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江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか

このブログで何度か明治初期の廃仏毀釈のことを書いてきた。
この廃仏毀釈のためにわが国の寺院が半分以下になり、国宝級の建物や仏像の多数が破壊されたり売却されたりしたのだが、このような明治政府にとって都合の悪い史実は教科書や通史などで記載されることがないので、私も長い間ほとんど何も知らなかった。

梅原猛氏は「明治の廃仏毀釈が無ければ現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と述べておられるようだが、ではなぜ明治初期に廃仏毀釈がおこり、数多くの文化財を失うことになったのか。

標準的な教科書である『もういちど読む 山川日本史』には、明治政府は「はじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民教化をはかろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのため一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた。」(p.231)と簡単に書いてあるだけだ。
廃仏毀釈の嵐」などというわけのわからない言葉を使って誤魔化しているが、このような文化財の破壊行為が犯罪にもならず取締りもされなかったことはなぜなのか。

前回の記事で、岐阜県安八郡神戸町にある日吉神社に三重塔や仏像が残されていることを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-338.html

柏原八幡三重塔

また以前このブログで兵庫県丹波市柏原町にある柏原八幡神社にも三重塔が残されていることを書いたが、このように神社の境内に仏塔が残されているケースはわずかだけで、数多くの塔がこの時期に破壊されてしまっている。上の画像は昨年撮った柏原八幡神社の三重塔であるが、このような神仏習合の景色が、廃仏毀釈で破壊される以前には、全国各地にあたりまえのように存在したはずなのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

柏原八幡

日本の風景を一変させた廃仏毀釈は平田篤胤の国学や水戸藩の排仏思想の影響が大きかったとよく言われるのだが、江戸時代の幕末にこの様な、過激な思想が拡がった背景についてわかりやすく解説している本を探していたところ、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』の中から、昭和18年に出版された菊池寛の『明治文明綺談』の文章が目にとまった。そこにはこう述べられている。

徳川幕府が、その宗教政策の中心として、最も厚遇したのは、仏教であった。それは、幕府の初期に、切支丹の跋扈で手を焼いたので、これを撲滅するため、宗門人別帳をつくり、一切の人民をその檀那寺へ所属させてしまった。
 そのため、百姓も町人も寺請手形といって、寺の証明書がなければ、一歩も国内を旅行することが出来なかった
。それは勿論、切支丹禁制の目的の下に出たものであったが、結局、檀家制度の強要となり、寺院が監察機関としても、人民の上に臨むことになったのである。
 しかも、この頃から葬式も一切寺院の手に依らなければならなくなり、檀家の寄進のほかに、葬式による収入も殖え、寺院の経済的な地位は急に高まるに至った。 
 僧侶を優遇するというのは、幕府の政策の一つなのであるから、僧侶は社会的地位からいっても、収入の上からいっても、ますます庶民の上に立つことになった。
 そして、このことが同時に、江戸時代における僧侶の堕落を齎(もたら)したのである
。江戸三百年の間、名僧知識が果たしてどのくらいいただろう。天海は名僧というよりも、政治家であり、白隠は優れた修養者というよりも、その文章などを見ても、俗臭に充ちている。しかも世を挙げて僧侶志願者に溢れ、…しかも彼らは、宗教家としての天職を忘れ、位高き僧は僧なりに、また巷の願人乞食坊主はそれなりに、さかんに害毒を流したのである。…
それだけにまた、江戸時代ほど僧侶攻撃論の栄えた時代はなく、まず儒家により、更に国学者により、存分の酷評が下されている。
堂宇の多さと、出家の多きを見れば、仏法出来てより以来、今の此方のようなるはなし。仏法を以て見れば、破滅の時は来たれり。出家も少し心あるものは、今の僧は盗賊なりと言えり。』(大学或問[熊沢蕃山の著書]) 

荻生徂徠も、
今時、諸宗一同、袈裟衣、衣服のおごり甚(はなはだ)し。これによりて物入り多きゆえ、自然と金銀集むること巧みにして非法甚し。戒名のつけよう殊にみだりにて、上下の階級出来し、世間の費え多し。その他諸宗の規則も今は乱れ、多くは我が宗になき他宗のことをなし、錢取りのため執行ふたたび多し』(政談)
と、その浪費振りと搾取のさまを指弾している。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/57

儒者の熊沢蕃山(1619-1691)や荻生徂徠(1666-1728)までが、当時の仏教界をこれほど厳しく批判していることは知らなかった。排仏論を唱えたのは平田篤胤(1776-1843)のような国学者ばかりではなかったのだ。さらに名君と呼ばれた藩主までもが、かなり早い時期から、仏教の堕落を批判している。わかりやすいように藩主の生存年を付記して菊池寛の文章を再び引用する。

「…学者の排仏論のほかに、政治家であって真先に排仏論を唱えたのは、水戸光圀(1628-1701)で、その死ぬときには僧を遠ざけ、儒法を以て葬ることを命じている。そのほか領内を調査して、いかがわしい淫祠寺院を破却し、破戒の僧尼をどし還俗させている。
 このほか、岡山の池田新太郎光政(1609-1682)、会津の保科正之(1611-1673)、さらに下って水戸の徳川斉昭(1800-1860)、当時名君といわれた藩主はみんな盛んに排仏をやっている。彼らの儒教的教養からみれば、仏教の堕落は、言語道断だったのであろう。こうした底流の下に、明治維新を迎えたのである。仏教が徹底的にやっつけられるのはやむを得ない形勢であったのだ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/59

仏教遭難史論

菊池寛は小説家だから、あまり信用できないという人もいるだろう。
以前このブログで伊勢の廃仏毀釈のことを書いたときに引用させていただいた、羽根田文明氏の『仏教遭難史論』という本がある。羽根田氏は仏教側の論客のようだが、この本の中で格式の高い寺院ほど腐敗していて、その仏教界の腐敗が廃仏毀釈を招いたと述べておられる。この本も、『近代デジタルライブラリー』で誰でもネットで読むことが出来る。

「…諸寺の寺領は、諸侯の知行よりかは少なく、公卿の家領よりかは多かった。即ち日光山輪王寺の壱萬三千石、増上寺の壱万石、比叡山延暦寺、三井園城寺の各五千石を最多とし、以下二三千石、または数百石、或は数十石を最小として、いずれも幕府の墨印、奉行の朱印が下付せられてあった。そして寺領の石高は、幕府より現米で渡るのではなく、領地から年貢米として、寺門に収納するのである。…各寺に役所があり、俗役人があって、各領内の行政、すなわち領民の願伺届、及び訴訟の事務を取り扱った。そしてこれらの俗務は、寺侍いわゆる俗役人の専務にして、僧徒は毫もこれら俗事に関係せず、所謂、長袖風にて金銭の価格、収支の計算等、すべて経済の何たるも知らず、却って之を卑しめ、識らざるをもって誇りとしておった。…

…将軍家、及び諸侯の菩提所、勅願書はじめ、由緒ある寺院は、寺領の外に、堂塔、坊舎の営繕費などは、またみな官費、公費を以て、支弁するのは勿論、臨時の風水害等のある場合は、直に屋君を派遣して、損所を修理せしめた。ゆえに是等特待の寺院は、素より多額の寺領を有して僧侶は、手許の有福なるに任せ、曾て人生艱難の何たるも知らず、常に飽食暖衣して、日夜歓楽に耽り、宗祖の辛苦経営も、済度衆生の行業も、更にこれを知らず、ただ識るものは、栄花と、権威を振るうことばかりであった。実に仏教の衰勢を招き、近く明治維新の大打撃を受くべき素因を、早くここに、作っておった。実に自業自得の結果、如何ともすること、能わぬぞ是非もなき。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/21

談山神社と明日香散策 021
【談山神社 十三重塔】

羽根田氏はこのような仏教界の腐敗があり、排仏説を唱える平田篤胤らの説に多くの人々が共鳴したのは自然の成り行きだとも書いておられる。

当時、世人の多くが、仏教界の腐敗に愛想をつかしおる矢先に、かかる耳新しき、日本的の説を聞いたのであるから、靡然として、人心の之(平田篤胤らの説)に向かうのは、自然の勢である。しかも、当時水戸あたりから、しきりに尊王攘夷の説の宣伝せられ、上下一般に、その説を歓迎せんとする、傾向のあるを好機に、排仏思想の儒者も、国学者も協心一致して、神道の力をもって、王室を復古し、もって神道を隆盛ならしめねばならぬ。神道を盛んにするには、まず第一に、廃仏毀釈の必要あるということに、儒者、神学者、国家者、みな同心一致して、その実施の機会を待っていたら、ほどなく幕府の大政返上となり、ついで王政復古の大号令となり、新政施行機関として、先ず神祇官、太政官、諸省の設置となり、人材登用の趣意により、右三者の有志家は、それぞれ官省に出仕して、国政に参ずる地位を得た。これが近縁となり、ここに各自理想の廃仏毀釈を、事実上に施行せんと企んだ。時に新政府は、内外の政務混乱して、緒に就かざる機会に乗じて、陽に朝威を借り、陰に私意を含み、無智、無学に、しかも惰眠に耽る僧界に対し、迅雷一声思いのままに、廃仏毀釈の暴挙を実行するに至った。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/33

名草神社三重塔
【名草神社三重塔】

神仏習合の神社においては社僧と呼ばれる僧侶がいて、社家の神主もいたのだが、社僧と神主との関係はどのようであったのか。羽根田氏はこう述べている。

「もっとも各神社に、社家の神主もあったけれども、みな社僧の下風に立ち掃除、または御供の調達等の雑役に従い、神社について、何らの権威もなかったのである。しかれども伊勢神宮を始め、その他に社僧なくして、神主の神仕する神社もあったが、いわば少数であった。
社僧の神社に奉仕するのは、僧徒が神前で祝詞を奏するのではなく、廣前に法楽とて読経したのであるから、社殿に法要の仏具を備え付けるは勿論、御饌(みけ)も魚鳥の除いた精進ものであった。神前に法楽の読経することは、古く詔勅を下して、之を執行せしめられたのである。…
…いずれの神社にも、神前に読経して法楽を捧げたものである。かかる情態(ありさま)であるから、遂にはかの八幡宮の如く、神殿内に仏像を安置して、これを神体とする神社が多くあった。大社が既にこの如くである故に、村落の小社は、概ね仏像を神体にしたのである。…
…堂作りの社殿に、極彩色を施し、丹塗りの楼門や二重、三重、五重の塔のある神社もあって、純然たる仏閣の如くであったのが事実である。故に神社の実権は、全く僧徒の占領に帰し、神主はその下風に立て、雑役に従事するのみ。何等の権力もなかったから、神人は憤慨に堪えられず、僧徒に対して怨恨を懐き、宿志を晴らさんとすれども、実力なければ、空しく涙を呑み、窃に時機の来たらんことを待っておった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/15

このような流れの中で、慶応3年(1867)10月に仏教を厚遇してきた江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が大政奉還したのち、維新政府は慶応4年(明治元年:1868)3月以降、神仏分離に関する命令をいくつか出している。
そのうちの幾つかを読み下し文で紹介したい。原文はいずれも漢文で、廃仏毀釈に詳しいminagaさんのホームページの次のURLに、明治政府の出した神仏分離に関する命令が集約されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/s_tatu.htm

3月17日神祇事務局達
今般王政復古、旧弊一洗なされ候につき、諸国大小の神社に於いて、僧形にて別当*、あるいは社僧など相唱え候輩(やから)は、復飾**仰せ出され候…」
*別当:社寺を統括する長官に相当する僧職
**復飾:僧侶になった者が、俗人に戻る事。「還俗」とも言う。

さらに3月28日には、2つの神祇官事務局達が出ている。
中古以来、某権現*、あるいは牛頭天王**の類、その外、仏語をもって神号に相唱え候神社少なからず候。いずれも、その神社の由緒、委細に書付、早々申出づべく候」
「仏像を以て神体と致し候神社は、以来相改め申すべき候こと。附り、本地***等と唱え、仏像を社前に掛け、或は鰐口、梵鐘、仏具等の類差し置き候分は、早々取り除き申すべきこと」

*権現:仏が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号
**牛頭天王:祇園社などの祭神。祇園精舎の守護神とも薬師如来の化身とも言う。
***本地:衆生を救うためにとる神などの仮の姿を垂迹と呼ぶのに対し、仏・菩薩の本来の姿を言う。

また4月24日には太政官達が出ている。
「このたび大政御一新につき、石清水、宇佐、筥崎等、八幡大菩薩の称号止めさせられ、八幡大神と称し奉り候様、仰せ出され候こと

四つ割りの南無阿弥陀仏碑
【苗木藩 常楽寺の四つ割りの南無阿弥陀仏碑】

維新政府の神祇官には国学者・平田篤胤の弟子で篤胤の婿養子となった平田銕胤(かねたね)や、銕胤の長男の平田延胤(のぶたね)や、平田篤胤の門人で苗木藩の全寺院を廃仏毀釈で破壊した青山直道の父親である青山景通がいて、神祇官の考えが「廃仏」に傾いたのは自然の流れであったと思うのだが、これらの維新政府の「達」には仏像や仏具などを「取り除き申すべきこと」とは書かれていても、「破壊せよ」とか「焼却せよ」とはどこにも書かれていないことは注目して良い

明治初期においては政府の権力は脆弱で、神祇官事務局達や太政官達にはそれほど強い強制力はなかったようなのだが、全国各地に平田派の国学者が多数任官されていて、それに影響された神官が数多くいたという。
それゆえ、維新政府が考えていた以上に破壊行為に走るケースが多く、実際に破壊行為に及んだのは地方の事務官や神官だったという

慶応4年4月10日の太政官布告では、仏像などの破壊行為を戒めている。意訳すると、
「…旧来、社人と僧侶の仲は善くなく、氷と炭の如くであり、今日に至り、社人どもが俄に権威を得て、表向きには新政府の御趣意と称し、実は私憤をはらすようなことが起きては、御政道の妨げになるだけでなく、必ずもめ事を引き起こすことになる。…」
とあるが、この布告は各地で極端な廃仏毀釈が行なわれたことを暗示している。

しかしながら、明治政府はその後も神仏分離を求め、寺院の収入源を断つような命令を出し続けて、仏像等を破壊する行為を厳しく取り締まることも処罰することもなかったのである。
税所篤

以前このブログでも書いたが、新政府で兵庫・堺・奈良の県令・知事を歴任した薩摩藩出身の税所篤(さいしょあつし)のように、廃仏毀釈で寺宝を強奪して売却することにより私腹を肥やしたとされる人物もいた。その意味では明治政府も共犯者である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

明治初期に大量の文化財が破壊されたことについては、明治政府や地方の事務官や神官に責任があった事は確実なのだが、仏教界にも問題がなかったわけではない。

江戸時代の長きにわたり仏教界が腐敗していた状態を放置し、改革を怠ってきたことが排仏思想を生むきっかけを作ったのだが、仏教を擁護してきた江戸幕府が倒れて明治維新が神仏分離の命令を出すと、多くの僧侶が抵抗らしい抵抗もせずに、信者を見捨てて自分の身を守るために還俗してしまった。そのことが廃仏毀釈時に多くの文化財を失うことに繋がってしまったのだが、このような時にこそ僧侶は体を張って、信者と力を合わせて文化財を護って欲しかったと思う。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。
よかったら、覗いてみてください。

苗木藩の廃仏毀釈と、その史跡を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-179.html

寺院が神社に変身した談山神社
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-78.html

香住から但馬妙見山の紅葉と朱塗りの三重塔を訪ねて~~香住カニ旅行2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

伊勢の廃仏毀釈と伊勢神宮の式年遷宮に多大な貢献をした尼寺のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-314.html

日吉神社、大垣城、南宮大社から関ヶ原古戦場に向かう
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-338.html

【ご参考】
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関連記事

水戸藩が明治維新以前に廃仏毀釈を行なった経緯

前回は、明治維新後に神仏分離令が出されて、各地で廃仏毀釈が起こった事情を書いた。

昔は出雲大社のような有名な神社にも三重塔などの仏教施設があったのだが、「神仏分離」とは神仏混淆の習慣を排し、神社と寺院とをはっきり区別させようという考え方だ。

出雲大社 寛永期

上の図は寛永期(1624~1645)の出雲大社の絵図だが、このように出雲大社においてさえ境内の中に三重塔があったことがわかる。

名草神社三重塔

この三重塔が、兵庫県八鹿町の但馬妙見山にある日光院という寺に移され、明治維新で名草神社の所有となったことを以前このブログで記事に書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

なぜ出雲大社が三重塔を手放したかというと、寛文の大造営の時に、宮司の千家尊光が松平直政と図り、両部神道から唯一神道に変換する方針で臨んで出雲大社の神仏習合は廃されることとなり、三重塔、経蔵、鐘楼が境内から撤去されることに決定したからである。
次のURLにそれぞれの建物や仏像仏具がどの寺に移されたかが記載されているが、この記事によると、出雲大社の梵鐘は福岡の西光寺という寺に今も残され、国宝に指定されているという。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/myoken42.htm

このように神仏分離」は神と仏を分離することであり、仏教施設や仏像仏具を徹底的に破壊する考え方ではないはずだ。しかるになぜ、明治維新期の「神仏分離令」に過剰に反応して、「廃仏毀釈」という異常な破壊行為が行なわれたのか。

いろいろ調べていくと、このような仏教施設などの破壊行為は明治維新で初めて行われたのではないようだ。
前回の記事で紹介した羽根田文明氏の『仏教遭難史論』には江戸末期の水戸藩の「廃仏毀釈」の経緯が記されているので引用させていただく。文章の中の「義公」は水戸藩・二代藩主で「水戸黄門」としても名高い徳川光圀(1628~1701)のことである。

1024px-Tokugawa_Mitsukuni.jpg

「義公が寺院を整理し、僧侶を淘汰せるは、寛文5年(1665)に始まる。この年、寺社奉行の新職を設け、阿原景隆、山縣元纜の二名をこれに任じて、国内の寺社、僧尼、巫祝(みこ)を調査せしめ12月始めて、寺社の法令を頒(わか)ち、翌6年(1666)8月の法令に曰く

 『総て諸宗とも、在々所々に至るまで、その所々に過て、小寺多く有之に付、檀方みな、分け散りて、古跡、大地、衰微に及び、由来ありし寺にも、渡世成り難く間、然るべき学僧は住居せず、況や其外の小寺共に、無智、無下の愚僧のみにて、法外の営仕る僧どもは、俗ともしらず、民を迷わし、国の費をなし、風俗の禍とも成り候に付、無益の小寺ども、このたびご穿鑿(せんさく)を遂げ、破却仰せ付らるものなり。…
右の通り、破却仰せ付らる小寺ども、家財の儀は、坊主に下され候。路錢にし、何方へも心次第に参り候とも、又還俗致したき候者は、渡世の品により、居所仰せ付けられ下され候事。寛文6年午8月』」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/34

徳川光圀公はこの改革で2千以上の寺院の整理を行ない、同時に神仏混淆をも禁じたという。

「…当時の神社は、いずれもみな神仏混淆の状態で、その神体が仏像であることが多かった。義公はこれを非なりとして、悉く改めて神鏡、又は幣を神体になさしめた。なお天満宮の社殿に、あらぬ装束したる木造の祀れるを改め、有職家に命じて、衣冠束帯の制を調査せしめ、さらに菅公(菅原道真公)の影像の伝われるを比較研究し、その宜しきに随い、新たに造作して、各社に安置せしめた。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/35

しかし、徳川光圀公は寺院を整理しただけではない。一郷一社の制を定め、正しき由緒ある神を祀ってその地の鎮守として、「淫祠」と判定された神社も3千以上整理している
一方、光圀公の生母、谷氏の墓のある久昌寺の移築や、祇園寺などいくつかの寺を新築しているし、仏像などを寄付したり修理したりしているという。

羽根田氏は徳川光圀公の宗教政策をこう纏めている。
義公の期するところは、決して廃仏ではなく、ただその神祇たり仏道たるを問わず、いずれもその純一ならんを欲し、その伝説の誤れるはこれを訂し、古式に反するはこれを復し、かくて迷信を排して、国民の信仰を純潔ならしめんとするにあるや、疑うべからずである。」
分かりやすく言えば、当時は新興のいかがわしい宗教施設が藩内の各地にあり、また堕落した仏教僧が少なからず存在したのでそれらを整理し、由緒正しい社寺を残したということなのであろう。

大日本史

また水戸藩は代々学問を尊び、徳川光圀公は『大日本史』の編集を始めたことが教科書にも書かれていたが、その後水戸藩が財政難に陥り、蝦夷地にロシア船が出没するようになると、次第に水戸藩の学問が藩内外の諸問題に意見を出すようになっていく。

水戸藩第9代藩主の徳川斉昭は、会沢正志斉や藤田東湖らを重用したというが、どちらも筋金入りの排仏論者であり尊王思想家であった。

藤田東湖
藤田東湖

例えば天保2年(1831)に藤田東湖らは藩主に対して「大筒など御指しつかえも御座候わば、処々濡仏、灯籠その他無用の仏具類御取り潰し、御張り立てに相成り候わば、一廉の御用に相成り候のみならず、民心の惑をも破り、旁(かたがた)一時の良策にもこれあるべし…」などと意見具申している。要するに、大砲を作るのに梵鐘や仏像などを鋳つぶして使えと言っているのだ。
この時は水戸藩内に於いて反対意見も出たようだが、のちに第9代藩主・徳川斉昭は、藤田東湖らの意見を取り入れて大砲を製造している。 

岩波文庫に山川菊枝が著した『覚書 幕末の水戸藩』という面白い本がある。そこに当時の水戸藩の廃仏毀釈の話がでている。

幕末の水戸藩

「 (藤田東湖の)この献策に基づいて天保13年(1842)、左の布告が出た。
水戸御領中、年々不作、折から御収納も相減じ、思し召すように御届き相成らず候に付き、よんどころなく、御領中寺院のつき鐘、銅仏をもって大砲に遊ばされたき思召』」 
 つき鐘は大郷は一村に一つ、小郷は数村に一つだけ残し、その他はお引上げと決定し、同時に淫祠、邪教と認められたもの二百余寺のお取りつぶし、不良僧侶、修験者等の放逐、還俗等が行なわれた
。また水戸東照宮から僧侶を放逐し、今まで神仏混淆であったのを、神道一方にした。」(岩波文庫『覚書 幕末の水戸藩』p.90-91) 

この時の執政・戸田銀次郎は、仏像の鋳潰しは斉昭公の評判を落とすことになると強く反対したのだが、斉昭公がこれを一同に諮ると、無用の濡れ仏は鋳つぶせということで衆論一致したという。

しかし、信仰の対象であった仏像・仏具を取上げることに対し村民の強い抵抗があったことは言うまでもない。にもかかわらず、寺社奉行の今井金衛門は徹底的に仏像・仏具をかき集めた。
奉行所の小役人どもは…銅鐘や銅の仏像仏具のみならず、大砲鋳造には何の用にもなさぬ木仏、石仏までとりあげた。仏を敬う村民の意向を汲み、自身仏罰を恐れもする村役人たちが、平身低頭、木仏石仏などの引き上げご猶予を嘆願に及んでも、今井らは御領主さまの仰せ付けという一言ではねつけ、おどしつけて、どんな仏像も片はしから荒縄でくくって車につみあげ、寺社奉行の役宅に運ばせた。…」(同上書 p.95)

そう言えば太平洋戦争の時にも、武器を作るために寺の梵鐘が集められたことがあったが、大小の仏像・仏具までをも取り上げようとする藤田東湖らの意図は、仏教排斥以外の何物でもないだろう。寺社奉行の役宅に運び込まれた仏像の内、木仏・石仏は使い道もないので、明治になってもしばらくは、その空き地に山のように積まれて雨ざらしになっていたという。

さらに天保14年(1843)6月に寺社改正令を発して、藩内の寺院に対し次のように布達している。
「近来、僧侶ども風儀よろしからず、不如法の者少なからず候うところ、めんめん承知奉り候う通り…宗法相守申すべき筈のところ、愚民を惑わし、金銭を貪り、或は肉食、博奕、女犯等の類も、少なからず候ようなり行き候う段、御政教の妨害に相成候うのみならず、本山宗門へ対しても、相すまざることにつき、この度それぞれ御咎仰せ付けられ候う。…」

375px-Tokugawa_Nariaki.jpg
徳川斉昭

徳川斉昭公は200寺以上を整理し、大砲を作るために約600個もの梵鐘を鋳つぶしたというが、今まで神仏混淆であった水戸東照宮(主祭神:徳川家康)まで神道一方にしようとしたのはやりすぎであった。

水戸東照宮

水戸東照宮の僧侶を放逐し、藩祖・徳川頼房公が寄付した灯籠まで鋳つぶしたことが江戸幕府の耳に入り、弘化元年(1844)に、幕府は徳川斉昭に隠居謹慎を命じている。
その罪状は「一、無断で大砲を鋳造したこと。二、寺院を破却したこと。三、東照宮を神道化したこと」の三か条が含まれていたという。

羽根田氏は徳川斉昭の宗教政策をこう纏めている。
「(徳川斉昭公は)、信仰の念、乏しくして見るべからず。而して廃仏の志気盛んにして、毫も風流、雅趣の見るべきなく、心中おのずから狭量にして、寛宏大度の余裕なく、物を容るる余地なく、思い迫って行うところ、また極端に渉る。…盲人滅法界に、廃仏の一道に突進して、民怨を買い、民心を得ること能わず。剰え朋党の内争を醸しだし、為に維新の大業に関ずること能わず、いたずらに失敗の事績を、青史に止むるに終わったのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/50

しかしながら、このような水戸藩の廃仏が、薩摩をはじめとする明治維新を推進した勢力に大きな影響を与え、明治維新直後の神仏分離即ち廃仏毀釈の手本となったと考えられるのだ。

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なぜ討幕派が排仏思想と結びつき、歴史ある寺院や文化財が破壊されていったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-175.html

奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-176.html

廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

苗木藩の廃仏毀釈と、その史跡を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-179.html

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

明治の初期に、鹿児島県で何があったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-83.html

明治期の危機を乗り越えた東大寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-84.html

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唐崎神社から日吉大社、日吉東照宮を訪ねて

前回は慶応4年(明治元年1868)3月に神祇官から神仏分離令が出された直後に、神祇官の樹下重国らによって日吉大社の仏像仏具など数千点が破壊され焼却されたことを書いた。
この日吉大社には行ったことがなかったので、滋賀県大津坂本から比叡山延暦寺に向かう日帰り旅行を企画して先日行ってきたのだが、結構見るべきところがあったので、今回はそのレポートをしたい。
車などで行かれる方のために、私が訪れた場所の住所・電話番号などを付記しておく。

唐崎神社

最初に訪れたのは唐崎神社(大津市唐崎1-7-1、077-579-8961)である。この神社は日吉大社の摂社で、この場所が室町時代の終わりに選定された「近江八景」の1つになっているので立ち寄ることにした。

hirosige-karasaki.jpg

上の画像は歌川広重が描いた「近江八景・唐崎夜雨」で、ここに描かれている松は大正10年(1921)に枯れてしまった2代目の松だそうで、今ある3代目の松はやや小振りながら、それでもなかなか見事な枝ぶりである。
唐崎神社 松

松尾芭蕉がこの地を訪れて、「からさきの松は花よりおぼろにて」という句を残していて、松のちかくにその句碑があるが、立派な松の枝ぶりに隠れてしまっていた。

日吉大社鳥居

唐崎神社から日吉大社(大津市坂本5-1、077-578-0009)に向かう。
京阪坂本駅の近くに石の鳥居があるが、この鳥居からの参道を日吉馬場と呼ぶのだそうだ。
山川出版社の『滋賀県の歴史散歩』によると、
参道の両側にたくさんの石灯籠がならんでいるが、これは明治時代初期に廃仏毀釈がこの日吉大社から始まったとき、神社境内から仏教的なものを放り出した名残である。しばらくは乱雑におかれていたが、廃仏毀釈の嵐の静まりとともに、現在のように整然と並べられた」(p.15)とある。

日吉神社 参道

灯籠は仏教の伝来とともに伝わったとされているが、平安時代以降は神社でも用いられており、日吉大社の廃仏毀釈で灯籠までもが「仏教的な」ものとして放り出されたとは知らなかった。

日吉大社には受付が東と西の2箇所あり、どちらから入ってもよかったのだが東受付の近くに駐車して東本宮(ひがしほんぐう)から参拝することにした。日吉大社は、駐車場は無料だが、文化財の維持管理の為に入苑協賛料\300円が必要だ。境内はとても広くて平成18年に歴史的風土特別保存地区に指定されており、国宝に指定されている建物が2棟、国の重要文化財に指定されている建物が17棟も存在するので維持管理費はかなりかかるだろう。

日吉神社 東本宮 楼門

受付を済ませてすぐに見えるのが東本宮の楼門(国重文)である。
織田信長の比叡山焼き討ちで日吉大社も全焼してしまい、現在の建物で国宝や重要文化財に指定されている19棟の建物は、いずれも安土桃山時代以降に再建されたもののようだ。

東本宮全景

楼門を過ぎると、右に樹下神社拝殿、左に樹下神社本殿、中央に東本宮拝殿があっていずれも国の重要文化財に指定されている。

廃仏毀釈以前は樹下神社を十禅師、東本宮を二宮とよび、御祭神はそれぞれ大山咋神、鴨玉依姫神で、本殿に本地仏としてそれぞれ地蔵菩薩、薬師如来があったのだが、慶応4年(明治元年、1868)4月に樹下重国らが主導した廃仏毀釈で、重要な仏像・仏具は持出され徹底的に破壊されてしまった。
十禅師を「樹下神社」と、廃仏毀釈で破壊したリーダー本人の苗字を残しているのだが、日吉大社の由緒にも、大津市教育委員会が設置した案内板の説明にも、どこにも「廃仏毀釈」や「樹下重国」の記載がないのが気になるところで、おそらくこのよう歴史は参拝者に知らせたくないということだろう。

日吉神社 東本宮 本殿

東本宮拝殿の後方に、国宝の東本宮本殿がある。最近改修されたばかりのようで、朱塗りの欄干が色鮮やかで、檜皮葺の屋根も美しい。

東本宮の参拝を終えて西に進み、途中で奥宮である牛尾神社三宮神社(いずれも国重文)に向かう石段が見えた。いずれも崖上に建てられていて、琵琶湖の眺めも素晴らしいようなのだが、往復で1時間の急坂は厳しいので今回はカットして、山王鳥居を目指して歩く。

途中に神輿収蔵庫があるが、そこには桃山時代から江戸時代にかけて作られた7基の神輿(いずれも国重文)があり、中に入れば古い神輿を見ることが出来たようだ。日吉大社のお祭りである山王祭は大津祭、長浜曳山祭と並ぶ湖国三大祭の一つで、1300年の歴史があるののだそうだが、ここに収納されている神輿は以前は使われていたが、今では別の神輿が用いられているという。

日吉神社 鳥居

左に折れて山王鳥居に向かう。
山王鳥居は普通の鳥居の上に三角形の屋根が乗ったような独特な形をしている。この鳥居辺りは紅葉が特に美しく、秋の紅葉シーズンにはライトアップもされるようだ。

日吉神社 西本宮 楼門

上の画像は西本宮の楼門(国重文)。ここをくぐると拝殿(国重文)があり、拝殿の奥には、豊臣秀吉が天正14年(1586)に寄進したと伝えられている西本宮本殿(国宝)がある。

日吉神社 西本宮 本殿

西本宮は天智天皇が大津宮を造営する時に大和の三輪明神(現在の大神[おおみわ]神社:奈良県桜井市)を勧請したと伝えられ、ご祭神は大己貴命(おおなむちのみこと:大国主命)だというが、廃仏毀釈の前にはここに本地仏として釈迦如来が安置されていたのだそうだ。

西本宮の東には豊前の宇佐八幡宮から勧請された宇佐宮本殿及び拝殿(国重文)があり、さらに東には加賀の白山比咩(ひめ)神社から勧請された白山姫神社本殿及び拝殿(国重文)と続く。廃仏毀釈前には本地仏として宇佐宮には阿弥陀如来が、白山姫神社には十一面観音が安置されていたという。

日吉神社 大宮橋

再び山王鳥居をくぐって大宮橋(国重文)という石橋を渡る。そのすぐ近くには、欄干のない走井橋(国重文)がある。上の画像は走井橋から大宮橋を写したものである。このように、残されている建物から神輿まで、多くが国宝や重要文化財に指定されている。
これだけ多数の国宝や重要文化財があれば、もっと観光客が来てもおかしくないと思うのだが、日曜日でこの程度なら文化財の維持管理や境内の清掃などが大変ではないかと心配になってくる。もし、廃仏毀釈で破壊焼却されたいう数千点の仏像・仏具などが残されていたとしたら、国宝級のものが相当あったはずで、この場所が比叡山延暦寺以上に観光客で賑わう場所になっていてもおかしくないのではないかと思う。少なくとも建物については、滋賀県で日吉大社以上に国宝や国の重要文化財の多い寺社は存在しないのだから。

西受付を出て右に折れて、次の目的地である日吉東照宮(大津市坂本4-2-12)に向かう。

日吉東照宮はもともとは延暦寺が管理していたのだが、明治9年(1876)からは日吉大社の末社となって現在に至っている。
建物は国の重要文化財に指定されているのだが、観光客が少ないために、一般に公開されているのは日曜日と祝日の10時から16時だけのようだ。
ここには日吉大社からは歩いて10分ぐらいで辿りつけるが、車で行く場合は「坂本ケーブル乗り場横の橋を渡りすぐ左手にある駐車場」を用いると、正面階段下の観光駐車場から続く長い階段の大半をカットすることが出来る。

日吉東照宮は元和9年(1623)徳川三大将軍家光公の時に、天台宗の大僧正・天海上人によって造営されたのだが、寛永11年(1634)に権現造の様式で改築されている。
ちなみに日光東照宮も元和4年(1618)に社殿が完成した後、寛永13年(1636)に寛永の大造替がはじめられており、その際に、日吉東照宮が日光東照宮の雛形になったと伝えられているようだ。
「東照宮」は東照大権現である徳川家康を祀る神社で、江戸時代には「東照宮」と名の付く建物が500以上建てられたそうだが、現存するのは130社程度なのだそうだ。

日吉東照宮唐門

上記画像が正面の唐門(国重文)で、周囲を囲む透塀(すかしべい)も国の重要文化財だ。

日吉東照宮 彩色2

正面の拝殿(国重文)の彫刻を写してみたものだが、虎が彫られ彩色されていた。徳川家康は寅年生まれなので、どこの地方の東照宮にも虎の彫刻が多いのだという。

日吉東照宮 内部

拝殿から本殿(国重文)の間に石の間(国重文)があり、石の間が本殿・拝殿よりも数段低くなっている。これは祭典奉仕者が将軍に背を向けて奉仕しても非礼にならない様に配慮されていると説明があった。御祭神は三柱で、中央が徳川家康、向かって右が日吉大神、左が豊臣秀吉なのだそうだ。

日吉東照宮 石の間と本殿

内部からは本殿の奥行きがよく分からないので外に出てみると、本殿は想像した以上に大きな建物であった。上の画像は建物を南側の側面から写したものだが、戸が開放されているのが石の間でその奥が本殿である。

建物の外側は雨風に曝されて彩色が一部色落ちしているが、内部の彩色は綺麗に残されている。
規模は日光東照宮とは比べものにならない建物だが、桃山文化を彷彿とさせる歴史的空間で、鳥の囀りを聴きながら説明員の方の話を受け、建物をじっくりと観賞できるという贅沢な時間を過ごすことができた。

日吉東照宮から二上山

唐門を出ると琵琶湖が良く見えた。木々の間から見える山は、近江富士として知られる三上山(みかみやま)である。
日吉東照宮は文化財だけでなく景色も素晴らしいのに、どうしてもっと観光客が来ないのかと不思議に思う場所である。(つづく)
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神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html




関連記事

日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2

以前このブログで、滋賀県大津市坂本の日吉大社の廃仏毀釈が、慶応4年(1868)3月に神仏分離令が出て最初に行なわれたものであり、この時に仏像や仏画や経巻・法器などを徹底的に破壊したリーダーは神祇官権判事の樹下茂国であったことを書いた。
それまでの日吉大社は「日吉山王権現」と呼ばれ、いずれの社殿も南光坊天海が開いた「山王一実神道」で祀られていた。社殿には仏像や僧形の木像を神体にし、多くの経巻などが備えられている「神仏習合」の施設であったという。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html

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ところが日光東照宮をはじめとする日光の社寺も、当時は南光坊天海が開いた「山王一実神道」で祀られており、「神仏習合」の施設であったことは滋賀県の日吉大社と同じなのである。
今でこそ日光東照宮二荒山神社輪王寺の二社一寺に分かれているのだが、江戸時代までは日光全山の仏堂、神社、霊廟などすべてを含めて「日光山」あるいは「日光三所権現」と称していて、神仏習合の信仰が行なわれていたのである。

ではなぜ、同じ「山王一実神道」で祀られている神仏習合の施設でありながら、滋賀県の日吉大社では仏像や仏画や経巻などが徹底的に破壊され、日光山ではそうならなかったのだろうか。
また日光は徳川家の聖地でもある。江戸幕府が徳川家康や家光を祀る施設を手厚く保護したことは当然のことであるが、明治維新となって徳川家という大スポンサーを失った日光の社寺が、廃仏毀釈が吹き荒れた時代に、どうやって生き延びることが出来たのだろうか。

この点について疑問を感じていたのでいろいろ調べてみたのだが、日光山の神仏分離の頃の事を書く前に、それまでの日光歴史を簡単に振り返っておこう。

勝道上人

日光山は天平神護2年(766)に勝道上人によって開かれて四本竜寺が建立され、その後山岳信仰の場とし多くの行者が修行に訪れるようになった。
弘仁元年(810)に朝廷より満願寺の称号を賜り、後に円仁(えんにん)が来山し、三仏堂・常行堂・法華堂が建てられて天台宗の寺院となっている。
鎌倉時代には弁覚(べんかく)が光明院を創設して一山の本院として、天皇家から門跡(もんぜき)*を招く皇族座主の制度が始まったという。
*門跡:皇族・貴族が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職

戦国時代になると日光山は地方豪族の争いに巻き込まれ、さらに天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻略時に日光山の惣政所壬生氏が僧兵とともに北条氏に付いたことが豊臣秀吉の怒りを買い、日光山領66郷、18万石を没収されて一時衰退することとなる。

しかし、元和3年(1617)に徳川家康の遺言により日光東照宮が建てられ、寛永11年(1634)には南光坊天海の主導による日光東照宮の大造営がなされて、ほぼ現在の東照宮の建物が完成した。
承応3年(1654)には満願寺は水尾上皇の院宣により輪王寺の寺号を賜り、それ以降は輪王寺の住持は法親王(親王宣下を受けた皇族男子で出家した者)が務める事となり、関東に常時在住の皇族として「輪王寺門跡」あるいは「輪王寺」と称されたという。…

神仏分離の動乱

臼井史郎氏が著した『神仏分離の動乱』(思文館出版)という本に、日光山の神仏習合についてわかりやすく記されている。
「…こうした不思議な山が非常な権力をもって、明治までながらえたのである。
一つには、神体山と仰がれる、二荒山に対する山岳信仰と修験信仰
二つには、勝道によって開創された輪王寺を中心とする天台信仰。
三つには、久能山より移された家康の廟を中心とする東照大権現信仰。
 この三つが複雑にからみあって神仏がたくみに同居することによって、この不思議な山が栄えつづけた
のである。だから、社殿も仏殿も山中深く共存していた。仏像も神像も、経典も神具も、雑然と互いに相剋することなくながらえたのである。すなわち、山中一円が満願寺(輪王寺)の境内であって、その中に東照宮も二荒山神社もあったわけである。」(『神仏分離の動乱』p.78)

「山中一円が輪王寺の境内であった」というのだが、いろは坂を超えて華厳の滝や男体山、女峰山、太郎山までもが神域であったというからとんでもない広さである。
神域の中には多くの寺社が存在し、その頂点に立っていたのが輪王寺宮であり、輪王寺門跡が日光東照宮の住職であり、二荒山神社の別当は安養院、三代家光を祀る大猷院の別当は龍光院の住職で、日光山全てを僧侶が完全に支配していたことになる。

そんな中で徳川幕府が倒されて、維新政府の神祇省が神仏分離令を出した。そこにはこう書かれている。
【慶応4年(1868)3月28日付、神祇官事務局達】
「中古以来、某権現、あるいは牛頭天王の類、その外、仏語をもって神号に相唱え候神社少なからず候。いずれも、その神社の由緒、委細に書付、早々申出づべく候」
仏像を以て神体と致し候神社は、以来相改め申すべき候こと。附り、本地等と唱え、仏像を社前に掛け、或は鰐口、梵鐘、仏具等の類差し置き候分は、早々取り除き申すべきこと

この神仏分離令が、仏教を根本として神と仏が共存してきた日光山の宗教的秩序を根底から揺るがすことになる。

臼井史郎氏の解説を再び引用する。
「輪王寺門跡の廃止
 僧侶の神勤の廃止
 輪王寺の称号廃止

 一山衆徒百十ヵ寺の合併統合
 満願寺への改称
 各院坊の寺地奉還
 二荒山神社と東照宮の独立
 輪王寺門跡が主催した日光山は二社一寺に分裂・統合されたのである。…日光山は大きく分裂し、神と仏の支配下にそれぞれ所属をわかつことになってしまった。もともと二荒山神社は安養院、家光の霊廟大猷院は龍光院が、別当として神勤しており、東照宮は輪王寺門跡が直接奉仕していた。だから全山が法親王門跡の支配下にあったわけで、そういう意味で、日光門主は、文字通り僧侶であると同時に各宮の宮司でもあったわけだ。
 それがはっきりと二社一寺に分裂した
のである。
 ところで、こういう大変動に際して、輪王寺門跡公現法親王は、さっさと還俗*してしまい、北白川宮能久親王となってしまった。…」(同上書 p.83-84)
*還俗(げんぞく):僧侶であることを捨て、俗人に戻ること。

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輪王寺門跡公現法親王は江戸幕府の依頼を受けて徳川慶喜の助命と東征中止を嘆願した後、彰義隊に擁立されて上野戦争に巻き込まれ、その後仙台藩に身を寄せて奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されており、神仏分離令が出た時には日光にはいなかったと思われる。
9月に東北の戦いに敗れて、新政府に京都で一年間蟄居することを申しつられ、明治2年(1869)9月に還俗し、そして翌年にドイツに留学するまでの間熾仁親王の邸に同居している。輪王寺門跡現法親王が還俗したのは、新政府からの圧力があったと考えるのが自然だろう。

かくして、日光山は最高責任者不在のまま分裂騒ぎで収拾がつかなくなり、また徳川氏という大スポンサーを失ったために、百十ヵ寺の僧侶は無給で暮らさねばならなくなったという。八十余名の僧徒は満願寺(旧輪王寺)の本坊で合宿して暮らしたそうだが、明治4年(1871)5月にはその満願寺の本坊が全焼してしまっている。

経済的困窮は寺院だけではなかったという。神社側からもあいついで嘆願書が出されている。収入がなければ、宮司の生活も成り立たないことはいうまでもない。

臼井氏の著書に、当時どのような嘆願書が書かれていたかがいくつか紹介されている。

「(1)境内地の使用許可
 すべての土地はとりあげられてしまったが、境内地はのこされた。この境内地を、従来のように、手作物や蒔付などもして、菜園としての使用許可をあたえて欲しい。もちろん、税金は払い、村役のことも、ちゃんとお勤めをするから、何卒よろしく御配慮を願いたい、というものである。自給自足の道を講じなければならなかったことがわかる。
(2)宝物拝観の許可
 東京の日本橋と両国橋に、日光の宝物拝観が許可された、という立札がたてられた。敬神者への拝観を許可するということになっているが、宝物拝観の始まりである拝観料をどれほどとったものか、記録がないためわからないが、経済再建のひとつの方法として考え出されたものであろう。…
(3)伐木の許可
 広大な神域内の材木も伐り出されたようである。
 東照宮や二荒山神社の営繕のために、寂光神社境内の木が伐られ、それの代金四千両がこれにあてられたという記録があるが、山内の坊からも、材木の伐り出しを願う書類が出されている。…」(同上書 p.87-88)

このように、境内の樹木を売ってまでして僧侶や宮司の生活を成り立たせようとしたことが分かるのだが、こんな状態が長く続けば、風光明媚な日光の景観がとても維持できなかったと思われる。

では、この広大な歴史的空間はどういう経緯で守られたのだろうか。

臼井氏の著書に、輪王寺の寺院経済の破綻を救った人物として、彦坂諶厚(じんこう)の名前が出てくるものの、この人物が具体的にどうやって日光を守ったかについてはあまり記されていない。

ジャーナリスト・伊藤幸司氏の『がんばらない山歩き&発見写真旅』に、つぎのような解説が記されているのを見つけたのだが、この文章を読むと彦坂諶厚が新政府や日光県とどのような交渉をしたかを垣間見ることが出来る。

慶応4年(1868)4月、輪王寺護光院彦坂諶厚は、神仏分離の精神は結構であるが、日光は神仏混淆の長い歴史によって成立した所であるから、建築物に至るまでの分離は不可能であると主張して、日光県を初め東京の政府にまで出頭して意見を述べたが、容れられなかった。
 しかし日光における神仏分離は、なかなか行われなかった。江戸時代、東照宮は満願寺(輪王寺) 所有の徳川家康の廟所であり、独立した神社ではなかったことと、東照宮が創建以来、公的には満願寺の附属施設に過ぎず、神仏分離を徹底させれば、東照宮の建造物を除去することになり、政府としても躊躇せざるを得なかったことがその原因であろう。――
 つまり、神仏分離をすれば東照宮は消えてなくなってしまいますよ、ようござんすか? ということです。結局、東照宮と二荒山神社、輪王寺がそれぞれの境界を定めて2社1寺に分離した
のです。
 日本の多くの場所では、このような場合に乱暴な寺院の破壊がありました。それが日光で抑制されたのは、山奥の運命共同体的一体感のためでしょうが、「観光資源」という新しい価値観にもとづく保存の意識が強く働いていたことにも注目しなければならないようです。」
http://ito-no-kai.la.coocan.jp/300_index/311_national-park/19_nikko.html

当時35歳であった彦坂諶厚は、神仏分離令が出た直後に日光県を初め東京の政府にまで出頭して意見を述べたとあるが、彦坂はこの年に若くして日光山の総代となっている。日光山を代表して新政府や日光県と交渉したのは、彦坂諶厚のようである。
滋賀県大津市坂本の日吉大社ですさまじい廃仏毀釈が行なわれたことは、当然彼の耳に入っていただろう。
彦坂が書いたという嘆願書の内容をじっくり読みたいところだが、おそらく彼は新政府に対し、神仏分離の考え方には従うが、日光山の場合はどこまでやれば神仏分離をしたことになるのか、新政府の見解を何度も問うて時間を稼ぎ、資金不足を理由に相手の譲歩を引き出す作戦ではなかったか。

『わくわく!日光の社寺たんけん』という記事の中に『神仏分離にゆれた輪王寺』というレポートがある。
http://www.nikko-syaji-tanken.jp/futarasan_rinnoji/rinnoji2/01.html

それによると、寺と神社の境界が引かれて、「二荒山神社境内と東照宮境内とされた地域から、三仏堂、相輪橖(そうりんとう)、鐘楼、本地堂、五重塔、護摩堂、経蔵などを、輪王寺(当時、満願寺)へ移すよう命じられました」とあるが、日光山は神仏習合で仏教施設が二荒山神社や東照宮の近くにも散らばっていて、寺と神社の境界はそもそも存在していなかった。
それを輪王寺の境内と決めた場所に仏教的施設を移転せよというのだが、輪王寺は本坊が火災で焼失したり、諸大名に貸していた金が返済されず、移転の費用が用意できずに2度にわたって延期を申し出たらしいのだ。

輪王寺がこれらの施設をすぐに移転できなかったことが、結果として幸いした。
神仏分離令は各地で激しい廃仏毀釈に発展し、一方では日本文化が外国で高く評価されるに及んで、明治新政府も文化財保護の重要性を次第に認識するようになっていった。

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また近くの住民たちも、日光の歴史的景観を守るために立ち上がったという。
明治8年(1875)に町民総代の落合源七と巴快寛(ともえかいかん)の二人が中心となって県や国に対して日光山の現状維持を願い、一年余り奔走したのだそうだ。そして明治9年(1876)の明治天皇の奥羽御巡幸の際に、この二人が埼玉県草加に行在所に行って明治天皇に直訴したという。この時に明治天皇は「(日光山の)旧観を失うことなかれ」とのお言葉と、御手許金3000円を下賜されたと伝えられている。
落合源七は御巡幸のお迎えの直後に病に倒れ帰らぬ人となったようなのだが、日光総合会館玄関前には、日光の歴史的風景を守ろうと尽力した落合源七と巴快寛の二人の顕彰碑が建てられているという。
http://nikkonishimachi.web.fc2.com/yasukawa/j.html

また、明治12年(1879)には伊藤博文とともに日光を訪れた前米国大統領グラントが、日光の美観を称賛し、殿堂の保護を提唱したという。それがきっかけになって名勝・日光を守る財団のようなもの(保晃会)が作られ、152千円もの寄付が集まったことも大きかったようだ。

輪王寺三仏堂移築工事

上の画像は明治10年(1877)に三仏堂を移転した工事中のものだが、結局、輪王寺の境内に移築されたのは相輪橖とこの三仏堂だけとなり、日光は主要伽藍の大半を、維新前の堂塔のまま残されることとなった。このような大伽藍で、明治以前の姿を今も留めて例は数少ないのではないだろうか。

日光東照宮見取り図

当初の「神仏分離」のプランが一部しか実施されなかったので、日光東照宮の境内には本地堂(国重文)と経蔵(国重文)の2つの仏教施設が今も残されている。
Wikipedia「日光東照宮」によると、この2棟は東照宮と輪王寺との間で帰属について今も係争中で、財団法人日光社寺文化財保存会が管理しているのだそうだ。拝観料の配分で、ややこしい問題があるのかもしれない。

前回に続いて、明治初期の日光山の危機を書いてきた。
徳川家の聖地であり神仏習合の施設であった日光山が、戊辰戦争に巻き込まれなかったのは偶然的な要素もあるが、廃仏毀釈の嵐を乗り切ったのは大変な事だと思うのだ。
明治の廃仏毀釈によって日本の寺院の約半分が廃絶され、国宝級の文化財を数多く失ってしまっているのだが、日光山が破壊を免れたのは彦坂諶厚をはじめ、多くの人の努力が実を結んだものである。
文化財の貴重さを知るためには、文化財が護られてきた歴史を知ることも大切だと思う。
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【ご参考】このブログで、廃仏毀釈の破壊を免れたお寺の記事をいくつか書いています。良かったら覗いて見てください。

文化財を守った法隆寺管主の英断
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-80.html

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

明治期の危機を乗り越えた東大寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-84.html

明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-167.html


関連記事

紅葉し始めた日光の輪王寺と東照宮を歩く~~日光観光その2

前々回の記事で、輪王寺が明治政府の神仏分離令で大揺れに揺れ、徳川幕府という大スポンサーを失った日光の百十ヵ寺の僧侶は無給で暮らすことを余儀なくされ、80余名の僧侶たちは、満願寺(現在の輪王寺)の本坊で合宿して暮らしたことを記したが、明治4年(1871)5月にはその満願寺の本坊が全焼してしまった。その本坊の跡地が今は輪王寺の宝物館となっているようだ。

輪王寺逍遥園

最初に逍遥園に入ったのだが、この庭は本坊庭園の遺構で、江戸時代初期に小堀遠州によって作庭されたと伝えられている。
10月下旬だというのに結構紅葉していたのは嬉しかった。日光の紅葉は関西よりも2週間以上早いようだ。

東日本では最大の木造建築物である三仏堂(国重文)が50年ぶりの大修理中のために、仮囲いで覆われていたのは残念であったが、ほとんど解体された工事現場を見てもそれ程面白いものではない。完成するのは平成30年の予定だという。

今はごく一部を観ることができるだけだが、「三仏」というのは木造千手観音坐像、木造阿弥陀如来坐像、木造馬頭観音坐像で、これらは二荒山神社の御祭神にあたる日光三所権現の本地仏である。

木曽路名所図会 日光

三仏堂は今では輪王寺の中心施設であるが、明治時代初期までは二荒山神社本社の東側(現社務所)にあったようだ。
『木曽路名所図絵』巻之六に江戸時代の日光の絵が描かれているが、日光東照宮の五重塔と新宮(二荒山神社)の間に三仏堂と相輪橖(そうりんとう)があったことが分かる。
前々回の記事で記したとおり、明治に入って神仏分離令が出され、三仏堂は相輪橖とともに二荒山神社の東側から輪王寺の境内に移されたのである。

輪王寺糸割符灯籠と相輪橖

上の画像の中央にあるロケットのようなものが相輪橖(国重文)だが、これは寛永20年(1643)に慈眼大師天海が比叡山延暦寺にある伝教大師最澄建立の相輪橖を模したものと伝えられている。塔内に千部の経典を収蔵されているという。
その横には慶安元年(1648)に生糸貿易をになう糸割符(いとわっぷ)仲間が、徳川家康による生糸貿易の特権付与に対する謝意を表して東照宮に寄進した唐銅製灯籠(糸割符灯籠)もある。

輪王寺護摩堂の紅葉

相輪橖の左には大護摩堂があり、中では護摩壇に火が点っていて、ちょうど護摩祈願が行なわれているところであった。ここでは朝7時半、午前11時、午後2時に毎日護摩祈禱が行なわれていることが案内されていた。
大護摩堂の近くの紅葉が見ごろを迎えていたので、思わずシャッターを押した。

日光東照宮五重塔

輪王寺から東照宮に向かう。
日光東照宮の石の鳥居(国重文)をくぐるとすぐに五重塔(国重文)が見えてくる。
慶安2年(1649)に大老酒井忠勝が寄進した塔が落雷で焼失したために、文政元年(1818)に酒井忠勝の子孫である老中酒井忠進(ただゆき)によって再建されたという。
東照宮は徳川家康を祀る神社なのだが、その境内地に仏教寺の建造物である五重塔が建てられているのは、神仏分離を進めようとした明治政府にとっては看過できなかったに違いない。この五重塔も輪王寺に移せと命じられていたのだが、日光山の総代・彦坂諶厚(ひこさかじんこう)や日光の住民らの努力によって、三仏堂と相輪橖のみが輪王寺に移され、日光は神仏分離令の影響を最小限に止めることができたのである。

日光東照宮 神庫

五重塔の近くで昼食をすませたのち、日光東照宮の表門をくぐる。
最初に眼に入ってくるのは三神庫(さんじんこ:上神庫、中神庫、下神庫)で、いずれも国の重要文化財に指定されている。中には千人行列の装束や道具が納められているのだそうだ。
上の画像は上神庫だが、切妻にあるゾウの彫刻が目にとまった。調べるとこの絵の下絵は幕府御用絵師の狩野探幽の筆によるものだそうだ。

日光東照宮 三猿

上神庫の向かいには、神厩(しんきゅう:国重文)があり、猿の一生を描く欄間彫刻がある。有名な「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の欄間もここにある。

日光東照宮 陽明門

右に曲がると国宝の陽明門が見えてくるのだが、残念ながら、昨年から工事に入っていて完成するのは平成31年3月末なのだそうだ。輪王寺の三仏堂の工事もそうなのだが、観光の目玉であるような重要な施設の工事については、日光全体で日程を調整してずらして欲しいものである。

日光東照宮 経蔵

上の画像は陽明門の手前にある輪蔵(経蔵:国重文)で、残念ながら内部は公開されていないが、扉の奥には八角形の回転式の書架があり、昔は天海版と呼ばれる一切経数千巻が納められていたそうだが、今はお経が残されているのだろうか。

日光東照宮 本地堂

左に折れると鳴龍(なきりゅう)で有名な本地堂(薬師堂:国重文)がある。以前は狩野永真安信が描いた竜の絵があったそうだが、残念ながら昭和36年(1961)に焼失してしまい、現在の天井絵は日本画家の堅山南風(かたやまなんぷう)の筆によるものだそうだ。
絵の下で拍子木を打つと、その反響音が竜の鳴き声の様に聞こえるのが面白い。

本地堂のご本尊は、東照宮の本地仏である薬師如来で、輪蔵とともに明らかな仏教施設であり、いずれも明治の神仏分離令が出た際に、輪王寺に移すように命令されたのだが、五重塔と同様の経緯で移転を免れている。

日光ではこのような神仏習合の姿をそのまま残していることは非常に興味深いのだが、Wikipediaによると「本地堂と経蔵の2棟は東照宮と輪王寺との間で帰属について係争中であり、財団法人日光社寺文化財保存会が文化財保護法の規定による『管理団体』に指定されている」のだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%85%89%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE#cite_note-28

日光東照宮 袖塀

陽明門の両脇には花鳥の彫刻が美しい袖塀(そでべい:国宝)がある。

日光東照宮唐門

陽明門をくぐると、正面に東照宮の本社がある。本社は、唐門(国宝)と東西透塀(すきべい:国宝)に囲まれた空間に、本殿と拝殿を石の間でつないだ権現造(ごんげんづくり)の構造になっている。

日光東照宮 唐門 意匠

白い胡粉塗りの唐門の彫刻も凝っている。中央に多くの人物が彫られているが、古代中国の舜帝の朝見の様子を描いているのだという。舜帝は中国の古伝説上の聖王だが、この彫刻は家康こそが舜帝に比すべき人物であり、徳川幕府が目指すべき政治は舜帝の治世であることを意味していると理解されている。

日光東照宮 眠り猫

本社の見学を終えて、家康の墓所である奥社に向かう。
入口の坂下門(国重文)手前の東廻廊には、左甚五郎作とされる眠り猫の彫刻がある。

日光東照宮 奥宮 御宝塔

200段余りあるという石段を登って行くと、銅鳥居(国重文)や銅神庫(国重文)、鋳抜門(国重文)などがあり、一番奥に家康公の神柩をおさめた八角九段の基盤の上に立つ宝塔(国重文)がある。

奥社参道を歩いていた時には気が付かなかったのだが、陽明門-唐門-拝殿-本殿-奥宮拝殿-奥社宝塔は一直線上に並んでいるのだそうだ。この配置は、どう考えればよいのだろうか。普通は本殿の奥に墓がある事などは考えにくいことである。

東照宮配置図

作家の今井敏夫氏『二つの東照宮・久能山と日光』という論文がネットで公開されており、その点についてわかりやすく書いておられる。しばらく引用させていただく。
http://jimotononeco.jimdo.com/2013/06/18/20130618/

「日光東照宮の社殿を注意深く見学された人ならば、奇妙なことに気づかれるだろう。それは本殿の背後に扉と后拝(こうはい)、それに階(きざはし)が付いていることである。どんな神社にいっても、本殿の背後に扉がある神社などは、まず見ることがない。同じ東照宮でも、久能山、上野、和歌山、世良田、川越、日吉(坂本)、滝山などの東照宮本殿の背後には扉や后拝は一切見られない。神社の本殿は云うまでもなく、神が鎮座する場所であり、拝殿はそれを拝む所である。拝殿と本殿は東照宮の場合は〃石の間〃で隔てられているが、この隔絶は厳格なもので、例え将軍であろうと本殿内には立ち入ることはできない。
神君・東照大権現(家康)が鎮座する、その本殿の背後に扉があるということは、これは本殿に神君がいないということになるのではないのか
。つまり、本殿が筒抜けの格好になってしまう様式である。
 それでは拝殿において何に向って拝んでいるのか。…そう、家康の廟所、つまりお墓に向って拝んでいることになるわけである。また、本殿の裏側の端垣(透塀・元禄時代までは回廊があった)には北唐門があり、奥宮の廟所の前には拝殿もある。これらはすべて南向きにほぼ一直線上に並んでおり、まことに不思議な社殿の配置といえる。
 久能山東照宮と比較するとよく分かる。本殿は地形上やや南西に向って建てられているが、廟所は明らかに西を向いており、本殿とは一直線上の位置にない。本殿の背後の扉もなければ后拝もない。吉田神道(唯一神道)では、神を本地とするので、墓所を拝礼するなど忌み嫌うところから、当然の建築上の配置であった。久能山東照宮はまったく「大明神造」にふさわしい伝統的な神社的要素の強い社殿形式であった。
日光東照宮では山王一実神道による仏教色の強い社殿形式が必要であり、社殿と墓所の関係は密接にしなければ意味がない。拝殿・本殿・北唐門・廟所を正中線上に並べで参拝の形式をとり、家康の神号「東照大権現」の本地である薬師如来の本地堂を建て、経堂等を配置している。…」
 
今井氏の表現を借りると「寛永大造替の東照宮本殿は、日吉神社本殿と天台仏堂を総合して造られたもので、これこそ山王一実神道の社殿形式」ということになるが、もともと神仏習合の思想で建てられた東照宮を厳密に神仏分離などできるはずがないし、神仏分離を徹底させれば東照宮の建造物の多くを除去することになってしまう。

明治政府は東照宮の本地堂、経蔵、五重塔、鐘楼や仁王像などの移転を命じたのだが、もし政府の言いなりで移転させたり、あるいは破壊してしまっていたら、この時に日光の魅力のかなり多くを失っていたことは確実なのだと思う。
<つづく>

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唐崎神社から日吉大社、日吉東照宮を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-344.html

家康の死後の主導権争いと日光東照宮
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-349.html

戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-350.html

日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-351.html



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苔むした美しい寺・貞祥寺と島崎藤村ゆかりの中棚温泉

新海三社神社の神仏習合の景観を楽しんだのち、次の目的地である貞祥寺(ていしょうじ:0267-62-0325)に向かう。

貞祥寺は室町時代の大永元年(1521)に前山城主の伴野貞祥が、祖父と父の追善のため開基した曹洞宗の古刹である。

貞祥寺 惣門

古い参道には苔が密生していて、その先にはこの寺最古の建造物である惣門(長野県宝)がある。

貞祥寺 山門

惣門を潜ると、増長天と持国天の仁王を左右に配した茅葺の山門(長野県宝)が見える。
山門中庭は樹齢450年と言われる杉や銀杏の大木に囲まれて陽光を遮り、苔の成育に最適の環境なのだろう。地表を覆う美しい苔の上に柔らかい光が差し込む景色は素晴らしかった。

貞祥寺三重塔

山門を抜けて境内の一番奥に進んで石段を登ると、見事な三重塔がそびえ立つ。この三重塔も長野県の県宝に指定されている。

この塔についてネットで調べると、明治の廃仏毀釈で廃寺とされた信濃松原神光寺の三重塔を明治3年にこの貞祥寺に移築したということが解説されていた。

では信濃松原神光寺とはどのような寺であったのだろうか。
minagaさんのホームページで松原神光寺について詳しく調べられているが、それによるとこの寺は松原湖*南東の長湖(ちょうこ)に突き出た半島上にあり、松原大明神(現在の松原諏方神社)の別当寺で、佐久地方南部の信仰の中心であったようなのだ。その歴史は古く、天長3年(826)慈覚大師の開基とも伝えられており、5ヶ寺の末寺があったという。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/ato_sinkoji.htm
*松原湖:長野県南佐久郡小海町にある湖。猪名湖(いなこ)・長湖・大月湖という3湖の総称であるが、一般には3湖の中でも最大の猪名湖単体を指す。

神光寺地図

神光寺が存在した場所については、松原諏方神社のホームページにあるアクセスマップをみると、神社と寺の位置関係がよく分かる。
http://matsubarasuwajinja.com/access/

また神光寺の末寺であった海尻山医王院薬師寺のホームページによると、
「『神』という名が寺名に付いているとおり神と仏とが互いに融和し、ともに信仰の対象とされる神仏習合の道場でありました
 甲斐武将の武田信玄の厚い帰依をうけた松原諏方神社の別当寺として、また当院をはじめとする五ケ寺の本寺として、佐久地方南部の信仰の中心でありました。とくに武田信玄と信濃神光寺とには深い関係があったようです。戦勝祈願のために『三十三人の僧侶を集めて、三十三部の法華経を読誦させた』『神馬・神馬銭の寄進した』などの記録が、奉納された祈願文から見て取れます。
 しかし、江戸時代より明治に亘り四度の法難に遭い、徐々にその力を失っていきます
。…」と書かれている。下の画像は医王院薬師寺のホームページで紹介されている寛政3年(1791)の神光寺の古地図で、多くの堂宇が描かれている。
http://shinshu-iouin.jp/history

神光寺

神光寺は神仏習合の聖地であったのだが、この寺が力を失った原因となった「四度の法難」とはどのような出来事であったのか。この点について医王院薬師寺のホームページには、明治期の法難(廃仏毀釈)以外のことが何も書かれていないのが気になる。

再びminagaさんのホームページに戻ると、「四度の法難」にあたる具体的な出来事が記されている。
① 文政12年(1829)に松原村で大火があり、三重塔、本地堂、十王堂、三王堂、惣門、神殿、阿弥陀堂、観音堂を焼失したこと。
② 弘化2年(1845)には三重塔再建の工作小屋から出火して、塔婆再建用材や仮本地堂、本堂を類焼したこと。(三重塔は嘉永2年[1849]に完成)
③ 文久3年(1863)から本堂の再建が始まるが、慶応元年(1865)暴風雨のため建築途中で倒壊。
④ 明治元年(1868)神仏分離で住職は還俗し、再建工事が頓挫し、寺は廃絶となる。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/ato_sinkoji.htm

短い期間によくこれだけ悪いことが重なったものだと誰でも思うところだが、たとえ火事による焼失がなかったとしても、明治元年の廃仏毀釈でこの寺が破壊されていた可能性はかなり高いと思われる。

明治元年の神仏分離で神光寺の第七十九世住職・光俊(こうしゅん)は、僧侶の職を辞することを強いられ、明治2年(1869)に藤島一學氏と改名して神職となり、本尊の薬師瑠璃光如来は末寺である海尻山医王院薬師寺に遷され、三重塔は明治3年(1870)に金112両2分で貞祥寺に売り渡されたというが、塔の譲渡代金についてはどう評価すればよいのだろうか。

正木直彦

以前このブログで紹介したが、東京美術学校の校長を明治34年(1901)から昭和7年(1932)まで31年間も勤めた正木直彦が東京美術学校在職中に語った講話などを記録し校友会雑誌に連載された記事を抄録した『十三松堂閑話録』のなかに、同じ時期に奈良の県令(今で言えば知事)であった四條隆平が興福寺の五重塔(国宝)が目障りであるとして入札払にかけた際に15両で落札した人物がいたことが記されている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-176.html
結局15両で五重塔を落札した者は、足場を掛けるのに費用がかかるために放置してしまったので、県令は柴を積んで日を期して焼き払おうとしたのだが、町家から猛烈な反対に会って中止となり、そのおかげで国宝の興福寺の五重塔が今に残された経緯にある。

当時の1両が現在価値にしていくらであるかは数千円から10万円まで諸説があるようだが、いずれにしてもこの時期は、古都奈良を象徴する五重塔ですら二束三文の価格で取引されたことを知るべきである。神光寺の三重塔もかなり安い価格ではあったが、奈良興福寺の価格と比べれば、貞祥寺は良心的な価格で購入したということになる。

蜩(ヒグラシ)の透き通ったセミの鳴き声を聴きながら、貞祥寺の石段を下りていくと、境内中に島崎藤村が小諸義塾の教師をしていた頃の居宅が移築されている。

島崎藤村旧宅

この建物は、もともとは小諸藩士の居宅であり小諸城の大手門の近くにあったそうなのだが、藤村が明治32年に小諸に赴任してからの6年間、藤村は家族とともにこの家で過ごしたのだそうだ。
その後この建物は大正9年に個人邸宅の一部として買われて佐久市大字前山南に移転され、そして島崎藤村生誕100年を記念して昭和49年にこの場所に移設されたのだという。

事前に良く調べておけばよかったのだが、島崎藤村旧宅の閉館時間が午後3時30分と随分早かったために中を見学することが出来なかったのは残念だった。
中には8畳の書斎と居間、和室2室があり、藤村自筆の書や掛軸などがあるという。
https://www.city.saku.nagano.jp/kanko/spot/meisho_shiseki/shimazakitoson.html

貞祥寺をあとにして、宿泊先の中棚旅館に向かう。

水明楼

この旅館の敷地の中に、島崎藤村が小諸義塾の教員であった頃、良く訪ねたという水明楼がある。

千曲川のスケッチ

『千曲川のスケッチ』のその四には、こう記されている。今ではネットの『青空文庫』で誰でも読むことが出来る。

「…八月のはじめ、私はこの谷の一つを横ぎって、中棚の方へ出掛けた。私の足はよく其方(そちら)へ向いた。そこには鉱泉があるばかりでなく、家から歩いて行くには丁度頃合の距離にあったから。中棚の附近には豊かな耕地も多い。ある崖の上まで行くと、傾斜の中腹に小ぢんまりとした校長の別荘がある。その下に温泉場の旗が見える。林檎(りんご)畠が見える。千曲川はその向を流れている。……この温泉から石垣について坂道を上ると、そこに校長の別荘の門がある。楼の名を水明楼としてある。この建物はもと先生の書斎で、士族屋敷の方にあったのを、ここへ移して住まわれるようにしたものだ。閑雅な小楼で、崖に倚って眺望の好い位置に在る。……水明楼へ来る度に、私は先生の好く整理した書斎を見るのを楽みにする。そればかりではない、千曲川の眺望はその楼上の欄(てすり)に倚りながら恣(ほしいまま)に賞することが出来る。」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1503_14594.html

木村熊二

この文章の中で出てくる「校長」というのは、小諸義塾の創立者である木村熊二で、中棚に別荘を持っていた。それが水明楼である。その木村熊二が、この地の湧水の治療効果に気づき、明治31年に開湯に協力したのが中棚温泉である。

藤村は水明楼に足繁く通い、中棚温泉にも何度も行ったようである。『千曲川のスケッチ』にはこう書かれている。

島崎藤村

「…私は中棚の温泉の方へ戻って行った。沸し湯ではあるが、鉱泉に身を浸して、浴槽(よくそう)の中から外部(そと)の景色を眺めるのも心地(こころもち)が好かった。湯から上っても、皆の楽みは茶でも飲みながら、書生らしい雑談に耽(ふけ)ることであった。林檎畠、葡萄棚(ぶどうだな)なぞを渡って来る涼しい風は、私達の興を助けた。」

また『千曲川旅情の歌』の一節、
千曲川いざよふ波の        岸近き宿にのぼりつ
 濁(にご)り酒濁れる飲みて   草枕しばし慰む」
で詠われている「宿」はこの中棚旅館のことである。

中棚荘 

上の画像が中棚旅館の入口で、駐車場はさらに下ったところにある。

この旅館の温泉は、石段を50段近く登らなければ行けないという難点はあるが、緑に囲まれていて小鳥の囀りを聴きながら、のんびりと湯舟に浸かるのは最高の気分であった。

中棚荘食事

食事処はレトロな大正時代の建物で、夕食も朝食も地元で採れた旬の素材を活かした体にやさしいものばかりで、とても美味しくいただけたし、接客も、温泉の泉質も素晴らしくて大満足の一日であった。
<つづく>
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明治時代に参政権を剥奪された僧侶たち
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-126.html

野球の殿堂入りした正岡子規の野球への愛情と奈良の旅行
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-182.html

明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-167.html

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

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智識寺、荒砥城址のあと、修験道の聖地であった戸隠三社を歩く

長野旅行の2日目は中棚温泉から千曲市にある智識寺(026-275-1120)に向かう。
この寺の縁起は古く、寺伝では天平年間(729~749)に冠着山(かむりきやま)の東麓に創建され、その後の移転あと、鎌倉時代に源頼朝の帰依により現在の場所に移ったとされている。

智識寺

上記画像は室町時代後期に建立されたとみられる大御堂(国重文)である。
本尊は平安時代末期に造られた木造十一面観音立像(国重文)だが、残念ながら中に入ることは出来なかった。

智識寺を出て上山田温泉街に入り、途中で左折して急坂を登っていくと千曲市城山史跡公園となっている荒砥城(あらとじょう)跡(026-275-6653)に着く。

荒砥城跡

この城は、当地一帯を治めていた村上氏の一族である山田氏により、大永4年(1524)に築かれたと伝えられ、郭(くるわ)が連なるように並んでいることから「連郭(れんかく)式山城」と呼ばれていて、村上氏の本城である葛尾城の支城としての役割を果たしていたようだ。

葛尾城の城主であった村上義清は、天文17年(1548)の上田原の戦いや天文19年(1550)の戸石城の戦いで、武田晴信(のちの信玄)に勝利し領地を守ったのだが、天文22年(1553)に武田信玄に攻められて葛尾城が落城すると、荒砥城も城主を失い、山田氏は滅亡してしまう。
領地奪還を目指す村上義清に長尾景虎(のちの上杉謙信)が加勢して川中島の戦い(1553~1564)がはじまり、12年に及ぶ戦いを経て荒砥城は上杉氏の治める城となる。
しかし、海津城の副将であった屋代秀正は上杉氏に背き、海津城を出て荒砥城に篭ったのだが、天正12年(1584)に上杉軍に攻められて荒砥城は落城し、城としての役割を終えたという。

荒砥城石垣1

上の画像は本郭(ほんかく)の石垣を写したものだが、画像左にある門に入ると右に折れて狭い道になっている。
下の画像は門に入った出入り口付近を撮ったものだが、石垣で視界が狭められて、小さな城ではあるが簡単に攻め落とされない工夫がなされている。

荒砥城石垣2

天候に恵まれて、本郭に登ると千曲川の雄大な流れと上田市方面が良く見えた。西には遠く北アルプス・後立山連峰の山も望むことができたのもラッキーだった。

荒砥城からの眺め 南

荒砥城から次の目的地である戸隠三山に向かう。11時半ごろに到着したので、早めの昼食を取ることにした。戸隠はそばが特に有名なので戸隠神社宝光社の近くの築山という蕎麦屋に入った。
前日の昼食は小諸そばで、二日連続蕎麦の昼食となってしまったのだが、戸隠に来たら「日本三大そば」に選ばれている蕎麦を食べないわけにいかないと思って予定に入れていた。

戸隠蕎麦

画像ではわかりにくいかもしないが、一口ぐらいの量ごとに束ねて5~6束を一つのざるに蕎麦が並べられて出てくる。これを戸隠では「ぼっち盛り」と呼ぶのだそうだ。
なぜこのような盛り方をするのかについて、戸隠神社のホームページにこう解説されている。
「ぼっちに盛り分けるためには、切れたり折れたりしたそばではうまくいきません。不揃いなそばは、盛り分ける途中ではずされます。見目も味もよいそばだけが、ざるに盛られて供される、いわばハレの料理というわけです。ぼっち盛りは、戸隠そばが神様(権現様)へのお供えや、高貴な方へのおもてなし料理として地域に定着してきたことを物語っているのです」
http://www.togakushi-jinja.jp/shrine/history/togakushisoba/
いつものように大盛りを注文したのだが、蕎麦の香りが楽しめて、しっかりと歯ごたえがあってなかなか旨い蕎麦だった。

ここで少し戸隠の歴史に触れておこう。
平安時代から鎌倉時代にかけての戸隠についてWikipediaにはこう書かれている。
「平安時代後期以降は、天台密教や真言密教と神道とが習合した神仏混淆の戸隠山勧修院顕光寺として全国にその名を知られ、修験道場戸隠十三谷三千坊として比叡山、高野山と共に『三千坊三山』と呼ばれるほど多くの修験者や参詣者を集めた。当山(延暦寺山門派)の別当職であった栗田氏が鎌倉期以後は山麓の善光寺(園城寺寺門派)別当をも世襲したこともあって両寺は関連を強め、参詣者は一度に両方を共に参詣することが多かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E9%9A%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE

このように、古くから戸隠は神仏習合で修験道の聖地であり、「三千坊」と言われるほどの多くの寺院があったのである。
治承年間(1180年前後)に後白河法皇が編んだ歌謡集である『梁塵秘抄』のなかに、
「310:(霊験所歌六首)
四方の霊験所は、伊豆の走井、信濃の戸隠、駿河の富士の川、伯耆の大山、丹後の成相とか、土佐の室生と讃岐の志度の道場とこそ聞け。」
http://homepage2.nifty.com/zaco/text/ko/ryojin.txt

ところが、戸隠は戦国時代に武田信玄と上杉謙信との争いの戦火に巻き込まれてしまう。
昭和12年に出版された『長野市郷土資料』にこう記述されている。
「永禄元年(1558)、信玄川中島攻略と信濃一国の掌握を戸隠山中院に祈願す。中院光如坊これを取次ぐ。(その願状はいま神社の宝物)上杉はこれを非常なる脅威とし大いに怒り、永禄2年(1559)6月19日戸隠山を侵す。一山の衆徒、難を鬼無里小川に避く。つづいて武田の勢力北信濃に及び、上杉兵を引く。一山の衆徒帰山。謙信は信玄の勢力を永久に牽制せんとし、永禄7年(1564)8月再び戸隠に兵を出す…」とその後も熾烈な戦いが繰り返されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1054730/75

戦火を避けるために僧侶たちは戸隠から避難して、30年間小川郷筏ヶ峰(現小川村)という場所に移り住んだのだそうだが、上杉・武田両雄が死んだのち戸隠に戻ってみるとその荒廃はひどく、大講堂や主要な建物が大破し堂塔は倒れていたと記されている。

江戸時代に入り、徳川家康から朱印高千石を与えられて地位は安定したものの、戸隠山顕光寺は江戸幕府によって日光山御門主輪王寺宮の直支配とされ、修験者は天台宗の僧侶となり、同時に境内の大整理が行われたという。
その結果、山伏が山中で修行を行ない各地の霊山を巡歴する修験者は次第にその色彩を弱めて、山伏は霊山の山麓に定住するようになり、中院、宝光院の門前には院坊が建ち並び、商人や職人などで賑わうようになって、戸隠は修験道場から門前町へと変貌していったという。

では江戸時代に戸隠にいくつの寺が存在したのか。
前掲の『長野市郷土資料』によると、江戸時代初期には、本院(奥の院)12坊、中院24坊、宝光院17坊の53ヶ寺であったのだが、安永9年(1780)に本院・中院と宝光院が対立して寺社奉行に提訴される事件があり宝光院の17坊が追放され、明治の初めに本院の12坊の移転などがあり、最終的には中院21坊、宝光社16坊の37ヶ寺となったようだ。

信州戸隠山惣略絵図

江戸時代のいつ頃の絵図であるかは不明だが、『信州戸隠山惣略絵図』という木版画がある。
この絵の中に多くの寺が描かれているのがわかる。良く見ると寺の名前まで記されている。

しかしながら、明治初年の太政官・神祇官の厳達により神仏混淆が禁じられ、僧侶は復飾還俗を命じられ、仏像、仏具、仏画、経典、山伏道具から、塔やお堂などが徹底的に破壊されて寺院は廃され、戸隠山顕光寺の奥の院、中院、宝光院は戸隠神社奥社、中社(ちゅうしゃ)、宝光社と改称されたのである。

戸隠神社宝光社鳥居

食事を終えて、近くの戸隠神社宝光社に向かう。

戸隠神社宝光社石段

最初の鳥居のさらに奥には、杉の古木に囲まれて、270余段の長い石段がある。正直なところ、この石段を登るのはきつかった。

戸隠神社宝光社社殿

登りきると荘厳な社殿が建てられている。この建物は戸隠神社の中では最も古く、文久元年(1861)に建てられたものだという。
案内板の説明には、
「神仏習合の面影を残す寺院建築の様式を取り入れた権現造で、拝殿周りは宮彫師北村喜代松の彫刻による見事な龍・鳳凰・麒麟・唐獅子牡丹・象の木鼻・十二支などで飾られている。
 間口は5間、奥行7間、屋根は入母屋造、妻入、銅板葺である。この奥行の深い構造は社殿建築では極めて例が少なく貴重な遺構と言える。」
と書かれているのだが、この建物がもともとは寺院の建物であったことを意図的に伏せている表現になっている。廃仏毀釈が起きてからもうすぐ150年になるのだから、そろそろ明治政府がやったとについて国民に真実を伝えてほしいところである。

戸隠神社宝光社社殿彫刻

案内板に紹介されていた社殿の彫刻は確かに見ごたえがあった。
『週刊長野記事アーカイブ』の記事によると、宝光社社殿の麒麟の彫刻が、キリンビールのマークの出所になったという説があるようだ。
http://weekly-nagano.main.jp/2011/04/0638-1.html

戸隠神社中社鳥居

次に中社(ちゅうしゃ:026-254-2001)に向かう。
とりいの後ろにある大きな杉が、樹齢800年とも900年とも言われるご神木の「戸隠の三本杉」である。

戸隠神社中社狛犬

なかなか迫力のある狛犬なので思わずシャッターを押した。

戸隠神社中社社殿

社殿(上画像)で参拝を済ませた後「戸隠神社宝物館」に入る。
鳥居の額や御神鏡や掛軸などいろいろな展示があったが、運慶作と伝わる毘沙門天像の頭部があり、頭頂部から真っ二つに割られたような傷痕があるのを見て釘付けになってしまった。撮影禁止なので紹介することは出来ないが、こんな素晴らしい仏像を、そのままの姿で残して欲しかったと思うのは私だけではないだろう。

信州戸隠中院拡大

上の画像は先程紹介した『信州戸隠山惣略絵図』の中社付近を拡大したものだが、鳥居の近くに多くの寺があったことが確認できる。

先ほど、明治の初期に戸隠には中院21坊、宝光社16坊の37ヶ寺が残ったことを書いたが、これらのうち35の施設が宿坊として今も営業していることが次のURLを見ればわかる。
http://togakushi-jinja.jp/stay/index.html

旧徳善院 極意家神殿庫裏

この中でただ一つ、昔の外観に近い状態で残されているのが「宿坊極意(旧徳善院)」である。
この建物は文化12年(1815)に再建されたもので、平成17年に国の登録文化財に指定されているのだが、先ほど紹介した『信州戸隠山惣略絵図』の中社付近の拡大図の右端に『徳善院』としっかり描かれている。


次は奥社に向かう。車は参道の入口の駐車場に停めるしかないのだが、人気スポットであるだけに観光客が多かった。

戸隠神社奥社鳥居

上の画像は参道入口の鳥居だが、ここから隋神門まで約20分歩く。美しい緑に囲まれて、小鳥の囀りを聴きながら歩くことは楽しい。

戸隠神社奥社隋神門

これが隋神門だが、明治の廃仏毀釈の前はこの門は仁王門と称していた。
当然寺を守るために、かつては2体の金剛力士像が安置されていたのだが、この像は善光寺の近くの寛慶寺という浄土宗の寺に移されて長野県の県宝に指定されているようだ。「長野市文化財データベース」にその写真が出ている。
http://bunkazai-nagano.jp/modules/dbsearch/page1033.html

戸隠神社奥社参道杉並木

隋神門を過ぎた辺りから見事な杉並木が続いている。これらの杉の樹齢は400年から1000年あるというが、長い間人々の戸隠信仰が続いてきたからこそ、この素晴らしい景観が守られてきたのであろう。

戸隠山奥院拡大

再び『信州戸隠山惣略絵図』を拡大して奥社の参道あたりを見てみると、この杉並木のあたりに多くの寺院が描かれている。
これらの寺院がどういう経緯でなくなったかをネットでいろいろ探していると、岩鼻通明氏の『観光地化にともなう山岳宗教集落戸隠の変貌』という論文が目に留まった。そこにはこう解説されている。

「明治維新の宗教政策により神仏習合が禁止され、明治4年に戸隠山顕光寺は戸隠神社と改められ、…一山衆徒は僧形を捨て神職となり社中と称し、また戸隠講聚長を名乗るようになった。しかし1000石の領地は没収され、神社の参道と境内以外は国有地となったため、奥社の社中はそれぞれ里坊のあった中社と宝光社へ移転した。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/33/5/33_5_458/_pdf

抵抗はそれなりにあったとはおもうのだが、戸隠では比較的スムーズに神仏分離が行なわれたようだ。岩鼻氏の前掲の論文にはこう記されている。
「戸隠においては…修験道的色彩は早い時期から希薄となり、農民信仰の移行が速やかに進んでいた。
…このように修験道的色彩が薄れていたため、他の山岳宗教とは異なり、神仏分離や明治5年の修験道廃止令の際にもさほど大きな混乱は生じなかったものと考えられる。実際に戸隠の場合、その対応はスムーズであり、いち早く戸隠山顕光寺から戸隠神社へと変換し、自ら仏教関係のものを撤去したために廃仏毀釈の被害はほとんど受けなかった
 他地域の山岳宗教集落では伯耆大山寺のごとく寺院のまま存続したために廃仏毀釈によりほとんどの院坊が廃絶し、山岳宗教集落としての機能を失った例や共同体内部での神仏分離をめぐる対立により機能が衰退した例が多くみられる。ところが、戸隠においては、社家の栗田氏が対立し離山した以外は、社中の共同体的結合は強固であり、山岳宗教集落の存続に大きく寄与した。」

このようにして戸隠の人々は、生き残るために神仏分離を受けいれて、自ら仏像などを捨てたということのようである。
以前このブログで書いたが、奈良県吉野の金峯山寺の蔵王堂は明治初期に神社とされたのだが、明治19年に仏教施設として認められたものの、山頂にあった多くの寺が失われた。
また同じ時期に神社にさせられた山形県の羽黒権現、香川県の金毘羅大権現、福岡県の英彦山権現などの修験の寺院は二度と寺院に戻ることはなかったし、多くの宿坊は衰退して失われていったのである。戸隠が明治政府に抵抗していれば、もっと多くのものを失っていたことだろう。

杉並木をしばらく歩くと石段があり、ここからの登りはかなりきつかった。

戸隠神社奥社

ようやく奥社に辿りついて参拝を済ませてきたが、コンクリート製の神殿は雪崩の多いこの場所ではやむを得なかったのだろう。調べると明治以降4度も雪崩で奥社の本殿が倒壊してしまっている。現在の本殿は昭和53年(1978)に奥社本殿・休憩所が雪崩で流失したため、その翌年に岩盤をうがちコンクリート製の神殿を中に納める方式で建てられたものだという。
http://weekly-nagano.main.jp/2011/04/0627.html

戸隠は時間をかければまだまだ観る所がありそうだが、予定の時間を過ぎたので帰途を急ぐことにした。

コットンスノー

この日の宿は、戸隠からは少し距離があるが、白馬村落倉高原のコットンスノーというペンションを予約していた。

コットンスノー夕食

夕食にはオーナーが育てた無農薬野菜や地元の食材をふんだんに使って、美味しい料理が食べきれないほどのボリュームで出てきた。パンもオーナーの焼いたパンというこだわりが嬉しい。前日から和食ばかりだったので、洋食の宿を選んだのだが正解だった。

建物はやや古いが、食事を楽しみながら気さくな奥さんとの会話も弾んで、旅の疲れが吹き飛んだ。
<つづく>
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【ご参考】

明治の神仏分離で修験道の聖地は徹底的に叩かれ、千年以上の歴史のある聖地を守るために、大変な苦労がありました。
興味のある方は覗いてみてください。

一度神社になった国宝吉野蔵王堂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-85.html

明治初期までは寺院だった「こんぴらさん」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html

「こんぴら」信仰と金刀比羅宮の絵馬堂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-70.html

数奇な運命をたどって岡山県西大寺に残された「こんぴらさん」の仏像
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-71.html

修験道の聖地・龍泉寺から天川弁財天神社、丹生川上神社下社を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-396.html

明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-399.html

関連記事

白馬落倉高原の風切地蔵、若一王子神社、国宝・仁科神明宮などを訪ねて

白馬落倉高原の朝を迎えて、いい天気なので朝食までの時間に高原の散歩に出かけることにした。ペンションで貰った地図を片手に歩き始めたのだが、野鳥のさえずりや川のせせらぎの音を聴き、景色を楽しみながら歩く高原の散歩は心地の良いものである。

白馬岳の雪渓

しばらく東に進んでいくと、白馬岳の大雪渓が見えてきた。訪れた日はまだ梅雨明け宣言が出ていなかったのだが、こんなにきれいに晴れ渡った空を背景にして、白馬連峰の写真が撮れたことは幸運だった。

白樺通りを一回りして433号線に戻ると、「風切地蔵」があり、何気なく立ち寄ってみると、案内板に興味深いことが記されていた。

風切地蔵

「農作物を風や病気や虫から守るということは、農民が何千年来かにわたって持ちつづけてきた悲願であった。風害や病虫害を恐れるのは、今日にあっても同じことであるが現代人はもう神仏にすがることを忘れてしまっている。
 かつては、風祭・虫送り・鳥追いなどは、いずれも農耕儀礼の一種で、近年までは庶民信仰という形の中で、年中行事ともなっていた。風切地蔵(風除地蔵)は道祖神や庚申様が、何でも聞き届けてくれる神様となっているように風害防除というだけでなく風邪や疫病をもたらす悪霊も、追い払ってくれという祈願にもこたえてくださったもののようである。
 白馬村内には、何体かの風切地蔵が存在しているが、西方白馬連山の北橋にある大日岳と東方の野平武士落から鬼無里村に通ずる柄山峠にあるものはここ(落倉)のものを中にして一直線上に置かれている。白馬村には、鎌を立てて風を断ち切るという風習も残っているが昔人の風から農作物を守り、災厄から身を守る切なる願いを知って心が痛む。」

白馬村に3つの風切地蔵があり、それらが1直線状に並んでいるというのだが、自宅に帰ってパソコンで調べると、このことについて詳しく調べている人が何人も見つかった。

風切地蔵レイライン

例えば内田一成氏のブログによると、この直線は冬至の日の出を指し示す直線上にあり、「地元の古老によれば、それが『結界』を形作っているおかげで、昔から風水害や冷害などが少ないと伝えられている」のだという。
http://obtweb.typepad.jp/obt/2006/07/1---super-mappl.html

戸隠神社奥社参道杉並木

そして、さらに面白いのは、前回の記事で紹介した戸隠神社奥社につながる杉並木の長い参道は、風切地蔵の並ぶ直線と平行なのだそうだ。一体誰が、何のために、またどうやって、冬至の太陽の登る方向に参道を作り、風切地蔵をその参道と平行な直線上に設置したのか、非常に興味深いところである。
おそらく古来からの太陽信仰と無縁ではないだろうし、もしかすると修験道のルーツにもつながるものがあるのかもしれない。

戸隠奥社参道

いくら科学が進歩しても、人間の力では解決できないことが、今も数えきれないくらいに存在する。地域の人々が力を合わせれば最悪の事態を防ぐ道があるのにもかかわらず、みんなの価値観がバラバラで、それぞれが好き勝手に行動するのではそれは不可能だ。
昔の日本人は、地域の人々が自然災害に遭わないよう、みんなが幸せに暮らせるようにと、メンバーが心を一つにして祈る世界が存在した。その祈りがあったからこそ、地域の人々とのつながりを強めて、もし災害が起きてもみんなで助け合う価値観を共有できたのではなかったか。
風切地蔵の案内板に、「現代人はもう神仏にすがることを忘れてしまっている」と書いてあったが、何でもお金で解決しようとする都会の多くの日本人は、何か大切なものを失ってしまってはいないだろうか。

そんな事を考えながら宿に戻ると、オーナーがパンを焼く香ばしい匂いがした。

コットンスノー朝食

これがコットンスノーの朝食のメニューだが、パンはもちろんおかわり自由で、ジャムもオーナーが昨晩造ったものだという。昨夜ここに宿泊したのは私達1組だけだったのだが、そのためにジャムまで作って用意していただいたのが嬉しくて、無理を言って両方のジャムを安く分けていただいたのだが、チェックアウトするときに、「主人からのプレゼントです。お昼にどうぞ」と手造りのハンバーガーまで用意して下さった。
至れり尽くせりのサービスに感激してしまった。

お世話になったコットンスノーのママにお別れをして、信州旅行3日目の最初の目的地である神明社(白馬村神城)に向かう。

神明社の創建時期は不明だが、弘安6年(1286)の銘のある懸仏2面(長野県宝)が現存しており、国重文の本殿は棟札から天正16年(1588)に建築されたものであることが判明している。
古くから沢渡(さわと)の鎮守として信仰され、今も村の信仰の中心になっているという。

予めよく調べておけばよかったのだが、昨年の11月に長野県の北部でかなり大きな地震があり、その時境内に亀裂が入って、国の重要文化財である神明社の本殿、諏訪社本殿を守る覆屋の柱が変形して大きく傾き、文化財に少しの被害が出たために修理工事が行われており、境内は立入禁止となっていた。
次のURLに地震直後の神明社の画像がある。
http://news-sv.aij.or.jp/hokuriku/2event/2014/jishin2.pdf

神明社

せっかく来たのだからとお願いして、覆屋をカメラに収めてきたが、国重文の神明社本殿と諏訪者本殿はこの中にあって観賞することはできなかった。

神明社からの白馬連峰

神明社の参道を降りていくと、白馬連邦の山並みが綺麗だったので思わずシャッターを押したのだが、残念ながら山の名前が良く分からない。
.
神明社参道

自宅に戻ってGoogle Earthで確認すると、偶然かもしれないが、この神明社の参道の方向も、戸隠奥社の参道や風切地蔵の指し示す方向と同じのようだ。

次の目的地は大町市にある若一(にゃくいち)王子神社(0261-22-1626)である。

Wikipediaによると、
「鎌倉時代、安曇郡一帯を治める国人領主の仁科盛遠が紀伊国熊野権現に詣でた際、那智大社第五殿に祀られる若一王子を勧請し、以降『若一の宮』(若一王寺、王子権現)と称されるようになった。その際、盛遠は後鳥羽上皇の知遇を得て西面武士として仕えた。仁科氏が主家の武田氏とともに滅亡すると、織田信長以後の天下人は安曇郡を歴代松本城主の所領とし、松本藩の庇護を受けるようになった。
明治の神仏分離の際に、寺号を廃して現社名に改称した。…」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E4%B8%80%E7%8E%8B%E5%AD%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE

この神社も明治の神仏分離以前は「若一王寺」という名の寺であったのだが、注目すべきは、廃仏毀釈によって「神社」とされながらも寺の施設である三重塔と観音堂を残して、神仏習合の姿を今に伝えている点である。

若一王子神社鳥居と三重塔

上の画像が若一王子神社の全景だが、江戸時代まではこのような景色が全国各地にあったはずである。
できれば車はあまり写したくなかったのだが、この日はたまたまこの神社の例祭の1週間前で、近隣の方が大勢集まって境内の草刈りの奉仕をしておられたために、三重塔の周囲は車が何台も停まっていたので、車が写ることは仕方がなかった。

若一王子本殿

この神社の本殿は戦国末期の弘治2年(1556年)に仁科盛康により造営されたもので、国の重要文化財に指定されている。拝殿は昭和50年(1975)に伊勢神宮の旧社殿の一部を譲り受けたものだという。

若一王子神社観音堂

本殿の東に長野県宝に指定されている観音堂がある。その内陣の中央の厨子に十一面観音坐像御正体(みしょうたい:長野県宝)があるのだが、その右隣には廃仏毀釈以前に本尊であった平安時代の仏像を納めた小さな厨子がある。ネットで探すと、その無残な姿に変貌してしまった仏像の画像を容易に見つけることが出来るが、この画像を見てさすがに私もショックを受けた。

若一王子神社 観音堂 旧御本尊

もともとはこの仏像が観音堂の御本尊として中央の厨子に安置されていたのである。詳しく知りたい方は、次のURLに詳しくレポートされているので参考にしていただきたい。
http://koma-yagura.blog.so-net.ne.jp/2013-05-16

実のところ信濃国で最も激しく廃仏毀釈が行われたのは松本藩だった。にもかかわらず、なぜ若一王子神社は観音堂と三重塔を守り通せたのかと誰でも思う。

長野県の解説によると、
「『信濃日光』として知られていた若沢寺(波田町)をはじめ無住・廃寺となった寺が全寺院の74%にも達した(『長野県史』通史編7)。そうした中で、若一王子神社では、三重塔は『物見の高楼』、観音堂は『神楽殿』とされ(『明治28年北安曇神社明細帳』)、仏具を移転撤去し、建物の名前を変更することで破却を免れたようである。また、寺と神社に明確に区画すれば破却されないというので境界石を置いて免れたともいわれる(『大町町史』第4巻)
http://www.pref.nagano.lg.jp/kyoiku/kyoiku/goannai/kaigiroku/h23/teireikai/documents/930-2.pdf

簡単に書かれてはいるが、実際には松本藩とは相当激しいやり取りがあったはずである。

仏教遭難史論

このブログで何度か紹介させていただいた羽根田文明氏の『仏教遭難史論』の本記(13)に松本藩の廃仏状況がかなり詳しく記されており、それによると、明治3年8月に松本藩は廃仏の藩令を発し、寺院は悉くこれを破却し、仏像仏具はみな焼き捨て、僧侶は、すべて帰農せしめんとしたという。

松本藩の藩吏が大町市に出張し、54ヶ寺と檀徒総代と名主らを集めて、廃寺と帰農を伝達したのは明治4年(1871)3月のことだという。この時に彼らは衆人の面前で何度も僧侶を辱しめ、だから帰農せよと迫ったのだが、その席で敢然と命令に抵抗した僧侶が二名いたのである。
羽根田氏の著書から、霊松寺の達淳和尚の発言を引用する。
「…大町の巨刹、曹洞宗、霊松寺住持達淳和尚出て曰く、全体貴官方は何所よりの命を帯びて、廃寺、帰農を促さるるや、太政官よりか、また何時、何所よりかかる命令が出たか、特に寺院には、各自、其宗本山との、密接不離なる関係あり、このこと果たして、各宗本山との、協議を遂げられたのかと詰問し、拙僧が、帰農すると否とは貴官に返答する義務なし、むしろ貴官が、命令の出所を、明了にせられたしとて、あくまで役人を詰責し、かえって和尚が、翻弄したという。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/106

この席で廃寺に抵抗する発言をした大澤寺、霊松寺は、ともに廃寺を免れたそうだが、もしこの2ヶ寺が反対の発言をしていなければ、おそらく寺は破却されていたことだろう。
若一王寺はこの席では発言しなかったようだが、おそらく檀徒らが抵抗して知恵を絞ったからこそ、観音堂も三重塔も残すことが出来たのだと思う。

戸田光則

松本藩の廃仏毀釈を積極的に推進した藩知事の戸田光則*は、明治4年7月の廃藩置県で藩知事が廃官となって東京に移り、それ以降、廃仏・廃寺の藩令はうやむやになったようだ。
もしも、もっと早く廃藩置県が行なわれていれば、長野県に限らず、全国でもっと多くの文化財が残されていただろうが、廃仏毀釈で多くの文化財が灰燼に帰してしまった原因は寺院側にもあったと思われる。霊松寺の達淳和尚のような気骨のある僧侶がもっと多くいれば、この時期にわが国の大量の文化財を失うことはなかっただろう。
*戸田光則:信濃松本藩の最後の藩主(第9代)。戸田松平家14代。上画像

羽根田文明氏は、こう纏めておられる。
各藩とも、廃仏に、廃寺願書の提出を迫っているのは、これが朝旨*でないからのことである。故に少し強硬に出て、廃寺の朝命を拝するまで、現状を維持せんと、頑張ったら、廃寺の厄は免れたのである。然るに当時、僧侶の意志、薄弱、護法、扶宗の念、皆無であったから、藩吏の奸策に乗り、廃寺の難に罷ったのは、遺憾の極みであった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/107
*朝旨:朝廷の意向

このように、激しい廃仏毀釈のあった藩では、多くの場合、寺から「廃寺願書」を提出させてから、仏教施設や仏具類を破壊したようなのである。こんなものを提出してしまっては、寺院側が廃仏毀釈をお願いしますと言ったのと同じではないか。
羽根田氏の指摘の通り、自分の寺と檀徒を守るために身命を賭す僧侶が少なかったことは残念なことである。

若一王子神社をあとにして、国宝・仁科神明宮(0261-62-9168)方面に向かう。

盛蓮寺観音堂

途中で、国の重要文化財に指定されている盛蓮寺(じょうれんじ)観音堂に立ち寄った。
この寺は領主であった仁科氏の祈願寺であったそうだが、この観音堂は室町時代の文明2年(1470)の建築だという。案内板には何も書かれていなかったが、この寺も廃仏毀釈の難を逃れるのに苦労があったと思われる。

ここから1kmほど南に走ると仁科神明宮がある。

参道の脇に空地があり「仁科二十四番 神宮寺」と書かれた道標が建てられていた。この寺は明治の廃仏毀釈で破却され、不動明王と薬師如来は先程紹介した盛蓮寺に移され、本堂は北安曇郡池田町の浄念寺という寺に移築されたという。

仁科神明宮鳥居

この鳥居が仁科神明宮の二の鳥居で、奥に三の鳥居があり神門がある。そしてその奥に、わが国で現存する最古の神明造である国宝の社殿がある。

仁科神明宮本殿

一番奥が本殿で、本殿は手前の中門と釣屋とよばれる屋根で繋がっている。ここまでが国宝指定となっている。

宝物館があるので中に案内していただくことにした。

仁科神明宮棟札

仁科神明宮は20年に一度式年遷宮が行なわれているのだが、南北朝時代の永和2年(1376)の棟札をはじめ620年間の33枚が目の前に残されているのに驚いた。このうち江戸時代幕末の安政3年(1856)までの27枚が国の重要文化財に指定されている

仁科神明宮懸仏

次の画像は懸仏(かけぼとけ)であるが、神仏習合の考えによりご神体である鏡に本地仏の像を毛彫りにして奉納されたもので御正体(みしょうたい)とも言われる。仁科神明宮には懸仏が16面あるのだが、そのうち5面が国の重要文化財に指定されている
懸仏のほとんどが天照大神の本地仏である大日如来で、古いものは鎌倉時代中頃のものがあるという。神仏習合の時代を髣髴とさせる貴重な懸仏が、神社の宝物館でこんなに多く見学できるとは思わなかった。

最近はネットで簡単にいろんなことが調べられるようになってありがたい限りなのだが、『長野県立歴史館/信濃史料』をデジタルアーカイブで調べていると、弘安9年(1286)の記録にこんな記述があるのが見つかった。
「弘安九年一二月二二日(1286) 尼妙法、安曇郡仁科神明に懸仏を寄進す、同郡神城村神明宮ノ懸仏
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000710100/2000710100100010?hid=ht042680

なんと弘安9年(1286)に懸仏を仁科神明宮に寄進した尼妙法という人物が、この日の朝一番に訪れてきた白馬村神城の神明社にも、同じ年に懸仏(長野県宝)を寄進したことが書かれている。
神明社では見ることは叶わなかったが、おそらくこの懸仏と同様のものが奉納されたのであろう。それにしても、長野県がこの様な古文書までデータベースにして公開していることも驚きだ。

今回の旅行で、神社にある三重塔や観音堂や懸仏をいくつか見てきたが、長野に来て、修験道や神仏習合の多神教的祈りの世界が残されていることに親近感を覚えた。

明治政府の宗教政策で、仏教は衰退を余儀なくされ多くの文化財を失わせた一方、伝統的な神道をも否定して、多神教的な神道から天皇という現人神を崇拝する宗教に変質させてしまったとは言えないか。天皇という存在は、本来は多神教的な神々を祀る存在であったのだが、明治政府によって一神教的で絶対的な存在として祀り上げられてしまったと言えば言い過ぎであろうか。
戦国時代にキリスト教宣教師が先導して寺院や仏像を破壊したことと同じことが明治初期に激しく起こったわけだが、特定の神的存在を絶対視する宗教は、純粋化すればするほど異教に対して排撃的となり過激となる。

しかし太平洋戦争でわが国が敗戦したのち、天皇は現人神であることを自ら否定したため、戦後になって多くの日本人は、自分の家族や先祖に対して祈ることはあっても、地域や国のために祈る習慣を失ってしまった。

ある時は太陽に祈り、ある時は山に祈り、またある時には川に祈って、地域の人々が幸せに暮らせることを願う。日本人はそのようにして平和に暮らして来た民族ではなかったか。
その祈りの世界を少しでも日本人が取り戻し、自分や先祖が生まれ育った地域を愛することの大切さを忘れないようにしたいものである。それができなければ、いずれ、わが国の各地で何百年も受け継がれてきた地域の伝統文化や価値ある文化財や歴史的景観の多くを、失ってしまうことになるのではないだろうか。

そんな事を考えながら3日間の信州の旅を終えて、帰途につくことにした。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-372.html

島原の乱の最初にキリシタンは寺社を放火し僧侶を殺害した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-386.html

明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-399.html

江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-339.html

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html

日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-351.html


関連記事

白山信仰の聖地を訪ねて加賀禅定道を行く

石川県白山市と岐阜県大野郡白川村にまたがる白山は、古くから山そのものを御神体とする山岳信仰の対象であったが、養老元年(717)に修験者の泰澄(たいちょう)が、白山の主峰・御前峰(ごぜんがみね)に登頂し、翌年に社を築いて白山妙利大権現を奉祀したのち、白山は遥拝の対象から修験の聖地へと変わっていく。

三馬場と禅定道

修行の起点から禅頂(山頂)に登るまでの山道を禅定道(ぜんじょうどう)と言い、修行の起点となる場所を馬場(ばんば)と呼ぶのだそうだが、平安時代になると、加賀・越前・美濃の3国に禅定道が設けられ、加賀国白山寺白山本宮を加賀馬場、越前国霊応山平泉寺を越前馬場、美濃国白山中宮長滝寺を美濃馬場としたという。

白山修験は熊野修験に次いで修験道の世界で大きな勢力となっていたが、南北朝時代に高師直が南朝の拠点であった吉野山を攻めて以降は、吉野熊野三山の入峯者が杜絶して白山修験がさらに勢力を伸ばし、全国的に白山信仰が広まっていったという。

加賀国白山寺白山本宮は加賀国一宮とされ、比叡山延暦寺の末寺として勢力を拡大するも、戦国時代に一向宗門徒によって焼き討ちにされるなどして教団勢力は衰えていったが、前田利家がこれを再興させ、以降加賀藩歴代藩主が保護したという。
越後国霊応山平泉寺のも比叡山延暦寺の末寺として勢力を拡大し、最盛期には8千人の僧兵を擁したと伝えられているが、天正2年(1574)に一向一揆の焼打ちにより全山焼失してしまった。そののち顕海によって復興が進められるも、盛時には及ばなかったという。

しかしながら、明治に入ると全国の修験道の聖地において仏教色が排除され、白山も例外ではなかったようだ。Wikipediaにはこう記されている。
明治維新による神仏分離・廃仏毀釈によって、修験道に基づく白山権現は廃社となった。三馬場のうち、白山寺白山本宮は廃寺となり、白山比咩神社に強制的に改組された。霊応山平泉寺も同様に廃寺となり平泉寺白山神社に強制的に改組された。白山中宮長滝寺は廃寺は免れたものの、長瀧白山神社と天台宗の長瀧寺に強制的に分離された。
山頂や登山道の各地に置かれていた仏像は、このとき引き下ろされて廃棄される運命にあった
。…」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B1%B1%E4%BF%A1%E4%BB%B0

一昨年の旅行では美濃馬場であった長瀧白山神社と長瀧寺を訪ねたのだが、今年は白山信仰の歴史と文化を訪ねて加賀禅定道から越前禅定道に抜ける旅行を計画して、先日観光してきた。今回は加賀禅定道の観光地をいくつかレポートすることにしたい。

吹田の自宅を7時過ぎに出て4時間程度で石川県白山市鶴来(つるぎ)に到着して、早目の昼食をとった。白山市鶴来は「平成の大合併」の前は鶴来町と呼ばれ、加賀平野を流れる最大の河川である手取川が造った扇状地の扇央部にあたる地域で、古い町屋が続いてなかなか風情のある町並みである。

食事をすませて、最初の訪問地である金剱宮(きんけんぐう:白山市鶴来日詰町巳118-5  ☎076-272-0131)に向かう。金剱宮は旧鶴来町の守護神で、近年は金運アップのパワースポットとして注目を浴びているという。

金剣宮1

金剱宮の案内板にはこの神社の歴史についてこう記されていた。
鶴来町の古地名は剱(つるぎ)と記し、社名また古く剱宮、剱神社と唱えた。このことは地名と社名が一致した好個の事例である。近世に至って専ら金剱宮と奉称した。
 中世以降白山七社の一に数えられ、内、白山本宮・三宮・岩本と共に本宮四社と称した。
 神仏習合時代本社は隆盛を極め、宝物殿、拝殿、講堂、宝蔵、三重塔、鐘楼、荒御前、糺宮、大行事乙剱(白山荘厳講記録)等、所謂七堂伽藍雲表に聳え、神官社僧多く剱白山の神碑と衆従と号して勢力を有した。
…」

金剱宮は神仏習合の時代に隆盛を極めて、寿永2年(1183)に木曽義仲が倶利伽羅谷合戦の大勝を奉謝して鞍置馬20頭を寄進したことや、文治2年(1186)に源義経が奥州に落ち延びる途中にこの神社に参拝したことが記録に残されているようだ。

しかしながら、金剱宮は中世を通じて白山本宮(現・白山比咩神社)と勢力を張り合い、享禄4年(1531)に起こった一向一揆の内部分裂(享禄の錯乱)のときに金剱宮は焼き払われたはずだし、明治初期の神仏分離・廃仏毀釈で仏教に関わる多くの施設が失われたはずなのだが、案内看板には一言も触れられておらず、多くの神社と同様にキレイごとだけが記されている。

金剣宮2

金剱宮社殿の背後には、県天然記念物に指定されているウラジロカシの林がある。ウラジロカシはかつて手取川峡谷をはじめ県内に広く分布していたのだそうだが、今ではほとんど見ることができなくなってしまったという。

金剱宮から2kmほど南に行くと、加賀禅定道の起点である白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ:白山市三宮町二105-1 ☎076-272-0680)がある。

この神社も奈良時代に修験者の泰澄が開いたと伝わっているが、その後天台宗系の神仏習合が行なわれ白山寺(しらやまでら)と白山宮(しらやまぐう)が併存し、比叡山延暦寺の権威を背景に勢力を拡大していき、最盛期には本殿・拝殿のほか、講堂・法華常行堂・新十一面堂・五重塔など40を超える堂塔が並んでいたという。

しかしながら加賀国では浄土真宗や日蓮宗が急速に拡がり、また文明12年(1480)の大火によって40余りの堂塔伽藍がことごとく焼失してしまい、さらに天文23年(1554)には白山が噴火して白山信仰は凋落していくのだが、正親町天皇が白山宮再興を期待する綸旨を下し、文禄5年(1596)に前田利家が現在地に白山本宮を再興させて、以後加賀藩の歴代藩主が当社を祈祷所として保護したという。

白山ひめ神社宝物館

鳥居を潜るとすぐ右に在る宝物館には、鎌倉時代の木造狛犬(国重文)や、『白山縁起』『三宮古記』『神皇正統記』(いずれも国重文)や藩主・前田家ゆかりの品々が展示されていて結構見ごたえがあった。

宝物館から表参道を歩くと推定樹齢800年といわれている大きなケヤキの木がある。この木は白山市の天然記念物に指定されていて、根元の周りは12m、樹高は42mもあるのだそうだ。

白山ひめ神社

神門を抜けると立派な外拝殿が見えてくる。その後ろには幣拝殿、本殿までが一直線に並んでいる。

明治時代初期までは裏参道に本地堂や長吏(ちょうり)*屋敷が立ち並び、白山寺の中心をなす景観があったのだそうだが、神仏分離政策によって撤去されて、今は社だけが残されている。本地堂は、白山市木津町の白山社社殿として移築されて今も残っているのだそうだ。
*長吏:神仏習合の時代は白山本宮は白山寺という寺院と一体になっており、その全体を統括する最高の位を長吏と呼んだ。

森田平次肖像

石川県は、15世紀の一向一揆以来浄土真宗が強くて、露骨な廃仏毀釈を進めることはできなかったようだが、白山信仰施設の神仏分離に対しては、門徒農民は抵抗しないと見極めて、徹底的に行われたという。石川県の神仏分離の采配を振るったのは、平田神道の理論を奉じていた森田平次という役人だそうだが、次のURLに白山本宮の仏教施設の破却が詳しく解説されている。
http://japan21.info/hakusann.html

維新直前までの白山本宮は、加賀馬場の本拠としての白山寺が中心であった。社殿のほかに白山護摩堂と呼はれた本地堂が本殿の北にあり、それを囲んで地蔵堂・長吏屋敷・大居間などが威容を誇っていた。参道手洗水の上には露座の地蔵尊が安置されてもいた。明治二年(1869)、まず本地党が石川郡林中村へ売られ、十一面観音はじめ諸仏像や仏画類は金沢の真言寺院波着寺などへ移された。地蔵堂は破壊、長吏屋敷も地元の農民に解き売りされ、跡は水田となる。そのはかの仏像・仏画・経典や鐘楼・梵鐘・鰐口など、仏教臭をとどめるものはすべて惜しげもなく破却されてしまったのである。」

鳥越城跡案内図

白山比咩神社をあとにして、鳥越城跡に向かう。鳥越城は織田信長による加賀一向一揆討滅に抵抗するために手取谷一向宗の組織である「山内衆」の指導者鈴木出羽守によって築城されたそうだが、天正8年(1580)に織田方の柴田勝家軍によって落城し、「山内衆」の鈴木一族は滅ぼされ、その後この城は逆に織田軍による一揆掃討の拠点となったという。

しかし、翌天正9年(1581)に上杉景勝軍が越中に侵攻すると、山内一揆勢が呼応して鳥越城を奪い返しているのだが、天正10年(1582)に織田方の佐久間盛政による反撃で再びこの城は陥落してしまう。そしてその後も一揆勢は抵抗を続けたのだが、徹底的に掃討されて、最後まで抵抗した数百人が磔に処せられたという。加賀の一向一揆は教科書などでイメージしていたよりかは、はるかに激しい戦いであったようだ。

鳥越城址

城址は鳥越城山の頂上付近にあるが、有難いことに本丸のすぐ近くまで車で行くことができ、駐車場もある。城址は国の史跡に指定されていて、櫓門と城門が復元されているが入場料は不要で、自由に散策することが出来る。上の画像は復元された本丸門と桝形門である。

一向一揆歴史館

鳥越城址から鳥越一向一揆歴史館(白山市出合町甲26番地 ☎076-254-8020)に向かう。ここでは白山麓における一向一揆の歴史を解説する映像が上映されているほか、鳥越城址、二曲城址からの出土品などの展示がなされている。

手取峡谷 黄門橋

ここからすぐ近くに手取峡谷がある。最初に、白山消防署(☎076-255-8119)の横にある駐車場に車を停めて、黄門橋から峡谷を眺める。かなり雨が降った後なので手取川の水は黄濁していたのはやむを得ない。

さらに3kmほど南に進み、吉野郵便局(☎076-255-5033)の手前を右折すると不老橋があり、そこからの眺めも有名で良く紹介されているのだが、ここまで来たら綿ヶ滝が見たくなる。
不老橋を渡ったのち左折して県道178号線を進むと、「手取峡谷(綿ヶ滝いこいの森)」の案内標識があり、そこを左折すると綿ヶ滝の駐車場がある。

手取峡谷 綿ヶ滝

車を停めて滝に進む階段をしばらく下りていくと迫力満点の綿ヶ滝が見えてくる。川の水がエメラルドグリーンである時に、もう一度この滝を見たいものである。

道の駅瀬女(せな)で、とちの実ソフトクリームを食べて休憩をとったのち、近くの手取湖に向かう。

手取湖

手取湖は石川県最大の河川である手取川にダムを建設することによって形成された人造湖である。手取川ダムは北陸地方最大のロックフィルダムで、手取川の治水と金沢市・加賀・能登地方への利水、および出力25万キロワットに達する水力発電を目的とする多目的ダムであるが、このダムの建設にともない、尾口村・白峰村の330戸・322世帯が水没してしまったという。
ダム建設で水没予定地に入っていた白峰村桑島にあった石川県下最大級の民家である杉原家は、白山市白峰にある白山ろく民俗資料館に移築されたのち石川県指定有形文化財となっているが、ほかにも価値ある建物が少なからずあったのかも知れない。

夕刻になったので、初日の観光を切り上げて宿泊先のホテル八鵬に向かう。

ホテル八夕食鵬

上の画像はホテルの夕食だが、ニジマスやイワナや堅豆腐、油揚げなどを炭火で焼く炉端焼きやニジマスの刺身など白山の自然あふれる料理はどの品も旨かった。
古い建物ではあったが、食事だけでなく、純重曹泉(ナトリウム・炭酸水素塩水)の温泉も素晴らしく、何よりもスタッフの方がフレンドリーで笑顔がすてきで、長旅の疲れが吹き飛んだ。

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【ご参考】
今年も郡上八幡踊りが始まりましたが、2年前に郡上八幡からから美濃馬場の白山長滝神社から白川郷、荘川桜、岐阜城などを巡ってきました。良かったら覗いてみてください。

郡上八幡の歴史と文化と古い街並みを楽しんで
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-334.html

郡上一揆と白山信仰のゆかりの地を訪ね、白川郷の合掌造りの民宿で泊まる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-335.html

湖底に沈んだ「飛騨の白川郷」と呼ばれた合掌造り集落の話
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-336.html

「さくら道」を走って、織田信長が天下布武を宣言した岐阜に向かう
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-337.html

日吉神社、大垣城、南宮大社から関ヶ原古戦場に向かう
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-338.html


関連記事

明治6年に越前の真宗の僧侶や門徒はなぜ大決起したのか~~越前護法大一揆のこと

前回は明治政府の強引な宗教政策に反対して、明治4年(1871)の3月に三河国碧海郡・幡豆郡(特に菊間藩飛領地域)の浄土真宗の僧侶や門徒が起こした『大濱騒動』のことを書いたが、今回は、『大濱騒動』よりもはるかに規模の大きかった明治6年(1873)の『越前護法大一揆』のことを記しておくことにしたい。

『大濱騒動』では、明治4年(1871)に服部純という役人が領内の寺院住職に対して寺の統廃合の話を持ちかけたことを書いたのだが、同様なことは全国の諸藩でかなり強引に実施されたものの、明治政府も神祇省主導による神道を基軸とする民衆教化の限界を知ることとなり、宗教政策の転換を迫られることとなる。

『福井県史』通史編5 近現代一の解説によると、
(明治)五年三月、神祇省を廃止し新たに教部省を設置したが、同省は神道・仏教をはじめ宗教界を動員して、統一的組織的な国民教化の新路線をめざしていた
 …
 教部省は五年四月二十五日、教導職を置いて大教正以下権訓導まで一四級に分け、まず神職・僧侶が任命された。敦賀県下の教導職は、神官が三三人(越前国一八人・若狭国一五人)、僧侶が七六〇人(越前国五一九人・若狭国二四一人)計七九三人を数えるが、全国平均では、神官が全体の約六〇パーセントであるのに対して、敦賀県では、僧侶が九六パーセントという圧倒的な比重を占める(「福井県史料」三四)。このことは、同県では、寺院側とりわけその過半を占める真宗寺院勢力の協力を得なければ、教導職体制が推進できないことを示しているといえよう。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-01.htm

では、教部省は真宗寺院の勢力を借りていったい何をしようとしていたかというと、相変わらず寺院廃合を推進しようとしていたのである。

越前護法一揆地図

今立町に派遣されたた元僧侶の役人がどのような動きをしたかについて、『福井県史』にはこう解説されている。

「今立郡定友村(今立町)の唯宝寺(本願寺派)出身で、教部省一一等出仕の石丸八郎(還俗前は良厳)が、明治六年(1873)一月、郷里に帰省した。そして地域の寺院廃合や小教院設置の急務を唱え、各寺院に『三条の教則』*を守るよう誓わせたことが、真宗寺院僧侶・門徒農民層の間に、意外な波紋をひき起こした。しかも『石丸発言』が、『耶蘇』の教法であると喧伝され、その情報が隣接の大野郡に及ぶと、友兼村の専福寺(真宗高田派)住職金森顕順、上据村の最勝寺(本願寺派)住職柵専乗、同村の上層農竹尾五右衛門らを中心に、同月下旬には、およそ六五か村の『護法連判』が行われた。石丸を『耶蘇宗の者』とみなし、『耶蘇』の侵入には、村ごとに『南無阿弥陀仏』の旗を押し立て、断固一揆の強硬手段で対抗することを誓い合ったのである。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-02.htm
*『三条の教則』:「一、敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事 一、天理人道ヲ明ラカニスベキ事 一、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事」

石丸八郎が郷里で発言した内容が、前回紹介した『神仏分離の動乱』(臼井史朗著)に出ている。
「今般奉伺候通、人民平均ノ趣旨ヲ以、広ク教育撰挙ノ法ヲ設ケ候際ニ当リ、独リ僧侶ニ限リ、従前ノ通リ度外ニ取計置候テハ、藩政改革ノ条理ニ於テ不都合ノミナラズ、一視同仁ノ御政体ニモ適当仕間敷ニ付、漸次平民ニ帰シ候様致シ度、尤苛酷排斥人心ニ関係候筋ニハ不相渉様可仕候間、其処置ハ当藩ノ適宜ニ御任セ相成度、尚処置ノ廉ハ、其節ニ御届可申上候、此段奉伺候、」(『神仏分離の動乱』p.175)

僧侶だけが従来と同様に処遇されるのでは藩政改革が困難であるので、漸次僧侶を還俗させて平民にすると述べているのだが、『大濱騒動』の原因となった服部純の発言内容は異なるものの寺や僧侶を減らすという点では一致している。そして彼の一連の発言が、民衆に非常な不安を与えることとなり、民衆が蜂起するになったようなのだ。

先ほど紹介した『福井県史』によれば「『石丸発言』が、『耶蘇』の教法であると喧伝された」とあるのだが、これはいったいどういうことなのか。
『耶蘇』とは『キリスト教』を意味する言葉だが、そもそも元僧侶であった石丸という人物が、なぜキリスト教と結び付けられてしまったのかと誰でも思う。

ネットで見つけた大日方純夫氏の『明治新政府とキリスト教』という論文を読むと、石丸八郎という人物は、越前に来る少し前に新政府のキリスト教禁止政策に基づき長崎に派遣されていて、キリスト教宣教師のもとに潜入して内部情報を収集する「異宗徒掛諜者」の活動をしていたことがわかる。
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/8566/1/80704_45.pdf
石丸八郎は幕末以来キリスト教排撃運動を展開した人物であり、彼の信仰が『耶蘇』であったはずはないと思うのだが、誰かが口にしたことで一気に『耶蘇』との噂が広がっていき、民衆がとんでもない暴動を起こすことになったのだ。この点については最後に触れることにする。

大野郡での攻撃目標
【大野郡での攻撃目標】

この一揆の激しさは『福井県史』に詳しい。
「三月五日、福井支庁から派遣された官員や邏卒らの官憲が、竹尾五右衛門ら五人を『護法連判』の主導者として拉致したのを発端として、まず大野郡下で大一揆が勃発する。翌六日には、おもに上庄・下庄両地区から一揆の大群が大野町に押し寄せ、旧足羽県支庁はじめ豪商・戸長・商法会社・教導職寺院・高札場などを破毀または焼き打ちし、また農村では、豪農の区・戸長宅を攻撃した。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-03.htm

三カ条の願書

福井支庁は官憲や旧藩士から募集したメンバーを送り込んで事態の収拾を図ろうとしたが、一揆勢の勢いを止めることはできなかったという。そして一揆勢は次のような「三カ条の願書」を福井支庁に提出したという。
一、耶蘇宗拒絶の事  一、真宗説法再興の事  一、学校に洋文を廃する事

明治維新以降人々は断髪して洋服を着るようになり学校では英語を教えるようになったのだが、その洋風化が仏教への弾圧に繋がり、耶蘇教を広めることに繋がるとでも考えたのであろうか。

今立郡での攻撃目標
【今立郡での攻撃目標】

ところが、8日の夕刻になり、この願書に対する県側の回答が遅れたことから、またもや一揆勢が集合したという。再び『福井県史』を引用する。

「一揆勢が集まり、『大野市中又騒然竹槍林立立錐ノ地モ無シ』という険悪な事態となった(富永良一郎家文書)。そのため官員は、一旦一揆側の『願書』のすべてを認めるということで、ようやく事態がおさまったのである。また、その場での窮地を脱するための謀計にすぎなかったとはいえ、一揆主導者の処刑は絶対にしないと確約することで、はじめて一揆の徒が退去した点からみて、官側が一揆の猛勢に対して、いかに脅威を抱いたかがうかがわれる
 その後本庁ではただちに、名古屋鎮台と大阪鎮台彦根営所に対し一揆勃発の事情を報告、ついで十一日、名古屋鎮台に至急出兵方を要請し、いよいよ「兵威」による一揆主導者の一斉摘発の準備を進めようとした矢先、同日から隣接の今立郡に大一揆が勃発する。同郡下では、小坂村はじめ近村の農民諸階層による同村戸長富田重右衛門宅に対する打ちこわしが発端となる。そして地域的には、莇生田・東庄境・野岡・粟田部・定友・岩本・大滝・松成・中新庄の諸村に及び、… 大野郡の場合とほぼ同様に、教導職寺院はじめ豪農商の区戸長居宅や土蔵などに対して、破毀焼却のかぎりを尽した。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-03.htm

県は断固武力弾圧の挙に出たことから13日になって一揆勢は四散するも、今度は坂井郡下でも九頭竜川以北の農民が各所で蜂起し、金津・兵庫・森田近辺に多数群集して、約一万人にふくれあがった一揆勢は、福井をめざして進撃したという。そして一揆勢は、大野郡と同様の「願書」を差出したが、それが拒否されると猛然と反撃したのだそうだ。
官側は砲撃による武力制圧で一揆勢の福井侵入を食い止め、さらに主要路を遮断し説諭に努めたことで、一揆勢はようやく四散したという。

県当局は政府に対し一揆鎮定の報告を行ない、大野郡では再発防止の態勢をとった上で、一旦容認した一揆側の『願書』を取り消すとともに、一揆参加者の一斉検挙を開始し、80余人が捕縛され、4月4日に判決で6人が即日死刑に処されている。
県全体では、8439人が処罰され、竹槍や棒などを持参し一揆に参加した者は3円、何も持参せずに参加した者には2円25銭の「贖罪金」が課されることとなり、合計で20,309円もの贖罪金が集まったのだそうだ。この当時の1円の価値については諸説あるが、今の8千円~2万5千円の中間をとっても、3億円を上回ることになる。

越前は古くから浄土真宗の信仰が盛んな地域で、一揆のあった地域では7割以上が浄土真宗の寺であったようだ。明治4年に政府は寺領上地を断行し、寺領を経済的基盤とする寺は大きな打撃を蒙ったのだが、浄土真宗の寺は門徒からの収入で寺の経営が成り立っていたので、経済的な側面からの打撃は他の宗派の寺よりも少なかったという。

ではなぜ、真宗の僧侶や門徒達はここまで激しく闘うことになったのであろうか。

真宗の場合は寺のほかに道場があり、多くの場合道場は、村に住む「道場守」によって維持管理されていた。その道場守に対して県は、正規に寺に所属するか、脱衣蓄髪して民籍に入るかの選択を迫り、道場も廃寺の対象にしたことから、宗教施設としての存続の危機に直面することになった。

足羽県地図

また明治5年3月から政府に教部省が置かれて、神官・僧侶を「教導職」として採用し、「教導職」を通じて敬神愛国、天理人道、皇上奉戴・朝旨遵守を説かしめ、国民教化を行なおうとした際に、たとえば足羽県(あすわけん:越前国北部)では僧侶による説教を禁止してしまっている。

以上の二点が、真宗の僧侶や門徒が不満を持つに至った理由と伝えられている。

『福井県史』の解説がわかりやすいので、再び引用させていただく。

天皇の絶対権威のもとに、西洋文明を範とする合理主義を唱える『開化』の立場からは、極楽往生という来世への安心を信仰の核とした真宗門徒の生活態度こそ、まったく否定すべき『頑民』『愚民』の『弊習』にほかならなかった。しかも、真宗門徒の間では法談・説法などの日常的な信仰活動がさかんであったことが、いっそう非難の的を大きくする結果を招いた。二十三年にまとめられた『福井県農事調査書』でも、真宗がさかんな坂井郡の農民について、『彼ノ約束説(極楽往生)ニ拘泥シ、甚タ活発ノ気象ニ乏シク……勤倹勉励ノ風、頗ル薄ク、夜業等、近時ニ至ルマテハ殆ント絶無ノ姿ナリシ』と評価を下し、真宗に帰依する生活態度を農業生産の向上を阻害する『欠点』としている。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-05-01-05.htm


撮要新聞

当時この地域で発行されていた『撮要新聞』には、仏教や僧侶の活動を公然と批判し、排仏の論調を鮮明にしていたという。このような論調は、政府や県の意向を反映したものではなかったか。
『福井県史』に、同紙のこんな記事が紹介されている。
「『数百年来、仏法蔓延』した越前において、僧侶は『此有難キ文明開化ノ秋ニ当テ……徒ニ愚民ヲシテ、益々愚ニオトシ入レ』」るものとして、特に勢力を保っていた真宗と日蓮宗に避難の矛先をむけた。」

明治政府は、西洋文明を模範としてわが国の西洋化を推進しようとしたのだが、その目的を達成するためには、仏教の教義や人々の信仰生活などは排除すべき存在であったのだろう。
教導職の石丸八郎は『耶蘇教』を奉じていたわけではなかったのだが、彼が故郷に戻って伝えようとした西洋的な考え方は、熱心な浄土真宗の僧侶や門徒が受けいれられるものではなかったようである。

明治維新後洋風化が進み、暦も太陽暦に改められ、税制も大幅に変わるなど人々の生活が一変し、伝統的な生活が壊されていくことの不安もあったと思うのだが、そんななかに石丸八郎が教導職として赴任してきて、さらなる西洋化を進めようとし、寺の説教までもが禁止されてしまった。
「(石丸八郎が)耶蘇ヲ勧ムルナリ」という噂が広められたのは、人々を糾合させるための方便であった可能性が高いと考えるのだが、彼が推し進めようとしたことは真宗の僧侶や門徒たちの伝統的な信仰生活を冒すものであったことは確実である。だからこそ、人々は村ごとに『南無阿弥陀仏』の旗を立てて、立ち上がったのであろう。
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【ご参考】
明治時代の初期についてこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html

明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html

江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html

明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-399.html

白峰地区の林西寺に残された白山下山仏と、破壊された越前馬場・白山平泉寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-458.html


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鳥取の紅葉名所・智頭町の諏訪神社と鳥取東照宮の神仏分離

毎年紅葉の季節になると、古い寺や神社を巡りたくなる。あまり有名すぎる観光地は人が多すぎて風情を感じることが少ないので避けて、なるべく古いものがそのまま残されていそうな場所を選んで旅程を立てるのだが、今年は鳥取県から日本海に向かうことにした。

最初の目的地は、鳥取県南東部にある八頭郡智頭(ちず)町。この辺りは山陰と山陽をつなぐ交通の要衝の地で、律令制下ではこの智頭には道俣駅(みちまたのうまや)が設置され、江戸時代には参勤交代の道筋にあるこの町に鳥取藩主池田公の宿泊地として本陣が置かれると、商人や旅人の宿場町(智頭宿)として非常に栄えたという。あまり繁盛したので、弘化元年(1844)には小売商人の逗留を禁止したとも伝えられている。

智頭町観光マップ

駐車場は智頭小学校(智頭町智頭320 ☏0858-75-0044)の向かいと、智頭宿特産村(智頭町智頭743)に観光客が利用できるスペースがある。

諏訪神社 鳥居

智頭町の面積の93%を山林が占めていて、この町の紅葉の名所として知られているのが諏訪神社
社伝によると弘安元年(1278)に信濃国諏訪大明神を勧請したといい、軍神・農業守護神・鎮火の神として篤く信仰され、江戸時代は藩主池田家の勅願所であった。

諏訪神社 紅葉

今年の色づきはあまりよくないのだそうだが、それでも境内の紅葉は鮮やかで見応えがあった。

諏訪神社 拝殿

上の画像は諏訪神社の拝殿でこの建物は明治37年(1904)に再建されたものである。この奥に、天保3年(1832)に再建された本殿がある。
この神社で、信州の諏訪大社の御柱祭りに倣った「柱祭り」が6年ごとの申年と寅年の4月に行われ、4本の杉が伐りだされ、町内を練り歩いたのちに宮入りして本殿の四隅に建てられるのだそうだ。
次のYouTubeで7年前の「柱祭り」で4本目の杉の木が建てられるところが記録されているが、こういう伝統行事を一度この目で見たいものである。
https://www.youtube.com/watch?v=qYMUdeb9iuc

諏訪神社から旧街道に戻ると、すぐ近くに石谷家住宅がある。

石谷家住宅 門

石谷家は古くから屋号を「塩屋」と称し、元禄時代の初め(1691)に鳥取城下から移り住み、明和9年(1772)以降は大庄屋としてこの地域の行政に携わってきたという。文政5年(1822)以降大庄屋を分家や国米家に譲り、地主経営や宿場問屋を営むようになり、明治以降は商業資本家としても町の発展に貢献してきた家だそうだ。

石谷伝四郎
【石谷伝四郎】

明治30年代に当主の石谷伝四郎が山林経営と農民金融を発展させたのち政治家としても勇躍し、大正8年(1919)以降、江戸時代の庄屋建築であったこの住宅の改築造営に着手したのだが、主屋が完成したのは伝四郎の死後の昭和3年(1928)だという。

個人の家とはいえ敷地面積が約三千坪もあるこの住宅は、平成21年(2009)に国の重要文化財に指定され、庭園も平成20年(2008)に国登録名勝に指定されている。

石谷家住宅 内部

主屋の入り口をくぐると、高さが14mもある広大な吹き抜けの空間が現れる。梁組には松の巨木が用いられていて豪壮な雰囲気が醸し出されている。土間を一段上がると囲炉裏の間がある。

石谷家住宅 新建座敷

上の画像は昭和になって改築された新建座敷だが、この屋敷のどの部屋も細部に至るまで丁寧に造りこまれている。

石谷家住宅 座敷から庭園を眺める

江戸座敷から見た庭園を撮った画像だが、個人宅でこんなに立派な庭園は滅多にお目にかかれない。

石谷家住宅 庭園

庭園だけで広さは約400坪もあり、池泉庭園の中央に流れる滝の方向に紅葉の美しい諏訪神社の社殿がある。

石谷家 薬医門

池泉庭園の奥には芝生庭園もあり、その奥には簡素な表門と対照的に立派な薬医門がある。

石谷家住宅 庭園と屋敷

この画像は庭から主屋を写した画像だが、寺院建築のような大きな瓦屋根に驚いてしまった。またこの主屋の2階には神殿があり、一部屋に拝殿が設けられている。

旧塩谷出店

この石谷家周辺には結構古い建物が残されている。手前は石谷家の分家として明治30年ごろに建てられた旧塩屋出店(国登録有形文化財)でその奥は米原邸(非公開)。塩屋出店の中庭には洋館の西河克己映画記念館があるが、この建物も国登録有形文化財に指定されているという。

下町公民館

上の画像は下町公民館で大正期に建てられたものだが、この建物も国登録文化財だ。
中央にぶら下がっているのは杉玉で、他の地域では日本酒の造り酒屋の軒先に吊るされて新酒ができたことを知らせる役割に用いられるのだが、智頭町では家々の軒先や公民館のような場所にも普通にぶら下がっているのが面白い。

その他智頭町には明治期や大正期の建物がいくつかあり、もう少し時間をかけてまわっても良かったのだが、諏訪酒造の酒を買って次の目的地の鳥取市に向かう。

鳥取市で昼食をとったのち、大雲院(鳥取市立川町4-24 ☏0857-22-5608)に向かう。
この寺は観光地としてはあまり知られていないのだが、この寺のことを調べていくと、驚くほど由緒ある寺なのである。

少しばかり寺の歴史を振り返ってみよう。
寺でいただいたリーフレットにはこう記されている。

池田光仲
【池田光仲公】

慶安3年(1650)鳥取藩主池田光仲公19歳の時、鳥取に東照宮を勧請しその祭礼を司る寺(別当寺)として当院を建立。当初は、乾向山東隆寺淳光院と称し、徳川将軍位牌安置所と藩主祈願所の役割を持っていた。
 寺領500石を有し内坊4カ寺を持つ大寺院として宗派を超えて、因州二州の頂点に立った寺であったが、神仏分離により、明治3年現在の地に移転、その後鳥取大震災によって、堂宇の崩壊より多数の仏像、古文書等が諸堂とともに失われました。

 さらに農地解放によって寺院収入の道を絶たれ、震災復興のため、境内地の縮小を余儀なくされ、現在では、仏像・仏具・将軍家位牌と仏画・古文書などに藩政時代の名残を止めています。」

少し補足しておくと、池田家は恒興、輝政時代に豊臣秀吉の重臣として活躍し、豊臣姓を賜るなど有力な豊臣系大名であったのだが、池田光仲は徳川家康の外曾孫に当たるということで改易は免れた。しかしながら、徳川家に忠節を示すと同時に藩主としての威厳を示す必要から、鳥取に家康を供養する東照宮を建立することを幕府に願い出て認められたという。
当時は神仏習合であり、この東照宮の祭祀を司り管理する別当寺として、鳥取東照宮のある樗谿(おうちだに)に大雲院が建立された経緯にあるのだが、この大雲院は藩内の最高の格式を誇る大寺院として、鳥取の観音院、覚寺の摩尼寺、三朝の三仏寺、倉吉の長谷寺などの古刹もこの寺の末寺とされていたのだそうだ。

『鳥取城下町大絵図』の東照宮と大雲院

では、大雲院は樗谿のどのあたりに建っていたのであろうか。
元禄年間に制作された『鳥取城下町大絵図』や『因幡民談記』には東照宮のすぐ近くに大雲院が描かれており、次のURLにその画像が紹介されている。上の画像は『鳥取城下町大絵図』と現在の樗谿公園の地図を対比させたものだが、樗谿公園内の梅鯉庵のある緑地一帯が昔の大雲院の境内であったことがわかる。
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1357.html

ところが明治元年(1868)の神仏分離令により樗谿にあった仏教施設の廃止と僧侶の還俗が命じられ、明治3年(1870)に大雲院は現在地(鳥取市立川町4-24)にあった末寺・霊光院に仏具等一式を引き継がれることとなり、現在に至っている。

大雲院 本堂

上の画像が大雲院本堂(かつての霊光院本堂)で、拝観をお願いして内部を案内していただいたのだが、立派な仏像ばかりが40尊近く並べられているのに驚いてしまった。
正面の阿弥陀如来像、脇侍の観音菩薩・勢至菩薩の阿弥陀三尊像はもともと霊光院にあったもので、その三方を囲うように西国三十三所観音像が安置され、また樗谿にあった大雲院の本尊である千手観音像も他の仏像と同様に並べて安置されていた。
内部撮影禁止であったので読者の皆さんに紹介できないのは残念だが、仏像ファンには是非訪れてほしいと思う寺である。次のURLに阿弥陀三尊像と一部の仏像の画像がアップされている。
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-978.html

大雲院 元三太師堂

本堂の左横に元三大師堂があり、樗谿の地にあった鳥取東照宮別当寺・大雲院のものを移築した唯一の建物とのことである。この大師堂には東照宮別当寺名残の仏像二十数体のほか、徳川将軍家の位牌や藩主家歴代の位牌などが安置されている。

徳川家康
【東照宮御神影(大雲院蔵)】

寺宝として伏見天皇宸筆『紙本金地法華経』巻二・巻四(国重文)や『東照宮御神影』ほか、東照宮別当寺として授受した古文書を所蔵するが、多くは博物館などに寄託されているようだ。

鳥取東照宮鳥居

大雲院の拝観を済ませたのち、樗谿公園の鳥取東照宮に向かう。大雲院からは車で5分程度で到着する。

鳥取東照宮 1

上の画像は随神門と呼ばれているが、昔はおそらく左右に仁王像がある仁王門であったと思われる。

鳥取東照宮 拝殿

随神門をくぐると石畳の参道が続き、その両脇には勧請当初に鳥取藩の重臣たちが献納した20基の石灯篭が等間隔に並んでいる。
参道を進むと拝殿・幣殿があり、さらに唐門、本殿がある。これらはいずれも国の重要文化財に指定されている。

鳥取東照宮 唐門 本殿

上の画像は唐門と本殿だが、他地域の東照宮のように以前は鮮やかな彩色が施され、壁面には絵が描かれていたのではないかと思いながら、よくよく見ると彩色されたあとをわずかに確認できるところがある。

いままでいくつかの『東照宮』を観光してこのブログでレポートさせていただいたが、Wikipediaの『東照宮』の解説によると、江戸時代に東照宮は全国で500以上造られたのだそうだ。しかしながら「明治維新以後の廃仏毀釈と相まって廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社とされる」という。
鳥取東照宮に限らず、それぞれの地域で「東照宮」を残すことに地域の人々の大変な苦労があったと思うのだが、明治以降そのような記録を活字にすることが憚られてきたのか、今日ではほとんどお目にかかることがない。

鳥取東照宮の歴史を調べていくと、江戸時代の創建時以降は『因幡東照宮』と称されていたのだが、明治7年(1874)から『樗谿神社(おうちだにじんじゃ) 』という名前に変わっている。『鳥取東照宮』と呼ぶようになったのは平成23年(2011)というから、名前が変わってからまだ6年しか経っていないのだ。鳥居に懸かる「東照宮」と書かれた扁額が新しいのはそのためである。
因幡東照宮が樗谿神社に改称された経緯について詳しく書かれた記録を探してみたのだが、ネットでは短い文章しか見つけることができなかった。わずか2行だけだが、明治36年(1903)に出版された『因幡国史談』にはこう記されている。

「明治のはじめ、本社のほか付属の寺院みな廃止せられしか。同7年本県士族等相謀りて旧藩祖池田忠継・忠雄・光仲三卿神霊を合祀し、社号を今名に改め県社に列せしめた…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766079/19

徳川幕府が崩壊したのち徳川家康を祭神とする東照宮などは不要と明治政府は考えたのだろうが、鳥取藩の士族たちは池田忠継・忠雄・光仲三卿神霊を合祀し「東照宮」の名を「樗谿神社」に変えることで、なんとかこの歴史的建造物を残そうとしたのであろう。短い文章ではあるが、「本県士族等相謀りて」という表現に、明治政府に抵抗した旧士族達の努力を読み取ることができる。

さらに鳥取市教育委員会の佐々木孝文氏の論文を読むと『鳥取県史料』四、明治七年四月一日条にこう書かれているという。
「旧藩祖ノ三霊ヲ県社長田神社ニ附属セシ東照宮ニ合祀シ、更ニ樗谿神社ト称シ、県社ニ列ス。……然ルニ、鳥取上町ノ内、樗谿ニアル旧藩所祭ノ東照宮ハ、即今、県社長田神社ニ附属シ、祭主・氏子モ無之、追年替廃ニ至ン。茲ニ三霊ヲ合祀シ、樗谿神社ト改称シ、自今、氏神同様永ク祭奠ヲ執行セン
https://note.mu/mastert/n/n993e91266794

当時の東照宮は近くの永田神社に付属する神社となっていて、神主も氏子もおらず、荒廃する一方であったようだ。神仏分離が強行される前は、この東照宮で『権現祭』が毎年4月と9月に盛大に行われていたのだが、祭礼の行列は行われなくなっていたようである。

明治40年権現祭
【明治40年権現祭】

この『権現祭』は鳥取県で最大規模の祭りで沿道に数万の見物人であったそうなのだが、この祭りが、明治40年(1907)に皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)が鳥取を行啓された際に、その祭りが復活されたようだ。

その時の記録が、角金次郎『山陰道行啓録』に出ていて、国立国会図書館デジタルコレクションで誰でも読むことができる。
鳥取にて権現祭と云へば、封建時代には因伯二州にて又無き盛典なりしとて、在りし昔を回想して感慨を催せる老人、物珍らしき若者打ちませて此の行列を見物せむと、其の沿道に押し寄ずる者幾万なるを知らす。頗る雑踏を極めたり。……其の列は約三丁に亘り器具万端流石大名仕事たるに恥ぢず頗ぶる壮観を極めたり
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780760/91

これだけ盛り上がったのなら、昔のように祭りを復活させても良かったと思うのだが、その後大正期に断続的に開催された記録があるだけだという。

2017権現祭ポスター

しかしながら、ようやく平成12年(2000)になってこの祭りが再び復活されるようになった。上の画像は今年の権現祭のポスターである。

やまびこ館
【やまびこ館(鳥取市歴史博物館)】
鳥取は古いものを少なからず残していながら、古いものを活かして観光価値を高める努力が不足していたのではないだろうか。樗谿公園にあるやまびこ館(鳥取市歴史博物館)のような建物のデザインはモダンすぎて、歴史ある地域には似合わないと思うのは私ばかりではないだろう。もっと歴史的景観を守る努力をしていれば、観光地としての鳥取の魅力をもっとアピールできる可能性を感じる。

ようやく権現祭が復活し、古い伝統や文化財が脚光を浴びるようになったことは良いことだと思う。古いものは古いがゆえに尊く、古い建物や伝統を守り次の世代に承継していくことはその地域の観光価値を高めていくことに繋がるのである。
鳥取の権現祭りがこれからも末永く継続され、観光地としての鳥取市の知名度が上がっていくことを祈ってやまない。

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【ご参考】
各地の東照宮を訪れてこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

唐崎神社から日吉大社、日吉東照宮を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-344.html

古代からの景勝の地であり和歌の聖地である和歌の浦近辺の歴史を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-511.html

家康の死後の主導権争いと日光東照宮
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-349.html

戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-350.html

日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-351.html

古き日光の祈りの風景を求めて~~日光観光その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-352.html

紅葉し始めた日光の輪王寺と東照宮を歩く~~日光観光その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-353.html


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日本三大山車祭の一つ、長浜曳山祭の歴史と子ども歌舞伎

竹生島から長浜港に戻って、ホテルにチェックインしたのち長浜市の中心部に向かう。
この日(4月13日)の夕方は十三日番といって、長浜曳山祭の各山組に曳きだされた豪華絢爛な曳山の舞台で、化粧をした子ども役者が可憐に歌舞伎(曳山狂言)を演じる最初の日なのだ。この祭りは毎年4月9日~16日に長浜八幡宮の春季大祭にあわせて執行され、13日~16日は「曳山」が登場して子ども歌舞伎が演じられるのである。
この祭りは京都の祇園祭、岐阜高山の高山祭とともに日本三大山車祭の一つとされ、昭和54年(1979)に国の重要無形民俗文化財、平成28年(2016)にはユネスコ無形文化遺産にも指定されている有名な祭りで、一度この祭りをこの目で観たいと思っていた。

今回の滋賀の旅行記事で明治初期の神仏分離のことを何度か触れたが、長浜八幡宮もこの時期に神仏分離が強行されている。

長浜八幡宮古絵図

廃仏毀釈に詳しいminagaさんのサイトに『長浜八幡宮古絵図』が紹介されており、その中に三重塔が描かれている。このような仏教的な建物などは今では境内のどこにも見当たらない。Minagaさんは長浜八幡宮の歴史についてこう解説しておられる。

「延久元年(1069)源義家が後三条天皇の勅を奉じて石清水八幡宮より勧請。元亀・天正の兵乱に焼失。天正9年(1581)豊臣秀吉などによって再興。別当は新放生寺と号したが、 明治維新の神仏分離により、周囲にあった多くの社僧は廃絶し、仏教関係の什宝は、東の舎那院に移す
社殿は、明治18年雷火のため焼失、現社殿は明治22年に再建。なお北門前観音堂安置木像聖観音立像が伝来するようです。放生池も現存するようです。
 舎那院(真言宗豊山派)は弘仁2年(814)弘法大師の開基といい、秀吉により再興、明治維新前は八幡宮の学頭坊であった。本堂(愛染堂)は八幡宮本地堂 を移建という。また昭和14年八幡宮整備により、護摩堂(桁行3間、梁間3間、寄棟造檜皮葺。室町期)も移建されたという。」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/h20040803.htm

木曽名所図会 長浜八幡宮

文化2年(1805)に出版された『木曽路名所図会』にその頃の長浜八幡宮の境内が描かれている。この頃には三重塔は失われていたようだが、鳥居をまっすぐ進むと現在舎那院の本堂となっている本地堂があり、左には薬師堂も存在していたことがわかる。そして絵図の右端に舎那院が描かれていて、この寺が明治以降唯一残されて、仏像や資料類のほとんどがここに移されたのである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959914/80

また『木曽路名所図会』には、曳山祭について以下のような記載がある。江戸時代には秋にこの祭りが執行されていたようだ。
「…例祭は九月十五日にして、牽山(ひきやま)十二、町々より本社へ出してこれを飾り、其の山々の町より、わらわべに風流の狂言をおしえ、山の上にて舞わしむ。至って壮観なり。これを見むとて、遠近よりここに来って一二夜を泊し、群集すること稲麻(とうま)の如し。名にしおう長浜祭りとて世に名高し。この御旅所西の方にありて、例祭には神宝大刀、その外種々の神器あり。神輿は秀吉公の代営み給いしとぞ。このところには祭りの前日より、芝居・見世物、あるいは拍戸の店ありて、賑わいいはん方なし。まことに英雄の俊傑のはじめ置き給いしその遺風、今にありて目を喜ばしむること、鄙にはならびなき奇観なり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959914/74

『木曽路名所図会』にはこの祭りは豊臣秀吉が残した遺風だと書かれているのだが、『曳山博物館』の解説によると、
「秀吉は、天正2年(1574)頃、長浜城築城とともに長浜の城下町を建設しました。この時に、秀吉は、現在も曳山祭で執り行われる源義家の武者行列を模した『太刀渡り』という行事を行い、のちに男子出生を祝って町民に砂金を振る舞いました。それをもとに各町が曳山をつくり八幡宮の祭で曳きまわしたのが曳山祭の始まりと伝わっています。
 また秀吉は、長浜の町を年貢300石の朱印地(免税地)に定めました。江戸時代、町が、彦根藩下に置かれた際も朱印地は認められ、湖上交通や18世紀半ばから盛んになる織物業で長浜は栄えました。こうした背景をもとに、長浜の町衆たちは曳山を飾り立て、曳山祭はさらに発展していきます。」
http://www.nagahama-hikiyama.or.jp/presently/

当初は曳山を曳くだけの祭りであったようなのだが、江戸時代中期の頃から曳山の上で子ども歌舞伎(浄瑠璃)が演じられるようになったという。
長浜には「長刀山」と子ども歌舞伎が演じられる12基とあわせて13基の曳山があり、子ども歌舞伎が演じられる12基のうち毎年4基が交代で出番山となるので、3年に一度は出番が回ってくることになる。出演するのは5歳から12歳の男の子ばかりで、それぞれの町が代々保有する豪華絢爛な曳山の4畳半ほどの舞台で演じられるのである。

子ども歌舞伎がいつどの場所で演じられるかは、どの町の曳山がその年の出番山であるかによって異なるので、この祭りを見に行くには、「曳山博物館」のHPで毎年アップされる祭りのパンフレットを事前に入手されるのが良い。旅行を計画した当初は、うまくいけば十三日番で4つの曳山を鑑賞できるかと考えたのだが、1つの歌舞伎が40分以上かかるので全部の演目を楽しむことは不可能で、2日がかりで計画を立ててまわるしかない。。
http://www.nagahama-hikiyama.or.jp/image/matsuri/2018/01.pdf

長浜曳山祭 4月13日、14日スケジュール

2018年曳山祭のパンフレットによると、今年の十三日番で最初に演じられるのは壽山(ことぶきざん)であったので、簡単に夕食を済ませて黒壁スクエアの近くで場所取りをした。
パンフレットでは17時30分から始まることになっていたのだが、現地に行くと18時に変更されていた。なぜパンフレットの時間通りに上演されないかについて質問された観光客がいたが、「相手が子どもなのでいろいろあることをご理解賜りたい」との回答だった。確かに役者さんは子どもばかりなので、温かい目で待つしかない。

寿山 2

しばらくすると、化粧・着付けを済ませた役者さんが一人ずつ集まってくる。男役は比較的堂々として歩いてくるが、女役の場合は着付けや化粧を恥ずかしがって抵抗する子どももいることだろう。出演する子ども全員に化粧をし、着物を着せる裏方の苦労はたいへんなことだと思う。

役者さんが全員揃うまで、曳山の後方で笛・太鼓を用いて囃子(シャギリ)が演奏されるのだが、シャギリは、曳山の曳行時、八幡宮入場時などは別の曲が演奏され、各山組により微妙に異なるのだという。
http://www.nagahama-hikiyama.or.jp/category2/shagiri.php

壽山 役者さん全員集合

上の画像は壽山の役者さん全員が揃って曳山の舞台に集まった時のものであるが、今までに浴びたことがないような多くの視線をいきなり浴びるのに耐えられないのか、うつむいたり目を閉じている役者さんが少なくない。十三日番は初めての舞台なのでみんなそれぞれ緊張して当然のことなのだ。

寿山 十三日番

いよいよ演技がはじまった。太夫の語りと三味線が物語の展開をリードし、ポイントポイントで子ども役者のセリフや舞などが入るのだが、舞台進行とともに次第に役者さんの硬さがなくなっていって観ているほうが引き込まれていく。子どもの歌舞伎とはいっても、相当細かいところまで芸が指導されていて、何度も感心してしまった。壽山の出し物は山内一豊とその妻の物語『似合夫婦出世絏(ひきつな) 長浜 一豊の屋敷』なのだが、妻・千代役は女の子が演じているのではないかと思ったほどよくできていた。

十三日番猩々丸 

壽山の演目が終わったころは、高砂山も鳳凰山も歌舞伎が始まっていたので、一番遅い時間に上演される予定の猩々丸(しょうじょうまる)に向かう。外題は『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)熊谷陣屋の場』で、源義経の家来・熊谷直実が子を失い、戦乱の世の無常を感じて出家する物語である。

高砂山 2

次の日の朝は、朝一番に高砂山(たかさござん)に向かう。外題は『義士外伝 土屋主税』。で、赤穂浪士の大高源吾は吉良邸討ち入りの前日まで不甲斐なき不忠の武士を装いながら、討ち入りに参加し主君の仇を討つ物語である。

鳳凰山

次に祝町組の鳳凰山(ほうおうざん)に向かう。外題は『恋飛脚大和往来 梅川忠兵衛 新口村(にのくちむら)の場』で、飛脚問屋の亀谷忠兵衛が遊女梅川と恋仲となり、梅川を身請けするためにお屋敷のお金に手を付けてしまった。忠兵衛は親の顔を見たいと生まれ故郷の新口村まで来たのだが追手はこの村まで来ており、親子は悲しい別れを余儀なくされる物語である。

いずれの曳山の演目も、子どもにとっては内容を理解することすら簡単ではないレベルのものだとは思うのだが、結構長いセリフを暗記し、さらに狭い舞台で舞うために大変な努力を積み重ねてきたはずだ。



上の動画は長浜市が作成したものだが、1分20秒あたりから長浜曳山祭の練習風景が紹介されている。役者に選ばれた子供たちは春休みに入った3月20日頃から、4月12日まで毎日朝・昼・晩と厳しい稽古を繰り返すのだという。まずは台本を何度も読み、台詞の言い回しを徹底的に教え込まれてから立稽古がはじまり、大夫や三味線を交えての稽古はある程度たってからの事である。

高砂山 全員集合

4月14日の自町狂言を終えるとそれぞれの曳山が長浜八幡宮に向かう登り山の準備となる。その直前に町内で曳山祭の準備に関わった人々で集合写真が撮影される。上の画像は高砂山の関係者が勢揃いしたところを写したものだが、ここに集まったのは決して全員ではない。曳山の綱を引く男性はもっといるし、囃子(シャギリ)を演奏したり、子ども役者の着付けや化粧を行うメンバーや、ほかにも奉仕するメンバーがいると思うのだが、町内の多くの人々が老いも若きも伝統の祭りに参画できるということは素晴らしいことである。

猩々丸 曳山

長浜八幡宮に一番遠い猩々丸が長浜八幡宮に向かう登り山が始まった。
「ヨイサ」「ヨイサ」の掛け声とともに、曳山につながった綱をしっかり引っ張る人々の表情も、曳山の後ろで囃子を演奏するメンバーの表情もとても良い。長浜の人々が地域ぐるみで祭りを支えているのを見て、なぜか目頭が熱くなった。
昔は祭りや盆踊りなどで地域の人々が世代を超えて楽しめる機会がどこにでも存在したのだが、今は多くの地方がそのような機会を失ってしまっているのは残念なことである。

猩々丸 笛

祭りなどの地方の伝統行事は、子供に社会を学ばせるきっかけとなるだけでなく、世代から世代に伝統が継承されていくことで地域の人々の連携が強まると同時に各世代のリーダー格が育成されて、地域の問題解決能力を高める機能を果たしてきた。長浜ではこれらの機能が今も健全に働いているようだ。

郷土に誇るべき歴史と伝統文化があり、愛する郷土の為に尽くすことができる長浜の人々は幸せだと思う。
400年以上続いてきた曳山祭は、これからも世代から世代に引き継がれていくことだろう。また機会を作ってこの祭りを楽しみに行くことにしたい。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

天神祭と大阪天満宮とあまり知られていないお寺のこと
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大文字山の送り火のこと
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http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-52.html

暴れ川として知られる吉野川の流域を豊かにした阿波藍と徳島の伝統文化
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-553.html








関連記事

仏教伝来から神仏習合に至り、明治維新で神仏分離が行われた経緯を考える

前々回の記事で竹生島弁財天のことを書いた。
明治初期の神仏分離令が出るまではわが国のほとんどの社寺が神仏習合であったのだが、そもそも神仏習合はどういう経緯ではじまり、「本地垂迹説」が唱えられたのにはどのような背景があったのだろうか。

仏教遭難史論

以前何度か紹介した羽根田文明氏の『仏教遭難史論』(大正14年刊)の記述がわかりやすいので紹介したい。

惟神(かんながら)の道、すなわち神道は宗教ではなくただ祖先崇拝の人道で単純なるものであるが、仏教は之に反して世界的大宗教であるから、数千巻の経論あって美術工芸より深甚微妙の哲理を説き八萬四千の法門あって、国家の経営、社会の事業すなわち開拓、交通、文学、技術、医方、採集、衛星、救済等、あらゆる人生必須の要件、一も備わらざる事なければ、神道とは到底同日に論ずべきものでない。故に仏教渡来以後国内に伝播して、有識者の仏教教理研究する世となっては、おのずから仏教を重視するの深き、神道を軽視する傾向の生ずるのは自然の趨勢である。ここにおいて具眼者は国人が固有の神道を軽視するの弊の生ずるのは、国の不祥であると見たる卓見家、行基、伝教、慈覚、弘法らの諸師が、邦人の仏教を重視するあまり神道を軽視する弊風を矯正せんことを企てられた
 そは天台、法華経の本迹二門の説に依り本地垂迹説を立て、仏を本地とし神は本地の仏の垂迹である。本迹二門異なりと雖も、ともに一実の妙理である。ゆえに本地の仏を尊信するもの、また垂迹の神を敬すべしと言いて仏を信ずるとともに神を敬せよと教えて時弊を救われた。これが一実神道である。また真言の金胎両部の説に由り、仏を金剛界、神を胎蔵(たいぞう)界とし、金胎両部異なりと雖も、其の体同一なるがゆえに神仏また同一体である。ゆえに仏を奉ずるもの、また神を敬うべしと言いてまた神道を(たす)扶けられた。これが両部神道である。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/13

慕帰絵詞 巻七
【慕帰絵詞(14世紀) 玉津島の垂迹のしるしとされた古松に祈る僧侶】

仏教ばかりが重視されて神道が軽視されることがないようにと本地垂迹説の考え方が成立し広められたのだが、時代が進むにつれて仏教が重んじられるようになっていったという。羽根田氏はこう解説しておられる。

皇室の仏教御崇信の深まるにしたがい、一般国民の仏教に帰向すること、さながら草の風に靡くがごとく、終には朝廷の御儀式をも、仏法の式に依りて行わるる程の状態であるから、勢いの趨(おもむ)くところ、神道は仏教の次位に置かれ、神職は僧徒の下風に立つに至った
ここに於いて僧徒はその勢いを憑(たの)み、その機に乗じて自己の理想を拡充して、これを事実上に表現せんことを企て、終に権現号を公称するに至った。その権現とは字のごとく、本地の仏が衰弱して、権(か)りに神と現われたという意義である。…
 また神名に直接仏名を称えたのもある。即ち八幡大神を八幡大菩薩と言い、祇園大神を祇園牛頭天王と言った。仏徒はなおこの仏名で飽き足らず、これを実際上に公示せんとて神社境内に本地堂を設け、本地仏を安置して神の本地の仏なることを表明するに至った。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/13

さらには僧徒が神を勧請する事例も少なくなく、石清水八幡宮が宇佐八幡宮から勧請したのも僧侶であったという。羽根田氏の解説を続ける。

終には神に、社僧の別当職を置き、僧徒をして神社に奉仕させることになった。即ち石清水八幡宮に、法蔵坊はじめ数戸の社坊あり、北野天満宮に松梅院はじめ十二の社坊があった。その他祇園、多賀、山王、日光、宮島、金毘羅、彦山、高良山、白山をはじめ、大社はおおむね社僧別当であった。尤も各神社に社家の神主もあったけれども、みな社僧の下風に立ち掃除、または御供の調達等の雑役に従い、神社について何等の権威もなかったのである。然れども伊勢神宮始め、その他に社僧なくして神主の神仕する神社もあったが、…少数であった。
 社僧の神社に奉仕するのは、僧徒が神前で祝詞を奏するのでなく、広前に法楽として読経したのであるから、社殿に法要の仏具を備えつけるは勿論、御饌も魚鳥の除いた精進物であった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/15

続日本後記

なぜ全国の神社に仏具が供えられて読経までが行われるまでになってしまったのだろうか。羽根田氏によると、神社で経典を読むことを命じる勅書が何度も下されているのだという。一例として『続日本後紀』の仁明天皇承和三年*十一月の詔が著書に紹介されている。
*承和三年:西暦836年
「勅す、神道を護持するは、一乗の力に如かず、禍を転じ福を作(な)す。また修繕の功に憑る。宜しく五畿七道に僧、各一口を遣し、毎国内の名神社に、法華経一部を読ましむべし。…」

僧侶を遣わしてお経を読むこととなると、当然のことながら神社にも仏像や仏具が必要になってくる。時代が下がるとともに僧侶が強くなっていき、神仏分離令が出される前の神社の状態は以下のような状態になっていたという。

鰐口
【鰐口】

「かかる状態であるから、ついにはかの八幡宮の如く、神殿内に仏像を安置して、これを神体とする神社が多くあった。大社が既にこの如くである故に、村落の小社は概ね仏像を神体にしたのである。而して其の像は、弥陀、釈迦、薬師、大日、観音、地蔵、不動などであった。ただ神殿内に仏像を祀るのみでなくこれを外面に表示して、またかの八幡宮の如く、社殿の扉の上部に、弥陀、観音勢至、または釈迦、文殊、普賢の三尊像の額を掲げたる神社もあって、現に日吉山王権現の如きは、七社ともに神扉の上部に、円形の額面の直系三尺余に、弥陀三尊の雲に乗って来迎する像の浮彫に、地板は青色で、輪廓(ふち)は雲形の彫物で、極彩色のが掲げてあったのを実見したのを記憶している。
 八幡宮、日吉山王の大社が、既にかくの如くであったから、なお他にもこれと同様の体裁の神社も多くあったであろう。而して八幡、山王、愛宕、祇園、多賀、北野天満宮などの各神社は、神前に鈴はなく、鰐口に鐘の緒の下げであったのも実見した。かかる状況であるから、社頭の構造もおのずから伽藍風となり、堂作りの社殿に極彩色を施し、丹塗りの楼門や、二重、三重、五重の塔のある神社もあって、純然たる仏閣の如くであったのが事実である。故に神社の実権は全く僧徒の占領に帰し、神主はその下風に立て、雑役に従事するのみ、何等の権力もなかったから、神人は憤慨に堪えられず、僧徒に対して怨恨を懐き、宿志を晴らさんとすれども、実力なければ空しく涙を呑み、窃(せつ)に時機の来らんことを、待っておった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/16

柏原八幡本殿
【柏原八幡宮には今も鐘楼と三重塔が残されている】

本地垂迹説は、人々が仏教を重視するの余り神道を軽視する弊に陥らないようにと教え、そうすることで神道を守ろうとする考えであったのだが、いつの間にかご神体までもが仏像に変わってしまい、社殿も仏閣のようになっていったという。

しかるに僧徒が勢威に任せて、漸次に神道の色彩を奪い、本地堂に仏像を安置しながら神体を仏像にし、社殿を仏堂に模造し、神殿に仏像の扁額を掲げ、鈴に代わるに鰐口を以てし、而して僧徒が法衣して神殿に読経してこれを神祭というに至っては、実に神仏混交、社寺混同して、本迹二門の真意も、却って破滅するに至ったのである」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/16

なぜ明治初期に激しい廃仏毀釈が起こったか長い間疑問に感じていたのだが、羽根田氏の著書を読んでようやく納得できた次第である。明治初期に激しい文化破壊活動が行われたことについては仏教側にも責任の一端があったのだと思う。

江戸幕府は仏教を優遇してきたのだが、そのことが多くの僧侶の堕落を招いたことは疑いがない。その証拠に平田篤胤よりもかなり以前から仏教を厳しく批判する書物が多数出ている。

明治文明綺談

菊池寛は著書の『明治文明綺談』で、こう解説している。

「江戸時代ほど僧侶攻撃論の栄えた時代はなく、まず儒家により、更に国学者により、存分の酷評が下されている。
堂宇の多さと、出家の多きを見れば、仏法出来てより以来、今の此方のようなるはなし。仏法を以て見れば、破滅の時は来たれり。出家も少し心あるものは、今の僧は盗賊なりと言えり。』(大学或問*) 

荻生徂徠も、
今時、諸宗一同、袈裟衣、衣服のおごり甚(はなはだ)し。これによりて物入り多きゆえ、自然と金銀集むること巧みにして非法甚し。戒名のつけよう殊にみだりにて、上下の階級出来し、世間の費え多し。その他諸宗の規則も今は乱れ、多くは我が宗になき他宗のことをなし、錢取りのため執行ふたたび多し』(政談)
と、その浪費振りと搾取のさまを指弾している。」
*大学或問:熊沢蕃山の著した、経世済民論の書である。貞享4年(1687)成立
**政談:荻生徂徠が8代将軍徳川吉宗に呈した幕政に対する意見書。全4巻。成立は徂徠が吉宗に謁見を許された1727年前後と考えられる。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/58

徳川光圀
【徳川光圀】

仏教を批判したのは思想家だけではない。会津藩の保科正之、水戸藩の徳川光圀及び徳川斉昭など名君と呼ばれた藩主も盛んに仏教を排撃したのである。

仏教を擁護してきた江戸幕府が倒れると、明治新政府はかなり早い段階から仏教を叩こうと動いている。普通に考えて、政権の誕生期であり権力基盤が不安定な段階においては、どんな政府においても、国民から強く反対されるような施策が強行出来るはずがなく、むしろ国民が評価するような施策を優先して実行するはずである。少なくとも明治維新を推進した中心メンバーにとっては、仏教勢力を叩くことは多くの国民から支持されると考えていたのではないだろうか。

明治政府は慶応四年(明治元年)三月十三日に神祇官再興を布告し、次いで三月十七日には神祇事務局より神社における僧職の復飾(俗人に戻ること)を命じ、さらに三月二十八日には次のような命令を出している。

「一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰 勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地抔と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、右之通被 仰出候事」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/s_tatu.htm

これが『神仏分離令』で「権現」とか「牛頭天王」など、神号を仏号で称えている神社はその由来書を提出すること、また仏像をもってご神体としている神社は今後改めること、さらに本地仏ととして仏像を神社に置いたり、鰐口や梵鐘、仏具などを社前に置いている場合は早々に取り除けと命じているのだ。そしてこの命令が出た4日後の四月一日に日吉天王社に武装神官*が進入し、仏具や教典などを焼き捨てている。
*神仏分離令に関与した神祇官神祇事務局権判事であり日吉山王権現の社司であった樹下茂国が、最初に行われた廃仏毀釈を主導した。

当時は、全国の大半の神社でご神体が仏像にされていて、境内には仏教的なものが数多く存在した。それらを「早々に取り除け」というのは、建物ならば、破壊するか、移転するか、社殿として使うしかないだろう。仏像や仏具などは多くが焼かれたり、溶かされたり、棄てられることになったのだが、同時に大量の金属の使い道を考えることが不可欠となる。

薩摩天保
【薩摩天保】

以前このブログでレポートした通り、他藩に先んじて幕末に廃仏毀釈を実施した薩摩藩では、梵鐘などを溶かして大量の「薩摩天保」と呼ばれる贋金を密鋳して軍資金を捻出した。島津久光の側近で天保銭の密鋳に関与した市来四郎の証言が羽根田氏の著書に紹介されているが、それによると、徹底的に神仏分離を行った結果、神社のご神体はほとんどすべてが仏像であったと書いている。

「寺院廃毀の後、神社の神仏混淆してあるのを分離することが至極面倒であった。各地巡回して、神社ごとに検査の上仏像仏具を取りよけたが、全く仏像を神体にしたるものがあった。これらは新たに、神鏡を作って取り替えたが、霧島神社をはじめ、鹿児島神社なども仏像で、即ち千手観音であった。三個国大小、四千余の神社を一々検査したのに、大隅国、々分郷のなげきの森という古歌にも見ゆるその神社の神体が古鏡であった。神仏混合でなかったのは、ただこの一社だけであった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/53

薩摩藩でこんな状態であったので、どこの藩でも大量の梵鐘や鰐口が集まることとなる。
『明治維新 神仏分離史料 第一巻』に、寺や神社の多い京都の神仏分離についてこんな記録があるので紹介したい。

昔の四条大橋
【昔の四条大橋】

京都四条の鉄橋の材料は、仏具類が破壊せられて用いられたとのことである。鉄橋は明治六年に起工し、翌年三月に竣工し、同十六日に開通式が行われた。総費額一万六千八百三十円で、祇園の遊郭で負担したとのことであるが、時の知事長谷信篤は、府下の諸寺院に命じ、仏具類の銅製の物を寄付せしめた。古い由緒のある名器の熔炉に投ぜられたるものが少なくなかったということである。当時廃仏毀釈の余勢が、なお盛んであったことがわかる。
洛陽四条鉄橋御造架につき献上書云々とある文書が伝わってある。その一に紀伊郡第三区深草村寶塔寺、古銅器大鰐口丈八寸、縁二尺、目方十六貫八百目、銘に深草寶塔寺為覚庵妙長聖霊菩提、慶長十七年七月二十日、施主中村長次とあったことなど見える。この類の物が今の鉄橋になったのである」(『明治維新 神仏分離史料 第一巻』p.384)

四条大橋は幕末の安政三年(1856)に造られた橋が明治六年(1873)の洪水で破壊されてしまったために再建されることとなったのだが、全長90m以上もある大橋を造るために、鋳潰された梵鐘や鰐口はとんでもない量であったことだけは確実なことである。
その後、市電の開通に伴う道路拡張のためこの橋は大正二年に架けかえられ、その後水害で再度架けかえられることになり昭和17年に完成したのが現在の四条大橋なのだが、古い寺や神社の多い京都においても、明治初期に多くの文化財が失われたことを知るべきである。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

古き日光の祈りの風景を求めて~~日光観光その1
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但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて
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古代からの景勝の地であり和歌の聖地である和歌の浦近辺の歴史を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-511.html

滋賀県に残された神仏習合の景観などを楽しんで~~邇々杵神社、赤後寺他
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-558.html

全寺院を廃寺にした薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期より始まっていたのではないか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-342.html

江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか
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関連記事

甲賀の総社・油日神社、平安仏の宝庫・櫟野寺などを訪ねて~~甲賀歴史散策その2

甲賀流忍術屋敷を楽しんだのち、油日(あぶらひ)神社(甲賀市甲賀町油日1042 ☏ 0748-88-2106)に向かう。

この神社は、平安時代に編纂された『日本三代実録』に、陽成天皇の元慶元年(877)に従五位下の神階を授けられたとの記録が残されている古社で、神社の東に聳える油日岳をご神体とし、油の神様として崇敬を集めてきたばかりではなく、「甲賀の総社」として甲賀武士の結束の中心であったという。

油日神社楼門

両脇に石垣が積まれた参道を進むと、永禄9年に建造された楼門と廻廊(ともに国重文)があり、いずれも檜皮葺の美しい建物である。

油日神社拝殿

楼門を入ると桃山時代に建てられた檜皮葺の拝殿(国重文)があり、その奥の一段高い玉垣には、明応2年に建てられた本殿(国重文)が立ち並んでいる。この神社は映画やテレビドラマのロケなどでよく利用されてきたそうだが、確かにこの神社の境内は、古い建物が古いままに美しく残されていて、なんとなくタイムスリップしたような気分になる場所である。

油日神社本殿

また本殿の左手前には、樹齢750年、樹高35m、幹回り6.5mのコウヤマキが聳えていて、滋賀県の自然記念物に指定されている。コウヤマキは高野山に群生しているが、これほどの巨木は高野山にはないのだという。

油日神社鐘楼

この神社は、明治の神仏分離によって『油日神社』という名前に変わったのだが、以前は『油日大明神社』と呼ばれていて、神仏習合の施設であった。神社の西鳥居の近くには鐘楼が今も残されており、神仏習合の時代の風景を彷彿とさせる。

油日祭 奴振

この神社の例大祭(油日まつり)は毎年5月1日に行われ、滋賀県無形民俗文化財に指定されている「奴振(やっこぶり)」 が5年に1度だけ行われるのだという。上の画像は駐車場に掲示されていた、「奴振」の写真であるが、次回の奴振りは2021年に行われる計算になる。

楼門の右手奥に甲賀歴史民俗資料館がある。
小さな資料館ではあるが、油日まつりの絵図や甲賀忍者の資料、永正5年(1508)に制作された福大夫面(県文化財)、油日神社改修時の棟札、神仏分離前に用いられていた大きな懸仏(かけぼとけ)などが展示されていてが結構見ごたえがあった。仏像の行方が気になったのでスタッフの方に尋ねると、近隣にある櫟野寺(らくやじ)などに移されたのではないかということであった。

油日神社から櫟野寺(甲賀市甲賀町櫟野1359 ☏ 0748-88-3890)に向かう。車で5分程度で到着する。

櫟野寺仁王門

上の画像は櫟野寺の仁王門だが、仁王像の前に国旗が掲揚されているのは、秘仏である本尊・木造十一面観音座像の三十三年に一度の御開帳が始まっていることによる。

櫟野寺本堂

上の画像は本堂で、その奥に宝物館があるのだが、中に入ると、最初に御開帳の本尊の大きさに圧倒されてしまった。平安時代に制作されとは思えないほど保存状態は良好で、目鼻立ちがはっきりしていて、穏やかな表情に引き込まれてしまった。
十一面観音で座像は珍しいのだが、座像でありながら像の高さは3.12mもある。お寺の方の説明によると、本尊は櫟(いちい)の一木造であり、しかも櫟の木は幹の直径が1m程度のものが多く、こんなに大きな木になることは珍しいのだそうだ。

kaityou01.jpg

宝物館にはほかにも貴重な仏像が数多く安置されていて、本尊を含めて20体もの平安時代の仏像が国の重要文化財に指定されている。そして、これらの平安仏が昨年の本堂改修時に寺外に持ち出されて、東京博物館で特別展『平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち』が開かれ、入場者が20万人を超えたのだそうだ。東京国立博物館のHPに、櫟野寺の平安仏の一部が画像付きで紹介されているが、この中に、神仏分離の際に『油日大明神社』から移された仏像があるのだろうか。
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1779#top

いずれも見ごたえのある仏像ばかりであるので、もし櫟野寺に行かれるなら、木造十一面観音座像の御開帳が行われる12月9日(日)までに拝観されることをお勧めしたい。

しかしながら、なぜ櫟野寺に20体もの貴重な仏像が集まったであろうか。
膳所藩士・寒川辰清が享保19年(1733)に完成させた『近江国輿地志略』には櫟野寺についてこう解説されている。
「櫟野村にあり。本尊観音。相伝、伝教大使櫟の生樹を以、観音の像を彫刻す。脇侍は薬師・地蔵・釈迦及び田村麿の像あり。天台宗。比叡山延暦寺の末寺なり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879446/26
同じコマ番号の40ページにある「油日大明神社」と比べれば、随分簡単に記されているが、この解説を読めば、櫟野寺に古くからあった仏像は5体程度で、他の仏像は神仏分離以降に神社や廃寺などから集められたか買われたと考えるしかないだろう。

以前このブログで、滋賀県は京都・奈良に次いで仏教文化財の宝庫であることを書いたことがあるが、なかでも甲賀市には多くの貴重な仏像が残されている地域である。
櫟野寺のパンフレットによると、甲賀市には国の重要文化財に指定されている仏像は約50件あり、県・市指定のものを含めると100件を超えるのだそうだ。櫟野寺以外にも国重要文化財に指定されている貴重な仏像が30体も残されているなら、また機会を作って甲賀の仏像をゆっくり巡りたいものである。

阿弥陀寺

上の画像は、櫟野寺の300mほど東にある阿弥陀寺(甲賀市甲賀町櫟野1172 ☏ 0748-88-3721)である。櫟野寺の末寺の1つなのだが、この寺の本尊・木造阿弥陀如来坐像も脇壇にある木造聖観音立像も平安仏で国の重要文化財である。この寺には他にも貴重な仏像が残されているようだが、拝観には事前の予約が必要なようだ。

阿弥陀寺から大鳥神社(甲賀市甲賀町鳥居野783 ☏0748-88-2008)に向かう。
この神社も昔は神仏習合の施設で、油日神社と同様に明治初期に名称が変えられたのだが、それ以前は河合祇園社・大原谷の祇園社・牛頭大明神河合社牛頭天王などと呼ばれていたようだ。そしてこの神社は、甲賀武士大原氏の氏神として信仰を集めたという。

大鳥神社のHPにその由緒が書かれている。
「陽成天皇の元慶六年(882)平安初期に伊賀国阿拝郡河合郷篠山嶽より大原中に勧請され、その後当地に移し祀られ、その当時は比叡山延暦寺の別坊が36院あったといわれ大原山河合寺と称され祭礼は坂本の日吉神社に準じていたと伝えられているが、大原祗園は神輿渡御に用いる千枚張に記されているとおり応永22年(1415)に始まったとされる。
 また、織豊時代に入っては社号を河合祗園社とも大原谷の祗園社とも称し牛頭大明神河合社牛頭天王といわれ現在でも氏子の人々から(てんのうさん)とも呼ばれ親しまれている。」
http://ootorijinjya.jp/html/000.html

案内板の解説では河合寺は神仏分離後廃寺になったと書かれていたが、大鳥神社のホームページによると、河合寺はその後も50年近く残されていたようである。ホームページには次のように解説されていて河合寺の仏像も櫟野寺に移されたことが明記されている。

「当神社の宮寺で当神社の勧請と同じころ円仁の開基と伝えられる。幕末まで神社と一体で運営されていたが、明治元年に神仏分離令で廃寺となる。建物等は大正5年の神社火災類焼によって焼失した。再建されずに仏像等は櫟野寺に移管された。」
http://ootorijinjya.jp/html/002-2.html

大正5年(1916)の火災はかなり大規模なものであり、大鳥神社の本殿を残して拝殿の一部と楼門、回廊、神楽殿、社務所、河合寺を消失してしまったのだそうだ。そして大鳥神社は、大正9年(1920)に氏子の総意の力で復興したのだが、立派な建物が建てられて、7棟(楼門・拝殿・神楽殿・神饌所・中門・祝詞殿・社務所)が平成14年(2002)に国登録有形文化財となっている。

大鳥神社

上の画像は鳥居と朱塗りの楼門だが、この楼門は京都の八坂神社の楼門を模して造られたものだという。

大鳥神社 拝殿

上の画像は拝殿だが、檜皮葺の屋根の軒反りが美しい。下の画像は中門、祝詞殿と本殿である。

大鳥神社 祝詞殿 本殿

神社のホームページには、河合寺は焼失したが再建されることなく、仏像は櫟野寺に移されたことが淡々と記されているのだが、河合寺が廃寺であったなら、誰が大きな仏像を火災から守ったのであろうか。明治初期に全国で激しい廃仏毀釈の動きがあり、多くの仏像が破壊されたり海外に売却された中で、甲賀の人々は貴重な仏像を守るために大変苦労されたと思うのだが、もしその様な記録が残されているのであれば、是非読んでみたいものである。

大鳥神社 大原祇園

ところで、大鳥神社には「大原祇園祭」という夏祭りがある。毎年7月23日に『宵宮祭』、24日に『本祭』が行われるのだそうだが、日程が似ているので京都の祇園祭のようなものか思うと内容は全く異なっていて、結構荒々しいお祭りである。

https://www.youtube.com/watch?v=2VXm2UVLuto
宵宮には、夜の9時から各集落の踊り番が紙で作られた祠形の灯篭を頭上に載せ、拝殿の前で輪を作り、「インヨーソーライ」の掛け声を繰り返しながら、互いに灯篭を激しくぶつけ合う。

https://www.youtube.com/watch?v=aDzYBr23OJY
本祭には各集落の太鼓を持った踊り子、花蓋(はながさ)、青竹を持った神輿担ぎが楼門の外に集まり、子どもたちは本殿や拝殿の前で、太鼓や鼓を叩きながら輪になってまわり、「インヨーソーライ」の掛け声とともに、輪の中心で太鼓や鼓をぶつけ合う。
楼門の外では、青竹を持った大勢の大人が2列になって並び、その間を2人が花蓋をもって駆けていくところを、花蓋が青竹によって激しく叩かれて倒されると、見物している人々が花を奪い合う『花奪(はなば)い』が行われる。説明するより動画で観た方がわかりやすいので、興味のある方には6年前の祭りのkyuta27さんの動画を見て頂きたい。
昔から、神花とよばれる花蓋の飾り花を家に持ち帰り神棚に飾ると疫病を免れると信じられていて、花の奪い合いが行われることとなり「喧嘩祭り」とも呼ばれるはその奪い合いの激しさからである。

https://www.youtube.com/watch?v=E6GXz_8Wrok
調べると『花奪い』行事は、岐阜県郡上市白鳥町長滝138にあるの長滝白山神社でも行われている。この行事は毎年正月6日に行われる「六日祭」の中で行われるのだが、6メートルの高さに吊るされた5つの花笠を人梯子を組んで落として花を奪い合う行事もなかなか面白そうだ。上の動画は8年前にChannelGoovieさんが紹介されているものである。

私ももうすぐ65歳となるのでそろそろ会社勤めを辞めて、自分の好きなことをしたいと考えているのだが、地方の面白そうな伝統行事や伝統芸能などを見て歩くことは、今後楽しみにしていることのひとつである。
読者の皆さんが薦めたい地方の伝統行事などがあれば、ご教示していただくと有難い。定年後もいろいろやることがあるのとお金もないので、思うようにはいかないかもしれないが、長期計画を組んでいろんな祭りなどを見て廻りたいと考えている。

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【ご参考】
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松尾芭蕉と河合曾良の『奥の細道』の旅の謎を追う
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

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また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
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