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応仁の乱の前に何度も土一揆がおきた背景を考える

前回の記事で、1420年頃から太陽活動が極端に低下する『シュペーラー極小期』が始まっていて、それから冷夏・長雨による飢饉の記録が増加していることを書いた。

東南アジアの夏の平均気温推移

このような異常気象は100年以上続いて、わが国の各地で穀物等の収穫量が減少して餓死者が続出したのだが、この時期に各地で土一揆が起ったことや応仁の乱(1467年)が起こったことは、冷夏が続いて穀物の収穫量が減ったことと無関係ではなかったと思うのだが、そのような視点からこの時代を叙述している歴史書は少ない。

山川日本史

一般的な高校教科書である『もういちど読む 山川日本史』に、『シュペーラー極小期』の初期に土一揆が頻発したことについてどう記されているか気になったので調べてみると、こう書かれている。

惣村の形成
守護大名が大きな勢力をきずいてきた14世紀後半には、荘園領主や国人の支配する農村で、惣(そう)や惣村(そうそん)とよばれるむすびつきが発達していた。このむすびつきは、戦乱から村落をまもり、国人・荘園領主に抵抗するために、有力農民が、成長してきた小農民を構成員にいれてつくったもので、自治的性格をもち、沙汰人(さたにん)・乙名(おとな)とよばれる地侍(じざむらい)の指導者を選出し、警察・裁判などもみずからおこない、武力もそなえていた。
 惣村を維持するため、その構成員である惣百姓は会合(寄合)をひらいて規約(村掟・惣掟)を定め、財産として共有地(惣有地・入会地)をもっていた。また領主と交渉して、責任をもって年貢を請け負う百姓請(地下請)を実現したり、年貢の免除や引き下げをもとめた。
 こうした惣村の動きに対抗するため、荘園領主や国人は守護大名の力にたよった。これに応じて守護大名は半済や守護請をおこなって荘園の支配を強め、さらには一国内を領国として支配し、惣村に対しても田別に段銭、人別に夫役を課していった。

土一揆
 農民たちは、はじめのうちは領主に抵抗するのに、領主のもとにおしかけて訴える愁訴(しゅうそ)・強訴(ごうそ)や、山林ににげこんで耕作を放棄する逃散(ちょうさん)などの消極的な手段をとっていた。
 しかし守護の領国支配がすすむと、彼らは周辺の村々と連合して郷や組という連合組織をつくるようになり、一致団結した集団行動の一揆や、逃散といっても他村ににげこむ積極的な行動もとるようになった。そして地域的にひろいつながりをもつ土一揆という武力蜂起をおこすようになると、経済的にも地域のつながりがふかまるなかで、守護大名と実力で対抗するまでに成長していった。」(『もういちど読む 山川日本史』p.117-118)

と、この時期に異常気象が相次いで何度も飢饉が起こり多くの餓死者が出たことを一言も書いていない。普通に読めば、農民が実力を蓄えて守護大名に対抗する勢力になったと理解するしかないのだが、農民が守護大名に抗して武力蜂起をおこすというのはどう考えても異常事態であり、この教科書のような説明に違和感を覚えるのは私だけではないだろう。

広域の飢饉発生年とその要因

前回の記事で紹介した田家 康氏の『【異常気象】小氷河期が戦乱を生んだ』には、土一揆が多発した経緯についてこう記している。

「まず一四二三年に京都、越中、山城、大和で、そして一四二七年に、京都、会津、武蔵、下野、伊勢、丹波、豊前と各地に長雨や洪水の記録がある。一四二八年前半に三日病とよばれる疫病が発生し、応永から正長(しょうちょう)へと改元した理由となった。

 一四二八年には、京都、会津、下野、武蔵、伊勢、丹波、豊前で飢饉が発生した。そして同年八月、正長の土一揆が勃発するのだ。興福寺別当の尋尊が編集した『大乗院日記目録』には、「天下の土民蜂起す。徳政を号して、酒屋、土倉、寺院等を破却し、雑物等を恣(ほしいまま)にこれを取り、借銭等を悉(ことごと)く破る。管領これを成敗す。凡(およ)そ亡国の基であり、之に過ぐるべからず。日本開闢(かいびゃく)以来、土民蜂起の初めなり」と書かれている。もともと農業生産を向上させるための鉄製農具や農耕馬が、農民叛乱において武器と化していった

 一四三七年から二年続きの飢饉が発生し、嘉吉の徳政一揆の遠因となる。一四四一年六月に足利義教が赤松満祐(みつすけ)によって暗殺されると、新しい将軍はまず善政を示すべきとして、借入金の返済を見直す『代替りの徳政』を求める声が高まった。九月に入って、一揆の軍勢は近江から京都に乱入したのだ。室町幕府は、正長の土一揆では拒否した徳政要求に屈し、閏九月一〇日に徳政施行を発した

 一四四五年から一四四六年にかけても、洪水は加賀、能登、近江で起き、京都で『止雨奉幣』が祈られた。そして、一四四七年(文安四)に諸国の牢籠人が洛中に集まり、暴徒や悪党と結託して文安の土一揆が発生した。」
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1822?page=4

このままでは飢えて死ぬしかない瀬戸際に土一揆が起こっているのであって、農民が階級闘争をはじめたかのような『山川日本史』の歴史叙述が正しいとは思えないのだ。

京都で武装蜂起した土一揆はどんな人々が結集し誰が主導したかというと、田家 康氏の論文によると当時の文献からは2つのパターンがあるという。
1つは惣村が関与した土一揆で、京都の酒屋や土倉といった金融業者に押し入り、借入証文の破棄という私徳政を要求したもの。
もう一つのパターンは村主導のものだけでなく、飢饉の発生によって村を離れて流民となった人々が、自力救済の行動として食糧や物資を強奪したものである。

田畑を耕して家族の生活が維持できるのであれば、農民が村を離れることは考えにくい。農民が耕地を捨てて流民となるのは、余程の飢饉が起きたか、刈り取る前に作物を奪われるなどして、村にいても生きていくことが出来なくなるような事態に陥ったということだろう。

「シュペーラー極小期」の始期とされる応永27年(1420)に大規模な旱魃が起こり、畿内と西国が大凶作となり、また翌年には各地で深刻な飢餓と疫病に襲われて、さらに応永28年(1421)には飢えた人々が難民となって京に殺到したという。しかしながら、京の人々も食べるものが無くなって、餓死者が続出するに至る。

飢餓と戦争の戦国を行く

そして嘉吉3年(1443)に「嘉吉の大飢饉」が起こっている。しばらく藤木久志氏の『飢餓と戦争の戦国を行く』を引用させていただく。

「この年も京では『天下飢饉し、悪党充満す』(『看聞日記』)といわれ、大飢饉のため夜ごと高利貸が襲われ放火され、『みな強盗のせいだ』と言われます。『辺境』の村が飢えると、生き延びるため『京中』をめざし、ときには京の高利貸(土倉・酒屋・寺院など)や富商を襲います。諸国の領主や京の政権に、ほとんど危機管理の力量がなかった時代のことです。だから、かれら悪党や強盗の多くは、物乞いとならんで、周縁から京に流れ込んだ飢餓難民たちが、自力で生き延びる必死なサバイバルの道だったと私はみるのです。」(同上書 p.50-51)

さらに文安2年(1445)には各地を大きな台風が襲い、文安3年(1446)には大洪水があり、翌文安4年(1447)にも大風・洪水・旱魃から凶作となったために飢餓難民が京に流入し、さらに「徳政」を叫ぶ土一揆の大群も各地から京都を目指したという。

そして13年経って、長禄4・寛正元年(1460)冬から翌年春にかけて、「寛正の大飢饉」が起こり、この時も諸国の人々が食を求めて京に流入し、米穀の蓄えが底をついた寛政2年の春に、将軍足利義政が錢100貫文を放出して食物の施しを始めたが、多数の飢饉難民を前にほとんど効果なく、わずか6日ほどで打ち切ったという記録がある(『臥雲日件録抜尤』)。
また願阿(がんあ)という民間の僧が、「勧進」といって京の人々から金品の喜捨を募り、六角堂の一帯に仮小屋を立てて難民を収容し、日に二度、八千人もの規模で粟粥などの施しを始めたが、この施しも効果が乏しく20日ばかりで止めてしまった記録がある(『碧山日録』) 。
餓死者は鴨川にあふれて流れをふさぐほどで、五条の河原に300mもの長い堀を掘って埋葬したという。

一方で、京に流入した飢餓難民に仕事を与えてうまくいった事例もある。藤木氏は同上書でこう記している。

「15世紀の初め『天下大飢渇』といわれた飢饉のさなか、京の慈恩という金持が錢二百貫文もの私財を投げ出して、五条の大橋のかけ替えを始めると『富者は財(金銭)を施し、貧者は力(労働)を施し』たため、飢えた人々も仕事と食べ物にありつき、ぶじに大橋の再建も成った、といいます(『仲方和尚語録』)。また苔寺で知られる京都の西芳寺でも、同じころの大飢饉のさなか、難民を救うために『ただ人に物を食わせ、何のなすことも無うては、その身のためも悪い』と考えた僧が、荒れた庭を復旧しようと、飢えた人々をやとい、日ごとの働きに応じて食べ物を与え、めでたく庭もできた、といいます(『三体詩抄』)。」(同上書 p.55)

足利義政
【足利義政像】

将軍の足利義政は長禄・寛正の飢饉のさなかに「花の御所」の復旧をはたし、ついで六千万貫文もの資金を投じて、母のための御所の建造にとりかかったことについて、人民の苦しみをかえりみぬ暴挙として、天皇に批判されたという記録(『新撰長禄寛正記』)があるそうだが、藤木氏は飢饉であったからこそ、将軍は雇用創出の為に公共事業を起こして、難民たちに仕事を与えたという可能性を示唆しておられる。事実、将軍義政は寛正2年の春に五山の寺々に指示し、四条・五条の大橋で大がかりな「施食会」も開かせており、難民対策もしっかりと実施していたのである。

花の御所
【上杉本陶版『洛中洛外圖』に描かれた『花の御所』】

将軍の御殿造りも、寺の再興も、公共の橋のかけ替えも、金持の豪邸つくりも、みなこの生き残りの仕組みをうまく駆使した事業でした。それは、権力者や寺院や豪商が強引に手元へかき集めた巨富を、危機の世に放出し再配分するための装置だった、ともいえるでしょう
その結果、なにがしかの働き口と食べ物にありついた難民たちの一部は、かつがつ餓死をまぬがれ、彼らを救った坊さんは世に名僧と仰がれ、金持ちは『有徳の人』(徳のある人)と敬われ、その社会で地位を固めました。世の危機に私財を投じて事業を起こすのは、世の金持ちのとうぜんの務めで、それこそ『有徳の人』といわれたのです。」(同上書 p.57-58)

このような事例のある一方で、土一揆で多くの建物が襲われて取り壊されたりしたのだが、では、どのような建物が破壊のターゲットとされたのか。藤木氏の解説を続けよう。

「しかし、もしひどい不況や飢饉になっても、金持が蓄財をだし惜しんで『有徳の人』らしい務めを果たさなければ、世の中はだまっていませんでした。『有徳の人』に『徳』のある行いをつよく求め、実力で富をもぎとる行動に出たのです。その典型が、つぎにみる『徳政』をさけんだ土一揆で、その標的になったのは、土倉・酒屋・寺院など、京の富豪(分限者)たちでした。あいつぐ飢饉を背景に断続した徳政の土一揆というのは、世のサバイバルシステムを力ずくで作動させようとした、いかにも『自力』第一の中世らしい、自力救済の運動だった、と私はみるのです。」(同上書 p.58)

では、なぜ食糧の生産地である農村が先に飢えて、消費地である京に飢餓難民が殺到したのか。この謎について藤木氏は都市社会学者の藤田弘夫氏が提起した仮説を紹介しておられる。

もはや中世の村は、その生産物でまず自分の暮らしを立て、その余りを首都に移出するという、自然な自給自足の村ではなかった。ことに周縁の村々は、政権都市であり荘園領主の拠点都市である首都に早くから従属し、京に食糧や物産を供給する基地として、地域ごとにきまった作付け(モノカルチャー)が強制され、それを上納し販売することで、ようやく村の暮らしも保証されるようになっていた。
 だから、いったん凶作になると、この偏った需給システムをもつ生産地がまず飢えに襲われ、食を求めて生き延びるために、権力があらゆる富を集中させていた、首都をめざすことになったのだというのです。」(同上書 p.58-59)

藤木氏の『飢餓と戦争の戦国を行く』における15世紀のわが国の記述は、『山川日本史』よりもはるかに説得力を感じるのだが、残念なことながらこの本は絶版になってしまっているようだ。
近い将来、この時代の通史が階級闘争史観から全面的に書き改められる日は来るのだろうか。

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室町幕府の弱体化を招いた『応仁の乱』はなぜ起こったのか

前回まで2回に分けて応永27年(1420)以降に凶作や飢饉が相次ぎ、飢餓難民が京に流入しただけでなく、「徳政」を叫ぶ土一揆の大群が何度か京の街を襲い放火・掠奪を繰り返したのだが、室町幕府は有効な対策が打たないまま、『応仁の乱』が起きたことを書いた。

応仁の乱』は、最近の教科書ではどう記されているかが気になって、『もういちど読む山川日本史』で確認すると、こうなっている。

応仁の乱勢力地図

応仁の乱
義教死後の幕府は守護大名の勢力争いの場となり、やがて細川勝元と山名持豊(宗全:そうぜん)を中心とする二大勢力が抗争するようになった。両派は、将軍義政のあとつぎをめぐる弟義視(よしみ)と義政の妻・日野富子のうんだ義尚(よしひさ)との争いを中心に二つにわかれて争った

 このころの相続は分割相続から単独相続へと完全にかわり、家を相続した惣領(家督)の立場が強くなったぶん、その地位をめぐり、一族や家臣団がたがいに争うことが多くなった。こうした争いをつうじて下位のものの実力が強化され、実権は主人から下位のものへ移っていった。指導力を失い、権威のおちた幕府の力ではもはや家督争いを解決できず、二大勢力は東西に分かれてついに戦闘状態にはいった。
 戦乱は1467(応仁元) 年から11年間にわたってつづいた(応仁の乱)。戦場となった京都は、傭兵として使われた足軽の乱暴などで焼野原となり、戦乱のあいだに、貴族や寺社だけでなく幕府の没落・衰退は決定的なものとなった。諸国の荘園・公領は守護代や国人に押し取られ、京都に住むかつての支配層の生活の場と経済は、根底からくずされてしまった
。」(『もういちど読む山川日本史』p.121)

この教科書の「土一揆」の説明もそうだったが、この時期に凶作や飢饉が相次いだことを一言も書かず、また争いの原因となった将軍家の家督争いの問題や細川家と山名家の対立がなぜ生じたかについて、この解説ではさっぱりわからないので少し補足させていただこう。

室町幕府は守護大名による合議制の連合政権であり、成立の当初から概して将軍の権力基盤は弱く、将軍の力が強かったのは3代将軍足利義満と、第6代将軍足利義教の頃くらいなのだが、専制政治をしいて守護大名を抑えつけていた6代将軍義教が嘉吉元年(1441)に赤松満祐に暗殺されてしまう(嘉吉の乱)
そのあとを継いだ7代将軍は義教の嫡子である当時9歳の足利義勝だったが、1年足らずのうちに急逝してしまう。そこで義勝の同母弟のわずか8歳の足利義政が、畠山持国らに推挙されて将軍職に選出され、元服を迎えた文安6年(1449)に正式に第8代将軍に就任している。

足利義政
足利義政像】

義政は当初は幕府の運営に積極的に関与する姿勢をみせていたが、側近と守護大名の対立や、相次ぐ飢饉で難民が京都に押し寄せ、また各地で土一揆が勃発するなどの政治的混乱が続いて、次第に政治の世界に興味を失っていき、わずか29歳の時に将軍の座を弟に譲ることを決意したという。

Wikipediaにこう解説されている。
義政は29歳になって、富子や側室との間に後継男子がないことを理由に将軍職を実弟の浄土寺門跡義尋に譲って隠居することを思い立った。禅譲を持ちかけられた義尋はまだ若い義政に後継男子誕生の可能性があることを考え、将軍職就任の要請を固辞し続けた。しかし、義政が「今後男子が生まれても僧門に入れ、家督を継承させることはない」と起請文まで認めて再三将軍職就任を説得したことから寛正5年11月26日(1464年12月24日)、義尋は意を決して還俗し名を足利義視と改めると勝元の後見を得て今出川邸に移った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1

このように将軍義政は、将来男子が誕生しても僧門に入れることを起請文に認めるまでして将軍職を弟の義視に譲ることを約し、それによって義視は兄の望みどおりに還俗して、後見人には管領の細川勝元がつくことが決まったのだが、正式な譲位がなされないままやっかいな問題が起こってしまう。

日野富子
日野富子像】

義政の正室である日野富子が懐妊し翌年に男子を出産すると、富子は自分の子である義尚(よしひさ)を将軍にしたいと考えて、有力守護大名の山名宗全に後見を頼んでいる。
一方将軍義政は、妻の行動を止めることも無く、長きにわたり義視にも義尚にも将軍職を譲らずにあいまいな態度を取り続けたのである


細川勝元像(龍安寺蔵)
細川勝元像】

こうして足利将軍家の家督争いは、全国の守護大名を、足利義視・細川勝元の陣営と、足利義尚・山名宗全の陣営とに2分する事態となり衝突は避けがたいものとなっていった

細川勝元山名宗全はそれぞれ京都で兵を集めると、まず義政の側近たちを追放し、同時に諸大名たちを自軍に引きこもうと精力的に動き、畠山家、斯波家などの家督争いを巻き込んで、とうとう応仁元年(1467)に戦いが始まった。

山名宗全像
山名宗全像】

細川勝元は将軍の居所である室町殿(花の御所)を占拠し、山名宗全は自分の館に陣を構えて細川勢と対峙した。この時の陣の位置関係から、細川勢を東軍、山名勢を西軍と呼び、それぞれの陣を東陣、西陣と呼ぶのだが、「西陣織」で有名な京都の西陣地区は、この地域に応仁の乱の西陣があったことが地名の由来なのだそうだ。

将軍義政は側近を失ってからは政治への意欲を失っていき、幕政を日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなどもっぱら数奇の道を探求していったという。

応仁の乱

戦いは当初は東軍が将軍と朝廷を手中に収めて優勢であったが、中国・九州の守護大名・大内政弘が大軍を率いて西軍についたことで混沌としはじめ、文明5年(1473)には、細川勝元、山名宗全が相次いで他界し、それを期にようやく義政は将軍職を子の義尚へ譲って正式に隠居したのだが、それでも戦乱は終わらなかった。
結局、長い戦いに疲弊しきった両軍が文明9年(1477)に和議を結んで応仁の乱は終わっている

このような経緯を知れば、応仁の乱が起き、室町幕府の弱体化を招いた責任の大半は、将軍家の家督争いの原因を作りながら、それを解決させないまま争いを継続させた足利義政と妻の日野富子にあったことがわかる。教科書や通史ではなぜかこのような経緯をほとんど何も書かないのだが、このような経緯を知らなければ応仁の乱の勃発原因を理解することは難しい。

応仁の乱の被災地域

さて、応仁の乱の両軍の戦力については諸説あるが、Wikipediaによると東軍が16万、西軍が11万とあり、前回の記事で述べたとおりその大半が足軽などの雑兵であった。
彼らは戦争で勝利しても大名からの恩賞には与れなかったが、そのかわりにある程度の略奪や暴行が許容されていたことから、戦場などで盗んだものを売って生計の足しにしていたのである。この戦乱で京の都の大半が焼失してしまったという。

戦乱が続くのを嫌って多くの公家や僧侶が京を逃げ出し、地方の大名を頼って各地に分散し、地方の武士たちは彼らを喜んで迎え入れたことから中央の文化が全国に広がっていったことは良いことであったとしても、この戦乱で京の多くの文化財が失われたことは残念なことである。

さきほど文明9年(1477)に細川勢と山名勢との和議が成立して「応仁の乱」が終わったと書いたのだが、畠山氏の跡目争いはその後も続いたという。

応仁の乱を通して、畠山氏の当主の座と河内守護の役割は公式には畠山政長であったが、山名氏の支持を得た畠山義就が河内を実効支配していた。
文明11年(1479)に摂津で一揆が起り、細川勝元の子である細川政元が畠山政長とともにこれを制圧したのだが、政元が京へ引き上げた後に畠山政長は義就討伐の軍を進めている。ところが、義就軍は隙をついて山城に攻め込んで、南山城を占拠してしまうのである。

幕府と政長軍は文明17年(1485)に義就討伐軍を南山城に送り込み、再び戦いは膠着状態のまま3ヵ月が経過した
農民側にとっては、これまで繰り返し人夫・兵粮米が徴発され、田畑は荒らされ民家は戦いで焼き払われてしまって生活は苦しかったに違いない。南山城の地侍や農民たちは集会を開いて、畠山両軍に対して山城からの撤兵を要求した記録が残されている。

大乗院寺社雑事記

『日本大百科全書』の『山城国一揆』の解説にはこう書かれている。
『大乗院寺社雑事記』12月11日条によると、上は60歳から下は15歳に及ぶ国人が集会し、一国中の土民が群集して決められたという。この集会では、ほかに寺社本所領は直務として大和(やまと)以下他国の代官を入れないこと、新関をいっさいたてないことなどを掟法として定めた。さらに翌年2月には宇治平等院で再度の集会を開いて掟法の充実を図り、月行事を定めて自ら国を支配する体制を整えた。…」

かくして畠山両軍を追い出して守護不在となった山城では、住民たちによる自治が8年ほど続き、最後は政元によって制圧されてしまうのだが、これだけの期間にわたり広い地域が地域の住民の自治によって守られたことは『もういちど読む山川の日本史』にしっかり記されている。

「…守護大名家の家督争いは解決されなかったので、その後も守護大名間の争いは各地でくすぶった
 南山城(京都府)では守護大名の畠山氏が政長(まさなが)と義就(よしひろ)の2派にわかれて争っていたが、1485(文明17)年、同国の国人は宇治の平等院で集会をひらき、その決議により両軍を国外に退去させ、約8年間にわたる自治をおこなった(山城国一揆)。
 諸国にはこうした国一揆や土一揆がおこり、また主君を実力でたおす家臣がつぎつぎとあらわれ、世は下剋上の風潮を強めていった。」(同上書 p.122)

この教科書では山城国一揆はしっかり書いているのだが、国人が守護大名を退去させて自治をおこなったこの一揆と、「徳政」を要求して放火や略奪を繰り返して生き延びようとした人々が起こした「土一揆」と同一視するような記述はいかがなものか。

また、歴史学者の多くがこの時代のことを「下剋上」というキーワードで説明しようとするのだが、この言葉がこの時代の本質を表現するものとして適切であるのだろうか。
応仁の乱が終わってからも冷夏や干ばつなどで飢饉は各地で何度も起こっているのだが、普通に考えれば、凶作が続いて食糧が手に入らずこのままでは自分の家族全員が飢死するしかない様な危機的状態に陥ったならば、たとえ権力者に逆らってでも、あるいは法を冒してでも、食糧を手に入れようとする人々が各階層で出現することは、いつの時代でもどこの国でも、容易に起こりうることではないのか。

「飢え」が存在したという真実に目を塞ぎ、下位の者が上位者に従わず時には争った側面だけを見てこの時代を「下剋上の時代」と呼ぶのは、おそらくマルクス主義的な「階級闘争史観」と無関係ではないのであろう。一般書の多くは今もこの史観でこの時代が叙述され、この史観に都合の良い史実ばかりを採りあげて都合の悪い史実は伏されてしまっているのが現状だ。

教科書や通史は多くの人が読むものであるからこそ、もっと史実をありのままに素直に書いて欲しいものである

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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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