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「奈良県」が地図から消えた明治の頃のこと

奈良県にはかって飛鳥浄御原京や平城京があり、古い寺院や神社が多くて日本人の心のふるさとでもある。この重厚な歴史のある「奈良県」という県名が、かって地図から消えたことがあることなど思いもよらなかったが、明治時代の11年半にわたって奈良県が消滅していることを最近インターネットで知った。
東大寺と郡山城の桜 069

「なら」は「奈良」と書いたり「寧楽」と書いたり「平城」とも表記されるが、平安時代から鎌倉時代にかけて東大寺や興福寺の門前町として「奈良町」が生まれ、江戸時代には奈良町に奉行所がおかれて政治の中心地となっていた。
明治新政府も奈良町に大和国(郡山藩、高取藩、柳生藩など)鎮撫総督府をおき、慶応4年に「奈良縣」と名付けられた。

明治時代に「奈良縣」は「奈良府」と呼ばれたり、また「奈良縣」に戻ったりめまぐるしく名前が変わっただけでなく、境界線も何度も変わっている。たとえば、明治3年には吉野郡あたりは「五条縣」であったし、明治4年の廃藩置県により、大和郡山、高取、柳生などの小藩がそれぞれ縣名をとなえた時期があったが、その年の11月には小藩がまとまって大和全域を管轄する「奈良縣」が成立している。

しかし、明治9年4月に府県の統廃合が行われて奈良県は大阪南部にあった堺県に編入され、ついで明治14年には、東京・京都・大坂の三府のうち最も財政基盤の弱かった大阪府を補強するために堺県が大阪府に編入されてしまった。

その結果、予算の多くが摂津・河内・和泉地区の河川改修などに重点的に配分されたり、旧奈良県で不可欠な予算が削られるようなことが頻発した。

そのころから奈良県再設置運動がはじまり、6年後の明治20年(1887年)11月に再び奈良県が誕生した。要するに明治9年から11年半にわたって「奈良県」が地図上から消えてしまったのである。

しかし奈良県の再設置は決して簡単ではなかった。

旧奈良県出身の恒岡直史・今村勤三議員らが中心となって内務省や太政官に何度も陳情をしたが却下され、元老院に二度にわたる建白書の提出も実らず、山形有朋内務大臣や松方正義大蔵大臣に直接請願して、伊藤博文総理大臣からやっと内諾をとるなど大変な苦労をしたことや、その後も大阪府の抵抗があり当時府会の議長であった恒岡氏は辞職勧告の建議案が出て議会は混乱し、恒岡氏は勧告が出る前に議長を辞任している。

このような詳しい経緯が「奈良県誕生物語」というサイトに書かれているが、このサイトは小説のように面白く、興味のある人は堺市編入以降の第三章から読み始めても結構楽しめると思う。
http://www.kamarin.com/special_edition/index_0.htm

今の奈良県は幕末の頃、郡山藩、柳生藩、高取藩の他にも小泉藩、柳本藩、芝村藩など1万石程度の小藩が乱立していたし、そう簡単に一つになれる素地は乏しかったと考えるのが自然である。まして、当時の大阪府の中では旧奈良県の議員は少数派でしかなかったので、大阪府の議会で奈良県が誕生することを容認する可能性は当初から極めて低かった。

何度却下されても、明治政府に対して奈良県再設置を求める恒岡直史議員らの粘り強い活動がなければ、奈良県の再設置はなかったかずっと遅くなったことであろうし、地域の発展がもっと遅れたのではないだろうか。

今の政治家にこのような人物がほとんどいないのは残念だが、このような明治期の政治家の努力があって現在の奈良県があることを忘れてはいけないのだと思う。

またここまで努力した先人がいたことを多くの人が知ることによってこそ、志のある人が政治家を目指すようになり、選挙民もまた志のある人を政治家に選ぶようになり、政治家が安易な対応をすることを許さなくなるのではないだろうか。
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県名と県庁所在地とが同じ県と違う県の意味?と歴史

はじめて日本の地理を学んだときに、県名と県庁所在地名をセットで覚えた。その時に多くの人は、例えば奈良県・奈良市や岡山県・岡山市というように県庁所在地の名称がそのまま県名になっていることか多いので、三重県・津市のような例外の18都道府県だけしっかり覚えれば良いということに気が付いて、例外の県だけをしっかり学習する。

県名は明治4年の廃藩置県で決まったものだが、何故このような例外が生じたかについてはあまり考えず、何も知らずに過ごしてきた。

司馬遼太郎

最近この問題に興味を持っていろいろ調べると、たとえば司馬遼太郎が「街道を行く(3)」で次のように書いている。

「明治政府がこんにちの都道府県をつくるとき、どの土地が官軍に属し、どの土地が佐幕もしくは日和見であったかということを後世にわかるように烙印を押した。
その藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である。
薩摩藩-鹿児島市が鹿児島県。
長州藩-山口市が山口県。
土佐藩-高知市が高知県。
肥前佐賀藩-佐賀市が佐賀県。
の四県がその代表的なものである。
戊辰戦争の段階であわただしく官軍についた大藩の所在地もこれに準じている。
筑前福岡藩が、福岡城下の名をとって福岡県になり、芸州広島藩、備前岡山藩、越前福井藩、秋田藩の場合もおなじである。

これらに対し、加賀百万石は日和見藩だったために金沢が城下であるのに金沢県とはならず石川という県内の小さな地名をさがし出してこれを県名とした。

戊辰戦争の段階で奥羽地方は秋田藩をのぞいてほとんどの藩が佐幕だったために、秋田県をのぞくすべての県がかつての大藩城下町の名称としていない。仙台県とはいわずに宮城県、盛岡県とはいわずに岩手県といったぐあいだが、とくに官軍の最大の攻撃目標だった会津藩にいたっては城下の若松市に県庁が置かれず、わざわざ福島という僻村のような土地に県庁をもってゆき、その呼称をとって福島県と称せしめられている。」(引用終わり)

はじめてこの文章を読んだ際に「なるほど」と思った。
例えば四国で言えば、香川県の高松藩、愛媛県の松山藩はともに佐幕派であったが、この2県だけが県庁所在地名と県名が異なる。
実はこの説は、司馬遼太郎より前にジャーナリストの宮武外骨が昭和16年(1941)に「府藩県政史」という本で書いたものらしい。

しかしながら冷静に考えると、江戸幕府のあった東京はいきなり当てはまらない。紀州徳川家のあった和歌山もあてはまらない。大阪も江戸幕府の直轄領であったのにあてはまらない。実際はかなり例外が存在するようだ。

いろいろネットで調べてみると、司馬遼太郎が紹介している宮城県は確かに佐幕派であったが、明治4年(1871)の廃藩置県の時は「仙台県」となり、翌年の明治5年に、人心一新を理由に「宮城県」に名称変更となっている。岩手県も同様で廃藩置県当時は「盛岡県」であったが、「旧藩の因襲から抜けがたい」との理由で、盛岡県が申請した体裁になっている。盛岡県については岩手県のレファレンスコーナーに詳しく書かれている。
http://www.library.pref.iwate.jp/riyoannnai/kanpopdf/kanpo160_pdf/160007.pdf
石川県についても同様で、廃藩置県時は「金沢県」となっている。そして、翌年に県庁の場所を「北に寄り過ぎている」という理由で石川郡美川町(現白山市)に移して「石川県」と改称し、明治6年に再び県庁所在地を金沢に移したが県名は改称しなかったとややこしい経緯がある。

会津若松についても会津松平家が斗南藩に移封された後は政府直轄地となり、明治2年6月には会津若松に県庁がおかれて若松県と称し、福島県に合併されるまで7年間は県庁所在地であったことになる。

これらの事例はひょっとすれば明治政府が圧力をかけた経緯があるのかもしれないが、それならはじめから「仙台県」「盛岡県」「金沢県」「若松県」を許したことがおかしいということになってくる。

そもそも廃藩置県当初は殆ど藩をそのまま読みかえられ、実施直後の明治4年7月には府県数は3府302県もあったそうだ。その後相当組み替えられて同年の11月には3府72県に統合されたのだが、小さな旧藩同士で県庁を取り合い県名をどうするかで様々な駆け引きが行われたことは想像に難くない。小さい旧藩が集まってできた県なら、県名と県庁所在地が別々にして交渉を決着させることは充分ありうることではないのか。

この問題は、司馬説、宮武説ほど単純なものではなさそうだ。
少なくとも明治政府が佐幕藩や態度があいまいであった藩を懲罰するために主導的に、全国的に県名を改称させたとは考えにくいし、多くの例外の存在と個々の命名事情を無視し過ぎている。

興味のある方は、戸田孝さんの「雑学資料室」の次のページが参考になります。
http://www.biwa.ne.jp/~toda-m/geo-hist/prefname.html
藩名や県名の推移に興味のある方は、「地理データ集」の次のサイトがお勧めです。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/huken.htm
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「宮崎県」が存在しなかった、明治の頃のこと

今年の1月に、明治の一時期に奈良県が存在しなかったことを書いた。私もこのブログをはじめるまでは、奈良県が存在しなかったことがあることを考えもしなかったが、明治9年に奈良県は大阪南部にあった堺県に編入され、明治14年には堺県が大阪府に編入されてしまっている。その後、恒岡直史議員らの粘り強い活動により明治20年に奈良県が再設置されるのだが、それまでの11年半は「奈良県」が我が国に存在しなかった史実がある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-90.html

奈良県の再設置運動は小説にしても良いようなドラマがあったが、いろいろ調べると、明治4年7月には府県数は3府302県もあったのだが、相当組み替えられて同年の11月には3府72県に統合されている。(第一次府県統合)。
また明治9年(1876)4月と8月の二度にわたり、再び全国的な府県統合が行われて3府35県まで整理され、明治14年の堺県の大阪府編入で3府34県となっている。(第二次府県統合)

3府34県というと、現在の都道府県数よりも随分少ないことが誰でも気がつく。
復活された県が奈良県以外でもかなりあったことがわかる。

明治12年日本地図

上の図はネットでみつけた明治12年の頃の日本地図である。
結論から言うと、富山県、福井県、奈良県、鳥取県、徳島県、香川県、佐賀県、宮崎県の8県が、この地図では存在せず、これらの県は第二次府県統合の後で復活されたということになる。
奈良県の事例から容易に想像できるように、いずれも地元民の再設置に向けての相当な努力がなければ、復活が実現できなかったはずである。奈良以外の県ではどのようなドラマがあったのか。

今回は東国原知事で一躍注目され、現在口蹄疫問題に苦しむ宮崎県のことを話題にしてみたい。

東国原知事

宮崎県は、7世紀に成立した「日向国」がルーツで、「日向国」は今の宮崎県と鹿児島県の本土部分を管轄する大きな国であった。8世紀の初めに唱更国(後の薩摩国)と大隅国が分離した後は、明治初期まで日向国の領域は変化がなかったらしい。

南北朝から戦国時代にかけて、日向国も全国の例にたがわず群雄割拠の時代となり土持氏、伊東氏、北原氏、などの勢力争いが展開されたが、1578年の耳川の戦いで大友氏に勝利した島津氏が日向国一円を支配するようになるが、1587年の秀吉の九州攻めで島津氏が降伏すると、日向国は功のあった大名に分知されてしまう。

江戸時代には、日向国には天領と小藩[延岡藩、高鍋藩、佐土原藩、飫肥藩(おびはん)]に分割され、薩摩藩や人吉藩も一部の領地をもっていた。

日向国江戸時代の地図

上の図は江戸時代の延享4年(1747)の旧日向国の地図だが、こんなに小さく複雑に分断されて幕府領が飛び地で何か所もおかれている。その理由は、江戸幕府が島津家の反乱に備えたためと言われており、幕府領の飛び地があるだけでなく島津家に敵対してきた外様の伊東氏を飫肥藩に配し、譜代大名の内藤氏を延岡藩に配置している。

明治に入って廃藩置県当初は延岡県、高鍋県、佐土原県、飫肥県(おびけん)が設置されるが、明治4年(1871)の府県合併によって美々津県、都城県に再編され、その後明治6年(1873)にほぼ旧日向国の領域をもって宮崎県が誕生した。

しかしながら、その3年後の明治9年(1876)に宮崎県は鹿児島県に合併されてしまっている。鹿児島県は明治新政府の改革に対する士族の不満が大きく、下野していた西郷隆盛の周辺に士族たちが集まり、明治政府にとっては難治県となっていたのに対し、宮崎県は士族が多かったにもかかわらず、政府に対する反抗はみられず、このような宮崎県民を鹿児島県に吸収させることで、鹿児島の士族の不満が和らぐとの考えがあったと言われている。当時の県令であった福山建偉(鹿児島出身)は宮崎のことを「人民が蒙昧であり…自由の権利と義務を了解せず、旧習を墨守し文化の何たるかを知らない民」(「宮崎県史」より)と評していたそうだが、随分宮崎県民を愚弄したものの言い方だ。

しかし翌年に西南戦争が勃発し、宮崎からも多数の士族・農民たちが西郷軍に加わり、宮崎でも激戦が繰り広げられる。

西郷軍が敗れた後は、専制政治に対する批判は言論によるものが中心となり、全国で自由民権運動が展開されていくことになるが、宮崎地区では納税に見合うだけの投資やサービスがなく、鹿児島地区に予算配分が偏重しているとの不満から、次第に分県が主張されるようになる。

ここから後のことは、次の「宮崎県郷土先覚者」のHPが詳しい。
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kenmin/kokusai/senkaku/pioneer/kawagoe/index.html
その当時県会議員であった川越進が、「日向国分県(宮崎県再設置)」を県令に請願することを提案し、賛同する有志たちで「日州親睦会」が結成して会の代表となった川越は同志の藤田哲蔵、上田集成らとともに新たに着任した渡辺千秋県令に「分県請願書」を提出するが、県令は実現困難だと門前払いにしたそうだ。明治14年(1881)当時の鹿児島県議会は鹿児島出身の議員が36名、宮崎出身の議員が17名で、当時の議会では分県の建議すらも受け入れられないような状況であったのだ。

日州親睦会のメンバーたちは宮崎地区各地を訪ねて、「宮崎県」の再設置を住民に訴えて運動の輪を広げる一方、川越進と藤田哲蔵の二人が上京して在京の秋月種樹(あきつきたねたつ:旧高鍋藩種の世子)や司法省の三好退蔵(旧高鍋藩出身)などと面会し、政府には分県の意思があるが、県令や南諸県郡(現在の鹿児島県志布志など)が反対しているために保留となっていることを知る。
また伊東博文や山形有朋など旧長州出身の有力者などにも陳情を重ね、山田顕義内務卿より「分県のことは、県会を通じて願い出よ」との通達を受け帰郷する。

川越進らは翌明治15年(1882)の3月の県会に「日向国分県建議案」を提出。この建議案は賛成多数で成立するのだが、翌日の県会で、宮里武夫県会議長が建議所上程の可否について再議することを提案し、上程しないことが決議されてしまう。
これに憤慨した宮崎地区出身議員のほとんどが病気を理由に帰郷し、各地で報告会や日向懇親会を開催するなど分権運動がさらに盛り上がることとなる。

翌明治16年(1883)に川越進が鹿児島県県会議長に選出され、3月に再提出された分県建議案は可決され、川越は再度上京し山田内務卿に分県建議書を提出し、4月に参事院で認定されて5月9日に宮崎県再置の布告がなされて、川越らの3年に及ぶ努力が実を結び、7年ぶりに宮崎県が復活するのである。

宮崎県再置布告

上の画像は宮崎県文書センターに収蔵されている宮崎県再配置の太政大臣布告である。

川越進は7月1日に県庁がおかれると、初代の県会議長に就任し、その後明治23年には衆議院議員に選出され、国政の場で宮崎県の発展につくしたという。

宮崎の父川越進像

その後彼は「宮崎県の父」と呼ばれるようになり、宮崎県庁にその銅像があるようだ。彼が中心になって勧められた分県運動は、有志達の私財を使って行われ、彼が政界を引退した大正元年(1912)には、ほとんどの財産を失い、子孫には「政治家などになるものではない」と言い残したそうだ。

地方では若い人の働く場所が少なすぎて、若い世代の流出が止まらない。これでは地方は老齢化が進み衰退してしまうばかりではないか。特に宮崎県はバカな大臣の対応のまずさで口蹄疫の大打撃を蒙ってしまった。これから宮崎の畜産業は立ち直れるのだろうか。

都会も地方もバランスよく発展させ、若い世代が地方でも普通の生活が出来るようにすることを、国家レベルで考えることが必要だと思う。そうしなければ、郷土を愛し、郷土の将来のためにに尽くす人がいなくなってしまう。工場誘致も必要だが、農業などの第一次産業や地場の産業などをあまり軽視してはいけないのだと思う。
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「鳥取県」の消滅から再置以降の時代と鳥取の不平士族の動き

前々回の記事で明治9年(1876)になって鳥取県は島根県に編入されることになり、再置される明治14年(1881)までの5年間にわたり「鳥取県」という名が地図から消滅したことに触れた。

2014年の県内総生産額で比較すると島根県が23,823億円に対し鳥取県が17,791億円、人口で比較しても島根県が697千人に対し鳥取県が576千人なので、経済力も人口も島根県のほうが上である。県庁所在地である松江市と鳥取市を比較しても、松江市の人口は206千人に対し鳥取市の人口は193千人。経済規模を調べても松江市の市内総生産8541億円に対し鳥取市は6419億円であり、いずれにおいても松江市の方が優位にある。
では、明治の初めの頃はどうであったのか。

Wikipediaの『府藩県三治制下の日本の人口統計』に明治維新から廃藩置県までの人口統計
が紹介されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9C%E8%97%A9%E7%9C%8C%E4%B8%89%E6%B2%BB%E5%88%B6%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

そのデータ(『明治史要』)を見ると、鳥取県の中心となった旧鳥取藩の人口が379千人であるのに対し、島根県の中心部となった旧松江藩は297千人で、総人口だけでなく華族の人口においても士族の人口においても旧鳥取藩の方が多かったことがわかる。
また、石高でいうと旧鳥取藩は32万5千石の大藩で、旧松江藩は18万6千石にすぎず、明らかに旧鳥取藩の方が格上であったのである。

にもかかわらず、明治9年の第二次府県統合で鳥取県が島根県に編入されて「鳥取県」という名前が消滅してしまった。

廃藩置県(1871)第一次府県統合 斎藤忠光氏作成地図
廃藩置県(1871)第一次府県統合 斎藤忠光氏作成地図】

もう少し詳しく見ていこう。
上の地図は明治4年(1871)の廃藩置県(第1次府県統合)後の地図である。廃藩置県による府県統合の経緯については『日経電子版』の記事に地図とともに詳しく解説されている。この時点で3府302県から3府72県となり、現在の山陰両県の範囲に、鳥取県、島根県のほかに浜田県が存在していた
http://college.nikkei.co.jp/article/51521018.html

明治12年(1879)時点の地図(斉藤忠光氏作成)
【明治12年(1879)時点の地図(斉藤忠光氏作成)】

ところが明治9年(1876)の第2次府県統合で、鳥取県、島根県、浜田県が統合され「島根県」と呼ぶことになった

旧藩時代に鳥取藩は山陰地方で最大の藩であったのだが、明治9年(1876)の9月6日に、格下であったはずの島根県令から鳥取県庁に宛てて「今般鳥取県は本県と合併される」旨の布告が届いたのである。

鳥取の人々はこの布告をどう受け止めたのか。国会図書館デジタルコレクションに昭和7年(1932)に出版された『鳥取県郷土史』が公開されていて、この頃のことについてこう記されている。

この飛報は実に青天の霹靂(へきれき)であって、県民誰一人として信ずることは出来ない位であった。特に因幡人士の驚愕は言語に絶し、爾来これが再置を計るため、いろいろ計画することとなった。懐かしい『鳥取県庁』の門標は下ろされて、墨蹟も新しく『島根県支庁』と代えられた。時の長官伊集院権参事は、高知県に転任のため鳥取県を去ることになった。多数の先輩が氏を叶の茶屋まで見送っての帰り路、眼前に聳ゆる城山を涙なくして眺め得たであろうか。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918542/664

旧国名 部分

鳥取県は東西に長く、地域によってこの問題の受け止め方は異なっていたようだ。文中の「因幡」は律令制に基づいて設置された「因幡国」があった地域で鳥取県の東部を指し、鳥取県の西部は「伯耆」と呼んでいた。

「合併後における県民の態度は、因伯二国によって自ずから異なるのは、止むを得ぬことであった。隠岐は明治4年12月本県(鳥取県)に合併されたが、元来松江藩の治下に属していたものであるから、この合併は望むところであった。伯耆は因幡の者ほどには思わなかったようである。それは伯耆は出雲に近く、前から生業風俗習慣においても出雲と親密な関係があり、また中には県庁が近くなって険阻な坂道を往復する苦痛もなくなるなどと考えるものもあったらしい。従ってこの合併を憤った者は、主として因幡人士、殊に士族階級のものであった。しかし一般的に考えれば、二百数十年間政治の中心であった鳥取から、その政治機関を取り去られることは、堪えられない寂しさであるのに、まして維新の当時、我が藩の尽力によって救われた松江に併合される事は、この上もない屈辱であると考えた。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918542/664

少し補足すると、幕末の松江藩は政治姿勢が曖昧で、大政奉還・王政復古後も幕府方・新政府方どっちつかずであったために、慶応4年(1868)に山陰道鎮撫使が派遣され、鎮撫使は松江藩の意向を確認したうえで、2月13日には同藩に最後通牒を突き付けている。この最後通牒の全文が次のURLで読める。
https://ameblo.jp/k2600nen/entry-10083168983.html
これに驚いた松江藩は家老の大橋筑後が切腹して鎮撫使に謝罪することに決めたのだが、鳥取藩主池田慶徳が鎮撫使との仲介を申し出て、松江藩の藩世子及び家老等の血誓書を提出させることで許されるとの鎮撫使の内諾をとりつけ、家老の命と松江藩の危機を救った歴史がある。
『鳥取県郷土史』で、鳥取の人々が「維新の当時、我が藩の尽力によって救われた松江に併合される事は、この上もない屈辱であると考えた」と記されているのは、このような歴史を知るとよくわかる。

しかし、因幡の人々は、ただ「鳥取」という県名を失っただけではなかった。できたばかりの島根県の行政にも大いに不満があったようだ。昭和18年に出版された『鳥取市史』にこう解説されている。

当時島根県当局においては因伯両国に対し、道路の改修、流行病の防圧。租の低減等に対し、何らの対策を講ぜず、島根県へ対するものとの間に差別があった。加うるに封建政治の崩壊は同時に武士階級の勢いを衰えせしめ士族の生活は日々に窮迫し、廃県以来官衙は松江に移され鳥取は日に日に衰頽を来たし商家及び士族の倒産する者が続出するに至った
 ここにおいて鳥取の疲弊は廃県によるはもとよりであるが、島根県当局が因伯両国の施政に無関心であるとなし士族の救済、道路及び教育に対する施設、租税の軽減を図り、また県令をはじめ首脳部は鳥取地方を巡視して明細に地方の事情を洞察し、以て其の振興を図るべしと訴うるに至った。足立長郷(あだちながさと)が共斃社(きょうへいしゃ)を組織して県政に対する不平士族を糾合するに至ったのはこれに起因するのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042221/610

鳥取だけでなく全国でも同様だったのだが、士族たちは廃藩置県で今まで生活の本拠となっていた藩を失い、さらに明治6年(1873)1月に徴兵令で、陸海軍の採用を士族に限定しないことが決まったために、本来の職能であった軍役からも離れることとなって士族たちはその存在意義を失い、さらに明治9年(1876)の秩禄処分で士族の禄制が廃止され、士族の収入は激減した。その上に山陰の政治の中心地としての役割を失い経済も衰退して、多くの失業士族が発生した。鳥取藩が大藩であっただけに、その数はかなり多かったのだが働く場がなかったのである。

足立長郷が明治13年(1880)に設立した共斃社は、困窮していた鳥取士族の生活を安定させる目的で組織され、社員の数は2~3千名に達したという。幹部の中には因幡における反政府派の領袖で、かつて同志ととも弾薬を製造し、武技を鍛錬し、西南戦争に参加しようとした詫間護郎の名前もある。
共斃社によって県当局を非難攻撃する演説会が各所で開かれ、明治13~14年の米価格の高騰の原因は因伯米を他地方に持ち出すためと考え、地主や米商人に対し米の移出を暴力的に阻止するなど、過激な行動が当時から問題になっていた。

岡崎平内
【岡崎平内】

このような状況を憂えた島根県会議長・岡崎平内(へいない)らは愛護会を結成し、士族救済はもとより、産業・交通を盛んにして疲弊した民力を回復するには、鳥取県を島根県より分離し、鳥取県を再置するしかないと主張するようになり、県再置について政府の要人に対する組織的な活動を開始した。また明治13年3月に徳島県が高知県より分離したことから、鳥取県の再置問題について世論も関心を持つようになり、13年の秋には鳥取で再置促進の町民大会が開催されたという。
そして翌明治14年に岡崎平内ら3名が陳情書を携えて山縣有朋に鳥取県再置を嘆願したのだが、その時の陳情書の内容が『鳥取市史』に要約されている。そこには風俗人情の違いが大きいことや、県庁までの距離が遠すぎること、課税が鳥取の人々が割高となっていることなどが述べられている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042221/612

山縣有朋
【山縣有朋】

また鳥取にいた同志たちも島根県令・境二郎を訪ねて、県当局自らが鳥取県再置の建議を行うことを陳情している。そして境県令はエスカレートしていた共斃社の動きなどを考慮して、5月中旬に明治政府に鳥取県再置の建議書を政府に差し出したという。

これらの行動が功を奏して、同年7月に山縣有朋が実状を調査するために島根県を巡視することが決定し、山縣は約2週間をかけて鳥取の交通の不便さや生活に困窮する士族の様子を視察したうえで、「島根県を割って鳥取県を置くことが急がれる」と報告したという。
そして8月30日に、太政大臣三条実美や山縣有朋を含む5人が集まった会議で鳥取県再置が決定し、9月12日付けで鳥取県を再置し因幡・伯耆の一円を管轄して県庁を鳥取市に置くことを定めた布告が出されている。

伯耆地図
【伯耆地図】

しかしながら、鳥取県再置運動に反対する人も少なくなかったようだ。
因幡と伯耆は藩政時代からの対立があり、特に伯耆では鳥取士族に対する反発が強かったという。そしてこの地域では鳥取県再置に反対する運動が、再置が決定する前後に激しくなったという。
各地で鳥取県再置に反対する建白書が出されていたが、久米郡選出の県会議員岩本廉蔵はさらに伯耆一致で反対の請願をまとめようとして河村郡選出議員・中原慎太郎を倉吉に会同することを求めたところ、中原は同調しなかった。それは何故だったのか。

河村郡が鳥取県再置反対に同調しなかったのは、過激化していた共斃社の活動と関係があった。中原はその理由についてこう記しているという。

「鳥取は追年衰頽し市民糊口困苦。為に旧藩士一社を結び共斃社と名付くその乱暴、名状すべからず。県書記官星野輝賢来鳥せし時恐怖して匆々帰程に就き倉吉に至りたるも後難を恐れて宿泊せしむるものなく遂に徹夜帰庁せりと言う。殆んど無警察の姿にて実に惨怚たる光景なり。これを救うこの道他なし。再置県あるのみなり。」
www.yurihama.jp/uploaded/attachment/4975.doc

鳥取県

河村郡は現在の東伯郡三朝町・湯梨浜町および倉吉市の一部だが、もし河村郡が鳥取県再置に反対し、伯耆一致の請願書が出されていたら、鳥取県の再置がすぐには実現しなかったかもしれない。皮肉なことに、共斃社の過激な活動が鳥取県の再置に反対する伯耆の人々の団結を崩すことに繋がったのである。

山田信道
山田信道

再置後の初代鳥取県令となったのは熊本藩出身の山田信道であった。
鳥取県元気づくり総本部発行の『鳥取県ができるまで』という12ページのパンフレットに、廃藩置県により鳥取藩が鳥取県となり、明治9年(1876)に鳥取県が島根県に併合されて14年(1881)に再置され、再置後の山田県令の県づくりまでが簡潔にまとめられている。

そのパンフレットには山田県令の業績についてこう記されている。

山田は、生活に苦しむ士族に仕事を与えること(士族授産)、道路網の整備、産業や教育の振興を目標に新しい県づくりに力を注ぎました。山田が最初に着手したのは、道路網の整備でした。
 明治16年から大規模な道路解説事業が始まり、現在の国道9号線をはじめとする主要15路線500kmを改修しました。
 また、士族授産として、北海道移住政策を行い、釧路や岩見沢に士族を移住させました。その一方で、鳥取に残った士族に、養蚕・製紙業に取り組ませることにしました。」

明治9年(1876)に熊本で士族が反乱を起こし、熊本鎮台司令官種田政明、熊本県令安岡良亮らが殺害された「神風連の乱」があった。山田信道は熊本でこの乱が起きた時は政府協力派であったが一時期は神風連に所属していて、生活に困窮していた士族に理解のある人物であった

大楽毛物語 ③

北海道新聞の連載記事『大楽毛物語③』*(平成26年2月18日付)に、山田県令が鳥取士族たちの北海道移住に尽力したことが記されている。当時鳥取士族たちは働く場所もなく、三食にも事欠く状態で餓死者も多かったという。

山田県令は、狂暴な行動の多かった不平士族団体共斃社の人々を、なんとか正道につかせ、共斃社を解散させようという意図をもっていた。明治15年12月、共斃社3人と県属田代修敬が県貴で北海道視察を行ったが、眼付も態度も良くない彼らの言動に業を煮やした北海道は、鳥取士族は移住まかりならぬと、時の農務省西郷従道に上申した。
 しかし山田県令の努力で、ようやく許可された
のである。政府も北海道開拓に熱意を持ち、士族の移住を奨励し『他県の士族(貧困にして自力移住できない人)は、本県管轄下への移住とし、農業及び漁業に従事することを希望する者に限る』と。…」
*『大楽毛物語』:大楽毛は釧路市の地名で、当初鳥取士族が入植するはずであった場所。丹波新聞店のHPに連載記事の全て(①~⑩)を読むことができるので興味のある方は覗いていただきたい。
http://www.otappi.jp/publics/index/8/page64=2/page55=30

そして明治17年(1884)6月に、鳥取県士族移住者41戸207人が、第1次として人跡未踏のベツトマイ原野(現在の北海道釧路市鳥取)の一角に集団移住帰農して、「鳥取村」を創始し、翌18年5月14日には、第2次鳥取県士族移住者64戸306人が移住し、総戸数105戸、総人口513人の村落が形成された

鳥取士族の開拓移住

この時に釧路に移住した鳥取士族の御子孫の方が、祖母の「……あの『おしん』より辛かった………」との言葉から、釧路の開拓が大変な苦労の連続であったことを記しておられる。
今でこそ釧路は人口173千人の都会だが、当時は道もなく、ただの原野が広がっていたという。

「見渡す限り一望千里の草原と柳。ハンやタモの巨木が川岸より鬱蒼として生えて昼尚暗い森林。  
今もって民家がない湿地帯で、人も棲まない野地だった。  
与えられたバラック作りの家屋。
木造平屋建ての柾葺、壁は四分板を外側に打ち付けた一重の薄い一枚板。
天井板もなく雨露を凌ぐだけの粗末なもの、畳もわずか、筵かゴザを敷いたものだった。」
http://www.mahoroba-jp.net/about_mahoroba/tayori/oriorino/oriorino200903tottori.htm

移住者の家屋 明治18年移住藤代家(昭和18年の写真)
【移住者の家屋 明治18年移住藤代家(昭和18年の写真)】

今まで鍬も鋤も握ったことのない士族たちが、厳寒の季節には零下30度にもなる土地に移住して原野を開拓していくのに大変な苦労があったことは言うまでもないが、彼らをして難事業をやり遂げさせたものは、武士の矜持と考えればよいのだろうか。

鳥取県の士族たちにとって明治維新は悪夢のような日々の連続であった。
旧藩時代は山陰随一の大藩で、12代藩主・慶徳は15代将軍・徳川慶喜の異母兄という関係から親幕派でありながら尊王という微妙な立場を取り、戊辰戦争では官軍について転戦している。
明治の世になって、藩主は明治2年(1869)の版籍奉還で鳥取藩知事に就任したが明治7年(1874)の廃藩置県で免職となり、鳥取城は明治6年(1873)に陸軍省の管轄となったのち明治11年(1878)に破壊され、心の拠り所であった因幡東照宮は明治7年(1874)に神仏分離が強行されて『樗谿神社(おうちだにじんじゃ) 』という名前にかえられ、山陰地方最大の祭りであった権現祭りも行われなくなり、明治9年(1876)になると士族は刀を身に着けることを禁じられ、鳥取県は島根県に編入されて『鳥取県』という名前も失い、さらに秩禄処分で収入は激減し、山陰の政治の中心地が松江に移って鳥取は衰頽していくばかりで、鳥取士族たちは働きたくとも働く場所が見つからなかったのが現実である。彼らが明治政府に強い不満を持ったのは当然のことだと思う。

明治政府がもっと早い段階で鳥取士族に働き場所を提供していれば別の展開になっていたのかもしれないが、プライドの高い彼らがいきなり辺境の地を新天地に選ぶことは考えにくく、ギリギリまで追い詰められたからこそ、北海道の開拓に行く決断ができたのだと思う。

鳥取士族たちが開拓したという釧路市の鳥取地区は今の市の面積の4分の3を占め、市の人口の約半分が現在この地区に住んでいるという。釧路市の礎を築いたのは鳥取士族であったと言っても過言ではないのである。
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【ご参考】
最後の鳥取藩主・池田慶徳は15代将軍慶喜の異母兄であったことと関係があったのかもしれませんが、鳥取士族達は明治政府にかなりひどい目にあわされました。
では江戸幕府の旧幕臣達はどうだったかというと、彼らもひどい目に遭っています。興味のある人は覗いてみてください。

明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html

明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html

江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html

静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-365.html

徳川家と共に静岡に移住した士族が記した「士族の商法」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-366.html

徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-367.html


廃藩置県で明治政府は県の名前や県庁の場所をどういう基準で決めたのか

子供の頃に「1都1道2府43県」と覚えて、全国に「47都道府県」があることを学んだのだが、明治4年(1871)7月の廃藩置県で全国の「藩」が「県」となって明治政府の直轄となった時には、1使(開拓使)3府(東京府・京都府・大阪府)302県が存在した。この時点では江戸時代の藩や天領の境界をほぼそのまま踏襲したものであったために飛び地が各地に残り、同年の秋には3府72県に統合されたという。

その後県の数は徐々に少なくなり、明治5年(1872)69県、明治6年(1873)60県、明治8年(1875)59県、明治9年(1876)35県と合併が進められていったのだが、今度は面積が大きすぎたために地域間対立が起きるなどの問題が出て明治22年(1889)に3府43県となって落ち着くことになる。県の数が大幅に減るとなると、新しく出来た県の名前をどうするかで揉めることになることは誰でもわかる。

府藩県制史

明治政府はどういう基準で新しい県の名前を決めたのかがちょっと気になったので、手がかりになりそうな本を『国立国会図書館デジタルコレクション』で探していると、昭和16年(1941)に出版された宮武外骨の『府藩県制史』という本が目にとまった。

この本に、廃藩置県が行われた際に明治政府はどういう考えで新しい府県名を決めたのかが記されている部分がある。いろいろ反論があるかも知れないが、結構面白いので紹介したい。

賞罰的県名 逆順表示の史実

トコトンヤレの勇士を出した忠勤藩
  錦の御旗に刃向かった朝敵藩
   洞ヶ峠の日和見であった曖昧藩
    葵の紋がついた親類筋の拱手藩

 昨冬『府藩県制史』編纂の資料整理中、図らずも天来的の痛快事に接した。イヤ痛快事と言うよりも、明治史上には逸すべからざる順逆表示の史実、永久不滅の賞罰的県名と見るべきことを知りえたのである。それは廃藩置県後たる明治4年10月より5年6月までの間に改置した県名は、忠勤藩と朝敵藩とを区別するため、忠勤藩即ち皇政復古に勲功のあった大藩地方の県名には藩名をつけ、朝敵藩すなわち錦の御旗に刃向かった大藩、および早く帰順を表せず、日和見の曖昧な態度であった大藩地方の県名には藩名をつけず、郡名または山名川名などを県名としたということである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/55

では忠勤藩の事例を見ていこう。
「鹿児島藩のあった薩摩国に鹿児島県
 山口藩(萩藩移動)のあった長門国に山口県
 高知藩のあった土佐国に高知県
 佐賀藩のあった肥前国に佐賀県
 福岡藩のあった筑前国に福岡県
 鳥取藩のあった因幡国に鳥取県
 広島藩のあった安芸国に広島県
 岡山藩のあった備前国に岡山県
 秋田藩のあった羽後国に秋田県

 この忠勤9藩名の8県名は悉く明治4年11月2日より同月22日までの間に、廃藩置県の際における藩名に同じ県名をいったん廃止され、さらに同県名に復したのである。佐賀県だけは明治5年5月29日に旧伊万里県を改称した復県。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/56

次に朝敵藩、曖昧藩の事例を見ていこう。
曖昧藩 熊本藩の熊本県を肥後国小川名の白川県と改称、再置の熊本県は9年2月
 朝敵藩 松江藩の松江県を出雲国島根郡の島根県と改称、それが現存
 朝敵藩 姫路藩の姫路県を播磨国飾東郡の飾磨県と改称、9年8月兵庫県に合併
 朝敵藩 松山藩の松山県を伊予国高山名の石鐵(いしづち)県と改称、6年2月愛媛県と改称
 曖昧藩 宇和島藩の宇和島県を伊予国神南山の神山県と改称、石鐵県と合せ愛媛県
 朝敵藩 高松藩の高松県を讃岐国香川郡の香川県と改称、再三廃合復県、現存
 曖昧藩 徳島藩の徳島県を阿波国名東軍の名東県と改称、再置の徳島県は13年3月
 朝敵藩 桑名藩の桑名県と曖昧藩津藩の津県を廃して三重郡四日市の三重県
 徳川家 名古屋藩の名古屋県を尾張国愛知郡の愛知県と改称、それが現存
 徳川家 水戸藩の水戸県を常陸国茨城郡の茨城県と改称、それが現存
 曖昧藩 金沢藩の金沢県を加賀国石川郡の石川県と改称、それが現存
 同分家 富山藩の富山県を越中国新川郡の新川県と改称、再置の富山県は16年5月
 朝敵藩 小田原藩の小田原権を相模国足柄郡の足柄県と改称、9年4月廃止、神奈川県
 朝敵藩 川越藩の川越県を武蔵国入間郡の入間県と改称、6年6月廃止、熊谷県
 曖昧藩 岩槻藩の岩槻県を武蔵国埼玉郡の埼玉県と改称、それが現存
 朝敵藩 佐倉藩の佐倉県を下総国印旛郡の印旛県と改称、6年6月廃止、千葉県
 曖昧藩 土浦藩の土浦県を常陸国新治郡の新治県と改称、8年5月廃止、茨城県
 朝敵藩 松本藩の松本県を信濃国筑摩郡の筑摩県と改称、9年8月廃止、長野県
 朝敵藩 高崎藩の高崎県を上野国群馬郡の群馬県と改称、それが現存
 朝敵藩 仙台藩の仙台県を陸前国宮城郡の宮城県と改称、それが現存
 朝敵藩 盛岡藩の盛岡県を陸中国岩手郡の岩手県と改称、それが現存
 朝敵藩 米沢藩の米沢県を羽前国置賜郡の置賜県と改称、9年8月山形県に合併
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/57

宮武外骨
宮武外骨

宮武外骨によると、明治4年10月より5年6月までの間に改置した県名については、朝敵藩や曖昧藩においては一つの例外もなく、藩の名を県名にしていないというのである。

宮武はこの話を思い付きで記しているのではなく、渡邊修という老人から聴いた話と記しているのだが、この老人は明治時代の半ば頃に大蔵省預金局長、千葉県知事等を歴任した兵頭正懿という人物の話で知ったという。

実際にそのような賞罰的な考え方で府県名が決められた可能性が高いような気がするが、誰の発案でこのような考え方が決定したかについては、宮武は、当時は大蔵省が府県監督の専任であり、大蔵大輔であった井上薫の案を大蔵卿の大久保利通が賛同したのであろうと推定している。

では、なぜこのような考えで廃藩置県に臨んだことを明治政府が公表しなかったのだろうか。
その点について宮武はこう記しているが、文中の三条実美の発言がどの記録に残されているかについては言及していない。
「それは明治政府の態度を察するに、各藩に対し極めて寛大の処置を執り罰すべき罪をも赦した事実が多くあり、只管(ひたすら)旧藩臣の緩和を計った上より見て『士族の反感を買うような賞罰的県名は良くない、かつまた宏量たるべき政府としてはアマリにコセツイタ案である。既に発表した県名、今更取り消して改称するにも及ばない、命名の理由など知らさず、黙っていろ』という温厚な三条太政大臣の意見があった結果、秘して世間に伝えしめなかったのであろう」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/59

司馬遼太郎
【司馬遼太郎】

以前このブログで、県名と県庁所在地の関係について司馬遼太郎が『街道を行く(3)』で書いていることを紹介したことがある。
明治政府がこんにちの都道府県をつくるとき、どの土地が官軍に属し、どの土地が佐幕もしくは日和見であったかということを後世にわかるように烙印を押した。
その藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である

薩摩藩-鹿児島市が鹿児島県。
長州藩-山口市が山口県。
土佐藩-高知市が高知県。
肥前佐賀藩-佐賀市が佐賀県。
の四県がその代表的なものである。
戊辰戦争の段階であわただしく官軍についた大藩の所在地もこれに準じている。
筑前福岡藩が、福岡城下の名をとって福岡県になり、芸州広島藩、備前岡山藩、越前福井藩、秋田藩の場合もおなじである。
これらに対し、加賀百万石は日和見藩だったために金沢が城下であるのに金沢県とはならず石川という県内の小さな地名をさがし出してこれを県名とした。
戊辰戦争の段階で奥羽地方は秋田藩をのぞいてほとんどの藩が佐幕だったために、秋田県をのぞくすべての県がかつての大藩城下町の名称としていない。仙台県とはいわずに宮城県、盛岡県とはいわずに岩手県といったぐあいだが、とくに官軍の最大の攻撃目標だった会津藩にいたっては城下の若松市に県庁が置かれず、わざわざ福島という僻村のような土地に県庁をもってゆき、その呼称をとって福島県と称せしめられている。」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-91.html

この記事では、「この説は、司馬遼太郎より前にジャーナリストの宮武外骨が昭和16年(1941)に『府藩県政史』という本で書いたものらしい」と書いたのだが、今回『府藩県政史』を実際に読んでみると、宮武は県庁所在地については触れていない

司馬は「藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である」と書いているが、富山県、徳島県、和歌山県、静岡県のような例外もある。その点宮武は、「明治4年10月より5年6月までの間に改置した県名」と限定したうえで、県名に藩名を用いたのは官軍側だと指摘しているのだが、確かにその時期の廃藩置県については正しい指摘であるように思う。

前回の記事で明治9年(1876)の9月に鳥取県が島根県に併合されたことを書いた。
明治4年(1871)7月の廃藩置県において宮武外骨は、徳川との親戚関係でありながら戊辰戦争を官軍方で転戦した鳥取県を忠勤藩に分類し、隣の島根県は朝敵藩であったがゆえに県名が藩名から変えられたとしているのだが、忠勤藩であった鳥取県がなぜ朝敵藩の島根県に併合され県庁が松江市とされたのかについては何も書いていない。

不平士族のための県庁変更

ところが、『府藩県政史』を読み進んでいくと、廃藩置県の際に明治政府が送り込んだ役人が、士族たちから強い抵抗を受けたという話が各地で起こっていたことがわかる。
例えば、埼玉県について宮武はこう記している。

廃藩置県 埼玉

「太政官は忍(おし)藩の忍県、岩槻藩の岩槻県、川越藩の川越県と従来の浦和県を合わせて一県とし、県庁を埼玉郡岩槻町に置くことにして郡名を採った埼玉県と称したのである。しかるに役人どもが此処へ来て威張られてはタマラナイ。県庁をこの岩槻町へ置かさせない事にせねばならぬと決議し、仮庁舎とするはずの香林寺住職を威嚇して、寺を県庁に貸させぬことにした。一方埼玉県知事野村盛秀は、強いて岩槻に行けば士族たちに暗殺されるかもしれない。イッソ此処に居るのが安全と決定して、旧浦和県庁の所在地たる足立郡浦和鹿島台に居座ることになったのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/72

三つの藩が合併して埼玉県が誕生したのは明治4年(1871)の事だが、同様なことが同じ年に印旛県でも起きたという。

廃藩置県 石川 富山

また、石川県、新川県(富山)の事例も紹介しておこう。
不平士族の多い石川県も有数の難治県であり、最初の県長官内田政風はヒドク悩まされた。金沢藩の金沢県を改めて郡名の石川県とした時、県庁は金沢町内に置くはずであったが、不平士族が険悪の態度であったがため、同郡美川町という海辺へ県庁を置いた。後に金沢の士族どもが緩和するのを待って金沢へ帰ったのである。

富山藩の富山県を改めて郡名の新川県としたのであるが、この富山も金沢同様、旧藩の士族どもが威張っていてそれを避けるため、県庁を富山へ置かず、同郡の魚津という海岸へ置いた。これも富山の士族が、魚津のような所では不便で困ると言って、県庁の移転を要求することになったので、後に富山へ帰ったのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/72

中には不平士族に暗殺された県令もいる。
熊本県は明治4年(1871)に白川県と改められ、その後明治6年(1873)に八代県と合併し、明治9年(1876)に再び熊本県に改名されているが、その年に熊本県令の安岡良亮は不平士族の連中に傷つけられて死亡している。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/88

このような記録を読むと、廃藩置県の実施にあたり各地で反対運動が起こっていて、明治政府は不平士族による抵抗活動の激しい県については、不平士族の多い旧藩都を避けて比較的安全な場所に県庁を置くことにしたり、あるいは相手が怒るようなことを敢えて強行して、相手から変更を願い出るのを待つという戦略で臨んでいたという可能性が高そうだ。司馬遼太郎が石川県の事例で書いていた、加賀藩が日和見であったためにその懲罰として田舎の地に県庁を置いて県名としたという説はおそらく誤りで、不平士族が多くて藩都に県庁を置けなかったと理解するのが正しいのではないか。

高校の一般的な教科書である『もういちど読む 山川の日本史』には、「廃藩置県のような大改革が、諸藩からさして抵抗もうけずに実現したのはおどろくべき事実であったが、戊辰戦争で財政が窮乏していた諸藩には、もはや政府に対抗する力はなかったのである」(p.219)などと書かれているのだが、誰でもこんな文章を読めば、廃藩置県について各地で旧藩士の強い抵抗があったことは思いもよらない。

鳥取城石垣

前回の記事で明治9年(1876)に旧藩時代に大藩であった鳥取県が島根県に併合されたことを書いた。政治力・経済力でも人口でも鳥取県の方が格上であり、戊辰戦争において政府に対して忠勤を尽くした鳥取県がなぜ島根県に飲み込まれることになったのか。その理由を考えると鳥取市中心に活動していた不平士族(共斃社)の過激な活動にたどり着くことになる。

明治政府は、過激な活動を続ける共斃社の活動拠点である鳥取市を避け、彼らの活動を抑える目的もあってわざと鳥取県を格下の島根県に併合させて県庁を松江市に置き、明治11年(1878)には鳥取城を破壊して不平士族たちがここで籠城することを不可能にしたうえで、衰退していく鳥取の立て直しについて人々が自ら考えて行動するまで待つという姿勢で臨もうとしたのではなかったか。

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【ご参考】
いつの時代もどこの国でも、歴史の叙述というものは時の為政者にとって都合の良いように描かれ、都合の悪い史実は伏せられるか事実を歪めて記述される傾向にあります。我々が学んできた近代史は「薩長中心史観」というべきもので、特に明治の初期は多くの問題を抱えていました。良かったら覗いてみてください。

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

一度神社になった国宝吉野蔵王堂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-85.html

明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-167.html

廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-365.html

浄土真宗の僧侶や門徒は、明治政府の神仏分離政策に過激に闘った…大濱騒動のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-459.html

明治6年に越前の真宗の僧侶や門徒はなぜ大決起したのか~~越前護法大一揆のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-460.html


明治新政府の創成期は兵力も財力も権威も乏しく、いつ瓦解してもおかしくなかった

前回記事で『維新前後の政争と小栗上野の死』という書物を紹介したが、著者の蜷川新氏の主張しているとおり、徳川幕府が大政奉還を廃止したのちに薩長がすぐに取組むべきことは封建的支配体制を解体し、天皇を中心とした中央集権的国家体制の基礎を固める事であったはずだ。
明治2 (1869) 年の「版籍奉還」で、諸藩主が土地と人民に対する支配権を朝廷に返還したものの、新政府は旧藩主をそのまま知藩事に任命して藩政に当たらせたため、中央集権の実効は乏しかった。

大隈重信
【大隈重信】

国立国会図書館デジタルコレクションに大正元年に出版された『木戸孝允言行録』があり、その中に廃藩置県が遅れた事情について大隈重信が語った内容が紹介されている。

「木戸・大久保等の薩長に至るや、封建廃滅を断行せんとするの意あるを告ぐるに由なく、而して島津久光の如きは封建廃滅を望まず。嘗(かつ)て西郷が急激と言わんより寧ろ破壊と称すべき藩政改革を断行したることありしを以て、その藩兵を率いて東上せんとするや、またまた封建廃滅と言えるが如き急激の挙動に出でんことを憂い、西郷を招きて問うところありしに、西郷は決してかかる意なきを告げ、且つ東上の上は要路に立ち重局に当たる者を交迭黜退(ちゅったい)して、大に中央政府に改革を加える所あらんことを期して漸く上京することとなれり。かかる次第なりしを以て、人心頗(すこぶ)る恟々として政府に対する反抗の気焔はますます激進し、ややもすれば如何なる椿事を惹き起こすやも測られざる情勢となり、封建廃滅の如きは容易に決行すべからざる模様にして、せっかく遣賢を招き、藩兵を集めても何の効果もなく、言わばかえって不首尾を来たせしをもって、岩倉、木戸、大久保等の諸先輩も一時失望の体ありしぞ是非もなき。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/937219/49

島津久光
島津久光

このように、明治新政府による封建制度解体が遅れた大きな原因のひとつは薩摩藩の最高権力者であった島津久光*がそれを望んでいなかったからなのである。薩摩には鍛えられた軍隊と大量の最新鋭の武器があり、明治政府は薩摩藩の意向を無視できなかった。長州藩出身の木戸孝允はこの事態をどう捉えたか。前掲書にはこう記されている。
島津久光:薩摩藩11代藩主島津斉彬の異母弟で、長男島津忠義は12代藩主。

木戸孝允
木戸孝允

「(木戸が考えるには)封建の制度を仆滅するにあらざる以上は権威を中央に集めて政令を一途に出てしむる能わざるのみならず、ややもすれば強藩奸雄をしてその間に乗じて野心陰謀を逞しうするを得しむる不幸を見るに至らんと。井上馨、伊藤博文等の少壮者はこれを擁し、これを援けて、まず薩藩をはじめ諸強藩の跋扈を制御することを務め、木戸は自ら改革党の首領たる姿となれり。されど木戸とても素と勇断果決に富む人にあらず。従って薩長両藩間の軋轢に顧慮する所なく、大久保との関係を絶ち、旧藩との関係を離れても、なおかつ諸藩の改革を断行するの勇気なく、改革派の首領たる姿ありながら、ややもすれば顧疑躊躇したる言動なきにしもあらざりしなり。
大久保に対しては木戸の如きも多少その心事につきて疑うところあり。ひそかに想えらく『彼(大久保を指す)豈(あに)彼の西郷と等しくその藩の為に多少陰謀を構うるにはあらざるか、薩藩をして幕府に変わりて天下に覇たらしめんとの野望を包蔵するにはあらざるか』と
蓋し薩藩は維新革命の前後に於いてあるいは始めに公武合体の論を唱えて、終に尊王倒幕の挙に出て、あるいは前に征長の軍に加わりて、後に長藩と結託せしなど、酷にこれを評すればほとんど反復常なき挙動をなしたるのみならず、当時大久保は枢要の地にありながら、諸事に沈黙にしていわゆる改革の決行に逡巡躊躇するところありしを以て、木戸は大久保の心事に就きてすこぶる危疑するところありしなり。これ蓋し木戸の過慮杞憂と言え、木戸の神経質なるとその神経質にて当時の事情を揣摩せしとより見れば、また無理ならぬ危疑なりしなり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/937219/50

王政は復古し、五箇条の御誓文は発布され、万機公論に決するという国是も確定したのだが、地方に権力を残したままでは中央集権国家は成立しえない。朝廷に兵力も財力もなく権威もなければいずれ天下は遠からずして瓦解してしまうことになる。これでは、何のために命を懸けて戊辰戦争を戦ったのかと諸藩が疑問を持っても仕方がないし、力のない明治新政府を倒そうとする動きがいつ起きてもおかしくなかった。

大久保利通
大久保利通

木戸は、薩摩藩が幕府に変わって覇権を握る野望を持っているのではないかと疑ったのだが、大久保もまた悩んでいた。
明治二年四月二六日に大久保利通が岩倉具視に宛てた手紙には、「…天下の人心政府を信ぜず、怨嗟の声路傍に喧喧、真に武家の旧政を慕うに至る…かくまでに威令の衰減せしこと歎息流涕の至りにたえず…」と書いており、その危機感がよく伝わってくる。

昭和16年刊の『維新史 第5巻』には、この時期のわが国の状況についてこう記されている。
戊辰の戦乱が漸く鎮定せる明治2年には霖雨(りんう:長雨)が続いて、全国各地は不作を極め、物価は日に騰貴して、無告の民は巷に充満していた。殊に東京においては、失禄の旧幕臣が多く、一方京都においてもまた、御東幸*以後、その職を失えるものが決して少なくはなく、庶民は困窮を極めたのである。ここに於いて8月25日、畏くも天皇におかせられては、御躬ら節倹の範を示し給うて、救侐に充てんとの優渥なる詔書を下し給い、政府百官は聖旨を奉じ、官禄・賞典禄を減じて救侐の資に充てようとしたのであった。
 地方民情の最も動揺せるところは、戊辰の役において戦乱の巷と化した東北地方をもって第一とする。由来この地方は僻遠広漠の地で、王化に浴せざること久しく、剰(あまつさ)え戦乱の為に流民が続出し、人心は不安に戦(おのの)いて、その帰する所を知らなかった。されば戦乱鎮定の後、政府は力を東北地方の施政に注ぎ、あるいは陸奥・出羽二国を分割して、磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥・羽前・羽後の7国となし、あるいは諸藩の削封地に県を置いて、新政の洽(あまね)く行き渡らんことを期したが、諸事草創の際とて、地方官も未だ充分なる実績を挙げるには至らなかった。

この頃また農民の暴動が各地に起こった。惟(おも)うに封建制度の撤廃は、数百年来領主対領民の関係を維持し来れる農民階級にとっては、生活の安定を脅かされることが大であったので、保守的傾向を有する彼らはこれを喜ばずして、所在に蜂起したのである。」
*御東幸: 明治天皇が明治2年3月東京に二度目の行幸をされ、これが実質の遷都になった。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917908/392

『維新史 第5巻』には以下のような暴動が起きたことが記されている。

明治2年 2月  盛岡藩の領民が旧領主南部利恭の移封に反対し党を組んで反対した
明治2年10月  高崎藩の農民が岩鼻県(上野国、武蔵国内の旧幕府領・旗本領)と租法と異なるのを理由として蜂起
明治2年11月  忍藩(おしはん:武蔵国埼玉郡に存在した藩)管地の伊勢国数郡内の領民2万人が騒擾を起こした
明治2年12月  山口藩兵が藩庁の兵制改革に不満を抱き2千名が脱退
明治3年1月  上記の隊士千余名が兵器を以て山口を逆襲し山口藩庁を包囲。2月に巨魁35人が捕らえられ鎮圧した
明治3年 1月  浜田県(現在の島根県石見地方、隠岐諸島)下の士民が浮浪の徒の煽動により蜂起
明治3年3月  宇和島藩の農民が年貢の苛酷を理由に蜂起
明治3年10月  尼崎藩の農民が大阪・神戸間鉄道敷設の為に田畑を収用せられるのを不満として暴動を起こした
明治3年11月 膽澤県(いざわけん:現在の宮城県北部・岩手県南部)の農民が凶作のため租税軽減を嘆願して蜂起
明治3年11月 日田県の農民が県庁を襲い掠奪暴行を働く
明治3年12月 府内藩(豊後国大分郡府内周辺を支配した藩)の農民が雑税の廃止を求めて騒擾を起こした

大村益次郎
【大村益次郎】

また政府の大官が相次いで暗殺されている。
明治2年1月  横井小楠(徴士参与:熊本藩出身)が十津川郷士ら6人組に襲われる
明治2年9月  大村益次郎(軍務官副知事:長州藩出身)が元長州藩士8人に襲われる
明治4年1月  広沢真臣(参議:長州藩出身)犯人不明

新聞集成明治編年史
【新聞集成明治編年史】

『維新史 第5巻』に挙げられている事件が全てではなく、幕末から明治期にかけての新聞記事を渉猟して編纂された『新聞集成明治編年史. 第一卷』の目次を見るだけでも、この時期に全国各地で一揆や反乱が起きていることがわかる。
明治2年 信州上田の騒擾(9月)、美濃の一揆平定(9月)、上州農民騒擾(10月)、勢州にも農民蜂起(11月)
明治3年 浜田県士民沸騰(1月)、長藩奇兵隊蜂起(1月)、徳島藩暴動始末(8月)、豊後各所に浮浪人出没(11月)、信州路土民動揺(12月)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/14

これら以外にも様々な出来事があったと思うのだが、全国各地でこれだけの事件が相次いで起こると政府の権威は失墜し、この混乱に乗じで政権の主導権を奪い取ろうとする動きが出てきてもおかしくなかったのである。

大衆明治史

菊池寛は『大衆明治史』のなかでこう解説している。
「維新大業に於ける薩長の功労は圧倒的だ。しかし彼等とても、公議世論の声に圧せられて、思い切って新政に臨むことが出来ない。まして、他の藩の有力者たちに、何も積極的にできるわけはない。
新政最大の弱点は、実にこの、政治に中心勢力がないことであった
 当時の中央勢力は、名ばかりは徴士とか貢士とかいう、今の代議士のようなものが全国各藩から集まって、盛んに政治上の議論をしているばかりで、実行はさらに挙がらない。まして肝心要の兵力というものが、中央にはまるで皆無である
 これに反して、錦旗を東北に翻して凱旋した各藩の兵隊は、各々その藩に帰ってその武功を誇り大小諸藩はみな独立状態で、中央を覘(うかが)い、来るべき変を待つ、といった有様である。容易ならざる形勢である。」(『大衆明治史』P.7)
http://tncs.world.coocan.jp/TMeijiS1.pdf

明治政府の誕生は薩長土肥の4藩の活躍がなくてはなしえなかったのであるが、これらの4藩がまとまっていたかというと、それぞれが主導権を奪い取るチャンスを窺っていたようなのだ。

薩摩の西郷隆盛は新政府の考え方と合わず距離を置いていたし、長州の首領格の木戸孝允は薩摩嫌いで、土佐は薩摩の武力主義に対して、公議政治という奇手を用いて新政府に割り込もうとしていたし、肥前は薩長土が維新の渦中で人材を消耗しつつある間に、悠々と機会を窺っていたという。

大久保利通は、一刻も早く国内を統一し、国家の基礎を確立して、外国に対抗するためには、薩長の力でこの難局を切り抜け、封建制度の解体に持ち込むしかないと考え、岩倉、木戸の同意を得て、一路薩長連合に向かって突進した。
明治4年(1871)に、政府は鹿児島に戻っていた西郷隆盛を中央に呼び戻し、薩長土3藩から御親兵を募って中央の軍事力を固めて一挙に廃藩置県を断行し、封建的割拠主義に最後の止めを刺す大改革を行い、以降明治政府は新政策に邁進することとなったのである。

版籍奉還から廃藩置県に至るまでの2年間は、このように明治新政府は極めて不安定であったのだが、わが国の一般的な教科書では、この2年間に全国各地で暴動が相次いだことは何も書かれていないのである。

山川日本史

たとえば『もういちど読む 山川日本史』ではこう記述されている。
「政府はまず、諸大名がみずからの領地と領民を支配するこれまでの体制を打ち破るため、1869(明治2)年、諸大名に命じて領地と領民を天皇に返上させた(版籍奉還)。しかし藩主は、石高にかわる家禄の支給をうけ、そのまま知藩事(地方官)とされて藩政に当たったため、中央集権の実効はあまりあがらなかった。
そこで、木戸孝允大久保利通ら政府の実力者たちは、中央集権体制を確立するため、1871(明治4)年7月、まず薩長土3藩から御親兵をつのって中央の軍事力をかため、ついでいっきょに廃藩置県を断行した。そしてすべての知藩事をやめさせて東京に住まわせ、政府の任命した府知事・県令を派遣して府県をおさめさせた。こうして全国は政府の直接支配のもとにおかれ、封建制度は解体した。
廃藩置県のような大変革が、諸藩からさして抵抗もうけずに実現したのはおどろくべき事実であったが、戊辰戦争で財政が窮乏していた諸藩には、もはや政府に対抗する力はほとんどなかったのである。」(『もういちど読む 山川日本史』p.219-220)

このような教科書を普通に読むと、明治新政府により封建制度の解体と中央集権体制の確立は比較的スムーズに進められ、政権内部のトラブルも地方の抵抗もほとんどなかったと理解するしかないのだが、他の教科書も似たり寄ったりで、相変わらず『薩長史観』で描かれている。

明治維新からもう150年も経っているのだから、せめて明治政府の良い面も悪い面もバランスよく記して欲しいものだと思う。

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西郷隆盛は明治新政府の初期の腐敗ぶりに涙した


岩波文庫に『西郷南洲遺訓』という本がある。この本に西郷隆盛の遺訓をまとめた『南洲翁遺訓』などが収められているのだが、この南洲翁遺訓』は戊辰戦争で薩摩藩と敵対した旧庄内藩の旧家臣の手によって、明治23年に制作され広く頒布されたものである。

南洲翁遺訓

なぜ薩摩藩ではなく庄内藩の旧家臣によって西郷隆盛の遺訓集が作成されたのかと誰でも思うところなので、その点について少し説明しておこう。

薩摩藩邸襲撃による火災
【薩摩藩邸襲撃による火災】

薩摩藩は慶応3年(1867)12月9日の王政復古の大号令の後、芝三田の薩摩藩邸に浪人を集めて江戸の治安を攪乱させていた。当時江戸市中の警備を担当していたのは庄内藩であったが、12月25日には薩摩藩邸の浪人が庄内藩邸に発砲する事件が発生したことから、老中稲葉正邦は庄内藩に命じ薩摩藩邸を襲撃させている。

この事件がきっかけとなって戊辰戦争が始まり、庄内藩は官軍と戦いの末敗れてしまった
のだが、共に列藩同盟の盟主であった会津藩が解体と流刑となったのとは逆に、庄内藩は比較的軽い処分で済み旧庄内藩主の酒井忠篤(さかいただずみ)は明治3年に庄内藩に復帰している。これには明治政府軍でも薩摩藩の西郷隆盛の意向があったと言われ、この後に庄内地方では西郷隆盛が敬愛されることとなる。

酒井忠篤
【酒井忠篤】

西郷は戊辰戦争が終了した後は東京残留を断って鹿児島に戻っていたのだが、明治3年(1870)に酒井忠篤は旧藩士らを従えて鹿児島に西郷を訪ねてその教えを請い、その後も旧庄内藩士らは鹿児島を訪れて、西郷から直接話を聞いたという。
明治22年(1889)に大日本帝国憲法が公布されると、西南戦争で剥奪された官位が戻されて西郷の名誉が回復されることとなり、酒井忠篤が旧庄内藩の旧藩士たちに命じて、西郷生前の言葉や教えを集めて遺訓を発行することになった。それが『南洲翁遺訓なのである。

南洲翁遺訓』は今では誰でもネットで訳文や解説文が読むことができる。
いろんなサイトがあるが、例えば『敬天愛人フォーラム21』の『西郷南洲翁遺訓集』は読みやすくてお勧めである。
https://www.keiten-aijin.com/ikun

西郷隆盛

この遺訓を読むと、西郷が、出来たばかりの新政府にかなり批判的であったことが垣間見えてくる。いくつかを紹介しよう。

「第一ケ条
【原文】
廟堂に立ちて、大政を為すは、天道を行ふものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能く其職に任ふる人を挙げて、政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫れ故真に賢人と認める以上は、直に我が職を、譲る程ならでは叶はぬものぞ。故に何程国家に勲労有るとも、其の職に任へぬ人を、官職を以て賞するは、善からぬことの第一也。官は其の人を選びて之を授け、功有る者には俸禄を以て賞し、之を愛し置くものぞと申さるる…
【訳文】
政府に入って、閣僚となり国政を司るのは天地自然の道を行なうものであるから、いささかでも、私利私欲を出してはならない。だから、どんな事があっても心を公平にして、正しい道を踏み、広く賢明な人を選んで、その職務に忠実に実行出来る人に政権を執らせる事こそ天意である。だから本当に賢明で適任だと認める人がいたら、すぐにでも自分の職を譲る程でなくてはならい。従ってどんなに国に功績があっても、その職務に不適任な人を官職に就ける事は良くない事の第一である。官職というものはその人をよく選んで授けるべきで、功績のある人には、俸給を多く与えて奨励するのが良いと南洲翁が申される…」

西郷は国政を担う人物は、私利私欲で動く人物であってはだめで、いかに功績があったとしても、相応しくない職を与えるなと言っている。具体的な名前を挙げてはいないが、西郷から見て不適任な人物が多数政府にいたのであろう。西郷はこう述べている。

「第二ケ条
【原文】
賢人百官を総べ、政権一途に帰し、一格の国体定制無ければ、縦令人材を登用し、言路を開き、衆説を容るるとも、取捨方向無く、事業雑駁にして成功有るべからず。昨日出でし命令の、今日忽ち引き易ふると云様なるも、皆統轄する所一ならずして、施政の方針一定せざるの致す所也。
【訳文】
立派な政治家が、多くの役人達を一つにまとめ、政権が一つの体制にまとまらなければ、たとえ立派な人を用い、発言出来る場を開いて、多くの人の意見を取入れるにしても、どれを取り、どれを捨てるか、一定の方針が無く、仕事が雑になり成功するはずがないであろう。昨日出された命令が、今日またすぐに、変更になるというような事も、皆バラバラで一つにまとまる事がなく、政治を行う方向が一つに決まっていないからである。」

立派な人物がいて発言の場を与えたとしても、新政府には、わが国をどのような国にするかという基本方針がしっかり定まっていなかった。
明治2 (1869) 年の「版籍奉還」で、諸藩主が土地と人民に対する支配権を朝廷に返還したものの、新政府は旧藩主をそのまま知藩事に任命して藩政に当たらせたため、地方に権力を残したままとなってこれでは中央集権国家は成立しえない。朝廷に兵力も財力もなく権威もなければいずれ天下は遠からずして瓦解してしまうことになる。
しかしながら新政府には、そのような危機感も持たずに自分の藩や自分の利益ばかりを追い求めるようなレベルの人間が少なからずいたことは第四ケ条を読めばわかる。

「第四ケ条
【原文】
万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して、人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。然るに草創の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今と成りては、戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して、面目無きぞとて、頻りに涙を催されける
【訳文】
国民の上に立つ者(政治、行政の責任者)は、いつも自分の心をつつしみ、品行を正しくし、偉そうな態度をしないで、贅沢をつつしみ節約をする事に努め、仕事に励んで一般国民の手本となり、一般国民がその仕事ぶりや、生活ぶりを気の毒に思う位にならなければ、政令はスムーズに行われないものである。ところが今、維新創業の初めというのに、立派な家を建て、立派な洋服を着て、きれいな妾をかこい、自分の財産を増やす事ばかりを考えるならば、維新の本当の目的を全うすることは出来ないであろう。今となって見ると戊辰(明治維新)の正義の戦いも、ひとえに私利私欲をこやす結果となり、国に対し、また戦死者に対して面目ない事だと言って、しきりに涙を流された。」

このように西郷は、維新の事業が始まったばかりの大事な時に、新政府の中で私利私欲に目がくらんだような連中の振舞いが多いのを見て、何のために戊辰戦争を戦ったのかと涙を流したというのだが、出来たばかりの明治新政府の官吏の働きぶりは、具体的にはどのようなものであったのだろうか。

横山安武
横山安武

明治3年の7月27日に薩摩藩士の横山安武という人物が、明治政府に仕える官吏の驕奢な暮らしぶりに憤慨して『時弊十箇条』を挙げた書を集議院門扉に公示して割腹自殺を遂げる事件があった。彼は初代文部大臣を務めた森有礼の実兄で、儒学者の横山安容の養子となって藩に出仕し、後に島津久光に側近として仕えた人物である。
西郷は後に彼の死を惜しんで碑文を作って弔ったのだが、この横山が死を以て訴えた『時弊十箇条』は、『南洲翁遺訓』の第四ケ条の内容をもう少し詳しく、具体的に記した文書としてもっと注目されてよいと思う。

『時弊十箇条』写
【『時弊十箇条』写】

時弊十箇条』の全文は明治44年刊の河村北溟著『西郷南州翁百話』に出ている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/755544/85
が、昭和6年刊の望月茂 著『憲政史物語』の方が解説がなされていて読み物としてわかりやすい。引用部分の『』の太字斜字部分が『時弊十箇条』の原文で、その他の部分は望月茂氏の解説で、ある。文中の『三條公』というのは三条実美、『岩倉徳大寺』は岩倉具視と徳大寺実則のことである。また『集議院』というのは、「五か条の誓文」中に「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と定められたことにより設置されたが公選により選ばれたものではなく、ほとんど機能しなかったという。
望月茂は『時弊十箇条』をこう解説している。

「彼は、わずかに28歳の一青年に過ぎなかったが、建白の十ケ条は悉く時弊をついている。
一、 輔相の大任をはじめ、侈靡驕奢、上朝廷を暗誘し、下飢餓を察せざる也。』
この時代は、明治も早や三年。維新当時の緊張しきった心持がうせて、大臣諸公がぼつぼつ贅沢をはじめ、青公卿が威張りだした。三條公などでさえ、白昼公然、流行の馬車を駆って吉原の大門を潜る始末。…
二、 大小官員も、外には虚飾を張り、内に名利を事とする少なからず』 
これは、いつの世も泰平になると免れない。
三、 朝令夕替、万民、狐疑を抱き、方向に迷う。畢竟牽強付会。心を着実に用いざる故なり。
痛いところを抉っている。全く明治初年の制度は、ああでもないこうでもないと猫の眼玉のように変わっている。それでは民衆が、疑いをさしはさむは当然である。
四、 道中人馬賃銭を上増し、五分の一献金等、すべて人情事実を察せず。人心の帰不帰を省みず。剥刻の処置なり。
五、 直を崇ばず、能者を尚び、廉恥上に立たざるがゆえに世風日に軽薄なり。』
これは、昭和の今日も同じらしい。
六、 官の為に人をもとめずして、人の為に官を求むる故に、毎局己れの任に尽くさず。職事、賃取仕事のように心得る者あり。』
どうも、今聞いても耳がいたい。
七、 酒食の交厚く、道義の交薄し。
明治3年、已に然りとせば、今日の道義の交わりおとろえたるは、致し方ないことかもしれない。
八、 外交人に対し、約定(条約の意)の立法、軽率なるをもって、物議沸騰を生ずること多し。
九、 黜陟の大典立たず。多くは愛憎をもって進退す。春日某の如き廉直の士はかえって私恨を啣み、冤罪に陥る数度なり。岩倉徳大寺の意中に出づると聞く。』
ここに春日某としてあるのは、春日潜庵をさしている。彼は硬骨の陽明学者。維新後奈良県知事となったが、讒を蒙って囹圄(れいご)の人となって以来、又出でて仕えず。明治11年没するまで、一処士として終わった。南洲翁の兄事していた人物である。
十、 上下、こもごも利を征りて、国危うきこと。
この十ケ条をあげているが、これを要するに、今日の言葉で言えば綱紀粛正である。彼は、なお最後に付け足し、朝鮮から頻りに侮られるが、それくらいのことで、兵を動かすというようなことは、とんでもないことだと言っている。口に一新を唱えて、一新の実あがらざる今日、外国へ兵を構えることなどは、国事をもって遊戯視する徒輩の暴論である。朝鮮は、文禄時代の朝鮮ではない。今日、国力の充実せざる矢先血気にかられて左様なことをするのは、国を亡ぼすものだと極言している。
集議院あれども無きが如く、草莽の議論が行われぬ折柄、ただ一片の建白ぐらいでは、政府の大官の意中を動かすことが出来まいと信じた彼は、ついに死をもって諫言しようとした。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268721/33

横山が批判した通り、当時の政府は課題や問題が山積みで、その政情は混迷をきわめていた。明治2年(1869)5月に榎本武揚以下旧幕臣が立てこもっていた函館の五稜郭が開城し戊辰戦争が終結すると、翌月には王政復古や戊辰戦争に功績のあった者に対し賞典禄や位階が与えられるなど論功行賞が行われたが、それら恩賞は薩摩藩、長州藩出身者に手厚いものであり、両藩に対する非難が出ていたという。また薩長両藩の間でも、政府の人事について争いが生じて、新政府は発足当初からかなり問題を抱えていた。
それだけではない。明治2年は天候不順で全国各地で農作物が不作を極めて物価が高騰し、農民の暴動が各地で起こっている。

廃仏毀釈

そんな情勢であるにもかかわらず、新政府の役人どもは仕事らしい仕事をせず、各藩の元大名屋敷を分捕って、使用人を雇い妾を囲うなど、旧大名さながらの驕奢な生活をするものが少なくなかった
。この時期に明治新政府が率先して推進したのは、廃仏毀釈という文化破壊と、東京奠都と、中途半端な版籍奉還ぐらいで、評価に値することは殆んど何もしていないのだ。

横山は「官の為に人をもとめずして、人の為に官を求むる故に、毎局己れの任に尽くさず。職事、賃取仕事のように心得る者あり。(仕事の為に人材を求めるのではなく、人のためにポストを与えるために、やるべき任務が尽くされない。給料のための仕事と考える者がある)」と書いているが、西郷にとっても同じような気持ちであったと思われる。

横山安武顕彰碑
横山安武顕彰碑】

明治5年に西郷が横山安武の顕彰碑の碑文を書いているが、この全文が青空文庫で読める。西郷が個人の為に碑文を書くことは珍しく、この碑文の他に1例があるだけだ。いかに西郷が横山の死を惜しんだかがわかる。
www.aozora.gr.jp/cards/001320/files/48226_32093.html

西郷の碑文で注目していただきたいのは次の部分である。
この時にあたり 、朝廷の百官 、遊蕩驕奢(ゆうとうきょうしゃ)にして事を誤るもの多く 、時(じ)論(ろん)囂々(ごうごう)たり 。安武すなわち慨然(がいぜん)として自ら奮つて謂く 、王家(おうけ)衰弱(すいじゃく)の極ここに兆す 。」

税金泥棒のような政治家や官僚がはびこることは何も明治初期だけの現象ではなく、程度の差はあれいつの時代もよく似たものだと思うのだが、今のわが国はかなりひどい状態と言っては言い過ぎであろうか。

重大な安全保障上の問題が多々あるにもかかわらず、国会ではどうでも良いことばかりを議論して、官僚は省益ばかりを追い求める連中があまりにも多い。国益に関わる重要な問題を何一つ解決できないのなら、職を辞してもらいたいと言いたいところだ。
もし西郷隆盛や横山安武がもし今も生きていたとしたら、わが国の政治家や官僚やマスコミなどに対して決して黙ってはいないことだろう。
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【ご参考】
明治新政府が最初にどんな仕事をしていたかについて、こんな記事を書いています。良かったら覗いてみてください。

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

浄土真宗の僧侶や門徒は、明治政府の神仏分離政策に過激に闘った…大濱騒動のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-459.html

明治初期までは寺院だった「こんぴらさん」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html







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プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
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    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史