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坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか ~~ その1

先日友人と飲んでいたら、たまたま坂本龍馬の暗殺に誰が関わったかが話題になった。友人は私の知らない話をいろいろ披露してくれて少し興味を覚えたので、龍馬の暗殺事件についてちょっと調べてみた。

坂本竜馬②

坂本龍馬と中岡慎太郎が京都近江屋の二階で暗殺されたのは慶応三年(1867)11月15日だが、誰が殺したかについては当時から諸説がある。

当初は新撰組が疑われていたが、後に京都見廻組の佐々木只三郎外数名であるとし、龍馬を斬ったのはその中の今井信郎であるというのが今では定説になっている。

佐々木只三郎

上の写真は佐々木只三郎だが、京都見廻組とは幕末期に幕臣により結成された京都治安維持のための組織で、新撰組とともに反幕府勢力を専門に取り締まっていた。

今井信郎

上の写真が今井信郎だが、戊辰戦争を生き抜き箱館戦争で取り調べを受けた今井信郎の明治3年の証言では、自分は見張り役だったと主張し、禁固刑を経て釈放されている。

ところが今井は、明治33年に甲斐新聞の記者・結城礼一郎の取材に応じて、自分が龍馬を斬ったことを詳細に話していることや、大正7年に死去する前に書き残した「家伝」には龍馬の額を真横に払うまでの具体的な経緯が書かれている。また今井はこの事件の件で京都守護職から褒状を貰ったという妻の証言もあるようだ。
今井の供述内容は、次のサイトにかなり詳しく掲載されている。
http://www.ryomadna.net/ryoma-ansatsu/20070907000004.php
では誰が京都見廻組組頭の佐々木只三郎に龍馬の暗殺を命令したのだろうか。このことは今井には知らされていなかったようで、今井証言では「お指図(幕府の重職者からの命令)」があったと語っており、命令したのは京都守護職の会津藩主松平容保か実質的な政策決定者の手代木直右衛門(てしろぎすぐえもん)の可能性が高いと言われている。下の写真は松平容保である。
松平容保

ちなみに手代木直右衛門は京都見廻組組頭の佐々木只三郎の実兄であり、また手代木が死の数日前に語った証言が書かれた「手代木直右衛門傳」には「弟が坂本を殺した。当時坂本は薩長の連合を諮り、土佐の議論を覆して倒幕に一致させたので幕府の嫌忌を買っていた。某諸侯の命を受けて坂本の隠れ家を襲って惨殺した」と書かれているそうだ。

また大正4年に、同じ京都見廻組であった渡辺一郎が死ぬ直前に「懺悔したい。」と言い出し「坂本氏を暗殺したのは自分である。生涯隠し続けようと思っていたが、これを打ち明けて心置きなくこの世を去りたい。」と語ったそうだ。これも、京都見廻組説を補強するものであるが、龍馬を斬ったのは2人ということなのか。

しかし、今井の証言には信憑性がないという人もいる。
土佐出身の谷干城は、龍馬暗殺を聞きつけて真っ先に現場に駆け付けた人物だが、今井の証言を全く信用せず単なる売名行為だとまで語っているそうだ。谷干城は、土佐藩主山内容堂公や龍馬と異なり武力討幕強行派で、京都で薩摩の西郷隆盛や小松帯刀と武力討幕の密約を交わしていた人物である。谷干城の言葉もまた、そのまま信用することはリスクがある。

龍馬暗殺に関する史料や意見を素直に読めば、今井だけではなく京都見廻組の関係者複数の証言があることから、少なくとも実行犯は京都見廻組であることはかなり確度が高いと考えてよいと思う。

そこで次の問題は、龍馬の暗殺が京都見廻組の単独犯行であったかどうかだ。

もともと京都見廻組は寺田屋事件で龍馬が幕吏数人をピストルで殺傷したとして行方を追っていた。記録では京都見廻組は増次郎という人物に龍馬の居場所を探らせていたが、その報告があったという記録がないそうだ。
ならば、龍馬の直接近江屋の二階を目指して京都見廻組が入り込むのはどこか不自然ではないか。誰かが龍馬を裏切って、「才谷」という龍馬の変名と居場所を教えた黒幕がいるのではないかということになる。龍馬が近江屋に居所を移したのは、事件のわずか3日前のことだ。

そこで出てくるのが薩摩藩黒幕説だ。

大政奉還

かって坂本龍馬が同盟を仲介した薩摩・長州の二藩には、大政奉還のその日に倒幕の密勅が出されている。大政奉還後徳川慶喜を新政府に迎えて穏便に軟着陸させようとした龍馬と、大政奉還の後は幕府は求心力を失い武力討幕がやりやすくなったと考えた薩摩藩とはあまりにも方針が違いすぎて、薩摩が今後は龍馬が邪魔になると考えたのではないか。
龍馬の死後2日後に薩長は出兵協定を交わして結束を固め、12月9日の小御所会議で強引に王政復古のクーデターを仕掛けているのだが、このままいけば、新政府の「大功」が龍馬に奪われかねないとの考えが薩摩藩になかったか。

西郷隆盛

また明治に入って西郷隆盛が龍馬暗殺容疑のあった今井信郎の助命運動に乗り出したそうだが、これは不可解である。
さらに薩摩藩は京都見廻組との接点もあった。薩摩と会津は文久三年(1863)に薩会同盟を結んでおり盟友関係にあり、また京都見廻組の佐々木只三郎と懇意な薩摩藩士が何人かいて、居場所を伝えたことは考えられる。
薩摩黒幕説は、証拠は乏しいがなかなか説得力がある。

龍馬暗殺については、紹介した以外にも多数の説があり、何が歴史の真実であるかは正直なところよく分からない。調べれば調べるほどいろんな説が出てきて、正反対の主張する人もいてまとめるのに随分苦労した。

黒幕については、土佐藩、紀州藩など他にも様々な説がある。今回はとても書ききれないので、次回にその他の黒幕説をまとめることとしたい。
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坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか ~~その2

前回は、坂本龍馬暗殺の実行犯が京都見廻組の可能性が高いことと、黒幕がいるとする諸説の中で薩摩藩黒幕説について書いた。今回は別の黒幕説を書こう。

龍馬の出身である土佐藩にも、黒幕とされている人物がいる。良く名前が出てくるのは後藤象二郎だ。

後藤象二郎

大政奉還のアイデアは龍馬のものであることは今では多くの人が知っているが、当時土佐藩参政であった後藤象二郎は、龍馬が発案した策をそのまま受け入れて、藩主山内容堂の承認を得た後、慶応3年10月3日に、徳川慶喜公に進言した。1カ月後に土佐に戻り、山内容堂から破格の賞与を授かり家老格に抜擢されるのだが、当時は大政奉還の発案は後藤によるものと考えられており、龍馬によるものであることを知る人は少数であったらしいのだ。

後藤象二郎説は、龍馬のアイデアのパクリが山内容堂公らに発覚するのを恐れて龍馬を暗殺したという話なのだが、もしそのことが理由ならば、龍馬の発案であることを知る者全員を消さなければ筋が通らない。

一方、政治的な動機や個人的な動機ではなく、経済的動機で龍馬が殺されたと考える説もある。龍馬が暗殺されることによって巨額の富を手にした人物が臭いという考え方である。 この説を述べる前に、「いろは丸」事件の説明が必要だ。

慶応3年4月23日、海援隊が海運業の目的で大洲藩から借り受け、武器や商品などを満載していたとされる「いろは丸」と、紀州藩の軍艦「明光丸」が広島県の鞆の浦近辺で衝突し、龍馬が乗っていた「いろは丸」右舷が大破して沈没した事件があった。下の画像は、今年長崎で見つかった「いろは丸」を描いたとみられる絵である。

いろは丸

龍馬は万国公法を持ち出して紀州藩の過失を追及し、船の代金3万6千両と武器その他の積み荷代金4万8千両あわせて、8万4千両を弁済せよと主張し、政治力を駆使し、世論まで味方につけて勝訴するのだが、最近4回にわたって実施された水中考古学調査では「いろは丸」の積み荷には、龍馬が主張したミニエー銃400丁はなかったらしく、龍馬が偽りの申告で賠償金額をかなり上積みした可能性が高いと考えられている。龍馬はミニエー銃等の銃火器の損失は船の代金と同じの3万6千両もあったと主張していたのだ。次の画像は広島県福山市の鞆の浦にある「いろは丸展示館」である。

いろは丸展示館

紀州藩の岡本覚十郎は「後藤象二郎応接筆記」でこのように書いている。
「…予も、該船に乗り込みしに慥(たしか)に南京砂糖を積み入れありたり。しかるに、彼はこれを打ち消し、絶えて武器、銃砲なりと主張せるなり。」
沈没する前に岡本が目撃したのは「南京砂糖」だったのだが、龍馬が、あくまでも武器と銃砲だったと主張したというのだ。

しかし、船が沈没して証拠がなくなってしまい、紀州側に反証の余地がなくなってしまった。また途中から土佐藩の後藤象二郎も出席し、事件は海援隊と紀州藩の問題から、土佐藩と紀州藩の問題に発展する。紀州藩は交渉打開のため薩摩藩の五代才助に調停を頼んだが、そもそも五代は龍馬とも交流のある人物であり、すべてが龍馬の思うままに進んで6月に8万4千両の賠償金で両藩は一旦合意している。

ところが、紀州藩より賠償減額のための交渉の申し入れがあり、龍馬は海援隊の中島作太郎を派遣し紀州藩士岩崎轍輔との交渉にあたらせている。交渉は10月26日から始まり、10月28日に7万両に減額されて決着している。この時期の年表はこのサイトが詳しい。
http://space.geocities.jp/kamito_ken/Calendar1867.html
この年表では、土佐藩の受取り分の4万両は11月4日から22日までに「土佐商会」が受け取ったとはっきり書かれている。ちなみに龍馬暗殺の日は11月15日とかなり近い。

ネットでは賠償金は龍馬の手にあったと書いている人もいるが、長崎で交渉した中島作太郎が長崎を11月10日に出航し神戸に到着したのは22日で、龍馬に金が渡っていたことは考えにくい話だ。

「土佐商会」とは、土佐藩が慶応2年(1866)に土佐藩の物産を売りさばくと同時に必要物資を買い入れる機関として大阪と長崎に作った藩の商社であり、海援隊士の給与や活動資金を融通する窓口でもあった。慶応3年(1867)6月7日、土佐商会の主任として後藤象二郎から長崎の土佐商会の経営を任されたのが、あの岩崎弥太郎である。

ところで、いろは丸は海援隊が大洲藩から借りた船であった。少なくとも船の代金は大洲藩に支払わなければならないところだ。
「龍馬「伝説」の誕生」(新人物文庫)という本には、「土佐藩から大洲藩への賠償金は、船価(35630両)の一割引きの金額が年賦で支払われることになっていたが、第一回の支払いが実行された記録が、土佐藩にも大洲藩にもない」と書かれている。
ネットで大洲藩が賠償金を受け取ったかを調べたが、受取ったことを大洲藩の正式な書類では確認できないらしく、受取っていない可能性の方が高そうだ。

ではこの7万両はどこにいったのか。まずは土佐商会に預けられたものと考えられるが、この金の行方を疑い、後藤や岩崎が私的流用したと考える人がネットでは随分多い。

龍馬が死んだ後海援隊は求心力を失い分裂。翌明治元年(1868)に海援隊は解散させられ、また長崎の土佐商会も閉鎖され、海援隊の事業と資産は後藤と岩崎に引き継がれ、明治新政府が藩の事業を禁止する前の明治2年10月に、土佐商会は九十九商会と改称して個人事業となり、明治4年の廃藩置県の時に、岩崎弥太郎は九十九商会の経営を引き受け、土佐藩の負債を肩代わりする形で土佐藩所有の船3隻を買い受けたことから、三菱財閥の歴史が始まるのである。

経済犯罪は「誰が得をしたか」という観点から犯人が絞り込まれるのだが、いろは丸事件で一番得をしたのは岩崎や後藤で、二人が龍馬暗殺に関わっていたという説はかなり説得力がある話だ。

岩崎弥太郎

岩崎は龍馬が暗殺される少し前の10月28日から大阪に滞在し、龍馬が暗殺された後の11月22日に長崎に向かっている。岩崎が大阪に来た目的は後藤に会うためだが、長崎での紀州藩といろは丸の賠償金減額交渉に立ち会わずに、後藤と会って何をしていたのか。
岩崎は「岩崎弥太郎日記」を残しているそうだが、龍馬暗殺前後の10/29から11/17までが空白になっていると言う人もいれば、三菱グループが日記のこの部分を公開していないと書いている人もいる。いずれにしてもこの時、彼が大阪や京都で何をしていたかはよく分からない。

そもそも岩崎弥太郎は土佐藩の公金100両を使い込んだ前科がある男だ。渋沢栄一とは違い、もともと志のない男である。後藤も岩崎もいろは丸の交渉には協力したのだから、自分にも取り分があり、龍馬の自由には使わさせないくらいの気持ちはなかったか。あるいは、龍馬がいなければ、この金が自由に使えるという気持ちはなかったか。

先日飲んだ友人は、後藤象二郎や岩崎弥太郎説の可能性が高いと考えていた。
私も、その説の説得力は認めるが、証拠がないのでどの説が正しいかは正直なところ良くわからない。
いろは丸事件で紀州藩側に遺恨を残し、龍馬暗殺は紀州藩が絡んでいるとする説も可能性があるようにも思う。

坂本龍馬像

しかし、この事件について明治政府は本気で犯人が誰かを調べつくしたのだろうか。私にはとてもそうは思えない。

追及できなかった理由があるのではないか。この事件の真相を知るものが明治政府の要人に近いところに何人もいたので、深く追及できなかったのではないかと考えるのは私だけだろうか。
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幕末の孝明天皇暗殺説を追う

前回は坂本龍馬の暗殺について2回に分けて書いたが、この前後の日本史の年表を見ていると、この時期に結構多くの志士が暗殺されている。

幕末英傑録」というホームページにはこの時期に暗殺された人物の名前が列挙されているが、文久2年(1862)から慶応3年(1867)の6年間で判明している志士の暗殺が41名というのは半端な数ではない。しかも遭難地は京都ばかりだ。

http://www.bakusin.com/eiketu/kill.html

もちろんリストの中には慶応3年11月15日に坂本龍馬と中岡慎太郎の名前があるが、その前年の慶応2年(1866)の 12月25日に「?」付きではあるが孝明天皇の名前が書かれているのに驚いた。

孝明天皇の暗殺説はかなり昔に読んだことがあるが、その時は「そんな説もあるんだ」程度であまり深くは考えなかった。 最近になって幕末から明治にかけての歴史に興味を覚え、先程紹介した暗殺された人物のリストに載っているのを見て何かありそうなので、孝明天皇について少し調べてみることにした。

孝明天皇

孝明天皇は天保2年(1831)に生まれ、弘化3年(1846)に父・仁孝天皇の崩御を受けて即位した第121代の天皇で、その次の天皇が明治天皇ということになる。

嘉永6年(1853)のペリー来航以来、孝明天皇は政治への関与を強め、大老井伊直弼が勅許を得ずに諸外国と条約を結ぶことに不快感を示し、文久3年(1863)には攘夷勅命を出して、これを受けて下関戦争や薩英戦争が起こっている。また異母妹の和宮親子内親王を14代征夷大将軍・徳川家茂に降嫁させるなど、公武合体運動を推進し、あくまで幕府の力による鎖国維持を望んだのだが、薩長を中心とする倒幕勢力は天皇を公然と批判するようになっていく。

第二次長州征伐の勅命が下されるも、坂本龍馬が仲介した薩長同盟により薩摩は出兵を拒否。慶応2年(1866)の6月に幕府艦隊の周防大島への砲撃が開始され長州征伐が始まるも、戦いのために上洛した将軍家茂は大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の若さで、大坂城で薨去されてしまう。

第二次長州征伐は9月に徳川幕府の全面敗北に終わるのだが、その後薩長が京都を制圧する前後に孝明天皇までもが36歳で崩御されるのだが、幕府の存在を認めていた天皇の突然の崩御は佐幕派の力をそぎ、勤王倒幕派の復活を招くという幕末史の大きな転換点になった。

徳川家茂

上の肖像画は将軍家茂だが、家茂の死因は典型的な脚気衝心で、ビタミンB1の欠乏により全身がだるくなり急激な心肺機能の停止を引き起こして死に至ったと解説されている。家茂は甘いものに目がなく、そのためにほとんどの歯が虫歯におかされていたことも遺体の発掘調査により確認されており、脚気衝心で亡くなったという説に異を唱える人はいないようだ。

しかし孝明天皇の死亡原因は、死亡直後から疱瘡による病死説と毒殺説が流布していた。

たとえば幕末から明治にかけて日本に滞在し外交官として活躍したアーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫:1960初版)には

アーネスト・サトウ

「噂によれば、天皇陛下は天然痘にかかって死んだという事だが、数年後、その間の消息によく通じているある日本人が私 (アーネスト・サトウ)に確言したところによれば、天皇陛下は毒殺されたのだという。この天皇陛下は、外国人に対していかなる譲歩を行う事にも、断固として反対してきた。そこで、来るべき幕府の崩壊によって、朝廷が否応無しに西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなる事を予見した人々によって、片付けられたというのである。反動的な天皇がいたのでは、恐らく戦争を引き起こすような面倒な事態以外のなにものも、期待する事は出来なかったであろう。」と書かれているらしい。

通史では病死説になっているが、毒殺説とは一体誰が毒を盛ったというのだろうか。

中公新書の「戊辰戦争」(佐々木克)では、
『…近年、当時孝明天皇の主治医であった伊良子光順の残した日記が一部公にされ、光順の子孫である医師伊良子光孝氏によって、孝明天皇の死は、光順日記で見る限り明らかに「急性毒物中毒の症状である」と断定された。やはり毒殺であった。
犯人について伊良子氏はなにも言及していない。しかし、当時の政治情況を考えれば、自然と犯人の姿は浮かびあがってくる。洛北に幽居中ながら、王政復古の実現を熱望して策をめぐらしている岩倉にとって、もっとも邪魔に思える眼の前にふさがっている厚い壁は、…親幕派の頂点孝明天皇その人であったはずである。…岩倉自身は朝廷に近づけなかったが…大久保は…公卿の間にもくい込み、朝廷につながるルートを持っていた。…直接手をくださずとも、孝明天皇暗殺の黒幕が誰であったか、もはや明らかであろう。』
と書かれており、岩倉具視と大久保利通が黒幕だとしている。

岩倉具視

孝明天皇が疱瘡を患ったことは史実ではあるが、「幕末入門」(中村彰彦:中公文庫)に「伊良子光順日記」のポイントが引用されている。
簡単に書くと、16日に天皇の体に発疹があらわれ疱瘡と診断されるのだが、疱瘡は患者が死に至らなければ、発疹が膨れ、発疹に膿が乗った後、膿が引いてかさぶたができて2週間以内で回復するそうである。
孝明天皇の病状は主治医が見立てた予定日のとおりに快方に向かい、24日には「天皇に御元気が出たことにはっきりと気づく。…女官達は静かな立居振舞の中で生色を取戻した」とあり、崩御された25日には「…少し食欲が出られた。御回復と表役所へ申上げてもいいくらいの御症状…」と書かれており、ほとんど平癒していたことになる。

ところが同じ25日、伊良子光順氏がほっとしてからわずか数時間後、天皇の病状は激変するのだ。
「七ツ時(午後4時)頃、御痰喘の御様子」となり天皇は血便を何度も洩らしになられて苦しまれ、その都度御治療申上げたが、夜の10時頃に崩御されたとのことである。

専門書によると死に至るほどの重篤な疱瘡は「出血型疱瘡」といい、激しい頭痛、背痛を伴う高熱ではじまり、発病後数日以内に眼瞼や血尿等を起こして死亡するそうなのだが孝明天皇の病状は明らかにこれと異なる。

疱瘡で法医学者の西丸與一氏はこのような末期症状はヒ素中毒によるものと判断され、伊良子光順氏の曾孫で医者の光孝氏も同じ見解を述べておられる。
「兎も角、天皇は…御回復が決定的になった。この時点で暗殺を図る何者かが、“痘毒失敗”を知って、飽くまで痘瘡による御病死とするために痘瘡の全快前を狙って更に、今度は絶対失敗のない猛毒を混入した、という推理が成り立つ」
「天皇は一日三回薬を服用されたから、二十五日の正午前後の御服用時に混入されたものと見て間違いないだろう」と伊良子光孝氏が書いておられるそうだ。

「痘毒失敗」という言葉は、孝明天皇暗殺犯はまず初めに天皇を「痘毒」に感染させ、それが不成功と知って砒素を盛ったという説から来ているらしい。
当時砒素は「石見銀山」として殺鼠剤に用いられ、容易に入手できたらしいのだ。

しかし誰がその毒を盛ったのか。そこには岩倉具視も大久保利通もいなかったはずだ。
しかしネットでいろいろ調べると、京都御所には岩倉具視の近親者がいたのである。

孝明天皇の側室で岩倉具視の実妹の堀河紀子(もとこ)の可能性が高いとする人が多いが、岩倉具視の孫で当時16歳になっていた具定(ともさだ)も孝明天皇の近侍だったので下手人であった可能性があると書いてあるのもある。

いろいろ調べると、岩倉具視はかなり怪しいとは思うのだが、動かぬ証拠があるわけではない。いつの時代も、またどこの世界においても、正史や通史として書き残された歴史の大半は、勝者にとって都合の悪いものが排除され、都合のよい解釈だけが残されたものなのだと思う。
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坂本龍馬の妻・お龍のその後の生き方

高知市の坂本龍馬記念館に、妻・お龍の若い頃の写真と晩年の写真が拡大されて展示されていた。この写真はネットでも容易に見つけることが出来る。

若き日のお龍

この若い頃の写真は、龍馬の京都での定宿で暗殺現場ともなった「近江屋」の主人(井口新助)のご子孫の家で、昭和54年に見つかった写真を複写したものだそうだ。
ちょっと痩せているが、今でも充分「美人」で通用する女性と思われる。

この写真は、傍らの洋風の椅子、背後の壁などから、明治元年から八年の間に浅草の写真家・内田九一のスタジオで撮影されたものだそうだ。内田九一という人物は幕末から明治にかけての写真家で、史上初の天皇の公式写真を撮ったとして有名な人物だ。

Meiji_Emperor.jpg

上の画像は内田九一が撮った明治天皇の写真だが、この写真は皆さんもどこかで見たことがあるのではないだろうか。

お龍のもう一枚の写真は、白髪混じりの晩年のものだ。
上の写真は、明治37年(1904)の12月に東京二六新聞に掲載されたものである。

晩年のお龍

お龍は明治39年(1906)の1月15日に66歳で亡くなっているのだが、この写真はその1年1か月前のものだ。

晩年の写真は本人のものに間違いがないのだが、若い頃の写真は別人のものだとする説もあり、平成20年(2008)に高知県坂本龍馬記念館が警察庁科学捜査研究所に依頼をした。その結果「同一人物の可能性がある」との結論が出され、その旨の記者発表がなされているが、この件については坂本龍馬記念館のサイトに詳しく書かれている。
http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~ryoma/oryou.htm

しかし、警察庁科学捜査研究所は同一人物との断定をしたわけではない。ただ可能性があることを示唆したに過ぎない。
当時は写真を撮影料金は安価ではなかったので、お龍がこのような場所で写真を撮るようなことは考えられないとか、別の女性であると主張する説も根強くあるようだが、お龍の養女であった西村ふさも同じ写真を所有していたらしいという話もあり、この写真がお龍を写したものであるというのが多数説になっている。

晩年のお龍の写真を今の老人と同様に比較してはいけないのかもしれないが、この写真は65歳にしては晩年のお龍の写真はかなり老けた顔に見える。夫の龍馬が暗殺された後、お龍はどのような人生を送ったのかをちょっと調べてみた。

お龍の生涯についてはネットでいろんな人が書いているが、次のWikipediaの記事は内容も詳しく参考文献の紹介もある。龍馬死後のお龍について、他の記事も参考にしながらまとめてみよう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E5%B4%8E%E9%BE%8D

坂本龍馬が中岡慎太郎とともに暗殺されたのは慶応3年(1867)11月15日だが、その時お龍は亀山社中の活動拠点のあった下関におり、龍馬が亡くなった知らせがお龍に届いたのは12月2日とのことで、お龍はしばらく気丈に振る舞っていたが、法事を済ませ髪を切り落として仏前に供えて号泣したと言われている。

その後お龍は、龍馬と親交のあった三吉慎蔵らの世話になっていたが、明治元年(1868)3月には土佐の坂本龍馬の実家に迎えられるも、義兄の権平夫婦とそりが合わず3ヶ月ほどで立ち去っている。

その後海援隊の菅野覚兵衛と結婚した妹・起美を頼るも、覚兵衛の米国留学が決まったために明治2年(1869)に土佐を離れ、その後は元薩摩藩士の吉井友実や元海援隊士の橋本久太夫の世話になった。一方で龍馬の家督を継いだ坂本直は、訪ねてきたお龍を冷たく追い返したそうだ。

元海援隊士の間ではお龍の評判は悪かったらしく、田中光顕(元陸援隊士で宮内大臣まで出世)の回顧談によると、瑞山会(武市半平太ら土佐殉難者を顕彰する会)の会合で、お龍の処遇が話題になった際に、妹婿の菅野覚兵衛までが、「品行が悪く、意見をしても聞き入れないので面倒は見られない」と拒否したらしい。
お龍は後年、腹の底から親切だったのは西郷と勝そしてお登勢だけだったと語ったそうだ。

明治7年(1874)に旅館の仲居として働いた後、明治8年(1875)に西村松兵衛と再婚して西村ツルとなり、母の貞を引き取り妹の子・松之助を養子として横須賀で生活を始めるのだが、明治24年に母と松之助を相次いで亡くしている。

その後、坂本龍馬の活躍を書いた坂崎紫瀾の『汗血千里駒』がベストセラーになったこともあり、お龍にも取材が来るようになるのだが、明治30年に安岡秀峰という作家が訪ねた時には、お龍は横須賀の狭い貧乏長屋で暮らしていたそうである。

晩年はアルコール依存症状態で、酔っては「私は龍馬の妻だ」と夫の松兵衛に絡んでいたという。

その後、妹・光枝が夫に先立たれてお龍を頼るようになり3人で暮らし始めるが、やがて夫の松兵衛と妹・光枝が内縁関係となり、二人でお龍の元を離れて別居してしまう。

お龍は明治39年1月に横須賀の棟割長屋で亡くなった。死因は脳卒中だったらしい。

お墓は横須賀市大津の信楽寺(しんぎょうじ)にあるが、長く墓碑が建てられず、田中光顕らの援助を受けて、お龍の死の8年後の大正3年(1914)に、妹の中沢光枝が施主、西村松兵衛らが賛助人となり、お龍の墓を建立したという。
お龍の墓

画像でもわかるとおり大きなお墓だが、この墓碑に使われた石は海軍工廠が寄付したドック建設用のものだそうである。

墓碑には夫の西村松兵衛の姓ではなく「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれているのが確認できるが、何故施主が夫ではなく妹なのか。何故8年もたってから墓が建つのか。 結局、夫の西村家の墓にも、龍馬の坂本家の墓にも迎えられず、維新の元勲が資金を出して妹に墓標を作らせたと考えればよいのだろうか。

龍馬を失ってからのお龍の人生は、「自分が龍馬の妻である」ということを支えにして生きようとしたのかもしれないが、そのことが彼女の人生を非常に淋しいものにしたと思われる。
本人自身が周りの人から愛される努力をしなければ、本当の幸せを掴むことはできないのは、いつの時代も同じだと思う。
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お龍は何故坂本家を飛び出したのか、お龍の言い分

前回は龍馬が亡くなってからのお龍の人生を辿ってみた。
お龍が坂本家からも海援隊メンバーからも嫌われていたことから、お龍の人生があのような淋しいものになったのはお龍の性格に問題があったのだとは思うが、お龍自身が坂本家についてどう語っているかも知りたくなった。

ネットで「わが夫坂本龍馬」(一坂太郎著:朝日選書)という本を取り寄せて読んでみた。
この本には、安岡秀峰が晩年のお龍から聴取した回顧談をまとめた「反魂香」や、その後川田瑞穂が聴取して著した「千里駒後日譚」という文章の一部を、読みやすいように一坂太郎氏の解説とともにまとめたものである。

前回も書いたように、お龍は龍馬暗殺の後しばらくは三吉慎蔵らの世話になり、明治元年(1868)3月には土佐の坂本龍馬の実家に迎えられるも、義兄の権平夫婦とそりが合わず3ヶ月ほどで立ち去っている。

SakamotoGonpei.jpg

上の画像は坂本権平だが、私が気になったのはなぜお龍が坂本家を飛び出したのか、坂本権平夫婦に問題はなかったのかという点だ。
お龍の不幸の始まりは、龍馬の死も大きいが坂本家を出て行ったところにもポイントがあるようにも思う。
普通の女性ならば、誰かに養ってもらうしか生きていけない時代だったのだから、少々のことは我慢するのが普通ではなかったか。
坂本家も、お龍が一人でどうやって生きていくのかと心配して、説得して引きとめるべきではなかったのか。 どちらも悪かったのかもしれないが、お龍の言い分はどうなのか。

坂本家を出た点について、お龍は次のように語っている。(「わが夫坂本龍馬」p168)

「ところが私は義兄(権平)および嫂との仲が悪いのです。

なぜかというと、龍馬の兄というのが、家はあまり富豊ではありませんから、内々龍馬へ下る褒賞金をあてにしていたのです。

が、龍馬には子はなし、金は無論私より他に下りませんから、私がいては、あてが外れると言って、殺すわけにもゆきませんから、ただ私の不身持*をするように仕向けていたのです。
*不身持(ふみもち)…異性関係にだらしのない様子

すでに、坂本は死んでしまうし、海援隊は瓦解する。私を養う者はさしずめ兄より他にありませんから、夫婦して苛めてやれば、きっと国を飛び出すに違いない、その時はおりょうは不身持ゆえ、龍馬に代わり兄が離縁すると言えば赤の他人。褒賞金はこの方の物という心で始終喧嘩ばかりしていたのです。

これが普通の女なら、苛められても恋々と国にいるのでしょうが、元来きかぬ気の私ですから、

『なんだ、金が欲しいばかりに、自分を夫婦して苛めやがる。私しゃあ金なぞはいらない。そんな水臭い兄の家に誰がいるものか。追い出されないうちに、こちらの方から追ん出てやろう』

という了見で、明治三年に家を飛び出して、京都東山へ家を借りました。」

と書かれてある。

またお龍は、龍馬の姉の乙女からは親切にしてもらったと言っている。次の画像が乙女の写真だ。
坂本乙女

「姉さんはお仁王という綽名(あだな)があって元気な人でしたが、私には親切にしてくれました。
私が土佐を出る時もいっしょに近所へ暇乞いに行ったり、船まで見送ってくれたのは、乙女姉さんでした。」

お龍はこう言っているが、お龍が坂本家を出た理由については、他にもいろいろな説がある。

一坂太郎氏は同上の著書の中で、
「また、権平は、おりょうを龍馬の「妾」として扱ったという話も伝わる」(p163)と解説しており、ちょっと気になってネットでいろいろ検索していくと

「しかし、そのお龍はその開放的な性格のために権平とそりが合わず、厄介視されたらしい。一説では、権平がお龍を「自分の妾」であると人に語ったので、お龍は居たたまれず、坂本家を去ったと伝えられている(「坂本竜馬の未亡人」-『報知新聞』明32・5・23付)。」

という新聞記事も見つかった。龍馬の「妾」として扱ったのか、権平が「自分の妾」と語ったのかはどうも話が違いすぎて違和感がある。

このようにいろんな説があるが、海援隊メンバーからもお龍の評判が悪かったことを考えると、お龍の回顧談についてもお龍の言葉をそのまま信用出来るものかどうかはわからない。お龍が自分自身を正当化するために、権平夫婦を悪しざまに言っているだけなのかも知れないし、龍馬あるいは権平の「妾」として扱ったという説も、もともとはお龍の口から出ているのではないだろうか。

坂本権平は龍馬の兄とは言っても、龍馬は五人兄弟の末っ子で龍馬とは年齢が21才も年上だ。
龍馬の母親は龍馬の11歳の時に亡くなったが、龍馬の父親の坂本八平が亡くなったは安政2年(1855)、龍馬が21歳の時だ。

それ以降坂本家の家督は長男の坂本権平が継いだのだが、龍馬にとっては権平は親の様な存在であったであろう。

坂本龍馬の全書簡を集めた「龍馬の手紙」(講談社)という本を見ると、あれだけ多く現存している龍馬が書いた手紙も、権平宛てに書いたものは少なく、慶応2年の12月4日付ので寺田屋騒動の事を詳しく伝えた手紙(権平および家族一同宛)、同じ日付で権平宛てに書いた坂本家に伝わる甲冑か宝刀を分けて欲しいと催促する手紙(権平宛)と、慶応3年6月24日付の坂本家伝来の宝刀を受け取った旨を書いた手紙(権平宛)と8月8日付の坂本家の二尺三寸の刀を所望する手紙(権平宛)、10月9日付の消息を伝える手紙(権平宛)くらいで、この中でお龍の事が少しでも書かれているのは家族に宛てた寺田屋騒動の手紙で、龍馬がお龍に助けられたことを少し書いているだけである。

龍馬が家族に宛てて書いた手紙は大半が姉の乙女宛で、乙女宛の手紙にはお龍のことがしばしば書かれていて、お龍が姉の乙女と親しくなれるよう、龍馬がお龍を気遣っていることが読みとれる。
また龍馬の手紙の文体も、乙女宛の文章はかな交じりの読みやすい文章だが、権平宛てのものは最後の消息を伝える手紙以外はすべて「一筆啓上仕候。」からはじまる漢文調の固苦しいものばかりだ。
乙女とは仲が良かったが、権平とは気軽に何でも話せる関係でもなかったのではないか。

お龍にとってみても、権平は義兄といっても26才も年上で、自分の父親の楢崎将作は義兄の1歳年上に過ぎない。父親と変わらない年齢の義兄がお龍にとって気軽に付き合える存在ではなかったことは言えるだろう。

龍馬が最も心を許した友の一人である三吉慎蔵宛の手紙に、慶応三年5月8日付で、自分にもしもの事があれば、下関に居住するお龍について、

「愚妻儀本国(土佐)に送り返し申すべく、然れば国本より家僕および老婆壱人、御家まで参上つかまつり候。その間、愚妻おして尊家(三吉家)に御養い遣わされるべく候よう、万々御頼み申上げ候」

と、坂本家から迎えが来るまで、長府城下の三吉家で世話してほしいと頼んでいるが、坂本家にはお龍の行く末については何も書いてはいないようだ。

三吉慎蔵は龍馬との約束を守り、龍馬暗殺後しばらくお龍を引き取った。その際長府藩主はお龍に扶持米を与えたという話もある。

しかし龍馬が三吉慎蔵宛の手紙で約束したように国本の坂本家からお龍を迎えに来たということはなかったと思われ、慎蔵がお龍を龍馬の土佐の実家にまで送り届けたのではないかと考えられている。

龍馬は国事で奔走し大きな仕事を成し遂げたが、お龍に対する坂本家の対応やお龍の行く末までは考えが及ばなかったようである。
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【ご参考】
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龍馬の二番目の姉・栄はなぜ「龍馬伝」に出てこなかったのか

今年の五月に高知方面を旅行したときに、龍河洞の帰りに「龍馬歴史館」を訪ねて、坂本龍馬の一生の出来事を蝋人形で再現させた展示物を見てきた。

龍馬歴史館

その中で、「龍馬脱藩・姉栄の自殺」という展示があった。
姉の栄が刃物で自殺をしようとする人形で、解説にはこう書いてあった。

栄の自殺

「…兄の権平は龍馬の不穏な空気を怪しみ、万一過激な行動を取ったら家を危うくする恐れがあると心配して龍馬から刀を取り上げ『龍馬が何を言ってきても相手にならないように』と親戚にも警戒を呼びかけた。

武士が丸腰で道中できない。このとき、焦る龍馬に次姉栄は家伝の刀肥前忠広を与えた。
龍馬は勇躍して沢村とともに脱藩したが、栄は責任を取ってその夜のうちに自殺した。

大きく羽ばたいて土佐を出た龍馬の陰に悲劇の女性がいたことを忘れることはできない、3月24日の出来事であった。

龍馬に刀を与えたのは栄ではなく乙女だったという説もあり、この話は今も謎に包まれている。」(引用終わり)

しかし、大河ドラマの「龍馬伝」では龍馬が脱藩した後にこのような場面はなかったはずだ。そもそも、NHKの「龍馬伝」のオフィシャルサイトでは、次女の栄がキャストから欠落している。
http://www9.nhk.or.jp/ryomaden/cast/index.html
なぜこのような重要でドラマチックな事件を、なぜストーリーから削ってしまったのかとその時は思った。

栄の自害の話は、司馬遼太郎の「竜馬が行く」の第二巻にも書かれている。
司馬遼太郎

ここでは、栄は龍馬に、嫁ぎ先であった柴田家伝来の陸奥守吉行の刀を渡し、その後それが問題になり栄は責任を取って自害したこととなっているが、「龍馬歴史館」の解説とは刀や自殺の時期は異なるものの栄が責任を取って自害したことは同じである。

高知旅行の二日目は桂浜の近くの「坂本龍馬記念館」を訪ねたのだが、その横に龍馬の姉の坂本栄の石碑があり、右に「龍馬脱藩に刀を与えて自決した次姉」と書いてあった。
坂本栄の碑

石碑の建立は昭和62年の春で、字は高知県出身で元日本芸術院長の有光次郎氏の筆によるものである。

NHKが歴史を捻じ曲げることは昔から良くあることなので、旅行の時はそれ以上深くは考えなかったのだが、最近このブログで龍馬やお龍の事を調べているうちに、姉の栄のことが分かってきた。

結論から言うと、NHKの「龍馬伝」の脚本には何の問題もなく、間違っているのは司馬遼太郎の「竜馬がゆく」や「龍馬歴史館」などの方である。次女の栄が龍馬に刀を渡した後に自害したというのは後世の作り話であった。

ではどうして、これが作り話と言えるのか。

この件について書いているサイトはいろいろあるが、たとえば「涼やかな龍の眼差しを」というサイトがわかりやすい。
http://erinkoryo.blog48.fc2.com/?mode=m&no=66
龍馬の父親は坂本八平で、母親との間に子供が五人いたことは坂本家の家系図でわかっている。
坂本八平の子供(龍馬の兄弟・姉妹)を年齢順に書くと、
長男:権平、長女:千鶴(高松順蔵妻)、次女:栄(柴田作衛門妻)、三女:乙女(岡上樹庵妻 後離別)、次男・龍馬となる。

昭和63年3月に高知市山手町丹中の竹藪の中で栄の嫁ぎ先である柴田家の墓石と隣り合わせに発見された墓石が、龍馬の姉の栄のものではないかというニュースが「高知新聞」などで報道された。

SakamotoEiNoHaka002.jpg

その墓石には「柴田作衛門 妻」「坂本八平 女」と2行で刻まれ、戒名が「貞操院栄妙」となっていたことから、この墓は栄のものであることが今では確実視されている。

この墓には被葬者の没年は弘化2年(1845年)9月13日となっていたのだが、この年は龍馬の脱藩よりも17年も以前の話で、栄は嫁いですぐに若くして亡くなったということが確実となった。
したがって、栄は柴田家を離縁された事も疑わしく、龍馬に刀を渡したこともあり得ない話だということになる。

では、誰が栄の自害説などを唱え出したのだろう。

龍馬のことを最初に書いた小説である明治16年の坂崎紫瀾作「汗血千里駒」では、乙女が龍馬に刀を渡したことになっているそうだ。

ネットでいろいろ調べると、最初に栄が刀を渡したと言いだしたのは昭和37年(1962)の司馬遼太郎の「竜馬がゆく」が最初で、それ以降、栄が刀を渡して後で責任を取って自害した説が広まったということらしい。
http://erinkoryo.blog48.fc2.com/?mode=m&no=66

では、司馬遼太郎は何を根拠に栄が龍馬に刀を与えたという説を唱えだしたのか。
上記のサイトによると、坂本家の本家に嫁いだ内田さわという女性の孫にあたる、宍戸茂という人物が司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の連載を知り、祖母(内田さわ)から聞いた話を匿名で、「このエピソードは、(坂本家が龍馬の)脱藩に加担したことになるので、門外不出として(隠されてきた)坂本家の秘密」として司馬遼太郎に伝えた話らしいのだ。

その後宍戸茂は、昭和41年に発表した「『長路』喜寿編」という作品の中で、龍馬に刀を与えたのは乙女ではなく栄であることを書いているそうだ。

「龍馬歴史館」が建てられたのは昭和63年(1988)11月で、「坂本龍馬記念館」の隣の坂本栄の碑が建立されたのは昭和62年(1987)春だから、いずれも司馬遼太郎や宍戸茂の説に引っ張られたものであることは確実だ。
栄のものらしき墓が発見され、栄の墓であることが確実視されたのはそのあとの話なのでこれはやむを得ないだろう。

歴史小説の作家はフィクションなしには小説は書けないだろう。
したがって小説を読む読者は、歴史的事実に近い内容が書かれているがフィクションも多いことを注意する必要があることはわかる。
しかし、博物館や記念館の展示物は見学者はすべて歴史的事実であると考えるのが普通ではないか。後日展示内容に誤りがあることが判明した場合は、あるいは別に有力な説が生まれた場合は、展示内容を訂正するか、解説文に但し書きを入れるような配慮があるべきではないだろうか。そうでなければ、誤った歴史理解が広がっていくだけである。
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坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか~~その3

以前、龍馬を暗殺したのは誰かについて2度にわたりこのブログで書いた。

そこでは、この事件の黒幕がいたかどうかについては諸説があるが、暗殺の実行犯については京都見廻組で、龍馬を斬ったのは今井信郎だというのが定説になっていることを書いた。しかし今井の言うことを全く信用しなかった土佐藩の谷干城(たにたてき:第二代学習院院長、初代農商務大臣)もいる。どちらが正しいのだろうか。

明治33年(1900)に今井信郎は甲斐新聞の記者・結城礼一郎の取材に応じ、自分が龍馬らを斬ったことを詳細に語った記事が「近畿評論第17号」という雑誌に掲載された。その記事の一部を次のURLで読む事が出来る。
http://www.ryomadna.net/ryoma-ansatsu/20070907000004.php

今井信郎

今井信郎は仲間の三人とともに、松代藩士を騙って近江屋の二階に上がってからの部分をしばらく引用させていただく。

「6畳の方には書生が3人いて、8畳の方には坂本と中岡が机を中へ挟んで座っておりました。中岡は、当時改名していて石川清之助といっておりました。けれども、私は初めての事であり、どちらが坂本だか少しもわかりません。他の3人も勿論知りませんので、早速機転をきかして、「ヤヤ、坂本さんお久しぶりです」 と挨拶しますと、入り口に座っていた方の人が、「どなたでしたかねえ」と答えたのです。
そこで、ソレと手早く抜いて斬りつけました。最初、その横ほおを抜き打ちざま真横に叩いて、体をすくめる拍子に横に左の腹を斬って、それから踏み込んで右からまた一つ腹を斬りました。

この二太刀で、流石の坂本もウンと言って倒れてしまいましたので、私はもう息絶えたと思いましたが、後から聞きますと、明日の朝まで生きていたそうです。
それから、中岡の方です。これは私どもも中岡とは知らず、坂本さえ知らなかったのですから無理はありません。坂本をやってから、手早く脳天を3つほど続けて叩きましたから、そのまま倒れてしまいました。お話すれば長いのですが、これは本当に電光石火で、一瞬にやったことなのです。」(引用終わり)

かなり具体的に書いており、本人でなければわからないような生々しさがある。 しかしながら、龍馬暗殺を聞きつけて真っ先に現場に駆け付けた土佐出身の谷干城は、今井の証言を全く信用せず単なる売名行為だとまで語っている。

谷干城は明治39年(1906)11月に「近畿評論を駁す」と題する演説を行ったそうだが、谷干城の遺稿の中にその演説内容が書き込まれている。
http://www.ryomadna.net/ryoma-ansatsu/20070907000005.php

谷干城40

長文なので、全文は上のURLで読んで頂きたいが、谷干城が暗殺現場で見た龍馬と中岡について述べているところを引用させていただく。

「坂本は非常に大きな傷を負っており、額のところを5寸ほどやられているから、この一刀で倒されたのであろうが、後ろからもやられて背中に袈裟掛けに斬られていた。
坂本の傷はそういう次第で、中岡の傷はどういうものかというと、後ろから頭を斬られており、それから左右の手を斬られていた。そして、足を両方とも斬ら れ、腹ばいに倒れたところをまた2太刀斬られており、その後ろから腰を斬った太刀は、ほとんど骨に達する程深く斬られていた。
けれども、傷は脳に遠いものだったので、なかなか元気な石川(中岡の変名)でありますから、意識は確かであった。」

「一体どういう状況であったかと(中岡に)聞いてみると、…(中岡が)坂本を訪ねて談話していると、『十津川の者でござる。どうぞ御目にかかりたい』と何者かが訪ねてきた。
そこで取次の従僕(藤吉)が、手札を持って上がってきた。この時、中岡は手前にいて、坂本はちょうど床を後にして前に座っていた。2人は行燈に頭を出して、その受け取った手札を見ようとしたところへ、2階へ上がる従僕について来た賊が、突然「コナクソ」と斬り込んできた。その時手前にいたのが、中岡である。
実際の状況とこの人の話とでは、両人がいた位置も違い、机などを並べていたというけれども、そんな訳はなかった。2人が手札を見ようとするところへ斬り込み、中岡を先にやったのである。」

「この人(今井信郎)の話によると、まず坂本の横ほおを一つ叩いたとある。これは何か話にでも聞いたものかもしれないが、坂本は額を5本くらい斬られていた。それから、これは少々似ているが、横腹を斬り、また踏み込んで両腹を斬った。深い傷は、横に眉の上を斬られたもの、それから後ろから袈裟に斬られたものがあり、この 2つがまず致命傷だった。」

「傷の場所からいっても、この人の話と事実は、全く違うのである。それから、さらに疑うべきことは、お前ハ松代の人であるとか何とか言ったとあるが、そんなことで応接するどころの騒ぎではない。従僕の後について来て、突然コナクソと言って斬り込み、実に素早くやったのである。」

「今井が両人を斬ったというのは、大変な間違いである。また、あの時代は斬自慢をする様な世の中であったから、誰が誰を斬ったというのは実に当てにならないと思う。」(引用終わり)

では、谷干城は暗殺の仕掛け人は誰と考えているかというと、「この事件は、私ら土佐の者らの推測では、元紀州の光明丸といろは丸が衝突した時に、坂本らが非常に激烈な談判をして、賠償金を取ったからそれを恨み、紀州人が新選組を使って実行したのであろう。」と、書いているのだ。

今井は実行犯として、谷は最初に現場に行きまだ生きていた中岡から一部始終を聞いた人物として語った内容が書かれているはずなのだが、なぜこんなに話が違うのか。
最初に龍馬を斬ったのか、中岡を斬ったのか。体のどこを斬ったのかということからして一致していない。「近畿評論」の記事のとおりに中岡慎太郎が脳天を三度も斬られたのなら、中岡が谷干城に事件の一部始終が語れることはなかっただろう。

いろいろ調べると、「近畿評論」の掲載記事を寄稿した結城礼一郎が、大正13年(1924)になって、この記事の一部は捏造したものであることを認めた『お前たちのおぢい様』という手記を書いている。
http://www.ryomadna.net/ryoma-ansatsu/20070907000006.php

そこには
「…今井さんから伺った話をそのまま蔵って置くのは勿体ないと思ったから、少し経って甲斐新聞へ書いた。素より新聞の続き物として書いたのだから事実も多少修飾し、龍馬を斬った瞬間の光景なぞ大いに芝居がかりで大向ふをやんやと言はせるつもりで書いた。
処が之れが悪かった。後になって大変な事になって仕舞った。…本当に残念な事をした、と同時に又お父さんは、お父さんの軽々しき筆の綾から今井さんに飛んだ迷惑をかけた事を衷心から御詫びする。」と、正直に書かれているが、自分が記事を書いてから24年間も黙っていたのは卑怯なことだと私は思う。

とにかくこれで、龍馬暗殺の一部始終については「近畿評論」よりも谷干城の言っていることの方が信憑性がありそうだということははっきりしたが、次の疑問は『お前たちのおぢい様』で結城が書いているように、なぜ谷干城が「近畿評論」を読んでムキになって、今井信郎を「売名の徒」とまで罵ったのだろうか。

谷干城は事件当初から坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺に関与したのは新撰組が実行犯、黒幕は紀州藩と考えていたようだ。
また翌慶応4年(1868)の戊辰戦争で捕えた元新撰組長の近藤勇の処遇をめぐり薩摩藩と対立し、谷の強い意向でその年に近藤勇は斬首され、その後に京都三条河原でさらし首にされたとされている。

近藤勇

近藤勇の斬首を強く主張したのは谷干城ではなく徳川家側という説もあるようだが、いずれにしろ、坂本龍馬暗殺を新撰組実行犯と考えていた谷にとっては、この事件に関しては近藤勇の斬首により心の整理がついて終わったものになっていたのに、それから32年もたって京都見廻組のなかから実行犯と名乗る人物が出てきたのを頭から認めたくなかったから、「近畿評論」の記事を読んでムキになったということか。

しかし、谷干城がなぜ新撰組実行犯と考えたかという部分についてはあまり論理的ではなく、ほとんど初めから犯人を決めつけているようにも読める。事件直後なら新撰組を疑うのもわかるが、新撰組には龍馬暗殺の時間帯は伊東甲子太郎を襲う密議の最中で、主要なメンバーにほぼ完璧なアリバイがあることが後日判明しているのだ。
薩摩と土佐は最後まで新撰組説を唱えたといわれるのだが、ひょっとすると、犯人を新撰組だということにしたかったのかも知れない。薩摩や土佐のメンバーの誰かが疑われることを入口から遮断しようとしたことは考えられないか。

谷干城は龍馬が暗殺された慶応3年(1867)の5月21日に、板垣退助とともに西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀と会い武力討幕を密約しているのだが、坂本龍馬の考え方は武力討幕ではなく、徳川慶喜を新政府の中に入れるという穏健なものであり、薩摩藩や谷の考え方とは異なる。武力討幕派にとっては、徳川慶喜が絶対拒否するとタカを括っていた大政奉還を承諾したので、その流れでは坂本龍馬のような穏健派に新政府のリーダーシップを握られてしまうことを懼れて、龍馬を排除しようと動いたのではないだろうか。

もし坂本龍馬の暗殺に薩摩藩が黒幕で関与していたという説が正しければ、彼らにとってはいろは丸事件にからめて紀州と新撰組を結びつけ、新撰組を龍馬暗殺の犯人に仕立て上げて処刑まで行えば将来にわたって陰謀が暴かれることはない考えたのではないか。

しかしながら薩摩関与説は、龍馬暗殺直後から噂され、その年の「肥後藩国事史料」にも12月11日「坂本を害候も薩人なるべく候事。」という記述があるそうだが、事件後1ヶ月も経っていないのに公文書で薩摩関与説の記録が残っているのはもっと注目して良いと思う。

ところで、谷干城が慶応3年(1867)5月の武力討幕の密約で会った大久保利通は、坂本龍馬とはあまり接点がなかったのか、性格的に合わなかったのか良くわからないが、大久保利通の日記には龍馬についての記録が全くないらしい。
その大久保が、龍馬・中岡が暗殺された翌日から4日連続で岩倉具視に手紙を書き、龍馬や中岡が死んだことや、下手人が新撰組らしいということを伝えているそうだが、これはちょっと不自然だ。

大久保利通

大久保利通は自らの目的のために、江藤新平、西郷隆盛などを葬り去った男だ。孝明天皇の死にも岩倉具視とともに関与していた疑いももたれているのは以前にも書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-159.html

黒幕は、武力討幕派の中でも薩摩藩が一番臭うのだが、西郷は龍馬を評価し、龍馬との接点も多い人物で黒幕の中心にいたとは考えにくい。
龍馬と接点が少なくお互い評価もしていなかった大久保利通こそが龍馬暗殺の黒幕の中心ではないかと考える人もいる。動かぬ証拠があるわけではないが、この説は私にはかなりの説得力を感じている。
大久保が中心でないとしても龍馬暗殺の黒幕は少なくとも武力討幕派の中にいて、彼らのメンバーの多くが後の明治政府の中枢部にいた。だから、龍馬暗殺事件については徹底した原因追究がなされることがなかったし、できなかったのだと考えている。
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坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか~~その4

前回の記事で、龍馬を斬った人物とされる今井信郎の証言をもとに甲斐新聞の結城礼一郎記者が明治33年(1900)に「近畿評論第17号」に寄稿した記事の一部を紹介した。(下の画像は暗殺現場となった「近江屋」)

近江屋

前回記事では、今井信郎の他に京都見廻組の誰が加わり、誰からの指示で斬ったのかという部分を紹介できなかったが、「近畿評論第17号」で結城はこう書いている。

「それで11月15日の晩、今夜はぜひというので、桑名藩の渡辺吉太郎というのと、京都の與力で桂迅之助(桂早之助)というのと、他にもう一人、合計4人で出かけました。私は一番の年上で26歳、渡辺は24歳(実際は26)、桂は21(実際は28)だったと思います。」

  「渡辺ですが、松村とも言っておりました。なかなか胆の据わった男で、桂も若さに似合わぬ腕利きでありました。惜しいことに2人とも鳥羽で討ち死にしてしまいました。
(この時記者は他にもう一人というその一人は誰ですかと尋ねたところ今井氏は、それはまだ生きている人です。そして、その人が己の死ぬまでは決して己の名 前を口外してくれるな、とくれぐれも頼みましたから今も申し上げることはできませんと答え、しいて頼んだが、遂に口を開かなかった。
思うに、今なおある一 部の人の間に坂本を斬った者の中には意外な人物があるとの説が伝えられ、あるいは、その人物は今某の政府高官にあるといった風評があるのは、つまりこの辺りの事情によるものではないだろうか。
今井氏にして語らず、その人物が語らなければ、維新歴史のこの重要な事実は、遂にその幾分かを闇に葬り去ることにな り、惜しんでも惜しみきれないものである)」(引用終わり)

と、今井から出てきたのは戊辰戦争で死んだ2名の名前だけである。あと一人は、「生きている」ということしか言っていない。
しかし、結城が「坂本を斬った者の中には、…今某の政府高官にあるという風評がある」と書いている点に注目したい。事件から33年も経過したにもかかわらず、龍馬暗殺は明治政府の高官が関与していたという風評が存在したのである。

今井信郎

今井信郎は明治2年(1869)に函館戦争で新政府軍に捕らえられ、降伏人として兵部省の訊問を受け、その際に仲間とともに坂本龍馬殺害を自白したために翌年身柄を刑部省に移され取り調べを受けた。その調書によるとメンバーは7名で「佐々木唯三郎(明治元年没)を先頭に、後から直ぐに桂隼之助(明治元年鳥羽伏見の戦いで死亡)、渡辺吉太郎(同左)、高橋安次郞(同左)が2階へ上がり、土肥仲蔵(明治元年自刃)、桜井大三郎(明治元年鳥羽伏見の戦いで死亡)と私は下に控えていた二階に上がった」と書いてある。
メンバーの数が違うのが気になるが、この時も死んだ仲間の名前だけを出すことで生きている仲間を守る意図があったようにも読める。そもそも今井信郎の言っている事はどこまで信用できるのだろうか。

ところが、今井に関する「近畿評論」の記事が出てから15年後の大正4年(1915)に、元見廻組肝煎であった渡辺篤という人物が死に臨んで、弟安平と弟子飯田常太郎に、自分が坂本龍馬暗殺に関与したことを告白した。

渡辺篤

この渡辺篤という人物は、今井が口述した桑名藩の渡辺吉太郎とは別人である。

また渡辺篤は、自分の死後に『渡辺家由来緒暦代系図履暦書摘書』を公表するように、と遺言している。その記事が渡辺篤の死後に朝日新聞に掲載されたが、これは新聞記者の創作部分がかなり多いので省略する。

渡辺篤本人が書いた『渡辺家由来緒暦代系図履暦書摘書』という遺書は明治44年(1911)8月19日の日付となっており、「近畿評論」よりも11年後に書かれたということになるが、この原文は次のURLで読む事が出来る。
http://www.ryomadna.net/ryoma-ansatsu/20070907000007.php

そこで渡辺は
「…(慶応三年)11月15日、土佐藩の坂本龍馬、中岡慎太郎というものが、密かに徳川将軍を覆そうと謀り、その陰謀を四方にめぐらせていたので、見廻組頭取の佐々木只三郎の命により、自分をはじめ今井信郎と外3名の組の者(内1人は世良敏郎)と相談し、夕暮れ時に坂本の旅宿へ踏み込み、正面に座っていた龍馬を斬りつけ、 横に倒れたところを突き刺し、左右にいた両名も同時に討ち果たした。…」と書いており、現場に残されていた刀の鞘は世良敏郎のものだというのだ。

世良敏郎という人物は実在したようなのだが、渡辺は「書物は少し読むけれども武芸はあまり得意でないため、鞘を置き忘れる失態をおかした。日頃から剣術の鍛錬をしなかったこともあり、呼吸を切らし、歩くこともできない始末であった。自分は世良の腕を肩にかけ、鞘のない刀を袴の中へ縦に隠し入れて、世良を連れて引き上げた。」と書いている。

こんな人物が刺客として送り込まれたことにやや違和感があるが、実在の人物を語っている点は注目して良い。渡辺篤の言うとおり今井信郎、世良敏郎と自分の3名でやったことが正しければ、今井信郎の証言は、生きている者に影響が及ばないために戊辰戦争で死んだメンバーの名前を挙げて、渡辺篤と世良敏郎を秘匿したということになる。

こんなことを考えていろいろ調べていると、暗殺の時刻も本や史料でバラバラであることがわかった。

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」では事件が起きた時間を慶応3年(1867)11月15日の午後9時と書いている。これは通説に従ったのだろうが、この事件は龍馬が峰吉という書生にシャモを買いに行かせている間に起こっている。しかし、当時はほとんどの店舗が夕食時間の前に売りきって商売を終えていなければならない時代だった。常識的に考えて、冷蔵庫もなければ電気もないような時代に、いくら京都でもこんな時刻にシャモが買えるような場所があったのだろうか。

ところで今井信郎は「五ツ頃」と明治3年(1870)の「刑部省口書」で述べているが、江戸時代の刻(とき)では五ツとは午後8~9時頃を意味する。
http://www.viva-edo.com/toki.html
今井を取材して結城礼一郎が書いた明治33年(1900)の「近畿評論」の記事では「晩」とだけ書かれている。

また明治45年(1912)の谷干城の遺稿では、中岡が坂本を訪ねたのが「今夜」で、龍馬と話している最中に何者かが訪ねてきて二人を斬った。龍馬が死んだのは事件翌日の午前1~2時頃と書かれている。

渡辺篤は、先程引用した文章では龍馬の宿に踏み込んだ時刻を「夕暮れ時」と書いているが、渡辺篤の死後に渡辺の証言の記事を書いた朝日新聞では「未明」と書かれている。朝日の記者は渡辺についての記事を書きながら、何故渡辺の文書に書かれた時刻を無視したのだろうか。

ネットでいろいろ調べると、事件とは直接関係のない土佐藩士の寺村左膳という人物が坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺の件を日記に書き留めているのが見つかった。その日記に書かれている暗殺時間はやはり夕刻なのだ。
この日記には、「自分芝居見物始而也。(略)随分面白し夜五時ニ済、近喜迄帰る処留守より家来あわてたる様ニ而注進有、子細ハ坂本良馬当時変名才谷楳太郎ならびに石川清之助今夜五比両人四条河原町之下宿ニ罷在候処」暗殺されたとあり、寺村左膳は龍馬の暗殺された11月15日は昼から芝居見物をしており夕方五時頃に芝居が終わって帰ると、家来が両名の暗殺のことをあわてた様子で伝えたと記されている。
http://blog.goo.ne.jp/kagamigawa/e/d3a14b234de2ce9fe1a3f790c60d5230

となると時刻は渡辺篤の遺書に書かれているのが正しいということになるのだが、この『渡辺家由来緒暦代系図履暦書摘書』は何故かあまり重視されていない。

もし夕刻の時刻が正しいのならば、京都の中心部で人通りも多く、旅館の主人も女中も宿の中にいたはずだから、もっと多くの証言が得られてもおかしくない。
しかし、同じく近江屋にいたはずの書生の証言もなければ、近江屋の主人や女中の証言すらないことが不思議であるが。そのような者の証言は、本で探してもネットで検索しても見当たらず、存在しない可能性が高そうだ。
当初から新撰組が夜に暗殺したことにストーリーを決めて、そのストーリーに合わない証言ははじめから取る意思がなく、関係者に緘口令を敷いたことは考えられないか。

最初に紹介した「近畿評論」で結城礼次郎がいみじくも書いているように、「坂本を斬った者の中には、…今某の政府高官にあるという風評」が明治33年頃にも根強くあったのであれば、もっと以前からそのような風評があったと考えるのが自然である。

もし武力討幕派あるいは明治政府の中に龍馬暗殺に関与する者がいたとしたら、谷干城はその風評を少しでも打ち消そうと考える立場だ。
坂本龍馬・中岡慎太郎が斬られたと聞いて真っ先に近江屋に駆け付けたのが谷であったのも何かひっかかる。谷は穏健派の龍馬と違い武力討幕派で中岡と同じ考え方だ。

谷干城2

谷干城が語った中岡慎太郎から聞いたという話は、倒幕派が疑われないために、かなり谷の創作がなされてはいないか。また本当に中岡慎太郎は一部始終を語れるような状態だったのだろうか。中岡の状態が話が出来るようなものであったとしても、その話を聞いたのが武力討幕派の数人であれば、いくらでも創作が可能であったはずだ。
以上の理由から、私には谷の言っている事は、一部真実が含まれるとしても、全体的にはあまり信用できないのではないかと考えている。

龍馬暗殺についての通説について、重要な部分で引っかかるところが他にもいくつかある。
ひとつは、龍馬や中岡が知らない人物を、何故、宿の中に入れてしまったのかという点。
今井信郎の証言では松代藩士、谷干城(中岡慎太郎)の証言では十津川藩士だが、素性のわからない人物は警戒して当たり前ではないのか。中に入れるとすれば、龍馬か中岡のいずれかが知っている人物しかあり得ないのではないか。

中岡慎太郎

その点に注目して、下手人は京都見廻組ではなく土佐藩や薩摩藩が直接やったという説もある。あるいは、中岡慎太郎が京都見廻組を呼び込んで龍馬暗殺に関わっていたという説もある。後者の場合は龍馬と中岡が斬りあったことになり、目撃者を消すために藤吉も斬られたということになる。

もう一つ引っかかるところは、もし京都見廻組が京都守護職の指示により龍馬や中岡を仕留めたのならば「暗殺」ではなく「公務」であり、記録に残っていないのはおかしくないかという点である。
だから、幕府方が関与したとする説は私にはピンとこないし、明治政府が新撰組を犯人として近藤勇を処刑したこともおかしなことである。

坂本龍馬2

結局前回書いたのと結論は同じだが、龍馬暗殺の黒幕は武力討幕派の中におり、おそらく大久保利通、岩倉具視あたりが中心メンバーにいるのではないかと考えている。確たる証拠はないが、証拠がないのはどの説をとっても同じことである。

武力討幕派は後の明治政府の中心勢力となり、谷干城もそのメンバーの一人である。 また今井信郎も新聞も、権力批判に繋がることは軽々には語れなかったし、書けなかった。 だから信頼できる資料が何も残らない状況になってしまった。
そのために、坂本龍馬の暗殺については様々な説が出ており、将来決着するとも思えない。しかしよくよく考えると、誰が犯人かがわからないような状況の方が、明治政府にとっては望ましかったのではなかったか。

もうすぐ「龍馬伝」が終了する。
天下のNHKが、通説を覆すようなストーリーを書くようなことはおそらくないだろう。 今井信郎は出てくるそうだが、黒幕については様々な可能性を匂わすようなナレーションが入る程度で終わるのではないだろうか。

小説やドラマで多くの人が歴史に関心を持つことは非常に素晴らしいことなのたが、小説やドラマで描かれるたびごとに、真実と異なる歴史が拡がって定着していくようなことはないようにして頂きたいものである。
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伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1

学生時代に仙台藩主伊達政宗が、慶長18年(1613)に家臣支倉常長をローマ教皇とスペイン国王のもとに派遣したことを学んだ(慶長遣欧使節)。
改めて「もう一度読む 山川の日本史」を読みなおすと、慶長遣欧使節に関しては「メキシコとの直接貿易をめざしたが、目的は達することが出来なかった」とのコメントがあるだけだ。

しかし、なぜ江戸幕府を差し置いて仙台藩がスペインとの交渉を直接行うことになったのであろうか。また、江戸幕府がキリスト教を禁止していた時期にもかかわらずこの使節がローマ教皇に謁見したことに違和感を覚えていた。

幕府が最初のキリスト教の禁教令を布告したのは慶長17年3月(1612)で、この時に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じ、そしてその年の8月にはキリシタン禁止が明確に成文化されて、法令として全国の諸大名に公布され、領内の一般庶民にキリシタン禁制が義務付けられている。もちろん伊達政宗の仙台藩も例外ではなく、この禁教令により長崎と京都にあった教会は破壊され、修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放されたり処刑されたりしているのだ。

伊達政宗

伊達政宗慶長遣欧使節を派遣した時期は、教科書には慶長18年(1613)と書かれていて幕府の禁教令公布の直後のことなのだが、この使節が派遣された背景などを詳しく知りたくなっていろいろ調べてみた。

ネットではWikipediaなどで慶長遣欧使節やその関連人物について詳しく記述されているし、関連した書物もいくつか出ているので、それらを参考にして簡単に纏めてみよう。

まず最初に、慶長14年(1609)に前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がメキシコへの帰路で台風に遭遇し、上総国岩和田村(現御宿町)に漂着するという事件があり、地元民に救助された一行に徳川家康がウィリアム・アダムス(三浦按針)の建造したガレオン船(サン・ブエナ・ベントゥーラ号)を贈って、メキシコに送還させたという出来事があった。

続いて、慶長16年(1611)に、その答礼使としてセバスティアン・ビスカイノがスペイン国王フェリペ3世の親書を携えてサン・フランシス号で来日した。そこには外交を開く条件としてカトリックの布教を認め、プロテスタントを排除することなどが記されていたらしい。
しかし家康は、スペイン側の条件を受け入れればわが国が植民地化されかねない、というウィリアム・アダムスの進言もあり、友好的な態度を取りながらも全面的な外交を開くことはしなかったという。

慶長17年(1612)9月にセバスティアン・ビスカイノは家康・秀忠の返書を携えて帰途に就いたが、11月14日に暴風雨に遭遇し、座礁して乗船(サン・フランシスコ号)を失ってしまった。メキシコに戻るために船の建造費の用立てを幕府に申し入れたが、日本の外交方針の変更により受け入れられなかったという。

このような状況のなか、伊達政宗は家康から「外交権」を得ることに成功する。スペインやメキシコと通商条約締結のためには、どうしてもスペイン国王に使節を派遣すべきであると伊達政宗に説得し、さらに家康に説得してそれを認めさせた人物がいた。その人物がフランシスコ会の宣教師であるルイス・ソテロである。

当時は500トン以上の船を国内で造船することが禁止されていたので、政宗にすれば、幕府が関与することでその造船許可を得ることも、海外渡航証明の朱印状も発行してもらうこともできる。
また幕府にしても、幕府の資金を使うことなく、国賓として来日していたセバスティアン・ビスカイノ一行をメキシコに帰国させる目途がたち、国際的な面目を保つことが出来る。

ところが、その後幕府は禁教令を公布し、慶長18年(1613)6月にソテロ自身も小伝馬町の牢屋に閉じ込められて危うく火刑に処されるところだったのだが伊達政宗の陳情により助けられ、その年の9月の伊達政宗の遣欧使節団に正使として参加することとなるのだ。 外交には当然通訳が必要であり、日本語だけでなくスペイン語での交渉力も不可欠だ。政宗からすれば、ソテロはそのために欠かすことのできない存在だったようだ。

しかしソテロは、出帆直前になって伊達政宗に対し重大な要求を行っている。イエズス会のアンジェリス神父が、政宗とソテロとの駆け引きについて、1619年のイエズス会本部に宛てた報告書で次のように記録している。

ルイスソテロと支倉常長

「…船の準備が整うと、ルイス・ソテロは、…政宗がイスパニア(スペイン)の国王陛下とローマ教皇聖下の下に使節を派遣すべきであることを指摘し、また交渉をうまく進展させるために両者へ相当な進物を持参する必要があると述べた。そしてこの条件が受け入れられなければ、自分は乗船しないだろうと述べた。…政宗はすでに相当の金額を船の建造のために出費していることを考慮し、ソテロの進言を受け入れてイスパニアとローマに使節を派遣することを同意した。…」(大泉光一『伊達政宗の密使』洋泉社p67-68所収)

サンファンバディスタ号

この使節の当初の目的は、メキシコとの直接通商交易を開くことであったのだが、サン・フアン・バウティスタ号が完成し、その出帆直前にソテロの一言によりスペイン、ローマにも使節を派遣することとなったのだ。そんなことを江戸幕府が許すはずがなかったのだが、伊達政宗は重臣たちから大反対されながらもそれを受け入れてしまうのだ。

200px-Pope_Paul_V.jpg

なぜ政宗はそれを受け入れたのか。その手掛かりになるのが、使節団がローマ教皇に謁見した際に奉呈された文書で、今もヴァティカンに残されている。
一部を読んでみよう。最初は政宗がローマ教皇パウロ五世に宛てた親書である。

「私はキリシタンになりたいと思うに至ったのですが、今のところ、どうしてもそうすることのできないような、差し障りになる事情があるため、まだ、そうするまでに至っておりません。しかしながら、私は、領分の国(奥州)で、しもじもの領民たちがことごとくキリシタンになるようにさらに勧奨するという目的のため、サン・フランシスコ御門派の中でもオウセレバンシアに所属するパードレ衆(宣教師)を派遣して頂きたく存じます。…」

「…なお、このパードレ・フライ・ルイス・ソテロと、六右衛門(支倉常長)とが、口頭で申上げるはずですから、この人々の申上げるところに従ってご判断頂きたく存じます。」

ソテロ自身がかなり作文した臭いが漂うのだが、伊達政宗自身も直接署名している文書であり、政宗が内容については承知していたと考えられるのだ。重要な極秘事項はこの時に口頭で語られたのだろうが、その内容についてはどこにも記録が残っていない。

次は同じく教皇に奉呈された、日本のキリスト教徒の連書状である。

「今年になってから新たな迫害が…将軍様によって引き起こされました。…
 偉大な教父(教皇)よ、神が…奥州の王(伊達政宗)を召し出して、彼を照らし出した時、大きな門が開かれたということを疑わないでください。…私たちは彼が将来出来るだけ早く支配者(将軍)になることを期待しております…」(同上書p192-193)

他にもう一通連書状が残されているが、いずれも同様に伊達政宗を支持する内容のものである。この内容もかなりソテロが手を加えたことはまず間違いないだろう。

慶長の遣欧使節に詳しい大泉光一氏は「伊達政宗の密使」のなかで、こう書いている。

「ソテロが、船が完成する直前に、スペインやローマに使節を派遣することを政宗に進言したのは、『訪欧使節団』派遣の真の目的を最初から明かしたのでは、メキシコとの直接通商交易を開始することを第一と考えていた政宗が、使節派遣計画を取り止める恐れがあったからである。」(同上書p84)

では、ソテロにとって「訪欧使節団」の真の目的とは何なのか。
大泉氏はさらにこう書いている。
「ソテロは、幕府のキリスト教の禁教令で自分が洗礼を授けた多くのキリシタンが処刑されるのを目撃し、また自らも囚われの身となり、火刑に処せられる直前に救出されるという経験から、将来の日本におけるキリスト教の布教活動に対し強い危機感を抱いたに違いない。

 そこでソテロは、…伊達政宗の保護の下、自ら東日本区の司教になって仙台領内に宣教活動を行うことを目論んだ。そして、キリスト教に対し理解を示し、自らも洗礼志願者となって、家臣にキリシタン改宗を勧めた政宗に日本全国のキリスト教徒の指導者になるように歓説したのだろう。

 それを現実のものにするためには、日本中のキリスト教徒(30万人以上)の支持を得て政宗がローマ教会に服従と忠誠を誓い、彼らの指導者として承認してもらう必要があった。そのためにソテロは、政宗にスペイン国王とローマ教皇のもとに極秘に使節を派遣することを持ちかけたのである。」(同上書p84-85)

と、なかなか説得力があるのだ。

大泉氏はさらに「政宗自身も天下取りの夢を捨て切れず、自ら「将軍職」に就くためにキリスト教を利用しようとした」とも書くのだが、この点について書きだすと長くなるので、次回以降に紹介することとしたい。
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【ご参考】
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メキシコで歓迎されず、スペインでは諸侯並に格下げされた~~慶長遣欧使節2

前回は、伊達政宗が慶長遣欧使節をスペインやローマに派遣した経緯と、真の派遣目的についての大泉光一氏の説を紹介した。

今回は、この使節が訪れた国々に残された記録から、この使節がどういう行動を取り、派遣先の国にどう記録されているかをみてみよう。

サンファンバウティスタ号

慶長遣欧使節は慶長18年9月15日(1613年10月28日)にサンファンバウティスタ号で牡鹿半島の月ノ浦(現在の宮城県石巻市)を出帆し、3ヶ月後の1614年1月28日にメキシコのアカプルコに入港した。
Wikipediaによると「3月4日、使節団の先遣隊がメキシコシティに入った。先遣隊の武士がメキシコシティで盗人を無礼討ちにし常長ら10人を除き武器を取り上げられた。」と記述されており、メキシコに着くなりいきなりトラブルからスタートしている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E9%81%A3%E6%AC%A7%E4%BD%BF%E7%AF%80

大泉光一氏の『伊達政宗の密使』には、「無礼討ち」のことまでは書かれていないが、副王のグアダルカサール侯が3月5日付けで軍事裁判長に宛てた命令書で、そのようなトラブルがあったことが推察できる。

「…彼ら(日本人)は見ての通りの性質・気性の人たちなので、争い、騒動、喧嘩のいかなる機会もつくらぬように、…スペイン人、現地人…は日本人に対し、悪意な行為や言葉、不正、暴力、また彼等を苛立たせる、不和の原因となるようなあるいは他の暴挙をすることなく…行動するように。…日本人の誰からもその意思に反して商品や代金を取り上げたり、彼らがそれらをどこででも売却する自由を奪ってはいけない。…」(大泉光一『伊達政宗の密使』p105-106)

文面から見てグアダルカサール侯は日本人に対して良い印象を持っておらず、日本人の傲慢な態度、相手に対する好戦性、気性の激しさなどから、もっと深刻な武力衝突を懸念して、日本人の武器を取り上げることをその命令書に明記しているようだ。

最初の訪問地であるメキシコでは決して歓迎されることなくスタートした使節団ではあったが、4月に使節団一行のうち42名が、サン・フランシスコ教会で洗礼を受けたという記録が残っているという。

大泉氏によると、当時のメキシコには「インディアス法」という法律があり、カトリック以外の宗教を信仰する者は法的能力が認められず「栄誉およびその財産を剥奪される」と規定されており、メキシコに渡航できる移住者は三代にわたってカトリック教徒であることを証明できるものに限られていたという。江戸幕府の禁教令にもかかわらず使節団の多くがここで洗礼を受けることにしたのは、この地において不利な条件を取り除くためにやむを得ないと考えたのだろう。 次のURLでは、この集団受洗が副王および大司教の態度を軟化させ、ソテロはスペイン、ローマへの渡航の手掛かりをつかみ、商人たちは船で運んだ商品の販路を見出したということが書かれている。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1149

その後使節は二つに分かれて、支倉常長他約30名がソテロの引率でスペイン、ローマに向かい、残りの100余名の日本人は約一年間メキシコに滞在後日本に帰国したという。

koukai.gif

スペイン・ローマを目指した支倉常長やソテロらは、遂に1614年10月にスペインのセビリヤ市に到着した。セビリヤは地中海航路と大西洋航路の中継地として繁栄していた、スペイン王国最大の商業都市であった。

マドリード王宮

セビリヤのファン・ギャラルド・セルペデスがスペイン国王宛に使節の処遇について意見を述べた書簡が残されていて、そこには
「フランシスコ会士(ソテロのこと)がスペインに到着した最初の訪問地セビリヤに、日本皇帝(将軍)と奥州王の大使を連れてきたことに敬意を払いました。…彼等は(スペイン国王)陛下と教皇聖下に服従するために来ました。…」と書かれているそうだが、この時支倉とソテロほかには国賓級のVIPが泊まるアルカサール宮殿が提供されたそうだが、よほどソテロの弁舌が巧みであったということなのだろう。

一方スペイン国王にはイエズス会のルイス・ピニィエロ神父から、日本において幕府がキリスト教を禁止し、キリスト教を弾圧していることについての情報がすでに入っていた。 またメキシコ副王からは、1614年5月22日付けのスペイン国王宛書簡で、「ルイス・ソテロは政宗を籠絡して使節を派遣したものであり、この使節派遣は徳川家康の思惑に反する行為である。日本のキリスト教化のためには将軍と親交をもつのが最善であり、一領主(大名)にすぎない奥州王と個人的に結託すべきではない」と主張していたという。
こうした状況下でソテロと支倉常長が事情聴取を受け、この使節は幕府ではなく奥州王が派遣した使節であることが明らかになっていく。

使節一行がマドリードに近づくと、スペイン国王は使節の宿泊先を王宮ではなくサンフランシスコ修道院とすることを命じた。大泉氏の表現を借りれば、国賓待遇から地方諸侯級の待遇となったということになる。

felipe_3.jpg

マドリード到着から40日以上経った1615年1月30日、支倉常長とソテロはようやくマドリードの王宮でスペイン国王フェリペ3世に謁見することとなる。この時に支倉常長が国王に述べた口上が、アマーティの「遣欧使節記」に次の様に記されているという。

「私の主君は日本の宗派は悪魔による偽りであると考え、キリスト教の信心こそが救霊の真の道であり、…この神聖な志をすべての家臣が王に追従するように努めたいと願っております。…」
「…この使節を通して(キリスト)教会の堅固な柱石である陛下に訴え、(わが王に)聖なる福音書の真実を説き、聖なる秘跡を授けて下さるよう修道士と宣教師を派遣されんことを強く請願することを考えました。…」
「この素晴らしい君主国(スペイン)との間に結びたいと望んでいる友好と提携を陛下と陛下の統治国に対して私が申し入れる命を請けてまいりました。されば陛下にささげる情愛を好意的で寛大に示して下されますよう、また我らの王国すべてにおいて軍事力を備えておりますので、陛下のお役に立つ機会があれば力を尽くしたいと望んでいますのでいつでもお使い頂きたく国王陛下に請願します。…」(大泉光一「伊達政宗の密使」p145-146所収)

と述べたあと、支倉常長は自身の信仰の意思表示として、国王陛下のご臨席のもとでキリスト教の洗礼の秘跡を受けたいことを表明するのである。

国王陛下は、以下の様な返答をされた。
「使節を遣わした(奥州)王が求めていることに対し、喜んで応じることに決めました。私たちに示された提案、および友好を重んじ深く感謝いたします。我々としては現在もまた如何なる時もそれに応じぬことはありません。これに対する最も相応しい処置については、最も好都合な折に新たな協議をする機会を与えるでしょう」(同上書p147) 最後の言葉でわかるように、肝心な事を曖昧にしたままで問題を先送りにした外交辞令である。その後、再び政宗の提案事項についてスペイン側と新たに協議する機会は与えられなかったのである。

支倉常長像

フェリペ三世との謁見の中で支倉常長が手渡した政宗の親書の中に、九条からなる「申合条々」(協約案)が含まれていた。この文書は天理大学図書館に残されているが、最後の方に誰が読んでも驚くような内容の条文が書かれている。

「一、スペイン人で、当領内に滞在することを希望する者に対しては、その居住すべき場所及び土地を与える。万一、スペイン人と日本との間に、訴訟、論争または意見の相違が生じたときには、いかなる場合にも当人をスペイン人同士の統率者、または調停者であるスペイン人に引き渡すことを命令し、スペインの法律に基づいてその訴訟を解決し、右統率者または調停者の判断に従って裁判を行わせる。」

「一、スペイン国王と敵対関係にあるイギリス人、オランダ人、およびその他のいかなる国民でも、当領国内に渡来した者は、すべてこれを裁判に付す。詳細についてはルイス・ソテロが口頭で申上げます。」(同上書p152)

治外法権を認め、さらに単なる通商条約の枠組みにとどまらず、スペインの敵国であるイギリス、オランダ両国を政宗の領内から排斥することを約束している軍事同盟まで踏み込んだ内容になっている。

この「申合条々」は、船が出帆する直前に書かれたものであるが、明らかに幕府のキリシタン禁教方針や、オランダや英国との関係を重視する方針とも異なるものであり、幕府の承諾が得られるはずのない内容であった。
この時ソテロも熱弁を奮うのだが、フェリペ三世からはなんの返事も得ることが出来なかったという。

支倉常長はその後、国王に謁見時に口上で述べたとおり、フェリペ三世臨席のもと王立跣足女子修道院付属教会でキリスト教の洗礼を受けるのだが、対外交渉を良い結果に導くことにはならなかった。
結局使節団は、国王謁見の後約7ヶ月もマドリッドに居座るのだが、使節団が宿泊したサンフランシスコ修道院では厄介者扱いだったようだ。
スペイン政府にすれば、何の目的で来たかはっきりしない使節団に対し、巨額の経費をつぎ込むのは無意味であるとして、インティアス顧問会議が何度か国王に対して苦言を呈している記録が残っているし、使節団が修道院の病室や部屋に損傷を与え、それを修道院側が修理負担するのは理不尽だとの記録も残っている。

一方、この頃の日本はどういう状況にあったのだろうか。
慶長19年12月20日(西暦1615年1月19日)に豊臣家は大坂冬の陣で敗れ、慶長20年5月7日(西暦1615年6月3日)に大坂夏の陣で大坂城は陥落した。ソテロや支倉常長がスペインに滞在していたのはこういう時期だったのである。(使節団が国王に謁見した日:1615年1月30日)

また、同じキリスト教でもプロテスタントのオランダやイギリスは「キリスト教布教を伴わない貿易も可能」と主張していたため、この考え方であれば幕府にとって積極的に宣教師やキリスト教を保護する理由はなくなってしまう。この時期の幕府は明らかにカトリックのスペインを冷遇し、オランダとイギリスを厚遇する措置を取っていた。

平戸商館

慶長14年(1609)にはオランダ、慶長18年(1613)にはイギリスが肥前国(長崎県)平戸に商館を置いて「平戸貿易」を活発化させ、元和2年(1616)には、幕府はヨーロッパ船の来航を平戸と長崎に制限し、南蛮貿易(スペイン・ポルトガル)を縮小させた。
スペインにはそのような日本の情報が遅ればせながら入っていたはずで、国王フェリペ3世が、政宗が提示した「申合条々」に何の回答もしなかったのは、日本側の諸事情がある程度わかっており、使節団は日本国を代表するものではないと判断していたと考えられている。

そして、何の成果もないままに1615年8月22日に使節団はローマに向かうことになるのである。
(つづく)

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教皇謁見を果たしスペインに戻ると、国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3

1615年8月22日、遣欧使節一行はスペインのマドリードを出発してローマに向かった。

Felipe_III_por_Velazquez.jpg

この直前の8月1日付でスペイン国王フェリペ3世(画像)は、ローマ駐在大使フランシスコ・デ・カストロ伯爵に対し、支倉常長以下使節一行がローマ滞在中に援助をするように命じた書簡を送っている。

「…日本における奥州の王の大使が当地に参り、今その地(ローマ)へ渡航しようとしております。その重大な目的については、彼が諸君らに直接告げるでしょう。当地で協議した用件(交渉事)は、われらの主のために非常に有益であった。朕の名において彼(支倉)を助け、彼が諸君に求めることはすべて朕が非常によく奉仕したように、貴下も同様に彼らのために最も都合の良い方法で援助するように命じます。…」(「伊達政宗の密使」p.164所収)

この書簡の中で国王は支倉常長を「誠実で尊敬できる人物であり、人柄も賞賛を受けるに値し」と絶賛しているのだ。

しかしながら、同時に国王は駐ローマ・スペイン大使に宛てた書簡で次のようにも書いている。

「(ソテロや支倉が)貴下に、当地(スペイン)で拒否したことを許可するよう教皇パウロ5世に嘆願することを依頼し、もし教皇がこれを許可することがあれば、大変な不都合が生じる。いまその請願の各項目に対する(わが国の)返答を送付するので、もしこれらの諸項について教皇に請願するようなことがあったら、これを妨害せよ。これは日本におけるキリスト教の事情(迫害のこと)に鑑み、またこの施設が日本皇帝でなく奥州王の命令によって渡来したものであり、重要とは認め難いからである。」(同上書p.178-179所収)

したがって、ローマ駐在スペイン大使は使節の側面的な支援はしても、使節の使命達成のために力を尽くすことはなかったのだ。

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使節一行は1615年10月12日にイタリアのジェノバ港に到着し、翌日に共和国大統領に謁見している。そして10月25日についにローマに到着した。

使節一行はフランシスコ修道会のサンタ・マリア・アラチェーリ修道院で宿泊し、支倉とソテロはローマに到着後直ちにモンテ・カバルロのクィリナーレ宮殿にて、非公式にローマ教皇パウロ5世に謁見したという。

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この時の謁見の様子について、マドリードからこの使節に同行したローマ人歴史家のアマーティ博士の記録が残されている。

支倉常長は「…教皇の足許にひれ伏し、使節に多くの栄誉を授けられたこと、そして奥州王の名代として教皇聖下に服従と忠誠の誓いを無事にできるように導いてくれた神に対してお礼を申し上げ…」 ローマ教皇は、「使節の願いが完全に叶えられるように援助するよう努力しなければならない」と表明したものの、支倉らの要求に対しては即答を避けたとのことである。

10月29日に遠来の使節一行を歓迎する入市式で、軽騎兵を先頭に各国の大使や貴族らが着飾って行進する中で使節一行は各人が刀や脇差を帯刀して行進した記録が残されている。

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そして、11月3日に教皇宮のクレメンス広間の右にある部屋で、使節は正式にローマ教皇聖下に謁見することになる。

そこには教皇聖下のほか、枢機卿、大司教、司教、各国の大使らが着座しており、支倉常長は日本語で言上したのち、日本語及びラテン語で書かれた伊達政宗の親書を教皇に奉呈した。

この親書で政宗は、教皇に対し、ソテロと支倉は自分の名代として、教皇聖下に服従と忠誠を誓うために
① フランシスコ会所属の宣教師の派遣要請
② 大司教区の高位聖職者の任命
③ メキシコとの直接通商交易開始を実現するための仲介
④ 政宗および領国が教皇の最高権力の下に入ること
などを請願した。

上記の請願の回答については、同年の12月27日と翌年の1月2日になされるのだが、聞き入れられたのは宣教師数名の派遣のみであった。伊達政宗の領国内に司教区を設置することは拒否され、通商交易の開始の請願については教皇としては関与することは望まず、スペイン教皇特使に命じて、スペイン国王に依頼したいとの返事であった。
また4番目の請願については、教皇は次のように述べたという記録が大泉氏の著書に出ている。

「聖霊の御恵みによって貴殿(政宗)が生まれ変わり、イエズス・キリストを頭と仰ぎ、その境界に属することにより、ローマ教皇座より御子キリストにおいて最も愛する諸王に与える、恩恵及び厚遇を貴殿に与え、貴殿並びに貴殿の領国を私の聖ペトロの保護のもとに置きましょう。」(同上書p.183-184所収)
つまり、政宗が洗礼の秘跡を受けてキリスト教の信者にならずして、政宗とその領国をローマ教会の配下に置くことは認められないということだ。前々回の記事で紹介したとおり、政宗は親書の中で、「私はキリシタンになりたいと思うに至ったのですが、今のところ、どうしてもそうすることのできないような、差し障りになる事情があるため、まだ、そうするまでに至っておりません。」と書いていた点を突かれたのだ。

使節一行はローマに75日間滞在したが、期待した成果をほとんど得ることなく1616年1月7日にローマを去り再びスペインに向かったが、ようやくスペインに戻るとインディアス顧問会議から国外退去の勧告を受けている。

1616年7月5日付の交易裁判所から国王宛の書簡に次のようなものがある。
「…奥州王の大使が、(アンダルシア管区の)聖フランシスコ修道会のロレート修道院に居座ってしまっていた知らせを受けた。直ちに、当市に滞在していたフライ・ルイス・ソテロに対し、私、裁判長が奥州王の大使が留まることに不都合があると警告した。」(同上書p.201所収)

しかし、帰国を迫られたソテロと支倉は、政宗との密約を何も果たさずに仙台には帰れないと考え、国王陛下からの書状なしでは乗船できないとして、この修道院に約一年間留まったのだ。

1617年6月13日、インディアス顧問会議は支倉に対して強制的な国外退去を命じたが、支倉の執念によりその3日後にソテロが選任したフランシスコ会修道士8名を派遣することに合意し、政宗の「申合条々」(協約案)に関しては、一行がフィリピンに着いたときにソテロに返書を渡す確約をとった。これ以上スペインに留まっても意味がないことを悟った一行は、7月4日にセビリャから帰国の途に就いたのである。

翌年6月に使節はフィリピンに到着しここで約2年滞在し、滞在中にスペイン国王から政宗に宛てた返書を受け取ったのだが、この返書は儀礼的なもので、政宗が要望した点について具体的な回答はなかったという。

1620年8月26日、使節一行はマニラを離れ7年ぶりに長崎に向かうのだが、ソテロはフィリピンにとどまらざるを得なかった。ガルシア・セラノ・マニラ大司教がソテロの日本帰還を認めなかったためだ。

ソテロが日本に帰れなかったのは、イエズス会の宣教師ジェロニモ・アンジェリスが1617年11月28日付のイエズス会総長に宛てたソテロ批判の書簡が大きく影響したという。そこにはこう書いてあった。

「ソテロ師は使節に己の欲することを言わせたのであり、すべては天を騙したのである。何となれば、政宗は決して使節を教皇とスペインに派遣することを夢見たのではなく、彼が望んだのは船をメキシコに遣わすことだったからである。…ソテロがこの使節により求めていたのは日本の大司教座と大司教(のポスト)を得ることであった。しかし、彼にとって、事はうまく運ばず、彼らの代理人たちを(ヨーロッパへ)派遣したことにより彼の計略は露見した。彼が二度と日本に戻らぬことをデウスが嘉し給わんことを。なぜなら、もし彼が(再び)来たならば、我らを大いに不快にさせ、我らが常に訴訟を携えねばならなくなるからである…」(同上書p.212-213所収)

ところで、ソテロを批難する記録の多くはイエズス会によるものである。
ソテロはフランシスコ会の宣教師だが、使節に関し多くの書簡をスペイン国王やローマ教皇宛てに送ったアンジェリスやインディアス顧問会議の中心メンバーはイエズス会であった。 当時、フランシスコ会とイエズス会が対立関係にあったことをある程度割り引いて考える必要があるのだが、そもそもソテロという人物は信頼に足る人物であったのだろうか。

ソテロは日本語もラテン語もスペイン語も使いこなすことができたのだが、使節の日本人にソテロの翻訳が正しいかどうかを的確に判断する能力のある人物がいなければ、ソテロにすれば、二枚舌や三枚舌を使って政宗やスペインを騙してうまく立ち回ることが容易だったという見方もできるだろう。

しかし、もし彼がイエズス会が描いたような詐欺師のような人物だとすれば、1622年に命の危険を冒してフィリピンを脱出し、長崎に密入国したことをどう解釈すればよいのだろうか。

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  【支倉常長像:ボルゲーゼ宮】
ルイスソテロと支倉常長
  【ソテロと支倉常長:キリナーレ宮】
また日本人の中で最初に西洋で油絵の肖像画を描かれたのは、ローマで描かれた支倉常長で、この絵はボルゲーゼ宮という17世紀の代表的な宮殿に飾られているのだ。さらにソテロと支倉常長が談笑しているところを描いたフレスコ画は、当時の法王の居城で今は大統領官邸であるキリナーレ宮に描かれている。支倉やソテロという人物に敬意なくしてこのような絵が格式の高い宮殿で制作されるだろうかとも思えるし、ひょっとすると国王や法王は二人を評価していたが、日本におけるフランシスコ会の勢力拡大を阻もうとするイエズス会の妨害により、話が進まなかった可能性も考えられるのだ。

つまるところ「慶長の遣欧使節」はソテロという人物をどう見るか、イエズス会の記録をどう読むかで、評価が全く異なることになってしまう。

次回は、その後江戸幕府はどう動き伊達政宗はどう対応したか、ソテロや支倉常長はその後どうなったかなどを書くことにしたい。(つづく)
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伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4

慶長遣欧使節は日本人が初めてヨーロッパの国を訪れて外交交渉をし、1615年1月30日にはエスパーニャ国王フェリペ3世に、同11月3日にはローマ教皇パウルス5世に謁見したのだが交渉は成功せず、支倉常長は、ソテロをフィリピンに残したまま、元和6年8月24日(1620年9月20日)に帰国した。
伊達政宗は常長から遣欧使節の絶望的な報告を聞いたはずなのだが、記録は何も残されていない。

支倉常長が日本を出発した慶長18年9月15日(1613年10月28日)から7年が経過し、その間にキリシタン弾圧が強化されていった。まずこの経過を見てみたい。

江戸幕府は遣欧使節が出発する前年の慶長17年3月21日(1612年4月21日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告している。
そしてその翌年の慶長18年2月19日(1613年1月28日)、幕府は直轄地へ出していた禁教令を全国に広げ、家康は金地院崇伝に命じて「伴天連追放之文(バテレン追放令)」を起草させ、秀忠の名で23日に公布させている。慶長遣欧使節が出航する半年前のことだが、この禁教令が徳川幕府のキリスト教に対する基本法となる。

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この禁教令が出た影響で、慶長19年9月(1614年11月)には高山右近らが国外追放されたりしているのだが、この頃の取締りはまだゆるやかで、密かに日本に潜入する宣教師たちも後を絶たず、京都には「デウス町」と呼ばれるキリシタンの居住区も残されていたそうだ。幕府が徹底的な対策を取れなかったのは、宣教師が南蛮貿易(特にポルトガル)に深く関与していたためで、取締りが厳しくなるのはもう少し後の元和5年(1619)の禁教令の頃のようだ。この年の10月に2代将軍秀忠は京都の六条河原でキリシタン52名を火炙りの刑に処している。また遣欧使節が帰国した年の元和6年(1620)にはキリシタンを大量捕縛し、それ以降は年々取締りが厳しくなっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E6%95%99%E4%BB%A4

話を支倉常長の帰国に戻そう。
少なくとも支倉常長が帰国するまでは、伊達政宗キリシタンを弾圧することはなかった。政宗がキリシタンの取り締まりを決意したのは、常長らが仙台に帰着する直前のことである。

その時仙台にいたイエズス会のアンジェリス神父は伊達政宗の豹変ぶりを次のように書いている。
「1620年伊達政宗のキリシタンに対する態度は突然変わった。この年の秋までは奥州のイエズス会士はまだ466人に洗礼を施すことができた。しかし9月4日*、青天の霹靂のごとくキリシタンの厳しい禁令が出て、伊達の家臣はすべてキリシタン信仰を捨てることを命ぜられた。この禁令の動機となったのは、恐らく支倉六右衛門**が長崎に上陸したという知らせであったろう。それで、政宗は江戸幕府から疑惑の目をもって見られることを恐れ、嫌疑の先回りをしようとして、このキリシタン禁令を出したのである。」(大泉光一「伊達政宗の密使」p216所収)
*西暦で記載。和暦では元和6年8月8日。 **支倉常長のこと

伊達政宗像

またアンジェリス神父は1620年12月、イエズス会総長にあてた書簡に次のように書いている。(同上書p.216-217)
「彼ら(家康と秀忠)は、政宗が…謀反を起こすため、スペイン国王、およびキリシタンと手を結ぶ目的で大使を派遣したと考えたのであり、政宗は大使(支倉常長)の帰着により、キリシタンと手を結ぼうとしたのではないことを将軍に示そうと欲した。それ故、六右衛門が仙台に帰着して2日目にキリシタンに対する3か条からなる…高札が立てられた。…」
その高札の内容は、
① 領内のすべてのキリシタンは仏教徒に戻ることを命じる。棄教せぬ場合は武士は追放し、町人や百姓らは処刑する。
② 隠れキリシタンを暴いたものには褒美を与える。
③ すべての宣教師は領内を去るべし。キリスト教を棄教するのであれば留まることを認める。
というものだった。

政宗がキリシタンの弾圧を始めて1年後の元和7年(1621)に、奥州のキリシタンの代表者たちがローマ教皇に対し、政宗の迫害で多くの殉教者が出ていることを伝えた連署状がバチカンの極秘文書館に残っているそうだ。そこには、
「…去歳上旬の比、伊達政宗、天下を恐れ、私の領内におゐて、へれせき(迫害)さんをおこし、あまた(数多)まるちれす(殉教者)御座候。御出世以来千六百廿年せてんほろ(9月)の廿日よりせんさく(穿鑿)仕りはじめ、…」(同上書p.218)
と書かれている。伊達政宗がキリシタンの取調べを開始したのが西暦1620年の9月20日だというのだ。これは、支倉常長が仙台に戻った日ではないか。

以前このブログで、慶長遣欧使節によってローマ教皇に奉呈された日本のキリシタンの連署状を紹介した(「伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~その1」)。
その内容は、徳川幕府のキリスト教禁教の流れの中で、政宗が日本の将軍となってキリスト教を保護してくれることを熱望するものであった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html
その伊達政宗が、自らの保身のためにキリスト教の取締りを強化した。奥州のキリシタンたちは、伊達政宗に裏切られたことを断腸の思いを込めてローマ教皇に宛てて連署状を伝えたということだろう。

元和9年(1623)伊達政宗は江戸参勤中に第3代将軍家光に招かれ、その席で奥州のキリシタン弾圧を申し渡されている。それ以降政宗のキリシタン弾圧は更に厳しくなる。

政宗のキリシタンに対する処刑がいかに残酷であったことは、ネットでもいろんな人が書いているが、次のサイトを読めばいつどんな方法で処刑されたかがわかる。
http://tenjounoao.web.fc2.com/mysite1/place/miyagi/biwakubikeijou.html

ここに書かれている「水籠」は水責めの拷問の中でも最も残酷なもので、厳冬の最中に広瀬川河畔に作られた水籠の中の柱にイエズス会のカルヴァリョ神父らを裸で縛り付け、何度も氷結した水籠の水の中に漬けられて凍死させ、さらに遺体は切り刻まれて広瀬川に流されたという。

仙台殉教

また仙台城址に近い大町西公園の一角に、仙台キリシタン殉教碑があるそうだ。次のURLで紹介されている。
http://tenjounoao.web.fc2.com/mysite1/place/miyagi/senndaijunnkyouhi.html

当時の記録を調べると、政宗が謀反を起こすのではないかということをいろんな人が書いている。
政宗はどこの藩よりもキリシタンを厳しく取り締っていることを幕府にアピールすれば、自分がキリスト教勢力と組んで謀反を起こそうとしているという噂を打ち消すことができると考えたのではないだろうか。

政宗の謀反説についてはWikipediaに記されているが、これを読むと謀反説が決して作り話ではないことがよくわかる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97

政宗が謀反をたくらんでいることが当時の記録の中からいくつも出てくるのである。上記のURLの記事の中からいくつかを紹介しよう。

徳川家康

たとえば、仙台藩の庇護を受けていたイエズス会宣教師のジェロニモ・アンジェリスは次のような手紙を本国のイタリアに送っている。
「テンカドノ(家康)は政宗がスペイン国王に遣わした使節のことを知っており、政宗はテンカに対して謀反を起こす気であると考えていた。彼ら(家康・秀忠父子)は政宗がテンカに対して謀反を起こすため、スペイン国王およびキリシタンと手を結ぶ目的で大使(支倉常長)を派遣したと考えた。」

また、政宗自身も幕府軍と天下を争うことになった場合を想定して、その作戦を立案していることが「東奥老子夜話」に書かれている。この文書には「仙台川を堰き止めて仙台南部を水浸しにして幕府軍の進軍を阻止し、さらに狭隘地に幕府軍を誘い込んで迎撃する一方で、一揆衆を幕府軍後方で扇動し、後方を攪乱するつもりだった」などとかなり具体的に書かれていて興味深い。

また徳川幕府も政宗の謀反を警戒していたことが記録にある。「政宗公御名語集」という書物に、徳川幕府が政宗の謀反を警戒した話がある。
一つは寛永5年(1628)3月に政宗が二代将軍徳川秀忠を仙台藩江戸屋敷に招待して供応した際に、政宗自らが秀忠の前に膳を運んだのだが、秀忠の側近の内藤正重が政宗に毒見を要請したのを政宗は激怒して発した言葉が面白い。「10年前の自分なら謀反を考えたかもしれないが、その時ですら毒殺のようなせせこましいことではなく、一槍交えて戦おうとしただろう」というのだ。その「10年前」というのは慶長遣欧使節がスペイン国王、ローマ教皇の謁見を終えて、フィリピンに滞在していた頃のことなのである。

また上記「政宗公御名語集」には徳川家康が駿府城で死の床に臥していたとき、政宗が謀反を起こすという噂が立ったので、家康は自分の病気にかまわず奥州征伐のための軍を起こそうとしていた話を、政宗は徳川秀忠から直接聞いたという話もある。

政宗がスペイン勢力やキリスト教勢力を味方につけて討幕を考えていたことはほぼ確実だと思うのだが、慶長遣欧使節が失敗に終わってその夢を捨てた。そして今度はキリスト教を弾圧し、幕府の宗教政策に率先して協力することすることで信頼を取り戻そうとしたということなのだろう。

その後ルイス・ソテロと支倉常長がどうなったか。

放虎原殉教地

ソテロは前回の記事で書いたようにガルシア・セラノ・マニラ大司教がソテロの日本帰還を認めなかったためにフィリピンにとどまったが、元和8年(1622)長崎に密入国したが捕らえられ、この際も伊達政宗の助命嘆願があったが容れられず、寛永元年(1624)に大村藩(長崎県) 放虎原(ホウコバル)でフランシスコ会の宣教師2名、イエズス会とドミニコ会の宣教師各一名と共に火刑により殉教したとある。(上の画像は放虎原にある「日本二百五福者殉教顕彰碑」)
http://tenjounoao.web.fc2.com/mysite1/place/nagasaki/houkobaru.html

支倉常長像

支倉常長については元和8年(1622)に死去したという記録があるそうだが、面白いことに宮城県内に3か所の墓があり死亡日がいずれも異なるのだ。たとえば次のサイトで常長の墓のレポートがなされている。
http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/45b1d59df299543e8e920ce9a9102830

帰国の2年目に死んだとの記録もあるようだが、おそらく死んだことにされて墓まで作られたのだろう。またその後キリスト教を棄てたとも言われているが、これも棄てたことにされたのだろう。ちなみに息子の常頼は、寛永17年 (1640)にキリシタン禁制を破った罪で領地没収の上、切腹を命じられ、支倉家は断絶されている。本当に常長が棄教したのであれば、こういうことはありえないと思うのだ。

常長自身が記録した訪欧中の日記が文化9年(1812)まで現存したそうだが、現在は散逸しており幻の史料となっているという。慶長遣欧使節については国内の資料がほとんどなく、フランシスコ会と対立するイエズス会がソテロと使節を中傷する記録を多く残していることが、何が真実かを分かりにくくさせているのだ。当事者の支倉常長の日記がもし見つかれば、多くの謎が解明されることが期待できるのだが、残念なことである。
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浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした原因は何だったのか~~忠臣蔵1

毎年12月になるとよく「忠臣蔵」に関する番組が放映される。
子供のころから何度もよく似たドラマや映画などを見てきたが、これだけ何度も実在した人物の名前で演じられるので、大半が実話なのだろうと長らく思ってきた。

赤穂浪士出陣

Wikipediaによると、『忠臣蔵』とは
「江戸時代中期、元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)、江戸城内の松の廊下にて赤穂藩藩主浅野長矩が、高家肝煎・吉良義央に切りつけた刃傷沙汰に端を発する。松の廊下事件では、加害者とされた浅野は、即刻切腹となり、被害者とされた吉良はおとがめなしとされた。その結果を不服とする家老大石良雄をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人(赤穂浪士、いわゆる“赤穂四十七士”)による、元禄15年12月14日(西暦1702年1月30日)の本所・吉良邸への討ち入り及びその後の浪士たちの切腹までを題材にとった物語の総称として使われる。
ただし忠臣蔵は、かなりの演出・創作・脚色が行われており、必ずしも史実の通りではないことも周知とされている。」とある。

物語や映画などにかなりの演出・創作・脚色は付き物だが、ではどこまでが史実でどこまでが作り話なのかという肝心なことが何も書かれていない。

忠臣蔵』のハイライトは言うまでもなく赤穂浪士の討ち入りの場面だが、このきっかけとなったのは江戸城中松の廊下の刃傷事件だ。今回は松の廊下の事件について考えてみたい。

松の廊下

子供の頃から疑問に思っていたのだが、なぜ刃傷事件の被害者である吉良上野介が悪者となるのか。本来は逆で、江戸城中で勅使接待役の浅野内匠頭が本来の業務を捨てて刀を抜き吉良を斬りつけた方がはるかに悪者ではないのか。

刃傷事件の起こった日は、勅使(天皇の使者)が江戸城内に入って将軍と面談し、天皇のお言葉(勅語)を受けた将軍が挨拶を返す(勅語奉答)という最大の儀式が行われる日であり、浅野内匠頭は勅使御馳走役という勅使接待の直接担当者で、接待総責任者の吉良に対して刃傷事件を起こしたということなのだ。
浅野内匠頭はこの重要な儀式をぶち壊してしまったのだが、この時の吉良上野介は全く無抵抗だった。普通に考えれば、悪いのは浅野内匠頭で、吉良はただの被害者だ。

それが、『忠臣蔵』のストーリーでは逆転してしまって、吉良が大悪人になってしまっている。

そもそも『忠臣蔵』は吉良が余程の大悪人でなければ成立しえない物語である。

吉良上野助

ところが、吉良上野介の地元である愛知県吉良町では、今も上野介を名君として称えているのだそうだ。上野介の功績としてあげられるのは、洪水に苦しむ領民のために「黄金堤」を築き、また、新田の開拓に努めた、吉良庄に立ち寄ると赤毛の馬にまたがり領内を巡検し、領民と語らったなどである。実際吉良町には「赤馬」という郷土玩具があるが、これは上野介の馬をモチーフにしたという。
世間の吉良への逆風をものともとせず、今もって名君として慕われているというのだが、どうも『忠臣蔵』とのギャップがありすぎるのだ。

では、当時の記録ではどう書かれているのかを見てみよう。

江戸城中間取り

まず、松の廊下で浅野が吉良に切り付けた時、後ろから浅野を羽交い絞めにして取り押さえた梶川与惣兵衛頼照(かじかわよそべえよりてる)という人物が、この事件の一部始終を書き残している。(『梶川氏筆記』)
この文書を原文とともに現代文に訳して読みやすくしているサイトがあるのはありがたい。
http://chushingura.biz/gisinews02/news042.htm
これによると、

「…内匠殿が参られたので、『私儀、今日、伝奏衆へ御台様よりの御使を勤めるので、諸事よろしくお頼みます』と申しました。
内匠殿は『心得ました』と言って本座(所定の場所)に帰られました。

その後、御白書院(桜間)の方を見ると、吉良殿が御白書院の方よりやって来られました。そこで、坊主に吉良殿を呼び遣わし、吉良殿に『その件について申し伝えるように』と話すと、吉良さんは『承知した』とこちらにやって来たので、私は、大広間に近い方に出て、角柱より6~7間もある所で、吉良さんと出合い、互いに立ったままで、私が『今日、御使の時間が早くなりました』と一言二言言ったところ、誰かが、吉良殿の後ろより『この間の遺恨覚えたるか』と声をかけて切り付けました。その太刀音は、強く聞こえましたが、後で聞くと思ったほどは切れず、浅手だったそうだ。

私たちも驚き、見ると、それは御馳走人の内匠頭殿でした。上野介殿は、『これは』と言って後の方へ振り向かれました所を、また、内匠頭は切り付けたので、上野介は私たちの方へ前に向き直って逃げようとした所を、さらに二太刀ほど切られました。

上野介殿はそのままうつ向きに倒れられました。
吉良殿が倒れたとほんとうにびっくりした状態で、私と内匠頭との間は、二~三足ほどだったので組み付いたように覚えています。その時、私の片手が内匠殿の小刀の鍔にあたったので、それと共に押し付けすくめました。

浅野内匠頭

内匠殿を大広間の後の方へ大勢で取り囲んで連れて行きました。
その時、内匠殿が言われるのは、『上野介の事については、この間からずーっと意趣があったので、殿中と申し、今日の事(勅使・院使の接待)のことに付き、恐れ入るとはいえ、是非に及ばず、討ち果たしたい理由があり』ということを、大広間より柳の間溜御廊下杉戸の外迄の間、何度も何度も繰り返し口にされていました。
刃傷事件のあった後なので、咳き込んで言われるので、ことのほか大声でした。高家衆はじめとり囲んで連れて行く途中、『もはや、事は済んだ。お黙りなされよ。あまり高い声では、如何かと思う』と言われると、その後は言わなくなりました。

この時のことを後に思い出して考えると、内匠殿の心中を察し入る(同情する)。吉良殿を討ち留めされなかったことは、さぞさぞ無念であったろうと思います。誠に思いもかけない急変だったので、前後の深い考えも及ばず、上のような取り扱い(抱き止め)をしたことは是非も(仕方が)ありませんでした。
とは言っても、これらのことは、一己(じぶんだけ)のことで、朋友への義のみです。上へ対してはかのような議論には及ばないのは勿論ですが、老婆心ながらあれこれと思いめぐらすことも多くあります。」

有名な『この間の遺恨覚えたるか』という部分がない写本もあり、この部分は後世に挿入されたという説もあるようだが、この文書のポイントとなるところをまとめると、
浅野内匠頭吉良上野介を斬る直前は、吉良は梶川と話していた。
② 浅野内匠頭は吉良上野介を後ろから斬りかかり、合計で四太刀も浴びせている。その後梶川が止めに入る。
③ 浅野が吉良を斬った理由はずっと恨みに思っていたからというのだが、何があって恨みに思っていたかは具体的には何も書かれていない。
となる。

これが芝居や映画では、多くの作品が
① 吉良が浅野内匠頭を侮辱する。
② 浅野内匠頭が「吉良待て」と声をかけてから正面から吉良に一太刀浴びせ、吉良は額に傷を負う。
③ 逃げる吉良を追って浅野は吉良の肩口に一太刀浴びせる。そこへ梶川が止めに入る。

となっている。

梶川与惣兵衛頼照は大奥御台所付き留守居番であり、現場にいた彼の記述が事実とかけ離れたことを書くことは考えにくいのだが、彼の記述を正しいとすると浅野内匠頭は吉良を不意打ちしている卑怯な男で、しかも四太刀も浴びせながら吉良を仕留めることができなかったのではダメな武将になってしまう。これでは物語にならないことは誰でもわかる。
四十七士の義挙の物語を描く上では、浅野内匠頭が善玉であり吉良上野介が悪玉でなければならないだろう。なぜならば、吉良が善玉であるならば、四十七士が吉良を討ち入りに行くことに「義」がないことになってしまうからだ。

それゆえに芝居や映画では、吉良は悪い男に描かれることになる。
吉良が浅野に対して多額の賄賂を要求したとか、間違ったことを浅野に教えて恥をかかせたとか、当日浅野を大勢の前で罵倒したなど諸説があるが、そのようなことを記録した当時の史料は存在せず、事件の後で創作されたものである。

では浅野内匠頭の家臣は、主君が吉良を斬った理由について心当たりがあったのだろうか。

吉良邸討ち入りに参加した赤穂浪士の手になる文書が今に残されている。

大石内蔵助

大石内蔵助が書いた口上書には、
「去年三月、内匠頭儀、伝奏御馳走の儀につき、意趣を含み罷りあり、殿中に於いて、忍び難き儀ご座候か、刃傷に及び候。…」とあり、主君が吉良を斬りつけた理由については「何か我慢できないところがあったのか」と、家臣ですら肝心なことがよくわかっていないのだ。

『忠臣蔵』のストーリーに影響されてか、浅野は吉良に恨みを持っていたという説が多数説になっている。しかしそれを裏付ける確実な当時の史料は存在せず、浅野内匠頭は何も語らないまま処刑されてしまった。

確かな裏付けがない事から、浅野内匠頭が発狂したとか、精神障害があったという説も結構根強くある。浅野内匠頭自身が当時鬱状態で治療を受けていたことや、内匠頭の母方の叔父にあたる内藤忠勝という人が刃傷沙汰を犯して切腹させられている事実もあり、遺伝的にそのような事件を起こす要素があったという説もはかなり説得力がある。
http://www.geocities.jp/toshio2003jp/tyusin-4.html

しかし、『忠臣蔵』の愛好家には、浅野内匠頭に精神障害があったという説は受け入れがたい事だろう。これでは感激のドラマには到底なりえないからだ。

多くの人が歴史小説や時代劇や映画やドラマを親しみながら知識を蓄積してこられているが、小説等には多かれ少なかれ創作部分が含まれていることに留意すべきである。それがわかっていても、ストーリーの中に実在の人物が出てくると、その多くが史実であるかのように錯覚し、作者の描く人物像に強く影響を受けることは避けられないだろう。

それが国民の常識になっているような歴史上の出来事であっても史実ではないことが少なからずあることをこのブログで何度か書いてきたが、どんな有名な事件であっても多数説を鵜呑みにするのではなく、複数の説を読み比べて自分で考えることが、事実が何かを知る上で重要なのだと思う。

それでも史料がある時代は、議論のできる余地があるからまだ良い。史料のない時代について、実在したとされる人物のドラマを、あたかも真実であるかの如くにドラマ化してテレビに放映されては、多くの国民はそれが真実だと受け取ってしまうだろう。
隣の朝鮮半島に残っている最古の歴史書は『三国史記』で、12世紀(1145年)に書かれたものでしかない。
http://dametv.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-89c6.html


それ以前の時代のドラマはほとんどすべてが想像の産物であるのだが、韓流ドラマを見てこれが史実だと信じて憧れる日本人が多いことは嘆かわしいことである。何らかの韓国の政治的意図があるのだと思うのだが、そのようなドラマを流し続ける日本のテレビ局も困ったものだと思う。
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赤穂浪士の処刑をどうするかで、当時の幕府で大論争があった~~忠臣蔵2

前回の記事で赤穂浪士の吉良邸討ち入りも、吉良上野介が大悪人でなければただの殺人行為となってしまって物語が成り立たないことを書いた。
この討ち入りについて「主君の仇討ち」という言葉がよく使われるのだが、松の廊下では浅野内匠頭の方が吉良上野介を殺そうとして斬りつけたのであって、吉良が浅野を殺そうとしたのではない。普通に考えれば、浅野の家臣である赤穂四十七士が吉良邸に討ち入りすることを「仇討」というのはどこかおかしい。

江戸城松の廊下

そもそも浅野内匠頭吉良上野介を斬りつけた理由がよくわからない。『忠臣蔵』の物語には吉良がひどく浅野を苛めたことがいろいろ創作されて書かれているのだが、当時の記録からはそれらしき理由が見えてこないのだ。そして肝心の赤穂浪士もその理由がよくわかっていなかったとしか思えない。

刃傷事件の当日の浅野内匠頭に関する記事は、現場にいて後ろから浅野を羽交い絞めにして取り押さえた梶川与惣兵衛頼照の記した『梶川氏筆記』に詳しい。
該当部分の現代語訳は前回の記事で紹介したので繰り返さないが、この記録によると浅野内匠頭は吉良を「この間の遺恨覚えたるか」と声をかけて切り付け、取押えられてから大勢の前で「上野介の事については、この間からずーっと意趣があったので、殿中と申し、今日の事(勅使・院使の接待)のことに付き、恐れ入るとはいえ、是非に及ばず、討ち果たしたい理由があり」と何度も繰り返し口にしたという記述があるのみで、過去にどのようなことがあって吉良に恨みを持つに至ったかについては、浅野は何も語らなかった。

その後浅野内匠頭に対し老中の取調べがあり、取り調べにあたった目付の一人が記述した『多門伝八郎筆記』によると、こう書いてある。
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/siryo/siryo02c.htm

「私が内匠頭さんに『どうして場所を考えずに上野介さんに切りつけたか』と聞きました。内匠頭さんは一言の弁解もせず、『お上に対しては少しも恨みはありません。上野介には個人的な恨みがあり、前後も忘れて殺そうと切りつけました。この上はどのような処分でもお受けいたします』と答えました。
なおも内匠頭さんは『しかしながら、上野介を打ち損じたのはいかにも残念である』と悔しがっていました。」

というのだが、この『多門伝八郎筆記』は自己宣伝の臭いが強く、史料としてはあまり評価されていないようなのだが、この文書にも浅野が吉良に恨みを持った具体的な理由が書かれていないのは、浅野が何も語らなかったので書けなかったのだろう。

浅野内匠頭は即日切腹が命ぜられて田村右京太夫の屋敷に預けられる身となり、そこに訪ねてきた家来の片岡源五右衛門に遺言を残している。その遺言には

「兼ねては知らせ置く可く存ぜしも、その遑(いとま)なく、今日のことは已むを得ざるに出でたる儀に候。定めて不審に存ず可き乎。(かねてから知らせておこうと思ったが、その時間がなく今日やむを得ずやってしまった。さだめし不審に思うだろう。)」

と書かれているだけなのだが、この言葉を赤穂に持ち帰って大石内蔵助に伝えても、主君が吉良を斬りつけた理由は、誰もさっぱり判らなかっただろう。

このとおり死ぬ間際まで浅野内匠頭は吉良を斬りつけた理由を語らないまま処刑されてしまったのである。

しかし元禄15年12月14日に吉良邸への討ち入りは実行された。
浅野の家臣たちは主君が刃傷事件を起こすに至った理由が少しでもつかめたので討ち入りを決心したのかというと、そうでもなさそうだ。

浅野内匠頭家来口上

前回に紹介したが志士たちが討ち入りを決行した際に吉良邸の門前に突き立てられたとされる『浅野内匠頭家来口上書』という書状が残っている。
ここには内匠頭が「吉良上野介殿へ意趣を含み罷りあり候処(何か到底我慢ができないことでもあったでしょうか)」と述べているだけで、主君が吉良に刃傷に及んだ理由については、討ち入りを実行した時点でも何も分かっていなかったようなのである。

口上書はさらに「右喧嘩の節、御同席に御差留の御方これあり、上野介殿討留め申さず候。内匠頭末期残念の心底、家来共忍び難き仕合にご座候。…」と続き、討ち入りの理由は要するに、主君が吉良を恨んで殺そうとしたのだが、梶川与惣兵衛に止められて思いを成就することができなかった。なき主君が生前に果たそうとしたことを主君に代わって成し遂げたい、と言っているだけなのだ。
単刀直入に言えば、主君が殺そうとして殺せなかった吉良を殺して、主君の無念を晴らしたいということだが、これは仇討というよりも、恨みを残して死んだ主君の霊を鎮めるための行動と理解した方が適切であるような気がする。

吉良邸討ち入り

忠臣蔵』の物語がテレビや映画などで毎年のように放映されて、四十七士の討ち入りが義挙であると考えることが日本人の常識のようになっているのだが、忠義を奨励していた将軍綱吉や側用人柳沢吉保をはじめとする幕閣は、当時の民衆は四十七士に対する同情と讃嘆が白熱し、志士たちを預けていた細川、松平、毛利、水野各家から助命嘆願書が提出されていた中で、四十七士を死罪とするか切腹させるか助命するかで随分対応に苦慮した記録が残っている。

Wikipediaによると
「幕閣の中にも『夜中に秘かに吉良を襲撃するは夜盗と変わる事なし』と唱え、磔獄門を主張した者もいた(『柳沢家秘蔵実記』)。その一方で、主君仇討ち事件に大いに感激した幕閣もいて、その内部でも意見の違いがあった。」

「学者間でも議論がかわされ、林信篤や室鳩巣は義挙として助命を主張し、荻生徂徠は『四十六士の行為は、義ではあるが、私の論である。長矩が殿中もはばからないで罪に処されたのを、吉良を仇として、公儀の許しもないのに騒動をおこしたことは、法をまぬがれることはできない』と主張した。この荻生の主張が採用され、浪士には切腹が命じられた。『浅野は殿中抜刀の犯罪で死罪なのに、吉良を仇と言うのはおかしい。幕府の旗本屋敷に乗り込み多数を殺害する騒動には死罪が当然』というのが江戸幕府の見解ということになる。」とまとめられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A6%84%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6

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荻生徂徠の意見書は、理路整然としたもので非常にわかりやすい。この意見が将軍を動かして赤穂浪士に対し「切腹申付」を決心させたものである。福島四郎著『正史忠臣蔵』という本に現代語訳がでている。この本は今は絶版となっているが、次のURLの「林大学頭と荻生祖裸の対立意見」のところで誰でも読むことができる。
http://books.salterrae.net/amizako/html2/seishichuushinngura.txt

「大石ら四十余人は、亡君の仇を復したといわれ、一般世間に同情されているようであるが、元来、まず上野介を殺さんとしたのであって、上野介が内匠頭を殺さんとしたのではない。だから内匠頭の家臣らが上野介を主君の仇と狙ったのは筋違いだ。内匠頭はどんな恨みがあったのかは知らんが、一朝の怒りに乗じて、祖先を忘れ、家国を忘れ、上野介を殺さんとして果たさなんだのである。心得ちがいといわねばならぬ。四十余人の家臣ら、その君の心得違いを受け継いで上野介を殺した、これを忠と呼ぶことができるであろうか。しかし士たる者、生きてその主君を不義から救うことができなんだから、むしろ死を覚悟して亡君の不義の志を達成せしめたのだとすれば、その志や悲しく、情に於いては同情すべきも、天下の大法を犯した罪は断じて宥 (ゆる) すべきではない。」

「…内匠頭は殿中を憚らずして刃傷に及び処刑せられたのであるから、厳格に言えば内匠頭の仇は幕府である。しかるに彼らは吉良氏を仇として猥りに騒動を企て、禁を犯して徒党を組み、武装して飛道具まで使用したる段、公儀を憚らざる不逞の所為である。当然厳罰に処せられるべきであるが、しかし一途に主君のためと思って、私利私栄を忘れて尽したるは、情に於て憐むべきであるから、士の礼を以て切腹申しつけらるるが至当であろう。…」

「…もし私論を以て公論を害し、情のために法をニ、三にすれば、天下の大法は権威を失う。法が権威を失えば、民は拠るところがなくなる。何を以て治安を維持することができよう。」

荻生徂徠はこのように赤穂浪士同情論を排して法を犯した罪を問うべきであり、情のために法を曲げれば、法が権威を失って治安を維持できないと述べており、法治国家として極めて当然のことを述べている。

荻生徂徠よりももっと厳しく、儒学者の佐藤直方は「…仙石の屋敷まで自訴して出て、上の命を待った。これは死をのがれ、あわよくば賞誉してもらおうとの魂胆に外ならない。流浪困窮して腹立ちまぎれに吉良を討ったもので、忠義心や惻怛(そくだつ:いたみ悲しむ)の情から出た行動ではない」と、もっと厳しい評価をしているのだ。

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荻生徂徠佐藤直方も現代でも通用するような正論を堂々と述べているのだが、幕府も自らの命を捨てて亡き主君の思いを成し遂げた四十七士を義士と認め、義士の行動を賞賛する世論に迎合した『忠臣蔵』が書かれ、それが舞台で演じられ映画やテレビ番組でも何度も放映されて、史実とかなり違う物語が日本人の常識になってしまった。

しかし、一旦日本人の常識となってしまうと多くの人の思考が停止してしまい、異論が耳に入らなくなることは決して好ましい事ではない。大激論となった四十七士の処分に関する議論を少しでも知ることで、元禄時代がもっと身近に感じられて、この時代の歴史を学ぶことが楽しくなってくる。
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赤穂浪士に切腹を許した江戸幕府の判断は正しかったのか~~忠臣蔵3

吉良邸討ち入りを決行した赤穂浪士を死罪とするか、切腹させるか、助命するかで意見が割れて幕府がその判断に随分苦慮したことを前回の記事で書いた。

当時の著名な学者にも意見を求め、結局荻生徂徠の意見が採用されて赤穂浪士たちには切腹が命じられたのだが、五代将軍徳川綱吉はこの裁断を下すのに、なんと四十日近くかけたのだそうだ。

綱吉

将軍綱吉といえば貞享4年(1687)に出した「生類憐みの令」があまりに有名で、厳しい態度で政治に臨んで民衆を苦しめたイメージがあるのだが、学問を重んじて文治政治を推進し、好景気を現出して近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉らの文化人を生み、新井白石、室鳩巣、荻生徂徠らの学者を多く輩出し、最近では少なくとも綱吉の治世の前半については評価が高まっているという。
綱吉は特に儒学(朱子学)を重視した影響から尊皇心が非常に厚く、元禄14年(1701)の松の廊下事件の際に、浅野内匠頭が大名としては異例の即日切腹に処されたのは、将軍綱吉が朝廷との大事な儀式を浅野のために台無しにされたことに激怒し、直ちに切腹させることを命じたからである。

しかしながら松の廊下事件の時は、浅野内匠頭の切腹を即日に執行させた将軍綱吉が、吉良邸討入りの時は赤穂浪士の処分の決定に四十日近くかけてしまったのは何故なのか。
普通に考えれば、綱吉が松の廊下で吉良を斬りつけた浅野内匠頭の行為を許せないのであれば、浅野の家臣が吉良を討ち取った行為を直ちに厳罰に処す裁断がおりなければ辻褄が合わないのだ。

将軍綱吉の考えが明確に文章で残されているわけではないが、裁断を下すのに四十日近くかかったという事は綱吉が厳罰説ではなかったことを意味する。
幕府の公式的な考え方は大学頭の林信篤が唱えた助命論と考えるべきであろう。
林信篤の説は、「天下の政道は忠孝の精神を盛ならしむるを第一とする。国に忠臣あり、家に孝子あれば、百善それから起って、善政おのずから行われる。」と、赤穂浪士のように家臣が主君に対して絶対的に忠実であるならば、当然大名の将軍に対する忠義も揺るがないという考え方で、「もしかかる忠義の精神を一貫して亡主のために尽した士を処罰する時は、忠孝御奨励の御趣旨を滅却することになり、御政道の根本が覆ってしまう。」と、四十七士を直ちに無罪とすべきと論じている。

しかし、幕閣の中には赤穂浪士を厳罰に処すべきとの意見もあり、幕府は当時の学者に意見を求めたところ、同様に死罪とするか、切腹させるか、助命するかの意見が分かれたが、法の権威を維持すべきとの荻生徂徠の説が採用され、全員切腹と相成った。

死罪説と切腹説との違いは、赤穂浪士を単なる犯罪者として処刑するか、武士の体面を保つ方法で処刑するかの違いで、赤穂浪士を義士と認めるかどうかにポイントがある。また助命説は、赤穂浪士を義士と認めて助命させようとする説であり、結論は異なるものの討ち入りを義挙と考える点では切腹説と同じである。

忠臣蔵討ち入り

赤穂浪士の討入りを普通に考えれば、徒党を組んで他人の家に押し入って主人を殺すという犯罪行為である。吉良上野介は、処刑された浅野内匠頭が恨んでいたという理由で殺された被害者であったにもかかわらず、吉良を殺した赤穂浪士の行為を幕府が「義挙」とした判断を、吉良の関係者にとっては容認し難いものであっただろう。

この赤穂浪士の討入りを義挙とすることにこだわった幕府の判断に、問題はなかったのだろうか。
幕府は、大学頭である林信篤の「家臣が主君に対して絶対的に忠実であるならば、当然大名の将軍に対する忠義も揺るがない」の考え方で赤穂浪士を義士として認めてしまったのだが、この判断は幕府の大失敗で、後に幕府を滅ぼすことにつながったという説があることを最近になって知った。

今回の記事のはじめに将軍綱吉が儒学(朱子学)を重んじたことを書いたが、そもそも江戸幕府は徳川家康の時代に武家政治の安定のために朱子学を公式学問として採用している。その理由は朱子学が主君への絶対の忠誠を説くものであったからだ。

しかし、朱子学において忠誠を尽くすべき対象は「覇者(武力をもって統治する者)ではなく王者(徳をもって統治する者)である」とされており、その解釈において山崎闇斎(やまざきあんさい)のように「天皇こそが王者であり、この国を統治する者は幕府ではなく天皇家であるべきだ」との考えを持つ学者が当時は少なからず存在した。

山崎闇斎

山崎闇斎の提唱した朱子学は崎門(きもん)学と呼ばれて、水戸学・国学などとともに幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えたとされている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E9%97%87%E6%96%8E

山本七平

評論家の山本七平氏が、山崎闇斎の門下生である浅見絅斎(あさみけいさい)こそが明治維新の招来者であると主張しているのだが、浅見絅斎は赤穂浪士を完全な義士と高く評価した人物であり、主著の『靖献遺言(せいけんいげん)』は尊王思想の書で幕末の志士達の必読書となり、明治維新の原動力の一つとなった書物だと言われている。

井沢元彦氏の『逆説の日本史⑭近世爛熟編』で山本七平氏の文章が紹介されている。
「…浅野長矩は法を犯して処刑された。そのことを否定している者はいない。…違法行為をした、しかしそれが未遂であった。そこでそれを既遂にしようとしたのが赤穂浪士の行動だから、法の適用が正しいというのなら、赤穂浪士の行動も否定しなければ論理があわない。現代でも『殺人未遂で逮捕され処刑された。その判決は正しく、誤判ではない。従ってそれは怨まない。しかし未遂で処刑されては死んでも死にきれまい。ではその相手を殺して犯行を完遂しよう』などということは、それを正論とする者はいないであろう。こうなれば結局、…理屈はどうであれ、私心なく亡君と心情的に一体化してその遺志を遂行したのは立派だという以外にはない。これでは動機が純粋ならば、法を犯しても倫理的には立派だという事になる。」(『現人神の創作者たち』)

「…対象が天皇で、幕府が天皇に対して吉良上野介のように振舞ってこれを悩ませ、天皇が幕府を怨んでいると思い込んだ人間が『靖献遺言』を読んだらどうなるであろうか。何しろ死んだ浅野長矩に対して心情的にこれと一体化できるなら、勝手に天皇の心情なるものを仮定し、一方的にこれに自己の心情を仮託してこれと一体化し、全く純粋に私心なくそれを行動に移したら、その行為は法に触れても倫理的に立派だということになる。いわば処刑されても殉教者のような評価を受けることになるのである。…」(『現人神の創作者たち』)

赤穂浪士の討入りはただの殺人事件として処理すべきであったのだが、幕府は事件を起こした浪士を犯罪者とはせず義士であることを認めてしまった。
そのために、この事件は『忠臣蔵』として歌舞伎や人形浄瑠璃で繰り返し演じられ、赤穂浪士の討入りは義挙であるとの考えが人々の間に定着していった。
さらに、天皇が国を統治するべきであるとする山崎闇斎浅見絅斎の思想が、幕末時期に倒幕思想として急激に広まっていった。

このように幕末に倒幕運動が盛り上がった背景をたどっていくと、幕府が赤穂浪士を義士と認めてしまった事から始まったという説にはかなり説得力がある。

井沢元彦

井沢元彦氏が『逆説の日本史⑭近世爛熟編』で指摘している通り、明治天皇の父である孝明天皇はあくまで幕府の力による鎖国維持を望んでいたのだが、多くの「勤王の志士」は「倒幕こそ天皇の意志」と勝手に考え、倒幕運動をすることが正義であると考えて行動していったのである。
この点については昭和の『2.26事件』を起こした陸軍将校についても同様で、武力を以て元老重臣を殺害すれば天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗や、農村の困窮が収束すると考えて昭和天皇が信頼していた政府の重臣達の殺害に及んだのと良く似ているのだ。

山本七平氏の言う「勝手に天皇の心情なるものを仮定し、一方的にこれに自己の心情を仮託してこれと一体化し、全く純粋に私心なくそれを行動に移したら、その行為は法に触れても倫理的に立派だということになる」と信じたメンバーが、実際に日本の歴史を動かしていったことになる。
朱子学の「忠義」なるものを重視して国の統治を行うという考え方そのものが、一歩誤れば危険な方向に進む要素があることを知るべきである。

江戸幕府が赤穂浪士を義士と認めたことは、言い方を変えると、幕府の法よりも超越する正義があることを幕府自身が認めたということである。幕府は自ら墓穴を掘ったと言うこともできるのだ。

もし幕府がこの時に赤穂浪士を直ちに打ち首にしていればどうなっていただろうか。
赤穂浪士はただの殺人犯であるので『忠臣蔵』という物語は成立せず、山崎闇斎浅見絅斎の説が全国に広がることもなかっただろう。とすれば幕末の倒幕運動があれほどに盛り上がることもなく、明治維新で天皇中心の国に生まれ変わることもなかったかもしれないのだが、無能な江戸幕府がペリー来航以降の対応を誤って近代国家への脱皮ができずに、列強にもっと多くの国富を奪われていたことも考えられないわけではない。

わが国の歴史を見ていると、何度も大きな危機に遭遇しながらも様々な偶然に助けられたり、新しいリーダーが現われたりして、結果としてベターな方向に進んでいくことがよくある。
昨今のわが国の情勢は決して楽観できるものではないが、過去の歴史がそうであったように、様々な難題を抱えながらも、なんとかうまく乗り越えていって欲しいものである。
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江戸幕府が赤穂浪士の吉良邸討入りを仕向けたのではないのか~~忠臣蔵4

赤穂浪士による吉良邸討入りの前日である十二月十三日に赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助が赤穂の花岳寺の恵光師、正福寺の良雪師、神護寺にあてた手紙が残されている。大石の遺書とも呼ぶべきものだが、そこには驚くべきことが書かれている。

大石内蔵助書状

次のURLで原文と現代語訳が掲載されている。現代語訳を引用させていただく。
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisinews07/news194.htm

「東下りの関所においても無事であり、心配していたことも無く下向できました。他の同志も追々に江戸に入り、私も江戸に入りました。これについては噂も色々あるようです。若年寄もご存じの様に思いますが、何のおかまいもありません。吉良邸を打ち破ることは特別で、その通りにさせておこうとしていると推察しています。私たちが亡君のための忠義の死と感じたのでしょうか、何の障害もなく、安堵しています。」

幕府は赤穂浪士が江戸に集結をし、いよいよ吉良邸の討入りをすることについて知っていながら、その通りにさせようとしていると大石は感じているのだ。
この大石の手紙を読むと、江戸幕府が赤穂浪士の討入りを実現させようとした可能性を誰しも感じることであろう。

忠臣蔵吉良邸討ち入り

赤穂浪士の討入りは普通に考えるとおかしなことだらけである。江戸の治安に携わっていた同心たちは一体何をしていたのであろうか。
武装集団が他人の家に不法侵入して命を奪った行為が放置され、吉良上野介を討ち取った赤穂浪士が吉良の首を槍に結び付けて、両国から泉岳寺まで堂々と歩いて帰れたこと自体が不自然に思えるし、取締りが何もなされなかったとについて、幕府の誰も責任が問われなかったというのも奇妙な話である。
討入りについては幕府が期待をし、そうなるように仕向けたと考える説が根強くあるようだが、その説が根拠としているのはこの手紙だけではない。

具体的に幕府が赤穂浪士の討入りを誘導したことが立証できるような文書が存在すれば話は簡単なのだが、そんな記録が残されるはずがないので確実な証拠となるものは何もない。しかし、そのことを匂わせるような話はいくつもあるのだ。

幕府の頂点はいうまでもなく五代将軍綱吉であるが、その側近ナンバーワンの柳沢吉保と他の老中達や三奉行などの上層部は、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの話をかなり早い段階から聞いていたはずだ。
作家の長谷圭剛氏は、『仕組まれた日本史』(新人物文庫)の中でいくつか興味深い事実の指摘をしておられるので、この論考を参考に松の廊下事件以降の出来事を時系列で整理し、てみよう。

まず元禄14年(1701)の出来事だが、
① 赤穂浅野家の本家である広島浅野家は、松の廊下事件があった3月14日の夕刻に、老中秋元但馬守に対して、浅野長矩が庭先で切腹させられたことが五万石の大名に相応しい扱いであったかという照会をしている。そのあとで、検視役であった庄田下総守は責任を取らされて大目付を罷免されている。
それ以来広島浅野家は秋元老中となにかと接触し情報を交換している。(広島浅野家は、大石らが無謀な行動を引き起こせば責任を問われて改易などの処分を受ける可能性があり、そのために大石らの行動を監視していた。)
② 赤穂城の収公が決まった3月に大石内蔵助は江戸幕府宛に吉良上野介の処分と赤穂浅野家再興の嘆願書を出している。この嘆願書は「願いがかなえられなければ、籠城して一戦も辞さない」ともとれるような内容であった。
③ 幕府内部も含め、一般庶民においても「赤穂浪士はいつ復讐戦に立ち上がるか」と期待する空気が充満していった。
④ 3月に吉良上野介は高家筆頭の地位を退いた。8月には呉服橋の屋敷周囲の住民が赤穂浪士の襲撃を恐れて上野介の退去を願い出ており、上野介は屋敷替えとなった。幕府は都心から遠く上野介の警護を受け持つ上杉家との連携が不便な本所に吉良を移転させた。
また幕府は12月には上野介の家督を養子の義周(よしちか)に譲ることを認めた。(これで吉良家の処分がなくなった。)

次の元禄15年(1702)になると、
① 7月に幕府は、浅野長矩の弟である大学長広を藩主とする赤穂藩再興の拒否が正式に決まり、それを受けて大石内蔵助は同月に円山会議を招集し討ち入りをすることを決定した。
② 12月に吉良邸討入りを決行
という流れである。

討入り事件の後の話ではあるが
① 討入り後、勘定奉行、町奉行、大目付らが中心になって構成した「評定所」が、将軍の諮問により提出した「存寄書(ぞんじよりしょ)」によると、赤穂浪士の処分に対しては好意的であった。

② 将軍綱吉自身も、松の廊下事件の際に独断で浅野と吉良の処分を決めたことに後悔していた記録がある。徳川幕府の公式記録である『徳川実紀』によると浪士の討入りの後の綱吉の言葉として、「その忠義義烈のさま、淑世にはめずらしき程のことにて、彼らそのまま助け置きたく思へども…」という文章がある

以上の事実を述べたところで幕府が討入りを誘導したことを立証できるわけではない。しかし、将軍綱吉をはじめ幕府の内部で赤穂浪士に対して好意的で、吉良邸討入りの実行を期待し、それが成就したことを評価した人物が少なからずいたことは間違いなさそうだ。

しかし幕府は吉良上野介を処分しないことを決定し、吉良を治安上問題のある場所に屋敷替えさせ、さらに大石らが念願していた赤穂浅野家の再興をも正式に拒否してしまった。
赤穂浪士にとってはすべての希望が閉ざされたが、一方で上野介は仇討の容易な場所に転居し、幕府は討ち入りを取り締まろうとはせず、むしろ自由に活動させている。
「これでは大石らに吉良邸を討入りせよと言っているのと同じではないか」と感じるか感じないかは、人それぞれの感性によって異なることになるのだろう。

また別の視点から、「赤穂浪士は江戸幕府によって匿われていた」という主張をしておられる元国土交通省河川局長の竹村公太郎氏の推理も面白い。

土地の文明

今では絶版になっている『土地の文明』という書物に書かれている内容だが、この全文を次のURLにアクセスすれば Google bookで拝読することができる。
http://books.google.co.jp/books?id=hSsot1rfoT0C&pg=PA29&lpg=PA29&dq=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E%E6%AD%A3%E9%96%80%E3%80%80%E5%8D%8A%E8%94%B5%E9%96%80&source=bl&ots=ZZw57j4cbT&sig=g3QGmNoQbyomzskkhNazRULB7v4&hl=ja&sa=X&ei=boMFT-jQHcqamQXT8bmAAg&sqi=2&ved=0CDcQ6AEwBA#v=onepage&q=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E%E6%AD%A3%E9%96%80%E3%80%80%E5%8D%8A%E8%94%B5%E9%96%80&f=false

竹村氏の指摘で初めて気が付いたが、赤穂浪士の内16名は江戸城の半蔵門に近い平河天満宮近辺に潜伏していたそうだ。

江戸城地図

半蔵門は橋がなく土手を進んで江戸城内に進むことができる場所であり、この付近には、徳川御三家や親藩らの重要大名の屋敷が立ち並んでいた。江戸で最も警備が強固な場所であったような場所に赤穂浪士が潜伏していたというのは、竹村氏の言葉を借りると「指名手配の過激派が警視庁内部の空き部屋をアジトにした」ようなもので、確かに不自然なことである。

幕府には赤穂浪士に吉良を討ち取らせたい理由があったからこそ、赤穂浪士を自由に動かして吉良を討ち取らせたのではないかというのが竹村氏の仮説である。
竹村氏の著書によると、徳川家には吉良家を抹殺したい理由が徳川家と吉良家との100年にわたる歴史から論証されていくのだが、結構説得力があり面白い。詳しくは上記のURLの第三章に書かれている。

竹村氏の説も興味深いが、幕府が裏で討ち入りを工作したにせよ、討ち入りが決行されるまでに世論の強い後押しがあったことは見逃せない。なぜ赤穂浪士の討入りを期待する世論がこれほどまでに盛り上がったのだろうか。
ひょっとするとこの赤穂浪士人気も幕府が裏で工作したのかもしれないが、このような物語に民衆が飛びつく素地がなければ始まらない。

綱吉

この点については、綱吉の政治は一般大衆にほとんど支持されていなかったことを知る必要がある。
「生類憐みの令」が特に有名だが、実際に処罰された事例などを読むと、綱吉の評判が悪くなるのは当然だと思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A1%9E%E6%86%90%E3%82%8C%E3%81%BF%E3%81%AE%E4%BB%A4

たとえば、
元禄8年(1695年)10月16日:法令違反として大阪与力はじめ11人が切腹。子は流罪。
元禄8年(1695年)10月29日:元禄の大飢饉(1695年〜1696年)の最中、中野に16万坪の犬小屋が完成。住民は強制的に立ち退きとなった。犬の食費は年間9万8千両。犬小屋支配、犬小屋総奉行、犬小屋奉行、犬医師などを置き、犬金上納金として府民から毎日米330石、味噌10樽、干鰮10俵、薪56束などを納めさせた。
元禄9年(1696年)8月6日:犬殺しを密告した者に賞金30両と布告。
など、動物を守ることが庶民の生活を守ることよりも優先する判断は庶民の支持を得られるはずがなかった。

そこに浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介を斬りつける事件が起こる。幕府は赤穂藩の要望をすべて拒否し、吉良はお咎なしとしたことから、多くの一般大衆が赤穂藩を支持して間接的に幕府を批判した。

討ち入りの起きる前から歌舞伎などで松の廊下事件を模した歌舞伎や浄瑠璃が演じられていたことは注目に値する。

http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisinews09/news288.htm
上のURLによると、
(1)刃傷事件の1年後(元禄15年3月)に、江戸で『東山栄華舞台』が上演され、
(2)討入りの翌月(元禄16年1月)、江戸で『傾城阿佐間曽我』、京都で『傾城三の車』が上演されたが、幕府はすぐに上演を禁止している。
(3)討入り2カ月後(元禄16年2月)、江戸で『曙曽我夜討』が上演されたが、すぐに幕府は上演を禁止している。

赤穂浪士に切腹が命じられたのは元禄16年の2月4日(上のURLでは切腹の日付が3月24日となっているが、誤りである)だから、討ち入り後の赤穂浪士の処分が幕府でなかなか決まらないうちに、江戸で『傾城阿佐間曽我』、京都で『傾城三の車』が上演されているのだ。
一般庶民の間では、赤穂浪士の討入りが大変な評判であったことは間違いがなく、赤穂浪士を義士とし討ち入りを義挙とする物語が、幕府の結論が出る前に出来上がっていたのだ。

ただでさえ評判の悪かった幕府が、赤穂浪士に討ち入りを成功させてその義挙を讃えることで幕府の人気を回復しようというストーリーを描いた人物がいた可能性を感じるのだが、処分の意見がまとまらず幕府の結論が遅れたうえに、最後は四十七士の切腹という結論に世論は納得しなかった。

鳩山由紀夫

世論に迎合しようとした幕府は、結局のところ、かえって評判を落としただけの結果となってしまった。この点はどこかの国の政府とよく似た話でもある。
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赤穂浪士の討入りの後、吉良上野介の跡継ぎの義周はどうなったのか~~忠臣蔵5

赤穂浪士四十七人が吉良屋敷に討ち入りをし、主君であった浅野内匠頭に代わって吉良上野介を討ち果たしたのだが、この時吉良の家臣たちはどう戦ったのだろう。

赤穂浪士討入り

忠臣蔵新聞第234号』に、赤穂市発行の『忠臣蔵第一巻(概説編)』にまとめられた吉良家側の死傷者の数がでている。
http://chushingura.biz/gisinews07/news234.htm

それによると、
「本屋内での死者二人、負傷者二人、本屋外での死者・負傷者は六人と一七人、合わせて死者は一七人、負傷者は二八人、合計四五人であった。死者の過半は瀕死の重傷をうけ一五日中に死亡した者、負傷者は寝ていて起き上がったところで切られた者がほとんどである」
「長屋に閉じ込められ外へ出られなかった者は用人一人、中間頭一人、徒士の者五人、足軽七人、中間八六人であり、抵抗しなかった裏門番一人と合わせて一○一人が死傷をまぬかれた。それに、この夜左兵衛の側に寝ていた中小姓一人、徒士の者三人が行方不明となっている。これは逃亡したとみられるから、結局吉良屋敷の内にいた者は一五○人」と書いているそうだ。

屋敷の中にいたのは150人で死傷を免れたのが101人というのだが、この中には女子供もいた数字で、内訳はよくわからない。死傷者の多くが寝起きを襲われたというのは吉良側はほとんど警戒をしていなかったということを意味する。武装した赤穂浪士は全員無事で、吉良側は一方的にやられまくったということだ。

吉良側では赤穂浪士討入りがある可能性を日々注意はしていたのだろうが、情報入手ができていなかったようである。一方大石内蔵助には吉良家の情報がかなり詳しくわかっていた。

赤穂浪士軍議

忠臣蔵新聞第195号』に寺井玄渓宛て大石内蔵助の12月14日付け書状が紹介されている。
http://chushingura.biz/gisinews07/news195.htm

「茶会の日もこれで決まった。12月5日に茶会があるというので討入りを考えていましたが、将軍が柳沢吉保殿屋敷をお成りと聞き、延期していました。14日に茶会があるというので、討入りをすることに決定しました」(「会日ヲも自然と承候、先日(5日)これ在り候へ共 御成日故遠慮致し、今日(14日)これ在るに付き明日打込申事ニ候」

将軍の御成り日まで把握していたというのは、赤穂浪士は幕府筋の情報ルートを持っていたという事になる。

吉良側にとってみればいつ来るかわからないものを、毎日受け身で待ち続けるのではいくらなんでも体が持たない。少なくとも武器は寝室の近くに置いて、異変を察知すれば直ちに動ける程度の準備は常々していたことだろう。

当時の江戸には町ごとに設置された「木戸」と呼ばれる仕切りがあり、夜10時以降の通行を制限するために木戸が閉められて、通行するためには木戸番に理由を告げて脇の潜り戸を通してもらう必要があったはずだ。そこでもし異変があれば木戸番や吉良邸の辻番が吉良邸に何らかの合図をしてもおかしくないところなのだが、この辻番や木戸番と赤穂浪士はトラブルなく通過したのか、特に記録が残されていないようなのだ。
脅されて黙って赤穂浪士を通したのかもしれないが、そのために異変を知ることが遅れてしまえば、守る側の吉良側は圧倒的に不利になることは言うまでもない。

ではこの赤穂浪士の討入りを、吉良側ではどう見ていたのか。
吉良上野介の孫で、養子の嫡子で17歳の吉良義周(よしちか)は、討ち入り後の15日に、幕府の検使にこの日の出来事について口上書を差し出している。
次のURLに口上書の原文とともに現代語訳が紹介されている。
http://chushingura.biz/gisinews07/news233.htm

吉良邸

「昨日14日午前3時過ぎ、父の上野介や私がいる所へ、浅野内匠頭の家来と名乗り、大勢が火事装束の様に見えたのが、押し込んできました。表長屋の方は、2ヶ所に梯子をかけ、裏門は打ち破って、大勢が乱入してきました。その上、弓矢や槍、長刀などを持参しており、あちこちより切り込んできました。
家来たちが防いだが、彼らは兵具に身を固めてやってきたので、こちらの家来は死んだり、負傷をしたものがたくさん出ました。乱入してきた者には、負傷させたが討ち取ったものはいません。
私たちの屋敷に切り込んだので、当番の家来で近くに寝ていたものは、これを防ぎ、私も長刀で防戦しましたが、2箇所に負傷し、目に血が入って気を失いました。しばらくして、気がついたので、父のことが急に心配しになりました。今へ行って見ると、最早父は討たれていました。その後は、狼藉を働いた赤穂浪士は引揚げ、居りませんでした」

と、まるで防戦一方で、『米沢塩井家覚書』によると、「御疵も御眉間に少々、御右の御肩下御疵の長さ四五寸ほど、底之はよほど入申候、御あはら骨一本を切り申し、其の砌御身動之の節、かちり々と音の仕る程の事に候」とあり、眉間の刀傷は深く、長さが15cm程であばら骨が1本斬られてかちりと音がしたと書かれている。

武家諸法度には「徒党を組み誓約をなす事を禁ず」という条文がある。赤穂浪士の討入りは明らかに武家諸法度に違反する行為であったし、夜中に人家に忍び込む行為は武士道にも反する行為でもあった。

討入りの日に吉良家に幕府検使目付として派遣された安部式部信旨と杉田五左衛門勝行は、報告書を幕府に提出している。その報告書をうけ、老中一同は、赤穂の牢人たちの所業は「まさに夜盗の仕業である」といった感想を吉良家に伝えたというのだが、五代将軍・徳川綱吉が赤穂浪士の討入りを賞賛したために途中で結論が変わったようなのである。

討ち入りの日からまだ日も浅い元禄15年(1702)12月23日に老中列座のもと幕府・評定所の寄合が開かれ、その内容をつたえる「存寄書(ぞんじよりがき)」(意見書)では、赤穂浪士たちの夜討ちを賞賛し、読みようによっては赤穂浪士を助命したいともとれる内容が書かれている。
吉良家に関わる部分を要約すると次のようなものである。
① 吉良左兵衛義周は「武道不覚悟」で申し訳が立たない。自決すべきなのにそれもできなかったのだから、切腹を申し付けるべきである。
② 吉良家の家来で手合わせをしなかったもののうち、侍身分のものは斬罪に処されるべきである。多少とも働き手傷を負ったものは親類へのお預けに処されるべきである。 ③ 小者・中間は追放に処すのが妥当である。
④ 赤穂の牢人たちが泉岳寺に引き上げるのを傍観した(吉良家の縁家である)上杉家は改易・断絶に処してもかまわない。
⑤ 赤穂の牢人たちについては、武家諸法度の第一条までもちだし真実の忠義であると述べ、四大名家に預けたまま裁定はあとでもよい。

評定所は徳川幕府の最高裁判所のようなもので、その主体である寺社奉行、勘定奉行と町奉行の評定所一座に大目付・目付で構成される。また「存寄書」というものはあくまでも評定所の意見であって幕府の最終決定でもないが、幕府の中枢の考えが反映されてそれなりの影響力がある書類である。

赤穂浪士と吉良家の処分についてその後幕府内部で意見が割れて、綱吉の裁定に日時を要したことはこれまでの記事に書いたので繰り返さない。
赤穂浪士の処分が決まった同じ日(2月4日)に吉良義周は江戸幕府の評定所に呼び出され、義周の討入り当日の際の「仕形不届」(武道不覚悟)を問われ、家名断絶・領地没収を言い渡された。

この処分に納得できなかった義周はその後自ら評定所に足を運んだものの、幕府は「こうしなければ世論が納得しない」といって取り合わなかったそうだ。

そして元禄16年(1703)2月11日、吉良義周は罪人として諏訪藩士130名に護送されて江戸を出発するが、随行の家臣は2名のみで、また荷物も長持3棹とつづら1個だけだったという。

高島城

諏訪藩に到着すると信州高島藩三万石の居城、高島城南之丸の諏訪湖のほとりにある一室に幽閉されたのが、ここでの生活は過酷を極め、寒さの厳しい真冬でも木綿布子1枚で火鉢などで暖をとることもできず、また自殺防止のために脇差や扇子、楊枝、鼻紙などを身に着けることもできなかったという。

さらに幽閉中に悲しい知らせが相次いだ。
宝永元年(1704)6月2日には実父上杉綱憲が享年42歳で死去。同じ年の8月8日に養母(祖母)梅嶺院が享年61歳で死去と、度重なる身内の訃報に義周はかなりショックを受けただろう。

このような厳しい環境での生活のために、義周はたびたび体調を崩し衰弱していく。
幽閉から3年ほどたった宝永2年(1705)10月頃から発熱や悪寒といった症状が出て完全に寝たきりとなり、翌年の1月20日に21歳の生涯を終えたという。

今まで何度か書いてきたが、普通に考えれば浅野内匠頭が殿中で吉良上野介を斬りつけたのであって、吉良上野介は単なる被害者だ。浅野内匠頭は即日切腹となったが、それは幕府が命じたことであり、赤穂藩が仇討ちをするとすれば相手は幕府でなければ筋が通らない。
しかし赤穂浪士が命を奪ったのは松の廊下刃傷事件の被害者である吉良上野介で、この被害者の命を奪う行為は「仇討」と呼ぶべきものではなく、亡君の遺志を完結させて霊を慰める儀式のようなものである。義周にまで罪が問われる理由がどこにあろうか。

夜討ちで吉良邸に侵入してきた赤穂浪士に寝起きで防戦した吉良家からすればこの処分は到底納得できるものではなかっただろう。
無能な幕府の犠牲になった吉良義周のその後の運命は、まことに哀れとしか言いようがない。

法華寺

長野県諏訪市の法華寺に吉良義周の墓がある。そこに次のような熱い解説が記されている。
「義周公未だ赦されず、ひとり寂しくここに眠る。…世論に圧されて、いわれなき無念の罪を背負い、配流された先でつぎつぎに肉親の死を知り、悶々のうちに若き命を終えた。公よ、あなたは元禄事件最大の被害者であった。」

義周の墓
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GHQが日本人に封印した歴史を読む~~イギリスとインド・中国

前回の記事で、GHQ焚書である菊池寛の『大衆明治史』に書かれている文章を紹介した。
今回は、GHQが終戦直後から実施した検閲に引っかかって、抹消された文章を紹介しよう。

アメリカのメリーランド大学にあるマッケルディン図書館に、プランゲ文庫といってGHQ検閲官が検閲したゲラ原稿の資料が持ち帰られて保存され、マイクロフィルム化されて誰でも自由に閲覧ができるようになっているそうだ。このプランゲ文庫を5年間にわたり調査して、日本の歴史がいかにGHQによって歪められたかを紹介した本がある。

抹殺された大東亜戦争

『抹殺された大東亜戦争~~米軍占領下の検閲が歪めたもの』(勝岡寛次著:明成社)という本がこれから紹介する本なのだが、プランゲ文庫を引用する場合は検閲官が当初の論文のどの部分を削除したかがわかるようにして近世以降の日本史を纏めておられる。この本と他の本を対比すると、占領軍がどんな歴史を日本人の頭に叩き込みたかったが誰でもおおよそ見当がつく。

GHQの検閲

私もこの本を読むまでは、スペインは中南米でインディオを大量に虐殺してひどいことをしたが、イギリスやアメリカは比較的うまく植民地を統治したと思っていた。しかし、実態はイギリスもアメリカもスペインと似たり寄ったりである。
わが国に近いアジアの歴史を調べてみると、インドや中国で起こったこともかなり悲惨な状態であったのだが、そのことを戦後のわが国にどれだけ知らされているのだろうか。

ラス・ビハリ・ボース

勝岡氏はこう書いている。
「西欧の植民地化により、最も悲惨な状態に貶められたアジアの国はどこだろうか。それはインドである。『かって世界最富の国であった印度で人々は今日骨と皮のみの生活を送っている』という悲痛な叫びに始まる、インド独立の志士ラス・ビハリ・ボースの書『インドは叫ぶ』を一読すれば、このことがはっきりわかる。
 インドはイギリスの統治下に入るや、それまでに経験したことのないような大飢饉に見舞われる。1770年のベンガル大飢饉が最初であった。この時の死者1千万人。次いで19世紀前半に死者140万人、19世紀後半には死者2千万人、20世紀初頭には1千万人がやはり大飢饉によって死亡する。而してこれがイギリスのインド植民地統治に由来するものであることは、イギリス人自身が認めることであった。
 …
 『英国侵入前の方がインド人は富み栄えていたのである。1750年頃までインドの村落には必ず学校があり、人口の6割は読み書きができたのである。然るに今日9割すなわち3億2千万が文盲であって、過去150年間読み書きなしえたものの総数は2260万にすぎない。かかる英国が果たしてインドを統治するに適するであろうか。(チャールス・ラッセル)』」(『抹殺された大東亜戦争』p.92-93)

一方、市販されている高校用の教科書『もう一度読む山川世界史』では、1757年のプラッシーの戦いで、イギリス東インド会社がベンガル地方政権とフランスの連合軍に勝利して、インド侵略の足場を固めた。当時はムガル帝国の衰退期で、イギリスは内陸部に容易に進出できたことに続けてこう書いている。

「イギリスの支配は、インド社会を大きく変えた。安い機械織り綿布の輸入によってインドの古くからの木綿工業は大打撃をうけ、また綿花・藍・アヘン・ジュートなどの輸出用作物の栽培、商品経済の浸透、あたらしい地税制度の採用などにより、伝統的な村落社会が崩れた。一方、植民地支配を行うため資源開発や交通網・通信網の整備がなされ、イギリス流の司法・教育制度が導入された。思想面では、カースト制の否定や女性地位改善などのヒンドゥー教近代化運動がおこった。」(『もう一度読む山川世界史』p.187-188)

ラス・ビハリ・ボースや英国人チャールス・ラッセルの文章と同じ時代のことを書いているにもかかわらず、あまりにもギャップがあると誰しも思う事だろう。
次の勝岡氏の記述を読めば、おおよその背景を理解することができる。

「…(プラッシーの戦いで)インド全域における覇権を確立した。しかし、イギリスにとって、インドとの貿易は当初は割の合わぬものであった。インド産綿織物に対するイギリス国内需要は着実に増大しつつあったのに対し、イギリス産の毛織物はインド国内や支那ではさっぱり不評で捌けなかった。支那産の茶もイギリス人の日常必需品に成長し、需要は激増したが見返りの商品をイギリス側は欠いていた。この結果、大量の銀がイギリスから支那へと流出し、イギリス側を慌てさせたのである。
 だが、この問題はこうして解決された。東インド会社は1765年にベンガル地方の徴税権を獲得し、それまで3割であった地租を、6割から8割にも引き上げ、茶の購入資金に流用したのである。…
イギリス東インド会社は、こうして単なる貿易会社からインド人を搾取する権力機構へと、その性格を一変させた。だが、これではインド人は食べていけるわけがない。餓死者1千万人を出したインド史上初のベンガル大飢饉(1770)はこうして発生したのである。」(『抹殺された大東亜戦争』 p.94-95)

『もう一度読む山川世界史』の記述では、誰もイギリスが酷いことをしたようには読めず、むしろ高度な文明をインドに齎したかのような印象を受ける。
山川世界史の「あたらしい地税制度の採用」などという記述を読んで、地租が倍以上に跳ね上がった事実を想像する人は皆無だと思うし、また「イギリス流の教育制度が導入され」たという記述で、文字が読める人口の比率が6割から1割に激減した事実を、誰が読み取れようか。「イギリス流の教育制度」といっても、大多数のインド人は文盲のままで放置されていたのだ。これではインド人は、ほとんど奴隷のようなものではなかったか。今の教科書に書かれていることは綺麗ごとばかりで、これでは本当に何があったかが見えて来ない。

防衛省OBの太田述正氏のブログを読むと、イギリス統治下になってからインドが凋落したことが、数字の変化を読むことでよく理解できる。
http://blog.ohtan.net/archives/51006404.html
http://blog.ohtan.net/archives/51007300.html

「1700年の時点を振り返ってみれば、支那とインドは併せて世界のGDPの47%を占めていたと推計される一方で、西欧(含むブリテン諸島)の推計値は26%に過ぎなかったのです。
 1870年には支那とインドを併せたGDPの世界のGDPに占めるシェアは29%にまで落ち込み、その一方で西欧(含む英国)シェアは42%へと上昇した」
「1757年には、英東インド会社が報告書の中でベンガル地方のムルシダバードについて、『この都市はロンドンのように広くて人口が多くて豊かだ』と記したというのに、1911年にはボンベイの全住民の69%が一部屋暮らしを余儀なくされるようになっていました。(同じ時期のロンドンでは6%。)1931年には74%にまでこの比率が高まっています。インド亜大陸の他の大都市も皆同じようなものでした。」
東インド会社の搾取と自然災害によって、ベンガルで1770年に大飢饉が起きるのですが、その際、同会社が減税どころか増税を行い、穀物の放出どころか強制買いだめを行ったため、前述したように120万人もの死者が出たのです。やがて、東インド会社は、イギリスの大土地所有制に倣って、支配下の地域に大土地所有制(ザミンダール(zamindar)制)を導入し、大土地所有者を東インド会社の藩塀としました。この過程で、2000万人にのぼる小土地所有者達が所有権を奪われ、路頭に迷うことになったのです。」とある。

ベンガル大飢饉の死者の数が随分違うのが気になるが太田氏は公式発表の数字を用いたのだろう。いずれにしても、インドにおいてはイギリスの植民地となってからはイギリスに富を奪われているだけで、まるで歴史が逆行しているかのようだ。

ここまででも随分ひどい話なのだが、東インド会社は更にひどいことを始めるに至る。
インドで強制栽培させた大量のアヘンを銀塊の代わりにインドから中国に運ぶことを思いつき、18世紀末にはたちまちのうちにアヘンが中国全土に広まり、夥しい数のアヘン中毒患者を生み出した。

opium20war.jpg

清は1757年以降貿易を広東港一港に絞るなどの制限を加えたが効果なく1839年に林則徐を広東に派遣して密輸アヘンを没収し処分させた。林則徐はアヘンを清国に持ち込まない旨の誓約書を提出しないイギリスとの貿易を拒否したため、イギリスは海軍を派遣しアヘン戦争が勃発する 。
戦争はイギリスの勝利に終わり、清は1842年の南京条約によって香港を割譲、上海・寧波・福州・厦門・広東の5港開港を余儀なくされてしまう。

勝岡氏は前掲書で、GHQにより抹消された阿片戦争に関する次の論文の記述を紹介している。この論文は『国際法外交雑誌』昭和21年5月号に掲載予定であった植田捷雄『南京条約の研究』のゲラ原稿の一部だが、紹介箇所は検閲官により全文抹消されている。

阿片戦争2

「併し、本来アヘン貿易の杜絶を恐れるの餘り英国が支那に挑んで戦いを開いたのが阿片戦争であることは既に論決した通りである…。唯、流石の英国も阿片といふ有害物を支那に強要するために開いた戦争であるとは公然に主張し得なかったと見え、パーマストーンは清国宰相に宛てた書簡に於いて林則徐の処置を以て『国際法に違背し、英国官吏が当然に受くべき尊敬を無視した』不法監禁なりとし、(中略)英国政府は焼棄せられたる英国商人の阿片に対する賠償を支那政府より要求するなりとしている。併し、林の処置が支那の禁令を破って密輸入された阿片の提供を要求し、英国商人がこれに従わざりしためその反省を促す目的を以て行なわれた監禁であることも既に述べたところである。…。故にこれを以て不法監禁なりとなすことはあたらない。(中略)」(『抹殺された大東亜戦争』 p.96)

またこの論文のゲラ原稿で、南京条約による香港の領有に関する記述についても、全文抹消されている。

「英国人は常に英国がかかる香港の領有によって支那に於ける領土侵略の先鞭を着けたといはれることを嫌ひ、彼らはこれに対する反駁の語として必ず英国の終始変わらざる政策は香港を通じて通商上の利益を擁護し発展せしむるに在りといふのである。…併し、これ等の言は…必ずしも香港領有の真相を語れるものとは考へられない。…。ボッチンヂャーは本国の命令を堅持して勇敢に武力弾圧の政策を行ひ遂に南京条約を通じて香港を明白成る海軍根拠地たらしめ、施政の方針は完全なる植民地を目標とするものとなった。南京条約後、香港が正式に皇領植民地に編入せられたのは即ちこれがためである。」(同上p.96-97)

マッカーサー

こんな論文がGHQの検閲により抹消されているのだが、その理由は「英国批判(critical of Britain)」と記されているのだそうだ。
書かれていることが史実であっても、こんなレベルの表現までが日本人に読ませないために検閲で抹消の対象とされていたことを知るべきだと思う。
前回の記事に紹介したが、GHQの検閲基準は次のURLに書かれている。この基準を読めば、当時のわが国においては戦勝国に対する批判が不可能だったことが誰でもわかる。
http://www.tanken.com/kenetu.html

果たして真の文明はキリスト教を奉じる国にあったのか、それともその武力の前に支配されたアジアの国にあったのかという問いは、今なお検討に値する問題であるのだが、シカゴにおける万国宗教大会席上でインド代表が述べた演説の邦訳を『理想日本』という雑誌(昭和22年6月)に掲載予定のゲラ原稿も、GHQが全文削除している。

「諸君は我々の国に宣教師を送り来り、諸君の宗教を傳へる。我々は諸君の宗教の価値を否定する者ではない。然しながら、最近二世紀の間諸君が為す所を見るに、それは、諸君の信仰が要求する所のものと、明らかに反してゐる。諸君の実際行動を指導するものは、諸君の信仰する神の遺誡たる正義と愛の精神ではなくて、貪婪と暴力の精神である。斯くして我々は、次の判断を下すことを余儀なくされる。即ち、或は諸君の宗教は、その内面的優秀性にも拘らず、実現できないものであり、…或は諸君が余りに劣悪であるがため、実行し得ること又実行せねばならないことを実行しないのか、二者其一(ふたつにひとつ)である。何れの場合に於いても、諸君は我々と比べて、何らの優越を持たない。」

インドがイギリスから独立したのは、1947年の8月だ。まだイギリスの植民地であったインドの代表が公の場でこのような演説をしたことに驚くのだが、これはインド人にとっては宗主国のイギリスの方が野蛮国であったと発言しているようなものだ。

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GHQによる事前検閲は昭和20年(1945)9月からはじまり、ピークは8000人の検閲官が存在して、新聞や雑誌からこれから出版される本や論文の原稿、私信に至るまでを徹底的に検閲し、プレスコードにかかる記述を削除させていた。
事前検閲は昭和23年(1948)7月までに廃止され事後検閲となり、事後検閲に関しても新聞、ラジオの昭和24年(1949)10月をもって廃止されたことになっている。

昭和22年(1947)5月3日に公布された日本国憲法第21条には
「1.集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2.検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」
とあるのだが、検閲制度が廃止されるまでの2年半はGHQは堂々と憲法を破り、検閲者も憲法違反の仕事にともに従事していたことになる。

しかし検閲が廃止されたからと言っても、わが国の言論が自由になったわけでもなさそうだ。歴史的事実でありながら日本人に知らされないことが今も多すぎはしないか。
検閲制度は実態的にはその後も続き、今も外国勢力などによって維持されているのではないだろうかと思うことがよくある。
次のURLで、大手マスコミで報道されない事件などのリストがでているが、このリストを見てなぜこういうことが今も続くのかを是非考えて頂きたいと思う。GHQの検閲基準は検閲者がいなくなった今も、外圧を避けるための組織内の自己検閲やスポンサーなどの圧力によって実質的には部分的に機能しているのではないか。
http://blog.livedoor.jp/waninoosewa/archives/975894.html

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次のURLで、自らが検閲官であったことを自著『鎮魂の花火輝け隅田川』『ああ青春』で公表した横山陽子さんの対談(『諸君』平成16年1月号)が読めるが、彼女の父が現金で500円しか現金で給料がもらえなかった時代に18歳の時の横山さんの最初の月給が450円で、上級になったときは家族が養えるくらいの3000円をもらい、昭和23年に結婚して仕事を辞めるころには8000円も貰っていたし、辞めてからも差額を3か月頂いたというのは驚きだ。
ちなみに、横山さんが通った日本女子大の授業料は昭和21年で年間300円、その後インフレで3000円になったというのだが、それでも検閲官の待遇が良かったかがよくわかる。
http://nishimura.trycomp.net/works/010-2.html

他に、英文学者の甲斐弦氏が書いた『GHQ検閲官』という本がある。この本もご自身の検閲官の体験を綴ったもので、日本軍の行動を賛美したものも非難したものもいけない、マッカーサーを賛美したものも罵ったものもいけない、占領軍を歓迎したものも批判したものもいけないというように、そのような話題を書くこと自体が手紙などの検閲の対象とされていたというのだ。

ところでピークは8000人いたという検閲官のメンバーはどのような人物で、その後はどのような職業に就いたのであろうか。残念ながら過去検閲に携わったことを公表した方は上記2名のほかには数えるほどしか存在しないようである。
外国籍の日系人が検閲官にかなりいたことがわかっているが、日本人も相当数がいて、そのなかにはマスコミや教育界や官僚の重要なポストに就き、あるいは政治家となって、わが国の国益に反する活動をし続けてきたのではないだろうか。あるいは、単純に外国やスポンサーの言いなりになっているという事なのだろうか。
ひょっとすると、GHQが国内要因と外圧要因の両方を残して、その後も検閲が実質的に継続される仕組みを作っておいたのかもしれないが、そうでも考えないと今日のマスコミの偏向報道や教科書や教育等の偏向傾向を説明し難いと思うのだ。

せめて、他国では常識となっているレベルの知識は国民にしっかり伝え、広めていかなければ、今後わが国から世界レベルで活躍する政治家やジャーナリストが出てくるとはとても思えない。
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GHQが日本人に封印した歴史を読む~~ペリー来航

嘉永6年(1853)6月に、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーの率いる4席の軍艦が、江戸湾入口の浦賀の沖に姿を現した。
ペリーは何のためにわが国に来たのか。市販されている高校教科書『もう一度読む山川日本史』にはこう書かれている。

ペリー来航1

「そのころアメリカは、北太平洋での捕鯨や太平洋を横断して中国にいたる新しい貿易ルートを開拓するために、日本の港で食料や燃料を補給する必要を感じていた。このため上陸したペリーは、開国と通商をもとめるアメリカ大統領の国書を幕府側の役人に手渡した。」(『もう一度読む山川日本史』p.209)

と、まるで野心のかけらもないような書き方になっている。これでは江戸幕府がなぜあれだけ抵抗したかが見えてこないし、なぜペリーがかくも強硬であったかという事がわかるとは思えない。その魂胆がどこにあったかという肝心な点については教科書には何も書かれていないのと同じだ。

前回の記事で紹介した勝岡寛次氏の『抹殺された大東亜戦争』に『ペルリ提督日本遠征記』の重要な部分が引用されている。

ペリー

「…若し日本政府が本島内にかかる[捕鯨船の避難・給水用の]港を許與することを拒否せば、且若し軍隊と流血とに頼ることなくしてはそれを獲ること能はざりせば、吾が艦隊は、先づ最初に日本南部の一二の島内によき港を手に入れ、水と食料とを獲るに便利なる所に集合地を確立し、而して親切温和なる待遇によって住民を待遇し、彼等と友好を結ぶやう努力することこそ望ましく、またかく望むことは誠に當然ならん。(中略)

…大英国はすでに東印度及び支那の諸海灣に於て、最も重要なる地點を占有し居れり。殊に支那の海灣に於て然り。

彼等はシンガポールをもつて西南の門戸を、他方香港によつて東北の門戸を制扼[制圧]し、…海洋上に於ける莫大なる通商を壟断制御する力を有すべく…

幸に日本及び太平洋上のその他の多くの島々は、未だこの『併呑』*政府に手を觸られずして残れり。而してそのあるものは、合衆国にとりて重大となるべき運命を有する通商路の途中に横たはるものなれば、時を移さず十分なる数の避難港を獲得するために積極的方策を採るべきなり。」(『抹殺された大東亜戦争』p.114-115) *イギリスのこと

この引用部分は、ペリーが日本に向かう途上で記した海軍長官宛書簡(マデイラ発1852年12月14日付)であるが、軍隊を派遣してでも日本領土の一部を占有する意図が明らかだ。

また同上書に、日米和親条約締結後にペリーが本国政府に提出した報告書も紹介されている。ここでペリーは、小笠原諸島を植民地にする考えであることを明確に述べている。

「余の計画は、小笠原諸島の主島(父島)の内ロイド港に、一植民地を建設することとなし、その主権については今後の討議に附せられるべきである。」(同上 p.115)

ペリーは、中国に向かう戦略上の日本列島の要衝の地を、イギリス政府が触手を伸ばす前に力づくで抑えようという考えなのだが、アメリカの方針も同様のものであったはずである。
そのことは、ペリー来航までのアメリカの年表を見れば見当がつく。

1845年 テキサス併合
1846年 オレゴン併合、米墨戦争勃発
1848年 米墨戦争終戦 メキシコよりテキサス、ニューメキシコ、カリフォルニアを取得
1849年 ハワイと和親条約締結
1853年 アリゾナ南部をメキシコより買収、ペリーが浦賀に来航

と、ペリー来航の直前のわずか8年間に北米大陸の西半分を獲得し、現在の米国の領土をほぼ手中に収めている。しかもその領土の奪い方はひどかった。

たとえばテキサスは、もともとはメキシコの領土であったが、黒人奴隷を使役するプランテーションを経営するアメリカ人移民が、綿花栽培の土地を求めて続々とテキサスに移住し、勝手にメキシコからの独立を宣言する。

アラモ砦

それを制圧するために、メキシコ軍がアラモ砦に立て籠るアメリカ人入植者を襲撃し、銃撃戦の末にアラモ砦は陥落する。
アメリカはそれを口実とし「リメンバー・アラモ」をスローガンにしてメキシコに宣戦布告し(アラモ砦の戦い)アメリカが勝利した。
1836年にメキシコ領テハスはテキサス共和国として独立し、その後米国が1845年に併合する。
翌1846年にテキサスを巡り再度アメリカとメキシコとが戦うも(米墨戦争)アメリカが勝利し、メキシコから広大な領土(テキサス、ニューメキシコ、カリフォルニア)を奪い取ったという流れだ。

アメリカ領土拡大

北米大陸をほぼ手中にした後は、アメリカの領土拡大は西に進むしかない。たまたまカリフォルニアで砂金が発見されたことからゴールドラッシュを生み、西へ西へという辺境開拓の勢いはさらに強まった。
こんな時期にペリーが浦賀に来航することの意味は、普通に考えれば日本領土の侵略目的しか考えられない。

ちなみにアメリカは、19世紀以降キリスト教宣教師を通じてハワイ王朝への影響力を強め、先住民の伝統文化や儀式を邪教として排斥し、ペリー来航の翌年である1854年にはカメハメハ三世に対して併合要求を突き付けている。

また朝鮮に対しては1866年にアメリカの武装商船ジェネラル・シャーマン号が朝鮮に不法侵入し民間人の虐殺や略奪を働いたため朝鮮側の報復により焼き討ちされた事件があった。
1871年にアメリカはジェネラル・シャーマン号事件の謝罪と通商を要求し、アジア艦隊に朝鮮襲撃を命令し、極東艦隊司令長官ロジャースは、5隻の軍艦を引き連れて江華島に現れ、陸戦隊を上陸させているのだが、このような史実は勝岡氏の著書を読んで初めて知ったことだ。

このようなアメリカの侵略の歴史を知らずして、幕末以降の時代を正しく理解できるとは到底思えないのだが、そういう史実を書いた論文がGHQによって抹消されている。

次の文章は『中國評論』の昭和21年6月号に掲載予定であった、石濱知行氏の「中國民主化と米國の役割」という論文だが、引用部分がすべてGHQにより削除されている。

「ハワイ及びフィリッピン併合よりも三十年前に朝鮮に着目し朝鮮の江華灣に艦隊を入れて、『四八一門の大砲を有する五要塞を破壊し、五〇の軍旗を奪ひ、二五〇名の朝鮮兵士を殺し多数の負傷者を出す』(モーズ、支那帝国の國際關係、七頁)ことによつてはじめてアジア大陸に延びたアメリカ資本主義は『門戸開放・機會均等』によつて列國の對中國政策に割り込み『領土保全。中國獨立』政策によつて日本帝国主義を廢除し、いまや『中國民主化』のスローガンによつて漸く多年の収穫を刈り取らんとしつつある。」(同上書p.116-117)

要するにGHQは、日本人にアメリカの侵略の史実を歴史教科書に書くことを許さなかったし、今もその記述はタブーとなっているということなのだ。

次に紹介するのは、『文芸春秋』昭和21年10月の森恭三氏の論文「『邊境(へんきょう)』の開拓」という論文で、この文章はGHQによる検閲で全文が削除となっている。

「ゴールド・ラッシュ、人口の大移動は、新大陸横断鐡道の建設を刺戟した。何萬といふ支那人苦力によつてきづかれたユニオン・パシフィック鐡道がはじめて大西洋と太平洋をむすんだのは1869年のことである。(中略)」
米國人にとつては、邊境といふものは、いつも西にあつたので太平洋岸にいたるまで開拓しつくし、その岸になつて、あたらしい邊境を物色するときも、自然、その眼は西にそそがれた。だから、太平洋への關心は、米國として、ある意味では、歴史的因縁といへよう。
まして、對支貿易は、クリッパー帆船の昔から、もつと有利な商賣として、ニユーイングランドから南米の南端を迂回する航路が開かれてゐた。ニ大洋の結合、支那にいたる距離の短縮…が至上命令とされるにいたったのも、自然の勢であつた。」(同上書p.112)

アメリカの究極の狙いは中国のマーケットにあったのだが、当時の中国は既に英国が大西洋航路で利権を押さえており、それに対抗するためには、アメリカは太平洋航路を開拓するしかなかった。その目的を達するためにアメリカには、ハワイも日本も必要であったというわけである。

勝岡氏の本を読んで驚いたのだが、太平洋戦争で日本が敗れた1945年8月14日付のニューヨーク・タイムスの社説にはこう書かれていたのだそうだ。
「我々は初めてペルリ以来の願望を達した。もはや太平洋に邪魔はいない。これで中国大陸のマーケットは我々のものになるのだ。」(同上書p.113)

このニューヨーク・タイムスの社説は、アメリカ人の本音なのだと思う。
しかしこのような社説を即座に理解できるようなアメリカの世界侵略の史実を知る機会が、今までほとんどなかったのは私ばかりではないだろう。
日本人には未だに意図的に知らされていない歴史があるということであり、その意味では戦後はまだ終わったわけではないのだと思う。

列強地図

私が学生だった頃には欧米列強が世界を侵略し植民地化した地図が教科書に掲載されていた記憶があるのだが、今の教科書にはこのような地図がなくなっているのに気が付いた。第二次世界大戦が行われていた時は、日本のほかに独立国の体裁を維持していたのは、辛うじてタイとかエチオピアぐらいしかなかったのではないか。そのことを知らずして、近現代の歴史を正しく理解できるとは思えないのだ。

GHQによって押し付けられた日本国憲法の前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあるが、GHQがこの考え方を日本国民に浸透させるためには、「諸国民」が侵略国であるという歴史であっては都合が悪かったのではないのか。

日本人はGHQによる占領時代以降、綺麗ごとの歴史に洗脳されてしまって、いつのまにか国民の生命も財産も裸になったも同然だ。国民の生命も財産も他国に委ねながら、自国を守ることができるというのは、過去の侵略の歴史に照らせば幻想でしかない。

アメリカのテキサス併合の手口を振り返ると、アメリカはまずテキサスに移民を送り込み、それからアメリカ移民がメキシコからの独立を宣言し、アメリカ軍が動いてテキサス国の独立を成就させ、その後にアメリカに併合させている。
この手法ならその気にさえなれば、今の日本の領土を奪うことは決して難しくはないだろう。

領土問題は、決して尖閣諸島や竹島だけが問題なのではない。
バブル崩壊以降の経済施策に問題があったのだと思うのだが、地方の多くは若い世代が生計を立てることが厳しく、高齢化・過疎化が進むばかりだ。特に小泉改革以降は、地方の経済がさらに縮小し、国土面積の大半が過疎化・高齢化していくのに有効な対策が講じられていない。
もしわが国が地方の過疎対策として大量の外国人移民を受け入れて、さらに参政権まで認めたらどういう危険なことが起こり得るかは、過去の歴史を知っていれば容易に想像できるはずなのだが、欧米列強や中国による侵略の真実を国民に学ばせず、マスコミもそれを広めようとしない。

吉田茂

自民党を作った吉田茂が「歴史に学ばない国民は滅びる」と言ったそうだが、日本人の大半はGHQによって封印された歴史を知らないだけではなく、戦勝国にとって都合の良い歴史観に洗脳されてしまっており、その洗脳を解くことは容易なことではないだろう。
今の日本人はまず洗脳を解かなければ真実に近づけないという意味で、「歴史に学ばない」国民よりもなおさら危険な状態にあるとの認識が必要であると思う。
日本がチベットやウイグルのようにならないことを祈るばかりである。
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幕末の動乱期にわが国が独立を維持できた背景を考える~~GHQが封印した歴史 3

嘉永6年(1853)6月に、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航し強硬な態度で幕府に開国を迫り、翌年にその圧力に屈して日米和親条約を締結し、寛永16年(1639)以降200年以上続いた鎖国体制は終りを告げた。
その後、和親条約により下田に駐在したハリスの強い要求に応じて、江戸幕府は安政5年(1858)に日米修好通商条約に調印した。

ハリス

この幕府の決定が反対派の公家・大名や志士達を憤激させた。大老の井伊直弼は自らの政策を推し進めるとともに反対派を大弾圧し、徳川斉昭、松平慶永らは蟄居させられ、吉田松陰や橋本左内らの志士は刑死させられた(安政の大獄)のだが、その後も国内に反幕府勢力が燎原の火のごとくに広がっていく理由が教科書を読んでもわからなかった。
私の感覚だと、国家の最高権力である徳川幕府が大弾圧を加えたのならば、普通の国なら反対勢力はそれ以降は下火になっていくのではないかと思うのだが、そうとはならず、むしろ公然と広がっていった。
しかしながら、反幕府勢力が無秩序に広がって国論が四分五裂することもなかった。もし国論が割れていれば、欧米列強による分裂離間策でインドやインドネシアと同様に植民地化への転落すらあり得たと思うのだが、なぜ出身地も立場も考えも身分も異なる者同士が力を合わせて、独立国家を堅持することができたのか。
誰かが強力なリーダーシップをとらないとそのようなことはありえないと考えていたのだが、一体どういう経緯があったのだろうか。

学生時代に歴史を学んだ時は、「尊王攘夷」というのは偏狭な排外運動だったとイメージしていたのだが、以前紹介した勝岡寛次氏の『抹殺された大東亜戦争』によると、攘夷の急先鋒であった水戸藩主徳川斉昭は、終局的には開国・通商はやむなしと当初から考えており、国民の士気を鼓舞し充分力を蓄えてから開国に転じるという考え方であり、頑迷固陋なものではなかったようだ。

西郷隆盛

また西郷隆盛も「尊王攘夷というのはネ。ただ幕府を倒す口実よ。攘夷攘夷といって他の者の志気を鼓舞するばかりじゃ。つまり尊王の二字の中に倒幕の精神が含まれているわけじゃ」と、有馬藤太に語った記録が残されている。(『有馬藤太聞き書き』)
つまり「尊王攘夷」は愛国心を鼓舞して、開国路線をとった幕府を倒すためのスローガンとして使われたという側面もあったのだ。

以前、私のブログで孝明天皇のことを書いたことがある。孝明天皇は天保2年(1831)に生まれ、弘化3年(1846)に父・仁孝天皇の崩御を受けて即位した第121代の天皇で、その次の天皇が明治天皇である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-159.html

教科書には、孝明天皇の妹の和宮を将軍徳川家持の夫人として迎えて公武合体を推進し、幕府の権威の回復を図ったことと、強固な攘夷論者であったことくらいしか書かれていない。

孝明天皇

ずっと長い間、私も孝明天皇は偏狭な攘夷論者のイメージが強かったのだが、勝岡寛次氏の著書に紹介されている孝明天皇ご自身の勅書を読んで考え方が改まった。誰でもこの勅書を読むと、維新に至る幕末の志士達を多く輩出させた背景には、孝明天皇の存在が大きかったことに気が付くのではないだろうか。

しばらく勝岡寛次氏の解説を引用する。

「孝明天皇陛下の攘夷論は、遠く印度の運命に想いを馳せながら、欧米による日本植民地化の回避といふ一点の工夫に発し、又其処に尽きてゐたのであって、西洋人への生理的な「毛嫌い」といふやうな浅薄な次元のものでは決してなかった事を、天皇陛下の時局御軫念の勅書[所謂「御述懐一帖」、文久二年(1862)五月十一日付]は、或いは若き将軍徳川家茂に下された勅書[元治元年(1864)正月二十一日付]は、明示して余りあるからである。

…惟に因循姑息、旧套[旧来のやり方]に從ひて改めず、海内[国内]疲弊の極[結果]、卒(つひ)には戎虜(じゅうりょ:外国人)の術中に陥り、坐しながら膝を犬羊[西洋人]に屈し、殷鑑遠からず、印度の覆轍(ふくてつ:二の舞)を踏まば、朕實に何を以てか先皇在天の神靈に謝せんや。若し幕府十年を限りて、朕が命に従ひ、膺懲(ようちょう)の師[懲らしめの軍隊]を作(おこ)さずんば、朕實に斷然として神武天皇神功皇后の遺蹤(いしょう)[前例]に則り、公卿百官と、天下の牧伯[諸侯]を師(ひき)ゐて親征せんとす。卿等其(それ)斯(この)意を體(たい)して以て報ぜん事を計れ。(時局御軫念の勅書)

…然りと雖も無謀の征夷は、實に朕が好む所に非ず。然る所以の策略を議して、以て朕に奏せよ。朕其(その)可否を論ずる詳悉、以て一定不抜の國是を定むべし。(中略)嗚呼、朕汝と與(とも)に誓て哀運を挽回し、上は先皇の霊に報じ、下は萬民の急を救はんと欲す。若し怠惰にして、成功なくんば、殊に是朕と汝の罪なり。(徳川家茂に賜はれる勅書、同上)

明治維新とは、この孝明天皇の身命を擲(なげう)った驚くべき御覚悟に打たれた将軍家茂が、雄藩各藩主が、各藩士が、そして志士が、幕府といふ其れまでのパラダイム(旧枠)を乗り越えて、次々に天皇と直結していった、日本国の精神的統合の全過程をば、指して謂う言葉なのである。

文久二年(1862)12月、将軍家茂は書を天皇に奉り、二百数十年来の幕府専断の誤りを公式に謝罪し、超えて三年三月には、實に二百三十年ぶりに上洛(入京)の上、君臣の名分を正して天皇に帰順した。又、これに先んずる文久二年十月から十二月に掛けて、雄藩各藩主が(長州藩・土佐藩・筑前藩・因幡藩・宇和島藩・安芸藩・津軽藩・肥前藩・阿波藩・岡藩・肥後藩・備前藩・津和野藩)、天皇の内勅を奉じて続々京に至り、やはり天皇に忠誠を誓ってゐる様を見るのは壮観である(『孝明天皇紀』)。謂はば大政奉還の5年も前に、既に事実上の天皇政府が形勢されつつあったのであり、この事は。もっともっと注目されて然るべき事と考へる。

将軍・藩主のレベルに止まらぬ。文久二年十二月、天皇は薩摩・肥後・筑前・安芸・長門・肥前・因幡・備前・津・阿波・土佐・久留米十二藩士を学習院に召し、京都内外の守備を策問し、或いは超えて文久三年二月、草莽微賤の者とても、学習院に詣(いた)りて時事を建言することを許可された。」(勝岡寛次:『抹殺された大東亜戦争』p.101-102)

竹田恒泰

学習院」については、明治天皇の玄孫にあたる竹田恒泰氏の「皇室のきょうかしょ」に詳しいが、位の高い公家の子弟が学ぶ学校として京都御所内に設立され、文久2年(1862)の尊皇攘夷運動が盛んな折、学習院は公家衆と武家衆、そして草莽の志士たちが集う政治的な会合の場所となり、そこで攘夷決行の策が議論されたとある。
当時、公家と草莽の志士が接触することは堅く禁止されていたのだが、学習院という学問の場だけが、公家と志士が公然と会合することができる唯一の場所だったのだそうだ。
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu64.html

身分の異なる者同士を一堂に集めて、わが国の進むべき道を議論できる場を「学習院」に作られたということは画期的な出来事だと思うのだが、こういう史実がなぜ広く知らされていないのだろう。
孝明天皇の国を愛する気持ちが伝わり、国を守り独立を堅持するという目的が共有されてはじめて、身分を超え藩を超えて、人々が繋がっていったということではないのか。
「草莽の志士」と呼ばれた下級武士達がなぜ身分の高い公家らとともに明治維新を為し得たか、なぜ下級武士たちが明治政府の中心勢力になりえたかは、孝明天皇の存在を抜きには語れないことだと思うのだ。

勝岡寛次氏の著書に、GHQの検閲によって抹消された論文が掲載されている。
(西谷啓治「現在における民主主義の問題」昭和21年11月『ひょうご』)

「明治維新は、萬民がその一君の赤子として、國家の全體性へ直結するといふ形で成就されたのであり、それが…各人が『国民』となったことであった。…他の諸國では、概ね、人民が貴族階級を顚(くつが)へし、力を以て政権を自らに奪ふといふ『革命』によつて、民主主義が實現され、近世國家への移行が行はれたのであるが、日本では、國家統一の肇(はじ)めから國家的な『一』の象徴であった天皇への歸一といふ仕方で行はれたのである。…
この様にして日本では、近世國家への移行は、諸外國に見られたやうな大きな擾亂(じょうらん)や流血を經ずに、短日月の間に圓滑に行はれた。その意味で明治維新は世界史の上でも稀有な出来事である。…

列強地図

言ふまでもなく當時は、列強の膨張政策が頂點に達し、南方からは英佛の勢力が、北方からは露國の勢力が、日本まで延び、日本を終點としてそこに渦巻いていた時代であつた。亜細亜の諸國はその植民地又は半植民地と化し、日本も存亡の岐路に立つたといつてよい。その際最も緊要なことは、新しい政治的中心のもとに國家全體が眞に強固な統一を形成し、國内の結果が根本から打ち建てられることであつた。といふのは、國家の滅びる場合は、概ね一方に諸外國の相對立する勢力の干渉があり、他方には國内に相對立する勢力の分裂があつて、然もその國内の對抗勢力がその敵對關係のために、共通の地盤である祖國と同胞性とを忘れ、政敵を倒すために互ひに外國の勢力と結合し、かくして外國勢力の間の闘争と國内の闘争とが一つに聯環して來る場合である。その際、諸外國のひとつが勝つ場合には、國家はその國に征服され、諸外國の間に協定が成立する場合には、國家は分断される危険がある。後の場合の適例は、曾てポーラーン[ポーランド]が三度の分割によつて滅亡した場合である。その時は国内の親露的、親普的等の黨派が夫々に諸外國と結びついて、國家を分裂させ滅亡に導いたのであつた。かかる危険の兆しは明治維新の際にも現はれてゐた。特に一方に英國と佛蘭西(フランス)の間の勢力爭い、他方に薩長と幕府との闘爭があつて、それが複雑に絡み合つてゐたのである。かかる事情のもとでは強固な統一國家の態勢を、然も長い内爭や動亂なしに出来る限り短期間に調(ととの)へることが、何よりも緊急事であつた。」(勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争』p.104-105)

引用部分の内「言ふまでもなく當時は…」以降の文章がすべてGHQの検閲で削除されているのだが、要するにGHQは日本人が欧米列強の世界侵略の手口やわが国が短期間で統一国家の態勢を整えたことについて学ぶことを許さなかったし、幕末に欧米列国の植民地にされる可能性があったことを考えさせたくもなかったのだろう。

孝明天皇の攘夷論は「倒幕」ではなく「公武合体」の考えであったのだが、天皇親政を復活させようする過激な尊王攘夷派が多数派となり、天皇は八・一八の政変で尊王攘夷派を朝廷から一掃したのだがそのために朝廷は勢いを失い、天皇は失意の中で孤立していく。
慶応二年(1866)に将軍家茂が亡くなる頃から、対幕府強硬派が力をつけて倒幕の勢いが加速する。それでも、公武合体への信念を枉げなかった天皇の存在は倒幕派にとっては最大の障壁となってしまうのだ。

以前私のブログで孝明天皇が暗殺された可能性が高いことを書いたが、真相は闇の中だ。ただ倒幕派にとっては非常に都合の良いタイミングで崩御されことだけは事実である。
結果として孝明天皇が望んだ方向には歴史が進んだわけではないのだが、幕末から明治維新で活躍した数々の人材を輩出させるきっかけを作った天皇であったことは間違いがないと思う。

幕末維新期の和歌がいくつか残されているが、わが身を捨てても国を守るということの思いが伝わってくるものがある。
あさゆふに民やすかれとおもふ身のこゝろにかかる異国(とつくに)の船[孝明天皇(1831-1867)]
君が代を思ふ心の一筋にわが身ありとも思はざりけり[梅田雲浜(1815-1859)]

吉田松陰

かくすればかくなるものと知(しり)ながら已むに已まれぬ大和魂[吉田松陰(1830-1859)]
わが霊はなほ世にしげる御陵(みささぎ)の小笹の上におかむとぞおもふ[伴林光平(1813-1864)]
大山の峰の岩根に埋(うめ)にけりわが年月の大和魂[真木和泉守(1813-1864)]
もののふの大和ごころを縒りあわせすゑ一すぢの大縄にせよ[野村望東尼(1806-1867)]

平和な国や侵略する側の国にはこのような思いは不要であろうが、侵略される側の国には、国を愛する強い心と愛する国を守り愛する人を守るためにはわが身を犠牲にしてもいいという覚悟が大半の国民に存在し、かつ強力なリーダーシップと戦略がなくては、国を守れるはずがないである。
このことはどこの国でもいつの時代にも言えることだと思うのだが、このようなあたりまえの事が戦後の日本で充分に伝えられていないのではないだろうか。

ペリー来航2

以前私のブログで、ペリーの来航の真の目的は、アメリカが日本を奪い取ることであったことを書いたが、そのことをしっかり理解できれば、幕末から明治以降の歴史の見方が変わらざるを得ないだろう。

先ほど紹介した竹田恒泰氏は『旧皇族が語る天皇の日本史』という著書の中で、孝明天皇を「封印された天皇」としたうえで、こう記されている。

「孝明天皇の崩御がもし少しでも前後していたら、おそらく今の日本はない。皇室も幕府もともに倒される対象とされていたろう。王政が打倒され、共和国が成立するのは世界史の大勢だった。
 もし崩御がより早ければ、倒幕の原動力となった尊攘派が育つことはなく、もし崩御がより遅ければ、天皇親政による新政府構想は成立するはずもない。孝明天皇は生きて国を守り、そして死して国を守ったことになろう。」(『旧皇族が語る天皇の日本史』p.205)
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「明治天皇すり替え説」を追う

2年以上前にこのブログで「明治の皇室と仏教」という記事を書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-125.html

内容を簡単に振り返ると、明治政府は明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」により、上古以来、宮中に祀られていた仏堂・仏具・経典等、また天皇・皇后の念持仏など一切を天皇家の菩提寺である京都の泉涌寺に遷し、その代わりとして神棚が宮中に置かれて、宮中より仏教色を一掃することになった。その時に3人の皇族の女性が明治政府からの還俗の強要を敢然と拒否したことを記事の中で紹介したのだが、皇族の男性が反対したことがなぜか見えて来ないのである。

私はこの記事でこのように書いたのだが、その気持ちは今も同じである。
「皇室で仏教は1400年以上の歴史があり、江戸時代までは皇族は仏教徒であり仏教を保護してきたのだ。まして、明治天皇にとっては先代の孝明天皇は実の父親である。若いとはいえ、明治4年と言えば天皇は19歳だ。他にも皇族は沢山いたのに、そんな簡単に信仰が捨てられることに不自然さを感じるのは私だけだろうか。信仰の薄い私ですら、自分の先祖の墓を捨てて明日から神棚を祀れというのは耐えられない。」

明治天皇や主要な皇族が抵抗すれば、いかなる策士といえどもこのようなことは強行できなかったと思うのだが、皇族男性すべてが抵抗せずに廃仏を受容したとすれば、脅迫などがあって皇族の誰もが抵抗できない環境に置かれていたか、主要な皇族全員が神仏分離し仏教を捨てるべきだとの考え方でほぼ一致していたかのいずれかしか考えられないのではないか。直感的には前者の可能性が高いだろう。

2年以上前にこの記事を書いた際に、明治天皇暗殺説があることを少しだけ触れておいたのだが、それくらいの事件がなければ、皇族の男性全てが、1400年以上の歴史のある仏教をさしたる抵抗もなく捨て去ることはなかったのではないかとも思えるのである。
今回は明治天皇が暗殺されて別の人物にすり替えられたという説を、もう少し詳しく追ってみることにしたい。

meiji.jpg

以前紹介した記事に、少年期の明治天皇の写真と伝えられるものを掲載したのだが、今回も掲載しておこう。中央に立つ背の低い人物が明治天皇であると伝えられているのだが、この写真は我々の知る明治天皇とは別人にしか見えない。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html

実はこの写真は小学校の時に一度雑誌の記事で見たことがあるので、かなり以前から明治天皇の写真であるとして伝えられていたはずなのだが、ネットでいくら調べても、誰がいつ撮影したものであるかも、周囲の人物が誰なのかもよくわからなかった。

三浦芳聖

いわゆる、「明治天皇すり替え説」は古くからあったようだ。土佐藩出身の田中光顕元宮内大臣が昭和4年(1929)の2月に、三浦芳聖氏に語ったという話に注目したい。三浦氏は自らが南朝正統の皇胤であることを主張した人物で、三浦氏の『徹底的に日本歴史の誤謬を糾す』という著書にその内容が書かれているらしい。
この本は自費出版されたもので手に入れることは難しそうだが、次のURLに田中光顕(下画像)の証言内容が引用されている。
http://wiki.livedoor.jp/niwaka368/d/%B8%B5%B5%DC%C6%E2%C2%E7%BF%C3%C5%C4%C3%E6%B8%F7%B8%B2%BB%E1%A1%A2%CC%C0%BC%A3%C5%B7%B9%C4%CA%C5%B2%BC%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8%B9%F0%C7%F2

田中光顕

重要な部分を紹介しよう。
「斯様申し上げた時に、田中光顕伯爵は顔色蒼然となられ、暫く無言のままであられましたが、やがて、『私は60年来曾って一度も何人にも語らなかったことを、今あなたにお話し申し上げましょう。現在此の事を知っている者は、私の外には、西園寺公望公爵只御一人が生存していられるのみで、皆故人となりました』
と前置きされて、
『実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新と云う時に急に崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘中山慶子様で、御生れになって以来、中山大納言邸でお育ちになっていたと云う事にして天下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領し、 代々長州の萩に於て、この御王孫を御守護申し上げて来た。これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古維新を志した勤皇の運動である。
吉田松陰亡き後、此の勤皇の志士を統率したのが明治維新の元老木戸孝允即ち桂小五郎である。元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の間柄であったが、此の桂小五郎と西郷南洲とを引合せて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。
薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南洲に、『我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ』と云う事を打ち明けた時に、西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く感銘して之に賛同し、遂に薩摩藩を尊皇討幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。之が大政奉還、明治維新の原動力となった。』」

この証言内容をどの程度信じるかは、読む人によって異なると思うのだが、かなり具体的なことを語りながらも結構筋が通っていて、私にはあまり嘘っぽく感じられないのである。
このような重要なことを維新の元勲が軽々しく語るのはおかしいとも思えたりもするが、その点は読者の判断にお任せしよう。
田中の述べたことを要約すると、長州は南朝末裔の大室寅之祐を匿っていて、薩長は「南朝革命」を大義名分にして「薩長同盟」を結んだということである。

「南朝」という言葉がいきなり出てきて戸惑った人も多いと思うが、建武三年(1336)に足利尊氏が光明天皇を立て、後醍醐天皇が吉野に逃れて、京都の「北朝」と吉野の「南朝」に皇室が分裂してしまう。それから、それぞれが正当性を主張する時代(南北朝時代)が元中9年(1392)まで続くことになるのだが、その後も南朝の子孫がずっと生き延びていてそのうちの一人が、長州が匿っていた大室寅之祐だと述べているのだ。

北畠親房は南北朝時代に『神皇正統記』で、三種の神器の所在と皇統における「正統」概念をもって南朝正統論を唱えた最初の人物であるが、『太平記』が公家や武士の間に愛読されて南朝方に同情的な見方が次第に広まって以降、著名な学者が南朝正統論を唱えるようになる。
江戸時代に徳川光圀が編纂した『大日本史』は三種の神器の所在などを理由として南朝を正統として扱っていたそうだし、『日本外史』を著した頼山陽も、また幕末・維新の志士に大きな影響を与えた山崎闇斎も南朝正統論であった。

江戸末期に全国の藩校では南朝を正統とし、北朝系を天皇家とした足利尊氏を逆臣とした考えが教えられていたのである。維新後になされた施策を追っていくと、明治維新を成し遂げた志士たちが、南朝正統論の影響を強く受けていたことがよくわかる。
Wikipediaによると、
「1869年(明治2年)の鎌倉宮創建をはじめとする南朝関係者を祀る神社の創建・再興や贈位などが行われるようになった。また、1877年(明治10年)、当時の元老院が『本朝皇胤紹運録』に代わるものとして作成された『纂輯御系図』では北朝に代わって南朝の天皇が歴代に加えられ、続いて1883年(明治16年)に右大臣岩倉具視・参議山縣有朋主導で編纂された『大政紀要』では、北朝の天皇は「天皇」号を用いず「帝」号を用いている。なお、1891年(明治24年)に皇統譜の書式を定めた際に、宮内大臣から北朝の天皇は後亀山天皇の後に記述することについて勅裁を仰ぎ、認められたとされている(喜田貞吉『還暦記念六十年之回顧』)。」

田中光顕の証言が正しいとすれば、明治維新を成し遂げた志士たちは、北朝の天皇を廃し南朝の天皇を即位させたことになるのだが、そのことは南朝を正統と考えていた志士たちにとっては、その動機が充分にあったのだと考えられる。だから長州が南朝の末裔を匿って、「南朝革命」を大義名分にして「薩長同盟」を結んだという田中光顕の話も、決して荒唐無稽のものとは思えないのだ。

明治天皇肖像画

また田中光顕は睦仁親王(京都明治天皇)と明治天皇(大室寅之祐)との違いを次のように語っている。

睦仁親王は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に『あばた』は無かった。
明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。その結果、口の周りに『あばた』が残った。その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた『肖像画』を写真に撮らせて『御真影』とした。又、『あばた』を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。」

bookk1-2.jpg

明治天皇の即位に関する問題について詳しく研究された人が何人かいる。故人となられたが、鹿島昇氏の『裏切られた三人の天皇…明治維新の謎』という本に、暗殺され大室寅之祐にすり替えられた証拠となる話がいくつも紹介されているそうだ。

たとえば、学習院院長を務めた元宮中顧問官の山口鋭之助氏も「明治天皇は、孝明天皇の子ではない。山口県で生まれ、維新のとき京都御所に入った」と語ったという。
また長州出身の元首相・岸信介は「今の天皇家は明治天皇のときに新しくなった。実はそれまでの天皇家とは断絶している」と述べ、元公家の広橋興光氏も「睦仁と明治天皇は別人」との言葉を残しているそうだ。
また、明治天皇の正后を「昭憲皇太后」と呼ぶのはおかしな話で、普通なら正后なら「皇后」と呼ぶべきである。この疑問は「昭憲皇太后」が睦仁親王の正后であり、親王の死後は皇太后として処遇するしかなかったと考えれば納得ができる話だ。

この問題についてもっと詳しく知りたい人のために、れんだいこ氏のサイトを紹介しておこう。他のサイトに書かれている説などがよく整理され、リンクも貼られている。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/bakumatuootyokotaico/oomuroco.html

以前このブログでも書いた通り、明治天皇の本来の父親である孝明天皇は攘夷論者であり佐幕派であった。孝明天皇は慶応2年(1866)の 12月25日に崩御され、死因については表向きは病死だったが、倒幕派によって毒殺されたと言う説がある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-159.html

れんだいこ氏が、先ほど紹介したURLで睦仁親王大室寅之祐との人物の違いを纏めているが、睦仁親王は幼少より『虚弱体質』で運動能力に乏しく、16才になっても、宮中で女官と一緒を『遊戯』を好んだというレベルであり、とても政治力が期待できる人物としては育っていなかったという。
そこで倒幕派は、「北朝」系の孝明天皇に続いて慶応3年(1867)7月に睦仁親王を暗殺し、10月に「南朝」派の大室寅之祐に明治天皇になりかわり倒幕の密勅を出させて、徳川幕府による大政奉還の後、12月には王政復古の号令を出させ、翌慶応3年10月に正式に大室寅之祐を明治天皇として即位させたという流れになる。
これまで「北朝」系の天皇を支えてきた徳川将軍家や会津松平家が、明治天皇(「南朝」派)の逆賊となったという理解もできるし、「戊辰戦争」は「第2次南北朝戦争」であったという解釈も可能になってくる。

この様な説を「荒唐無稽」と切り捨てる人も多いのだが、これを切り捨ててしまうと、この記事の冒頭で私が書いた明治政府は明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」で、男性皇族全員が仏教を廃することに一人も抵抗しなかったことが非常に不自然に思えるのである。
もし三浦芳聖氏の著書の田中光顕の発言が正しいとすれば、「北朝」派の睦仁親王が暗殺されて、「南朝」の末裔とされる人物が皇室に「明治天皇」として乗り込んできたという異常な事態が起こったことになる。
しかし、これくらいの異常なことが起こらないかぎり、この時に皇室の男性の誰もがさしたる抵抗もせずに、1400年以上の歴史のある皇室における仏教の信仰を捨てることはありえなかったのではないだろうか。

ところで、大室寅之祐が本当に南朝の末裔であったかについては、それを否定する説もあるようだ。もしかすると薩摩や長州藩にとっては、幕府を倒すのに都合がよく英邁な人物なら誰が天皇になっても良かったということなのかも知れない。
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幕末の「ええじゃないか」は世直しを訴える民衆運動だったのか

学生時代に教科書や参考書をいくら読んでもピンとこない叙述はいくつかあったが、江戸時代末期の「ええじゃないか」は変な出来事だとは思いながら、「一般庶民が新しい世の中が生まれることを期待して自然発生的に起こった」という説明を鵜呑みにした記憶がある。

Wikipediaには『ええじゃないか』をこう説明している。
「日本の江戸時代末期の慶応3年(1867年)7月から翌慶応4年(1868年)4月にかけて、東海道、畿内を中心に、江戸から四国に広がった社会現象である。天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ、という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の『ええじゃないか』等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%88%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8B

簡単に、この「社会現象」が起こるまでの歴史を振り返ってみよう。
万延元年(1860)に大老井伊直弼が桜田門外で暗殺された後、江戸幕府は老中安藤信正を中心に朝廷の権威を借りて立て直そうとし公武合体を進めるのだが、文久二年には老中安藤信正が水戸浪士に襲われて失脚してしまう。(坂下門外の変)
その後、攘夷の気運が高まり外国人殺傷事件がしばしば起こり、長州藩は下関海峡を通過する外国船を砲撃したが、英米仏蘭4か国の報復攻撃を受けて攘夷が困難であることを悟り、藩論を攘夷から討幕に転換させていく。また薩摩藩も、西郷隆盛や大久保利通らの下級武士が藩政の実権を握り、反幕府の姿勢を強めていく。
慶応二年(1866)には、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎らの仲介で、薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結び、長州藩が農民・町人をも加えた奇兵隊などを動員して各地で幕府軍を打ち破る。その最中に、各地で「世直し」をとなえる農民一揆がおこり、江戸や大坂でも、生活に苦しむ貧民の打ちこわしが各地で起こる。その時期にこの『ええじゃないか』を連呼して熱狂的に踊る現象が起こったという。

おかげまいり

この『ええじゃないか』騒動の発端は、慶応三年(1867)の夏に東海道の御油宿に秋葉神社の火防の札が降下したのが始まりだとされ、その後東海道吉田宿(現豊橋市)で伊勢神宮の神符が降り、その後東海道、畿内を中心に30か国で同様な事件があり、人々は、このことを良きことが起こる前触れと考え、「ええじゃないか」とはやし立てながら、集団で狂喜乱舞をはじめたという。
空から降りてきたものは様々で、伊勢神宮、秋葉大権現、春日、八幡、稲荷、水天宮、大黒天などの神仏のお札や、仏像、貨幣のほか生首や手、足までも空から降ったと言われているのだ。
http://members.jcom.home.ne.jp/rekisi-butaiura/eejya.html

このような現象は、誰かがお札を撒くという行為をしない限りあり得ないことは言うまでもない。では、どういう勢力が、何のためにこのような事を仕掛けたのだろうか。

『ええじゃないか』には歌詞があり、それは各地で異なるようだ。最初に紹介したWikipediaの記述に各地の歌詞が掲載されている。

「例えば『今年は世直りええじゃないか』(淡路)、『日本国の世直りはええじゃないか、豊年踊はお目出たい』(阿波)といった世直しの訴えのほか、『御かげでよいじゃないか、何んでもよいじゃないか、おまこに紙張れ、へげたら又はれ、よいじゃないか』(淡路)という性の解放、『長州がのぼた、物が安うなる、えじゃないか』(西宮)、『長州さんの御登り、えじゃないか、長と醍と、えじゃないか』(備後)の政治情勢を語るもの、などがあった。」
とある。
地域により歌詞に違いはあるが、「ええじゃないか」と踊るところは共通していて、地域によっては「長州」の名前が出てくるところが気になるところである。

この『ええじゃないか』が広まって言った背景については、Wikipediaはこうまとめている。「その目的は定かでない。囃子言葉と共に政治情勢が歌われたことから、世直しを訴える民衆運動であったと一般的には解釈されている。これに対し、討幕派が国内を混乱させるために引き起こした陽動作戦だったという説や、江戸のバブル期後の抑圧された世相の打ち壊しを避けるために幕府が仕掛けた『ガス抜き』であったという説もある。本来の意図が何であったにせよ、卑猥な歌詞などもあったところを見ると、多くの者はただブームに乗って楽しく騒いでいただけのようでもある。」

どの説が正しいのか少し気になって、当時の記録で『ええじゃないか』を書いた記録が他にないかネットで探してみた。
あまり検索では引っかからなかったのだが、土佐藩出身の田中光顕が著した『維新風雲回顧録』に、『ええじゃないか』のことを書いた文章が見つかった。
http://books.salterrae.net/amizako/html2/ishinnfuuunnkakoroku.txt

維新風雲回顧録

最初に出てくるのは、京都の情勢を父に報告した内容である。上記URLでも読めるが、ミスタイプもあるようなので、河出文庫の『維新風雲回顧録』を引用する。

「この頃の京都の模様を国もとにいる父に報告した私の書面が残っている。その末節には、次のように記されている。

『薩長は、疑いなく大挙に到り申すべく候、土州もその尾にすがりつき、一挙出来申さずては、汗顔の事に御座候、さて先日以来、京師近辺歌に唱え候には、大神宮の御祓が天より降ると申して、大いに騒ぎ居申候、大国天、蛭子観音等種々のものが降り候趣き、近々はなはだしき事に御座候、切支丹にて御座あるべく存ぜられ候、過日はどこかへ嫁さまが降り候処、江戸の産の由に御座候、何がふり候やら知れ申さず候、ただただ弾丸の降り候を相楽しみ待居申候。』

 これは、お札踊(ふだおどり)の流行をさしたもので、京都を中心に、大坂に流行し、果ては、一時関東にも及んだくらいだった。
 天下は、今にも、一大風雲をまき起こそうとしている矢先、どこからともなく、お札が舞い下りてくる。
 京都市民は、吉兆だというので、お札の下りた家では、酒肴の仕度をして、大盤振舞いをした。そして、『ええじゃないかええじゃないか』をくりかえしながら、屋台を引き出し、太鼓をたたき、鉦をならしながら仮装して、町中をねって歩く。まるでお祭騒ぎである。
そういうから景気のどん底にかくして、薩長は、秘かに討幕の計をめぐらしていた。」(河出文庫:p.313-314)

さらに読み進むと、王政復古の大号令が出た慶応三年十二月九日に討幕派田中光顕らが高野山に向かう途中で、『ええじゃないか』のお祭り騒ぎのおかげで幕府の警備の中を掻い潜った記録がある。

ええじゃないか2

「具合のいいことには、大坂でも、お札踊りの真最中。
『ええじゃないかええじゃないか』とはやし立てて、踊りくるっていたため、ほとんど市中の往来が出来なかった。
『また、やってるな』
『大変な人出じゃないか』
そういっているうちに、いつの間にか、私どもも、人波に押しかえされていた。
鷲尾卿はじめ、われわれ同志は、この踊りの群れの中にまぎれ入って、そ知らぬ態で、ついうかうかと住吉街道から堺まで出た。
何が幸いになるかわかったものでない。」(河出文庫p.330-331)

鷲尾卿というのは幕末維新期の公家の鷲尾隆聚(わしのおたかつむ)で、高木俊輔氏『国史大辞典』の説明を読むとこの間の事情がよく解る。
「慶応三年(1867)十二月八日夜、岩倉具視の命令により紀州和歌山藩の動きを牽制する意図で、京都の激論家の一人であった鷲尾を擁し、香川敬三・大橋慎三らと陸援隊士約四十名が京都の白川邸を出発した。すでに鷲尾には朝廷の中山忠能(ただやす)・正親町三条実愛(さねなる)・中御門経之らから内勅が下されていた。一行は船に分乗して淀川を下り、大坂からは『ええじゃないか』の踊りに紛れて街道を進み、堺を経て同月十二日に高野山へ着いた。ここで内勅ならびに鷲尾みずからの達書が示され、ひろく同志を募った。」
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/daijiten-washinooke.htm

幕末期は討幕派の動きが幕府に警戒されていたことは当然である。討幕派の集合場所などが洩れてしまえば幕府役人や新撰組などによって一網打尽で捕縛されてしまってもおかしくないし、密書を送るにも場所を移動するにも、幕府役人の警備の目を掻い潜る必要があったはずだ。
京都や大阪など各地で『ええじゃないか』の踊りが行われていたことは、討幕派が幕府に隠密に活動をするには都合が良かったことは間違いがないだろう。
実際、『ええじゃないか』騒動の真っ最中に土佐藩が大政奉還を建白し、その後、大政奉還、王政復古の大号令と、討幕派の思い通りに歴史が展開していったのである。

しかしながら、『ええじゃないか』騒動が討幕派にとって都合がよかったからと言って、これを討幕派が仕掛けたという推論にはかなり無理がある。誰かが、それを仕掛けたという証拠が必要なのだが、あまり証拠らしきものがネットでは見当たらなかった。

そんな事を考えながら、本屋で並木伸一郎氏の『眠れないほど面白い 日本史「意外な話」』(王様文庫)を読んでいると、幕末の幕臣であり明治時代にジャーナリスト・作家となった福地源一郎や、佐賀藩士であり明治期に内閣総理大臣にもなった大隈重信が、この『ええじゃないか』騒動が、討幕派の仕業であると述べていることが書かれていた。

並木氏の本を衝動買いして、該当部分を引用してみたい。

「幕末から明治にかけて活躍した作家でジャーナリストの福地源一郎は、著書『懐往事談』でこう書き記している。
『京都の人々が人心を騒乱せしめるために施したる計略なりと、果たしてしかるや否やを知されども、騒乱を極めたるには辟易したりき』
尊王派として活躍した大隈重信も
『誰かの手の込んだ芸当に違いないが、まだその種明かしがされておらぬ』
という言葉を残している。」(同上書 p.250)

福地の言う『京都の人々』というのは討幕派を意味しているが、幕臣だった福地も討幕派であった大隈も、立場が違いながらも討幕派の仕業であると睨んでいたことは注目していいと思う。

次のURLを読むと、京都における『ええじゃないか』騒動は十月二十日からであり、大阪は十月十五以降のことのようだ。大政奉還があったのが十月十四日であるから、それからの話なのだ。岩倉具視らの陰謀により薩摩と長州に『討幕の密勅』が出されて、両藩はそれにより討幕の大義名分を得て国元から大軍を呼び寄せようとし、使いが京都を出立したのが十七日なのだそうだ。「岩倉具視らの陰謀」と書いたのはこの『討幕の密勅』は勅としての手続きを経ず、文書の形式も異なる文書であり、恐らく偽勅であったと考えられる。
http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/minaosu11.htm

img20121103212256794.jpg

上記URLの記事に、岩倉具視の伝記である『岩倉公実記』にこの頃のことをどう書かれているかが紹介されている。興味深い部分なのでしばらく記事を引用する。

岩倉具視の伝記である『岩倉公実記』(一九〇六年)によると、王政復古の陰謀を行なっていた時、幕府や京都守護職・所司代の偵吏をくらますことができたのは、「天助アリシニ由ル」と述べている。その「天助」とは「あたかもこの時にあたり、京師に一大怪事あり」というもので、空中より神符がへんぺんと飛び降り、あちこちの人家に落ち、神符の降りたる家は、壇を設けてこえを祭り、酒淆を壇前に供え、来訪するものを接待し、これを吉祥となした。都下の士女は、老少の別なく着飾り、男は女装し、女は男装し、群をなし隊をなす、そして卑猥な歌を歌い、太鼓で囃し立てた「よいじやないか、ゑいじやないか、くさいものに紙をはれ、やぶれたら。またはれ。ゑいじやないか。ゑいじやないか」という。衆みな狂奔醉舞し、一群去ればまた一隊が来る。夜にはいると、明々と照し、踊りつづけた。そのお陰で岩倉らの挙動が、自然と人目にふれることはなかったというのである。」

福地源一郎

上記URLに、先ほど紹介した福地源一郎の名前が出てくる。これを読むと、なぜ彼が『ええじゃないか』騒動を討幕派の計略と考えたかが見えてくる。

「幕臣福地源一郎は、公用で海路江戸からやってきて、西宮に上陸したが、『ええじゃないか』の狂乱の渦にまきこまれ、人夫や駕篭を雇うこともできなかったと回想している。」
この騒動は、幕府の支配と交通・情報機能を至る所で麻痺させたのである。

このURLの記事で特に興味深いところは、『ええじゃないか』騒動は長州藩兵の移動と共に動いているという指摘である。再び記事を引用する。

「『ええじゃないか』は大坂から西宮神戸を経て、山陽道を東進した。また淡路島と四国に上陸し、阿波から讃岐、さらに伊予に広がっている。

 山陽道の要衝である備後国の尾道の御札降りは、十一月二十九日から始まっているとされるが、「ええじゃないか」が、十二月三日に始まっているとする史料もある。この日付には重要な意味がある。というのはその前日の十二月二日に上京途中の長州藩兵の一部が尾道に上陸し、暫時滞在しているからである。すなわち十月十四日の大政奉還のさいに討幕の密勅を受けた長州藩は、ただちに大軍を上京させる準備に取りかかり、十一月二十八日より三田尻港からぞくぞく出発させた。そして十二月二日にはその一部である鋭武隊、整武隊が尾道に上陸したのであり、その翌日の三日から御札降りが始まり、「ええじゃないか」騒ぎとなっているのである。ここには長州軍の移動を幕府に蔽い隠すためのなんらかの作為があったのではないだろうか。なお薩摩、長州と出兵盟約を結んでいた芸州藩も十二月一日一大隊を尾道に派遣している。尾道の「ええじゃないか」では、「ヱジャナヒカ、ヱジャナヒカ、ヱジャナヒカ、長州サンノ御登リ、ヱジャナヒカ、長ト薩ト、ヱジャナヒカ」と歌われ、上陸した長州藩兵も一緒に踊ったという。

 やがて長州軍は幕府の情報網をかいくぐって、西宮附近に上陸、大坂を迂回して入京し、鳥羽伏見の戦いで幕府軍を戦うのである。」

こういう文章を読むと、この『ええじゃないか』騒動が民衆による自然発生だとする説にはかなり無理があるような気がする。
30か国にも拡がったという『ええじゃないか』騒動の一部には政治的背景がなく、踊り狂うという楽しい行為が隣国から流行して各地に拡がっていったという可能性があることは否定しない。しかし、討幕派に仕掛け人がいなければ、長州軍の移動と共に『ええじゃないか』騒動が動いていくことはありえないことは誰でもわかる。少なくとも、大政奉還から王政復古までの狂喜乱舞の多くは討幕派によって仕組まれていたと考えた方が自然なのではないか。

このブログで何度も書いてきたように、いつの時代でもどこの国でも、歴史というものは勝者が都合の良いように編集し、都合の悪いことは正史に書かないものだ。
『ええじゃないか』騒動が、民衆による自然発生説が通説になっているのは、明治維新の勝者である明治政府にとって都合の良い歴史叙述に、未だに縛られているということなのか。
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討幕の密勅、大政奉還から王政復古の大号令までの歴史を振り返る

前回の『ええじゃないか』騒動の記事で、岩倉具視らの陰謀により、慶応三年(1867)十月十三日、討幕派の薩長両藩に『討幕の密勅』が下ったことに少しだけ触れておいた。

武力討幕派の薩摩長州両藩にとっては、もし将軍徳川慶喜が土佐藩の建白による大政奉還を決断するとなると武力で幕府を倒す大義名分がなくなってしまうばかりか、新政府の主導権を土佐に奪われかねないことになる。そこで、朝廷より「討幕の密勅」を受けて、武力討幕を進めようとするのだが、大政奉還される前日の十月十三日出された「討幕の密勅」は、朝廷の出す「詔書」として正式な手続きを経たものではなかったことが明らかになっている。
Wikipediaに詳しく書かれているが、この勅書は明治天皇も摂政二条斎敬の手も経ずに書かれており、偽勅である可能性が限りなく高いと書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E5%B9%95%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85

倒幕の密勅

この「討幕の密勅」の読み下し文はWikipediaでも読めるが、次のURLに口語で要約されている。読めばわかるが、驚くほど過激な内容になっている。
http://www.japanusencounters.net/restoration.html#restoration

読み下し文はこうなっている。

「詔す。源慶喜、累世の威を籍り、闔族(ごうぞく=一門)の強を恃み、みだりに忠良を賊害(=殺傷)し、しばしば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めて懼れず、万民を溝壑(こうがく=どぶ谷)に擠し顧みず、罪悪の至る所、神州まさに傾覆せんとす。朕、今、民の父母として、この賊にして討たずんば、何を以て、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讎(しんしゅう=深い恨み)に報いんや。これ、朕の憂憤の在る所、諒闇を顧みざるは、万止むべからざる也。汝、よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮(てんりく=全滅)し、以て速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山獄の安きに措くべし。此れ朕の願、敢へて懈る(おこたる)ことなかれ。」

要するに慶喜を暗殺せよと天皇が命じたことになるのだが、慶喜が将軍に着任したのは慶応二年(1866)の十二月五日だから着任してまだ10か月と日が浅く、ここまで恨まれるほどのことは何もしていないと思われる。要するに薩長は討幕ありきで、その為には慶喜を殺すしかないという考えなのだ。

この密勅は慶応三年(1867)十月十三日に薩摩藩に、その翌日に長州藩にも下され、長州藩には京都守護職の松平容保(会津藩主)とその実弟で京都所司代の松平定敬(桑名藩主)を討伐する命令書も下りている。

しかしこの討幕の密勅は、あとで記すが、十四日に将軍・徳川慶喜から大政奉還の上表が出されたために、中止されることになったという。

次に薩摩・長州とは別の立場をとる土佐藩の動きを追ってみよう。
土佐の坂本龍馬、後藤象二郎らが、天皇のもとに徳川及び諸藩が力を合わせて国内を改革する必要を唱え(「公儀政体論」)、彼らの働きかけで前藩主山内容堂は、15代将軍徳川慶喜に対し、政権を返還するよう建白した。
慶喜はこれを受け容れて、同じ十月十四日に朝廷に大政奉還を申し出て、朝廷はこれを受理し、これにより家康以来265年続いた徳川幕府はついに幕を閉じることになるという流れだ。

船中八策

龍馬が唱えた維新国家のグランドデザインは『船中八策』と呼ばれ、原文は次のようなものであったとされている。
「一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。
一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。
一、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。
一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。
一、海軍宜シク拡張スベキ事。
一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。
一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。
以上八策ハ方今天下ノ形勢ヲ察シ、之ヲ宇内万国ニ徴スルニ、之ヲ捨テ他ニ済時ノ急務アルナシ。苟モ此数策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、万国ト並行スルモ、亦敢テ難シトセズ。伏テ願クハ公明正大ノ道理ニ基キ、一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン。」

この『船中八策』の最初に書かれているのが『大政奉還』であり、龍馬の構想する維新国家は、まず幕府が大政奉還したうえで朝廷を中心とした統一国家を作り、上下両院の議会政治により討議すること、憲法を作ることなどが書かれている。

後藤象二郎や山内容堂がこれを受け容れ土佐藩の藩論としたのは、薩長による武力討幕を回避するためは、これ以外に方策はないと考えたのであろう。土佐藩が幕府に大政奉還の建白をしたのは十月三日で、十月六日には芸州藩も同様な大政奉還の建白をしているようだ。

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この建白に対する幕府の対応は驚くほど早かった。徳川慶喜は十月十三日に十万石以上の諸藩の重臣を二条城に集めて大政奉還の諮問を行い、朝廷に大政奉還を申し出たのは十月十四日なのだ。

徳川慶喜は土佐藩などの大政奉還の建白をどう受け止めたのだろうか。もちろん薩長の武力討幕派の動きについては耳に入っていたはずだし、もし幕府と薩長とが戦えば双方が消耗して外国勢力の思う壺となり徳川家の存続どころではなくなる。一方、徳川幕府が大政奉還を受け容れれば、薩長による倒幕の大義名分がなくなり、内乱が回避され徳川家も安泰となる。徳川家としては、この選択の方がはるかにベターだと考えたのだろう。

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しかし将軍慶喜は、大政奉還をしても徳川家の政権の実権を捨てることまでは考えていなかったようだ。朝廷側にとっては、幕府からいきなり政権を返上されても明治天皇の年齢は当時数えで16歳に過ぎず、朝廷に政権運営能力があるわけではない。慶喜には、大政奉還後にやがて組織されるであろう諸侯会議で、その後も政治的影響力を発揮できるという読みがあったようだ。

慶喜生前談話集である『昔夢会筆記(せきむかいひっき)』という本には、「予(慶喜)が政権返上の意を決したのは早くからのことであったが、かといって、どのようにして王政復古の実を挙げるべきかについては良い考えは思い浮かばなかった。しかし土佐藩の建白を見るに及び、その掲げる政体構想が非常に有効であると確信したので、これならば王政復古の実を上げることができると考え、これに勇気と自信を得て、大政返上の断行に踏み切ったのだ。」という趣旨のことが書かれていることが次のURLに紹介されている。
http://www2.dokidoki.ne.jp/quwatoro/faq2/faq2.cgi?action=answer&no=24

要するに、徳川慶喜は「船中八策」にあるように「上院に公家・諸大名、下院に諸藩士を選補し、公論によって事を行えば、王政復古の実を挙げる事が出来る」と考えたのだ。さらに『昔夢会筆記』には、老中板倉勝静(いたくらかつきよ)らは、慶喜を朝廷の摂政という形にしてそのまま実権をとり続けさせたいと思っていたことが、書かれているようだ。

 徳川慶喜が朝廷に提出した大政奉還の上奏文とその口語訳が次のURLで読める。
http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/bakumatu10.htm

「臣慶喜謹て皇国時運の沿革を考候に、昔し王綱紐を解き相家権を執り、保平の乱政権武門に移りてより、祖宗に至り更に寵眷を蒙り、二百余年子孫相受、臣其職奉ずと雖も、政刑当を失ふこと少なからず。今日の形勢に至り候も、畢竟薄徳の致す処、慚懼に堪へず候。況や当今、外国の交際日に盛なるにより、愈朝権一途に出申さず候ては、綱紀立ち難く候間、従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公議を尽し、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕候得ば、必ず海外万国と並立つべく候。臣慶喜国家に尽す所、是に過ぎずと存じ奉り候。去り乍ら猶見込の儀も之有り候得ば、申聞くべき旨、諸侯え相達置候。之に依て此段謹て奏聞仕候。 以上  慶喜」

最初に記したように、朝廷はこの大政奉還により十月二十一日に『討幕の密勅』の中止を指示している。そして、翌日には大名会議開催までの庶政を慶喜に委任する決定を下し、二十三日には外交権がまだ江戸幕府にあることを認める通知が出ているという。大政奉還に反対する会津藩、桑名藩や旧幕府勢力の動きにより、次の新政権に徳川慶喜が擁立される可能性は少なからずあったようなのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%BE%A1%E6%89%80%E4%BC%9A%E8%AD%B0#cite_ref-2

しかし武力討幕派の薩摩・長州両藩は慶喜の復権を認めるつもりはなく、密かに強引なる政変決行の準備をしていたのである。

慶応三年(1867)十二月八日、岩倉具視は自邸にて薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣を集め、王政復古の断行を宣言し協力を求め、翌朝の朝議のあとに、待機していた尾張・土佐・薩摩・越前・安芸の五藩の兵が京都御所の九門を閉鎖し、御所への立ち入りを藩兵が厳しく制限した中で、親王、公卿のほか五藩の諸侯を集め、明治天皇(15歳)が『王政復古の大号令』を下したという。その宣言は次のようなものであった。

「徳川内府、従前御委任ノ大政返上、将軍職辞退ノ両条、今般断然聞シ召サレ候。抑癸丑以来未曾有ノ国難、先帝頻年宸襟ヲ悩マセラレ御次第、衆庶ノ知ル所ニ候。之ニ依リ叡慮ヲ決セラレ、王政復古、国威挽回ノ御基立テサセラレ候間、自今、摂関・幕府等廃絶、即今先仮ニ総裁・議定・参与ノ三職ヲ置レ、万機行ハセラルベシ。諸事神武創業ノ始ニ原キ、縉紳・武弁・堂上・地下ノ別無ク、至当ノ公議ヲ竭シ、天下ト休戚ヲ同ク遊バサルベキ叡慮ニ付、各勉励、旧来驕懦ノ汚習ヲ洗ヒ、尽忠報国ノ誠ヲ以テ奉公致スベク候事。」

この宣言により江戸幕府は廃止され、京都守護職・京都所司代も、摂政・関白も廃止され、徳川慶喜は将軍職を辞職し、新たに設けられた総裁、議定、参与の三職にも徳川慶喜は選ばれなかったのである。また「小御所会議」では徳川慶喜の内大臣の官職と領地の返上(辞官納地)を命じることまでも決めたとある。このような重要な決定が、慶喜不在で行われたというのだ。これは慶喜がとった大政奉還策に対して武力討幕派がこれを覆すクーデターのようなものではないか。

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小御所会議の様子はWikipediaなどに書かれている。
この会議で山内豊信(容堂)ら公議政体派は、徳川慶喜の出席が許されていないことを非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の政体を主張した。特に山内が「そもそも今日の事は一体何であるか。二、三の公家が幼沖なる天子を擁して陰謀を企てたものではないか」と詰問すると、岩倉が「今日の挙はことごとく天子様のお考えの下に行われている。幼き天子とは何事か」と失言を責めたため、山内も沈黙したという。
そのやりとりの後で、岩倉具視らは徳川慶喜が「辞官納地をして誠意を見せるべき」と主張し両者譲らず、会議の休憩が宣言される。その休憩中に西郷隆盛は「ただ、ひと匕首(あいくち=短刀)あるのみ」と述べて岩倉を勇気付け、このことは芸州藩を介して土佐藩に伝えられ、再開された会議では反対する者がなく、岩倉らのペースで会議は進められ辞官納地が決したのだそうだ。(ただし400万石全納から松平春嶽らの努力で200万石半納になった)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%94%BF%E5%BE%A9%E5%8F%A4_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

一方的に御所警備の任を解かれ追い払われた会津・桑名藩兵や在京の幕臣たちは二条城に集まり、口々に「薩摩を討つべし」と騒いだという。慶喜の配下には幕兵5千余、会津3千余、桑名千五百余の1万近くの充分な兵がいて、一方の武力討幕派の方は薩摩藩の兵3千、長州の兵2千5百で、慶喜がその気になって戦えば勝つ可能性は高かったと思われる。しかし慶喜は戦おうとはせず、大阪に退き下がってしまった
この時に大久保利通は慶喜が抵抗もせずに、あっさりと大阪に退いたのに驚いたのだそうだ。大久保はこの時に慶喜との戦いに敗れることまで想定して、天皇を連れて広島あたりまで逃げることまで練っていたという説もある。

坂本龍馬

以前このブログで4回に分けて土佐藩の坂本龍馬が暗殺された原因を考えたことがあるが、龍馬の暗殺は十一月十五日で、十月十四日の「大政奉還」と十二月九日の「王政復古の大号」令の間に起こっているのだ。前回の記事に書いた『ええじゃないか』騒動もこの時期に起こっていることに、もっと注目してもいいのではないだろうか。

幕府から権力を奪うことになった大政奉還の方策を考えた坂本龍馬を憎いと考えた佐幕派が龍馬の命を狙ったとするのか、大政奉還の建白によって新政府に向かう主導権を土佐藩に奪われることを怖れて武力討幕派が狙ったとするのか、ほかにも諸説があるのだが、このような歴史の流れを知れば知るほど、私には武力討幕派が一番怪しいように見えてくるのだ。
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「桜田門外の変」と、井伊直弼の死が長い間隠蔽された事情

万延元年(1860)三月三日、江戸城に入ろうとした大老・井伊直弼の一行が、桜田門のあたりで待ち伏せていた水戸・薩摩の浪士に襲われて、井伊大老の首が切られた事件があった。世に言う「桜田門外の変」である。

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この事件が起きるまでの経緯を簡単に復習しておこう。
安政5年(1858)4月に大老職に就いた彦根藩主・井伊直弼は、幕府の権威を復活させようとし、勅許をえないまま6月に日米修好通商条約に調印し、また、子供のいない十三代将軍家定の後継者問題については、譜代大名らの支持を得て、幼年の紀伊藩主である徳川慶福(よしとみ)を跡継ぎと定め、水戸藩主徳川斉昭の子の一橋(徳川)慶喜を推していた斉昭や、福井藩主松平慶永や薩摩藩主島津斉彬らの改革派に大弾圧を加えた。弾圧の対象は皇族・公卿・諸大名・藩士など百人を超え、徳川斉昭・松平慶永は蟄居処分となり、尊王攘夷派の活動家・思想家を徹底して粛清し、福井藩士橋本左内、長州藩士吉田松陰たちは刑死した。(安政の大獄)
このような井伊の弾圧的な処置は朝野の有志の強い反発を招き反幕的な空気を強めて、万延元年(1860)には、ついに「桜田門外の変」が起こり、井伊直弼は命を奪われ、幕府の威信が失墜したという流れだ。

幕末百話

篠田鉱造という報知新聞の記者であった人物が、幕末の古老の話の採集を思い立ち、明治35年に、『幕末百話』という本を出版している。その本は今では岩波文庫になって誰でも読むことが出来るのはありがたい。
誰が語った話なのか、名前が記されていないのは残念なところだが、「古老」の語ったという話はなかなか面白く、幕末の時代の空気がよくわかる。

西暦1860年に大老・井伊直弼が水戸浪士に襲われた「桜田門外の変」の現場に駆けつけた人物の話がこの『幕末百話』に出ているので、その文章をしばらく引用する。

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「八五 桜田門外血染の雪
大雪と御供
万延元年庚申(かのえさる)三月三日上巳(じょうし)の節句で、上下押なべて弥生(やよい)雛様の日ですから、娘子供は此日(きょう)を晴れと飾立て、遊びに出よう、お客様に聘(よ)び、聘ばれようと思うていたものを夜中からの大雪、土気色(つちけいろ)の雲は低く垂れまして、礫(つぶて)のような雪がトットと降る。朝眼が覚めて驚きました。私も御主人の供で本丸へ出ねばならぬ。コレは諸大名の御登城。サゾカシ御困難。供廻(ともまわり)の苦辛(くしん)は察しられる。自分も寒いこったと、何の気なしにソンなことを思っていました。卯の刻明け六つには諸大名総出仕の御儀式があるんで、主人の御供をせねばなりません。

赤合羽仲間
ソレゾレ用意をいたしまして、殿様は奥で御支度中だ。供廻は皆雪を蹶(け)って出掛けるばかり。かかる所へ供廻の仲間(ちゅうげん)で、赤合羽を着た男が、トットットッと、雪の間(なか)を転(まろ)びつ起きつ、駆け込んで来まして、慌(あわただ)しく『大(た)、大変、大変でございます』と顫(ふる)え声。『ナ、ナニが大変だ』と問いますと、『ただ今桜田御門外で、大老井伊掃部頭(いいかもんのかみ)様が水戸の浪士に首をお取とられ遊ばした。大変な騒ぎでございます』と顔の色を青くして、唇の色まで変えていうのです。『ナニを馬鹿なことをいうのだ。ソンな事があって耐(たま)るか。井伊様は御大老だ。ソウ胡瓜(きゅうり)やみなみ唐瓜(かぼちゃ)のように首をもがれてどうなるものか』

小脇に毛槍
誰しもこれを本統(ほんとう)にしませんでした。虚言(うそ)を申す奴だ。『気が違って居りはせんか。縛ってしまえ』と、赤合羽は頭に預けられたが、家老は血気の武士(さむらい)三、四名に申聞(もうしき)け、実地を見て来よとの命令に、私もその数へ加わり、マチ高袴にオッ取り刀で駆付けて見ますと、嘘じゃアない。桜田御門へ向っては馬上具足に身を固め、向う鉢巻(はちまき)の年配二十歳ぐらいの士(さむらい)、小脇に毛槍を抱込(かいこ)み来たるなんど、その顔の雪に映じて蒼味(あおみ)を佩(お)びた容子(ようす)、未(いま)だに眼に残っています。無事大平に馴れた人々も戦場へ望めばかくやあらんと今に思い出します。

雪は桜の花
さては本統かと呆れましたが、和田蔵御門に差懸(さしかか)ると、最早(もはや)見附見附はいずれも門を閉じ、通行は出来ません。いよいよ本統じゃ、帰ってお邸へ注進しようか。イヤイヤ前代未聞の椿事だ、一番往って見ようと、廃(や)めればよいのに、大廻りをして麹町に出て、参謀本部のところに参りますと、桜田御門の方は、水戸の浪士も引揚げた後らしく、雪は桜の花を散らしたように血染となっていまして、掃部頭をやったのは、以前陸軍測量部のあった所、その頃松平大隅守様の御門前でした。同邸の溝(どぶ)には赤合羽の仲間二名深手を負い惨殺されていました。ソレを見て好気持(いいきもち)はせず、急ぎ帰ってこの旨を御注進すると、邸の愕(おどろ)きは騒ぎとゴチャゴチャでした。…」(『幕末百話』p.225-226)
こういう文章を読むと、桜田門外の変が三月三日の雛祭りの日で、江戸は大雪の日であったことが誰でも自然に理解できるだろう。

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学生時代に「桜田門外の変」を学んだ際に、大老のような重要人物のまわりには井伊家の武士が大勢で護衛していたはずだし、江戸城の周りには辻番もいくつかあったはずなのに、なぜ大老の首級が奪われてしまったのかと疑問に思った記憶があるが、水戸浪士らによる襲撃が成功したのは、この日の「雪」と大いに関係があったことを最近になってようやく理解した。

京都市東山区の建仁寺の東に「京都井伊美術館」という小さな美術館があり、そこに井伊家の供頭をつとめた日下部三郎右衛門が身につけていた大小の刀があるという。
次のURLには実物の写真付きで紹介されていて、このように解説されている。
「季節はずれの大雪のため供侍は柄袋や鍔覆い、鞘革など刀を完全に防護して出立したため応戦できず、悲惨な状況となったことは周知の事実です。日下部の両刀は井伊家独特の鞘革に柄袋などが現存(柄袋には刀疵)した貴重なものです。日下三郎右衛門は水戸側に最初に襲撃(即死)された藩の上士です。」
http://www.ii-museum.jp/shiryo.htm

斬り込みに行く水戸の浪士たちは刀がすぐに抜ける状態であったのに対し、井伊家の武士たちの刀はすぐに抜ける状態でなかったのだ。

また季節はずれの雪で、大名行列の近くでカサをさし雨具の笠をかぶっていても、雪見の客と外見は変わらず、誰からも怪しまれることがなかったという。

桜田門外の変と蓮田一五郎

但野正弘氏の『桜田門外の変と蓮田一五郎』という本には、襲撃に参加した水戸浪士の蓮田一五郎の手記が現代語訳で紹介されている。しばらく一五郎の手記を引用してみる。

「三日朝、六時過ぎに宿を出て、芝愛宕山で各々支度をした。下駄をはきカサをさしている者もいれば、股引(ももひき)、草鞋(わらじ)の者もおって、思い思いの身支度であった。
そして四・五人ずつ組になって山を下り、桜田門外に着いたのは、八時頃であった。
明け方の空からは雪が降りしきり、風景はまことに素晴らしい。数人ずつあちこちに行き来したり立ち止まったりしていても、雪見の客そのもので誰も怪しまない。実に天が我々に味方し、襲撃を成功させてくれるかのようであった。
待つこと一時間ばかり経った頃、赤鬼(井伊大老)が、従者50人ほど伴って駕籠で屋敷を出てきた。
間もなく距離が縮まった。そこですかさず、それぞれカサを捨て、羽織をぬぎ捨てて、討って出た。

先方、すなわち井伊の従者達は、雨具を着たままゝ切りかかる者もあり、雨具を脱いで切りかかる者もあったが、戦いはほんのしばらくの間で、遂に井伊の首が切られ、一面に降り積もったまっ白な雪は、流れ、飛び散る鮮血で真っ赤に染まった。」(『桜田門外の変と蓮田一五郎』p.75-76)

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行列の供先が乱されて、大老の従者たちがそちらに走ったために、駕籠脇がにわかに手薄になったところを、水戸浪士の稲田重蔵、広岡子之次郎、有村次左衛門らが走り寄り、刀を突き入れ、直弼を引き出して首を切り落としたというのだが、誰が大老の首を討ち取ったのかは諸説がある。目的を果たし勝鬨を上げたものの、水戸浪士らの犠牲も大きかった。
稲田は闘死し、広岡、有村のほか3名が自刃し、3名が自首した後に傷や病で死亡し、7名が捕縛されて死罪となっていて、明治時代まで生きた人間は2名しかいない。
一方彦根藩は直弼のほかに闘死者4名、その後死亡した者4名、13名が負傷したが、多くの者が逃亡したようだ。
広島県歴史博物館に彦根藩の奉公人の記録が残されており、警固の武士の多くは逃げたことが記されているという。
http://blogs.yahoo.co.jp/yotakahacker/34237419.html
彦根藩では、直弼の警護に失敗し家名を辱めたとして、生存した者は2年後に軽症者は切腹、無傷の者は斬首などの厳しい処分が行われたという。

この桜田門外の変で面白いのは、事件後の彦根藩の対応である。
Wikipediaにはこう書かれている。
「襲撃の一報を聞いた彦根藩邸からはただちに人数が送られたが後の祭りで、やむなく死傷者や駕籠、さらには鮮血にまみれ多くの指や耳たぶが落ちた雪まで徹底的に回収した。井伊の首は遠藤邸に置かれていたが、所在をつきとめた彦根藩側が、闘死した藩士のうち年齢と体格が井伊に似た加田九郎太の首と偽ってもらい受け、藩邸で典医により胴体と縫い合わされた(といっても遠藤胤統は役目柄井伊の顔をよく知っており、実際には気付かれていた可能性が高い)。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89#cite_note-1

遠藤胤統という人物は近江三上藩の第五代藩主で、江戸幕府の若年寄を務めていた。この遠藤邸の門前で井伊大老の首級を持っていた有村次左衛門が自決した経緯から、大老の首が遠藤邸にあったようなのだ。
彦根藩は井伊の首を胴体と縫い合わして、直弼が死んだという事実を隠蔽しようとしたのだが、なぜそんなことをしたのだろうか。

その解答は、Wikipediaにこう書かれている。
「当時の公式記録としては、「井伊直弼は急病を発し暫く闘病、急遽相続願いを提出、受理されたのちに病死した」となっている。これは譜代筆頭井伊家の御家断絶と、それによる水戸藩への敵討ちを防ぎ、また、暗殺された井伊自身によってすでに重い処分を受けていた水戸藩へさらに制裁(御家断絶など)を加えることへの水戸藩士の反発、といった争乱の激化を防ぐための、老中・安藤信正ら残された幕府首脳による破格の配慮である。井伊家の菩提寺・豪徳寺にある墓碑に、命日が「三月二十八日」と刻まれているのはそのためである。これによって直弼の子・愛麿(井伊直憲)による跡目相続が認められ、井伊家は取り潰しを免れた。
直弼の死を秘匿するため、存命を装って直弼の名で桜田門外で負傷した旨の届けが幕府へ提出され、将軍家(家茂)からは直弼への見舞品として御種人蔘などが藩邸に届けられている。これに倣い、諸大名からも続々と見舞いの使者が訪れたが、その中には徳川慶篤の使者として当の水戸藩の者もおり、彦根藩士たちの憎悪に満ちた視線の中で重役の応接を受けたという。井伊家の飛び地領であった世田谷(東京都世田谷区)の代官を務めた大場家の記録によると、表向きは闘病中とされていた直弼のために、大場家では家人が病気平癒祈願を行なっている。」

藩主が跡継ぎを決めないまま横死した場合は家名断絶となってしまう。その事態を避けるために、すでに死んでいる井伊直弼を生きていることにしたという話なのだが、目撃者も多く、桜田門外で大老が暗殺されたことはすでに江戸中に知れ渡っていたようだ。
こんな戯れ歌が当時江戸で流行ったという。

「いい鴨を 網でとらずに 駕籠でとり」
「いい鴨」は「井伊掃部(かもん)」をもじっている。井伊大老は宮中行事の設営や殿中の清掃を司る「掃部寮」の長官「掃部頭(かもんのかみ)」でもあったのだ。

また死んでいるのに生きていることにしたことを皮肉った川柳もある。
「倹約で 枕いらずの 御病人」
「遺言は 尻でなさるや 御大病」
「人蔘で 首をつげとの 御沙汰かな」

徳川幕府最高の重職である大老がわずか18人の浪人に命を奪われたことによって、幕府の権威が失墜したと良く書かれるのだが、江戸庶民からも馬鹿にされるような見え見えの茶番劇をしたことも、幕府の権威を落としその凋落を早めた原因の一つになったのではないか。

徳川慶喜が大政奉還を申し入れし江戸幕府が終焉したのは、この事件からわずか7年後のことなのである。
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シーボルトと日本の開国

ドイツ人のシーボルトが長崎出島のオランダ商館医として来日したのは文政6年(1823)、27歳の時であった。彼は、来日した翌年に鳴滝塾を開設し、日本各地から集まってきた医者や学者たちに講義をし、高野長英、二宮敬作、伊藤玄朴ら、多くの弟子を育て、文政9年(1826)にはオランダ商館長の江戸参府に随行し、将軍徳川家斉に謁見したほか、最上徳内や高橋景保ら多くの学者と交流したという。

シーボルト

そのシーボルトが文政11年(1828年)9月、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死。シーボルトは文政12年(1829年)に国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けた。

シーボルトにより複製された伊能図

この事件を「シーボルト事件」と呼び、学生時代にこの事件を学んだ時は、シーボルトはスパイであったという説に納得してしまったのが、いろいろ調べていくと、シーボルトは安政の開国で追放が解除されたのち安政6年(1859)に再来日し、後に江戸幕府の外交顧問に就任している。
普通に考えると、江戸幕府が過去スパイ容疑で国外追放処分をした人物の再来日を認め、後に幕府が彼を外交顧問としたというのは、容易に納得できる話ではない。

シーボルトがどんな人物であったのかをネットで調べていくと、長崎市の諏訪公園にある『シーボルト君記念碑』という石碑の内容が眼に止まった。この碑文は明治12年に漢文で記されたものであるが、次のURLで現代語に訳されて紹介されている。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/kinenhi/

シーボルト君記念碑

碑文の冒頭にはこう書かれている。
「欧州各国をして、日本あるを知らしめし者シーボルト君の功なり。日本をして欧州各国あるを知らしめる者亦シーボルト君の功なり。蓋し我邦久しく交を外国に絶つ。君我邦に来てより、我邦の名大いに彼の国に顕れる。」
わが国のことを欧州各国に知らしめたのも、わが国に欧州のことを知らしめたのもシーボルトのおかげであるだと書いているのだが、シーボルトは鳴滝塾でわが国の俊秀に欧州の先端知識を伝えただけではなく、江戸幕府による国外追放後に彼は全7巻の大著『日本』を公刊し、わが国のことを世界に伝えた人物である。

そして碑文の最後にはこう記されている。
「ああ、君が長崎に身を寄せ、医学植物の学を受けた者は、戸塚、伊東 二先輩の後を追い、特に優れた者たちがその後を継ぎ、我国の洋学はすぐさま盛んになった。
欧州の外交制度・学術は嘉永安政年間をその夜明けとし、鎖国・攘夷の論を排して和親条約を結んだ。 それはどうして洋学家に頼ることなくしてできたであろうか。そして、今日の文化に次第に慣れ親しんだのは、結局君の功績と分けて考えることはできない。欧州の学者は君を称えて、日本の学術の上で発見したと言い、人は誠にこれを謗ることはない。この為ここに銘記する。
 我が国の華を観て
 これを欧州に伝える
 偉大な功績はつとに成り
 その名は永遠である
 これを石碑に刻み
 永く瓊浦(けいほ:長崎の古地名)の地にとどめる」
シーボルトのおかげで鎖国・攘夷の論を排して開国が出来、西洋文化に親しむことが出来たのもシーボルトの功績が大きいと書いているのだ。

この碑文の中に、この碑を建てることになった経緯が記されている。
シーボルトが1866年にミュンヘンで没し、その7年後に各国の農学者たちがシーボルトの生地のビュルツブルクに建てることとなり世界の農学者に資金援助を募ったところ、わが国は865円が集まりそれを送金しようとしたところ、オランダ公使が
「その資金を欧州に送るより、むしろ別に碑を日本に建立し、この国の人に功績を永く忘れ させないようにするのがいいのではないか。碑が日本にあるということがそもそも君の志である」
と述べ、600円を欧州に送り、残ったお金でこの碑を建てることになったというのである。
明治の初めの頃の1円は現在の2~3万円程度の価値があったと言われるが、明治12年当時の865円の現在価値は10~20百万円程度と考えればいいのだろうか。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000026844

シーボルトがわが国に滞在した年数は第1回目の来日時が5年。第2回目の来日は3年にもならず、帰国したのは1862年のことだ。その4年後の1866年にシーボルトがこの世を去り、死後7年後にシーボルトを顕彰しようとわが国でこれだけのお金が集まったというのは、尋常なことではない。
わが国の多くの人々から相当感謝されていた人物であったことを窺い知ることができるのだが、いろいろ調べていくと、シーボルトが多くの日本人から感謝されたのは、単に学問上の師弟の関係だけではないことが見えてくる。シーボルトは国外追放されてから、わが国が西洋列強に呑み込まれないように、わが国の為に活動していたのである。

Wikipediaにはこう書かれている。

「1830年、オランダに帰着する。翌年には蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託されている。

オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)を随時刊行する。…

日本学の祖として名声が高まり、ドイツのボン大学にヨーロッパ最初の日本学教授として招かれるが、固辞してライデンに留まった。一方で日本の開国を促すために運動し、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草し、1853年にはアメリカ東インド艦隊を率いて来日するマシュー・ペリーに日本資料を提供し、早急な対処(軍事)を行わないように要請する。1857年にはロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、書簡を起草するが、クリミア戦争により日露交渉は中断する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88

シーボルト日本


ではシーボルトがわが国の開国を促すために具体的に何をしたというのか。1844年にシーボルトが起草したというオランダ国王の徳川将軍への親書の内容が、『シーボルトと日本の開国近代化』という学術書に要約されている。Googleブックスで親書の概要を読むことが出来る。(p.289)
http://books.google.co.jp/books?id=80S_1lmb3jgC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

シーボルトと日本の開国近代化
「従来の慣例を破りあえて国書を上呈するのは現在の世界情勢が貴国の内政にも患い(わざわい)を及ぼす恐れのあることを慮ってのことだと前置して、近年のイギリスと『支那帝国』との阿片戦争にふれ、日本にもそういう災害の及ぶ恐れがあること、シーボルト来日直後の文政8年(1825)における異国船打払令を改めた天保13年(1842)の同打払令の緩和は結構な措置ではあるが、外国の漂着船、或いは接近船に対しては、寛大の取扱いのあるべきことを要請する。(これは後の日米和親条約の一つを先取りしたもの)。次にこの勧告書中で最も説得力を持つ蒸気船の発明による世界交通上の激変(遠国も近国も変わらなくなった)を述べ、懇親的態度で交易を熟計されるべきを希望している。」

ペリー

以前このブログでも書いたが、アメリカのペリーは中国に向かう戦略上の日本列島の要衝の地を、イギリス政府が触手を伸ばす前に力づくで抑えようという考えであった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-157.html

そしてシーボルトは、アメリカの遠征計画が、日本国内の攘夷運動の高まりによって武力衝突が起こることを危惧していたことが、当時のシーボルトの書簡(『シーボルトと日本の開国近代化』p.222所収)に書かれている。
アメリカがペリー来航直前のわずか8年間で北米大陸の西半分を獲得し、ハワイに併合要求を突き付けた経緯などは、今の中国よりもはるかにひどいやり方であった。アメリカが武力で日本をも奪おうとすることを、シーボルトが危惧したことは当然のことだと思う。

在NY日本国領事館のHPによると、ペリー提督が遠征隊の司令官に任命されたのち、シーボルトはその遠征隊の一員として雇われたいと申し出たことが書かれている。その時、ペリーは、日本を追放された人物を連れて行くことはできないと拒絶したのだそうだ。
http://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150th/html/exepi7.htm
このHPでは、シーボルトが遠征隊に日本に行きたいので遠征隊に加わろうとしたと書かれているが、そんな単純なものではないだろう。恐らくシーボルトはペリーに武力による示威行為を起こさせないために、自ら遠征隊に入り込んでペリーを説得しようとしたのだと思う。

日米交渉の歴史を詳しくまとめたサイトに、シーボルトの名前が出てくる。

該当部分を引用させて頂く。
「アメリカ政府は1852年2月全権使節としてペリー提督の日本派遣を決めると、オランダのヘーグに駐在するアメリカ代理公使・フォルソムを通じた1852年7月2日付けの書簡で、アメリカから日本に向けた通商交渉使節の派遣とその平和的な目的を、オランダ政府が日本に通告してくれるよう依頼した。

…日本向けアメリカ使節派遣に対処するオランダの推奨案として、オランダ国王の許可のもと、かって出島の医師だったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの私案を基にしたといわれる、「長崎港での通商を許し、長崎へ駐在公使を受け入れ、商館建築を許す。外国人との交易は江戸、京、大坂、堺、長崎、五ヶ所の商人に限る」など合計十項目にわたる、いわゆる通商条約素案をも示した。これらはオランダ政府が細心の注意を払って準備したものだが、老中首座・阿部伊勢守の命により長崎で翻訳され、江戸に急送され、嘉永5年9月(1852年10月、ペリー初回来航の約9ヶ月前)には幕閣に届いた。」
http://www.japanusencounters.net/amitytreaty.html

また、先程紹介した『シーボルトと日本の開国近代化』のp.185には、「日露通商航海条約」も、シーボルトの助言を参考にして起草されたものであることが書かれている。
http://books.google.co.jp/books?id=80S_1lmb3jgC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

開国に際して、わが国と欧米諸国との間に武力衝突が起きなかったのは、当時わが国と交流していた唯一の国であるオランダにシーボルトがいて、彼がわが国のことを愛し、また「日本学」の権威として欧米列強の求めに応じて献策していたことが大きかったのではないか。

ロジャーズ司令長官

お隣の朝鮮半島では、1871年にアメリカ極東艦隊司令長官ロジャースは、鎖国朝鮮の扉をこじ開けるべく、ペリーと同様に5隻の軍艦を率いて江華島に現われた。その時にアメリカは、抵抗する朝鮮軍を砲撃し、米軍は殆んど損害がなかったが、朝鮮軍は240名以上の戦死者を出している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E6%9C%AA%E6%B4%8B%E6%93%BE
もしシーボルトがいなかったら、わが国でも同様のことが起こっていてもおかしくなかったと思うのだ。

わが国が欧米の主要国と和親条約、修好通商条約を締結した後、シーボルトは日本への再入国を許され、オランダ商事会社の顧問として二度目の訪日をしている。

シーボルトが幕府の外交顧問になった経緯については、先ほど紹介した『シーボルトと日本の開国近代化』にこう書かれている。
「シーボルトは、長崎にしばしば入港するロシア東洋艦隊の司令官や艦長らと交際し、かれらから入手した中国情勢や英仏の対日政策についての情報を、長崎奉行を通して幕府首脳に伝え、ロシアに強い影響力を持っている学者として自らを売り込むことに成功する。
こうしてシーボルトは、1861年夏、幕府の政治外交顧問になり、東禅寺事件(水戸浪士ら十数人が深夜にイギリス公使館を襲い、イギリス人外交官を負傷させた)や露艦対馬停泊事件解決のために努力した。日本の国難に際してシーボルトは、日本人に近代的外交とは何かについて実践的に教えたのである。…」p.199

わが国がこの国難のなかで辛うじて独立国を維持できたことは、ほかにもさまざまな要因があったとは思うが、シーボルトの貢献が大きかったことは確実ではないか。
では、このような重要な史実をなぜ日本人に広めようとしないのだろうか。

このブログで何度も書いてきたように、わが国で広められている歴史は「戦勝国にとって都合の良い歴史」であり、日本人はその歴史観に洗脳されてしまっている。
当時の欧米にアジアを武力侵略する意思が確実にあったのだが、シーボルトが欧米の侵略からわが国を守ったことを書けば、「欧米諸国は良い国であった」とする歴史観と矛盾し、「戦勝国にとって都合の良い歴史」が成り立たなくなってしまう。
だからわが国の教科書の叙述では、シーボルトについて鳴滝塾と帰国の際に日本地図を持ち帰ろうしたことしか書かれることがないのだろう。
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【ご参考】
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シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか

前回の記事で、開国に際してわが国と欧米諸国との間に武力衝突が起きなかったのは、シーボルトの貢献が大きかったのではないかという事を書いた。

シーボルトの第1回目の来日は文政6年(1823)の6月で27歳の時であった。そして文政11年(1828)の9月に有名な「シーボルト事件」が起こり、その翌年に国外追放となっている。

その短い滞在期間の間に、若きシーボルトのことを記した古文書が長崎にあるという。

丸山遊郭

『寄合町諸事書上控』という古文書は、長崎にあった丸山遊郭の出来事を記録したものだそうだが、その文政10年(1827)の5月7日付の文章が『長崎のおもしろい歴史』というホームページで紹介されている。当該のページのURLは次の通りである。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/otaki/index.html

「恐乍口上書 引田家卯太郎抱遊女そのぎ21歳 上記の者去る未年より外科阿蘭陀人シーボルト呼入候処、懐妊仕りに付、御届申上候処 銅座跡親佐平方に於、昨夜女子出産仕り候段、抱主卯太郎申出候に付、此の段書付を以って御届申上候、 以上。」

なんとシーボルトに女児が誕生したのである。
記録では「遊女そのぎ」とあるが、上記URLでは
「シーボルトは来日草々長崎奉行の特別の計らいで、出島を出て蘭医吉雄、楢林家へ出帳し、日本人の患者を診察し治療した。
そのためオランダ商館に名医来るの評判が直ちに長崎の街中に広がった。
楠本瀧はこの時シーボルトの診察を受け、シーボルトと恋におちたと推測される。
二人は、程なくして、寄合町の引田家卯太郎宅へ赴き、何がしかの金子を支払い、瀧は遊女『そのぎ』の名義を借り、出島へ入ったのである」と解説している。

楠本瀧

遊女『そのぎ』の本名は楠本瀧だそうだが、古文書の通り遊女だったとする説と、遊女でなかったという説とがありどちらが正しいのだろうか。
いずれにせよ、シーボルトが瀧を本気で愛していたことは、シーボルトが出島に上陸した3カ月後の1823年11月15日に書いた伯父のロッツへ宛てた手紙を読めばわかる。
ハンス・ケルナー著「シーボルト父子伝」にその手紙が引用されていて、その翻訳文が上記URLで読める。

「小生もまた古いオランダの風習に従い、目下愛くるしい16歳の 日本の女性と結ばれました。小生は恐らく彼女をヨーロッパの女性と取替えることはあるまいと存じます。」
そして同様の手紙を、母親のアポロニアにも出しているという。

そして文政10年(1827)の5月7日に二人の間に女の子が生まれてイネと名付けた。
このイネはどうやら出島で生まれたと考えるべきだろう。
唐人の見張り役をしていた倉田という役人が、出島で起きた事件などを日記に記していて(「唐人番倉田氏日記」)、その文政10年7月9日の記録では、
出島に居住している遊女そのぎが女子を出産したが、乳の出が悪いので、乳の出る遊女を出島へ入れるよう通事に相談した。しかし、通事は前例がないので、町年寄に申し上げた。その結果、乳の出る女性を遊女の振りをして出島へ入れることになった。」
と書かれているそうだ。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/oine/index.html

出島は遊女以外に女性の出入りを禁止されていたために、乳の出る女性を遊女の振りをして入れざるを得なかったというのは面白い。こういう抜け道があるから、シーボルトが惚れた楠本瀧を妻としてではなく、遊女として出島に入れた可能性を感じさせる古文書でもある。

唐蘭館絵巻 蘭館図 蘭船入港図

長崎歴史文化博物館に、当時出島に出入りしていた絵師の川原慶賀が描いた「唐蘭館絵巻 蘭館図 蘭船入港図」という絵がある。この絵の中で緑色の帽子をかぶった男性がシーボルトで、後ろに立つ着物の女性は瀧で、抱かれている子供はイネだと言われている。
他にも川原慶賀がオランダ商館員たちの生活を描いた絵があり、長崎市立博物館に「宴会図」「玉突の図」にシーボルトと瀧が描かれているとされている。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/otaki/index.html

シーボルトは、事件のあとオランダに帰国した際に、日本で採集した植物や動物の膨大な標本や絵図を持ち帰り、『日本植物誌』『日本動物誌』を著している。サクラソウ、スズキ、イセエビなど彼が命名したことにより、学名が確定したものが少なくないそうだが、彼が命名した中に妻の瀧の名前を入れた植物があるという。

Hydrangea otaksa

上の画像はシーボルトが『日本植物誌』に掲載したホンアジサイの図だが、これを彼はHydrangea otaksaと分類している。
http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10595694473.html

「お瀧さん(otakisan)」が”otaksa”となったのは、長崎の方言では「キ」が無声化するらしく、また最後の”n”がないのは、学名はラテン語を用いるのだが、ラテン語では語末が”a”で終わらないと、女性の名前にならないということらしい。
http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10596656979.html

シーボルト妻子像螺鈿合子

長崎市の鳴滝2丁目に『シーボルト記念館』があり、そこに国の重要文化財に指定されている「シーボルト妻子像螺鈿合子」が常設展示されているようだ。
瀧とイネの像を蓋の表裏に青貝で細工したものなのだが、シーボルトはわが国を追放された後、30年後に再来日するまでこれを肌身離さず持っていたという。そして再来日した時に瀧と再会し、この合子を瀧に手渡したのだそうだ。

直径11cmの小さな合子だが、よく見ると瀧とイネの着ている紫色の着物には家紋が描かれている。これはシーボルト家の家紋で「メスを持った手」を表しているのだそうだ。シーボルト家はドイツ医学界の名門で、祖父の代から貴族階級に登録されていたシーボルト家らしい図柄である。次のURLの「19世紀輸出漆器の意匠に見る文化交流の考察」という論文のp.14にこの合子の拡大写真がでている。
http://www.geidai.ac.jp/~s1306937/KautzschMAthesis.pdf

こう言う事を知ると、なぜシーボルトがオランダに帰国してからも、わが国が西洋列強に呑まれないように奔走したかがなんとなく見えてくる。
彼が日本に滞在した期間は決して長くはなかったが、瀧とイネを愛し、瀧の育った日本という国の文化や自然に魅了されたということではなかったのか。

Wikipediaによると、シーボルトが集めた植物の押し葉標本だけで12000点で、『日本植物誌』で記載されている種は2300種にも及ぶという。『日本動物誌』や大著『日本』もそうだが、日本という国を好きにならずして、そのような研究が出来るとはとても考えられないのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88

わが国は「オランダ風説書」により世界の情勢についての知識を入手していたことを学生時代に学んだ記憶があるが、Wikipediaによるとオランダが「阿片戦争」に限らず世界的な情報が提供されるようになったのは、1846年からだというが、このことは、オランダにシーボルトがいたのと無関係ではないような気がする。

前回の記事で、1844年にシーボルトが起草したというオランダ国王の徳川将軍への親書の内容を紹介したが、この文書を書いたシーボルトに日本を列強の侵略から守りたいという気持ちがあったと私は考えている。

シーボルトは江戸幕府から国外追放処分を受けている。瀧やイネに再開したいと思っても、日本国の鎖国が続くかぎりはそれが難しいことは少し考えればわかることだ。
シーボルトが再度日本の土を踏むためには、日本が外国に門戸を開かねばならず、しかもわが国が西洋列強に呑みこまれることなくそのことが実現できなければ意味がない。
シーボルトはそのために尽力したのではなかったのか。

安政5年(1858)に日蘭通商条約が結ばれ、江戸幕府のシーボルトに対する追放令も解除される。そして翌安政6年(1859)、シーボルトはオランダ貿易会社顧問として再来日を果たし、文久元年(1861)5月15日に江戸幕府の外交問題の顧問として雇われている。しかしながらわずか4か月後の9月16日に幕府により解雇されているのだ。いったい何があったのか。
http://space.geocities.jp/kamito_ken/Calendar1861.html

調べると、外交問題の顧問に就任した13日後の5月28日に水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がイギリス公使らを襲撃した事件(東禅寺事件)が起きている。

東禅寺事件

この事件でシーボルトは負傷した浪人を手当てし、無意味な殺傷は中止するように強く幕府に意見を述べたという。しかし、このシーボルトによる幕府寄りの指導が、オランダをふくめた米英仏露の西洋諸国の反発を買ったためにオランダ領事館から解雇処分を受けてしまったとされている。文久2年(1862年)3月12日に失意のうちにライデンに帰国し、その翌年にはオランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰ったという。
そして1866年10月18日、ミュンヘンで70歳の人生の幕を閉じた。

楠本イネ

シーボルトの娘の楠本イネは後に医学を志し、日本人女性で最初に産科医として西洋医学を学んだという。そのイネには娘がいて、その写真が今も残されている。シーボルトの孫娘でもある楠本高子は、今でも美人で十分通用する女性である。

楠本高子

慶応2年(1866)にシーボルト門下の三瀬諸淵と結婚するも明治10年(1877)に夫に先立たれ、その後医師の山脇泰助と再婚し、一男二女を生むが、結婚7年目にまたもや夫に先立たれている。
彼女の身の上話が、最初に紹介した『長崎のおもしろい歴史』というホームページに掲載されている。当時は今以上に混血児として生きることは今よりもはるかに厳しい時代であったろう。イネも経験しただろうが、高子も何度も辛い思いをしたことが書かれている。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/kinenhi/metaka.html

その文章の前半に、シーボルトが2度目の来日を果たし、江戸幕府の顧問となった時に高子の夫である三瀬を連れて行ったという記述に注目したい。

「祖父が江戸に招かれました時も三瀬はついて行きました。
祖父が江戸のエライ方々とお話をいたします時に、福地源一郎さまや、福沢諭吉さまが通弁に当たられましたが、どうにもよく話が通じません。祖父もやきもきいたしましたが、そのような時に三瀬が通弁をいたしますと、忽ち話が通じまして、幕府の方々とスラスラと話が通じたということもうかがっております。
ところが、やはりそうした出過ぎたことが宜しゆうございませんでしたようで、公儀の役人を差しおいて僭越の段不都合とお思いの方もあったものと見えます。
祖父が江戸を去りますと、三瀬は町家の出でありながら身分を弁えず、宇和島藩士と称して帯刀をしたという廉で佃島(つくだじま)に永牢申しつくということに相成りました。
しかし、三瀬は獄中でも医者としての本分を忘れず、役人の病を治療したりいたしまして、それに宇和島の伊達さまのお力添えもございまして、元治元年(1864)に出獄となりました。…」

幕府の偉い役人たちがいくら外国人と話をしても通じず、三瀬が通訳すると相手に通じたということが妬まれて、些細なことで牢屋に入れられてしまった。ようやく再来日を果たしたシーボルトを追い出したのも、こういう役人連中ではなかったか。
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シーボルトはスパイであったのか

シーボルトがスパイであったというのが多数説になっているのだが、いろいろ調べていくとシーボルトは日本の開国を促すために、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草し、1853年にはアメリカのペリーに日本資料を提供して日本に軍事行動を起こさないことを要請し、1857年にはロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、日露交渉のための書簡を起草しているという。
わが国が平和裏に開国できるために尽力するような人物がスパイだとしたら、いったいどこの国のスパイだというのだろうか。シーボルトはわが国で得た資料をもとに、大著『日本』のほか多くの著作により、世界に対してわが国のことを知らしめたという事実はどう理解すればよいのだろうか。

シーボルトにより複製された伊能図

シーボルトが文政11年(1828)に帰国する際に、オランダ船に積みこんだ荷物の中から、国外持ち出しを禁じられていた日本地図が発見され、この地図は幕府天文方高橋景保がシーボルトに贈ったことがわかり、関係者50人が捕えられて高橋が獄死し、シーボルトが国外追放の処分を受けた「シーボルト事件」があったのだが、この事件に関しては幕府の記録をそのまま鵜呑みにして良いのだろうか。

これまでの通説では、文政11年(1828)9月17日夜半から18日未明に西南地方を襲った台風で座礁したオランダ船コルネリス・ハウトマン号の中から、禁制品の地図などが見つかっていたことになっていたのだが、この話は後世の創作で、この船が台風で座礁したことは史実だが、その船にはシーボルトが収集した物は一切積み込まれていなかったことが今では明らかになっている。

西南学院大学国際文化論集第26巻第1号に「創られた『シーボルト事件』」という論文が掲載されており、ネットでも公開されている。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/nippon%20neo/10.pdf
その論文のp.78-79に、商館長メイランが記載した、この船に関する荷揚げや積み込みの実務的な記録が紹介されているが、積み込まれたものは9月2日にバラストとしての銅500ピコルのみで、台風の襲来した前日の16日まで何も積み込まれていないことが確認できる。

では、座礁した船の中のシーボルトが依頼した荷物から禁制品があらわれたということを最初に書いたのはだれかというと中島廣足という人物で、事件のあった5年後の天保4年(1833)年に刊行された『樺島浪風記』という書物にこう記しているという。

「こたびの大風は、まさしく神風なりと世にいひながせるはさる事ありたり、かの阿蘭陀船はこたびかへるべきときにて、其船乃中にわが国乃地図をはじめて外国にわたすことをいみじくいましめたまふ物どもを、たれか取つたへけむ、くさぐさつみいれ、ものしいたるを、此大風にあひて、船(*オランダ船)をふきあげられしかば、やがてこなたの司人(*役人)たちゆき見て、つみ入たる物どもとりおろし、とかくせらるゝついでに、さるものども(*禁制品)みなあらはれ出て、ことごとにおほやけにめしあげ、取をさめられぬ…
天保四年正月十五日橿園のあるじ(*中島廣足)、長崎のたびやどりにて、ふたゝび此よしをしるしぬ」(「創られた『シーボルト事件』」p.80所収)

この中島廣足は熊本藩士で、国学者でもあり歌人でもあるそうだが、この人物は実際に樺島付近でこの台風に遭遇し、長崎に帰りついたのち街中の被害を目の当たりにし、座礁したオランダ船も目撃した直後の記録も残しているという。

中島廣足の記録に書かれているのは、
「大浦乃方より見やれば、海かたづける家々はみなくづれて、ありしおもかげもなし、まづ近く見えたる阿蘭陀館、うみにのぞめる高楼なかばよりくづれおちたり…」(同上p.80) とあるだけで、座礁したオランダ船の積荷検査や禁制品発覚のことは何も書かれていないのである。

松浦静山

また、平戸藩9代藩主の松浦清(号は静山)が隠居した後に書き記した『甲子夜話続編』巻二十一に「シーボルト事件」の記事があるという。そこには文政11年(1828)11月15日付の長崎在住の人からもたらされた「風説」の内容が書かれていて、1つは高橋景保からシーボルトへ送った日本地図などを長崎奉行所で取り上げたことと、関係するオランダ通詞などが捕えられたこと、またシーボルトはロシア人であるという噂もあることが書かれている。
事件の初期の段階では、座礁した船から禁制品が出てきた話はなかったのだが、次第に噂話に尾ひれがついていき、中島廣足の著作などで広がっていったと考えれば良いのだろうか。私には中島廣足が平田篤胤の流れをくむ国学者であることがどうも気にかかるのだ。

当時のわが国の学問の世界では、蘭学者は少数派であり蘭学は異端視されていたと考えて良い。たとえば、シーボルト事件から11年後の天保10年(1839)に蘭学研究者が大弾圧される事件が起きている。世に言う「蛮社の獄」である。
モリソン号

この事件の起こる2年前の天保8年(1837)6月に江戸湾に現れたアメリカ商船モリソン号を、外国船打払令に基づいて浦賀奉行が砲撃を加えて追い払う事件があった。(モリソン号事件) この事件における幕府の対応や鎖国政策を批判した高野長英・渡辺崋山ら8名が捕えられて獄に繋がれたのだが、その後の判決で渡辺崋山は蟄居を命じられ天保12年(1841)10月に自刃。高野長英は永牢を命じられたが、弘化元年(1844)牢に放火して脱獄し逃亡し、嘉永3年(1850)に江戸にいるところを奉行所の捕吏らに急襲され、殺害されたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9B%AE%E7%A4%BE%E3%81%AE%E7%8D%84

この事件の問題は、高野長英も渡辺崋山も無罪でありながら、罪をでっち上げられて捕えられている点にある。
この事件を調べていくと、鳥居耀蔵(とりいようぞう)という幕臣の名前が出てくる。鳥居の父は大学頭の儒者・林述斎であり、渡辺らを告発したのがこの人物で、告発状には渡辺らが海外に渡航することを企てていたと書かれていたという。

Wikipediaにはこう解説されている。
「鳥居の告発状をもとに大草が尋問したところ、海外渡航の企てなどはすべて事実無根…
5月22日に、奉行所で吟味が再開された。崋山の逮捕後鳥居がさらに提出した告発状に記された、大塩平八郎との通謀容疑・下級幕臣大塚同庵に不審の儀があることについても事実無根が明らかになっていたが、無罪の者を捕らえたとなっては幕府の沽券に関わるので、奉行所は糺明する容疑を海外渡航から幕政批判に切り替えた。崋山の書類の中から『慎機論』『西洋事情書』の二冊が取り出され、その中に幕政批判の言辞があることが問題とされた。崋山はそれらの文章が書き殴りの乱稿であり、そのような文字の片言隻句を取り出して断罪する非を言いつのったが、聞き入れられなかった。」
今風の表現をすれば明らかな「不当逮捕」であったのだ。

高野長英は『蛮社遭厄小記』という記録を残していて、その中で鳥居燿蔵の蘭学者攻撃と、蘭学関係者弾圧のためにこの事件が捏造されたことを述べている。読み下し文ではあるが次のURLで全文を読むことが出来る。
http://www.city.oshu.iwate.jp/syuzou01/book/bansha3.html

高野長英

鳥居燿蔵について高野長英はこう書いている。
「儒家ニ出身シテ文人ナル故蠻學ヲ嫌忌セラレケルニ
近來蠻學頗ル旺盛ニシテ上ハ公卿ヨリ下ハ庶人ニ至ル迄往々之ヲ賞揚シ
儒生トイヘドモ是ニ心醉スル者少カラナルヲ以テ常ニ不平ヲ懐カレケル」

要するに、鳥居は蘭学を忌み嫌い、この蘭学がわが国に拡がって行くことが許せなかったから、蘭学関係者の弾圧に踏み切ったのだと長英は考えたのだ。
また鳥居はその後も、阿片戦争ののちわが国も洋式の軍備を採用すべきであると幕府に上申した高島秋帆に謀反の罪をでっち上げて長崎で逮捕させている。

Wikipediaによると、鳥居耀蔵の日記や詩文を読むと「自分を退けて開国したことが幕府滅亡の原因であると考え、当時流行した洋風軍隊や民衆の軍事教練に批判的な目を向け」ていたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E8%80%80%E8%94%B5#.E9.B3.A5.E5.B1.85.E8.80.80.E8.94.B5.E3.82.92.E6.89.B1.E3.81.A3.E3.81.9F.E5.8F.B2.E6.9B.B8

この鳥居耀蔵が暗躍した「蛮社の獄」はシーボルト事件から11年も後の話なのである。
また「シーボルト事件」の起きた頃も「蛮社の獄」が起きた時代も、文政8年(1825)年に発せられた異国船打払令が国是であった時代であり、当時の考えではわが国沿岸に接近した外国船は見つけ次第に砲撃し、上陸した外国人は逮捕することを命じられていたのだ。 その考え方の延長線上にあるのは、洋学に対してはそれを嫌悪し、洋学者が勢力を伸ばす芽を早い時期から摘みとろうとする姿勢であり、鳥居に限らず多くの幕臣たちはそのような考えにあったと考えるべきではないか。
江戸幕府が本格的な洋学研究の必要を痛感して「洋学所」を開設したのは、ペリー来航後の安政2年(1855)のことである。

シーボルト

シーボルトが鳴滝塾で洋学を教授していた時代には、外国人を忌み嫌い、洋学をも蔑視し洋学がわが国に拡がって行くことを快く思っていなかった鳥居耀蔵のような考えの役人が幕府内にもっと多数いたはずだから、シーボルトのような影響力の強い人物を目の敵にして、何が何でもシーボルトをわが国から排除し、二度とわが国の土を踏ませたくないと幕府が考えても、おかしくないようにも思えるのだ。とすると、国外追放とするために、シーボルトはスパイということにされた、ということもあり得る話だ。

最初に述べたとおり台風で座礁したオランダ船の荷物から御禁制の伊能忠敬の日本地図が出てきたという話は作り話であり、シーボルトがロシアのスパイだという話なども、当時の風聞をあたかも真実であるかのように書いた国学者の著作から広まって行ったものなのである。
そして現在も当時の風聞が真相のように語られることが多いのだが、本当にシーボルトがスパイであったなら、彼が日本滞在中に収集した標本などを大量に持ち帰ることが出来たことが不自然に思える。また前々回の記事で画像を紹介したが、シーボルトの大著『日本』には伊能忠敬の地図を複製した日本地図が堂々と載っている。さらに、江戸幕府はシーボルトを二度目の来日のあと幕府の外交問題の顧問として採用しているが、これもおかしな話である。

シーボルト事件については、当時の風聞とは異なる観点からの考察が必要な気がするのだが、この話を続けるとまた長くなるので、次回に書くこととしたい。

<つづく>
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押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか

シーボルトと同様にオランダ商館付の医師として出島に滞在し、離日後わが国のことを書物に著した人物は何人かいる。

エンゲンベルト・ケンペル

エンゲンベルト・ケンペル(1651~1716)は、1690年(元禄3)に来日し出島に約2年間滞在の後、1691年と1692年と連続して江戸参府を経験し、将軍徳川綱吉にも謁見している。 日本に滞在中に多くの資料を収集し、1692年に離日して1695年にヨーロッパに戻り、彼の遺稿となった『日本誌』が1727年にロンドンで出版されている。

ケンペル江戸地図

上の画像は『日本誌』に掲載された江戸の地図だが、大英博物館には彼が持ち帰った日本地図もあるようだ。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/zn/zntop.html

カール・ツンベルク

またカール・ツンベルク(1743~1828)は1775年(安永4)にオランダ商館付医師として出島に赴任し、1776年には江戸参府を果たし徳川家治に謁見している。わが国に滞在したのはわずかに1年だったが、帰国後に『日本植物誌』『江戸参府随行紀』などを著している。 次のURLで、『江戸参府随行紀』の内容の一部が紹介されているが、そこにわが国の地図の話が出てくる。
「測量術については、(日本人は)かなり詳しい。したがって一般的な国とそれぞれの町に関する正確な地図を持っている。一般的な国の地図の他に、私は江戸、都、大阪、長崎の地図を見た。さらにたいへんな危険をおかして、禁制品であるそれらを国外へ持ち出すこともできた」
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/edo_sanpu.htm

このように、ケンペルの時代もツンベルクの時代も、わが国の地図は幕府の禁制品であったはずなのだが、二人とも持ち帰っていることがわかる。
ケンペルやツンベルクの時代の地図はそれほど精度の高いものではなかったにせよ、鎖国していたわが国において、外国人がわが国の地図などの禁制品を国外に持ち出すことについて、厳重なチェックがなされていなかったことは注目して良い。

では、シーボルトの時はどうだったのか。
シーボルト事件」の通説では、シーボルトの荷物を積み込んだオランダ船が台風で座礁したために、シーボルトの荷物の中に御禁制の地図が出てきたという話になっているのだが、この噂話を読み解くと、シーボルトの時代も外国人の積荷を充分にチェックしていなかったことにならないか。

しかし、前回にも書いたように、座礁した船から禁制品が見つかったという噂話は真実ではなく、座礁したオランダ船にはシーボルトの荷物は積まれていなかったことが今では明らかになっている。
では、なぜシーボルトに、御禁制の日本地図などの品々の持ち出しが疑われることになってしまったのだろうか。

間宮林蔵

樺太が島であることを発見したとして教科書にも名前が記されている間宮林蔵(まみやりんぞう)という人物がいる。彼は探検家でもあり江戸幕府の隠密でもあった。
間宮は文化5年(1808)に幕府の命により樺太に渡り、翌年に樺太が島であることを確認し、樺太人とともに海峡を渡って黒竜江下流を調査したというのだが、国境をこえるという行為は鎖国の禁を冒すことであり、幕府の隠密であったからこそ許されたのであろう。

この間宮林蔵が命がけで探索して制作した樺太の地図がシーボルトにより持ち帰られ、現在オランダのライデン大学の図書館に保管されているという。
ではその貴重な樺太地図がどういう経緯でシーボルトの手に渡ったのか。また、教科書に必ず書かれている伊能忠敬の地図がどういう経緯でシーボルトの手に渡ったのか。

文政11年のスパイ合戦

この経緯については、シーボルト研究家の秦新二氏が著した『文政11年のスパイ合戦』に詳しい。

最上徳内

簡単に要約すると、文政9年(1826)にシーボルトはオランダ商館長の江戸参府に随行し、江戸では多くの学者がシーボルトと交流している。
探検家・最上徳内(もがみとくない)からは、樺太が島であり、その地図(『黒龍江中之洲并天度』)が「江戸城紅葉山文庫」にあって、そこにはほかにも江戸幕府に献上された機密性の高い資料が納められているとの情報を入手する。
そして4月23日、「紅葉山文庫」を管轄する江戸幕府書物方の高橋景保が訪ねてきたときに、江戸城に登城する際に「紅葉山文庫」を見せてほしいと要望し、意外にもその2日後に高橋景保がそれを承諾したという。

シーボルトは高橋の返事に驚いて、この日のことをこう記録している。
「私は驚いた。作左衛門(高橋景保のこと)は江戸城内の文庫に私を連れてゆき、将軍のコレクションを見せるというのだ。私は信じられなかったが、あえて平静をよそおって日時を聞いた。最初の登城(5月1日)の際に、自ら文庫に案内すると、彼は言った。」(秦新二氏『文政11年のスパイ合戦』文春文庫p.173所収)

高橋景保がこの話に乗ったのは、シーボルトの交換条件が良かったからだ。

5月1日は高橋景保が文庫の当番の日で、シーボルトは彼の案内で多くの貴重な資料を閲覧している。そして5月4日にシーボルトは、訪ねてきた高橋景保に、伊能忠敬の『大日本沿海與地全図』や『江戸御城内御住居之図』などの写しを要望し、代わりに高橋景保が欲しがっていた、クルーゼンシュテルンの『世界周航記』、『蘭領印度の地図』『オランダの地理書』などを手渡すことを約束したという。
そして高橋景保は悩んだ挙句、翌日にシーボルトを訪れ、すべての要求を呑むとの回答をしたという。高橋景保にとっても、『世界周航記』などは何が何でも手に入れたい資料であったようだ。

しかし、最上徳内から情報を得た間宮林蔵の樺太の地図(『黒龍江中之洲并天度』)は「紅葉山文庫」にはなかったらしい。シーボルトは江戸参府を終えて5月18日に江戸から長崎に向かうのだが、肝胆相照らす仲となった探検家・最上徳内は、自らのコレクションの9割方を小田原でシーボルトに内密に手渡し、その中に『黒龍江中之洲并天度』があったという。

一方、高橋景保はシーボルトに渡すことを約束した機密書類の写しを作らせねばならず、その後何度もシーボルトの間で頻繁に手紙などのやり取りが続いた。ある日シーボルトから高橋に届けられたものの中に、間宮林蔵宛の手紙と更紗一反が入っていたので、高橋はそれを間宮に渡したのだが、この間宮への手紙が「シーボルト事件」の発端になったと言われている。

前掲の秦氏の著書のp.272に、シーボルトが間宮に送った手紙の訳文が紹介されているが、意外と簡単な内容である。
「拝啓
江戸滞在中はたった一度しかあなたと親交を深めあう幸運に恵まれず、また後になってあなたの業績を数多く耳にし、大変残念に思っております。そこで今、ささやかな敬意の証をお送りしないではおられず、ここに贈り物として、花柄入りの布を同封させていただきます。私が無事オランダに戻った時には、諸外国の地図をお送りいたします。」

シーボルトは江戸参府の際に何度か最上徳内と会っているが、一度だけ最上が間宮林蔵を連れてきたことがあったという。
先述した通り間宮林蔵は幕府の隠密であった。間宮は外国人との私的な贈答は国禁に触れると考え、開封しないまま上司に提出し、更紗はシーボルトに返却されたそうだ。

幕府はその後シーボルトとの交友関係を調べはじめ、高橋景保がシーボルトの為に国禁の地図の写しなどの書類を送ったことを突き止める。江戸で高橋景保が逮捕され、シーボルトの所持する日本地図を押収する内命が長崎奉行所にもたらされて、出島のシーボルトは訊問と家宅捜索を受けることとなる。シーボルトは訊問の際に、科学的な目的のためだけに情報を求めたと主張し、自ら日本に帰化し、残りの人生を日本に留まり人質となることさえ申し出たという。

この事件の関係者の判決文が次のURLで読める。
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_siebold_main2.html
高橋景保は死罪の判決が出ているが、「オランダ人へ渡し国禁に背くとは不届であり、その上以前から役所の費用について私用ではないが、不明朗な処理を行い、その上身上に慎みがない事等もある」と書かれている。また、景保が地図を写しを作らせた下川辺林右衛門の娘を、景保が妾同様にしたということも書かれている。高橋景保という人物の評判はあまり芳しくなかったようだが、おそらくシーボルトとの取引の件で密告のようなものがあったのだろう。

シーボルト自身がこの事件の顛末を記した文章が、前掲の秦氏の著作に紹介されている。 ポイントになる部分を一部引用すると、
「江戸参府中に私が集めた品物は、すべて押収されたが、のちに大部分が返されることとなった。幕府が、コレクションを輸送することを知っていながら公然と見逃していたこと、正式に我が政府(オランダ政府)に一切抗議していないことは、事件の性格からして摩訶不思議である。
となると、取り調べの際の尋常ならぬ厳しさと深刻さは、いったい何だったのだろう。…」(同上書p.333)

と、シーボルト自身が訝しがっているのだが、この事件を仲裁した人物がいることを書いている部分がある。この人物がなぜ、この事件の仲裁に動いたのかと誰しも疑問に思うところだ。
シーボルトはこう書いている。
「将軍の義父にあたる薩摩守を始めとする日本の有力者(原註:彼らの支援のおかげで、私は今までやってこれたと信じている)の仲裁により、(オランダ)政府の疑惑を少しずつ晴らすことができ、客観的に事件を判断できるようになってきた。」(同上書p.332)

島津重豪

シーボルトが「将軍の義父にあたる薩摩守」と書いている人物は、11代将軍・徳川家斉の義父である島津重豪(しまづしげひで)のことなのだが、ここになぜ島津重豪の名前が出てくるのだろう。

秦氏の著作によると、島津重豪は将軍の義父という立場を利用して何かと幕府に要求を突き付けて薩摩藩独自の貿易権などを認めさせるばかりか、堂々と密貿易をも行っていたという。1825年に中国から長崎奉行所宛にこのような嘆願書が届いたという。
「長崎会所で買い入れた品物と海産物を持って中国に帰ると、すでにもっと良質の品物や海産物が出回っていて商売になりません。調べてみると、琉球を通じて薩摩藩が本土に密売していることが分りました。どうかこの抜荷(密貿易)を取り締まっていただきたい。」(同上書p.308)

徳川家斉

将軍家斉としても、いつまでも重豪の横暴を放置するわけにもいかず、また重豪やその配下の者がオランダ商館長やシーボルトと何度か接触しており、オランダとの独自貿易をも企んでいることを掴み、シーボルトを捕えて国外追放することで重豪の動きを牽制したというのが秦氏の説だが、豊富な資料をもとに記されていてすごく説得力があるのだ。
実際にシーボルト事件の後、重豪の幕府に対する要求がぱったりと止まり、天保4年(1833)年に重豪がこの世を去った後は、江戸幕府は薩摩藩の密貿易の禁止令を乱発しているのだそうだ。

秦氏はシーボルト事件についてこう纏めておられるのだが、みなさんはどう思われますか。
「家斉にとってこの事件は、将軍としての地位を確固たるものにすべき第一段階であり、これまでの古い関係から脱却するためのものでもあった。その上、家斉は私的な面でもお美代の方と後台所茂姫の間にはさまれ、かなり悩まされていた。公私両面で薩摩にはほとほと嫌気がさしていた。家斉は『シーボルト事件』によって、重豪の行動に大きな釘を打ちつけたのだ。そして、その目的が達成されると、すべてを作左衛門(高橋景保)とシーボルトのせいにして、事件を闇の中に葬り去ったのである。」(同上書p.326)
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生麦事件は、単純な攘夷殺人事件と分類されるべきなのか

文久2年(1862)8月21日、4人の英国人が生麦村で薩摩藩の島津久光の行列と遭遇した。その時英国人は騎乗のまま行列を横切ろうとし、薩摩藩士はこれを止めようとしたにもかかわらず、それを無視してそのまま進んだので、激昂した藩士が英国人に斬りかかり、1人が死亡し2人が負傷したという事件があった。世に言う「生麦事件」である。

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学生時代にこの事件のことを学んだ時は、当時は攘夷の気運が高まり外人殺傷事件がしばしばおこり、その事例として「生麦事件」が説明された記憶がある。

通説では4人の英国人は島津久光の行列を「横切ろうとした」ことになっているが、当時英国公使館の通訳で、のちに駐日公使を務めたアーネスト・サトウの著書を読むと、英国人は決して隊列を横切ろうとしたのではないようだ。

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「(リチャードソン)は、香港のボラデール婦人およびウッドソープ・C・クラークとウィリアム・マーシャルという二人とも横浜に住んでいる男と一緒に、神奈川と川崎の間の街道を乗馬でやって来たところ、大名の家来の行列に出会い、わきへ寄れと言われた。そこで道路のわきを進んでゆくと、そのうちに薩摩藩主の父、島津三郎(久光)の乗っている駕籠が見えてきた。こんどは引返せと命ぜられたので、その通りに馬首をめぐらそうとしていたとき、突然行列中の数名の者が武器を振るって襲いかかり、鋭い刃のついている重い刀で斬りつけた。リチャードソンは瀕死の重傷を負って、馬から落ちた。…」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.60)

生麦事件

Wikipediaに事件当時の生麦村の写真が出ている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%BA%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

島津久光がこの時に率いていた軍勢は400人以上だったというが、こんな狭い道で島津久光の行列と遭遇し、4人の英国人は騎乗のままで久光の駕籠に近づいていったことになる。
当時のわが国では『公事方御定書』に、武士が「無礼」を受けた時は斬殺されても処罰されないことが定められていた。
しかしリチャードソンらのやったことは、ただ無礼なだけではなく、制止したにもかかわらず騎乗のまま藩主の父親である久光公に接近していったのである。現代でもパレードの最中に、中央にいる大統領や国王に向かって、制止されても接近していく人物がいたとしたら、国によっては射殺されてもおかしくない。
日本語が分からなかったのだろうと書いている人もいるが、ものものしい警護の行列で、何度も「止まれ」「馬を降りよ」と言われれば、日本語が理解できようができまいが、どうすればよいかは、場の空気で分かって当然ではないのか。

Wikipediaを読み進むと、このような記述がある。
事件が起こる前に島津の行列に遭遇したアメリカ人商人のユージン・ヴァン・リードは、すぐさま下馬した上で馬を道端に寄せて行列を乱さないように道を譲り、脱帽して行列に礼を示しており、薩摩藩士側も外国人が行列に対して敬意を示していると了解し、特に問題も起こらなかったという。ヴァン・リードは日本の文化を熟知しており、大名行列を乱す行為がいかに無礼なことであるか、礼を失すればどういうことになるかを理解しており、『彼らは傲慢にふるまった。自らまねいた災難である』とイギリス人4名を非難する意見を述べている
また当時のニューヨーク・タイムズは『この事件の非はリチャードソンにある。日本の最も主要な通りである東海道で日本の主要な貴族に対する無礼な行動をとることは、外国人どころか日本臣民でさえ許されていなかった。条約は彼に在居と貿易の自由を与えたが、日本の法や慣習を犯す権利を与えたわけではない。』と評している
また、当時の清国北京駐在イギリス公使フレデリック・ブルースは、本国の外務大臣ラッセル伯爵への半公信の中でこう書いている。『リチャードソン氏は…わが国のミドル・クラスの中にきわめてしばしばあるタイプで、騎士道的な本能によっていささかも抑制されることのない、プロ・ボクサーにみられるような蛮勇の持ち主である』

よく大名行列で通行人が土下座を強いられる場面を時代劇などでよく見るのだが、Wikipediaによると、土下座を強いられるのは徳川御三家の場合のみで、それ以外の場合は、通行人は脇に下がるだけで良かったのだそうだ。だから米商人のヴァン・リードは、道を譲り脱帽して敬礼するだけで問題がなかったということになる。

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また当時のわが国では、安全のために、武士であっても狭い市中での乗馬は禁止されていたそうだが、外国人は意に介さずに乗りまわっていたという。そのように外国人がやりたい放題にしていたのは、安政の不平等条約で治外法権が認められていたために、わが国には外国人を裁く権利が存在しなかったことが大きかったようだ。
しかしながら、治外法権を認めたということは、わが国は彼らに対して日本の法や慣習を犯す権利を与えたというわけではない。そう考えると、本来謝罪すべきなのはわが国の法律や慣習を無視して、騎乗のまま貴人の駕籠に向かっていったイギリス人にあったという考え方も成り立つのである。

またWikipediaは、事件直後に現場に駆けつけた英人医師のウィリス博士が、兄に宛てて書いた手紙の内容を紹介している。
誇り高い日本人にとって、最も凡俗な外国人から自分の面前で人を罵倒するような尊大な態度をとられることは、さぞ耐え難い屈辱であるに違いありません。先の痛ましい生麦事件によって、あのような外国人の振舞いが危険だということが判明しなかったならば、ブラウンとかジェームズとかロバートソンといった男が、先頭には大君*が、しんがりには天皇がいるような行列の中でも平気で馬を走らせるのではないかと、私は強い疑念をいだいているのです
*大君(タイクーン):徳川将軍の外交称号

当時、このような意見を持つ外国人がどれだけいたかはわからないが、彼等の振舞いに問題があったと指摘している外国人の記録が、このようにいくつも存在することは注目して良いだろう。

東禅寺事件

この事件が起きる1年前の文久元年(1861)に水戸藩脱藩の浪士14名が江戸高輪東禅寺のイギリス公使館内に侵入し、オールコック公使らを襲撃した事件(第1次東禅寺事件)や、文久2年(1862)に東禅寺警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺した事件(第2次東禅寺事件)があったが、外国人が狙われた単純な攘夷事件と、この生麦事件とは本質的に異なる東禅寺事件で襲撃されたイギリス人は、わが国の法律や慣習に照らして問題のある行為をしたわけではなかったが、生麦事件の場合は、もし同様のことを日本人が行なえば、確実に切り捨てられていた事案である。

しかしながらこの生麦事件は、わが国の通史においては、攘夷殺人事件の事例として分類されている。
この理由は、徳川幕府がイギリスとまともな交渉をしないまま、外圧に負けて賠償金の支払いに応じたことと関係があると考えている。
普通に考えれば、紛争の相手国に対して謝罪したり賠償金を支払うという行為は、自国の方に非がある事を、公式に認めたということになる。
ということは、その紛争に関する歴史記述において、自国側に非がある事を誇大に書かれたとしても、公式に認めた以上は文句が言えないことになる。
歴史にifは禁物かも知れないが、もし江戸幕府が生麦事件の賠償金を拒絶していたら、この事件が「攘夷殺人事件」に分類されることはなかったと思う。

ところで、江戸幕府に謝罪させて賠償金を手に入れたイギリスのやり方は、相当強引なものであった。いわゆる「砲艦外交」で江戸幕府に圧力をかけたのである。
翌文久3年(1863)に、イギリスは江戸幕府に対して生麦事件に対する謝罪と賠償金10万ポンドを要求し、薩摩には犯罪人の処罰と賠償金2万5千ポンドを要求することを通告し、さらに幕府に圧力を加えるため、英仏蘭米の4か国艦隊を横浜に入港させている

当時江戸幕府は、東禅寺事件の賠償金の支払いについて英国と交渉中であったのだが、2人のイギリス兵が斬殺されたこの事件の賠償金は、のちに生麦事件の賠償金と同時に支払われ、その金額は1万ポンドであったという。どう考えても生麦事件の幕府に対する賠償要求額の10万ポンドは高すぎる

当時、将軍徳川家茂は京都を動けない状況にあり、イギリスとの交渉にあたったのは老中格の小笠原長行だったが、この生麦事件の賠償金の支払いを巡って幕議は紛糾した。一旦は支払うことで決したのだが、将軍後見職・徳川慶喜が京都から戻り賠償金支払い拒否を命じたことから事態が流動化し、支払期日の前日になって支払延期が通告されたために英国が激怒。ニール代理公使は艦隊に戦闘の準備を命じたという。
しかし、再び江戸で開かれた評議においては、尊攘派の水戸藩が介入して逆に支払い拒否が決定されてしまう。
そこで江戸の閣老たちは、事態収拾のためにフランスの代理公使と司令官に調停を依頼したが、フランスは江戸幕府からの仲裁の依頼を拒絶してイギリスの要求に従うように勧告し、さらに横浜の防御をフランスの手に委ねるように要求したという。

200px-YoungSatow.jpg

冒頭で紹介したアーネスト・サトウの著書の文章をしばらく引用しよう。
日本政府がフランスの当局者を説いて日本側のために仲裁に立たせようとしたことは、完全に失敗した。もっとも、この仲裁の依頼と同時に、外国人はみな直ちに横浜から退去すべしというばかげた要求が行なわれたのだから、仲裁のできるわけはなかったのだ。日本政府は、6月24日にニール大佐に通知書をおくり、賠償金を支払うから受領の時刻を知らせてくれといってよこした。これに対するイギリス側の回答は、分割払いという先般の協定は、日本政府の方で破ったのだからすでに無効であり、今日中にその全額を支払わねばならぬというのであった。
 これはその通りに実行された
。…」(同上書 p.98)

この賠償金支払いは老中格小笠原長行が幕府に無断で行ったという説と、将軍後見職の一橋慶喜の了解を得ていたという説があるが、いずれにせよ、責任ある立場にありながらイギリスと交渉らしい交渉もせず、相手の要求した全額を支払ったことは情けない話である。

江戸幕府が支払った賠償金は、東禅寺事件の賠償金と合わせて11万ポンドだが、当時の為替相場は1ポンドが2.5両だったと、次のURLに書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%88%E3%82%A6
とすると、11万ポンドは275千両。ちなみに通訳生として採用されたばかりのアーネスト・サトウの年俸は200ポンドで500両、新撰組の近藤勇の年俸は480両だったという。

ただ、江戸幕府はこの賠償金を無条件で支払うつもりではなかったらしく、アーネスト・サトウの著書によると、老中格小笠原長行は同じ日に、諸港を閉鎖して外国人をことごとく国外に追放せよという将軍の命令を伝達したというのだが、当然のことながらイギリスがそのような命令に応じるような国ではなかった。

同日付のイギリスの回答を読むと、その強圧的な姿勢に多くの読者が驚かれるのではないだろうか。ポイントとなる部分を紹介したい。
「…ただ今閣下を通じて行われた軽率な通告は、文明国と非文明国とを問わず、あらゆる国の歴史に類を見ざるところであります。それは実際上、条約締結国全体に対する日本自身の宣戦布告にほかなりません。直ちにこれを取り止めなければ、その結果は最も苛酷かつ最も効果的な懲罰によって、その罪を償わなければならぬでしょう。この旨、閣下より大君陛下の上聞に達せられ、さらに大君によって確実に天皇に奏上せらるべきものと愚考いたします。…」(同上書 p.102)
要するに、「賠償金は頂戴しておくが、国外に出ていけという命令を撤回しないならば、貴国との戦争が避けられない。その代償は高くつく。」と脅しているのだ。

アーネスト・サトウはこの著書の中で、この時期に江戸幕府がイギリスに接近してその支援を受けたり、横浜の防御をフランスに委ねていたとしたら明治維新は為し得なかったという意味のことを書いているので紹介したい。裏を返すと、幕末期においてはイギリスもフランスも、わが国の一部でも植民地化するチャンスを窺っていたということだろう。

イギリス側か大君に与えようという物質的援助…政策がうまく実行されれば、大君は祖先伝来の地位に安定し、その後継者を転覆させた1868年の革命は困難となり、おびただしい流血なしには成就しなかったであろうし、また日本国民は、外国の援助で日本の地位を強化した支配者を嫌悪するに至ったであろう。そうなれば大君は苛酷きわまる抑圧手段によらなくてはその地位を保ち得なくなり、国民は恐るべき永久の独裁政治下に屈服を余儀なくされたであろう。大君の閣老が、外国からの援助申し出を拒否するだけの充分な愛国心を持ち合わせたことは、まことに喜ぶべきことであった。かくして、日本人は自己の力で自分の救済を行なうようになり、革命が勃発した時も、生命財産の損失をわずかの範囲に食い止めることが出来たのである。…もし日本人がヨーロッパの某国人(訳注 フランス人)の提言を受け入れたとしたら、それは永久に阻止される結果になったかもしれない。」(同上書 p.102-103)

話を生麦事件に戻そう。
イギリスは生麦事件の賠償金を、江戸幕府からだけではなく、薩摩藩からも獲ようとしていた。
江戸幕府は、イギリスの要求する賠償金を全額支払ったのだが、薩摩藩の場合は、薩摩側には何も落ち度はないので、イギリスが要求した犯人の処罰にも2万5千ポンドの賠償金の支払にも応じるつもりはなかったのである
そこでイギリス公使代理のニールは、クーパー提督率いるイギリス東洋艦隊7隻を錦江湾に派遣して、砲艦外交によって薩摩藩からも賠償金を獲ろうとしたのである。

薩英戦争のことを書くとまた長くなるので次回に記すことにしたい。

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薩英戦争で英国の砲艦外交は薩摩藩には通用しなかった

前回は生麦事件における江戸幕府の対応を書いたが、今回は薩摩藩の対応を書くことにする。

イギリスは江戸幕府から、得意の砲艦外交により10万ポンドの賠償金の獲得に成功し、次いで鹿児島の錦江湾に7艘の大艦隊を回航せしめ、薩摩藩からも2万5千ポンドの賠償金を獲ろうと企てたのだが、薩摩藩は一歩も引かなかったのである。

国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で、薩英戦争に関する記述がありそうな本を探す。「薩英戦争」で検索すると、ネットで閲覧可能な26冊の古書がヒットする。
昭和16年に出版された『維新史第3巻』(維新史料編纂事務局)を読むと、薩摩藩がこの日の来ることを想定して、周到な準備をしていたことがわかる。次のURLにその該当部分がある。(原文は旧字旧かな。以下同じ)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242358/265

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「…生麦事件勃発以後は、早晩英国艦隊の鹿児島来襲を予想し、外夷屠(ほふ)らずんば已まずという意気を以て、愈々(いよいよ)武備を厳重にした。或は砲台を増築し、備砲を強化し、或は遠見番所、狼火(のろし)台を各地に設け、弾薬の製造を盛んにし、兵糧の貯蔵に力めた。英艦来襲を想定した模擬戦もまたしばしば行われ、藩主茂久はみずからこれを瞥し、一藩を挙げて日夜英艦撃攘の訓練を怠らなかった。されば6月27日、英国の大艦隊が鹿児島に迫るや、予(かね)てその事あるを期待していた事なれば、沿岸の狼火台は直ちに合図の狼火を打ち揚げ、警報は八方に伝えられて、各砲台守衛の士はもとより、城下の士卒はそれぞれ迅速に部署に就いた。」

薩英戦争の砲弾

薩摩藩の砲台は先代の島津斉彬の時代より錦江湾沿岸の要所に設置されたものだが、薩摩藩の大砲は砲弾が円くて、細長いイギリス艦隊のアームストロング砲と比べると射程距離が短く、破壊力も劣っていた。

徳富蘇峰の『近世日本国民史〔第50〕』に薩摩藩の砲台をみた英国側の記録が引用されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228685/121

「鹿児島付近の西岸、ならびに島嶼には砲台を構え、その砲台の多数は市街の前面に連接し、専ら市街防御を為し、守備頗る厳重だ。市街付近の高所には、陣地を卜(ぼく)し、柵を繞(めぐ)らし、薩藩の旗章を翻し、その周囲には、多数の兵士立ち並び、扇子を扇ぎて、艦隊の進航に注目するの挙動を察するに、必定一発の相図(あいず)あらば、一斉に砲火を開くもののごとし。」

薩摩藩主島津忠義は、軍役奉行折田平八らを旗艦に遣わし、その来意を問わしめている。
英国は折田らに国書を手交した。
かなり長文だが、その要求している内容は、生麦事件の犯人を捕らえて、英国将校12名の目前で死刑に処することと、2万5千ポンドの支払うことの2点であるが、「之を拒まば、その他軍艦の到着を待ちて、直ちに戦端を開くべし。」といった脅しの文句がいくつも書かれている。徳富蘇峰の前掲書に、英国の国書の全文が紹介されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228685/124

まず薩摩藩は、書面の往復は談判に不便であるとし代表者の上陸を求めたのだが、『近世日本国民史〔第50〕』の続きを読めば、次々と繰り出す薩摩藩の奇策に、多くの日本人は驚くことだと思う。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1118156/138

「『(ニール代理公使等が)上陸せば、城内の釣橋を引き揚げて彼等を捕虜となす可き設計は準備せられた。此れは確定せられた内議であった。若し此の奸計成功し、而して英艦より発砲するが如きことあらば、此の俘虜を斬首すべき旨を、艦隊に通告し、而して霧島の堅固なる牢屋に幽閉せられたであろう。』
と7月13日横浜発行の英字新聞に公表せられた。それは余りにも穿ちすぎたる想像説ではあるが、その実薩摩でも、若し代理公使、水師提督等が、藩の請求に応ぜざるに於いては、彼等を御春屋内に幽閉し、同所を焼き討ちする計画であったと言う。[男爵本田親雄談話]」

英国は薩摩の謀計を危惧してこの誘いには乗らなかったのだが、次に薩摩藩は決死隊を募り、1艘は返書を持参し、他は西瓜などを積んで売り込むように見せかけて艦隊にうまく乗り込み、合図とともに斬りこみをかけ、7艘の軍艦を奪い取ろうとしている
このことは、『維新史第3巻』や『近世日本国民史〔第50〕』にも書かれているが、その時に錦江湾の英軍艦に乗っていた通訳士のアーネスト・サトウの著書にも同様の記録を残している。これは、薩摩の使者に英国の要求書を手交した翌日の午後の出来事である。

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「…別の役人が数名旗艦へやってきて、回答の期限については何とも言明はできぬと言った。その際ニール大佐を訪れた重役の名前は伊地知正治といった。…この男とこれに従う40名の者が、イギリスの士官を急襲して重だった者を殺害せんものと、充分な計画の下に主君と別盃を酌みかわして来たのである。彼らは、こうした方法で、旗艦を奪取しようとしたのだ。それは大胆至極な考えではあったが、当方で前もって警戒していなかったら、あるいは成功したかもしれない。それらの者は2、3名しか提督の室に入ることを許されず、一方水兵たちは、後甲板に居残った者たちを警戒の目で中止していた。
 これらの日本人がまだ艦上にいる間に別の船が到着したが、それは援兵を乗せてきたものか、計画的殺戮の取消し命令を持ってきたものか、私には判断できなかった。」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.105)

『近世日本国民史〔第50〕』によると、40名は船に上がることが出来たものの、銃剣を構えた英海兵隊が整列して監視していたために、何もできなかったようだ。

またWikipediaによると、薩摩藩は桜島と沖小島の間に地上管制式の水雷3発を敷設したとの記録も残っているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E9%9B%B7%E6%88%A6

翌日薩摩藩はその回答書を届けている。その回答書は、かなり長文で挑戦的なものである。
内容については、犯人は捜しているが未だに捕まっていないことを記したうえで、生麦事件については薩摩には罪はない。このような国法があることを織り込まないまま条約を締結した幕府にこそ問題があると述べて、巧みに英国の要求を拒絶している。英国の砲艦外交は薩摩藩には全く通用しなかったのである
薩摩藩の回答書の原文は『近世日本国民史〔第50〕』に出ているが、英国をまるで相手にしていないような文章である。次のURLに回答書の原文とその解説があるが、回答の一部を紹介しておこう。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1118156/142

「…数年来頻りに探索すれども未だ捕獲せず。かつ人数も一人にあらずして、種々遁避の術を盡(つく)すと見えたり。固より江戸と京都を親睦のために往来する者にて、私意毛頭なければ、主人より命じたるにあらざるは疑いなかるべし。…」
「(貴国においても)我が国法の如く数多の従者を従えて往来する時は、兼て制禁あるにも拘(かかわ)らず、是を犯さば、衝き倒すか、または打ち殺すかせざれば其の国主の往来も成り難かるべし。…諸候を指揮せる江戸の政府にて、従来重き国法のことを条約に載せずして、猥りに諸候の過とするは、政府の不行届なるべし。」

薩摩藩はもちろん英人を斬った人物は分かっていたが、英国に差出す意思は全くなかった。
リチャードソンに最初に一太刀浴びせたのは奈良原喜左衛門で止めを刺したのは海江田信義であったとされているが、両名とも、7艘の英軍艦を奪い取ろうとした決死隊に志願したメンバーであったのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%BA%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
また、決死隊には、後に第二代の内閣総理大臣となった黒田清隆や陸軍大臣などを歴任した大山巌も参加していたようである。

アーネスト・サトウ22-23歳

もちろん英国はこんな回答で納得できるはずがない。アーネスト・サトウの著書で、英国側の反応が如何なるものであったかを述べている部分があるので引用したい。

「…(薩摩藩の)使者が到着したとき、わが方は使者に向かって、回答は不満足なものと考えられるから、もはや一戦を交えたあとでなければ日本人との交渉には断じて応じられぬと告げた。それから提督は、湾の上の方を暫時遊弋(ゆうよく)し、図面にあるウィルモット岬(訳注 大崎ノ鼻、図面省略)の沖合に投錨している外国製の汽船数隻を偵察し、また遥かかなたの湾頭で数回の測量を行なった。当方には砲台を即時攻撃するつもりはなかった。数隻の汽船を拿捕するという報復措置をとれば、薩摩人は前回持ってきたものよりも満足すべき回答を持参するに違いないと、提督は考えたようだ
 この計画にしたがって、…15日払暁(ふつぎょう:明けがた)汽船の拿捕を開始した。汽船に近づくにつれて、もちろん私たちは大いに興奮し、任務に従って各自忙しく立ち働いた。

われわれは、拿捕した船を艦の舷側につないで、桜島の下にある碇泊所へ帰った。…
しかし正午になると、突如一発の砲声が聞こえた。それと同時に、全砲台がわが艦隊に向かって火ぶたを切ったのである。」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.106-107)

薩英戦争戦闘図

攘夷の薩摩藩が先に英国に戦争を仕掛けたというイメージがあったのだが、薩摩は英国の敵対行為を確認してから砲撃を開始していることは注目して良いと思う。

そもそも英国が、その武力を背景に高価な汽船を拿捕する根拠はどこにあるのだろうか。英国がやったことは、相手にライフル銃を突き付けて「金を出せ。出さないなら命はないぞ」と言っても相手が動かないので、近くにいた家族をつかまえて「こいつの命が惜しけりゃ、俺の言う通りにしろ。」と言っているようなものである。当時のイギリスは、このような野蛮な方法で世界の多くの国を植民地化していったのだろう。

このように、戦前の本を探せば同様の論調の書物は容易に見つけることが出来るのだが、戦後出版された書物に、欧米諸国の世界侵略の真実を詳しく書いているものがどれだけあるのだろうか。

このブログで何度も書いているのだが、歴史の叙述はいつの時代もどこの国でも勝者にとって都合の良いものに書きかえられるものである。
特にわが国においては、第二次世界大戦の戦勝国にとって都合の悪い真実は、わが国の教科書などにはほとんど伏せられているのが現実で、たとえば『もう一度読む 山川日本史』では、
「1862年(文久2年)には神奈川に近い生麦で、薩摩藩士がイギリス人を殺傷する生麦事件がおこり、翌年イギリス艦隊がその報復として鹿児島を砲撃するという事態に発展した(薩英戦争)」
と書かれているだけだ。
こんな文章を読めば、薩英戦争にイギリスに正義がなかったことを理解することは不可能だろうし、薩英戦争は攘夷事件を起こした薩摩藩に責任があり、薩摩は薩英戦争で英海軍の前に完敗したとしか読めないだろう。

では、薩英戦争は、薩摩軍はどのように戦い、結果はどうであったのか。
実際には薩摩藩はかなり善戦したのだが、その点については、次回に記すことにしたい。

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【ご参考】
このブログで、「戦勝国にとって都合の悪い真実」について多くの記事を書いてきました。
いくつか紹介しますので、良かったら覗いて見てください。

盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html

アメリカはいかにしてスペインからフィリピンを手に入れたか~GHQが封印した歴史6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-181.html

第一次大戦以降、中国の排日運動を背後から操ったのはどこの国だったのか~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-238.html

カリフォルニア州の排日運動が、日露戦争後に急拡大した背景を考える~~米国排日1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-260.html

16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-191.html

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今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。




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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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