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丹波に秋の味覚を求めて~~丹波栗の歴史と生産農家の危機

17日の日曜日は朝から秋らしい爽やかな天気で、秋の味覚を求めにちょっと車を走らせた。 摂丹街道(R423)を北に走ると、大阪府と京都府の境界線あたりから地元の農産物などが安く買えるところがいくつかある。

途中で朝市もあれば、農家が獲れたばかりの農産物を庭先で売っていたり、飲食店を経営しているところが野菜や果物を店先に並べていたりする。私が良くいくところはそういう場所だ。

この近辺までくれば、店によって若干の価格差があるとは思うが、どこで買ってもそれなりに安く野菜や果物を買うことが出来る。
それぞれの店の在庫の状況次第で、ちょっと古いものを安く売ったりしている。この日は丹波栗と丹波松茸一本とトマトや枝豆等をいろんな店を回って買い回りした。

丹波栗
丹波松茸

店の名前をメモしなかったので申し訳ないが、亀岡市西別院あたりで買った丹波栗が約1kgの袋で個数限定で600円はお買い得だった。松茸は1本780gで1900円。地元でしか買えない価格だと思う。そのお店は、栗はほとんど同じサイズの品が1000円で並べられていた。おそらく仕入れた日が何日か早いので安かったのだろう。
ネットで買えば倍近くするものが、現地に行くと自分で商品を見ながら買うことが出来るのが醍醐味である。

また、栗はサイズ次第で価格が随分違う。前回亀岡に来た時は小ぶりのものを300円で別の場所(亀岡市犬甘野)で買った。皮を剝くのが少し面倒なだけで、焼き栗なら小さいものの方が香ばしくて良いかもしれない。

栗というと、縄文時代の三内丸山遺跡(青森市・約5500年前)で大規模な栗の柱と大粒の栗の実が出土し、遺跡の周辺の森は栗林だったことがわかっている。

三内丸山遺跡

自然の栗の木が林になることはないらしく、縄文時代から栗が日本人の食生活に欠かせない存在であり、食糧生産のために植林したものであることは確実だ。
また自然の栗の木で大粒の栗が出来ることはないそうで、ここに住んでいた縄文時代の人々は、大粒の栗を作るための接木の技術を持っていた可能性もあるとも言われている。
栗の木は心材の耐朽性が高く建築資材として今でも良く使われるのだが、縄文時代から住居の柱に使われていたことも非常に興味深い。

三内丸山遺跡は栗とともに栄えた、定住型都市型社会と考えられているのだが、どういうわけか、今の青森県はほとんど栗が栽培されていないという。しかし当時の気候は今よりも2度程度高く、栗を栽培するには適切な気温だったらしいのだ。

「日本三代実録」という書物に、貞観8年(866)、常陸国(茨城県)の鹿島神宮ではスギ4万本、栗5千7百本を植えたという記録があるそうだが、それが栗を植林した最古の記録なのだそうだ。おそらく、将来神社を再建する時のために植林されたものであろう。

丹波栗のことを書いているサイトを読んでいると、「古事記」や「日本書紀」にも丹波栗が書かれているとか、仏教伝来とともに大陸から栗栽培の技術が伝えられ、大粒の栗が栽培されるようになったと書かれているものがある。
最近は日本の古典もパソコンで原文にアクセスが出来るようになったので、「古事記」や「日本書紀」をざっと文字検索してみたが、丹波栗の話がどこに書いてあるかは残念ながら確認できなかった。
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/kojiki/kojiki_top.htm
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syoki/syokitop.htm

しかし「栗」に関して調べると、「日本書紀」には栗が朝廷に献上されたような話が何か所かに出てくる。
また巻第三十の持統天皇の七年(693年)3月17日に天皇が「全国に桑、紵(からむし)、梨、栗、蕪青(あおな)などの草木を勧め植えさせられた」。という記述もあるが、丹波の国に限定した記事は見当たらなかった。

丹波地方が栗の名産地であったことが文献上で確認できるのは、平安時代に禁中の儀式や制度を記した「延喜式」だそうで、そのことから、栗の栽培地として一番歴史が古いのが丹波地方であることは定説となっているようだ。

長い間朝廷や幕府に献納されてきた全国トップブランドの丹波栗ではあるが、今の生産量は驚くほど少ない。
2年前のデータでは、全国の栗生産量は18300tで、トップは茨城県の5030tで次いで熊本の3220t、愛媛の1990tの順だそうで、この3県で日本の栗生産の56%にもなる。丹波栗を作っている京都や兵庫は全国のベスト8にも顔が出て来ないのだ。 いつのまにか日本の市場に出回る栗は75%が輸入品になっており、2年前の輸入品の総量は14,445tだそうだ。

栗

丹波栗の生産は京都府では昭和53年には1500tもあったそうだが、今は200tまで減ってしまっていることを今回調べて初めて知った。
理由はいろいろあるが、最大の理由は安価な輸入商品が流入し、大手流通業者に安値で買い叩かれ、生産者の生活が成り立たなくなったことが大きいのだろう。

しかし、ここ数年、消費者は大手流通の野菜や果物よりも、生産地に近い場所で買う方が安くておいしいことに気がついてきたのではないだろうかと思う。都心に近い産直売場はどこも人が増えてきている。これからは車で野菜や果物を買いながら、田舎の名所巡りやグルメを楽しむ人がもっと増えそうな気がする。

こういう場所で野菜や果物が安く買えるのは、農家から直接仕入れていて流通コストがゼロで、売り切れ御免の商売だから廃棄がなく無駄がないことは誰でもわかる。

私の子供の頃は近所の八百屋で野菜などを買っていたが、そういう八百屋が大手流通に潰されていき、初めてスーパーで母親が買ったトマトが不味かったのを今も忘れない。 スーパーのトマトが不味いのは当然で、大手流通は農家に対して熟さないうちにもぎ取るように指導し形の整ったものだけを出荷させるのだが、これは消費者のためにしているのではなく、流通業者の都合で、販売過程で廃棄を減らして効率よく稼ぐために、農家に要求しているだけのことだ。
資本力にものを言わせて、安いところから商品を買い漁り続けるうちに、若い世代は農業に見切りをつけて故郷を去り、日本の農業は老齢化が進み同時に地方が疲弊したが、流通業者は拡大し続けた。

しかし、大手流通が中国などから大量に野菜を入れるような行動を取りだしてから、消費者の行動が少しずつ変わってきたように思う。私が休みの日に田舎をドライブして現地の野菜を買うようになったのはこの頃からだが、最近では都心に近い産直売場には、よほど朝早く行かないと、商品がほとんど売り切れていることが最近ではよくある。

いくら大手流通業者が安い商品を売り場に並べても、生産者の価格に勝てるはずがなく、昨日今日収穫したような野菜が並べられるはずがない。味の違いがわかる消費者は、新鮮なものが買えるなら10kmでも20kmでも平気で走る時代になってきた。生産者も、消費者の顔の見える仕事に、力を入れるようになってきたことは非常に良いことだ。

平安時代からの名産品である丹波栗に限らず、地方の名産品を次の世代に残すためには、都会に住む人が、年に一回でもいいから買うことが一番である。買うということは生産者の商品の価値を認めてお金を払って応援することである。消費者が直接買うことで地方の生産者が潤い生活の基盤が出来、そうすることで地方の伝統や文化も守られ、美しい自然も水源も守られていくのだ。消費者がネットで地方の産物を買うことが簡単にできるようになったが、このことは流通業者に流れていた富を地方で循環させ、地方を潤わせることにつながっていく可能性を感じている。これから地方がやり方次第で豊かになる道が開かれつつあるのではないかと思う。

どこの国のものでも、ただ安ければいいという消費者や流通業者の考え方は、地方を荒廃させ空洞化させてきた元凶ではなかったか。そのために地方の農地や水源などが外国資本に売られているようなとんでもない事例が各地で起こっているようだが、こういうことを放置しては国が守れないし、いずれ国民が高い付けを払わされる日が来るだろう。

しかし今は、消費者は安くて、新鮮で、安心できるものを求めて、生産者の近くで商品を買ったり、ネットで直接商品を買ったりする選択肢をもっている。
これからは地方の生産者との共存共栄を考えない流通業者は、多くの消費者から見放されて、いずれは過大な設備を持て余すことになりはしないだろうか。
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丹波篠山の重要文化財・天然記念物を訪ねて~~磯宮八幡宮と大国寺

24日の日曜日も天気が良かったのでまた田舎道をドライブしたくなった。
先週は亀岡だったが今度は丹波篠山を目指すこととして、事前に丹波篠山の国指定の重要文化財がどこにあるかを調べてみたところ全部で16あり、その内の6つは大国寺という天台宗の寺院にあることがわかったので、まずはその寺を目指すことにした。

吹田から一般道を走り池田から川西、猪名川につながる川西篠山線(県道12)を北上していく。

途中で磯宮八幡神社という神社に立ち寄った。

磯山八幡宮全景

この神社は観光案内書には記載されていない小さな神社だが歴史は古く、承平3年(933)に石清水八幡宮よりご分霊を勧請したという古社で、昔は末社が50社もあって曽地・後川荘など四ヶ荘におよぶ広い地域の総社だったそうだ。
歴史が古いだけあってこの神社は2つの国指定重要文化財を持っているのだが、その文化財がなんと2つとも「仏像」なのだ。

磯山八幡宮重要文化財

明治の廃仏毀釈によりここにあった神宮寺が潰されてしまったが、もともとこの神社は神仏習合でお寺と神社が渾然一体としていたようだ。潰された神宮寺に安置されていた四天王のうち木造持国天立像と多聞天立像が今はこの神社の収蔵庫に保管されているそうだが、残念ながら普段は公開されていない。この二つの仏像は、次のURLで見ることが出来る。
http://edu.city.sasayama.hyogo.jp/tiikibunka/bunkazai/bunkazaiichiran/0039.pdf
http://edu.city.sasayama.hyogo.jp/tiikibunka/bunkazai/bunkazaiichiran/0040.pdf

この神社は古くから領主、武将らの信仰が厚く、建武3年(1336)2月、足利尊氏が九州への途中に参拝し、願書や鏑矢等を奉納し、田畑も寄進したと伝えられ、八上城主波多野秀治も城内武運長久の守り神として崇敬し、各種の寄付をするなど保護をしたが、天正7年(1579) 明智光秀の丹波攻略の折に兵火によって焼失。翌8年には再建されたという。

磯山八幡宮本殿

その後、承応3年(1654)、篠山城主松平康信が境内並びに田地二反余を黒印除地とし、寛文12年(1672)に社殿を建立。弘化5年(1848)に造営されたという記録があるそうだが、これだけ由緒のある神社とは思えないくらい、現在の建物は相当に傷んでいる。

磯山八幡宮天然記念物

この神社の境内に、ハダカガヤという高さ約10m樹齢600年以上の大木があり、国の天然記念物に指定されている。普通のカヤの実には堅い殻があるのだが、この木にできる実には不思議な事に堅い殻がないそうだ。突然変異で出来たものだそうだが、このようなカヤの木は世界でここしかないそうである。

次に向かったのは大国寺。

先程も書いたように、この寺には国の重要文化財が6つも存在するのだが、1つはこの寺の本堂である。

篠山大国寺本堂

このお寺は大化年間(645~650)空鉢仙人(くうはちせんにん)が国家安泰を祈願されて、自作の薬師如来を安置し開創されたと伝えられているが、その後平安時代の天暦年間(947~956)に戦火のため焼失。鎌倉時代正和年間(1312~1317)に花園天皇の御帰依により再建され、「安泰山大國寺」の称号を賜ったとされる。

篠山大国寺本堂横

今の本堂は鎌倉時代に再建されたものとされるが、腐朽破損が甚だしかったために、昭和40年に解体修理に着手し、翌年に再建当時の姿に復旧竣工したものである。

この本堂の中に、藤原時代の仏像5体が安置されており、いずれも国の重要文化財に指定されている。住職の御許しを得て、ノーフラッシュで仏像の写真を撮ることが出来た。

篠山大国寺仏像

左から増長天立像、阿弥陀如来座像、薬師如来坐像、大日如来坐像、持国天立像で、薬師如来坐像は藤原時代中期の作、他の仏像は藤原時代後期の作とされている。

またこの寺の境内各所に天満宮をはじめ、大日堂、水掛け不動尊、厄除け地蔵尊、大黒天、弁財天、出雲社、稲荷社が祀られているのは珍しい。

篠山大国寺天満宮

下の画像は本堂のすぐ左にある天満宮であるが、廃仏毀釈以前はこのように境内の中に神様を祀るお寺が普通だったのかもしれない。

どこの地方でも、有名な観光寺院や神社は観光収入で潤っているが、文化財があってもあまり名前が知られず観光客がほとんど来ない寺社は文化財を守るのに相当な苦労をしておられる。
地域の人口が減り高齢化が進んで、地域の信仰の場を支える人々からの収入が少なくなっては、寺社の文化財を後世に残すことは容易ではない。
重要文化財の指定があっても、国の支援は一部に過ぎず、3割以上は寺社と信者で工面しなければならないが、木造建築の修理費用は今では半端な額ではない。

文化財の指定がなければ、木造での修理をあきらめて、鉄筋コンクリートで建て替えるところもあれば、住職や宮司の生活が出来ないために無人となるところも出てきている。

地方の人々が豊かにならない経済政策を続ける限り、地方の文化財の危機はもっと深刻になっていくだろう。地方の振興のためには企業誘致だけでは限界があり、つまるところ農業や林業・漁業を今後どうするか、国全体が食糧問題にどう対峙するかが問われているのだと思うが、今の政治家は、食糧問題は票にならないと考えているのか、真剣に議論されているとは思えない。

地方の文化財を次の世代に引き継ぎ、末永く守っていくために自分ができることは、田舎に行って、あまり有名でないお寺や神社を拝観して拝観料や御賽銭を払うことぐらいだが、歴史の好きな人は是非、年にいくつかそういう寺社を拝観してブログなどで紹介すれば、参拝者が少しずつ増えて、わずかでも寺社を援けることができるのだと思う。

篠山大国寺本堂より

大国寺では、ご住職自らが寺院や仏像の来歴から丹波篠山の歴史までを詳しく説明して下さった。有名な観光地を見て廻るのもいいが、重要文化財をすぐ近くに観賞させていただきながらご住職の熱い説明を聞かせていただき、仏像の素晴らしさを体感できたことは貴重な体験だった。

帰路はいつものように地元の特産物の買い込み。道路沿いにいくらでも丹波栗や丹波黒豆の販売所があり、道の駅などよりはるかに安く買うことが出来る。丹波牛ならデカンショ街道(R372)沿いに西村牧場直営の「篠山ビーフ」という店もある。この日も随分いろんなものを買い込んでしまった。

この季節の丹波巡りは、いろいろ美味しいものが都心のスーパーよりもはるかに安く買えるので、拝観料やガソリン代が浮いたような気分になる。
帰宅してから丹波栗を焼いて食べ、夕食は丹波黒豆の枝豆と丹波牛の焼き肉だが、もちろんどれを食べても旨かった。
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龍野公園と龍野城の桜を楽しむ

しばらく地震の記事ばかり書いていたら、ブログ仲間から桜の写真を催促されてしまった。

桜の時期になると毎年どこかへ桜を見に行くのだが、ブログを書き始めてからどこに行くか随分迷うようになったし、どこの写真を撮るにしてもアングルなどに随分こだわるようになった。

有名なところはどこへ行っても人が多いのでゆっくり景色を楽しめず、余程早くいかないと人や車や電線など余計なものが写ってしまう。マイクを使ってイベントをやっていたり、露店が所狭しと出ているようなところはなるべく避けたいと思うと、行くところはかなり絞られてしまう。昨年も何箇所か行ったのだが、ブログに使ったのは東大寺の桜だけだ。

今年は京都にも行ったが、播磨の小京都とも言われる兵庫県龍野市の桜がなかなかうまく撮れたので、今回は龍野の桜を紹介したい。
とはいっても、龍野のことをあまり詳しく知っているわけではないので今回は写真を中心にして、文章はWikipediaなどを参考にして簡単に場所を案内するにとどめたい。

たつの公園の桜

最初に訪れたのが「龍野公園」。JR姫新線「本龍野」駅から、歩いて35分くらいで辿り着く。この場所は桜だけでなく秋の紅葉も美しいらしい。

あかとんぼ碑

龍野市に生まれた三木露風(明治22年~昭和39年)は、北原白秋とともに日本詩壇に「白露時代」を築き上げた詩人で、有名な童謡「赤とんぼ」の作詞者で知られる(作曲は山田耕筰)。たつの公園の中に「赤とんぼの歌碑」があり歌詞が刻まれている。近くに三木露風の銅像もある。

たつの桜

この赤とんぼ歌碑から、数奇屋風の建築が残る聚遠亭(しゅうえんてい)に通じる桜道は「文学の小径」と呼ばれて、このあたりの桜もなかなか美しい。

聚遠亭茶室

聚遠亭は龍野藩主であった脇坂氏の上屋敷跡に建築されたもので、池の上に建っているこの茶室は江戸時代の末期の建築である。「聚遠亭」という名前は庭園からの眺望をたたえた松平定信が「聚遠の門」と呼んだことから名づけられたそうだ。このあたりは特に桜が多く、鶏籠山(けいろうざん)の眺めもすばらしい。

竜野城隅櫓と桜

ここから東に向かって歩くと龍野城の隅櫓が見えてくる。桜が青い空と白壁に映えて特に美しいスポットだ。

竜野城搦め手門

坂を上ると復元された裏門がある。

竜野城隅櫓と桜2

再建された裏門を抜けて隅櫓に向かう。このあたりの桜は本当に美しい。

龍野城は、明応8年(1499)年に赤松村秀が鶏籠山に築き、江戸時代の万治元年(1658)に破却されたが、寛文12年(1672)脇坂安政によって龍野城が再建され、この時に山頂の郭は放棄され、山麓居館部のみの陣屋形式の城郭となった。

本丸御殿

これは本丸御殿だが、これは昭和54年(1979)に再建されたものである。

竜野城埋門と桜

上の写真は埋門とその近くの桜、下の写真は埋門を正面から写したものである。

竜野城埋門正面

近くに龍野歴史文化資料館がある。当日は展示品の入れ替えのために戦国時代以降の資料があまり展示されていなかったのは残念だった。

白壁土蔵

桜をメインに観光したのであまり見ることができなかったが、龍野市には武家屋敷や白壁土蔵など古いものが古いままに残されており、新しい建物も街並みと調和するように工夫されていて市街地を歩くのは楽しかった。

龍野の有名なお土産は手延べそうめんの「揖保の糸」。それと醤油のもろみを買って帰った。今度来るときは武家屋敷や醤油資料館や寺院などを見て歩きたいと思った。
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淡路島の東山寺に残された石清水八幡宮護国寺の仏像を訪ねて~~淡路島文化探訪の旅1

淡路島の文化財を調べていると「東山寺(とうさんじ)」というお寺に平安時代の仏像13体が国の重要文化財に指定されているのが目にとまった。
この13体の仏像の由来を調べると、明治の廃仏毀釈の時に京都の石清水八幡宮護国寺(いわしみずはちまんぐうごこくじ)から淡路島のこの地に遷されたという記事を見つけて興味を覚え、この目で見たくなった。
6月になって淡路島の鱧料理が旬を迎えたので、この東山寺や淡路島の面白そうなところを巡りながら食事を楽しむ日帰り旅行を計画し、先週行って来た。

最初に訪ねたのはもちろん東山寺である。

東山寺の事を書く前に、石清水八幡宮護国寺について書いておこう。

以前このブログで、明治初期の廃仏毀釈までは、京都府八幡市の石清水八幡宮のある男山全体が「男山四十八坊」と言われるように圧倒的にお寺を中心とする地域で、毎日読経が流れているような場所であったことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-53.html
その男山全体の中心施設が「護国寺」であった。

iwasimizu232.jpg

上の図面は「城州八幡山案内絵図」に描かれた護国寺と琴塔の付近のもので、中央の大きな屋根の建物が「護国寺」で、その上に描かれているのが石清水八幡宮の本殿である。他の建物などと比較しても「護国寺」はかなり大きなお寺であったことが分かる。

「石清水八幡宮護国寺」の歴史を調べると、石清水に八幡神が遷座される以前に「石清水寺」という寺院があったということが社伝にあるそうだが、平安時代の貞観4年(862)に「石清水寺」を「護国寺」と改号したらしい。
康和5年(1103)に大江匡房が十二神将を寄進したという記録も残されている。また本尊の薬師如来は石清水八幡宮が八幡大菩薩を遷座する以前から石清水寺の本尊であり、平安期初期の制作だそうだ。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/m_iwasimizu2.htm

明治の廃仏毀釈により石清水八幡宮護国寺の堂宇は破壊されてしまい、仏像・仏具などの大半は焼却・廃棄あるいは売却されたのだが、その最も重要な仏像がいったいどういう経緯で淡路島の山奥の東山寺に遷されたのか。そこには東山寺復興に至るまでの壮絶なドラマがあるのだが、この点については「淡路インターネット放送局」のサイトが詳しい。
http://www.city.awaji.hyogo.jp/sec/jouhou/aitv/ch2.html

東山寺仏像

東山寺の歴史と、石清水八幡宮寺の仏像が遷った経緯を簡単に記しておこう。
東山寺は嵯峨天皇の弘仁10年(820)に弘法大師が伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)の鎮護と庶民信仰の中心として開祖した由緒ある寺院であったが、戦国時代に全焼したのち、弘安8年(1286)に現在の地に再興されたが、徳川時代中期以降に寺運が衰えていき、幕末の時期には廃寺同然となってしまう。ドラマはその時期に東山寺にやってきた尼僧:佐伯心随と勤王の志士との出会いから始まる。
当時の淡路島は尊王攘夷運動の一拠点となっていて、反体制を掲げた多くの勤王の志士たちが淡路島に来島しており、特に山深い東山寺はいつしか彼らの密会の場所となって、梁川星巌や頼三樹三郎らが頻繁に出入りしていたそうだ。(庫裏には志士達の刀痕が残されているそうだ)

佐伯心随尼

勤王の志士同志で島外の仲間との重要な情報伝達には密使が必要で、佐伯心随尼に白羽の矢が立ち、心随尼は志士達の要請を受けて石清水八幡宮護国寺の別当であった道基上人に何度か密書を届けるようになる。道基上人もまた尊王攘夷運動の重要人物であった。

やがて江戸幕府が大政奉還し明治の時代を迎えると、今度は廃仏毀釈の嵐が吹き荒れて、日本各地で仏教施設や仏像が破壊されるようになった。
道基上人の石清水八幡宮護国寺も例外ではなく、本尊であった薬師如来とそれを護る十二神将像も男山にうち捨てられてしまったが、道基上人は平安時代から人々の信仰を集め、多くの人々によっ守られてきたこれらの仏像がこのまま雨ざらしで朽ちていくことには耐えがたく、淡路島で東山寺の復興のために頑張っていた佐伯心随尼にこれらの仏像のすべてを託すことによって、少しでもこれらの仏像を後世に残すことを決意したのである。
明治2年(1869)6月12日にこれらの仏像は、人目を避けるようにして運び出されてこの東山寺に遷され、その後東山寺は佐伯心随尼により復興を遂げることになった。
一方道基上人は、その後淡路島に移り住み、永寿寺という小さなお寺の住職となるが、東山寺の復興を見届けた後、明治22年(1889)に生涯を終えたとのことである。

東山寺は北淡ICから7km程度の距離ではあるが山深い場所にあり、途中からは私の車のカーナビでは認識しないような道を走ることになる。道幅も3m程度とかなり狭いので運転には注意が必要である。

東山寺山門

上の画像が東山寺の山門である。この山門は室町時代に淡路守護職であった細川頼春から寄進されたもので、淡路島に現存する最古の木造建築だそうだ。

東山寺本堂80

上の画像は東山寺の本堂で、本尊の千手観音が安置されている。

東山寺薬師堂

石清水八幡宮護国寺から遷された13体の仏像は、以前は木造の薬師堂に安置されていたのだが、昭和40年の台風で裏山が崩れ危険な状態になったので、コンクリートの薬師堂が建設されて今はこの建物の中にある。やや高めの拝観料(700円)だが国指定の重要文化財の仏像を13体も見ることができると思えば価値がある。

中に入ると、目の前でこれら重要文化財指定の仏像を見ることができる。撮影はできないのでネットで入手した画像を添付しておくが、なかなか見ごたえのある仏像である。

石清水八幡宮寺薬師如来

薬師如来像は9世紀前半から半ばにかけての制作で、かっては「男山の厄除け薬師」と言われて人々の信仰を集めていた有名な仏像だったそうだ。

otokoyama_yk3.jpg

また十二神将像は当時九州で活躍していた仏師・真快の11世紀末期の作品と言われている。
これらの仏像が男山にどのくらいの期間打ち捨てられていたかは不明だが、やや変色しているものの全般的に保存状態は良好であった。

これらの仏像の来歴について知れば知るほど、今も残っているのが奇跡のように思えてくる。
記録では石清水八幡宮寺は、14世紀と15世紀の二度にわたり火災を経験しており、この時もこれらの仏像は人々の手により運び出されて難を逃れているのだ。
また明治の廃仏毀釈の危機も、佐伯心随尼、道基上人がいなかったら、また東山寺が幕末の志士達の密会所にならなかったら、以前このブログで書いた香川県琴平市の金刀比羅宮の仏像のように朽ち果てていてもおかしくなかったのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html

自宅に帰ってから「東山寺」のパンフレットを読んでいると、なぜかこの13体の仏像のことも石清水八幡宮護国寺や道基上人のことも書かれていないことに気が付いた。
パンフレットには「讃岐の人 佐伯心随尼が大師仏縁の故をもって尋ねて来往、大いに復興に努められました」と「幕末安政の頃、勤王の志士梁川星厳・頼三樹三郎・伊藤聴秋、幕府の目を逃れるに最適の地として此処で謀議をこらしたことがあり、これ等志士の詩や、憤怒のあまり振った刀尖の痕と認められるものが今に残っています。」と書かれているだけなのだ。
明治時代の廃仏毀釈の話を書かずしては説明できないことを初めから省略してしまっては、パンフレットを読んでも、なぜ東山寺に本尊とは別に重要文化財の仏像があるのかが誰も理解できないし、歴史のロマンを感じることもできないだろう。

明治の廃仏毀釈については、教科書ではせいぜい「国学や神道の思想に共鳴する人々の行動が一部で過激になり、各地で仏教を攻撃して寺院や仏像を破壊する動きがみられた」程度の記述しかない。東山寺や教科書だけでなく、多くの有名社寺のパンフレットやHPにおいても、廃仏毀釈のことを書いていることを見かけることは滅多にない。

廃仏毀釈を語ることが長い間タブーのようにされてきたのは、それを詳しく知らしめることが明治政府の施策やそれを支える思想を批判することにつながると考えられたのではないだろうか。
しかし明治の時代は遠く過ぎ去り、戦後66年もたったのだから、そろそろ真実をありのままに語ることぐらいは許されてよいと思うのだ。
幕末から明治の時代はきれい事だけの歴史の叙述ではとても理解が出来ないのだが、東山寺で起こった出来事を知るだけで、その時代の雰囲気を身近に感じることができる。東山寺の仏像を見るだけで、多くの人々が時代を超えて文化財を守ってきたことを知ることができる。
東山寺の仏像が私には随分輝いて見えて、密度の濃い時間を楽しむ事が出来た。
歴史の好きな人には是非お勧めしたい寺院である。
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「国生み神話」ゆかりの神社を訪ねて、昼は鱧料理のフルコース~淡路島文化探訪の旅2

淡路島は「国生み神話」の舞台でもある。
高校時代に日本神話を学んだときは、史実でもない作り話にほとんど関心を持たなかったが、この歳になって実際に「古事記」や「日本書記」を読んでみると、結構面白いのだ。

「国生み神話」は「古事記」と「日本書紀」とは微妙に異なるところがあるが、たとえば「古事記」にはこのように書かれている。

「そこで天の神様方の仰せで、伊耶那岐の命(いざなきのみこと)・伊耶那美の命(いざなみのみこと)お二方に、『この漂っている国を整えてしっかりと作り固めよ』とて、りっぱな矛(ほこ)をお授けになって仰せつけられました。それでこのお二方の神様は天からの階段にお立ちになって、その矛をさしおろして下の世界をかき廻され、海水を音を立ててかき廻して引きあげられた時に、矛の先から滴る海水が積もってできた島が淤能碁呂(おのごろ)島です。その島にお降りになって、大きな柱を建て、大きな御殿をお建てになりました。」(新訂「古事記」:武田祐吉訳 角川ソフィア文庫p.209)

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「…そこで伊耶那岐の命が仰せられるには、『わたしのからだは、できあがって、でき過ぎた所が一か所ある。だからわたしのでき過ぎた所をあなたのでききらない所にさして国を生み出そうと思うがどうだろう』と仰せられたので、伊耶那美の命が『それがよいでしょう』とお答えになりました。そこで伊耶那岐の命が『それならわたしとあなたが、この太い柱を廻りあって、結婚をしよう』と仰せられてこのように約束して仰せられるには『あなたは右からお廻りなさい。わたしは左から廻ってあいましょう』と約束してお廻りになる時に、伊耶那美の命が『ほんとうに立派な青年ですね』といわれ、その後で伊耶那岐の命が『ほんとうに美しいお嬢さんですね』といわれました。それぞれ言い終わってから、その女神に『女が先に言ったのはよろしくない』とおっしゃいましたが、しかし結婚をして、これによって御子水蛭子をお生みになりました。この子は葦の船に乗せて流してしまいました。次に淡島をお生みになりました。これも御子の数にははいりません。」(同書p.210)

「かくてお二方でご相談になって、『今わたしたちの生んだ子がよくない。これは天の神様のところへ行って申し上げよう』と仰せられて、ご一緒に天に上って天の神様の仰せをお受けになりました。そこで天の神様の…仰せられるには、『それは女の方が先に物を言ったので良くなかったのです。帰り降って改めて言いなおした方が良い。』と仰せられました。そういうわけで今度は伊耶那岐の命がまず『ほんとうに美しいお嬢さんですね』とおっしゃって、後に伊耶那美の命が『ほんとうにりっぱな青年ですね』と仰せられました。かように言い終わって結婚をなさって御子の淡路の穂の狭別(さわけ)の島をお生みになりました。…」(同書p.210)

この「淡路の穂の狭別の島」が現在の淡路島で、伊耶那岐と伊耶那美は続いて伊予の二名の島(四国)、隠岐の三子の島(隠岐)、筑紫の島(九州)、壱岐、対馬、佐渡、大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま:本州)を生んでいくのだ。

天地創造

キリスト教の世界では神が天地を創造し、アダムを創造したのだが、アダムが一人でさびしそうにしているので神が、アダムを慰めるためにアダムの肋骨からイブを作ったとしている。

いずれも作り話なのでとうでもいいと考える人が多いとは思うのだが、国民の誰もが子供のころから知っているような宗教や神話のストーリーが、男女の関係についての考え方に与える影響が小さいはずがないのではないかと思う。

日本神話では男神と女神とが共同ですべてを創造し男神がリードしながらも男女が相互補完する関係を描いているが、キリスト教の男女の関係は圧倒的に男性優位の描き方のように思える。日本では紫式部や清少納言らが活躍していた時代に、キリスト教世界では女性で活躍した人物が誰もいないのは、旧約聖書における男女観と無関係ではないように思うのだ。

淡路島の旅行の話に戻そう。前回は弘仁10年(820)に弘法大師が伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)の鎮護の寺として開祖した東山寺(とうさんじ)の仏像のことを書いた。
東山寺の次の目的地は「伊弉諾神宮」だ。

「日本書記」によると、国生みの大業を成し遂げた伊弉那岐が、御子神である天照大御神に国家統治を任せて、淡路の地に幽宮(かくれみや)を構えて余生を過ごしたことが記されている。その場所が「伊弉諾神宮」なのだそうだ。

Wikipediaによると、この神社は古代には淡路島神、津名神、多賀明神などと呼ばれていたのだそうだが、正式に「伊弉諾神宮」と言われるようになったのはいつ頃のことなのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%BC%89%E8%AB%BE%E7%A5%9E%E5%AE%AE

いざなぎ神社鳥居

上の画像が「伊弉諾神宮」の鳥居だが、淡路国一宮だけのことはあって想像していた以上に大きな神社だった。

いざなぎ神社本殿

上の画像は本殿で、明治15年(1882)に建築されたものだ。

いざなぎ神社夫婦大楠

境内には樹齢900年の「夫婦大楠」がある。これは2株の樹木が、成長するにつれて合体して1株になったというもので、兵庫県の天然記念物に指定されている。

最初に紹介した「国生み神話」の最初のところで矛の先から滴る海水が積もってできた「淤能碁呂(おのごろ)島」という島があった。この島がどこにあったかは諸説があるようだ。

おのころ神社鳥居

上の画像は、南あわじ市榎列(えなみ)の自凝島神社(おのころじまじんじゃ)の大きな鳥居だ。この鳥居は厳島神社、平安神宮の鳥居とともに日本三大鳥居のうちの一つとされているそうだが、社殿はけっして大きなものではなかった。

「古事記」や「日本書記」を普通に読むと、「淤能碁呂(おのごろ)島」は「淡路島」と別の島のはずなのになぜここが「淤能碁呂島」なのかと思うのだが、南あわじ市のHPによると、「数千年前の縄文時代には、三原平野の低い所が入江であった(縄文海進)とされていることから、また、水辺に群生する葦が最近まで島の北部一帯に広がっていたことからも、むかしは、海の中に浮かぶ小島であったと考えられて」いるのだそうだ。
http://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/index/page/61d5bb170f81649594fa7a7e9ee37f16/
淡路島の南に沼島(ぬしま)という小さな島があり、この島が「淤能碁呂島」という説もある。この島に渡るとここにも「おのころ神社」があるそうだが、一日10便の船で渡るのは諦めた。

文治はもすき

この時期(6-8月)の沼島は鱧料理が有名だ。自宅にあった「るるぶ淡路島」に沼島の鱧を料理してくれる「文治」というお店が福良にあることが載っていたので昼食の予約をしていたが、この時期はさすがに満席だった。

はも鍋

鱧料理と言っても、いままでは「湯引き」したものを梅肉や三杯酢で食べたことしかなかったが、朝まで生きていた新鮮な鱧で作った鱧のあぶり、鱧の湯引き、鱧のてんぷら、鱧すき、特性のダシで煮込む鱧すきとその後の福良産のそうめんなど、何を食べても旨かった。写真の左の器にあるのは鱧の肝と卵だが、この味が忘れられないのでまた行くことになりそうだ。

<つづく>
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淡路人形浄瑠璃と高田屋嘉兵衛と淡路特産玉葱の「七宝大甘」~~淡路島文化探訪の旅3

お昼に鱧料理を堪能し、再び淡路島のドライブを続ける。

つぎに紹介したいのは淡路島の伝統芸能である人形浄瑠璃だ。大阪の文楽や徳島の阿波人形などのルーツだと言われており、昭和51年(1976)に国の重要無形民俗文化財に指定されている。

淡路島人形浄瑠璃の歴史は南淡路市のHPに簡記されている。
http://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/index/page/dbb2afd6c95a4c8fc86b63d694339cda/
が、もう少し詳しく知りたい人は、次のサイトが詳しい。

郷土史家の菊川兼男さんが監修した「ネットミュージアム兵庫文学館 淡路人形浄瑠璃」
http://www.bungaku.pref.hyogo.jp/kikaku/awaji/index.htm
淡路人形浄瑠璃生年研究会
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/1719/awajinin1.htm

淡路島人形浄瑠璃

それぞれ微妙に内容が異なるが簡単にまとめると、淡路人形の発祥は今から500年余り前に、西宮の戎神社に仕えていた百太夫(ひゃくだゆう)という傀儡師(くぐつし:人形遣い)が、現在の南淡路市三原町市三條に来て人形の使い方を伝授したことに始まると言われている。
細川家の衰退とともに、それまで神事に舞楽奉仕を行うことを職業としていた楽人たちは、新たな神事芸能を創造すべく上方から伝えられた「式三番叟(しきさんばそう)」の奉納を人形操りによって行いました。これが淡路人形浄瑠璃のルーツとなる。

続いて今から約400年前、慶長年間(1596-1614)に、京都で始まっていた三味線を伴奏楽器とする古浄瑠璃と人形操りとが提携して人形浄瑠璃が成立したと言われているが、江戸中期の『和漢三才図会』という百科事典には、最初に古浄瑠璃と提携した人形繰り師として淡路島出身の第二代引田源之丞の名前が書かれているのだそうだ。

その後淡路人形浄瑠璃は阿波の殿様(淡路国の領主でもある)の保護を受けて発展し、江戸中期には淡路に40を超える人形座が出来、それに携わる人が900人余りもいて、東北から九州にかけて広く芝居の巡業をしていたそうだが、その後人形座は次第に減少して、今は「淡路人形座」と「市村六之丞座」の二つだけだという。

「淡路人形座」は、鳴門海峡の近くの大鳴門記念館にある「淡路人形浄瑠璃館」では毎日公演がなされているが、この公演は数年前に見ているので今回は淡路人形浄瑠璃発祥の地の南淡路市三原町にある「人形浄瑠璃資料館」に行ってきた。この資料館は南あわじ市三原図書館の二階にあり、「市村六之丞座」の人形や衣装や台本など古い資料が展示されており、スタッフの丁寧な説明を受けることができるうえ、再現された舞台でビデオの鑑賞も出来る。

式三番叟

上の画像は「式三番叟」の人形だが、現在でも三番叟は、人形座が各地で公演を行う前に、無事安全を祈願して奉納が行われているそうだ。YouTubeで探すと5年前の正月に「淡路人形浄瑠璃館」座員によって三条八幡神社脇宮戎社に奉納された、三番叟奉納の動画が見つかった。
http://www.youtube.com/watch?v=q0ITUqyUmJY

人形浄瑠璃といえば「文楽」の方が今は有名だと思うのだが、もともと「文楽」は淡路出身の浄瑠璃語り植村文楽軒(1751-1810)による人形芝居が大阪で人気を博して広まったものだそうだ。文楽も淡路人形浄瑠璃も三人で人形を操るのは同じだが、決定的に異なるのは技芸員は文楽は男性だけなのに対し淡路人形浄瑠璃の場合は太夫や三味線に女性が多いことと、人形が文楽と比較してかなり大きいことだという。淡路人形浄瑠璃は人形が大きいゆえに表情がわかりやすく、素朴で迫力があると海外でも評価が高く、海外公演も何度も行われているようだ。

地元の三原高校には創部60年近い歴史を誇る「郷土部」があり、淡路人形浄瑠璃の伝統の継承に取り組んでいる。2年前の朝日新聞の記事によると、ハンガリーやカナダ、台湾、フランスと計4度の海外公演も経験し、卒業生のうち7人は「淡路人形座」でプロとして活躍しているという。
https://aspara.asahi.com/column/bunkasai/entry/99gmdmTW3I

たまねぎ畑

資料館を出るとすぐ横の畑で玉葱の収穫をされていた。淡路島は玉葱の名産地だが、これだけ大規模な玉葱畑の収穫を初めて見た。

淡路島に来れば必ず玉葱を買うのだが、いつも買う場所は決めている。今回も予定通り、県道31号からウェルネスパーク五色に行く坂道の途中にある「菜の花農園」という直売所に行く。

菜の花農園

農業を営むオーナー夫妻が米や野菜を販売しているが、ここの名物おばちゃんとの会話が実に楽しい。話しているうちに、淡路島でしか出回らない「七宝大甘(しっぽうおおあま)」1箱を勧められて買ってしまった。

七宝大甘

今回買ったもので直径が12-14cm程度だが、以前はもっと大きいものを買ったことがある。 この品種はちょっと割高だが、甘みがあって辛みがなく、サラダで食べるのに最高の玉葱だ。

このブログで時々書いているが、私は車を走らせては野菜や果物を産直販売所で買ったり農家から直接買ったりすることが多い。野菜や果物の本物の味はこういうところのものを買わないと味わえないし、生産者の地元で買うことが地元にとっても良いことだと思うからだ。

大手スーパーは、流通コストを下げ、廃棄を減らすために、腐らないよう、傷まないよう、運びやすいように、農家には農薬を使って実が熟さない段階で大量に刈り取り出荷することを指導してきた。だから都会の消費者の大半は、本物の野菜や果物の美味しさを忘れてしまっているか知らないままでいるのが現状だ。
また、今のやり方では、大半の農家は大手流通に買いたたかれて利益はほとんど残らない。利潤を蓄積していくのは、主に大手流通業者だろう。農業では生活ができないために田舎で若者は都会に出て働くこととなり、そのために田舎は高齢化・過疎化が進んでいくばかりだ。

何百年もかけて固有の文化や伝統を培い継承してきた地域は淡路島に限らず全国各地にあるが、多くの地域でその文化や伝統を支えてきた仕組みが崩れてきている。
地域の文化や伝統はその地域経済の豊かさによって支えられてきたのだが、都会資本の企業に席巻されて多くの商店や製造業者は廃業し、多くの農家は後継ぎが都会に定住して戻ってこない。この流れを放置したままで、素晴らしい地方の文化や伝統をどうやって後世に残すことができるのだろうか。
文化や伝統だけでなく文化財も同様だ。檀家や氏子が減っていくばかりの寺社がどうやって、古い建築物や仏像などの文化財を守れるのかと思う。

田舎の高齢化・過疎化が更に進んでいけば、水源の維持管理や治安や防災や道路の維持管理から文化財の修理や管理などの大半のコストを、いずれは都市住民が負担せざるを得ない時代が来ることになってしまうだろう。個々の企業が利潤を追求することを放置したままでは、この流れが止まることはないのだと思う。

しかし、都会の消費者が田舎に行って地域の農産物や特産品を買ったり、ネットで地元の農家に注文して買うなどして、直接地方の生産者や地元業者から一次産品や加工品などを買う人が増えれば増えるほど、その地域は潤う。少しでも多くの都会の消費者がそういう行動をとることによって、田舎の高齢化・過疎化や地方文化の消滅の危機が少しは解消方向に向かうことにはならないのだろうか。補助金などをもらって生きるのではなく、生産したものが売れて生計がたてば、田舎で生活することに誇りが持てる効果もあるだろう。

東日本大震災を機に、高知県で津波の怖れのある都市部と高齢化で悩む山間部とがタッグを組んで共存共栄を図る動きがあることを知ったが、このような動きが全国で拡がっていけば、地方に若い世代が家業を継いで、地域の文化と伝統を守ることにつながるのではないかと期待している。
http://www.asahi.com/kansai/kouiki/OSK201106090040.html

話が随分飛んでしまったが、地域の伝統文化を守るためにはそれを支える人々の経済をも配慮する必要があり、地元で若い人が残って文化が継承されるようにしていくことが大切だということが言いたかった。要するに三世代同居の家のない地域に文化の継承は難しいのだ。

「菜の花農園」の名物おばちゃんに別れを告げてさらに坂を登ると、「ウェルネスパーク五色」があり「高田屋顕彰館・歴史文化資料館」がある。

辰悦丸

この資料館は幕末の英雄・高田屋嘉兵衛の業績や生涯を紹介する施設で、高田屋嘉兵衛がはじめて持った船である辰悦丸を2分の1のサイズに復元した模型や、当時の船に使われた道具、蝦夷地の地図などの北方資料や高田屋の経営文書などが展示されている。

高田屋嘉兵衛の話は長くなるので、もう少し勉強してからいずれチャレンジすることにしたい。
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丹波古刹の「もみじめぐり」から香住へ~~香住カニ旅行1

毎年カニ解禁になると日本海方面に旅行することにしているのだが、今年は3年前と同じ香住の宿にして、途中に通る場所でこの季節に訪れたい名所・旧跡を巡る計画を立てて先週(9-10日)に行ってきた。

大阪では紅葉はまだまだだが、山間部に行けばそろそろ色づいているであろうことを期待して、初日は丹波市のいくつかの古刹の中から紅葉で有名な場所を選んで旅程に組み込んだ。旅程を組む際に、ネットで見つけた「丹波市のもみじめぐり」のチラシが結構役に立った。

丹波紅葉めぐり

最初に訪れたのは白毫寺(びゃくごうじ)という天台宗の寺院である。
寺伝によると、慶雲2年(705)法道仙人の開基とされ、奈良時代には七堂伽藍が立ち並び、南北朝時代には93坊を擁する丹波屈指の名刹として隆盛をきわめたそうなのだが、天正年間の織田信長による丹波攻略に伴い明智光秀の率いる兵火で焼失したとされ、その後再建され、寛文12年(1672)の記録によると、総門のほかに48もの坊・院が立ち並んでいたそうだが、今は薬師堂と本堂と熊野権現社が境内に残されているだけだ。

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この寺は5月初旬に咲く藤の花が有名で、境内にある120mもの九尺藤の藤棚が満開を迎えるとテレビでよく報道され、ネットでも多くの人が画像などで紹介しておられる。紅葉でも有名な寺院だとは知らなかったのだが、「丹波市のもみじめぐり」の9社寺に選ばれており、ネットで「見頃」と書かれていたので、急に行きたくなった。

楓の木は比較的最近に植えられたらしくあまり大きくはないが、色はかなり鮮やかであった。

白毫寺1

心字池にかかる太鼓橋は元禄年間に建てられたもので、その近く植えられた楓の紅葉は特に美しい。

白毫寺2

また石門に入る近くにある慰霊碑の紅葉も美しかったが、今週末には薬師堂の紅葉も見ごろを迎えることになるのだろうか。

次に向かったのが真言宗の古刹・石龕寺(せきがんじ)。
『石龕寺縁起』には用明天皇の丁未年(587)に聖徳太子が毘沙門天を本尊として祀ったのが始まりで、平安時代の村上天皇が小野道風に命じて寺号の勅願を賜り、諸堂宇を建立したと言われている。
『太平記巻二九』には、南北朝の時代に足利尊氏とその弟直義の争いである「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」に尊氏が敗れ京都から播磨に逃れる際に、足利尊氏・の嫡子・義詮(よしあきら)がここに身を寄せたとの記録があるという。
そしてこの石龕寺も織田信長の丹波攻略の時に仁王門を残して焼失してしまい、江戸時代以降に復興されたのだという。

石龕寺仁王門

これが仁王門で、左右の木造金剛力士像は鎌倉時代の仏師・定慶(じょうけい)作でそれぞれ国の重要文化財に指定されている。

石龕寺毘沙門堂

これが毘沙門堂でこの中に平安時代後期の作と伝えられる不動明王が祀られているそうだ。境内や参道には数多くの楓が植えられているが、ようやく色づき始めたばかりのようだ。

石龕寺紅葉

毎年11月の第3週日曜日(今年は18日)に「もみじ祭り」が行われて、護摩供養や武者行列などが行われるという。

次に訪れたのは達身寺(たっしんじ)という曹洞宗の寺院である。

達身寺

この寺は行基によって開かれたという言い伝えがあるようだが、詳しいことは記録が残っていないのでわかっていない。
寺伝では、この寺の前身となる寺院は信長の丹波攻めの際に明智光秀によって焼かれたと伝えられているが、それまでは僧兵を抱え山岳仏教の教権を張るような大寺院であったらしいのだ。
明智光秀の軍に寺が焼かれる前に仏像を守ろうと僧侶たちが運び下ろしたのだが、長い間置き去りとなってしまって、多くの仏像が傷んでしまった。
元禄八年(1695)にこの村に疫病が流行り、多くの村人が亡くなった際に、これらの仏像を永年放置してきたことの祟りだと考えて、これらの仏像を集めていた達身堂(たるみどう)をこの地に下ろして修復して建てられたのが、現在の達身寺なのだそうだ。

このような経緯で、達身寺には現在79体の木造物と134片の破片が残されており、そのうち12体が国の重要文化財に指定され34体が兵庫県の文化財に指定されている。
また、それらの製作年代は平安初期から鎌倉時代とかなり古いものであるという。

達身寺パンフ

撮影は禁止されているので、パンフレットの画像を紹介しておくが、この様な貴重な仏像をじっくり目の前で拝観できるのが嬉しい。

一方、この地には仏師の工房があったという説もある。確かに未完成の仏もあり、同名の仏像がいくつもあることなどから、この地に仏像の工房があったという説は確かに説得力がある。また東大寺の古文書の中に快慶が丹波の出身であるという事が書かれているらしいのだが、そのことから鎌倉時代の仏師快慶は達身寺から出た仏師かそのつながりのある仏師という説もあるというのだ。しかしながら達身寺には古文書が乏しく、詳しいことはよく判らないのだそうだ。

達身寺紅葉

達身寺の楓の木はまだ樹齢が浅いが、紅の色がとても鮮やかだ。山腹の楓の樹々が伸びれば素晴らしい紅葉の名所になるだろうと思う。

次は近くにある、真言宗大覚寺派の別格本山の高山寺(こうさんじ)。

高山寺山門

天平宝字5年(761) に法道仙人により弘浪山頂に開かれたというが、その後仁平3年(1153)の兵火で焼失し、その後、源頼朝の命を受け重源により復興されたそうだ。当時は山麓に11の末寺をかまえ、後鳥羽天皇の勅願所ともなったが、南北朝時代以降は相次ぐ戦乱によって荒廃した。慶長5年(1600)に再興されたが、明治時代の神仏分離・廃仏毀釈による末寺の荒廃や台風災害で山上での護持が困難となり、昭和33年に現在地に本堂、山門等を山上から移築したという。

高山寺参道

参道の紅葉がかなり色づいてきていて、これからもっと美しくなるだろう。

次は曹洞宗の名刹・円通寺。

円通寺1

この寺は、永徳二年(1382)に将軍足利義満が後円融天皇の勅命により創建し、室町時代から江戸末期まで二百余の末寺があり、一千石を超える寺領を有する大寺院であったという。
近辺の有力寺院は織田信長の配下の明智光秀の丹波攻めで悉く焼き払われたのだが、この寺にも軍勢が迫ってきたときに、豪氏荻野嘉右衛門が光秀の本陣に赴いて必死の説得をした結果兵火を免れたと寺伝に書かれていて、寺には光秀が兵に対して円通寺に対して乱暴狼藉を許さない旨の直筆の書状が残っているそうだ。
江戸時代には一度火災に遭い天保年間に再建されたが、明治に入って廃仏毀釈で収入源が断たれてこの寺も荒廃してしまう。そこで当時の第40世「日置黙仙禅師」は東奔西走、「円通寺営繕永続講会」の設立を成し遂げ、その結果16年の歳月をかけ、円通寺は見事に復興を果たしたという。この「日置黙仙禅師」は、後に大本山永平寺にて曹洞宗管長として活躍した人物なのだそうだ。

円通寺2

上の碑は「躍然遠挙の碑」といわれ、明治時代の思想家・山岡鉄舟が禅師の功績を称えて筆をとったものだそうだ。

円通寺3

またこの寺は二番目に行った石龕寺、次に行く高源寺とともに「丹波紅葉三山」と呼ばれており、境内の各所に植わっている楓の枝ぶりも良く、緑、黄金、橙、赤など様々な色が重なって美しい。

最後の寺は臨済宗の中峰派の本山である高源寺。
この寺は正中二年(1325) 遠谿祖雄(えんけいそゆう)禅師の開山によって創建されたと伝えられている。また境内にある楓は天目楓(てんもかえで)といい、遠谿祖雄禅師が中国の天目山から持ち帰ったものだと伝えられている。
建立の翌年に後醍醐天皇から「高源寺」という寺号を頂き、後に後柏原天皇の代に勅願寺(天皇命による祈願のための寺)となって隆盛したのだが、織田信長の丹波攻めで焼き討ちにあい、すべて消滅してしまう。
その後江戸時代中期になり、享保年代に一部再建され、寛政年代に柏原藩主の援助を得て現在の建物を建立したのだそうだ。

高源寺1

惣門から山門に続く紅葉はまだまだこれからだが仏殿の周りはかなり色づいてきていた。

高源寺2

仏殿は以前は檜皮葺であったと思うのだが、今はトタン屋根になっているのは残念なことである。

高源寺3

もう少し進むと方丈があり、さらに三重塔がある。この塔の周りの楓が紅葉すれば素晴らしい景色が撮れると思うのだが、すべてが色づくにはあと1週間はかかりそうだ。

以上6つの丹波の古刹を周ってきたが、観光客が比較的多かったのはこの高源寺くらいだった。とはいいながら、紅葉シーズンのピークには少し早かったとはいえ、京都や奈良の有名観光地とは比較にならない。
「丹波紅葉三山」と呼ばれる三寺院には地元の方が、テントで地元産品などを売っておられたが、「観光バスが沢山の観光客を連れてきても、ほとんど誰も商品を買ってくれない」とこぼしておられたので、少しばかり協力させていただいた。

私も昔は、観光バスに乗るパックツアーによく行ったものだが、そのようなツアーは大きな売店のあるホテルに宿泊させ、休憩は何度も大型の土産物屋や高速道路のサービスエリアにバスが停車するので、バスの旅行客の大半はそういう場所でお土産を買うようになってしまう。地元の人々にとってはいくらパックツアーで観光客が増えても、あまりお金を落とさずに通り過ぎていくだけで、地方の活性化にはあまりつながっていないことが多いのだ。
観光地の周囲の歴史的環境や伝統文化を守るために、地元の人々がいくら奉仕しておられても、その受益者は地元と関係のない大手観光業者やその取引企業となっていることが少なからずある。

このブログで何度も書いているのだが、地域の小さな経済循環を無視して、大手業者がブームに便乗してホテルや大型店舗を作っては、地元の人々の収入源の多くを奪い取ることとなり、それでは地元が以前より豊かになることはない。観光客が地元の生産者や地元資本の店舗からお土産などを買うような仕組みを壊してしまっては、いずれ地方の観光地の周囲の地域が衰退し、地域の特色や文化的風土までも維持できなくなってしまうだろう。それでは観光する側にとっても楽しみが半減してしまう。

今年の夏に、信州旅行にした時にある店主と話したが、その店舗で製造・販売している豆腐をある大手業者からまとまった数量で経常的に仕入れたいとの話が来たそうだ。話を詳しく聞くと、その店舗で販売している価格の半分以下で仕入れたいとの話だったので、その価格では製品の品質が維持できないし利益にならないと断ったとのことだ。
地元の加工品に限らず農産物も同様で、生産者は大手流通業者ルートで販売してもほとんど利益が残らず、販売利益の大半は大手流通業者に奪い取られてしまったのだが、この流れをどこかで断ち切らなければ、わが国の地方は衰退していくばかりではないか。
だから私が旅行やドライブをするときは、出来る限り地元の生産者や地元の店舗で商品を直接買おうと思うし、ネットもこれから活用していきたいと考えている。都心に住む人の中で1割でもネットや産直などで地方の産品を買うようになれば、きっと地方は甦ることになるのだと思う。

1日目の観光を終えて、宿泊先の香住に向かう。
カニのシーズンは毎年試行錯誤しながらいろんな施設に宿泊してきたが、大きなホテルで大枚を払っても、カニが北海道産だったりロシア産だったりしてがっかりしたことが何度かある。これでは地元の漁師も仲介業者も潤わないし観光客も喜べない。残念ながら多くの観光地で、観光施設と地元住民との共存共栄の関係が崩れてしまっている。

現地で獲れたタグ付きのカニを食べるのなら、地元の人の民宿に泊まるのが一番いいと最近では考えるようになって、今年は3年前に宿泊したのと同じ「庄屋」という民宿でお世話になった。

香住カニ

せっかくカニの本場に来たのだから、自宅近辺では買えないような大きなカニを食べたくて、1人に1杯ずつの普通サイズの茹でカニを2人で大きな茹でカニ1杯に変更をお願いしておいたのだが、こういう注文が出来るのも民宿のいいところだ。

今年解禁して獲れたばかりのところを浜茹でした香住ガニはみそも身もしっかり詰まっていて旨かったし、刺身も焼きカニも鍋も美味しく頂けて、久しぶりにカニを堪能して大満足の1日だった。
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香住から但馬妙見山の紅葉と朱塗りの三重塔を訪ねて~~香住カニ旅行2

香住で朝を迎えると、宿の主人から声がかかって「岡見公園」まで車で案内していただいた。

岡見公園

「岡見公園」は名勝香住海岸から北に突き出た城山半島という岬の先端にある公園で、北に見える小さな島は白石島という名だそうだ。
春には桜が咲き、夏にはユウスゲという黄色い花が咲くこの場所は、5月から9月にかけて海に沈む夕日が楽しめるそうで「日本の夕陽百選」に認定されているという。

岡見公園 波

一見穏やかそうな海に見えるのだが、北風の影響で冬の波は結構荒く、公園の西側は柱状節理の岩に波が激しくぶち当たって海面は真っ白だ。白い波の表面にやや茶色く浮いている泡状のものはプランクトンの塊で、北風と波が強い日は「波の花」となって舞い上がることがあるのだそうだ。

宿をチェックアウトして主人に教えて頂いた「かに市場」に行くと、主人が根回ししてくれたおかげで随分安く海産物が買えて大満足だった。

香住町を後にして、但馬妙見山に向かう。
この山の標高800mのところに朱塗りの美しい三重塔があることをネットで知った。
多宝塔、三重塔、あるいは五重塔と言えばお寺にあるものと日本人ならほとんどの人が思うだろう。しかし、但馬妙見山にある三重塔は「名草神社」という神社の境内にあるのだ。
その歴史を調べている際に興味を覚えて、是非今回の旅行で訪れたいと思っていた場所である。

日光院1

名草神社に行く途中で、養父市八鹿町(やぶしようかまち)石原にある「日光院」というお寺を先に訪ねてみた。そこに、三重塔の由来を知る鍵があるという。上の画像が、日光院の門である。

日光院2

階段を上り境内に足を踏み入れると、見事なケヤキや銀杏の巨木が伸びて樹木の霊気を感じさせるような空間が広がる。お寺でありながら、境内の中に大きな鳥居があり、独特な雰囲気がある。
境内の中に案内看板があった。それによると、この寺は飛鳥時代に開かれて、御本尊は「妙見大菩薩」で万物の運勢を司る仏様なのだそうだ。
日本三妙見の一つとされて人々の信仰を集め、戦国時代には山名宗全がこの日光院で戦勝祈願をした古文書が残されており、県の重要文化財に指定されていると書かれている。

ここから三重塔に関する記述となる。「ご案内」看板の説明文をしばし引用する。

「天正年間、羽柴秀長の山陰攻めの兵火にあい、寺門一時衰微しましたが、寛永九年には、ここから西方五十丁の妙見中腹に移転復興し、三代将軍家光公より三〇石の御朱印地を賜りました。また、寛文五年には出雲大社の御造営に際し、本殿の御用材に日光院の妙見杉をお譲りしたお礼に、出雲大社より日光院に三重塔を譲り受けました。そして妙見全山を伽藍とする壮大な妙見信仰の一大霊場として繁栄をきわめました。
明治になり廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、妙見信仰の弾圧が始まりました。明治九年七月八日、遂に『寺号を廃して、不動産のみ名草神社とせよ』という布達にて、再びこの地の末寺成就院と合流し、今日に至っています。
つまり、寛永九年*から明治九年*まで(二四五年間)の日光院の建物に、新たに名草神社が入り、お寺の建物がそのまま神社とされたのです。
そこが日光院であったが故に、仏教の象徴である三重塔が名草神社の境内に存在しているのです。…」*寛永九年=西暦1632年、明治九年=西暦1876年

と、今の名草神社の建物は、もともとはすべて日光院が所有していたものであり、明治9年の布達で名草神社の所有とされてしまった。今の日光院は、それまで同院の末寺であった成就院に移したものであることが記されている。

日光院3

上の画像が日光院の護摩堂だが、ここで妙見大菩薩の法灯が今も守られているのだ。
正面の扁額には「妙見大菩薩」と書かれており、左の扁額には「妙見宮」と書かれている。
「宮」というと神社のようなイメージがあるが、「妙見大菩薩」を本尊としていた霊場はすべて「妙見宮」と呼ばれていたのだそうだ。したがって、この扁額の「妙見宮」は日光院を意味している。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page014.html

日光院の駐車場の横に『妙見資料宝物館』があり、その経緯についての資料が展示されているが、日光院のHPにも詳しく書かれており参考になる。次のURLはその目次だ。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page008.html

上記HPを読んでいくと、出雲大社側の『寛文御造営日記』という文書に但馬の妙見山日光院に移したことが記されていることがわかる。この出雲大社の古文書には、どこにも「名草神社」の名前が出てこないことが最大のポイントである。当時は「名草神社」という名の神社は但馬妙見山に存在せず、この神社は明治時代に作られたと考えて良い。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page009.html

kituki_kaneis.jpg

そもそもなぜ出雲大社に仏教施設である三重塔があったのかと不思議に思ったのだが、次のURLに江戸時代寛永期の出雲大社の図絵が紹介されている。この図にははっきりと三重塔や鐘楼などが描かれている。昔は出雲大社までもが神仏混淆であったとは知らなかった。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/myoken42.htm

出雲大社から仏教的色彩が払拭されたのは寛文御造営の時で、第六八代国造尊光がその決断を下し、日光院に三重塔を移したほか、様々な寺院に建物や仏像などが移された記録が出雲大社に残されているようだ。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page009.html

出雲大社の『寛文御造営日記』の原文は、先ほど紹介したURLで一部が紹介されている。
これを読めば日光院の説明に誤りのない事が明らかである。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/myoken42.htm

出雲大社が御造営のための木材の入手に難渋していたところ、寛文三年(1663)十二月に妙見山に適材を発見し、用材を日光院から譲渡を受けたいとの申し入れがあった。翌年、日光院は出雲大社を訪れ、日光院には塔を建立する計画があるので、出雲大社に譲渡する材木代金は塔の建築費用に充当する考えであるが、もし出雲大社の三重塔を破却する予定であるならば日光院が譲り受けたい。それがかなうならば材木は出雲大社に進上するとの考えを述べる。その後、出雲大社が塔の譲渡を決定して、当時の日光院隠居(快遍)が大悦したことまでが書かれている。
そして
「寛文5年正月23日 但州妙見より塔こわしのため日光院代僧法住坊、並に八鹿村西村新右エ門、大工与三エ門来る。
27日 三重塔今日迄に崩済申候此塔は大永7年<1527>尼子経久建立也」
「寛文5年4月21日…塔之儀豊岡より妙見山迄人夫3500人而持着申之由、9月中に立仕舞可申之申云々…」
と塔移転の準備が進んで行ったことが詳細に書かれている。このように、三重塔が日光院のものであることは当時の史料を読めば誰でもわかる。

しかしながら、明治政府は明治5年の上知令で日光院の寺有地であった妙見山全てを没収し、明治6年2月に「妙見宮」を「名草神社」に改称させ、妙見信仰とは無縁の「名草彦命」を祀らせ、明治9年7月には、豊岡縣が「寺号を廃し、同寺が所有してきた不動産のみを明け渡す」との布達を出した。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page006.html

但馬妙見信仰の存続の危機に諸国の信者たち数百人が集まり、仏像や経典などの寺宝を末寺の成就院(今の日光院のある場所)に運び込み、それまで日光院のあった場所には鐘楼以外の建物のみを残し、末寺と合流することでなんとか妙見信仰は守られたのである。
後に日光院は明治政府を相手とする行政訴訟をおこし、明治39年にようやく勝訴して但馬妙見山の山林全てを取り戻したという。

続けて日光院から名草神社に進む。かなり狭い山道を走ることになるが、ほとんど対向車はなく10分程度で神社の駐車場に到着した。

名草神社三重塔

車から降りてしばらく細い参道を歩いていくと美しい三重塔が見えてきた。
この三重塔は国の重要文化財に指定されていて、昭和62年10月に解体修理が完成した際に塗り替えられたために朱色がとても鮮やかだ。

この三重塔の近くに八鹿町教育委員会が建てた案内板がある。そこにはこう書かれている。
「この三重塔は、島根県出雲大社に出雲国主尼子経久(あまこつねひさ)が願主となって大永七年(一五二七)六月十五日に建立したものと伝えます。
出雲大社の本殿の柱に妙見杉を提供した縁で、塔は日本海を船で運ばれ、寛文五年(一六五五)9月に標高八〇〇mのこの地に移築されました。…」
と、塔を主語にした曖昧な書き方で、肝心の日光院のことがどこにも書かれていない。この説明であれば、名草神社が妙見杉を提供した縁で出雲大社から名草神社にこの塔が移築されたとしか読めないだろうし、なぜ神社の境内の中に塔が存在するのかということも、誰も分らないであろう。

名草神社拝殿

階段を上っていくと、国指定重要文化財の拝殿が見えてくる。色鮮やかで素晴らしい枝ぶりの楓の紅葉にしばし足を止めた。

この拝殿には兵庫県教育委員会の案内板があった。そこには
「…江戸時代中期の代表的な割拝殿として貴重な遺構である。」
と書かれており、ここでもはじめから神社として建てられたかのような書き方をして、以前は日光院の建物であったことを隠している。

名草神社本殿

拝殿を抜けると名草神社の本殿がある。これも国の重要文化財に指定されているのだが、残念なことにかなり屋根が破損している。いつ傷んだのかはよく解らないが、長く放置しては木の腐食が進みはしないか。

名草神社本殿彫刻

近くから見ると、柱の彫刻は素晴らしいものがある。獅子や龍や鳳凰や力童子などが極めて精巧に彫られている。この本殿がこれ以上傷まないように、ぜひ修理してほしいものである。

名草神社本殿破損

この本殿にも兵庫県教育委員会の案内板があった。
「…本殿は宝暦4年(1754)に造られた大規模な建築で…平面は内々陣・内陣・外陣の3区に分かれその周囲に庇がめぐるもので、江戸時代の神仏習合の神社建築として特筆される。」
と、ここでも建物を主語にして肝心なことを誤魔化しているのだが、もともとは日光院の建物であったことを一言も書かなくては、ここへ来た観光客はこの建物は初めから名草神社の本殿として建てられたものとしか思わないだろう。そもそもこの本殿の棟札には「宝暦四年 日光院現住職宝潤」と日光院第四十世の名が刻まれているというのだ。
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page006.html

このブログで何度か明治の初めに起こった廃仏毀釈の事を書いてきた。廃仏毀釈のために廃寺となった大寺院は少なくないし、奈良の東大寺や法隆寺、興福寺、金峯山寺、京都の東本願寺なども大変な苦労をして、その難を乗り越えている。また奈良の談山神社、京都の石清水八幡宮、八坂神社、鎌倉の鶴岡八幡宮、香川の金刀比羅宮などは以前は神仏習合の寺院であったが、この時期に無理やり神社にさせられてしまった。私のブログの廃仏毀釈に関する記事は、ほとんどここに置いてあるので、興味のある方は覗いてみてほしい。
http://history.blogmura.com/tb_entry101772.html

話を名草神社に戻そう。私が訪れたのは土曜日の11時ごろであったが、観光客は私を含めて数人しかいなかった。歴史的建造物のある空間を独占できることは個人的には嬉しい事なのだが、なぜ国の重要文化財の建物が3つもある場所であるにもかかわらず観光客がこんなにも少ないのだろうか。
重要文化財の修理には安普請は許されず、宮大工を使い用材も従来と同様のものを使い、従来工法で修理を行うので結構な費用がかかることになる。また、その修理に必要な資金は国がすべてを負担してくれるのではなく、2割以上は神社が信者の寄付を募るなどして用意しなければならないはずだ。秋の季節の良い時期であるのにこのように少ない観光客で、これだけの文化財の価値を、将来にわたって減じることなく維持管理ができるのだろかと心配になってくる。

名草神社拝殿2

都心から遠いとか、道が狭いとかいろいろ理由があるだろうが、古い歴史があり価値のある建築物がありながら観光客が集まらないのは、長い間真実の歴史を隠す側にまわってきた兵庫県や八鹿町にも責任があるのではないか。
いつの時代も「権力者側にとって都合の悪い史実」は歴史叙述から排除される傾向にあるものだが、「廃仏毀釈」に関しては明治から昭和の初期頃までは「権力者側にとって都合の悪い史実」であったとしても、少なくとも今のわが国の権力者にとっては決して都合の悪い史実ではない。むしろ、「隠された興味深い真実」であり、江戸時代から明治時代を考える上で興味を覚える人は少なからずいると思うのだ。

単に重要文化財の歴史的建造物を見るだけなら、こんな遠くまでわざわざ足を運ばなくとも京都や奈良にいくらでもある。それでも私がここを訪れようと思ったのは、その真実の歴史に触れて強く興味を覚え、このドラマのような出来事のあった現場に立って、古き時代に思いを寄せてみたいという衝動が湧いたからである。
名草神社も兵庫県も八鹿町も、そろそろ明治期の権力者にとっての「きれいごとの歴史」から脱して、出雲大社との関係や廃仏毀釈に関わる興味深い歴史の真実を語る立場から、日光院とともに観光客の誘致に取り組んでみてはどうだろうか。
名草神社も日光院も、何も知らずに訪れてはそれほど面白いところではない。しかし、真実の歴史を知れば知るほど旅行することが楽しくなる、そんな場所である。
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「天空の城」竹田城を訪ねて~~香住カニ旅行3

但馬妙見山の三重塔を見た後、途中で昼食をとり、次の目的地の竹田城に向かう。

竹田城は国の史跡に指定され日本百名城の一つにも選ばれているのだが、石垣しか残されていないのでそれほど観光客が多いとは思っていなかったのが甘かった。

takeda_map_one.jpg

到着すると駐車場待ちの車が延々と続いていて、駐車場待ちが50分と言われ、ここから山頂の竹田城までは2.6kmもあるという。車の列の先頭は500メートルほど先の「山城の郷」で、そこからは道路が狭くなるので車は一方通行となっていて、山の中腹にある2つの駐車場に空きが出来たとの連絡により1台ずつ通行が許可されるそうなのだが、50分待って1.9km先の駐車場に着いてからも、さらに目的地まで700mを歩いて15分はかかるということなので、しかたなく路上に車を置いて歩いて登ることにした。
上の地図は朝来市のHPにあるものだがこれを印刷して旅行に持っていけばよかった。今から思えば右折して「山城の郷」の駐車場に入れておけば、少しは時間短縮が出来たと思う。
http://www.city.asago.hyogo.jp/0000001685.html

竹田城~3

竹田城は、ネットでこのような雲の上に浮かぶ石垣の写真が紹介されていて、ずっと以前から行ってみたいと思っていた。
秋から冬にかけての良く晴れた早朝に、円山川から朝霧が立ち上って石垣の周りを包み込み、天空に浮かぶ城のような幻想的な風景を見ることが出来る日があるようで、次のURLには竹田城の素晴らしい写真がいくつも紹介されている。
http://www.castlefan.com/data01/takeda/

こんな幻想的な景色は誰でも見たいし写真にも撮りたいと思うところだが、次のサイトによると、いい写真を撮るためには夜明け3時間前からベストスポットに陣取ることが必要だと書かれているのに驚いた。
雲海シーズンの祝祭日の早朝は、それぐらいの時間に行かなければ駐車場が空いていない可能性があるらしいのだが、その時間帯であれば当然のことながらあたりは真っ暗で、懐中電灯は勿論、防寒着も必要だ。この方のサイトはベストアングルからトイレの場所まで懇切丁寧に書かれていて、いい写真を撮るための情報が満載だ。
http://www.shirofan.com/shiro/kinki/takeda/unkai.html

こんな昼過ぎの時間に訪れたのでは、雲海を見ることはとても叶わないことは判っていたが、これだけ歩くことになることは完全に計算外だった。昼食を済ませたばかりの体は随分重たく、アスファルトの坂道の2.6kmは結構厳しかった。

ここで案内板やWikipedia等の記事を参考に、簡単に竹田城の歴史を振り返っておこう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E7%94%B0%E5%9F%8E

あまり古い記録は残っていないようなのだが、江戸時代末期に書かれた『和田上道氏日記』には、嘉吉年間(1441~1443年)に丹波国、播磨国の出入口である竹田の地に「安井ノ城」が築かれたことを記されているが、この「安井ノ城」が「竹田城」のことなのだそうだ。
他には史料はなく、永享3年(1431)但馬国守護山名宗全によって築城され、太田垣光景が初代城主と言われる伝承が残っているという。
築城当時の城には石垣はなく曲輪を連ねただけのものだったようだが、永禄12年(1569)に木下藤吉郎秀吉(後の豊臣秀吉)が但馬に攻め入り竹田城を攻略し、天正5年(1577)に再び秀吉軍の攻撃を受けて竹田城は落城したとの記録がある。この戦いにおける秀吉軍の狙いは、但馬諸将の制圧と、生野銀山の確保であったと言われている。当時生野銀山は、竹田城が管轄していたのだそうだ。

『武功夜話』という書物には
「太田垣土佐守高所に城を築き立ち向かい候。御大将羽柴小一郎殿人馬の息を休めず逃集の一揆輩悉く切り崩し追い打ち在々に火を放ち竹田の城に寄せ懸かり候ところ、高山険阻に拠り岩石を投げ落とし手向かい候。寄せ手の面々物とも為さず山谷を打越え諸手より鉄砲三百挺筒先を相揃え打ち入り候えば、遂に叶わず降参、城を相渡し退き候なり」

また『信長公記』には
「直に但馬国へ相働き、先山口岩州の城を落城し、此競に小田垣楯籠る竹田へ取懸り、是又退散、則、普請申付け、木下小一郎城代として入れ置かれ候キ」
とあり、落城後直ちに秀吉は城内の整備を申付け、弟の羽柴秀長を竹田城の城代としたことが書かれている。
天正8年(1580)には桑山重晴が城主となり、天正13年(1585)には四国征伐で戦功のあった赤松広秀を竹田城主に入れている。竹田城が現存の完成された城郭に整備されたのは、この頃のことと推定されているようだ。

最後の城主である赤松広秀は関ヶ原の役で西軍に属し、関ケ原敗北以後は徳川方として鳥取城を攻め戦功をあげたが、通説では城下に火を放ったことで徳川家康の忌避に触れ、家康に慶長5年(1600)10月28日に鳥取真教寺にて切腹を命じられたとされている。そして、家康はこの竹田城を廃城にしてしまっている。

ところで、家康が赤松広秀に切腹を命じたのは、生野銀山を手に入れるためであったという説があるのだが、私には通説よりもこの説のほうが正しいと思う。先ほども書いたように、当時生野銀山は竹田城の管轄にあった。家康は関ヶ原の戦いの後に篠山城を築いて譜代の松平康重を置き、生野銀山には但馬金銀山奉行を設置して、佐渡金山・石見銀山とならぶ天領とし、幕府の重要な財源としたのである。家康にとっては、赤松広秀を切腹させる理由は何でも良かったのではないのか。

竹田城1

竹田城の石垣の集積は8649㎡。石積みは「穴太(あのう)積み技法」が用いられているという。
「穴太積み」というのは、「穴太衆(あのうしゅう)」と呼ばれる石工集団が積んだ石垣を言うそうだが、穴太衆の出身地は比叡山の山麓にある穴太(滋賀県大津市坂本穴太)で、古墳製造などを行なってきた石工の末裔だと言われている。
昔は寺院などの石工を任されていたが、戦国時代に織田信長や豊臣秀吉が城郭の石垣構築に携わるようになってから、全国の藩に召し抱えられ、彼らの指揮によって各地で石垣造りの城が築かれたと言われている。

竹田城2

形が違う自然石を加工せずにバランスよく積み重ねて、これだけの高さの石垣を造ったという事だけでも凄い事なのだが、四百年以上の長きにわたり地震や風雨などにさらされながらも、今もその形が崩れていないというのは大変な技術である。
次のURLではコンクリートで固めた擁壁が破壊されてしまっているが、このように水圧や土圧に耐え切れなくなって、亀裂の入った擁壁を見ることは決して珍しい事ではない。
http://iisee.kenken.go.jp/staff/tamura/work/break/03walldamage/damage_jp.html
一方、穴太積みの石垣は排水効率が良く、水圧や土圧による破壊を巧くかわすことが出来る。

高度成長期以降わが国で多くの土木工事がなされてはきたが、これから400年以上その価値を失わず、実用に耐える状態で残されるものがどれだけあるのだろうか。
土木工事だけではなく一般建築物についても同様のことが言える。最近建てられた建物で何百年も使われて、将来国宝や重要文化財に指定されるようなものがどこにあるのだろうかと言いたい。
税金でコンクリートの箱モノばかりを建てるのではなく、伝統工法を用いて数百年後にも評価されるようなものもある程度作るべきではないか。あるいは文化財の修復にもっと力を入れて、歴史的風土の保全に力を入れるべきではないのか。そうしなければ、千年以上かけて蓄積されてきたわが国の伝統的な建築技術が途絶えてしまい、わが国の文化価値や観光価値の多くを失ってしまうことを危惧している。官僚の天下りポストのために、コンクリートの箱モノを造ることはそろそろ打ち止めにしてほしいものだ。

竹田城図面

あれこれ考えているうちに、ようやく竹田城址に到着した。
竹田城址の縄張りの規模は南北400m、東西100mにも及び、完存する石垣遺構としては全国屈指のものだという。良くこんなものを山上に築いたものだ。

竹田城3

大手門から三の丸、二の丸と進む。上の画像は二の丸から見た南千畳方面を撮ったものである。

竹田城4

天守台の石垣の高さは10.6m。この高さに立つと素晴らしい眺めなのだが、あまり石垣にに寄りすぎると怖くて足がすくんでしまうほどだ。上の画像は天守台からの眺めだが、さすがに天守台から下を覗きこむような人は誰もいなかった。

往復の時間に予定以上にかかってしまったので、次の観光予定先を取りやめることにして、「山城の郷」でしばらく休息をとる。

せっかく但馬牛の本場に来たので、帰る途中で3年前に会社の同僚から教えてもらった和田山の「太田家」に立ち寄ることにしていた。グループで牧場を経営しておられる肉屋さんはこの近くに他にもいくつかあるのだろうが、ここしか知らないので今度も来てしまった。ここでは普通の価格で高い品質の牛肉が味わえるのでお勧めだ。

Wikipediaによると但馬牛は明治44年(1911)以降外国種の血統の入った牛が排除され、他地域の品種との交配も行われず、限られた雄牛の精子のみを受精させることで改良がなされてきたそうだ。但馬牛からとれる牛肉は肉質が良く、松坂牛や近江牛などのブランド牛の素牛となっていて、前沢牛、仙台牛、飛騨牛や佐賀牛なども但馬牛の血統を入れて品種改良が行なわれているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%86%E9%A6%AC%E7%89%9B

予定以上に歩いたのでちょっと疲れたが、天気も悪くなかったし、ずっと前から行きたかった但馬妙見山と竹田城に行くことができたし、丹波の紅葉も楽しむことができて有意義な旅行だった。
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紅葉の名所・養父神社と香住の帝釈寺を訪ねて

聖徳太子や恵便にゆかりのある寺を訪れたのち、兵庫県養父市にある養父(やぶ)神社に向かう。
養父神社は但馬では粟鹿(あわが)神社、出石(いずし)神社と並ぶ古社で、平安時代の延長5年(927)にまとめられた『延喜式』神名帳には名神(みょうじん)大社「夜夫坐(やぶにいます)神社」と書かれているそうだ。
名神というのは、神々の中で特に古来より霊験が著しいとされる神に対する称号で、『延喜式』「神名帳」には日本全国で226社313座が記されておりWikipediaにそのリストが出ていて、但馬国に「夜夫坐神社」の名を見つけることが出来る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E7%A5%9E%E5%A4%A7%E7%A4%BE

養父神社本殿

養父神社の歴史はかなり古く、『正倉院文書』の天平9年(737)但馬国正税帳に名前が出ているのでそれよりも古いことはわかっているのだが、いつごろ創られた神社なのか。
社伝によると第10代天皇である崇神天皇13年の創祀とあるのだが、崇神天皇は学術上、3世紀から4世紀の初めにかけて実在していた可能性が高い天皇であると言われており、神武天皇と同一人物ではないかという説が有力なのだそうだ。社伝が正しいとすれば1700年近い歴史がある神社ということになる。

一方、養父神社から近い養父町大藪には兵庫県下でも代表的な禁裡塚古墳など4基の巨大横穴式石室古墳と、多数の小規模古墳(大藪古墳群)が群在している。考古学の調査から、本古墳群は6世紀後半に築造が開始され、7世紀半ばまでに築かれたものであることが分かっているという。そのことから、6世紀後半以降に養父地域で養父氏(但馬氏)が夜夫坐神を祀り、大藪古墳群を残したという説もある。その説だとこの神社の歴史は1500年近いということになる。ネットで「但馬歴史文化研究書」の「但馬古代の地名」という論文が公開されている。
http://rekibuntajima.web.fc2.com/PDF/chimei.pdf

img520494f68206b.jpg

古い社寺には紅葉の美しいところが多いのだが、この養父神社も但馬地方では紅葉の名所として有名な場所だ。訪れた日はちょうど「やぶ紅葉まつり」の期間中であったが、うまい具合に駐車場が空いて、待ち時間なく楽しむことができた。

養父神社紅葉1

朱塗りの橋と本殿の近くに枝ぶりが良く色鮮やかな楓の木が数多くあって、素晴らしい紅葉を見ることが出来た。
何枚か写真を撮ったが、観光客が多いとシャッターを押すタイミングがなかなか難しい。
下から紅葉と橋を狙ったほうがいい写真が撮れたかもしれない。

養父神社紅葉3

先ほど養父神社の近くに古墳が多いことを書いたが、いろいろ調べると兵庫県は日本で一番古墳が多い県なのだそうだ。しかも但馬地方にかなり集中している

nantanmap.jpg

養父神社よりももう少し南の朝来市和田山町には5世紀前葉に築造された近畿地方最大規模の円墳である「茶すり山古墳」(直径90メートル)があり、また5世紀半ばに築造された兵庫県下で4番目に大きい池田古墳(全長170メートル)などがある。かつて但馬地方に強い政治勢力が存在したことは確実なのだ

ではこれらの古墳を築造した政治勢力とはどのようなものであったのか。

古代あさご館

翌日立ち寄った道の駅『但馬のまほろば』の敷地内にある『古代あさご館(朝来市埋蔵文化財センター)』の解説では、3世紀後半に但馬地区で、大和の大王と手を結んで力をつけた「但馬王」が誕生し、武力を背景に但馬地域を治めたのだが、大和朝廷は但馬王の影響力を削ぐために、但馬王の下の豪族とのつながりを強めて、武器を送り、寺院を築かせていったという趣旨のことが書かれていた。

ひょっとすると但馬王と何らかの関係があるのではないかと気になっているのが、『日本書紀』巻第六に記されている、垂仁天皇の時代に新羅の王子が但馬の地に移り住んだ天日槍(あめのひほこ)の話。『古事記』『播磨国風土記』などにも天日槍の記述があり、新羅の王子が渡来して、一族郎党とともにこの但馬に移り住んだというようなことが、実際にあったのではなかったか。

『日本書紀』の該当部分の翻訳文を紹介しておこう。
「(垂仁天皇)三年春三月、新羅の王の子、天日槍(あめのひほこ)がきた。持ってきたのは、羽太の玉一つ・足高の玉一つ、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉一つ(赤く輝く石の玉の意か)・出石の小刀一つ・出石の鉾一つ(出石は但馬の国)・日鏡一つ・熊の神籬一具(ひもろぎひとそなえ)、合わせて七点あった。それを但馬の国におさめて神宝とした。
一説には、初め天日槍は、船に乗って播磨国に来て宍粟邑(しそうむら)にいた。天皇が三輪君の祖の大友主と、倭直(やまとのあたい)の祖の長尾市(ながおち)とを遣わして、天日槍に『お前は誰か。また何れの国の人か』と尋ねられた。天日槍は『手前は新羅の国の王の子です。日本の国に聖王がおられると聞いて、自分の国を弟知古(ちこ)に授けてやってきました』という。そして奉ったのは、葉細の珠、足高の珠、鵜鹿鹿の赤石の珠…(略)…合わせて八種類である。天皇は天日槍に詔して、『播磨国の宍粟邑と、淡路島の出浅邑の二つに、汝の心のままに住みなさい』といわれた。天日槍は申し上げるのに『私の住む所は、もし私の望みを許して頂けるのなら、自ら諸国を巡り歩いて、私の心に適った所を選ばせて頂きたい』と言った。お許しがあった。そこで天日槍は宇治河を遡って、近江国の吾名邑(あなむら)に入ってしばらく住んだ。近江からまた若狭国を経て、但馬国に至り居所を定めた。…天日槍は但馬国の出石の人、太耳(ふとみみ)の娘麻多烏(またお)をめとって、但馬諸助(もろすく)を生んだ。諸助は但馬日楢杵(ひならき)を生んだ。日楢杵は清彦を生んだ。清彦は田道間守(たじまもり)を生んだ。」(講談社学術文庫『全現代語訳日本書紀(上)p.137-138』)

面白いことに、天日槍が一時住んだ近江国も若狭国もまた但馬国も鉄の産地なのだという。
http://www6.ocn.ne.jp/~kiyond/hiboko.html
また、但馬国一の宮である出石神社の主祭神がこの天日槍で、養父神社の祭神の五座のうちの一つが大己貴命すなわち「オオクニヌシノミコト」だという。
そして『播磨国風土記』では天日槍命は、オオクニヌシノミコトと土地を奪い合った神として描かれているというのが面白い。
http://koujiyama.at.webry.info/201007/article_17.html

養父神社の鮮やかな紅葉を見た後は、宿泊先の香住に向かう。
民宿の近くに帝釈寺(たいしゃくじ)という古そうな寺院があったので立ち寄ってみると、案内を読んで、ここにも聖徳太子が出てくるのに驚いた。案内板にはこう書かれていた。

帝釈寺

この寺の、本尊帝釈天は聖徳太子が自らお刻みになった尊像ですが、仏教排斥派により難波の海(大阪湾)に投げ込まれたものが白鳳4年(676)年に下浜枕ノ崎に漂着しました。地元の漁夫が救いあげ一堂を建立して安置して信仰をしました。午歳(うまのとし)のみに(12年目)開扉される秘仏として伝えられています。
その後、大宝2年(702)に法相宗の開祖道照上人がこの地に来られ、自ら一刀三礼の厄除聖観音菩薩像(国指定重要文化財)をお刻みになり帝釈天の脇仏としてお祀りになり一大道場を建立されたのがこの寺の創建とされています。室町初期には七堂伽藍を完備し一山寺院三十三坊を有する名刹となり隆盛をきわめたといわれています。…」

そもそも大阪湾に捨てられた仏像が日本海に漂着するはずがないし、捨てられた仏像をみて聖徳太子の制作によるものだと判断できるはずがないのだが、そういう伝承を残しながらも価値ある仏像を護持してきた歴史のある寺がこの香住にあるということに非常に興味を持った。

拝観には事前の予約が必要なので中に入ることは諦めたが、香美町のホームページに国重文の木造聖観音立像の写真と、県重文の木造帝釈天倚像の写真がでている。

http://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1264032293716/index.html
http://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1264036103392/index.html

香美町教育委員会の解説によれば国重文の木造聖観音立像は平安時代のものとされており、大宝2年(702)に法相宗の開祖道照上人が刻んだ伝承も実際は怪しいのだが、こんなに古くて貴重な仏像がこの寺に残されていることには驚かざるを得ない。
またこの寺院の庭園は香美町の指定文化財で、江戸時代初期の枯山水の名庭なのだそうだ。
http://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1267663758384/index.html

さらに帝釈寺には、文書にも貴重なものが残されている。
弘安8年(1285) 但馬国守護太田政頼は、蒙古襲来直後の軍事的目的で幕府に報告するために『但馬国大田文(おおたぶみ)』を帝釈寺の僧侶尊阿(そんあ)に書かせたのだそうだ。
帝釈寺にその写本が残っていてそこには13世紀ごろの但馬を知る貴重な史料になっているという。

帝釈寺本堂jpg

このような貴重な文化財が、わが国の中心地から離れた香住のお寺に残されているのは意外であった。
翻って今のわが国で、千年以上たってその価値が評価されるような建物や芸術品をどれだけ制作しているのか、と考えさせられてしまう。地方都市をドライブすると、コンクリートのバカでかい店舗と看板にうんざりさせられることが多い。
田園や古民家のある風景が破壊されて地域の魅力を台なしにするような開発を続けられては、古い社寺は残っても観光地としての魅力が失われていくばかりではないか。

ところで私は毎年この季節に紅葉を楽しんだあとで、解禁になった日本海のカニを食べることを楽しみにしている。
数年前に越前ガニを食べに行くつもりで有名なホテルに宿泊した時に、カニの産地を聞くとオホーツク海だと聞いてがっかりしたことがある。その時に、いくら都会人が地方の観光地を旅行しても、パックツアーでは地元の人々はほとんど潤わないことを直感した。

以前は大手旅行会社のバスツアーを良く申し込んでいたのだが、都会資本のホテルで宿泊し、ホテルの売店で買い物をし、観光地から随分離れたドライブインでみやげものをまとめ買いしてしまっては、観光地の地元の人々の収入になるものはわずかでしかないはずだ。
ホテルによっては重要な食材を地元で調達するとはかぎらないので、旅行者が払う旅行代金の大半は旅行業者やホテルが吸い上げて、純利益は地元の人々にではなく旅行会社やホテルの本社のある都市に蓄積されてしまうことになってしまう。
昔は、観光地の宿泊施設は施設の売店で多くの商品を置くことを控えていて、観光客は地元の土産物屋で多くの買い物をすることによって、その店で売る商品の生産・流通にかかわる地元の多くの人々が潤っていたのだが、今は多くの観光地で宿泊施設と地元との共存共栄の関係が崩れてしまっている。そもそも観光地の地元の人々が潤わずして、どうして観光地の歴史的文化や風土を守ることができようか。

そう考えるようになって、ここ数年の旅行は自分の車で好きな所を回り、なるべく地元の方が経営しておられるお店で食事や買い物をし、宿泊先も地元で獲れた海産物や農産物で調理する民宿や旅館などを事前に自分で探すことにしている。旅行する以上は、できるかぎり観光地の地元で頑張っているお店や企業にお金を払いたいからだ。

夕食2

宿泊先は地元の民宿で、夕食はもちろん松葉カニのフルコース。地元で食べるカニは身がしまり、味噌がたくさん詰まっていて、都会で手に入るカニとは全然違う。カニは、漁場に近い場所で、地場のカニを食べるのが最高だ。
この日は、聖徳太子や恵便にゆかりのある寺院や養父神社などを巡り、また大好きなカニを腹いっぱい食べることが出来て大満足だった。
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但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて

さて、旅行の2日目に入るが、朝一番に向かったのは兵庫県豊岡市但東町にある但馬安国寺。紅葉の名所なので朝一番に向かったのだが、すでに大勢の観光客が来ていた。

安国寺2

「安国寺」というと、南北朝時代に足利尊氏・直義兄弟が京都天龍寺の夢窓疎石の勧めにより、後醍醐天皇をはじめとする南朝の戦没者の菩提を弔うために各地に建てたと伝えられ、この但馬安国寺も全国に68ある安国寺のうちのひとつなのだが、いろいろ調べるとそれらの寺をすべて新たに建てたわけではなく、一部は既存の寺院を改称したケースも多いらしい。
この寺は鎌倉時代後期に無本覚心(法灯国師)による開山といわれ、貞和元年(1345年)に「安国寺」と改称されたものだという。

その頃の境内は現在地より南方三百メートルのところにあり、寺伝によると足利幕府より朱印と三百石余の禄が与えられ、七堂伽藍を有した大寺院だったそうだが、享保2年(1717)に火災ですべてを焼失してしまったという。
その後現在地に近い山地に草庵が建てられて、出石宗鏡寺の末寺になったというが、その後も何度か火災に遭い、現在の本堂は明治37年(1904)に落慶した建物なのだそうだ。

思ったよりも本堂は小さくて、これといった文化財は残されていないのだが、毎年紅葉の時期になるとテレビによく報道される寺であることをご存知の方も多いのではないだろうか。

安国寺の裏庭は狭く、斜面にドウダンツツジが流れるように植えられているだけなのだが、11月の半ばには真赤に色づいて、本堂の座敷の障子越しに見る紅葉が額縁の絵のようになる。

安国寺

この写真を観光客の誰もが撮れるように、裏庭のツツジの近くには観光客が近寄れないようにロープが張ってあって、本堂には観光客を数十人ずつ順番に誘導し、座敷で紅葉の写真を存分に撮影させた後、本堂から出て頂いて座敷が無人となる状態をつくる。そこで次のグループが本堂の外から座敷の障子越しに見るドウダンツツジの写真を撮影し、それから本堂に招き入れられる…。そのようにして手際よく観光客を回転させていた。

本堂を出て外に廻って、庭の斜面を彩っているドウダンツツジを見てもそれなりに美しいものなのだが、やはり障子越しで見るのが一番良い。

安国寺つつじ2

庭はこのドウダンツツジがなければただ斜面があるだけのことなのだが、この狭い空間を見事に活かしていることに感心してしまう。

このドウダンツツジは現在の本堂が建てられた際に裏庭に植えられたのだそうだ。とすると樹齢はおそらく110年程度だということになるが、文化財をほとんど焼失してしまったにもかかわらず斜面にドウダンツツジを植えたことで、今ではこの寺に全国から観光客が訪れるようになり、結構な町おこしになっている。
地元の方がテントを張って地元の農産物などを販売しておられたので、椎茸と銀杏を買って帰った。採れて間もない椎茸なのだろう、ずっしりと重くて肉厚で、帰宅後食べたらとても旨かった。

次の目的地に向かう途中の朝来市和田山町で車を停めて『はっかく亭』で昼食をとる。 ここで休息をとったのは、せっかく但馬に来たのだから、新鮮な野菜と少しばかり但馬牛を買い込んで帰りたかったからだ。隣に新鮮野菜の産直店があり、向かいに但馬牛の『太田家』がある。

太田家

グループで牧場を経営しておられる肉屋さんはこの近くに他にもいくつかあるのだろうが、数年前に会社の同僚から教えてもらった『太田家』しか知らないので今年もまた来てしまった。ここでは柔らかくておいしい肉が安く買えるのでお勧めだ。

買い物を済ませてから次の目的地である丹波市柏原(かいばら)町の柏原八幡神社に向かう。

柏原八幡鳥居

この神社は、平安時代の万寿元年(1024) に京都の石清水(いわしみず)八幡宮の分霊を祀った柏原別宮として創建されたのち、貞和元年(1345)の南北朝時代の争乱により社殿が焼失。間もなく再建されたが戦国時代の明智光秀の丹波攻めの兵火でふたたび焼失し、その後羽柴秀吉が黒井城主の堀尾吉晴に社殿の造営を命じて天正13年(1585)に現在の社殿(国重文)が竣工している。

柏原八幡本殿

社殿の前に立つ狛犬は柏原出身の石工・村上照信により文久元年(1861)に制作され、佐吉の傑作だとされているそうだ。次のURLに様々な角度からの狛犬の画像があるが、よく見るとなかなか迫力のある狛犬である。
http://www.228400.com/tatsumi/tanbasakichi/sakichi/sakichi-11.html

この神社の魅力は何と言っても素晴らしい三重塔(県指定文化財)。ここでは神社の象徴的建造物である鳥居や本殿の背後に、仏教の象徴的建造物である三重塔が聳えるという、珍しい光景を見ることが出来る。

柏原八幡神社三重塔

昔はこのような光景を各地で見ることが出来たと思うのだが、明治初期の廃仏毀釈で全国の神仏習合的な施設のうち仏教施設が徹底的に破壊されてしまった。
以前このブログでも書いたが、この柏原八幡宮の本家である京都の石清水八幡宮はもともとはお寺であり、「男山四十八坊」と言われるように石清水八幡宮護国寺を中心とした多くの仏教施設があったのだが、明治元年の廃仏令で僧侶は還俗させられ俗人となり、法施や読経を禁じられ、堂宇も撤去されるか、一部は神殿に変えられてしまった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-53.html
男山の多くの寺院にあった阿弥陀如来像などの仏像や曼荼羅等の文化財はほとんどが売却されたり捨てられてしまったのだが、本尊であった薬師如来とそれを護る十二神将像は人目を避けるように運ばれて、今は淡路島の東山寺(とうさんじ)に祀られている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-50.html

本家の石清水八幡宮にあった仏教施設が徹底的に破壊されたにもかかわらず、柏原八幡神社の境内の三重塔がなぜ残されたのだろうか。
境内には以前、神宮寺であった乗宝寺という寺が存在していて、三重塔はその寺の所有であったそうだ。明治の廃仏毀釈の時に乗宝寺の他の堂宇は取り壊されたのだが、この三重塔については中に安置されていた大日如来を取り除いて、この塔を神社の「八幡文庫」と呼ぶことで取壊しを免れた経緯のようだ。

このように神社の境内の中に塔が残されているような事例として、昨年は兵庫県養父市にある名草神社の朱塗りの三重塔のことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

また三年前には奈良県桜井市の談山神社・十三重塔のことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-78.html

何れの事例も、寺院であったものを無理やりに神社にしたものなのだが、柏原八幡神社はは神仏習合の荘厳な風景を今も残す数少ない事例なのだと思う。

Wikipediaによると、神社の境内に塔が残されているのは今では全国で18例があるだけなのだそうだが、こういう貴重な景色をカメラに収めることが出来て大満足だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE

柏原大ケヤキ

ところで柏原八幡神社の鳥居の近くに、大きなケヤキの木がある。樹高22mで推定樹齢は1000年と言われている大木なのだが、なんとこの木の根の1本が、幅8メートルの奥村川をまたいで自然の橋を形作っており横から見ると、その根の太さに驚いてしまう。

IMG_2284.jpg

地元では「木の根橋」と呼ばれているようだが、このケヤキは兵庫県文化財(天然記念物)にも指定されているようである。
https://www.city.tamba.hyogo.jp/soshiki/bunka/ookeyaki.html

丹波市柏原町を後にして、最後の目的地に向かう。
この旅行の初日に、兵庫県加古川市の鶴林寺や姫路市の随願寺を訪ねてきたのだが、2つの寺の共通点は「高麗僧恵便(えべん)」にゆかりがあることである。
このブログで何度か書いたことだが『日本書紀』には、わが国で仏教が拡がったのは敏達天皇13年(584)に蘇我馬子が播磨の国にいた恵便という僧を師としたことから始まると明記されている。
そして恵便にゆかりのある安海寺という寺が、兵庫県多可郡多可町八千代区中村に残されている。

安海寺

敏達天皇13年(584)に仏像2体を手に入れた蘇我馬子は司馬達等らに仏教修行者を探させて、播磨の国にいた高麗人の恵便を見つけて仏法の師としたのだが、国内に疫病が流行ったために排仏派の物部尾輿(もののべおこし)らは、仏教信仰がその原因であるとして排仏活動を行ない、恵便も迫害を受け還俗させられたらしい。
そして、現在の八千代区大矢笠形谷にある稚児岩の洞窟に閉じ込められたと伝えられている。
その場所に室町時代にはお寺があったらしく、それが安海寺の前身だとされている。
予約すれば中に入って拝観できたかもしれないが、この寺の本尊の木造阿弥陀如来坐像は平安時代の後期のもので、兵庫県の文化財に指定されているそうだ。

ネットでいろいろ調べていくと、安海寺の佐藤住職は恵便についてかなり研究しておられるようだ。2008年に「高麗僧恵便 播磨ゆかりの地サミット」というイベントが姫路市で行われ、パネラーとしてこの寺の佐藤住職が話された内容が、在日の方の機関誌『平和統一News第20号』「播磨と渡来人(第5回)」に出ている。渡来人の話は在日の方が興味を持たれることは当然だと思う。
http://fpuhg.main.jp/news20.pdf

どこまで史料の裏付けがあるかはよく解らないが、このイベントで佐藤住職が話された内容を姫路市の英裕司氏が要約されたものが、ネットで見つけることの出来る恵便という人物についての一番詳しい文章である。
しばらく引用させていただく。

「今から1400年前、恵便法師は弟子の百済僧 恵聡(えそう)を伴って日本へ来られた。
しばらくして、仏教に反対する物部氏による仏教弾圧がはじまる。この時、恵便法師と弟子の恵聡は捕らえられ、生駒山に送られた。しかし、都に近いとの理由で今度は播磨の赤穂に流され、最後に播磨の多可郡八千代(安海寺のある地域)に流された。物部氏は、二人を無理やり還俗させた上、『右次郎』『左次郎』と呼び、逃げないように家に閉じこめた。(他の伝承では弾圧から逃れ、隠れ住んだという話が主流だが、ここでは捕えられ幽閉されたということになっている。)
その間、還俗した恵便法師は村の娘と恋におち、一子を授かる(?!)。村娘の名前は、『恵忍』といったそうだ。数年後、恵便法師は一人息子を弟子の恵聡に託し、ひそかに朝鮮半島に逃亡させることに成功する。これが故に、恵便法師笠形山の洞窟に幽閉されてしまう。今も恵便法師がわが子の無事を祈りながら、彫ったとされる山石の地蔵菩薩が残っている。
ほどなく聖徳太子を中心とする崇仏派が排仏派の物部氏を滅亡させるといった政変が起こるのであった。
その後、仏教の指導者をさがして、蘇我馬子の使いが播磨の地にやって来た。ここで恵便法師は中央に復帰することになった。(この辺りの経緯は事実である。都からの使いが直接、幽閉されていた山奥に来たのか、それとも恵便法師がこの場所から脱出して、播磨の姫路に隠れ住んでいた時に、都の使いが来たのかはっきりしない)ともかく都に戻った恵便法師は、蘇我馬子の師となり、3人の尼僧を出家させるなど大活躍した。
時は流れて、595年、弟子の恵聡が恵便の子を連れて日本に戻ってくる。実はこの恵便の子こそは、名を恵慈(えじ)といい、のちに聖徳太子の師となった有名な高僧なのである。なんと高僧 恵慈と恵便法師が前述したように親子であったのだ。」

聖徳太子の仏教の師となった「恵慈」は『日本書紀』では「慧慈」と違う字で書かれていて、「恵便の子」であるとは一言も書かれていない。恵便が娘と恋に落ちた話や、二人の間に恵慈を生んだという佐藤住職の話は何を根拠にしているのだろうか。

ところで相生市のホームページにも、恵便についてこんな伝承が残されていることが紹介されている。
兵庫県相生市矢野町瓜生に羅漢の石仏があり、欽明天皇の時に、矢野に流された恵弁と恵聰の2人が瓜生の岩窟に入り、すべての人を仏に引き合わせようとの願いからその石仏を彫ったというのだ。
しかしその伝承には恵弁と恵聰が還俗させられて『右次郎』『左次郎』と呼ばれたことは佐藤住職の話と一致しているものの、恵便が恋に落ちて子供ができたという話はないようだ。
http://www2.aioi-city-lib.com/bunkazai/den_min/den_min/densetu/04.htm

相生市のホームページも根拠となる文書についての記載がないのは残念だが、恵便に関しては『日本書紀』の記述とは異なる伝承が複数残されていることは注目して良いだろう。どこまでか真実であるかは人によって感じ方が異なるのだと思うのだが、この時期に恵便という渡来人がわが国に仏教を広めたことについては確かな事だと思うのだ。

帰宅途上中国自動車道で渋滞に巻き込まれて帰るのに随分時間がかかってしまったが、あまりよく知らなかった播磨や但馬の聖徳太子と恵便のゆかりの地を巡り、紅葉もカニも楽しめて、いい旅行だった。
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播磨の国宝寺院の神仏習合の景観を楽しんで~~朝光寺・浄土寺

毎年紅葉の時期に古社寺を訪ねて日本海方面で一泊する旅行を企画するのだが、今年は兵庫県の国宝や紅葉名所をいくつか織り込んだ計画を立てて、先週行ってきた。

中国自動車道のひょうご東条ICから社(やしろ)方面に北上していくと、加東市に朝光寺(ちょうこうじ)という古い寺がある。この寺の本堂が国宝に指定されている。

寺伝によると白雉(はくち)2年(651)に法道上人によって開基され、当初は裏山の権現山に建立されたそうだが、治承8年(1184)に源義経が平資盛(たいらのすけもり)を夜半に襲撃した「三草山の合戦」で焼失してしまい、その後の文治5年(1189)に後鳥羽上皇の命により現在地に再建されたという。
天明7年(1787)の記録では、学侶3ヶ院・坊21・末寺5ヶ寺とかなり大規模な寺であったのだが、今では吉祥院・総持院の2つの塔頭が残るのみとなっている。今では朝光寺は無人の寺になっているが、車で行かれる方は塔頭の吉祥院の電話番号(0795-44-0733)をカーナビに登録されればよいだろう。

つくばねの滝

吉祥院から道なりに200mほど進むと、山を切り開いた駐車場があり、そこから山門につながる参道がある。小さな川に沿って歩き進むとせせらぎの音が聞こえ始めて、「つくばねの滝」という滝が参拝者を迎えてくれる。

地元のボランティアの方の話によると、滝の名前にある「つくばね」というのは、スギなどの根に半寄生する植物の名で、昔は滝の付近に多く自生していたのだが随分少なくなってしまったという。

つくばね

上の画像が「つくばね」で、秋の季節には羽子板の羽根のような形をした実ができる。
この植物の成育地は乾燥する急斜面や尾根に限られ、他の環境では育つことはないのだそうだ。持ち帰る人がいるために少なくなっているようだが、加東市の天然記念物にも指定されているこの植物を是非大切にしてほしいものである。

朝光寺本堂

山門をくぐると、寄棟造り・本瓦葺の堂々とした風格の国宝の本堂がある。
本堂内の羽目板に墨書があり、応永20年(1413)に仏壇を建立し本尊を移転し、屋根葺きが正長元年(1428)に終わったことが記載されているのだそうだ。

朝光寺本堂内陣

ボランティアの方に案内いただき、中に入ると格子戸と菱格子欄間により内陣と外陣が区切られていた。連子窓から柔らかい光が堂内に差し込んで、こういう場所にいると正座して瞑想したい気持ちになってくる。

b99d2352.jpg

内陣には須弥壇が置かれていて、御本尊である2体の木造千手観音像は、60年に一度の御開帳の時しか見ることが出来ないのは残念なことだが、平安期と鎌倉期のかなり古い仏像で、2年前に本堂の大屋根の改修工事が完了し落慶法要時に特別開帳されたばかりのようだ。ネットで検索すると当時の新聞記事を拾う事が出来る。

朝光寺多宝塔

多宝塔(県文化)は文治年間(1185~1190)の建立と伝えられ、慶長6年(1601)に池田輝政の発願で再建された、美しい建物である。

朝光寺鐘楼

鐘楼(国重文)は、永正年間(1504~21)に赤松義村の再建と伝えられている。屋根の曲線や袴腰の曲線が美しくバランスがよくとれている。そしてその隣には護法社と鎮守社がある。
このような神仏習合の景観が残された背景には、明治初期に地元の人々の多くの苦労があったと思うのだが、詳しいことはよく分からない。

この朝光寺で、毎年5月5日に「鬼追儺(おについな)」が行なわれる。翁1人と鬼方4人が五穀豊穣・無病息災を祈り、松明や太刀を持ち勇壮に舞い踊るのだそうだが、この翁は法道仙人が朝光寺を開基した時に出会ったという住吉明神の化身なのだそうだ。
このように、寺の開基が神仏習合の世界で描かれていて、伝統行事の鬼追儺はその物語につながることから、地元の人々は明治政府の神仏分離令に抵抗したのではないだろうか。
神々の信仰は、本来土着の素朴な信仰であり、地域共同体の安寧を祈願するものだと思うのだが、この鬼追儺は室町時代から続く伝統行事で、兵庫県の重要無形民俗文化財に指定されているという。
普段はほとんど観光客が来ないこの朝光寺も、次のYoutubeの動画を見ると、この日は随分多くの観光客で賑わうようだ。次回来るときは、この日に合わせて訪れてみたいと思う。


朝光寺から、次の目的地である小野市の浄土寺(0794-62-4318)に向かう。

その昔、小野市の中心部は「大部庄(おおべのしょう)」といい奈良の東大寺の荘園だったのだそうだ。建久9年(1192)、東大寺再建の勧進聖であった重源(ちょうげん)が後白河法皇の命により、弟子をこの地に派遣して荘園の経営にあたらせ、その拠点として建立されたのがこの浄土寺である。

浄土寺浄土堂

上の画像は国宝の浄土堂だが、創建された建久9年(1192)から昭和32年(1957)まで、一度も解体されず、765年間持ちこたえた建物だというからすごい。
昭和32年から始められた解体修理で、創建当初の姿のままに復元されたというが、中に入ると、とてもそんなに古い時代の建物だとは思えない。

小野浄土寺三尊

内部は撮影禁止だったのでパンフレットの画像を紹介するが、中に入ると内陣も外陣もなければ天井もない。化粧屋根裏で垂木など屋根裏が見える構造になっていて、木は丹塗で壁は白く塗られている。まるでモダンな博物館の中にいるような気分になる。
他にも特徴がいくつかあるのだが、この様な建築様式を「大仏様(天竺様)」と呼び、東大寺南大門とともに全国に2つしか残されていない貴重な建物だという。
中央には阿弥陀如来(国宝)、左右に観音菩薩、勢至菩薩(いずれも国宝)が安置されている。
この仏像も創建以来のもので、いずれも鎌倉時代の仏師・快慶の作である。
この日は午前中に訪れたのだが、夕方になると雲形の台座の上に立つ3つの仏像が西日に浮かび上がって、阿弥陀来迎の世界が現出するのだという。

s_saigokuK5_00.jpg

中に入ることができるのは浄土堂だけで、他の堂宇は外から観るだけだ。
浄土堂の本堂あたる薬師堂(国重文)は、浄土堂の反対側に建てられている。この建物も当初は「大仏様(天竺様)」だったのだそうだが室町時代中期に焼失し、永正14年(1517)に和様、唐様、大仏様の折衷様式で再建されたものだという。

浄土寺開山堂

そして、薬師堂の右隣には、開山堂(県文化)があり、当寺を開山した重源上人坐像(国重文)が安置されているようだ。

また浄土堂の北側には、寛永9年(1632)に建立されたとされる鐘楼(県文化)がある。

浄土寺八幡神社

興味深いことに、境内の中央に石の鳥居があり、鎮守社の八幡神社がある。
本殿(国重文)は三間社流(ながれ)造・檜皮葺の入母屋造りで、室町時代の中期に建てられたもので、拝殿も国重文に指定されている。
神仏習合の考え方だと八幡神は阿弥陀仏の化身なので、阿弥陀如来を本尊とする浄土寺の境内に八幡神社がある事は理に適っているのだが、明治初期に出された神仏分離令でこのような景観が全国各地で徹底的に破壊されてしまった。

昨年このブログで加古川市の鶴林寺を紹介したが、播磨地方には国宝に指定されている寺院や仏像が少なくないのに、教科書に記述されている事例はまず見当たらない。
鶴林寺にせよ朝光寺にせよ浄土寺にせよ、いずれも素晴らしいお寺なのだが、教科書に載っていないために知る人は少なく、週末の土曜日だというのに観光客は僅かであるのは勿体ないことだと思う。

しかし、なぜ播磨地域の寺院が教科書に載らないのだろうか。
私は、播磨地域の文化財の価値が低いからではなく、別の理由があって載せたくないのではないかと勘繰っている。

鶴林寺にも確か鳥居が残されていた。播磨地域では明治政府の神仏分離令に反発した歴史があったのかもしれないのだが、その点についてはよく分からない。

もうひとつ、教科書に載らない理由として思いつくのは、播磨地域の仏教文化のレベルの高さが、古代史の通説に矛盾するという点がある。
以前このブログで、『日本書紀』巻二十敏達天皇十三年(西暦584年)の記録に、蘇我馬子が播磨の国にいた高麗人の恵便(えべん)を師として仏法を学び修行をしたことから仏教が広まったことが書かれていることを記したが、『日本書紀』のこの記述を素直に読めば、584年まではわが国に仏教は拡がっていなかったことになる。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-4.html

鶴林寺

そして加古川市の鶴林寺の創建は伝承では崇峻天皇2年(589)で、日本史の通説で最も古い寺とされる飛鳥寺(法興寺)が完成したのは推古天皇4年(596)11月であることが『日本書紀』に記されているのだが、仏教の歴史は播磨の方が飛鳥よりも古いということは、播磨が仏教の先進国であったということだろう。

蘇我馬子の仏教の師となり、わが国に仏教を広めた播磨国の恵便も渡来人であったが、弥生時代以降、数多くの渡来人が日本列島に移り住んでいた。また、『隋書倭国伝』には、筑紫国と倭国とは別の国であり、倭国は筑紫国の東にあって中国系の人々が住む地域があったことなどが記されている。普通に読めば、7世紀の初めにはわが国がまだ統一国家でなかったと理解するしかない。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-286.html

しかしながら学界の多数派は、4世紀に大和朝廷がわが国を統一したという通説を守ろうとして、『日本書紀』や中国の正史に明確に書かれていても、通説にとって都合の悪い部分には目を塞ぎ続けているのが現実である。
このような人々にとっては播磨地区の国宝文化財を教科書に掲載することは、通説の説得力が損なわれることに繋がるとでも考えているのではないだろうか。
<つづく>
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。


聖徳太子の時代にわが国は統一国家であったのか~~大和朝廷の統一1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-7.html

唐の時代の正史では倭国と日本国とは別の国である~~大和朝廷の統一2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-8.html

『日本書紀』は、わが国が統一国家でなかった時代を記述している~~大和朝廷の統一3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-9.html

仏教伝来についての教科書の記述が書きかえられるのはいつか~~大和朝廷4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-4.html

聖徳太子の時代に建てられた寺院がなぜ兵庫県にあるのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-286.html

播磨の古刹を訪ねて~~~聖徳太子ゆかりの斑鳩寺と随願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-287.html



素晴らしい紅葉の国宝寺院・一乗寺から日本海へ

次に向かったのは西国三十三所巡礼観音霊場第26番札所の一乗寺(0790-48-4000)だ。浄土寺からは車で30分もかからない。

一乗寺歓喜院の紅葉

駐車場に車を停めて、入口に向かうと塔頭寺院である歓喜院の山門あたりの紅葉が、ちょうど見頃を迎えていたので、思わずシャッターを押した。

兵庫県の紅葉スポットを案内するサイトで、一乗寺を紹介しているところはほとんどないのだが、この寺は知る人ぞ知る紅葉の名所である。ただ紅葉の木が多いのではなく、うまく配置されていて、それが美しい空間を醸しだしていて絵になるのである。

一乗寺登り口

上の画像は受付から三重塔に向かう石の階段の登り口を撮影したものであるが、紅葉の色が木によって微妙に異なり、見ていて飽きることがない。

寺伝では、白雉(はくち)元年(650)に法道仙人が開山し、孝徳天皇の勅願により金堂が建立されたことになっているのだが、前回の記事で紹介した朝光寺(ちょうこうじ)の開創も法道上人であった。
法道仙人が実在した人物であるかどうかはよくわからないが、播磨地区にはこの人物が開いたとの言い伝えがある寺が60近くもあるのだそうだ。

一乗寺のある兵庫県加西市は古文化財の宝庫で、150基を超える古墳があり、石棺仏や石仏が多数見られるほか、繁昌廃寺・殿原廃寺・吸谷廃寺など白鳳時代[大化元年(645)~和銅3年(710)]の仏教寺院の遺跡が残されていて、奈良時代以前から仏教文化が栄えていた地域であることがわかっている。にもかかわらず、ほとんどの歴史書ではこの地域のことが無視されているのである。
繁昌廃寺は寺岡洋氏の論文によると寺域は「東西85m(推定)×南北125m。金堂・西塔・講堂・北門・南門・築垣などの遺構が検出」され、「金堂基壇は、東西16m×南北13m」、「西塔は…一辺13~14m」、「講堂基壇は東西24m×南北15m」なのだそうだが、かなりの大寺院である。
http://www.ksyc.jp/mukuge/262/teraoka.pdf

一乗寺三重塔と本堂

一乗寺の急な石段を登っていくと、明治時代に再建された常行堂がある。さらに石段を上ると気品のある三重塔(国宝)と、入母屋造の本堂(大悲閣、国重文)が見えてくる。

一乗寺本堂

上画像は三重塔あたりから本堂を撮影したものだが、このあたりの紅葉は特に鮮やかだった。

一乗寺本堂内部

本堂は寛永5年(1628)に再建されたもので、現在の建物は4代目になるのだそうだ。中には古い絵馬が掲げられていて、長押(なげし)には何やら字が書かれているように見える。

一乗寺三重塔

三重塔は山腹に建てられているので、下からでも上からでも眺めることができる。上の画像は本堂から三重塔を撮ったものである。
この塔は伏鉢や瓦の銘から平安時代末期の承安元年(1171)に建立されたことがわかっており、建築年代が判明している塔としては、この塔がわが国で最古のものだという。

330px-最澄像_一乗寺蔵_平安時代

一乗寺は仏教建築物が素晴らしいだけではない。平安時代に制作された10幅の天台高僧像がすべて国宝に指定されている。上の画像はそのうちの最澄(伝教大師)像で良く見る画像なのだが、この像が兵庫県加東市の一乗寺にあるということは、今回調べて初めて知った。
他にも仏像5体が国の重要文化財に指定されており、文化財の宝庫と言って良い寺院なのである。

一乗寺護法社、妙見社

さらに本堂の奥には護法社、妙見社、弁財天社があり、いずれも国の重要文化財に指定されている。上の画像は右が護法社で左が妙見社だ。前回の記事で紹介した朝光寺も浄土寺もそうであったが、播磨地区の寺院では神仏習合の景観が結構残されている。

一乗寺の紅葉

あまり紅葉が美しいので予定の時間をオーバーしてしまった。太子堂の近くの紅葉も素晴らしかった。

なぜ播磨地区の寺院は明治政府の神仏分離施策に抵抗できたのだろうかと不思議に思って、ネットでどんな記述があるか探してみたところ、『エピソード日本史』というホームページに、こんな解説を見つけることが出来た。

「…播磨の中心が姫路です。江戸時代最後の大老が姫路藩の酒井忠績だったこともあって、薩長新政府によって、厳しい状況に追いやられます。姫路城の内堀や中堀が破壊され、そこに、軍隊を派遣されました。
 こうした仕打ちを知ってか、播磨では、薩長新政府の政策には、非協力でした
。例えば、廃仏毀釈についても、『灘の喧嘩祭り』で有名な松原神社の隣が、八正寺というお寺です。『継ぎ毛獅子』で有名な大塩天満宮の隣が、明泉寺です。『提灯割神事』で有名な魚吹神社の隣が、円勝寺です。
 政治が、人間の心に介入しました。仏教のルーツは、なるほどインドです。しかし、中国・朝鮮を経て、日本に来たときには、東アジアの仏教に変質しており、日本に土着したときには、日本の民間信仰と混交して、日本人の仏教になっています。…
 歴史のある根強い信仰が、新政府の政策を跳ね除けたといえます。」
http://chushingura.biz/p_nihonsi/episodo/151_200/178_03.htm

もともと明治新政府に非協力的であった播磨地区においては、地域の祭礼などで神仏習合的な考え方が庶民レベルで深く浸透していたために、明治政府も神仏分離を徹底させることができなかったということは充分ありうることだと思うが、具体的に民衆が抵抗した記録が残されているなら是非読んでみたいと思う。

前回の記事で、播磨地区の文化財が教科書に載っていないことに触れたのだが、その理由の一つは、明治政府としては、いくら価値ある文化財を残していたとしても、政府に抵抗して神仏習合の世界を残した文化財を教科書に載せるわけにはいかなかったという事情があったのだろう。
しかしそれだけでは、今もなお教科書に載らないことの説明にはならない。
この地域の文化財を学べば学ぶほど、奈良時代のかなり前からこの地域が仏教の先進地域であったことが見えてくるのだが、そのことは4世紀の中ごろには天皇家を中心とする大和朝廷がわが国を統一したという通説を守りたい勢力にとっては都合の悪い真実なのだろう。通説を正しいとする勢力が教科書の編纂に関与する限りは、歴史を書き替えられることはあまり期待できないのかもしれない。

一乗寺を楽しんだ後食事をするつもりだったが、適当な店が道沿いに見つからなかったため、次の目的地の播磨屋本店生野総本店(079-679-4565)で食事をすることにした。下の画像の通り、なかなか素晴らしい建物である。

播磨屋本店全景

ここでのレストラン営業は土日祝日だけなのでそれほど混んでいないと予想していたのだが、当てが外れてずいぶん遅い昼食になってしまった。

播磨屋本店は、幕末の文久年間(1860年頃)に初代播磨屋助次郎が兵庫県生野町で始めた灯明油の販売がルーツで、昭和23年にクロバー製菓㈱として菓子製造に事業転換し、昭和46年頃から、おかき・せんべいの専業メーカーになったという。

播磨屋本店

この建物も庭もなかなか素晴らしいのだが、現在播磨屋本店では同社の豊の岡工園内に、伝統的工法で三重塔を建築中なのだそうだ。なぜ生野町の年商60億円の菓子メーカーがそこまでできるのだろうか。

以前、長野に旅行した際に『かんてんぱぱ』の伊那食品工業のことを書いた。伊那食品工業は、「自分で考えたものは自分で創り、自分で売る」という主義で、大手スーパーには商品を一切卸していない。販売は、直営店とネット・通販が中心で大成功し、48年連続して増収増益を果たしてきたのだが、この播磨屋本店も同様で、現社長(5代目播磨屋助次郎)が、「卸売り販売を全面的に改めて、通信販売と直売店による消費者直接販売に切りかえ」たことで飛躍的に発展した会社である。

地方の多くの食品メーカーが目先の売上高増加の為に大手流通業者に商品を卸して価格主導権を奪われ、次第に厳しい仕入れ価格を要求されて品質を落とし、独自の商品開発をすることを忘れて成長力を失ってしまったのだが、伊那食品工業も播磨屋本店も地方の製造業がこれから進むべきモデルを示しているように思えてならない。

播磨屋水車

地方のメーカーが良いものを作ることにこだわり続け、良い商品を求める消費者と直接つながる売り方に徹していれば、大手流通業者から買いたたかれることもないので無理してコストを下げて品質を落とすこともなく、着実に適正水準の利益を自社に蓄積することができる。
地元に利益を蓄積できてこそ、地元の人の多くを採用することができ、地元の人々に地元で幸せに暮らせる環境を提供できる。伊那食品工業も播磨屋本店もそのことを実践して、地元の経済発展に貢献しているのである。

農業においても同様のことができるはずだ。生産者が都会の消費者とネットや産直で繋がっていけば、消費者はスーパーで買うよりはるかに新鮮な野菜や果物を、安価で求めることができるようになる。

今までは、都会資本の大手流通業が地方の産物を買い叩いて利幅を取りすぎてきたことが、地方の生産者を疲弊させ、地方の職場を奪って、地方の衰退を招いてきた。
これからは、地方の生産者が品質にこだわり、本物を求める消費者とネットなどで直接繋がっていく動きが加速していくことは間違いないだろう。地方の創生は、大手流通に奪われていた価格主導権を、地方の生産者が取り戻すことから始まる
のだと思う。

播磨屋本店から、2時間近く走って日本海方面に向かう。この方面に来るときは、いつもは香住の民宿で宿泊するのだが、連休は一杯だったので今回は柴山の民宿を選んだ。

数年前に越前にカニを食べに行った際に、ある旅館で出てきたカニがオホーツク産と聞いてがっかりして、それ以来地元の人が経営する施設で、地元の食材にこだわっている旅館や民宿を選んで宿泊することにしている。
旅行者が旅行地で支払うお金の多くが、地元の人々の中で経済循環して潤う事がなければ、いずれ若い世代が地元を離れていき、情緒ある観光地の景観や賑わいが失われていくことになる。だから、どうせ泊まるなら、地元の方が運営している宿にこだわりたい。

かに三昧

柴山はカニの漁港として有名で、柴山カニはこの辺りの旅館や料亭で食べることができる。
上の画像は「こえもん」の夕食だが、緑色のタグのある茹でガニは香住漁港産。ピンク色のタグのあるカニは柴山漁港で獲れたもので、そのまま刺身にしても良いし、もちろんカニ鍋にしても良く、身がしっかり詰まっている。
新鮮なカニは天然のままで戴くのが最高に旨く、三杯酢もポン酢も途中から使うのをやめてしまった。

ちょっと残念だったのは、昼食が遅かったために途中で胃袋の限界に達してしまったこと。カニは完食したが、最後の雑炊はとても食べきれなかった。一乗寺に行く前に、簡単に昼食を済ませておけば良かった。<つづく>
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【ご参考】
「かんてんぱぱガーデン」は3万坪の敷地に、レストランや美術館やホールや健康パビリオンやショップなどがあり、駐車場は200台以上のスペースがあり、大変賑わっていました。

「御柱祭の木落し坂から名所を訪ねて昼神温泉へ~~諏訪から南信州方面旅行2日目」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-40.html

「かんてんぱぱ」を訪れた日は昼神温泉で宿泊しましたが、ここの朝市は地元農家と観光業界とが共存共栄しています。観光地に近い農村の村おこしに繋がるモデルになると思います。

「昼神温泉から平成の宮大工が建てた寺などを訪ねて~~諏訪から南信州方面旅行3日目」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-41.html


古代史でこんな記事も書いています。良かったら覗いてみてください。

「法隆寺再建論争を追う」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-10.html

「聖徳太子についての過去の常識はどこまで覆されるのか」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-121.html

柴山漁港の競りを見学のあと出石神社、宗鏡寺の紅葉を楽しむ

柴山で宿泊した民宿から15分ほど歩いたところに柴山漁港がある。7時ごろからカニの競りがあると聞いたので、朝食前に散歩をかねて見に行くことにした。

柴山漁港の朝

ちょっと早い目に着くと、ちょうどカニをランク順に並べておられる最中だった。
柴山漁港で水揚げされるズワイガニの活カニは「柴山がに」と呼ばれて高級ブランドになっているが、「柴山がに」のランクは大きさ、重さ、姿などで50種類近くあるようだ。
柴山漁港のカニのランクは次のURLに出ている。
http://www.jftajima.com/shibayama_shop/kani/page02.html

柴山漁港かに

最高級品を「番ガニ」と呼ぶことは知っていたが、「番ガニ」にも大きさによって等級が7つに分かれ、少し身の入りが少ないものは別に大・中・小で分けられる。
また、サイズは大きくても、甲らが少し柔らかくて身の入りが少ないカニは「ボタガニ」と言い、それにも大・中・小に分けられるという具合だ。
ある程度大きなカニは一匹ごと競りにかかり、標準的なサイズのカニは、それも大・中・小に分類されて箱ごと競りにかけられる。

柴山漁港せり

競りが始まった。私には競り人が早口で何を言っているかさっぱりわからなかったが、業者が札を入れていって小気味よく買い手が決まっていく。競りを実際に見たのは初めてだが、なかなかいい勉強になった。Youtubeでも多くの方が柴山漁港の競りを紹介しておられるが、こんなに早いテンポで実際の競りが進んでいくことに多くの方が驚かれると思う。


宿に戻って朝食を済ませて、次の目的地である出石(いずし)神社(0796-52-2440)に向かう。

出石神社

『日本書紀』巻第六に、垂仁天皇3年春3月、新羅王子の天日槍(アメノヒボコ)が羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種を持参し、これを但馬国に納めて神宝としたことが記されている。
天日槍は播磨国、近江国、若狭国を経て但馬国の出石に至り、そこに定住して現地の娘・麻多烏(またお)と結婚したとあるのだが、驚くことにこの新羅王子の天日槍が、出石神社の主祭神になっているのである。なぜ但馬国の一の宮で異国の皇子を祀るのだろうか。

出石神社社殿

しかも案内立札に記された出石神社の由緒には、日本語と韓国語が併記されている。神社の由緒でハングル文字を見たのは初めての経験だが、そこにはこう書かれていた。
天日槍命のご子孫には、田道間守命(タジマモリノミコト)や神功 (じんぐう) 皇后があります。
 神社の創立年代はあきらかではありません
が、社伝の一宮縁起には、谿羽道主命(タニハノミチヌシノミコト)と多遅麻比那良岐(タジマヒナラキ)と相謀り、天日槍命を祀ったと伝え、諸書によりますと、およそ千三百年前にはこの地で祭祀がおこなわれていたことがうかがわれます。」
千三百年前とは奈良時代の初めのことである。

田道間守が天日槍の玄孫であることは『日本書紀』巻第六に明記されているが、神功皇后については田道間守の次の代の多遅摩比多詞(タヂマヒタカ)の娘が葛城高額比売命(カツラギタカヌカヒメノミコト)で、神功皇后の母になるのだそうだ。第14代仲哀天皇と神功皇后の子が第15代の応神天皇でその子が第16代の仁徳天皇になる。
要するに、この頃のわが国の歴史は朝鮮半島と密接な関係にあったということなのだが、近代デジタルライブラリーなどで検索すると戦前の歴史書には天日槍が新羅の王子であり神功皇后がその後裔であることが多くの書物に書かれていることが確認できる。しかしながら、戦後になってこの時代のことは「神話」の領域にされてしまっていて、学ぶ機会が失われてしまっていることがわかる。
http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E5%A4%A9%E6%97%A5%E6%A7%8D

出石神社から次の目的地の宗鏡寺(すきょうじ:0796-52-2333)に向かう。距離にして3km程度なので数分で到着する。

宗鏡寺

宗鏡寺は明徳3年(1392)頃に山名氏の菩提寺として建てられ、一時は山陰随一の伽藍を誇っていたというが、織田信長の第2回但馬征伐で山名氏が滅亡したあと寺は荒廃してしまう。
その後、出石城主・小出吉英のすすめを受けた沢庵(たくあん)により、元和2年(1616)にこの寺は再興され、沢庵は通算30年間この宗鏡寺で過ごしたという。
その後小出家が断絶となり、その後は出石城主となった仙石氏の支援により隆盛したという歴史がある。

宗鏡寺 鐘楼

山門をくぐると右側に鐘楼が見え、モミジとドウダンツツジの紅葉が美しい。

宗鏡寺庭園

本堂庭園の紅葉がちょうど見ごろを迎えていた。
緑色の厚い苔の上に毎日大量の紅葉が落ちているはずなのだが、落葉が庭の奥の方に集められていた。苔の緑色を鮮やかさを維持しようとすれば、毎日落葉を掃除することが不可欠である。おそらく、落葉用の掃除機を使っておられるのだろうが、庭の美しさを引き立たせるために、この時期は定期的な手入れがなされているのだろう。

宗鏡寺庭園2

上の画像は本堂の庭園は沢庵和尚が作庭したと伝えられている「鶴亀の庭」。木を鶴に見立てて池の中の島が亀を表しているのだそうだが、そんな説明はどうでもよい。とにかくこの庭の紅葉が素晴らしい。

投淵軒

紅葉の季節だけかもしれないが、庭園の中に「投淵軒」という茶室があり、そこで抹茶を頂いた。本物の茶室の4畳半の空間で点てていただいた抹茶を味わったのは初めての経験で、とても贅沢なひとときを過ごすことが出来た。

「投淵軒」というのは、元和6年(1620)に沢庵和尚が宗鏡寺の後山に建てた小庵の名前と同じだが、沢庵は世塵を避けてその場所で和歌を楽しみ、多くの著書を表したという。
また沢庵和尚がこの投淵軒時代に考案したという「沢庵漬け」は、今も日本人の食膳に親しまれている。

takuan001.jpg

ところが、この沢庵和尚が朝廷と江戸幕府との対立事件に巻き込まれてしまう。
紫色の法衣や袈裟は、昔から宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜ったのだが、後水尾天皇が沢庵に紫衣を授けたことを寛永4年(1627)に徳川3代将軍家光が問題にし、朝廷に対し、これまで授与した紫衣着用の勅許を無効にすることを要求した。(紫衣事件)
幕府の要求の根拠は、慶長18年(1613)に定めた「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」および、その2年後に定めた「禁中並公家諸法度」に違反するというものである。
朝廷は幕府に強く反対し、沢庵や妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出したのだが、寛永6年(1629年)に幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処したという。
江戸幕府はこういう形で「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示したわけだが、このことは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上位に立ったという事を意味しているという説があるが、そのとおりだろう。

寛永9年(1632)に紫衣事件に連座された者たちは許されたのだが、沢庵和尚は徳川家光の帰依を受けたことで家光に近侍することとなった。以前このブログで何回かに分けて南光坊天海のことを書いたが、処罰は自分だけにしてほしいとのべた沢庵に感銘した天海が沢庵を賞賛し、刑の軽減を主張したのだそうだ。

宗鏡寺 野菜

宗鏡寺の本堂で地元の野菜を並べておられた。宗鏡寺の方が地元の農家を応援するために、地元の無農薬野菜を販売しておられると聞いて、小野芋、ビタミン大根、紅芯大根を買って帰った。
小野芋はサトイモとよく似ているが、戦前には京都祇園の料亭にも出荷され京芋として親しまれたという。ビタミン大根は先が白く胴の部分は中まで緑色のダイコンだ。サラダにするとパリッとした食感で歯ごたえがあった。紅芯大根もサラダにたが普通のダイコンと比べ水分が少なく、コリコリした食感が楽しめる。

宗鏡寺の山門を出てすぐ近くに、願成寺(がんじょうじ)という寺がある。この寺は山名氏創建だと伝えられているが詳しいことはよく分からない。

願成寺 山門

この山門は江戸時代のもので豊岡市の文化財に指定されているそうだが、この門前にユニークな達磨大師の像がある。京丹後市の正徳院という寺の住職が数十年前に制作されたものだそうだが、じっと見ていると、逆に自分が達磨に見られているような気になってくる。観る角度によって表情が変わるので写真ではうまく伝わらないのだが、宗鏡寺に来られた際にはぜひ願成寺に立ち寄って見て頂きたいと思う。

昼食は出石蕎麦に決めていたので、出石の中心部に移動する。
時刻は11時を過ぎていたが、さすがに紅葉時期は出石蕎麦と紅葉を求めて大阪方面からくる車が多く、大手前駐車場は既に満車で出石支所南駐車場になんとか入れることが出来たのはラッキーだった。他には西の丸駐車場や鉄砲駐車場もあるのだが、出石に来るときは11時を大きく過ぎると、駐車場待ちの車の列に並んで待たねばならなくなるリスクがある。

出石蕎麦

出石蕎麦の店は数えきないほどあるので、どこがいいのか正直よく分からないが、前回出石に来た時に食事をした湖月堂に今回も入ることにした。
2回に上って、出石のシンボルである辰鼓楼を眺めながら食べる、出石名物の皿そばは旨かった。
<つづく>
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【ご参考】
このブログで南光坊天海について、こんな記事を書いています。
良かったら覗いてみてください。

慈眼堂、滋賀院門跡から明智光秀の墓のある西教寺を訪ねて考えたこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-345.html

光秀は山崎の合戦で死んでいないのではないか…「光秀=天海説」を考える その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-346.html

南光坊天海は明智光秀と同一人物なのか…「光秀=天海説」を考える その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-347.html

家康の死後の主導権争いと日光東照宮
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-349.html



出石散策の後、紅葉の美しい国宝・太山寺へ

出石蕎麦の昼食を終えて出石城址に向かう。途中で出石のシンボルである辰鼓楼(しんころう)がある。

辰鼓楼

辰鼓楼は明治4年(1871)に建てられたもので、昔は太鼓をたたいて時刻を報じたのだそうだ。

谷山川にかかる橋を渡り城址にのぼる階段のすぐ東隣りに諸杉(もろすぎ)神社がある。この神社の祭神は多遅摩母呂須久(たじまもろすく)で、この人物は、前回の記事で記した出石神社の祭神である新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)の嫡子なのだそうだ。

出石城櫓2

出石城は14世紀ごろに山名時吉が築いた城だが、当初は出石神社の裏にある此隅山に建てられたという。しかし永禄12年(1569)に木下秀吉の出兵で落城したため、織田信長の許しを得て天正2年(1574)に山名祐豊が有子山(ありこやま)山頂に有子山城を築き本拠を移したが、天正8年(1580)羽柴秀吉の第二次但馬征伐で羽柴秀長に敗れてしまい、但馬山名氏は滅亡してしまう。その後、龍野から小出氏が入封し、慶長9年(1604)に小出吉英(こいでよしふさ)が有子山の麓、現在の出石城跡に築城したのだそうだ。

出石城櫓

明治初期の廃城令で出石城は取り壊されてしまったが、その後、隅櫓、登城門・登城橋などが復元され、お堀の周囲一帯は登城橋河川公園として整備され、桜や紅葉の名所になっている。上画像は本丸東隅櫓周囲の紅葉である。

出石城鳥居

城の麓から始まる石段の参道には37基の鳥居が並んでいる。

有子山稲荷神社

石段を上って行くと、石垣最上段の稲荷郭には城の鎮守である稲荷神社が祀られている。この神社は慶長9年(1604)の築城時に建てられて、城郭内にありながら江戸時代から身分を問わず参拝が許されていたのだそうだ。

普通の城なら、一番高いところに天守閣があるだろうと考えてしまうところだが、この城には天守閣は存在しない。
江戸幕府が出石藩に天守閣を建てることを認めなかったのがその理由だと考えるのだが、初代城主の小出吉英は有子山山頂の有子山城の天守は廃したものの郭や館の一部を残す選択をしたという。
いつかは天守閣を建てたかったと思うのだがそのチャンスは訪れず、旧有子山城は、歴代城主が江戸幕府を憚って一切修理がなされず、荒れるに任されて放置されたそうだ。

出石城

この稲荷郭からは出石の町並みを一望することができる。「但馬の小京都」と呼ばれる出石の中心部は思っていたよりも狭かった。
この場所から有子山城跡に登ることも出来るのだそうだが、かなりの急坂なので諦めた。

斎藤隆夫顕彰碑

石段を下まで降りていくと、吉田茂筆の斎藤隆夫顕彰碑がある。
斎藤隆夫は出石出身の政治家で、戦前期に帝国議会で軍部やファシズムに抵抗した人物である。昭和11年(1936)に、帝国議会で『粛軍演説』を行ない、昭和13年(1938)には『国家総動員法案に関する質問演説』を行なった。そして昭和15年(1940)2月には「支那事変処理を中心とした質問演説」を行ない、軍部を批判したことが問題となり、斎藤は決議によって衆議院議員を除名されてしまうのだが、第二次世界大戦に参戦後の昭和17年(1942)の選挙では、軍部による選挙妨害をはねのけて、兵庫5区(但馬選挙区)でトップ当選を果たし、見事に衆議院議員に返り咲いている。こういう気骨のある政治家が、今の与党にも野党にもほとんど見当たらないのは悲しいことである。

続いて明治時代に建築された芝居小屋である永楽館を見学する予定だったが、この日はイベントで貸切であったため中に入れなかったのは残念だった。

出石史料館

予定を変更して出石の町を歩いて、出石史料館に入る。
この建物は生糸を商う豪商福富家の本邸だったものを出石町が譲り受け、公開しているものである。
明治9年(1876)3月に出石町の家の8割以上が焼失したという大火事があり、この建物は、福富家が火災のすぐ後に、京都から職人を招いて建築させたものだそうだ。

出石史料館 囲炉裏

建築されてから138年もの年数が経過しているのだが、今もなお頑丈で、古さを感じさせない立派な建物である。
また土倉には出石藩第3代藩主仙石政辰公の鎧兜や、『仙石騒動』の資料などが展示されていた。

出石史料館 鎧兜

仙石騒動』というのは、江戸時代の後期に出石藩(仙石藩)で発生したお家騒動で、しばしば「江戸時代の三大お家騒動」の一つとして紹介されている。
どんな事件であったかと言うと、第6代藩主仙石政美(まさみつ)の代に藩の財政が逼迫して藩政改革の気運が盛り上がり、筆頭家老の仙石左京は産業振興策を、もう一人の家老仙石造酒は、質素倹約の財政引締め政策を、という対立構造の中、藩主政美は左京の政策を支持し、左京は強引な改革を推進していった。ところが、はかばかしい成果が出ないまま、文政7年(1824)に藩主・仙石政美が参勤交代で江戸に向かう途中で発病し、江戸で病没してしまう。
後継の藩主として政美の弟である道之助を元服させることとなり、藩政は、財政引締め派の仙石造酒らが完全に掌握して、左京の政策はすべて廃止されることとなる。
ところが、派閥争いで乱闘騒ぎがおこり、仙石造酒らは隠居を余儀なくされて、再び左京が筆頭家老として人事権を掌握することとなる。
しかし反左京派はおさまらず、左京が自分の子を藩主につけようと、藩主久利の暗殺まで計画しているなどと誹謗中傷を繰り返し、ついに藩内の争いは幕府に聞こえて裁定を仰ぐこととなる。
天保6年に裁定が下され、仙石左京は獄門になり、鈴ヶ森に晒首され、左京の子小太郎は八丈島へ流罪になるなど、左京派は壊滅的打撃を受けた。藩主久利に直接お咎めは無かったものの、出石藩は知行を5万8千石から3万石に減封となったというが、これで全てが決着したわけではなく、その後も出石仙石藩では抗争のしこりが残り、30年ほど藩内の政争が続いたという事件である。

出石酒蔵

出石史料館の近くに出石酒造の酒蔵がある。江戸中期の建物だそうだが、こういう土の壁を見ることが少なくなってしまった。文化財などの指定は受けていないようだが、こういう古い建物が数多く残されているところが出石を散策する魅力でもある。これからもこのような景観を後世に残してほしいものである。

土産物屋でお菓子をいくつか買ってから、最後の目的地である神戸市西区の太山寺(たいざんじ:078-976-6658)に向かう。播但連絡道路から第二神明道路、阪神7号北神戸線を走って2時間程度で到着した。


簡単に太山寺の歴史をまとめると、この寺は藤原鎌足の長男、定恵(じょうえ)和尚の開山で、霊亀2年(716)に藤原宇合(うまかい:藤原不比等の子)が堂塔伽藍を建立したと伝えられている。
鎌倉時代から室町時代にかけて栄え、最盛期の南北朝時代には支院41坊・末寺8ヵ寺・末社6社を持ち、さらに僧兵も養っていたとのことが、現在では龍象院・成就院・安養院・歓喜院の4坊が残っているだけだ。

太山寺 播磨名所巡覧図会

文化元年(1804)に刊行された『播磨名所巡覧図会』に描かれた太山寺の絵図をネットで見ることができる。この頃の太山寺は今よりもかなり賑わっていたようだ。
http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/harima_m/taizanji.jpg

太山寺正面

正面に見えるのは国宝に指定されている太山寺の本堂。神戸市内で国宝に指定されている唯一の建物で、弘安8年(1285)に火災で焼失したのち、1300年ごろに再建されたと考えられている。

太山寺三重塔2

本堂の右手には、美しい三重塔(県文化)がある。拝観は出来ないが、天井などには極彩色の装飾が施されているという。心柱の墨書銘から貞享5年(1688)に寄進により建てられたと考えられている。

太山寺阿弥陀堂

本堂の左手にある阿弥陀堂も同じ時期に再建されたものである。中には鎌倉時代に制作された阿弥陀如来座像(国重文)が存置されている。
毎年5月12日には、阿弥陀如来来迎の様子を僧侶や稚児らで演じる「練り供養」と呼ばれる珍しい法要が行われるそうだ。次のURLに詳しくレポートがなされている。
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/folk/entertainment/case/9_2ikawa/0512_001.html

太山寺本堂2

この寺も紅葉の隠れた名所で、境内の各所で鮮やかな紅葉を楽しむことができる。

太山寺本堂内部

国宝の本堂の中に入る。思った以上に中は広い。
この本堂を舞台に、毎年1月7日に走り鬼と3匹の太郎鬼・次郎鬼・婆々鬼が松明(たいまつ)を持ち、太鼓の音に合わせて踊り悪霊を退治する行事が行われるという。
どんなに古い伝統のある行事も、地元に若い世代が残らなければ繋ぐことが難しいことは言うまでもない。太山寺に限らず全国の多くの寺や神社で大変苦労しておられることだと思うのだが、地方の経済の活力を削ぐような経済政策を続けて行けば、残すべきものも残せない日が来るだろう。
Youtubeでいろんな方がこの行事を紹介しておられるが、安土・桃山時代から伝わるこの伝統行事を、私もこの目で見てみたいものだ。


この旅行の1日目で朝光寺、浄土寺、一乗寺の神仏習合の景観を観てきたが、この太山寺も同様な風景を容易に見つけることができる。

太山寺神仏習合

本堂の右に稲荷社があり、その隣に太子堂があるが、太子堂の正面には大きな石の鳥居がある。

太山寺には奥の院があって、稲荷社と地蔵堂と鎌倉時代の磨崖仏があるのだそうだ。時間がなかったので奥の院に行くことは出来なかったが、今度来るときには、塔頭の安養院庭園(国名勝)とあわせて訪問したいと思う。

2日間天候に恵まれて、あまり知られていない播磨や但馬の紅葉の名所を一年で一番美しい時期に訪れることが出来、柴山カニや出石蕎麦も味わう事が出来て、大満足で帰途に就いた。

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【ご参考】
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浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした原因は何だったのか~~忠臣蔵1
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赤穂浪士の処刑をどうするかで、当時の幕府で大論争があった~~忠臣蔵2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-150.html

赤穂浪士に切腹を許した江戸幕府の判断は正しかったのか~~忠臣蔵3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-151.html

江戸幕府が赤穂浪士の討入りを仕向けたのではないのか~~忠臣蔵4
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赤穂浪士の討入りの後、吉良上野介の跡継ぎの義周はどうなったか~~忠臣蔵5
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『明暦の大火』の火元の謎を追う
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-119.html

関東大震災の教訓は活かされているのか その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-23.html

関東大震災の教訓は活かされているのか その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-24.html


江戸幕末以降の危機を何度も乗り越えて、奇跡的に残された国宝・姫路城を訪ねて

姫路城から書写山・円教寺を巡る小旅行をずっと前から企画していたのだが、姫路城は昨年の3月に5年半に及ぶ「平成の大修理」を終えて以降訪れる観光客が半端な数ではなく、昨年の夏の平日に観光した知人から、切符を買って入城するのに2時間以上待たされたという話を聞かされていたのでしばらく行くことを躊躇していたのだが、ゴールデンウィークが過ぎてそろそろ大丈夫かなと勝手に期待して、先週の土曜日に朝早く自宅を出て久しぶりに姫路に行ってきた。

姫路城の大手門駐車場(姫路市本町68番地 079-284-1533)に到着したのは9時半頃で、この時間帯は駐車場にも余裕があり、入城についても切符を購入してすぐに入ることが出来たのはラッキーだった。
姫路城 菱の門

入城口からすぐに格調高い菱の門があり、その門を抜けると、右手に美しい天守閣が聳え立つ。天守閣はいろんな場所から眺めることが出来るのだが、この場所から見る天守閣は特に美しい。

姫路城 菱の門から

ここで簡単に姫路城の歴史を簡単に振り返っておこう。

元弘3年(1333)の元弘の乱で、護良親王の令旨を奉じて播磨国守護の赤松則村が挙兵し、京に兵を進める途中で姫山に砦を築いた記録があり、また貞和2年(1346)には赤松則村の次男である赤松貞範が姫山に本格的な城(姫山城)を築いたとされる。

姫路城 黒田官兵衛の大河ドラマセット

2年前のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』の主人公である黒田孝高(官兵衛)は、父・黒田職高の嫡男として、天文15年(1546)にこの城で生まれたと伝えられており、姫路城の西の丸に、大河ドラマで使われた当時の姫路城の撮影セットを縮小した模型が展示されていたが、この当時はこのような平屋の城が殆んどだったそうで、現在の姫路城のイメージとは随分異なる。

永禄10年(1567)に黒田孝高が城代となったのち、天正8年(1580)に羽柴秀吉に対しこの城を居城とすることを進言したという。新たに城主となった秀吉はこの城の大改修を行い、石垣で城郭を囲み、三層と伝えられる天守閣を建築し、「姫路城」と改名したとされている。

その後天正11年(1583)に秀吉は大坂城に居城を移し、弟の秀長が姫路城主となるも、2年後に大和郡山に転封したため、秀長に代わって木下家定が城主となっている。

池田輝政肖像

そして慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの戦功により池田輝政がこの城の城主となったが、輝政は徳川家康から豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制する命を受けて、翌年から8年がかりで姫路城の大改修を行なっている。秀吉の築いた城はこの時に取り壊されたと言われており、この時に改修された姿の多くが現在に残されていることになる。

平成5年(1993)に奈良の法隆寺とともに、日本初の世界文化遺産となった美しい姫路城だが、以降何度かこの城が破壊される危機を乗り越えて来たことはもっと知られるべきだと思う。

幕末期の鳥羽伏見の戦いで姫路城は新政府軍に包囲され総攻撃される寸前であったが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風荘右衛門貞忠が、15万両に及ぶ私財を新政府軍に献上してこれを食い止めたのだそうだ。

それから明治維新となって武士の時代が終り、明治6年(1873)には「廃城令(全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方)」が出され、ほとんどの城が破壊されたなかで姫路城は「存城」の一つとして陸軍の兵営地として残されたという。
一方で、姫路城も競売に付されて、金物商の神戸清次郎(かんべ せいじろう)が23円50銭で落札したという説が存在し、Wikipediaにもそう書かれているのだが、この点については姫路市立城郭研究室が『城踏』No.81で丁寧に反論しておられる。
その記事によると、姫路城入札に関わる当時の記録は存在せず、明治6年2月15日の陸軍省の通達では「昨年中払下ノ見込ヲ以テ入札為致候儀ハ一切取消ノ事」とあり、仮に落札の事実があってもすぐに陸軍の手に戻っていたことになるのだが、そのことは昭和2年6月1日付の神戸又新日報の神戸清次郎の子・清吉氏へのインタビュー記事と合致しているという。どうやら『城踏』の解説の方が正しそうだ。
http://www.city.himeji.lg.jp/jyokakuken/shirofumi/pdf/11-10.pdf

かくして姫路城は陸軍の所有となったのだが、陸軍の保有目的は文化財を護ることではなく兵営地として残されたにすぎず、三の丸を中心に歩兵第10連隊が設置されて三の丸の建物や武蔵野御殿、向屋敷などの数多くの建物が取り壊されたそうだ。また、長い間修理されなかったために次第に城や曲輪の傷みが激しくなっていくことになる。

姫路城古写真

明治10年頃になってようやく、日本の城郭を保存しようという動きが出てきたのだが、この頃の姫路城は、屋根は傾いて草が生え、壁や石垣は崩れたまま放置されているような状態だったという。
次のURLに傷んだ姫路城の写真が掲載されているが、こういう写真を見るのは悲しいものである。
http://blogs.yahoo.co.jp/digital_devil0611/2603377.html

明治政府は明治12年(1879)に応急的な修理を施したのだが、腐朽がさらに進行して、明治41年(1908)になって姫路市民による白鷺城保存期成同盟が結成され、また城下各地の有志達の衆議院への陳情が実って、よってようやく明治43年(1910)に国費9万3千円が支給され、本格的な修理工事(明治大修理)が行われることになる。

それ以降何度か修理が行われて、美しい白鷺城の姿が維持されてきたのだが、その後わが国が第二次世界大戦に巻き込まれて、昭和19年(1944)以降はわが国の各地でB29による本土空襲が行われるようになる。
当時の姫路市は軍需産業の拠点であり、さらに姫路城には陸軍の部隊が置かれていた。
姫路市が空襲の対象とされ、そして、白くて目立つ姫路城が爆撃のターゲットとされる可能性は極めて高かったことを知るべきである。

そして昭和20年(1945)の6月22日には姫路市上空にB29が52機、7月3日にはB29が106機飛来し、大量の焼夷弾が市街全域に降り注いで多くの死者が出たのだが、不思議なことがあるものである。奇跡的に姫路城は焼失を免れたのである。

Wikipediaによると7月3日の空襲では、姫路城の天守に命中した焼夷弾があったが発火しなかったという。
たまたま空襲時刻が夜間であり、また空襲から守るために天守閣などに黒い網が掛けられていたことなどが幸いしたのだろう。あるB-29の搭乗員は姫路城一帯を沼地だと思って爆撃しなかったと述べたそうだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%9F%8E

姫路空襲のあとの姫路城

次のURLに、焦土となった市街地の中で、奇しくも焼けなかった姫路城を撮った写真が紹介されているが、空襲があったにもかかわらずこの城が無事に残されたのを見て、多くの姫路市民が歓喜の涙を流したことだと思う。
http://blogs.yahoo.co.jp/digital_devil0611/11833235.html

姫路城 にの門から

姫路城の散策の話題に話に戻そう。
上の画像はにの門あたりから天守閣を写したものだが、この城は、壁も柱も軒下も真っ白な漆喰(しっくい)で塗り込められている。

姫路城 漆喰

何処から城を見ても木が剥き出しになっている部分がないので、敵方がいくら火矢を放っても城には簡単に火が点かない構造になっている。

姫路城 西大柱

天守閣の中に入ると東西に心柱があり、根元の直径は95cmで高さは24.6mもあって地階から6階の床下まで伸びているという。

姫路城武者隠し

上の画像は3階にある武者隠しだが、姫路城天守閣内部については『お城めぐりFAN』に豊富な写真で詳しく説明されているので、訪問される前に目を通しておくことをお勧めしたい。
http://www.shirofan.com/shiro/kinki/himeji/himeji.html

各階にはパネルなどの展示物は極めて少なく、また部屋に襖絵等が描かれているわけでもないので、5階までは観光客はほとんど渋滞せず順調に進むことが出来るのだが、最上階に上る階段の登り口ではしばらく待たされることとなる。

最上階の広さは115㎡あるのだが、観光客のほとんどが眺めの良い最上階で長時間景色を楽しもうするので、登る人数をある程度制御しないと最上階が大混雑してしまうことが避けられない。
それゆえに、最上階が混雑するようになると、5階から最上階に向かう観光客の動きを止めて、上り専用の階段をしばらく下り用に切り替えて、最上階の観光客数を減らしてから、登りの観光客を案内する…、これを繰り返すことになる。ひどい日には待ち行列が入城口まで続いて、入場制限が行なわれることになるのだが、こんな日に訪れるのは避けたいものである。

姫路城 天守より西の丸

最上階に上がると姫路市街が一望できる。上の画像は西の丸方面を撮影したものである。

姫路城 西の丸から

天守閣を楽しんでから、西の丸に向かう。
西の丸から眺める天守閣もなかなか美しいので、思わずシャッターを押してしまった。

姫路城 西の丸 百軒廊下

西の丸というと、徳川家康の孫の千姫が本多忠刻(ほんだただとき)に嫁したことで、夫が死亡するまでの10年間をこの姫路城で過ごしている。

姫路城 西の丸 百軒廊下内部

西の丸に入ると「百間廊下」という長い廊下を進んでいくことになるのだが、出口近くに、千姫が嫁いだときに持参した10万石で建てたという「化粧櫓」がある。

姫路城 西の丸 化粧櫓

千姫は、本多家の繁栄を願って建立した男山八幡宮を西の丸から朝夕遥拝したと伝えられているが、その時にこの場所で休息したという。「化粧櫓」には千姫と勝姫が親子で百人一首に興じている人形が展示されていた。

好古園 1

姫路城西御屋敷跡庭園の「好古園(こうこえん)」は、姫路市制100周年を記念して平成4年に造営された池泉回遊式の日本庭園である。

好古園 瀧

上の画像は「御屋敷の庭」を撮ったものだが、他にも「流れの平庭」「夏木の庭」「築山池泉の庭」など9つの異なった趣の庭園群で構成されている。中に活水軒というレストランもある。

姫路城は昨年3月のグランドオープン以降1年間の観光客が277万8千人に達して、年間の城郭入場者数の歴代記録であった熊本城の221万人を大きく上回ったのだそうだ。この記録は当面破られることはないだろう。

Wikipediaによると姫路城の『平成の大改修』の改修費は28億円とのことだが、決して高くない金額である。
姫路城の入場料は大人1000円、小人300円で、売店のパンフレットやグッズなどの売上まで考慮すれば、1年間で277万8千人もの入場者があったのなら、わずか1年間で、改修費相当額を入場料や売店の粗利益で回収していてもおかしくない計算になるだろう。

次のURLに「21世紀委員会が発表した『無駄な公共事業100』」のリストが出ているが、あまり役に立ちそうもない工事に数百億以上の血税を費しているのがこの国の現状だ。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~one_of_bassers/koukyoujigyou_100.htm
無駄な公共事業に莫大な税金を使うくらいなら、わが国の価値ある文化財を将来に残す事にもっと取り組んでほしいものだと思う。
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新緑の書写山・円教寺と、その「奥の院」と呼ばれる弥勒寺に残された神仏習合の世界

姫路城を楽しんだ後、西国三十三ヶ所の第二十七番札所である円教寺に向かう。

この寺は標高371mの書写山(しょしゃざん)の山上にあり車で行くことは出来ないので、カーナビの目的地を書写山ロープウェイ(079-266-2006)にセットする。姫路城の大手門前駐車場から15分程度で山麓駅のパーキングに到着する。

円教寺境内

書写山ロープウェイは、毎日8時30分以降、毎時0分、15分、30分、45分に出発するが、団体客がある時などはたまに増発される。
山上駅の近くにある「慈悲の鐘」から本坊寺務所の近くまでバスも出ているが、ここから摩尼殿までは歩きやすい道が1km程度続いているので、小鳥の囀りを楽しみながら歩いて参詣することを勧めたい。

円教寺 仁王門

山上駅から600mほど進むと仁王門(兵庫県文化財)がある。門の入口の扁額には「志ょしゃ寺」と書かれているが、この寺の創建当時はこの寺を「書写寺」と称していたそうだ。

性空上人像

ここで、この寺の歴史を簡単に振り返っておこう。
九州での修行を終えた性空(しょうくう)上人が、康保3年(966)年に新たな修行の地を求めて書写山に入山し、山内の西の谷に草庵を結んだとされている。
その後、上人の名声が都まで届くようになり、寛和2年(986)には花山法皇が参詣されて、法皇より「圓教寺」の寺号を受け、勅願寺の待遇を与えられたという。
そして永延元年(987)には講堂が完成し、比叡山から名だたる高僧を招いて盛大な落慶法要が営まれ、その後も数々の堂塔が整えられて、承安4年(1174)には後白河法皇が参籠するなど圓教寺は「西の比叡山」と呼ばれて栄えていくのだが、元弘元年(1331)3月の落雷による火災で大講堂、常行堂、五重塔などを焼失してしまう。
その後再建されたのだが、戦国時代に入り羽柴秀吉がこの書写山を軍事拠点としたことから、多くの僧が僧坊を追われ、この時期に多くの寺宝が持ち去られたという。

円教寺 湯屋橋

ロープウェイ山上駅から12分程度歩くと「湯屋橋」という石橋がある。そこにある案内板にこう解説されている。

「…本多忠政は元和3年(1617)に池田光政転封のあと姫路城主となり、元和6年(1620)書写山に参詣してその荒廃に驚き、一門・家臣・城下で寄進を募り復興に尽力し、湯屋橋もこの時再興された。書写山の荒廃は天正6年(1578)三木城の別所長治離反に対し羽柴秀吉が当地に要害を構え布陣したことによる
 湯屋橋の名はこの辺りに湯屋(沐浴所)があったことにちなむ…」

かくして江戸時代に入って円教寺は以前の荘厳さを取り戻し、西国三十三ヶ所の第二十七番札所として賑わうようになるのだが、明治維新後に神仏分離令が出され、大幅に寺の収入が失われたために多くの僧侶が寺を去ったという。しかしながら、寺の建物や仏像等、多くの文化財が護られて今日に残されているようだ。

円教寺 摩尼殿

湯屋橋を渡ると崖の上に摩尼殿(まにでん:国登録有形文化財)が聳え立つ。
摩尼殿の号は承安4年(1174)に参詣した後白河法皇によるもので、「摩尼」とは梵語で「如意」を意味するのだそうだ。法皇は摩尼殿の御本尊が如意輪観音なのでそう名付けたのであろう。
この御本尊は秀吉の播磨制圧の際に、他の寺宝とともに近江の長浜に持ち去られたのだが、天正8年(1580)に、長浜より如意輪観音像だけが戻されたと記録されているそうだ。

円教寺 摩尼殿 構造

この摩尼殿は舞台造りの素晴らしい木造建築物で、旧堂が大正10年(1921)12月に焼失したあと再建に着手され、昭和8年(1933)に落慶している。

案内板には「設計は近代日本を代表する建築家の一人である武田五一が設計し、大工棟梁家の伊藤平左衛門が請負った。」とあるが、このような木造建築を造る伝統技術が今もしっかり承継されているのだろうか。こんなに太い木材を用いて釘を一本も使わずに建てられたことはすごいことだと思う。

円教寺 摩尼殿内部

上の画像は摩尼殿の内部を撮ったものだが、この建物が昭和時代に再建されたものとはとても思えなかった。

円教寺 摩尼殿新緑 2

円教寺は兵庫県の紅葉の名所として有名な場所だが、新緑の摩尼殿もなかなか美しい。

円教寺 三つの堂

摩尼殿から三之堂(みつのどう:大講堂、食堂、常行堂がコの字状に並んでいる)に向かう。摩尼殿から歩いて5分くらいで到着する。

円教寺 大講堂

上の画像は北側にある大講堂(国重文)で、下層は永享12年(1440)に、上層は寛正3年(1462年)に建造され[、文明年間(1469~1487)に全体が整備されたという。内陣には釈迦三尊像(国重文)が安置されている。

円教寺 常行堂

上の画像は南側にある常行堂(国重文)で、寺伝によれば元弘年間(1331~1334年)に建立され、永享8年(1436)の焼失後、享徳2年(1453)に再建されたという。本尊は阿弥陀如来(国重文)で、僧侶が常行三昧をするための道場であったという。舞台は、大講堂の釈迦三尊像に舞楽を奉納するために設けられたのだそうだ。

円教寺 食堂 常行堂

西側にあるのが食堂(じきどう:国重文)で、承安四年(1174)に創建されたものである。わが国の近世以前の仏堂建築でこのように長大かつ総二階の建物は他に例がないという。この建物は映画『ラスト・サムライ』で渡辺謙演じる勝元の住居という設定でロケが行われた場所なので、見覚えのある方が多いのではないだろうか。

この食堂の2階は宝物館になっていて、食堂本尊の僧形文殊菩薩像ほか五大明王像、薬師如来像等の仏像や、弁慶の机、姫路城の瓦などの貴重な文化財が多数展示されている。

円教寺 旧大日堂仏像群

その中で「旧大日堂仏像群」という16体の破損仏が目にとまったので紹介したい。
この破損仏については、こう解説されていた。
「制作年代 10~11世紀
 所有者  姫路市夢前(ゆめさき)町糸田自治会
 姫路市夢前町糸田地区の大日堂に安置されていたもの。大日堂は廃仏毀釈を免れるため、糸田村の所有とすることで、周辺の諸仏も守ることができ、現存に至った
 しかし昭和30年代に大日堂は維持困難となり、仏像群は公民館に移され建物は取り壊された。さらにその公民館も平成12年老朽化に伴い処分が決定した。その際、旧夢前町教育委員会、兵庫県立歴史博物館、早稲田大学により調査後、同町内法界寺に安置されることとなったが、横たえた状態であった。
 そして平成18年、ようやく早稲田大学櫻庭祐介氏のご尽力により、保存修復により個々自立できようになり、祈りの対象としての姿を取り戻した。そして一時、円教寺に奉安することとなったのである。
 歴史をくぐり抜けてきた仏像群を皆さまの目にふれる形で展示することができ幸いである。」

せっかく廃仏毀釈による破壊を免れたのに、保存環境が悪かったために朽ち果てて原型を留めていないことは残念なことである。
木造仏は加工しやすい利点はあるが、傷むのが早いことを知らねばならない。

円教寺 開山堂

食堂から2分ほど歩くと、奥の院があり開山堂(国重文)、護法堂(国重文)、護法堂拝殿(国重文)がある

円教寺 開山堂 左甚五郎 力士彫刻

開山堂の軒下の四隅に、屋根の重みを顔をしかめて支えている力士の像がある。これは、江戸時代の名工・左甚五郎の作と伝えられているのだが、なぜか北西の隅には像がない。

円教寺 護法堂

開山堂の右にある護法堂は、乙天(不動明王)、若天(毘沙門天)の二人の童子を祀る神社で、永禄2年(1559)に再建されたものだが、円教寺ではこのように神仏習合の景観が今も残されているのだ。

以前このブログで、播磨の朝光寺や浄土寺や鶴林寺に神仏習合の風景が残されていることを記したことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-357.html

江戸時代最後の大老が姫路藩の酒井忠績だったこともあって、播磨では明治新政府の政策に非協力的だったのかもしれないが、「旧大日堂仏像群」を見てもわかるように播磨の諸寺に対して新政府から「廃仏毀釈」を迫る圧力があったことは確実で、次のURLでは加古郡では27ヶ寺が廃寺に追い込まれたことが記されている。
http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630/c/df3e9d585cb4f9aa400a37aff1bd8f83/4


圓教寺 3つの堂 播磨名所巡覧図会

文化元年(1803)に出版された、『播州名所巡覧図会』五巻にその頃の円教寺の三つの堂と奥の院が描かれた図がある。この絵を見ると、今の円教寺は文化年代の伽藍配置とほとんど変わっていないことが見てとれる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563457/35

円教寺がこれらの堂宇や仏像などを廃仏毀釈で破壊される危険から護ることに、様々な苦労があったと考えるのだが、その点に関しての当時の記録はネットでいろいろ検索しても見つけることができなかった。

円教寺 鐘楼

開山堂の近くには他にも鐘楼(国重文)、金剛堂(国重文)、十妙院(国重文)があり、ロープウェイ山上駅から摩尼殿に向かう途中には壽量院(国重文)があり、書写山全体が文化財の宝庫なのである。
壽量院では4月から11月の間、書写塗りの食器で精進料理をいただけるのだそうだが、3日前までに5人以上の予約が必要だという。
『食べログ』のコメントを読むと、精進料理は5400円のコースと10800円のコースの2つがあり、季節によって特別料理のそば御膳(3500円)が準備されるという。一度でいいからこういう場所で食事をしたいものである。
http://tabelog.com/hyogo/A2805/A280501/28023379/dtlrvwlst/6290858/

書写山を下りて、書写山・円教寺の奥の院と言われている弥勒寺(079-335-0330)に向かう。ケーブルの山麓駅から約10kmで、20分ぐらいで到着した。

弥勒寺

弥勒寺は、円教寺を開山した性空上人が長保2年(1000)に隠棲の地として草庵を営まれたのが始まりとされ、花山法皇が上人の徳を慕い長保4年(1002)に行幸され、勅命により播磨国司巨智延昌(こちのえんしょう)に諸堂を建てさせて、以後弥勒寺と呼ばれるようになったと伝えられている。

弥勒寺 本堂

本堂(国重文)は天授6年(1380)に赤松義則(よしのり)が建立したもので、本尊の弥勒仏(国重文)は長保元年(999)に安鎮が制作したと伝えられているのだが、普段は公開されていないので仏像を参拝することはできなかった。次のURLに本堂内部のレポートがあるが、予約すれば案内していただけたのかもしれない。
http://blogs.yahoo.co.jp/teravist/32993620.html

弥勒寺 開山堂

開山堂には性空上人の尊像が安置されていて、その厨子は県の重要有形文化財に指定されている。またその横には、鎌倉時代に制作された性空上人の供養塔がある。

弥勒寺 護法堂

また、円教寺と同様に護法堂があり、乙天(不動明王)、若天(毘沙門天)の二人の童子を祀る神社がある。風雨にさらされて傷まないように覆い屋で守られていたが、いずれも姫路市文化財に指定されている。

規模は小さいものの、このように多くの文化財を保有する古刹であるのだが、普段は拝観が出来ない様なので、ほかには観光客は誰もいなかった。
東大寺や清水寺のように観光客の多い寺社は収入面では問題ないのだろうが、地方には多くの文化財を持ちながら観光客がほとんど来ない寺社が少なくない。
もちろん寺社には観光収入以外に宗教活動に伴う収入があるのだが、その肝腎な部分の収入が先細りになっているケースが少なくないのが問題である。

高度成長期以降、地方で働く場が失われて若い世代が都心に移住したまま故郷に戻らないために、地方の多くは過疎化・高齢化が進行するばかりで、それまで地方の寺社を支え、間接的に文化財を支えてきた檀家や氏子のほとんどが年金生活者と化してしまっている。

このような状態をいつまでも続けば、いずれは地方の文化財を護ることが難しくなり、地方の伝統文化や地域の魅力が失われていくばかりではないか。そのことは長い目で見れば、わが国全体の観光価値を低下させることにもつながるのだと思う。

以前このブログで記したが、国や地方の文化財指定があっても、修理に必要な費用の何割かは自らが工面しなければならない。しかも文化財の価値を減じることのないように、昔と同様の建築工法で修理しなければならず、そのために結構な資金を用意する必要があるのだ。

今の文化財保護法では地方の文化財は守れない。この法律では、大手建設業者やセキュリティサービス業者は潤っても、寺社は逆に富を吸い取られることになりはしないか。

文化財を守るために一番大切な事は、これらの文化財を代々大切に守ってきた人々が、地元で普通の暮らしができる環境を整えることではないのか。
若い世代が地元に残って生活が出来ない地方に未来はなく、地方の経済を活性化させて若い人が戻って来る経済施策こそが、地域の文化財を守り、地域の伝統文化を後世に繋いでいくために必要なことなのだと思う。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。
よかったら、覗いてみてください。

聖徳太子の時代に建てられた寺院がなぜ兵庫県にあるのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-286.html

播磨の古刹を訪ねて~~~聖徳太子ゆかりの斑鳩寺と随願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-287.html

播磨の国宝寺院の神仏習合の景観を楽しんで~~朝光寺・浄土寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-357.html

但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

日本百名城の一つである小諸城址から龍岡城跡、新海三社神社を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-401.html



紅葉を訪ねて播州清水寺から生野銀山へ

紅葉の美しい季節となったので、今年も紅葉名所などを訪ねながら日本海に向かうドライブツアーを企画して先日行ってきた。近年外国人観光客が激増して有名な社寺は駐車場待ちとなるリスクがあり時間のロスが大きくなるので、今年は、あまり有名でない寺社を中心に計画を立てていた。

播州清水寺仁王門

最初に訪れたのは兵庫県加東市にある西国三十三所巡礼観音霊場第二十五番札所の清水寺(0795-45-0025)。上の画像はその仁王門である。
この寺の建物は大正2年(1913)の山火事で全焼し、現在の建物はすべてその後に再建されたものなのだが、寺の歴史はかなり古く、寺伝によると景行天皇のころに法道仙人が創建し、推古天皇35年(627)に推古天皇の勅願で根本中堂を建立し、さらに神亀2年(725)聖武天皇が行基に命じて講堂を建立したと伝えられている。

播磨名所巡覧図会 清水寺

文化元年(1804)に出版された『播磨名所巡覧図会』の第2巻に、焼失するかなり前のこの寺の境内が描かれていて、国立国会図書館デジタルコレクションで誰でも見ることができる。これを見ると以前は多宝塔や阿弥陀堂などもっと多くの建物があったことがわかる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563455/52

播州清水寺薬師堂十二神将像

最初に昭和59年(1984)に再建された薬師堂に入る。
この建物の中に奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」の作者として知られる薮内佐斗司氏制作の十二神将が安置されている。あまり武将らしくなく、どこか愛らしいところが良い。

武田五一

大正6~9年(1917~20)に再建された根本中堂、大講堂、本坊、客殿は京都大学武田五一博士の設計によるもので、いずれも国の登録文化財に指定されている。

播州清水寺大講堂

上の画像は大講堂だが、100年前にはこのような立派な建物を設計し、後世に文化財に指定されるような価値ある建物を建てるだけの技術の伝承と人材が残されていたのだが、今は大丈夫なのだろうか。

播州清水寺大講堂の紅葉

大講堂は西国二十五番の札堂で、聖武天皇の勅願所なのだそうだ。この大講堂の西側の紅葉が実に素晴らしい。

播州清水寺本坊

紅葉を楽しみながら大講堂から石段を下りて本坊に向かう。ここに清水寺の寺務所がある。

播州清水寺大講堂の紅葉2

上の画像は本坊付近から大講堂を写したものだが、かなり落葉していても充分に楽しめる。この寺の紅葉は上から眺めても、下から見上げても美しい。

播州清水寺根本中堂

階段を上って再び大講堂の前に出て、さらに上にある根本中堂に向かう。ここは推古天皇の勅願所で、開山の法道仙人が彫ったと言われる十一面観音像(加東市指定文化財)が本尊として安置されている。本尊は秘仏なので観賞することはできなかったが、30年に一度の御開帳が、いよいよ来年(平成29年)なのだそうだ。寺のHPで来年の11月1日より1か月間特別拝観が出来ることが公開されている。
http://kiyomizudera.net/gokaityou.html

この根本中堂よりさらに奥に以前は多宝塔があったのだが、大正2年(1913)の山火事で他の堂宇とともに焼失したのち、大正12年(1923)に再建されたのだそうだが、昭和40年(1965)の台風で大破してしまい取り壊されてしまった。寺のホームページでは「現在再建予定」とだけ記されている。

h_kiyomizu81s.jpg

minagaさんの『がらくた置場』に多宝塔が現存していた時代の写真が数枚紹介されているが、上の画像は根本中堂から撮影したものである。かなり大きな多宝塔であり、再建するとなると巨額な建築資金が必要となるが、いつしか再建される日が来ることを祈りたい。

次の目的地はドライブの休憩もかねて道の駅「杉原紙の里・多可」(0795-36-1919)に向かい、地元の農産物や菓子などを購入後近くにある和紙博物館に入る。

和紙博物館

今でこそ紙は安価で容易に手に入るが、昔は1枚1枚手で漉いて生産されるものであり、かなり高価なものであった。
ここ杉原谷で紙を漉き始めたのは7世紀の後半と推定されていて、当時の播磨国は、出雲・美作・美濃・越前・尾張などと並ぶ製紙の先進国とされ、特に播磨の紙は需要が高く珍重されたことが次のURLで詳述されている。
http://www.town.taka.lg.jp/sugiharagami/rekishi2.html

平安時代中期から室町時代末期までは、藤原摂関家荘園の「椙原庄(すぎはらのしょう)」があったことから、この地で生産される紙は「椙原(すぎはら)紙」と呼ばれ、写経などに用いられる高級紙として贈答品や献上品として用いられたほか、鎌倉時代には幕府の公用紙として用いられていた。江戸時代には300軒も余りの製糸業者がこの地域に存在していたそうなのだが、機械漉きの西洋紙が急速に普及したため、大正期にはこの地で紙漉きが行なわれなくなってしまったという。
しかしながら杉原紙研究のためにこの地を訪れた寿岳文章氏、新村出氏がこの地を訪れたことをきっかけにして、半世紀ぶりに再び紙漉きが行なわれるようになり、今では県の重要文化財、伝統工芸品に指定されている。

青玉神社鳥居

道の駅の向いに青玉神社という古い神社があり、その境内にある杉の巨木のうち7本が兵庫県の指定文化財になっているので立ち寄ってみた。

青玉神社 大杉

この神社の杉の樹は、高いもので50~60mあり樹齢は一番古いもので約1000年というのだが、このような巨木が林立している場所はそう多くはないだろう。

青玉神社 紅葉

こういう巨木は何世代にもわたり神聖なものとして大切にされなければ残りえないことは言うまでもない。見ているだけで不思議なパワーを授かったような気になる見ごたえのある大樹なので、この近くに来られた時に立ち寄られることをお勧めしたい。鳥居の近くの紅葉もまた良かった。

大名草庵

上の画像は昼食をとった大名草庵(おなざあん: 0795-87-5205)。道の駅から8km程度走れば到着する。
茅葺の家で石臼挽き・手打ちの美味しい十割蕎麦がいただけるお店で、テレビでも紹介されたことがある人気店舗なので、平日でも早目の予約が必要だ。
http://blog.livedoor.jp/onazaan_sobadokoro/archives/51103974.html

大明寺

大名草庵から次の目的地の大明寺(079-679-2640)に向かう。

大明寺は南北朝時代に、美濃の僧・月菴宗光(げつあんそうこう)が開山となって創建されたと伝えられ、室町時代には但馬の守護山名氏の援助を受け、江戸時代には幕府から朱印状を受け、多くの末寺を有した寺だという。

大明寺 開山堂

この寺の方丈と庫裏と開山堂が朝来市の有形文化財に指定されているのだが、茅葺の開山堂の屋根は相当傷んでいた。山深い里で施設を維持することは大変だと思うが、こんな状態だと雨漏りがして柱や仏像が腐食しないかと心配になってくる。

銀山湖

大明寺から銀山湖に向かう。銀山湖は黒川渓谷をせき止めた人造湖で、所々紅葉が美しい場所があり、車を停めて撮ったのが上の画像。他にも綺麗な場所がいくつかあったが、駐車スペースが無くて通り過ぎてしまった。

銀山湖から山道を下って次の目的地である史跡生野銀山(079-679-2010)に到着。

生野銀山

生野銀山は石見銀山(島根県)とともに、戦国時代以降のわが国を代表する銀山で、江戸時代元禄期に書かれた『銀山旧記』という書物に、「但州生野銀山は、天文十一年(1542)壬寅(みずのえとら)二月上旬に城山の南表に銀石初めて掘り出し、蛇間歩(じゃまぶ)と号す」と記されている。
但馬守護の山名祐豊(すけとよ)が、古城山南麓に城を築いて銀山を守ったが、その後竹田城主の太田垣氏が支配するようになり、播磨の赤松氏との対立が続いたという。
そして天正5年(1577)に織田信長の命を受けて羽柴秀吉が但馬に兵を進め、まず生野銀山を没収し竹田城を攻略し、続いて山名氏の本拠出石城を攻めて勝利し、これを機に生野銀山は織田氏の管掌下となったが、本能寺の変の後は豊臣氏の直轄地とされている。銀の採掘は活発に行われ、慶長二年(1597)の記録によると、生野の運上銀は全国の78%にも及んだという。

ジャン・フランソワ・コアニエ

江戸時代には生野奉行所が銀山と南但馬の天領を支配し、明治維新後は日本初の官営鉱山とされ、フランス人技師ジャン・フランソワ・コアニエを鉱山師兼鉱学教師として招き、近代化を推進。明治22年(1889)に皇室財産とされた後、明治29年(1896)に三菱合資会社に払い下げられ、以後国内有数の大鉱山として稼働してきたが、昭和48年(1973)に閉山している。その間に掘り進んだ坑道の総延長は350km以上、深さは880mに及ぶという。
生野銀山のホームページによると坑道の総延長距離は、新大阪から静岡駅までの距離に相当するとあるのだが、それだけ多くの銀の鉱脈があったということだろう。

坑道の中を見学できるので入ったが、観光客用の坑道だけでも出口まで1kmもある。
江戸時代の坑道は人がやっと通れる程度の大きさしかなく、こんな狭い場所でノミを使って採掘していたことには驚きを禁じ得なかった。

生野鉱山職員宿舎

生野銀山からさらに3kmほど西に行くと、旧生野鉱山職員宿舎(079-670-5005)がある。
官営生野鉱山時代の建物が4棟を修復し残されていて、朝来市の重要文化財に指定されている。
昭和の日本映画の名優・志村喬さんはこの宿舎の1棟に生まれて育ったのだが、残念ながらその家は残されておらず、庭にあった松の木だけが残されている。そして現存の建物のうち1棟(甲7号)を「志村喬記念館」として、彼が生野に住んでいた頃の写真や俳優時代の資料などが展示されている。

志村喬記念館

志村喬さんは本名を島崎捷爾といい、島崎家は代々土佐藩に仕える士族であった家柄で、捷爾の祖父は土佐藩主・山内容堂の小姓から250石取りの祐筆にあがり、鳥羽伏見の戦いには隊長として参戦した経歴を持つ武士だったそうだ。しかしながら、明治維新後に士族は冷遇されることとなり、祖父は財産を失ってしまうことになる。
捷爾の父親は苦労して夜間の工手学校を卒業して冶金技師となり、明治から大正時代にこの生野銀山に勤務していて、この北隣の官舎(甲11号)に住んでいたという。その家で彼は生まれ、多感な時期を過ごしたのである。
捷爾少年の父親は生野銀山の上級職で収入も多く、女中さんも雇う裕福な暮らしをしていたようだが、生野尋常小学校を卒業すると、親元を離れて兄の通っている神戸第一中学校に入学することとなる。しかし2年の時に体調を崩して休学し、その後父が宮崎に転勤して捷爾少年は宮崎県立延岡中学校に転校することとなったのだが、そこでも家族と一緒に暮らしてはおらず、3年の時に亡くなった母の死に目には会えなかったという。

七人の侍の志村喬
【『七人の侍』の志村喬】

中学卒業後の大正12年(1923)に関西大学予科に入学するが、まもなく父が退職したことから学資の援助が得られなくなり、夜間の専門部英文科に転じて大阪市水道局の臨時職員として生計を立てようとしたが、次第に芝居に熱中するようになり、仕事も欠勤が続いてクビになり大学も中退して劇団に飛び込んだのだがうまくいかず、昭和9年(1934)に映画俳優に転向することを決意し新興キネマ京都撮影所に入社し『赤西蠣太』などに出演。昭和12年(1937)に日活京都撮影所に移籍以降から芸達者な時代劇の脇役として認められ、昭和18年(1943)の東宝入社後黒沢明監督との出会いがあり、『姿三四郎』『醉いどれ天使』『羅生門』『生きる』『七人の侍』などに出演し、その演技力が高く評価された。

志村喬

志村さんが生涯で出演した映画は443本にもなるのだそうだが、二枚目でもなく三枚目でもない、朴訥だが人間味があり風格もある志村さんのような俳優が、若い世代から出てきてほしいものである。

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明治維新の魁(さきがけ)とされる生野義挙のこと

旧生野鉱山職員宿舎から西に400mほど歩くと生野小学校があり、その南東隅に『生野義挙跡』の石碑(市指定文化財)が建っている。

生野義挙碑

以前このブログで文久3年(1863)8月に奈良で起きた『天誅組の変』のことを書いたが、『生野義挙』というのは、『天誅組の変』の2カ月後に尊王攘夷派が挙兵した事件をいう。いずれも明治維新の魁(さきがけ)ともよ呼ばれる事件なのだが、教科書などでは何も書かれていない。

たとえば、『もういちど読む 山川日本史』には、この事件前後の歴史をこう記している。
「攘夷の機運が高まるなかで、外国人殺傷事件もしばしばおこった。1862(文久2)年には神奈川に近い生麦で、薩摩藩士がイギリス人を殺傷する生麦事件がおこり、翌年イギリス艦隊がその報復として鹿児島を砲撃するという事態に発展した(薩英戦争)。幕府も急進派の動きにおされて諸藩に攘夷決行を命じ、長州藩では下関の海峡をとおる外国船を砲撃した。しかし朝廷内では、保守派の公家が会津藩とむすんで、1863(文久3)年8月、武力を用いて三条実美ら急進派公家と長州藩の勢力を朝廷からのこらずしりぞけた(八月十八日の政変)。長州藩は翌64(元治元) 年、池田屋事件をきっかけに京都に攻めのぼったが、薩摩・会津両藩は協力してこれを打ち破った(禁門の変、蛤御門の変)。こうして朝敵となった長州藩は、幕府の征討(第一次長州征討)をうけることとなった。」(『もういちど読む 山川日本史』p.214)

この記述では、朝廷内では攘夷をとなえる急進派が斥けられたことは記されているが、八月十八日の政変までは朝廷では尊王攘夷派の勢力が強かった。

孝明天皇
【孝明天皇】

文久3年(1863)8月13日に孝明天皇の大和親征行幸の詔勅が発せられている。
原文では「為今度攘夷祈願、大和国行幸、神武帝山稜春日社等御拝、暫御逗留、御親征軍議被為在、其上神宮行幸事」とあるが、これは孝明天皇みずからが大和に行幸し神武天皇陵に参拝するとともに、ここで攘夷親征の軍議を固め、そのうえで伊勢神宮に参拝するという意味
である。

言うでもなく、この詔勅は開国を推し進めてきた江戸幕府の政策と相反するものであり、御親征の軍議を行なうということは、天皇が中心になって討幕運動を始めようとするようなものである。
そして、西国の雄藩であった長州藩はこの攘夷親征の強力な支持者であり、彼らは尊王攘夷の旗印のもとに幕府を倒し、そのあとに作られる政府の中心になろうとしていたと考えて良い。

当時は攘夷親征を実現しようとするいわゆる「勤王の志士」が全国各地に現われたのだが、彼らが攘夷をとなえ天皇親征を考えるに至ったのはなぜなのか。

『スーパー日本史』で古川清行氏の解説がわかりやすい。
「◎国学の影響も受けながら、『日本は神国である』と信じている者たちにとって、紅毛の夷狄(いてき:外国人に対する蔑称)の存在は唾棄すべきものであった。
◎しかもその夷狄は我が物顔に神州を横行し、支配階級である武士に対しても、優越的で横柄な態度を示している。これは武士の誇りを傷つけるものであった。それなのに、それにへつらう者が少なくないという状況もある。
幕府は、その夷狄の言いなりになって開国し、勅許を得ないで条約を結んだ。この行いは、尊王を志す者たちにとって許し難いことであった。
開国以来、物価の上昇が急激であった。そしてその原因は、夷狄によってわが国の富が吸い上げられていることにあると考えられた
右のように考えてくると、尊攘論者にとっては、外国人やそれにへつらう者たち、また幕府の手先になって尊攘の活動を妨げる者たちは、まさに仇敵であり切り殺されても仕方のない理由をもつ者たちであった。

こうして1860年代の前半には、尊攘に逆らう者たちに『天誅』をくだすことが流行するようになった。天誅とは、『罪ある者を、天に代わって討ち果たす』という意味である。

◎1862年、朝廷に仕える公卿九条家の家来の島田左近が殺され、その首が四条河原にさらされた。左近は、安政の大獄のときに幕府方にたって活躍した人物である。

◎1863年、洛西の等持院に押し入り、足利尊氏・義詮・義満の木像の首と位牌を奪った者が、これを賀茂川原にさらした。これは、将軍家茂の上洛を前に、『鎌倉以来積み重ねてきた罪を償う措置を取らない限り遠からず全国の有志大挙してそれを糺すであろう。』という意志を表明したものであった。

などというのもその表れであるが、このころ天誅の犠牲になった者は、数知れないほどいたのである。」(『スーパー日本史』p.472)

以前このブログで、文久2年(1862)に起きた生麦事件のことを書いたが、この事件は決して単純な攘夷殺人ではなかった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-317.html

当時のわが国では、安全のために武士であっても狭い市中での乗馬は禁止されていたのだが、4人の英国人が騎乗のままで島津藩の行列に遭遇し、「馬を下りよと」命じられたにもかかわらず、それを無視して薩摩藩政の最高指導者・島津久光の駕籠に近づいて行った。
今の世の中でも、パレードの最中に中央にいる重要人物に向かって制止されても接近していく人物がいたとしたら、国によっては射殺されてもおかしくないだろう。

生麦事件


斬りつけられたリチャードソンらの尊大な振舞いは、当時の外国人からも強い批難があったのだが、幕府が結んだ安政の不平等条約では彼らに治外法権を認めていたために、わが国には外国人を裁く権利が存在しなかった。外国人がわが国の法律や慣習を意に介さずにやりたい放題にしていたことに憤慨する多くの日本人が出現したのだが、その要因の大半は外国人側にあったと言って良い

そして尊王攘夷派の中から、いち早く挙兵して討幕の先駆けになろうとする者が出てきて、天誅組の変や生野義挙が起きたのだが、そのような経緯を教科書のような書物から読み取ることは困難である。このブログで何度も書いているように、戦勝国に都合の悪い話はことごとく戦後の歴史叙述から消されてしまっているのである。

では生野義挙がどのような事件であったのか、簡単に振り返っておこう。

先ほど、文久3年(1863)8月13日に孝明天皇の大和行幸の詔勅が発せられたことを書いたが、孝明天皇が攘夷親征を決意されたからにはともに戦う兵士およびその兵糧や武器を調達するための資金が必要となる。
「天誅組の変」では先に大和入りして天領*である五條を平定しようと、中山忠光(明治天皇生母・中山慶子の実弟)、土佐脱藩吉村寅太郎、刈谷脱藩松本奎堂・備前脱藩藤本鉄石ら38名の同志が五條に向かい8月17日に五條代官所を襲撃したのだが、尊王攘夷派のやり方に反発する薩摩藩と会津藩とが、討幕に繋がる今回の行幸を阻止しようと手を組み、8月18日に宮中でクーデターを起こしたため、孝明天皇の奈良行幸が、急遽中止されることとなり、長州藩と尊王攘夷派公卿たちは京都から追放されてしまった。そのために天誅組は、皇軍御先鋒の大義名分を失い、反乱を起こした賊として討伐を受ける側に立たされ、9月27日に東吉野で壊滅してしまった。
*天領(てんりょう):江戸幕府の直轄領。幕府領、幕領とも言う。

平野國臣
【平野国臣】

この天誅組が大和で過激な行動を起こすことを危惧した公卿三条実美(尊王攘夷派)は、挙兵を中止させるべく平野国臣(福岡脱藩)を大和に送ったのだが、平野が到着したのは19日で天誅組が五條代官所を襲撃した2日後のことであった。
平野は21日に帰京したが、政局が一変した京都にいることは危険なので、但馬に逃れた。

但馬国は小藩の豊岡藩、出石藩以外は天領が多くを占めていて、生野銀山のある生野には代官所があった。生野義挙碑のあるあたりがその代官所の跡地だという。
また生野天領では豪農の北垣晋太郎が農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱え、薩摩脱藩の美玉三平と連携し農兵の組織化を図っていて、生野代官の川上猪太郎がこのような動きに好意的なこともあって攘夷の気風が強かったようだ。

北垣晋太郎
【北垣晋太郎】

平野は、天誅組を援ける為に、但馬で声望の高い北垣晋太郎と組んで10月10日に生野で挙兵することを計画。
長州三田尻にて保護されている攘夷派公卿の誰かを迎えさらに武器弾薬を調達するために長州に向かい、公卿澤宣嘉を説得し、尊王攘夷派浪士、奇兵隊員らを乗せて長州から播磨に向かったという。そして一行は播磨国飾磨に上陸し、そこではじめて天誅組の敗北を知ることとなる

生野義挙絵巻
【生野義挙絵巻】

平野は、天誅組が潰滅した以上は挙兵を中止すべきだと主張したが、結局、河上弥市(南八郎)らの挙兵強硬派の主張が勝り、11日に生野の手前の延応寺に本陣を置き、その夜に生野の代官所を襲いこれを占領した。

澤宣嘉
【澤宣嘉】

平野、北垣らは「当役所」の名で澤宣嘉の告諭文を発し、天領一帯に募兵を呼びかけたところ、その日正午には2000人もの農民が生野の町に集まったという。
しかしながら、幕府側の動きは早く、代官所留守から通報を受けるや豊岡藩、出石藩、姫路藩が動き、挙兵の翌13日には出石藩兵900人と姫路藩兵1000人が生野へ出動。
すると13日夜には肝腎要の主将の公卿・澤宣嘉が解散派とともに本陣から脱出。騙されたと怒った農民たちは、戦わずして逃れ、あるいは藩兵に応援して志士たちに銃口を向けることとなったという。

かくして生野での挙兵はあっけなく失敗にて終わるのだが、この挙兵は天誅組の挙兵とともに、明治維新の導火線になった事件であると評価されている。事件の顛末を見れば、決してそれほど大きな事件であったとは思えない人が大半だと思うのだが、当時幕臣であった福地源一郎が昭和11年に著した『幕府衰亡論』で、天誅組の変(大和義挙)と生野の変(生野義挙)は徳川幕府を倒すきっかけになったことを述べている箇所がある。この本は国立国会図書館デジタルコレクションで誰でもPC上で読むことができる。

福地源一郎
【福地源一郎】

「此の両挙は、東西その期合せず、加うるに烏合の過激党にして、其の数も僅少なりければ、忽ちに幕府より命じたる近傍諸藩の為に追討さられ、旬日を経ずして敗蹟して静謐に復したりき。但し此の両挙は、当時においてこそ、左までの影響なき様に見えたれ、今日よりして深く時勢の変移を察すれば、幕府はこの為に頗る重傷を被りたりと言わざるべからず。世上の人心この敗蹟を憫れむの情は、即ち他日討幕の決意を作興したるものなり。尊王攘夷の名義を以てすれば、政府に抗敵するに兵力を以てするも、世論は之を咎めざるの実証を示したるものなりき。然らば即ち討幕の大火団は、此の一小暴動これが燐寸(マッチ)の導火となって、後日に爆発せりというべき。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918535/110

福地源一郎は、「尊王攘夷」を唱えていれば幕府に武力を用いて敵対しても、世論はそれを咎めないことが広く知られるようになっていき、そのことが、のちに幕府が倒れることにつながっていったと述べているのだが、旧幕臣の言葉だけに重たいものがある。孝明天皇が幕府の方針に抗して攘夷親征を決意したことが、想像以上に幕府に大きな影響を与えたのである。

かに

生野の観光を終えて、宿泊先の香住に向かう。
毎年この季節に紅葉を楽しんだ後に、日本海のカニを食べることを楽しみにしているのだが、私がいつも宿泊する所は地元で獲れたカニを安く提供してくれそうな宿で、ここ数年は民宿を選ぶことにしている。今年は庄屋という宿でお世話になった。
あまり高くないコースを選んで別注でタグ付きの茹でガニをお願いしたのだが、なかなか大きなカニを用意していただいて嬉しかった。

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【ご参考】
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生麦事件は、単純な攘夷殺人事件と分類されるべきなのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-317.html

薩英戦争で英国の砲艦外交は薩摩藩には通用しなかった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-318.html

薩英戦争の人的被害は、英国軍の方が大きかった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-319.html

五條市に天誅組と南朝の歴史を訪ねて~~五條・吉野の旅その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-11.html

天誅組の最後の地・東吉野から竹林院群芳園へ~~五條・吉野の旅その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-12.html

天誅組の足跡を追って天辻峠から十津川村へ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-444.html

誇り高き十津川村の歴史を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-445.html



香住にある国指定重要文化財を楽しんで~~~帝釈寺、大乗寺を訪ねて

香住の宿をチェックアウトし、干物などの海産物を買い求めてから拝観を予約していた帝釈寺(0796-36-0717)に向かう。3年前に香住に来たときには、予約していなかったので寺の境内を散策しただけで終わってしまった。

帝釈寺

この寺は決して大きな寺ではないのだが、古い歴史を有しているだけでなく寺の創建に関して興味深い伝承を持つ寺である。

寺の案内板にはこの寺の創建についてこう書かれている。
「この寺の、本尊帝釈天は聖徳太子が自らお刻みになった尊像ですが、仏教排斥派により難波の海(大阪湾)に投げ込まれたものが白鳳4年(676)年に下浜枕ノ崎に漂着しました。地元の漁夫が救いあげ一堂を建立して安置して信仰をしました。午歳(うまのとし)のみに(12年目)開扉される秘仏として伝えられています。その後、大宝2年(702)に法相宗の開祖道照上人がこの地に来られ、自ら一刀三礼の厄除聖観音菩薩像(国指定重要文化財)をお刻みになり帝釈天の脇仏としてお祀りになり一大道場を建立されたのがこの寺の創建とされています。」

仏教の受容を巡って 蘇我氏と物部氏との対立が2代にわたり続いたのだが、2代目の蘇我馬子と物部守屋との抗争について『日本書紀 巻第二十』にはこう記されている。
「(敏達天皇14年)3月1日、物部弓削守屋大連と、中臣勝海大夫は奏上して『どうして私どもの申し上げたことをお用いにならないのですか。欽明天皇より陛下の代に至るまで、疫病が流行し、国民も死に絶えそうなのは、ひとえに蘇我氏が仏法を広めたことによるものに相違ありませぬ』といった。天皇は詔して、『これは明白である。早速仏法をやめよ。』と言われた。
 30日、物部弓削守屋大連は、自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき、その塔を切り倒させ、火をつけて焼いた。同時に仏像と仏殿も焼いた。焼け残った仏像を集めて、難波の堀江に捨てさせた。この日、雲がないのに風が吹き雨が降った。大連は雨衣をつつけた。馬子宿禰と、これに従った僧侶たちを責めて、人々に侮(あなど)りの心をもたせるようにした。佐伯造御室(さえきのみやっこみむろ)を遣わして、馬子宿禰の供養する善信尼(ぜんしんのあま)らを呼ばせた。馬子宿禰はあえて命に抗せず、ひどく歎き泣きさけびながら、尼らを呼び出して、御室に託した。役人はたちまち尼らの法衣を奪い、からめ捕えて海石榴市(つばきち)の馬屋館につなぎ、尻や肩を鞭うつ刑にした。」(講談社学術文庫『全現代語訳 日本書紀 下』p.68-69)

物部守屋が焼け残った仏像を捨てさせたという敏達天皇14年は西暦の585年で、この蘇我・物部両氏の対立は、2年後の587年に起きた丁未の役で蘇我馬子が物部守屋を滅亡させて仏教受容に対する抵抗勢力は姿を消し、593年には蘇我氏が支援した推古天皇が即位してわが国で仏教が拡がっていくことになる。

帝釈寺で頂いたパンフレットによると、御本尊の帝釈天王は「推古天皇の6年、聖徳太子が宮中に於いて勝鬘経を講ぜられし際、帝釈天の霊験に深く感ぜられ、太子自ら刻まれた等身帝釈天王像三躯の中の一躯であると伝えられており、…当時、仏教の排斥を唱えた守屋大臣の為に尊像は浪華の津に投入されたが、後に、縁あって天武天皇白鳳4年、下浜枕ヶ崎の一ノ瀬に漂着」と書かれている。
推古天皇の即位は物部守屋が丁未の役で滅ぼされた6年後の593年で、聖徳太子が帝釈天像を彫ったとされる推古天皇6年は598年という計算になり、その仏像が587年に滅ぼされたはずの物部守屋の命令で海に捨てられることはあり得ないことなのだが、このような伝承が、京都や奈良から遠く離れたこの寺に残っているということは興味深い。

帝釈寺本尊帝釈天像

上の画像は、パンフレットに掲載されている御本尊の帝釈天像で、秘仏として12年に1度だけ公開されるのだそうだ。像内背面に西暦1301年を意味する「正安三年七月十日」の墨書があり、鎌倉時代後期の作であることが確実なようだが、聖徳太子の作ではないにせよ、美術的にも価値ある仏像であることには相違なく、兵庫県の重要文化財に指定されている。

パンフレットによると、その後帝釈寺は「室町時代初期には七堂伽藍完備して一山寺院三十三坊を有し、山陰屈指の名刹として後亀山天皇至徳二年*には、勅命を受けて国家の安泰と内乱の平静のため法華経八巻を数十部印刷の上、諸願成就の大祈願をなす」ほど栄えたのだそうだが、その後衰退し、天文年間**に寄進を受けて復旧するも何度か兵火にかかり、現在の堂宇は元禄宝永***の頃に建てられたものだという。
*至徳二年:至徳は北朝の元号で至徳2年は西暦1385年
**天文:西暦1532~1555年
***元禄宝永:元禄(1688~1703)、宝永(1704~1710)


帝釈寺 枯山水の庭

住職に最初に案内されたのは枯山水の庭園で、現在香美町の文化財に指定されている。パンフレットの解説によると
「中央の巨石は礼拝石と神仙島を兼ねた一石で、…左に神秘的な岩島を組み、右にめでたい宝舟を置いた祝儀思想の蓬莱式庭園である。
 江戸時代初期の作庭であるが、一説に小堀遠州作の伝来もある」とのことである。

帝釈寺 本堂

次に江戸時代に建てられた本堂に案内される。本尊帝釈天は厨子の扉が閉じられていたが、地蔵菩薩(平安時代?)、不動明王(南北朝時代)、四天王立像(南北朝時代)などの諸仏が安置されている。内部の写真撮影を許可いただいたのはありがたかった。

帝釈寺 仁王像

上の画像は仁王像だが、かつてはこの寺の仁王門があって再建されないまま本堂に安置されている。寛政6年(1794)に制作されたなかなか立派な仁王像なのだが、右腕が抜けているなどかなりの修理が必要で仁王門から建てなおすとすると、かなりの浄財が必要となる。住職の夢がかなう日は来るのだろうか。

最後に浄聖殿(収納庫)に案内される。ここに国の重要文化財である聖観音立像が収納されている。上の画像は住職に写真撮影の許可をいただいて撮影したものだが、国の重文に指定されている仏像の撮影を許して頂いたのは初めてのことである。

帝釈寺 聖観音立像

この仏像は、冒頭で紹介した案内板には大宝2年(702)に法相宗の開祖である道照上人が自ら刻んだと伝えられていることが記されていたが、『続日本紀』には道照上人が文武天皇4年(700)に没したとの記録があるのでこれもあり得ないことである。パンフレットの解説では、「平安後期の地方色を示す秀作である」と表現されている。
風雨に曝され虫に食われて下半身はやや損傷しているものの、桧の一木造の立派な仏像で、柔和な面貌とふくよかな上半身が印象に残った。

住職にお礼をして次の目的地である大乗寺(0796-36-0602)に向かう。帝釈寺からは4km程度なのですぐに到着する。
大乗寺 クス

兵庫県指定文化財である山門を抜けるとすぐ左手に香美町指定天然記念物の大きなクスの樹がある。樹齢は約800年で樹高は28m、幹回りは6.55mもあるのだそうだが、樹勢が強くて幹が山門の屋根瓦に年々接近し、このまま放置すると山門が倒壊する恐れがあることが、2年前の新聞記事に出ている。
http://www.sankei.com/region/news/141108/rgn1411080077-n1.html

大乗寺 石仏

このクスの根は四方に立派に張りだしていて、まるで土を盛って幹の周囲を固めたかのようである。上の画像はクスの横にある石仏を撮影したものだが、画像の左下に写っている苔むした部分は土ではなくこのクスの根である。

大乗寺 客殿

大乗寺は天平17年(745)に行基が自ら聖観世音菩薩立像を彫刻して本尊として創建されたと伝えられているが、その後戦乱を受けて衰退し、江戸時代天明年間の住職、密蔵上人が再興を試み、弟子の密英上人が再興をはたした寺である。上の画像は県指定文化財である客殿である。

大乗寺 応挙

客殿の正面に円山応挙の銅像が置かれている。
客殿には応挙とその弟子12名が描いた襖絵や屏風などが多数残されていて、そのうち165点が国の重要文化財に指定されている。

では、どういう経緯で円山応挙が弟子たちとともにこの寺に多くの作品を残したのか。

以前このブログで、京都府亀岡市にある金剛寺のことを書いた。
円山応挙は享保18年(1733)に丹波国桑田郡穴太(あのお)村(現京都府亀岡市)で貧しい農家の次男として生まれ、8歳の時にこの金剛寺で小僧として生活したのだが、同寺の住職であった玉堂和尚から禅の手ほどきを受け、また画才を認められていた。
玉堂和尚が亡くなってから15歳の頃に京都に出て、岩田屋という呉服屋に奉公し、その後びいどろ尾張屋勘兵衛の世話になり、17歳の頃に狩野探幽の流れをひく鶴沢派の画家、石田幽汀の門に入っているのだが、京都で絵を学ぶための資金を援助したのが大乗寺の住職だった密蔵上人だと伝えられている。

大乗寺再建の普請が始まった天明6年(1786)に密蔵上人が亡くなり、翌天明7年(1787)に新住職となった密英自らが上洛して応挙に襖絵の作成を依頼し、応挙は亡き密蔵上人の恩にむくいるために弟子たちと共に襖や掛軸を飾る絵を描いたという。そのような経緯からこの寺には応挙や弟子たちの襖絵だ多数あることから、「応挙寺」の名で親しまれている。

応挙と弟子たちが描いた絵は、『大乗寺円山派デジタルミュージアム』の『客殿めぐり』ボタンをクリックすると、誰でもネットで閲覧することができる。
http://museum.daijyoji.or.jp/index.html

大乗寺襖絵

客殿での写真撮影は禁じられているのは残念だったが、ネットで円山応挙が寛政7年(1795)に描いた『孔雀図』の画像が出ていたので紹介しておこう。
墨だけで描れた作品であるにもかかわらず、孔雀や松に色彩が使われているようにも見えてくる。応挙はこの絵を描いた年に亡くなっているのだが、孔雀の羽根の一本一本が信じられないほど細部まで細い線で描きこまれているのに驚いてしまった。応挙はこの大作を完成させて命を縮めてしまったのではないだろうか。

旅塵

歌人の吉井勇が、昭和9年の3月にこの大乗寺を訪ねて、歌集の『旅塵』(昭和19年刊)に六首の作品を発表している。『国立国会図書館デジタルコレクション』にこの歌集が収録されているので誰でもネットで読むことができるが、三首だけ紹介しておこう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1128154/59

「應擧寺の墨絵の孔雀襖より歩み出づることもありにけむもの」

「ありがたき香住の寺の襖絵のいみじき松は見るに飽かなく」

「應擧寺を出づれどこころ繪に残り襖の松の鳴るをなほ聽く」

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【ご参考】
円山応挙の襖絵はこんな寺にも残されています。金剛寺というのは応挙が少年時代に小僧として生活した京都府亀岡市にある寺です。この寺も「応挙寺」と言われています。

円山応挙ゆかりの金剛寺と近隣の古刹巡り
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-110.html

虎なら無量寺の「龍虎図」、串本の昼は萬口の鰹茶漬け
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-273.html


仏教伝来に関する歴史を追ってみました。興味のある方は覗いてみてください。
新しい記事を書きながら、手作業で旧メインブログのBLOGariから記事を移しましたので、この頃の記事のエントリーナンバーが逆転しています。

聖徳太子の時代にわが国は統一国家であったのか~~大和朝廷の統一1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-7.html

唐の時代の正史では倭国と日本国とは別の国である~~大和朝廷の統一2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-8.html

『日本書紀』は、わが国が統一国家でなかった時代を記述している~~大和朝廷の統一3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-9.html

仏教伝来についての教科書の記述が書きかえられるのはいつか~~大和朝廷4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-4.html



名勝猿尾滝から但馬・丹波の名工の彫刻が残されている古社寺を訪ねて

大乗寺の観光を終えて、但馬三名瀑の一つに数えられ、日本の滝百選にも選定されている猿尾滝(美方郡香美町村岡区日影)に向かう。大乗寺からローソン香美町村岡店(☎0796-94-0800)を目指して走り、さらに400mほど山陰道を直進すると猿尾滝口の交差点があり、そこを左折して1km程度走れば猿尾滝の駐車場がある。

猿尾滝1

紅葉の名所としても有名な場所なのだが、訪れた日にはだいぶ落葉が進んでいた。もう数日早く来ていればもっと美しい景色を楽しめただろう。

案内板にはこう書かれていた。
「この滝は『猿尾滝ヒン岩脈』で形成された高さ60メートルの滝です。滝の景観が猿の尾に似ているところから猿尾滝と名付けられました。
 ブナ、モミジ、サクラ、ケヤキ、マツなどの自然里と都の調和が美しく、春は新緑の滝、松は納涼の滝、秋は紅葉の滝、冬は氷壁の滝にその姿を変えます。
 古くから妙見山名草神社の参道から仰ぐ美しい滝として知られており、村山藩主山名公は『ソーメン流し』を楽しんだと言われています。」

細い道を進んで滝壺に向かう。

猿尾滝2

滝は二段になっていて、上段の雄滝は水がゴツゴツした岩肌を流れ落ち、下段の滝は岩の割れ目を滑らかに流れ落ちる。
以前は上段の滝壺に繋がる道を歩くことが出来たのだが、3年前の4月に落石があり、それ以降通行禁止が続いているのは残念なことである。

名草神社三重塔

案内板に書かれていた妙見山名草神社(養父市八鹿町石原字妙見1755 ☎079-662-2793)は、以前このブログで紹介したとおり、寛文5年(1665)に島根県の出雲大社から三重塔を譲り受けた頃は日光院という寺院であったのだが、明治の廃仏毀釈で日光院は強制的に名草神社と名前を変えられて、日光院にあった仏像や経典などの寺宝は末寺の成就院(今の日光院のある場所)に運び込まれた。そして出雲大社から譲り受けた塔は今も名草神社の所有とされ国の重要文化財に指定されている。神社の境内に塔があるのは神仏習合の時代は当たりまえのことであったが、明治初期にほとんどが破壊されるか移転されてしまった。現在でも神社の境内に塔が残されている事例は20程度あるのだそうだが、この名草神社の三重塔はなかなか美しいので、時間があれば立ち寄られることをお勧めしたい。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

粟鹿神社鳥居

猿尾滝から途中で昼食を取り、次の目的地である粟鹿(あわが)神社(朝来市山東町粟鹿2152 ☎079-676-2465)に向かう。
但馬国にはどういうわけか一宮が2つあり、この粟鹿神社も、出石町にある出石神社も丹波国一宮なのだそうだ。

「粟鹿」とは珍しい名前なので調べると、ご祭神の彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)が但馬一帯を平定し、山に登り国見をしていたとき、1頭の鹿があらわれ、口にくわえていた三本の粟を献上したことから、この山を粟鹿山と呼び、山の麓に鎮座する神社を粟鹿神社と呼ぶようになったという。
一説ではこの神社の歴史は2000年以上あるとも言われていて、『古事記』や『日本書紀』よりも古い和銅元年(708)に記された『粟鹿大明神元記』には大国主命を祖とする神直が当社の祭祀を執り行ったとことなどが記されているという。

粟鹿神社 勅使門

粟鹿神社は『延喜式』式内社のなかでも社格の高い名神大社(みょうじんたいしゃ)*のひとつで、朝廷の信頼厚く、国家の大難に対して4度の勅使参向があったことが記録に残っているそうだ。上の画像は勅使門で、朝来市指定文化財となっている。
*名神大社:「名神」は神々の中で特に古来より霊験が著しいとされる神に対する称号。

粟鹿神社隋神門狛犬像

隋神門の随身の背後には木造の狛犬が一対安置されていた。この狛犬の作者や制作年代は不明だが、これも朝来市の指定文化財である。

粟鹿神社土俵

隋神門をくぐると土俵がある。
本来相撲というものは神に奉納されるものであり、昔は神社の境内に土俵があるのが珍しくなかったかもしれない。相撲の奉納のあるときはこの土俵の周りに多くの人々が集まって神社は賑わったことだろう。

粟鹿神社

そして土俵のすぐ近くに拝殿がある。
拝殿は、なかなか立派な建物で、その奥に本殿がある。

今回訪問しなかったが、この神社から900mほど奥に當勝(まさかつ)神社(朝来市山東町粟鹿2143 ☎079-676-2199)という神社がある。

當勝神社

この神社も1300年近い歴史のある古い神社で、今の本殿・拝殿は幕末に建てられたものだが、彫刻は中井権次一統の第7代橘正次が手掛けたものらしく、『たっちゃんのフォトライブラリー』の写真を見ると彫刻が豪華で見ごたえがありそうだ。次回来るときは訪れたい場所だ。
http://blog.goo.ne.jp/tachan1go/e/5a3a6e0ae9ba648d7686e289cd1647b0

Wikipediaによると、中井権次一統についてこう記されている。
「丹波柏原藩(兵庫県丹波市)の宮大工、中井道源を初代とし、4代目の言次君音(ごんじきみね)以後、9代目の貞胤まで神社仏閣の彫物師として活躍した中井家の一統。6代目権次正忠より権次を名乗ったことから権次一統と称する。徳川家康お抱えの宮大工で日光東照宮や江戸城を手がけた中井正清(1565~1619)の血筋を引くとの説があるが、出自の詳細は不明。現存する作品は北近畿一円に及ぶ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%95%E6%A8%A9%E6%AC%A1%E4%B8%80%E7%B5%B1

『中井権次作品集』というホームページに、一統が制作した作品の一部が画像で紹介されているが、一統が手掛けた社寺仏閣の彫刻は丹波、但馬を中心に2百軒以上に及ぶのだという。しかしながら明治初期の廃仏毀釈によって仕事がなくなり、9代目の青竜軒中井貞胤(喜一郎)からは社寺の彫刻には携わっていないのだそうだ。
http://gonji.sub.jp/index.html

新井神社

粟鹿神社から丹波市に向かい、新井(にい)神社(丹波市柏原町大新屋514-1 ☎0795-72-0950)に車を停める。
案内板にはこう解説されていた。
「欽明期の創建といわれ、『延喜式』に記載されている市内式内社17社のうち1つです。
 もともとの祭神は天地創造の神、高皇産霊神とされますが、江戸時代のはじめに比叡山延暦寺の守護神である『日吉大社』の分霊が祀られました。日吉大社は俗に『山王権現』ともよばれ、山王の使者が猿であるところから、本殿(県指定文化財)には中井権次正貞の作による一対の猿の木彫像があります。」

新井神社 猿の彫刻

案内板には何も書かれていないが、以前は神仏混淆で神宮寺日吉山王鎮護寺と称する真言宗寺であったという。しかし、明治維新の神仏分離で新井神社の社名に復活したのだそうだ。
上の画像は中井権次一統の6代目の青竜軒中井権次橘正貞の作による猿の彫刻である。

北山稲荷神社

この新井神社のすぐ近くに北山稲荷神社(丹波市柏原町北山190-2)がある。
ここには、この地で石工の技術を磨いた名工・丹波佐吉が彫った石狐があるので立ち寄った。

丹波佐吉は文化13年(1816)に但馬国竹田(現朝来市和田山町竹田)に生まれ、幼くして両親を亡くしたため伯父の家に預けられたのだが、たまたま佐吉が5歳の時にワタリの石工としてこの地を訪れていた難波金兵衛が、佐吉のことを哀れと思いかつ自分に子供がなかったので佐吉を養子としたという。
その後佐吉は、文政5年(1822)に新井村大新屋に居を構えた金兵衛とともに石工の道に精進したが、金兵衛にも子供が出来たこともあり、佐吉は23歳の時に金兵衛の反対を押し切りワタリの石工となり「村上源照信」を名乗ったという。
のちに佐吉が旅職人として大阪で石工をしていたころ、職人同士で技比べをすることになり、佐吉は石で音の鳴る尺八を制作し孝明天皇に献上したところ、天皇から「日本一」と賞賛を賜ったと伝えられている。

北山稲荷神社 石狐

佐吉が丹波大新屋に戻って北山稲荷神社の石狐一対を彫ったのは安政5年(1858)で、佐吉は43歳であったという。
この石狐は丹波市指定文化財となっていて、盗難予防のためか金網越しでしか見ることができないのは残念なことだが、細い前脚や耳、口にくわえている玉など、堅い石をこんなにきめ細かく彫り込めるものかと感心してしまった。
彫る技術もさることながら、造形もまた素晴らしく、檻の中に狐がいるのではないかと思えるほどである。

佐吉に石工の技術を伝えた難波金兵衛の六代目の子孫が今も柏原町大新谷で石材店を構えておられるようだ。地図で見ると新井神社や北山稲荷神社の中間地あたりに店や作業場がある。丹波佐吉もこの辺りで作業をしていたのだろうか。
http://www.boseki-sekizai.net/area_detail/sid1216729439-655852.html

北山稲荷神社から4km少し西に行くと、丹波佐吉の最高傑作とされる狛犬が安置されている柏原八幡神社がある。

柏原八幡神社

以前にこのブログでも紹介したが、この神社の境内のなかに堂々と三重塔が残されている。上の画像は鳥居の正面から拝殿を撮ったものだが、本殿の奥に三重塔の屋根が見えているのがわかっていただけるだろうか。そして拝殿の手前の狛犬一対が丹波市指定文化財の丹波佐吉の代表作である。

柏原八幡神社 丹波佐吉狛犬右

この狛犬は文久元年(1861)、佐吉が46歳の時に制作されたもので、台石の彫刻文字「奉献」は筑前福岡出身の女儒学者 ・亀井小栞の揮毫なのだそうだ。

柏原八幡神社 丹波佐吉狛犬 左 後方

近くで見ると電動器具が無い時代に、どうやってこんなに細かい彫り方が出来たのかと感心する。狛犬の頭部や尾には豊かな体毛が渦を巻き、体毛の少ない部分はヤスリで削ったかのようになめらかで自然な曲線が美しく、しかも脚の指には尖った爪先までしっかり彫られているのがすごいのである。

佐吉はこの狛犬一対を完成させたのち丹波を去り、6年後に再び戻ってきたときには不治の病に侵されていたそうだ。慶応2年(1866)に一体の不動明王像を完成させると、佐吉は人知れず丹波の地を去り、その後もどってくることはなかったという。

柏原八幡神社 社殿

この柏原八幡神社は文化財の宝庫で、社殿は国指定重要文化財であり、三重塔と銅鐘は兵庫県指定文化財である。

柏原八幡神社 三重塔紅葉

運よく紅葉も見頃を迎えていて、朱塗りの塔も美しかった。
この三重塔は戦国時代に焼失後、文化10年(1813)に再建されたものだが、この再建に関わった彫刻師に青龍軒中井丈五郎正忠・倅中井権次正貞、中井徳治正義、岩吉の名が記録されているという。中井権次正貞はさきほど紹介した新井神社の猿の木彫り像を制作した人物である。
またこの神社の拝殿・本殿の彫刻も拝殿の中の木造の狛犬も中井権次正貞によるもので、次のURLで、作品の画像を見ることができる。
http://gonji.sub.jp/kaibaratixyou-3/kaibaratixyou-3.html

当時のわが国の最高レベルの名工が但馬・丹波を中心に活動していて、各地にその作品を残したということなのだが、こういう旅行をしていると、昔は地方が今よりもはるかに豊かであったことがみえてくる。

以前は地域における経済循環が成り立っていてそれなりに豊かな生活があったのだが、次第に規制緩和が進んでボーダーレスとなり、いつの間にか地方は都会資本の大手企業に席巻されて都会の経済循環の中に取り込まれてしまった感がある。
地域の文化や伝統はその地域経済の豊かさによって長い間支えられてきたのだが、都会資本の企業に商圏が奪われて多くの商店や製造業者は廃業して若い人の働く場が失われ、農家は農産物を大手流通に買いたたかれて、零細農家は厳しい生活を余儀なくされることとなる。若い世代は地元を離れて、都会に出たまま戻ってこない。
このような流れを放置したままでは、過去から素晴らしい文化や伝統を承継してきた地域は、先祖が大切にしてきた価値あるものをどうやって後世に残すことができるのだろうか。
また数百年の歴史を持ち貴重な文化財を残している古社寺も、このまま檀家や氏子が減っていっては、建物を維持することすら厳しくならざるを得ない。

この流れを止めるためには、今までとは違う発想が必要だと思う。
国にせよ県にせよ市町村にせよ、伝統的文化財の修復の為にある程度の資金支援はしてきたものの、その文化財を活かして観光需要を高める努力は不充分であったと言わざるを得ない。歴史ツアーなどのイベントを企画して、観光客を増やすことに知恵をしぼる努力をもっとすべきではないだろうか。文化財は宝の山であるという発想が今までは欠落してはいなかったか。

但馬や丹波には、観光地としての知名度は低くとも、素晴らしい文化や伝統が残されており、歴史的にも興味深い地域が少なくない。これだけの文化財が古いままの姿で残っており食べるものも美味しくて安いのだから、もっと観光客を呼び込めてもおかしくないと思う。

太田家
【但馬牛専門店の太田家和田山店】

私はこの地域に来ると、但馬牛や野菜を買い込むことにしているのだが、この地域に限らず、田舎で新鮮な地元の生産物を買うことは旅行の楽しみの一つでもある。

私ができることは旅先でわずかばかりの買い物をして、こんな旅行の記事をブログに書いて読者に伝えることぐらいなのだが、少しでも多くの人にこの地方の歴史や伝統や文化に興味を持っていただけたらと思う。
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【ご参考】
本文にも書きましたが、明治初期の廃仏毀釈で神社の境内にあった仏教施設は破壊されるか移転されましたが、一部の神社で塔が残されています。

香住から但馬妙見山の紅葉と朱塗りの三重塔を訪ねて~~香住カニ旅行2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

日本百名城の一つである小諸城址から龍岡城跡、新海三社神社を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-401.html

白馬落倉高原の風切地蔵、若一王子神社、国宝・仁科神明宮などを訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-404.html

寺院が神社に変身した談山神社
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-78.html



梅の咲く季節にシーボルトが絶賛した賀茂神社を訪ねて

たまには古い街並みを歩きたいと思って、兵庫県たつの市の室津に行ってきた。

そろそろ梅が見頃のようなので、最初に近くにある綾部山梅林(たつの市御津町黒崎1492 ☎079-322-3551)を旅程の最初に入れていた。

綾部山梅林

この梅林は24ヘクタールの広大な綾部山広陵に2万本近い梅の木が植えられているという。
今年は開花が遅れていて7分咲き程度であったが、充分楽しめることが出来た。この記事をアップする頃は満開になっているだろう。

綾部山梅林 2

漂う梅の香りに誘われて、小鳥の群れが飛び回っていてよく枝に留まりにくる。
鳥の写真は今までなかなかうまく撮れなかったのだが、ここではいくらでも飛んでくるので何回でもシャッターチャンスが訪れる。
こんな写真が私でも簡単に撮れた。この鳥はメジロのようだ。

綾部山古墳群の碑

園内の道を進むと「綾部山古墳群の碑」があり、そのあたりから瀬戸内海に浮かぶ家島群島、小豆島などを展望することが出来る。

綾部山梅林と瀬戸内海

上の画像の島は家島諸島の男鹿島(だんがじま)という名の島だ。
家島諸島には旧石器時代の遺物や遺跡が確認されていて、縄文時代や弥生時代の遺跡もあるという。播磨灘に面したこのあたりは、相当古くから人々の営みがあった場所のようである。

梅林のある綾部山には「綾部山古墳群」と呼ばれている多数の古墳が存在する。
これらの古墳群は5世紀から7世紀にかけて造られたものと考えられていたのだが、平成14年に行われた綾部山39号墳の試掘調査では、中国で160年頃に製造された鏡が出土し、その古墳は鏡の製作時期から、邪馬台国の時代とも重なる三世紀前半に築かれたわが国最古級の古墳であることが判明したという。場所が分からないので訪問できなかったが、ネットで調べるとこの古墳は梅林の南出入口から新舞子に向かう道路沿いに案内板があるようだ。
www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/2010walk/10walk01.pdf

綾部山梅林 古墳

この綾部山梅林内には16基の古墳が点在し、それらは主に5世紀から6世紀に造られたとチラシに書かれていたが、誰でも見つけることの出来る梅林の中央にある古墳は比較的小さなものであった。

正玄塚古墳

休憩所の近くには正玄塚(しょうげんづか)と名付けられている古墳があるが、これは古墳時代後期に築かれた円墳だという。今は墳丘が崩れて石室が露出しているのだが、横穴式の石室は10m近い長さがあり、結構大きなものである。

綾部山梅林 猿回し

休憩所で梅ジュースのサービスを受けたのち、近くで神戸モンキーズ「くら&とし」の芸があったので足を止めたが、語りもうまいし、芸も見ごたえがあってとても楽しむことができた。

梅林を楽しんだ後で、室津の古い街並みに向かう。

室津 播州名所巡覧図絵
【室津 播州名所巡覧図絵】

「室津」は、かなり昔から良港のある街として知られていたようで、以前は「室原」とよばれていたようだ。713年に編纂された『播磨国風土記』にこう記されている。

「室原の泊(とまり)、室と号(なづ)くる所以は、此の泊は風を防ぐこと室(むろ)の如し。故、因りて名と為す」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1173165/104
この記述で分かるように、室津港は古代より波が静かで、天然の両港として知られていた。

奈良時代には行基が摂津と播磨の両国の五良港として「摂播五泊*」を定め、その中に室津が選ばれて、その後も海上と陸上交通の要衝として栄え、江戸時代には参勤交代の西国大名のほとんどが海路で室津港に上陸した後陸路を進んだため、港の周辺は多くの宿があったようなのだが、明治になって参勤交代がなくなり、鉄道や道路が出来て急速に衰退していったという。
*摂播五泊:河尻(尼崎)、大輪田(兵庫)、魚住(明石)、韓(的形)、室津


カーブの多い細い道を運転しながら、最初に賀茂神社(たつの市御津町室津74 ☎079-324-0034)に向かう。

賀茂神社 ソテツ

駐車場に車を停め、鳥居を抜けて更に石段を進むと右手にソテツが群生している。これは野生状態の群生林としてはわが国の北限に位置するもので、兵庫県の文化財に指定されている。

賀茂神社 四脚門

その先に四脚門があり、門をくぐると檜皮葺の社殿・回廊・唐門などが見えてくる。

賀茂神社

上の画像は唐門だが、唐門を中心に東西の回廊があり、その奥に本殿や権殿などがある。これらはすべて国の重要文化財に指定されている。

賀茂神社 播州名所巡覧図絵
【賀茂神社 播州名所巡覧図絵】

賀茂神社は文化元年(1804)に出版された『播州名所巡覧図絵』に、「室明神」として解説され、境内の絵が描かれている。今の景色とほぼ同じなのだが、絵をよく見ると左に多宝塔が描かれているのがわかる。当時は神仏習合が当たり前で、仏僧が「室明神」を取り仕切っていたようなのだが、明治初年の神仏分離で多宝塔は取り壊されたのだろう。

シーボルト
【シーボルト】

文政9年(1826)にシーボルトは、長崎の出島から江戸参府する途中にこの「室明神」に立ち寄り、その記録を残している。

muro12.jpg

上の図はシーボルトの著書『日本 図録 第2巻』に掲載されている「室明神」だが、ここにも多宝塔が描かれている。

『国会図書館デジタルコレクション』に昭和3年に翻訳され出版された『異国叢書 シーボルト江戸参府紀行』があり、この本はシーボルトの大著『日本』の一部を訳出したものなのだが、この本のなかでシーボルトは、この多宝塔を案内された時のことを次のように記している。

「…それよりこの祠壇の両方なる同様の壇上の立てる二重塔に赴けり。木製にて、真に建築術上の名作なり。つい近頃の建築にして、住僧は余らによく描きたる雛形図を示し、我らはその写しを作らんことを求めしが、これも出来たり。我らは次の年に之を右述べし神祠の見取図、及びこの寺より見たる海上の景色図とともに受取れり。美事なる塔の構造を細かに記述するは今ここに余りに余事なるべし。我らはただこの如き塔は神祇の宗儀には属せずして、仏の宗儀ことに真言宗の宗儀に属し、仏の宗儀とともに日本に入来りしものなるを述べおかん。かかるものがともに一つの神の庭にあり、あまつさえ八幡の祠もその傍にあるは既に述べし両部神道*といえる宗儀より説明すべく、それがここにも入り込みたるなり。」
*両部神道:仏教の真言宗の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876406/192.

muromyojin31.jpg

シーボルトはこのように室明神の多宝塔を高く評価し、『日本 図録 第2巻』にこの多宝塔の雛形図の写しを残している。Minagaさんのサイトにその図面が紹介されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_muromyojin.htm

muro13.jpg

そしてシーボルトはその僧の住む寺に案内されて、その景観の美しさを讃えている。
「彼は我らを広き一室に導きしが、そこよりする播磨海上の絶えて佳き眺望は驚くばかりなり。今迄日本にて嗜み得し海景の中最も美しきものの隋一なり。座敷の位置・結構が如何に壮大にして目を奪うばかりなる賞嘆を心づもりにしつらえられたるぞ。室は前方と左右とに開け放たれ、人は直ちに海中に懸け出したる巌の上に築かれたる観望台に坐を占めたり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876406/193

シーボルトが「日本随一」と賞賛した海の景色も同上書に描かれているのだが、残念ながら賀茂神社の境内は樹木に囲まれていて、どこに海の景色を楽しめる場所がよくわからなかったのだが、『兵庫県おでかけブログ』というブログに海の景色の写真がでている。この写真の景色は「住吉社」の近くなのだそうだが、シーボルトの同上書の挿絵に良く似ているので、どうやらこのあたりに、シーボルトが案内されて海の景色を絶賛した寺の建物があったようだ。もう少し境内の西の奥に進んでおけばよかったと思う。
http://odekakehyougo.seesaa.net/article/442389499.html

多宝塔が移転したとか焼けたなら何らかの記録が残っていると思うのだが、何もなさそうなので、おそらく破却されたのであろう。しかし仏像は遷座されて今も残されているという。

先ほど紹介したMinagaさんのサイトに「御津町史 第4巻 資料編」の引用があり、この近くの浄運寺の脇檀に安置されている多宝如来坐像について「元は多宝塔安置、明治初年の神仏分離で遷座、体部は前後2木からなる寄木造。」と記されているという。賀茂神社多宝塔の本尊は、近くの寺に安置されていると書かれているのである。

浄運寺

浄運寺は賀茂神社の階段を下りて100m程度歩けば辿りつくことができる。
この寺は、建永2年(1185)に京都より讃岐に配流される法然が室津に立ち寄り、遊女・友君にここで説法をし、感激した友君は法然より得度を受けこの寺で出家したという。
シーボルトの同上書にも、この寺は「平家合戦の時代の名だたる美人友君の墓」がある寺であり、友君は「この地方にて…女護国の発起者として尊敬せらるる人なり」と記している。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876406/191

観光寺院ではないので本堂の参拝はしなかったが、この本堂に当寺の本尊である阿弥陀如来立像があり、賀茂神社多宝塔の本尊である多宝如来坐像があり、合掌する尼僧姿の友君の坐像が安置されているという。

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【ご参考】ドイツ人のシーボルトが長崎出島のオランダ商館医として来日したのは文政6年(1823)、27歳の時でした。
鳴滝塾を開いて多くの弟子を育てたことは評価されていますが、国禁の日本地図を持ち出そうとしたとして、文政12年(1829年)に国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けています。しかしながら、シーボルトは安政の開国で追放が解除されたのち安政6年(1859)に再来日し、後に江戸幕府の外交顧問に就任しています。それは何故なのでしょうか。
このブログでシーボルトについてこんな記事を書いてきましたので、良かったら覗いてみてください。

シーボルトと日本の開国
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-30.html

シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-59.html

シーボルトはスパイであったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-93.html

押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-124.html

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室津の歴史と、その古い街並みを楽しむ

前回の記事で室津は古来より天然の良港として有名であったことを書いた。
室津は三方を山で囲まれているので強風を避けることができ、風待ち・潮待ちのために絶好の港であるということで、古くから宿場として繁栄したのだが、風光も明媚であることから万葉時代から歌人が作品を残している。

たとえば万葉集に山部赤人の歌がある。

「玉藻刈る辛荷の島に島廻する
 鵜にしもあれや家思はざらむ」 万葉集(巻6)


辛荷の島

「辛荷の島」とは、たつの市の地ノ唐荷島、中ノ唐荷島、沖ノ唐荷島のことで、室津の藻振鼻(もぶりのはな)にこの歌碑が建てられている。上の画像は藻振鼻の駐車場から「辛荷の島」を撮ったものである。

また万葉集には「詠み人知らず」でこんな歌も残されている。

「室の浦の湍門の崎なる鳴島の
 磯越す波に濡れにけるかも」  万葉集(巻12)


和歌ではないが、与謝野蕪村にも室津を詠んだ句がある。

 「梅咲いて帯び買ふ室の遊女かな」
 「朝霜や室の揚屋の納豆汁」


前回の記事で、法然上人が遊女・友君に説法した話を書いたが、室津には古くから遊女がいたようだ。このことは、室津が古くから宿場として栄えていたことを意味している。

井原西鶴
【井原西鶴】

また井原西鶴は『好色一代男』で、室津を遊女発祥の地であると書いている

本朝遊女のはじまりは、江州の朝妻、播州の室津より事起こりて、今国々になりぬ。あさつまにはいつのころにか絶えて、賎の屋の淋しく、嶋布を織る、男は大網を引きて、夜日を送りぬ。室は西国第一の湊(みなと)、遊女も昔にまさりて、風義もさのみ大坂にかわらせずという。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1181373/39

瀬戸内海と室津港の地図

なぜ室津という狭い地域が「西国一の湊」となり宿場として栄えたかは、地図をみれば直感的にわかる。
Google Earthで確認すると、瀬戸内海に面する本州は室津あたりから西はリアス式海岸が多くて接岸に不向きな場所が多く、東は砂浜の海岸が大阪湾まで続いている。

『一路一会』というブログの室津港の解説がわかりやすいので引用させていただく。

「室津は古くから天然の良港として知られ風待ち、潮待ちの船で賑わいました。
大阪湾から姫路近くまで、播磨灘に面した海岸線は延々と砂浜が続き、室津までは船泊に適した入江がありませんでした。 さらに造船技術の進歩による船舶の大型化が別の問題を引き起こし、室津は空前の繁栄を手にします。

江戸時代になると山陽道とならび瀬戸内海航路も西国大名の参勤交代で使われるようになります。しかし播磨灘は遠浅でかつ荒れるために、大名が乗る大型の御座船が座礁、難破する事故が相次ぎました。さらに終着地である大阪湾も遠浅のため、大型船は湾の奥まで入れず、湾の外から小舟に乗り換えて上陸しなくてはなりませんでした。そこで参勤交代の大名は播磨灘手前の室津湊で上陸しそこから陸路で大阪へ向かう道筋を選びます。参勤交代の家臣は1000人を越え、80艘あまりの船団の規模からなります。それがこの港町へ押し寄せてくるのですから室津には本陣が6軒もあり、それでも足りない場合は回漕問屋と海産物問屋の屋敷が充てられたといいます。」
http://www.ichiro-ichie.com/06sanyo/hyogo/murotsu/murotsu01.html

安藤広重画 播刕室津
【安藤広重画 播刕室津】

かくして室津は日本最大級の宿場となり、この狭い地域に6軒の本陣*(肥後屋・肥前屋・紀国屋・筑前屋・薩摩屋・一津屋)があったという。本陣は普通の宿場では「一宿一軒」とされ、これだけ多くの本陣があった宿場は、全国的にも珍しいのだそうだ。
*本陣:大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などが使用した宿舎で、一般の者を泊めることは許されていなかった。

しかしながら明治になって参勤交代のような制度がなくなり、鉄道や道路網が完成して室津は急速に衰退していったという。昭和40年代にはこれらの本陣の建物は姿を消して、今は模型が残されているだけというのは残念なことである。

室津観光マップ

今回の室津の散策に際して、観光マップくらいは現地に行けば簡単に手に入ると思ってGoogleの地図を用意しただけだったのだが、室津には観光協会のような施設がみあたらず室津の観光地図マップを手に入れる環境にない。途中で訪問した室津民族館に簡単なマップがあったが、室津を散策するにはもう少し大きくて、見どころや駐車場などがわかりやすく記された地図があった方が良い。
自宅に戻ってからネットで探すと非常に良い散策マップを見つけたので、読者のみなさんが室津を訪ねる際には、『西はりま遊記』の地図を印刷して持参されることをお勧めしたい。
http://www.nishiharima.jp/contents/townmap/

室津の町は道が細くて中心部には観光用の駐車場がほとんどなく、上の散策マップを見ればわかるとおり藻振鼻か大坂城石の駐車場に車を止めて徒歩で散策するしかないだろう。

いざ、室津の町を歩きはじめると、全国で最大級の宿場であった面影は、あまり残されてはいないことがわかる。
昔は6軒も存在した本陣の建物は40年以上前には消滅してしまっているのだが、脇本陣として利用された建物がわずかに2軒だけ残されているだけだ。

室津民族館

最初に訪問したのが室津民族館(たつの市御津町室津306)。この建物は、室津最盛期の数少ない遺構の一つであり、昭和62年(1987)には「兵庫県区住宅百選」に選ばれ、昭和63年(1988)には兵庫県の文化財に指定されている。

室津民族間内部

パンフレットによると、
「この建物は屋号を『魚屋』といいい、江戸時代に苗字帯刀(豊野家)を許され、姫路藩の御用達をつとめた豪商の遺構」
とあり、江戸時代の室津の古地図や、古文書などが展示されている。上の画像は一本釣和船の模型である。

室津民族館 御殿雛

立派な雛壇が飾ってあったので、説明も読まずにカメラに収めたのだが、読者のつねまるさんから「八朔の雛祭り」が室津で行われていることを教えて戴いた。
調べると、室津では雛祭りは3月ではなく、八朔の日(旧暦の8月1日)に行われるのが古くからのならわしなのだそうだ。それはどういう経緯からなのだろうか。

カメラに収めた説明書きにはこう解説されていた。
永禄9年、龍野城主赤松政秀は浦上政宗に遺恨の事があり室山城に夜襲をかけました。
 この日室山城では浦上政宗の子、宗影の婚礼の日でした
。城中では宵までの酒盛りのため足腰の立つ者は少なく、満足に戦うことが出来ず負けてしまいました。
 婚礼の儀式を、いま挙げたばかりの花嫁は小長刀をとって立ち向かい、攻め入る敵を切りつけ存分に戦い、遂には自害されました。女とはいいながら見事なる振る舞いに武士の子女は、かくありたいものだと敵も味方も感心したとの事です。
 この室山城合戦が正月十一日であったため、室津では三月三日にはお雛祭りをせず、旧暦の八月一日(八朔の日)にするようになりました。
 八朔の雛祭りは室山城落城という郷土の歴史にかかわる風習です。」

毎年8月下旬に室津の家々でひな祭りをし、室津民族館などでひな人形が展示され、期間中には様々なイベントが行われるようである。今度訪れる時は、できればその時機に訪れたいものである。

見性寺 毘沙門天像

室津民族館のすぐ近くに見性寺(けんしょうじ)がある。
普段は公開されていないのだが、この寺の毘沙門天像は平安時代後期の制作で国の重要文化財に指定されている。毎年3月17日から21日の毘沙門祭りと室之津祭当日(11月6日)と決まっているようだ。

室津海駅館

次に室津海駅館(たつの市御津町室津457)を訪ねる。
この建物は、廻船問屋として活躍した豪商「嶋屋」の遺構で、この建物は江戸時代後期に嶋屋(三木)半四郎が建てたものだという。室津が繁栄していた時代の遺構の一つとして、現在はたつの市の指定文化財となっている。

室津には大名や旗本、幕府役人らが宿泊しただけでなく、外国人が室津に滞在した記録が残されている。

kenpel.jpg

長崎出島にあったオランダの商館長も、毎年江戸の将軍に拝礼する際に室津に立ち寄った。
展示室には、オランダ商館長の江戸参府に医師として随行したケンペルの著書『日本誌』に描かれた室津の絵図などが展示されていた。

朝鮮通信使

また室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮より日本へ派遣された朝鮮通信使も室津に宿泊したという。
海上では大船団を組み、陸上では大行列を作って500人近い大集団が江戸への旅をしたのだそうだが、室津海駅館では当時の朝鮮通信使に饗応した料理の品々の模型が展示されていて、事前に予約すればその料理をここで味わうことが出来たようだ。
http://www.muro-shimaya.jp/kaiekikan.htm

室津

海駅館を出るとすぐに室津港だ。今はありふれた漁村の風景だが、ひと昔前はここに帆船が所狭しと係留されていたのである。

前回の記事で最後に紹介した浄運寺の裏手の坂を登りきると梅がさいていると聞き、せっかく梅の季節に来たのだからと思って100mばかりの急坂を登りきると、港の近くでありながら海やその周囲の家々が全く見えなくなり、高原かどこかにいるような錯覚を覚えた。

室津の梅

この梅の木から画像の背景となっている嫦峨山(じょうがやま)までは、まるで稜線が繋がっているように見えるのだが、実際には、この場所から嫦峨山の間には大きな窪みがあってそのなかに室津港と室津の街並みがあるのだ。

室津地図 2

国土地理院地図(電子国土Web)で調べると、この梅の木のある場所の標高は39m。浄運寺の標高は11m、室津海駅館は2mで、短い距離ながら随分標高差がある。
北にある嫦峨山(じょうがやま)の標高は264m。また東にも小さな山があり、室山城跡の標高は50m。西側にも少し離れて100mを越える山が続いている。
http://maps.gsi.go.jp/#16/34.768480/134.510443/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f1

このように室津の北・東・南には、決して高くはないが山があって、いかに風が強く吹いても、ほとんどの風は室津の上空を通り過ぎていくだけだ。

波の静かな室津の海では平成10年から牡蠣の養殖が始まったのだそうだが、他の地域では出荷サイズになるまでに2~3年を要するところ、室津の牡蠣はわずか1年で立派なサイズになり、加熱しても縮みにくいのが特徴なのだそうだ。
http://www.pride-fish.jp/JPF/pref/detail.php?pk=1400656081

せっかく室津に来たのだから、昼食に牡蠣は欠かせないし、他の魚もいろいろ食べて帰りたい。
室津の街並みの中にもいくつか店があるのだが、車を走らせて国道250号線沿いの店に向かう。ぷりっとした牡蠣や、地蛸の刺身など何を食べても新鮮で旨かったのだが、ビールが飲めなかったのが辛かった。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

厳島神社と「雛めぐり」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-94.html

鞆の浦周辺の古い街並みを楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-96.html

郡上八幡の歴史と文化と古い街並みを楽しんで
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-334.html

白壁と蔵に囲まれた五箇荘の近江商人屋敷めぐり
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-468.html

濁河温泉から寝覚ノ床、妻籠宿・馬籠宿へ~~岐阜・長野方面旅行三日目
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-104.html

又兵衛桜を楽しんだのち宇陀松山の街並みを歩く
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-443.html

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プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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    同上 自由選書版

    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史