HOME   »  鳥羽伏見の戦い
Tag | 鳥羽伏見の戦い

全焼したはずの坂本龍馬ゆかりの宿「寺田屋」~~平成の「寺田屋騒動」

9月5日の「龍馬伝」は第36回「寺田屋騒動」だった。
京都に生まれ育ったものの、寺田屋は遠かったので行ったことがなかった。こういう番組を見てしまうと急に行きたくなって、たまたま10日が振替休日だったので、平日の方が観光客が少ないかと考えて出かけてきたが、朝10時のオープンを待つ人が随分大勢並んでいたのに驚いた。観光バスのツアーで来ておられる人も少なからずいたようだ。

開館前の寺田屋

中に入ると龍馬やお龍、お登勢の写真から、幕末の志士の写真や手紙等のコピーなどが所狭しと飾られている。
寺田屋内部

いつ誰が付けたかよくわからないが刀痕のある柱もあり、お龍が龍馬に裸で追っ手を知らせた時に登ったという階段や、昔の風呂桶なども残されている。
寺田屋風呂

多くの観光客は、龍馬のいた時代のままで残されているものと錯覚してしまう。

展示物の中にはいくつか新聞の切り抜きの様なものがあり、その中に京都新聞の『「幕末の寺田屋」焼失確認』という記事のコピーが目に止まった。この記事を読むと、どうやら寺田屋は2年前に京都市から展示内容が見学者に誤解を与えないようにとの指導を受けていたようなのだ。幕末の寺田屋が焼失したのが事実ならば、刀痕や風呂桶は一体何なのだ。

こういうことを調べることは大好きなので、早速自宅に戻ってからいろいろパソコンで調べてみた。

当時の新聞記事検索はリンクが切れてしまっているが、Wikipediaでは産経新聞の当時の記事が、Web魚拓で紹介されていた。
http://megalodon.jp/2008-0925-2222-53/sankei.jp.msn.com/life/trend/080925/trd0809252043008-n1.htm   

京都新聞の記事を探したが2年前の記事は見つからず、社会部の佐藤知幸記者の「取材ノート」というコラムは、リンクが切れておらず誰でも読む事が出来る。
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/rensai/syuzainote/2009/090519.html
ここでは佐藤記者は寺田屋の営業行為を「歴史に対する裏切り」とまで書いている。

京都市は、寺田屋は慶応4年の鳥羽伏見の戦いで焼失してしまったと結論し、寺田屋は「今も一部が焼失しただけ」と考えて今まで通り営業活動を続けるが、市の見解も伝えるように努力するとのスタンスだそうだ。館内に京都新聞の記事を展示したのは、京都市の見解を見学者に伝えなければならないので、こっそりと貼り出したものだろう。

寺田屋は全焼したのか、あるいは一部焼失だったのか、ここがポイントである。

この問題に最初に火をつけたのは「週刊ポスト」2008年9月1日号だそうで、この雑誌には寺田屋は鳥羽伏見の戦いで全焼したと書かれていたらしい。
その記事の取材を受けた京都市産業観光局観光部観光企画課は、週刊ポスト誌に対し調査を約束し、京都市歴史資料館にその調査を依頼したところ「寺田屋は鳥羽伏見戦で焼失した」ことが史実であるということとなり、それを各報道機関に配布したことが当時の新聞で採り上げられて、先程紹介した産経新聞の記事はその一例である。

では、寺田屋が全焼したという根拠はどこにあるのか。
この点については、なかさんのサイトに非常に詳しく書かれている。
http://yoppa.blog2.fc2.com/blog-entry-546.html

詳しくは、上記のサイトに根拠となる史料まで添付されているので興味のある方は確認していただきたいが、一部を紹介すると
① 鳥羽伏見の戦いで焼けた地域の瓦版が京都市歴史資料館に残されていて、3つの史料から寺田屋のあたりは焼失地域であることが確認できること。(紹介したサイトで画像が確認できます。)
② 現在の寺田屋の東隣にある空き地に明治27年(1894)に建立された「薩藩九烈士遺跡表」という碑が立っている。
この碑文の文言の中に、「寺田屋遺址」という言葉があり、寺田屋のあったこの場所に碑を建てたという趣旨が書かれていること。

寺田屋騒動記念碑

③ 昭和4年の「伏見町誌」に「寺田屋遺址 字南濱に在り,現在の建物の東隣を遺址とす」と書かれていること。
④ 西村天囚という漢学者が明治29年に寺田屋を訪問し、「紀行八種」という本の中で、「寺田屋は,伏見の兵火に焚けしかば,家の跡を取拂ひて,近き比此に銅碑を建てゝ,寺田屋は其西に建てけり」と書いていること。
あたりを読めば納得していただけるのではないだろうか。
以上を総合すれば、今の寺田屋は明治になって建て替えられ、幕末の寺田屋はその東隣の土地だったということになる。

Wikipediaによると、現在の寺田屋の建物の登記は明治38年(1905)だそうだし、湯殿のある部分は明治41年(1908)だそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%B1%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6

また、大正年間に、現在の寺田屋の土地建物は幕末当時の寺田家のものではなくなったらしく、昭和30年代に「第14代寺田屋伊助」を自称する人物が営業を始めたとも書いてある。その人物とは幕末の寺田家とは関係がない人物というのだ。

寺田屋のパンフレットでは、「当時の状況を、第14代寺田屋伊助の考証により復元したものである」として宿の1階と2階の間取りが立体的に描かれており、この部屋は龍馬が襲われた部屋だの、この階段は龍馬に知らせようとお龍が裸のまま駆けあがった階段だのと説明書きがいくつもされている。

寺田屋パンフ

このパンフレットであれば、「今の建物の説明をしているのではなく、当時の建物はこうだったとして書いています」という言いわけが出来てしまうだろう。こう書けば、京都市の指導をうまく逃れることができるとでも考えたのであろうか。

そもそも、「考証」したという人物が「第14代寺田屋伊助」である。この人物をネットで調べると、昭和37~38年頃にこの古い建物を買取って旅館経営に乗り出し、本名は「安達清」といい、元は警察官で幕末の寺田屋の寺田家とは何の縁もゆかりもないようだ。7年前に亡くなられたそうだが、そんな人物が「考証」したとする図面をそのまま信じていいのだろうか。現在の寺田屋に近い図面をパンフレットに載せただけなのではないだろうか。

司馬遼太郎が産経新聞に「竜馬が行く」の連載を始めたのが昭和37年6月だが、その時期にこの人物は旅館業を始め、当時の龍馬ブームに乗っかって営業を軌道に乗せたのだろう。 なによりも腹立たしいのは、幕末の寺田屋が焼失したこととこの建物が明治になって改築されたものであることを一言も説明せず、入口にもパンフレットにも堂々と「史跡」と書いていることである。

観光客は本物を求めている。そのために時間をかけ、お金を使って見学に来ている。どれが本物か、どれがレプリカであるかがせめてわかるように展示してほしい。旅行業者も旅行に関する書籍の出版社も、本物かどうかは見極めたうえでキチンと書くべきである。言いたいことは、ただそれだけである。
寺田屋の今の営業のやりかたは見学者を欺くものであり、「観光地偽装」と言われても仕方がない。模造品のコレクションとはいえ、それなりに珍しいものが展示されているのだから、誤解されるような展示手法はやめていただきたい。

寺田屋だけではないと思うのだが、歴史ブームに乗っかって、歴史の事実を曲げてまで、利益のためなら何でもやるような商売のやり方がまかり通らないようにしてほしいものだと思う。
***************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加




関連記事

洋服に陣羽織入り乱れる鳥羽伏見の戦い

前回の記事で、江戸の幕府軍が何度も繰り返される薩摩の挑発に乗って、薩摩藩邸を攻撃し焼打ちしたとの報告が大坂城に届き、城内の将士たちに薩摩討つべしとの声が高まって抑えることができなくなり、ついに慶喜も薩摩を討伐することを認めたことを書いた。

慶喜は必ず勝てるとは考えていなかったようだが、城内の将士たちは、江戸で薩摩藩を懲らしめることに成功したのだから、京都でも戦えば幕府軍が勝てると単純に考えたのだろう。
一方、薩摩を中心とする新政府軍は、勝算があったわけではなかったが、士気は極めて高かった。

徳富蘇峰は『近世日本国民史 第66巻』で、こう述べている。
「…数を以てすれば、大阪対京都は、ほとんど十対一である。而して質を以てすれば、大阪側には、フランス教師直伝の伝習兵がある。更に大阪側は、二百六十年の伝統に依りて、既成の惰力を利用すべき便宜がある。彼等が必勝を期したのも、決して無理ではなかった。
 これに反して如何に京都側は、勤皇の正気に燃えるも、多勢に無勢。一挙直ちに大阪側を撃滅すべき見込みは、到底立つべき様もなかった
。此の如く勝算無きに拘らずなお武力解決の初一念を抛(なげう)たなかったのは、畢竟此れにあらざれば、復古の鴻業は到底成立すべからざるを認めたからだ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/141

戊辰戦記絵巻 長州兵
【戊辰戦記絵巻 長州兵】

幕府軍は兵の数では新政府軍を圧倒的に上回っていたものの、会津・桑名その他の諸藩兵や新選組の武器は刀槍を中心とする旧式の軍隊で、銃も保有していたが旧式のゲベール銃が大半であったという。
一方薩摩・長州軍は新型の銃機を大量に保有していた。以前にもブログで書いたが、新型の銃(ミニエー銃など)は、旧式のゲベール銃よりも飛距離、命中精度、破壊力が格段に優っていて極めて殺傷力の強い武器であった

http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-483.html

竹中重固
【竹中重固】

もっとも幕府の歩兵の一部はフランスの訓練を受けた伝習隊で、彼らは最新鋭の銃を装備していたのだが、指揮官の竹中重固*(しげかた)は近代的軍事については無知であったし、大量の最新銃器を持つ薩長軍と戦って勝てる戦術を練っていたわけでもなかったのである
*竹中重固(しげかた):戦国時代の軍師竹中半兵衛の子孫。陸軍奉行

このような幕府軍の甘さに危機感を持つ兵士もいたようだ。
徳富蘇峰の同上書に桑名藩士・中村武雄の手記が引用されているので紹介したい。
「(慶喜)親書して薩藩の罪を責め、遽(にわか)に出兵の令を下し給いけり。時に戊辰正月元日なり。嗚呼敵の計る所に陥り、その勝算をも定めず、卒然出兵に決し給いしは、何らの軽忽なることにや。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/185

1月1日、慶喜は朝廷に提出するために「討薩の表」を作っている。
徳富蘇峰の同上書にその内容が紹介されているが、簡単に意訳すると、
「先月9日以来のことは、すべて薩摩の奸臣どもの陰謀であり、各地の騒乱・強盗の類もまた彼らの仕業である。したがってこの奸臣ども引渡しを命じて頂きたい。万一御採用頂けない場合は、止む無く誅戮を加える」
とあり、その文章のあとでこれまでの薩摩藩の罪状が列記されている。

鳥羽伏見方面戦闘図 「鳥羽離宮公園高札」

さらに慶喜は1月3日付で外国公使に対しても、討薩にあたり船の取締りを厳しくする旨の公文を発し、そして会津藩を先鋒とする部隊は鳥羽街道を進み、桑名藩を先鋒とする部隊は伏見街道を進んで、京へ向かっていった

この動きを阻止するために薩・長軍は鳥羽街道と伏見奉行所方面を封鎖していた。
そして3日に鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と幕府軍先鋒との間で小ぜり合いが起こり、街道の通行を求める幕府軍に対し薩摩藩兵は京都から許可が下りるまで待つように返答したのだが、何度か押し問答を繰り返しているうち、午後5時頃薩摩軍は砲撃を開始し、同じ頃に伏見の薩摩兵も戦端を開いて、ついに全面的な戦争となったのである。

幕府軍は再三攻勢を掛けるのだが、薩摩藩兵の優勢な銃撃の前に死傷者を増やしていくばかりであった。奇兵隊の参謀としてこの戦いに参加した長州藩の林半七(友幸)は、伏見の戦いをこう語っている。

鳥羽伏見の戦い 1

「伏見では戦争は市街で始まった。伏見の市街は碁盤の目同様だから、何れから来るも知れぬ。それで長州は南の方へ向かって撃つ。薩摩は横の方から西へ向かって砲撃した。此の如く南は長、西は薩で丁度十文字に撃った。先方の兵隊は騒動するばかりで、怖れて出て来ぬが、士官がヒョイヒョイと進んで来るから、皆に撃たれて斃れてしまう。それが日没頃であった。」
「伏見の戦争は市街戦だ。長兵は馬関戦争で実戦に慣れているから、市民が逃走して空き家になっている家から畳を引き揚げ、道端へ七八枚重ねて横に立てかけて楯となし、それを右側と左側と差い違いに六七間毎にやって、その間から撃ったので、怪我人や死人の数が割合に少ない。畳の上へ頭を出して撃つから眉間をやられた者ばかりだった。その中に向こうの陣屋が焼けだしたから、此方は暗中より向こうを狙撃することが出来た。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/206

午後8時ごろには薩摩藩砲兵が放った砲弾が伏見奉行所の弾薬庫に命中し奉行所が炎上し、周囲の民家にも火が放たれて、新政府軍は炎を照明にして猛烈に銃撃したため幕府軍はこらえきれずに退却を開始し、深夜0時頃には新政府軍は伏見奉行所に突入し、幕府軍は堀川を越えて中書島まで撤退し、竹中重固は部隊を放置したまま淀まで逃げ落ちたという。
幕府軍は狭い街道で縦隊突破を図るばかりで、優勢な兵力を活かすことができなかったのだが、そもそも指揮官が逃亡するような軍が戦に勝てる筈がない。

一方、新政府軍は綿密な計画を立てていたようだ
西郷隆盛が1月3日付けで大久保利通に宛てた書状を読むと、万が一のことを考えて天皇陛下を山陰方面に御遷幸することまで計画していたことが分かる。その書状には、初日の勝利をみて、御遷幸の件を当分の間見合わすことを記している。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/213

仁和寺宮嘉彰親王
【仁和寺宮嘉彰親王(中央)】

そして4日には仁和寺宮嘉彰親王が征東大将軍に任ぜられ、錦の御旗*が授けられている
この旗は岩倉具視と薩摩藩が事前に作成していたものだが、使用に際して前日に朝廷の許可を取っていることは確かなようである。この旗が新政府軍に渡されたことで慶喜は明らかに朝敵とされ、その後幕府軍で裏切りが相次いでいる。
*錦の御旗(にしきのみはた):朝敵討伐の証として、天皇から官軍の大将に与える旗

錦の御旗

5日には伏見方面の幕府軍は淀千両松に布陣して新政府軍を迎撃したが、乱戦の末に敗退し、鳥羽方面の幕府軍も富ノ森を失い、現職の老中であった稲葉正邦の淀藩を頼って淀城に入って戦況の建て直しを図ろうとしたのだが、淀藩は朝廷と戦うことを嫌って幕府軍の入城を拒んだという。

bakumatsu029hs.jpg

6日には幕府軍は石清水八幡宮の鎮座する男山に布陣したが、対岸の大山崎を守備していた津藩が寝返り、津藩から砲撃を受けて幕府軍は総崩れとなり、淀川を下って大坂へと逃れたという。

そして、その夜に徳川慶喜は僅かな側近と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊していた幕府軍艦開陽丸で江戸に退却し、幕府軍は戦闘意欲を失って大坂を放棄してしまう。

このように幕府軍は人数では新政府軍を圧倒していたのだが、わずか4日で惨敗してしまっている。敗因は徳川慶喜に戦意が乏しかったことや、幕府兵の士気が新政府軍よりも劣っていたことも重要なポイントではあるが、最大の敗因はやはり幕府軍の戦術の稚拙さにあったのだと思う。
幕府軍の多くは刀槍を武器とし個人的に武勇を誇る旧式の武士の集まりで、銃を持っている場合も多くが旧式のゲベール銃であった。遠方から高い精度で敵を狙い撃つ新式のミニエー銃を大量に保有する新政府軍に対しては、刀や槍はもちろんのこと、ゲベール銃では勝てないことは以前このブログで書いた第二次長州征伐で証明されていたことなのである。幕府軍は同じ誤りを繰り返してしまった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-487.html

鳥羽伏見の戦い

前述したとおり幕府軍には最新鋭シャスポー銃で武装した幕府伝習隊も加わっていたのだが、その武器の威力を充分に発揮することができなかったのは、旧式の部隊である会津藩、桑名藩の藩兵を幕府軍の先鋒にしたからではなかったか。
会津藩、桑名藩の藩兵は士気も高くよく戦ったとはいえ、刀や槍はもちろんのこと、ゲベール銃では敵に余程接近しなければ相手を倒すことができない。一方新式のミニエー銃ならば遠方から正確に相手を狙い撃つことができる。まともにぶつかれば旧式の部隊では勝てるはずがないのだ。
幕府軍が新政府軍と互角以上に戦うためには、最新鋭の銃を持つ伝習隊を先鋒とし、市街戦で戦う戦術をはじめから立てておかなければならなかったのだが、幕府軍の指揮官はそのような戦い方を知らなかっただけではなく、途中で戦術の変更をする能力もなかった。

戊辰物語

岩波文庫に『戊辰物語』という本がある。この本は東京日日新聞が昭和3年(1928)に明治維新を経験した古老からの聞き書きを連載した記事をまとめたものだが、この本の鳥羽伏見の戦いを読めば、幕府軍の敗因がわかりやすい。

「洋服に陣羽織入り乱れる鳥羽伏見の合戦
 三日から四、五、六と、鳥羽伏見の合戦は幕軍総崩れ。何しろ洋服鉄砲の兵隊へ鎧兜に陣羽織の幕軍が槍をもって向かったのだからいけない。殊に一人一人名乗りを上げる、敵を斬ると一々首をとって腰へ下げる。その首を幾つも腰へぶら下げた勇士がたった一発で胸板を抜かれて死んでいるという有様(戊辰絵巻)、例の新選組の創設者庄内の清河八郎を、文久三年の四月十三日に、芝の赤羽橋で暗殺した京都見廻組頭の剣客佐々木只三郎などもこの一戦でやられた。はじめ鎧に陣羽織で働いたが、鎧などは何の役にも立たぬのを知って、真裸になって進んで、すぐやられた。」(『戊辰物語』p.30)

もし、幕府軍が江戸で薩摩藩の挑発に乗っていなければ、慶喜は幕府・諸藩の今までの体制を維持したまま新政権に参加する話が進んでいて、その中で主導権を取れた可能性が高かったはずだ。
慶喜は薩摩討伐には賛成ではなかったのだが、城内の将士たちがその許可を強く求めて城内が殺気立ち、慶喜の命令に従おうともしないので、腹を立てて彼らに「勝手にせよ」と言ってしまったことが、大失敗となってしまったのである。しかし慶喜も、幕府軍がここまでひどい負け方をすると考えていなかったのではないだろうか。

徳川慶喜
【徳川慶喜】

慶喜は晩年このことをこのように述べている。
「やがて錦旗の出でたるを聞くに及びては益(ますます)驚かせ給い、あわれ朝廷に対して刃向うべき意思は露ばかり持たざりしに、誤りて賊名を負うに至りしこそ悲しけれ。最初たとい家臣の刃に斃るるとも、命の限り会桑を諭して帰国せしめば、事ここに至るまじきを。吾が命令を用いざるが腹立たしさに、如何ようとも勝手にせよと言い放ちしこそ一期の不覚なれと、悔恨の念に堪えず、いたく憂鬱し給う。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139485/76

鳥羽伏見の戦いで敗れたとはいえ、幕府兵の戦死者は280名に程度にすぎず、幕府にはまだまだ充分な武器や兵士が残されていた。
慶喜が江戸城に戻ると、小栗忠順、水野忠徳ら多数の家臣が城内で主戦論を主張しており、中にはフランスの協力を得て新政府軍と戦おうとする者もいた。
非戦論者は大久保忠寛、勝海舟などがいたが、極めて少数であったという。

慶喜が東京でどう動いたかは、次回に記すことにしたい。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

長州藩が攘夷の方針を改めた経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-482.html

薩摩藩・長州藩の討幕活動に深く関わったグラバー商会のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-483.html

なぜ資力の乏しい長州藩が、グラバーから最新鋭の武器を大量に入手できたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-486.html

江戸幕末におけるイギリスの対日政策と第二次長州征伐
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-487.html

薩長を支援したイギリスに対抗して江戸幕府に接近したフランス
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-488.html

このエントリーをはてなブックマークに追加


関連記事

大政奉還したあとの旧幕府勢力に薩長が内乱を仕掛けた理由

前回は石川県の「不平士族」が大久保利通を暗殺したことを書いたが、「不平士族」と言う言葉を用いると、普通は「不平」を持つ側は少数で「悪い」側と受け取られることになる。
歴史叙述というものはいつの時代もどこの国でも、「勝者」に正当性、正統性があると描かれるものであり、対立する勢力は「悪者」にされるか、「抵抗勢力」「不平分子」などとレッテルが貼られるのが常であるのだが、かといって「勝者」側に「正義」があったのかを問うと、必ずしもそうではなかったということが往々にしてある。もし「敗者」側に「正義」があったとしても、「勝者」は歴史叙述の中で「敗者」を悪しざまに描くものなのである。

討幕の密勅

徳川慶喜が朝廷に大政奉還を申し出た慶応3年(1867)10月14日に薩摩藩・長州藩に対して「討幕の密勅」が下されたことを学んだのだが、この密勅をよく読むと「幕府を倒せ」とは一言も書かれていない。ポイントとなる部分は「汝宜しく朕が心を体して賊臣慶喜を殄戮(てんりく=全滅)し、以て速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山嶽の安におくべし、これ朕の願いなり、敢えて懈る(おこたる)ことなかれ」だが、簡単に言えば将軍慶喜を殺してしまえという命令文書である。しかしながら、大政奉還が成就してこれまで権力の中枢にあった「徳川幕府」は存在しないのだから、普通に考えると「討幕」という言葉はありえない。
「徳川家を全滅させよ」というのはつまるところ私闘以外の何物でもなく、しかもこの密勅は正式な手続きを経ていない「偽勅」であったことが今ではわかっているのだ。
この「偽勅」に対して「討幕の密勅」などという言葉を未だに歴史学者が用いるのは、学会という特殊な集団においては「薩長中心史観」が主流であるということの証左なのだろう。

聖徳記念絵画館壁画「王政復古」(島田墨仙画)
【聖徳記念絵画館壁画「王政復古」(島田墨仙画)】

12月9日は岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発し、夕刻に開かれた小御所会議で徳川慶喜に対する『辞官納地』を決定したのだが、慶喜は「ここで戦端を開けば彼らの術中にはまって我らが朝敵とされてしまう」と、血気にはやる家臣達を鎮めることに努め、12日に二条城から大坂城に向かっている。

山内容堂
【山内容堂】

諸侯の大多数は平和解決を望んでおり、12日には土佐藩の山内容堂が朝廷に以下のような意見書を奏上した。
「いまや市中には薩・長・芸と会津・桑名の各藩兵らが対峙し、情勢は緊迫している。このまま日を過ごせば不測の禍乱(からん)が生ずるのは明白である。既に王政一新の基本はほぼ定まったから、すみやかに戒厳を緩め、議事制度を起こし、諸侯に会同を命じて、朝廷の御趣意は公明正大でいささかも偏頗(へんぱ)でないことを宣明せらるべきである。また慶喜が官一等を下り政府の経費を献上すべきは勿論であるが、慶喜にそうさせるのならば、諸侯一同もこれにならうべきである。」(『開国の真実』p.322)
その同日に阿波、筑前、肥後、久留米、盛岡、柳川、二本松、肥前、対馬、新発田の諸藩連名の同様の意見書が二条城に届けられて、薩長は方針転換を余儀なくされることとなった。

開国の真実

幕府方の会津桑名兵を挑発して、旧体制を粉砕するきっかけを得ようとした目論見が外れたのみならず、諸藩からの意見書が出たことで薩摩藩は、次いで江戸市中攪乱により内乱のきっかけを作ろうとした
鈴木荘一氏は『開国の真実』でこう解説している。

相楽総三等は五百人からなる浪士団を組織し、富商・富豪に押し入って金品を強奪する非合法活動を行った。毎夜のように鉄砲をかかえ抜刀した正体不明の無頼の浪人集団が三十人、五十人と徒党を組んで押し入った。日本橋金吹町の公儀御用達播磨屋(はりまや)新右衛門方に押し入った賊は一万八千両の大金を強奪した。浅草蔵前の札差(ふださし)伊勢屋では、大胆にも舟で乗りつけた賊三十余人に襲われ、三万両を奪われる被害に遭った。こうした時節柄、充分な警戒を怠らなかった本郷追分の高崎屋も被害にあった。
 このように毎夜のように富豪の町屋に押し入る正体不明の無頼浪人集団には三つの特徴があった。
第一は『御用金を申し付ける』と言うことである。第二は言葉に薩摩訛(なま)りがあることであった。第三の特徴は金品強奪後に逃げ込む先が薩摩藩江戸藩邸だった
ことである。」(『開国の真実』 p.325-326)

薩摩藩邸焼打ち事件
【薩摩藩邸焼打ち事件】

江戸市中取締りを命じられていた庄内藩主酒井左衛門忠篤は、それまで薩摩藩を刺戟しないよう厳命されていたのだが薩摩藩の非合法活動が一段と活発化し、12月22日には庄内藩屯所が銃撃され、23日未明には江戸城二ノ丸で不審火があり、同夜には庄内藩見廻隊に数十発の銃弾が打ち込まれて、隠忍自重してきた老中淀藩主稲葉正邦もついに堪忍袋の緒が切れ、酒井左衛門忠篤に薩摩藩邸の焼打ちを命じ、12月25日早朝に旧幕府軍は、浪士団の策源地である芝三田の薩摩藩邸を包囲して下手人の身柄を渡すように要求し、薩摩藩邸が拒否すると、狼藉の巣窟である薩摩藩邸を焼打ちしてしまったのである。

大阪にいた慶喜はこの報告を聞いた後も「此の如き有様にては、戦うとも必勝期し難きのみならず、遂には徒に朝敵の汗名を蒙るのみなれば、決して我より戦いを挑むことなかれ」と、当時旧幕臣の大多数が主戦派に傾いていたのを斥け、ともかくも恭順論を貫くことを命じたのである。

教科書などでは戊辰戦争の緒戦の鳥羽伏見の戦いについて「1868年1月、薩摩・長州軍藩兵を中心とする新政府軍と、旧幕臣や会津・桑名藩兵を中心とする旧幕府軍とのあいだに、兇徒の近くで武力衝突が起こった。これに勝利を収めた新政府軍は、徳川慶喜を朝敵として追討し、江戸へ軍をすすめた。」などと開戦責任を曖昧にしているが、当時の記録を読むと、慶喜に上京を命じておいて京に向かう警護の行列に新政府軍が一方的に発砲したのが真相であり、この時旧幕府軍には戦う意思はなかったようなのだ。

維新前後の政争と小栗上野の死

国立国会図書館デジタルコレクションで関連書籍を探していると、『維新前後の政争と小栗上野の死』という本が目にとまった。著者の蜷川新(にながわあらた)氏は法学者・外交官を歴任し、旗本小栗上野介の義理の甥にあたる人物だという。今日ではこのような視点に立った記述が紹介されることはほとんどないのだが、一部を引用させていただく。

岩倉、西郷、大久保等は、慶喜が大兵を擁して、大阪に在るを自己等の為に危険視した。もしも大阪を根拠として、京都にある薩軍に反抗せられたならば、交通路は絶たれ、京都の薩軍は甚だ危うしと心配した。彼らは一大権略家であるが故に、自己の心を以て、徳川方を猜疑したのである。
 岩倉らは流石に智者である。即ち一策を案じ、慶喜に軽騎上京を命じ、会桑*に向かっては、その本国に帰還すべきを命じた。この命は、天皇の大命として伝えられた。
 慶喜としては、この大命に反くを得ない。慶喜の立場は困難に陥った。上京せざれば、反逆者の如くに取扱わるべく、軽率に上京すれば、危険身に迫るべきは当然であった。慶喜を擁護する者より見れば、武士の習いとして、その主と仰げる慶喜を見殺しにするを得ざるは当時の武士的道徳であった。親藩たる会桑は、慶喜を守護して上京すべしということに一決した。これ武士として正しい考慮であった。薩長を討伐するがためではなく、唯だ警護者として随伴するにすぎなかった。岩倉等一味の権略陰謀甚だしきに対しては、これより以外に取るべきの途はなかったであろう。
 慶喜は命により上洛した。慶喜は戦闘隊形を以て、上洛したのでは決してなかった。勿論武士であるが故に、武器は各人何れも携帯して行った。しかるに薩長の兵は、此の上洛者を鳥羽伏見に阻止した。而して付近の高地をあらかじめ占領し、発砲を以て徳川方に挑戦した。これ天人ともに怒らざるを得ない暴状ではないか。彼らは此の機会を利用して、慶喜以下を全滅せしめんと策動したのであろう。」
*会桑:会津藩、桑名藩のこと 
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170288/124

薩摩軍は慶喜の上洛を待ち伏せて大砲を打ち込んだとあるが、その点については会津藩の永岡清治が『旧夢会津白虎隊』でこのように記している。文中の「伏水」というのは京都市伏見区の地名で明治12年に「伏見」の表記に統一されている。

鳥羽伏見の戦い

田中玄清*は正午淀を発し、伏水に向かう。元来この行は従軍とは思わず、警備の心得なり。余等伏水駅端の街路に憩いし時、商賈両三人来たり。桃山の半腹を指さし、此処には大砲一門、彼処には二門と兵児三四百人戎装して備えりと、一々これを説示し且つ言う。伏水奉行所には会兵、肥後橋にも会兵、奉行所の北及び御香宮などには薩長固め大砲を並び塁を積み関門を設け行人は議して而して之を拒否す。竹田街道には土州これを警衛すと告ぐ。尋て雪空となり、夕陽春く頃、西北鳥羽に当たり大砲二発聞こゆるや否や伏水鳥羽共に天地震撼するばかりなり。」
*田中玄清(はるきよ):会津藩家老。幕末の藩主・松平容保に仕えた。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925910/75

戊辰物語

会津藩の記録をそのまま信じるわけにはいかないとも思うのだが、彼らが「警衛の心得」で臨んでいたことは真実だと思われる。
岩波文庫の『戊辰物語』は、明治維新の動乱を経験した古老からの聞書きを編集した「東京日日新聞」の連載記事をまとめた本だが、ここにはこう記されている。

「鳥羽伏見の合戦は幕軍総崩れ。何しろ洋服鉄砲の兵隊へ鎧兜に陣羽織の幕軍が槍をもって向かったのだからいけない。殊に一人ひとり名乗りを上げる、敵を斬ると一々首をとって腰へ下げる。その首を幾つも腰へぶら下げた勇士がたった一発で胸板を抜かれて死んでいるという有様で、…」(『戊辰物語』p.30)

槍や刀で立ち向かうしかないような陣形をとっていたために旧幕府軍は銃撃戦で大敗したわけだが、そのような陣形をとっていたということは、旧幕府軍は薩長軍との戦いにはならないことを前提にしていたということであろう。
大阪にはフランス教師直伝の伝習兵がいて、ミニエー銃などの最新兵器も大量に保有していたのだから、はじめから薩長との戦いを覚悟していたのなら、近代的兵器を活用できる陣形を取るのが自然である。そうしていればこんなに無様な負け方をすることはなかったであろう。

慶喜は戦う意思はなかったのだが、ならば鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争は、何のための戦いであったのか。

西郷隆盛

西郷隆盛は当時「此度の創業幸いに我勝たば、主として統一を図るべし。彼勝たば、徳川氏の中興正になり、天下靡然として一に期せん。皇国の独立は期して待つべし。故を以て、我れ勝つも好し、彼れ勝つも好し。その勝敗の如きは論ぜずして可なり。兎も角も一戦を賭して、日本の統一を図るにあり」と述べたそうだが、大政奉還がなされたにもかかわらず、徳川方と一戦を交えて勝利して、徳川の経済基盤を奪取し薩長が権力を掌握することにこだわっていたようなのである。のちに慶喜は「辞官納地」も許容したので、それでもなお徳川軍を討伐しようとした薩長の意図は、薩長主導で政府を作ることにあったと考えるしかない。

蜷川新
【蜷川 新】

蜷川新氏は『維新前後の政争と小栗上野の死』で挑発をし続けた薩長を非難しているのだが、この文章を読むと、これまで教科書やテレビの解説などで何度も耳にしてきた歴史叙述に随分偏りがあることに誰しも気づかざるを得ない。不平士族の問題もこのような視点から見直すべきなのだと思う。

大政奉還は、既に前年十月を以て成就したのであり、幕府はその時に消滅したのである。『徳川の中興』なぞ断じてあらしむべきものではなかった。然るに西郷は、戦の勝敗にて徳川の中興生じて可也と言明したのである。これ果たして忠誠の言というを得ようか。王政の復古は、既になったのである。進んで為すべきは、各藩何れもその権力を朝廷に奉還すべき一事であった。慶喜は既にこれが範を示したのである。しかるに、他の藩主藩臣に一人としてこの精神なし。島津も毛利もその藩臣も、そのまま藩として引き続き存在し、依然として地方の権力を握り、地方に君主の威を以て存在せんとしたのであった。かくして、天下の統一成ろう筈なし。しからば西郷には『統一』の言のみあって、統一の実を完(まっと)うするの誠意なかりしものと言うべきではないか。統一を欲するならば封建の廃止でなければならなかった。幕府既に亡びたる後において、唯だ一家の徳川氏のみを追窮することが、当時の緊急事業では断じてなかった。伏見鳥羽の戦なぞは国家国民の為に避く可かりしものであり、かかる無益の流血なくして至当の公議を竭(つく)し、諸侯を廃し、王政復古を至誠を以て進行すべきであった。
 もしも徳川方にして、執拗に封建の存続を図り、日本国をして世界の大勢に順応せしむるを阻止する所為もありしとせば、薩長及び公卿らが唯一に武力を以て、徳川方を討滅するは、当然執るべきの処置であった。しかしながら、徳川幕府は国家の為に自ら消滅し去ったのである。幕府方に確にこの正しき行道あり。しかるに、薩長の人々が、幕府亡びしのちの徳川方を圧迫し、故さらに戦乱を起こさしめたるが如きは、何ら是認すべき理由はないのである。…
 自ら権略陰謀これ事とし、王政復古成れる後に於いて、内乱を煽動挑発し、しかる後に、兵力を以てこれを平らげ『王政復古の功労者は我らなり』と宣伝するものありとせば、国民はそれら権謀の徒の弄策を正しからずとして裁判せざるをえないであろう。これ国民的公判である。
 伏見開戦の責任者は、薩長方にある。而して其の初めは私闘であった。それ故にもしも『喧嘩は両成敗なり』というならば、徳川方も薩長方も同じ様に罰せられるべきはずであった。然るに輪王寺宮の御令旨にもある如く、第三日目よりして、錦旗は即妙的に薩長方に掲げられた。而して徳川方の敗北にあらざりしも『形勢不利也』として徳川方はその兵を引き揚ぐるや、この総退却者を以て『逆賊也』と公然宣布せらるるに至った。国民よりしてこの史実を今日において科学的に判断せしむれば、いずれが正、いずれが非なりとなすであろうか。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170288/125

錦の御旗
【錦の御旗】

旧幕府軍には逆賊となる意思もなく、鳥羽伏見の戦いではただ武士の習いとして応戦しただけであったのだが、この戦いが始まった3日後に錦の御旗が掲げられて、旧幕府軍は『逆賊』とのレッテルが貼られてしまった。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉は明治維新後に広まった言葉なのだが、このような言葉が全国で広まったということは、明治維新政府側が卑怯な手段を用いて政権を掌握したことを、明治人の多くが認識していたということではないのか。
教科書などで描かれているわが国の近代史は、明治維新から150年も経ったにもかかわらず、未だに薩長勢力にとって都合よく描かれていると考えるのは私ばかりではないだろう。ここ数年来ようやく明治維新を見直す著作の出版が相次いでいるが、教科書などの江戸幕末から明治初期の叙述が全面的に書き直される日は来るのだろうか。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
いつの時代もどこの国でも、歴史の叙述というものは時の為政者にとって都合の良いように描かれ、都合の悪い史実は伏せられるか事実を歪めて記述される傾向にあります。我々が学んできた近代史は「薩長中心史観」というべきもので、特に明治の初期の歴史は薩長にとって都合の悪い史実はほとんど書かれていません。良かったら覗いてみてください。

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-167.html

廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-365.html

徳川家と共に静岡に移住した士族が記した「士族の商法」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-366.html

徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-367.html

浄土真宗の僧侶や門徒は、明治政府の神仏分離政策に過激に闘った…大濱騒動のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-459.html

明治6年に越前の真宗の僧侶や門徒はなぜ大決起したのか~~越前護法大一揆のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-460.html





関連記事
FC2カウンター
ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。キーワードを含む全てのブログ記事のリストと、記事の最初の文章が表示されます。記事を探す場合は、カテゴリーで記事を追うよりも探しやすいです。
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
最新記事
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
QRコード
QRコード
RSSリンクの表示
タグクラウド

年別アーカイブ一覧
RSS登録er
Kindleストア
旅行・出張






グルメ
よく使っています


旅館・ホテル

ふるさと納税
楽パック 航空券×宿
レンタカー

ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

おきてがみ blogram
ブログランキングならblogram
文字を大きく・小さく
    月間人気記事ランキング
    個別記事への直接アクセス数の今月1日からの合計値です。毎月末にリセットされます。このブログのアクセスのうち6割以上は検索サイト経由、約2割は何らかのリンクを辿って、過去の記事のURLに直接アクセス頂いています。
    51位以降のランキングは、リンク集の「『しばやんの日々』今月の人気ページランキング (上位500)」をクリックしてください。
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログサークル
    ブログサークル
    ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    おすすめ商品
    楽天Kobo電子書籍
    読書
    このブログで採り上げた本のいくつかを紹介します
    三田村武夫の 『戦争と共産主義』復刻版

    同上 電子書籍

    同上 自由選書版

    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史















    人気ページランキング
    集計スタート時期が良くわかりませんが、おそらく2016年の夏ごろから現在までの記事アクセスランキングです。