そろそろ梅が見頃のようなので、最初に近くにある綾部山梅林(たつの市御津町黒崎1492 ☎079-322-3551)を旅程の最初に入れていた。

この梅林は24ヘクタールの広大な綾部山広陵に2万本近い梅の木が植えられているという。
今年は開花が遅れていて7分咲き程度であったが、充分楽しめることが出来た。この記事をアップする頃は満開になっているだろう。

漂う梅の香りに誘われて、小鳥の群れが飛び回っていてよく枝に留まりにくる。
鳥の写真は今までなかなかうまく撮れなかったのだが、ここではいくらでも飛んでくるので何回でもシャッターチャンスが訪れる。
こんな写真が私でも簡単に撮れた。この鳥はメジロのようだ。

園内の道を進むと「綾部山古墳群の碑」があり、そのあたりから瀬戸内海に浮かぶ家島群島、小豆島などを展望することが出来る。

上の画像の島は家島諸島の男鹿島(だんがじま)という名の島だ。
家島諸島には旧石器時代の遺物や遺跡が確認されていて、縄文時代や弥生時代の遺跡もあるという。播磨灘に面したこのあたりは、相当古くから人々の営みがあった場所のようである。
梅林のある綾部山には「綾部山古墳群」と呼ばれている多数の古墳が存在する。
これらの古墳群は5世紀から7世紀にかけて造られたものと考えられていたのだが、平成14年に行われた綾部山39号墳の試掘調査では、中国で160年頃に製造された鏡が出土し、その古墳は鏡の製作時期から、邪馬台国の時代とも重なる三世紀前半に築かれたわが国最古級の古墳であることが判明したという。場所が分からないので訪問できなかったが、ネットで調べるとこの古墳は梅林の南出入口から新舞子に向かう道路沿いに案内板があるようだ。
www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/2010walk/10walk01.pdf

この綾部山梅林内には16基の古墳が点在し、それらは主に5世紀から6世紀に造られたとチラシに書かれていたが、誰でも見つけることの出来る梅林の中央にある古墳は比較的小さなものであった。

休憩所の近くには正玄塚(しょうげんづか)と名付けられている古墳があるが、これは古墳時代後期に築かれた円墳だという。今は墳丘が崩れて石室が露出しているのだが、横穴式の石室は10m近い長さがあり、結構大きなものである。

休憩所で梅ジュースのサービスを受けたのち、近くで神戸モンキーズ「くら&とし」の芸があったので足を止めたが、語りもうまいし、芸も見ごたえがあってとても楽しむことができた。
梅林を楽しんだ後で、室津の古い街並みに向かう。

【室津 播州名所巡覧図絵】
「室津」は、かなり昔から良港のある街として知られていたようで、以前は「室原」とよばれていたようだ。713年に編纂された『播磨国風土記』にこう記されている。
「室原の泊(とまり)、室と号(なづ)くる所以は、此の泊は風を防ぐこと室(むろ)の如し。故、因りて名と為す」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1173165/104
この記述で分かるように、室津港は古代より波が静かで、天然の両港として知られていた。
奈良時代には行基が摂津と播磨の両国の五良港として「摂播五泊*」を定め、その中に室津が選ばれて、その後も海上と陸上交通の要衝として栄え、江戸時代には参勤交代の西国大名のほとんどが海路で室津港に上陸した後陸路を進んだため、港の周辺は多くの宿があったようなのだが、明治になって参勤交代がなくなり、鉄道や道路が出来て急速に衰退していったという。
*摂播五泊:河尻(尼崎)、大輪田(兵庫)、魚住(明石)、韓(的形)、室津
カーブの多い細い道を運転しながら、最初に賀茂神社(たつの市御津町室津74 ☎079-324-0034)に向かう。

駐車場に車を停め、鳥居を抜けて更に石段を進むと右手にソテツが群生している。これは野生状態の群生林としてはわが国の北限に位置するもので、兵庫県の文化財に指定されている。

その先に四脚門があり、門をくぐると檜皮葺の社殿・回廊・唐門などが見えてくる。

上の画像は唐門だが、唐門を中心に東西の回廊があり、その奥に本殿や権殿などがある。これらはすべて国の重要文化財に指定されている。

【賀茂神社 播州名所巡覧図絵】
賀茂神社は文化元年(1804)に出版された『播州名所巡覧図絵』に、「室明神」として解説され、境内の絵が描かれている。今の景色とほぼ同じなのだが、絵をよく見ると左に多宝塔が描かれているのがわかる。当時は神仏習合が当たり前で、仏僧が「室明神」を取り仕切っていたようなのだが、明治初年の神仏分離で多宝塔は取り壊されたのだろう。

【シーボルト】
文政9年(1826)にシーボルトは、長崎の出島から江戸参府する途中にこの「室明神」に立ち寄り、その記録を残している。

上の図はシーボルトの著書『日本 図録 第2巻』に掲載されている「室明神」だが、ここにも多宝塔が描かれている。
『国会図書館デジタルコレクション』に昭和3年に翻訳され出版された『異国叢書 シーボルト江戸参府紀行』があり、この本はシーボルトの大著『日本』の一部を訳出したものなのだが、この本のなかでシーボルトは、この多宝塔を案内された時のことを次のように記している。
「…それよりこの祠壇の両方なる同様の壇上の立てる二重塔に赴けり。木製にて、真に建築術上の名作なり。つい近頃の建築にして、住僧は余らによく描きたる雛形図を示し、我らはその写しを作らんことを求めしが、これも出来たり。我らは次の年に之を右述べし神祠の見取図、及びこの寺より見たる海上の景色図とともに受取れり。美事なる塔の構造を細かに記述するは今ここに余りに余事なるべし。我らはただこの如き塔は神祇の宗儀には属せずして、仏の宗儀ことに真言宗の宗儀に属し、仏の宗儀とともに日本に入来りしものなるを述べおかん。かかるものがともに一つの神の庭にあり、あまつさえ八幡の祠もその傍にあるは既に述べし両部神道*といえる宗儀より説明すべく、それがここにも入り込みたるなり。」
*両部神道:仏教の真言宗の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876406/192.

シーボルトはこのように室明神の多宝塔を高く評価し、『日本 図録 第2巻』にこの多宝塔の雛形図の写しを残している。Minagaさんのサイトにその図面が紹介されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_muromyojin.htm

そしてシーボルトはその僧の住む寺に案内されて、その景観の美しさを讃えている。
「彼は我らを広き一室に導きしが、そこよりする播磨海上の絶えて佳き眺望は驚くばかりなり。今迄日本にて嗜み得し海景の中最も美しきものの隋一なり。座敷の位置・結構が如何に壮大にして目を奪うばかりなる賞嘆を心づもりにしつらえられたるぞ。室は前方と左右とに開け放たれ、人は直ちに海中に懸け出したる巌の上に築かれたる観望台に坐を占めたり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876406/193
シーボルトが「日本随一」と賞賛した海の景色も同上書に描かれているのだが、残念ながら賀茂神社の境内は樹木に囲まれていて、どこに海の景色を楽しめる場所がよくわからなかったのだが、『兵庫県おでかけブログ』というブログに海の景色の写真がでている。この写真の景色は「住吉社」の近くなのだそうだが、シーボルトの同上書の挿絵に良く似ているので、どうやらこのあたりに、シーボルトが案内されて海の景色を絶賛した寺の建物があったようだ。もう少し境内の西の奥に進んでおけばよかったと思う。
http://odekakehyougo.seesaa.net/article/442389499.html
多宝塔が移転したとか焼けたなら何らかの記録が残っていると思うのだが、何もなさそうなので、おそらく破却されたのであろう。しかし仏像は遷座されて今も残されているという。
先ほど紹介したMinagaさんのサイトに「御津町史 第4巻 資料編」の引用があり、この近くの浄運寺の脇檀に安置されている多宝如来坐像について「元は多宝塔安置、明治初年の神仏分離で遷座、体部は前後2木からなる寄木造。」と記されているという。賀茂神社多宝塔の本尊は、近くの寺に安置されていると書かれているのである。

浄運寺は賀茂神社の階段を下りて100m程度歩けば辿りつくことができる。
この寺は、建永2年(1185)に京都より讃岐に配流される法然が室津に立ち寄り、遊女・友君にここで説法をし、感激した友君は法然より得度を受けこの寺で出家したという。
シーボルトの同上書にも、この寺は「平家合戦の時代の名だたる美人友君の墓」がある寺であり、友君は「この地方にて…女護国の発起者として尊敬せらるる人なり」と記している。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876406/191
観光寺院ではないので本堂の参拝はしなかったが、この本堂に当寺の本尊である阿弥陀如来立像があり、賀茂神社多宝塔の本尊である多宝如来坐像があり、合掌する尼僧姿の友君の坐像が安置されているという。
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【ご参考】ドイツ人のシーボルトが長崎出島のオランダ商館医として来日したのは文政6年(1823)、27歳の時でした。
鳴滝塾を開いて多くの弟子を育てたことは評価されていますが、国禁の日本地図を持ち出そうとしたとして、文政12年(1829年)に国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けています。しかしながら、シーボルトは安政の開国で追放が解除されたのち安政6年(1859)に再来日し、後に江戸幕府の外交顧問に就任しています。それは何故なのでしょうか。
このブログでシーボルトについてこんな記事を書いてきましたので、良かったら覗いてみてください。
シーボルトと日本の開国
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-30.html
シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-59.html
シーボルトはスパイであったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-93.html
押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-124.html

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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。
平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。
またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。
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