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桂浜、坂本竜馬記念館を訪ねて~~高知旅行2日目その1

ホテルを早目に出て、朝一番で桂浜に向かう。

桂浜には10年程前に一度バス旅行で訪れているのだが、短い時間の滞在であったので、今回はゆっくり散策して、前回行かなかった「坂本龍馬記念館」も見てみたい。

桂浜の上竜頭岬の高台に有名な坂本龍馬像がある。

高知・窪川・高松方面旅行 039

この像は宿毛市出身の彫刻家本山白雲の制作によるもので、本体の高さが5.3mで、台座の高さと合わせると13.4mにもなる大きなものだ。

この像の経緯を調べると非常に興味深いので、次の高知新聞のサイトを一読されることをお勧めしたい。何の信用もない一学生の思いが、多くの人を動かし、県や国を動かした感動のドラマである。
http://www.kochinews.co.jp/ryoma/ryoma005.htm

簡単に記すと、大正15年に坂本龍馬に心酔していた早稲田大学の学生の入交好保(いりまじりよしやす)が、龍馬の功績を世に残そうとして日本一大きな銅像を建てることを決意し、同じ海南中学の同窓である友人らとともに「坂本先生銅像建設会」を発会し、新聞で仲間を呼びかけたことから始まる。

仲間とのつながりから、土佐の交通王と呼ばれた野村茂久馬の支援により乗合自動車のフリーパスを入手し、入交らは夏休みに無銭旅行をしながら県内を遊説して募金活動を開始した。

また入交は幕末の志士で龍馬とも交友のあった田中光顕伯爵にも会い、伯爵の働きかけで秩父宮殿下から200円の下賜金を頂いた後は、県も態度を変えて寄付金集めに動き出した。 そして入交らはついに2万5千円(現在の70-80百万円)の資金を集め、龍馬像制作のめどをつける。

制作や搬送にも大変な苦労があったが、詳しくは先程紹介したサイトを見ていただきたい。 とにかく龍馬像は完成し、昭和3年5月27日(海軍記念日)に除幕式が行われた。その時は当時の内閣総理大臣であった田中義一をはじめ錚々たる人々が出席し祝辞を述べたそうだ。

先程のサイトには除幕式のシーンを次の言葉で結んでいる。 「幕が取り払われ、龍馬が姿を現すと、群衆はどよめき、青年たちは涙したという。運動が実を結んだ瞬間だった。資金も信用もない無名の学生らが起こした大きな渦。それは一介の浪人にすぎない龍馬が国事に奔走した姿とよく似ている。入交自身も後年、高知新聞紙上で「土佐の青年の意気を示す機会であった」と振り返っている。台座には「建設者 高知縣青年」と刻まれている。」

まだ坂本龍馬がそれほど知られていなかった時代に、学生の龍馬を愛する強い思いが国までをも動かしたとは、実に素晴らしいことではないか。

たまたまこの坂本龍馬像のすぐ横で「龍馬に大接近」というイベントが行われていて、この龍馬像の東側に特設の展望台が作られていてここを上ると真横からこの龍馬像を見ることができるようになっていた。こういうことは昔から大好きなので早速入場料100円を払って薄い鉄板でできた階段を登り始める。

高知・窪川・高松方面旅行 042

上の写真は、特設展望台の上から龍馬と桂浜を写したもの。下から見る龍馬像とは一味違う龍馬の表情を見ながら、太平洋を龍馬と一緒に眺める気分は格別であった。

このイベントは4月3日から5月31日までで、あと1週間もすればこの特設展望台が撤去されるのだろうが、もし今月中に桂浜に行く予定がある人はここに登ることをお勧めしておきたい。

ついでに、この特設展望台は龍馬像の東側にあるので、写真を撮るのなら逆光にならない午前中が良い。

桂浜を散策後、車で坂本龍馬記念館に向かう。
今年はNHKの大河ドラマの影響が大きく、入場者は例年の3倍ペースで、GW中には平成3年の開館以来初めて入館待ち時間制限が行われたそうだ。

坂本竜馬記念館

16日(日)の開館直後の時間に到着したが、その時間で駐車場は大半が埋まっていて、館内も人が一杯だった。

見どころは地下二階に展示されている龍馬の手紙。達筆な字のためとてもすらすらとは読めないが、わかりやすいように翻刻文と口語訳文とが併記されており、姉の乙女に宛てた手紙などはなかなかユーモアがあって暖かい龍馬の人柄が伝わってくる。他には高杉晋作から送られたというピストルや、暗殺現場の近江屋に残された血痕のついた掛け軸(複製)など貴重な資料が展示されていた。

高知・窪川・高松方面旅行 058

2階には様々なパネルの展示や近江屋の実物大の模型等があり、全てを見終わるとガラス張りの空間となり、雄大な太平洋が一望に広がる。外見はモダンアートのようだが、龍馬の生涯を辿ったあとで、龍馬が何度も見たであろう太平洋を最後に眺めて幕末の時代にしばし思いを馳せることを想定して、うまく計算され設計された建物だと思った。(つづく)
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「明治天皇すり替え説」を追う

2年以上前にこのブログで「明治の皇室と仏教」という記事を書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-125.html

内容を簡単に振り返ると、明治政府は明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」により、上古以来、宮中に祀られていた仏堂・仏具・経典等、また天皇・皇后の念持仏など一切を天皇家の菩提寺である京都の泉涌寺に遷し、その代わりとして神棚が宮中に置かれて、宮中より仏教色を一掃することになった。その時に3人の皇族の女性が明治政府からの還俗の強要を敢然と拒否したことを記事の中で紹介したのだが、皇族の男性が反対したことがなぜか見えて来ないのである。

私はこの記事でこのように書いたのだが、その気持ちは今も同じである。
「皇室で仏教は1400年以上の歴史があり、江戸時代までは皇族は仏教徒であり仏教を保護してきたのだ。まして、明治天皇にとっては先代の孝明天皇は実の父親である。若いとはいえ、明治4年と言えば天皇は19歳だ。他にも皇族は沢山いたのに、そんな簡単に信仰が捨てられることに不自然さを感じるのは私だけだろうか。信仰の薄い私ですら、自分の先祖の墓を捨てて明日から神棚を祀れというのは耐えられない。」

明治天皇や主要な皇族が抵抗すれば、いかなる策士といえどもこのようなことは強行できなかったと思うのだが、皇族男性すべてが抵抗せずに廃仏を受容したとすれば、脅迫などがあって皇族の誰もが抵抗できない環境に置かれていたか、主要な皇族全員が神仏分離し仏教を捨てるべきだとの考え方でほぼ一致していたかのいずれかしか考えられないのではないか。直感的には前者の可能性が高いだろう。

2年以上前にこの記事を書いた際に、明治天皇暗殺説があることを少しだけ触れておいたのだが、それくらいの事件がなければ、皇族の男性全てが、1400年以上の歴史のある仏教をさしたる抵抗もなく捨て去ることはなかったのではないかとも思えるのである。
今回は明治天皇が暗殺されて別の人物にすり替えられたという説を、もう少し詳しく追ってみることにしたい。

meiji.jpg

以前紹介した記事に、少年期の明治天皇の写真と伝えられるものを掲載したのだが、今回も掲載しておこう。中央に立つ背の低い人物が明治天皇であると伝えられているのだが、この写真は我々の知る明治天皇とは別人にしか見えない。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html

実はこの写真は小学校の時に一度雑誌の記事で見たことがあるので、かなり以前から明治天皇の写真であるとして伝えられていたはずなのだが、ネットでいくら調べても、誰がいつ撮影したものであるかも、周囲の人物が誰なのかもよくわからなかった。

三浦芳聖

いわゆる、「明治天皇すり替え説」は古くからあったようだ。土佐藩出身の田中光顕元宮内大臣が昭和4年(1929)の2月に、三浦芳聖氏に語ったという話に注目したい。三浦氏は自らが南朝正統の皇胤であることを主張した人物で、三浦氏の『徹底的に日本歴史の誤謬を糾す』という著書にその内容が書かれているらしい。
この本は自費出版されたもので手に入れることは難しそうだが、次のURLに田中光顕(下画像)の証言内容が引用されている。
http://wiki.livedoor.jp/niwaka368/d/%B8%B5%B5%DC%C6%E2%C2%E7%BF%C3%C5%C4%C3%E6%B8%F7%B8%B2%BB%E1%A1%A2%CC%C0%BC%A3%C5%B7%B9%C4%CA%C5%B2%BC%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8%B9%F0%C7%F2

田中光顕

重要な部分を紹介しよう。
「斯様申し上げた時に、田中光顕伯爵は顔色蒼然となられ、暫く無言のままであられましたが、やがて、『私は60年来曾って一度も何人にも語らなかったことを、今あなたにお話し申し上げましょう。現在此の事を知っている者は、私の外には、西園寺公望公爵只御一人が生存していられるのみで、皆故人となりました』
と前置きされて、
『実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新と云う時に急に崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘中山慶子様で、御生れになって以来、中山大納言邸でお育ちになっていたと云う事にして天下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領し、 代々長州の萩に於て、この御王孫を御守護申し上げて来た。これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古維新を志した勤皇の運動である。
吉田松陰亡き後、此の勤皇の志士を統率したのが明治維新の元老木戸孝允即ち桂小五郎である。元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の間柄であったが、此の桂小五郎と西郷南洲とを引合せて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。
薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南洲に、『我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ』と云う事を打ち明けた時に、西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く感銘して之に賛同し、遂に薩摩藩を尊皇討幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。之が大政奉還、明治維新の原動力となった。』」

この証言内容をどの程度信じるかは、読む人によって異なると思うのだが、かなり具体的なことを語りながらも結構筋が通っていて、私にはあまり嘘っぽく感じられないのである。
このような重要なことを維新の元勲が軽々しく語るのはおかしいとも思えたりもするが、その点は読者の判断にお任せしよう。
田中の述べたことを要約すると、長州は南朝末裔の大室寅之祐を匿っていて、薩長は「南朝革命」を大義名分にして「薩長同盟」を結んだということである。

「南朝」という言葉がいきなり出てきて戸惑った人も多いと思うが、建武三年(1336)に足利尊氏が光明天皇を立て、後醍醐天皇が吉野に逃れて、京都の「北朝」と吉野の「南朝」に皇室が分裂してしまう。それから、それぞれが正当性を主張する時代(南北朝時代)が元中9年(1392)まで続くことになるのだが、その後も南朝の子孫がずっと生き延びていてそのうちの一人が、長州が匿っていた大室寅之祐だと述べているのだ。

北畠親房は南北朝時代に『神皇正統記』で、三種の神器の所在と皇統における「正統」概念をもって南朝正統論を唱えた最初の人物であるが、『太平記』が公家や武士の間に愛読されて南朝方に同情的な見方が次第に広まって以降、著名な学者が南朝正統論を唱えるようになる。
江戸時代に徳川光圀が編纂した『大日本史』は三種の神器の所在などを理由として南朝を正統として扱っていたそうだし、『日本外史』を著した頼山陽も、また幕末・維新の志士に大きな影響を与えた山崎闇斎も南朝正統論であった。

江戸末期に全国の藩校では南朝を正統とし、北朝系を天皇家とした足利尊氏を逆臣とした考えが教えられていたのである。維新後になされた施策を追っていくと、明治維新を成し遂げた志士たちが、南朝正統論の影響を強く受けていたことがよくわかる。
Wikipediaによると、
「1869年(明治2年)の鎌倉宮創建をはじめとする南朝関係者を祀る神社の創建・再興や贈位などが行われるようになった。また、1877年(明治10年)、当時の元老院が『本朝皇胤紹運録』に代わるものとして作成された『纂輯御系図』では北朝に代わって南朝の天皇が歴代に加えられ、続いて1883年(明治16年)に右大臣岩倉具視・参議山縣有朋主導で編纂された『大政紀要』では、北朝の天皇は「天皇」号を用いず「帝」号を用いている。なお、1891年(明治24年)に皇統譜の書式を定めた際に、宮内大臣から北朝の天皇は後亀山天皇の後に記述することについて勅裁を仰ぎ、認められたとされている(喜田貞吉『還暦記念六十年之回顧』)。」

田中光顕の証言が正しいとすれば、明治維新を成し遂げた志士たちは、北朝の天皇を廃し南朝の天皇を即位させたことになるのだが、そのことは南朝を正統と考えていた志士たちにとっては、その動機が充分にあったのだと考えられる。だから長州が南朝の末裔を匿って、「南朝革命」を大義名分にして「薩長同盟」を結んだという田中光顕の話も、決して荒唐無稽のものとは思えないのだ。

明治天皇肖像画

また田中光顕は睦仁親王(京都明治天皇)と明治天皇(大室寅之祐)との違いを次のように語っている。

睦仁親王は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に『あばた』は無かった。
明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。その結果、口の周りに『あばた』が残った。その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた『肖像画』を写真に撮らせて『御真影』とした。又、『あばた』を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。」

bookk1-2.jpg

明治天皇の即位に関する問題について詳しく研究された人が何人かいる。故人となられたが、鹿島昇氏の『裏切られた三人の天皇…明治維新の謎』という本に、暗殺され大室寅之祐にすり替えられた証拠となる話がいくつも紹介されているそうだ。

たとえば、学習院院長を務めた元宮中顧問官の山口鋭之助氏も「明治天皇は、孝明天皇の子ではない。山口県で生まれ、維新のとき京都御所に入った」と語ったという。
また長州出身の元首相・岸信介は「今の天皇家は明治天皇のときに新しくなった。実はそれまでの天皇家とは断絶している」と述べ、元公家の広橋興光氏も「睦仁と明治天皇は別人」との言葉を残しているそうだ。
また、明治天皇の正后を「昭憲皇太后」と呼ぶのはおかしな話で、普通なら正后なら「皇后」と呼ぶべきである。この疑問は「昭憲皇太后」が睦仁親王の正后であり、親王の死後は皇太后として処遇するしかなかったと考えれば納得ができる話だ。

この問題についてもっと詳しく知りたい人のために、れんだいこ氏のサイトを紹介しておこう。他のサイトに書かれている説などがよく整理され、リンクも貼られている。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/bakumatuootyokotaico/oomuroco.html

以前このブログでも書いた通り、明治天皇の本来の父親である孝明天皇は攘夷論者であり佐幕派であった。孝明天皇は慶応2年(1866)の 12月25日に崩御され、死因については表向きは病死だったが、倒幕派によって毒殺されたと言う説がある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-159.html

れんだいこ氏が、先ほど紹介したURLで睦仁親王大室寅之祐との人物の違いを纏めているが、睦仁親王は幼少より『虚弱体質』で運動能力に乏しく、16才になっても、宮中で女官と一緒を『遊戯』を好んだというレベルであり、とても政治力が期待できる人物としては育っていなかったという。
そこで倒幕派は、「北朝」系の孝明天皇に続いて慶応3年(1867)7月に睦仁親王を暗殺し、10月に「南朝」派の大室寅之祐に明治天皇になりかわり倒幕の密勅を出させて、徳川幕府による大政奉還の後、12月には王政復古の号令を出させ、翌慶応3年10月に正式に大室寅之祐を明治天皇として即位させたという流れになる。
これまで「北朝」系の天皇を支えてきた徳川将軍家や会津松平家が、明治天皇(「南朝」派)の逆賊となったという理解もできるし、「戊辰戦争」は「第2次南北朝戦争」であったという解釈も可能になってくる。

この様な説を「荒唐無稽」と切り捨てる人も多いのだが、これを切り捨ててしまうと、この記事の冒頭で私が書いた明治政府は明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」で、男性皇族全員が仏教を廃することに一人も抵抗しなかったことが非常に不自然に思えるのである。
もし三浦芳聖氏の著書の田中光顕の発言が正しいとすれば、「北朝」派の睦仁親王が暗殺されて、「南朝」の末裔とされる人物が皇室に「明治天皇」として乗り込んできたという異常な事態が起こったことになる。
しかし、これくらいの異常なことが起こらないかぎり、この時に皇室の男性の誰もがさしたる抵抗もせずに、1400年以上の歴史のある皇室における仏教の信仰を捨てることはありえなかったのではないだろうか。

ところで、大室寅之祐が本当に南朝の末裔であったかについては、それを否定する説もあるようだ。もしかすると薩摩や長州藩にとっては、幕府を倒すのに都合がよく英邁な人物なら誰が天皇になっても良かったということなのかも知れない。
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幕末の「ええじゃないか」は世直しを訴える民衆運動だったのか

学生時代に教科書や参考書をいくら読んでもピンとこない叙述はいくつかあったが、江戸時代末期の「ええじゃないか」は変な出来事だとは思いながら、「一般庶民が新しい世の中が生まれることを期待して自然発生的に起こった」という説明を鵜呑みにした記憶がある。

Wikipediaには『ええじゃないか』をこう説明している。
「日本の江戸時代末期の慶応3年(1867年)7月から翌慶応4年(1868年)4月にかけて、東海道、畿内を中心に、江戸から四国に広がった社会現象である。天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ、という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の『ええじゃないか』等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%88%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8B

簡単に、この「社会現象」が起こるまでの歴史を振り返ってみよう。
万延元年(1860)に大老井伊直弼が桜田門外で暗殺された後、江戸幕府は老中安藤信正を中心に朝廷の権威を借りて立て直そうとし公武合体を進めるのだが、文久二年には老中安藤信正が水戸浪士に襲われて失脚してしまう。(坂下門外の変)
その後、攘夷の気運が高まり外国人殺傷事件がしばしば起こり、長州藩は下関海峡を通過する外国船を砲撃したが、英米仏蘭4か国の報復攻撃を受けて攘夷が困難であることを悟り、藩論を攘夷から討幕に転換させていく。また薩摩藩も、西郷隆盛や大久保利通らの下級武士が藩政の実権を握り、反幕府の姿勢を強めていく。
慶応二年(1866)には、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎らの仲介で、薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結び、長州藩が農民・町人をも加えた奇兵隊などを動員して各地で幕府軍を打ち破る。その最中に、各地で「世直し」をとなえる農民一揆がおこり、江戸や大坂でも、生活に苦しむ貧民の打ちこわしが各地で起こる。その時期にこの『ええじゃないか』を連呼して熱狂的に踊る現象が起こったという。

おかげまいり

この『ええじゃないか』騒動の発端は、慶応三年(1867)の夏に東海道の御油宿に秋葉神社の火防の札が降下したのが始まりだとされ、その後東海道吉田宿(現豊橋市)で伊勢神宮の神符が降り、その後東海道、畿内を中心に30か国で同様な事件があり、人々は、このことを良きことが起こる前触れと考え、「ええじゃないか」とはやし立てながら、集団で狂喜乱舞をはじめたという。
空から降りてきたものは様々で、伊勢神宮、秋葉大権現、春日、八幡、稲荷、水天宮、大黒天などの神仏のお札や、仏像、貨幣のほか生首や手、足までも空から降ったと言われているのだ。
http://members.jcom.home.ne.jp/rekisi-butaiura/eejya.html

このような現象は、誰かがお札を撒くという行為をしない限りあり得ないことは言うまでもない。では、どういう勢力が、何のためにこのような事を仕掛けたのだろうか。

『ええじゃないか』には歌詞があり、それは各地で異なるようだ。最初に紹介したWikipediaの記述に各地の歌詞が掲載されている。

「例えば『今年は世直りええじゃないか』(淡路)、『日本国の世直りはええじゃないか、豊年踊はお目出たい』(阿波)といった世直しの訴えのほか、『御かげでよいじゃないか、何んでもよいじゃないか、おまこに紙張れ、へげたら又はれ、よいじゃないか』(淡路)という性の解放、『長州がのぼた、物が安うなる、えじゃないか』(西宮)、『長州さんの御登り、えじゃないか、長と醍と、えじゃないか』(備後)の政治情勢を語るもの、などがあった。」
とある。
地域により歌詞に違いはあるが、「ええじゃないか」と踊るところは共通していて、地域によっては「長州」の名前が出てくるところが気になるところである。

この『ええじゃないか』が広まって言った背景については、Wikipediaはこうまとめている。「その目的は定かでない。囃子言葉と共に政治情勢が歌われたことから、世直しを訴える民衆運動であったと一般的には解釈されている。これに対し、討幕派が国内を混乱させるために引き起こした陽動作戦だったという説や、江戸のバブル期後の抑圧された世相の打ち壊しを避けるために幕府が仕掛けた『ガス抜き』であったという説もある。本来の意図が何であったにせよ、卑猥な歌詞などもあったところを見ると、多くの者はただブームに乗って楽しく騒いでいただけのようでもある。」

どの説が正しいのか少し気になって、当時の記録で『ええじゃないか』を書いた記録が他にないかネットで探してみた。
あまり検索では引っかからなかったのだが、土佐藩出身の田中光顕が著した『維新風雲回顧録』に、『ええじゃないか』のことを書いた文章が見つかった。
http://books.salterrae.net/amizako/html2/ishinnfuuunnkakoroku.txt

維新風雲回顧録

最初に出てくるのは、京都の情勢を父に報告した内容である。上記URLでも読めるが、ミスタイプもあるようなので、河出文庫の『維新風雲回顧録』を引用する。

「この頃の京都の模様を国もとにいる父に報告した私の書面が残っている。その末節には、次のように記されている。

『薩長は、疑いなく大挙に到り申すべく候、土州もその尾にすがりつき、一挙出来申さずては、汗顔の事に御座候、さて先日以来、京師近辺歌に唱え候には、大神宮の御祓が天より降ると申して、大いに騒ぎ居申候、大国天、蛭子観音等種々のものが降り候趣き、近々はなはだしき事に御座候、切支丹にて御座あるべく存ぜられ候、過日はどこかへ嫁さまが降り候処、江戸の産の由に御座候、何がふり候やら知れ申さず候、ただただ弾丸の降り候を相楽しみ待居申候。』

 これは、お札踊(ふだおどり)の流行をさしたもので、京都を中心に、大坂に流行し、果ては、一時関東にも及んだくらいだった。
 天下は、今にも、一大風雲をまき起こそうとしている矢先、どこからともなく、お札が舞い下りてくる。
 京都市民は、吉兆だというので、お札の下りた家では、酒肴の仕度をして、大盤振舞いをした。そして、『ええじゃないかええじゃないか』をくりかえしながら、屋台を引き出し、太鼓をたたき、鉦をならしながら仮装して、町中をねって歩く。まるでお祭騒ぎである。
そういうから景気のどん底にかくして、薩長は、秘かに討幕の計をめぐらしていた。」(河出文庫:p.313-314)

さらに読み進むと、王政復古の大号令が出た慶応三年十二月九日に討幕派田中光顕らが高野山に向かう途中で、『ええじゃないか』のお祭り騒ぎのおかげで幕府の警備の中を掻い潜った記録がある。

ええじゃないか2

「具合のいいことには、大坂でも、お札踊りの真最中。
『ええじゃないかええじゃないか』とはやし立てて、踊りくるっていたため、ほとんど市中の往来が出来なかった。
『また、やってるな』
『大変な人出じゃないか』
そういっているうちに、いつの間にか、私どもも、人波に押しかえされていた。
鷲尾卿はじめ、われわれ同志は、この踊りの群れの中にまぎれ入って、そ知らぬ態で、ついうかうかと住吉街道から堺まで出た。
何が幸いになるかわかったものでない。」(河出文庫p.330-331)

鷲尾卿というのは幕末維新期の公家の鷲尾隆聚(わしのおたかつむ)で、高木俊輔氏『国史大辞典』の説明を読むとこの間の事情がよく解る。
「慶応三年(1867)十二月八日夜、岩倉具視の命令により紀州和歌山藩の動きを牽制する意図で、京都の激論家の一人であった鷲尾を擁し、香川敬三・大橋慎三らと陸援隊士約四十名が京都の白川邸を出発した。すでに鷲尾には朝廷の中山忠能(ただやす)・正親町三条実愛(さねなる)・中御門経之らから内勅が下されていた。一行は船に分乗して淀川を下り、大坂からは『ええじゃないか』の踊りに紛れて街道を進み、堺を経て同月十二日に高野山へ着いた。ここで内勅ならびに鷲尾みずからの達書が示され、ひろく同志を募った。」
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/daijiten-washinooke.htm

幕末期は討幕派の動きが幕府に警戒されていたことは当然である。討幕派の集合場所などが洩れてしまえば幕府役人や新撰組などによって一網打尽で捕縛されてしまってもおかしくないし、密書を送るにも場所を移動するにも、幕府役人の警備の目を掻い潜る必要があったはずだ。
京都や大阪など各地で『ええじゃないか』の踊りが行われていたことは、討幕派が幕府に隠密に活動をするには都合が良かったことは間違いがないだろう。
実際、『ええじゃないか』騒動の真っ最中に土佐藩が大政奉還を建白し、その後、大政奉還、王政復古の大号令と、討幕派の思い通りに歴史が展開していったのである。

しかしながら、『ええじゃないか』騒動が討幕派にとって都合がよかったからと言って、これを討幕派が仕掛けたという推論にはかなり無理がある。誰かが、それを仕掛けたという証拠が必要なのだが、あまり証拠らしきものがネットでは見当たらなかった。

そんな事を考えながら、本屋で並木伸一郎氏の『眠れないほど面白い 日本史「意外な話」』(王様文庫)を読んでいると、幕末の幕臣であり明治時代にジャーナリスト・作家となった福地源一郎や、佐賀藩士であり明治期に内閣総理大臣にもなった大隈重信が、この『ええじゃないか』騒動が、討幕派の仕業であると述べていることが書かれていた。

並木氏の本を衝動買いして、該当部分を引用してみたい。

「幕末から明治にかけて活躍した作家でジャーナリストの福地源一郎は、著書『懐往事談』でこう書き記している。
『京都の人々が人心を騒乱せしめるために施したる計略なりと、果たしてしかるや否やを知されども、騒乱を極めたるには辟易したりき』
尊王派として活躍した大隈重信も
『誰かの手の込んだ芸当に違いないが、まだその種明かしがされておらぬ』
という言葉を残している。」(同上書 p.250)

福地の言う『京都の人々』というのは討幕派を意味しているが、幕臣だった福地も討幕派であった大隈も、立場が違いながらも討幕派の仕業であると睨んでいたことは注目していいと思う。

次のURLを読むと、京都における『ええじゃないか』騒動は十月二十日からであり、大阪は十月十五以降のことのようだ。大政奉還があったのが十月十四日であるから、それからの話なのだ。岩倉具視らの陰謀により薩摩と長州に『討幕の密勅』が出されて、両藩はそれにより討幕の大義名分を得て国元から大軍を呼び寄せようとし、使いが京都を出立したのが十七日なのだそうだ。「岩倉具視らの陰謀」と書いたのはこの『討幕の密勅』は勅としての手続きを経ず、文書の形式も異なる文書であり、恐らく偽勅であったと考えられる。
http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/minaosu11.htm

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上記URLの記事に、岩倉具視の伝記である『岩倉公実記』にこの頃のことをどう書かれているかが紹介されている。興味深い部分なのでしばらく記事を引用する。

岩倉具視の伝記である『岩倉公実記』(一九〇六年)によると、王政復古の陰謀を行なっていた時、幕府や京都守護職・所司代の偵吏をくらますことができたのは、「天助アリシニ由ル」と述べている。その「天助」とは「あたかもこの時にあたり、京師に一大怪事あり」というもので、空中より神符がへんぺんと飛び降り、あちこちの人家に落ち、神符の降りたる家は、壇を設けてこえを祭り、酒淆を壇前に供え、来訪するものを接待し、これを吉祥となした。都下の士女は、老少の別なく着飾り、男は女装し、女は男装し、群をなし隊をなす、そして卑猥な歌を歌い、太鼓で囃し立てた「よいじやないか、ゑいじやないか、くさいものに紙をはれ、やぶれたら。またはれ。ゑいじやないか。ゑいじやないか」という。衆みな狂奔醉舞し、一群去ればまた一隊が来る。夜にはいると、明々と照し、踊りつづけた。そのお陰で岩倉らの挙動が、自然と人目にふれることはなかったというのである。」

福地源一郎

上記URLに、先ほど紹介した福地源一郎の名前が出てくる。これを読むと、なぜ彼が『ええじゃないか』騒動を討幕派の計略と考えたかが見えてくる。

「幕臣福地源一郎は、公用で海路江戸からやってきて、西宮に上陸したが、『ええじゃないか』の狂乱の渦にまきこまれ、人夫や駕篭を雇うこともできなかったと回想している。」
この騒動は、幕府の支配と交通・情報機能を至る所で麻痺させたのである。

このURLの記事で特に興味深いところは、『ええじゃないか』騒動は長州藩兵の移動と共に動いているという指摘である。再び記事を引用する。

「『ええじゃないか』は大坂から西宮神戸を経て、山陽道を東進した。また淡路島と四国に上陸し、阿波から讃岐、さらに伊予に広がっている。

 山陽道の要衝である備後国の尾道の御札降りは、十一月二十九日から始まっているとされるが、「ええじゃないか」が、十二月三日に始まっているとする史料もある。この日付には重要な意味がある。というのはその前日の十二月二日に上京途中の長州藩兵の一部が尾道に上陸し、暫時滞在しているからである。すなわち十月十四日の大政奉還のさいに討幕の密勅を受けた長州藩は、ただちに大軍を上京させる準備に取りかかり、十一月二十八日より三田尻港からぞくぞく出発させた。そして十二月二日にはその一部である鋭武隊、整武隊が尾道に上陸したのであり、その翌日の三日から御札降りが始まり、「ええじゃないか」騒ぎとなっているのである。ここには長州軍の移動を幕府に蔽い隠すためのなんらかの作為があったのではないだろうか。なお薩摩、長州と出兵盟約を結んでいた芸州藩も十二月一日一大隊を尾道に派遣している。尾道の「ええじゃないか」では、「ヱジャナヒカ、ヱジャナヒカ、ヱジャナヒカ、長州サンノ御登リ、ヱジャナヒカ、長ト薩ト、ヱジャナヒカ」と歌われ、上陸した長州藩兵も一緒に踊ったという。

 やがて長州軍は幕府の情報網をかいくぐって、西宮附近に上陸、大坂を迂回して入京し、鳥羽伏見の戦いで幕府軍を戦うのである。」

こういう文章を読むと、この『ええじゃないか』騒動が民衆による自然発生だとする説にはかなり無理があるような気がする。
30か国にも拡がったという『ええじゃないか』騒動の一部には政治的背景がなく、踊り狂うという楽しい行為が隣国から流行して各地に拡がっていったという可能性があることは否定しない。しかし、討幕派に仕掛け人がいなければ、長州軍の移動と共に『ええじゃないか』騒動が動いていくことはありえないことは誰でもわかる。少なくとも、大政奉還から王政復古までの狂喜乱舞の多くは討幕派によって仕組まれていたと考えた方が自然なのではないか。

このブログで何度も書いてきたように、いつの時代でもどこの国でも、歴史というものは勝者が都合の良いように編集し、都合の悪いことは正史に書かないものだ。
『ええじゃないか』騒動が、民衆による自然発生説が通説になっているのは、明治維新の勝者である明治政府にとって都合の良い歴史叙述に、未だに縛られているということなのか。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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