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「満州某重大事件」の真相を追う~~その1

昭和3年(1928)6月4日、中華民国陸海軍大元帥の張作霖を乗せた特別仕様の列車が、瀋陽駅に到着する寸前で爆破され、張作霖は瀕死の重傷を負い2時間後に死亡した。

張作霖記事

学生時代にこの「満州某重大事件」を学んだ時は、日本軍(関東軍)が張作霖を爆殺したと教えられ教科書にもそのように書かれていたが、関東軍が関与したとは考えられないとの説がかなり昔からあり、何度か目にしたことがある。

最近になって、ロシア人のドミトリー・プロホロフという歴史家が、2001年にGRU(旧ソ連赤軍参謀本部情報総局)の未公開文書*に基づいて『GRU帝国』という旧ソビエトの情報工作機関の活動を書いた本を上梓し、その中で張作霖爆殺事件の実行犯はコミンテルン**の工作員であることなど、数々のソ連の工作活動を明らかにしたそうだ。
 * GRU文書についてはソ連崩壊後一部公開されていたが、プーチン政権になってアクセスが難しくなりつつあるという。
**コミンテルン:共産主義政党の国際組織。第3インターナショナル。

マオ

2005年に出版された『マオ 誰も知らなかった毛沢東』には「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイチンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだ」と書かれているが、これはプロコホフの著書の記述に従ったものだという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96%E7%88%86%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%82%BD%E9%80%A3%E7%89%B9%E5%8B%99%E6%A9%9F%E9%96%A2%E7%8A%AF%E8%A1%8C%E8%AA%AC

『マオ』が我が国で出版されて、この事件のことが我が国の論壇誌に採りあげられ、プロホロフ氏がインタビューに答えた内容が、加藤康男氏の著書に纏められている。

「サルヌインは、1927年から上海で非合法工作員のとりまとめ役を務めていたが、満州国において、諜報活動にあたる亡命ロシア人移民や中国人の間に多くの工作員を抱えていたことが決め手となった。そして、暗殺の疑惑が、日本に向けられるよう仕向けることが重要だった
1928年6月4日夜(正確には4日未明)、張作霖は北京を出発して奉天に向かう特別列車の中にいた。列車が奉天郊外に差しかかったとき、車両の下で大きな爆発が起き、その結果、張作霖は胸部に重傷を負い、数時間後に奉天市内の病院で息を引き取った。

1990年代の初め、ソ連の機密度の高い公文書を閲覧できる立場にあった元特務機関幹部で、歴史家のドミトリー・ヴォルコゴノフ*氏は、ロシア革命の指導者の一人、トロッキー(1879-1940年)の死因を調べている際に、張作霖がソ連軍諜報局によって暗殺されたことを示す資料を見つけたのだという
トロッキーはスターリンとの激しい権力闘争でメキシコに移住したが、スターリンの手先によって自宅書斎で暗殺された。その際に関与していたのが、張作霖の爆殺で暗躍したソ連特務機関要員のエイチンゴンだ。」(加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.123)
*ドミトリー・ヴォルコゴノフ:1988年から1991年の間ソビエト連邦国防省の軍事史研究所長官であった。

張作霖

張作霖は北京政権を牛耳り露骨な反ソ姿勢を取って、1927年4月6日には張作霖の指示でソ連大使館捜索と関係者を大量に逮捕し、同時に武器などが多数押収されたことから、ソ連の特務機関に暗殺の指令が出たようなのである。

ソ連の資料だけなら、エイチンゴンが自分の功を誇るために嘘の記録を残したという解釈も可能ではある。しかしながら、この事件に関してソ連が関与していたことを強く疑っていた大国があったことは注目して良い。それがイギリスである。

imagesCAKOAUT6.jpg

先ほど紹介した加藤康男氏が、2007年に公開されたイギリスの外交文書を、著書『謎解き「張作霖爆殺事件」』の中で紹介しておられる。
【イギリス公文書館所蔵 ファイルNo.F4598/7/10】
1928年7月3日付 北京駐在公使ランプソンのオースティン・チェンバレン外相宛公電 「(殺意を抱く者は)ソヴィエトのエージェント、蒋介石の国民党軍、張作霖の背信的な部下など多岐にわたる。日本軍を含めた少なくとも4つの可能性がある。どの説にも支持者がいて、自分たちの説の正しさを論証しようとしている。」(同上書 p.149)
【イギリス公文書館所蔵 ファイルNo.WO106/5750】
張作霖の死に関するメモ
「a. ソ連は日本に劣らない満州進出・開拓計画を持っていた。
 b. 1927年4月の在北京ソ連大使館襲撃以来、張作霖は万里の長城の内側でも外側でも、自らの支配地でソ連に最も強硬に反抗してきた。
 c.  ソ連は張作霖と日本を反目させ、間接的にソ連自身の計画を進展させたいと願った上でのことだった。
 d. 満州で張り合うソ連と日本の野望は、張作霖がある程度両国を争わせるようにした側面がある。ソ連も日本も権益保護のため開戦する覚悟は今のところないが、必然的に中国を犠牲にして何らかの暫定協定を結ぶことを望んでいる。したがって張作霖の強い個性と中国での権利を守ろうとする決意は、ソ連が満州での野望を実現する上での一番の障害であった。そのため張作霖の排除と、それに代わる扱いにくくない指導者への置き換えは、ソ連にとって魅力的な選択肢であったと思える。」(同上書 p.151-152)

もっともあり得るシナリオは、ソ連がこの不法行為のお膳立てをし、日本に疑いが向くような場所を選び、張作霖に敵意を持つような人物を使った、ということだろう。」(同上書 p.155)
【イギリス公文書館所蔵 1928年12月15日付外交文書】
「調査で爆弾は張作霖の車両の上部または中に仕掛けられていたという結論に至った。ゆっくり作動する起爆装置、ないしは電気仕掛けで点火されたと推測される。
ソ連にこの犯罪の責任があり、犯行のために日本人エージェントを雇ったと思われる。決定的な判断に達することはできないにしても、現時点で入手できる証拠から見て、結局のところ日本人の共謀があったのは疑いのないところだ。」(同上書p.197)

ドミトリー・プロホロフが、『GRU帝国』で張作霖爆死事件がソ連の工作によるものだと記した内容にかなり近い記録が、事件直後のイギリスの外交文書に残されていることを加藤康男氏の著書で初めて知ったが、イギリスは張作霖爆殺事件について関与していたわけではないので、イギリス情報部が本国に対して報告した文書は、現地で収集した情報を分析した内容を率直にレポートしていると考えるべきであろう。
また『GRU帝国』の出版はイギリスの公文書公開よりも6年も早く、ドミトリー・プロホロフはこれらのイギリスの外交文書を読むことなしに、この事件をソ連の工作によるものだと結論付けていることは注目してよい。

加藤氏はイギリスの外交文書を読んでこう解説しておられる。
「ソ連の工作による利点は、日本が自動的に疑われ、無実であるとの証明がはなはだ難しいことだった。なぜなら、張作霖を排除したいと考えていた日本人を、奉天界隈で見つけることは、極めてたやすい作業だったからだ
そのうえソ連にとっては幸運なことに、日本は自らの無実の証明をまったく試みなかった、とも付け加えている。
イギリスの機密文書からは、少なくともイギリス自身が日本軍主犯説に首をかしげる様子が浮かび上がってくる。
こうしてみると、巧妙に仕掛けられたソ連の工作の可能性を見抜けず、早々と日本軍独自の犯行と言う結論で幕引きを図った日本側の対応ぶりには疑問を持たざるを得ない。」(同上書p.153)

この張作霖爆死事件については昔から諸説があったのだが、旧ソ連やイギリスの機密書類の一部が公開されたことにより、コミンテルンが関与した可能性がかなり高まってきているので、教科書の表現が多少なりとも修正されてはいないかという事が気になった。
自宅にある『もう一度読む山川日本史』の該当記述を確認すると、残念ながら昔とほとんど同内容だ。

「この頃満州に駐屯していた日本軍(関東軍)のなかには、張にかわって日本の自由になる新政権を樹立させようとする動きがあり、1928(昭和3)年、奉天郊外で張作霖を爆殺した(満州某重大事件)。」(『もう一度読む山川日本史』p.290)
と本文に書かれた後、囲み記事で、
「張作霖の爆殺は、関東軍の参謀がひそかに計画し、部下の軍人たちに実行させたものであった。この事件をきっかけに満州を軍事占領し、新政権をつくらせて満州を日本の支配下におこうとする意図であったといわれるが、関東軍首脳の同意を得られず、それは実現しなかった。」(同上p.291)
と、今も明確に、関東軍が実行したこととし、異論があることに一切触れていないのだ。

200px-Koumoto_Daisaku.jpg

では、当時のわが国は、なぜ関東軍が実行したと考えたのだろうか。
当時から関東軍がやったという噂があり、関東軍の大佐であった河本大作(上画像)自身が殺害計画があったことを認める発言を何ヶ所で残していたようなのだ。

河本本人は手記を残していないのだが、河本の義弟で作家の平野零児が『文芸春秋』昭和29年12月号に、河本の一人称を使って「私が張作霖を爆殺した」という手記のようなものを書いている。全文が次のURLで読める。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/koumotodaisaku.html

全文を読むのは大変なので肝心な部分だけ抜き出すと、
動機に関しては
「一人の張作霖が倒れれば、あとの奉天派諸将といわれるものは、バラバラになる。今日までは、張作霖一個によって、満州に君臨させれば、治安が保たれると信じたのが間違いである。
巨頭を斃す。これ以外に満州問題解決の鍵はないと観じた。一個の張作霖を抹殺すれば足りるのである。」

img20120425233727531.jpg

爆破に関しては
「来た。何も知らぬ張作霖一行の乗った列車はクロス点*にさしかかった。
 轟然たる爆音とともに、黒煙は二百米も空ヘ舞い上った。張作霖の骨も、この空に舞い上ったかと思えたが、この凄まじい黒煙と爆音には我ながら驚き、ヒヤヒヤした。薬が利きすぎるとはまったくこのことだ。
 第二の脱線計画も、抜刀隊の斬り込みも今は不必要となった。ただ万一、この爆破をこちらの計画と知って、兵でも差し向けて来た場合は、我が兵力に依らず、これを防ぐために、荒木五郎の組織している、奉天軍中の「模範隊」を荒木が指揮してこれにあたることとし、城内を竪めさせ、関東軍司令部のあった東拓前の中央広場は軍の主力が警備していた。
 そして万一、奉天軍が兵を起こせば、張景恵が我方に内応して、奉天独立の軍を起こして、その後の満州事変が一気に起こる手筈もあったのだが、奉天派には賢明な蔵式毅がおって、血迷った奉天軍の行動を阻止し、日本軍との衝突を未然に防いで終った。」
(『文芸春秋』昭和29年12月号)
*クロス点:事件の現場となった満鉄線と京奉線とがクロスしている地点。

この「手記」が文芸春秋に掲載された時点では、河本大佐は中国共産党軍に逮捕監禁された後に獄死(昭和28年8月25日)していたのだ。この「手記」が河本大佐の口述筆記によるものという平野零児の説明を鵜呑みにすることは危険だと思うのだが、どういうわけか今では河本大佐を実行犯とする説が定説になっている。

当時のイギリス情報部の外交文書の表現を借りると、河本大佐はコミンテルンと共謀した日本人の一人ではなかったのだろうか。またわが国や満州で、関東軍が張作霖を爆殺したとの噂をバラ撒いたのはコミンテルンによる情報工作によるものではなかったか。
そもそも張作霖爆殺事件については関東軍がやったという確実な証拠はなく、ほとんどすべてが噂や伝聞によるものと考えて良い。
関東軍謀略説を主張する論者は、平野零児の書いた「河本大佐の手記」と、東京裁判における田中隆吉の証言を重視しているようだが、平野零児は戦前に治安維持法で何度か捕まった人物だとされる。田中隆吉証言も伝聞に過ぎず、彼はゾルゲや尾崎秀実とも親交があり、コミンテルンにつながる人物であったと言われているのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%9A%86%E5%90%89#cite_ref-0
また、東京裁判で田中隆吉が証言台に立った時には主犯とされていた河本大佐は中国に生存していた。本来ならば、河本本人が証言すべきであったのだが、なぜ連合軍は当事者でない田中を証言台に立たせたのだろうか。

加藤康男氏の著書によると、当時の関東軍参謀長の斉藤恒(ひさし)は現場を検証し関東軍による実行とは考えられないことを論証する報告をしたのだが、なぜか軍上層部が斉藤の報告を無視し、いち早く罷免しているのだそうだ。この点について書くと話が長くなるので、次回に記すことにしたい。
とにかく関東軍謀略説には謎が多すぎて、私は素直に信じる気になれないのである。
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関連記事

「満州某重大事件」の真相を追う~~その2

前回の記事で、わが国では関東軍が実行したとされている「満州某重大事件」について、ソ連の機密文書ではソ連が実行し日本人の仕業に見せかけたものだと書かれており、イギリスの外交文書においても、ソ連に犯罪の責任があると記されていることを紹介した。

関東軍主犯説で必ず使われるのが、張作霖爆殺の瞬間の写真といわれる下の画像である。この写真が我が国の山形中央図書館にあることが、この事件を関東軍が実行したことの動かぬ証拠だと主張する人が多いようだ。

張作霖爆津瞬間

まずこの写真が何故山形中央図書館にあるのか、その入手経路を追ってみよう。
加藤康男氏の『謎解き「張作霖爆殺事件」』によると、爆破前後の写真から現場検証の様子や張作霖の葬儀の写真まで61枚の写真がでてきて、この写真はその中の1枚である。
「この写真を密かに保管していたのは、山形県藤島町(現鶴岡市)に住む元陸軍特務機関員で70歳(発見当時)になるSさんだった。彼は写真の束を河野又四郎という特務機関の上司から預かったという。
写真の謎を解くもう一つの手がかりは、写真の裏に書かれていた「神田」と言う文字にあった。「神田」と言えば事件の当事者として名前が出てくる神田泰之助中尉がいる。二人には明らかに接点があることが判明した。」(加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.77-80)
このSと言う人物は、ネットで検索すると元軍人の佐久間徳一郎という名前であることがわかる。
http://rekishi.blog41.fc2.com/blog-entry-26.html

また、加藤氏の前掲書を読むと、実はもう1組の同じ写真が防衛研究所戦史部に保管されているという。秦郁彦氏が『昭和史の謎を追う』のなかでそのことを書いているのだが、秦氏によると写真を撮ったのは桐原貞寿中尉だと記しながら、桐原中尉が爆破スイッチを押したと結論しているそうだ。
爆破スイッチがセットされた場所と爆破現場は200メートルも離れていた。どうして、スイッチを押した人物がこの写真を撮ることができるのであろうか。

現場見取り図

写真撮影者は神田泰之助中尉だという説もあるが、神田中尉も2度目の爆破スイッチを押した人物とされており、桐原中尉と同様の問題が残る。写真撮影は別の人物が行ったと考えないとどう考えても不自然である。(上の図は加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.45)

あまり指摘する人がいないのだが、よくよく見るとこの爆破瞬間の写真も不自然だ。煙が立ち上っていない場所でありながら、既に破壊されている部分がかなりある。満州鉄道の橋梁が一部崩れてすでに列車を押し潰した状態になっていることがわかるし、煙の位置は橋梁の位置と微妙に異なる。この画像は、既に爆殺が終わってから、小さな爆発物を破壊させて撮影したものではないのか。

そもそも何故、河本大佐がこのような写真を撮らせたのだろうか。私には加藤氏の結論が一番納得できるのだ。
「考えられる結論は、関東軍がやったことをあとで政府の調査委員会に認めさせるための証拠品として、河本が特務機関の人物に撮らせた。そのプリントが最低でも2組あって、出てきたというところではないか。」(同上書 p.223)

当初は河本も公式には爆殺実行を否定していたそうだ。あらかじめアヘン中毒患者3人を雇った上で声明文を懐に忍ばさせておいて銃剣で刺殺し、「犯行は蒋介石軍の便衣隊(ゲリラ)によるものである」と発表し、この事件が国民党の工作隊によるものであるとの偽装工作を行っていたのだそうだが、3人のうち王谷生という男は死んだふりをしていて現場から逃亡し、張学良のもとに駈け込んで関東軍がやったと証言したために、この事件は関東軍の仕業だという疑惑が強まっていったのだが、ひょっとすると関東軍は王谷生をわざと逃がして関東軍の仕業だと訴えさせたのではないか。
また爆破に用いた電線は巻き取らずに草むらに残していたというのだが、これもわざとらしい。
その上に写真を撮って「神田」という名前まで書き残したのは、少なくとも私には非常に不自然に見える。
こんな杜撰な偽装工作を本当に日本陸軍特務機関のやったことなのかと、詳しく知れば知るほど誰でも不審に思うことだろう。むしろ関東軍が疑われるために工作したものと考えたほうがスッキリするくらいだ。

今度は爆破された車両に目を移そう。
河本大作には義弟の平野零児が書いたものとは別に、昭和17年12月1日に大連河本邸で森克己との共同聴取筆録という「河本大作大佐談」というものがあり、次のURLで全文が読める。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/koumotodaisaku2.html

この記録で、爆破の場面を紹介すると、
「…鉄道の敷設材料を、支那側が瀋海鉄道の材料に、こっそり竊んで行って盗用することが多かったので、この年三月頃より、この盗用を防ぐために 土嚢を築いて居ったが、この土嚢を利用し、土嚢の土を火薬にすり代えて待機した
 愈々張作霖は六月一日北京を発って帰ることが判った。二日の晩にはその地点に到る筈であったが、…予定より遅れて四日午前五時二十三分過ぎに現場に差しかかった
 その場所は奉天より多少上りになっている地点なので、その当時、貨物泥棒が多く、泥棒は奉天駅あたりから忍び込んで貨物車の窓の鉄の棒をヤスリで摺り切り、この地点で貨物を窓の外へ投出すというのが常習手口であった。そこでこの貨物泥棒を見張るために、満鉄・京奉両線のクロスしている地点より二百米程離れた地点に見張台が設けられていた
 我々はこの見張台の中に居って電気で火薬に点火した。コバルト色の鋼鉄車が張作霖の乗用車だ。この車の色は夜は一寸見分けが付かない。そこでこのクロスの場所に臨時に電灯を取付けたりした。
 また錦州、新民府間には密偵を出し、領事館の電線を引張り込んだりした。そしてこれによって張作霖の到着地点と時間とが逐一私達の所へ報告されて来た。 
… 張作霖の乗用車が現場に差掛かかり、一秒遅れて予備の火薬を爆発させ、一寸行過ぎた頃また爆発させ、これが甘く後部車輪に引かかって張作霖は爆死した。」

仮にこの記録が河本の言葉を忠実に記録したものであったとしよう。
張作霖を乗せた列車は20両編成であった。少し考えればわかることなのだが、線路わきに設置した爆弾で列車の中の張作霖を爆殺しようとするならば、まず張作霖がどの車両に乗っているかがわかっていなければならない。しかも高速で駆け抜けるはずの車両をピンポイントで爆破しなければならない。このことは決して容易ではないはずだ。
また、閉鎖された空間であれば少量の火薬でも威力を発揮するが、オープンスペースでは四方八方に爆発のエネルギーが分散してしまうので相当量の火薬が不可欠となる。その場合は、線路脇に設置した場合は地面に大きな穴ができ、線路は折れ曲がって当然である。また、急に前に進めなくなるために列車の後続車両が次々と脱線しなければ不自然である。

20110110122150.jpg

上の画像は張作霖が乗っていた車両なのだが、大量の火薬を土嚢に詰め込んで爆発させたにもかかわらず、線路は傷んでおらず地面に穴も開いていない。列車の台車部分は原型をとどめているのに、列車は脱線していなかったのだ。そのことは、現場近くで列車を大幅に減速させていたことを意味している。
一方で京奉線の上を走る満鉄線の橋は半分が崩落し、橋梁には大きな破損が生じ、満鉄線の線路が京奉線に垂れ下がっている。

imagesCAIGKEMG.jpg

上の画像は満鉄の線路の状況であるが、被害が下方よりも上方に大きく出ていることは明らかである。
現場を見れば『河本大作大佐談』や前回紹介した『河本大作の手記』は作り話であることが明らかであり、最初に紹介した爆発の瞬間の写真は、事後で小爆発を起こして撮影したものと理解するしかないのだ。

現場を検証した日本人がそれらの矛盾点に気が付いていなかったのではなかった。
現場検証をした関東軍参謀長斎藤恒(ひさし)は、参謀本部に対してこのような所見を提出していたのである。

ic.jpg

「爆薬の装置位置に関しては、各種の見解ありて的確なる慿拠(ひょうきょ)なきも、破壊せし車両及鉄橋被害の痕跡に照らし橋脚上部附近か、又は列車自体に装置せられしものなること略推測に難しとせず
殊に六十瓩(キロ)内外の爆薬の容積は前記の如く僅かに〇.五立方米なるを以てこれが装置は比較的容易なればなり。」(『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.206)
と、斉藤は爆薬の設置位置は、満鉄の橋脚上部付近か列車自体に装置されたものと推測できると記している。

さらに斉藤は、現場付近を一般列車は時速約二〇マイル(約32km/h)で通行するところを、推定時速十キロ程度にまで減速させた理由について次のように書いている。
「何故かくも速度を落し且つ皇姑屯にも停車せざりしや、その理由に苦しむものにしてこの点を甚だしく疑問とせざるべからざる。
すなわち内部に策応者ありて、その速度を緩ならしめかつ非常制御を行いし者ありしに非ずや。(列車内中間、もしくは後部にて弁紐を引けば容易に非常制動行はる。)」
緩速度たらしめし目的は、要するに所望地点にて列車を爆破せむと欲せるものにて非ずや
前記の如く薬量の装置地点は、橋脚上部か又は列車内と判定せるを以て、陸橋上部とせばその位置に張作霖座乗車来る際、時を見計らひ爆破せるものに非ずや。列車内より橋脚上部の爆薬を爆破せむと欲せば、列車内に小爆薬を装置し、これを爆破し逓伝(ていでん)爆破に依りて行へば容易なり。」(同上p.208)
と、列車の内部に協力者がいたことと、爆薬は車両内部にあり、それを爆破させることにより橋脚上部に設置した爆薬を連鎖爆発させた可能性を示唆している。そのためには、列車はよほどゆっくり走らなければならなかったはずだ。

前回の記事で書いた通り、この斉藤の報告書はなぜか軍上層部に無視されて、斉藤は事件の2か月後に関東軍参謀長を罷免されてしまった。

img20120430190340923.jpg

このような記録を残したのは斉藤だけではなかった。奉天の内田五郎領事が首相兼外務大臣田中義一に宛てた昭和3年6月21日付の報告書には、
「調査の結果被害の状況程度より推し相当多量の爆薬を使用し、電気仕掛にて爆発せしめたるものなるべく。爆薬は橋上地下又は地面に装置したものとは思はれず、又側面又は橋上より投擲したるものとも認め得ず、結局爆薬は第80号展望車後方部ないし食堂車前部附近の車内上部か又は(ロ)橋脚鉄桁と石崖との空隙箇所に装置せるものと認められたり
外部より各車輛の位置を知ることすこぶる困難にかかわらず、爆発がほとんどその目標車両を外れざりし事実より推察し本件は列車の編成に常に注意し、能く之を知れるものと認められる点は本件真相を知る有力なる論拠たるべしと思考せられたり。右に対し支那側は爆発装置箇所に付いては明確なる意思表示を避けたり。」(同上p.217-218)
と書かれている。(上の図はイギリス公文書館に保管されていた爆発現場の見取り図。同書p.230)

この内田五郎の報告書も現場の状況からすれば当然の内容だと思うのだが、これも斎藤恒の報告書と同様に軍上層部で葬り去られたようなのである。そしていずれの報告書も、「昭和史研究家」と称する多くの人々から過小評価されているのはなぜだろうか。
この理由は簡単である。この資料の正当性を認めてしまえば関東軍主犯説が瓦解し、昭和史が全面的に書き換えられるきっかけともなり得るものだからである。そして、現状ではわが国の「昭和史研究家」の大半は、連合軍にとって有利な歴史叙述を変えたくない人たちなのである。

加藤康男氏がモスクワの書店で見つけられた『GRU百科事典』*という書物に張作霖爆殺事件のことが書かれており、その内容が前掲の著書の最後に紹介されている。
*GRU:旧ソ連赤軍参謀本部情報総局
フリストフォル・サルヌイニの諜報機関における最も困難でリスクの高い作戦は、北京の事実上の支配者張作霖将軍を一九二八年に殺害したことである。
張作霖は一九二七年以降も明確に反ソ・親日政策を実行していた。ソ連官吏に対する絶え間ない挑発行為のため、東清鉄道の運営はおびやかされていた。
将軍の処分は日本軍に疑いがかかるように行われることが決定されたのである

そのためにサルヌイニのもとにテロ作戦の偉大な専門家であるナウム・エイチンゴンが派遣された。

一九二八年六月四日、張作霖は北京-ハルビン(引用者注・正しくは奉天)間を行く特別列車で爆死した。そして張作霖殺害の罪は、当初の目論見通り日本の特殊部隊に着せられた。」(同上書p.242-243)
とあり、見事に関東軍の仕業であることを日本に認めさせたことが記さているのだ。

張作霖爆殺事件にかぎらず、昭和の歴史には多くの嘘があるのだろう。コミンテルンが多くの紛争に関与して、世界の共産主義化を画策していたとすれば、このような事件はほかにもいくつかあって、日本だけが侵略者にされている可能性はないのだろうか。
こういう議論をするとすぐに、「陰謀史観」とのレッテルが貼られてしまいそうなのだが、ソ連やイギリスから出てきた史料や論文まで「陰謀史観」扱いをしていることは、研究者のスタンスとしてはおかしなことだと思う。これでは、いつまでたっても歴史の真相は明らかにならず、戦勝国側に都合の良い歴史観の中で堂々巡りの議論を繰り返すことになるだけだ。
そもそも、戦争が行なわれていた時代に陰謀が存在していたことは珍しい事ではない。自国の陰謀を隠すために、他国の謀略に見せかけるような事件は世界史でいくらでも見つけることができる。にもかかわらず、わが国の歴史教科書は他国には陰謀がなく、日本軍にのみ陰謀があったことを印象づけたいかのようだが、これでは永遠に真実が何であるかが見えてこないだろう。
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戦勝国による「歴史の書き替え」が始まった

8月8日付の産経新聞にこんな記事が掲載されていた。
ロシアが、米国による広島、長崎への原子爆弾投下を『犯罪』として糾弾する動きを強めている。米国を唯一の『非人道的な使用国』と宣伝することで自国の核保有を正当化し、さらに日米の分断を図る思惑が見える。『米国の原爆でなく、ソ連の対日戦争こそが第二次世界大戦を終結させた』と主張し、日ソ中立条約を破った事実をかき消そうとする論調も目立つ
 プーチン露大統領に近いナルイシキン下院議長は最近、原爆問題を討議する円卓会議を主催。原爆投下には『当時の連合国であったソ連を威嚇する目的があった』などと批判、『人道に対する罪に時効はない』と述べた。また『米ソの戦略核バランスのおかげで第三次世界大戦は起きなかった』とし、ロシアの核戦力は平和目的であるとの主張すらにじませた。円卓会議の出席者からは『国際法廷』を設けて『米国の犯罪』を裁くべきだとする声が相次いだ。」

長崎原爆

ネットで調べると8月6日のJ-CASTニュースで同様な記事がでている。
ここ数日で、ロシアの国会議員が原爆投下について言及する機会が増えている。ロシア国営のタス通信も、発言を積極的に伝えている
 例えば2015年8月4日には、政権与党『統一ロシア』のフランツ・クリンツェヴィチ第1副代表が、原爆投下について『70年が経った今でも、こういった行動を人道に対する罪だと公式に宣言しても遅くはない』と述べたと報じている。発言では、原爆投下は『背景に軍事的理由はない』として、『米国は原爆投下を威嚇のために利用した。日本に向けてではなく、ソ連に向けたものだった』、『こういった野蛮行為は本質的に正気の沙汰ではなく、人類に対する真の犯罪だと信じている。国連を含めた全ての国際機関が関係する方法で、そのように宣言すべきだ』などと米国を非難している
 セルゲイ・ナルイシキン下院議長は、8月5日にモスクワ国際関係大学で開かれた円卓会議で『原爆投下の記憶はナチスと日本軍による残虐行為の記憶と同様に重要』だと指摘。原爆の悲惨さを伝えるために、在京ソ連大使館が原爆投下直後に本国に送った公電をウェブサイトで公開するように指示したという。」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150806-00000003-jct-soci

このブログで、いつの時代もどこの国でも勝者が、勝者にとって都合の悪い真実を封印し、勝者にとって都合の良い歴史を描いて、それを広めて歴史叙述を固定化させようとしてきたことを、具体事例を挙げながら書いてきた。

そして近世から現代にかけてのわが国の歴史について言うと、戦勝国にとって都合の悪い史実は徹底的に伏せられ、あるいは事実を捻じ曲げられて、学校教育だけでなく新聞・テレビなどのメディアで、戦勝国は良い国でわが国は悪い国であるとの歴史叙述ばかりが拡散されてきたのである。
そのために、戦勝国にとって都合よく描かれた物語がそのまま日本人の常識になり、世界での認識においてもほぼ同様となっている。

原爆ドーム

ところがロシアは戦後70周年を迎えた今年になって、アメリカによる原爆投下を『人類に対する真の犯罪である』として、『国際法廷』を開いてアメリカを断罪すべきであると発言したというのだが、分かりやすく言えばロシアは、戦勝国が日本を悪玉にして作り上げた「戦勝国にとって都合の良い歴史叙述」を、「アメリカにとって都合が悪く、ロシアにとっては都合の良い歴史」に書き換えようとしている動きが出てきたということである。
しかしながら、そもそもロシアはアメリカを断罪する資格があるのだろうか。

シベリア抑留

このブログで何度かシベリア抑留の事を書いたが、終戦時、ソ連の占領した満州・樺太・千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいて、そのうち約107万人がシベリアやソ連各地に送られて強制労働させられたと言われている。
昭和25年12月に外務省は37万人が未帰還であると公式に発表しており、うち31万名は氏名も判明していたのだが、それから後にソ連からわが国にから帰還してきた人はわずかに2594人だったという。恐らく30万人以上の日本人が極寒の地で命を落としたと考えられるが、このシベリア抑留もアメリカの原爆投下と同様に明らかな国際法違反であり、人類史上最大級の犯罪であった。

自国の戦争犯罪を棚に上げてロシアが『歴史戦』を仕掛けてきた狙いは、産経の記事にあるように、日米の分断をはかろうとしているのだろう。そしてロシアの背後には中国がいるはずだ。

そう言えば今年のテレビの『終戦70周年記念』の特別番組はやたら原爆の話題が多く、今までテレビではあまり見たことのないような、被爆者の皮膚がひどく焼けただれた画像がやたら多く出た一方で、ソ連のシベリア抑留の解説が少なかったのは、ロシアが仕掛けてきた「歴史戦」と無関係ではないのだろう。

先ほどロシアの背後に中国がいると書いたが、歴史問題に関してはここ数年、両国は連携を強めてきている。そして中露にとって都合の良い歴史は、わが国の左派勢力にとっても都合の良い歴史であることは言うまでもない。

ここで、中国とロシアが歴史問題で共闘してきた経緯を振り返っておこう。

メドベージェフ国後島訪問

戦後65年に当たる5年前(2010年)に、当時の胡錦濤国家主席とメドベージェフ大統領は「中露は第二次大戦の歴史の歪曲を断固非難する」との文言を含む共同声明を発表し、その後、中国は尖閣諸島や歴史認識をめぐって対日圧力を強め、メドベージェフ氏もソ連・ロシアの指導者として初めて北方領土を訪問した。
第二次大戦における対日戦で共闘したとの歴史認識を共有し、中国は尖閣諸島、ロシアは北方領土の領有権主張につなげる構図が鮮明になったのだが、当時のわが国は民主党政権の時代で、まともな対応をしなかった。

その後中国は国際ルールを無視して、フィリピンの了解にある南シナ海の南沙諸島で、暗礁を埋め立てて滑走路や軍事施設などの施設の建設を今も進めている。
わが国のマスコミではこの問題をあまり報じていないのが気になるが、南シナ海は原油や液化天然ガス(LNG)の半分近くが通る世界経済の大動脈であり、この問題を放置すればいずれ中国は南シナ海の制海権を掌握し、各国の船舶は自由な航行が出来なくなる可能性が高いのだ。

一方ロシアはウクライナへの軍事介入を行なって、昨年(2014年)3月にはウクライナ南部のクリミアを独立させてロシアに編入することを決定した。欧米の主要国がロシアを非難ししたのち経済制裁を科してわが国も同調したのだが、プーチンは日本に対して高圧的な姿勢に転じて、閣僚に北方領土を視察させ、先日の報道によると、極東地域の振興策として来年1月からは土地を国民向けに無償で分与する法案を準備していて、北方4島にも適用されることが報道されている。こんなことを放置してしまっては、北方領土の返還が益々遠のいてしまう。

ロシアは中国やわが国の左翼マスコミ等と連携して、日本人の歴史認識を「自虐史観」のまま固定化したうえで、アメリカの原爆投下は「ナチスと日本軍による残虐行為の記憶と同様」だとして日米の離反をはかろうとしているようだが、普通に考えると、ロシアから「国際法廷を開いて断罪すべき」とまで言われたアメリカが、何時までも沈黙を続けるとは思えない。
これから戦勝国同士の『歴史戦』が始まるのかもしれないと思うのだが、その場合にアメリカがとる戦略としては、「ロシアや中国にとって都合の悪い真実」が記された文書を逐次世界に公開していき、中露が主張する歴史叙述の嘘を白日の下に晒して、中国やロシアやわが国の左派勢力の論拠を崩すことが、最も有効なのだと思う。
そしてそのための裏付けとなる史料はアメリカにかなり残されていると思われ、それを少しずつ公開していけば、ほとんど資金を使わず、また軍事力も使わずに、中露に決定的なダメージを与えることができる。

ヴェノナ

以前このブログでも書いたが、第二次世界大戦前後にアメリカ国内に多数いたソ連のスパイやエージェントがモスクワの諜報本部と交わした極秘通信をアメリカ陸軍省特殊情報部が傍受していて、1946年以降に解読に成功したヴェノナ文書がある。
この文書が解読され次々と公開されることによって当時のルーズベルト政権では、常勤スタッフだけで2百数十名、正規職員以外で300人近くのソ連の工作員、あるいはスパイやエージェントがいて暗躍していたことが判明し、彼等は太平洋戦争終戦後もしばらくアメリカの政権の中枢部にいてソ連と通じていたことがわかってきたのである。
戦前のアメリカの反日運動の背後にもソ連のスパイがいたこともわかっており、「日米戦争を引き起こしたのは、ルーズヴェルト政権内部にいたソ連のスパイたちではなかったのか」という視点が浮上して、アメリカでは近現代史の見直しについてかなり議論が進んでいるようだ。

次のURLに江崎道朗氏の『アメリカを巻き込んだコミンテルンの東アジア戦略』という論文が掲載されているが、これを読むと、こんなに多くのソ連の工作員がアメリカの中枢部に潜り込んでいたことに誰しも驚きを禁じ得ないだろう。
http://ironna.jp/article/915

一方でわが国の政権中枢や軍隊にもソ連のスパイやエージェントがかなりいて暗躍していたこともわかっているのだが、ではソ連が日米双方に大量のスパイを潜り込ませた意図はどこにあったのか。

当時のレーニンとスターリンの考え方を知れば、ソ連が何を考えていたか誰でもわかる。

レーニン

このブログでも紹介したが、レーニンの『敗戦革命論』の考えかたに基づき、は1928年コミンテルン第6回大会議でこのように決議されている。
帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。


帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない。
要するに、戦争によって自国政府が敗北し崩壊に向かわせて、共産主義革命を導けと言っているのである

スターリン

また1935年の第7回コミンテルン大会においてスターリンはこう演説している。
ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

要するにソ連は、先進国同士を戦争させて消耗させ、最後に参戦して漁夫の利を得ようと考えていたのである。そしてスターリンのこの戦略を実現するための工作員や協力者が世界中に根を張っていて、わが国の政界や軍の中枢にも上層部にも多数存在していたのである。以前このブログでも書いたが、「大東亜共栄圏」とか「東亜諸民族の解放」とかいう勇ましい言葉はソ連のスパイであった尾崎秀実らのグループによって広められ、このスローガンで日本を対ソ不戦に導く「南進論」に導いたのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-223.html

産経0811

上の画像は、平成25年8月11日の産経新聞の記事だが、これによると、当時の日本政府の重要メンバーの多くがコミンテルンに汚染されており、日本の共産主義者たちが他国の共産党と連携しながらソ連に和平工作を仕掛けたということを、中国国民政府の陸軍武官が重慶(中国の臨時首都)に打電していたことを米国が傍受したことが機密電報でロンドンに伝えられ、英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAに残されていることがわかったという。
その記事の解説によると鈴木貫太郎の首相秘書官を務めた松谷誠・陸軍大佐が、(昭和20年)4月に国家再建策として作成した『終戦処理案』」では戦後はソ連流の共産主義国家を目指すべきだと書かれていたことや、陸軍参謀本部戦争指導班長、種村佐孝大佐がまとめた終戦工作の原案『今後の対ソ施策に対する意見』でも、(1)ソ連主導で戦争終結し (2)領土を可能な限りソ連に与え日本を包囲させる (3)ソ連、中共と同盟結ぶと書かれているのだそうだ。

以前ブログに記したが、ソ連が8月9日に対日宣戦布告したのち、大本営は「対ソ全面作戦」を関東軍総司令部に発動したのだが、驚くべきことにその内容は、満州国を直ちに放棄して軍を朝鮮半島に向かわせ、11日には朝鮮国境に近い場所に総司令部を移転させている。これは種村大佐が終戦工作原案でまとめたとおり「領土を可能な限りソ連に与え日本を包囲させる」ことを忠実に実行しているのである。

関東軍は早々と満州国をソ連に差し出したのだが、領土だけでなく居留民をも早々と差し出している。そのことを裏付ける証拠がソ連側にも関東軍にも残されている。

たとえば、関東軍が8月26日にソ連に提出した文書は、このようなものであった。
「一、135万の一般居留民のほとんどは満州に生業があり、希望者はなるべく残留して、貴軍に協力させてほしい。ただし老人、婦女子は内地か、元の居留地へ移動させて戴きたい。
一、軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の経営に協力させ、その他は逐次内地に帰還させてほしい。帰還までに極力貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい。
一、例えば撫順などの炭鉱で石炭を採掘するとか、満鉄、製鉄会社などで働かせてもらい、冬季の最大難問である石炭の取得にあたりたい。

http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

当時の史料を読めば、シベリア抑留の問題は、左傾化していた大本営や関東軍にも責任があることは明らかなのだが、関東軍上層部の異常さは千島列島の最北にある占守島(しゅむしゅとう)の戦い見てもよくわかる。

樋口季一郎

第五方面軍司令部の樋口季一郎中将は、ソ連軍奇襲の報告を受けて自衛のための戦いを決断し、日本軍は良く戦ってソ連軍の進軍を阻んだのだが、ソ連側の被害があまりに甚大となったために、ソ連極東軍最高司令官ワシレフスキー元帥が急遽関東軍の秦関東軍参謀長に仲介を求めてきたという。秦参謀長は直ちに停戦することを樋口中将に要請し、日本軍は優勢であったにもかかわらず、武装解除を余儀なくされたのだが、この戦いでソ連軍の進軍を止めたことで、北北海道はソ連に侵略されずに済んだのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

わが国よりもソ連に忠誠心を持つような幹部や兵士が関東軍に多数いた事は、わが国が中国大陸で戦争に巻き込まれていったことと無関係ではないと思うのだが、戦後このような史実がほとんど無視されているのは、わが国で拡められている歴史叙述が相当歪められたものであることを物語っている。
こんなことを書くとすぐに中韓や左派勢力から「歴史修正主義は許さない」「陰謀論は聞くに値しない」という声が聞こえてきそうだが、この言葉は「戦勝国および共産主義にとって都合の良い歴史を書き換えるな」という意味の脅しだと理解すれば良いだろう。

しかし、ロシアがアメリカの原爆投下を問題にし出したことで、「戦勝国にとって都合の良い歴史」が一枚岩ではなくなり、これから大幅に書き替えられる可能性が小さくない。このことはわが国にとってはチャンスなのだと思う。

アメリカは「邪悪な日本との戦争を早く終結させるために原爆投下はやむを得なかった」との従来の主張を続けては中露を叩くことが不可能で、中露から原爆を落とした罪を永遠に問われることになってしまう。
この「歴史戦」でアメリカが不利な状態を脱するためには、ソ連こそが最大の犯罪国家であり、中国共産党はソ連の仕掛けた「敗戦革命工作」に協力したという真実の歴史を描くしかないのではないか。アメリカには「中露にとって都合の良い歴史」が嘘であることを暴く、決定的な史料があるはずで、それを少しずつ呈示しつつ暴露することによって、中露を徹底的に叩くことができる。

そうすれば「日本だけが悪かった」とする歴史は全面的に書き換えられ、ロシアや中国およびわが国の左派勢力も一気に力を失うことになるだろう。
わが国が北方領土問題や尖閣問題について、ロシアや中国とまともな交渉できるようになるのはそのあとのことになると思われる。

今後のアメリカにおける歴史の見直しの動きに注目したい。
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【ご参考】通史では以下のような史実はすべて伏されてしまっていますが、重要な事実でありながらなぜ戦後のわが国で伝えられてこなかったのかと誰でも考えると思います。良かったら覗いてみてください。

昭和天皇の『終戦の詔書』の後も戦争が続き、さらに多くの犠牲者が出たこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-225.html

ソ連の『北海道・北方領土占領計画書』を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-187.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

『ポツダム宣言』を公然と無視し、国際法に違反した国はどの国か~~ポツダム宣言10
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-300.html

昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

軍部や官僚に共産主義者が多数いることに気が付いた近衛文麿
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-208.html

終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-224.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html

関連記事

ソ連占領下から引揚げてきた日本人の塗炭の苦しみを忘れるな

昭和20年8月15日の玉音放送によりわが国の降伏が国民に公表されたのだが、全面的な戦闘行動の停止が行なわれるまでには少し日数が必要だったようだ。

Wikipediaには、こう解説されている。
「1945年8月15日、大本営は陸海軍に対して『別に命令するまで各々の現任務を続行すべし』と命令し、8月16日に自衛の為の戦闘行動以外の戦闘行動を停止するように命令した。さらに8月18日には、全面的な戦闘行動の停止は、別に指定する日時以降に行うように命令、8月19日に、第一総軍、第二総軍、航空総軍に対して、8月22日零時以降、全面的に戦闘行動を停止するように命令した。支那派遣軍を除く南方軍等の外地軍に対しては、8月22日に、8月25日零時以降に全面的な戦闘行動停止を命令した。中国大陸や北方戦線では、ソビエト連邦や中華民国との戦闘が暫く続いた。ソ連軍は北方四島に上陸作戦を展開し、それを阻止するための戦闘が、中央の命令により現地陸軍守備隊によって行われた(占守島の戦い等)。また戦闘停止命令の届かなかった部隊などによる連合国軍との小規模な戦闘は続いた。さらに、外地の一般市民が難民と化し多くの犠牲者をだした。また、沖縄の久米島では現地の海軍部隊による住民の虐殺事件も起きている(久米島守備隊住民虐殺事件)。これらの戦闘は8月下旬になると概ね終結した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%82%E6%88%A6%E3%81%AE%E6%97%A5

終戦直後には海外にわが国の軍人・民間人が合計660万人以上いたとされるのだが、1946年末までに500万人を超える人々が海外から引き揚げてきたのだそうだ。

以前このブログで書いたが、わが国が受諾した『ポツダム宣言』には、連合国がわが国に提示した条件がいくつか記されている。
(9) 日本国の軍隊は完全に武装を解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的な生活を営む機会を得ることとなる。
(10) われわれは、日本人を民族として奴隷化しようとしたり、国民として滅亡させようとする意図を持つものではない。
…」

ところが、連合国側が戦後守らなければならないはずの、この『ポツダム宣言』をソ連は公然と無視し、50万人以上の日本人が抑留されてシベリアの極寒の地で強制労働に従事させられ、30万人以上が命を落としたことを前回の記事で触れた。

しかしひどい目に遭ったのはシベリアに抑留された日本人ばかりではなかった。
前回も書いた通りソ連参戦の後、関東軍は満州をソ連に差出しただけでなく、日本人居留民をおきざりにしたため、残された日本人はソ連の占領地域の各地で酷い目に遭っている

大本営朝枝参謀・関東軍停戦状況に関する実視報告

関東軍が居留民を置き去りにしたことは、大本営の高級参謀、朝枝繁春陸軍中佐の『関東軍方面停戦状況に関する実視報告』を読めば、大本営の方針であったことがわかる
「既定方針通り、大陸方面においては、在留邦人及び武装解除後の軍人はソ連の庇護下に満鮮に土着せしめて生活を営む如くソ連側に依頼するを可とす」、
「満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとす」
(『シベリアの挽歌』p.363-380)とある。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html

はじめから日本軍は、大陸の邦人を「棄民」にすることを決めていたようなのだ。ちなみにこの文書を作成した朝枝繁春陸軍中佐は、1954年に米国に亡命したKGB中佐・ラストボロフ証言によると、ソ連で特殊工作員として訓練を受けた11名の日本人のうちの一人である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-295.html
そして、さらに腹が立つことなのだが、8月11日未明から正午までに満州国の首都・新京にいた軍人関係家族や満鉄関係家族、大使館家族は38千人は18本の列車に優先的に乗って脱出し、しかも軍人家族脱出の指揮を執ったのは関東軍の総参謀長・秦彦三郎の夫人だったというからひどい話である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%AF%BE%E6%97%A5%E5%8F%82%E6%88%A6

引揚地図

関東軍に置き去りにされた日本人の話に戻そう。
昭和6年(1931)以降わが国は、現在の中国東南部・内モンゴル地区に国策として入植者を送り込み(満蒙開拓団)、昭和20年(1945)頃にはこの地域に27万人程度の日本人が居留していた。
ところが太平洋戦争末期の戦局悪化により、開拓団の若い男性4万7千人が根こそぎ軍に召集されてしまい、この地域に残されたのは大半が老人、女性、子供であったという。
そんな状況下で、8月8日にソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄してわが国に宣戦布告し、翌日午前0時を期にソ連軍が満州国境を越えて侵略を開始したのである。

関東軍は朝鮮国境近くまで退いていたため、開拓団の人々はほとんど無防備の状態で逃避行を開始することを余儀なくされたのだが、この逃避行で約8万人が死亡したと言われている。
敗戦時に旧満州にいた日本人は約155万人だったそうだが、死者20万人の4割が満蒙開拓団のメンバーであったことになる。

引き揚げる途中で多くの日本人が虐殺されたり強姦されたりしたのだが、こういう史実がわが国ではほとんど知らされていないのである。

戦後引き揚げの記録

若槻泰雄氏の『戦後引き揚げの記録』(時事出版社)にはこう記されている。

ソ連兵の日本婦人への暴行は、すさまじいの一語に尽きる。それが12、3歳の少女であろうと、70歳近い老婆であろうと、そして、人前でも白昼でも、また雪の上であろうとも、そういうことは全く頓着しなかった。樺太の場合同様、女性たちは丸坊主になり顔に墨を塗り男装して難を逃れようとしたが、彼らは一人一人胸をさわって女であることを確かめると引き立てて行った
 南満へ疎開した人たちが、終戦後また新京の自分の家へ帰る途中、公主嶺の駅で、進駐してきたソ連軍の列車とばったり出くわしたとき起こった事件は『誰知らぬ者もない事実だ』という。それはあわてて発車しようとする日本人の乗っている列車をソ連兵が止め、女は一人残らずプラットフォームに降ろされ、『白日の下、夫や子供や講習のまん前で集団暴行を受けた』のである。
 もとより日本女性のすべてが易々諾々とソ連兵の毒牙に身を任せたわけではない。凌辱に耐えかねて死をもって抗議する若い婦人、暴行から身を守ろうとみずから死を選ぶ人妻もいた。例えば敦化の日満パルプKKの社宅では、ソ連軍は命令によって男と女を分離させ、170人の婦女子全員を独身寮に監禁し、夜となく昼となく暴行の限りを尽くしたが、この際23人の女性は青酸カリによって自殺している。」(『戦後引き揚げの記録』p.123)

このような記録は枚挙にいとまがなく、ソ連の同盟国であった中国の徐焔(シュ・イェン)大佐ですら、『1945年 満州進軍 日ソ戦と毛沢東の戦略』(三五館)の中で、
ソ連軍が満州に入った時点から、その相当数の将兵は直ちに、横暴な行為を露骨に現した。彼らは敗戦した日本人に強奪と暴行を振るっただけでなく、同盟国であるはずの中国の庶民に対しても悪事をさんざん働いた。
特に強奪と婦女暴行の二つは満州の大衆に深い恐怖感を与えた
」と書いていることを知るべきである。
次のURLにソ連軍が日本人にどのような行為を行なったのかについて、他にも数多くの事例が紹介されているので、関心のある方は覗いていただきたい。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html

藤原作弥

元日銀副総裁の藤原作弥氏は子供の頃に満州からの引揚げを体験された方である。
その藤原氏が、今から10年前に『戦後60年 私の中の昭和史』という演題で、鳥取県で講演された原稿がネットで読める。
http://web.archive.org/web/20111026072111/http://www3.boj.or.jp/matsue/tottori/data/kouenkai1.pdf

藤原氏の家族は昭和20年8月10日の夕刻に、無蓋の加餅列車に乗って満州内陸部の興安を脱出し、3日後に北朝鮮との南満州にある国境の街・安東に必死の思いで辿りついたのだが、ソ連軍の進撃は思いのほか早く、そこから先は進むことができなかったという。安東で1年半余の難民生活を余儀なくされ、わが国に帰国できたのは昭和21年の秋だったのだそうだ。

藤原作弥氏引揚地図

しかし8月10日に興安を脱出できた藤原氏の家族は運が良かったとしか言いようがない。もし、この脱出が遅れていたら、家族がとんでもない事件に巻き込まれていたこ可能性が高かったことを知って藤原氏は衝撃を受けたという。どんな事件が起こったのか。

葛根廟事件

「人に知られた『葛根廟事件』であります。興安街東半部に住んでおられた日本人約1,200名が、避難のため、興安街から脱出しようと行軍中、追撃してきた15台のソ連戦車軍団により1時間半にも及ぶ無差別の機銃掃射を受け、実に1,000名以上の方が命を落とされました。大半が無防備、無抵抗の老人や婦女子で、実に痛ましい事件です。私は、当時興安街在満国民学校3年生でしたが、国民学校での私のクラスメートも、30名のうち20名もの方がこの事件で亡くなられておられます。国民学校全体でも、270名の生徒のうち、200名近くが亡くなられ、奇跡的に生き残った方はわずか60名程度であります。
事件日は、私ども家族が脱出した僅か4日後の8月14日です。何らかの見込み違いや手違いが発生し、私どもの出発が 1日でも遅れていたとしたら、私どもも何らかの形でその犠牲になっていたでしょう。そのことも改めて私を驚愕させました。」

藤原氏はさらに、こうも述べておられる。
それにつけても、日本人の歴史的怠慢には問題を感じます。この事件に限らず、これまで日本は、終戦時において無防備、無抵抗の日本人が 大きな被害に遭遇した歴史的事実を、正しく伝えて来ておりません。満洲の問題に限らず、第2次世界大戦全般を振り返り、総括する作業を、明らかに日本は怠ってきております
終戦時の満洲ではさまざまな悲劇が起こりました。なかでも、8月12日、ソ連機械化部隊に追撃され、日本人開拓団約1,300名のうち、400名の婦女子が集団自決に追い込まれた『麻山事件』。さらには、東京都港区乗泉寺信徒の開拓団680名が、ソ連機甲部隊の一斉射撃や暴民の襲撃で、わずか20名を残し、大量殺戮された『牡丹江事件』。これらの2つは『葛根廟事件』とともに、『満洲三大事件』と言われております。ジェノサイド(計画的集団殺戮)と呼ばずして、何と呼べば良いのでしょうか

満州だけでなく朝鮮半島の北緯38度線以北はソ連のが占領地となったのだが、ソ連が引揚事業の費用負担を先送りしたため、3万人以上の日本人が栄養失調や病気で命を落としたという。そのような状況下で約20万人が自力で38度線を越えてアメリカ軍による引揚げで帰国できたそうだが、正式にソ連が日本人の引揚を開始したのは1946年12月以降のことで、人数は約8000人なのだという。

塗炭の苦しみを味わったのは満州にいた日本人だけではなかった、朝鮮在住の日本人達も、強制連行や虐殺などで、祖国の地を踏むことなく無念のうちに斃れた者が多かったようだ。
特に女性は朝鮮人やソ連兵、中国人等に度重なる強姦を受け、それを苦にして自殺した者も少なくなかったという。

Wikipediaにはこう解説されている。
「在外同胞援護会救療部では、引揚船に医師を派遣し、引揚者の治療に当たったが、殊のほか女性の性的被害が多いことに愕然し、早急に専門の治療施設を作る必要があると上部に掛け合った。こういう経緯で、1946年(昭和21年)3月25日に『二日市保養所』が開設されることになった。医師は在外同胞援護会救療部員(旧京城帝国大学医学部医局員によって構成)が担当した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%97%A5%E5%B8%82%E4%BF%9D%E9%A4%8A%E6%89%80

二日市保養所

少し補足すると、「二日市保養所」は福岡県筑紫郡二日市町(現筑紫野市)にあった厚生省引揚援護庁の医療施設で、レイプ被害に遭った日本人女性(引揚者)に堕胎手術や性病の治療を行った場所である。

そして、施設にこのような記録が残されていることが上記URLに記されている。
二日市保養所の医務主任だった橋爪将の報告書によると、施設の開設から2か月間で強姦被害者の加害男性の国籍内訳は、朝鮮28人、ソ連8人、支那6人、米国3人、台湾・フィリピンが各1人だった。1947年の施設閉鎖までに500件の堕胎手術をおこなった。」
本土に生還し、二日市保養所で堕胎手術を決意した若い女性だけで500件なのだから、日本女性の犠牲者数はこの2桁あるいは3桁多くても驚くには及ばない。

加害男性に朝鮮人が多いのは、日本敗北の気配を読み取って朝鮮半島内に朝鮮共産軍が組織され、ソ連軍と呼応していたという。彼らは、逃走中の日本人を襲っては所持品を奪い取り、多くの女性が強姦された記録がいくつも残されている。

竹林はるか遠く

日系米国人作家のヨーコ・カワシマ・ワトキンズが、終戦時に家族とともに朝鮮半島を縦断する決死の体験記である『竹林はるか遠く』は韓国では発売禁止になったそうだが、アメリカでは優良図書に選ばれて、中学校の教材として多くの学校で使用されているのだそうだ。
韓国で発売禁止となった理由は、韓国にとって都合の悪い史実が書かれているからのようだが、韓国にせよ中国にせよ声高に反日を主張しわが国を貶め続けるのは、彼らの戦争犯罪を、わが国に擦り付けることによって、隠し通そうという意図があるのだろう。
わが国は、反日国家に対しては史実をぶつけて堂々と反論すべきであったのだが、藤原作弥氏が指摘しているとおり、戦後の長きにわたりわが国の歴史学者もマスコミも、「終戦時において無防備、無抵抗の日本人が 大きな被害に遭遇した歴史的事実を、正しく伝えて」来なかったのである

鳩山謝罪

そのために、わが国の無能な政治家が、彼らの圧力に屈して何度も謝罪してきたのだが、国際社会で謝罪するという事は、わが国が悪かったことを世界で公式に認めることを意味する。そのことによって、今までどれだけ多くの国富を奪われて来たことか

そろそろ日本人も、反日国家やそれに呼応する左翼マスコミが声高に主張する歴史は、嘘だらけであることに気が付かねばならない。
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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html

中国兵が綴った「日中戦争」の体験記を読めば、『南京大虐殺』の真実が見えてくる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-252.html


陥落直前に無責任にも南京を脱出した中国軍の最高指揮官が栄転したのは何故か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-253.html


国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

『ポツダム宣言』を公然と無視し、国際法に違反した国はどの国か~~ポツダム宣言10
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-300.html

昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

軍部や官僚に共産主義者が多数いることに気が付いた近衛文麿
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-208.html

終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-224.html

スターリンが朝鮮戦争に米国を誘導したことを示す極秘文書が発見されている
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-276.html


関連記事

なぜ中国大陸に大量の日本人孤児や婦人が残されたのか

前回の記事で、ソ連が対日参戦したため満州(現在の中国東北地方)から引き揚げてきた日本人の悲劇の事を書いた。民間人を銃殺したり強姦したりしたソ連軍に非があることは言うまでもないが、日本人としては、関東軍がソ連の対日参戦直前に南方に移動したことが許せない。
なぜ関東軍は、満州国境で民間人を護らなかったのか。

ソ連対日参戦

ソ連が参戦した8月9日に日本陸軍が、最初に発した命令はこのようなものであった。

「大陸命第千三百七十四号
命 令
一 「ソ」連は対日宣戦を布告し九日零時以降日「ソ」及満「ソ」国境方面諸所に於て戦闘行動を開始せるも未た其規模大ならす
二 大本営は国境方面所在の兵力を以て敵の進攻を破砕しつつ速に全面的対「ソ」作戦の発動を準備せんとす
三 第十七方面軍*は関東軍の戦闘序列に入るへし隷属転移の時機は八月十日六時とす
四 関東軍総司令官は差当り国境方面所在の兵力を以て敵の進攻を破砕しつつ速に全面的対「ソ」作戦の発動を準備すへし
右作戦の為準拠すへき要綱左の如し
  左記
関東軍は主作戦を対「ソ」作戦に指向し皇土朝鮮を保衛する如く作戦す
此の間南鮮方面に於ては最少限の兵力を以て米軍の来攻に備ふ
… 」
*第十七方面軍:昭和20年に朝鮮軍の廃止に伴い創設され、朝鮮方面の守備を主な任務としていた。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/1945Tairikumei74_80.html

よく読めばわかるのだが、「対ソ作戦」などと名付けられてはいるものの、関東軍は満州国境を守るのではなく「皇土朝鮮」を守るために第十七方面軍とともに朝鮮半島を守れと命じており、わかりやすく言えば、ロシアの国境から朝鮮との国境付近まで後退することを意味しているのである。そして17方面軍に対して8月10日の6時に関東軍の戦闘序列に入れということは、その日までに関東軍は朝鮮国境付近に移動せよと命じていることと同じだ。

その当時旧満州には約155万人の日本人居留民がいたとされるが、彼らを守ってくれるはずの関東軍がソ連侵攻を前に突如姿を消したことを、彼らはどうとらえたのだろうか。

藤原作弥

子供の頃に満州興安からの引き揚げを体験された元日銀副総裁・藤原作弥氏の『満州、少国民の戦記』(新潮文庫)を取り寄せて読み進むと、興安で実際に起こった『葛根廟事件』の貴重な資料である佐村恵利氏の『ああホロンバイル---元満州国興安総省在留邦人終戦史録』の内容を紹介している部分がある。少し引用させていただく。

満州、少国民の戦記

「同史録によれば、ソ連参戦後の興安街在住邦人の疎開対策(俗称、興蒙対策)は、全邦人を、北方のオンドルにひとまず避難、集結させることを目的としていた。もちろん、この『興蒙対策』は関東軍や陸軍興安軍官学校学生隊による護衛を前提条件としていたが、興安地区在留邦人が唯一の頼りにしていた関東軍四十四軍三個師団は、新京司令部の命令により8月10日いちはやく、しかも秘密裡に新京、奉天方面に撤退してしまったのである。
 満蒙からの引揚者たちが、いまだに関東軍を恨んでいるのは、在留邦人の保護、救出もせず敵前逃亡したことと、それにより日本人民間人が随所で大惨劇に遭遇したことが最大の理由となっている
。もう一つの頼みの綱だった軍官学校学生隊は、ソ連侵攻とともに叛乱を起こし撤退した。」(新潮文庫『満州、少国民の戦記』p.323-324)

このように佐村恵利氏は、引揚者達が関東軍は敵前逃亡したと認識していたことを記しているのだが、藤原作弥氏もまたこのように述べている。

「実は、関東軍は、興安街の民間在留邦人や開拓民よりも一足先に、南方へ撤退したという。かねてから興安街は『防備が手薄になればホロンバイルの草原の中で陸のサイパンになる』と軍事上の危険が指摘されていたが、その怖れが現実のものとなった。興安街在住3500人のうち廃墟の無防備都市からの脱出が遅れた約千人が草原をさまよい、ソ連軍戦車の犠牲となったのである。」(同上書 p.66)

この事件が『葛根廟事件』で、避難のため興安街から脱出しようと歩いているところを、15台のソ連戦車軍団による1時間半にも及ぶ無差別の機銃掃射を受け、1,000名以上の日本人居留民が命を落としたのである 。

旧満州では同様な事件が他にもいくつかあり、多くの日本人がソ連軍の犠牲になり、満州からの引揚の途上で約20万人が命を落としたと言われている。
当時の満州は、若い男性が根こそぎ軍に召集されていたため、犠牲になったのは、無防備、無抵抗の老人や婦女子がほとんどであったという。関東軍はそのような事態になることを予測できなかったはずがないだろう。

ソ連軍の満州侵攻

前回の記事で大本営陸軍部の高級参謀、朝枝繁春陸軍中佐の『関東軍方面停戦状況に関する実視報告』の内容の一部を引用したが、今回はその冒頭の部分を紹介しよう。
「第一 全般概況
一、 満鮮方面対『ソ』停戦は、『ソ』側の絶大なる好意と、関東軍総司令部の努力とに依り、極めて順調に進捗し、8月26日現在、安東、錦州を除く全満及び北緯38度以北の朝鮮に於ける停戦ならびに武装解除は完了し、安東、錦州に於いては随時武器引渡しを実施し得る準備にありて…」
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html

と、満州に居住していた日本人がどんなひどい目に遭ったかを、何も知らないような書き方をしている。ちなみに、1000人が虐殺された『葛根廟事件』は8月14日、ソ連機械化部隊に追撃され、日本人開拓団約1,300名のうち、400名の婦女子が集団自決に追い込まれた『麻山事件』8月12日なのである。

そして朝枝参謀は、この文書の「第四 今後の処置」の中でこう書いている。

「一、一般方針
既定方針通り、大陸方面においては、在留邦人及び武装解除後の軍人はソ連の庇護下に満鮮に土着せしめて生活を営む如くソ連側に依頼するを可とす

普通に読めば、この大本営参謀は満州の日本人は初めからソ連に献上する方針でいたことになる。だからいちはやく関東軍が南下し、8月11日には朝鮮国境に近い通化に総司令部を構えたのだと理解できる。

関東軍がソ連と戦うつもりはなく、満州国領土と居留民を早々にソ連に差し出したことが史実であることを裏付ける証拠はソ連側にも残されている。

関東軍総司令部が1945年8月26日 にソ連軍に提出した「ワシレフスキー元帥二對スル報告」の中で、「軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の經營に協力させ、そのほかは逐次内地に歸還させてほしい。歸還までは極力貴軍の經營に協力するよう使っていただきたい」という正式な申し入れを行っていたというのだ。この文書は元関東軍参謀(作戦班長)草地貞吾大佐が数人の参謀と合議の上取りまとめ、山田乙三総司令官、秦総参謀長の決裁を受けてソ連側に提出したことが、近年の草地証言で確認されているという。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jarees1993/1994/23/1994_23_33/_pdf

ワシレフスキー元帥

またワシレフスキー元帥がモスクワに打った電文(8月20日付)も同様なことが記されている。
「関東軍参謀長秦中将は私ワシレフスキー元帥に対して、満州にいる日本軍と日本人ができるだけ早くソ連軍の保護下に置かれるよう、ソ連軍の満州全域の占領を急ぐよう要請し、同時に、現地の秩序を保ち企業や財産を守るために、ソ連到着まで武装解除を延期されたいと陳情した。…」

http://blog.goo.ne.jp/yshide2004/e/63b131d3e8a160d75230a4c62f6bf71d

このように、関東軍は満州としの居留民をソ連のために差し出そうとしたことは確実な事なのだが、このような史実は戦後のわが国では徹底的に封印され、一部の研究者が論文などで引用しておられるものの、ほとんどの日本人には知らされていない。それどころか、真実とは程遠い内容で伝えられているのが現状だ。

日本の証言

元伊藤忠会長で当時関東軍の参謀であった瀬島龍三氏は、平成14年(2002)に放送された『新・平成日本のよふけスペシャル』というテレビ番組で、インタビュアーの「昭和20年7月1日付けで関東軍参謀になられ、この時期の関東軍のおもな任務は『本土決戦に即応する』ことと『朝鮮の保衛』だったそうですが」という質問に対してこう述べている。

「この時期、日本とアメリカは4つに組んで、太平洋で死闘を繰り返していました。そんな時に、ソ連が満州に攻めてきたならば、日本は腹背に敵を受けることになるので、ソ連を押さえることが『本土決戦に即応する』関東軍の役割でした。外交的には日ソ中立条約を守らせるようにし、軍事的には関東軍がソ連軍に対する警戒と抑止にあたるということです。
 それに、当時の朝鮮は本来の領土、すなわち本土ですから、これの『保衛』も、関東軍司令官の任務でした。保衛とは軍事だけではなく、警察をもってする国内の治安の維持なども含まれていたわけですね。」(フジテレビ出版『日本の証言』p.127-128)

番組の司会の笑福亭鶴瓶や南原清隆あたりではこれ以上の突込みを期待しても仕方がないところだが、瀬島氏は肝腎なことを何も語っていない。
そもそもソ連が対日参戦した時期は、既に広島、長崎で原爆が投下された後でアメリカとの戦いはほとんど勝負がついていた。朝鮮半島には第十七方面軍がいたにもかかわらず、なぜ関東軍が朝鮮国境まで引き下がらなければならなかったのか。関東軍が急に南下したために、多くの日本人が犠牲になったことについて、何も語らないのは卑怯だと言わざるを得ない。

前回の記事で、1954年に米国に亡命したKGB中佐・ラストボロフが、ソ連で特殊工作員として訓練を受けた11名の日本人がいたと述べたことを書いたが、『関東軍方面停戦状況に関する実視報告』を書いた朝枝繁春陸軍中佐も、関東軍参謀の瀬島隆三中佐も、また終戦工作の原案でソ連に可能な限り領土を与えよと書いた種村佐孝陸軍大佐も、いずれもラストボロフ証言でソ連の特殊工作員として訓練を受けたと指摘された人物なのである。ちなみに種村陸軍大佐は戦後、共産党に入党していることを付け加えておく。

いつの時代でもどこの国でも同じことが言えるのだが、自国のためではなく他国のために動こうとする人物が政治や軍隊の中枢に紛れ込めば、国を滅ぼすことはそれほど難しいことではないだろう。
終戦直後のわが国において、わが国の領土の大半がソ連に占領されることを望んでいた者が軍の幹部に何人もいて、終戦工作を立案する立場にいたことを知るべきである
。そして満州にいた日本人は、そういう連中によって領土とともにソ連に差し出されたと言えば言い過ぎであろうか。

スターリン

1935年の第7回コミンテルン大会におけるスターリン演説を思い出してほしい。
ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

関東軍はスターリンの言葉通りに、「暴走」して蒋介石の中国との泥沼の戦いに巻き込まれ、その後の日米との戦いで国力を消耗させ、アメリカが広島と長崎に原爆投下した直後にソ連が参戦すると、ソ連に矛先を向けることなく朝鮮半島まで兵を引き、満州をソ連に差出したというのが真相ではないか。

前回の記事で、満州からの引揚者の多くが引揚途上で亡くなり、大変苦労して日本に帰国したことを記したのだが、生き残った日本人の中で少なからずの日本人が大陸に残されたことも書かなければならない。

Wikipediaではこう解説されている
「ソ連侵攻と関東軍の撤退によって満州における日本の支配権と、それに基づく社会秩序は崩壊した。内陸部へ入植した開拓民らの帰国は困難を極め、避難の混乱の中で家族と離れ離れになったり、命を落とした開拓民も少なくなかった。遼東半島にソ連軍が到達するまでに大連港からの出国に間に合わなかった多くの人々は日本人収容所で数年間にわたり収容、帰国が足止めされた。収容所での越冬中に寒波や栄養失調や病気で命を落とす者が続出した。1946年(昭和21年)春までその帰国をソ連が許さなかった為、家族離散や死別の悲劇がここにも生まれた。この避難のさなかで身寄りのなくなった日本人の幼児は縁故または人身売買により現地の中国人の養子(残留孤児)に、日本人女性は同様に中国人の妻となって生き延びることになった(残留婦人)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%AE%8B%E7%95%99%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA

満州からの集団引上げが1946年の春から開始されて、それにより100万人以上の日本人が帰国したのだが、その後国共内戦が再開したために残された日本人の多くが徴兵されたり、労働者として働かされたという。
その後1949年に共産党の一党独裁国家である中華人民共和国が誕生し、日本政府は同国と国交を結ばないまま1958年に集団引揚を打ち切っている。
そして文化大革命などの混乱期が過ぎたのち、1972年に日中国交正常化がなされたのだが、日中両政府とも中国残留日本人の問題解決に熱心ではなかったという。

山本慈昭

その後、長岳寺住職の山本慈昭を中心とした肉親の活動により、1981年からようやく中国残留孤児・訪日肉親捜しが開始され、6700人以上の日本人が帰国できたのだが、わが国政府の取組みはあまりにも遅かった。
帰国出来たとはいえ、孤児の多くは幼少の頃から充分な教育を受けないまま何十年も経過して壮年となっており、現在でも約9割が未だに日本語が習得できていない状況だという。当然のことながら日本での社会適応力は乏しく、帰国者の8割以上が生活保護を受けて、ボランティア団体の寄付金などで生活をしているのが現状なのだそうだ。

中国・樺太残留邦人

厚生労働省のホームページの中国残留邦人、樺太残留邦人の統計が纏められている。
これを見ると残留邦人が問題となったのは中国大陸がほとんどで、特に樺太では残留孤児問題がほとんど存在しないことがわかる。
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/bunya/engo/seido02/kojitoukei.html

ソ連占領前は南樺太に40万人の日本人民間人が居住していていたのだが、関東軍とは異なり樺太では、日本軍は19日に武装解除命令が出るまでソ連軍とよく戦ったのである。
そして、居留民は65歳以上の男性と41歳以上の女性、14歳以下の男女を優先的に船に乗せて北海道に避難させ、ソ連軍に占領されるまでに10万人以上が船で島外避難に成功している。

大津敏男

その後も樺太庁長官の大津敏男が、樺太住民の生命と安全を守るべく奔走したそうだが、樺太に残留孤児がいないのはそういう努力が実を結んだことによるという。ちなみに、樺太庁長官の大津敏男は、1945年12月30日にソ連軍によって逮捕され、ハバロフスク裁判を経て、ハバロフスクに抑留され、1950年に帰国のあと、1958年に心不全で亡くなったという。こういう人物の名前は永く記憶にとどめておきたいものである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E6%95%8F%E7%94%B7

樺太は満州よりも日本本土に近かったという地の利もあるが、軍隊も役人も、居留民の命を守るために必死に戦った事を知れば、満州における関東軍の異常さが誰でもわかると思うのだ。
日本軍の中枢がソ連と繋がっていて、関東軍は大本営の命令により、満州の土地だけでなく居留民をもソ連に差し出したという真実が、わが国で広く知られる日は来るのだろうか。

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幻の映画、「氷雪の門」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-138.html

「ドイツと日本を暴走させよ」と命じたスターリンの意図
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

ソ連の『北海道・北方領土占領計画書』を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

『軍国主義者』や『青年将校』は『右翼』だったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-279.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

『ポツダム宣言』を公然と無視し、国際法に違反した国はどの国か~~ポツダム宣言10
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-300.html

昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか
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関連記事

なぜわが国は『シベリア抑留』の実態解明調査を怠ってきたのか

このブログで『シベリア抑留』について何度か書いたことがある。
『抑留』という言葉はわが国が旧ソ連に配慮した言葉と言って良く、実態は『捕虜』であり日本人が奴隷の如く酷使されたのであるが、終戦直後にはわが国の公文書や新聞などでも『捕虜』や『俘虜』という言葉がよく用いられていたことが確認できる。
しかし、最近の教科書では『抑留』という言葉ですら使っていないことに気が付いた。

シベリア抑留

たとえば、標準的な高校教科書である『もういちど読む 山川の日本史』では、太平洋戦争を総括してこう記されている。

「こうして6年にわたって、全世界に史上空前の惨害をもたらした第二次世界大戦は、枢軸陣営の敗北によっておわりをつげた。第二次世界大戦における日本の死者・行方不明者の正確な数字はわからないが、軍人と民間人あわせて約300万人、被災者合計約875万人と推定されている。なお、戦後、ソ連軍に降伏した日本兵ら約60万人がシベリアやモンゴルなどに連行され、強制労働に従事させられ、約6万人が死亡した。」(『もういちど読む 山川の日本史』p.314)

「連行」とか「強制労働」という言葉は使っているものの、歴史用語としての『シベリア抑留』がなくなってしまっては、いずれ日本人の記憶からこの史実が消え去ってしまうことになりかねない。

シベリア抑留』された人数と死者の数について、Minade Mamoruさんが詳しく調査されていて、以下のURLで豊富な資料とともに読むことが出来る。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/026s320212dai2gou.html

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連行された日本人は「ラーゲリ」という強制収容所に送られ、厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられて多くの日本人が死に至ったのだが、終戦直後のソ連の昭和20年9月12日にプラウダ紙に掲載されたソ連情報局の発表数字は、捕虜が約60万で、戦死者8万、負傷者2万で、連行途上や収容所での死者や行方不明者については何も書かれていない。そしてその後のソ連は長い間、日本人捕虜の合計を60万人という数字を変えなかったという。

一方、昭和20~25年の復員庁/引揚援護庁の数字、およびGHQ/SCAP(連合軍総司令部)の数字はいずれも70万人であった。そして昭和24~25年頃の日本共産党は「抑留者数は70万人というのは反ソ感情を煽るためのGHQ/SCAPと日本政府がでっちあげた虚構の数字である」と連合軍司令部と日本政府を厳しく非難していたという。

しかるに昭和26年(1951)のサンフランシスコ講和会議でわが国が主権を回復し、連合軍総司令部によるわが国の占領が終わった後は、日本政府はなぜかシベリア抑留の実態解明調査を行なわないまま、昭和56年(1981)にはシベリア抑留者の数を57.5万人に減らしてしまっている
ソ連にとっては、当初の抑留者数を減らすことによって、死亡・行方不明者を実態より少なくすることができることになるのだが、日本政府が70万人を一気に12.5万人も減らしたのは、ソ連や国内の左翼勢力の圧力に屈したと考えるしかない。

東京新聞 76万人の新資料発見

ところがソ連が崩壊して18年後の平成21年(2009)に、ロシアの国立軍事公文書館で第2次大戦後に旧ソ連で抑留された軍人や民間人が、最大で76万人との新資料が発見されたことがわが国の新聞に報道されたのである

読売新聞 31万余の氏名判明

そもそもわが国は、昭和25年(1950)12月11日に37万人がソ連から未帰還であることを外務省が公式に発表しており、うち31万名は、氏名も判明しているとまで述べていたのだ
しかしながら、それからのちにわが国に帰還してきたものはわずかに2594人だそうで、それから後は、外務省もマスコミも未帰還者がどうなったかについて何も語っていないというのである。

日本に帰らずにソ連に残って生活をすることを決意した日本人がいたとしても、それは少数であろう。
普通に考えればソ連地域からの最終的な未帰還者は、戦死者も含めて30万人をはるかに超えていたと考えざるを得ず、死亡者が6万人という教科書の記述はありえない数字なのだが、こんな数字が教科書に出ていたらそのまま鵜呑みにする人が大半だと思われる。
『シベリア抑留』の問題に限らず、わが国の戦後の歴史教科書の記述において戦勝国に対する外交的配慮を優先させることはよくある話なのだが、なぜわが国の政府は、ソ連が崩壊した後も、『シベリア抑留』の被害者に対して冷淡でありつづけたのか。

シベリア抑留分布

『シベリア抑留』という言葉を聞くと、日本人が極寒のシベリアに連行され強制労働に従事させられたと理解してしまうところだが、実際にはシベリアだけでなくモンゴルや中央アジア、北朝鮮、カフカス地方、バルト三国、ヨーロッパロシア、ウクライナ、ベラルーシなど広範囲に及ぶ地域に送られて、その地域の労働に従事させられたようだ。
この『抑留』を経験した人々は、今ではほとんどが90歳を超えており生存者はかなり少なくなっているのだが、40万人以上の同胞が悲惨な体験をした出来事にしては、本人が綴った記録が思いのほか少ないことが気になるのである。

ネットで公開されている体験記の中に秀逸なものがいくつかあるが、第百二十六師団司令部の陸軍准尉であった伊藤常一氏の記録は某ローカル新聞に連載中に途中で圧力がかかり、死者が続出した描写のところで中断されてしまった。「あとがき」に、連載の中断理由について、本人の文章でこう記されている。
ソ連の実情をそのまま発表することを好ましく思わない読者か、或いは政治的左翼分子の人からか良く分からないが、筆者に対する嫌がらせや遂には脅迫的な文書が舞い込むようになり、家族の者の意見もあり、遂に一時ペンを置くこととなり、昭和三十六年六月二十五日の発行を最後に中断のやむなきに至りました。」
http://yokuryuki.raku-rakudou.com/index.php?%E3%81%82%E3%81%A8%E3%81%8C%E3%81%8D

氷雪の門パンフ

以前このブログで記したのだが、昭和天皇の『終戦の詔勅』の後にソ連軍が樺太の真岡の町を攻撃して、直前まで電話交換の業務についていた「九人の乙女」の自決を描いた『氷雪の門』という映画が昭和49年に完成したものの、公開直前にソ連の圧力により葬り去られた事件があった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-138.html

戦後の長きにわたり、わが国のマスコミや出版界に対して同様な圧力をかけ続けた勢力が国内外に存在し、そのために『シベリア抑留』の真実がほとんど戦後のわが国でほとんど伝えられなくなってしまったと考えているのだが、ネットで様々な情報が入手できる世の中になって、ここ数年でいろんな方が情報発信するようになってきたことは良い兆しである。

棄民のあしあと

昨年末に、夏梅誠一という「シベリア抑留」を経験された方が『“棄民”のあしあと』という手記を出版され、最近その本を入手した。
夏梅誠一氏は大正10年(1921)に京都で出まれ、昭和17年(1942)に陸軍に入隊し、満州国境守備隊要員として爆弾を抱えて戦車に体当たりする『挺身奇襲』の命令を受けて出征したが、昭和20年(1945)の8月15日の終戦をソ連国境近い黒河省孫呉で迎えることとなる。
その後ソ連軍に捕えられて捕虜となり、シベリア南部のアムール川沿いにあるブラゴエチェンスクで船の荷揚げの重労働を命じられたのだが、日々の食事はわずかの高粱粥だったという。

ブラゴエチェンスク

夏梅氏は、収容所の環境についてこう記しておられる。
俘虜たちが寝起きし、唯一のくつろげる場は板の間に敷いた肩幅だけの空間にすぎない。しかしその湿っぽい空間はホコリを吸い込み、蚤や虱やダニたちの格好の巣窟なってしまい、人間たちが爪先で押しつぶすくらいでは間尺にあわず、首筋や胸元や腕の内側に赤い発疹をつくる者が増えてきた。高熱にうなされる者も増えてきた。そんな症状が虱やダニの媒介による発疹チフスや回帰熱という伝染病だということを衛生兵から聞かされていたが、その伝染病患者と雑魚寝をした者が相変わらず労役にかり出されていたのだ。おまけに全員がひどい飢餓状態に陥り、胃腸は機能を失い栄養失調になっていた。…
 高熱を出して呻いている連中も、一人残らず氷点下30度の屋外点呼に引っ張り出されて以来『アレから間なしに何人かが死んだらしいぞ』という噂が流れてきた。それから数日後、労役を終えて帰ってきた私は、数人の仲間と一緒に亡くなった連中の遺体が置かれている別館へ行った。別館といっても屋根も窓枠も床もない煉瓦造りの廃屋であったが、その一区画の土間に十人ほどの死体が積み重ねられていた。彼等の軍衣は生きている連中が頂戴したとみえ、シャツとズボン下のまま、めいめいが思い思いの姿で硬直して絡み合っていた。…」(『“棄民”のあしあと』p.52-54)

それ以来何人もの死者を送り、死体置き場の死体は三重、四重にも重ねられるようになり、ある日三人がかりでこれらの亡骸を馬車に乗せて運んで、白樺林に掘られた大きな穴に放り込んだことが記されている。

その後夏梅氏は中国東山の炭鉱での堀進作業を経験したのち、最終的には中国医科大「教材課」で人体の絵を描く仕事に従事した後、昭和28年(1953)5月にようやく帰国となる。
日本に戻ってからは全日本損害保険労組の書記を勤めた後、昭和53年(1978)会社を設立して、昭和63年(1988)には社長をリタイアされたのだが、その5年後に報道された『シベリア抑留』についての新聞記事を読んで強い衝撃を受けることとなる。
著書のプロローグをしばらく引用させていただく。

「…1993年(平成5)8月13日付の各紙は、『旧満州などの民間人・将兵捕虜180万人の“棄民”化計画が『大本営報告書』によって判明した』ことを大きくとりあげていた。
『最近ロシア公文書施設で発見されたもので、同報告によると、捕虜となった180万人についてソ連指令下に移し、国籍離脱まで想定、病人を除き、現地に土着させ、事実上“棄民”化する方針を固めていた』
『旧満州で関東軍がソ連に捕虜の使役を申し出た昭和20年8月29日文書も最近明るみに出たが、それには、大本営報告書に『全面的に同意』した関東軍参謀長の『所見』も発見された』
それらは『結果的に60万シベリア抑留の伏線となった関東軍の使役申し出は、日本の国家意志であった可能性が極めて強くなった』
(毎日新聞)」(同上書p.11-12)

上記の『毎日新聞』の記事には、なぜ大本営や関東軍がソ連に捕虜の使役を申し出たのかについて書かれていないが、わが国の国体を守るためだとか、北海道を守るためだったなどとか諸説がある。

当時の史料を確認しよう。大本営高級参謀の朝枝繁春陸軍中佐は昭和20年8月26日付で『関東軍方面停戦状況に関する実視報告』を書いている。
この人物は戦後、瀬島龍三、種村佐孝、志位正二らとともに「第7006俘虜収容所」というソ連の特殊学校で共産主義革命のための特殊工作員として訓練を受けたガチガチの共産主義者
で、昭和24年(1949)帰国後ソ連のスパイとして活動していたが、昭和29年(1954)にKGBのラストヴォロフ中佐がアメリカに亡命した際に日本人エージェントとして自分の名前が明かされたために、警視庁に自首したという経歴がある。

報告朝枝繁春 関東軍方面停戦状況に関する実視

朝枝中佐の『関東軍方面停戦状況に関する実視報告』にはこう書かれている。

「一 一般方針 
内地における食糧および思想経済事情より考えるに、既定方針通り大陸方面においては在留邦人および武装解除後の軍人は『ソ』連の庇護下に満鮮に土着せしめて生活を営む如く、『ソ』連側に依頼するを可とす。」
 二 方法
  1.患者および内地帰還希望者を除くほかは、速やかに『ソ』連の指令により各々各自技能に応ずる定職に就かしむ
  2.満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとす
  3.以上満鮮に於ける土着不可能なる場合においては、今入冬季前に少なくも先ず軍隊400,000、傷病兵 30,000、在留邦人 300,000 計730,000を内地向け輸送せざるべからず。而してこれを輸送は船舶、鉄道の運用輸送間の給養等厖大なる仕事にして、一つに『ソ』側を通して連合側に依頼せざれば不可能なる問題なり。」(『シベリアの挽歌』)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html

この報告から大本営は、終戦直後にソ連に残った日本人を73万人と認識していたことが明らかだが、朝枝は73万人もの邦人を国内に戻すことは困難であり、ソ連の庇護下において定職に就かせて土着化させ日本国籍を離れさせても良いとまで書いている。これでは多くの日本国民を「棄てる」と表明したことと同じではないか。
ソ連からすれば、死者・行方不明の邦人が多数出たとしても、すでに「国籍を離れ」たことにしてしまえば、いくらでも「日本」の犠牲者の数を減らすことができることになるのだ。

朝枝はこの報告の中で、在留邦人や軍人たちをソ連に差し出すことが「既定方針」であったと明記しているが、ではこのような方針はいつ頃決まったのであろうか。

産経0811

以前にこのブログで書いたが、1945年6月に中国国民政府の陸軍武官が、日本政府の重要メンバーの多くがコミンテルン*に汚染されており、他国の共産党と連携しながらソ連に和平工作を仕掛けたことを、重慶に機密電報で打電した電文が米国に傍受されて、ロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAに残されている。
*コミンテルン:モスクワに創設され世界の共産主義革命を目指した国際組織。第三インターとも呼ばれる。

この年の4月に鈴木貫太郎内閣が成立しソ連に和平仲介を依頼するために、参謀本部が東郷外相を訪ね、その後に参謀本部が提出した、ソ連に仲介を依頼するに際して提出された意見書『対ソ外交交渉要綱』は、参謀本部第二十班(戦争指導班)班長の種村佐孝大佐が書いたものだが、このような厳秘資料が『アジア歴史研究センター』にアクセスすれば誰でもPCで読むことが出来る。この人物も朝枝繁春と同じく「第7006俘虜収容所」というソ連の特殊学校で共産主義革命のための特殊工作員として訓練を受けたガチガチの共産主義者である。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C12120293900?IS_STYLE=default&IS_KIND=SimpleSummary&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=%E5%AF%BE%E3%82%BD%E5%A4%96%E4%BA%A4%E4%BA%A4%E6%B8%89%E8%A6%81%E7%B6%B1&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=&

種村は、対米戦争継続には日ソ戦争を絶対に回避すべきであり、そのために日ソ同盟を結ぶべきと主張し、そのためにソ連に提示すべき条件として次のように記している。

対ソ外交交渉要綱

「…換言すれば『ソ』側の言いなり放題になって眼をつぶる。日清戦争後に於ける遼東半島を還付した悲壮なる決心に立ち換ったならば、今日日本が満州や遼東半島や南樺太、台湾や琉球や北千島や朝鮮をかなぐり捨て、日清戦争前の態勢に立ち還り、明治御維新を昭和の御維新によって再建するの覚悟を以て、飽くまで日『ソ』戦を回避し、対米英戦争完遂に邁進しなくてはならない。…
…帝国としては、この肚を以て、日『ソ』戦争を絶対に回避すべきであって、そこまで肚を極めて対『ソ』交渉に移るべきである。移った以上『ソ』側の言い分を待って之に応ずるという態度に出づるべきである。我より進んで以上の諸条件を展開することの適当ならざるは外交駈引上から言っても当然考慮せられるべき点である。」

種村は、『今後の対ソ施策に対する意見』でも、「(1)米国ではなくソ連主導で戦争終結 (2)領土を可能な限りソ連に与え日本を包囲させる (3)ソ連、中共と同盟結ぶ」と書いており、わかりやすく言えば、ソ連に戦争で疲弊したわが国を包囲させて、ソ連主導でわが国に共産主義革命を起こそうとしたのである。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C12120293800?IS_KIND=MetaDetail&IS_STYLE=default&

松谷大佐

また鈴木貫太郎首相の秘書官を務め「終戦処理案」をまとめた松谷誠大佐も4月に『終戦処理案』をまとめ、その中で「戦後日本の経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿り、この点からも対ソ接近は可能。米国の民主主義よりソ連流人民政府組織の方が復興できる」とし、戦後はソ連流の共産主義国家を目指すべきだと書いているようだ。
http://www.ac.auone-net.jp/~oknehira/NihonWoSekikaSunzenmadeOikondaHaisenKakumei.html

左傾学生の続出に文部省全く弱る

ではなぜ、日本の大本営の中枢に共産主義者が多かったのか。
このブログで何度か書いてきたが、昭和初期に学生の左傾化が社会問題になるほどに若い世代がマルクス主義思想に傾倒し、マルクスやレーニンの著作が飛ぶように売れた。
そして昭和3年(1928)にモスクワでコミンテルン第6回大会が開かれ、そこで採択された決議「帝国主義戦争と各国共産党の任務に関するテーゼ」にはこう書かれていた。

「帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。

…大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。…」

共産党の一味が重要なる某連隊に
【昭和3年(1928)4月14日付 神戸又新日報】

このような考え方は最初にレーニンが主張し、『敗戦革命論』と呼ばれているものだが、わが国の軍隊の中には、この第6回コミンテルン大会の決議通りにわが国で革命を成功させるために進んで軍隊に入隊し、国家を内部から崩壊せしめる力となり、自国政府の敗北を導こうと動いた連中が少なからずいたと考えればよくわかる。
だから大本営はソ連が8月9日に対日宣戦布告した時に、関東軍に対し朝鮮国境まで退却させ、関東軍は満州と日本人居留民を放置してソ連に差し出し、終戦の日にはアメリカ主導の終戦に反対し、ソ連がわが国を包囲するまで戦争を長引かせるために昭和天皇の『終戦の詔勅(玉音放送)』を吹き込んだレコードを奪い取ろうとしたのである。

ワシレフスキー元帥

極東ソ連軍の最高司令官であったワシレフスキー元帥がモスクワに打った、8月20日付の電文にはこう記されている。
関東軍参謀長秦中将は私ワシレフスキー元帥に対して、満州にいる日本軍と日本人ができるだけ早くソ連軍の保護下に置かれるよう、ソ連軍の満州全域の占領を急ぐよう要請し、同時に、現地の秩序を保ち企業や財産を守るために、ソ連到着まで武装解除を延期されたいと陳情した。」
関東軍は満州にいる日本人居留民を護ることなく撤兵し、すべてをソ連に委ねたのである。

また関東軍の参謀が「ワシレフスキー元帥に対する報告」という文書を8月29日にソ連側に提出している。文書作成の責任者は関東軍作戦班長陸軍大佐の草地貞吾で、筆跡は関東軍参謀陸軍中佐の瀬島龍三のものだという。
以前はネットで掲載していた人がいたのだが、今ではリンクが切れてしまっている。
ごく一部しか読めないのは残念だが、「シベリア抑留裁判」を戦っている方のHP『老いたる蟷螂の言い分』にポイントとなる部分が引用されている。
「…次は軍人の処置であります。これにつきましても当然、貴軍においてご計画あることと存じまするが、元々満州に生業を有し、家族を有するもの並に希望者は満州に留まって貴軍の経営に協力せしめ、その他は逐次内地に帰還せしめられたいと存じます。右帰還までの間におきましては、極力貴軍の経営に協力する如くお使い願いたいと思います。」
http://i-support.main.jp/k00/20000110v2.html

『シベリア抑留』の問題は、日本人の多くを死に至らしめたソ連の責任が大きいことは言うまでもないが、大量の日本人をソ連に委ねた大本営や関東軍の責任を問わないわけにはいかないではないか。しかしながら彼らは誰一人として処罰されることなく、戦後の世界を生き続けたのである。

彼等の誰もが処罰されなかったということは、わが国で革命がおこることを夢見てソ連に協力してきたメンバーが、終戦直後のわが国の中枢部で深く根を張っていたと考えるしかない。わが国の政府はシベリア抑留の事実調査をまったく行わなかったのだが、この問題に関係する5つの省庁の高級官僚たちが調査を拒否し、特に外務省が強く反対したことが次のURLで記されている。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Sengoshori.html

わが国に対するソ連の工作がその後も続いてそれに協力した連中がかなりいたのだろう。そして1991年のソ連崩壊後は、彼等自信の保身のために従来からの主張を変えなかったとでも考えなければ、戦後の長きにわたってソ連にとって都合の悪い多くの真実が隠蔽され、政府機関による「シベリア抑留」の実態解明調査が今もなされていない謎が解けないのである。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

学生や軍部に共産思想が蔓延していることが危惧されていた時代~~ポツダム宣言4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-293.html

政府中枢にいてソ連に忠誠を尽くそうとした『軍国主義者』たち~~ポツダム宣言5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-295.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-224.html

ソ連占領下から引揚げてきた日本人の塗炭の苦しみを忘れるな
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-407.html

共産主義に傾倒した陸軍参謀本部大佐がまとめた終戦工作原案を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-409.html

ロシア革命後、ソ連はいかにして共産主義を全世界に拡散させたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-411.html

関連記事

長崎の原子爆弾の「不発弾」を、ソ連に差し出そうとした大本営参謀の話

シベリアの抑留を体験し、帰国後に全国抑留者補償協議会を結成し、ソ連政府と直接交渉を重ねて抑留死亡者名簿の引渡しや墓参の自由化を実現させた斎藤六郎氏が、何度かロシア公文書館を訪れて関東軍に関する重要書類の大量のコピーを我が国に持ち帰っている。ロシア公文書館には旧ソ連軍が持ち去った関東軍の機密文書が大切に保管されていたようだ。

原子爆弾保管の件

その中に、昭和20年(1945)8月27日付で関東軍から大本営参謀次長河辺虎四郎宛に「特別緊急指定」で送られた機密電報がある。
上の画像がその機密文書のコピーであるが、ここにはこう記されている。

原子爆弾保管の件 長崎より東京に持ち帰りたる不発原子爆弾を速やかに『ソ』連大使館内に搬入保管しおかれたし」

この電文を素直に読めば、長崎に落とされた原爆は2つあり、1つが不発弾であったということになる。その不発弾を終戦の日から12日後の日付で、速やかにソ連大使館に運んでほしいと大本営の河辺次長に指示しているのである。

瀬島龍三
瀬島龍三

この電報の主任の欄には「瀬島」と書かれているが、当時大本営参謀であった瀬島龍三のことである。若い世代の方はこの人物を御存知ないかもしれないが、戦後は伊藤忠商事の会長や、中曽根康弘元首相の顧問などの多くの要職に就任し、長い間わが国の政治経済界に大きな影響力を持った人物なのだが、平成19年(2007)に95歳でこの世を去った。
瀬島は終戦直前の昭和20年7月に関東軍作戦参謀として満州に赴任し、わが国が降伏した4日後の8月19日以降、ジャリコーウォで行われたソ連軍との停戦交渉に参加している。

長崎に落とされた原子爆弾の1つが不発弾であったという話はにわかには信じがたいところだが、旧ソ連軍の通訳であったチタレンコの手記に「不発原子爆弾」についての記述があるという。

沈黙のファイル

共同通信社社会部記者が著した『沈黙のファイル』に、その手記の該当部分の概要が紹介されている。
不意に日本軍の大本営の代表がソ連軍司令部を訪れてきて、チタレンコは司令官から30分ほど相手をするようにと命じられ、相手が退屈しないように広島と長崎に落とされた原爆を話題にしたところから話が始まっている。チタレンコの手記では交渉した相手の名前を失念したために、文中では『彼』と記している。

「応接室でチタレンコは彼に尋ねた。
『あなた方、日本の最高幹部では米軍の新兵器をどう評価しているのか? また、それは日本の降伏にどんな役割を果たしたのか?』
『原爆は実に強力な兵器だ。本当に想像を絶する破壊力だ』
『彼』はそう答え、原爆の犠牲者を挙げた後で続けた。
『降伏の原因となると、主な役割を果たしたのは原爆でなく、関東軍の急激な敗北だった。これで日本は後方を奪われ、抵抗不能となった……米国は日本に原爆を3個投下してストックを使い果たしてしまった。』
『日本に落とされた原爆は3個ではなく、2個だ。1つは広島に、もう1つは長崎だ』とチタレンコ。
『いいや』と『彼』は首を振った。
『米国は日本に3個投下した。広島に1つ、長崎に2つだ。うち1つが爆発しなかった。
 チタレンコが興味をそそられ『その不発弾はどうしたのか』と聞くと、『彼』が答えた。
『われわれの現状で何ができるのだ。不発弾はあるが、米軍が来て持ち去る。それですべてが終わる』
『彼』はチタレンコを見詰め、一呼吸置いて付け加えた。
われわれは喜んでそれをあなた方に渡すのだが
チタレンコは大笑いした。信じられない話だった。
『なぜ日本は急にわれわれに原爆を渡そうとするのか? しかも、喜んで』
『彼』が真剣な表情で言った。
『われわれの国を占領するのは米軍だろう。もし米軍が原爆を独占したら、われわれはおしまいだ。われわれをひざまづかせ、隷属させ、植民地にして日本は二度と復興できなくなる。もし原爆がソ連にもあれば、われわれは近い将来大国間でしかるべき地位を占めることができる
 チタレンコは手記に『この論拠は非常に説得力があるように思えた』と書いている。
…私と彼は話がついた。直接電話で東京都連絡を取り、原爆を我々に渡すという確証を得て、受け取りに東京に飛ぶだけだ。私は彼に提案の礼を言い、その提案を司令部に報告すると言った。『報告してください』と彼は言った。『どうかわれわれにはもう何日ではなく、何時間しか残っていないことを考慮してください。ソ連がわれわれから原爆を受け取ることを決定したら、なるべく早く行動しなくてはいけない。米国人が日本人に上陸する前、原爆がわれわれの支配下にあるうちに
 大本営代表の『彼』が出て行った後、チタレンコはすぐ執務室にいた政治将校フェデンコに報告した。
 説明を聞き終えたフェデンコはすっと立ち上がり、窓辺に向かった。チタレンコの耳につぶやきが聞こえた。
信じられない。日本がわれわれに原爆譲渡の提案をするとは。これはとてつもないことだ。』」(『沈黙のファイル』p.169~172)

朝枝繁春と周恩来
朝枝繁春(左)と周恩来(中央)と辻正信(右)[1957年に国交のない中華人民共和国を訪問]】

『沈黙のファイル』によると、この時にチタレンコに対して不発の原子爆弾提供を申し出た人物は瀬島龍三ではなく、大本営参謀の朝枝繁春だったという。
朝枝は、8月18日に東京から満州国の首都・新京に出発する前に、羽田空港で長さ1.5m、直径約30cmのジュラルミンの円筒状の物体を見て、長崎の原爆の不発弾との話を聞いている。飛行機の中で、もしこの不発弾をソ連に渡したらどうなるかと考え、電報用紙に文案を書いて、権限のある瀬島に頼んで打電してもらったと証言しており、冒頭の電文はその時のもののようである。

この電文で記されている通り不発弾が存在しそれがソ連に渡ったために、ソ連は随分短期間で原爆開発に成功したと考える人もおられるようだが、ネットでいろいろ探してもソ連にその「不発弾」を入手したという記録もなければ、アメリカが長崎に2発の原爆を落として一つは失敗したという記録もない。

元全国紙社会部記者であった新恭(あらた・きょう)氏のブログ『永田町異聞』によると、朝枝繁春は、冒頭の機密文書が斎藤六郎氏が持ち帰った大量の書類の中から発見された時に、メディアのインタビューに対し「それは原子爆弾と違う。ラジオゾンデである」と答えたという。
https://ameblo.jp/aratakyo/entry-10157993563.html

「ラジオゾンデ」というのは原爆投下と共に落下傘で投下され、爆風や熱線の威力を計測してそのデータを自動送信する装置で、実際に長崎では3個が投下されている。
『永田町異聞』によると、平成19年12月7日の衆議院外務委員会で、衆議院の松原仁議員がこの機密電報のコピーを出席者に配布して、「(ラジオゾンデは)わずか200gや300gのものであり、不発原子爆弾と間違えるだろうか」と朝枝証言に疑問を投げかけたそうだ。
衆議院の議事録で確認すると、松原議員は「原子爆弾の技術というのは極めて重要でありますから、恩義を売ることによって日ソのいわゆる終戦交渉を有利にしようという、瀬島さんの一つの判断があったと思う」と述べ、斎藤六郎氏が持ち帰った膨大な文書を精査し、国立公文書館に資料を移管すべきではないかと提案している。
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000516820071207005.htm

長崎に落下したラジオソンデ

今日のラジオゾンデはかなり軽量化が図られていて今では100g以下になっているようだが、当時のものはかなり大型であったことを松原議員は御存知ではなかったようだ。長崎の原爆資料館にその現物が展示されていて、ネットでその画像を見ることが出来る。
画像だけでは正確な大きさはわからないが、説明板の活字の大きさから推定して、朝枝証言の「長さ1.5m、直径約30cm」に近く、彼が羽田空港で見たのはおそらくこのラジオゾンデと同一のものであったと思われる。この大きさなら、知識のない人間は「原爆の不発弾」だと考えてもおかしくないと思う。次のURLにその画像がある。
http://ichyamada.jugem.cc/?eid=716

ネットでいろいろ探していると作家の檜山良昭氏の『閑散余録』というサイトに、8月6日の広島原爆の時にこのラジオゾンデの1つが広島の北に位置する亀山村の山林に落ちて、村では「不発弾が落ちた」と大騒ぎになり、陸軍が回収して陸軍の有末調査団に送られ、団員である新妻清一技術中佐によってすぐにラジオゾンデであることが認定されたことが書かれている。
http://www.slownet.ne.jp/sns/area/culture/reading/kansanyoroku/200708090922-9592430.html

原子爆弾用ラジオソンデ落下地点
【ラジオゾンデ落下地点(旧戸石村上川内)】

長崎でも同様なことが起こったようだ。
長崎のラジオゾンデ落下地点の1つである旧戸石村上川内に長崎市が制作した説明版があり、その解説文が次のURLの画像から読める。文中の「田結」、「江の浦」は残りの2つが落下した地点である。
https://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/54075559.html

「ここに飛来した落下傘は谷間の柿の木にかかり、ラジオゾンデはその下の水田の中に落ちた。
谷間の上にあった民家9軒は、この不意の飛来物を新型爆弾の不発弾と思い、村では半鐘を打ち鳴らし大騒ぎになった。同じような騒ぎは隣村の田結、江の浦でも起こった。その後、落下物は海軍等によって調査のため持ち去られた。」

現地で「不発弾」だと騒いでいたものを海軍等が回収し、羽田空港から調査団に引き渡される前に朝枝がそれを見て、「不発弾」との説明を受けて、そう思い込んだままソ連との交渉に向かっただけのことではなかったか。

そのあとでこの物体は、陸軍の専門家によってラジオゾンデであることが判明し、朝枝が瀬島に送らせた機密電報に対して大本営からは、「原爆の不発弾ではなく、ラジオゾンデである」との返事が届いたことと思われる。
おそらく朝枝はその時初めて「ラジオゾンデ」という名の測定機器の存在を知ったのであろう。そう理解すれば、戦後になってこの機密電報が発見された際に朝枝がマスコミのインタビューに対してこの機器の名前を即座に答えることができたことが納得できるのである。

結局、ソ連に不発弾を譲渡する話は朝枝の事実誤認が判明して流れてしまったのだが、今回私が問題にしたいのは、朝枝繁春にせよ瀬島龍三にせよ、ソ連に対して有利となるような情報を積極的に提供しようとした姿勢である。

実はこの時のソ連との交渉で、朝枝がソ連に有利な提案をしたのはこればかりではなかった。
再び『沈黙のファイル』の文章を引用させていただく。

「(朝枝は)終戦12日目の45年8月26日、新京のソ連軍司令部で朝枝は政治将校のフェデンコにこう申し入れた。
米軍が上陸する前に朝鮮半島を全面占領し、対馬海峡を封鎖すべきだ
 フェデンコは朝枝の提案を極東軍総司令官ワシレフスキーに極秘で報告した。その報告書がモスクワの公文書館に残っている。
 
 本日、参謀本部のアサダ(朝枝)中佐と会談した。…彼の報告内容は次の通りである。
『…ソ連軍が大陸、対馬、済州島を押さえ、対馬海峡の艦船の出入りを封鎖すれば、日本を占領した米軍との関係でより有利な立場を得る。それだけでなく、ソ連がこのとおりに展開すれば米軍の大陸進出を阻み、国際社会でのソ連の重みを増すことになる。このため参謀本部、軍中枢部は上記の地域について連合国が最終決定を下す前に、連合国抜きにソ連の利益となる決定に持ち込むべきだと考えている。…この参謀本部と軍中枢部の意見は国防大臣、外務省、天皇側近には秘密にされている。日本は完全に敗北した。大陸に残された約200万人の軍隊は抵抗の力がない。』」(同上書 p.173~174)

8月24日にソ連軍は朝鮮半島の平壌を占領したばかりで、米軍は太平洋を北上中であったようだが、大本営参謀とは言えわずか33歳の朝枝が、国防大臣、外務省、天皇側近の意向を確認することもなく、軍を代表する立場でソ連と重要な交渉が可能であったのはなぜかと誰でも思う。

日本が共産主義に降伏
【2013年8月11日付の産経新聞の記事】

このブログで何度も書いてきたが、終戦の少し前には共産主義者が日本軍の枢要な地位を占めていたことをまず知る必要がある。上の画像は昭和20年(1945)6月にスイスのベルン駐在の中国国民政府の陸軍武官が米国からの最高機密情報として、『日本政府が共産主義者達に降伏している』と重慶に機密電報で報告していたことが、ロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAに保管されていたことを伝える新聞記事である。

また、昭和29年(1954)に在日ソ連大使館の二等書記官という肩書を持つラストヴォロフKGB中佐が東京から米国に亡命した事件があった。(ラストヴォロフ事件)
彼はソ連の工作員で日本の共産化のための工作を行なっていたのだが、ラストヴォロフは米国で、モンゴルのウランバートルにあった「第七〇〇六俘虜収容所」という偽装看板の特殊学校で、11名の厳格にチェックされた共産主義者の日本軍人を、共産革命のための工作員として養成したという証言をしたという。
その11名のうち氏名が判明しているメンバーには、朝枝繁春瀬島龍三のほか、現在の日本共産党委員長・志位和夫の叔父の志位正二や、終戦工作の原案である『今後の対ソ施策に対する意見』で、(1)米国ではなくソ連主導で戦争終結 (2)領土を可能な限りソ連に与え日本を包囲させる (3)ソ連、中共と同盟結ぶ――と書いた種村佐孝がいたことが分かっている。朝枝も瀬島も志位も種村も、ソ連お墨付きの共産主義思想の持主であったことを知るべきである。

なぜ日本軍の中枢部に共産主義者が多数入り込んだかについては、1928年のコミンテルン第6回大会で採択された決議内容を読めば見当がつく。

帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。

…大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。…」

レーニン

このような考え方はレーニンが最初に考案したもので『敗戦革命論』と呼ばれているのだが、わが国の軍隊はこの決議通りに、わが国で共産主義革命を成功させるために多くの若者が入隊し、日本政府の方針を無視して暴走して戦争に突入させ、資本主義国同士を戦わせて双方を疲弊させたのちに革命を仕掛け、ソ連が参戦すると国境周辺の領土をソ連に差し出し、あわよくばわが国の共産主義国化をはかろうと考えていたのだと思う。

少し考えればわかる事だが、いつの時代もどこの国でも、ある国家を転覆させることを狙っているような勢力にとっては、情報収集や世論誘導のためマスコミや政治家、労働者などの工作も重要だが、武器と兵士を合法的に使える軍隊の工作が最も重要かつ不可欠である。

昭和3年10月19日の国民新聞の記事

第6回コミンテルン大会は1928年(昭和3年)7月17日から9月1日までモスクワで開かれたのだが、神戸大学付属図書館デジタルアーカイブで新聞記事を検索すると同年の10月19日付の国民新聞にソ連の日本軍工作について書かれた記事を見つけることが出来る。
その記事には、その年の6月以降ソ連がハルピンで露骨な日本軍工作を始めたことが書かれているので、ターゲットは明らかに関東軍である。終戦の17年も前から、関東軍はソ連の赤化工作に曝されていたことを知らねばならない。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071350&TYPE=HTML_FILE&POS=1

前回の記事で、ソ連参戦後に関東軍が満蒙開拓団をはじめ多くの在留邦人を見捨てて朝鮮国境付近まで一気に退却したことを書いたが、このような関東軍の行動は、ソ連軍にわが国土を存分に占領させ、いずれわが国を共産主義国家たらしめようとした思想の持主が、この時期に日本軍の主導権を握っており、また関東軍に対してソ連が重点的に工作活動をしていたことを知ってはじめて腑に落ちる話なのである。

鳩山謝罪

「ソ連などの共産主義国家にとって都合の悪い」史実はその気になって探せばいくらでも出てくるのだが、戦後の長きにわたり左寄りの学者や日教組やマスコミや官僚がこのような史実を徹底的に隠蔽して、「わが国だけが悪かった」とする「自虐史観」を固定化させる役割を果たしてきた。彼らにとってはそういう歴史をわが国民に広めることが好都合であったのだろうが、こんな歴史観に国民がいつまでも洗脳されていては、わが国の富はいつまでたっても反日国家から毟り取られ続けることになる。

今年2017年はロシア革命からちょうど100年にあたる年である。
ロシア革命が成功した後、レーニンは世界革命を遂行すべくコミンテルン(共産主義インターナショナル)を結成し、世界各国の軍隊、マスコミ、政治家、労働者などに工作員を送り込んでいる。
20世紀の歴史はソ連やコミンテルンの活動を抜きには語れないと思うのだが、そういう観点からわが国や世界の近現代史が全面的に書き替えられる日は来るのだろうか。

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【ご参考】
学生時代には張作霖爆殺事件(満州某重大事件)は関東軍が仕掛けたと学んだのだが、ロシア人のドミトリー・プロホロフという歴史家がGRU(旧ソ連赤軍参謀本部情報総局)の未公開文書に基づいて、張作霖爆殺事件の実行犯はコミンテルンの工作員であったことを明らかにしている。当時のイギリスの外交文書においてもこの事件はソ連の犯行であり日本軍が共謀したと結論付けている。そうだとすれば、関東軍の一部は、昭和3年の時点でにすでにコミンテルンの工作に協力していたことになる。
関東軍に限らず、日本軍はかなりソ連の工作にかかっていたと思われるのだが、このような視点からマスコミなどで報じられることは皆無と言って良い。良かったら、他の記事も覗いてみてください。

「満州某重大事件」の真相を追う~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-205.html

「満州某重大事件」の真相を追う~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-206.html

昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

わが国はいかにして第二次世界大戦に巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-447.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

なぜ中国大陸に大量の日本人孤児や婦人が残されたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-408.html

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関連記事

関東軍が「暴走」したと描かれる背景を考える

前回の記事で、ソ連の赤化工作がかなりわが国の軍部に浸透していたいたことを書いた。
昭和3年(1928)の張作霖爆殺事件は、わが国の教科書などでは関東軍の河本大作が計画を立案した主謀者であることが記されているのだが、現場の写真を見ても河本大佐らが爆薬を仕掛けたとする京奉線の線路には爆発した形跡はなく、特別列車の台車部分は原形をとどめているのに天井部分が大きく破損している。河本大佐の自白内容が作り話であることは明らかで、最近の研究によるとソ連の機密文書にはソ連が実行し日本人の仕業に見せかけたものだと書かれており、イギリスの外交文書においてもソ連に犯罪の責任があると記されているのだそうだ。もしそれが正しいとすると、河本らはソ連の犯罪を隠蔽するためにソ連に協力したということになるのである。

事件直後の柳条湖の爆破現場
【事件直後の柳条湖の爆破現場】

そしてこの事件の3年後に満州事変のきっかけとなった柳条湖事件が起こっている。
一般的な教科書である『もういちど読む 山川日本史』では、このように解説されている

「1930年代にはいって、協調外交がゆきづまり、中国の反日民族運動が激しくなって、満州における日本の権益がまもれないのではないかとの危機感が高まると、陸軍のあいだには、軍事力を用いてでもこれを打ち破ろうとする機運が高まった。
 1931(昭和6)年9月18日、武力による満州の制圧をくわだてた日本の関東軍は、奉天近郊の南満州鉄道の線路をみずから爆破し(柳条湖事件)、戦争のきっかけをつくって奉天付近の中国軍への攻撃を開始した。こうして満州事変がはじまった
 第2次若槻内閣は『事変の不拡大』を内外に声明したが、関東軍はこれを無視して軍事行動を拡大した。
 かねてから『満蒙の危機』を国民に強く訴えていた多くの有力新聞は、満州事変がおこるといっせいに日本軍の行動をたたえる記事や写真で紙面を埋め尽くした。このようなジャーナリズムの活動をつうじて、満州事変における軍事行動を全面的に支持する熱狂的な世論がつくりだされた。若槻内閣の不拡大方針は失敗し、軍部を抑えることができないまま、1931(昭和6)年12月、内閣総辞職に追い込まれた。
 こうして日本軍は半年ほどで満州の主要地域を占領し、1932 (昭和7) 年3月、清朝最後の皇帝だった溥儀を執政に迎えて、満州国の建国が宣言された。しかし、軍事・外交はもとより、内政実権も関東軍や日本人官吏がにぎっており、満州国は日本が事実上支配するものとなった。」(『もういちど読む 山川日本史』p.296-297)

花谷正
【花谷 正】

ところが当時の日本の記録では、南満州鉄道の線路を爆破したのは中国側によるものとされ、その後日本軍が中国軍から攻撃を受けたことになっており、その点については東京裁判でも問題にされなかったという。
この説が覆ったのは昭和30年に発行された雑誌『別冊 知性』の12月号に元関東軍参謀の花谷正の名前で「満州事変はこうして計画された」という記事が掲載されたことによるのだが、次のURLにこの全文が掲載されている。
http://www2s.biglobe.ne.jp/t_tajima/nenpyo-5/ad1931b.htm

実はこの文章は関東軍参謀の花谷正本人が書いたものではなく、当時23歳の東大生であった秦郁彦が花谷に取材し、自分の名前を伏して花谷正の手記として発表されたものなのである。そして関東軍がやったとする根拠資料はこの文章しか存在しないのだが、秦郁彦が花谷という人物に取材した内容を忠実に書き起こしたものであるのかどうかはわからない。もし花谷の証言を正確に文章化したものであったとしても、そもそもこの人物の証言が信用するに値するものであろうか。ネットで花谷正について調べるとずいぶん酷い人物であったことばかりが書かれているのだが、例えばWikipediaの解説では、
能力ばかりか人格面においても極めて問題のある人物で、第55師団長時代は部下の将校を殴り、自決を強要することで悪評が高かった。また、日頃から陸大卒のキャリアを鼻にかけ、無天(陸大非卒業者)や専科あがりの将校を執拗にいじめ抜き、上は少将から下は兵卒まで自殺者や精神疾患を起こした者を多数出すなどしたため、部下から強い侮蔑と憎悪を買っていた。反面小心でもあり、行軍中も小休止の度に自分専用の防空壕を掘らせていた。」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E8%B0%B7%E6%AD%A3

秦郁彦はこんな問題人物のために自らがゴーストライターになって記事を書いたことになるのだが、『別冊 知性』に掲載された記事の冒頭には箔づけのためかこんな文章が付け加えられている。

当時の関東軍関係者が、満洲事変は関東軍の謀略に基づくもであったことを認めた唯一の証言。
 本庄繁、板垣征四郎、石原莞爾は、満洲事変は『自衛』であったとして、関東軍による謀略を否定しており、花谷以外の関東軍関係者で、満洲事変は関東軍の謀略に基づくものであったことを認めた者はいない
。」

この雑誌が出た時点では板垣征四郎(明治18~昭和23年)、石原莞爾(明治22~昭和24年)らは物故しており、このタイミングで『満洲事変は関東軍の謀略に基づくもであったことを認めた唯一の証言』などと言っても何の説得力もないのだが、なぜかこの花谷証言とされた文章が根拠とされて、「満州事変は関東軍の謀略である」ということがその後昭和史の通説になったことに違和感を覚えるのは私ばかりではないだろう。

しかも秦郁彦は戦後のわが国に自虐史観を広めた人物の一人である。自虐史観を広めたい立場からすれば、満州事変の原因がわが国の侵略行為であったことが好都合であることは少し考えれば誰でもわかることである。秦氏は、関東軍が暴走したストーリーを花谷参謀の言葉として描くことにより、自虐史観をわが国や世界に拡散しようとする意図があったのではなかったか。

とは言いながら、板垣征四郎、石原莞爾らが、柳条湖事件の前から綿密な軍事作戦を練り上げていたことは間違いがないことである。では、何のためにそのような作戦が必要であったのか。また、なぜ国民がそのような軍部の行動を支持したかについては、当時の新聞の記事を読めばその背景が理解できる。

自虐史観の立場に立つ論文にはほとんど何も書かれていないのだが、当時の満州は、各地で反日運動が仕掛けられて暴動が相次いで起こり、日本人居留民の安全が脅かされていた。
いつものように『神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫』の検索機能を用いていくつかの記事を拾ってみよう。

昭和6年6月27日 京城日報 間島一帯に亘る未曾有の暴動事件

上の画像は昭和6年(1931)6月27日の京城日報の記事で、文中の「間島(かんとう)」というのは豆満江以北の満州にある朝鮮民族居住地である。この地域は抗日パルチザン*の根拠地となっていたのだが、この記事は昭和5年(1930)5月に間島で未曽有の大暴動(間島共産党暴動)が起きた事件の予審について書かれており、その暴動が起こる2か月前にコミンテルンが中国共産党に対し満州の暴動を起こす指令を間島の潜在党員に出させたことに注目しておこう。
*パルチザン:抵抗運動・内線・革命運動といった非正規の軍事活動を行う遊撃隊

間島

北間島一帯にわたり共産党員の極度のテロ化の暴状事実は近来極左系の暴動としてはまさに後世まで記録すべきほどの未曾有の実際運動であったが、そもそもその暴動の起りはどうして起ったか?それには憎むべき国際共産党コンミンテルンの恐ろしい施令と度しがたき小児病者的主義者の附和雷同とが狂想二重奏をかなでたのである。間島暴動事件の二ヶ月半以前の四月初旬、国際共産党コンミンテルンでは満洲方面における運動方法の微温的であるのに業を煮やし、一挙に極端なテロリズムを以て戦うべしとの意見が一致し、中国共産党に向って全満洲に暴動を起こすべし』との重大な指令を飛ばせた中国共産党では朝鮮人の頭株である朴允瑞らを入れてこの指令につき緊急会議を開いた結果、広大な地域の満洲に暴動を起すより充分可能性があり警備力の薄弱な北間島部分的に行った方が策を得たものとなし、直ちに間島潜在党員に対して再び指令を飛ばせたものである。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070834&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

この間島共産党暴動の際に治安を守るべき中国側官憲も軍隊も動かず、傍観したままだったという。この地域でその後の半年間に200件を超える暴動が起こり、百名以上の死傷者が出たそうだ。

昭和6年 6月6日 大阪毎日新聞 満州の日支紛争今や到る所で勃発

上の画像は昭和6年6月6日の大阪毎日新聞の記事で中国が満州の各地で紛争を起こしていることを伝えているが、おそらくこれらもコミンテルンの工作と無関係ではなかったであろう。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10159971&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

間島共産党暴動のあと、一般の朝鮮人は間島の住処を追われわが国の保護のもとに満州の別の地域に入植を斡旋されたのだが、万宝山に入植中の朝鮮人が灌漑水路を作り種まきを始めたころ、突然中国公安局が来て退去を命じ、五月末には朝鮮人農民90名を留置場に叩き込んだという。その後6月下旬から中国農民によって用水路が徹底的に破壊され、ついに7月に入って激昂した朝鮮人と中国人との間で流血の惨事となった。

この万宝山事件をきっかけに朝鮮半島では中国人への感情が悪化して中国人排斥運動が起こり、多くの死傷者が出たという。下の画像は平壌で中国人が襲撃された事件後の現場写真だが、すさまじい破壊がなされていたことに驚かざるを得ない。

中国人襲撃事件 1931年平壌

関東軍参謀の石原莞爾は『満蒙問題私見』という意見書を5月に作成しており、ネットで全文が出ている。
http://www2s.biglobe.ne.jp/t_tajima/nenpyo-5/ad1931b.htm

この意見書を拾い読みすると、満蒙問題の解決の方法については「唯一の方策は之を我が領土となすにあり」とし、そのために必要なことは、「①満蒙をわが領土となすことは正義なること、②わが国はこれを決行する実力を有すること」の二点を挙げ、満蒙問題を解決することで「朝鮮の統治は満蒙をわが勢力下に置くことにより初めて安定すべし」と書いている。
さらに当時の中国は治安が乱れており、「在満三千万民衆の共同の敵たる軍閥官僚を打倒するは、わが日本国民に与えられたる使命なり」とし、どのようなタイミングで軍事活動を実施するについては、「謀略により機会を作製し軍部主動となり国家を強引すること必ずしも困難にあらず、もしまた好機来るに於ては関東軍の主動的行動に依り回天の偉業をなし得る望み絶無と称し難し」と書いている。

石原莞爾
【石原莞爾】

石原莞爾は謀略による戦争開始の可能性を否定していないのだが、この頃の新聞を読めば暴動が何度も起こっており、石原の言うところの「我が国が軍事行動を起こすことの正義」が認められる「好機」はいくらでも存在していたこともまた事実なのである。

昭和6年8月19日 中村大尉虐殺から参謀本部硬化す

たまたま6月27日に中国官憲のパスポートを携行して旅行していた中村震太郎大尉と井杉元曹長らが行方不明となった。この二人はのちに興安屯懇団に逮捕されて射殺されて、さらに目を抉り耳をそいで焼き捨てられていたことが判明している。
また9月に入ると満州各地で馬賊による殺害事件や強盗事件が相次ぎ、関東軍は馬賊の根拠地にも出動する自力警備を始めたのだが、そんな時期に柳条湖事件が起こっているのだ。

関東軍の自作自演説に対する基本的な疑問だが、日本人が多数乗車している列車を爆破して大きな人的被害が出たらどういうことになっていたであろうか。そうなれば関東軍は現場作業に追われて軍事作戦どころではなかったであろう。もし関東軍の関与が少しでも疑われたら、取り返しのつかないことになってしまうことは誰でもわかる。普通に考えれば、関東軍がこんなリスクの高いことは実行することは考えにくく、軍事行動を起こすきっかけとなるような事件は頻発していたのである。満州事変の引き金となった小規模な爆破事件は、外国勢力が起こしたと考えるほうが正しいのではないだろうか。

昭和6年10月7日 満州日報 南京政府の満洲事変対策

10月7日付の満州日報で満州事変に関して興味深い記事が出ている。この記事を読むと、蒋介石は柳条湖事件を日本軍の仕業と見せかけようとしていた可能性を感じざるを得ない。

蒋氏は事件の報告を聴取した後憤怒に燃え北に向って、あの小僧がヘマをやるから斯様な面倒を惹起したのだと張学良氏を罵倒したそうだ
 ロシアの力を借りて今日の地歩を築き上げた国民党及びその政府はその味が忘れられず、満洲事件に対しても同一の筆法で進めば少くともパリ会議やワシントン会議程度には効果のあるものと楽観し御用紙でない新聞までがこの気分で筆を執って居た。その方針は直に上海において実行に着手され一部の外字新聞は日本非難の記事や論文を掲ぐるに至り又外人記者中には南京政府の支給した旅費で満洲視察に出かける者も出て来た。そればかりではなく同じ方法で日本に不利な新聞電報が上海、北平天津その他から欧米に飛ばされた勿論ジュネーヴの施肇基氏には外交部から長文の訓電が発せられ国際連盟の力を借るべく命ぜられた外人記者を通じての宣伝は金力に正比例してそれ相当の成績を挙げているが、国際連盟では支那側の報告に欺瞞が混じていたことが判明したとかで不人気を買い、通り一遍の平和勧告を試みたに過ぎず何等干渉がましき行動を取らないこととなったものらしい。
 国際連盟の態度が南京に報告さるるや首脳部は大に狼狽し蒋介石氏は慟哭せんばかりに落胆したと或る確な筋から漏らされた。そればかりでなく米国も余り力瘤を入れて呉れそうにない事を知り今は二重の失望に悶えて最後の手段として次の二つに力を注ぐ事になった


一、従来の対外宣伝を続行し更に多額の経費を投じて空気の転換を図ること
二、ロシアに交換条件を提言して干渉せしむること」

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10161022&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

蒋介石は世界の世論を日本非難に向けるために多額の工作資金を投入してきたのだが、国連の協力を得ることが出来なかったことに落胆し、世論工作に失敗した張学良を蒋介石が罵倒したというのである。
張作霖爆殺の時は、ソ連はうまく日本軍の犯行であるようにみせかけることに成功したのだが、柳条湖では中国は失敗したということではなかったか。

ところが、戦後になって自虐史観を奉じるわが国の「歴史学者」が関東軍が爆破したことに書き換えてしまい、今日の通説では戦争の原因を作ったのは関東軍ということになっているのだが、歴史の叙述に於いてわが国を戦争に巻き込もうとさんざん挑発した側の史実を全く書かないのは大いにバランスを欠いていると言わざるを得ない。

昭和6年9月18日 満州日報 牛蘭事件の審問

柳条湖事件の起きた日の満州日報の記事に、コミンテルン(第三インター)の命を受けて東洋攪乱に携わってきた牛蘭(ヌーラン)という人物が上海で捕らえられ、六百余の秘密文書が押収されたことが伝えられている。中国に関する文書の解読が進み、この記事によると牛蘭がいた組織は国民政府の軍隊内に共産党の細胞を植え付けてその戦力を弱める工作をし、中華民国の国民を赤化し社会組織を破壊するほか、我が国や朝鮮、インドの労働者煽動や共産党の組織宣伝などに従事し、そのために毎月13万元を使っていたという。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071151&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA


獄中のヌーラン
【獄中のヌーラン】

このようなコミンテルンによる社会破壊工作が我が国においても例外でなかったことは明らかなのだが、このような史実が戦後のわが国の歴史叙述からは完全に抜け落ちてしまっているのはなぜなのか。

その理由は少し考えれば見当がつく。これまではすべての戦勝国にとって都合の良い歴史観、すなわちわが国だけが悪者になる歴史観(「自虐史観」)が広められたのだが、コミンテルンや共産主義者による社会破壊工作の史実が歴史叙述に加えられると、いままでわが国に広められていた「自虐史観」が説得力を失うことになることは確実だ。そして「自虐史観」代わって共産国や左寄りの人々にとって都合の悪い歴史叙述に置き換わることとなっていくことだろう。
そうさせないために、わが国では教育界やマスコミ界などに左巻きの人々が多数派を占めて「自虐史観」でわが国民を洗脳し、異論を唱えることも許されない時代が長く続いてきたのだが、最近では大手マスコミが明らかなフェイクニュースを連発するおかげでマスコミに対する国民の信頼が大きく失われて、これまでマスコミが伝えてきた「我が国だけが悪かった」とする歴史叙述にも疑問を懐く国民が増加している傾向にある。

事実に基づいた歴史の見直しが進められその成果が広く伝えられて、多くの人々が「自虐史観」の洗脳から解き放たれる日が来ることを期待したい。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html

中国兵が綴った「日中戦争」の体験記を読めば、『南京大虐殺』の真実が見えてくる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-252.html

陥落直前に無責任にも南京を脱出した中国軍の最高指揮官が栄転したのは何故か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-253.html

蒋介石に外国の干渉を導くことを進言したドイツの軍事顧問団
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-254.html







関連記事

満州事変の当時、満州のわが国の権益を狙っていた国はどこだったのか

満州」という言葉は、もともとは地名ではなく民族名として用いられていて、19世紀に入ってわが国ではこの言葉が中国東北部を指すようになり、その地域に居住する民族を「満州族」と呼ぶようになったという。

Manchukuo_map.png

この地域は満州族の故地であって、その満州族が中国を制圧して1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した。その国家が(しん)である。

明代の万里の長城

清に征服される前の明(みん:1368~1644年)の時代の万里の長城の地図を見るとわかるのだが、満州は万里の長城の外側にあり、漢人の国ではなかったのである。

この満州の地はもともと人口が少ないうえに清ができてから支配階層が北京に移ってしまい、その結果満州の故地はさらに人が少なくなってしまった。
そこで清朝皇帝は、満州族の故地である満州に漢人が住み着くことがないように、この地域を「封禁の地」として漢人が立ち入ることを禁止していたという。
そのために清の時代には満州の広大な地域に人口がわずかしかいなかったのだが、清国が弱体化していくと、諸国からこの地域が狙われることになったのである。

ではわが国は、満州とどういう経緯で関わるようになったのであろうか。この点について簡単に振り返っておくことにしたい。

遼東半島
遼東半島

日清戦争で勝利したのち、明治28年(1895)に日清講和条約が結ばれて、わが国は満州の一部である遼東半島を手に入れたのだが、その後ロシアはわが国の進出を警戒し、ドイツ・フランスとともに、わが国に対して遼東半島を清国に返還することを勧告している(三国干渉)。
わが国はこの三国と戦うだけの力がなかったために、3千万両を代償としてやむなくこの勧告を受諾したのだが、その後ロシアは清に対してその見返りを求め、李鴻章に賄賂を与えて1896年に露清密約を締結
するに至った。その密約の内容についてWikipediaにはこう解説されている。

ロシアはこの条約で満州での駐留や権益拡大を清に承認させることに成功した。ロシアの役人や警察は治外法権を認められ、戦時には中国の港湾使用を認められた。さらにシベリア鉄道の短絡線となる東清鉄道を清領内に敷設する権利も認めさせた。東清鉄道は名目上は共同事業だったが、実際には出資も管理も全てロシアが行った。清はロシア軍の部隊移動や兵站を妨害することができず、ロシアに対して大幅に割り引いた関税率を認めさせられた。またロシアは鉄道建設に必要な土地の管理権を得たのみならず密約を拡大解釈して排他的行政権も手にし、鉄道から離れた都市や鉱山も『鉄道附属地』としてその支配下に置いた。」
露清密約の主な内容についてはこう記されている。
・日本がロシア極東・朝鮮・清に侵攻した場合、露清両国は陸海軍で相互に援助する。
 ・締約国の一方は、もう一方の同意なくして敵国と平和条約を結ばない。…
 ・ロシアが軍隊を移動するために、清はロシアが黒竜江省と吉林省を通過してウラジオストクへ至る鉄道を建設することを許可する。…
 ・戦時あるいは平時に関わらず、ロシアはこの鉄道により軍隊と軍需物資を自由に輸送できる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E6%B8%85%E5%AF%86%E7%B4%84

義和団の乱
【義和団の乱】

その後、列強諸国があいついで清国に租借地を設定し、鉄道敷設や鉱山開発などの権益を獲得していくことになるのだが、この動きに反発して1900年に清国で「扶清滅洋」を唱える義和団を中心とする外国人排斥の暴動が激化する。

龍岩浦

この義和団事件をきっかけにしてロシアは大軍を派遣して満州を占領し、事変が終了しても撤兵することはなく、さらに1903年(明治35)5月には鴨緑江河口にある龍岩浦(りゅうがんほ)を軍事占領し、その後要塞工事を開始して朝鮮半島にも進出する動きに出た

わが国はロシアの南下を食い止めるために日露戦争を戦うこととなり、なんとか勝利して終戦後に結ばれた日露講和条約で、ロシアの満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする権益の内、南満洲に属するものは日本へ引き渡されることとなった。
そしてこの権益の移動については同年に12月にわが国と清国の間で締結された満州善後条約で清国は了承し、加えてこの条約の付属議定書で、満鉄に併行する幹線や満鉄の利益を害する支線を建設しないことも清国は承諾したのである


かくしてわが国は国際的に何ら問題のない方法で満州の権益を取得し、それ以降満州の開発を開始することになるのだが、満州の治安が改善し経済が順調に発展していくと、その後山東省や河北省から数百万人の窮乏した農民(漢人)が仕事を求めて満州になだれ込んできた。その背景を調べると、清国が弱体化してくると「封禁の地」であった満州にロシア人が入ってくるようになってきたのだが、清国政府はロシア人に踏み込まれるくらいなら漢人の方がましだと判断して満州移住を認めてしまったことが原因だったようだ。
しかしながら、この人口移動によって満州を故地とする満州族よりも漢民族の人口が圧倒的に多くなってしまい、そのために漢人が、満州の地を自分の土地だと主張することに繋がっていくのである。
*満州の人口:日清戦争の頃の満州の人口は約5、6百万人で漢人の人口は2、3百万人であったが、1938年ごろには漢人だけで30百万人いて、全体の9割が漢人になっていたという。

清は1911年の辛亥革命で滅ぼされ、翌年成立した中華民国は清の領土や諸条約を承継したものの実態は各地域の軍閥による群雄割拠の状態で、満州は馬賊あがりの張作霖の軍閥が支配していた。

少年満州読本

では張作霖とその子・張学良時代の満州で、どのような政治が行われていたのであろうか。
GHQ焚書とされた長與善郎氏の『少年満州読本』が徳間文庫カレッジで復刊されているので、その文章を紹介することとしたい。

「ちょうど支那は清朝が亡びて、民国(支那が中華民国となったのは1912年)となり、群雄割拠の軍閥覇戦時代だった。割拠するには足場が要る。その足場には満州はお誂(あつら)え向きの地の利を占めていて、出るにも守るにも楽。のみならず軍隊を養い経済的実力を富ます上には、ロシアと日本が二代がかりで築き上げた鉄道中心の産業や交通の施設が完備している。だから狡(ずる)い張作霖は自分の勢力を大きくして、その頃東三省(奉天省、吉林省、黒竜江省)と呼ばれていた満州の主権者になるために、初めのうちはできるだけ日本の力を利用しようと,親日家を装っていた。その彼が、だんだん目的を達して支那の中央まで勢力を持つようになると、今度は満州での日本の勢力が邪魔になって来たのは当然だ。だからうわべは日本と親しく手を握るようなことをいいながら、裏ではどんどん日本の勢力の駆逐、日本がロシアから受け継いで支那から得ている権益の踏みにじりと奪い返しにかかった。(その権益は、大正4年の日支二十一箇条条約で25年の期限が99年に延びた。)例えば満鉄に並行する鉄道を数本も敷いて、その運賃を安くして、満鉄の営業を潰しにかかるとか、いろいろ邪魔をした。そういうやり口は、その子の張学良の時代になってますます甚だしくなった。」(『少年満州読本』p.72~73)

張学良
張学良

張学良の時代になると、「武力ずくで滅茶苦茶な政治をして、勝手にその地方だけの紙幣を乱発しては本国の正金の銀と取り換えるとか、無法な税制を布いて20年も先の税まで取り立てるとか、満州の最大産物である大豆の買い占めをして、これを一般に高く売りつけるとか」したという。
また大正4年(1915)の日華条約で、南満州での日本人が商工業・農業を営むために土地を租借する権利を認められていたにもかかわらず、中国は日本人に土地を貸した者を死刑とする条例を公布するなど、満蒙で日本が獲得した条約上の諸権利が相次いで中国側に侵犯されるようになっていくのである。

排日教育によって反日感情が煽られて満州の治安は乱れ、侮日行為や鉄道妨害などの事件が多発し、街のいたるところで反日スローガンのポスターが貼られるようになり、前回記事で紹介したように日本人がトラブルに巻き込まれ、殺害されるような事件も起きるようになった。

長與善郎
【長與善郎】
しかしながらわが国は満州に多大な投資を続けてきたので、この地を手放すことはできなかった。長與善郎氏は前掲書でこう解説している。

日本が貧乏な国庫の中から17億という殆んど無理な程の大資本を投じて、日露戦争以来27年間、孜々として満州の開発につくした事業。それもロシアのように1から10まで自分の国の利益と、政治的、軍事的侵略のための経営とはわけが違って、日本のためと同時に、満州それ自身の開発と福利のために計った数えきれない公共事業、衛生方面だけでも範囲は大変だが、例えば規模、設備ともに東洋一といわれる医院や保養院や、衛生研究所の設立。上水、下水の設備、大学以下、教育機関としての何百という各種の学校をはじめ、図書館、博物館、公園の建設。通信、交通のための会社や鉄道、道路の敷設。治安のための警察の仕事。地質、気象、資源の綿密な調査。歴史上の遺跡、史料、古美術の整理と保存。農作物と畜産の改良。山の植林事業——。
 そんな風に挙げていたら際限のないほどの文化事業というものは、ただ満州を日本の食い物にしようなどという利己的な根性でできるものではない。むしろ損をしてでも満州という所、満州に住む人間の生活を向上させたい公の精神からでなければやれないことだ
 しかしだ。それ程までに打ち込んでやった仕事がすっかり他人に横取りされて、自分の利益以外に何も考えないような横暴な者への貢ぎ物にすぎなくなってしまっても構わん、17億の金の掛け損になってもいいという程に日本はお目出たいお人好しではいられない。第一それでは、この満州の土と化した日清、日露の戦役の十万の護国の生霊に対しても相済まない。そうでなくてさえ猫の額ほどの狭い土地にぎゅうぎゅう詰めに人が溢れて国家の生きていく資源のなさに泣いている日本だ。どうしておめおめこれを馬賊あがりの圧政家などに手渡せよう。それももともとそこが彼ら漢民族祖先伝来の故郷だというならまだしもだ。元をただせば彼らには何の地主面をする権利もない満州民族発祥の地で、ただそこが主人のいなくなった大きな空巣も同然で、場所が場所であったために、ここが日本、支那、ロシアという三民族の生存と発展との一大争奪戦場になったというものだ。」(同上書 p.74~78)

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【満鉄シンボル 特急「あじあ」号】

わが国は満州に17億円をつぎ込んだというのだが、昭和初期の予算規模が15~19億円程度だから、かなり大きな金額であったことがわかる。では、その満州にどの程度の日本人が住んでいたのかというと、前掲書によれば日清戦争の終わった明治38年(1905)の末には日本人は5025人しかいなかったが、大正7年(1918)には124千人、満州事変前の昭和5年(1930)末には213千人に増加したにすぎなかったという。一方で漢人は1905~1930の25年間に15~16百万人増加し、その後も増え続けていって1938年には満州人口の9割が漢人となったそうだ。

横浜正金銀行大連支店と大連民政所 大正4年 満州写真帳
【横浜正金銀行大連支店と大連民政所 満州写真帳(大正4年)】

わが国の投資に対する最大の受益者は漢人であったわけなのだが、中国人は日本人に感謝するわけではなく、排日運動を仕掛けて日本人が苦労してインフラを整備し築き上げた満州の権益を奪い取ろうとしたのである。

そして満州を狙っていたのは決して中国だけではなく、ソ連はもっと大仕掛けであった。
長與善郎氏は、ロシア革命から満州事変に至るまでの流れをこう記している。

レーニン

「…『世界革命は東方から始めるべし』というのがレーニンの唱えたモットーだった。こうなると、日本にとってはロシアは二重の意味でふさがねばならない相手となったわけで、今まではただ軍事上からその侵略に備えるだけだったのが、今度は更に思想赤化という厄介千万な危険が加わって来た。これは国情の違うロシアではともあれ、日本国体の性質からいって、絶対に容れることのできない思想だから、もし満州の地が赤化、すなわち共産主義化されるとなると、それに隣る朝鮮はいうに及ばず、ひいては日本本国までが搔き廻される惧(おそ)れがある。ソ連としては出来るだけ他国を搔き廻して、内側から切り崩そうというのが思う壺だから、さしあたり支那に排日、抗日の思想を焚きつけて盛んに赤化を図ったが、その火は満州にも飛び火して、張学良もこれをいい日本勢力駆逐の手に用いた。一方、満州に巣喰う匪賊というものをソ連はまた背後から突っついて、絶えずその暴れるのを援ける。そうした事情が重なって険悪になっていく一方の空気は、いつか大爆発をしないでは到底収まらない。とうとう多勢の朝鮮人が(中国人に)殺されたあの万宝山事件、中村大尉の殺された事件と続いた挙句の昭和6年9月18日、奉天郊外柳条湖の鉄道が支那軍に爆破されたことが最後の導火線となって、ここに堪忍袋の緒を切らした日本軍の蹶起、満州事変となってしまったのだ。
 こう聴いてみると、満州事変は、どうしても日本の生きて立って行く上に、また国防と、満州での権益をしっかり保って、日本民族が発展していくために、実に止むに止まれない悲愴な切開手術、大決闘であった…」(同上書 p.79~80)

大連市役所
【大連市役所 満洲写真帖. 昭和4年版】

わが国は合法的に満州における権益を獲得し、この地域の人々が豊かに暮らせるように都市インフラを整備していったのだが、近代的で魅力的な都市建設が進んだからこそ他国から狙われ、中国からは大量の移民を送り込んだ上で排日が仕掛けられ、ソ連からは赤化工作が仕掛けられたいうことではなかったか。

旅順工科大学と満州医科大学
【旅順工科大学と満州医科大学 満洲写真帖. 昭和4年版】
長與善郎氏が『少年満州読本』を著したのは昭和13年(1938)のことだが、もしわが国が戦わずに満州から引っ込んでいたらどうなっていたかについてこう述べている。

それはただ暴虐な支那軍閥の暴れ狂って罪もない民百姓の血を啜るだけのところになってしまうか、看板の文句ばかり体のいい嘘八百を並べ立てて、その実人道を無視蹂躙すること、どこかの国と並んで世界の両横綱といわれるソヴィエト・ロシアの植民地に、むざむざなってしまうかするだけのことだったのは余りに眼に見えた運命だったのだ。」(同上書 p.80~81)

わが国の教科書や通史には、中国やソ連にとって都合の悪い史実が一切記されることがないために、「関東軍が満州を占領した」という記述に安易に納得してしまうところなのだが、実際はそんな単純な話ではなさそうだ。

他国の権益を奪うことは必ずしも武力を必要としない。宣伝・謀略を用いて「戦わずして勝つ」のが孫氏の兵法であるが、中国は移民を大量に送り込んで満州族の故地を実質的に奪い取った。さらに中国は排日運動を仕掛け、またソ連は赤化工作で我が国の満州の権益を侵していったのだが、このような工作員を排除し治安を守るために武力を用いたわが国は侵略行為を働いたというべきなのか、自衛のために戦ったとみるべきなのか。そのような視点から昭和初期に満州で起こったことについて考えてみることも必要だと思う。

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【ご参考】
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学生や軍部に共産思想が蔓延していることが危惧されていた時代~~ポツダム宣言4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-293.html

政府中枢にいてソ連に忠誠を尽くそうとした『軍国主義者』たち~~ポツダム宣言5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-295.html

『玉音放送』を阻止しようとした『軍国主義』の将校たち~~ポツダム宣言6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-296.html

昭和20年8月15日に終戦出来なかった可能性はかなりあった~~ポツダム宣言7
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-297.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html






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満州人が各地で独立運動を起こしていたことが教科書などで書かれないのはなぜか

前回の記事で、『リットン報告書』の内容は相当程度わが国の主張を織り込んでいながら、結論はかなり中国寄りになっていたことを書いた。このブログで何度も書いてきたように満州満州族の故地であったのだが、この地に大量の漢人が流入したために人口の9割以上が漢人になってしまっていた。『リットン報告書』では満州を漢人が治める地として認め、関東軍の撤退を求めたわけだが、この問題をわが国に当てはめて考えると、もし人口540万人の北海道に数千万の移民を送り込んだ国があったとした場合に、北海道の主権を大量の移民を送り込んだ側に認めるとするのがリットン報告書の考え方なのである。

眼前に迫る世界大戦と英米赤露の襲来

そもそもその当時の満州地区の民族別の人口構成はどのようなものであったのだろうか。
昭和7年に出版されて戦後GHQ焚書とされた『眼前に迫る世界大戦と英米赤露の襲来』という本があり、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている。そこには満州国の版図と民族別人口構成についてこう記されている。

満州

満州国は普通われらが満蒙と呼ぶ土地の総称である。即ち奉天、吉林、黒竜江、熱河省の四省を含み、その面積は…日本の内地面積の約三倍にあたる。しかも人口は三千四百万、日本人口の半ばにも達しない。
 しかしこれを民族別的に観るときは、満州人の起こった所でありその郷土でありながら、現実には漢人によって大勢力を支配されその比率は漢人九十五に対し純満州人は五ないし十の割合にしか過ぎない。即ち新国家の旗のもとに生活する純満蒙人は二百万ないし三百万人で、他の多部分は漢人である。また新国家に参加する蒙古人は四~五十万人、日本人は昭和五年末の調査によると二十二万二百九十五人、同朝鮮人五万五千十一人である。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442250/76

紫禁城全景 『北京の展望』(昭和14年刊)
紫禁城全景 『北京の展望』(昭和14年刊)】

1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した清(しん)は、満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝であるが、清朝皇帝は満州族の故地である満州に漢人が住み着くことがないように、この地域を「封禁の地」として漢人が立ち入ることを禁止していて、昔の人口は数百万程度にすぎなかったという。
ところが阿片戦争以降ロシアの南下の脅威が増大し、清国政府はロシア人に踏み込まれるくらいなら漢人の方がましだと判断して、次第に漢人の満州移住を認めていき、日清戦争以降は移住を全面解禁したのである。その結果三千万もの漢人が満州に流入してきて、住民の大多数が漢人となってしまったという。リットン報告書』では、満州人と漢人との関係についてこう述べている。

リットン報告書

満州人は漢人とほとんど完全に同化されている。もっとも吉林と黒龍江においては、なお少数、政治上重要ではない満州人の植民地があって、二か国語を話す満州人が残存している。中華民国の成立以来、満州民族はその特権的地位を失った。
 …満州における漢人の証言によれば、(満州国の)すべての権力は日本人の手に握られ、彼ら・満州人の提議は容れられることがないため失望を感じつつあるという。満州人の血が流れているもののあいだには先帝(宣統帝・溥儀)に対する精神的な忠誠の念がまだ残っているといっても、顕著な民族意識を持った満州人の運動は存在しない。」(ビジネス社『リットン報告書』p.268)

リットン調査団は漢人からの証言をそのまま鵜呑みにして、満州人は漢人と同化したと述べているのだが、そんなことは絶対にありえない。満州人による独立運動はかなり以前から存在していたことは少し当時の記録を調べれば誰でもわかる

故宮入りする前の幼い溥儀
【故宮入りする前の幼い溥儀

満州人の独立運動のことを書く前に、清朝最後の皇帝となった宣統帝溥儀(ふぎ)のことを補足しておこう。溥儀は1906年に北京に生まれ1908年にわずか2歳10か月で第12代清朝皇帝(宣統帝)となった。
1911年に辛亥革命が起こり、翌年に溥儀は退位させられしばらく紫禁城で監視されながら生活していたのだが、1924年の北京政変で紫禁城から退去させられることとなる。

紫禁城の黄昏

清朝最後の皇帝溥儀の家庭教師を務めたレジナルド・ジョンソンの『紫禁城の黄昏』に、満州人による独立運動のことが書かれた新聞記事がいくつか紹介されている。

【1919年6月23日付 ノース・チャイナ・デイリー・ニュース紙】
増税したことと管理が腐敗したことにより、国民は満州皇帝の復帰を望むようになっている。満州朝廷も悪かったけれども、共和国はその十倍も悪いと人々は思っている。満州王朝を恋しがる声は人里離れた辺鄙なところで聞こえるだけでなく、他の地方でも満州朝廷の再建の望みはまだあるという声を耳にする。」(『紫禁城の黄昏(下)』祥伝社 p.58)

【1919年9月9日付 ノース・チャイナ・デイリー・メール紙】
シナで共和主義を試みたものの、蓋を開けてみれば能なしだと分かったということだ。シナの国土の屋台骨である商人階級や中流上層階級は、内輪争いにうんざりしている。どのような形にせよ、十八省に平和を保障する政府なら、人々は諸手を挙げて支持すると断じて疑わない。

前皇帝の復辟を望み、密かに支持する人たちが強く主張するのは、共和制主義者がこの国を破壊しているということだ。つまり、いかに荒療治であっても、共和制主義者を片付けて、かつての平和と繁栄を取り戻さなければならないのである
。」(同上書 p.70~71)

【1921年5月21日付 ノース・チャイナ・スタンダード紙(北京)】
「シナ当局が掴んでいる確かな報道によると粛親王(しゅくしんのう)*と前総督の升允(しょういん)が掲げた政策の目的は、シナで満州王朝を復古することである。しかし、もしこれができなければ、満州の君主制主義者たちは『満州人のための満州を』と叫びながら、まず手始めに奉天で、衰退に向かっている満州王国を再建することに望みを託すだろう、とその報道は付け加えている。これにはシナの官吏たちもびっくり仰天している。というのも、アタマン・セミョノフ**と粛親王が共同で推進する運動が、現在の外蒙古の深刻な情勢と絡み合うことを怖れているからだ。」(同上書 p.74)
*粛親王:愛新覚羅善耆(あいしんかくらぜんき)。清の皇族で、太祖ヌルハチの孫ホーゲに始まる粛親王を継いだ。
**アタマン・セミョノフ:白系ロシアの反革命派のコサック首長。


また同上書で、辛亥革命後に急進的な政治思想を持つ指導者たちが出版した『曙光』という雑誌に、1921年に発表された記事の一部が紹介されている。
「農民たちは自由が何を意味するかを知らず、参政権や政府がどのような概念なのかも知らない。彼らが知っているのは、地税を払わねばならぬことと、日々の生活の糧を得る術だけである。村の市場へ行けば、次のようなことを尋ねてくる村人に出くわすはずだ。『宣統帝陛下はお達者か』とか『今は何方が宮廷を治めていらっしゃるのか』。そして何度も何度もこのような願いやら不平やらを聞かされるのだ。『こんな不作で、俺たちはどうなるのか。俺たちには、いいことなんぞ、ひとつも起こらない。本物の龍が、天子様がもう一度お出ましにならねばな』。」(同上書 p.60)

このように辛亥革命後の中国は混乱が続き、商人階級や中流上層階級のほか地方の農民の多くは満州人の王朝である清の復活を望んでいたのだが、この記事の出た1921年の時点の溥儀の年齢はまだ15歳と若く、監視されている紫禁城では外部の勢力と接触することは困難であった。

大正11年3月30日 大阪朝日新聞 粛親王遂に起たず

当時旅順にいた皇族の粛親王が、清朝の遺臣とともに清の復活のための活動をしていたのだが、志半ばにして大正11年(1922)3月に逝去されてしまっている。

その後中国の武力統一を図る軍閥同士の戦闘が活発化し、1924年の北京政変で馮玉祥(ふうぎょくしょう)と孫岳が北京を支配することとなり、紫禁城に軍隊を送りこんで溥儀とその側近らを紫禁城から強制退去させている。

レジナルド・ジョンストン
【レジナルド・ジョンストン】

溥儀は醇親王の王宮である北府に一時的に身を寄せたがその場所も安全ではなく、どこかの国の公使館に庇護してもらおうと動き出す。まず知人のいるドイツ病院に向かい、側近のジョンストンがイギリス、オランダ、日本の公館に対して庇護の依頼をしている間に、溥儀はジョンストンとは別に、自らの意思で日本公使館を訪れていたのである。

溥儀は約3か月間日本公使館に滞在した後、1925年2月から1931年の11月まで天津の日本租界で逗留生活をしたが、わが国はは決して歓待しなかったのである。ジョンストンの同上書にはこう記されている。
「1925年から1931年までのいつでも良い。万が一でも日本政府が、日本で皇帝を暖かく歓迎すると少しでも匂わせていたら、皇帝は単調でつまらない天津の生活を捨て、美しい京都の近郊か、天下無双の富士山の見える田園の別荘で、自由にのびのびと生活できる機会が訪れたと大喜びしたことだろう。だが日本政府は、皇帝にそのようなそぶりを見せなかったのだ。それどころか、日本や、日本の租借地である満州の関東州に皇帝がいては、日本政府が『ひどく困惑する』ことになるという旨を、私を通して、間接的に皇帝に伝えたほどである。」(同上書 p.367~368)

昭和6年10月1日 大阪朝日新聞 満洲独立を叫ぶ諸団体側面観

昭和6年(1931)9月の柳条湖事件を機に、悪政を続けてきた張学良政権打倒を旗印として満州各地で独立運動が起きている。上の画像は同年10月1日の大阪朝日新聞だが、このような運動に関しては多くの新聞が報じており、注目すべきは日本軍がまだ進出していない地域でも発生しているという点である。
リットン報告書には「顕著な民族意識を持った満州人の運動は存在しない」と記されているのだが、明らかな誤りであると指摘するしかない。

昭和6年9月30日 大阪毎日新聞 満蒙独立運動に絶対に干渉せぬ

上の画像は9月30日付の大阪毎日新聞の記事だが、このような満州の独立運動に関してわが国は、列国の誤解を招来することがなきよう、何人たりとも関与させないことを29日の閣議で決定したことを伝えている。

昭和6年11月4日 大阪朝日新聞 有力な人を得れば満蒙独立は可能

その後、各地でばらばらで動いてきた独立運動が、宣統帝溥儀を擁立することでまとまっていくのであるが、11月4日付の大阪朝日新聞で、地方維持委員会の袁金鎧(えんきんがい)は「信望のある有力者をして東北を統一せしむる」と答えている。溥儀が天津から動くのはその9日後の11月13日のことである。

昭和6年11月14日 大阪毎日新聞 宣統廃帝を擁立し満蒙独立国建設

そして11月14日付の大阪毎日新聞はこう伝えている。
「張学良政権倒壊後の東北には事実上これに代るべき実力者なく、一方満洲民族の名門たる清朝の末裔を擁立することは満洲のみならず蒙古を併合して独立国を建設するに容易なる事由があるので遂に宣統廃帝を擁立するに最後的決定を見、従来排擠的関係にあった袁金鎧、閻朝璽、于沖漢ら巨頭もこれに賛意を表するに至った
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10164248&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

『紫禁城の黄昏(下)』を読むと、溥儀はギリギリまで天津の日本租界にいて11月13日に自分の意思で満州に向かったとある。

ジョンストンはこう書いている。
シナ人は、日本人が皇帝を誘拐し、その意志に反して連れ去ったように見せかけようと躍起になっていた。その誘拐説はヨーロッパ人の間でも広く流布していて、それを信じる者も大勢いた。だが、それは真っ赤な嘘である。…皇帝は本人の自由意思で天津を去り満州に向かったのであり、その旅の忠実な道づれは鄭孝胥と息子の鄭垂だけであった。」(同上書 p.393~394)

満州国が正式に建国されたのはその翌年(1932)の3月1日で、元首には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就いている。溥儀は満州族の皇帝として、満州族の故地に戻ることを決意したのである

満州国政府組織系統及重要職員表
満州国政府組織系統及重要職員表】

またリットン報告書には「満州における漢人の証言によれば、(満州国の)すべての権力は日本人の手に握られ」とあるのだが、昭和7年(1932)版の『現代中華民国満洲国人名鑑』を確認しても、重要職のリストに22人中5人の日本人名を見つけることが出来るだけだ。しかも「長」という名の付くポストに就いたのは法制局長の三宅福馬ただ一人である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1238338/333

日本植民地の真実

わが国では満州国を日本や関東軍の傀儡国家とみなす歴史叙述が多いのだが、この点について黄文雄氏は『日本植民地の真実』でこう解説している。

満州国を『傀儡国家』と見なし、長城以北の諸民族の協和を目指す新国家の再建を否定するのは、明らかに『天に二日なく、地に二王なし』とする中華帝国史観の国家観に他ならない。現在、中国におけるかつての満州国の『正式呼称』は『偽満州国傀儡政権』である。満州国を呼ぶに際し、必ず『偽満州国』との言い換えにこだわるのも、中華絶対主義に基づく心理の表れだ。それに従う日本の学者は少なくないが、『偽満州国』論など鵜呑みにしては、歴史的事実は直視できなくなる。」(『日本植民地の真実』p.280)

確かにわが国は満州国の建国にあたり支援的役割を果たし、建国後も支援したことは事実である。しかし、出来たばかりの満州国が生き残るために、どこか強い国の支援を受けようとすることは当たり前のことではないのか
わが国が満州国を支援することは、無政府状態にあった満州の治安を回復させ居留民を守ると同時に、これまで多額の投資をしてきた満州における我が国の権益を守る目的から都合が良かったのであろうが、満州国もまた関東軍の軍事力により治安が回復し、満州が日本の支援により経済発展することを期待したことは間違いないところだろう。
このような互恵関係をわが国と結んだことで満州国が『傀儡国家』などと呼ばれるのであれば、世界中の小国のほとんどがどこかの国の『傀儡国家』になってしまうことにならないか。

このように満州国の成立に至るわが国の歴史記述はおかしなことだらけなのだが、なぜこのようなことになるのであろうか。このことは、もし満州人が独立国家をつくる動きがあった真実を歴史叙述の中で描いた場合にどうなるのかを考えればある程度察しがつく。
このブログで何度か書いてきたことだが、わが国民は戦後の長きにわたり『戦勝国にとって都合の良い歴史=自虐史観』を押し付けられ、学校やマスコミなどで繰り返し擦り込まれてきた。
よくよく考えればわかることなのだが、『自虐史観』というものは、関東軍なりわが国がよほど悪者でなければ成り立たない。もし関東軍が、治安が悪化していた満州におけるわが国の権益を守るために満州を平定した経緯や、満州国の成立が満州族の自発的な独立運動があったという史実がキチンと描かれていたならば、『自虐史観』は説得力を失うことは確実なのだ。

当時の記録などで事実と認定できる内容を大量に無視することで成り立っているような歴史観は、ネットなどで歴史の真実が国民に知られるようになるにつれていずれ消えていく運命にあると考えるのは私ばかりではないだろう。
中韓が声高に主張するような歴史叙述が、全面的に書き換えられる日が一日も早く来ることを祈りたい。

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プロパガンダでわが国に罪を擦り付け、世界を「反日」に誘導した中国~~中国排日7
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「南京大虐殺」の真実を追う~~中国排日8
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盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html








関連記事

満州に関東軍が駐留していた背景を考える

教科書などでは満州事変については、関東軍が武力による満州の制圧を企て、戦争のきっかけを作って中国軍への攻撃が始まったと書かれるのだが、なぜ当時の満州関東軍がいたかについて一言も触れることがない。

黄文雄氏の『日本の植民地の真実』に、関東軍満州に駐留していた経緯とその規模について記されているので引用させていただく。

ポーツマス条約には、鉄道保護のために1キロあたり15名を超えない範囲で守備隊を置く権利が明記されている。これで計算すると、鉄道守備隊の最大規模は14,419名、実質二個師団になる。その後、日清条約第一条でもこの約款は再確認されている。
関東軍』の前身はこうして生まれたのである。関東軍は、ソ連を仮想敵国とした独立戦闘集団で、その正式発足は第一次世界大戦末期のシベリア出兵(1918年)である。
関東州や関東軍の『関東』は、もともと万里の長城の東端である山海関以東という意味の地域名で、日本が1905 (明治38) 年9月にそこに設置した行政府が『関東総督府』だったことによる。…
満州事変を迎えるまでの19年間、関東軍の規模は内地から交代で派遣される1個師団と独立守備隊、重砲兵大隊、関東軍憲兵隊といった規模に過ぎなかった。もともと満鉄沿線を守備するだけが任務だったため、いたずらに増強することは出来なかったのだ。」(『日本の植民地の真実』p.274-275)

鉄橋守備の日本軍

このようにわが国が軍隊を送り込んだ理由は、明治38年(1905)に締結された日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)の追加約款第一において、満鉄沿線を守るために1km毎15名を超過しない人数で守備兵を置く権利が認められていたことによるが、この人数は決して多くない。

わが国が獲得した満州の利権を活かすためには、移民を送り込みさらにインフラを整備するための投資が必要であったことは言うまでもないが、当時の満州の治安は劣悪な状態にありながら中国の官憲は治安を改善させようともしなかった。そのためにわが国は、満州の警察権に関与せざるを得なくなっていたのである。

大正4年3月16日~ 時事新報 日支懸案解決 警察権関与

上の画像は大正4年(1915)3月16日から時事新報に連載された「日支懸案解決」の記事だが、警察権に関与せざるを得なかった事情が縷々述べられている。

「警察権干与の一般的理由を挙ぐれば凡そ左の如し
(第一)満蒙の地たる人煙希疎にして政令の思考風気の教化尚お未だ普からざるが為めに匪賊*横行の患い甚だ多く所謂馬賊*なるものは之等の地方を通じて抜くべからざるの根拠を有するを以て地方人民の生命財産は常に危殆を免がれず仮令い我国人にして此等地方に居住、土地所有及び採砿の権を得るとするも予め是種匪賊の難を防ぐの道を講ずるに非ざれば安んじて住居を構え業務を営むを得ざるべし
(第二)独り匪賊の難あるのみに止まらず満蒙に於ける支那官民中には我国人に対して深刻なる敵意を懐き事に臨み機に触れて之を凌虐せんとするの風あり。或は之に反して我国人に対して頗る好意を表する者もなきに非ずと雖も尚お且つ彼等の性癖として瑣末の衝動の為め急に其心情を一変することあり。決して永く其好意に信頼するを得ざるを以て苟も我国民が三権の獲得に依りて満蒙の内地に支那人と雑居する以上我警察力を以て之を保護するは緊要欠くべからざるの処置ならん
(第三)仮令支那官民に悪意なしとするも、風俗習慣を異にし文化の程度を異にする日支両国民の間には、往々他の言動を誤解邪推して紛争を生ずるの例少からず、鉄道沿線もしくは之に接近せる地方に於ても尚お且つ然りとすれば、我国人の多数が深く内地に進入するの暁に及んでは、此等の弊風は益々甚だしきを加え、或は意外の奇変を勃発するに至るやも量るべからず。是種の危害を予防するの方法としては、我警察権を内地に拡張し我警察官をして支那官民並に我国人の誤解邪推を矯正せしむるの外なかるべし
(第四)支那官憲の間に無知無能にして徳義廉恥の念を欠くもの甚だ多きは今更言う迄もなけれども、満蒙の如き僻陬の地に在任するものに至りては是等の欠点ますます甚しきを加えるの事実あり。斯る官憲の下に在りて我国人が周到公正なる保護を被らんを望むは、甚だ覚束なき次第と云わざるを得ず。固より司法上には治外法権を存すと雖も、一般の警察事務に於ては現状の儘を以てするときは概して支那官憲に一任するの外なきを以て我国人の内地に雑居するもの増加するに随いて其不利不安ますます甚だしきを加えざるを得ず。即ち我国が三権の獲得を要求すると同時に警察干与をも併せて要求せざるを得ざる所以なり
(第五)我国人は事実上既に鉄道附属地其他の境界を越えて附近地方に雑居するもの少からず。其結果として我国人に対する日支両国警察の権現に関して紛議を生ずるの例も亦少からず。斯くの如きは満蒙に於ける日支両国間の関係を円滑ならしむる所以に非ざれば仮令三権獲得のことなしとするも尚お且つ我警察権を未開放地の一部に向って拡張するの必要あり其獲得に依りて我国人の未開放地雑居無制限と為るの暁に及んでは其必要ますます大なるべし」
*匪賊(ひぞく)、馬賊: 関東軍や旧満州国の治安機関は、政府に敵対する集団を盗賊と同じ意味をもつ「匪賊」と呼んだ。騎馬を中心にした組織を「馬賊」とも称した。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10125392&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

生命・財産の危険を感じるような地域には誰しも住もうとは思わないところだが、中国は、満州の地に移住した日本人を排除するためにあの手この手を用いている

大正2年11月3日 やまと新聞 満洲に於ける居住権

たとえば大正2年(1913)11月3日のやまと新聞にはこう報じている。
「我外務当局者は満洲未開放地に居住せる邦人が或は退去を命ぜられ其居住営業権の安定を害さるるが如き傾向は多く之を見ず。却て支那官憲は屡々(しばしば)切実にこれが保護を声明しつつありと称しつつあるも、事実は不幸にして屡々我邦人が支那官憲に迫られて折角築き上げたる其根拠地を放擲して退去せるの実例を見る。今是を最近に起れる二三の事実に就いて証せんか

一、本年三月の交長春の西北方なる農安県に居住せる六戸三十四人の邦人は突然支那官憲に退去を命ぜられ、其命に従わざるや遂に多数の巡警は各戸を包囲して其戸扉を釘付にしたり
二、去る九月中奉化県知事の退去命令により売買街及小城子方面に居住せる邦人男女六名は四平街に引揚げたり
三、十月二十七日満洲各地の官憲は北京政府の命令なりとて未開放地居住の邦人に対しては馬賊等の危険につき生命財産の保護の責に任ぜざる旨を言明し其退去を要求せり
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10125397&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

刀とモーゼル銃を構える馬賊
【刀とモーゼル銃を構える馬賊

「馬賊」は大量の武器を保有しており、満鉄の線路のボルトや枕木が抜き取って列車を止め積み荷を盗む事件、住居侵入事件などが頻繁に起きて、邦人被害も大きかったのだ。本来、馬賊の危険を排除することは中国官憲の仕事であるはずなのだが、それを行おうともせずに「馬賊等の危険」があるとして日本人に退去を要求するというのはどう考えてもおかしな話である。

中国はさらに排日運動を起こして、日本製品の不買や嫌がらせや暴力事件を繰り返したわけだが、国策として満州移民を推進し多額の投資をしてきたわが国として、満州に渡った人々の生命財産や権益を保護することは当然のことではないか。しかしながら、こんな治安状況ではそれが困難であることは明らかだ。

関東庁要覧 大正12年版
【関東庁要覧 大正12年版】

関東長官官房文書課による『関東庁要覧  大正12年版』にはこう記されている。
「南満州に於ける匪賊の横行は依然として酷だしく、大正10年管内外をつうじて日本官憲の聞知せる馬賊、海賊及び強盗の被害は461件。死傷者153人、拉去せられたる人質125人、被害価格55万1643円を算し、内邦人の被害70件、死傷35人、被害価格15万4365円にして、邦人被害は前年に比し著しく増加せり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1939399/168

匪賊の夜襲

ところが『関東庁要覧  昭和6年版』になるとその被害はその数倍に跳ね上がり、彼らの犯行の手口が具体的に記されている。

匪賊犯罪は頓(とみ)に増加し、昭和4年中管内警察署の関知せる近接支那管内の匪賊犯罪は1170件の多きに達し、さらに昭和5年に於いては、9月末日までに1650件の夥しき数を示せり
 これら馬賊なるものに付いては確たる定義あるに非ず、頭目、副頭目、小頭目等の下に傾倒的かつ継続的に結合する一種の強盗団体にして、通常小銃、拳銃、刀槍、時としては砲機関銃などを携行し、あるいは馬隊を組織するもの等あり。
 昭和5年中には支那軍服を着用せる軍装そのままの馬賊団各地に横行
を見たるが、その犯行手段としては、個人または住民団体に対し脅迫状を送りまたは直接侵入し、期限を定めて金品を強要し、これに応ぜざるときは機を見て予告通り焼打ちもしくは殺傷をなしもって報復し、直接侵入して銃器その他の凶器を擬し、場合に由りては容赦なく殺傷をあえてし、金品を強奪し人質を拉致し期限を付し囘贖金を強要し、これに応ぜざれば耳鼻または指を裁りてこれを贈り催促を試み、なお目的を達せざるときは人質を惨殺する等大胆かつ強暴なる行為に出づるを常とす。…
 なお銃砲火薬類の取締厳重となり、銃器の容易に得難きに至るや、不逞の徒はわが守備兵および警察官の所持する武器の掠奪を企て、巡邏中の守備兵または警察官を狙撃する事件
を生ずるに至り、昭和4年中には数件の被害を見たるも、昭和5年中にはこれらに対する予防訓練も徹底し、常に賊の機先を制して未然に防ぎえたること一再に留まらず。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223815/117

満州匪賊の本部

このように満州は昔から馬賊が跋扈していて法治はおろか人治すらない状況にあり、民衆は仕方なく馬賊に金を払ってその頭目の力で他の馬賊からの襲撃を守ろうとしてきたのである。しかしながら満州内の混乱が進むにつれ、力を持った馬賊が「自衛」を超えて盗賊まがいの行動を取るようになり、次第に武装を強化していくことになる。満州で軍閥に成長して悪政を敷いた張作霖・張学良親子は馬賊出身で、その部下にも馬賊出身者が多かったことを知るべきである。

昭和6年8月18日付 東京朝日新聞

そして昭和6年(1931)6月に中国官憲のパスポートを携行して旅行していた中村震太郎大尉と井杉元曹長らが興安屯懇団に捕らえられて射殺され、さらに目を抉り耳をそいで焼き捨てられる事件が起きた。また9月に入ると、満州各地で馬賊による殺害事件や強盗事件が相次ぎ、関東軍は馬賊の根拠地にも出動する自力警備を始めたのだが、そんな時期に柳条湖事件が起こっているのである。

関東軍はたちまちのうちに北大営、奉天、長春、営口の各都市を占領していったのだが、前述した通り関東軍の兵力は1万数千程度に過ぎず、一方張学良が指揮する東北辺防軍は30~40万もいて飛行機や戦車などの近代的装備も備えていたのである。

林銑十郎
【林銑十郎】

わが国政府は当初「戦線不拡大方針」で臨もうとし関東軍の増派に反対したのだが、もし増派がなければ、圧倒的に人数の多い張学良軍からの反撃は避けられず、多くの犠牲が出たことであろう。関東軍の林銑十郎朝鮮軍司令官は独断で満州に増援することを決め、昭和7年(1932)2月のハルピン占領によって関東軍による中国東北部支配が完了したのである。

東三省に於ける官兵匪賊暴挙実例

柳条湖事件以降、中国の官兵や馬賊の活動のため、満州の日本人居留民に多くの犠牲が出ている。
国立国会図書館デジタルコレクションに『東三省ニ於ケル官兵匪賊暴挙実例 : 自九月十九日至十一月十五日』という記録がある。「東三省」というのは現在の遼寧省・吉林省・黒竜江省を指すが、概ね「満州国」の領土を意味している。
その書物には、58日間に165件もの民間人が犠牲になった事件が個別に記録されているのだが、この記録とて全体の一部にすぎないのだろう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187781/3

1932年3月に満州国が建国されると満州国軍も創建され、関東軍が従来の任務のほかに満州国軍の指揮をとることとなり、関東軍も年々増加されていく。
そして、当時満州に30万人いたとも3百万人いたともされる馬賊の討伐が関東軍によってなされて、満州の治安がようやく安定したのである。

黄文雄
【黄文雄】

黄文雄氏は、冒頭で紹介した『日本の植民地の真実』で関東軍についてこう解説されている。
「中国人だけでなく戦後の日本人からも、関東軍は満州侵略の張本人として悪名が高い。だが関東軍の歴史的評価の上で最も大切なのは、住民を苦しめ続けてきた軍閥、匪賊を満州から駆逐して社会に秩序をもたらし、王道楽土の近代化建設の基を築き上げたとの功績ではないだろうか。関東軍が存在しなければ、満州の地に平和は到来しなかったのだ。」(同上書 p.275-276)

私が社会人になったばかりの頃、担当した取引先の社長さんが関東軍を経験された方だった。あの当時は私も完全に『自虐史観』に洗脳されていて、関東軍は日本を戦争に引きずりこんだ元凶とのイメージが強く、その社長とは戦争の話を一切しないまま私が別の職場に転勤してしまったのだが、今から思えば随分惜しいことをした。

終戦後73年も経ち、戦争を経験した人々はほとんどこの世を去り、戦争の話を聞きたくても聞くことが出来なくなってしまっている。ほとんどの日本人にとって、日中戦争から第二次世界大戦のことはマスコミが伝える映像や解説を通じてしか知ることしかできないのが現状だが、戦後彼らが伝えてきた大正から昭和にかけての歴史は、国民を『自虐史観』に洗脳させ固定化するために描かれたものと言っては言い過ぎであろうか。
戦勝国が「自国にとって都合の良い歴史」を敗戦国に押し付けるようなことはいつの時代もよくあったこととは言え、いつまでわが国はこのような歴史叙述に付き合わされなければならないのだろうか。当時の記録を読んでいけば、「戦勝国にとって都合の悪い真実」をいくらでも見付けることかできるのだが、残念なことにわが国では戦後の長きにわたりそのような史実は封印されてきたのである。

これからの世界は米中の対立を軸に展開することになると考えるのだが、アメリカからすれば武力を用いなくとも、保有している秘密文書などから「中国にとって都合の悪い真実」を少しずつ公開して世界に広めるだけで、中国に強いダメージを与えることができる。そのようにして戦勝国の歴史が二つに割れるようになると、中国が声高に主張する歴史はその論拠が根底から崩れ、同時にわが国の『自虐史観』論者も力を失うことになるのではないだろうか。

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【ご参考】
このブログで「中国にとって都合の悪い真実」のいくつかを書いてきました。良かったら覗いて見てください。

蒋介石はなぜ外国人居留地であった上海で日本軍と戦ったのか~~中国排日6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-243.html

プロパガンダでわが国に罪を擦り付け、世界を「反日」に誘導した中国~~中国排日7
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-244.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html

陥落直前に無責任にも南京を脱出した中国軍の最高指揮官が栄転したのは何故か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-253.html

蒋介石に外国の干渉を導くことを進言したドイツの軍事顧問団
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-254.html

ルーズベルトはなぜ黄色人種の中国を連合国陣営に残そうとしたのか~~米国排日11
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-271.html

軍の圧力に屈し解明できなかった、中国共産党に繋がる諜報組織
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-285.html

南京を脱出し多くの中国兵士を見捨てた蒋介石・唐生智は何を狙っていたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-414.html

日本軍の南京攻略戦が始まる前から、中国兵の大量の死体が存在していたのではないか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-415.html








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満州国にわが国が莫大な投資をして築き上げたインフラを掠奪した中国

前回の記事で関東軍が満州の匪賊を討伐したことを書いたが、それまでの満州は、法治はおろか人治すらなく、軍閥・匪賊が支配、跋扈する無法地帯であった。

黄文雄氏は『日本の植民地の真実』でこう解説しておられる。
そのような状況を一変させ、近代的法治社会の基礎を築き上げ、産業の発展を軌道に乗せたのが関東軍であり、新設の警察制度であった。この軍閥、匪賊社会をわずかな期間で一挙に近代社会に作り変えた功績は、近代アジアにおける歴史の奇跡として銘記されるべきだろう。」(『日本の植民地の真実』p.302)

関東軍が満州の匪賊を討伐したといっても、それで匪賊が完全にいなくなるようなものでもなく、治安維持のためには武装警察の力が不可欠であった。
「そこで民生部警務司の下に警察制度が整備された。日本の陸軍士官学校出身の臧式毅(ぞうしきき)民政部長の下で、初代の警務司長には偉才の甘粕正彦が就任し、警察の組織化が推進された。
 こうした結果、中国との一部国境地帯を除き、満州の治安は良好となり、僻地においても列車旅行が可能になった。
」(同上書p.303)

その後満州国は近代的法治社会の基礎を築き上げ、産業の発展を軌道に乗せていくのであるが、国家の理念がしっかりしていてかつ官吏が余程優秀でなければそうはいかないだろう。しかしながら建国直後の満州国の人口の大半は漢人で、他に満州人、朝鮮人、日本人と民族は様々で、考え方もまたバラバラで、8割は文字が読めない人々であった。

満州国建国宣言

満州国が成立した1932年3月1日に対外に発表された『満州国建国宣言』には、「王道」という中華思想と「楽土」という仏教思想、さらに「民族協和」という多民族社会の共存共栄と、近代的な産業社会と法治国家の建設が謳われている。かなり長文なので後半部分の一部だけを紹介したい。

「竊(ひそか)に惟(おも)ふに政は道に本づき道は天に基く、新国家建設の旨は一に天に順(したが)ひ民を安んずるを主とす、施政は必ず真正の民意に徇(したが)ひ私見を存する事を容さず、凡(およ)そ新国家の領土内に居住する者は皆種族の岐視、尊卑の分別なし、原有の漢族、満族、蒙族及日本、朝鮮の各族を除く外、即ち其他の国人と雖(いえど)も長久に居住を願ふ者も亦(また)平等の待遇を享くる事を得、其当に得べき権利を保障し、其をして絲毫(しごう)の侵損あらしめず、並に極力往日の黒暗政治を鏟除(さんじょ)し、法律の改良を求め、地方自治を励行し広く人材を収めて賢俊を登用し、実を奨励し金融を統一し富源を開闢し生計を維持し警政を調練し匪禍を粛正す、更に進んで言へば教育の普及は当に礼教を崇ぶべし、王道主義を実行して必ず境内一切の民族をして煕々皓々(ききこうこう)として春台に登るが如くならしめ、東亜永久の光栄を保ちて世界政治の模型となさんとす。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1908621/40

駒井徳三
【駒井徳三】

満州国政府最初の総務長官に就任した駒井徳三が昭和8年(1933)に著した『大満洲国建設録』という本がある。民族や思想の違いを乗り越えてできたばかりの満州国をリードしていくために、彼は最初に何をしなければならないと考えたのか。

「満州国政府最初の総務長官としての私は、日系官吏を代表して、排日系、中立系、親日系その他私の考え雑然たる満州国官吏を強く握りしめて、これを立国の意図通りにリードして行くべき必要と責任とを痛切に感じた。では、それがためには、満州国における政治は何処までも公明正大に強く、明るく、朗らかでなければならぬ。苟(いやしく)も従来軍閥政権の下に醸(かも)された賄賂政治的臭気ならびにスパイ政治的暗影を徹底的に排撃しなければならぬと思った。と同時にこの際私が是非とも実行しなければならぬとしたところは、満州国における中央集権制の確立、群(むらが)り来たる各種利権屋の排除、紊乱極まれる幣制の統一、更に進んでは満州国を一個の完全なる独立国家として我が祖国日本に承認せしめることであり、これこそ新国家の誕生をことぶく最大の祝辞であり、私の果たさねばならぬ重大任務であると確信し、私はひたむきに駑馬(どば)に鞭(むちう)ちて勇往邁進した。
 …
 私は今、何故に私が中央集権制の確立を強く主張したかについて、少しくその理由を語るべき必要を感ずる。…私はこう考える。支那における政治の腐敗混乱はもともと地方分権制にその禍根が存したのであって、各地方の有力なる省長なり督軍なりが各々自己の権勢にまかせて各自勝手に振る舞ったことから現在の如き不安なる状態に陥ったものである。そこで各省の省長はこれを文官とし、中央民政部総長の指導監督の下に置かしめ、また別に各省に警備司令なるものを設け、これに軍権を持たしめ、それは中央政府の軍政部総長の指揮統括の下に置き、更に財政の中央集中を行って、中央から派遣された税務監督機関ならびに税務署が各々その収税の任に当たり、中央の財政部総長が厳重に監督するといったような中央集中政治組織の確立を、名目的に非ず実質的に実現することが緊急焦眉の問題であると固く信じた。更にまたこれは交通のことに関しても同様で、各地の鉄道、通信機関を交通部に従属せしめて、その監督を受けしめることが必要であった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1234668/81

しかしながら、誕生したばかりの満州国に実務能力の高い官吏がいるわけではなく、優秀な日本人官吏を送り込んで指導させることにしたものの、日本人が多すぎても拙いので日本人官吏は全体の2割程度にとどめようとした。それでも駒井は漢人相手に随分苦労をしている。中国人のやることは今も昔も非常によく似ていると思う。

「三千万民衆とか五族の民とか言っても、満州国国民の大部分は漢民族である。漢民族は相寄り相扶けて一つの国家を構成すべき国民的集結力に欠けるところがあるが、しかし、民族社会を築き営む上に於いては一種独特の手腕を持つ優秀民族である。なるほど今日のいわゆる文化的科学的知識に於いては日本人が漢人より数等優れているかもしれない。ところが、いわゆる智恵かけひきに至っては日本人は到底漢人の敵ではない。この一種特異な民族を日本人の有する単純、請求、かつ率直なる知識、財力、武力を以て永久に誘掖指導していくということは容易ならぬことである。夷を以て夷を制するというのは漢民族が数千年来採り来った伝統的対外政策である。満州国が一つの独立国家として出現し、そこに若干の日本人が相当なる地位に入り込んだとして如何ほどの事を為し得ようか? 否むしろ日本従来の行き方を以てしては、必ず彼らに逆に巻き込まれるおそれなしとしない。幾多の先例はこれを事実の上に明示しているではないか? 彼らを以て直ちに日本人と心から融和提携し得る民族だと思うのは非常な誤算であり、飼い犬に手を噛まれるようなことにならぬとも限らぬ。まず満州国政府要路に或る日本人が入ったとすれば、その声望権威と対抗すべく、彼らの私設秘書である日本人を使って、日本本国の有力なる官民に対して盛んにそれら日系官吏の悪弊を放たしめ、結局その任に堪えざらしむるの策に出る如きは、彼ら一流の不愉快なる常套手段であり、朝飯前の片手間仕事である。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1234668/118

このような連中を多数抱えて、少数の日本人官吏がわが国の国益中心に満州国の政策を誘導することなどできるはずがないと思うのは私ばかりではないだろう。彼らは満州国のそれぞれの民族が納得できるような、公明正大な施策を行うことに心掛けたことを知るべきである。

新京 最高法院
【新京 最高法院】

例えば、近代化を推進するために前近代的で人治的な法令や制度はことごとく廃止されて、建国の理念に基づいたものに置き換えられていった。また近代司法制度確立のため、1936年に法院(裁判所)組織法が制定され、新京の最高法院の下に新京、奉天、ハルビン、牡丹江、錦州、チチハルの6高等法院、その下に29の地方法院、さらにその下に129の区法院が設置され、司法と行政を兼ねていた司法公署、兼理司法県公署は廃止されて三権分立が達成された。
さらに日本政府は昭和12年(1937)12月に、満州国における日本人が享受する治外法権を撤廃し、満州鉄道付属地の行政権も満州国に移譲している。

また貨幣制度や税制も大幅な改正が実施された。
黄文雄氏は、満州のこれまでの制度上の問題点についてこう解説しておられる。
満州では、張作霖父子に限らず、各地の軍閥のほとんどが通貨の乱発で民衆を収奪していた。たとえば湯玉麟(とうぎょくりん)支配下の熱河省では、同省政府経営の熱河興業銀行が1926 (大正15) 年から3回にわたって異なる『熱河票』を発行し、そのたびに従来の紙幣を無効にして民衆の財産を収奪した。
 満州の軍閥にとって安定していた財源が租税であり、専売制度だった。租税徴収では簡単な請負徴収制度が採られ、超過税収額が奨励金として交付されるため、税吏は競って苛酷な取り立てに走っている。手っ取り早く蓄財できる徴税局長のポストは売買の対象となり、局長が代われば、その一族郎党で構成されていた局員も代わる。局長職の競売も軍閥にとっては大きな収入源となった。
税金の名目も多く、130余種に上ったこともあった。」(『近現代史集中講座 台湾・朝鮮・満州篇』p.190)

満州中央銀行
【満州中央銀行】

黄文雄氏によると、満州建国直後に設立された満州中央銀行が、公私各種の旧金融機関から継承した紙幣は、幣種15、券種136種に及んだそうだが、銀本位制が採用されたのち1932年に新通貨が発行され、わずか2年足らずで旧通貨との引き換えが進み、通貨の統一をはかることに成功したという。

満州中央銀行が発行した最初の一円紙幣

また軍閥支配下の時代は、満州では財政予算の大半が軍閥の軍備や内政に消えてしまい、インフラ整備はほとんど行われなかったのだが、満州国建国により鉄道、港湾、空港などの交通網整備から、農業・鉱工業などの産業開発、治山治水、電力供給、都市改修などの工事が積極的に行われた。

大連満鉄本社
【大連満鉄本社】

わが国が日露戦争以降満州国崩壊までに投資した金額は100~117億円と推定されているが、満州国の国家予算は1932年が1.4億円、1942年が8.2億円というから、如何にわが国が満州に多額の投資をしたかがわかる。

豊満ダム

南満州鉄道が吉林市を流れる松花江の上流に建設した豊満ダムの最大出力は70万キロワット、朝鮮窒素肥料(現在のチッソ)が鴨緑江に建設した水豊ダムの最大出力は60万キロワットというが、当時の日本本土の水力発電規模は合計で280万キロワットというから、投資規模の大きさは半端なものではない。ちなみに現在の日本最大の出力を誇る奥只見ダムが56万キロワットなのである。
当時豊満ダムの視察に訪れたフィリピン外相は「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカの支配下で40年が経過している。だが住民の生活向上に役立つものは一つも作っていない。満州は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか」と歓声を発したことが、案内をした満州電業理事長・松井仁夫の著書『語り部の満州』に書かれているという。

鞍山製鉄所
【鞍山製鉄所】

上の画像は鞍山の昭和製鋼所だが、この工場は175万トンの製鉄と100万トンの製鋼が可能で、当時国内の製鉄総生産量の大半を占めていた日本製鉄八幡製鉄所と遜色のない規模であった。
戦時体制下の満州では「一業一社」制度が採用され、大規模工場が多数建設されて、急速な産業発展を遂げ、人口は建国時(1932)の29百万人が、1942年には44百万人まで増加したという。

満州景観 写真帖 新京
【新京】

「満州国」という独立国家の存在を認めたくない中国は、今もこの国を日本の「傀儡国家」と定義し、日本軍による虐殺や搾取があったと主張しているのだが、この点について黄文雄氏は著書でこう述べておられる。

もしも本当に満州が阿鼻叫喚の地獄であったなら、なぜ満州国建国後に、年間100万人を超える中国人が『万里の長城』を超えて流れ込んだのだろう。
 人間なら誰であれ、自ら進んで虐殺の大地には入り込みはしないはずだ。
こうした至極当然の疑問について、中国人学者は何も答えられない。『日本軍に強制連行されたのだ』と弁明する者もいたが、もちろん、それはまったく根拠のない話だ。数万の関東軍がどうして、年に百万もの中国流民を強制連行できるというのか。また、その必要性は、どこにもない。
 …
 満州国は13年余と短命であったが、それでも東亜大陸の一角に戦闘機まで造れる大産業国家が忽然と出現したことは、人類史上の奇跡に近い。当時の中国人にとっては、戦乱も飢饉もなく、私有財産も安全も保障され、しかも進んだ教育、医療を受けられるこの国は桃源郷だった。」(同上書 p.205-206)

満州国は終戦直前までは比較的平和であったのだが、1945年8月8日に対日宣戦布告したソ連は同日満州に侵攻した。関東軍首脳は撤退を決定し、8月10日に特別列車で脱出を図ったため、取り残された日本人居留民は酷い目に遭ったのだが、このことは以前このブログで書いたので繰り返さない。

ソ連軍のあと、ハゲタカのように満州を襲ったのが中国である。黄文雄氏はこう解説しておられる。
ソ連軍が満州に侵攻しはじめた翌日、中国共産党も満州占領を指令している。当時、満州の重工業は全中国の約90パーセントを占めており、事実上中国の生命線だったのである。
 号令一下、共産党軍は、ソ連軍と入れ替わるかたちで各地から続々と満州に侵入し、10月には国民党軍も進駐してきた。初期の戦闘では米式装備の精鋭部隊を投入した国民党軍が優勢で、共産党軍は一時、鉄道沿線都市から農村、さらに山林へと撤退したものの、やがて反撃に出る。このように、本格的な国共内戦は満州国の遺産をめぐって開始されたのである。」(同上書 p.211-212)

この戦いは1948年10月まで続いて、満州はほぼ共産党の手中に収まったのだが、林彪の報告によると、この戦いで殲滅された国民党軍は40万人以上、共産党軍の死者は6万人だったという。
こうして掠奪に成功した満州国のインフラの遺産が、長い間中国経済の屋台骨を支えてきたことは言うまでもない。

しかしそのような史実は、中国共産党の歴史を格調高く描く上では余程都合が悪いのであろう。彼らの行為を正当化するために、満州国は中国の歴史叙述の中で『偽満州国』などと呼ばれ、満州に巨額の投資をした日本企業も貶められることとなる。

豊満ダム万人坑

例えば先ほど紹介した豊満ダムの建設に15万人の中国人が徴用され、苛酷な環境の下で強制労働を強いられ15千人が死亡し、松花江右岸の河岸段丘に棄てられたと中国は主張し、『豊満万人坑遺骨館』を建設して大量の人骨等を展示している。旧満州国だけでこのように『万人坑』と称して人骨等を展示する建物が20ヶ所以上あるようだが、中国が主張しているようなことが本当にあったかどうかについては読者のみなさんの判断に委ねることとしたい。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-224.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

ソ連占領下から引揚げてきた日本人の塗炭の苦しみを忘れるな
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-407.html

なぜ中国大陸に大量の日本人孤児や婦人が残されたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-408.html

なぜわが国は『シベリア抑留』の実態解明調査を怠ってきたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-446.html

飯田市の観光を楽しんだのち、「満蒙開拓」とは何だったのかを考える
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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