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隠れ切支丹の里

171号線の中河原交差点から忍頂寺福井線に入り、履正社茨木グラウンドから山道に入る。サニータウンを抜け大岩郵便局を過ぎると暫く樹木のトンネルのようなところを走る。そこを過ぎると、棚田が広がるのどかな田園風景になり、しばらく行くと「キリシタン遺物資料館」の案内標識がある。案内通り左折するとその資料館(茨木市大字千提寺262)がある。思ったよりも小さい資料館だった。
資料館

キリスト教がフランシスコザビエルによって天文18年(西暦1549年)に伝えられたことは、小学校や中学校や高校で習ったし、教科書や参考書にはザビエルの肖像画が必ず掲載されていた。神戸市立博物館で本物も見たことがあるが、今まで何度写真でみたかわからないあのザビエル像が、この茨木の山奥から出てきたことはここの展示物を見て初めて知った。
ザビエル像

資料館のパンフレットによると、キリシタン大名として有名な高山右近は、永禄6年(1563年)11歳の時に洗礼を受け、その後天正元年(1573年)に高槻城主となり、在城の間三島地方(現在の摂津市・茨木市・高槻市・吹田市・島本町)はキリシタン宗の一大中心地となるのだが、天正15年(1587年)豊臣秀吉はキリシタン宗の布教と信仰を厳禁し、同様に徳川家康もキリシタン禁教令を発し、高山右近は慶長19年(1614年)に信者達とともにルソン島のマニラへ追放され、他の信者たちは死罪・流罪等の厳しい刑に処せられることになる。

そこで信者達は、表面上は仏教を信仰しているように見せかけ、山奥深く隠れるように信仰していたのだが、大正8年(1919年)に、キリシタン研究家の藤波大超氏によりキリシタン墓碑が発見され、その後、元信者宅の「あけずの櫃」などから相次いで絵画やキリスト像や銅版画、書物などが発見されたとのことである。資料館では、元信者の子孫に当たる方からの説明を受けることができる。

このような山奥であったからこそ細々と信仰が続いたことは理解できるが、なぜこれだけ急激に、また激しくキリスト教を禁じることになった経緯が長い間腑に落ちなかった。

3年ほど前にインターネットで、秀吉が何故禁教令に踏み切ったかがスッキリ分かる解説を見つけた。日本の教科書では西洋人に都合の悪いことは書かないことになっているのでしょうか。一度読めば、誰でも秀吉の英断に納得できるのではないでしょうか。

興味のある方は、是非このサイトをご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/5a197e856586baf726f6a0e68942b400

日本人が奴隷となって海外に売られた話は当時の宣教師の記録や伴天連追放令の11条などでも確認できます。

スペイン人がインディオを奴隷にして絶滅させたように、またポルトガル人がアフリカ原住民をその代わりの奴隷にしたように、当時の西洋では奴隷は普通の商品でした。西洋人が日本に来て、日本人を奴隷にしようという魂胆と日本を植民地化する野心を理解しなければ、秀吉や家康が何故禁教令を出し伴天連を国外追放にしたかが見えてきません。

多くの教科書では、異教徒を弾圧したくらいのことしか書かれていませんが、これでは歴史のリアリティを感じることができません。
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円山応挙ゆかりの金剛寺と近隣の古刹巡り

GW中はどこへ行っても渋滞するので、高速道路は使わず近場で行けるところがないかいろいろ探したところ、京都府亀岡市に円山応挙ゆかりの寺があると知り、急に行きたくなって車でその近くの古刹と一緒に巡ってきた。

私は円山応挙の絵が大好きで、昨年の秋には和歌山県串本の無量寺、冬には兵庫県香住の大乗寺に行って円山応挙とその弟子の描いた襖絵などを鑑賞してきたことをこのブログにも書いた。

私のプロフィールで使っている虎の絵をブログ仲間から時々質問されるのだが、この虎は無量寺にある長沢芦雪の「龍虎図」の虎である。金刀比羅宮の奥書院の襖絵にも応挙の「遊虎図」という絵があり今年鑑賞してきたばかりだが、虎に関しては、私は弟子の長沢芦雪の作品のほうが好きだ。

亀岡にある円山応挙ゆかりの寺とは亀岡市にある臨済宗天竜寺派の金剛寺というお寺で、地元では「応挙寺」とも呼ばれている。
大門寺・穴太寺・金剛寺 017

この山門は明和8年(1771)年に建立されたものだが、本堂や庫裏は平成11年に再建されたばかりのものである。

円山応挙は享保18年(1733)に丹波国桑田郡穴太(あのお)村(現京都府亀岡市)で貧しい農家の次男として生まれ、8歳の時にこの金剛寺で小僧として生活したのだが、同寺の住職であった玉堂和尚から禅の手ほどきを受け、また画才を認められていたそうである。 玉堂和尚が亡くなってから15歳の頃に京都に出て、岩田屋という呉服屋に奉公し、その後びいどろ尾張屋勘兵衛の世話になり、17歳の頃に狩野探幽の流れをひく鶴沢派の画家、石田幽汀の門に入っている。

応挙は既成概念にとらわれない斬新な発想で、従来の日本画にはなかった遠近法や写生を採り入れて画家として大成し、天明8年(1788年)応挙56歳の時に京都が天明の大火でアトリエが焼失し、一時的に亀岡の金剛寺に戻り、両親の追善供養と幼少時代の感謝の意を込め、本堂全面の襖と壁面57面に「山水図」「波濤図」「群仙図」を描き寄進したと言われている。

これらの作品はすべて国の重要文化財に指定されているが、1904年に「山水図」「波濤図」は東京国立博物館に寄託され、「郡仙図」は同寺の収蔵庫に保管され、毎年11月3日「文化の日」に一般に公開されるそうだ。

現在の本堂には「波濤図」の内8幅が複製されており、本堂にいけばその鑑賞が可能だが、 同寺は観光寺院ではないので通常本堂は施錠されており、本来は予約が必要だったようだ。 たまたま、運よく奥さまが庭で掃除をしておられて声をかけると、快く本堂を案内して下さってラッキーだった。

波濤図

本堂の「波濤図」は複製といってもほとんど実物の様で、ダイナミックな波のうねりが圧倒的な勢いで眼前に迫り、襖を開けても閉めても絵がつながるように緻密に構成された素晴らしい構図だ。

波濤図2

これらの応挙の襖絵が、他の作品とともにこのまま金剛寺に残されていたら素晴らしかったのだが、ネットでいろいろ調べると、明治の時期には相当建物が傷んでいたらしく、襖絵も相当傷みが激しかったようだ。そのまま襖絵を傷めてしまうよりかは国立博物館に寄託して文化財を守ることを選択されたのはやむをえなかったと思う。

この金剛寺のすぐ近くに西国三十三箇所第21番札所の穴太寺(あなおじ)がある。ここもお勧めしたい場所である。

大門寺・穴太寺・金剛寺 009

このお寺は慶雲2年(705)、文武天皇の勅願により大友古麻呂が開創したしたとされる。境内には本堂・多宝塔などの建物と日本庭園があるがいずれも江戸時代のものである。
大門寺・穴太寺・金剛寺 012

堂宇も庭園もすばらしく、観光客も多くなくて、心が落ち着く寺院である。

もうひとつ欲張っていったのが茨木市の山奥にある大門寺。摂津国八十八箇所霊場の第五十番札所である。

大門寺・穴太寺・金剛寺 002

寺伝によれば宝亀2年(771)に桓武天皇の兄にあたる開成皇子の開基とされるが、空海がこの地を来訪し、その際に金剛・蔵王の2像を彫刻し守護神にしたと伝えられている。 貞観年間(859~877年)には、本堂・無量寿堂・御影堂・三重塔などの諸堂を境内に有して隆盛していたらしいのだが、建久の地震や元弘の兵火により荒廃し、現在の伽藍は江戸時代初期に再建されたものである。

本尊の如意輪観世音菩薩と四天王立像はともに平安時代のもので重要文化財に指定されているが、秘仏として公開していないようだ。

大門寺・穴太寺・金剛寺 004

参道は苔むして、庭園もよく手入れされている。今は新緑の時期で緑が鮮やかだが、紅葉時期も素晴らしいようで、紅葉の名所としても知られているらしい。今年の秋でも訪れてみたい。

大門寺・穴太寺・金剛寺 006

昔は相当山深い所だったろうが、この近くを新名神高速道路が走るらしく近くで工事をしているのが見える。この鄙びた雰囲気は是非このまま残してほしいものである。

【ご参考】円山応挙の襖絵などがある串本の無量寺と香住の大乗寺

虎なら無量寺の「龍虎図」、串本の昼は萬口の鰹茶漬け
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-273.html

香住にある国指定重要文化財を楽しんで~~~帝釈寺、大乗寺を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-480.html

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素晴らしい紅葉の古刹を訪ねて~~隠れた紅葉の名所・大門寺

毎年紅葉の見頃の時期を迎えると、あまり観光客の多い有名な場所はなるべく避けて、静かに紅葉を楽しめる場所を探すことが多いのだが、21日に訪れた茨木市の大門寺の紅葉は素晴らしかった。今年もいくつかの紅葉を楽しんできたのだが、なかでも大門寺の紅葉が一番気にいった。

大門寺の紅葉 の大木

大門寺は今年の新緑の頃にいくつかの古刹とともに訪れて、以前このブログに書いたことがある。小さなお寺ではあるが、参道も境内の紅葉は本当に美しく、別世界に来たようだった。

大門寺参道の紅葉

駐車場から参道を歩きはじめると、途中から空気が一変する。樹高15mはありそうな楓の木が参道に何本も伸びて枝を広げて太陽の光を遮っている。下から紅葉を見上げると実に色鮮やかである。

大門寺山門の紅葉

これが大門寺の山門である。この山門は南に向いているのだが、紅葉が空間を支配しているために陽光が少なく、またわずかな木漏れ日が周りの紅葉や白壁の美しさを一段と際立たせている。門には「摂津国八十八箇所霊場」の第50番の札所である旨の看板がかかっている。

この大門寺は正式名称を「神峯山大門寺金剛院」という真言宗の寺院で、以前は「青龍寺」と号していたらしい。
この寺院の歴史はかなり古く、寺伝では宝亀二年(771)に光仁天皇の長子である開成皇子(かいじょうおうじ:平安京を開いた第50代桓武天皇の異母兄)の開基で、その後弘法大師がこの地に来て、金剛、蔵王の二像を刻んで、当寺の守護神としたとある。

貞観年間(858-876)には本堂、無量寿堂、三重塔、御影堂、鎮守十二社権現拝殿、白山権現、護摩堂、鐘楼堂、中門、経蔵、楼門、奥院などの諸堂が甍を並べて隆盛を極めていたそうだが、建久(1190~1205)期の地震や元弘(1331~1333)期の兵火のために荒廃してしまい、現在の諸堂は快我上人空寿により江戸時代初期に再建されたものだという。

大門寺のイチョウの紅葉

山門を抜けると、まず色鮮やかなイチョウと楓の木が目に飛び込んでくる。

大門寺本堂

本堂は決して大きなものではないが、本尊の聖如意輪観世音菩薩(秘仏)ならびに四天王像はいずれも平安時代藤原期の仏像で国の重要文化財に指定されているそうだ。この日は写経会が行われており、写経会に参加すれば四天王像は拝観出来たと思うが時間がかかるので今回は諦めた。

大門寺聖如意輪観世音菩薩

パンフレットの画像を拡大してみたのだが、上が本尊の聖如意輪観世音菩薩(秘仏)、下が四天王像だ。
大門寺 001

大門寺の本堂前の紅葉

本堂のすぐ近くにある楓の大木は紅葉が一段と鮮やかで、また枝ぶりも素晴らしい。

大門寺弁天堂と菊

庭にきれいな菊の鉢が並べられていた。紅葉見物と菊花の鑑賞が同時にできるとは思わなかった。写っている建物は弁天堂と庫裏である。

大門寺の抹茶

紅葉の時期の2日間だけ御茶席が設けられていたので客殿の庭から見える紅葉を堪能しながら抹茶を戴いた。この素晴らしい景色はいつまで見ても飽きることがなく、随分心が癒された。大門寺は北摂の隠れた紅葉の名所としてお勧めしたい。

大門寺客殿からの景色

この寺を開いたのは桓武天皇の諸兄の開成皇子だと書いたが、開成皇子という人物を調べると面白いことがわかった。

開成皇子は天皇家の直系男子でありながら、正史である「続日本紀」には全く現れず、「元亨釈書」(日本最初の仏教通史:元享2年[1322]成立)、「本朝高僧伝」(元禄15年[1702]成立)、「拾遺往生伝」(12世紀前半)など、かなり後世に編まれた僧侶の伝記の中にだけ記されている人物なのだそうだ。母親が誰かもよくわかっていない。

これらの僧侶の伝記において開成皇子について明確に書かれているのは、大阪府箕面市にある勝尾寺を開いたということだけなのだが、北摂地区には勝尾寺、大門寺以外にも、開成皇子が開創したという寺伝を持つ多くの寺がいくつか存在する。

kaijou-map.jpg

たとえば高槻市にある本山寺、神峰山寺(かぶさんじ)はいずれも役行者(えんのぎょうじゃ)が開き、開成皇子が創建したという言い伝えがある。また高槻市の安岡寺(あんこうじ)も開成皇子が創建したという言い伝えのある寺院だが、次のURLで、この三つの寺はきれいに一直線上に並んでいることが紹介されている。
http://www.shoai.ne.jp/takatsuki/sanzanji.html

また高槻市にある霊仙寺というお寺も開成皇子が創建したという言い伝えのある寺院で、安岡寺、霊仙寺、大門寺、勝尾寺も地図で確認するとほぼ一直線上に並んでいる。この位置関係はどういう意味があるのだろうか。

役行者

役行者(えんのぎょうじゃ)は前々回の記事にも少し書いたが、634年に生まれ、葛城山や熊野、大峯の山々で修行を重ね、金峯山(吉野)で蔵王権現を感得し、修験道の基礎を築いたとされる人物である。その後、謀反の疑いをかけられて699年に伊豆大島に流刑となり、701年に疑いが晴れるも、同年の6月に箕面の天上ヶ岳にて入寂したと言われている。

また開成皇子の墓が勝尾寺の裏の最勝ヶ峰にあるのだが、いろいろ調べると北摂の山々は吉野・熊野などと同様に修験道の聖地であったようなのだ。開成皇子は修験道の世界に入り、北摂の寺院の創建にかかわった。開成皇子に関係のある寺院が直線状に並ぶのも何か意味がありそうだが、これがどういう意味なのかは良くわからない。

勝尾寺の紅葉

勝尾寺は実は先日紅葉を見てきた。この寺の紅葉も素晴らしかったので写真だけ添付しておく。ここの紅葉は有名過ぎて、最盛時には10時頃になると駐車場待ちの車で一杯になると思う。この山の上に開成皇子の墓があるそうだ。

明治5年に修験道が禁止され多くの寺院が廃絶されたが、北摂地区は比較的古い寺院が残っているようだ。箕面市にある瀧安寺(りゅうあんじ)は、今も修験道である本山修験宗の根本道場だ。
開成皇子にゆかりのある寺は、ほぼ現在の東海自然歩道に沿って存在する。東海自然歩道そのものが、昔の修験者が切り拓いて作った道なのかもしれない。
修験者になった気持で、これらの寺を巡る山歩きにも一度チャレンジしてみたい。

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1300年以上の古い歴史を持つ神峰山寺と本山寺を訪ねて

大門寺紅葉

昨年の秋に「素晴らしい紅葉の古刹を訪ねて」という記事を書いて、大阪の茨木市の山奥にある大門寺という寺を紹介した。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-111.html

この大門寺を開いたのは桓武天皇の異母兄である開成皇子(かいじょうおうじ724-781)だが、開成皇子は天皇家の直系男子でありながら、正史である「続日本紀」には全く現れず、「元亨釈書」(日本最初の仏教通史:元享2年[1322]成立)、「本朝高僧伝」(元禄15年[1702]成立)、「拾遺往生伝」(12世紀前半)など、かなり後世に編まれた僧侶の伝記の中にだけ記されている人物で、母親が誰かもよくわかっていないそうだ。

北摂の山には、ほかにも開成皇子が創建に関わった古い寺院が少なくないのだが、1か月程前に、役行者(えんのぎょうじゃ)が開き、この開成皇子が創建したという言い伝えのある神峰山寺(かぶさんじ)と本山寺(ほんざんじ)を訪ねてきた。

また高槻市の安岡寺(あんこうじ)も開成皇子が創建したという言い伝えのある寺院だが、「北摂三山寺」ともよばれるこの神峰山寺・本山寺・安岡寺の三つの寺は、グーグルの地図で確認すると一直線上に並んでいることがわかる。(A:神峰山寺、B:本山寺、E:安岡寺)

大きな地図で見る



お寺の由来はどうなっているのか。
本山寺は寺伝によると、持統天皇10年(696年)に役小角が葛城山で修行中に北西に紫雲のたなびくのを見て霊験を感じ、北摂の山に来て自ら毘沙門天像を彫り、堂を建てて修験の道場として開山したのが始まりと伝えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%B1%E5%AF%BA_%28%E9%AB%98%E6%A7%BB%E5%B8%82%29
また『神峰山寺秘密縁起』によれば、697年(文武天皇元年)役行者が葛城山中より、葛城山と葛城山と北方の嶺とに金色の光が往来するのを見て当山を訪れ、地主神金毘羅童子のお告げにより、伽藍を建立、霊木を得たとされる。

この二つの寺の由来から考えると、本山寺と神峰山寺と葛城山とが直線上にあれば、寺の由来に強い説得力がでて、更にその直線上に安岡寺を配置すれば霊験が更に強まるように昔の人は考えたのではないかと仮説を立ててみたが、神峰山寺、本山寺、安岡寺を結ぶラインの延長線は、残念ながら奈良の葛城山よりかは西にずれてしまうようだ。

しかし、もう少し西にも(和泉)葛城山があり、この山は北摂三山寺のラインにかなり近いことに気が付いた。この山も役行者が開いた修験道の山であった。
いろいろ調べると、「葛城山」は古くは奈良・大阪府県境の金剛山地から、大阪・和歌山県境の和泉山脈に及ぶ逆L字形の山系の総称を指していたそうだ。
http://homepage3.nifty.com/enno-f/enno/enno_21.htm
とすれば、私の仮説がひょっとすると当たっているのかもしれない。

北摂三山寺はいずれも天台宗の寺で、開成皇子が創建にかかわったということのほかにもいくつかの共通点がある。

そのうちの一つは、いずれの寺もキリシタン大名であった高山友照・右近父子が高槻城主であった時期に破壊されたという伝承が残されている点だ。

高山右近

しかし残念なことに、高山右近らがこの地で活躍した時代の記録は残されておらず、あれだけ詳細に当時のキリスト教布教の歴史を記述したルイス・フロイスも、高山右近の寺院破壊については具体的な記述が乏しい。
また、先月訪れた神峰山寺と本山寺には立札にもパンフレットにもホームページにも高山右近の焼討にあった事は一言も書かれていないのだ。では、北摂三山寺が焼討にあったという根拠はどこにあるのか。

早稲田大学大学院教育学研究科紀要別冊15号-2に山下洋輔氏が「高山右近の寺社破壊に関する一考察」という論文を寄稿しておられ、ネットでも誰でも読む事が出来る。学術論文なので出典なども明記されている。
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/30131/1/KyoikugakuKenkyukaBessatsu_15_02_001_YAMASHITA.pdf
それによると、江戸時代に出版された「摂津名所図会」という書物に本山寺が、「摂陽群談」という書物に神峰山寺が高山右近によって焼討・破壊されたことが書かれているらしい。
山下論文によると安岡寺については高山右近によって焼かれたという記録はないようだが、高山父子が高槻城主であった時代に破壊にあったと伝えられているそうだ。ところがWikipediaでは安岡寺は天正年間に高山右近の兵火によって焼かれたと書かれているが、根拠となる出典については記されていない。

もう一つ神峰山寺、本山寺、安岡寺の3つの寺に共通する点は「勧請掛(かんじょうがけ)」という伝統行事が数百年にわたり続いている点である。ネットでその画像を見て、自分の目でどうしても見たくなって、先月に高槻の山奥を走って来たわけである。 最初に訪れたのが神峰山寺。写真を撮り損ねたが、お寺でありながら大きな鳥居があった。

神峰山寺勧請掛

鳥居を過ぎると、駐車場の近くに不思議な「勧請掛」が見えてくる。これは縄に12束の樒(しきみ)を結びつけたもので、毎年12月23日に掛け替えられるそうだ。次のURLに、昨年末にその作業をしているところを神峰山寺が編集した動画を見ることが出来る。
http://www.youtube.com/user/kabusanji#p/a/u/1/dSpysjBLawk

「勧請掛」の掛け替えは神峰山寺に数百年前から変わらずに行われている行事で、古い寺族檀家27軒だけにこの神事の作業を行うことが許されているそうだ。
「勧請(かんじょう)する」とは「神様をお呼びする」ということで、「この場所より奥は神域である」という意味があるという。

神峰山寺山門

勧請掛を過ぎてしばらく行くと、仁王門が見えてくる。仁王門の横にある神峰山寺の案内板には、
「…足利三大将軍義満や豊臣秀頼の生母淀殿らの寄進も多く、大いに栄えた。秀頼も諸堂を造営したと伝えられる。」
「しかし、江戸時代の中期の明和2年(1756)に火災で焼失し、安永6年(1777)に再建された。」と淡々と書かれており高山右近の破壊のことには触れていないが、どういう事情で秀頼が諸堂を造営したのかが問題なのである。

神峰山寺本堂

本堂には国の重要文化財に指定された阿弥陀如来座像、聖観音立像(いずれも平安時代のもの)があるが、残念ながら外からではあまりよく見えなかった。事前予約すれば、秘仏の毘沙門天(3体)を除く仏像を拝観できるそうだが、拝仏料が2000円となっている。また毘沙門天の内1体は秋の大祭で御開帳されるそうである。

神峰山寺は毎年1月9日の「初寅会」には修験者によって「大護摩供」と「火渡りの神事」などが行われるそうだし、また紅葉の頃も美しいことで有名だ。また行ってみたくなるお寺のひとつである。

神峰山寺の駐車場に戻って本山寺に向かう。道幅3メートル程度の細い道が3キロ程度続く。本山寺の駐車場からは一般車通行禁止で、約1kmを歩いて登ることになるが、これが結構厳しい上り坂である。

本山寺 勧請掛

上の画像が本山寺の勧請掛である。神峰山寺よりもこじんまりしているが、12束の樒(しきみ)を縄に結びつけるのは同じである。

本山寺本堂

更に進むと山門があり、もう少し行くと階段があり、本堂に辿り着く。

この寺の毘沙門天立像は日本三大毘沙門天(鞍馬寺、朝護孫子寺、本山寺)のうちの一つで、国の重要文化財に指定されているのだが、残念ながらこの秘仏が公開されるのは、年に3日のご開帳と定められており、1月3日、5月第2日曜日、11月第2日曜日の午後1時から3時ごろとなっているそうだ。

安岡寺はまだ行ったことがないのだが、次のURLで安岡寺の勧請掛の写真を見ることが出来る。縄に12束の樒を結びつけるのは、どうやら北摂三山寺すべてに共通のようだ。
http://mukago.osakazine.net/e242035.html

勧請掛は高槻に限らず、若狭・近江・伊賀・大和に多く分布し、集落の入り口や神社の入り口などに掛けられているそうだが、勧請掛の形は部落ごとに様々で、全く同じものはないそうだ。次のURLで様々な勧請掛(勧請縄)を見ることが出来るが、それぞれの地方で何百年もこの伝統が継承されていることは注目すべき事だと思う。
http://homepage2.nifty.com/kakitsubata05/fukei/040/main.htm

しかし、現在のような経済施策が続けられては都心や大企業が潤って多くの地方は豊かになることが難しい。若い世代を育てても、生活できる仕事が地元で見つからなければ、多くは地元を去っていく。
数百年の長い年月をかけて培われ、世代から世代に長い間引き継がれていった地方文化や伝統行事を承継していくことは、地元に残された人々の大変な苦労があるのだろう。

こういう伝統や文化を非科学的だと言う人も少なからずいることだろう。しかしながら、居住地域の文化と無縁な人々の集まりである都心部の人々が、これから高齢化が進んだ場合に、田舎で地域の文化を継承している人々よりもいつまでも幸せだと言えるのだろうか。
地域の共同体意識がほとんどない都心部は、単なる住居の集合体でしかない。これからは、都市部において無縁社会化が進行し老人の孤独死がますます増えていくだろう。

都心部よりも生活環境が厳しい田舎では、人々がお互い助け合いながら生きていくしかない。そのために、地域がまとまる仕組みをいろんな形で昔の人が残してくれたという見方もできるのだ。
お祭りもそうだし、今回紹介した勧請掛もそうだが、自分を育ててくれた両親や祖父母をはじめとする先祖が代々大切にしてきたものを、住民同士で継承し守り続けることによって地域の共同体意識を強め、厳しくもあり不便でもある田舎で、国や地方のお金や人手にあまり頼らずに、住んでいる人々がお互いに信頼し助け合いながら、それなりに幸せに生きていけるという素晴らしい智恵が隠されているような気がするのだ。
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能勢町の古刹と天然記念物「野間の大ケヤキ」を訪ねて

ゴールデンウィークの道路渋滞を避けて、一般道を通って大阪の北端にある能勢町に行って来た。能勢町はとてものどかな雰囲気で、美しい山並みと田園風景に結構癒される場所である。

大阪の都心や住宅地で滅多に見られなくなった「鯉のぼり」も、この時期にここまで来るといくつも泳いでいる。昔懐かしい茅葺の家も点在している。

能勢の鯉のぼり

茅葺屋根の民家の庭に「鯉のぼり」が泳いでいるのを見ると、数十年前にタイムトリップしたような気分になって、思わず何枚も写真を撮った。上の画像は蛙の鳴き声の聞きながら、「大日堂」の近くの民家を撮影したものだが、こういう景色はこれからもずっと残しておいてほしいものだ。

能勢町には結構歴史の古い寺があるが、無人の寺もあるようだ。昨年に能勢町野間西山「今養寺」という寺で、国の重要文化財である平安時代の仏像「木造大日如来坐像」が盗まれたそうだが、この「今養寺」は無人なのだそうだ。
次のURLで盗難された文化財のリストが出ているが、仏像の盗難は全国で毎年30件近く発生しているのは驚きだ。
http://www.bunkaken.net/index.files/topics/tonan.html

上の鯉のぼりの画像を撮った民家の近くにあった「大日堂」も無人の寺で、仏像を拝することは叶わなかったが、ここには平安時代の大日如来坐像と二天像が安置されているはずだ。江戸時代に、この場所より西側の「堂床山」という山の荒廃したお堂に雨ざらし状態にあった仏像を移してきたためにかなり傷んでいるそうだが、三像とも一木彫の仏像であるらしい。

月峰寺の阿弥陀如来座像

上の画像は「月峰寺」境内にある「阿弥陀坐像石仏」である。制作は文安四年(1447)で、作者は不明である。
「月峰寺」は7世紀の推古天皇の時代に開創されたという伝えのある古い寺院で、開創のころは剣尾山の山頂近くの山岳寺院であった。最盛期には四十九もの院坊が存在したそうだが、天文14年(1545)丹波城主波多野氏の兵火により全焼してしまい、天文18年三好長慶や片桐勝元が再興を計るもならず、寛文四年(1664)観行上人が山上を去り、麓の現在地に再建したのだそうだ。
お願いすれば内部を拝観させていただいたかもしれないが、釈迦如来坐像(鎌倉末期~室町初期)、木造聖徳太子孝養像(南北朝~室町時代)という古仏があるそうだ。

玉泉寺

「玉泉寺」というお寺にも行って来たが、ここは先程の月峰寺の坊寺の一つとして剣尾山の山頂近くにあったのだが、戦火にあった後現在の場所に移ったのは宝永五年(1708)なのだそうだ。
ここもお願いすれば内部を拝観させていただいたかもしれないが、平安時代の薬師如来座像(能勢町指定文化財)や江戸時代の仏師「湛海」の傑作とされる木造不動明王坐像(大阪府指定文化財)などが安置されているそうだ。

能勢に来たら必ず立ち寄ってほしい場所が、国指定天然記念物の「野間の大ケヤキ」。

野間の大ケヤキ3

樹齢は千年とされ高さが30m、幹回りが14m、枝は東西に42m、南北に38mもある大変な巨木で、凄いオーラを感じて眼を釘づけにさせる樹だ。ケヤキの木としては全国で4番目の大きさで「新日本名木100選」や「大阪みどりの百選」にも選ばれているそうだ。

説明板によるとこのケヤキを中心とする一角の地は、鎌倉時代の承久二年(1220)に創建された「蟻無宮(ありなしのみや)」と呼ばれる神社の境内だったそうで、この木はその神社のご神体だったと考えられている。しかし、明治45年に蟻無宮は近くの野間神社に御祭神が合祀されて、今はこのケヤキが残されているだけだ。ボランティアの人によると新緑の今頃が一番美しいとのことだ。

あと能勢町は、江戸時代の文化年間に始まり200年の歴史がある人形浄瑠璃(大阪府指定無形民俗文化財)が有名だ。能勢町役場の近くに「浄るりシアター」があるが、全国の人形浄瑠璃が衰退していく中で、この町では伝統を継承して今も200人の語り手がいるというからすごい。

「食べログ」で調べると食事をする場所はよさそうなところがいろいろあるのだが、今回は「Soto Dining」でランチをしてきた。

Soto Dining

この店は景色も良ければ建物の外観も店内の雰囲気も良い。不便な場所にあるのだが、11時ごろのオープン前から20人近くが並んでいて、12時前には満席になっていた。

Soto Dining Lunch

画像は鶏のトマトソースだが他にもハンバーグデミグラソースとサーモンのクリームソースがランチのメニュー。こんなお店で能勢の山々の景色を見ながら美味しい食事ができるのは嬉しい。

他にも食事をする場所はいくらでもある。先日行った「若田亭」の蕎麦も良かったし、食べログを見ると、まだまだ素敵な店がいくつもありそうだ。

くりの郷

野菜なら道沿いにいくつも小さな販売所があるが、まとめ買いする時は「道の駅くりの郷」(能勢町観光物産センター)で買う。近隣で採れたばかりの野菜や特産品が豊富にそろっている。米も精米したてのものを販売してくれて、精米のレベルまでも選ぶことができる。もちろんどんな農産物もスーパーで買うよりも美味しくて割安だ。

会社の同僚の話だと、この道の駅の近くで特別天然記念物のオオサンショウウオを見たというのだが、調べると能勢町の川にはオオサンショウウオが多数生息しているようだ。

能勢町の魅力は山や川が美しいだけでなく、このように昔のままの自然と文化と生活が残されているところにある。こんな町が大阪の都心部から近い所にあることが嬉しい。

しかしながら、もしこの能勢町に大手のチェーン店が大型店舗をいくつも構えるようなことになれば、町の中での微妙な経済循環が崩壊して多くの農家や店舗が疲弊し、それがきっかけになってこの町の魅力を支えてきたものが少しずつ崩れいって、どこにでもあるような普通の田舎地方になってしまうような気がする。

いままで町を支えてきた人々の収入が減れば、若い人々は町を去ることになる。そうなれば、有名な野間神社の秋の例大祭や浄瑠璃などの文化の担い手も先細りになってしまうし、お寺や神社を支える檀家や氏子からの収入が減少すれば、いずれ多くの文化財が維持できなくなってしまうだろう。

今多くの地方で高齢化が進み、その地方の文化財に充分な修理がなされず、地方特有の文化が充分に継承されないまま何れは消滅してしまいそうな危機にあるが、その危機を逃れるためには能勢町のように、その地方の住民の中で経済がうまく循環して住民が生活できかつ地元に蓄えが残る仕組みを維持することが重要なのだと思う。

能勢町が田舎の魅力を持ち続ける限り私はこれからも訪れたいし、秋祭りや人形浄瑠璃の公演にも、ぜひ足を運びたいと思っている。
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大阪のてっぺん 浄瑠璃の里~~地域の文化を継承するということ

ドライブや旅行で地方に行くと、素晴らしい文化と繁栄の歴史を持ちながら、時代の流れと共に若い人が地元を離れて衰退し、その地方固有の伝統や文化も後継者を失っているのを見て悲しくなることがある。
いくら文化的に価値の高いものであったとしても、その文化を支えてきた仕組みがその地方に残らなければ、いずれ消滅してしまうことを避けることは難しいのだろう。

昔はどんな地方にも地元で働ける仕事が少なからずあり、若い世代の多くが地元に残ることが出来た。農業や林業や漁業をはじめ小規模ながらも様々な製造業や小売業などが地元に存在し、各家の長男は家の生業を継ぐ社会だったと思う。
しかし農林水産業での生活は厳しくなる一方で、地域での零細な製造業や小売業なども都会資本の大企業等に淘汰され、さらに役所まで統廃合されたために地元で働ける職場が激減している。

地元で家族を養えるだけの生活ができるような仕事がなければ、若い世代は地元を離れざるを得ない。その結果、地方は老齢化が進んでいくばかりだし、経済は縮小し都心部との地域間格差は拡大していかざるを得ない。

地方に残った有形・無形の文化は、それぞれの地域に代々居住している農業の従事者や、零細な事業者等によって永年にわたり承継されてきたものだが、地域に若い世代が残る仕組みの多くが崩壊した今、多くの地方でそれらの文化の存続が難しくなってきている。

古いお寺や神社の建物などは屋根などが傷んでも、地元の人々の寄付が集まらないために修復にお金をかけられず、祭りや踊りや浄瑠璃などの無形の文化は若い世代がいないために伝統の承継が容易ではないという地域は多い。観光客が集まって地元に多くのお金を落としてくれる場所であればともかく、大半の地域では稼ぎ手の多くを失い、共同体的な地域の人々のつながりが崩壊してしまって、その地域文化を残すことが次第に難しくなってきている。

能勢浄瑠璃の里

しかし大阪の北端にある豊能郡能勢町では200年以上の歴史がある浄瑠璃が今も地元の多くの人々によって支えられて、平成5年(1993)には大阪府の無形民俗文化財に指定され、ついで平成19年(2007)にはサントリー地域文化賞も受賞していることを知って興味を持った。
http://www.suntory.co.jp/news/2007/9849-2.html

サントリー地域文化賞の受賞理由にはこう書いてある。
「世襲ではない独自の家元制度により200年の伝統を重ねてきた能勢の浄瑠璃は、オリジナルな人形浄瑠璃を新たに作り出すなど、伝統を継承するだけではなく、能勢町全体で『浄瑠璃の里文化』の新たな発展に取り組んでいることが、高く評価された。」

「世襲でない独自の家元制度」とはどういうことなのか。
能勢の浄瑠璃は江戸時代中期・文化年間(1804年~1817年)に初代太夫が誕生し、竹本文太夫派・竹本井筒太夫派・竹本中美太夫派があり、お互いに競い合ってその伝統を継承してきたそうなのだが、2001年に新しく竹本東寿太夫派が誕生した。

能勢浄瑠璃流派

浄瑠璃の語り手を「太夫(たゆう)」というのだが、人口11千人程度の能勢町に、上記の4派で200名を超える太夫がいるというのだ。
それだけ多くの語り手がいる理由のひとつは、「おやじ制度」という仕組みで、弟子を採用して稽古をつけるだけでなく、外部から師匠を呼んで長期間稽古をつけて技芸を磨くのだが、歌舞伎の家元制度のように世襲ではないので、新たな「おやじ」がうまれて更にメンバーを拡大していくことで、浄瑠璃人口の拡大につながったと評価されている。
http://www.masse.or.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/7/20057p11_14.pdf

三味線

伝統の承継だけではなく「新たな発展に取り組んでいる」ということはどういうことなのか。
能勢浄瑠璃は、もともとは人形を使わずに語りと三味線だけで物語が進行する「素浄瑠璃」の伝統が200年近く続いたのだそうだ。
そして平成10年(1998)に新しく人形を加えて「ザ・能勢人形浄瑠璃」がデビューし、演目も古典ばかりでなく、オリジナルな作品を手掛け、平成18年(2006)には劇団として発展させた「能勢人形浄瑠璃鹿角(ろっかく)座」が誕生し、現在数多くの公演活動を行っているという。
「鹿角座」のホームページを見ると師匠に人間国宝の竹本住太夫(人形浄瑠璃文楽座太夫)、吉田蓑助(人形浄瑠璃文楽座人形遣い)も名前を連ねているから凄い。子供のメンバーもかなりいるようだ。
http://rokkakuza.jp/

浄瑠璃シアター入口

たまたま10月2日に能勢町の「浄るりシアター」で人形浄瑠璃の公演があることを知ったので、鑑賞しに行ってきた。
上の画像が能勢町の「浄るりシアター」だが、このシアターが完成したのは平成5年(1993)のことだ。

太夫の衣装

ロビーには人形浄瑠璃に使う人形や三味線、太夫の着る衣装などの資料が展示されている。

床本

上の画像は太夫が読む「床本(ゆかほん)」で、この太い特殊な字を読むことだけでもそれなりの訓練が必要だが、「太夫」はただ読むのではなく、三味線に合わせて独特な節回しで、登場する何人もの人物の声を使い分けて、仕草や演技の描写を伴う絶妙な語り口で、観客に物語の情景や展開のすべてを理解させる役割であるからかなりの熟練が必要なのだ。この「太夫」が能勢町に200人近くいるということは本当に凄いことなのである。

支援企業

地元の多くの企業がこのシアターの創設に関わっていることは、上の画像を見ればわかる。全国的に有名な企業はどこにもなく、地元の企業や団体ばかりだと思われる。
別の言い方をすれば能勢町では地元企業はこれだけ元気がいいし、多くの企業が地元の文化に誇りを持っているということなのだろう。

この日に浄るりシアターで開催されたのは、伝統的な能勢町の素浄瑠璃と徳島勝浦座の人形とのジョイント公演で、今回がその第20回目になるのだそうだ。

出し物は「傾城恋飛脚 新口村の段」「鎌倉三代記 三浦別れの段、高綱物語の段」「菅原伝授手習鑑 寺子屋の段」で、入場者全員に出し物の「床本集」が手渡される。
この床本集は太夫が読むような太い特殊な字ではなく、明朝体で印刷されいて誰でも読む事はできるのだが、公演が始まるとどうしても人形の動きと太夫の語りを聴くことに集中してしまうので、舞台を見ながら床本に目を通すことは難しい。

初めのうちは太夫の語りの言葉の意味がわからなかったり、登場人物の誰の言葉なのかがわからなかったりして理解に苦しんだが、幕間に床本を読むことによって次第に太夫の語り言葉がスッと頭に入るようになって、最後の「菅原伝授手習鑑」では、菅原道真公の子の命を守るために、我が一人息子の命を身代わりに差し出した親の切ない心を絞り出すように語る太夫の言葉が体に染みわたるように理解ができるようになり、途中から眼がしらが熱くなってきた。
浄瑠璃の床本はネットでもデータベースが公開されているが、たとえば「菅原伝授手習鑑」は、次のURLで読む事が出来る。
http://homepage2.nifty.com/hachisuke/yukahon/sugawara.html

今回上演されたのは「寺子屋の段」で、手渡された床本集には寺子屋の段までのあらすじが書かれていたのだが、幕間にこの難しい文章を読んでもなかなか理解できなかった。ところが人形の動きと太夫の語りを聴いているうちに、途中から物語を少しばかり理解できるようになったのは、太夫の語る技術と人形の動きや表情のお陰なのだろうと思う。

私が一番驚いたのは、このような難しい言葉の多い漢語調の文章を、床本を見ずに楽しんでいる観客の多さである。
テレビドラマなどとは全く比較にならないような中身の濃い物語を、能勢の人々は、昔から人形がなくとも、内容を理解して楽しんできた歴史がベースにあるのだ。
「素浄瑠璃」と言葉でいうのは簡単だが、何人もの登場人物の声を使い分けて、聴衆に物語を理解させる太夫の語りの技術は相当洗練されていないと観客を楽しませることはできない。
ハイレベルの語りの技術が伝承されてきたからこそ、この町に200年にわたる素浄瑠璃の歴史があり、今の時代でも多くの観客を呼べるのだろう。

能勢町のことは以前にもこのブログで記事を書いたが、この町にはお米や野菜などを買ったり、地元の美味しい食材を使ったレストランや食堂などがいくつかあって、最近よく訪れるようになった。

野間の大ケヤキ

ここでは食べるものが美味しいだけではなく景色も素晴らしい。天然記念物の「野間の大ケヤキ」はスケールの大きさにも驚くが、新緑の季節は緑が鮮やかで美しい。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-183.html

またこの町は、地域の中で経済がうまく循環していて、昔ながらのお店がたくさん残っているのも魅力の一つだ。大手チェーン店がこの町に進出して来ないのは人口密度が115人/㎢と低いことによるのだと思うが、私のように都市部から買物にくる消費者が少なからずいることがこの町の活性化に繋がっているのではないか。

能勢の里

週末に良く行く道の駅(能勢町観光物産センター)は大変な盛況だし、他にも昔ながらの手作りの豆腐や手作りの丁稚羊羹の店などによく行っている。

能勢の棚田2

能勢町では、どこの街にでもあるようなチェーン店の派手な看板はほとんど見当たらず、美しい自然の中にお寺や神社や人々の家や店舗が調和して存在しているようで、絵になる景色が多くて癒されるのだ。

今回の公演で「鎌倉三代記 三浦別れの段」で太夫を務めた能勢町長の中和博氏が、強いリーダーシップを発揮して能勢町を浄瑠璃の里として広めておられる。町に200年以上続く伝統を、次の世代につなげていく施策こそが地域の連帯を強めて、その伝統が価値を持ち続ける限り、人々は郷土の誇りを失うことなく今までどおりの生活を続けることが出来るのだと思う。

愛すべき郷土があり、郷土の為に尽くすことができる人生は幸せである。能勢の人々にはその愛すべき対象が残されている。しかるに、都会人の多くは自分が尽くすべき郷土を失ってしまったかのようである。

能勢町が持つ田舎の魅力とパワーをいつまでも失わずにいて欲しいし、200年以上続いた人形浄瑠璃の伝統を、これからの200年も是非つなげて欲しいものだ。
私もこれからも時々ここに買物に来て、この地域の生産者の生活に少しでもプラスになればと思うし、他の地域の伝統文化なども応援していきたい。
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桜の咲く古民家の風景を求めて

最近大きなテーマばかりを書いてきたので、たまには息抜きで今年の桜を話題にすることにしたい。
有名なお花見スポットはどこへ行っても、いつ行っても観光客が多すぎて、なかなかいい写真が撮れない。できれば屋台の店舗がなくて、観光客が比較的少なくて、昔と変わらないような風景の中で静かに桜を楽しみたいと思う。

そんな場所を伝えたいと思って昨年は龍野城を紹介したが、今年は大阪府豊中市の服部緑地公園の一角にある「日本民家集落博物館」に行ってきた。
この場所は梅、桜、竹、柿などの樹木や草花に囲まれた約3万6千㎡の敷地内に、北は岩手県「南部の曲屋」から南は鹿児島県「奄美大島の高倉」まで12棟の民家が、自然な環境の中で移築されていて、都心でありながら四季折々の古き良き日本の風景を楽しめる場所である。
アスファルトやコンクリートのようなものが広い敷地内に全くと言っていいほど存在せず、敷地の中にタンポポや菜の花が咲き土筆が生えている昔のままの自然に近い環境の中で、立派な木造の古民家が堂々と建っているのが良い。

桜の木が特に多いというわけではないが、茅葺の古民家の周りに適度に配された桜が咲く時期はなかなか美しい。4月8日に訪れたのだが、この日で5~7分咲き程度だったのでまだしばらくは楽しめるだろう。

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ここが「日本民家集落博物館」の入り口。江戸時代中期に建てられた河内布施の長屋門を移築したものであるが、この建物は元衆議院議員で財務大臣などを務めた塩川正十郎氏の自宅の一部を、寄贈により移築されたとある。ここで入場料500円を支払う。

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入り口近くの桜は7分咲きといったところ。

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右に折れると、江戸時代後期に建てられた堂島の米蔵がある。青い空に白壁と桜がなかなか良く似合う。

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奥に進むと江戸時代中期に建てられた飛騨白川の民家(旧大井家住宅)がある。
関西電力の寄贈とあったが、鳩ケ谷ダム建築時に湖底に沈む大牧部落から昭和31年に移築されたとのことである。かなり大きな民家で、現在国指定重要有形民俗文化財になっている。
むかし白川郷では、長男のみが嫁取りをし、弟妹たちは通い婚で夫婦はそれぞれの生家で住んで別居生活をしていたそうだ。その場合、生まれた子どもは母親の実家で育てられるというしきたりであったので、多いところでは30人から40人の家族が一つ屋根の下に住むこともあったという。この旧大井家住宅も10人から20人の大家族であったらしい

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すぐ近くにあるのは摂津能勢の民家(旧泉龍三宅)。江戸時代初期の建築で国指定重要文化財になっている。
入母屋造りの妻入で内部は縦に二分されて片側を土間、片側を部屋にしている。この種の民家は大阪府北端の能勢地方から、丹波・日本海にかけて分布して、この旧泉家住宅はその民家の中でも最古のものだそうだ。

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この建物は香川県小豆島の農村歌舞伎舞台。安政6年(1859)に建築されたもので、現在大阪府の指定民俗文化財になっている。
小豆島は江戸時代から明治時代にかけて農村歌舞伎が盛んで、島内にはこのような舞台が20棟以上あったという。この舞台の移築が決まってから昭和37年に吉田部落では14年ぶりに公演が行われお別れ公演としたそうだ。
私はまだ見たことがないのだが、小豆島の肥土山地区や中山地区では今も5月と10月に農村歌舞伎(県指定無形民俗文化財)が続けられているようだ。
島の子供たちが春休みを返上して稽古に取り組む姿が今年の産経新聞で報道されている。地域ぐるみで300年にわたる伝統文化を継承していくことは大変な苦労があることだろうが、生まれ育った地域に全国に誇れる文化があるということは素晴らしいことだ。このような伝統文化を守る取り組みにより、世代を超えた住民同士の絆が自然に育まれていく仕組みが残されていることは羨ましくもある。
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/120331/ent12033120030014-n1.htm
地元の方が作られた熱いサイトもある。公演日がネットなどで公開されていたら、それを目当てに観光客が集まるのではないだろうか。私も一度行ってみたいと思う。
http://www.geocities.jp/oputoyamanaka/takaha/nousonkabuki/

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次に紹介するのは岩手県の南部の曲家(なんぶのまがりや)。江戸時代中期の建築で、盛岡市の南西にある矢巾町(やはぎちょう)という町に建てられていた旧藤原作等氏の住宅を昭和39年に移築したもので、現在は大阪府の指定有形文化財となっている。
母屋とうまやをつなげてL字型の建物になっているので「曲家」となっている。馬を飼うための家として「曲家」が発達し、母屋の土間には囲炉裏があって囲炉裏に火を燃やすと暖気が厩までいきわたるようになっているのだそうだ。
昨年越中五箇山の村上家住宅で、火をくべた囲炉裏をかこんで当主の方から説明を聞いたことをこのブログで書いたが、この時は囲炉裏というものはなかなか良いものだと思った。昔の家は家族が向かい合ってお互いの顔を見て話をするのが当たり前の生活であったのだが、現代の家族は大事なものを失ってはいないだろうか。

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この民家は越前敦賀の南部、湖北地方に近い地域にある杉箸という集落にあった旧山下繁氏の住宅を昭和38年に移築したもの。江戸時代後期の建築で、この民家も大阪府の指定有形文化財となっている。
豪雪地帯であり、雪の重さに耐えられるよう太い梁材が用いられ、外側の柱は土壁にぬりこめられて補強されている。

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この民家は奈良県と和歌山県の県境にある十津川村にあった旧丸田家住宅を昭和37年に移築したもの。文政6年(1823)の建築で、この民家も大阪府の指定有形文化財となっている。
十津川やその周辺は杉の産地として知られ、屋根には杉材を薄く削いで厚さ5mm、30cmのソギ板を作ってそれを少しずつずらして重ねて竹釘で固定するソギ葺きという方法でつくられているのだそうだ。

江戸幕末期にこの丸田家の当主であった丸田藤左衛門(まるたとうざえもん:1805~1869)は尊王攘夷思想に傾倒し、坂本龍馬や大村益次郎、西郷吉之助[隆盛]らの志士達と親交があり、国事を議論した人物とのことである。
明治に入って神仏分離令が出た際には、十津川郷では神を敬い仏法を排した藤左衛門の果断により徹底的に廃仏毀釈が行われ、50以上あった十津川郷の全ての寺院が消えたのだそうだ。
http://www.totsukawa-nara.ed.jp/bridge/guide/person/pn_022.htm
また、この丸田家住宅のトイレには刀懸けがある。どことなく幕末・維新期の緊迫感が伝わってくる民家である。

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この民家は、長野県と新潟県の県境にある豪雪地帯の秋山郷(あきやまごう)にあった、旧山田家住宅である。建築時期は江戸時代後期で、中世の趣を残した貴重な建物として国の重要文化財に指定されている。
土壁は雪に弱く冬には茅束で作った雪囲いを家の周りにめぐらさなくてはならないのだが、秋山郷では土の壁は贅沢であり、柱にじかに茅束を結いつけた茅壁(かやかべ)といわれる壁の家が昭和30年代まで残っていたのだそうだ。

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中に入ると床板を貼らずに地面にムシロを敷いただけの土座住まいで、隙間風もなく、囲炉裏の熱がじかに地面に伝わって暖かさを保ちやすいのだそうだ。
岩波文庫に『北越雪譜』という本がある。この本の著者である鈴木牧之(すずきぼくし:1770-1842)は秋山郷を訪ねて、このように記している。
「…此住居を見るに、礎もすえず掘立てたる柱に貫をば藤蔓(ふじづる)にて縛りつけ、菅をあみかけて壁とし小き窓あり。戸口は大木の皮の一枚なるをひらめて横木をわたし、藤蔓にてくヽりとめ閾(しきゐ)もなくて扉(とぼそ)とす。茅葺のいかにも矮屋(ひきヽいへ)也。たゞかりそめに作りたる草屋なれど、里地より雪はふかゝらんとおもへば力は強く作りたるなるべし、家内を見れば稿筵(わらむしろ)のちぎれたるをしきならべ納戸も戸棚もなし、たゞ菅縄にてつくりたる棚あるのみ也。囲炉裏は五尺あまり、深さは灰まで二尺もあるべし、薪多き所にて大火を焼くゆゑ也。薬鑵(やかん)土瓶(どびん)雷盆(すりばち)などいづれの家にもなし、秋山の人家すべてこれにおなじ。」(岩波文庫『北越雪譜』p.99)

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最後に紹介する民家は、宮崎県の日向椎葉にあった民家である。江戸時代末期の建築によるもので、国指定の重要文化財だ。椎葉村はかっては秘境の地で、ユニークな平家落人の伝説が伝わっている。
壇ノ浦の戦いに敗れた平家の武士たちは追っ手を逃れて、道なき道を進み、この山深い椎葉にたどり着いた。しかしこの隠れ里も源氏に知られてしまい、源氏方の那須大八郎が追討の命を受けたのだが、かつての栄華もよそにひっそりと農耕をして暮らす平家一門の姿を哀れんで追討を断念してこの地にとどまり、平清盛の末裔である鶴富姫と恋に落ちる。鎌倉からは帰還の命が下りて別れが訪れるが、その時に姫は身ごもっていた。「もし生まれる子が男子ならば下野(栃木)へよこせ、女子であればこの地で育てよ。」と言い残して大八郎は椎葉を去る。生まれた子は女の子であったので、婿を取って那須性を名乗り、子孫は代々椎葉を支配したと伝えられているという。(椎葉山由来記)
また、主人公の那須大八郎は、弓の名人で有名な那須与一の弟と伝えられているそうだ。
この伝説の舞台となった鶴富屋敷はいまも椎葉村に残されて、国の重要文化財に指定されている。また椎葉村では毎年11月の第2金曜日から3日間、『椎葉平家祭り』が行われていることがネットでわかる。
http://www.0503ak1025.net/heike.html

この「日本民家集落博物館」はいつ行っても美しく、梅の咲く頃や桜の咲く頃、新緑の時期や秋の紅葉時期もよい。「博物館」であるので昔の生活用具類などの展示もあるが、たまにイベントが行われたりもする。私が訪れた日にはたまたま民話の朗読会が飛騨白川の合掌造りの旧大井住宅で行われていた。こういう空間で民話を聴くことがとても新鮮で、不思議と話の中に引き込まれていった。

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花見は仲間と酒を飲んで楽しむのも良いが、古民家とともに見る桜はなかなか味わい深いものがある。この博物館の外に出ても、服部緑地公園には桜の木が多くて、結構楽しめる場所である。

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「櫻井の別れ」は、どこまでが真実か~~水無瀬から大山崎歴史散歩1

ゴールデンウィークに、阪急沿線の水無瀬駅から大山崎駅近辺の名所を中心に歩いてきた。わずか一駅を歩くだけなのだが、水無瀬駅は大阪府で大山崎は京都府になる。この2つの駅の間に京都府と大阪府の境界線があり、古くは摂津国と山城国の国境があった。
この摂津国と山城国の2つの国を結ぶ道はいくつかあったが、唯一山越えをしない「西国街道」が通っているこの地域は、古くから交通の要衝として栄えた地域である。
観光地としてはあまり知られていないのだが、このあたりには国の史跡や、文化財を持つ寺社が少なからずあることを紹介したい。

阪急水無瀬駅で下車してJR島本駅に向かって進むと、国史跡の「櫻井駅跡」がある。
「駅」というのは、大化の改新以降に、中央と地方の情報伝達の為に設置されたもので、幹線道路に原則として30里(現在の16km)ごとに作られ馬を配置したと言われている。
『続日本紀』の和銅4年(711)1月2日の記録に、都の近くにいくつかの「駅」が設置され、「摂津国嶋上郡に大原駅」を設けたとの記録があるが、この「大原駅」が「櫻井駅」のことだと考えられているようだ。

楠公父子訣別之所

この「櫻井駅跡」には立派な「楠公(なんこう)父子訣別之所碑」が建てられていて、この題字は陸軍大将乃木希典の書だと案内板に書かれていた。

楠公父子子別れの石像

またこの碑の近くには「楠公父子子別れの石像」というものもある。この石像の下に彫られている「滅私奉公」の題字は近衛文麿の書だという。もっとも以前は銅像であったそうだが、太平洋戦争への協力で供出されて、今ではコンクリート像になっている。

明治天皇御製碑

さらに、明治天皇がこの地区を行幸された時に詠まれたという歌が彫られた「明治天皇御製碑」もあり、この碑の題字は東郷平八郎海軍元帥だという。この碑に彫られている歌は、
「子わかれの 松のしつくに 袖ぬれて
       昔をしのふ さくらゐのさと」
で、裏面には頼山陽の漢詩「頼山陽翁過櫻井驛詩」が彫られている。

戦前は教科書にも掲載され、唱歌にも落合直文作詞・奥山朝恭作曲の『櫻井の訣別』という歌があった。私も子供の頃にどこかで聴いたような気がする。


戦前の教育を受けた方はこの「櫻井の別れ」の話を良くご存知なのだろうが、戦後教育で育った私には、これだけ多くの顕彰碑があることがどうもピンと来なかったので、自宅に戻って「櫻井の別れ」とはどのような話であったのかを調べてみた。

しばらく、この時代の歴史を振り返っておこう。

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元弘3年(1333)に鎌倉幕府が滅亡して、後醍醐天皇が京都で天皇親政を目標とした新しい政治を始められた (建武の新政)のだが、公家を重んじた急激な改革が政治の混乱や経済的矛盾を生んだようだ。

建武2年(1335)に足利尊氏が、武家政治の再興をはかって新政府に反旗を翻して京都に攻めのぼり、建武3年(1336)1月には入京を果たして、後醍醐天皇を比叡山に退かせている。
しかしながら、奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞が尊氏を攻撃し、尊氏は京都を捨てて九州に敗走した。
ところがその尊氏が、九州でたちまち勢力を盛り返し、光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集め、数十万の軍勢を整えて、再び京都に向かったのである。

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楠木正成は、少ない兵士では尊氏方の軍勢を迎撃できないとして、後醍醐天皇に対し、尊氏との和睦か、一旦比叡山に引き上げて足利軍を都に引き入れた後これを兵糧攻めにすることを進言したが、いずれも聞き入れられなかったという。

楠木正成は死を覚悟し、わずか5百余騎で湊川の戦場に赴き、新田義貞軍に加勢することになる。そして、京都から湊川の戦場に向かう途中で、この櫻井の駅にさしかかった。
正成はここで11歳の嫡子・正行(まさつら)を故郷の河内に帰そうとし、正行に武門の道を諄々と説く名場面が『太平記第十六巻』の「正成兵庫に下向の事」に記されている。これが「櫻井の別れ」である。

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次のURLに『太平記』の口語訳が出ているので、該当部分をしばらく引用させていただく。(原文は旧字旧かな)
http://www.j-texts.com/yaku/taiheiky.html

「正成は心中、これが最後の合戦であると思ったので、今年十一歳になる長男の正行を櫻井の宿から河内に帰すことに決め、さて正行に向っていうには、
『獅子は子を産んで三日たつと、数千丈の石壁から其子を投げ落す。其子に獅子の意気込みがあるならば、教えなくとも跳ね返って死ぬる事はないという。ましてお前はもはや十歳を過ぎている。一言耳に留まったならば、父のこの誡めに違ってはならぬ。今度の合戦は天下の分れ目、今生(こんじょう)でお前の顔を見るのはこれが最後だと思う。正成がもはや討死をしたと聞いたならば、天下は必ず尊氏のものとなったと考えてよい。ではあるが暫しの命を惜んで多年の忠義を失い、降参するような事があってはならぬ。一族の者や若武者達が一人でも生き残っている間は、金剛山に立籠り、敵が攻め寄せて来たならば、命を養由*の矢さきに託し、義を紀信**の忠に比べよ。これがお前の第一の孝行だ。』
と、泣くなく言いきかせて、各々東西に別れた。」
*養由:支那の楚の国の将、弓の名人。命を惜しむなという事にたとえたもの
**紀信:漢の高祖の忠臣で、高祖の命に代わって死んだ人。義を重んじて忠義をつくせよという事にたとえたもの。

こう諭して楠木正成は正行と別れ湊川の戦場に赴くのだが、この別れが楠木父子の今生の別れとなったのである。
5月25日に正成は湊川で足利勢と戦ったのだが、圧倒的な兵力の差は如何ともしがたく、楠木軍の兵士も70余人を残すばかりとなって、正成は弟の正季と兄弟互いに差し違えて自決したと『太平記』には記されている。

重野安繹

前回の記事で薩英戦争のあとの対英講和談判で活躍した重野安繹(やすつぐ)は、後に東大の歴史学の教授となった人物だが、明治初年に『櫻井の別れ』を創作であると主張したことがWikipediaに書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E4%BA%95%E3%81%AE%E5%88%A5%E3%82%8C

また作家の井沢元彦氏も『逆説の日本史7 中世王権編』で、同様に、この話を創作だとしているが、確かに11歳という年齢は元服前であるから幼名でなければならないという指摘はその通りだと思う。また元服前の子供は母親と暮らす時代であったし、足手まといになる子供を戦場に連れて行くということは、普通に考えると不自然だ。ただ、正行の生年月日などの記録は残されていないので、正確な年齢については分からない。

またこの話は『太平記』には書かれているが、同時代に書かれた『梅松論(ばいしょうろん)』には、正行のことは何ひとつ書かれていないのだ。
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/baishouron.html

しかしながら、その後の正行の戦いぶりを知ると、父が子供に諄々と諭して別れた場面がどこかにあってもおかしくないと思うほど、亡き父の遺志を継いで南朝のために奮戦している。

正成の死後4年が経過して、正行は楠木家の棟梁として、河内・紀伊の兵を集め、摂津国天王寺・住吉浜では足利幕府の山名時氏・細川顕氏連合軍を打ち破っている。
そして正平3年(1348年)に河内国北條(現在の大阪府四條畷市)で行われた四條畷の戦いにおいて足利側の高師直・師泰兄弟と戦っている。

四条畷に出陣する前に、正行は弟・正時(まさとき)とともに、南朝の吉野行宮に参内し後村上天皇から「朕汝を以て股肱とす。慎んで命を全うすべし」との仰せを頂いたが、すでに決死の覚悟は強く、参内後に後醍醐天皇の御廟に参り、その傍らにある如意輪堂の壁板に、一緒に討死すことを誓った143名の名前と辞世(「かへらじと かねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」)を書き留めたという。

高師直軍に6万に対して正行軍はわずかに3千。父・正成の湊川の戦いの時と同様に絶望的な戦いであった。
『太平記 巻 第二十六』には高師直軍が雨の様に放つ矢が何本も正行軍に突き刺さったとある。再び、『太平記』の口語訳サイトの該当部分を引用する。
「正行は左右の膝口三箇所、右の頬先、左の目尻深く射られて、其矢が冬野の霜に伏したように折れ懸ったので、矢すくみに立って動かれない。其外の三十余人も、悉く矢の三四本射立てられない者はなかったので、「今はこれまでだ。敵の手に討たれるな。」と楠兄弟が刺し違へて北枕にうつぶしたので、三十二人も思い思いに腹掻き切って、上へ上へと重なり合って死んだ。」

『太平記』を読み進んでいくとわかるのだが、この書物は明らかに作り話である記述が散見されて、歴史書として扱うべき書物ではないだろう。
例えば『太平記 巻第二十三』の「大森彦七が事」では楠木正成が幽霊となって出てくる場面があるが、楠木正成のみならず後醍醐天皇をはじめ多くの怨霊やら幽霊が次々と登場してくるのである。
わが国では古くから、政治的に失脚した者や、戦乱での敗北者などの霊が、その相手や敵に災いをもたらすという考え方があって、『太平記』は南朝の怨霊鎮魂のために書かれたという説が有力である。井沢元彦氏は前掲の著書で丸谷才一氏の『鳥の歌』の次の文章を紹介しておられる。(原文は旧字旧かな)
「…怨霊の活躍を詳しく書いた本が出来たら、怨霊はきっと気分を良くしておだやかに振舞うはずだ。(中略)わたしは、『太平記』の作者の狙いはそこにあったと推定しています
その上で、井沢氏はこう述べている。

逆説の日本史7

「これは卓見であると思う。
怨霊を『ヒーロー』にすれば、怨霊は『気分をよくしておだやかに振舞う』――これこそ、怨霊信仰の根本原則であり、『荒ぶる神』である怨霊を、鎮魂して、すなわち『なだめ』『すかして』無害なものにすること、さらには『善なる神』御霊にしてしまうことこそ、日本文化の最優先課題である
現代は、政治と文化は別のものだが、近代以前にはこの区別はない。不作・洪水・日照りといった天災だけでなく、古代においては戦争のような人災ですら怨霊の仕業とされた。だからこそ、、怨霊の鎮魂は「まつりごと=政」の最優先課題でもあるのだ。もちろん、いわゆる文芸・美術においても同じことだ。つまり、政治(まつりごと)だけでなく、小説や音曲や舞踊や、そればかりではなく絵画や彫刻など、あらゆるものを使って怨霊を鎮魂しようとするのが日本文化なのである。」(井沢元彦『逆説の日本史7 中世王権編』p.71-72)

この視点からすれば、『太平記』が、後醍醐天皇や楠木正成らを美しく描くことは当然のことなのだが、その叙述を、戦前の「皇国史観」が、そのまま史実であるかの如くに飛び付いたということになる。

では、後醍醐天皇の政治とはいかなるものであったのか。
最後まで後醍醐天皇のために戦った北畠顕家が、高師直と戦って討死する7日前に、後醍醐天皇に宛てて長文の「奉状」を送っている。井沢氏はその内容を紹介したうえで、こう解説している。

「中身は『諌書』つまり諌めの言葉で、6か条に及んでいる。

 (1)減税をし、国家財政が破綻に陥らないようにつとめるべきだ。
 (2)身分のない者にみだりに官職を与えるべきではない。
 (3)代々朝廷に仕えてきた貴族の荘園はみだりに取り上げたり、武士に与えるべきではない。
 (4)贅沢な行幸(この場合は観光旅行の意)や宴飲(宴会)はやめるべきだ。
 (5)政治が朝令暮改で一貫しない。これでは民が心服しない。
 (6)御政道の評判を落とすような連中は一切遠ざけるべきだ
。」

と、絶対権力者の天皇に対する言葉としては、極めて思い切った激烈な調子で語られている。そればかりか、この『奉状』は『もしこの言葉が受け入れられないなら、私は世を捨てて山に隠れるしかない』とまで言っている。」(同上書 p.59)

忠臣であった人物からここまで書かれている後醍醐天皇が、名君であった可能性はほとんどなかったと思われる。本来なら後醍醐天皇を支えるべき側近であった万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)や千種忠顕(ちくさただあき)も出家をしてしまった。後醍醐天皇から離れて行ったのは武家だけではなく貴族もそうであったという事実は重要である。
ところが、たとえ後醍醐天皇の性格に問題があったにせよ、楠木正成・正行は親子二代にわたって最後まで忠義を貫き通した。だからこそその忠誠心が際立つのである。

戦前の教科書では、後醍醐天皇にとって都合の悪い史実が書かれることがなかったと思うのだが、戦後の教科書では『櫻井の別れ』の物語が消えて、建武元年(1334)8月に二条河原に掲げられたとされる『二条河原の落書』が大きく載せられている。

Wikipediaに全文が出ているが、一部を紹介しよう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E3%81%AE%E8%90%BD%E6%9B%B8

「此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨
召人 早馬 虚騒動(そらさわぎ)
生頸 還俗 自由(まま)出家
俄大名 迷者
安堵 恩賞 虚軍(そらいくさ)
本領ハナルヽ訴訟人 文書入タル細葛(ほそつづら)
追従(ついしょう) 讒人(ざんにん) 禅律僧 下克上スル成出者(なりづもの)…」

このブログで、いつの時代もどこの国でも、歴史というものは権力者が都合よく書きかえるものであり、戦後の日本では戦勝国にとって都合の良い歴史が広められていることを書いてきた。戦後の教科書から『櫻井の別れ』が消えたことも、その典型例なのだと思う。

戦前の教科書で『櫻井の別れ』が教えてきたのは、天皇家に対する忠誠心と言う薄っぺらなものだけではなかったと思う。
楠木父子は後醍醐天皇の政治については、北畠顕家と同様に不満もあっただろう。にもかかわらず、後醍醐天皇の忠臣であり続けたのは、おそらくは「自らが価値あるものと信ずるものを、自分が犠牲になっても、将来の為に守り通す」というという精神であったと思う。
その精神は、領土領海を守るため、豊かな自然を守るため、伝統や文化を護るため、固有の技術を守るためにも必要不可欠なものだと思うのだが、この精神が今のわが国のリーダーたるべき政治家や官僚や言論人から失われていないことを祈りたい。
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後鳥羽上皇が愛した水無瀬の地を歩く~~水無瀬から大山崎歴史散歩2

櫻井の駅跡から西国街道を東に進み、途中で右折して水無瀬(みなせ)神宮に立ち寄る。

水無瀬神宮鳥居

水無瀬川と桂川が合流するあたりを「水無瀬」と呼ぶが、この地域は古くから山水の景勝に富む狩猟地として、多くの都人が来遊し、別荘を構えた場所である。
そして水無瀬神宮の境内にはかつて後鳥羽上皇が造営した「水無瀬離宮」があったと伝えられている。

『増鏡』は後鳥羽天皇の即位以降15代の150年の事績が記述されている歴史物語だが、その第1巻に後鳥羽天皇が造営された頃の水無瀬離宮が出てくる。
「…水無瀬といふ所に、えもいはずおもしろき院づくりして、しばしば通ひおはしましつゝ、春秋の花紅葉につけても、御心ゆくかぎり世をひゞかして、遊びをのみぞし給ふ。所がらも、はるばると川にのぞめる眺望、いとおもしろくなむ。元久の比、詩に歌を合はせられしにも、とりわきてこそは、
見渡せば 山もとかすむ水無瀬川 夕べは秋と 何(なに)思ひけむ

先ほど水無瀬という地域は水無瀬川と桂川が合流する地域と書いたが、桂川と宇治川と木津川もこの近くで合流し、それぞれの川の温度差からこのあたりは、寒くなると霧が発生しやすい地域であるらしい。「山もとかすむ」というのは川霧が発生している情景を詠っているものと思われる。

後鳥羽天皇

鎌倉幕府と対立した後鳥羽上皇は承久3年(1221)、3代将軍源実朝の死を機に倒幕の兵を挙げたのだが幕府軍に敗れ、上皇は隠岐島に流されてその地に没している。上皇に仕えた水無瀬信成(のぶなり)・親成(ちかなり)親子は、後鳥羽上皇が愛した離宮の跡地に御影堂を建てて菩提を弔い、それが現在の水無瀬神宮の起源だと言われている。

水無瀬神宮神門

参道の入口の鳥居を過ぎ、木々の茂った参道をしばらく歩くと、桃山時代に建てられた神門(大阪府指定文化財)がある。
神門の入口にある『御由緒』の看板を読むまでは知らなかったのだが、この神社は明治初期の廃仏毀釈で仏教的なものが排除されて神社になったようだ。『御由緒』にはこう書かれている。

世に『水無瀬御影堂』と称し、明治初年まで仏式混淆の行事が行われていたが、明治6年改めて三上皇を合祀。官幣中社に列せられ、昭和14年官幣大社に昇格、神宮号を賜った。

「御影堂」というのは仏教寺院で開山・宗祖などの御影を祭るお堂のことを言うが、要するに、明治6年まではこの場所はお寺であったということだ。
また「三上皇」というのは、後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇で、それぞれ隠岐、佐渡、土佐(後に阿波)に流され、都に戻らないまま、それぞれの地で崩御されたという共通点がある。

水無瀬神宮境内

正面が水無瀬神宮の拝殿で、左が国の重要文化財に指定されている客殿で、豊臣秀吉の寄進と伝えられている。

普段は公開されていないが、ここには後鳥羽上皇の遺品などが残されていて、藤原信実(のぶざね)筆と伝えられる「後鳥羽天皇像」は国宝に指定されているし、ほかにも「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」が国宝に指定されていて、重要文化財も何点かあるようだ。

また、神社境内の中に環境庁の全国名水百選に大阪府で唯一選ばれた「離宮の水」が湧き出ているのだが、大きなPET容器をいくつもかかえた人が、すでに何人も並んでいたので飲むのをあきらめた。

後鳥羽上皇水無瀬宮址

水無瀬神宮の観光を終えて西に進み、JRの東海道線を超えると、「後鳥羽上皇水無瀬宮址」と書かれた小さな石碑がある。アスファルトの駐車場の隅にひっそりと置かれて、何の風情も感じられないのが残念だ。

水無瀬神宮の案内板には水無瀬神宮が水無瀬離宮の跡だと書かれていたが、この場所は水無瀬神宮から500メートル以上離れている。
周囲にどこにも説明板がないので水無瀬神宮との関連がよく分からなかったのだが、次のサイトによると水無瀬神宮の近くにあった離宮が建保4年(1216)の洪水で流されてしまったために、翌年に源通光によって旧地の北西方、百山の麓に新しい水無瀬殿の造営が始まったとある。要するに水無瀬離宮は、水無瀬神宮の場所からこの場所に移転したのである。
http://japanknowledge.com/articles/blogjournal/howtoread/entry.html?entryid=56

後鳥羽上皇はこの水無瀬の地をことのほか愛されたらしく、何度も行幸された記録が残っているという。
しかし延応元年(1239)に後鳥羽上皇が隠岐で亡くなられたのちは、贅を尽くして建てられた新しい水無瀬離宮も、弘安8年(1285)には荒れ放題となっていたようで、『中務内侍日記』の同年九月条には、「これなんむかし御所にていみしかりしも、いまかくなりぬる。あはれに侍ると」と記され、さらに「あさからぬ昔のゆへを思ふにもみなせの川に袖そぬれぬる」と詠まれている。

ところで、この碑の建っているあたりから水無瀬川の対岸に至る広い地域は、「大阪府三島郡島本町東大寺」という地名にもあるように、天平・勝宝年間(749-757)に聖武天皇の勅によって、東大寺の荘園となっていた場所なのだそうだ。

摂津国水無瀬絵図

東大寺の正倉院御物のなかに当時のこのあたりの荘園を描いた「摂津国水無瀬絵図」という地図がある。
わが国最古の絵図のひとつと言われているが、よく見ると「天平勝宝八年」(756)と書かれているのと、絵の中央に水無瀬川らしき川が描かれているのがわかる。

東大寺水無瀬荘跡

島本町東大寺3丁目には「東大寺水無瀬荘跡」と書かれた碑が建てられているのだが、このあたりは古代からの道と、新しい道が交錯していて道が非常に分りにくいところである。
ここから先は、島本町が作成した地図を参考にして、「水無瀬の滝」を目指して歩く。
http://www.shimamotocho.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/11/hiking_course_minasenotaki.pdf

天王山断層露頭

指手橋を渡って水無瀬川の流れる方向に歩いて、名神高速道路の真下を通り過ぎようかという場所に、天王山に登る坂道がある。しばらく名神高速に沿って歩くと、「天王山断層露頭」の案内板があったが、樹木が生い茂っていて、どこに断層があるのかよく分からなかった。
そこから少し歩くと、目的地の水無瀬の滝がある。すぐ近くに名神高速道路が走っているが、地図で確認すると上りの右ルートの天王山トンネル入口の近くにある。

水無瀬の滝

これが水無瀬の滝だが、落差は約20mあるという。
島本町のホームページによると、藤原定家の日記である『明月記』に、建仁2年(1202)7月18日に「水無瀬、河上の滝に御幸し 訖(おわ)んぬ」とあり、後鳥羽上皇が水無瀬離宮から行幸されてこの滝を鑑賞された記録があるのだそうだ。
http://www.shimamotocho.jp/gyousei/kakuka/kyouikukodomobu/shougaigakushuuka/sizenkeisyou/1239863685453.html

滝のすぐ近くの案内標に、藤原家隆が、隠岐に流された後鳥羽上皇を偲んで詠ったとされる和歌が紹介されていた。
「水無瀬山 せきいれし滝の秋の月 おもひ出ずるも涙なりけり」

今は天王山トンネルが掘られて、昔と比べてこの滝の水量が減ったのではないかと想像するが、住宅密集地から歩いてすぐのところに、このような滝が楽しめるというのは羨ましい限りである。

東大寺春日神社

瀧の近くに「東大寺春日神社」という小さな神社があったので立ち寄った。
案内板にはこう書かれていた。
「詳細、勧請年代は不詳であるが、伝説によれば、もともとこの東大寺の地は、奈良東大寺の寺領であったことから春日大神を迎え奉斉し、以来、大字東大寺村の五穀を守護する産土神として創祀されたと伝えられる。」

また社殿が随分新しい理由については、
昭和38年に水無瀬滝の近くに遷しお祀されてきたが、平成4年に近くを通る名神高速道路の拡張工事に抵触し再度の移転となって現在の地に遷宮することになり、新しく春日造り社殿を造営又寄進による春日灯篭、鳥居、手水舎等を再建した」
と記されていた。

昭和38年という年は、名神高速道路の栗東ICから尼崎ICが、日本初の都市間高速道路として区間開通した年である。その年に遷宮したということは、名神高速道路の開通のために環境が激変したことと無関係であるとは思えない。しかしせっかく移転したにもかかわらず、名神高速道路の左ルートの新設工事にかかって、再び遷宮を余儀なくされたということのようだ。

千年を超える歴史を持っいてもおかしくないこの神社も、今は気の毒なくらいに、コンクリートブロックとアスファルトに囲まれたこんなに狭い敷地に追いやられてしまった。
今の三島郡島本町東大寺地区の住民のほとんどは産土神とは無縁の生活をしているので、地域の景観や伝統や文化を守ることにほとんど関心がなかったと思うのだが、先祖代々の土地を守ってきた人々にとっては断腸の思いがあったのではないだろうか。

高速道路の拡張工事はやむを得なかったにせよ、移転前の境内がこのようにコンクリートに囲まれた環境ではなかったはずだ。NEXCO西日本は、古い歴史をもつ神社の境内として相応しい、もっと緑の多い場所を提供できなかったのだろうかと思う。
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明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺
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明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
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一度神社になった国宝吉野蔵王堂
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淡路島の東山寺に残された石清水八幡宮護国寺の仏像を訪ねて~~淡路島文化探訪の旅1
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天誅組河内勢に関わる史跡と富田林市寺内町の美しい町並みを訪ねて

大阪府の富田林市とその周辺は先史時代より人々の暮らしが営まれていた地域で、大和川支流である石川を望む丘陵上には氏族の首長たちの古墳が数多く残されており、古い歴史を持つ神社や寺があるほか、近世の寺内町など数多くの文化財が残されている。
特にこの地域には南朝や、天誅組に関わる寺社などが多いことに興味を覚えて、先日富田林市、河内長野市、千早赤阪村を巡ってきた。

美具久留御魂神社 鳥居

最初に訪れたのは、美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ:富田林市宮町3-2053 ☎0721-23-3007)。「美具久留御魂」とは「水泳(みぐくる)御魂」で水神をあらわし、千早赤阪村の建水分(たてみくまり)神社を上水分(かみのみくまり)神社と呼んだのに対して、下水分(しものみくまり)神社とも呼ばれてきた。下の画像は享和元年に出版された『河内名所図会』に描かれている「美具久留御魂神社」で、この書物では「下水分社」と記されている。

美具久留御魂神社 河内名所図会 第二巻

ご祭神は出雲系の神である大国主命(おおくにぬしのみこと)で、社伝によると崇神天皇の10年(紀元前88年)、この地にしばしば大蛇が出没したので天皇自ら視察して、「これは大国主命の荒御魂によるものである」として大国主命を祀らせたのに始まるという。
平安時代には神仏習合の霊地として栄えていたそうだが、鎌倉方の千早赤阪城攻めの際に焼払われてしまい、楠木正成が後醍醐天皇の命を受けてこの神社を再建したと伝えられている。
その後天正13年(1585)の豊臣秀吉による根来攻めの際に再び焼失し、豊臣秀頼の寄進により社殿が再建されたという。
平成6年(1994)には本殿・摂末社および拝殿・社務所等の大改築がなされ、同8年(1996)に完成したのだそうだ。

美具久留御魂神社 下拝殿

鳥居を抜けて参道を進むと下拝殿がある。

美具久留御魂神社 朝鮮通信使絵馬

この下拝殿の中に神輿や絵馬があるが、上の画像は天和2年(1682)の第7回朝鮮通信使を描いた珍しいものだという。

更に階段を登ると上拝殿がありその奥に本殿と摂社などがある。

美具久留御魂神社 本殿

神社の境内は真名井ヶ原と称する丘陵の一部で、この丘陵は古くから神奈備(かんなび)山と呼ばれ、山そのものが御神体として崇敬されてきた。この本殿の背後に宮裏山古墳群があるのだそうだが、古代より聖地として自然のままに残されてきた深い緑は「大阪みどりの百選」に選ばれているようだ。
http://www.pref.osaka.lg.jp/midorikikaku/toshiryokka/hyakusenn.html

美具久留御魂神社から錦織神社(にしきおりじんじゃ:富田林市宮甲田町9-46 ☎0721-25-2770)に向かう。美具久留御魂神社からは車で10分もかからない。

この付近は古くからこの地域に百済からの渡来人が居住した地域で、錦織の地名は彼らが綾織、錦織を朝廷に献上したことに由来すると考えられている。
この地域は、近くに大和側支流の石川が流れて水流の集まる地域であったので、古くから水郡(にごり)の郷と呼ばれていて、当社も水郡(にごり)神社と呼ばれていたのだが、明治40年(1907)に今の社名に改められたのだという。

錦織神社 天誅組河内勢顕彰碑

長い参道の途中に「天誅組河内勢」の顕彰碑がある。
碑に刻まれている文字は『花と咲き 花と散りにし人々の 若き命を誰が惜しまざる』と読むのだそうだ。

錦織神社 天誅組河内勢氏名

碑の左に、天誅組に参加した河内勢の人々の名前が刻まれている。
右上に河内勢の首領の水郡善之祐(にごりぜんのすけ)、とその長男の水郡英太郎の名がある。
水郡善之祐は喜田岩五郎の長男に生まれ、水郡神社の祠官となり水郡に改姓したという。豪農で伊勢国神戸藩の代官(大庄屋)を勤めたため士籍に列し、勤皇の志が強く志士達を金銭的にも援助したことで知られる。

錦織神社 本殿と摂社

参道を更に進むと入母屋造・檜皮葺きの立派な本殿(国重文)と摂社である春日社本殿(国重文)・天神社本殿(国重文)が見えてくる。

錦織神社 本殿 彩色

本殿は室町時代の正平18年(1363)に建築されたものと伝えられており、漆塗りの極彩色の華麗な様式は、日光東照宮拝殿などの原型となったと言われているようだ。この神社の創建された時期はよく判っていないのだが、昭和10年(1935)の本殿修理の際に地中から平安時代中期の瓦が発見されており、それよりも古い時代に創建された古い神社であることが推定される。
摂社は平成修理の際に棟札が発見されており、文明12年(1480)の建立であることが判明しているという。

天誅組

ここで「天誅組河内勢」顕彰碑の話に戻そう。
天誅組のことは何度かこのブログで書いたが、文久3年(1863)8月13日に孝明天皇の攘夷親征の詔勅が発せられ、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎ら尊王攘夷派浪士が攘夷派公卿の中山忠光を主将として先鋒となって京都を出発し、伏見を出航して堺に上陸したのち狭山を通って錦織神社の近くの水郡邸で河内組と合流したのである。水郡善之祐は、天誅組が戦うための直前の準備や人足の調達を受け持っていたと言われている。
錦織神社の顕彰碑の右にはこのように刻まれていた。

文久三年八月十七日 天誅組河内勢六十余人は、中山忠光を盟主とし、皇軍の先鋒として甲田水郡邸を出発し、同日長野三日市を経て観心寺の後村上天皇陵を拝し、大楠公首塚の前で結盟を誓い、千早峠を越えて大和に入り、五條代官を屠りてその所領を天朝直轄の御地御民と宣言し、討幕の第一声を挙げた。然るに翌十八日突如として京師に政変*起こり、廟議一変し却って逆徒として追討せられることとなる。…僅か四十日にして九月二十四日、或は鷲屋口に戦死し、或は紀州竜神に捕えられて、翌元治元年七月二十日京都に於いて斬首された。実に明治維新の魁として花と咲き花と散った人々である。…」
*京師に政変:文久3年(1863)8月18日、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派と急進派公卿を京都から追放した事件

天誅組行路

天誅組の挙兵自体は失敗に終わったが、幕府領支配の拠点である陣屋やその居城が公然と襲撃されたことは、幕府や幕藩領主らに大きな衝撃を与え、幕府の威光の失墜を更に進行させる結果となったと評価されている。もし8月18日の政変が無ければ、討幕の時期はもっと早まっていたことだろう。

錦織神社から水郡邸

天誅組河内勢六十余人が集まった水郡邸は錦織神社から東に600mほど進んだところにあり、大阪府指定史跡となっているのだが残念ながら内部は公開されていないので表門を撮ることができるだけだ。狭い路地に囲まれて建っているので、車で行く場合は近くに駐車して歩いて行くしかない。

水郡邸表門

古い土塀が当時の趣を伝えるこの水郡邸で多くの河内勢が集まり本隊と合流したのだが、なぜ全国の脱藩浪士が組織した天誅組に河内勢が参加したのだろうか。

産経新聞の連載『維新150年 大阪の痕跡を歩く4』(平成29年9月9日)ではこう解説している。
江戸時代、南河内地方は綿花栽培と関連産業で多くの豪農、豪商が出た。『加えてここが楠木正成を生んだ地であること。尊皇と親政待望の土壌が子々孫々と育まれてきた』と天誅組研究家の草村勝彦さんは指摘する。彼らの中には裕福な環境下で国事に奔(はし)る者も少なくなく、吉田松陰ら全国の志士が行き交う尊攘運動の地だったという。」
http://www.sankei.com/west/news/170916/wst1709160008-n2.html

富田林は大阪・堺方面、大和・紀伊方面に行く交通の便が良く、京都に出るのも容易であったことから、商業が発達して各地から人の集まるところとなり、幕末の勤皇の志士たちが身を隠したり、各方面に連絡をとるのに都合が良い場所であったことも重要なポイントである。

産経新聞の記事に吉田松陰の名前が出てきたが、ペリーが浦和に来航した嘉永6年(1853)に松陰が約20日間滞在した仲村家が富田林寺内町(とんだばやしじないまち)にある。

水郡邸から1.5km程度走って富田林寺内町に行く。駐車場はあまりないのだが、車で行く場合は中心部に近いSPARKというコインパーキング(富田林町12−35)がお勧めで、次に市営東駐車場(富田林町1-30)が近い。

富田林興正寺御堂 河内名所図会 第二巻
【富田林興正寺御堂 河内名所図会】

富田林寺内町は戦国時代の弘治元年(1555年)から永禄の初めにかけて、京都・興正寺第16世・証秀上人が信者達の力によって荒地を開きその中央に興正寺別院を建立したのち区画整理を実施し、数年後に寺内町を形成して希望者に移住させた。熱心な信者たちが各地から集まり、また御坊様への志納と町内の負担金以外に租税はかからないから、商人などがこぞって集まるようになったという。現在も江戸時代中期以降に建てられた民家が数多く残されていて重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、美しい日本の歴史的風土100選にも選ばれている。

じないまち散策絵図

富田林寺内町は古い街並みが美しく残されていて見るべきところが多く、また良く出来た『じないまち散策絵図』が公開されているので、観光される場合は次のURLからファイルをダウンロードして印刷して持参されることをお勧めする。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~heritage/jinaimachi-sansaku-map.html

富田林市寺内町 仲村家住宅

最初に訪れたのは、吉田松陰が滞在したという仲村家住宅(府指定文化財)。
残念ながら非公開のため中に入ることはできない。
江戸幕末期の仲村家は河州きっての酒造家で、当主の仲村徳兵衛を訪ねての文人墨客の出入りが多く、徳兵衛氏はこれらの客から天下の情勢を知ることができたという。
また、徳兵衛の次男である徳治郎は天誅組の一員として義挙に参加したのだそうだ。

富田林市寺内町 旧杉山家住宅

仲村家のすぐ近くに旧杉山家住宅(国重文)がある。
杉山家は富田林寺内町創立以来の旧家の1つであり、江戸時代を通じて富田林八人衆の一人として町の経営に携わり、貞享2年(1685)以降明治時代半ばまで造り酒屋を営んでいたという。

富田林市寺内町 旧杉山家住宅 内部

旧杉山家住宅は、江戸時代中期17世紀中頃の建造で、富田林寺内町では最も古いとされているが、古いだけでなく風格を感じさせる見事な建築物である。
上の画像は土間から格子の間とダイドコを撮ったものだが、格子の間に掲げられた墨跡は山岡鉄舟の筆によるもので、みぎから「生前富貴学頭露身後風流怕上花」と書かれているのだそうだ。

富田林市寺内町 旧杉山家住宅 襖絵

内部の障壁画や欄間彫刻なども見ごたえがある。大床の間の「老松図」は狩野杏山守明筆なのだそうだがかなり傷んでしまっていて、私はこの襖絵の方が気に入った。

富田林市寺内町 旧杉山家住宅 庭

障子越しに庭園を見るのも良い。秋は少しは色づくことだろう。

富田林市寺内町 旧杉山家住宅 螺旋階段

和風建築でこのような螺旋階段がある家屋は珍しいので思わずシャッターを押してしまった。

石上露子

この杉山家の長女として明治5年に生まれた石上露子(いそのかみつゆこ:本名 杉山孝)は、幼時から古典・漢籍などに親しみ、20歳ごろから『明星』などに短歌や詩、小説などを発表し、明治期の中央歌壇で注目されたのだそうだ。旧杉山家の蔵に、石上露子の遺品などが展示されている。

富田林寺内町の街並み

富田林寺内町のすごいところは、美しい街並みを構成している家のほとんどが今も住居として使われているところなのだが、そのために観光客に公開されている住居は2つしかない。旧杉山家住宅のほかには、中心部からはずれたところに旧田中家住宅*があるだけだ。とはいえ、このような街並みが今も美しく広い範囲で残されているところは珍しく、この街を歩いているとタイムスリップしたような気分になって、都心とは異なる空気を感じる。
*旧田中家住宅:富田林市本町7番2号 国登録文化財 寺内町の外にあるため『じないまち散策絵図』に記載がない。じないまち交流館北のちびっこ交通公園から西に160m。

富田林市寺内町 興正寺別院

上の画像は富田林寺内町の成立と発展の中心となった興正寺別院で、この山門のほか興正寺別院本堂、対面所、鐘楼、鼓楼、御成門が国の重要文化財に指定されている。山門が閉じられていたので拝観できないと簡単にあきらめてしまったのだが、次のURLによるとインターホンで申し出れば拝観可能だったようである。堂宇や狩野派の障壁画などが鑑賞したかったのだが、随分惜しいことをした。
https://www.nikkei.com/article/DGXLASHC04H34_U6A300C1AA2P00/

富田林市寺内町 葛原家住宅

上の画像は(南)葛原家住宅の三階蔵、下の画像は越井家の米蔵である。この米蔵は明治末期に建築されたそうだが、外壁が美しく保たれていて周囲の景観を引き立たせている。

富田林市寺内町 越井家住宅

私の子供のころは古い街並みを各地で見ることが出来たのだが、都心部の場合は道路の拡張や再開発で破壊され、田舎の場合は過疎化が進行して多くの家が空き家となって取り壊されていき、かつての美しい街並みを失ってしまった場所が少なくないのだ。
重要伝統的建造物群保存地区に指定されて街並みの破壊は免れた地域も、若い世代が地元で働くことが出来ない環境では地域の高齢化を避けることは難しい。若い世代の働く場所があったとしても、最近の若い世代は親との同居を望まないケースが多いときている。
これでは、地域の居住者の高齢化と過疎化の進行を止めることは困難だ。

富田林市寺内町 奥谷家住宅
【奥谷家住宅】

富田林寺内町の通りは狭くて中心部にはほとんど車が走っておらず、古い家には駐車場らしきものが極めて少ない。大きな店舗は皆無で、自動販売機の様なものすら見当たらない。この美しい町並みを維持するために、地域の人々がかなり不便な生活を余儀なくされていることは、この町を歩けば誰でもわかる。

富田林市寺内町 杉田家住宅
【杉田家住宅】

次のURLには、「富田林寺内町の地域には全体で約610棟の建物がある。実はこのうち約1割は空き家」とある。この地域の高齢化問題はかなり深刻なようなのだ。
http://j.sankeibiz.jp/article/id=1471
地元の人々の努力により、地域には飲食店やギャラリーなど約50軒の店舗が誕生したのだそうだが、居住者を増やすということはそう簡単ではないようだ。

上記URLの記事によると、富田林寺内町は中国人富裕層の評判が抜群で、観光客が増えてきているのだそうだ。

観光客からすれば古い街並みの景観を楽しむことがこの場所を訪れる主目的であるのだから、その地域の住民がそこに住んでいなければその魅力は失われていく。しかしながら寺内町の住民からすれば、ただ住んでいるだけでは税金の支払いや住居の改修コストがかかるばかりである。少々の税の減免などの優遇策があったとしても、居住者の大半が年金生活者という状態では、この街並みの美しさを維持していくことは容易なことではない。

しかし、富田林寺内町には景観の美しさばかりでなく歴史的魅力にも富んでいる。これらの魅力を活かして、地域全体が観光でもっと潤うようにできないものであろうか。
若い世代がこの地域で得られた収入で生計が成り立つようにすることが肝要なのだが、もっとこの街の魅力を発信したり、一般公開施設を増やすなど、工夫すればそれができる可能性はあると思う。
富田林寺内町を訪れる観光客がこれからも増えて、この街並みの美しさが末永く残されていくことを祈りたい。
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【ご参考】天誅組に関してはこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

五條市に天誅組と南朝の歴史を訪ねて~~五條・吉野の旅その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-11.html

天誅組の最後の地・東吉野から竹林院群芳園へ~~五條・吉野の旅その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-12.html

誇り高き十津川村の歴史を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-445.html


古い街並みを歩くことが好きな方に、こんな記事はいかがですか。

鞆の浦周辺の古い街並みを楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-96.html

白骨温泉から奈良井宿、阿寺渓谷を散策のあと苗木城址を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-165.html

郡上八幡の歴史と文化と古い街並みを楽しんで
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-334.html

京都伏見歴史散歩~~御香宮から大倉記念館
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-37.html

又兵衛桜を楽しんだのち宇陀松山の街並みを歩く
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-443.html

室津の歴史と、その古い街並みを楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-497.html

白壁と蔵に囲まれた五箇荘の近江商人屋敷めぐり
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-468.html

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後醍醐天皇を支えた武将・楠木正成にまつわる南河内の史跡を訪ねて

富田林寺内町の散策を終えて、滝谷不動(富田林市大字彼方1762 ☎0721-34-0028)に向かう。

瀧谷不動明王寺

滝谷不動は通称で『滝谷不動明王寺』というのが正式な寺の名称なのだが、寺伝によると弘仁12年(821)に弘法大師が創建したと伝えられ、造営当初は今よりも約1km離れた嶽山(だけやま)の中腹にあり、広壮優美な堂塔・伽藍が整えられていたという。
南北朝時代に楠木正成が嶽山城を築城した際は、滝谷不動明王寺本尊の不動明王をその城の守護仏としたと伝えられている。
この寺は、延文5年(1360)に足利義詮の嶽山・金胎寺攻めの兵火で焼失し、再建後は嶽山合戦の兵火で再び荒廃したのち、現在地に移って慶長年間(1596~1615)に本堂(現・観音堂)が落成し、以後復興して現在に至っている。
御本尊の木像不動明王及び二童子立像(国重文)は平安時代の制作で、毎月8、18、28日に御開帳されているのだそうだ。

次の目的地は、龍泉寺(富田林市龍泉888 ☎0721-34-3134)。滝谷不動から4km程走ると到着する。
寺伝では、推古天皇2年(594)に勅命によって蘇我馬子が創建したと伝えられているのだそうだが、寺域の発掘調査では奈良時代前期の瓦などが発掘されており、かなり古い寺であることは間違いがない。
その後弘仁14年(823)に弘法大師によって再興され、天長5年(828)には淳和天皇の命により藤原冬緒が伽藍を整えて、堂塔をはじめ23の僧坊を備える大寺院となったのだが、南北朝時代に楠木正成が寺域の近くに嶽山城*を構えたことから、この寺も南北朝の騒乱に巻き込まれることとなり、仁王門を除いたすべての堂宇を、宝物とともに焼失してしまったという。
*嶽山城:別名龍泉寺城
龍泉寺 仁王門

上の画像は戦乱の中で唯一焼け残った仁王門で国の重要文化財に指定されている。鎌倉時代中期に建築されたもので、他の堂宇のほとんどは江戸時代の再建である。

龍泉寺 仁王像

木像金剛力士像(大阪府指定文化財)は建治元年(1275)の制作といい、筋肉隆々でなかなか迫力がある。

龍泉寺庭園

境内北西には『龍泉寺庭園』として文化財保護法による国名勝に指定されている浄土式庭園がある。池の中に3つの小島があるのだが、小島に通じる石橋が崩壊したまま放置されているのは残念だ。草も伸びすぎているように思うのだが、観光客が少ない古刹では庭師を入れる余裕がないのだろうか。
画像の小高い山が龍泉寺山(嶽山)で、この山頂近くに楠木正成が築いた嶽山城跡がある。

楠妣庵 門

龍泉寺から3kmほど走ると楠妣庵(なんぴあん:富田林市大字甘南備1103 ☎0721-35-5161)がある。
「楠妣」というのは楠木正成夫人の久子を指し、久子は甘南備の豪族・南江備前正忠の妹で、元亨3年(1323)に楠木正成に嫁ぎ、6人の息子を育て、戦に出た夫の留守をよく守ったといわれている。
正平3年(1348)正月に、嫡男の楠木正行(まさつら)が四条畷の戦いで討死後、久子は出家して敗鏡尼(はいきょうに)と称し、河内長野にある観心寺の中院からこの場所に移って草庵を営み、楠木一族の菩提を弔いつつ余生を過ごしたと伝えられている。
久子の死後、三男の楠木正儀(まさのり)が亡母のために寺とし母の墓も建てたのだが、のちに足利方の山名・畠山氏に攻められて、長い間荒廃して廃墟となっていた。

楠妣庵 本堂

ところが明治44年(1911)になって久子の墓所が明らかにされ、大正4年(1915)以来岐阜県の加藤鎮之助氏が私財を投じてこの土地を購入し、草庵が再建されたのちに本堂が建てられ、約半世紀をかけて再興されたのだそうだ。

楠妣庵 観音堂と草庵

本堂から観音堂、草庵に通じる階段の右に、楠妣庵を再興させた加藤鎮之助の銅像が建てられている。私が訪れた時にはほかに観光客はいなかったのだが、楠妣庵は紅葉の名所として知られており、シーズンになると多くの観光客で賑わうという。

楠妣庵から観心寺(河内長野市寺元475 ☎0721-62-2134)に向かう。距離は3km程度なので7分程度で到着する。
寺伝では大宝元年(701)に役小角(えんのおづぬ)によって開かれ、当初は雲心寺(うんしんじ)と呼ばれていたが、大同3年(808)に空海が厄除けの為に、境内に7つの星塚(北斗七星)を勧請し、弘仁6年(815)に木造如意輪観音坐像(国宝)を刻んで本尊とし、寺号を観心寺としたという。以後空海の一番弟子にあたる実恵(じちえ)が弟子の真紹(しんしょう)とともに天長4年(827)頃から伽藍を整えていったことが『観心寺縁起資財帳』(国宝)などに記載されているのだそうだ
鎌倉時代中期から大覚寺統に属し、南北朝時代には大覚寺統の天皇を擁する南朝の勅願寺となった寺でもある。

観心寺 楠木正成像

観心寺の山門の左側に楠木正成銅像がある。観心寺は楠木氏の菩提寺であり、楠木正成および南朝ゆかりの寺として知られている。

観心寺 山門

上の画像は観心寺の山門である。

観心寺 中院

山門を抜けるとすぐ左に中院(ちゅういん)がある。楠木正成はここで8歳から15歳まで仏道修行について学んだと伝えられている。

観心寺 金堂

石段を進んでいくと、国宝建造物の金堂がある。リーフレットには後醍醐天皇の命を受けて楠木正成が造営したと書かれている。本尊の木像如意輪観音坐像(国宝)は秘仏ではあるが、毎年4月17・18日に開帳されるのだそうだ。

観心寺 建掛塔

上の画像は建掛塔(たてかけのとう:国重文)で、この塔は楠木正成の発願により三重塔として建て始められたのだが、正成が湊川の戦いで戦死したことにより、建築途上で未完のままとなったと伝わっている。

湊川の戦いについてはいずれこのブログで書くことになるだろうが、延元元年=建武3年(1336)九州から東上した足利尊氏・直義の軍が、湊川で新田義貞・楠木正成らの軍を破った戦いである。
この戦いでは新田軍と楠木軍は分断されてしまい、孤立した楠木軍は圧倒的な足利軍の兵力を相手に勇敢に戦い、『太平記』などでは正成と弟の正季とは刺し違えて自害したと記されている。
正成の首は一時京都六条河原に曝されたが、死を惜しんだ足利尊氏の特別の配慮で、故郷の親族へと丁重に送り届けられたと伝えられている。
尊氏側の記録(『梅松論』)では、敵将・正成の死をこう記している「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」。楠木正成は敵将からも死を惜しまれた人物であったのである。

観心寺 楠木正成公首塚

上の画像は正成公の首塚だが、こんな大規模な首塚は珍しいのではないだろうか。
石に彫られている「非利法権天」は正成自身の言葉で、「無理(非)は道理(理)に劣位し、道理は法式(法)に劣位し、法式は権威(権)に劣位し、権威は天道(天)に劣位する」という意味だそうだが、このような考え方が戦後のわが国で急速に失われてきているような気がしてならない。
前回記事で幕末の天誅組のことを少し書いたが、彼らは富田林から観心寺に入り、この楠木正成公首塚の前で戦勝祈願をして大和に向かっている。

赤坂城址

観心寺から5kmほど走って下赤坂城址に向かう。
下赤坂城址の石碑は千早赤阪中学校(南河内郡千早赤阪村東坂25 ☎0721-72-0004)の校舎の間を通り抜けてすぐのところにある。
元弘元年(1331)に後醍醐天皇が笠置山で挙兵をすると、楠木正成もこれに呼応して当地で挙兵し、奇策を用いて鎌倉幕府軍を翻弄したことで全国的に倒幕の機運が高まったとされている。

下赤坂の棚田

ここを訪れた目的はもう一つあった。下赤坂城址に広がる棚田が日本棚田百選に選ばれているのでカメラに収めたかったからである。大阪府ではあと能勢町の長谷の棚田が選ばれている。
http://www5f.biglobe.ne.jp/syake-assi/newpage764.html

千早城への階段

下赤坂城址から7kmほど走って、日本百名城の一つである千早城址に向かう。
千早城址へ向かう登り口(南河内郡千早赤阪村千早1063)にある駐車場に車を停めて、ここから600段近い石段を登って行くことになる。前半は急坂が続くが、途中から坂が緩やかになるので、下の画像の案内板ほどの時間はかからないだろう。

千早城 地図

登り口の案内板にはこう記されていた。
「(千早城は、)元弘2年(1332)楠木正成が構築し翌年5月まで100日間、藁人形等の奇策をもって鎌倉幕府軍の攻撃に堪えて建武中興の原動力となった難攻不落の名城である。
標高約660mで、城の南(妙見谷)、北(風呂谷)、西(大手口…現在地)の三方は急斜面で、府道との比高は150m、東方だけが尾根伝いに金剛山に通じる天然の要害である。…」

ここで千早城の戦いについて簡単に記しておこう。
翌元弘3年(1333)に鎌倉幕府軍は赤坂城を陥落させたのち千早城へと出軍した。
千早城で籠城していた楠木軍はわずか千人足らずの小勢であったが、そこに数十倍の幕府軍が押し寄せて来たのである。兵力では幕府軍の方が圧倒的に優勢であったのだが、千早城では櫓より大石を投げ落として敵の楯を砕き、矢を射って防戦して互角に戦ったという。
あまりに犠牲が多いので、幕府軍は水辺に陣を構えさせ相手の水源を断つ持久戦に方針を変えたのだが、楠木軍には井戸があるので水には問題なく、また充分な食糧を用意していたので大きなダメージにはならなかったようだ。
また正成は、甲冑を着せ武器を持たせた藁人形を20~30体作らせて、その後ろに兵を潜ませ、夜明けになると朝霧の中から鬨の声を挙げさせたという。幕府軍は楠木軍の決死の攻撃と思いこみ攻め寄せてきたのだが、楠木軍の兵は矢を放ちながら徐々に城内に引き上げ、鎌倉幕府軍が藁人形に到達したところを見計らい大量の大石を投げ落し、幕府軍に多数の死者が出たという。

このような戦いが続く中、護良親王の命を受けた吉野、十津川、宇陀、宇智郡(内郡)の野伏が楠木軍に味方して幕府軍の糧道を遮断し、一方、隠岐を脱出した後醍醐天皇が討幕の綸旨を全国に発してこれに播磨国赤松則村、伊予国河野氏、肥後国菊池武時が蜂起すると、千早城を囲んでいた大名が相次いで帰国することとなった。
また幕命を受けて西国の討幕勢力を鎮圧するために上洛していた足利高氏が、後醍醐天皇の誘いを受けて天皇方につくことを決意し、5月7日には京の六波羅探題を滅亡させてしまう。その情報が千早城を包囲している幕府軍に伝わり、幕府諸将は協議の上千早城から撤退することを決定し、5月10日の早朝に、幕府軍は陣を撤収して奈良へ引き上げている。
一方関東においては、新田義貞が手薄となっていた鎌倉を攻め、5月22日に鎌倉幕府は滅亡することとなる。

千早城の戦いが終わってからわずか12日後に鎌倉幕府は滅亡してしまったわけだが、倒幕の最大の功労者はやはり楠木正成だろう。幕府の大軍がこの千早城の戦いで釘づけにされたことで、楠木正成の活躍に触発された勢力によって倒幕の機運が盛り上がっていき、有力御家人であった足利尊氏や新田義貞の離反もあって鎌倉幕府は滅亡したのである。

登り口から15分くらいかけて千早城跡茶屋のある広い四の丸に着く。

千早城址

三の丸に千早城址の石碑と千早神社の鳥居があり、二の丸に千早神社がある。

千早神社

山を下りて、せっかく千早赤阪村に来たのだから、最後に楠木氏の氏神である建水分(たけみくまり)神社と楠公*誕生地を訪ねることにした。
*楠公(なんこう):明治以降は楠木正成を「大楠公」「楠公」と呼んだ。

建水分神社

上の画像が建水分神社(南河内郡千早赤阪村大字水分357 ☎0721-72-0534)の鳥居だが、社伝によれば崇神天皇5年(紀元前92)に諸国が飢饉となり各地に溜池や溝を作ることが勧められたが、このときに金剛葛城の山麓に水分神が祀られたのに始まる。前回の記事の冒頭に記した美具久留御魂(みぐくるみたま)神社を下水分(しものみくまり)宮と称するのに対し、この神社を上水分(かみのみくまり)宮とも呼ぶ。
元の鎮座地は現在地より北100mの水越川のほとりにあったのだそうだが、後醍醐天皇の勅命をうけた楠木正成がこの地に再建し遷座したと伝えられている。本殿は拝殿より高いところにあって良く見えなかったが、正成が再建したという建物が残されていて国の重要文化財に指定されている。
また摂社には楠木正成を祀る南木神社がある。

楠木公誕生の地

楠公誕生地は、建水分神社から800mほど進んで千早赤阪村立郷土資料館(千早赤阪村水分266 ☎0721-72-1588)の横にある。
石碑が建っているだけだと想像していたのだが、敷地は隣にある郷土資料館よりも広いくらいで、美しい生垣に囲まれた空間は森のように木々が伸び、灯籠がいくつか建っていて、中央には随分立派な石碑が建っているのに驚いてしまった。
案内板にはこう記されていた。
「楠木正成は永仁2年(1294年)、この地に誕生したと伝えられている。文禄年間に増田長盛が豊臣秀吉の命を受け、土壇を築き、建武以後、楠木邸にあった百日紅(さるすべり)を委嘱したという記録が残っている。また元禄年間には、領主石川総茂が保護を加え、その後明治8年、大久保利通が楠公遺跡巡りの際、ここに石碑を建立し顕彰した
 碑文の楠公誕生地は、幕末勤皇派の三剣豪の一人で、当時誉田八幡宮の祠官であった桃井春蔵直正の揮毫によるものである。
 明治41年、近郷有志による楠公誕生地保勝会が組織され、敷地の拡大や休憩所の新築など、史跡の整備顕彰にあたったが、終戦とともに活動は衰退してしまった。昭和49年に楠公史跡保存会が有志で組織され、保存顕彰にあたっている

『木のピオ村』のピオさんが有名武将たちの生誕地めぐりをされて、ご自身のブログでその写真を公開されているが、天下人となった人物ですら碑が建っているだけで、楠木正成のように広い場所で今も美しく顕彰されていることは例外的であることがわかる。
http://www1.clovernet.ne.jp/kinopio_mura/history/birthplace/birthplace.html

楠木正成について今の教科書では、「後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の武士楠木正成らのしつような抵抗がつづくなか、幕府は反乱を鎮圧するために足利高氏らを派遣したが、その高氏は途中から御家人をひきいて幕府にそむき、六波羅探題を攻め落とした」(『もう一度読む 山川日本史』p.103)とある。
戦前の「皇国史観」では「忠臣の鏡」とし「国民の模範」とされた正成だが、今の教科書ではまるで端役扱いだ。

千早赤阪村には楠木正成館跡推定地にも大きな石碑があり、正成産湯の井戸も大切に残されている。河内長野市の観心寺の首塚の規模も半端なものではなく、没後681年も経っているのに、どの史跡も美しく維持されていることに驚かざるを得ない。

正成が国民から愛されていたのは戦前のことだけではなく、江戸時代も同様であったことは享和元年(1801)に秋里籬島が著した『河内名所図会』の観心寺の解説で、正成の首塚の記事だけで1ページを占めていることを知れば見当がつく。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563471/31

正成は決して自分の利害や損得で動く人物ではなく、地元の人々を愛し、また国を愛し、忠孝を重んじる人物であったからこそ、時を越えてあらゆる階層の日本人に敬愛されてきたのではなかったか。

楠木正成像

ネットで『太平記 巻第十六』の現代語訳が読める。『太平記』の作者は、楠木正成をこのように評している。

「もともと元弘以来、天皇からあり難くも厚い信頼を得て、忠義を守り通した上に大きな戦功も上げ、その功を誇っている者は、幾千万人もいたのでしょう。しかしながら、この戦乱(足利尊氏の反乱)が始まってからというものは、仁義を知らない者は天皇の恩を忘れて、敵に従属したり、武勇に自信を持てない者は、一時でも命を守ろうとして、逆に処刑されたり、また知恵のない者は、時代の転換を知らないため、正道を歩むことが出来ないのに、正成のように智仁勇の三つの徳を持ち合わせた人間が、死ぬことによって人間として道義にかなった生き方を守ったのは、過去から現在に至るまで、正成ほどの人間は居なかったのです。その人間が兄弟共に自害を遂げたことは、今の後醍醐天皇が結果として国を追われ、逆臣が横暴な権威を振りかざすこととなる、その前触れだったのでしょう。」
http://cubeaki.dip.jp/taiheiki/taiheiki/taiheiki11-20/taiheiki-16-3.html

『論語』巻第五・鄕黨第九に「智の人は惑わず、仁の人は憂えず、勇の人は恐れない」とあり、孔子は智・仁・勇を大いなる徳と見なし、万人が修めるべき三つの徳としている。
何が正しいかを識り、相手の立場になって考えられる慈愛の心を持てば、惑わされることなく、憂えることなく、勇気をもって信念を貫くことができる。

いつの時代も同じだと思うのだが、このような三つの徳目を兼ね備えたようなリーダーがいなければ、国や地域を守ることは難しいであろう。どのような社会を理想とするかは時代によって異なることは当然のことだが、今日の様な混乱期こそ、自らの信念を貫き通した楠木正成の生き方から学ぶべきものがあるのではないだろうか。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

「櫻井の別れ」は、どこまでが真実か~~水無瀬から大山崎歴史散歩1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-320.html

後南朝の皇子にまつわる川上村の悲しい歴史と土倉庄三郎
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-455.html

後南朝の歴史は、なぜ闇に葬られたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-456.html

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プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
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    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史