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武力解決派の挑発に乗ってしまった徳川幕府

前回の記事で、慶応3年(1867)12月9日の『王政復古の大号令』のあと、幕府の家臣や幕府軍の兵士が将軍・徳川慶喜のいる二条城に集まり、「薩摩を討伐せよ」と殺気立ったのだが、慶喜は「ここで戦端を開けば彼らの術中にはまって我らが朝敵とされてしまう」と、血気にはやる家臣達を鎮めることに努め、12日に二条城から大坂城に向かったことを書いた。

武力解決派は、強引なやり方で御所を占拠し政権を奪取したとはいえ少数派にすぎず、諸侯の大多数は平和解決を望んでいたという。では彼らはどう動いたのか。

山内容堂
【山内容堂】

9日の『王政復古の大号令』の出た夕刻に開かれた小御所会議で、『短刀』で発言を封じられた土佐藩の山内容堂は、12日に意見書を朝廷に奏上している。

鈴木荘一氏の『開国の真実』に、その内容が要約されているので紹介したい。

「いまや市中には薩・長・芸と会津・桑名の各藩兵らが対峙し、情勢は緊迫している。このまま日を過ごせば不測の禍乱(からん)が生ずるのは明白である。既に王政一新の基本はほぼ定まったから、すみやかに戒厳を緩め、議事制度を起こし、諸侯に会同を命じて、朝廷の御趣意は公明正大でいささかも偏頗(へんぱ)でないことを宣明せらるべきである。また慶喜が官一等を下り政府の経費を献上すべきは勿論であるが、慶喜にそうさせるのならば、諸侯一同もこれにならうべきである。」(『開国の真実』p.322)

この意見書を原文で読みたい場合は、『国立国会図書館デジタルコレクション』で徳富蘇峰の『近世日本国民史 第65巻』に出ているので参照いただきたいが、蘇峰の解説がわかりやすいので引用させていただく。

「公議と言うは、衆議である。衆議と言うは、多数決である。多数決と言えば、武力解決派から見れば、俗論である。故に彼等は口には公議を唱えるも、決して多数の俗論に一任するを欲しない。されば山内容堂の意見書は、直ちに彼らの弱点を撞いて、多数もて彼等の横暴を制せんと試みたのだ。…
 徳川慶喜はもとより諸侯の列に就くべき順序となりている。されど辞官、献地等のごとき問題は、単に命令もて、之を催告すべきものではない。すべからく松平春嶽に一任して、その宜しきを得せしめよ。朝廷はただ速やかに公議政体の実を挙げ、改革本来の目的に向かって進むべし
との意見だ。思うにこの意見は、穏和派のそれを代表したるものと見て大過なかるべく、土佐一派は、上に容堂あり、下に後藤象二郎ありて、専ら此事に周旋、奔走しつつあった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/212

このような意見書を出したのは土佐藩だけではなかった。
土佐が意見書を奏上した日と同じ12日に、阿波、筑前、肥後、久留米、盛岡、柳川、二本松、肥前、対馬、新発田の諸藩を糾合し、連名の意見書を二条城に届けている。

徳富蘇峰はその意見書の原文を紹介したのち、こう解説している。
あたかも申し合わせたるが如く、山内容堂の意見書と符合している。これは一面朝廷に向かって、寛裕、公平に、二条摂政、徳川内府等を措置せんことを勧告すると同時に、他面には岩倉、薩摩藩に対しての抗議である。而していわゆる『衆議の帰す所』は、山内容堂にとりても、彼らにとりても、その尤も味方とする所にして、彼等が公議もしくは衆議の一点張りもて、その楯(たて)ともなし、矛(ほこ)ともなし、これを以て最上唯一の武器としたるは、如何に多数が、彼等の味方であったかがわかる。
…もし、今日の議事法もて之を律せば、諸藩会議の結果は、おそらく穏和党の勝利に帰したであろうと察せられる
。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/214

薩長にとっては幕府方の会津桑名兵を挑発して、両藩を叩くことで旧体制を粉砕する目論見が外れたのみならず、諸藩からの意見書が出たことで方針転換を余儀なくされることとなった。

徳川慶喜
【徳川慶喜】

一方、徳川慶喜は、巻き返しをはかるべく様々な手を打っている。

鈴木荘一氏は『開国の真実』で、こう解説している。
「慶喜は既に12月9日頃、京都から江戸に急報を発し幕府陸軍部隊と幕府海軍の艦隊に来援を命じている。いずれも幕府が手塩にかけて育てた陸海の精鋭である。大坂城へ入った後も、慶喜は大坂から江戸に急使を遣わして更なる援軍を要請し、シャノワン等フランス軍事教官団にも大坂城への参集を求めた。援軍の要請を受けた江戸では緊迫した京都情勢が充分に伝わっておらず、リグン部員の動員は手際よくいかなかったらしいが、開陽、富士山丸、蟠龍丸など新鋭軍艦は12月下旬頃までに大坂港に集結したようだ。こうして慶喜は、大坂城を拠点として軍事的優位の確立を図った
 徳川慶喜は外交面でも手を打った。12月16日、イギリス、フランス、オランダ、プロシャ、イタリアの六ヶ国の公使を引見し、その席で小御所会議の結論を非難し、
『旗本・譜代諸藩は薩長の暴戻の罪を責め『兵を挙げる外なし』と自分に迫るが、自分から乱階を開くのは好ましくないから、ひとまず下坂した。自分は全国民と同心協力して正理を貫こうと願っているので、諸外国は日本の内政に干渉してはならない。自分は外交責任者として外国との条約を守る』
 と自分の立場を述べ、徳川政権の正当性を諸外国に認めさせた。国際社会から認められた政権が正統政権とみなされる。徳川慶喜はこうして岩倉具視や大久保利通等に対し外交的勝利を勝ち取った。

『納地』の問題も、大久保利通等の『徳川家の領地をすべて取り上げる』という主張はうやむやになってしまい、結局、徳川家と諸大名が所領の一定割合を朝廷費用のために献上する、という話にスリ替わった。しかも献上する費用の分担率は、徳川慶喜が主宰する諸大名会議で決定する、というように骨抜きとなった。こうなれば幕府にとって実害はない。
徳川慶喜は朝廷からの『辞官納地の諭書(さとししょ)』への返事として、ためらうことなく諒解の意思を示し、『辞官の儀は前内大臣と称すべく、政務御用途の儀は天下の公論を以て御確定あそばさるべし、との御沙汰の趣、謹んで承りぬ』
との『請け書』を朝廷に提出した。暮も押し詰まった12月28日のことである。」(同上書 p.323-324)

大阪城

このようにして徳川慶喜は二条城から大坂城に移って見事に巻き返しに成功したのだが、その後なぜ武力解決派が勢いづいたのか。その点については、大坂・京都から江戸に視点を移す必要がある。

当時幕府の幹部は大坂に詰めていて、江戸には佐幕藩の藩兵が市中取締りの警護にあたっていた。
一方薩摩藩は三田の薩摩藩邸を根拠地として倒幕・尊王攘夷の浪士を集めて、放火や掠奪・暴行を繰り返して幕府に対する挑発行為を繰り返していたという。

鈴木荘一氏の解説を続けよう。
「慶喜の大政奉還によって武力討幕の名分を失った西郷隆盛は、江戸市中攪乱により武力討幕のきっかけを作ろうとした
 相楽総三等は五百人からなる浪士団を組織し、富商・富豪に押し入って金品を強奪する非合法活動を行った。毎夜のように鉄砲をかかえ抜刀した正体不明の無頼の浪人集団が三十人、五十人と徒党を組んで押し入った。日本橋金吹町の公儀御用達播磨屋(はりまや)新右衛門方に押し入った賊は一万八千両の大金を強奪した。浅草蔵前の札差(ふださし)伊勢屋では、大胆にも舟で乗りつけた賊三十余人に襲われ、三万両を奪われる被害に遭った。こうした時節柄、充分な警戒を怠らなかった本郷追分の高崎屋も被害にあった。…
 このように毎夜のように富豪の町屋に押し入る正体不明の無頼浪人集団には三つの特徴があった。
第一は『御用金を申し付ける』と言うことである。第二は言葉に薩摩訛(なま)りがあることであった。第三の特徴は金品強奪後に逃げ込む先が薩摩藩江戸藩邸だったこと
である。」(同上書 p.325-326)

江戸市中取締りを命じられていた庄内藩主酒井左衛門忠篤は、幕府より薩摩藩を刺戟しないよう厳命されていたために強く取り締ることはしなかったのだが、それを良いことにして薩摩藩の非合法活動が一段と活発化していく。

「12月22日夜、江戸市中警護に当たっていた庄内藩屯所が銃撃された。翌23日未明には江戸城二の丸で不審火があり、薩摩藩の仕業による放火と噂され、同夜、三田の吹貫亭という寄席で休息中の庄内藩見廻隊に数十発の銃弾が打ち込まれる事件があり、薩藩浪士の仕業と見られた。
 幕府の弱腰を哄笑するような薩摩浪士の相次ぐ挑発に、隠忍自重してきた幕府も遂に堪忍袋の緒が切れ、老中淀藩主稲葉正邦は酒井左衛門忠篤に薩摩藩邸の焼打ちを命じた。
 庄内藩兵、上ノ山藩兵、岩槻藩兵、鯖江藩兵等からなる幕府軍は、12月25日早朝、浪士団の策源地である芝三田の薩摩藩邸を包囲して下手人の身柄を渡すように要求し、薩摩藩邸が拒否すると、狼藉の巣窟薩摩藩邸への攻撃を開始した。薩摩藩邸焼打ちである
。」(同上書 p.326-327)

薩摩藩邸焼打ち
【薩摩藩邸焼打ち】

京都では徳川慶喜が幕府軍から戦端を開くことを決して許さなかったのだが、江戸の幕府軍は何度も繰り返される薩摩の挑発に乗って、薩摩藩邸を攻撃し焼打ちしてしまったのである。

事件の詳細が大坂城に伝わったのは12月28日で、この時徳川慶喜は、薩摩討つべしと沸きあがる城内の声を抑えることができなかったようだ。

『昔夢会筆記』

徳富蘇峰の『近世日本国民史 第66巻』に、慶喜の回想録である『昔夢会筆記』が引用されている。

「此の時予(慶喜)は風邪にて寝衣のまま幕中にありしに、板倉伊賀守来りて、将士の激昂大方ならず。此のままにては済むまじければ、所詮帯兵上京の事なくては叶うまじき由を反復して説けり。

予は『此の如き有様にては、戦うとも必勝期し難きのみならず、遂には徒に朝敵の汗名を蒙るのみなれば、決して我より戦いを挑むことなかれ』と制止したり。…
 されども、板倉、永井等は、頻りに将士激動の状を説きて『公もし飽くまでも其の請を許し給わずば、畏けれども公を刺し奉りても、脱走しかねまじき勢いなり』という。予は…制馭力の及ばざるを嘆ぜしが、江戸にて藩邸を討ちし後は、尚更城中将士の激動制すべからず。遂に彼らは君側の姦を払う由を、外国公使にも通告して、入京の途に就き、かの鳥羽・伏見の戦いを開きたり。
…予は終始大坂城中を出でず、戎衣をも着せず、唯嘆息し居るのみなりき。此の際の処置は、予ももとより宜を得たりとは思わざりしも、今にていえばこそあれ、当時の有様にては、実にせんすべも尽き果てて、形の如き結果に立ち至りしなり
。」(『昔夢会筆記』)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/162

このように慶喜は、この時も戦うことを望まなかったようなのだが、周囲がそれを許す状況ではなかったために、京に向かって薩摩を討つことを認めてしまったという。

しかしながら、幕府軍は動かなくとも武力解決派を追い詰めることは可能であったはずだ。

福地源一郎
【福地源一郎】

海外留学を経験した福地源一郎は29日に、同志を代表してこのような意見書を若年寄の平山省斎に提出している。
「…唯今の如く、阪城に御座あって、海は軍艦を以て兵庫、大阪の両港を封鎖し、陸は西宮より街道に沿いて胸壁を築き、淀川の通路を止め、守口、枚方に堡寨(ほうさい:とりで)を築かせて、厳に之を守りたまうべし。然る時は京都に駐在せる薩長の兵は、居ながらにして屈し、戦わずして走るか、然らずば討て出るに相違なし。是れ上策と仕り候う
 もしこの策を御採用なくば、将軍家には断然直ちに御東帰遊ばされ、阪城には伝習兵ならびに会・桑の逞兵を置かれて留守せしめ、枚方を限りに備えを厳にし、淀川を扼し、軍艦を以て摂海の出入りを止めらるべし。是れ関以西を敵地と見做してその動静に応じ、逸を以て労を俟つ謀にして中策と仕り候うなり。
両條とも御採用なされ難くて、是非とも引兵御上京との御議ならば、鳥羽、伏見、淀の諸所に兵を分て、分期攻入の策は尤も宜しからず。須らく山崎街道の一口より突入たまうべし。京都へ攻め入るの用兵道路はこの外に候わず。是を下策と仕り候うなり。只今の御軍配の如きは、殆んど無策と候えば、右三策の内を選びあそばさるべし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/164

平山省斎
【平山省斎】

福地の意見の通り、兵庫と大阪の両港を封鎖し、街道の通路を止めれば京都の武力解決派はそのうち干上がっていたはずだったのだが、大坂城中は主戦論一色でこのような意見を相手にする者がおらず、福地は「死を決して」この意見書を平山省斎に提出したという。しかしながら、この平山という人物は強硬な主戦派で、出した相手が悪すぎたようだ。

幕府には人材はいたのだが、慶喜の周囲に冷静に戦略を練ることができ、慶喜を支える知恵者がいたのだろうか。
もし福地源一郎のような人材が慶喜の近くに仕えていて、慶喜が早い時点からその意見を取り入れて京都を経済的に締上げ、かつ武力解決派の挑発に最後まで乗らなかったとしたら、その後のわが国の歴史は随分異なるものになっていたかも知れない。

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