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「観音の里」長浜の桜と文化を楽しんだあと、徳源院や龍潭寺、井伊神社を訪ねて

鶯の鳴き声で目が覚めて、清々しい朝を迎えた。
昨日の夕刻から降り出した雨も上がり、今日は存分に桜が楽しめそうだ。

長治庵の朝食を終えて、最初に向かったのは渡岸寺観音堂(長浜市高月町渡岸寺50:0749-85-2632)だ。

「渡岸寺(どうがんじ)」というと誰でも寺の名前だと思ってしまうところだが「渡岸寺」は地名であって、寺の名前は向源寺(こうげんじ)だという。
もしかすると、その「渡岸寺」という名の寺が以前は存在したのかもしれないが、記録には残されていないようである。

渡岸寺観音

広い境内の奥に本堂があり、内陣の中央には平安時代後期の木造阿弥陀如来座像が安置されているのだが、この本堂の横に収蔵庫があり、その中に、有名な木造十一面観音像(国宝)が安置されている。

向源寺木造十一面観音像

内部の撮影は禁止されているので、ネットで公開されている画像を紹介するが、この仏像の素晴らしさはとても画像では伝えることができないし、言葉で表現することも難しい。
頭上に11面の小面が実にバランスよく配置されて、わずかに腰をひねっている姿勢が、どんな角度から眺めても美しく、観ていて飽きないのである。

長浜市に限らず、湖北地方は仏教文化財が多く、特に観音菩薩像がほとんどの集落にあって、長い間それぞれの村人たちによって大切に守られてきた。
4年前にこのブログで、紅葉で有名な鶏足寺の近くにある石道寺(しゃくどうじ)という寺を訪ねたことを書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-219.html

石道寺本尊

石道寺の本堂には平安中期の作とされるケヤキの一木造の本尊・十一面観音立像(国・重文)、鎌倉時代の作とされる木彫持国天立像(国・重文)、木彫多聞天立像(国・重文)が安置されているのだが、これだけの文化財がある寺であるにもかかわらず住職が不在で、集落全体が観音様のお世話を続けていることを知って驚いた。

『観音の里』というホームページで、この地域の観音像の幾つかが紹介されているが、そのうちの幾つかの仏像は寺院にはなく、公民館や神社などで安置されている。様々な経緯があって寺院が廃絶されたのだと思われるが、古い仏像を地元の人々が代々大切にし、小さな建物に安置されて地元の人々に護られてきたことは素晴らしいことである。
http://kitabiwako.jp/kannon/k_spot/

前回と前々回の記事で、織田信長勢が湖東三山に火をつけたことを書いたが、この湖北の地にも信長勢が現われて、観音堂に焼き討ちにかけようとしたのだそうだが、村人たちが観音像を川底に沈めたり、地中に埋めたりして、戦火から守ってきたと伝えられている。

しかしながら、『観音の里』の解説によると、
「平安時代以降、天台傘下として己高山(こだかみやま)を中心に栄えた湖北の寺々は、室町期頃には弱体化し、代わって浄土宗・曹洞宗・浄土真宗・時宗らのいわゆる新仏教が農民勢力の台頭に併せて勢力を伸ばし、戦国の動乱期にいたって、…村々にあった天台寺院の多くは衰退して無住・廃寺化し、そこに残された尊像たちは、宗派・宗旨の枠を超越して、村の守り本尊として民衆に迎えられていきました。」とある。
http://kitabiwako.jp/kannon/about/

そんなに弱体化した寺を攻めたところで軍事的には何の意味もなく、地元の人々が大切にしてきた仏像に火をつけてしまっては民衆の支持を失うだけだろう。ではなぜ信長勢が、こんな場所にまで焼き討ちをかけようとしたのだろうか。

前々回の記事で、戦国時代に多くの寺院が焼き討ちされたことについての私の考え方を紹介したが、当時のキリスト教宣教師が大名や信徒たちに寺を焼き仏像を破壊することを教唆していたことをイエズス会のルイス・フロイスが記録していることは極めて重要である。
またフロイスと同様に日本にいたジアン・クラッセも、『日本西教史』に、イエズス会日本準管区長コエリョの言葉として、寺社を破壊した理由についてこう記している。

「キリストの教えはただ天地創造の一真神を崇拝するにより、殿下は日本人のキリスト教に入るを許し、偶像を拝するを禁じ、而して真神に害する所あるを以てその社寺を毀つを許されしなり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943460/359

文中の「殿下」は秀吉のことだが、信長にせよ秀吉にせよ、他の大名にしても同じ発想になるだろう。キリスト教の教義では偶像崇拝を禁止しているのだが、当時来日していたイエズス会のトップが、権力者からキリスト教の布教が認められたということは、異教である仏教の寺や仏像・神社を破壊することも同時に許されたと解釈していたことに、もっと注目する必要があるのだと思う。多神教を奉ずる日本人にはなかなか信じられない発想だが、一神教を奉じる人々の発想は単純すぎて、教義と異なる考え方や文化的価値を許容できないところに怖さがある。
キリスト教の宣教師は、わが国が戦国時代において各地で戦を繰り返していたことを、異教世界を一掃するための好機と捉えていてもおかしくない。この時代には、滋賀だけでなく全国各地の寺や仏像を破壊した事例がやたら多いのだが、キリスト教宣教師たちに教唆されたキリシタン武士や信徒達がで実際に火をつけたケースが少なからずあったと私は考えている。

話を元に戻そう。
向源寺を出て次の目的地である長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市公園町10:0749-63-4611)に向かう。向源寺からは25分ほどで到着する。

長浜駅の西側を走る湖周道路のさらに西に長浜城跡があり、周囲は豊臣秀吉にちなんで豊(ほう)公園と名付けられ、ソメイヨシノを中心に約700本の桜が城郭風の長浜城歴史博物館を囲むように植えられていて「日本さくら名所100選」にも選ばれている。駐車場が気になっていたので、早い時間に到着するように旅程を組んでいたのだが、9時40分頃に着いたので駐車場も問題なく入ることができた。

長浜城の桜

駐車場方向から観る桜は、長浜城歴史博物館の白壁と青い空に映えて美しかった。
いろんな角度からその景観を楽しんだのち、長浜城歴史博物館に入ることにした。

長浜城の桜2

上の画像は、天守閣に似せた博物館の展望階から見た景色だが、桜と琵琶湖の素晴らしい景観を独占することができた。桜はまだ7分咲きではあったものの、豊公園の桜が思う存分に枝を拡げて花を咲かせていて、雨上がりの琵琶湖の空は澄み、北は竹生島、西には比良山地、南は沖島まで良く見渡せた。

桜と琵琶湖の雄大な景色を楽しんだのち、駐車場に車を置いたまま、長浜市をしばらく散策することにした。

大通寺 山門

最初に訪れたのは長浜御坊・大通寺(長浜市元浜町32-9)。
慶長元年(1596)に長浜城内に営まれた講の会所がのちに大通寺と号したのだそうだが、彦根藩2代目の藩主井伊直孝により寺地の寄進を受け、慶安2年(1649)に現在の場所に移ったのだそうだ。
上の画像は山門で、東本願寺の山門を模して天保11年(1840)に完成したものだそうだ。

東本願寺から伏見城の遺構を移して伽藍が整えられたと伝えられていて、本堂は国の重要文化財に指定されている。
また広間も国の重要文化財で、狩野派の絵師らによる障壁画は結構見ごたえがあった。

大通寺 庭園

上の画像は含山軒庭園(国名勝)で、名前の由来は、伊吹山を借景にしていることからなのだそうだ。

長浜八幡宮鳥居

大通寺の参道を戻って、やわた夢生小路を東に進むと長浜八幡宮(長浜市宮前町13-55)の鳥居が見えてくる。

長浜八幡宮 拝殿本殿

長浜八幡宮は、源義家が京都の石清水八幡宮を勧請して創建したものとされ、豊臣秀吉の庇護を受けて発展したという。
この八幡宮の春の例祭が有名な長浜曳山祭で、京都の祇園祭、高山の高山祭と並んで日本三大山車祭りの一つになっている。曳山は全部で13台あり、その内長刀山以外の12台には歌舞伎が演じられる舞台があり、毎年4台の曳山が長浜八幡宮に集まって、この境内をはじめいくつかの場所で子供歌舞伎が演じられるのだそうだ。祭りの日程は次のURLに出ている。
http://www.geocities.jp/nagahamamap/hikiyama.html


祭りの様子は、多くの方がYoutubeなどで紹介しておられるが、子供の歌舞伎といっても相当レベルが高く、伝統行事が現代っ子にもしっかり受け継がれてきていることに感心してしまう。

長浜曳山祭り 山車とシャギリ

私は残念ながらこのお祭りを映像でしか見たことがなかったのだが、たまたま私が長浜を訪れた4月4日は、曳山博物館に展示されている2基の山車が入れ替えられる日で、市内の各所で「シャギリ」と呼ばれる囃子に合わせて山車を曳く光景を見ることができてラッキーだった。

長浜曳山祭り 稽古場

昔はお祭りなどの行事を通じて、地域の人々が世代を超えて一つに繋がる仕組みが各地に残されていたのだが、今は多くの地域でこのような仕組みが失われつつあることは残念なことである。

翼果楼

そんな事を考えながら、久しぶりに長浜名物の「焼き鯖そうめん」を食べたくなって翼果楼(長浜市元浜町7-8)に行く。
昔食べた味が忘れられなくて長浜に来るとつい食べたくなるのだが、そうめんが焼き鯖の煮汁のうまみを吸って、これがなかなか旨いのである。

鯖そうめん

昼食を終えて、次の目的地に向かう。
次に向かったのは、知られざる桜の名所・徳源院(滋賀県米原市清滝288:0749-57-0047)

古くから近江を領していた佐々木氏は、鎌倉時代中期に六角氏・京極氏等に分かれ、本家筋の六角氏は織田信長に攻められて滅亡したが、京極氏は転封を重ねながら明治維新にいたるまで大名家としての命脈を保ち続けている。この京極氏が最初に本拠地としたのがこのあたりで、この寺は京極氏初代の氏信(うじのぶ)が、京極家の菩提寺として創建した寺だそうだ。

徳源院 庭園

上の画像は徳源院庭園(県名勝)で、清滝山を借景にして、秋の紅葉が美しいという。

徳源院三重塔と道誉桜

バサラ大名として知られる佐々木道誉は京極氏に生まれ、京極高氏とも呼ばれるのだそうだが、この道誉が植えたと伝えられる枝垂れ桜がほぼ満開を迎えていた。
杮葺きの三重塔(県文化)をバックにして、「道誉桜」と親しまれるこの桜にカメラを向けてみたのだが、古い三重塔に枝垂れ桜はよく似合う。この三重塔は寛文12年(1672)に第22代高豊(たかとよ)が建てたという。

龍潭寺山門

最後に訪れたのが、彦根市の佐和山西麓にある龍潭寺(りゅうたんじ:彦根市古沢町1100:0749-22-2776)。
この寺は、静岡にあった井伊家の菩提寺を、慶長5年(1600)に井伊直政公が佐和山城主となったのを機にこの地に移して開山され、元和3年(1617)に諸堂が完成したという。
この寺の山門は、佐和山城の城門を移築したものだと伝えられている。

龍潭寺 庭園

上の画像は方丈南の枯山水庭園だが、書院東にある鶴亀蓬莱庭園も有名だ。

龍潭寺の枝垂れ桜はまだ咲いていなかったのだが、この隣にある井伊神社の枝垂れ桜を見に行くことにした。

井伊神社

井伊神社は天保13年(1842)に彦根藩12代藩主の井伊直亮が、井伊谷(現静岡県)にある井伊谷八幡宮から井伊大明神を分霊して龍潭寺の参道脇に祀ったことからはじまるのだが、現在の社殿は弘化2年(1845)に造営されたものだそうだ。

昔から「彦根日光(東照宮)」とも言われた建物なのだそうだが、数十年前から雨漏りがひどくなり、修理に6億円もかかることがわかって、数十年前から素屋根で覆われるようになったようだ。
素屋根を作ったのは平成元年まで9期彦根市長を務めた井伊家第16代当主の井伊直愛(なおよし)氏で、この方は幕末の大老・井伊直弼の曾孫にあたり、この神社の宮司も兼ねていた人物である。

彦根市長としての立場上、自らが宮司を務める神社に大金を集めて修理することもできず、かといってこれ以上建物を傷めるわけにもいかないので素屋根で覆うことにしたのだろう。
のちにこの建物は彦根市に寄贈されて、平成25年に彦根市指定文化財となったのだが、今も素屋根で覆われたままになっているのは残念である。

井伊神社 覆い屋の中

覆い屋の金網の隙間からカメラレンズを向けて撮影したのだが、なかなか見事な建物である。時々内部が公開されているらしく、次のURLなどで、美しい内部の様子を知ることができるが、いつか修理され覆い屋が外されて、観光できる日が来ることを祈りたい。
http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/7d2af2444887d53e2c5edc9493351fdf

井伊神社しだれ桜

この井伊神社の隣には井伊直弼の御手植えと伝えられ、彦根市の保存樹に指定されている枝垂れ桜が満開であった。
長浜城跡の豊公園のように観光客が多く集まる桜の名所も良いが、歴史のある場所で見事な桜の花が咲かせる空間をほとんど占有して、心静かに桜を楽しむのもなかなか良いものである。

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三方五湖観光後昼食は「淡水」の鰻。続けて紅葉名所・鶏足寺を訪ねて~若狭カニ旅行3
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「桜田門外の変」と、井伊直弼の死が長い間隠蔽された事情
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寺院の梵鐘を鋳つぶして大砲を作れという太政官符に苦慮した江戸幕府
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幕末の動乱期にわが国が独立を維持できた背景を考える~~GHQが封印した歴史 3
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幕末の孝明天皇暗殺説を追う
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戦国時代の歴史を動かした天正地震

4年前に白川郷方面に旅行した際に、帰雲城(かえりくもじょう)趾に立ち寄った。この城は寛正年間(1461~1466年)に内ケ島為氏(うちがしま ためうじ)により築城されたのだが、天正13年11月29日(1586年1月18日)に起きた天正地震で帰雲山が大崩落を起こし、城主内ヶ島氏理(うじまさ)以下一族家臣と、城下300余軒、推定500人余り、牛馬にいたるまでことごとくが一瞬にして埋没し、内ケ島氏は滅亡してしまったと伝えられている。

帰雲城趾

上の画像は帰雲城があったとされる場所に立つ『帰雲城趾』の碑だが、画像に写っている帰雲山は何度も山崩れを起こしているのか、今も地肌を見せたままである。

教科書などでは天正地震のことは何も書かれていないが、この地震で倒壊したのは帰雲城だけではなかった。Wikipediaによると美濃の大垣城が焼失、越中の木舟城が倒壊、伊勢の長島城が倒壊、近江の長浜城が全壊などとかなり広範囲に大きな被害が出ている。

震源地については諸説があるが、太平洋側の伊勢湾と日本海側の若狭湾の双方に津波の被害が出ている。

その当時イエズス会宣教師としてわが国に滞在していたルイス・フロイス(1532~1597)の『日本史』には、この地震について次のように記している。

「本年1586年に、堺と都からその周辺一帯にかけて、きわめて異常で恐るべき地震が起こった。それはかって人々が見聞したことがなく、往時の史書にも読まれたことのないほどすさまじいものであった。というのは、日本の諸国でしばしば大地震が生じることはさして珍しいことではないが、本年の地震は桁はずれて大きく、人々に異常な恐怖と驚愕を与えた。それは11月1日のことで、(我らの暦の)1月の何日かにあたるが、(突如)大地が振動し始め、しかも普通の揺れ方ではなく、ちょうど船が両側に揺れるように振動し、四日四晩休みなく継続した。
 人々は肝をつぶし、呆然自失の態に陥り、下敷きとなって死ぬのを恐れ、何ぴとも家の中に入ろうとはしなかった。というのは、堺の市だけで三十以上の倉庫が倒壊し、十五名ないし二十名以上が死んだはずだからである。
 その後四十日間、地震は中断した形で、日々過ぎたが、その間一日として震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛のよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。」(中公文庫『完訳フロイス日本史③』p196-197)

地震の日付は和暦で記しているのだが、同年の11月1日には地震の記録は外に存在しない。フロイスが単純に日付を誤って記したものと理解されている。

長浜城
長浜城

通常続いてフロイスは琵琶湖岸の長浜の事例を記している。
「近江の国には、当初関白殿が(織田)信長に仕えていた頃に居住していた長浜という城がある地に、人家千戸を数える町がある。そこでは地震が起こり、大地が割れ、家屋の半ばと多数の人が呑み込まれてしまい、残りの半分の家屋は、その同じ瞬間に炎上し灰燼に帰した。」(同上書 p.197)

長浜地図

長浜には西浜千軒遺跡下坂浜千軒遺跡という湖底遺跡があり、この地震で湖に水没したと推定されている。
次のURLに、2011年9月12日に滋賀県立大の中井均准教授が指導する「琵琶湖水中考古学研究会」が、長浜市沖の西浜千軒遺跡の調査で、供養塔や仏塔の一部など430点が見つかったと発表したことの新聞記事をまとめている。このブログ記事によると。
「長浜市祇園町沖約100mの湖底・水深約1・2~1・5mで、東西38m、南北26mにわたって素潜りで調査し、方形区画や石積みを見つけた。 一石五輪塔(砂岩製)の一部や、石仏の上部など、墓地に使われたとみられる石があり、材質と形状から、16世紀前半から17世紀初頭に作られたとみられる。 文献で天正13年11月29日(1586年1月18日)に岐阜県中北部を震源とするマグニチュード7・8規模の地震が起きたことが分かっており、これと時期が一致した」とある。
https://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/92dc366e3e9c269182cbd181fbcc0c16

長浜城からの琵琶湖の眺め
長浜城から西浜千軒遺跡方面を望む(画像の右)】

「琵琶湖水中考古学研究会」が撮影した写真は同会のFacebookホームページで公開されているが、今の湖岸から100m近く西に千軒近い集落があり、その集落が地震によって瞬時に水没したと理解すればよいのだろうか。
https://www.facebook.com/lakebiwaarchaeology/

さらにフロイスは京都の事例を記したのち、若狭湾で津波の被害が出たことを書いている。

「若狭の国には海に向かって、やはり長浜と称する別の大きい町があった。そこには多数の人々が出入りし、盛んに商売が行われていた。人々の大いなる恐怖と驚愕のうちにその地が数日間揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が、遠くから恐るべき唸りを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。高潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑みこまれてしまった。」(同書p.198)

高浜、小浜地図

 ところが、若狭湾には長浜という地名は存在しない。フロイスが琵琶湖に沈んだ長浜の話と混同したのかと誰でも考えるところだが、フロイスは「やはり長浜と称する別の大きい町」と、琵琶湖岸の長浜とは区別して書いている。小浜の地名を誤ったか、高浜の地名を誤ったかのいずれかなのだが、地形から判断すると、U字型をした湾の中心部にある高浜の方が津波の被害が出る可能性が高そうだ。Wikipediaによると、福井大学の山本博文教授は福井県大飯郡高浜町薗部の海岸から500mの水田で、14世紀から16世紀の津波跡を発見したと発表したという。平成27年5月19日の読売新聞の記事が次のサイトで掲載されているが、笠原川を遡った津波が、海の砂や貝殻を運んだ形跡が、かつて湿地帯であった水田の、深さ約1mに確認されたという。このあたりの標高を電子国土Webで確認すると1.5~3m程度で、さらに深さ1mというから津波の規模としては高浜では比較的小規模なものであったような印象を受ける。
http://jcpre.com/?p=8105

イエズス会のジアン・クラッセ(1618~1692)がわが国で布教活動をしていた宣教師たちの書簡に基づいて著した『日本西教史』にこの地震の津波のことが記されている。この本は国立国会図書館デジタルコレクションに収められていて、誰でもPC上で読むことが出来る。津波の記事だけ紹介すると、
若狭の国内貿易の為にしばしば交通する海境に小市街あり。ここは数日の間烈しく震動し、これに継ぐ海嘯を以てし、激浪の為に地上の人家は皆一掃して海中に流入し、あたかも元来無人の境の如く全市を乾浄したり」とある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943460/344

クラッセは、おそらく当時日本にいたフロイスなどの書簡を参考にして記したものと思われるが、当時の宣教師の記録そのものが確証のない噂話を記したものである可能性も考えられる。

吉田兼見
【吉田兼見】

しかしながら、宣教師とは全く接点がなかったと思われる日本人による津波の記録も残されている。
吉田神道宗家・吉田家9代当主の吉田兼見が『兼見卿記』の11月30日条に、地震の後の津波の事を書いている。文中の「若州」は「若狭」と理解してよく、若狭湾で津波が発生した可能性はかなり高そうだ。
「廿九日地震ニ壬生之堂壊之、所々在家ユリ壊数多死云々、丹後・若州・越州浦邊波ヲ打上在家悉押流、人死事不知数云々、」
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/fujiwara/kanemi.jishin.html

ところでこの天正地震が起こった時期は、秀吉は近江国の坂本の城にいた。
フロイスの記録によると、
彼は、その時手がけていたいっさいのことを放棄し、馬を乗り継ぎ、飛ぶようにして大坂へ避難した。そこは彼にはもっとも安全な場所と思えたからである。」(同上書p.199)とある。
この地震で大坂城は大丈夫だったのだが、弟の秀長の館は倒壊したという。

フロイスは、秀吉が「その時手がけていたいっさいのことを放棄し」たというのだが、秀吉は何を手がけていたのだろうか。
地震が起きた天正13年(1585)の秀吉の動きを見てみよう。
3月には紀州を平定し、7月には四国を平定し関白となり、8月には越中を平定している。
閏8月には家康が真田領に侵攻し、真田昌幸は上田城に籠城している最中に秀吉に支援を要請した。秀吉は支援を約束し、11月19日付の手紙には来年正月15日に家康を討伐するために出陣するので真田昌幸からも兵を出すように伝えたという。(松丸憲正氏所蔵文書)

そしてその10日後にこの天正地震が起きたのである。

秀吉

秀吉にとって、この地震のダメージは大きかった。
徳川征討軍で先鋒を期待されていた山内一豊の長浜城が倒壊し、大規模な地割れで長浜の市街地の一部が湖底に沈んだために多くの死者が出た。また徳川征討軍のための兵糧が蓄えられていた大垣城も倒壊してしまった。秀吉軍の他の武将も地震で大打撃を受け、家康征伐どころではなくなってしまったのである。一方、家康のいた三河以東は震度4以下で被害は少なかったのだという。

天下統一を目指していた秀吉は、地震によって家康打倒の強硬策から融和策への方針転換を迫られ、友好の証として妹の旭姫を送って家康を自陣営に取り込んだのである。さらに秀吉は、家康の上洛を実現させるために、実母を人質として家康に差し出している。

もしこの地震が起きていなければ、兵力で圧倒的に有利であった秀吉は家康を討伐していた可能性が高く、そうなると豊臣政権がその後も長く継続したかもしれないという認識が、最近広がりつつあるようだ。

地震は大地を動かすだけではない。時には為政者の運命を変えて、歴史をも動かすことがありうるのである。

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このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-101.html

フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-374.html

秀吉はなぜ「伴天連(バテレン)追放令」を出したのか~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-132.html

農民たちが帯刀していた時代と秀吉の刀狩令
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-506.html

刀狩令の後も村に大量の武器が残されていながら、村を平和に導いた秀吉の智慧
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-507.html









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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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    読書
    このブログで採り上げた本のいくつかを紹介します
    三田村武夫の 『戦争と共産主義』復刻版

    同上 電子書籍

    同上 自由選書版

    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史