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若草山の山焼き

奈良には何度か行ったが、今まで若草山の山焼きを見たことがなかった。遷都1300年の今年こそは見てみたいと思い、天気も良いので家内と二人で久しぶりに奈良に行ってきた。

ちょっと奈良を歩こうと思って近鉄奈良駅に2時頃と早目に着いて、ひがしむき商店街、もちいどの商店街を抜けて、奈良町界隈を歩き、世界遺産の元興寺から春日大社に向かう。春日大社の本殿を参拝後、4時ごろに水谷橋付近の「茶亭ゆうすい」というところで早目の夕食をとったが、ついでながらこのお店の「奈良茶めし」は素朴な味でとても気にいった。茶粥も有名なようで、また奈良に行くときは立ち寄りたい店だ。

この「茶坊ゆうすい」から20メートル程下ると、山焼きの松明が点火される場所があることをお店の従業員から聞き、早めに店を出て、松明点火場で陣取りをする。5時5分からこの場所で春日大社の聖火が点火される予定だが4時45分頃に着いた時にはまだ人は少なく、良い場所がキープできた。

5時過ぎに雅楽道楽―僧兵―奈良奉行所役人―法螺衆―興福寺―東大寺―春日大社の順に総勢30名の行列が点火場に到着。

若草山の山焼き 036

用意されていた小さな火床に聖火が点火されると、次第に炎は大きくなり、そして松明の点火がはじまる。

若草山の山焼き 044

松明の火の勢いが強くなると、行列は若草山に向かって進みだす。点火場にいた人たちも行列とともに若草山に進む。若草山のふもとにはすごい数の人が集まっていた。外国人もかなり来ている。

若草山の山焼き 049

5時半ごろ行列は若草山麓にある野上神社に到着し、そこに用意されていたかがり火に点火してから、山焼き行事の無事を祈願する祭礼が始まる。僧侶も山伏も柏手を打ち、玉串奉奠をするところがなんとなく面白い。続いて東大寺、興福寺による般若心経の読経がはじまり、かがり火から大きな松明に火が移されていく。

若草山の山焼き 054

松明の火が勢いを増すと、松明を先頭に行列は野上神社を出て、山麓中央に設けられた大かがり火に進み、そのかがり火に火をともすと、炎が次第に大きくなり周りの人々の顔を赤々と照らす。

6時頃になると、中腹から花火が次々と打ち上げられる。
6時15分ごろ、花火が終わるといつのまにか、消防団が大かがり火から松明に火を移して若草山の正面の何か所かに火を運んで待機していた。

若草山の山焼き 083

法螺貝の合図とともに、若草山に一斉に点火されると、あっという間に火は拡がり、しばらく火の美しさに引き込まれてしばらく動けなかった。火は見る人の心を一つにして時間を止める。なんとなく京都の大文字の送り火を思い出した。

ところで、この山焼きはどういう経緯でいつから始まったのか。

「若草山焼き2010ガイドブック」によると、若草山の「三重目の頂上は前方後円墳の巨大な鶯塚古墳で、江戸末期頃までは、この鶯塚はウシ墓と呼ばれ、ここからでる幽霊が人々をこわがらせるという迷信が長く続いていたらしく、しかもこの山を翌1月頃までに焼かねば、翌年に何か不祥事が起こるといったことで、通行する人が放火し東大寺境内の方に火が迫る事件が再三起こりました。」
「元文3年(1738)12月に、奈良奉行所は…放火停止の立札を、山の枯れ草が青芝になる正月から三月まで立てましたが、…その後も放火事件が起こり、結局その犯人は検挙されぬまま、誰が焼くともなく焼かれるようになりました。」
「それは山上古墳の鶯陵に葬る霊魂を鎮めるそまびとの祭礼ともいうべき供養のためでもありました。」
とあり、「山焼きは社寺の境界争いのためと一部伝わっていますが『俗説』です。」と、境界争い説を明確に否定している。

しかし、このガイドブックの説明で、今まで何百年もあいだ、奈良の奉行所と興福寺、東大寺、春日大社が、毎年人と資金を出して協力して山焼きを続けてきた理由として、どれだけの人が納得できているのだろうか。

少し気になったのでネットで調べると、2007年の秋までの奈良県のホームページでは「領地争いが元」と書かれていたらしく、それを春日大社や東大寺、興福寺が訂正要求を出したために奈良県が修正した経緯のようだ。ということは、それまでは若草山焼きの由来は領地争いと考えるのが通説だったということだ。
産経ニュース2007.12.5
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/071205/trd0712052153013-n1.htm

次のサイトを読むと、鎌倉時代の「南都年代記」という書物に建長7年(1255)、東大寺と興福寺との間で領地争いがあった記録などの紹介があり、それから以降も東大寺と、興福寺・春日大社との領地争いがあった物証があり、私は3社寺の間の領地争いが由来と考えることの方が自然だと考えますが、皆さんはどっちの説が正しいと思われますか。

「奈良歴史散歩No.047」
http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm050.html
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節分の不思議

子供の頃に家族と京都にある吉田神社の節分に行ったことがある。私の実家はお寺なのだが、節分の日は行事らしきものがなかったので、それ以来長い間、節分は神社の行事だと思っていた。
高校の時に、壬生寺などお寺で節分の行事を行うところがあることを知った。京都では壬生寺の他にも、六波羅蜜寺、廬山寺などのお寺で節分の行事がとりおこなわれている。一方、神社では、吉田神社、上賀茂神社、下鴨神社、伏見稲荷大社などでも節分の行事が行われている。
「節分」はなぜ、お寺でも神社でも行われているのか興味を覚えていろいろ調べたことがあったがその時はあまりよくわからなかったし、節分行事に神道とも仏教とも異質なものを感じた。

「節分」について、どこにでも書いてある内容は、
「節分」とは季節の変わり目のことで、正しくは立春・立夏・立秋・立冬の前日の4回あること。
各季節の終わりの18日間は「土用」と言われ、季節の変わり目で体調が不安定になりやすく、特に冬の時期は鬼門が開くと言われて、鬼が出没して人間界に悪さをすると考えられてきたこと。
これを封じるために、豆まきをして鬼を追い払い福を招く、あるいは鰯の頭を柊の枝にさして門戸に立てて邪気の侵入を防ぐというのだが、古代中国の「追儺(ついな)」といわれる厄祓いの行事が、日本に入って宮廷の越年行事として迎えられ、朝廷での追儺は陰陽師によって行われたということなどである。

古代中国では「鬼」が出てくることはないが、なぜ日本の行事では「鬼」が出てくるのか。なぜ「豆」が出てくるのか。なぜ、神社でもお寺でも行事が行われるのか。

中国の「五行説」によると季節と方角との関係が記されており、冬と春の間の「節分」は方角で言うと東北を指すそうだが、東北の方角は日本では「鬼門」と言われるので、鬼が出てきたという説もある。では、何故東北の方角を「鬼門」と呼ぶようになったのかがわからない。

また何故炒った豆を撒くことが、邪気を追い払うことにつながるのか。「豆」は「魔目」あるいは「魔滅」と解釈し、豆を持って鬼の目を潰し魔を滅するという説が有力だそうだが、どうもしっくりこない。何故年齢の数プラス1個の豆を食べるのかもよくわからない。

何故神社でもお寺でも行事が行われるのかについては、明治以前は、神社もお寺も神仏習合で境目がなかったと理解すれば少しは理解しやすい。旧暦で言えば、「節分」は「正月」と同じようなものだ。正月にお寺に初詣する人は神社ほどではないが、少なからずおられる。それと同じだと考えれば良いのではないか。

しかしながら、「鬼は外、福は内」などというのは、仏教の考え方とは何か違和感があるような気がする。仏教の考え方では、簡単に福が来るのではなく、それなりの努力をして福が来るとするのが普通ではないかと。

そんなことを考えて色々調べると、成田山新勝寺では「福は内」だけを唱えて、「鬼は外」を言わないらしい。東京の亀戸天神では逆に「鬼は外」しか言わないとのことである。雑司ケ谷の鬼子母神では「鬼は内、福は内」、奈良県吉野山の蔵王堂では「福は内、鬼も内」、京都福知山の大原神社では「鬼は内、福は外」と言うそうで、どういう経緯でそう唱えるかはよくわからないが、日本全国のお寺や神社でいろんな節分があるようである。
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東大寺二月堂のお水取り

例年3月1日から14日まで行われる東大寺の二月堂の「お水取り」だが、一回り大きい松明が欄干に並ぶ12日の「お松明」や最終日は毎年凄い人らしい。今年は平城遷都1300年に当たり、バスツアーでの観光客も多く例年以上の人出が予想されている。

修二会

「お水取り」は修二会(しゅにえ)と呼ばれ、天平勝宝4年(752)東大寺開山良弁(ろうべん)僧上の高弟、実忠和尚によってはじめられた春を迎える法会で、本尊の十一面観音の前で、11人の僧侶(練行衆)たちが、全ての人の罪を背負って懺悔をし、全ての人に代わって祈る法会である。

旧暦の二月はインドの正月にあたるので、仏への供養を行うと言われているが、外国には修二会はなく、本当の起源ははっきりしていない。仏教伝来以前からの作法がかなり色濃く残されているとも言われ、神仏習合の不思議な世界を見ることのできる行事である。 東大寺のHPなどに書かれてあるが、修二会は良弁僧上が始めて以来過去一度も途絶えることなく続けられ、今年は1259回目になるそうだ。

しかし、東大寺は過去堂宇が焼失した歴史が何度かある。また以前ブログに書いたように明治初期の東大寺は収入源の大半が断たれ、傷みのひどかった大仏殿を長い間修復できなかった経緯にある。また太平洋戦争の時は多くの僧侶が徴兵されて戦場に行ったり空襲を警戒して灯火管制も厳しかったはずである。

これだけ長い期間にわたって途絶えることなく続けるということには大変な苦労があったことは容易に想像がつく。

いろいろ調べていくと、最大の危機は治承5年の時だそうだ。東大寺は前年の治承4年(1180)の12月に平重衡の兵火によって大仏殿が焼け落ち、大仏も上半身を失い、講堂や僧房など東大寺伽藍の大部分が焼けたが、二月堂は類焼を免れた。この時は、東大寺当局は「寺が復興したらまたやればよい」として「お水取り」の中止を決定したのだが、練行衆達が「大事な法会を、寺を修理してから元に戻して何の甲斐があるか」と反対し、東大寺当局とは関わりなく有志15人でこの行事を行ったとの記録があるとのことだ。

永禄10年(1567)の三好・松永の兵乱によってまた伽藍の多くを失ったが、この時も二月堂は類焼を免れている。この兵乱で焼失した大仏殿が再建されるのは140年後とのことで、その間は大仏様は露座のまま座っていたということだそうだ。

寛文7年(1667)2月に二月堂は満行に近い2月13日早朝に失火で焼失(明治以前は旧暦の2月1日~14日に行われていた)、現存の二月堂は、寛永9年に再建されたとある。この時は三月堂で「お水取り」が行われた記録がのこっているとのことだ。(「二月堂修中練行日記」)

明治時代の廃仏毀釈の頃は僧侶も人数も減り東大寺の存立そのものが危ぶまれたのだが、修二会は規模を縮小して守られ続けたそうだ。今は連行衆11名が二週間勤めているが、この人数は廃仏毀釈以降のことで、江戸時代は26人の連行衆がいて前後半それぞれ13人ずつだったそうだ。

太平洋戦争の時は、修行中の練行衆に召集令状が来て人手が足りないことがあったが、別の宗派のお坊さんが練行衆に加わってなんとか乗り切ったそうである。

しかし僧侶だけが時代の節目節目で苦労したのではない。この修二会は良質の竹やヒノキ材や菜種油などが入手できなければ成り立たない行事である。

京都新聞の「ふるさと昔語り」によると、竹は山城地域の竹が使われ、奈良へ向かう街道を通る旅人らがリレー式に運ぶ「竹送り」の風習によって、山城地域から二月堂まで届けられていたそうである。

戦国時代の天正年間の文書を読むと、山城地域で二男、三男を東大寺の僧にする大農家があり、大農家にとっては家の名誉になり、東大寺にとっては金銭や物資の仕送りが期待できるという関係にあったそうだ。

また江戸初期には、村の有力農民らが共同で二月堂に物資を送る講が各地に作られたという。 民衆のこのような素朴な信仰心が、僧侶達のモチベーションを高めて、いかなる困難をも乗り越えて、この修二会を長い間継続させてきた原動力になったのではないだろうか。

山城地区の竹送りは風水害などが原因で戦後いったん途絶えたが、昭和53年に復活し、今も、山城松明講によって、京田辺市の竹林から切り出された7本の竹が、毎年二月堂に運ばれているそうだ。
「京都新聞 ふるさと昔語り」
http://kyoto-np.jp/info/sightseeing/mukasikatari/080208.html
「奈良日日新聞 竹送り700人が街道練る」
http://web1.kcn.jp/tsuzaka-silver-bbc/page221.htm
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醤油の歴史と本物の醤油の見分け方

醤油のルーツは古代中国から伝わったと言われているが、 いつの時代に伝わったかは良く分からない。
大宝律令には宮内庁の大膳職に属する「醤院(ひしおつかさ)」で大豆を原料とする「醤(ひしお)」が作られていたと書かれているそうだ。当時の「醤」は今の醤油と味噌の中間のようなものだったそうだ。

今の醤油はいつごろ生まれたかと言うと諸説があるようだが、湯浅で聞いた話では、鎌倉時代の中頃に紀州の禅寺「興国寺」の開祖「法燈円明国師」が、当時は南宋と呼ばれていた中国から伝えた嘗味噌(なめみそ::経山寺味噌、現在は金山寺味噌と呼ばれている)の醸造法をならって帰国し、その味噌に瓜・茄子などの野菜を漬け込んで発酵させ精進料理としたのだが、その金山寺味噌の製造工程で、樽にたまった汁で食べ物を煮るとおいしいことが発見され、それが「醤油」の起源となったとのことである。

紀州湯浅で生まれた醤油の製法はその後も発展し、天正年間(1580年頃)には日本で最初の醤油屋さんと言われる玉井醤が、味噌・醤油業を開始したとされる。

玉井醤名所図会

19世紀初頭に出版された「紀伊国名所図絵」にも、湯浅醤油が日本の醤油の起源として紹介され、玉井醤については「村中大阪屋三右衛門店にて製す。経山寺味噌の類なり。…実に未曾有の味なれば、紀州経山寺の稱、遍く他邦にも聞こえたり。」と記されている。

湯浅の醤油は各地からの引き合いもあり藩も手厚く保護して、江戸時代に湯浅で千戸あった家のうち醤油屋が92軒もあったそうだ。
しかし明治以降は藩の保護もなくなり、大手メーカーの進出により多くの醤油屋が廃業し、今では一部の会社が伝統の製法を守っている。

028玉井醤本舗大三

ここが玉井醤本舗だが、ここの金山寺味噌は今でも有名で、毎年夏の時期にだけ仕込んで無くなり次第販売終了となる貴重な味噌だ。米、麦、大豆になす、しそ、ショウガなどを加え、塩以外の添加物を一切含まないとのことだが、私が2年前に行った時には5月だったので買えなかった。

湯浅で昔ながらの醤油屋を見るのだったら「角長(かどちょう)」。

029角長の建物

今も江戸時代の天保年間に作られた蔵を用いて、今も昔と同じ製法で伝統の醤油が作られ、もちろん販売もしているし、平日あるいは土曜日に行くと従業員により、湯浅醤油の歴史や伝統的な製造法について説明を受けることができる。

伝統の製造法で原料となるのは大豆と小麦と塩と水だけで、それらが麹菌、乳酸菌、酵母による発酵過程をへて醤油が出来上がる。醤油の色は発酵させれば「メイラード反応」により自然に赤褐色になるのであって、本物の醤油は一切着色料を使わないということだ。
ちなみにスーパーなどで売られている醤油の原料を見れば、原料にいろいろなものを使っている。大豆も「脱脂加工大豆」という油の搾りかすを原料にしていることが大半だ。
角長の従業員によると「脱脂加工大豆」では醤油独特の色が出ないために着色料を用いざるを得ないし、香りも味わいも乏しくなるから香料を用いているところが少なくないそうだ。

角長蔵

角長では原料にもこだわりがあり、大豆は岡山産、小麦は岐阜産、仕込みの際の塩水はオーストラリア産の天日塩が用いられている。加熱には一切ガスや電気を使わず薪を用い、桶は吉野杉の木桶を今も使っているとのことだ。

伝統的な製造法では「こいくちしょうゆ」の場合、大豆と小麦の分量は大豆5割、小麦5割と決まっているそうだが、この角長では大豆6割、小麦4割で作っているとの話で、昔からの製法を愚直に守ってきた姿勢に感激して、お土産用に一杯醤油を買って帰った。実際使ってみて、大手メーカーの醤油とは香りが全然違う。それ以来、醤油は本物しか買わないことにした。

地方に旅行に行った時に地元産の醤油の原料を確認することがあるが、多くの場合は大豆以外に「脱脂加工大豆」を原料とし、着色料などを使っているのをみてがっかりすることがある。大手メーカーのまねをしてコストを下げたところで、結局は販売力の差では零細企業は勝てないだろう。小さい企業であれば、そこでしか作れないものにチャレンジしてこそ生きる道があるのだと思う。
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「お彼岸」で先祖を祀るのは仏教以前の風習か

もうすぐ春分の日だが、この日を挟んで前後三日ずつの一週間を「春のお彼岸」といい、今年の春の「彼岸の入り」は3月18日で、「彼岸の明け」は3月24日だ。
同様に秋分の日を挟んだ一週間を「秋のお彼岸」と言い、今年の秋の「彼岸の入り」は9月20日で「彼岸の明け」は9月26日となる。

「彼岸」とは向こう岸を意味する言葉だが、仏教では煩悩を脱した悟りの境地に達した事を言い、煩悩や迷いに満ちた現世の事を、こちら側の岸「此岸(しがん)」という。

何故「お彼岸」に仏事をするようになったのだろうか。この時期に仏事を行うのは仏教国多しといえど日本だけだそうだ。

春分の日や秋分の日は丁度昼夜の長さが同じで太陽が真西に沈む。仏教の浄土思想では「西方極楽浄土」といって阿弥陀様が治める極楽浄土は西方のはるかかなたにあると考えられている。そこで、太陽が真西に沈むこの時期に、遥かかなたの極楽浄土に思いをはせたのが、「彼岸会」の始まりと説明されている。

しかし、何故日本だけなのだろうか。何故御先祖様をこのお彼岸の間にお参りするのだろうかと考えると、よくわからなくなってくる。何となく太陽信仰のようなものを感じたりもする。

shitennoji1.jpg

では、「彼岸会」はいつごろから始まったのであろうか。

佐伯恵達氏の「廃仏毀釈100年」によると「推古天皇の時(593)、聖徳太子が四天王寺を建立されて、東門より西門を通じて極楽浄土を欣求する道を開かれたことにはじまるといわれています」(P341)とある。仏教伝来が538年とか552年とか言われているが、日本しか行われていない「彼岸会」が始まった時期にしては少し早過ぎはしないか。ひょっとしたら、日本の古来から春分の日や秋分の日にこのような風習があったのではないか、と思ってネットで調べてみると、いろいろ面白い記事が見つかる。

たとえば、「西野神社社務日誌」にはこんなことが書いてある。
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20070920

「…日本では大陸から仏教が伝来する以前から、固有の信仰(神道)によって御先祖様をお祀りする年中行事が営まれており、特に彼岸には太陽を崇拝する行事を行う所が多かったと云われています。例えば、丹後(京都府)や但馬・播磨(兵庫県)などの地方では、春分の日の朝は「日迎え」といって東の堂に集まり、昼は南の堂に移動し、夕方には「日送り」といって西に集まって拝むという風習がありました。つまり、一日中太陽のお供をして歩くのです。

また、熊本県や鹿児島県では「彼岸籠もり」といって、春・秋それぞれの彼岸の頃に山登りを行って御先祖様をお祀りするという風習があり、秋田県でも、子供が山に登って「万灯火」という火を焚いて御先祖様をお迎えするという風習があります。これは、山という所が、田の神が下界へ降りてきたり帰っていったりする神聖な場所であると同時に、御先祖様の霊が宿っている所であるとも考えられていたからです。…(引用終わり)」

と、なかなか面白いことが書いてある。

また別のサイトでは、「彼岸」は「日願」という説もあると書いてある。
http://www.ffortune.net/calen/higan/higan.htm

しかし、この時期に先祖をおまいりするのが日本古来の風習だとするならば、何故正月や節分のように神社でずっと行事が執り行われてこなかったのか。「彼岸会」が一般民衆に広がって各地の寺院で法要が営まれるようになったのは江戸時代だといわれているが、それまでは先祖をどのようにお祀りしていたのであろうか。

皇霊祭遥拝

毎年春分の日や秋分の日には、毎年宮中の皇霊殿で歴代の天皇の霊を祀る春季皇霊祭や秋季皇霊祭を執り行われ、全国の神社で皇霊遥拝式がなされるが、この儀式は明治政府が明治11年に廃仏毀釈の流れの中で始められたものであり、それほど古い歴史があるわけではない。
神道の考え方では死とは穢れであり、神の聖域である神社で先祖の霊を祀る発想は明治まではなかったのではないか。神葬という神道の葬式が始まったのは明治五年だ。その2年後に明治政府は寺院の葬式を禁止しているが、さすがにこのことは徹底できなかった。

彼岸で先祖を祀るのは本来神社の行事と考える人もいるようだが、この考え方には無理がある。日本古来の風習がそのまま仏教にとりこまれたのではないだろうか。民衆は太陽に祈って、長い間先祖をお祀りしてきたのかもしれない。

これからも、祖先を敬いなくなった人を偲ぶ日本の良き伝統は、末永く続いてほしいと思う。
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「おはぎ」と「ぼたもち」の違い

最近いろんなお店で、「おはぎ」が沢山店頭に並べられている。今日は「お彼岸の中日」で、彼岸の時期に「おはぎ」を食べるのは日本古来の伝統である。

ぼたもち

私の京都の実家はお寺で、春や秋の「お彼岸」の法要には毎年沢山の檀家の方々が集まり、昔は集まった皆さんのお昼の食事を、婦人会の方々が手分けして作って振る舞われておられたことを良く覚えている。

そしてこの時期に必ず用意されるのが粒あんで丸く作られた「おはぎ」なのだが、子供のころにこれを「おはぎ」と言うと婦人会の人に「ちがう、『ぼたもち』や」と言いかえられたか、「ぼたもち」と言って「ちがう、『おはぎ』や」と言いかえられたかどちらか記憶が定かではないが、とにかく「おはぎ」と「ぼたもち」とはどこがどう違うのかが良く分からなかった記憶がある。

子供の時にきちんと婦人会の人に聞いておけば良かったのだが、だんだん聞くのが恥ずかしいような年齢になってしまって、良くわからないまま過ごしてきた。

誰でも疑問に思いながら、大人になると聞くことが恥ずかしくなって、知らないままに過ごしていることがいくつかあるのだと思うのだが、こういうことは今はパソコンで検索すれば恥ずかしい思いをしないでいろんなことを容易に知ることができる便利な世の中になっている。

私が「おはぎ」と「ぼたもち」との違いを正しく知ったのは最近の事なのだが、正解は春のお彼岸に食べるのは「ぼたもち」で秋のお彼岸に食べるのは「おはぎ」で、ただ季節により呼び方が変わるだけである。

両者の違いは、外側の餡が粒餡かこし餡かの違いだとか、中が搗いた餅かどうかの違いだかいろんな説明を聞いたことがあったが、子供の時に実家の婦人会の方に作っていただいた「おはぎ」と「ぼたもち」は外見も中身も全く同じあったので腑に落ちなかった。

最近になって、たとえば次サイトの文章を読んでようやく永年の疑問が解消した次第である。
http://allabout.co.jp/career/dictionary/closeup/CU20010905/index.htm

上記の文章によると、「おはぎ」は萩、「ぼたもち」は牡丹が咲く季節と関係している。また、夏や冬にはまた別の名前があることも紹介されている。夏は「夜船」、冬は「北窓」とい言い、いずれも「搗きしらず」、すなわちいつ作ったのか分からないことをひっかけて名づけられているのだが、詳しくは是非上のサイトを参考にしてください。

昔の人は季節の野菜や果物を食し、お菓子まで季節によって名前を変えて、季節の風情を味わっていたということは素晴らしいことではないか。

しかしなぜお彼岸に「おはぎ」や「ぼたもち」を食べるようになったのか。

いろいろ調べると、永田久さんが「年中行事を「科学」する」という本の中で、次のように説明しておられることがわかった。

「ぼた餅」は、日本古来の太陽信仰によって「かいもち」といって、春には豊穣を祈り、秋には収穫を感謝して、太陽が真東から出て真西に沈む春分・秋分の日に神に捧げたものであった。それが、彼岸の中日が春分、秋分であるいう仏教の影響を受けて、彼岸に食べるものとなり、サンスクリット語のbhuktaやパーリ語のbhutta(飯の意)が、「ぼた」となり、mridu、mude(やわらかい)が「もち」となって「ぼたもち」の名が定着したのである。(日本経済新聞社刊 P97)

なんと「ぼたもち」とは日本語ではなく、サンスクリット語やパーリ語だったとは面白い。

こんなことを調べながら、今日のドライブで立ち寄った亀岡市内の店で買ってきたのは本来は「ぼたもち」と呼ぶべきなのだが、パックには「おはぎ」と書いてあった。
日本全国で「おはぎ」と「ぼたもち」の違いが伝承されておらず、季節をめでる風習が消えかかっていることを痛感しつつも、日本茶とともにいただいた手作りの亀岡の「おはぎ」は旨かった。
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端午の節句と「鯉のぼり」

もうすぐ端午の節句(5月5日)だ。子供の頃、4月の下旬にもなると、自宅近隣のあちこちの家で「鯉のぼり」が屋根の上を泳いでいた。

屋根より高い鯉のぼり

私の実家のお寺も、この時期は祖父や父が、何年も使ってきたであろう太くて長い竹を取り出して、毎年兄と私のために大きな「鯉のぼり」を毎日立ててくれたことを思い出す。

子供のためとはいえ、大きな鯉のぼりを毎朝立てて毎夕片づけることは簡単なことではなかったはずである。雨が降りだせばあわてて片づけなければならなかったので母も大変だったと思うが、近所の家のどこよりも大きく、どこよりも高く「鯉のぼり」が毎日泳いでいることが、子供の頃の私にとっては誇らしく思えた。

言葉をあまり使わないで、鯉のぼりや兜などで喜ばせながら子供をたくましく育てていく日本の伝統や風習の良さを感じて、最近になって端午の節句の由来を調べた時は驚いてしまった。

端午の節句は男子のお祭りとして相当古くから続く伝統行事だとばかり思っていたが、もともとは女の子のお祭りだったらしいのだ。

飯倉晴武氏の「日本人のしきたり」という本によると、「…田植えが始まる前に、早乙女と呼ばれる若い娘たちが、「五月忌み」といって、田の神のために仮小屋や神社などにこもってケガレを祓い清めていたのです。つまり、この日は、田の神に対する女性の厄払いの日だったのです(68p)」とある。

面白そうなので、ネットで「五月忌み」を調べると、結構詳しく書かれたサイトが見つかった。
http://www.bite-japan.com/kako/saijiki05-j.html

「稲作が生活の中心だった当時の日本では、田植えは1年の中で最も重要だと考えられていました。その頃、田植えを行うのは生命を産み出す女性の役目で、田植えが始まる前の晩には早乙女(さおとめ)と呼ばれる若い娘達が、仮小屋や神社などにこもって、田の神様(稲の神様)のために穢れ(けがれ)を祓い(はらい)、身を浄(きよ)めたと言われています。こうした儀式を「五月忌み(さつきいみ)」とか「忌みごもり(いみごもり)」と呼ぶんだそうです。

このような風習はおそらく、桜の咲く頃に山から里に降りて来た山の神様(田の神様、稲の神様)を、田植えを前に田んぼに招き入れるための儀式だったのではないでしょうか。その頃、山の神様は春になると里に降りて来て田の神様、あるいは稲の神様になり、秋になって田に実りをもたらした後、再び山に帰って山の神様になり、冬の間は山で過ごすと信じられていました。こうした田の神様(稲の神様、山の神様)の崇拝(すうはい)は、サ神(サガミ)信仰と呼ばれるものだと考えられています。…」とある。

「サ神信仰」とは原始宗教の山岳信仰のことでいわゆる「山の神」のことである。話が長くなるので、参考までに参考になるサイトを紹介しておこう。
http://blog.goo.ne.jp/hardsix/e/540040751aa668cc19ed07a4eb379a6d

女性の厄払いとしての端午の節句が男子の伝統行事になっていったのは平安時代の頃らしい。

平安時代には宮中では馬の上から矢を射たり、競べ馬などの勇壮な行事が行われていたが、端午の節句で厄除けに使われていた菖蒲(ショウブ)が、武事を尊ぶ「尚武」や「勝負」に通じることから、男の子が菖蒲を使って兜を作ったりして遊ぶようになって、女の子のお祭りであった五月忌みが男の子のお祭りになっていったそうである。

また、家の中に飾る五月人形は、元々は雛人形と同じように、穢れを移して川に流すための紙人形であったが、江戸時代に武士たちの間で鎧や兜などの武具を飾り立てるのがひろがり、また「鯉のぼり」は江戸時代の中頃には登場していたようで、家の中に五月人形を飾り、外には鯉のぼりを飾る風習が武士階級だけではなく商人たちの間にも次第に広まっていったそうだ。

では何故「鯉のぼり」を立てるようになったのか。中国の「龍門を登って鯉が龍になった」という登竜門の故事にあやかって、子供の出世を願うために鯉のぼりをたてるようになったのが全国に広まっていったということらしい。

鯉のぼり

上の絵は歌川広重による名所江戸百景の「水道橋駿河台」であるが、江戸時代の鯉のぼりは黒一色だったようだ。明治時代になって緋鯉と対に掲げられるようになり、子鯉も一緒に掲げられるのは昭和になってからだそうだ。

最近では、この時期に鯉のぼりを見ることが随分少なくなった。今日、通勤途上で「鯉のぼり」を探してみたのだが、マンションのベランダに立てかけられた小さいものをひとつ見つけただけだった。

大きな家が減り、核家族になって若い世代がマンションや団地に住み、少子化が進んでいるうえに共稼ぎの世帯が増えれば仕方のないことかも知れないが、私の場合は鯉のぼりを通じて親の愛情を感じ、雄々しく泳ぐ鯉のぼりを見て感じるものがあったような気がする。

親ならば誰しもわが子が健康でたくましく育ち、将来は大きく出世してほしいことを願う。しかしそのことを言葉で何遍言っても子供が育つものでもなく、親の気持ちが伝わるものでもない。ましてお金を子供に与えたのではそのような大事なものはますます伝わらなくなるのではないか。子供に与えるべきものは大きな希望であり夢であり智恵であって、断じてお金ではない。

言葉では伝えにくいものをさりげなく小さい子供に伝えていくヒントが、日本の伝統行事や風習の中に沢山ちりばめられているような気がするのだが、戦後になってこのようなものを切り捨て過ぎてはいないだろうか。

以前にも書いたが、長い年月をかけた成功体験の蓄積により培われた日本の伝統や風習を、もう少し振り返るべき時期が来ていると思う。

祖谷渓・こんぴら 025

家庭では鯉のぼりを使わなくなって、このように観光地などで活用されている。活用されることは悪いことではないが、このような田舎の地で鯉のぼりを屋根より高く泳がすことのできる場所であるならば、親の心と幼い子供の心とをつなぐものを家庭に残して、次の世代のために引き継いでいってほしいものだ。
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端午の節句は「ちまき」か「柏餅」か

端午の節句が近づくと、どこのスーパーに行っても「ちまき」と「柏餅」が店頭に並べられる。

ちまきと柏餅70

子供の頃端午の節句の日に友達の家に遊びに行って「ちまき」をごちそうになって帰ることがあった。京都にある実家は忙しくて「ちまき」を作ることは一度もなかったが、当時は近所で「ちまき」を作る家が結構あって、お裾分けしていただくことがよくあった。

しかし、小さい頃に京都で私が端午の節句で食べたのは「ちまき」が大半で、「柏餅」を食べるようになったのはもう少し大きくなったからのような気がする。

そもそも端午の節句に「ちまき」や「柏餅」を食べるようになったのはいつの時代からなのだろうか。またその由来は何なのかがちょっと気になって調べると、次のサイトなどに結構詳しく書いてある。
http://allabout.co.jp/family/seasonalevent/closeup/CU20080421A/index2.htm
しばらく引用すると、
「今からおよそ2300年前の中国に、屈原(くつげん)という詩人がおりました。屈原は国王の側近として仕え、その正義感と国を思う強さで人々から大変慕われていましたが、陰謀によって失脚し、国を追われ…国の行く末に失望した屈源は、汨羅(べきら)という川に身を投げてしまったそうです。その日が5月5日です。」

屈原

「国民は屈原の死を悲しみ、川に沈んだ屈源が魚に食べられてしまわないよう、小船の上から太鼓を叩いて魚をおどしたり、供物を投げ入れて弔いをしていましたが、せっかく川に捧げた供物も、屈原のもとに届く前に悪い龍に盗まれてしまいます。そこで、龍が苦手にしている楝樹(*れんじゅ)の葉でもち米を包み、邪気を払う五色(赤・青・黄・白・黒)の糸で縛ってから川へ流すようにしたところ、無事に屈原のもとへ届くようになったそうです。(引用終わり)」
(*楝樹とはセンダンという香りの強い木らしいが、日本では今では「ちまき」は笹で巻かれている。)

これが「ちまき」の始まりとなって、中国では5月5日に「ちまき」を作って災いを除ける風習ができ、端午の節句となって「ちまき」とともに日本に伝来したらしい。

Wikipediaによると平安時代中期に編纂された辞書である「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」には「和名知萬木」と言う名の記事があり、もち米を植物の葉でつつみ、これを灰汁で煮込むという製法が記載されており、当時は灰汁の持つ殺菌力や防腐性をもちいた保存食であったようだ。これが長い年月をかけて次第に変化していったもののようである。

また江戸時代の元禄10年(1697)に書かれた「本朝食鑑」には4種類の「ちまき」が紹介されており、そのうちの1種類は和菓子としての「ちまき」の原型と考えられている。いずれにせよ中国から伝わった「ちまき」が、国内でかなり変化遂げながら、端午の節句に食べる伝統のお菓子としての「ちまき」を食べることが続いているということで、昔のものがそのまま伝わっているわけではない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%81%BE%E3%81%8D

では柏餅はどうかというと、これは日本独特のもので、江戸時代の江戸に生まれたものだ。

柏餅を包む柏は新しい葉が生えないと古い葉が落ちないことから、「子供が生まれるまでは親は死なない」すなわち「跡継ぎが絶えない」「子孫繁栄」に結びついて、男の子のお祝いである端午の節句に縁起のいい食べ物となったということだそうだ。

というわけで、江戸文化を反映して全国に柏餅が広がっていき、上方では伝統を重んじて「ちまき」が伝承され、江戸時代の幕末には関西で「ちまき」、関東で「柏餅」を食べることがほぼ定着し、今でも関西で「ちまき」、関東で「柏餅」が親しまれる傾向にあるというのである。

これで私の子供の頃に京都の実家で端午の節句に「ちまき」を食べることが多かった謎が解けた。

関西と関東の文化が融合して、最近ではどこのスーパーでも「ちまき」と「柏餅」が店頭に並ぶようになった。グルメの私にとっては東西文化の融合は大変ありがたく、今年も両方をいただくことにしよう。
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葵祭りの由来について

5月15日は京都の三大祭りのひとつである「葵祭」(賀茂祭)のとりおこなわれる日だ。

都名所図絵葵祭_30

上の写真はこのブログで以前何度か紹介した江戸時代の安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」にある、「葵祭」の絵である。

都名所図会」は、国際日本文化センターのサイトにアクセスすれば、誰でも全文と翻刻文を読む事が出来る。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/c-pg1.html

絵の上の方に草書で「加茂のあふいまつりは四月中の酉の日なり。人皇三十代欽明天皇の御宇よりはじまる」と書かれているが、欽明天皇と言えば在位中に仏教伝来があったことを中学高校の日本史で学んだ。

朝鮮半島で新羅が強大化する形勢のもと、その圧迫を受けた百済が日本の軍事的援助を求めてきただけでなく、仏像と仏具と仏教の経典を欽明天皇に献上したのである。

日本書紀」によると欽明天皇は仏像と経典を見て欣喜雀躍されたそうなのだが、百済の使者に対しては自分一人では結論を出さずに群臣と相談するとされ、その時に蘇我稲目(そがいなめ)は「西の国の諸国は皆礼拝しています。日本だけが背くべきでしょうか」と賛成し、物部尾興(もののべのおこし)は「蕃神を拝むことになると、恐らく国つ神の怒りを受けることになりましょう」と反対した。
そこで天皇は蘇我稲目に仏像をしばらく礼拝させたところ、国に疫病がはやり、人民に若死にする者が多かった。
すると物部尾興が、このような事態となったのは仏教をとり入れたことが災いを招いたので、「今もとに返されたらよくなる」と天皇に奏上し、天皇の許しを得て、仏像を難波の堀江に流し捨て、また寺に火をつけて焼いたところ、天は雲も風もないのに、にわかに宮の大殿に火災が起きた…等々「日本書紀」の欽明天皇の時代は読んでいてなかなか面白い。

このような蘇我氏と物部氏の仏教を巡る対立は、それぞれの子の蘇我馬子、物部守屋の代にも引き継がれて半世紀近く続くことになる。

日本書紀」には葵祭のことは一切書かれていないが、仏教を受容するかどうかで国論が真っ二つに割れて、蘇我氏・物部氏との間で虚々実々のかけひきがなされている時期に葵祭が生まれたというのが面白い。

葵祭の由来に興味を持っていろいろ調べてみた。

「露草色の郷」というサイトに「本朝月令所引秦氏本系帳」という古書の「賀茂乗馬」というテキストがあるのをみつけた。これが葵祭のルーツになる記録である。
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/geography/fudoits1.html

原文をそのまま引用すると
「いろせ、玉依日子は、今の賀茂縣主等が遠つ祖なり。其の祭祀の日、馬に乘ることは、志貴島の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇(欽明天皇)の御世、天の下國擧(こぞ)りて風吹き雨零(ふ)りて、百姓(おほみたから)含愁(うれ)へき。その時、卜部、伊吉の若日子に勅して卜(うら)へしめたまふに、乃ち卜へて、賀茂の神の祟なりと奏(まを)しき。仍りて四月の吉日を撰びて祀るに、馬は鈴を係け、人は猪の頭を蒙(かがふ)りて、駈駆せて、祭祀を為して、能く祷(ね)ぎ祀らしめたまひき。因りて五穀(たなつもの)成就(みの)り、天の下豐平なりき。馬に乘ること此に始まれり。」

上賀茂神社のホームページによると「賀茂縁起」という書物にも同様な記載があり、それが賀茂祭のおこりであると記されている。
http://www.kamigamojinja.jp/matsuri/

欽明天皇の時代の544年(567年とも言われる)に五穀が実らなかったので、当時賀茂の大神の崇敬者であった伊吉の若日子に占わせたところ、賀茂の神々の祟りであるというので、若日子は勅命を仰せつかって4月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人には猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰となったということからこの祭りが始められたというのだが、当初は現在の優雅な貴族行列とは異なり、かなり荒っぽいお祭りであったようなのである。

その後弘仁10年 (819)には、「賀茂祭」を中祀に準じ斎行せよとの勅命が下り、この祭りは勅祭すなわち国家的な行事となるのだが、中祀として取り扱われたのは伊勢の神宮と賀茂社の祭りだけであり、その後貞観年間(859-876)に勅祭賀茂祭の儀式次第が定められ、壮麗なる祭儀が完成したとされている。

葵祭御所

平安時代の京都で「お祭り」というと、この「賀茂祭」を指したようである。(当時は「葵祭」とは呼ばれておらず「賀茂祭」という名前であった。)

しかしながら、応仁の乱(1467-77)の後、様々な理由で祭祀の経費が増大したため、文亀2年(1502)以降元禄6年(1693)までの長きにわたり中断されたが、将軍・徳川綱吉の後援や霊元上皇などの尽力により元禄7年に復興され、その時からこの祭りを「葵祭」と呼ぶようになったそうだ。

なぜ「葵祭」と言われたかについては諸説があり、昔カモアオイの花を頭に挿して行列したからだとも、祭りの前に葵かずらを将軍に献上したからだとも、祭りの復興に徳川幕府(葵の御紋)の多大な援助があったからだとも言われている。

しかし明治に入って都が東京に移り、一旦祭りはすたれてしまうが、明治17年(1884)から勅使行列が再開されるようになり、また太陽暦が採用されていたので祭日も5月15日に変更された。

その後第二次世界大戦に日本が参戦し昭和18年(1943)からしばらく中断され、葵祭行列協賛会等の努力で昭和28年(1953)に復興し、同31年には斎王代(さいおうだい)以下女人列が加えられ、現在我々が目にする葵祭の行列が固まったのは意外と最近のことなのである。

葵祭
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鳥居は神社のものなのか

鳥居は神社の入り口にあるもので、お寺に鳥居などはあるはずがないものだと子供の頃から思ってきたのだが、その考え方が正しくないことが分かってきたのはつい昨年のことだ。

たとえば、聖徳太子の創建である大阪の四天王寺に行くとこのように西の入口に石の鳥居が建っている。

四天王寺石の鳥居

この鳥居は永仁2年(1294)に再建された、日本最古の石造りの大鳥居とされ、国の重要文化財に指定されている。

四天王寺扁額

扁額には「釈迦如来 転法輪所 当極楽土 東門中心」と書かれているが、この意味は「お釈迦さまが説法を説く所であり、ここが極楽の東門の中心である」という意味である。
この扁額は見るからに新しく制作されたものであるが、ここに書かれている文字は昔から同じもののようだ。「法然上人行状画図」という本の第十六に四天王寺の鳥居が書かれており、扁額には、今と全く同じ文字が書かれているらしい。

以前このブログにも書いたが、吉野の蔵王権現堂の近くに鳥居が建っている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-85.html

吉野銅の鳥居

上の画像が有名な「銅(かね)の鳥居」で、日本最古の銅製の鳥居でこれも国の重要文化財に指定されている。高さが7.6m、柱の径が1mで、東大寺の大仏さんを造る時に余った銅を用いたという言い伝えもある。また鳥居の柱は、仏の台座である蓮華座の上に立っているそうだ。
この鳥居の扁額には「発心門(ほっしんもん)」と書かれているが、この字は弘法大師の筆によるものと伝えられている。

発心門扁額

この鳥居は聖地への入り口であり、俗界と聖地との境界を象徴する。
大峯山に入る修験者は、この門に手をかけて廻りながら、
吉野なる銅の鳥居に手をかけて、弥陀の浄土に入るぞ嬉しき」
との讃仏歌を三度唱えて修行の心を新たにして出発するそうだ。

宮島の大鳥居

日本の三大鳥居は安芸の宮島・朱丹の大鳥居(木造)と大阪四天王寺・石の鳥居、吉野・銅の鳥居であることを最近知ったのだが、3つのうち2つがお寺に関わるものなのである。

地図記号で使われる鳥居は神社を意味するのだが、そもそも鳥居とは何なのか。

鳥居の起源についてネットで調べるとWikipediaにかなり詳しく書かれているが、結論としては「諸説あるが、確かなことはわかっていない」のだが、延暦23年(804)に書かれた「皇太神宮儀式帳」という文献によると鳥居は「於不葺御門(うえふかずのみかど:上に屋根のない門)」として、「奈良時代から神社建築の門の一種としている」ようで、「8世紀頃に現在の形が確立している」と書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85
では鳥居の起源について「諸説」としてどんな説があるのかというと、

インドの仏教やヒンドゥー経寺院に見られる門である「トラナ」が狛犬などと同じく仏教に付随して伝来したという説。

Wikipediaには「トラナ」の写真が出ていたが、これは確か鳥居に似ていると言えば似ている。

180px-Sanchiトラナ

この画像は紀元前2世紀から紀元前1世紀頃に建設されたサンチのトラナだが、獅子像などが彫り込まれている。

また、中国で宮殿や陵墓へ続く参道の入り口に入口両側に置かれる「華表」が鳥居の起源であるという説もある。
180px-Tiananmen_huabiao華表

上の写真はWikipediaの「天安門前の華表」の写真である。

中国には「牌坊(はいぼう)」という伝統的建築様式の門がある。神戸や横浜の中華街に、このような建物が確かにあった。
250px-SaiKung-SeafoodStreet牌坊

上の画像は、香港西貢区の「海鮮街」にある「牌坊」である。

他には日本古来のものだという説もあり、天照大御神を天岩戸から誘い出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)にちなみ、神前に鶏の止まり木を置いたという説や、現在の雲南省とビルマとの国境地帯にすむアカ族の「精霊の門」には、上に木彫りらしき鳥が置かれたりしていることから、これが日本の鳥居の起源であるという説まである。

ak221精霊の門

子供の頃に山で良く友人と遊んで仲間同士で陣地のようなものを作って入口に門らしきものを構えたのだが、陣地の中に入るメンバーを絞る目的で門らしきものを作る発想はどこの部族でもするのではないかと考えてしまう。

このような諸説がまじめに議論されているのなら、インディアンのトーテムポールが鳥居の起源だという説が出てきてもおかしくないではないか。
「皇太神宮儀式帳」の原文は誰でも次のURLで読む事が出来るが、7/76面の5行目に出てくる「於不葺御門(うえふかずのみかど:上に屋根のない門)」のところは、その大きさが書かれているだけのことである。
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/h248/image/01/h248s0001.html

この資料では、四天王寺吉野蔵王権現堂に鳥居があることを納得させるものではない。いずれも神仏習合以前に作られた寺院はであるが、なぜお寺に鳥居を建てたのだろうか。この2寺院にかぎらず、ほかにも鳥居のある寺院はいくつも存在するのだ。

つまるところ、鳥居とは「於不葺御門」、つまり屋根のない門と考えれば良いだけのことではないか。そう理解すれば、お寺に鳥居があっても何の不思議もない。

そういえば「門」という字は鳥居に似ているような気がする。

鳥居のことをいろいろ調べていると、青い鳥居のある神社が存在するようだ。ネットで画像を検索するといろんな神社が出てくる。この画像は、知多半島にある恋の水神社の鳥居だが、ちょっとチープな印象を受けるのは私だけだろうか。

恋の水神社鳥居

やはり鳥居は朱色が良く似合うと思う。
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お寺に「神棚」がある不思議

私の実家はお寺であるが、「神棚」があって毎日母親が御供えをしていた。私の友人の家にも、古い家で「神棚」がある家が少なくなかった。

子供の頃、実家がお寺なのになぜ「神棚」があるのか疑問に思ったことがあったが、神仏習合と関係があると勝手に考えて、あまり詳しくは聞かずに過ごしてしまった。

神棚

そもそも「神棚」とは何なのか。いつ頃から普及したのかといろいろネットで調べると、明治時代以降とする説と江戸時代初期とする説と二つの説があるようだ。

まず明治時代以降の説は、明治時代の宗教政策から神棚が生まれたと考える説である。

明治初期の太政官布告にこのようなものがある。(明治4年7月4日第322)
一、臣民一般、出生の児あらば、その由を戸長に届け、必ず神社に参らしめ、その神の守札を受け所持いたすべきこと。
但し、社参の節は戸長の証書を持参すべし。その証書には、生児の名、出生の年月日、父の名を記し、相違なく旨を証し、これを神官に示すべし。
一、今既に守札を所持せざる者、老幼を論ぜず。生国及び姓名・住所・出生の年月日と父の名を記せし名札をもって、その戸長へ達し、戸長よりこれをその神社に達し、守札を受けて渡すべし…。
一、守札焼失または紛失せしものあらば、その戸長にその事実を糺して、相違なきを証し、改て申受くべし。
一、これより6ケ年ごと、戸籍改の節、守札を出し、戸長の検査を受くべし。

要するに日本国民は、神官からいただいた守り札を紛失することなく保管しなければならず、もし紛失したならば、戸長(自治会長)から尋問を受けて、何故なくしたかの確認を得なければならなくなった。
守り札を紛失すると面倒なので、守り札を安置させるために各家庭で自然に神棚を置くようになったのが神棚の起源と考える説だ。

江戸時代初期に神棚が生まれたという説は、神棚は江戸時代の初期に流行した「伊勢参り」の御札を納めるのに生まれたという考え方である。


伊勢参り」は「お蔭参り」ともいうが、確かに江戸時代に大変流行した。Wikipediaによると、数百万人規模のものが60年間に3度起こったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E8%94%AD%E5%8F%82%E3%82%8A

伊勢神宮

宝永2年(1705)には、日本の人口が2769万人程度だった時代に330-370万人が伊勢神宮に参詣したと推定されているが、日本人口の12~13%が伊勢に行ったという数字はすごい話であるし、その時期に家でも「お伊勢さん」に参詣できるようにと神棚が流行したという説もそれなりに説得力がある。

豊穣御蔭参之図

上の錦絵は慶応三年(1867)の「豊穣御蔭参之図」で伊勢神宮の神札等が降下する状況が描かれている。
しかしそんなに古い歴史があるなら、江戸時代に創業した神棚製造の企業があってもおかしくないのだが、仏壇のメーカーはあっても神棚については明治以降の会社ばかりである。

よく武道の道場などにある神棚は江戸時代には存在せず、武道の神様とされた「鹿島大明神」「香取大明神」の二柱の神名と幕末期には尊王攘夷思想の高まりとともに、「天照大御神」を加えた三柱の神名を書いた掛け軸を床にかける「神床」だったらしく、江戸時代に神棚が生まれたとしても、本格的に普及したのはやはり明治時代ではないのだろうか。伊勢参りがいくら大流行したとしても、神棚の設置に強制力があるわけではなく、江戸時代に全国津々浦々に普及したと説明するのには無理がありそうだ。
神棚を自宅に設置する目的で作られたのが江戸時代からだとしても、全国的に普及したのは先程の太政官布告の出た明治4年以降ではないのか。

しかし、この太政官布告には相当抵抗があったらしく、この布告は明治6年に中止されたようなのである。ではどういう勢力からの抵抗があったのか。

今年の一月にこのブログで東本願寺のことを書いたが、浄土真宗は廃仏毀釈の影響をあまり受けていない。
西本願寺は江戸時代を通じで朝廷に忠誠を誓い、明治に入っても政府に巨額の寄付をしてきた経緯から、政府も手を出せなかったと言われる。
一方東本願寺は、幕末までは一貫して江戸幕府を支援し、戊辰戦争以降に急遽勤王方に着くのだが、明治政府の重鎮には東本願寺を廃絶させる意見が強いなかを、かなり苦労をして危機から脱出している。詳しくは、この記事を参考にしていただきたい。
「明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

「神々の明治維新」(安丸良夫著:岩浪新書)という本によると、(196p)
「…神仏分離政策以下の排仏的な気運の中でも、東西本願寺派に代表される真宗の教勢は、必ずしも衰退に向かっていたのではなかった。成立直後の新政府は、財政的に両本願寺に依存することが大きかった…。…地域で廃仏毀釈がすすめられても、一貫してそれに抵抗したのは真宗であり、…廃仏毀釈の嵐がすぎると、いちはやく寺院を再興させたのも真宗であった。」

西本願寺

「…佐渡、松本藩、富山藩などで廃寺廃仏への粘り強い抵抗や、大浜騒動、越前一揆のような闘争などにおいてしめされた真宗信仰の固有性と強靭さこそが、限定づきにしろ、「信教の自由」への道をきり拓いた深部の力であった」

と書いてある。真宗が明治政府を資金面で支援しつつ、真宗寺院の廃寺廃仏に相当抵抗したということだ。

もともと真宗門徒は他の宗派とは異なる宗教生活の独自性がある。大きな仏壇を家ごとに備え、在家での説教や夜間の法談を行い、神祇不拝が指導されている。
神棚に関しては今も設置すべきでないとの考えが徹底しているようだ。例えば、真宗大谷派大阪教区のHPでは、信者に対して「神棚は必要でないと気付いたら、速やかに取りはずすべきでしょう。決して罰(ばち)は当たりません。」と書いている。
http://www.icho.gr.jp/faq/q_a_032.htm

現代人にはやや過激にも見えるこのような真宗の抵抗がなければ、廃仏毀釈による文化破壊がどこまで進んだかわからない。
梅原猛氏によれば、「明治の廃仏毀釈がなければ、現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と考察しておられるが、真宗の廃寺・廃仏に対する抵抗がなかったら、我が国はもっと多くの文化財を失っていたのではないだろうか。
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七夕の由来

いよいよ明日は七夕の日だ。

七夕飾り

子供の頃に五色の短冊に願い事を一生懸命書いたが、折角作った短冊が何度か雨で濡れてしまい、楽しみにしていた星空を見ることができなかった記憶が何度かある。よくよく考えると、七夕の日に梅雨が明けていることは考えにくく、この日に雨がよく降って星空の見える日が少ないのは当然のことである。

しかし仙台では8月6~8日に七夕祭りがある。仙台に限らず北海道や関東では1カ月遅れで七夕を祝う地域が多いようだ。なぜ同じ行事を異なる時期に行う地域があるのだろうか。

450px-SendaiTanabata1.jpg

それは、我が国が明治6年に太陰暦から太陽暦に切り替えられた際に、この行事を新暦で行うか旧暦のその日に近い日を選んで行うか、地域によって分かれたということがその理由のようだ。

七夕についていろいろ調べていくと、明治政府が面白い布告を出している。
ちょうど太陰暦から太陽暦に変わった明治六年の1月4日の太政官布告で
「今般改暦ニ付人日上巳端午七夕重陽ノ五節ヲ廃シ神武天皇即位日天長節ノ両日ヲ以テ自今祝日ト被定候事」と七夕を廃止して神武天皇即位日と天長節(天皇誕生日:11月3日)を祝日とすると記されている。

「五節」とは「五節句」のことで、人日(じんじつ:1月7日)、上巳(じょうし:3月3日)、端午(たんご:5月5日)、七夕(たなばた:7月7日)、重陽(ちょうよう:9月9日)を指すが、毎年これらの日は季節の節目として、古くは朝廷にて「節会(せちえ)」と呼ばれる行事が行われ、江戸時代には幕府が公的な行事・祝日と定めていたのだが、これを明治六年の太陽暦導入とともに廃止したということである。

公式行事や祝日として七夕はなくなってしまったが、もともと民衆の間に根付いたものはそう簡単にはなくならず、この時期に新暦の7月7日で行うこととした地域と、旧暦の7月7日に近づけるために1か月遅れで実施する地域とに分かれたということなのだ。

ところで「七夕」は俳句では秋の季語であるのだが、このことは旧暦を知らなければまず理解できない。
旧暦の7月7日は太陽暦の8月半ばに相当し、立秋を過ぎている時期になることを知ってはじめて秋の季語であることが腑に落ちる話だ。(ちなみに、今年の「旧暦の7月7日」は8月16日。太陰暦では七夕の日は毎年上弦の月となる)

太陽暦しか知らない我々には、旧暦を使っていた時代の俳句や和歌の季節や情景を誤って理解してしまっていることが少なくない。
たとえば松尾芭蕉の有名な「五月雨を集めて早し最上川」は、旧暦の五月は梅雨の時期であることを理解しないと、芭蕉の伝えようとした情景が伝わらないのではないか。「五月晴れ」という言葉も、今は快晴イメージが強いが、旧暦では梅雨の晴れ間を意味する言葉なのだ。

太陽暦の採用は、日本の伝統行事に様々な影響を与えたことは想像に難くない。あまり知られていないが、「お盆」は、明治5年までは太陰暦の7月15日が「お盆」だったようだ。ということは、七夕とお盆とはわずか8日間の違いしかないことに気付く。
太陰暦の時代では、七夕が終わればすぐにお盆という感覚であったはずなのだが、こんなことは調べて初めてわかる話だ。Wikipediaでは、太陰暦の時代は、七夕はお盆の行事の一環であったと書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E7%9B%86
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%A4%95

「七夕」は「棚幡」とも書くが、そもそも七夕の日の夕方には故人をお迎えするための精霊棚とその棚に安置する幡を拵えることから、「棚幡」がいつしか「七夕」に転じたとも言われる。またお盆の間に、僧侶に読経してもらい報恩することを「棚経参り」というが、これは精霊棚で読むお経が転じて棚経というようになったそうだ。

しかしながらこの「七夕」の説明は、現代人の知る「七夕」とは内容が違いすぎる。織姫と彦星の七夕伝説や五色の短冊に願い事を書くのとどう結びつくのか。

ネットでいろんな人が解説している内容をまとめると、七夕伝説は日本に古くから伝わる棚織津女(たなばたつめ)の物語と、中国の牽牛星と織女星の伝説が合わさってできたと考えられる。
日本の棚織津女(たなばたつめ)の物語とは、村の災厄を除いてもらうために、棚織津女が機屋(はたや)にこもって、天から降りてくる神の一夜妻になるという巫女の話。
中国の伝説は、夫婦であった牽牛と織女が天帝の機嫌を損ねて、天の川をはさんで引き離されてしまい、一年に一度だけ天の川にかかる橋で会うことを許されたという話である。

この機織りに秀でた織女にあやかり、織女星に機織りや技芸の上達を願い、庭に祭壇を設け、糸や針、布などを備えた「乞巧奠(きっこうてん)」という行事が奈良時代に中国から伝えられたらしく、この行事に用いられたと思われる大きな針が、正倉院の宝物に残されているそうだ。また万葉集にも山上憶良をはじめ七夕を歌った歌が132首もあり、その頃はすでに七夕伝説は一般に知られていたことは明らかである。

京都の冷泉家では今なお王朝の名残をとどめる七夕行事が行われておりその写真が次のURLで紹介されているが、今の七夕行事とは随分異なることがわかる。
http://www.iz2.or.jp/rokushiki/7.html

冷泉家七夕行事

写真は冷泉家が毎年旧暦7月7日に庭に設ける「星の座」である。笹は使うようだが、五色の短冊で飾るのではなさそうだ。

このような宮中の行事であったものが、一般庶民に広がっていくのは江戸時代の半ばごろと言われている。織物などの手習い事に長けていた織姫にあやかろういうことで、手習いごとの願掛けとして広がっていったそうだが、このような風習は日本だけのものだそうだ。その頃に、バレンタインデーにチョコレートを贈る習慣を仕掛けるような知恵物が日本にいたのだろう。

江戸百景七夕祭

上の絵は安藤広重の「名所江戸百景」にある「市中繁栄七夕祭」である。制作年代は安政3~5年(1856~1858)で、幕末に近い頃の江戸の風景であるが、当時の七夕飾りは随分大きい竹を使っていたことに驚いてしまう。願いが天まで届けと、どこの家も大きなものを用意したのであろうか。

子供の頃に五色の短冊にいくつもの願い事を書いたことを覚えているが、自分なりに一生懸命綺麗な字を書こうとしたし、友達に笑われないよう、願い事に何を書くかもそれなりに考えたと思う。七夕の伝統を「非科学的な話」と切り捨てるのは簡単だが、子供が本気になって綺麗な字を書こう、自分の夢を書こうとする機会をなくしてしまうにはもったいない話である。こういうおおらかな行事を失ってしまえば、子供にとっては幼いころからギスギスした競争社会ばかりになってしまう。

残念ながら、大気汚染や夜の照明で、天の川どころか星も見えない空になってしまった。ミシンやパソコンや電卓などの普及で、「習い事」の多くが消えてしまった。住宅地から自然が消えて笹や竹が手に入りにくくなり、学校の近くにあった文房具屋の多くが廃業して、子供が「色紙」を買うのも簡単ではなくなった。
いずれは衰えていく運命にある風習なのかもしれないが、子供のために、長く残していきたいと思う。
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祇園祭の「祇園」とは

もうすぐ京都の祇園祭(ぎおんまつり)だ。

今日10日から鉾町で鉾が組み立てられ(鉾建て)、ついで12日からは山が組み立てられる。
そして山鉾巡行はいよいよ17日で、今年は土曜日だからすごい人出だろう。

山鉾巡行岩戸

京都には有名なお祭りがいくつかあるが、私は子供の頃から祇園祭が大好きだった。今でもあの祇園囃子の音色を聴くだけで気分が高揚してくる。

しかしながら子供の頃に、ふと疑問に思ったことがあった。祇園祭の「祇園」という地名についてである。

「祇園」という場所は、京都市内の東の方を南北に走る東山通り(正しくは東大路通り)と、市内の中心部を東西に走る四条通との交差点あたりを言うが、子供の頃なんとなくこの地名に違和感を覚えた。

京都の中心部は碁盤のように直角に道路が走っていて、京都の地名は、例えば南北を走る河原町通と東西を走る丸太町通との交差点を河原町丸太町などと呼ぶ。ならば、「祇園」は 東山通と四条通とが交差する場所なので、普通なら東山四条と呼んでも良さそうなのに、なぜか「祇園」と呼ばれているのが不思議だった。

京都市内の中心部のバス停の名前は、ほとんどのバス停は二つの通りの名前で地名を表しているのだが、例外となるケースは「○○前」などというように有名な神社仏閣や大学や病院があるようなケースが大半である。しかし、「祇園」はそれにも当てはまらない。すぐ近くに大きな神社があるのだが、「八坂神社」という名前だ。

八坂神社

上の写真は八坂神社の西楼門であるが、この神社に、祇園祭の山鉾などが収められている。しかし「祇園」という名前を連想させる神社仏閣などはどこにも存在しないのだ。

このあたりを昔から「祇園」と呼んでいたのだろうと長い間勝手に解釈していたのだが、学生時代に「祇園」という名前の由来となるお寺が以前は存在していたことを聞いた。しかし、どんなお寺がいつごろ創建されていつ頃なくなったかを詳しく知ったのは、つい昨年のことである。

安永9年(1780)に出版された「都名所図会」巻三には、この地に以前あった寺院の図絵が描かれている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/m_gionyasiro.htm

祇園社

説明には、この「祇園社(ぎおんやしろ)」と祇園祭についてこう書かれている。

「…清和天皇貞観十八年*、疫神崇をなして世の人疾に悩むこと以の外なり、曩祖日良麿洛中の男女を将て、六月七日十四日疫神を神泉苑に送る、しかりしより年々かたの如くしつけて、祇園会といふなり。神輿を置所をば八坂郷感神院といふ寺なれば、神殿もなきほどに、昭宣公の御殿をまゐらせられて神殿とす、祇園は尋常の殿舎造りなり、是を精舎といふ、後人又祇園の名を加へけり。」*貞観18年は西暦876年

ここには感神院を祇園祭の神輿の置き場所にしたが、神殿がなかったので昭宣公(藤原基経836~891:摂政関白太政大臣)の御殿を移して神殿としたと書かれている。図には多宝塔があり、薬師堂がありお寺であることは確実だが、神仏習合の時代であり神殿も作られていたのだ。

洛中洛外図屏風祇園

寛永三年(1626)に描かれた「洛中洛外屏風図」にも、祇園社が描かれている。では、今の八坂神社は何なのか。

空から見た八坂神社

今の八坂神社を上から見るとこのようになるが、今の八坂神社は以前は祇園社であったことがわかる。楼門がそっくりそのまま八坂神社の楼門になっていることも明らかだ。

Wikipediaによると祇園社の創建年については656年、876年など諸説があるが、古くから仏教の守護神である牛頭天王(ゴズテンノウ)とそれに習合したスサノオノミコトを祀る神仏習合の施設で、当初は興福寺、10世紀以降は延暦寺の支配を受けていたらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%9D%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE

慶応4年(1868)の神仏混淆の禁止により「感神院祇園社」の名称を「八坂神社」と改められ、薬師堂などの仏教施設は破壊されている。(多宝塔は江戸時代寛政年間[1789~1800]に焼失) 日本全国には、牛頭天王を勧請した祇園社が3053社あったそうだが、明治の廃仏毀釈によりすべて八坂神社(弥栄神社)に改名させられたそうである。
http://www.pauch.com/kss/g023.html

では、「感神院祇園社」の仏像はどこに行ったのか。
これは幸い大蓮寺というお寺に残されているが、十一面観音像以外は秘仏として直接拝観することはできない。祇園社本尊の薬師如来の写真が大蓮寺のHPに載っているが、本尊でありながら光背がないのはやや違和感がある。

祇園社本尊薬師如来
http://www.anzan-no-tera.jp/gion/index.html

大蓮寺の歴史については比較的次のサイトが詳しい。
http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1700/22365330.html

「八坂神社」から祇園祭の山鉾が立ち並ぶ四条烏丸あたりまで、大人が歩いて20分くらいだろうか。その途中で鴨川を渡ることになるが、その橋は「四条大橋」という。

この四条大橋については昨年11月にこのブログに書いたが、明治七年に作られた橋は廃仏毀釈で強制的に供出させた仏具類を鋳潰して橋材に使われたそうである。下の写真がその頃の四条大橋だが、明治の京都人は、どんな思いでこの橋を渡ったのだろうか。

昔の四条大橋
ご参考:「四条大橋のはなし」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-73.html

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二つの祇園祭の関係

前回は祇園祭の「祇園」の事を書いた。今度は「祇園祭」のことを書こう。

この祭りは大阪の天神祭、東京の神田祭とともに、日本三大祭の一つとされているのだが、八坂神社の祭礼でありながら山鉾巡行が八坂神社の前を通らないことを誰しも不思議に思う。

祇園祭山鉾巡行コース

上の図は、7月17日の山鉾巡行のコースだが、それぞれの山鉾は四条通に入って東進したのち、四条河原町で河原町通りを北上し、河原町御池で西進したのち元の場所に帰っていく。八坂神社へは四条河原町から東に歩いて10分はかかる距離である。

子供の時に、なぜ山鉾巡行が八坂神社を通らないのだろうかと思ったことがあるのだが、あまり深く追究しなかった。というより、当時は身近な大人に聞いてもわからないことは、どうしょうもなかった。

今ならネットで検索すればいろんな情報を掴むことができる。
たとえば、平安時代後期の祇園御霊会(今の祇園祭)の絵巻物が見つかった。
http://www.pauch.com/kss/g030.html#gion

年中行事絵巻祇園祭

上の絵巻物は「年中行事絵巻」(京都芸術大学蔵)の第9巻だが、ここに描かれているお祭りは今の山鉾巡行とはあまりに違いすぎる。山鉾巡行には神輿や牛車はないが、この絵巻物には描かれている。また絵巻物には山鉾巡行はないが列の先頭に鉾を担いでいる人物がいる。

「祇園祭」というとほとんど人が山鉾巡行や祇園囃子を連想してしまう。テレビでも放映されるのは山鉾巡行の映像ばかりである。重要有形・無形民俗文化財に指定されているのも山鉾と山鉾巡行などの行事である。

祇園祭神幸祭

しかしながら、祇園祭には山鉾巡行のほかに、その日に「神幸祭」の神輿渡御というのがある。先程の平安時代の絵巻物に描かれているのは、山鉾巡行と同じ日に行われる「神幸祭」とかなり似ていると思われる。私は「神幸祭」はじっくりと見たことがないので今年はぜひ見に行きたい。

この神幸祭では神輿が八坂神社から出発する。八坂神社のお祭りだから当然と言えば当然だが、この巡行ルートが面白い。

祇園祭神幸祭ルート

先程の山鉾巡行の図と見較べて頂くとよくわかるのだが、神輿が山鉾を設置している鉾町を通らないのである。

山鉾巡行も神幸祭もどちらも八坂神社のお祭りなのに、まるで別のお祭りがおこなわれているようでもある。なぜ、山鉾は八坂神社を通らず、神輿は鉾町を通らないのか。

まず今のような山鉾巡行が行われるようになったのはいつなのか。

都名所図会祇園会

もう少し調べると、江戸時代の「都名所図会」に祇園祭の絵が描かれている。二つの絵があっていずれも山鉾巡行の絵で、神輿のことは本文にルートのことが書かれているだけだ。

ルートは微妙に違うが、山鉾が八坂神社を通らず、神輿が鉾町を通らないのは同じである。

いろいろネットで調べると、山鉾を作って巡行させるようになったのは室町時代かららしい。その後応仁の乱があって中断したが、室町時代には祇園祭のクライマックスは山鉾巡行になっていたようだ。

では、なぜ山鉾巡行は八坂神社を通らず、神輿が鉾町を通らないのか。

この疑問を解くカギが、四条寺町にある八坂神社の御旅所である。四条寺町というのは、全ての山鉾の設置場所よりも東(すなわち八坂神社寄り)に位置している。

八坂神社御旅所

山鉾巡行は八坂神社の三基の神輿が7月17日に御旅所に渡御される前の露払いの役割ということのようだ。八坂神社に近い場所は神域なので露払いの必要がないということらしい。

そして、この御旅所に置かれた三基の神輿は一週間後の7月24日に八坂神社に戻る。これを「還幸祭」という。

祇園祭は、昔は「祇園御霊会」と言われていたが、「還幸祭」は御旅所を出た神輿が氏子の間を全部めぐって、ありとあらゆる災いの神を全部神輿に積んで持ち去ってくれるというお祭りであるから、本来の祇園祭のメインイベントは「還幸祭」ということになるのだろう。

山鉾巡行は室町時代に時の権力者が鉾を動かしてはいけないというお達しが出た時に「神事これなきとも、山鉾を渡したし」と町衆が抵抗して山鉾を動かした記録があるようである。それ以来町衆中心の山鉾巡行と、八坂神社の氏子中心のお祭りと二つに分かれたと理解すれば良いのだろうか。

いよいよ明日は、祇園祭の山鉾巡行だ。今回は「神幸祭」の神輿渡御を見逃さないようにしたい。
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祇園祭山鉾巡行と神幸祭を見に行く

学生時代に家庭教師をしていた生徒の親御さんから祇園祭山鉾巡行の特設席の切符を頂いたことがある。私が教えていた生徒の家は、祇園祭の頃は近くに山鉾が立ち並ぶ場所にあった。

特設席は御池通りの北側の京都市役所の近くで、その時に総ての山と鉾の巡行を鑑賞できたので、祇園祭のすべてを観終わったつもりになっていて、それから随分長い間山鉾巡行を観て来なかった。

5年前にたまたま17日が週末だったので家内と四条通と御池通りで山鉾巡行を見た後、実家に立ち寄ったのだが、その時に兄から新町通りに山鉾が地元に帰っていく場所での見学を勧められていた。

今年は山鉾巡行が土曜日だし、兄の話もあるし、神幸祭も観たいので、やや遅めに自宅を出て、新町御池をめざしていく。

もう一度山鉾巡行のルート図を載せておくが、山鉾は四条通を東進した後、河原町四条で左折し河原町通りを北上し、河原町御池(市役所前)で左折して御池通りを西進した後、新町御池で左折し新町通りを南に進んで地元に戻っていく。

祇園祭山鉾巡行コース

京都の人ならよく知っていると思うが、四条通りや河原町通り、御池通りと違い、新町通りは道幅5m~6m程度の狭い通りである。左右に電柱があり電線が張ってあって、大きな鉾がこの間を通れるかどうかと不安になるくらいの広さしかない。

新町御池に着いたのは10時40分ごろだったが、さすがにこの場所は早くから人が場所をとっていた。やむなくもう少し南の姉小路通りと三条通りの中間あたりで待つこととした。

それからもどんどん北に向かって人が歩いていく。警察の人が何度も「これ以上北に行っても、観るスペースがありません。下がってください。」と何度も連呼するのだが、「下がる」ということは京都では「南に行く」という意味なのだが、観光客には通用せずに苦労されていた。

長刀鉾

予定より10分以上遅れて、先頭の長刀鉾が見えてきた。
長刀鉾の屋根の幅は3.5mだそうだが、左右の電柱は道路の内側に建てられており、左右の電線は4mと少しばかり離れているだけである。その間をうまく車輪を滑らせて調整しながら鉾は道路のほぼ中央を進んでいく。鉾の高さは25mと言われ、ビルの5階くらいの高さがあるだろうか。車輪の高さが2m。そんな大きな鉾が目の前50~70cmくらいまで接近して通り過ぎていく。すごい迫力だ。

屋根の上にいる人は屋根方というが、前回紹介した江戸時代の「都名所図会」には屋根の上に人はいない。屋根方の仕事は、鉾の屋根の上で電線や電柱などの障害を調整することで、今では室町通りから始まると言って過言ではない。

32年前までは四条通りや河原町通りには市電が走っていたが、その頃は屋根方の仕事が楽なのは市電の路線がない御池通りくらいだったろう。
市電については面白い話がある。明治44年に市電を四条通りや河原町通りにも走らせようとした当時の京都市長が、京都の発展の妨げになるので山鉾巡行の廃止を命令したことがあったらしい。当然のことながら地元の大反対にあって、市長が命令を撤回したそうだが、そのような経緯もあって、四条通や河原町通り市電の架線は山鉾が巡行できるように空間を残して張られていたことを思い出した。

屋根方は命綱を握りながら、屋根が電線や電柱で破損しないように、時には電柱や電線に手をかけたり足を使って鉾を守る危険な仕事だ。昭和53年(1978)に市電が廃業した後は屋根方の仕事は随分楽になったとは思うが、新町通りに入ってからは今も緊張の連続だと思う。

菊水鉾

上の写真は菊水鉾だが、右の屋根方が電柱に手をかけて屋根を守っているのがわかっていただけるだろうか。狭い通りゆえ電線にも注意が必要で、電線と屋根との距離がわずかしかないのも注目していただきたい。

また、鉾町に近づくと囃子方などもだんだん調子に乗ってくるように感じられる。自分の家族や親族が近くにいると思えば気合いが入るのは当然だろう。
たまに知り合いがいて声がかかったり手を振ったりして微笑ましい光景が何度もある。

放下鉾

上の写真は昼食後に別の場所で撮影した放下鉾の写真だが、近くの家の二階から声を掛けられて囃子方の一人が手を振っている写真である。

祇園祭に限らずほとんどの祭りの原点は観光客を喜ばせるためではなく、地域社会が平和で繁栄することを願うところにあると思う。山鉾とそれにまつわる文化・伝統が地域の人に伝承され、地域が祭りを通してひとつになっている姿を見ることができるのは、巡行が終わって山や鉾が地元に戻る時だという5年前に兄が言っていたとおりだった。

山も鉾も元の場所に戻るとすぐに解体が始まる。写真は解体中の長刀鉾だ。

鉾解体

解体の現場ももう少し見たかったのだが、神幸祭の場所取りのために八坂神社に向かった。

喫茶店で休憩してから八坂神社に着いたのは3時くらいだったが、もうすでに多くの人が集まっていた。

三基の神輿

このように舞殿に三基の神輿が並べられていた。かなり大きな神輿である。
神幸祭を見るのは初めてなので、どこで観ようかと随分迷ったが、結局八坂神社の舞殿の近くで観ることとした。三基の神輿の差し上げが行われる西楼門の石段下にも早くから人が陣取りしていたが、どちらで見るかは悩ましいところである。

三基の神輿はすでに宵々山の15日に八坂神社でスサノオノミコト、クシイナダヒメ、ヤハシラノミコガミの御神霊を移す「遷霊祭」がとりおこなわれているそうだ。三つの神輿はよく似ているようで形が違う。
中央の神輿は「中御座」(なかござ)とよばれる六角形の神輿でスサノオノミコトの御神霊をうつしている。
右側の神輿は「東御座」(ひがしござ)呼ばれる四角形の神輿でクシイナダヒメ、左側の神輿は「西御座」(にしござ)と呼ばれる八角形の神輿でヤハシラノミコガミの御神霊をうつしているそうだ。

神事は4時頃から始まり、一般の参拝客は本殿の参拝が禁じられる。
遠くの方で雅楽の音色が聞こえてくるのだが、本殿の中の行事は観光客には見えないのでよくわからない。
神事なので観光客も全員立つように注意されてそれからずっと動かずに立っているのはかなり辛かった。

久世駒形稚児

その間久世駒形稚児と呼ばれる神幸祭の主役が白馬に乗って来る。久世駒形稚児は八坂神社と同じくスサノオノミコトを祀る綾戸國中(あやとくなか)神社の氏子から毎年選ばれているそうだ。この稚児さんが神輿の先導役となるそうだ。
また中御座、東御座、西御座と呼ばれる三基神輿のかき手がどんどん境内に集まってきて参拝をする。

神事が終了すると、いよいよ中御座神輿が舞殿から運び出される。かなり重たそうだ。
そして「ホイサ、ホイサ」という勇壮な掛け声とともに舞殿を一周すると南楼門から出ていく。

神輿渡御1

次いで東御座、最後に西御座が同様に南楼門から出ていく。途中で南楼門に場所を移動したのは正解で、境内全体と神輿の動きがよくわかった。

神輿渡御2

神輿がすぐ近くで見ることができるという点では、八坂神社の境内で神幸祭を見たことは良かった。

神輿渡御3

しかし、八坂神社西楼門の石段下で三つの神輿が揃う「神輿渡御出発式」も捨てがたい。
八坂神社境内の神輿がすべて出発した後に祇園石段下に向かおうとしたが、祇園の交差点近辺は南北方向西方向とも祭りを見る人で埋め尽くされていて全く身動きが取れなかった。

北門から随分遠まわりをして八坂神社の境内を出たが、石段下の神輿が遠くに小さく見えるだけだった。
今度観にいくとしたら祇園の西楼門の石段で場所取りをして「神輿渡御出発式」を見たいと思うのだが、何年後のことになるだろうか。
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土用の丑の日に鰻を食べるのは

「土用の丑の日」と言えば誰でも「鰻」を連想する。

しかし、「土用丑の日」とはどういう意味なのかよくわからなかったので、ネットで調べてみることにした。

うなぎ丼

その結果、「土用」というのは、立春、立夏、立秋、立冬の終わりの18日間のことを言い、年に土用が4回ある理屈だが、一般的には立秋前の18日間の土用のことを指すということがわかった。今年の場合、土用の入りは7月20日で土用の明けは8月6日だ。

では、「丑の日」とは何か

太陰暦では一年365日のそれぞれの日が十干・十二支で表現されている。
たとえば今月では、7月13日が十干の最初の「甲」と十二支の最初の「子」との組み合わせの甲子(きのえね)の日になり、翌14日は「乙丑(きのとうし)」と干・支とも一つずつずれていき、10と12の最小公倍数の60日で干支が一巡する。

十二支の方は12日で一巡する一方土用は18日間なので、年によっては土用の期間中「丑」のつく日が2回あることもある計算だが、ちなみに今年の「土用の丑の日」は7月26日の1回だけ。昨年は7月19日と7月30日の2回あったということだ。来年も7月21日と8月2日の2回だそうだ。
二回「丑の日」がある場合、一回目を「土用の丑」、二回目を「二の丑」と呼ぶらしい。もちろん二回も「丑」のつく日があれば、鰻やは商売繁盛まちがいなしだ。

暑い日に鰻を食べて精をつけるというのはわかるが、何故丑の日に食べるのだろうか、いつから食べるようになったかということが気になったのでいろいろ調べてみたら、4つ程の説があることが分かった。

その4つとは、①平賀源内(1728-80)説②春木屋説③大田蜀山人説④鰻二匹説である。

① 平賀源内(1728-1780説
中学や高校の日本史でこの人物を習ったが、エレキテルを組み立てたくらいの事しか習わなかった。いろいろ調べるとかなりの変人らしいが、本草学者であり医者でもあり、蘭学者でもあり、発明家でもあり、作家でもあり、画家でもあるという多芸多才の人だったらしい。

平賀源内

Wikipediaの平賀源内の記事は平賀源内が土用の丑の日を考案したということが書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E6%BA%90%E5%86%85
文政5年(1822)に青山白峰が著した「明和誌」という本には次のようなことが書かれているらしい。

商売がうまくいかない鰻屋が夏に売れない鰻を何とか売るために、平賀源内のところに相談に行ったところ、源内は「丑の日に『う』のつく食べ物を食べると夏負けしない」という民間伝承からヒントを得て、「本日丑の日」と書いて店先に貼ることを勧めたところ、物知りの源内先生の言うことならということで、その鰻屋は大変繁盛し、その後他の鰻屋も真似るようになって、土用に丑の日に鰻を食べることが定着したという説。

② 春木屋善兵衛説
同じく文政年間の「江戸買物案内」という本に、ある時春木屋という鰻屋に神田和泉橋の藤堂のお屋敷から、旅に出るのに持っていきたいと大量の蒲焼の注文があり、春木屋の主人が、子の日、丑の日、寅の日の三日に分けて鰻を焼き、土蔵に貯蔵して三日間おいたところ、丑の日に焼いた鰻だけが色合い、風味とも変わらなかったので、丑の日に焼いたうなぎを藤堂様に納めた。それ以来、鰻は丑の日がよいということになったという説。

③ 大田蜀山人(1749-1823)説
大田蜀山人は本名を大田南畝といい江戸時代天明期の文人だが、天保10年(1839)に出版された「天保佳話」という本に、鰻屋に相談を持ちかけられた大田南畝が「丑の日に鰻を食べると薬になる」という内容の狂歌をキャッチコピーとして考え出したと書かれている。
太田蜀山人
その後、土用の丑の日に鰻を食べることが定着したという説。

④ 鰻二匹説
平仮名で毛筆を使って、たっぷり墨を使って「うし」と書くと、まるで二匹の鰻のように見えたからという説。

これらの説の中では平賀源内説が一番有名だそうだが、①~③はいずれも江戸時代の後期であり、また現在のように鰻を開いてタレをつけて食べるようになったのは天保年間(1781-1789)と言われており、時期的には江戸時代の文政期から天保期にかけて全国的に拡がっていったと考えてよさそうである。しかしどの説が正しいかは、一つに絞ることにあまり意味がないかもしれない。

鰻の専門業者のホームページを読むと鰻の旬は夏ではなく、天然物は10月末、養殖物は11月以降ということらしいが、平賀源内に相談した鰻屋の主人も、夏に鰻が売れないので源内に相談したことから始まっている。先程の土用の丑に鰻を食べる習慣の起源の諸説から垣間見えるのは、鰻が売れない時期でも鰻を売ろうとする鰻屋の商魂である。

当時はテレビもなければラジオもない、瓦版は江戸時代のはじめに生まれ、江戸時代にはかなり印刷されていたのだが、全国的に情報を広げるメディアがなかったのだから、鰻屋の主人は常連客の有名人をつかまえて、一筆書いてもらって店の宣伝に使うくらいのことはしただろうし、そのことがまた新たな客を呼ぶ効果はあったと思われる。

今でも、田舎に行っても少し有名な店に立ち寄ると、俳優やスポーツ選手などの色紙などが掲げられている。下手な字のものも多いが、中には達筆で洒落たセリフと上手い絵が書かれていて時々感心することがある。そのような色紙があれば、田舎でなくとも今でもお店の最大の宣伝材料になるのではないか。

江戸時代後期に平賀源内や大田蜀山人が全国レベルで一般庶民に知られていたとは思えないが、少なくとも地元の人は名前くらいは知っている人が多かっただろう。そんな有名人がこの店を贔屓にしているし、体に良いと言っているなら食べに行こうと考える人が何人いてもおかしくない。かくいう私も、有名人が雑誌などで勧めている店があれば、近ければ行ってみたくなる人間だ。

それにしても、最近は景気の悪いご時世で、近くのレストランや喫茶店の閉店が続いている。客が来ないことを理由に簡単にやめてしまうくらいなら、はじめから何もやらない方が良い。
商売はやり方次第で客が集まるものだ。味が良いことは絶対条件だが、店に行くきっかけを作る工夫と、また行くことが楽しみとなる工夫をする店主が少なくなってきているのは残念だ。その二つの工夫をしている店は、小さくても生き残っているし、そういう店をいくつも知っている。
いつの時代も、個人店主が絶対に失ってはならないものは、商魂だと思う。
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天神祭と大阪天満宮とあまり知られていないお寺のこと

7月25日は日本三大祭りの一つである大阪天神祭の日で、随分久しぶりにこの祭りを見てきた。

天神祭1

若かりし頃大阪市中央区の北浜で勤務していた時に、先輩から「祭りを見に行こう」と誘われて、船渡御を少し見てからすぐ飲み屋に向かった記憶がある。そんなことがもう一回くらいあったが、二回ともすごい人だかりで、遠くでいくつかの船が大川を進んでいくのがわずかに見えただけだった。その時は、仕事が終わってから天神祭を見に行ったのでは、良い場所はほとんど陣取られていてとても見られないなと思った。

今年はたまたま日曜日なので、一度このお祭りをじっくり見てみようと思い立ち夫婦で出かけた。

4時過ぎに「竹葉亭」という店で鰻を食べてから大阪天満宮に向かうと、ちょうど玉神輿が神社から出るところだった。
天神祭神輿

こんなふうに凄い人だかりで、カメラを上に掲げて何とか神輿が撮れたのはよかったが、それから後はどこへ行こうにも人が多すぎて、どちらの方角も前に進むのが大変だった。

神輿を追いかけるのをあきらめて、南に進んで船渡御を見るための場所取りに行く。初めてなのでどこがいいかわからず、とりあえず天満橋を目指して進んでいった。

諸国名所百景天神祭

上の絵は安藤広重の天神祭の船渡御の絵だ。この絵は難波橋と書かれているが、今の船渡御のコースは難波橋を通らない。今なら、船渡御を橋近辺で見たければ天満橋か川崎橋で、花火も見たければ南岸で見るのが一番と誰でも考える。

船渡御ルート

やっと天満橋北詰に辿り着くと、警察が谷町筋を閉鎖して交差点から南方面と東方面の歩行者を遮断していたために、やむなく川べりに出て天満橋の下を潜ってから再び谷町筋に出て、天満橋を南に進む。天満橋の途中で場所取りをしようとしたが、橋からの見学が禁止されているらしく、やむなく橋の南側の付け根あたりで場所取りをしたが、暗いところでの撮影はなかなか難しく、今回は無難な写真だけを載せておく。
人が漕いで川を進んだ広重の時代とは違い、今の船はほとんどが内燃機関などで動き、スポンサーの大型の広告が載せられている。

天神祭の船

たまに昔と同様に手漕ぎで進む船もあるのだがもうすこし、このような船が多ければいいのにと思った。

行列の最後の方には奉安船に先程の神輿が載せられて大川を進む。急に鳴り物の音が止まって、人々は二礼二拍手一礼でお見送りする。花火の音だけが妙に大きく響き渡る。

天神祭船渡御

天神祭の話から大阪天満宮に話を戻そう。
半日歩いて途中から私が気になったのは、大阪天満宮は昔から純然たる神社なのかという点である。

「天満宮」という神社は、京都に「北野天満宮」という有名な神社があるが、この神社は江戸時代の「都名所図会」では多宝塔や経所等明らかな仏教施設が多数描かれており、明治の廃仏毀釈以前は神仏習合の施設であった。
「太宰府天満宮」も以前は「安楽寺天満宮」という、寺院を中心とする施設であったのだが、廃仏毀釈により仏教施設がことごとく破壊されている。
大阪天満宮もどこかに仏教施設の形跡があったのではないかと、家に帰ってから調べることにした。

いろいろネットで調べても大阪天満宮に関してはあまり詳しく書いたものが見つからなかったが、大阪天満宮に神宮寺があったことはいろんな人が書いているので間違いがないようだ。やはりここも神仏習合の施設だったのだ。(神宮寺とは、神仏習合思想に基づき神社に建てられた仏教寺院や仏堂のこと。)

豊臣秀吉のお伽衆に大村由己(おおむらゆうこ)という人物がいるが、この人物はWikipediaなどでは大阪天満宮の「別当」であったと書いてある。「別当」ということは、大阪天満宮に神宮寺があり、神社の管理権を掌握していた人物だったということだ。

大阪天満宮は何度も火災にあっており、江戸時代の記録に残っているだけでも七度も火災に遭遇している。有名なのは天保8年(1837)の大塩平八郎の乱によるもので、この時大阪天満宮は全焼している。
現在の本殿はその六年後の天保14年(1843)年に再建されたものだ。

さらに調べると、大阪天満宮の神宮寺にあった鎌倉時代の仏像が今でも残されていることが分かった。

大阪天満宮から北に300m程度行くと「宝殊院」(天満寺)というお寺がある。この場所へは大阪冬の陣、夏の陣の後の復興時に神宮寺が移ったらしく、移転後も相当大きな寺だったらしいのだが、詳しいことはわからない。その堂宇も太平洋戦争で焼失し、今の建物は昭和42年に再建されたモダンな建物である。
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/otera-1/newpage115.htm

大阪市のホームページには、大阪天満宮の神宮寺の時代からの鎌倉時代の仏像の写真が紹介されている。

宝殊院仏像

http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000008915.html

まだ行ったことのない寺だが、一度時間を見つけて行ってみたくなった。

大阪天満宮だけではない。八坂神社も金刀比羅宮もそうだが、大きな神社のホームページをいくら読んでも、神仏習合時代のことや廃仏毀釈のことがほとんど欠落してしまっている。これでは、歴史の真実が歪められて伝承されるだけだ。

我々の祖先が何代にもわたって大変な苦労をして文化財を守ってきたことや、時の為政者の軽薄な施策で多くの文化財を失ってきた事実をしっかり脳裏に刻んでこそ、文化財を守ることの重要さと意義を次の世代に伝えることができるのだと思う。

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大文字山の送り火のこと

いよいよ8月16日は大文字山(如意が岳)の送り火のある日だ。もっとも他にも「妙法」「舟形」「左大文字」「鳥居」も次々と点火されるのだが、五山の送り火で最初に点火される「大文字」のスケールが最も大きく、圧倒的に存在感がある。

大文字の送り火

大文字山は実家から近かったので愛着があり、子供の時に何度登ったかわからない。また送り火もいろんな場所で見てきたが、一番思い出に残っているのは小学校と中学校の時に大文字山の上に登って、送り火の炎を間近に見たときのことだ。

この場所こそが送り火の最高の鑑賞スポットだと今も思うのだが、さすがに観光客が増えすぎて危険なために年々入山制限が強化され、特に今年はカシノナガキクイムシによる虫害でナラの木の立ち枯れが火床の近くでも起こっており、火の粉が飛んで山林火災を招いては大変なことになるので、大文字保存会では松の割木の束を2割程度減らしたうえで、見物客の登山を全面禁止とするそうだ。
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/kyoto/100813/kyt1008130223003-n1.htm
今回は子供の頃を思い出しながら、大文字山の送り火を山の上で見た時のことを書こう。

「大」の字は三画だが、一画目の「一」の字だけで長さが95mあり火床が18ある(「一文字[いちもんじ]」という)。
二画目はてっぺんの「字頭[じがしら]」から一画目と交わる部分(「金尾」)までで51mあり9床。一画目と交わったのちに100mで20床(「北の流れ」)。
三画目は133mで27床ある(「南の流れ」)。これらの75の火床を浄土寺地区に住む家が毎年輪番で護摩木を運び火床に点火するのだ。

8時が近づくと京都の街のネオンが一つひとつ消えていき、山は暗闇に包まれる。

最初に大きな松明に火がともされる。

そして一人の男性がその松明を振り回しながら大声で「一文字よいかあー 字頭よいかあー 北の流れよいかあー 南の流れよいかあー」と合図され、法螺貝の音が鳴り響くなか一斉に火床に火がともされる。

読経の声が流れて、炎は次第に勢いを増して音を立てて燃え上がり、あたりが急に明るくなって人々の顔を赤々と照らす。

火床により積む護摩木の束数が定められており、書道で「大」の字を書く場合に筆圧が高い部分は束数も多めになっている。「字頭」は20束、「金尾」は30束と決まっていたのだが、今年は薪を減らすそうなので何束になるのだろうか。下の写真は比較的大きな火床のものである。

大文字の炎1

もっとも大きな「金尾」の炎の高さは最大で5mくらいにはなったように記憶しているが、これくらいの大きさの火になると、火がちぎれる様に飛ぶことがよくある。風が強ければ風向き次第で枯れ木や枯れ草に火が移ることは充分ありうる話だ。

大文字保存会が今年発表した入山禁止は、枯木の多い今年は適切な措置だと思う。京都市内では送り火が見られる場所はいくらでもあるので、今年は船岡山や将軍塚、吉田山、出町柳などで見られることをお勧めしたい。

photo-0815daimonji01.jpg

ところで、大文字の送り火はいつ頃から始まったのだろうと思っていつものように調べてみた。

京都の伝統行事は1000年以上続いているものがいくつもあるのだが、大文字山の送り火については文献で確認できるのは思ったよりも古くなく、公家の舟橋秀腎の日記「慶長目件録」の慶長八年(1603年)の7月16日のところに「鴨川に出て山々の送り火を見物した」と記されているのが最初らしいと知って驚いた。また残念なことに、この日記には大文字の送り火の由来については何も書かれていないそうだ。

大文字の送り火の伝統を代々承継してきた浄土寺地区の人々が信じているのは、弘法大師この行事を始めたという説で、平安時代に京都で伝染病が流行ったり飢饉があって人々が苦しんだ時、弘法大師に「如意が岳に、大という字をかたどり火をともせば、人々を苦しみから救える」という仏様からのお告げがあって、お告げの通りに大の字をかたどって火をともしたというものである。

弘法大師

しかし、そんなに古くからあったのであれば、平安期や室町期の書物に書かれていてもおかしくないのだが、そのような書物や絵は存在していないそうだ。

他に、足利義政が始めたという説もあり、江戸時代前期に記された『菟芸泥赴』などの史料によると相国寺の僧で足利義政とも交流の深かった横川景三(おうせんけいさん)が大の字型を定めたという記述があるそうだ。確かに、如意が岳の大の字が旧室町幕府跡に向いており、足利家とゆかりのある銀閣寺が大文字山の麓にあることも関係がありそうにみえる。

また、安土桃山時代の公家・近衛信尹(このえのぶただ1565-1614)がはじめたという説もある。このことは寛文二年(1662)の書物である「案内者」という書物に書かれているらしいが、江戸時代においても、この送り火の由来については諸説に分かれていたことがわかる。

地元の浄土寺地区の旧家に残されている古文書は、この地区が嘉永六年(1853)一月の大火事で全焼したため、この年よりも古い記録がないそうである。

しかし、浄土寺地区の史料を焼失する前に、江戸時代には旅行案内の様な書物がいくつか世に出ている。たとえば安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」という本には、大文字の送り火のことが書かれている。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7/km_01_229_f.html

都名所図会大文字山

しばらく引用すると、

「毎年七月十六日の夕暮、大文字の送り火は銀閣寺の後山如意が嶽にあり。昔此麓に浄土寺といふ天台の伽藍あり。本尊阿弥陀は一とせ回禄の時、此峯に飛去り光明を放ち給ふ。これを慕ふて本尊を元の地へ安置し、夫より盂蘭盆会に光明のかたちを作り、火をともしける。其後弘法大師大文字にあらため給ふ。星霜累りて文字の跡も圧しなば、東山殿相国寺の横川和尚に命ぜられ、元のごとく作らしめ給ふ。大の字初画の一点長さ九十二間ありといふ。…」
と弘法大師と横川景三の名前が出てくる。

大文字火床

上の画像は大文字山の送り火の際に薪を置く火床で、場所によって薪を積む量が定められている。この火床の位置と火の大きさとバランスが、「大」の字を美しく見せるために重要であることは言うまでもない。

昔はコンクリートの様なものがなく、火床を固定することができなかったから年々火床の位置が微妙にズレて字が崩れていくことが容易に考えられる。いろんな人が、「大」の字のバランスを何度か再調整したことは充分考えられることではないか。「都名所図会」の解説文の通り、「大」の字型に関わった人が複数いることはおかしいことではないと思っている。

全国にこの大文字山を真似た山がいくつかあるのだが、私が他の地方で今まで見たのは昔のワープロの字の様な味気ないものばかりであった。人間が書く場合の筆圧まで考えて、火床の間隔から大きさまで充分バランスを整わせて人間の字に近づけたのは、京都の大文字山(如意が岳)の「大」をおいて他にはないのではないか。

また「都名所図会」の文章では7月16日とあるが、旧暦のお盆は7月15日で、13日の夕方に「迎え火」を焚いて祖先の霊を迎えたり、16日の夕方に「送り火」を焚いたりして祖先の霊を送るならわしが古くから各地で行われていた。それが明治になって太陽暦が採用されて日付が1ヶ月ずれ、「送り火」の代表的な行事である大文字山の送り火も旧暦の7月16日から新暦の8月16日におこなわれることに変更された経緯にある。

この「大文字山の送り火」のことを「大文字焼き」と呼ぶ人がいるが、京都人はこの呼び方を好まないと思う。京都人にとっては先祖の霊を迎え、先祖の墓をお参りし、最後に山の送り火で先祖の霊を送ってお盆が終わるのである。ただ山に火を点けるのではなく、あくまでも宗教行事であるからこそ、あれだけ観光客が集まるのにお祭りではないので露店がでることもないのである。
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大晦日の「年越の祓」と「除夜の鐘」

大晦日の夜にはお寺で「除夜の鐘」が撞かれる。また年が明けると、多くの日本人が神社に初詣をする。

千年以上続いている日本の伝統なのだが、いつ頃からこのように年末年始を過ごすようになったのか興味を覚えたので調べてみた。

上賀茂初詣

私にとって神社は年が明けてから初詣に行くところと思っていたのだが、大晦日の日に多くの神社で「年越の祓(としこしのはらえ)」という重要な神事が執り行われていることを最近になって知った。

明治時代になって太陽暦が採用されるまでは、我が国は太陰暦を用いていたのだが、太陰暦は月の満ち欠けの周期を1ヶ月とする暦法なので、満月の日は必ず毎月の15日(十五夜)となり月末には月が目に見えない状態となる。

月末のことを「晦日(みそか)」とも言うがこの言葉の由来を簡単に述べると、「月が隠れる日」を意味する「月隠(つきごもり)」が訛って「晦(つごもり)」となり、毎月末を「晦日(みそか)」と呼ぶようになったらしい。
「晦日」を「みそか」と読ませるのは、月の周期が約30日なので月末の日は「三十日(みそか)」だったからである。そして一年最後の「晦日」となる十二月の月末を「大晦日(おおみそか)」としたのだ。

もともと神道では、6月と12月の晦日には「大祓(おおはらえ)」と言って、神に祈って心の穢れを取り払う神事が宮中や各地の神社で執り行われ、6月の大祓は「夏越の祓(なごしのはらえ)」、12月の大祓は「年越の祓(としこしのはらえ)」と呼ばれている。

八坂神社の大祓

このような行事がいつから行われているかは定かではないが、大宝元年(701)の大宝律令によって正式な宮中の年中行事に定められているので、それよりもかなり古くから行われていることは間違いがない。「古事記」に、第14代仲哀天皇ご崩御の時に「大祓」を行ったという記述があるそうだが、仲哀天皇ご崩御というのは4世紀中頃の事である。

この「大祓」の儀式で読みあげられる言葉が、平安時代に完成した「延喜式」のなかに載せられている「大祓詞」で、我が国で最も古い祓詞と言われているそうだ。
原文と口語訳が次のURLで紹介されているが、解説にもあるように、個人を対象とした祓ということではなく、天下万民、社会全体の罪穢れ、災厄を取り除くための天皇の祈りの言葉である。
http://www.nippon-bunmei.jp/ooharai2.htm

このように「大祓」は長い伝統のあるものだが、応仁の乱のころから宮中では行われなくなり、江戸時代の元禄4年(1691)に再開されたが、宮中や一部の神社で神事として形式的に伝えられたにすぎなかったそうだ。

この儀式が全国的に広まるのは明治時代で、明治5年(1872)の教部省通達で
「毎年官社以下すべての神社の社頭に祓いの座を設け、府県官員はもちろん、一般国民もまた社参して大祓せよ」との発令により、国民行事として広まったようである。

ところで、よく年末の挨拶で「よいお年をお迎えください」と言うのだが、この言葉の意味は昔から「来年が良い年になりますように」という意味だとばかり思ってきたが、昔は違ったようなのだ。

歳徳神

かつては「お正月さん」あるいは「歳徳神(としとくじん)」という神様が初日の出とともに現れ、一年の幸せをもたらすために降臨すると信じられていて、それぞれの家庭で大掃除をしたりお餅を搗いたりするのは、この神様をお迎えするための準備をするということなのだそうだ。
年末のあいさつで「よいお年をお迎えください」とよく使うのだが、この「お年を」とはこの神様のことを指して、「(良い準備をして)歳徳神をお迎えください」という意味になるのだそうだ。
http://blog.goo.ne.jp/kyo-otoko/e/690c671c483cfd8ad884f42dabd2dbf6

ネットで調べると、邪気を払うために大晦日に、節分の様に豆を撒く地方もあるようだ。旧暦の世界では節分と大晦日はかなり日が近く、年によっては節分の日が大晦日になることもある。(例えば2038年は旧暦の大晦日が節分と一致する。)
http://shima-tabi.seesaa.net/article/30595331.html
http://www.cs.r-ts.co.jp/rcc/breaktime/untiku/090127.html

豆まきは本来は大晦日の行事であったのが、旧暦では新年が春から始まるので、立春前日の節分の行事に変わっていったという説もあるが、地方によって大晦日に豆を撒く風習が残っていることは面白いことだ。

ここまで神社の事を中心に書いてきたが、お寺の事も書こう。お寺の行事はもちろん「除夜の鐘」だ。

ネットでいろいろ調べると、「除夜」とは「旧年を除く夜」という意味で大晦日の夜を指し、大晦日に除夜の鐘を撞くのは、中国の宋の時代から始まった仏教行事に由来しているのだそうだ。日本には鎌倉時代に伝来して、江戸時代以降各地で盛んになったようである。

除夜の鐘

除夜の鐘」は深夜に108回撞かれる。
人には108の煩悩があると言われているが、何故108なのかは諸説があるが、次のURLの説明は煩悩の数の説明として説得力がある。
http://www.jodo.or.jp/knowledge/syogatu/index1.html

鐘を撞くことで、鐘の音を聞く全ての人々がこれらの煩悩を1つずつ取り除いて、清らかな心で正月を迎えようと言う考え方なのだが、なんと素晴しい行事ではないか。

歳徳神をお迎えするために日本中で大掃除をし、お寺も神社も力を合わせて、国民が清新な気持ちで新しい年が迎えることが出来るために祈る。こうすることで、みんなが気持よく正月を迎えることが出来るというものだ。

室町時代以降日本を訪れた外国人の多くが素晴らしいと日本を賞賛した記録を残しているのは、一年を通してこのような伝統行事が色々あって、人々に浸透していたことと無関係ではないだろう。

例えば
「…何しろこの国民は、その文化、作法と習俗の点で、言うも恥ずかしいほど、さまざまな事にかけてエスパニア人にまさっています。」(ルイス・フロイス[1532-1597]「日本史1キリシタン伝来の頃」)
「…人々はいずれも色白く、極めて礼儀正しい。一般庶民や労働者でもその社会では驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。この点においては、東洋の他の諸民族のみならず、我らヨーロッパ人よりも優れている。」(アレッサンドロ・ヴァリニャーノ[1539-1606]「日本巡察記」)

いずれもフランシスコ・ザビエルの後で日本にキリスト教布教のために派遣されたイエズス会の宣教師だが、日本人とその文化を絶賛していることに注目したい。

若い世代が大学進学や就職してどんどん親元を離れていき、核家族化して古き良き伝統文化が失われつつある昨今であるが、日本人の正月を迎える風習や伝統文化などは、これからも次の世代に引き継がれていってほしいものだと思う。
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戦国時代の祇園祭を見た宣教師の記録を読む

以前何度かこのブログで紹介したが、戦国時代の日本にイエズス会の宣教師として来日したルイス・フロイスが当時のわが国の記録を詳細に残しており、中公文庫の『フロイス日本史』でその日本語訳を読むことができる。

フロイスのこの著書の第1分冊に、今年ももうすぐ山鉾巡行が行われる京都『祇園祭』の記録を見つけたので紹介したい。イエズス会が我が国に派遣したポルトガル人宣教師ガスパル・ヴィレラについての1562年の記録の一節を引用する。

「この都の市内では、古来、神や仏に対する畏敬から盛大な祭りが行われた。それらのいくつかは、人々が語るように、華麗さ、外面的な費用においてはなはだしく以前に比べて劣るとはいえ、今なお行われていた。第六月の十五日には、祇園と称せられる偶像を敬う祭りが催されるが、それは、都の郊外に、多数の人が訪れる霊場を有し、次のようにして行われる。」(中公文庫『フロイス日本史1』p.146)

祇園感神院

今では、京都「祇園祭」は「八坂神社」のお祭りとして知られているが、「八坂神社」は明治の「廃仏毀釈」により神社にさせられるまでは「神仏習合」のお寺(天台宗)であり、「感神院祇園社(かんしんいんぎおんしゃ)」あるいは「祇園社」と呼んでいた。
歌川広重(1797-1858)の絵で「京都名所之内」より、「祇園社雪中」という絵があるが、この鳥居の扁額には「感神院」と書かれているのが読める。

祇園社

また以前私のブログで紹介したとおり「都名所図会」巻三には多宝塔や薬師堂などの仏教施設の絵が描かれている。ただしこの多宝塔は、「廃仏毀釈」とは関係なく、寛政年間に焼失したようだ。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/m_gionyasiro.htm

京都ガイドブックのサイトによると「祇園祭」のルーツは9-10世紀に始まった祇園社の御霊会「祇園会(ぎおんえ)」で、中世前期までは、三基の神輿、十三本の馬上鉾、五匹の神馬、獅子舞、巫女の神楽、田楽の行列が、旧暦の6月7日に祇園社からお旅所へ渡り、14日に祇園社に戻るという日程で行われていたそうだ。
http://kyoto.nan.co.jp/knowledge/gion.html

年中行事絵巻

以前私のブログでも紹介したが、平安時代の「祇園会」の様子が「年中行事絵巻」(京都芸術大学蔵)の第九巻に描かれている。この絵巻物には行列の先頭に鉾を担いでいる人物がいて神輿や牛車が描かれ、山鉾がどこにも見当たらないことに誰でも気づく。[絵をクリックすると拡大されます]

山鉾巡行が始まるのは14世紀の半ば以降のことで、応仁の乱(応仁元年[1467]~文明9年[1477])の前には山鉾の数は58基にもなったそうだが、応仁の乱後しばらく中断され、明応9年(1500)に山鉾38基で復活されたという。ちなみに現在の山鉾数は33基だ。

ガスパル・ヴィレラやフロイスらが日本にいた時代には、祇園祭の山鉾巡行は(太陰暦の)6月7日と14日の年2回行われていたはずなのだが、フロイスはどういうわけか祭りの日を6月15日と書いている。フロイスの記述では「祇園社」から神輿が出ていることから、7日に行われた祭りの日を間違えたものと考えられる。

明治5年の11月に明治政府が暦を太陰暦から太陽暦に変更することを発表し、明治10年以降は山鉾巡行の日程が7月の17日と24日に移されたのだが、昭和41年以降は人手不足から、7月17日の一回に変更されて現在に至っている。

フロイスの記述では「祇園と称せられる偶像を敬う」と書いているが、「感神院祇園社」が祀っていたのは「牛頭天王(ごずてんのう)」で、これはインドの釈迦の生誕地にちなむ祇園精舎の守護神であり疫病を防除する神と信仰され、「神仏習合」の考え方では薬師如来を本地仏とし、神道におけるスサノオ神と同体だと考えられてきた。
近世の神道家や国学者にとっては、記紀の中でヒーロー的存在であるスサノオと習合している「牛頭天王」は目障りであったらしく、明治政府は「神仏分離」政策を推し進める中で、「牛頭天王」を祭神とするすべての神社について、祭神をスサノオノミコトに代えさせているのだそうだ。

このような経緯で、明治時代の初めに「感神院祇園社」の仏教施設は撤去され、名前は「八坂神社」に改名されて、祭神はスサノオノミコトとされたのである。

フロイスの記録の続きを読んでみよう。

「祭りの数日前に、各町内とその職人たちに、祭りの当日持ち出さねばならない出し物が割り当てられる。次いで当日になると、朝方、無数の群衆が、この祭りを見物するために都に殺到して来る。また別の人たちは祭りに参加することを誓約したためにやって来る。
そして一同は行列のようにして繰り出す。その行列では、まず上部にはなはだ高い舞台が設けられた15台、またはそれ以上の車が行く。それらの車は、絹の布で掩われているが、すでに古く、長く使用されたものである。そして舞台の真中には非常に高い一本の柱がある。その車は二階、または三階で、その各階には高価な絹衣をまとった、都の市民の子供たちである大勢の少年がいる。彼らは楽器を携えており、そうした装いで演技したり大声で歌ったりする。その一台一台の後ろから、自分の職業の印を持った職人たちが進み、皆、槍、弓、矢、長刀、すなわち、はなはだよく作られた鎌の形の半槍のようなものを持ち、本当の兵士たちがそれに続いていく。これらの大きい舞台付の車が通過すると、他の、より小さい車が続く。その上には、立像によって日本の古い歴史上の幾多の故事や人物が表徴されている。[日本人は、それらを非常に上手に製作する。すなわち、彼らは万事において非常に器用であり、はなはだ完全で精巧な仕事をする。彼らは自然の偉大な模倣者であって、そのような仕事にたずさわるのである。]かくて彼らは、これらの車を曳いて朝方、この祭りを奉納する祇園という偶像のところに行き、そこで午前を過ごすのである。」(同上書p.147-148)

鶏鉾
フロイスが「一同は行列のようにして繰り出す」と書いているのは「山鉾巡行」のことであるが、「山鉾」が「鉾」と「山」に分かれているということは、当時の外国人宣教師には理解できなかったのかもしれない。
油天神山

「鉾」というのは屋根に長大な鉾を戴き、直径2メートル程の車輪が付き、2階にお囃子が乗っているもので、「山」というのは、鉾の代わりに松の木を戴き、山の上で出し物を演じる数人の者が乗ることはあっても、お囃子ほどの大人数は乗っておらず、「鉾」よりも一回り小さいものをいう。今年は142年ぶりに「大船鉾」が復活し、巡行する山鉾の総数は33となっている。

祇園囃子

フロイスは「楽器を携え…大声で歌ったり」と書いているが、「祇園囃子」のことを書いているのであろう。実際は鉦(カネ)と笛と太鼓で奏でられている。注意深く聞くと、同じ鉾の囃子には何種類かあり、また鉾によっては囃子の旋律やリズムが異なることがわかるのだが、西洋のような五線紙はなく、この伝統を何百年に亘り継承してきたことは大変な事なのだ。
http://w3.kcua.ac.jp/jtm/archives/resarc/gionbayashi/niwatoriboko/10.html

また、フロイスは「後ろから、自分の職業の印を持った職人たちが進み」と書いている。現在は町内単位の山鉾ばかりだが、昔は職業組合が出す山鉾もあったらしいのだ。
続けて「皆、槍、弓、矢、長刀、すなわち、はなはだよく作られた鎌の形の半槍のようなものを持ち、本当の兵士たちがそれに続いていく」とあるが、今では山鉾巡行の行列で武具を携えて歩く人はいない。

また、フロイスが「これらの車を曳いて朝方、この祭りを奉納する祇園という偶像のところに行き、そこで午前を過ごす」と書いているのは、事実を確認して書いたものとは思えない。重たいものでは12トンもあると言われる山鉾が人を乗せて坂を上ることは考えにくいことだしし、今もそうだが江戸時代の「都名所図会」の記録でも、山鉾のルートは「感神院祇園社」に行くことにはなっていない。

「祇園という偶像」と書いているのは「牛頭天王」の事だと思われるが、そもそもキリスト教は偶像崇拝を禁止する宗教であり、内心では仏像などに対する祈りの行為を認めたくなかったはずだ。

フロイスの文章は続いて山鉾巡行の後に行われる「神幸祭」の記述となる。しばらく引用する。

「午後、彼らは非常に立派に飾られた大きい輿(みこし)を持って神社から出る。多数の者がその輿を肩に担ぐが、その中にかの偶像があると言われる。民衆は皆頭を下げつつ、双手を挙げてこの輿を拝む。そしてその時には、たとえ酷暑であっても、輿が通過する間、誰も頭に帽子をかぶったり扇子を使ったりすることは許されない。なぜなら輿に先行している下賤の者がそうした人を見つけるとその頭を棒でなぐりつけるからである。その後方から別の一台の輿が来るが、人が語るところによると、それは祇園の妾の輿だと言われ、それから銃の一射程離れて一定の位置に、続いて祇園の正妻の輿と言われるものが来る。ここにおいて、正妻の妾に対する嫉妬と悲哀なるものを表徴して、幾つかの滑稽な儀式が行われる。彼らはこのような盲目的な愚行を演じて、その午後を過す。そして日本人は自負心が強く、また群集の数がおびただしいので、この行列の際には、ごく些細なくだらぬことから喧嘩や騒動が起り、その際通常は多数の負傷者が出、幾人かの死者も出る。」(同上書p.148)

神幸祭の神輿

「神幸祭」のことは2年前に見に行ってこのブログに書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-16.html
八坂神社から三つの大きな神輿が繰り出すのだが、最初に出発するのは写真の真ん中の「中御座」と言う六角形の神輿で、スサノオノミコトを祀っている。

次いで出発するのは「東御座」という四角形の神輿で、スサノオの妻であるクシナダヒメを祀っている。
最後に出発するのは「西御座」という八角形の神輿で、スサノオの8人の子供であるヤハシラノミコガミを祀っている。
フロイスの記述を評価する前に、廃仏毀釈で主祭神が変わったことを知る必要がある。

明治時代の廃仏毀釈以前の主祭神は以下の3柱であった。
(中の座) 牛頭天王 (ごずてんのう)
(東の座) 八王子 (はちおうじ)
(西の座) 頗梨采女 (はりさいにょ)
頗梨采女は牛頭天王の后神であることからスサノオの后であるクシナダヒメと同一視された。クシナダヒメは方角の吉方(恵方)を司る歳徳神(としとくしん)と同一と見なされていた事もあり暦神としても信仰された。八王子は牛頭天王の8人の王子であり、暦神の八将神に比定されていたのだそうだ。

神幸祭2

ここまで調べると、フロイスが「正妻の妾に対する嫉妬と悲哀なるものを表徴し」と書いているのは全く根拠のない偏見にすぎないことがよくわかる。

宣教師からすれば意味のない「偶像」が中に入った神輿を担ぐことが「滑稽な儀式」に見え、この神輿を見るために大勢の群衆が集まって盛り上がることは「盲目的な愚行」にしか思えなかったという事なのか。
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日本三大山車祭の一つ、長浜曳山祭の歴史と子ども歌舞伎

竹生島から長浜港に戻って、ホテルにチェックインしたのち長浜市の中心部に向かう。
この日(4月13日)の夕方は十三日番といって、長浜曳山祭の各山組に曳きだされた豪華絢爛な曳山の舞台で、化粧をした子ども役者が可憐に歌舞伎(曳山狂言)を演じる最初の日なのだ。この祭りは毎年4月9日~16日に長浜八幡宮の春季大祭にあわせて執行され、13日~16日は「曳山」が登場して子ども歌舞伎が演じられるのである。
この祭りは京都の祇園祭、岐阜高山の高山祭とともに日本三大山車祭の一つとされ、昭和54年(1979)に国の重要無形民俗文化財、平成28年(2016)にはユネスコ無形文化遺産にも指定されている有名な祭りで、一度この祭りをこの目で観たいと思っていた。

今回の滋賀の旅行記事で明治初期の神仏分離のことを何度か触れたが、長浜八幡宮もこの時期に神仏分離が強行されている。

長浜八幡宮古絵図

廃仏毀釈に詳しいminagaさんのサイトに『長浜八幡宮古絵図』が紹介されており、その中に三重塔が描かれている。このような仏教的な建物などは今では境内のどこにも見当たらない。Minagaさんは長浜八幡宮の歴史についてこう解説しておられる。

「延久元年(1069)源義家が後三条天皇の勅を奉じて石清水八幡宮より勧請。元亀・天正の兵乱に焼失。天正9年(1581)豊臣秀吉などによって再興。別当は新放生寺と号したが、 明治維新の神仏分離により、周囲にあった多くの社僧は廃絶し、仏教関係の什宝は、東の舎那院に移す
社殿は、明治18年雷火のため焼失、現社殿は明治22年に再建。なお北門前観音堂安置木像聖観音立像が伝来するようです。放生池も現存するようです。
 舎那院(真言宗豊山派)は弘仁2年(814)弘法大師の開基といい、秀吉により再興、明治維新前は八幡宮の学頭坊であった。本堂(愛染堂)は八幡宮本地堂 を移建という。また昭和14年八幡宮整備により、護摩堂(桁行3間、梁間3間、寄棟造檜皮葺。室町期)も移建されたという。」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/h20040803.htm

木曽名所図会 長浜八幡宮

文化2年(1805)に出版された『木曽路名所図会』にその頃の長浜八幡宮の境内が描かれている。この頃には三重塔は失われていたようだが、鳥居をまっすぐ進むと現在舎那院の本堂となっている本地堂があり、左には薬師堂も存在していたことがわかる。そして絵図の右端に舎那院が描かれていて、この寺が明治以降唯一残されて、仏像や資料類のほとんどがここに移されたのである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959914/80

また『木曽路名所図会』には、曳山祭について以下のような記載がある。江戸時代には秋にこの祭りが執行されていたようだ。
「…例祭は九月十五日にして、牽山(ひきやま)十二、町々より本社へ出してこれを飾り、其の山々の町より、わらわべに風流の狂言をおしえ、山の上にて舞わしむ。至って壮観なり。これを見むとて、遠近よりここに来って一二夜を泊し、群集すること稲麻(とうま)の如し。名にしおう長浜祭りとて世に名高し。この御旅所西の方にありて、例祭には神宝大刀、その外種々の神器あり。神輿は秀吉公の代営み給いしとぞ。このところには祭りの前日より、芝居・見世物、あるいは拍戸の店ありて、賑わいいはん方なし。まことに英雄の俊傑のはじめ置き給いしその遺風、今にありて目を喜ばしむること、鄙にはならびなき奇観なり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959914/74

『木曽路名所図会』にはこの祭りは豊臣秀吉が残した遺風だと書かれているのだが、『曳山博物館』の解説によると、
「秀吉は、天正2年(1574)頃、長浜城築城とともに長浜の城下町を建設しました。この時に、秀吉は、現在も曳山祭で執り行われる源義家の武者行列を模した『太刀渡り』という行事を行い、のちに男子出生を祝って町民に砂金を振る舞いました。それをもとに各町が曳山をつくり八幡宮の祭で曳きまわしたのが曳山祭の始まりと伝わっています。
 また秀吉は、長浜の町を年貢300石の朱印地(免税地)に定めました。江戸時代、町が、彦根藩下に置かれた際も朱印地は認められ、湖上交通や18世紀半ばから盛んになる織物業で長浜は栄えました。こうした背景をもとに、長浜の町衆たちは曳山を飾り立て、曳山祭はさらに発展していきます。」
http://www.nagahama-hikiyama.or.jp/presently/

当初は曳山を曳くだけの祭りであったようなのだが、江戸時代中期の頃から曳山の上で子ども歌舞伎(浄瑠璃)が演じられるようになったという。
長浜には「長刀山」と子ども歌舞伎が演じられる12基とあわせて13基の曳山があり、子ども歌舞伎が演じられる12基のうち毎年4基が交代で出番山となるので、3年に一度は出番が回ってくることになる。出演するのは5歳から12歳の男の子ばかりで、それぞれの町が代々保有する豪華絢爛な曳山の4畳半ほどの舞台で演じられるのである。

子ども歌舞伎がいつどの場所で演じられるかは、どの町の曳山がその年の出番山であるかによって異なるので、この祭りを見に行くには、「曳山博物館」のHPで毎年アップされる祭りのパンフレットを事前に入手されるのが良い。旅行を計画した当初は、うまくいけば十三日番で4つの曳山を鑑賞できるかと考えたのだが、1つの歌舞伎が40分以上かかるので全部の演目を楽しむことは不可能で、2日がかりで計画を立ててまわるしかない。。
http://www.nagahama-hikiyama.or.jp/image/matsuri/2018/01.pdf

長浜曳山祭 4月13日、14日スケジュール

2018年曳山祭のパンフレットによると、今年の十三日番で最初に演じられるのは壽山(ことぶきざん)であったので、簡単に夕食を済ませて黒壁スクエアの近くで場所取りをした。
パンフレットでは17時30分から始まることになっていたのだが、現地に行くと18時に変更されていた。なぜパンフレットの時間通りに上演されないかについて質問された観光客がいたが、「相手が子どもなのでいろいろあることをご理解賜りたい」との回答だった。確かに役者さんは子どもばかりなので、温かい目で待つしかない。

寿山 2

しばらくすると、化粧・着付けを済ませた役者さんが一人ずつ集まってくる。男役は比較的堂々として歩いてくるが、女役の場合は着付けや化粧を恥ずかしがって抵抗する子どももいることだろう。出演する子ども全員に化粧をし、着物を着せる裏方の苦労はたいへんなことだと思う。

役者さんが全員揃うまで、曳山の後方で笛・太鼓を用いて囃子(シャギリ)が演奏されるのだが、シャギリは、曳山の曳行時、八幡宮入場時などは別の曲が演奏され、各山組により微妙に異なるのだという。
http://www.nagahama-hikiyama.or.jp/category2/shagiri.php

壽山 役者さん全員集合

上の画像は壽山の役者さん全員が揃って曳山の舞台に集まった時のものであるが、今までに浴びたことがないような多くの視線をいきなり浴びるのに耐えられないのか、うつむいたり目を閉じている役者さんが少なくない。十三日番は初めての舞台なのでみんなそれぞれ緊張して当然のことなのだ。

寿山 十三日番

いよいよ演技がはじまった。太夫の語りと三味線が物語の展開をリードし、ポイントポイントで子ども役者のセリフや舞などが入るのだが、舞台進行とともに次第に役者さんの硬さがなくなっていって観ているほうが引き込まれていく。子どもの歌舞伎とはいっても、相当細かいところまで芸が指導されていて、何度も感心してしまった。壽山の出し物は山内一豊とその妻の物語『似合夫婦出世絏(ひきつな) 長浜 一豊の屋敷』なのだが、妻・千代役は女の子が演じているのではないかと思ったほどよくできていた。

十三日番猩々丸 

壽山の演目が終わったころは、高砂山も鳳凰山も歌舞伎が始まっていたので、一番遅い時間に上演される予定の猩々丸(しょうじょうまる)に向かう。外題は『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)熊谷陣屋の場』で、源義経の家来・熊谷直実が子を失い、戦乱の世の無常を感じて出家する物語である。

高砂山 2

次の日の朝は、朝一番に高砂山(たかさござん)に向かう。外題は『義士外伝 土屋主税』。で、赤穂浪士の大高源吾は吉良邸討ち入りの前日まで不甲斐なき不忠の武士を装いながら、討ち入りに参加し主君の仇を討つ物語である。

鳳凰山

次に祝町組の鳳凰山(ほうおうざん)に向かう。外題は『恋飛脚大和往来 梅川忠兵衛 新口村(にのくちむら)の場』で、飛脚問屋の亀谷忠兵衛が遊女梅川と恋仲となり、梅川を身請けするためにお屋敷のお金に手を付けてしまった。忠兵衛は親の顔を見たいと生まれ故郷の新口村まで来たのだが追手はこの村まで来ており、親子は悲しい別れを余儀なくされる物語である。

いずれの曳山の演目も、子どもにとっては内容を理解することすら簡単ではないレベルのものだとは思うのだが、結構長いセリフを暗記し、さらに狭い舞台で舞うために大変な努力を積み重ねてきたはずだ。



上の動画は長浜市が作成したものだが、1分20秒あたりから長浜曳山祭の練習風景が紹介されている。役者に選ばれた子供たちは春休みに入った3月20日頃から、4月12日まで毎日朝・昼・晩と厳しい稽古を繰り返すのだという。まずは台本を何度も読み、台詞の言い回しを徹底的に教え込まれてから立稽古がはじまり、大夫や三味線を交えての稽古はある程度たってからの事である。

高砂山 全員集合

4月14日の自町狂言を終えるとそれぞれの曳山が長浜八幡宮に向かう登り山の準備となる。その直前に町内で曳山祭の準備に関わった人々で集合写真が撮影される。上の画像は高砂山の関係者が勢揃いしたところを写したものだが、ここに集まったのは決して全員ではない。曳山の綱を引く男性はもっといるし、囃子(シャギリ)を演奏したり、子ども役者の着付けや化粧を行うメンバーや、ほかにも奉仕するメンバーがいると思うのだが、町内の多くの人々が老いも若きも伝統の祭りに参画できるということは素晴らしいことである。

猩々丸 曳山

長浜八幡宮に一番遠い猩々丸が長浜八幡宮に向かう登り山が始まった。
「ヨイサ」「ヨイサ」の掛け声とともに、曳山につながった綱をしっかり引っ張る人々の表情も、曳山の後ろで囃子を演奏するメンバーの表情もとても良い。長浜の人々が地域ぐるみで祭りを支えているのを見て、なぜか目頭が熱くなった。
昔は祭りや盆踊りなどで地域の人々が世代を超えて楽しめる機会がどこにでも存在したのだが、今は多くの地方がそのような機会を失ってしまっているのは残念なことである。

猩々丸 笛

祭りなどの地方の伝統行事は、子供に社会を学ばせるきっかけとなるだけでなく、世代から世代に伝統が継承されていくことで地域の人々の連携が強まると同時に各世代のリーダー格が育成されて、地域の問題解決能力を高める機能を果たしてきた。長浜ではこれらの機能が今も健全に働いているようだ。

郷土に誇るべき歴史と伝統文化があり、愛する郷土の為に尽くすことができる長浜の人々は幸せだと思う。
400年以上続いてきた曳山祭は、これからも世代から世代に引き継がれていくことだろう。また機会を作ってこの祭りを楽しみに行くことにしたい。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

天神祭と大阪天満宮とあまり知られていないお寺のこと
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大文字山の送り火のこと
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若草山の山焼き
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大阪のてっぺん 浄瑠璃の里~~地域の文化を継承するということ
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淡路人形浄瑠璃と高田屋嘉兵衛と淡路特産玉葱の「七宝大甘」~~淡路島文化探訪の旅3
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暴れ川として知られる吉野川の流域を豊かにした阿波藍と徳島の伝統文化
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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