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祇園祭の「祇園」とは

もうすぐ京都の祇園祭(ぎおんまつり)だ。

今日10日から鉾町で鉾が組み立てられ(鉾建て)、ついで12日からは山が組み立てられる。
そして山鉾巡行はいよいよ17日で、今年は土曜日だからすごい人出だろう。

山鉾巡行岩戸

京都には有名なお祭りがいくつかあるが、私は子供の頃から祇園祭が大好きだった。今でもあの祇園囃子の音色を聴くだけで気分が高揚してくる。

しかしながら子供の頃に、ふと疑問に思ったことがあった。祇園祭の「祇園」という地名についてである。

「祇園」という場所は、京都市内の東の方を南北に走る東山通り(正しくは東大路通り)と、市内の中心部を東西に走る四条通との交差点あたりを言うが、子供の頃なんとなくこの地名に違和感を覚えた。

京都の中心部は碁盤のように直角に道路が走っていて、京都の地名は、例えば南北を走る河原町通と東西を走る丸太町通との交差点を河原町丸太町などと呼ぶ。ならば、「祇園」は 東山通と四条通とが交差する場所なので、普通なら東山四条と呼んでも良さそうなのに、なぜか「祇園」と呼ばれているのが不思議だった。

京都市内の中心部のバス停の名前は、ほとんどのバス停は二つの通りの名前で地名を表しているのだが、例外となるケースは「○○前」などというように有名な神社仏閣や大学や病院があるようなケースが大半である。しかし、「祇園」はそれにも当てはまらない。すぐ近くに大きな神社があるのだが、「八坂神社」という名前だ。

八坂神社

上の写真は八坂神社の西楼門であるが、この神社に、祇園祭の山鉾などが収められている。しかし「祇園」という名前を連想させる神社仏閣などはどこにも存在しないのだ。

このあたりを昔から「祇園」と呼んでいたのだろうと長い間勝手に解釈していたのだが、学生時代に「祇園」という名前の由来となるお寺が以前は存在していたことを聞いた。しかし、どんなお寺がいつごろ創建されていつ頃なくなったかを詳しく知ったのは、つい昨年のことである。

安永9年(1780)に出版された「都名所図会」巻三には、この地に以前あった寺院の図絵が描かれている。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/m_gionyasiro.htm

祇園社

説明には、この「祇園社(ぎおんやしろ)」と祇園祭についてこう書かれている。

「…清和天皇貞観十八年*、疫神崇をなして世の人疾に悩むこと以の外なり、曩祖日良麿洛中の男女を将て、六月七日十四日疫神を神泉苑に送る、しかりしより年々かたの如くしつけて、祇園会といふなり。神輿を置所をば八坂郷感神院といふ寺なれば、神殿もなきほどに、昭宣公の御殿をまゐらせられて神殿とす、祇園は尋常の殿舎造りなり、是を精舎といふ、後人又祇園の名を加へけり。」*貞観18年は西暦876年

ここには感神院を祇園祭の神輿の置き場所にしたが、神殿がなかったので昭宣公(藤原基経836~891:摂政関白太政大臣)の御殿を移して神殿としたと書かれている。図には多宝塔があり、薬師堂がありお寺であることは確実だが、神仏習合の時代であり神殿も作られていたのだ。

洛中洛外図屏風祇園

寛永三年(1626)に描かれた「洛中洛外屏風図」にも、祇園社が描かれている。では、今の八坂神社は何なのか。

空から見た八坂神社

今の八坂神社を上から見るとこのようになるが、今の八坂神社は以前は祇園社であったことがわかる。楼門がそっくりそのまま八坂神社の楼門になっていることも明らかだ。

Wikipediaによると祇園社の創建年については656年、876年など諸説があるが、古くから仏教の守護神である牛頭天王(ゴズテンノウ)とそれに習合したスサノオノミコトを祀る神仏習合の施設で、当初は興福寺、10世紀以降は延暦寺の支配を受けていたらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%9D%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE

慶応4年(1868)の神仏混淆の禁止により「感神院祇園社」の名称を「八坂神社」と改められ、薬師堂などの仏教施設は破壊されている。(多宝塔は江戸時代寛政年間[1789~1800]に焼失) 日本全国には、牛頭天王を勧請した祇園社が3053社あったそうだが、明治の廃仏毀釈によりすべて八坂神社(弥栄神社)に改名させられたそうである。
http://www.pauch.com/kss/g023.html

では、「感神院祇園社」の仏像はどこに行ったのか。
これは幸い大蓮寺というお寺に残されているが、十一面観音像以外は秘仏として直接拝観することはできない。祇園社本尊の薬師如来の写真が大蓮寺のHPに載っているが、本尊でありながら光背がないのはやや違和感がある。

祇園社本尊薬師如来
http://www.anzan-no-tera.jp/gion/index.html

大蓮寺の歴史については比較的次のサイトが詳しい。
http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1700/22365330.html

「八坂神社」から祇園祭の山鉾が立ち並ぶ四条烏丸あたりまで、大人が歩いて20分くらいだろうか。その途中で鴨川を渡ることになるが、その橋は「四条大橋」という。

この四条大橋については昨年11月にこのブログに書いたが、明治七年に作られた橋は廃仏毀釈で強制的に供出させた仏具類を鋳潰して橋材に使われたそうである。下の写真がその頃の四条大橋だが、明治の京都人は、どんな思いでこの橋を渡ったのだろうか。

昔の四条大橋
ご参考:「四条大橋のはなし」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-73.html

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天神祭と大阪天満宮とあまり知られていないお寺のこと

7月25日は日本三大祭りの一つである大阪天神祭の日で、随分久しぶりにこの祭りを見てきた。

天神祭1

若かりし頃大阪市中央区の北浜で勤務していた時に、先輩から「祭りを見に行こう」と誘われて、船渡御を少し見てからすぐ飲み屋に向かった記憶がある。そんなことがもう一回くらいあったが、二回ともすごい人だかりで、遠くでいくつかの船が大川を進んでいくのがわずかに見えただけだった。その時は、仕事が終わってから天神祭を見に行ったのでは、良い場所はほとんど陣取られていてとても見られないなと思った。

今年はたまたま日曜日なので、一度このお祭りをじっくり見てみようと思い立ち夫婦で出かけた。

4時過ぎに「竹葉亭」という店で鰻を食べてから大阪天満宮に向かうと、ちょうど玉神輿が神社から出るところだった。
天神祭神輿

こんなふうに凄い人だかりで、カメラを上に掲げて何とか神輿が撮れたのはよかったが、それから後はどこへ行こうにも人が多すぎて、どちらの方角も前に進むのが大変だった。

神輿を追いかけるのをあきらめて、南に進んで船渡御を見るための場所取りに行く。初めてなのでどこがいいかわからず、とりあえず天満橋を目指して進んでいった。

諸国名所百景天神祭

上の絵は安藤広重の天神祭の船渡御の絵だ。この絵は難波橋と書かれているが、今の船渡御のコースは難波橋を通らない。今なら、船渡御を橋近辺で見たければ天満橋か川崎橋で、花火も見たければ南岸で見るのが一番と誰でも考える。

船渡御ルート

やっと天満橋北詰に辿り着くと、警察が谷町筋を閉鎖して交差点から南方面と東方面の歩行者を遮断していたために、やむなく川べりに出て天満橋の下を潜ってから再び谷町筋に出て、天満橋を南に進む。天満橋の途中で場所取りをしようとしたが、橋からの見学が禁止されているらしく、やむなく橋の南側の付け根あたりで場所取りをしたが、暗いところでの撮影はなかなか難しく、今回は無難な写真だけを載せておく。
人が漕いで川を進んだ広重の時代とは違い、今の船はほとんどが内燃機関などで動き、スポンサーの大型の広告が載せられている。

天神祭の船

たまに昔と同様に手漕ぎで進む船もあるのだがもうすこし、このような船が多ければいいのにと思った。

行列の最後の方には奉安船に先程の神輿が載せられて大川を進む。急に鳴り物の音が止まって、人々は二礼二拍手一礼でお見送りする。花火の音だけが妙に大きく響き渡る。

天神祭船渡御

天神祭の話から大阪天満宮に話を戻そう。
半日歩いて途中から私が気になったのは、大阪天満宮は昔から純然たる神社なのかという点である。

「天満宮」という神社は、京都に「北野天満宮」という有名な神社があるが、この神社は江戸時代の「都名所図会」では多宝塔や経所等明らかな仏教施設が多数描かれており、明治の廃仏毀釈以前は神仏習合の施設であった。
「太宰府天満宮」も以前は「安楽寺天満宮」という、寺院を中心とする施設であったのだが、廃仏毀釈により仏教施設がことごとく破壊されている。
大阪天満宮もどこかに仏教施設の形跡があったのではないかと、家に帰ってから調べることにした。

いろいろネットで調べても大阪天満宮に関してはあまり詳しく書いたものが見つからなかったが、大阪天満宮に神宮寺があったことはいろんな人が書いているので間違いがないようだ。やはりここも神仏習合の施設だったのだ。(神宮寺とは、神仏習合思想に基づき神社に建てられた仏教寺院や仏堂のこと。)

豊臣秀吉のお伽衆に大村由己(おおむらゆうこ)という人物がいるが、この人物はWikipediaなどでは大阪天満宮の「別当」であったと書いてある。「別当」ということは、大阪天満宮に神宮寺があり、神社の管理権を掌握していた人物だったということだ。

大阪天満宮は何度も火災にあっており、江戸時代の記録に残っているだけでも七度も火災に遭遇している。有名なのは天保8年(1837)の大塩平八郎の乱によるもので、この時大阪天満宮は全焼している。
現在の本殿はその六年後の天保14年(1843)年に再建されたものだ。

さらに調べると、大阪天満宮の神宮寺にあった鎌倉時代の仏像が今でも残されていることが分かった。

大阪天満宮から北に300m程度行くと「宝殊院」(天満寺)というお寺がある。この場所へは大阪冬の陣、夏の陣の後の復興時に神宮寺が移ったらしく、移転後も相当大きな寺だったらしいのだが、詳しいことはわからない。その堂宇も太平洋戦争で焼失し、今の建物は昭和42年に再建されたモダンな建物である。
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/otera-1/newpage115.htm

大阪市のホームページには、大阪天満宮の神宮寺の時代からの鎌倉時代の仏像の写真が紹介されている。

宝殊院仏像

http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000008915.html

まだ行ったことのない寺だが、一度時間を見つけて行ってみたくなった。

大阪天満宮だけではない。八坂神社も金刀比羅宮もそうだが、大きな神社のホームページをいくら読んでも、神仏習合時代のことや廃仏毀釈のことがほとんど欠落してしまっている。これでは、歴史の真実が歪められて伝承されるだけだ。

我々の祖先が何代にもわたって大変な苦労をして文化財を守ってきたことや、時の為政者の軽薄な施策で多くの文化財を失ってきた事実をしっかり脳裏に刻んでこそ、文化財を守ることの重要さと意義を次の世代に伝えることができるのだと思う。

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香住から但馬妙見山の紅葉と朱塗りの三重塔を訪ねて~~香住カニ旅行2

香住で朝を迎えると、宿の主人から声がかかって「岡見公園」まで車で案内していただいた。

岡見公園

「岡見公園」は名勝香住海岸から北に突き出た城山半島という岬の先端にある公園で、北に見える小さな島は白石島という名だそうだ。
春には桜が咲き、夏にはユウスゲという黄色い花が咲くこの場所は、5月から9月にかけて海に沈む夕日が楽しめるそうで「日本の夕陽百選」に認定されているという。

岡見公園 波

一見穏やかそうな海に見えるのだが、北風の影響で冬の波は結構荒く、公園の西側は柱状節理の岩に波が激しくぶち当たって海面は真っ白だ。白い波の表面にやや茶色く浮いている泡状のものはプランクトンの塊で、北風と波が強い日は「波の花」となって舞い上がることがあるのだそうだ。

宿をチェックアウトして主人に教えて頂いた「かに市場」に行くと、主人が根回ししてくれたおかげで随分安く海産物が買えて大満足だった。

香住町を後にして、但馬妙見山に向かう。
この山の標高800mのところに朱塗りの美しい三重塔があることをネットで知った。
多宝塔、三重塔、あるいは五重塔と言えばお寺にあるものと日本人ならほとんどの人が思うだろう。しかし、但馬妙見山にある三重塔は「名草神社」という神社の境内にあるのだ。
その歴史を調べている際に興味を覚えて、是非今回の旅行で訪れたいと思っていた場所である。

日光院1

名草神社に行く途中で、養父市八鹿町(やぶしようかまち)石原にある「日光院」というお寺を先に訪ねてみた。そこに、三重塔の由来を知る鍵があるという。上の画像が、日光院の門である。

日光院2

階段を上り境内に足を踏み入れると、見事なケヤキや銀杏の巨木が伸びて樹木の霊気を感じさせるような空間が広がる。お寺でありながら、境内の中に大きな鳥居があり、独特な雰囲気がある。
境内の中に案内看板があった。それによると、この寺は飛鳥時代に開かれて、御本尊は「妙見大菩薩」で万物の運勢を司る仏様なのだそうだ。
日本三妙見の一つとされて人々の信仰を集め、戦国時代には山名宗全がこの日光院で戦勝祈願をした古文書が残されており、県の重要文化財に指定されていると書かれている。

ここから三重塔に関する記述となる。「ご案内」看板の説明文をしばし引用する。

「天正年間、羽柴秀長の山陰攻めの兵火にあい、寺門一時衰微しましたが、寛永九年には、ここから西方五十丁の妙見中腹に移転復興し、三代将軍家光公より三〇石の御朱印地を賜りました。また、寛文五年には出雲大社の御造営に際し、本殿の御用材に日光院の妙見杉をお譲りしたお礼に、出雲大社より日光院に三重塔を譲り受けました。そして妙見全山を伽藍とする壮大な妙見信仰の一大霊場として繁栄をきわめました。
明治になり廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、妙見信仰の弾圧が始まりました。明治九年七月八日、遂に『寺号を廃して、不動産のみ名草神社とせよ』という布達にて、再びこの地の末寺成就院と合流し、今日に至っています。
つまり、寛永九年*から明治九年*まで(二四五年間)の日光院の建物に、新たに名草神社が入り、お寺の建物がそのまま神社とされたのです。
そこが日光院であったが故に、仏教の象徴である三重塔が名草神社の境内に存在しているのです。…」*寛永九年=西暦1632年、明治九年=西暦1876年

と、今の名草神社の建物は、もともとはすべて日光院が所有していたものであり、明治9年の布達で名草神社の所有とされてしまった。今の日光院は、それまで同院の末寺であった成就院に移したものであることが記されている。

日光院3

上の画像が日光院の護摩堂だが、ここで妙見大菩薩の法灯が今も守られているのだ。
正面の扁額には「妙見大菩薩」と書かれており、左の扁額には「妙見宮」と書かれている。
「宮」というと神社のようなイメージがあるが、「妙見大菩薩」を本尊としていた霊場はすべて「妙見宮」と呼ばれていたのだそうだ。したがって、この扁額の「妙見宮」は日光院を意味している。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page014.html

日光院の駐車場の横に『妙見資料宝物館』があり、その経緯についての資料が展示されているが、日光院のHPにも詳しく書かれており参考になる。次のURLはその目次だ。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page008.html

上記HPを読んでいくと、出雲大社側の『寛文御造営日記』という文書に但馬の妙見山日光院に移したことが記されていることがわかる。この出雲大社の古文書には、どこにも「名草神社」の名前が出てこないことが最大のポイントである。当時は「名草神社」という名の神社は但馬妙見山に存在せず、この神社は明治時代に作られたと考えて良い。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page009.html

kituki_kaneis.jpg

そもそもなぜ出雲大社に仏教施設である三重塔があったのかと不思議に思ったのだが、次のURLに江戸時代寛永期の出雲大社の図絵が紹介されている。この図にははっきりと三重塔や鐘楼などが描かれている。昔は出雲大社までもが神仏混淆であったとは知らなかった。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken42.htm

出雲大社から仏教的色彩が払拭されたのは寛文御造営の時で、第六八代国造尊光がその決断を下し、日光院に三重塔を移したほか、様々な寺院に建物や仏像などが移された記録が出雲大社に残されているようだ。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page009.html

出雲大社の『寛文御造営日記』の原文は、先ほど紹介したURLで一部が紹介されている。
これを読めば日光院の説明に誤りのない事が明らかである。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken42.htm

出雲大社が御造営のための木材の入手に難渋していたところ、寛文三年(1663)十二月に妙見山に適材を発見し、用材を日光院から譲渡を受けたいとの申し入れがあった。翌年、日光院は出雲大社を訪れ、日光院には塔を建立する計画があるので、出雲大社に譲渡する材木代金は塔の建築費用に充当する考えであるが、もし出雲大社の三重塔を破却する予定であるならば日光院が譲り受けたい。それがかなうならば材木は出雲大社に進上するとの考えを述べる。その後、出雲大社が塔の譲渡を決定して、当時の日光院隠居(快遍)が大悦したことまでが書かれている。
そして
「寛文5年正月23日 但州妙見より塔こわしのため日光院代僧法住坊、並に八鹿村西村新右エ門、大工与三エ門来る。
27日 三重塔今日迄に崩済申候此塔は大永7年<1527>尼子経久建立也」
「寛文5年4月21日…塔之儀豊岡より妙見山迄人夫3500人而持着申之由、9月中に立仕舞可申之申云々…」
と塔移転の準備が進んで行ったことが詳細に書かれている。このように、三重塔が日光院のものであることは当時の史料を読めば誰でもわかる。

しかしながら、明治政府は明治5年の上知令で日光院の寺有地であった妙見山全てを没収し、明治6年2月に「妙見宮」を「名草神社」に改称させ、妙見信仰とは無縁の「名草彦命」を祀らせ、明治9年7月には、豊岡縣が「寺号を廃し、同寺が所有してきた不動産のみを明け渡す」との布達を出した。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page006.html

但馬妙見信仰の存続の危機に諸国の信者たち数百人が集まり、仏像や経典などの寺宝を末寺の成就院(今の日光院のある場所)に運び込み、それまで日光院のあった場所には鐘楼以外の建物のみを残し、末寺と合流することでなんとか妙見信仰は守られたのである。
後に日光院は明治政府を相手とする行政訴訟をおこし、明治39年にようやく勝訴して但馬妙見山の山林全てを取り戻したという。

続けて日光院から名草神社に進む。かなり狭い山道を走ることになるが、ほとんど対向車はなく10分程度で神社の駐車場に到着した。

名草神社三重塔

車から降りてしばらく細い参道を歩いていくと美しい三重塔が見えてきた。
この三重塔は国の重要文化財に指定されていて、昭和62年10月に解体修理が完成した際に塗り替えられたために朱色がとても鮮やかだ。

この三重塔の近くに八鹿町教育委員会が建てた案内板がある。そこにはこう書かれている。
「この三重塔は、島根県出雲大社に出雲国主尼子経久(あまこつねひさ)が願主となって大永七年(一五二七)六月十五日に建立したものと伝えます。
出雲大社の本殿の柱に妙見杉を提供した縁で、塔は日本海を船で運ばれ、寛文五年(一六五五)9月に標高八〇〇mのこの地に移築されました。…」
と、塔を主語にした曖昧な書き方で、肝心の日光院のことがどこにも書かれていない。この説明であれば、名草神社が妙見杉を提供した縁で出雲大社から名草神社にこの塔が移築されたとしか読めないだろうし、なぜ神社の境内の中に塔が存在するのかということも、誰も分らないであろう。

名草神社拝殿

階段を上っていくと、国指定重要文化財の拝殿が見えてくる。色鮮やかで素晴らしい枝ぶりの楓の紅葉にしばし足を止めた。

この拝殿には兵庫県教育委員会の案内板があった。そこには
「…江戸時代中期の代表的な割拝殿として貴重な遺構である。」
と書かれており、ここでもはじめから神社として建てられたかのような書き方をして、以前は日光院の建物であったことを隠している。

名草神社本殿

拝殿を抜けると名草神社の本殿がある。これも国の重要文化財に指定されているのだが、残念なことにかなり屋根が破損している。いつ傷んだのかはよく解らないが、長く放置しては木の腐食が進みはしないか。

名草神社本殿彫刻

近くから見ると、柱の彫刻は素晴らしいものがある。獅子や龍や鳳凰や力童子などが極めて精巧に彫られている。この本殿がこれ以上傷まないように、ぜひ修理してほしいものである。

名草神社本殿破損

この本殿にも兵庫県教育委員会の案内板があった。
「…本殿は宝暦4年(1754)に造られた大規模な建築で…平面は内々陣・内陣・外陣の3区に分かれその周囲に庇がめぐるもので、江戸時代の神仏習合の神社建築として特筆される。」
と、ここでも建物を主語にして肝心なことを誤魔化しているのだが、もともとは日光院の建物であったことを一言も書かなくては、ここへ来た観光客はこの建物は初めから名草神社の本殿として建てられたものとしか思わないだろう。そもそもこの本殿の棟札には「宝暦四年 日光院現住職宝潤」と日光院第四十世の名が刻まれているというのだ。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page006.html

このブログで何度か明治の初めに起こった廃仏毀釈の事を書いてきた。廃仏毀釈のために廃寺となった大寺院は少なくないし、奈良の東大寺や法隆寺、興福寺、金峯山寺、京都の東本願寺なども大変な苦労をして、その難を乗り越えている。また奈良の談山神社、京都の石清水八幡宮、八坂神社、鎌倉の鶴岡八幡宮、香川の金刀比羅宮などは以前は神仏習合の寺院であったが、この時期に無理やり神社にさせられてしまった。私のブログの廃仏毀釈に関する記事は、ほとんどここに置いてあるので、興味のある方は覗いてみてほしい。
http://history.blogmura.com/tb_entry101772.html

話を名草神社に戻そう。私が訪れたのは土曜日の11時ごろであったが、観光客は私を含めて数人しかいなかった。歴史的建造物のある空間を独占できることは個人的には嬉しい事なのだが、なぜ国の重要文化財の建物が3つもある場所であるにもかかわらず観光客がこんなにも少ないのだろうか。
重要文化財の修理には安普請は許されず、宮大工を使い用材も従来と同様のものを使い、従来工法で修理を行うので結構な費用がかかることになる。また、その修理に必要な資金は国がすべてを負担してくれるのではなく、2割以上は神社が信者の寄付を募るなどして用意しなければならないはずだ。秋の季節の良い時期であるのにこのように少ない観光客で、これだけの文化財の価値を、将来にわたって減じることなく維持管理ができるのだろかと心配になってくる。

名草神社拝殿2

都心から遠いとか、道が狭いとかいろいろ理由があるだろうが、古い歴史があり価値のある建築物がありながら観光客が集まらないのは、長い間真実の歴史を隠す側にまわってきた兵庫県や八鹿町にも責任があるのではないか。
いつの時代も「権力者側にとって都合の悪い史実」は歴史叙述から排除される傾向にあるものだが、「廃仏毀釈」に関しては明治から昭和の初期頃までは「権力者側にとって都合の悪い史実」であったとしても、少なくとも今のわが国の権力者にとっては決して都合の悪い史実ではない。むしろ、「隠された興味深い真実」であり、江戸時代から明治時代を考える上で興味を覚える人は少なからずいると思うのだ。

単に重要文化財の歴史的建造物を見るだけなら、こんな遠くまでわざわざ足を運ばなくとも京都や奈良にいくらでもある。それでも私がここを訪れようと思ったのは、その真実の歴史に触れて強く興味を覚え、このドラマのような出来事のあった現場に立って、古き時代に思いを寄せてみたいという衝動が湧いたからである。
名草神社も兵庫県も八鹿町も、そろそろ明治期の権力者にとっての「きれいごとの歴史」から脱して、出雲大社との関係や廃仏毀釈に関わる興味深い歴史の真実を語る立場から、日光院とともに観光客の誘致に取り組んでみてはどうだろうか。
名草神社も日光院も、何も知らずに訪れてはそれほど面白いところではない。しかし、真実の歴史を知れば知るほど旅行することが楽しくなる、そんな場所である。
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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