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原爆・ソ連参戦の後も『ポツダム宣言』受諾に抵抗したのは誰か~~ポツダム宣言3

前回の記事で、『ポツダム宣言』が出た直後のわが国の反応について書いた。
この宣言が公表されてから2発の原爆が落とされてソ連が対日参戦した。これではわが国には、どう考えても勝ち目はないだろう。ドイツのように完全に敗北すれば、わが国は主権を奪われ、国土は戦勝国に分割されてしまう。

長崎原爆

もし『ポツダム宣言』がわが国に対して「無条件降伏」を要求する文書であるならば、国を失うくらいならば破れかぶれで突き進むしかないという考え方はあり得ると考えるが、前々回の記事で記したとおり『ポツダム宣言』は戦争を終結させるための連合国側の条件を提示したものであり、その条件には曖昧な部分があるにせよわが国の立場を配慮した部分が少なからずあったのだ。
国民の生命と財産を守るべきわが国の指導者からすれば、これから先勝ち目のない戦争を継続して多くの国民に犠牲を強いるよりも、速やかに『ポツダム宣言』を受諾してその後の外交交渉に委ねる方がましだという結論に落ち着くのが自然だと思うのだ。
ところが、わが国中枢には徹底抗戦を唱える者がいて、簡単に議論がまとまらなかったのである。徹底抗戦を選択した場合は、『ポツダム宣言』を受諾するよりももっと悲惨な結果になったはずなのだが、いったいどのような議論があったのか気になるところである。

前回の記事に引き続き、山下祐二氏の論文を紹介したい。
http://ci.nii.ac.jp/els/110000980223.pdf?id=ART0001156933&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1387290927&cp=

「(8月)9日午前4時ごろ、モスクワ放送は突如対日宣戦布告を報じ、外務省ラジオと同盟通信がこれをキャッチした。午前5時、迫水書記官長がこの報をもって鈴木首相のもとに駆けつけた。和平のタイミングを待ち受けていた首相は、『いよいよ来るものが来た』と静かにつぶやいた。同じく近衛公は、ソ連の参戦を『まさに天佑であるかも知れん』と語っている。…
 構成員のみによる最高戦争指導会議が9日午前11時近くに始まった。鈴木首相は、原爆投下とソ連の参戦によって『ポツダム宣言』を受諾するほかなくなったと思われるが、意見を聞きたい、と切り出した。重苦しい空気の中で、さすがに誰一人『ポツダム宣言』受諾に対し、全面的に反対する者はいなかった。東郷外相は国体護持のみを条件として受諾することを説き、米内海相がこれに賛同した。阿南陸相と梅津参謀総長は国体護持の他に、①戦争犯罪人の処罰に関しては日本側代表をも裁判に加えること、②武装解除は日本側で自発的に行うこと、③占領軍の進駐は、出来るだけ小範囲で小兵力で短時日に制限すること、の三条件を加えるように主張し、豊田軍令部総長がそれに賛同した。その直後に、今度は長崎に原爆が投下されたとの知らせが入った。」(アジア・太平洋戦争と戦後教育改革(12) : ポツダム宣言の受諾 p.4)

最高戦争指導会議

少し補足すると、最高戦争指導会議のメンバーは鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外務大臣、阿南惟幾陸軍大臣、米内光政海軍大臣、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長の6人である。
長崎に原爆が投下された情報があった後、午後から臨時閣議が深夜まで行なわれ、席上で阿南陸相は原爆にひるむことなく、『死中活を求むる戦法』を主張し、米内海相が「一か八かとにかく戦ひつづけるのがよいか、極めて冷静に合理的に判断すべきである」と述べたという。
明治22年に定められた内閣制度は、政府の意思決定のため閣僚全員一致を条件としていたので話は平行線のままで進まず、鈴木首相は決定の遅延と内閣総辞職の双方を回避するため、御前会議を開催して天皇の聖断を仰ぐことを決意した
この日の午後11時50分、宮中の防空壕内の一室で、天皇陛下御臨席のもとで最高戦争指導会議が開催され、この会議で天皇陛下は「外務大臣の意見に賛成である」と裁断を下され、その理由をこう述べられた

最高戦争指導会議天皇ご臨席_0007

「従来勝利獲得の自信ありと聞いて居るが、今迄計画と実行が一致しない、又陸軍大臣の言ふ所に依れば九十九里浜の築城が8月中旬に出来上るとのことであったが、未だ出来上がって居ない。又新設師団が出来ても之に渡すべき兵器は整っていないとのことだ。之ではあの機械力を誇る米英軍に対し勝算の見込みなし
 朕の股肱たる軍人より武器を取り上げ、又朕の臣を戦争責任者として引渡すことは之を忍びざるも、大局上明治天皇の三国干渉の御決断の例に做ひ、忍び難きを忍び、人民を破局より救ひ、世界人類の幸福の為に斯く決心したのである。」(同上論文 p.5)

この御前会議のあと、翌8月10日午前3時からの首相官邸における閣議決定により、「御聖断」を正式の政府決定にする手続きがなされ、外務省から「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれていないという了解の下に『ポツダム宣言』を受諾する旨の回答が海外に発信されている

そして、この日の午後2時から閣議が開かれ、この重要な政府決定を国民に対しどう公表すべきかが議論され、ポツダム宣言の受諾については天皇陛下による「終戦の詔勅」が出されるまでは発表しないことと、それまでの間は、少しずつ国民の気持ちを終戦の方向に向けることが決定されたのだが、これから後の陸軍の動きがおかしい。
閣議決定で決められたばかりのことがその日のうちに陸軍によって完全に無視され、阿南陸相の目通しなしに、全軍玉砕の覚悟を促す「陸軍大臣布告」が各新聞社に配布されている
。この全文は次のURLに出ている。
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~kirihara/ussr.html

全軍将兵に告ぐ、『ソ聯』遂に皇国に寇す、明分(名分?)如何に粉飾すといえども大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり、事茲に至る、 又何をか言わん、断固神州護持の聖戦を戦い抜かんのみ。
 假令、草を喰み土を噛り野に伏すとも断じて戦ふところ死中自ら活あるを信ず
、是即ち七生報国「我一人生きてありせば」という楠公救国の精神なると共に、 時宗の『莫煩悩』、『驀進進前』以って醜敵を撃滅せる闘魂なり、 全国将兵宜しく一人を余さず楠公精神を具現すべし、而して又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀進進前すべし。
 昭和20年8月10日             陸軍大臣」

なぜ天皇陛下の御聖断が出て『ポツダム宣言』受諾が決まったことをすぐに公表させず、陛下の詔勅が出るまで公表を先延ばしにすることにしたのだろうか。
軍隊を指揮監督する最高の権限をもつ天皇陛下の御聖断が出たというのに、なぜ軍の幹部はそれに従おうとしなかったのだろうか。
戦争を継続すれば更なる原爆投下が予想され、ソ連の侵攻が始まったというのに充分な武器・弾薬があるわけではなかった。戦争を継続してどうやって国民を護り、国土を防衛することが出来るのか。いくつも疑問点が湧いてくる。

米内海相の言う通り「冷静に合理的に判断」すれば、すぐにでも『ポツダム宣言』を受諾すべきなのだが、阿南陸相らが徹底抗戦を主張したその裏には、軍の上層部にソ連の力を借りてわが国の共産主義化を成し遂げようとした人物が少なからずいた可能性を感じるのは私だけではないだろう


阿南陸相

阿南陸相の本心は終戦にあったのだが、陸相としては立場上徹底抗戦を主張せざるを得なかったとも言われている。また阿南自身が終戦を唱えれば暗殺されて後任の大臣が出ず内閣が総辞職し終戦が実現しない可能性があったという説もあるようだが、詳しいことはわからない。
http://ufononatu.blog10.fc2.com/?m&no=139

ところで、今年8月11日付の産経新聞に「昭和20年6月、スイスのベルン駐在の中国国民政府の陸軍武官が米国からの最高機密情報として『日本政府が共産主義者達に降伏している』と重慶に機密電報で報告していたことがロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAで明らかになった」という記事が出たことをこのブログで紹介したことがあった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-214.html

この記事は、当時の日本政府の重要メンバーの多くがコミンテルンに汚染されており、日本の共産主義者たちが他国の共産党と連携しながらソ連に和平工作を仕掛けたということを、中国国民政府の陸軍武官が重慶(中国の臨時首都)に打電していたことを米国が傍受し、英国に最高機密情報として伝えたという内容なのだが、当時わが国の中枢部分(軍の上層部を含む)に共産主義者が多くいて、彼らがこの時期のわが国の主導権を握っていたことを窺わせるものである。なぜ軍部に共産主義者が多かったのかについては、次回に詳しく記したいと思う。

話を『ポツダム宣言』の話に戻そう。
国体護持を前提として『ポツダム宣言』を受諾するというわが国の回答に対して、連合国側はどう反応したのだろうか。

アメリカはわが国の回答を不満とする意見もあり、バーンズ国務長官が起草したとされる正式回答書(「バーンズ回答文」)には、
「降伏の時より、天皇および日本国政府の国家統治の権限は、降伏条件の実施のために必要な措置をとる、連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす」
「最終的な日本国の政府の形態は『ポツダム宣言』に遵(したが)い、日本国国民の自由に表明する意思により決定せられるべきものとす」
とあり、真正面からの回答を避けたものであった。
(「バーンズ回答文」の外務省訳文の全文は先ほど紹介した山下祐二氏論文のp.6に出ているので興味のある方は参照願いたい。)

この連合国側の回答文で納得できない陸相、陸・海総長は、連合国回答文を再照会すべしと主張したが、8月13日午後4時のから始まった閣議で即時受諾説が圧倒的となる。
鈴木首相がこの閣議で最後に述べた言葉は、誰が読んでも正論だろうと思う。

鈴木貫太郎

「…最後に問題は国体護持の上より危険を感じているが、さればとて今どこまでも戦争を継続するかといえば、畏れ多いが大御心はこの際和平停戦せよとの事である。もしこのまま戦えば背水の陣を張っても原子爆弾のできた今日、あまりにも手おくれである。それでは国体護持は絶対にできませぬ。いかにも一縷の望はあるかも知れませぬ。死中に活もあろう。全く絶望ではなかろうが、国体護持の上から見てそれはあまりに危険なりといわねばならぬ。万民のために赤子をいたわる広大なる思召を拝察しなければならぬ
 臣下の忠誠を致す側より見れば、戦抜くという事も考えられるが、自分達の心持だけで満足できても日本の国はどうなるか誠に危険千万である。かかる危険をも御承知にて聖断を下されたからは、我等はその下に御奉公する外に道なしと信ずる。従って私はこの意味に於て本字の閣議の有りのままを申し上げ重ねてご聖断を仰ぎ奉る所存であります。」(同論文 p.7)

事態は切迫していた。アメリカのマスコミはわが国の回答遅延を責め、13日夕刻には米軍飛行機が10日の日本側申し入れと連合国回答文を印刷したビラを東京都下その他に散布したという。先に述べたとおり、この段階においてはわが国が連合国と『ポツダム宣言』受諾に関する交渉をしている事実は一般国民には知らされておらず、早期に決断を為さなければ国内が大混乱となることが危惧された。

8月14日午前10時50分ごろ、急遽御前会議が開かれ、ここで述べられた天皇陛下のお言葉が素晴らしいのだ。

御前会議

「…私の考えはこの前申したことに変わりはない。私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える
 国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文章を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があるというのも一応はもっともだが、私はそう疑いたくない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申し入れ受諾してよろしいと考える。どうか皆もそう考えて貰いたい
 さらに陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことはまことに堪えがたいことで、その心持は私にはよくわかる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。この上戦争を続けては結局わが国がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩を嘗めさせることは私としてじつに忍び難い。祖宗の霊にお応えできない。和平の手段によるとしても、素より先方の遣り方に全幅の信頼を置き難いのは当然であるが、日本がまったく無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる。
…今日まで戦争に在って陣没し、或いは殉職して非命に斃れた者、またその遺族を思うときは悲嘆に堪えぬ次第である。また戦傷を負い戦災をこうむり、家業を失いたる者の生活に至りては私の深く心配する所である。この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ。…どうか私の心持を良く理解して陸海軍大臣は共に努力し、よく治まるようにして貰いたい。必要あらば自分が親しく説き諭してもかまわない
。この際詔書を出す必要もあろうから、政府はさっそくその起案をしてもらいたい。」(同論文 p.8)

HIROHITO.jpg

このお言葉のあと、参加者全員がすすり泣いたと伝えられているが、昭和天皇がこの時に、会議の列席者それぞれの心にしみるようなわかりやすいお言葉でわが国の将来のために適切な判断を下されたことが、8月15日の終戦につながったことは言うまでもない。

侍従長であった藤田尚徳の回想記(『侍従長の回想』)にはこの御聖断が下ったあと、阿南陸相はお立ちになる陛下に、とりすがるように慟哭したと書かれているそうだ。そこで陛下は、このように陸相になぐさめの言葉をかけられたという。
「阿南、阿南、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる自信がある。」
(つづく)
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帝国陸軍の左傾化と阿南陸相の自決との関係~~ポツダム宣言9

前回まで『ポツダム宣言』受諾をめぐるわが国の動きを中心に書いてきたが、昭和天皇による『御聖断』のあとに、陸軍の異常な動きが際立っていることが理解して頂けたと思う。
彼等の動きを見ていると、陸軍の中枢にはわが国の敗戦を機に、陸軍主導で共産主義革命を起こそうとしたメンバーがかなりいたと考えざるを得ないのだ。

張作霖爆殺事件

一番わかりやすいのは、関東軍だろう。
以前このブログで、関東軍が独断で実行したことになっている昭和3年(1928)の張作霖爆殺事件は、ソ連の機密文書ではソ連が実行し日本人の仕業に見せかけたものだと書かれており、イギリスの外交文書においてもソ連に犯罪の責任があると記されていることを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-205.html
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-206.html

通説では関東軍はこの事件を自らの判断で実行したと描かれているのだが、ソ連の工作に協力したというのがどうやら真相のようである。
柳条湖事件も、最近の研究では日本軍主犯説を否定する議論があるようだが、いずれにせよ関東軍は中国大陸で暴走してわが国を戦争へと巻き込んだ可能性が高いのである。

ところが、太平洋戦争末期にソ連が対日参戦した直後に、前回の記事で書いた通り、好戦的であるはずの関東軍の秦彦三郎総参謀長が、「ワシレフスキー元帥に対して、満州にいる日本軍と日本人ができるだけ早くソ連軍の保護下に置かれるよう、ソ連軍の満州全域の占領を急ぐよう要請」したというのである。

ここで、このブログで以前紹介した、1935年(昭和10)に開かれた第7回コミンテルン大会におけるスターリン演説を思い出してほしい。
スターリン

ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

スターリンは、日中を戦わせて長期戦で消耗させ、日本の敗戦が確実なタイミングで参戦して共産陣営に取り込む戦略であったのだ。関東軍のとった行動は、わが国を中国との戦争に巻き込み、最後に満州をソ連に献上したのだから、スターリンの戦略と見事なまでに一致しているのだ
ソ連が対日参戦した際にワシレフスキー元帥には満州、北朝鮮、南樺太、千島全島、北海道の半分まで占領する任務が与えられていたそうだが、北海道まで兵を進めることが出来なかったのは、第五方面軍司令部の樋口季一郎中将が、ソ連軍奇襲の報告を受けて、自衛のための戦いを決断し、千島列島の最北にある占守島でソ連軍の進軍を阻んだことが大きい。
樋口季一朗

http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

ところが、関東軍参謀長の秦彦三郎中将は、ワシレフスキー元帥からの要請により、第五方面司令部に武装解除を命じて、千島や樺太におけるわが国の自衛の戦いを終息させてしまっている。停戦命令が出ていても、邦人に対する攻撃がある限り法人の生命と財産を護るために軍隊が戦う事は国際法で認められているにもかかわらずである。
そのためにソ連軍による邦人の無差別殺戮が8月28日頃まで続き、多くの兵士がシベリアに送られたのだ。この史実をどう読めばよいのか。

私も長い間『軍国主義』が怖ろしいものだとイメージしていたのだが、よくよく考えると軍隊と言う組織は、国民の生命と財産を護る存在である限りは怖ろしいものではありえない。ところが、その組織の中に、わが国以外の国の為に動こうとしたり、革命を夢見て権力を掌握しようとするメンバーが存在し、その目的のために組織的に武力を用いる意思があれば、どこの国にとっても怖ろしい存在となりうるものなのだ。そしてわが国の場合においては、本当に怖かったのは正確に言えば「ソ連に忠誠を誓い、わが国を戦争に巻き込み、最後に共産主義革命を起こそうとした軍隊」なのではなかったか

いつの時代もどこの国でも、自国と敵対する国の工作員にとっての重要な工作対象は、政治家やマスコミも重要だろうが、一番重要なターゲットはその国の軍隊だと思うのだ。なぜなら、その工作が成功すれば、さしたる武力を使わずとも相手国を倒すことが容易になるからだ

以前このブログでも書いたが、1928年(昭和3)のコミンテルン第6回大会に採択された決議内容には「共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない」と書かれていた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-209.html
わが国は、帝国陸海軍がコミンテルンの工作対象になっていることに対し、あまりにも危機感が乏しく、リスク管理が甘かったと言わざるを得ないのだ

話を元に戻そう。
いろいろ調べていくと、張作霖爆殺事件について事件にかかわったメンバーは処分されていない。同様に『玉音放送』を阻止しようとし、多くの人命が失われた『宮城事件』についても誰も処分されず、クーデターに加わったことが明らかなメンバーも、戦後をのうのうとして生きたのである。彼等の多くは防衛庁や自衛隊に入っているが、戦後しばらくは再び共産主義革命のチャンスをうかがっていたのではないか。
思想安全地帯に赤化分子

前回の記事で、昭和7年の2月に陸軍士官学校に赤化運動が起こり4名が放校処分されたという新聞記事を紹介したが、この記事の出た前後の卒業生に『宮城クーデター』を実行した中心メンバーや、ソ連とつながりがある人物が少なくないことが分かる。ソ連の特殊工作員となったということは、ガチガチの共産主義者でなければありえないはずだ。
私の記事で名前の出てきた共産主義者と宮城クーデターに参加した人物を、卒業年次順に並べてみると次のようになる。
陸軍士官学校

【33期】大正10年(1921)7月卒業
水谷一生大佐(近衛師団参謀長:宮城事件で竹下中佐に協力を約していたが、東部軍司令部に説得される)
【35期】大正12年(1923)7月卒業
荒尾興功大佐(軍務局軍事課課長:宮城事件首謀者の1人。戦後は復員庁に勤務)
【39期】昭和2年(1927)7月卒業
不破博大佐(高級参謀: 宮城事件に参加を約していた。戦後防衛庁防衛研修所戦史室に勤務)
【42期】昭和5年7月卒業
稲葉正夫中佐(宮城事件計画立案者。戦後防衛庁防衛研修所戦史室に勤務)
竹下正彦中佐(宮城事件首謀者の1人。阿南陸相の義弟。戦後、陸上自衛隊東部方面総監)
【44期】昭和7年(1932)7月卒業
瀬島龍三中佐(ラストボロフ証言によるとソ連の特殊工作員として訓練を受けた。後に伊藤忠会長)
【45期】昭和8年(1933)7月卒業
朝枝繁春中佐(ラストボロフ証言によるとソ連の特殊工作員として訓練を受けた。戦後商社勤務)
井田正孝中佐(宮城事件首謀者の1人。戦後は在日米軍司令部戦史課に勤務後電通に入社)
椎崎二郎中佐(宮城事件に参加。昭和20年8月15日自決)
【46期】昭和9年(1934)7月卒業
畑中健二少佐(宮城事件で森近衛師団長ら殺害に関与。昭和20年8月15日自決)
【47期】昭和10年(1935)6月卒業
石原貞吉少佐(近衛師団参謀:宮城事件に参加を約していた。)
【50期】昭和12年(1937)12月卒業
窪田兼三少佐(宮城事件で森近衛師団長ら殺害に関与)
【52期】昭和14年(1939)9月卒業
古賀秀正少佐(近衛師団参謀:宮城事件に参加。昭和20年8月15日自決。東条英機の女婿)
志位正二少佐(ラストボロフ証言によるとソ連の特殊工作員として訓練を受けた。戦後外務省、海外石油開発株式会社勤務。日本共産党委員長志位和夫の伯父)
【54期】昭和15年(1940)9月卒業
北畠暢男大尉(近歩二第一大隊長:古賀少佐の依頼により宮城事件で兵力投入)
佐藤好弘大尉(近歩二第三大隊長:宮城事件でNHK会長ら18人を拉致)
【55期】昭和16年(1941)7月卒業
上原重太郎大尉(宮城事件で森近衛師団長ら殺害に関与)

『宮城クーデター』に関与した将校クラスのメンバーはまだまだあるが、興味のある方は別宮暖朗氏の『終戦クーデター』のp.4~7にリストが出ているので参考にしていただきたい。
阿南惟幾大将は陸軍士官学校18期(明治38年[1905]卒業)であるが、このような過激なメンバーを将校クラスに多数抱えた陸軍大臣であったわけである。

阿南陸相は『ポツダム宣言』を受諾するかどうかで、会議では最後の最後まで徹底抗戦を主張していたのだが、これは陸相の『腹芸』で、本心は別のところにあったという説がある。

その説を一笑に付す論者が多いのだが、終戦を決めた鈴木貫太郎内閣当時の内閣書記官長であった迫水久常氏の『終戦の真相』と言う論文を読んで、私も『腹芸』の可能性を感じるようになった。迫水論文の重要な部分を引用する。
迫水久常

当時の陸軍の状況から申しますと、若し(もし)阿南さんが終戦に賛成されたら、必ず部下に殺されていたと思います。若し阿南さんが殺されたら内閣としては、陸軍大臣を補充しなければなりません。当時の陸軍大臣は陸軍の現役大・中将ということになって居りましたので、その補充について軍が承諾しない限り出来ないのであります。若し陸軍大臣を補充できなければ、鈴木内閣は総辞職する外(ほか)ありません。あの場合、鈴木内閣が総辞職したらどうなりますか。終戦は出来なかったでしょう。阿南さんはこのことを知って命を保って、鈴木内閣をして終戦を実現さるために、あの腹芸をなされたのです。若し心から終戦反対なら辞職されて了(しま)えばやはり鈴木内閣はつぶれて終戦は出来なかったでしょう。」(正論臨時増刊号 終戦60周年記念『昭和天皇と激動の時代』p.90)

少し補足しておこう。
当時には、軍部大臣(陸軍、海軍)の補任資格を現役武官の大将・中将に限っていた『軍部大臣現役武官制』という制度があり、そのために内閣が軍部と対立した場合、軍が軍部大臣を辞職させて後任を指定しないことにより内閣を総辞職に追い込み、合法的な倒閣を行うことが可能であったのだ。
過去、陸軍が組閣に協力しなかったために内閣が総辞職した事例として、第37代の米内内閣が有名だ。米内光政首相は日独伊三国同盟反対論者であったために陸軍から不評を買い、陸軍は畑俊六陸相を単独辞職させたのち、後任の陸相を推薦しなかった。そのために、米内内閣はわずか半年で総辞職に追い込まれている。(昭和15年[1940])
他にも昭和12年(1937)に広田内閣の寺内陸相が衆議院解散を要求し、広田首相が内閣総辞職を行ない、後任として組閣大命を受けた宇垣一成に対して、陸軍が陸軍大臣の候補者を出さなかったために組閣ができなかった事例がある。
阿南陸相

迫水氏が指摘している通り、阿南陸相がもし本気で徹底抗戦を考えていたのなら、自ら辞表を出せば簡単に鈴木内閣を総辞職に追い込むことが出来たのである。ではなぜ、阿南は辞任しなかったのか
実際に阿南陸相は、14日正午過ぎに首相官邸閣議室において、クーデターを起こした義弟の竹下正彦中佐らから陸相辞任による内閣総辞職、さらに再度クーデター計画「兵力使用第二案」への同意を求められたが、阿南はこれを退けたことがWikipediaにも書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE



迫水氏は別の著書でこう述べている。
「…終戦の際、陸軍はクーデターの準備をして、阿南陸相は、これを承諾し、みずからその指揮をとるから自分にまかせよといわれたという。当時の状勢において、私たちの最も恐れたものは、陸軍の暴発であった。阿南大将は、戦争を終結し、一身を無にして、国民のみならず世界の人々を救おうとせられる天皇陛下のみ心を体し、終戦を実現せんと心に誓っておられたに違いない。かかるが故に軍の暴発を最も恐れ、これを抑止するに心肝をくだかれて、苦肉の策として、クーデターの指揮を自ら引受け、一面、大詔の公布まで内閣の閣僚たる地位を保持するため中途で殺されるが如きことなきよう苦心されたものと私は考える。『一死ヲ以ッテ大罪ヲ謝シ奉ル*』とは心にもなき抗戦論を唱えて、天皇陛下のみ心を悩ましたてまつった罪を謝するとともに純真一途国体護持の精神によって手段を選ばず、抗戦を継続せんとした軍の下僚に対し、だましてひきずって遂にその機会を与えざりし罪を謝すという心持ではなかっただろうか。阿南大将のみずからの生命を断つことによる導きによって軍の暴発は抑止せられて、日本の国家は残ったのである。…」(ちくま学芸文庫『機関銃下の首相官邸』p.334-335)
*阿南陸相の遺書

迫水氏によると、14日に阿南陸相は終戦の詔書の署名したのち鈴木貫太郎首相を訪れて、涙を浮かべながら首相にこう謝罪したという。
「終戦についての議がおこりまして以来、私はいろいろと申し上げましたが、総理にはたいへんご迷惑をおかけしたと思います。ここにつつしんでお詫び申し上げます。私の真意は、ただ一つ国体を護持せんとするにあったのでありまして、敢えて他意あるものではございません。この点どうぞご了解くださいますように。」
鈴木首相はうなづきながら、阿南陸相に歩み寄られて「そのことはよく判っております。しかし、阿南さん皇室は必ずご安泰ですよ、なんとなれば今上陛下は、春と秋のご先祖のお祭りを必ずご自身で熱心におつとめになっておられますから。」と述べたという。そして陸相が丁寧に一礼して部屋を去った後に、総理は迫水氏に「阿南君は暇乞いにきたのだね」とつぶやいたという。

阿南陸相は昭和4年(1929)から昭和8年(1933)までの4年間は侍従武官を務めており、当時の侍従長が鈴木貫太郎であったそうだ。また昭和11年(1936)の2.26事件の時に鈴木侍従長が襲撃され重体になった時には阿南は陸軍幼年学校長であり、阿南校長はこの時の生徒への訓話の中で叛乱将校を厳しく批判し、軍人は政治にかかわるべきでないと説いたという。
そして昭和20年4月、昭和天皇のご意志により、鈴木貫太郎が首相を拝命し、鈴木は即座に陸軍省に赴いて、阿南の陸相就任をとりつけたそうだ。陸相就任の数日後に阿南は友人にこう語ったという。
大臣が自ら責任を負わねばならぬことがあっても、辞職さえすればその責を逃れたとするような態度は私は絶対にとらない。将来、責任を負わねばならぬようなことに遭遇したら、本当に腹を切って、お上にお詫び申し上げる覚悟だ。」
こういう経緯を知れば、鈴木首相と阿南陸相とは強い信頼関係があったことがわかる。
阿南はわが国が『ポツダム宣言』を受諾し、終戦に至るぎりぎりのところまで鈴木内閣を支え、そして最後の最後にクーデター派を裏切ったのだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog151.html

8月15日未明、阿南陸相は『ポツダム宣言』の最終的な受諾返電の直前に、陸相官邸で切腹した。介錯を拒み早朝に絶命したと記録されているそうだ。
anami_isho.jpg

靖国神社の遊就館の中に、阿南陸相の血染めの遺書や自決時の軍服が展示されているという。
遺書には、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」と記され、
大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし
という辞世の句を残している。
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/ziketu-anami.htm

この阿南陸相の自決が、陸軍に強い衝撃を与えたことは言うまでもない。
阿南が終戦処理を託した荒尾興功軍事課長は次のように述べたという。
「全軍の信頼を集めている阿南将軍の切腹こそ全軍に最もつよいショックを与え、鮮烈なるポツダム宣言受諾の意思表示であった。之により全陸軍は、戦争継続態勢から、ポ ツダム宣言受諾への大旋回を急速に始めた。…換言すれば、大臣の自刃は、天皇の命令を最も忠実に伝える日本的方式であった。」

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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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