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「奈良県」が地図から消えた明治の頃のこと

奈良県にはかって飛鳥浄御原京や平城京があり、古い寺院や神社が多くて日本人の心のふるさとでもある。この重厚な歴史のある「奈良県」という県名が、かって地図から消えたことがあることなど思いもよらなかったが、明治時代の11年半にわたって奈良県が消滅していることを最近インターネットで知った。
東大寺と郡山城の桜 069

「なら」は「奈良」と書いたり「寧楽」と書いたり「平城」とも表記されるが、平安時代から鎌倉時代にかけて東大寺や興福寺の門前町として「奈良町」が生まれ、江戸時代には奈良町に奉行所がおかれて政治の中心地となっていた。
明治新政府も奈良町に大和国(郡山藩、高取藩、柳生藩など)鎮撫総督府をおき、慶応4年に「奈良縣」と名付けられた。

明治時代に「奈良縣」は「奈良府」と呼ばれたり、また「奈良縣」に戻ったりめまぐるしく名前が変わっただけでなく、境界線も何度も変わっている。たとえば、明治3年には吉野郡あたりは「五条縣」であったし、明治4年の廃藩置県により、大和郡山、高取、柳生などの小藩がそれぞれ縣名をとなえた時期があったが、その年の11月には小藩がまとまって大和全域を管轄する「奈良縣」が成立している。

しかし、明治9年4月に府県の統廃合が行われて奈良県は大阪南部にあった堺県に編入され、ついで明治14年には、東京・京都・大坂の三府のうち最も財政基盤の弱かった大阪府を補強するために堺県が大阪府に編入されてしまった。

その結果、予算の多くが摂津・河内・和泉地区の河川改修などに重点的に配分されたり、旧奈良県で不可欠な予算が削られるようなことが頻発した。

そのころから奈良県再設置運動がはじまり、6年後の明治20年(1887年)11月に再び奈良県が誕生した。要するに明治9年から11年半にわたって「奈良県」が地図上から消えてしまったのである。

しかし奈良県の再設置は決して簡単ではなかった。

旧奈良県出身の恒岡直史・今村勤三議員らが中心となって内務省や太政官に何度も陳情をしたが却下され、元老院に二度にわたる建白書の提出も実らず、山形有朋内務大臣や松方正義大蔵大臣に直接請願して、伊藤博文総理大臣からやっと内諾をとるなど大変な苦労をしたことや、その後も大阪府の抵抗があり当時府会の議長であった恒岡氏は辞職勧告の建議案が出て議会は混乱し、恒岡氏は勧告が出る前に議長を辞任している。

このような詳しい経緯が「奈良県誕生物語」というサイトに書かれているが、このサイトは小説のように面白く、興味のある人は堺市編入以降の第三章から読み始めても結構楽しめると思う。
http://www.kamarin.com/special_edition/index_0.htm

今の奈良県は幕末の頃、郡山藩、柳生藩、高取藩の他にも小泉藩、柳本藩、芝村藩など1万石程度の小藩が乱立していたし、そう簡単に一つになれる素地は乏しかったと考えるのが自然である。まして、当時の大阪府の中では旧奈良県の議員は少数派でしかなかったので、大阪府の議会で奈良県が誕生することを容認する可能性は当初から極めて低かった。

何度却下されても、明治政府に対して奈良県再設置を求める恒岡直史議員らの粘り強い活動がなければ、奈良県の再設置はなかったかずっと遅くなったことであろうし、地域の発展がもっと遅れたのではないだろうか。

今の政治家にこのような人物がほとんどいないのは残念だが、このような明治期の政治家の努力があって現在の奈良県があることを忘れてはいけないのだと思う。

またここまで努力した先人がいたことを多くの人が知ることによってこそ、志のある人が政治家を目指すようになり、選挙民もまた志のある人を政治家に選ぶようになり、政治家が安易な対応をすることを許さなくなるのではないだろうか。
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県名と県庁所在地とが同じ県と違う県の意味?と歴史

はじめて日本の地理を学んだときに、県名と県庁所在地名をセットで覚えた。その時に多くの人は、例えば奈良県・奈良市や岡山県・岡山市というように県庁所在地の名称がそのまま県名になっていることか多いので、三重県・津市のような例外の18都道府県だけしっかり覚えれば良いということに気が付いて、例外の県だけをしっかり学習する。

県名は明治4年の廃藩置県で決まったものだが、何故このような例外が生じたかについてはあまり考えず、何も知らずに過ごしてきた。

司馬遼太郎

最近この問題に興味を持っていろいろ調べると、たとえば司馬遼太郎が「街道を行く(3)」で次のように書いている。

「明治政府がこんにちの都道府県をつくるとき、どの土地が官軍に属し、どの土地が佐幕もしくは日和見であったかということを後世にわかるように烙印を押した。
その藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である。
薩摩藩-鹿児島市が鹿児島県。
長州藩-山口市が山口県。
土佐藩-高知市が高知県。
肥前佐賀藩-佐賀市が佐賀県。
の四県がその代表的なものである。
戊辰戦争の段階であわただしく官軍についた大藩の所在地もこれに準じている。
筑前福岡藩が、福岡城下の名をとって福岡県になり、芸州広島藩、備前岡山藩、越前福井藩、秋田藩の場合もおなじである。

これらに対し、加賀百万石は日和見藩だったために金沢が城下であるのに金沢県とはならず石川という県内の小さな地名をさがし出してこれを県名とした。

戊辰戦争の段階で奥羽地方は秋田藩をのぞいてほとんどの藩が佐幕だったために、秋田県をのぞくすべての県がかつての大藩城下町の名称としていない。仙台県とはいわずに宮城県、盛岡県とはいわずに岩手県といったぐあいだが、とくに官軍の最大の攻撃目標だった会津藩にいたっては城下の若松市に県庁が置かれず、わざわざ福島という僻村のような土地に県庁をもってゆき、その呼称をとって福島県と称せしめられている。」(引用終わり)

はじめてこの文章を読んだ際に「なるほど」と思った。
例えば四国で言えば、香川県の高松藩、愛媛県の松山藩はともに佐幕派であったが、この2県だけが県庁所在地名と県名が異なる。
実はこの説は、司馬遼太郎より前にジャーナリストの宮武外骨が昭和16年(1941)に「府藩県政史」という本で書いたものらしい。

しかしながら冷静に考えると、江戸幕府のあった東京はいきなり当てはまらない。紀州徳川家のあった和歌山もあてはまらない。大阪も江戸幕府の直轄領であったのにあてはまらない。実際はかなり例外が存在するようだ。

いろいろネットで調べてみると、司馬遼太郎が紹介している宮城県は確かに佐幕派であったが、明治4年(1871)の廃藩置県の時は「仙台県」となり、翌年の明治5年に、人心一新を理由に「宮城県」に名称変更となっている。岩手県も同様で廃藩置県当時は「盛岡県」であったが、「旧藩の因襲から抜けがたい」との理由で、盛岡県が申請した体裁になっている。盛岡県については岩手県のレファレンスコーナーに詳しく書かれている。
http://www.library.pref.iwate.jp/riyoannnai/kanpopdf/kanpo160_pdf/160007.pdf
石川県についても同様で、廃藩置県時は「金沢県」となっている。そして、翌年に県庁の場所を「北に寄り過ぎている」という理由で石川郡美川町(現白山市)に移して「石川県」と改称し、明治6年に再び県庁所在地を金沢に移したが県名は改称しなかったとややこしい経緯がある。

会津若松についても会津松平家が斗南藩に移封された後は政府直轄地となり、明治2年6月には会津若松に県庁がおかれて若松県と称し、福島県に合併されるまで7年間は県庁所在地であったことになる。

これらの事例はひょっとすれば明治政府が圧力をかけた経緯があるのかもしれないが、それならはじめから「仙台県」「盛岡県」「金沢県」「若松県」を許したことがおかしいということになってくる。

そもそも廃藩置県当初は殆ど藩をそのまま読みかえられ、実施直後の明治4年7月には府県数は3府302県もあったそうだ。その後相当組み替えられて同年の11月には3府72県に統合されたのだが、小さな旧藩同士で県庁を取り合い県名をどうするかで様々な駆け引きが行われたことは想像に難くない。小さい旧藩が集まってできた県なら、県名と県庁所在地が別々にして交渉を決着させることは充分ありうることではないのか。

この問題は、司馬説、宮武説ほど単純なものではなさそうだ。
少なくとも明治政府が佐幕藩や態度があいまいであった藩を懲罰するために主導的に、全国的に県名を改称させたとは考えにくいし、多くの例外の存在と個々の命名事情を無視し過ぎている。

興味のある方は、戸田孝さんの「雑学資料室」の次のページが参考になります。
http://www.biwa.ne.jp/~toda-m/geo-hist/prefname.html
藩名や県名の推移に興味のある方は、「地理データ集」の次のサイトがお勧めです。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/huken.htm
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「宮崎県」が存在しなかった、明治の頃のこと

今年の1月に、明治の一時期に奈良県が存在しなかったことを書いた。私もこのブログをはじめるまでは、奈良県が存在しなかったことがあることを考えもしなかったが、明治9年に奈良県は大阪南部にあった堺県に編入され、明治14年には堺県が大阪府に編入されてしまっている。その後、恒岡直史議員らの粘り強い活動により明治20年に奈良県が再設置されるのだが、それまでの11年半は「奈良県」が我が国に存在しなかった史実がある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-90.html

奈良県の再設置運動は小説にしても良いようなドラマがあったが、いろいろ調べると、明治4年7月には府県数は3府302県もあったのだが、相当組み替えられて同年の11月には3府72県に統合されている。(第一次府県統合)。
また明治9年(1876)4月と8月の二度にわたり、再び全国的な府県統合が行われて3府35県まで整理され、明治14年の堺県の大阪府編入で3府34県となっている。(第二次府県統合)

3府34県というと、現在の都道府県数よりも随分少ないことが誰でも気がつく。
復活された県が奈良県以外でもかなりあったことがわかる。

明治12年日本地図

上の図はネットでみつけた明治12年の頃の日本地図である。
結論から言うと、富山県、福井県、奈良県、鳥取県、徳島県、香川県、佐賀県、宮崎県の8県が、この地図では存在せず、これらの県は第二次府県統合の後で復活されたということになる。
奈良県の事例から容易に想像できるように、いずれも地元民の再設置に向けての相当な努力がなければ、復活が実現できなかったはずである。奈良以外の県ではどのようなドラマがあったのか。

今回は東国原知事で一躍注目され、現在口蹄疫問題に苦しむ宮崎県のことを話題にしてみたい。

東国原知事

宮崎県は、7世紀に成立した「日向国」がルーツで、「日向国」は今の宮崎県と鹿児島県の本土部分を管轄する大きな国であった。8世紀の初めに唱更国(後の薩摩国)と大隅国が分離した後は、明治初期まで日向国の領域は変化がなかったらしい。

南北朝から戦国時代にかけて、日向国も全国の例にたがわず群雄割拠の時代となり土持氏、伊東氏、北原氏、などの勢力争いが展開されたが、1578年の耳川の戦いで大友氏に勝利した島津氏が日向国一円を支配するようになるが、1587年の秀吉の九州攻めで島津氏が降伏すると、日向国は功のあった大名に分知されてしまう。

江戸時代には、日向国には天領と小藩[延岡藩、高鍋藩、佐土原藩、飫肥藩(おびはん)]に分割され、薩摩藩や人吉藩も一部の領地をもっていた。

日向国江戸時代の地図

上の図は江戸時代の延享4年(1747)の旧日向国の地図だが、こんなに小さく複雑に分断されて幕府領が飛び地で何か所もおかれている。その理由は、江戸幕府が島津家の反乱に備えたためと言われており、幕府領の飛び地があるだけでなく島津家に敵対してきた外様の伊東氏を飫肥藩に配し、譜代大名の内藤氏を延岡藩に配置している。

明治に入って廃藩置県当初は延岡県、高鍋県、佐土原県、飫肥県(おびけん)が設置されるが、明治4年(1871)の府県合併によって美々津県、都城県に再編され、その後明治6年(1873)にほぼ旧日向国の領域をもって宮崎県が誕生した。

しかしながら、その3年後の明治9年(1876)に宮崎県は鹿児島県に合併されてしまっている。鹿児島県は明治新政府の改革に対する士族の不満が大きく、下野していた西郷隆盛の周辺に士族たちが集まり、明治政府にとっては難治県となっていたのに対し、宮崎県は士族が多かったにもかかわらず、政府に対する反抗はみられず、このような宮崎県民を鹿児島県に吸収させることで、鹿児島の士族の不満が和らぐとの考えがあったと言われている。当時の県令であった福山建偉(鹿児島出身)は宮崎のことを「人民が蒙昧であり…自由の権利と義務を了解せず、旧習を墨守し文化の何たるかを知らない民」(「宮崎県史」より)と評していたそうだが、随分宮崎県民を愚弄したものの言い方だ。

しかし翌年に西南戦争が勃発し、宮崎からも多数の士族・農民たちが西郷軍に加わり、宮崎でも激戦が繰り広げられる。

西郷軍が敗れた後は、専制政治に対する批判は言論によるものが中心となり、全国で自由民権運動が展開されていくことになるが、宮崎地区では納税に見合うだけの投資やサービスがなく、鹿児島地区に予算配分が偏重しているとの不満から、次第に分県が主張されるようになる。

ここから後のことは、次の「宮崎県郷土先覚者」のHPが詳しい。
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kenmin/kokusai/senkaku/pioneer/kawagoe/index.html
その当時県会議員であった川越進が、「日向国分県(宮崎県再設置)」を県令に請願することを提案し、賛同する有志たちで「日州親睦会」が結成して会の代表となった川越は同志の藤田哲蔵、上田集成らとともに新たに着任した渡辺千秋県令に「分県請願書」を提出するが、県令は実現困難だと門前払いにしたそうだ。明治14年(1881)当時の鹿児島県議会は鹿児島出身の議員が36名、宮崎出身の議員が17名で、当時の議会では分県の建議すらも受け入れられないような状況であったのだ。

日州親睦会のメンバーたちは宮崎地区各地を訪ねて、「宮崎県」の再設置を住民に訴えて運動の輪を広げる一方、川越進と藤田哲蔵の二人が上京して在京の秋月種樹(あきつきたねたつ:旧高鍋藩種の世子)や司法省の三好退蔵(旧高鍋藩出身)などと面会し、政府には分県の意思があるが、県令や南諸県郡(現在の鹿児島県志布志など)が反対しているために保留となっていることを知る。
また伊東博文や山形有朋など旧長州出身の有力者などにも陳情を重ね、山田顕義内務卿より「分県のことは、県会を通じて願い出よ」との通達を受け帰郷する。

川越進らは翌明治15年(1882)の3月の県会に「日向国分県建議案」を提出。この建議案は賛成多数で成立するのだが、翌日の県会で、宮里武夫県会議長が建議所上程の可否について再議することを提案し、上程しないことが決議されてしまう。
これに憤慨した宮崎地区出身議員のほとんどが病気を理由に帰郷し、各地で報告会や日向懇親会を開催するなど分権運動がさらに盛り上がることとなる。

翌明治16年(1883)に川越進が鹿児島県県会議長に選出され、3月に再提出された分県建議案は可決され、川越は再度上京し山田内務卿に分県建議書を提出し、4月に参事院で認定されて5月9日に宮崎県再置の布告がなされて、川越らの3年に及ぶ努力が実を結び、7年ぶりに宮崎県が復活するのである。

宮崎県再置布告

上の画像は宮崎県文書センターに収蔵されている宮崎県再配置の太政大臣布告である。

川越進は7月1日に県庁がおかれると、初代の県会議長に就任し、その後明治23年には衆議院議員に選出され、国政の場で宮崎県の発展につくしたという。

宮崎の父川越進像

その後彼は「宮崎県の父」と呼ばれるようになり、宮崎県庁にその銅像があるようだ。彼が中心になって勧められた分県運動は、有志達の私財を使って行われ、彼が政界を引退した大正元年(1912)には、ほとんどの財産を失い、子孫には「政治家などになるものではない」と言い残したそうだ。

地方では若い人の働く場所が少なすぎて、若い世代の流出が止まらない。これでは地方は老齢化が進み衰退してしまうばかりではないか。特に宮崎県はバカな大臣の対応のまずさで口蹄疫の大打撃を蒙ってしまった。これから宮崎の畜産業は立ち直れるのだろうか。

都会も地方もバランスよく発展させ、若い世代が地方でも普通の生活が出来るようにすることを、国家レベルで考えることが必要だと思う。そうしなければ、郷土を愛し、郷土の将来のためにに尽くす人がいなくなってしまう。工場誘致も必要だが、農業などの第一次産業や地場の産業などをあまり軽視してはいけないのだと思う。
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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