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鉄砲伝来の翌年に鉄砲の量産に成功した日本がなぜ鉄砲を捨てたのか~~その1

中学・高校で日本史を学んだときに腑に落ちなかったことがいくつかあった。

例えば、何故日本は西洋諸国の植民地にならずにすんだのかということ。もう一つは、何故日本はその後に鉄砲を捨てて刀剣の世界にもどったのかということなどである。

16世紀に来たポルトガルやイスパニアに日本侵略の意思があった記録はいくつか読んだことがあるが、なぜ日本はその時に西洋諸国の侵略を免れることが出来たのか。単純に海があったからというのでは、フィリピンが同様の時期にスペインに征服されたのをどう説明すれば良いのだろうか。

また、西洋諸国が植民地を拡大している時代に、鉄砲を捨てたような国は日本の他に存在するのだろうか。
もし日本が鉄砲を捨てていなければ、江戸時代から明治にかけての日本の歴史は随分異なったものになっていたはずである。


鹿児島県の黎明館という施設で常設展示されている薩摩藩の南浦文之(なんぼぶんし)和尚の「南浦文集」の中に、慶応11年(1601)に書いた「鐡炮記(てっぽうき)」という記録があり、そこに鉄砲の伝来の経緯から国内に鉄砲が伝わる経緯が書かれている。

その記録によると、
天文12年(1543)8月25日、種子島の西村の浦に大きな外国船が漂着し、その中に漢字を理解できる五峯(ごほう)という人物がいたので筆談をし、その船に乗っていた商人から鉄砲と言う火器を、領主の種子島時尭(ときたか)が二挺購入した。
下の画像は種子島にある時尭の銅像である。



種子島時尭は家臣に命じて、外国人から火薬調合の方法を学びまた銃筒を模造させたのだが、銃尾がネジのついた鉄栓で塞がれていてその作り方がわからなかった。
そこで、翌年来航した外国人から八板金兵衛がその製法を学び、ようやく鉄砲の模造品が完成し、伝来から一年後に数十挺の鉄砲を製造することが出来たという。
その後、種子島を訪れた紀州根来の杉坊(すぎのぼう)や堺の商人橘屋又三郎が鉄砲と製造法を習得して持ち帰り、近畿を中心に鉄砲の製造が始まったそうだ。

最初に種子島に漂着した船にいた「五峯」とは、肥前の五島を根拠地に倭寇の頭目として活躍した海賊の王直の号であり、王直は中国安徽省出身であったこともわかっているそうだ。王直はその後、鉄砲に不可欠な火薬の燃料である硝石を中国やタイから日本にもたらして、交易で巨利を得たという。

鉄砲の製造と使用は急速に広まり、1570年に織田信長と戦った石山本願寺の軍は8000挺の銃を用いたといい、1575年の長篠の戦いでは、織田・徳川連合軍は1,000挺ずつ三隊に分かれて、一斉射撃を行って武田の騎馬隊を打ち破ったことは有名な話である。

米国のダートマス大学教授ノエル・ペリンの「鉄砲を捨てた日本人」(中公文庫)という本にはこう書いてある。

「…アラビア人、インド人、中国人いずれも鉄砲の使用では日本人よりずっと先んじたのであるが、ひとり日本人だけが鉄砲の大量生産に成功した。そればかりか、みごと自家薬籠中の武器としたのである。」(p35)

「…今日もそうだが、日本は当時も優れた工業国であった。…日本で、もっとも大量に製造されていた物がなにかというと、それは武器であって、二百年ぐらいは世界有数の武器輸出国であった。日本製の武器は東アジア一帯で使われていた。」(p38-39)

「少なくとも鉄砲の絶対数では、十六世紀末の日本は、まちがいなく世界のどの国よりも大量にもっていた。」(p63)



「たとえばイギリス軍全体をとってみても、その鉄砲所有数は、日本のトップの大名六名のうちどの大名の軍隊と比べても少なかった。…1569年イギリス枢密院がフランス侵攻の際に動員できるイギリス全体の兵隊と武器の数を決定すべく総点検を行った時のことだ、…フランス大使はスパイを通じてその情報をつかみ、「機密にされている兵隊の集計値」は二万四千、そのうち約六千の者が銃を所持している、とパリに報告した。」(p160-161)
「1584年、…戦国大名の竜造寺隆信が島原方面で有馬晴信・島津家久と対戦したが、率いていた軍勢は二万五千、そのうち九千が鉄砲隊であった。…」(p162)

すなわちイギリス国全体の軍隊の銃の数よりも肥前国の竜造寺氏の銃の数の方が五割も多かったのだ。しかも日本は独自の工夫により銃の性能を高め、「螺旋状の主動バネと引金調整装置を発達させ」「雨中でも火縄銃を撃てる雨よけ付属装置を考案し」、当時のヨーロッパにおける戦闘と比較して、「武器においては日本人の方が実質的に先行していたのではなかろうか」とまで書いてある。


鉄砲だけではない。刀も鎧も日本の物の方が優れており、ヨーロッパ製の剣などは日本刀で簡単に真っ二つに切り裂かれるということが正しいかどうかを実験した人がいるそうだ。 「今世紀(20世紀)の武器収集家ジョージ・キャメロン・ストーンが、16世紀の日本刀によって近代ヨーロッパの剣を真二つに切る実験に立ち会ったのがそれだし、また15世紀の名工兼元(2代目)の作になる日本刀によって機関銃の銃身が真二つに切り裂かれるのを映したフィルムが日本にある。」(p41)

この本を読むと、日本が西洋の植民地にならなかった理由が見えてくる。
前々回の記事でこの当時日本に滞在したイエズス会の宣教師が日本を絶賛した記録が残っていることを書いたが、この本にも当時に日本に派遣された外国人が、日本の方が先進国であると書いている記録が紹介されている。

「十六世紀後期に日本に滞在していた…宣教師オルガンティノ・グネッチは、宗教を措けば日本の文化水準は全体として故国イタリアの文化より高い、と思ったほどである。当時のイタリアは、もちろんルネッサンスの絶頂期にあった。前フィリピン総督のスペイン人ドン・ロドリゴ・ビベロが1610年、上総に漂着した際にも、ビベロの日本についての印象は、グネッチと同様の結論であった。…」(p45)
と、著者が根拠とした文献とその何ページにそのことが記載されているかについて詳細な注が付されている。
この本の巻末には、著者の注だけで24ページ、参考文献のリストに11ページも存在し、ノエル・ペリンだけが特異な意見を述べているのでないことがわかる。世界にはこの時期の日本の事が書かれた書物が色々あるようなのだが、参考文献のほとんどが邦訳されていないのが残念だ。

この本を読んでいくと、この時代において鉄砲でも刀でも文化でも日本に勝てなかった西洋諸国に、日本を征服できることは考えられなかったことが見えてきて、日本人なら少しは元気になれるというものだろう。

しかしこの本のような記述は、私が学生時代以降に学んできた歴史の印象と随分異なる。戦後日本の歴史教育は、日本の伝統技術や文化水準に正当な評価を与えているのであろうか。この本のように当時の日本のことを丁寧に調べた書物ですら、我が国であまり注目されていないのは随分おかしなことだと思う。

私は、戦後の長い間にわたって、自虐史観に合わない論文や書物が軽視され続けてきたという印象をもつのだが、ペリン氏がこの著書で参考文献に挙げた海外の書物が邦訳されるのはいつのことなのだろうか。
<つづく>

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鉄砲の量産に成功した日本が何故鉄砲を捨てたのか~~その2

前回は鉄砲伝来の一年後には種子島で数十挺の鉄砲を製造し、その後紀州や堺で鉄砲の大量生産が始まり、十六世紀の末には世界最大の鉄砲所有国となっていたばかりではなく、鉄砲の性能も、刀も鎧も日本製の方が優れていたし、文化水準も西洋よりも高かったことを当時日本を訪れた多くの外国人が記録していることを書いた。

しかし、その後日本人は鉄砲を捨てて刀剣の世界に舞い戻っている。これは何故なのか。
ノエル・ペリン
前回紹介したノエル・ペリンの「鉄砲を捨てた日本人」では、こう書かれている。

「…目標を定めた一千発の一斉射撃は、周章狼狽していようが泰然自若としていようが、敵とあらば見境いなく、相手を声も届かぬ離れた地点から撃ち殺した。鉄砲に立ち向かう場合、勇敢さはかえって不利になり、攻守ところを変えて自分が鉄砲隊になると、…鉄砲隊何千の一員として、攻撃を仕掛けてくる敵を掃討するべく土塁の背後で待ちかまえておればよいわけだ。それには大した技術もいらない。技量が問われるのは、今や兵士ではなく、鉄砲鍛冶と指揮官たる者に変わったのである。…ともあれ、鉄砲を持つ農民が最強の武士をいともたやすく撃ち殺せることを認めるのは、誰にとっても大きな衝撃であった。」(P63)

長篠の合戦の後まもなく、鉄砲に対する二つの態度が現れはじめる。戦国大名は大量の鉄砲を購入しつつも、自らは鉄砲を使って戦おうとはしなかった。

「武士の戦闘は刀、足軽のそれは鉄砲という分離は、もちろん、うまくいくはずのものではない。刀か鉄砲か、この二つは対立し続けた。」(p64)

豊臣秀吉
最初に鉄砲を統制しようとしたのは関白太政大臣の豊臣秀吉とノエル・ペリンは著書で指摘している。

教科書では天正16年(1588)年に「刀狩令」が出ている。この命令は刀や槍などを農民から没収しただけではなく鉄砲も没収対象に入っている。

原文では
「一、諸国百姓、刀、脇差、弓、やり、てつはう(鉄砲)、其の外武具のたぐひ所持候事、堅く御停止候。その子細は、入らざる道具をあひたくはへ、年貢所当を難渋せしめ、自然一揆を企て、給人にたいし非儀の動きをなすやから、勿論御成敗有るべし。然れば、其の所の田畠不作せしめ、知行ついえになり候間、其の国主、給人、代官として、右武具悉く取りあつめ、進上致すべき事。」とある。

秀吉は方広寺の大仏建立のための釘・鎹(かすがい)にすることを口実に、農民からこれらの武器を集め、農民の一揆を防止するとともに兵農分離を進めたのだが、そもそも方広寺の大仏は木造であったので、それほどの鉄が必要なはずがなかったのだ。

しかしヨーロッパには秀吉の刀狩令のようなものはなかった。しかし、鉄砲によって殺される人数や早さが増大したことから、鉄砲や銃について統制すべきと意見は根強くあったようだ。

例えば、
「大砲と火器は残忍で忌まわしい機械です。それは悪魔がじかに手を下した仕業だと信じます」(マーティン・ルター)
「あわれ、立派な勇士たちが、ごろごろ、卑怯な飛び道具で生命を落とさねばならぬ、なんという遺憾、…こんな下等な鉄砲なんてものさえなけりゃ、拙者だとても立派な軍人になっていましたろうに。」(シェイクスピア「ヘンリー4世」)

にもかかわらず、ヨーロッパではそれから後に急速に火器を発達させていくのだが、日本はでは逆に火器の統制に入っていく。

徳川家康
慶長12年(1607)に徳川家康は国友の鉄砲鍛冶年寄4名を侍身分にとりたてて、鉄砲鍛冶の管理に関わる法度を申し渡している。
「…一、諸国より大小の鉄砲多く誂候はば、早速相届け申すべきこと
   ならびに惣鍛冶新筒受け取り候はば、年寄へ相届もうすべきこと」
一、 鉄砲職分の者猥(みだり)に他国え出で候こと堅く無用たること
一、 鉄砲細工猥に余人へ相伝え申すまじきこと
一、 鉄砲薬調合のこと、ならびに力様薬込、年寄の外、他見他言すまじきこと…」

これらの規則が遵守されるように鉄砲代官が任命され、この年から鉄砲は徳川幕府の許可がなければ製造が出来なくなったのである。
鉄砲代官は幕府の注文以外はほとんど許可しなかったので、国友の鉄砲鍛冶の生活はまもなく困窮し始め、かなりの者が刀鍛冶となったそうだ。

では、なぜ日本だけが鉄砲を捨てて旧式の刀剣の世界に戻ったのか。その理由について、ノエル・ペリンは少なくとも5つあると書いている。
要約すると、
1. 日本では武士が総人口の7~10%を占めており、ヨーロッパのどの国の騎士団よりも規模が大きかった。(イギリスで0.6%程度。ヨーロッパではどの国も、優に1%を超える国はなかった。)
2. 日本の武力および自然的条件から外国からの侵略が難しく、日本の国家的統合の維持は通常兵器で充分であった。
3. 日本の武士にとって刀剣は戦いの武器にととまらず、「武士の魂」であった。
4. 外国人の思想、わけてもキリスト教と商業に対する西洋人の態度が受け容れがたいとする潮流が存在した。
5. 刀剣が飛び道具よりも品位の高い武器と考えられていた。

ということだが、あまりピンとこないところがある。

川勝平太
この本の訳者は現静岡県知事の川勝平太氏だが、氏の「鉄砲が動かした世界秩序」(「地球日本史1」所収)という論文では、ノエル・ペリン挙げた理由では隔靴掻痒の感が否めないとして、朱子学の影響を指摘しておられる。

藤原惺窩
その論文によると、秀吉の起こした文禄・慶長の役で連行された捕虜の中に朱子学者の姜沆(きょうこう)と言う人物がいて、相国寺の禅僧藤原惺窩(ふじわらせいか)は彼と深く交わり朱子学者に転向し、惺窩の作とされる「本作録」の序に「天下国家を治むる御心持の次第」七条が書かれており、それが徳川幕府に大きな影響を与えたという。

要するに藤原惺窩は、戦国の世が終わり、これからの時代は文治主義でなければならないと説き、徳川幕府は朱子学を公認して統治哲学とした。惺窩の門下の林羅山は徳川家康に仕えた後四代将軍家綱まで侍講をつとめ、林家を軸に昌平坂学問所が作られ、各藩はそれを真似て藩校を設立した。

朱子学の統治哲学とは、統治の正当性の源泉は力ではなく、徳である。徳を積めば身が修まり、家が斉い、国が治まり、天下は泰平になるというものである。

川勝氏は紹介した論文でこう書いている。
「17世紀前半、ヨーロッパにグロチウスが戦争を世界観の柱にして国際法を構想したとき、日本では惺窩、羅山が朱子学をもとに徳治を説き、それを統治の根幹に据えたのである。『文明(華)』を柱にした日本の世界観と、『戦争』を柱にしたヨーロッパの世界観とはユーラシア大陸の両端でほぼ同時に生まれ、前者は徳治にもとづく軍縮の道、後者は覇権にもとづく軍拡の道を歩んだ。」

「国際法を遵守しないような国は野蛮だ、というのは今日の常識である。だが、日本は、『戦争と平和』の世界観に基づく国際法を受容するまでは野蛮であったのか。否、それどころかまさに『華(文明)』意識のまっただ中にいた。
 徳川社会は天下泰平を楽しみ、戦争とは無縁の時代であった。戦争を柱とする世界観を持っていなかった。世界を弱肉強食の修羅場とみる見方を明治日本人はヨーロッパから受容することによって、日本人はその世界観に合った現実を自らつくった。日清戦争、韓国併合、第壱次世界大戦の戦勝、日中戦争の泥沼も、惨憺たる配線もその結果である。
 たとえ、それが他に選択の余地のないコースであったにせよ、鉄砲が生み出した西洋起源の世界秩序が、その成立の由来と、軍拡・戦争の歴史に照らすとき、文明の名に値するものかどうかは疑いうる。」

日本は鉄砲を捨てて、平和で豊かな国づくりを目指した。
17世紀半ば、江戸の人口が50万人になろうとする時には神田上水に続いて玉川上水が完成したが、ニューヨークで最初の水路が完成したのは日本に二世紀も遅れ、1842年の事であった。
日本の刀剣の世界に舞い戻っている間に西洋では軍事技術が進み、日本は軍事の分野で大きく西洋諸国に立ち遅れてしまった。そのためにペリー来航以降大きく日本の歴史が動くのだが、日本が全てにおいて西洋諸国に劣っていたのであれば、この時期に植民地化してもおかしくなかった。
幕末から明治期にかけて多くの外国人が日本に訪れ様々な記録を残しているが、当時の日本を高く評価している記録が少なくない。

ノエル・ペリンは、エドワード・モース、ヘンリー・ヒュースケン、タウンゼント・ハリス、ラザフォード・オールコック等の著書を引用しながら、明治期の日本は治安だけでなく保健・衛生面においても優れており、人々は道徳的で品位があり、豊かな生活をしていたことを紹介している。

ノエル・ペリンはこの著書を通して、核兵器による人類破滅の危機を憂慮し、以前は世界的に優れた軍事技術に到達しながら当時の最先端の兵器を放棄した日本の経験に学んで、核兵器を放棄できないのか、そしてそのお金を国民が豊かになるために投資すべきではないかと問うているのだ。

原爆
そして問うている相手はどこかというと、ノエル・ペリンの母国のアメリカをはじめとする軍事大国だろう。
日本で鉄砲を捨てたのは、当時は日本が世界有数の軍事大国であり、あわせて最高権力者の軍縮命令があったからこそできたのであって、権力者からのそのような命令がなくしては、どこの藩も自主的に単独で軍縮などできるはずがなかったことは明らかである。

今の軍事大国が、徳治にもとづく軍縮の道を協議し、共同歩調で大量破壊兵器の縮減を選択する日は将来訪れるのだろうか。
彼らは将来、全世界をどういう方向に導こうとしているのか。彼らは自国の版図を広げようと虎視眈々と狙っている狡猾な国なのか、世界中に紛争の種を蒔いて兵器産業の金儲けに加担している野蛮な国なのか。
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熾烈を極めた「文永の役」の戦闘でよく闘った鎌倉武士たち~~元寇その2

前回は、蒙古軍が最初に日本を攻めてきた「文永の役」については、元や高麗の史料を見る限りでは「神風」が吹いて蒙古撤退させたとは考えにくく、最近の教科書では「神風」が出てこないことを紹介した。また当時の日本側の史料には「神風」が吹いて蒙古軍を撤退させたとする記録があるのは、幕府にとっても、また幕府の要請を受けて「蒙古退散」祈祷してきた寺社にとっても、「神風」があったことにした方が都合が良かったからではなかったか、ということを書いた。

いつから教科書の内容が変わったのかは良くわからないが、私も含めて、二度とも暴風雨が蒙古軍を退散させたと学んだ世代にとっては、元寇については大規模な戦闘は行われなかったし、わが国には大きな被害はなかったというイメージが強いのではないかと思う。

しかし「文永の役」に「神風」が吹かなかったことを知ってから、「元寇」のことをもう少し詳しく知りたくなって調べてみると、日本側の被害は結構大きかったし、鎌倉武士も良く戦ったことを知った。今回は、今の教科書にもほとんど書かれていない「元寇」の実態について書くことにしたい。

文永五年(1268)ジンギスカンの孫の世祖フビライ・ハンが高麗を通じて日本に国書を送ってきたが、当時17歳の執権北条時宗は国書の内容が無礼だとして黙殺し、その後も元は数年間にわたり何度か使者を送るも日本側が無視したため、怒ったフビライ・ハンは日本への武力進攻を命令する。

フビライ・ハンは高麗に命じて艦船を造らせ、この時高麗はわずか半年で大小900艘といわれる船を突貫工事で完成させたそうだ。

文永11年(1274)10月3日[旧暦:以下同じ]に、元・高麗連合軍は朝鮮半島の合浦(現在の大韓民国馬山)を出発した。連合軍の構成は『高麗史』によると蒙古・漢軍25千人、高麗軍8千人、高麗水夫6700人で総数は約4万人の規模であった。

文永の役ルート

連合軍は二日後の10月6日に対馬に上陸。対馬守護代宗資国は八十余騎で応戦するが討ち死にし、元・高麗連合軍は周辺の民家を焼き払って対馬全土を制圧した。対馬が襲われたことは、助国の郎等小太郎・兵衛次郎のニ人は急遽小舟を操って博多に渡りこの顛末を注進したという記録が残っている。

ついで連合軍は10月14日には壱岐に上陸した。守護代・平景隆は百騎で樋詰城に立て籠って応戦したが、翌日に攻め落とされて城内で自害した。

その後、10月16日から17日にかけて元軍は平戸・能古・鷹島を襲撃し、松浦党武士団を粉砕した。
これらの侵略地において、連合軍が暴行を働いた記録が残されている。

例えば日蓮宗の宗祖である日蓮の記録にはこう書かれている。
「去文永十一年大歳庚戌十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ總馬尉等逃ケレ ハ、百姓等ハ男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是、船オシ ヨセテ有ケルニハ、奉行入道豊前前司ハ逃テ落ヌ、松浦党ハ数百人打レ、或ハ生取ニセラレシカハ、寄タリケル浦々ノ百姓共、壱岐・対馬ノ如シ…」(「高祖遺文録」)
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8071/genko/s_1/kamakuraibun_11896.html

元蒙古連合軍のために、百姓ら男は殺されたり生け捕りにされ、女は一箇所に集めて掌に穴をあけられ革ひもを通して船に結いつけられたり生け捕りにされて、一人も助からなかったと書かれているのだ。

この記述はわずかの生き残りの証言をもとにして書かれたものかどうかは不明だが、「掌に穴をあけて革ひもを通す」という行為については、「日本書紀」巻第二十七の天智天皇二年六月に「百済王豊璋(ほうしょう)は、福信に謀反の心あるのを疑って、掌をうがち革を通して縛った」という記録があり、大陸ではこのようなこと残虐行為が古くから行われていたということなのだろうか。

話を文永の役に戻そう。対馬、壱岐、平戸、能古、鷹島を襲撃したのち、元・高麗連合軍は、10月19日夕刻に大宰府を目指して博多湾に侵入した。

九州での戦いの概要はわが国の同時代の文書では『八幡愚童記』に記述されているそうだが、前回の記事で紹介した三池純正氏の『モンゴル襲来と神国日本』や『元史』『高麗史』を参考に纏めてみよう。

蒙古軍の銅鑼

日本軍の悠長な戦い方とは違い、先鋒を務めた高麗軍は集団戦法で「太鼓をたたき、銅鑼を撃って時を作」るというもので、集団で鳴らす太鼓や銅鑼の音に日本軍の馬は跳ね狂って使い物にならなかったようだ。
また、「蒙古の矢は短いとは云っても、矢の根っこに毒が塗られ」ており、その矢が間断なく発射され日本軍を苦しめた。

蒙古襲来絵詞

しかも、高麗軍らは「逃げる時は鉄砲を飛ばして暗くし、その音が高く鳴り響くので」日本軍は「心を迷わして肝を失って、目も耳も塞がれて茫然と」するばかりだったそうだ。
てっぱう

この「鉄砲」とは、上の画像のようなもので、中に火薬を詰めて点火した後に相手に投げつける武器で、鉄製と陶器製のものがあったそうだ。

このような武器を用いて、元・高麗連合軍が日本軍よりも強かったことは間違いない。『元史』では「日本を打ち破った」と書き、『高麗史』では「倭は却走し、伏屍は麻の如く、」と戦いに勝利したと書いており、日本軍は戦闘には負けていたようだ。

蒙古兵撃退す

しかし日本の武士もよくがんばった。
『八幡愚童記』には、肥後国の御家人菊地次郎が敵陣に必死に切り込んで、多数の敵の首を取って凱旋したことや、肥後国の御家人竹崎季長はたった5騎で敵軍に突撃したことなどが書かれている。
またいよいよ蒙古軍の大将らしき大男が十四五騎を引き連れて本陣まで迫ってきたとき、日本軍の大将小弐景資(しょうにかげすけ)は「馬に乗って、一鞭売ってその前に姿を現し、その大将を見返ってよく引き放った矢が一番に駆けだした大男の真中を貫き、(大男は)逆さに馬から落ちた」と景資の放った矢が命中したも書かれている。

この話は日本側の創作話ではなく、「高麗史」にも「劉復亨(りゅうふくこう)、流矢に中(あた)る。先に船に登り、遂に兵を引きて還る。」と書いてある。劉復亨は蒙古軍の左副元帥であり、副総司令官という地位の人物であるが、先に戦場を離れ元に戻っている。

日本軍は本陣も破られて大宰府まで退いていき、大勢は元・高麗連合軍の勝利に帰していたのだが、元・高麗連合軍の戦闘における損害も小さくなかったし、ここまで戦うのにかなりの武器を使ってしまった。

そこで前回の記事の連合軍の作戦会議に戻る。『高麗史』によると高麗軍司令官の金方慶は抗戦論を唱えたのだが、元の最高司令官が「…味方の敗残兵(原文:疲乏之兵)を掻き集めて挑んでも、刻々と増強される優勢な日本軍(原文:敵日滋之衆)には抗し得ず。退却するより他無し。」と却下し、「全軍退却(原文:遂引兵還)」が決定されたのである。 『元史』では撤退の理由を「統率を失い、また矢も尽き」と書いている。武器が底をつけば、これからまだまだ繰り出される日本軍には全滅することになると考えるのは当然ではないのか。

日本の武士たちは敵軍の予想以上に勇敢であり、強かったのである。だから敵軍は撤退したと考えるのが妥当だろう。
元の総司令官である忻都は文永の役後にフビライ(元の世祖)にこのような報告をしたと言う話があるそうだ。(『元韃攻日本敗北歌』)
「倭人は狠ましく死を懼れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。」
本当に忻都が言ったかどうかはわからないが、そういう話が元に伝わっていると言うことは興味深い。

文永の役については敵軍が撤退を決定したのち、帰路で強い風が吹いたことは前回に書いたので繰り返さない。
大風が日本を救ったなどという誤った歴史解釈が長い間日本人の常識になっていたのだが、そのような考え方がこの戦いで犠牲になった対馬や壱岐等の人々のことや、武士が奮戦して敵軍の退却を決断させたことを風化させてしまい、元・高麗連合軍は多くが日本人の人質を本国に持ち帰ったという事実をも忘れさせてしまった。

元寇の真実を知り、日本の領土が多くの人の努力と犠牲によって守られてきた歴史について、もっと知ることが必要だと思う。政治家や官僚やマスコミがこういう歴史を熟知していれば、尖閣諸島や北方領土の問題などの対応や論評がもう少しまともになるのだと思う。

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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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    三田村武夫の 『戦争と共産主義』復刻版

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    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史















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