HOME   »  本能寺の変
Category | 本能寺の変

本能寺の変で信長の遺体が見つからなかったのはなぜか~~本能寺の変1

都名所図会本能寺

上の図は安永九年(1780)に刊行された「都名所図会」に描かれた本能寺だが、秀吉の命により移転され再建されたものである。信長の時代の本能寺は四条西洞院・油小路・六角・錦小路にわたる地域にあったのだそうだ。

本能寺本堂

秀吉によって移転され再建された本能寺の境内は、今の京都市役所や御池通りを含む広大なものであったそうだが、現在の本能寺はビルに囲まれて随分狭い境内だ。有名な寺院ではあるが、観光客はそれほど多くない。

天正10年6月2日、織田信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、京都の本能寺で主君信長を襲った「本能寺の変」については何度もドラマ化されて、知らない人がいないくらい有名な事件だが、この事件で織田信長の遺体が見つからなかったという記録があることを最近になって知った。

信長は本能寺で自刃したことになっているのだが、遺体が見つからないのになぜ自刃したと言えるのか、誰が自刃するのを見たのか、なぜ死んだと言えるのかなどと多くの人が疑問に思うに違いない。
「自刃した」と書かれているので明智軍の武将が信長を斬ったのではないことは確実だが、もし信長の遺体が発見されなかったのならば、明智軍にとっては、信長が逃げて生き延びた可能性を否定できないはずである。

52ba203c41d5de29d19e9f4dc787d1b9.png

織田信長はこの本能寺をよく上洛中の宿所として利用していたそうだが、事件のあった日に本能寺から200mほど離れた教会にいた宣教師ルイス・フロイスの記録が残っている。この該当部分を読んでみよう。

「…本能寺と称する法華宗の一大寺院に到達すると、明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。ところでこの事件は市(まち)の人々の意表をついたことだったので、ほとんどの人には、それはたまたま起こったなんらかの騒動くらいにしか思われず、事実、当初はそのように言い触らされていた。我らの教会は、信長の場所からわずか1町(ルア)を距てただけのところにあったので、数名のキリシタンはこちらに来て、折からの早朝のミサの仕度をしていた司祭(カリオン)に、御殿の前で騒ぎが起こっているから、しばらく待つようにと言った。そしてそのような場所であえて争うからには、重大な事件であるかも知れないと報じた。まもなく銃声が響き、火が我らの修道院から望まれた。次の使者が来て、あれは喧嘩ではなく、明智が信長の敵となり叛逆者となって彼を包囲したのだと言った。」(中公文庫『完訳フロイス日本史3安土城と本能寺の変』p147-148)

明智光秀

「明智の軍勢は御殿の門に到着すると、真先に警備に当たっていた守衛を殺した。内部では、このような叛逆を疑う気配はなく、御殿には宿泊していた若い武士たちと奉仕する茶坊主(ラパードス)と女たち以外は誰もいなかったので、兵士たちに抵抗する者はいなかった。そしてこの件で特別な任務を帯びた者が、兵士とともに内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手拭いで身体をふいている信長を見つけたので、直ちにその背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である長刀という武器を手にして出てきた。そしてしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り、戸を閉じ、そこで切腹したと言われ、また他の者は、彼はただちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。だが火事が大きかったので、どのように彼が死んだのかは判っていない。我らが知っていることは、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が、毛髪といわず骨といわず灰燼に帰さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては地上になんら残存しなかったことである。…」(同上書p148)

このように、フロイスの記録によると信長がほとんど警戒しておらず、無防備に近い状態であったことは間違いがなさそうだが、信長の死の場面についてはこんなに現場に近い場所でも諸説があったことがわかる。
しかしなぜ信長の遺体が見つからなかったのだろうか。木造建築物が火事になった場合の温度は1000度程度だ。「生きながら焼死」したのがわかっているのであれば、この温度で骨が残らないのは不自然だ。

Wikipediaによると、
「光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまったためと考えられる。しかしながら、密かに脱出し別の場所で自害したという別説がある。また信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に黒人の家来・弥助がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明となっている。」と書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
遺体については火薬で爆散したという説を支持しておられるようだが、それならばフロイスの記述の中に、爆発があったことが書かれていないのが不自然だ。
よしんば火薬の爆発があったとしても、信長の遺体や遺品がいくら探してもみつからなければ、信長が逃亡して生き延びている可能性を考えない方がおかしいような気がする。なぜこのことを議論しないのだろうと思っていると、ネットでこんな記事が見つかった。

次のURLに、いずれも江戸時代の初期に書かれた小瀬甫庵の『甫庵信長記』、松平忠明『当代期』で光秀が行った信長の遺体の捜索状況について書かれている部分が引用されている。
http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide081.htm

小瀬甫庵の『甫庵信長記』では
「御首を求めけれどもさらに見えざりければ、光秀深く怪しみ、最も恐れはなはだしく士卒に命じて事のほかたずねさせけれども何とかならせ給ひけん、骸骨と思しきさえ見えざりつるなり。」と記している。
『当代記』では「焼死に給うか。終りに御死骸見え給わず。惟任も不審に存じ、色々相尋ねけれども、その甲斐なし。」とある。
「惟任(これとう)」というのは明智光秀のことだが、もし信長の遺体が見つからないのであれば、光秀は信長の生存を怖れないはずがないと思うのだ。

『甫庵信長記』は文学作品としては読まれても、記述の3割以上がフィクションで史料としては評価されていないのだが、では史料価値が高いとされている『信長公記』ではどう記述されているのか。つぎのURLでその原文を読むことができる。
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/sintyokouki_16.pdf

織田信長

そこには、
「信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし侯へば、何れも時刻到来侯て、御弓の絃切れ、其の後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、是れまで御そばに女どもつきそひて居り申し侯を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来なり侯。御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ侯か、殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めされ、…」(巻十五、「信長公本能寺にて御腹めされ侯事」)
と、ここには信長が自刃したことは書かれていても、遺体のことについては何も書かれていない。

織田信忠

ところが、同じ日に信長の嫡男である信忠が二条新御所に篭城して明智軍と戦い、最後に自害する場面では『信長公記』にはこう書かれている。
「…三位中将信忠卿の御諚には、御腹めされ候て後、縁の板を引き放し給ひて、後には、此の中へ入れ、骸骨を隠すべきの旨、仰せられ、御介錯の事、鎌田新介に仰せつけられ、御一門、歴貼、宗従の家子郎等、甍を並べて討死。算を乱したる有様を御覧じ、不便におぼしめさる。御殿も間近く焼け来たる。此の時、御腹めされ、鎌田新介、冥加なく御頸を打ち申す。御諚の如くに、御死骸を隠しおき、無常の煙となし申し、哀れなる風情、目も当てられず。」(巻十五、「中将信忠卿、二条にて歴々御生害の事」)
と、信忠については遺体を隠す命令を出したことが明記されている。

『信長公記』には信長の遺体については書かれていなくとも、信長が信忠と同様の措置を部下に指示した可能性は高いと思われる。

しかし信長の遺体は、後日秀吉が探しても見つからなかったという。
ということは、信長の遺体を余程わかりにくいところに隠したか、遺体を外部に持ち去った人物がいるのか、明智軍が遺体を確保したがその事実を秘匿したか、あるいは隙を見て信長が逃亡するのに成功したかのいずれかだろう。
次のURLでは本能寺の変の黒幕がいて、明智軍が遺体を確保したが秘匿したという推理をしているが、この説も面白い。確かに、もし信長が生きていたら、明智光秀は信長からいつ報復を受けてもおかしくないのだが、なぜ悠長に京都にとどまっていたのは不自然だ。
http://www.uiui.net/~9musai/pc/odanobunaga/NobunagaChapter-020102.htm
私も黒幕がいた可能性を考えているのだが、それを書くのは別の機会にしておこう。

話を元に戻そう。信長や信忠はなぜ部下に自分の遺体を隠せと言ったのだろうか。
一言でいうと、当時は首級を晒すことによってはじめて、その人物を討ち取ったことを世間に認識させることができた時代なのだ。もし明智光秀が信長の首を討ち取っていれば、その後の歴史の展開は大きく異なっていた可能性が高いと言われるほど、相手の首級を取ることが重大事であったのだ。

摂津の梅林寺所蔵(天正十年)六月五日附中川瀬兵衛尉宛羽柴筑前守秀吉書状にこんなものがある。
「上様(信長)并(ならびに)殿様(信忠)、何も無御別儀御きりぬけなされ候。ぜゝか崎へ御のきなされ候内に、福平左三度つきあい、無比類動候て、無何事之由、先以目出度存候云々。」
要するに秀吉は、信長も信忠も巧みに明智の難をまぬがれて無事であったという具合に茨木城主の中川清秀に宣伝しているのだ。
http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20100131/1264953705
豊臣秀吉

秀吉は、こういうニセ情報の手紙を各地に送り、他の武将が明智光秀に味方するのを妨害したということだ。
信長の家臣の大半が日和見を決め込んだのは、信長の首が見つからなかったことがかなり響いているのではないか。明智光秀は秀吉の情報戦に敗れたとはいえないか。
当たり前のことなのだが、テレビもラジオも写真もなく、手書きの文書と口頭報告で情報を伝えていた時代のことだ。ニセの文書もいくつも作られていたことだろう。有名武将の死を広めるには、人通りの多いところで晒首にすることが明治維新の頃まで続いたことを忘れてはならない。要するに敵方の武将の首を取ることができなければ、情報戦に勝つことは難しい時代だったのだ。

ところで、遺体がなかったはずの織田信長の墓が全国に何か所もあるのは面白い。
一つは京都市上京区にある阿弥陀寺の石碑。当時の住職が本能寺の変直後に家臣が信長の遺体を火葬した場に遭遇し、その遺骨と後日入手した信忠遺骨を寺に葬ったと伝えられている。
一つは京都市北区にある大徳寺総見院の五輪塔。この寺は秀吉が建立し、木造を2体作って1体は火葬し、1体を寺に安置したという。
一つは静岡県富士宮市の西山本門寺。ここには原宗安が本能寺の変で戦死した父と兄の首とともに、信長の首を持ち帰り首塚に葬ったという話が残されている。
他にも、高野山奥の院、安土城二の丸跡、岐阜市崇福寺、名古屋市総見寺などがWikipediaで紹介されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7

阿弥陀寺

以上の中で、私が最も注目したいのは京都市上京区の阿弥陀寺
当時の住職であった清玉(せいぎょく)上人は、元亀元年の東大寺大仏再建の勧進職を務め天皇家や織田家とも親交があった人物だそうだが、この寺に残されている『信長公阿弥陀寺由緒之記録』は非常に興味深い。
本能寺の変を聞いて清玉上人は僧20人以上を連れて現場に駆け付けた。
「…表門は厳重に軍兵四方を囲み寺内に入る事出来ず、裏道より辛うじて入るが堂宇に火が放たれ、すでに信長公が割腹せられしと聞き、そばの竹林に十人余の武士集まりて火を焚く者あり、上人がこれをみるに信長の家臣なり、之に顛末を聞くに信長公割腹の時必ず死骸を敵に渡すことなかれと遺言あり、しかし四方敵兵にて死骸を抱きて遁れ去る道なし、やむなく火葬して隠しおいて各々自殺せんと一同答えたり、上人信長公とは格別の由縁あるを以て火葬は勿論将来の御追悼をもなさんとて武士に乞い、各々自殺するよりむしろ信長公の為に敵にあたりて死せんことを望むと語りければ、武士ら大いに喜び門前の敵を向うすきに上人火葬し白骨を法衣につつみ本能寺の僧徒らが逃げるのにまぎれこんで苦もなく帰寺し白骨を深く土中に隠しおきたる。…」とリアリティを感じるのだ。

また、秀吉が清玉上人に信長の1周忌を喪主して執り行うことを申し出たということも興味深い。その際清玉上人は、信長の継承者争いを勝ち抜くために信長の一周忌を利用しようとする秀吉に対し「人の道にあらず」と断ったという。秀吉が他の寺ではなく最初に阿弥陀寺に申し出ているところに信憑性がありそうだ。
清玉上人に断られた秀吉は、大徳寺総見院を創建して信長を弔い、その後天下人となってから、この阿弥陀寺を上立売大宮東から今の寺町今出川に移転させ、所領を大幅に削っている点も面白い。
http://www.nobunaga-lab.com/labo/07_ibutu/07-03_iseki/byousyo/amidaji.html

私には『信長公阿弥陀寺由緒之記録』が作り話のようには思えないのだが、もし伝えられている内容が真実であれば、秀吉は阿弥陀寺の信長の遺骨は本物だということを確信していたということになる。しかし、自らが喪主になることが許されなかったので、今度は阿弥陀寺にある遺骨が本物である事が流布しないように、信長の遺体が見つからなかったということを広めて光秀の戦略の拙さに焦点を当てた物語を書かせて、阿弥陀寺のことを人々の記憶から消し去ろうとしたという見方はできないだろうか。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓ 


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。










本能寺で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変2

前回の記事で、イエズス会のフロイスが書いた本能寺の変に関する記述の一部を紹介した。 その引用した部分の少し前に、驚くべきことをフロイスが書いている。

「…そして都に入る前に兵士たちに対し、彼(光秀)はいかに立派な軍勢を率いて毛利との戦争に出陣するかを信長に一目見せたいからとて、全軍に火縄銃に銃弾を装填し火縄をセルベに置いたまま待機しているように命じた。
 …兵士たちはかような動きがいったい何のためであるか訝り始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(家康)を殺すつもりであろうと考えた。このようにして、信長が都に来るといつも宿舎としており、すでに同所から仏僧を放逐して相当な邸宅となっていた本能寺と称する法華宗の一大寺院に到達すると、明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。…」(中公文庫「完訳フロイス日本史3」p.147)

明智軍は毛利攻めへの出動を信長から命じられていたはずなのだが、兵士たちは家康を討ちにいくのではないかと考えていたというのだ。

このような記録は、この戦に参加した武士の記録にも残されている。
Wikipediaには本能寺の変明智光秀に従軍していた光秀配下の武士本城惣右衛門が、江戸時代に入って晩年、親族と思われる三人の人物に宛てた記録(『本城惣右衛門覚書』)の原文と翻訳文が掲載されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E6%83%A3%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80%E8%A6%9A%E6%9B%B8

「…あけち(明智)むほんいたし、のぶなが(信長)さまニはら(腹)めされ申候時、ほんのふ寺(本能寺)へ我等よりさきへはい入申候などという人候ハバ、それハミな(皆)うそにて候ハん、と存候。其ゆへ(故)ハ、のぶながさまニはら(腹)させ申事ハ、ゆめともしり不申候。其折ふし、たいこ(太閤)さまびつちう(備中)ニ、てるもと(毛利輝元)殿御とり相ニて御入候。それへ、すけ(助)ニ、あけちこ(越)し申候由申候。山さき(山崎)のかたへとこころざし候へバ、おもい(思い)のほか、京へと申候。我等ハ、其折ふし、いへやす(家康)さま御じやうらく(上洛)にて候まま、いえやすさまとばかり存候。人じゅの中より、馬のり二人いで申候。 たれぞと存候へバ、さいたうくら介(斉藤利三)殿しそく、 こしやう共ニ二人、ほんのぢのかたへのり被申候あいだ、 我等其あとニつき、かたはらまち(片原町)へ入申候。… 」

と、一般の兵士は、毛利攻めに行くつもりが、急に京都に向かうこととなり、てっきり家康を討ちに行くのだと考えたが、信長を討つことは夢にも思わなかったと書いてある。 基本的に書いてあることはフロイスの記述とほぼ同じだが、斉藤利三が本能寺へ向かう明智軍を先導したということは注目してよい。

いずれの記録にも、信長から「家康を討て」という命令があったとは書いていないが、多くの兵士たちが「家康を討つことになるのだろう」と考えたのは何故なのだろうか。本能寺の変に至るまでの経緯をまず振り返ってみることにしよう。

安土城絵

天正10年(1582)までに、織田信長は京を中心とした畿内とその周辺を手中に収め、天正10年3月には武田氏を滅ぼしている。
明智光秀は、武田征伐から帰還したのち、5月15日より安土城において武田氏との戦いで長年労のあった徳川家康の接待役を務めた。しかしながら、15日に秀吉から応援の要請が届いたため信長はその日に光秀・高山右近・中川清秀らに羽柴秀吉援護の出陣を命じ、17日に光秀は接待役を途中解任されて居城・坂本城に戻り、26日には別の居城丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めたとある。
「丹波亀山城」は今の京都府亀岡市にあり「亀岡城」とも呼ばれた城だが、一旦京都から遠ざかる位置にある城に向かったのは、毛利攻めに行くと見せかける必要があったのだろうか。

一方徳川家康は、重臣たちを引き連れて5月14日に安土に到着し、安土城での饗応の後、信長の命により5月21日に安土を出て、京都や堺などを見学することとなる。

また、信長は29日に秀吉の援軍に自ら出陣するため小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土城を発つ。同日、京・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った。同時に、信長の嫡男・織田信忠は妙覚寺に入った。翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いている。

そして本能寺の変のあった6月2日には家康とその重臣一行の三十名ほどが早朝に堺を出てこの本能寺に向かっていたことが、家康に同行していた茶屋四郎次郎の『茶屋由緒記』に記載されているそうだ。

武田が滅亡して日も浅い時期である。徳川家康が少数の家臣を引き連れて安土に行くだけでもリスクがあることなのに、信長に命令されて京都や堺を見学させられることになった。家康ほどの人物ならば、重臣たちとともにどこかで命が狙われる危険を察知していて当然だろう。

427年目の真実

またこのとき筒井順慶も軍を引き連れて大和郡山城から京都に向かっていたというのだが、信長が光秀にも順啓にも本能寺に集結することを指示していたのなら、この日に信長が本能寺で家康の暗殺を仕掛けていたという明智憲三郎氏の説(プレジデント社『本能寺の変四二七年目の真実』)は、的を得たものであると思う。

老人雑話

この時代を生きた江村専斎という医者が書き残した『老人雑話』という本が京都大学のデータベースで公開されている。テキストデータがみつらなかったが画像の文字で大体の意味は分かる。上の画像は、本能寺の変について書かれた部分だ。
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/t176/image/1/t176s0034.html
画像の左のほうに「明智の乱(本能寺の変)のとき、東照宮(家康)は堺にいた。信長は羽柴藤吉郎に、家康に堺を見せよと命じたのだが、実のところは隙をみて家康を害する謀であったという。」と書かれている。

信長は家康を警戒させないために、信長は関西の諸大名に毛利攻めへの加勢を命じて手薄にさせ、信長自らも本能寺にわずかの人数で宿泊している。信長は6月4日に毛利攻めに出陣することを決定しており、織田軍の主力は出陣に備えて上洛途中か、安土城に集結していたと考えられる。
手勢が少なかったのは家康も同じであったのだが、明智憲三郎氏の考えでは、家康はまんまと信長の術中にはまったふりをしながら、この危機から逃れる手をすでに打っていたということになる。明智光秀徳川家康と繋がっていたというのだ。

本能寺の変の謎はいくつもあるのだが、なぜ信長は本能寺にあれほどに無警戒であったのか。この点は重要なポイントであるはずだ。

徳川家康

その理由を明智憲三郎氏は
「…信長が謀反に全く無警戒であったのは、自分自身が家康を討つ罠を仕掛けていたからです。自分の仕掛けた罠の実行に気を取られ、それを逆手に取られることなど思いも及ばなかったからです。」(同上書p133)
光秀は信長による家康の暗殺計画の全貌を知っていたからこそ、それを「逆手に取る」ことで簡単に謀反を起こすことができた、と分かりやすい。

『信長公記』の本能寺の朝の場面を読むと、確かに信長の発した言葉は、光秀に自分の考えた策の「逆手を取られた」という気持ちが出ているように思える。

本能寺の変錦絵

原文ではこう書かれている。
「…(光秀は)桂川打ち越え、漸く夜も明け方に罷りなり侯。既に、信長公御座所、本能寺取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり、…。是れは謀叛か、如何たる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し侯と、言上侯へば、是非に及ばずと、上意候。…」
信長が何故「是非に及ばず」(確認する必要なし)と言ったのか。
謀反を起こしたのが明智勢と聞いて、信長に思い当たるところがあったということではないのか。

本能寺の変錦絵2

では、明智光秀織田信長から家康暗殺を指示されたのはいつなのか。
この記事の最初に本能寺の変までの流れをまとめたのだが、光秀は安土城で家康の接待役を務めている。その接待の打ち合わせを不思議なことに信長と光秀は密室で行っているのだ。
ルイス・フロイスの「日本史」にはこう書かれている。
「これらの催し物の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが…、人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長が立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。だが、これは密かになされたことであり、二人だけの間での出来事だったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが…」(中公文庫p.144-145)
と書かれているが、そもそも饗応の打ち合わせについてなぜ密室でなされる必要があるのか、この時に家康の暗殺の手筈が光秀に指示されたのではないかということを明智憲三郎氏をはじめ多くの人が指摘している。光秀が信長に足蹴にされたのは、一旦は光秀は家康暗殺に反対したのではないのか。

安土城

次に、光秀はいつ家康と本能寺の変の打ち合わせをすることができたのか。 先ほど本能寺の変が起こるまでの経緯を記述したが、5月15日に安土城で光秀が家康の接待役を命じられている。その時に信長の計画を逆手に取る密談ができる時間はたっぷりあったのである。

信長の謀略を裏付ける資料はほかにもある。 奈良の興福寺多聞院で140年間書き継がれた『多聞院日記』に、この日の筒井順慶軍のことが記述されている。
「一順慶今朝京へ上処、上様急度西國へ御出馬トテ既ニ安土へ被帰由■、依之被帰了」
(筒井順慶は今朝上洛の途中、信長は急に中国へ出陣するために安土へ帰ったとのことなので引き返した)
この記述には2つのポイントがある。1つはなぜ信長が出陣したので順啓が京都に行く必要がなくなったと納得したのか。もう一つは誰が、信長が安土に向かったというデマを流したのか。
前者については、順啓は毛利攻めに加担するのではなく、京都にしか用事がない仕事であった。これは向かう先は本能寺しかありえないということになる。
2つ目は光秀以外の何者かが、この日の朝に本能寺に何が起こるかがわかっている人物いて、ニセ情報を使って筒井順慶が京都(本能寺)に近づくことを阻んだという事実である。もしこのデマが流されなかったら、明智光秀と縁戚関係にある筒井順慶は、明智方についた可能性が高かったと考えられるのだ。
ではそのニセ情報の出し手は誰なのか。家康なのか、秀吉なのか。秀吉も安土城での家康の接待の日にあわせて毛利攻めの加勢を申し入れている。これは恐らく信長か仕掛けたのではないか。とすれば、秀吉は本能寺で6月2日に何があるかは判っていたはずだ。

このように本能寺の変を当時の史料で見ていくと、通説とは全く異なる有力武将同士の権謀術数の世界が見えてくる。明智光秀が単独で謀反に及んだというのが通説だが、これらの史料を読めば、明智光秀の単独の犯行というような単純な話ではなさそうだと誰でも思うだろう。戦国時代の真実は、我々が学んできた歴史よりもはるかにドロドロとしたものなのだ。

しかし、明智光秀はなぜ謀反を起こしたのか。その動機はどこにあったのだろうか。そのテーマを書きだすとまた長くなるで、次回に書くことにしたい。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加





【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。




明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変3

本能寺の変について当時の記録を紹介しながら今まで2回に分けて書いてきたが、ここまで読んでいただいた方には、この事件については真実が相当歪められて後世に伝えられていることに気付かれたのではないだろうか。

本能寺の変については、市販されている「もう一度読む山川日本史」では
「信長は1582(天正10)年に武田氏をほろぼしたあと、さらに中国地方の毛利氏を攻撃するために安土を出発したが、京都の本能寺に宿泊中、家臣の明智光秀に攻められて敗死した(本能寺の変)」(p.142)
と、きわめて簡単に書かれているだけだ。
他の教科書も大同小異だが、共通しているのは光秀の単独犯行らしき書き方をしている点と、光秀が謀反を起こした動機については何も書かれていないという点である。

前回記事で信長暗殺が光秀の単独犯行説とは考えにくいような当時の文書がいくつも残されていることを紹介したが、そもそも光秀はなぜ信長を討つことを決意したのだろうか。
この点について教科書が書けないのは、あまりにも多くの説が存在し、定説がないからである。

Wikipediaには、明智光秀の単独説が5件、黒幕説が19件もの説が紹介されているのだが、他にもここに記載されていない説があるはずだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89#.E5.A4.89.E3.81.AE.E8.A6.81.E5.9B.A0

詳しくは上記サイトを読んでいただきたいが、そこでは次のように総括されている。
「江戸時代を通じて、信長からの度重なる理不尽な行為が原因とする『怨恨説』が創作を通じて流布しており、明治以降の歴史学界でも俗書や講談など根拠のない史料に基づいた学術研究が行われ、『怨恨説』の域を出ることはなかった。
こうした理解は、映画やドラマなどでも多く採り入れられてきたため、「怨恨説」に基づいた理解が一般化していた。」
また、
「これまで「怨恨説」の原因とされてきた俗書を否定し、良質な一次史料の考証に基づき議論」がなされるようになったのは戦後の研究からで、「…現在ではさまざまな学説が唱えられており、…意見の一致をみていない。」と書かれている。

この記述の裏を返すと、戦前の研究は「怨恨説」が主流で、それらの説は俗書や講談など根拠のない史料に基づいたものであったということだ。
「怨恨説」はつまるところ明智光秀の単独犯行説であり、死んだ光秀に原因のすべてを擦り付ける意図がある可能性が濃厚だ。

Wikipediaの記事には何が「俗書」なのかは明確には書かれていないが、「俗書や講談など根拠のない史料」とは具体的にどの書物を指し、どういう経緯でそのような書物が世に出たのだろうか。

信長公記

本能寺の変」に関して最も史料的価値が高いと歴史家から評価されているのは『信長公記』で、これは織田信長の家臣である丹羽長秀の祐筆であり後に秀吉に仕えた太田牛一が記録した文書で、信長の幼少期から本能寺の変までの記録が全16巻にまとめられている。
同時代に刊行されたものではなく、写本だけが残っており、池田家文庫本には慶長15年(1610)の太田牛一の自署があり、完成されたのは江戸時代の初期と考えられている。
原文を紹介すると、巻十五に
「六月朔日、夜に入り、丹波国亀山にて、惟任日向守光秀、逆心を企て、明智左馬助、明智左馬助、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵佐、是れ等として、談合を相究め、信長を討ち果たし、天下の主となるべき調儀を究め、亀山より中国へは三草越えを仕り侯ところを、引き返し、東向きに馬の首を並べ、老の山へ上り、山崎より摂津の国の地を出勢すべきの旨、諸卒に申し触れ、談合の者どもに先手を申しつく。」
と書いてあるだけで、明智光秀が謀反に及んだ動機らしきものにはあまり踏み込んだ記載がない。強いて分類すれば天下取りの野望説ということになるのだろうか。
しかし、『信長公記』は当時において一般刊行されたものではなく、人々に広く読まれたものではなかった。

刊行されたものでは天正10年(1582)の本能寺の変のわずか4か月後に『惟任退治記』(これとうたいじき: 惟任は光秀のこと)という書物が世に出ている。著者の大村由己は豊臣秀吉の家臣である。
このなかで大村由己は、「惟任公儀を奉じて、二万余騎の人数を揃へ、備中に下らずして、密に謀反をたく企む。併しながら、当座の存念に非ず。年来の逆意、識察する所なり。」と書き、織田信長の最期の言葉として「怨みを以って恩に報ずるのいわれ、ためし(前例)なきに非ず」と語らせるなど、明智光秀の信長に対する長年の怨恨が謀反の原因であることを印象付けようとしていることが明らかだ。

大村由己は豊臣秀吉の偉業をたたえるスポークスマンのような存在で、「天正記」と呼ばれる軍記物のほか、秀吉を主役とする新作能もいくつか書いている。本能寺の変をテーマにした『明智討』は、文禄3年(1594)に大阪城および宮中で秀吉本人の手によって披露されたのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%94%B1%E5%B7%B1

川角太閤記

そして江戸時代に入って『太閤記』がいくつも刊行されている。
江戸時代初期に書かれた『川角太閤記』(かわすみたいこうき)は、秀吉の死後家康に仕え柳川城主となった田中吉政の家臣であった川角三郎右衛門という人物が、当時の武士の証言をもとに書き記した全五巻の書籍だが、事件後40年以上も経ってから書かれた物語でありかなり事実と異なる部分があるようだ。
この本では先ほどの『惟任退治記』が公式化した光秀の信長に対する怨みを裏付けようと、その怨みのもととなる話をいくつか創作し、「怨恨説」をさらに強化したと言われている。

甫庵太閤記

また『甫庵太閤記』(ほあんたいこうき)という全20巻の書物が、寛永3年(1626)から版を重ねている。
著者の小瀬甫庵(おぜほあん)は、豊臣秀次に仕えたのち、秀吉家臣の堀尾吉晴に仕えた人物で、『信長公記』や『惟任退治記』を参考にして著述したといわれ、この本もかなり創作がなされている。光秀が小栗栖の竹藪で土民に刺されて殺された話はこの書物ではじめて書かれたものだそうだ。この本では、光秀の謀反の理由を、安土での家康饗応役を取り上げられて、毛利攻めを命令されたことを恨んだためと書かれているそうだ。

絵本太閤記

また『絵本太閤記』という書物が、寛政9年(1797)~享和2年(1802)まで7編84冊が刊行され、人形浄瑠璃にもなって評判を博したと言われている。
本書は大阪の戯作者・武内確斎(たけうち かくさい)が大阪の挿絵師・岡田玉山と組んで出版した読本で、『川角太閤記』をもとに記述したものである。この本も光秀の謀反の理由は怨恨によるものというストーリーである。

浄瑠璃舞台

これらの『太閤記』などによって秀吉伝説が作られ、光秀の怨恨による謀反であるとの本能寺の変の常識が一派民衆に定着していくことになった。明治以降に書かれた小説の多くが同様に怨恨説を採用しているのは、これらの『太閤記』などを参考にして書かれたという事なのだろう。

よくよく考えればわかることなのだが、秀吉の家臣である大村由己が秀吉の不利になることを封印して秀吉を礼賛することは当たり前のことなのだ。
また秀吉の時代はもちろんのこと、江戸時代についても今よりもはるかに言論統制が厳しかった時代だから、そもそも徳川家康の悪口が書けるはずがなかったのだ。
したがって、そのような書物を参考にして歴史小説を書けばどんな作家でも、光秀の謀反は単独実行で謀反を起こした理由は信長に対する怨恨にある、とならざるを得ないのだと思う。

しかし前回の記事に書いた通り、当時の記録からすれば信長自身が本能寺で家康を討つことを画策していた可能性がかなり高い。そのことを家康も秀吉も事前に知っていたから、二人は勝ち残ることができた。そして、少なくとも家康は、光秀と繋がっていた可能性が高いと前回書いたのだが、そもそも光秀はなぜ信長を討とうと考えたのか。

『信長公記』には信長が光秀を苛めたようなことは一切書かれておらず、むしろ信長は光秀を高く評価し信頼を置いていたのであり、二人の間に相克があったとい話は、怨恨説を書くために後になって創作されたものらしいのだ。

しかし、前回の記事で紹介したルイスフロイスの記録で、安土城で家康を接待する前の打ち合わせで、信長と光秀が「密室」で何かを話し合い、光秀が言葉を返すと信長が怒りを込めて光秀を足蹴にしたという話がどうも引っかかるのである。

                              
明智憲三郎氏はここで、家康を畿内におびき寄せて暗殺する策を光秀に伝えたのち、光秀が信長に対して長宗我部征伐を思いとどまるように直訴したが、信長から拒絶されたと推理しておられるのだが、なぜ光秀は信長の長宗我部征伐に反対したのだろうか。

信長はそれまで光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていた。
光秀は重臣である斎藤利三(さいとうとしみつ)の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結び、光秀と長宗我部との関係もきわめて親密な関係になっていたのだが、天正8年(1580)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれとなり、実現に向かっていた光秀と長宗我部との畿内・四国同盟崩壊という死活問題でもあった。

前回の記事で『本城惣右衛門覚書』を引用して、明智軍を本能寺まで先導したのは斉藤利三であったと書かれていることを紹介したが、利三にとっては姻戚関係にある長宗我部氏を征伐することを阻止したかったことは当然である。

私も詳しく知らなかったのだが、信長は毛利攻めだけでなく、四国攻めの朱印状をも同時に出していた。織田信長が三男の信孝に与えた天正10年(1582)5月7日の朱印状は、信孝に讃岐(現在の香川県)を、三好康長に阿波(徳島県)を与えるとともに、残りの土佐(高知県)・伊予(愛媛県)は信長が淡路島に到着したときに沙汰すると書かれているそうだ。
そして、大阪に集結した長宗我部征伐軍の四国渡海は天正10年6月3日、つまり本能寺の変の翌日に予定されていたというのだ。
そしてこの計画は本能寺の変により吹き飛んで、長宗我部征討軍は崩壊してしまった。

長宗我部元親

危機一髪、長宗我部氏は滅亡を免れ、そしてその3年後の天正13年(1585)に長宗我部元親は四国全土の統一に成功するのである。

長宗我部元親の側近である高島孫右衛門という人物が記した『元親記』には「斉藤内蔵介(斉藤利三)は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いを差し急いだ」と書かれているそうだ。光秀の信長に対する謀反の早期実行を迫った人物は斉藤利三だというのだ。

明智憲三郎氏によると、
「光秀の家臣団は、明智秀満などの一族衆と斉藤利三等の美濃出身の譜代衆が中核となり、光秀が坂本城主となって以降抱えた西近江衆、山城衆、さらに義明追放に伴って組み込まれた旧幕臣衆、丹波領有により配下となった丹波衆などから構成されていました。その求心力となっていたのは、一族衆をはじめとする土岐一族でした。」(「本能寺の変四二七年目の真実」p.76)と書いてある。

桔梗紋

土岐氏は室町時代には美濃・尾張・伊勢を治めた名門だが、天文21年(1552)に土岐頼芸が斉藤道三により美濃を追われて没落したため、明智光秀によって土岐氏再興をはかることが一族の悲願であったというのだ。また鎌倉時代には土岐三定(ときみつさだ)が伊予守となって以来土岐氏が伊予守を継承しており、四国は土岐氏にとって特別な場所だった。だから、土岐一族は信長の長宗我部征討の命令には従えなかったという事になる。

決定的な裏付け資料があるわけではないのだが、証拠が乏しいのはどの説を取っても同じことだ。限られた史料の中で、もっともこの説が他の史料との矛盾が少なく、真実に近いものではないかと私は思う。家康と光秀は繋がっていて、秀吉は光秀が本能寺で何をするかがわかっていなければ、他の史料と矛盾してこの事件は説明ができないのだ。

しかし、秀吉の情報工作にはほとほと感心してしまう。彼が最初に書かせた『惟任退治記』や『太閤記』などがベースになって物語や戯曲化され、各時代の人々に広まって、嘘話があたかも史実のように広まってしまっている。

尖閣


「嘘も百回言えばそれが史実になっていく」という方法での情報操作はかなり古くからあったし、どこかの国ばかりではなく日本でも、マスコミを使って露骨な情報操作がなされることが少なくないようだ。
しかし、今はネットで正しい情報を拡散させることが誰でもできる。せめて、我々が生きている時代については、おかしな情報工作を排除させて、真実の歴史を後の世に伝えていきたいものである。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加






家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変4

歴史の定説では、「本能寺の変」を知った徳川家康は、明智光秀軍や混乱に乗じた落武者狩りなどの遭遇を回避するために、わずか34名の供回りで堺から脱出したのち伊賀の山を越え、大変な苦労をして命からがら三河に帰ったことになっている。(「神君伊賀越え」)
また途中で家康と別行動をとった穴山梅雪(あなやまばいせつ)は、落武者狩りの土民に襲撃されて殺害されたことになっている。穴山梅雪とは武田勝頼滅亡後に甲斐武田家の名跡を継いだ人物である。
家康に関する小説やドラマを見ても、またブログの記事を見ても大半が同様な内容になっている。

前回記事で、当時の史料を読むと家康と光秀はつながっていた可能性が高いことを書いた。
ある読者から質問が来て、もし家康と光秀とがつながっていたとしたら光秀軍が襲ってくることはありえないのだから、家康生涯の最大の危機と言われている「神君伊賀越え」というのは何だったのかという質問を受けた。
その点については前回紹介した明智憲三郎氏の著書に、家康は悠々と三河に帰っているという当時の記録が紹介されているから面白い。

伊賀越えルート

茶屋四郎次郎の『茶屋由緒記』を明智氏が要約した文章を引用する。
「茶屋四郎次郎清延は家康一行の堺遊覧が済んだ旨を信長に伝えるため六月一日に(先発して)京都に向かった。
 本能寺の変が勃発すると直ちに堺へ急信に走り、(途中の中間点に近い)枚方で、(その朝先行して堺を出た)家康家臣の本田平八郎と行き会った。
 (さらに少し堺へ引き返した)飯盛山で家康一行と行き会い、事後処理を相談した。帰国して弔い合戦をすることに評議が決まり、所々山賊の蜂起に遭遇したが、四郎次郎が先発して金を撒いたので所々の者が案内を申し出て、家康は御機嫌よく三河へ帰った。」(『本能寺の変四二七年目の真実』p.165)

また、『伊賀者由緒忸御陣御伴書付』には服部半蔵ら伊賀者190人が伊賀から伊賀白子まで家康のお供をしたことが書かれているそうだ。なぜ、伊賀者が家康の護衛をしたかについては、家康の家臣である大久保彦左衛門尉忠教が『三河物語』にこう書いている。

「…信長がかつて伊賀の国を攻めとられたとき、みな殺しにして、諸国へ逃げた者も、つかまえて殺したが、三河へ落ちて家康をたのんだ人びとを、家康はひとりも殺すことなく、生活の世話をなさったが、国に討ちもらされていた者が、そのときのことをありがたく思っていて『こんなときにご恩をおかえししなくては』と家康をお送りした」(同上書p.166)というのだ。

伊賀越えの道

常識的に考えて200人近い護衛を即座に集めることは難しいだろう。明智憲三郎氏は、家康はあらかじめ伊賀越えをルートに選んで、逃走のための護衛も準備したと推理されているが、私もその通りだと思う。

また、穴山梅雪が死亡したのは落武者狩りの土民に襲撃されたのではなく、切腹して死んだことが三河深渦城主の松平家忠が残した『家忠日記』に明確に記されている。

「六月四日  家康は堺にいたが岡崎へ帰ってきた。家康以下、伊勢を発って大浜に上陸した。町まで出迎えに行った。穴山は切腹した。…」(同上書p.168)

岡崎に到着したのが6月4日というのも注目だ。本能寺の変は6月2日だからわずか3日で、初めて歩く山道を進んで堺から岡崎に戻っていることになるのだが、200kmを優に超える距離を一揆と何度も戦いながら命からがら逃げて帰ったにしてはどう考えても早すぎる。早駕籠にでも乗って、ほとんど何のトラブルもなく岡崎に戻ったのでないだろうか。
ちなみに江戸幕府の公式記録である『徳川実紀』では、「七日に岡崎へかへらせ給ひ。主從はじめて安堵の思をなす。」とあり、さらに3日かけて帰ったことになっている。

家康は信長の仇討ちをするために三河に戻ったのであるから、戦闘準備を整えて西に進んで光秀を討ちに行かなければ筋が通らないのだが、家康は直ちに織田領となっていた甲斐・信濃への進攻を開始し、6月18日に甲斐を治めていた織田家重臣の河尻秀隆を討ち果たし、最終的には織田の領土である甲斐全土と信濃半国を手中に収めてしまっている。

家康には、信長の弔い合戦で光秀を討伐する意志など金輪際なかったとしか考えられない。家康が急いで三河に帰ったのは、武田を滅ぼして織田領になったばかりの甲斐・信濃を徳川の領土とすることしか眼中になかったのではないか。

徳川実紀

もしそうだとすれば、家康にとっては、甲斐を攻めるにあたり武田家を継いだ穴山梅雪の存在は邪魔なものでしかなかったはずだ。穴山梅雪は、一揆勢に殺されたのではなく家康により切腹させられたと考えるのが妥当なところではないのか。『徳川実紀』で、家康が戻った日が3日も違うのは、梅雪が殺された理由を一揆勢とした手前、家康らも何度か一揆勢に襲われる危険があったとしなければ辻褄が合わず、また光秀の討伐ではなく織田領の甲斐・信濃をあまりに早く攻めたのでは織田家に敵対する意図が露見してしまう。

そこで、家康の行動を正当化するために、徳川幕府の正式記録には家康の「神君伊賀越えは家康の生涯最大の危機だった」と書き、大変な苦労をして三河に帰ったこととした。ほとんどの小説はその立場をとり、ネットで書かれている記述の大半も通説と変わらない記述になっている。
では、通説などが「神君伊賀越え」の記述の参考とした、江戸幕府の公式記録をまとめた『徳川実紀』という書物にはどう記されているのか。
『徳川実紀』は歴代の将軍ごとに纏められていて、徳川家康に関する記録は『東照宮御実紀』と称している。次のURLで誰でも読むことができる。
http://www.j-texts.com/jikki/toshogu.html
この文の中に「これを伊賀越とて御生涯御艱難の第一とす」という記述があり、全文検索を使えば該当箇所を容易に探すことができる。
この前後を読むと「伊賀越え」に関する通説はすべてこの『徳川実紀』を参考にしていることがわかる。
一部を紹介しておこう。

「我本國に歸り軍勢を催促し。光秀を誅戮せん事はもとより望む所なり。去ながら主從共に此地に來るは始なり。しらぬ野山に さまよひ。山賊一揆のためこゝかしこにて討れん事の口おしさに。都にて腹切べしとは定たれと仰らる。」
三河に帰って軍隊を引き連れて光秀を討ちたいところだが、ここから帰ろうにも初めて歩く道で野山にさまよい、山賊一揆のために命を落とすくらいなら都で腹を斬るべしと家康が言ったというのだが、嘘くさい話だ。

「穴山梅雪もこれまで從ひ來りしかば。御かへさにも伴ひ給はんと仰ありしを。梅雪疑ひ思ふ所やありけん。しゐて辭退し引分れ。宇治田原邊にいたり一揆のために主從みな討たれぬ。(これ光秀は君を途中に於て討奉らんとの 謀にて土人に命じ置しを。土人あやまりて梅雪をうちしなり。よて後に光秀も。討ずしてかなはざる德川殿をば討もらし。捨置ても害なき梅雪をば伐とる事も。吾命の拙さよとて後悔せしといへり。)」
穴山梅雪は家康と一緒に進むことを辞退し、宇治田原あたりで一揆のために殺害された。一揆勢は光秀に命じられて家康を討うとしたのだが、梅雪を家康と間違えて殺した、などと書かれているが、別行動を取った人物のことをなぜ家康と間違えて一揆で殺されたと断定できるのだろうか。

また『徳川実紀』には19日に秀吉の使いが来て、13日の山崎合戦で光秀を討ち取ったので上洛する必要がないことがわかり、一方で織田領であった甲斐国は信長が死んで一揆が頻発していたのでそれを鎮めるために甲斐に進軍したとある。
先ほど記したように家康軍は18日に織田領の甲斐国を制圧している。それを『徳川実紀』では19日以降に甲斐に進軍したような書き方だ。そのように書くのは、家康が甲斐国をはじめから狙っていたと思われたくなかっただけのことだろう。

日光東照宮

このように家康の時代の江戸幕府の公式記録である『徳川実紀』の一部である『東照宮御実紀』には、真実であることが疑わしい話がいくらもありそうだ。
しかしながら何度も言うように、多くの歴史書や小説やドラマは、このような書物を参考にして書かれている。歴史はいつの時代もどこの国でも、権力者の都合の良いように歪められていくもので、公式記録は特にその傾向が強いと思うのだが、公式記録を参考に書かれた小説やドラマがあまりにも多いために、真実と異なる話が常識として国民に定着してしまってはいないか。

春日局

前回、本能寺の変で明智軍を本能寺まで先導した武将が斉藤利三で、その妹が長宗我部元親の妻であることを紹介したが、この斉藤利三の娘の「福」は稲葉重通(いなばしげみち)の養女となり、江戸幕府の第3代将軍徳川家光の乳母となり、後に「春日局(かすがのつぼね)」として権勢を誇り江戸城大奥の礎を築いたとされる人物である。
乳母という立場は、その気になれば嬰児の命を奪うことは容易にできる。もし徳川家康と明智光秀とが敵対関係にあったなら、敵である明智光秀の重臣の娘を引き取って、孫の家光の乳母に抜擢できるであろうか。家康と利三との間に余程の信頼関係がなければ、このようなことは絶対にあり得ない話である。

斉藤利三は本能寺の変の後、中国から引き返してきた羽柴秀吉との山崎の戦いで先鋒として活躍するのだが敗れて逃走し、その後、秀吉の執拗な捜索により近江堅田で捕縛され、六条河原で斬首となったとされている。
処刑される前に秀吉軍から、謀反に加担した者の名前を執拗に追及されていたはずだ。その時にもし利三が家康の名前を白状していたら、秀吉が直ちに徳川家征伐に動いて、徳川の時代は来なかったかもしれない。
明智憲三郎氏は、利三がこの時に口を割らなかったから家康は安堵して、利三の娘の福を孫の乳母に採用することにつながったことを示唆しておられるが、的を得た指摘であるように思う。
ところで徳川幕府の2代将軍は秀忠で3代将軍は家光だが、明智光秀の名前の字を一字ずつ入れているとも読める。もし明智光秀が敵対していたのならば、秀や光という字を将軍の名前に入れることを忌み嫌っていてもおかしくないとも思う。
家康と光秀とは繋がっていたと考えたほうが正しいのではないだろうか。

見ざる言わざる聞かざる

徳川家康を祀った日光東照宮に「見ざる言わざる聞かざる」の彫刻がある。この彫刻は何のために作られたのだろうか。
人生訓としては普通の人間には含蓄がなさすぎるのだが、謀略を繰り返してきた家康にとっては、子子孫孫の発展のために徳川家の秘密を一切外に洩らすなという強い思いが、この三匹の猿に込められているのかもしれない。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。






秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5

天正10年(1582)6月、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での横死を知り、速やかに毛利氏との講和を取りまとめて、明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した軍団大移動を「中国大返し」と呼ぶのだが、備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城国山崎(京都府乙訓郡大山崎町)まで235kmもある。「日本史上屈指の大強行軍」と言われることは理解するのだが、武装した集団が武器・食糧を運びながら、なぜ、本能寺の変からわずか10日で山崎に着くことができたのだろうかと誰しも疑問に思う。

本能寺の変は6月2日の朝だが、そもそも信長が死んだという情報が届かなければ秀吉は動けない。しかし秀吉が毛利と和睦したのは2日後の6月4日である。本能寺の情報は6月3日か4日の未明時期には秀吉の手元に届いていたことになるのだが、この情報が届くのがそもそも早すぎるし、また毛利との交渉がまとまるのも早すぎるのではないかと疑う人も少なくないようだ。
このことから、秀吉が本能寺の変の黒幕であるとする説も存在するのだが、もし秀吉と光秀が共謀していたのなら、山崎の合戦で光秀はそのことを黙って討たれたことになってしまう。そこで光秀が秀吉との共謀が事実ならばそのことを公表すれば、秀吉は謀反の一味となって織田一族との連合はほぼ不可能となり、光秀方に有利な状況を作り出せると考えると不自然な印象がある。

豊臣秀吉

秀吉は謀反に加担はしていなかったが、家康が畿内にいる間に何が起こってもおかしくないことを事前に察知していて、もし何かが起これば、その情報をできるだけ早く伝える指令を出していたのではないだろうか。
明智憲三郎氏の『本能寺の変四二七年目の真実』に『宇野主水(うのもんど)日記』という書物が紹介されている。
宇野主水とは本願寺顕如の祐筆であった人物だが、この日記に、京都滞在を終えて堺に入った家康一行に、織田信長と織田信忠からそれぞれ「長谷川竹」と「杉原殿」という人物が同行していたことが書かれているそうだ。
ところが、「長谷川竹」は本能寺の変後も三河まで家康と同行していることが『信長公記』でも確認できるが、「杉原殿」は忽然と記録から消えているのだそうだ。この「杉原殿」が誰かについては諸説があるようだが、織田家の家臣でもあり秀吉の正室・寧々の叔父でもある杉原家次だと考えられている。

明智憲三郎氏は、こう推理されている。
「秀吉は家康が上洛するタイミングを掴むために、この杉原家次を家康一行に同行させていたとみられます。
 なぜ家康にわざわざ同行させていたのでしょうか。それは家康が信長に会うために上洛する日が本能寺の変の起こる日、ということを知っていたからに他なりません。
果たせるかな杉原家次は六月二日の朝、家康の上洛を確認すると、家康一行と離れ、堺を発って備中の秀吉に注進しました。『惟任退治記』には「備中表秀吉の陣には、六月三日夜半許り、密かに注進あり」と書かれています。注進した人物の名は書かれていませんが、家次が最も早く注進できた人物であることは間違いありません。」(『本能寺四二七年目の真実』p.198)

秀吉が大村由己に書かせた『惟任退治記』には、この杉原家次の名が、本能寺の変翌日の六月三日に備中高松において毛利との和議をまとめたことが書かれているという。また杉原家次は、本能寺の変・山崎の戦いの後は丹波福知山の領主となり、その後は坂本も領有し、京都所司代も兼ねるなど異例の扱いを受けているのだそうだ。
秀吉は、杉原家次が本能寺の変の情報をいち早く伝えたことを、高く評価したという事なのだろうか。

しかし、秀吉はなぜ明智光秀が信長に対して謀反を起こすという事を予見できたのだろう。杉原家次を家康に同行させる前に、その家康と信長が京都で会う日に何かが起こるという確信がなければ適格な指示は出せなかったはずだ。

明智憲三郎氏によると、そもそも秀吉は長宗我部元親と対立する三好康永に肩入れして、信長の四国政策の変更を仕組んだ。長宗我部氏と結びついた明智氏はそれにより窮地に立つことを当然理解しており、それにより光秀がどう動くかに注目していた。
そのタイミングで信長の上洛命令にも従わず、光秀の謀反にも加担せずに秀吉に情報を流した武将がいた。それが細川藤孝(幽斎)である。細川藤孝は安土城で徳川家康と明智光秀が談合した際に同席しており、信長に対する謀反の計画を知っていた可能性が高い。

秀吉が大村由己に書かせた『*惟任退治記(これとうたいじき)』にこういう記録がある。
「長岡兵部大輔藤孝は、年来将軍(信長)の御恩を蒙ること浅からず。これに依って、惟任が一味に与せず。秀吉と心を合わせ、備中表に飛脚を遣わし、爾来、江州、濃州、尾州(近江、美濃、尾張)に馳せ来たり」(同上書p.200: *惟任とは明智光秀のこと。)
日付が書かれていないが、信長の命に従わず6月2日に上洛しなかったことから、比較的早い時期でかつ秀吉が備中にいたという微妙な時に、細川藤孝が重要な情報を秀吉に流したと考えられるのだ。

かくして、秀吉は他の大名よりも格段に早く、明智光秀による信長への謀反の情報を得ることができたのである。

備中高松城水攻め

では、何故一日で毛利との和解が成立できたのか。
この点について明智憲三郎氏は、安国寺恵瓊と共謀していつでも和解できる状況にあり、膠着状態においてタイミングを計っていたと書いておられる。
これにも根拠があって、『惟任退治記』には、「既に毛利からは高松城明け渡しや五ヶ国割譲などの申し入れが再三あった」と正直に書かれており、それを裏付ける古文書が、毛利家に伝わる『毛利文書』に残っているそうだ。

秀吉大返し地図2

次に、備中高松城から山崎までの235kmをどうやって兵をすすめたのか。
秀吉が書かせた『惟任退治記』では、
「六月六日未(ひつじ)の刻、備中表(おもて)を引き、備前の国沼(ぬま)の城に至る。七日、大雨疾風。数か所大河の洪水を凌ぎ、姫路に至ること二十里ばかり、その日、着陣す。諸卒相揃わずといえども、九日、姫路を立って、昼夜の堺もなく、人馬の息をも休めず、尼崎に至る。・・・・・・」とある。

次の表は、明智憲三郎氏がご自身のブログで『惟任退治記』の通りに軍をすすめた場合に、1日何キロ進んだことになるかをまとめたものである。
http://praha.at.webry.info/200911/article_3.html

6月 6日 備中高松*~沼  35km (*午後2時出発)
6月 7日 沼~姫路    70km (大雨疾風)
6月 9日 姫路~明石   35km
6月10日 明石~兵庫   20km
6月11日 兵庫~尼崎   25km
6月12日 尼崎~京都山崎 50km

明智氏が指摘しておられるように、6月の6日と7日の距離は異常な距離だ。武具をつけ、武器を持ち、食糧を持って2万人以上の集団がこれだけの距離を進めるのかどうか。しかも6日は実質半日、7日は大雨疾風の日だ。こんな日に動いたら軍の体力を消耗するだけではないか。

お遍路さん

ちなみに四国八十八箇所巡りのお遍路さんは、40日から50日で1200km、つまり1日で24から30km歩くのだそうだ。それよりも少々長い距離を進むことは理解できるが、70kmというのはその倍以上の距離である。その速さを持続して、武装集団が食糧などを運びながら山道を含む道を進むことができるとは思えない。

ところで、進軍しながら秀吉軍がいくつか書状を書いており、それがいくつか残されている。

中川清秀宛て書状

ひとつは秀吉が摂津の中川清秀に宛てた6月5日付の書状である。これには、「我々は途中の沼(岡山)まで、既に引き返してきている」と書かれているそうだ。この日は、『惟任退治記』ではまだ出発してもいない日である。
また6月8日付の秀吉重臣の杉若無心より細川藤孝の家老松井康之に宛てた書状には「去六日に姫路に入城した、明日ことごとく出陣する」と書かれているという。
秀吉が情報工作のために嘘を書いたという解釈もあり得るが、秀吉軍の行程を見る限りにおいてはどちらの書状正しい可能性のほうが高いのではないだろうか。もしそうだとすると、実際は『惟任退治記』の記録よりも早く秀吉は出発していなければならないことになる。
また、6月9日以降の日程については、「萩野文書」「蓮成院記録」などで確認されているので問題がないそうだ。

明智氏は次のURLで、上記の書状から秀吉軍は4日の朝に出発していると推理しておられる。7日の台風は姫路城でやり過ごし、休息にあてたと行程からすれば無理のない距離配分になっている。
http://praha.at.webry.info/200911/article_5.html

6月4日朝~4日夜  備中高松~沼  35km
6月5日朝~6日夜  沼~姫路    70km
6月7日       姫路(大雨疾風)
6月8日朝~8日夜  姫路~明石   35km
6月9日朝~     明石~兵庫   20km
~10日夜   兵庫~尼崎   25km
6月11日~12日昼  尼崎~京都山崎 33km

ということは毛利軍との和睦が成立するかのうちに備中高松の撤収の準備を始めていなければ不可能だという事になる。明智説によると秀吉はフライングをしていたということになる。

6月4日に出発していたのならば、備中高松から235kmを進軍させたこと自体はそれほど驚くべきことではない。特に姫路からの距離は普通のスピードで進んでいる。
秀吉が山崎に戻るのが早かった最大のポイントは進軍の速さではなく、本能寺の変の情報をいち早く掴み、毛利との和睦を1日でまとめたことによるのだが、それが可能であったのは、初めから何が起こるかがわかっていて、その準備をしていたからだという事になる。

中国大返し絵

では、秀吉が『惟任退治記』で備中高松を出発した時期をなぜ2日も遅らせて書かせたのか。これは、秀吉が事前に光秀が信長に謀反を起こす情報を事前に掴んでいたことを疑われたくなかったからではないのか。
姫路からの行程は多くの人が秀吉軍が進軍するところを目撃していたので嘘を書くわけにはいかなかった。そのために目撃者の少ない備中高松から姫路までの所要日数を誤魔化すしかなかったのだろう。
そのために、毛利との和睦を一日で決着させ、備中高松から姫路までの105kmの道のりを、暴風雨の中1日半で駆け抜ける英雄の物語となってしまった。
有名な秀吉の「中国大返し」は、こういう経緯で秀吉によって作られた話だと思えば、すっきりと理解できるのだ。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加



【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。




FC2カウンター
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。キーワードを含む全てのブログ記事のリストと、記事の最初の文章が表示されます。記事を探す場合は、カテゴリーで記事を追うよりも探しやすいです。
リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
最新記事
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
RSSリンクの表示
タグクラウド

年別アーカイブ一覧
RSS登録er
おすすめ商品
ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
おきてがみ
QRコード
QRコード
ブログサークル
ブログサークル
ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!
文字を大きく・小さく
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    人気ページランキング
    集計スタート時期が良くわかりませんが、おそらく2016年の夏ごろから現在までの記事アクセスランキングです。
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    読書
    このブログで採り上げた本のいくつかを紹介します
    三田村武夫の 『戦争と共産主義』復刻版

    同上 電子書籍

    同上 自由選書版

    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史