遭った。こうした時節柄、充分な警戒を怠らなかった本郷追分の高崎屋も被害にあった。…
 このように毎夜のように富豪の町屋に押し入る正体不明の無頼浪人集団には三つの特徴があった。
第一は『御用金を申し付ける』と言うことである。第二は言葉に薩摩訛(なま)りがあることであった。第三の特徴は金品強奪後に逃げ込む先が薩摩藩江戸藩邸だったこと
である。」(同上書 p.325-326)

江戸市中取締りを命じられていた庄内藩主酒井左衛門忠篤は、幕府より薩摩藩を刺戟しないよう厳命されていたために強く取り締ることはしなかったのだが、それを良いことにして薩摩藩の非合法活動が一段と活発化していく。

「12月22日夜、江戸市中警護に当たっていた庄内藩屯所が銃撃された。翌23日未明には江戸城二の丸で不審火があり、薩摩藩の仕業による放火と噂され、同夜、三田の吹貫亭という寄席で休息中の庄内藩見廻隊に数十発の銃弾が打ち込まれる事件があり、薩藩浪士の仕業と見られた。
 幕府の弱腰を哄笑するような薩摩浪士の相次ぐ挑発に、隠忍自重してきた幕府も遂に堪忍袋の緒が切れ、老中淀藩主稲葉正邦は酒井左衛門忠篤に薩摩藩邸の焼打ちを命じた。
 庄内藩兵、上ノ山藩兵、岩槻藩兵、鯖江藩兵等からなる幕府軍は、12月25日早朝、浪士団の策源地である芝三田の薩摩藩邸を包囲して下手人の身柄を渡すように要求し、薩摩藩邸が拒否すると、狼藉の巣窟薩摩藩邸への攻撃を開始した。薩摩藩邸焼打ちである
。」(同上書 p.326-327)

薩摩藩邸焼打ち
【薩摩藩邸焼打ち】

京都では徳川慶喜が幕府軍から戦端を開くことを決して許さなかったのだが、江戸の幕府軍は何度も繰り返される薩摩の挑発に乗って、薩摩藩邸を攻撃し焼打ちしてしまったのである。

事件の詳細が大坂城に伝わったのは12月28日で、この時徳川慶喜は、薩摩討つべしと沸きあがる城内の声を抑えることができなかったようだ。

『昔夢会筆記』

徳富蘇峰の『近世日本国民史 第66巻』に、慶喜の回想録である『昔夢会筆記』が引用されている。

「此の時予(慶喜)は風邪にて寝衣のまま幕中にありしに、板倉伊賀守来りて、将士の激昂大方ならず。此のままにては済むまじければ、所詮帯兵上京の事なくては叶うまじき由を反復して説けり。

予は『此の如き有様にては、戦うとも必勝期し難きのみならず、遂には徒に朝敵の汗名を蒙るのみなれば、決して我より戦いを挑むことなかれ』と制止したり。…
 されども、板倉、永井等は、頻りに将士激動の状を説きて『公もし飽くまでも其の請を許し給わずば、畏けれども公を刺し奉りても、脱走しかねまじき勢いなり』という。予は…制馭力の及ばざるを嘆ぜしが、江戸にて藩邸を討ちし後は、尚更城中将士の激動制すべからず。遂に彼らは君側の姦を払う由を、外国公使にも通告して、入京の途に就き、かの鳥羽・伏見の戦いを開きたり。
…予は終始大坂城中を出でず、戎衣をも着せず、唯嘆息し居るのみなりき。此の際の処置は、予ももとより宜を得たりとは思わざりしも、今にていえばこそあれ、当時の有様にては、実にせんすべも尽き果てて、形の如き結果に立ち至りしなり
。」(『昔夢会筆記』)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/162

このように慶喜は、この時も戦うことを望まなかったようなのだが、周囲がそれを許す状況ではなかったために、京に向かって薩摩を討つことを認めてしまったという。

しかしながら、幕府軍は動かなくとも武力解決派を追い詰めることは可能であったはずだ。

福地源一郎
【福地源一郎】

海外留学を経験した福地源一郎は29日に、同志を代表してこのような意見書を若年寄の平山省斎に提出している。
「…唯今の如く、阪城に御座あって、海は軍艦を以て兵庫、大阪の両港を封鎖し、陸は西宮より街道に沿いて胸壁を築き、淀川の通路を止め、守口、枚方に堡寨(ほうさい:とりで)を築かせて、厳に之を守りたまうべし。然る時は京都に駐在せる薩長の兵は、居ながらにして屈し、戦わずして走るか、然らずば討て出るに相違なし。是れ上策と仕り候う
 もしこの策を御採用なくば、将軍家には断然直ちに御東帰遊ばされ、阪城には伝習兵ならびに会・桑の逞兵を置かれて留守せしめ、枚方を限りに備えを厳にし、淀川を扼し、軍艦を以て摂海の出入りを止めらるべし。是れ関以西を敵地と見做してその動静に応じ、逸を以て労を俟つ謀にして中策と仕り候うなり。
両條とも御採用なされ難くて、是非とも引兵御上京との御議ならば、鳥羽、伏見、淀の諸所に兵を分て、分期攻入の策は尤も宜しからず。須らく山崎街道の一口より突入たまうべし。京都へ攻め入るの用兵道路はこの外に候わず。是を下策と仕り候うなり。只今の御軍配の如きは、殆んど無策と候えば、右三策の内を選びあそばさるべし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/164

平山省斎
【平山省斎】

福地の意見の通り、兵庫と大阪の両港を封鎖し、街道の通路を止めれば京都の武力解決派はそのうち干上がっていたはずだったのだが、大坂城中は主戦論一色でこのような意見を相手にする者がおらず、福地は「死を決して」この意見書を平山省斎に提出したという。しかしながら、この平山という人物は強硬な主戦派で、出した相手が悪すぎたようだ。

幕府には人材はいたのだが、慶喜の周囲に冷静に戦略を練ることができ、慶喜を支える知恵者がいたのだろうか。
もし福地源一郎のような人材が慶喜の近くに仕えていて、慶喜が早い時点からその意見を取り入れて京都を経済的に締上げ、かつ武力解決派の挑発に最後まで乗らなかったとしたら、その後のわが国の歴史は随分異なるものになっていたかも知れない。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-350.html

日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-351.html

東大寺二月堂に向け毎年「お水送り」神事を行う若狭神宮寺を訪ねて~~若狭カニ旅行1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-217.html

東大寺二月堂のお水取り
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-142.html

明治期の危機を乗り越えた東大寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-84.html

このエントリーをはてなブックマークに追加

関連記事

大政奉還したあとの旧幕府勢力に薩長が内乱を仕掛けた理由

前回は石川県の「不平士族」が大久保利通を暗殺したことを書いたが、「不平士族」と言う言葉を用いると、普通は「不平」を持つ側は少数で「悪い」側と受け取られることになる。
歴史叙述というものはいつの時代もどこの国でも、「勝者」に正当性、正統性があると描かれるものであり、対立する勢力は「悪者」にされるか、「抵抗勢力」「不平分子」などとレッテルが貼られるのが常であるのだが、かといって「勝者」側に「正義」があったのかを問うと、必ずしもそうではなかったということが往々にしてある。もし「敗者」側に「正義」があったとしても、「勝者」は歴史叙述の中で「敗者」を悪しざまに描くものなのである。

討幕の密勅

徳川慶喜が朝廷に大政奉還を申し出た慶応3年(1867)10月14日に薩摩藩・長州藩に対して「討幕の密勅」が下されたことを学んだのだが、この密勅をよく読むと「幕府を倒せ」とは一言も書かれていない。ポイントとなる部分は「汝宜しく朕が心を体して賊臣慶喜を殄戮(てんりく=全滅)し、以て速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山嶽の安におくべし、これ朕の願いなり、敢えて懈る(おこたる)ことなかれ」だが、簡単に言えば将軍慶喜を殺してしまえという命令文書である。しかしながら、大政奉還が成就してこれまで権力の中枢にあった「徳川幕府」は存在しないのだから、普通に考えると「討幕」という言葉はありえない。
「徳川家を全滅させよ」というのはつまるところ私闘以外の何物でもなく、しかもこの密勅は正式な手続きを経ていない「偽勅」であったことが今ではわかっているのだ。
この「偽勅」に対して「討幕の密勅」などという言葉を未だに歴史学者が用いるのは、学会という特殊な集団においては「薩長中心史観」が主流であるということの証左なのだろう。

聖徳記念絵画館壁画「王政復古」(島田墨仙画)
【聖徳記念絵画館壁画「王政復古」(島田墨仙画)】

12月9日は岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発し、夕刻に開かれた小御所会議で徳川慶喜に対する『辞官納地』を決定したのだが、慶喜は「ここで戦端を開けば彼らの術中にはまって我らが朝敵とされてしまう」と、血気にはやる家臣達を鎮めることに努め、12日に二条城から大坂城に向かっている。

山内容堂
【山内容堂】

諸侯の大多数は平和解決を望んでおり、12日には土佐藩の山内容堂が朝廷に以下のような意見書を奏上した。
「いまや市中には薩・長・芸と会津・桑名の各藩兵らが対峙し、情勢は緊迫している。このまま日を過ごせば不測の禍乱(からん)が生ずるのは明白である。既に王政一新の基本はほぼ定まったから、すみやかに戒厳を緩め、議事制度を起こし、諸侯に会同を命じて、朝廷の御趣意は公明正大でいささかも偏頗(へんぱ)でないことを宣明せらるべきである。また慶喜が官一等を下り政府の経費を献上すべきは勿論であるが、慶喜にそうさせるのならば、諸侯一同もこれにならうべきである。」(『開国の真実』p.322)
その同日に阿波、筑前、肥後、久留米、盛岡、柳川、二本松、肥前、対馬、新発田の諸藩連名の同様の意見書が二条城に届けられて、薩長は方針転換を余儀なくされることとなった。

開国の真実

幕府方の会津桑名兵を挑発して、旧体制を粉砕するきっかけを得ようとした目論見が外れたのみならず、諸藩からの意見書が出たことで薩摩藩は、次いで江戸市中攪乱により内乱のきっかけを作ろうとした
鈴木荘一氏は『開国の真実』でこう解説している。

相楽総三等は五百人からなる浪士団を組織し、富商・富豪に押し入って金品を強奪する非合法活動を行った。毎夜のように鉄砲をかかえ抜刀した正体不明の無頼の浪人集団が三十人、五十人と徒党を組んで押し入った。日本橋金吹町の公儀御用達播磨屋(はりまや)新右衛門方に押し入った賊は一万八千両の大金を強奪した。浅草蔵前の札差(ふださし)伊勢屋では、大胆にも舟で乗りつけた賊三十余人に襲われ、三万両を奪われる被害に遭った。こうした時節柄、充分な警戒を怠らなかった本郷追分の高崎屋も被害にあった。
 このように毎夜のように富豪の町屋に押し入る正体不明の無頼浪人集団には三つの特徴があった。
第一は『御用金を申し付ける』と言うことである。第二は言葉に薩摩訛(なま)りがあることであった。第三の特徴は金品強奪後に逃げ込む先が薩摩藩江戸藩邸だった
ことである。」(『開国の真実』 p.325-326)

薩摩藩邸焼打ち事件
【薩摩藩邸焼打ち事件】

江戸市中取締りを命じられていた庄内藩主酒井左衛門忠篤は、それまで薩摩藩を刺戟しないよう厳命されていたのだが薩摩藩の非合法活動が一段と活発化し、12月22日には庄内藩屯所が銃撃され、23日未明には江戸城二ノ丸で不審火があり、同夜には庄内藩見廻隊に数十発の銃弾が打ち込まれて、隠忍自重してきた老中淀藩主稲葉正邦もついに堪忍袋の緒が切れ、酒井左衛門忠篤に薩摩藩邸の焼打ちを命じ、12月25日早朝に旧幕府軍は、浪士団の策源地である芝三田の薩摩藩邸を包囲して下手人の身柄を渡すように要求し、薩摩藩邸が拒否すると、狼藉の巣窟である薩摩藩邸を焼打ちしてしまったのである。

大阪にいた慶喜はこの報告を聞いた後も「此の如き有様にては、戦うとも必勝期し難きのみならず、遂には徒に朝敵の汗名を蒙るのみなれば、決して我より戦いを挑むことなかれ」と、当時旧幕臣の大多数が主戦派に傾いていたのを斥け、ともかくも恭順論を貫くことを命じたのである。

教科書などでは戊辰戦争の緒戦の鳥羽伏見の戦いについて「1868年1月、薩摩・長州軍藩兵を中心とする新政府軍と、旧幕臣や会津・桑名藩兵を中心とする旧幕府軍とのあいだに、兇徒の近くで武力衝突が起こった。これに勝利を収めた新政府軍は、徳川慶喜を朝敵として追討し、江戸へ軍をすすめた。」などと開戦責任を曖昧にしているが、当時の記録を読むと、慶喜に上京を命じておいて京に向かう警護の行列に新政府軍が一方的に発砲したのが真相であり、この時旧幕府軍には戦う意思はなかったようなのだ。

維新前後の政争と小栗上野の死

国立国会図書館デジタルコレクションで関連書籍を探していると、『維新前後の政争と小栗上野の死』という本が目にとまった。著者の蜷川新(にながわあらた)氏は法学者・外交官を歴任し、旗本小栗上野介の義理の甥にあたる人物だという。今日ではこのような視点に立った記述が紹介されることはほとんどないのだが、一部を引用させていただく。

岩倉、西郷、大久保等は、慶喜が大兵を擁して、大阪に在るを自己等の為に危険視した。もしも大阪を根拠として、京都にある薩軍に反抗せられたならば、交通路は絶たれ、京都の薩軍は甚だ危うしと心配した。彼らは一大権略家であるが故に、自己の心を以て、徳川方を猜疑したのである。
 岩倉らは流石に智者である。即ち一策を案じ、慶喜に軽騎上京を命じ、会桑*に向かっては、その本国に帰還すべきを命じた。この命は、天皇の大命として伝えられた。
 慶喜としては、この大命に反くを得ない。慶喜の立場は困難に陥った。上京せざれば、反逆者の如くに取扱わるべく、軽率に上京すれば、危険身に迫るべきは当然であった。慶喜を擁護する者より見れば、武士の習いとして、その主と仰げる慶喜を見殺しにするを得ざるは当時の武士的道徳であった。親藩たる会桑は、慶喜を守護して上京すべしということに一決した。これ武士として正しい考慮であった。薩長を討伐するがためではなく、唯だ警護者として随伴するにすぎなかった。岩倉等一味の権略陰謀甚だしきに対しては、これより以外に取るべきの途はなかったであろう。
 慶喜は命により上洛した。慶喜は戦闘隊形を以て、上洛したのでは決してなかった。勿論武士であるが故に、武器は各人何れも携帯して行った。しかるに薩長の兵は、此の上洛者を鳥羽伏見に阻止した。而して付近の高地をあらかじめ占領し、発砲を以て徳川方に挑戦した。これ天人ともに怒らざるを得ない暴状ではないか。彼らは此の機会を利用して、慶喜以下を全滅せしめんと策動したのであろう。」
*会桑:会津藩、桑名藩のこと 
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170288/124

薩摩軍は慶喜の上洛を待ち伏せて大砲を打ち込んだとあるが、その点については会津藩の永岡清治が『旧夢会津白虎隊』でこのように記している。文中の「伏水」というのは京都市伏見区の地名で明治12年に「伏見」の表記に統一されている。

鳥羽伏見の戦い

田中玄清*は正午淀を発し、伏水に向かう。元来この行は従軍とは思わず、警備の心得なり。余等伏水駅端の街路に憩いし時、商賈両三人来たり。桃山の半腹を指さし、此処には大砲一門、彼処には二門と兵児三四百人戎装して備えりと、一々これを説示し且つ言う。伏水奉行所には会兵、肥後橋にも会兵、奉行所の北及び御香宮などには薩長固め大砲を並び塁を積み関門を設け行人は議して而して之を拒否す。竹田街道には土州これを警衛すと告ぐ。尋て雪空となり、夕陽春く頃、西北鳥羽に当たり大砲二発聞こゆるや否や伏水鳥羽共に天地震撼するばかりなり。」
*田中玄清(はるきよ):会津藩家老。幕末の藩主・松平容保に仕えた。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925910/75

戊辰物語

会津藩の記録をそのまま信じるわけにはいかないとも思うのだが、彼らが「警衛の心得」で臨んでいたことは真実だと思われる。
岩波文庫の『戊辰物語』は、明治維新の動乱を経験した古老からの聞書きを編集した「東京日日新聞」の連載記事をまとめた本だが、ここにはこう記されている。

「鳥羽伏見の合戦は幕軍総崩れ。何しろ洋服鉄砲の兵隊へ鎧兜に陣羽織の幕軍が槍をもって向かったのだからいけない。殊に一人ひとり名乗りを上げる、敵を斬ると一々首をとって腰へ下げる。その首を幾つも腰へぶら下げた勇士がたった一発で胸板を抜かれて死んでいるという有様で、…」(『戊辰物語』p.30)

槍や刀で立ち向かうしかないような陣形をとっていたために旧幕府軍は銃撃戦で大敗したわけだが、そのような陣形をとっていたということは、旧幕府軍は薩長軍との戦いにはならないことを前提にしていたということであろう。
大阪にはフランス教師直伝の伝習兵がいて、ミニエー銃などの最新兵器も大量に保有していたのだから、はじめから薩長との戦いを覚悟していたのなら、近代的兵器を活用できる陣形を取るのが自然である。そうしていればこんなに無様な負け方をすることはなかったであろう。

慶喜は戦う意思はなかったのだが、ならば鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争は、何のための戦いであったのか。

西郷隆盛

西郷隆盛は当時「此度の創業幸いに我勝たば、主として統一を図るべし。彼勝たば、徳川氏の中興正になり、天下靡然として一に期せん。皇国の独立は期して待つべし。故を以て、我れ勝つも好し、彼れ勝つも好し。その勝敗の如きは論ぜずして可なり。兎も角も一戦を賭して、日本の統一を図るにあり」と述べたそうだが、大政奉還がなされたにもかかわらず、徳川方と一戦を交えて勝利して、徳川の経済基盤を奪取し薩長が権力を掌握することにこだわっていたようなのである。のちに慶喜は「辞官納地」も許容したので、それでもなお徳川軍を討伐しようとした薩長の意図は、薩長主導で政府を作ることにあったと考えるしかない。

蜷川新
【蜷川 新】

蜷川新氏は『維新前後の政争と小栗上野の死』で挑発をし続けた薩長を非難しているのだが、この文章を読むと、これまで教科書やテレビの解説などで何度も耳にしてきた歴史叙述に随分偏りがあることに誰しも気づかざるを得ない。不平士族の問題もこのような視点から見直すべきなのだと思う。

大政奉還は、既に前年十月を以て成就したのであり、幕府はその時に消滅したのである。『徳川の中興』なぞ断じてあらしむべきものではなかった。然るに西郷は、戦の勝敗にて徳川の中興生じて可也と言明したのである。これ果たして忠誠の言というを得ようか。王政の復古は、既になったのである。進んで為すべきは、各藩何れもその権力を朝廷に奉還すべき一事であった。慶喜は既にこれが範を示したのである。しかるに、他の藩主藩臣に一人としてこの精神なし。島津も毛利もその藩臣も、そのまま藩として引き続き存在し、依然として地方の権力を握り、地方に君主の威を以て存在せんとしたのであった。かくして、天下の統一成ろう筈なし。しからば西郷には『統一』の言のみあって、統一の実を完(まっと)うするの誠意なかりしものと言うべきではないか。統一を欲するならば封建の廃止でなければならなかった。幕府既に亡びたる後において、唯だ一家の徳川氏のみを追窮することが、当時の緊急事業では断じてなかった。伏見鳥羽の戦なぞは国家国民の為に避く可かりしものであり、かかる無益の流血なくして至当の公議を竭(つく)し、諸侯を廃し、王政復古を至誠を以て進行すべきであった。
 もしも徳川方にして、執拗に封建の存続を図り、日本国をして世界の大勢に順応せしむるを阻止する所為もありしとせば、薩長及び公卿らが唯一に武力を以て、徳川方を討滅するは、当然執るべきの処置であった。しかしながら、徳川幕府は国家の為に自ら消滅し去ったのである。幕府方に確にこの正しき行道あり。しかるに、薩長の人々が、幕府亡びしのちの徳川方を圧迫し、故さらに戦乱を起こさしめたるが如きは、何ら是認すべき理由はないのである。…
 自ら権略陰謀これ事とし、王政復古成れる後に於いて、内乱を煽動挑発し、しかる後に、兵力を以てこれを平らげ『王政復古の功労者は我らなり』と宣伝するものありとせば、国民はそれら権謀の徒の弄策を正しからずとして裁判せざるをえないであろう。これ国民的公判である。
 伏見開戦の責任者は、薩長方にある。而して其の初めは私闘であった。それ故にもしも『喧嘩は両成敗なり』というならば、徳川方も薩長方も同じ様に罰せられるべきはずであった。然るに輪王寺宮の御令旨にもある如く、第三日目よりして、錦旗は即妙的に薩長方に掲げられた。而して徳川方の敗北にあらざりしも『形勢不利也』として徳川方はその兵を引き揚ぐるや、この総退却者を以て『逆賊也』と公然宣布せらるるに至った。国民よりしてこの史実を今日において科学的に判断せしむれば、いずれが正、いずれが非なりとなすであろうか。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170288/125

錦の御旗
【錦の御旗】

旧幕府軍には逆賊となる意思もなく、鳥羽伏見の戦いではただ武士の習いとして応戦しただけであったのだが、この戦いが始まった3日後に錦の御旗が掲げられて、旧幕府軍は『逆賊』とのレッテルが貼られてしまった。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉は明治維新後に広まった言葉なのだが、このような言葉が全国で広まったということは、明治維新政府側が卑怯な手段を用いて政権を掌握したことを、明治人の多くが認識していたということではないのか。
教科書などで描かれているわが国の近代史は、明治維新から150年も経ったにもかかわらず、未だに薩長勢力にとって都合よく描かれていると考えるのは私ばかりではないだろう。ここ数年来ようやく明治維新を見直す著作の出版が相次いでいるが、教科書などの江戸幕末から明治初期の叙述が全面的に書き直される日は来るのだろうか。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
いつの時代もどこの国でも、歴史の叙述というものは時の為政者にとって都合の良いように描かれ、都合の悪い史実は伏せられるか事実を歪めて記述される傾向にあります。我々が学んできた近代史は「薩長中心史観」というべきもので、特に明治の初期の歴史は薩長にとって都合の悪い史実はほとんど書かれていません。良かったら覗いてみてください。

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-167.html

廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-365.html

徳川家と共に静岡に移住した士族が記した「士族の商法」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-366.html

徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-367.html

浄土真宗の僧侶や門徒は、明治政府の神仏分離政策に過激に闘った…大濱騒動のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-459.html

明治6年に越前の真宗の僧侶や門徒はなぜ大決起したのか~~越前護法大一揆のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-460.html





関連記事
FC2カウンター
ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。キーワードを含む全てのブログ記事のリストと、記事の最初の文章が表示されます。記事を探す場合は、カテゴリーで記事を追うよりも探しやすいです。
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
最新記事
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
QRコード
QRコード
RSSリンクの表示
タグクラウド

年別アーカイブ一覧
RSS登録er
Kindleストア
スターチャンネルのインターネットTV
最新作から不朽の名作まで、厳選された映画・海外ドラマをスマホ・タブレット・PC・FireTVで見れる! 月額費用だけ!初月無料!
旅行・出張






グルメ
よく使っています


ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

おきてがみ blogram
ブログランキングならblogram
文字を大きく・小さく
    月間人気記事ランキング
    個別記事への直接アクセス数の今月1日からの合計値です。毎月末にリセットされます。このブログのアクセスのうち6割以上は検索サイト経由、約2割は何らかのリンクを辿って、過去の記事のURLに直接アクセス頂いています。
    51位以降のランキングは、リンク集の「『しばやんの日々』今月の人気ページランキング (上位500)」をクリックしてください。
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログサークル
    ブログサークル
    ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    おすすめ商品
    楽天Kobo電子書籍
    旅館・ホテル

    ふるさと納税
    楽パック 航空券×宿
    レンタカー

    読書
    このブログで採り上げた本のいくつかを紹介します
    人気ページランキング
    集計スタート時期が良くわかりませんが、おそらく2016年の夏ごろから現在までの記事アクセスランキングです。