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攘夷論者が、実行できないことがわかっていながら「攘夷」を唱え続けた理由

戊辰戦争の奥羽列藩同盟の全軍の士気を鼓舞するために、米沢藩士の雲井龍雄が起草した『討薩檄』という檄文の全文とその大意がWikipediaに紹介されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E8%96%A9%E6%AA%84

討薩檄

この有名な檄文を読み始めると、冒頭から興味深いことが書かれている。

『初め、薩賊の幕府と相軋(きし)るや、頻(しきり)に外国と和親開市するを以て其罪とし、己は専ら尊王攘夷の説を主張し、遂に之を仮て天眷(てんけん)を僥倖す。天幕の間、之が為に紛紜内訌、列藩動揺、兵乱相踵(つ)ぐ。然るに己れ朝政を専断するを得るに及んで、翻然局を変じ、百方外国に諂媚し、遂に英仏の公使をして紫宸に参朝せしむるに至る。先日は公使の江戸に入るを譏(そし)つて幕府の大罪とし、今日は公使の禁闕に上るを悦んで盛典とす。何ぞ夫れ、前後相反するや。是に因りて、之を観る。其の十有余年、尊王攘夷*を主張せし衷情は、唯幕府を傾けて、邪謀を済さんと欲するに在ること昭々知るべし。薩賊、多年譎詐万端、上は天幕を暴蔑し、下は列侯を欺罔し、内は百姓の怨嗟を致し、外は万国の笑侮を取る。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。』
*尊王攘夷(そんのうじょうい):君主を尊び、外敵を斥けようとする思想

初め薩摩は尊王攘夷を主張し、幕府が開国したことを批判していたにもかかわらず、彼らが権力を握ると開国を是とし、英仏の公司を参朝させたりしていて、従来の主張と相反しているではないか。これまで彼らが尊王攘夷を主張してきたのは、ただ幕府を傾けて政権を奪う野望であったことを知るべきだと記されている。

下関戦争
【下関戦争】

『尊王攘夷』を唱えていた薩長が、『攘夷』の姿勢を改めた経緯について、一般的な高校教科書である『もういちど読む 山川日本史』にはこう解説されている。

「長州藩ではその(四国連合艦隊下関砲撃事件)後、高杉晋作・桂小五郎(木戸孝允)らの下級藩士が中心となって藩内の豪農や村役人らとともに手をむすんで軍事力を強め、藩論を尊攘から倒幕に転換させた。また西郷隆盛・大久保利通らの下級藩士が藩政の実権を握っていた薩摩藩も、しだいに反幕府の姿勢を強めた。両藩は薩英戦争や四国艦隊の下関砲撃で、欧米列強の実力を身をもって知り、攘夷の方針をあらため、軍事力の充実を目的としてイギリスに接近していった。」(『もういちど読む 山川日本史』p.215)

雲井龍雄
雲井龍雄

学生時代はこのような解説で納得してしまっていたのだが、攘夷が無理だと分かったのなら、幕府の行った開国を追認し協力する選択もあったはずだ。にもかかわらず、藩論がいきなり『倒幕』と変わったのは納得しがたいところである。
冒頭の『討薩檄』の中で雲井龍雄は、「其の十有余年、尊王攘夷を主張せし衷情は、唯幕府を傾けて、邪謀を済さんと欲するに在る」と述べており、「尊王攘夷」というスローガンは当初から幕府を衰退させるための謀略であったと断じているのである。

1820年代から1830年代にかけて水戸学における攘夷論が確立したのだが、これは儒学における華夷思想を素地としており、欧米諸国は卑しむべき夷狄(いてき)であるから、日本列島にその船が接近した場合、直ちに打ち払うべきだとする考えであった。
その後、国学の発展によって、わが国は神国であるというナショナリズムが次第に力を増し、勤皇思想もまた力を得ていったが、これが現実の外国勢力の脅威下で攘夷論と結びついて尊皇攘夷論が形作られたとされる。
尊王攘夷の思想が広まったのは、ペリー来航後に徳川幕府によって開港された後、安政5年(1858)に日米修好通商条約が締結される頃からのことなのだが、そもそも攘夷論者たちが声高に『攘夷』を叫んでいた背景に、どのような意図があったのだろうか。

松平春嶽
【松平春嶽】

当時の記録にはどのようなものがあるのかと探していると、蜷川新氏の『維新前後の政争と小栗上野. 続』(昭和6年刊)のなかで、松平春嶽の『逸事史補』が引用されている部分があったので、紹介しておこう。

水戸烈公齊昭公は、頗る世上に攘夷の名あって、幕府にても、水戸でも、どこでも、みな攘夷家と称せり。余偶然、公に問う。方今外国頻りに渡来せりとても、攘夷は出来ぬことと存じ候。外国交際開ければ、今の世はむつかしきと存じ候旨申し候。烈公実は私も左様に存じおり候ゆえ、鉄砲を鋳造し、舟など朝日丸を造り、往々は外国へ我が舟を遣わし、交易するよう相成るべく候。春嶽殿などは御若年ゆえ、其の景況をもご承知相成るべく候。またそれに就いてご尽力をも成され候がよろしく候。私などは老年に相成り候あいだ、攘夷は私の株ゆえ、終身相止め申さず、そのまま死迄も攘夷家にて相済候心得なりと話されたり。是にて烈公のやはり攘夷家あらざることしるべし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179005/32
当代一の攘夷論者であった水戸斉昭も、本音では攘夷は不可能であることがわかっていたのだが、攘夷論者としての評価が高かったので死ぬまで攘夷の主張を変えなかったというのである。

では、他の攘夷論者はどうであったのか。蜷川氏の解説を引用する。文中の「三條公」「條公」は三條実美公の事である。

三條実美
三條実美

「攘夷の強硬なる主張者である三條公の如きも、必ずしも、攘夷論者でないことは太宰府国幽閉中、五卿に奉仕したる尾崎三良男の談話でも想像し得られる。
『一日、條公に申し上げた。ただこれまでは、一図に攘夷攘夷と言うておりましたが、所詮今日のようなことでは行けますまい。到底彼を知り、己を知り、然るのち交わるなり、無礼をすれば打払うなりしなければならぬ。ただ頭まで外国だから打払うということは宜しくない。また出来もしない。どうせ、此後交わらなくちゃ本統のことは出来まいと思います。交わらぬで彼の事を何も知らないで、交際をすれば、始終彼にしてやられる。此処では外国の事情を知ることが必要であると思いますが、…随分その頃は、攘夷の盛んな時でありますから、そういうことを言うことは、随分忌むのであります。水戸の藩士などは、その頃そんなことを言うたならば、すぐ頭までも破ってしまう。…ところが條公も、イヤ私もそう思っている。今これを公然と言うことは出来ぬから、貴様何か考えがあるならば、貴様の考えでやって見れ。それならば今幸い間隙でありますから、長崎に行ってきましょう。長崎へ行ったところが、何ほども事情は分かりますまいが、先ず長崎へ行き、多少西洋人と交際をしてみたならば、他日廟議の為になることは、随分あろうと思いますから、暫く御暇を願いたい。そんなら行ってこいということで、私は長崎へ行きました。昔の人は、みな攘夷攘夷と思っていたところが、三條公に於いては、その頃は最早開国でなくてはいけないということは、十分に覚して居られた。』」(吏話速記録第七十七輯)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179005/32
と、三條公も攘夷は不可能であり、これからは開国を考えるべきとの認識があったようなのだ。また、最も頑強な攘夷論者と伝えられている澤 宣嘉(さわ のぶよし)卿も、同様の考えであったという。

維新前後の政争と小栗上野 続

ならば、なぜ攘夷論者たちは、実行が不可能であることを認識していながら、攘夷論を唱え続けたのだろうか。
この問題について、蜷川氏はこう結論付けている。
要するに、行われざるを知って、幕府に攘夷を迫ったのは、攘夷を倒幕の手段に用いたるものにして、攘夷即倒幕を意味していると解して差し支えない。

 もちろん、草莽の軽輩に至っては、純正なる攘夷論をふりかざして、驀地に攘夷を断行せんと意図したるものありといえども、それさえ、多少の討幕的政略が含まれていると見ねばなるまい。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179005/33

このように蜷川氏は、実行できないことを分かっていながら繰り返し幕府に攘夷を要求することで幕府を衰退させ倒幕に導くという戦略であったとし、『討薩檄』を書いた雲井龍雄と結論はほぼ同じなのである。

西郷隆盛
西郷隆盛

薩摩藩士であった有馬藤太の回顧談をまとめた『維新史の片鱗』という書物には、慶応3年に藤太が攘夷について西郷隆盛に質問する場面があり、西郷が攘夷の目的について明確に述べているところを引用したい。

「それから西郷先生の所へ行って、攘夷の件について教えを請うと、
『ア、お前にはまだ言わなかったかね、モー言って置いた積りヂャッタが、アリャ手段というモンヂャ。尊王攘夷と言うのはネ、ただ幕府を仆(たお)す口実よ。攘夷攘夷と言うて他の者の士気を鼓舞するばかりヂャ。つまり、尊王の二字の中に討幕の精神が含まれている訳ヂや』

と言われたので、ここに初めて多年の迷夢が醒めて、攘夷と言うことは、為(せ)ぬものということが分かった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964354/29

しかしながら、それまで攘夷論を振りかざしていた連中が徳川幕府を倒して政権を掌握すると、今度は「攘夷」を引っ込めざるを得なくなってしまう。蜷川氏は明治新政府の豹変ぶりをこう解説している。

「薩、長、土、肥、越、芸の六藩主は、朝廷に建白し、外国使臣を朝廷に出入りせしむるの要を唱えた。政治家に一貫の主義などある筈なしといった風であった。政治家は果たして、左様な軽率なものでしかるべきであろうか。今日の国民は之を如何に観るや。
 政府は明治二年二月一七日を以て、『先般外国御交際の儀、叡慮の旨仰せ出され候については、万国普遍の次第を以て、各国公使等御取扱いなされ仕り候。中略。各国公使急に参朝仰せ付けなされ候につき、此の段相達すべく仰せ出され候こと。』と全国に布告した。
 日本と外国との交際は、旧幕府の為せる通りに、引き続き行われることとなったのである。二月二十八日京都に於いて、英仏蘭三国の公司は、天皇に拝謁することになった。江戸城中に外人を入れたりしがために、攘夷党の憤激せし事は、いつ早く全く忘れ去られた。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179005/34

村山富市
【村山富市】

出来もしないことを主張し要求し続けることによって現政権の弱体化をはかる手法は、今までわが国で良く用いられてきた経緯にあるが、このようなやり方でもし政権が転がり込んできたとしても、これまで自らが主張していたことが何も実行できないことを白日のもとに曝け出すことになるだけだ。
平成6年(1994)に日本社会党の党首・村山富市氏が首相に指名されその所信表明演説で、それまでの日本社会党の政策をかなぐり捨てて、「自衛隊合憲」、「日米安保堅持」と明言し、「日米安全保障条約体制を堅持」すると発言して世間を驚かせ、翌年の参院選挙で同党の議席を大幅に減らしたことは記憶に新しい。

現実を直視せずに党利党略で不毛な議論を繰り返すような薄っぺらな政党に、国民の支持が広がる時代はもう来てほしくないと思うのは私ばかりではないだろう。国権の最高機関である国会で、国家・国民のために、国内外の諸問題について真摯で建設的な議論がなされる日が、一日も早く来ることを祈りたい。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

長州藩が攘夷の方針を改めた経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-482.html

薩摩藩・長州藩の討幕活動に深く関わったグラバー商会のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-483.html

なぜ資力の乏しい長州藩が、グラバーから最新鋭の武器を大量に入手できたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-486.html

江戸幕末におけるイギリスの対日政策と第二次長州征伐
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-487.html

薩長を支援したイギリスに対抗して江戸幕府に接近したフランス
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-488.html

フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-489.html

大政奉還のあと討幕派はいかにして王政復古に持ち込んだのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-490.html






関連記事

戊辰戦争で官軍は東北地方で乱暴狼藉を繰り返した

前回の記事で戊辰戦争の奥羽列藩同盟の全軍の士気を鼓舞するために、米沢藩士の雲井龍雄が起草した『討薩檄』の冒頭部分を紹介した。この檄文はやや長文だが、明治維新を推進したメンバーがどんな連中であったかが、新政府に敵対する立場から述べられていて興味深い。
もちろん内容に誇張もあるだろうが、この檄文に賛同して多くの武士たちが命がけで官軍と戦ったことを考えると、かなりの真実がこの檄文に織り込まれていると考えるほうが自然だと思う。
今回は雲井龍雄の書いた文章の内容を少し詳しく紹介したい。

雲井龍雄

檄文の冒頭部分は前回の記事で書いたとおり「彼らが攘夷を主張したのはただ幕府を傾けて政権を奪う野望であったことを知るべきだ」という内容で、原文は前回の記事で引用したので省略させて頂いてその続きから読んでいこう。
原文とその大意は前回紹介したWikipediaの記事に出ているが、文中の「大意」の部分は僭越ながら筆者が若干の修正を加えている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E8%96%A9%E6%AA%84

「皇朝、陵夷(りょうい)極まると雖も、其の制度典章、斐然(ひぜん)として是れ備はる。古今の沿革ありと雖も、其損益する処知るべきなり。然るを、薩賊専権以来、漫(そぞろ)に大活眼、大活法と号して、列聖の徽猷嘉謀を任意廃絶し、朝変夕革、遂に皇国の制度文章をして、蕩然地を掃ふに至らしむ。其の罪、何ぞ問わざるを得んや。
薩賊、擅(ほしいまま)に摂家華族を擯斥し、皇子公卿を奴僕視し、猥(みだ)りに諸州群不逞の徒、己れに阿附する者を抜いて、是をして青を紆ひ、紫を施かしむ。綱紀錯乱、下凌ぎ上替る、今日より甚しきは無し。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。」

【大意】
我が国には海外勢力による国防の危機があると言っても、わが国には固有の制度があり、それらが機能してきたことを知るべきである。しかるに、薩摩が権力を握ってからは急激で無理な変革を推し進め、長い歴史の中で培われてきた制度や慣習を破壊してしまった。この罪をどうして問わずにおれよう。
薩摩は、公家や皇族を捨て去り、自分の意に沿わぬものは排斥し、諸藩の不逞の輩が、自分たちにつき従うものばかりを出世させて取り立て、下克上の綱紀紊乱の世を招いている。その罪を問わずにはいられない。

「公家や皇族を捨て去り」という部分は分かりにくいが、孝明天皇・明治天皇の摂政であった親幕派公卿の二条斉敬(にじょうなりゆき)や、親幕派の賀屋宮朝彦親王らが王政復古時に朝廷から排除されたことを指していると思われる。

鳥羽伏見の戦い
【鳥羽伏見の戦い】

次に雲井龍雄は鳥羽伏見の戦いの官軍の戦いぶりについてこう述べている。
「伏水(鳥羽・伏見の戦い)の事、元暗昧、私闘と公戦と、孰(いず)れが直、孰れが曲とを弁ず可らず、苟も王の師を興さんと欲せば、須らく天下と共に其の公論を定め、罪案已に決して、然る後徐(おもむろ)に之を討つべし。然るを、倉卒の際、俄に錦旗を動かし、遂に幕府を朝敵に陥れ、列藩を劫迫して、征東の兵を調発す。是れ、王命を矯めて私怨を報ずる所以の姦謀なり。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。
 薩賊の兵、東下以来、過ぐる所の地、侵掠せざることなく、見る所の財、剽竊せざることなく、或は人の鶏牛を攘(ぬす)み、或は人の婦女に淫し、発掘殺戮、残酷極まる。其の醜穢、狗鼠も其の余を食わず、猶且つ、靦然として官軍の名号を仮り、太政官の規則と称す。是れ、今上陛下をして桀紂の名を負はしむる也。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。」

【大意】
鳥羽・伏見の戦いも、もし本当に正当な戦争を起こそうとするならば、天下の公論を定めて、罪を明らかにしてから征討軍を起こすべきなのに、急に錦の御旗を利用して策謀によって幕府を朝敵に陥れて戦争を起こし、諸藩を脅迫してさらなる戊辰戦争に駆り立てている。これは、天皇の意思を自分勝手にコントロールして私怨を報いようとしている邪な謀略だ。その罪を問わなくてはならない。
薩摩の軍隊は、東日本に侵攻して以来、進軍した先々で略奪や強姦をほしいままにし、残虐行為は限りない。しかるに、官軍を名乗って、それを太政官の規則と称している。これは、今の天皇に暴君の汚名を負わせるものだ。その罪を問わなくてはならない。

引用部分の後半で、雲井龍雄官軍の乱暴狼藉が甚だしかったことを指摘しているのだが、この点について他にどのような記録が残されているであろうか。

戊辰戦争 裏切りの明治維新

星亮一氏の『戊辰戦争 裏切りの明治維新』(静山社文庫)に、『相馬市史』に解説されている『吉田屋覚日記』が紹介されている。この日記は相馬の御用商人・吉田屋鈴木庄右衛門の手代が記録したものだという。

「8月14日
官軍側の分捕品は、武器弾薬米穀並びに主だった家財や金蔵、土蔵などは太政官に、武器や家財は各藩に、小物や家財など見当たり次第、金銭衣類や家具などは中間小者、人足のものになる。もっとも後で持主から願い出れば、元値百両位の品は二十両位で買い戻される。」(『戊辰戦争 裏切りの明治維新』p.144)
分かりやすく言えば、彼らは分捕り品を販売して収入を得ていたわけで、官軍とは名ばかりで夜盗の集団のようなものであった。

星亮一
【星亮一】

星氏はさらにこう解説しておられる。
「官軍に徴発された馬は、雨覆いもなく野外につながれたままだったので、数十疋も死んだ。また馬の飼料として、近在の青豆や野菜を採ったので、野菜が一切なくなるなど、農民は断腸の思いだった。
 酒屋の従業員は皆、官軍の炊き出しに使われ、酒造りができなくなった。
 治安の悪化もおびただしいものがあり、強盗事件が頻発した。討ち取った死体から服をはぎ、肉を割くような残酷な振る舞いもあった。
 女性も徴発され、給仕役に後家が召し出された。
 これは単なる給仕ではなく、指揮官クラスの夜伽の相手であった。一般兵のために小高村、浪江村、鹿島村などの宿には遊女を置くことが求められた

 病院の看護人にも大勢の女性が動員された。
 相馬藩はじっと耐えた。」(同上書 p.145)

仙台戊辰史

ネットで古い記録が残されていそうな本を探していると明治44年刊の『仙台戊辰史』という本が見つかった。仙台藩は、新政府から会津藩に対する追討軍への参加を命じられていたのだが、藩では次第に会津藩・庄内藩と協調して新政府と敵対すべきだとの意見が多数となっていく。なぜ、仙台藩で錦の御旗の官軍と戦おうという意見が広がっていったのか。

官軍の奥州鎮撫使九條道孝総督の目付であった戸田主水という人物が、慶応4年(1868)4月25日に九条総督に宛てて建策した文書の一部を引用する。文中で戸田は鎮撫使参謀の大山綱良(薩摩藩)と世良修蔵(長州藩)を強く批難しているが、戸田は建策したのちに姿を消したという。

世良修蔵
【世良修蔵】

「…人民を鎮め撫つるは殿下の御職掌にして、みだりに兵威を以て人民を圧服し給うの謂いにあらざるや明らかなり。…殿下御東下以来大山・世良両参謀の為すところを観察するに、殿下の為に痛嘆せずばあるべからざるものあり。請う、これを陳せん。寒風澤御着港の即日、東名浜にて大山参謀は江戸の商某の商船及び貨物をも敵地のものなりとして掠奪し、号して分捕りという。…世人は視て鎮撫使の為すところとなし之を疾(やまし)みて官賊と称するに至る。殿下奥羽の地を踏む一歩面してこの如し。これ奥羽の人望を失うの基を開く一なり。
薩長の兵士本営門外に乱暴実に驚くべき者あり。あるいは路傍に臣士を侮辱し、あるいは市井に商賈を嚇怒し、あるいは山野に婦女を強姦し、あるいは仙台誹謗の歌謡聞くに忍びざることを白昼大道に高吟するの類、両参謀知りて而して措て問わず。士民の怨みいつこにか帰す。これ殿下の人望を失うの二なり。
したがって討会*出兵の遷延するも両参謀本営において人中に大藩の君公老臣を嘲笑するの類、その臣子たるもの誰が心に快とせんや。これ殿下の人望を失うの三なり。

世良参謀討会出陣と号し、常に福島辺の妓楼にあり。昼夜昏旦を分かたず杯盤狼藉。傍を人無きごとく大藩の重臣隊長を駆使する。奴僕の如く討会督促の急なる矢の如し。…」
*討会:会津藩追討のこと
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/217

戸田主水という人物は仙台藩とつながっていたという説もあり、記されていることの真偽の判断は読者にお任せするが、ほかにも同様な記録が残されていることからすると、雲井龍雄の『討薩檄』に書かれているような官軍による乱暴狼藉がひどかったことは、ある程度は真実であったと理解してよいだろう。
多くの住民が殺され、富を奪われ、女性の多くが強姦される被害が東北各地で続発し、官軍と言ってもやっていることは中世の山賊集団と同様で、東北諸藩の武士たちはこのことを黙って見過ごす訳にはいかず、命がけで官軍と戦うことを決意したのだと考える。

討薩檄
討薩檄

雲井龍雄の『討薩檄』に話を戻そう。続いてこう記されている。
「井伊・藤堂・榊原・本多等は、徳川氏の勲臣なり。臣をして其の君を伐たしむ。尾張・越前は徳川の親族なり。族をして其の宗を伐たしむ。因州は前内府の兄なり。兄をして其の弟を伐しむ。備前は前内府の弟なり。弟をして其の兄を伐しむ。小笠原佐波守は壱岐守の父なり、父をして其の子を伐しむ。猶且つ、強いて名義を飾りて日く、普天の下、王土に非ざる莫く、率土の浜、王臣に非ざる莫しと。嗚呼、薩賊。五倫を滅し、三綱を破り*、今上陛下の初政をして、保平(保元の乱・平治の乱)の板蕩を超へしむ。其の罪、何ぞ問わざるを得んや。」
*三綱五倫:三綱とは. 臣下の王に対する忠; 子の親に対する孝; 妻の夫に対する烈. 五倫とは. 父子有親(孝行); 君臣友義(忠誠); 夫婦有別(男女の役割); 長幼有序(上下の秩序); 朋友有信(信義)

【大意】
徳川の勲臣を臣下に討たせたり、徳川の親族に宗家を討たせたり、諸藩の親子兄弟を討たせたりしている。そのことを、飾り立てた言葉で正当化しているけれど、こういうことは人道に反することであり、今上陛下の統治に傷をつけることになる。その罪を問わなくてはならない。

そう記して、最後に雲井龍雄はこう結んでいる。

「右の諸件に因って之を観れば、薩賊の為す所、幼帝を刧制して其の邪を済(な)し、以て天下を欺くは莽・操・卓・懿(王莽や曹操や董卓や司馬懿)に勝り、貪残厭くこと無し。至る所残暴を極むるは、黄巾・赤眉に過ぎ、天倫を破壊し旧章を滅絶するは、秦政・宋偃を超ゆ。我が列藩の之を坐視するに忍びず、再三再四京師に上奏して、万民愁苦、列藩誣冤せらるるの状を曲陳すと雖も、雲霧擁蔽、遂に天闕に達するに由なし。若し、唾手以て之を誅鋤せずんば、天下何に因ってか、再び青天白日を見ることを得んや。
是(ここ)に於て、敢て成敗利鈍を問わず、奮って此の義挙を唱ふ。凡そ、四方の諸藩、貫日の忠、回天の誠を同じうする者あらば、庶幾(こひねがはく)は、我が列藩の逮(およ)ばざるを助け、皇国の為に共に誓って此の賊を屠り、以て既に滅するの五倫を興し、既に歝(やぶ)るるの三綱を振ひ、上は汚朝を一洗し、下は頽俗を一新し、内は百姓の塗炭を救ひ、外は万国の笑侮を絶ち、以て列聖在天の霊を慰め奉るべし、若し尚、賊の篭絡中にありて、名分大義を弁ずる能わず、或は首鼠の両端を抱き、或は助姦党邪の徒あるに於ては、軍に定律あり、敢て赦さず、凡そ天下の諸藩、庶幾(こひねがはく)は、勇断する所を知るべし。」

【大意】
上記のことから考えれば、薩摩のなすところは、幼い天皇を利用強制して邪悪な政治をし、天下を欺き、残虐をなし、道徳を破壊し、長い伝統や制度を破壊している。奥羽列藩同盟はこれを座視するに耐えないので、再三朝廷にその不当を訴えてきたが、天皇にはその旨は届かなかった。もし、手をこまねいて薩摩を討たなければ、天下はどうして再び晴れることがあろうか。
よって、勝ち負けや利害を問わずに、この義挙を主張する。天下の諸藩は、もし本当に忠や誠を持っているならば、奥羽列藩同盟に協力して、日本のために薩摩を倒し、失われた道義を復活させ、万民を塗炭から救い、外国からの侮りを絶ち、先祖たちの心を安んじて欲しい。もし、薩摩に篭絡されて、何が正義かも弁えず、薩摩を助けるような邪悪な徒がいるならば、軍も規律があり、許すわけにはいかない。天下の諸藩は、勇気ある決断をして欲しい。

以上が『討薩檄』の内容なのだが、この檄文の存在や戊辰戦争で官軍が乱暴狼藉を働いた記録が残されていることを知ったのはつい最近の事である。
教科書では戊辰戦争について江戸開城後、「一部の旧幕臣や会津藩はなおも抵抗し、東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成して会津藩をたすけたが、つぎつぎに新政府軍に敗れ、同年9月、はげしい戦闘のすえ、会津藩も降伏した」(『もういちど読む山川の日本史』p.217)と、キレイごとが書かれているだけだ。

最近になってようやく薩長史観とは異なる視点で描かれた歴史書が出版されるようになってはきたが、明治維新からもう150年も経つというのに、教科書やマスコミなどの明治史の解説では未だに薩長本位で、これでは東北出身の方は納得できないだろう。

維新雑史考

そんなことを考えながら面白そうな本を探していると、昭和9年に出版された高梨光司著『維新雑史考』に、戊辰戦争に関する薩長本位の歴史叙述に苦言を呈しておられる文章が見つかった。高梨氏は官軍による乱暴狼藉の事例を紹介したのちに、こう記されている。

然るに従来の薩長本位の戊辰戦記には、これらの事に関し、何ら記せざるのみならず、東北人の手になるものと雖も、概ねこれに触れるを避けたかの観がある。或いは他に憚るところあって、かくせりやとも思わるるが、歴史的事実は飽くまでその真相を伝うべきであり、その結果が当年の官軍なるものの不名誉に帰するも、致し方あるまい。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1232273/82

この本は明治維新から66年後に刊行されているのだが、それから84年経った今も大半の歴史書が薩長史観で叙述されているのは、戦後の日本史学者の怠慢であると言うしかないだろう。
いつの時代もどこの国でも、勝者は「歴史」の叙述の中で自らの支配の正当性をアピールすることによって、政権の長期安定をはかろうとするものであり、勝者にとって都合の良い歴史を広く伝えようとするのは当たり前のことなのである。

勝者が編纂した歴史や記録に偏らず、さまざまな立場の人々が書き残した記録を読み比べながら、本当は何があったのかを考察することが重要だと思うのだが、教科書などのわが国幕末から明治までの歴史が全面的に書き換えられる日は来るのか。

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王政復古の大号令の出た直後に京都が戦火に巻き込まれてもおかしくなかった
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武力解決派の挑発に乗ってしまった徳川幕府
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洋服に陣羽織入り乱れる鳥羽伏見の戦い
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江戸無血開城の真相を追う
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イギリスとフランスにとっての戊辰戦争
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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