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大迫力の閻魔大王像に魅せられて~~水無瀬から大山崎歴史散歩3

水無瀬の滝と東大寺春日神社の後はサントリー山崎蒸留所に向かう。本当は予約が必要なのだろうが、当日でも時間待ちをすれば、サントリーウィスキー「山崎」の仕込から発酵、蒸留、熟成までの製造工程の見学ができ、さらにおつまみ付きで「山崎」や「白州」の試飲もできるし、時間の制約があるものの、おかわりも自由だ。

サントリー山崎蒸留所

結構歩いて汗をかいたあとにウィスキーを飲んで疲れをいやすという目的があったことは言うまでもないが、ここを訪問したもう一つの目的は、この山崎蒸留所の敷地内に、むかし西観音寺という大きなお寺があって、その痕跡が残っているのを確認したかったからである。

以前このブログで「大山崎美術館と宝積寺(ほうしゃくじ)」という記事を書いた。そのなかで、宝積寺に素晴らしい閻魔大王像があることを紹介したが、じつは宝積寺の閻魔像は、もともとは西観音寺にあったのである。

では西観音寺という寺はどんな寺で、閻魔大王像がなぜ宝積寺に移ったのかを記しておきたい。

西観音寺

上の図は寛政8-10年(1796-1798)に刊行された『摂津名所図会』における西観音寺の絵図である。
中央に描かれている参道は今では舗装されて公道となっており、右側にサントリー山崎蒸留所の「ウイスキー館」が建ち、左側に「仕込・発酵室」「蒸留室」「貯蔵室」が建っている、と考えれば良い。

この『摂津名所図会』が、大正8年に大日本名所図会刊行会から刊行されていて、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で自宅のパソコンで読むことができることはありがたい。そこには西観音寺についてこう記されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959908/376

「山崎の西にあり。慈悲尾山信善谷(じひをさんしんぜんだに)といふ。天台宗。

御集
水無瀬山 木の葉まばらになるままに 尾上の鐘の声ぞちかづく  後鳥羽院

本尊十一面千手観音 閻浮檀金像(えんぶだごんぞう)。長一寸八分。脇士 左不動尊・右毘沙門。当山に三つの谷あり。いはゆる大谷・中谷・閼伽谷等なり。故に世に谷の観音と称す)
鎮守 天照大神・八幡宮・春日・山王大宮・八王子を祭る。
閻魔堂 当寺の入口にあり。小野篁ここに来たり、閻魔王および十王の像を彫刻し、日本三所に安置す。いはゆる第一は越中中野郷、第二は当山、第三は筑後古津郡なり
それこの観音寺は旧地これより西南の山間にして、むかし聖武帝天平十八年*大僧正行基、勅(みことのり)をうけて草創し、本尊はかの帝の御念持仏なり。その後、役小角苦修錬行し、天下の名嶽・霊窟に分け入って残す事なし。一日ここに巡行して高嶺に登り石上に坐し、呪術をもって閼伽**(あか)を湛へたまふ。今の閼伽谷(あかたに)これなり。その流れ潺々(さんさん)として堂前の滝となる。ここに石像の不動尊を安(やすん)ず。また山頭に弁財天祠(ほこら)あり。これも役行者の勧請とかや。台嶺の伝教大師もこの山に入りて練行し給ひ、後鳥羽上皇 水無瀬よりここに駕をめぐらし木尊大悲を尊信したまふ。」
*天平18年:西暦746年
**閼伽:仏教において仏前などに供養される水のこと

『摂津名所図会』に解説され、後鳥羽上皇が行幸され、歌まで残しておられるのだから、西観音寺がかなりの有名寺院であったことは間違いない。
ではなぜ、この寺が消えたのだろうか。その理由は、このブログで何度か書いた明治の「廃仏毀釈」なのである。

nisikannonji_5.jpg

『摂津名所図会』の絵は雲で隠れている部分が多いので建物が分りにくいのだが、『山崎通分間延絵図』には稚拙な絵ながらわかりやすく描かれている。
参道の途中に橘園院、円修院、宝泉院、明王院などがあり総門の近くに閻魔堂がある。また絵の下の方に離宮八幡宮があるが、西観音寺の僧は離宮八幡宮の社僧であり、その八幡宮の祭祀を仏式で行っていたのだそうだ。

s_minagaさんのサイトに西観音寺の廃仏毀釈の経緯がまとめられているので、引用させていただく。慶応4年というのは西暦1868年で、この年の9月8日にその年の1月1日に遡って、新元号「明治」が適用されている。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/hoso_ooyama.htm

慶応4年神仏分離令。
4月13日:離宮八幡宮から西観音寺役僧の呼び出しがあり、八幡宮への立入禁止の申渡しがある。
4月16日:再度呼び出しがり、別当社僧の還俗及び神勤もしくは立ち退きを申し渡す。
橘園院は谷司馬、園修院は谷東、宝仙院は谷古仙、明王院は谷靭負と改名・還俗。
6月18日:西京弁事務所より椎尾大明神の称号下附。
仏像仏器を撤去し、本堂は観音寺へ、閻魔堂は宝積寺へ、十王像は大念寺へ、鐘(康暦元年銘)は摂津正宣寺へ移管
される。
ここに天台宗西観音寺は完全に消滅し、想像も出来ない椎尾社という神社に変質する。

何も抵抗せず還俗した社僧や本山正覚院に対し、門前の農家18戸は抵抗したと伝える。
『(社僧達は)自元仏恩を忘却致し、自己口腹之為め方斗第一に心掛居候不当人に候』
『本寺(正覚院)に於いては今日迄も御出願(京都府へ)之御様子もこれ無くは恐れながら御等閑之儀と存じ奉り候』
と京都府や本山に存続を提訴したと伝える。
しかし明治5年椎尾神社は村社に列する。つまり西観音寺の存続は認められない結果となる。西観音寺は廃寺。」

廃仏毀釈は地域によって、また時期によって随分その温度差が異なっている。西観音寺は摂津の国だが、撤去した仏像・仏具を持ち込んだ先の観音寺、宝積寺、大念寺はいずれもすぐ近くにあるのだが山城の国の寺になる。また同じ山城の国でも、淀川の対岸にある石清水八幡宮寺は、翌年の明治2年に徹底的に破壊されてしまった。

西観音寺閻魔堂跡

サントリー山崎蒸留所の入場受付の近くに、ひっそりと「西観音寺閻魔堂址」と書かれた碑が建っているのだが、島本町教育委員会がその碑に記したこの文章が、私にはどうも気に入らない。
「天平十八年行基が聖武天皇の帰依仏である観音像を報じて建立した西観音寺(天台宗)の総門の外に閻魔堂があった。
明治五年本寺は椎尾神社となり閻魔堂は解体された
堂に安置してあった閻魔像(重要文化財)と十王像は小野篁の作と伝えられ、筑後古津、越中中野の像とともに有名である。」

廃仏毀釈」という言葉を全く使わず、また閻魔像を「宝積寺」に移したことにも触れなければ、重要な事を何も解説したことにはならないではないか
この西観音寺に限らず、「廃仏毀釈」で破壊された寺院を解説した文章は、いずれも同様の表現がなされているが、このような書き方では正しい歴史が伝わるとは到底思えない。わが国の幕末から明治にかけての歴史について、薩長にとって都合の良い歴史しか伝えない記述を、いったいいつまで続けるつもりなのか。

椎尾神社鳥居

この閻魔堂址から山に向かってまっすぐ伸びる道が、西観音寺の旧参道になる。その奥へ進むと鳥居があり、「椎尾神社」という神社があるのだが、この本殿のある場所に、以前は西観音寺の本堂があったのだという。要するに、明治新政府は西観音寺を破壊して、その跡地に「椎尾神社」という新しい神社を作ったのである。そして、この神社の境内には立派な石段と石垣が残されていて、これが西観音寺の唯一の遺構なのだという。

椎尾神社石垣

おおやまざき散策マップ

「おおやまざき散策マップ」という地図が大阪と京都の境界が描かれていてわかりやすいので、地図を参考に読んで頂ければありがたい。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/ofg/sansakumap.pdf

西観音寺の僧侶が社僧であったという離宮八幡宮はサントリー山崎蒸留所の入口から歩いて5分程度なのだが、途中で摂津国・山城国の国境を超えることになる。
離宮八幡宮と、西観音寺の仏像仏具を持ち込んだ先である観音寺、宝積寺、大念寺はいずれも山城国にあり、いずれも『都名所図会』に一枚の絵で描かれている。(絵図で「宝寺」とあるのは宝積寺のこと)

km_01_04_067.jpg

しかし、ここに描かれている寺社は、宝積寺を除いて、いずれもが元治元年(1864)の禁門の変(蛤御門の変)に巻き込まれて焼失してしまっている。山崎の地が会津藩や新撰組の攻撃を受けて兵火に罹ってしまったのは、離宮八幡宮や大念寺、観音寺に長州藩が陣を張っていたからのようだ。明治新政府は、西観音寺を潰してその寺宝を分け与えることで焼失した寺社を補償しようとしたということではないだろうか。

離宮八幡宮

禁門の変についてはいずれ日を改めて書くことにして、離宮八幡宮に話を戻そう。
離宮八幡宮は摂津・山城の国境に近い西国街道沿いにあるのだが、『都名所図会』をよく見ると、神社でありながら寺院建築である多宝塔が描かれており、昔は神仏習合であったことがよくわかる。Wikipediaによると「社殿のすぐ西から大阪府に割譲し、さらに1871年(明治4年)に境内北側を国策による鉄道事業にささげ、境内はさらに縮小した」とあり、以前は相当大きい神社であったようだ。

ここから、閻魔大王像を観るために宝積寺に向かう。JRの踏切をすぎたあたりから、天王山の上り道になって、次第に坂がきつくなる。

途中で大念寺を通るが、この大念寺の本堂が、西観音寺の閻魔堂であったようだ。次のURLによると、大念寺の本尊などを安置すると「閻魔大王ほか四体の尊像は祀る場所がなかったので、宝積寺に引き取られました」とある。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/ofg/dainenji.htm

宝積寺もこれらの尊像を祀る場所が充分にあったわけでもなかったので、長い間これらの像は京都国立博物館に寄託されていて、2002年に宝積寺に閻魔堂が出来たので里帰りしたのだそうだ。

子供の頃に、「嘘をついたら閻魔さまに舌を抜かれる」という話を祖父や祖母からよく話を聞いていて、一度連れられてどこかの閻魔大王像を見に行ったことがある。それがおそらくこの閻魔大王像だったような気がするのだが、今にも怒りだしそうなものすごい表情に圧倒されて、恐怖を覚えた記憶がある。
5年前にこのブログで記事を書いたときに、宝積寺を訪ねてすでにこの像を拝観しているのだが、その際に身近に像を見て感激し、あれから4年たってまた見たくなるような、とにかくすごい迫力のある閻魔像なのである。

宝積寺仁王門

大念寺からもう少し坂道を登ると、宝積寺の仁王門に辿りつく。
この金剛力士像はいずれも鎌倉時代に制作されたもので、国の重要文化財に指定されている。

宝積寺三重塔

境内にある三重塔は桃山時代に建築されたもので、これも国の重要文化財だ。

宝積寺十一面観世音菩薩

拝観を申し込むと、まず本堂から案内いただいた。
前回来たときは、法事のために本堂に入ることが出来なかったが、本尊の十一面観音立像(国重要文化財)は、今も金箔が色鮮やかで、とても鎌倉時代の仏像だとは思えなかった。
画像はリーフレットのものだが、実物はもっと美しい。

宝積寺閻魔大王像

そして、いよいよ閻魔堂に案内される。
画像は宝積寺のリーフレットを写したものだが、写真ではこの迫力は到底伝わらない。

像高160.8cmの閻魔大王は、目を大きく見開き、ものすごい形相で睨み付けて、一瞬にして自分の心の中の弱い部分が読み取られ、すぐにも「地獄へ行け」と裁かれるのではないかと、恐怖心を覚えるような迫力がある。
堂内は撮影禁止だったのでネットで画像を捜してみたが、次のURLの写真はその雰囲気が少しばかり画像に出ている。しかし角度を変えると光の加減で表情も微妙に変化するので、拝観されていろんな角度から観られることをお勧めしたい。
http://www.sansyoutei.com/promenade/temple_housyaku/

temple-housyaku-03.jpg

右手に筆を持ち、左に木簡を持つ暗黒童子も、閻魔大王の裁きを記録しようと今にも筆が動き出しそうだ。
巻物を開いている倶生神も、その巻物の紙が自然に垂れ下がっているのだが、その巻物の、薄い紙の部分までもが1本の木を彫って造られていることに驚いてしまう。
また暗黒童子も倶生神も毛皮を敷いた交椅に腰を掛けているのだが、この毛皮も木で彫られており、それが実にリアルなのである。

鎌倉時代のわが国に、これだけの木像が彫れる仏師がわが国にいたということはすごいことである。おそらくこの時代には、世界を捜してもこのような像を彫れる人物は、ひょっとするとわが国にしかいなかったのかも知れない。そもそもイタリアでミケランジェロが活躍したのは、さらに3世紀もあとのことなのである。

これら5体の仏像は、すべてが国の重要文化財に指定されているが、この仏像を制作したのがだれなのかがよく分からないのだという。それがわかれば、これらの仏像は国宝に指定されてもおかしくなかったという説明であった。

先ほど紹介した『摂津名所図会』では小野篁(おののたかむら) が制作したと書かれていたが、この人物は平安時代の公卿であり、これらの像の制作年代とは合わない。小野篁は、夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説がある人物で、小野篁が彫ったとされる閻魔大王像は、それほど優れた出来栄えであると認識されていたという意味で理解しておけばよいと思う。そもそも宝積寺の像がわが国で最古級の閻魔大王像であり、小野篁のいた時代の閻魔像は残されていないか、はじめから存在しないかのいずれかである。
『都名所図会』では小野篁の制作した閻魔像3つの中の2番目にこの閻魔大王像が挙げられていたのだが、この文章の意味するところは、江戸時代に存在した閻魔像のなかでも、この像はわが国の1、2を争う優品であると人々に知られていたということだと私は理解している。

歴史散策の最後に宝積寺を選んだのは正解だった。これらの仏像を見ているだけで、自分の心の中にあるいい加減な気持ちがどこかへ吹き飛んで、凛と張りつめた気持ちになって半日の旅を終えることが出来た。
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王政復古の大号令の出た直後に京都が戦火に巻き込まれてもおかしくなかった

前回の記事で1867年(慶応3)年12月9日に岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発し、夕刻に開かれた小御所会議で徳川慶喜に対する『辞官納地』を決定し、実質上の武力討幕方針を決めたことを書いた。
当時京都には幕府陸軍5千余人、会津藩兵2千余人、桑名藩兵千余人、その他あわせて1万人余の幕府軍がいたのだが、彼らは討幕派による「王政復古の大号令」や慶喜に対する『辞官納地』の決定に、どのような反応を示したのであろうか。

国立国会図書館デジタルコレクションに大正7年刊の『徳川慶喜公伝.』が公開されている。その巻4に、幕府軍の反応が記されている。(文中の「公」は慶喜を意味している。)

徳川慶喜公伝

「旗本の将士をはじめ、会津・桑名・彦根・津・大垣諸藩は、王政復古の発令を聞くや、皆結束して二条城に集まり、松平肥前守、松平越中守もまた入城す。…中にも会桑二藩の士・遊撃隊の兵士等は、烈火の如くに憤り、頻りに討薩を論じて止まず。皆曰く『将軍家既に政権を奉還あり。朝廷にても今後の大事を公議世論に依りて定めんとて諸大名を召されたれば、万機の事、諸大名会同の上に決し給うべきを、俄に今日の事に及ばれしは何事ぞや。よしや改革を急がるるの事情ありとも、在京の諸大名何ぞ五藩*に限らん。然るに諸藩に謀らず、将軍家をも疎外(そがい)して、かかる大変革を行われしは、嚮(さき)に将軍家に下されたる御沙汰にも背き、諸大名を召されたる御趣旨にも合わず、これ全く薩藩が二三の公卿と謀り、幼冲の天皇を擁して私意を遂げんとするものなり。打捨て置かば徳川家は夷滅さられ、天下は擾乱(じょうらん)せん。彼等既に兵力を以て禁闕(きんけつ:皇居)**を擁する上は、とかくの議論は無用なり。ただ速やかに討薩の表を上りて、君側の奸を除かざるべからず』と。公は固くこれを制して暴動を禁じ給いければ群議の間に日は暮れたり。若年寄兼陸軍奉行竹中丹後守重固**らは、公の決断し給わざるを慨嘆し、板倉伊賀守***に迫りて、『嗚呼将軍家の御心底こそ甲斐なけれ。御決心さえあれば会桑はいうに及ばず、満城の将士孰れも公憤に募れり。一戦して薩賊を撃捷すべきは易々たるのみ』と、或は怒り、或は泣きて之を訴う。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953149/156
*五藩:王政復古の大号令のあとの朝議に参加した薩摩・土佐・芸州・尾張・越前の五藩
**竹中丹後守重固(しげかた):江戸幕府後期の旗本。幕府陸軍創設後は陸軍奉行として天狗党征伐や長州征伐で活躍し、慶応3年(1867)若年寄並陸軍奉行に就任。
***板倉伊賀守:板倉勝静(かつきよ)。幕末の江戸幕府の奏者番・寺社奉行・老中首座。


竹中重固
【竹中重固】

このように、幕府軍の兵たちは暴発寸前となっていたのだが、徳川慶喜がそれをさせなかったことが記されている。

では討幕軍の立場で書かれた書物では、幕府軍はどのように描かれているのか。明治43年刊の『大久保利通伝 中巻』に、この時の幕府軍の様子や、京都が天下分け目の戦いの戦場となることを恐れて、逃げ惑う民衆で京都が大混乱したことが記されており、『徳川慶喜公伝.』の記述が決して誇張でないことが確認できる。

二条城二の丸御殿

「…幕兵及び会・桑等の幕府党は、悉く二条城に集まりて、城の内外に屯集したり。幕府党は、この大変革をもって薩藩士たる利通および西郷らが二三の京紳に結び、幼帝を擁して第二の徳川氏たらんと謀るものなりとて、激昂すること最も甚しく、あるいは直に薩邸を襲撃せんと唱え、殆んど制止すべからざる形勢となり。動乱の機は、まさに旦夕に迫れる状況なりき。京師の市民は、元治元年の兵火に懲りしが今日は之にまして、天子と将軍家との天下分目の戦争なりとて、上下貴賤の別なく、人心恟々として安する所を知らず、あるいは近郷に匿れ、あるいは南都に逃れる等、非常の混雑を極めたり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781139/164

蛤御門の変の大火

文中の「元治元年の兵火」とは1864年に薩摩藩・会津藩が長州藩を京都から駆逐した「禁門の変(蛤御門の変)」を指している。この時長州勢は、長州藩屋敷に火を放って逃走し、また会津勢も長州藩士が隠れているとされた家屋に火を放ったため、またたく間に火が拡がって、北は一条通から南は七条通りの広い範囲が焼け、本能寺も東本願寺も焼けてしまう大火災となり京都の27千世帯が焼失したという。(「どんどん焼け」)上の画像は『京都大火略図』で図の右側が北にあたり、赤い部分がこの時に焼失した地域を示している。
Wikipediaによると禁門の変の時の幕府軍は約3200名とあり、王政復古の大号令の時は幕府軍だけでもその3倍はいたので、京都の民衆が大火を恐れて逃げ惑ったのは当然の事なのだ。

話を、二条城に集まった幕府軍の話に戻そう。
小御所会議の翌日(10日)に、尾張藩の徳川慶勝、越前藩の松平慶永(春嶽)が二条城に向かい、慶喜に対して、将軍職辞職と辞官納地が朝議で決定したことを諭達したのだが、その会議で決まったことはすでに二条城の兵士達にも洩れ伝わっていたという。
徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第65巻』に、松平春嶽に同行した越前藩の中根雪江の手記が引用されており、中根雪江はその時の二条城の様子をこのように記録している。

中根雪江
【中根雪江】

「…今日御城中之形勢、旗本幷(ならびに)会桑之諸士、多くは甲冑を帯し、抜身(ぬきみ)の槍(やり)を立て、草鞋を穿(うがち)ながら御座敷処々に充満して、強暴之声焔尤甚し。二候(徳川義勝、松平慶永)御平服にて、其中を御押分け被成候而之御往来、甚(はなはだ)危殆にて、御伴せし吾輩に於て、懸念を極めたり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/190

松平春嶽
【松平春嶽】

また松平春嶽の手記も残されていて、徳富蘇峰の著書に引用されている。これを読むと、二条城が戦闘の準備に入っていたことは確かである。

「実に二条城の形勢畏るべし。今にも剣にて突殺さるるやに覚え申し候。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/195
「さて、城中の塩梅(あんばい)は、やはり慶喜公はじめ、薩長土藩の士と、戦端を専ら開くことを主張せらるる様、憶測なれど考えられ候。いかんとなれば、老中はじめ藤堂その外御譜代大名、紀州その他の諸大名、兵隊の書付調べ、また玉薬、即ち弾薬の調べこれあり、慶喜公手元にては、鉄砲弾薬の調べこれあり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/196

松平春嶽はここで内乱となることは避けるべきだと考え、慶喜公に対して、ここで幕府から戦端を開いては朝敵となり、300年続いた徳川家も消えてしまうことになると述べ、慶喜の考えを問うたのだが、慶喜には幕府軍から戦端を開く考えはなく、将軍職辞職と辞官納地の件については異存ないが、すぐにでも暴発しそうな幕軍の人心を鎮めてから請けることにしたいと答えたという。

徳川慶喜
【徳川慶喜】

その翌日の二条城の様子が『徳川慶喜公伝. 巻4』に出ている。
11日に至りては、二条城内外の紛擾益(ますます)甚だしく、討薩の声喧しくして、殺気彌(いよいよ)揚がり、会薩の二藩士市中に行逢いて刃傷(にんじょう)に及ぶもあり、戦乱の爆発は必至の勢となる。中にも老中格松平豊前守、若年寄兼陸軍奉行竹中丹後守等は過激なる挙兵論者にして(七年史戊辰始末)板倉伊賀守の沈重なるさえ、書を関東の同列に飛ばして、歩騎砲の三兵及び軍艦の西上を促し足る程なりき(稲葉家文書)。此の日公は親しく諸隊長を引見して曰く『我等割腹せりと聞かば、汝ら如何ようにもなすべし。我等斯くてあらん間は決して妄動すべからず』と、厳に達せらる (昔夢会筆記) 。されども公は尚心安からず思召し、命じて旗本の兵五千余人、会藩の兵三千余人、桑藩の兵千五百余人を城中に集めて、外に出づるを禁じたり。城門の通行は入る者よりも出づる者を取締りしは、専ら暴挙を伏せがんとの用意なるべし。たまたま薩藩の兵城下に迫る由風説ありて、何人の指図ともなく、大手廻りの土塀に矢狭間を切り開きしかば、目付の驚きて制止せる事あり。また薩藩の兵、竹屋町押し寄せたりという風説ありし時、衆益々忿怒し、相争うて出でんとす。会藩士手代木直右衛門・中根雪江・酒井十之丞を見て『先んずる時は人を制す。今之を討たずんば戦機を失わん。卿ら如何に思う』と血眼になりて詰問せしかば、両人はその虚伝なるを説き、且つ『闕下に乱階を開かば朝敵も同様なり』と弁論して、纔(わずか)に宥むることを得し事あり。然れども将士の憤怒は極度に達し、一戦して薩藩に報いんと、殆んど狂せるが如く、叱咤・慷慨、殺気天を衝く (丁卯日記*) 。公もさすがに薩長が朝廷を擁して革新の政を布きたる手段には、不満の情おわしたらんも、天下・国家のためにこれを容忍せられ、極めて少恩なる復古令に甘従し、激昂に激昂を重ねたる幾万の家臣を抑制し、断乎として挙兵の衆議を却け給えり。此の際における公の苦衷は、唯公の知る所にして、後人の推測の及ぶところにあらざるべし。」
*『丁卯日記(ていぼうにっき)』:越前藩の中根雪江の日記。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953149/158

このように徳川慶喜は、城門から出る者を取締り、血気にはやる家臣達を鎮めることに努め、断固として挙兵することを許さなかったのである。

松平春嶽の手記によると、
「慶喜公言う、家来ども頻(しき)りに兵端を開き候よう申し聞き候えども、余は朝廷に対し恐れ入り奉り、且つは祖先の汚名を千歳に流すことは、決て致さず候間、」とあり、慶喜は幕府が朝敵の汚名を蒙りたくないとの思いが強かったようなのだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/197

板倉勝静
【板倉勝静】

老中筆頭の板倉勝静(かつきよ)も記録を残している。板倉自身の考えが書かれているのだろうが、慶喜も同様な考えであったのだと思う。
簡単に意訳すると、
「薩摩は天皇を擁しており、薩摩を討伐しようとすることは、朝廷に向かって発砲することになる。こちらから戦端を開けば、彼らの術中に陥って我々は朝敵とされてしまうことだろう。決して軽挙妄動すべきではない。
そのうえ二条城では幕兵の鎮撫は難しく、またこの城は防御に適した城ではない。そのうえ、狭い地域に住宅が密集している京都で火が放たれば、またたく間に拡がって都の大半が焼けてしまうことになり、多くの犠牲者が出ることが避けられない
。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/208

かくして二条城では京都から大坂に向かうことが決議され、12日になって慶喜は二条城を離れて大坂城に向かっているのだが、慶喜が喧噪の京都を去ったのは他にも理由がありそうだ。
「王政復古の大号令」で武力討幕派が政権の中枢を握ったことは確かなのだが彼らは少数派であり、多くの諸侯は平和解決を望んでいたのである。その点については次回に記す事と致したい。

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西郷との会談で江戸城の無血開城を実現させた勝海舟は西郷の遺児支援に奔走した
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
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