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「牛若丸と弁慶の物語」の虚構

前々回に、三国の事を書いた。

そこで毎年5月20日に行われる福井県指定無形民俗文化財である三国祭の明治時代の山車を紹介したが、この人形は「牛若丸弁慶」であることは日本人なら誰でもわかる。

三国祭りの山車

弁慶は太刀千本を奪い取ろうと誓い、夜毎に通行人を襲ってはその刀を奪っていき、ついに999本に達した。最後の1本を奪い取るために京都の五条大橋で待ち構えていたが、そこへ通りかかったのが牛若丸(後の源義経)で、五条の橋の上で一騎打ちとなって、弁慶は身のこなしが軽い牛若丸に翻弄されて、太刀も奪えずに敗れてしまう話だ。

牛若丸と弁慶

子供の時にこの話を絵本や漫画で読んで、「牛若丸」という童謡も何度か聞いた記憶がある。調べるとこんな歌詞になっている。

「京の五条の橋の上 大のおとこの弁慶は 
長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて切りかかる

牛若丸は飛び退いて 持った扇を投げつけて 
来い来い来いと欄干の 上へあがって手を叩く

前やうしろや左右 ここと思えば またあちら 
燕のような早業に 鬼の弁慶あやまった」

子供の時は素直にこの話を信じていたが、長刀の名人が中学生か高校生くらいの子供に打ち負かされるような話は、どうも嘘くさいと思うようになっていったがその話題は後にしよう。
しかし、牛若丸と武蔵坊弁慶との出会いの場所が五条大橋であったことについては長い間信じていた。

牛若丸と弁慶像

五条大橋には昭和36年に京人形師「面庄」の十三世岡本庄三さんが制作し京都青年会議所が寄贈した「牛若丸と弁慶像」が建立されているので、私に限らず誰もがこの場所で牛若丸と弁慶が出会ったと思ってしまうことだろう。

しかしネットでいろいろ調べると、牛若丸と弁慶の時代にこの場所に橋が存在しなかったことが見えてくる。

平安京を建設した当時の大路は一条から九条まであり、各大路の間は三本の小路によって等間隔に区切られていて、その中央の小路を「坊門小路」と呼んでいたそうだ。

京都通り

例えば三条通りと四条通りの間には、六角、蛸薬師、錦の三本の小路があり、昔は蛸薬師が四条坊門小路ということになる。
しかし現在の四条通りと五条通りの間には、綾小路、仏光寺、高辻、松原、万寿寺と五本もの小路があり、規則性が崩れている。昔は仏光寺が五条坊門小路で松原が五条大路で、今の五条通は「六条坊門小路」であったということになる。

この「六条坊門小路」に初めて橋を架けたのが関白秀吉なのだそうだが、牛若丸の時代から420年近く後の話なのである。だから、今の五条大橋での二人の出会いはそもそもありえないことになる。

五条大橋都名所図会

安永9年(1780)の「都名所図会」には五条橋の図会があり、説明文には
「初は松原通にあり、則いにしえの五条通なり。秀吉公の時此所にうつす、故に五条橋通といふ、実は六条坊門なり」と書かれている。もちろん牛若丸と弁慶の話は出て来ない。

昔「五条大路」であった松原通には、平安時代には鴨川に橋が架かっていた。従って、牛若丸と弁慶の出会いの場は今の「松原橋」だという説も根強くあるようだ。

しかしながら、室町時代に書かれた「義経記」を読むと五条大路も橋も出て来ない。今ではネットで「義経記」の全文を読む事が出来る。少々読みにくい文章だが、なんとなく意味はわかる。第三巻の「弁慶洛中において人の太刀を取る事」から「義経弁慶君臣の契約の事」に詳しく書かれている。
http://www.j-texts.com/chusei/kgikei.html

義経記」では、牛若丸と弁慶は二日連続で戦っており、一回目の場所は「五条の天神」(五条天神社:西洞院通り松原下る)で、二回目は「清水の観音」(清水寺)だ。原文では弁慶は長刀ではなく太刀で牛若丸と闘っている。

五条天神

上の画像はネットで見つけた五条天神社だ。平安時代にはここの柿の木に仏がおられるということで、多くの信者が参詣に来たと「宇治拾遺物語」巻二に書かれている。
http://kamnavi.jp/yamasiro/gojout.htm

では、二人の運命的な出会いの場所が「五条の橋」と書きかえられたのはいつの時代からなのだろうか。

ネットで調べると、永亨年間(1429-40)に成立したと思われる御伽草子『弁慶物語』二巻では清水寺から五条の橋に場所を移している。
http://www.taishitsu.or.jp/kyoto/sozoro21.html

「さて合戦の当所はいずくぞと仰せければ、やがてこの辺こそしかるべけれとて、清水寺より打連れて五条の橋に立ち出ずる。八月十七日の夜半ばかりの事なる に、源九郎義経、正年十九歳と御名乗りあって、御佩せ(の刀)をするりと抜き給う。弁慶も正年二十六と名乗り、四尺六寸(の刀)をするりと抜いて渡り合 う。観音参りの上下の衆、この道をさしふさぎ、不思議の見物出来とて貴賎群集したりけり云々」

しかしここでは「牛若丸」ではなくなって成人後の義経になっている。この年齢の頃は、義経は奥州にいたのではなかったか。

明治時代のお伽話作家として著名な巌谷小波(いわやさざなみ)は、明治27年(1894)から明治29年(1896)にかけて博文館から「日本昔噺」というシリーズを出しているが、このシリーズが、以後の子供向けの昔話や伝説の多くは、このシリーズがもとになっていると言われる。

巌谷小波

このシリーズでは、弁慶は狭い五条橋で薙刀を振り回すことになっているそうだ。
http://www.d1.dion.ne.jp/~ueda_nob/wildcat/kyoto/ushiwaka.html
最初に紹介した童謡の「牛若丸」も巌谷小波の作品に基づいている。

義経記」にせよ「御伽草子」にせよ巌谷小波にせよ、読者に面白おかしく読んでもらおうという文章であることは、読めばすぐわかる。面白く書こうとすれば、創作部分がかなり入らざるを得ない。

もともと史実に忠実に書かれたものではない「義経記」に次第に尾ひれがついて、子供の向けの本にもそのまま定着してしまって、800年以上経った今は史実ではない物語が日本人の常識になってしまった。

弁慶という人物は、鎌倉幕府の正史である「吾妻鏡」には、文治元年(1185)の条で都落ちした義経・行家一行の中に弁慶の名前が出てくるだけである。実在した人物であることは間違いないが、生年月日もわからず、その生涯についてはほとんどわかっていないのだ。
弁慶が義経の側近として大活躍しているのは物語の世界だけで、史実は義経の一族郎党の一人に過ぎなかったのかもしれない。
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「文永の役」で蒙古軍を退却させたのは「神風」だったのか~~元寇その1

学生時代に学んだ歴史では二度にわたる蒙古襲来を終息させたのはいずれも「暴風雨」だったと記憶しているが、こんな国難の時に二度にわたり自然の力に救われたことは、人知を超えた偉大な力によって奇跡的に国が守られたようなイメージを多くの人が持つことだと思う。

蒙古襲来絵詞

「神国思想」は二度の蒙古襲来時に二度とも「神風」が吹いたと言う話があってはじめて成立するような考え方だと思えるのだが、最近の研究では第一回目の文永の役では「神風」は吹かなかったという説が有力なのだそうだ。

たとえば、市販されている山川出版社の高校教科書『もう一度読む山川日本史』では、文永の役に関する記述は昔の教科書とは異なるようである。
元寇」の復習も兼ねて、この教科書を引用してみる。

「1274年(文永11年) 、元は徴発した高麗の軍勢をあわせて対馬・壱岐をおかし、九州北部の博多湾に上陸した。太鼓やどらを打ちならし、毒をぬった矢や火薬をこめた武器を手にして、集団でおしよせた。この元軍の戦法に、一騎討ちを得意とする御家人たちは苦戦の連続で、このために日本軍の主力は大宰府にしりぞいたが、元軍は海を渡っての不慣れな戦いによる損害や内部対立から、兵をひきあげた。(文永の役)」(同書p.98)
と、文章のどこにも「風」が吹いたとは書かれていないのだ。

では、当時の記録ではどうなっているのだろうか。

元(蒙古)側の公式記録(「元史」日本)では文永の役について、
「至元十一年(1274年)、鳳州経略使の忻都・高麗軍民総管の洪茶丘に命じ、二百人乗りの船、戦闘用の快速艇、給水用の小舟それぞれ三百艘、合わせて九百艘を擁し、一万五千の士卒をそれに乗せ、七月を期して日本に攻撃をかけさせた。冬十月、遠征軍は日本に進攻して日本軍をうち破った。しかし官軍も統率を失い、また矢も尽き、そのあたりを掠奪し、捕虜を得ただけで帰還した。」(口語訳:『倭国伝』講談社学術文庫p.331)
と書かれているだけだ。
倭国伝

元の軍隊が風で退却を余儀なくされたような情けない公式記録を残したくなかったのかなと思い、二度目の弘安の役(1281)についての記録に進んでいくと、そこには暴風が起こって舟が毀されたことが書かれており、将軍たちは部下を捨てて逃げ、残されたものは舟を作って帰ろうとしたが、日本軍がやってきて戦闘した結果全滅となり、生き残った二、三万の兵は日本の捕虜になって、元に生還できたのは遠征軍十万のうちわずか三名だったと明確に記述されている。
元史」を素直に読めば、文永の役には「神風」はなかったということになる。

高麗の正史である『高麗史』にも文永の役に関する記述がある。
船の中で軍議が行われ、高麗軍司令官の金方慶は抗戦論を唱えたのだが、総司令官の忽敦から「孫子曰く、〈小敵の堅、大敵の擒〉味方の敗残兵(原文:疲乏之兵)を掻き集めて挑んでも、刻々と増強される優勢な日本軍(原文:敵日滋之衆)には抗し得ず。退却するより他無し。」と却下され、「全軍退却(原文:遂引兵還)」が決定され、「たまたま、夜、大風雨に遭い、戦艦、巌崖に触れて大敗す」と記述されている。ある程度の風は吹いたようだが、それでも約半数が帰還し、日本で拉致した少年少女200人を高麗国王に献上したことなども書かれている。

では、日本側のこの当時の記録ではどうなっているのか。
この点についてはWikipediaも原典のテキストを紹介しているが、「モンゴル襲来と神国日本」(三池純正著:洋泉社歴史新書)が、原典を口語訳されており読みやすい。
モンゴル襲来と神国日本

この本によると、当時の記録として判明している唯一の文書が、京都の公家・勘解由小路兼仲(たでのこうじかねなが)の日記『勘仲記』の中の「文永十一年十一月六日付」の記事で、そこには「或る人が言うには…、凶賊船数万艘が海上に浮かんでいたが、にわかに逆風が吹いて、本国に吹き帰され、少々の船は陸に上がった。」とだけ、簡単に記されているそうである。
11月6日ということは事件後17日目のことになるが、あくまでも人から聞いた話として書かれている。

『勘仲記』の次に古いとされる記録は『薩摩旧記雑録前編』のなかに収められている文永十二年の「国分寺文書」で、事件から一年後に書かれたものである。
そこには「蒙古の凶賊等が鎮西に来嫡子、合戦をしたが、神風が荒れ吹き、異賊は命を失い、その乗船は海底に沈んだり、あるいは入江や浦にうち寄せられた」と書かれているそうだ。

一方で、風について何も書かれていない文書もある。鎌倉末期に石清水八幡宮の社僧が記した八幡神の寺社縁起である『八幡愚童訓(はちまんぐどうきん)』には、前日までの激しい戦闘の記録のあとで、翌朝の朝の様子をこう記しているそうだ。
「二十一日の朝、博多湾の海面を見ると、蒙古軍の船は一艘もなく、皆々馳せ帰ってしまっている。…皆、滅んでしまうのかと一晩中歎き明かしたというのに、(モンゴル軍は)どうして帰ってしまったのであろうか。ただ事とも思えない。皆、このことで泣き笑いをしたものだ。」
と、文永の役に関する日本側の記述は様々だ。

最初に、最近の研究では文永の役では「神風」は吹かなかったという説が有力と書いたが、最初に「神風説」を否定したのは気象学者の荒川秀俊氏で、昭和33年にが「文永の役の終わりを告げたのは台風ではない」という論考を発表され、旧暦10月20日以降に西日本が台風に遭遇することは統計的にも存在せず、『八幡愚童訓』等の資料を見ても大風雨があった記録も、モンゴル軍の難破船が海岸になかったことなどを理由に、モンゴル軍船団が一夜にして博多湾から消滅したのは予定の行動であると主張したそうだ。この説が現在では有力説になっているようなのだが、ではなぜ「神風」があったような古い記録が残っているのだろうか。

三池純正氏は先程紹介した著書の中で、非常に興味深い指摘をしておられる。

「…モンゴル・高麗軍との戦いはわずか一日の戦闘だったものの、日本軍は明らかに敗北していたのだ。…ところが、事件後、幕府を糾弾する声はどこからも上がってこなかった。それはなぜであろうか。

翌日…の光景を、遠征軍が勝利の中で撤退したと心底思わない人々が見たとしたら、十中八九同軍が一夜の暴風雨のせいで壊滅したと思うのは無理もないことである。
しかし、これは歴史上の大きな錯覚であり、勘違いであった。だが、この歴史的勘違いは幕府にとって、幾重にも幸運をもたらした。

幕府はこの戦いでは九州を中心とした御家人・武士たちを博多湾岸に派遣し、その一方全国の主要な社寺に命じて『蒙古調伏』の祈祷を熱心にさせていた。幕府に対する非難の声が止んだのは、その幕府が行った祈祷が功を奏して暴風雨=『神風』を吹かせ、モンゴル軍を壊滅させたと認識されたからであった。」(「モンゴル襲来と神国日本」p.96-98)

「(歴史学者の海津一朗によると)当時の考え方では、モンゴル軍との戦争で原動力となって活躍した神々は現場で同軍と戦った武士同様に恩賞をもらう権利があるとされていたという。
文永のモンゴル襲来からほぼ一年後の建治元年(1275)11月、薩摩国の天満宮と国分寺の神官・僧侶は『蒙古退散』の祈祷の成功、すなわち『神戦』への恩賞として、荒れ果てた建物の修理を朝廷に訴え、それが翌月認められたという文書が残っている。同じ理由で京都の東寺も寺の修理や僧侶の待遇改善を朝廷に訴えている。

記録には残っていないものの、全国各地の多くの社寺はこうして朝廷や幕府に『神戦』への勝利の恩賞を求めていったことは間違いない。また幕府も、伊勢神宮や宇佐八幡宮に実際にモンゴルと戦った現場の武士たちに与える恩賞そっちのけでいち早く所領を寄進している。」(同書:p.101)
わかりやすく言うと、幕府にとっても祈祷した寺社にとっても、「神風」が吹いてモンゴル軍が退却したことにした方が都合が良かったという事なのだ。当時はテレビもラジオもない時代だ。事実でなくとも都合のよい情報を流布させた方が強い世界ではなかったか。 先程紹介した『勘仲記』はともかく、『薩摩旧記雑録前編』『八幡愚童訓』にせよ、『蒙古調伏』の祈祷の効果があったことにしたい人物が書いているという点がポインである。

ちょっと意外に感じたのだが、江戸時代文政十年(1827)に書かれた頼山陽の『日本外史』も文永の役について「風」のことは一言も書いておらず、敵将を倒したことで敵兵の統制が乱れたことが書かれているだけだ。
天皇中心の国家体制を築こうとした明治政府も、文永の役の「神風伝説」に飛びついて、わが国が「神国」であるとのイメージを国民に広めようと考えたのではないだろうか。

叡尊像

前回の記事で荒れ果てていた奈良の西大寺が、鎌倉時代に叡尊によって復興され、今ある文化財の多くがこの時期に造られていることを書いたが、この叡尊は文永10年(1273)に伊勢神宮、文永11年(1274)に枚岡神社、住吉大社、広田神社、四天王寺、で大規模な『蒙古調伏』の祈祷を行い、それ以降も伊勢神宮、石清水八幡宮などでも祈祷を行って名声を得た僧侶である。その時に恐らく得たであろう祈祷料や恩賞が、鎌倉期の西大寺復興と大いに関係がありそうだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-130.html

しかし、寺社には多くの恩賞が与えられた反面、よく戦った御家人たちにはほとんど恩賞がなかったらしい。
学生時代に学んだときは、外国との戦いでは没収地があるはずもなかったので、御家人に充分な恩賞を与えることが出来なかったという説明を聞いた記憶が残っている。しかしよくよく考えると、外国からの侵略を防いだとしても没収地がないことは初めからわかっている話だ。祈祷に参加した社寺には金銭等の恩賞を実施したのであるから、蒙古軍と戦った御家人たちにも同様の恩賞を実施してもおかしくなかったはずだ。

竹崎季長

肥後国御家人の竹崎季長(たけざき・すえなが)は文永の役の恩賞が何もないのを不服として、建治元年(1275)6月に馬などを処分して旅費を調達し、鎌倉へ赴いて幕府に直訴し、同年8月には恩賞奉行である安達泰盛との面会を果たして、恩賞地として肥後国海東郷の地頭に任じられたそうだ。彼が作成させた 『蒙古襲来絵詞』には安達泰盛と交渉している姿が描かれているが、このようにして恩賞を得た御家人は例外的だったようだ。
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熾烈を極めた「文永の役」の戦闘でよく闘った鎌倉武士たち~~元寇その2

前回は、蒙古軍が最初に日本を攻めてきた「文永の役」については、元や高麗の史料を見る限りでは「神風」が吹いて蒙古撤退させたとは考えにくく、最近の教科書では「神風」が出てこないことを紹介した。また当時の日本側の史料には「神風」が吹いて蒙古軍を撤退させたとする記録があるのは、幕府にとっても、また幕府の要請を受けて「蒙古退散」祈祷してきた寺社にとっても、「神風」があったことにした方が都合が良かったからではなかったか、ということを書いた。

いつから教科書の内容が変わったのかは良くわからないが、私も含めて、二度とも暴風雨が蒙古軍を退散させたと学んだ世代にとっては、元寇については大規模な戦闘は行われなかったし、わが国には大きな被害はなかったというイメージが強いのではないかと思う。

しかし「文永の役」に「神風」が吹かなかったことを知ってから、「元寇」のことをもう少し詳しく知りたくなって調べてみると、日本側の被害は結構大きかったし、鎌倉武士も良く戦ったことを知った。今回は、今の教科書にもほとんど書かれていない「元寇」の実態について書くことにしたい。

文永五年(1268)ジンギスカンの孫の世祖フビライ・ハンが高麗を通じて日本に国書を送ってきたが、当時17歳の執権北条時宗は国書の内容が無礼だとして黙殺し、その後も元は数年間にわたり何度か使者を送るも日本側が無視したため、怒ったフビライ・ハンは日本への武力進攻を命令する。

フビライ・ハンは高麗に命じて艦船を造らせ、この時高麗はわずか半年で大小900艘といわれる船を突貫工事で完成させたそうだ。

文永11年(1274)10月3日[旧暦:以下同じ]に、元・高麗連合軍は朝鮮半島の合浦(現在の大韓民国馬山)を出発した。連合軍の構成は『高麗史』によると蒙古・漢軍25千人、高麗軍8千人、高麗水夫6700人で総数は約4万人の規模であった。

文永の役ルート

連合軍は二日後の10月6日に対馬に上陸。対馬守護代宗資国は八十余騎で応戦するが討ち死にし、元・高麗連合軍は周辺の民家を焼き払って対馬全土を制圧した。対馬が襲われたことは、助国の郎等小太郎・兵衛次郎のニ人は急遽小舟を操って博多に渡りこの顛末を注進したという記録が残っている。

ついで連合軍は10月14日には壱岐に上陸した。守護代・平景隆は百騎で樋詰城に立て籠って応戦したが、翌日に攻め落とされて城内で自害した。

その後、10月16日から17日にかけて元軍は平戸・能古・鷹島を襲撃し、松浦党武士団を粉砕した。
これらの侵略地において、連合軍が暴行を働いた記録が残されている。

例えば日蓮宗の宗祖である日蓮の記録にはこう書かれている。
「去文永十一年大歳庚戌十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ總馬尉等逃ケレ ハ、百姓等ハ男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是、船オシ ヨセテ有ケルニハ、奉行入道豊前前司ハ逃テ落ヌ、松浦党ハ数百人打レ、或ハ生取ニセラレシカハ、寄タリケル浦々ノ百姓共、壱岐・対馬ノ如シ…」(「高祖遺文録」)
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8071/genko/s_1/kamakuraibun_11896.html

元蒙古連合軍のために、百姓ら男は殺されたり生け捕りにされ、女は一箇所に集めて掌に穴をあけられ革ひもを通して船に結いつけられたり生け捕りにされて、一人も助からなかったと書かれているのだ。

この記述はわずかの生き残りの証言をもとにして書かれたものかどうかは不明だが、「掌に穴をあけて革ひもを通す」という行為については、「日本書紀」巻第二十七の天智天皇二年六月に「百済王豊璋(ほうしょう)は、福信に謀反の心あるのを疑って、掌をうがち革を通して縛った」という記録があり、大陸ではこのようなこと残虐行為が古くから行われていたということなのだろうか。

話を文永の役に戻そう。対馬、壱岐、平戸、能古、鷹島を襲撃したのち、元・高麗連合軍は、10月19日夕刻に大宰府を目指して博多湾に侵入した。

九州での戦いの概要はわが国の同時代の文書では『八幡愚童記』に記述されているそうだが、前回の記事で紹介した三池純正氏の『モンゴル襲来と神国日本』や『元史』『高麗史』を参考に纏めてみよう。

蒙古軍の銅鑼

日本軍の悠長な戦い方とは違い、先鋒を務めた高麗軍は集団戦法で「太鼓をたたき、銅鑼を撃って時を作」るというもので、集団で鳴らす太鼓や銅鑼の音に日本軍の馬は跳ね狂って使い物にならなかったようだ。
また、「蒙古の矢は短いとは云っても、矢の根っこに毒が塗られ」ており、その矢が間断なく発射され日本軍を苦しめた。

蒙古襲来絵詞

しかも、高麗軍らは「逃げる時は鉄砲を飛ばして暗くし、その音が高く鳴り響くので」日本軍は「心を迷わして肝を失って、目も耳も塞がれて茫然と」するばかりだったそうだ。
てっぱう

この「鉄砲」とは、上の画像のようなもので、中に火薬を詰めて点火した後に相手に投げつける武器で、鉄製と陶器製のものがあったそうだ。

このような武器を用いて、元・高麗連合軍が日本軍よりも強かったことは間違いない。『元史』では「日本を打ち破った」と書き、『高麗史』では「倭は却走し、伏屍は麻の如く、」と戦いに勝利したと書いており、日本軍は戦闘には負けていたようだ。

蒙古兵撃退す

しかし日本の武士もよくがんばった。
『八幡愚童記』には、肥後国の御家人菊地次郎が敵陣に必死に切り込んで、多数の敵の首を取って凱旋したことや、肥後国の御家人竹崎季長はたった5騎で敵軍に突撃したことなどが書かれている。
またいよいよ蒙古軍の大将らしき大男が十四五騎を引き連れて本陣まで迫ってきたとき、日本軍の大将小弐景資(しょうにかげすけ)は「馬に乗って、一鞭売ってその前に姿を現し、その大将を見返ってよく引き放った矢が一番に駆けだした大男の真中を貫き、(大男は)逆さに馬から落ちた」と景資の放った矢が命中したも書かれている。

この話は日本側の創作話ではなく、「高麗史」にも「劉復亨(りゅうふくこう)、流矢に中(あた)る。先に船に登り、遂に兵を引きて還る。」と書いてある。劉復亨は蒙古軍の左副元帥であり、副総司令官という地位の人物であるが、先に戦場を離れ元に戻っている。

日本軍は本陣も破られて大宰府まで退いていき、大勢は元・高麗連合軍の勝利に帰していたのだが、元・高麗連合軍の戦闘における損害も小さくなかったし、ここまで戦うのにかなりの武器を使ってしまった。

そこで前回の記事の連合軍の作戦会議に戻る。『高麗史』によると高麗軍司令官の金方慶は抗戦論を唱えたのだが、元の最高司令官が「…味方の敗残兵(原文:疲乏之兵)を掻き集めて挑んでも、刻々と増強される優勢な日本軍(原文:敵日滋之衆)には抗し得ず。退却するより他無し。」と却下し、「全軍退却(原文:遂引兵還)」が決定されたのである。 『元史』では撤退の理由を「統率を失い、また矢も尽き」と書いている。武器が底をつけば、これからまだまだ繰り出される日本軍には全滅することになると考えるのは当然ではないのか。

日本の武士たちは敵軍の予想以上に勇敢であり、強かったのである。だから敵軍は撤退したと考えるのが妥当だろう。
元の総司令官である忻都は文永の役後にフビライ(元の世祖)にこのような報告をしたと言う話があるそうだ。(『元韃攻日本敗北歌』)
「倭人は狠ましく死を懼れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。」
本当に忻都が言ったかどうかはわからないが、そういう話が元に伝わっていると言うことは興味深い。

文永の役については敵軍が撤退を決定したのち、帰路で強い風が吹いたことは前回に書いたので繰り返さない。
大風が日本を救ったなどという誤った歴史解釈が長い間日本人の常識になっていたのだが、そのような考え方がこの戦いで犠牲になった対馬や壱岐等の人々のことや、武士が奮戦して敵軍の退却を決断させたことを風化させてしまい、元・高麗連合軍は多くが日本人の人質を本国に持ち帰ったという事実をも忘れさせてしまった。

元寇の真実を知り、日本の領土が多くの人の努力と犠牲によって守られてきた歴史について、もっと知ることが必要だと思う。政治家や官僚やマスコミがこういう歴史を熟知していれば、尖閣諸島や北方領土の問題などの対応や論評がもう少しまともになるのだと思う。

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「弘安の役」で5月に出港した蒙古連合軍が台風に襲われたのは何故か~~元寇その3

前回までは「文永の役」について書いたが、結論として「文永の役」については鎌倉武士はよく元・高麗連合軍と戦い、「神風が吹いて敵軍を追い返した」という説は元・高麗・日本の史料を読む限りは考えにくいということだ。

では二回目の元寇である「弘安の役」についてはどうなのか。この戦いについては、『元史』も『高麗史』も「暴風」があったことを明確に書いているのだが、なぜ敵軍は台風の多い時期に日本に来たのかずっと疑問に思っていた。

この時遠征軍は数の上では14万人もの大軍で、中身は蒙古、(旧)南宋、高麗の混成軍である。内訳は東から日本を攻める蒙古・高麗の『東路軍』4万人と、南から日本を攻める(旧)南宋の『江南軍』10万人だ。
『八幡愚童記』によると、蒙古は日本を占領しそこに移民するために、穀物の種や農耕具までを大量に船に積込んでいたと言う。

弘安の役ルート

高麗史』を読むと、東路軍が朝鮮半島の合浦を出発したのは(弘安4年)五月三日だ。太陽暦にすると5月29日で台風が上陸する可能性はほとんどない時期だ。
また、江南の役で敵軍が暴風雨に襲われて壊滅状態になったのは八月一日(太陽暦の8月23日)だ。なぜ、こんなに時間をかけているのだろうかと誰しも疑問を持つ。文永の役では合浦を出発して対馬や壱岐で戦いながらも17日で博多に着いているのだ。連合軍がもたついている間に台風のシーズンに突入してしまったということではないのか。

今まで「弘安の役」については、日本軍はほとんど戦わずして「神風」が吹いて勝ったとばかり思っていたが、どうもそういうことではなさそうだ。調べてみると「弘安の役」においても、鎌倉武士たちはこの時も良く戦ったことが国内外で記録されている。

今回は、教科書や通史に書かれていない「弘安の役」の実態についてまとめてみることにする。参考にしたのは前回の記事で紹介した三池純正氏の『モンゴル襲来と神国日本』と『元史』『高麗史』である。

「文永の役」の後、元のフビライはすぐに再征を決意し、博多湾岸の戦闘から三ヶ月半たった建治元年(1275)の二月に日本に使者を送っている。その使者たちは鎌倉に到着するや、全員斬首され曝し首に処せられている。

また幕府は、同年の三月から博多湾沿岸から長門にかけて「石築地 (石塁) 」という石垣の要塞の建築を九州等の御家人たちに命じている。もちろん、元との戦いを想定してのことだ。

元寇防塁

また元も同様に日本遠征の準備をしており、弘安元年(1278)の八月に元・高麗・(旧)南宋三国の作戦会議を開き、東路軍、江南軍の規模と、両軍が壱岐で合体した後に日本を攻めることが決定されている。

翌年に元は南宋を滅ぼしてさらに版図を拡大し、フビライは弘安二年(1279)に再び日本に使者を送るが、書状が京都に送られるも朝廷は受け取りを拒否し、この使者も斬首されたことが記録に残っている。

弘安四年(1281)に、フビライは日本遠征の命令を出した。 両軍が壱岐で落ち合うのは予定では六月十五日だったのだが、東路軍はかなり早い五月三日に合浦を出発した。東路軍は至近にある巨済島で二週間ほど錨を下した後、五月二十一日に対馬に上陸し攻撃を開始している。

『八幡愚童記』にこの時の東路軍のうち高麗軍の狼藉ぶりが記されている。
「また弘安四年五月二十一日、蒙古の賊船おそひ来たる、このたひは蒙古大唐高麗以下国々の兵等を駆具して凡三千余艘の大船に、十七八万の大衆のりつれてそ来ける、其中に高麗の兵船四五百艘、壱岐対馬より上りて。見かくる者を打ころしらうせきす、国民さゝへかねて、妻子を引具し深山に逃かくれにけり、さるに赤子の泣こゑを聞つけて、捜りもとめて捕けり、さりけれハ片時の命ををしむ世のならひ、愛する児をさしころしてにけ隠れするあさましきありさまなり、此高麗の賊、捕へきほととりて宗像の沖にこきよす、蒙古大唐の船ともは、対馬にはよらず、壱岐島につく、されともらうせきせず、…」

高麗軍は、対馬や壱岐の人々を虐殺し、赤子の泣き声を聞きつけて彼らを探し求めていくので、住民は仕方なく愛するわが子を刺し殺して逃げ隠れたと言うのだ。蒙古人や漢人にはそのような狼藉はなかったらしい。

東路軍は江南軍との合流を待つことなく、六月五日単独で博多の侵攻を開始した。これを迎え撃つ日本軍は、博多に鎮西軍が4万人いた。

元寇の博多侵攻図

蒙古襲来に備えて築造した「石築地(石塁)」は高さが2メートルを超えるものであった。その長さは延々20km近くあったそうだが、モンゴル軍を威圧するには堅固な防備となっていた。敵軍は博多湾の正面からの上陸をやめて、比較的防備の薄い志賀島と能古島に停泊し、志賀島で両軍が衝突する。
弘安の役防塁

高麗史』を読むと、日本軍の奮戦ぶりがよくわかる。
「六月、…日本兵と合戦し、三百余級を斬す。日本兵突進し、官軍(東路軍)は潰え、[洪]茶丘(東路軍司令官)は馬を捨てて走る。王万戸、復た之を横撃し、…日本兵、乃ち退き、茶丘は僅かに免る。翌日、復び戦いて敗績す。…」(岩波文庫『高麗史日本伝(下)』p39) と、高麗軍から見ても、両軍合い乱れての激戦だった。

『八幡愚童記』によると、「(六月)六日より十三日に至るまで、昼夜の間に合戦して、打ち殺した蒙古は千余人…」と、日本軍が頑張った記録が残っている。草野次郎という武士が舟二艘に夜討ちをかけて、敵軍の船に乗り移って敵兵の首を取って引きあげてきた。恩賞目当てとは言え、それから後も竹崎季長など東路軍に夜討ちをかける武士が後を断たなかったとのことだ。

弘安の役絵詞

志賀島でモンゴル軍を食い止めて、九州本土に一歩も踏み込ませなかったことが、後の東路軍の軍事行動に大きな影響を及ぼすことになる。六月十三日を過ぎると、東路軍は博多湾を引き上げて壱岐に向かう。

敵軍が博多を引き上げた理由は、『高麗史』には明確に書かれている。
一つは東路軍で疫病が発生しており、病死と戦死とあわせて三千人を超えていたこと。 もう一つは、江南軍を待たずに侵攻を開始したが、江南軍と壱岐で合流する約束の六月十五日が迫っていたからであった。

江南軍と合体し体制を立て直して再度出撃する予定であったが、予定の十五日に江南軍は慶元の港(現在の寧波[ニンポー])を出港もしていなかった。江南軍の出港の遅れは、作戦の変更もあるが、出発直前に総司令官の阿刺罕(アラハン)が病に伏し、司令官が交代するというアクシデントがあったという。
江南軍の主力部隊が出航したのは六月十八日だった。ようやく七月初旬に両軍は平戸島の近海に集結し軍船の数は4400という数だったと記録されている。

しかし、両軍は何故かこの場所を1ヶ月近くも動かなかった。先に日本軍と戦った東路軍と江南軍との間で意見交換がなされ、疫病に罹った将兵の回復を待ったものと思われるが、この点については元にも高麗にも記録には残されていないようだ。それにしてもこの日数は長過ぎた。この大軍がようやく動き出すのは七月の末のことだった。
そんな中、七月三十日に暴風雨が吹き始め、運命の八月一日(太陽暦の8月23日)を迎えることになる。

『高麗史』にはこう書いてある。
「八月、大風に値 (あ) い、蛮軍(江南軍)皆な溺死す。屍は潮汐に随いて浦に入り、浦は之が為めに塞(ふさ)がりて、践(ふ)みて行く可し。遂に軍を還す。」

元や高麗の記録によると、全軍十四万のうち、三万数千名は無事に生還しているので、すべての船が破壊されたのではない。

生き残ったものの船を失ったために帰れなかった兵士も少なからずいた。八月五日から七日まで日本軍による掃討戦で千人近くが捕虜となり、日本軍は博多の那珂川付近で全員の首を斬ったという記録が残っている。

弘安の役に吹いた「台風」は確かにタイミングが絶妙であった。後世に「神風」と呼ばれるのもわかるのだが、三ヶ月も戦いが長引いたために台風シーズンに突入したことを考えると、モンゴル連合軍の作戦失敗や江南軍の出発の遅れもあるのだが、ここまで戦争を長引かせた日本の武士の頑張りを、もっと正当に評価すべき事ではないだろうかと思う。

すなおに『元史』や『高麗史』を読めば日本軍の頑張りが良くわかるのだが、日本を「神国」と思いたい人が多いのか、日本人に日本軍の活躍を教えたくない人が多いのか、「元寇」に関する教科書の記述にはあまりに緊迫感がなさすぎる。

わが国の国難とも言える状況下に政治家やマスコミにほとんど緊迫感が感じられないのは、元寇に限らず日本が侵略されそうになった時の歴史の真実を、しっかりと教えられていないからではないだろうか。
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源義経が奥州平泉で自害したというのは真実なのか

源義経は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟で幼名を牛若丸と呼ばれ、父の源義朝が敗死した後に鞍馬寺に預けられ、その後奥州藤原氏の当主藤原秀衡の庇護をうける。

義経

兄の頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦で活躍し、平氏を滅ぼした最大の功労者であるのだが、その後頼朝と対立して朝敵とされ、再び義経は藤原秀衡を頼って奥州平泉に赴いた。しかし、義経を匿っていた秀衡は文治3年(1187)10月29日に病没してしまう。
源頼朝は、秀衡の死後秀衡の後を継いだ藤原泰衡に義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけ、泰衡は鎌倉の圧力に屈して、文治5年(1189)閏4月30日に義経主従のいる衣河館を襲い、義経は妻・娘とともに自害したことになっている。享年は31歳、妻は24歳、娘は4歳だったという。

しかし、義経がこの時に実は生き延びていたという説がかなり古い時代から存在する。
蝦夷地から大陸に渡り成吉思汗(ジンギスカン)になったという説まであるが、何になったかはともかくとして、生き延びていた可能性は多くの人が論じている。
今回は、この問題を追ってみることにしたい。

藤原秀衡

この問題に興味を感じることになったのは、義経を匿った藤原秀衡が「義経をもって主君となし、泰衡、国衡の兄弟はこれに仕えよ」との遺言を残していることを知ったからである。秀衡は、ただ単に幼少の義経を知っていたから助けたというのではなさそうだ。奥州平泉の運命を義経に託して、北条氏の支援を受けた頼朝と戦う政治的決断を下したと理解すべきだと思われるのだ。

藤原秀衡の遺言については当時の複数の記録が残っている。
鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』の文治三年(1187)十月二十九日には、
「今日、秀衡入道、陸奥国の平泉の館において亡くなられた。最近、重病によって心細く思ったのか、前伊予守の義経を(奥州)の大将軍として、国務を執らせるように、泰衡以下に遺言していたという。」
とあり、また公家の九条兼実の日記『玉葉』の文治四年(1188)正月九日には
「ある人が言うには、去年(1186)の九月か十月頃、義経は奥州にあったが、秀衡はこれを隠して置いたという。去る十月二十九日、秀衡が死去の折り、秀衡の息子たち(兄は前妻に産ませた長男、弟は現在の妻の長男である)は、融和を計り、(秀衡は)先妻に産ませた長男に、当時の妻を娶らせたようだ。そして各自が秀衡の言いつけに逆らうつもりはありませんという起請文を書かせた。同じ起請文を義経にも書かせ、『いいか、義経殿を主君として、ふたりはこれに付き従うべし』との遺言を告げた。こうして三人は志を同じくする同士となり、頼朝の計略を襲う対抗策を練ったと言うのである。」
と書かれている。
http://www.st.rim.or.jp/~success/H_igon.html

通史では、義経は藤原泰衡に攻められて自害したことになっているのだが、通史が真実であったとすれば、泰衡が父である秀衡の遺言に背いたことになるのだ。

吾妻鏡

吾妻鏡』には、義経が自害したという第一報が鎌倉に伝えられた時のことがこのように書かれている。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/118905.html

「五月二十二日 辛巳
申の刻、奥州の飛脚参着す。申して云く、去る月晦日、民部少輔(藤原基成)の館に於いて與州(源義経)を誅す。その頸(くび)送り進す所なりと。則ち事の由を奏達せられんが為、飛脚を京都に進せらる。御消息に曰く、
去る閏四月晦日、前の民部少輔基成の宿館(奥州)に於いて、義経を誅しをはんぬるの由、泰衡申し送り候所なり。この事に依って、来月九日の塔供養延引せしむべく候。この趣を以て洩れ達せしめ給うべし。頼朝恐々謹言。」

義経が自害したという第1報が鎌倉に着いたのが、事件から23日目というのはかなり遅く、義経の死を確認しようにも義経の首がない。あとで送るとは書かれているが、信用していいのかどうか。
しかも、報告の主は、秀衡の遺言により義経とともに奥州を治めよと言われた藤原泰衡本人である。藤原秀衡の遺言の内容については鎌倉の源頼朝らには周知のことであったから、この泰衡の報告を素直に受け取るとはとても思えない。

その後に、義経の首が届くことになる。その記録は『吾妻鏡』によるとこう書かれている。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/118906.html

「六月十三日 辛丑
泰衡の使者新田の冠者高平、與州(源義経)の首を腰越浦に持参し、事の由を言上す。仍って実検を加えんが為、和田の太郎義盛・梶原平三景時等を彼の所に遣わす。各々甲直垂を着し、甲冑の郎従二十騎を相具す。件の首は黒漆の櫃に納れ、清美の酒に浸す。高平僕従二人これを荷擔す。昔蘇公は、自らその獲を擔う。今高平は、人をして彼の首を荷なわしむ。観る者皆双涙を拭い両の袂を湿すと。」

文治5年六月十三日を次のURLの計算式を使って西暦に変換すると、1189年8月3日だ。
http://can-chan.com/koyomi/qreki-seireki.html
いくら清酒に漬けていたにせよ、夏の暑い時期に腐敗が進まないはずがないではないか。死んでから43日も経った義経の首実検が行えるような状態であったとはとても思えない。

藤原泰衡は、源義経の首を差し出せば奥州平泉の平和は保てると考えたのか、義経とは違う首を送ったのか今となっては良くわからないが、鎌倉の頼朝は藤原泰衡を信用しなかったのか、初めから奥州を征伐するつもりであったのだろう。
7月19日に鎌倉は源頼朝自らが出陣し、奥州追討に向かうことになる。
8月11日に総大将の藤原国衡が敗れ、8月21日には奥州平泉は炎上し平泉軍は敗走し、奥州藤原氏の栄華はあっけなく幕を閉じることになる。

8月26日に源頼朝の宿所に泰衡の書状が投げ込まれている。『吾妻鏡』には、この書状がどのような内容であったかが記されている。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/118908.html
「伊豫国司(源義経)の事は、父入道(藤原秀衡)扶持し奉りをはんぬ。泰衡全く濫觴を知らず。父亡ぶの後、貴命を請け誅し奉りをはんぬ。これ勲功と謂うべきか。而るに今罪無くして忽ち征伐有り。何故ぞや。これに依って累代の在所を去り山林に交ゆ。尤も以て不便なり。両国はすでに御沙汰たるべきの上は、泰衡に於いては免除を蒙り、御家人に列せんと欲す。然らずんば、死罪を減ぜられ遠流に処せらるべし。もし慈恵を垂れ、御返報有らば、比内郡の辺に落とし置かるべし。その是非に就いて、帰降走参すべきの趣これに載す。」

要するに、義経のことは父秀衡が保護したものであり、自分はあずかり知らぬことである。父が亡くなったのちに、貴命に従い私が義経を討ち取ったことは勲功と呼ぶべきであり、なぜ私を征伐されるのか。自分を許して、御家人に加えてほしいと、命乞いをしている文書である。これを頼朝は受け入れず、泰衡は味方に殺害されて首を頼朝に届けられたとある。

しかし源氏方は、奥州藤原氏は片づけたものの、義経については死んでいることの確信がなかったのではないのか。

吾妻鏡』には、源義経らが兵を率いて鎌倉に向かうとの噂が立っている旨の記録がある。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/118912.html
「12月23日 戊申
奥州の飛脚去る夜参り申して云く、與州 (源義経) 並びに木曽左典厩の子息及び秀衡入道の男等の者有り。各々同心合力せしめ、鎌倉に発向せんと擬すの由謳歌の説有りと。仍って勢を北陸道に分け遣わすべきかの由、今日その沙汰有り。深雪の期たりと雖も、皆用意を廻らすべきの旨、御書を小諸の太郎光兼・佐々木の三郎盛綱已下越後・信濃等の国の御家人に遣わさると。俊兼これを奉行す。 」
そして、その翌日は早速奥州に兵を送り込んでいることが書かれている。
「12月24日 己酉
工藤の小次郎行光・由利の中八維平・宮六兼仗国平等奥州に発向す。件の国また物騒の由これを告げ申すに依って、防戦の用意を致すべきが故なり。 」
これらの経緯を読めば、源頼朝がいかに義経を怖れていたかが見えてくるし、義経が生きているとの可能性を否定できなかったということではないだろうか。

『吾妻鏡』を読み進むと、年が明けて文治六年(1190)正月六日には、
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/119001.html
「奥州の故泰衡郎従大河の次郎兼任以下、去年窮冬以来叛逆を企て、或いは伊豫の守義経と号し出羽の国海辺庄に出て、或いは左馬の頭義仲嫡男朝日の冠者と称し同国山北  郡に起ち、各々逆党を結ぶ。遂に兼任嫡子鶴太郎・次男畿内の次郎並びに七千余騎の凶徒を相具し、鎌倉方に向かい首途せしむ。…」とある。

この時点で義経が生きているかどうかは分からないが、義経と名乗る人物や木曽義仲の嫡男の朝日冠者と称する人物が、反頼朝で決起したことが書かれているのだ。

反頼朝勢力からすれば、義経が生きているにせよ死んでいるにせよ、生きていると思わせることが、戦略上都合の良い事であったことは誰でもわかる。作り話でいくらでも相手を攪乱することができるし、自らを「義経」と名乗れば、相手はそれだけで警戒することになるし勢力を分散させることも可能だ。
だから、東北には義経が生き延びて逃避行を続けたという伝説があちこちに残ることになったと考えることはできないか。

また江戸時代になると、いろいろな書物で義経が蝦夷地に渡ったことが書かれるようになる。次のURLが良く調べておられて非常に参考になる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/cozy-p/yositune.html

林羅山・鵞峯父子が徳川幕府の命令で編纂した『本朝通鑑』(1670年)の義経の条に、異説と断った上で「衣河ノ役、義経死セズ、逃レテ蝦夷ケ島ニ至ル、其ノ遺種今ニ存ス」と記されているそうだ。

徳川光圀

また徳川光圀が著した『大日本史』の義経列伝の中で「世に伝う、義経、衣川の館に死せず、遁れて蝦夷に至る。」と書き、さらに「相距ること四十三日、天時に暑熱、函して酒に浸すといえども、いずくんぞ壊乱腐敗せざるを得んや。たれか能くその真偽を弁ぜんや。然れば則ち義経偽り死して遁れ去りしか。今に至るまで夷人義経を崇奉し、祀りて之を神とす。けだし或いはその故あるなり。」と、『吾妻鏡』の記述を批判している。

さらに新井白石も『蝦夷記』の中で、「アイヌ人等は祀壇を設け義経を祀り、これをオキクルミといい、飲食する毎にいのりをささげている。」また「蝦夷地の西部の地名に弁慶崎というのがある。一説によると義経はここから北海を越えて去った…」と記しているそうだ。

チンギスハン

子供の頃に、源義経が成吉思汗になったという説を読んだことがある。この説は今では完全に否定されているが、最初に唱えたのは、幕末に日本に来たドイツ人医師のシーボルトだそうだ。彼の著書の『日本』(1832年)には、こう書かれているのだそうだ。

シーボルト

「義経の蝦夷への脱出、さらに引き続いて対岸のアジア大陸への脱出の年は蒙古人の歴史では蒙古遊牧民族の帝国創建という重要な時期にあたっている。『東蒙古史』には「豪族の息子鉄木真が28歳の年ケルレン川の草原においてアルラト氏によって可汗として承認された。…その後間もなくチンギス・ハーンははじめオノン河のほとりに立てられた九つの房飾りのついた白旗を掲げた。…そしてベーデ族四十万の支配者となった。」
この説は江戸時代ではあまり広がらなかったが、大正から昭和初期にかけて急速に広がることになるのが面白い。

上記URLに非常に鋭い指摘がなされている。
「そもそも、義経の蝦夷脱走説自体が、徳川幕府のアイヌ統治政策に利用されてきた経緯がある。1799年に北海道の平取に義経神社ができているが、その創建者は幕府の蝦夷地御用係近藤重蔵であった。」
「1932年は満州国建国の年である。日本が南下を狙うロシアとの長年にわたる抗争の末、何万人もの犠牲の上にようやく手に入れた領土である。しかし、五族協和の謳い文句とは裏腹に、中国における排日運動、国際的な孤立を生む。義経=成吉思汗の伝説が、大陸侵略を正当化するために利用されたのである。」
「義経伝説は「判官贔屓」の日本人の心情をうまく利用しながら、その裏側で常に北方国策の影を引き摺りながら成長していったのである。」

要するに、江戸時代にはアイヌ統治のためには義経が蝦夷を統治したという話が広められ、昭和初期に満州統治の為に義経=成吉思汗説が広められ、このようにして、義経北行伝説がどんどん大きな話になっていったということのようなのだ。

歴史にロマンを感じるのはいいが、時代によっては権力者は、権力にとって都合の良いようにそのロマンを利用することがある。
単純に面白い説をただ鵜呑みにするのではなく、真実なのか偽史なのかを史料などを確認しながら見抜く力を持つことが、重要なのだと思う。
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謎に包まれた源頼朝の死を考える

鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』の目次を見ると、建久七年(1196)から建久九年(1198)年の記録がないことがわかる。厳密にいうと建久六年(1195)の十二月二三日から建久十年(1199)の二月五日までの3年以上の長きにわたり、『吾妻鏡』には何も記録がないのである。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma00-00mokuji.html

吾妻鏡』に記録のない年は他にもあるのだが、これだけ長い間にわたり記録がないのは、この期間だけである。
上記URLでは「欠落」という言葉を用いているが、『吾妻鏡』の第十五巻は建久六年で終わっており、第十六巻は建久十年から始まっており、編集段階からこの期間に記録が残されていないことになる。
この間に鎌倉幕府にとって特筆すべき事項が何もないのであれば問題はないが、実際にはこの期間に鎌倉幕府にとってかなり重要なことが起こっているはずなのである。

源頼朝

その重要なことというのは、この間に鎌倉幕府を開いた源頼朝の死につながる何らかの出来事なのだが、そのことが鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』にほとんど記述されていないことは極めて不自然であると思うのだ。
今回は源頼朝の死をテーマに書くことにしたい。

源頼朝は建久十年(1199)の一月一三日に頼朝が病死したとされているが、その根拠となる史料はいくつか残されている。
まず、建久九年(1198)の十二月二七日に関して、このような記録が残されている。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/119800.html

承久記

【承久記】(作者不明。承久三年(1221)の承久の乱を記した合戦記)
「相模川に橋供養(稲毛重成、亡妻供養の為)の有し時、聴聞に詣で玉て、下向の時より水神に領せられて、病患頻りに催す。」

【保暦間記】(作者不明。鎌倉時代後半から南北朝時代前期を記した歴史書)
「大将軍相模河の橋供養に出で帰せ給ひけるに、八的が原と云所にて亡ぼされし源氏義  廣・義経・行家以下の人々現じて頼朝に目を見合せけり。是をば打過給けるに、稲村崎にて海上に十歳ばかりなる童子の現じ給て、汝を此程随分思ひつるに、今こそ見付たれ。我をば誰とか見る。西海に沈し安徳天皇也とて失給ぬ。その後鎌倉へ入給て則病付給けり。」

【神皇正統録】 (作者不明。後鳥羽天皇に至る間の諸事件を神国思想に基づき編年記 風に略記した史書。)
「相模河橋供養。これ日来稲毛の重成入道、亡妻(北條時政息女)追善の為に建立する  所なり。仍って頼朝卿結縁の為に相向かう。時に還御に及んで落馬するの間、これより以て病悩を受く。」

「歴史書」と呼ばれる史料に書かれていることが必ずしも史実であるとは限らない。
『保暦間記』には、頼朝が滅ぼした義経や安徳天皇の亡霊までが登場しているが、これは作り話としか思えない。
しかし、3つの史料で建久九年の12月27日の記録に共通している次の2点については概ね真実と考えて良いのだと思う。
・御家人稲毛重成が亡妻の追善供養のため相模川に架橋し、頼朝はその落成式に出席した。
・その後ひどく体調を崩した。

また、頼朝が翌年の一月一三日に亡くなったことについては、『北條九代記』『承久記』『愚管抄』『明月記』に記録されている。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/119901.html

吾妻鏡

『吾妻鏡』にも頼朝の死について書かれているが、頼朝が死んで13年もたった後の延暦二年二月二八日に、申し訳なさそうにこう記しているだけだ。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma20-02.htm
「相摸國 相摸河橋 數ケ間朽損す。…去る建久九年、重成法師之を新造す。供養を遂げる之日、之と結縁の爲、故將軍家渡御す。還路に及び御落馬有りて、幾程を經不(いくほどをへず)薨り給ひ畢(こうむりたまいおわんぬ)。」
と、内容は『神皇正統録』と同様に、落馬されてそれからほどなく亡くなった旨のことを簡単に書いている。

頼朝の死因についてはこの『吾妻鏡』や『神皇正統録』を論拠として、落馬が原因とする説が多いようだが、私には落馬による怪我が原因で死亡するというのは、勇猛な武将の死に方としてはどうもピンとこない。わが国の在来種の馬は決して大きくないし、落馬が原因で死ぬとは考えにくい。落馬はしたかも知れないが、落馬が直接の死因ではなかったのではないか。

往路は問題なく馬に乗って相模川まで来たにもかかわらず、帰りは馬にも乗れない状況に陥ってしまった…。もしかすると、相模川の橋の落成式に参加した頼朝に、毒でも盛られたのか、余程体調が悪かったなかで病状が急変した、と考える方がより説得力がありそうだ。

稲毛重成

ところで、橋の落成式で名前の出ている「稲毛重成」はどんな人物なのだろう。

Wikipediaによると、
「桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族。武蔵国稲毛荘を領した。父は小山田氏の祖・小山田有重。畠山重忠は従兄弟にあたる。」

「治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵では平家方として頼朝と敵対したが、同年10月、 隅田川の長井の渡しにおいて、畠山重忠ら秩父一族と共に頼朝に帰伏し御家人となる。その後頼朝の正室政子の妹を妻に迎え」と書かれている。もともとは頼朝と敵対する平家の武将であったが、治承4年10月には頼朝側につき、頼朝の妻である北条政子の妹を妻とした、ということは、稲毛重成にとって源頼朝は義兄であり、初代執権北条時政は義父ということになる。このような関係であれば、北条時政も娘の供養のために出席していたであろうし、時政がその気になれば、頼朝に毒を盛ることくらいは容易なことではなかったか。

実際に頼朝亡きあとに鎌倉幕府の実権を握ったのは、言うまでもなく北条氏である。
また頼朝が死ぬ前後に、頼朝に近い人物の多くが相次いで死んでいる。時系列で書くとこのようになる。
建久八年(1197)七月十四日 頼朝の長女・大姫死亡(20歳)
建久十年(1199)一月十三日 頼朝死亡 
正治元年(1199)六月三十日 頼朝の次女・三幡(さんまん:14歳)死亡
正治二年(1200)一月二十日 鎌倉幕府の有力御家人・梶原景時一族滅亡
建仁三年(1203)九月二日  鎌倉幕府の有力御家人・比企能員一族滅亡
元久元年(1204)七月十八日 頼朝の嫡男で第二代将軍であった源頼家暗殺される(23歳)
元久二年(1205)六月二二日 鎌倉幕府の有力御家人・畠山重忠一族滅亡
元久二年(1205)六月二三日 鎌倉幕府の有力御家人・稲毛重成殺害される。
建暦三年(1213)五月三日 鎌倉幕府の有力御家人・和田義盛一族滅亡
建保七年(1219)一月二七日 頼朝の次男で第三代将軍であった源実朝が暗殺される。実朝を暗殺した源頼家の子・公暁は、同日北条氏により暗殺される。

これだけ多くの人物が、短期間に死ぬことはどう考えても異常な事であり、これらの事件の多くは北条氏が絡んでいるようなのだ。

このようなことになった背景を調べると、頼朝が朝廷の関係をどうしようとしていたかという問題にたどり着く。

つまるところ、頼朝は平清盛と同じことをやろうとした。
頼朝は朝廷に近づき、朝廷への影響力を得るために、長女の大姫を入内させ、外戚としての地位を得ようとした。そのために多くの富を費やしたのだが、そのことが朝廷内に反幕府派の台頭を招き、多くの御家人の支持を失う結果となったと言われている。

九条兼実

頼朝は長く続いた院政に批判的な関白・九条兼実(くじょうかねざね:上画像)の協力を得て建久三年(1192)に征夷大将軍の地位を得るのだが、その頃の朝廷は九条兼実らの親幕派と、土御門通親(つちみかどみちちか)らの院政を支持する反幕派とに分かれていた。
  ところが、後鳥羽上皇の中宮に入っていた土御門通親の娘が男子を生んで、皇子の祖父となると力を持ち始めて、親幕派の九条兼実が建久7年(1196年)11月に関白の地位を追われて失脚してしまう。(「建久七年の政変」)

また、入内させようと準備していた頼朝の長女・大姫が、建久八年七月に病死してしまう。
愚管抄』の七月一四日の記録はこう書かれている。
「京へ参らすべしと聞えし頼朝がむすめ久くわづらいてうせにけり。京より實全法印と  云験者くだしたりしも全くしるしなし。いまだ京へのぼりつかぬ先に、うせぬるよし聞へて後、京へいれりければ、祈殺して帰りたるにてをかしかりけり。
能保(よしやす)が子高能(たかやす)と申し、わかくて公卿に成て参議兵衛督なりし、さはぎ下りなんどしてありし程に、頼朝この後京の事ども聞て、なお次のむすめを具してのぼらんずと聞ゆ。」
頼朝は大姫の入内を、反幕府派の土御門通親から仕掛けられていたらしいのだが、『愚管抄』によると、大姫は京から送られてきた修験者に祈り殺されたと書かれている。
能保とその子高能というのは、頼朝と朝廷内の親幕派をつなぐ役割をしていた一条能保とその子の高能だが、この二人も建久八年十月に能保が、建久九年九月に高能が、相次いで亡くなっている。

土御門通親

実は建久九年(1198)の正月に重要な出来事が起こっている。
後鳥羽天皇は土御門通親の養女が生んだ土御門天皇に譲位して上皇となり、土御門通親(上画像)は天皇の外戚としてさらに権勢を強めたのだ。

頼朝はさらに次女・三幡姫の入内を企て、女御の宣旨を受けたのだが、既述したようにその年の十二月二七日に、相模川の橋供養帰路で倒れてしまう。

頼朝は翌建久十年(1199)一月十三日に亡くなり、頼朝が入内させた次女の三幡姫は、三月五日に発病し、六月十二日には目の上が腫れるようになり、六月三十日に亡くなっているという。おそらく毒を盛られていたのだろう。

頼朝についてはもともと病気であったという説もあるが、こういう経緯を知れば知るほど、頼朝も頼朝につながる人々も、ほとんど全員が殺されたのではないかとも思えてくる。ほとんどクーデターとよぶべきことがこの時期に起こったと考えた方がずっとスッキリするのだが、このようなことがらについてはどこにも公式な記録が残らないので歴史には叙述されることがない。

暗殺をはかった勢力は、武士の国を作るために頑張って来たにもかかわらず頼朝が朝廷に近づこうとするのを快く思わなかった反頼朝の御家人グループ(北条時政ら)か、頼朝が外戚としての地位を得ることを許さなかった朝廷の反幕府グループ(土御門通親ら)のいずれかか、その双方であろう。

このブログで何度か書いているのだが、つまるところ「正史」というものは、時の権力者にとって都合の良いように書きかえられた綺麗ごとの歴史にすぎない。
鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』の空白の3年間は、源頼朝にとっての綺麗ごとの歴史が、北条家にとっての綺麗ごとの歴史にとってかわるときに、北条家に近い人物が北条家にとって都合の悪い部分を抜き取ったと考えるべきではないか。
だとすれば、鎌倉時代の第一級史料と呼ばれる『吾妻鏡』を読んで、表面的な事実は知り得ても、その背景にある歴史の真実は一部しか見えて来ないことになる。
この時代で、頼朝が悪役にされ、義経が英雄に祭り上げられることが多いのは、北条家にとって都合の良い公式史料が残され、それに基づいて多くの物語が作られたことと無関係ではないのだろう。

いつの時代でもどこの国でも、権力闘争は醜くドロドロとしたものであるのが当たり前だと思うのだが、ドロドロした醜い部分は公式的な史料にはほとんど残らないものである。
歴史の真実は、同じ時代に立場の違う人々が何を書いているかを読み比べることによってようやく垣間見えてくるものであり、「正史」だけではほとんど見えて来ないものではないだろうか。
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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