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石清水八幡宮と松花堂弁当

徒然草の第52段に「仁和寺にある法師、年よるまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、或る時思い立ちて、ただひとりかちよりまうでけり。」ではじまる有名な文章があるが、最近になってこの石清水八幡宮が以前は仏教を中心とする施設であったことを知った。

石清水八幡は貞観2年(860年)僧行教によって寺院として創建され、後に神仏習合で神社と共存するのだが、「男山四十八坊」と言われるように男山全体は以前は圧倒的にお寺を中心とする地域で、毎日読経が流れているような場所だったらしいのだ。
石清水案内絵図

当時の絵図をネットで見つけたが、男山には大塔や八角堂などの多くの仏教施設が書き込まれている。下は地図で場所を復元した図である。
石清水八幡宮伽藍復元図

ところが明治元年の廃仏令で僧侶は還俗させられ俗人となり、法施や読経を禁じられ、堂宇も撤去されるか、一部は神殿に変えられてしまった。またこの時期に阿弥陀如来像などの仏像や曼荼羅等の文化財はほとんどが売却されたり捨てられてしまったという。この中には国宝級の文化財も少なくなかったらしい。

京都で生まれ育ちながら石清水八幡宮へは一度も行ったことがなかったのだが、いろいろ調べると興味を覚え急に行ってみたくなり、石清水八幡宮から松花堂庭園を歩いて松花堂弁当を食べにいくコースを思いつき、先日夫婦で歩いてきた。

大山崎ICから神社の一の鳥居近くの駐車場に車を止め、京阪八幡市駅前の観光案内所でガイドマップをゲットしてから、参道を進み始める。

一の鳥居を抜けるとすぐに頓宮があり、次いで高良神社がある。 徒然草では「極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。」と書いてあり、この僧はせっかく石清水まで徒歩で来ておきながら肝心の本殿のある山に登らずに帰ったので、兼好法師は「すこしのことにも、先達はあらまほしきことなり」と結んでいる有名な場所である。

古い絵図と見比べると、今の頓宮あたりが「極楽寺」であることがわかる。また高良神社は思いのほか小さい社だったが、以前はかなり大きい建物だったらしい。

二の鳥居を過ぎて七曲りを抜けて、裏参道に入り江戸前期に松花堂昭乗が隠棲した跡地を見たのち、石清水社の湧水石清水井を見る。さらに登ってやっと男山の山頂となり、南総門を通って本殿を参拝した。
八幡宮本殿

本殿は八幡造といわれる建築様式で、丹漆塗りの立派な建物であるが、残念ながら平成の大改造中で一部がシートで覆われていた。
エジソン記念碑

本殿の西側にエジソン記念碑があるが、この碑は電球を発明したエジソンが、フィラメントに使う素材を世界各地から集めて実験をした結果、男山の竹の繊維が一番長く輝き続けたことから、この地域の竹が白熱電球の実用化に大きな役割を果たしたことを記念したものである。

そこから山を下りて、「松花堂弁当」名前の由来となった松花堂庭園で昼食。ランチで税込3859円はやや高いが、それだけの価値はある。
松花堂弁当

松花堂庭園の中に室町期の建築である松花堂書院(京都府登録文化財)があるが、これは男山にあった泉坊(男山四十八坊の一つ)の客間を移築したものでかなり立派なものであった。当時はこのような建物が男山にいくつもあったかと思うと、残念でならない。

京都には古い寺院がいくつも残っているが、廃仏毀釈で失われた文化財も測り知れない。「廃仏毀釈」という言葉は以前から知っていたが、このすさまじさは通史を読むだけでは到底理解できないものだ。
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大山崎美術館と宝積寺

前回石清水八幡宮と松花堂庭園に行ったことを書いたが、その日は時間があったのでそれから大山崎美術館とすぐ近くの宝積寺に立ち寄った。

大山崎美術館の建物はもともとは1911年に実業家加賀正太郎が個人の別荘として建てたものだそうだが、バブルの頃にある不動産会社がこの建物を壊してマンションを開発する計画が持ち上がったらしい。地元住民からこの大正期の立派な建築物を壊すことに強い反対運動が起こる中、アサヒビールが京都府からの要請もあり、天王山山麓の景観を保全するためにこの山荘を買い上げ、1996年に美術館として再生したというものである。
大山崎美術館

その後建物の文化的価値が認められ2004年に国の有形文化財として登録されている。
旧館はレトロな雰囲気がよく、棟方志巧や河合寛次郎の作品がよく似合う。
2階にはカフェがあって、そこから眺める庭園や山の景色もよいし、木々の間から隣の宝積寺の三重塔も見える。

私が訪問した日は紅葉には早い時期だったが、庭の紅葉は素晴らしいそうだ。ネットで調べると、昨年の秋の美しい景色の写真が出ている。
http://www13.plala.or.jp/chisoku/yamaza.htm

また新館は安藤忠雄氏の設計によるモダンな建物で、モネの作品などが展示されている。

時間があったので、美術館のすぐ近くの宝積寺にも立ち寄った。このお寺はあまり観光案内などには書かれていないお寺だが、三重塔をはじめ8つの仏像などが重要文化財に指定されている。何故観光地としてあまり知られていないのが不思議なくらいである。
石清水八幡宮から大山崎へ 078

ボランティアの人が、本堂・閻魔堂の案内をしてくれた。閻魔堂は閻魔大王をはじめとする五体の鎌倉時代の仏像のために新しく建てられたものだが、間近で見る閻魔大王像をはじめとする仏像の迫力のある表情に圧倒されてしまった。これだけ明るい場所で近寄って重要文化財級の仏像を見せてくれるお寺はあまりないのではないだろうか。
img_201529_23081641_3.jpg

説明によるとこれらの仏像は、すべて明治初期の廃仏毀釈の時に廃寺となった大阪府島本町の西観音寺というお寺から移されてきたものとのことである。石清水八幡宮が廃仏毀釈で堂宇や仏像などを撤去された話を知ったばかりだけに、少しばかり複雑な思いがした。

歴史には書き残されていないものの、時代に抗って文化財を守ろうとした人々が各地にいたからこそ、日本に多くの古い寺院や仏像などが残っているのだと思う。
この日は予定外に素晴らしい仏像を拝見できて満足だった。
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全焼したはずの坂本龍馬ゆかりの宿「寺田屋」~~平成の「寺田屋騒動」

9月5日の「龍馬伝」は第36回「寺田屋騒動」だった。
京都に生まれ育ったものの、寺田屋は遠かったので行ったことがなかった。こういう番組を見てしまうと急に行きたくなって、たまたま10日が振替休日だったので、平日の方が観光客が少ないかと考えて出かけてきたが、朝10時のオープンを待つ人が随分大勢並んでいたのに驚いた。観光バスのツアーで来ておられる人も少なからずいたようだ。

開館前の寺田屋

中に入ると龍馬やお龍、お登勢の写真から、幕末の志士の写真や手紙等のコピーなどが所狭しと飾られている。
寺田屋内部

いつ誰が付けたかよくわからないが刀痕のある柱もあり、お龍が龍馬に裸で追っ手を知らせた時に登ったという階段や、昔の風呂桶なども残されている。
寺田屋風呂

多くの観光客は、龍馬のいた時代のままで残されているものと錯覚してしまう。

展示物の中にはいくつか新聞の切り抜きの様なものがあり、その中に京都新聞の『「幕末の寺田屋」焼失確認』という記事のコピーが目に止まった。この記事を読むと、どうやら寺田屋は2年前に京都市から展示内容が見学者に誤解を与えないようにとの指導を受けていたようなのだ。幕末の寺田屋が焼失したのが事実ならば、刀痕や風呂桶は一体何なのだ。

こういうことを調べることは大好きなので、早速自宅に戻ってからいろいろパソコンで調べてみた。

当時の新聞記事検索はリンクが切れてしまっているが、Wikipediaでは産経新聞の当時の記事が、Web魚拓で紹介されていた。
http://megalodon.jp/2008-0925-2222-53/sankei.jp.msn.com/life/trend/080925/trd0809252043008-n1.htm   

京都新聞の記事を探したが2年前の記事は見つからず、社会部の佐藤知幸記者の「取材ノート」というコラムは、リンクが切れておらず誰でも読む事が出来る。
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/rensai/syuzainote/2009/090519.html
ここでは佐藤記者は寺田屋の営業行為を「歴史に対する裏切り」とまで書いている。

京都市は、寺田屋は慶応4年の鳥羽伏見の戦いで焼失してしまったと結論し、寺田屋は「今も一部が焼失しただけ」と考えて今まで通り営業活動を続けるが、市の見解も伝えるように努力するとのスタンスだそうだ。館内に京都新聞の記事を展示したのは、京都市の見解を見学者に伝えなければならないので、こっそりと貼り出したものだろう。

寺田屋は全焼したのか、あるいは一部焼失だったのか、ここがポイントである。

この問題に最初に火をつけたのは「週刊ポスト」2008年9月1日号だそうで、この雑誌には寺田屋は鳥羽伏見の戦いで全焼したと書かれていたらしい。
その記事の取材を受けた京都市産業観光局観光部観光企画課は、週刊ポスト誌に対し調査を約束し、京都市歴史資料館にその調査を依頼したところ「寺田屋は鳥羽伏見戦で焼失した」ことが史実であるということとなり、それを各報道機関に配布したことが当時の新聞で採り上げられて、先程紹介した産経新聞の記事はその一例である。

では、寺田屋が全焼したという根拠はどこにあるのか。
この点については、なかさんのサイトに非常に詳しく書かれている。
http://yoppa.blog2.fc2.com/blog-entry-546.html

詳しくは、上記のサイトに根拠となる史料まで添付されているので興味のある方は確認していただきたいが、一部を紹介すると
① 鳥羽伏見の戦いで焼けた地域の瓦版が京都市歴史資料館に残されていて、3つの史料から寺田屋のあたりは焼失地域であることが確認できること。(紹介したサイトで画像が確認できます。)
② 現在の寺田屋の東隣にある空き地に明治27年(1894)に建立された「薩藩九烈士遺跡表」という碑が立っている。
この碑文の文言の中に、「寺田屋遺址」という言葉があり、寺田屋のあったこの場所に碑を建てたという趣旨が書かれていること。

寺田屋騒動記念碑

③ 昭和4年の「伏見町誌」に「寺田屋遺址 字南濱に在り,現在の建物の東隣を遺址とす」と書かれていること。
④ 西村天囚という漢学者が明治29年に寺田屋を訪問し、「紀行八種」という本の中で、「寺田屋は,伏見の兵火に焚けしかば,家の跡を取拂ひて,近き比此に銅碑を建てゝ,寺田屋は其西に建てけり」と書いていること。
あたりを読めば納得していただけるのではないだろうか。
以上を総合すれば、今の寺田屋は明治になって建て替えられ、幕末の寺田屋はその東隣の土地だったということになる。

Wikipediaによると、現在の寺田屋の建物の登記は明治38年(1905)だそうだし、湯殿のある部分は明治41年(1908)だそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%B1%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6

また、大正年間に、現在の寺田屋の土地建物は幕末当時の寺田家のものではなくなったらしく、昭和30年代に「第14代寺田屋伊助」を自称する人物が営業を始めたとも書いてある。その人物とは幕末の寺田家とは関係がない人物というのだ。

寺田屋のパンフレットでは、「当時の状況を、第14代寺田屋伊助の考証により復元したものである」として宿の1階と2階の間取りが立体的に描かれており、この部屋は龍馬が襲われた部屋だの、この階段は龍馬に知らせようとお龍が裸のまま駆けあがった階段だのと説明書きがいくつもされている。

寺田屋パンフ

このパンフレットであれば、「今の建物の説明をしているのではなく、当時の建物はこうだったとして書いています」という言いわけが出来てしまうだろう。こう書けば、京都市の指導をうまく逃れることができるとでも考えたのであろうか。

そもそも、「考証」したという人物が「第14代寺田屋伊助」である。この人物をネットで調べると、昭和37~38年頃にこの古い建物を買取って旅館経営に乗り出し、本名は「安達清」といい、元は警察官で幕末の寺田屋の寺田家とは何の縁もゆかりもないようだ。7年前に亡くなられたそうだが、そんな人物が「考証」したとする図面をそのまま信じていいのだろうか。現在の寺田屋に近い図面をパンフレットに載せただけなのではないだろうか。

司馬遼太郎が産経新聞に「竜馬が行く」の連載を始めたのが昭和37年6月だが、その時期にこの人物は旅館業を始め、当時の龍馬ブームに乗っかって営業を軌道に乗せたのだろう。 なによりも腹立たしいのは、幕末の寺田屋が焼失したこととこの建物が明治になって改築されたものであることを一言も説明せず、入口にもパンフレットにも堂々と「史跡」と書いていることである。

観光客は本物を求めている。そのために時間をかけ、お金を使って見学に来ている。どれが本物か、どれがレプリカであるかがせめてわかるように展示してほしい。旅行業者も旅行に関する書籍の出版社も、本物かどうかは見極めたうえでキチンと書くべきである。言いたいことは、ただそれだけである。
寺田屋の今の営業のやりかたは見学者を欺くものであり、「観光地偽装」と言われても仕方がない。模造品のコレクションとはいえ、それなりに珍しいものが展示されているのだから、誤解されるような展示手法はやめていただきたい。

寺田屋だけではないと思うのだが、歴史ブームに乗っかって、歴史の事実を曲げてまで、利益のためなら何でもやるような商売のやり方がまかり通らないようにしてほしいものだと思う。
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京都伏見歴史散歩~~御香宮から大倉記念館

前回は寺田屋に行ったことを書いたが、寺田屋の近くには見逃せない観光スポットがいくつかある。
寺田屋が開くのが10時なので、この日は寺田屋を行く前に2か所ばかり観光をしてきた。今回は、私が見学してきた寺田屋近辺の観光地のことを書こう。

最初に訪れたのは御香宮(ごこうのみや)神社である。

平安時代の貞観4年(862)に、この神社の境内から「香」の良い水がわき出たので、清和天皇から「御香宮」との名前を賜ったが、それ以前は「御諸神社」と称していたらしい。

その後豊臣秀吉が伏見城を築城する際に鬼門除けの神として勧請され伏見城内に移されたが、徳川の天下となって家康が慶長10年(1605)に元の位置に戻したそうだ。

伏見門298

上の画像は御香宮神社の表門だが、これは元和8年(1622)に徳川頼房(水戸黄門の父)が伏見城の大手門を拝領して御香宮に寄進したものとされ、国の重要文化財に指定されている。

御香宮拝殿

上の画像は拝殿だが、これは寛永2年(1625)、徳川頼宣(紀州徳川家初代)の寄進によるもので京都府指定文化財である。平成9年に極彩色が復元されて美しく、良く見ると右側に鯉の滝登りが、左側には仙人が描かれている。

御香宮本殿

本殿は慶長10年(1605)徳川家康の命により建立されたもので、昭和60年に国の重要文化財に指定されている。本殿も平成2年より着手された修理により極彩色が復元され、屋根の桧皮葺も美しい。

名水100選

本殿の横にこの神社の名前の由来となった「石井の御香水」が湧き出ている。明治以降は涸れてしまっていたらしいが、昭和57年に復元され昭和60年に環境庁により「名水100選」に選定されている。一口飲んでみたが、なかなか美味しい水である。もしここへ来られる場合は、ペットボトルを用意されればよい。もちろん持ち帰りは無料である。

この神社に来られた時に是非立ち寄っていただきたいのが、社務所の奥にある小堀遠州ゆかりの石庭。社務所の座敷に進んで、石庭を眺めながらくこの庭の由来についてのテープの説明を聞いたが、この内容がなかなか面白かった。

小堀遠州

小堀遠州は茶人、建築家、作庭家として有名な人物だが、元和9年(1619)に伏見奉行に任ぜられた時に庁舎の新築を命ぜられ、寛永11年(1634)上洛した三代将軍家光を新築の奉行所に迎えた時に、家光は立派な庭に感心して褒美として五千石を加増し、遠州は伏見奉行の庭で出世の糸口を掴んで大名となったという。

250px-Kobori_Ensyu.jpg

ところが伏見奉行所は、明治以降は陸軍工兵隊となり、太平洋戦争後は米軍キャンプ場となってすっかり庭はひどく荒されてしまったそうである。その後昭和32年市営住宅になったのを機に、奉行所の北にある御香宮に庭を移すことになり、中根金作氏(中根造園研究所長)が庭石や藤の木などを移して復元されたものだそうだ。なかなかいい庭で、秋の紅葉時はもっと美しいだろう。

明治維新伏見戦跡

御香宮の境内に「明治維新 伏見の戦跡」と書いた石碑がある。その横に元首相の佐藤栄作が鳥羽伏見の戦いを解説した文章が書かれた案内板がある。
それによるとこの御香宮の東側の台地に薩摩軍の大砲が備え付けられて、鳥羽方面からの砲声を合図に、薩摩軍が伏見奉行所に陣取る新撰組に砲撃を開始したことから鳥羽伏見の戦いが始まったとのことである。
しかし、圧倒的に優勢だったはずの幕府軍がなぜこの戦いに敗れたのか。このテーマはいずれまた書くことにしたい。

大倉記念館

御香宮から車で3分も走れば、月桂冠大倉記念館に着く。白壁土蔵の立派な建物が立ち並ぶ街並み自体が素晴らしく、タイムスリップしたような気分になる。

大倉記念館樽
中には、昔の帳場を復元したものや、昔の酒造用具などが展示されている。
入場料は300円だが、お土産にワンカップの特級の日本酒が付いてくる。電車で行けば利き酒コーナーでいろんなお酒が楽しめるのだが、この日は車で行ったので美味しいお酒を飲み損ねてしまった。

伏見のお酒は「御香宮」の名水に代表される地下水が酒造りに最適と言われ、「月桂冠」の他に、「黄桜」、「松竹梅」、「玉乃光」など40近いメーカーがこの近辺にあるそうだ。

十石船

大倉記念館のすぐ南に十石船の乗り場がある。春の桜や秋の紅葉の季節は、古い街並みや酒蔵を見ながらの観光は素晴らしいだろう。ブログでいろんな人が感想を書いているので乗ってみたい気持ちもあったのだが、この日はこれから寺田屋に行き、枚方で昼食を予約していたのであきらめた。

大倉記念館から寺田屋へは歩いて5分程度。途中で月桂冠を創業した大倉家の本宅(文政11年[1828]築)や大正8年築の旧本社などを見ることが出来る。

先程の十石船の乗り場を流れる濠川は、大倉記念館の裏を通って寺田屋の近くを流れている。

伏見船場

「都名所図会」の巻之五に「伏見京橋」の絵が載っている。地図を見ると寺田屋からあと80mも西に行けば伏見区京橋町となる。

「都名所図会」が出版されたのは安永9年(1780)で、龍馬がお龍と出会うのは元治元年(1864)だが、当時は物流を船に頼っていた時代である。このような景色は明治になって鉄道網が発達する頃まではあまり変わらずに続いたと思われる。
龍馬が寺田屋に行く時は図会に描かれた中央辺りで船を下り、宿の近くで見た景色はこのようなものであったのだろう。

「都名所図会」の本文にはこう解説されている。

「京橋の辺は、大阪より河瀬を引登る舟着にて、夜の舟昼の舟、あるは都に通ふ高瀬舟、宇治川くだる柴舟、かずくこぞりてかまびすしく、川辺の家には旅客をとゞめ、驚忽なる声を出して饗応けるも、此所の風儀なるべし。」

なんだか、船頭の声や旅館の客引きの声が聞こえてきそうな情景だが、今の観光地よりも昔の方がはるかに活気がありそうだ。
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「一休寺」と、自然野菜の手作り農園料理「杉・五兵衛」

前回は、御香宮神社と大倉記念館のことを書いたが、この日はそれから寺田屋を見た後、「一休さん」で有名な「一休寺」に向かった。

一休

とんち話で有名な「一休さん」はテレビアニメにもなって日本人なら誰でも知っていると思うのだが、その「一休さん」こと一休宗純禅師が晩年を過ごした「一休寺」というお寺が京都府京田辺市にあることを知ったのはつい最近のことである。友人からも勧められていて、ずっと前から行ってみたいと思っていたので、今回伏見の名所を廻ってから一休寺に行くコースを組んだ次第である。
寺田屋近辺から一休寺まで15kmくらいで、35分くらいで一休寺に着いた。

一休寺は、鎌倉時代の正応年間(1288-1293年)に開かれた妙勝寺が前身で、この寺が元弘年間(1331-1334)に兵火にあって衰退したのを、一休禅師が康正2年(1456)に草庵を結んで中興して「酬恩庵」と号し、その後、一休禅師は88歳で亡くなるまでここで過ごしたそうである。

一休寺名所図会_072

上の画像は「都名所図会」巻之五にある「酬恩庵」の図会である。(名所図会では「妙勝禅寺」と書かれているが本文に「酬恩庵と号す」と付記されている。今は「一休さん」が有名になり過ぎて「一休寺」と呼ばれてはいるがこれは通称で、正式名称は「酬恩庵」である。)

一休寺石畳

門をくぐると参道は非常にきれいに手入れがされていて気持ちが良い。残暑が厳しい日ではあったが、木々の緑が日差しを遮って心持ち涼しく感じられた。秋の紅葉の時期はきっと美しいだろう。

一休和尚の墓

参道を右に曲がると一休禅師の御墓がある。お墓といってもちょっしたお堂であるが、この門には菊の御紋が彫られている。門の左に建てられた木の立札は宮内庁のもので「後小松天皇皇子 宗純王墓」と書かれていた。

はじめは、別のお墓が二つあるのかと思ってあまり深く考えず先に進んでしまったが、良く考えるとお寺に宮内庁の立札があるのは違和感がある。自宅に帰ってから調べて驚いた。一休和尚は第100代後小松天皇の落胤だったという説が有力なのだそうだ。

一休寺のパンフレットには小さく「禅師は人皇百代後小松天皇の皇子であるので御廟所は宮内庁の管轄である」と書いてあるのに気がついたのは家に帰ってからだが、自宅で一休寺のホームページを辿っていくと、一休禅師の墓の説明の部分で、「一休さんは、1394年(応永元年)正月元旦に、後小松天皇と、宮仕えしていた日野中納言の娘照子姫との間に生まれました。」と書いてある。
http://www.ikkyuji.org/keidai_annai/ikkyu_haka/ikkyu_haka.html

Wikipediaによると、東坊城和長の「和長卿記」という本の明応3年(1494)8月1日の条に、「秘伝に云う、一休和尚は後小松院の落胤の皇子なり。世に之を知る人無し」と書かれているほか、「一休和尚行実」「東海一休和尚年譜」などの伝記類においても、出自を後小松庶子としていることなどが書かれている。但し、母親については諸説があるようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BC%91%E5%AE%97%E7%B4%94

一休寺枯山水

中に入ると方丈を囲んで見事な枯山水庭園が広がる。この庭は松花堂弁当で名高い松花堂昭乗と佐川田喜六、石川丈山の三氏合作と言われている。上の画像は方丈から眺めた南庭で、白砂が鮮やかで美しい。庭から屋根が見えるお堂が一休禅師の御廟所である。

一休寺方丈

この画像は方丈で重要文化財に指定されている。中に一休禅師の木造(重要文化財)が安置されている。

一休寺北庭

上の画像は方丈から眺めた北庭で枯滝落水の様子を表現したものだそうだ。

一休寺本堂

方丈を出て本堂に進む。入母屋造の桧皮葺でこれも重要文化財に指定されている。
内部には釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩を祀っているとのことだが、あまりよく見えなかった。

すぐ近くに宝物殿があり、重要文化財の「一休禅師頂相」や、一休禅師の墨跡やゆかりの品が展示されている。

平日であったこともあると思うが観光客は少なく、古刹と素晴らしい庭の景色をほとんど独占出来て大満足だった。

ところで、一休禅師は77歳の時に森(しん)という若い女性と恋に落ちる。彼女は生まれつきの盲目で、身寄りもなく謡を歌って金品を貰って生活する日々を過ごしていたのを一休禅師は哀れに思い、庵に連れて帰るのだがやがてそれが愛情に変わっていく。
一休禅師が森女との愛欲にまみれた生活を隠さずに漢詩で書いた「狂雲集」という詩集があり、次の「里山のフクロウ」というサイトでいくつか現代語訳が紹介されているが、かなりエロチックな内容に誰しも驚いてしまうだろう。
http://minoma.moe-nifty.com/hope/2010/09/---ebc9.html

一休寺を後にして、昼食を予約した農園・杉・五兵衛に向かう。ここは、農園で育てた無農薬野菜や地鶏を料理して出す農園料理が売りだ。次のURLが杉・五兵衛のHPである。
http://www.sugigohei.com/

杉五兵衛本館

昼食を予約したのはここの本館の農園会席料理で、価格はやや高い気がするがこんなに静かで落ち着ける場所で、新鮮な食材の手作り料理が頂けるのは価値がある。

杉五兵衛部屋

私が家内と案内された部屋はこんな部屋なのだが、とても落ち着けて、ゆっくりおいしい食事を楽しむ事が出来た。
おつまみ、前菜、メインディッシュ、手作り豆腐、炊き込みご飯と吸い物、デザートの順に運ばれてくるが、下の写真はメインディッシュである。

杉五兵衛メインディッシュ

右上の黄色い花は「花オクラ」というもので、花びらが食用になっている珍しい植物だ。私は生のままで頂いたが、花びらにほのかな甘みが感じられた。
野菜中心のメニューなのだが、充分おなか一杯になって大満足だ。
杉五兵衛デザート

最後のデザートは自家製の巨蜂と柿のシャーベットとその上に自家製のアイスクリーム。どれもとてもおいしかった。

この施設は本館以外に、テラスハウスやパン工房や売店がありそこでも食事をすることが可能だ。 また売店では、農園で作られた野菜や果物、ジュースやジャムや菓子類やパンなどを買うことが出来る。
農薬や化学肥料を使わず、残飯を餌にしてロバや鶏を買い、糞は畑の肥料にする自然循環農法を営んでおられる。園内で動物と遊ぶこともできるし果物や野菜を収穫するイベントも行われているようだ。広さは5haで甲子園球場の敷地くらいの広さはあり、散策しても楽しそうだ。

自宅に帰っていろいろ調べると、昨年の7月18日付の「日経プラスワン」の「何でもランキング 夏休みに行きたい農園レストラン」で、この農園・杉・五兵衛が大阪で唯一全国ベスト10(第9位)に入っていたそうだ。近畿圏では和歌山であと1件入っていたようだが、大都市近郊でこんなに広い農園が残っていたこと自体が奇跡のように思える。

この杉・五兵衛の園主がHPで書いていることが良い。
「農耕とは自ら種を播き、耕し、育てそしてそれを食した。その育てるという過程におのずと教育が生まれ、花が咲き実がつくことにより情操が生まれる。さらに収穫したものをいかに蓄え活かし食するかという中に文化が芽ばえる。
農業という産業に分化してからは、いかに多くの金銭を得るかとする事ばかりに重点が置かれ、農の楽しみがなくなり教育や文化迄もが衰退してしまっている。」
そして、農園の経営とは「農業として潤し、かつ教育、情操、安らぎ、文化をも含み、経済の奴隷にならず大地に働く誇りを持った営みと考えます。」と、実に立派な経営者だ。この考え方が農業従事者に浸透していたら、こんなに日本の農業が衰退することはなかっただろう。

しかしどんなにいいお店でも、お客様が来店されてお金を落としてくれなければ生き延びることができない。これからも杉・五兵衛に時々足を運んで応援することにしたい。
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日本三景「天橋立」の楽しみ方~~~二年前の「天橋立」カニ旅行 その①

日本三景の一つである「天橋立」は今まで社内旅行などで何度か行く機会があった。
観光バスが案内してくれるのは北側の傘松公園か南側の天橋立ビューランドのいずれかで、電車で行く場合は天橋立ビューランドで見ることが多かった。
行く季節は秋から冬が多く、景色を楽しんだ後は日本海のカニを堪能することが多い。

天橋立ビューランド

上の画像は天橋立ビューランドから見た景色であるが、ここから見る天橋立は龍が天に登る姿にたとえられ「飛龍観」と呼ばれている。ここから見る天橋立は確かにすばらしい。

しかし、せっかく車で天橋立に来たのだから違う景色も見たいものだと思って、2年前に成相寺(なりあいじ)の裏の山上(成相山)にある「成相山パノラマ展望所」に行ったことがある。
ここは成相寺の境内で拝観料がいるが、傘松公園より西側でずっと高い場所から天橋立を見降ろすことになるので、晴れていれば非常にスケールの大きい景色を眺めることが出来る。道は未舗装でデコボコしているが、ここまで来るのに車で登れるのがありがたい。

天橋立成合寺

上の画像は「成相山パノラマ展望所」から見た天橋立だが、天橋立だけでなく栗田半島から伸びる黒崎半島までの全景を見渡せる。

成相寺は西国三十三箇所第28番札所で、寺伝によれば慶雲元年(704)真応上人の開基で、文武天皇の勅願寺となったという由緒あるお寺だ。

成相寺本堂

本堂は安永3年(1774)に再建されたもので、本尊の左の地蔵菩薩坐像は重要文化財に指定されているほか、文化財がいくつかある。

他にもいろんな角度から天橋立を鑑賞するスポットがあり、次のサイトで「天橋立十景」といわれる鑑賞する名スポットが紹介されており、それぞれの場所から見る天橋立がどんな景色になるか画像も見ることが出来る。
http://www.h4.dion.ne.jp/~yama44/kanko/images/hashitate.htm

宮津滝上公園から15分歩いた展望所から見る「弓ヶ観」や、岩滝町の板列展望台からみる「一字観」などもなかなか良さそうで、今度行く機会があればチャレンジしたい。

このサイトの中に「雪舟観」の展望所の案内も書かれている。

天橋立図sessyu

雪舟といえば室町時代に活躍した水墨画家だが、その代表作で国宝となっている「天橋立図」という水墨画がある。雪舟がこの絵を描いたのがこの辺りだろうということで、「雪舟観展望所」が作られた。

雪舟観

しかし、上のサイトの雪舟観展望所から見た天橋立の写真は雪舟の絵と随分異なる。雪舟の絵のように天橋立の西側の海(阿蘇海)が大きく見えるためにはもっと高いところに登るしかないが、栗田半島にはそのような高いところがなく雪舟の絵のように見える場所は実際には存在しない。雪舟の天橋立図は、鳥瞰図として描かれたものであって写生画ではないのだ。

天橋立を少し歩くのもいい。まずは南端にある智恩寺から紹介しよう。

智恩寺

智恩寺は大同3年(808)年に平城天皇の勅願寺として創建されたお寺で、文殊菩薩を本尊とし、奈良県桜井市の安部文殊院、山形県高畠町の亀岡文殊とともに日本三文殊の一つとされている。上の画像は智恩寺の山門で宮津市の指定文化財となっている。

智恩寺多宝塔

智恩寺の多宝塔は明応10年(1501)に落成したもので、国の重要文化財に指定されている。 また本尊の文殊菩薩も重要文化財であるが、御開帳されるのは毎年7月24日一度だけだそうだ。

廻旋橋を渡り天橋立を歩きだす。天橋立は延長3.6kmの砂嘴で、道に沿って8000本あるという松並木がずっと続いている。砂嘴の幅は広いところでも170m、狭いところでは20mしかない。

天橋立砂浜

東側の外海(宮津湾)は白い砂浜が続き、西側の内海(阿蘇海)には砂浜がなく、水深は深く左右の景色は随分異なる。

途中で与謝野寛・晶子の歌碑や蕪村の句碑等があり、もう少し行くと磯清水という井戸があり、四方海に囲まれて砂浜が近い場所でありながらここの水は不思議な事に塩分を含んでおらずおいしい水で、環境庁から昭和63年に全国の「名水百選」に選ばれている。

磯清水

古来から不思議な名水とされ、昔和泉式部が「橋立の松の下なる磯清水都なりせば君も汲ままし」と詠ったと伝えられている水をお試しあれ。

天橋立の近くで、グルメの方に是非勧めたいところは「飯尾醸造」。
以前このブログで月間サライ誌の『世界に誇る日本の「食」』という特集でこの会社の製品が紹介されていたことを書いたが、明治26年創業で日本一美味しいと評判の酢のメーカーである。

飯尾醸造

テレビや新聞や雑誌で紹介される事が多いそうだが、マンガ「美味しんぼ」の第66巻の第二話「真心に応える食品」にここの製品である「富士酢」が紹介されているそうだ。

「富士酢」は酢1リットルにつき200gのお米(コシヒカリが8割と酒米の「五百万石」が2割)を使うそうだが、これはJAS規格の5倍量のお米だそうだ。しかもお米は無農薬の新米のみを使い、自社の蔵で「酢もともろみ」を作り、昔ながらの「静置発酵法」で100日間かけて発酵させるそうだ。多くのメーカーはタンクに空気を送り込んで人工的に発酵させる「全面発酵法」で8時間から長くても数日で発酵が終わるのだそうだが、実際使って見ると、大手メーカーの酢とは全然違いまろやかさがありツンツンしない。一度使えばその良さが分かると思う。

日曜・祝日は残念ながら休業となるが、この工場に行けば、製造工程の見学はもちろんのこと、濁り林檎酢、無花果酢、紅芋酢、石榴酢などの果実酢や健康酢などが試飲できるし、販売もしている。
酢の苦手な人も飯尾醸造の製品ならきっと飲みやすいと思っていただけるのではないか。 飯尾醸造のHPのURLは次のとおりである。
http://www.iio-jozo.co.jp/

古い街並みや住宅が見たければ、三上家住宅がお勧めだ。三上家は酒造業・廻船業・糸問屋業を営む一方で、宮津藩の財政などに関わってきた豪商で、屋敷は天明三年(1783)築の主屋や酒造施設(1830築)などが並んでいる。

三上家住宅

敷地は1000㎡を超え建物が素晴らしいし、庭も良かった。

2年前に天橋立で泊まった宿は「茶六別館」。この宿は宮津温泉の数寄屋造りの料理旅館で、創業290年の老舗である。建物に風情があるだけでなく、料理も良くサービスも良く、お風呂も良く、価格も比較的リーゾナブルで誰にでも勧められる宿だ。

料理はもちろんカニづくしの会席だったが、美味しいカニをフルコースで頂いて大満足の一日だった。
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伊勢神宮より古い神社と伊根の舟屋を訪ねて~~二年前の天橋立カニ旅行②

宮津温泉の茶六別館で朝食を済ませて、天橋立をゆっくり眺めながら、傘松公園の近くの「元伊勢籠神社*(もといせこのじんじゃ)」に行く。(*「籠神社」とも言う。)

籠神社

「元伊勢」という字が冠されるのは、天照大御神や豊受大神を伊勢神宮の内宮・外宮に鎮座する前にこの場所で祀っていたという伝承をもつことを意味するそうだが、第十代崇神天皇の御代に日本国中に疫病が大流行したらしく、それがきっかけとなって何度も遷宮を繰り返し、全国に「元伊勢」と言われる神社が、この神社の他にも奈良、京都、岡山、三重、滋賀、岐阜、愛知の各府県にいくつか残されているそうなのだ。

もともとこの神社は神代より豊受大神(現在の伊勢神宮外宮の御祭神で穀物の女神)を今の奥宮のある真名井に鎮座されていたのだが、崇神天皇の御代に天照大御神が大和国笠縫邑(現在の奈良県桜井市)から当社地に遷座され、吉佐宮(よさのみや)と称して両大神を一緒に祀る事になったそうだ。その後天照大御神は第十一代垂仁天皇の御代に、豊受大神は第二十一代雄略天皇の御代に今の伊勢神宮の場所にここから各地を回って、伊勢の国に鎮座することになったという。
この経緯については「日本書紀」にも簡略に書かれているが、「皇太神宮儀式帳」や「倭姫命世紀」「止由気宮儀式帳」という書に詳しく書かれているそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E4%BC%8A%E5%8B%A2

これだけ歴史のある神社なので文化財も多い。

籠神社の狛犬

まず境内参道に鎮座する狛犬は鎌倉時代のものだが、国の重要文化財に指定されている。

また公開されてはいないが、籠神社の創祀以来の祀職である海部氏の始祖から平安時代初期までの家系図が、我が国で現存する最古の家系図として国宝に指定されている。なお、現在の宮司である海部氏は神代以来血脈直系で世襲されてきており、現宮司が82代と伝えられているそうだ。

これも公開されていないが、日本最古の伝世鏡(古墳などで発掘されたのではなく代々継承されてきた鏡)である邊津鏡という前漢時代の鏡と息津鏡という後漢時代の鏡があり、前者は今から2050年位前に、後者は今から1950年位前に作られたものだそうだ。

天橋立図sessyu

今回「元伊勢籠神社」のHPを読んで初めて知ったのだが、前回紹介した雪舟の描いた国宝「天橋立図」は、雪舟がこの籠神社を描いて奉納し、近世までは海部宮司家にて大切に保存されてきたものだそうだ。昔は天橋立そのものが籠神社の神域であり参道であったと書かれているが、それが事実なら何故雪舟が「天橋立図」をこのアングルで描いたのかがなんとなくわかる。籠神社の境内すべてを周囲の山とともに書きこむには、もっとも収まりの良いのがこの構図のような気がするのだ。
http://www.motoise.jp/main/top/index.html

倭宿禰像

ところで、籠神社の境内に浦嶋太郎に良く似た銅像がある。これは倭宿禰命(やまとのすくねのみこと)の像で、海部宮司家の4代目の祖にあたる人物だ。籠神社のHPによると神武天皇御東遷の途中で「明石海峡に亀に乗って現れ、天皇を大和の国へ先導したといわれ、さらに、大和建国の功労者として倭宿禰の称号を賜った」と書かれている。この記述は、「古事記」の神武東遷の際に現れ倭の国造の祖となったサオツネヒコの記述とピッタリ一致するのだが、籠神社のHPの記述の原典は何なのだろうか。

真名井本殿dscn0499

私は行かなかったが、籠神社の奥には奥宮である真名井神社がある。前述したようにこの場所が神代より豊受大神を祀っていたところである。境内では有名な真名井の御神水が湧いているそうだ。

籠神社から伊根の舟屋に行ってから、浦嶋神社に行ったのだが、倭宿禰のことを書いたので先に浦嶋神社の事を先に書こう。

浦嶋神社は浦嶋太郎伝説の中では最も古い神社だが、浦嶋太郎の伝説は本当に古い話で、8世紀に誕生した「日本書紀」「古事記」「万葉集」「風土記」といった古代を代表する文書のことごとくに浦嶋太郎(浦嶋子)を記録しているのである。

「日本書紀」は日本の正史でありながら巻第十四雄略天皇に実在の人物として「水江浦嶋子」が船に乗って釣りをしていると大きな亀を得て、その亀が女性になって結婚し、一緒に海中に入り仙境を見て回った話が出てくるのだが、どうして我が国の正史にお伽話のような記述があるのだろうか。(「丹後国風土記」の逸文にはその物語がもっと詳しく書かれている。)

「古事記」には神武天皇の東征の話の中で、「亀の背に乗り、釣りをしながら羽ばたき来る人」がやってきて水先案内人を買って出たシーンがあり、この人物が先程の籠神社のHPでは倭宿禰ということになるが、後世の浦嶋太郎の話は古事記の神武東征の水先案内人の話と「日本書紀」「丹後国風土記」の浦嶋子の話とが一部合体したような話だ。

また「古事記」「日本書紀」には景行・成務・仲相・応神・仁徳天皇の五代の天皇に仕えた武内宿禰という人物が出てくる。同一人物とすれば300才近く生きていたことになるのだが、これはちょうど浦嶋太郎が竜宮城で生活した期間と重なって来るのも面白い。

浦嶋神社

上の画像が浦嶋神社の鳥居と拝殿である。
この浦嶋神社の創祀年代天長二年(825)と古く浦嶋子を筒川大明神として祀っている。
この神社の案内板によると
「浦嶋子は日下 部首等の祖先に当り、開化天皇の後裔氏族である。その太祖は月読命の子孫で当地の領主である。浦嶋子は人皇二十一代雄略天皇の御宇二十二年(四七八)七月 七日に、美婦に誘われ常世の国に行き、その後三百有年を経て五三代淳和天皇天長二年(八二五)に帰って来た。この話を聞き浦嶋子を筒川大明神と名付け小野篁を勅使とし宮殿を御造営された。」とある。

浦嶋社殿の彫刻

拝殿には立派な彫刻がなされており、藁で編まれた亀が架けられているのが面白い。

浦嶋神社はこれくらいにして、伊根の舟屋の話題に移そう。
伊根の舟屋は伊根湾を取り囲むように海面すれすれに建築され、1階は船のガレージのようになっており2階は住居という造りになっている。このような舟屋が伊根に約230棟あり、漁村では全国で初めて国の重要伝統的建造物保存地区の選定を受けている。

この舟屋が軒を連ねる伊根湾の景色を高台から望める場所に道の駅があり、そこに朝揚げたばかりの旬の魚が味わえるレストランがある。
伊根漁港は日本三大ブリ漁場のひとつで、伊根ブリと言われるコリコリの歯ごたえとともに脂ののったジューシーなブリは旨かった。

高台から眺める舟屋もいいが、伊根湾めぐりの遊覧船から間近に眺める舟屋もいい。

伊根舟屋

それぞれの家がすべて男の仕事場である豊かな海につながり、仕事に不可欠な船は家とともにあり、家族とともに支えられ、集落の人々とは海を通じて固い絆で結ばれた関係が続いたからこそ、この景観が残されているのだと思う。

伊根遊覧と鷗 095

どこか人の温もりを感じる舟屋の景色を楽しみつつ、時おり船の周りに集まるカモメと戯れる時間も楽しかった。
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東大寺の大仏よりもはるかに大きかった方広寺大仏とその悲しき歴史

ネットで古い写真を探していると、明治13年(1880)に撮影された京都名所の写真集に遭遇した。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/satsuei/page7/KM_08_01_001_1.html

方広寺の鐘古写真

国際日本文化研究センターのサイトにいけば誰でもこの写真集を見ることが出来るのだが、そこに写っている写真は私も何度か行ったことがあるようなお寺や神社のものが大半だ。写真を見てどこを撮影したものかはある程度見当がついたのだが、この写真だけは少なからず違和感を覚えた。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/satsuei/page7/KM_08_01_011F.html

その違和感は、この写真集が「京都名所撮影」という表題であるにもかかわらず立派な鐘が雨曝しになっている写真で、なぜここが「名所」なのかと疑問に感じたからだ。この写真を見て急に方広寺の事を調べたくなった。

以前何度かこのブログで紹介したが、本文を 京都の俳諧師秋里籬島が著し、図版を大坂の絵師竹原春朝斎が描いて安永九年(1780)に刊行された「都名所図会」という本があり、この全ページと翻刻文が先程の国際日本文化研究センターのHPで紹介されている。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/c-pg1.html

都名所図会方広寺2

この「都名所図会」第三巻に方広寺の立派な伽藍の絵が描かれているのだが、出版された当時にはこのような大きな伽藍が存在していたようだ。
「都名所図会」の本文には「大仏殿方広寺は、後陽成院御宇天正六年、豊臣秀吉公の御建立なり。本尊は廬舎那仏の坐像、御丈六丈三尺。仏殿は西向にして、東西廿七間南北は四十五間なり。楼門には金剛力士の大像を置、長は壹丈四尺なり。門の内には高麗犬あり、金色にして長七尺…」などと記されている。

一丈は3.03m、一尺は30.3cmであるから、方広寺大仏の高さ六丈三尺は約19mということになる。ちなみに東大寺の大仏は五丈三尺で約16m(実測14.7m)であるから、方広寺の大仏は東大寺の大仏よりも一回り大きかったということになる。
また方広寺大仏殿は高さが49m、南北88m、東西54mということなのだが、現存で世界最大の木造建造物である東大寺大仏殿と比較すると高さは49mで同じだが、東大寺は正面が57,5mで奥行きが50.5mだから、方広寺大仏殿についても東大寺よりも一回り大きな建物だったのだ。豊臣秀吉は、京都の民衆を驚かせるような寺を造りたかったということなのか。

しかし、方広寺の歴史を調べると、何者かに呪われた寺であるかのように、何度倒壊や破損を繰り返している。Wikipediaの記事などを参考に、方広寺の歴史を振り返ってみよう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BB%8F

天正16年(1588)に豊臣秀吉が発した刀狩令には、「没収した武器類を方広寺の大仏の釘や鎹(かすがい)にする。そうすれば百姓はあの世まで救われる」と書かれていたことは有名な話だが、この寺の造営が開始されたのは天正14年(1586)で、刀狩令の二年前から工事が始まっているのである。

文禄4年(1595)に大仏殿がほぼ完成し、高さ約19mの木製金漆塗坐像大仏が安置されたのだが、翌年の慶長元年(1596)に地震があり、開眼前の大仏は倒壊してしまった。
翌年秀吉は善光寺の本尊*を方広寺の本尊としたのだが、この頃から秀吉は病気になり、それが善光寺如来のたたりだと噂されるようになった。翌慶長3年(1598)にこの本尊を信濃(もともとの本尊のあった信濃善光寺)に送り返すのだが、秀吉はその仏像が送られた翌日(8月18日)に亡くなったのだそうだ。そして8月22日に大仏のないままで、方広寺大仏殿で開眼法要が行われたという。
*善光寺の本尊は戦国武将の思惑で全国各地を流転し、当時は甲府にあった。
http://zenkozi.com/about/wandering.html

その後秀吉の遺志を継ぎ豊臣秀頼によって大仏の再建が行われたが、慶長7年(1602)に鋳物師の過失により仏像が融解して出火し、大仏殿は炎上してしまう。この火災については徳川家康が江戸に幕府を開いた直前の事だけに、放火説も根強くあるようだ。

慶長13年(1608)10月に、豊臣秀頼は再び大仏および大仏殿の再建を企図する。慶長15年(1610)から建築が始まり、慶長17(1612)年に大仏殿と銅製の大仏が完成した。この時は徳川家康も諸大名に負担を命じて協力したようである。

慶長19年(1614)に梵鐘が完成し、南禅寺の禅僧文英清韓に命じて銘文を起草させ落慶法要を行おうとしたが、7月に徳川家康より異議が唱えられ法要中止の求めがあった。有名な「方広寺鐘銘事件」だ。

清水寺・方広寺 057

上の画像が有名な方広寺の鐘だが、方広寺に行ってこの鐘をよく見てみると「君臣豊楽」「国家安康」という文字が白墨でわかりやすく囲まれていた。
この事件は、豊臣家攻撃の口実とするため、家康が金地院崇伝らと画策して問題化させたものであるという考え方が一般的であるが、銘文を作った文英清韓という人物は豊臣氏とつながりが深く、同じ南禅寺住僧で徳川家康の顧問であった金地院崇伝と政治的に対立していたと言われており、文英清韓が自ら「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」と弁明したことが『摂戦実録』という書物に記されているそうだ。
文英清韓が意図的に隠し入れた文字を金地院崇伝が目ざとく見つけて家康に伝え、政治問題化したという見方もあるが、文英清韓が金地院崇伝に繋がっていて、二人で豊臣家を罠にはめたという見方はできないか。この事件の後文英清韓は処分を受けて南禅寺から追放されているが、なぜか蟄居中に林羅山のとりなしなどにより許されているのだ。 この事件にはかなり裏がありそうだが、詳しいことはよくわからない。

方広寺鐘楼

皮肉なことに、方広寺で創建以来の姿で今も残っているものはこの鐘だけなのだ。 鐘の銘文が徳川家を冒涜するものだとしながら、大坂の陣で豊臣軍を打ち破っても、家康はこの鐘を鋳潰さなかったし銘文を変えさせることもしなかった。何か徳川家康の意図があったような気がするのだが、この点はよくわからない。
ちなみにこの鐘の高さは4.2m、重さは82.7tとかなり大きく、東大寺、知恩院の鐘とともに日本三大名鐘の一つとされ、国の重要文化財に指定されている。

話を方広寺の歴史に戻そう。
「方広寺の鐘銘事件」の48年後の寛文2年(1662)に地震があり、また大仏が傷んでしまい再び木造で造られることとなる。壊れた大仏の銅は寛永通宝の鋳造に用いられたそうだ。


伏木勝興寺所蔵の洛中洛外図に描かれた方広寺

【洛中洛外図屏風に描かれた方広寺】

さらに寛政10年(1798)年に落雷による火災で大仏殿も木造の大仏も焼失してしまう。先程の紹介した「都名所図会」の大仏殿の絵はこの時に焼失する前に描かれたものであることが分かる。

この焼失の後は、さすがに江戸幕府は元の規模の大仏殿や大仏を再建することはしなかった。
天保年間(1830~1843)に現在の愛知県の有志が、旧大仏を縮小した肩より上だけの大仏像と仮殿を造り寄進したのだが、それも、昭和48年の3月28日の深夜の火災で焼失してしまった。

創建以来約400年の間に、大仏は5回潰れ大仏殿は3回倒壊したということになるのだが、方広寺の大仏殿や大仏がまるで魔物にとりつかれているか、何者かに呪われているかのような歴史なのだ。

方広寺

上の画像は方広寺の現在の本堂だが、日本三大名鐘の大きさとはちょっと釣り合わない。 お願いすれば本堂も拝観できたのかもしれないが、私が方広寺を訪問した日は鐘楼だけを案内していた。

方広寺鐘楼天井

明治の初めに鐘楼が取り壊されて、しばらくは方広寺の鐘は雨曝し状態になっていたのだが、明治17年(1884)に鐘楼が再建されて現在にいたっている。天井には綺麗な彩色画が描かれている。
鐘楼の中に入ると焼失前に屋根の軒先に吊るされていた風鐸や柱の金輪などが無造作に地面に置かれていて、その大きさに驚かされた。

そして方広寺の南側には豊国神社がある。
豊臣秀吉は慶長三年(1598)八月に63歳で没し、その遺命により東山阿弥陀峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として豊国廟が建てられ、その周囲に八十余りの廟社殿が建設され、御陽成天皇は秀吉に正一位を授け豊国大明神を与えられたという。

しかし慶長20年(1615)の大阪の陣で豊臣家が滅亡すると、徳川家康により豊国大明神の神号が廃され、さらに豊国神社の破却を命じられ、社領は没収され、社殿は朽ちるまま放置されしまう。

しかし明治元年(1868)明治天皇が大阪に行幸したときに、豊臣秀吉を、天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告し、明治13年(1880)に方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し遷座が行われたそうだ。
明治政府にとっては、豊臣家は反徳川の象徴でもあったので再興したとでも考えれば良いのだろうか

豊国神社

豊国神社の唐門は桃山時代の建築物らしく豪華絢爛で、「京の三唐門」の一つとされ国宝に指定されている。ちなみに「京の三唐門」の残りの二つは西本願寺の唐門(伏見城から移築)、大徳寺の唐門(聚楽第から移築)で、三唐門総てが秀吉に繋がるのである。
この唐門は明治の再興の際に南禅寺の塔頭「金地院」から移築されたものであることはわかっている。しかしそれ以前はどこにあったかについては、もともと豊国神社にあったという説、二条城にあったという説、伏見桃山城にあったという説に分かれるのだが、現在は伏見桃山城の城門であったという説が多数説のようだ。

創建当時の方広寺の境内は広く、現在の豊国神社や京都国立博物館をも含んでいたという。

方広寺石垣

今の方広寺に大寺の面影を感じるのは、豊国神社正面の立派な石垣もそうだが、神社の正面を南北に通じる「大和大路通り」が、現在の方広寺から国立博物館までだけが数倍広くなっている。ヤフーの航空写真では「大和大路通り」だけでなく、東西に走る「正面通り」もかなり方広寺の前で道幅が拡がっているのがよくわかる。最も広い豊国神社の鳥居の前の道幅は40m近くあると思う。

方向寺航空写真

いつの時代においてどこの国においても、教科書に書かれるような歴史は、その時代や国の為政者にとって都合の良いように書き換えられ、国民を洗脳するプロパガンダ的な要素が少なからずあるものだと考えている。

わが国において豊臣秀吉という人物の評価は江戸時代に貶められ、明治になって復活したが、第二次大戦後に再び貶められている。

戦後のわが国の歴史叙述は様々な国の圧力によってかなり歪められていることを前回の記事で触れたが、日本以外の多くの国にとっては豊臣秀吉が権力の亡者であり単なる侵略者としておくことが、自国の歴史を叙述する上で都合が良いということを考えてみるべきではないだろうか。
以前このブログで書いたように、秀吉が何故伴天連を追放し、なぜ朝鮮出兵をしたかを追求していくと、西洋社会の世界侵略や奴隷貿易や朝鮮半島の奴隷社会などの暗部に触れざるを得なくなってくる。その暗部について広く知られてしまっては自国の歴史を美しく描けない国が少なくないので、秀吉を貶めることによってその暗い史実を封印するように仕向けているという可能性はないのだろうか。
歴史の記述に関しては、史実に基づかない他国からの圧力には決して屈してはならないと思うし、わが国でいずれ秀吉が再び評価され、方広寺が注目される時代が来ることを信じたい。
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【ご参考】
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坂上田村麻呂と清水寺

先日京都の清水寺に行ってきた。
2月の寒い時期は京都に来る観光客が少ない時期ではあるのだが、週末ともなるとさすがに清水寺は別格で、訪れる観光客は多かった。

清水寺

この清水寺の広い境内の中に、1994年に建立された「阿弖流為 母禮之碑」(アテルイ モレの碑)がある。多くの観光客と同様に、私もこの碑の前を今まで何度も通り過ぎてきただけだった。

阿弖流為母禮之碑

この碑が何のために建立されたのか、長い間私も良く知らなかったので調べてみると、結構興味がわいたので今回はこの碑のことを記すことにしたい。

私が学生時代に歴史を学んだ時は「阿弖流為」「母禮」という人物を学んだ記憶がないのだが、最近の教科書では書かれていることがあるそうだ。「阿弖流為」は平安時代初期の蝦夷(えみし)の頭領であり、「母禮」は副頭領である。

この碑の裏にこう書かれている。
「八世紀の末頃まで、東北・北上川流域を日高見国(ひたかみくに)と云い、大和政府の勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していた。政府は服属しない東北の民を蝦夷(えみし)と呼び蔑視し、その経略のため数次にわたり巨万の征討軍を動員した。胆沢(いざわ:岩手県水沢市地方)の首領、大墓公阿弖流為(たのものきみあてるい)」は近隣の部族と連合し、この侵略を頑強に阻止した。なかでも七八九年の巣伏(すぶせ)の戦いでは、勇猛果敢に奮闘し征東軍に多大の損害を与えた。八〇一年、坂上田村麻呂は四万の将兵を率いて戦地に赴き、帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築いた。阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、同胞五百余名を従えて田村麻呂の軍門に下った。田村麻呂将軍は阿弖流為と副将磐具公母礼(いわぐのきみもれ)を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。しかし公家達の反対により阿弖流為、母禮は八〇二年八月一三日河内国で処刑された。
平安建都千二百年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為、母礼の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺境内に建立す。
両雄以って冥さるべし。」

阿弖流為碑文

碑には「岩手県水沢市」と書いてあるが、その後水沢市は平成18年(2006)の市町村合併により「奥州市水沢区」となっているようだ。

東北地方には大和民族とは異なる人々の生活があった。その人々を政府は「蝦夷」と呼んで蔑み、8世紀の後半にはその地方を支配しようとしたが、この動きに抵抗し自衛のために戦ったのが阿弖流為たちであった。

阿弖流為

政府軍が相当苦戦した記録が『続日本紀』に残されている。
延暦8年(789)に征東将軍の紀古佐美(きのこさみ)が遠征し、阿弖流為の居所の近くまで進軍したが、退路を断たれて挟み撃ちとなり多くの戦死者・溺死者を出して敗退している。(巣伏の戦い)
この戦いがあった巣伏(すふし)という場所は、北上川は何度も流域を変えているので特定は難しいが、岩手県奥州市江刺区愛宕金谷に「巣伏古戦場碑」が建てられており、また奥州市水沢区佐倉河北田に「巣伏古戦場跡公園」があり、その公園の中に「巣伏の戦いの跡」と書かれた石碑があるという。

『続日本紀』を読むと、大敗したにもかかわらず自分の手柄ばかりを大げさに報告する紀古佐美に、桓武天皇が激怒する場面が記述されている。面白いので『続日本紀』の現代語訳の一部を引用する。

「七月十七日 天皇は持節征東大将軍の紀朝臣古佐美らに次のように勅した。
…いま先の奏状と後の奏状を調べると、賊の首を斬りとることができたのは八十九首のみで、それに対し官軍の死亡者は千人余り。負傷者に至ってはおよそ二千人に及ぼうとしている。そもそも斬り取った賊の首は百級にも満たなくて官軍の被害者は三千人に及んでいる。このような状態で、どうして喜べるというのであろうか。ましてや大軍が賊の地を出て還る際に、凶悪な賊に追討されたことは一度ならずあった。ところが奏上では『大兵を挙げて一たび攻撃すると、たちまち荒廃の地になりました』といっている。事の経過を追ってみれば、これはほとんど虚飾であると思う。
…すべて戦勝報告を奏上する者は、賊を平定し功を立ててからその後に、報告すべきである。ところが今、賊の奥地も極めずに、その集落を攻略したといい、慶事と称して至急の駅使を遣わしている。恥ずかしいとは思わないのか。」(講談社学術文庫『続日本紀(下)』p.418-420)

桓武天皇は紀古佐美を征東大将軍から外し、延暦12年(793)に征夷大使として大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を東北に送った。その戦役で征東副使である坂上田村麻呂が活躍したことが『類聚国史』に簡記されている。(「副将軍坂上大宿祢田村麻呂以下征蝦夷。」)


坂上田村麻呂は、延暦15年(796)には陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任し、翌年には征夷大将軍に任じられ、延暦20年(801)には蝦夷を討ったと報告している。
また坂上田村麻呂は、いったん帰京してから再び出征し、延暦21年(802)のはじめに北上川中流域に胆沢城を築き、その年の夏には、蝦夷の頭領阿弖流為と副頭領母禮を服属させることに成功している。

清水寺の「阿弖流為 母禮之碑」の碑に刻まれている話は、正史にはどのように記述されているのだろうか。いろいろ調べてみると『日本後紀 巻第十』逸文(『類聚国史』『日本紀略』)にその記録が見つかった。講談社学術文庫の現代語訳を引用する。

「(四月十五日) 造陸奥国胆沢城使陸奥出羽按察使従三位坂上大宿祢禰田村麻呂らが、『夷大墓公阿弖利為(えみしおおものきみあてりい)・磐具公母礼(いわぐのきみもれ)らが五百余人の仲間を率いて降伏しました』と言上してきた。」(講談社学術文庫『日本後紀(上)』p.272)

「(七月十日) 造陸奥国胆沢城使坂上田村麻呂が帰京した。夷大墓公阿弖利為と磐具公母礼ら二人を従えていた。」(同上書 p.274)

「(八月十三日) 夷大墓公阿弖利為・磐具公母礼らを斬刑とした。両人は陸奥国内の奥地である胆沢地方の蝦夷の首長であった。両人を斬刑に処する時、将軍坂上田村麻呂らが『今回は阿弖利為・母礼の希望を認めて郷里へ戻し、帰属しない蝦夷を招き懐かせようと思います』と申し出たが、公卿らは自分たちの見解に固執して『夷らは性格が野蛮で、約束を守ることがない。たまたま朝廷の威厳により捕えた賊の長を、もし願いどおり陸奥国の奥地へ帰せば、いわゆる虎を活かして災いをあとに残すのと同じである』と言い、ついに両人を引き出し、河内国の植山で斬った。」(同上書 p.275~276)
と、想像していた以上に詳しく書かれていた。

清水寺の「阿弖流為 母禮之碑」にある、「蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく」という表現は正史には書かれていない部分だが、田村麻呂が両人を「政府に助命嘆願」したことについては間違いないと考えて良いだろう。
阿弖流為らが処刑された「河内国の植山」の場所については諸説があるが、枚方市牧野阪2丁目の牧野公園(阪上公園)に「阿弖流為の首塚」があるという。

坂上田村麻呂画像

坂上田村麻呂は、延暦23年(804)に再び征夷大将軍に任命され、三度目の東北遠征を期したのだが、民の負担を考慮して中止となり、その翌年には参議、大同元年(806)には中納言、弘仁元年(810)には大納言に任じられ順調に出世していく。

次に清水寺と坂上田村麻呂との関係を書かねばならない。
清水寺の開創は宝亀9年(778)で奈良子島寺(こじまでら)の賢心(けんしん:後の延鎮上人)という僧侶だが当時は小さい草庵があっただけだったという。その賢心が宝亀11年(780)に坂上田村麻呂と出会い、賢心の話に感銘した田村麻呂が、自らの邸宅を仏殿に寄進したのが清水寺の創建だと言い伝えられており、その後幾度か災害や戦災に遭い再建復興を繰り返してきたそうで、現在の伽藍は徳川三代将軍家光により寛永10年(1633)に再建されたものだという。
http://www.kiyomizudera.or.jp/about/history.html

清水寺三重塔

清水寺のホームページによると、坂上田村麻呂により清水寺の諸堂が建立されたとあるのだが、どうして一武人にそれだけ豊かな財力があったのかと長い間不思議に思ってきた。その点をネットで調べると、出典がよく解らないのだが、桓武天皇から坂上田村麻呂に長岡京の紫宸殿が下賜されたことを書いているサイトがやたらある。JTBやJR西日本のサイトでもそう書かれているので、そのような言い伝えがあることは間違いなさそうだ。

以前このブログで「桓武天皇が平城京を捨てたあと、二度も遷都を行った経緯について」という記事を書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-65.html

桓武天皇は延暦3年(784)に長岡京に遷都したのだが、延暦四年(785)に長岡京造営の責任者・藤原種継が何者かによって射殺され、その事件に連座したとして桓武天皇の異母弟で皇太子であった早良親王が憤死。その後桓武天皇の身の回りに不幸な出来事が相続き、桓武天皇は延暦13年(794)に平安京への遷都を行なう。その時には長岡には紫宸殿となるべき建物が残されていたのだが、使い道のなくなった建物を、東征の功績にと田村麻呂に下賜したという可能性は高いような気がする。
田村麻呂の時代には清水の舞台は存在しなかったようだが、それでもこれだけの境内に相応しい本堂となれば、かなりの規模であったはずだ。桓武天皇の下賜がなければ、坂上田村麻呂が大きな堂宇を建てることは難しかったのではなかったか。

坂上田村麻呂は光仁天皇、桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇と4代の天皇に仕え、嵯峨天皇の時代の弘仁2年(811)5月に54歳で没したが、『日本後紀』巻第二十一に田村麻呂の業績を讃える文章がある。業績を書いた後にこう締めくくっている。
「…しばしば征夷のため辺地で軍事行動に従事し、出動するたびに功績をあげた。寛容な態度で兵士に臨み、命を惜しまず戦う力をひきだした。粟田の別荘で死去し、朝廷は従二位を贈った。行年五十四」(講談社学術文庫『日本後紀 中』p.229)

短い文章ではあるが、坂上田村麻呂は、武人としてだけではなく、人間的にも素晴らしい人物であったことが窺える。だからこそ、阿弖流為と母礼が田村麻呂に恭順の意を示したのだと思うし、4代もの天皇から厚く信頼されたのだと思う。

坂上田村麻呂は嵯峨天皇の勅命により、武具をつけたまま都に向かって立ったまま葬られたと言い伝えられているのだが、おそらくそれは真実なのだろう。

0609-12.jpg

大正八年(1919)に発掘された京都市山科区西野山岩ケ谷町の「西野山古墓」は八世紀後期か九世紀前期のものとされ、内部からは武人のものと思われる純金装飾の太刀、金銀の鏡などが出土したという。この場所は平安後期に編纂された『清水寺縁起』に記されている場所とほぼ一致するのだそうだ。
http://saint-just.seesaa.net/article/43909122.html

田村麻呂は死してもなお、都を守り、国を守ってほしいとの嵯峨天皇の思いが伝わってくるようだ。
嵯峨天皇からすれば東北地方は京の都の「鬼門」となる東北の方角であったがゆえに、その東北の「蝦夷」を打ち破った坂上田村麻呂は古代の英雄となり、『公卿補任』という平安時代後期に編纂された書物には、田村麻呂について「毘沙門天の化身来りて我が国を護る」と書かれているという。
その後坂上田村麻呂は「毘沙門天の化身」と崇められるようになる。坂上田村麻呂が創建したとされる寺社が東北を中心に各地にあるのはそのためなのだそうだ。
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明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺

下の画像はこのブログで以前何度か紹介した江戸時代の安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」にある、「清水寺」の絵である。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7/km_01_171.html

seisuiji100.jpg

下の画像が現在の伽藍配置である。「都名所図会」では上方向が北東で、現在の配置図は上方向が東に描かれていているのに注意して見て頂きたいのだが、「都名所図会」で左下に描かれている「子安塔」が、今では国宝・本堂(清水の舞台)の南方に移転していることがわかる。

清水寺境内図

昔は仁王門のすぐ近くにあった「子安塔」の明治期の写真が今も何枚か残されている。 s_minagaさんが、「がらくた置場」という自身のホームページに、古寺の塔に関する膨大なデータを残しておられる。
このホームページの中にご自身が集められた古写真などが貼られていて、つぎのURLが清水寺の「子安塔」のページである。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/m_seisuiji.htm

s_minagaさんの「リンクフリー」の言葉に甘えて明治5年の「子安塔」の写真を掲載させていただく。この写真の右側に写っている道は「清水坂」で、今では多くの土産物屋が立ち並んでいるところだ。

明治5年koyasu_11

この「子安塔」を清水寺の「仁王門」あたりから写している写真も残されているのだが、この仁王門はかなり傷んでいることが見て取れる。屋根の檜皮葺の傷みもひどいが、そもそも屋根そのものが垂れ下がっていて、二層部分と屋根につっかえ棒が何本か立てられて支えられていたことが画像で分かる。

kiyomizu仁王門

この写真が撮影された時期は幕末から明治16年までの間だとs_minaga氏は書いておられるが、現在では京都の観光地人気No.1の清水寺においてすら、明治の初期はこのような状態を修理することすらできなかったのである。それはなぜなのか。

その理由は、明治元年三月に明治政府が発令した「神仏分離令」で神仏を分離し、「上知令」で寺有地のかなりの部分を強制的に国有化し寺院の収入源を激減させたことと、「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動」が吹き荒れたことにあるのだが、このことは清水寺だけの問題ではない。この時期にわが国の多くの寺院が経済基盤を失って廃寺となり、同時にわが国は多くの文化財を失ったのだ。

梅原猛氏は、「もし明治の廃仏毀釈がなければ現在の国宝と呼ばれるものは優に3倍はあっただろう」と考察しておられるようだが、この時にわが国の寺院の半数以上が廃寺となった史実は、ほとんどの歴史書にはキレイごとを書き連ねているだけで何も書かれていないのが現状だ。
東大寺、法隆寺、興福寺など古い有名なお寺が今も数多く残っているのだが、このような有名寺院ですら明治初期という時代を乗り越えるために大変な苦労があったことをこのブログでいろいろ書いてきた。
興味のある方は、次の「にほんブログ村」の次のトラコミュに私の有名寺院の廃仏毀釈に関する36の記事を置いてあるので、覗いて頂ければ幸いである。
http://history.blogmura.com/tb_entry101772.html

明治までのわが国の宗教は、日本古来の神祇信仰と仏教とが混然一体となった「神仏習合」という状態が当たり前であったのだが、江戸時代後期に平田篤胤らを中心に尊王復古を唱える国学が盛んとなり、それが尊王倒幕運動の思想的バックボーンとなり、明治維新を迎えると神道を国教化しようとする流れから「神仏分離令」が布告されたのである。
彼らの考えでは仏教も異国のものであり、神仏習合によって古来の神道が穢されてしまった。したがって仏教は排除すべき対象であるというものであった。

清水寺の謎

清水寺学芸員の加藤眞吾氏が書かれた『清水寺の謎』という本が祥伝社黄金文庫にある。そこに清水寺の廃仏毀釈のことが記述されている。

「『清水寺史』によると、江戸時代を通じて幕末までは、二十いくつかの塔頭(たっちゅう)があった清水寺だったが、現在は八つしかない。
同時に行われた上知が、決定的な打撃だった。上知は土地をとり上げること。清水寺もさまざまな寄進、寄付から幕末までは、洛中などに領地を保有していた。そこから上がる年貢などの上納が、寺の経済を支えてきた。これを根底からくつがえされては、寺の経営が成り立たない。
上知は二度にわたって行われた。まず第一回目の上知で、かつて十七万坪からあった境内地は、十五万坪強となった。追い討ちをかけた第二回目の上知で、さらに減らされた。一気に一万三千四百坪強になった。十五万坪に対し一万三千坪。なんと九%にまで激減したのである。(後に、明治末期近くなって、常置された土地の払い下げ願いが実現し、旧境内地の23%にあたる三万六千坪強まで回復した。)
本来、檀家を持たない清水寺は、参詣者の寄進と祈禱寺院としての収入、公家などの朝廷関係者の後援、領地からの年貢などで成り立っていたのに、公家は東京へ移り、さらに参詣者寄進はともかく、収入の大半を占めていた年貢収入などの部分が完全に断たれたのである。」(『清水寺の謎』p.127-128)

「塔頭」というのは禅宗において高僧の死後に、その弟子が師の徳を慕って、 墓塔のほとり(頭)、または、その敷地内に建てた小さなお寺のことをいうが、昔の塔頭の配置図を見ると、今の門前の参道にも、境内にも多くの塔頭が点在していたことがわかる。ところが、明治に入ってその多くが運営できなくなって廃院のやむなきに至ってしまったために、境内の南側の多くが空き地になっていった。
下の図が加藤眞吾氏の著書の中にある江戸時代の清水寺の伽藍配置だが、この中で今も残っているのは、成就院、宝性院、慈心院随求堂、延命院、来迎院経書堂、真福寺大日堂、善光寺堂 (旧地蔵院:移転)、泰産寺(移転)の八つだけである。冒頭に写真を紹介した「子安塔」は清水寺門前にあった泰産寺の三重塔だ。

江戸時代の清水寺

また清水寺は幕末以来住職不在が続いていて、明治8年(1875)になってやっと成就院住職であった園部忍慶が清水寺住職(貫主)就任を認められているという。
園部忍慶貫主らの努力と多くの信者の支援の結果、廃仏毀釈で荒廃した建物の修繕がなされていったが、明治政府が文化財の保護に動くのは、明治30年に古社寺保存法が制定された以降のことである。その時に清水寺本堂は特別保護建造物(国宝)に指定され、ようやく本堂と舞台の大修理が行われ、35年(1902)6月に、本堂修理の完成に伴う落慶法要が営まれたという流れだ。

京都府庁文書に『寺院境内外地』という明治36年に作成された文書がある。その文書は、上知令で取り上げられた土地を返還・払下げしてほしいと清水寺が官に願い出たものなのだが、その文書の中に払下げ後の堂宇の再配置構想が書かれているという。
実際に実施されたのは泰産寺とその子安塔を南に移転しただけだったが、その構想では「縁結びの神」で有名な「地主神社」を門前の子安塔の跡地に移転するほか、阿弥陀堂や朝倉堂、経堂なども南苑に移転する計画だったそうだ。もしこの計画が着実に実行されていたならば、境内の様相は現在とは随分異なるものになっていたはずだ。

地主神社

加藤眞吾氏によると、明治時代の清水寺は一部の堂宇が修復されたとはいえ、厳しい状態であることには変わりなかった。荒廃した清水寺が復興していったのは大正時代以降で、大西良慶和上が中興の祖だと書いておられる。
大西良慶和上は明治8年に生まれ、大正3年(1914)に奈良興福寺の住職と兼務で清水寺の住職として晋山されているが、その当時の清水寺はどんな状態であったのか。

加藤氏はこう書いている。
「和上が晋山された当時の清水寺は、明治維新からかれこれ50年、諸堂の修繕や境内の整備に努め、廃仏毀釈や上知の打撃から少しずつ立ち直りつつあったとはいえ、せっかく残った塔頭でも無住のところもあり、僧侶の住む諸院や子院は荒廃しきっていた。和上が晋山した際の挨拶状に、『法務の都合上、当分、清水寺本坊成就院に留錫(りゅうしゃく)する』とあり、成就院に居を置いたが、この成就院ですら『内玄関から入る間でも、雨が降ったら、傘をさして廊下歩かな、裸足で歩けんほど雨漏りした』(和上回顧談)といった状況だった。」

大西良慶

良慶和上は、なおざりにされていた清水寺の年中法会を、厳重に奉修することから始められ、明治期には禁止されていた伝統行事を復活され、全国各地に布教のための法話をされて、信徒組織の充実にも努められたという。
また廃寺、廃院になった清水寺の塔頭の仏像や法具は収蔵する場所がなく、境内に長らく散乱していた時期があったようで、その後長期間にわたり経堂が収蔵庫代わりに使われていたのだが、ようやく昭和59年(1984)に大講堂が建てられ、そこに宝物殿が付設されて、仏像などは安住の地を得ることができたのだという。
残念ながら大西良慶和上は大講堂や宝物殿が完成する前年の昭和58年(1983)に109歳という長寿で世を去られたが、廃仏毀釈で衰退した寺を見事に復興させたことで、墓碑には「中興開山 良慶和上」と刻まれているのだそうだ。

明治初期の「廃仏毀釈」を調べていくと、直接的な破壊活動の影響も寺院によっては大きかったが、「上知令」などによって経済的基盤を奪われたことの影響が特に大きかった。さらに宗教者としての誇りを奪われたことによるダメージもかなりあったことが分かる。

佐伯恵達氏の『廃仏毀釈百年』という本にはこう書かれている。

「明治以来終戦まで、神職は官吏として国家から給料をもらって生活していました。一方住職は、もっぱら信者から布施にすがって生きていかねばなりませんでした。聖職という名の乞食でした。生活の保証はなかったのです。しかも明治二十二年六月以来被選挙権は奪われ、同二十七年二月には選挙運動を禁止され、同三十四年十一月以来、小学校訓導になることも禁止されてきたのです。一夜にして神職は国家官吏となり、住職は剥奪されて乞食者となりました。これを明治百年の仏教弾圧といわずして何と言えるでしょう。寺院から菊の紋章を取りはずし(明治二年)、寺領を没収し(同四年)、僧侶に肉食妻帯させて(同五年)、なまくさ坊主とはやし立て、上古以来の僧官を廃し、仏教修行の根本たる托鉢を禁止し(同五年)、傍らで神職に給料制度をしき(同六年)、僧侶の口を封じて落語や講談にまで僧侶の失態を演じさせ(同六年)、学校から神道以外の宗教教育をしめ出し(同三十九年)て、コジキ坊主、ナマクサ坊主とさげすまれて、百年の今にまで至っています。」(『廃仏毀釈百年』p.23-24)

清水寺2

現在残されている古い寺院の建物や文化財は、貴重なものであると認識されていたからこそ、長い歴史の中で僧侶と信者が力をあわせて、何度も危機を乗り越え護られてきたものであり、明治国家の神道原理主義的な圧力にも抗して現在まで残されてきたものであることを、決して忘れてはならないのと思うのだ。

今では清水寺を訪れる観光客は年間1000万人を超えるとも言われている。このように観光客の多い寺社はまだ何とかなるだろうが、このような寺院はごくわずかだけであり、素晴らしい文化財を持ちながらも観光収入がほとんどなく、檀家からの収入も先細りになっている寺院の方がはるかに多いことだろう。古い歴史を持つ神社も同様である。
あらゆる事業に損益分岐点があるように、お寺や神社にも一定以上の収入がなければ文化財の維持どころか、僧侶や神官の生活も厳しくならざるを得ないのはいつの時代も同じなのである。

規制緩和が進んで大手流通が地方の生産者と消費者の経済循環を破壊し、地方に定住して生計を立てることが困難になって、多くの若い世代がやむを得ず地元を離れて、都心に職を求めて生活をするようになって久しい。
しかし長い目で見れば、若い世代が地元に残らなければ、その地域にある歴史ある寺や神社を支える人がいなくなってしまう。同時に地域の伝統文化や行事も担い手を失い、いずれはその地域の観光地としての魅力をも失うことになっていく。
数百年以上続いた地方の文化や伝統が、経済合理主義のためにこれ以上破壊されていくのを何とか押しとどめたいといつも思うのだが、私にできるのはせいぜい地方の社寺を巡って地元に僅かばかりのお金を落として帰ることだけだ。

清水寺成就院石仏

清水寺成就院参道の右手には様々な石仏が立ち並んでいる。これらはかつて京都の各町内でお祀りされていた「お地蔵さん」で、これらは廃仏毀釈の際に捨てるには忍びないと、地蔵信仰の篤い京都市民によってここに運び込まれたものだそうだ。
平成時代の市場原理主義的施策が、明治時代の神道原理主義的施策と同様な結果を招くことがないことを祈るばかりである。
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住職が勤王倒幕運動に身を投じた江戸幕末の清水寺

前回の記事で清水寺が明治期の廃仏毀釈や上知令などでひどく荒廃したことを書いた。そのなかで、幕末以来住職不在であったことも触れたのだが、実は清水寺は幕末の頃からかなり荒廃していたらしいのだ。

清水寺3

その頃の事情について、前回紹介した加藤眞吾氏の『清水寺の謎』には次のように記されている。(文章の中の「山内」は清水寺全体のことを指している。)
「…十九世紀初め頃の清水寺は、江戸時代に発達した商品・貨幣経済の波に翻弄されていた。幕府や諸藩が赤字財政に悩む中、檀家もなく門跡大寺院でもなく、大名などの檀那(だんな)を持たず、わずか寺領百三十三石という零細封建領主でしかない清水寺は、当然のことながら財政難。諸院は軒並み借金だらけだった。おまけに山内の不統一からの塔頭間の足の引っ張り合いで、塔頭の中には無住職状態のところが続出する有様だった。
目代職塔頭(ナンバー2塔頭)の慈心院や延命院だけでなく、一時期は寺の財務や庶務的な役目を預かる本願職である成就院すらも、五年間ほど無住職状態が続いたほどだった。」(『清水寺の謎』p.251-252)

1石は1千合であり、1合は一人が1回で食べる米の量のことをいうので、1石とは概ね1人が1年間で食べる米の量ということになる。(1合×3回×365日=1095合)
江戸時代の主要な寺の石高を以前調べた事があるが、東大寺2,211石、法隆寺1,000石、吉野蔵王堂1,000石という数字を知ると、清水寺の133石は相当少ないと言わざるを得ない。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-79.html

この清水寺を建て直しするために、蔵海上人が、他寺から懇請されて成就院の住職となっている。
しかし蔵海上人による改革は簡単には進まなかった。当時の清水寺は荒廃の極みにあり、加藤氏によると当時の清水寺の塔頭寺院の住職の中には「境内の灯篭を売り払って、その金を懐に入れる塔頭まであったほど」で、蔵海上人は病気とも闘いそして「寺内の反対派の塔頭住職の執拗な妨害」に苦しみがら、法流興隆や財政再建、史料の収集保全に奮闘したという。
また蔵海上人は後継者育成も心掛け、次兄で大阪の町医者であった玉井宗江の息子の宗久と綱五郎の兄弟を迎え入れ、それぞれ得度させている。

この兄弟二人は後に月照、信海と号し、それぞれ清水寺塔頭成就院の第二十四世、第二十五世の住職となったのだが、二人とも非業の死を遂げている。今回はこの兄弟のことを書き記したい。

文政十年(1827)に兄の宗久(授戒名:忍介。後に月照上人と号す)が15歳の時に、弟の綱五郎(後の信海上人)は文政十二年(1829)に12歳で清水寺塔頭成就院に迎え入れられ、二人とも蔵海上人の後継者として研鑽を積んだ記録が残されているそうだ。

蔵海上人は天保六年(1835)にこの世を去り、次いで若き月照が成就院住職に就任している。
月照は清水寺の建て直しのために懸命に努力したのだが、当時の清水寺は塔頭の隠居たちが隠然たる力を持ち、月照の改革に従わなかった。

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加藤氏はこう書いておられる。

「月照は蔵海の遺命を忠実に果たそうと、懸命に努力した。ところが山内の月照反対勢力は、月照の努力をあざ笑うかのように勝手気ままな行動を繰り広げた。ある塔頭の院主は奥の院本尊の出開帳を企てたり、中には堂塔の賽銭箱を私(わたくし)したり、やりたい放題といっていいような不義を重ねていた。さらに、執行職(清水寺住職)宝性院の院主義観が『若年病弱』を理由に隠居すると、弘化四年(1847)十二月、本寺興福寺の一乗院宮から月照に対し、執行職と本願職成就院を兼務するようにとの仰せが下った。つまり月照は一時期、清水寺全体の住職でもあった。
しかし、山内は依然として治まらなかった。反成就院、反月照の塔頭連中は執拗に月照の改革を邪魔し続けた。月照も堪忍袋の緒が切れたのであろうか。嘉永六年(1853)秋、アメリカの東インド艦隊ペリーが軍艦四隻を率いて浦賀に来航した直後、弟子の無着とともに、突如として隠密の旅に出てしまうのである。『秋文月に、いとはづらはしき(煩わしき)業(わざ)どもの有(あり)て憂世のいとはしく成(なる)ままに人にも知らせで寺をいでて、こし(越)路へゆき、しなの(信濃)より木曽路をのぼり、つゐにき(紀)の国高野やまにことしのむつき(正月)までこもりゐける』(月照歌集『落葉塵芬集』)と、自らの無断の出奔を記している。このため、月照は翌嘉永七年(1854)二月、境外隠居となってしまう。月照四十二歳であった。」(p.255-256)

文章に出てくる「一乗院」というのは奈良の興福寺の門跡寺院(皇族・貴族が住職を務める寺院)で、江戸時代以降は皇族が住職となったので門主を「一乗院宮」と呼んだ。しかしこの「一乗院」は、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、その跡地は奈良県庁となった後、今では奈良地裁となっているようだ。当時の清水寺は興福寺の末寺で、興福寺一乗院の支配下に置かれていたのだ。

月照が急に居なくなったために、嘉永七年に弟月照の弟の信海が、成就院住職となったのだが、反対派勢力は月照が隠居したことでむしろ激しさを増す始末であったという。

月照も信海も後に勤王倒幕運動に挺身するのだが、なぜ兄弟が勤王倒幕派の公家や武士たちと接点を持つようになったのだろうか。
加藤氏の著書によると、兄弟とも当時第一の歌人と言われていた右大臣(後に左大臣)の近衛忠熙(このえただひろ)に師事して、歌と書を学んだそうだが、そのことが兄弟を宮廷の討幕派の公家達と結びつけることになったという。
月照は近衛家に出入りし、倒幕運動家と朝廷公家との連絡役を務めていたとされている。
薩摩の西郷隆盛ともこの時期に知り合ったようだ。

京都で倒幕の謀議がなされていることを江戸幕府が警戒していたことは言うまでもない。
幕府では月照を危険人物と見做していた記録が残されているようだ。
加藤氏の著書をしばらく引用する。

長野主膳

「井伊直弼の謀臣長野主膳が安政六年(1859)一月八日付けで残したメモにこんなふうに記されている。『月照事(安政五年)三月より日々、小林民部権大輔(鷹司家の家臣)、鵜飼吉左衛門(水戸家家臣)、近衛殿、粟田宮(青蓮院宮門跡)、右の通、順々に廻り、闕(かけ)たるは唯一日のみ。毎日毎日昼前より出かけ、夜分八ッ時(午前二時頃)迄も近衛殿にては、いつも遅くなり候由』。長野主膳は月照こそが、近衛家と薩摩、水戸の両藩、そして青蓮院宮を結びつけた者であると見ていたことを示している。

もっとも月照は、初めから尊王倒幕運動に身を投じていたわけではない。最初は清水寺建て直しのために、近衛家との接触を深めていったことがきっかけだった。近衛家は藤原氏である。藤原氏の氏寺、興福寺は清水寺の本寺であり、特に興福寺一乗院門跡は近衛家から出ていた。…清水寺の運営に一乗院門跡が関与…したことから月照は、近衛家の影響を強く受けるようになっていった。結果、尊王倒幕活動へと傾斜していくことになった。」(同上書p.257-258)

このブログで先日「安政の大獄」と「桜田門外の変」のことを書いたが、上の文章にある長野主膳のメモは、まさに「安政の大獄」で江戸幕府が一橋慶喜擁立派を大弾圧した直前の月照のことを書いているのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-259.html

メモにある「安政五年(1858)三月」という時期は、西郷隆盛が篤姫から近衛忠熙への書簡を携えて京都に赴き、一橋慶喜を十三代将軍家定の後継とするための内勅降下をはかろうと工作した時期なのだが、その工作活動に協力したのが月照である。
ところが同年五月に井伊直弼が幕府の大老となり、六月に日米修好通商条約に調印し、紀州藩主徳川慶福を将軍継嗣とする事に決定し、七月には不時登城を理由に徳川斉昭に謹慎、松平慶永に謹慎・隠居、徳川慶喜に登城禁止を命じ、まず一橋派への弾圧から強権を振るい始めた。九月に梅田尊王攘夷派にも危機が迫り、月照は西郷を頼って鹿児島に向かう。

月照

それから月照はどうなったか。しばらく加藤氏の著書を引用したい。

「しかし運が悪かった。時に利なく、西郷を小身時代から引き上げ、自身の懐刀としてつかうほど、バックアップしていた藩主島津斉彬が亡くなり、異母弟の久光の息子が後を継いだ。薩摩の実権は久光が握っていた。斉彬が薩摩藩主となる際に起きかけたお家騒動があるが、この時反斉彬派が擁立しようとしたのが久光である。そうしたことから斉彬の急死も久光派の陰謀説が出たほどだった。このため西郷は久光を嫌い、久光も西郷を嫌っていた。
このため月照は受け入れられず、西郷とともに『日向送り』となる。国外追放である。この頃の薩摩の藩法は、国外追放者は国境で処刑するのが定めだったという。悲観した二人は、日向送りの船から相抱いて海に飛び込んだ。西郷は助かったものの月照は儚くなった。十一月十六日のことだった。
月照の懐には二首の辞世が収められていた。
『曇りなき心の月の薩摩潟 沖の波間にやがて入りぬる』
『大君のためにはなにかをしからぬ 薩摩のせとの身はしづむとも』」(同上書p.259-260)

西郷隆盛

この時西郷は運よく蘇生したが、回復に1ヶ月近くかかったという。生き返った西郷は、藩によって死んだこととされ、菊池源吾と変名して奄美大島に島流しとなっている。

一方、月照のあとで成就院住職となった弟の信海も、翌安政六年(1859)に攘夷の祈禱を行なったとの嫌疑で捕えられ、江戸伝馬町の牢屋敷に送られて獄中で没している。
そして桜田門外の変で大老の井伊直弼が暗殺されたのはその翌年の安政七年(1860)。徳川慶喜が大政奉還を申し入れし江戸幕府が終焉したのはそのわずか七年後の慶応三年(1867)のことである。

広い清水寺の境内の中に「舌切茶屋」と「忠僕茶屋」という不思議な名前のお茶屋がある。清水寺のホームページ記事を読んではじめてこの由来を知った。
http://www.kiyomizudera.or.jp/yodan/vol2/index.html

月照の友人で成就院の執事であった近藤正慎(こんどうしょうしん)は、幕府方に捕えられて、月照がどこに逃げたかを問われて拷問を受けたが、決して白状せず自ら舌を噛み切って壮絶な最後を遂げた。「舌切茶屋」は清水寺が近藤正慎の功績に報いるために、遺族や家族の生計の足しになるようにと境内茶屋の開設権利を与えたものだそうだ。近藤正慎は俳優の近藤正臣の曽祖父にあたるのだそうだ。
http://95692444.at.webry.info/201201/article_1.html

近藤正臣

また月照の九州下向に付き添いその遺品を持ち帰った大槻重助は、幕府に捕えられ牢獄に繋がれたが、同じく獄中にあった信海から後事を託され、境内茶屋の開設を認められたという。それが「忠僕茶屋」である。重助は茶屋を営みながら生涯月照・信海の墓を守り、月照の17回忌が鹿児島で行われた際に西郷隆盛から上人を悼む漢詩を託されている。

月照上人・信海上人慰霊碑

清水寺北総門の北に「月照上人・信海上人慰霊碑」があり、とりあえずカメラに収めたのだが、この右側の石碑にこの時に西郷が大槻重助に託した漢詩が刻まれている。読み下し文が次のURLに紹介されている。
http://www.niji.or.jp/home/akagaki/10-03gesyou.html

相約して淵に投ず後先無し 
豈(あに)図らんや波上再生の縁 
頭(こうべ)を回(めぐ)らせば十有余年の夢 
空しく幽明を隔てて墓前に哭(こく)す 
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大迫力の閻魔大王像に魅せられて~~水無瀬から大山崎歴史散歩3

水無瀬の滝と東大寺春日神社の後はサントリー山崎蒸留所に向かう。本当は予約が必要なのだろうが、当日でも時間待ちをすれば、サントリーウィスキー「山崎」の仕込から発酵、蒸留、熟成までの製造工程の見学ができ、さらにおつまみ付きで「山崎」や「白州」の試飲もできるし、時間の制約があるものの、おかわりも自由だ。

サントリー山崎蒸留所

結構歩いて汗をかいたあとにウィスキーを飲んで疲れをいやすという目的があったことは言うまでもないが、ここを訪問したもう一つの目的は、この山崎蒸留所の敷地内に、むかし西観音寺という大きなお寺があって、その痕跡が残っているのを確認したかったからである。

以前このブログで「大山崎美術館と宝積寺(ほうしゃくじ)」という記事を書いた。そのなかで、宝積寺に素晴らしい閻魔大王像があることを紹介したが、じつは宝積寺の閻魔像は、もともとは西観音寺にあったのである。

では西観音寺という寺はどんな寺で、閻魔大王像がなぜ宝積寺に移ったのかを記しておきたい。

西観音寺

上の図は寛政8-10年(1796-1798)に刊行された『摂津名所図会』における西観音寺の絵図である。
中央に描かれている参道は今では舗装されて公道となっており、右側にサントリー山崎蒸留所の「ウイスキー館」が建ち、左側に「仕込・発酵室」「蒸留室」「貯蔵室」が建っている、と考えれば良い。

この『摂津名所図会』が、大正8年に大日本名所図会刊行会から刊行されていて、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で自宅のパソコンで読むことができることはありがたい。そこには西観音寺についてこう記されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959908/376

「山崎の西にあり。慈悲尾山信善谷(じひをさんしんぜんだに)といふ。天台宗。

御集
水無瀬山 木の葉まばらになるままに 尾上の鐘の声ぞちかづく  後鳥羽院

本尊十一面千手観音 閻浮檀金像(えんぶだごんぞう)。長一寸八分。脇士 左不動尊・右毘沙門。当山に三つの谷あり。いはゆる大谷・中谷・閼伽谷等なり。故に世に谷の観音と称す)
鎮守 天照大神・八幡宮・春日・山王大宮・八王子を祭る。
閻魔堂 当寺の入口にあり。小野篁ここに来たり、閻魔王および十王の像を彫刻し、日本三所に安置す。いはゆる第一は越中中野郷、第二は当山、第三は筑後古津郡なり
それこの観音寺は旧地これより西南の山間にして、むかし聖武帝天平十八年*大僧正行基、勅(みことのり)をうけて草創し、本尊はかの帝の御念持仏なり。その後、役小角苦修錬行し、天下の名嶽・霊窟に分け入って残す事なし。一日ここに巡行して高嶺に登り石上に坐し、呪術をもって閼伽**(あか)を湛へたまふ。今の閼伽谷(あかたに)これなり。その流れ潺々(さんさん)として堂前の滝となる。ここに石像の不動尊を安(やすん)ず。また山頭に弁財天祠(ほこら)あり。これも役行者の勧請とかや。台嶺の伝教大師もこの山に入りて練行し給ひ、後鳥羽上皇 水無瀬よりここに駕をめぐらし木尊大悲を尊信したまふ。」
*天平18年:西暦746年
**閼伽:仏教において仏前などに供養される水のこと

『摂津名所図会』に解説され、後鳥羽上皇が行幸され、歌まで残しておられるのだから、西観音寺がかなりの有名寺院であったことは間違いない。
ではなぜ、この寺が消えたのだろうか。その理由は、このブログで何度か書いた明治の「廃仏毀釈」なのである。

nisikannonji_5.jpg

『摂津名所図会』の絵は雲で隠れている部分が多いので建物が分りにくいのだが、『山崎通分間延絵図』には稚拙な絵ながらわかりやすく描かれている。
参道の途中に橘園院、円修院、宝泉院、明王院などがあり総門の近くに閻魔堂がある。また絵の下の方に離宮八幡宮があるが、西観音寺の僧は離宮八幡宮の社僧であり、その八幡宮の祭祀を仏式で行っていたのだそうだ。

s_minagaさんのサイトに西観音寺の廃仏毀釈の経緯がまとめられているので、引用させていただく。慶応4年というのは西暦1868年で、この年の9月8日にその年の1月1日に遡って、新元号「明治」が適用されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/hoso_ooyama.htm

慶応4年神仏分離令。
4月13日:離宮八幡宮から西観音寺役僧の呼び出しがあり、八幡宮への立入禁止の申渡しがある。
4月16日:再度呼び出しがり、別当社僧の還俗及び神勤もしくは立ち退きを申し渡す。
橘園院は谷司馬、園修院は谷東、宝仙院は谷古仙、明王院は谷靭負と改名・還俗。
6月18日:西京弁事務所より椎尾大明神の称号下附。
仏像仏器を撤去し、本堂は観音寺へ、閻魔堂は宝積寺へ、十王像は大念寺へ、鐘(康暦元年銘)は摂津正宣寺へ移管
される。
ここに天台宗西観音寺は完全に消滅し、想像も出来ない椎尾社という神社に変質する。

何も抵抗せず還俗した社僧や本山正覚院に対し、門前の農家18戸は抵抗したと伝える。
『(社僧達は)自元仏恩を忘却致し、自己口腹之為め方斗第一に心掛居候不当人に候』
『本寺(正覚院)に於いては今日迄も御出願(京都府へ)之御様子もこれ無くは恐れながら御等閑之儀と存じ奉り候』
と京都府や本山に存続を提訴したと伝える。
しかし明治5年椎尾神社は村社に列する。つまり西観音寺の存続は認められない結果となる。西観音寺は廃寺。」

廃仏毀釈は地域によって、また時期によって随分その温度差が異なっている。西観音寺は摂津の国だが、撤去した仏像・仏具を持ち込んだ先の観音寺、宝積寺、大念寺はいずれもすぐ近くにあるのだが山城の国の寺になる。また同じ山城の国でも、淀川の対岸にある石清水八幡宮寺は、翌年の明治2年に徹底的に破壊されてしまった。

西観音寺閻魔堂跡

サントリー山崎蒸留所の入場受付の近くに、ひっそりと「西観音寺閻魔堂址」と書かれた碑が建っているのだが、島本町教育委員会がその碑に記したこの文章が、私にはどうも気に入らない。
「天平十八年行基が聖武天皇の帰依仏である観音像を報じて建立した西観音寺(天台宗)の総門の外に閻魔堂があった。
明治五年本寺は椎尾神社となり閻魔堂は解体された
堂に安置してあった閻魔像(重要文化財)と十王像は小野篁の作と伝えられ、筑後古津、越中中野の像とともに有名である。」

廃仏毀釈」という言葉を全く使わず、また閻魔像を「宝積寺」に移したことにも触れなければ、重要な事を何も解説したことにはならないではないか
この西観音寺に限らず、「廃仏毀釈」で破壊された寺院を解説した文章は、いずれも同様の表現がなされているが、このような書き方では正しい歴史が伝わるとは到底思えない。わが国の幕末から明治にかけての歴史について、薩長にとって都合の良い歴史しか伝えない記述を、いったいいつまで続けるつもりなのか。

椎尾神社鳥居

この閻魔堂址から山に向かってまっすぐ伸びる道が、西観音寺の旧参道になる。その奥へ進むと鳥居があり、「椎尾神社」という神社があるのだが、この本殿のある場所に、以前は西観音寺の本堂があったのだという。要するに、明治新政府は西観音寺を破壊して、その跡地に「椎尾神社」という新しい神社を作ったのである。そして、この神社の境内には立派な石段と石垣が残されていて、これが西観音寺の唯一の遺構なのだという。

椎尾神社石垣

おおやまざき散策マップ

「おおやまざき散策マップ」という地図が大阪と京都の境界が描かれていてわかりやすいので、地図を参考に読んで頂ければありがたい。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/ofg/sansakumap.pdf

西観音寺の僧侶が社僧であったという離宮八幡宮はサントリー山崎蒸留所の入口から歩いて5分程度なのだが、途中で摂津国・山城国の国境を超えることになる。
離宮八幡宮と、西観音寺の仏像仏具を持ち込んだ先である観音寺、宝積寺、大念寺はいずれも山城国にあり、いずれも『都名所図会』に一枚の絵で描かれている。(絵図で「宝寺」とあるのは宝積寺のこと)

km_01_04_067.jpg

しかし、ここに描かれている寺社は、宝積寺を除いて、いずれもが元治元年(1864)の禁門の変(蛤御門の変)に巻き込まれて焼失してしまっている。山崎の地が会津藩や新撰組の攻撃を受けて兵火に罹ってしまったのは、離宮八幡宮や大念寺、観音寺に長州藩が陣を張っていたからのようだ。明治新政府は、西観音寺を潰してその寺宝を分け与えることで焼失した寺社を補償しようとしたということではないだろうか。

離宮八幡宮

禁門の変についてはいずれ日を改めて書くことにして、離宮八幡宮に話を戻そう。
離宮八幡宮は摂津・山城の国境に近い西国街道沿いにあるのだが、『都名所図会』をよく見ると、神社でありながら寺院建築である多宝塔が描かれており、昔は神仏習合であったことがよくわかる。Wikipediaによると「社殿のすぐ西から大阪府に割譲し、さらに1871年(明治4年)に境内北側を国策による鉄道事業にささげ、境内はさらに縮小した」とあり、以前は相当大きい神社であったようだ。

ここから、閻魔大王像を観るために宝積寺に向かう。JRの踏切をすぎたあたりから、天王山の上り道になって、次第に坂がきつくなる。

途中で大念寺を通るが、この大念寺の本堂が、西観音寺の閻魔堂であったようだ。次のURLによると、大念寺の本尊などを安置すると「閻魔大王ほか四体の尊像は祀る場所がなかったので、宝積寺に引き取られました」とある。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/ofg/dainenji.htm

宝積寺もこれらの尊像を祀る場所が充分にあったわけでもなかったので、長い間これらの像は京都国立博物館に寄託されていて、2002年に宝積寺に閻魔堂が出来たので里帰りしたのだそうだ。

子供の頃に、「嘘をついたら閻魔さまに舌を抜かれる」という話を祖父や祖母からよく話を聞いていて、一度連れられてどこかの閻魔大王像を見に行ったことがある。それがおそらくこの閻魔大王像だったような気がするのだが、今にも怒りだしそうなものすごい表情に圧倒されて、恐怖を覚えた記憶がある。
5年前にこのブログで記事を書いたときに、宝積寺を訪ねてすでにこの像を拝観しているのだが、その際に身近に像を見て感激し、あれから4年たってまた見たくなるような、とにかくすごい迫力のある閻魔像なのである。

宝積寺仁王門

大念寺からもう少し坂道を登ると、宝積寺の仁王門に辿りつく。
この金剛力士像はいずれも鎌倉時代に制作されたもので、国の重要文化財に指定されている。

宝積寺三重塔

境内にある三重塔は桃山時代に建築されたもので、これも国の重要文化財だ。

宝積寺十一面観世音菩薩

拝観を申し込むと、まず本堂から案内いただいた。
前回来たときは、法事のために本堂に入ることが出来なかったが、本尊の十一面観音立像(国重要文化財)は、今も金箔が色鮮やかで、とても鎌倉時代の仏像だとは思えなかった。
画像はリーフレットのものだが、実物はもっと美しい。

宝積寺閻魔大王像

そして、いよいよ閻魔堂に案内される。
画像は宝積寺のリーフレットを写したものだが、写真ではこの迫力は到底伝わらない。

像高160.8cmの閻魔大王は、目を大きく見開き、ものすごい形相で睨み付けて、一瞬にして自分の心の中の弱い部分が読み取られ、すぐにも「地獄へ行け」と裁かれるのではないかと、恐怖心を覚えるような迫力がある。
堂内は撮影禁止だったのでネットで画像を捜してみたが、次のURLの写真はその雰囲気が少しばかり画像に出ている。しかし角度を変えると光の加減で表情も微妙に変化するので、拝観されていろんな角度から観られることをお勧めしたい。
http://www.sansyoutei.com/promenade/temple_housyaku/

temple-housyaku-03.jpg

右手に筆を持ち、左に木簡を持つ暗黒童子も、閻魔大王の裁きを記録しようと今にも筆が動き出しそうだ。
巻物を開いている倶生神も、その巻物の紙が自然に垂れ下がっているのだが、その巻物の、薄い紙の部分までもが1本の木を彫って造られていることに驚いてしまう。
また暗黒童子も倶生神も毛皮を敷いた交椅に腰を掛けているのだが、この毛皮も木で彫られており、それが実にリアルなのである。

鎌倉時代のわが国に、これだけの木像が彫れる仏師がわが国にいたということはすごいことである。おそらくこの時代には、世界を捜してもこのような像を彫れる人物は、ひょっとするとわが国にしかいなかったのかも知れない。そもそもイタリアでミケランジェロが活躍したのは、さらに3世紀もあとのことなのである。

これら5体の仏像は、すべてが国の重要文化財に指定されているが、この仏像を制作したのがだれなのかがよく分からないのだという。それがわかれば、これらの仏像は国宝に指定されてもおかしくなかったという説明であった。

先ほど紹介した『摂津名所図会』では小野篁(おののたかむら) が制作したと書かれていたが、この人物は平安時代の公卿であり、これらの像の制作年代とは合わない。小野篁は、夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説がある人物で、小野篁が彫ったとされる閻魔大王像は、それほど優れた出来栄えであると認識されていたという意味で理解しておけばよいと思う。そもそも宝積寺の像がわが国で最古級の閻魔大王像であり、小野篁のいた時代の閻魔像は残されていないか、はじめから存在しないかのいずれかである。
『都名所図会』では小野篁の制作した閻魔像3つの中の2番目にこの閻魔大王像が挙げられていたのだが、この文章の意味するところは、江戸時代に存在した閻魔像のなかでも、この像はわが国の1、2を争う優品であると人々に知られていたということだと私は理解している。

歴史散策の最後に宝積寺を選んだのは正解だった。これらの仏像を見ているだけで、自分の心の中にあるいい加減な気持ちがどこかへ吹き飛んで、凛と張りつめた気持ちになって半日の旅を終えることが出来た。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いています。
よかったら、覗いてみてください。

世界遺産の吉野山金峯山寺と特別公開中の秘仏・蔵王権現像
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奈良の白毫寺と消えた多宝塔の行方
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石清水八幡宮と松花堂弁当
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香住から但馬妙見山の紅葉と朱塗りの三重塔を訪ねて~~香住カニ旅行2
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浄瑠璃寺から岩船寺へ~~秋深まる当尾の里の名刹と石仏を訪ねて

毎年紅葉の季節になると、古い寺や神社を巡りたくなる。あまり有名すぎる観光地は人が多すぎて風情を感じることが少ないので避けて、なるべく歴史的風土が良く残されていそうな場所を選んで旅程を組むのだが、今回は京都府の木津川市にある古社寺を巡る旅程を立てて、先日行ってきた。

最初に訪れたのは木津川市の東南部にある加茂町の浄瑠璃寺(0774-76-2390)である。京都府とはいっても、奈良県との県境に近い当尾(とおの)の里に位置している。この寺から南に1kmも進めば奈良県で、この地域は古くから南都の影響を強く受けてきて、世俗化した奈良仏教を厭う僧侶が穏遁の地として草庵を結び、それがやがて寺院となり「塔」の屋根が建ち並んだことから、いつしか「当尾(とおの)」と呼ばれるようになったという。

浄瑠璃寺 名所図会

上の画像は江戸時代の天明7年(1787)に出版された『拾遺都名所図会』にある浄瑠璃寺の境内の絵図であるが、今の境内図と見比べると、昔は鎮守社の白山神社と春日神社が存在していたことがわかる。また「当尾」を「塔尾」と書かれているのも興味深い。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7/km_01_907.html

浄瑠璃寺境内図

この寺の縁起である浄瑠璃寺流記(るき:国重文)によると、永承2年(1047)に義明(ぎみょう)上人が開基したとあるが、もともとこの地域は興福寺の念仏別所として古くから仏教の盛んであった地域であったようだ。

浄瑠璃寺本堂

上の画像は嘉祥2年(1107)に建立された本堂(国宝)と浄瑠璃寺庭園(国名勝)である。

浄瑠璃寺の伽藍配置は、池を中心にして東に薬師如来を祀る三重塔(国宝)があり、西には阿弥陀如来九体を安置する本堂がある。パンフレットの解説によると「太陽の昇る東方にある浄土(浄瑠璃浄土)の教主が薬師如来、その太陽がすすみ沈んでいく西方浄土(極楽浄土)の教主が阿弥陀如来」なのだそうだ。このような伽藍配置は平安時代の中頃から京都を中心に広まったのだそうだ。

本堂に九体もの阿弥陀如来像が置かれたのは、観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)というお経にある九品往生(くほんおうじょう)という考えにもとづくものだという。
わかりやすくいうと、同じ極楽浄土へ往生するにも、「上品上生」から「下品下生」まで9つのパターンがあり、9段階に区別された人々をそれぞれの仏が救うというものである。
平安時代後期にその思想が広まって9体の阿弥陀如来像を置くことが流行したそうだが、現在残されているのは、この浄瑠璃寺の本堂ただ一つである。

九体阿弥陀如来像

本堂の中は撮影が禁止されているのでパンフレットの写真を紹介するが、平安時代に制作された九体の木造阿弥陀如来坐像が安置され、すべてが国宝に指定されている。
本堂には、ほかにも国宝の四天王像(持国天、増長天)、子安地蔵菩薩像(国重文)、鎌倉時代の不動明王(国重文)などがあり、幸運にも秘仏の厨子入木造吉祥天女像(国重文)も秋の特別公開で開扉されていた(11/30まで)。

浄瑠璃寺のように国宝の建造物の中に多数の国宝仏像を安置している事例は、ほかに興福寺東金堂や東寺講堂、三十三間堂、新薬師寺本堂、中尊寺金色堂があるが、昔の人々と同じように、参拝者の間近に、ガラスなどで遮られずに、それぞれの仏像に手を合わすことのできる祈りの空間がある寺となると、この浄瑠璃寺本堂は非常に貴重な場所である。

浄瑠璃寺三重塔

上の画像は浄瑠璃寺の三重塔(国宝)。記録によると治承2年(1178)に京都の一乗大宮から移築したという。
この三重塔には秘仏の木造薬師如来坐像(国重文)があり、毎月8日と春秋の彼岸の中日、正月の三が日には開帳されるのだそうだ。また1階内部の壁画も国重文に指定されている。
周囲の紅葉は色づき始めたばかりで、今月の20日前後に見頃を迎えるのではないだろうか。

パンフレットには何も書かれていないが、関秀夫氏の『博物館の誕生』(岩波新書)のp.75には、この浄瑠璃寺が明治維新の後に「無住となり荒れるにまかせた」状態になったことが記されている。この寺は中世から近世にかけては興福寺一条院の末寺であったのだが、本寺の興福寺一条院が廃寺となってしまって、この寺はこの混乱期に真言律宗に転じて奈良・西大寺の末寺になったという。
先ほども書いたが江戸時代には鎮守社が存在したのだがそれが今はなく、浄瑠璃寺の本堂や三重塔が、明治初期の廃仏毀釈の影響を受けて、無住となり荒廃したにもかかわらず現在に残されたことは興味深い。
これだけ多くの文化財を守るために、多くの人々の苦労があったことだと思うのだが、もしそのような記録が残されているのなら読んでみたいものだと思う。

浄瑠璃寺の拝観を終えて、次の目的地である岩船寺(がんせんじ:0774-76-3390)に向かう。
この寺は天平元年(729)に聖武天皇の発願で行基が阿弥陀堂を建立したと伝えられ、大同元年(806)に空海の甥・智泉が灌頂堂として報恩院を建立し、さらに弘仁4年(813)に嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(たちばなのかちこ)が皇子誕生の機に伽藍が整えられて「岩船寺」と称するようになったという。
最盛期には東西十六町*、南北十六町という広大な境内に三十九の坊舎を有したそうだが、承久の乱(1221)の兵火で堂塔の大半を焼失してしまう。
この寺も浄瑠璃寺と同様に、鎌倉から江戸末期までは興福寺一条院の末寺であったが、明治になって西大寺の末寺になっている。
*町:1町=109.1メートル 16町=1745.5メートル

岩船寺の本堂は昭和63年(1988)に再建されたもので、本尊は天慶9年(946)の胎内銘を有する木造阿弥陀如来坐像(国重文)である。ケヤキの一木造りで高さが3mもあるという。
本尊の周りに置かれている鎌倉時代の四天王立像(府指定文化財)もなかなか見ごたえがある。
内部は写真撮影禁止なので、パンフレットの画像を紹介しておく。

岩船寺木造阿弥陀如来坐像

本堂の裏にも貴重な仏像が安置されている。普賢菩薩騎象像は、以前は三重塔に安置されていた仏像だが、国の重要文化財に指定されている。

岩船寺 三重塔

境内の奥にある三重塔(国重文)は、仁明天皇が承和年間(834~847)に建立したと伝えられているが、現存の塔は室町時代の嘉吉2年(1442)に再建されたものである。もう少し紅葉が進めば、三重塔の朱色がもっと映えて美しくなると思われる。

岩船寺の入口の手前を右に折れるとには、鎮守社の白山神社本殿(国重文)とその摂社の春日神社本殿(府登録)が残されている。その前の広場では毎年10月16日に京都府登録無形民俗文化財に指定されている「岩船のおかげ踊り」が奉納されるのだそうだ。この踊りは幕末の「ええじゃないか」の系譜をひく伝統行事のようだが、若い人が少なくなっては伝統行事を続けることは大変な苦労があると思う。次のURLに「岩船のおかげ踊り」の記事とYoutubeが紹介されている。
http://chee.ch/diary/2013101600/1.shtml

当尾石仏マップ

浄瑠璃寺から岩船寺のある当尾(とおの)地区は、多くの石仏が点在することでもよく知られている。
次のURLに石仏マップが出ているが、42体もある石仏を訪ねるハイキングも結構楽しめそうだ。せっかく来たのだから、岩船寺に近い「わらい仏」を訪ねることにした。
http://0774.or.jp/pdf/tounomap.pdf

わらいぼとけ

岩船寺の門を出て、47号線を西に少し進むと、右手に石仏を散策するコースの入口がある。
細い道で結構アップダウンがあるが、昔は修験者が歩いたような道を進むのはなかなか楽しく、10分も歩けば「わらい仏」(京都府有形文化財)に到着する。この石仏には永仁7年(1299)の銘があり、制作されて700年以上も経過しているのだが、わずかに笑みを浮かべていてとても親しみを感じる石仏である。

岩船寺 門前茶屋

岩船寺に戻って門前の「休憩所静」でヨモギ餅を食べたが、手作りの味はとても旨かった。この店でおかきやエビ餅や柿を買いこんで、車で次の目的地である森八幡宮に向かう。

天平9年(737)に藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去し、代わって政治を担った橘諸兄が、唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用し、藤原氏の勢力は大きく後退し、藤原宇合の長男・広嗣は大宰府に左遷されている。
そこで天平12年(740)藤原広嗣は「君側の奸」吉備真備と玄昉を除くことを要求する上表文を朝廷に提出し、兵を集めて大宰府で乱を起こしたのだが(藤原広嗣の乱)、この乱は間もなく平定されている。しかしながら朝廷は動揺を続けて、天平12年(740)に聖武天皇の勅命で平城京から恭仁宮(くにのみや)に遷都したのだが、その恭仁宮はこのすぐ近くである。

森八幡宮

森八幡宮は、恭仁宮に遷都された際に宇佐八幡を勧請したとの由緒を伝える神社であるが、この神社の境内に不動明王磨崖仏と毘沙門天磨崖仏(ともに京都府有形文化財)があることに興味を覚えて旅程に入れていた。

不動明王磨崖仏

上の画像は不動明王磨崖仏だが、右に正中三年(1326)と刻まれているのが読める。この当尾地域にある石仏の多くは鎌倉時代に刻まれたものである。

当尾と呼ばれている地域は、京都や奈良の観光の中心部とは全く異なる空気が流れていて、昔の世界にタイムスリップしたような気分を感じる場所である。
わらい仏の前

かつては僧侶や修験者や村人たちが、千年近い年月にわたり祈りを捧げてきた聖地であり、今も地元の人々に篤く信仰されているからこそ、これだけ多くの文化財がこんなに美しく現在に残されているのだと思う。
私が訪れたのは紅葉を楽しむには少し早かったようだが、今度の連休あたりはきっと見頃を迎えることだろう。浄瑠璃寺、岩船寺、当尾の石仏群を紅葉と共に楽しむ旅はいかがですか。

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海住山寺から神童寺、蟹満寺を訪ねて

前回に引き続き、京都府木津川市にある国宝や重要文化財のある社寺等を巡る旅行記を続けよう。

恭仁宮跡

前回の記事で、天平12年(740)の藤原広嗣の乱の後、聖武天皇が平城京から恭仁宮(くにのみや)に遷都し、その際に木津川市加茂町の森八幡宮に宇佐八幡を勧請したことを書いたが、その森八幡宮からJR加茂駅の西口を通り、恭仁大橋を渡って岡崎バス停前の道を左折して600mほど直進すると、『山城国分寺跡』と彫られた石碑がある。しかし近くの案内板には『史跡恭仁宮跡(山城国分寺跡)』と書かれていて、これを読むと平成19年に史跡の名称が『山城国分寺跡』から『恭仁宮跡(山城国分寺跡)』に変更されたことが分かる。

聖武天皇

聖武天皇は平城宮を離れて、天平12年(740)にこの地を都と定めたのだが、都の造営中である天平14年(742)に天皇は近江紫香楽村に離宮を造営してしばしば行幸し、翌年には近江国で宮の建設を開始させて、恭仁宮の造営が止められたという。
その後、天平16年(744)2月に難波京に遷都しているが、さらに天平17年(745)4月に美濃国を中心とする「天平地震」と呼ばれる大地震があって、その後再び平城京に都が戻されたという。

このように何度も遷都が繰り返されたのは、天平期は災害や疫病が多発してその災いから脱却しようとしたと説明されることが多いのだが、当時の権力闘争も無視できないだろう。
そもそも恭仁宮のあたりは、当時実権を握っていた橘諸兄の本拠地であり、また天平16年(744)1月に聖武天皇の第二皇子である安積親王(あさかしんのう)が17歳で死去しているが、藤原仲麻呂に毒殺されたという説も興味深い。
恭仁宮は廃都されたのち、宮城は大極殿を中心に山城国分寺として再利用されたのだが、画像にあるように、大きな基檀が地表に残されている。案内板の解説によると、この場所にあったのは「残されている基壇跡や礎石跡から考えて七重塔であったと推定」されているのだそうだ。また大極殿は国分寺の金堂に転用されたとされ、この場所からもう少し西に行くと大極殿跡の石碑も建っているようだ。

『史跡恭仁宮跡』から次の目的地である、海住山寺(かいじゅうせんじ:0774-76-2256)に向かう。距離は2km程度なのだが、道幅の狭い急坂を登って行くと辿りつく。

この寺は、天平7年(735)に聖武天皇の勅願により東大寺の僧良弁がこの地に一宇を建てて十一面観音菩薩を奉安して藤尾山観音寺と名付けたと伝えられているが、保延3年(1137)に全山が焼失してしまったという。
その後70年経った承元2年(1208)に、笠置寺にいた解脱(げだつ)上人貞慶がこの観音寺の跡に移り住み、海住山寺と名付けて旧寺を中興したという。

海住山寺 本堂

上の画像は本堂で、本尊は木造十一面観音菩薩立像(国重文:平安時代)である。四天王立像(国重文:鎌倉時代)は像高40cm程度の小さな像だが、精緻に彫刻され、綺麗な彩色が施された素晴らしいものであったが、できることならばガラスケースの中ではなく、もともと安置されていた五重塔の中で観賞したいところだが、セキュリティ上はやむをえないのであろう。

海住山寺五重塔

上の画像は国宝の五重塔。鎌倉時代の建保2年(1214)の建築で、高さは約17mと小規模であり、室生寺の五重塔に次いで二番目に小さい五重塔なのだそうだ。
またこの五重塔の初層に裳階(もこし)と呼ばれる屋根があり、このような裳階を持つ五重塔は、ここと法隆寺五重塔の2例しか残っていないのだそうだ。

海住山寺 構造

また、古い五重塔には地面の中心に据えた心礎の上に、塔頂まで通る心柱があることが多いのだが、この寺の五重塔には心礎がなく、初層部分の天井の上から心柱が立っているという。その目的は、初層内部に心柱がないために、仏像などを置くスペースが広く取れるからなのだが、このようなタイプの五重塔はこの寺のものが現存最古なのだそうだ。

本堂北側には文殊堂(国重文:鎌倉時代)があるが、内部は公開されていなかった。

海住山寺本坊書院

本坊庭園は、訪れた14日の紅葉はこんな具合であったが、そろそろ見頃を迎えているのではないだろうか。

次の目的地は修験道の古くからの聖地であった神童寺(しんどうじ:0774-86-2161)。

神童寺

この寺について、安永9年(1780)に刊行された『都名所図会』には図絵とともにこう解説されている。
「北吉野神童寺〔又金剛蔵院(こんごうぞういん)と号す〕綺田(かばた)のひがし山中にあり。〔此所伊州上野の往還路なり、神童寺越ゑといふ〕真言宗にして、本尊は蔵王権現、立像長八尺なり。当山伝記に曰、金精明神(こんせいみょうじん)神童と現じ、役行者(えんのぎょうじゃ)と共に作り給ふ尊像なり。開山堂には役行者の像を安置す、四十二歳の御時みづから作りたまふなり。子守勝手の両社、金精明神の社は、本堂の東二町にあり。此後山を袖振山(そでふりやま)といふ。抑此山は昔和州吉野山に毒蛇出て登山の人を悩す、故に笠置山を大峰(おおみね)とし当山を吉野山に准じて参詣せしなり。〔当所の人家は多くむかしの僧坊の跡なり、家々に坊舎の名あり、例祭は三月十一日なり〕」
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7t/km_01_499.html

江戸時代にはそれなりの参拝者がいたと思うのだが、今はアクセスが良くないため訪れる人は決して多くはない。寺の専用駐車場はなく、近くにある公民館の駐車場に停める案内が出ていたのでそこで駐車させていただいた。

寺伝によると推古天皇4年(596)に聖徳太子が開創し、白鳳4年(675)に役行者が蔵王権現を彫刻し、蔵王堂を創建して安置したとされ、最盛期には付近に26坊のお堂が存在したようなのだが治承4年(1180)平資盛の兵火にかかり全山焼失し、建久元年(1190)に源頼朝が再建したが元弘元年(1331)の兵火で再び焼失してしまう。

神童寺

今の本堂(蔵王堂)は応永13年(1406)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されている。しかしながらこの寺は、2度にわたり焼失したにもかかわらず、藤原時代などに制作された仏像が多数残されている。

神童寺 蔵王権現像

普通の寺の本尊は穏やかな表情の仏像なのだが、この寺の本尊は憤怒の顔をした蔵王権現像だ。本堂や収蔵庫の内部での写真撮影は禁止されているのでパンフレットの画像を紹介するが、蔵王権現を本尊とする寺は吉野の金峯山寺のほかはそれほど多くはないだろう。以前このブログで書いたように、明治の廃仏毀釈で修験道は徹底的に叩かれて、17万人もいた山伏達は活動を禁止され、修験道に関わる建物と文化財の多くが破壊されているのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-399.html

神童寺 収蔵庫内部

神童寺住職の説明のあと、本堂脇にある石段を上がった高台にコンクリート製の収蔵庫に案内していただいた。そこには、藤原時代に制作された日光菩薩像、月光菩薩像、愛染明王像、毘沙門天像、城不動明王像、阿弥陀如来像(いずれも国重文)ほか、役行者像などが収められていたが、これがなかなか見ごたえがあった。
以前はこれらの仏像がすべて本堂のなかに収められていたそうだが、できれば本堂に収められていたままの状態で観たかったと思う。

天神神社

神童寺から東に400mほど進むと、神童寺の鎮守社として創建された天神神社があるので、立ち寄ってみた。写真を取り忘れたが本殿は室町時代造営の一間社流造で京都府の有形文化財に指定されている。

天神社十三重石塔

この神社を立ち寄ったのは、境内の中に神仏習合の名残である十三重石塔(国重文)が残されているからである。どういう経緯でこの塔が残され、どういう経緯で上の5段の一部が欠けたのかは良く分からないが、明治初期の廃仏毀釈で修験道の寺や文化財の多くが破壊されてしまっている。神童寺とその鎮守社の文化財が、どういう経緯で神仏分離・廃仏毀釈の危機を乗り越えたのか知りたいところである。

いよいよ最後の目的地である蟹満寺(かにまんじ:0774-86-2577)に向かう。
寺としては随分変わった名であるので調べると、『木津川観光ガイド』に請解説されている。

蟹満寺

「寺の名前は蟹幡(かむはた)郷という美称である『神(カム)』と織物を意味する『幡(ハタ)』からなる地名に由来し、この地は古代には渡来系民族で織物にたずさわる人が多く住んでいたようで、白鳳時代末期に国家かそれに準ずる豪族によって建てられたと考えられています。」とある。
http://0774.or.jp/temple/kanimanji.html

この寺の住所が木津川市山城町綺田(かばた)で、Wikipediaによると「昔は『カニハタ』『カムハタ』と読まれ、『蟹幡』『加波多』などと表記された。寺号についてもかつては加波多寺、紙幡寺などと表記されたものが蟹満寺と表記されるようになり、蟹の恩返しの伝説と結びつくようになった」と解説されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9F%B9%E6%BA%80%E5%AF%BA

蟹満寺 国宝 釈迦如来坐像

この寺の創建由来については定かではないが、この寺の本尊の銅像釈迦如来坐像は飛鳥時代後期(白鳳期)に作られたもので国宝に指定されている。
(上画像はガイドブック『南山城の古寺』より)

この本尊が当初からこの場所にあったのか、他所から移されたかについては諸説があり、平成17年の調査では地層の状態から台座は創建当初のものと判断、坐像の位置は創建以来約1300年間不変だったとの見解が出されていたが、平成20年の調査では、台座下に江戸時代の地層が入り込み、台座も近世の墓石を転用していたのが判明したという。
では、どこからどうやって運ばれたかというとこれも諸説があり,この寺の東にかつて存在した光明山寺てであるとか、橘諸兄が奈良時代に造営した井出寺であるとか、草壁皇子ゆかりの奈良県桜井市の粟原寺(おばらてら)の名前が出ているようだが、どの説が正しいかはよくわからない。

「蟹の恩返しの伝説」というのは『今昔物語集(巻十六第十六話)』に出てくる話で、次のURLにあらすじが出ている。簡単に言うと、娘に結婚をせまった蛇の化身が荒れ狂い、娘が観音経を唱えると観音様が現われて「この危難を除くべし」と告げて姿を消したという。
静かになって、夜が開けて戸外に出てみると、ハサミで切られた大蛇と、以前娘が命を助けた多数の蟹の死骸が残されていたというお話である。
http://0774.or.jp/mukasi/06kani.html

前回から2回に分けて京都府木津川市の古寺等を巡る旅のことを記してきたが、正直言って木津川市にこんなに多くの国宝や重要文化財があることは意外だった。
これだけ多くの貴重な文化財が、先人たちの努力により、過去幾度となくあったであろう苦難の時期を乗り越えて、現在に残されてきたことは素晴らしいことだと思う。しかしながら、いずれの文化財も過疎化・高齢化に悩んでいる地域に存在しており、これから先、これらの文化財を守り、さらにその周辺の歴史的景観を維持していくことは容易なことではないだろう。

前回の記事で浄瑠璃寺のことを書いたのだが、私の記事をツィートしていただいた読者の方から、浄瑠璃寺の僅か380メートル南の地に、奈良市がゴミ焼却場(クリーンセンター)を建築する計画があることを教えていただいた。
もしこの計画通りに建築が実施されれば、浄瑠璃寺の参道から焼却場の煙突や煙が見えることになってしまうし、また建築予定地は岩船寺や、春日山原生林や石仏群のある地域にも近く、敷地の中に明治初期の廃仏毀釈で廃寺となった中川寺の遺跡が含まれていることも大問題である。
http://save-joruriji.org/index.shtml

当尾の里に限らず、各地に残された歴史的風土や景観は、それを愛する人々が大切に守り続けて次の世代に承継し、数百年から千年近い長い歳月をかけて形作られてきたものである。それを台なしにする行為は、その景観を守ってきた先人達の努力と思いを踏みにじるだけでなく、観光地としての価値をも大きく減じることとなり、必ずや将来に禍根を残すことになるであろう。

奈良市が、他府県の歴史風土や景観や文化財を破壊することに加担することがあってはならないと思うのだが、建設反対に賛同する人数がまだまだ少なすぎることに不安を覚える。奈良市に圧力をかけるためにはもっと多くの賛同者が必要だと考えるが、ネットなどで、少しずつでも反対の輪が広がってほしいと願っている。
http://save-joruriji.org/downloads/

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洛北の紅葉の名所を訪ねて~~実相院から圓通寺へ

ここ数年、紅葉の季節になると古い寺や神社を訪ねたくなる。
いつもなら人や車の多い場所を避ける主義なのだが、学生時代に何度か訪れた思い出の場所を急に訪ねたくなって、近隣の寺社とともに巡る旅程を立てて、先日京都市の岩倉から修学院の古刹などを訪ねてきた。

最初に訪ねたのは岩倉にある実相院(075-781-5464)である。
この寺の障壁画が気に入って、高校時代から大学時代にかけて何度か訪れた寺なのだが、当時の観光客はわずかであった記憶がある。
ところが近年この寺が紅葉で有名になったことからか、開門前から40人近くの列が出来ていたのには驚いた。

門前の駐車場が満車だったので、洛陽病院さわらび寮の向かいにあるコインパーキングに車を入れて、もう一度寺に向かう。(門前の駐車場から東に進んで一筋めを左折し、さらに一筋めを右折すればコインパーキングがある)

実相院

寺伝によるとこの寺は、寛喜元年(1229)に静基(じょうき)僧正を開基とし、紫野(むらさきの:京都市北区)に創建され、いちど五條辻小川(京都御所北西部)に移転したが、応仁の乱(1467~1477)が激しくなってから、現在の岩倉の地に移転したのだという。

室町時代末期までに多くの伽藍が戦火で焼失したが、江戸時代初期に足利義昭の孫・義尊(ぎそん)がこの寺に入り、その母(三位の局)が第百七代・後陽成天皇に仕えて道晃(どうこう)法親王(聖護院門跡)を設けたことから天皇家との関係が深まり、第百八代・後水尾天皇や東福門院*たちがしばしばこの寺を御幸に訪れることとなり、皇室などの援助を受けて再建されたという。
*東福門院:徳川秀忠(江戸幕府第2代将軍)の娘・徳川和子で後水尾天皇の中宮。

実相院の屋根

現在の本堂(実相院客殿:国登録文化財)は、享保5年(1720)に、東山天皇中宮・承秋門院の大宮御所の建物を賜ったものだそうだが、建物が歪んでいるためだろう、主要な柱のほとんどが何本かの丸太で傾かないように支えられていた。私の記憶では、40年ほど前にはこのような丸太は存在しなかったがと思うのだが、こんな応急手当のような補強で大丈夫なのかと心配になってくる。

実相院 こころのお庭

実相院の庭園は2つあって、上の画像は東側にある枯山水式庭園の『こころのお庭』。
平成25~26年にかけて「造園植治」の小川勝章氏監修により、市民参加でこの庭が造られたのだそうだが、枯山水庭園を作庭することよりも、客殿の歪みを修復する方が優先順位が高いような気がする。

実相院庭園

客殿の西側には池泉回遊式の庭がある。例年なら11月の22日頃は紅葉の見頃を期待して良い日だと思うのだが、暖かい日が多いせいか、今年の紅葉は例年よりやや遅れており、色づきも今一歩だった。

客殿の内部は写真撮影禁止の為紹介できないのだが、各部屋に狩野永敬はじめ狩野派の見事な襖絵が描かれている。高校時代に初めてこの寺を訪れた時は、各部屋の中に入って襖絵を間近にしてじっくり観賞することが出来、書院で後水尾天皇の「忍」と書かれた掛軸も公開されていたのだが、今では中に入れない部屋が多くなっているし、襖絵も以前より随分公開点数が減っている。観光客が増えて、セキュリティ上やむを得ないのであろうか。

石座神社

実相院の門を出て左に100mほど進むと、石座(いわくら)神社がある。この神社は、もとは「大雲寺」の鎮守社であったというが、この「大雲寺」とはどのような寺であったのか。

大雲寺

上の画像は安永9年(1780)に刊行された『都名所図会 巻之六』に描かれている大雲寺の境内で、右下に門と建物が描かれているのが実相院で、右に描かれている神社が今の石座神社である。これを見ると「大雲寺」は実相院より随分大きな寺であり、観光地として有名であったことがわかるのだが、今はそのような大きな寺は見当たらない。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7/km_01_524.html

大雲寺

石座神社の東に、とても寺院とは思えない建物があるのだが、これが現在の大雲寺である。
大雲寺の歴史を調べると、創建は天禄2年(971)と古く、開山した人物は紫式部の曽祖父にあたる日野中納言藤原文範であったと伝えられ、四十九の僧院からなる比叡山西麓最大の天台寺院で、園城寺(三井寺)寺門派の一大拠点であったという。
たびたび兵火に見舞われて焼失を繰り返し、江戸時代に入り寛永年間に後水尾天皇の後援を得て、実相院門跡義尊(ぎそん)により本堂が再建されたのだが、昭和60年(1985)に火災で焼失してしまい、建て替えられたのがこの建物である。

昭和50年頃に訪れた時は、現在地よりもっと西に本堂があって、壁がかなり傷んでいてボロボロの状態で庭も荒れていたのだが、国宝に指定されている梵鐘があることを知って驚いたことを覚えている。

大雲寺の公式HPの年表には、平成10年に「現住職 昭和60年に散逸した寺宝178点全てを大雲寺に取り戻す」と書いてあるのだが、この記述には疑問がある。
http://daiunji.net/category1/entry1.html
そもそも大雲寺の最大の宝物であったはずの国宝の梵鐘が、一時行方不明となった後、現在は滋賀県守山市にある佐川美術館の所有となっている。どういう経緯で鐘が発見されて佐川美術館に移ったか、その経緯は明らかに出来ない事情がありそうだ。
http://www.sagawa-artmuseum.or.jp/outline/collection.html

しかし、なぜ実相院よりも歴史が古く、江戸時代には観光地としても有名であった大寺院が、こんなに落ちぶれてしまったのか。理由はこの寺の歴史を紐解くと見えてくる。

先ほどの『名所図会』画像をダブルクリックしていただくと絵が大きくなるのでわかりやすいが、画像の左に「不動曝」と書かれた滝のようなものと、その右上に「智弁水」と書かれた建物が描かれており、この2つは現在もそのまま残されている。

大雲寺 不動の滝

上の画像が不動の滝(妙見の滝)であるが、かつてこの場所は、寺で加持祈祷を行なった人々の「垢離場(こりば)」で、瀧に打たれることによって心の病に効果があるとされた。

大雲寺 閼伽井

また、次の画像が滝の近くにある閼伽井堂で、この水は「観音水」または「智弁水」と呼ばれて、心の病、眼の病に霊験があるとして平安時代から信仰されてきた水で、後三条天皇第三皇女佳子内親王が「もののけ」に憑かれた際に、この泉を飲んで平癒したことから、以降精神病等の治療や保養のために多くの人々が滞在するようになり、周辺の茶屋が宿泊所の業務を行なうようになったという。
『名所図会』をよく見ると大雲寺の本堂や鐘楼に向かう石段の周囲に「こもりや」と書かれた建物がいくつか描かれているが、それがその宿泊施設(茶屋)である。

このようにして江戸時代には岩倉の地は精神の病を治す場所として確固たる地位を占めるに至ったのだが、明治の時代になって加持祈祷をしたり滝水に打たせたり霊泉を飲ませることで病気を治療する行為が否定されることとなり、京都府は公立の精神病院である癲狂院(てんきょういん)を設立し、再三にわたり岩倉での茶屋禁止令を出している。
明治17年(1884)に岩倉村の有力者により岩倉癲狂院(てんきょういん)が開設され、その後「岩倉精神病院」「岩倉病院」と名を変え、終戦直前の昭和20年に陸軍に接収されていったん幕を閉じたのだが、昭和27(1952)年、岩倉で精神病患者の保養所を営んでいた経営者が新たに岩倉病院を設立して今日に至っているという。

明治以降の大雲寺はその存立基盤を失って衰退し、国宝の鐘と寺の所有地の大半を失って、昭和60年までに本堂が存在した場所には、北山病院の施設が建てられている。

岩倉地図

大雲寺近辺の散策を終えて次の目的地に向かう。大雲寺から200m程度歩けば、明治の元勲である岩倉具視が幕末時に一時移り住んだ「岩倉具視幽棲旧宅(国史跡)」がある。

岩倉具視旧宅表門

安政7年(1860)3月の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後江戸幕府内で公武合体派が盛り返し、4月には四老中連署で皇妹・和宮の将軍・徳川家茂への降嫁を希望する書簡が京都所司代より九条尚忠に提出されている。この問題について岩倉具視は孝明天皇に『和宮御降嫁に関する上申書』を提出し、朝廷権力の高揚のための好機として公武合体を推進しようとしたのだが、そのことが尊王攘夷派を刺戟したため弾劾を受け、文久2年(1862)に失脚、辞官落飾のうえこの場所に蟄居・謹慎したという。

岩倉具視旧宅の紅葉

入口の紅葉が美しかったので思わずカメラを向けた。この紅葉の周囲の生け垣に沿って石段を登って行くと茅葺の主屋がある。

岩倉具視旧宅

岩倉具視はこの茅葺の家で約3年半過ごしたそうだが、残念ながら主屋の中には入れなかった。主屋の障子のガラス板には古い手延べガラスが使用され、庭には松の古木が枝を拡げて、歴史の重みを感じさせる。
岩倉具視の遺品や明治維新の史料は、レンガ造りの対岳文庫(国登録)の中に収蔵展示されている。

コインパーキングに戻り、次の目的地である圓通寺(075-781-1875)に向かう。

『都名所図会』の後編として天明7年(1787)に刊行された『拾遺都名所図会』にこの寺の図絵が掲載されている。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7/km_01_482f.html

圓通寺

この寺は庭園が有名で、『拾遺都名所図会』の本文に「東の方より比叡の山を庭中へ採、奇景真妙にして」と記されているとおり、比叡山の美しい姿を庭園の景観の中に取りこんでいるのが素晴らしい。

圓通寺門

この寺は寛永16年(1639)に後水尾天皇が造営された幡枝離宮を前身とし、延宝6年(1678)に霊元天皇の乳母であった圓光院文英尼が開基となって寺に改め、皇室の勅願所になったという。

圓通寺庭園

圓通寺庭園は国の名勝に指定されていて、広さは400坪もあるそうだが、低い生垣に囲まれて、地面は美しい苔で覆われて、杉木立の間から雄大な比叡山を望むことが出来る。
もし、この庭園より東側にマンションや住宅が建てば、この素晴らしい景観が台なしになってしまうところなのだが、そうならないために圓通寺の住職をはじめ多くの方が尽力されたようだ。

平成19年に制定された『京都市眺望景観創生条例』の第2条には第1項にはこう書かれている。
京都の優れた眺望景観は,先人から受け継いだ京都市民にとってかけがえのない財産であるのみならず,国民にとって貴重な公共の財産であることにかんがみ,現在及び将来の市民及び国民がその恵沢を享受できるよう,市民の総意の下に,その創生が図られなければならない。」
http://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/cmsfiles/contents/0000056/56449/tyoubou_jourei.pdf
また次のURLに、この条例に基づいて眺望景観が保全されることとなった地域が出ていて、その中に圓通寺の名前がある。
http://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/page/0000123687.html

わが国では、良好な景観や環境を守る事は二の次で、建築基準法や都市計画に違反しない限りどんな建物を建てることができる状態が長らく続いてきた。そのために長い年月をかけて形成された伝統と風格と調和のある街並みが台なしにされることが少なからずあったのだが、1990年代からようやく国土交通省も公共工事における景観に対する配慮を行なうようになり、平成16年に(2004)に景観法が全面施行されて、ようやく歴史的景観を守るための環境が整備されたと言える。

圓通寺庭園2

圓通寺のある岩倉は京都市の中心部から遠く、以前は田んぼや畑が多かった地域であったがゆえに長い間借景が守られてきたのだが、近年宅地開発が岩倉・上高野・修学院地区にも進んできて、圓通寺のすぐ近くにも住宅が建ちだしたことに住職が強い危機感を持たれたことは間違いないだろう。
京都市からすれば、圓通寺は比叡山の麓から3km以上離れているため、この庭園の景観を守るためには相当広い地域における規制が必要になってしまう。京都市との交渉は容易ではなかったと推測している。

庭園を観賞しながら、住職の解説がテープで流されていたが、この場所を選んで離宮を造営した後水尾天皇はその後修学院離宮も造っておられる。美しい場所を選ばれた後水尾天皇のセンスも素晴らしいと思うのだが、この景観を後世に残すために粘り強く交渉し、苦労された住職にもエールを送りたい。

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正式な手続きなしで「東京遷都」が強行された背景を考える
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討幕の密勅、大政奉還から王政復古の大号令までの歴史を振り返る
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「桜田門外の変」と、井伊直弼の死が長い間隠蔽された事情
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幕末の動乱期にわが国が独立を維持できた背景を考える~~GHQが封印した歴史 3
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幕末の孝明天皇暗殺説を追う
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妙満寺、圓光寺、金福寺の秋を楽しんで

圓通寺の借景を楽しんだのち、近くの妙満寺(みょうまんじ:075-791-7171)を訪ねる。

妙満寺 門

この寺を創建した日汁大正師(にちじゅうだいしょうし)は、もとは玄妙(げんみょう)という天台宗の僧であったが、故郷の会津で日蓮上人の教えに触れて、康暦2年(1380) 67歳の時に日蓮宗に改宗し名を改め、都に上って康応元年(1389)に六条坊門室町(現在の烏丸五条あたり)に妙満寺を建立し根本道場としたという。
その後何度か寺が焼失し移転を繰り返したが、天正11年(1583)豊臣秀吉による天正町割の再編で寺町二条に移転したという。

妙満寺 都名所図会

安永9年(1780)に刊行された『都名所図会 巻之一』に、寺町二条にあった頃の妙満寺の絵図が出ている。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7/km_01_039.html

幕末京都地図

また、『”超検索”幕末京都絵図』というサイトで幕末の京都の地図を確認することが出来る。これによると、妙満寺は本能寺の北隣にあり、本能寺の寺領は現在よりもはるかに大きかったようである。
http://onjweb.com/netbakumaz/kyoumap/kyoumap.html

本能寺

しかしこの場所は近年都市化が進んで環境が悪化してきたために、昭和43年(1968)にこの岩倉の地に移転し今日に至っているのだが、この決断は正解であったのかもしれない。上の画像は、以前訪問した本能寺の本堂だが、周囲はビルに囲まれており、河原町通りを走る車の騒音を逃れることは困難である。

妙満寺の紅葉

妙満寺は決して紅葉で有名な寺ではないので観光客はわずかしかいなかったが、紅葉もそれなりに楽しめた。あと10年もすればもっと枝ぶりが良くなっていることだろう。

妙満寺 雪の庭

本坊の庭園は、昭和43年に子院の成就院の庭を移したもので、もとの庭は江戸時代の俳諧師・松永貞徳(まつながていとく)が造園した「雪の庭」だという。
この庭は、時の成就院住職が俳句の門人であった縁から、師の松永貞徳が造営したのだそうだが、貞徳は造園についても著名な人物であったようで、清水寺成就院の「月の庭」、北野あたりにあったという「花の庭」とこの「雪の庭」が、松永貞徳の造園による成就院「雪月花三名園」と並び称されていたのだそうだ。
この庭も比叡山を借景の中に取りいれているのだが、山容の大部分が近くの樹木に隠れてしまって、圓通寺の様に美しい比叡山を部屋の中から見ることは叶わなかった。

妙満寺の次に一乗寺小谷町にある圓光寺(075-781-8025)に向かう。
まだ行ったことのない寺なので旅程に入れたのだが、この近くには圓光寺のほか、詩仙堂、狸谷(たぬきだに)不動院、曼殊院など紅葉で有名な寺が近くにいくつもあるので、駐車できるかどうかが心配だった。たまたま詩仙堂近くの駐車場から出ていく車があったので、入れ違いに車を預けることが出来たのはラッキーだった。

圓光寺

『都名所図会』の後編として天明七(1787)年秋に刊行された『拾遺都名所図会』の巻之二にこの寺の図会が出ている。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7/km_01_416.html

慶長6年(1601)徳川家康は、下野(しもつけ)足利学校第9代学頭の三要元佶(さんようげんきつ)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立して学校としたという。圓光寺学校は僧俗を問わず入学が許され、多数の書物が刊行されたそうだが、当時出版に用いられた活字(伏見版木活字)が5万個も残されていて、国の重要文化財に指定されている。
その後圓光寺は相国寺山内に移り、さらに寛文7年(1667)にこの地に移転したのだそうだ。

圓光寺伝来の木活字

宝物殿瑞雲閣に入ると、その活字の現物の一部が展示されていた。パンフレットによると慶長4年(1599)に家康公に贈られた、日本最古の木活字だという。

圓光寺 円山応挙

ほかにも圓光寺の寺宝が展示されているが、円山応挙の紙本墨画『雨竹風竹図』(国重文)は必見である。墨と筆だけでどうしてこんなに見事な絵が描けるのかと感心してしまう。

圓光寺庭園

宝物殿瑞雲閣の座敷に進むと、縁側から十牛(じゅうぎゅう)の庭の紅葉を楽しむ観光客が大勢おられた。庭を散策される観光客も多いので、部屋の中から額縁のような紅葉を写すことをあきらめるしかなく、庭を歩いて散策する方針に変更したのだが、今年の紅葉は赤くなり切れずに散る葉もあれば、色づきが遅れている葉もかなりある。
圓光寺庭園2

書院の縁側にも観光客が多くて、こんな写真しか撮れなかった。もちろん、画像の下には多くの観光客の頭があって、庭を散策する人が途切れた瞬間にシャッターを切ったものである。

圓光寺 東照宮墓

再び庭を散策し、紅葉と竹林の中に山手に延びる遊歩道を進んで、鐘堂を過ぎて石段を登ると、この寺を開基した徳川家康の墓がある。この中に徳川家康の歯が埋葬されているのだそうだ。

圓光寺 裏山からの眺望

この墓の近辺からは洛北の眺望を楽しむことができるほか、上からの「十牛之庭」が一望できる。

圓光寺の墓地には舟橋聖一著の『花の生涯』のヒロインとして知られる村山たか女の墓がある。
村山たか女は文化6年(1809)に近江国犬上郡多賀町で多賀大社にあった寺坊尊勝院の娘として生まれ、18歳の時に当時の藩主である井伊直亮(いいなおあき)の侍女となったが、その後彦根を離れ京にのぼって芸者となっている。そして子供を産むのだが、私生児だったために自らが引き取って彦根に戻り、その後彦根城下で井伊直弼(いいなおすけ)と出会って情交を結び、また数年後にその直弼を通じて出会った長野主膳(ながのしゅぜん)とも深い関係になったとされている。
京都市東山区にある井伊美術館には、天保13年 (1842) 頃に井伊直弼がたか女に宛てた恋文が残されているそうだ。たか女が直弼の子を身籠り出産した説もあるようだが、詳しいことはわからない。

安政5年(1858)に井伊直弼が江戸幕府の大老に就任し、一方、たか女は京都で幕府の隠密(スパイ)となって、薩摩・長州・水戸藩の浪人や公家などの攘夷論者達の動向を探り、その情報を長野主膳を通じて幕府に伝えることで安政の大獄に加担したのだそうだ。そのことが、攘夷派の恨みを買うこととなる。

村山たか

安政7年(1860)の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺され、文久2年(1862)8月には長野主膳も彦根藩により斬首され、その後たか女にも追求の手が伸びて、11月に彼女と息子の多田帯刀は、土佐と長州の尊王攘夷派に捕えられてしまう。
息子は惨殺されて首を晒されたが、たか女は真冬の三条河原に3日3晩晒されたのち殺害は免れたという。

助けられたたか女は剃髪して妙寿尼と号し、その後は圓光寺に近い金福寺という寺で井伊直弼、長野主膳および息子の菩提を弔う日々を過ごして、明治9年(1876)に68歳で亡くなっている。

圓光寺にあるたか女の墓に手を合わせてから、すぐ近くにある金福寺に向かう。歩いて5分もすれば辿りつくことが出来る。

金福寺 芭蕉庵

金福寺は貞観6年(864)に創建された古い寺だが、元禄のころに圓光寺の鉄舟によって再興され、その後圓光寺の末寺となったようだ。
鉄舟は松尾芭蕉と親しかったことから、芭蕉がこの寺の草庵を何度か訪れて互いに風流を語り合ったとされ、周辺の住民によってその草庵を「芭蕉庵」と呼ばれるようになったのだが、建物が相当傷んでいたのに心を痛めた与謝野蕪村とその一門が安永5年(1776)この庵を再興したという。上の画像の茅葺屋根の建物が「芭蕉庵」である。

この庵が落成した日にこの寺で蕪村が詠んだ句が
「耳目肺腸(じもくはいちょう) ここに玉巻く 芭蕉庵」なのだそうだ。
案内板に、この句の簡単な解説があった。
「耳目肺腸は司馬温公の『独楽園記』の中の成語で、この句には芭蕉の俳諧精神復興を目指す蕪村の強い決意が込められている。
 彼は晩年当寺に於いて『写経社』という俳句結社をむすび、4月と9月に一門の句会を催した。」

金福寺

金福寺と芭蕉庵は『拾遺都名所図会』の巻之二にも描かれている。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7/km_01_411.html

この絵の上部には、松尾芭蕉がこの寺で詠んだ句が紹介されている。
「憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥  芭蕉」

『拾遺都名所図会』には、金福寺について随分長い解説が記されているので読んでみると、この寺にある芭蕉碑の碑文の全文と、与謝野蕪村が『写経社集』の序文でこの寺のことを記している部分が文章のほとんどを占めている。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7t/km_01_411.html
江戸時代は芭蕉や蕪村の俳句が人口に膾炙していて、この金福寺は江戸時代においても俳諧の聖地のような場所であったと理解すればよいのだろうか。

与謝野蕪村は「芭蕉庵」を再興させただけでなく、この寺で句会を開いて、ここで多くの作品を残している。パンフレットにはこの寺で詠まれた4つの句が紹介されていた。
「畑打つや 動かぬ雲も なくなりぬ」
「夏山や 通ひなれにし 若狭人」
「三度(みたび)啼きて 聞こえずなりぬ 鹿の声」
「冬近し 時雨の雲も ここよりぞ」

金福寺 与謝野蕪村の墓

芭蕉庵から続く山道を少し行くと、与謝野蕪村や彼の弟子たちの墓がある。多くの墓が今も掃き清められ、生花が活けられていることはすごい事だと思う。

再び芭蕉庵に戻り、最後に本堂に向かう。
与謝蕪村は絵画でもすぐれた作品を残していて、『夜色楼台図』や『十便十宜図』が国宝に指定されているほか、多くの作品が重要文化財指定を受けている。
本堂には蕪村の『江山清遊の図』、『奥の細道画巻(複製)』や、村山たか女の遺品などが展示されていた。

金福寺 村山たか密書

上の画像は村山たか女が長野主膳宛に書いた密書なのだそうだ。内容はよくわからないが、あまりに流麗な筆致に驚いてしまった。井伊直弼や長野主膳から重んじられたのは彼女の美貌もあったのだろうが、教養の高さがあったからこそ思想をともにすることができたのだと思う。
愛する人を失い、我が子を失ったたか女はこの寺で14年を過ごしたのだが、この小さな寺が、すべてを失った彼女が余生を過ごすには相応しい場所であったのかも知れない。

一乗寺にある古刹は曼殊院、圓光寺、詩仙堂を巡る観光客が大半で、金福寺を訪れる人は紅葉時期でも決して多くない。その他の季節ではもっと少ないことと思われる。

金福寺

学生時代に1度だけこの寺を訪れたことがあるのだが、昔の頃と変わらない景観を残して頂いていることは嬉しかった。そのことは、観光客からすればあたりまえのことのように思われるかもしれないが、それは決して簡単なことではないのである。

文化的・歴史的価値があることがわかっているからこそ、そのままの姿で後世に残すために不便な生活を余儀なくされることも少なからずあるだろうし、建物の改修が必要になれば昔ながらの用材を用いた割高な修復を行ない、文化財を守るためのセキュリティ費用や、毎年の植木代なども欠かせない。観光客が少なくても、観光客の為に毎日清掃し、拝観の窓口の為に毎日人を置く必要があるし、文化財や建物を守り、現状を維持するためのコストは結構高くつくものなのだ。

観光客が毎日大勢集まる有名な寺社は、これから先、経済的に行き詰る可能性は少ないと思うのだが、観光客の少ない寺社の中には収入が乏しいために、文化的・歴史的価値を未来に残せないところが少なからず出てくるのではないか。
我々の先祖が何世代にもわたり大切なものとして守って来た文化財や景観を、その価値を減じることなく将来世代に引き継ぐことは、現在を生きる世代の責務であると私は考えるのだが、そのためには、貴重なものを残しながらもあまり有名でないお寺や神社を、訪れる観光客がもっと増えて欲しいところである。
私のできることは、そんな寺社を訪ねてレポートするぐらいのことなのだが、これからもいろんな場所を巡りながら、このブログで時々紹介していきたい。

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「観音の里」長浜の桜と文化を楽しんだあと、徳源院や龍潭寺、井伊神社を訪ねて
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討幕の密勅、大政奉還から王政復古の大号令までの歴史を振り返る
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松尾芭蕉と河合曾良の『奥の細道』の旅の謎を追う
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浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした原因は何だったのか~~忠臣蔵1
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京北の常照皇寺と山国隊の歴史を訪ねて

毎年10月に行われる京都の時代祭を参観された方は御存知だと思うのだが、行列は明治維新から順次時代を遡っていき、その先頭を進むのが「維新勤王隊列」で、京都市観光協会による時代祭のHPには「維新に際して、幕臣が東北地方で反乱したとき、丹波北桑田郡山国村(現在・右京区京北)の有志が山国隊を組織して官軍に加勢しました。」と書かれている。
https://www.kyokanko.or.jp/jidai/gyoretsu_1.html

Youtubeで検索すると、時代祭の先頭を進む山国隊の多くの動画が紹介されており、陣羽織に袴姿で刀を差し、錦の御旗を掲げて鼓笛隊が軍楽を奏でて行進していく凛々しい姿を観ることが出来る。



御所から30km以上も離れた山奥にある山国村の有志が、なぜ明治維新の時に立ちあがったのかを調べていくと非常に興味深かったので、ずっと以前から山国隊を生んだ京北の地を訪れようと考えていたのだが、この地域は桜が有名であるので桜の咲く季節に訪れることに決めていた。

山深い京北の桜の開花は京都の中心部より1週間程遅いようだが、今年は例年よりもかなり遅れていて、おそらく4月下旬に入っても楽しめる場所があると思われる。
京北商工会館が「京北桜情報」を毎日アップされているので、これから行かれる方は、次のURLで開花状況を事前にチェックされた方が良いだろう。
http://keihoku.sakura.ne.jp/%E4%BA%AC%E5%8C%97%E3%81%AE%E6%A1%9C%E6%83%85%E5%A0%B1/

花降る里けいほくSAKURAめぐりマップ

また京北の桜の名所は京都市がよくできたマップを作成されているので、次のURLから「花降る里けいほく SAKURAめぐりマップ」を印刷して出かけられることをお勧めする。
http://www.city.kyoto.lg.jp/ukyo/page/0000178772.html

京北では訪問先の電話番号ではカーナビが反応しないところが多かったので、今回の記事には訪問先の住所を付記しておく。

常照皇寺の山門と勅額門

最初に訪れたのは常照皇寺(じょうしょうこうじ:京都市右京区京北井戸町丸山14−6 ☎075-853-0003)。

南北朝時代に光厳上皇が出家されたのち、貞治元年(1362)にこの地に庵を結んだのがこの寺のはじまりで、その後戦国時代に入って天正七年(1579)に明智光秀の軍勢によって寺域が焼き打ちにあったようだが、江戸幕府の第二代将軍徳川秀忠が寺領を寄進したのち朝廷の保護を受けるようになり、安永十年(1781)には開山堂が建立され、幕末以降に方丈や庫裏が整備されたという。なお背後の山腹には光厳・後花園両天皇の御陵(山国御陵)と後土御門天皇の分骨所がある。

常照皇寺勅使門と方丈

参道の長い石段を登り、山門を抜け次の勅願門を抜けると、正面に勅使門と方丈の屋根が見えてくる。勅使門への昇り階段の手前を左に折れて書院に向かう。

常照皇寺の御車返しの桜

有名な「御車返しの桜」はまだ蕾がふくらんだ程度だったが、今年の満開は4月の下旬になるのではないだろうか。

常照皇寺の九重桜と左近の桜

常照皇寺の有名な桜は他にもあって、国天然記念物の「九重桜」(右)と「左近の桜」(左)だが、九重桜がようやく開花したばかりだった。

常照皇寺の庭

秋には紅葉も美しいと聞くが、方丈から観る庭の景観は素晴らしかった。中央の楓が紅葉し、山全体が色づく季節にまた訪れてみたいものだ。

春日神社と黒田百年桜

常照皇寺をあとにして上桂川の道沿いの477号線を東に進むと春日神社(京北宮町宮野90)があり、その鳥居の左に「黒田百年桜」がある。この桜も今年はまだ蕾の状態であったのだが、この駐車場にあった黒田地区の案内板にこの地域と皇室との関わりについて記されていたので紹介したい。この歴史が冒頭で記した「山国隊」と関わってくるのである。

黒田を含む周辺地域は、平安時代に禁裏御料*(山国杣[やまぐにそま])に指定され、平安京の造営や新築用材の供給地となった。その後、紆余曲折はあったものの、大局的に見れば禁裏御料として朝廷や天皇家との関係を一貫して保ちながら、明治維新を迎えた。黒田は山国杣にあっても大堰川上流域(上桂川)の大布施杣に所属し、その中心的存在であった。…
 黒田は、月ごとあるいは緊急時に禁裏へ木材を貢納する一方で、禁裏との間には日常的な付き合いも生まれた。天皇の側近の女官が室町中期から江戸末期まで書き継いだ『御湯殿上日記(おゆとのうえにっき)』には、宮中の年中行事の際はもとより、頻繁に鮎・粽(ちまき)・餅・柿・菜・檜皮・樒(しきみ)などを持参した記録が残っている。鮎は夏には活き鮎を夕刻から翌朝にかけて御所まで運んだという。

 木材の搬出は筏(いかだ)流しが主流であり、平安時代から禁裏への貢納材を輸送し、近世における市場への移出も専らこれによった。黒田から嵯峨・梅津・桂の三ケ所の材木屋に移出された年間筏流送数は、幕末期で約三百乗(一乗とは筏の幅、約2.4m長さ54m)である。農地の少ない黒田では、農作業の主な働き手は女性で、男性は筏流しや製炭を含む山林労働により、それぞれ生活を支えた。また女性は炭俵二俵を背負い、貴船等の問屋にそれを卸した。」
*禁裏御料:天皇の直轄地でみだりにその中に入ることを禁ずる場所。「禁裏」とは天皇の常在する場所。
**『御湯殿上日記』:御所に仕える女官達によって書き継がれた当番制の日記。正本・写本・抄本を合わせると室町時代の文明9年(1477年)から文政9年(1826年)の350年分の日記が途中に一部欠失があるもののほとんどが伝わっている。


黒田地区地図

この案内板では黒田地区を中心に書かれているが、平安時代に禁裏御料となった「山国杣(そま)」は京北の山国地区、黒田地区から滋賀県境の左京区広河原地区に至る、広大な山林を指している。広河原地区は「桂川」の源流で、この川は黒田地区、山国地区へと流れて行き、日吉ダムから亀岡盆地に向い、さらに京都盆地に出てから伏見区で鴨川と合流し、大阪府との境で木津川、宇治川と合流し淀川となる川である。この川は、京北では「上桂川(かみかつらがわ)」と呼ばれ、南丹市八木から亀岡市では「大堰川(おおいがわ)」、保津町から嵐山までは「保津川」と呼ばれることが多いが、行政上の表記はいずれも「桂川」で統一されているようだ。この桂川の存在が、大量の材木の運搬に好都合であったことは言うまでもない。桂川流域とその歴史については『空から見た桂川の表情』というサイトが写真が豊富でわかりやすい。
http://www.geocities.jp/hinatacobo/page015028.html

桂川の流れ

国立国会図書館デジタルコレクションで『京都府北桑田郡*誌』という本が公開されていて、山国村の歴史が記されている部分がある。それによると、
桓武天皇の御宇山城国長岡へ御遷都御造営につき、丹波国北山中郷山国庄を御杣御料地と定められ、平安京奠都に際しても良材を奉りて御造営の工を成就し…」とあり、長岡京の造営の頃からこの地は御料地に指定されていたようである
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925931/320
*北桑田郡:今の右京区京北と南丹市、左京区広河原を郡域とした。昭和30年に北桑田郡の周山町、細野村、宇津村、黒田村、山国村、弓削村が合併して京北町が発足したが、平成17年に京北町全体が京都市右京区に編入され、翌年に美山町、園部町、八木町、日吉町が合併して南丹市が発足して、北桑田郡は消滅した。

山国村はそれ以来、皇室に御用材を納め奉り、歴代の大嘗祭に際しては「悠紀主基両殿の造営に用いられし材を上納し、時には主基斎田を命ぜられて新穀を上り、大堰川に産する年魚を毎年禁裏に献じ奉りし」とある。

『京都府北桑田郡誌』には触れられていないが、Wikipediaによると戦国時代に宇津頼重(うつよりしげ)が山国庄を押領した時代があり、朝廷より依頼を受けた織田信長が明智光秀に命じて宇津氏を討伐し、朝廷による山国庄の支配が回復したのだが、江戸時代に入ると幕領とされ、朝廷による支配は解体されている。
ところが徳川綱吉により一部が禁裏領に復したため、以降明治まで禁裏領と旗本の知行地などが山国庄内に混在する状態となってしまう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%9B%BD%E8%8D%98

地域の人々は、以前のように山国庄全体が禁裏領に復古することを強く願っていたのだが、慶応四年(1868)に鳥羽伏見の戦いがはじまり、それからまもなく山陰道鎮撫総督の西園寺公望から勤皇の士を募る檄文が届いて、それに応えて83名をもって編成されたのが「山国隊」である。東征大総督有栖川熾仁親王の京都出陣に伴い、山国隊に1小隊東征の指令が下り、2月13日に隊士35名が東山道の鳥取藩部隊に加わって京都を出発している。山国隊は各地で転戦を重ね、中山道を進み江戸に向かう途中、4月22日の壬生、安塚(栃木県宇都宮南辺り)の激戦で3名の戦死者を出し、さらに江戸の戦いでも犠牲者を出している。
明治二年(1869)二月に山国隊は鼓笛を鳴らして山国への凱旋を果たし、山国神社に参拝したのだが、1年以上の派兵に関わる軍費は自弁であり、そのためにできた膨大な借金は名主仲間の共有の山林を売り払うなどして賄われたという。多くの犠牲を出しながら、山国庄が再び禁裏領となる夢を果たすことにはならなかったのだが、以後山国隊は郷土の誇りとされ、この軍楽は今もこの地域の青少年に受け継がれている。

山国神社

「黒田百年桜」から桂川に沿って477号線を10kmほど下流に進むと山国神社(京北鳥居町宮ノ元1)がある。
社伝によると光仁天皇の宝亀年間(770~780年)に創立したとされるが、延喜式神名帳にも明記されているので、かなり古い神社であることは間違いがない。
この神社は源平合戦以降何度か戦災に巻き込まれ、現在の本殿は元文二年(1737)の建築だという。毎年10月の第二日曜日に還幸祭があり山国隊鼓笛行進が奉納されるのだそうだ。

山国護国神社

山国神社から1kmほど東に山国護国神社(京北辻町清水谷10)がある。
山国隊が明治二年二月に故郷に戻り山国神社に凱旋参拝した後に、犠牲者の招魂場を設けることが決議され、死亡した七隊士の墓標を立ててここで招魂祭が催されたという。
以来、この神社には山国隊だけではなく、日清日露戦争から太平洋戦争に至るまで、その身を国に捧げた郷土出身者の御柱も祀られているのだそうだ。
この地域では山国隊の軍楽が今も青少年に受け継がれていて、無人の神社のパンフレットによると「毎年4月22日に近い日曜日」に例祭日が行なわれ、山国隊の鼓笛行進が行われていることが記されている。
ネットで見つけた2013年の山国隊の動画を紹介しておく。



今年の例祭日の日程はあまりネットでは案内されていないようだが、パンフレットの通りだとすると4月23日に挙行されるということになる。この時期なら、今年の場合は、まだ黒田地区や常照皇寺の桜が楽しめる時期ではないだろうか。

今回紹介した常照皇寺と黒田百年桜は満開の写真をお見せできなかったが、京北の桜の名所は数多くあって、満開の桜の写真は次回に紹介することに致したい。

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http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-479.html

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桜の咲く季節に京北の歴史と春を楽しんで

常照皇寺と黒田百年は残念ながら美しいを楽しむことが出来なかったのだが、山国護国神社の次に訪れた福徳寺(京北下中町寺ノ下 ☎0771-54-0971)のはちょうど見頃を迎えていた。

福徳寺のかすみ桜

福徳寺は曹洞宗の寺院で、寺伝では和銅四年(711)に行基が創建し、弓削道鏡が七堂伽藍を整え弓削寺と称して、現在地より北へ数百メートル先の大谷口にあったとされるのだが、応永三年(1396)の火災に遭い、再建されたものの周山城築城の用材調達のため、明智光秀により破却されてしまう。天和元年(1681)に再興され、富春庵(ふしゅんあん)と称したが、明治十五年に福徳寺に改称したという。
建物は古くないのだが、保存庫には平安時代に制作された薬師如来坐像、持国天立像、増長天立像が安置されておりいずれも国の重要文化財に指定されている。
京都観光Naviのサイトによると、予約すればこれらの仏像を拝観できると案内されているが、予約を申し出る先は永林寺(☎075-854-0654)と記されている。
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000439

予約していなかったので仏像の拝観はできなかったが、庭は自由に散策が出来る。
上の画像は「かすみ」と呼ばれる枝垂れで、京都市の天然記念物に指定されている。

京北町の出会い桜 2

福徳寺から国道162号線に出て1kmほど北に進むと大きな鳥居があり、その奥に「出会い桜」(京北上弓削町弾正42)と呼ばれる大きな桜がある。上の画像は鳥居側から写したもので、下の画像は坂道の上から撮った画像である。

京北町の出会い桜

鳥居があるということは、以前はこの道は神社の参道であったということなのだが、坂道を登っていくと京北第三小学校の運動場に突き当たってしまう。

出会い桜と佐藤藤右衛門の桜と弓削八幡宮の地図

Google Earthで確認すると、神社の参道を取壊して小学校の敷地を作ったということが誰でも分かる。

弓削八幡宮社の御神木

その小学校の校庭にかなり大きな杉の木があり、調べると樹齢450年、幹回り6.31m、樹高32.5mで、旧京北町の天然記念物に指定されているようだ。しめ縄が張られているのは、近くの弓削八幡宮社の御神木だからである。

Google Earthの画像の上に、以前は弓削八幡宮社に向かう参道であったと思われるところに線を引いてみた。右の道路は国道162号線で、鳥居のある近くに「出会い桜」があり、鳥居から御神木の杉の木の延長線上に神社がある。
昔の弓削八幡宮社の境内はもっと広くて、参道の左右には立派な木々が林立していたと思うのだが、今の参道には本殿に向かう神々しい雰囲気がすっかり失われてしまっているのは残念なことだ。

国立国会図書館デジタルコレクションの『京都府北桑田郡誌』には、弓削八幡宮社についてこう解説されている。この地域も皇室とのつながりの濃い地域であったことが窺える。

「弓削村大字上中の丘上にある郷社にして、応神天皇を祀り神功皇后および湍津姫命(たきつひめ)を配祀す。社伝によれば本社は孝謙天皇の御代に勅命を以て宇佐八幡宮を勧請せられ、清和天皇の貞観元年今の地に奉祀せられしという。往古は弓削全郷の産土神としてあつく尊崇せられ、中道寺これが神宮寺としてその住僧別当職にあたる例なりき。…
 維新前までは旧例古格厳存し、村民はいずれもここに参拝し、家格を以て席次を定め、いわゆる郷飲の遺式を存したりしが今は廃せられぬ。当日は氏子中より幼齢の男児を選出して稚児とし、束帯騎馬にて神輿に供奉せしむ。これ、古昔勅使参向の風習を存せるものなりという。由来弓削村は天皇御即位の大礼を行わせらるるにあたり、大嘗会の主基田*(すきでん)を勤仕せしこと屡次にて、現に村内小字に公免租と称するところがあるが如き、その一証ならずとせず、而して之に関し宣旨講と名付くる風習を持続することは特筆すべき値あらん。
八幡神社の氏子たる下弓削、下中、上中には宣旨講なる会式あり。…宣旨講関係の古記録を閲するに、各村より十名宛の交代担当者氏名及び年号を記載し、之によりて建武の昔に泝(さかのぼ)ることを得、爾来断続して明治維新に及べり。此の行事は毎年十月七日(陰暦)に新穀を調整して、当氏神および山神に供進し、厳粛なる式を挙ぐ。之を推するに、主基御料米供進の記念式祭たること疑うの余地なからん。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925931/152
*大嘗会の主基田:天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭を大嘗会(だいじょうえ)といい、その際に皇室ゆかりの神々にお供えすることになる稲を育てる田を主基田(すきでん)という。

古記録で確認できるだけでも後醍醐天皇の時代から明治維新まで、天皇の即位の礼のあとの大嘗会に供えるお米を何度もこの地域で作ってきたのだが、東京遷都でその名誉ある歴史が途絶えてしまったということのようである。

弓削八幡宮社

上の画像は弓削八幡宮社の拝殿と本殿(京都府指定文化財)である。

弓削八幡宮社 懸仏

「京都市情報館」に、この神社が神仏習合であった時代の室町時代の懸仏(京都府指定文化財)の写真が出ている。径60センチメートルというからかなり大きなものである。こんな立派な懸仏があったということは、昔はこの地域が豊かであったということだろう。
http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000196522.html

弓削「佐藤藤右衛門」の桜

上のGoogle Earthの画像で下に○印をつけておいたのだが、弓削八幡宮社のすぐ南に桜の名所がある。民家の庭に咲く枝垂れ桜だが、京都市東山区にある国名勝の円山公園に咲く名木を、桜守「第15代目佐野藤右衛門」が移植したものだという。
こんな桜が民家の庭でのびのびと花を咲かせるのは田舎ならではの風景である。訪れた時は開花したばかりであったが、4月20日の段階で5分咲きと出ているので、今週末の22日頃にはそろそろ満開を楽しめるのではないか。もし京北に行かれる場合は、前回の記事でも紹介した京北の日々の桜情報を発信している次のURLを事前にチェックされることをお勧めしておく。
http://keihoku.sakura.ne.jp/%E4%BA%AC%E5%8C%97%E3%81%AE%E6%A1%9C%E6%83%85%E5%A0%B1/

中道寺

八幡宮社から800mほど離れた場所に中道寺(京北北上中町筒江口8 ☎0771-854-0737)がある。
寺伝によると天平勝宝三年(751)に孝謙天皇の勅願で創建され、弓削八幡宮社の神宮寺であった由緒ある寺なのだが、明治6年に失火し今の堂宇はその後再建されたものである。
しかしながら木造増長天立像(国重文、平安時代)や木造阿弥陀如来坐像・木造薬師如来坐像・木像十一面観音坐像(いずれも明治初期の神仏分離により八幡宮社より遷されたと伝えられる。市有形文化財、鎌倉時代)など価値ある仏像を所蔵しているという。
残念ながらこの寺は普段は公開されていないようなので、次の目的地に進むこととする。

花降る里けいほくSAKURAめぐりマップ

これから後は、前回記事で紹介した『花降る里SAKURAめぐりマップ』をたよりにして、京北の桜の名所を訪ねていこう。
http://www.city.kyoto.lg.jp/ukyo/page/0000178772.html

弓削川沿いの桜並木

上の画像は弓削川に架かる矢谷橋付近の桜(京北下弓削町川ナ辺)。川べりの桜並木は決して珍しくはないのだが、空と川と桜と山が空間を支配するこのような景観を楽しめる場所は、都心部で探すことは難しい。

東光寺の桜

上の画像は東光寺(京北熊田町宮ノ前4)の桜。

王林寺の一本桜

上の画像は玉林寺にある(京北栃本町西町49)の一本桜。

栃本の百本桜

桂川の流れに沿って咲く、栃本の百本桜もなかなか良い。

魚ヶ渕の枝垂れ桜

上の画像は魚ヶ渕の枝垂れ桜(京北周山町渕ノ上)。

魚ヶ渕の吊橋の桜 2

もう少し東に進むと、魚ヶ渕釣り橋の桜がある。
最後の目的地にこの桜を選んだのは正解だった。この枝垂れ桜は枝ぶりがよくて、何処から見ても絵になる。5分咲き程度でこんなに美しいのだから、満開ならどれほど素晴らしいことかと思う。

魚ヶ渕の吊橋の桜

近くに「京北十景 魚ヶ渕の釣り橋と桜」と書かれた道標が建っていた。調べると「京北十景」には、前回の記事で書いた常照皇寺と今回の記事の冒頭の福徳寺の桜と、魚ヶ渕釣り橋の桜が入っているようだ。

子供の頃、4月に道端に咲く桜を見ながら小学校に通った記憶があるが、昔は京都に限らず多くの町で道に桜の木が植えてあって、桜の花を身近に楽しめる場所がいくらでもあったのだが、実家の近くの桜の木はずいぶん昔に伐り取られてしまい、無味乾燥な舗装道路に変わってしまった。
私の自宅の近くにも大きな桜の咲く場所がいくつかあったのだが、いつしか伐り取られてマンションが建ったり、隣地や境界線をはみ出して延びている枝が伐採されて、毎年窮屈そうに咲いている。千里桜通りの桜並木も随分大胆に枝が伐られてしまって、今年は随分花付きが悪かった。

昔から「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という言葉があって、桜は枝を切るとそこから腐りやすくなるので、桜は切るものではないと伝えられてきたのだが、その言葉は都会では無視されていると思うことが多くなった。桜の本来の美しさは、自由に枝を伸ばした桜であってこそ楽しめるものだと思うのだが、存在感のある桜を育てるには百年以上はかかると思われる。そこに住む人が、何世代にもわたり地域を美しくしようと考えなければ、桜は伸び伸びと育つことはないだろう。

京北の地に生まれ育ち、この地域をこよなく愛する人々が後世に残そうとした春の風景を、この地のユニークな歴史とともに、多くの人に楽しんでいただきたいと思う。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

万葉集で桜を詠った作品が少ないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-498.html

一度神社になった国宝吉野蔵王堂
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湖底に沈んだ「飛騨の白川郷」と呼ばれた合掌造り集落の話
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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