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「牛若丸と弁慶の物語」の虚構

前々回に、三国の事を書いた。

そこで毎年5月20日に行われる福井県指定無形民俗文化財である三国祭の明治時代の山車を紹介したが、この人形は「牛若丸弁慶」であることは日本人なら誰でもわかる。

三国祭りの山車

弁慶は太刀千本を奪い取ろうと誓い、夜毎に通行人を襲ってはその刀を奪っていき、ついに999本に達した。最後の1本を奪い取るために京都の五条大橋で待ち構えていたが、そこへ通りかかったのが牛若丸(後の源義経)で、五条の橋の上で一騎打ちとなって、弁慶は身のこなしが軽い牛若丸に翻弄されて、太刀も奪えずに敗れてしまう話だ。

牛若丸と弁慶

子供の時にこの話を絵本や漫画で読んで、「牛若丸」という童謡も何度か聞いた記憶がある。調べるとこんな歌詞になっている。

「京の五条の橋の上 大のおとこの弁慶は 
長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて切りかかる

牛若丸は飛び退いて 持った扇を投げつけて 
来い来い来いと欄干の 上へあがって手を叩く

前やうしろや左右 ここと思えば またあちら 
燕のような早業に 鬼の弁慶あやまった」

子供の時は素直にこの話を信じていたが、長刀の名人が中学生か高校生くらいの子供に打ち負かされるような話は、どうも嘘くさいと思うようになっていったがその話題は後にしよう。
しかし、牛若丸と武蔵坊弁慶との出会いの場所が五条大橋であったことについては長い間信じていた。

牛若丸と弁慶像

五条大橋には昭和36年に京人形師「面庄」の十三世岡本庄三さんが制作し京都青年会議所が寄贈した「牛若丸と弁慶像」が建立されているので、私に限らず誰もがこの場所で牛若丸と弁慶が出会ったと思ってしまうことだろう。

しかしネットでいろいろ調べると、牛若丸と弁慶の時代にこの場所に橋が存在しなかったことが見えてくる。

平安京を建設した当時の大路は一条から九条まであり、各大路の間は三本の小路によって等間隔に区切られていて、その中央の小路を「坊門小路」と呼んでいたそうだ。

京都通り

例えば三条通りと四条通りの間には、六角、蛸薬師、錦の三本の小路があり、昔は蛸薬師が四条坊門小路ということになる。
しかし現在の四条通りと五条通りの間には、綾小路、仏光寺、高辻、松原、万寿寺と五本もの小路があり、規則性が崩れている。昔は仏光寺が五条坊門小路で松原が五条大路で、今の五条通は「六条坊門小路」であったということになる。

この「六条坊門小路」に初めて橋を架けたのが関白秀吉なのだそうだが、牛若丸の時代から420年近く後の話なのである。だから、今の五条大橋での二人の出会いはそもそもありえないことになる。

五条大橋都名所図会

安永9年(1780)の「都名所図会」には五条橋の図会があり、説明文には
「初は松原通にあり、則いにしえの五条通なり。秀吉公の時此所にうつす、故に五条橋通といふ、実は六条坊門なり」と書かれている。もちろん牛若丸と弁慶の話は出て来ない。

昔「五条大路」であった松原通には、平安時代には鴨川に橋が架かっていた。従って、牛若丸と弁慶の出会いの場は今の「松原橋」だという説も根強くあるようだ。

しかしながら、室町時代に書かれた「義経記」を読むと五条大路も橋も出て来ない。今ではネットで「義経記」の全文を読む事が出来る。少々読みにくい文章だが、なんとなく意味はわかる。第三巻の「弁慶洛中において人の太刀を取る事」から「義経弁慶君臣の契約の事」に詳しく書かれている。
http://www.j-texts.com/chusei/kgikei.html

義経記」では、牛若丸と弁慶は二日連続で戦っており、一回目の場所は「五条の天神」(五条天神社:西洞院通り松原下る)で、二回目は「清水の観音」(清水寺)だ。原文では弁慶は長刀ではなく太刀で牛若丸と闘っている。

五条天神

上の画像はネットで見つけた五条天神社だ。平安時代にはここの柿の木に仏がおられるということで、多くの信者が参詣に来たと「宇治拾遺物語」巻二に書かれている。
http://kamnavi.jp/yamasiro/gojout.htm

では、二人の運命的な出会いの場所が「五条の橋」と書きかえられたのはいつの時代からなのだろうか。

ネットで調べると、永亨年間(1429-40)に成立したと思われる御伽草子『弁慶物語』二巻では清水寺から五条の橋に場所を移している。
http://www.taishitsu.or.jp/kyoto/sozoro21.html

「さて合戦の当所はいずくぞと仰せければ、やがてこの辺こそしかるべけれとて、清水寺より打連れて五条の橋に立ち出ずる。八月十七日の夜半ばかりの事なる に、源九郎義経、正年十九歳と御名乗りあって、御佩せ(の刀)をするりと抜き給う。弁慶も正年二十六と名乗り、四尺六寸(の刀)をするりと抜いて渡り合 う。観音参りの上下の衆、この道をさしふさぎ、不思議の見物出来とて貴賎群集したりけり云々」

しかしここでは「牛若丸」ではなくなって成人後の義経になっている。この年齢の頃は、義経は奥州にいたのではなかったか。

明治時代のお伽話作家として著名な巌谷小波(いわやさざなみ)は、明治27年(1894)から明治29年(1896)にかけて博文館から「日本昔噺」というシリーズを出しているが、このシリーズが、以後の子供向けの昔話や伝説の多くは、このシリーズがもとになっていると言われる。

巌谷小波

このシリーズでは、弁慶は狭い五条橋で薙刀を振り回すことになっているそうだ。
http://www.d1.dion.ne.jp/~ueda_nob/wildcat/kyoto/ushiwaka.html
最初に紹介した童謡の「牛若丸」も巌谷小波の作品に基づいている。

義経記」にせよ「御伽草子」にせよ巌谷小波にせよ、読者に面白おかしく読んでもらおうという文章であることは、読めばすぐわかる。面白く書こうとすれば、創作部分がかなり入らざるを得ない。

もともと史実に忠実に書かれたものではない「義経記」に次第に尾ひれがついて、子供の向けの本にもそのまま定着してしまって、800年以上経った今は史実ではない物語が日本人の常識になってしまった。

弁慶という人物は、鎌倉幕府の正史である「吾妻鏡」には、文治元年(1185)の条で都落ちした義経・行家一行の中に弁慶の名前が出てくるだけである。実在した人物であることは間違いないが、生年月日もわからず、その生涯についてはほとんどわかっていないのだ。
弁慶が義経の側近として大活躍しているのは物語の世界だけで、史実は義経の一族郎党の一人に過ぎなかったのかもしれない。
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秀吉はなぜ「伴天連(バテレン)追放令」を出したのか~~その1

ザビエルがはじめて日本で伝えたキリスト教は、時の権力者であった織田信長の庇護を受けて順調に信者を増やしていった。

豊臣秀吉も当初は織田信長の政策を継承してキリスト教布教を容認していたのだが、天正15年(1587)に秀吉はキリスト教に対する態度を急変させ、博多で「伴天連追放令」を出している。(「伴天連」とはキリスト教宣教師のこと)

学生時代に学んだ通史では、なぜ「伴天連追放令」が出されたのかが良くわからなかったので、この点について調べてみた。

豊臣秀吉

まず秀吉が博多にいたのは、秀吉は京都を前田利家、大阪城は秀次に守らせて九州を平定するために出陣したためだ。
その先陣は切支丹大名の高山右近で、その家臣には切支丹がかなりいて、十字が付いた旗などを携えた兵が多数右近の軍に参加していた記録が残されている。
そもそもこの九州平定は、そもそも2年前にイエズス会の日本準管区長*のガスパル・コエリョが秀吉に、切支丹大名を秀吉の味方につけると進言して実現したようなものである。 (日本は準管区であったので、コエリョはイエズス会の日本での活動の最高責任者)

大村・有馬の切支丹大名は島津に何度も脅かされていたので、イエズス会には秀吉の九州攻めは願ってもないことであったはずだ。だから高山右近も献身的に働いた。

ところが、切支丹大名の活躍により九州平定に成功すると、秀吉は右近の役割が終わったのを見計らったように高山右近にキリスト教の棄教をせまり、それに抵抗した右近を追放しているのだ。いったいどういうことなのか。

高山右近
<晩年の高山右近>

この経緯については、ポルトガル出身のイエズス会宣教師で当時日本に滞在し、信長や秀吉とも会見したルイス・フロイスが詳細な記録を残しており、中公文庫でその翻訳を読む事が出来る。(ルイス・フロイス「日本史4」豊臣秀吉篇Ⅰ)

それを読むと、秀吉は7月24日に怒り狂い、夜にイエズス会の日本準管区長のガスパル・コエリョに対し使いを出して、次の様な太閤の言葉を伝えさせている。

「その第一は、汝らは何ゆえに日本の地において、今まであのように振舞ってきたのか。…仏僧たちは、その屋敷や寺院の中で教えを説くだけであり…汝らのように宗徒を作ろうとして、一地方の者をもって他地方の者をいとも熱烈に扇動するようなことはしない。よって爾後、汝らはすべて当下九州に留まるように命ずる。…もし、それが不服ならば、汝らは全員シナ(マカオ)へ帰還せよ。…」

「第二の伝言は、汝らは何ゆえに馬や牛を食べるのか。…馬は、道中、人間の労苦を和らげ、荷物を運び、戦場で仕えるために飼育されたものであり、耕作用の牛は、百姓の道具として存在する。しかるにもし汝らがそれを食するならば、日本の諸国は、人々にとってはなはだ大切な二つの助力を奪われることとなる。…」

「第三は、予は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」(ルイス・フロイス「日本史4」中公文庫p.207-208)

これらの太閤の言葉に対し、三つ目の日本人奴隷の問題に関してイエズス会準管区長のコエリョが答えた内容については同書にこう書かれている。

「…この忌むべき行為の濫用は、ここ下の九ヶ国(九州)においてのみ弘まったもので、五畿内や坂東地方では見られぬことである。我ら司祭たちは、かかる人身売買、および奴隷売買を廃止させようと、どれほど苦労したか知れぬのである。だがここにおいてもっとも肝要なのは、外国船が貿易のために来航する港の殿たちが、厳にそれを禁止せねばならぬという点である。」(同書p.210-211)
と、奴隷売買は九州だけでおこっていることで、我らも廃止させようと努力しているのに取り締まらない日本側に問題があると答えたのである。
「外国船が貿易のために来航する港の殿たち」とは、九州の切支丹大名を遠回しに述べたものである。

翌朝秀吉の怒りはさらに激しくなり、「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」との伝言を持たせて、再びコエリョに使者を送った。

そこでコエリョが答えた内容は
「キリシタンたちは、我らの教えを聞き、真理を知り、新たに信ずるキリシタンの教え以外には救いがないことを悟った。そして彼らは、…神も仏も、またそれらを安置してある寺院も何ら役に立たぬことを知った。彼らは、…神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅したのである。」 (同書p.215)

そのコエリョの回答を聞いて、太閤がさらに激怒したことは当然である。
秀吉は「予は日本のいかなる地にも汝らが留まることを欲しない。ここ二十日以内に、日本中に分散している者どもを集合せしめ、日本の全諸国より退去せよ」と命じ、「伴天連追放令」と呼ばれる布告を司令官ドミンゴス・モンテイロに手交したのである。

伴天連追放令
<伴天連追放令>

コエリョは九州での奴隷売買を廃止させるために努力したというのだが、どこまで本気で努力したかは疑わしい。藤田みどりさんの「奴隷貿易が与えた極東への衝撃」という論文には、イエズス会日本準管区長のコエリョ自身がポルトガル商人に代わって日本人奴隷売買契約書に署名した事実が書かれているそうだ。

「伴天連追放令」の原文とは次の通りで、現代語訳はURLで読む事が出来るが、この時に手交した文書には、奴隷売買を禁止する条項は記されていないことがわかる。
ルイス・フロイスの「日本史」にも「伴天連追放令」の内容が書かれているが、やはり奴隷売買の事は書かれていない。
<原文>
一、日本ハ神国たる処きりしたん国より邪法を授候儀 太以不可然候事
一、其国郡之者を近付門徒になし 神社仏閣を打破之由 前代未聞候 国郡在所知行等給人に被下候儀は当座之事候。天下よりの御法度を相守、諸事可得其意処 下々として猥義曲事事
一、伴天連其知恵之法を以 心さし次第に檀那を持候と被思召候へは 如右日域之仏法を相破事曲事候条 伴天連儀日本之地ニハおかされ間敷候間 今日より廿日之間に用意仕可帰国候 其中に下々伴天連に不謂族(儀の誤りか)申懸もの在之ハ 曲事たるへき事
一、黒船之儀ハ 商買之事候間格別候之条 年月を経諸事売買いたすへき事
一、自今以後仏法のさまたけを不成輩ハ 商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん国より往還くるしからす候条 可成其意事
已上
天正十五年六月十九日 朱印

<現代語訳>
http://www2.ocn.ne.jp/~hiroseki/shiryou/bateren.html

しかし、国内向けに出された「伴天連追放令」においては、寺社の破壊や奴隷売買を禁止する条項が書かれているようである。奴隷売買禁止に関しては原文では、
「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)
となっている。

ルイスフロイス像
<ルイス・フロイス像>

またルイス・フロイスがいみじくも書いているように、秀吉が九州に来た目的は島津と戦うことではなく、当初から高山右近や切支丹宣教師を追放することにあったと思われる。なぜなら、九州の戦いを終えても島津氏の領国はほとんど変わりなく安堵されているのはそう考えないことには理解できないからだ。

以上、やや長くなったが、秀吉を暴君と呼び悪魔と呼ぶイエズス会のルイス・フロイスが「伴天連追放令」をどう捉えたかについてまとめてみた。

「伴天連追放令」については秀吉の側近の記録が残され、外国人の書いた文章でも日本人奴隷の実態を書いている文書などもあるようだ。
文章が長くなるので次回以降に紹介することするが、秀吉がキリスト教の独善性と宣教師の野望に早い時期に気付きその拡大を許さなかったことが、この時期に日本が植民地にならず独立国を維持できた要因の一つだと思っている。
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秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その2

前回は秀吉が伴天連追放令を出した経緯を、イエズス会宣教師のルイス・フロイスの記録から纏めてみた。では、日本側の記録ではどうなっているのか。

秀吉の側近に大村由己(おおむらゆうこ)という人物がいる。この人物は以前にこのブログで、天神祭のことを書いた時に、大阪天神宮の神宮寺の別当であったと紹介したことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-18.html

この人物は豊臣秀吉に近侍して秀吉の軍記などをいくつか残しているが、秀吉の九州平定の時にも同行して「九州御動座記」という記録を残しており、秀吉が「伴天連追放令」を出した経緯が短い文章にまとめられている。それには、

「今度伴天連等能き時分と思候て、種々様々宝物を山と積、…日本人を数百男女によらず、黒船へ買取、手足に鎖を付け、船底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、…今世より畜生道の有様、目前之様に相聞候。…右之一宗御許容あらば、忽日本外道之法に成る可き事、案の中に候。然らば仏法も王法も、相捨つる可き事を歎思召され、忝も大慈、大悲の御思慮を廻らされて候て、即伴天連の坊主、本朝追払之由仰出候。」

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手足に鎖を付け、船底に追い入れるような奴隷の扱い方は、黒人奴隷の場合と全く同じである。秀吉はこのような状況が日本を「外道の法」に陥れることを歎き、伴天連を追放することを決断したということになる。

日本人奴隷はどのような扱い方をされたのか。今度は西洋人の記述を見てみよう。 徳富蘇峰の「近世日本国民史」にパゼー「日本キリスト教史」という本の一部が紹介されている。

南蛮船

「葡萄牙(ポルトガル)の商人は勿論、其の水夫、厨奴(ちゅうど)等の賤しき者迄も、日本人を奴隷として買収し、携へ去つた。而(しか)して其の奴隷の多くは、船中にて死した。 そは彼等を無闇に積み重ね、極めて混濁なる裡(うち)に篭居せしめ、而して其の持主等が、一たび病に罹るや――持主の中には、葡萄牙(ポルトガル)人に使役せらるる黒奴も少なくなかつた――此等の奴隷には、一切頓着なく、口を糊する食料さへも、與へざることがしばしばあつた爲である。此の水夫等は、彼らが買収したる日本の少女と、放蕩の生活をなし、人前にて其の醜悪の行ひを逞しうして、敢て憚かる所なく、其の澳門(マカオ)歸航(帰航)の船中には、少女等を自個の船室に連れ込む者さへあつた。」

なんと、日本人の一部は奴隷に買われていたケースもあり、水夫らの性奴隷としても買われていたのだ。

なぜ、ポルトガル人が大量の奴隷を買ったか。これは前々回に紹介した中隅哲郎さんの「ブラジル学入門」がわかりやすい。

「大航海時代とそれに続く植民地進出時代のポルトガルの泣きどころが、人口の少なさにある…。少ない人間でいかに海外の植民地を維持し、収奪するかはポルトガル王室の直面する歴史的命題であった。そのため、囚人だろうが捕虜だろうが、どんどん海外に送った。ところが、送った人間のほとんどすべては男だった…。
海外進出に武力はつきものだが、ポルトガルは兵隊の数も足りなかった。そのため、現地では傭兵を募集した。アジア各地では日本人の傭兵が多かった。日本人は勇猛果敢で強かったから、傭兵には最適であったのである。」(同書p.163)と記されている。

確かにポルトガルの広さは日本の4分の1程度で、人口は当時100万人程度だったと言われている。そんな小さな国が、1494年にスペインとトルデシリャス条約を結んで、ヨーロッパ以外の世界の二分割を協定し、ポルトガルは東回りに、スペインは西回りに征服の途につくのだが、スペインの一割程度の人口しかないポルトガルが世界の半分を征服するためには、よほど大量の奴隷が必要だったということだろう。

次に日本人が奴隷として売られた時期はいつ頃なのか。

岡本良知さんの「16世紀日欧交通史の研究」という本には、ポルトガル側の資料では1555年11月のマカオ発のパードレ・カルネイロの手紙の中に、大きな利潤と女奴隷を目当てにするポルトガル商人の手で、多くの日本人がマカオに輸入されていると書かれていることが紹介されているそうだ。中国のマカオといえば、ポルトガルの日本貿易の拠点であり、日本貿易の初期の段階から日本人が奴隷として売られていたことになる。1555年は「伴天連追放令」の32年も前の話である。

また、日本イエズス会からの要請を受けてポルトガル国王は何度も「日本人奴隷取引禁止令」を出しているが、東南アジアに暮らすポルトガル人は、国王の禁令はわれわれに致命的な打撃を与えると抗議し、奴隷を買ったのは善意の契約であり、正義にも神の掟にも人界の法則にも違反しないと主張し、この勅令は無視されたそうだ。
しかし、そのような奴隷商人に輸出許可を与えていたのもイエズス会であり、もともとイエズス会が奴隷輸出禁止にどれだけ尽力したかはかなり疑問である。むしろ積極的に関与した可能性がある。
ネットでいろいろ調べると、奴隷貿易に熱心であった宣教師の名前が出てくる。たとえばアルメイダは大友宗麟に医薬品を与え、大分に病院を作ったイエズス会の宣教師だが、奴隷貿易を仲介し、日本に火薬を売り込み、海外に日本女性を売り込んだ人物と書かれている。

ポルトガル国立小美術館にある桃山時代の「南蛮屏風」
<ポルトガル国立小美術館/日本の桃山時代の「南蛮屏風」…黒人奴隷が描かれている>

当時のキリスト教の考え方では、キリスト教を広めるために、異教徒を虐殺することも奴隷にして売買することも神の意志に叶った行為と考えられており、1455年にローマ教皇ニコラウス5世が勅書により奴隷貿易を認め、さらに教皇アレキサンドル6世がこれに追随して神学的に奴隷制度を容認したことから、イエズス会の海外布教戦略が展開していくことになるのだ。イエズス会が、教皇が認めた奴隷貿易を容易に手放すことは考えにくいのではないか。
そもそもキリスト教の「聖書」レビ記25章には、異教徒を「奴隷として買う」ことも「永遠に奴隷として働かせることもできる」と書かれているが、このような考え方で布教されては、他の宗教を奉ずる国にとっては社会も文化も破壊され若い世代の多くが連れ去られてしまって、甚だ迷惑な話である。
http://www.bible.or.jp/read/aidoku.cgi?day=20110818

奴隷を買う側の事情は何となくわかったが、しかし売る側の日本の事情はどうなっているのだろう。どういう経緯で大量の日本人が九州から奴隷船に乗せられたのか。
外国人により拉致されたのか、貧しい日本人が家族を売り飛ばしたのか、あるいは戦国大名が捕虜を売ったのか、住民を拉致して売ったのか。また、何のためにポルトガル人に売却したのか。

そのことを書きだすとまた長くなるので、日本側の事情は次回に記すことにするが、平和な時代しか知らない我々には到底想像もできないような戦国時代の凄まじさが見えてくるのだ。

<つづく>
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関連記事

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その3

戦国時代の九州で、なぜ大量の日本人がポルトガル商人に奴隷として売られてしまったのか。

この点については、前々回紹介したルイス・フロイスが、その当時の九州の実態について、「奴隷」という言葉こそ使っていないがその事情が理解できるような記録を残している。

イエズス会士とフランシスコ会士

たとえば、豊後については薩摩軍との戦いが続いて惨憺たる状況であった上に、次の様なことが起こっていた。フロイスの記録をしばらく引用する。

「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(「完訳フロイス日本史8」中公文庫p.268)…1588年の記述

「豊後の国の全領民は次のように三分された。その第一集団は、戦争のために死亡し、第二集団は、敵の捕虜となって薩摩や肥後に連行されたのち、羊の群れのように市場を廻り歩かされたあげく売られていった。彼らの多くは、二束三文の安価で売却された。第三の集団は、疾病や飢餓のために極度の貧困に陥って人間の容貌を備えていないほどであった。彼らは互いに殺し略奪し合っていた。」(同書p.314)…1589年

フロイスは日本の戦国時代末期の三十年以上を九州や畿内で暮らした人物であり、誰が売ったかという点について記述している内容はかなり信頼できると考えて良いだろう。豊後とは今の大分県で、肥後とは今の熊本県と考えて良いが、太閤検地の頃の豊後国の人口は418千人であるから、フロイスが「おびただしかった」と書いた、島原まで連行された豊後の婦人や男女の子供たちの数がどれくらいの数字になるかは、人によってイメージする数字が異なるだろうが、人口の5%~10%と考えても20~40千人という数字になってしまう。

狩野内膳筆南蛮屏風

フロイスは口を閉ざして語らないが、それらの人々の多くが島原でポルトガル商人に奴隷として売られていったと考えてまず間違いないだろう。
島原半島の南にある口の津は南蛮貿易の拠点であった港で、口の津の約10km東に原城があり、そこに爆薬に使われる硝石の集積場があった。硝石(硝酸カリウム)は爆弾を製造するに不可欠な原料なのだが、湿潤気候の日本国内では天然に産出しないため当初は南蛮貿易で入手するしかなかった。それを入手するための対価のかなりの部分が、奴隷を売ることによって作られたと考えられている。

硝石の価格について、Wikipediaには「バチカンにある過去の日本の記録には、アフリカ人奴隷に掘らせたチリの硝石1樽で日本人女性が50人買える」と書かれている。同様の記述はネットで多くの人が書いているが、バチカンの記録の原典を引用しているものはなく、どこまでこの記述が信頼できるのかは良くわからない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1
もっとも、フロイスの記述のとおりに日本人がよほど安価で売られていたなら、その可能性が考えられないわけでもないが…。

島原地図

口の津のある島原半島は、当時切支丹大名の有馬晴信の領地であった。結局この硝石は後に島原の乱で天草四郎が江戸幕府軍との戦いで使われることになる。原城に立て籠った天草四郎らの反乱軍が長らく持ちこたえられた理由は、キリスト教の信仰もあったのだろうが軍事力の観点からすれば、貯め込んだ大量の火薬の存在を無視できないのだと思う。

日本人奴隷を買ったポルトガル商人がいて、またポルトガル商人に売った有馬晴信に近い商人がいる。しかしその商人に売るために、はるばる島原にまで住民を連行して行った人間集団はどういう連中なのか。どこかの藩の正規軍なのか。

立教大学名誉教授藤木久志氏が著した「雑兵たちの戦場」(朝日新聞出版)という本を読むと、この時代を読み解くうえで「雑兵(ぞうひょう)たちの戦場」という視点が極めて重要であることを痛感させられる。

「雑兵(ぞうひょう)」とは武士に奉公する「足軽」や、足軽より身分が低く戦場で馬をひいたり槍を持つ「下人」や、村々から駆り出されて物を運ぶ「百姓」などの総称で、戦国大名の軍隊は、騎馬姿の武士はせいぜい1割程度で、残りの9割は「雑兵」であったそうだ。

「凶作と飢饉のあいついだ戦国の世、懸命に耕しても食えない人々は傭兵になって戦場へ行った。戦場に行って、わずかな食物や家財や男女を奪い、そのささやかな稼ぎで、なんとか冬を生き抜こう。そんな雑兵たちにとって、飢えに見舞われる冬から夏の端境期の戦争は、たったひとつのせつない稼ぎ場であった。そこには、村にいても食えない二、三男坊もゴロツキも悪党も、山賊海賊や商人たちも殺到して、活躍した。戦場にくり広げられた濫妨狼藉、つまり掠奪・暴行というのは『食うための戦争』でもあったようだ。」(「雑兵たちの戦場p.7」)

雑兵たちは、懸命に戦っても恩賞があるわけではない。彼らを軍隊につなぎとめて作戦に利用しようとすれば、ある程度の掠奪や暴行を許容する武将が多く、フロイスが詳細に記述した薩摩のほかにも全国各地で同様な記録が残されている。
人を奪うケースの多くは身代金目当てで行われていて、「雑兵たちの戦場」にはそのような記録が数多く紹介されている。

例えば甲斐国の年代記である「勝山記」という書物には、武田信玄軍に生け捕られて甲府へ連れ去られた男女のうち「身類(親類)アル人」は二~十貫文ほどの身代金で買い戻されていたという記述があるそうだ。(一貫文=1000文)

また、永禄九年(1566)に小田氏治の常陸小田城が長尾景虎(上杉謙信)に攻められて落城すると、城下はたちまち人を売り買いする市場に一変し、景虎自身の指図で、春の二月から三月にかけて二十~三十文ほどの売値で、人が売られたという記録があるそうだ。折から東国はその前の年から深刻な飢饉に襲われており、時代や地域によってその価格は異なる。

本州や四国での人身売買については海外に売られていくことはなかったのだろうが、九州で分捕られた場合は、親族の引き取りがなければ安値で海外に売られていくルートが存在した。
薩摩軍が分捕った人の売値は、フロイスの記録では、飢饉の時代とは言え「二束三文」でタダ同然だった。

この時期の貨幣価値については、永禄2年(1559)相模国の北条氏康に納められていた魚の価格が鰯二匹が1文、大あじが2文、鯛6~7寸で10文、1尺で15文といった記録があるが、九州では魚と変わらない価格で人間が取引されていたのだろうか。
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/J020.htm

私自身が最近までイメージしていた戦国時代は、英雄と英雄との戦いであり武士の世界でしか見てこなかったのだが、藤木久志氏の「雑兵たちの戦場」を読んで、今までの戦国時代の見方は歴史の表面だけを見ていただけだということに気がついた。この時代に興味のある方は是非お勧めしたい本である。

大阪城

ところで、このような濫妨狼藉による人身売買を禁止したのも豊臣秀吉なのである。
前々回に「伴天連追放令」国内向けの条文の中に人身売買の禁止が明記されていることを書いたが、①人の売り買いはすべて停止せよ。②去る天正16年以降の人の売買は破棄する③だから買い取った人は元へ返せ④以後は、人の売買はともに違法だという趣旨の命令を、相次いで全国に秀吉が出している。

秀吉がただ全国を統一しただけで、平和な世の中になるのではなかった。このような人身売買を固く禁じてはじめて、人々が安心して暮らせる社会が実現できたのだと思う。

しかし秀吉の命令も、残念ながら東国までには行き渡らなかった。「大坂夏の陣図屏風」の左半分には徳川軍の雑兵が大阪城下の民衆に襲いかかる現場が描かれている。

大阪夏の陣図屏風
<大阪夏の陣図屏風(部分)>

秀吉のやったことは正しかった。東国には人身売買の禁止を徹底できなかったが、秀吉は権力を握った者にしかできないことを適切に実施し、九州で日本人が奴隷として海外に流出していくのを止め、日本が植民地化していく危機を救ったと評価できるのではないか。
もし秀吉が南蛮貿易の利権を選択して、キリスト教を保護し、雑兵の濫妨狼藉を放任し日本人奴隷の海外流出も放置するような馬鹿な男であれば、今の日本がキリスト教国で白人が支配する社会になっていてもおかしくなかったと思う。

信長、秀吉、家康の3人の中で昔から秀吉が庶民から最も親しまれてきた存在であるのは、下層階級の出身でありながら全国を統一したということもあるだろうが、庶民が一番嫌う人身売買と言う悪弊を断ち切って、誰もが安心して暮らせる平和な社会を実現させる道を開いたということも、庶民から評価されてきた要因の一つではないかと考えている。
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戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのはキリシタン大名か、宣教師か

前回まで3回にわたって、豊臣秀吉が「伴天連追放令」をだした背景を日本人奴隷の問題を中心にまとめてみたが、秀吉が問題にしたのは奴隷の問題だけではなかった。

「秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したか~~その1」で紹介した、秀吉がイエズス会の日本準管区長コエリョにつきだした質問のなかには、伴天連が牛や馬を食べることも問題にしていたくだりがあったが、このことは今の時代に生きる我々にはどうでもよい。
それよりも、「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」という秀吉の問いの方が私には気になった。

秀吉

秀吉の質問に対するコエリョの回答では「彼らは、…神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅した。」とキリスト教信者が勝手にやったことだと言っているのだが、キリスト教の信仰を始めたばかりの信者が、子供の頃から信仰してきた寺社を自発的に破壊することがありうるのだろうか。常識的に考えて、誰かが命令しない限り起こり得ない話だと思う。

この問題は日本史の教科書などではキリシタン大名が寺社を破壊したように書かれているのだが、もしそうならば「伴天連追放令」の中になぜ寺社の破壊を伴天連追放理由の中に入れたのであろうか。少なくとも秀吉は、寺社や仏像の破壊は宣教師の教唆によるものと考えていたはずである。

img20110219194444638.jpg

今まで何度も紹介させていただいた、ルイス・フロイスの「日本史」を読むと次の様に書かれている。しばらく引用させていただくことにする。

以下の文章の中で、「殿」とは肥前(長崎)国の切支丹大名である大村純忠で、「司祭」とはイエズス会日本準管区長のコエリョである。大村純忠が伊佐早との戦いに勝利した時にコエリョが純忠を説得する場面である。

「…殿がデウス(神)に感謝の奉仕を示し得るには、殿の所領から、あらゆる偶像礼拝とか崇拝を根絶するに優るものはない。それゆえ殿はその用に努め、領内には一人の異教徒もいなくなるように全力を傾けるべきである。
 …殿は、さっそく家臣団あげての改宗運動を開始すべきである。ただしそれは、その人々が自由意思によって、道理と福音の真理の力を確信し、自分達が救われる道は、絶対にこの教え以外にないのだということを判らせるようにせねばならない、と。

…大村の全領域には、いともおびただしい数の偶像とか、実に多数かつ豪壮な寺院があって、それらすべてを破壊することは容易にできることではなかった。」(「完訳フロイス日本史10」大村純忠・有馬晴信編Ⅱ[中公文庫p.12])

「その地の住民たちは説教を聴きに来た。ところで日本人は生まれつきの活発な理性を備えているので、第一階の説教において、天地万物の根元であり創造者、また世の救い主、かつ人間の業に報いを与える御方であるデウスと、彼らの偶像、偶像崇拝、欺瞞、誤謬等の間にどれほどの差異があるかについて述べられたところ、人々は第二の説教まで待ってはいなかった。そしてあたかも司祭が、『寺を焼け、偶像を壊せ』と彼等に言ったかのように、彼らは説教を聞き終えて外に出ると、まっしぐらに、その地の下手にあったある寺院に行った。そしてその寺はさっそく破壊され、何一つ残されず、おのおのは寺院の建物から、自分が必要とした材木を自宅に運んだ。
 仏僧たちはきわめて激昂し、ただちに司祭のもとに二人目の使者を遣り、『神や仏の像を壊すなんて、一体全体、これはどういうことか』と伝えた。司祭は仏僧たちにこう答えた。『私が彼らにそうするように言ったのではない。ところで、説教を聞いた人たちは皆あなたの檀家なのだから、あなた方がその人たちにお訊ねになるべきです』と。…」(同書p.14)

上の文章で何度も出てくる「偶像」とは仏像のことだが、この文章を読んで宣教師の教唆がなかったと思う人は誰もいないであろう。

フロイスの本を読んでいると、宣教師が寺院を焼くことを信者に指示している場面がある。 つぎにその部分を引用しよう。

「…たまたまあるキリシタンが、ガスパル・コエリョ師のところにやって来て、司祭にこう頼んだ。『今はちょうど四旬節でございます。私は自分がこれまで犯して来た罪の償いをいたしたいと存じますので、そのためには、どういう償いをすることができましょうか。どうか伴天連様おっしゃって下さい』と。司祭は彼に答えて言った。『あなたがデウス様のご意向になかってすることができ、また、あなたの罪の償いとして考えられることの一つは、もしあなたが良い機会だと思えば、路上、通りすがりに、最初の人としてどこかの寺院を焼き始めることです』と。この言葉を、そのキリシタンは聞き捨てにしなかった。そして彼は、いとも簡単で快い償いが天から授かったものだと確信して、自分がそれによって、どんな危険に曝されるかも忘れ、さっそく帰宅の道すがら、ある大きく美しい寺院の傍らを通り過ぎた時に、彼はそれに放火して、またたく間にそれを全焼してしまった。…」(同書p.22-23)

南蛮船

寺社破壊に関してフロイスの著作には、領主の大村純忠は「そ知らぬふりをして、不快としてはいないことを明らかに示して」いただけで、破壊を領民に命じたとはどこにも書いていない。
このキリシタンの行動がきっかけとなり大村領の神社仏閣が破壊されて、大村領は6万人以上のキリスト教信者が生まれ、87の教会ができたという。

次に肥前国有馬晴信の所領を見てみよう。加津佐の海岸近くにある岩石の小島の洞窟中に建てられていた祠に、領内から追放された僧侶達が大量の仏像を隠していたのをイエズス会の宣教師が発見する。それらの仏像を取り出していくと、大きい仏像だけが残ってしまった、という場面から引用する。

「それらは分断しなければ、そのまま入口から外にだすことが出来なかった。だが我らは、仕事を早めるためにそれらに火を付けた。礼拝所や祭壇も同様にした。それらはすべて木製で、燃やすのにはうってつけの材料であったから、暫時にしてことごとくが焼滅してしまった。
 副管区長の司祭(ガスパル・コエリョ)は、…少年たちを招集させた。少年達は…それらの仏像を背にして運んだ。…教理を教わっている少年たちは、仏像を曳きずって行き、唾を吐きかけ、それにふさわしい仕打ちを加えた。
 折から寒い季節のことで、口之津の我らの司祭館では炊事用の薪が欠乏していた。そこでそれらの仏像はただちに割られて全部薪にされ、かなりの日数、炊事に役だった。」(同書p.208~209)

と、九州の寺社を破壊し仏像を焼却させたのは、明らかにキリスト教の宣教師である。記録を残したフロイス自身も、寺社を破壊し仏像などを焼却することは正しいことだと思っているからこそ、これだけ詳細に書いているのだ。
彼ら宣教師のために、この時代にどれだけの貴重な我が国の文化財が灰燼に帰したかわからない。

穴観音

フロイスが記述した場所は特定されており、多くの人がネットで紹介している。場所などが知りたければ例えばつぎのサイトなどに書かれている。上の写真は、大量の仏像が隠されていた穴観音という場所の写真である。
http://himawari-kankou.jp/spot/5/34/

フロイスの記録などを読むと、秀吉の「伴天連追放令」は、このまま放置すると日本人の信仰の対象であった寺社の文化財が破壊されてしまうという観点からも当然の措置であったし、何故キリスト教が日本で広まらなかったかということも当然のように思えてくる。今の日本で、評判の悪い新興宗教ですらしないようなことを、当時のキリシタンは平気で実行していたのだ。

宣教師らにとっては正しい行為をしているつもりなのかもしれないが、一般の日本人にとっては迷惑な話ばかりだし、このような布教のやり方をすれば、日本に限らずどこの国でも異教徒である一般民衆は反発し、衝突が起こって当たり前だと思う。
他の宗教や価値観を許容しない考え方や宗教は、異質なものとの共生ができない未熟さがある。そのような宗教や価値観が今も世界をリードしているから今も争いが絶えないのだと思う。

ニーチェ

ドイツの哲学者であるF・Wニーチェは晩年に「アンチキリスト」(邦訳「キリスト教は邪教です!」講談社+α新書)を著し、キリスト教が多様な文化を認めず徹底的に迫害し、戦争を必要とする宗教であるとの本質を見抜いている。わかりやすい訳文で、この本はニーチェの本にしては誰でもすぐに読了できる。

世界全体でキリスト教の信者が現在20億人いて、キリスト教が世界で最も信者数が多い宗教であることは周知の事実だが、これはキリスト教の教義が素晴らしかったから全世界の民衆に支持されて広まったというわけではなく、侵略国家の宗教であったから住民に押し付けて広められたという側面を無視できないのではないか。

西洋が全世界を侵略しその固有の文化を破壊していた時代に、日本はキリスト教の危険性を察知するだけの為政者がいて、侵略の先兵となっていた宣教師を斥けるだけの武力があったから日本固有の文化を守ることが出来たのだ。多くの国ではそうはいかなかったから世界中にキリスト教徒が多くなったというだけのことだと思う。
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永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど

前回は、永禄10年(1567)に大仏殿をはじめ東大寺の多くの伽藍を焼失させたのは、松永弾正久秀ではなく三好軍にいたイエズス会のキリシタンであると、同じイエズス会のフロイス自身が記録していることを書いた。

東大寺と郡山城の桜 040

松永弾正は東大寺には火をつけなかったかもしれないが、それ以前に三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)との戦いで多聞城の間際まで攻め込まれた松永弾正は、相手方が陣地として利用しそうな(般若寺、文殊堂など)寺を相次いで焼いている。
松永弾正、三好三人衆のうち、三好長逸はキリスト教に寛容なところがあったそうだが、全員が仏教を信仰する武士であった。それなのになぜ仏教施設に火を付けさせたのだろうか。あるいは配下の兵士達が自発的に火を付けて焼き払ったのか。

いろいろ調べると、松永弾正の配下にも、三好三人衆の配下にも、かなりのキリシタンがいたらしいのだ。
実は松永弾正は、東大寺が焼失した2年前の永禄8年(1565)に将軍足利義輝を攻め滅ぼした際に、キリシタンの宣教師を京から追放した人物である。また後に、織田信長によって京に宣教師が戻された時に、「かの呪うべき教えが行き渡る所、国も町もただちに崩壊し滅亡するに至る事は、身共が明らかに味わった事である」と信長に進言した人物でもあり、ルイス・フロイスから「悪魔」とまで呼ばれたキリスト教嫌いの人物でもあるのだ。

その松永弾正が率いる軍隊においてもキリスト教の信者が多くいたことに、多くの人が違和感を覚えるのではないか。また松永軍と戦っていた三好三人衆の軍隊にもキリスト教の信者がいたことから、永禄9年(1566)のクリスマス(降誕祭)の日に両軍がミサのために休戦したということが、今まで何度か紹介したルイス・フロイスの「日本史」に記録されていることを知って驚いてしまった。両軍の指導的立場にある武士に、相当数のキリシタンがいなければこのようなことはあり得ないはずだ。

しばらくこの戦場のクリスマス休戦の場面を引用しよう。

img20110304000858513.jpg

「降誕祭になった時、折から堺の市(まち)には互いに敵対する二つの軍勢がおり、その中には大勢のキリシタンの武士が見受けられた。ところでキリシタンたちは、自分達がどれほど仲が良く互いに愛し合っているかを異教徒たちによりよく示そうとして、司祭館は非常に小さかったので、そこの町内の人々に、住民が会合所に宛てていた大広間を賃借りしたいと申し出た。その部屋は、降誕祭にふさわしく飾られ、聖夜には一同がそこに参集した。
 ここで彼らは告白し、ミサに与かり、説教を聞き、準備ができていた人々は聖体を拝領し、正午には一同は礼装して戻ってきた。そのなかには70名の武士がおり、互いに敵対する軍勢から来ていたにもかかわらず、あたかも同一の国守の家臣であるかのように互いに大いなる愛情と礼節をもって応援した。彼らは自分自身の家から多くの料理を持参させて互いに招き合ったが、すべては整然としており、清潔であって、驚嘆に値した。その際給仕したのは、それらの武士の息子達で、デウスのことについて良き会話を交えたり歌を歌ってその日の午後を通じて過ごした。祭壇の配置やそのすべての装飾をみようとしてやって来たこの市の異教徒の群衆はおびただしく、彼らはその中に侵入するため扉を壊さんばかりに思われた。」(中公文庫「完訳フロイス日本史2」p.55)
と、両軍の内訳については書かれていないものの、両軍で70名ものキリシタンの武士がいて、戦争では敵として戦いながら、信仰ではしっかり繋がっていたということは驚きである。このことはどう考えればいいのだろうか。

前回までの私の記事を読んで頂いた方は理解いただいていると思うのだが、イエズス会の日本準管区長であったコエリョをはじめ当時の宣教師の多くは仏像や仏教施設の破壊にきわめて熱心であり、九州では信者を教唆して神社仏閣破壊させたことをフロイス自身が書いている。

京都を中心に活動したイタリア人のイエズス会宣教師であるオルガンディーノも、巡察師ヴァリニャーノに送った書簡の中で、寺社破壊を「善き事業」とし「かの寺院の最後の藁に至るまで焼却することを切に望んでいる」と書いているようなのだ。とすれば、彼らは両軍にキリシタンの武士を増やして、寺社破壊を意図的に仕組んだということも考えられるのだ。

すなわち、キリスト教の宣教師は日本でキリスト教をさらに弘めるために、日本の支配階級である武士をまずキリスト教に改宗させて、戦国時代を出来るだけ長引かせ、キリシタンである大名や武士に神社仏閣を徹底的に破壊させ、彼等の力により領民を改宗させていくことをたくらんではいなかったか。

宣教師が戦争で戦っている両軍のキリシタンに寺社の破壊を吹きこんだとしたら、両軍の指導的地位にある彼らは大きな寺の境内に陣を構えて積極的に火を使えば、容易に宣教師の希望を実現することが出来ると考えても何の不思議もない。

高山右近

キリシタン大名として有名であった高山右近は高槻城主であった時に、普門寺、本山寺、広智寺、神峯山寺、金龍寺、霊山寺、忍頂寺、春日神社、八幡大神宮、濃味神社といった結構大きな寺社を焼き討ちにより破壊したといわれているが、私にはこれなども宣教師の教唆が背景にあるように思えるのだ。また織田信長も多くの寺院を焼き討ちしたが、信長の配下にはこの高山右近などキリシタン大名が多かったことと関係があるのかもしれない。

ルイス・フロイスの「日本史」の次の部分を読むと、三好軍にいたキリスト教の信者が、偶像崇拝を忌むべきものであることを宣教師から吹き込まれていたかがよくわかる。 ここに出てくる「革島ジョアン」は、三好三人衆の中でキリスト教に対して比較的寛大であった三好長逸の甥にあたる人物である。

「…彼(革島ジョアン)はどこに行っても異教徒と、彼らの宗教が誤っていることについて論争した。この殿たちが皆、津の国のカカジマというところで協議した際、このジョアンは他の若い異教徒たちと一緒に立ち去って、彼らとともに西宮という非常に大きい神社に赴いた。そこには多くの人が参詣し、異教徒たちから大いに尊崇されている霊場であった。

他の若い同僚たちは、キリシタンになったそのジョアンを愚弄して、彼にこう言った。『貴殿はあのような邪悪な宗教を信じたし、また貴殿は日本の神々を冒涜する言葉を吐いたことだから、近いうちに神々の懲罰を受けるであろう』と。

ジョアンはそれに答えて言った。『予が、死んだ人間や、木石に過ぎないそれらの立像に、いかなる恐れを抱けというのか。ところで予がそれらをどれほど恐れてはいないか、また悪魔の像を表徴しているにすぎない彫像を拝むことがどんなに笑止の沙汰であるかをお前たちが判るように、これから予がそれらをどのように敬うかを見られるがよい』と。

こう語ると彼は、非常に高く、すべて塗金されている偶像の上に登り、その頭上に立ち、そこで一同の前で偶像の上に小便をかけ始めた。…」(同書p.70-71)

この事件があってからは三好長逸も、司祭や教会のことには一切耳を貸さなくなったそうであるが、当時のキリスト教信者にとって仏教施設はすべて愚弄し破壊すべき対象物にしか過ぎなかったのだ。

十日戎

ここに出てくる「西宮」とは、毎年1月10日の本えびすの朝に「開門神事福男選び」が行われる有名な西宮神社だが、廃仏毀釈で仏教施設が破壊されるまでは、神仏習合でお寺も仏像も存在していたのだ。今は西宮社にあった大般若経が播磨三木市吉川にある東光寺というお寺に残されているようだが、仏像や寺院がどうなったかはネットで調べても良くわからなかった。

戦国時代にキリシタンの武士がさらに増えていれば、また戦国時代がもっと長引いていれば、もっと多くの日本の文化財がこの時代に破壊されていたことは確実だろう。

以前にも書いたが、豊臣秀吉が伴天連を追放し全国を統一して平和な社会を実現させたことが日本人奴隷の海外流出と寺社の破壊に歯止めをかけた。
もし秀吉がキリスト教を信奉していたら、あるいはキリスト教宣教師の野心を見抜けず何の対策も打たなければ、日本はこの時期にキリスト教国になっていてもおかしくなかったと考えるのは私だけなのだろうか。
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秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか~~朝鮮出兵1

秀吉の朝鮮出兵については、晩年の秀吉は征服欲が嵩じて意味のない戦いをしてしまったようなニュアンスで学んだような記憶がある。歴史家も秀吉の誇大妄想と記述しているケースが多いようだ。

朝鮮出兵

最近の高校教科書で確認してみよう。例えば『もう一度読む山川日本史』には朝鮮出兵についてこう書かれている。
「秀吉はまた外交の面でも積極的で、倭寇などの海賊的な行為を禁じるとともに、日本人の海外発展を援助したので、日本船の東南アジア方面への進出が盛んになった。秀吉はさらに明(中国)の征服をくわだて、まず朝鮮に対して国王の入貢と明への先導をもとめた。しかし朝鮮がこれに応じなかったので、秀吉は2度にわたって出兵をおこない、明の援軍や、朝鮮民衆のはげしい抵抗にあって苦戦を強いられた(文禄・慶長の役)。1598(慶長3年)年、秀吉の死によって全軍は撤兵したが、朝鮮出兵とその失敗は、明・朝鮮両国の反日感情をつのらせたほか、国内的にも豊臣政権がくずれる原因の一つになった。」(『もう一度読む山川日本史』山川出版社P147)

今年の2月にこのブログで秀吉が伴天連禁止令を出した背景について書いたことがある。 当時の秀吉はポルトガルやスペインがキリスト教を布教させて住民を手なずけた後に日本を武力で侵略する意図を見抜いており、その流れを止めるために伴天連禁止令を出したことを、当時の記録などを参考にして記事を3回に分けて書いたのだが、そんな炯眼を持つ秀吉が、自らの征服欲のために朝鮮出兵を行ったとする説に違和感を覚えて、自分でいろいろ調べてみた。

スペインは1571年にフィリピンを征服し、直ちに明国(中国)の征服計画に着手している。 織田信長が本能寺の変で明智光秀に殺された翌年の1583年にマニラ司教のサラサールがスペイン国王に送った書簡(6月18日付)には
「…シナの統治者たちが福音の宣布を妨害しているので、これが陛下が武装して、シナに攻め入ることの正当な理由になる…。
そしてこのこと(シナの征服)を一層容易に運ぶためには、シナのすぐ近くの国の日本人がシナ人のこの上なき仇敵であって、スペイン人がシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを陛下が了解されると良い。そしてこの効果を上げる為の最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。…」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.85-88)

と書かれており、
その二年後にイエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョも、フィリピン・イエズス会の布教長への書簡で、日本への軍隊派遣を求めるとともに「…もしも国王陛下の援助で日本66ヶ国凡てが改宗するに至れば、フェリペ国王は日本人のように好戦的で頭の良い兵隊を得て、一層容易にシナを征服することが出来るであろう…」(1585年3月3日付)とあり、キリスト教の布教がスペインの侵略政策と密接に関係し、スペインが中国の征服を狙っていたことは明確なのだ。

当時の情勢からすれば、スペインは日本よりも明から攻める方が容易であっただろう。
もしスペインが明を征服すれば、朝鮮半島も同時にスペインの支配下に落ちただろう。スペインに朝鮮半島から攻められればわが国も相当な犠牲が避けられないはずだ。

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イエズス会日本準管区長のコエリョがスペインに軍隊派遣を要請した直後の1585年5月4日に、秀吉はコエリョと会っている。ムルドック「日本史」にはこう記されている。
「秀吉はコエルホ(コエリョ)に語りて曰く、予が日本全国を平定するの日は近きにあり。この上は…親から(みずから)進んで、朝鮮、支那の征服に従事する筈ぢゃ。今や大兵輸送の為めに、戦艦二千艙を造る可く、樹木伐採の命を布かんとする所である。予は師父等に、何等の註文なし、但だ彼等の力によりて、葡萄牙(ポルトガル)より二個の巨大にして、武装したる船を獲来る丈の事のみだ。…若し成功して、支那人悉く皆予に恭順せんか、予は支那人より支那を奪うを欲せず、又た予自ら支那にあるを欲せず。予は唯だ支那人をして、予を其の君主と認めしむるを以て、足れりとするのみ。然る時には、其の全土に教会堂を建てしめ、総ての人民に令して、邪蘇教徒たらしめ、聖律に遵由せしむ可し。」(徳富蘇峰『近世日本国民史』)

秀吉は、コエリョの計画を逆手に取って自らの手で明を征服すべく、キリスト教の布教を認める代わりに軍艦を手に入れて、逆に彼等を利用しようとしたのだ。

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さらに秀吉は朝鮮出兵の前年である天正19年(1591)に、ゴアのインド副王(ポルトガル)とマニラのフィリピン総督(スペイン)にも降伏勧告状を突き付けて、応じなければ明征服のついでに征服するから後で後悔するな、と恫喝している。

このような降伏勧告状を突き付けても、スペインは日本には攻めて来なかった。
今年の1月にこのブログに書いたが、鉄砲の大量生産に成功した日本は世界に輸出し16世紀末には世界最大の鉄砲保有国になっていたし、当時の英国の鉄砲保有数は肥前国の保有数の3分の2程度にすぎなかった。それほど日本の鉄砲保有台数は多かった。
鉄砲だけではなく刀も鎧も日本の物の方が優っていた。ヨーロッパの剣も鉄砲の銃身も日本の刀剣で真っ二つに切り割かれる程度のものだった。
さらに日本の武士の数は、人口の7%から10%近くもいたが、ヨーロッパはどの国も人口の1%を超えなかったと言われている。
正面から攻めるやり方では、スペインは日本に勝てるはずがなかったのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-5.html

また、秀吉は李氏朝鮮軍も明軍も決して強くないことが分かっていた。スペインが先に攻撃を仕掛ければ、明も李氏朝鮮も簡単に征服されてしまうだろう。ならば、スペインに先んじてわが国から明を攻めて、支配下に置こうと考えたのではないか。

『明史』にはこう書かれている。
「秀吉は…年号を文禄と改め(1592年)、そのころから中国を侵略し、朝鮮を滅ぼして併合しようという野心を抱くようになった。そこで以前の汪直(倭寇の頭目)の残党を呼んで情報を集めた結果、唐人が倭人を虎のように恐れていることを知り、…着々と軍備を整え、艦船を修理し、家臣と謀略を練り、中国の北京に侵入するには朝鮮人を案内者とし、浙・閩等沿海地方の郡県に侵入するには中国人を案内役にするのがよかろうということになった。…」(『倭国伝』講談社学術文庫p.432)

前回までに記した通り、倭寇のメンバーの大半が李氏朝鮮や明国の民衆であり、もし明国を征伐したとしても協力する朝鮮・明国の勢力があったことを中国の正史である『明史』に書かれているのだ。

文禄の役ルート

秀吉軍は文禄元年(1592)4月13日に釜山(プサン)攻撃開始後僅か20日の5月3日に首都漢城(現在のソウル)を陥落させているのだが、500km近いプサンからソウルの距離*をこんなにはやく進軍できたのは、相手の抵抗があまりなかったからではないのか。この時に日本軍兵士の半分は朝鮮の民であったという記録があり、多くの朝鮮民衆が秀吉軍に加勢したのである。この話を書きだすと長くなるので、別の機会に書くことにしよう。(*東海道五十三次の約500kmは旅人が通常15日程度で旅をしていたと言われている。)

秀吉の第一回目の朝鮮出兵の後に文禄五年(1596)土佐沖で起きた有名な事件がある。
300人近い黒人奴隷を満載しメキシコに移送中であったスペイン船サン・フェリペ号が座礁してしまった。秀吉は家臣の増田長盛を派遣して、積荷一切を没収しようとしたが、それに抵抗しようとしたサン・フェリペ号の水先案内人が増田の前に世界地図を広げ欧州、南北アメリカ、フィリピンに跨るスペインの領土を示し、何故スペインがかくも広大な領土を持つにいたったかと増田の問いに対し、その水先案内人は「それはまず、宣教師を諸国に派遣し、その民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」と答えたと徳富蘇峰が書いているが、実際にそのようなやりとりがあったかどうかは日本側の記録には見当たらない。

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しかし、同様の発言があっても不自然ではない史料はイエズス会側に残されている。 日本にいたイエズス会のヴァリヤーニは翌年にイエズス会フィリピン準管区長ライムンド・プラドに宛てて、
「(日本などの)地域の王や領主はすべてフィリピンのスペイン人に対して深い疑惑を抱いており、次のことを知っているからである。即ち、彼等は征服者であって、ペルー、ヌエバ・エスパーニャを奪取し、また近年フィリピンを征服し、日々付近の地方を征服しつつあり、しかもシナと日本の征服を望んでいる。…何年か前にボルネオに対し、また二年前にカンボジャに対して攻撃を加えた。少し前に彼等はモルッカ諸島を征服するための大艦隊を有していた。…日本人やシナ人も、それを実行しているスペイン人と同様にその凡てを知っている。なぜなら毎年日本人やシナ人の船がマニラを行き来しており、見聞したことを語っているからである。このようなわけで、これらの国民は皆非常に疑い深くなっており、同じ理由から、フィリピンより自国に渡来する修道士に対しても疑惑を抱き、修道士はスペイン兵を導入するための間者として渡来していると思っている。…」と書いている。(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.132-133)

秀吉はスペインの日本征服の魂胆を見抜き、修道士はその為に送り込まれたスパイだと認識していることをヴァリヤーニはプラドに警告しているわけである。この書簡から、秀吉は倭寇のメンバーからも情報を収集していることが伺える。

これらの一連の流れから考えれば、秀吉は単なる征服欲で明国に出兵したという教科書の記述は、当時の時代背景を理解していない浅薄な見方としか思えないのだ。

秀吉は当時のスペインの明征服計画が存在することを知っていたことは確実だ。
もし明がスペインに征服されれば、朝鮮半島をスペインが支配することは時間の問題であり、そうなればスペインは朝鮮半島から最短距離でわが国を攻めてくることになってしまう。大量の食糧や武器弾薬をつぎ込んで大軍団でわが国を攻めてきた場合、一部の切支丹大名が離反することが想定されるので、そうなればわが国は分裂して、元寇のときよりもはるかに大きな危機に陥ると考えていたのではないか。
そうならないために秀吉は、スペインの先手を打つことで明・李氏朝鮮を傘下に治めてわが国を西洋植民地化されることから守ろうとした、と考える方がずっと自然だと思うのだ。

晩年の秀吉が教科書などでロクな書かれ方をしないのは、当時の世界史の大きな流れの中で秀吉の朝鮮出兵や伴天連禁止令を考えないからではないのか。
(つづく)
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多くの朝鮮民衆が味方し勝ち進んだ秀吉軍~~朝鮮出兵2

前回の記事で秀吉の軍隊に加勢した朝鮮の人々が多かったことを書いた。この点については教科書には全く記述されていないところである。第一回目の朝鮮出兵である「文禄の役」の記録を見てみよう。

秀吉の朝鮮出兵については日本のみならず李氏朝鮮や明国にも記録が残されており、「文禄の役」の戦の経緯は次のサイトでコンパクトに纏められている通りで、日本軍は連戦連勝で平壌まで進んでいる。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-4/ad1592a.htm

朝鮮出兵については、山川の日本史をはじめ多くの教科書には「朝鮮民衆の激しい抵抗にあって苦戦した」と簡単に書いているのだが、それならばなぜ簡単に日本軍が平壌まで進む事が出来たのか。

文禄の役ルート

まず、日本軍が上陸した釜山(プサン)では4月13日の早朝に攻撃開始後数時間で日本軍は釜山城に攻め入って勝利している。
日本軍が短時間で勝利した理由は簡単だ。日本軍は大量の鉄砲があったが朝鮮軍は鉄砲を持っておらず、刀も槍も弓矢も性能は日本の武器の方がはるかに優秀だったからだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E5%B1%B1%E9%8E%AE%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

日本軍が釜山を橋頭保として北の漢城(ソウル)に軍を進めて行くためには、釜山から数キロ北にの東菜城を陥落させる必要があった。翌4月14日早朝に戦闘開始し、この戦いでは朝鮮軍は奮戦し8時間持ちこたえるのだが兵器の差で日本軍が勝利し、北から現地に向かっていた慶尚道の全軍の指揮官らは、その報を聞いて逃げたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%8E%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

文禄の役

その後、4月24日に「尚州の戦い」、4月28日に「弾琴台の戦い」があり、いずれも日本軍が簡単に勝利し、5月3日には現在のソウルである首都・韓城が陥落する。

韓城では戦いらしい戦いはなく、小西行長らの一番隊が漢城に到着した時には、守備隊は誰もいなかったという。前日に宣祖王は平壌に向かって逃亡していたのだ。

Wikipediaにはこう書かれている。
「…漢城は既に一部(例えば、奴婢の記録を保存していた掌隷院や、武器庫など)が略奪・放火されており、住民もおらず放棄されていた。漢江防衛の任に当たっていた金命元将軍は退却した。王の家臣たちは王室の畜舎にいた家畜を盗んで、王よりも先に逃亡した。全ての村々で、王の一行は住民たちと出会ったが、住民たちは王が民を見捨てて逃げることを悲しみ、王を迎える礼法を守らなかった。
また、明の朝鮮支援軍が駆けつけると、辺りに散らばる首の殆どが朝鮮の民であったと書かれてある。景福宮・昌徳宮・昌慶宮の三王宮は、日本軍の入城前にはすでに灰燼となっており、奴婢は、日本軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った…」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9

当時の李氏朝鮮は両班(ヤンパン)を最上位とする強固な身分制社会で、全人口の三割から五割は奴婢 (ぬひ、奴隷の一種) 身分だったと言われている。「宣祖実録」によると、このとき朝鮮の民衆は朝鮮政府を見限り、日本軍に協力する者が続出したというのだ。
宣祖実録」は宣祖帝の時代の出来事の李氏朝鮮国の公式記録だが、原文で良く引用されるのが宣祖帝が漢城を脱出するところの記述である。(下の画像のピンク部分)

宣祖実録

「人心怨叛,與倭同心」(人心は怨み叛き、倭に同調するのみ)
「我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也?」(我が民は言った「倭もまた人である。どうして我々が家を捨てて逃げる必要があるのか?」)

したがって、日本軍が漢城に進駐しても「京中の市民、安居して移ら」なかったばかりか、朝鮮の王である宣祖が「賊兵の数はどうか。半ば是我国の人と言うが、然るか」と尹斗壽に尋ねたように、日本軍には朝鮮の民衆が半分近く含まれていたのである。
http://ccce.web.fc2.com/rekisi1.htm#karairi

韓国の教科書には「(日本軍侵略の為に)文化財の被害も大きかった。景福宮が焼け、実録を保管した書庫が消失した」と書かれているそうだが、史実は朝鮮の民が景福宮等に火をつけたものであり、秀吉の軍隊が漢城に入る前には既にそれらの建物は焼け落ちていたのだ。

多くの民衆が国王に対し、国民のことを顧みずもっぱら後宮を富ませたと罵声をとばし、石を投げたという記録もあるそうだ。
日本軍は、朝鮮軍からの抵抗をあまり受けることなく北進を続け、6月15日には平壌が陥落した。日本軍より先に漢城から平壌に逃亡した宣祖王は、平壌に日本軍が迫ると再び逃亡し、冊封に基づいて明国(中国)に救援を要請。小西行長らの一番隊は和平交渉を模索して平壌で北進を停止した。

7月16日に明軍の援軍が平壌に到着するが、日本軍はこれを撃退する。

朝鮮半島地図

加藤清正らの二番隊が進んだ咸鏡道(半島の北東部)については『(道内)各地の土兵・土豪は役人を捕らえて降る。日本兵は刀剣を使わず』に快進撃したという記録があるそうだ。
人々は日本軍の侵入前に、咸鏡道観察使(知事)柳永立・兵使(軍司令官)李渾さえも捕らえて一気に惨殺してしまい、この結果、咸鏡北道明川以北の八城市は従来の政府役人に代わって、日本軍の庇護のもとに蜂起した民衆が首長となったという。

という具合で、上陸した日本軍は各地で勝利し全羅道を除く全土を早い時期に制圧したのだ。

しかし日本軍の弱点は船にあった。
日本の船の底は平らで、帆を一本かけるだけだから順風でないとロクに使えなかったし、船も小さかった。

亀甲船

一方朝鮮の船は李舜臣(りしゅんしん)が考案した亀の形をした有名な「亀甲船(きっこうせん)」といわれる大きな船で、日本軍の船よりも安定感があり、船体の上部に槍や刀を上向きに植えこんでいたので、日本軍が乗り移って戦うことが困難な構造になっていた。
朝鮮の船は戦うことを前提にした船であるのに対し、日本の船は輸送船団に武士を乗せたようなものだ。
海の戦いでは日本軍は劣勢が続き、全羅道から北上することが出来なくなって、そのために前線に充分な武器や食糧が運べなかったのだ。

朝鮮出兵日本船

日本軍は陸戦では勝ち進んで平壌まで来たが、これから先、明国に進もうにもまともな道路がないし、一方で兵糧は不足する。日本の船は来ないし寒さは厳しくなるばかり。ゲリラも現れ、疫病にも苦しめられたという。これでは日本軍の士気は上がらない。

文禄二年一月八日、李如松(りじょしょう)率いる明軍が平壌に総攻撃を仕掛けてきた。明軍は城の食糧庫に火を放ち、そうなると日本軍ももう長くは戦えない。日本軍は大同江を渡って逃げたが、明兵も朝鮮兵もそれ以上は追ってこなかったという。この平壌の戦いが、陸における日本軍の唯一の敗戦と考えてよい。

明がこの時の戦果を調べさせたところ、李如松が平壌でとった首の半ばは朝鮮人だったという報告があるそうだ。多くの朝鮮民衆が日本軍に加担していたことは確実なのである。

日本軍は一旦漢城に戻って体制を立て直す。補給に問題があるので籠城戦を避け、碧蹄館(へきていかん)で再び明軍と戦い日本軍は大勝し、明軍の李如松は命からがら逃走したという。

文禄二年の三月に漢城の日本軍の食料貯蔵庫であった龍山の倉庫を明軍に焼かれてしまい、窮した日本軍は講和交渉を開始する。これを受けて明軍も再び沈惟敬を派遣し、小西行長・加藤清正の三者で会談を行い、4月18日に日本軍は漢城より釜山へ退却した。

しかし、秀吉には明が降伏したと言い、明朝廷には日本が降伏したと言って双方の講和担当者がそれぞれ偽りの報告したため、両国とも受け入れられない講和条件を要求してきたが、日本側の交渉担当の小西行長と小西如安は偽りの降伏文書を作製して戦争を終結させてしまう。
文禄五年(1596)9月、秀吉は来朝した明使節と謁見。自分の要求が全く受け入れられておらず、自分が明の臣下の扱いであることを知り激怒する。秀吉は明の使者を追い返し朝鮮への再度出兵を決定したというのが、文禄の役の流れである。

このような史実を知ると、第二次世界大戦の日本軍がマレー半島からシンガポールに進み、ジャワやラングーンを電光石火で陥落させたが補給を軽視して失敗した歴史を思い出す人が少なくないだろう。
歴史に学ばない国民は、何度も同じ過ちを繰り返すということなのか。

また当時の記録などを読めば読むほど、わが国で流布している教科書の「明の援軍や朝鮮民衆のはげしい抵抗にあって苦戦を強いられた(山川日本史)」という記述がばかばかしくなって来る。なぜ日本の教科書は朝鮮人口の多くが奴婢身分であり、民衆の多くが日本軍に加勢したという史実を書かないのか。

この朝鮮出兵で多くの朝鮮の陶工が捕虜として日本軍に連行されたとよく言われるのだが、彼等にとっては自国に残っても奴隷(奴婢)の過酷な暮らしが待っているだけではなかったのか。日本で技能者として優遇されるのであれば、日本での暮らしを望んだ人が多くいても不思議ではないのだ。
秀吉の朝鮮出兵が終わって60年程度あとに、船が難破して李氏朝鮮に流れ着き1653~66年の間出国が許されず朝鮮に留めおかれていたオランダ人のヘンドリック・ハメルは「朝鮮幽囚記」(平凡社東洋文庫)に、こう記述しているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%A1%E3%83%AB
「奴隷の数は全国民の半数以上に達します。というのは自由民と奴隷、あるいは自由民の婦人と奴隷との間に一人または数人の子供が生まれた場合、その子供たちは全部奴隷とみなされるからです。…」
秀吉の朝鮮出兵の後も、李氏朝鮮には相変わらずの身分制度が相当強固に残されていた国だったのだ。
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第二次朝鮮出兵(慶長の役)も秀吉軍の連戦連勝であった~~朝鮮出兵3

前回は第一回目の朝鮮出兵である「文禄の役」の概略を書いた。
この戦いは陸戦では多くの朝鮮民衆が日本軍を支援して連戦連勝で勝ち進んだが、船の進路を阻まれて補給路を断たれて前線が孤立し、さらに前線の食糧倉庫を焼かれてしまったために一旦漢城に戻って体制を立て直すのだが、そこでも日本軍の食糧倉庫が焼かれてしまい、窮した日本軍は和平交渉に入るのだが、日本側の和平交渉を担当した小西行長と小西如安が早く交渉を終えるために偽りの降伏文書を作成したことが後に発覚し、秀吉が激怒する。秀吉は直ちに第二次朝鮮出兵を命じ、第二次朝鮮出兵と言われる「慶長の役」が始まるのだ。

慶長の役ルート

第一回目の「文禄の役」は明の征伐が目的であったが、「慶長の役」は朝鮮征伐が目的であった。諸将に発せられた慶長2年(1597)2月21日の朱印状(『立花家文書』等)には「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」「これを達成した後は守備担当の武将を定め、帰国予定の武将を中心として築城すること」とあり、朝鮮半島の西南部を侵攻し、半島南部に城を築き城主を定めてわが国の領土とするという計画だったようだ。

全羅道への進撃

九州・四国・中国勢を中心に編成された総勢14万人の日本軍に、李氏朝鮮軍は釜山周辺に布陣する。最初の「漆川梁(チルジョンリャン)海戦」は7月16日に水陸から攻撃した日本軍が大勝し、朝鮮水軍の幹部指揮官の元均らを戦死させ、軍船のほとんどを撃沈して壊滅的打撃を与えている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%86%E5%B7%9D%E6%A2%81%E6%B5%B7%E6%88%A6

李氏朝鮮水軍勢力をほぼ一掃した日本軍は、8月16日に黄石山城、南原城の二城を陥落させ、さらに全州城に迫るとそこを守っていた明軍は逃走し、8月19日に日本軍は全州城を無血占領している。そしてまたたく間に朝鮮半島の南東部である全羅道、忠清道を占領してしまった。

慶長の役画像

海上では、李舜臣率いる朝鮮水軍の残存部隊が日本水軍を攻撃したが痛打を与えると速やかに退却し、この鳴梁海戦の結果日本軍は全羅道西岸を制圧した。また、拠点を失った朝鮮水軍は、全羅道北端まで後退した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E6%A2%81%E6%B5%B7%E6%88%A6

ここで日本軍は、当初の計画通り朝鮮半島南部(東は蔚山から西は順天に至る範囲)の恒久領土化を目指して、城郭群の建築に取り掛かる。

蔚山倭城

しかし完成直前の蔚山倭城に12月22日に明・朝鮮連合軍56,900人が襲撃してきた。 加藤清正をはじめ日本軍は、食糧準備の出来ていないままの籠城戦となり苦戦するが、1月3日に毛利秀元等の援軍が到着し、翌日に水陸から明・朝鮮軍を攻撃し敗走させて日本軍が勝利している。

その後城郭群が完成し、九州衆が城の守備のために朝鮮に残留し、四国衆・中国衆と小早川秀秋は予定通り順次帰国して、翌年以降の再派遣に備えたという。

秀吉は翌慶長4年(1599)に大軍を再派遣して攻撃する計画を発表していたが、8月18日に死去し、五大老や五奉行を中心に、密かに朝鮮からの撤収準備が開始された。

9月に入って明・朝鮮連合軍は総力を結集して三つの倭城(蔚山、泗川、順天)の同時攻撃をしかけるが、第二次蔚山城の戦いでは、加藤清正が明・朝鮮連合軍を撃退し防衛に成功。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%9A%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
泗川の戦いでは島津軍7000が明・朝鮮連合軍20万を迎撃し、結果連合軍8万を討ち取り壊滅させた記録がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%97%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
また順天を守っていた小西行長も順天城の戦いで勝利している。
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E9%A0%86%E5%A4%A9%E5%80%AD%E5%9F%8E_%E9%A0%86%E5%A4%A9%E5%80%AD%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81

順天倭城の戦い

上の図は順天城の戦いを描いた図だが、これだけ鉄砲で待ち構えられたら、明・朝鮮軍に勝ち目がなかったことが誰でもわかる。
李氏朝鮮の公式記録『宣祖実録十月十二日条』には「…資糧、器械稱是, 而三路之兵, 蕩然俱潰, 人心恟懼, 荷擔而立…」(三路に分かれた明・朝鮮連合軍は溶けるように共に潰え、人心は恐々となり、逃避の準備をした)と書かれている。

10月15日秀吉の死は秘匿されたまま五大老による帰国命令が発令され、命令を受領した小西行長は明軍の陸将劉綎との交渉により無血撤退の約束を取り付けたのだが、引き揚げてくる日本軍を李舜臣率いる朝鮮水軍が明の大将陳璘(ちんりん)率いる水軍と共に海上を閉鎖し、撤退を妨害した。
そこへ島津軍の引き揚げ船団が合流し、露梁津(ろりょうしん)の戦いが起こる。島津軍は苦戦するが、この戦いで朝鮮水軍の大将李舜臣も明水軍の副将鄧子龍(ていしりゅう)は戦死している一方、島津軍の主だった武将で戦死者はいなかった。この戦いでは日本軍が負けたと書く歴史家もいるが、この戦いにおいて日本軍は敗走したのではなく、目的は海戦海域を脱出して釜山に戻ることでありその目的はしっかり果たしているのだ。この戦いで敗れたのは、日本軍の進路妨害に失敗したにもかかわらず追撃もせず、主要な武将を失った明・朝鮮連合軍の方ではないのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E6%A2%81%E6%B5%B7%E6%88%A6

かくして日本の出征大名達は無事に日本に帰国し、秀吉の計画は成功に至らぬまま秀吉の死によって終結してしまうのだ。

以上見てきたとおり、日本軍は慶長の役では一戦たりとも敗北していないのだが、何故五大老は日本軍に帰国命令を出したのであろうか。この点については、秀吉が死亡し、家康等有力大名間の権力を巡る対立が顕在化して対外戦争を継続できる状況ではなくなったと考えられている。

明史朝鮮伝

明史・朝鮮伝』では秀吉の朝鮮出兵をこう総括している。
豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した。」(自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。)
http://halto112.blogspot.com/2011/07/3_20.html

このように中国の正史である『明史』で、明と朝鮮には「勝算がなかった」と総括している事実は重たいはずだ。なぜなら正史というものは、自国に都合の良いことは誇大に書き、都合の悪いことはあまり記述しない傾向にあるものであるからだ。事実は、明・朝鮮連合軍が大敗し、たまたま秀吉が死んだことで戦争が終わったということは明も認めている真実なのだ。

お隣の韓国の歴史教科書にはこの秀吉の朝鮮出兵をどう書いているか、興味があったのでちょっと調べてみた。
「…全国各地で儒生、農民、僧侶などが義兵を組織し、いたるところで倭軍をうち破り、苦しめた。義兵は自発的に立ちあがり、自分の家族と財産、そして村を守る一方、国家を守るために倭軍を迎え撃った。
義兵は、自分の地元の地理に明るく、地形をうまく利用することができただけではなく、自然条件に合った武器と戦術を活用したために、少ない犠牲で大きな被害を与えた。…」(勝岡寛次『韓国・中国歴史教科書を徹底批判する』[小学館文庫]所収)

随分勇ましい記述であるが、日本軍の圧倒的な鉄砲の威力の前にほとんどの戦いで大敗している史実とはかけ離れた記述になっている。一部の地域で義兵があった記録はあるが、日本軍の大半の地域で朝鮮民衆が日本軍に味方した事実や、当時の朝鮮人口の3割から5割は奴婢身分であり、この時に国王や両班に多くの民衆が反旗を翻した史実を書かなければ嘘を書いているのと同じだ。

この韓国が、日本の歴史教科書に何度も修正要求書を提出している。
http://homepage2.nifty.com/tanimurasakaei/new_page_114.htm
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110719-00000023-yonh-kr

「壬辰倭乱」という用語は、韓国では「秀吉の朝鮮出兵」を意味するが、韓国政府は文部省検定済みの扶桑社の教科書の記述について、「出兵」ではなく「侵略」という言葉を使え、この原因は「秀吉の個人的妄想とだけ記述」せよ、「日本軍によりほしいままにされた人的・物的被害の様子を縮小」するな、などとコメントしている。

要するに「秀吉の朝鮮出兵」は日本軍の侵略行為であり、朝鮮民衆はその被害者でひどい目に遭っているとのイメージを日本人に広げたいのである。いずれ書くことがあると思うが、他の時代についても同様のスタンスだ。韓国にとっては、李氏朝鮮が劣悪な身分制度であったことを隠蔽し、秀吉を侵略者であるとすることが都合が良いと考えているのだと思う。
韓国の教科書は国定教科書であり、いずれの時代の対日関係史の出来事はほとんどが日本が悪いと決めつけている。こんな教科書で全国民を指導すれば、韓国が「反日国家」となるのは当たり前のことある。
スタンフォード大学のアジア太平洋研究センターの日・中・韓・米・台の高校歴史教科書についての報告で、韓国の歴史教科書については「韓国は日本が自国以外に行った行為には興味はなく、日本が自分たちに行ったことだけに関心がある。」とし、自己中心的にしか歴史を見ていないと指摘したそうだが、これは多くの日本人が納得する話ではないのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8%E5%95%8F%E9%A1%8C

そもそも一方的な韓国側の主張に、なぜ日本の教科書が配慮する必要があろうか。
私は「近隣諸国条項」を撤廃すべきだと思うのだが、それができないのであれば、中国や韓国の正史や公式記録等にいくらでも彼らの主張に反論できる根拠があるので、それを使うべきだと思うのだ。
当時の李氏朝鮮国の身分制度のことはもちろんのこと、朝鮮出兵において韓国人の民衆の多くが日本軍に加担したことを出典や論拠を明確にしたうえで堂々と日本の教科書に書き、先方の教科書記述にも論争をしかけるくらいのことが必要ではないのか。いずれの国にとっても重要なのは、それぞれの時代の様々な出来事についてその時代背景を把握した上で、史実に基づいて真摯に真実を探求することであるはずである。

どこの国でも、他国の圧力で史実に基づかない歴史記述を押しつけられるようなことが続けば、次第に他国に軽んじられるようになり、国民は自国に誇りが持てなくなり、国がバラバラになって衰退していくだけだと思うのだ。
史実に忠実であるならば、国によって歴史の見方に違いがあっても許容できるが、史実に基づかない歴史を無理に押しつけてくる国に対しては、わが国は史実を示して反論するしかない。政治家は安易に謝罪を繰り返すのではなく、もっと歴史を学んで言うべき事を言って欲しいものである。
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東大寺の大仏よりもはるかに大きかった方広寺大仏とその悲しき歴史

ネットで古い写真を探していると、明治13年(1880)に撮影された京都名所の写真集に遭遇した。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/satsuei/page7/KM_08_01_001_1.html

方広寺の鐘古写真

国際日本文化研究センターのサイトにいけば誰でもこの写真集を見ることが出来るのだが、そこに写っている写真は私も何度か行ったことがあるようなお寺や神社のものが大半だ。写真を見てどこを撮影したものかはある程度見当がついたのだが、この写真だけは少なからず違和感を覚えた。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/satsuei/page7/KM_08_01_011F.html

その違和感は、この写真集が「京都名所撮影」という表題であるにもかかわらず立派な鐘が雨曝しになっている写真で、なぜここが「名所」なのかと疑問に感じたからだ。この写真を見て急に方広寺の事を調べたくなった。

以前何度かこのブログで紹介したが、本文を 京都の俳諧師秋里籬島が著し、図版を大坂の絵師竹原春朝斎が描いて安永九年(1780)に刊行された「都名所図会」という本があり、この全ページと翻刻文が先程の国際日本文化研究センターのHPで紹介されている。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/c-pg1.html

都名所図会方広寺2

この「都名所図会」第三巻に方広寺の立派な伽藍の絵が描かれているのだが、出版された当時にはこのような大きな伽藍が存在していたようだ。
「都名所図会」の本文には「大仏殿方広寺は、後陽成院御宇天正六年、豊臣秀吉公の御建立なり。本尊は廬舎那仏の坐像、御丈六丈三尺。仏殿は西向にして、東西廿七間南北は四十五間なり。楼門には金剛力士の大像を置、長は壹丈四尺なり。門の内には高麗犬あり、金色にして長七尺…」などと記されている。

一丈は3.03m、一尺は30.3cmであるから、方広寺大仏の高さ六丈三尺は約19mということになる。ちなみに東大寺の大仏は五丈三尺で約16m(実測14.7m)であるから、方広寺の大仏は東大寺の大仏よりも一回り大きかったということになる。
また方広寺大仏殿は高さが49m、南北88m、東西54mということなのだが、現存で世界最大の木造建造物である東大寺大仏殿と比較すると高さは49mで同じだが、東大寺は正面が57,5mで奥行きが50.5mだから、方広寺大仏殿についても東大寺よりも一回り大きな建物だったのだ。豊臣秀吉は、京都の民衆を驚かせるような寺を造りたかったということなのか。

しかし、方広寺の歴史を調べると、何者かに呪われた寺であるかのように、何度倒壊や破損を繰り返している。Wikipediaの記事などを参考に、方広寺の歴史を振り返ってみよう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BB%8F

天正16年(1588)に豊臣秀吉が発した刀狩令には、「没収した武器類を方広寺の大仏の釘や鎹(かすがい)にする。そうすれば百姓はあの世まで救われる」と書かれていたことは有名な話だが、この寺の造営が開始されたのは天正14年(1586)で、刀狩令の二年前から工事が始まっているのである。

文禄4年(1595)に大仏殿がほぼ完成し、高さ約19mの木製金漆塗坐像大仏が安置されたのだが、翌年の慶長元年(1596)に地震があり、開眼前の大仏は倒壊してしまった。
翌年秀吉は善光寺の本尊*を方広寺の本尊としたのだが、この頃から秀吉は病気になり、それが善光寺如来のたたりだと噂されるようになった。翌慶長3年(1598)にこの本尊を信濃(もともとの本尊のあった信濃善光寺)に送り返すのだが、秀吉はその仏像が送られた翌日(8月18日)に亡くなったのだそうだ。そして8月22日に大仏のないままで、方広寺大仏殿で開眼法要が行われたという。
*善光寺の本尊は戦国武将の思惑で全国各地を流転し、当時は甲府にあった。
http://zenkozi.com/about/wandering.html

その後秀吉の遺志を継ぎ豊臣秀頼によって大仏の再建が行われたが、慶長7年(1602)に鋳物師の過失により仏像が融解して出火し、大仏殿は炎上してしまう。この火災については徳川家康が江戸に幕府を開いた直前の事だけに、放火説も根強くあるようだ。

慶長13年(1608)10月に、豊臣秀頼は再び大仏および大仏殿の再建を企図する。慶長15年(1610)から建築が始まり、慶長17(1612)年に大仏殿と銅製の大仏が完成した。この時は徳川家康も諸大名に負担を命じて協力したようである。

慶長19年(1614)に梵鐘が完成し、南禅寺の禅僧文英清韓に命じて銘文を起草させ落慶法要を行おうとしたが、7月に徳川家康より異議が唱えられ法要中止の求めがあった。有名な「方広寺鐘銘事件」だ。

清水寺・方広寺 057

上の画像が有名な方広寺の鐘だが、方広寺に行ってこの鐘をよく見てみると「君臣豊楽」「国家安康」という文字が白墨でわかりやすく囲まれていた。
この事件は、豊臣家攻撃の口実とするため、家康が金地院崇伝らと画策して問題化させたものであるという考え方が一般的であるが、銘文を作った文英清韓という人物は豊臣氏とつながりが深く、同じ南禅寺住僧で徳川家康の顧問であった金地院崇伝と政治的に対立していたと言われており、文英清韓が自ら「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」と弁明したことが『摂戦実録』という書物に記されているそうだ。
文英清韓が意図的に隠し入れた文字を金地院崇伝が目ざとく見つけて家康に伝え、政治問題化したという見方もあるが、文英清韓が金地院崇伝に繋がっていて、二人で豊臣家を罠にはめたという見方はできないか。この事件の後文英清韓は処分を受けて南禅寺から追放されているが、なぜか蟄居中に林羅山のとりなしなどにより許されているのだ。 この事件にはかなり裏がありそうだが、詳しいことはよくわからない。

方広寺鐘楼

皮肉なことに、方広寺で創建以来の姿で今も残っているものはこの鐘だけなのだ。 鐘の銘文が徳川家を冒涜するものだとしながら、大坂の陣で豊臣軍を打ち破っても、家康はこの鐘を鋳潰さなかったし銘文を変えさせることもしなかった。何か徳川家康の意図があったような気がするのだが、この点はよくわからない。
ちなみにこの鐘の高さは4.2m、重さは82.7tとかなり大きく、東大寺、知恩院の鐘とともに日本三大名鐘の一つとされ、国の重要文化財に指定されている。

話を方広寺の歴史に戻そう。
「方広寺の鐘銘事件」の48年後の寛文2年(1662)に地震があり、また大仏が傷んでしまい再び木造で造られることとなる。壊れた大仏の銅は寛永通宝の鋳造に用いられたそうだ。


伏木勝興寺所蔵の洛中洛外図に描かれた方広寺

【洛中洛外図屏風に描かれた方広寺】

さらに寛政10年(1798)年に落雷による火災で大仏殿も木造の大仏も焼失してしまう。先程の紹介した「都名所図会」の大仏殿の絵はこの時に焼失する前に描かれたものであることが分かる。

この焼失の後は、さすがに江戸幕府は元の規模の大仏殿や大仏を再建することはしなかった。
天保年間(1830~1843)に現在の愛知県の有志が、旧大仏を縮小した肩より上だけの大仏像と仮殿を造り寄進したのだが、それも、昭和48年の3月28日の深夜の火災で焼失してしまった。

創建以来約400年の間に、大仏は5回潰れ大仏殿は3回倒壊したということになるのだが、方広寺の大仏殿や大仏がまるで魔物にとりつかれているか、何者かに呪われているかのような歴史なのだ。

方広寺

上の画像は方広寺の現在の本堂だが、日本三大名鐘の大きさとはちょっと釣り合わない。 お願いすれば本堂も拝観できたのかもしれないが、私が方広寺を訪問した日は鐘楼だけを案内していた。

方広寺鐘楼天井

明治の初めに鐘楼が取り壊されて、しばらくは方広寺の鐘は雨曝し状態になっていたのだが、明治17年(1884)に鐘楼が再建されて現在にいたっている。天井には綺麗な彩色画が描かれている。
鐘楼の中に入ると焼失前に屋根の軒先に吊るされていた風鐸や柱の金輪などが無造作に地面に置かれていて、その大きさに驚かされた。

そして方広寺の南側には豊国神社がある。
豊臣秀吉は慶長三年(1598)八月に63歳で没し、その遺命により東山阿弥陀峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として豊国廟が建てられ、その周囲に八十余りの廟社殿が建設され、御陽成天皇は秀吉に正一位を授け豊国大明神を与えられたという。

しかし慶長20年(1615)の大阪の陣で豊臣家が滅亡すると、徳川家康により豊国大明神の神号が廃され、さらに豊国神社の破却を命じられ、社領は没収され、社殿は朽ちるまま放置されしまう。

しかし明治元年(1868)明治天皇が大阪に行幸したときに、豊臣秀吉を、天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告し、明治13年(1880)に方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し遷座が行われたそうだ。
明治政府にとっては、豊臣家は反徳川の象徴でもあったので再興したとでも考えれば良いのだろうか

豊国神社

豊国神社の唐門は桃山時代の建築物らしく豪華絢爛で、「京の三唐門」の一つとされ国宝に指定されている。ちなみに「京の三唐門」の残りの二つは西本願寺の唐門(伏見城から移築)、大徳寺の唐門(聚楽第から移築)で、三唐門総てが秀吉に繋がるのである。
この唐門は明治の再興の際に南禅寺の塔頭「金地院」から移築されたものであることはわかっている。しかしそれ以前はどこにあったかについては、もともと豊国神社にあったという説、二条城にあったという説、伏見桃山城にあったという説に分かれるのだが、現在は伏見桃山城の城門であったという説が多数説のようだ。

創建当時の方広寺の境内は広く、現在の豊国神社や京都国立博物館をも含んでいたという。

方広寺石垣

今の方広寺に大寺の面影を感じるのは、豊国神社正面の立派な石垣もそうだが、神社の正面を南北に通じる「大和大路通り」が、現在の方広寺から国立博物館までだけが数倍広くなっている。ヤフーの航空写真では「大和大路通り」だけでなく、東西に走る「正面通り」もかなり方広寺の前で道幅が拡がっているのがよくわかる。最も広い豊国神社の鳥居の前の道幅は40m近くあると思う。

方向寺航空写真

いつの時代においてどこの国においても、教科書に書かれるような歴史は、その時代や国の為政者にとって都合の良いように書き換えられ、国民を洗脳するプロパガンダ的な要素が少なからずあるものだと考えている。

わが国において豊臣秀吉という人物の評価は江戸時代に貶められ、明治になって復活したが、第二次大戦後に再び貶められている。

戦後のわが国の歴史叙述は様々な国の圧力によってかなり歪められていることを前回の記事で触れたが、日本以外の多くの国にとっては豊臣秀吉が権力の亡者であり単なる侵略者としておくことが、自国の歴史を叙述する上で都合が良いということを考えてみるべきではないだろうか。
以前このブログで書いたように、秀吉が何故伴天連を追放し、なぜ朝鮮出兵をしたかを追求していくと、西洋社会の世界侵略や奴隷貿易や朝鮮半島の奴隷社会などの暗部に触れざるを得なくなってくる。その暗部について広く知られてしまっては自国の歴史を美しく描けない国が少なくないので、秀吉を貶めることによってその暗い史実を封印するように仕向けているという可能性はないのだろうか。
歴史の記述に関しては、史実に基づかない他国からの圧力には決して屈してはならないと思うし、わが国でいずれ秀吉が再び評価され、方広寺が注目される時代が来ることを信じたい。
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関連記事

本能寺の変で信長の遺体が見つからなかったのはなぜか~~本能寺の変1

都名所図会本能寺

上の図は安永九年(1780)に刊行された「都名所図会」に描かれた本能寺だが、秀吉の命により移転され再建されたものである。信長の時代の本能寺は四条西洞院・油小路・六角・錦小路にわたる地域にあったのだそうだ。

本能寺本堂

秀吉によって移転され再建された本能寺の境内は、今の京都市役所や御池通りを含む広大なものであったそうだが、現在の本能寺はビルに囲まれて随分狭い境内だ。有名な寺院ではあるが、観光客はそれほど多くない。

天正10年6月2日、織田信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、京都の本能寺で主君信長を襲った「本能寺の変」については何度もドラマ化されて、知らない人がいないくらい有名な事件だが、この事件で織田信長の遺体が見つからなかったという記録があることを最近になって知った。

信長は本能寺で自刃したことになっているのだが、遺体が見つからないのになぜ自刃したと言えるのか、誰が自刃するのを見たのか、なぜ死んだと言えるのかなどと多くの人が疑問に思うに違いない。
「自刃した」と書かれているので明智軍の武将が信長を斬ったのではないことは確実だが、もし信長の遺体が発見されなかったのならば、明智軍にとっては、信長が逃げて生き延びた可能性を否定できないはずである。

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織田信長はこの本能寺をよく上洛中の宿所として利用していたそうだが、事件のあった日に本能寺から200mほど離れた教会にいた宣教師ルイス・フロイスの記録が残っている。この該当部分を読んでみよう。

「…本能寺と称する法華宗の一大寺院に到達すると、明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。ところでこの事件は市(まち)の人々の意表をついたことだったので、ほとんどの人には、それはたまたま起こったなんらかの騒動くらいにしか思われず、事実、当初はそのように言い触らされていた。我らの教会は、信長の場所からわずか1町(ルア)を距てただけのところにあったので、数名のキリシタンはこちらに来て、折からの早朝のミサの仕度をしていた司祭(カリオン)に、御殿の前で騒ぎが起こっているから、しばらく待つようにと言った。そしてそのような場所であえて争うからには、重大な事件であるかも知れないと報じた。まもなく銃声が響き、火が我らの修道院から望まれた。次の使者が来て、あれは喧嘩ではなく、明智が信長の敵となり叛逆者となって彼を包囲したのだと言った。」(中公文庫『完訳フロイス日本史3安土城と本能寺の変』p147-148)

明智光秀

「明智の軍勢は御殿の門に到着すると、真先に警備に当たっていた守衛を殺した。内部では、このような叛逆を疑う気配はなく、御殿には宿泊していた若い武士たちと奉仕する茶坊主(ラパードス)と女たち以外は誰もいなかったので、兵士たちに抵抗する者はいなかった。そしてこの件で特別な任務を帯びた者が、兵士とともに内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手拭いで身体をふいている信長を見つけたので、直ちにその背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である長刀という武器を手にして出てきた。そしてしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り、戸を閉じ、そこで切腹したと言われ、また他の者は、彼はただちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。だが火事が大きかったので、どのように彼が死んだのかは判っていない。我らが知っていることは、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が、毛髪といわず骨といわず灰燼に帰さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては地上になんら残存しなかったことである。…」(同上書p148)

このように、フロイスの記録によると信長がほとんど警戒しておらず、無防備に近い状態であったことは間違いがなさそうだが、信長の死の場面についてはこんなに現場に近い場所でも諸説があったことがわかる。
しかしなぜ信長の遺体が見つからなかったのだろうか。木造建築物が火事になった場合の温度は1000度程度だ。「生きながら焼死」したのがわかっているのであれば、この温度で骨が残らないのは不自然だ。

Wikipediaによると、
「光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまったためと考えられる。しかしながら、密かに脱出し別の場所で自害したという別説がある。また信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に黒人の家来・弥助がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明となっている。」と書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
遺体については火薬で爆散したという説を支持しておられるようだが、それならばフロイスの記述の中に、爆発があったことが書かれていないのが不自然だ。
よしんば火薬の爆発があったとしても、信長の遺体や遺品がいくら探してもみつからなければ、信長が逃亡して生き延びている可能性を考えない方がおかしいような気がする。なぜこのことを議論しないのだろうと思っていると、ネットでこんな記事が見つかった。

次のURLに、いずれも江戸時代の初期に書かれた小瀬甫庵の『甫庵信長記』、松平忠明『当代期』で光秀が行った信長の遺体の捜索状況について書かれている部分が引用されている。
http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide081.htm

小瀬甫庵の『甫庵信長記』では
「御首を求めけれどもさらに見えざりければ、光秀深く怪しみ、最も恐れはなはだしく士卒に命じて事のほかたずねさせけれども何とかならせ給ひけん、骸骨と思しきさえ見えざりつるなり。」と記している。
『当代記』では「焼死に給うか。終りに御死骸見え給わず。惟任も不審に存じ、色々相尋ねけれども、その甲斐なし。」とある。
「惟任(これとう)」というのは明智光秀のことだが、もし信長の遺体が見つからないのであれば、光秀は信長の生存を怖れないはずがないと思うのだ。

『甫庵信長記』は文学作品としては読まれても、記述の3割以上がフィクションで史料としては評価されていないのだが、では史料価値が高いとされている『信長公記』ではどう記述されているのか。つぎのURLでその原文を読むことができる。
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/sintyokouki_16.pdf

織田信長

そこには、
「信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし侯へば、何れも時刻到来侯て、御弓の絃切れ、其の後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、是れまで御そばに女どもつきそひて居り申し侯を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来なり侯。御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ侯か、殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めされ、…」(巻十五、「信長公本能寺にて御腹めされ侯事」)
と、ここには信長が自刃したことは書かれていても、遺体のことについては何も書かれていない。

織田信忠

ところが、同じ日に信長の嫡男である信忠が二条新御所に篭城して明智軍と戦い、最後に自害する場面では『信長公記』にはこう書かれている。
「…三位中将信忠卿の御諚には、御腹めされ候て後、縁の板を引き放し給ひて、後には、此の中へ入れ、骸骨を隠すべきの旨、仰せられ、御介錯の事、鎌田新介に仰せつけられ、御一門、歴貼、宗従の家子郎等、甍を並べて討死。算を乱したる有様を御覧じ、不便におぼしめさる。御殿も間近く焼け来たる。此の時、御腹めされ、鎌田新介、冥加なく御頸を打ち申す。御諚の如くに、御死骸を隠しおき、無常の煙となし申し、哀れなる風情、目も当てられず。」(巻十五、「中将信忠卿、二条にて歴々御生害の事」)
と、信忠については遺体を隠す命令を出したことが明記されている。

『信長公記』には信長の遺体については書かれていなくとも、信長が信忠と同様の措置を部下に指示した可能性は高いと思われる。

しかし信長の遺体は、後日秀吉が探しても見つからなかったという。
ということは、信長の遺体を余程わかりにくいところに隠したか、遺体を外部に持ち去った人物がいるのか、明智軍が遺体を確保したがその事実を秘匿したか、あるいは隙を見て信長が逃亡するのに成功したかのいずれかだろう。
次のURLでは本能寺の変の黒幕がいて、明智軍が遺体を確保したが秘匿したという推理をしているが、この説も面白い。確かに、もし信長が生きていたら、明智光秀は信長からいつ報復を受けてもおかしくないのだが、なぜ悠長に京都にとどまっていたのは不自然だ。
http://www.uiui.net/~9musai/pc/odanobunaga/NobunagaChapter-020102.htm
私も黒幕がいた可能性を考えているのだが、それを書くのは別の機会にしておこう。

話を元に戻そう。信長や信忠はなぜ部下に自分の遺体を隠せと言ったのだろうか。
一言でいうと、当時は首級を晒すことによってはじめて、その人物を討ち取ったことを世間に認識させることができた時代なのだ。もし明智光秀が信長の首を討ち取っていれば、その後の歴史の展開は大きく異なっていた可能性が高いと言われるほど、相手の首級を取ることが重大事であったのだ。

摂津の梅林寺所蔵(天正十年)六月五日附中川瀬兵衛尉宛羽柴筑前守秀吉書状にこんなものがある。
「上様(信長)并(ならびに)殿様(信忠)、何も無御別儀御きりぬけなされ候。ぜゝか崎へ御のきなされ候内に、福平左三度つきあい、無比類動候て、無何事之由、先以目出度存候云々。」
要するに秀吉は、信長も信忠も巧みに明智の難をまぬがれて無事であったという具合に茨木城主の中川清秀に宣伝しているのだ。
http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20100131/1264953705
豊臣秀吉

秀吉は、こういうニセ情報の手紙を各地に送り、他の武将が明智光秀に味方するのを妨害したということだ。
信長の家臣の大半が日和見を決め込んだのは、信長の首が見つからなかったことがかなり響いているのではないか。明智光秀は秀吉の情報戦に敗れたとはいえないか。
当たり前のことなのだが、テレビもラジオも写真もなく、手書きの文書と口頭報告で情報を伝えていた時代のことだ。ニセの文書もいくつも作られていたことだろう。有名武将の死を広めるには、人通りの多いところで晒首にすることが明治維新の頃まで続いたことを忘れてはならない。要するに敵方の武将の首を取ることができなければ、情報戦に勝つことは難しい時代だったのだ。

ところで、遺体がなかったはずの織田信長の墓が全国に何か所もあるのは面白い。
一つは京都市上京区にある阿弥陀寺の石碑。当時の住職が本能寺の変直後に家臣が信長の遺体を火葬した場に遭遇し、その遺骨と後日入手した信忠遺骨を寺に葬ったと伝えられている。
一つは京都市北区にある大徳寺総見院の五輪塔。この寺は秀吉が建立し、木造を2体作って1体は火葬し、1体を寺に安置したという。
一つは静岡県富士宮市の西山本門寺。ここには原宗安が本能寺の変で戦死した父と兄の首とともに、信長の首を持ち帰り首塚に葬ったという話が残されている。
他にも、高野山奥の院、安土城二の丸跡、岐阜市崇福寺、名古屋市総見寺などがWikipediaで紹介されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7

阿弥陀寺

以上の中で、私が最も注目したいのは京都市上京区の阿弥陀寺
当時の住職であった清玉(せいぎょく)上人は、元亀元年の東大寺大仏再建の勧進職を務め天皇家や織田家とも親交があった人物だそうだが、この寺に残されている『信長公阿弥陀寺由緒之記録』は非常に興味深い。
本能寺の変を聞いて清玉上人は僧20人以上を連れて現場に駆け付けた。
「…表門は厳重に軍兵四方を囲み寺内に入る事出来ず、裏道より辛うじて入るが堂宇に火が放たれ、すでに信長公が割腹せられしと聞き、そばの竹林に十人余の武士集まりて火を焚く者あり、上人がこれをみるに信長の家臣なり、之に顛末を聞くに信長公割腹の時必ず死骸を敵に渡すことなかれと遺言あり、しかし四方敵兵にて死骸を抱きて遁れ去る道なし、やむなく火葬して隠しおいて各々自殺せんと一同答えたり、上人信長公とは格別の由縁あるを以て火葬は勿論将来の御追悼をもなさんとて武士に乞い、各々自殺するよりむしろ信長公の為に敵にあたりて死せんことを望むと語りければ、武士ら大いに喜び門前の敵を向うすきに上人火葬し白骨を法衣につつみ本能寺の僧徒らが逃げるのにまぎれこんで苦もなく帰寺し白骨を深く土中に隠しおきたる。…」とリアリティを感じるのだ。

また、秀吉が清玉上人に信長の1周忌を喪主して執り行うことを申し出たということも興味深い。その際清玉上人は、信長の継承者争いを勝ち抜くために信長の一周忌を利用しようとする秀吉に対し「人の道にあらず」と断ったという。秀吉が他の寺ではなく最初に阿弥陀寺に申し出ているところに信憑性がありそうだ。
清玉上人に断られた秀吉は、大徳寺総見院を創建して信長を弔い、その後天下人となってから、この阿弥陀寺を上立売大宮東から今の寺町今出川に移転させ、所領を大幅に削っている点も面白い。
http://www.nobunaga-lab.com/labo/07_ibutu/07-03_iseki/byousyo/amidaji.html

私には『信長公阿弥陀寺由緒之記録』が作り話のようには思えないのだが、もし伝えられている内容が真実であれば、秀吉は阿弥陀寺の信長の遺骨は本物だということを確信していたということになる。しかし、自らが喪主になることが許されなかったので、今度は阿弥陀寺にある遺骨が本物である事が流布しないように、信長の遺体が見つからなかったということを広めて光秀の戦略の拙さに焦点を当てた物語を書かせて、阿弥陀寺のことを人々の記憶から消し去ろうとしたという見方はできないだろうか。
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明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変3

本能寺の変について当時の記録を紹介しながら今まで2回に分けて書いてきたが、ここまで読んでいただいた方には、この事件については真実が相当歪められて後世に伝えられていることに気付かれたのではないだろうか。

本能寺の変については、市販されている「もう一度読む山川日本史」では
「信長は1582(天正10)年に武田氏をほろぼしたあと、さらに中国地方の毛利氏を攻撃するために安土を出発したが、京都の本能寺に宿泊中、家臣の明智光秀に攻められて敗死した(本能寺の変)」(p.142)
と、きわめて簡単に書かれているだけだ。
他の教科書も大同小異だが、共通しているのは光秀の単独犯行らしき書き方をしている点と、光秀が謀反を起こした動機については何も書かれていないという点である。

前回記事で信長暗殺が光秀の単独犯行説とは考えにくいような当時の文書がいくつも残されていることを紹介したが、そもそも光秀はなぜ信長を討つことを決意したのだろうか。
この点について教科書が書けないのは、あまりにも多くの説が存在し、定説がないからである。

Wikipediaには、明智光秀の単独説が5件、黒幕説が19件もの説が紹介されているのだが、他にもここに記載されていない説があるはずだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89#.E5.A4.89.E3.81.AE.E8.A6.81.E5.9B.A0

詳しくは上記サイトを読んでいただきたいが、そこでは次のように総括されている。
「江戸時代を通じて、信長からの度重なる理不尽な行為が原因とする『怨恨説』が創作を通じて流布しており、明治以降の歴史学界でも俗書や講談など根拠のない史料に基づいた学術研究が行われ、『怨恨説』の域を出ることはなかった。
こうした理解は、映画やドラマなどでも多く採り入れられてきたため、「怨恨説」に基づいた理解が一般化していた。」
また、
「これまで「怨恨説」の原因とされてきた俗書を否定し、良質な一次史料の考証に基づき議論」がなされるようになったのは戦後の研究からで、「…現在ではさまざまな学説が唱えられており、…意見の一致をみていない。」と書かれている。

この記述の裏を返すと、戦前の研究は「怨恨説」が主流で、それらの説は俗書や講談など根拠のない史料に基づいたものであったということだ。
「怨恨説」はつまるところ明智光秀の単独犯行説であり、死んだ光秀に原因のすべてを擦り付ける意図がある可能性が濃厚だ。

Wikipediaの記事には何が「俗書」なのかは明確には書かれていないが、「俗書や講談など根拠のない史料」とは具体的にどの書物を指し、どういう経緯でそのような書物が世に出たのだろうか。

信長公記

本能寺の変」に関して最も史料的価値が高いと歴史家から評価されているのは『信長公記』で、これは織田信長の家臣である丹羽長秀の祐筆であり後に秀吉に仕えた太田牛一が記録した文書で、信長の幼少期から本能寺の変までの記録が全16巻にまとめられている。
同時代に刊行されたものではなく、写本だけが残っており、池田家文庫本には慶長15年(1610)の太田牛一の自署があり、完成されたのは江戸時代の初期と考えられている。
原文を紹介すると、巻十五に
「六月朔日、夜に入り、丹波国亀山にて、惟任日向守光秀、逆心を企て、明智左馬助、明智左馬助、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵佐、是れ等として、談合を相究め、信長を討ち果たし、天下の主となるべき調儀を究め、亀山より中国へは三草越えを仕り侯ところを、引き返し、東向きに馬の首を並べ、老の山へ上り、山崎より摂津の国の地を出勢すべきの旨、諸卒に申し触れ、談合の者どもに先手を申しつく。」
と書いてあるだけで、明智光秀が謀反に及んだ動機らしきものにはあまり踏み込んだ記載がない。強いて分類すれば天下取りの野望説ということになるのだろうか。
しかし、『信長公記』は当時において一般刊行されたものではなく、人々に広く読まれたものではなかった。

刊行されたものでは天正10年(1582)の本能寺の変のわずか4か月後に『惟任退治記』(これとうたいじき: 惟任は光秀のこと)という書物が世に出ている。著者の大村由己は豊臣秀吉の家臣である。
このなかで大村由己は、「惟任公儀を奉じて、二万余騎の人数を揃へ、備中に下らずして、密に謀反をたく企む。併しながら、当座の存念に非ず。年来の逆意、識察する所なり。」と書き、織田信長の最期の言葉として「怨みを以って恩に報ずるのいわれ、ためし(前例)なきに非ず」と語らせるなど、明智光秀の信長に対する長年の怨恨が謀反の原因であることを印象付けようとしていることが明らかだ。

大村由己は豊臣秀吉の偉業をたたえるスポークスマンのような存在で、「天正記」と呼ばれる軍記物のほか、秀吉を主役とする新作能もいくつか書いている。本能寺の変をテーマにした『明智討』は、文禄3年(1594)に大阪城および宮中で秀吉本人の手によって披露されたのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%94%B1%E5%B7%B1

川角太閤記

そして江戸時代に入って『太閤記』がいくつも刊行されている。
江戸時代初期に書かれた『川角太閤記』(かわすみたいこうき)は、秀吉の死後家康に仕え柳川城主となった田中吉政の家臣であった川角三郎右衛門という人物が、当時の武士の証言をもとに書き記した全五巻の書籍だが、事件後40年以上も経ってから書かれた物語でありかなり事実と異なる部分があるようだ。
この本では先ほどの『惟任退治記』が公式化した光秀の信長に対する怨みを裏付けようと、その怨みのもととなる話をいくつか創作し、「怨恨説」をさらに強化したと言われている。

甫庵太閤記

また『甫庵太閤記』(ほあんたいこうき)という全20巻の書物が、寛永3年(1626)から版を重ねている。
著者の小瀬甫庵(おぜほあん)は、豊臣秀次に仕えたのち、秀吉家臣の堀尾吉晴に仕えた人物で、『信長公記』や『惟任退治記』を参考にして著述したといわれ、この本もかなり創作がなされている。光秀が小栗栖の竹藪で土民に刺されて殺された話はこの書物ではじめて書かれたものだそうだ。この本では、光秀の謀反の理由を、安土での家康饗応役を取り上げられて、毛利攻めを命令されたことを恨んだためと書かれているそうだ。

絵本太閤記

また『絵本太閤記』という書物が、寛政9年(1797)~享和2年(1802)まで7編84冊が刊行され、人形浄瑠璃にもなって評判を博したと言われている。
本書は大阪の戯作者・武内確斎(たけうち かくさい)が大阪の挿絵師・岡田玉山と組んで出版した読本で、『川角太閤記』をもとに記述したものである。この本も光秀の謀反の理由は怨恨によるものというストーリーである。

浄瑠璃舞台

これらの『太閤記』などによって秀吉伝説が作られ、光秀の怨恨による謀反であるとの本能寺の変の常識が一派民衆に定着していくことになった。明治以降に書かれた小説の多くが同様に怨恨説を採用しているのは、これらの『太閤記』などを参考にして書かれたという事なのだろう。

よくよく考えればわかることなのだが、秀吉の家臣である大村由己が秀吉の不利になることを封印して秀吉を礼賛することは当たり前のことなのだ。
また秀吉の時代はもちろんのこと、江戸時代についても今よりもはるかに言論統制が厳しかった時代だから、そもそも徳川家康の悪口が書けるはずがなかったのだ。
したがって、そのような書物を参考にして歴史小説を書けばどんな作家でも、光秀の謀反は単独実行で謀反を起こした理由は信長に対する怨恨にある、とならざるを得ないのだと思う。

しかし前回の記事に書いた通り、当時の記録からすれば信長自身が本能寺で家康を討つことを画策していた可能性がかなり高い。そのことを家康も秀吉も事前に知っていたから、二人は勝ち残ることができた。そして、少なくとも家康は、光秀と繋がっていた可能性が高いと前回書いたのだが、そもそも光秀はなぜ信長を討とうと考えたのか。

『信長公記』には信長が光秀を苛めたようなことは一切書かれておらず、むしろ信長は光秀を高く評価し信頼を置いていたのであり、二人の間に相克があったとい話は、怨恨説を書くために後になって創作されたものらしいのだ。

しかし、前回の記事で紹介したルイスフロイスの記録で、安土城で家康を接待する前の打ち合わせで、信長と光秀が「密室」で何かを話し合い、光秀が言葉を返すと信長が怒りを込めて光秀を足蹴にしたという話がどうも引っかかるのである。

                              
明智憲三郎氏はここで、家康を畿内におびき寄せて暗殺する策を光秀に伝えたのち、光秀が信長に対して長宗我部征伐を思いとどまるように直訴したが、信長から拒絶されたと推理しておられるのだが、なぜ光秀は信長の長宗我部征伐に反対したのだろうか。

信長はそれまで光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていた。
光秀は重臣である斎藤利三(さいとうとしみつ)の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結び、光秀と長宗我部との関係もきわめて親密な関係になっていたのだが、天正8年(1580)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれとなり、実現に向かっていた光秀と長宗我部との畿内・四国同盟崩壊という死活問題でもあった。

前回の記事で『本城惣右衛門覚書』を引用して、明智軍を本能寺まで先導したのは斉藤利三であったと書かれていることを紹介したが、利三にとっては姻戚関係にある長宗我部氏を征伐することを阻止したかったことは当然である。

私も詳しく知らなかったのだが、信長は毛利攻めだけでなく、四国攻めの朱印状をも同時に出していた。織田信長が三男の信孝に与えた天正10年(1582)5月7日の朱印状は、信孝に讃岐(現在の香川県)を、三好康長に阿波(徳島県)を与えるとともに、残りの土佐(高知県)・伊予(愛媛県)は信長が淡路島に到着したときに沙汰すると書かれているそうだ。
そして、大阪に集結した長宗我部征伐軍の四国渡海は天正10年6月3日、つまり本能寺の変の翌日に予定されていたというのだ。
そしてこの計画は本能寺の変により吹き飛んで、長宗我部征討軍は崩壊してしまった。

長宗我部元親

危機一髪、長宗我部氏は滅亡を免れ、そしてその3年後の天正13年(1585)に長宗我部元親は四国全土の統一に成功するのである。

長宗我部元親の側近である高島孫右衛門という人物が記した『元親記』には「斉藤内蔵介(斉藤利三)は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いを差し急いだ」と書かれているそうだ。光秀の信長に対する謀反の早期実行を迫った人物は斉藤利三だというのだ。

明智憲三郎氏によると、
「光秀の家臣団は、明智秀満などの一族衆と斉藤利三等の美濃出身の譜代衆が中核となり、光秀が坂本城主となって以降抱えた西近江衆、山城衆、さらに義明追放に伴って組み込まれた旧幕臣衆、丹波領有により配下となった丹波衆などから構成されていました。その求心力となっていたのは、一族衆をはじめとする土岐一族でした。」(「本能寺の変四二七年目の真実」p.76)と書いてある。

桔梗紋

土岐氏は室町時代には美濃・尾張・伊勢を治めた名門だが、天文21年(1552)に土岐頼芸が斉藤道三により美濃を追われて没落したため、明智光秀によって土岐氏再興をはかることが一族の悲願であったというのだ。また鎌倉時代には土岐三定(ときみつさだ)が伊予守となって以来土岐氏が伊予守を継承しており、四国は土岐氏にとって特別な場所だった。だから、土岐一族は信長の長宗我部征討の命令には従えなかったという事になる。

決定的な裏付け資料があるわけではないのだが、証拠が乏しいのはどの説を取っても同じことだ。限られた史料の中で、もっともこの説が他の史料との矛盾が少なく、真実に近いものではないかと私は思う。家康と光秀は繋がっていて、秀吉は光秀が本能寺で何をするかがわかっていなければ、他の史料と矛盾してこの事件は説明ができないのだ。

しかし、秀吉の情報工作にはほとほと感心してしまう。彼が最初に書かせた『惟任退治記』や『太閤記』などがベースになって物語や戯曲化され、各時代の人々に広まって、嘘話があたかも史実のように広まってしまっている。

尖閣


「嘘も百回言えばそれが史実になっていく」という方法での情報操作はかなり古くからあったし、どこかの国ばかりではなく日本でも、マスコミを使って露骨な情報操作がなされることが少なくないようだ。
しかし、今はネットで正しい情報を拡散させることが誰でもできる。せめて、我々が生きている時代については、おかしな情報工作を排除させて、真実の歴史を後の世に伝えていきたいものである。
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秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5

天正10年(1582)6月、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での横死を知り、速やかに毛利氏との講和を取りまとめて、明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した軍団大移動を「中国大返し」と呼ぶのだが、備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城国山崎(京都府乙訓郡大山崎町)まで235kmもある。「日本史上屈指の大強行軍」と言われることは理解するのだが、武装した集団が武器・食糧を運びながら、なぜ、本能寺の変からわずか10日で山崎に着くことができたのだろうかと誰しも疑問に思う。

本能寺の変は6月2日の朝だが、そもそも信長が死んだという情報が届かなければ秀吉は動けない。しかし秀吉が毛利と和睦したのは2日後の6月4日である。本能寺の情報は6月3日か4日の未明時期には秀吉の手元に届いていたことになるのだが、この情報が届くのがそもそも早すぎるし、また毛利との交渉がまとまるのも早すぎるのではないかと疑う人も少なくないようだ。
このことから、秀吉が本能寺の変の黒幕であるとする説も存在するのだが、もし秀吉と光秀が共謀していたのなら、山崎の合戦で光秀はそのことを黙って討たれたことになってしまう。そこで光秀が秀吉との共謀が事実ならばそのことを公表すれば、秀吉は謀反の一味となって織田一族との連合はほぼ不可能となり、光秀方に有利な状況を作り出せると考えると不自然な印象がある。

豊臣秀吉

秀吉は謀反に加担はしていなかったが、家康が畿内にいる間に何が起こってもおかしくないことを事前に察知していて、もし何かが起これば、その情報をできるだけ早く伝える指令を出していたのではないだろうか。
明智憲三郎氏の『本能寺の変四二七年目の真実』に『宇野主水(うのもんど)日記』という書物が紹介されている。
宇野主水とは本願寺顕如の祐筆であった人物だが、この日記に、京都滞在を終えて堺に入った家康一行に、織田信長と織田信忠からそれぞれ「長谷川竹」と「杉原殿」という人物が同行していたことが書かれているそうだ。
ところが、「長谷川竹」は本能寺の変後も三河まで家康と同行していることが『信長公記』でも確認できるが、「杉原殿」は忽然と記録から消えているのだそうだ。この「杉原殿」が誰かについては諸説があるようだが、織田家の家臣でもあり秀吉の正室・寧々の叔父でもある杉原家次だと考えられている。

明智憲三郎氏は、こう推理されている。
「秀吉は家康が上洛するタイミングを掴むために、この杉原家次を家康一行に同行させていたとみられます。
 なぜ家康にわざわざ同行させていたのでしょうか。それは家康が信長に会うために上洛する日が本能寺の変の起こる日、ということを知っていたからに他なりません。
果たせるかな杉原家次は六月二日の朝、家康の上洛を確認すると、家康一行と離れ、堺を発って備中の秀吉に注進しました。『惟任退治記』には「備中表秀吉の陣には、六月三日夜半許り、密かに注進あり」と書かれています。注進した人物の名は書かれていませんが、家次が最も早く注進できた人物であることは間違いありません。」(『本能寺四二七年目の真実』p.198)

秀吉が大村由己に書かせた『惟任退治記』には、この杉原家次の名が、本能寺の変翌日の六月三日に備中高松において毛利との和議をまとめたことが書かれているという。また杉原家次は、本能寺の変・山崎の戦いの後は丹波福知山の領主となり、その後は坂本も領有し、京都所司代も兼ねるなど異例の扱いを受けているのだそうだ。
秀吉は、杉原家次が本能寺の変の情報をいち早く伝えたことを、高く評価したという事なのだろうか。

しかし、秀吉はなぜ明智光秀が信長に対して謀反を起こすという事を予見できたのだろう。杉原家次を家康に同行させる前に、その家康と信長が京都で会う日に何かが起こるという確信がなければ適格な指示は出せなかったはずだ。

明智憲三郎氏によると、そもそも秀吉は長宗我部元親と対立する三好康永に肩入れして、信長の四国政策の変更を仕組んだ。長宗我部氏と結びついた明智氏はそれにより窮地に立つことを当然理解しており、それにより光秀がどう動くかに注目していた。
そのタイミングで信長の上洛命令にも従わず、光秀の謀反にも加担せずに秀吉に情報を流した武将がいた。それが細川藤孝(幽斎)である。細川藤孝は安土城で徳川家康と明智光秀が談合した際に同席しており、信長に対する謀反の計画を知っていた可能性が高い。

秀吉が大村由己に書かせた『*惟任退治記(これとうたいじき)』にこういう記録がある。
「長岡兵部大輔藤孝は、年来将軍(信長)の御恩を蒙ること浅からず。これに依って、惟任が一味に与せず。秀吉と心を合わせ、備中表に飛脚を遣わし、爾来、江州、濃州、尾州(近江、美濃、尾張)に馳せ来たり」(同上書p.200: *惟任とは明智光秀のこと。)
日付が書かれていないが、信長の命に従わず6月2日に上洛しなかったことから、比較的早い時期でかつ秀吉が備中にいたという微妙な時に、細川藤孝が重要な情報を秀吉に流したと考えられるのだ。

かくして、秀吉は他の大名よりも格段に早く、明智光秀による信長への謀反の情報を得ることができたのである。

備中高松城水攻め

では、何故一日で毛利との和解が成立できたのか。
この点について明智憲三郎氏は、安国寺恵瓊と共謀していつでも和解できる状況にあり、膠着状態においてタイミングを計っていたと書いておられる。
これにも根拠があって、『惟任退治記』には、「既に毛利からは高松城明け渡しや五ヶ国割譲などの申し入れが再三あった」と正直に書かれており、それを裏付ける古文書が、毛利家に伝わる『毛利文書』に残っているそうだ。

秀吉大返し地図2

次に、備中高松城から山崎までの235kmをどうやって兵をすすめたのか。
秀吉が書かせた『惟任退治記』では、
「六月六日未(ひつじ)の刻、備中表(おもて)を引き、備前の国沼(ぬま)の城に至る。七日、大雨疾風。数か所大河の洪水を凌ぎ、姫路に至ること二十里ばかり、その日、着陣す。諸卒相揃わずといえども、九日、姫路を立って、昼夜の堺もなく、人馬の息をも休めず、尼崎に至る。・・・・・・」とある。

次の表は、明智憲三郎氏がご自身のブログで『惟任退治記』の通りに軍をすすめた場合に、1日何キロ進んだことになるかをまとめたものである。
http://praha.at.webry.info/200911/article_3.html

6月 6日 備中高松*~沼  35km (*午後2時出発)
6月 7日 沼~姫路    70km (大雨疾風)
6月 9日 姫路~明石   35km
6月10日 明石~兵庫   20km
6月11日 兵庫~尼崎   25km
6月12日 尼崎~京都山崎 50km

明智氏が指摘しておられるように、6月の6日と7日の距離は異常な距離だ。武具をつけ、武器を持ち、食糧を持って2万人以上の集団がこれだけの距離を進めるのかどうか。しかも6日は実質半日、7日は大雨疾風の日だ。こんな日に動いたら軍の体力を消耗するだけではないか。

お遍路さん

ちなみに四国八十八箇所巡りのお遍路さんは、40日から50日で1200km、つまり1日で24から30km歩くのだそうだ。それよりも少々長い距離を進むことは理解できるが、70kmというのはその倍以上の距離である。その速さを持続して、武装集団が食糧などを運びながら山道を含む道を進むことができるとは思えない。

ところで、進軍しながら秀吉軍がいくつか書状を書いており、それがいくつか残されている。

中川清秀宛て書状

ひとつは秀吉が摂津の中川清秀に宛てた6月5日付の書状である。これには、「我々は途中の沼(岡山)まで、既に引き返してきている」と書かれているそうだ。この日は、『惟任退治記』ではまだ出発してもいない日である。
また6月8日付の秀吉重臣の杉若無心より細川藤孝の家老松井康之に宛てた書状には「去六日に姫路に入城した、明日ことごとく出陣する」と書かれているという。
秀吉が情報工作のために嘘を書いたという解釈もあり得るが、秀吉軍の行程を見る限りにおいてはどちらの書状正しい可能性のほうが高いのではないだろうか。もしそうだとすると、実際は『惟任退治記』の記録よりも早く秀吉は出発していなければならないことになる。
また、6月9日以降の日程については、「萩野文書」「蓮成院記録」などで確認されているので問題がないそうだ。

明智氏は次のURLで、上記の書状から秀吉軍は4日の朝に出発していると推理しておられる。7日の台風は姫路城でやり過ごし、休息にあてたと行程からすれば無理のない距離配分になっている。
http://praha.at.webry.info/200911/article_5.html

6月4日朝~4日夜  備中高松~沼  35km
6月5日朝~6日夜  沼~姫路    70km
6月7日       姫路(大雨疾風)
6月8日朝~8日夜  姫路~明石   35km
6月9日朝~     明石~兵庫   20km
~10日夜   兵庫~尼崎   25km
6月11日~12日昼  尼崎~京都山崎 33km

ということは毛利軍との和睦が成立するかのうちに備中高松の撤収の準備を始めていなければ不可能だという事になる。明智説によると秀吉はフライングをしていたということになる。

6月4日に出発していたのならば、備中高松から235kmを進軍させたこと自体はそれほど驚くべきことではない。特に姫路からの距離は普通のスピードで進んでいる。
秀吉が山崎に戻るのが早かった最大のポイントは進軍の速さではなく、本能寺の変の情報をいち早く掴み、毛利との和睦を1日でまとめたことによるのだが、それが可能であったのは、初めから何が起こるかがわかっていて、その準備をしていたからだという事になる。

中国大返し絵

では、秀吉が『惟任退治記』で備中高松を出発した時期をなぜ2日も遅らせて書かせたのか。これは、秀吉が事前に光秀が信長に謀反を起こす情報を事前に掴んでいたことを疑われたくなかったからではないのか。
姫路からの行程は多くの人が秀吉軍が進軍するところを目撃していたので嘘を書くわけにはいかなかった。そのために目撃者の少ない備中高松から姫路までの所要日数を誤魔化すしかなかったのだろう。
そのために、毛利との和睦を一日で決着させ、備中高松から姫路までの105kmの道のりを、暴風雨の中1日半で駆け抜ける英雄の物語となってしまった。
有名な秀吉の「中国大返し」は、こういう経緯で秀吉によって作られた話だと思えば、すっきりと理解できるのだ。
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日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その3

前回は、大航海時代以降に西洋諸国が世界各地を侵略し地球規模で奴隷貿易を開始したのは、ローマ教皇の教書に則った活動であることを書いた。
インカ帝国が滅亡した事例で、キリスト教の神父が重要な役割を演じていることを紹介したが、わが国の場合はキリスト教の宣教師に日本を侵略する意思や、日本人を奴隷化する意思はあったのだろうか。表題のテーマからすれば、日本も例外ではなかったことを、当時の記録から論証する必要がある。

ルイスフロイス

大量に日本人奴隷が海外に輸出された事実は、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの記録を読めばわかる。以前私のブログで引用した部分だが、

「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(「完訳フロイス日本史8」中公文庫p.268)…1588年の記述

この「おびただしかった」という数字がどの程度であったかは諸説があるが、

「豊後の国の全領民は次のように三分された。その第一集団は、戦争のために死亡し、第二集団は、敵の捕虜となって薩摩や肥後に連行されたのち、羊の群れのように市場を廻り歩かされたあげく売られていった。第三の集団は、疾病や飢餓のために極度の貧困に陥って人間の容貌を備えていないほどであった。」(同書p.314)…1589年の記述

という記録もあり、数千人レベルではなさそうだ。
太閤検地の頃の豊後の人口が418千人であったことから勘案すると、鬼塚英昭氏が『天皇のロザリオ』という本で書いた50万人説は、豊後以外の人々が奴隷にされていたとしても多すぎると考える。
史料を読む人によってイメージする数字が異なるのだろうが、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の会話録の中で、彼らが世界各地で日本人奴隷を見て驚愕した記録や、インドのゴアにはポルトガル人よりも日本人奴隷のほうが多かったという記録があることなどからしても、数万人程度は海外に奴隷として送られたと考えてもおかしくはないだろう。

日本人奴隷は鎖につながれて数百人が奴隷船に積み込まれた記述がある。
秀吉の祐筆であった大村由己(おおむらゆうこ)が『九州御動座記』に、秀吉が「伴天連追放令」を出した経緯をまとめている。

「今度伴天連等能き時分と思候て、種々様々宝物を山と積、…日本人を数百男女によらず、黒船へ買取、手足に鎖を付け、船底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、…今世より畜生道の有様、目前之様に相聞候。…右之一宗御許容あらば、忽日本外道之法に成る可き事、案の中に候。然らば仏法も王法も、相捨つる可き事を歎思召され、忝も大慈、大悲の御思慮を廻らされて候て、即伴天連の坊主、本朝追払之由仰出候。」

奴隷船

手足に鎖をつけて、数百人も船に積み込むのはアフリカの奴隷船と全く同じやり方だ。 アフリカで実際に使われた100tクラスの奴隷船は全長が約30mで414人の奴隷を乗せたという記録があるそうだが、船底の3~4段のスペースに身動きできない程ぎっしりと詰められた暗くて狭い空間で、何か月もろくな食事も水も与えられずに波に揺られて運ばれていたかと思うとぞっとする。

当時日本にいたキリスト教宣教師のトップであるイエズス会日本準管区長のガスパル・コエリョと秀吉のやりとりが、ルイス・フロイスの記録に残されている。

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「…予(秀吉)は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」(ルイス・フロイス「日本史4」中公文庫p.207-208)

秀吉が、奴隷を連れ戻すために必要な金を払うとまで言ったのに、コエリョは我らも廃止させようと努力しているのに取り締まらない日本側に問題があると答えて秀吉を激怒させ、『伴天連追放令』を出すこととなる流れだ。
前回の記事でも書いたように、コエリョ自身が署名した奴隷売買契約書も発見されている。コエリョはローマ教皇教書によって認められていた、異教徒を奴隷にする権利を行使していたことは間違いがない。

しかしながら、途中から日本での奴隷貿易を廃止させようと動いたこともまた事実である。
Wikipediaによると、「1560年代以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教のさまたげになり、宣教師への誤解を招くものと考え、たびたびポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を求めていたが、1571年に当時の王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功した。それでも、奴隷貿易は根絶にいたらなかった。」と書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.A5.B4.E9.9A.B7.E3.81.AE.E8.B2.BF.E6.98.93

ここで、前回の記事を思い出してほしい。
ローマ教皇パウルス3世が異教徒を奴隷とすることを禁止する教書を出したのは1537年。しかし、それが翌1538年に教皇パウルス3世自身により撤回されて異教徒を奴隷にする権利が元どおりに復活しているのだ。
当時のローマ教皇はキリスト教世界の首長として絶大な影響力を持っており、その決定はヨーロッパのキリスト教国王に対しても拘束力があった。したがってローマ教皇の教書で異教徒の奴隷化を全面禁止としない限り、奴隷貿易がなくなるはずがなかったのだ。

上記のWikipediaの記事には秀吉が『伴天連追放令』を出した9年後の1596年(慶長元年)に、「長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンスはキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達している」ことが書かれているが、ガスパル・コエリョがそのような通達を早い段階から出していれば、日本のキリスト教の布教がその後も拡大した可能性はあったかもしれない。しかしながら、自らが奴隷貿易に関与していた男が、ローマ教皇の教書によって与えられた権利を捨ててまでしてそのような通達を出すことはなかっただろう。

日本の歴史の教科書にはほとんど何も書かれていないので、中学高校時代にはイエズス会の宣教師はキリスト教を広めるためにわざわざ日本にやってきたとしか考えなかったのだが、私がスペインやポルトガルにわが国を侵略する意図があったことを知ったのは数年前のことである。
この頃の日本は「戦国時代」で、どの大名も軍事力を大幅に増強していた時期であったことは幸運なことだった。だからこそわが国は、この時にスペインやポルトガルに征服されずに済んだのだと思う。最初に日本に来たイエズス会のザビエルですら、ポルトガルのロドリゲス神父宛ての1552年4月8日付の書簡で日本を占領することは無理だと報告している。

ザビエル

「…貴兄に、我らの国王と王妃とに、次の献言をして頂きたいためである。即ち此の御ニ方は、その良心を軽くせんがため、カスチリヤ(スペイン)の艦隊を、ノヴ・イスパニヤ経由で、*プラタレアス群島の探検のために、送らないようにと、皇帝やカスチリヤ国王達に知らせなければならないことである。何となれば、幾つの艦隊が行っても皆滅びてしまうからである。そのわけは、海底に沈没しなくても、その島々を占領するならば、日本民族は甚だ戦争好きで貪欲であるから、ノヴ・イスパニヤからくる船は、皆捕獲してしまうに違いないからである。他方日本は、食物の頗る不作の土地であるから、上陸しても皆飢え死にするであろう。その上、暴風が激しいので、船にとっては、味方の港にいない限り、助かるわけは一つもない。
…日本人は貪欲であるから、武器や品物を奪うために、外人のすべてを殺すであろう。…」
*プラタレアス群島:「銀の島」。日本はそう呼ばれていた。
(岩波文庫『聖フランシスコ・ザビエル書簡抄(下)』p172-173)

同様のことを織田信長とも親交のあったイエズス会の東インド巡察師ヴァリヤーニも1582年12月14日付のフィリッピン総督あての書簡に書いている。本能寺の変から半年後に次のような書簡が書かれたことに注目したい。当時のフィリピンはすでにスペインの植民地であり、スペインが次にどの国に向かうべきかがこの書簡の主題である。

ヴァリャーニ

「これら東洋における征服事業により、現在いろいろな地域において、陛下に対し、多くのそして多き門戸が開かれており、主への奉仕及び多数の人々の改宗に役立つところである。…それらの征服事業の内最大のものの一つは、閣下のすぐ近くのこのシナを征服することである。…
私は3年近く日本に滞在して、…霊魂の改宗に関しては、日本の布教は、神の教会の中で最も重要な事業の一つである旨、断言することが出来る。何故なら、国民は非常に高貴且有能にして、理性によく従うからである。尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.81-83)
と、まずシナから征服すべきであるとし、日本は武力征服が成功する見込みがないし国土が不毛でメリットがないということを書いているのだ。
イエズス会の巡察師というのはイエズス会総長から全権を委託されて、東アジアの布教を統括した役割の宣教師と理解すればよい。彼ら宣教師の目的が布教だけでなかったことは彼らの書簡を読めば明らかなことである。

また、フィリピンのマニラ司教のサラサールが1583年6月18日付でスペイン国王宛にシナに対する武力征服の正当性を主張した報告書が残されている。この報告書は当時のスペインの征服事業が、前回の記事で記したローマ教皇の教書に基づいたものであることを裏付けているし、日本をどうするかについても書かれている。
「私がこの報告書を作成した意図は、シナの統治者達が福音の宣布を妨害しているので、これが、陛下が武装してかの王国に攻め入ることの出来る正当な理由になることを、陛下に知らせるためである。…
…もしも迅速に遠征を行うなら、シナ人がわれわれを待機し、われわれに対して備えをするのを待ってから事を起こすよりも、はるかに少数の軍勢でこと足りよう、という点である。そしてこのことを一層容易に運ぶには、シナのすぐ近くにいる日本人がシナ人の仇敵であって、スペイン人がシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを、陛下が了解されると良い。
そしてこれが効果を上げるための最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、この点日本人に対し、在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。」(同書p.85-88)

キリスト教の布教に協力しないということだけで宣戦布告できるというのは、前回の記事で書いたインカ帝国を滅ぼした手口と同様である。
これはローマ教皇アレキサンデル6世が1493年に出した『贈与大勅書』により、異教徒であることが認定されればすべての権利がスペインに帰属するという解釈により、「福音の宣布を妨害している」ことを口実にシナも攻め入ることができると進言しているのだ。

この2年後の1585年3月3日にイエズス会日本準管区長のコエリョは、フィリピンイエズス会の布教長に対し、日本への軍隊派遣を求め「もしも国王陛下の援助で日本66か国凡てが改宗するに至れば、フェリペ国王は日本人のように好戦的で頭のよい兵隊を得て、一層にシナを征服することができるであろう」と書いている。すなわちコエリョは、日本人をキリスト教に改宗させたうえで、その軍事力を使ってシナ征服にとりかかろうという考えであったのだ。

これらの書簡を読めば、キリスト教の布教は単に信者を増やすというレベルの問題ではなく、スペインが海外を征服していくための国家戦略に組み込まれていて、宣教師は世界征服のための先兵のようなものであったことが誰でもわかるだろう。

当時のわが国で、カトリックに本気で帰依したキリシタン大名はすでに何名もいた。彼らは秀吉の統制の外にいて、いずれスペインが明を征服し朝鮮半島から最短距離でわが国に向かったとすれば、キリシタン大名の銃口は秀吉に向かい国内は内乱状態になっていたはずだ。

彼らの意図を察知した秀吉の動きは早かった。天正15年の5月4日に、秀吉は自らの明征服計画をコエリョに被瀝し、キリスト教布教を認める代わりにポルトガルの軍船2隻を所望している。さらに秀吉は、天正19年(1591)にはゴアのインド副王とマニラのフィリピン総督に降伏勧告状をつきつけ、応じなければ明征服のついでに征服するから後悔するな、と恫喝している。
その秀吉のフィリピン総督宛ての書状には、「今や大明国を征せんと欲す。…来春九州肥前に営すべく、時日を移さず、降幡を偃せて伏(降伏)すべし。若し、匍匐膝行(ぐずぐすして)遅延するに於いては、速やかに征伐を加ふべきや、必せり。悔ゆる勿れ…」と書かれているという。

以前に私のブログで、秀吉の朝鮮出兵は、スペインの先手を打つことで明・李氏朝鮮を傘下に治めてわが国を西洋植民地化されることから守ろうとしたと考える方がずっと自然ではないかと書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-188.html

秀吉の朝鮮出兵【文禄の役(1592)、慶長の役(1597)】については教科書や通説ではロクな評価がなされていないのだが、以上のような歴史的背景を知らずして、その意義を正しく理解できるとは思えないのだ。

われわれが学校で学んできた歴史は、西洋にとって都合の良い内容を押し付けられてきたのではなかったか。西洋の世界侵略や奴隷貿易のことを知らずに日本史を理解しようとするために、戦国時代以降近現代の歴史理解が随分歪んだものになってはいないだろうか。

西尾幹二氏の著書で『GHQ焚書図書開封』というシリーズ本があり、すでに6巻まで刊行されている。

焚書図書開封

その第1巻の第1章には、第二次大戦後GHQが日本を占領していた時代に7769タイトルの単行本を全国の書店、古書店、官公庁、倉庫、流通機構で輸送中のものも含めて没収し廃棄されたことが書かれている。幸い国会図書館の蔵書と個人が購入していた本までは没収されておらず、西尾氏が入手した本を解説しているのが上記のシリーズだ。
焚書処分された本の中には、国粋主義的なタイトルのものもあるが、西洋の侵略の歴史や奴隷貿易にかかわる研究書や学術書などがかなり含まれている事がわかる。
またGHQは、焚書とは別に、昭和20年9月からの占領期間中に新聞、雑誌、映画、放送内容をはじめ一切の刊行物から私信に至るまで、徹底した「検閲」を実施している。
次のURLに昭和21年11月25日付の占領軍の検閲指針の30項目が出ている。
http://www.tanken.com/kenetu.html

この検閲指針を読めば、東京裁判を批判したり、SCAP(連合国最高司令官=マッカーサー)が日本国憲法を起草したことを批判したり、米国、英国、ロシアや中国を批判したり、韓国人を批判することなどが禁止されていたことがわかる。
しかし終戦後67年目にもなるのに、これらの指針が今も活きているように錯覚してしまうことが少なからずあるのはなぜなのだろうか。
なぜマスコミは、東京裁判史観を否定する論拠となる史実を伝えようとせず、またアメリカや中国や韓国などに主権が侵害されていても充分な抗議をしようともしないのだろうか。

GHQに代わってこれらの検閲基準を今も守らせようとする勢力が国内外に存在して、大手のマスコミや出版界がその勢力とのトラブルを避けるために、未だに自主規制をしているということなのだろうか。
そんな自主規制のようなものが存在しないというのなら、少なくとも主権を侵害されているような事案に関して堂々と抗議してくれなければ、一体どこの国の会社なのかと問いたくなるところだ。
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慈眼堂、滋賀院門跡から明智光秀の墓のある西教寺を訪ねて考えたこと

日吉東照宮からケーブルの坂本駅方面に抜けて右折し、坂を下って県道47号線を超えると、すぐ近くに滋賀院門跡につながる小道がある。しばらくこの小道を歩くと、木々に囲まれて、スギ苔と石畳の美しい空間に辿りつく。

慈眼堂

石灯籠が導く先には、天台宗の僧で徳川家康の政治顧問であった南光坊天海の坐像のある廟所で、三代将軍徳川家光が作らせたという延暦寺慈眼堂(滋賀県文化財:大津市坂本4-6)という建物がある。

慈眼堂の向かって左には、近世以降の天台座主らの廟所になっていて多くの石造五輪塔や宝篋印塔がある。あまり詳しく見なかったのだが、桓武天皇、後陽成天王、後水尾天皇や、徳川家康、新田義貞、紫式部、和泉式部などの供養塔もここにあるそうだ。

滋賀院門跡

慈眼堂から右に進むと下り坂が続いてすぐに滋賀院門跡(077-578-0130、大津市坂本4-1772)が見えてくる。

案内板には寺の由来をこう解説している。
「元和元年(1615) 慈眼大師天海(1536~1642)が、後陽成上皇より法勝寺(京都北白川に在り六勝寺の一つで歴代天皇ご授戒の寺として四箇戒場の一つでもあった)を下賜されこの地に移築されたもので、明暦元年(1655)後水尾天皇より滋賀院の号と寺領一千石を賜り江戸時代の末までは天台座主であった法親王が代々住まっておられた寺である。
 外観は堂々たる穴太衆積みの石垣に白壁がつづいており滋賀院御殿といわれる名に恥じない威容を見せている。
 御殿については明治11年(1878)11月の火災のためすべて灰となったが、現在の建物は山上より三塔それぞれ最高の建築を移築し、明治13年5月に復旧したものである。」

滋賀院石垣

慈眼堂から滋賀院門跡に入ると、どこに立派な石垣があるのかよく分からないのだが、境内をそのまままっすぐ進むと右に門があり、そこから塀の外に出ると、立派な石垣を見ることが出来る。

比叡山のお堂の基礎の石組を担当した石工の集団が穴太(あのう)村の者であったことから「穴太積み」と名付けられたのだが、その特徴は、自然石の組合せのみで積み上げ、小石を詰め石として用いる技法にある。
戦国時代以降、築城時の石垣づくりなどで穴太衆が重用されたというが、今では坂本で1軒のみがその技術を承継しているだけだという。
コンクリートなどの擁壁は排水に問題があり、水圧のために亀裂が入ったり、次第に形が変わることが多いのだが、石垣は石の隙間から余分な水分を逃すので形が崩れにくい。この石垣は造られて400年近くなるのだが、今も均整のとれた美しさを保持している。

拝観を申し込んで中に入ると、狩野派や渡辺了慶の襖絵などがあったが、内部は撮影が禁止されていたので画像で紹介できないのは残念だ。
滋賀院門跡 庭園

宸殿の西側に、小堀遠州が3代将軍家光公の命により作庭した南北に細長い庭園があり、国の名勝に指定されていて写真撮影も可能なのだが、どうせ写真を撮るなら紅葉か新緑の季節に訪れたいところである。

鶴喜そば

11時を過ぎたので、早目の昼食をとることにした。
昼食は、享保元年創業の老舗・「鶴喜そば」(滋賀県大津市坂本4-11-4、077-578-0002)に決めていた。大正時代に建てられたレトロな建物で平成9年には国の登録文化財にも指定されていて、そんな場所で食事をしてみたかったからである。
おろし蕎麦の大盛りをオーダーしたが、すぐに食べ始めてしまってメニューの写真を撮るのをうっかりして忘れてしまった。
蕎麦はコシがしっかりしていて喉越しが良く、食後に頼んだそばアイスも旨かった。

西教寺総門

食事を終えて次の目的地である西教寺(さいきょうじ:大津市坂本5-13、077-578-0013)に向かう。
上の画像は西教寺の総門だが、坂本城のものを移築したものだと言われている。

西教寺の歴史はかなり古く、この寺の案内板の記述によると、
「…聖徳太子が仏法の師である慧慈・慧聰のために開創された寺で、推古天皇の26年(618)に大窪山の号をたまわり、天智天皇の8年(669)に西教寺の号を下賜されたと伝えられている。
 寺記には天台座主慈恵大師良源大僧正・恵心僧都が念仏道場とした。その後、比叡山で修行された真盛上人が文明18年(1486)入寺し、不断念仏の根本道場として、西教寺を再興された。
 明治11年(1878)明治政府によって別派独立が公許、『天台宗真盛派』の本山となった。
 昭和16年(1941)に天台宗三派合同となったが、終戦とともに、昭和21年(1946)に天台宗三派、延暦寺(山門)、三井寺(寺門)、西教寺(盛門)が分離、天台宗真盛派を『天台真盛宗』と公称して独立、今日に至っている。」とある。

Wikipediaによると、西教寺は天台真盛宗の総本山で末寺は全国に400以上あるのだそうだ。天台系の三つの宗派の違いについては、延暦寺(山門)、三井寺(寺門)は密教色が強いのに対し、西教寺は阿弥陀如来を本尊とし、念仏(阿弥陀如来の名を称えること)を重視するなど、浄土教的色彩が濃いのだそうだ。この違いは、この西教寺の中興の祖と言われる真盛上人(1443~1495)の「戒律」と「念仏」の両方を重視する思想の影響が大きいのだという。

西教寺石垣

本堂に向かう階段を歩くと、お城のような立派な石垣を見ることが出来る。もちろんこの石垣も穴太積みである。

西教寺本堂

これが西教寺の本堂。享保16年(1731)に改築されたもので、国の重要文化財に指定されている。本尊は平安時代に制作された木造阿弥陀如来坐像(国重文)で、後陣には平安時代の木造聖観音立像(国重文)があるのだそうだが、延暦寺に向かう予定なので拝観することは諦めた。拝観すれば客殿(国重文)の仏間にある木造薬師如来坐像(国重文)や、庭の石灯籠(国重文)など、この寺も重要文化財が目白押しだ。

今回西教寺を訪れた目的の一つは、この寺にある明智光秀とその一族の墓をこの寺の案内板にどう書かれているかを確認することであった。

明智光秀の墓

案内文の前半には、元亀2年(1571)に織田信長が比叡山を中心に近江国の寺院を焼き討ちした際にこの寺も焼かれてしまったのだが、その後明智光秀が坂本城を築き、坂本城主として坂本の復興に尽力し、この西教寺の大本坊(庫裏)を増築し、仮本堂を完成させて現在の本尊を迎えたことが記されている。
しかし問題は、明智一族の墓に関しての記述にある。案内板にはこう書かれていた。

「(光秀が庫裏を増設し仮本堂を完成させて)以来、(西教寺)と光秀との由縁はふかく、元亀4年(1573)2月、光秀が堅田城に拠った本願寺光佐を討った時、戦死者18名の菩提のため、武者、中間のへだてなく供養米を寄進したと言われている。また早逝した内室(凞子[ひろこ])の供養もされ、墓が安置されている。
 天正10年(1582)本能寺の変のあと、山崎の合戦に敗れて非業の最期をとげた時、光秀一族とともに当寺に葬られたと言われている。のちに坂本城の城門の一つも当寺に移されたと伝えられている。…」
内室の墓は本物であるようなのだが、光秀の墓については本物であるとは断言していない点に注目したい

明智光秀

Wikipediaによると光秀は山崎の合戦に敗れて、坂本城を目指して落ち延びる途中の天正10年(1582)6月13日の深夜に京都山科の小栗栖(おぐるす)という地で農民・中村長兵衛に竹槍で刺されて深手を負い、家臣溝尾茂朝に介錯させて自害したとされているのだが、光秀の周りには10名以上の家臣がいたはずだ。なぜ農民が竹槍のような武器で家臣らに気付かれずに光秀を襲うことが出来たのか。鎧を着用したはずの光秀がなぜ農民の竹槍で致命傷を負ったのか。
また、この農民が暗闇の中で刺した相手をなぜ光秀だと認知できたのか。
主君の首を渡さないのが家臣の務めであるのに、なぜ光秀の首が農民の手に渡ったのか。普通なら、主君を襲おうとした輩はその場で家臣によって切り捨てられるのが普通ではないか…。
通説で語られる光秀の死については、どう考えても不自然すぎるのだ。
そもそも秀吉が首を検分したのは6月16日で、旧暦だから真夏の暑い時期である。腐敗が進んで顔が判別できる状態ではなかったのではないか。
農民が拾った首を、光秀の首だとして差し出したか、秀吉が光秀の首だということにしたのかはわからないが、いずれにしても、光秀は山崎の戦で敗れた段階で政治的には死んだも同然であり、秀吉にとっては、首実検はどうでもよかったということもあり得る話なのである。

Wikipediaにはこう書かれている。
「光秀の墓がある西教寺の記録によると、光秀のものとして首実検に出された首級は3体あったが、そのいずれも顔面の皮がすべて剥がされていたという。光秀のものとして実検された首級が暑さで著しく腐敗していたことは他の多くの史料にも記されている。実検の後、光秀の首級は京都の粟田口にさらされたという。」
西教寺は光秀本人の首である事を確認してこの墓に葬った訳ではないので、墓の前の案内文が光秀の墓であると断言できないのだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80

3フロイス日本史

ところで、本能寺の変の時に、近くにある南蛮寺にいたイエズス会のルイス・フロイスは通説とは異なることを書いている。光秀の首は刀で農民に刎ねられて本能寺に運ばれたというのだ。
「…信長が殺された場所へは、初回分としてだけで一千以上の首級がもたらされた。すなわち、すべての首級を同所(本能寺)に持参するようにという命令が出されていたからで、それらを供えて信長の葬儀を営むとの指令でなされたのである。日盛りとなると、堪えがたい悪臭が立ち込め、そこから風が吹き寄せる際には、我らの修道院では窓を開けたままではいられぬほどであった。…
 哀れな明智は、隠れ歩きながら、農民たちに多くの金の棒を与えるから自分を坂本城に連行するようにと頼んだということである。だが彼らはそれを受納し、刀剣も取り上げてしまいたい欲にかられ、彼を刺殺し首を刎ねたが、それを三七殿*に差し出す勇気がなかったので、別の男がそれを彼に提出した。そして次の木曜日に、信長の名誉のため、明智の身体と首を、彼が信長を殺し、他の首が置かれている場所に運んだ。」(中公文庫『完訳フロイス日本史3』p.174-175)
*三七殿:織田信長の三男である織田信孝。

フロイスは明智の首を見た訳ではなく、人から聞いた話を書いているだけだ。真実を書いていると思われるのは、信長の死のあとで本能寺に大量の首が集められていたという部分だけだと思う。

明智光秀の最後についてネットでいろいろ探っていくと、奈良大学の河内将芳教授のブログの記事が見つかった。河内教授は次のURLで、当時の人々が記した日記や書状に光秀の死がどう記されているかを調べておられる。これらを読むとどこにも「竹槍」の話がどこにも出てこないのである。
http://ameblo.jp/kawauchi1/entry-11902065396.html
特に秀吉の書状(『浅野家文書』)には「山科之藪之中へ北入、百姓ニ首をひろはれ申候」とあるそうなのだが、殺されて首を刎ねられたのと、首を拾われたのとでは全く話が違うし、拾われた首が光秀のものであることはますますあり得ないことだと思う。主君の首を家臣がそのまま放置することなどは、どう考えてもありえないことではないか。

明智憲三郎氏のブログによると、秀吉が本能寺の変のあった天正10年(1582)に大村由己(おおむらゆうこ:秀吉の御伽衆として仕えた)書かせた『惟任退治記(これとうたいじき)』の記述には「諸国より討ち捕り来る首、ことごとく点検のところに、其の中に惟任(光秀)が首あり」となっているが、それから40年後に小瀬甫庵(おぜ・ほあん)が記した『太閤記』にはじめて「光秀が小栗栖の竹薮で土民に殺された」と書かれている。そして、現在通説となっている「竹槍で刺された」ことを始めて書いた書物が、元国学院大学の教授・高柳光寿氏が著した『明智光秀』(吉川弘文館1958)なのだそうだ。
http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/7de110e16fc3c3477cd00e1f15460996

もともと史料の少ない時代を、勝者が編纂した正史や勝者が意図的に広めた軍記物などの記述に根拠を求め、さらに、戦国史の泰斗とまで呼ばれた人物が創作まで加えた歴史記述がいつのまにか定着し、それが日本人の常識になってしまっている。
このような事例は他にも多数あってこのブログでいくつか紹介してきたのだが、勝者にとって都合の良いように書かれた史料に頼って編まれた歴史書などに頼っていては、正しい事実認識が出来るとは思えないのだ。

百姓に拾われた首が光秀のものではないことは、おそらく秀吉自身も本当は分かっていただろう。とすれば光秀は生きていたのではないか考える人もいる。
今回の記事の最初に、家康の政治顧問であった南光坊天海の廟所である慈眼堂を紹介したが、この天海こそが明智光秀ではないかという説が存在する。
次回にその説について、もう少し考えてみることにしたい。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いています。
良かったら覗いてみてください。

「牛若丸と弁慶の物語」の虚構
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-198.html

毛利元就の「三本の矢」の教えはいつの時代の創作なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-185.html

400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-116.html

戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのはキリシタン大名か、宣教師か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html

熾烈を極めた「文永の役」の戦闘でよく闘った鎌倉武士たち~~元寇その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-34.html




関連記事

光秀は山崎の合戦で死んでいないのではないか…「光秀=天海説」を考える その1

天正10年(1582)6月13日の深夜に、山崎の合戦に敗れた明智光秀が坂本城を目指して落ち延びる途中の京都山科の小栗栖(おぐるす)という地で、農民に竹槍で刺されて死んだという通説は作り話である事を前回の記事で書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-345.html

山崎の合戦の後に秀吉が書いた書状(『浅野家文書』)には「山科之藪之中へ北入、百姓ニ首をひろはれ申候」とある

秀吉配下の武士は武功を上げるために、競って光秀を討ってその首を狙おうとする。
一方、光秀の家臣は必死で主君を守ろうし、もし主君が討たれても首だけは敵に渡すまいとするので、いずれにせよ主君の首が放置されることはあり得ない。
普通に考えれば、光秀の顔を知っているはずがない百姓が拾ったような首が、光秀のような重要人物のものであるはずがない

秀吉

秀吉も、百姓が拾ったような首を光秀のものと確信していたはずはなく、おそらく彼は比較的良く似た首を光秀のものとしたのだろう。その上で秀吉は、光秀を貶めるために「百姓に(光秀の)首を拾われた」という嘘の情報を広めて、光秀は味方からも見捨てられて命を落としたとの印象を人々に植え付けようとしたのではないか。光秀がそのような死に方をしたことを広めれば、たとえ光秀が生きていたとしても、再起する可能性はほとんどなくなるぐらいのことを考えたのだと思う。
また信長亡き後の天下を狙っていた秀吉からすれば、徹底的に光秀を貶めて極悪人にしておかなければ、秀吉が明智軍を討伐したことの正当性を世間にすんなり納得させるストーリーが成り立たないことも考えておいてよい。

この戦いのわずか4か月後に秀吉が御伽衆の大村由己に書かせた物語である『惟任退治記(これとうたいじき)』の記述には「諸国より討ち捕り来る首、ことごとく点検のところに、其の中に惟任(光秀)が首あり」となっているのだが、その物語が時代とともに尾ひれがついて、寛永3年(1626)に小瀬甫庵(おぜほあん)が書いた『甫庵太閤記』では「光秀が小栗栖の竹薮で土民に殺された」という話になり、光秀が「竹槍」で農民に殺されたことになったのは、昭和になって戦国史の泰斗と呼ばれた高柳光寿氏が著書で書いてから広まった話なのである。
光秀の死に関する通説は、こういう経緯を知るとバカバカしくなってくる。

では光秀は山崎の合戦で命を落としたのだろうか、あるいはその後も生き延びたのだろうか。

Wikipediaの「明智光秀」の解説では「槍で深手を負った光秀は自刃し、股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、茂朝はその首を近くの竹薮に埋めたとも、丹波亀山の谷性寺まで持ち帰ったとも、あるいは坂本城まで持ち帰ったともいわれる」と書かれているが、同じWikipediaの「溝尾茂朝」の解説では「山崎の戦いにも参加し、一番の中備を務めたが、敗れて光秀と逃走する。しかし遺憾なことに、光秀が百姓によって重傷を負わされると、光秀の命令で介錯を務めることとなる。そして光秀の首を近江の坂本城にまで持ち帰った後、自害して果てた。享年45。」とある。
どちらも興味深い話なのだが、坂本に持ち帰られた3つの首については、前回の記事で記したように、西教寺の記録では光秀のものとは確認されていない。

谷性寺首塚

Wikipediaの記事に名前の出てくる丹波亀山の谷性寺(こくしょうじ)は別名を「光秀寺」といい、境内に「光秀公首塚」があるようだが、この石碑が建てられたのは幕末期のようだ。
この寺に光秀の首が持ち込まれたことを記した古文書があれば面白いのだが、誰か研究している人はいないのだろうか。
http://www.y-morimoto.com/kanko/kokushoji.html

一方、岐阜県山県郡美山町には、山崎の合戦で死んだのは影武者の荒木山城守行信で、光秀は自分を荒深小五郎と名乗り西洞の寺の林間に隠宅に住み、その後光秀は雲水の姿になって諸国遍歴の旅に出て、慶長5年(1600)に死んだという伝承があるという。

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地元の白山神社には明智光秀のものとされる墓があり、次のURLに写真と解説が出ているが、もし光秀が生きていたとしたら、他人の名を名乗ってこのような山深い場所に生きるしか仕方がなかったかもしれない。
http://space.geocities.jp/minokoku1534/ziinn/gifu/fileg/hakusann.html
また次のURLには白山神社にある光秀の墓への行き方が案内されている。興味深い話だが、この墓の由来についての古文書のようなものはないのだろうか。
http://blogs.yahoo.co.jp/supopopo_pop/34352170.html

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また、教科書などでよく目にする明智光秀像は、大阪府岸和田市にある臨済宗の本徳寺にあるのだが、これがわが国で唯一残されている明智光秀像だそうだ。
この寺を開基した南国梵桂(なんごくぼんけい)は明智光秀の長男・明智光慶(みつよし)と言われているのだが、光秀の子供で男は光慶一人しかいない。長男の光慶が生存していたのなら、光秀が生きていてもおかしくないだろう。
そして、この光秀の肖像画には「放下般舟三昧去」、つまり「仏門に入り去っていった」との一文が記されていて「雲道禅定門肖像賛」と書いてあり、位牌の戒名は「鳳岳院殿雲道大禅定門」で「光秀」という名前が隠れている。
また光秀の位牌の裏には「当寺開基慶長四巳亥」、つまり「慶長4年(1599)に当寺を開基した」と記されており、この文章を素直に読むと、この寺を開基したのが明智光秀で、関ヶ原の前年である慶長4年には、光秀がまだ生きていたことになり、当然のことながら、この肖像画もその年以降に書かれたことになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BE%B3%E5%AF%BA_(%E5%B2%B8%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%B8%82)
岸和田市が「市政だより」で制作し、本徳寺の住職がこの肖像画を解説しておられる動画がyoutubeにあるのだが、住職も当然ながら光秀生存説を唱えておられる。興味のあるかたは見て頂くと良い。


ほかにも光秀が生きていたという説がある。
前回の記事の最後に、家康の政治顧問であった南光坊天海が明智光秀と同一人物であるという説があることを触れたが、ネットでは多くの方がこの説を論じておられていてWikipediaにもとりあげられている。

この説の論拠の幾つかを紹介しておく。
日光東照宮陽明門随身像

1. 日光東照宮陽明門にある随身像の袴や、多くの建物に明智家の家紋である桔梗の紋が描かれている。
2. 徳川幕府の2代将軍は忠で3代将軍は家だが、明智光秀の名前の字を一字ずつ入れているとも読める。もし明智光秀が敵対していたのならば、秀や光という字を将軍の名前に入れることを忌み嫌っていてもおかしくない。
3. 三代将軍家光の乳母のお福こと春日局は、光秀の重臣であり本能寺の変で全軍の指揮を執った、明智家筆頭家老の斎藤利三の娘である。またお福の子の稲葉正勝は老中となり、養子の堀田家も代々幕府の中枢を占めた。
さらに家康は土岐明智一族の菅沼定政に土岐姓への復帰を命じ、土岐明智家を復活させている
斎藤利三の娘を重用したり、光秀の悲願であった土岐明智家を復活させたことなど、家康が明智家に配慮したのは、明智家に感謝する理由があったのか、家康の参謀となった天海が明智家かそれに近い人間であったのではないか
4. 学僧であるはずの南光坊天海が関ヶ原戦屏風に家康本陣の軍師として描かれている。
5. 京都市右京区京北周山にある慈眼寺に明智光秀の位牌と木像があるが、この寺の名前は天海の諱の慈眼大師と同じである。
6. 比叡山・松禅寺に「慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀」と刻まれた石灯籠がある。
7. 日光に「明智平」と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある。

これ等の指摘は結構説得力があって引き込まれるのだが、調べていくと、それぞれについてこのような反証がある。

桔梗紋と木瓜紋

1. 日光東照宮陽明門にある随身像や、多くの建物にある家紋は、明智家の桔梗紋ではなく織田家の家紋である木瓜紋(もっこうもん)である
2. 家光の諱を選定したのは、天海とライバル関係にあった金地院崇伝である。
3. 福は小早川秀秋の家臣である稲葉正成に嫁いだが、正成は関ヶ原の戦いで小早川軍を東軍に寝返らせ徳川軍を勝利に導いた功労者である。
4. 関ヶ原歴史民俗資料館が所蔵する関ヶ原戦屏風には「南光坊」の名があるが、この屏風は彦根城博物館が所蔵する江戸時代後期に狩野貞信が描いた屏風を模写したもので、この彦根城博物館の屏風には「南光坊」の記載がない。
5. 慈眼寺にある明智光秀の位牌と木像は、周山の東北にあって廃寺となった密巌寺から1912年に移されたもの。天海の諱の慈眼大師と一致するのは偶然だと思われる。次のURLに光秀の位牌や木像の写真が紹介されている。
http://everkyoto.web.fc2.com/report667.html
6. 比叡山の石灯籠に刻まれた「光秀」が明智光秀本人であることの立証は困難。
7. 「明智平」を天海が名づけたというのは伝承にすぎない。

他にも次のような反論がある
8. 光秀=天海とする説は明治時代の作家・須藤光輝が唱え出したもので、当時の記録に光秀と天海とを結びつける記録が全くないのはおかしい。
9. 天海と光秀が同一人物だと享年は116歳となり天海を光秀とするのは年齢的にやや無理がある

確かにその通りなのだが、いくら反論を読んでみても、なぜ家康が明智家に配慮したのかという根本的な疑問がどうしても残ってしまう。

春日局

通説では明智光秀は主君の信長を討った謀反人であるわけだが、なぜ、その謀反を主導した明智家筆頭家老の斎藤利三の娘を、2代将軍徳川秀忠の嫡子・竹千代(のちの3代将軍・家光)の乳母に任命したのだろうか。
少し考えればわかる事だが、乳母という立場はその気になれば嬰児の命を奪うことは容易な事であり、そのような重要な任務を光秀の重臣の娘に抜擢することは常識では考えにくいところだ。
また土岐明智家を復活させたのも理解に苦しむ。なぜ謀反人である光秀に配慮したのだろうか。

これらの点をスッキリさせるためには、本能寺の変の原因が明智光秀の信長に対する怨恨であるという通説を一旦リセットする必要がある。

以前このブログで本能寺の変について5回に分けて書いたことがあるのだが、この事件から家康と光秀との関係から述べだすと、かなり長くなってしまうので、次回に記すことにしよう。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いています。良かったら覗いてみてください。

本能寺の変で信長の遺体が見つからなかったのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-97.html

本能寺の変で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-98.html

明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変③.
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-99.html

家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変④
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-100.html

秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-101.html


関連記事

日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える

前々回の記事で、1604年に朱印船制度が創設され、それ以降1635年まで、350隻以上の日本船が朱印状を得て海外に渡航したことを書いた。渡航先は安南、スペイン領マニラ、カンボジア、シャムなどの東南アジア諸国であったのだが、それらの地域には多くの日本人が移り住んで日本人町ができたという。

朱印船貿易と日本人町

「移り住んだ」と書くと、如何にも日本人全員が自分の意志で海外に渡っていった印象を受けるのだが、もう少し正確に言うと、少なからずの日本人が奴隷として売られて行って住み着いたということだ。

以前このブログで3回に分けて、豊臣秀吉が「伴天連追放令」を出した経緯について書いたことがある。
当時わが国に滞在していたイエズス会宣教師のルイス・フロイスがその点について詳細な記録を残しているのだが、それによると、九州征伐で博多にいた秀吉は、天正15年(1587)7月24日にイエズス会の日本準管区長のガスパル・コエリョに対し、使いを出して秀吉の言葉を伝えさせている。何点かあるのだが、3つ目の伝言が日本人奴隷に関する内容である。

「第三は、予(秀吉)は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」(ルイス・フロイス「日本史4」中公文庫p.207~208)

秀吉が、金を払うから日本人奴隷を連れ戻し自由放免せよとまで述べたにもかかわらず、コエリョは協力する意思を全く示さなかったばかりか、取締まらない日本側に問題があると答えてさらに秀吉を激怒させてしまい、「伴天連追放令」が出されることになるのだが、詳しく知りたい方は是非次のURLを読んで頂きたい。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-132.html

フロイスのこの記録で私が注目したいのは、ポルトガル人だけでなくシャム(タイ)人もカンボジア人も多数の日本人を買っていたという点である。なぜこの2国が、多数の日本人奴隷を購入していたのだろうか

この時代にシャムの日本人町で活躍した山田長政に従っていた智原五郎八という人物が著したと伝えられる『暹羅(シャム)国風土軍記』という書物のなかに、シャム国がどのような日本人を、何のために買い求めたかについて述べている部分がある。昭和16年に出版された柴田賢一の『南洋物語』に該当部分が引用されているので紹介したい。

「元和年中より寛永の末*に至るまで、大阪落ちの諸浪人、あるいは関ヶ原、または天草落人ども賈人(こじん:商人)となりて多く暹羅(シャム)に逗留す。もし海賊強盗あれば武勇をもって追い払うゆえに、暹羅国王もこれを調法(ちょうほう)に思い、地を貸して日本人を一部に置く。日本人町と号し、海辺に数百件の町屋あり。永く留まる者は妻妾ありて子を設く。この時に住居する者8千余人ありしとかや」
*元和(げんな:1618~1624年)、寛永(かんえい:1624~1644年)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276416/102

住居数に対し住民が8千余人というのは多すぎるのだが、この数字はタイ族の使用人などが含まれた数字だと考えられる。

また、続けて柴田氏はこう解説している。
彼らは一部分商人として貿易に従い、一部分その武勇を高く買われて王室に仕えていた。日本からタイへの輸出品は、傘、蚊帳、扇子、屏風、畳、銅、鉄、塗物碗、樟脳、銅器、金銀器、鎧、太刀、弓矢、槍などであり、タイから日本への輸入品は象牙、白絹、孔雀、豹皮、紫檀、蘇木、鹿皮、支那布、鮫皮、鉛、籐、檳榔子実、牛皮、ナムラック、黒砂糖、水牛角、ガムラック、チーク、犀角等であった。」

Ayutthaya-Map.gif

Wikipediaにタイ国にあったアユタヤ日本人町の記述がある。
アユタヤを流れるチャオプラヤー川沿いを南に下った西岸に、最盛期で1000~1500人の日本人(タイ族などの使用人を除く)が住んでいて、アユタヤ日本人町の住民は、傭兵、貿易商、キリシタン、あるいは彼らの配偶者やタイ族の使用人などで構成されていた、とある。
さらに読み進むと、日本人傭兵隊についてこう書かれている。

「この日本人傭兵隊の勢力は200あるいは800人とも言われる勢力に膨張し、政治的にも大きな力を持つようになった。このアユタヤでは基本法典である『三印法典』に日本人傭兵隊の政治的位置が明確に示されるようになった。『三印法典』では、日本人傭兵隊はクロム・アーサーイープン(日本人義勇兵局)と名付けられ、その最高責任者にはバンダーサック(官位制度)の第三位であるオークヤー(あるいはプラヤー)・セーナーピムック( ออกญาเสนาภิมุข)という官位・欽賜名を授けられた。これは山田長政にも下賜された名前である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A6%E3%82%BF%E3%83%A4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E7%94%BA

『暹羅国風土軍記』にもWikipediaの解説にも『三印法典』にも、どこにも「奴隷」という表現は出て来ないのだが、ルイス・フロイスは明確に、豊臣秀吉が「九州で、シャム人らが多くの日本人奴隷を買っていた」ことを指摘したことを書いている。それに対してイエズス会のコエリョは秀吉の指摘を否定していない。イエズス会にとって都合の悪い出来事をフロイスがわざわざ書いているのだから、シャム人が日本人奴隷を大量に購入したことが嘘であるとは考えにくい。
では彼らが日本人奴隷を買う目的は何であったかと言うと、タイの『三印法典』の記録を読んで見えてくるのは、少なくともシャム人には国王家を中心に、日本人武士を傭兵として用いる強いニーズがあったという点である。アユタヤの日本人町の住民の中には、奴隷として買われて住み着いた日本武士が少なからずいたと考えるのが自然ではないだろうか。

またカンボジアも同様の目的で、日本の武士を買い集めていたことがわかる史料が存在するようだ。
先程紹介した柴田賢一氏の著書によると、元和9年(1623)にタイ国の施設が徳川幕府を訪れた際に持参した国書に、「カンボジア軍の中には日本兵が混じっているらしいから、しかるべく取締ってもらいたい」という内容が書かれていたという。
それに対して徳川幕府の返書には「海外に出かけて商売を営むような輩はどうせろくなものではなく、利益のためには何でもやるだろう。そんな連中を取り締まるなどもってのほかで、罪に応じ貴国で自由に征伐したがよかろう」と冷たかったそうだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276416/104

シャム国といえば山田長政が活躍したことが有名だが、この人物の生国について史料にみえるものとして伊勢説、尾張説、長崎説、駿府説の4つがあり、古くから出自が不明である事や、内容について信頼できるわが国の文献が乏しいとされ、タイ側の記録にも該当する人物名が見当たらないことから、実在しなかったという説まであるようだ。
http://www.mekong.ne.jp/database/person/yamadanagamasa/19870304.htm

しかし、シャム国から何度かわが国に使節が来ておりその親書に山田長政の署名が確認できるし、金地院崇伝の『異国日記』にも彼の名前が確認できる。オランダ東インド会社の商館長のエレミヤス・ファン・フリートの報告(『シャム革命史話』)の中にも彼に関する記録があるようで、山田長政という人物がシャム国のアユタヤ王朝で認められ、活躍した人物であったことは確実である。出自について諸説があるのは、もしかすると、彼も奴隷として売られた過去があり、それを隠そうとしたのではないかと考えてみたりもする。

山田長政

では、シャムに渡ってからの彼の活躍について簡単に振り返ることにしたい。

山田長政がシャムに渡ったのは慶長17年(1612)頃とされているが、当時のシャム国のアユタヤでは日本人がソンタム国王の護衛兵を勤めていて、彼はその後日本人義勇兵を指揮するようになり、シャム国の内戦や隣国との紛争の鎮圧に活躍して、次第に頭角を現していったという。

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特に元和七年(1621)には、スペイン艦隊の二度にわたるアユタヤ侵攻をいずれも退けた功績で国王の信任を得、オークヤー(あるいはプラヤー)・セーナーピムック(ออกญาเสนาภิมุข)という官位・欽賜名を授けられ、チャオプラヤー川に入る船から税を取る権利を取得したのだそうだ。

前回紹介した菊池寛の書物によると、その頃、アユタヤのオランダ商館長ヨースト・スハウテンがこのように書き記しているのだそうだ。
「国王の水陸両軍の有力なる兵員は、諸侯と国民とより成り立っているが、またモール人、マレイ人、その他少数の外国人も混成している。そのうちでも、5-6百人の日本人は、最も主なる者で、周囲の諸国民より、その男性的信義の評判を得て特に重んぜられ、暹羅国王からも尊敬されている。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276921/93

戦艦図絵馬

寛永3年(1626)に長政は静岡の浅間神社に奉納した『戦艦図絵馬』を奉納したのだそうだが、残念ながらその絵馬は天明8年(1788)の火災で焼けてしまったそうだ。しかし、その模写が残されていたので、翌寛政元年(1789)に制作されたものが奉納されたという。
http://sengendori.com/nagamasa/nagamasagoods.html

ワット・プラ・シーサンペット

ところが、山田長政を信任したソンタム国王が1628年に亡くなってしまう。
国王の遺言により15歳のチェーター王が即位し、長政も若い新国王を支える側についたのだが、新王がシーウォーラウォン(のちのプラサート・トーン王)の陰謀を嗅ぎ付け、その人物を排除しようとして失敗し、逆にシーウォーラウォンに殺されてしまう(1629年)。
同年に、チェーターの弟でわずか10歳のアーティッタウォン王が即位したが、シーウォーラウォン(当時はチャオプラヤー・カラーホームスリヤウォンに昇進していた)が摂政となって政治の実権を完全に掌握し、それに抵抗した山田長政を六昆(リゴール:ナコーンシータンマラート王国)の防衛を理由に六昆国の総督に左遷してしまう。

長政は日本人三百人とシャム人三、四千人を率いて六昆国に行き、反乱軍を難なく平定したのだが、その間アユタヤではシーウォーラウォンがアーティッタウォン王をわずか38日で廃位させ、自らが王位に登りプラサート・トーン王と名乗っている。

そして新国王は、六昆国の反乱を直ちに平定した長政を怖れて、その排除に乗り出すことを決意した。
1630年にプラサート・トーン王は密命を出して山田長政を毒殺させ、さらに、アユタヤの日本人に「謀反の動きあり」として、四千人の兵を以て日本人町の焼き打ちを命じている。

この計画を事前に察知した日本人達は、攻撃が始まる寸前に数艘の商船に600人全員が乗り込んで出航したという。シャム兵が約百艘の船に乗って追撃してきたため、日本人も少なからぬ死傷者が出たが、なんとかカンボジアに遁れている。

その後、シャム国のプラサート・トーン王は日本人を再びアユタヤに呼び戻して、日本人町の復興にあたらせたのだが、寛永16年(1639)に江戸幕府の鎖国例が出たために日本人の海外渡航が禁止され、母国との連絡を絶たれたアユタヤの日本人町はその後衰退の一途をたどり、享保の初めごろには消滅してしまったという。

アユタヤ日本人町

かつて日本人町があった場所には、今では日本人が作った建物など以前の名残は全く残っていないのだが、記念公園とされた敷地内に「アユタヤ日本人町の跡の碑」と日本語で彫られた石碑が建てられているのだそうだ。
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【ご参考】
このブログで、日本人奴隷に関してこんな記事を書いています。よかったら、覗いて見てください。

400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-116.html

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その①
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-132.html

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-133.html

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その③
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-134.html

16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-191.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-192.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html


関連記事

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代

天正15年(1587)の7月、豊臣秀吉が『伴天連追放令』を出す直前に、イエズス会の日本準管区長コエリョに使いを出して秀吉の言葉を伝えさせている。
そのうちの一つが日本人奴隷の大量流出問題であり、前回及び前々回の記事では、大量の日本人奴隷が売買されて、東南アジアでは傭兵としてかなり重宝されたことを書いた。

豊臣秀吉

しかし、秀吉が問題としているのは日本人が奴隷として売られている問題だけではなかった。
当時わが国に滞在していたイエズス会宣教師のルイス・フロイスは、コエリョが秀吉の出した質問に回答した翌日の朝に、秀吉は家臣や貴族を前にしてこう述べたと記している。

「…奴ら(キリスト教徒)は一面、一向宗徒に似ているが、予は奴らの方がより危険であり有害であると考える。なぜなら汝らも知るように、一向宗が弘まったのは百姓や下賤の者の間に留まるが、しかも相互の団結力により、加賀の国においては、その領主(富樫氏)を追放し、大阪の僧侶を国主とし主君として迎えた。(顕如)は予の宮殿(大阪城)、予の眼前にいるが、予は彼に築城したり、住居に防壁を設けることを許可していない。たがいっぽう伴天連らは、別のより高度な知識を根拠とし、異なった方法によって、日本の大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。彼ら相互の団結力は、一向宗のそれよりも鞏固である。このいとも狡猾な手段こそは、日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ。なぜならば、同宗派の全信徒は、その宗門に徹底的に服従しているからであり、予はそれらすべての悪を成敗するであろう。」(中公文庫『完訳フロイス日本史4』p.213-214)

秀吉はそう述べた後に、別の伝言を申し渡すために二名の家臣を呼んで司祭の許に派遣した。その伝言は、「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院を破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」というものであった。
その質問に対するイエズス会の回答書は、フロイスの記録するところでは次のようなものであった。

「御身らは殿下に告げられよ。われら司祭は、神、仏、またその像とはなんら関わりなき者である。だがキリシタンたちは、我らの教えを聞き、真理を知り、新たに信ずるキリシタンの教え以外には救いがないことを悟った。そして彼らは、坊主たちと同様、日本人であり、幼少時からその宗派と教義の中で育ってきた人たちであるが、神も仏も、またそれらを安置してある寺院も何ら役に立たぬことを知った。彼らは、キリシタンになってからは、デウスから賜った光と真理を確信し、なんら我等から説得や勧告をされることなく、神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅したのである。」 (同書p.215)

日本西教史

イエズス会の秀吉への回答書に関して、同じイエズス会のジアン・クラッセが1689年に著した『日本西教史』にも記録が残されている。この書物は国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で読むことができるので、秀吉に対する回答部分を引用しておこう。クラッセはフロイスの書いている内容とは異なることを書いている。

「…関白殿下かつて書を下し、キリストの法教を国内一般に説法するを許せり。キリストの教えはただ天地創造の一真神を崇拝するにより、殿下は日本人のキリスト教に入るを許し、偶像を拝するを禁じ、而して真神に害する所あるを以てその社寺を毀つを許されしなり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943460/359

偶像崇拝を禁じているキリスト教の布教を秀吉から許されたということは、異教である仏教の寺や仏像、神社を破壊することも許されたことになると解釈するのは、多神教の日本人にはなかなか理解しがたいところだが、キリスト教以外の宗教を認めず異教はすべて根絶すべきものと考える人々の発想は、所詮こういう単純なものなのだろう。だが、このような善悪二元論的な考え方では、異教を根絶する日が来るまで、その地域の人々との共存はありえないことになる。

伴天連追放令

話を元に戻そう。
イエズス会の回答を確認した後に秀吉は、「予は日本のいかなる地にも汝らが留まることを欲しない。ここ二十日以内に、日本中に分散している者どもを集合せしめ、日本の全諸国より退去せよ」と命じ、「伴天連追放令」と呼ばれる布告を出している。

秀吉を激怒させたのは、大量の日本人が奴隷として売られていたこともあるのだが、それ以外にキリシタンが大量の神社仏閣を破壊したことも大きかったようだ。
明治維新期の廃仏毀釈もひどかったが、この時代のキリシタン大名の領地では、それ以上の激しい破壊活動が行なわれたのではないだろうか。

以前このブログで、イエズス会のルイス・フロイスの記録を追って、九州地区の文化破壊のことを書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html
ここで紹介したフロイスの詳細な記録を読めば、イエズス会の宣教師が神社仏閣や仏像等の破壊を先導したことは明らかであるが、ここでは繰り返さない。

長崎の神社仏閣の破壊に関して、大正12~14年に編纂された『長崎市史』の記述を紹介したい。
その『地誌編 仏寺部 上巻』の第1章が「総説」となっていて、長崎市の仏教史を7期に分けて概括しているのだが、第1期がいきなり「仏寺破滅時代」となっていて、それ以前の仏教史がないのは驚きである。この本も「近代デジタルライブラリー」でPCで読むことができる。

「第1期 仏寺破滅時代
  この時期においてはキリスト教が長崎およびその付近に伝道せられ、住民はこれに帰すべく強いられ、神社仏閣はことごとく破却せられ、長崎はいわゆる伴天連の知行所となり、政教の実権がことごとく耶蘇会(イエズス会)の手に帰したる時代で、年代で言えば開港の当初から天正15年までである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978668/25

ちなみに、天正15年(1587)というのは、秀吉が「伴天連追放令」を出した年である
「ことごとく破却せられ」ということは神社仏閣の全てが破壊されたということである。さらに本文にこう解説されている。

「…長崎およびその付近においては神仏両道は厳禁せられ、住民は皆キリスト教、すなわち当時の切支丹宗門に転宗を強いられ、これに従わざるものは皆領外に退去を命ぜられ、神社仏閣のごときは布教上の障害として皆焼き払われた。かくして…神宮寺、神通寺、杵崎神社などは皆破却せられて烏有に帰し、神宮寺の支院たりし薬師堂、毘沙門堂、観音堂、萬福寺、鎮通寺、齊通寺、宗源寺、浄福寺、十善寺などもまた皆これと相前後して同一の運命に陥ったと伝えられる。かくして長崎およびその付近の仏寺は天正中*に全滅し、これに代りてキリスト教の寺院会堂、学校、病院などが漸次設立せらるることになり、…長崎は耶蘇会の知行所となりて政教の実権はその手に帰し、南蛮人らは横暴を極め、奴隷売買の如きも盛んに行われたけれども、日本に実力ある主権者なかりしためこれを如何ともすることは出来なかった。」
*天正中:天正年間中の意。1573~1593年
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978668/28

このブログで明治維新期の薩摩藩や苗木藩などで激しい廃仏毀釈が起こったことを書いてきたが、戦国時代の長崎の社寺破壊も同様であった。『長崎市史』によると、こんなに激しい文化破壊が行なわれたきっかけとなったのは、南蛮貿易の利益のためであったということである。

「当時耶蘇会宣教師とポルトガル商人との間には非常に密接な連絡があって、たがいに相援けてその勢力利権の拡張に努めつつあったので、キリスト教と無関係でポルトガル貿易のみを営まんことは当時にありては絶対的に不可能なことがらであった。現に薩摩の島津氏や平戸の松浦氏はこの不可能事を行なわんとして、ついに貿易の利を失ったのである。
されば大村純忠の横瀬浦を開くや、その付近二里四方の地を無税地としてポルトガル人に交付し、宣教師の許可なくして異教徒のその地位内に入るを禁じ、盛んに伴天連を保護崇拝した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978668/28

少し補足すると、天正5年(1577)大村純忠が龍造寺隆信と戦うために、宣教師から軍資金として銀百貫文を借受け、その時に所領の一部をその担保としたことがきっかけだったようだ。かくして長崎は天正8年(1580)以来イエズス会に寄進されてしまったのだが、この地域には仏教徒である一般の日本人は、宣教師の許可がなくては立入ることを禁じられてしまったという。

有馬晴信

同様に有馬晴信も龍造寺隆信と戦う際に大砲を提供されたことから、勝利の恩賞としてイエズス会に長崎の浦上村を寄進したそうだ。こんなことがいつまでも放置されては、イエズス会の支配する地域がどんどんわが国で広がっていくことになる。

キリシタン大名達は海外貿易の利権を得ただけではなく武器や戦費の援助を得て、宣教師たちの指示に重きを置くようになっていったのだが、この問題のおそろしさは、キリシタン大名が自国の武力をわが国の為政者よりも外国勢力のために動かす可能性を考えればよく分かる。
秀吉は、キリシタン大名の領国がいずれ天下統一の妨げになるばかりではなく、いずれ外国勢力は彼等の武力を利用してわが国を占領していく魂胆があることを認識していたのである。
今回の記事の最初に引用した、ルイス・フロイスが秀吉の言葉として記した「伴天連らは、…日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ」という言葉は、そのことを秀吉が強く警戒していた証左だと考えられる。

しかし困ったことに、秀吉が『伴天連追放令』を出しても、長崎にいた宣教師たちはほとんど帰国しなかったのである。彼らは九州にいたキリシタン大名たちが保護してくれることを信じ、6カ月の猶予期限経過後も長らく長崎に留まっていた。期限までに帰国したのは、司祭になるためにマカオに向かった者が3人いただけだったようだ。

天正16年(1588)にコエリョは秀吉に書を送り「今年は貨物が多いため、多くの宣教師を送還することができない。来年は必ず送還する。」と伝えたのだが、これを読んで秀吉は激怒し、近畿のキリシタン寺22箇所を破却し、長崎のイエズス会の所領を没収して直轄地とし、長崎代官を置いたという。

その後宣教師らは秀吉を刺戟しないようにし、法服を脱ぎ、商人の姿で布教活動に努めたのだそうだが、その結果、長崎のキリスト教信者はさらに増加し、文禄元年(1592)に長崎奉行に寺沢広高(肥前唐津城主)が任地に就いた頃には、長崎の住民は悉くキリスト教徒であったという。
秀吉は南蛮貿易の実利を重視していて、一般庶民にまでは禁教を求めていたわけでもなかったので、キリスト教徒が増加したことについては黙認していたようなのだ。

このような経緯で長崎の社寺仏閣が破壊され、キリスト教が庶民にいたるまで広まっていったのだが、他のキリシタン大名の領地でも良く似たことが起こっていたようだ。

ルイス・フロイスは、肥前国有馬晴信の所領においても、領内から僧侶を追放して、寺の僧侶が隠していた仏像に火を点けたり、割って薪にしたことなどを詳細に記している。この点については、以前このブログで書いた記事を参考にしていただきたい。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html

高山右近

では高山右近についてはどうであったか。
ルイス・フロイスの記録に、秀吉が右近に棄教を迫る場面の叙述がある。フロイスは秀吉の言葉をこう記している。

「予はキリシタンの教えが、日本において身分ある武士や武将たちの間においても弘まっているが、それは右近が彼らを説得していることに基づくことを承知している。予はそれを不快に思う。なぜならば、キリシタンどもの間には血を分けた兄弟以上の団結が見られ、天下に類を及ぼすに至ることが案ぜられるからである。
 同じく予は、右近が先には高槻の者を、そして今は明石の者をキリシタンとなし、寺社仏閣を破壊せしめたことを承知している。それらの所業はすべて大いなる悪事である。よって、今後とも、汝の武将としての身分に留まりたければ、ただちにキリシタンたることを断念せよ。」(中公文庫『完訳フロイス 日本史4』p.221)

それに対し右近は、高槻や明石の家来たちをキリシタンにしたのは自分の手柄であるとし、キリスト教を棄教することについては断って領地と財産を捨てることを選んだ。その後右近はキリシタン大名の小西行長に庇護され、天正16年(1588)に加賀の前田利家に招かれて暮らしたが、慶長19年(1614)徳川家康による国外追放令を受けて国外追放でフィリピンに渡り、翌年マニラで病死したという。

フロイス日本史4

高山右近が高槻城主であった時に、寺を焼いた経緯がフロイスの著書に記されているので紹介しておこう。文章中フロイスが「偶像」とか「悪魔の像」と書いているのは「仏像」のことである。

「…(高山)右近殿は彼ら(仏僧)のところにあれこれ使者を遣わして説教を聞くようにと願い、もしまったくその気持ちがければ、予は貴僧らを領内に留め置くわけにはいかぬと伝えた。そこで遂に彼らは説教を聞くに至り、百名以上の仏僧がキリシタンとなり、領内にあった神と仏の寺社はことごとく焼却されてしまい、そのうち利用できるものは教会に変えられた。それら中には摂津国で高名な忍頂寺と呼ばれる寺院があった。この寺は今でも同地方でもっとも立派な教会の一つとなっている。そこでは大規模に偶像が破壊された。すなわちかの地には多数の寺院があり、仏僧らは山間部にこれらの悪魔の像を隠匿していたが、それらは間もなく破壊され火中に投ぜられてしまった。」(同上書 p.17)

大阪の「北摂」と呼ばれる地域には千年以上の歴史のある寺社がいくつもあるのだが、現在残っている建物で戦国時代よりも古いものは皆無であり、高山右近に焼かれたとの伝承のある寺院が多数存在する。
これらの寺の一部は戦火に巻き込まれて焼けたのかもしれないが、山奥にある寺院までもがことごとく焼けたのは不自然だ。多くはこの時期にキリシタンによって放火されたのだろう。

忍頂寺

フロイスが記録している忍頂寺という寺は、聖武天皇の時代(724-748)に行基が創建した頃は「神岑山寺(かぶさんじ)」と称したとされ、貞観2年(860)には清和天皇より「忍頂寺」の寺号を贈られ勅願寺となったという由緒のある寺である。
最盛期には23もの寺坊を有する大寺院であったようだが、今では、支院の1つであった寿命院が忍頂寺の本堂となっている。
境内にあるもので戦国時代よりも古いものはただ一つ、元亨元年(1321)建立の五輪塔が本堂の右後方に残されているのみである。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。


ルイス・フロイスの記録をもとに、キリスト教徒による九州地区の神社仏閣の破壊をまとめた記事です。

戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのは切支丹大名か、宣教師か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html


永禄10年(1567)に東大寺大仏殿が焼失した原因は、切支丹の兵士による放火であることをルイス・フロイスが書き残しています。

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-136.html


戦国時代に、たがいに敵味方に分かれて戦っていながら、永禄9年(1566)に敵味方合同でクリスマスのミサを行っています。これもルイス・フロイスが書いています。

永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-137.html


高山右近に焼かれた伝承の有る古い寺を巡りました

1300年以上の古い歴史を持つ神峰山寺と本山寺を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-139.html



関連記事

フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉

前回の記事で1584年にイエズス会の日本布教長フランシスコ・カブラルが、日本のキリシタン大名を用いて中国を征服して植民地化することをスペイン国王に提案していたことを書いたが、同様な宣教師の当時の記録はいくつも存在する。

日本史の歴史教科書には何も記されていないのだが、スペインが1571年にフィリピンを征服した(「フィリピン」と言う地名はスペイン国王フェリペ2世に由来する)。
スペインは16世紀前半にアステカ文明、マヤ文明、インカ文明などアメリカ大陸の文明を滅ぼし、その後世界に植民地を拡大して「太陽の没することなき帝国」と言われた最盛期の時代を迎え、1580年にポルトガル王国のエンリケ1世が死去すると以後スペイン王がポルトガル国王を兼務し、植民地からもたらされた富でヨーロッパの覇権を握ったとされる。

1790年スペイン領土

フィリピンマニラの初代司教としてスペインから送りこまれたサラサールが、本能寺の変の翌年にあたる1583年(6月18日付)にスペイン国王に送った書簡が残されている。
ここにはこう記されているという。

「…シナの統治者たちが福音の宣布を妨害しているので、これが陛下が武装して、シナに攻め入ることの正当な理由になる…。
そしてこのこと(シナの征服)を一層容易に運ぶためには、シナのすぐ近くの国の日本人がシナ人のこの上なき仇敵であって、スペイン人がシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを陛下が了解されると良い。そしてこの効果を上げる為の最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。…」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.85-88)

サラサール司教はフィリピンの次は中国を征服すべきであり、そのために日本の武力を使えばよいと、前回の記事で紹介したイエズス会のフランシスコ・カブラルと同様な提案をしている。サラサールの文章で特に注目したいのは、「在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように」と指示すれば、キリシタン大名はそれに従うと考えていたという点である。わかりやすく言えば宣教師らは、秀吉や家康の命令がどうであれ、キリシタン大名はイエズス会修道士の指令に従って動くことを確信していたのである。

南蛮図屏風

一方、イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョが、翌1584年にフィリピン・イエズス会の布教長へ宛てた書簡では、日本への軍隊派遣を求めて、先に日本を征服してから明を攻めることを提言したのだが、この案は採用されなかった。

コエリョの提言が採用されなかったのは当然であろう。わが国は鉄砲伝来した翌年には鉄砲の大量生産に成功していて、16世紀末には世界最大級の鉄砲保有国になっていたし、鉄砲だけでなく刀や鎧などの武器の性能も優れていた
スペインが海軍を送り込んで日本を攻めようとしても、わが国の武士の数や優秀な武器とその数量を考慮すればスペインが勝てる可能性は低かった。緒戦は有利な戦いが出来たとしても、長期化して銃弾や食糧が乏しくなった場合は、母国からの食糧や銃弾の補給は極めて困難であり、全滅を覚悟するしかなかっただろう。

マニラ司教のサラサールやイエズス会の日本布教長フランシスコ・カブラルの考えは、わが国のキリシタン大名を使ってまず明を攻める。明を征服すれば朝鮮半島は容易に手に入る。そして朝鮮半島に軍事拠点を置き、機が熟すのを待って最短距離で日本を攻め、かつキリシタン大名を味方につけて日本国を二分して戦う。
当時スペインが日本を征服するには、それ以外に方法はなかったのであろう。

FarEast_17c01.jpg

しかし、おそらく秀吉は宣教師らの魂胆を見抜いていたのだろう。
天正15年(1587)に『伴天連追放令』を出すきっかけとなった秀吉の九州平定は、その2年前にイエズス会のコエリョが秀吉に対し、大村・有馬のキリシタン大名の仇敵である島津を征伐するのなら高山右近らを秀吉の味方につけると進言したことにより実現した。イエズス会にとっては秀吉の九州攻めは願ってもないことであり、右近らの活躍で島津討伐に成功したのだが、秀吉は九州を平定すると、右近の役割が終わったのを見計らったように高山右近にキリスト教の棄教を迫り、それに抵抗した右近を追放してしまった。
その一方で、征伐した島津氏の領国はほとんど変わりなく安堵しているのである。
秀吉は、イエズス会に協力するように見せかけながら、実際は宣教師やキリシタン大名の勢力を弱めるために九州に来たとしか思えないのだ。

フロイス日本史4

イエズス会のルイス・フロイスの記録『日本史』には、『伴天連追放令』を出す直前に秀吉が家臣や貴族たちを前に述べた言葉が記されている。
伴天連らは、別のより高度な知識を根拠とし、異なった方法によって、日本の大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。彼ら相互の団結力は、一向宗のそれよりも鞏固である。このいとも狡猾な手段こそは、日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ。」(中公文庫『完訳フロイス日本史4』p.214)
フロイスがこのような書き方をしているということは、秀吉は宣教師がわが国を占領する目的で来日している認識があることを、フロイスも理解していたということだろう。

また、朝鮮出兵の前年である天正19年(1591)には、秀吉はゴアのインド副王(ポルトガル)とマニラのフィリピン総督(スペイン)にも降伏勧告状を突き付けて恫喝している。特にフィリピンに関しては、3度も降伏勧告状を送っているのに注目したい。

学生時代に、秀吉の晩年の外交については「無謀な膨張主義」というニュアンスで学んだ記憶があるが、この当時のフィリピンにはわずかな兵士しかおらず、秀吉がその気になれば、大量の武器を準備できた秀吉軍は、容易にスペイン人をフィリピンから追い払っていた可能性が高い。

山田長政

以前このブログで書いたが、シャム国(現在のタイ)に渡った山田長政は元和七年(1621)には、日本人傭兵部隊を率いてスペイン艦隊の二度にわたるアユタヤ侵攻をいずれも退け、その功績で国王の信任を得ている。当時は素人集団を率いていたとしても、日本の武器が大量にあればスペイン艦隊による侵略を撥ね退けることが可能だったのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html

話を元に戻そう。
秀吉がフィリピン総督(スペイン)に対して出した第一回目の降伏勧告状にはこう書かれていたという。
「…来春九州肥前に営すべく、時日を移さず、降幡を偃(ふ)せて来服すべし。もし匍匐膝行(ほふくしっこう)遅延するにおいては、速やかに征伐を加うべきや、必せり。悔ゆるなかれ、…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/34
意訳すれば、「降伏して朝貢せよ。ぐずぐずしていたら必ず征伐する。後悔するな。」というところだが、この国書を読んでスペインは驚いた。

当時の東南アジアには日本のように鉄砲を自国で大量に生産できる国はなかったので、スペインやポルトガルは僅かな鉄砲を持ち込むことで異国の領土を容易に占領し支配することが可能だったのだが、世界最大級の鉄砲保有国であった日本を相手にするとなるとそうはいかなかったのである。

秀吉の恫喝に対し、フィリピンのルソン太守であるダスマリナスは、わずか400名の兵士では日本軍と戦う自信がなかったために日本の使節を歓待し、日本の実情を探らせるために返書を持たせて使者を送るしかなかった。

さらにダスマリナスは、日本人のフィリピンへの侵入を非常に警戒して14項目もの対策を立案している。昭和17年に出版された奈良静馬著『西班牙(スペイン)古文書を通じて見たる日本と比律賓(フィリピン)』にその内容が出ているが、これを読むと、如何にスペイン人が日本人を怖れていたかがよく分かる。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/36

フィリピン地図

ダスマリナスは、食糧や武器を可能な限り買い込むことを指示し、城塞の建設を命じたほか、如何なる市民も許可なくして財産や家族をマニラ市から移すことを禁じ、また許可なくしてフィリピンから船を出港出来ないようにし、とりわけ日本人を警戒することを縷々述べている。たとえば、6番目の対策は
マニラ在住の多数日本人はフィリピンにとって脅威なり。この脅威より免れるべく、これら日本人よりすべての武器を奪いたるうえ、市外特定の場所に移転せしめること。」とある。当時のフィリピンには、商人のほかにシャムやカンボジアと同様に奴隷として海を渡りこの地に住みついた日本人がかなりいたようである。

では、フィリピン国から秀吉に宛てた返書の内容はどのようなものであったかと言うと、要するに、秀吉の文書は果たして本物であるか、それを確かめるために使節を送るというものであったようだ。この国書の訳文は次のURLにあるがつまるところは時間稼ぎである。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/40

さらにフィリピンから送られた使者のフレー・ジュアン・コボスはフィリピンを秀吉の支配下に置くことについては意思表明を避けたため、秀吉は再び書状を書いて原田喜右衛門をフィリピンのマニラに遣わしている。

豊臣秀吉

奈良静馬氏の著書に、この時に秀吉が記した第二回目の降伏勧告状が紹介されている。
「…この地球上、天が下に住む者はすべてわが家来なり。余に対して恭順の意を致す者は平和と安堵を得、何らの恐怖なくして住むことを得べし。しかしながら、余に恭順を表せざる者に対しては、余は直に我が将卒を送りて、先ごろ朝鮮王に対して為せるが如く武力を行使すべし。これ朝鮮王が余に恭順を表することを拒みたるが故にして、余は…朝鮮全土を平静に帰せしめたり。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/68

フィリピンは1593年の5月に原田の船で二度目の使節を日本に派遣し、その中に二人のフランシスコ会の修道士がいた。その一人のゴンザレスは、秀吉の服従要求に対しスペイン国王の返答があるまで日本に人質として留まることを乞うたのだが、このゴンザレスは日本滞在中に、フランシスコ会伝道の基礎を作ることを企んでいたという。ちなみに、先にわが国で布教活動を行なっていたイエズス会は、秀吉の『伴天連追放令』のあとで自由な布教活動ができなくなっていた。

徳富蘇峰の『近世日本国民 史豊臣氏時代. 庚篇』に、フランシスコ会がその後のわが国でどのような活動を為したかが記されている。
「スペイン太守の使節は、人質の名義にて、上方に滞在し。さらに伏見において秀吉に謁したる際、彼ら専用の家屋を構えんことを願った。秀吉は前田玄以をして、その地書を与えしめた。前田は諸教師に向かって、説教、および宣伝の事を禁ずる旨をつげ、旧南蛮寺の敷地を与えた。然るに彼らはその訓戒をも顧みず、礼拝堂一宇、密教所一宇、僧院一宇を建築し、これをノートルダム、ホルチュウンキュルと称し、1594年(文禄3年)10月14日、初めてミサ教を誦し、爾後日曜日、及び祝祭日には、怠りなくおおっぴらに礼拝した
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960835/36

ゴンザレスは、1594年に秀吉からの第3回目の降伏勧告状を携えてマニラに戻っているが、この内容もすごい。秀吉は中国にまで領土を拡げたら、ルソンはいつでも行ける距離であると脅しているのだ。
「…余は朝鮮の城砦を占領し、その使者を待つために多くのわが軍を派遣せり。彼らにしてもしその言を破るがごときことあらんか。余は親しく軍を率いてこれが討伐に赴くべし。而してシナに渡りたる後はルソンは容易にわが到達し得る範囲内にあり。願わくば互いに永久に互いに親善の関係を保たん。カスティラ(スペイン)王に書を送り、余が旨を知らしむべし。遠隔の地なるの故をもってカスティラ王をして、余が言を軽んぜしむることなかれ。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/71

南蛮屏風に描かれたイエズス会士とフランシスコ会士

ところで、フランシスコ会の宣教師たちは、大阪や長崎でも公然と布教活動を続け、マニラから仲間を呼び寄せ、大阪や長崎で教会堂を建て、信者を急激に増やしていった
一方、『伴天連禁止令』以降、おおっぴらな布教活動ができなくなっていたイエズス会は、フランシスコ会の布教の成功を見て喜べるはずがなかった。
イエズス会は、1585年にローマ法王が発布したフランシスコ会の日本渡航禁止令を持ち出して抗議したようだが、奈良静馬氏の前掲書によると、フランシスコ会は「自分達は宗教伝道者として日本に来たのではない。フィリピン太守の使節としてきたのであると嘯き、依然としてはばかるところなく布教に従事したので、1595年には8千人という多数の者が洗礼を申し出た。」のだそうだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/80

しかし翌年に、再び秀吉を激怒させたとされる事件が起こることになる。
この事件と、秀吉のキリスト教弾圧の事を書き始めるとまた長くなるので、次回に記すことにしたい。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました
良かったら、覗いて見てください。

16世紀以降多くの日本人奴隷が買い漁られた背景には、西洋による東南アジア侵略があります。日本人奴隷は、傭兵としてポルトガル、スペインの外シャムやカンボジアなどで活躍し、非常に重宝されていました。

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html


シャムの山田長政は日本人傭兵隊を率い、元和7年(1621)に二度にわたるスペイン艦隊のアユタヤ侵攻を退けた功績でシャム国王の信任を得ました。傭兵隊の多くは奴隷としてシャムに渡った人々でした。

日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html


オランダは寛永元年(1624)に台湾島を占領し、台南のタイオワンに帰港する外国船にいきなり10%の関税をかけ始めたのだが、朱印船の船長であった浜田弥兵衛は新参者の命令に命懸けで抵抗し勝利しました。

鎖国前の台湾で、新参者のオランダの苛政に抵抗した日本商人の話
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-368.html


江戸幕府の鎖国政策により朱印船貿易は終り、日本船が来なくなったことを好機としてオランダは台湾における貿易の全権を握った。そのオランダに立ち向かったのが、日本人を母に持つ中国人の鄭成功で、鄭成功はゼーランジャ城を包囲して籠城戦で勝利し、オランダ人を台湾から追い払っている。

台湾からオランダを追い出した鄭成功の大和魂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-369.html

【ご参考】
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関連記事

サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人殉教事件を考える

前回の記事で豊臣秀吉が、スペインの植民地であるフィリピンの太守のダスマリナスに対し、3度にわたり降伏勧告状を送ったことを書いた。

フィリピンでは、秀吉の3度目の降伏勧告状に対する返事をどうするかで議論があったようだが、協議の結果このような返事を提出することになったという。

「親和関係の継続は閣下の希望し給うところなるを知り、大いにわが本懐に適えり。なんとなれば閣下もわが国王も共に大なる者なり。よってその親和関係もまた大なり、従ってその結果は互いに大なり。」

そう書いておきながら、キリスト教徒としては、秀吉の臣下になることはどうしても拒絶したい。そこで、次のような表現が必要となってくる。

世界の全ての王が閣下に服従を申し出るとも、わが王およびその臣民がこれに倣うがごときは想像しえざるところなり。…
一度わが全知全能の主の偉大なることを知り給わば、閣下はわれらが全能の主に信頼を置くことの、いかに賢明なるかを了解し給うべし。余は閣下の不興を買わんがためにこの言をなすに非ず。ただ何ゆえにわれらが全知全能のわれらの主なる神およびわれらの最も偉大なるキリスト教王ドン・フィリップ王以外の他の国王、他の威力、他の主に帰順せざるかを知らしめんがために言えるのみ。」

一神教を奉ずる国はそれぞれが「絶対的正義」を掲げ、その正義を実現するために、異教徒世界と戦って勝利し、彼らの奉ずる宗教世界を拡大することを是として、後退することはあり得なかった。したがって、フィリピン太守が異教徒である秀吉の臣下となることを拒絶したのは、一神教的な考え方に立てば極めて当然のことであり、彼らは別に秀吉を挑発する意図を持っていた書いたわけではなかったのである。

昭和17年に奈良静馬氏が著した『西班牙(スペイン)古文書を通じて見たる日本と比律賓(フィリピン)』と言う書物にフィリピン国の返書の全文が出ているが、この本の解説によると秀吉に対して刺激的なところは最後に削られて提出されたのだそうだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/72

秀吉に対する返書が日本に向かう船に託されたすぐ後に、マニラ太守のダスマリナスはスペイン国王に対して軍隊の派遣を要請する手紙(1594/6/23付)を送っている。この全文も同上書に出ている。

メキシコより大部隊の分遣隊を送ることは決定的に重要にして、かつ刻下の喫緊事なれば、メキシコ太守をして至急これが配慮方命令あらせ給え。…もし日本人襲来するも援兵到着せざる場合には、日本軍は長期にわたり大軍を以て攻囲占領し、臣らをして極めて窮迫の状態に陥らしむるに至るべし。…願わくは神の神聖なる栄光の下、神の思召しのままに行動せん。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/77
しかし、メキシコからは、分遣隊が送られることはなかったようだ。

ペドロ・バプチスタ

前回の記事の最後に少しだけ触れたのだが、フィリピンから二度目の使節の一員として派遣されたペドロ・バプチスタらフランシスコ派の宣教師たちが、京都に新しい教会を建てて、1594年の10月から堂々と説教を始めている
秀吉の『伴天連追放令』が出たのは1587年であったが、秀吉は南蛮貿易の実利を重視したので、よほどおおっぴらな布教活動をするのでない限りは、宣教師たちが日本に留まる事を黙認していたという。しかし教会を建てたとなると黙っているわけにはいかなくなる。
彼らに土地を貸した前田玄以*はこのことを秀吉に報告し、その後玄以は、何度もバプチスタらに布教を中止させようとしたのだが、彼らは一向にそれに応じようとしなかった。
宣教師たちは玄以が次第に干渉しなくなったのを見て、秀吉が黙認するに至ったと勝手に解釈し、マニラの本部に要請してさらに三人の宣教師を増員させ、京都だけではなく大阪と長崎にも教会を建てて信者を急激に増やすことに成功している。記録によると1595年には8000人もの日本人が彼らに洗礼を申し出たのだそうだ。
*前田玄以(まえだ げんい):豊臣政権で朝廷との交渉役や寺社の管理などを任された。

年が明けて1596年に、フィリピン太守のダスマリナスが死んで、ドン・フランシスコ・テロ・デ・グズマンが新太守に就任し、新太守は同年の6月12日にメキシコのアカプルコ港にむけて、サン・フェリペ号を出帆させている。ところがこの船は、東シナ海で台風に遭遇して甚大な被害を受けてしまう。船員たちはメインマストを斬り倒し、400個の積荷を放棄して、なんとか土佐の浦戸沖にたどりついた

土佐地図

船長は土佐の長宗我部元親に救助を乞い、土佐の船に曳航されて浦戸港に入ったが、元親は漂流船の積載荷物を没収することは日本の法律に定めてあるとして積荷を没収し、船長の返還要求に応じようとはしなかった。

松田毅一氏の『秀吉の南蛮外交』に、秀吉が土佐に派遣した増田長盛に送った書状が引用されている。それには「彼等スペイン人は海賊であり、ペルー、ノビスパニア(メキシコ)、フィリピン諸島で行ったように、当(日本)国を奪うために測量を行なう目的をもってきたのである。このことは、このころ、都にいた3名のポルトガル人ほか数名が太閤に知らせたことである」という主旨のことが書かれていたらしい。(松田毅一『秀吉の南蛮外交』新人物往来社p.227)

納得できない船長は二人の修道士らに贈り物を持たせて、大阪に向かって秀吉に直接請願させることにしたのだが、この使者たちは大阪でフィリピンから日本に来ているフランシスコ会の宣教師たちに接触して情報を取ろうとしたところ、それが叶わなかったという。しばらく松田毅一氏の著書を引用しよう。

秀吉の南蛮外交

一行はそこで、フランシスコ会の人たちを介して太閤様と交渉してはならぬ、彼らは太閤様の命により、捕えられ、十字架にかけられようとしていると聞かされた。25日(クリスマス)の昼間に、司令官らが多数の兵に護衛されて大阪のフランシスコ会修道院に赴くと、そこではすでにフライ・マルチン・デ・アギルレは、12人の番卒によって監禁されていた。
 以上は『サン・フェリーペ号遭難報告書』が述べている1596年12月25日までの経過である。後日の執筆であるから、多少の誤りはなしとしないが、客観的なその叙述は、まず信用してさしつかえあるまい。」(同上書 p.229)

少し補足すると、『サン・フェリーペ号遭難報告書』はサン・フェリペ号の船長であったマティアス・デ・ランデーチョが記したもので、現在、セビリアのインディアス古文書館に残されている書物である。そしてこの書に書かれている内容は、日本人に広く知られているこの事件の叙述とは随分異なる。

26聖人

通説では、秀吉が派遣した増田長盛がサン・フェリペ号の船長に対し「どうしてスペインはそんなに多くの国々を征服し得たか」と尋ねたところ「まず征服せんと欲する国に宗教伝道者を送り、国民がキリスト教に傾いた頃を見計らって今度は軍隊を送り、新しいキリスト教徒をしてこれに援助させるから容易なのだ」と答え、驚いた増田長盛は秀吉に報告したところ、秀吉はそれを聞いて激怒し、バプチスタらフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して磔の刑に処するよう命じ、合計26人が長崎で磔の刑に処された、というストーリーなのだが、このようなサン・フェリペ号の船長の発言があったという記録は日本側には史料が存在せず、イエズス会がそう主張していたことのようだ。

秀吉が激怒した原因が、サン・フェリペ号船長が放言した内容を増田長盛が伝えた結果であるのか、「都にいた3名のポルトガル人ほか数名」が太閤に讒言した内容によるのか、その違いは重大である。前者の場合は26人のキリスト教徒の処刑に関して、ポルトガル人らの関与はなかったことになるが、後者の場合は、26人のキリスト教徒の処刑が決定した理由はポルトガル人らの讒言があって、秀吉がサン・フェリペ号の荷物の没収とスペイン人宣教師らの処刑を決めたということになるのだ

では、「都にいた3名のポルトガル人ほか数名」とは誰であったのか。松田毅一氏は前掲書の中で、断定することは難しいとしながらも、当時都にいたポルトガル人として秀吉と親交のあったジョアン・ロドリゲス、イタリア人のオルガンチーノらの名前を挙げておられるが、いずれもイエズス会である。

同じカトリックの宣教師とは言え、イエズス会フランシスコ会は相当仲が悪かったことを理解する必要がある
そもそもわが国のキリスト教布教はザビエル以降イエズス会が独占していたのだが、秀吉の『伴天連追放令』の発布後、積極的な布教活動ができなくなった矢先に、フィリピンからスペイン系のフランシスコ会修道士が渡来し、おおっぴらに布教活動を開始したことに、イエズス会は強い不快感を抱いていたらしいのだ。
松田氏が指摘されているが、ロドリゲスとオルガンチーノは、フランシスコ会が日本に渡来することに反対していた人物なのである。
長崎で処刑された26人を調べると、20人が日本人で、残りの6人はいずれもフィリピンから送られたフランシスコ会の司祭や修道士であることは、もっと注目して良いだろう。
「日本二十六聖人殉教」事件はイエズス会が、わが国におけるフランシスコ会勢力を弱めるために仕掛けたのではないだろうか

26seijin.jpg

ところで、26人のキリスト教徒の処刑の第一報がフィリピンに届いたのは1597年の5月のことであったという。
この時のフィリピンの反応が奈良氏の著書に記されている。

「住民はこの報道を受け取って悲歎に沈むとともに、秀吉を無道者として大いに憤った。サン・フィリップ号およびその積荷貨物は価格百万ペソと見積もられた。フィリピンに帰った船員は日本に於けるポルトガル人は、スペイン人が日本から放逐されることを希望して、彼らになん等の援助も与えなかったと憤慨して語り、また日本に於けるイエズス会宣教師が彼らに対して冷淡であったことを訴えた。またある者は秀吉をして、フランシスコ会司祭らを処刑せんとする決心を固まらしめた原因は、イエズス会の宣教師がことさらにフランシスコ会の宣教師を悪しざまに伝えたためであると言った。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/84

スペイン人が、イエズス会の事をこのように書いていることは非常に興味深い。
通史などでは、秀吉がキリスト教徒を迫害したというニュアンスで記されているのだが、秀吉をそこまで激怒させたのが、フランシスコ会宣教師を日本から追い出そうとしたイエズス会の工作活動にあったということになると、イエズス会も「日本二十六聖人殉教」に深く関与したことになるのだが、その可能性は決して低くないのである。
西欧には、「サン・フェリペ号事件」と「日本二十六聖人殉教事件」に関する膨大な史料があるそうだが、それらのすべてがポルトガルかスペイン、イエズス会かフランシスコ会かのいずれかの側に立っているという。
わが国では、主にイエズス会・ポルトガルの立場で書かれた資料をもとに叙述されているようなのだが、松田毅一氏の主張しておられるとおり、この事件については西欧側の史料だけでなく第三者である日本側の史料とも比較して、個々の動かし難い事実を明らかにしていく作業が必要なのだと思う。

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シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか
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押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか
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豊臣秀吉が死んだ後の2年間に家康や三成らはどう動いたのか

いつの時代でもどこの国でも、最高権力者が死んだ後は直ちに激しい権力争いとなることが多いのだが、豊臣秀吉が死んでしばらくの間大きな争い事がなかったとはいえ、水面下ではかなりの駆引きがあったはずである。

一般的な高校教科書である『もういちど読む 山川日本史』には、
「秀吉の死後、その子秀頼は幼少で、家康がしだいに実権を握るようになった。そのため、秀吉の恩をうけた五奉行の一人石田三成は、小西行長らとはかって家康をしりぞけようと兵をおこしたが、家康は1600(慶長5)年、美濃の関ヶ原の戦いでこれを破った。」(『もういちど読む 山川日本史』p.150)と簡単に記されているのだが、秀吉の死から関ヶ原までの2年数か月のことをもう少し詳しく記している本を探してみた。

近世日本国民史家康時代 上巻

国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に、徳富蘇峰の『近世日本国民史家康時代 上巻』が公開されている。蘇峰は秀吉を取り巻く諸将の関係について、こう解説している。
秀吉自らが、織田氏の諸将の不統一を利用したのみでなく、その統一を攪乱せしめて、更にこれを利用した。家康はただ秀吉の故智を襲いたるまでだ。…
如何なる場合にも、党派は発生するものだ。殊に秀吉の天下は、にわかに製造したものであったから、なおさら党派が生じやすかった。しかも秀吉の生存中は、如何なる党派も、秀吉という一大看板、一大勢力のもとに掩(おお)われていたが、一たび秀吉去れば、あたかも雪融けて、群草萌え生じる如く、あらゆる徒党が発生した。…
徳川党とか、前田党とか、その個人的勢力を基本とする以外に、秀吉の治下には概して文吏党と武将党とがあった。文吏党といえば、五奉行を中心とする党派だ。武将党といえば、非五奉行を旗幟とする党派だ。しかし誤解するなかれ、文吏党と言うたとて、必ずしも文弱党ではなく、武将党と言うたとて、必ずしも武愚党ではない。双方にも文武の名将は少なからずいた。而して文吏党は、淀殿に近く、武将党は、北政所に近く、その結果は更にまた、正室党と側室党とを生ずるに至った。
秀吉は萬機を親(みずか)らした。五奉行は、その秘書官が、然らざれば秘書官の毛の生えたものに過ぎなかった。しかも天下の政務は、五奉行をとおして行われた。殆んどすべての利権はここに集まった。利権の集まる所は権力の集まるところだ。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/37

五奉行とは浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以の5名を指し、浅野、石田、増田の3名が一般政務の処理に当たり、長束が財務、前田が御所・朝廷・公家・寺社といった特別部門を担当していたとされる。

五奉行中にて、最も秀吉に近きは、言うまでもなく浅野長政だ。彼は秀吉と尾州以来の関係で、しかも北政所と義理上の兄妹だ。彼が如何に他人の企て及ぶべからざる特殊の位置を占めつつあったかは、以て知るべしだ。しかるに、五奉行中少なくとも石田は、彼の下風に立つを、いさぎよしとしなかった。而して増田は概して石田と提携し、互いに比周して、以て浅野に対抗した。ここに於いて五奉行中に、浅野派と石田派との両派が自然に対立した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/39

前田利家

では武将党はどうであったか。
武将党の首領は…前田利家であった。彼は、秀吉夫婦は、微賎時代からの友人であれば、彼は北政所と良好の関係であったことは勿論のことだ。しかのみならず、利家は石田、増田等に対して、頗(すこぶ)る不快を感じていた。…
武将派と文吏派との確執は、朝鮮役において、いな朝鮮役のために、一層の刺戟を与え来たった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/42

一方徳川家康は諸将間の対立のなかで、当初は中立の立場を取り、特定の党派に加担することなく、またいずれかの党派からも輿に担がれることを許さなかったという。

豊臣秀次

そして文禄2年(1593)に豊臣秀吉に秀頼が誕生し、その2年後の文禄4年(1595)に、関白・豊臣秀次が謀反の疑いで粛清される事件が起こっている。
秀次に謀反の意志があると報告したのは、奉行衆の石田三成、増田長盛、前田玄以らであったとされるが、その時秀次は謀反の意志がない旨の誓紙を提出している。しかし秀吉はそれでは納得せず、秀次は高野山に送られて切腹を命じられ側近と共に自害させられたのだが、後に秀次の眷属までもが斬首されたという。
この事件の原因については諸説があるが、秀吉が秀頼を後継者とするために、秀次の一族を粛清しようとしたとする説が一番すっきり理解できる。
石田三成らはこの事件の後に加増されたのだが、一方で多くの敵を作ることとなり、そのような大名達をのちに徳川家康が取りこんでいくことになるのだ。
http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/juraku/ziken.htm

この秀次事件の後の政治危機を克服するために、秀吉は、有力大名が連署する形で「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条を発令して政権の安定を図ろうとした。
その内容は大名間の無届婚姻・誓紙の交換停止などであったが、この連署を行なった六人の有力大名(徳川家康前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元・小早川隆景)が、豊臣政権における「大老」であると、後世みなされることになる。

そして慶長3年(1598)の5月頃から秀吉は病に伏せるようになり、5月15日には『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』という名で、徳川家康前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以・長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、これを受けた彼らは起請文を書きそれに血判を付けて返答した。また、7月4日に伏見城に諸大名を呼び寄せて、徳川家康に対して子の秀頼の後見人になるようにと依頼し、そして8月18日に秀吉はその生涯を終えている

石田三成

石田三成ら文吏党にとって秀吉の死がどのような意味を持っていたかについて、徳富蘇峰の解説を引用しておく。
「…文吏党から見れば、秀吉の生存中こそ、秀吉という巨頭を戴き、ローラーを転ずる如く、一切の障碍を排除して進むを得たが、秀吉を喪った以後は、これを個人的に打算しても、これを総体的に打算しても、家康、利家の力に敵すべくもあらぬ。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/46

太閤の遺命により朝鮮に出兵した軍隊が引き揚げを終えるまで、喪を極秘にすることになっていたという。

「…慶長3年8月18日に於ける、秀吉の死は、一時家康等に対してさえも、喪を秘した。而してその表向きの発表は、在朝鮮の諸将の帰朝後で、慶長4年2月29日に、初めて正式の葬儀を行なった。しかもそれは表向きのことで、秀吉の遺命を受けたる執政者は、何れも左の通りなる、誓詞の連判をした。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/48

秘密であったはずの秀吉の死を誰が家康に知らせたかというと、意外なことに、石田三成が家臣の八十島道與に秀吉の死を密告させたようだ。三成は、重要情報をいちはやく家康に知らせることで恩を売ろうとしたと理解するしかないだろう。

秀吉は五大老と五奉行の合議制で幼い秀頼を支えることを望んでいたのだが、それぞれが「誓紙」の連判を押したところで、「誓った」相手である秀吉はもうすでにこの世にはいない
そもそも家康は、秀吉の遺命に従って秀頼の後見役に収まるような人物ではなかった。
秀吉の死後、家康は掟を破って秀吉恩顧の大名の露骨な取り込を始めている
徳富蘇峰はこう記している。
「彼は秀吉の御法度を無視して、恣(ほしいまま)に伊達政宗の女(むすめ)を、その第6子忠輝に娶り、姪松平康成の女(むすめ)を養い、福島正則の子正之に帰し、その外曾孫たる小笠原秀政の女(むすめ)を養いて、蜂須賀家政の子至鎮(のりしげ)に配すべく約束した。
『諸大名縁組の儀、御意を以て、相定むべきこと』とは文禄4年8月2日付、家康、利家等の名にて、天下に発布せられた秀吉の法度である。而して秀吉百歳の後も、之を遵守すべきは、慶長3年8月5日の家康等の誓紙によりて、保障せられたものである。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/54

当然の事ながらこのような家康の動きを警戒して慶長4年(1559)1月19日に家康を詰問している。
その際の家康の対応が興味深い。
「…家康は、已(すで)に媒酌人よりその旨を届け出で、公許を得たものであろうと速了したと答えた。ここに於いて奉行等は、徳川・伊達結婚の仲介者、今井宗薫を召して糺問したが、自分は町人で、武家の法度などは存ぜぬと申し訳した。政宗は、宗薫の才覚にて、予は関知せずと言うた。福島正則は『我等儀太閤御爪の端にて候う間、内府公*と縁辺取組、万端御意を得候はば、以来秀頼公御為にも然るべき儀と存じ、かくの如くに候なり。』と答えた。[関原記]蜂須賀は、家康より仰せ掛けられたから、それに応じたまでの事と答えた。かくの如く三将分疏、ついにその要領を得なかった。」
*内府公:家康のこと
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/54

徳川家康

家康を五大老から除名すべきだとする議論が他の大老や奉行等から起るのだが、それに対し家康は謝罪するどころかこう逆襲したという。
「…予が婚約を告げずして結んだのは、手落ちであったにせよ、これを以て予に逆心ありとするは、誰を証人としての弾劾か。またこれを理由として、予を十人衆―即ち五大老・五奉行―より除くべしとは、これ秀頼公を補佐せしめんとの、太閤の遺命に背反するではないかと。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/56

このような家康の動きに対して前田利家は家康との一戦を覚悟し、双方兵を集めたのだが、調停が入って最悪の事態は回避できたものの、この時すでに池田輝政、福島正則、黒田如水、黒田長政、藤堂高虎等、豊臣系の大名の多くが家康側に集まったという。

しばらくして前田利家は病に伏すこととなり、家康が利家を見舞うために大坂を訪れ、家康はその夜、藤堂高虎の屋敷に宿泊したという。三成はこのタイミングで家康を襲撃する計画を立てていたが、家康の元には三成らと対立する武将が集まっており、夜襲を思いとどまったという。
http://hirohabe.cocolog-nifty.com/tiger/2014/12/17309-3d22.html
慶長4年(1599)閏3月3日に前田利家は63歳でこの世を去ると、今度は福島政則・藤堂高虎・黒田長政・加藤清正・浅野幸長らの七人が石田三成襲撃を企て、大坂で決起した。
三成はこの企てを察知して大坂を脱出し、家康のいる伏見城に身を投じている。
家康は七将を宥め、10日には三成を居城の佐和山へ謹慎を申し渡している。

伏見城

利家と三成がいなくなれば、伏見も大坂もいよいよ徳川家康の一人舞台となる。
「而して石田ありてこそ奉行であったが、石田去って後の奉行等は、まことに腑甲斐(ふがい)なきものであった。彼らは唯だ家康のために駆使鞭撻せらるる吏僚に過ぎなかった
権現様、向島へ御移りなされ候うてから、ご威光弥増し、毛利、島津、景勝、佐竹、その他縁引きにて申込、毎日大名衆、御礼に参られ候う。[酒井河内守日記]
向島移転、かくの如し。いわんや伏見城に入りたる後においてをや。世人が家康を称して、天下殿と言うたのも、決して偶然ではない。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/75

その後上杉景勝、前田利家を引き継いだ前田利長、毛利輝元らが帰国して五大老制は崩れ、名実ともに家康の独断専行に移行していく。
北政所が大坂城西の丸を出て京都に移ると、西の丸を自分の居所として居座り、今度は五奉行の実力者であった大野治長と浅野長政を謀反の疑いで排除するなどやりたい放題だ。

家康は、大老の筆頭として豊臣政権の政務を執行するのだが、その権限を用いて政敵を追い落とし、屈服させては恩を売るなどして、将来の覇権確立に向けて着々と準備を進めていったのである。
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【ご参考】
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日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-373.html

フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-374.html

サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人殉教事件を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-375.html

わが国を武力征服しようとしたスペイン宣教師の戦略を阻んだ要因は何か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-377.html

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戦国時代に多くの農民が大名の軍隊に加わった理由

学生時代に、応仁の乱ののち下剋上の風潮が生まれて、諸国には実力によって領地を支配する大名が次々と生まれて互いに争う時代になったと学んだのだが、なぜこのような戦争を繰り返す世の中になったのかが良く分からなかった。戦国時代の軍隊の大多数は足軽で、彼らのほとんどは農民で戦争のたびごとに駆りだされていたというのだが、農業という重要な仕事を持ちながら、多くの農民が戦いに参加したのはなぜなのか。

小説やドラマでは戦国時代を戦国大名の領土拡張戦のようにとらえ、歴史書も大名にスポットを当ててこの時代を描いているのがほとんどなのだが、そのような叙述が戦国時代の実態を伝えているわけではないと、最近では考えるようになった。

雑兵たちの戦場

以前このブログで紹介したが、立教大学名誉教授藤木久志氏が著した『雑兵たちの戦場』にこう記されている。

凶作と飢饉のあいついだ戦国の世、懸命に耕しても食えない人々は傭兵になって戦場へ行った。戦場に行って、わずかな食物や家財や男女を奪い、そのささやかな稼ぎで、なんとか冬を生き抜こう。そんな雑兵たちにとって、飢えに見舞われる冬から夏の端境期の戦争は、たったひとつのせつない稼ぎ場であった。そこには、村にいても食えない二、三男坊もゴロツキも悪党も、山賊海賊や商人たちも殺到して、活躍した。戦場にくり広げられた濫妨狼藉、つまり掠奪・暴行というのは『食うための戦争』でもあったようだ。」(『雑兵たちの戦場』p.7)

「雑兵(ぞうひょう)」というのは武士に奉公する「足軽」や、足軽より身分が低く戦場で馬をひいたり槍を持つ「下人」や、村々から駆り出されて物を運ぶ「百姓」などの総称で、戦国大名の軍隊は、騎馬姿の武士はせいぜい1割程度で、残りの9割は「雑兵」であったという。
雑兵たちは、懸命に戦っても恩賞があるわけではない。彼らを軍隊につなぎとめて作戦に利用しようとすれば、ある程度の掠奪や暴行を許容する武将が多かったという。

引用した藤木氏の文章の冒頭に「凶作と飢饉のあいついだ戦国の世」とあるが、この部分はこの時代を読み解くのに重要な部分だと考えている。

日本気象予報士会東京支部長の田家康氏の『【異常気象】小氷河期が戦乱を生んだ』という論文がネットで公開されている。ここにはこう記されている。

一四二〇年代から、冷夏・長雨による飢饉の記録が増えてくる。室町時代前期にあたる一三三〇年代から一四二〇年までの約九〇年間で冷害・長雨に由来する全国的な飢饉は一三五六年、一三九〇年、一四〇六年の三回しか起きなかったのに対し、シュペーラー極小期に相当する一四二〇年代から一五三〇年代の約一一〇年間で一一回発生している(表1)。日本の農業の歴史を振り返ると、灌漑設備や水利管理の充実によって干ばつ対策は進んできた。しかし、冷害には脆弱であり、この課題は今日でも引きずっている。」
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1822?page=4

東南アジアの夏の平均気温推移

シュペーラー極小期」というのは15世紀から16世紀にかけて太陽活動が低下した時期のことで、太陽活動が活発であったかどうかは古木の年輪に含まれる放射性炭素C14の測定値で分かるのだという。

シュペーラー極小期」の始期と終期については諸説があり、Wikipediaでは「1420年頃~1570年頃(1450年頃~1550年頃とも)」と書かれている。
太陽活動が低下すると穀物等の収穫量が減少し餓死者が増大することになるのだが、わが国における「シュペーラー極小期」は応仁の乱から戦国時代にかけての時代を含んでおり、この時代に各地で飢饉が発生し、土一揆が起ったり隣国同士が戦うなど、争いごとが頻発していた時期であることが容易に確認できる。

広域の飢饉発生年とその要因

飢饉の原因となるのは太陽活動の低下(冷夏)ばかりではない。干ばつもあれば大雨による洪水もあり、虫害もその原因となりうる。
たとえば天文8年(1539)に発生した大雨・洪水とイナゴの大量発生、さらに翌年の春には再び大雨・洪水が発生して食糧不足となって各地で餓死者が続出し、疫病も流行して多くの死者が出たという。

Wikipediaには、この「天文の飢饉」についてこう解説されている。
「醍醐寺理性院にいた僧侶厳助の日記『厳助往年記』によれば、京都では上京下京合わせて毎日60人ほどの遺体が遺棄されていたことや誓願寺にて非人施行が行われたことなどが記され、『七百年来の飢饉』『都鄙で数千万人の死者』と評している。数千万の死者は過大であるとしても、当時の社会に与えた影響の大きさを物語っている。
当時は戦国時代の最中で朝廷も室町幕府も飢饉の救済にあたるだけの政治的・財政的な措置を取ることが困難であった。そのため、朝廷では写経を実施し、幕府は北野社や東寺にて施餓鬼会などの祈祷を行わせる命令を出して、飢饉の対策とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%96%87%E3%81%AE%E9%A3%A2%E9%A5%89

いつの時代もどこの国でも、天候異変などで食糧が絶対的に不足した時には多くの餓死者が出るだけでなく、生き残るために食糧や財貨などを奪い取る争いが起こってもおかしくないだろう。
わが国において、この時代に「濫妨狼藉」が各地で何度も発生しているのだが、先ほど紹介した田家康氏の論文には、このように解説されている。

「一六世紀後半になると再び気温が大きく低下した。上杉謙信の関東出兵は一五六〇年から一五七四年にかけて一二回を数えたが、このうち八回は秋から冬に出陣し関東平野で越冬している。収穫期を狙ったもので、越後から連れてきた人馬の食糧確保が大きな目的であった。城を攻め落とすと戦場で人身売買も行われた。武田信玄も飢饉発生の直後に南信濃、北信濃への遠征を行っている。『甲陽軍鑑』には、侵略した地域での「乱取り」(掠奪)の状況が描かれている。
 西日本でも同様であった。一五七八年から一五八六年にかけての薩摩軍の豊後侵攻を目撃したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、この国の戦争はいつも「小麦や米や大麦を奪うためのものだ」と語っている。町や村を破壊して財貨は略奪され、「苅田」により農作物が刈り取られる光景に驚きを隠さなかった。
 室町時代後期から安土桃山時代の間、武力を用いて自力救済をはかるという発想は、日本全国で支配者層から農民・流民に至るまで満ち満ちていた。天下を統一した豊臣秀吉は、この高ぶるエネルギーの鎮圧を目指した
。」
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1822?page=5

甲陽軍鑑

武田軍が信州に攻め込み、大門峠を越えて敵地に入り、ここで7日間の休養が告げられて陣中の者が喜び勇んで「乱取り」した状況が甲斐・武田家の軍書『甲陽軍鑑』に記されている。『甲陽軍鑑』は、国立国会図書館デジタルコレクションで読み下し文が公開されているので該当部分は誰でもネットで読むことが可能だが、ちょっと読みづらい。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240963/95

要するに武田軍の雑兵たちは一帯の民家を襲って「乱取り」を働き、田畑の作物を奪う「苅田」に熱中し、初めの3日間で近辺を荒らし回ると、4日目からは遠出をして朝早く陣を出て夕方に陣に戻るという大がかりな乱取りを始めたのである。
しかし武田軍の三人の侍大将の夢枕に諏訪明神の使いという山伏が現われて、「乱取り無用」という信託を告げ、侍大将達は以降「乱取り禁止」を命じたので、それ以降信濃の人々は被害を免れたと書かれている。

このような「乱取り」は信州だけでなく全国各地で起こっている。たとえば、九州に関して藤木久志氏は前掲書にこのような事例を挙げている。
「(島津家家老の上井覚兼は)…天正10年(1582)末、肥前で有馬氏を助けて、龍造寺の千々岩城を攻め落としたときの戦果報告を、『敵二、三百討ち捕る』『執る人などは数を知らず』『分捕りあまた』と書き留めていた。
 その時の島津軍の動きを(イエズス会宣教師の)フロイスも同じように記していた。『彼らは大勢の敵兵を殺し、捕虜にし、その地を蹂躙し掠奪した。だが山頂にいた指揮官と若干の兵士たちは(早く)戦利品をもって帰りたいと野望するのあまり、(敵を)思う存分に撃破するに必要な一両日を待ちきれず、最良(の獲物である城)を放棄したまま…目標を達することもなしに、引き揚げてしまった。』と」(『雑兵たちの戦場』p.16)

このような記録を読むと、雑兵たちの中には、戦いに勝つことよりも戦利品を持ちかえることの方を優先していた掠奪集団が少なからずいたことが見えてくる。

では、彼らがどのようなものを戦利品にしていたかというと、食糧以外にも武具や財貨や家財や牛馬のほか人間も対象にされていた記録が各地に残されている。人間を拉致したのは、自分の召使いにしたり、身代金を獲ることが主な目的で、女子供が狙われることが多かったようだ。

また九州では、以前このブログでも書いたように、島原半島に人身売買の市場が存在し、そこから東南アジアやヨーロッパ、南米に送られていたことを知らねばならない。特に東南アジアでは日本人男子は傭兵として高く評価され、ポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが多数の日本人を購入していたこの時代の記録が多数残されているのだ。

しかしながら「シュペーラー極小期」は終りを告げて、穀物の収穫も改善の兆しが出てきた。にもかかわらず濫妨狼藉が続いて、これをいつまでも放置していれば人々は安心して生きていけないし、争いが続いて国力が衰えていくことは誰でもわかる。当時のポルトガルやスペインはわが国を植民地化することを虎視眈々と狙っていたので、国を守るためにはこのようなつまらぬ争いを誰かが止めなければならなかった。

豊臣秀吉

豊臣秀吉は天正15年(1587)頃、武器の使用による村の紛争の解決を全国的に禁止し(喧嘩停止令)、さらに『伴天連追放令』を出して海外に日本人を売ることを禁止している。(『天正十五年六月十八日付覚』)
また天正16年(1588)に『刀狩令』を出して農民の帯刀を禁止して没収し、天正18年(1590)には『浪人停止令』で、農村内の武家に仕える定まった奉公人以外の雑兵農民を禁止し村から追い出す指令を出し、その第3条で奉公人以外の百姓から武装を取り上げるように指示している


わが国を統一してしかるべき地位に就いた者しか為し得ないことを、豊臣秀吉が適切に実施したことで、誰もが安心して暮らせる社会を実現させる道を開いたことはもっと高く評価して良いと思う。

大坂夏の陣図屏風

しかしながら、秀吉の出した一連の命令で濫妨狼藉が完全に消滅したわけではなかったようだ。
大阪城に展示されている『大坂夏の陣図屏風』の左半分には徳川軍の雑兵が大阪城下の民衆に襲いかかる現場が描かれている。戦いのどさくさで他人の財物を奪うことの味を占めた者を矯正することは、いつの時代もどこの国でも容易ではなさそうである。

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農民たちが帯刀していた時代と秀吉の刀狩令

前回の記事で、凶作と飢饉が相次いだ戦国時代に、農民たちは「足軽」として雇われて戦場に行き、戦場では掠奪暴行を働いてそれを稼ぎとしていたことを書いた。

真如堂縁起絵巻

このブログで何度か紹介した『真如堂縁起絵巻』には戦場で稼ぐ足軽たちが描かれているが、この絵巻のほかにも、彼らが武器を用いて寺社だけでなく村の人々を脅して食糧や家財などを奪い取っていたことが数多く記録されている。当然の事ながら、何度かこのような被害を受けた側は、武器を持って自衛することを考えざるを得なくなるだろう。16世紀には農民といえども普通に帯刀していたことは、当時の記録などで確認できる。

刀狩り

藤木久志氏の『刀狩り』に、イエズス会の宣教師として来日していたルイス・フロイスの『日本史』の一節が紹介されている。

「日本では、今日までの習慣として、農民を初めとしてすべての者が、ある年齢に達すると、大刀(エスパーダ)と小刀(アガダ)を帯びることになっており、彼らはこれを刀と脇差と呼んでいる。彼らは、不断の果てしない戦争と反乱の中に生きる者のように、種々の武器を所有することを、すこぶる重んじている。」(藤木久志『刀狩り』(岩波新書)p.8)
フロイスによると、男たちは耕作にはあまり熱心ではなかったが、年少の頃から大小の刀を帯び、眠る時だけ枕元に置いたという。

またWikipediaにはこう解説されている。
16世紀には、近畿や関東で庶民にも15歳の成人祝いを『刀指』と呼んで脇差を帯びる事が習俗となっていた。戦国時代の村では『おとな百姓』の家は村の3分の1に上る場合もあるが、名字もあり帯刀する別の階級で農業は他の『小百姓』に任せて、たえず戦争に参加し落ち武者狩りも行っていた。関東でも後北条氏の動員令でも、弓、槍、鉄砲は自弁で、村の武装は参戦可能で当然としている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E7%8B%A9

上記の解説にある後北条氏の動員令の事例が、藤木久志氏の『刀狩り』にもう少し詳しく書かれている。
「村人をにわかに民兵として動員しようとした時、関東の戦国大名北条氏は『民兵として出陣するのは、侍(上層の村人)でも凡下(一般の村人)でもいい。自分で用意する武器は、弓・鑓(やり)・鉄砲の三種のうちなら、どれでもいい』とか『百姓はもとより、町人・商人・職人までも、弓・鑓・鉄砲・小旗などを支度して参陣してほしい』などと呼びかけていた。民兵には弓・鑓・鉄砲のうち、どれかの自弁をとくに重視していた。戦国関東の村には、弓も鑓も鉄砲も自弁できるだけの用意がある、とみられていたことになる
 国の危機が迫ると、北条氏は、村に住む十五歳から七十歳までの成人男子を、根こそぎで徴兵検査に出頭させようとした。そのとき、大名は、『弓・鑓を持てないような男は、鍬・鎌でもいい』とか、『弓・鑓を持たないものは、鎌を持って』とか『道具を持たぬ者は、棒をもって』といい、さらには『得道具(武器)のない者は手ぶらでもいい』とまでいって、徴兵検査には成人の男子がこぞって出頭するよう、けんめいに呼びかけていた。村や町の人々が持つ武器は、弓・鑓・鉄砲から、鍬・鎌・棒まで、おそらく階層によって、じつに多様であった。それだけ多彩な、しかも、戦闘にも使えるほどの武器が、村や町には日常的に蓄えられていた
 一方で目を引くのは、これら村にあてた大名の徴兵検査令はどれも、村人の装備に強い関心を示しながら、村人に刀や脇差で武装せよとは、まったく要求していない、という事実である。それらを身につけるのは当然とみて、ただ『腰さしの類のひらひら、武者めくように』と、その見てくれだけを気にしていた。武者の刀と百姓の刀は見かけが違うから、なんとか武者風に、というのであろう。」(同上書 p.28~29)

このように戦国時代の農民たちは帯刀しているのが普通で、中には高価な鑓や鉄砲などを持っていた者もいたのだが、おそらくこれらの武器は、落ち武者狩りや、そのあとで開かれる日市などで安く手に入れたものが大半ではなかったか。

椎葉村

国立国会図書館デジタルコレクションに昭和6年に出版された柳田国男の『日本農民史』が公開されている。日向の山奥にある椎葉村*(しいばそん)の戦国時代の様子が描かれているので紹介したい。文中の「サムライ」は名字もあり刀を指す、おとな百姓を意味している。椎葉村には、おとな百姓たちの家は3分の1ほどあったという。
*椎葉村:宮崎県内陸部の九州山地、耳川上流部の源流域に位置する村。日本三大秘境の一つ。

日本農民史

戦国時代に入って戦争が忙しく、サムライは傍ら農業を営む余裕が無く、また分捕り高名の方が楽で面白くて利益が多かったので、耕作は老幼婦女と下人の最も貧弱なる者に一任し、自分等は武器を執って、常に近傍の攻め取っても差し支えない者の領分を侵略することばかり心掛けた。彼らの上に戴く総領主の実力が、一々彼らを統制することが出来なくなると、この種無名の小さな戦争が愈々(いよいよ)多くなった。今日伝わっている多くの合戦記、関東地方で言えば関東古戦録の類、または…続群書類従の合戦部にあるような地方史に、野武士という無茶者の出て来るのは、即ち農を怠り武道に専らになった地士(じざむらい)のことで、彼らは概して名分に疎く、通例は大戦の後などに、負けて落ち行く者を苦しめて、首を取ったりした。言わば追いはぎを兼業したようなものであった。…此の如き連中までも勘定に入れると、足利時代の末頃には、実は非常なる武士の数であった。それが何れも居村に還ればトノサマと呼ばれ、それ程ではなくとも一領の主であった。但し、彼らの生活は至って質素なものであった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1181083/44

ここには、教科書や通史をいくら読んでも見えてこない戦国時代の本質が、わかりやすく描かれている。この時代については時代小説や映画などのイメージが強烈で、どうしても戦国大名同士の争いにばかり着目してしまうところなのだが、大名が一切関与していない世界で近傍の村同士が分捕り合戦を繰り返すような小さな争いごとが、あちこちで発生していた時代であったようなのだ。
また、この時代に各地で起った百姓一揆や一向一揆には、彼らの持つ大量の武器を用いて暴動を起こしていたことを知らないと、本質を見誤ってしまうことになる。

相手の物を奪い取る意思を持つ人間同士が武器を持って争う戦いや、武力を背景に自らの要求を押し通そうとする動きに対して為政者側が抜本的対策をとらないでいると、より武力を強化しながらエスカレートしていくことになる。
このような勢力を抑え込むためには、より強力な武力を背景にして、相手の武器を没収するなどして無力化させることがどこかで必要となるはずだが、戦国時代は大名同士が戦っていてそれぞれが大量の足軽を必要としていたので、自国の一国だけで実施しても自国の軍事力を弱めてしまうことになるだけだ。誰かが全国一斉に武士以外の武器の利用を統制することが必要だったのだが、それを成し遂げるためには全国統一の目途がたてることがまず必要で、それを成し遂げたのが豊臣秀吉であることは言うまでもない。

刀狩令

秀吉の刀狩令は天正十六年(1588)七月に出され、北は北陸の加賀前田家から南は九州の薩摩島津家まで、当時の秀吉の勢力圏ほぼ全域に令書の原本や写しなど約20点ほどが今に伝えられているという。

Wikipediaに、その内容が紹介されているが、教科書などで紹介されているのはこの部分である。
「第1条 百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰する
第2条 取り上げた武器は、今つくっている方広寺の大仏の釘や、鎹(かすがい)にする。そうすれば、百姓はあの世まで救われる。
第3条 百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E7%8B%A9

この刀狩令は大名や領主に対して出されたものであるが、原文には第1条のあとに、なぜ百姓の武装を禁止するのか、大名らにその必要な理由を説得している部分がある。藤木久志氏の前掲書に現代語訳で紹介されている。
諸国の百姓たちがよけいな武具をたくわえて、年貢を納めるのを渋ったり、一揆を企てたり、領主たちに向かって不法をたくらむ。そんな百姓はもちろん秀吉が成敗(処刑)する。それにしても、百姓たちが武具をもてば、つい田畠を作るのを怠けるようになって、それだけ領主の取り分(知行)が減ることになる。それでは困るだろう。だから、そうならないよう、大名(国主)や領主(給人)や秀吉領の役人(代官)は、それぞれ責任をもって、百姓たちから武具をすべて没収して、秀吉のもとへ進上せよ。」(同上書 p.40)

この刀狩令は、大名・領主にとってはともかくとして、農民にとっては自衛のための武装権が奪われて、村の防衛については大名や領主を信頼して委ねることを意味し、武器を使って何度も掠奪行為などを繰り返してきた者に対しては、稼ぎの手段を奪われることでもある。天正10年(1582)や天正12年(1584)には各地で飢饉が発生した記録があり、武器を奪われることに関して農民側の抵抗はかなりあったはずなのだが、実態はどうであったのか。

徳富蘇峰

徳富蘇峰は『近世日本国民史』で、秀吉の刀狩令を以下のように高く評価している。
「…天下の百姓は、何時でも土匪(どひ)となり、強賊(ごうぞく)となる便宜を持っていた。この弊風が一掃せられたのは、もとより鉄砲の流行が、その重(おも)なる原因の一であったに相違ない。されど秀吉の刀狩りも、またあずかりて力ありだ。
 刀狩は単に百姓、町人より武器を取り上ぐるのみでなく、彼らをして、野武士の気分を蝉蛻*(せんぜい)せしめ、純乎(じゅんこ)**たる農夫の気分たらしめた。すなわちこれがために、城下に集まり、食禄を得て、ひたすら戦争の業に従う武士と、地方に散在して、農業に従う百姓と、截然(せつぜん)区別せられてきた。すなわち秀吉の所謂(いわゆ)る『諸奉公人は、面々恩給をもってその役を勤むべし。百姓は田畠開作を専らにつかまつるべき事』との、両者の分業を画定(かくてい)した、法規となった。徳川幕府は、要するに秀吉のこの遺制を拡充し、徹底せしめたにほかならぬ。

およそ秀吉の平和促進運動中、未だかくの如き痛快に、かくの如き有効なるものはなかった。惟(おも)うに秀吉は、信長に負うた債務を、利息を付けて、家康に弁済した。秀吉が信長に負う所あるが如く、家康の秀吉に負う所は、尚より多大であった。徳川幕府は、一から十迄、ほとんど秀吉の踏襲者たるに過ぎなかった。」
*蝉蛻:外形のみで中身のないこと。迷いから覚め悟りの境地に達すること。
**純乎:全く混じりけのないさま

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960831/32

ルイスフロイス像

ルイス・フロイスの記録によると、秀吉はキリシタンの叛乱を警戒して九州地区では厳しく武器を没収していたと記されているようだ。
藤木久志氏の『刀狩り』に、フロイスの『日本史』の記述が紹介されている。
「①暴君関白(秀吉)は、かねてよりこうした(叛乱の)恐れを抱いていたので、彼は長崎の住民からだけではなく、下(シモ:九州)の全地方の兵士以外の全員から、武器を接収するように命じた。そのために、おびただしい数の役人を投入して、その実行に当たらせ、皆の者が一つも隠すことなく、あるだけの武器を差し出すように、また、それを拒む者は、磔(はりつけ)にし処刑する旨、大々的に触れ歩かせた。この命令は、非常な厳しさをもって遂行され、当時(人々を)襲った最大の不安の一つ(と見なされる)ほどであった。こうして無数の武器が徴収された
関白のこれらの役人が徴集した刀・脇指・槍・鉄砲・弓・矢は、長崎の村で発見されただけでも、刀剣が四千振り、槍が五百本、弓が五百張以上、矢は無数、鉄砲三百挺、および鎧百領以上(に達し)、有馬領からは、一万六千以上の刀剣と、その他無数の武器が(徴集された)。
③こうして下地方のキリシタンたちは、彼らがもっとも重んじていたもの、すなわち武器を失うことになった。彼らはこのことを無上に悲しんだが、結局どうにもならなかった。」(同上書 p.100-101)

藤木久志氏の著書に各地の事例が紹介されているが、地域によって没収された武器はさまざまで、薩摩の島津領では刀・脇指三万腰が秀吉に納められたという。キリシタンの多い大村領や有馬領だけ特別に厳しかったかどうかについてはよく判らないが、多くの地域では農民の保有するすべての武器を調べ上げて、根こそぎ没収するというものではなかったようである。
藤木氏によると「ごく機械的に形だけ行われたかに見えた、一人あたり大小一腰を出せという方式は、実は中世百姓の帯刀権を原則として剥奪する(帯刀を原則として武士だけにかぎる)という、象徴的な行為であったことになる。刀狩りを画期として、百姓の帯刀を原則として免許制にする。このたてまえを創り出すことに、刀狩令の真の狙いがあった」(同上書p.86)とあり、実際には農村にはかなりの武器が残されたという。

では、刀狩令後も足軽・雑兵たちによる掠奪は続いたかどうか気になるところだ。
慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦の前に戦場となった伏見城周辺の村に、城攻め用の竹木を調達するのだといって、戦場で掠奪をこととする「濫妨人(らんぼうにん)」という雑兵たちが、集団で押しかけて来たことが醍醐寺の日記に記されているのだという。藤木氏はこう記している。
「『濫妨(雑兵たち)に、地下人(じげにん:村人)が武具をもって(集団で)出合い、これを防ぐ』とか『南里の竹伐りを、郷民が発起(一揆)して取り返す』というのがその一例である。また『濫妨人百四、五十人が、伏見の城攻め用だから、竹を伐らせろといって押しかけてきたが、村の侍たちが出動して、寺の門を閉めて戦い、早鐘を撞くと郷民が武器をとって蜂起した。これに恐れをなした賊徒どもが、助けてほしいと懇望したので、危害を加えず見逃してやった』という。」(同上書 p.107)

刀狩令によれ雑兵たちによる略奪が減って農民たちは豊かになり、武器を持って賊徒を自力で追い払うだけの実力と武器が蓄えていたのである。藤木氏によると、秀吉の刀狩令を単純に百姓の武装解除令とみる通説は、根底からの見直しが求められているという。戦国時代の歴史が抜本的に書き替えられる日は来るのだろうか。
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刀狩令の後も村に大量の武器が残されていながら、村を平和に導いた秀吉の智慧

前回の記事で、天正十六年(1588)七月に出された秀吉の刀狩令によってすべての農民の武器を没収されたわけではなく、現実には大量の武器が村に残されていたことを書いた。
藤木久志氏によると、「百姓の帯刀権や村の武装権の規制として」刀狩りが行なわれたが、「村の武力行使を制御するという秀吉の意図は、刀狩令とはまったく別のプログラムに委ねられた。村の武器を制御するプログラムは、村の喧嘩停止令(けんかちょうじれい)が担うことになった。」とある。(岩波新書『刀狩り』p.119)

豊臣秀吉
豊臣秀吉

では『喧嘩停止令』とはどんな法令なのだろうか。
秀吉が制定した『喧嘩停止令』は制定法の形では見つかっておらず、いつ成立したかなど詳細についてはわかっていないのだが、農民の武力行使を制御することを目的とする法令が存在していたことは、当時の記録から確実であるという。注目すべきは、刀狩令が出る以前から、この法令の判例が存在している点である

藤木氏の著書に『喧嘩停止令』の3つの判例が紹介されている、それぞれの事例をまとめると
① 天正二十(1592) の夏は炎天が続き、摂津の鳴尾村と瓦林村(兵庫県西宮市)が用水(北郷井水)をめぐって激しく争い、近隣の村を巻き込んで、互いに弓・鑓を揃えて大がかりな合戦となり、数多くの死傷者を出した。その紛争は秀吉の知るところとなり、『天下ことごとく喧嘩御停止』の法に背いたとして、鳴尾村の13人、瓦林村の26人が処刑された
② 河内(大阪府)の観心寺が、寺領の柴山の利用をめぐって、近隣の7つの村々と争っていたのだが、あるとき、ある村の百姓たちが、山で薪を刈る寺衆にたいして「日々に追い立て、打擲・刃傷に及ぶ」という激しい攻撃を加え相手を傷つけたことが、天正十五年(1587)春に秀吉の奉行によって『当御代喧嘩停止』の『御法度に背いた』とみなされ、村々は山の立ち入りを禁止とされた。
③ 日照りが続いた天正十七年(1589)の夏に、近江(滋賀県)の中野村と青名・八日市の村人たちが武装して用水を奪い合う争いとなった。秀次の奉行によって、その「刃傷」が問題となり、『喧嘩御停止の旨にまかせて』、3つの村の惣代各1名(計3人)の処刑が執行された。

藤木氏はこう解説している。
秀吉の喧嘩停止の法は、村々による山野河海の紛争の場で、武器を用いて集団で争い『刃傷』する、『村の戦争』を禁止する法であった。もともと中世の村々では、生活に関わる紛争は、村の自力で武器を持ち出して決着をつけてきた。その日常の紛争処理の作法が『刃傷』(武器による死傷)の回避を理由として、制御されようとしていた。刀を持って争えば百姓の身命があぶない。秀吉の刀狩りはこの説得とともに行われていた。…
 村々には大量の武器があり戦争も起きる。その現実を直視しながら、村の四季の生活にはいつも日常であった、山野や用水の争いの現場で、百姓たちが集団でその武器を使い、人を死傷することを抑止しよう。村にある武器を封じ込め、その使用を凍結しよう。そこに、この武器制御のプログラムの狙いがあった。それは『村の戦争』を『村の平和』に転換させるプログラムでもあった。いまこれを、あらためて秀吉の喧嘩停止令と呼ぼう。
 つまり、刀狩令は村の武器すべてを廃絶する法ではなかった。だからこそ喧嘩停止令は。村に武器があるのを前提として、その剥奪ではなく、それを制御するプログラムとして作動していた。百姓の手元には武器はあるが、それを紛争の処理としては使わない。武器で人を殺傷しない。そのことを人々に呼びかける法であった。」(同上書 p.124-125)

徳川秀忠
【徳川秀忠】

では、秀吉が制定した『喧嘩停止令』はどのように書かれていたのだろうか。
先述したとおり秀吉が定めた法令は見つかっていないが、徳川幕府第2代将軍徳川秀忠が慶長十五年(1610)に制定した『覚』四カ条の第二条がWikipediaに現代文訳とともに紹介されている。

「郷中にて、百姓等、山問答・水問答につき、弓・鑓・鉄砲にて、互いに喧嘩いたし候者あらば、その一郷を成敗いたすべき事。(山野や用水などでの争いが弓や槍、鉄砲などの武器を用いた闘争に発展した場合はその村ぐるみで処刑される)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%A7%E5%98%A9%E5%81%9C%E6%AD%A2%E4%BB%A4
この条文は、発生した判例から判断して、秀吉の『喧嘩停止令』を成文法として継承したものと考えられている。

徳川家光
【徳川家光】

また第三代将軍の家光は、寛永十二年(1635)の10月に『覚』三カ条の第三条で秀忠の条文を修正している。これもWikipediaに出ている。

「井水・野山領境などの相論つかまつり候時、百姓、刀・脇指をさし、弓・鑓をもち、まかり出るにおいては、曲事たるべき事(山野や用水などでの争い時において刀や脇差、弓や槍を用いて武力行使に及ぶ行為は違法である
付けたり、何ごとによらず、百姓、口論をいたし候時、他郷より荷担せしめば、本人よりその科(とが)を重くすべき事(いかなる場合もよその村々がこの争論に加担した場合、加担した村のほうを重罪とする)」

秀忠の条文と較べると、刀・脇差が追加され鉄砲が外されたほか、よその村が紛争に加担した場合はより罪が重くなることが付け加えられている。

このような法令が出来ていて違反者が厳しく処罰されることがわかっていると、いくら農民たちが武器を保有していても、紛争を解決する手段として武器を使うことを自主的に回避するようになるであろう

藤木氏はいくつかの事例を挙げておられるが、たとえば徳川秀忠の『覚』が出る前の慶長十一年(1606)の近江(滋賀県)の例を紹介しよう。

この年の初春に三上村(滋賀県野洲市)の下人が山仕事の帰り道で、近くの北佐久良村の者に、刈り取った柴と山道具を奪われてしまう。三上村の男たちは報復することを主張したが、村の長老たちは「復讐すれば互いに『あたまを打ちわられ』大怪我をすることになり『喧嘩御停止のみぎり』があるので、困ったことになる」ことを説明して、おとなしく裁判に訴える途を選ぶことにしたという。

次に徳川時代の事例をひとつ紹介したい。これを読めば、村には相当武器が残っていたことがわかる。しばらく藤木氏の著書を引用する。

「それは1641年(寛永十八)冬にはじまり、越後の魚沼地方四ヵ村と陸奥の会津地方七ヵ村の百姓たちの間で、六ヵ年にわたって争われた、銀山の帰属をめぐる、国境の争いである。
 その翌1642年に会津川の村々はこう主張していた。国境を越後側の村々に占拠された。そのため、これを自力で排除しようとしたが、それでは『天下の御法度』に触れるので、自粛して引き揚げた、と。1642年の段階で、『村の戦争』を自粛させた『天下の御法度』といえば、その7年前に発令されていた、家光の喧嘩停止令のほかにはありえない。
 しかしこの主張に反論して、越後側の村々はこう訴えていた。会津方が『千四、五百人引き連れ、鉄砲百四、五十挺、弓五、六十張、鳥毛ついの鑓百本ほど、長刀八振、段々に備えを立て、まかり出』たが、越後方は『御公儀おそろしく…ひっそく(自粛)』していた、と。」(同上書 p.130-131)

藤木氏の著書にはこの事件の結末については記されていないが、いずれにせよ豊臣秀吉が『喧嘩停止令』を出して以降、わが国では村同士が紛争を武力で解決することを次第に自粛するようになっていったことが読み取れる。

島原の乱
【島原の乱】

この事件が起こる4年前の寛永14年(1637)に有名な島原の乱が起っている。

島原の乱については以前このブログで4回に分けて書いたが、この乱では一揆勢37千人が大量の鉄砲と弾薬をもって原城に立て籠もり、山田右衛門作覚書によると「城内に鉄砲の数五百三十挺」あったという。『刀狩令』のあとでもこんなに大量の武器が残されていたのは意外であったので、一般的な教科書に秀吉の刀狩についてどう記されているかを確認してみた。

たとえば『もういちど読む山川の日本史』では、「刀狩とは農民から武器をとりあげることである。秀吉は、農民が刀や弓などの武器をもつと、一揆を起こす原因にもなるとと考え、1588年(天正16)年刀狩令を出して、すべての武器を没収した。これによって兵農分離がすすみ、さらに1591(天正19)年には身分統制令をだし、武士・農民・町人などの身分や職業を固定する方策を進めた」(p.144)と書いてある。
少し調べればこの通説に矛盾する記録をいくつでも容易に見つかるのでこの説が誤っていることは明らかである。秀吉の「刀狩令」に関しては、いずれ書き替えられることにならざるをえないだろう。

少し考えればわかる事だが、そもそも「すべての武器を没収する」ことは実施困難だ。隠そうと思えばいくらでも隠せるものを集めることには所詮限界があり、武器を没収するという施策だけでは武器を用いる紛争を終わらせることはできないと言って良いだろう。
為政者が村同士の争いごとに武器使用を停止させるためには、武器を没収することよりも、紛争を解決する手段として武器を用いた者を厳しく処分することのほうが有効であり、農民出身の秀吉がそのことに気付いて、いちはやく『喧嘩停止令』を出した意義は大きいと思う。

村々はこの法令と『刀狩令』によって次第に平和を取り戻していくのだが、その結果としてわが国ではそれ以降の武器の進化が停滞していくこととなる。また、百姓に対して武器を用いて食糧などを掠奪する行為を禁じたのであるから武士は襟を正さざるを得なくなり、掠奪のためなどに武器を用いるような行為をなすことは許されないこととなり、明治以降も兵士達は高い規律を求められることとなる。

しかしながら、西洋列強諸国ではその後も戦争が続き、武器の性能をより進化させつつ、自国の軍事力を拡大させる方向に進んでいったのである。
江戸時代の後半には、西洋列強諸国の軍事力はわが国を凌ぐレベルになっていたが、兵士達の規律という点に焦点をあてると、西洋諸国の軍隊は、わが国よりもかなり野蛮であったと言わざるを得ない。

アーネスト・サトウ22-23歳

例えば文久3年(1863)の薩英戦争では、英戦艦アーガス号に乗船していた英公使官通訳のアーネスト・サトウはこう記している。
提督は直ちに交戦の命令を下し、また拿捕船を焼却せよとの信号をわが艦(アーガス号)と、レースホース号およびコケット号に向けて発した。この信号を受けるや、私たちはみな拿捕船内に突進して、掠奪を開始した。私は日本の火縄銃と円錐形の軍帽(陣笠)をせしめたが、士官連中の中には一分銀や渡金二分金などの貨幣を見つけた者も数名いた。水兵たちは鏡、酒瓶、古筵の切れ端など、持てるものは何でも掠めた。およそ1時間もこうした乱暴が行なわれた後、汽船に穴をあけて火を放ち、それから命令を受けるために戦線へ馳せつけた。」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.107-108)

北清事変連合軍兵士
【北清事変連合軍兵士】

また、明治33年(1900)の北清事変では、北京にある11か国の公使官が存在する区域が暴徒に取り囲まれて、各国の4000名もの人々が孤立無援の状況に陥り、わが国はイギリスの再三にわたる要請を受けて第五師団を派兵し、連合国軍に加わって北京籠城組の救出成功に導いたのだが、そののち連合国軍の掠奪行為がはじまる。
「国立国会図書館デジタルコレクション」に公開されている菊池寛の『大衆明治史・下巻』にはこう記されている。なお文章に出てくる「下島氏」というのは、混成旅団の衛生部員として従軍していた下島空谷という名の医者で、芥川龍之介と交流のあった人物である。

「その北京へ入城した各国の兵隊は、そこで何をしたであろうか。まず掠奪であった
『西洋の兵隊の分捕というものは、話にもならぬ位ひどかったもので、戦争は日本兵にやらせ、自分達は分捕専門にかかった、といっても言い過ぎではなかったほどでした』
と下島氏は語っているが、中でもひどいのはフランスの兵隊で、分捕隊といった組織立った隊をつくり、現役の少佐がこれを指揮して、宮殿や豪家から宝物を掠奪しては、支那の戎克*を雇って白河を下らせ、そっくり太沾に碇泊しているフランスの軍艦に運ばせたというが、その品数だけでも莫大な量だったという。
 英国兵も北京や通州で大掠奪をやり、皇城内ではロシア兵はその本領を発揮して、財物を盛んに運び出している。

 若き日の下村海南氏も、事変後すぐに北京の町に入ったが、『気のきいたものは、何一つ残っていなかった。持って行けないような大きな骨董類は、みんな壊してあった。』と言っているから、どんな掠奪を行なったか分かると思う。
 ドイツ兵は天文台から有名な地球儀を剥ぎとって行き、これが後にベルリンの博物館に並べられて、大分問題を起こしている。
 有名な萬寿山など、日本兵は北京占領後、手回しよく駆けつけて保護しようとしたが、この時にはもう素早いフランス兵が入っていて、黄金製の釣鐘など姿を消しているのである。後に日本軍が撤退すると、今度はロシア兵が入ってその宝物を掠奪し、英軍は更にその後に入って、大規模に荷造りをして本国に送るという始末である。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041878/35
*戎克(ジャンク):木造帆船

この時の各国の兵隊がやったことは掠奪ばかりではなかった。
菊池寛の文章を続けよう。
「また下島氏の談によれば、通州におけるフランス兵の暴行は言語に絶するものがあったという。通州入城後、フランスの警備区域で支那の婦人たちが籠城したという女劇場に行ってみると、そこには一面の女の屍体の山であったという。

戦後、戦跡視察に出かけた田口鼎軒博士は、この通州を訪れた時のことを、次のように書いている。
『通州の人民は皆連合軍に帰順したるに、豈はからんや、露仏の占領区に於いては、兵が掠奪暴行をはじめしかば、人民は驚きて日本軍に訴えたり。日本守備隊はこれを救いたり。故に人民はみな日本の占領区に集まりて、その安全を保ちたり。余は佐本守備隊長の案内を得て、その守備隊本部の近傍に避難せる数多の婦人老人を目撃したり。彼等はみな余を見て土袈裟したり。佐本守備隊長は日本に此の如き禮なしとて彼らを立たしめたり。彼らの多数の者は身分ありしものなりしが、その夫、もしくは兄弟の殺戮せられたるが為に、狭き家に雑居して難を避け居るものなり。
 余の聞くところを以てするに、通州に於いて上流の婦女の水瓶に投じて死したるもの、573人ありしと言えり。その水瓶とは支那人の毎戸に存するものなり。かの司馬温公が意志を投じて之を割り人名を救いたりという水瓶これなり。露仏の兵に辱めらると雖も、下等の婦女に至りては此の事なし。故に水甕に投じて死したる婦女は、皆中流以上の婦女にして、身のやるせなきが為に死したることを知るべし。…』」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041878/36

このような連合軍兵士たちの悪行については英国の新聞記者も多数記録しており、真実であることは確実なのだが、第二次大戦後のわが国では、戦勝国にとって不都合な真実はことごとく封印されてしまっており、国民がこのような史実に触れる機会がほとんどないのは残念なことである。
興味のある方は、国立国会図書館デジタルコレクションに『北清戦史. 下』が公開されているので、それを読まれることをお勧めしたい。
次のURLに英国デイリーエクスプレス紙の軍事通信員ジョージリンチ氏が各国の軍隊の悪行を伝えているのだが、ここでは「連合国軍中最も品行の良いのは日本軍である」と明確に書いていることは注目して良い。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774475/113

太平洋戦争の終戦後においても、大陸から引揚げてきた多くの日本人が満州や朝鮮半島で随分酷い目に遭っているのだが、他国の軍隊はどこの国も似たり寄ったりで、日本軍の方がはるかに規律を保っていたことは少し調べればわかることだ。

こういう史実を知れば知るほど、『喧嘩停止令』を最初に定めた豊臣秀吉の偉大さを認識せざるを得なくなってくる。
掠奪行為を為すために、あるいは紛争を解決するために武器を使用する者を厳しく処罰することで武器使用の自粛を導いてきた長い歴史の過程で、わが国では武器を保有する者には他国よりも高い規律が求められるようになっていったと理解すればよいのだろうか。
何度も飢餓に襲われて、各地で争いごとが続いた16世紀にわが国を統一し、その権力を適切に用いて村々を平和に導いた秀吉のことを、もっと高く評価しても良いのではないかと思う。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

島原の乱の最初にキリシタンは寺社を放火し僧侶を殺害した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-386.html

島原の乱の一揆勢が原城に籠城して、どこの支援を待ち続けたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-387.html

島原の乱の「一揆勢」は、大量の鉄砲と弾薬をどうやって調達したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-388.html

島原の乱を江戸幕府はどうやって終息させたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-389.html

義和団の暴徒に囲まれ孤立した公使館区域の人々が如何にして生き延びたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-323.html

北清事変で北京制圧の後に本性を露わにした「文明国」の軍隊
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-324.html

義和団による暴動を、満州占領のチャンスととらえたロシア
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-325.html

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蒲生氏郷が毒殺されたという説を考える

蒲生氏郷を郷土の誇りとして顕彰するために、大正八年(1919)日野町の上野田・ひばり野に 蒲生氏郷公像が建設されたのだが、昭和一九年(1944)に武器生産に必要な金属資源の不足を補うため供出されてしまったため、地元の多くの人々の尽力と協賛のもとに昭和六三年(1988)に再建され た。

蒲生氏郷公像

右手には筆を持ち、左手には紙を持っているようなのだが、日野観光協会のHPによると、「文禄元年(1592)名護屋陣に向かう途中、中山道武佐の宿より郷土日野を望み、『思ひきや 人のゆくへぞ定めなき わがふるさとを よそに見んとは』の歌を詠む氏郷の姿を写したものです。」と解説されている。
ところが、氏郷は朝鮮出兵文禄の役に参陣したのち肥前名護屋城陣中で下血し、以降体調を崩して、文禄四年(1595)に40歳の若さでこの世を去っている。

蒲生氏郷は日野に生まれ育ったのだが、日野城主であったのは天正十年(1582)から天正十二年(1584)とかなり短く、蒲生氏郷が伊勢国松ヶ島に転封されて日野を去ったのは28歳であった。

若くして日野を去ったにもかかわらず故郷に名を残した蒲生氏郷が、どのような人物であり、どんな人生を送ったのかを最初に振り返っておこう。

蒲生氏郷は弘治二年(1556)年に六角義賢(ろっかくよしかた)の重臣であった蒲生賢秀(かたひで)の三男として近江国蒲生郡日野に生まれ、幼名は鶴千代と名付けられた。

永禄十一年(1568)に足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた観音寺城の戦いで六角氏が滅亡すると、賢秀は鶴千代を人質に差し出して織田信長に臣従したという。ところが、この時十三歳であった鶴千代が織田信長に気に入られることになる

『名将言行録』にはこう記されている。
信長これを見て、蒲生が子眼晴常ならず、尋常の者にはあるまじ。天晴(あっぱれ)なる若者哉。信長が娘に合わせんとて、岐阜城に止め、弾正忠*の一字を賜わり名を忠三郎と賜う
 信長の前にて、毎度武辺の談論あり。氏郷年十三。常に座に在り、深更に及ぶといえども、終に倦怠することなく、一心不乱に語る者の口本(くちもと)を守り居たり。稲葉貞通(さだみち)これを見て、蒲生が子は尋常の者にあらず、彼にして一廉(ひとかど)勝れたる武勇の者に成らずんば、成る者はあるまじきと言われけり。
 (永禄)十二年八月、信長、大河内の城に発向す。氏郷年十四。ただ一人抜掛し、多勢の中に戦い、能き首取りて帰る。信長大に感じ、自ら打鮑取りて賜わりけり。是より大小の戦功、数うるに遑(いとま)あらずや
。」
*弾正忠家:戦国時代の尾張国守護代、清洲織田氏(大和守家)に仕える清州三奉行の一つに織田弾正忠家があり、織田信長はこの家系に属する。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043026/39

氏郷は、初陣で戦果を挙げたのち信長の次女を娶って日野に帰国し、元亀元年(1570)の朝倉攻めや姉川の戦い、天正3年(1575)の長篠の戦いなどに従軍して、数多くの武功を挙げている。

安土城絵
【安土城】

天正十年(1582)に本能寺の変が起こった時に、日野城で事変の情報を聞いた氏郷は安土城にいた父・賢秀に連絡し、城内にいた信長の一族を安土城から日野城に移動させてお守りしている。そののち賢秀から家督を継いだというが、氏郷はその年の12月に十二ヶ条の掟を日野城下に出して、今までの独占販売権、非課税権などの特権を持つ商工業者を排除して自由な取引市場をつくり、新興商工業者を育成して地域経済の活性化を図ろうとしたのである。

信長亡き後は、氏郷は秀吉に付くこととなり、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いの際は秀吉軍撤退の殿(しんがり)を務め、戦いのあとで12万石に加増されて伊勢松ヶ島に転封となっている。したがって蒲生氏郷は、日野城主としては2年程度務めたにすぎないということになる。ついでに言うと、氏郷の実子2人はいずれも早世し、長男の子も早死にしたために蒲生家は寛永十一年(1634)に断絶となっているのである。

仁正寺藩邸跡
【仁正寺藩邸跡】

一方、蒲生家の居城であった日野城は、関ヶ原の戦いののち廃城となり、慶長十一年(1606)に破却されているが、元和6年(1620)に市橋長政が仁正寺藩を立藩して日野城の跡地に藩邸を建設し、その後明治四年(1871)まで251年もの間、市橋家が日野を治めている。

日野の人々にとっては市橋家のほうがはるかに長い付き合いであったことになるのだが、「郷土の誇り」とする人物を選ぶとなると、今も蒲生氏郷の名が最初に挙がるようなのだ。
その理由は、彼の人望の高さもあるのだろうが、任期中もまた転封後も、日野商人に便宜をはかることで、日野を豊かにしたことが大きいのだと思う。

前回の記事でも紹介した通り、天正十二年(1584)に蒲生氏郷が伊勢松ヶ島に転封されると、日野商人達は氏郷を追うようにしてその地に一街区を拓いて移り住み、さらに氏郷が天正十八年(1590)に陸奥国会津に転封されると、再び氏郷に従って商圏を拡大していったことが記録に残されている。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

ところで、秀吉が氏郷を遠国の陸奥国会津に移封したのはなぜなのか。
『名将言行録』にはこう記されている。
「…秀吉諸将を会し、会津は関東の要地なり。勝れたる一将を撰みて鎮圧せしめずんばならぬ地なり。汝ら遠慮なく意見を記して見すべしと言わる。細川越中守忠興、然るべしと言う者十人には九人あり。秀吉これを見て、汝ら愚かもまた甚だし。我天下を容易く得しことは理わりなり。この地は蒲生忠三郎ならでは置くべき者なしとありて、氏郷に90万石を賜う。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043026/42

要するに、伊達政宗に対する備えとして蒲生氏郷が適任であると秀吉が判断したというのだが、『名将言行録』には秀吉が氏郷を上方から遠ざけた別の理由も記されている。

「氏郷、会津へ行く時、秀吉袴を脱ぎ氏郷に着せられ、自ら氏郷の袴を着らる。さて氏郷奥州へ行くことを如何存じおりしやと尋ねられければ、近臣殊の外迷惑がり候と申す。秀吉聞きて、いかにも左あるべし。こちに置きては怖ろしき奴なり。故に奥州に遣わすとぞ言われけり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043026/42

秀吉は信長が認めた器量人である氏郷を恐れて、上方から遠ざけたことは充分あり得る話だと思う。氏郷自身も、会津転封を命ぜられた際に、恩賞を賜るなら小国でも西国をと望んでいたのに、辺境では天下取りの機会が失われると悲しみ涙を流したと伝わっている。

『名将言行録』を読み進んでいくと、蒲生氏郷が毒殺されたと記されている
文中の「九戸役」とは、天正十九年(1591)、南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直および奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱である。

石田三成
石田三成

「九戸役の後、石田三成、都へ帰り、ひそかに秀吉に申様、此度氏郷が軍容を視侍るに、尋常の人には候わず、彼の軍行七日が程引きも切らず、然るに一人も軍法を犯す者候わず、この人殿下の御為に、二心を懐かざらんには、かかる御固また餘にもあるべからず、心得させ給いて然るべき人なりと申ししかば、密に毒を与えられぬ。之に依り忽ちに病に犯されて終に空く成りにける。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043026/49

氏郷は天正十八年(1590)十一月にも葛西大崎一揆鎮圧に向かう途中で伊達政宗から誘いを受けた茶席で毒を盛られ、帰って急いで毒を吐いたことが『氏郷記』に記されている。この書物も国立国会図書館デジタルコレクションに公開されており、誰でもPCで読むことが出来る。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771450/91

先ほど紹介した『名将言行録』の記述は『氏郷記』の次の部分を参考に書かれたものと思われるが、重要な部分なので引用させていただく。

「爰(ここ)に石田治部少輔三成は、昔の梶原平三景時に越えたる讒臣*なり。ある時潛(ひそか)に太閤へ申されけるは、…会津宰相こそ謀も勝れ、能き侍をも数多持ちて候え。先年九戸一乱の砌罷下りて、彼が計略を見候に、軍勢を七日路に続け、その人数仕い法度の品々、目を驚かし候いつる。かかる良将を愛して置かせ給わば、養虎の愁、踵(きびす)を廻(めぐら)すべからずとぞ申しける。太閤相国秀吉公も、常々訝(いぶかし)く思召しけるに、かく言上しければ、彼氏郷を失わん談合評定取々なり。…氏郷は、錐袋にたまらぬ風情にて、一言の端も、人に指を指されじと嗜まれしかば、太閤斯様に思召すも、余儀なくぞ覚えし。されどまた忠功第一の人なれば、如何ともすべきようなかりけり。然れば唯人知れず害毒せよとて、ある時毒を飼い給いしとかや。此毒や祟りけん、去朝鮮征伐の頃も、下血を病まれけり。猶それより以下(このかた)、気色常ならず、面黄黒にして、項頸(うなじ)の傍ら肉少なく、目の下微(すこ)し浮腫(はれ)しかば、去りし秋の頃、法眼正純を召して、養生薬を用いられしが、其後腫脹弥(いよいよ)甚しかりければ、去年名護屋にて宗叔が薬相当しけるとて、又彼を召して、薬を用いられしかども、更に其験なかりけり。同十二月朔日、太閤如何思召しけん。江戸大納言加賀中納言へ仰付けられて、諸医を召し、氏郷の脈を見せよとありければ、両人承って、竹田半井道三以下の名医を集め、脈を見せられけるに、各大事にて候とぞもうしける。明くる文禄四年正月迄、宗叔薬を盛りけれども、氏郷次第に気力衰えしかば、それより道三の薬を用いられけり。されども早叶わずして、同二月七日、生年四十歳と申すに、京都にて朝の露と消えられけり。」
*讒臣(ざんしん):讒言して主君におもねる臣下
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771450/123

肥前名護屋城
【肥前名護屋城】

『氏郷記』は『名将言行録』よりかなり具体的に記されていて理解しやすいのだが、この記述が正しいとすると、石田三成が秀吉に讒言して氏郷に毒を盛った時期は、「九戸役」が終結した天正十九年(1591)の秋から朝鮮出兵(文禄の役)が起きた文禄元~二年(1592~3)までということになる。
そして、その毒が原因となって、文禄の役に参陣した氏郷が肥前名護屋で下血し、その後、外見からも重病であることが窺える症状が出たという。

屈強な武士が40歳という若さで体調を崩して命を落とすことは考えにくく、毒殺されたとする説があっても何も不思議なことではではないのだが、氏郷が亡くなったのは文禄四年(1595)二月なので、石田三成に毒を盛られたにしては結構長く生きていることが気になるところである。

では、通説ではどうなっているかを調べると、氏郷は毒殺ではなく、病気で死んだことになっているようだ。
一般的に事実の不存在の立証は『悪魔の証明』とされて難しいものなのだが、何を根拠にして毒殺説を否定しているのだろうか。

Wikipediaには、こう解説されている
豊臣秀吉(『氏郷記』)や石田三成(『石田軍記』、『蒲生盛衰記』)などによる毒殺説もあるが、下記の理由により否定されている。
秀吉は氏郷の治療にあたり、施薬院全宗が医師団を指揮し、曲直瀬玄朔、一鷗軒宗虎を長老格とする9名の医師団による輪番治療を行わせた。曲直瀬玄朔(まなせげんさく)が残したカルテ『医学天正記』には文禄の役へ出兵の途中、文禄2年(1593年)に名護屋城で発病し、文禄4年(1595年)に没するまで、3年間患い症状が出たと記されている。腹水がたまり、顔面や手足に浮腫ができるといった徴候から、氏郷は今でいう直腸癌だったと推測されている。他に死因として肝臓癌が上げられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E6%B0%8F%E9%83%B7

曲直瀬玄朔
【曲直瀬玄朔】

秀吉が氏郷の治療の為に文禄三年十二月に名医を集めたことは、先ほど紹介した『氏郷記』にも出ていたが、曲直瀬玄朔は幼少の頃両親を失い、母の兄である曲直瀬道三に育てられて医者となった人物である。かなりの名医であったらしく、『医学天正記』には正親町天皇、後陽成天皇を初め、信長、秀吉、秀次、秀頼ほか、毛利輝元、加藤清正などの治療が記録されているという。
http://kenblog1200.at.webry.info/201305/article_15.html

国立国会図書館デジタルコレクションに『医学天正記』があり、ネットで全文が公開されている。
『医学天正記』の原文は漢文なのでやや読みづらいが、書いていることは何となくわかる。次のURLに氏郷のカルテがあり、この記述が氏郷病死説の根拠とされているのだが、簡単に内容をまとめておこう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920433/236

『医学天正記』の該当部分
【『医学天正記』の蒲生氏郷についての記述部分】

氏郷は文禄の役に参陣し肥前名護屋で下血した際には、堺の医師である宗叔(そうしゅく)が主治医を務めていた。
文禄3年に曲直瀬玄朔が氏郷を訪問した際には顔色が黄黒で首筋の肉がやせ衰え、目の下に浮腫があったとあり、秋に再び訪問した際には氏郷の腫れがひどくなり、むくみも増していたとある。そして12月に入って秀吉は、徳川家康と前田利家に命じて9人の名医を招いて診察させている。曲直瀬玄朔は「十中九は大事(危険)」と診断したが、他の医師はそこまで危険と考えず、特に主治医の宗叔は難しいのは十のうち一と診断したそうだ。
前田利家は曲直瀬玄朔に氏郷の治療を頼んだのだが、主治医が手を引かないので治療は出来ないと断った。その後も宗叔の投薬が続けられて、3カ月後に氏郷はわずか40歳でこの世を去ったのである。

毒を盛られてから三年も経ってから死んだ場合は、その死因を「毒殺」とは言わないのかもしれないが、『氏郷記』が記しているように毒を盛られたことをきっかけに体調を崩し、衰弱して死んでいったということならばあり得る話だと思う。

冒頭の蒲生氏郷像は文禄元年(1592)名護屋陣に向かう途中で歌を詠む氏郷の姿なのだが、『思ひきや 人のゆくへぞ定めなき わがふるさとを よそに見んとは』と詠んだ時の氏郷は重い病に冒されていたのだろうか。名護屋の陣に着く直前か、陣の中で毒を盛られたから下血したということではないのだろうか。

豊臣秀次
【豊臣秀次】

ところで、氏郷の死後に驚くような出来事が起っている。
氏郷が亡くなった年である文禄四年(1595年)六月末に、突然秀次に謀反の疑いが持ち上がり、秀吉によって七月に切腹を命じられ、八月には秀次の家族や側室・侍女ら39名が処刑されている。
驚くべきことに、先ほど紹介した『医学天正記』を著した曲直瀬玄朔も流罪に処せられている。曲直瀬玄朔は秀次の喘息の治療のために秀次邸に出入りしていたことが引っ掛かったようである。

この時代は、秀吉の後の天下を狙っていた人物が少なからず存在した。蒲生氏郷も豊臣秀次も、将来のライバルとなる人物を消すための何者かの工作にかかった可能性を感じるのは私ばかりではないだろう。しかしながら、もしそのような工作があったとしても、それを裏付ける証拠となるものが残されることはほとんどないと言って良い。

このブログで何度も書いているように、いつの時代もどこの国でも、勝者は、勝者にとって都合の悪い史実を封印し、勝者にとって都合の良い歴史を編纂して広めようとするものである。この種の工作が行われた場合は、特にその工作に将来の為政者が関与していた場合は、記録は改竄されるか封印されるのが常ではないか。

蒲生氏郷
【蒲生氏郷】

最後に氏郷の辞世の歌を記しておく。
かぎりあれば 吹かねど花は 散るものを 心みじかき 春の山風
(風など吹かなくても、花の命には限りがあるのでいつかは散ってしまう。それを春の山風は何故こんなに短気に花を散らしてしまうのか)
春の山風とは氏郷を早死にさせた運命を意味すると思うのだが、氏郷はこの言葉の中に、誰か具体的な人物が関与していることを匂わせようとしたのかもしれない。

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【ご参考】豊臣秀吉の死後の覇権争いについてこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

豊臣秀吉が死んだ後の2年間に家康や三成らはどう動いたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-426.html

徳川家康が大坂城を乗っ取り権力を掌握したのち石田三成らが挙兵に至る経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-427.html

石田三成の挙兵後、なぜ徳川家康は東軍の諸将とともに西に向かわなかったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-429.html

天下分け目の関ヶ原の戦いの前に、家康はいかにして西軍有利の状況を覆したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-430.html

宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-377.html

島左近は関ヶ原の戦いで死んでいないのではないか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-425.html

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戦国時代の歴史を動かした天正地震

4年前に白川郷方面に旅行した際に、帰雲城(かえりくもじょう)趾に立ち寄った。この城は寛正年間(1461~1466年)に内ケ島為氏(うちがしま ためうじ)により築城されたのだが、天正13年11月29日(1586年1月18日)に起きた天正地震で帰雲山が大崩落を起こし、城主内ヶ島氏理(うじまさ)以下一族家臣と、城下300余軒、推定500人余り、牛馬にいたるまでことごとくが一瞬にして埋没し、内ケ島氏は滅亡してしまったと伝えられている。

帰雲城趾

上の画像は帰雲城があったとされる場所に立つ『帰雲城趾』の碑だが、画像に写っている帰雲山は何度も山崩れを起こしているのか、今も地肌を見せたままである。

教科書などでは天正地震のことは何も書かれていないが、この地震で倒壊したのは帰雲城だけではなかった。Wikipediaによると美濃の大垣城が焼失、越中の木舟城が倒壊、伊勢の長島城が倒壊、近江の長浜城が全壊などとかなり広範囲に大きな被害が出ている。

震源地については諸説があるが、太平洋側の伊勢湾と日本海側の若狭湾の双方に津波の被害が出ている。

その当時イエズス会宣教師としてわが国に滞在していたルイス・フロイス(1532~1597)の『日本史』には、この地震について次のように記している。

「本年1586年に、堺と都からその周辺一帯にかけて、きわめて異常で恐るべき地震が起こった。それはかって人々が見聞したことがなく、往時の史書にも読まれたことのないほどすさまじいものであった。というのは、日本の諸国でしばしば大地震が生じることはさして珍しいことではないが、本年の地震は桁はずれて大きく、人々に異常な恐怖と驚愕を与えた。それは11月1日のことで、(我らの暦の)1月の何日かにあたるが、(突如)大地が振動し始め、しかも普通の揺れ方ではなく、ちょうど船が両側に揺れるように振動し、四日四晩休みなく継続した。
 人々は肝をつぶし、呆然自失の態に陥り、下敷きとなって死ぬのを恐れ、何ぴとも家の中に入ろうとはしなかった。というのは、堺の市だけで三十以上の倉庫が倒壊し、十五名ないし二十名以上が死んだはずだからである。
 その後四十日間、地震は中断した形で、日々過ぎたが、その間一日として震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛のよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。」(中公文庫『完訳フロイス日本史③』p196-197)

地震の日付は和暦で記しているのだが、同年の11月1日には地震の記録は外に存在しない。フロイスが単純に日付を誤って記したものと理解されている。

長浜城
長浜城

通常続いてフロイスは琵琶湖岸の長浜の事例を記している。
「近江の国には、当初関白殿が(織田)信長に仕えていた頃に居住していた長浜という城がある地に、人家千戸を数える町がある。そこでは地震が起こり、大地が割れ、家屋の半ばと多数の人が呑み込まれてしまい、残りの半分の家屋は、その同じ瞬間に炎上し灰燼に帰した。」(同上書 p.197)

長浜地図

長浜には西浜千軒遺跡下坂浜千軒遺跡という湖底遺跡があり、この地震で湖に水没したと推定されている。
次のURLに、2011年9月12日に滋賀県立大の中井均准教授が指導する「琵琶湖水中考古学研究会」が、長浜市沖の西浜千軒遺跡の調査で、供養塔や仏塔の一部など430点が見つかったと発表したことの新聞記事をまとめている。このブログ記事によると。
「長浜市祇園町沖約100mの湖底・水深約1・2~1・5mで、東西38m、南北26mにわたって素潜りで調査し、方形区画や石積みを見つけた。 一石五輪塔(砂岩製)の一部や、石仏の上部など、墓地に使われたとみられる石があり、材質と形状から、16世紀前半から17世紀初頭に作られたとみられる。 文献で天正13年11月29日(1586年1月18日)に岐阜県中北部を震源とするマグニチュード7・8規模の地震が起きたことが分かっており、これと時期が一致した」とある。
https://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/92dc366e3e9c269182cbd181fbcc0c16

長浜城からの琵琶湖の眺め
長浜城から西浜千軒遺跡方面を望む(画像の右)】

「琵琶湖水中考古学研究会」が撮影した写真は同会のFacebookホームページで公開されているが、今の湖岸から100m近く西に千軒近い集落があり、その集落が地震によって瞬時に水没したと理解すればよいのだろうか。
https://www.facebook.com/lakebiwaarchaeology/

さらにフロイスは京都の事例を記したのち、若狭湾で津波の被害が出たことを書いている。

「若狭の国には海に向かって、やはり長浜と称する別の大きい町があった。そこには多数の人々が出入りし、盛んに商売が行われていた。人々の大いなる恐怖と驚愕のうちにその地が数日間揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が、遠くから恐るべき唸りを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。高潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑みこまれてしまった。」(同書p.198)

高浜、小浜地図

 ところが、若狭湾には長浜という地名は存在しない。フロイスが琵琶湖に沈んだ長浜の話と混同したのかと誰でも考えるところだが、フロイスは「やはり長浜と称する別の大きい町」と、琵琶湖岸の長浜とは区別して書いている。小浜の地名を誤ったか、高浜の地名を誤ったかのいずれかなのだが、地形から判断すると、U字型をした湾の中心部にある高浜の方が津波の被害が出る可能性が高そうだ。Wikipediaによると、福井大学の山本博文教授は福井県大飯郡高浜町薗部の海岸から500mの水田で、14世紀から16世紀の津波跡を発見したと発表したという。平成27年5月19日の読売新聞の記事が次のサイトで掲載されているが、笠原川を遡った津波が、海の砂や貝殻を運んだ形跡が、かつて湿地帯であった水田の、深さ約1mに確認されたという。このあたりの標高を電子国土Webで確認すると1.5~3m程度で、さらに深さ1mというから津波の規模としては高浜では比較的小規模なものであったような印象を受ける。
http://jcpre.com/?p=8105

イエズス会のジアン・クラッセ(1618~1692)がわが国で布教活動をしていた宣教師たちの書簡に基づいて著した『日本西教史』にこの地震の津波のことが記されている。この本は国立国会図書館デジタルコレクションに収められていて、誰でもPC上で読むことが出来る。津波の記事だけ紹介すると、
若狭の国内貿易の為にしばしば交通する海境に小市街あり。ここは数日の間烈しく震動し、これに継ぐ海嘯を以てし、激浪の為に地上の人家は皆一掃して海中に流入し、あたかも元来無人の境の如く全市を乾浄したり」とある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943460/344

クラッセは、おそらく当時日本にいたフロイスなどの書簡を参考にして記したものと思われるが、当時の宣教師の記録そのものが確証のない噂話を記したものである可能性も考えられる。

吉田兼見
【吉田兼見】

しかしながら、宣教師とは全く接点がなかったと思われる日本人による津波の記録も残されている。
吉田神道宗家・吉田家9代当主の吉田兼見が『兼見卿記』の11月30日条に、地震の後の津波の事を書いている。文中の「若州」は「若狭」と理解してよく、若狭湾で津波が発生した可能性はかなり高そうだ。
「廿九日地震ニ壬生之堂壊之、所々在家ユリ壊数多死云々、丹後・若州・越州浦邊波ヲ打上在家悉押流、人死事不知数云々、」
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/fujiwara/kanemi.jishin.html

ところでこの天正地震が起こった時期は、秀吉は近江国の坂本の城にいた。
フロイスの記録によると、
彼は、その時手がけていたいっさいのことを放棄し、馬を乗り継ぎ、飛ぶようにして大坂へ避難した。そこは彼にはもっとも安全な場所と思えたからである。」(同上書p.199)とある。
この地震で大坂城は大丈夫だったのだが、弟の秀長の館は倒壊したという。

フロイスは、秀吉が「その時手がけていたいっさいのことを放棄し」たというのだが、秀吉は何を手がけていたのだろうか。
地震が起きた天正13年(1585)の秀吉の動きを見てみよう。
3月には紀州を平定し、7月には四国を平定し関白となり、8月には越中を平定している。
閏8月には家康が真田領に侵攻し、真田昌幸は上田城に籠城している最中に秀吉に支援を要請した。秀吉は支援を約束し、11月19日付の手紙には来年正月15日に家康を討伐するために出陣するので真田昌幸からも兵を出すように伝えたという。(松丸憲正氏所蔵文書)

そしてその10日後にこの天正地震が起きたのである。

秀吉

秀吉にとって、この地震のダメージは大きかった。
徳川征討軍で先鋒を期待されていた山内一豊の長浜城が倒壊し、大規模な地割れで長浜の市街地の一部が湖底に沈んだために多くの死者が出た。また徳川征討軍のための兵糧が蓄えられていた大垣城も倒壊してしまった。秀吉軍の他の武将も地震で大打撃を受け、家康征伐どころではなくなってしまったのである。一方、家康のいた三河以東は震度4以下で被害は少なかったのだという。

天下統一を目指していた秀吉は、地震によって家康打倒の強硬策から融和策への方針転換を迫られ、友好の証として妹の旭姫を送って家康を自陣営に取り込んだのである。さらに秀吉は、家康の上洛を実現させるために、実母を人質として家康に差し出している。

もしこの地震が起きていなければ、兵力で圧倒的に有利であった秀吉は家康を討伐していた可能性が高く、そうなると豊臣政権がその後も長く継続したかもしれないという認識が、最近広がりつつあるようだ。

地震は大地を動かすだけではない。時には為政者の運命を変えて、歴史をも動かすことがありうるのである。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-101.html

フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-374.html

秀吉はなぜ「伴天連(バテレン)追放令」を出したのか~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-132.html

農民たちが帯刀していた時代と秀吉の刀狩令
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-506.html

刀狩令の後も村に大量の武器が残されていながら、村を平和に導いた秀吉の智慧
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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