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文化財を守った法隆寺管主の英断

前回、明治の初期に奈良の大寺院が次々に廃寺となったことを書いた。江戸時代に石高の高かった8つの大寺院のうち3寺院が完全に破壊され、1寺院が神社になったのだが、残りの大寺院はどうだったのか。

現存している大寺院は興福寺、東大寺、法隆寺、吉野蔵王堂の4寺院であるが、この時期にいずれの寺院も存亡の危機にあったことは間違いない。

興福寺は以前も書いたが、廃仏毀釈時に僧侶全員が春日大社の神官となって明治5年には廃寺となり、明治14年に再び住職を置くことが認められるまでの9年間は無住の地となり、五重塔も売却されたが近隣住民の反対で焼却されずに済んだ経緯にある。

では他の大寺院はどうだったのか。今回は法隆寺の事を書こう。

法隆寺

岩波新書に関秀夫氏の「博物館の誕生」という本があり、その中に法隆寺の当時の状況を伺い知ることのできる記述がある。

「戒律の厳しい奈良の唐招提寺や聖徳太子ゆかりの法隆寺では、堂宇や仏像の破壊は免れたものの、経済基盤である寺領を取り上げられたために、僧侶たちの日常生活もままならない状態に陥り、古くから伝えられてきた貴重な古文書を、かまどの焚きつけに使ってしまうという情ないありさまであった。奈良市内の旧家には、そのころ、法隆寺や唐招提寺、海竜王寺などから、寺僧が持ち出して酒代のかわりに使った、寺印のある一切経の片割れが多数伝わっている。」(75p) 「…法隆寺の荒廃もひどかった。寺領を失い、廃仏毀釈で堂宇を荒らされ、雨でも降ればあちこちに水が漏り、明治五年に調査が入ったときには、目を覆いたくなるほどの状態であった。」(81p)

法隆寺もこのような状況が長く続けば、老朽化していた伽藍や堂宇を棄却するか、売却するかの選択を迫られていただろう。佐伯恵達氏の「廃仏毀釈百年」という本には、「法隆寺は、仏像・仏具を廃棄して、聖徳神社にされそうに」なったと書いてある。
しかし、法隆寺は明治11年、管主の千早定朝師の大英断によりこの経済的危機を乗り越えることになる。

以前紹介した朝田純一氏の「埃まみれの書棚から」というホームページが、本の紹介とともに、この頃の経緯を詳しく記述している。

明治4年に寺領上知の令で法隆寺の境内地が没収され、明治7年に法隆寺の寺禄千石が廃止・逓減されて、法隆寺の収入源がほとんど断たれてしまった。

そこで明治8年、塔頭寺院のほとんどを取り畳み、寺僧たちは西円堂御供所で合宿生活を送るなど、倹約に勤めたという。今のリストラである。

「こうしたなか、宝物の多くを売りに出す大和の古寺も少なくない有様であったが、法隆寺では、貴重な宝物類を皇室に献納し、末永く保存されることを願うこととしたのである。寺僧協議を重ねた末、何某かの下賜金あることを期待してのことであった。」 「明治11年献納の儀が決定、1万円が下賜され、当面の維持基金とすることができた。」

この1万円で、法隆寺は息を吹き返し、8千円で公債を購入し、金利600円を運営維持費に充て、2千円を伽藍諸堂の修理費に充てたそうである。

法隆寺宝物館

この時に皇室に献納した宝物は300点を超え、これが東京国立博物館の「法隆寺献納宝物」と言われるもので、現在は東京国立博物館の敷地内にある法隆寺宝物館でほとんどすべてを見ることができるそうだ。

200px-Prince_Shotoku.jpg

ただし有名な「聖徳太子および二王子像」「聖徳太子筆法華義疏」などは皇室ゆかりの品としてそのまま宮内庁に留め置かれたため見ることができないとのことである。

【ご参考】朝田純一氏の「埃まみれの書棚から」の関連ページ
http://www.bunkaken.net/index.files/raisan/shodana/shodana19.htm
http://www.bunkaken.net/index.files/raisan/shodana/shodana20.htm

今の日本人で聖徳太子について悪いイメージを持つ人はほとんどいないと思うのだが、廃仏毀釈を行った側の考えでは、聖徳太子は仏教を擁護し天皇を蔑にした人物として糾弾する考えが強かったようだ。
この献納と下賜金がなければ、法隆寺も他寺と同じく、多くの宝物、仏像などが流出売却、あるいは棄却・焼却された可能性が高かったのではないか。

千早定朝

当時の管主千早定朝の大英断により聖徳太子にかかわる宝物の多くを、一番安全な皇室に献納することによって、法隆寺は国民の文化財を守り、自らも寺院として存続できる道を開いたのである。

しかしながら、1994年にフランスのギメ美術館で法隆寺にあった勢至菩薩像が発見されている。戒律が厳しく、管主のリーダーシップで立ち直った法隆寺ですら、仏像が流出したのだから、あとの寺院は推して知るべしである。
<ギメ美術館で発見された法隆寺の仏像>
http://www.photo-make.co.jp/hm_2/ma_20_4.html
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聖徳太子についての過去の常識はどこまで覆されるのか

以前このブログで、明治4年の寺領上知の令で法隆寺の境内地が没収され、収入源も断たれたうえに廃仏毀釈で堂宇を荒らされ、雨でも降ればあちこちに水が漏るような状態になっていたことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-80.html

この時期には僧侶の生活のために宝物を売りに出した寺院が多かったのだが、法隆寺は管主千早定朝の大英断により聖徳太子にかかわる宝物の多くを、一番安全な皇室に献納して国民の文化財を守り、1万円の下賜金を得て堂宇を修理し、金利を運営費に充てて寺院として存続できる道を開いたのである。
この時に皇室に献納した宝物は300点を超え、その中に「聖徳太子および二王子像」があり、現在皇室ゆかりの品として御物(宮内庁蔵)となっている。

聖徳太子

この「聖徳太子および二王子像」が、現存する最古の肖像画として昔の教科書や歴史書に必ず掲載されていたのだが、最近の教科書では「伝聖徳太子画像」と説明されているか、この画像も掲載されていないものが多いようだ。

Wikipediaによると、この太子像の制作時期は8世紀ごろとされているようだが他の説もあり、「中国で制作されたとする意見もあり、誰を描いたものかも含めて決着は着いていない」と書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%9C%AC%E5%BE%A1%E5%BD%B1

お札

この太子像は一万円札や五千円札の肖像画の原画に採用されて、長い間日本人に親しまれていたものなのだが、どういう経緯で急に「伝」が付されるようになったのだろうか。

昭和57(1982)年に、東京大学史料編纂所所長今枝愛真氏が「御物の聖徳太子像は実は聖徳太子ではない」という説を発表したことが、そのきっかけとなったようである。
今枝氏は太子像に装幀されていた絹地に「川原寺」と読める墨痕があることに注目し、もともと川原寺にあった肖像画が法隆寺に移されたものとする説を発表した。
「川原寺」は飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並ぶ飛鳥の四大寺に数えられ、7世紀半ばの天智天皇の時代に建立された大寺院であるが、今枝氏の説は聖徳太子の没(622)後およそ半世紀後を経て建設された川原寺に聖徳太子の画像があるのは不審であり、この肖像画が聖徳太子を描いたものとは特定できないというものなのだが、この墨痕は昭和に修理された掛け軸の布に書かれているもので、画像とは関係がないとする説もあるようで、どちらが正しいかはよくわからない。

法隆寺

そもそもこの太子像がいつどういう経緯で法隆寺に伝来したかについての記録は存在せず、院政期(12世紀中ごろ)に大江親通(ちかみち)が『七大寺巡礼私記』のなかで、「太子の俗形御影一鋪。件の御影は唐人の筆跡なり。不可思議なり。よくよく拝見すべし。」と書いているのが、判明している最も古い記録なのだそうだ。
我々は紙幣で何度もこの肖像画を見てきたので特に違和感を覚えないのだが、大江親通は、聖徳太子を描いたものにしては筆跡が唐風であり不思議な絵であるとの印象を持ったということである。
確実にわかっていることは、院政期には聖徳太子を描いたものとして伝わるこの肖像画が法隆寺に存在したという事だけなのだ。

学生時代に学んだ聖徳太子は、推古天皇の摂政となり、国政の改革と文化の交流を図った英雄的存在であった。603年の冠位十二階の制定、604年の十七条憲法制定、607年の遣隋使の派遣などが有名だが、『日本書紀』に書かれている太子の記述はあまりにも美化されており何となく嘘っぽい。

たとえば『日本書紀』にはこう書かれている。
「生而能言。有聖智。及壮、一聞十人訴。(太子は生まれて程なくものを言われたといい、聖人のような知恵をおもちであった。成人してからは、一度に十人の訴えを聞かれても、誤られなく、先のことまでよく見通された。)」(訳:講談社学術文庫『日本書紀下巻』p.87)

厩で生まれたのはキリストの生誕説に似て、生まれてすぐに喋ったという話は釈迦の逸話に似ており、成人してからのエピソードも信じがたいものがあるので、『日本書紀』における聖徳太子の記述をどこまで信頼できるかで、古くから議論があったようである。

最近では聖徳太子虚構説までが存在し、歴史学者の大山誠一氏の説が注目されているようだ。
Wikipediaの記述によると、大山説は、飛鳥時代に斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性まで否定するものではないが、推古天皇の皇太子かつ摂政として数々の業績を上げたことになっている聖徳太子は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった藤原不比等らの創作であり、架空の存在であるという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90

大山氏の考えでは、厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つは信頼できるが、それ以外の事績については書かれている史料そのものが厩戸皇子のかなり後の時代に制作されたものであり、矛盾する記述も多く虚構であるというもののようだ。

例えば『日本書紀』には厩戸王を「皇太子」の肩書で天皇に代わって政治を行ったと書かれているのだが、推古天皇の時代には「皇太子」という地位はなかったという。
また十七条憲法に使われている用語も、使われている用語や時代背景から推測して、『日本書紀』が書かれた時代に創造された可能性が高いとしている。ほかにも聖徳太子が執筆したとされる経典の注釈書『三経義疏(さんきょうぎしょ)』の一つである『勝鬘経義疏(しょうまんきょうぎしょ)』が中国の敦煌文書に酷似しており、偽物説が有力視されているというのだ。
こうして見ていくと、たしかに聖徳太子の実在を示す確かな史料は存在しないことになってしまう。やはり聖徳太子は『日本書紀』の中で創作された人物なのだろうか。

藤原不比等

仮に聖徳太子が架空の人物だとした場合に、藤原不比等らが聖徳太子という偉人を捏造したのは何のためなのか。
藤原不比等といえば、父は乙巳の変(大化の改新)で蘇我入鹿を滅ぼした中臣鎌足である。不比等には父・鎌足の正当性を主張するために、推古朝で活躍した蘇我入鹿の祖父・馬子の功績を奪い取り、蘇我氏を貶めるために聖徳太子という人物を捏造したというのだが、結構説得力がある。

ところで、聖徳太子が架空であるとまでは言わないが、十七条憲法が後世の創作であるという説は古くからあり、江戸後期のである狩谷棭斎(かりやえきさい)という考証学者は文政12年(1829)頃に書いた『文教温古批考』の中で次のように述べている。
「憲法を聖徳太子の筆なりとおもえるはたがへり。是は日本紀作者の潤色なるべし。日本紀の内、文章作家の全文を載たるものなければ、十七条も面目ならぬを知るべし。もし憲法を太子の面目とせば、神武天皇の詔をも、当時の作とせんか。」

戦前を代表する歴史学者である津田左右吉も、十七条憲法が後世の創作であるとの説を展開している。
津田の説によると、例えば第12条の「国司(くにのみこともち)」という言葉が大化の改新後に登場した官制であり、推古朝当時の政治体制にはなかったことなど時代背景にずれがあることから、十七条憲法は、太子信仰が高まった天武・持統朝ころにつくられたということになる。

しかし大山説も津田説も、推古朝の時代の官制を知らない者にとってはどうもすっきりしない。

『日本書紀』が完成したのは養老4年(720)で、聖徳太子が亡くなって98年も後の事である。『日本書紀』の記述が正確でなかったり、かなり脚色があることはあることは容易に想像できるが、小野妹子が遣隋使として隋に朝貢した際に、有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」という国書を渡しているはずだ。この文書は聖徳太子が書いたものだと学生時代に学んだことを思い出したので、『隋書倭国伝』を取り出して読んでみた。

講談社の学術文庫に隋書倭国伝の現代語訳が出ている。隋にはわが国から2度使者を派遣し、隋の使者が倭国に来た記録が残されている。
1回目の記録は、
「隋の文帝の開皇二十年(600年、推古天皇8年)、倭王で、姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雞弥(あほけみ)と号している者が、隋の都大興(陝西省西安市)に使者を派遣してきた。…
倭国王の妻は雞弥(けみ)と号している。王の後宮には女が六、七百人いる。太子は名を利歌弥多弗利(りかみたふり)という。城郭はない。」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.196)

煬帝

2回目の記録は、
「隋の煬帝(ようだい)の大業三年(607年)、倭国の多利思比孤(たりしひこ)が、使者を派遣して朝貢してきた。その使者が言うには、
『大海の西方にいる菩薩のような天子は、重ねて仏教を興隆させていると聞きました。それ故に使者を派遣して天子に礼拝させ、同時に僧侶数十人を引き連れて仏教を学ばせようと思ったのです』
そして倭国の国書にはこうあった。
『太陽が昇る東方の国の天子が、太陽の沈む西方の国の天子に書信を差し上げる。無事でお変わりないか…』
煬帝はこの国書を見て不機嫌になり、鴻臚卿(こうろけい)にこう言った。
『蕃夷からの手紙のくせに礼儀をわきまえておらぬ。二度と奏上させることのないように。』」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.199-200)

その翌年に隋が倭国に使者を派遣した記録は、
「翌大業四年(608年)、煬帝は文林郎裴世清(ぶんりんろうはいせいせい)を使者として倭国に派遣した。…十余国を過ぎて海岸に到着する。竹斯国から東の諸国はみな倭国に属する。
…倭国の都に到着すると、倭国王は裴世清と会見して大いに喜んで…」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.200)

と隋の使者は倭国王に面談したことは確実である。

岡田英弘氏は『日本史の誕生』(ちくま文庫)のなかで、この『隋書』の記述から『日本書紀』の問題点をわかりやすく説明しておられる。
「(以上の隋書の記録の部分は)『日本書紀』では女帝である推古天皇の在位中であり、聖徳太子が摂政だったことになっている。いうまでもなく推古天皇は女王だ。ところが『隋書』では、この時期に倭国の王位にあったのは、アマ・タラシヒコ・オホキミという人で、名前からみて男王であることには間違いがなく、しかも裴世清はこの男王自身に直接会って話をしている。摂政である聖徳太子を王と取り違えたのだという説は成り立たない。なぜなら太子は王と王妃のほかにいたと、『隋書』にちゃんとかかれているからだ。そういうわけで、「日出づる処の天子」の国書を送ったのは聖徳太子ではなく、『日本書紀』には名前がのっていない、誰か別の倭王だったことが分かる。」

裴世清は608年に日本に来て倭国王と面談している。王座についている人物が女性であれば、その旨を報告しているはずだ。
また裴世清が訪れた国が別の国であったわけでもなかった。『隋書』には「竹斯国から東の諸国はみな倭国に属する。」と書かれている。「竹斯国」とは「筑紫国」のことであり、裴世清が訪れた国が倭国であることは間違いないだろう。
『隋書』が倭国についての記述を歪める動機は存在しない。とすれば、『日本書紀』は7世紀初めの時代について、重大な嘘をついているとしか考えられないのだ。

『日本書紀』は天皇の命を受けて、舎人親王が編集したことになっているが、中立的な立場で書かれたものではないのだろう。

石舞台

多くの論者が指摘しているように、藤原氏の政治的思惑によって記述が歪められているという可能性が高いのだとすれば、聖徳太子の今までの常識がさらに覆され、これまで極悪人扱いを受けてきた蘇我馬子が見直される時が来るのかもしれない。
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蘇我氏は本当に大悪人であったのか

前回は、聖徳太子の業績とされていたことの大半が『日本書紀』作者の創作だとする説を紹介し、『隋書倭国伝』の記述を読むと遣隋使を派遣した時代の倭王は『日本書紀』では推古天皇(女王)であるが、『隋書倭国伝』では男王となっていて明らかに矛盾しており、『日本書紀』が嘘を書いている可能性が高いことなどを書いた。

いつの時代もどこの国でも、歴史というものは勝者が都合の良いように書き換えてきたことを何度もこのブログで書いてきた。
日本書紀』も勝者が編纂した歴史であり、真実が書かれている部分がそれなりにあるとは思うものの、一方で勝者は必要以上に美化され、反対勢力は必要以上に貶められているという視点で読むことが必要であると思うのだ。

日本書紀』が完成したのは養老4年(720)で現存する最古の正史であるのだが、もっと古い史書が過去にはあった。
推古朝の600年頃に継体天皇の系図を記した『上宮記』、7世紀には記紀編纂の基礎資料となった『帝紀』『旧辞』、620年には聖徳太子蘇我馬子が編纂した『天皇記』『国記』という書物が存在したことが分かっているのだが、最後の『天皇記』『国紀』は皇極4年(645)の6月「乙巳の変(いっしのへん)」*の際に多くを失ってしまう。『日本書紀』にはこう書かれている。
(*今の歴史教育では蘇我入鹿暗殺事件を「乙巳の変」と呼び、後に行われた一連の政治改革を「大化改新」と区別するのが一般的)

日本書紀下

「己酉、蘇我臣蝦夷等臨誅。悉焼天皇記。国記。珍宝。船史恵尺即疾取所焼国記而奉献中大兄。(13日、蘇我臣蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。船史恵尺[ふねのふびとえさか]はそのとき素早く、焼かれる国記を取り出して中大兄にたてまつった。)」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.155)

『天皇記』『国記』は蘇我氏の立場から書かれた歴史であったはずであり、普通に考えれば、蘇我氏としてはその歴史書を隠してでも守ろうとすることはあっても、自ら火をつけることは考えにくい。
『日本書紀』によると、『天皇記』は蘇我氏によってこの時に焼かれ、『国記』は焼かれる前に取り出して中大兄皇子(後の天智天皇)に奉献されたとあるが、その『国記』も現存しない。いずれも中大兄皇子側で焚書処分された可能性を感じている。

いつの時代も、どこの国でも、一国を支配する立場に立つためには、目の前の政敵を打ち倒すことが必要になる。選挙のない国や時代においては、多くの場合は政敵を殺すぐらいのことをしなければ、のし上がる方法がないのだ。またその場合に、政敵の命を奪う自らの行動を正当化すために余程の大義名分がなければ、ただの犯罪者になってしまうだけだ。

そこで、クーデターが成功し権力を掌握できた場合には、「歴史」をどう描き、どう広めるかが重要なポイントとなってくる。歴史を編纂する立場に立つということは、どの勢力に権力の正統性があるかを明らかにし、その国・その時代の言語空間を支配するという重要な意味合いがあるのだと思う。

学生時代に、「蘇我氏」と言えば天皇家を乗っ取り国家を乗っ取ろうとした大悪人だと教わってきた。その根拠はすべて『日本書紀』にあるのだが、そもそも『日本書紀』は中大兄皇子や中臣鎌足の立場を擁護するために記述されたものではなかったのか。

普通に考えれば、中大兄皇子・中臣鎌足は蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自害させて政権を奪い取ったのであり、その行動に正当性があることを主張しようと思えば、蘇我一族が余程の大悪人でなければ立論が困難であったはずだ。この点については以前にこのブログで『忠臣蔵』のことを書いたのと同じ構図にある。
とすれば、『日本書紀』における蘇我氏に関する記述をそのまま鵜呑みにすることは危険ではないのか。

『日本書紀』の文章を読む前に、蘇我氏の家系図と藤原氏の家系図を確認しておこう。
蘇我氏系図

藤原家系図

上の図がネットで見つけた蘇我氏の家系図と藤原氏の家系図だが、蘇我氏は古くから天皇家と姻戚関係を結んで勢力を伸ばし、乙巳の変が起きた当時はすでに完成の域に達しており、後は子孫さえ増えれば安泰といえる状況にあった。
一方、中臣鎌足はこの頃突然歴史に現れ、中臣(藤原)氏が天皇家との姻戚関係を結ぶのは、鎌足の子の藤原不比等の時代以降である。
結果だけを見れば蘇我氏の立ち位置を、藤原氏が奪い取ったようにも思える。天皇家を乗っ取り、国家を乗っ取ろうとしたのは藤原氏の方ではなかったのか。

『日本書紀』で、蘇我氏の専横にかかわる叙述が目立つのは皇極天皇(35代:在位642-645の女帝)の治世下からだが、『日本書紀』に記述されている蘇我氏の悪行とはどんなことなのかを拾ってみよう。

皇極元年(642)の出来事にこんな記録がある。
「(蘇我蝦夷は)また国中の百八十にあまる部曲(かきのたみ:豪族の私有民)を召使って、双墓(ならびのはか:大小二つの円墳を連接したもの)を生前に、今来(いまき:御所市東南)に造った。一つを大陵(おおみさぎ)といい、蝦夷の墓。一つを小陵(こみさぎ)といい、入鹿の墓とした。死後を他人の勝手に任せず、おまけに太子の養育料として定められた部民を、すべて集めて墓の工事に使った。このために上宮大娘姫王(聖徳太子の娘)は憤慨され嘆いていわれた。『蘇我臣は国政をほしいままにして、無礼の行ないが多い。天に二日なく地に二王は無い。何の理由で皇子の封民を思うままに仕えたものか』と。こうしたことから恨みを買って、二人は後に滅ぼされる。」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.140)

次は皇極二年(643)の出来事だ。
「(十月)六日、蘇我大臣蝦夷は病のために登朝しなかった。ひそかに、紫冠を子の入鹿に授けて大臣の位になぞらえた。またその弟をよんで物部大臣といった。大臣の祖母(馬子の妻)は物部弓削大連(守屋)の妹である。母方の財力によって、世に威勢を張ったのである。 十二日、蘇我臣入鹿は独断で上宮(聖徳太子)の王たち(山背大兄王)を廃して、古人大兄(ふるひとのおおえ:舒明天皇の皇子、母は蘇我馬子の女)を天皇にしようと企てた。」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.143)

その直後の11月に、蘇我入鹿は山背大兄王(やましろのおおえのみこ:聖徳太子の子)を襲撃する。斑鳩寺とは法隆寺の事である。

「十一月一日、蘇我入鹿は小徳巨勢徳太臣・大仁土師娑婆連を遣わして、山背大兄王らを不意に斑鳩に襲わせた。…山背大兄は…隙を見て逃げ出し生駒山に隠れた。(中略) …山背大兄らは山から出て、再び斑鳩寺へ入られた。兵らは寺を囲んだ。山背大兄王は三輪文屋君を通じて、将軍らにつげさせ『自分がもし軍をおこして入鹿を討てば、勝つことは間違いない。しかし自分一身のために、人民を死傷させることを欲しない。だからわが身一つを入鹿にくれてやろう』といわれた。ついに子弟妃妾と諸共に自決してなくなられた。おりから大空に五色の幡や絹笠が現われ、さまざまな舞楽と共に空に照り輝き寺の上に垂れかかった。
 仰ぎ見た多くの人が嘆き、入鹿に指し示した。するとその幡・絹笠は、黒い雲に変わった。それで入鹿は見ることもできなかった。蘇我大臣蝦夷は、山背大兄王らがすべて入鹿に殺されたと聞いて、怒りののしって『ああ、入鹿の大馬鹿者め。悪逆をもっぱらにして、お前の命は危ないものだ』といった。」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.143~146) と、かなり嘘っぽい文章が続く。

幡や絹笠の話は論外だが、多くの論者が指摘するように、山背大兄王が戦えば勝てる状況下でありながら、一族全員を集めて自決してしまうというのはあまりに不自然である。
しかもこれだけの事件が法隆寺を舞台に起こったのであれば、法隆寺に聖徳太子の子である山背大兄王の墓があってもおかしくないのだが存在しないし、法隆寺が上宮王家を祀った気配もないというのだ。そもそも、山背大兄王の墓が国内のどこにあるのかすらはっきりしていないのだそうだ。
それよりももっとおかしなこととして、山背大兄王の滅亡に関与した人物が、蘇我氏滅亡後に栄転していることを指摘しておきたい。
蘇我入鹿が山背大兄王を襲撃させた巨勢徳太は、孝徳天皇の御代の大化5年に左大臣に任命されているのだそうだ。
また『聖徳太子伝補闕記』にはこの事件の後、山背大兄王の息子弓削王を大狛法師という人物が殺したと書かれているのだが、この大狛法師は大化元年8月に仏教界の最高指導層である「十指(とたりののりのし)」の筆頭に任じられているのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%83%8C%E5%A4%A7%E5%85%84%E7%8E%8B
http://www.ten-f.com/yamashiro-ooe.htm
最大の政敵である蘇我蝦夷・入鹿親子がこの世に存在しない中で『日本書紀』が編纂されているのだから、すべての悪事を政敵に擦り付けることは容易であろう。山背大兄王一族を襲撃させたのは、中大兄皇子、中臣鎌足に近い人物の可能性を感じるのだ。

話を『日本書紀』の文章に戻そう。
この山背大兄王一族が滅亡する事件の翌(皇極4年[645])の6月に、飛鳥板葺の宮大極殿で中大兄皇子らの手によって蘇我入鹿が斬られることになる。これが「乙巳の変」である。 当初の打ち合わせでは、入鹿を斬りつけるのは佐伯連子麻呂と葛城稚犬飼連網田の2名であった。『日本書紀』にはこう書かれている。

乙巳の変

「…中大兄は子麻呂らが入鹿の威勢に恐れてたじろいでいるのを見て、『ヤア』と掛け声もろとも子麻呂らとともに、おどりだし、剣で入鹿の頭から肩にかけて斬りつけた。入鹿は驚いて座を立とうとした。子麻呂が剣をふるって片方の脚に斬りつけた。入鹿は御座の下に転落しむ、頭をふって『日嗣の位においでになるのは天子である。私にいったい何の罪があるか、そのわけを言え。』といった。
 天皇は大いに驚き中大兄に、『これはいったい何事が起ったのか』といわれた。中大兄は平伏して奏上し、『鞍作(くらつくり:入鹿)は王子たちをすべて滅ぼして、帝位を傾けようとしています。鞍作をもって天子に代えられましょうか』といった。
…古人大兄は私宅に走り入って人々に、『韓人(からびと)が鞍作臣を殺した。われも心痛む』といい、寝所に入ってとざして出ようとはしなかった。…」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.154~155)

この中大兄皇子の奏上を読めば、入鹿暗殺の大義名分は山背大兄王一族の滅亡事件にありその延長線上に蘇我氏による天皇家乗っ取りを挙げている。しかし、山背大兄王の事件に蘇我入鹿が関与していなかったとすれば、乙巳の変は単なる暗殺事件で、中大兄皇子・中臣鎌足はただの暗殺者にすぎず、英雄になるようなことはあり得ないことになる。
この事件の後に中大兄皇子は皇位継承権を持つ古人大兄皇子(母:蘇我馬子の娘)を殺害し、蘇我氏でありながらクーデターに協力した蘇我倉山田麻呂を自害に追い込んでいる事実をどう読めばいいのか。
また古人大兄皇子が『韓人が鞍作臣(蘇我入鹿)を殺した。われも心痛む』と言ったのはどういう意味なのか。この点についても諸説があり、中臣鎌足が百済人であり百済人に蘇我入鹿が殺されたという解釈や、混乱する半島情勢の考え方の行き違いで殺されたという解釈があるようだが、いずれにしても蘇我氏の専横や天皇家を乗っ取ろうとしたから殺されたという多数説とは違うことを言っていることになる。

加藤謙吉

最近では蘇我氏の業績を見直す気運が高まっているらしく、歴史学者の加藤謙吉氏は蘇我氏こそが律令政治の推進役で改革者であったと主張しておられるという。
律令制度の前身に屯倉制があり、それまでは豪族層が差し出す部民によって支えられていた王家の財政を、直轄領を増やすことで独立させようとしたのは蘇我氏であったし、律令制の整備は蘇我氏が行っていたという説のようだ。
その説が正しいとすれば中大兄皇子・中臣鎌足は蘇我氏による改革を潰したという事になってしまい、昔学んだ歴史と正反対になることも考えられないこともなさそうだ。

関裕二

また作家の関裕二氏は、大化二年(646)の「改新の詔(みことのり)」の中には、後世になって使われるようになった用語が混じっており、『日本書紀』編纂者が後世に書き加えた可能性を指摘しておられる。(宝島社『捏造だらけの日本書紀』p.38-39)

さらには蘇我氏が天皇であったという説もネットではかなりヒットする。
蘇我氏天皇説は、前回紹介した『隋書倭国伝』の遣隋使の記述で倭国王が男であったことと矛盾せず、なぜ蘇我氏の邸宅に『天皇記』『国記』が保管されていたのか、なぜ蘇我蝦夷の邸宅を「上の宮門」(かみのみかど)、子の入鹿の邸宅を「谷の宮門」(はざまのみかど)と呼んだかなどということから考えるとなかなか説得力があるのだ。

今後もし『天皇記』『国記』の写本が発見でもされれば、日本の古代史は全面的に書き換えられることになると思うのだが、古代史には同時代に残された史料が少なく『日本書紀』に頼りすぎることが真実の解明を難しくしているような気がするのだ。

子供の時から聖徳太子や中大兄皇子が古代の英雄で蘇我氏は悪者だと教わり、長い間そのように考えてきたのだが、よくよく考えると、聖徳太子を英雄に描けば描くほど、太子の子供である山背大兄王を死に追いやった蘇我入鹿の悪が際立つことになり、その悪を征伐した中大兄皇子や中臣鎌足がまた英雄に見えてくるという単純な勧善懲悪の物語のカラクリに、長い間騙されていたのかも知れない。

どこの国でもいつの時代でも、正史というものはそれなりに真実が書かれてはいるのだろうが、当時の権力者を擁護するために真実が捻じ曲げられ、反対勢力は必要以上に貶められる傾向が強いことに留意して読む姿勢が必要だと思う。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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