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江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか

このブログで何度か明治初期の廃仏毀釈のことを書いてきた。
この廃仏毀釈のためにわが国の寺院が半分以下になり、国宝級の建物や仏像の多数が破壊されたり売却されたりしたのだが、このような明治政府にとって都合の悪い史実は教科書や通史などで記載されることがないので、私も長い間ほとんど何も知らなかった。

梅原猛氏は「明治の廃仏毀釈が無ければ現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と述べておられるようだが、ではなぜ明治初期に廃仏毀釈がおこり、数多くの文化財を失うことになったのか。

標準的な教科書である『もういちど読む 山川日本史』には、明治政府は「はじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民教化をはかろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのため一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた。」(p.231)と簡単に書いてあるだけだ。
廃仏毀釈の嵐」などというわけのわからない言葉を使って誤魔化しているが、このような文化財の破壊行為が犯罪にもならず取締りもされなかったことはなぜなのか。

前回の記事で、岐阜県安八郡神戸町にある日吉神社に三重塔や仏像が残されていることを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-338.html

柏原八幡三重塔

また以前このブログで兵庫県丹波市柏原町にある柏原八幡神社にも三重塔が残されていることを書いたが、このように神社の境内に仏塔が残されているケースはわずかだけで、数多くの塔がこの時期に破壊されてしまっている。上の画像は昨年撮った柏原八幡神社の三重塔であるが、このような神仏習合の景色が、廃仏毀釈で破壊される以前には、全国各地にあたりまえのように存在したはずなのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

柏原八幡

日本の風景を一変させた廃仏毀釈は平田篤胤の国学や水戸藩の排仏思想の影響が大きかったとよく言われるのだが、江戸時代の幕末にこの様な、過激な思想が拡がった背景についてわかりやすく解説している本を探していたところ、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』の中から、昭和18年に出版された菊池寛の『明治文明綺談』の文章が目にとまった。そこにはこう述べられている。

徳川幕府が、その宗教政策の中心として、最も厚遇したのは、仏教であった。それは、幕府の初期に、切支丹の跋扈で手を焼いたので、これを撲滅するため、宗門人別帳をつくり、一切の人民をその檀那寺へ所属させてしまった。
 そのため、百姓も町人も寺請手形といって、寺の証明書がなければ、一歩も国内を旅行することが出来なかった
。それは勿論、切支丹禁制の目的の下に出たものであったが、結局、檀家制度の強要となり、寺院が監察機関としても、人民の上に臨むことになったのである。
 しかも、この頃から葬式も一切寺院の手に依らなければならなくなり、檀家の寄進のほかに、葬式による収入も殖え、寺院の経済的な地位は急に高まるに至った。 
 僧侶を優遇するというのは、幕府の政策の一つなのであるから、僧侶は社会的地位からいっても、収入の上からいっても、ますます庶民の上に立つことになった。
 そして、このことが同時に、江戸時代における僧侶の堕落を齎(もたら)したのである
。江戸三百年の間、名僧知識が果たしてどのくらいいただろう。天海は名僧というよりも、政治家であり、白隠は優れた修養者というよりも、その文章などを見ても、俗臭に充ちている。しかも世を挙げて僧侶志願者に溢れ、…しかも彼らは、宗教家としての天職を忘れ、位高き僧は僧なりに、また巷の願人乞食坊主はそれなりに、さかんに害毒を流したのである。…
それだけにまた、江戸時代ほど僧侶攻撃論の栄えた時代はなく、まず儒家により、更に国学者により、存分の酷評が下されている。
堂宇の多さと、出家の多きを見れば、仏法出来てより以来、今の此方のようなるはなし。仏法を以て見れば、破滅の時は来たれり。出家も少し心あるものは、今の僧は盗賊なりと言えり。』(大学或問[熊沢蕃山の著書]) 

荻生徂徠も、
今時、諸宗一同、袈裟衣、衣服のおごり甚(はなはだ)し。これによりて物入り多きゆえ、自然と金銀集むること巧みにして非法甚し。戒名のつけよう殊にみだりにて、上下の階級出来し、世間の費え多し。その他諸宗の規則も今は乱れ、多くは我が宗になき他宗のことをなし、錢取りのため執行ふたたび多し』(政談)
と、その浪費振りと搾取のさまを指弾している。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/57

儒者の熊沢蕃山(1619-1691)や荻生徂徠(1666-1728)までが、当時の仏教界をこれほど厳しく批判していることは知らなかった。排仏論を唱えたのは平田篤胤(1776-1843)のような国学者ばかりではなかったのだ。さらに名君と呼ばれた藩主までもが、かなり早い時期から、仏教の堕落を批判している。わかりやすいように藩主の生存年を付記して菊池寛の文章を再び引用する。

「…学者の排仏論のほかに、政治家であって真先に排仏論を唱えたのは、水戸光圀(1628-1701)で、その死ぬときには僧を遠ざけ、儒法を以て葬ることを命じている。そのほか領内を調査して、いかがわしい淫祠寺院を破却し、破戒の僧尼をどし還俗させている。
 このほか、岡山の池田新太郎光政(1609-1682)、会津の保科正之(1611-1673)、さらに下って水戸の徳川斉昭(1800-1860)、当時名君といわれた藩主はみんな盛んに排仏をやっている。彼らの儒教的教養からみれば、仏教の堕落は、言語道断だったのであろう。こうした底流の下に、明治維新を迎えたのである。仏教が徹底的にやっつけられるのはやむを得ない形勢であったのだ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/59

仏教遭難史論

菊池寛は小説家だから、あまり信用できないという人もいるだろう。
以前このブログで伊勢の廃仏毀釈のことを書いたときに引用させていただいた、羽根田文明氏の『仏教遭難史論』という本がある。羽根田氏は仏教側の論客のようだが、この本の中で格式の高い寺院ほど腐敗していて、その仏教界の腐敗が廃仏毀釈を招いたと述べておられる。この本も、『近代デジタルライブラリー』で誰でもネットで読むことが出来る。

「…諸寺の寺領は、諸侯の知行よりかは少なく、公卿の家領よりかは多かった。即ち日光山輪王寺の壱萬三千石、増上寺の壱万石、比叡山延暦寺、三井園城寺の各五千石を最多とし、以下二三千石、または数百石、或は数十石を最小として、いずれも幕府の墨印、奉行の朱印が下付せられてあった。そして寺領の石高は、幕府より現米で渡るのではなく、領地から年貢米として、寺門に収納するのである。…各寺に役所があり、俗役人があって、各領内の行政、すなわち領民の願伺届、及び訴訟の事務を取り扱った。そしてこれらの俗務は、寺侍いわゆる俗役人の専務にして、僧徒は毫もこれら俗事に関係せず、所謂、長袖風にて金銭の価格、収支の計算等、すべて経済の何たるも知らず、却って之を卑しめ、識らざるをもって誇りとしておった。…

…将軍家、及び諸侯の菩提所、勅願書はじめ、由緒ある寺院は、寺領の外に、堂塔、坊舎の営繕費などは、またみな官費、公費を以て、支弁するのは勿論、臨時の風水害等のある場合は、直に屋君を派遣して、損所を修理せしめた。ゆえに是等特待の寺院は、素より多額の寺領を有して僧侶は、手許の有福なるに任せ、曾て人生艱難の何たるも知らず、常に飽食暖衣して、日夜歓楽に耽り、宗祖の辛苦経営も、済度衆生の行業も、更にこれを知らず、ただ識るものは、栄花と、権威を振るうことばかりであった。実に仏教の衰勢を招き、近く明治維新の大打撃を受くべき素因を、早くここに、作っておった。実に自業自得の結果、如何ともすること、能わぬぞ是非もなき。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/21

談山神社と明日香散策 021
【談山神社 十三重塔】

羽根田氏はこのような仏教界の腐敗があり、排仏説を唱える平田篤胤らの説に多くの人々が共鳴したのは自然の成り行きだとも書いておられる。

当時、世人の多くが、仏教界の腐敗に愛想をつかしおる矢先に、かかる耳新しき、日本的の説を聞いたのであるから、靡然として、人心の之(平田篤胤らの説)に向かうのは、自然の勢である。しかも、当時水戸あたりから、しきりに尊王攘夷の説の宣伝せられ、上下一般に、その説を歓迎せんとする、傾向のあるを好機に、排仏思想の儒者も、国学者も協心一致して、神道の力をもって、王室を復古し、もって神道を隆盛ならしめねばならぬ。神道を盛んにするには、まず第一に、廃仏毀釈の必要あるということに、儒者、神学者、国家者、みな同心一致して、その実施の機会を待っていたら、ほどなく幕府の大政返上となり、ついで王政復古の大号令となり、新政施行機関として、先ず神祇官、太政官、諸省の設置となり、人材登用の趣意により、右三者の有志家は、それぞれ官省に出仕して、国政に参ずる地位を得た。これが近縁となり、ここに各自理想の廃仏毀釈を、事実上に施行せんと企んだ。時に新政府は、内外の政務混乱して、緒に就かざる機会に乗じて、陽に朝威を借り、陰に私意を含み、無智、無学に、しかも惰眠に耽る僧界に対し、迅雷一声思いのままに、廃仏毀釈の暴挙を実行するに至った。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/33

名草神社三重塔
【名草神社三重塔】

神仏習合の神社においては社僧と呼ばれる僧侶がいて、社家の神主もいたのだが、社僧と神主との関係はどのようであったのか。羽根田氏はこう述べている。

「もっとも各神社に、社家の神主もあったけれども、みな社僧の下風に立ち掃除、または御供の調達等の雑役に従い、神社について、何らの権威もなかったのである。しかれども伊勢神宮を始め、その他に社僧なくして、神主の神仕する神社もあったが、いわば少数であった。
社僧の神社に奉仕するのは、僧徒が神前で祝詞を奏するのではなく、廣前に法楽とて読経したのであるから、社殿に法要の仏具を備え付けるは勿論、御饌(みけ)も魚鳥の除いた精進ものであった。神前に法楽の読経することは、古く詔勅を下して、之を執行せしめられたのである。…
…いずれの神社にも、神前に読経して法楽を捧げたものである。かかる情態(ありさま)であるから、遂にはかの八幡宮の如く、神殿内に仏像を安置して、これを神体とする神社が多くあった。大社が既にこの如くである故に、村落の小社は、概ね仏像を神体にしたのである。…
…堂作りの社殿に、極彩色を施し、丹塗りの楼門や二重、三重、五重の塔のある神社もあって、純然たる仏閣の如くであったのが事実である。故に神社の実権は、全く僧徒の占領に帰し、神主はその下風に立て、雑役に従事するのみ。何等の権力もなかったから、神人は憤慨に堪えられず、僧徒に対して怨恨を懐き、宿志を晴らさんとすれども、実力なければ、空しく涙を呑み、窃に時機の来たらんことを待っておった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/15

このような流れの中で、慶応3年(1867)10月に仏教を厚遇してきた江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が大政奉還したのち、維新政府は慶応4年(明治元年:1868)3月以降、神仏分離に関する命令をいくつか出している。
そのうちの幾つかを読み下し文で紹介したい。原文はいずれも漢文で、廃仏毀釈に詳しいminagaさんのホームページの次のURLに、明治政府の出した神仏分離に関する命令が集約されている。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/s_tatu.htm

3月17日神祇事務局達
今般王政復古、旧弊一洗なされ候につき、諸国大小の神社に於いて、僧形にて別当*、あるいは社僧など相唱え候輩(やから)は、復飾**仰せ出され候…」
*別当:社寺を統括する長官に相当する僧職
**復飾:僧侶になった者が、俗人に戻る事。「還俗」とも言う。

さらに3月28日には、2つの神祇官事務局達が出ている。
中古以来、某権現*、あるいは牛頭天王**の類、その外、仏語をもって神号に相唱え候神社少なからず候。いずれも、その神社の由緒、委細に書付、早々申出づべく候」
「仏像を以て神体と致し候神社は、以来相改め申すべき候こと。附り、本地***等と唱え、仏像を社前に掛け、或は鰐口、梵鐘、仏具等の類差し置き候分は、早々取り除き申すべきこと」

*権現:仏が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号
**牛頭天王:祇園社などの祭神。祇園精舎の守護神とも薬師如来の化身とも言う。
***本地:衆生を救うためにとる神などの仮の姿を垂迹と呼ぶのに対し、仏・菩薩の本来の姿を言う。

また4月24日には太政官達が出ている。
「このたび大政御一新につき、石清水、宇佐、筥崎等、八幡大菩薩の称号止めさせられ、八幡大神と称し奉り候様、仰せ出され候こと

四つ割りの南無阿弥陀仏碑
【苗木藩 常楽寺の四つ割りの南無阿弥陀仏碑】

維新政府の神祇官には国学者・平田篤胤の弟子で篤胤の婿養子となった平田銕胤(かねたね)や、銕胤の長男の平田延胤(のぶたね)や、平田篤胤の門人で苗木藩の全寺院を廃仏毀釈で破壊した青山直道の父親である青山景通がいて、神祇官の考えが「廃仏」に傾いたのは自然の流れであったと思うのだが、これらの維新政府の「達」には仏像や仏具などを「取り除き申すべきこと」とは書かれていても、「破壊せよ」とか「焼却せよ」とはどこにも書かれていないことは注目して良い

明治初期においては政府の権力は脆弱で、神祇官事務局達や太政官達にはそれほど強い強制力はなかったようなのだが、全国各地に平田派の国学者が多数任官されていて、それに影響された神官が数多くいたという。
それゆえ、維新政府が考えていた以上に破壊行為に走るケースが多く、実際に破壊行為に及んだのは地方の事務官や神官だったという

慶応4年4月10日の太政官布告では、仏像などの破壊行為を戒めている。意訳すると、
「…旧来、社人と僧侶の仲は善くなく、氷と炭の如くであり、今日に至り、社人どもが俄に権威を得て、表向きには新政府の御趣意と称し、実は私憤をはらすようなことが起きては、御政道の妨げになるだけでなく、必ずもめ事を引き起こすことになる。…」
とあるが、この布告は各地で極端な廃仏毀釈が行なわれたことを暗示している。

しかしながら、明治政府はその後も神仏分離を求め、寺院の収入源を断つような命令を出し続けて、仏像等を破壊する行為を厳しく取り締まることも処罰することもなかったのである。
税所篤

以前このブログでも書いたが、新政府で兵庫・堺・奈良の県令・知事を歴任した薩摩藩出身の税所篤(さいしょあつし)のように、廃仏毀釈で寺宝を強奪して売却することにより私腹を肥やしたとされる人物もいた。その意味では明治政府も共犯者である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

明治初期に大量の文化財が破壊されたことについては、明治政府や地方の事務官や神官に責任があった事は確実なのだが、仏教界にも問題がなかったわけではない。

江戸時代の長きにわたり仏教界が腐敗していた状態を放置し、改革を怠ってきたことが排仏思想を生むきっかけを作ったのだが、仏教を擁護してきた江戸幕府が倒れて明治維新が神仏分離の命令を出すと、多くの僧侶が抵抗らしい抵抗もせずに、信者を見捨てて自分の身を守るために還俗してしまった。そのことが廃仏毀釈時に多くの文化財を失うことに繋がってしまったのだが、このような時にこそ僧侶は体を張って、信者と力を合わせて文化財を護って欲しかったと思う。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。
よかったら、覗いてみてください。

苗木藩の廃仏毀釈と、その史跡を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-179.html

寺院が神社に変身した談山神社
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-78.html

香住から但馬妙見山の紅葉と朱塗りの三重塔を訪ねて~~香住カニ旅行2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

伊勢の廃仏毀釈と伊勢神宮の式年遷宮に多大な貢献をした尼寺のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-314.html

日吉神社、大垣城、南宮大社から関ヶ原古戦場に向かう
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-338.html

関連記事

水戸藩が明治維新以前に廃仏毀釈を行なった経緯

前回は、明治維新後に神仏分離令が出されて、各地で廃仏毀釈が起こった事情を書いた。

昔は出雲大社のような有名な神社にも三重塔などの仏教施設があったのだが、「神仏分離」とは神仏混淆の習慣を排し、神社と寺院とをはっきり区別させようという考え方だ。

出雲大社 寛永期

上の図は寛永期(1624~1645)の出雲大社の絵図だが、このように出雲大社においてさえ境内の中に三重塔があったことがわかる。

名草神社三重塔

この三重塔が、兵庫県八鹿町の但馬妙見山にある日光院という寺に移され、明治維新で名草神社の所有となったことを以前このブログで記事に書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

なぜ出雲大社が三重塔を手放したかというと、寛文の大造営の時に、宮司の千家尊光が松平直政と図り、両部神道から唯一神道に変換する方針で臨んで出雲大社の神仏習合は廃されることとなり、三重塔、経蔵、鐘楼が境内から撤去されることに決定したからである。
次のURLにそれぞれの建物や仏像仏具がどの寺に移されたかが記載されているが、この記事によると、出雲大社の梵鐘は福岡の西光寺という寺に今も残され、国宝に指定されているという。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/iti_tajima_myoken.htm

このように神仏分離」は神と仏を分離することであり、仏教施設や仏像仏具を徹底的に破壊する考え方ではないはずだ。しかるになぜ、明治維新期の「神仏分離令」に過剰に反応して、「廃仏毀釈」という異常な破壊行為が行なわれたのか。

いろいろ調べていくと、このような仏教施設などの破壊行為は明治維新で初めて行われたのではないようだ。
前回の記事で紹介した羽根田文明氏の『仏教遭難史論』には江戸末期の水戸藩の「廃仏毀釈」の経緯が記されているので引用させていただく。文章の中の「義公」は水戸藩・二代藩主で「水戸黄門」としても名高い徳川光圀(1628~1701)のことである。

1024px-Tokugawa_Mitsukuni.jpg

「義公が寺院を整理し、僧侶を淘汰せるは、寛文5年(1665)に始まる。この年、寺社奉行の新職を設け、阿原景隆、山縣元纜の二名をこれに任じて、国内の寺社、僧尼、巫祝(みこ)を調査せしめ12月始めて、寺社の法令を頒(わか)ち、翌6年(1666)8月の法令に曰く

 『総て諸宗とも、在々所々に至るまで、その所々に過て、小寺多く有之に付、檀方みな、分け散りて、古跡、大地、衰微に及び、由来ありし寺にも、渡世成り難く間、然るべき学僧は住居せず、況や其外の小寺共に、無智、無下の愚僧のみにて、法外の営仕る僧どもは、俗ともしらず、民を迷わし、国の費をなし、風俗の禍とも成り候に付、無益の小寺ども、このたびご穿鑿(せんさく)を遂げ、破却仰せ付らるものなり。…
右の通り、破却仰せ付らる小寺ども、家財の儀は、坊主に下され候。路錢にし、何方へも心次第に参り候とも、又還俗致したき候者は、渡世の品により、居所仰せ付けられ下され候事。寛文6年午8月』」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/34

徳川光圀公はこの改革で2千以上の寺院の整理を行ない、同時に神仏混淆をも禁じたという。

「…当時の神社は、いずれもみな神仏混淆の状態で、その神体が仏像であることが多かった。義公はこれを非なりとして、悉く改めて神鏡、又は幣を神体になさしめた。なお天満宮の社殿に、あらぬ装束したる木造の祀れるを改め、有職家に命じて、衣冠束帯の制を調査せしめ、さらに菅公(菅原道真公)の影像の伝われるを比較研究し、その宜しきに随い、新たに造作して、各社に安置せしめた。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/35

しかし、徳川光圀公は寺院を整理しただけではない。一郷一社の制を定め、正しき由緒ある神を祀ってその地の鎮守として、「淫祠」と判定された神社も3千以上整理している
一方、光圀公の生母、谷氏の墓のある久昌寺の移築や、祇園寺などいくつかの寺を新築しているし、仏像などを寄付したり修理したりしているという。

羽根田氏は徳川光圀公の宗教政策をこう纏めている。
義公の期するところは、決して廃仏ではなく、ただその神祇たり仏道たるを問わず、いずれもその純一ならんを欲し、その伝説の誤れるはこれを訂し、古式に反するはこれを復し、かくて迷信を排して、国民の信仰を純潔ならしめんとするにあるや、疑うべからずである。」
分かりやすく言えば、当時は新興のいかがわしい宗教施設が藩内の各地にあり、また堕落した仏教僧が少なからず存在したのでそれらを整理し、由緒正しい社寺を残したということなのであろう。

大日本史

また水戸藩は代々学問を尊び、徳川光圀公は『大日本史』の編集を始めたことが教科書にも書かれていたが、その後水戸藩が財政難に陥り、蝦夷地にロシア船が出没するようになると、次第に水戸藩の学問が藩内外の諸問題に意見を出すようになっていく。

水戸藩第9代藩主の徳川斉昭は、会沢正志斉や藤田東湖らを重用したというが、どちらも筋金入りの排仏論者であり尊王思想家であった。

藤田東湖
藤田東湖

例えば天保2年(1831)に藤田東湖らは藩主に対して「大筒など御指しつかえも御座候わば、処々濡仏、灯籠その他無用の仏具類御取り潰し、御張り立てに相成り候わば、一廉の御用に相成り候のみならず、民心の惑をも破り、旁(かたがた)一時の良策にもこれあるべし…」などと意見具申している。要するに、大砲を作るのに梵鐘や仏像などを鋳つぶして使えと言っているのだ。
この時は水戸藩内に於いて反対意見も出たようだが、のちに第9代藩主・徳川斉昭は、藤田東湖らの意見を取り入れて大砲を製造している。 

岩波文庫に山川菊枝が著した『覚書 幕末の水戸藩』という面白い本がある。そこに当時の水戸藩の廃仏毀釈の話がでている。

幕末の水戸藩

「 (藤田東湖の)この献策に基づいて天保13年(1842)、左の布告が出た。
水戸御領中、年々不作、折から御収納も相減じ、思し召すように御届き相成らず候に付き、よんどころなく、御領中寺院のつき鐘、銅仏をもって大砲に遊ばされたき思召』」 
 つき鐘は大郷は一村に一つ、小郷は数村に一つだけ残し、その他はお引上げと決定し、同時に淫祠、邪教と認められたもの二百余寺のお取りつぶし、不良僧侶、修験者等の放逐、還俗等が行なわれた
。また水戸東照宮から僧侶を放逐し、今まで神仏混淆であったのを、神道一方にした。」(岩波文庫『覚書 幕末の水戸藩』p.90-91) 

この時の執政・戸田銀次郎は、仏像の鋳潰しは斉昭公の評判を落とすことになると強く反対したのだが、斉昭公がこれを一同に諮ると、無用の濡れ仏は鋳つぶせということで衆論一致したという。

しかし、信仰の対象であった仏像・仏具を取上げることに対し村民の強い抵抗があったことは言うまでもない。にもかかわらず、寺社奉行の今井金衛門は徹底的に仏像・仏具をかき集めた。
奉行所の小役人どもは…銅鐘や銅の仏像仏具のみならず、大砲鋳造には何の用にもなさぬ木仏、石仏までとりあげた。仏を敬う村民の意向を汲み、自身仏罰を恐れもする村役人たちが、平身低頭、木仏石仏などの引き上げご猶予を嘆願に及んでも、今井らは御領主さまの仰せ付けという一言ではねつけ、おどしつけて、どんな仏像も片はしから荒縄でくくって車につみあげ、寺社奉行の役宅に運ばせた。…」(同上書 p.95)

そう言えば太平洋戦争の時にも、武器を作るために寺の梵鐘が集められたことがあったが、大小の仏像・仏具までをも取り上げようとする藤田東湖らの意図は、仏教排斥以外の何物でもないだろう。寺社奉行の役宅に運び込まれた仏像の内、木仏・石仏は使い道もないので、明治になってもしばらくは、その空き地に山のように積まれて雨ざらしになっていたという。

さらに天保14年(1843)6月に寺社改正令を発して、藩内の寺院に対し次のように布達している。
「近来、僧侶ども風儀よろしからず、不如法の者少なからず候うところ、めんめん承知奉り候う通り…宗法相守申すべき筈のところ、愚民を惑わし、金銭を貪り、或は肉食、博奕、女犯等の類も、少なからず候ようなり行き候う段、御政教の妨害に相成候うのみならず、本山宗門へ対しても、相すまざることにつき、この度それぞれ御咎仰せ付けられ候う。…」

375px-Tokugawa_Nariaki.jpg
徳川斉昭

徳川斉昭公は200寺以上を整理し、大砲を作るために約600個もの梵鐘を鋳つぶしたというが、今まで神仏混淆であった水戸東照宮(主祭神:徳川家康)まで神道一方にしようとしたのはやりすぎであった。

水戸東照宮

水戸東照宮の僧侶を放逐し、藩祖・徳川頼房公が寄付した灯籠まで鋳つぶしたことが江戸幕府の耳に入り、弘化元年(1844)に、幕府は徳川斉昭に隠居謹慎を命じている。
その罪状は「一、無断で大砲を鋳造したこと。二、寺院を破却したこと。三、東照宮を神道化したこと」の三か条が含まれていたという。

羽根田氏は徳川斉昭の宗教政策をこう纏めている。
「(徳川斉昭公は)、信仰の念、乏しくして見るべからず。而して廃仏の志気盛んにして、毫も風流、雅趣の見るべきなく、心中おのずから狭量にして、寛宏大度の余裕なく、物を容るる余地なく、思い迫って行うところ、また極端に渉る。…盲人滅法界に、廃仏の一道に突進して、民怨を買い、民心を得ること能わず。剰え朋党の内争を醸しだし、為に維新の大業に関ずること能わず、いたずらに失敗の事績を、青史に止むるに終わったのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/50

しかしながら、このような水戸藩の廃仏が、薩摩をはじめとする明治維新を推進した勢力に大きな影響を与え、明治維新直後の神仏分離即ち廃仏毀釈の手本となったと考えられるのだ。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いています。
よかったら、覗いてみてください。

なぜ討幕派が排仏思想と結びつき、歴史ある寺院や文化財が破壊されていったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-175.html

奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-176.html

廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
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苗木藩の廃仏毀釈と、その史跡を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-179.html

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
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明治の初期に、鹿児島県で何があったのか
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明治期の危機を乗り越えた東大寺
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唐崎神社から日吉大社、日吉東照宮を訪ねて

前回は慶応4年(明治元年1868)3月に神祇官から神仏分離令が出された直後に、神祇官の樹下重国らによって日吉大社の仏像仏具など数千点が破壊され焼却されたことを書いた。
この日吉大社には行ったことがなかったので、滋賀県大津坂本から比叡山延暦寺に向かう日帰り旅行を企画して先日行ってきたのだが、結構見るべきところがあったので、今回はそのレポートをしたい。
車などで行かれる方のために、私が訪れた場所の住所・電話番号などを付記しておく。

唐崎神社

最初に訪れたのは唐崎神社(大津市唐崎1-7-1、077-579-8961)である。この神社は日吉大社の摂社で、この場所が室町時代の終わりに選定された「近江八景」の1つになっているので立ち寄ることにした。

hirosige-karasaki.jpg

上の画像は歌川広重が描いた「近江八景・唐崎夜雨」で、ここに描かれている松は大正10年(1921)に枯れてしまった2代目の松だそうで、今ある3代目の松はやや小振りながら、それでもなかなか見事な枝ぶりである。
唐崎神社 松

松尾芭蕉がこの地を訪れて、「からさきの松は花よりおぼろにて」という句を残していて、松のちかくにその句碑があるが、立派な松の枝ぶりに隠れてしまっていた。

日吉大社鳥居

唐崎神社から日吉大社(大津市坂本5-1、077-578-0009)に向かう。
京阪坂本駅の近くに石の鳥居があるが、この鳥居からの参道を日吉馬場と呼ぶのだそうだ。
山川出版社の『滋賀県の歴史散歩』によると、
参道の両側にたくさんの石灯籠がならんでいるが、これは明治時代初期に廃仏毀釈がこの日吉大社から始まったとき、神社境内から仏教的なものを放り出した名残である。しばらくは乱雑におかれていたが、廃仏毀釈の嵐の静まりとともに、現在のように整然と並べられた」(p.15)とある。

日吉神社 参道

灯籠は仏教の伝来とともに伝わったとされているが、平安時代以降は神社でも用いられており、日吉大社の廃仏毀釈で灯籠までもが「仏教的な」ものとして放り出されたとは知らなかった。

日吉大社には受付が東と西の2箇所あり、どちらから入ってもよかったのだが東受付の近くに駐車して東本宮(ひがしほんぐう)から参拝することにした。日吉大社は、駐車場は無料だが、文化財の維持管理の為に入苑協賛料\300円が必要だ。境内はとても広くて平成18年に歴史的風土特別保存地区に指定されており、国宝に指定されている建物が2棟、国の重要文化財に指定されている建物が17棟も存在するので維持管理費はかなりかかるだろう。

日吉神社 東本宮 楼門

受付を済ませてすぐに見えるのが東本宮の楼門(国重文)である。
織田信長の比叡山焼き討ちで日吉大社も全焼してしまい、現在の建物で国宝や重要文化財に指定されている19棟の建物は、いずれも安土桃山時代以降に再建されたもののようだ。

東本宮全景

楼門を過ぎると、右に樹下神社拝殿、左に樹下神社本殿、中央に東本宮拝殿があっていずれも国の重要文化財に指定されている。

廃仏毀釈以前は樹下神社を十禅師、東本宮を二宮とよび、御祭神はそれぞれ大山咋神、鴨玉依姫神で、本殿に本地仏としてそれぞれ地蔵菩薩、薬師如来があったのだが、慶応4年(明治元年、1868)4月に樹下重国らが主導した廃仏毀釈で、重要な仏像・仏具は持出され徹底的に破壊されてしまった。
十禅師を「樹下神社」と、廃仏毀釈で破壊したリーダー本人の苗字を残しているのだが、日吉大社の由緒にも、大津市教育委員会が設置した案内板の説明にも、どこにも「廃仏毀釈」や「樹下重国」の記載がないのが気になるところで、おそらくこのよう歴史は参拝者に知らせたくないということだろう。

日吉神社 東本宮 本殿

東本宮拝殿の後方に、国宝の東本宮本殿がある。最近改修されたばかりのようで、朱塗りの欄干が色鮮やかで、檜皮葺の屋根も美しい。

東本宮の参拝を終えて西に進み、途中で奥宮である牛尾神社三宮神社(いずれも国重文)に向かう石段が見えた。いずれも崖上に建てられていて、琵琶湖の眺めも素晴らしいようなのだが、往復で1時間の急坂は厳しいので今回はカットして、山王鳥居を目指して歩く。

途中に神輿収蔵庫があるが、そこには桃山時代から江戸時代にかけて作られた7基の神輿(いずれも国重文)があり、中に入れば古い神輿を見ることが出来たようだ。日吉大社のお祭りである山王祭は大津祭、長浜曳山祭と並ぶ湖国三大祭の一つで、1300年の歴史があるののだそうだが、ここに収納されている神輿は以前は使われていたが、今では別の神輿が用いられているという。

日吉神社 鳥居

左に折れて山王鳥居に向かう。
山王鳥居は普通の鳥居の上に三角形の屋根が乗ったような独特な形をしている。この鳥居辺りは紅葉が特に美しく、秋の紅葉シーズンにはライトアップもされるようだ。

日吉神社 西本宮 楼門

上の画像は西本宮の楼門(国重文)。ここをくぐると拝殿(国重文)があり、拝殿の奥には、豊臣秀吉が天正14年(1586)に寄進したと伝えられている西本宮本殿(国宝)がある。

日吉神社 西本宮 本殿

西本宮は天智天皇が大津宮を造営する時に大和の三輪明神(現在の大神[おおみわ]神社:奈良県桜井市)を勧請したと伝えられ、ご祭神は大己貴命(おおなむちのみこと:大国主命)だというが、廃仏毀釈の前にはここに本地仏として釈迦如来が安置されていたのだそうだ。

西本宮の東には豊前の宇佐八幡宮から勧請された宇佐宮本殿及び拝殿(国重文)があり、さらに東には加賀の白山比咩(ひめ)神社から勧請された白山姫神社本殿及び拝殿(国重文)と続く。廃仏毀釈前には本地仏として宇佐宮には阿弥陀如来が、白山姫神社には十一面観音が安置されていたという。

日吉神社 大宮橋

再び山王鳥居をくぐって大宮橋(国重文)という石橋を渡る。そのすぐ近くには、欄干のない走井橋(国重文)がある。上の画像は走井橋から大宮橋を写したものである。このように、残されている建物から神輿まで、多くが国宝や重要文化財に指定されている。
これだけ多数の国宝や重要文化財があれば、もっと観光客が来てもおかしくないと思うのだが、日曜日でこの程度なら文化財の維持管理や境内の清掃などが大変ではないかと心配になってくる。もし、廃仏毀釈で破壊焼却されたいう数千点の仏像・仏具などが残されていたとしたら、国宝級のものが相当あったはずで、この場所が比叡山延暦寺以上に観光客で賑わう場所になっていてもおかしくないのではないかと思う。少なくとも建物については、滋賀県で日吉大社以上に国宝や国の重要文化財の多い寺社は存在しないのだから。

西受付を出て右に折れて、次の目的地である日吉東照宮(大津市坂本4-2-12)に向かう。

日吉東照宮はもともとは延暦寺が管理していたのだが、明治9年(1876)からは日吉大社の末社となって現在に至っている。
建物は国の重要文化財に指定されているのだが、観光客が少ないために、一般に公開されているのは日曜日と祝日の10時から16時だけのようだ。
ここには日吉大社からは歩いて10分ぐらいで辿りつけるが、車で行く場合は「坂本ケーブル乗り場横の橋を渡りすぐ左手にある駐車場」を用いると、正面階段下の観光駐車場から続く長い階段の大半をカットすることが出来る。

日吉東照宮は元和9年(1623)徳川三大将軍家光公の時に、天台宗の大僧正・天海上人によって造営されたのだが、寛永11年(1634)に権現造の様式で改築されている。
ちなみに日光東照宮も元和4年(1618)に社殿が完成した後、寛永13年(1636)に寛永の大造替がはじめられており、その際に、日吉東照宮が日光東照宮の雛形になったと伝えられているようだ。
「東照宮」は東照大権現である徳川家康を祀る神社で、江戸時代には「東照宮」と名の付く建物が500以上建てられたそうだが、現存するのは130社程度なのだそうだ。

日吉東照宮唐門

上記画像が正面の唐門(国重文)で、周囲を囲む透塀(すかしべい)も国の重要文化財だ。

日吉東照宮 彩色2

正面の拝殿(国重文)の彫刻を写してみたものだが、虎が彫られ彩色されていた。徳川家康は寅年生まれなので、どこの地方の東照宮にも虎の彫刻が多いのだという。

日吉東照宮 内部

拝殿から本殿(国重文)の間に石の間(国重文)があり、石の間が本殿・拝殿よりも数段低くなっている。これは祭典奉仕者が将軍に背を向けて奉仕しても非礼にならない様に配慮されていると説明があった。御祭神は三柱で、中央が徳川家康、向かって右が日吉大神、左が豊臣秀吉なのだそうだ。

日吉東照宮 石の間と本殿

内部からは本殿の奥行きがよく分からないので外に出てみると、本殿は想像した以上に大きな建物であった。上の画像は建物を南側の側面から写したものだが、戸が開放されているのが石の間でその奥が本殿である。

建物の外側は雨風に曝されて彩色が一部色落ちしているが、内部の彩色は綺麗に残されている。
規模は日光東照宮とは比べものにならない建物だが、桃山文化を彷彿とさせる歴史的空間で、鳥の囀りを聴きながら説明員の方の話を受け、建物をじっくりと観賞できるという贅沢な時間を過ごすことができた。

日吉東照宮から二上山

唐門を出ると琵琶湖が良く見えた。木々の間から見える山は、近江富士として知られる三上山(みかみやま)である。
日吉東照宮は文化財だけでなく景色も素晴らしいのに、どうしてもっと観光客が来ないのかと不思議に思う場所である。(つづく)
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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