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祇園祭の「祇園」とは

もうすぐ京都の祇園祭(ぎおんまつり)だ。

今日10日から鉾町で鉾が組み立てられ(鉾建て)、ついで12日からは山が組み立てられる。
そして山鉾巡行はいよいよ17日で、今年は土曜日だからすごい人出だろう。

山鉾巡行岩戸

京都には有名なお祭りがいくつかあるが、私は子供の頃から祇園祭が大好きだった。今でもあの祇園囃子の音色を聴くだけで気分が高揚してくる。

しかしながら子供の頃に、ふと疑問に思ったことがあった。祇園祭の「祇園」という地名についてである。

「祇園」という場所は、京都市内の東の方を南北に走る東山通り(正しくは東大路通り)と、市内の中心部を東西に走る四条通との交差点あたりを言うが、子供の頃なんとなくこの地名に違和感を覚えた。

京都の中心部は碁盤のように直角に道路が走っていて、京都の地名は、例えば南北を走る河原町通と東西を走る丸太町通との交差点を河原町丸太町などと呼ぶ。ならば、「祇園」は 東山通と四条通とが交差する場所なので、普通なら東山四条と呼んでも良さそうなのに、なぜか「祇園」と呼ばれているのが不思議だった。

京都市内の中心部のバス停の名前は、ほとんどのバス停は二つの通りの名前で地名を表しているのだが、例外となるケースは「○○前」などというように有名な神社仏閣や大学や病院があるようなケースが大半である。しかし、「祇園」はそれにも当てはまらない。すぐ近くに大きな神社があるのだが、「八坂神社」という名前だ。

八坂神社

上の写真は八坂神社の西楼門であるが、この神社に、祇園祭の山鉾などが収められている。しかし「祇園」という名前を連想させる神社仏閣などはどこにも存在しないのだ。

このあたりを昔から「祇園」と呼んでいたのだろうと長い間勝手に解釈していたのだが、学生時代に「祇園」という名前の由来となるお寺が以前は存在していたことを聞いた。しかし、どんなお寺がいつごろ創建されていつ頃なくなったかを詳しく知ったのは、つい昨年のことである。

安永9年(1780)に出版された「都名所図会」巻三には、この地に以前あった寺院の図絵が描かれている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/m_gionyasiro.htm

祇園社

説明には、この「祇園社(ぎおんやしろ)」と祇園祭についてこう書かれている。

「…清和天皇貞観十八年*、疫神崇をなして世の人疾に悩むこと以の外なり、曩祖日良麿洛中の男女を将て、六月七日十四日疫神を神泉苑に送る、しかりしより年々かたの如くしつけて、祇園会といふなり。神輿を置所をば八坂郷感神院といふ寺なれば、神殿もなきほどに、昭宣公の御殿をまゐらせられて神殿とす、祇園は尋常の殿舎造りなり、是を精舎といふ、後人又祇園の名を加へけり。」*貞観18年は西暦876年

ここには感神院を祇園祭の神輿の置き場所にしたが、神殿がなかったので昭宣公(藤原基経836~891:摂政関白太政大臣)の御殿を移して神殿としたと書かれている。図には多宝塔があり、薬師堂がありお寺であることは確実だが、神仏習合の時代であり神殿も作られていたのだ。

洛中洛外図屏風祇園

寛永三年(1626)に描かれた「洛中洛外屏風図」にも、祇園社が描かれている。では、今の八坂神社は何なのか。

空から見た八坂神社

今の八坂神社を上から見るとこのようになるが、今の八坂神社は以前は祇園社であったことがわかる。楼門がそっくりそのまま八坂神社の楼門になっていることも明らかだ。

Wikipediaによると祇園社の創建年については656年、876年など諸説があるが、古くから仏教の守護神である牛頭天王(ゴズテンノウ)とそれに習合したスサノオノミコトを祀る神仏習合の施設で、当初は興福寺、10世紀以降は延暦寺の支配を受けていたらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%9D%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE

慶応4年(1868)の神仏混淆の禁止により「感神院祇園社」の名称を「八坂神社」と改められ、薬師堂などの仏教施設は破壊されている。(多宝塔は江戸時代寛政年間[1789~1800]に焼失) 日本全国には、牛頭天王を勧請した祇園社が3053社あったそうだが、明治の廃仏毀釈によりすべて八坂神社(弥栄神社)に改名させられたそうである。
http://www.pauch.com/kss/g023.html

では、「感神院祇園社」の仏像はどこに行ったのか。
これは幸い大蓮寺というお寺に残されているが、十一面観音像以外は秘仏として直接拝観することはできない。祇園社本尊の薬師如来の写真が大蓮寺のHPに載っているが、本尊でありながら光背がないのはやや違和感がある。

祇園社本尊薬師如来
http://www.anzan-no-tera.jp/gion/index.html

大蓮寺の歴史については比較的次のサイトが詳しい。
http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1700/22365330.html

「八坂神社」から祇園祭の山鉾が立ち並ぶ四条烏丸あたりまで、大人が歩いて20分くらいだろうか。その途中で鴨川を渡ることになるが、その橋は「四条大橋」という。

この四条大橋については昨年11月にこのブログに書いたが、明治七年に作られた橋は廃仏毀釈で強制的に供出させた仏具類を鋳潰して橋材に使われたそうである。下の写真がその頃の四条大橋だが、明治の京都人は、どんな思いでこの橋を渡ったのだろうか。

昔の四条大橋
ご参考:「四条大橋のはなし」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-73.html

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天神祭と大阪天満宮とあまり知られていないお寺のこと

7月25日は日本三大祭りの一つである大阪天神祭の日で、随分久しぶりにこの祭りを見てきた。

天神祭1

若かりし頃大阪市中央区の北浜で勤務していた時に、先輩から「祭りを見に行こう」と誘われて、船渡御を少し見てからすぐ飲み屋に向かった記憶がある。そんなことがもう一回くらいあったが、二回ともすごい人だかりで、遠くでいくつかの船が大川を進んでいくのがわずかに見えただけだった。その時は、仕事が終わってから天神祭を見に行ったのでは、良い場所はほとんど陣取られていてとても見られないなと思った。

今年はたまたま日曜日なので、一度このお祭りをじっくり見てみようと思い立ち夫婦で出かけた。

4時過ぎに「竹葉亭」という店で鰻を食べてから大阪天満宮に向かうと、ちょうど玉神輿が神社から出るところだった。
天神祭神輿

こんなふうに凄い人だかりで、カメラを上に掲げて何とか神輿が撮れたのはよかったが、それから後はどこへ行こうにも人が多すぎて、どちらの方角も前に進むのが大変だった。

神輿を追いかけるのをあきらめて、南に進んで船渡御を見るための場所取りに行く。初めてなのでどこがいいかわからず、とりあえず天満橋を目指して進んでいった。

諸国名所百景天神祭

上の絵は安藤広重の天神祭の船渡御の絵だ。この絵は難波橋と書かれているが、今の船渡御のコースは難波橋を通らない。今なら、船渡御を橋近辺で見たければ天満橋か川崎橋で、花火も見たければ南岸で見るのが一番と誰でも考える。

船渡御ルート

やっと天満橋北詰に辿り着くと、警察が谷町筋を閉鎖して交差点から南方面と東方面の歩行者を遮断していたために、やむなく川べりに出て天満橋の下を潜ってから再び谷町筋に出て、天満橋を南に進む。天満橋の途中で場所取りをしようとしたが、橋からの見学が禁止されているらしく、やむなく橋の南側の付け根あたりで場所取りをしたが、暗いところでの撮影はなかなか難しく、今回は無難な写真だけを載せておく。
人が漕いで川を進んだ広重の時代とは違い、今の船はほとんどが内燃機関などで動き、スポンサーの大型の広告が載せられている。

天神祭の船

たまに昔と同様に手漕ぎで進む船もあるのだがもうすこし、このような船が多ければいいのにと思った。

行列の最後の方には奉安船に先程の神輿が載せられて大川を進む。急に鳴り物の音が止まって、人々は二礼二拍手一礼でお見送りする。花火の音だけが妙に大きく響き渡る。

天神祭船渡御

天神祭の話から大阪天満宮に話を戻そう。
半日歩いて途中から私が気になったのは、大阪天満宮は昔から純然たる神社なのかという点である。

「天満宮」という神社は、京都に「北野天満宮」という有名な神社があるが、この神社は江戸時代の「都名所図会」では多宝塔や経所等明らかな仏教施設が多数描かれており、明治の廃仏毀釈以前は神仏習合の施設であった。
「太宰府天満宮」も以前は「安楽寺天満宮」という、寺院を中心とする施設であったのだが、廃仏毀釈により仏教施設がことごとく破壊されている。
大阪天満宮もどこかに仏教施設の形跡があったのではないかと、家に帰ってから調べることにした。

いろいろネットで調べても大阪天満宮に関してはあまり詳しく書いたものが見つからなかったが、大阪天満宮に神宮寺があったことはいろんな人が書いているので間違いがないようだ。やはりここも神仏習合の施設だったのだ。(神宮寺とは、神仏習合思想に基づき神社に建てられた仏教寺院や仏堂のこと。)

豊臣秀吉のお伽衆に大村由己(おおむらゆうこ)という人物がいるが、この人物はWikipediaなどでは大阪天満宮の「別当」であったと書いてある。「別当」ということは、大阪天満宮に神宮寺があり、神社の管理権を掌握していた人物だったということだ。

大阪天満宮は何度も火災にあっており、江戸時代の記録に残っているだけでも七度も火災に遭遇している。有名なのは天保8年(1837)の大塩平八郎の乱によるもので、この時大阪天満宮は全焼している。
現在の本殿はその六年後の天保14年(1843)年に再建されたものだ。

さらに調べると、大阪天満宮の神宮寺にあった鎌倉時代の仏像が今でも残されていることが分かった。

大阪天満宮から北に300m程度行くと「宝殊院」(天満寺)というお寺がある。この場所へは大阪冬の陣、夏の陣の後の復興時に神宮寺が移ったらしく、移転後も相当大きな寺だったらしいのだが、詳しいことはわからない。その堂宇も太平洋戦争で焼失し、今の建物は昭和42年に再建されたモダンな建物である。
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/otera-1/newpage115.htm

大阪市のホームページには、大阪天満宮の神宮寺の時代からの鎌倉時代の仏像の写真が紹介されている。

宝殊院仏像

http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000008915.html

まだ行ったことのない寺だが、一度時間を見つけて行ってみたくなった。

大阪天満宮だけではない。八坂神社も金刀比羅宮もそうだが、大きな神社のホームページをいくら読んでも、神仏習合時代のことや廃仏毀釈のことがほとんど欠落してしまっている。これでは、歴史の真実が歪められて伝承されるだけだ。

我々の祖先が何代にもわたって大変な苦労をして文化財を守ってきたことや、時の為政者の軽薄な施策で多くの文化財を失ってきた事実をしっかり脳裏に刻んでこそ、文化財を守ることの重要さと意義を次の世代に伝えることができるのだと思う。

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香住から但馬妙見山の紅葉と朱塗りの三重塔を訪ねて~~香住カニ旅行2

香住で朝を迎えると、宿の主人から声がかかって「岡見公園」まで車で案内していただいた。

岡見公園

「岡見公園」は名勝香住海岸から北に突き出た城山半島という岬の先端にある公園で、北に見える小さな島は白石島という名だそうだ。
春には桜が咲き、夏にはユウスゲという黄色い花が咲くこの場所は、5月から9月にかけて海に沈む夕日が楽しめるそうで「日本の夕陽百選」に認定されているという。

岡見公園 波

一見穏やかそうな海に見えるのだが、北風の影響で冬の波は結構荒く、公園の西側は柱状節理の岩に波が激しくぶち当たって海面は真っ白だ。白い波の表面にやや茶色く浮いている泡状のものはプランクトンの塊で、北風と波が強い日は「波の花」となって舞い上がることがあるのだそうだ。

宿をチェックアウトして主人に教えて頂いた「かに市場」に行くと、主人が根回ししてくれたおかげで随分安く海産物が買えて大満足だった。

香住町を後にして、但馬妙見山に向かう。
この山の標高800mのところに朱塗りの美しい三重塔があることをネットで知った。
多宝塔、三重塔、あるいは五重塔と言えばお寺にあるものと日本人ならほとんどの人が思うだろう。しかし、但馬妙見山にある三重塔は「名草神社」という神社の境内にあるのだ。
その歴史を調べている際に興味を覚えて、是非今回の旅行で訪れたいと思っていた場所である。

日光院1

名草神社に行く途中で、養父市八鹿町(やぶしようかまち)石原にある「日光院」というお寺を先に訪ねてみた。そこに、三重塔の由来を知る鍵があるという。上の画像が、日光院の門である。

日光院2

階段を上り境内に足を踏み入れると、見事なケヤキや銀杏の巨木が伸びて樹木の霊気を感じさせるような空間が広がる。お寺でありながら、境内の中に大きな鳥居があり、独特な雰囲気がある。
境内の中に案内看板があった。それによると、この寺は飛鳥時代に開かれて、御本尊は「妙見大菩薩」で万物の運勢を司る仏様なのだそうだ。
日本三妙見の一つとされて人々の信仰を集め、戦国時代には山名宗全がこの日光院で戦勝祈願をした古文書が残されており、県の重要文化財に指定されていると書かれている。

ここから三重塔に関する記述となる。「ご案内」看板の説明文をしばし引用する。

「天正年間、羽柴秀長の山陰攻めの兵火にあい、寺門一時衰微しましたが、寛永九年には、ここから西方五十丁の妙見中腹に移転復興し、三代将軍家光公より三〇石の御朱印地を賜りました。また、寛文五年には出雲大社の御造営に際し、本殿の御用材に日光院の妙見杉をお譲りしたお礼に、出雲大社より日光院に三重塔を譲り受けました。そして妙見全山を伽藍とする壮大な妙見信仰の一大霊場として繁栄をきわめました。
明治になり廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、妙見信仰の弾圧が始まりました。明治九年七月八日、遂に『寺号を廃して、不動産のみ名草神社とせよ』という布達にて、再びこの地の末寺成就院と合流し、今日に至っています。
つまり、寛永九年*から明治九年*まで(二四五年間)の日光院の建物に、新たに名草神社が入り、お寺の建物がそのまま神社とされたのです。
そこが日光院であったが故に、仏教の象徴である三重塔が名草神社の境内に存在しているのです。…」*寛永九年=西暦1632年、明治九年=西暦1876年

と、今の名草神社の建物は、もともとはすべて日光院が所有していたものであり、明治9年の布達で名草神社の所有とされてしまった。今の日光院は、それまで同院の末寺であった成就院に移したものであることが記されている。

日光院3

上の画像が日光院の護摩堂だが、ここで妙見大菩薩の法灯が今も守られているのだ。
正面の扁額には「妙見大菩薩」と書かれており、左の扁額には「妙見宮」と書かれている。
「宮」というと神社のようなイメージがあるが、「妙見大菩薩」を本尊としていた霊場はすべて「妙見宮」と呼ばれていたのだそうだ。したがって、この扁額の「妙見宮」は日光院を意味している。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page014.html

日光院の駐車場の横に『妙見資料宝物館』があり、その経緯についての資料が展示されているが、日光院のHPにも詳しく書かれており参考になる。次のURLはその目次だ。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page008.html

上記HPを読んでいくと、出雲大社側の『寛文御造営日記』という文書に但馬の妙見山日光院に移したことが記されていることがわかる。この出雲大社の古文書には、どこにも「名草神社」の名前が出てこないことが最大のポイントである。当時は「名草神社」という名の神社は但馬妙見山に存在せず、この神社は明治時代に作られたと考えて良い。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page009.html

kituki_kaneis.jpg

そもそもなぜ出雲大社に仏教施設である三重塔があったのかと不思議に思ったのだが、次のURLに江戸時代寛永期の出雲大社の図絵が紹介されている。この図にははっきりと三重塔や鐘楼などが描かれている。昔は出雲大社までもが神仏混淆であったとは知らなかった。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/myoken42.htm

出雲大社から仏教的色彩が払拭されたのは寛文御造営の時で、第六八代国造尊光がその決断を下し、日光院に三重塔を移したほか、様々な寺院に建物や仏像などが移された記録が出雲大社に残されているようだ。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page009.html

出雲大社の『寛文御造営日記』の原文は、先ほど紹介したURLで一部が紹介されている。
これを読めば日光院の説明に誤りのない事が明らかである。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/myoken42.htm

出雲大社が御造営のための木材の入手に難渋していたところ、寛文三年(1663)十二月に妙見山に適材を発見し、用材を日光院から譲渡を受けたいとの申し入れがあった。翌年、日光院は出雲大社を訪れ、日光院には塔を建立する計画があるので、出雲大社に譲渡する材木代金は塔の建築費用に充当する考えであるが、もし出雲大社の三重塔を破却する予定であるならば日光院が譲り受けたい。それがかなうならば材木は出雲大社に進上するとの考えを述べる。その後、出雲大社が塔の譲渡を決定して、当時の日光院隠居(快遍)が大悦したことまでが書かれている。
そして
「寛文5年正月23日 但州妙見より塔こわしのため日光院代僧法住坊、並に八鹿村西村新右エ門、大工与三エ門来る。
27日 三重塔今日迄に崩済申候此塔は大永7年<1527>尼子経久建立也」
「寛文5年4月21日…塔之儀豊岡より妙見山迄人夫3500人而持着申之由、9月中に立仕舞可申之申云々…」
と塔移転の準備が進んで行ったことが詳細に書かれている。このように、三重塔が日光院のものであることは当時の史料を読めば誰でもわかる。

しかしながら、明治政府は明治5年の上知令で日光院の寺有地であった妙見山全てを没収し、明治6年2月に「妙見宮」を「名草神社」に改称させ、妙見信仰とは無縁の「名草彦命」を祀らせ、明治9年7月には、豊岡縣が「寺号を廃し、同寺が所有してきた不動産のみを明け渡す」との布達を出した。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page006.html

但馬妙見信仰の存続の危機に諸国の信者たち数百人が集まり、仏像や経典などの寺宝を末寺の成就院(今の日光院のある場所)に運び込み、それまで日光院のあった場所には鐘楼以外の建物のみを残し、末寺と合流することでなんとか妙見信仰は守られたのである。
後に日光院は明治政府を相手とする行政訴訟をおこし、明治39年にようやく勝訴して但馬妙見山の山林全てを取り戻したという。

続けて日光院から名草神社に進む。かなり狭い山道を走ることになるが、ほとんど対向車はなく10分程度で神社の駐車場に到着した。

名草神社三重塔

車から降りてしばらく細い参道を歩いていくと美しい三重塔が見えてきた。
この三重塔は国の重要文化財に指定されていて、昭和62年10月に解体修理が完成した際に塗り替えられたために朱色がとても鮮やかだ。

この三重塔の近くに八鹿町教育委員会が建てた案内板がある。そこにはこう書かれている。
「この三重塔は、島根県出雲大社に出雲国主尼子経久(あまこつねひさ)が願主となって大永七年(一五二七)六月十五日に建立したものと伝えます。
出雲大社の本殿の柱に妙見杉を提供した縁で、塔は日本海を船で運ばれ、寛文五年(一六五五)9月に標高八〇〇mのこの地に移築されました。…」
と、塔を主語にした曖昧な書き方で、肝心の日光院のことがどこにも書かれていない。この説明であれば、名草神社が妙見杉を提供した縁で出雲大社から名草神社にこの塔が移築されたとしか読めないだろうし、なぜ神社の境内の中に塔が存在するのかということも、誰も分らないであろう。

名草神社拝殿

階段を上っていくと、国指定重要文化財の拝殿が見えてくる。色鮮やかで素晴らしい枝ぶりの楓の紅葉にしばし足を止めた。

この拝殿には兵庫県教育委員会の案内板があった。そこには
「…江戸時代中期の代表的な割拝殿として貴重な遺構である。」
と書かれており、ここでもはじめから神社として建てられたかのような書き方をして、以前は日光院の建物であったことを隠している。

名草神社本殿

拝殿を抜けると名草神社の本殿がある。これも国の重要文化財に指定されているのだが、残念なことにかなり屋根が破損している。いつ傷んだのかはよく解らないが、長く放置しては木の腐食が進みはしないか。

名草神社本殿彫刻

近くから見ると、柱の彫刻は素晴らしいものがある。獅子や龍や鳳凰や力童子などが極めて精巧に彫られている。この本殿がこれ以上傷まないように、ぜひ修理してほしいものである。

名草神社本殿破損

この本殿にも兵庫県教育委員会の案内板があった。
「…本殿は宝暦4年(1754)に造られた大規模な建築で…平面は内々陣・内陣・外陣の3区に分かれその周囲に庇がめぐるもので、江戸時代の神仏習合の神社建築として特筆される。」
と、ここでも建物を主語にして肝心なことを誤魔化しているのだが、もともとは日光院の建物であったことを一言も書かなくては、ここへ来た観光客はこの建物は初めから名草神社の本殿として建てられたものとしか思わないだろう。そもそもこの本殿の棟札には「宝暦四年 日光院現住職宝潤」と日光院第四十世の名が刻まれているというのだ。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page006.html

このブログで何度か明治の初めに起こった廃仏毀釈の事を書いてきた。廃仏毀釈のために廃寺となった大寺院は少なくないし、奈良の東大寺や法隆寺、興福寺、金峯山寺、京都の東本願寺なども大変な苦労をして、その難を乗り越えている。また奈良の談山神社、京都の石清水八幡宮、八坂神社、鎌倉の鶴岡八幡宮、香川の金刀比羅宮などは以前は神仏習合の寺院であったが、この時期に無理やり神社にさせられてしまった。私のブログの廃仏毀釈に関する記事は、ほとんどここに置いてあるので、興味のある方は覗いてみてほしい。
http://history.blogmura.com/tb_entry101772.html

話を名草神社に戻そう。私が訪れたのは土曜日の11時ごろであったが、観光客は私を含めて数人しかいなかった。歴史的建造物のある空間を独占できることは個人的には嬉しい事なのだが、なぜ国の重要文化財の建物が3つもある場所であるにもかかわらず観光客がこんなにも少ないのだろうか。
重要文化財の修理には安普請は許されず、宮大工を使い用材も従来と同様のものを使い、従来工法で修理を行うので結構な費用がかかることになる。また、その修理に必要な資金は国がすべてを負担してくれるのではなく、2割以上は神社が信者の寄付を募るなどして用意しなければならないはずだ。秋の季節の良い時期であるのにこのように少ない観光客で、これだけの文化財の価値を、将来にわたって減じることなく維持管理ができるのだろかと心配になってくる。

名草神社拝殿2

都心から遠いとか、道が狭いとかいろいろ理由があるだろうが、古い歴史があり価値のある建築物がありながら観光客が集まらないのは、長い間真実の歴史を隠す側にまわってきた兵庫県や八鹿町にも責任があるのではないか。
いつの時代も「権力者側にとって都合の悪い史実」は歴史叙述から排除される傾向にあるものだが、「廃仏毀釈」に関しては明治から昭和の初期頃までは「権力者側にとって都合の悪い史実」であったとしても、少なくとも今のわが国の権力者にとっては決して都合の悪い史実ではない。むしろ、「隠された興味深い真実」であり、江戸時代から明治時代を考える上で興味を覚える人は少なからずいると思うのだ。

単に重要文化財の歴史的建造物を見るだけなら、こんな遠くまでわざわざ足を運ばなくとも京都や奈良にいくらでもある。それでも私がここを訪れようと思ったのは、その真実の歴史に触れて強く興味を覚え、このドラマのような出来事のあった現場に立って、古き時代に思いを寄せてみたいという衝動が湧いたからである。
名草神社も兵庫県も八鹿町も、そろそろ明治期の権力者にとっての「きれいごとの歴史」から脱して、出雲大社との関係や廃仏毀釈に関わる興味深い歴史の真実を語る立場から、日光院とともに観光客の誘致に取り組んでみてはどうだろうか。
名草神社も日光院も、何も知らずに訪れてはそれほど面白いところではない。しかし、真実の歴史を知れば知るほど旅行することが楽しくなる、そんな場所である。
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江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか

このブログで何度か明治初期の廃仏毀釈のことを書いてきた。
この廃仏毀釈のためにわが国の寺院が半分以下になり、国宝級の建物や仏像の多数が破壊されたり売却されたりしたのだが、このような明治政府にとって都合の悪い史実は教科書や通史などで記載されることがないので、私も長い間ほとんど何も知らなかった。

梅原猛氏は「明治の廃仏毀釈が無ければ現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と述べておられるようだが、ではなぜ明治初期に廃仏毀釈がおこり、数多くの文化財を失うことになったのか。

標準的な教科書である『もういちど読む 山川日本史』には、明治政府は「はじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民教化をはかろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのため一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた。」(p.231)と簡単に書いてあるだけだ。
廃仏毀釈の嵐」などというわけのわからない言葉を使って誤魔化しているが、このような文化財の破壊行為が犯罪にもならず取締りもされなかったことはなぜなのか。

前回の記事で、岐阜県安八郡神戸町にある日吉神社に三重塔や仏像が残されていることを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-338.html

柏原八幡三重塔

また以前このブログで兵庫県丹波市柏原町にある柏原八幡神社にも三重塔が残されていることを書いたが、このように神社の境内に仏塔が残されているケースはわずかだけで、数多くの塔がこの時期に破壊されてしまっている。上の画像は昨年撮った柏原八幡神社の三重塔であるが、このような神仏習合の景色が、廃仏毀釈で破壊される以前には、全国各地にあたりまえのように存在したはずなのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

柏原八幡

日本の風景を一変させた廃仏毀釈は平田篤胤の国学や水戸藩の排仏思想の影響が大きかったとよく言われるのだが、江戸時代の幕末にこの様な、過激な思想が拡がった背景についてわかりやすく解説している本を探していたところ、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』の中から、昭和18年に出版された菊池寛の『明治文明綺談』の文章が目にとまった。そこにはこう述べられている。

徳川幕府が、その宗教政策の中心として、最も厚遇したのは、仏教であった。それは、幕府の初期に、切支丹の跋扈で手を焼いたので、これを撲滅するため、宗門人別帳をつくり、一切の人民をその檀那寺へ所属させてしまった。
 そのため、百姓も町人も寺請手形といって、寺の証明書がなければ、一歩も国内を旅行することが出来なかった
。それは勿論、切支丹禁制の目的の下に出たものであったが、結局、檀家制度の強要となり、寺院が監察機関としても、人民の上に臨むことになったのである。
 しかも、この頃から葬式も一切寺院の手に依らなければならなくなり、檀家の寄進のほかに、葬式による収入も殖え、寺院の経済的な地位は急に高まるに至った。 
 僧侶を優遇するというのは、幕府の政策の一つなのであるから、僧侶は社会的地位からいっても、収入の上からいっても、ますます庶民の上に立つことになった。
 そして、このことが同時に、江戸時代における僧侶の堕落を齎(もたら)したのである
。江戸三百年の間、名僧知識が果たしてどのくらいいただろう。天海は名僧というよりも、政治家であり、白隠は優れた修養者というよりも、その文章などを見ても、俗臭に充ちている。しかも世を挙げて僧侶志願者に溢れ、…しかも彼らは、宗教家としての天職を忘れ、位高き僧は僧なりに、また巷の願人乞食坊主はそれなりに、さかんに害毒を流したのである。…
それだけにまた、江戸時代ほど僧侶攻撃論の栄えた時代はなく、まず儒家により、更に国学者により、存分の酷評が下されている。
堂宇の多さと、出家の多きを見れば、仏法出来てより以来、今の此方のようなるはなし。仏法を以て見れば、破滅の時は来たれり。出家も少し心あるものは、今の僧は盗賊なりと言えり。』(大学或問[熊沢蕃山の著書]) 

荻生徂徠も、
今時、諸宗一同、袈裟衣、衣服のおごり甚(はなはだ)し。これによりて物入り多きゆえ、自然と金銀集むること巧みにして非法甚し。戒名のつけよう殊にみだりにて、上下の階級出来し、世間の費え多し。その他諸宗の規則も今は乱れ、多くは我が宗になき他宗のことをなし、錢取りのため執行ふたたび多し』(政談)
と、その浪費振りと搾取のさまを指弾している。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/57

儒者の熊沢蕃山(1619-1691)や荻生徂徠(1666-1728)までが、当時の仏教界をこれほど厳しく批判していることは知らなかった。排仏論を唱えたのは平田篤胤(1776-1843)のような国学者ばかりではなかったのだ。さらに名君と呼ばれた藩主までもが、かなり早い時期から、仏教の堕落を批判している。わかりやすいように藩主の生存年を付記して菊池寛の文章を再び引用する。

「…学者の排仏論のほかに、政治家であって真先に排仏論を唱えたのは、水戸光圀(1628-1701)で、その死ぬときには僧を遠ざけ、儒法を以て葬ることを命じている。そのほか領内を調査して、いかがわしい淫祠寺院を破却し、破戒の僧尼をどし還俗させている。
 このほか、岡山の池田新太郎光政(1609-1682)、会津の保科正之(1611-1673)、さらに下って水戸の徳川斉昭(1800-1860)、当時名君といわれた藩主はみんな盛んに排仏をやっている。彼らの儒教的教養からみれば、仏教の堕落は、言語道断だったのであろう。こうした底流の下に、明治維新を迎えたのである。仏教が徹底的にやっつけられるのはやむを得ない形勢であったのだ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/59

仏教遭難史論

菊池寛は小説家だから、あまり信用できないという人もいるだろう。
以前このブログで伊勢の廃仏毀釈のことを書いたときに引用させていただいた、羽根田文明氏の『仏教遭難史論』という本がある。羽根田氏は仏教側の論客のようだが、この本の中で格式の高い寺院ほど腐敗していて、その仏教界の腐敗が廃仏毀釈を招いたと述べておられる。この本も、『近代デジタルライブラリー』で誰でもネットで読むことが出来る。

「…諸寺の寺領は、諸侯の知行よりかは少なく、公卿の家領よりかは多かった。即ち日光山輪王寺の壱萬三千石、増上寺の壱万石、比叡山延暦寺、三井園城寺の各五千石を最多とし、以下二三千石、または数百石、或は数十石を最小として、いずれも幕府の墨印、奉行の朱印が下付せられてあった。そして寺領の石高は、幕府より現米で渡るのではなく、領地から年貢米として、寺門に収納するのである。…各寺に役所があり、俗役人があって、各領内の行政、すなわち領民の願伺届、及び訴訟の事務を取り扱った。そしてこれらの俗務は、寺侍いわゆる俗役人の専務にして、僧徒は毫もこれら俗事に関係せず、所謂、長袖風にて金銭の価格、収支の計算等、すべて経済の何たるも知らず、却って之を卑しめ、識らざるをもって誇りとしておった。…

…将軍家、及び諸侯の菩提所、勅願書はじめ、由緒ある寺院は、寺領の外に、堂塔、坊舎の営繕費などは、またみな官費、公費を以て、支弁するのは勿論、臨時の風水害等のある場合は、直に屋君を派遣して、損所を修理せしめた。ゆえに是等特待の寺院は、素より多額の寺領を有して僧侶は、手許の有福なるに任せ、曾て人生艱難の何たるも知らず、常に飽食暖衣して、日夜歓楽に耽り、宗祖の辛苦経営も、済度衆生の行業も、更にこれを知らず、ただ識るものは、栄花と、権威を振るうことばかりであった。実に仏教の衰勢を招き、近く明治維新の大打撃を受くべき素因を、早くここに、作っておった。実に自業自得の結果、如何ともすること、能わぬぞ是非もなき。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/21

談山神社と明日香散策 021
【談山神社 十三重塔】

羽根田氏はこのような仏教界の腐敗があり、排仏説を唱える平田篤胤らの説に多くの人々が共鳴したのは自然の成り行きだとも書いておられる。

当時、世人の多くが、仏教界の腐敗に愛想をつかしおる矢先に、かかる耳新しき、日本的の説を聞いたのであるから、靡然として、人心の之(平田篤胤らの説)に向かうのは、自然の勢である。しかも、当時水戸あたりから、しきりに尊王攘夷の説の宣伝せられ、上下一般に、その説を歓迎せんとする、傾向のあるを好機に、排仏思想の儒者も、国学者も協心一致して、神道の力をもって、王室を復古し、もって神道を隆盛ならしめねばならぬ。神道を盛んにするには、まず第一に、廃仏毀釈の必要あるということに、儒者、神学者、国家者、みな同心一致して、その実施の機会を待っていたら、ほどなく幕府の大政返上となり、ついで王政復古の大号令となり、新政施行機関として、先ず神祇官、太政官、諸省の設置となり、人材登用の趣意により、右三者の有志家は、それぞれ官省に出仕して、国政に参ずる地位を得た。これが近縁となり、ここに各自理想の廃仏毀釈を、事実上に施行せんと企んだ。時に新政府は、内外の政務混乱して、緒に就かざる機会に乗じて、陽に朝威を借り、陰に私意を含み、無智、無学に、しかも惰眠に耽る僧界に対し、迅雷一声思いのままに、廃仏毀釈の暴挙を実行するに至った。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/33

名草神社三重塔
【名草神社三重塔】

神仏習合の神社においては社僧と呼ばれる僧侶がいて、社家の神主もいたのだが、社僧と神主との関係はどのようであったのか。羽根田氏はこう述べている。

「もっとも各神社に、社家の神主もあったけれども、みな社僧の下風に立ち掃除、または御供の調達等の雑役に従い、神社について、何らの権威もなかったのである。しかれども伊勢神宮を始め、その他に社僧なくして、神主の神仕する神社もあったが、いわば少数であった。
社僧の神社に奉仕するのは、僧徒が神前で祝詞を奏するのではなく、廣前に法楽とて読経したのであるから、社殿に法要の仏具を備え付けるは勿論、御饌(みけ)も魚鳥の除いた精進ものであった。神前に法楽の読経することは、古く詔勅を下して、之を執行せしめられたのである。…
…いずれの神社にも、神前に読経して法楽を捧げたものである。かかる情態(ありさま)であるから、遂にはかの八幡宮の如く、神殿内に仏像を安置して、これを神体とする神社が多くあった。大社が既にこの如くである故に、村落の小社は、概ね仏像を神体にしたのである。…
…堂作りの社殿に、極彩色を施し、丹塗りの楼門や二重、三重、五重の塔のある神社もあって、純然たる仏閣の如くであったのが事実である。故に神社の実権は、全く僧徒の占領に帰し、神主はその下風に立て、雑役に従事するのみ。何等の権力もなかったから、神人は憤慨に堪えられず、僧徒に対して怨恨を懐き、宿志を晴らさんとすれども、実力なければ、空しく涙を呑み、窃に時機の来たらんことを待っておった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/15

このような流れの中で、慶応3年(1867)10月に仏教を厚遇してきた江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が大政奉還したのち、維新政府は慶応4年(明治元年:1868)3月以降、神仏分離に関する命令をいくつか出している。
そのうちの幾つかを読み下し文で紹介したい。原文はいずれも漢文で、廃仏毀釈に詳しいminagaさんのホームページの次のURLに、明治政府の出した神仏分離に関する命令が集約されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/s_tatu.htm

3月17日神祇事務局達
今般王政復古、旧弊一洗なされ候につき、諸国大小の神社に於いて、僧形にて別当*、あるいは社僧など相唱え候輩(やから)は、復飾**仰せ出され候…」
*別当:社寺を統括する長官に相当する僧職
**復飾:僧侶になった者が、俗人に戻る事。「還俗」とも言う。

さらに3月28日には、2つの神祇官事務局達が出ている。
中古以来、某権現*、あるいは牛頭天王**の類、その外、仏語をもって神号に相唱え候神社少なからず候。いずれも、その神社の由緒、委細に書付、早々申出づべく候」
「仏像を以て神体と致し候神社は、以来相改め申すべき候こと。附り、本地***等と唱え、仏像を社前に掛け、或は鰐口、梵鐘、仏具等の類差し置き候分は、早々取り除き申すべきこと」

*権現:仏が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号
**牛頭天王:祇園社などの祭神。祇園精舎の守護神とも薬師如来の化身とも言う。
***本地:衆生を救うためにとる神などの仮の姿を垂迹と呼ぶのに対し、仏・菩薩の本来の姿を言う。

また4月24日には太政官達が出ている。
「このたび大政御一新につき、石清水、宇佐、筥崎等、八幡大菩薩の称号止めさせられ、八幡大神と称し奉り候様、仰せ出され候こと

四つ割りの南無阿弥陀仏碑
【苗木藩 常楽寺の四つ割りの南無阿弥陀仏碑】

維新政府の神祇官には国学者・平田篤胤の弟子で篤胤の婿養子となった平田銕胤(かねたね)や、銕胤の長男の平田延胤(のぶたね)や、平田篤胤の門人で苗木藩の全寺院を廃仏毀釈で破壊した青山直道の父親である青山景通がいて、神祇官の考えが「廃仏」に傾いたのは自然の流れであったと思うのだが、これらの維新政府の「達」には仏像や仏具などを「取り除き申すべきこと」とは書かれていても、「破壊せよ」とか「焼却せよ」とはどこにも書かれていないことは注目して良い

明治初期においては政府の権力は脆弱で、神祇官事務局達や太政官達にはそれほど強い強制力はなかったようなのだが、全国各地に平田派の国学者が多数任官されていて、それに影響された神官が数多くいたという。
それゆえ、維新政府が考えていた以上に破壊行為に走るケースが多く、実際に破壊行為に及んだのは地方の事務官や神官だったという

慶応4年4月10日の太政官布告では、仏像などの破壊行為を戒めている。意訳すると、
「…旧来、社人と僧侶の仲は善くなく、氷と炭の如くであり、今日に至り、社人どもが俄に権威を得て、表向きには新政府の御趣意と称し、実は私憤をはらすようなことが起きては、御政道の妨げになるだけでなく、必ずもめ事を引き起こすことになる。…」
とあるが、この布告は各地で極端な廃仏毀釈が行なわれたことを暗示している。

しかしながら、明治政府はその後も神仏分離を求め、寺院の収入源を断つような命令を出し続けて、仏像等を破壊する行為を厳しく取り締まることも処罰することもなかったのである。
税所篤

以前このブログでも書いたが、新政府で兵庫・堺・奈良の県令・知事を歴任した薩摩藩出身の税所篤(さいしょあつし)のように、廃仏毀釈で寺宝を強奪して売却することにより私腹を肥やしたとされる人物もいた。その意味では明治政府も共犯者である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

明治初期に大量の文化財が破壊されたことについては、明治政府や地方の事務官や神官に責任があった事は確実なのだが、仏教界にも問題がなかったわけではない。

江戸時代の長きにわたり仏教界が腐敗していた状態を放置し、改革を怠ってきたことが排仏思想を生むきっかけを作ったのだが、仏教を擁護してきた江戸幕府が倒れて明治維新が神仏分離の命令を出すと、多くの僧侶が抵抗らしい抵抗もせずに、信者を見捨てて自分の身を守るために還俗してしまった。そのことが廃仏毀釈時に多くの文化財を失うことに繋がってしまったのだが、このような時にこそ僧侶は体を張って、信者と力を合わせて文化財を護って欲しかったと思う。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。
よかったら、覗いてみてください。

苗木藩の廃仏毀釈と、その史跡を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-179.html

寺院が神社に変身した談山神社
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-78.html

香住から但馬妙見山の紅葉と朱塗りの三重塔を訪ねて~~香住カニ旅行2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

伊勢の廃仏毀釈と伊勢神宮の式年遷宮に多大な貢献をした尼寺のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-314.html

日吉神社、大垣城、南宮大社から関ヶ原古戦場に向かう
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-338.html

【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。

関連記事

紅葉し始めた日光の輪王寺と東照宮を歩く~~日光観光その2

前々回の記事で、輪王寺が明治政府の神仏分離令で大揺れに揺れ、徳川幕府という大スポンサーを失った日光の百十ヵ寺の僧侶は無給で暮らすことを余儀なくされ、80余名の僧侶たちは、満願寺(現在の輪王寺)の本坊で合宿して暮らしたことを記したが、明治4年(1871)5月にはその満願寺の本坊が全焼してしまった。その本坊の跡地が今は輪王寺の宝物館となっているようだ。

輪王寺逍遥園

最初に逍遥園に入ったのだが、この庭は本坊庭園の遺構で、江戸時代初期に小堀遠州によって作庭されたと伝えられている。
10月下旬だというのに結構紅葉していたのは嬉しかった。日光の紅葉は関西よりも2週間以上早いようだ。

東日本では最大の木造建築物である三仏堂(国重文)が50年ぶりの大修理中のために、仮囲いで覆われていたのは残念であったが、ほとんど解体された工事現場を見てもそれ程面白いものではない。完成するのは平成30年の予定だという。

今はごく一部を観ることができるだけだが、「三仏」というのは木造千手観音坐像、木造阿弥陀如来坐像、木造馬頭観音坐像で、これらは二荒山神社の御祭神にあたる日光三所権現の本地仏である。

木曽路名所図会 日光

三仏堂は今では輪王寺の中心施設であるが、明治時代初期までは二荒山神社本社の東側(現社務所)にあったようだ。
『木曽路名所図絵』巻之六に江戸時代の日光の絵が描かれているが、日光東照宮の五重塔と新宮(二荒山神社)の間に三仏堂と相輪橖(そうりんとう)があったことが分かる。
前々回の記事で記したとおり、明治に入って神仏分離令が出され、三仏堂は相輪橖とともに二荒山神社の東側から輪王寺の境内に移されたのである。

輪王寺糸割符灯籠と相輪橖

上の画像の中央にあるロケットのようなものが相輪橖(国重文)だが、これは寛永20年(1643)に慈眼大師天海が比叡山延暦寺にある伝教大師最澄建立の相輪橖を模したものと伝えられている。塔内に千部の経典を収蔵されているという。
その横には慶安元年(1648)に生糸貿易をになう糸割符(いとわっぷ)仲間が、徳川家康による生糸貿易の特権付与に対する謝意を表して東照宮に寄進した唐銅製灯籠(糸割符灯籠)もある。

輪王寺護摩堂の紅葉

相輪橖の左には大護摩堂があり、中では護摩壇に火が点っていて、ちょうど護摩祈願が行なわれているところであった。ここでは朝7時半、午前11時、午後2時に毎日護摩祈禱が行なわれていることが案内されていた。
大護摩堂の近くの紅葉が見ごろを迎えていたので、思わずシャッターを押した。

日光東照宮五重塔

輪王寺から東照宮に向かう。
日光東照宮の石の鳥居(国重文)をくぐるとすぐに五重塔(国重文)が見えてくる。
慶安2年(1649)に大老酒井忠勝が寄進した塔が落雷で焼失したために、文政元年(1818)に酒井忠勝の子孫である老中酒井忠進(ただゆき)によって再建されたという。
東照宮は徳川家康を祀る神社なのだが、その境内地に仏教寺の建造物である五重塔が建てられているのは、神仏分離を進めようとした明治政府にとっては看過できなかったに違いない。この五重塔も輪王寺に移せと命じられていたのだが、日光山の総代・彦坂諶厚(ひこさかじんこう)や日光の住民らの努力によって、三仏堂と相輪橖のみが輪王寺に移され、日光は神仏分離令の影響を最小限に止めることができたのである。

日光東照宮 神庫

五重塔の近くで昼食をすませたのち、日光東照宮の表門をくぐる。
最初に眼に入ってくるのは三神庫(さんじんこ:上神庫、中神庫、下神庫)で、いずれも国の重要文化財に指定されている。中には千人行列の装束や道具が納められているのだそうだ。
上の画像は上神庫だが、切妻にあるゾウの彫刻が目にとまった。調べるとこの絵の下絵は幕府御用絵師の狩野探幽の筆によるものだそうだ。

日光東照宮 三猿

上神庫の向かいには、神厩(しんきゅう:国重文)があり、猿の一生を描く欄間彫刻がある。有名な「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の欄間もここにある。

日光東照宮 陽明門

右に曲がると国宝の陽明門が見えてくるのだが、残念ながら、昨年から工事に入っていて完成するのは平成31年3月末なのだそうだ。輪王寺の三仏堂の工事もそうなのだが、観光の目玉であるような重要な施設の工事については、日光全体で日程を調整してずらして欲しいものである。

日光東照宮 経蔵

上の画像は陽明門の手前にある輪蔵(経蔵:国重文)で、残念ながら内部は公開されていないが、扉の奥には八角形の回転式の書架があり、昔は天海版と呼ばれる一切経数千巻が納められていたそうだが、今はお経が残されているのだろうか。

日光東照宮 本地堂

左に折れると鳴龍(なきりゅう)で有名な本地堂(薬師堂:国重文)がある。以前は狩野永真安信が描いた竜の絵があったそうだが、残念ながら昭和36年(1961)に焼失してしまい、現在の天井絵は日本画家の堅山南風(かたやまなんぷう)の筆によるものだそうだ。
絵の下で拍子木を打つと、その反響音が竜の鳴き声の様に聞こえるのが面白い。

本地堂のご本尊は、東照宮の本地仏である薬師如来で、輪蔵とともに明らかな仏教施設であり、いずれも明治の神仏分離令が出た際に、輪王寺に移すように命令されたのだが、五重塔と同様の経緯で移転を免れている。

日光ではこのような神仏習合の姿をそのまま残していることは非常に興味深いのだが、Wikipediaによると「本地堂と経蔵の2棟は東照宮と輪王寺との間で帰属について係争中であり、財団法人日光社寺文化財保存会が文化財保護法の規定による『管理団体』に指定されている」のだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%85%89%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE#cite_note-28

日光東照宮 袖塀

陽明門の両脇には花鳥の彫刻が美しい袖塀(そでべい:国宝)がある。

日光東照宮唐門

陽明門をくぐると、正面に東照宮の本社がある。本社は、唐門(国宝)と東西透塀(すきべい:国宝)に囲まれた空間に、本殿と拝殿を石の間でつないだ権現造(ごんげんづくり)の構造になっている。

日光東照宮 唐門 意匠

白い胡粉塗りの唐門の彫刻も凝っている。中央に多くの人物が彫られているが、古代中国の舜帝の朝見の様子を描いているのだという。舜帝は中国の古伝説上の聖王だが、この彫刻は家康こそが舜帝に比すべき人物であり、徳川幕府が目指すべき政治は舜帝の治世であることを意味していると理解されている。

日光東照宮 眠り猫

本社の見学を終えて、家康の墓所である奥社に向かう。
入口の坂下門(国重文)手前の東廻廊には、左甚五郎作とされる眠り猫の彫刻がある。

日光東照宮 奥宮 御宝塔

200段余りあるという石段を登って行くと、銅鳥居(国重文)や銅神庫(国重文)、鋳抜門(国重文)などがあり、一番奥に家康公の神柩をおさめた八角九段の基盤の上に立つ宝塔(国重文)がある。

奥社参道を歩いていた時には気が付かなかったのだが、陽明門-唐門-拝殿-本殿-奥宮拝殿-奥社宝塔は一直線上に並んでいるのだそうだ。この配置は、どう考えればよいのだろうか。普通は本殿の奥に墓がある事などは考えにくいことである。

東照宮配置図

作家の今井敏夫氏『二つの東照宮・久能山と日光』という論文がネットで公開されており、その点についてわかりやすく書いておられる。しばらく引用させていただく。
http://jimotononeco.jimdo.com/2013/06/18/20130618/

「日光東照宮の社殿を注意深く見学された人ならば、奇妙なことに気づかれるだろう。それは本殿の背後に扉と后拝(こうはい)、それに階(きざはし)が付いていることである。どんな神社にいっても、本殿の背後に扉がある神社などは、まず見ることがない。同じ東照宮でも、久能山、上野、和歌山、世良田、川越、日吉(坂本)、滝山などの東照宮本殿の背後には扉や后拝は一切見られない。神社の本殿は云うまでもなく、神が鎮座する場所であり、拝殿はそれを拝む所である。拝殿と本殿は東照宮の場合は〃石の間〃で隔てられているが、この隔絶は厳格なもので、例え将軍であろうと本殿内には立ち入ることはできない。
神君・東照大権現(家康)が鎮座する、その本殿の背後に扉があるということは、これは本殿に神君がいないということになるのではないのか
。つまり、本殿が筒抜けの格好になってしまう様式である。
 それでは拝殿において何に向って拝んでいるのか。…そう、家康の廟所、つまりお墓に向って拝んでいることになるわけである。また、本殿の裏側の端垣(透塀・元禄時代までは回廊があった)には北唐門があり、奥宮の廟所の前には拝殿もある。これらはすべて南向きにほぼ一直線上に並んでおり、まことに不思議な社殿の配置といえる。
 久能山東照宮と比較するとよく分かる。本殿は地形上やや南西に向って建てられているが、廟所は明らかに西を向いており、本殿とは一直線上の位置にない。本殿の背後の扉もなければ后拝もない。吉田神道(唯一神道)では、神を本地とするので、墓所を拝礼するなど忌み嫌うところから、当然の建築上の配置であった。久能山東照宮はまったく「大明神造」にふさわしい伝統的な神社的要素の強い社殿形式であった。
日光東照宮では山王一実神道による仏教色の強い社殿形式が必要であり、社殿と墓所の関係は密接にしなければ意味がない。拝殿・本殿・北唐門・廟所を正中線上に並べで参拝の形式をとり、家康の神号「東照大権現」の本地である薬師如来の本地堂を建て、経堂等を配置している。…」
 
今井氏の表現を借りると「寛永大造替の東照宮本殿は、日吉神社本殿と天台仏堂を総合して造られたもので、これこそ山王一実神道の社殿形式」ということになるが、もともと神仏習合の思想で建てられた東照宮を厳密に神仏分離などできるはずがないし、神仏分離を徹底させれば東照宮の建造物の多くを除去することになってしまう。

明治政府は東照宮の本地堂、経蔵、五重塔、鐘楼や仁王像などの移転を命じたのだが、もし政府の言いなりで移転させたり、あるいは破壊してしまっていたら、この時に日光の魅力のかなり多くを失っていたことは確実なのだと思う。
<つづく>

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【ご参考】
このブログで、こんな記事を書いています。
良かったら、覗いてみてください。

唐崎神社から日吉大社、日吉東照宮を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-344.html

家康の死後の主導権争いと日光東照宮
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-349.html

戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-350.html

日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-351.html



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播磨の国宝寺院の神仏習合の景観を楽しんで~~朝光寺・浄土寺

毎年紅葉の時期に古社寺を訪ねて日本海方面で一泊する旅行を企画するのだが、今年は兵庫県の国宝や紅葉名所をいくつか織り込んだ計画を立てて、先週行ってきた。

中国自動車道のひょうご東条ICから社(やしろ)方面に北上していくと、加東市に朝光寺(ちょうこうじ)という古い寺がある。この寺の本堂が国宝に指定されている。

寺伝によると白雉(はくち)2年(651)に法道上人によって開基され、当初は裏山の権現山に建立されたそうだが、治承8年(1184)に源義経が平資盛(たいらのすけもり)を夜半に襲撃した「三草山の合戦」で焼失してしまい、その後の文治5年(1189)に後鳥羽上皇の命により現在地に再建されたという。
天明7年(1787)の記録では、学侶3ヶ院・坊21・末寺5ヶ寺とかなり大規模な寺であったのだが、今では吉祥院・総持院の2つの塔頭が残るのみとなっている。今では朝光寺は無人の寺になっているが、車で行かれる方は塔頭の吉祥院の電話番号(0795-44-0733)をカーナビに登録されればよいだろう。

つくばねの滝

吉祥院から道なりに200mほど進むと、山を切り開いた駐車場があり、そこから山門につながる参道がある。小さな川に沿って歩き進むとせせらぎの音が聞こえ始めて、「つくばねの滝」という滝が参拝者を迎えてくれる。

地元のボランティアの方の話によると、滝の名前にある「つくばね」というのは、スギなどの根に半寄生する植物の名で、昔は滝の付近に多く自生していたのだが随分少なくなってしまったという。

つくばね

上の画像が「つくばね」で、秋の季節には羽子板の羽根のような形をした実ができる。
この植物の成育地は乾燥する急斜面や尾根に限られ、他の環境では育つことはないのだそうだ。持ち帰る人がいるために少なくなっているようだが、加東市の天然記念物にも指定されているこの植物を是非大切にしてほしいものである。

朝光寺本堂

山門をくぐると、寄棟造り・本瓦葺の堂々とした風格の国宝の本堂がある。
本堂内の羽目板に墨書があり、応永20年(1413)に仏壇を建立し本尊を移転し、屋根葺きが正長元年(1428)に終わったことが記載されているのだそうだ。

朝光寺本堂内陣

ボランティアの方に案内いただき、中に入ると格子戸と菱格子欄間により内陣と外陣が区切られていた。連子窓から柔らかい光が堂内に差し込んで、こういう場所にいると正座して瞑想したい気持ちになってくる。

b99d2352.jpg

内陣には須弥壇が置かれていて、御本尊である2体の木造千手観音像は、60年に一度の御開帳の時しか見ることが出来ないのは残念なことだが、平安期と鎌倉期のかなり古い仏像で、2年前に本堂の大屋根の改修工事が完了し落慶法要時に特別開帳されたばかりのようだ。ネットで検索すると当時の新聞記事を拾う事が出来る。

朝光寺多宝塔

多宝塔(県文化)は文治年間(1185~1190)の建立と伝えられ、慶長6年(1601)に池田輝政の発願で再建された、美しい建物である。

朝光寺鐘楼

鐘楼(国重文)は、永正年間(1504~21)に赤松義村の再建と伝えられている。屋根の曲線や袴腰の曲線が美しくバランスがよくとれている。そしてその隣には護法社と鎮守社がある。
このような神仏習合の景観が残された背景には、明治初期に地元の人々の多くの苦労があったと思うのだが、詳しいことはよく分からない。

この朝光寺で、毎年5月5日に「鬼追儺(おについな)」が行なわれる。翁1人と鬼方4人が五穀豊穣・無病息災を祈り、松明や太刀を持ち勇壮に舞い踊るのだそうだが、この翁は法道仙人が朝光寺を開基した時に出会ったという住吉明神の化身なのだそうだ。
このように、寺の開基が神仏習合の世界で描かれていて、伝統行事の鬼追儺はその物語につながることから、地元の人々は明治政府の神仏分離令に抵抗したのではないだろうか。
神々の信仰は、本来土着の素朴な信仰であり、地域共同体の安寧を祈願するものだと思うのだが、この鬼追儺は室町時代から続く伝統行事で、兵庫県の重要無形民俗文化財に指定されているという。
普段はほとんど観光客が来ないこの朝光寺も、次のYoutubeの動画を見ると、この日は随分多くの観光客で賑わうようだ。次回来るときは、この日に合わせて訪れてみたいと思う。


朝光寺から、次の目的地である小野市の浄土寺(0794-62-4318)に向かう。

その昔、小野市の中心部は「大部庄(おおべのしょう)」といい奈良の東大寺の荘園だったのだそうだ。建久9年(1192)、東大寺再建の勧進聖であった重源(ちょうげん)が後白河法皇の命により、弟子をこの地に派遣して荘園の経営にあたらせ、その拠点として建立されたのがこの浄土寺である。

浄土寺浄土堂

上の画像は国宝の浄土堂だが、創建された建久9年(1192)から昭和32年(1957)まで、一度も解体されず、765年間持ちこたえた建物だというからすごい。
昭和32年から始められた解体修理で、創建当初の姿のままに復元されたというが、中に入ると、とてもそんなに古い時代の建物だとは思えない。

小野浄土寺三尊

内部は撮影禁止だったのでパンフレットの画像を紹介するが、中に入ると内陣も外陣もなければ天井もない。化粧屋根裏で垂木など屋根裏が見える構造になっていて、木は丹塗で壁は白く塗られている。まるでモダンな博物館の中にいるような気分になる。
他にも特徴がいくつかあるのだが、この様な建築様式を「大仏様(天竺様)」と呼び、東大寺南大門とともに全国に2つしか残されていない貴重な建物だという。
中央には阿弥陀如来(国宝)、左右に観音菩薩、勢至菩薩(いずれも国宝)が安置されている。
この仏像も創建以来のもので、いずれも鎌倉時代の仏師・快慶の作である。
この日は午前中に訪れたのだが、夕方になると雲形の台座の上に立つ3つの仏像が西日に浮かび上がって、阿弥陀来迎の世界が現出するのだという。

s_saigokuK5_00.jpg

中に入ることができるのは浄土堂だけで、他の堂宇は外から観るだけだ。
浄土堂の本堂あたる薬師堂(国重文)は、浄土堂の反対側に建てられている。この建物も当初は「大仏様(天竺様)」だったのだそうだが室町時代中期に焼失し、永正14年(1517)に和様、唐様、大仏様の折衷様式で再建されたものだという。

浄土寺開山堂

そして、薬師堂の右隣には、開山堂(県文化)があり、当寺を開山した重源上人坐像(国重文)が安置されているようだ。

また浄土堂の北側には、寛永9年(1632)に建立されたとされる鐘楼(県文化)がある。

浄土寺八幡神社

興味深いことに、境内の中央に石の鳥居があり、鎮守社の八幡神社がある。
本殿(国重文)は三間社流(ながれ)造・檜皮葺の入母屋造りで、室町時代の中期に建てられたもので、拝殿も国重文に指定されている。
神仏習合の考え方だと八幡神は阿弥陀仏の化身なので、阿弥陀如来を本尊とする浄土寺の境内に八幡神社がある事は理に適っているのだが、明治初期に出された神仏分離令でこのような景観が全国各地で徹底的に破壊されてしまった。

昨年このブログで加古川市の鶴林寺を紹介したが、播磨地方には国宝に指定されている寺院や仏像が少なくないのに、教科書に記述されている事例はまず見当たらない。
鶴林寺にせよ朝光寺にせよ浄土寺にせよ、いずれも素晴らしいお寺なのだが、教科書に載っていないために知る人は少なく、週末の土曜日だというのに観光客は僅かであるのは勿体ないことだと思う。

しかし、なぜ播磨地域の寺院が教科書に載らないのだろうか。
私は、播磨地域の文化財の価値が低いからではなく、別の理由があって載せたくないのではないかと勘繰っている。

鶴林寺にも確か鳥居が残されていた。播磨地域では明治政府の神仏分離令に反発した歴史があったのかもしれないのだが、その点についてはよく分からない。

もうひとつ、教科書に載らない理由として思いつくのは、播磨地域の仏教文化のレベルの高さが、古代史の通説に矛盾するという点がある。
以前このブログで、『日本書紀』巻二十敏達天皇十三年(西暦584年)の記録に、蘇我馬子が播磨の国にいた高麗人の恵便(えべん)を師として仏法を学び修行をしたことから仏教が広まったことが書かれていることを記したが、『日本書紀』のこの記述を素直に読めば、584年まではわが国に仏教は拡がっていなかったことになる。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-4.html

鶴林寺

そして加古川市の鶴林寺の創建は伝承では崇峻天皇2年(589)で、日本史の通説で最も古い寺とされる飛鳥寺(法興寺)が完成したのは推古天皇4年(596)11月であることが『日本書紀』に記されているのだが、仏教の歴史は播磨の方が飛鳥よりも古いということは、播磨が仏教の先進国であったということだろう。

蘇我馬子の仏教の師となり、わが国に仏教を広めた播磨国の恵便も渡来人であったが、弥生時代以降、数多くの渡来人が日本列島に移り住んでいた。また、『隋書倭国伝』には、筑紫国と倭国とは別の国であり、倭国は筑紫国の東にあって中国系の人々が住む地域があったことなどが記されている。普通に読めば、7世紀の初めにはわが国がまだ統一国家でなかったと理解するしかない。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-286.html

しかしながら学界の多数派は、4世紀に大和朝廷がわが国を統一したという通説を守ろうとして、『日本書紀』や中国の正史に明確に書かれていても、通説にとって都合の悪い部分には目を塞ぎ続けているのが現実である。
このような人々にとっては播磨地区の国宝文化財を教科書に掲載することは、通説の説得力が損なわれることに繋がるとでも考えているのではないだろうか。
<つづく>
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。


聖徳太子の時代にわが国は統一国家であったのか~~大和朝廷の統一1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-7.html

唐の時代の正史では倭国と日本国とは別の国である~~大和朝廷の統一2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-8.html

『日本書紀』は、わが国が統一国家でなかった時代を記述している~~大和朝廷の統一3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-9.html

仏教伝来についての教科書の記述が書きかえられるのはいつか~~大和朝廷4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-4.html

聖徳太子の時代に建てられた寺院がなぜ兵庫県にあるのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-286.html

播磨の古刹を訪ねて~~~聖徳太子ゆかりの斑鳩寺と随願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-287.html



関連記事

素晴らしい紅葉の国宝寺院・一乗寺から日本海へ

次に向かったのは西国三十三所巡礼観音霊場第26番札所の一乗寺(0790-48-4000)だ。浄土寺からは車で30分もかからない。

一乗寺歓喜院の紅葉

駐車場に車を停めて、入口に向かうと塔頭寺院である歓喜院の山門あたりの紅葉が、ちょうど見頃を迎えていたので、思わずシャッターを押した。

兵庫県の紅葉スポットを案内するサイトで、一乗寺を紹介しているところはほとんどないのだが、この寺は知る人ぞ知る紅葉の名所である。ただ紅葉の木が多いのではなく、うまく配置されていて、それが美しい空間を醸しだしていて絵になるのである。

一乗寺登り口

上の画像は受付から三重塔に向かう石の階段の登り口を撮影したものであるが、紅葉の色が木によって微妙に異なり、見ていて飽きることがない。

寺伝では、白雉(はくち)元年(650)に法道仙人が開山し、孝徳天皇の勅願により金堂が建立されたことになっているのだが、前回の記事で紹介した朝光寺(ちょうこうじ)の開創も法道上人であった。
法道仙人が実在した人物であるかどうかはよくわからないが、播磨地区にはこの人物が開いたとの言い伝えがある寺が60近くもあるのだそうだ。

一乗寺のある兵庫県加西市は古文化財の宝庫で、150基を超える古墳があり、石棺仏や石仏が多数見られるほか、繁昌廃寺・殿原廃寺・吸谷廃寺など白鳳時代[大化元年(645)~和銅3年(710)]の仏教寺院の遺跡が残されていて、奈良時代以前から仏教文化が栄えていた地域であることがわかっている。にもかかわらず、ほとんどの歴史書ではこの地域のことが無視されているのである。
繁昌廃寺は寺岡洋氏の論文によると寺域は「東西85m(推定)×南北125m。金堂・西塔・講堂・北門・南門・築垣などの遺構が検出」され、「金堂基壇は、東西16m×南北13m」、「西塔は…一辺13~14m」、「講堂基壇は東西24m×南北15m」なのだそうだが、かなりの大寺院である。
http://www.ksyc.jp/mukuge/262/teraoka.pdf

一乗寺三重塔と本堂

一乗寺の急な石段を登っていくと、明治時代に再建された常行堂がある。さらに石段を上ると気品のある三重塔(国宝)と、入母屋造の本堂(大悲閣、国重文)が見えてくる。

一乗寺本堂

上画像は三重塔あたりから本堂を撮影したものだが、このあたりの紅葉は特に鮮やかだった。

一乗寺本堂内部

本堂は寛永5年(1628)に再建されたもので、現在の建物は4代目になるのだそうだ。中には古い絵馬が掲げられていて、長押(なげし)には何やら字が書かれているように見える。

一乗寺三重塔

三重塔は山腹に建てられているので、下からでも上からでも眺めることができる。上の画像は本堂から三重塔を撮ったものである。
この塔は伏鉢や瓦の銘から平安時代末期の承安元年(1171)に建立されたことがわかっており、建築年代が判明している塔としては、この塔がわが国で最古のものだという。

330px-最澄像_一乗寺蔵_平安時代

一乗寺は仏教建築物が素晴らしいだけではない。平安時代に制作された10幅の天台高僧像がすべて国宝に指定されている。上の画像はそのうちの最澄(伝教大師)像で良く見る画像なのだが、この像が兵庫県加東市の一乗寺にあるということは、今回調べて初めて知った。
他にも仏像5体が国の重要文化財に指定されており、文化財の宝庫と言って良い寺院なのである。

一乗寺護法社、妙見社

さらに本堂の奥には護法社、妙見社、弁財天社があり、いずれも国の重要文化財に指定されている。上の画像は右が護法社で左が妙見社だ。前回の記事で紹介した朝光寺も浄土寺もそうであったが、播磨地区の寺院では神仏習合の景観が結構残されている。

一乗寺の紅葉

あまり紅葉が美しいので予定の時間をオーバーしてしまった。太子堂の近くの紅葉も素晴らしかった。

なぜ播磨地区の寺院は明治政府の神仏分離施策に抵抗できたのだろうかと不思議に思って、ネットでどんな記述があるか探してみたところ、『エピソード日本史』というホームページに、こんな解説を見つけることが出来た。

「…播磨の中心が姫路です。江戸時代最後の大老が姫路藩の酒井忠績だったこともあって、薩長新政府によって、厳しい状況に追いやられます。姫路城の内堀や中堀が破壊され、そこに、軍隊を派遣されました。
 こうした仕打ちを知ってか、播磨では、薩長新政府の政策には、非協力でした
。例えば、廃仏毀釈についても、『灘の喧嘩祭り』で有名な松原神社の隣が、八正寺というお寺です。『継ぎ毛獅子』で有名な大塩天満宮の隣が、明泉寺です。『提灯割神事』で有名な魚吹神社の隣が、円勝寺です。
 政治が、人間の心に介入しました。仏教のルーツは、なるほどインドです。しかし、中国・朝鮮を経て、日本に来たときには、東アジアの仏教に変質しており、日本に土着したときには、日本の民間信仰と混交して、日本人の仏教になっています。…
 歴史のある根強い信仰が、新政府の政策を跳ね除けたといえます。」
http://chushingura.biz/p_nihonsi/episodo/151_200/178_03.htm

もともと明治新政府に非協力的であった播磨地区においては、地域の祭礼などで神仏習合的な考え方が庶民レベルで深く浸透していたために、明治政府も神仏分離を徹底させることができなかったということは充分ありうることだと思うが、具体的に民衆が抵抗した記録が残されているなら是非読んでみたいと思う。

前回の記事で、播磨地区の文化財が教科書に載っていないことに触れたのだが、その理由の一つは、明治政府としては、いくら価値ある文化財を残していたとしても、政府に抵抗して神仏習合の世界を残した文化財を教科書に載せるわけにはいかなかったという事情があったのだろう。
しかしそれだけでは、今もなお教科書に載らないことの説明にはならない。
この地域の文化財を学べば学ぶほど、奈良時代のかなり前からこの地域が仏教の先進地域であったことが見えてくるのだが、そのことは4世紀の中ごろには天皇家を中心とする大和朝廷がわが国を統一したという通説を守りたい勢力にとっては都合の悪い真実なのだろう。通説を正しいとする勢力が教科書の編纂に関与する限りは、歴史を書き替えられることはあまり期待できないのかもしれない。

一乗寺を楽しんだ後食事をするつもりだったが、適当な店が道沿いに見つからなかったため、次の目的地の播磨屋本店生野総本店(079-679-4565)で食事をすることにした。下の画像の通り、なかなか素晴らしい建物である。

播磨屋本店全景

ここでのレストラン営業は土日祝日だけなのでそれほど混んでいないと予想していたのだが、当てが外れてずいぶん遅い昼食になってしまった。

播磨屋本店は、幕末の文久年間(1860年頃)に初代播磨屋助次郎が兵庫県生野町で始めた灯明油の販売がルーツで、昭和23年にクロバー製菓㈱として菓子製造に事業転換し、昭和46年頃から、おかき・せんべいの専業メーカーになったという。

播磨屋本店

この建物も庭もなかなか素晴らしいのだが、現在播磨屋本店では同社の豊の岡工園内に、伝統的工法で三重塔を建築中なのだそうだ。なぜ生野町の年商60億円の菓子メーカーがそこまでできるのだろうか。

以前、長野に旅行した際に『かんてんぱぱ』の伊那食品工業のことを書いた。伊那食品工業は、「自分で考えたものは自分で創り、自分で売る」という主義で、大手スーパーには商品を一切卸していない。販売は、直営店とネット・通販が中心で大成功し、48年連続して増収増益を果たしてきたのだが、この播磨屋本店も同様で、現社長(5代目播磨屋助次郎)が、「卸売り販売を全面的に改めて、通信販売と直売店による消費者直接販売に切りかえ」たことで飛躍的に発展した会社である。

地方の多くの食品メーカーが目先の売上高増加の為に大手流通業者に商品を卸して価格主導権を奪われ、次第に厳しい仕入れ価格を要求されて品質を落とし、独自の商品開発をすることを忘れて成長力を失ってしまったのだが、伊那食品工業も播磨屋本店も地方の製造業がこれから進むべきモデルを示しているように思えてならない。

播磨屋水車

地方のメーカーが良いものを作ることにこだわり続け、良い商品を求める消費者と直接つながる売り方に徹していれば、大手流通業者から買いたたかれることもないので無理してコストを下げて品質を落とすこともなく、着実に適正水準の利益を自社に蓄積することができる。
地元に利益を蓄積できてこそ、地元の人の多くを採用することができ、地元の人々に地元で幸せに暮らせる環境を提供できる。伊那食品工業も播磨屋本店もそのことを実践して、地元の経済発展に貢献しているのである。

農業においても同様のことができるはずだ。生産者が都会の消費者とネットや産直で繋がっていけば、消費者はスーパーで買うよりはるかに新鮮な野菜や果物を、安価で求めることができるようになる。

今までは、都会資本の大手流通業が地方の産物を買い叩いて利幅を取りすぎてきたことが、地方の生産者を疲弊させ、地方の職場を奪って、地方の衰退を招いてきた。
これからは、地方の生産者が品質にこだわり、本物を求める消費者とネットなどで直接繋がっていく動きが加速していくことは間違いないだろう。地方の創生は、大手流通に奪われていた価格主導権を、地方の生産者が取り戻すことから始まる
のだと思う。

播磨屋本店から、2時間近く走って日本海方面に向かう。この方面に来るときは、いつもは香住の民宿で宿泊するのだが、連休は一杯だったので今回は柴山の民宿を選んだ。

数年前に越前にカニを食べに行った際に、ある旅館で出てきたカニがオホーツク産と聞いてがっかりして、それ以来地元の人が経営する施設で、地元の食材にこだわっている旅館や民宿を選んで宿泊することにしている。
旅行者が旅行地で支払うお金の多くが、地元の人々の中で経済循環して潤う事がなければ、いずれ若い世代が地元を離れていき、情緒ある観光地の景観や賑わいが失われていくことになる。だから、どうせ泊まるなら、地元の方が運営している宿にこだわりたい。

かに三昧

柴山はカニの漁港として有名で、柴山カニはこの辺りの旅館や料亭で食べることができる。
上の画像は「こえもん」の夕食だが、緑色のタグのある茹でガニは香住漁港産。ピンク色のタグのあるカニは柴山漁港で獲れたもので、そのまま刺身にしても良いし、もちろんカニ鍋にしても良く、身がしっかり詰まっている。
新鮮なカニは天然のままで戴くのが最高に旨く、三杯酢もポン酢も途中から使うのをやめてしまった。

ちょっと残念だったのは、昼食が遅かったために途中で胃袋の限界に達してしまったこと。カニは完食したが、最後の雑炊はとても食べきれなかった。一乗寺に行く前に、簡単に昼食を済ませておけば良かった。<つづく>
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【ご参考】
「かんてんぱぱガーデン」は3万坪の敷地に、レストランや美術館やホールや健康パビリオンやショップなどがあり、駐車場は200台以上のスペースがあり、大変賑わっていました。

「御柱祭の木落し坂から名所を訪ねて昼神温泉へ~~諏訪から南信州方面旅行2日目」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-40.html

「かんてんぱぱ」を訪れた日は昼神温泉で宿泊しましたが、ここの朝市は地元農家と観光業界とが共存共栄しています。観光地に近い農村の村おこしに繋がるモデルになると思います。

「昼神温泉から平成の宮大工が建てた寺などを訪ねて~~諏訪から南信州方面旅行3日目」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-41.html


古代史でこんな記事も書いています。良かったら覗いてみてください。

「法隆寺再建論争を追う」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-10.html

「聖徳太子についての過去の常識はどこまで覆されるのか」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-121.html

関連記事

出石散策の後、紅葉の美しい国宝・太山寺へ

出石蕎麦の昼食を終えて出石城址に向かう。途中で出石のシンボルである辰鼓楼(しんころう)がある。

辰鼓楼

辰鼓楼は明治4年(1871)に建てられたもので、昔は太鼓をたたいて時刻を報じたのだそうだ。

谷山川にかかる橋を渡り城址にのぼる階段のすぐ東隣りに諸杉(もろすぎ)神社がある。この神社の祭神は多遅摩母呂須久(たじまもろすく)で、この人物は、前回の記事で記した出石神社の祭神である新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)の嫡子なのだそうだ。

出石城櫓2

出石城は14世紀ごろに山名時吉が築いた城だが、当初は出石神社の裏にある此隅山に建てられたという。しかし永禄12年(1569)に木下秀吉の出兵で落城したため、織田信長の許しを得て天正2年(1574)に山名祐豊が有子山(ありこやま)山頂に有子山城を築き本拠を移したが、天正8年(1580)羽柴秀吉の第二次但馬征伐で羽柴秀長に敗れてしまい、但馬山名氏は滅亡してしまう。その後、龍野から小出氏が入封し、慶長9年(1604)に小出吉英(こいでよしふさ)が有子山の麓、現在の出石城跡に築城したのだそうだ。

出石城櫓

明治初期の廃城令で出石城は取り壊されてしまったが、その後、隅櫓、登城門・登城橋などが復元され、お堀の周囲一帯は登城橋河川公園として整備され、桜や紅葉の名所になっている。上画像は本丸東隅櫓周囲の紅葉である。

出石城鳥居

城の麓から始まる石段の参道には37基の鳥居が並んでいる。

有子山稲荷神社

石段を上って行くと、石垣最上段の稲荷郭には城の鎮守である稲荷神社が祀られている。この神社は慶長9年(1604)の築城時に建てられて、城郭内にありながら江戸時代から身分を問わず参拝が許されていたのだそうだ。

普通の城なら、一番高いところに天守閣があるだろうと考えてしまうところだが、この城には天守閣は存在しない。
江戸幕府が出石藩に天守閣を建てることを認めなかったのがその理由だと考えるのだが、初代城主の小出吉英は有子山山頂の有子山城の天守は廃したものの郭や館の一部を残す選択をしたという。
いつかは天守閣を建てたかったと思うのだがそのチャンスは訪れず、旧有子山城は、歴代城主が江戸幕府を憚って一切修理がなされず、荒れるに任されて放置されたそうだ。

出石城

この稲荷郭からは出石の町並みを一望することができる。「但馬の小京都」と呼ばれる出石の中心部は思っていたよりも狭かった。
この場所から有子山城跡に登ることも出来るのだそうだが、かなりの急坂なので諦めた。

斎藤隆夫顕彰碑

石段を下まで降りていくと、吉田茂筆の斎藤隆夫顕彰碑がある。
斎藤隆夫は出石出身の政治家で、戦前期に帝国議会で軍部やファシズムに抵抗した人物である。昭和11年(1936)に、帝国議会で『粛軍演説』を行ない、昭和13年(1938)には『国家総動員法案に関する質問演説』を行なった。そして昭和15年(1940)2月には「支那事変処理を中心とした質問演説」を行ない、軍部を批判したことが問題となり、斎藤は決議によって衆議院議員を除名されてしまうのだが、第二次世界大戦に参戦後の昭和17年(1942)の選挙では、軍部による選挙妨害をはねのけて、兵庫5区(但馬選挙区)でトップ当選を果たし、見事に衆議院議員に返り咲いている。こういう気骨のある政治家が、今の与党にも野党にもほとんど見当たらないのは悲しいことである。

続いて明治時代に建築された芝居小屋である永楽館を見学する予定だったが、この日はイベントで貸切であったため中に入れなかったのは残念だった。

出石史料館

予定を変更して出石の町を歩いて、出石史料館に入る。
この建物は生糸を商う豪商福富家の本邸だったものを出石町が譲り受け、公開しているものである。
明治9年(1876)3月に出石町の家の8割以上が焼失したという大火事があり、この建物は、福富家が火災のすぐ後に、京都から職人を招いて建築させたものだそうだ。

出石史料館 囲炉裏

建築されてから138年もの年数が経過しているのだが、今もなお頑丈で、古さを感じさせない立派な建物である。
また土倉には出石藩第3代藩主仙石政辰公の鎧兜や、『仙石騒動』の資料などが展示されていた。

出石史料館 鎧兜

仙石騒動』というのは、江戸時代の後期に出石藩(仙石藩)で発生したお家騒動で、しばしば「江戸時代の三大お家騒動」の一つとして紹介されている。
どんな事件であったかと言うと、第6代藩主仙石政美(まさみつ)の代に藩の財政が逼迫して藩政改革の気運が盛り上がり、筆頭家老の仙石左京は産業振興策を、もう一人の家老仙石造酒は、質素倹約の財政引締め政策を、という対立構造の中、藩主政美は左京の政策を支持し、左京は強引な改革を推進していった。ところが、はかばかしい成果が出ないまま、文政7年(1824)に藩主・仙石政美が参勤交代で江戸に向かう途中で発病し、江戸で病没してしまう。
後継の藩主として政美の弟である道之助を元服させることとなり、藩政は、財政引締め派の仙石造酒らが完全に掌握して、左京の政策はすべて廃止されることとなる。
ところが、派閥争いで乱闘騒ぎがおこり、仙石造酒らは隠居を余儀なくされて、再び左京が筆頭家老として人事権を掌握することとなる。
しかし反左京派はおさまらず、左京が自分の子を藩主につけようと、藩主久利の暗殺まで計画しているなどと誹謗中傷を繰り返し、ついに藩内の争いは幕府に聞こえて裁定を仰ぐこととなる。
天保6年に裁定が下され、仙石左京は獄門になり、鈴ヶ森に晒首され、左京の子小太郎は八丈島へ流罪になるなど、左京派は壊滅的打撃を受けた。藩主久利に直接お咎めは無かったものの、出石藩は知行を5万8千石から3万石に減封となったというが、これで全てが決着したわけではなく、その後も出石仙石藩では抗争のしこりが残り、30年ほど藩内の政争が続いたという事件である。

出石酒蔵

出石史料館の近くに出石酒造の酒蔵がある。江戸中期の建物だそうだが、こういう土の壁を見ることが少なくなってしまった。文化財などの指定は受けていないようだが、こういう古い建物が数多く残されているところが出石を散策する魅力でもある。これからもこのような景観を後世に残してほしいものである。

土産物屋でお菓子をいくつか買ってから、最後の目的地である神戸市西区の太山寺(たいざんじ:078-976-6658)に向かう。播但連絡道路から第二神明道路、阪神7号北神戸線を走って2時間程度で到着した。


簡単に太山寺の歴史をまとめると、この寺は藤原鎌足の長男、定恵(じょうえ)和尚の開山で、霊亀2年(716)に藤原宇合(うまかい:藤原不比等の子)が堂塔伽藍を建立したと伝えられている。
鎌倉時代から室町時代にかけて栄え、最盛期の南北朝時代には支院41坊・末寺8ヵ寺・末社6社を持ち、さらに僧兵も養っていたとのことが、現在では龍象院・成就院・安養院・歓喜院の4坊が残っているだけだ。

太山寺 播磨名所巡覧図会

文化元年(1804)に刊行された『播磨名所巡覧図会』に描かれた太山寺の絵図をネットで見ることができる。この頃の太山寺は今よりもかなり賑わっていたようだ。
http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/harima_m/taizanji.jpg

太山寺正面

正面に見えるのは国宝に指定されている太山寺の本堂。神戸市内で国宝に指定されている唯一の建物で、弘安8年(1285)に火災で焼失したのち、1300年ごろに再建されたと考えられている。

太山寺三重塔2

本堂の右手には、美しい三重塔(県文化)がある。拝観は出来ないが、天井などには極彩色の装飾が施されているという。心柱の墨書銘から貞享5年(1688)に寄進により建てられたと考えられている。

太山寺阿弥陀堂

本堂の左手にある阿弥陀堂も同じ時期に再建されたものである。中には鎌倉時代に制作された阿弥陀如来座像(国重文)が存置されている。
毎年5月12日には、阿弥陀如来来迎の様子を僧侶や稚児らで演じる「練り供養」と呼ばれる珍しい法要が行われるそうだ。次のURLに詳しくレポートがなされている。
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/folk/entertainment/case/9_2ikawa/0512_001.html

太山寺本堂2

この寺も紅葉の隠れた名所で、境内の各所で鮮やかな紅葉を楽しむことができる。

太山寺本堂内部

国宝の本堂の中に入る。思った以上に中は広い。
この本堂を舞台に、毎年1月7日に走り鬼と3匹の太郎鬼・次郎鬼・婆々鬼が松明(たいまつ)を持ち、太鼓の音に合わせて踊り悪霊を退治する行事が行われるという。
どんなに古い伝統のある行事も、地元に若い世代が残らなければ繋ぐことが難しいことは言うまでもない。太山寺に限らず全国の多くの寺や神社で大変苦労しておられることだと思うのだが、地方の経済の活力を削ぐような経済政策を続けて行けば、残すべきものも残せない日が来るだろう。
Youtubeでいろんな方がこの行事を紹介しておられるが、安土・桃山時代から伝わるこの伝統行事を、私もこの目で見てみたいものだ。


この旅行の1日目で朝光寺、浄土寺、一乗寺の神仏習合の景観を観てきたが、この太山寺も同様な風景を容易に見つけることができる。

太山寺神仏習合

本堂の右に稲荷社があり、その隣に太子堂があるが、太子堂の正面には大きな石の鳥居がある。

太山寺には奥の院があって、稲荷社と地蔵堂と鎌倉時代の磨崖仏があるのだそうだ。時間がなかったので奥の院に行くことは出来なかったが、今度来るときには、塔頭の安養院庭園(国名勝)とあわせて訪問したいと思う。

2日間天候に恵まれて、あまり知られていない播磨や但馬の紅葉の名所を一年で一番美しい時期に訪れることが出来、柴山カニや出石蕎麦も味わう事が出来て、大満足で帰途に就いた。

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【ご参考】
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浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした原因は何だったのか~~忠臣蔵1
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赤穂浪士の処刑をどうするかで、当時の幕府で大論争があった~~忠臣蔵2
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赤穂浪士に切腹を許した江戸幕府の判断は正しかったのか~~忠臣蔵3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-151.html

江戸幕府が赤穂浪士の討入りを仕向けたのではないのか~~忠臣蔵4
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赤穂浪士の討入りの後、吉良上野介の跡継ぎの義周はどうなったか~~忠臣蔵5
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『明暦の大火』の火元の謎を追う
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関東大震災の教訓は活かされているのか その1
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関東大震災の教訓は活かされているのか その2
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修験道の聖地・龍泉寺から天川弁財天神社、丹生川上神社下社を訪ねて

翌朝は雨が降っていたのだが、せっかく来たので朝食前に龍泉寺(りゅうせんじ:0747-64-0001)に出かける。

龍泉寺1

伝承によると役小角(えんのおづぬ)が大峯山で修業中に洞川に降りて泉を発見し、「龍の口」と名付けて小堂を建て、八大龍王尊を祀ったのがこの寺の起源とされている。

龍泉寺2

龍泉寺の境内には「龍の口」と呼ばれる泉から清水が流れ出ていて、大峯山に登る修験者達はここで水行して身を清めて、八台龍王尊に道中安全の祈願をして山に入るのだそうだ。

龍泉寺本堂

龍泉寺の本堂は昭和21年(1946)に洞川の大火災時に類焼してしまい、昭和35年(1960)に再建されたものだという。背後の山は龍泉寺の自然林で奈良県の天然記念物に指定されている。

この龍泉寺の境内は今でこそ誰でも入ることが出来るが、昭和35年7月10日までは大峯山内道場として女人禁制であったという。

修験道は神仏習合の信仰であり、日本の神と仏教の仏がともに祀られている。また修験道の修行の場は、日本古来の山岳信仰の対象であった山々で、白山や立山や御嶽山など多くは明治期に女人禁制が解かれているのだが、修験道の根本道場である大峯山寺山上蔵王堂のある大峯山山上ヶ岳は今も女人禁制で、蔵王堂に繋がる登山道には女人結界門があるのだそうだ。

龍泉寺の自然林の道

天候が悪くて境内から大峯山を望むことが出来なかったのは残念だったが、少し山道を歩きたかったので龍泉寺の境内から自然遊歩道に入った。天気が良ければこんな雰囲気の道を歩いてかりがね橋から大原山の展望台で景色を楽しむ予定だったが、かなり雨脚が強くなってきたので諦めた。

天川大弁財天社

宿に戻り朝食を済ませてから、天川(てんかわ)弁財天神社(0747-63-0558)に向かう。
この神社は白鳳時代に役小角が大峯開山の際に蔵王権現に先立って勧請され、最高峰である弥山(みせん)の鎮守として祀られたのが始まりとされ、また弘法大師が高野山を開く前にここを拠点てして大峯山で修業し天川弁財天を「琵琶山妙音院」と名付けて神仏習合の聖地としたという。
南北朝時代には社家18戸、僧坊3ヶ寺、供僧9ヶ院と伝えられており、多くの寺院があったようだが、今はない。

大峯天河社

国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に、寛政3年(1791)に刊行された『大和名所図会』が公開されていて、巻六に『大峯天河社』の絵が出ているが、これを見ると今の社宇とは随分異なる。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/360
さらに、名所図会の「琵琶山白飯寺」の本文には、「正殿拝殿・御厨所・十二の小祠、四個の怪石、三所の清泉あり。寺を妙音院とも号す。観音堂・地蔵堂・薬師堂・行者堂・護摩堂・二重宝塔・僧舎三宇あり。また護良親王寓居の所を御所坊という。即ち来迎院なり。…」と記されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/362

またWikipediaには「当社は江戸時代までは琵琶山白飯寺と号し、本尊を弁才天(宇賀神王)としていたが、明治の廃仏毀釈で白飯寺は廃寺となり、本尊の弁才天は市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)と改められた」と解説されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B2%B3%E5%A4%A7%E5%BC%81%E8%B2%A1%E5%A4%A9%E7%A4%BE
要するに、明治の廃仏毀釈で仏教施設が破壊されて、『天河神社』と改号されてしまったということのようだ。

Wikipediaでは淡々と記されているのだが、このような文化破壊が修験者や庶民の抵抗もなく行なわれたとは考えにくいところである。どのような抵抗があったかをネットで見つけることはできなかったが、明治政府が主祭神を市杵島姫命と勝手に変え、社名を天河神社としたところで、修験者や庶民の信仰が簡単に変わるものではなかった。
だから今も社名には「弁財天」の名前が残り、この神社は厳島、竹生島とならぶ「日本三大弁財天」のひとつとされ、さらに「琵琶山白飯寺」の本尊であった弁財天は、今もこの神社に残されているのである。

天川弁財天曼荼羅図

「弁財天」とは七福神の中の唯一の女性神であるが、楽器を演奏している美しい女性として描かれるのが普通である。ところが、ネットで「天河弁財天」の画像を調べると蛇の姿で描かれている『天川弁財天曼荼羅図』が、前日訪れた長谷寺の能満院に所蔵されているのに驚いた。
女人禁制の大峯山に入山する修験者には、女性は魔物と思って修行に励めということなのだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/nikogori12/20080713/p2

またこの神社には、室町幕府6代将軍足利義教から圧迫を受けた世阿弥とその嫡男・元雅(もとまさ)が、京都を追われて大和国に住んでいた時に、当社に所領成就を祈願して能面を奉納したという歴史があり、それ以来能面や能装束の寄進などが相次いで、江戸時代初期にはこの神社で能楽が盛んに行われたという。

天川大弁財天社能舞台と本殿

明治初期の廃仏毀釈で一時期衰えたようだが、その後に能楽の奉納が復活し、今も毎年7月17日の例大祭には、能舞台で観世座の奉納が行なわれているのだという。画像の左が本殿で右が能舞台である。

tenkawa39.jpg

そして、例大祭の行なわれる日には、本殿の中央にある弁財天像が御開帳されるそうだが、この像が、廃仏毀釈に詳しいminagaさんの『がらくた置場』で紹介されていて、普通の女性の顔をしている。また、60年に1度開帳される裏弁天と呼ばれる像もあるが、その像も同じサイトで紹介されているので両方のURLを紹介しておく。
御開帳仏 http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2007toba/tenkawa39.jpg
裏弁天像 http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2006to//tenkawa32.jpg

南朝黒木御所跡

この神社の駐車場の近くに「南朝黒木御所跡」と書かれた石碑があった。
南北朝時代の貞和4年(1348)に南朝皇居のあった吉野山が足利勢の大軍に攻められて焼き払われた時に、後村上天皇はじめ皇族がこの天川に逃れて来たのだそうだ。

天川村役場のHPにはこう解説されている。
「天川の郷でも川合地区の河合寺が黒木の御所として、また沢原地区の光遍寺、坪内地区の天河大辨財天社についても南朝に組しそれぞれ行宮とされました。なかでも天河大辨財天社の行宮では、宮中さながらの栄華を極めたといわれています。嘉喜門院集に『天授三年七月七日吉野行宮御楽あり、嘉喜門院琵琶を弾じ天皇和歌を詠ず』としるされています。
天川郷の人々も積極的に加担し、村内の地区ごとに傳御組(おとな組)を組織して忠勤を果たしました。天河郷には十三通の綸旨、令旨が下賜され現存しています。」
http://www.vill.tenkawa.nara.jp/sightseeing/tenkikawa/ten.html

黒木の御所としていた河合寺は戦いの果てに炎上してしまったのだが、天川郷の人々は果敢に戦ったと伝えられているという。そののち後村上天皇らは難を避けて西吉野の賀名生(あのう)を皇居とし、皇族の多くはこの天川に残ったと言われている。天川村近辺には南朝の史跡がいろいろあるようで、今度この近くに来た時にいろいろ巡って調べたいと思っている。

丹生川上神社下社正面

天川弁財天神社から次の目的地である丹生川上神社下社(0747-58-0823)に向かう。ここは、宿の主人から勧められたので立ち寄ることにした神社である。

「丹生川上」という地名は『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』などに数多く記録が残されている。
最も古い記録は神武天皇の東征時に関する記述である。
「天の香具山の社の中の土を取って、平瓦八十枚をつくり、同じくお神酒を入れる瓶をつくり、天神地祇をお祀りせよ。また身を清めて行う呪詛をせよ。このようにすれば、敵は自然に降伏するだろう」という天神のお告げがあり、その通りに平瓦などを制作したのち、天皇が「丹生の川上にのぼって、天神地祇を祀られた。」(講談社学術文庫『日本書紀 上』p.99)とある。「丹生川上」という地は神代から、祈りをささげるべき聖地であったのである。

また『続日本紀』巻第三十四(光仁天皇)のテキストを「丹生川上」で検索すると、たとえば、宝亀7年(776)6月に黒馬、宝亀8年5月には白馬、8月に白馬を奉納して祈禱をしていたことがわかる。雨乞いには黒馬、晴れを乞うときには白馬を丹生川上神社に奉納する習わしであったようだ。
http://j-texts.com/jodai/shoku34.html

これだけ由緒のある「丹生川上神社」であるのだが、応仁の乱以降は朝廷も資金的な余裕がなくなり、祈禱が行なわれなくなって神社は衰微してしまうのだ。

吉野地方には現在3つの「丹生川上神社」があって、それぞれ上社、中社、下社と呼ばれているが、『日本書紀』『続日本紀』などの記録に残されている場所がどれであるのかについて、江戸時代からずっと議論されていたようだ。

丹生川上神社地図

Wikipediaによると、江戸時代前期にはこの丹生川上神社下社に比定する説が有力となり、
「宝永7年(1710年)に中御門天皇の勅使が差遣されたのを始め、時には祈雨の奉幣がなされ、また嘉永6年(1853年)に黒船が来航すると、翌7年に孝明天皇が当神社に宣旨を下して国家安泰を祈願し、文久2年(1862年)には攘夷を祈願するなど、二十二社の1社として遇された。文久3年(1863年)、天誅組の蜂起が起きると、橋本若狭や中井越前という当神社社家の者がこれに参画したため、討伐軍の兵火により本殿が罹災するとともに、拝殿や社務所などが焼失した」と記されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%94%9F%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E4%B8%8B%E7%A4%BE

しかしながら、古代の記録に出ている「丹生川上神社」が3社のうちどこなのかという論争が、明治に入ってから再燃し、「寛平7年(895年)の太政官符(『類聚三代格』所引)『応禁制大和国丹生川上雨師神社界地事』に記す丹生川上神社の四至境域に合致しない」との指摘や、「東吉野を流れる高見川が古代の丹生川である」との説が出て、今も結論が出ていないようである。いずれの神社も神代に繋がる神社であることにしたいのだろうから、むしろ、結論を出さないことを望んでいるのではないだろうか。

丹生川上神社下社の黒馬と白馬

一の鳥居をくぐると、境内で白馬と黒馬が飼われていた。

丹生川上神社下社2の鳥居と拝殿

まっすぐ進んで石段を登ると二の鳥居があってそして立派な拝殿がある。

拝殿で参拝すると本殿はかなり離れた高い場所にあり、本殿と拝殿とはまっすぐ続く長い階(きざはし)で繋がっている。
この階の入口には障壁が設けられており、一般の参拝者は昇段することが許されていないようだ。

丹生川上神社下社

拝殿の裏にまわってこの階を撮影したが、長谷寺の登廊のようで、なかなか見ごたえがあった。階の周りには太いスギが林立し、また拝殿の左には樹齢500年と推定されている堂々たるケヤキの大樹があり、この神社のご神木とされている。

丹生川上神社下社ご神木

このご神木の前には立札にこう記されていた。
「大昔より涸れたことのないご神木の恩恵を受け、四方に伸びた枝に茂る若葉は、神の恵みそのままに朝日に映えて神々しく輝き、秋の紅葉はさがら錦絵のようで、見る人のこころを捕えて離さない。
今、心静かに大木の幹に手を触れて生気を頂きながら、何か一つだけ願いをかけてみよう、思わぬご利益に預かることができるかも。」

古代から水の神として名高いこの神社の境内を覆う、見事な枝振りのケヤキの大樹の幹に手を触れながら、私も少しばかり元気をもらったような気がした。
(つづく)
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「奈良県」が地図から消えた明治の頃のこと
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聖徳太子の時代にわが国は統一国家であったのか~~大和朝廷の統一1
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唐の時代の正史では倭国と日本国とは別の国である~~大和朝廷の統一2
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『日本書紀』は、わが国が統一国家でなかった時代を記述している~~大和朝廷の統一3
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仏教伝来についての教科書の記述が書きかえられるのはいつか~~大和朝廷4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-4.html
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明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった

前回まで、奈良県の修験道の聖地などを周ってきたことをレポートしてきた。
修験道は仏教でも神道でもなく、日本古来の山岳信仰と、仏教の密教、道教、儒教などが結びついて平安時代末期に成立した宗教なのだが、霊験を得るために山中の修行や加持祈祷、呪術儀礼を行なう者を修験者、または山に伏して修行する姿から山伏とも呼ばれている。
修験道神仏習合の信仰であり、日本の神と仏教の仏(如来・菩薩・明王)がともに祀られてきたのだが、それが明治維新後に激変することになったのである。

山の宗教

仏教学者・五来重氏の著書『山の宗教 修験道案内』(角川ソフィア文庫)で、熊野信仰の解説の中の文章を引用させていただく。

「熊野は、神々の信仰の非常に卓越した修験道の霊所でした。したがって本地仏はあるが神として拝まれており、その結果、近世に入ると紀州藩の宗教政策もあり、神道を表に立てるようになります。
 ふつうは江戸時代に入っても、神社にはそれぞれ別当*がおり、別当の方が優越して、神主というのは、ただ祝詞(のりと)をあげるときだけ頼まれる、というのが実態でした。経済的なものはすべて別当か神宮寺が握っており、神主はあてがい扶持だったのです。しかし歴史的には、中世の中ごろから神主側の巻き返しがあり、いわゆる伊勢神道というのが出来、あるいは唯一神道、吉田神道というものになり、江戸時代に入って復古神道でもって仏教の地位を落していく。それが結果として明治維新の排仏毀釈になったので、山伏も一時なくなるわけです。」(『山の宗教 修験道案内』p.9)
*別当:神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺を神宮寺と呼び、その寺の社僧の長を別当と呼んだ。別当は神前読経など神社の祭祀を仏式で行っていた

shugendou_x1.jpg

今では山伏の姿を見ることがめったにないのでこのような記述を読んでもピンと来なかったのだが、明治維新以前には全国で17万人もの山伏がいたという記述を読んで驚いてしまった。

愛知県清洲にある日吉神社の宮司・三輪隆裕氏はこのように述べておられる。
私の神社は、江戸時代、境内にお薬師様を斎っておりました。また、山王宮と称していました。山王とは、山王権現、つまり山の霊魂が神として出現したという程の意味です。…日本では、仏教が、聖徳太子によって正式に国の宗教として認められて以来、本来の伝統宗教である神道、そして仏教以前に大陸から入った儒教とともに、さらに儒教以前に大陸から入ったと考えられる中国の民間宗教としての道教、占いや呪い、そして仙人思想をもっている道教を合わせ、それらが、一千年以上の長い間に渡ってさまざまに習合してきたのです。
 江戸時代の民間の宗教的エートスはどんなものであったでしょうか?私はよくイメージが湧かないのですが、少なくとも神主が主役でなかったのは事実でしょう。仏教は、ご承知の通り、江戸幕府の手で戸籍管理を任され、檀家制度を整備しますので、大変強い力を持っていました。しかし、民衆の宗教的な情念は、私は、山岳信仰、修験に強かったのではないかと思っています。呪術、占い、修行による超能力の獲得、霊界との交流、こういったことを内容とする修験は、明治政府にとって近代化を妨げる迷信の源と見做されたのではないでしょうか。修験宗は明治になって政府の命令により廃止されますが、これは、逆に、修験が民間信仰のなかで如何に勢力を持っていたかの証ではないかと思います。この当時、修験の先達は17万人いたといいます。現在神職が1万2千人、お坊さんの数も、神職の数と大差無いはずですので修験者の多さが理解できます。」
http://hiyoshikami.jp/hiyoshiblog/?p=66

「修験の先達」というのは山伏のことだが、明治の初めには山伏が17万人いたというのはどう理解すれば良いのだろうか。
内閣統計局が昭和5年に公表した『明治5年以降我国の人口』によると、明治5年の人口数は3480万6千人だという。山伏は全員男性なので、単純に考えると、当時のわが国の男性のうち約100人に1人が山伏であったという計算になるのだが、これは半端な数字ではない。
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/14167501.pdf

その山伏が、慶応4年(1868)の神仏分離令に続き明治5年(1872)には修験禁止令が出されて、山伏の活動が禁止されだけではなく、信仰に関する建物や文化財の多くが破壊されてしまった。

内山永久寺 大和名所図会

前回まで5回に分けて書いた奈良旅行のレポートで、石上神宮の神宮寺であった内山永久寺や、琵琶山白飯寺(現天川弁財天神社)が明治初期の廃仏毀釈で徹底的に破壊されたことを書いたが、いずれの寺も修験道の聖地であった。このような明治維新期の宗教政策が、山伏達に多大な影響を与えたことは間違いないのである。

山伏

では江戸時代の山伏達はどのような仕事で生計を成り立たせていたのであろうか。
和歌森太郎氏の『山伏』(中公新書)にはこう書かれている。
「…江戸時代の山伏にもピンからキリまであったのであって、なお中世的な果敢な山岳修行にいそしもうとする、修行本位に生きる山伏もいたとともに、祭文語りからごろつきに転化したようなものまで、種々のタイプがあったのである。全体的にいえば、町や村のなかに院坊をもって、その近在の民家を檀家とし、招かれて祈禱に出かける、あるいは遠方への山参りなどの代参をしたり、代願人になる、そうしたタイプのものが、江戸時代には最も支配的だったのである。
…江戸時代の山伏は、…中世的な修行者という意味での行者ではなくて、祈禱者としての行者であった。だから平安朝以来、漸次民間にも浸透してきた陰陽師が、そうとうに祈禱者的な面をもっていたので、彼らの伝える陰陽道を、山伏も自然に受け持つほどになっていた。」(『山伏』(中公新書)p.21-22)

大峯天河社

ところが、近代化への道を急ぐ明治政府にとっては、このような山伏は不要であったようだ。
「山伏の道、修験道は今後いっさい廃止するとして、明治5年9月15日の太政官布達をもって全国にふれられたのであった。そうして、およそ18万人もいた山伏たちは帰俗を促され、あるいは天台、真言の僧侶になるか、あるいははっきりと神職に転ずるものもあったのである。」(同上書p.23)

和歌森氏の著書では、山伏の数は18万人とあるが、正式な統計がないのでどちらが正しいかはよく分からない。いずれにせよ、現在よりも山伏の数が桁違いに多かったことは同じである。
では具体的に政府からどのような布達が出されたのであろうか。次のURLに神仏分離に関するすべての布達等の原文が掲載されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/s_tatu.htm

重要なものだけ内容を簡単に意訳しておく
◎慶応4年(1868)3月17日 神祇事務局達
神社において僧形で神勤している別当・社僧は復飾せよ。つまり僧侶の身分を棄てて還俗することを命じて、その際に差支えがある場合は復飾のうえで神職となり、浄衣を着て神勤することを定めている。

◎慶応4年(1868)3月28日 神祇官事務局達
○○権現・牛頭天王などといった神仏混淆的な神号を一掃し、神号の変更を行なうこと。また、仏像を神体としている神社は、仏像を取り除いて神体を取り替えること。また神社から仏具である鰐口や梵鐘などをすべて取り除くこと

◎明治5年(1872)9月15日 太政官第273号 いわゆる「修験道廃止令
修験道を廃止し、本山派修験・羽黒修験は天台宗に、当山派修験は真言宗に所属するものとした。

「修験道廃止令」以降、公には山伏は存在しなくなり、真言宗、天台宗のいずれかに属するか、神官となるか、帰農するしかなくなったのだが、さらに追い打ちをかけるように明治政府は、山伏の収入源であった行為を禁止する命令を相次いで出している。

◎明治6年(1873)1月15日に出された教部省達第2号
狐憑きを落すような祈禱をしたり、玉占いや口寄せを業としている者が庶民を幻惑しているので、そのような行為を一切禁止する。

◎明治7年6月7日 教部省達第22号別紙教部省乙第33号
禁厭、祈祷等を行ない、医療を妨げ、湯薬を止めることの禁止。

◎明治13年7月17日 太政官布告第三十六号 … 旧刑法第427条第12号
妄りに吉凶禍福を説き、又は祈祷、符呪等を為し、人を惑わして利を図る者を拘留または科料に処す

◎明治15年7月10日 内務省達乙第42号別紙戊第3号
禁厭、祈祷等を行なって病人の治療、投薬を妨げる者がいれば、そのことを当該省に報告すること

具体的にどこまでが取締りの対象でなっていたかは定かではないが、明治以降山伏の収入が激減したことは言うまでもないだろう。

なぜここまで明治政府は山伏を徹底的に叩いたのかと誰でも思うところであるが、その理由を論じる前に、江戸時代に「山伏」の評判がどのようであったかを知る必要がある。

天保14年(1843)に江戸幕府が禁奢令を出し、当山派修験道の本山である醍醐寺三宝院から末徒に出された御触書にこのようなことが書かれていたという。
「『諸寺院ノ僧侶破戒不律之義ニ付、天明・寛政・文政之度追々取締方申渡』とはじまり、文中に『不如法之僧徒多有』『貪欲情ヲ断チ学徳ヲ相磨、寺務専一ニ可相心懸處、利欲之念深放逸無慙之輩不少歎ヶ敷く事ニ候』『略服美服ヲ着シ』などと戒めの文言があります。ここから、修験者たちは学問もせず修行もせず、利欲を求めて高価な衣服を着ていたという状況と、当然ながら世間から悪評されたことがわかります。(中条真善稿「当山派修験」『高野山と真言密教の研究』所収。四〇五頁)。」
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index227.htm

龍泉寺2

もちろん真面目に修行し励む山伏が多数いたとは思うのだが、一部のメンバーが評判を落とすような行動をとると、すべてのメンバーに悪評が及ぶことはいつの時代にも良くあることである。しかし、多くの場合はそのような悪評は意図的に広められて、特定勢力を徹底的に叩くために利用される。
明治政府は、中央集権的国家の確立を目的として、天皇を中心とした祭政一致国家の建設をはかろうとした。そこで形成されたのが「国家神道」で、その基盤となる尊王思想を普及させ、神社神道を国家の宗祀とするための政策が進められたのだが、そのためには神仏習合の山伏や修験道は不要な存在であって、山伏の悪評を最大限に利用して仏教施設や仏具ともども強引に修験道を消滅させようと考えていたのではなかったか。

以前このブログで、戦国時代から江戸時代にかけて、キリスト教の宣教師やキリシタン大名が寺社や仏像等を破壊し焼却した記録が残されていることを何度か書いてきたが、明治初期にも同様なことが起り、全国規模で激しい「廃仏毀釈」が行なわれたのである。

明治期に広められた「国家神道」は現天皇を現人神として崇拝し、天皇による祭・政・軍が一体化した国家体制であり、国家自体が「一神教」の教団と化したようなところがある。
一神教の熱心な信徒は過去において、自らが奉じる宗教や文化を広めるために、神の名のもとにテロ行為や他国の侵略や異教文化の破壊をはかる過激な局面が少なからずあったし、今もそれが世界の一部で続いているように思われる。このような原理主義的な動きを封じることが難しいところは、テロ行為や文化破壊を行ないながら、自分の行為を正しいと信じて疑わない信徒が少なからず存在する点にある。

しかしながら、本来の日本の神道は、自然現象を敬い八百万の神を見出す多神教であり、明治期の国家神道とは根本的に異なる。そして江戸時代のわが国においては、山伏は地域の人々の生活に欠かせない存在であったことは確実だ。

和歌森太郎

和歌森太郎氏は前掲書でこう書いておられる。
村の人にとって、その生業が豊かであることは絶対の願望であったから、稲作を中心にこれを妨げるような虫送りをするとか、水を迎えるための雨乞いをするとか、また天気祭りをするとか、いろいろな行事が臨時にも行なわれたが、その中心を占めるのはほとんど山伏であった。ことに雨乞いは古い信仰のなかに、山に入って大きな音を立てるとか、火を焚くとかいうことによって天に響かせ、その結果、雨を呼び起こすという観念があったから、最も山伏のかかわりやすいものであった。」(前掲書 p.172)

厳しい自然をともに克服しながら、地域の人々とともにみんなが豊かで幸せに暮らせることを祈る山伏が、地域の人々同志の連帯感を強めて、地域を住みやすくすることに役立っていたといえば言い過ぎであろうか。

公式には明治5年9月に山伏はいなくなったのだが、その後も峯入り修行の指導者としての山伏が存続した。
また、ネットで調べると、最近では一般人で山伏姿になって山伏体験をする人も増えているという。体験者のブログを読んでいると、自然の霊威を感じて心底から感動したという記録が多く、森羅万象に神が宿るという日本古来の自然観を私も体で感じたい気持ちが湧くのだが、残念ながら、この脚力で難所をいくつも登りきることは難しそうだ。

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このブログで、戦国時代から江戸時代初期にかけてのキリスト教徒による文化破壊について何度か書いてきました。当時日本に来ていたイエズス会の宣教師の記録にも、わが国に残された文書にもかなり具体的に書かれています。
興味のある方は覗いてみてください。

戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのはキリシタン大名か、宣教師か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-136.html

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-372.html

島原の乱の最初にキリシタンは寺社を放火し僧侶を殺害した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-386.html


【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。



関連記事

新緑の書写山・円教寺と、その「奥の院」と呼ばれる弥勒寺に残された神仏習合の世界

姫路城を楽しんだ後、西国三十三ヶ所の第二十七番札所である円教寺に向かう。

この寺は標高371mの書写山(しょしゃざん)の山上にあり車で行くことは出来ないので、カーナビの目的地を書写山ロープウェイ(079-266-2006)にセットする。姫路城の大手門前駐車場から15分程度で山麓駅のパーキングに到着する。

円教寺境内

書写山ロープウェイは、毎日8時30分以降、毎時0分、15分、30分、45分に出発するが、団体客がある時などはたまに増発される。
山上駅の近くにある「慈悲の鐘」から本坊寺務所の近くまでバスも出ているが、ここから摩尼殿までは歩きやすい道が1km程度続いているので、小鳥の囀りを楽しみながら歩いて参詣することを勧めたい。

円教寺 仁王門

山上駅から600mほど進むと仁王門(兵庫県文化財)がある。門の入口の扁額には「志ょしゃ寺」と書かれているが、この寺の創建当時はこの寺を「書写寺」と称していたそうだ。

性空上人像

ここで、この寺の歴史を簡単に振り返っておこう。
九州での修行を終えた性空(しょうくう)上人が、康保3年(966)年に新たな修行の地を求めて書写山に入山し、山内の西の谷に草庵を結んだとされている。
その後、上人の名声が都まで届くようになり、寛和2年(986)には花山法皇が参詣されて、法皇より「圓教寺」の寺号を受け、勅願寺の待遇を与えられたという。
そして永延元年(987)には講堂が完成し、比叡山から名だたる高僧を招いて盛大な落慶法要が営まれ、その後も数々の堂塔が整えられて、承安4年(1174)には後白河法皇が参籠するなど圓教寺は「西の比叡山」と呼ばれて栄えていくのだが、元弘元年(1331)3月の落雷による火災で大講堂、常行堂、五重塔などを焼失してしまう。
その後再建されたのだが、戦国時代に入り羽柴秀吉がこの書写山を軍事拠点としたことから、多くの僧が僧坊を追われ、この時期に多くの寺宝が持ち去られたという。

円教寺 湯屋橋

ロープウェイ山上駅から12分程度歩くと「湯屋橋」という石橋がある。そこにある案内板にこう解説されている。

「…本多忠政は元和3年(1617)に池田光政転封のあと姫路城主となり、元和6年(1620)書写山に参詣してその荒廃に驚き、一門・家臣・城下で寄進を募り復興に尽力し、湯屋橋もこの時再興された。書写山の荒廃は天正6年(1578)三木城の別所長治離反に対し羽柴秀吉が当地に要害を構え布陣したことによる
 湯屋橋の名はこの辺りに湯屋(沐浴所)があったことにちなむ…」

かくして江戸時代に入って円教寺は以前の荘厳さを取り戻し、西国三十三ヶ所の第二十七番札所として賑わうようになるのだが、明治維新後に神仏分離令が出され、大幅に寺の収入が失われたために多くの僧侶が寺を去ったという。しかしながら、寺の建物や仏像等、多くの文化財が護られて今日に残されているようだ。

円教寺 摩尼殿

湯屋橋を渡ると崖の上に摩尼殿(まにでん:国登録有形文化財)が聳え立つ。
摩尼殿の号は承安4年(1174)に参詣した後白河法皇によるもので、「摩尼」とは梵語で「如意」を意味するのだそうだ。法皇は摩尼殿の御本尊が如意輪観音なのでそう名付けたのであろう。
この御本尊は秀吉の播磨制圧の際に、他の寺宝とともに近江の長浜に持ち去られたのだが、天正8年(1580)に、長浜より如意輪観音像だけが戻されたと記録されているそうだ。

円教寺 摩尼殿 構造

この摩尼殿は舞台造りの素晴らしい木造建築物で、旧堂が大正10年(1921)12月に焼失したあと再建に着手され、昭和8年(1933)に落慶している。

案内板には「設計は近代日本を代表する建築家の一人である武田五一が設計し、大工棟梁家の伊藤平左衛門が請負った。」とあるが、このような木造建築を造る伝統技術が今もしっかり承継されているのだろうか。こんなに太い木材を用いて釘を一本も使わずに建てられたことはすごいことだと思う。

円教寺 摩尼殿内部

上の画像は摩尼殿の内部を撮ったものだが、この建物が昭和時代に再建されたものとはとても思えなかった。

円教寺 摩尼殿新緑 2

円教寺は兵庫県の紅葉の名所として有名な場所だが、新緑の摩尼殿もなかなか美しい。

円教寺 三つの堂

摩尼殿から三之堂(みつのどう:大講堂、食堂、常行堂がコの字状に並んでいる)に向かう。摩尼殿から歩いて5分くらいで到着する。

円教寺 大講堂

上の画像は北側にある大講堂(国重文)で、下層は永享12年(1440)に、上層は寛正3年(1462年)に建造され[、文明年間(1469~1487)に全体が整備されたという。内陣には釈迦三尊像(国重文)が安置されている。

円教寺 常行堂

上の画像は南側にある常行堂(国重文)で、寺伝によれば元弘年間(1331~1334年)に建立され、永享8年(1436)の焼失後、享徳2年(1453)に再建されたという。本尊は阿弥陀如来(国重文)で、僧侶が常行三昧をするための道場であったという。舞台は、大講堂の釈迦三尊像に舞楽を奉納するために設けられたのだそうだ。

円教寺 食堂 常行堂

西側にあるのが食堂(じきどう:国重文)で、承安四年(1174)に創建されたものである。わが国の近世以前の仏堂建築でこのように長大かつ総二階の建物は他に例がないという。この建物は映画『ラスト・サムライ』で渡辺謙演じる勝元の住居という設定でロケが行われた場所なので、見覚えのある方が多いのではないだろうか。

この食堂の2階は宝物館になっていて、食堂本尊の僧形文殊菩薩像ほか五大明王像、薬師如来像等の仏像や、弁慶の机、姫路城の瓦などの貴重な文化財が多数展示されている。

円教寺 旧大日堂仏像群

その中で「旧大日堂仏像群」という16体の破損仏が目にとまったので紹介したい。
この破損仏については、こう解説されていた。
「制作年代 10~11世紀
 所有者  姫路市夢前(ゆめさき)町糸田自治会
 姫路市夢前町糸田地区の大日堂に安置されていたもの。大日堂は廃仏毀釈を免れるため、糸田村の所有とすることで、周辺の諸仏も守ることができ、現存に至った
 しかし昭和30年代に大日堂は維持困難となり、仏像群は公民館に移され建物は取り壊された。さらにその公民館も平成12年老朽化に伴い処分が決定した。その際、旧夢前町教育委員会、兵庫県立歴史博物館、早稲田大学により調査後、同町内法界寺に安置されることとなったが、横たえた状態であった。
 そして平成18年、ようやく早稲田大学櫻庭祐介氏のご尽力により、保存修復により個々自立できようになり、祈りの対象としての姿を取り戻した。そして一時、円教寺に奉安することとなったのである。
 歴史をくぐり抜けてきた仏像群を皆さまの目にふれる形で展示することができ幸いである。」

せっかく廃仏毀釈による破壊を免れたのに、保存環境が悪かったために朽ち果てて原型を留めていないことは残念なことである。
木造仏は加工しやすい利点はあるが、傷むのが早いことを知らねばならない。

円教寺 開山堂

食堂から2分ほど歩くと、奥の院があり開山堂(国重文)、護法堂(国重文)、護法堂拝殿(国重文)がある

円教寺 開山堂 左甚五郎 力士彫刻

開山堂の軒下の四隅に、屋根の重みを顔をしかめて支えている力士の像がある。これは、江戸時代の名工・左甚五郎の作と伝えられているのだが、なぜか北西の隅には像がない。

円教寺 護法堂

開山堂の右にある護法堂は、乙天(不動明王)、若天(毘沙門天)の二人の童子を祀る神社で、永禄2年(1559)に再建されたものだが、円教寺ではこのように神仏習合の景観が今も残されているのだ。

以前このブログで、播磨の朝光寺や浄土寺や鶴林寺に神仏習合の風景が残されていることを記したことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-357.html

江戸時代最後の大老が姫路藩の酒井忠績だったこともあって、播磨では明治新政府の政策に非協力的だったのかもしれないが、「旧大日堂仏像群」を見てもわかるように播磨の諸寺に対して新政府から「廃仏毀釈」を迫る圧力があったことは確実で、次のURLでは加古郡では27ヶ寺が廃寺に追い込まれたことが記されている。
http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630/c/df3e9d585cb4f9aa400a37aff1bd8f83/4


圓教寺 3つの堂 播磨名所巡覧図会

文化元年(1803)に出版された、『播州名所巡覧図会』五巻にその頃の円教寺の三つの堂と奥の院が描かれた図がある。この絵を見ると、今の円教寺は文化年代の伽藍配置とほとんど変わっていないことが見てとれる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563457/35

円教寺がこれらの堂宇や仏像などを廃仏毀釈で破壊される危険から護ることに、様々な苦労があったと考えるのだが、その点に関しての当時の記録はネットでいろいろ検索しても見つけることができなかった。

円教寺 鐘楼

開山堂の近くには他にも鐘楼(国重文)、金剛堂(国重文)、十妙院(国重文)があり、ロープウェイ山上駅から摩尼殿に向かう途中には壽量院(国重文)があり、書写山全体が文化財の宝庫なのである。
壽量院では4月から11月の間、書写塗りの食器で精進料理をいただけるのだそうだが、3日前までに5人以上の予約が必要だという。
『食べログ』のコメントを読むと、精進料理は5400円のコースと10800円のコースの2つがあり、季節によって特別料理のそば御膳(3500円)が準備されるという。一度でいいからこういう場所で食事をしたいものである。
http://tabelog.com/hyogo/A2805/A280501/28023379/dtlrvwlst/6290858/

書写山を下りて、書写山・円教寺の奥の院と言われている弥勒寺(079-335-0330)に向かう。ケーブルの山麓駅から約10kmで、20分ぐらいで到着した。

弥勒寺

弥勒寺は、円教寺を開山した性空上人が長保2年(1000)に隠棲の地として草庵を営まれたのが始まりとされ、花山法皇が上人の徳を慕い長保4年(1002)に行幸され、勅命により播磨国司巨智延昌(こちのえんしょう)に諸堂を建てさせて、以後弥勒寺と呼ばれるようになったと伝えられている。

弥勒寺 本堂

本堂(国重文)は天授6年(1380)に赤松義則(よしのり)が建立したもので、本尊の弥勒仏(国重文)は長保元年(999)に安鎮が制作したと伝えられているのだが、普段は公開されていないので仏像を参拝することはできなかった。次のURLに本堂内部のレポートがあるが、予約すれば案内していただけたのかもしれない。
http://blogs.yahoo.co.jp/teravist/32993620.html

弥勒寺 開山堂

開山堂には性空上人の尊像が安置されていて、その厨子は県の重要有形文化財に指定されている。またその横には、鎌倉時代に制作された性空上人の供養塔がある。

弥勒寺 護法堂

また、円教寺と同様に護法堂があり、乙天(不動明王)、若天(毘沙門天)の二人の童子を祀る神社がある。風雨にさらされて傷まないように覆い屋で守られていたが、いずれも姫路市文化財に指定されている。

規模は小さいものの、このように多くの文化財を保有する古刹であるのだが、普段は拝観が出来ない様なので、ほかには観光客は誰もいなかった。
東大寺や清水寺のように観光客の多い寺社は収入面では問題ないのだろうが、地方には多くの文化財を持ちながら観光客がほとんど来ない寺社が少なくない。
もちろん寺社には観光収入以外に宗教活動に伴う収入があるのだが、その肝腎な部分の収入が先細りになっているケースが少なくないのが問題である。

高度成長期以降、地方で働く場が失われて若い世代が都心に移住したまま故郷に戻らないために、地方の多くは過疎化・高齢化が進行するばかりで、それまで地方の寺社を支え、間接的に文化財を支えてきた檀家や氏子のほとんどが年金生活者と化してしまっている。

このような状態をいつまでも続けば、いずれは地方の文化財を護ることが難しくなり、地方の伝統文化や地域の魅力が失われていくばかりではないか。そのことは長い目で見れば、わが国全体の観光価値を低下させることにもつながるのだと思う。

以前このブログで記したが、国や地方の文化財指定があっても、修理に必要な費用の何割かは自らが工面しなければならない。しかも文化財の価値を減じることのないように、昔と同様の建築工法で修理しなければならず、そのために結構な資金を用意する必要があるのだ。

今の文化財保護法では地方の文化財は守れない。この法律では、大手建設業者やセキュリティサービス業者は潤っても、寺社は逆に富を吸い取られることになりはしないか。

文化財を守るために一番大切な事は、これらの文化財を代々大切に守ってきた人々が、地元で普通の暮らしができる環境を整えることではないのか。
若い世代が地元に残って生活が出来ない地方に未来はなく、地方の経済を活性化させて若い人が戻って来る経済施策こそが、地域の文化財を守り、地域の伝統文化を後世に繋いでいくために必要なことなのだと思う。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。
よかったら、覗いてみてください。

聖徳太子の時代に建てられた寺院がなぜ兵庫県にあるのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-286.html

播磨の古刹を訪ねて~~~聖徳太子ゆかりの斑鳩寺と随願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-287.html

播磨の国宝寺院の神仏習合の景観を楽しんで~~朝光寺・浄土寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-357.html

但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

日本百名城の一つである小諸城址から龍岡城跡、新海三社神社を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-401.html



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滋賀県に残された神仏習合の景観などを楽しんで~~邇々杵神社、赤後寺他

以前このブログで、神社の境内の中に塔が残されている事例をいくつか紹介した。
奈良時代には仏教を広めるために日本古来の神道との融合策がとられ、神社に神宮寺が併設されたり、寺に鎮守社が建てられたりしたのだが、そのような神仏習合が平安時代になると仏が仮に神の姿で現れるという本地垂迹思想が広がり、神社に神の本地である仏を祀る本地堂を建てたり、神宮寺に仏教の祖である釈迦の舎利(遺骨)を祀る塔が建てられたりして、神社の境内の中に仏教施設が存在することが普通にあった。

しかしながら、明治維新期に神仏習合を否定する神仏分離令が出されて、そのために神社境内の仏教施設や仏像などはほとんど破壊されるか移されてしまったのだが、神仏分離の徹底度合いは地方により異なり、以前このブログでいくつか紹介した通り、今でも神仏習合時代を彷彿とさせる景観を残している寺社が少数ながら各地に存在する。

滋賀県の北部にいくつかそのような景観を残していそうなところがあるので以前から行きたいと思っていたのだが、長浜市に向かう旅程の中に組み入れて先日訪問してきた。

邇々杵神社 鳥居

最初に訪問したのは邇々杵(ににぎ)神社(高島市朽木宮前坊289)である。
上の画像はこの神社の鳥居で、どこにでもありそうな神社にしか見えないのだが、境内を進むと美しい多宝塔が見えてくる。

邇々杵神社 境内

『レファレンス協同データベース』にこのような解説が出ている。
「『滋賀県百科事典』によりますと、…古くは朽木(くつき)大宮権現と称し、そのまつるところを日吉大宮権現とし、市場の山神社とともに朽木谷の産土神である。新旭町井ノ口の大荒比古神社とおなじく佐々木氏の祖神をまつることから1875年(明治8)には河内社といった。その後、境内社瓊々杵尊(ににぎのみこと)、十禅師社を主殿として、今の社号にあらため、河内神社を境内社とした。『神宮寺縁起』に859年(貞観元)僧相応が葛川明王院を創立したとき、この神を勧請したという。(中略)神社の東隣りに相応を開山とする神宮寺があり、創建当時(平安時代)のものといわれる木造重層の多宝塔がある。(河原喜久男)」とあります。」
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000094462

「権現(ごんげん)」というのは日本の神の神号のひとつで、神々が仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたと考える本地垂迹思想に基づくものである。明治の初期には「権現社」「権現宮」「権現堂」の多くが廃され、「権現」の神号を用いることを一時禁止されたために、権現を祀る神社の多くは本地仏を廃して祭神(垂迹神)のみを祀るようになり、祭神の名前も記紀神話の神を比定したのである。その過程で神社の仏教施設の殆んどが失われてしまったのだが、どういうわけか朽木大宮権現では建物も仏像などもそのまま残されたようなのである。当時の村人たちにかなりの苦労があったのではないかと思うのだが、当時の記録をネットで発見することは出来なかった。

邇々杵神社 多宝塔

上の画像が邇々杵神社の多宝塔で、前掲の『レファレンス協同データベース』では平安時代のものと記されていたが、今の多宝塔は江戸時代に再建されたものであることが案内板に明記されている。
「多宝塔は、朽木神宮寺宝塔として神宮寺に属していたが、邇々杵神社の奥の院とも称し、古来から信仰厚く、宝塔内には木造釈迦如来像(藤原時代の作風を伝える鎌倉時代初期の仏像で胎内には朽木神宮寺の墨書銘がある)と二十三体の薬師如来像をまつっている。
創建は神宮寺と同じく貞観元年(859)に造営されたが、その後荒廃破損し、天保十三年(1842)五月十三日に再建したものであり、朽木村にとって貴重な文化遺産である。」

「朽木村」という村は安曇川の上・中流域にかつて存在し、京への木材の供給地として、また京都と若狭を結ぶ街道筋として栄えた歴史を持つが、平成十七年(2005)の市町村合併で高島市に編入されてしまい、「朽木村」の指定文化財であった多宝塔は、高島市の文化財に指定されているようだ。

以前はこの神社の東側に神宮寺があったのだが昭和二十六年(1951)に焼失してしまい、今では多宝塔と、火災後に建立された小堂が残されているだけである。

海津大崎

邇々杵神社をあとにして海津大崎に向かう。
ここの桜は「日本さくら名所百選」にも選定されていて、例年だと長浜曳山祭りが行われる頃にほぼ見頃を迎えるのだが、今年は満開の時期があまりにも早すぎた。ボタン桜の一部が咲いていたものの、ほとんどが散ってしまったあとだった。

海津大崎の桜は、昭和初期に滋賀県高島地方事務所の宗戸清七氏が自費で桜の若木を植え始め、その桜が咲きだすと村の青年団も協力するようになり、今の桜並木の原型が形作られたのだという。今では湖岸を走る県道557号線に約4kmにわたり約800本の桜の木が植えられていて、満開時には桜のトンネルのような状態になるというのだが、こんなに長い桜並木は見たことがないので、何年かのちの満開の頃に再チャレンジしたいところである。

大崎寺

海津大崎にある大崎寺(高島市マキノ町海津128)を訪ねる。この寺は近江西国三十三所観音霊場九番札所で、本尊の千手観世音菩薩立像はこの寺を大宝二年(702)に開基したとする泰澄の作と伝えられている。

大崎寺 阿弥陀堂

旧本堂(大崎観音堂)を修復する際に、豊臣秀吉が安土城落城の際に戦死した人々の血痕の残る城材を用いたことから、観音堂の天井は「安土の血天井」として有名であったというが、昭和四十一年(1966)の観音堂改修に際し、今度はその城材がこの阿弥陀堂に使われたという。どこに血痕があるのかよく見てもわからなかったのだが、案内板には今でも梅雨の頃になると血痕が滲みだして痕跡が現れると記されていた。

大崎寺からは、奥琵琶湖パークウェイを走って葛籠尾崎(つづらおざき)を経由して長浜に抜けるコースを選んだのだが、この道路沿いにも多くの桜が植えられている。残念ながら桜の季節は終わっていたものの、奥琵琶湖の景観は素晴らしかった。
このパークウェイは秋の紅葉も美しいことで知られており、四季折々の自然美が楽しめそうなので、また走ってみたいと思う。

奥琵琶湖

奥琵琶湖は険しい山が琵琶湖に沈みこんでいるような地形で、琵琶湖では最も水深の深いところでもあるのだが、人間の居住環境の痕跡がほとんど認められないにもかかわらず、縄文時代から平安時代後期までの数多くの土器が水深10~70mの湖底で大量に発見されている(葛籠尾崎湖底遺跡)。現在までに約140点がひきあげられたのだそうだが、その成因についてはいまだに結論が出ていないという。
http://www.pref.shiga.lg.jp/edu/sogo/kakuka/ma07/treasure_of_water/files/wot_16.pdf

長浜市に入り、予約していた赤後寺(しゃくごじ:長浜市高月町唐川1055 拝観予約090-3164-7486)に向かう。

赤後寺と日吉神社の鳥居

上の画像が赤後寺に向かう階段で鳥居の奥に見えているのが赤後寺の観音堂なのだが、仏教施設が神社の境内の中心にあるとは驚いた。
この観音堂の右に日吉神社の本殿があり、左に鐘楼がある。鳥居を潜りぬけてお寺に拝観に行くのは随分久しぶりの経験だ。

赤後寺と日吉神社

寺には住職はおられず、地元の方が交代で奉仕されて今日まで貴重な文化財が守られてきた。境内も綺麗に清掃されており、観音堂の内部もお供えがなされていて、この観音様が地元の人々にとても大切にされていることが良くわかる。
拝観は事前予約制で、当番の方から詳しく説明を受けることが出来る。

赤後寺の厨子

立派な厨子の中には平安時代初期に製作されたご本尊の木造千手観音菩薩立像と木造菩薩立像(伝聖観音立像)が安置されていて、いずれも国の重要文化財に指定されている。またご本尊は通称「コロリ観音」と呼ばれていて、災いを利に転ずる仏として親しまれてきたという。

案内の方に厨子の扉を開けていただいた。
十一面千手観音といっても42本の腕の内残っているのは12本で、手首から先は失われてしまっている。頭上にいただいていたはずの十一面も何もない。木造菩薩立像については掌だけでなくつま先も失われてしまっている。
とても痛々しいお姿ではあるのだが、凛とした包容力あふれる表情と、肉付きの良い堂々とした体躯に迫力を感じて、腕の破損が次第に気にならなくなってくる。残念ながら仏像の撮影が禁止されていたので紹介できないのだが、ネットで探すと次のURLにこの2躯の仏像の画像がでている。
http://butszo.jp/2014/03/2086/kannonnosato16/

赤後寺の創建は奈良時代の僧・行基と伝えられ、中世には神仏習合により日吉神社と一体のものとして人々の信仰を集めてきたという。
しかしながら戦国時代になって、近江は何度も戦場となり、村の人々はこの仏像をお守りするために寺から何度か運び出して、ある時は田の中に埋め、ある時は川底に隠したりしたそうだ。

赤後寺と御枕石

天正十一年(1583)に行われた豊臣秀吉と柴田勝家との戦い(賤ケ岳合戦)では寺が火災に巻き込まれたのだが、村人たちは夜間に仏像を運び出し、村に流れる赤川まで背負ったのち川底に沈め、さらに仏像が流されないように枕石を置いたという。しかしながらその際に川の増水のために仏像の宝冠や光背、手などが流されてしまったと伝えられている。境内にはその時に使われた枕石と伝わる石が置かれている。

昼食をとってから、次の目的地である安楽寺(長浜市細江町105)に向かう。この寺は特に神仏習合的な要素はないのだが、庭園などに見どころがありそうなので旅程に入れていた。

安楽寺 門

奈良時代はこの近辺は藤原不比等の荘園であったそうなのだが、この場所に安楽寺が創建されたのは弘安二年(1279)のことだという。
その後室町幕府を開いた足利尊氏より寺領三百石と長刀が寄進され、さらに二百石が加増され寺は隆盛を極め、大伽藍のほかに塔頭二ヶ寺、寺侍六軒を有する大寺院だったようだ。しかしながら元亀元年(1570)の姉川の戦いで多くの堂宇が焼失してしまい、それからしばらく荒れ地となっていたが、江戸時代になって彦根藩主が庇護し、第二代藩主井伊直孝公が龍潭寺開山萬亀和尚に命じ再建されて現在に至っている。

安楽寺 庭園

この寺の庭園は夢窓国師が作庭したと伝えられる池泉回遊式庭園で、中央の池は琵琶湖に見立てたものだという。奥様に淹れていただいたお茶を頂きながら、縁側に座って庭を鑑賞していると、時折小鳥が飛んで来て羽を休める。小鳥のさえずりを聴きながらゆっくりと時間が流れる。

仙厓禅師六曲屏風一双・山号額

本堂の脇に寺宝が収められている部屋があり、案内していただいた。海北友松の水墨画や白隠禅師の達磨画像、仙厓禅師六曲屏風一双・山号額、井伊直弼の掛け軸、足利尊氏画像など想定した以上に貴重なものがいろいろあるのに驚いた。

安楽寺の松と龍

帰り際に奥様から、「『龍』を見てください」と境内に案内されて、「このあたりからよく見えます」と言われて案内された松をよく見ると、枯れた枝が親子の龍が空を飛んでいる姿に見えるのである。
面白いのでいろんな角度からこの松を観てみたのだが、見る位置を変えると龍の姿にはならないところが面白い。

神仏習合の景観を残す竹生島に向かう船の時間調整で旅程に入れた安楽寺だったが、庭園や寺宝に見るべきものが多く、気さくな奥さんの案内で結構楽しく過ごすことが出来た。(つづく)
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【ご参考】
このブログで神仏習合の景観を残している寺や神社を幾つか訪ねてきました。よかったら覗いて見てください。

香住から但馬妙見山の紅葉と朱塗りの三重塔を訪ねて~~香住カニ旅行2
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但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて
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日吉神社、大垣城、南宮大社から関ヶ原古戦場に向かう
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播磨の国宝寺院の神仏習合の景観を楽しんで~~朝光寺・浄土寺
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日本百名城の一つである小諸城址から龍岡城跡、新海三社神社を訪ねて
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白馬落倉高原の風切地蔵、若一王子神社、国宝・仁科神明宮などを訪ねて
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http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-217.html

新緑の書写山・円教寺と、その「奥の院」と呼ばれる弥勒寺に残された神仏習合の世界
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-452.html









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神仏習合の聖地であった竹生島で強行された明治初期の神仏分離と僧侶の抵抗

長浜市の湖岸から6kmほど先に、周囲2km、面積0.14㎢の竹生島が琵琶湖に浮かんでいる。琵琶湖では沖ノ島に次ぐ大きな島で、ここに西国三十三所観音霊場第三十番札所の宝厳寺と都久夫須麻(つくぶすま)神社がある。
この島へは、長浜港から琵琶湖汽船の船に乗って25分程度で到着するのだが、余程風の強い日には竹生島港に接近することが危険なためにたまに欠航することがあるのだそうだ。この日は風が強くて、竹生島港の波が強くて接近できない場合は引き返すことがあるとの条件付きで長浜港を出港したが、予定通りの時間に竹生島に到着してホッとした。

竹生島クルーズ舟

島の観光のレポートをする前に、竹生島の歴史を振り返っておこう。
宝厳寺のホームページには、聖武天皇の命により神亀元年 (724)に行基が竹生島を訪れ、弁財天を祀ったのが起源と記されているのだが、承平元年(931)に成立した『竹生島縁起』には、行基の来島は天平十年(738)で、小堂を建てて四天王を祀ったのが始まりだと書かれているという。同縁起によれば、当初は本業寺(ほんごうじ)と称し、のちに竹生島大神宮寺と呼ばれて東大寺の支配下にあったが、平安時代前期10世紀頃から比叡山延暦寺の傘下に入り、それ以降この島は天台宗の僧の修行の場となったそうだ。
弁財天というのは仏教の守護神の一つであり、音楽・弁才・財福・知恵の徳がある女神であるが、この島が観音と弁財天信仰の島として栄えたのは平安時代末期頃からだと推定されている。

竹生島祭礼図
【竹生島祭礼図】

上の画像は東京国立博物館蔵の『竹生島祭礼図』で、室町時代に描かれた宝厳寺の蓮華会(れんげえ)という雨乞いの祭りの絵図である。

岩金山大神宮寺竹生島絵図
【岩金山大神宮寺竹生島絵図】

この絵には鳥居がないのでどこに都久夫須麻神社があるのかと誰でも思うところなのだが、江戸時代に描かれた『岩金山大神宮寺竹生島絵図』には建物の名前が記されている。この絵図を見ると、現在の都久夫須麻神社の本殿は「本社」と書かれていて、調べると昔はこの建物に宝厳寺の本尊である弁天像が安置されていて「本堂」あるいは「弁天堂」とも呼ばれていたようだ。

現在は宝厳寺都久夫須麻神社の二つが併存しているのだが、このように区別されるようになったのは明治初期の神仏分離令以降のことであり、それまでは竹生島では神仏習合の信仰が行われていた。そもそも明治初期の竹生島には「都久夫須麻神社」という名の神社が存在しなかったようなのである

『明治維新 神仏分離史料 第二巻』に所収されている「竹生島における神仏分離」という論文を紹介しよう。
文中の妙覚院とは宝厳寺の代表的な塔頭寺院で、覚以はその寺の住職である。当時の竹生島には妙覚院、月定院、一乗院、常行院があるのみで、専業の神職は存在しなかった。
また権大属(ごんだいさかん)というのは年給俸禄50石程度の役人で、知藩事の1割程度の年俸であったようなのだが、明治初期にはこのクラスの役人が寺院の生殺与奪の権限を有していたことを知るべきである。

明治2年 地方の職官表
【明治二年 地方の職官表 http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J069.htm 】

「明治二年某月、大津県庁より竹生島役者を召喚す。妙覚院住職覚以出頭す。
権大属田中久兵衛立会し、覚以に告げて曰く、『其の島に延喜式内都久夫須麻神社と申す神社のあるはずなり*。しかるに未だその届けもこれなく、甚だ不都合の至り。ついては、その島の縁起・古記等の写しを製し、早々差し出されるべく、なお口碑等もこれあり候わばせいぜい取り調べの上至急差出すべし。』
これにより覚以帰島のうえ、縁起二巻、儀軌一巻、並び古記集一冊を写して持参出頭の上、田中県属に面会し、之に白して曰く。『古記集内に貞永元年焼失勧進記の内に弁財天、島守大明神、小島権現の三社を書するのみにて、都久夫須麻神社と称する社殿は記さざるも、延喜式に都久夫須麻神社の社号記載あるを以て、島内に都久夫須麻神社とすべきものを考えれば、恐らくは島守大明神、小島大権現の内ならん。しかれども、現今にては確乎としてこの社なりと申し難し。』」(『明治維新 神仏分離史料 第二巻』p.544~545)
*延喜式:延長五年(927)にまとめられた『延喜式』巻九・十に、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧 (『延喜式神名帳』)があり、近江国の最後に「都久夫須麻神社」の記載があることを指している。

そしてその二年後に再び覚以が呼び出されて、次のような命令を受けている。
「明治四年二月に至り、更に呼び出して、山田権大属立会いの上、先に差出せるところの御宸翰縁起に五ヶ所の付箋を為し、之を示して曰く。『この如きの理由あるを以て、今般弁財天を浅井姫命(あざいひめのみこと)とし、弁財天社を以て、都久夫須麻神社とすべき』旨の仰せ出されなりと。
 覚似曰く、『これ一嶋の大事に関す。拙僧の独断にては御請け致し難し。かつ御口達のみを承りて引取りも、島内の僧侶は之を信ぜず。故に帰島の上、一山へ相示すべき証拠を御下付ありたし。』これにより山田属は、…左の如き達書を渡せり。

浅井郡竹生島役者
竹生島弁財天社、自今都久夫須麻神社と改称仰せ出されるべく候こと
明治四年辛未二月                    大津県庁印」(同上書p.545)

この命令に宝厳寺の僧侶たちは驚愕し、県庁に嘆願しても埒が明かず、本寺である総持寺とともに願書を奉呈することとなったのだが、この時の山田権大属の言葉は恫喝以外の何物でもなかった。

「今般竹生島弁財天を都久夫須麻神社として崇敬なされたく思召しにて、御達になりたるものなり。夫れを彼是と申せば、朝敵同様なり、明治初年4月阪本山王の馬場にて山王社の仏体仏器等を焼き捨てたるともあれば、万一左様の事に相成らんにも限らず、ここを能々考慮すべし。たとえ白きものを黒きと被仰出候共、朝廷よりの仰を背くとは出来ず、その方らさほどまでに仏法を信ずるなれば、元来仏法は天竺より来たりし法なれば、天竺国に帰化すべし。今県庁より達する通り御受けせざれば、如何の御処置に相成り候やも計りがたし。自然焼払などになれば、如何に致すや。」(同上書p.549)

「明治初年4月阪本山王の馬場」の件とは、日吉山王権現*の社司でもあり神祇官神祇事務局権判事でもあって神仏分離令に関与した樹下茂国が、日吉山王権現の仏像・仏具・経典などすべてを取り除いて焼き払ったことをさしている。この事件については以前このブログで記したので繰り返さないが、興味のある方は次のURLを参照願いたい。
*日吉山王権現:現在の日吉大社(滋賀県大津市坂本)
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html

総持寺と妙覚院は、これ以上抵抗して宝厳寺の貴重な仏像などが焼き払われてはたまらないと考え、「また時を持て上願することにして、数行の涙とともに御受する」しかなかった。

竹生島マップ

とはいいながら弁財天像は仏像であるのでこれを寺の管理とすることをその後も強く主張し、かくして弁財天社から本尊の弁財天像が取り払われて取敢えず観音堂に移されたのち妙覚院に仮安置されることとなり、弁財天社は名前を変えて都久夫須麻神社の本殿となり、そのたるに常行院覚潮は復飾して神勤することになったという。

ところで、『神仏分離史料』には「都久夫須麻神社」の名は竹生島では忘却されていたと記されているのだが、文化二年(1805)に出版された『木曽路名所図会 巻一』には、竹生島について次のように記されている。
「浅井郡湖中にあり。…長浜より六里。
 本社弁財天女 天降天女と号す。長立像七寸三分。一説に行基大士の作という。[延喜式] 都久夫須麻神社…」
と、この書物では弁財天堂を延喜式の都久夫須麻神社に比定している。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959914/76

同様な見解は享保十九年(1734)に記された『近江国輿地志略 巻之八十七』にも出ていて、竹生島神社の項には
当社は【延喜式】の神名帳に、いわゆる近江国浅井郡都久夫須麻神社と是なり。…
 嗚呼神道は我国の道なり、神社を以て仏寺に混ずるのみにあらず、神を以て仏とす。付会の甚だこの上なかるべし
。…」
と竹生島の神仏習合を批判している。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879446/148

総持寺と妙覚院は、弁財天堂が延喜式の都久夫須麻神社であるとする説があることぐらいは知っていた可能性が高いと思うのだが、竹生島の観光客の大半が弁財天と観音堂の参拝を目的に訪れていることや、当時の竹生島には僧侶しかいなかったことから弁財天をなんとしてでも寺側の管理下に置いて存続させようと努力したことは当然のことだと思う。

一方大津県は、弁財天を浅井姫命として都久夫須麻神社の御神体にしようとしたようなのだが、そもそも浅井姫命とはどういういわれのある神様なのだろうか。

奈良時代の初期に編纂された『近江国風土記(逸文)』に竹生島の由来について記されている部分がありそこに浅井姫がでてくる。Wikipediaに原文の読み下しがでているので引用しておこう。

「また云へらく、霜速比古命(しもはやひこのみこと)の男(こ)、多々美比古命(たたみひこのみこと)、是(こ)は夷服(いぶき)の岳の神といふ。女(むすめ)、比佐志比女命(ひさしひめのみこと)、是は夷服の岳の神の姉(いろね)にして、久恵(くえ)峯にいましき。次は浅井比咩命(あざいひめのみこと)、是は夷服の神の姪にして、浅井の岡にいましき。ここに、夷服の岳と、浅井の岡と、長高(たかき)を相競いしに、浅井の岡、一夜に高さを増しければ、夷服の岳の神、怒りて刀剣(つるぎ)を抜きて浅井比賣(ひめ)を殺(き)りしに、比賣の頭(かしら)、江(うみ)の中に堕ちて江島(しま)と成りき。竹生島と名づくるはその頭か。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

伊吹山と浅井岡の二つの山が高さを競い合って、浅井岡が一夜にして急に高くなったので、伊吹山の神が怒って剣で浅井岡の神(浅井姫)の首を切り落とした。それが琵琶湖に落ちて竹生島になったという伝承が存在するのである。

このような伝承に基づいて、かなり以前から浅井姫命が竹生島の神として祀られていたようだ。
冒頭で紹介した宝厳寺のホームページでは、行基がこの寺を開基したころから弁財天が祀られていたと記されているのだが、竹生島に関する記述で文献上最初に『弁財天』という文字が現れるのはもっとあとの事である。

竹生島弁才天信仰と名宝

佐々木孝正氏の『竹生島における神仏分離について』という論文にはこう解説されている。
「竹生島弁財天は、応永二十二年撰述の『竹生島縁起』に、延暦七年(788)、最澄が比叡山の仏教守護のため祀ったのにはじまると伝えるが、確かな文献上の諸県は、『江談抄』*に『島主弁財天』とみえるのがそれである。十二世紀初頭には、浅井姫命にかわり弁財天が島主であると語られるに至るのであり、両者の習合がすすんでいたことを示している。おそらく十一世紀までには、竹生島の住僧により、弁財天が浅井姫命の本地として唱え出されたものであろう。」
*『江談抄』:平安時代(院政期)の説話集。長治から嘉承にかけて(1104~1108年)成立したと考えられている。
http://jairo.nii.ac.jp/0541/00002211

竹生島 宝厳寺 鳥居

竹生島の港に着いて船から降りて入島料400円を払って島に入ると、二つの鳥居をくぐることになる。一つ目の鳥居の扁額には都久夫須麻神社の別名である「竹生島神社」と書かれていて、二つ目の鳥居には「厳金山(がんこんざん)」と書かれているが、これは「宝厳寺」の山号である。寺に鳥居があることはたまに見かけることがあるが、扁額に寺院の山号が書かれていることはあまり事例がないのではないか。

竹生島 宝厳寺本堂

急な165段の階段を登りきると、すぐ左に宝厳寺本堂(弁財天堂)がある。寺内最大の建物で、昭和十七年(1942)に平安時代様式で新築されたものであるが、この建物が完成することで明治四年(1871)以来仮安置されていた本尊弁財天像をようやくしかるべき場所に安置することができたのである。
我が国の三大弁財天は竹生島弁財天と宮島弁財天、江ノ島弁財天なのだが、江ノ島は明治初期に完全に神社に変質してしまい、竹生島は宮島と同様に大きな影響を受けながらも、寺院としての法灯を守ったということになる。

竹生島 宝厳寺 三重塔

弁財天堂の向かいに三重塔が建っている。冒頭で紹介した『竹生島祭礼図』には三重塔が描かれているが、この塔は江戸時代初期に焼失してしまい現在の三重塔は平成十二年(2000)に約350年ぶりに再興されたものである。


三重塔の近くにある宝物館を見学した後、階段を下りて宝厳寺の唐門に向かう。
唐門は宝厳寺の本尊の千手観音立像を祀る観音堂(国重文)の入り口にあり、檜皮葺で前後に唐破風をもち、随所に極彩色の彫刻や飾り金具が施された建造物で国宝に指定されているのだが、残念ながら唐門も観音堂も現在保存修理が行われており、覆屋の中で一部を観ることが出来るだけだ。工事が完了するのは来年末になる予定だが、完成したら豪華絢爛な桃山様式の建物を是非見に行きたいものであるし、秘仏の千手観音立像も、チャンスがあればいちど鑑賞したいものである。

竹生島 宝厳寺 舟廊下

観音堂を抜けると舟廊下がある。この廊下の終点までが宝厳寺の建物で、唐門・観音堂・舟廊下ともに慶長八年(1603)に豊臣秀頼が豊国廟から移築したものと言われている。
舟廊下屋根の梁には「国宝」と書かれているが、現在は国の重要文化財指定となっている。
昭和二十五年(1950)に文化財保存法が施行された以前は国宝と重要文化財の区別はなく、国指定の有形文化財はすべて「国宝」であったのだが、その頃の表示が今もそのまま残されている。

竹生島 都久夫須麻神社本殿

舟廊下を通り抜けると国宝の都久夫須麻神社本殿である。
神社のホームページには「今から450年前、豊臣秀吉が寄進しました伏見桃山城の束力使殿を移転したもの」とあるが、慶長七年(1602)に豊臣秀頼が豊国廟の遺構を移築して改修したという説もあり、どちらが正しいかはよくわからない。
内部の拝観は中止されているが、内部の柱や長押は総漆塗りで、ところどころに飾金具が施され、襖絵や天井画は狩野光信が描いたものと伝えられている。長浜市のホームページに内部の写真が掲載されている。
http://www.city.nagahama.lg.jp/0000000208.html

竹生島 都久夫須麻神社 竜神拝所

拝殿には琵琶湖に面し突き出たところに竜神拝所があり、琵琶湖の絶景を楽しむことが出来る。また、ここでは「かわらけ投げ」が有名で、2枚の土器(かわらけ)を300円で購入し、名前と願い事を書いて、湖面に突き出た宮崎鳥居に向けて投げて、かわらけが鳥居をくぐれば竜神様により願いが成就するというので挑戦してみたのだが、風に煽られて2枚とも失敗してしまった。地表がなんとなく白っぽく見えるのはすべてかわらけで、随分多くの観光客がチャレンジして失敗したことがよくわかる。

竹生島 小島

竹生島に入ってから75分で竹生島港に戻らなければならないので探索することは出来なかったが、竹生島の東北に小島という島がある。かつてはこの島を拝する拝殿が存在したという。明治の神仏分離を申し渡された際に、総持寺と妙覚院はこの小島が延喜式に記された都久夫須麻神社であると反論したのだが、その可能性はかなり高いと思う。

小島明神

いくら立派な建物であるとしても、都久夫須麻神社本殿は豊国廟の遺構を移築したものであり、神社の本殿を建てるのに古木を用いて、極彩色に装飾することは考えにくい。一方、永禄十年に建築されたという小島権現の棟札には清浄なる白木が用いられていることが明らかだという。『岩金山大神宮寺竹生島絵図』には小島が描かれ、その島に『小島明神』とかかれた社殿があり、竹生島側に拝殿があることが確認できる。

『明治維新 神仏分離史料 第二巻』にはこう記されている。
明治初年大津懸の達書等も、皆この弁財天の隆盛なるに眼眩み、当時流行せし唯一神道主義に心惑はされ、厳然たる神社在るにも拘はらず、弁財天の古堂を以て、恐れ多くも都久夫須麻神社の神霊を祭るに至れりなり」(同上書 P.578)

竹生島にどのような道があるのかわからないが、今度来たときは小島の見えるあたりを散策してみたいものだ。

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【ご参考】
このブログで明治初期の廃仏毀釈について多くの記事を書いてきました。一部の記事を紹介しますので興味のある方は覗いてみてください。

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

明治期の危機を乗り越えた東大寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-84.html

明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-167.html

奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-176.html

廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

伊勢の廃仏毀釈と伊勢神宮の式年遷宮に多大な貢献をした尼寺のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-314.html

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html






関連記事

仏教伝来から神仏習合に至り、明治維新で神仏分離が行われた経緯を考える

前々回の記事で竹生島弁財天のことを書いた。
明治初期の神仏分離令が出るまではわが国のほとんどの社寺が神仏習合であったのだが、そもそも神仏習合はどういう経緯ではじまり、「本地垂迹説」が唱えられたのにはどのような背景があったのだろうか。

仏教遭難史論

以前何度か紹介した羽根田文明氏の『仏教遭難史論』(大正14年刊)の記述がわかりやすいので紹介したい。

惟神(かんながら)の道、すなわち神道は宗教ではなくただ祖先崇拝の人道で単純なるものであるが、仏教は之に反して世界的大宗教であるから、数千巻の経論あって美術工芸より深甚微妙の哲理を説き八萬四千の法門あって、国家の経営、社会の事業すなわち開拓、交通、文学、技術、医方、採集、衛星、救済等、あらゆる人生必須の要件、一も備わらざる事なければ、神道とは到底同日に論ずべきものでない。故に仏教渡来以後国内に伝播して、有識者の仏教教理研究する世となっては、おのずから仏教を重視するの深き、神道を軽視する傾向の生ずるのは自然の趨勢である。ここにおいて具眼者は国人が固有の神道を軽視するの弊の生ずるのは、国の不祥であると見たる卓見家、行基、伝教、慈覚、弘法らの諸師が、邦人の仏教を重視するあまり神道を軽視する弊風を矯正せんことを企てられた
 そは天台、法華経の本迹二門の説に依り本地垂迹説を立て、仏を本地とし神は本地の仏の垂迹である。本迹二門異なりと雖も、ともに一実の妙理である。ゆえに本地の仏を尊信するもの、また垂迹の神を敬すべしと言いて仏を信ずるとともに神を敬せよと教えて時弊を救われた。これが一実神道である。また真言の金胎両部の説に由り、仏を金剛界、神を胎蔵(たいぞう)界とし、金胎両部異なりと雖も、其の体同一なるがゆえに神仏また同一体である。ゆえに仏を奉ずるもの、また神を敬うべしと言いてまた神道を(たす)扶けられた。これが両部神道である。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/13

慕帰絵詞 巻七
【慕帰絵詞(14世紀) 玉津島の垂迹のしるしとされた古松に祈る僧侶】

仏教ばかりが重視されて神道が軽視されることがないようにと本地垂迹説の考え方が成立し広められたのだが、時代が進むにつれて仏教が重んじられるようになっていったという。羽根田氏はこう解説しておられる。

皇室の仏教御崇信の深まるにしたがい、一般国民の仏教に帰向すること、さながら草の風に靡くがごとく、終には朝廷の御儀式をも、仏法の式に依りて行わるる程の状態であるから、勢いの趨(おもむ)くところ、神道は仏教の次位に置かれ、神職は僧徒の下風に立つに至った
ここに於いて僧徒はその勢いを憑(たの)み、その機に乗じて自己の理想を拡充して、これを事実上に表現せんことを企て、終に権現号を公称するに至った。その権現とは字のごとく、本地の仏が衰弱して、権(か)りに神と現われたという意義である。…
 また神名に直接仏名を称えたのもある。即ち八幡大神を八幡大菩薩と言い、祇園大神を祇園牛頭天王と言った。仏徒はなおこの仏名で飽き足らず、これを実際上に公示せんとて神社境内に本地堂を設け、本地仏を安置して神の本地の仏なることを表明するに至った。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/13

さらには僧徒が神を勧請する事例も少なくなく、石清水八幡宮が宇佐八幡宮から勧請したのも僧侶であったという。羽根田氏の解説を続ける。

終には神に、社僧の別当職を置き、僧徒をして神社に奉仕させることになった。即ち石清水八幡宮に、法蔵坊はじめ数戸の社坊あり、北野天満宮に松梅院はじめ十二の社坊があった。その他祇園、多賀、山王、日光、宮島、金毘羅、彦山、高良山、白山をはじめ、大社はおおむね社僧別当であった。尤も各神社に社家の神主もあったけれども、みな社僧の下風に立ち掃除、または御供の調達等の雑役に従い、神社について何等の権威もなかったのである。然れども伊勢神宮始め、その他に社僧なくして神主の神仕する神社もあったが、…少数であった。
 社僧の神社に奉仕するのは、僧徒が神前で祝詞を奏するのでなく、広前に法楽として読経したのであるから、社殿に法要の仏具を備えつけるは勿論、御饌も魚鳥の除いた精進物であった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/15

続日本後記

なぜ全国の神社に仏具が供えられて読経までが行われるまでになってしまったのだろうか。羽根田氏によると、神社で経典を読むことを命じる勅書が何度も下されているのだという。一例として『続日本後紀』の仁明天皇承和三年*十一月の詔が著書に紹介されている。
*承和三年:西暦836年
「勅す、神道を護持するは、一乗の力に如かず、禍を転じ福を作(な)す。また修繕の功に憑る。宜しく五畿七道に僧、各一口を遣し、毎国内の名神社に、法華経一部を読ましむべし。…」

僧侶を遣わしてお経を読むこととなると、当然のことながら神社にも仏像や仏具が必要になってくる。時代が下がるとともに僧侶が強くなっていき、神仏分離令が出される前の神社の状態は以下のような状態になっていたという。

鰐口
【鰐口】

「かかる状態であるから、ついにはかの八幡宮の如く、神殿内に仏像を安置して、これを神体とする神社が多くあった。大社が既にこの如くである故に、村落の小社は概ね仏像を神体にしたのである。而して其の像は、弥陀、釈迦、薬師、大日、観音、地蔵、不動などであった。ただ神殿内に仏像を祀るのみでなくこれを外面に表示して、またかの八幡宮の如く、社殿の扉の上部に、弥陀、観音勢至、または釈迦、文殊、普賢の三尊像の額を掲げたる神社もあって、現に日吉山王権現の如きは、七社ともに神扉の上部に、円形の額面の直系三尺余に、弥陀三尊の雲に乗って来迎する像の浮彫に、地板は青色で、輪廓(ふち)は雲形の彫物で、極彩色のが掲げてあったのを実見したのを記憶している。
 八幡宮、日吉山王の大社が、既にかくの如くであったから、なお他にもこれと同様の体裁の神社も多くあったであろう。而して八幡、山王、愛宕、祇園、多賀、北野天満宮などの各神社は、神前に鈴はなく、鰐口に鐘の緒の下げであったのも実見した。かかる状況であるから、社頭の構造もおのずから伽藍風となり、堂作りの社殿に極彩色を施し、丹塗りの楼門や、二重、三重、五重の塔のある神社もあって、純然たる仏閣の如くであったのが事実である。故に神社の実権は全く僧徒の占領に帰し、神主はその下風に立て、雑役に従事するのみ、何等の権力もなかったから、神人は憤慨に堪えられず、僧徒に対して怨恨を懐き、宿志を晴らさんとすれども、実力なければ空しく涙を呑み、窃(せつ)に時機の来らんことを、待っておった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/16

柏原八幡本殿
【柏原八幡宮には今も鐘楼と三重塔が残されている】

本地垂迹説は、人々が仏教を重視するの余り神道を軽視する弊に陥らないようにと教え、そうすることで神道を守ろうとする考えであったのだが、いつの間にかご神体までもが仏像に変わってしまい、社殿も仏閣のようになっていったという。

しかるに僧徒が勢威に任せて、漸次に神道の色彩を奪い、本地堂に仏像を安置しながら神体を仏像にし、社殿を仏堂に模造し、神殿に仏像の扁額を掲げ、鈴に代わるに鰐口を以てし、而して僧徒が法衣して神殿に読経してこれを神祭というに至っては、実に神仏混交、社寺混同して、本迹二門の真意も、却って破滅するに至ったのである」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/16

なぜ明治初期に激しい廃仏毀釈が起こったか長い間疑問に感じていたのだが、羽根田氏の著書を読んでようやく納得できた次第である。明治初期に激しい文化破壊活動が行われたことについては仏教側にも責任の一端があったのだと思う。

江戸幕府は仏教を優遇してきたのだが、そのことが多くの僧侶の堕落を招いたことは疑いがない。その証拠に平田篤胤よりもかなり以前から仏教を厳しく批判する書物が多数出ている。

明治文明綺談

菊池寛は著書の『明治文明綺談』で、こう解説している。

「江戸時代ほど僧侶攻撃論の栄えた時代はなく、まず儒家により、更に国学者により、存分の酷評が下されている。
堂宇の多さと、出家の多きを見れば、仏法出来てより以来、今の此方のようなるはなし。仏法を以て見れば、破滅の時は来たれり。出家も少し心あるものは、今の僧は盗賊なりと言えり。』(大学或問*) 

荻生徂徠も、
今時、諸宗一同、袈裟衣、衣服のおごり甚(はなはだ)し。これによりて物入り多きゆえ、自然と金銀集むること巧みにして非法甚し。戒名のつけよう殊にみだりにて、上下の階級出来し、世間の費え多し。その他諸宗の規則も今は乱れ、多くは我が宗になき他宗のことをなし、錢取りのため執行ふたたび多し』(政談)
と、その浪費振りと搾取のさまを指弾している。」
*大学或問:熊沢蕃山の著した、経世済民論の書である。貞享4年(1687)成立
**政談:荻生徂徠が8代将軍徳川吉宗に呈した幕政に対する意見書。全4巻。成立は徂徠が吉宗に謁見を許された1727年前後と考えられる。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/58

徳川光圀
【徳川光圀】

仏教を批判したのは思想家だけではない。会津藩の保科正之、水戸藩の徳川光圀及び徳川斉昭など名君と呼ばれた藩主も盛んに仏教を排撃したのである。

仏教を擁護してきた江戸幕府が倒れると、明治新政府はかなり早い段階から仏教を叩こうと動いている。普通に考えて、政権の誕生期であり権力基盤が不安定な段階においては、どんな政府においても、国民から強く反対されるような施策が強行出来るはずがなく、むしろ国民が評価するような施策を優先して実行するはずである。少なくとも明治維新を推進した中心メンバーにとっては、仏教勢力を叩くことは多くの国民から支持されると考えていたのではないだろうか。

明治政府は慶応四年(明治元年)三月十三日に神祇官再興を布告し、次いで三月十七日には神祇事務局より神社における僧職の復飾(俗人に戻ること)を命じ、さらに三月二十八日には次のような命令を出している。

「一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰 勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地抔と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、右之通被 仰出候事」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/s_tatu.htm

これが『神仏分離令』で「権現」とか「牛頭天王」など、神号を仏号で称えている神社はその由来書を提出すること、また仏像をもってご神体としている神社は今後改めること、さらに本地仏ととして仏像を神社に置いたり、鰐口や梵鐘、仏具などを社前に置いている場合は早々に取り除けと命じているのだ。そしてこの命令が出た4日後の四月一日に日吉天王社に武装神官*が進入し、仏具や教典などを焼き捨てている。
*神仏分離令に関与した神祇官神祇事務局権判事であり日吉山王権現の社司であった樹下茂国が、最初に行われた廃仏毀釈を主導した。

当時は、全国の大半の神社でご神体が仏像にされていて、境内には仏教的なものが数多く存在した。それらを「早々に取り除け」というのは、建物ならば、破壊するか、移転するか、社殿として使うしかないだろう。仏像や仏具などは多くが焼かれたり、溶かされたり、棄てられることになったのだが、同時に大量の金属の使い道を考えることが不可欠となる。

薩摩天保
【薩摩天保】

以前このブログでレポートした通り、他藩に先んじて幕末に廃仏毀釈を実施した薩摩藩では、梵鐘などを溶かして大量の「薩摩天保」と呼ばれる贋金を密鋳して軍資金を捻出した。島津久光の側近で天保銭の密鋳に関与した市来四郎の証言が羽根田氏の著書に紹介されているが、それによると、徹底的に神仏分離を行った結果、神社のご神体はほとんどすべてが仏像であったと書いている。

「寺院廃毀の後、神社の神仏混淆してあるのを分離することが至極面倒であった。各地巡回して、神社ごとに検査の上仏像仏具を取りよけたが、全く仏像を神体にしたるものがあった。これらは新たに、神鏡を作って取り替えたが、霧島神社をはじめ、鹿児島神社なども仏像で、即ち千手観音であった。三個国大小、四千余の神社を一々検査したのに、大隅国、々分郷のなげきの森という古歌にも見ゆるその神社の神体が古鏡であった。神仏混合でなかったのは、ただこの一社だけであった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/53

薩摩藩でこんな状態であったので、どこの藩でも大量の梵鐘や鰐口が集まることとなる。
『明治維新 神仏分離史料 第一巻』に、寺や神社の多い京都の神仏分離についてこんな記録があるので紹介したい。

昔の四条大橋
【昔の四条大橋】

京都四条の鉄橋の材料は、仏具類が破壊せられて用いられたとのことである。鉄橋は明治六年に起工し、翌年三月に竣工し、同十六日に開通式が行われた。総費額一万六千八百三十円で、祇園の遊郭で負担したとのことであるが、時の知事長谷信篤は、府下の諸寺院に命じ、仏具類の銅製の物を寄付せしめた。古い由緒のある名器の熔炉に投ぜられたるものが少なくなかったということである。当時廃仏毀釈の余勢が、なお盛んであったことがわかる。
洛陽四条鉄橋御造架につき献上書云々とある文書が伝わってある。その一に紀伊郡第三区深草村寶塔寺、古銅器大鰐口丈八寸、縁二尺、目方十六貫八百目、銘に深草寶塔寺為覚庵妙長聖霊菩提、慶長十七年七月二十日、施主中村長次とあったことなど見える。この類の物が今の鉄橋になったのである」(『明治維新 神仏分離史料 第一巻』p.384)

四条大橋は幕末の安政三年(1856)に造られた橋が明治六年(1873)の洪水で破壊されてしまったために再建されることとなったのだが、全長90m以上もある大橋を造るために、鋳潰された梵鐘や鰐口はとんでもない量であったことだけは確実なことである。
その後、市電の開通に伴う道路拡張のためこの橋は大正二年に架けかえられ、その後水害で再度架けかえられることになり昭和17年に完成したのが現在の四条大橋なのだが、古い寺や神社の多い京都においても、明治初期に多くの文化財が失われたことを知るべきである。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

古き日光の祈りの風景を求めて~~日光観光その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-352.html

但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

古代からの景勝の地であり和歌の聖地である和歌の浦近辺の歴史を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-511.html

滋賀県に残された神仏習合の景観などを楽しんで~~邇々杵神社、赤後寺他
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-558.html

全寺院を廃寺にした薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期より始まっていたのではないか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-342.html

江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-339.html







関連記事

越前和紙で栄えた地域の歴史と文化と伝統の味を楽しむ~~越前の歴史散策1

越前市は品質、種類、量ともに全国一位の和紙生産地として知られているが、この地における和紙作りには1500年という長い歴史があるのだという。そして、和紙生産の中心地である5つの集落(新在家町、定友町、岩本町、大滝町、不老町)を昔から五箇(ごか)と呼び、その大滝町にこの地に紙の製造法を伝えたとされる川上御前(かわかみごぜん)が祀られている神社がある。この神社には立派な社殿があるだけでなく神仏習合の行事が今も行われていて、平安時代の仏像が残されていることに興味を覚え、越前方面の旅行の最初に訪れることにした。
この地域を巡るには、次のURLにある「和紙の里」めぐりの地図がわかりやすい。
http://www.echizenwashi.jp/information/pdf/pamphlet_area.pdf

和紙の里地図

『越前和紙』のホームページに、この地における和紙生産のはじまりに関する『川上御前の伝説』が紹介されている。
http://www.washi.jp/history/index.html

継体天皇が男大迹王(おおとのおう)として、まだ、この越前に潜龍されておられたころ、 岡太(おかもと)川の川上の宮が谷というところに忽然として美しいお姫様が現れました。
『この村里は谷間であって、田畑が少なく、生計をたてるのにはむずかしいであろうが、清らかな谷水に恵まれているので、紙を漉けばよいであろう』と、自ら上衣を脱いで竿にかけ、紙漉きの技をねんごろに教えられたといいます。習いおえた里人は非常に喜び、お名前をお尋ねすると、『 岡太川の川上に住むもの』と答えただけで、消えてしまいました。それから後は、 里人はこの女神を川上御前とあがめ奉り、 岡太神社(おかもとじんじゃ)を建ててお祀りし、その教えに背くことなく紙漉きの業を伝えて今日に至っています。」

継体天皇は応神天皇の5世孫にあたり、以前は男大迹王として越前国を治めていたのだが、第25代武烈天皇が跡継ぎを定めずに崩御された際に白羽の矢が立ち、中央豪族の推戴をうけて西暦507年に河内国樟葉宮において即位され、第26代の天皇となったとされている。この継体天皇が越前の王であった時代は5世紀末から6世紀のはじめなので、この地における和紙の生産について1500年以上の歴史があることになるのだが、この地における和紙生産が相当古くからおこなわれていたことについては、川上御前の伝承だけではなく、正倉院文書に記録が残されているという。

全国手すき和紙連合会のホームページにはこう解説されている。
「越前和紙は、日本に紙が伝えられた4~5世紀頃にはすでに優れた紙を漉いていたようです。正倉院文書の天平9年(737)『写経勘紙魁(しゃきょうかんしげ)』に「越経紙一千張薄」とあり、写経用紙として薄紙も納めていたので、すでに技術水準が高かったといえます。」
http://www.tesukiwashi.jp/p/echizen1.htm

川上御前
【川上御前】

紙漉きの業を伝えた川上御前は、紙祖神(しそじん)として今もこの地で尊崇され、その姿を模した分霊の像は、どこの紙屋でも高い場所に鎮座されているのだという。この神様は、わが国で存在する唯一の「紙の神様」なのだが、群を抜く越前和紙の品質の高さは、紙祖神に対する地域の人々の厚い信仰抜きでは語れないのだと思う。

前掲のホームページにはこう解説されている。
「平安時代には中男作物の紙を納め、中世には鳥子紙・奉書紙の名産地となっています。近世にはさらに檀紙の産地として名声を博し、最高品質を誇る紙の産地で、『雍州府志(ようしゅうふし)』は「越前鳥子是を以て紙の最となす」と讃え、『経済要録』には「凡そ貴重なる紙を出すは、越前国五箇村を以て日本第一とす」と評しています。
寛文元年(1661)に初めて藩札を漉き出したのも、明治新政府の太政官金札(だじょうかんきんさつ)用紙が漉かれたのもこの地です。また、横山大観始め、多くの芸術家の強い支持を得て、全国に越前和紙の名は知られています。」
http://www.tesukiwashi.jp/p/echizen1.htm

岡太神社 大瀧神社 鳥居

上の画像は大瀧神社・岡太(おかもと)神社(〒915-0234 越前市大滝町23-10 ☏ 0778-42-1151)の鳥居で、主祭神は大瀧神社が国常立尊(くにとこたちのみこと)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)で、岡太神社が川上御前である。
標高326mの権現山山頂付近にある奥の院にはそれぞれの本殿が別々に建てられているそうだが、下宮の本殿・拝殿は両神社の共有になっているというところが面白い。

大瀧神社 境内の紅葉

この神社の境内域の森林はふるさと文化財の森に指定されており、鳥居をくぐると樹木に囲まれた神秘的な雰囲気の境内が広がる。この時期は銀杏の木の色づきが鮮やかで、今月下旬までは美しい秋の景色が楽しめそうである。

手水舎で手を清めていると、ボランティアの方に声をかけて頂き、木造十一面観音(越前市指定文化財)の拝観を勧められ、手水舎の奥にある観音堂(絵馬堂)に向かった。
大瀧神社はもともと神仏習合で「大瀧児(おおちご)権現(大瀧寺)」と称し、中世には勝山市の平泉寺の末寺となり広大な寺域に48坊の堂塔が建ち600余人の衆徒がいて隆盛を誇ったが、織田信長による一向一揆討伐の兵火にかかり全山が焼失。その後丹羽長秀を始め歴代領主の保護を受けて復興したのち、明治維新の神仏分離令により大瀧神社と改称されたという。仏像などは処分せず、法徳寺などの寺に預かってもらったおかげで、貴重な平安時代の仏像が今も残されている。

大瀧神社 絵馬堂の十一面観音座像

観音堂にある木造十一面観音坐像はご祭神の本地仏として平安時代初期に制作されたものだという。神社が仏像を保有している事例は今まで何度かこのブログで書いてきたが、所有している仏像を一般に公開しているところは殆んどない。大瀧神社が仏像を保有していることは事前に調べて知ってはいたが、拝観は難しいと思っていたので、拝観の声をかけて頂いただけでなく撮影の許可までしていただいた時は本当に嬉しかった。この日はたまたまバスで団体の観光客が来られる予定とのことで、運よく拝観できたのかもしれない。

大瀧神社 神門

上の画像は神門だが、この門をくぐると国の重要文化財である大瀧神社本殿および拝殿がある。

大瀧神社 拝殿・本殿

この建物は天保14年(1843)に建築されたものだが、屋根は檜皮葺で重厚にして躍動感があり、柱や本殿の壁面などには驚くほど装飾性の高い彫刻が施されている。大工の棟梁は大久保勘左衛門で、大本山永平寺の勅使門を手がけた人だという。

大瀧神社 拝殿の彫刻

上の画像は拝殿の彫刻で、下の画像は本殿の彫刻であるが、この地域が和紙作りで如何に豊かであったかが、この建物を鑑賞すれば誰でもわかるだろう。

大瀧神社 本殿の彫刻

権現山の山頂付近に奥宮があり、岡太神社、大瀧神社、八幡宮の三つの建物が並んでいるのだそうだ。御神木の大杉やぜんまい桜、ブナの大木が林立する社叢を観ても良かったのだが、旅程を優先して断念した。奥宮までは歩いて約30分とのことだった。

次の目的地である紙の文化博物館(〒915-0232 越前市新在家町11-12 ☏ 0778-42-0016)に向かう。道路の反対側にコミュニティー広場の無料駐車場があり、チケットは卯立の工芸館と共通である(\200)。

紙の文化館には越前和紙の産地の歴史や和紙の利用についての様々な展示がある。
明治維新後、幕府などに納めていた越前和紙の需要が激減し、五箇の紙漉きは存続の危機に陥るのだが、明治維新政府の参与となった福井藩出身の由利公正が、全国統一紙幣である太政官札の発行を建議し、藩札用紙の漉き立ての実績があり大量生産が可能な五箇の紙が選ばれたのだそうだ。その後、新政府発行の紙幣はドイツ製の洋紙に変更されたが、明治8年(1875)に大蔵省抄紙(しょうし)局が設けられ用紙の独自製造が再開されると、その際に越前和紙の紙漉き職人が上京して新紙幣の用紙を漉いて技術指導を行った記録がある。
また越前和紙職人は偽造防止の為に透かし技法を開発し、日本の紙幣製造技術の飛躍的進化に貢献したという。その後も大正12年(1923)には大蔵省印刷局抄紙部に「川上御前」の御分霊が奉祀され、昭和15年(1940)には大蔵省印刷局抄紙部出張所が岩本(越前市岩本町)に設置されるなど、越前和紙の技術はわが国の紙幣発行に不可欠なものであったのである。

卯立の工芸館

紙の文化博物館から歩いてすぐの所に卯立の工芸館(〒915-0232 越前市新在家町9-21-2 ☏ 0778-43-7800)があり、紙漉き職人の実演を見ることが出来る。
この建物は、江戸中期寛延元年(1748)に建てられた紙漉き家屋・西野平右衛門家を平成8~9年に移築したもので、国登録文化財になっている。

卯立の工芸館の玄関を入った土間と板の間

玄関を入ると広い土間と板の間があり、紙の原料である楮(こうぞ)などの煮釜がある。そして流しや井戸があり、紙漉き場がある。

紙漉き実演

和紙を作るには原料の皮をはぎ、白皮を煮たあと塵を取り、煮た皮をトントンとたたいて繊維を解きほぐし、叩いた皮を水の中で念入りに洗って不純物を洗い流す。その後漉舟の中の紙原料が早く沈まないようにするため、とろろあおいの根の部分を臼でついて採った粘液(ねり)をまぜる。そうしてから紙を漉くのだが、簡単そうに見えるものの均一な和紙に仕上げるためにはかなりの熟練が必要だという。あとは圧搾して水分を絞り、1枚ずつ板に張り付けて天日で紙を乾かすのだが、越前では紙の肌合いを重視して、干板は雌の銀杏の板を用いるのだそうだ。

この工芸館で本格的な流し漉き体験ができるコース(一人5千円)があるのだそうだが、簡単な紙漉き体験なら近くのパピルス館で封筒作りやうちわ作りなど多くのメニューが用意されているようだ。

しかしながら、よくよく考えると、今日の生活で和紙を使うことが随分少なくなってしまっている。昔は筆で字を書くこともあったのだが、今ではほとんどなくなってしまった。
パソコンや携帯機器が普及したことの影響で手紙を書くことがなくなり、書類なども印刷することが少なくなって、和紙だけでなく洋紙の需要も低迷しつつある。また電子マネーの利用が増加して、紙幣の需要も低下傾向にあり、このままでは、和紙にせよ洋紙にせよ、どちらも市場は縮小していくばかりである。
この地域の素晴らしい文化と伝統と景観を守るためには、越前紙が売れることが必要なのだが、そのためには絵画用、版画用、工作用、手芸用、建築用などの用途をもっと開拓していかなければならないはずだ。しかしながら紙という素材は、書く、描くという用途を離れて、消費者が飛びつくような新しい商品を開発することは決して容易なことではないのである。とりあえずおみやげに便箋を1つだけ購入したが、いつ使うことになるかはわからない。

せっかく越前に来たのだから、昼は越前蕎麦が食べたいと思って、近くの森六(越前市粟田部町26-20 ☏ 0778-42-0216)に向かう。和紙の里のコミュニティー広場の駐車場から1.5kmで、車で5分程度で到着する。

森六店内

明治4年創業の古いお店で、店構えも店内もレトロな雰囲気が漂う。店内には所狭しと芸能人らの色紙が飾られている。

越前蕎麦

メニューは越前おろしそばと越前せいろそば、スペシャルせいろそばの3つだけだが、迷わずおろしそばの大盛りを注文した。

黒っぽくてやや太めの蕎麦の上に辛味大根とネギと鰹節が載っているだけなのだが、噛めば噛むほどそばの甘みとおろしの辛みが混ざり合ってなかなか旨かった。
<つづく>

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【ご参考】
このブログで紹介した、神仏習合の風景が楽しめる神社。

いずれも、神社の境内に三重塔や多宝塔が残されています。

①柏原八幡宮(兵庫県)
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

②名草神社(兵庫県)
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

③談山神社(奈良県)
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-78.html

④新海三社神社(長野県) 
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-401.html

⑤若一王子神社(長野県)
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-404.html

④邇々杵神社(滋賀県)
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-558.html

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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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