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文化財を守った法隆寺管主の英断

前回、明治の初期に奈良の大寺院が次々に廃寺となったことを書いた。江戸時代に石高の高かった8つの大寺院のうち3寺院が完全に破壊され、1寺院が神社になったのだが、残りの大寺院はどうだったのか。

現存している大寺院は興福寺、東大寺、法隆寺、吉野蔵王堂の4寺院であるが、この時期にいずれの寺院も存亡の危機にあったことは間違いない。

興福寺は以前も書いたが、廃仏毀釈時に僧侶全員が春日大社の神官となって明治5年には廃寺となり、明治14年に再び住職を置くことが認められるまでの9年間は無住の地となり、五重塔も売却されたが近隣住民の反対で焼却されずに済んだ経緯にある。

では他の大寺院はどうだったのか。今回は法隆寺の事を書こう。

法隆寺

岩波新書に関秀夫氏の「博物館の誕生」という本があり、その中に法隆寺の当時の状況を伺い知ることのできる記述がある。

「戒律の厳しい奈良の唐招提寺や聖徳太子ゆかりの法隆寺では、堂宇や仏像の破壊は免れたものの、経済基盤である寺領を取り上げられたために、僧侶たちの日常生活もままならない状態に陥り、古くから伝えられてきた貴重な古文書を、かまどの焚きつけに使ってしまうという情ないありさまであった。奈良市内の旧家には、そのころ、法隆寺や唐招提寺、海竜王寺などから、寺僧が持ち出して酒代のかわりに使った、寺印のある一切経の片割れが多数伝わっている。」(75p) 「…法隆寺の荒廃もひどかった。寺領を失い、廃仏毀釈で堂宇を荒らされ、雨でも降ればあちこちに水が漏り、明治五年に調査が入ったときには、目を覆いたくなるほどの状態であった。」(81p)

法隆寺もこのような状況が長く続けば、老朽化していた伽藍や堂宇を棄却するか、売却するかの選択を迫られていただろう。佐伯恵達氏の「廃仏毀釈百年」という本には、「法隆寺は、仏像・仏具を廃棄して、聖徳神社にされそうに」なったと書いてある。
しかし、法隆寺は明治11年、管主の千早定朝師の大英断によりこの経済的危機を乗り越えることになる。

以前紹介した朝田純一氏の「埃まみれの書棚から」というホームページが、本の紹介とともに、この頃の経緯を詳しく記述している。

明治4年に寺領上知の令で法隆寺の境内地が没収され、明治7年に法隆寺の寺禄千石が廃止・逓減されて、法隆寺の収入源がほとんど断たれてしまった。

そこで明治8年、塔頭寺院のほとんどを取り畳み、寺僧たちは西円堂御供所で合宿生活を送るなど、倹約に勤めたという。今のリストラである。

「こうしたなか、宝物の多くを売りに出す大和の古寺も少なくない有様であったが、法隆寺では、貴重な宝物類を皇室に献納し、末永く保存されることを願うこととしたのである。寺僧協議を重ねた末、何某かの下賜金あることを期待してのことであった。」 「明治11年献納の儀が決定、1万円が下賜され、当面の維持基金とすることができた。」

この1万円で、法隆寺は息を吹き返し、8千円で公債を購入し、金利600円を運営維持費に充て、2千円を伽藍諸堂の修理費に充てたそうである。

法隆寺宝物館

この時に皇室に献納した宝物は300点を超え、これが東京国立博物館の「法隆寺献納宝物」と言われるもので、現在は東京国立博物館の敷地内にある法隆寺宝物館でほとんどすべてを見ることができるそうだ。

200px-Prince_Shotoku.jpg

ただし有名な「聖徳太子および二王子像」「聖徳太子筆法華義疏」などは皇室ゆかりの品としてそのまま宮内庁に留め置かれたため見ることができないとのことである。

【ご参考】朝田純一氏の「埃まみれの書棚から」の関連ページ
http://www.bunkaken.net/index.files/raisan/shodana/shodana19.htm
http://www.bunkaken.net/index.files/raisan/shodana/shodana20.htm

今の日本人で聖徳太子について悪いイメージを持つ人はほとんどいないと思うのだが、廃仏毀釈を行った側の考えでは、聖徳太子は仏教を擁護し天皇を蔑にした人物として糾弾する考えが強かったようだ。
この献納と下賜金がなければ、法隆寺も他寺と同じく、多くの宝物、仏像などが流出売却、あるいは棄却・焼却された可能性が高かったのではないか。

千早定朝

当時の管主千早定朝の大英断により聖徳太子にかかわる宝物の多くを、一番安全な皇室に献納することによって、法隆寺は国民の文化財を守り、自らも寺院として存続できる道を開いたのである。

しかしながら、1994年にフランスのギメ美術館で法隆寺にあった勢至菩薩像が発見されている。戒律が厳しく、管主のリーダーシップで立ち直った法隆寺ですら、仏像が流出したのだから、あとの寺院は推して知るべしである。
<ギメ美術館で発見された法隆寺の仏像>
http://www.photo-make.co.jp/hm_2/ma_20_4.html
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聖徳太子についての過去の常識はどこまで覆されるのか

以前このブログで、明治4年の寺領上知の令で法隆寺の境内地が没収され、収入源も断たれたうえに廃仏毀釈で堂宇を荒らされ、雨でも降ればあちこちに水が漏るような状態になっていたことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-80.html

この時期には僧侶の生活のために宝物を売りに出した寺院が多かったのだが、法隆寺は管主千早定朝の大英断により聖徳太子にかかわる宝物の多くを、一番安全な皇室に献納して国民の文化財を守り、1万円の下賜金を得て堂宇を修理し、金利を運営費に充てて寺院として存続できる道を開いたのである。
この時に皇室に献納した宝物は300点を超え、その中に「聖徳太子および二王子像」があり、現在皇室ゆかりの品として御物(宮内庁蔵)となっている。

聖徳太子

この「聖徳太子および二王子像」が、現存する最古の肖像画として昔の教科書や歴史書に必ず掲載されていたのだが、最近の教科書では「伝聖徳太子画像」と説明されているか、この画像も掲載されていないものが多いようだ。

Wikipediaによると、この太子像の制作時期は8世紀ごろとされているようだが他の説もあり、「中国で制作されたとする意見もあり、誰を描いたものかも含めて決着は着いていない」と書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%9C%AC%E5%BE%A1%E5%BD%B1

お札

この太子像は一万円札や五千円札の肖像画の原画に採用されて、長い間日本人に親しまれていたものなのだが、どういう経緯で急に「伝」が付されるようになったのだろうか。

昭和57(1982)年に、東京大学史料編纂所所長今枝愛真氏が「御物の聖徳太子像は実は聖徳太子ではない」という説を発表したことが、そのきっかけとなったようである。
今枝氏は太子像に装幀されていた絹地に「川原寺」と読める墨痕があることに注目し、もともと川原寺にあった肖像画が法隆寺に移されたものとする説を発表した。
「川原寺」は飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並ぶ飛鳥の四大寺に数えられ、7世紀半ばの天智天皇の時代に建立された大寺院であるが、今枝氏の説は聖徳太子の没(622)後およそ半世紀後を経て建設された川原寺に聖徳太子の画像があるのは不審であり、この肖像画が聖徳太子を描いたものとは特定できないというものなのだが、この墨痕は昭和に修理された掛け軸の布に書かれているもので、画像とは関係がないとする説もあるようで、どちらが正しいかはよくわからない。

法隆寺

そもそもこの太子像がいつどういう経緯で法隆寺に伝来したかについての記録は存在せず、院政期(12世紀中ごろ)に大江親通(ちかみち)が『七大寺巡礼私記』のなかで、「太子の俗形御影一鋪。件の御影は唐人の筆跡なり。不可思議なり。よくよく拝見すべし。」と書いているのが、判明している最も古い記録なのだそうだ。
我々は紙幣で何度もこの肖像画を見てきたので特に違和感を覚えないのだが、大江親通は、聖徳太子を描いたものにしては筆跡が唐風であり不思議な絵であるとの印象を持ったということである。
確実にわかっていることは、院政期には聖徳太子を描いたものとして伝わるこの肖像画が法隆寺に存在したという事だけなのだ。

学生時代に学んだ聖徳太子は、推古天皇の摂政となり、国政の改革と文化の交流を図った英雄的存在であった。603年の冠位十二階の制定、604年の十七条憲法制定、607年の遣隋使の派遣などが有名だが、『日本書紀』に書かれている太子の記述はあまりにも美化されており何となく嘘っぽい。

たとえば『日本書紀』にはこう書かれている。
「生而能言。有聖智。及壮、一聞十人訴。(太子は生まれて程なくものを言われたといい、聖人のような知恵をおもちであった。成人してからは、一度に十人の訴えを聞かれても、誤られなく、先のことまでよく見通された。)」(訳:講談社学術文庫『日本書紀下巻』p.87)

厩で生まれたのはキリストの生誕説に似て、生まれてすぐに喋ったという話は釈迦の逸話に似ており、成人してからのエピソードも信じがたいものがあるので、『日本書紀』における聖徳太子の記述をどこまで信頼できるかで、古くから議論があったようである。

最近では聖徳太子虚構説までが存在し、歴史学者の大山誠一氏の説が注目されているようだ。
Wikipediaの記述によると、大山説は、飛鳥時代に斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性まで否定するものではないが、推古天皇の皇太子かつ摂政として数々の業績を上げたことになっている聖徳太子は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった藤原不比等らの創作であり、架空の存在であるという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90

大山氏の考えでは、厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つは信頼できるが、それ以外の事績については書かれている史料そのものが厩戸皇子のかなり後の時代に制作されたものであり、矛盾する記述も多く虚構であるというもののようだ。

例えば『日本書紀』には厩戸王を「皇太子」の肩書で天皇に代わって政治を行ったと書かれているのだが、推古天皇の時代には「皇太子」という地位はなかったという。
また十七条憲法に使われている用語も、使われている用語や時代背景から推測して、『日本書紀』が書かれた時代に創造された可能性が高いとしている。ほかにも聖徳太子が執筆したとされる経典の注釈書『三経義疏(さんきょうぎしょ)』の一つである『勝鬘経義疏(しょうまんきょうぎしょ)』が中国の敦煌文書に酷似しており、偽物説が有力視されているというのだ。
こうして見ていくと、たしかに聖徳太子の実在を示す確かな史料は存在しないことになってしまう。やはり聖徳太子は『日本書紀』の中で創作された人物なのだろうか。

藤原不比等

仮に聖徳太子が架空の人物だとした場合に、藤原不比等らが聖徳太子という偉人を捏造したのは何のためなのか。
藤原不比等といえば、父は乙巳の変(大化の改新)で蘇我入鹿を滅ぼした中臣鎌足である。不比等には父・鎌足の正当性を主張するために、推古朝で活躍した蘇我入鹿の祖父・馬子の功績を奪い取り、蘇我氏を貶めるために聖徳太子という人物を捏造したというのだが、結構説得力がある。

ところで、聖徳太子が架空であるとまでは言わないが、十七条憲法が後世の創作であるという説は古くからあり、江戸後期のである狩谷棭斎(かりやえきさい)という考証学者は文政12年(1829)頃に書いた『文教温古批考』の中で次のように述べている。
「憲法を聖徳太子の筆なりとおもえるはたがへり。是は日本紀作者の潤色なるべし。日本紀の内、文章作家の全文を載たるものなければ、十七条も面目ならぬを知るべし。もし憲法を太子の面目とせば、神武天皇の詔をも、当時の作とせんか。」

戦前を代表する歴史学者である津田左右吉も、十七条憲法が後世の創作であるとの説を展開している。
津田の説によると、例えば第12条の「国司(くにのみこともち)」という言葉が大化の改新後に登場した官制であり、推古朝当時の政治体制にはなかったことなど時代背景にずれがあることから、十七条憲法は、太子信仰が高まった天武・持統朝ころにつくられたということになる。

しかし大山説も津田説も、推古朝の時代の官制を知らない者にとってはどうもすっきりしない。

『日本書紀』が完成したのは養老4年(720)で、聖徳太子が亡くなって98年も後の事である。『日本書紀』の記述が正確でなかったり、かなり脚色があることはあることは容易に想像できるが、小野妹子が遣隋使として隋に朝貢した際に、有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」という国書を渡しているはずだ。この文書は聖徳太子が書いたものだと学生時代に学んだことを思い出したので、『隋書倭国伝』を取り出して読んでみた。

講談社の学術文庫に隋書倭国伝の現代語訳が出ている。隋にはわが国から2度使者を派遣し、隋の使者が倭国に来た記録が残されている。
1回目の記録は、
「隋の文帝の開皇二十年(600年、推古天皇8年)、倭王で、姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雞弥(あほけみ)と号している者が、隋の都大興(陝西省西安市)に使者を派遣してきた。…
倭国王の妻は雞弥(けみ)と号している。王の後宮には女が六、七百人いる。太子は名を利歌弥多弗利(りかみたふり)という。城郭はない。」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.196)

煬帝

2回目の記録は、
「隋の煬帝(ようだい)の大業三年(607年)、倭国の多利思比孤(たりしひこ)が、使者を派遣して朝貢してきた。その使者が言うには、
『大海の西方にいる菩薩のような天子は、重ねて仏教を興隆させていると聞きました。それ故に使者を派遣して天子に礼拝させ、同時に僧侶数十人を引き連れて仏教を学ばせようと思ったのです』
そして倭国の国書にはこうあった。
『太陽が昇る東方の国の天子が、太陽の沈む西方の国の天子に書信を差し上げる。無事でお変わりないか…』
煬帝はこの国書を見て不機嫌になり、鴻臚卿(こうろけい)にこう言った。
『蕃夷からの手紙のくせに礼儀をわきまえておらぬ。二度と奏上させることのないように。』」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.199-200)

その翌年に隋が倭国に使者を派遣した記録は、
「翌大業四年(608年)、煬帝は文林郎裴世清(ぶんりんろうはいせいせい)を使者として倭国に派遣した。…十余国を過ぎて海岸に到着する。竹斯国から東の諸国はみな倭国に属する。
…倭国の都に到着すると、倭国王は裴世清と会見して大いに喜んで…」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.200)

と隋の使者は倭国王に面談したことは確実である。

岡田英弘氏は『日本史の誕生』(ちくま文庫)のなかで、この『隋書』の記述から『日本書紀』の問題点をわかりやすく説明しておられる。
「(以上の隋書の記録の部分は)『日本書紀』では女帝である推古天皇の在位中であり、聖徳太子が摂政だったことになっている。いうまでもなく推古天皇は女王だ。ところが『隋書』では、この時期に倭国の王位にあったのは、アマ・タラシヒコ・オホキミという人で、名前からみて男王であることには間違いがなく、しかも裴世清はこの男王自身に直接会って話をしている。摂政である聖徳太子を王と取り違えたのだという説は成り立たない。なぜなら太子は王と王妃のほかにいたと、『隋書』にちゃんとかかれているからだ。そういうわけで、「日出づる処の天子」の国書を送ったのは聖徳太子ではなく、『日本書紀』には名前がのっていない、誰か別の倭王だったことが分かる。」

裴世清は608年に日本に来て倭国王と面談している。王座についている人物が女性であれば、その旨を報告しているはずだ。
また裴世清が訪れた国が別の国であったわけでもなかった。『隋書』には「竹斯国から東の諸国はみな倭国に属する。」と書かれている。「竹斯国」とは「筑紫国」のことであり、裴世清が訪れた国が倭国であることは間違いないだろう。
『隋書』が倭国についての記述を歪める動機は存在しない。とすれば、『日本書紀』は7世紀初めの時代について、重大な嘘をついているとしか考えられないのだ。

『日本書紀』は天皇の命を受けて、舎人親王が編集したことになっているが、中立的な立場で書かれたものではないのだろう。

石舞台

多くの論者が指摘しているように、藤原氏の政治的思惑によって記述が歪められているという可能性が高いのだとすれば、聖徳太子の今までの常識がさらに覆され、これまで極悪人扱いを受けてきた蘇我馬子が見直される時が来るのかもしれない。
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蘇我氏は本当に大悪人であったのか

前回は、聖徳太子の業績とされていたことの大半が『日本書紀』作者の創作だとする説を紹介し、『隋書倭国伝』の記述を読むと遣隋使を派遣した時代の倭王は『日本書紀』では推古天皇(女王)であるが、『隋書倭国伝』では男王となっていて明らかに矛盾しており、『日本書紀』が嘘を書いている可能性が高いことなどを書いた。

いつの時代もどこの国でも、歴史というものは勝者が都合の良いように書き換えてきたことを何度もこのブログで書いてきた。
日本書紀』も勝者が編纂した歴史であり、真実が書かれている部分がそれなりにあるとは思うものの、一方で勝者は必要以上に美化され、反対勢力は必要以上に貶められているという視点で読むことが必要であると思うのだ。

日本書紀』が完成したのは養老4年(720)で現存する最古の正史であるのだが、もっと古い史書が過去にはあった。
推古朝の600年頃に継体天皇の系図を記した『上宮記』、7世紀には記紀編纂の基礎資料となった『帝紀』『旧辞』、620年には聖徳太子蘇我馬子が編纂した『天皇記』『国記』という書物が存在したことが分かっているのだが、最後の『天皇記』『国紀』は皇極4年(645)の6月「乙巳の変(いっしのへん)」*の際に多くを失ってしまう。『日本書紀』にはこう書かれている。
(*今の歴史教育では蘇我入鹿暗殺事件を「乙巳の変」と呼び、後に行われた一連の政治改革を「大化改新」と区別するのが一般的)

日本書紀下

「己酉、蘇我臣蝦夷等臨誅。悉焼天皇記。国記。珍宝。船史恵尺即疾取所焼国記而奉献中大兄。(13日、蘇我臣蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。船史恵尺[ふねのふびとえさか]はそのとき素早く、焼かれる国記を取り出して中大兄にたてまつった。)」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.155)

『天皇記』『国記』は蘇我氏の立場から書かれた歴史であったはずであり、普通に考えれば、蘇我氏としてはその歴史書を隠してでも守ろうとすることはあっても、自ら火をつけることは考えにくい。
『日本書紀』によると、『天皇記』は蘇我氏によってこの時に焼かれ、『国記』は焼かれる前に取り出して中大兄皇子(後の天智天皇)に奉献されたとあるが、その『国記』も現存しない。いずれも中大兄皇子側で焚書処分された可能性を感じている。

いつの時代も、どこの国でも、一国を支配する立場に立つためには、目の前の政敵を打ち倒すことが必要になる。選挙のない国や時代においては、多くの場合は政敵を殺すぐらいのことをしなければ、のし上がる方法がないのだ。またその場合に、政敵の命を奪う自らの行動を正当化すために余程の大義名分がなければ、ただの犯罪者になってしまうだけだ。

そこで、クーデターが成功し権力を掌握できた場合には、「歴史」をどう描き、どう広めるかが重要なポイントとなってくる。歴史を編纂する立場に立つということは、どの勢力に権力の正統性があるかを明らかにし、その国・その時代の言語空間を支配するという重要な意味合いがあるのだと思う。

学生時代に、「蘇我氏」と言えば天皇家を乗っ取り国家を乗っ取ろうとした大悪人だと教わってきた。その根拠はすべて『日本書紀』にあるのだが、そもそも『日本書紀』は中大兄皇子や中臣鎌足の立場を擁護するために記述されたものではなかったのか。

普通に考えれば、中大兄皇子・中臣鎌足は蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自害させて政権を奪い取ったのであり、その行動に正当性があることを主張しようと思えば、蘇我一族が余程の大悪人でなければ立論が困難であったはずだ。この点については以前にこのブログで『忠臣蔵』のことを書いたのと同じ構図にある。
とすれば、『日本書紀』における蘇我氏に関する記述をそのまま鵜呑みにすることは危険ではないのか。

『日本書紀』の文章を読む前に、蘇我氏の家系図と藤原氏の家系図を確認しておこう。
蘇我氏系図

藤原家系図

上の図がネットで見つけた蘇我氏の家系図と藤原氏の家系図だが、蘇我氏は古くから天皇家と姻戚関係を結んで勢力を伸ばし、乙巳の変が起きた当時はすでに完成の域に達しており、後は子孫さえ増えれば安泰といえる状況にあった。
一方、中臣鎌足はこの頃突然歴史に現れ、中臣(藤原)氏が天皇家との姻戚関係を結ぶのは、鎌足の子の藤原不比等の時代以降である。
結果だけを見れば蘇我氏の立ち位置を、藤原氏が奪い取ったようにも思える。天皇家を乗っ取り、国家を乗っ取ろうとしたのは藤原氏の方ではなかったのか。

『日本書紀』で、蘇我氏の専横にかかわる叙述が目立つのは皇極天皇(35代:在位642-645の女帝)の治世下からだが、『日本書紀』に記述されている蘇我氏の悪行とはどんなことなのかを拾ってみよう。

皇極元年(642)の出来事にこんな記録がある。
「(蘇我蝦夷は)また国中の百八十にあまる部曲(かきのたみ:豪族の私有民)を召使って、双墓(ならびのはか:大小二つの円墳を連接したもの)を生前に、今来(いまき:御所市東南)に造った。一つを大陵(おおみさぎ)といい、蝦夷の墓。一つを小陵(こみさぎ)といい、入鹿の墓とした。死後を他人の勝手に任せず、おまけに太子の養育料として定められた部民を、すべて集めて墓の工事に使った。このために上宮大娘姫王(聖徳太子の娘)は憤慨され嘆いていわれた。『蘇我臣は国政をほしいままにして、無礼の行ないが多い。天に二日なく地に二王は無い。何の理由で皇子の封民を思うままに仕えたものか』と。こうしたことから恨みを買って、二人は後に滅ぼされる。」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.140)

次は皇極二年(643)の出来事だ。
「(十月)六日、蘇我大臣蝦夷は病のために登朝しなかった。ひそかに、紫冠を子の入鹿に授けて大臣の位になぞらえた。またその弟をよんで物部大臣といった。大臣の祖母(馬子の妻)は物部弓削大連(守屋)の妹である。母方の財力によって、世に威勢を張ったのである。 十二日、蘇我臣入鹿は独断で上宮(聖徳太子)の王たち(山背大兄王)を廃して、古人大兄(ふるひとのおおえ:舒明天皇の皇子、母は蘇我馬子の女)を天皇にしようと企てた。」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.143)

その直後の11月に、蘇我入鹿は山背大兄王(やましろのおおえのみこ:聖徳太子の子)を襲撃する。斑鳩寺とは法隆寺の事である。

「十一月一日、蘇我入鹿は小徳巨勢徳太臣・大仁土師娑婆連を遣わして、山背大兄王らを不意に斑鳩に襲わせた。…山背大兄は…隙を見て逃げ出し生駒山に隠れた。(中略) …山背大兄らは山から出て、再び斑鳩寺へ入られた。兵らは寺を囲んだ。山背大兄王は三輪文屋君を通じて、将軍らにつげさせ『自分がもし軍をおこして入鹿を討てば、勝つことは間違いない。しかし自分一身のために、人民を死傷させることを欲しない。だからわが身一つを入鹿にくれてやろう』といわれた。ついに子弟妃妾と諸共に自決してなくなられた。おりから大空に五色の幡や絹笠が現われ、さまざまな舞楽と共に空に照り輝き寺の上に垂れかかった。
 仰ぎ見た多くの人が嘆き、入鹿に指し示した。するとその幡・絹笠は、黒い雲に変わった。それで入鹿は見ることもできなかった。蘇我大臣蝦夷は、山背大兄王らがすべて入鹿に殺されたと聞いて、怒りののしって『ああ、入鹿の大馬鹿者め。悪逆をもっぱらにして、お前の命は危ないものだ』といった。」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.143~146) と、かなり嘘っぽい文章が続く。

幡や絹笠の話は論外だが、多くの論者が指摘するように、山背大兄王が戦えば勝てる状況下でありながら、一族全員を集めて自決してしまうというのはあまりに不自然である。
しかもこれだけの事件が法隆寺を舞台に起こったのであれば、法隆寺に聖徳太子の子である山背大兄王の墓があってもおかしくないのだが存在しないし、法隆寺が上宮王家を祀った気配もないというのだ。そもそも、山背大兄王の墓が国内のどこにあるのかすらはっきりしていないのだそうだ。
それよりももっとおかしなこととして、山背大兄王の滅亡に関与した人物が、蘇我氏滅亡後に栄転していることを指摘しておきたい。
蘇我入鹿が山背大兄王を襲撃させた巨勢徳太は、孝徳天皇の御代の大化5年に左大臣に任命されているのだそうだ。
また『聖徳太子伝補闕記』にはこの事件の後、山背大兄王の息子弓削王を大狛法師という人物が殺したと書かれているのだが、この大狛法師は大化元年8月に仏教界の最高指導層である「十指(とたりののりのし)」の筆頭に任じられているのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%83%8C%E5%A4%A7%E5%85%84%E7%8E%8B
http://www.ten-f.com/yamashiro-ooe.htm
最大の政敵である蘇我蝦夷・入鹿親子がこの世に存在しない中で『日本書紀』が編纂されているのだから、すべての悪事を政敵に擦り付けることは容易であろう。山背大兄王一族を襲撃させたのは、中大兄皇子、中臣鎌足に近い人物の可能性を感じるのだ。

話を『日本書紀』の文章に戻そう。
この山背大兄王一族が滅亡する事件の翌(皇極4年[645])の6月に、飛鳥板葺の宮大極殿で中大兄皇子らの手によって蘇我入鹿が斬られることになる。これが「乙巳の変」である。 当初の打ち合わせでは、入鹿を斬りつけるのは佐伯連子麻呂と葛城稚犬飼連網田の2名であった。『日本書紀』にはこう書かれている。

乙巳の変

「…中大兄は子麻呂らが入鹿の威勢に恐れてたじろいでいるのを見て、『ヤア』と掛け声もろとも子麻呂らとともに、おどりだし、剣で入鹿の頭から肩にかけて斬りつけた。入鹿は驚いて座を立とうとした。子麻呂が剣をふるって片方の脚に斬りつけた。入鹿は御座の下に転落しむ、頭をふって『日嗣の位においでになるのは天子である。私にいったい何の罪があるか、そのわけを言え。』といった。
 天皇は大いに驚き中大兄に、『これはいったい何事が起ったのか』といわれた。中大兄は平伏して奏上し、『鞍作(くらつくり:入鹿)は王子たちをすべて滅ぼして、帝位を傾けようとしています。鞍作をもって天子に代えられましょうか』といった。
…古人大兄は私宅に走り入って人々に、『韓人(からびと)が鞍作臣を殺した。われも心痛む』といい、寝所に入ってとざして出ようとはしなかった。…」(訳文:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.154~155)

この中大兄皇子の奏上を読めば、入鹿暗殺の大義名分は山背大兄王一族の滅亡事件にありその延長線上に蘇我氏による天皇家乗っ取りを挙げている。しかし、山背大兄王の事件に蘇我入鹿が関与していなかったとすれば、乙巳の変は単なる暗殺事件で、中大兄皇子・中臣鎌足はただの暗殺者にすぎず、英雄になるようなことはあり得ないことになる。
この事件の後に中大兄皇子は皇位継承権を持つ古人大兄皇子(母:蘇我馬子の娘)を殺害し、蘇我氏でありながらクーデターに協力した蘇我倉山田麻呂を自害に追い込んでいる事実をどう読めばいいのか。
また古人大兄皇子が『韓人が鞍作臣(蘇我入鹿)を殺した。われも心痛む』と言ったのはどういう意味なのか。この点についても諸説があり、中臣鎌足が百済人であり百済人に蘇我入鹿が殺されたという解釈や、混乱する半島情勢の考え方の行き違いで殺されたという解釈があるようだが、いずれにしても蘇我氏の専横や天皇家を乗っ取ろうとしたから殺されたという多数説とは違うことを言っていることになる。

加藤謙吉

最近では蘇我氏の業績を見直す気運が高まっているらしく、歴史学者の加藤謙吉氏は蘇我氏こそが律令政治の推進役で改革者であったと主張しておられるという。
律令制度の前身に屯倉制があり、それまでは豪族層が差し出す部民によって支えられていた王家の財政を、直轄領を増やすことで独立させようとしたのは蘇我氏であったし、律令制の整備は蘇我氏が行っていたという説のようだ。
その説が正しいとすれば中大兄皇子・中臣鎌足は蘇我氏による改革を潰したという事になってしまい、昔学んだ歴史と正反対になることも考えられないこともなさそうだ。

関裕二

また作家の関裕二氏は、大化二年(646)の「改新の詔(みことのり)」の中には、後世になって使われるようになった用語が混じっており、『日本書紀』編纂者が後世に書き加えた可能性を指摘しておられる。(宝島社『捏造だらけの日本書紀』p.38-39)

さらには蘇我氏が天皇であったという説もネットではかなりヒットする。
蘇我氏天皇説は、前回紹介した『隋書倭国伝』の遣隋使の記述で倭国王が男であったことと矛盾せず、なぜ蘇我氏の邸宅に『天皇記』『国記』が保管されていたのか、なぜ蘇我蝦夷の邸宅を「上の宮門」(かみのみかど)、子の入鹿の邸宅を「谷の宮門」(はざまのみかど)と呼んだかなどということから考えるとなかなか説得力があるのだ。

今後もし『天皇記』『国記』の写本が発見でもされれば、日本の古代史は全面的に書き換えられることになると思うのだが、古代史には同時代に残された史料が少なく『日本書紀』に頼りすぎることが真実の解明を難しくしているような気がするのだ。

子供の時から聖徳太子や中大兄皇子が古代の英雄で蘇我氏は悪者だと教わり、長い間そのように考えてきたのだが、よくよく考えると、聖徳太子を英雄に描けば描くほど、太子の子供である山背大兄王を死に追いやった蘇我入鹿の悪が際立つことになり、その悪を征伐した中大兄皇子や中臣鎌足がまた英雄に見えてくるという単純な勧善懲悪の物語のカラクリに、長い間騙されていたのかも知れない。

どこの国でもいつの時代でも、正史というものはそれなりに真実が書かれてはいるのだろうが、当時の権力者を擁護するために真実が捻じ曲げられ、反対勢力は必要以上に貶められる傾向が強いことに留意して読む姿勢が必要だと思う。
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聖徳太子の時代にわが国は統一国家であったのか~~大和朝廷の統一1

学生時代に、遅くとも4世紀の半ばまでには大和朝廷によってわが国が統一されたことを学んだ記憶があるが、最近の教科書もおおむね同様な結論になっているようだ。

たとえば『もういちど読む山川日本史』の本文では「大和朝廷」という言葉は使わずに「ヤマト政権」という表記をし、「ヤマト政権」が国内統一を行なった時期については本文には明確な表現がないのだが、巻末の年表で西暦300年と400年の間に、「この頃大和王権、統一進む」と書いている。
仁徳天皇陵
その根拠について最近の教書に書かれているのは、3世紀後半に近畿地方や瀬戸内海沿岸・九州北部に古墳が造られ始め、4世紀は前方後円墳という特異な形状の古墳が多数築かれ、『山川日本史』による解説によると
「このような大きな墳丘をもつ古墳は、これまでにみられなかった新しい政治的支配者の出現を示している。その中心は大和であったが、前方後円という一定の墳丘の形が地方に広まったことは、地方の首長がしだいにヤマト王権の身分秩序に編入され、服属するようになったことを物語るものであろう。」(p.14)
と記述されている

しかしよくよく考えると、文化が伝播することと特定勢力が領土を拡げることがイコールであるはずがなく、また古墳などの遺跡調査だけで大和朝廷の統一時期を4世紀前半と推定できるものでもないだろう。
昔の教科書にどこまで書かれていたかは記憶していないが、4世紀前半に大和朝廷による統一がなされたとする論拠として『日本書紀』における記述が挙げられていたと思う。ポイントになるのは崇神天皇と景行天皇だ。

第10代崇神天皇は3世紀に実在したと考えられている天皇で、『日本書紀』の記述によると、天皇は四人の皇族を将軍に任命し、北陸・東海・西道(にしのみち:山陽)・丹波(山陰)に派遣した。この4人のことを「四道将軍」と呼ぶが、「四道将軍」は敵対する勢力を討ち破り、天皇は「御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)」の称号を得たという。
この称号の「御肇国」の意味は「はじめて整った国を治める」という意味で、ちなみに初代の神武天皇も「始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)」と呼ばれ、この意味は「はじめて天下を治める」という意味なのだそうだ。

また第12代景行天皇は4世紀前半に活躍したとされる天皇で、『日本書紀』の記述によると、皇子の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を遣わして、九州の熊襲と東国の蝦夷を征討したことが書かれている。

今の教科書では、神話や伝承を表に出さず、一見科学的な考古学の成果を強調して、4世紀後半以降に皇室の祖先を中心とする勢力がわが国を統治した、という結論だけが承継されている印象があるのだが、そもそもこの結論は信用するに足るものなのだろうか。
隋書倭国伝

中国の正史である『隋書倭国伝』に、倭国が隋に2度使者を派遣し、隋も倭国に1度使者を派遣した記録がある。それをよく読むと、わが国の通説となっている歴史解釈と矛盾することが書かれていることに気が付く。

一度このブログで聖徳太子のことを書いたときにこの部分を引用したことがあるが、再度引用させていただく。

1回目の記録は、
隋の文帝の開皇二十年(600年、推古天皇8年)、倭王で、姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雞弥(あほけみ)と号している者が、隋の都大興(陝西省西安市)に使者を派遣してきた。…
倭国王の妻は雞弥(けみ)と号している
。王の後宮には女が六、七百人いる。太子は名を利歌弥多弗利(りかみたふり)という。城郭はない。」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.196)
煬帝

2回目の記録は、
隋の煬帝(ようだい)の大業三年(607年)、倭国の多利思比孤(たりしひこ)が、使者を派遣して朝貢してきた。その使者が言うには、
『大海の西方にいる菩薩のような天子は、重ねて仏教を興隆させていると聞きました。それ故に使者を派遣して天子に礼拝させ、同時に僧侶数十人を引き連れて仏教を学ばせようと思ったのです』
そして倭国の国書にはこうあった。
太陽が昇る東方の国の天子が、太陽の沈む西方の国の天子に書信を差し上げる。無事でお変わりないか…』
煬帝はこの国書を見て不機嫌になり、鴻臚卿(こうろけい)にこう言った。
『蕃夷からの手紙のくせに礼儀をわきまえておらぬ。二度と奏上させることのないように。』」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.199-200)

その翌年に隋が倭国に使者を派遣した記録は、
翌大業四年(608年)、煬帝は文林郎裴世清(ぶんりんろうはいせいせい)を使者として倭国に派遣した。…
倭国王は小徳阿輩台(しょうとくあほたい)を数百人の供揃えで派遣して、武装した兵隊を整列させ、太鼓・角笛を鳴らして隋使裴世清を迎えさせた。倭国王は裴世清と会見して大いに喜んで
…」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.200)

と、隋の使者は倭国王に面談しているのだが、『隋書倭国伝』に書かれている「倭王」とはいったい誰のことなのか。
普通に考えれば天皇という事になると思うのだが、その頃在位していた天皇は推古天皇(在位592-628年)であり女帝である。しかし第1回目の使節派遣(600年)の記録では倭国王の妻の名前が記されている。『隋書』の記述だと、当時の倭国王は男性でなければならないのだ。しかも『隋書』には倭国王の太子の名前まで記されている。
日本書紀下
これらの『隋書』の記述に対応する『日本書紀』の文章を探すと、第1回目の使節派遣の記録がない。第2回目の使節派遣については確かに推古天皇15年(607)に記事はあるのだが、極めて短いものである。
「秋7月3日、大礼小野臣妹子(だいらいおののおみいもこ)を大唐(もろこし)に遣わされた。鞍作福利(くらつくりのふくり)を通訳とした。」(訳:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.99)

有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す…」という国書のことは、『日本書紀』にはどこにも書かれていない。
聖徳太子
学生時代に聖徳太子が遣隋使を派遣したと学んだ記憶があるのだが、『日本書紀』の遣隋使に関わる記述には聖徳太子のことが全く書かれていないことは意外だった。
聖徳太子は推古天皇即位後5ヶ月後に19歳で皇太子となり、摂政として天皇の補佐に当たっており、『日本書紀』には「皇太子」という表記で、聖徳太子の事績が記録されているのに、なぜか遣隋使に関しては、翌年に小野妹子が帰朝し隋の使者裴世清を饗応した記事も含めて、どこにも「皇太子」という字が出てこないのである。
このことは次のURLの『日本書紀』の全文テキストファイルを全文検索することで、誰でも確認することが出来る。
http://www.j-texts.com/jodai/shokiall.html

今までの常識にこだわらずに、『隋書』と『日本書紀』の遣隋使に関する記述を読み比べてほしい。普通の人が普通に読めばどちらかの記述がおかしいことになるのだが、『隋書』には嘘を書く動機は考えにくいので、以前このブログで聖徳太子のことを書いたときには『日本書紀』の記述には重大な嘘があるとしか考えられないと書いた。
その時は、それ以上深くは考えなかったが、最近読者の方から別の見方があることを教えて頂いた。その見方というのは、わが国はその時点では統一国家ではなかったというものなのだが、紹介いただいた論文にすごく説得力があるのだ。

その詳しい内容は次回以降に書くことにするが、その情報を知ってから好奇心に火がついて、もう一度『隋書』を読み直してみた。
隋の煬帝が608年に裴世清を使者として倭国に派遣したときに、どのようなルートで倭国に着いたかが書かれている。その部分を紹介したい。

「翌大業四年(608年)、煬帝は文林郎裴世清を使者として倭国に派遣した。裴世清はまず百済(ひゃくさい)に渡り、竹島(ちくとう)*に至った。南方に?羅国(たんらこく)*を遠望しながら、遥かな大海の中にある都斯麻国(つしまこく)*に至り、そこからまた東に航海して一支国(いきこく)*に着き、さらに竹斯国(つくしこく)*に至り、また東に行って秦王国(しんおうこく)*に着いた。秦王国の人々は中国人と同じである。それでそこが夷洲(いしゅう)と思われるが、はっきりしない。また、十余国を過ぎて海岸に到着する。竹斯国から東の諸国はみな倭国に属する**。」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.200)
*竹島(不明。済州島の近くの多島海のどれかの島であろう)、?羅国(済州島)、都斯麻国(対馬)、一支国(壱岐)、竹斯国(筑紫)、秦王国(不明。山口、広島県方面か。新羅系の秦氏の居住地とも考えられる。)
**原文では「竹斯國以東皆附庸於俀」

最後の文章は筑紫国と倭国とは別の国であったと読むのが普通ではないのか。そもそもこの時に隋と交渉していたのは、大和朝廷と関係のない国家であったという解釈もありうるのではないか。そう考えれば、先ほどの『隋書倭国伝』の記述も理解できるものとなる。

いろいろ調べていくと、この当時わが国が統一国家でなかったことの証拠になる記録が、別の中国の正史に明確に書かれていることがわかった。
そのことを書き出すとまた長くなるので、次回はその中国の正史の内容を紹介することから書き始めることとしたい。
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『日本書紀』は、わが国が統一国家でなかった時代を記述している~~大和朝廷の統一3

前回の記事で中国の正史である『旧唐書』に「倭国」と「日本国」とは別の国として書かれていることを紹介した。

そこには「倭国」は昔の倭の奴国であり、代々中国に使節を送っていた国であることが明記されている。
後漢書』には倭奴国が使節を派遣した際に光武帝が金印を授けたとの記録があり、その金印が江戸時代に福岡市東区の志賀島で発見されている。『隋書』には阿蘇山のことが書かれている。普通に考えれば、「倭国」は九州にあったと考えるしかない。
そして『旧唐書』には、「日本國者倭國之別種也」と書かれており、「倭国」と「日本国」とは別の国であると当時の中国人は判断したのだ。

中国と古来通交のあった倭国日本国が併合して倭国の歴史をも奪いとったのか、それとも倭国が日本国を併合して新しい国名を「日本国」としたのか、諸説があって当たり前なのだが、わが国の古代史学界では4世紀中ごろには天皇家を中心とする勢力によりわが国は統一されていたことが通説になっている。この通説の根拠は『日本書紀』を重視しているところにあるのだが、この説は明らかに中国の正史と矛盾している。

要するにわが国の大半の古代史学者は、4世紀中ごろに統一されたとする通説と矛盾する資料に、長い間目を塞ぎ続けているのである。
日本書紀

しかし、わが国の古代史学者が重視している『日本書紀』のなかに、わが国が統一国家でなかった事の重要なヒントがあるという、目からウロコの落ちるような論文がある。
このブログの読者の方から教えて頂いたのだが、1988年に中小路駿逸氏(元追手門学院大学教授)が書かれた「『日本書紀』の書名の『書』の字について」という論文がそれである。
次のURLでその全文を読むことが出来る。
http://5432-7904.at.webry.info/201603/article_6.html

この論文は、『日本書紀』が編纂された頃の我が国は統一国家でなかった事を鮮やかに証明しているのだが、なぜかわが国の古代史学者からはほとんど無視されているようなのだ。
この論文の一部を引用しながら、この論文の内容を紹介することにしたい。

まず、『日本書紀』に次いで編纂された『続日本紀』には「書」という文字が使われていないという点に中小路氏は注目して、『日本書紀』の書名を決定する際に参考にしたであろう中国の歴史書のうち、「書」という字を国の名前のあとに付けた歴史書は、どのような歴史書であったかを検討するところから論旨が展開されていく。
中国の歴史書を年代順に並べると、『史記』、『漢書』、『後漢書』、『三国志(『魏書』『蜀書』『呉書』からなる)』、『晋書』、『宋書』、『南宋書』、『梁書』、『魏書(北魏書)』、『北斉書』、『周書(北周書または後周書)』、『隋書』、『南史』、『北史』となるのだそうだが、「書」という字で終わるものばかりではないのだ。

しばらく、中小路氏の文章を引用しながら説明する。
「すなわち、その書名に『史』を有する史書とは、複数の王朝についてその継起順に、本紀をまず掲げ、ついで列伝をつらねた体裁の史書なのである。
 では『志』のいた史書とは何か。
 …同時期に鼎立した三つの王朝のそれぞれについて紀伝体で叙述した三つの書を並列した体裁の史書である。つまり、たがいに並立した複数の王朝のなかの一王朝ごとに叙述した紀伝体史書を、全部並べて収めたのが『志』なのである。」(p.5-6)

次にいよいよ、「書」を有した史書の解説に入る。
「かくして、つまるところ、『なになに書』という史書は、何か。
 継起し、ときには並立しつつ興亡・交替した複数の王朝のうちの一つについて叙述した紀伝体史書。これが『なになに書』なのである。
 言いかえると、『書』に国号を冠した史書は、そこに冠せられた国以外に、継起、あるいは並立しつつ興亡した別の国が存在したことを、前提とし、ないしは指示しつつ書かれているのである。」(p.6)

そして、こう述べている。
「かれ、あるいはかれらは、問題の『書』の字の意味を、前例により知っていた。ゆえに『書』の字を入れたのである。
言いかえると、かれ、あるいはかれらは、この列島上にかれらの属する王朝以外に、それに先住し、または並立した、一つ以上の王朝があったことを知っており、その事実を知ったうえで、ただ、かれらの属する一王朝のみについて、その歴史を叙述した。すなわちこの書物の書名の『書』の字は、八世紀の天皇家の王朝とは別の、それに先住し、もしくは並立した1つ以上の王朝の存在を、前提とし、かつ指示しているのである。」(p.7-8)

さらに中小路氏は、『日本書紀』にも『古事記』にも古来わが国は一つの王朝であったとはどこにも書かれていないと述べている。これは重要な指摘である。
神武天皇
天照大神の孫にあたる人物の子孫である神武天皇が「東征」して、大和に来てそこで即位して初代王となったことが『日本書紀』に記されているが、「東征」の出発地である九州を統治していたとは書かれておらず、「東征」して大和に至った段階ではじめて「治」の字が用いられていることを指摘され、こう推理している。

こういうことが起こり得るのは、昔の王の“傍流の子孫”、すなわち代々の王位を受け継がなかった子孫のひとりが、本流とは別の一王権を、あらたに樹立したこと以外の何であろう。
 すなわち『紀』の本文は“わが朝”は古き九州の初代王の“傍流の子孫のひとり”を初代王としてはじまったのだ」と、明白に告げているのである。『古事記』の記載するところも、これと別段矛盾しない


このように受け取れば、自動的に、この列島上には九州の本流と、大和にできたそれの分流と、すくなくともこの2つの王権が――それら両者の関係が、ただの“並立”であるか、一方が他方に“統属”したかたちか、そのいずれでもないかたちのものであったかはともかく――存在していたとしるされているのだと、認めざるをえなくなること、必然である。」(p.11)

そう述べたあと、中小路氏は従来の日本古代史学会の研究手法を厳しく批判している。

「…従来の日本古代史に対する人々の思考の手順は、どうやら、おおむね次のようなものであったらしいのである。
まず、歴史について、特定の骨組みを、権威あり、かつ自明して不動のものとして据え、これを思考の前提とする。
その前提に合うように史料を処理し、あるいは独自の解釈を加え、ときには史料自体の文字を取り替え、どうしても前提に合わない箇所については、その箇所自体が虚偽もしくは錯認の所産なのだと見なすか、もしくはその箇所をまったく無視する

そうやって、前提に合う範囲内で何らかの答えを出す。この場合史料の処理のしかたが研究者によって異なるから、随所に複数の答えが生じ、日本古代史は謎だらけのありさまとなり、そして、そうなった原因は、史料自体の不備に帰せしめられる。
そして、例の不動の前提の“本来の根拠”については、一切これを問わない。」(p.15)

このようなスタンスは、ある人に言わせれば、カルトのようなものである。これでは、戦前から続く古代史観が抜本的に変わることはあり得ず、いつまでたっても真実に到達することはできないだろう。

では、わが国が統一されたのは、本当はいつ頃なのだろうか。
わが国は『日本書紀』以降漢文体の正史が次々と書かれた。
『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』を『六国史』と呼ぶのだが、この書名の中に『書』の字があるのは『日本書紀』だけである
続日本紀
また『日本書紀』神代から持統朝までが書かれており、『続日本紀』は文武朝から書かれているのだが、『日本書紀』が奏上されたのは文武天皇の次の元明天皇のさらに次の元正天皇の養老4年(720)である。
なぜ『日本書紀』は前代の元明朝末までが記されず、持統朝で筆を止められたのか
初期天皇系図
中小路氏はその理由を、こう記している。

持統朝から文武朝への受け渡しには、わが朝の歴史を二分するほどの、何か、重大な意味を持つ変化が伴っていたからだ。…
そして、その“変化”とは、以後の史書には書名に『書』の字を用いる理由をなくさせる性質のものなのであった


端的に言おう。
持統朝の末期にあたる時期において、それまで列島上の一地方王権であった大和の王権が、九州まで ――― そしておそらく間もおかず、東国まで ――― 統一的支配下におく、列島上唯一の代表的王権としての実態をそなえるにいたっていた。そして、…この王権は列島上に唯一の、卓越した王権としての名と形式とを具備するにいたった。…」(p.17)

なるほど、持統朝以前は大和朝廷以外に別の王朝があったと考えれば『古事記』にも『日本書紀』にも中国の正史にも矛盾することはないのである。「4世紀の後半までに大和朝廷により全国が統一された」とは記紀にはどこにも書かれていない事であり、後世の人間が勝手にそう考えただけのことなのだ。

中小路氏の論文を読んで、初めて知ったことがいくつかあるのだが、『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録があることもその一つである。
蘇我馬子が修行者を探し、播磨国に僧で還俗した恵便(えべん)という人物を仏法の師とし、仏教に帰依して仏殿をつくったことが、『日本書紀』に明記されているのだ。
播磨は今の兵庫県の南西部にあたる地域を指すが、『日本書紀』のこの記述は、大和よりも先に播磨に仏教が伝わっていたことを意味している。

ネットでいろいろ調べていると、貞和4年(1348年)頃に成立した『峯相記』という書物に、兵庫県姫路市西北部の峰相山にかつて存在した「鶏足寺」という寺のことが書かれているという。
『峯相記』によると「鶏足寺」は神功皇后が三韓征伐の際に連れてきた新羅の王子が草庵を建立したのが当寺の始まりで、その王子は敏達天皇10年(581)に没したと書かれているそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%8F%E8%B6%B3%E5%AF%BA_(%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%B8%82
この記録から「鶏足寺」は日本最古の寺院と呼ばれているようだが、この「鶏足寺」が存在していたのが播磨の国なのである。
鶴林寺
そういえば播磨地域には古刹が多い。さきほど『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録があると書いたが、蘇我馬子が仏法の師としたという恵便(えべん)法師の名が、加古川市にある鶴林寺(かくりんじ)の歴史にも出てくるのには驚いた。聖徳太子も恵便法師に教えを乞うたことが、鶴林寺のホームページにも書かれている。
http://www.kakurinji.or.jp/mainpage/top-kakurinji.htm
また揖保郡太子町には推古天皇14年に聖徳太子が建立した斑鳩寺(いかるがでら)がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%91%E9%B3%A9%E5%AF%BA_(%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E5%A4%AA%E5%AD%90%E7%94%BA)

ほかにも姫路市に随願寺(ずいがんじ)という寺があり、聖徳太子が高麗僧の慧便(えべん)に命じて開基した増位寺がその前身なのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8F%E9%A1%98%E5%AF%BA

聖徳太子
なぜ奈良から随分遠い播磨の地に、聖徳太子ゆかりの寺が多いのか長い間不思議に思っていたのだが、中小路氏の論文を読んですっきりした。
6世紀後半の敏達天皇の頃は、『日本書紀』に記述されている時代だ。
その頃わが国はまだ播磨国を領有しておらず、播磨国は独立した国であり仏教の先進国でもあったと解釈するのが正しい理解ということになるのではないか。
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関連記事

仏教伝来についての教科書の記述が書きかえられるのはいつか~~大和朝廷4

前回の記事で、『日本書紀』の「書」という文字は、日本列島の中に「日本国」とは別の有力な国家が存在していたことを意味しているという中小路駿逸氏の論文を紹介した。この論文を読むと、「4世紀中ごろまでに大和朝廷によってわが国の統一がされた」という日本史の常識に、誰しも大きな疑問を持つことになるだろう。

前回記事の最後に、『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録があることを書いたが、学生時代には「仏教伝来」は「538(ご参拝)」と年代を覚え、552年という説もあることを学んだ記憶がある。
584年説は中小路論文を読んで初めて知ったのだが、一体どの説が正しいのだろうか。

たとえば『もういちど読む山川の日本史』には、こう解説されている。
「百済の聖明王からの公式の仏教伝来の年代については、壬申年=552年と戊午年=538年の二説がある。」前者は『日本書紀』の説だが、その年が南都六宗の一つ三論宗で説く末法1年目にあたっており、それにあわせた可能性があること、記事のなかに金光明最勝王経の一節を書きかえた作文がまじっていることなどにより、信頼性が少ないといわれる。これに対し後者は、元興寺(飛鳥寺の後身)の由来を書いた『元興寺縁起』や聖徳太子の伝説『上宮聖法王帝説』が説くところで、これらの記事は『日本書紀』よりも古い史料にもとづいて書かれていると考えられ、当時の朝鮮半島の政治情勢からみても不自然ではないので、現在は538年の方が有力である。」(『もういちど読む山川の日本史』p.22)

いちおうもっともらしく書かれているが、古代史学は都合次第で『日本書紀』を重視したり軽視したりするところが面白い。
552年説、538年説、584年説は、どのような記録を根拠にしているのか、少し興味を覚えたので調べることにした。
日本書紀巻第19

まず552年説は『日本書紀』巻第十九欽明天皇13年(552)にこう書かれている。
「冬十月、聖明王は西部姫氏達卒怒唎斯致契(せいほいきしたつそつぬりしちけい)らを遣わして、釈迦仏の金銅像一軀・幡蓋(はたきぬがさ)若干・經論(きょうろん)若干卷をたてまつった。別に上表し、仏を広く礼拝する功徳をのべて『この法は諸法の中で最も勝れております。解り難く入り難くて、周公・孔子もなお、知り給うことができないほどでしたが、無量無辺の福徳果報を生じ、無上の菩提を成し、譬(たと)えば人が随意宝珠(物事がおもうままになる宝珠)を抱いて、なんでも思い通りになるようなものです。遠く天竺から三韓に至るまで、教に従い尊敬されています。それ故百済王の臣明(やつがれめい)は、つつしんで侍臣の怒唎斯致契(ぬりしちけい)を遣わして朝(みかど)に伝え、国中に流通させ、わが流れは東に伝わらんと仏がのべられたことを、果たそうと思うのです』といった。
この日天皇はこれを聞き給わって、欣喜雀躍され、使者に詔して『自分は昔からこれまで、まだこのような妙法を聞かなかった。けれども自分一人で決定しない。』といわれた。」(訳:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.35-36)
蘇我氏系図

欽明天皇は蘇我稲目と物部尾輿、中臣鎌子に意見を聞き、物部尾輿と中臣鎌子は「仏を参拝すると国の神の怒りを受けることになる」と反対したが、蘇我稲目だけが賛成したという。
そこで天皇は蘇我稲目に仏像などを授けて礼拝させることにしたのだが、後に国に疫病が流行し多くの死者が出た。物部尾輿、中臣鎌子はその原因は蘇我稲目が仏教を信奉したことにあるとし、天皇に仏像を捨てるべきであることを奏上し天皇もそれを認めたので、その仏像は難波の堀江に流し捨てられたことが『日本書紀』に明記されている

山川日本史によると、この『日本書紀』の記録については、「その年が南都六宗の一つ三論宗で説く末法1年目にあたっており、それにあわせた可能性があること、記事のなかに金光明最勝王経の一節を書きかえた作文がまじっている」ことを根拠に、この記録の信頼性が少ないと考えるのが定説となっているのだそうだ。

多数説とされているのは538年説なのだが、この説は『日本書紀』よりもあとに成立した『元興寺伽藍縁起』、『上宮聖徳法王帝説』の記録に基づくものだという。
そこにはこう書かれている。

大倭の国の仏法は、斯帰嶋(しきしま)の宮に天の下治しめし天国案春岐広庭天皇の御世、蘇我大臣稲目宿禰の仕へ奉る時、天の下治しめす七年歳次戊午十二月、度(わた)り来たるより創(はじ)まれり。(『元興寺伽藍縁起』:下記URLに現代語訳あり)
http://www.ookuninushiden.com/newpage24.html

志癸嶋(しきしま)天皇の御世戊午年十月十二日、百済国主の明王、始めて仏像経教并びに僧等を度(わた)し奉(たてまつ)る。勅して蘇我稲目宿禰の大臣に授けて興隆せしむる也。(『上宮聖徳法王帝説』)
http://www2.shiba.ac.jp/~shakaika/newpage4.htm

上宮聖徳法王帝説

「斯帰嶋」あるいは「志癸嶋」は欽明天皇が宮を置いた場所とされ、「天国案春岐広庭天皇」あるいは「志癸嶋天皇」は欽明天皇のことだと理解されているのだが、538年というのは宣化天皇三年であり、欽明天皇の御代ではないことがなぜ無視されるのだろうか。
欽明天皇の即位は540年で571年に崩御されたのだが、在位されている間に戊午の年は存在しない。538年説はどう考えても説得力が乏しいのだが、古代史学界ではこの説が多数説だという。

では、584年説についてはどのような記録があるのか。
『日本書紀』巻二十敏達天皇十三年の記録にこう書かれている。

「秋九月、百済から来た鹿深臣(かふかのおみ)が、弥勒菩薩の石像一体をもたらした。佐伯連(さえきのむらじ)も仏像一体をもってきた。
この年、蘇我馬子宿禰(そがのうまこのすくね)は、その仏像二体を請いうけ、鞍部村主司馬達等(くらつくりのすぐりしめたつと)と池邊直氷田(いけべのあたいひた)を四方に遣わして、修行者を探させた。播磨国(はりまのくに)に僧で還俗した、高麗人の恵便(えべん)という人があった。馬子大臣はその人を仏法の師とした。司馬達等の女、嶋を出家させて善信尼(ぜんしんのあま)といった。…善信尼の弟子2名も出家させた

馬子宿禰・池辺氷田・司馬達人たちは仏法を深く信じて修行を怠らなかった。馬子宿禰はまた石川の家に仏殿を造った。仏法の広まりはここから始まった。」(訳:講談社学術文庫『日本書紀 下』p.67-68)

最後のところは原文では「佛法之初自茲而作」となっているが、この文章を普通に読めば、この出来事まではわが国では仏教は拡がっていなかったことになる。

以上、「仏教伝来」についての時期について、3つの説の根拠となっている記録を紹介したが、この中で一番まともな説は最後の584年説ではないだろうか。
前回紹介した中小路駿逸氏の「『日本書紀』の書名の『書』の字について」という論文における仏教伝来についての記述が私には一番納得できる。この論文は次のURLで全文が紹介されている。
http://5432-7904.at.webry.info/201603/article_6.html

「(584年の)この事件が、『日本書紀』では「仏法の初め」と呼ばれているのである。
『日本書紀』のこの記述は、きわめて正常なものである。
第一に、仏法の伝来とは、僧または尼がその地で受け入れられ、供養を受けはじめることをこそいう。
第二に、右の事件に先立つ欽明十三年(552)に、百済王から仏像その他の物品が贈られてきた記事があり、世にはこれがわが国への仏法伝来を告げる一史料であるかのように扱われてきたが、記事そのものをそのままに読めば、これは僧が来たものでもなく尼が来たものでもなく、ただ“仏教文物”のみがもたらされ、しかも群臣の意見が徴された上で、天皇としても朝廷としても、仏法を受けいれないことにした事件である。
第三に、『日本書紀』にはこの欽明朝の事件が、仏法の初めとはされていない


ところで『日本書紀』に、仏教が播磨から伝わった事件が、たんに『仏法の初め』とのみしるされていることは、何を意味するか。
明らかである。
六世紀後半の敏達朝において、わが王権は、まだ播磨をも領せざる一地域権力であった。当然、播磨は、“我が国”とは別国、ないし別国に属する地であった。――そう『日本書紀』の問題の本文は告げている。――このことを意味する。
仏法が別の国からわが国に伝わって、僧(尼)の供養が行われはじめたときをもって『仏法の初め』と称する。『日本書紀』の記述ぶりは、まことに正常ではないか。」(p.13-14)

さらに中小路氏は538年説に対する反論もなされている。
「また上宮聖徳法王帝説』と『元興寺伽藍縁起』に、欽明朝の戊午の年に百済から僧が派遣されて仏法が伝来したと書いてあるのは、仏法伝来には違いないものの『紀』にいう前記の『仏法の初め』とはまったく別の事件であって、すなわち欽明朝の大和の事件ではなく、大和よりまえに九州の宮廷に仏法が受容された事件であり、その年代は五世紀最初の戊午の年(418)である蓋然性が最も高いことも、私はすでに別に述べた。」(p.14-15)
と、中国や半島と通交のあった九州王朝においては5世紀には仏法が受容されていたと述べている。

いろいろ調べていくと、『三国史記』に中国の僧が朝鮮半島に仏教が伝えた記録があり、高句麗には372年、百済は384年に仏教が伝わり、それぞれ寺も建立している。また『三国遺事』には倭国(九州王朝)と緊密な関係にあった百済について、「阿莘王即位大元十七年(392)二月。教え下し仏法を崇信し福を求めさせる。」と書かれており、4世紀の終わりごろ百済は国を挙げて仏教が興隆していた時期であり、その頃に百済から九州に仏教が伝来した可能性はかなり高かったのではないだろうか。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu1/firstbuk.html

もともと、『日本書紀』にも『古事記』にも古来わが国は一つの王朝であったとはどこにも書かれていないのだが、わが国の古代史は「4世紀中ごろまでに大和朝廷によってわが国の統一がされた」ことを前提とし、中小路氏の言葉を借りると、「その前提に合うように史料を処理し、あるいは独自の解釈を加え、ときには史料自体の文字を取り替え、どうしても前提に合わない箇所については、その箇所自体が虚偽もしくは錯認の所産なのだと見なすか、もしくはその箇所をまったく無視する」スタンスで研究がなされ、教科書の記述も同様だ。したがって、その大前提が崩れてしまうとわが国の古代史は全面的に書き換えざるを得ないことになる
釈迦三尊像
ちなみに中小路氏の専攻は日本文学だ。専門外の学者の指摘で「古代史」がひっくり返されるのは古代史学界の面子にかかわるとでも考えているのだろうか。
中小路氏の論文が発表されて25年にもなるのに、古代史学界の住人はこの論文を無視して、いまだにまともな反論をしていないようである。

前々回の記事で読者の方から、「その当時の出土品等はすべて大和に結び付けないと、学会やマスゴミから異端扱いされるか無視される。はては既知外扱いされますので研究者は本当のことが言えなくなります。現代の日本の古代史学会等は『カルト』と考えておけば間違いない」とのコメントを頂いたが、私もよく似た話を何度か聞いたことがあるし、ネットでもそのような記事が散見される。
学者である以上、既存の学会の権威を維持するためにではなく、真実は何かを追及するために全てのエネルギーをぶつけて欲しいものである。

古田氏や中小路氏らの提起した問題に斬り込まずして古代史の真実は見えて来ないと思うし、その問題に正面から立ち向かう研究者が古代史学界から数多く現われないことには、何年たっても教科書の古代史記述は変わらないのだと思う。
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聖徳太子の時代に建てられた寺院がなぜ兵庫県にあるのか

以前このブログで、『日本書紀』の敏達天皇13年(584)に仏法が播磨から大和に伝わった記録があることを書いた。「播磨」は今の兵庫県の南西部にあたる地域のことである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-9.html
このことは、大和よりも先に播磨に仏教が伝わっていたことを意味しているのだが、どういうわけか『日本書紀』巻二十の重要な記録が日本史の通説で取り上げられることがないのだ。そこにはこう記されている。

「(敏達天皇13年:584年)秋9月、百済から来た鹿深臣(かふかのおみ)が、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の石像一体をもたらした。佐伯連(さえきのむらじ)も仏像(ほとけのみかた)一体をもってきた。
 この年、蘇我馬子宿禰は、その仏像二体を請いうけ、鞍作村主司司馬達等(くらつくりのすぐりしめたつと)と池辺直氷田(いけべのあたいひた)と四方に遣わして、修行者を探させた。播磨国に僧で還俗した、高麗人の恵便(えべん)という人があった。馬子大臣はその人を仏法の師とした。司馬達等の女(むすめ)、嶋(しま)を出家させて善信尼(ぜんしんのあま)といった。――年齢11歳。――善信尼の弟子二人も出家させた。その一人は漢人夜菩(あやひとやぼ)の女 豊女(とよめ)で名を禅蔵尼(ぜんぞうのあま)といった。もう一人は錦織壺(にしこりのつぶ)の女 石女(いしめ)で、名を恵善尼(えぜんのあま)といった。馬子はひとり仏法に帰依し、三人の尼をあがめ尊んだ。三人の尼を氷田直(ひたのあたい)と達等に託して衣食を供させた。仏殿を馬子の家の東方に造って、弥勒の石像を安置した。三人の尼を招いて、法会の斎食(いもい:仏に備える食を盛った椀)を供した。…
馬子宿禰・池辺氷田・司馬達等たちは、仏法を深く信じて修行を怠らなかった。馬子宿禰はまた石川の家に仏殿を造った。仏法の広まりはここから始まった。」(講談社学術文庫『全現代語訳 日本書紀』p.67-68)

最後のところは原文では「佛法之初自茲而作」となっているのだが、この文章を普通に読めば、この出来事まではわが国では仏教は拡がっていなかったことになる

百済聖明王

日本書紀』には欽明天皇13年(552)年に百済の聖明王が使者を遣わして、わが国に仏像や経典を伝えた事が書かれているが、僧侶や尼が来たわけではなくただ仏教文物が宮中にもたらされただけのことで、このことがわが国に仏教が広まるきっかけになったとはどこにも書かれていないのである。わが国の仏教の広まりは、『日本書紀』に明確に書かれているとおり、敏達天皇13年(584)に蘇我馬子が播磨の国にいた恵便という僧を師としたことから始まるのである

とは言いながら、仏教は容易には広がらなかった。翌年の敏達天皇14年(585)には排仏派の物部守屋が「蘇我氏が仏教を広めたことで疫病が流行した」と奏上し、敏達天皇はその言い分を認めて「早速仏法をやめよ」との詔を出しておられる。そこで物部守屋らは仏像と仏殿に火をつけ、さらに善信尼らの法衣を奪い、からめ捕えて海石榴市(つばきち:奈良県桜井市)の馬屋館につなぎ、尻や肩を鞭打つ刑にしたと、『日本書紀』に記されている。

仏教の受容をめぐる蘇我氏と物部氏との対立はその後も続いて、587年の丁未の役で蘇我馬子が武力をもって物部守屋を滅亡させたことにより決着し、その後、蘇我氏が支援した推古天皇が即位(593年)してようやく仏教受容に対する抵抗勢力が消滅して、わが国に仏教が急速に広まっていくのである。

ではなぜ、仏教がわが国で広まっていない敏達天皇の時代に、播磨国に恵便という仏教の僧侶がいたのだろうか。
朝鮮半島に於いて、わが国より先に仏教が伝えられていた。、百済・高句麗には4世紀の終わり、新羅には5世紀の初めに伝わったと言われているが、わが国にはこの頃朝鮮半島からわが国に渡ってきた渡来人によって、宮中に仏教が伝わる以前から仏教が信仰されていたようである

Wikipediaに、先ほど引用させていただいた『日本書紀』巻二十の敏達天皇13年の記録に出てくる司馬達等という人物の解説がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%94%E7%AD%89
それによると司馬達等は継体天皇16年(522)に日本に渡来し、大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置し帰依礼拝したということが『扶桑略記』という書物に記されているという。この司馬達等の孫が法隆寺金堂本尊の国宝釈迦三尊像を制作した仏師である鞍作止利(くらつくりのとり)である
また司馬達等とともに仏法を深く信じ修行を怠らなかったと書かれていた、池辺氷田という人物も中国系の渡来人である。

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蘇我馬子の仏教の師となり、わが国に仏教を広めた播磨国の恵便も渡来人であったが、弥生時代以降、数多くの渡来人が日本列島に移り住んでいた
『日本書紀』には断片的に渡来人のことが書かれているので一部を紹介すると、欽明天皇元年(532)の8月に、「秦人(はたひと)・漢人(あやひと)ら近くの国から帰化してくる人々を集めて、各地の国郡に配置して戸籍にいれた。秦人の戸数は、全部で七千五十三戸で、…」と書かれている。渡来人は戦火を逃れて来た人々と考えられており、5世紀末に百済が高句麗に圧迫されると、さらに多くの人々が日本に渡来してきたという

煬帝

『隋書倭国伝』を読み進むと、第二代皇帝の煬帝(ようだい:在位604-618)が608年に倭国に使者を送ったことが書かれていて、そこには倭国と他国との位置関係についてこう記されている。
「翌大業四年(608年)、煬帝は文林郎裴世清を使者として倭国に派遣した。裴世清はまず百済(ひゃくさい)に渡り、竹島(ちくとう)*に至った。南方に𨈭羅国(たんらこく)*を遠望しながら、遥かな大海の中にある都斯麻国(つしまこく)*に至り、そこからまた東に航海して一支国(いきこく)*に着き、さらに竹斯国(つくしこく)*に至り、また東に行って秦王国(しんおうこく)*に着いた。秦王国の人々は中国人と同じである。それでそこが夷洲(いしゅう)と思われるが、はっきりしない。また、十余国を過ぎて海岸に到着する。竹斯国から東の諸国はみな倭国に属する**。」(訳:講談社学術文庫『倭国伝』p.200)」
*竹島(不明。済州島の近くの多島海のどれかの島であろう)、𨈭羅国(済州島)、都斯麻国(対馬)、一支国(壱岐)、竹斯国(筑紫)、秦王国(不明。山口、広島県方面か。新羅系の秦氏の居住地とも考えられる。)
**原文では「竹斯國以東皆附庸於俀」

この文章を普通に読めば、筑紫国と倭国とは別の国であり、倭国は筑紫国の東にあった。そして倭国の中に中国系の人々が住む地域があったと理解するしかない。
中国の正史にこのような事が書かれていることをわが国の教科書に載せないのは、4世紀に大和朝廷がわが国を統一したという通説と矛盾するからなのか。

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渡来人は中国系だけでなく百済系、新羅系、高句麗(高麗)系の人々もかなりいた。
渡来人の人口については教科書には記されていないが諸説があり、渡来人は日本列島の原住民よりもはるかに多かったという説が結構有力なようだ。当時は統計記録があった訳ではないので詳しいことは分からないが、日本列島に住む人々のかなりの割合を渡来人が占めていた可能性が高そうだ。

そして、渡来人の中で仏教の僧侶を経験した恵便という人物がいたというわけだが、驚くべきことに、わが国に仏教を広めたこの恵便という僧にゆかりのある寺院が、今も兵庫県にいくつか残されているのである。
前置きが長くなったが、どんな寺院なのか行ってみたくなって、これらの寺を巡りながら紅葉を楽しむ旅程を組んで先日探訪してきた。

まず最初に訪れたのが加古川市にある鶴林寺(かくりんじ)。

鶴林寺仁王門

上の画像は室町時代に建築された仁王門(兵庫県指定文化財)である。
仁王門の近くにある案内板にこの寺の略縁起が綴られているが、そこには
「当寺は今から千三百年余り前に物部守屋の難を逃れて隠棲していた高麗の僧恵便法師の徳を慕うて聖徳太子が来臨され、秦川勝(はたかわかつ)に命じ、太子堂を建立して釈迦三尊四天王を祀り四天王聖霊院と名付けられたのが始まりである
その後養老2年元正天皇のとき武蔵国の太守大目身人部春則が太子の偉徳顕彰のため七堂伽藍を建立し、境内二十四丁四面三百坊を有し、衛士百余人、楽人数十人、寺領二万五千石を領して反映した。
鳥羽天皇臨幸勅願寺となり、鶴林寺の額を賜り今日に至る。…」
とある。パンフレットによると創建は587年だとあり、589年という説もあるようだが、わが国で最も古いとされる蘇我氏の氏寺の飛鳥寺(法興寺)の建立を発願された年が用明天皇2年(587)で、推古天皇4年(596)11月に「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」と『日本書紀』に記されている。鶴林寺はそれほど古い歴史を持つ寺なのである。

聖徳太子

鶴林寺の略縁起に聖徳太子の名前が出てくるのだが、聖徳太子は敏達天皇3年(574)に生まれというから、聖徳太子が13歳か15歳の頃に鶴林寺の前身である『刀田山四天王聖霊院』が建立されたことになる。
その後養老2年 (718) に武蔵の国司「身人部春則」が太子の威徳顕彰の為七堂伽藍を建立し、天永3年(1112)に寺号を「鶴林寺」と名を改めている。国宝の太子堂はこの年の建立と伝えられている。
太子信仰の高まりとともに鎌倉・室町時代に最盛期を迎え、寺坊は三十数力坊、寺領2万5千石もあったというが、江戸時代には8カ坊117石に激減し、明治期の廃仏毀釈を潜り抜け、今では3カ寺、15千坪の境内となっている。

kakurinji.jpg

minagaさんのHPに鶴林寺の古写真や古絵図が紹介されている。
文化元年(1804)に出版された『播磨名所巡覧圖會:巻之2』に当時の鶴林寺の境内図が掲載されているが、この境内図を見ると、昔は本堂と太子堂や常行堂は回廊で繋がっていたようだが、今はそのような回廊はない。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/tou_kakurinji.htm

仁王門をくぐると、室町時代に建築された入母屋造の本堂(国宝)が見えてくる。

鶴林寺本堂

内陣には平安時代に制作された薬師三尊像と毘沙門天像、持国天像(いずれも国重文)が安置されているのだが、秘仏であるために60年に一度しか開帳されないのだそうだ。次回の開帳は平成69年なのだそうだがあと45年も待たねばならず、私のような年齢の者には観るチャンスはほとんど訪れないだろう。

鶴林寺太子堂

この本堂の東側にあるのが、平安時代に建築された国宝の太子堂。
内部は公開されていないが、堂内に安置されていた本尊釈迦三尊像(国重文)は宝物館で見ることが出来る。また堂内の壁画(「九品来迎図」「仏涅槃図」)も国の重要文化財に指定されているが、黒ずんでいて肉眼では図柄を確認できず、赤外線写真でようやく壁画を見ることが出来るそうだ。宝物館で、高木かおり氏により彩色復元された壁画が展示されている。

鶴林寺三重塔

この寺には、常行堂(平安時代)、鐘楼(室町時代)、行者堂(室町時代)、護摩堂(室町時代)も国の重要文化財に指定され、三重塔(室町時代)は兵庫県の指定文化財である。仏像や工芸品にも多くの国の重要文化財があり、「播磨の法隆寺」とも呼ばれているのだが、観光客は決して多くはない。
宝物館で重要な仏像や仏画が保管され展示さているのだが、平成15年(2003)に国の重要文化財である『聖徳太子絵伝』6幅と『阿弥陀三尊像』1幅、市指定文化財『釈迦三尊十六善神像』が、韓国人に盗まれる事件があった。

阿弥陀三尊像

『聖徳太子絵伝』『釈迦三尊十六善神像』は犯人逮捕により取り戻すことが出来たが、高麗時代の作品である『阿弥陀三尊像』は、韓国の大邱市の寺で2004年に発見されたものの、その寺は盗難品とは知らずに寄付を受けたものであるとして所有権を主張し、鶴林寺に返還される見込みはないのだという。

昨年秋にも、対馬の観音寺にあった長崎県指定文化財の観世音菩薩坐像が窃盗団によって盗まれた事件があったが、韓国政府は犯人を処罰しながらもこの仏像を国宝に指定して返還しない。
この手法は、平成6年(1994)に長崎の安国寺の宝物殿から『高麗版大般若経』493帖が盗難された時も行われていて、韓国政府は国宝に指定して返却する気がない。ネットで探すと他にも多くの文化財が盗難されているようだ。

国連教育科学文化機関(ユネスコ)憲章に「不法に搬出された文化財は元の所有国に戻すべき」と書かれているそうだが、わが国政府もただ韓国政府にただ調査を依頼するだけではなく、世界に事実をアピールし、返却のための本格交渉に取り組んでほしいものである。
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播磨の古刹を訪ねて~~~聖徳太子ゆかりの斑鳩寺と随願寺

前回の記事で、わが国で仏教が拡がったのは、敏達天皇13年(584)に蘇我馬子が播磨の国(兵庫県南西部)にいた恵便(えべん)という僧を師としたことから始まることが『日本書紀』に記されていることを紹介し、恵便ゆかりの寺として加古川市の鶴林寺を訪れたことを書いた。

実は7年ほど前にこの鶴林寺を訪れたことがあった。宝物館で貴重な展示物を見て、「凄い」とは思ったが、当時は「法隆寺よりも古い寺が兵庫県に在るはずがない」という考えに染まっていたので、寺の由来に後世の脚色がかなりあって信じ難いとの印象を受けた。
この寺をもう一度訪れたくなったのは、読者の方から中小路駿逸氏の「『日本書紀』の書名の『書』の字について」という論文を教えて頂いたことがきっかけである。次のURLに、この論文の全文が掲載されている。
http://yourehazauei.at.webry.info/201208/article_7.html

その論文の中で中小路氏は、こう記しておられる。
「『日本書紀』に、仏教が播磨から伝わった事件が、たんに『仏法の初め』とのみしるされていることは、何を意味するか。
明らかである。
六世紀後半の敏達朝において、わが王権は、まだ播磨をも領せざる一地域権力であった。当然、播磨は、“我が国”とは別国、ないし別国に属する地であった。――そう『日本書紀』の問題の本文は告げている。――このことを意味する。
仏法が別の国からわが国に伝わって、僧(尼)の供養が行われはじめたときをもって『仏法の初め』と称する。『日本書紀』の記述ぶりは、まことに正常ではないか
。」(p.13-14)

中小路氏はその論文で、仏教が拡がりはじめた6世紀の終わりごろは、わが国はまだ統一国家ではなかったことを立証しておられるのだが、中小路氏の主張が正しいことは中国の正史である『隋書倭国伝』の前回記事で引用した部分を読めばわかることである。
この頃の播磨の地は、大陸からの渡来人が多く移り住んでいて、そのなかに仏教の僧侶を経験した恵便(えべん)のような人物がいた。その恵便を蘇我馬子が仏法の師とし、さらに聖徳太子が訪ねて鶴林寺の前身である四天王聖霊院が建てられたということなのだろう。
そして播磨には、ほかにも聖徳太子時代の寺院があるのである

「斑鳩(いかるが)」というと、誰しも奈良県の法隆寺のあるあたりを連想するところだか、兵庫県揖保郡太子町鵤(いかるが)に「斑鳩寺」というお寺がある。鶴林寺の次は、この寺を訪れることにした。「太子町」という町名は、もちろん聖徳太子にちなんだ名前だ。

斑鳩寺山門

斑鳩寺の案内板にはこう書かれている。
聖徳太子がご開創になった霊刹である
推古天皇14年(606)秋7月、天皇は大使に請うて、勝鬘経(しょうまんきょう)を講ぜしめられた。そこで太子は豊浦宮でこれを講ぜられること三日で終った。その夜仏天が感応し給いて、蓮華の花が講演の地に降りしいたと伝えられる。この年又大使は法華経を岡本宮で講ぜられた。
天皇はその妙味を叡感され、播磨国揖保の郡に於いて、水田百町を太子に賜った。よって太子はこの地を鵤荘と名づけられ、一つの伽藍を営ませられた。これがすなわち当寺である。往古には七堂伽藍、数十の坊院がいらかを並べ、真に華麗を極めていたが、天文10年(1541)尼子政久の播磨侵入後の混乱の中惜しくも堂塔尽く焼失した。…
当寺は太子ご創建から1千年間は大和法隆寺の末寺的存在であったが、火災再建後天台宗となる。」

推古天皇が聖徳太子に播磨の国の水田百町を賜ったことは『日本書紀』巻第二十二にしっかり記されている。
原文では、
「秋七月、天皇請皇太子、令講勝鬘經。三日說竟之。是歲、皇太子亦講法華經於岡本宮。天皇大喜之、播磨國水田百町施于皇太子。因以納于斑鳩寺。」
となっており、聖徳太子はその播磨の土地を「斑鳩寺」に納めたとあるのだが、通説ではこの「斑鳩寺」をわざわざ「法隆寺」と読み替える。しかしながら『日本書紀』には巻第二十七天智天皇紀に「斑鳩寺」と「法隆寺」と両方の寺の名前が登場している。普通に考えれば『日本書紀』でわざわざ別の名前で書かれている「斑鳩寺」が「法隆寺」と同じ寺を意味するとは考えにくいところであり、もしかすると聖徳太子が推古天皇よりこの地を授けられたことにより、この播磨の地に斑鳩寺が創建されたということではないかと考えてみたりする。

斑鳩寺大講堂

仁王門を潜ると講堂が見えてくる。御本尊の釈迦如来、薬師如来、観世音菩薩の三尊はいずれも国の重要文化財に指定されているが、秘仏として御開帳となるのは毎年2月23~24日の太子忌の期間だけなのだそうだ。

斑鳩寺塔

そして右手には国の重要文化財に指定されている三重塔が聳え立つ。この塔は永禄8年(1565)に再建されたもので、この寺で現存する一番古い建物である。

斑鳩寺聖徳殿

左手には聖徳殿があり、御本尊として聖徳太子十六歳孝養像が祀られている。この孝養像の御衣は親王皇家からの御寄進によりお召替えされるそうで、現在の御衣は高松宮殿下のご寄進により昭和37年2月に御召替えされたものだという。

宝物殿も見せて頂いたが、日光・月光菩薩立像(国重文)、十二神将立像(国重文)、聖徳太子勝鬘経御講讃図(国重文)など貴重な仏像・仏画などが展示されている。

斑鳩寺三重塔

しかし、これだけの文化財があっても観光客は思いのほか少なく、これでは受付に人を置いたり、建物の修復や維持管理、境内の清掃にかかわるコストをとても賄いきれないのではないかと心配になってくる。観光収入で潤っているのは京都や奈良などのごく一部の有名寺社のみであり、このような高齢化が進む地方では寺社を支える人々が少なくなるばかりで、このような地域の文化財を後世に残していくためには、もっと観光客が多く来なければならないのだと思う。

斑鳩寺庫裏

斑鳩寺の境内の奥に兵庫県の文化財に指定されている庫裏があるが、建物が歪んできたのかつっかえ棒で横から支えられていた。文化財の修理は宮大工を使うためにかなりの修理費用がかかるため、本格修理を先延ばしにしたいのではないかと思ったが、これ以上建物が傷まないことを祈りたい。

少し前にこのブログで法隆寺再建論争のことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-10.html
『日本書紀』に法隆寺が全焼した(「災法隆寺 一屋無餘」)と書かれているのは、天智天皇9年(670)4月のことなのだが、どういうわけか今の法隆寺の西院伽藍の塔芯柱には594年頃に伐採された木が使われているという。常識的に考えてそんな古い木を使って再建されることはあり得ないし、またこんな早い時期には近畿には仏教は伝わっていなかったはずだから、法隆寺西院伽藍はどこかの建物を移築されたのだという説はかなり説得力がある
この説が正しいとすると、この時期に仏教が伝わっていた播磨以西から移築されたということになり、この斑鳩寺に注目している研究者もおられるようだ。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tagen44/oogosi44.html

斑鳩寺の方から勧められた「寿しえびや」という、仁王門のすぐ東にあるお店で昼食をとって、次に目指したのは姫路市街北方の増位山の山上近くにある随願寺
寺伝によるとこの寺は、聖徳太子の命により高麗僧恵便が開基した増井寺が前身で、天平年間(729~749)に行基が中興した寺院だという。
平安時代には諸堂が整備され、山上に三十六坊もある大寺であったそうだが、天正元年(1573)に別所長治に攻められて全山を焼失し、天正13年に羽柴秀吉が再興したそうだ。

随願寺 開山堂

駐車場から少し歩くと、奥の院である開山堂(国重文)が見えてくる。この建物は江戸時代に播磨姫路藩主であった榊原忠次(1605~1665)により再建されたという。

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開山堂のすぐ近くに榊原忠次の墓所があり、この唐門も国の重要文化財に指定されている。

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更に進むと大きな本堂(国重文)が見えてくる。この本堂も榊原忠次の再建によるもので、本尊の薬師如来坐像は県の指定文化財だ。天井には狩野探幽の天井画があるのだそうだ。

IMG_2182.jpg

経堂も鐘楼も国の重要文化財で、収蔵庫には毘沙門天立像(国重文)と貴重な文化財がいくつもあるのだが、広い境内にお寺の方がどこにも見当たらなかったので、拝観できなかったのは残念だった。

随願寺 本堂

この寺のあたりは電柱や電線がほとんどなく、境内や参道に繋がる道を歩いていると、タイムスリップしたような気分になる。結構良い写真が撮れるので近くを歩かれることをお勧めしたい。

普段は観光客が少ない随願寺だが、毎年2月11日に「鬼追い」という行事が行われており、その時は多くの観光客が訪れるようだ。
この「鬼追い」の歴史は古く、寺伝によると乾元元年(1302)に後二条天皇の勅定により、修正会(しゅしょうえ)の最後の日(正月の7日)に追儺会(ついなえ)を行なったのが始まりで、700年以上続いているのだそうだ。明治になって太陽暦に代わってからは2月8日に行われるようになり、昭和45年頃から2月11日に行われているという。
http://kobe.travel.coocan.jp/himeji/zuiganji_goma.htm

修正会というのは仏教寺院において毎年1月に行われ、前年を反省し、新しい年の国家安泰、五穀豊穣を祈願する法会だが、寺院によっては追儺(ついな)という鬼払いの儀式が行われる。

047-11.jpg

ネットで多くの画像や動画を見ることが出来るが、随願寺の「鬼追い」は、なかなか特徴のある鬼の面である。
このような伝統行事を続けていくことは大変な事であるが、現在は随願寺愛存会 ・白国自治会・鬼の会などによって増位山随願寺修正会追儺会が維持されているのだそうだ。
http://hiroshi1950.fc2web.com/onioi2.htm

ところで来年の大河ドラマは「軍師官兵衛」で主人公が黒田官兵衛なのだが、この官兵衛の叔父・黒田高友は出家して休夢と称する僧侶となりこの随願寺の地蔵院に住んで、官兵衛に大きな影響を与えたと言われている。
また随願寺一帯は、別所長治と黒田方がたびたび戦火を交えた場所でもある。ドラマの中で黒田高友やこの随願寺が登場する場面があるのだろうか。
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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