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真珠湾攻撃のあとでわが国が対米宣戦布告をしたのは故意か過失か

前回は、ルーズベルトが真珠湾に向かっていることをわかっていながら、なぜハワイにいたキンメル太平洋艦隊司令長官にその情報を知らせなかったかという問題について、ルーズベルトは、中立法の束縛を解いて第二次世界大戦に参戦するために、日本軍に最初の一発を撃たせようと考えていたのではないかということを書いた。
この説は、日本軍による真珠湾攻撃が「騙し討ちだ」とする「通説」の内容とは全く異なるのだが、ルーズベルトの側近が真珠湾攻撃の日に記した日記などを読むと、「通説」の方が的外れであることが見えてくる。

スチムソン

たとえばスチムソン陸軍長官(上画像)は真珠湾攻撃の日の午後二時にルーズベルトの電話を受け、その日の日記にこう書いている。
「それはたまらなく面白い事だった。…今やジャップはハワイで我々を直接攻撃することで問題全部を一挙に解決してくれた。日本の攻撃を受けた時、私の気持ちは、不決断の状態が終り、全米国民を一致団結させるような仕方で危機がやって来たというほつとした気持であった。」(中村粲『大東亜戦争への道』展転社p.634所収)
また当時の労働長官であったフランシス・パーキンズ女史は1946年に、この時の大統領のことをこう書いている。
「12月7日の閣議で大統領は、彼の誇りや海軍への信頼や米情報機関への信用に対する大打撃にもかかわらず、また戦争が実際もたらした惨害にもかかわらず、いつもよりもずっと平静な様子であつた。彼の恐ろしい道徳的問題がこの出来事によつて解決されたのである。退出した時、フランク・ウォカー郵政長官は私に『大統領は何週間ぶりに心底からほつとしてゐることと思ふ』と述べた」(同上書 p.634)

真珠湾攻撃

これらを読むと、アメリカ側は日本軍の真珠湾攻撃を「騙し討ちだ」と激怒していた様子はなく、むしろルーズベルトとその側近は、やっとこの日が来たことを喜んでいたかのようである。ルーズベルトをはじめその側近たちがこのような心理状態にあったという事は、事実は、アメリカが経済封鎖とハル・ノートでわが国を追いこんで奇襲させようとしていたと考えたほうがスッキリと理解できるのだ。

しかし、日本側が真珠湾空襲に先だってなされるべきであった対米最後通告が、真珠湾攻撃開始から50分近く遅れてしまったという事があった。それがためにわが国は「真珠湾攻撃を騙し討ちした卑怯な国」だと烙印を押されてしまうのだが、日本側はなぜ対米通告が遅れてしまったのか。単なるミスなのか、故意なのか、あるいはそれ以外の事情があったのか。今回は、この問題について考察することにしたい。

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ネットでいろいろ調べると、たとえば次のURLではこう纏められている。
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/gimon/gimon6.html
「12月6日午前6時30分(ワシントン時間、以下同じ)
 901号電発信。内容は「ハルノートに対する対米覚書を別電902号で送る。長文なので14部に分ける。極秘。アメリカ側通告時間は追って指示。いつでも手交しうるよう準備せよ」、通称パイロットメッセージ。 
時間不明 :「機密漏洩防止の為覚書作成にはタイピストを使わぬ事」の指示。
12月6日午前6時30分:902号電1部目発信、
12月6日午後0時30分:902号電13部目発信、
12月7日午前2時00分:902号電14部目発信
12月7日午前2時30分:904号電発信 内容は「7日午後1時(ホノルル時間7日7時30分、日本時間8日午前3時)に野村大使よりハル国務長官に本件対米覚書を直接手交せよ」
この最後の904号電が大使館に配達されたのは7日の午前7時頃。
電信員が解読してタイプが終わったのが午前10時30分、902号電14部目が午前11時30分。

しかし、ここで大使館員の不手際により、暗号解読、タイピング作業に予想以上の時間がかかり、開戦後のワシントン時間午後2時20分頃に宣戦布告文が手交された。」

この文書がどれだけ長文なのかと疑問を持ったので、国立公文書館アジア歴史研究センターのHPにその日本文及び英文が読めるので探してみた。
(文書を読むには、メインページに案内されているDjVuプラグインのダウンロードが必要。)
メインページ : http://www.jacar.go.jp/ 
該当ページ  : http://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index05.html
確かに長文ではあるが、「ハル・ノートに対する対米覚書」という事であれば、大使館員は万全の態勢で入電を待機するのが当然だろう。13部までが6日の昼過ぎに受信したのであれば、丸一日の余裕があるので充分に時間があったはずだ。最後の902電14部目は7日の未明に受信しているが、英語の原文はたかだか7行程度の文章だ。宇佐美保氏HPの次のURL にその英文が掲載されている。
http://members.jcom.home.ne.jp/u33/i%20think%20030719gmtyn.htm

通説に良く書かれている、「大使館員は英文の暗号解読やタイピング作業に手間取った」というのは、重要な事実を隠した書き方だ。事実は、こんなに重要な仕事があるにもかかわらず、米国大使館員は全員大使館を出払ってしまっていたという言い訳をしている。いったい何があったのか。

当時、アメリカ大使館の電信官であった堀内正名氏は、戦後の昭和21年6月20日に提出した「日米開戦当時華府大使館デノ対米通告ノ電報解読並ニ浄書ニ関スル事実ニ付テ」という回答書に、この日の経緯について驚くべきことを書いている。先ほど紹介した宇佐美氏のHPに原文が出ている。
「…電信課員ハ本件通告電報ノ十三本目迄ヲ処理シタ時ハ、之ガ緊急電報デモナカッタシ又内容カラシテ最後的ノ緊急且重大ナモノトハ認識セズ非常ナ緊迫ハ感ジナカッタ。…同夜(六日夜)(本件電報十三本目迄解読後)館員全部ガ支那料理屋デ寺崎書記官ノ南米転勤送別会ヲヤッテイタ様ナ次第デ、他ノ館員モ同様本件電報ヲ以テ最後的ノ重大電報トハ認メテ居ナカツタ様ニ思ウ。…」
なんと、大使館員全員が中華料理屋で寺崎英成書記官の送別会で出払っていて、この電報がとんでもなく重要なものだとは誰も認識していなかったというのだ。
また本来タイプを打つべき奥村勝蔵一等書記官は、緊迫の12月6日の夜の送別会の後に知人宅にトランプをしにいったという証言もあるのだそうだ。

何という緊張感のない職場だろうと思ってみても仕方がないが、それでも堀内氏は13本の電報は7日午前1時までに全部解読し、残りの電報が来るのを待ったが、午前5時半に帰宅。7日午前9時半ごろに電報がついている旨の電話連絡があり、午前10時に登庁して解読に着手。肝心な部分を原文のまま引用する。
「一、次デ普通電解読に着手セルガ、之対米覚書ノ第十四通目ニシテ其ノ出来上リタルハ丁度正午頃ニシテ、電信課員一同間ニ合フベシト思ヒ喜色アリタリ。」(同上HPより) と、12時ごろには解読が完了していたと書かれている。

奥村一等書記官が送別会の後に大使館に戻り、13本の浄書を早目に完成していたら、14本目の浄書を付け加えるだけの作業であり、それほど時間がかかるものではなかったはずだ。大使館から国務省までの道のりは徒歩10分程度だったので、約束の1時に届けることは余裕で間に合ったことなのである。
とすれば、奥村一等書記官は懲戒処分にされてもおかしくないほど罪が重いと誰しも思うのだが、全く処分されることなく1952年には外務省の事務次官に栄転し、1969年には勲一等まで授与されているのも妙な話である。
そもそも最後通牒よりも送別会を優先したことが真実なのだろうか。戦争が始まろうとしている緊迫した時期に、異動があったり送別会があるのも奇異に感じるのだが、本当に米国大使館の職員はこんなに怠惰だったのかと永年疑問に思っていた。

開戦通告はなぜ遅れたか

最近になって、全く別の証言があることを知った。
斎藤充功氏の『昭和史発掘 開戦通告はなぜ遅れたか』という本を取り寄せて読んでみた。この本によると、対米諜報を任務とし、アメリカの国力・戦力を調査していた陸軍主計大佐の新庄健吉(下画像)が12月4日に病死し、開戦当日の12月7日の朝からワシントンのバプテスト派教会で葬儀があったのだそうだ。

新庄健吉

『週刊原始福音』という雑誌の177号に、当時のアメリカ大使館で一等書記官であった松平康東氏が、その葬儀に野村、来栖の両大使が出席し、葬儀でアメリカ人牧師が新庄大佐の生前の英詩を読み上げて長々と追悼の辞を述べて予定以上に葬儀が長引いたことが、開戦通告が遅れた原因であることを対談の中で述べているという。
著者の斉藤氏がすごいのは、その記述内容の真偽を確かめるために各地に飛び、かつて新庄が学んだ陸軍経理学校の同窓会である『若松会』の人物にまで面談し、その会報誌に寄稿された記事の中から、野村、来栖の両大使が出席した新庄の葬儀が1時間以上予定を超過し、そのために最後通牒の手交が遅れたという別の会員の書いた記事を発見しておられるところだ。
信者向けの冊子の記事と、同窓会の冊子に書かれたことが一致していることに偶然という事はあり得ないことだ。おそらく、新庄氏の葬儀に野村、来栖の両大使が新庄健吉の葬儀に出席したことも、その葬儀が長引いたことも真実なのだろう。

とすると、奥村勝蔵は指定された時間内に対米覚書を手交できなかった野村大使と外務省を守るために、自らが犠牲になったことも考えられるのだが、外務省内ではなぜかこの葬儀自体が秘密にされてきていたようなのだ。
著者の斉藤氏は、この葬儀に出席したはずの、当時在米日本大使館の三等書記官であった人物に面談を試みたが、その葬儀に両大使が出席していたかどうかを尋ねたところ「強い口ぶりで」否定されている。

もし、この野村大使がこの葬儀に出席したために最後通牒の手交が遅れたということが真実であるならば、野村大使の責任が問われることは間違いがないだろう。外務省はそれを避けようとして、奥村一等書記官に責任を被せて、後に厚遇してその恩に報いたということではないのか。

斎藤氏の本を読んでいると、いろいろ面白いことが書かれている。

昭和天皇

たとえば、12月7日には東条英機は奇襲を成功させてから宣戦布告することを当初考えていたのだが、天皇から呼ばれて「最後まで手続きに沿って進めるように、宣戦布告は開戦前にすること」と、強く窘められて方針を変更し、暗号電文の発信を早めたのだそうだ。
その方針変更が米国大使館の両大使に伝わらなかった可能性はなかったか。
それとも、東条が天皇の意向に背いて、米国大使が捕まらない時間帯に暗号電文を発信させたのか。

あるいは、もっと踏み込んで、アメリカが新庄の葬儀に工作したという事は考えられないか。そもそも新庄の死因も良くわからず、関係者の間では「毒を盛られた」との噂もあるようなのだ。

斎藤充功

斎藤充功氏はこう書いている。
「ヨーロッパで戦火が広がる中、米国の国際的な体裁は、民主主義の国、平和愛好の国で通っていた。自国民に向けても、正義を貫く大義名分が必要であったろう。そのためには、あえて日本に先制攻撃をさせ、悪者になってもらわなければならなかった。しかもそれが『宣戦布告なき先制攻撃』であれば、こんな好都合なことはない。日本が『トレチャラス・アタック(卑怯な騙し討ち)』を仕掛けてきたと見せるために、宣戦布告を意図的におくらせることはできないか…。
そう考えた米国が、新庄の葬儀を巧妙に利用した、とは考えられないか。」(斎藤充功『昭和史発掘 開戦通告はなぜ遅れたか』p.58-59)

だとすると、新庄の葬儀に出席した野村大使はまんまとアメリカの仕掛けに嵌ってしまった事になり、大使の責任問題になりかねない。だから葬儀のことを隠して、事務手続き上のミスにすり替えたというのだが、斉藤氏の説になかなかの説得力を感じるのだ。
とはいいながら、これという証拠があるわけではなく、生存者がほとんどいなくなった今となっては何が真実か、確定させることは困難だ。

既に日本人の常識となっている説が正しいとは限らないと思う事が多くなってきた。
いつの時代もどこの国でも、歴史の叙述は、勝者にとって都合のいいように書き換えられていくものであり、特に現代日本史に関して言うと、戦勝国に都合の良いように事実が歪められたり、当事者の所属する組織のトップが傷つかないように書き換えられることがあることを考えておいたほうが良い。
現代史は、もし世界の勢力図が変わったりわが国の権力構造が変わったりすれば、かなり修正されていくと思われる。我々が学校で学び、マスコミで何度も垂れ流される歴史というものは、所詮はその程度のものなのだ。
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太平洋戦争緒戦の日本軍の強さは米英軍の予想をはるかに超えていた

前回まで2回に分けて日米開戦の経緯について書いた。
真珠湾攻撃のことはあまり書かなかったが、アメリカ側は、戦艦8隻の内5隻が沈没され3隻が損傷により航行不能となったほか、航空機188機が破壊されて、戦死者が2345名など米軍の被害はかなり大きかった。一方日本軍の損害は、航空機29機、戦死者55名と少なく、日本軍の奇襲は大成功に終わっている。

アメリカは目論見通りに挑発によって日本軍に真珠湾を奇襲させたのだが、ここまで損害がでることは予想していなかったはずだ。
というのは、既にドイツとイギリスとの戦争は始まって約2年も経過しておりながら、ドイツ空軍はイギリス海軍に対して、有効な打撃を与えていなかったからだ。
ドイツの潜水艦は主に通商破壊のために商船を攻撃することを主任務としていたこともあるが、当時の魚雷は、海中から発射しても、厚さが数十センチもある戦艦の甲板の鋼板を貫くことは出来ず、戦艦を撃沈することはできなかった。
また上空から爆弾を落とす場合も、時速25ノット(時速約50km近い)で進む戦艦に命中させることは極めて困難であり、命中精度を上げようと低空から爆弾を落とそうとすると、戦艦の対空火砲によって撃ち落される可能性が高く、運よく撃ち落されずかつ爆弾が命中したとしても、加速度がついていないから甲板を貫くことができない。
そのような理由からドイツ空軍は、イギリスの戦艦に手も足も出なかったことが、以前紹介した倉前盛通氏の『悪の論理』に書かれている。

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上の画像は真珠湾攻撃前の2か月ほど前のものだが、真珠湾は湾の入り口が狭く、真ん中に島がある湖のような地形になっている。湾の深さは12メートル程度と浅く、この場所では雷撃機から魚雷を投下しても真珠湾の海底に魚雷の頭が突っ込んでしまうし、それを避けようと低空に降下してから魚雷を投下しようとすれば、ドーナツ状の湾内で投下しなければならないのだから相当戦艦に接近しなければならず、戦艦の対空火砲の餌食となりに行くようなものだ。
だから、もしドイツの空軍が同じ条件で真珠湾を奇襲しても魚雷は使えず、とても日本軍ほどの戦果を上げることはできなかったことは確実なのだ。
アメリカも、日本軍に奇襲をさせたところで、すべての戦艦が使えなくなるほどの被害が出ることは全く想定していなかっただろう。

ではなぜ、日本軍は真珠湾でこれだけの戦果を挙げることができたのだろうか。
倉前氏の『悪の論理』の説明がわかりやすいので、しばらく引用する。

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「真珠湾に並んでいた米主力艦が何故、あのように、脆くも沈んだのか。それは日本の海軍機の爆弾が戦艦の主砲弾を改造して爆弾につくり変えていたからである。強力な装甲板を突き破る目的でつくられた戦艦の口径、三十六センチもしくは四十センチ砲弾を改造した、硬い弾頭をもった爆弾が急降下攻撃によって、絶対貫けないと思われていた米戦艦の装甲甲板をつき抜いたのである。ドイツ空軍も考えなかったアイデアであった。

また、真珠湾は水深が浅いため、雷撃機から魚雷を投下しても、いったん魚雷が深く沈んでから前進するので、真珠湾の海底に魚雷が頭を突っ込んでしまう。それゆえ、真珠湾に入っている艦船は、敵の飛行機から魚雷攻撃を喰らう心配はないと考えられていた。

ルーズベルトも、米海軍も、このような前提のもとでことを考えていたのである。だからこそ、11月26日、ハル・ノートという最後通牒を日本に突きつけ、11月27日には前線指揮官に戦争開始の指示を与えておきながら、それから2週間もすぎているのに、のうのうと真珠湾に全艦隊が入港して休息していた。これは、よほど油断していたのか、日本をおびき寄せるオトリに使うつもりであったのか。いずれにせよ、たとえ、日本の航空艦隊の襲撃をうけても、かすり傷ですむとタカをくくっていたことを意味する。

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だが、爆弾ばかりではなく、日本は魚雷にも新しいアイデアをこらしていた。雷撃機から投下した魚雷が、深く沈まないように、翼のようなものを魚雷につけていたのである。しかも魚雷の威力は、ドイツが『涎』を流して欲しがり、ドイツ自慢のUボートとの交換を申し入れてきたほどのもので、米英海軍の魚雷とはケタ違いであった。それゆえ、戦艦の舷側に張られている、幾層もの強力無比な防御壁を一撃で粉砕し、あたりどころがよければ、一発で戦艦が二つに折れるほどの威力であった。

それにくらべ、米国の方は、開戦後まもなく、米潜水艦が当時軍事輸送に使われていた図南丸に魚雷攻撃を加えた時、六発命中させたが、一発も爆発しなかった。驚いた艦長はすぐに基地に帰り、こんな魚雷では戦争はできないと文句を言ったという。米国は大あわてで魚雷の全面改良をおこない、それに一年以上の時間をついやしたといわれている。」(倉前盛通『悪の論理』p.96-98)

この時代の魚雷は、雷撃機から投下すると一旦水深60m程度まで沈み、それから浮上し前進していくものだったそうだが、日本軍は短期間の間にそれを改良し、投下後水深10メートル以内で浮上する魚雷を開発したのだそうだ。

前々回のこのブログの記事で、真珠湾攻撃のニュースを聞いて、英国のチャーチル首相がこれによってアメリカが参戦し、イギリスの勝利を確信して喜んでいる旨の文章を書いていることを紹介した。しかしながら、真珠湾攻撃の2日後にイギリス軍の自慢の戦艦が日本軍と、マレー沖で戦うことになる。再び倉前氏の著書を引用する。

「チャーチルにも、喜びに満ちて安眠したあととすぐ、顔面蒼白になる悲報が届いた。ハル・ノートが突きつけられた後、行動を開始した日本の大輸送船団数十隻を、南シナ海の洋上で全滅させる目的で、シンガポールにいた英国自慢の不沈戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』と、もう一隻の戦艦『レパルス』の二隻および随伴の駆逐艦は、戦闘機の護衛もつけずに北上した。そして12月10日、ベトナムのフコク諸島から発信した日本の海軍航空隊から攻撃をうけた。英国海軍首脳は、ドイツ空軍でさえ、手の出せない英国不沈戦艦に、日本空軍が何ができるものかという思い上がりがあった。

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ところが、80機の日本海軍の投下する爆弾と魚雷によって、『プリンス・オブ・ウェールズ』と『レパルス』の二隻はたちまち撃沈され、日本側は三機を失ったのみであった。

チャーチルは驚愕して議会に駆け込み、不沈戦艦がいまや不沈でなくなったことを報告して泣いた。シンガポールにいた英国海軍将校など、ショックのあまり失心する者まで出たと言われている。

かくして、開戦後わずか3日でアメリカ太平洋艦隊とイギリス極東艦隊は全滅し、それ以後、約2年間、西太平洋と東インド洋の制海権は日本の掌中に帰した。」(同上書p.99-100) このように、日本軍はきわめて幸先の良いスタートを切ることができたのである。

ゼロ戦

この日本の快進撃がアメリカにとっていかに「想定外」の出来事であったことは、その直後のアメリカの動きを見ればわかる。

日本海軍は太平洋のアメリカ西海岸で潜水艦による通商破壊作戦を実施し、アメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船を10隻以上撃沈していた。
アメリカでは1942年の初頭にかけて日本軍によるアメリカ本土への上陸の可能性が高いと考えられるようになり、アメリカ西海岸の主要な港湾においては、機雷の敷設が行われたり、他の都市でも爆撃を怖れ、防空壕を作ったという。

そのような厳戒態勢下にあったにもかかわらず、1942年2月24日未明に日本軍はカリフォルニア州サンタバーバラの石油製油所を潜水艦による砲撃作戦を成功させるのだが、翌25日深夜にカリフォルニア州ロサンゼルスで面白い事件が起こっている。

日本海軍の艦載機による空襲を信じたアメリカ陸軍が対空砲火を中心とした迎撃戦を展開し、その模様はラジオ中継されアメリカ西海岸をパニック状態に陥れた(ロサンゼルスの戦い)というのだが、日本軍が空襲を行った記録はどこにもなく、真相はいまだに不明で、アメリカではUFOが飛来したのではないかと真面目に議論されているという。

この事件で米軍は同士討ちで6名を失ったというのだが、それほど日本軍の快進撃はアメリカ人を恐怖に陥れていたのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

最近になって知ったことだが、植村峻氏の『お札の文化史』という本に、アメリカはこの真珠湾攻撃の大敗北のあと、ハワイだけで通用する紙幣を刷りはじめたことが書かれているという。これは、ハワイ8島を放棄せざるを得ない局面もあり得ると考えてのことだと言われているが、アメリカ人はそれほど日本軍の快進撃にショックを受けながら、そしてハワイ陥落という最悪の事態をも想定していたというのだから、実にアメリカ人は抜け目のない人種である。その点は、最悪の事態を「想定外」として思考停止するどこかの国の人々は見習わなければならないと思う。
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4871883167/ref=dp_db_cm_cr_acr_txt?ie=UTF8&showViewpoints=1

トインビー

イギリスの歴史学者であるアーノルド・J・トインビーは、毎日新聞1968年3月22日付にてこう述べている。
「英国最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈された事は、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それはまた、永続的な重要性を持つ出来事でもあった。何故なら、1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。1941年、日本は全ての非西洋国民に対し、西洋は無敵でない事を決定的に示した。この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のヴェトナムに明らかである。」

太平洋戦争でわが国は敗れたが、緒戦とはいえ日本軍が米英軍を相手に圧倒的な勝利を得たことが、当時白人に支配されていたアジア・アフリカ諸国に、白人が無敵でない事を示したことは大きかった。
原材料に乏しいわが国が戦いに勝ち続けることはできなかったが、この戦争の後に、これらの諸国が次々と独立し白人の支配から解放されていくことになる。
もし日本がハル・ノートを受け容れて対米戦争を回避していたら、現在のような人種平等の世界が来ることはなかったであろう。そうすればわが国も、その後白人の支配下に置かれていたとしてもおかしくなかった。あの戦争の前の非西洋諸国は、日本とタイとエチオピアを除いたすべてが西洋の植民地であったことを忘れてはいけない。

西洋諸国は300年以上の長きにわたり支配してきたアジア・アフリカの植民地のほとんどを第二次世界大戦の後で失った。その意味で、我が国が戦争の目的とした「東亜諸民族の解放」は実現したという主張をすることも可能だが、終戦後に独立した国の多くは共産国となったので、終戦後実質的に勢力を伸ばしたのはソ連ではなかったかと思うのだ。ひょっとすると、「東亜諸民族の解放」というスローガンも、共産主義者から吹き込まれたものではなかったのだろうか。資源のない我が国が他国の白人支配からの解放を手助けする余裕があったとは思えないのだ。

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このブログで何度かスターリンの『砕氷船のテーゼ』を紹介したが、もう一度、昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会におけるスターリン演説を引用しておきたい。

スターリン

「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

先進国同士を戦わせて消耗させ、最後に参戦して漁夫の利を得るスターリンの戦略は、世界に根を張っていた工作員や協力者によって、主要国でほとんどそのテーゼの通りに実行されていたのではないか。
アメリカは、言わば共産主義の脅威を作り出すために参戦したようなもので、つまるところスターリンの手の内で動いていたのではなかったか。ルーズベルト政権の中枢やその周りには500人以上のコミンテルンのスパイや協力者がいたことがわかっているのだ。
イギリスも、ナチの徹底的破壊を志向したために、結局はソ連の東欧進出を許したばかりか、植民地の全てを失って二流国に転落した。これもスターリンの戦略通りであったのではなかったか。
ルーズベルトもチャーチルも謀略家ではあったが、スターリンの方がはるかに上であったと思うのだ。

では、何故わが国は共産国化を免れることができたのであろうか。
これには、いろんな理由が考えられるのだが、以前にも書いたように、昭和天皇が、広島・長崎に原爆が投下されソ連が我が国への侵攻を開始した極めて適切なタイミングで終戦のご聖断を下されたことが大きかった。もしこの御聖断がなければ誰もこの戦争を止めることが出来ず、アメリカとの本土決戦となれば米軍もソ連軍の協力を要請していた可能性が高いと思われる。
もしそうなっていれば、ドイツや朝鮮半島と同様に、わが国も終戦後に、北海道や本州の一部が共産化することが避けられなかったと考えている。
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日本軍の真珠湾攻撃で快哉を叫んだ米国黒人が少なからずいた~~米国排日7

そして1941年12月8日の真珠湾攻撃で日米の戦いが始まった。
米国の黒人たちは、この日本人との戦いをどう捉えていたのであろうか。

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今まで何度紹介したレジナルド・カーニー氏の著書『20世紀の日本人』にはこう書かれている。
「…日本が真珠湾に奇襲をかけた時、黒人の意見はいくつかに割れた。母国であるアメリカが攻撃を受けたのだから、ひとまず人種問題は置いといて、とにかく戦わねばならない。いやずっと求め続けてきた黒人の権利は主張しながらも、アメリカ人として戦うべきだ。いやいや、黒人を差別するようなアメリカのために戦うなんて、ばかげている。そして、このいずれにも決められないという意見。」(『20世紀の日本人』p.120)

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戦争が始まるとなると自国の勝利のために自分の命を賭けて戦ってくれる兵士を集めなければならない。そのためにどこの国のマスコミも政府に協力して戦闘意欲を高める記事を書くものであり、「軍国主義」がわが国だけの専売特許であるわけではないのだ。カーニー氏の著書に、主要黒人メディアの当時の論調が書かれているが、戦前は日本に同情的な記事が多かった黒人メディアも、戦争が始まると全く論調が変わっていることがわかる。アメリカも日本と同様に、「軍国主義」の国になっていたのだ。

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たとえば、
【アムステルダム・スター・ニュース紙】
アメリカがひとつにまとまった国だということを、ジャップとナチに思い知らせてやる。われわれは民主主義のために戦うのだ。しかも勝つために!…肌の色を云々言っている場合ではない。人種の違いなど考えているいとまはないのだ。」

【インディアナポリス・レコーダー紙】
黒人の忠誠心には何の心配もいらない。われわれは100パーセント以上アメリカ人なのだから。いつでも準備はできている。」
黒人は『勝利と平和』のために戦い、最後には『完全な人種平等』を勝ち取る

【シカゴ・ディフェンダー紙】
「われわれ自身の問題を日本に任すわけにはいかない」
黒人の人種問題の解決を、日本に求めるのは筋違いである

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上の画像は、戦争中に作られたポスターだが、なぜ黒人が描かれるのか。
ここには「ジャップと同じくらい精一杯勉強や仕事に励んでいるのなら、もっと迅速に東京をひねり潰すことができるのに」という意味のことが書いてある。

アメリカでは、黒人がこの戦争の勝利に貢献することによって、念願の公民権を獲得し人種差別問題に打ち勝とうとする「ダブルビクトリー」キャンペーンが大々的に展開されたようなだが、そのような論調を冷ややかに見ていた黒人も少なからずいたようだ。

カーニー氏はこう書いている。
「全米都市同盟(NUL)や全米黒人向上委員会などは、この戦争を機に、いつまでたっても約束通りに生活改善を推し進めようとしない政府に、黒人の低所得者層はうんざりしていることを訴えようとした。エチオピア平和運動をはじめとして、エチオピア和平会議、東洋世界和平会議、イスラム神殿等のメンバーは、たとえアメリカが戦争に勝っても、黒人の状況に前向きな変化はない、という冷ややかな見方をしていた。それどころか、逆に、日本が連合軍に打ち勝ったという知らせに喜んでさえいたのだ。アメリカにいる限り、黒人には明るい未来はないとする彼ら。たとえ、アメリカが日本に負けても、黒人の状況はこれ以上、悪くなりようがない、と彼らは考えていたのだ。
…新聞は彼らを叩いた。FBIも調査に乗り出し、政府機関は彼らを次々に逮捕していった
。」(同上書p.123-124)

淵田美津雄自叙伝

日本軍が連合軍に打ち勝ったという知らせに喜んだ黒人がいたことが一言だけ書かれているが、ずっと以前に真珠湾での日本軍の快進撃を黒人が喜んだという話を読んだことを思い出した。ブログの読者からもコメントがあったのでその出典を調べたところ、『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』に書かれていることがわかった。

終戦後、真珠湾攻撃を指揮した淵田美津雄の宿舎に三人の黒人兵が訪ねて来た。そして淵田は彼らのジープに乗せられて丸の内の郵船ビルの裏にあった彼らの働くバーの楽屋裏に案内され、そこで大勢の黒人兵たちに大歓迎されたのだそうだ。

淵田美津雄

次のURLで淵田美津雄自叙伝の一部の文章が紹介されている。
http://blog.livedoor.jp/yamato26840/archives/51896032.html
ポイントとなる部分を引用させていただく。
「この三人の黒人兵のほかに、バーで夕方の準備に忙しく働いている大勢の黒人兵たちも、みんな私に手を差し伸べて、飲みねえ、とばかり、ウイスキーのグラスをつきつける。食いねえ食いねえとばかり、クラッカーをさし出す。
私には、何の為にこの様な歓待を受けるか見当がつかなかったが、だんだんと分かって来たことは、彼等のジェスチャーで
『真珠湾空襲を誰が一番喜んだと思うか』
との問いかけであった。そしてその答えは『われわれ黒人だよ』と言うのであった

私はこのとき初めて身をもって、白と黒の人種的ツラブルの深刻さを味わった。黒人は白人に対して、先天的に、蛇に睨まれた蛙みたいに頭が上がらないものとされてきた。しかし彼らは、白と黒の差別意識には我慢ならない思いを、いつも泣き寝入りさせられて来たのであった。それが真珠湾で小気味よく白人の横づらを殴り飛ばして呉れた。われわれ黒人は溜飲を下げた。そのお礼に今サービスするというのである。しかし占領政策で、占領軍兵士の日本人との交歓は禁止されているので、大っぴらに出来ないから、この様な楽屋裏で我慢して呉れとの申出であった。
私は、この皮膚の色が違うからというだけの宿命的な人種的偏見の悲劇の一こまをここに見て、胸がふさがる思いであった。真珠湾のお礼などと、とんでもない。(『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』第五部 占領の名の下で 273-274頁)」

カーニー氏によると、彼らのように軍隊に志願した黒人の多くは「とくに国粋主義者でも反戦論者でもない、ごく一般の若者だった。」彼らにすれば、反戦論を貫いて監獄に放り込まれるよりかは軍隊の方がましだったのだ。
マスコミは戦争で勝利に貢献して人種平等を勝ち取ろうと書きたてていたのだが、実際に彼らが目にしたのは、「黒人兵が白人の兵士や市民や警官から差別されるという南部の現実だった」。太平洋戦争中に数多くの黒人差別事件があったようだ。

レジナルド・カーニー

カーニー氏はこう書いている。
「陸軍の黒人兵を南部のキャンプに入れるという方針は、結局、軍自らの首を絞める結果を招くことになった。ワイリー報告は、北部出身の黒人を南部に送り込むという陸軍省の方針は『まったく相容れないふたつのものを、お互いののど元につき合わせるようなもの』だとしている。…
たとえ黒人の兵士がアメリカ民主主義のために海外で戦う気になったとしても、そのことで、国内の人種差別がなくなるわけではなかった。デトロイトとニューヨークのハーレムを中心に、人種対立はますます激しくなっていった。暴動、リンチ。あまりにも残酷な現実を目のあたりするにつけ、敵であるはずの日本人との距離は少しずつ縮まっていった。…

海外に派兵された黒人兵にとって、いちばん不安だったのは、アメリカ国内の家族や親戚が無事かどうかだった。『アフロ・アメリカン』紙は、社説で、黒人社会が直面していると思われる問題をふたつ取りあげた。『肌の色がちがうというだけで、街角が黒人の血で真っ赤に染まったアメリカ。そんなアメリカが日本の行為を非難できるのか?』『家族や親戚が、敵以上に残酷で無慈悲な味方に脅かされているかもしれないと思うと、海外で戦ってなどいられない!』」(同上書p.137-139)

カーニー氏の著書には黒人に対して兵役拒否を呼びかけた人物が紹介されている。
ミッティ・モード・リーナ・ゴードン女史は40万人もの署名を集めて、すべての黒人をリベリアに移住させるための組織「エチオピア和平会議」を創設し、黒人たちに兵役登録を拒否することを訴えたそうだ。
1942年にFBIの取調べを受けた時に彼女はこう述べたという。
先の第一次世界大戦で命がけで貢献した黒人に対し、国はいったい何をしてくれたというのか。…『各地では人種暴動』が頻発し、黒人はこのアメリカで『生き抜くために、貧困や差別と闘わねばならなかった』ではないか、と。…アメリカのために戦い、アメリカに裏切られた黒人たち。そんな彼らがもう一度命をかけてまで、星条旗を守ろうなどと思うはずがないではないか、と」(同上書p.125)
このゴードン女史は親日活動のために2年の執行猶予付きではあるが有罪判決を受けたという。

また、レオナード・ロバート・ジョーダンという人物は、兵役への反抗、不忠、反逆、拒否を率先するような演説を行い、政府による兵役への勧誘や登録を妨害したとして、他の3名とともに扇動陰謀罪および扇動防止法違反で有罪となった。

取調べをしたFBIの資料にこのようなジョーダンの言葉が残されているという。
「真珠湾が起きるまでは、白人は日本人をバカにしていた。しかし、シンガポール、ジャワ、ビルマが次々と日本の手にわたっていくのを見て、思っていたほど日本人は愚かではないことにやっと気づきはじめた。日本のアジア侵攻は、アフリカ人がアフリカを統治するように、アジアの原住民自らがアジアを統治するという理想を実現させるものだったということに、白人はやっと気づいたのだ」…「大砲も飛行機も毒ガスも持たない黒人やインド人が、白人に勝つことはできない。同じ有色人種として、日本人だけが頼りなのだ。軍備の整った日本と手を組むことが、インドやアフリカの未来を決めることになる」(同上書p.130-131)

ゴードン女史やジョーダンらの考え方が全米に拡がっていくことを政府は怖れた。
ハーレムの黒人たちのあいだには、親日感情がはびこりつつある。その証拠に、日本が勝利するたびに、黒人たちは小躍りして喜んでいる」。(同上書p.132)
このような状況に対して軍部がこう結論したというのだ。

黒人の独特な感情から察するに、約150人の支持者を持つジョーダンをこの町にのさばらせ、ハーレムじゅうに親日感情が蔓延するのを指をくわえて見ているのはきわめて危険なことである。日本の勝利に刺激された黒人どもが、いつ人種暴動に火をつけるとも限らないのだから。」(同上書p.132)

太平洋戦争でわが国は敗れたのだが、その後アジア諸国にもアフリカ諸国にも民族独立運動が広がって次々と白人国家からの独立を果たしていった。しかしながら、肝心のアメリカ国内における有色人種の差別はすぐには解消されなかったのである。

マーチンルーサーキング

1950年代にマーチン・ルーサー・キングなどが指導者となって、米国黒人をはじめとする被差別民族に法的平等を求める公民権運動が始まったのだが、白人と法的にも平等であるとの市民権法が制定されたのは、なんと終戦から19年経った1964年の7月のことだった。

アメリカでは、差別意識が薄れてきたとはいえKKKのような白人至上主義運動を唱える白人グルーブが未だに存在し、今も黒人に対する差別が続いているようだ。
差別されているのは黒人だけではない。黄色人種の差別も未だに続いており、次のCNNの記事では、中国系と思われるアメリカ人兵士がいじめを苦にして自殺したことが書かれている。この記事によると、アジア系米国人に対するいじめが横行しており、過去10年間で自殺者が急増していることが書かれている。
http://megalodon.jp/2012-0123-0538-38/www.cnn.co.jp/fringe/30005318.html

アメリカは過去、世界第2位の経済大国を叩きながら自らの経済覇権を維持してきた国ではなかったか。アメリカはいずれ中国を包囲し弱体化させる方向に舵を切ると考えるのだが、アジア人に対するいじめが増加していることは、その前触れであるのかもしれない。
アメリカで黄色人種に対するいじめや差別がこれ以上拡大したり、アジア人同士の対立が深刻化しないことを祈りたい。
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