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消えた門跡寺院

江戸時代の安永から天明(18世紀後半)のころに「都名所図会」「拾遺都名所図会」という京都の旅行案内書のようなものが出版されている。この本は国際日本文化研究センターのWebサイトに原文と図絵と翻刻文があるので、誰でも容易に読むことができる。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/index.html
都名所図会

京都に生まれ育ったので良く知っている場所を中心に読み始めると、いくつかの有名なお寺が消えているのに気づいた。

たとえば、「照高院」という門跡寺院が左京区に存在していたのがなくなっている。門跡寺院というのは皇族や摂家が出家する特定の位の高い寺院のことで、親王(天皇の子供、孫)または法親王(出家後親王の宣下を受けた皇子)が住職として居住するのは仁和寺、大覚寺、三千院など13の寺院しかない(宮門跡、あるいは十三門跡)のだが、そのうちの一つがこの「照高院」なのである。

このお寺はもともとは桃山時代の文禄年間(1592~96)に豊臣秀吉の信任が厚かった道澄上人が東山妙法院に創建した寺院であったが、方広寺鐘銘事件に関連して取り壊されてしまい、その後江戸時代の元和五年(1619)、後陽成天皇の弟・輿意法親王が、伏見城の二の丸松丸殿を譲り受け、門跡寺院として白川村外山(現北白川仕伏町)に「照高院」を再建されたのである。

「拾遺都名所図会」では、「照高院」については11行も記述され、照高院で詠まれた和歌なども紹介されているのだが、このお寺が今は存在しない。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7t/km_01_406.html

ではなぜこのような由緒のある「照高院」が明治時代に取り壊されるに至ったのか。

ネットでいろいろ調べると「照高院」の再建以来、道周・道晃,道尊,忠誉の四法主法親王を経て明和7(1770)年以降は寺領その他一切が聖護院門跡の支配にゆだねられ、それから約百年の間は法主が置かれなかったようである。
明治元(1868)年になって聖護院宮御法弟智成親王を照高院主に任じ復飾させたが、明治3年智成親王を還俗させて照高院を北白川宮と改称したという複雑な経緯が書かれている。
その後明治5年に智成親王は若くして薨去(17歳)され、遺言により御実兄能久親王が北白川宮のあとを継いだが、宮家が東京に移転し、能久親王は明治3年からプロイセンに留学のため日本を離れており、明治9年に帰国を命じられるまでにほとんど日本に居住していなかったことから、明治8年に照高院の堂宇は撤去されることになったらしいのだが、なぜ由緒ある立派な建物が撤去されなければならなかったのかが、これだけ読んでもよくわからない。

いろいろ調べていくと、明治維新のころの宗教政策に辿り着く。
中学や高校で日本史を学んで「廃仏毀釈」という言葉は知っていたが、詳しく調べるとその実態は私が想像していたレベルをはるかに超えていた。歴史あるお寺が沢山残っている京都や奈良ですらその破壊も相当なものであったが、佐渡、土佐、富山、津和野、薩摩藩などは特に激しく、薩摩藩では島津家の菩提寺であった福昌寺を含め1661ものお寺が破壊されていることをつい最近知った。 この時期に全国の寺院の約半分がなくなっているらしいのだが、歴史の暗い部分は、通史を読むだけではなかなかわからないものだ。

たとえば、薩摩藩では次のサイトで南日本新聞に連載された記事を読むことができる。
http://myoenji.jp/haibutukisyaku.html

何故明治3年に照高院を北白川宮と改称し、智成親王を還俗させたかは、明治政府の次の布告や施策と関係がありそうだ。

明治二年 寺院の宗旨人別帳を所属藩に提出させる(行政官布告)
      …国民の戸籍を政府が寺院から奪取
     寺院堂上から菊の御紋を禁止(行政官布告)
      …門跡寺院も紋章を使えなくなった
     明治天皇の東京奠都
     神祇官を太政官の上位に置き、祭政一致の体制を確立
明治三年 大教宣布の詔…廃仏運動が全国に広がる
     富山藩主が一宗一ケ寺の令を出し、領内大多数の寺院を廃毀

もし「照高院」が門跡寺院として残っていれば、北白川が観光地になっていたことはほぼ間違いないだろう。
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京都四条大橋の話

現在の四条大橋

京都市内を南北に流れる鴨川にはいくつもの橋があるが、祇園や東山を散策する際には四条大橋を行きか帰りに渡る人が大半だろう。 京都に生まれ育った私は何度四条大橋を渡ったかわからないが、最近インターネットでこの橋の歴史を調べて驚いた。

福本武久さんという方が祇園の花街で発行されている「ぎをん」という雑誌に寄稿された文章を引用させていただくことにする。
http://www.mars.dti.ne.jp/~takefuku/essay/es02/es0209.html

『…鴨川にかかる数ある橋のなかでも、四条大橋は、すでに明治の初めから特別あつかいされてきた。木造だった橋は、明治七年、最初の鉄橋として生れかわっている。
 京都で唯一の鉄橋を誕生させたのは、京都府と祇園の町衆だが、隠れた生みの親は廃仏毀釈という社会的現象なのである。
 仏教を排斥する廃仏毀釈は明治五年ごろからはじまっているが、そのきっかけは維新時にさかのぼってみることができる。明治新政府のスローガンは王政復古、祭政一致であるから、まず天皇の絶対性を確立しなければならなかった。明治元年の神仏分離令はその具体的あらわれである。それが引き金になって国家宗教として権勢をほこっていた仏教は、神道にひれふさなければならなくなった。
 廃仏毀釈は全国的なものだったが、仏教の本山をかかえる京都は大騒動であった。とくに 「神さん」と 「仏さん」が、ごちゃまぜになった神仏合体の神社は、きびしい選択を迫られた。
 たとえば北野天満宮は北野神社と改称、社内の仏像をとりはらい、二重塔をうちこわした。石清水八幡宮も男山神社と改称させられている。もともと 「八幡さま」をまつりながらも仏教的な色彩の強い神社で阿弥陀仏などの仏像が安置されていた。京都府はそれらをすべて撤去させ、諸坊のとりこわしを命じた。「祇園さん」も例外ではなかった。それまでは 「感神院」あるいは 「祇園社」とよばれていたが、八坂神社と改められた。社僧は俗名に改めさせられ、薬師如来などの仏像は移管された。神仏合体の神社はいずれも「仏さん」部門を切り捨てて命脈を保ったのである。
 廃仏毀釈というリストラの嵐のなかで、多くの寺院が廃寺に追いこまれ、本尊の仏像だけでなく仏具や什器類まで没収された。府庁に次つぎと運びこまれた金属製の仏具類、それが四条鉄橋の鉄材に再利用されたのである。…』(引用終わり)

なんと、四条大橋は明治七年に廃仏毀釈で強制的に供出させた仏具類を鋳潰して橋材に使われたのである。その後、市電の開通に伴う道路拡張のため大正2年に架けかえられたが、水害で再度架けかえられることになり、昭和17年に完成したのが現在の四条大橋である。

いろいろ古い写真をネットで探すと、明治時代の四条大橋の画像が見つかった。
四条大橋鉄橋

この時代の京都人は四条大橋が廃仏毀釈と関わりがあることを知っていたであろうが、今ではこのような事実を知っている人は少ないのではないだろうか。
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消えた鶴岡八幡宮寺大塔など

鎌倉鶴岡八幡宮に以前は薬師堂や護摩堂や経堂や大塔があったことを最近知った。
鶴岡八幡宮は、明治以前は「鶴岡八幡宮寺」という神仏習合の寺院であり、明治初期の廃仏毀釈で仏教施設がすべて撤去されてしまったということである。
鶴岡八幡境内図

上の写真は江戸時代に書かれた境内図、下の写真は現在の境内図だが、現在の社務所や幼稚園、研修道場などのあるあたり一帯に仏教施設が建てられていたことがわかる。
鶴岡八幡宮2008

幕末に来日したイギリス人の写真家フリーチェ・ベアトが江戸時代の「鶴岡八幡宮寺」の写真を残している。
鶴岡八幡大塔写真

上の写真はベアトが撮った大塔の写真と言われている。またこの時期に来日したスイス人の実業家エメェ・アンベールも、著書「絵で見る幕末日本」(講談社学術文庫)の中で、当時の大塔の細密画を残している。
鶴岡八幡宮愛染明王

4つめの写真は破壊された愛染堂に安置されていた愛染明王の写真である。(今は五島美術館にある)

今でこそ「八幡」といえば神社を連想するのだが、宇佐八幡宮弥勒寺、石清水八幡宮護国寺をはじめもともとは神仏習合の寺院で、この時期に仏教的な施設が撤去されたところが多いのである。

それにしても、鶴岡八幡宮のホームページにも、石清水八幡宮のホームページにも、神仏分離のことは一切記述にない。宇佐八幡宮のホームページには神仏習合のことが少しだけ書かれているが、神仏分離のことは書かれていない。

真実は、表の歴史だけではわからないものである。
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かみがもばなし

以前、四条大橋が明治初期の廃仏毀釈で強制的に取り壊されたお寺の鐘や仏具を溶かして橋材に使われたことについて書いた。

この時期にどれだけのお寺が取り壊されたかについては良く分からないが、京都でこれだけのお寺が無くなったのであれば、庶民の記録のようなものが何か出てこないのだろうかとネットでいろいろ探したことがある。

当時は神社と寺院が共存していたことをヒントに、有名な神社をいくつか調べていくと、「かみがもばなし」というサイトの中の「お寺の話」が見つかった。しばらく引用させて頂くことにする。
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/tyrannosaurus/kamigamo.html


上賀茂

(以下引用)
『三百年も続いた江戸時代も、終わりを告げ時代も「明治」と改められた頃、新しい国づくりがはじまりました。

ここ上賀茂の地にも、新しい時代な波が押しよせてきました。そんなある日のこと、

「えらいこっちゃ、お寺がないようになったで。」 「賀茂川に行ってみ、つぶしたお寺の柱やら燃してるで。」

と、村中は大さわぎになっています。きのうまであったお寺は、次々とこわされているのです。

そのこわした木材を賀茂河原に出して火をつけて燃しているのです。その火は数日続いていたといわれています。

むかしから、この明治になるまで、寺と神社はいっしょにまつられていました。

ところが、この時代になってから、神社と寺は別々にまつるように、
神社にある、あるいはその神社の社領地にある寺は、認めないということです。これを「廃仏令」といいます。

明治をむかえるまでの時代には、このような寺の目的は、神社を守るためとか、神社へ奉仕をするためにあったそうです。

ですから現在のように、おそう式をする寺ではないのです。

上賀茂は、むかしは、上賀茂神社の社領地でありました。ですから、このような「おふれ」にしたがい、つぎつぎと消えてしまったのです。』 (引用終わり)

「かみがもばなし」は上賀茂の歴史研究家である初田耕治氏が上賀茂小学校の育友会広報誌に寄稿されたもので、「お寺のはなし」は初田氏が大田神社の藤木さんという方から聞かれたことをまとめられたものらしい。

そこには明治に入るまでは上賀茂神社に8つのお寺があったことが記されていて、そのお寺が廃仏毀釈で全て毀されるか移転されて全てなくなってしまったということなのだが、そういえば子供のころになぜ上賀茂神社や下鴨神社の近くにお寺がないのか不思議に思ったことがあった。ネットで調べていくと、下鴨神社も同様に神宮寺というお寺がこの時期に取り壊されたことが分かった。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/kyo_kamosimosya.htm

以前紹介した石清水八幡宮もそうだが、八坂神社にも北野天満宮も多宝塔などの仏教施設があったのがこの時期になくなっているのだ。どれだけの仏像や絵画がこの時期に失われたか想像もつかない。

中学や高校の歴史で学んだ廃仏毀釈は明治維新の一事件という程度の表層的な理解であったが、詳しく調べれば調べるほど、想像の域を超える凄まじいものであったことがわかる。弾圧された側の仏教の立場からの記述や、庶民レベルの記述がほとんど見当たらないのだが、あれば読んでみたいものである。
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悲しき阿修羅像

阿修羅展

今年の春から秋にかけて東京と九州で開催された国宝阿修羅展は、それぞれ95万人、71万人という多数の入場者を集め大変な盛況だったそうだ。私も阿修羅像は大好きで、昨年の秋に正倉院展を見た後に、興福寺の国宝館の阿修羅像を鑑賞して帰った。

その時は興福寺の歴史を良く知らなかったのだが、興福寺は明治時代の初期に廃仏毀釈によって建物を壊されたり仏像仏具が消滅するなど甚大な被害を受けていることを後で知った。

今の奈良公園は廃仏毀釈以前はすべて興福寺の境内であったのだが、当時の奈良県知事が「往来の妨げになる」との理由で土塀を撤去させたらしい。そのために興福寺には今も門もなければ塀もない。正岡子規の俳句に「秋風や 囲いもなしに 興福寺」という作品があるそうだが、この経緯を知らなければこの句を理解することはできないだろう。

興福寺のホームページを見ると「古写真ギャラリー」があって、明治時代の19世紀後半に撮影された72枚の写真が公表されている。
http://www.kohfukuji.com/property/old_photo/index.html

悲しき阿修羅2

その中に腕の欠けた仏像の写真がいくつも出てくるし、破損した仏像ばかりを並べた写真もある。そして最後には二本の腕がぽっきりと折れている阿修羅像の写真が残されている。

「五等 東金堂集合佛體」などという表題が書かれた写真は無着・世親立像とともに阿修羅像などが無造作に並べられている。よく見ると阿修羅像の腕が折れているようだ。

興福寺集合仏体

興福寺のホームページには、これらの写真の経緯については何も書かれていないのだが、いろいろネットで興福寺の明治以降の歴史を調べると驚くことばかりである。

明治4年に「寺領上知の令」により、明治政府が古来からあったお寺の領地を全て取り上げたために、古都奈良ばかりでなく全国の由緒ある寺院の多くが一気に経済的基盤を失ってしまい、寺は内部から崩壊して、生きるために仏像や寺宝を売却する者が出てくることになった。そのために、かなりの文化財が日本各地の寺院で失われることになった。

NHKの「その時歴史が動いた」~岡倉天心・廃仏毀釈からの復興~に比較的詳しくその頃の経緯が書かれており、当時の興福寺の状況を知ることができる。
https://www.nhk.or.jp/sonotoki/2008_05.html

それによると興福寺の僧侶130人が春日大社の神官となり、明治5年には興福寺は廃寺となって、明治14年に再び住職を置くことが認められるまでは興福寺は無住の地であったらしい。

また、興福寺の五重塔をも明治政府は破壊しようとしたのだが、その費用がなかったので売却することとなり、五両で買った買い主は塔の金具を取ることが目的だったのでこれを火をつけて焼けおちるのを待って金具を拾おうと考えた。ところが、信仰の厚い付近の町家から猛烈な反対に会い、また類焼の危険があるという抗議が出たために中止されたという話が、「神仏分離資料」に残っているそうだ。

阿修羅像の腕の欠損は廃仏毀釈が原因とも、享保二年(1717年)の火災が原因とも言われているが、火災時に破損したとすれば奈良で最も石高の高かった興福寺で160年以上も破損したままの仏像を放置していたことになる。

いずれにせよ腕の折れた阿修羅像は岡倉天心らにより修復されるのだが、現在の阿修羅像と修復前の画像とを比較すると手の位置が微妙に異なっている事に気づく。破損された画像をよく見れば、どうやら一番下の左手は合掌している手の位置ではなさそうである。右手で何かを持っていて左手で支えていたという説もあるようである。

ところで、明治時代の一定期間、誰も僧侶がいなかった興福寺の仏像は、一体誰が守ったのだろうか。一部の仏像は海外に流出しているがそれでも多くが残された。阿修羅像は腕が折れていたことが幸いして興福寺に残ることができたのだろうか。
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外国人に無着菩薩立像(現国宝)を売った興福寺

遅くなりましたが、新年あけましておめでとうございます。
昨年の11月下旬に、生まれて初めてブログにチャレンジしてみましたが、予想を上回るアクセスをいただき大変励みになっています。拙い文章ではありますが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
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前回に興福寺の阿修羅像の事を書いたが、その中で興福寺のホームページの中に「古写真ギャラリー」というコーナーがあり、現在国宝にされている阿修羅像や無着菩薩立像、世親菩薩立像などが雑然と置かれている写真を紹介したが、今回も再掲しておこう。

興福寺集合仏体

このように雑然と置かれている状態がどれくらいの間続いたかはわからないが、信仰の対象であったはずの仏像がどういう経緯で野ざらし状態になったのかと、まず不思議に思う。

「五等 東金堂集合佛體」などという写真の表題も変だ。いかにも売るために等級をつけたような印象を受けるのは私だけだろうか。「佛體」という表現は、信仰の対象としての仏像に使う言葉とは思えない。

鎌倉時代に運慶が作った国宝無着菩薩立像は、現在興福寺の北円堂に安置されており、私も2年前に阿修羅像を見た日にしっかり鑑賞してきたのだが、この有名な仏像が以前は外国人が所有していたことを、昨年末にネットで知った。

無着像

アマチュアの仏像研究家で朝田純一さんという方が「埃まみれの書棚から」という素晴らしいホームページを立ち上げておられ、この経緯について次のサイトで、さまざまな古寺、古仏に関する書籍とともに紹介しておられる。
http://www.bunkaken.net/index.files/raisan/shodana/shodana9.htm

このホームページによると、岡倉天心らが明治22年に発刊した「国華」という美術研究誌の創刊号に興福寺の無着菩薩立像が「ビゲロー氏所蔵」と書かれているらしい。

ビゲロー氏とは、明治14年(1882年)に来日したアメリカ人で、日本滞在の7年間で仏画から浮世絵や刀剣、漆器、彫刻など1万数千点を収集し、明治44年(1911年)にボストン美術館に寄贈した人物である。

「名品探索百十年、国華の軌跡」(水尾比呂志著:朝日新聞社刊)という本には、

「挿話の伝えるところ、その折(明治21年、九鬼隆一に率いられ岡倉天心、高橋健三が関西の古美術調査を行ったとき)文部省美術顧問ビゲローに、奈良興福寺が運慶作無着像を十数円で売り渡した事実を知って憤激した、という。我が国古美術の危機を世に知らしめる早急な措置の必要が、一同に痛感されたに違いない。」という記述があるそうだ。

我が国文化の混乱期に、フェロノサやビゲローやモースが日本の仏教美術や古美術品の価値を見出してその世界的評価を高めたことは有難いことであったが、それらを安値で買い集めて海外に流出させた張本人という見方もあるようである。

しかしながら、王政復古・祭政一致の理念に基づく宗教政策や西洋世界に追い付くための富国強兵、欧風化政策が進められる中で、日本人自身が廃寺となった寺院の仏像などに価値を充分に見いだせていなかったこともあるのではないか。

明治30年に古社寺保存法が制定され、明治31年に岡倉天心が設立した日本美術院で仏像などの修復活動が本格的に始まるのだが、もしフェロノサやビゲローの活動がなければ、このような修復活動がもっと遅れて、この時期にもっと多くの文化財が失われたかもしれないのだ。
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寺院が神社に変身した談山神社

3年前に談山神社の紅葉を見に行ったことがある。

談山神社と明日香散策 021

事前にネットでこの神社を調べた際に十三重塔の写真を見て、「神社にこんな塔があるのは珍しいな」とは思ったが、その時はあまり深く考えなかった。

昨年来、明治時期の初期の歴史に興味を持つようになり、この、桜と紅葉の名所は廃仏毀釈までは多武峰(とおのみね)寺あるいは妙楽寺と呼ばれるお寺であったことを最近になって知った。

このお寺の歴史は古く、西暦678年に藤原鎌足の長男の僧定恵が、父の鎌足の墓をこの地に移して十三重塔を造立し、680年に講堂が創建され妙楽寺と号し、その後701年に本堂が建築され、平安時代になると藤原氏の繁栄とともに隆盛したが、天台宗に転じて叡山の末寺となってからは興福寺と争い、度々興福寺の焼き討ちにあったといわれる。

江戸時代には寺領3000石、42坊の堂宇が存在したそうだが、廃仏毀釈の時に寺院のまま存続するか神社として存続するかで意見が割れ、結局神社として存続することになり、談山神社と名前を変えて、多くの仏像・仏具・経典などがその時に二束三文で売却されたり棄却されたらしい。

談山神社の名前の由来は、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が蘇我氏を倒す談合をこの多武峰で行い、後世この場所を「談(かた)らい山」と呼んだことによるとされる。

tonomine21.jpg

寛永3年(1791年)に出版された「大和名所図会」に、江戸時代の妙楽寺の案内図が書かれており、これと最近の談山神社の案内図と見比べると面白い。妙楽寺の建物が、朱塗られたり一部改築されて神社の建物に使われているそうだ。

談山神社案内図

たとえば妙楽寺の聖霊院は神社の本殿に、護国院は拝殿に、講堂は神廟拝所に変わっている。十三重塔が、神廟十三重塔などと名前が変わっているのも面白い。

談山神社のように寺院が神社に変わったものは、探せばいくらでもあるようだ。以前、石清水八幡宮(京都)や鶴岡八幡宮(神奈川)の事を書いたが、有名なところでは宇佐八幡宮(福岡)、金毘羅大権現(香川)、大神山神社(鳥取)も廃仏毀釈の時に寺院が神社になったものである。

明治の廃仏毀釈は、日本全国の国家神道化をはかるクーデターのようなものだと最近思うのだが、神社のホームページを見ても寺院のホームページを見てもほとんどがこのことに触れられていないようだ。しかし、このことを知らずして、この時期になぜ多くの文化財が失われたかを理解することはできないと思う。
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「奈良県」が地図から消えた明治の頃のこと

奈良県にはかって飛鳥浄御原京や平城京があり、古い寺院や神社が多くて日本人の心のふるさとでもある。この重厚な歴史のある「奈良県」という県名が、かって地図から消えたことがあることなど思いもよらなかったが、明治時代の11年半にわたって奈良県が消滅していることを最近インターネットで知った。
東大寺と郡山城の桜 069

「なら」は「奈良」と書いたり「寧楽」と書いたり「平城」とも表記されるが、平安時代から鎌倉時代にかけて東大寺や興福寺の門前町として「奈良町」が生まれ、江戸時代には奈良町に奉行所がおかれて政治の中心地となっていた。
明治新政府も奈良町に大和国(郡山藩、高取藩、柳生藩など)鎮撫総督府をおき、慶応4年に「奈良縣」と名付けられた。

明治時代に「奈良縣」は「奈良府」と呼ばれたり、また「奈良縣」に戻ったりめまぐるしく名前が変わっただけでなく、境界線も何度も変わっている。たとえば、明治3年には吉野郡あたりは「五条縣」であったし、明治4年の廃藩置県により、大和郡山、高取、柳生などの小藩がそれぞれ縣名をとなえた時期があったが、その年の11月には小藩がまとまって大和全域を管轄する「奈良縣」が成立している。

しかし、明治9年4月に府県の統廃合が行われて奈良県は大阪南部にあった堺県に編入され、ついで明治14年には、東京・京都・大坂の三府のうち最も財政基盤の弱かった大阪府を補強するために堺県が大阪府に編入されてしまった。

その結果、予算の多くが摂津・河内・和泉地区の河川改修などに重点的に配分されたり、旧奈良県で不可欠な予算が削られるようなことが頻発した。

そのころから奈良県再設置運動がはじまり、6年後の明治20年(1887年)11月に再び奈良県が誕生した。要するに明治9年から11年半にわたって「奈良県」が地図上から消えてしまったのである。

しかし奈良県の再設置は決して簡単ではなかった。

旧奈良県出身の恒岡直史・今村勤三議員らが中心となって内務省や太政官に何度も陳情をしたが却下され、元老院に二度にわたる建白書の提出も実らず、山形有朋内務大臣や松方正義大蔵大臣に直接請願して、伊藤博文総理大臣からやっと内諾をとるなど大変な苦労をしたことや、その後も大阪府の抵抗があり当時府会の議長であった恒岡氏は辞職勧告の建議案が出て議会は混乱し、恒岡氏は勧告が出る前に議長を辞任している。

このような詳しい経緯が「奈良県誕生物語」というサイトに書かれているが、このサイトは小説のように面白く、興味のある人は堺市編入以降の第三章から読み始めても結構楽しめると思う。
http://www.kamarin.com/special_edition/index_0.htm

今の奈良県は幕末の頃、郡山藩、柳生藩、高取藩の他にも小泉藩、柳本藩、芝村藩など1万石程度の小藩が乱立していたし、そう簡単に一つになれる素地は乏しかったと考えるのが自然である。まして、当時の大阪府の中では旧奈良県の議員は少数派でしかなかったので、大阪府の議会で奈良県が誕生することを容認する可能性は当初から極めて低かった。

何度却下されても、明治政府に対して奈良県再設置を求める恒岡直史議員らの粘り強い活動がなければ、奈良県の再設置はなかったかずっと遅くなったことであろうし、地域の発展がもっと遅れたのではないだろうか。

今の政治家にこのような人物がほとんどいないのは残念だが、このような明治期の政治家の努力があって現在の奈良県があることを忘れてはいけないのだと思う。

またここまで努力した先人がいたことを多くの人が知ることによってこそ、志のある人が政治家を目指すようになり、選挙民もまた志のある人を政治家に選ぶようになり、政治家が安易な対応をすることを許さなくなるのではないだろうか。
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次々に廃寺となった奈良の大寺院

江戸時代の奈良の寺院を石高順に並べると、興福寺が15,033石と圧倒的に多く、次いで多武峰寺3,000石、東大寺2,211石、一乗院1,491石、法隆寺1,000石、吉野蔵王堂1,000石、内山永久寺971石、大乗院914石と続くのだが、これらの大寺院の領地が明治4年の「寺領上知の令」によって没収され、明治7年には寺録も廃止・逓減され、かつての大名家からの寄進もなくなって収入源がほとんど断たれてしまった。いくつか聞きなれない名前があるが、それらはいずれも明治時代に姿を消した寺院である。

多武峰寺(妙楽寺)は前々回に書いたが、今の談山神社である。
一乗院は興福寺の門跡寺院であったが、廃仏毀釈により廃寺となり、跡地は奈良県庁となり現在は奈良地裁となっている。
大乗院も興福寺の門跡寺院であったが、同様に廃仏毀釈時に廃寺となり、跡地は現在奈良ホテルとなり、現在は大乗院の庭園だけが残っている。

内山永久寺は天理市杣之内町にかつて存在し、「太平記」に後醍醐天皇が一時ここに身を隠したと記されている寺院でもある。江戸時代には「西の日光」とも呼ばれた大寺院であり、芭蕉も若い時期に「うち山や とざましらずの花ざかり」という句を残しているが、こんな歴史のある寺も廃仏毀釈で潰されてしまった。今回はこの寺のことを少し書いてみたい。

内山永久寺記念碑

内山永久寺は鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第二世頼光が12世紀のはじめに創建し、後に本時垂迹説の流行とともに石上神宮の神宮寺としての性格を備えるようになり、興福寺大乗院の権威を背景に栄えた寺院である。

最盛期には浄土式回遊庭園を中心に、本堂、八角多宝塔、三重塔など50以上の堂塔が並ぶ大伽藍を誇り、建物だけでなく仏像などに見るべきものが多かったと言われている。

江戸時代寛政3年に出版された「大和名所図会」という奈良の旅行案内書に内山永久寺の絵図があるが、この図面だけでもかなり大きな寺院であったことがわかる。

大和名所図会内山永久寺

しかしながら明治の廃仏毀釈によりこの寺院の僧侶は全員還俗し、堂塔・坊舎はことごとく破壊されてしまった。

次の図面は、現在の地図に当時の伽藍を復元したものだが、これだけの建物が失われてしまった。

内山永久寺地図1

仏像・仏具などの多くは破壊されたり、焼却されたり海外に流出したが、東京美術学校長であった正木直彦氏の「十三松堂閑話録」に内山永久寺のこの頃の事が書かれているらしい。

その中には、永久寺廃寺の検分に役人が出向いた際に寺僧が還俗した証拠として、この役人の目前で本尊の文殊菩薩を薪割で頭から割ったことや、役人が仏像や仏具は庄屋中山平八郎に命じて預からせたが、年月とともに中山氏の個人所有になっていき、藤田(伝三郎)家で所有する藤原期の仏像仏画の多くは、中山氏の蔵から運んだものであったことや、金泥の経巻を焼いてその灰から金をとる商売が起こった話などが書かれているそうだ。

海外に流出したものも少なくなくボストン美術館蔵の「四天王図」は鎌倉時代を代表する作品で、日本にあれば間違いなく国宝と言われている。
石上神宮摂社・出雲建雄神社割拝殿(国宝)は内山永久寺の住吉神社拝殿を移築したものであるし、東大寺の持国天、多門天(いずれも重要文化財)、藤田美術館蔵の両部大経感得図(国宝)など国内に現存しているものの多くが重要文化財・国宝指定を受けている。 現在この寺院がもし残っていれば、超一級の観光名所になっていたことは確実であろう。

内山永久寺跡地の現状

現在では当時の敷地の大半は農地となり、ビニルハウスが一杯並んだ光景が悲しい。わずかに内山永久寺の石碑と案内図や芭蕉の句碑、後醍醐天皇が一時この寺院に身を隠された「萱御所跡」という碑が残されていることがネットで確認できる。

詳しく知りたい方は、次のサイトを参考にしてください。古い貴重な資料や図面や現在の写真などが満載です。

大和内山永久寺多宝塔
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_eikyuji.htm
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文化財を守った法隆寺管主の英断

前回、明治の初期に奈良の大寺院が次々に廃寺となったことを書いた。江戸時代に石高の高かった8つの大寺院のうち3寺院が完全に破壊され、1寺院が神社になったのだが、残りの大寺院はどうだったのか。

現存している大寺院は興福寺、東大寺、法隆寺、吉野蔵王堂の4寺院であるが、この時期にいずれの寺院も存亡の危機にあったことは間違いない。

興福寺は以前も書いたが、廃仏毀釈時に僧侶全員が春日大社の神官となって明治5年には廃寺となり、明治14年に再び住職を置くことが認められるまでの9年間は無住の地となり、五重塔も売却されたが近隣住民の反対で焼却されずに済んだ経緯にある。

では他の大寺院はどうだったのか。今回は法隆寺の事を書こう。

法隆寺

岩波新書に関秀夫氏の「博物館の誕生」という本があり、その中に法隆寺の当時の状況を伺い知ることのできる記述がある。

「戒律の厳しい奈良の唐招提寺や聖徳太子ゆかりの法隆寺では、堂宇や仏像の破壊は免れたものの、経済基盤である寺領を取り上げられたために、僧侶たちの日常生活もままならない状態に陥り、古くから伝えられてきた貴重な古文書を、かまどの焚きつけに使ってしまうという情ないありさまであった。奈良市内の旧家には、そのころ、法隆寺や唐招提寺、海竜王寺などから、寺僧が持ち出して酒代のかわりに使った、寺印のある一切経の片割れが多数伝わっている。」(75p) 「…法隆寺の荒廃もひどかった。寺領を失い、廃仏毀釈で堂宇を荒らされ、雨でも降ればあちこちに水が漏り、明治五年に調査が入ったときには、目を覆いたくなるほどの状態であった。」(81p)

法隆寺もこのような状況が長く続けば、老朽化していた伽藍や堂宇を棄却するか、売却するかの選択を迫られていただろう。佐伯恵達氏の「廃仏毀釈百年」という本には、「法隆寺は、仏像・仏具を廃棄して、聖徳神社にされそうに」なったと書いてある。
しかし、法隆寺は明治11年、管主の千早定朝師の大英断によりこの経済的危機を乗り越えることになる。

以前紹介した朝田純一氏の「埃まみれの書棚から」というホームページが、本の紹介とともに、この頃の経緯を詳しく記述している。

明治4年に寺領上知の令で法隆寺の境内地が没収され、明治7年に法隆寺の寺禄千石が廃止・逓減されて、法隆寺の収入源がほとんど断たれてしまった。

そこで明治8年、塔頭寺院のほとんどを取り畳み、寺僧たちは西円堂御供所で合宿生活を送るなど、倹約に勤めたという。今のリストラである。

「こうしたなか、宝物の多くを売りに出す大和の古寺も少なくない有様であったが、法隆寺では、貴重な宝物類を皇室に献納し、末永く保存されることを願うこととしたのである。寺僧協議を重ねた末、何某かの下賜金あることを期待してのことであった。」 「明治11年献納の儀が決定、1万円が下賜され、当面の維持基金とすることができた。」

この1万円で、法隆寺は息を吹き返し、8千円で公債を購入し、金利600円を運営維持費に充て、2千円を伽藍諸堂の修理費に充てたそうである。

法隆寺宝物館

この時に皇室に献納した宝物は300点を超え、これが東京国立博物館の「法隆寺献納宝物」と言われるもので、現在は東京国立博物館の敷地内にある法隆寺宝物館でほとんどすべてを見ることができるそうだ。

200px-Prince_Shotoku.jpg

ただし有名な「聖徳太子および二王子像」「聖徳太子筆法華義疏」などは皇室ゆかりの品としてそのまま宮内庁に留め置かれたため見ることができないとのことである。

【ご参考】朝田純一氏の「埃まみれの書棚から」の関連ページ
http://www.bunkaken.net/index.files/raisan/shodana/shodana19.htm
http://www.bunkaken.net/index.files/raisan/shodana/shodana20.htm

今の日本人で聖徳太子について悪いイメージを持つ人はほとんどいないと思うのだが、廃仏毀釈を行った側の考えでは、聖徳太子は仏教を擁護し天皇を蔑にした人物として糾弾する考えが強かったようだ。
この献納と下賜金がなければ、法隆寺も他寺と同じく、多くの宝物、仏像などが流出売却、あるいは棄却・焼却された可能性が高かったのではないか。

千早定朝

当時の管主千早定朝の大英断により聖徳太子にかかわる宝物の多くを、一番安全な皇室に献納することによって、法隆寺は国民の文化財を守り、自らも寺院として存続できる道を開いたのである。

しかしながら、1994年にフランスのギメ美術館で法隆寺にあった勢至菩薩像が発見されている。戒律が厳しく、管主のリーダーシップで立ち直った法隆寺ですら、仏像が流出したのだから、あとの寺院は推して知るべしである。
<ギメ美術館で発見された法隆寺の仏像>
http://www.photo-make.co.jp/hm_2/ma_20_4.html
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明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺

明治の廃仏毀釈によって、全国で10万ケ寺あった寺院が5万ケ寺に減ったという記事を読んだことがある。その中で、浄土真宗は明治維新直後の廃仏毀釈の影響をあまり受けなかったと言われているが、いったいどういう経緯があったのか。

西本願寺は江戸時代を通じ朝廷に忠誠を誓っており、明治に入っても巨額の寄付をしてきた経緯から、政府も手を出さなかったことは理解できる。

ところが東本願寺は文久3年(1863)には徳川幕府に1万両の軍資金を提供したり、元治元年(1866)年の蛤御門の変で堂宇が類焼した後慶応2年(1866)には逆に幕府から5万両の寄進を受けている。慶応3年(1867)の大政奉還の後も、末寺の門徒、僧侶による軍隊を編成して、幕府の指揮下に入ることを申し出ているなど、一貫して佐幕派であったが、さすがに、戊辰戦争がはじまった頃には時代の潮流を感じたか、当時の厳如上人は朝廷に一札を入れて勤王方に着き、御所の警護や討幕運動の資金調達に奔走し、多額の軍費や兵糧米を献納したようである。

しかし永年徳川幕府と親密であっただけに、慶応4年の年始に行われた宮中会議においては、東本願寺を焼き打ちにする案が出されたことがあった。その時は「叛意がない」旨の誓書を朝廷に提出して事なきを得たが、その後廃仏毀釈で全国の寺院がいくつも廃絶されるにおよび、東本願寺も薩長勢力を中心とする明治政府から冷遇、あるいは弾圧される危機を強く認識していたのである。

   この難局を乗り切るために、東本願寺がとった方策は、明治政府に平身低頭し、ひたすら忠誠を尽くすことであった。

一方、成立して間もない新政権にとってみれば当時ロシアの南下政策の脅威に対抗するために、北海道の開拓と移民の入植が急務であったが、その資金と労働力の調達が困難であった。

本願寺09204

そこで、東本願寺は北海道の開拓に協力することを自ら申し出て、新政府に協力する意思表示をするのだが、実態は明治政府からの圧力により協力させられたのだと思う。

明治2年(1869)9月に、政府は東本願寺に北海道の開拓を命じ、明治3年(1870)2月に、当時19歳の新門跡現如上人を筆頭に、僧侶や信徒178人が京都を出立し、悲願の旅が始まる。 一行は信者の寄進を呼び掛けつつ、越中、越後、酒田と北上し、「廃仏思想」の根強い秋田は船で進んで青森に上陸するなど苦労しながら、函館にようやく7月に到着している。

本願寺09205

東本願寺一行は尾去別(おさるべつ:現在の伊達市長和)を起点とし、洞爺湖の東側、中山峠を通り平岸(ひらぎし:現在の札幌市豊平区)を結ぶルートの道路建設を開始し、この道路は後に「本願寺道路」と呼ばれた。工事は、明治3年7月から明治4年10月にかけて行われ、長さは約103kmで、これが現在の国道230号の基礎となったと言われている。

本願寺道路地図

当時はもちろんショベルカーやダンプカーや電動機具のようなものはなく、すべて人力で土を掘り、石や土を運び、木を切り、根こそぎ掘るなどの作業がなされたことは言うまでもない。オオカミ等にも襲われながら大変な苦労をして出来上がった道路である。

現如上人像

上の写真は工事の最大の難所と呼ばれた中山峠に立つ、現如上人の銅像である。
実は、北海道の開拓はこの時期に東本願寺だけが協力させられたのではなかった。
佐伯恵達氏の「廃仏毀釈100年」によると、政府は、東本願寺だけでなく明治2年9月17日に増上寺にも北海道静内郡および積丹等の土地の開拓を命じている。また12月3日には、仏光寺に北海道後志、石狩の地の開拓を命じている。

つまり明治政府は、廃仏毀釈で廃寺になるかも知れない寺院の危機をしたたかに利用し、寺院や信者の寄進による金で、北海道の開拓をはじめたということだ。

その後廃仏毀釈が下火になると、明治政府も寺院の協力を得ることができなくなり、その後は囚人やアイヌに過酷な労働をさせて北海道の開拓が進められることになる。

明治政府がこれだけ北海道の開拓を急いだのは、前述したとおりロシアの南下政策に対抗して国土を守るためにやむを得なかった背景がある。ロシアは1860年の北京条約により沿海州の一部を清から割譲され、極東を征服する準備を整えていたのである。明治政府が何もしなければ、北海道は容易にロシアに占領されていただろう。(沿海州の最大の都市「ウラジオストク」の名はロシア語で「極東を征服せよ」の意)

通史を読んでもこれらの史実はほとんど書かれていないが、昔の人々がこんなに苦労して歴史ある寺院を現在に残していることや、国土を開拓した背景や努力は、いつまでも忘れるべきではないと思う。その先人の思いが理解できなければ、いつまでも我が国の文化や伝統を守ることも、ひいては国土を守ることも容易ではない。
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明治の初期に、鹿児島県で何があったのか

以前「消えた門跡寺院」という表題で安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」のことをブログに少し書いたが、その「都名所図会」が刊行されてから、全国で名所図会の出版がブームとなり、「江戸名所図会」「大和名所図会」「江戸名所図会」「木曽路名所図会」などが次々と出版された。
薩摩藩(現在の鹿児島県)についても「薩藩名勝志」という本が文化3年(1806)に出版されたが、この本は薩摩藩の名勝や神社仏閣の由来などを485もの絵図とともに和歌等を織り込みながら解説した、19巻19冊の和装本である。また、明治になってから出版されたが大隅藩、日向藩の名勝を書き加えられた「三国名勝図会」(三国とは「薩摩」「大隅」「日向」のこと)という60巻20冊の和装本もある。

三国名勝図会

江戸時代の薩摩の名所や旧跡についてこれだけの案内書があるのなら、今も鹿児島県に観光名所となるような有名な寺院がいくつあってもおかしくないのだが、今の鹿児島県には、建築物でも古いものがほとんどなく、わずかに室町時代に建築された神社の建物が2件と江戸時代以降に建築された神社と旧家の建物が数件重要文化財として残っているだけだ。仏教関係では建築物だけでなく、仏像や仏画なども文化財となるようなものは何もない。
その理由は簡単である。明治の廃仏毀釈で寺院が徹底的に破壊されたからである。現在鹿児島県に国宝が銘国宗の太刀1本だけしかないのは、明治初期の廃仏毀釈を抜きにしては語れない。

「神仏分離資料」によると、この時期に鹿児島県の寺院1066寺が一つ残らず廃され、僧侶2964人が還俗させられたということだ。

そもそも、薩摩藩累代の藩主は熱心な仏教信者であり厚く寺院を保護してきたのだが、藩主島津忠義の後見役の島津久光は決してそうではなかった。

佐伯恵達氏の「廃仏毀釈百年」によると、幕末期の薩摩藩において仏教を排撃せよとする平田篤胤の思想が流行し、「寺院に与えている禄高は軍用に充て、仏具は武器に変え、寺院の財産は藩士の貧窮者に分与し、若い僧侶は兵役に使う」との考えで、徹底的に寺院が破壊されていった。
また島津藩累代藩主の菩提寺も、島津久光自らがすべて神社にしてしまった。 すなわち浄光明寺を龍尾神社に、日新寺を竹田神社に、南林寺を松尾神社に、妙谷寺を太平神社に、妙円寺を徳重神社に、福昌寺を長谷神社とした。

福昌寺80

上の写真は、「三国名勝図会」にある福昌寺の図だが、この寺院は応永元年(1394)島津家七代元久が建てた名刹で日本三大僧録所と呼ばれた大きな寺院であったが、今は玉龍高校の敷地となり、その近くに歴代島津家の6代師久から28代斉彬までの当主の墓や家族の墓が残されているだけだ。

久保田収氏の「薩摩藩における廃仏毀釈」という論文には、島津斉彬の側近であった市来四郎の談として、次のような発言が記録されているそうだ。
「寺院を廃して、各寺院にあるところの大小の梵鐘あるいは仏像仏具の類も許多の斤高にして、これを武器製造の料に充て、銅の分を代価に算して、およそ十余万両の数なり」
「僧侶も真に仏教に帰依していた者はなかったようで、おおむね還俗することを喜んだそうな」
「仏像の始末については、石の仏像は打ち壊して、川の水除などに沈めました。今に鹿児島の西南にある甲突川という川の水当のところを仏淵とよびます。すなわち仏像を沈めたところでござります。木の仏像はことごとく焼き捨てました。」
「大寺の大門とか楼閣とかを打ち壊すに、大工人夫共が負傷でもすると、人気に障りますから、大いに念入りに指揮いたしました。大工人夫共の屋根から落ちて負傷したこともなく、滞りなく打ち壊しました。その頃の巷説に、昔の人は大寺だの大像だのを造立して、金銭を遣い、丹精もこらしたもので、それだけの効験があるものと思うたが、今日打ち壊してみれば、何のこともない、昔の人は大分損なことをせられたものだなどと言いました。仏というものは畢竟弄物みたいなものであったという気になりました」

こんな考え方の役人が全国にいたのだから、どれだけの文化財が無くなってもおかしくない。

園林寺の首なし像70

上の画像は小松帯刀が眠る園林寺跡の仁王像だが、インターネットで鹿児島県の廃仏毀釈の写真を検索するとこのような首のない仏像などがいくらも出てくる。しかし鹿児島ばかりが激しかったわけではない。他県では殺人事件もあったようだ。
「例えば、宮崎市古城の伊萬福寺の場合は、住持の僧が暴徒によって山上の崖から蹴落とされたという口碑があるし、隣県大分の国東の富貴寺の場合などは、僧侶を皆殺しにして土に埋めました。今にその供養碑が境内に残っています。(佐伯恵達氏:前掲書)」

通史では廃仏毀釈については「国学や神道の思想に共感する人々の行動が一部で非常に過激になり、各地で仏教を攻撃して寺院や仏像を破壊する動きがみられた」程度で淡々と書かれているが、このような文章では、この時代の空気を到底理解することはできないと思う。
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明治期の危機を乗り越えた東大寺

以前このブログで、明治初期に奈良の大寺院が次々と廃寺になって、石高が大きい寺院で今も残っているのは、興福寺、法隆寺、東大寺、吉野蔵王堂だという事を書いた。興福寺と法隆寺の事はすでに書いたので、今回は東大寺の事を書こう。

東大寺明治5年

ここに明治5年に撮影された、東大寺大仏殿の写真がある。重たい屋根を支えきれずに何か所が垂れ下がり、かなり屋根が歪んでいるように見える。崩れそうな屋根を支えるために、建物の外に木材が何本か組み立てられているのも写っている。「軒反り」といわれる軒先の 微妙な反りがほとんどなくなっている。現在の東大寺と比較すればその違いは明らかである。

東大寺

廃仏毀釈が吹き荒れた明治の初期の東大寺大仏殿がこんなに傷んでいて、大きな地震でもあれば倒壊してもおかしくない状況だったことを私が知ったのはつい最近の事だ。

当時の大仏殿は江戸時代の元禄期に再建されたもであったが、設計に狂いがあったために建築全体に歪みが生じ、建物全体が反時計回りに捻じれており、雨漏りもひどかったらしいのだ。

東大寺内の伽藍堂宇の造営修理に携わる勧進所が江戸時代の修理の際より東大寺塔頭の龍松院にあり、それ以来東大寺当局には大仏殿の管理権がなかったのだが、明治になって勧進職自体が廃止されてしまって、東大寺は大仏殿の修理のめどがつかなくなってしまった。

明治3年に東大寺は奈良県に、大勧進職の職名を復活することを嘆願したのだが、「大仏殿は東大寺全体で管理すべきものであり、寺禄により修理するように」との指示がなされ、次に明治政府に同様の申し出をしたが「全国で廃止している勧進職を復活することはできない」と突き放されている。

そして明治4年には寺領上知の令で土地が没収され、大きな収入源が断たれてしまい、各堂の賽銭などの収入では、堂宇の修繕どころか僧侶の日々の生活もままならない状態になった。

さらに大きな問題は、それまで大仏殿の管理権を持っていた龍松院側が東大寺当局に大仏殿を引き渡すことを拒んだことである。本来ならば、勧進職である龍松院は大仏殿を修理する手はずを整えなければならなかったのであるが、大仏殿の賽銭収入や信者や有志から修繕費用を集める利権や資金などは手放したくなかったのだ。

ただしこの問題は奈良県が通達を出して、明治5年に大仏殿の管理権がようやく東大寺当局に移ることになるが、勧進職の復活を認めてもらえないために、修繕費用を集めることもできない状態が長く続いた。

年数がたち、天竜寺や東福寺で勧進許可の前例が出て、明治15年になって東大寺は大阪府(以前のブログで書いたように、当時は奈良県は大阪府に吸収されていた)に、国の巨額の寄付と信者の布施と勧進により財源を確保して大仏殿を修理したい旨の願書を提出している。しかしながら大阪府は、国からの寄付を拒否し、信者の布施と勧進だけを許可している。要するに、寺の修理の資金は自分で工面せよという考え方であった。

ところが明治政府の対応に若干の変化が出てくる。10月に大仏殿修理に関する寄付勧進許可が出た際に、宮内庁から500円の下賜があった。

東大寺側も全国的な勧進と信者からの布施を集めるための大仏会が組織されて、資金集めを開始するのだが、当初はなかなか資金が集まらなかったようである。当初の予算は42700円であったが、明治16年から25年までに大仏会で集めた資金は4600円に過ぎなかった。

そこで東大寺は明治25年に大仏殿営繕費下賜願いを明治政府に提出したところ、今度は寺社局長から3500円、内務省から6500円もの助成金が与えられ、ようやく修理が進むかと思われたが、あいにく明治27年(1894)に日清戦争が始まり、物価騰貴のために予算が約4倍の18万円に跳ね上がり、工事が中断されてしまう。

それでも多くの人の資金協力により明治36年(1903)に修理準備工事に入るも、翌年の日露戦争開戦でまたもや工事が中止となり、一層の物価騰貴となる。

明治39年に、再度予算を687,221円88銭に改定し工事が再開されて、上棟式にこぎつけたのは明治44年(1911)で、工事が完成して大仏殿落慶総供養が行われたのはなんと大正4年(1915)のことであった。もっと早く修理を終えていれば、こんなに資金も要らなかったであろうに。

貴重な文化財を修理することには莫大なコストがかかるものではあるが、これを寺院の自助努力だけでは到底不可能である。明治初期の廃仏毀釈の嵐がすぎて、日本の文化が再評価され出してから日本政府が完全に方針が変わるのは明治30年の古社寺保存法の公布の頃だが、それまでの東大寺の苦労は並大抵のものではなかったはずである。

文化財を後世に残すためには当事者の努力が必要であることは言うまでもないが、信者や国民に守る意思があり、国にもその意思があってはじめて守れるものなのである。
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一度神社になった国宝吉野蔵王堂

吉野の桜 019

3年前の桜の時期にバス旅行で吉野に行ったことがある。有名な桜の名所だけに凄い人だった。

吉野の桜 010

ここを訪れる人の大半が、行きか帰りに、東大寺大仏殿に次いで日本で二番目に大きい木造建築物である金峯山寺(きんぶせんじ)の蔵王堂を参拝して休憩をとると思うのだが、この時はこの寺院の歴史を何も知らずにただ参拝しただけだった。

最近になって廃仏毀釈の事に興味を持つようになりいろいろ調べていくと、金峯山寺のホームページに「明治7年、明治政府により修験道が禁止され、金峯山寺は一時期、廃寺となり」と書いてある。たまたまカメラに収めた寺院の案内板にはもっと踏み込んで「神仏分離政策により、蔵王堂などが強制的に神社に改められる」と書かれてあるのを最近ようやく気がついた。この寺院も明治の初期に大変なことがあったのである。

今回はこの金峯山寺について書くことにしたい。

吉野山は古くからの修験の地であり、蔵王権現を祀る蔵王堂を中心に多くの社寺があり、以前は、山全体を金峯山寺と呼ばれていた。

吉野山勝景絵図

上の図は江戸時代後期に描かれた「吉野山勝景絵図」で、絵図の中央にある大きな建物が蔵王堂である。蔵王堂の近くに鳥居があるが、これが「銅(かね)の鳥居」と呼ばれる日本最古の銅の鳥居である。
修験者はこの鳥居に手を触れて巡り「吉野なる銅の鳥居に手をかけて弥陀の浄土に入るぞうれしき」との讃仏歌を3度唱えて入山するそうだ。
今でこそ鳥居は神社の象徴と誰でも考えるが、昔はそうではなかったらしく、その讃仏歌がこの鳥居に刻まれているらしい。鳥居の扁額は空海の筆によるものとされ、「発心門」と書かれているそうだ。要するにもともとは、鳥居は「門」であって、仏教的色彩が強いものであったのだ。

蔵王堂に祀られているのは蔵王権現だが、「権現」とは「仏や菩薩が人々を救うために、この世に仮の姿を現した者」という意味で、蔵王権現像は、右手を頭上に振り上げ、右足も蹴りあげて、憤怒の相をしているところに特徴がある。

蔵王権現像70

このような仏像は、インドや中国には例がなく、日本で独自に創造されたものだと考えられている。画像の蔵王権現像はパンフレットのものだが、残念ながら秘仏として普段は公開されていない。

この吉野全山に神仏分離令が適用されたのが、慶応4年(1868)6月のことで、それは蔵王権現を神号に改め、僧侶は復飾神勤せよというものだった。(復飾=僧が還俗すること)

もともと吉野は神仏習合の地であり金精明神などの神社も存在したが、圧倒的に仏教色の強い地域であった。この絶好の機会に全山に勢力を拡大しようとした神職身分の者もいたが、明治元年から三年の段階では彼らの策動は成功しなかった。

しかし、明治四年から六年にかけて、吉野の神仏分離を徹底し、山全体を金峰神社とせよとする明治政府の指令が繰り返され、明治七年には吉野一山は金峯山寺の地主神金精明神を金峰神社と改めて本社とし、山下の蔵王堂を口宮、山上蔵王堂を奥宮とすることに定められ、仏像仏具は除去されてしまう。山下の蔵王堂の巨大な蔵王権現像は動かすことができないのでその前に幕を張り、金峰神社の霊代として鏡をかけて幣束をたてた。また僧侶身分のものは、葬式寺をつとめる一部の寺院を除き全員還俗神勤したのである。

金峯神社

この写真は金峰神社だが、こんなしょぼい神社を吉野全山の本社と言われても、偉容を誇る蔵王堂とは比べものにならず、参詣者は鏡や幣束を無視して、口宮では蔵王像に、奥宮では行者堂に参詣したそうである。このような民衆の不満を背景にして、明治政府としても寺院への復帰を認めざるを得なくなり、明治十九年に二つの蔵王堂が仏教に復したのである。

同じ時期に神社にさせられた山形県の羽黒権現、香川県の金毘羅大権現、福岡県の英彦山権現などの修験の寺院は二度と寺院に戻ることはなかったが、吉野の二つの蔵王堂は寺院に復した珍しい事例である。

寺院に復することができたのは、金峯山という場所が7世紀に役小角(えんのおづぬ:山岳修行者)が修行中に蔵王権現が現れた由緒ある地であるとの修験者や信者の思いが強かったとか、門前町である吉野町民の運動の成果とも言われているが、修験者・信者・町民のすべての努力が咬みあった結果なのだろうと思う。
この時期に廃寺となったり神社になったり荒廃した寺院の多くは、そのいくつかが欠けていたのではないだろうか。以前書いた内山永久寺にしても、談山神社となった妙楽寺にしても、興福寺にしても、僧侶は政府の言うがままに全員還俗して神官となったが、法隆寺や東大寺や東本願寺や吉野蔵王堂は僧侶が容易に信仰を捨てずにいたからこそ、文化財を今に残すことができたのではないか。

いかなる時代も、まず当事者が理不尽なことには闘う姿勢がなければ、信者や民衆の支持も得られず、守るべきものが守れないのだと思う。
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明治の皇室と仏教

5年ほど前に京都東山にある東福寺の有名な紅葉を見た後に、すぐ近くの泉涌寺に立ち寄ったことがある。このお寺も紅葉で有名なので訪れただけなのだが、この時にこの泉涌寺で南北朝から安土桃山時代および江戸時代の歴代の多くの天皇の御葬儀がここで執り行われ、皇室とは縁の深いお寺であることをはじめて知った。

泉涌寺

暗殺されたとの説もある幕末の孝明天皇の御葬儀もここで行われたのだが、孝明天皇の次は明治天皇だ。明治以前は京都に都があって天皇家が仏教徒であったという当たり前のことに気付かされたが、その頃は歴史にそれほど関心がなく、それ以上深くは考えなかった。

昨年あたりから廃仏毀釈の頃に興味を持つようになっていろいろ調べると、明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」により、「上古以来宮中に祀られていた仏堂・仏具・経典等、また天皇・皇后の念持仏など一切を天皇家の菩提寺である泉涌寺に遷し、その代わりとして神棚が宮中に置かれて、宮中より仏教色を一掃しました。」(佐伯恵達「廃仏毀釈百年」p295)とある。

淡々と書かれているが、こんな重要なことが何の抵抗もなくなすことができたということに疑問を感じた。

皇室で仏教は1400年以上の歴史があり、江戸時代までは皇族は仏教徒であり仏教を保護してきたのだ。まして、明治天皇にとっては先代の孝明天皇は実の父親である。若いとはいえ、明治4年と言えば天皇は19歳だ。他にも皇族は沢山いたのに、そんな簡単に信仰が捨てられることに不自然さを感じるのは私だけだろうか。信仰の薄い私ですら、自分の先祖の墓を捨てて明日から神棚を祀れというのは耐えられない。

明治天皇や主要な皇族が抵抗すれば、いかなる策士といえどもこのようなことは強行できなかったと思うのだが、皇族すべてが抵抗せずに廃仏を受容したとすれば、脅迫などがあって皇族の誰もが抵抗できない環境に置かれていたか、主要な皇族全員が神仏分離が正しいとの考え方でほぼ一致していたかのいずれかなのだろうが、真相はどうだったのか。

色々調べていくと、明治天皇暗殺説まである。それくらいの事がなければ、皇族すべてが神仏分離に従うということは起こり得ないようにも思える。

meiji.jpg

明治天皇の即位の頃の写真が「幕末写真館」というサイトで見つかったが、この写真がもし本物で中心にいるのが明治天皇であれば、我々がよく目にする明治天皇の写真とはあまりにも異なる。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html

明治天皇2

即位前と後では顔も体格も字も教養も運動能力も全く異なるというのが事実であれば、すり替えられたと考えるのが自然である。すり替えで天皇となった人物の名前が南朝の末裔の大室寅之祐ということまでわかっているというのだが、皆さんは次のサイトを読んでどう思われますか。

古川宏という士族の末裔の方が「士族家庭史研究会」というサイトで、明治天皇の出自についてかなり詳しく調べておられる。
http://www8.ocn.ne.jp/~shizoku/meijitennou.htm
あるいは竹下義朗氏の「帝国電網省」の記事もすごく説得力がある。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/nanboku4.html
現在とは違って当時は天皇の顔を知る者はごく一部であったから、皇族を除いてはすり替えてもわかる人がごく一部しかいなかったことは確実で、こういうことができる条件は十分にあったのである。

さらにいろいろ調べると、皇族の中でも明治政府からの還俗の強要を敢然と拒否した女性がいたことを次のサイトで知ってほっとした。
http://d.hatena.ne.jp/ajita/20090416/p1

日榮尼

「中外日報」という仏教系の新聞に歴史家の石川泰志氏が寄稿したコラムだが、廃仏毀釈の荒波に抗して日本仏教を守り抜いた3人の皇族女性を紹介している。3人とは伏見宮邦家親王の娘で出家していた誓圓尼(浄土宗善光寺大本願住職)、文秀女王(臨済宗妙心寺派円照寺門跡)、日榮尼(日蓮宗村雲瑞龍寺門跡)だが、しばらく記事を引用すると、

「善光寺を善光神社に改めようとする画策に、誓圓尼は「一度仏教に固く誓った身であるから、たとえ如何なる迫害を受けようともこの度の仰せには従い得ない。我が身は終生仏弟子として念仏弘通の為に捧げよう」と決意、善光寺存亡の危機を救った。
 文秀女王も実家に連れ戻されたものの、戒律を遵守し仏弟子として振る舞ったため、父邦家親王が不憫に思い円照寺へ戻ることを許した。
 日榮尼は明治元年当時まだ十一歳ながら還俗を迫る使者に「日榮は仏道に入りし以上は行雲流水の身となり樹下石上を宿とする共還俗はいたしませぬ」と断言、不惜身命の勇気で廃仏毀釈論者の目論見を一蹴した。
 三姉妹の仏法護持の勇気は、皇室の仏教祭祀廃止にもかかわらずなお皇室と仏教の精神的結びつきを維持する上で大きな力となった。」と書かれている。

この時に男性の皇族はすべて還俗したそうだが、この3人の女性が日本の仏教の危機を救ってくれた貢献者であることは間違いがない。
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明治時代に参政権を剥奪された僧侶たち

廃仏毀釈絵

私が京都のお寺に生まれたことは何度かこのブログに書いたが、子供のころに何の理由もなく「くそ坊主」とか「洟垂れ小僧」などと罵られていやな思いをするようなことが何度かあった。
このようなことは私に限らずお寺で生まれた人は少なからず経験したとは思うのだが、私が時々このブログで紹介する「廃仏毀釈百年」という本の著者である佐伯恵達氏も宮崎県のお寺の息子で、著書の中で「毎日のようにののしられ…、学校に行っても、一人の先生を除いて他の先生はすべて寺院を軽蔑し、…学校へ行くのがつらく、中学時代は、自分が寺などにどうして生まれたのだろうと、自分の出生をのろったものです。」と子供の頃を振り返っておられる。

廃仏毀釈100年

この著書の中で佐伯氏は、このように僧侶を馬鹿にするような風潮は廃仏毀釈以降の事だと記されており目からウロコが落ちた。

少し長いがしばらく引用させて頂く。(同書p23-24)
「明治以来終戦まで、神職は官吏として国家から給料をもらって生活していました。一方住職は、もっぱら信者からの布施にすがって生きていかねばなりませんでした。聖職と言う名の乞食でした。生活の保障はなかったのです。しかも明治22年6月以来被選挙権は奪われ、同27年2月には選挙運動を禁止され、同34年11月以来、小学校訓導になることも禁止されてきたのです。」
「一夜にして神職は国家官吏となり、住職は(収入源を)剥奪されて乞食者となりました。これを明治百年の仏教弾圧と言わずして何と言えるでしょう。」
「寺院から菊の紋章を取り外し(明治2年)、寺領を没収し(同4年)、僧侶に肉食妻帯させて(同5年)、なまくさ坊主とはやし立て、上古以来の僧官を廃し、仏教修行の根本たる托鉢を禁止し(同5年)、傍らでは神職に給料制度をしき(同6年)、僧侶の口を封じて落語や講談にまで僧侶の失態を演じさせ(同6年)、学校から神道以外の宗教教育を締め出し(同39年)て、コジキ坊主、ナマクサ坊主とさげすまれて、百年の今にまで至っています。しかし、これはもう誰も知りません。教育とは恐ろしいものです。…」(引用終わり)

紹介した部分は、同書のサワリの部分で、本文にはもっと詳しく書かれている。

たとえば、
「明治27年(1894)日清戦争開始の年。
<僧侶の参政権剥奪>
○二月、(神官)僧侶の議員選挙に関するを禁ず。(内務省訓令)」
※…神官は国家的に保証された官吏ですので、この訓令も実質的には僧侶のみに発せられたものです。婦人参政権の事もありますが、僧侶は婦人なみに取り扱われたのです。僧侶は選挙運動もできなかったのです。…以来昭和20年まで約50年間それは続きました。(同書p311)」

佐伯氏のこの本には「明治政府がこんなことまでしたのか」と驚くようなことがいっぱい書かれており、しかも政府の通達の番号などの根拠まで明示されている。しっかりと事実を踏まえた寺院の立場からの歴史記述に、私の明治の歴史の見方を一変させてくれた。収入源を大きく断たれ、大変厳しい生活を余儀なくされ、社会的地位や基本的な権利も剥奪された僧侶が大変な思いをして、信者の力も得て、今の多くの寺院は守られてきたのである。

普通の歴史の書物には明治政府は廃仏毀釈とは関係がないような書き方がされており、私もこの本を読むまではそう理解していた。しかしよくよく考えると、いつの時代においても、いかなる国においても為政者にとって都合の悪いことは正史から消される可能性が高いのである。何故ならば、時の為政者を批判する歴史が正史であれば、国政が常に批判されて政治が安定するはずがないからである。(但し今の日本昭和史は例外)

しかし、今の時代に明治政府にとって都合の悪い事実を隠す理由がどこにあるのだろうか。太平洋戦争敗戦によって何もかもが変わってしまっている。
幕末から明治にかけての歴史を、いい面も悪い面もバランス良く書けないものであろうか。今のようなキレイゴトだけの正史で明治時代を理解することが続けば、いずれ文化財を博物館でしか守れない時代が来るような気がする。
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県名と県庁所在地とが同じ県と違う県の意味?と歴史

はじめて日本の地理を学んだときに、県名と県庁所在地名をセットで覚えた。その時に多くの人は、例えば奈良県・奈良市や岡山県・岡山市というように県庁所在地の名称がそのまま県名になっていることか多いので、三重県・津市のような例外の18都道府県だけしっかり覚えれば良いということに気が付いて、例外の県だけをしっかり学習する。

県名は明治4年の廃藩置県で決まったものだが、何故このような例外が生じたかについてはあまり考えず、何も知らずに過ごしてきた。

司馬遼太郎

最近この問題に興味を持っていろいろ調べると、たとえば司馬遼太郎が「街道を行く(3)」で次のように書いている。

「明治政府がこんにちの都道府県をつくるとき、どの土地が官軍に属し、どの土地が佐幕もしくは日和見であったかということを後世にわかるように烙印を押した。
その藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である。
薩摩藩-鹿児島市が鹿児島県。
長州藩-山口市が山口県。
土佐藩-高知市が高知県。
肥前佐賀藩-佐賀市が佐賀県。
の四県がその代表的なものである。
戊辰戦争の段階であわただしく官軍についた大藩の所在地もこれに準じている。
筑前福岡藩が、福岡城下の名をとって福岡県になり、芸州広島藩、備前岡山藩、越前福井藩、秋田藩の場合もおなじである。

これらに対し、加賀百万石は日和見藩だったために金沢が城下であるのに金沢県とはならず石川という県内の小さな地名をさがし出してこれを県名とした。

戊辰戦争の段階で奥羽地方は秋田藩をのぞいてほとんどの藩が佐幕だったために、秋田県をのぞくすべての県がかつての大藩城下町の名称としていない。仙台県とはいわずに宮城県、盛岡県とはいわずに岩手県といったぐあいだが、とくに官軍の最大の攻撃目標だった会津藩にいたっては城下の若松市に県庁が置かれず、わざわざ福島という僻村のような土地に県庁をもってゆき、その呼称をとって福島県と称せしめられている。」(引用終わり)

はじめてこの文章を読んだ際に「なるほど」と思った。
例えば四国で言えば、香川県の高松藩、愛媛県の松山藩はともに佐幕派であったが、この2県だけが県庁所在地名と県名が異なる。
実はこの説は、司馬遼太郎より前にジャーナリストの宮武外骨が昭和16年(1941)に「府藩県政史」という本で書いたものらしい。

しかしながら冷静に考えると、江戸幕府のあった東京はいきなり当てはまらない。紀州徳川家のあった和歌山もあてはまらない。大阪も江戸幕府の直轄領であったのにあてはまらない。実際はかなり例外が存在するようだ。

いろいろネットで調べてみると、司馬遼太郎が紹介している宮城県は確かに佐幕派であったが、明治4年(1871)の廃藩置県の時は「仙台県」となり、翌年の明治5年に、人心一新を理由に「宮城県」に名称変更となっている。岩手県も同様で廃藩置県当時は「盛岡県」であったが、「旧藩の因襲から抜けがたい」との理由で、盛岡県が申請した体裁になっている。盛岡県については岩手県のレファレンスコーナーに詳しく書かれている。
http://www.library.pref.iwate.jp/riyoannnai/kanpopdf/kanpo160_pdf/160007.pdf
石川県についても同様で、廃藩置県時は「金沢県」となっている。そして、翌年に県庁の場所を「北に寄り過ぎている」という理由で石川郡美川町(現白山市)に移して「石川県」と改称し、明治6年に再び県庁所在地を金沢に移したが県名は改称しなかったとややこしい経緯がある。

会津若松についても会津松平家が斗南藩に移封された後は政府直轄地となり、明治2年6月には会津若松に県庁がおかれて若松県と称し、福島県に合併されるまで7年間は県庁所在地であったことになる。

これらの事例はひょっとすれば明治政府が圧力をかけた経緯があるのかもしれないが、それならはじめから「仙台県」「盛岡県」「金沢県」「若松県」を許したことがおかしいということになってくる。

そもそも廃藩置県当初は殆ど藩をそのまま読みかえられ、実施直後の明治4年7月には府県数は3府302県もあったそうだ。その後相当組み替えられて同年の11月には3府72県に統合されたのだが、小さな旧藩同士で県庁を取り合い県名をどうするかで様々な駆け引きが行われたことは想像に難くない。小さい旧藩が集まってできた県なら、県名と県庁所在地が別々にして交渉を決着させることは充分ありうることではないのか。

この問題は、司馬説、宮武説ほど単純なものではなさそうだ。
少なくとも明治政府が佐幕藩や態度があいまいであった藩を懲罰するために主導的に、全国的に県名を改称させたとは考えにくいし、多くの例外の存在と個々の命名事情を無視し過ぎている。

興味のある方は、戸田孝さんの「雑学資料室」の次のページが参考になります。
http://www.biwa.ne.jp/~toda-m/geo-hist/prefname.html
藩名や県名の推移に興味のある方は、「地理データ集」の次のサイトがお勧めです。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/huken.htm
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「宮崎県」が存在しなかった、明治の頃のこと

今年の1月に、明治の一時期に奈良県が存在しなかったことを書いた。私もこのブログをはじめるまでは、奈良県が存在しなかったことがあることを考えもしなかったが、明治9年に奈良県は大阪南部にあった堺県に編入され、明治14年には堺県が大阪府に編入されてしまっている。その後、恒岡直史議員らの粘り強い活動により明治20年に奈良県が再設置されるのだが、それまでの11年半は「奈良県」が我が国に存在しなかった史実がある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-90.html

奈良県の再設置運動は小説にしても良いようなドラマがあったが、いろいろ調べると、明治4年7月には府県数は3府302県もあったのだが、相当組み替えられて同年の11月には3府72県に統合されている。(第一次府県統合)。
また明治9年(1876)4月と8月の二度にわたり、再び全国的な府県統合が行われて3府35県まで整理され、明治14年の堺県の大阪府編入で3府34県となっている。(第二次府県統合)

3府34県というと、現在の都道府県数よりも随分少ないことが誰でも気がつく。
復活された県が奈良県以外でもかなりあったことがわかる。

明治12年日本地図

上の図はネットでみつけた明治12年の頃の日本地図である。
結論から言うと、富山県、福井県、奈良県、鳥取県、徳島県、香川県、佐賀県、宮崎県の8県が、この地図では存在せず、これらの県は第二次府県統合の後で復活されたということになる。
奈良県の事例から容易に想像できるように、いずれも地元民の再設置に向けての相当な努力がなければ、復活が実現できなかったはずである。奈良以外の県ではどのようなドラマがあったのか。

今回は東国原知事で一躍注目され、現在口蹄疫問題に苦しむ宮崎県のことを話題にしてみたい。

東国原知事

宮崎県は、7世紀に成立した「日向国」がルーツで、「日向国」は今の宮崎県と鹿児島県の本土部分を管轄する大きな国であった。8世紀の初めに唱更国(後の薩摩国)と大隅国が分離した後は、明治初期まで日向国の領域は変化がなかったらしい。

南北朝から戦国時代にかけて、日向国も全国の例にたがわず群雄割拠の時代となり土持氏、伊東氏、北原氏、などの勢力争いが展開されたが、1578年の耳川の戦いで大友氏に勝利した島津氏が日向国一円を支配するようになるが、1587年の秀吉の九州攻めで島津氏が降伏すると、日向国は功のあった大名に分知されてしまう。

江戸時代には、日向国には天領と小藩[延岡藩、高鍋藩、佐土原藩、飫肥藩(おびはん)]に分割され、薩摩藩や人吉藩も一部の領地をもっていた。

日向国江戸時代の地図

上の図は江戸時代の延享4年(1747)の旧日向国の地図だが、こんなに小さく複雑に分断されて幕府領が飛び地で何か所もおかれている。その理由は、江戸幕府が島津家の反乱に備えたためと言われており、幕府領の飛び地があるだけでなく島津家に敵対してきた外様の伊東氏を飫肥藩に配し、譜代大名の内藤氏を延岡藩に配置している。

明治に入って廃藩置県当初は延岡県、高鍋県、佐土原県、飫肥県(おびけん)が設置されるが、明治4年(1871)の府県合併によって美々津県、都城県に再編され、その後明治6年(1873)にほぼ旧日向国の領域をもって宮崎県が誕生した。

しかしながら、その3年後の明治9年(1876)に宮崎県は鹿児島県に合併されてしまっている。鹿児島県は明治新政府の改革に対する士族の不満が大きく、下野していた西郷隆盛の周辺に士族たちが集まり、明治政府にとっては難治県となっていたのに対し、宮崎県は士族が多かったにもかかわらず、政府に対する反抗はみられず、このような宮崎県民を鹿児島県に吸収させることで、鹿児島の士族の不満が和らぐとの考えがあったと言われている。当時の県令であった福山建偉(鹿児島出身)は宮崎のことを「人民が蒙昧であり…自由の権利と義務を了解せず、旧習を墨守し文化の何たるかを知らない民」(「宮崎県史」より)と評していたそうだが、随分宮崎県民を愚弄したものの言い方だ。

しかし翌年に西南戦争が勃発し、宮崎からも多数の士族・農民たちが西郷軍に加わり、宮崎でも激戦が繰り広げられる。

西郷軍が敗れた後は、専制政治に対する批判は言論によるものが中心となり、全国で自由民権運動が展開されていくことになるが、宮崎地区では納税に見合うだけの投資やサービスがなく、鹿児島地区に予算配分が偏重しているとの不満から、次第に分県が主張されるようになる。

ここから後のことは、次の「宮崎県郷土先覚者」のHPが詳しい。
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kenmin/kokusai/senkaku/pioneer/kawagoe/index.html
その当時県会議員であった川越進が、「日向国分県(宮崎県再設置)」を県令に請願することを提案し、賛同する有志たちで「日州親睦会」が結成して会の代表となった川越は同志の藤田哲蔵、上田集成らとともに新たに着任した渡辺千秋県令に「分県請願書」を提出するが、県令は実現困難だと門前払いにしたそうだ。明治14年(1881)当時の鹿児島県議会は鹿児島出身の議員が36名、宮崎出身の議員が17名で、当時の議会では分県の建議すらも受け入れられないような状況であったのだ。

日州親睦会のメンバーたちは宮崎地区各地を訪ねて、「宮崎県」の再設置を住民に訴えて運動の輪を広げる一方、川越進と藤田哲蔵の二人が上京して在京の秋月種樹(あきつきたねたつ:旧高鍋藩種の世子)や司法省の三好退蔵(旧高鍋藩出身)などと面会し、政府には分県の意思があるが、県令や南諸県郡(現在の鹿児島県志布志など)が反対しているために保留となっていることを知る。
また伊東博文や山形有朋など旧長州出身の有力者などにも陳情を重ね、山田顕義内務卿より「分県のことは、県会を通じて願い出よ」との通達を受け帰郷する。

川越進らは翌明治15年(1882)の3月の県会に「日向国分県建議案」を提出。この建議案は賛成多数で成立するのだが、翌日の県会で、宮里武夫県会議長が建議所上程の可否について再議することを提案し、上程しないことが決議されてしまう。
これに憤慨した宮崎地区出身議員のほとんどが病気を理由に帰郷し、各地で報告会や日向懇親会を開催するなど分権運動がさらに盛り上がることとなる。

翌明治16年(1883)に川越進が鹿児島県県会議長に選出され、3月に再提出された分県建議案は可決され、川越は再度上京し山田内務卿に分県建議書を提出し、4月に参事院で認定されて5月9日に宮崎県再置の布告がなされて、川越らの3年に及ぶ努力が実を結び、7年ぶりに宮崎県が復活するのである。

宮崎県再置布告

上の画像は宮崎県文書センターに収蔵されている宮崎県再配置の太政大臣布告である。

川越進は7月1日に県庁がおかれると、初代の県会議長に就任し、その後明治23年には衆議院議員に選出され、国政の場で宮崎県の発展につくしたという。

宮崎の父川越進像

その後彼は「宮崎県の父」と呼ばれるようになり、宮崎県庁にその銅像があるようだ。彼が中心になって勧められた分県運動は、有志達の私財を使って行われ、彼が政界を引退した大正元年(1912)には、ほとんどの財産を失い、子孫には「政治家などになるものではない」と言い残したそうだ。

地方では若い人の働く場所が少なすぎて、若い世代の流出が止まらない。これでは地方は老齢化が進み衰退してしまうばかりではないか。特に宮崎県はバカな大臣の対応のまずさで口蹄疫の大打撃を蒙ってしまった。これから宮崎の畜産業は立ち直れるのだろうか。

都会も地方もバランスよく発展させ、若い世代が地方でも普通の生活が出来るようにすることを、国家レベルで考えることが必要だと思う。そうしなければ、郷土を愛し、郷土の将来のためにに尽くす人がいなくなってしまう。工場誘致も必要だが、農業などの第一次産業や地場の産業などをあまり軽視してはいけないのだと思う。
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野球の殿堂入りした正岡子規の野球への愛情と奈良の旅行

以前、このブログで正岡子規俳句を紹介したことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-76.html

「秋風や 囲いもなしに 興福寺」

阿修羅像で有名な奈良の興福寺は、明治の廃仏毀釈の時に僧侶130人が春日神社の神官となり、明治5年には廃寺となり、明治14年に再び住職を置くことが認められるまで無住の地であったのだ。当時の奈良県知事が興福寺の土塀は「往来の妨げになる」との理由ですべて撤去させたという経緯を知らなければ、この句の理解はとてもできないだろうということを書いた。

正岡子規肖像

正岡子規は明治28年(1895)10月26~29日に奈良を訪れて、他にも当時の奈良を書いた句を多く残している。子規が残した俳句は、次のURLで紹介されている。
http://www.webmtabi.jp/200803/haiku/matsuyama_masaokashiki_index.html

明治28年の秋の作品をいろいろ読んでいくと、
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」は教科書にも出てくる有名な句だが、

「秋風や 奈良の仏に 札がつく」
「行く秋や 奈良の小店の 古仏」

というような奈良の廃仏毀釈を知らなければとても理解できない句がいくつか掲載されている。子規が奈良を旅行した頃は、廃仏毀釈で廃寺となった寺の仏像があちこちの古美術商で売られていたような時代であったことが見えてくる。

「柿食えば…」の法隆寺の句も、正岡子規訪れる数年前の法隆寺は相当荒れていたはずで、ようやく古美術の保存に関する関心が高まってきて明治26年頃から堂宇の修繕が国庫の補助金を得て着手されたばかりであった。

句の中に地名が書かれていないのでよくわからないが、これも廃仏毀釈の傷痕を見て作った句なのだろうか。

「堂崩れて 地蔵残りぬ 草の花」
「明き寺や 取り乱したる 萩の花」

廃仏毀釈の話題はこれくらいにして、次に別の視点から子規の生涯を振り返ってみよう。

最近知ったことなのだが、正岡子規は平成14年(2002)1月に「野球の殿堂」の新世紀特別表彰として加えられている。長い間闘病生活をした子規がなぜなのだと興味を覚えたので、奈良に旅行した経緯もふくめて少し調べてみた。

正岡子規は慶応3年(1867)に、伊予松山藩士正岡隼太の長男として生まれ、幼名は升(のぼる)といった。

正岡子規学生服

政治家を志して明治16年(1883)、17歳の時に松山中学を中退して上京し、秋山真之と共に東京大学予備門を目指して翌年に合格してから、明治18年(1885)に俳句を作り始め、明治19年(1886)ごろからベースボールに熱中し、子規の随筆「筆まかせ」には明治23年(1890)に3月に上野公園博物館横空き地で試合を行ったことが記されており、その時のポジションは捕手だったそうだ。

そもそも「野球」は明治4年(1871)に来日した米国人ホーレス・ウィルソンが東京開成学校予科(現在の東京大学の前身)で教えたと言われているが、正岡子規がベースボールを始めた頃はこのスポーツを知る人は少なく、守備位置やルールなどは英語のままで使っていたようである。これを子規が日本語に翻訳したそうである。

正岡子規と野球

子規が訳した野球用語のうち「直球」「打者」「走者」「死球」「飛球」は今も使われているが、使われなくなったものも少なくない。次のURLで子規が翻訳した野球用語が紹介されているが、ピッチャーを「投者」、キャッチャーを「攫者」、バットを「棒」、ベースを「基」等と呼ぶのは面白い。
http://www.sakanouenokumo.jp/shiki/baseball.html

ネットでいろいろ調べると子規がベースボールを解説している明治29年の新聞記事が見つかった。この文章の中に、子規の考えた野球用語の翻訳が出ている。
http://www.webmtabi.jp/200803/haiku/matsuyama_masaokashiki_baseball.html

上記の新聞記事の最後に子規が「ベースボール未だかつて譯語あらず」と書いているように、ベースボールをはじめて「野球」と翻訳したのは正岡子規ではなかった。

180px-Kanae_Chuman.jpg

「野球」という訳語を初めて使ったのは第一高等中学で「ベースボール部」の選手として活躍した、鹿児島県出身の中馬庚(ちゅうまんかなえ:上の画像)で、第一高等中学を卒業する際にベースボール部の部史執筆を依頼されて、明治27年(1894)にベースボールを「野球」と命名したのが最初だそうだ。この中馬庚は、子規よりも速く昭和45年(1970)に野球の殿堂入りを果たしている。

しかし、実は「野球」という言葉を考案したのは中馬庚よりも正岡子規の方が4年も早かった。正岡子規は明治23年(1890)に、「野球」をベースボールの訳語としてではなく自分の雅号として用い、幼名の「のぼる」にちなんで「野球(のボール)」と読ませたそうだ。よほど子規はベースボールが好きだったようだ。

正岡子規は明治22年(1889)に初めて喀血をして以降、療養が続いて落第を繰り返し、明治25年(1892)に東京帝国大学を退学している。
その後新聞社に入社し、肺結核を患いながら日清戦争の従軍記者として中国に赴くも、船中の喀血で瀕死の状態となり、治療の後しばらく故郷松山に戻っている。

次のURLに子規の年表がまとめられているが、ここには奈良の旅行の事は記されていない。しかし奈良に旅行した日が明治28年(1895)10月26~29日であることはわかっているので、子規が奈良に訪れたのは、松山から上京する途中で立ち寄ったということになる。
http://www2a.biglobe.ne.jp/~kimura/siki01.htm

それ以降子規は7年にわたり闘病生活を過ごしており、奈良の旅は子規にとって人生最後の旅行となったそうだ。子規の観た当時の奈良は、私の知る限り廃仏毀釈で相当荒れた状態であり、のんびりと古刹を巡って昔を偲ぶようなものではなかったのではないか。

東京に戻り、病魔と闘いながらも子規は多くの作品を残しているが、明治29年(1896)の句のなかに、ベースボールを題材にしたものを見つけてしまった。

「若草や 子供集まりて 毬を打つ」
「草茂み ベースボールの 道白し」 

子規の野球に対する熱い情熱が伝わって来る。子規はもっと健康な体でいて、もっともっと野球がしたかったのだろうと思う。
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中国人苦力を全員解放させた日本人の物語

19世紀に奴隷制の廃止運動が起こり、イギリスでは1833年、フランスでは1848年に奴隷制度が廃止され、アメリカは少し遅く南北戦争後の1865年に漸く奴隷制度が廃止されている。
しかし、これで完全に世界で奴隷制度がなくなったわけではなく、奴隷商人たちは彼らに代わる奴隷をアジアの地に求めるようになった。
かくして中国人の苦力(クーリー)貿易がアヘン戦争直後の1845年から本格化する。彼らは建前上は契約労働者であったが実態は奴隷であり、前回紹介した奴隷船と同様な構造の船に詰め込まれて鎖につながれて運ばれていった。

1860年代半ばには、こうした苦力を運ぶ定期航路が開かれて大量移民に拍車がかかり、1930年代に下り坂に向かうまで、数百万人にもおよぶ中国人苦力が運ばれていったと言われている。

私の書棚に1冊のGHQ焚書図書がある。
ある古本屋で見つけて1000円で買った菊池寛の『大衆明治史』(国民版)という本だ。

大衆明治史

何も苦労して古本を探さなくとも、ネットで全文を公開している奇特な人がいるので、今では誰でもダウンロードして読む事が可能だ。
http://tncs.world.coocan.jp/tsmeijisi.html

この本は、明治に起こった21の出来事を事実に基づきわかりやすく叙述した書物で、明治21年生まれの作家・菊池寛が明治という時代をどのように捉えていたかがわかって興味深く読める。少し読んで頂ければわかると思うが、国家主義的な思想性は特に感じられない。なぜこの本がGHQの焚書対象とされたかの理由を推定するに、西洋諸国にとって都合の悪い史実が記されていたからだと思う。

目次をみると最初が廃藩置県で、次が征韓論決裂、そして次が問題のマリア・ルーズ号事件だ。
今ではこのマリア・ルーズ号事件のことを記述している本がほとんど見当たらないのだが、菊池寛がこの事件の事を書いたことがGHQの焚書につながった一番大きな理由ではないかと私は考えている。この事件は西洋諸国にとっては、日本人に知らせたくない、都合の悪い出来事であったはずだ。

ではマリア・ルーズ号事件とはどんな事件なのか。菊池寛やWikipediaなどの叙述を参考にしながら、纏めることにする。(Wikipediaでは「マリア・ルス号事件」と表記されている。日付が双方で異なるのは、菊池の文章は旧暦でWikipediaは新暦で統一されている。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%B9%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

明治5年(1872)6月1日(旧暦)に古い帆船が横浜港口に横付けとなったが、途中で暴風雨に遭ったらしく、マストの一部が破損し、帆綱も断れていた。
横浜港長パーヴィス大佐の命令を受けて同船に対し役人の臨検が行われ、この船の正体が明らかになった。
この船は南米ペルー船籍の350tの商船で船名はマリア・ルーズ号。
船長はペルー国大尉のドン・リカルドオ・ヘレラ。
中国のマカオを出港しペルーのカリアオに向かう途中で台風に遭遇し、修理のために横浜に入港したが積荷はなく、中国人苦力225名ならびに船長自身が雇入れた中国人のボーイ23人を載せていたという。

それから数日後、マリア・ルーズ号の過酷な待遇から逃れるために一人の中国人が海へ逃亡し、近くに停泊していた英国軍艦アイアン・デューク号が救助した。その中国人には明らかな虐待の形跡があり、本人の陳述から英国領事館はマリア・ルーズ号を「奴隷運搬船」と判断し、「この驚くべき蛮行の事実を率直に当局に告げ、日本政府が適宜の処置を執られんことを切望する」旨を、神奈川県庁を通じて通告した。

菊地寛

菊池寛は、この事件の背景をこう書いている。
「南北戦争の結果奴隷が解放され、その為新大陸では極度の労力不足を感じていた。これに乗じた、一部の奸商共は、新たに支那の苦力を大量にアメリカに送って、これを奴隷同様に売買して、巨利を博していたのである。」

神奈川県庁の権令(副知事)の大江卓は義憤を感じつつも、条約が締結されていない日本とペルーとの間で国際紛争を起こすことはないとの考えでその苦力をヘレラ船長に戻したのだが、船に戻すと船長はその苦力に笞刑を加えその悲鳴が遠くまで達したという。
数日後またもや別の苦力が英艦に泳ぎ着き、再び船長の暴状を訴えた。激昂した英艦乗組員は英国代理公使ワットソンに急報し、ワットソンは米国公使とともに外務卿の副島種臣を訪ねて日本政府に注意を喚起した。

当時政府部内では、司法卿江藤新平や陸奥宗光等は条約国でもないペルーと事を構えるのは不得策だと反対したが、副島はこの非人道的な事件に対して断固糾弾すべきだとし、中国及びペルーに対しては条約による領事裁判を認めていないので、この事件の処断はわが国における正当な権利であると主張したのである。

副島種臣

「領事裁判」とは在留外国人が起こした事件を本国の領事が本国法に則り領事裁判所で行う裁判のことをいい、江戸幕府が安政年間に結んだ米・英・仏・蘭・露各国と結んだ条約では認められていたが、領事は本来外交官であり、本国に極めて有利な判決が下される傾向が強かった。副島種臣はペルーとはこのような条約がないので、わが国の法律で処すべきであると述べたのである。
この副島の主張は閣議を通過し、この事件の調査は神奈川県令大江卓に命ぜられた。

大江の査問に対しヘレラ船長と弁護人は、問題の苦力たちはいずれも乗客であるから相当な待遇を与えていると主張し、「本事件は公海において発生したものであり、日本国法権の及ぶところでない。」「マリア・ルーズ号出港停止による、損害賠償を請求する」と主張した。一方、大江は他の苦力たちを公判に呼び証言させたところ、いずれも船内の暴状を訴えたという。

大江卓を裁判長とする特設裁判所による7月27日の判決は、中国人の解放を条件にマリア・ルーズ号の出港を認めるものであったが、ヘレラ船長はこの判決を不服としたうえ、中国人苦力に対しての移民契約破棄の罪状で告訴するに至った。

大江卓

しかし大江卓が出した8月25日に出した判決は痛快である。移民契約は奴隷契約であり、人道に反する者は無効であると却下し、中国人苦力全員解放という快挙をやってのけたのである。
「…若し人にして肆に幽閉せられた際は、ハーベーオス・コーポスなる公法によりて、其の者の自由を完全ならしむるが通議なり、今我国に於ては、この公法の設定なし。然れども、何人と雖も、この自由の通議あり。これが我が国の本理なり。然るにマリア・ルーズ船の清国船客の如きは、外国人のために肆に幽閉せられしこと判然たり。故に彼らは盡く釈放さるべし…」

清国政府は直ちに特使陳福勲を派遣して大江卓神奈川県県令および副島種臣外務卿に深謝し、9月13日に苦力から解放された者とともに上海に向かったのである。

菊池寛はこう解説している。
「阿片売買と共に、この苦力売買は、西欧人が支那に対して行った罪悪の、最も悪逆なるものの一つである。当時ハバナの総領事から、外務大臣への報告に依ると、この奴隷船の支那苦力の死亡率は14パーセントに達したと言われる。ひどい例になると、同じく澳門(マカオ)からペルーへ送られた二隻740名の苦力中、航海中死んだ苦力が、240名という記録さへある。…
後に清国政府は、わが国の厚誼を徳として、副島外務卿及び大江県令に対し、感謝のしるしとして、頌徳の大旆(たいはい)*を送ったという。」*大旆:大きな旗

大江卓宛大旆

ちなみにこの時に清国から送られた頌徳の大旆は、神奈川県立公文書館に保管されており、神奈川県のホームページにその写真が掲載されている。
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f100108/p10431.html

しかし、この事件はまだ終わらなかった。
翌年2月にペルー政府は海軍大臣を来日させ、この事件に対する謝罪と損害賠償を要求してきた。この両国間の紛争解決のために、ロシア皇帝アレクサンドル2世が仲裁に立つこととなり、国際仲裁裁判が開催されたが、この裁判は1875年に6月に「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」との判決が出て、ペルー側の訴えが退けられている。

菊池寛はこう結んでいる。
「国際法の知識の貧弱なわが外務当局が、敢然起って、自主的にこの事件に干渉し、この好結果を得たのは、もとより副島の果断、大江の奮闘にもよるが、わが当局が、人道上の正義に基づく行動は、結局世界の同情を得る、と云う確信から出発したことにも依る。外務省公刊の『秘魯国(ペルー)マリヤルズ船一件』なる文書の末尾に、
『此一件ノ当否ハ普ク宇内ノ正決ニ信ズ』
と壮語しているが、全くこの自信を現したものに外ならない」

明治維新直後の新政府において外交が務まるだけの素養や国際法の知識のあるものなどは皆無に近かった中で、副島種臣は佐賀藩の「致遠館」でフルベッキに英米法や各国の法制経済を学んでいた。だからこそ正論を押し通すことができ、土佐藩出身の大江も体を張って奮闘した。
人権という考え方が世界的にも未成熟な時代に、各国領事の圧力をはねのけたことは、わが国が近代国家の仲間入りを果たす契機ともなり、明治人の気概を感じさせる物語である。

同様な事件は、実はこの事件の20年前にも石垣島で起こっていた。石垣島の出来事については次のURLが詳細なレポートを載せている。
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/123456789/1835/1/Vol29p92.pdf

ペリー来航の1年前の1852年3月に、厦門(アモイ)で集められた400人余りの苦力が、米国船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途中で暴行に堪えかねて蜂起し、船長ら7人を打ち殺し、その船はその後台湾に向かう途中に石垣島沖で座礁したため、苦力380人が石垣島に上陸し、船は残りの20余名の苦力を載せて厦門に引き返した。

石垣島の人々は仮小屋を建てて彼らを収容したのだが、米国と英国の海軍が来島して砲撃を加え、武装兵が上陸して逃走した苦力を捜査し、百名以上の苦力が銃撃され、逮捕され、自殺者や病没者が続出したという。
石垣島の人々は苦力達を深く同情し、彼らに食糧を与えて援助した一方、清国に戻った苦力達が船内の虐待を訴えたことから厦門民衆の苦力貿易反対運動が高まったという。

琉球王府は、もし再度米国と英国の海軍が来島した場合は、米英と戦うことは不可能であるとして、苦力全員を引き渡す方針をも検討していた。一方厦門では苦力貿易反対運動が更に激化し、英国は陸軍を厦門に上陸させて中国人4名を銃殺、5名以上を負傷させて辛うじて運動を鎮圧させたという。
その後ロバート・バウン号で厦門に引き返した苦力が無罪釈放されることとなり、石垣島に残留したメンバーの罪も不問に付すとの情報が福建当局から入り、翌1853年11月に琉球の護送船二隻を仕立てて、生存者172人を福州に送還したという話である。
もし、苦力の一部が厦門に戻ることがなければ苦力貿易反対運動も燃え上がらなかったであろうし、さらに米英の海軍が石垣島を砲撃しに再来した場合には、島民が巻き込まれて多くの犠牲者が出てもおかしくなかった。最悪の場合は、島が占領されて島民自身が苦力にされた可能性も否定できないだろう。

石垣島の人々は、島で亡くなった中国人苦力達の墓を作って慰霊を続けて、そのような墓が昔は島内各地に点在していたそうだ。

唐人墓地図

1971年に石垣市が台湾政府、在琉華僑の支援を得て、これらを合同慰霊するための唐人墓を建てている。
島の人々が、この事件で命を落とした苦力達の慰霊を160年も続けてきているということを知って驚かされたのだが、つくづく日本人は心優しい、素晴らしい民族だと思う。

唐人墓

この唐人墓の横にある1971年に作られた石碑には
「人間が人間を差別し憎悪と殺戮がくりかえされることのない人類社会の平和を希いこの地に眠る異国の人々の霊に敬虔な祈りを捧げる」
と記されているそうだ。
1971年は石垣島をはじめ琉球列島は米国の占領下であり、アメリカとの無用のトラブルを避けるために墓建立の経緯を詳しく書かなかった経緯があるとのことだが、この事件を知れば、この言葉の重みを深く感じることができる。今では事件の経緯を記した碑文もあるようだ。

もしマリア・ルーズ号やロバート・バウン号の事件に関する史実が、GHQによる焚書や検閲対象にもされず、その後教科書やマスコミなどで報道されて国民に広く知れ渡っていくとどういうことになっていただろうか。
欧米諸国が世界侵略をし、奴隷貿易という非人道的な行為を4世紀近く地球規模で行ってきた史実が国民の常識となれば、今の日本史の通史や教科書における戦国時代以降の歴史観が、今とは随分異なるものにならざるを得なくなるし、多くの国民が自分の国を自分で守ることの大切さを認識することになるのではないだろうか。

どこの国でも、いつの時代も歴史というものは勝者にとって都合の良いように書き改められる傾向があるものだが、わが国の第二次世界大戦敗戦後に、多くの歴史叙述が戦勝国にとって都合の良い内容に書き換えられたことを知るべきである。そして、国民の洗脳を解くカギの一つが、GHQが封印した史実にヒントがあると私は考えている。

私は戦前の史観が正しいと言っているのではない。ただ、史実に基づかない、あるいは史実と矛盾する記述は、史実に基づくものに置き換えられていくべきだということが言いたいだけなのだが、多くの重要な史実が封印されてほとんどの人が知らされていない現状を放置しては、教科書や通史における記述が簡単に変わるものではないだろう。
まずは、多くの人が歴史に興味を持ち、何が真実かを正しく知り、それを広めていくことが重要なのだと思う。二国間の真の交流を深めていくためには、お互いの国が、実際に起こった出来事を正しく知ることが不可欠で、事実でもない歴史には決して振り回されるべきではない。

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ハワイ国王を援けられなかった明治の日本~~GHQが封印した歴史4

ハワイの先住民族はポリネシア系に属し日本と同じモンゴロイドで、宗教も多神教であったそうだ。人々が島々で平和な暮らしをしていたのだが、1778年にイギリス人の探検家ジェームス・クックに発見され、それから欧米人との接触により急速に変貌していった。

ハワイ諸島地図

それまでハワイ先住民は小さな部族に分かれていたが、ハワイ島のカメハメハがイギリスから武器や軍事顧問などの援助を受けて、マウイ島、オアフ島などの周辺の島々を征服して1795年にハワイ王国の建国を宣言し、18世紀末までにはカウアイ島、ニイハウ島を除く全地域を支配下におさめ、1810年にこの2島もカメハメハに服属して国家統一を成し遂げた。

カメハメハ2世の治世の1820年以降、米国から集団でやってきた宣教師たちが、独自の文字を持たなかったハワイ王国にローマ字のハワイ語聖書や教育と医療をもたらすことによって、瞬く間に文化的・宗教的にも席巻され、1840年には米国人宣教師主導による立憲君主体制が樹立され、以降欧米人(大部分がアメリカ人)がハオレ(白人)官僚として、ハワイ政府の中枢を独占し、ハワイ王朝の生殺与奪権を掌握するに至ったという。

1848年には土地法が制定され、1850年に外国人による土地の私有が認められると、対外債務を抱えていたハワイ政府が.土地の売却で負債を補ったり、宣教師が土地所有観念のない島民から土地を寄進させるなどして、国王領以外のハワイ諸島土地の多くがハオレの所有地となり、また議会もハオレが多数を占めていたという。
一方ハワイでは白人がもたらした病気の影響などにより、人口が百年間に30万人が5万人に激減していた。

カラカウア王の日本滞在

このままでは国がアメリカに併呑されることを怖れた7代目の国王カラカウアが、1881年(明治14年)に国際親善訪問の旅に出た。この旅行で国王が一番感動したのが、明治維新からまだ14年しかたっていない日本だったそうだ。上の画像は、一行が来日した時に撮影されたものである。

国王は明治14年の3月に横浜に上陸し、翌日横浜駅から特別列車で新橋駅に着き、そこから赤坂離宮に向かうのだが、横浜港も鉄道も日本人が仕切っていることに驚いたという。 例えばインドでは、鉄道輸送から徴税、税関業務までが英国が独占し、インド綿には英国で高額な輸入税がかけられ、一方英国綿製品は関税なしでインドに輸入されて、インドの綿工業は全滅した。イランでは、郵政や電信電話は英国、カスピ海航路はロシア、税関がベルギー、銀行は英国とロシア…という具合で、自国民が重要施設を仕切っている国は欧米以外の国ではほとんどなかったのが現実だった。

カラカウア王

3月11日、日本を訪れていたカラカウア王は随員の米国人には一言も知らせずに、一人で極秘に明治天皇に会見を申し入れたという。この会見の内容は驚くべきものであった。 この時のカラカウア王の言葉が明治天皇の公式記録である『明治天皇紀』に残されている。

「今次巡遊の主旨は、多年希望する所の亞細亞諸國の聯盟を起こさんとするに在り。歐州諸國は只利己を以て主義と為し、他國の不利、他人の困難を顧みることなし、而して其の東洋諸國に対する政略に於いては、諸國能(よ)く聯合し能く共同す、然(しか)るに東洋諸國は互いに孤立して相援(たす)けず、又歐州諸國に対する政略を有せず、今日東洋諸國が其の権益を歐州諸國に占有せらるる所以は一に此に存す、されば東洋諸國の急務は、聯合同盟して東洋の大局を維持し、以て歐州諸國に対峙するに在り、而して今や其の時方(まさ)に到来せり…(中略)
 今次の旅行、清國、暹羅(シャム)、印度、波斯(ペルシャ)等の君主にも面会して、具(つぶさ)に聯盟の利害得失を辨説せんと欲す、然れども、弊邦[ハワイ]は蕞爾(さいじ:小さい)たる島嶼(とうよ)にして人口亦(また)僅少なれば、大策を企畫するの力なし。然るに貴國は、聞知する所に違わず、其の進歩実に驚くべきのみならず、人民多くして其の気象亦勇敢なり、故に亞細亞諸國の聯盟を起こさんとせば、陛下進みて之が盟主たらざるべからず、予は陛下に臣事して大に力を致さん…」
(『明治天皇記』第五 : 勝岡寛次「抹殺された大東亜戦争」p.170所収)

カラカウア王明治天皇に対して、西洋諸国の侵略に対して東洋諸国が団結する必要がある。ひいては明治天皇には「亜細亜諸国の聯盟」の「盟主」になって欲しいと嘆願したというのだ。

この提案に対する明治天皇の回答も続けて記録されている。

明治天皇

「歐亞の大勢實に貴説の如し、又東洋諸国の聯合に就きても所見を同じくす。(中略)然れども、我が邦の進歩も外見のごとくにはあらず、殊(こと)に清國とは葛藤を生ずること多く、彼は常に我が邦を以て征略の意圖(いと)ありと爲す、既に清國との和好をも全くすること難し、貴説を遂行するが如きは更に難事に屬す、尚閣臣等に諮り、熟考して答ふべし…」

カイウラニと山階宮

さらにカラカウア王は、この時に日本人の移民を要請され、さらに姪であるカイウラニ王女に皇族山階宮定麿王(のちの東伏見宮依仁親王)を迎えて国王の後継者としたいとの提案もあったという。当時山階宮定麿王は13歳、カイウラニは5歳で、ハワイ王室と日本の皇室とを結び付きを強くして、ハワイ王国を存続したいと考えての発言であった。下の画像は成人となったカイウラニ王女であるが、なかなかの美人である。

カイウラニ

この会見内容は国家的重要事であるので、明治天皇の御指示により、ハワイから来た随行員にも伝えられた。

カラカウア王が世界一周旅行から帰国したのちに取り組んだのは、米国宣教師が否定した神話・伝説の復活であり、ハワイ正史の編纂事業だった。また宣教師によって禁止されていたフラダンス*を復活させ、自らもハワイ国家をはじめたくさんの民族音楽を作詞作曲したという。
*フラは神を意味し、フラダンスは神にささげる神聖な舞踏で、男の踊りであった。

こうした動きが、米国を刺戟する。
同じ年の1881年(明治14年)12月に米国国務長官ブレーンが、ハワイ公司にあてて次のような訓令を発信していることが、戦後GHQに焚書処分された吉森實行氏の『ハワイを繞る日米関係史』という本に紹介されている。

「ハワイはその位置から見て北太平洋における軍事上樞要の地點を占めているから、同島の占領は全くアメリカ國策上の問題である。(中略)
最近ハワイの人口は激減を来し…減退の一途をたどつていることは、ハワイ政府の一大憂患たることは疑へない。(これが解決策としてアジア人をもつてハワイ人に代へ、…かかる方策を用ひて)ハワイをアジア的制度に結合しようとするのは出来ない相談だ。もし自立することが出来なければ、ハワイはアメリカの制度に同化すべきものであつて、それは自然法並びに政治的必要の命ずるものである。」(勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争』p.173に所収)

と、アメリカは自国の国益上に有益な場所にある国は、国策上占領すべきだという勝手な考え方なのである。

翌明治15年2月(1883)に明治政府はハワイに特使を派遣し、「亜細亜諸国の聯盟」の「盟主」となることと婚姻の申し出については丁重に謝絶した。しかし、移民の申し出に関しては明治17年(1885)には946名を送ったのを皮切りに、日本人移民は続々とハワイに渡航し、20世紀初頭にはハワイ人口の4割を日本人が占めるようになったという。

アメリカは反撃に転じ、1887年に、王権の制限・弱体化を目的とした新憲法を米国側で起草し、ハオレ(白人)の私設部隊である「ホノルル・ライフル」を決起させ、武力で威嚇してカラカウア王に迫り強制的に調印させた。この憲法は別名「ベイオネット(銃剣)憲法」とも呼ばれているそうだが、この内容がどんなにひどいかは読めばすぐにわかる。

「ハワイ國の臣民にして年齢二十一歳に達し、ハワイ語・英語若(もし)くは他のヨーロッパ諸国語を讀み、書き、算數を會得し、少なくも三ケ年間國内に居住し、竝(ならび)に五〇〇ドル以上の財産を國内に有し、或は一ケ年少なくも二五〇ドルの所得を有するハワイ・アリカ若しくはヨーロッパ人種たる男子にあらざれば代議士に選挙せらるることを得ず(第六一條)」
と、これでは貧しいハワイ人やアジアからの移民には被選挙権がない。

選挙権についてはこう書かれている。

「ハワイ國に居住するハワイ・アメリカ若(もし)くはヨーロツパ人種の男子にして國法遵守を宣言し、國税を納め、年齢二十一歳に達し、選擧日に際して1ヶ年國内に居住し、ハワイ語・英語若くは他のヨーロッパ諸國語を讀み、書き、法律の規定に従つて選擧人名簿にその氏名を登録せられた者は、代議士を選擧する權利を有す(第六二條)」

先程紹介した吉森實行氏の著書『ハワイを繞る日米関係史』にはこうコメントされている。
「…白人はハワイに歸化(きか)しなくても國法遵守を宣言しさへすれば参政權を享有し得る一方、有色人種の参政權を拒否したもので、早くもアジア移民の増加に猜疑(さいぎ)の眼を光らせたアメリカ意志を反映したものであつた。原住民は勿論、當時(とうじ)すでに千を超えていたわが移民(説明:日本移民)は大いに激昂し、ハワイ駐在の日本總領事安藤太郎は外務大臣(説明:井上薫)の訓令を仰いで大いに抗議せんとしたが、歐米追従をもつて聞こえる井上薫がこれを許さなかつたのは當然である。
 かくてハワイの政治はいよいよアメリカの左右するところとなつたが、その経済もまたアメリカの政策にたへず繰(あやつ)られてゐた。」(西尾幹二『GHQ焚書図書開封5』p.46-47)

選挙権が与えられる人種のなかに日本人が入っていないということは、帰化してハワイ国籍を取得していても日本人移民には選挙権を与えられなかったということである。
この憲法の問題点は選挙権・被選挙権だけではない。国王の閣僚罷免権が剥奪されるなど、国王の国政の関与を一切否定する内容が書かれていたようだ。

井上馨

しかし、この時に何故外務大臣の井上薫はアメリカに抗議しなかったのであろうか。今の外務省も欧米追従の傾向が強いが、長いものには巻かれろと言う考え方が当時から強かったのだろうか。
もしハワイがアメリカに併呑されれば、太平洋は広いとはいえ隣の国はわが国である。次は日本が危ないという発想はなかったのだろうか。

ところで、国王の世界一周旅行に随行したアメリカ人のアームストロング自身が、もし日本がカラカウア王の提案を受け入れていたとすれば、ハワイは日本のものとなっていたと書いている。
「われわれ国王の側近者は、その後[世界一周旅行の後]の王の行動に深き注意を払うやうになつた。国王の計画が日本天皇陛下によつて御嘉納になつていたらハワイは日本領土となる経路をとるに至ったであろう。」(西尾幹二 同上書 p.39)

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わが国がハワイを国土とすることはなかったとしても、山階宮定麿王がハワイ王女と結婚し、わが国がハワイを側面で支援していれば、ハワイにあのような屈辱的な憲法を結ばせることはまずなかっただろう。またあの憲法がなければ、ハワイがアメリカに併呑されることもなかったのではないだろうか。
もしハワイ王国が独立国として20世紀に入っても存続していれば、71年前にわが国がアメリカと戦うことにならなかったことは大いにあり得ると思うのだ。
もっとも明治14年(1881)と言えば、国会開設運動が興隆するなかで政府はいつ立憲体制に移行するかで、漸進的な伊藤博文・井上馨がやや急進的な大隈重信を追い出した政変劇のあった時期でもあり、内政問題を抱えながらアメリカを敵に回すような施策は財政面からみても難しかったとも思われる。

しかしカラカウア王に憲法をごり押ししてからのアメリカは、露骨にハワイ王国を奪い取りに行っている。政治も経済も情報も白人に握られてしまえば、抵抗することは難しくなるばかりだった。

イオラニ宮殿

カラカウア王が神官たちを集めて王宮の扉を閉ざし古代伝承を記録させていたことを、実は女たちを交へての酒池肉林に耽(ふけ)っていたという噂が白人によってまことしやかに流され、晩年の王は白人たちによって「奇行の王」と渾名(あだな)されてしまう。
アメリカ人により貶められ国政に対する権限を奪われたカラカウア王は、失意と孤独の内に1891年1月病死してしまい、その志を継いだ妹のリリウオカラニ女王が即位することになるのだが、これから後いかにひどいやり方でアメリカに国が奪われたかを書きだすと随分文章が長くなるので、次回に続きを書くことにしたい。

アメリカにより憲法を押し付けられ、国王家の弱体化を仕掛けられた国である点については、わが国はハワイ王国とよく似ている。
ハワイ王国は外国人に選挙権を与えることによって滅んだのであるが、なんとなくわが国はその方向に進んではいないか。
この頃にハワイ王国で起こったことを日本人はもっと知るべきだと思う。
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アメリカ人が王朝を転覆させたハワイ王国の悲劇と日本~~GHQが封印した歴史5

前回は、アメリカ人の武力による圧力で署名させられた憲法により、国政に対する権限のほとんどを奪われたカラカウア王が、失意と孤独の内に1891年1月に病死し、その志を継いだ妹のリリウオカラニ女王が即位したところまでのことを書いた。
今回は、その後ハワイがいかなる方法でアメリカに奪われたかを記すことにする。

リリウオカラニ

リリウオカラニ女王は、アメリカ人を中心とする共和制派との対決姿勢を強め、純粋なハワイ人の王朝を回復するために、憲法の改正に着手した。
アメリカの圧力により貧しいハワイ人やハワイに帰化した移民たちの選挙権・被選挙権が奪われ、国王の権限が剥奪されていたのを改正したい気持ちはよくわかるのだが、この憲法を変えようとしたことがアメリカを刺戟し、ハワイ王朝の衰亡に拍車をかけることになってしまった。

1893年1月14日、ハワイ人の一党が王宮に向かい、女王にアメリカ人の権限に制限を与える新憲法を捧呈してその発布を請願した。その内容は以下のような内容であったと言われているが、ハワイ人としては当然の主張だと思う。
・白人高額納税者に独占されていた投票権をハワイ島民にも認めること
・上院議員の任免権を国王に復すること
・内閣の大臣の任免権を国王が握ること
・ハワイ人には人頭税を免除し、白人はハワイ人と結婚した者以外はこの特権を与えないこと 等

イオラニ宮殿

前回の記事で紹介した、GHQに焚書処分された吉森實行氏の『ハワイを繞る日米関係史』という本にはこう書かれている。

「當日午後、多數のハワイ人は王室の内外にまたは王宮の階段や政廳の内外に群集してゐた。此時、女王は出御になり、召に應じて参内せる内閣大臣に新憲法草案を交付し、これに記名調印を命じた。彼等は之を拒んで政廳を退出し、急を市民に告げて国王のクー・デタを阻止するやう協力を求めた。」

「武装せる一隊は直ちに組織された。かくて閣僚は再び王宮に到り、国王にその企圖(きと)を断念されんことを諫奏(かんそう)した。
…王の意は容易に決しなかつたが、ややあつて新憲法發布はひとまづ延期さるることとなつた。
…王は更に群衆に向ひて、宣告して曰(いわ)く、
余カ企圖ハ大臣ノ不忠ニヨリ妨害セラレタリ故ニ余カ曾テ嘉納シ汝等ニ約束シタル新憲法ハ今之ヲ發布スルヲ得サルト雖モ好機き來ラハ速カニ之カ施行ヲ怠ラサルヘシ」(西尾幹二『GHQ焚書図書開封5』p.55-57所収)

白人の大臣たちは新憲法を認めることを拒否し、「国王がクーデターを起こした」と市民に告げ、直ちに武装集団を組織して、女王による新憲法発布を延期させた。ハワイの先住民の多くがこの新憲法を待ち望んでいたことは女王の言葉を読めばわかる。
しかし白人派は、直ちに次の行動を開始した。

「一方白人派はこれを以て事の終局と認めず、直ちに十三人の治安委員を設けて非常対策に備え、翌十五日白人市民の大集会を開いた。席上治安委員の選定せられたことにつき諒解が求められ社会の安寧と市民の権利を保持するために必要と認める場合には、如何なる処置をもとり得る権力をこれら委員に付与することが議決された。翌十六日再び集会は開かれた。この会合に於いて委員等は市民の意向を察知し、君主政治を廃して直ちに仮政府を構成する準備に着手した。
…即ち、同島駐劄のアメリカ公司に依頼して財産保護の目的をもつて軍艦ボストン號より海兵の上陸を求めた。」(同上書 p.58-59)

アメリカ人たちは軍事力を使って君主制を廃止させようとし、16日にはすでに150名の武装した米海兵隊がハワイに上陸してホノルル市内を制圧し、イオラニ宮殿を包囲させ、軍艦ボストン号の主砲はイオラニ宮殿に照準を合わせたという。

ハワイ人側においても集会がもたれて千四五百名が集まり、原住民の牧師と共に白人の災いが至らず王位が安泰であることを神に祈祷したという穏健なものであった。これでは、アメリカ人には対抗できるはずがなかった。

サンフォード・ドール

次に白人の治安委員たちは政庁を奪取し、群衆に向かって王政の廃止と臨時政府の設立を宣言する。この時に大統領となったサンフォード.B.ドール(上画像)という人物は、もともとは布教のためにハワイに来たプロテスタントの宣教師一家の出身で、ドール・フード・カンパニーを創業したハワイのパイナップル王ジェームズ・ドールはその従弟にあたるのだそうだ。

ドール

こうして臨時政府は、王宮・警視庁・兵営の引き渡しを要求し、国王は王宮を退き、兵営は翌日占領させたという。

アメリカ大統領ハリソンは、ハワイ臨時政府代表がワシントンに到着すると、リリウオカラニ女王から派遣されていた陳情使節を度外視して、直ちに内閣の意見をハワイとの併合の方向にまとめ上げて、次のような大統領教書を発表している。

200px-Benjamin_Harrison.jpg

「合衆國は何等(なんら)王政顚覆(てんぷく)を扶助せず、革命は全くリリオカラニ女王の革命的施政に起因したものである。女王の施政はハワイに於けるアメリカの優越する利益を非常な危殆に陥れたばかりではなく、外國の利益をも危殆にした。…
女王リリオカラニの復位は望ましいことではない。その復位はアメリカの援助がなくては非常な不幸を招き、商業上の利益を悉(ことごと)く破壊して了(しま)うであろう。ハワイ諸島に於けるアメリカの勢力と利益とは增進されねばならない。ここに於いて採るべき道は二つある。
ハワイをアメリカの保護國とすることがその一つである。他の一つはその完全なる併合である。
ハワイ人民の利益を最も善く著しく増進し、また、アメリカの利益を適當に保證する方法は併合以外に求められない。…これによって列強が本諸島を占領しなくなるのは當然のことである。外国に同諸島を占領されることはアメリカの安全と世界の平和に一致しない。」

軍艦と海兵隊をハワイに差し向けて支援していながら、「アメリカとしては革命を起こした勢力を援助した覚えはない。ただ女王が過激な政策をとったために王座から追われたのである。」とはよく言ったものであるが、ここで面白いことが起きる。

200px-President_Grover_Cleveland.jpg

この教書を発表したハリソン大統領の任期があと二週間しかなく、1893年3月4日に就任式を終えたクリーブランド新大統領(上画像)の考えはハリソンと異なり、アメリカ公使が許可なく米軍を用いてハワイ王朝を転覆させた非行は許されるべきものではないというものであった。新大統領は上院に条約案の撤回を求め、ハワイ問題調査団の派遣を決めたために併合はしばらく見送られることとなる。

カイウラニ

前回の記事でカラカウア王が訪日時に、王女と山階宮親王との結婚の話の提案があったことを書いたが、そのカイウラニ王女が着任早々の新大統領に面談してクーデターの不当性を訴えたのだそうだ。彼女の美貌と感動的なスピーチにアメリカのマスコミも一気にハワイ王家を味方するようになったらしい。
http://www.legendaryhawaii.com/lady/lady02.htm

クリーブランド大統領がハワイに派遣したハワイ問題調査団は、この一連の動きは米国人宣教師の二世・三世グループが仕組んだ陰謀であり、さらに米国公使が米軍艦と海兵隊を使ってハワイ王朝を葬ったことを明らかにし、その報告を受けてクリーブランド新大統領はハワイ王国に謝罪したのだが、ハワイ臨時政府はそれを内政干渉としてはねつけたのだそうだ。
その後米国で議会工作がなされて1894年1月のアメリカ連邦議会において上院議員の多数がハワイ臨時政府を支持したために、リリウオカラニ女王を復位させようとした米大統領の目論見は外れてしまった。

こうした状況下でハワイ臨時政府は、クリーブランド大統領の在任中に、アメリカにハワイを併合させることは難しいと判断し、次の一手として、アメリカの独立記念日である7月4日にハワイ共和国の独立を宣言してハワイ王家を廃絶させ、初代大統領にドールが就任している。

すると王党派の反撃が開始される。1895年1月に王党派はホノルルで王政の回復を企てるも数日の銃撃戦の後に政府に鎮圧されてしまう。

吉森實行氏の『ハワイを繞る日米関係史』にはこう書かれている。
「…その指導者たちは悉く共和政府の軍法会議に附せられ、罪を糾弾された。リリオカラニもまた逮捕され、王宮に幽閉されたが、自ら書面を以て反乱に関係なきこと、共和政府を承認すること(共和政府を認めるということは、王家が無くなるということ)、政治上その他の権利を一切放棄する等を言明し、なほ共和政府に対し忠誠を誓う宣言書を提出した。そこで政府は10月、女王を放免して之に市民権を付与し、ここに反亂の最後の幕は閉じたのである。」
Wikipediaにはもう少し詳しく、「リリウオカラニは反乱の首謀者の容疑で逮捕され、イオラニ宮殿に幽閉された。(1895年)1月22日、反乱で捕らえられた約200人の命と引き換えに、リリウオカラニは女王廃位の署名を強制され、ハワイ王国は滅亡した。」と書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%8B

「共和国の独立を宣言する」という言葉の意味がなかなかピンとこないのだが、西尾幹二氏の表現を借りれば「ハワイは現実にはアメリカに支配されているのです。政治的にも経済的にも支配されている。『独立』は形式的なものにすぎないうえに、王家という”支柱”を失ってしまうから、最終的にはアメリカに併合されてしまう事態となる。」とわかりやすい。 ハワイは王家という精神的支柱を失って、「結局、独立という名のもとで、かえって独立を失ってしまう」という事になってしまったということだ。
これと同様な事が、身近な国で仕組まれてはいないだろうか。
もしある国を侵略あるいは支配することを企む国があったとすれば、対象とする国が共和制・民主制の国家の方が工作活動で国論を分断しやすく、マスコミを押さえれば世論誘導で合法的にその国を実質支配できるということである。ある大国が、小国相手に内政干渉をしてやたら「民主化」を押し付けるのは、そういう意図があることも考えてみるべきだろう。

話をリリウオカラニ女王の退位の直後に戻そう。
リリウオカラニ女王を援けるために、わが国が軍艦を差し向けたことを書かなければならない。
カラカウア王との約束で明治18年から始まった日本人のハワイ移民はこの年までに25千人を数えていたそうだ。その日本人移民の生命と財産の安全を守るためというのが表向きの理由だった。

東郷平八郎

ハワイ王朝が倒れて約1か月後の2月23日に巡洋艦「浪速」と、5日遅れてコルペット艦「金剛」が相次いでホノルル港に入り、米軍艦「ボストン」のすぐ近くに投錨したが、「浪速」の艦長は東郷平八郎であり、同じ艦上には若い青年将校がいた。その青年は先代国王カラカウアに王女との結婚を求められた山階宮親王本人だったという。

Higashi-Fushiminomiya.jpg

ハワイ臨時政府は、アメリカ人によるクーデターの1周年となる1894年1月17日、「建国1周年」を祝う21発の礼砲を要請したのだが、東郷艦長は「その理由を認めず」と突っぱねたそうだ。ホノルル港の各国軍艦はこれにならい、クーデター1周年の記念日はハワイ王朝の喪に服するような静寂の一日に終わったという。

1898年に米西戦争が勃発し、この戦争を有利に展開するための恒久的な補給基地が必要との理由でクリーブランドの次の米大統領であるウィリアム・マッキンリーの署名により、この年の7月7日にハワイがアメリカに正式に併合されたのであるが、この時にはすでに真珠湾はアメリカは独占的使用権を獲得していたのだそうだ。

現在のハワイ州の40%にのぼるカメハメハ王朝の土地は米政府が譲り受け、真珠湾のウィッカム基地やハワイ国際空港などが作られ、カホオラベ島のように先住民を追い出して、島全体が射爆撃標的にされたところもある。
一方共和国の実権を握った宣教師の息子たちは、所有していた土地をそのまま私有地として認められて、大地主として併合前と同様に経済の実権を握ったという。

その後ハワイに移住していた多数の日本人たちは、その後大挙してアメリカ本土に移り住むようになった。そのために日本人移民が問題視され、アメリカでの排日移民運動へとつながっていったのだが、こういう歴史の流れを知らなければ、何故カリフォルニアで排日運動が起こったかわからないと思うのだ。

ところで、ハワイの歌として誰でも知っている「アロハ・オエ」はハワイ王国最後の王であるリリウオカラニ女王が作詞・作曲したものである。
ハワイのことを調べるうちに、「アロハ・オエ」の原詩の邦訳を読みたくなった。
邦訳はWikipediaに出ている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%8F%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%A8

雨を白人勢力、花をハワイ民衆と考えれば、リリウオカラニ女王が愛する祖国を失う悲しみや無念に思う気持ち、ハワイの人びとを愛する思いや感謝の気持ちが自然と伝わってくる。(アロハ=愛する気持ち、オエ=あなた)

アロハオエ

雨が誇らしげに尾根を横切り
森の中を通り抜けていく
未だ開かぬ蕾を探しているかのように 山あいに咲くレフアの花よ

あなたにアロハ あなたにアロハ
木の陰に佇む心優しき人
去っていく前に
もう一度あなたを抱きしめよう
また会えるその時まで

懐かしく暖かい思い出が胸をよぎる
ついこの間のことのように
愛する人よ 我が愛しき人よ
真心は決して引き裂くことはできない

私はあなたの素晴らしさをよく知っている
マウナヴィリに静かに咲くバラの花
そこにいる啼かない鳥たち
そして木の陰にいる美しい人

あなたにアロハ あなたにアロハ
木の陰に佇む心優しき人
去っていく前に
もう一度あなたを抱きしめよう
また会えるその時まで
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アメリカはいかにしてスペインからフィリピンを手に入れたか~GHQが封印した歴史6

前回まで2度に分けてアメリカによるハワイ王朝打倒の話を書いたが、ハワイ以降のアメリカによる19世紀末の太平洋進出を理論的に正当化した人物として、A.T.マハンという人物がいる。彼は『海上権力史論』という著書の中で、欧米史においてシーパワーがいかに重要であったかを論証したのだが、そのA.T.マハンが、1897年の米上院外交委員会の報告書で次のように記している。

200px-Alfred_thayer_mahan.jpg

「現下のハワイ紛争は、めざめつつある東洋文明の力と西洋文明の力との間の、きたるべき大闘争の前哨戦にすぎない。真の争点は『太平洋の鍵』を支配して優位を占めるのがアジアか、それともアメリカか、ということなのだ。」(勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争』p.176所収)

前回、前々回のこのブログの記事を読んで頂ければわかると思うが、マハンがここで「アジア」と書いているのはわが国のことを指している。マハンのこの文章は、すでにこの時点で、アメリカが後に日本と相争うことを予見しているかの如くである。

マハンはこの報告で『太平洋の鍵』という表現を使っているが、どの場所を支配すれば太平洋の制海権を握ることができるかという意味であろう。もちろんハワイは重要な『鍵』であったが、他にもいくつかの『鍵』があり、フィリピンもその一つであったようで、アメリカはハワイに続いて、フィリピンをかなり強引に獲りにいっている。今回はそのフィリピンのことを書いてみたい。

Wikipediaを読むと、1521年ヨーロッパ人として最初にフィリピンを訪れたのは、世界一周で名高いポルトガル人のマゼランのようだが、マゼランは強引なキリスト教の布教が原因で原住民の反撃を受け、マクタン島の首長ラプ・ラプに攻撃されて戦死してしまっている。
人類初の世界一周の偉業は、正確にはマゼランが成し遂げたものではなく、マゼラン艦隊が成し遂げたものと言うことだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%BC%E3%83%A9%E3%83%B3

その後1565年にはスペイン人のミゲル・ロペス・デ・レガスピがセブ島を領有したのを皮切りに徐々に植民地の範囲を広げ、1571年にはマニラ市を含む諸島の大部分が征服されてスペインの領土となったとある。
しかし19世紀末にフィリピン原住民の民族的自覚が高まり、特に1887年にホセ・リサールが書いた小説『ノリ・メ・タンヘレ(我に触るな)』がスペイン圧政下に苦しむフィリピンの諸問題を告発したことが、民族運動に強く影響を与えたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

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ホセ・リサールという人物は日本ではあまり知られていないが、医者でもあり、小説家、歴史家、芸術家としても知られ、語学は21か国語に通じた天才で、フィリピンではフィリピンの国父ともいうべき国民的英雄だそうだ。
彼の思想はスペインからの分離独立を志向するような過激なものではなく、フィリピン人の生活改善を願う改革者であったのだが、スペイン当局からは危険人物としてマークされ、当局から逃れるためにロンドンに向かう途中で、1888(明治21)の2月に日本にも立ち寄った。
日本には束の間の滞在のつもりであったのだが、すぐに彼は日本の魅力に取りつかれてしまい、出発を先延ばしにする。案内してくれた江戸旗本の武家の育ちであった臼井勢似子[おせいさん]にも魅了されて、東京や箱根など各地を精力的に見て回り40日以上も滞在したのだそうだ。
しかし世界各地にはフィリピンの独立のために戦う同志が待っている。断腸の思いで彼は日本を離れてヨーロッパに旅立つのだが、この時におせいさんに手渡した手紙にはこう書かれていたそうだ。

臼井勢似子

「日本は私を魅了してしまった。美しい風景と、花と、樹木と、そして平和で勇敢で愛嬌ある国民よ! おせいさんよ、さようなら、さようなら。・・・
思えば私はこの生活をあとにして、不安と未知に向かって旅立とうとしているのだ。この日本で、私にたやすく愛と尊敬の生活ができる道が申し出されているのに。
私の青春の思い出の最後の一章をあなたに捧げます。どんな女性も、あなたのように私を愛してはくれなかった。どの女性も、あなたのように献身的ではなかった。・・・
もうやめよう。みんなおしまいになってしまった。 さようなら。さようなら。」

その後リサールは、ヨーロッパにわたって執筆活動をしたのち、1892年に危険を冒してフィリピンに戻って「フィリピン同盟」を結成するのだが、その直後に逮捕されミンダナオ島に流刑されてしまう。
1896年にフィリピンの革命軍が武器を持って立ち上がり、革命軍の蜂起に慌てたフィリピン総督は、リサールを逮捕してマニラに連れ戻して裁判にかけた。彼は暴動の扇動容疑で銃殺刑を宣告され、マニラ湾の見える刑場でスペイン兵により銃殺され35歳の短い人生を終えたという。

リサール公園

彼が処刑された場所はリサール公園として整備され、処刑日の12月30日フィリピンの祝日とされて、毎年フィリピンの国父であるリサールを追悼する儀式が行われているのだそうだ。

リサールが処刑された前後から独立派内部の対立が激化し、リサールの処刑の翌年5月に親米派のアギナルドは親日派のボニファシオを捕えて処刑して全権を掌握し、山中の根拠地にフィリピン共和国臨時政府を樹立し、6月に「フィリピン共和国独立宣言」を発表したが、植民地軍はスペイン本国からの兵力補給により優勢に転じた。

150px-Aguinaldo.jpg

形勢不利と判断したアギナルドは簡単に「独立」を反故にして、スペインから80万ペソを受取ることを条件に和平協定を結び、自発的に香港に亡命してしまった。

ところが翌1898年に米西戦争が勃発し、フィリピンを支配しているスペインとアメリカとの戦いが始まった。
この戦争が勃発する前後に米大統領がフィリピンのことをどう述べているかは注目してよい。

245px-William_McKinley_by_Courtney_Art_Studio,_1896

マッキンレー大統領は1897年の教書ではこう述べている。
「(スペイン領土の)強制的併合などは、まったく思いもよらぬことだ。それは我々の道徳律に照らして、犯罪的侵略であろう。」
それがわずか二年後には次のように変わるのである。
「われわれのなすべき唯一のことは、フィリピン諸島をわがものとなし、フィリピン人を教育し、彼らを向上せしめ、文明化し、キリスト教化する…ことである。」 (ビーアド『アメリカ精神の歴史』)

1898年の米西戦争はアメリカの新型戦艦メイン号がキューバのハバナ港内で爆発・沈没し、将兵260名が死亡する事件が起こり、これをスペイン側の仕業と断定して「リメンバー・メイン(メイン号を忘れるな)」というスローガンで国民世論を対スペイン開戦論一色に染め上げることに成功し戦争に突入したのだが、今日ではメイン号を爆発させたのはスペインの機雷ではなかったという説が多数説となっており、原因が石炭の自然発火かアメリカの自作自演かのいずれかについて未だに結論が出ていない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3_(ACR-1)
アメリカが「リメンバー」と高らかに唱えて世論を動かし、戦争に突入する事例はアメリカの歴史では過去に何度かあるのだが、アメリカがこの「リメンバー」という言葉が唱えて戦争に入る時は、開戦に導くためのプロパガンダであった臭いがあり、アメリカの主張をそのまま鵜呑みにすることは危険であることは過去の歴史が証明しているように思う。
http://onoderakouichi-truth.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-a425.html

話をフィリピンに戻そう。この米西戦争はスペイン領であったフィリピンにも波及し、米海軍のデューイ提督はマニラ湾のスペイン艦隊を撃破した。提督はその後、香港に亡命していたアギナルドに「独立運動を支援する」という触れ込みで接近し、もともと親米傾向のあったアギナルドは「決してフィリピンをアメリカの植民地にはしない」という約束を信じて米軍艦で帰還し、対スペイン独立戦争を再開した。

ここから、いままで何度か紹介した勝岡寛次氏の著書を引用する。

「5月24日、米国の勧めで独裁政府を樹立したアギナルドは、国民に向かって次のようによびかけた。
『フィリピン国民よ。偉大なる北米合衆国は真正な自由の揺籃(ようらん)であり、…かれらは保護を宣してわれらに手を差伸べた。これは決意に満ちた行為である。米国は、フィリピン国民が不幸な祖国を自治する能力を持つ十分に開花した民族であると做すが故に、わが住民にたいし微塵の私欲も抱くはずがない。寛大なる北米合衆国がわれらに与えた高き評価を維持するために、われらは、この評価を低めうる一切の行為を嫌悪すべく心掛けねばならぬ。』(レナト・コンスタンティーノ『フィリピン民衆の歴史』Ⅱ)」

…かうして、フィリピン独立に対する米軍の支持を取り付けたと信じたアギナルドは、破竹の勢いで、スペイン勢力を駆逐し、翌1899年1月、第一次フィリピン共和国(マロロス共和国、大統領アギナルド)が誕生した。ここに独立が達成されたかに見えたが、何ぞ知らん、米国は前年12月のパリ条約でスペイン側と勝手に取り引きし、フィリピンを2千万ドルで買収・割譲せしめることに合意してゐたのであった。」(勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争』p.184)

要するにアメリカはアギナルドを騙してスペインと戦わせ、スペインが敗れると安い価格でスペインからフィリピンを買い取った。そしてアメリカはフィリピン共和国の建国を認めず、今度は独立派を虐殺にかかる。

340px-Battle_of_Paceo.jpg

Wikipediaによると
「アメリカ合衆国からは8月14日に11,000人の地上部隊がフィリピンを占領するために送られた。アメリカ合衆国はフィリピン侵略のために残虐の限りを尽くし、反抗するフィリピン人60万人を虐殺した。 この時、フィリピン駐留アメリカ軍司令官となり、実質的なフィリピンの植民地総督となったのが、アーサー・マッカーサー・ジュニアである。(彼の三男がダグラス・マッカーサーである)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E6%AF%94%E6%88%A6%E4%BA%89

この米比戦争でどれだけのフィリピン人が虐殺されたかについては諸説があるようだが、抵抗するゲリラに味方したとして米軍が村々を焼き払い多くの農民を虐殺したことは事実であり、「フィラデルフィア・レジャ」紙は、米比戦争の二年間でルソン島住民の六分の一が殺されたと当時報道しており、これは約61万6000人にあたる数字なのだそうだ。

米比戦争

上の図はネットで見つけたものだが、当時ニューヨークジャーナルに掲載された風刺画で、フィリピン人を銃殺しようとするアメリカ兵が描かれている。アメリカ兵の背後に”KILL EVERY ONE OVER TEN(10歳以上の者は皆殺し)”と書かれているのが読める。

アメリカに欺かれたアギナルドは、首都マロロス陥落後は正規軍を解散してゲリラ戦を展開するも1901年に米軍に逮捕されると、アギナルドは態度を一変しアメリカへの忠誠を誓い、仲間に抵抗の中止を呼びかけたという。その後抵抗運動は次第に下火となり、1902年に鎮圧されてフィリピンはアメリカの植民地支配下に置かれることとなったのだ。
独立派はよく戦ったが、選んだリーダーを誤ってしまったようだ。

この間の経緯を述べた次の論文は史実からすれば当たり前ことを書いているにすぎないのだが、引用部分がすべてGHQの検閲により削除されてしまっている。(木村毅「マッカーサー元帥」昭和21年1月『キング』第22巻第1号)
「私は實は、米西戰爭から引き続いての米比戰争は、アメリカ史の汚点だと思って、心からこれを惜しんでいる。…ヒリッピンに獨立を約束して、スペインに叛(そむ)かせ、後でその約束を踏みにじったのだけは、辨解(べんかい)の餘地(よち)がないだろう。」(勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争』p.185所収)

終戦直後のアメリカにとっては、今後日本が二度とアメリカに歯向かう事がないようにしたかったのは当然のことで、アメリカに騙されたり裏切られたりした国の歴史を日本人に知られてはまずいとの判断から、そのような記述を封印したということはわからないでもない。

しかし、終戦後66年以上が過ぎてもこのような歴史が日本人に知らされない状況が続いていることおかしなことだと思う。手元にある「山川の日本史」にはハワイのこともフィリピンのことも全く何も書かれていないのだ。
このような歴史を知らずして、どうして明治の日本人が軍事力強化を急いだかを正しく理解できようか。ハワイもフィリピンもアメリカに酷いやり方で侵略された事実があり、他の欧米列強各国も世界を侵略していた事実があるからこそ、わが国が自国を守るために富国強兵政策をとったのではないのか。

このブログで何度も書いていることだが、どこの国でもいつの時代も、歴史は勝者にとって都合の良いように書き換えられるものである。
我々が今まで学び、マスコミや出版物などで接してきた歴史はほとんどが、第二次世界大戦の勝者にとって都合の良い歴史であることを知るべきだと思う。

真実は、彼らが日本人に広めようとした歴史と、封印した歴史の双方をバランス良く学び、その違いを知ることによって少しずつ見えてくるのではないかと考えている。
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西郷隆盛なくして、地方の権力と武力を中央に集める廃藩置県が可能だったか

以前このブログでGHQによって焚書処分された菊池寛の『大衆明治史』という本を紹介したことがある。その時は中国人苦力(クーリー:単純労働者、奴隷)を乗せたマリアルーズ号というペルー船籍の船が横浜港で座礁したのだが、積荷が中国人苦力で、明らかに虐待されていた形跡から「奴隷運搬船」と判断して全員解放し、清国政府から感謝のしるしとして頌徳の大旆(たいはい:大きな旗)が贈られた話を紹介した。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-113.html

無題

この『大衆明治史』という本は、明治の人々が苦労を重ねながら難局を乗り越えて、新しい日本を築き上げていくところが具体的に書かれていて当時の時代背景がよく解って面白い。GHQの焚書処分を受けた本のために現物を入手することは容易ではないが、「歴史放浪」というサイトでPDFファイルが公開されており、誰でも読むことができるのはありがたい。
http://tncs.world.coocan.jp/tsmeijisi.html

この本の最初に書かれているのが「廃藩置県」である。
学生時代に明治の歴史を学んだ時に、どうして武士階級が自らの特権を消滅させる決断をなすことができたのかと疑問に思った記憶がある。

たとえば『もういちど読む 山川日本史』ではこう記述されている。
「政府はまず、諸大名がみずからの領地と領民を支配するこれまでの体制を打ち破るため、1869(明治2)年、諸大名に命じて領地と領民を天皇に返上させた(版籍奉還)。しかし藩主は、石高にかわる家禄の支給をうけ、そのまま知藩事(地方官)とされて藩政に当たったため、中央集権の実効はあまりあがらなかった。
そこで、木戸孝允・大久保利通ら政府の実力者たちは、中央集権体制を確立するため、1871(明治4)年7月、まず薩長土3藩から御親兵をつのって中央の軍事力をかため、ついでいっきょに廃藩置県を断行した。そしてすべての知藩事をやめさせて東京に住まわせ、政府の任命した府知事・県令を派遣して府県をおさめさせた。こうして全国は政府の直接支配のもとにおかれ、封建制度は解体した。
廃藩置県のような大変革が、諸藩からさして抵抗もうけずに実現したのはおどろくべき事実であったが、戊辰戦争で財政が窮乏していた諸藩には、もはや政府に対抗する力はほとんどなかったのである。」(『もういちど読む 山川日本史』p.219-220)

このように教科書には「大変革」という言葉を使いながらも、「さして抵抗もうけずに実現したのはおどろくべき事実」とスムーズに改革が出来たように書いてあるのだが、教科書のこのような記述には昔からリアリティを感じなかった。

焚書図書3

西尾幹二氏が『GHQ焚書図書開封3』で、この『大衆明治史』を採りあげておられ、わかりやすく廃藩置県の意義を解説しておられる。
「明治維新を迎え、大政奉還をすると天皇が江戸に移りました―――といってみたところで、地方にはまだたくさんの大名がいます。権力は各地に分散していました。明治新政府が権力を持つためには、地方の権力を全部取り上げてしまわなければならない。そこで大名の持っていた武力をすべて召し上げて、藩をなくして全部県にしたいわけですが、それを実施するには中央に武力がなければならない。中央に権力と武力があって初めて中央集権が成立する。それが廃藩置県の意義でした。
明治の冒頭で、菊池寛がまず廃藩置県に注目したのはじつにみごとだと思います。廃藩置県こそ明治維新の最初にして最大の出来事だったのです。」(『GHQ焚書図書開封3』p.258)

しばらく菊池寛の文章を引用してみる。[原文は旧字・旧かな]

「諸侯の土地を中央に収め、その軍隊を裁兵する。いわゆる、完全な封建制度の打破が、どんなに困難な大事業であるかは、外国の歴史をちょっと覗いてみただけでも分るだろう。これが日本では比較的スラスラ行われたのであるから、外国人が驚くのは無理もない。血を見ずして、憲法が発布されたのとともに、明治史の二大会心事といってよい。
しかし、廃藩置県の思想は、一部進歩的な具眼者の中には早くから萌していて、その先駆としての版籍奉還は、早くも明治二年に行われているから、すなわち幕府は折角倒しても、諸侯がなお土地人民を私有していては、真に維新の目的が達成されたとは言われない。この土地人民を朝廷に奉還し、復古の大業を完成しなくてはならぬと考えられていたのである。
木戸は藩主毛利敬親に説き、大久保は島津忠義に説き、こうして出来上がったのが、明治二年の四大藩主連署(島津忠義、毛利敬親、鍋島直大、山内豊範)の版籍奉還の上表である。」

『山川日本史』に名前が出てきた木戸孝允と大久保利通は、明治二年の「版籍奉還」で藩主を口説いたということが書かれている。しかし「版籍奉還」だけでは地方に大名がいる江戸時代と実質的には変わらない。「明治維新」がピリオドを打つためには、封建諸侯が土地人民を支配する体制を崩壊させることが必要となるのだが、そのハードルは相当高かったはずだ。「廃藩置県」となると全国に200万人にものぼるという藩士の大量解雇につながる話なのだ。

菊地寛

菊池寛の文章を読み進むと、この当時の明治新政府の舵取りが容易ではなかったことが見えてくる。

「明治二年から四年の廃藩置県にかけての、新興日本は、非常なピンチの中にあった。一歩誤れば建武の中興の二の舞である。
一見、王政は復古し、五箇条の御誓文は発布され、万機公論に決するという国是も確定されたが実際の政治は決してそんな立派なものではない。
維新大業に於ける薩長の功労は圧倒的だ。しかし彼等とても、公議世論の声に圧せられて、思い切って新政に臨むことが出来ない。まして、他の藩の有力者たちに、何も積極的にできるわけはない。
新政最大の弱点は、実にこの、政治に中心勢力がないことであった。」

「建武の中興」というのは、鎌倉幕府滅亡後の1333年6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始した事により成立した政権を指すが、わずか2年半で瓦解してしまった。菊池寛は、明治政府がわずか数年で瓦解するピンチであったことを述べているのだ。
明治政府を誕生させたのは、薩長土肥の4藩の活躍がなくてはなしえなかったのであるが、これらの藩がまとまっていたかというと、そうではなかったようなのだ。
薩摩の西郷隆盛は新政府の考え方と合わず距離を置いていたし、島津久光(藩主忠義の父、事実上薩摩の最高権力者)は、四民平等、廃藩置県などはもってのほかだと不機嫌であった。しかも西郷を嫌っていた。
長州の首領格の木戸孝允は薩摩嫌いで、土佐は薩摩の武力主義に対して、公議政治という奇手を用いて新政府に割り込もうとしていたし、肥前は薩長土が維新の渦中で人材を消耗しつつある間に、悠々と機会を窺っていたという。

明治二年四月二六日に大久保利通岩倉具視に宛てた手紙には、「…天下の人心政府を信ぜず、怨嗟の声路傍に喧喧、真に武家の旧政を慕うに至る…かくまでに威令の衰減せしこと歎息流涕の至りにたえず…」と書いており、その危機感がよく伝わってくる。

大久保利通

菊池寛は当時の大久保利通の危機感についてこう解説している。
「上下両極の議政所における、諸藩出身の貢士たちがいくら論議を重ねても、また群卿諸侯の大会議が何度開かれても、所詮朝廷の根軸を建て、確固たる中央政府が出来上がるわけではない。朝廷に実力ある兵力なく、また財力があるわけでもない。こんな風潮では、天下は遠からず瓦解してしまうというのである。

公議、世論など、亡国的俗説だ。薩長専横と言わば言え、今日において、薩長の実力に依らないで何が出来るか。我々はくだらぬ批難など耳に傾けず、薩長連合して、朝廷を中心に戴き維新当初の精神に立ち返って、働くべきだと論じた。この時に当たって、多少の摩擦混乱はやむを得ない。即今幸いにも外患がないから、多少の内乱恐るるに足らずだ。要は一刻も早く、国内統一し、国家の基礎を確立して、外国に対抗せねばならん、というのである。

この決心を以て、大久保はまず起ち、岩倉、木戸の同意を得て、一路薩長連合に向かって突進した。
この結果、西郷が再び中央の政界へ、薩長連合の党首として乗り出すことになり、朝廷に近衛兵が置かれることになり、そして、最後に封建的割拠主義に最後の止めを刺す、廃藩置県という、画期的な改革が見事に出来上がるということになったのである。」

要するに、薩長が明治政府の中心にならなければ抜本的な改革は出来ず、また薩長をひとつにまとめ上げるためには、中心に西郷隆盛がいることを必要としていたということなのだ。大久保は岩倉具視を勅使として薩摩にいる西郷を訪ねて上京を促し、西郷の同意を得たのである。
明治四年二月に西郷が東京入りして、朝廷に新兵が設置され薩長土三藩の兵が集められて中央政府の実力を固め、六月には自ら参議となって薩長の独裁政治体制が完成し、ようやく大改革を推進する体制が整った。

西郷の参議就任直後に山縣有朋は西郷を訪れ、滔々と廃藩置県の必要性を説き西郷の了解を得、七月九日には木戸孝允邸で廃藩置県の秘密会議が開かれた。大久保利通の日記を引用しながら、菊池寛はこう書いている。

「大久保の日記に
『九日、…五時より木戸氏へ訪。老西郷氏も入来、井上山縣も入来、大御変革御手順のこと、かつ政体基則のこと種々談義す。凡そ相決す。』
この時、木戸、大久保に苦慮の色があるのを見て、西郷は
『貴公らに、廃藩実施の手順さえ附いておれば、その上のことは拙者全部引受ける。暴動が各地に起きても、兵力の点なら、ご懸念に及ばず。必ず鎮圧して、お目にかけましょう』 と言った。
この一言に、一同は一息ついて、議論が一決したのである。…

こうして、七月一四日疾風の如く廃藩令が下ったのである。」

西郷隆盛

菊池寛の『大衆明治史』が面白いのは、立場の異なる人間の動きが具体的に記されていて時代の動きがダイナミックに読み取れる点だ。

「西郷上京に際して、(必ず廃藩置県などやるでないぞ)とダメを押した島津久光は、廃藩令の薩摩に伝わるや、花火を揚げて、不満を爆発させたという。諸侯と言わず、武士と言わず、保守派に与えたショックは、蓋し甚大なるものがあると思う。
西郷はその心境を家老に告げ、
『お互いに数百年来の御鴻恩、私情においては忍び難きことに御座候えども、天下一般此の如き世運と相成り、此の運転は人力の及ばざる所と存じ奉り候』
と述べている。どちらかと言えば保守派である西郷である。苦衷想うべきだろう。
廃藩令が下るとともに、従来の藩は、次第に県に改まり、十一月になって七十二県が出来たのである。
一方大久保は、現在の内務、大蔵、逓信、農林、商工の五省を兼ねた大蔵省に立てこもり、井上馨、伊藤博文、松方正義、津田出などの新人を引き具して、いよいよ新政策に邁進することになった。
彼等の眼よりすれば、西郷は一種のロボットである。廃藩置県の大仕事が済んでしまえば、もう西郷は必要としないのである。西郷の好みそうもない政策が次々と生まれてくる。
八月九日、散髪脱刀許可令
八月十八日、鎮台を東京、大阪に置き、兵部省に属せしむ。
八月二十三日、華士族平民婚嫁許可令。
等々、四民平等、士族の特権はどんどん剥ぎとられて行く。」

菊池寛の文章を読むと、この『廃藩置県』が大変な改革であり、西郷隆盛の存在がなければその実現が難しかったことがよく理解できる。
しかしながら、『山川日本史』をはじめとする教科書や通史には、この大改革がスムーズに進んだことを強調して、廃藩置県に西郷隆盛の名前が出ることがほとんどないように思う。

このブログで何度も、歴史は勝者にとって都合の良いように編集されることを書いてきた。明治政府にとっては、後に西南戦争で官軍と戦うことになった西郷隆盛の力がなければ、「廃藩置県」の大改革がなしえなかったという史実は「明治政府にとって都合の悪い真実」であり、教科書などの歴史叙述の中には書かせたくなかったのではないだろうか。多くの教科書や概説書で、廃藩置県を「さして抵抗もうけずに実現した」というスタンスで書くのは、西郷が西南戦争で明治政府軍と戦った史実と無関係ではないと思うのだ。

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いつの時代でもどこの国でも、時の権力者が書かせたような歴史を何回読んだところで真実が見えてくるとは限らないのだと思う。基本的に権力者というものは、常に権力を握り続けるために嘘をつくものだと考えておいた方が良いだろう。
教科書を含めてわが国の歴史書の多くは官制史料を重視するスタンスで叙述されている傾向が強いと思うのだが、このようなスタンスでは、それぞれの時代で為政者にとって都合の悪い出来事については、いつまでたっても真実が見えて来ないのではないか。
官制の公式記録はもちろん参照すべき重要な史料ではあるが、内容がそのまま真実であるとして鵜呑みすることは危険なことではないのか。同じ時代を生きた人々の記録と読み比べることで本当は何があったのかを考える姿勢が、歴史を学ぶ上で大切なのだと思う。
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征韓論争は大久保が西郷を排除するために仕掛けたのではなかったか

前回は、GHQ焚書図書となった菊池寛の『大衆明治史』第1章の「廃藩置県」に関する記述を紹介し、西郷隆盛がいなければこのような大改革は為し得なかったのではないかといことを書いた。今回は、引き続き『大衆明治史』の第2章「征韓論決裂」に関する記述を紹介したい。

その前に、一般的な教科書の記述を読んでみよう。
「欧米諸国の朝鮮進出を警戒した日本は、鎖国政策をとっていた朝鮮に強く開国をせまった。これが拒否されると、西郷隆盛、板垣退助らは、武力を用いてでも朝鮮を開国させようと政府部内で征韓論をとなえた。しかし1873(明治6)年欧米視察から帰国した岩倉具視大久保利通らは、国内改革の優先を主張しこれに反対した。」(『もう一度読む 山川日本史』p.223-224)

この教科書の記述では西郷も板垣も武力で開国を迫り、岩倉や大久保は国内改革を優先したというのだが、史実はそれほど単純なものではなかったようだ。
菊池寛の文章を引用しながら説明したい。(原文は旧字・旧かな)

征韓論は一応合理的であった。韓国が小国であること。無礼であること、更に征韓に対して、清国はじめ諸外国が文句をつけぬと言っていること等が理由である。
当時の韓国の実権は、国王の生父大院君によって握られており、甚だしい欧米嫌いであった。だから日本の開国を欧米模倣であると罵り、禽獣に近づいたといって、蔑視しているのである。
だから、維新政府が宗対馬守を派遣して、いくら国交を調整しようとしても、剣もホロロの挨拶である。」(『大衆明治史』p.23-24)

自由党史

朝鮮国が無礼であった点については「近代デジタルライブラリー」で板垣退助『自由党史』第二章などを読めばわかるが、要するに当時の朝鮮国の外交方針は「鎖国攘夷政策」であり、欧米の先進文化の受容に努めていたわが国も西洋と同様に「攘夷」の対象であって、わが国が使節を送っても、侮辱した上威嚇して国外に追い出そうとしたことが書かれている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991339/1
しかし朝鮮国がこのまま鎖国を続けていてはいずれ朝鮮半島は欧米の植民地となり、そうなればわが国の独立も脅かされることになってしまう。

征韓論

そこで「征韓論」の議論が沸騰する。
しばらく、菊池寛の文章を読んでみよう。

「ここにおいて、明治六年六月十二日、朝鮮問題に対する会議が開かれることになったのである。
劈頭まず板垣退助は、
『居留民を保護するのは政府の義務だから、早速一大隊の兵を釜山に送り、それから談判をやろう』
と出兵論を唱えた。これに対して西郷は、
『それは少し過激だ。それより、まず平和的に堂々使節を派遣して、正理公道を説き、それで聴かなかったら公然罪を万国に鳴らして討伐すればよい』
と述べた。三條*は、
『大使を派するなら、兵を率いて軍艦に乗っていったらよかろう』
と言葉を挟むと、西郷は敢然として、
『いや兵を率いて行くのは、所詮穏やかでない。大使たるものは宜しく烏帽子直垂を着し、礼を厚くし道を正さねばならぬ』

と反対した。…
すると誰かが、
『これは国家の大事であるから、岩倉大使**の帰朝を待って決すべきであろう』
この言葉は西郷を怒らせた。
『堂々たる一国の政府が、国家の大事を自ら決めかねるなら、今から院門を閉じ、百般の政務を撤するがよい』
と叱し、一座は粛として静まり返ったのであった。西郷は更に言葉を進めて、
『この遣韓大使には、ぜひ自分を遣って貰いたい。』
再三再四、西郷はくどく三條に迫って、この件を上奏して欲しいと希望するのであった。
この日の会議は、このまま終わったが、西郷は尚熱心に朝鮮行きを希望してやまない。
『副島**君(遣清大使)の如き立派な使節は出来申さず候えども、死する位のことは、相調い申すべく』
とある様に、いつでも命を投げ出す位の覚悟を、淡々たる言葉の中に洩らしているのである。大使になって行けば韓国は必ず自分に危害を加える、そうしたら立派な征韓の名分が立つ、西郷の信念はここにあったのだ。」(同上書 p.24-26)
*三條實美(さんじょう さねとみ):公家出身。当時太政大臣。  
**岩倉具視:公家出身。当時右大臣外務卿で、全権大使として大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らとともに欧米視察中。
***副島種臣(そえじま たねおみ):佐賀藩出身。当時外務卿。

この西郷の発言内容は、先ほど紹介した板垣退助の『自由党史』と内容はほぼ同じであり、菊池寛の文章は当時の記録に忠実に書いている。『自由党史』には、この六月十二日の会議で、釜山に軍隊を送ろうとした板垣も自説をその場で引込めたとあり、この会議では平和裏に遣韓大使を送るとする西郷案で一旦決着し、誰を大使とするかについては8月17日に西郷とすることで決着したと書いてある。
征韓論」が決裂するのはそれからあとのことなのである。欧米視察を終えて帰国した、岩倉具視大久保利通らがこの決定を許さなかったのだ。10月14日に岩倉らの帰朝後第1回目の内閣会議が開かれる。
しばらく菊池寛の文章を引用する。

岩倉具視

「まず三條から一応の報告があると、岩倉は敢然として起ったのである。
『大使を韓国に派遣するについては、大戦争を覚悟した上でなければならん。朝鮮の背後には、支那もあるし、ロシアもある。迂闊に手を出して国家百年の大計を誤ってはならぬ。現状は国力涵養第一。征韓など無策、無為である』
初めて聞く、堂々たる反対意見である。
西郷は、
『しかし、朝鮮大使派遣は八月十七日の廟議ですでに決していることである。今更是非を議する必要がどこにあろう』
岩倉すかさず、
『いや、その為のみの、今日の廟議である』
『くどいようじゃが、その廟議は決まっているのだ』
この時、大久保、
『前閣議でどう決まったか知らんが、それは拙者らの知ったことではない』
『それは貴公、本気で言われるか』
西郷は血相を変えた。
『留守に決めたが不服と言われるのか。拙者も参議だ。これ程の大事を、貴公らの帰国するまで待てるか。留守の参議がきめたことに、なんの悪いことが御座るか。三條太政大臣も同意で、既に聖上の御裁可まで経たことであるぞ』…」(同上書 p.27-28) 
といった議論が続いていく。

征韓論の図2

翌日の会議も水掛け論で終わる。菊池寛はこう書いている。

「…問題は、奏問の手続き問題に入ってくる。こうなると、事務的にも政治的にも、征韓派は、岩倉や大久保の敵でない。
かくて二十三日、岩倉は参内して、征韓不可の書を奉り、大勢は決した。聖上は一日御熟慮の上、岩倉の議を御嘉納あらせられたのである。
二十三日、西郷は参議、陸軍大将、近衛都督の職を辞するの表を奉り、翌日、板垣、副島、後藤、江藤の諸参議もそれぞれ辞表を奉った。…
これと同時に、陸軍少将桐野利秋、篠原国幹なども、疾と称して、辞表を呈出し、これに倣って、近衛士官などは総辞職である。…
そこで陸軍卿山形有朋は、新たに近衛兵の再編成に着手し、かくて長州人が今度は陸軍部内に確固たる地位を占め『長の陸軍』の淵源をなしたのである。」(同上書 p.31-32)

明治政府は25日に非征韓派を中心にした内閣改造を行っている。
大久保利通が内務卿となり、また幕臣であった勝海舟を海軍卿に据え、榎本武揚を遣露大使としたほか、西郷を牽制するために島津久光(藩主忠義の父、事実上薩摩の主権者)を左大臣、内務顧問に登用した。
産業を奨励し、反対党の弾圧にいよいよ本腰を入れるとともに、強引にも華族、士族の家禄まで税金をかけた。そこで明治7年(1874) に佐賀で不平士族の叛乱が起こる。

江藤新平

「(明治)七年二月征韓論者の政府反撃の第一声として、大規模な佐賀の乱が勃発している。江藤新平、島義勇らの暴発であるが、大久保はかねて期していたものの如く、直ちに熊本、広島、大阪三鎮台の兵を動かし、同時に久光を帰国させて西郷を抑える一方、自ら急速に兵を進めて三月一日には佐賀城に入っている。文官である大久保としては一世一代の武勲であると言って良い。
江藤は後に捕えられ、極刑ともいうべき、梟首(きょうしゅ:晒し首)に処せられた。往年の同僚、参議江藤新平の首をさらして、あえて動ぜぬ、不適の面魂はいよいよ凄みを増してきたと言えよう。」(同上書 p.33-34)

大久保利通

教科書では大久保らは国内改革を優先したと書くのだが、実際はそうとも言えない。征韓論反対の舌の根も乾かぬうちに、大久保は台湾に出兵しているのだ。再び、菊池寛の文章を引用する。

「殊に征韓論を排撃して二ヶ年ならぬのに、大久保は、台湾出兵をやっている。これは全く国内士族の不平を、海外にはけさせるためにやった仕事で、征韓論反対の言い分は何処へやったといわれても仕方がないであろう。
神経衰弱で少し気の弱くなった木戸など。
『切に希くは、治要の本末を明かにせよ』
と悲壮な言葉を残して、幕閣を去ったが、大久保は断固として、この出兵をやり、しかも戦後の談判に、自ら清国に乗り込んで、李鴻章と大いに交驩し、五拾萬両の償金と、台湾征討は義挙であるという、支那側の保証まで得て帰ってきているのである。昭和の外交官、顔負けである。内治によく外交によく、大久保の幕閣における地位は、この時において、圧倒的、独裁的な域まで達したのである。」(同上書 p.34)

大久保にとっては、朝鮮よりも台湾の方が制圧が容易で、他国の干渉を受ける可能性も低いとの判断があったのかもしれないが、「現状は国力涵養第一。征韓など無策、無為である。」と言っていた反征韓論者が、西郷が職を辞した4カ月後の明治7年(1874)2月に台湾出兵を計画し、5月に出兵したというのはどう考えても違和感がありすぎる。

当時、廃藩置県により失業した士族は全国に40万人から50万人程度いたというのだが、それまで各藩が支払っていた禄は政府の支出となっており、その支出額は国家予算の大きな部分を占めていた。明治5年(1872)の地租収入は2005万円に対し禄の支出は華族・士族合せて1607万円にも達していたのだ。このままでは維新政府が長く続くはずがなかった。

大久保にとっては、西郷の力を借りて廃藩置県の大改革が終われば、次にやるべきことは政府支出構造の抜本的改革であっただろう。そのためには士族の既得権に大ナタを入れざるを得なかった。そのためには、政府内の抵抗勢力を出来るだけ早い時期に排除することが必要であったのではなかったか。

大久保らの欧米視察中に、西郷らが留守中に決定した遣韓大使派遣のような重大事を追認しては、主導権を西郷らに握られることになりかねず改革が遅れてしまう。もちろん出兵には多大な費用がかさみ、戦争となって勝利しても士族の地位が再び高まっては困るのだ。

大久保は征韓論争を仕掛けて、政府内の抵抗勢力を切り、士族の既得権にもメスを入れることをはじめから狙っていたのではないだろうか。
西郷、江藤らが下野したのは明治6年10月23日だが、2日後に新政府を組閣し勝海舟を入閣させのちに島津久光を内務顧問に任じている。また2か月後の12月には「秩禄奉還の法」を定めて禄に課税が行われている。ちょっと準備が良すぎると思えるのである。

島津久光

大久保は、不満をもった旧士族が各地で反乱を起こすことを覚悟していたからこそ、島津久光を登用したのだ。明治7年2月に江藤新平が佐賀の乱を起こした際に西郷が動かなかったのは、大久保の指示で島津久光が薩摩に帰ってきたからではなかったか。
また大久保は、征韓論にはあれだけ反対を唱えながら、佐賀の乱があった2月に木戸の反対を押し切って台湾出兵を決定し、5月には出兵している。
教科書などでは大久保利通らは「国内改革を優先した」と叙述されるのだが、その記述をそのまま鵜呑みにしては、明治時代を正しく理解したことにならないのではないか。
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西南戦争が起こる前の鹿児島県はまるで独立国のようだった

前回の記事で、明治6年に征韓論争が決裂して西郷らが下野して鹿児島に戻ったことを書いた。その後の西郷が薩摩でどのような生活であったのか、菊池寛の文章を読むと驚くべきことが書かれている。しばらく引用してみる。(原文は旧字・旧かな)

西南戦争の原因は、発展していく中央政府と、古きを守ろうとする西郷党との間に醸し出された矛盾対立が、遂に爆発した結果にほかならない。
言葉を換えて言うなら、明治六年の征韓論の対立が、明治十年の西南戦争によって、結論がついたとも言えるのである。
村田新八の言葉を借りるなら、西郷と大久保の征韓論の論争は、横綱の立会いのようなもので、どっちに軍配を上げてよいものかわからぬと言うのである。
なるほど、形の上では、西郷が廟議に敗れて、鹿児島に引っ込んだのであるから、西郷の負けのようであるが、西郷の持っている一世の輿望というものは、九州の一角において、文字通り西郷王国を築き上げているのである。
鹿児島県の官吏の任免でさえ、この一派の手の中にあったのであるから、まるで一種の独立地域である。アンチ大久保アンチ中央政府の欝然たる牙城となってしまったのだ。
いつかこの力のバランスは崩れ、互いに正面衝突をすべき運命にあったことは、誰の眼にも歴々として映じていたのである。」(『大衆明治史』p.51-52)

廃藩置県によって、てっきり中央政府が地方の官吏の任免権を手中に収めたものとばかり考えていたが、鹿児島県は例外であったというのである。菊池寛の文章を読んでいると、鹿児島県は別世界で「西郷王国」のような状態であったことがよく解る。
中央政府が当たり前のことを実行しようとしても、鹿児島県に対しては随分苦労していることが書かれていて面白い。

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「これが爆発の直接原因は、内務省の発動による、鹿児島県の役人の転免である。つまり中央政府が封建的最後のものとしての薩摩をその統制下に据え直そうとしたことによる。
明治九年七月初旬、大久保は鹿児島県令、大山綱紀に上京を命じた。県令は当時奏任官だから、内務卿の一断で自由になるであるが、それを呼び寄せて相談を図らねばならないところに薩摩の特殊性があるわけである。
大山は十七日に入京、病中の大久保は、大山に向かって、
『近く内政改革をやる積りだが、鹿児島県も参事課長以下官吏の更迭をやるが、宜しく頼む』
と語った。
大山は西郷派の一人であるから、とてもこんなことが出来るわけはない。一方地方長官としての苦しい立場もあり、
『それでは辞職させていただきます』
と辞任を申し出た。
大久保は強いてこれを宥めて、内務省林友幸を同行させて、鹿児島へ帰らせた。
林は十年正月四日、登庁して様子を見たが、とても手がつけられないと直感して、帰京することになった。」(『大衆明治史』p.52-53)

しかし鹿児島県では、中央政府が鹿児島県の西郷系の官吏を一挙に更迭しようとしているという話が一気に拡がって行ったのである。

私学校跡

征韓論争の後鹿児島に帰った西郷は、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設し、西郷とともに下野した不平士族たちを統率し、県内の若者の教育に力を入れていた。
その私学校党の青年たちが暴発してしまうのである。その経緯を菊池寛はこう書いている。

「血気に速る私学校党の青年たちは、公然銃器を携えて鹿児島城下を横行し、喋々として政府の挙措を誹謗し、まさに一大変動勃発の徴があった。
この形勢に更に火を注いだのは、中央から発せられた密偵であった。中原尚雄以下二十三名の鹿児島県出身者は結束して帰省し、正月六日頃から、鹿児島各方面をスパイして歩いた。これを発見して捕えた私学校生徒たちは、これを西郷への刺殺者であると憤怒する。形勢は刻々に暗澹たるものになっていった。
二月九日の郵便報知新聞は
『この間から鹿児島県の動静をチラホラ耳にしましたが、滅多なことを掲げて天下の視聴を驚かしては容易ならぬことと控えておりましたが、あまり噂が甚だしくなりましたからちょっと述べます。
三菱会社の赤龍丸は大阪鎮台の御用船となり、去月二十七日鹿児島県着三十一日同所にあるところの弾薬二千個を滞りなく積み入れ、本月一日に千八百個を積み入れる手筈の際、突然士族輩二千五百人程にて取囲み、この囲みを出るものは切殺すぞと脅し、この弾薬を悉く持ち去りたり。よつて鎮台士官も赤龍丸に乗組み、ただちに出帆、六日暮神戸に着せり。林内務少輔は大分県辺巡回中なりしが、直ちに引返し、説諭のため鹿児島に出張せらるるよし』
火薬搬出は要するに、事実上の挑戦であった。しかもこの火薬に火は点ぜられたのである。」(同上書 p.53-54)

中原尚雄以下23名の鹿児島県出身者が帰省したのは明治9年1月11日の事だ。その目的は、西郷隆盛私学校幹部の偵察や旧郷士族の私学校からの離間工作が目的であったと言われているが、私学校の学生たちが警戒して当然だ。
そして1月29日に政府は鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠の武器弾薬を大阪へ移すために、秘密裏に赤龍丸を鹿児島へ派遣して搬出を行おうとした。それを私学校学生が奪い取る事件が起きている。
Wikipediaによると、「鹿児島属廠の火薬・弾丸・武器・製造機械類は藩士が醵出した金で造ったり購入したりしたもので、一朝事があって必要な場合、藩士やその子孫が使用するものであると考えられていた」こともあり、私学校学生にとっては「中央政府が泥棒のように薩摩の財産を搬出した事に怒るとともに、当然予想される衝突に備えて武器弾薬を入手するために」奪い返そうとしたのは心情的には理解できる。しかし私学校学生が奪い取った武器と弾薬は、旧式のものであったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89

1月30日に私学校幹部は中原尚雄等を内偵し、中原らの帰郷が西郷暗殺を目的としているという情報を入手している。
Wikipediaによると、中原尚雄は旧知の谷口登太に「自分は刺し違えてでも西郷(隆盛)を止める」といったとされ、これが「明治政府による西郷暗殺の陰謀」の証拠とされて、同年2月3日、他の帰郷中の同僚らと共に私学校生徒に捕らえられ、厳しい尋問の末に明治政府が西郷を暗殺しようとした陰謀があったことを自白したという。その結果、私学校生徒の暴走に歯止めが効かなくなってしまったと書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%B0%9A%E9%9B%84
中原が「西郷らを視察する」と言った言葉が「刺殺する」と誤解されたという説もあるようだが、今となっては知る由もない。重要なのは、彼等が西郷らの刺客として中央政府から送り込まれたと私学校生徒が判断した事実である。

西郷隆盛に1月29日の武器弾薬略奪事件の情報が届いたのは、2月2日のことだった。隆盛は大隅で漁をしているときに、弟の小兵衛からその報告を受けている。ふたたび菊池寛の文章を引用する。

「『おはん達は、何たることを仕出かしたか』
と大喝したが、しばらくして、
『それでは、おいどんの身体を上げまっしょう』
と言ったのは、誰でも知っている話である。
一万三千人の愛する私学校生徒の為に命を投げ出す、その心情は美しいが、同時に征韓論決裂以来押さえに押さえてきた鬱屈が、子弟1万余の動揺を前にして、一時に爆発したのではなかろうか。
ことに西郷を怒らせたのは、彼に刺客を向けたということであろう。政府の考えでは、恐らく単なるスパイのつもりであったのだろうが、これがいつしか暗殺者と言われるようになり、これが西郷の耳に入って嚇怒させたのであろう。

西郷隆盛

維新以来、国家のため犬馬の労を尽くした、自分を殺させるという法があるか。これが西郷の戦争の理由のポイントである。だから、刺客を寄こした木戸、大久保を朝廷から一掃する、その為の精鋭三万の大挙東上なのである。
暗殺ということは、現在のわれわれにはあまりピンと来ない。しかし、維新の動乱時代に様々の暗殺の経験を経てきている西郷などには、われわれの想像以上に生々しく切実な感じがしたのであろう。
だから西郷が征韓論に敗れた時、逸早く身を隠して、政府の眼をくらましたのは、気持ちの上のいろいろな複雑なものがあったであろうが、その一部分には、暗殺の危険というものを、実に素早く感じたには違いないのである。 …
…中原尚雄らを刺客として、ハッキリ眼前に見た時、西郷は遂に最後の肚を決めたのであろう。
大山綱紀の名で、征討将軍に奉った一文に、西郷は断乎として述べている。
『隆盛等を暗殺すべき旨官吏の者に命じ、事成らざるに発覚に及び候。此の上は人民憤怒の形勢を以て、征討の名を設けられんとする姦謀、千載の遺憾此の事と存じ奉り候』」(同上書 p.55-57)

西郷隆盛が戦う肚を固めて、その準備が進んでいく。

SumiyoshiKawamura.jpg

時局収集の任を帯びて、薩摩出身の海軍大輔川村純義が急遽鹿児島にやって来たのだが、この時は川村は上陸すらできなかったという。菊池の文章を読むとその時の鹿児島の異常な空気が伝わってくるようだ。

「『それ西郷先生が軍艦へ行く。危ないからお供をしろ』
と私学校の若者たちが殺到して物凄い光景を呈した。川村は危ないとみて艦をずっと沖合に移動させる。艦長伊東祐享が、撃ってもよいかと川村に聞いた程、この私学校党の勢いは凄まじいのであった。
西郷は近衛都督の時分、この私学校系の兵士の駕御の困難を譬えて『破裂弾上に寝る』と言ったことがあるが、今やその統制は全く西郷一人の力では、如何ともすることが出来ない状態である。
私学校徒にとって、郷党大先輩であり、西郷の親戚であり、然も温かい手をさしのべようとしてやってきた川村中将に対してすら、政府の一員、敵の一人として以外に見ることが出来ぬ程、偏狭になり、陰悪になっているのである。
何故であろうか。想うに、南隅なるが故に、最後まで取り残されたこの古い一団は、新時代の寒風が吹き募るにつれ、互いに団まり合い、抱き合い、今では互いの体温を温めあうところ迄追い詰められていたのである。薩摩の天地に人無きにあらずだ。しかし時代のわかる連中は中央へ出きってしまい、古さと人情だけで生きる人たちだけが残って、その不満と反抗だけが固まって出来上がったものがこの西郷王国だとしたら、その最後は飽くまで悲劇的ならざるを得ないではないか。」(同上書 p.58-59)

Wikipediaによると、鹿児島の私学校は明治7年4月に旧鹿児島城(鶴丸城)内に陸軍士官養成のための「幼年学校」「銃隊学校」「砲隊学校」の三校が設立され、「幼年学校」の設立に当たっては西郷隆盛が二千石、大久保利通も千八百石、鹿児島県令大山綱良が八百石、桐野利秋が二百石を拠出しているが、「銃隊学校」「砲隊学校」は鹿児島県の予算によって設立されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%AD%A6%E6%A0%A1

桜島

重要なことは、大山が県令を務める鹿児島県は西郷が下野した後は、驚くべきことに新政府に租税を納めていなかったようなのだ。その一方で私学校党を県官吏に取り立てて、鹿児島県はあたかも独立国家の様相を呈していたという。さらに大山は西南戦争の際に官金を西郷軍に提供していたのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E7%B6%B1%E8%89%AF

前々回の記事で西郷隆盛がいなかったら廃藩置県の大改革が出来なかったことを書いたが、西郷のお膝元の鹿児島県だけは例外で、むしろ独立国の様相を呈していた。政府の命令を無視して地租改正も行わず、旧士族は刀を差し、銃や弾薬を蓄えて戦いに備えての訓練をしていたというのである。
今までこのような史実を学ぶ機会はほとんどなかったのだが、こういう史実を知らずしては、なぜ西南戦争が8か月も続く大変な戦いになったかを理解することが難しいのではないか。

西南戦争のことは次回に書くことにしたい。

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西郷隆盛はなぜ西南戦争を戦ったのか

前回は、GHQ焚書図書である菊池寛の『大衆明治史』の第4章「西南戦争」の前半部分を紹介した。前回の記事で書いたように、征韓論争に敗れて西郷隆盛が地元に戻ったころの鹿児島県は、中央政府に租税を納めず官吏の任免権を西郷らが掌握し、一種の独立国の様相を呈していた。明治10年(1877)1月になると中央政府が西郷らに刺客を送り込んだとの情報が拡がり、続いて私学校党の学生が、武器・弾薬庫を襲う事件が起こり、西郷はいよいよ政府と戦う肚を固めた。今回はその続きである。

官軍の総指揮を執ったのは長州出身で第3代・9代の総理大臣となった山縣有朋(やまがたありとも)だが、菊池寛が山縣の西南戦争に対する戦略を書いている部分をしばらく引用する。(原文は旧字・旧かな)

山縣有朋

「西郷の盟友山縣有朋は、西郷征討の戦略を次の如く書いている。
『南隅破裂するに当たり、渠(きょ:首領[西郷のこと])の策略その何の点にいずるは量り知るべからずといえども、これを要するに三策に過ぎず。第一は火船に乗じて東京あるいは浪華(大阪)に突入すること。第二は長崎および熊本鎮台を襲撃し、全九州を破り、以て中原に出ること。第三には鹿児島に割拠し以て全国の動揺を窺い、暗に海内の人心を揣摩(しま:推量)し、時機に投じて中原を破ること、恐らくは此の三項の外に出でずと洞察せり。よってそのいずれの点に出ずるも、我にあっては他を顧みず、力を一にして鹿児島城に向かい、海陸並進、桜島湾に突入し、奮闘攻撃し、瞬間鹿児島城を殲滅するを期して後に止む。
而して更に中国四国及び両肥等に向かってこれを撃破せんも難らず。…」
さすがによく喝破していると思う。要するに熊本の鎮台を捨て身で守ると同時に、全力を挙げて、敵の拠点鹿児島を揉み潰せというのである。敵は薩摩ばかりではない。天下の変を窺う守旧派は九州にも四国にも、奥羽にもあるが、わき目もふらずに鹿児島城を屠ってしまえば、他は問題とするに当たらないというのである。
この戦略が遂に成功して、鹿児島を襲った官軍は、西郷軍の糧道を絶ち、これを北九州に空しく彷徨四散させたのである。」(『大衆明治史』p.59-60)

西郷の率いる1万3千の軍は2月15日に鹿児島を発って北に向かい、「西郷立つ」の知らせを聞いた各地の士族が次々に合流し、この軍はわずかの間に3万に膨れ上がったという。
西郷軍が最初に目指したのは熊本城であったが、この城を目指したのは正しかったのか。

西南戦争熊本城

「…彼等の第一の誤算とも言うべきは、鎮台兵の戦闘能力に対する評価であろう。百姓や町人上がりの兵隊に何が出来るという肚なのである。戦争は武士がするもの、即ち武士が一番強い者と信じ切っていた彼等士族が、やがて当面しなければならなかったのは、精鋭な武器を持ち、近代的な戦闘法を会得した平民どもの執拗なる反撃なのであった。
熊本鎮台の頑強なる抵抗がそれである。然し一方、彼等薩南健児もまた善戦したと言うべきである。白刃を閃かせて、猛烈な肉弾戦を演じ、寡兵を以て雲霞のごとき官軍の陣営を脅かしている。
田原坂の一戦など、まことに薩南健児の真面目を遺憾なく発揮したものと言うべきだろう。
田原坂の戦いがはかばかしくいかない頃、木戸孝允は、岩倉に手紙を出し、
田原坂口も最初の算用と齟齬、既に20日近く相成り候えども、日々百五六十の死傷、既に傷人のみにても、二千五百人これある由、死人は未詳、実に大難戦にて御座候』
悲観的な言葉を述べているくらいだ。尤も木戸は元来悲観的にものを見るくせがあり、この時はちょうど病気だったので一層気が弱くなっていたのであろう。(これから2ヶ月後、木戸は病死している。)」(同上書 p.60-61)

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天下無敵の西郷軍はまず熊本城を包囲したが、熊本鎮台司令長官谷干城率いる熊本城は落ちなかった。熊本を包囲した西郷軍は官軍を迎え撃つために熊本城の北16kmにある田原坂を固める。
田原坂は長さ1.5km、標高差60mのゆるやかな坂だが、この坂を越える峠道は、非常に狭く曲がりくねった道となっている。この場所が西南戦争最大の激戦地となり、40日にも及ぶ両軍の死者は約4000人にも及ぶと言われている。

西南戦争田原坂

西郷軍3万に対し、官軍は7万。武器の性能においても官軍の方が優れていたという。西郷軍は良く戦ったとはいえ、こんな場所で苦戦することになることをはじめから想定していなかったとしか考えられない。

西郷軍の兵站方を担当することになった県令の大山綱吉は、出兵前に西郷に「多数の兵士を引率して、東京まで無事に行けるでしょうか」と質問しているが、その問いに対する西郷の回答は驚くべきものであった。菊池はこう書いている。

「『いや自分は陸軍大将だからたとえ全国の兵を率いるとも、陛下から特にお許しを受けている次第である』と答えている。
それでも、大軍の登場するに当たって、鎮台の軍隊が妨害を加えることになろうから、それをどうするかと重ねて訊ねても、西郷は、
『途中の県庁の方は、然るべく取り計ってもらいたい』
と簡単に答えているが、西郷とても血気に逸る三万の兵を引率して、坦々として東京に出で、闕下(けっか:天皇陛下の前)にその所信を訴えられるとは考えていないのだ。
鎮台は必ずこれを阻止する。これが戦争だ。…」(同上書 p.57-58)

簡単には行けるとは考えてはいなかったにせよ、東京には行けると考えていたからこそ西郷は戦う肚を固めたのだろう。しかし西郷軍は武器弾薬が不足し、圧倒的な兵力と物資を誇る政府軍に追い詰められて、敗色濃厚となっていくのだ。

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8月17日、西郷は官軍の包囲網を脱するために可愛岳(えのたけ)突破を決意する。この日に急坂を登り可愛岳頂上を目指した西郷軍は600人だったという。翌朝4時に到達した頂上には、第二旅団の官軍が屯していたが、こんなところに西郷軍が現われるとは考えておらず、官軍は総崩れとなる。

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可愛岳突破に成功し、西郷軍は鹿児島に向けて南進した。宮崎県の山岳地帯を、全行程400kmの道のりを、官軍と戦いながら、14日間も歩きとおしたのである。

西郷らは、9月1日に再び故郷・鹿児島の土を踏んだ。
一旦は鹿児島市街をほぼ制圧したが3日には形勢が逆転し、その後官軍は続々と鹿児島に到着した。6日には城山包囲体制が完成した総勢7万の兵士がわずか372人の西郷軍を取り囲んだという。

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9月22日に西郷は「城山決死の檄」を出している。これが西郷の絶筆となった文章である。

「今般河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、全く味方の決死を知らしめ且(か)つ義挙の趣意を以て大義名分を貫徹し、法廷において斃れ候賦(つもり)に候間、 一統安堵し、此の城を枕にして決戦致すべき候に付き、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様、覚悟肝要にこれあるべく候也」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89

翌23日、軍使が持ち帰った参軍川村純義からの降伏の勧めを無視し、山縣有朋からの西郷に自刃を勧告する書簡にも返事をしなかったという。

9月24日午前4時、官軍の総攻撃が始まった。弾丸に斃れる者が続き、西郷も股と腹に被弾した。西郷は、負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し、遙かに東方を拝礼した。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を介錯した。その後別府晋介はその場で切腹したという流れだ。

西郷の最期

西郷が何のために戦ったのかは様々な説があるが、この西郷の最後の「檄文」のポイントの部分を政治哲学者の岩田温氏は著書の中でこう訳しておられる。

「味方の決死の覚悟を敵陣に伝えるとともに、この挙兵の意義を以って、大義名分を貫徹し、理がどちらにあるかを明らかにして斃れるつもりなので、諸君らは心安くしなさい。この城を死地と考えているので、今一層の奮発と、後世に恥辱を残さないよう覚悟して戦うように」(『日本人の歴史哲学』p.158)
では命を捨ててまで西郷が守るべきものは何であったのか。この問いに対しては、岩田温氏の文章が私には一番納得できる。岩田氏は江藤淳の『南洲残影』の文章を引きながらこう書いている。

「明治維新の目的とは無道の国から派遣された黒船を撃ち払い、国を守ることにあったのではなかったか。ところが天子をいただく明治政府は何を為したか。彼らは自ら進んで国を西洋化し無道の国への道を歩むに至った。彼らは『日本の津々浦々に黒船を導き入れ、国土を売り渡そうとしている』。(江藤淳氏は)これを西郷が許せるはずもなく、挙兵に至ったとする。
筆者もここにこそ、西郷挙兵の大義を求めるべきであろうと考える。

維新を成し遂げた日本が盲目的に西洋化を推し進めている。本来進むべき道を誤っているように思われてならない。このままでは国が滅びる。それこそが、下野して以来の西郷の真意であったのではないか。

では何故に国家を守らんとするものが、国家を代表する 政府に反旗を翻すのか。
それは国家とは現に存する国民の専有物ではありえないからに他ならない。過去、現在、未来と連綿と続く垂直的なるもの、それこそが西郷の守らんとした国家であったからである。現在の政府は垂直的共同体としての国家を断ち切り、これを滅ぼさんとする革命勢力ではないか。これを断固として拒絶せねばならない。これが西郷の思いではなかったろうか。

後世の国民に敢闘の記憶を残すことによって垂直的共同体としての国家を守り抜く。歴史の中で自らを犠牲にしても国家という垂直的共同体を守らんとすること、これこそ が西郷の思想であり、日本人の歴史哲学であったのではないか。
それゆえ西郷は最後に至るまで戦い抜く道を選ぶ。何故ならこの徹底抗戦である姿こそが肝要であるからである。拙くとも徹底して西洋、近代に対峙し戦い抜いた記憶をも国民と持たざる国民とでは自ずからその未来の差はあきらかであろう。そのためにこそ必敗の戦いを選んだのだ。」(『日本人の歴史哲学』p.152-155)

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西郷が23日に川村純義からの降伏の勧めを無視し、山縣有朋の自刃を勧告する書簡にも返事をしなかったのは、こう考えるのが私には一番すっきりするのだ。
勝海舟は西郷を「西郷さんは自分の思想を歴史に委ねようとした」と評したというが、もし西郷が川村や山縣の勧告をあの時に受け入れてしまっていれば、西郷が西洋的価値観と戦ってきたことの意義を失って、西郷が守ろうとしたものは、いずれ何も残らなくなってしまったことだろうし、自由民権運動があれほど盛り上がることもなかったのではないか。

岩田氏が指摘している問題は、現代社会にもつながるところがある。
グローバル経済社会は、日本各地にあった「垂直的共同体」としての地域共同体を破壊していくばかりで、このままでは地域の伝統を維持するどころか、わが国の伝統や文化を守ることも、国土を守ることすらもいずれは難しくなっていくのではないだろうか。
核家族化が進み単独世帯が増えれば増える程「垂直的共同体」の維持が困難とならざるを得ない。我々現役の世代が、次の世代に命がけで伝え残すべきものがなくなり、その次の世代すら地元に残らなくない時代が続けば、いずれわが国は「国家」の体をなさなくなってしまうのではないか。特定の価値観を是とすることは、いずれは国家観や歴史観にも繋がっていくものなのである。
「グローバリズム」という思想は、長い目で見れば日本人を幸せにしないのではないだろうか。
普通の人間が、普通の努力をして地方で家族が共に普通に暮らせる社会を、どうすればわが国はもう一度構築しなおすことができるのか。
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西郷との会談で江戸城の無血開城を実現させた勝海舟は西郷の遺児支援に奔走した

慶応3年(1867)12月9日に薩長両藩および岩倉具視らの討幕派は王政復古の大号令を発し、天皇親政による新政府を樹立した。新政府は幕府だけでなく摂政・関白を廃絶し、会津藩・桑名藩の宮門警衛を停止した。また同日夜の小御所会議で、前将軍慶喜に内大臣の官職と領地の一部を返上(辞官・納地)させる決定をしている。

この決定に憤激した旧幕府方や会津・桑名の二藩は、明治元年(1868)1月、薩摩・長州両藩兵を中心とする新政府軍と鳥羽・伏見で戦闘を交えた(鳥羽・伏見の戦い)が敗れ、敗戦の報を受けた慶喜は大阪城を出て江戸に向かって、朝廷に恭順の姿勢を示した。
新政府の征討軍は慶喜を朝敵とみなして江戸に迫ったが、官軍参謀西郷隆盛と徳川方の旧陸軍総裁勝海舟との会談が行われ、4月に江戸城の無血開城が実現している。

江戸無血開城

Wikipediaの解説によると、「勝は東征軍との交渉を前に、いざという時の備えのために焦土作戦を準備していたという。もし東征軍側が徳川家の歎願を聞き入れずに攻撃に移った場合や、徳川家臣の我慢の限度を越えた屈辱的な内容の条件しか受け入れない場合には、敵の攻撃を受ける前に、江戸城および江戸の町に放火して敵の進軍を防いで焦土と化す作戦である」と書いてあり、3月10日付の『海舟日記』が引用されている。

「もし今我が歎願するところを聞かず、猶その先策を進まむとせば、城地灰燼、無辜の死数百万、終にその遁れしむるを知らず。彼この暴挙を進むに先んじ、市街を焼きてその進軍を妨げ、一戦焦土を期せずんばあるべからず」

勝海舟

勝は江戸湾にあらかじめ船を用意しておいて、火災が起こった後に避難民を救出する計画まで具体的に立てていたことを後年語っているそうだが、それくらいの覚悟がなければ、西郷相手に譲歩を引き出すような交渉はとても出来なかったのではないか。

この時の西郷と勝の会談の場面が、勝海舟の談話集である『氷川清話』という本に書かれている。ポイントとなる部分を引用する。(原文は旧字・旧かな)

「西郷なんぞは、どの位ふとっ腹の人だったかわからないよ。手紙一本で、芝、田町の薩摩屋敷まで、のそのそ談判にやってくるとは、なかなか今の人では出来ない事だ。
あの時の談判は、実に骨だったヨ。官軍に西郷が居なければ、談(はなし)はとても纏まらなかつただらうヨ。

さて、いよいよ談判になると、西郷は、おれのいう事を一々信用してくれ、その間一点の疑念も挟まなかった。『いろいろむつかしい議論もありましょうが、私が一身にかけて御引受します』西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産とを保つことが出来、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。もしこれが他人であったら、いや貴様のいう事は、自家撞着だとか、言行不一致だとか、沢山の兇徒があの通り処々に屯集しているのに、恭順の実はどこにあるかとか、いろいろ喧しく責め立てるに違いない。万一そうなると、談判は忽ち破裂だ。しかし西郷はそんな野暮はいわない。その大局を達観して、しかも果断に富んでいたには、おれも感心した。
この時の談判がまだ始まらない前から、桐野などという豪傑連中が、大勢で次の間へ来て、ひそかに様子を覗(うかが)っている。薩摩屋敷の近傍へは、官軍の兵隊がひしひしと詰めかけている。その有様は実に殺気陰々として、物凄いほどだった。しかるに西郷は泰然として、あたりの光景も眼に入らないもののように、談判を仕終えてから、おれを門の外まで見送った。おれが門を出ると近傍の街々に屯集して居た兵隊は、どっと一時に押し寄せて来たが、おれが西郷に送られて立って居るのを見て、一同恭しく捧銃(ささげつつ)の敬礼を行なった。…
この時、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判の時にも、始終座を正して手を膝の上に載せ、少しも戦勝の威光でもって、敗軍の将を軽蔑するというような風が見えなかった事だ。」(『氷川清話』講談社文庫p.62-63)

勝は旧幕府方が新政府に抵抗することには反対だったという。内戦が長引けば、イギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が2分される事態を避けるべきだとの考えであったようだ。
勝海舟は新政府でも海軍大輔、参議兼海軍卿などを歴任しているが、西郷が西南戦争で非業の死を遂げた頃からは表舞台から離れて、著作や旧幕臣たちの救済に力を注いだようである。

Wikipediaによると勝海舟は、「慶喜を明治政府に赦免させることに晩年の人生のすべてを捧げた。この努力が実り、慶喜は明治天皇に拝謁を許され特旨をもって公爵を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことが許されている。そのほかにも旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた」とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F

新政府に江戸城を明け渡したのち徳川家は静岡に移住し、旧幕臣たちも多くが静岡に移ったのだが、徳川宗家の公称800万石が70万石に縮小されて大量の武士たちが職を失い、生き抜く術を自ら決断しなければならなくなってしまった。旧幕臣たちの中には一家が離散し、悲惨な暮らしをしていた者も少なくなかった。
そこで勝はそんな人々をなんとか助けてやろうと起ち上がったという。
勝は明治新政府や全国の大名に人材の売り込みを行なったり、旧幕臣たちが持っていた刀剣類や古美術品などを売り捌いたりしたのだそうだ。

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静岡県の牧之原台地といえばお茶の生産地で有名だが、この土地を開墾して茶畑にしたのは、旧徳川幕府に仕えた幕臣たちである。勝海舟は開墾の為にかなりの資金を中條景昭らに支援したと言われている。
以前このブログで坂本龍馬暗殺したと言われている今井信郎のことを書いたが、この今井信郎も明治11年に牧之原台地に入植し茶の生産に携わっているという。
http://www.daitakuji.jp/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E3%81%AE%E5%B9%95%E6%9C%AB%E5%8B%87%E5%A3%AB/

明治新政府の改革で職を失い、不満を持った士族が新政府に反乱を起こす事件が全国各地で起こったのだが、旧幕臣からは反乱がおきなかったのは勝海舟のような人物がいたからなのだろう。
勝海舟が手を差し伸べたのは、旧幕臣だけではなかった。なんと、江戸城無血開城のためにともに談判した西郷隆盛の名誉回復の為に尽力し、西郷の遺児の援助も買って出ているのだ。

勝海舟と西郷隆盛

松浦玲氏の『勝海舟と西郷隆盛』によると、西郷の死から2年後の明治12年(1879)に勝海舟は、隆盛を偲んで留魂碑を建立している。朝敵として征討された男の記念碑のことなど誰も言い出せないような時期に、海舟は独力でこの碑を建立しているのだ。
当初は東京都葛飾区の浄光寺という寺に建てられたそうだが、海舟の死後に東京都大田区の洗足池の畔にある海舟の墓域に移されたのだそうだ。
碑の表には西郷の『獄中有感』と題された漢詩が彫られ、裏面には勝海舟の隆盛に対する熱い思いが綴られている。(原文は漢文)

留魂碑

「慶応戊辰の春、君大兵を率いて東下す。
人心鼎沸、市民荷担す。
我之を憂へて、一書を屯営に寄す。
君之を容れ、更て令を下して兵士の驕傲(きょうごう)を戒め、
府下百万の生霊をして塗炭に陥らしめず。
これ何らの襟懐、何らの信義ぞ。
今君已に逝たり。たまたま往時書する所の詩を見る。
気韻高爽(きいんこうそう)、筆墨淋漓(りんり)、恍としてその平生を視るが如し。
欽慕の情、自ら止む能はず、石に刻して以て記念碑と為す。
ああ君よく我を知れり、而して君を知る亦(また)我に若(し)くは莫(な)し。
地下もし知る有らば、それ将に掀髯(きんぜん)一笑せんか。
明治十二年六月 友人勝安芳誌す」

前半の部分は言うまでもなく、二人で会談した江戸城無血開城のことである。 また最後の方で、誰よりもこの海舟が西郷のことをよく理解していたという意味のことを書いているが、この点は注目して良い。当時薩摩藩出身の者は数多く生存していたにもかかわらず、西南戦争直後に新政府軍に反旗を翻した西郷を褒め称えることが出来る雰囲気ではなかったことが考えられる。

そして勝海舟は西郷の七回忌の頃に、当時明治天皇の侍従を務めていた山岡鉄舟への書状の中で、西郷の罪科を取り消し、西郷の遺児を江戸に呼ぶことを提案したという。
この書状は明治天皇のもとに届き、西郷の嫡男・寅太郎は明治政府に採用されてポツダム陸軍士官学校留学を命ぜられ、隆盛が徳之島に遠島されていた時代に愛加那との間に生まれた菊次郎は外務書記生として米国公使館勤務が決まった。
隆盛の弟・吉二郎の長男の隆準も寅太郎と同行し留学を希望したので、勝海舟は徳川家から借金までして、寅太郎と隆準の留学の際の餞別金350円を手渡したそうだ。

西郷寅太郎

西郷寅太郎は13年間ドイツで学んだ後帰国して明治25年(1892)陸軍少尉に任じられている。明治35年(1902)には父・隆盛の功により侯爵を授かり華族に列せられ、貴族院議員に就任している。この日に徳川慶喜も公爵を授けられている。

西郷菊次郎

また西郷菊次郎は外務省勤務の後、日清戦争で日本が台湾を得た明治28年(1895)に台湾に転じ、台北県支庁長、宜蘭庁長(4年半)に就任。日本に帰国後、京都市長(6年半)などの任に就いている。

また西郷隆盛は明治22年(1889)の大日本帝国憲法発布大赦により過去の罪が赦されて正三位が贈られている。またその年に西郷隆盛像の建設の話が持ち上がる。高村光雲らの制作による西郷隆盛像が上野公園に完成したのは明治31年(1898)年だった。

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しばらく松浦玲氏の著書を引用する。

「…12月18日、いよいよ上野の西郷隆盛像の除幕式である。午前10時開会で建設委員長樺山資紀の報告、除幕委員長川村純義の挨拶、内閣総理大臣山縣有朋の祝辞と式次第が進む。
次いで川村純義がまた立って海舟の和歌を代読し、南洲(西郷隆盛)と海舟の功績を讃える演説を追加した。代読した歌は次の三首である。

せめつゞみ みはたなびかし たけびしも 昔の夢のあとふりにける
咲花の 雪の上野に もゝつたふ いさをのかたみ たちし今日かな
君まさば 語らんことの沢なるを 南無阿弥陀仏 我も老いたり

… 川村は追加演説で、いまや幽明界を異にするけれども両雄が一場に会したのだと、本日の意義を強調した。「幽」の西郷が銅像となり、「明」の海舟と「一場に会した」というわけである。当人の演説はないけれども、海舟がもう一人の主人公なのだった。」(『勝海舟と西郷隆盛』p.192-193)

この除幕式からわずか1ヶ月後の明治32年(1899)年1月19日に勝海舟は脳溢血で倒れ、帰らぬ人となった。最後の言葉は「コレデオシマイ」だったという。

勝海舟という人物が明治の時代にいなければ、明治の歴史は随分異なったものになっていたことだろう。
徳川慶喜が処刑され、東京が火の海になってもおかしくなかったし、幕臣による士族の叛乱が長く続いたことであろう。わが国が長い間分裂状態にあれば、諸外国がわが国につけ入る隙はいくらでもあったと思うのだ。
明治という時代は国内が分裂する危機が何度かあったのだが、旧幕臣が明治という国家の不安要因とならなかったのは勝の尽力によるものが大きかったと思う。
西郷の名誉が回復され、徳川慶喜と天皇との和解の儀が成功し、西郷の銅像の完成を見届けて、勝海舟は自分の使命を終えたことを自覚したかのように77歳の生涯を終えたのである。
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なぜ討幕派が排仏思想と結びつき、歴史ある寺院や文化財が破壊されていったのか

このブログで何度か明治初期に起こった廃仏毀釈のことを書いてきた。この時期にわが国の寺院が半分以下になり、多くの国宝級の文化財を失ってしまったのだが、そもそも廃仏毀釈が起こる前のお寺や神社がどのような姿であり、一般民衆は廃仏毀釈をどう受け止めたかについて調べていると、高村光雲の文章が眼に止まった。

高村光雲

高村光雲は上野の西郷隆盛像を制作した彫刻家で詩人の高村光太郎の父親でもあるのだが、仏師であった高村東雲の徒弟となったものの、明治維新以後は仏師としての仕事がなくなり、西洋美術を学んで日本の木彫技術の伝統を近代彫刻に繋げた人物だと評価されている。

幕末維新懐古

その高村光雲が口述し、昭和4年に出版された『幕末維新懐古談』という本があり、平成7年に岩波文庫で再刊されている。残念ながらその岩波文庫も今では絶版になってしまったが、有難いことに青空文庫で全文を読むことが出来る。
その中に「神仏混淆(こんこう)廃止改革されたはなし」という文章があり、これを読めば、廃仏毀釈以前のお寺や神社がどのようであったか、だいたい見当がつく。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000270/files/45960_24248.html

「明治八年は私が二十三で年季が明けて、その明年私の二十四の時、その頃神仏混淆であった従来からの習慣(しきたり)が区別されることになった。
これまではいわゆる両部混同で何の神社でも御神体は幣帛(へいはく)を前に、その後ろには必ず仏像を安置し、天照皇大神は本地(ほんじ)大日如来、八幡大明神は本地阿弥陀如来、春日明神は本地釈迦如来というようになっており、いわゆる神仏混淆が行われていたのである。
この両部の説は宗教家が神を仏の範囲に入れて仏教宣伝の区域を拡大した一つの宗教政策であったように思われる。従来は何処の神社にも坊さんがおったものである。この僧侶別当(べっとう)と称(とな)え、神主の方はむしろ別当従属の地位にいて坊さんから傭(やと)われていたような有様であった。政府はこの弊を矯(た)めるがために神仏混淆を明らかに区別することにお布令(ふれ)を出し、神の地内(じない)にある仏は一切取り除(の)けることになりました。
そして、従来神田明神とか、根津権現とかいったものは、神田神社、根津神社というようになり、三社権現も浅草神社と改称して、神仏何方どっちかに方附けなければならないことになったのである。これは日本全国にわたった大改革で、そのために従来別当と称して神様側に割り込んでいた僧侶の方は大手傷を受けました。奈良、京都など特に神社仏閣の多い土地ではこの問題の影響を受けることが一層甚(ひど)かったのですが、神主側からいうと、非常に利益なことであって、従来僧侶に従属した状態になっていたものがこの際神職独立の運命が拓(ひら)けて来たのですから、全く有難い。が、反対に坊さんの方は大いに困る次第である。
そこで、例を上げて見ると、鎌倉の鶴ヶ岡八幡に一切経(いっさいきょう)が古くから蔵されていたが、このお経も今度の法令によって八幡の境内には置くことが出来なくなって、他へ持ち出しました。一切経はお寺へ属すべきものであるからというのです。そこでこのお経は今浅草の浅草寺の所有になっております。」

鶴岡八幡宮

鎌倉の鶴ヶ岡八幡廃仏毀釈のことは以前このブログにも書いたが、昔の境内図にあった薬師堂や護摩堂や経堂や大塔が破壊されてしまった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-74.html

高村光雲はこう纏めている。
「…神仏の混淆していたものが悉(ことごと)く区別され、神様は神様、仏様は仏様と筋を立て大変厳格になりました。これは、つまり、神社を保護して仏様の方を自然破壊するようなやり方でありましたから、さなきだに、今まで枝葉を押し拡(ひろ)げていた仏様側のいろいろなものは悉くこの際打(ぶ)ち毀(こわ)されて行きました。経巻などは大部なものであるから、川へ流すとか、原へ持って行って焼くとかいう風で、随分結構なものが滅茶々々(めちゃめちゃ)にされました。奈良や、京都などでは特にそれが甚(ひど)かった中に、あの興福寺の塔などが二束三文で売り物に出たけれども、誰も買い手がなかったというような滑稽こっけいな話がある位です。しかし当時は別に滑稽でも何んでもなく、時勢の急転した時代でありますから、何事につけても、こういう風で、それは自然の勢いであって、当然のこととして不思議と思うものもありませんでした。また今日でこそこういう際に、どうかしたらなど思うでしょうが当時は、誰もそれをどうする気も起らない。廃滅すべきものは物の善悪高下によらず滅茶々々になって行ったものである。これは今日ではちょっと想像に及びがたい位のものです。」

正倉院展と興福寺 002

以前このブログでも書いたが、奈良の興福寺は明治5年に廃寺となって、明治14年に再び住職を置くことが認められるまでは無住の地であった。明治政府は現在国宝となっている五重塔を売却しようとし、五両で買った買い主は塔の金具を取ることが目的だったのでこれを火をつけて焼けおちるのを待って金具を拾おうと考えた。ところが、信仰の篤い付近の町家から猛烈な反対に会い、また類焼の危険があるという抗議が出たために中止されたことが『神仏分離資料』に残されているという。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-76.html

仏師の修行を積んできた高村光雲にとっては、寺院が破壊され仏像が破壊されていくのを見ることはさぞ辛かったことと思うのだが、わさわざ文章の表題を「神仏混淆廃止改革されたはなし」として「改革」という言葉を入れておき、内容も文化破壊の実態を一般的な表現にとどめて、政府批判と受け取られないように言葉を選んで書いているようにも読める。
廃仏毀釈の実態を詳しく書いた記録で出版されているものはほとんどないし、一般的な史書には明治政府が関与したことが何も書かれていないのだが、関与があったことは間違いがない。つまるところ、いつの時代もどこの国でも、政権側にとって都合の悪いことは記録に残さないものであり、公式記録だけを読んでも真実は見えて来ないものなのだと理解するしかない。

廃仏毀釈で実際どのような事が起こったかは、ネットなどで調べて断片的にわかるのだが、ではなぜ、明治初期に仏教弾圧と仏教文化破壊が火を噴いたのだろうか。

前々回の記事で少し触れたのだが、儒教・仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうという平田篤胤(ひらたあつたね)の思想が、尊王倒幕運動から明治維新につながる思想的バックボーンとなったと言われている。しかし、この説明では肝心なことがよく解らない。なぜ反幕府勢力が、わが国の貴重な文化財破壊につながる思想に飛び付いたのだろうか。

廃仏毀釈

この点について納得できる説明は、私が何度もこのブログで紹介した佐伯恵達氏の『廃仏毀釈百年』にある。ポイントになる部分を引用する。

「なぜ討幕と排仏論が結びついたかといえば、徳川幕府は家光の時、寛永十七年(1640)に宗教統制策をとり、国民をみんなどこかの寺院の檀家とさせるという『寺請(てらうけ)制度』を設立しました。それを登録する宗旨人別帳(しゅうしにんべつちょう)を作成し、宗門改め役がこれを検査しました。ここにおいては、諸大名も武士も名主も神主も町人も農民も、すべて仏教徒であったわけです。いわば寺院は区役所や市役所や町村役場的な存在であったのです。こうして徳川三百年の治安は保たれたのでした。『寺』という字は、もともと役所の意味を持っています。そこで討幕して民衆をにぎるためには、先ず寺院にある人別帳を押さえる必要があったのです。全国の寺院の人別帳を提出させることによって、幕府の財源なり生産力(農・工・商)を手に入れることができるのでした。そのために、幕府と一体になっている寺院をこわして人別帳を奪うことが、討幕派にとっては欠くことのできない必要条件でもあったのです。いうなればそれは、武力クーデターの先決条件であったといえます。
このような社会動乱の状勢に乗じたのが、国粋主義者としての平田篤胤です。彼はこの国粋主義によって、子弟多数をかかえ、その一派によって明治の仏教弾圧を決定的なものにしたのでした。」(『廃仏毀釈百年』p.55)

この文章を理解するために、江戸幕府の宗教政策をWikipediaの記事を参考に振り返っておく。
江戸幕府は慶長17年(1612)に禁教令を発布し、やがて民衆がキリシタンでないことを寺院に証明させる制度(寺請制度)を確立させ、寛永17年(1640)には幕府は宗門改め役を設置し、寛文4年(1664)には諸藩に宗門改制度と専任の役人を設置するよう命じて、次第に宗門改帳が各地で作成されるようになりこれが宗旨人別帳となる。寛文11年(1635)には武士・町民・農民など階級問わず民衆は原則として特定の仏教寺院に属することが義務づけられている。
当初はキリシタンの摘発が目的に整備された制度であったのだが、18世紀には宗教調査の意味合いが薄れて、宗旨人別帳が戸籍原簿や租税台帳の側面を強く持つようになっていったという。

この江戸幕府の施策は寺院にどういう影響を与えたか。Wikipediaにはこう書かれている。
「結果として仏教は幕府体制に取り込まれることとなり、やがて寺院は汚職の温床となって僧侶の世俗化などの問題を招く。明治になると尊皇思想の高まりや、神道国教化運動などによって神道優位の風潮が起こり、折からの仏教への批判は大きな物となっていき、やがて廃仏毀釈運動へと繋がっていく。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E9%96%80%E6%94%B9

いつの時代もどこの国でも権力と癒着した世界に腐敗は付き物だが、当時の仏教界の腐敗はWikipediaの記述の通りではなかったか。

世事見聞録

岩波文庫に文化13年(1816)に武陽隠士が著した『世事見聞録』という本があり、その「三の巻 寺社人のこと」を読むと、当時の仏教界の腐敗した状況がいろいろ書かれていて興味深い。著者は最後にこう書いている。

「…さて仏神の道は人欲を治め人心を清くし、慈悲を元として国家を守護するものなり。しかるに今右の如く数百万人の寺社人等、国々在々に誇りて驕奢安逸を百姓の上に極め、武士の上に至り、また強欲・非道・法外・人外を世界第一に尽せり。誠に神仏を邪悪の棟梁となし、国家を邪悪に汚すものなり。早々改正ありたきものなり。かくの如く邪悪数百万人このままになし置きては、天道も仏神も捨て置き給ふまじ。必ず天下災害の基とならんか。…」(『世事見聞録』p.172)
とかなり辛辣である。どの程度の割合でそのような腐敗があったのか、今となっては知る由もないが、廃仏毀釈が起きてもおかしくない要因が寺院側に種々あったが故に、仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうとする平田篤胤の思想が広まり、その仏教排斥思想に討幕派が飛び付いたと考えれば良いのだろうか。

「大政奉還」と「王政復古」によって明治新政府が出来たと単純に考えていた時期が長かったのだが、よくよく考えると国家の生産力や財源を把握せずして新政府の政策決定が出来るはずがなく、長期安定的な政権運営も不可能だろう。しかし、そのために必要な台帳は幕府や諸藩ではなく、寺に存在したということは重要なポイントであったはずだ。新政府は、それを寺から奪い取ることが必要だったのだ。
さらに新政府は、寺院の所領の多くを没収して寺院の収益源まで奪い取り、歴史ある建物の補修にも協力することなく、むしろ多くを破壊したのである。有名な寺院の廃仏毀釈の事例は、次のURLにこのブログの記事を置いてあるので、覗いて頂ければ幸いである。
http://history.blogmura.com/tb_entry101772.html

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歴史は勝者にとって都合よく書き換えられるものであることを、このブログで何度か書いてきた。廃仏毀釈は明治政府にとって都合の悪い史実であるために、いわゆる「通史」にはほとんど書かれていない。

たとえば『もう一度読む 山川の日本史』では
「政府ははじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民強化を図ろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのために一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた」(p.231)
と書かれているだけだが、この表現だと大多数の人は、廃仏毀釈は自然発生的に全国で起こったが、明治政府が意図したものではなかったし、規模も大きくなかったと理解することだろう。実態は「廃仏毀釈の嵐」が通り過ぎた後に、当時の寺院の約半数が廃寺になってしまったのだが、このような大事件であったことを誰も読み取ることが出来ないような教科書の叙述でいいのだろうか。

廃仏毀釈は明治政府にとっては都合の悪い史実なのかもしれないが、太平洋戦争敗戦によって何もかもが変わってしまった今の時代になっても、この史実を隠そうとする理由がどこにあるのか、私にはわからない。

我々の先人たちが、文化財を後世に残すことにどれだけ苦労してきたかをもっと伝えるべきではないのか。その先人たちの苦労が広く理解されずして、現在残されているわが国の文化財の貴重さをどうして伝えることができようか。
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奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか

前回は高村光雲の文章を紹介したが、この文章では廃仏毀釈の文化財破壊については「随分結構なものが滅茶々々にされました」といった表現にとどめていて、廃仏毀釈の事例として具体名を挙げて書いているのは興福寺の五重塔が「二束三文で売り物に出たけれども、誰も買い手がなかった」と言う話と、鎌倉の鶴岡八幡宮の一切経が浅草の浅草寺に移されたことが簡単に書いているだけだ。今回はもっと具体的な記録が残されている文章を紹介しよう。

東京美術学校(現東京芸術大学)の第五代校長を明治34年(1901)から昭和7年(1932)まで31年間も勤めた正木直彦(1862~1940)が、東京美術学校在職中に語った講話などを記録し校友会雑誌に連載された記事を抄録した『十三松堂閑話録』という本が昭和12年(1937)に出版されている。

古い本なので現物を手に入れることは難しいが、有難いことにGoogleブックスでその文章を誰でもパソコン上で読むことが出来る。
http://books.google.co.jp/books?id=Dw8eMMYFs-4C&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

その本の中に「廃仏毀釈、西洋崇拝、国粋保存と其推移」という文章があり、その中に廃仏毀釈に関するかなり具体的な記述が残されている。

正木直彦

正木氏は廃仏毀釈の思想的背景から書き起こしている。冒頭の部分から引用させていただく。(原文は旧字・旧かな)

「王政復古は国学者と密接な関係があった。平田篤胤は当時議論最も危激で、すべてのものを神代の昔に復さなければならぬと唱えていたが、その門人およびこの学派の中からは、沢山明治維新の功労者を出した。これらのいわゆる神道者流は新政府に勢力を得ていろいろ維新の改革をやったが、その中、平田流の福羽美静*や田中頼庸**らの議論が用いられて廃仏毀釈を最も激しいやり方で実行した。それまでの日本は両部神道で本地垂迹説の発達によって廬舎那仏は本地仏でその垂迹が天照皇大神宮である、釈薬地観は本地仏で春日四社明神が垂迹であるというふうにすべての神仏を旨い具合に習合させていた。それを明治政府ではかかることは仏が神を汚しているものであるとなし、仏を祭ってはならぬ、僧侶はやめてしまえ、皆神道にならなければならぬ等と稱(とな)え、そして本願寺や知恩院等にも仏壇の前に幕を引いて、新しく神を祀らせ祝詞を上げさせたこともあった。」

*福羽美静(ふくばびせい):元津和野藩士で、幕末から明治5年まで神祇事務局・神祇官の実権を握った人物。
**田中頼庸(たなかよりつね):元薩摩藩士で明治4年に神祇省に出仕し、明治7年に伊勢神宮大宮司となった人物。

本願寺や知恩院においても、仏壇の前に幕を引いて祝詞を上げさせたというのは驚きであったが、正木氏は続いて奈良の廃仏毀釈に言及し、興福寺五重塔のことを高村光雲よりもはるかに詳しく書いている。再び正木氏の文章を引用する。

興福寺五重塔

「新政府の役人はまたいたるところで寺に関係のあるものを焼き払ったり取り毀したりした。ことに面白いのは興福寺の五重塔で、時の県令四條隆平という人は非常に改革派の人であったから、春日の神鹿を売飛ばし、若草山から春日野一帯を牧場にして牛を放牧することにしたり、また興福寺の五重塔が目障りであるからとて入札払にしたところが、これが十五両で落札した。足場を掛けて毀すことにすれば沢山費用がかかるので、落札者は逃げて仕舞うた。そこで県令は綱を着けて万力で引き倒せと命令したが容易に倒れないので、されば火を掛けて焼き払えと命令し、柴を積んで日を期して焼き払うはずであったところが、これを聞いた奈良の町民は大いに驚き、嘗て(かつて)元興寺の高い塔が焼けて困った経験から興福寺の五重塔を焼き捨てることになるとまた大変だと言うので、町民は多数堅調に押し寄せて愁訴したから、断行もできず、彼是(かれこれ)するうちに県令が代わって五重塔は火難を免れたのである。」

「県令」というのは廃藩置県後の「県」の長官で、東京・大阪・京都の三つの「府」の長官は「知事」と称した。それまでは藩を治めていた大名に代わって、政府から派遣された役人が「県令」や「知事」となって地方行政を担ったのである。

「奈良県」は明治時代に何度も境界線が代わり、明治3年には吉野郡辺りは「五條県」であったし、明治4年の廃藩置県では、大和郡山、高取、柳生などの小県が出来たが、その年の秋に小県がまとまって大和全域を管轄する「奈良県」が成立し、その最初の県令に任命されたのが、公家出身の四條隆平(しじょうたかとし)という人物である。この四條と言う人物が、わずか30歳という若さで奈良県令の地位に就いたのだが、この人物が数々の仏教排除策を強行したことについては奈良県が発行した「青山四方にめぐれる国―奈良県誕生物語」の「第2章 文明開化のあしおと」にもいくつかの所業が書かれている。
http://www.kamarin.com/special_edition/index_2.htm

この四條という人物が奈良県令の地位にあったのはわずか2年程度のことなのだが、それにしては随分多くの歴史と伝統のある文化財の破壊を命じている。

内山永久寺

正木氏の文章の続きを読んでいくと、興福寺に続いて内山永久寺の廃仏毀釈のことを書いている。内山永久寺という寺については以前にもこのブログで紹介したが、鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第二世頼光によって12世紀のはじめに創建され、後に石上神宮の神宮寺として栄え、「太平記」には後醍醐天皇が一時ここに身を隠したと記されている。江戸時代には「西の日光」とも呼ばれた大寺院だったのだが、明治期の廃仏毀釈によってこんな歴史のある寺院も完全に破壊されてしまった。正木氏の文章をしばらく再び引用する。

「大和の一の宮布留石上明神の神宮寺内山の永久寺を廃止しようということになって役人が検分に行くと、寺の住僧が私は今日から仏門を去って神道になりまする。その証拠はこの通りと言いながら、薪割を以て本尊の文殊菩薩を頭から割ってしもうた。遉(さすが)に廃仏毀釈の人々も、この坊主の無慚な所業を悪みて坊主を放逐した。その迹(あと)は村人が寺に闖入(ちんにゅう)して衣料調度から畳建具まで取外し米塩醤豉までも奪い去ったが、仏像と仏画は誰も持って行き手がない。役所から町の庄屋中山平八郎を呼び出してお前は是を預かれと言う厳命、中山は迷惑の由を申し出て辞退をしたけれども許されず、ついに預賃年十五円を貰い預かることとなった。その後時勢が推し移り何時の間にやら預かった仏像や仏画が中山所有の姿になった。今藤田家に所有する藤原時代の仏像仏画の多くはこの中山の蔵から運んだものである。こんな有様であるから総べて古物は仏画でも何でも二束三文となった。金泥で書いた経文等も焼いた灰から、金を取るというような商売のおこったのも無理からぬことであった。」

藤田伝三郎

藤田家というのは、明治期の関西財界の重鎮で藤田財閥の創立者の藤田伝三郎とその長男藤田平太郎、次男藤田徳次郎を指している。この3人が集めた美術品・骨董品の数はかなり売却されたようだが、それでも現在の藤田美術館には国宝9件、国の重要文化財50件を含む5000点が所蔵されているのだそうだ。

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その国宝の中に『両部大経感得図』という仏画があり、これは内山永久寺にあったものであることが解っている。
また、奈良県天理市にある石上神宮(いそのかみじんぐう)摂社の出雲建雄神社割拝殿はもと内山永久寺鎮守の住吉神社拝殿で国宝に指定されている。
東大寺二月堂にある持国・多門天像も、もともとは内山永久寺にあった平安時代の仏像で、重要文化財に指定されている。
また海を渡って今はボストン美術館所蔵となっている鎌倉時代の仏画『四天王像』は、国内にあれば間違いなく国宝指定だと言われている。
他にも聖観音菩薩立像(鎌倉時代、東大寺二月堂)、不動明王坐像(鎌倉時代、正寿院)、四天王立像(鎌倉時代、、東京国立博物館他)、不動明王像及び八大童子像(鎌倉時代、世田谷観音寺)が国の重要文化財に指定されているというのだが、残されているものだけでも、これだけ多くの国宝や重要文化財があるというのは驚きである。
いまもしこの内山永久寺が残されていたとしたら、法隆寺や東大寺に匹敵する観光名所になっていたことは確実だろう。

京都や奈良は多くのお寺があるので、廃仏毀釈はたいしたことではなかったのではないかと勝手に解釈していたのだが、京都や奈良はもともと寺院の数が多かったので残された文化財も多かっただけのことである。

どんなに古い時代に制作された貴重なものであったとしても、毀されたり燃やされたり、奪われたりすれば文化財は一瞬にしてその価値を失ってしまうことになる。現在残されている文化財は、人々が貴重なものであると認識しているが故に、何百年も様々な危険から多くの先人たちの努力によって、長い間守られてきたものばかりなのである。

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昨年10月に対馬の観音寺にあった長崎県指定文化財の観世音菩薩坐像が窃盗団によって盗まれてしまった。観音寺はほとんど無人状態の寺だった。
窃盗団の目的は単なる転売目的であったようだが、韓国の浮石寺は、もともとこの仏像は浮石寺のものであり、1370年頃に倭寇によって強奪されたものであって、浮石寺に返還すべきであると主張している。
隣の国は常識が通用しない国だ。歴史を偽造して自分のものだと書かせ、盗んでおいて自分のものだから返さないと主張する。わが国の外務省が調査を要請すると、韓国側は国宝に指定して調査を拒んだとのことだ。

李氏朝鮮時代に、儒教を国教にして仏教を弾圧し自らが寺院を破壊し仏像を破壊した(「廃仏崇儒」)歴史がある。わが国の明治時代の廃仏毀釈に似て、この時期に高麗時代の仏教遺跡が破壊され、多くの仏像や文化財が海外へ流れたとされる。
普通に考えれば15世紀に李氏朝鮮の仏教弾圧により焼かれた寺から救出する目的で、誰かが仏像を対馬に持ち込んだものが残されたのだろう。

また彼らは、何を根拠に観音寺の仏像を「1370年頃に倭寇によって強奪された」と断言できるのか。
『明史』日本伝にはこう書かれている。倭寇の主体は日本人なのか。
「明が興り、太祖高皇帝(朱元璋)が即位し、方国珍・張士誠らがあい継いで誅せられると、地方の有力者で明に服さぬ者たちが日本に亡命し、日本の島民を寄せ集めて、しばしば山東の海岸地帯の州県に侵入した。」(講談社学術文庫『倭国伝』p.394)

また彼らの国の正史である『高麗史』には、高麗人が何度か対馬を襲い倭人を殺す記述があるのにもかかわらず、少なくとも倭寇は1375年までは高麗人を殺していなかったことが明記されている。
相手から襲われて家族が殺されても、敵を殺さなかった対馬の人々がどうやって李氏朝鮮の寺の仏像を奪えるというのか。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-47.html

李成桂が高麗を滅ぼし李氏朝鮮が建国された1392年以降は、倭寇のメンバーの8割は朝鮮の賤民だったと朝鮮王朝実録の『世宗実録』114卷二十八に書かれている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-48.html

彼らが自国に残した記録からは、倭寇によって仏像が奪われたという可能性を説明することは困難だろう。

勝手な歴史を作って、窃盗団を使って盗難して自国に持ち帰り、そのまま自国のものとすることの前例を決して許してはならない。
わが国の政治家は、相手が歴史を捏造するなら、中国や高麗や李子朝鮮国の正史に基づいて反論し、堂々と外交交渉してほしいものである。
地方には対馬の観音寺のような無人のお寺や神社がいくつもあるのだ。今回の事件で相手の圧力に屈するようでは、これから先わが国の文化財は守れない。
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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    読書
    このブログで採り上げた本のいくつかを紹介します
    三田村武夫の 『戦争と共産主義』復刻版

    同上 電子書籍

    同上 自由選書版

    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史