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鉄砲伝来の翌年に鉄砲の量産に成功した日本がなぜ鉄砲を捨てたのか~~その1

中学・高校で日本史を学んだときに腑に落ちなかったことがいくつかあった。

例えば、何故日本は西洋諸国の植民地にならずにすんだのかということ。もう一つは、何故日本はその後に鉄砲を捨てて刀剣の世界にもどったのかということなどである。

16世紀に来たポルトガルやイスパニアに日本侵略の意思があった記録はいくつか読んだことがあるが、なぜ日本はその時に西洋諸国の侵略を免れることが出来たのか。単純に海があったからというのでは、フィリピンが同様の時期にスペインに征服されたのをどう説明すれば良いのだろうか。

また、西洋諸国が植民地を拡大している時代に、鉄砲を捨てたような国は日本の他に存在するのだろうか。
もし日本が鉄砲を捨てていなければ、江戸時代から明治にかけての日本の歴史は随分異なったものになっていたはずである。


鹿児島県の黎明館という施設で常設展示されている薩摩藩の南浦文之(なんぼぶんし)和尚の「南浦文集」の中に、慶長11年(1606)に書いた「鐡炮記(てっぽうき)」という記録があり、そこに鉄砲の伝来の経緯から国内に鉄砲が伝わる経緯が書かれている。

その記録によると、
天文12年(1543)8月25日、種子島の西村の浦に大きな外国船が漂着し、その中に漢字を理解できる五峯(ごほう)という人物がいたので筆談をし、その船に乗っていた商人から鉄砲と言う火器を、領主の種子島時尭(ときたか)が二挺購入した。
下の画像は種子島にある時尭の銅像である。



種子島時尭は家臣に命じて、外国人から火薬調合の方法を学びまた銃筒を模造させたのだが、銃尾がネジのついた鉄栓で塞がれていてその作り方がわからなかった。
そこで、翌年来航した外国人から八板金兵衛がその製法を学び、ようやく鉄砲の模造品が完成し、伝来から一年後に数十挺の鉄砲を製造することが出来たという。
その後、種子島を訪れた紀州根来の杉坊(すぎのぼう)や堺の商人橘屋又三郎が鉄砲と製造法を習得して持ち帰り、近畿を中心に鉄砲の製造が始まったそうだ。

最初に種子島に漂着した船にいた「五峯」とは、肥前の五島を根拠地に倭寇の頭目として活躍した海賊の王直の号であり、王直は中国安徽省出身であったこともわかっているそうだ。王直はその後、鉄砲に不可欠な火薬の燃料である硝石を中国やタイから日本にもたらして、交易で巨利を得たという。

鉄砲の製造と使用は急速に広まり、1570年に織田信長と戦った石山本願寺の軍は8000挺の銃を用いたといい、1575年の長篠の戦いでは、織田・徳川連合軍は1,000挺ずつ三隊に分かれて、一斉射撃を行って武田の騎馬隊を打ち破ったことは有名な話である。

米国のダートマス大学教授ノエル・ペリンの「鉄砲を捨てた日本人」(中公文庫)という本にはこう書いてある。

「…アラビア人、インド人、中国人いずれも鉄砲の使用では日本人よりずっと先んじたのであるが、ひとり日本人だけが鉄砲の大量生産に成功した。そればかりか、みごと自家薬籠中の武器としたのである。」(p35)

「…今日もそうだが、日本は当時も優れた工業国であった。…日本で、もっとも大量に製造されていた物がなにかというと、それは武器であって、二百年ぐらいは世界有数の武器輸出国であった。日本製の武器は東アジア一帯で使われていた。」(p38-39)

「少なくとも鉄砲の絶対数では、十六世紀末の日本は、まちがいなく世界のどの国よりも大量にもっていた。」(p63)



「たとえばイギリス軍全体をとってみても、その鉄砲所有数は、日本のトップの大名六名のうちどの大名の軍隊と比べても少なかった。…1569年イギリス枢密院がフランス侵攻の際に動員できるイギリス全体の兵隊と武器の数を決定すべく総点検を行った時のことだ、…フランス大使はスパイを通じてその情報をつかみ、「機密にされている兵隊の集計値」は二万四千、そのうち約六千の者が銃を所持している、とパリに報告した。」(p160-161)
「1584年、…戦国大名の竜造寺隆信が島原方面で有馬晴信・島津家久と対戦したが、率いていた軍勢は二万五千、そのうち九千が鉄砲隊であった。…」(p162)

すなわちイギリス国全体の軍隊の銃の数よりも肥前国の竜造寺氏の銃の数の方が五割も多かったのだ。しかも日本は独自の工夫により銃の性能を高め、「螺旋状の主動バネと引金調整装置を発達させ」「雨中でも火縄銃を撃てる雨よけ付属装置を考案し」、当時のヨーロッパにおける戦闘と比較して、「武器においては日本人の方が実質的に先行していたのではなかろうか」とまで書いてある。


鉄砲だけではない。刀も鎧も日本の物の方が優れており、ヨーロッパ製の剣などは日本刀で簡単に真っ二つに切り裂かれるということが正しいかどうかを実験した人がいるそうだ。 「今世紀(20世紀)の武器収集家ジョージ・キャメロン・ストーンが、16世紀の日本刀によって近代ヨーロッパの剣を真二つに切る実験に立ち会ったのがそれだし、また15世紀の名工兼元(2代目)の作になる日本刀によって機関銃の銃身が真二つに切り裂かれるのを映したフィルムが日本にある。」(p41)

この本を読むと、日本が西洋の植民地にならなかった理由が見えてくる。
前々回の記事でこの当時日本に滞在したイエズス会の宣教師が日本を絶賛した記録が残っていることを書いたが、この本にも当時に日本に派遣された外国人が、日本の方が先進国であると書いている記録が紹介されている。

「十六世紀後期に日本に滞在していた…宣教師オルガンティノ・グネッチは、宗教を措けば日本の文化水準は全体として故国イタリアの文化より高い、と思ったほどである。当時のイタリアは、もちろんルネッサンスの絶頂期にあった。前フィリピン総督のスペイン人ドン・ロドリゴ・ビベロが1610年、上総に漂着した際にも、ビベロの日本についての印象は、グネッチと同様の結論であった。…」(p45)
と、著者が根拠とした文献とその何ページにそのことが記載されているかについて詳細な注が付されている。
この本の巻末には、著者の注だけで24ページ、参考文献のリストに11ページも存在し、ノエル・ペリンだけが特異な意見を述べているのでないことがわかる。世界にはこの時期の日本の事が書かれた書物が色々あるようなのだが、参考文献のほとんどが邦訳されていないのが残念だ。

この本を読んでいくと、この時代において鉄砲でも刀でも文化でも日本に勝てなかった西洋諸国に、日本を征服できることは考えられなかったことが見えてきて、日本人なら少しは元気になれるというものだろう。

しかしこの本のような記述は、私が学生時代以降に学んできた歴史の印象と随分異なる。戦後日本の歴史教育は、日本の伝統技術や文化水準に正当な評価を与えているのであろうか。この本のように当時の日本のことを丁寧に調べた書物ですら、我が国であまり注目されていないのは随分おかしなことだと思う。

私は、戦後の長い間にわたって、自虐史観に合わない論文や書物が軽視され続けてきたという印象をもつのだが、ペリン氏がこの著書で参考文献に挙げた海外の書物が邦訳されるのはいつのことなのだろうか。
<つづく>

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鉄砲の量産に成功した日本が何故鉄砲を捨てたのか~~その2

前回は鉄砲伝来の一年後には種子島で数十挺の鉄砲を製造し、その後紀州や堺で鉄砲の大量生産が始まり、十六世紀の末には世界最大の鉄砲所有国となっていたばかりではなく、鉄砲の性能も、刀も鎧も日本製の方が優れていたし、文化水準も西洋よりも高かったことを当時日本を訪れた多くの外国人が記録していることを書いた。

しかし、その後日本人は鉄砲を捨てて刀剣の世界に舞い戻っている。これは何故なのか。
ノエル・ペリン
前回紹介したノエル・ペリンの「鉄砲を捨てた日本人」では、こう書かれている。

「…目標を定めた一千発の一斉射撃は、周章狼狽していようが泰然自若としていようが、敵とあらば見境いなく、相手を声も届かぬ離れた地点から撃ち殺した。鉄砲に立ち向かう場合、勇敢さはかえって不利になり、攻守ところを変えて自分が鉄砲隊になると、…鉄砲隊何千の一員として、攻撃を仕掛けてくる敵を掃討するべく土塁の背後で待ちかまえておればよいわけだ。それには大した技術もいらない。技量が問われるのは、今や兵士ではなく、鉄砲鍛冶と指揮官たる者に変わったのである。…ともあれ、鉄砲を持つ農民が最強の武士をいともたやすく撃ち殺せることを認めるのは、誰にとっても大きな衝撃であった。」(P63)

長篠の合戦の後まもなく、鉄砲に対する二つの態度が現れはじめる。戦国大名は大量の鉄砲を購入しつつも、自らは鉄砲を使って戦おうとはしなかった。

「武士の戦闘は刀、足軽のそれは鉄砲という分離は、もちろん、うまくいくはずのものではない。刀か鉄砲か、この二つは対立し続けた。」(p64)

豊臣秀吉
最初に鉄砲を統制しようとしたのは関白太政大臣の豊臣秀吉とノエル・ペリンは著書で指摘している。

教科書では天正16年(1588)年に「刀狩令」が出ている。この命令は刀や槍などを農民から没収しただけではなく鉄砲も没収対象に入っている。

原文では
「一、諸国百姓、刀、脇差、弓、やり、てつはう(鉄砲)、其の外武具のたぐひ所持候事、堅く御停止候。その子細は、入らざる道具をあひたくはへ、年貢所当を難渋せしめ、自然一揆を企て、給人にたいし非儀の動きをなすやから、勿論御成敗有るべし。然れば、其の所の田畠不作せしめ、知行ついえになり候間、其の国主、給人、代官として、右武具悉く取りあつめ、進上致すべき事。」とある。

秀吉は方広寺の大仏建立のための釘・鎹(かすがい)にすることを口実に、農民からこれらの武器を集め、農民の一揆を防止するとともに兵農分離を進めたのだが、そもそも方広寺の大仏は木造であったので、それほどの鉄が必要なはずがなかったのだ。

しかしヨーロッパには秀吉の刀狩令のようなものはなかった。しかし、鉄砲によって殺される人数や早さが増大したことから、鉄砲や銃について統制すべきと意見は根強くあったようだ。

例えば、
「大砲と火器は残忍で忌まわしい機械です。それは悪魔がじかに手を下した仕業だと信じます」(マーティン・ルター)
「あわれ、立派な勇士たちが、ごろごろ、卑怯な飛び道具で生命を落とさねばならぬ、なんという遺憾、…こんな下等な鉄砲なんてものさえなけりゃ、拙者だとても立派な軍人になっていましたろうに。」(シェイクスピア「ヘンリー4世」)

にもかかわらず、ヨーロッパではそれから後に急速に火器を発達させていくのだが、日本はでは逆に火器の統制に入っていく。

徳川家康
慶長12年(1607)に徳川家康は国友の鉄砲鍛冶年寄4名を侍身分にとりたてて、鉄砲鍛冶の管理に関わる法度を申し渡している。
「…一、諸国より大小の鉄砲多く誂候はば、早速相届け申すべきこと
   ならびに惣鍛冶新筒受け取り候はば、年寄へ相届もうすべきこと」
一、 鉄砲職分の者猥(みだり)に他国え出で候こと堅く無用たること
一、 鉄砲細工猥に余人へ相伝え申すまじきこと
一、 鉄砲薬調合のこと、ならびに力様薬込、年寄の外、他見他言すまじきこと…」

これらの規則が遵守されるように鉄砲代官が任命され、この年から鉄砲は徳川幕府の許可がなければ製造が出来なくなったのである。
鉄砲代官は幕府の注文以外はほとんど許可しなかったので、国友の鉄砲鍛冶の生活はまもなく困窮し始め、かなりの者が刀鍛冶となったそうだ。

では、なぜ日本だけが鉄砲を捨てて旧式の刀剣の世界に戻ったのか。その理由について、ノエル・ペリンは少なくとも5つあると書いている。
要約すると、
1. 日本では武士が総人口の7~10%を占めており、ヨーロッパのどの国の騎士団よりも規模が大きかった。(イギリスで0.6%程度。ヨーロッパではどの国も、優に1%を超える国はなかった。)
2. 日本の武力および自然的条件から外国からの侵略が難しく、日本の国家的統合の維持は通常兵器で充分であった。
3. 日本の武士にとって刀剣は戦いの武器にととまらず、「武士の魂」であった。
4. 外国人の思想、わけてもキリスト教と商業に対する西洋人の態度が受け容れがたいとする潮流が存在した。
5. 刀剣が飛び道具よりも品位の高い武器と考えられていた。

ということだが、あまりピンとこないところがある。

川勝平太
この本の訳者は現静岡県知事の川勝平太氏だが、氏の「鉄砲が動かした世界秩序」(「地球日本史1」所収)という論文では、ノエル・ペリン挙げた理由では隔靴掻痒の感が否めないとして、朱子学の影響を指摘しておられる。

藤原惺窩
その論文によると、秀吉の起こした文禄・慶長の役で連行された捕虜の中に朱子学者の姜沆(きょうこう)と言う人物がいて、相国寺の禅僧藤原惺窩(ふじわらせいか)は彼と深く交わり朱子学者に転向し、惺窩の作とされる「本作録」の序に「天下国家を治むる御心持の次第」七条が書かれており、それが徳川幕府に大きな影響を与えたという。

要するに藤原惺窩は、戦国の世が終わり、これからの時代は文治主義でなければならないと説き、徳川幕府は朱子学を公認して統治哲学とした。惺窩の門下の林羅山は徳川家康に仕えた後四代将軍家綱まで侍講をつとめ、林家を軸に昌平坂学問所が作られ、各藩はそれを真似て藩校を設立した。

朱子学の統治哲学とは、統治の正当性の源泉は力ではなく、徳である。徳を積めば身が修まり、家が斉い、国が治まり、天下は泰平になるというものである。

川勝氏は紹介した論文でこう書いている。
「17世紀前半、ヨーロッパにグロチウスが戦争を世界観の柱にして国際法を構想したとき、日本では惺窩、羅山が朱子学をもとに徳治を説き、それを統治の根幹に据えたのである。『文明(華)』を柱にした日本の世界観と、『戦争』を柱にしたヨーロッパの世界観とはユーラシア大陸の両端でほぼ同時に生まれ、前者は徳治にもとづく軍縮の道、後者は覇権にもとづく軍拡の道を歩んだ。」

「国際法を遵守しないような国は野蛮だ、というのは今日の常識である。だが、日本は、『戦争と平和』の世界観に基づく国際法を受容するまでは野蛮であったのか。否、それどころかまさに『華(文明)』意識のまっただ中にいた。
 徳川社会は天下泰平を楽しみ、戦争とは無縁の時代であった。戦争を柱とする世界観を持っていなかった。世界を弱肉強食の修羅場とみる見方を明治日本人はヨーロッパから受容することによって、日本人はその世界観に合った現実を自らつくった。日清戦争、韓国併合、第壱次世界大戦の戦勝、日中戦争の泥沼も、惨憺たる配線もその結果である。
 たとえ、それが他に選択の余地のないコースであったにせよ、鉄砲が生み出した西洋起源の世界秩序が、その成立の由来と、軍拡・戦争の歴史に照らすとき、文明の名に値するものかどうかは疑いうる。」

日本は鉄砲を捨てて、平和で豊かな国づくりを目指した。
17世紀半ば、江戸の人口が50万人になろうとする時には神田上水に続いて玉川上水が完成したが、ニューヨークで最初の水路が完成したのは日本に二世紀も遅れ、1842年の事であった。
日本の刀剣の世界に舞い戻っている間に西洋では軍事技術が進み、日本は軍事の分野で大きく西洋諸国に立ち遅れてしまった。そのためにペリー来航以降大きく日本の歴史が動くのだが、日本が全てにおいて西洋諸国に劣っていたのであれば、この時期に植民地化してもおかしくなかった。
幕末から明治期にかけて多くの外国人が日本に訪れ様々な記録を残しているが、当時の日本を高く評価している記録が少なくない。

ノエル・ペリンは、エドワード・モース、ヘンリー・ヒュースケン、タウンゼント・ハリス、ラザフォード・オールコック等の著書を引用しながら、明治期の日本は治安だけでなく保健・衛生面においても優れており、人々は道徳的で品位があり、豊かな生活をしていたことを紹介している。

ノエル・ペリンはこの著書を通して、核兵器による人類破滅の危機を憂慮し、以前は世界的に優れた軍事技術に到達しながら当時の最先端の兵器を放棄した日本の経験に学んで、核兵器を放棄できないのか、そしてそのお金を国民が豊かになるために投資すべきではないかと問うているのだ。

原爆
そして問うている相手はどこかというと、ノエル・ペリンの母国のアメリカをはじめとする軍事大国だろう。
日本で鉄砲を捨てたのは、当時は日本が世界有数の軍事大国であり、あわせて最高権力者の軍縮命令があったからこそできたのであって、権力者からのそのような命令がなくしては、どこの藩も自主的に単独で軍縮などできるはずがなかったことは明らかである。

今の軍事大国が、徳治にもとづく軍縮の道を協議し、共同歩調で大量破壊兵器の縮減を選択する日は将来訪れるのだろうか。
彼らは将来、全世界をどういう方向に導こうとしているのか。彼らは自国の版図を広げようと虎視眈々と狙っている狡猾な国なのか、世界中に紛争の種を蒔いて兵器産業の金儲けに加担している野蛮な国なのか。
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毛利元就の「三本の矢」の教えはいつの時代の創作なのか

毛利元就と言えば、「三矢の訓(おしえ)」が有名だ。

毛利元就

元就の臨終の床で、長男隆元(たかもと)、次男吉川元春(きっかわもとはる)、三男小早川隆景(こはやかわたかかげ)の三人の息子を枕元に呼び寄せて、矢を一本ずつ与えて「折ってみよ」と命じ、息子たちが難なくこれを折った。
今度は三本の矢を束にして、また「折ってみよ」と命じたところ、息子たちは誰もこれを折ることが出来なかった。
元就は一本では脆い矢も束になれば頑丈になることを示し、毛利家も三兄弟が結束すれば、他国から攻められることはないと訓えたという話だ。

三本の矢人形

この「三矢の訓」の話はテレビでも何度か子役が出てくるのを見たような記憶があり、人形や絵などでも見たことがあるので私も長い間本当にあった話だと信じていたが、最近になって友人からこの話は、時代背景からあり得ないことを教えてもらった。

まず、毛利元就がなくなったのは元亀二年(1571)で、享年75歳であった。
長男の隆元は、それより8年前の永禄六年(1563)に尼子攻めに参加する途上で41歳で急死しているので、元就の臨終の床にいる事はあり得ない。
また、元就の臨終の時に、次男の元春は41歳、三男の隆景は38歳の壮年ということになる。三本の矢を折れないのが少年であれば理解できるが、この年齢の男性なら三本の矢を束ねたくらいならそのままへし折ってしまうだろう。
だから、毛利元就の臨終の床での場面設定は明らかに作り話である。

また毛利元就の子供は3人ではなく実は12人いた。男10人女2人の子沢山である。なぜ、「三本の矢」なのかと、調べるといろんな疑問が湧いてくる。

では、このような作り話がいつ頃から流布したのだろうか。
ネットでいろいろ探すと、中国新聞の特集記事が見つかった。この話が広まったのはどうやら明治時代の教科書がきっかけらしいのだ。
http://www.chugoku-np.co.jp/Mouri/Mr97041801.html
このサイトを読むと、明治15年(1882)編纂の道徳教育書「幼学綱要」にこんな話が登場していると書いてある。

毛利元就病てまさに死せんとす。諸氏を前に召し、其子の数の矢を束ねて力を極めて之を折れども断えず。また其一条を抜き、随って折れば随って断ゆ。曰く、兄弟はこの矢の如し。和すれば則ち相依って事をなし、和せざれば則ち各々敗る…」。
と、ここでは矢の話が出てくるが兄弟の人数も名前も記されていない。

また大正8年(1919)文部省編纂の「尋常小学読本」にも良く似た話が出てくるのだが、ここでは「父のおしえ」と言う表題で、毛利元就の名前も記されていないそうだ。
中国新聞のこの記事ではこの話が、長男隆元、二男元春、三男隆景に矢を折らす「三矢の訓」に変化したかははっきりしないと書いてある。

自宅の本棚から小学館文庫の「精選『尋常小学修身書』」を取り出して確認すると、昭和9年の「尋常小学修身書」が掲載されていて、ここではこうなっている。

「…元就には、隆元・元春・隆景という三人の子があって、元春・隆景は、それぞれ別の家の名を名のることになりました。元就は、三人の子が、先々はなればなれになりはせぬかと心配して、いつも『三人が一つ心になって助け合うように。』といましめて居ましたが、或る時、三人に一つの書き物を渡しました。…」(p337)

と、今度はどこにも矢の話が出て来ないのだ。「三矢の訓」は明治時代の「幼学綱要」から大正・昭和の「尋常小学校修身書」が混ぜ合わさったような話になっていることがわかる。

昭和9年の「尋常小学修身書」に書いてあることは、概ね史実に基づいたものである。
毛利元就は弘治三年(1557)11月25日に隆元・元春・隆景三兄弟の結束を説く14ヶ条からなる教訓状を残しているのだ。

三子教訓状

この「三子教訓状」は国の重要文化財に指定されていて、現在山口県防府市の毛利博物館に収蔵されている。

原文は次のURLで、
http://www5d.biglobe.ne.jp/~dynasty/sengoku/tegami/m405.htm
現代語訳は次のURLで読む事が出来る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AD%90%E6%95%99%E8%A8%93%E7%8A%B6

これを読むと、毛利元就が言っている事は、矢の話はないものの、「三矢の訓」に近い内容であることがわかる。

(口語訳)
「第三条
改めて述べるまでもないことだが、三人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬ。そんなことがあれば三人とも滅亡すると思え。諸氏を破った毛利の子孫たる者は、特によその者たちに憎まれているのだから。たとえ、なんとか生きながらえることができたとしても、家名を失いながら、一人か二人が存続していられても、何の役に立つとも思われぬ。そうなったら、憂いは言葉には言い表わせぬ程である。

第四条
隆元は元春・隆景を力にして、すべてのことを指図せよ。また元春と隆景は、毛利さえ強力であればこそ、それぞれの家中を抑えていくことができる。今でこそ 元春と隆景は、それぞれの家中を抑えていくことができると思っているであろうが、もしも、毛利が弱くなるようなことになれば、家中の者たちの心も変わるものだから、このことをよくわきまえていなければならぬ。


第六条
この教えは、孫の代までも心にとめて守ってもらいたいものである。そうすれば、毛利・吉川・小早川の三家は何代でも続くと思う。しかし、そう願いはするけれども、末世のことまでは、何とも言えない。せめて三人の代だけは確かにこの心持ちがなくては、家名も利益も共になくしてしまうだろう。…」

次男の小早川隆景には子供がなく、豊臣秀吉の甥・羽柴秀俊が養子となり小早川秀秋をなのるも嗣子なくして病没し小早川家は断絶したのだが、毛利元就が第六条で述べたとおり毛利家も吉川家は戦国時代から江戸時代、明治時代を生き抜き今も続いている。毛利元就の想いが子孫に伝わったということなのか。

三矢の訓」は誰が聞いてもいい話で、わかりやすくて含蓄がある。
しかし、子供に道徳を教えるためにいい話をわかりやすくしようとして、明治時代に史実を曲げてしまったことは良くなかった。教科書で一度でもそういうことをすると、長い間に史実でないことが日本人の常識となってしまう。

三矢の訓跡碑

広島県安芸高田市吉田町の「少年自然の家」の敷地は毛利元就の居館跡と伝えられているが、この場所は以前大江中学校(昭和43年[1968]に廃校)の敷地であった。

校地内に毛利元就の居館があったことから、当時の中学校生徒会の手で昭和31年に「三矢の訓跡」の碑が建てられてそれが今も残っている。

サンフレッチェ広島

サッカーJリーグの「サンフレッチェ広島」というチーム名は、「サン」は日本語の「三」、「フレッチェ」はイタリア語の「矢」を意味し、この「三矢の訓」にちなんだものであることは言うまでもない。

「三矢の訓」が作り話であることがわかっていれば、大江中学校の生徒会が碑を作ることもなかったであろうし、広島のサッカーチーム名も異っていたことであろう。 史実と異なる話を創作して伝えたことの罪は本当に重いと思う。
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フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その1

フランシスコ・ザビエルは天文18年(1549)8月15日に鹿児島に上陸して、日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師である。

大正8年(1919)に大阪の茨木市の山奥にある千提寺の民家から、教科書でおなじみの聖フランシスコ・ザビエル画像が発見されたことは以前このブログの「隠れ切支丹の里」という記事で書いたことがある。
shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-109.html

フランシスコザビエル

こんな肖像画が出てきたのだから、ザビエルがこんな山奥にも来て布教していたのかと錯覚してしまうのだが、それはあり得ないことである。
この地域にキリスト教が拡がったのは、切支丹大名として有名な高山右近が高槻城主であった時代なのだが、右近が生まれたのが天文21年頃(1552)で、ザビエルが日本を去った翌年の事である。布教の許可もない中で、この山奥にザビエルが足跡を残すことはありえないことなのだ。この画像は江戸時代の初期に描かれたものと考えられている。

ところでザビエルが日本に滞在した期間は思いのほか短い。
ザビエルが日本を去ったのは天文20年(1551)11月15日で、日本に滞在したのはわずか2年3ヶ月のことだった。
この短い期間で、日本語を学びながら仏教国の日本でこれだけキリスト教を広めたことは凄いことだと思う。

岩波文庫の「聖フランシスコ・ザビエル書翰抄(下)」に、ザビエルが日本に滞在した時の記録が残されている。これ読むと、当時の日本での布教の様子や、当時の日本人をザビエルがどう観察していたかがわかって興味深い。

ザビエルは1549年11月5日付のゴアのイエズス会の会友宛の書簡で、鹿児島に上陸して二ヶ月半の段階で、日本人をこう観察している。

「…今日まで自ら見聞し得たことと、他の者の仲介によって識る事の出来た日本のことを、貴兄らに報告したい。先ず第一に、私達が今までの接触によって識ることのできた限りに於ては、此の国民は、私が遭遇した国民の中では、一番傑出している。私には、どの不信者国民も、日本人より優れている者はないと考えられる。日本人は総体的に、良い素質を有し、悪意がなく、交わって頗る感じが良い。彼らの名誉心は、特に強烈で、彼等にとっては、名誉が凡てである。日本人は大抵貧乏である。しかし、武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱だと思っている者は、一人もいない。…」(岩波文庫p.27)

と、日本人の優秀さを絶賛している。

ザビエル上陸記念碑

<上の画像は鹿児島市のザビエル上陸記念碑>

キリスト教を布教するためには、日本人の仏教への信仰をとり崩していかなければならないのだが、ザビエルは当時の仏教の僧侶について、次のように記している。

「私は、一般の住民は、彼らが坊さんと呼ぶ僧侶よりは、悪習に染むこと少なく、理性に従うのを識った。坊さんは、自然が憎む罪を犯すことを好み、又それを自ら認め、否定しない。此のような坊さんの罪は、周知のことであり、また広く行われる習慣になっている故、男女、老若の区別なく、皆これを別に異ともせず、今更嫌悪する者もない。」
「自らが坊さんでない者は、私達が、この憎むべき悪習を、断固として罪だと主張する時、私達の言葉を喜んで聞く。かかる悪習が如何に非道であるか、又それが、如何に神の掟に反するものであるかを、強調する時、人々は皆私達に賛成する。…」(p.30)

と、この時期の僧侶には戒律を破り堕落している者が少なからずいて、そのことを一般民衆に話すと一般民衆は喜んで聞いたと書いている。

ジンナロ編東洋の使徒ザビエル伝

<上の画像はジンナロ編「東洋の使徒ザビエル伝」より>

またザビエルは、この日本でキリスト教布教する意気込みと、この布教が成功する可能性が高いことを次のように述べている。

「(僧侶も民衆も)皆、喜んで私と親しくなる。人々が非常に驚くのは私達が此の国民に神のことを告げ、救霊はイエズス・キリストを信ずるにあることを教えんがためにのみ、遥々六千レグア*の波濤を蹴立てて、ポルトガルから来朝したという事実である。私達の来朝は、神の命令に依ることだと私達は説明している。」(*1レグア=約6km)
「私がこれらのことを凡てお知らせするのは、諸兄から我らの主たる神に感謝して頂きたいためであり、更に島国日本は、私達の聖なる信仰の弘布に、非常に優れた条件を具備していることを報告したいからである。若し私達が日本語に堪能であるならば、多数の者が、キリストへの聖教に帰信するようになることは、絶対に疑いをいれない。」(p.30)

と、日本語さえ習得すればキリスト教を日本に広める事ができると書き、その上で、

「貴兄等は、準備をしていただきたい。二年も経過しないうちに、貴兄等の一団を、日本に招くことは、有り得ることだからである。謙遜の徳を身につけるように、励んで頂きたい。…」(p.31)

と、二年以内にキリスト教を広めていく自信があることを伝えているのだが、ザビエルはこの手紙を書いた丁度2年後に日本を去っているのだ。これはどう解釈すればいいのだろうか。
ザビエルにとって、この後の布教活動で満足な結果が出せたのだろうか、出せなかったのだろうか。

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フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その2

前回はザビエルが鹿児島に上陸して二ヶ月半たった時点で、ゴアのイエズス会会友宛てに日本人の印象などを書き送った書簡の一部を紹介した。今回はザビエルの日本での活動を追ってみよう。

若きザビエル

ザビエル(画像)はゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船に乗ってゴアを出発し、1549年8月15日に鹿児島に上陸した。そして翌月には薩摩の守護大名・島津貴久(画像)に謁見し、キリスト教宣教の許可を得ている。
島津貴久

前回紹介した書簡ではザビエルが日本の布教が成功することを確信していたような文章であったのは、わずか1ヶ月で薩摩の布教許可が得られたことで自信を深めたものだと考えられるが、その後島津貴久はキリスト教を禁止してしまう。

ザビエルは薩摩がキリスト教を禁止した経緯をこう書いている。この書簡の中のパウロと言う人物はヤジロウのことである。

「…私達は前にも言った通り、先づパウロの故郷に着いた。この国は鹿児島という。パウロが同胞の人々に熱心に語り聞かせたお陰で、殆ど百名にも及ぶ日本人が洗礼を受けた。もし坊さんが邪魔をしなかったら、他の凡ての住民も、信者となったに違いないのである。」(「聖フランシスコ・ザビエル書翰抄(下)」岩波文庫p.100)

「私達は一年以上もこの地方にいた。…坊さんはこの領主に迫り、若し領民が神の教に服することを許されるならば。領主は神社仏閣や、それに所属する土地や山林を、みな失うようになるだろうと言った。何故かと言えば、神の教は、彼らの教とは正反対であるし、領民が信者となると古来から祖師に捧げられてきた尊敬が、消失するからだという。こうして遂に坊さんは、領主の説得に成功し、その領内に於て、キリスト教に帰依する者は、死罪に処すという規定を作らせた。また領主は、その通りに、誰も信者になってはならぬと命令した。」(同p.101)

「…日本人は特に賢明であり、理性的な国民である。それで彼らが全部信者にならないのは、領主に対する怖れの結果であって、神の教が真理であることの解らないためでもなく、また自分の宗旨の間違っていることに気のつかないためでもない。」(同p.101-102)

かくしてザビエル一行は一年間活動した鹿児島を去り、1550年8月に肥前平戸に入って宣教活動を行った。そこではわずか二か月で住民の数百名が信者になったので、ここの信者の世話をトーレス神父に託して、別の地域を目指すこととした。

周防山口では大名・大内義隆にも謁見したがその時はさしたる成果がなく、次に都である京都に進んで、インド総督とゴアの司教の親書をもって、全国での宣教の許可を得るために、後奈良天皇に謁見しようと試みたがそれは叶わなかった。

当時の京都は応仁の乱以降打ち続いた戦乱の結果多くが破壊されており、布教する環境にないと判断して、一行は再び山口に入る。

山口でザビエルは、天皇に捧呈しようと用意していた親書のほか、珍しい西洋の文物の献上品を用意して、再び大内義隆(画像)に謁見したという。
大内義隆

大内義隆は大層喜び、お礼のしるしとして金銀をザビエル一行に差し出したが、これをザビエルは受け取らずにキリスト教の布教の許可を願い出たという。

「…私達は、そのもっとも渇望している唯一つのことを願い出た。即ち、私達がこの領内に於て、神の教を公に宣布することと、領主の民の中に、信者になることを望む者があった場合には、自由に信者になれることを、私達に許可して頂きたいというのである。これに就いては、領主は、凡ゆる好意を持って私達に許可を与えた。それから、町の諸所に、領主の名の記された布令を掲出させた。それには、領内に於て神の教の説かれることは、領主の喜びとするところであり、信者になることは、各人の自由たるべきことと書かれていた。同時に領主は、一つの寺院を私たちの住居として与えた。…」(同p.105)

大内義隆がザビエル一行に与えた寺は、当時すでに廃寺となっていた大道寺という寺だそうだが、ザビエルはこの寺で毎日二度の説教を行い、約二か月の宣教で洗礼を受けて信徒となった者は約500人にものぼったそうである。

山口の布教が順調に進んでいる中で、豊後府内(大分市)にポルトガル船が来着したとの話があり、豊後の大名である大友義鎮(後の大友宗麟:画像)からザビエルに会いたいとの書状が届き、1551年9月にザビエルは山口の宣教をトーレス神父に託して自分は豊後に向かう。豊後に於いてもキリスト教は宗麟の保護を受けて広まっていった。

大友宗麟

岩波文庫の解説によると、ザビエルの2年半日本滞在の間での洗礼者は千名には及ばなかったという。(鹿児島100-150名、市来15-20名、平戸180名、山口に向かう途中で3名、山口500-600名、豊後30-50名)
ザビエルはインドのトラヴァンコル地方に於いては1ヶ月に1万人の信者を作った実績がある。日本での成果はザビエルが当初思い描いていた数字には大きく届かなかったはずだ。

ザビエルは日本全土の布教のためには、日本の文化に大きな影響を与えてきた中国での宣教が不可欠だと考えた。ザビエルは、こう書いている。

「…シナに行くつもりだ。何故なら、これが日本とシナとに於て、我が主の大いなる奉仕になるだろうと思うからである。というのは、シナ人が神の掟を受入れたと識るなら、日本人は自分の宗旨に対する信仰を、間もなく、失ってしまうだろうと考えられるからである。私は、我がイエズス会の努力によって、シナ人も、日本人も、偶像を捨て去り、神であり全人類の救主なるイエズス・キリストを拝するようになるという、大きな希望を持っている。」(同p.137)

1551年11月15日にポルトガル船で日本を離れ、一旦ゴアに帰り自分の代わりに日本で宣教するメンバーの人選をして、自らは中国に向かおうとしたがマラッカで中国への渡航を妨害され、ようやく三州島に着くも、そこでは中国入国の手助けをする船は約束した日には現れなかった。

ザビエルの死

(「ザビエルの死」ゴヤ画)

ザビエルはそこで熱病に罹り、中国本土で布教の夢が果たせぬまま、1552年12月3日に、イエズスの聖名を呼び奉りつつ息絶えたという。

なぜザビエルのような優秀な宣教師をもってしても、日本の布教が遅々として進まなかったのか。当時の日本人はザビエルの話を理解しつつもどうしても納得できないところがあったのではないか。

私は、ザビエル書簡の中でこの部分に注目したい。

「日本の信者には、一つの悲嘆がある。それは私達が教えること、即ち地獄へ堕ちた人は、最早全然救われないことを、非常に悲しむのである。亡くなった両親をはじめ、妻子や祖先への愛の故に、彼らの悲しんでいる様子は、非常に哀れである。死んだ人のために、大勢の者が泣く。そして私に、或いは施與、或いは祈りを以て、死んだ人を助ける方法はないだろうかとたづねる。私は助ける方法はないと答えるばかりである。」(同p.119-120)

「この悲嘆は、頗る大きい。けれども私は、彼等が自分の救霊を忽がせにしないように、又彼等が祖先と共に、永劫の苦しみの処へは堕ちないようにと望んでいるから、彼等の悲嘆については別に悲しく思わない。しかし、何故神は地獄の人を救うことができないか、とか、なぜいつまでも地獄にいなければならないのか、というような質問が出るので、私は彼等の満足のいくまで答える。彼等は、自分の祖先が救われないことを知ると、泣くことを已めない。私がこんなに愛している友人達が、手の施しのようのないことについて泣いているのを見て、私も悲しくなってくる。」(同P.120)

当時の日本人が、キリスト教を受け入れがたいと思った重要なポイントがこの辺にあったのではないだろうか。自分の祖先がキリスト教を信じていなかったという理由でみんな地獄へ落ちると言われては、自分の祖先を大切に思う日本人の大半が入信できなかったことは私には当然のことのように思える。

もしザビエルが健康な状態で無事に中国に辿り着き、中国でキリスト教の布教に尽力してある程度の成功を収める事ができたとしよう。その場合にザビエルが再び日本に戻ってキリスト教の布教に成功できたかどうか。

皆さんはどう思われますか。

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400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと

ブラジルサンパウロ州サンパウロ市で発行されている、日系人や駐在員向けの日本語の新聞で「ニッケイ新聞」という新聞がある。この新聞はネットでも読む事が出来るが、その新聞に2年前に連載された記事を見つけたときに衝撃を受けた。

その記事とは、フランシスコザビエルが日本でキリスト教の布教をしていた時期から1600年頃までの約50年間に大量の日本人が南米に渡っている記録がいくつか残されているという話なのだが、それも主体的に日本人が海を渡ったというのではなく、むしろポルトガル人によって連れて行かれたと言うべきで、もっと端的に言うと、日本人が奴隷として売られていったということである。

このニッケイ新聞の記事を読むと、「アルゼンチン日本人移民史」(第一巻戦前編、在亜日系団体連合会、〇二年)という本の中に、アルゼンチンの古都コルドバ市の歴史古文書館で日本人奴隷を売買した公正証書が発見されたことが書かれているそうだ。
http://www.nikkeyshimbun.jp/2009/090409-61colonia.html

上記のURLの記事には、
「1596年7月6日、日本人青年が奴隷として、奴隷商人ディエゴ・ロッペス・デ・リスボアからミゲル・ヘローニモ・デ・ポーラスという神父に八百ペソで売られたことになっている。
 その日本人青年の属性として「日本州出身の日本人種、フランシスコ・ハポン(21歳)、戦利品(捕虜)で担保なし、人頭税なしの奴隷を八百ペソで売る」(同移民史十八頁)とある。残念ながら、日本名は記されていない。」
と、書かれている。

この青年は裁判で勝訴し二年後に自由の身分となるのだが、ほかにも1965年に大学生の研究グループが、同古文書館から奴隷売買証書を発見し、コルドバ大学から「1588年から1610年代迄のコルドバにおける奴隷売買の状態」(カルロス・アサドゥリアン著)という書物にまとめられて出版されているそうだ。

ブラジルについては奴隷に関する一切の公文書が1890年に焼却されたので検証できないが、ペルーにも1614年に行われたリマ市人口調査に20人の日本人がいたことが確認できるそうだ。

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<ブーランジェ 『奴隷市場』>

日本人奴隷については、わが国では新聞や雑誌などで語られることはほとんどないが、戦前には西洋の世界侵略の実態については様々な研究があり多くの書籍があったようである。しかし昭和21年~23年にかけてGHQによって市中に出回っていたその種の書籍がほとんど焚書扱いとされ本屋の書棚から消え、今ではわが国で西洋の侵略や奴隷制をわが国で語ること自体がタブーのようになってしまった。
わずかに、戦後活字となった研究書はいくつか存在するがマスコミが取り上げる事はなく、中南米の日系社会のメディアがこういう話を伝えているだけというのは淋しいかぎりである。

つぎのような記述を読めば、日本人の多くは絶句してしまうだろう。日本人にはなぜこのような歴史が知らされないのだろうか。

【以下引用】
日本人奴隷に関し、…(中隅哲郎さんは)…『ブラジル学入門』の中で、「日本側の記録がないのでわからぬが、ポルトガルにはいろいろな記録が断片的に残されている」(百六十四頁)とし、外交官でラテン・アメリカ協会理事長だった井沢実さんの『大航海夜話』(岩波書店、七七年)から次の引用を紹介している。

 「インドのノーバ・ゴア発行の『東洋ポルトガル古記録』の中に日本人奴隷関係で、まだ訳されていない重要文書が含まれている。ゴアにはポルトガル人の数より日本人奴隷の数の方がより多いなどということはショッキングである」

 中隅さんは書き進め、「日本人奴隷は男よりも女が好まれた。行き先はゴアを中心とする東南アジアだが、ポルトガル本国にも相当数入っている」(前同)と記す。

天正少年遣欧使節

 『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』(池本幸三/布留川正博/下山晃共著、人文書院、1995年、p158~160)には、次のような記述もある。

「1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の四人も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。『我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった』『全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか』といったやりとりが、使節団の会話録に残されている」
【引用終わり】
http://www.nikkeyshimbun.jp/2009/090410-62colonia.html

Wikipediaによるとザビエルが日本を去ってからの話であるが、イエズス会の宣教師たちはポルトガル商人による奴隷貿易が日本における宣教の妨げになり、宣教師への誤解を招くものと考えて、たびたびポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を要請したそうだ。
そして1571年に国王セバスティアン1世から、日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功したのだが、それでもポルトガル人による奴隷貿易はなくならなかったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93

そのために、天正10年(1582)の遣欧少年使節で4人の少年がローマ教皇のもとに派遣された際に、4人は各地で日本人奴隷と遭遇するにいたった。調べると、4人のうち有馬晴信の従兄弟にあたる千々岩ミゲルは後にキリスト教を捨てているが、旅先で奴隷を見たことの影響が少しはありそうだ。

ちなみにこの4人の会話は「天正遣欧使節記」(デ・サンデ著/雄松堂書店)にでているが、この会話の部分の翻訳文を次のURLで読む事が出来る。千々岩ミゲルの発言に注目したい。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060313#p2

最初に紹介したニッケイ新聞の記事には日本人奴隷に関する多くの書物が紹介され、引用されている内容は興味深いものばかりである。その当時奴隷として売られたのは黒人をはじめ中国人、韓国人、日本人、インド人、ジャワ人など様々であったこともわかる。

では、結局どの程度の日本人が奴隷として売られたのだろうか。鬼塚英昭氏は「天皇のロザリオ」という本の中で50万人と言う説を立てているそうだが、このレベルの数字は当時の日本の人口が1200万人程度だから、あまりにも多すぎる。いろんな人がいろんな説を立てているが、数千人から数万人の間というのが常識的な数字だと思う。

こういう暗い話は知る必要がないと考える人もいると思うが、こういう史実を知らずして、なぜキリスト教が禁止され、なぜキリスト教信者が弾圧されたかを正しく理解できるとは思えないのだ。

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秀吉はなぜ「伴天連(バテレン)追放令」を出したのか~~その1

ザビエルがはじめて日本で伝えたキリスト教は、時の権力者であった織田信長の庇護を受けて順調に信者を増やしていった。

豊臣秀吉も当初は織田信長の政策を継承してキリスト教布教を容認していたのだが、天正15年(1587)に秀吉はキリスト教に対する態度を急変させ、博多で「伴天連追放令」を出している。(「伴天連」とはキリスト教宣教師のこと)

学生時代に学んだ通史では、なぜ「伴天連追放令」が出されたのかが良くわからなかったので、この点について調べてみた。

豊臣秀吉

まず秀吉が博多にいたのは、秀吉は京都を前田利家、大阪城は秀次に守らせて九州を平定するために出陣したためだ。
その先陣は切支丹大名の高山右近で、その家臣には切支丹がかなりいて、十字が付いた旗などを携えた兵が多数右近の軍に参加していた記録が残されている。
そもそもこの九州平定は、そもそも2年前にイエズス会の日本準管区長*のガスパル・コエリョが秀吉に、切支丹大名を秀吉の味方につけると進言して実現したようなものである。 (日本は準管区であったので、コエリョはイエズス会の日本での活動の最高責任者)

大村・有馬の切支丹大名は島津に何度も脅かされていたので、イエズス会には秀吉の九州攻めは願ってもないことであったはずだ。だから高山右近も献身的に働いた。

ところが、切支丹大名の活躍により九州平定に成功すると、秀吉は右近の役割が終わったのを見計らったように高山右近にキリスト教の棄教をせまり、それに抵抗した右近を追放しているのだ。いったいどういうことなのか。

高山右近
<晩年の高山右近>

この経緯については、ポルトガル出身のイエズス会宣教師で当時日本に滞在し、信長や秀吉とも会見したルイス・フロイスが詳細な記録を残しており、中公文庫でその翻訳を読む事が出来る。(ルイス・フロイス「日本史4」豊臣秀吉篇Ⅰ)

それを読むと、秀吉は7月24日に怒り狂い、夜にイエズス会の日本準管区長のガスパル・コエリョに対し使いを出して、次の様な太閤の言葉を伝えさせている。

「その第一は、汝らは何ゆえに日本の地において、今まであのように振舞ってきたのか。…仏僧たちは、その屋敷や寺院の中で教えを説くだけであり…汝らのように宗徒を作ろうとして、一地方の者をもって他地方の者をいとも熱烈に扇動するようなことはしない。よって爾後、汝らはすべて当下九州に留まるように命ずる。…もし、それが不服ならば、汝らは全員シナ(マカオ)へ帰還せよ。…」

「第二の伝言は、汝らは何ゆえに馬や牛を食べるのか。…馬は、道中、人間の労苦を和らげ、荷物を運び、戦場で仕えるために飼育されたものであり、耕作用の牛は、百姓の道具として存在する。しかるにもし汝らがそれを食するならば、日本の諸国は、人々にとってはなはだ大切な二つの助力を奪われることとなる。…」

「第三は、予は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」(ルイス・フロイス「日本史4」中公文庫p.207-208)

これらの太閤の言葉に対し、三つ目の日本人奴隷の問題に関してイエズス会準管区長のコエリョが答えた内容については同書にこう書かれている。

「…この忌むべき行為の濫用は、ここ下の九ヶ国(九州)においてのみ弘まったもので、五畿内や坂東地方では見られぬことである。我ら司祭たちは、かかる人身売買、および奴隷売買を廃止させようと、どれほど苦労したか知れぬのである。だがここにおいてもっとも肝要なのは、外国船が貿易のために来航する港の殿たちが、厳にそれを禁止せねばならぬという点である。」(同書p.210-211)
と、奴隷売買は九州だけでおこっていることで、我らも廃止させようと努力しているのに取り締まらない日本側に問題があると答えたのである。
「外国船が貿易のために来航する港の殿たち」とは、九州の切支丹大名を遠回しに述べたものである。

翌朝秀吉の怒りはさらに激しくなり、「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」との伝言を持たせて、再びコエリョに使者を送った。

そこでコエリョが答えた内容は
「キリシタンたちは、我らの教えを聞き、真理を知り、新たに信ずるキリシタンの教え以外には救いがないことを悟った。そして彼らは、…神も仏も、またそれらを安置してある寺院も何ら役に立たぬことを知った。彼らは、…神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅したのである。」 (同書p.215)

そのコエリョの回答を聞いて、太閤がさらに激怒したことは当然である。
秀吉は「予は日本のいかなる地にも汝らが留まることを欲しない。ここ二十日以内に、日本中に分散している者どもを集合せしめ、日本の全諸国より退去せよ」と命じ、「伴天連追放令」と呼ばれる布告を司令官ドミンゴス・モンテイロに手交したのである。

伴天連追放令
<伴天連追放令>

コエリョは九州での奴隷売買を廃止させるために努力したというのだが、どこまで本気で努力したかは疑わしい。藤田みどりさんの「奴隷貿易が与えた極東への衝撃」という論文には、イエズス会日本準管区長のコエリョ自身がポルトガル商人に代わって日本人奴隷売買契約書に署名した事実が書かれているそうだ。

「伴天連追放令」の原文とは次の通りで、現代語訳はURLで読む事が出来るが、この時に手交した文書には、奴隷売買を禁止する条項は記されていないことがわかる。
ルイス・フロイスの「日本史」にも「伴天連追放令」の内容が書かれているが、やはり奴隷売買の事は書かれていない。
<原文>
一、日本ハ神国たる処きりしたん国より邪法を授候儀 太以不可然候事
一、其国郡之者を近付門徒になし 神社仏閣を打破之由 前代未聞候 国郡在所知行等給人に被下候儀は当座之事候。天下よりの御法度を相守、諸事可得其意処 下々として猥義曲事事
一、伴天連其知恵之法を以 心さし次第に檀那を持候と被思召候へは 如右日域之仏法を相破事曲事候条 伴天連儀日本之地ニハおかされ間敷候間 今日より廿日之間に用意仕可帰国候 其中に下々伴天連に不謂族(儀の誤りか)申懸もの在之ハ 曲事たるへき事
一、黒船之儀ハ 商買之事候間格別候之条 年月を経諸事売買いたすへき事
一、自今以後仏法のさまたけを不成輩ハ 商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん国より往還くるしからす候条 可成其意事
已上
天正十五年六月十九日 朱印

<現代語訳>
http://www2.ocn.ne.jp/~hiroseki/shiryou/bateren.html

しかし、国内向けに出された「伴天連追放令」においては、寺社の破壊や奴隷売買を禁止する条項が書かれているようである。奴隷売買禁止に関しては原文では、
「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)
となっている。

ルイスフロイス像
<ルイス・フロイス像>

またルイス・フロイスがいみじくも書いているように、秀吉が九州に来た目的は島津と戦うことではなく、当初から高山右近や切支丹宣教師を追放することにあったと思われる。なぜなら、九州の戦いを終えても島津氏の領国はほとんど変わりなく安堵されているのはそう考えないことには理解できないからだ。

以上、やや長くなったが、秀吉を暴君と呼び悪魔と呼ぶイエズス会のルイス・フロイスが「伴天連追放令」をどう捉えたかについてまとめてみた。

「伴天連追放令」については秀吉の側近の記録が残され、外国人の書いた文章でも日本人奴隷の実態を書いている文書などもあるようだ。
文章が長くなるので次回以降に紹介することするが、秀吉がキリスト教の独善性と宣教師の野望に早い時期に気付きその拡大を許さなかったことが、この時期に日本が植民地にならず独立国を維持できた要因の一つだと思っている。
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秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その2

前回は秀吉が伴天連追放令を出した経緯を、イエズス会宣教師のルイス・フロイスの記録から纏めてみた。では、日本側の記録ではどうなっているのか。

秀吉の側近に大村由己(おおむらゆうこ)という人物がいる。この人物は以前にこのブログで、天神祭のことを書いた時に、大阪天神宮の神宮寺の別当であったと紹介したことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-18.html

この人物は豊臣秀吉に近侍して秀吉の軍記などをいくつか残しているが、秀吉の九州平定の時にも同行して「九州御動座記」という記録を残しており、秀吉が「伴天連追放令」を出した経緯が短い文章にまとめられている。それには、

「今度伴天連等能き時分と思候て、種々様々宝物を山と積、…日本人を数百男女によらず、黒船へ買取、手足に鎖を付け、船底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、…今世より畜生道の有様、目前之様に相聞候。…右之一宗御許容あらば、忽日本外道之法に成る可き事、案の中に候。然らば仏法も王法も、相捨つる可き事を歎思召され、忝も大慈、大悲の御思慮を廻らされて候て、即伴天連の坊主、本朝追払之由仰出候。」

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手足に鎖を付け、船底に追い入れるような奴隷の扱い方は、黒人奴隷の場合と全く同じである。秀吉はこのような状況が日本を「外道の法」に陥れることを歎き、伴天連を追放することを決断したということになる。

日本人奴隷はどのような扱い方をされたのか。今度は西洋人の記述を見てみよう。 徳富蘇峰の「近世日本国民史」にパゼー「日本キリスト教史」という本の一部が紹介されている。

南蛮船

「葡萄牙(ポルトガル)の商人は勿論、其の水夫、厨奴(ちゅうど)等の賤しき者迄も、日本人を奴隷として買収し、携へ去つた。而(しか)して其の奴隷の多くは、船中にて死した。 そは彼等を無闇に積み重ね、極めて混濁なる裡(うち)に篭居せしめ、而して其の持主等が、一たび病に罹るや――持主の中には、葡萄牙(ポルトガル)人に使役せらるる黒奴も少なくなかつた――此等の奴隷には、一切頓着なく、口を糊する食料さへも、與へざることがしばしばあつた爲である。此の水夫等は、彼らが買収したる日本の少女と、放蕩の生活をなし、人前にて其の醜悪の行ひを逞しうして、敢て憚かる所なく、其の澳門(マカオ)歸航(帰航)の船中には、少女等を自個の船室に連れ込む者さへあつた。」

なんと、日本人の一部は奴隷に買われていたケースもあり、水夫らの性奴隷としても買われていたのだ。

なぜ、ポルトガル人が大量の奴隷を買ったか。これは前々回に紹介した中隅哲郎さんの「ブラジル学入門」がわかりやすい。

「大航海時代とそれに続く植民地進出時代のポルトガルの泣きどころが、人口の少なさにある…。少ない人間でいかに海外の植民地を維持し、収奪するかはポルトガル王室の直面する歴史的命題であった。そのため、囚人だろうが捕虜だろうが、どんどん海外に送った。ところが、送った人間のほとんどすべては男だった…。
海外進出に武力はつきものだが、ポルトガルは兵隊の数も足りなかった。そのため、現地では傭兵を募集した。アジア各地では日本人の傭兵が多かった。日本人は勇猛果敢で強かったから、傭兵には最適であったのである。」(同書p.163)と記されている。

確かにポルトガルの広さは日本の4分の1程度で、人口は当時100万人程度だったと言われている。そんな小さな国が、1494年にスペインとトルデシリャス条約を結んで、ヨーロッパ以外の世界の二分割を協定し、ポルトガルは東回りに、スペインは西回りに征服の途につくのだが、スペインの一割程度の人口しかないポルトガルが世界の半分を征服するためには、よほど大量の奴隷が必要だったということだろう。

次に日本人が奴隷として売られた時期はいつ頃なのか。

岡本良知さんの「16世紀日欧交通史の研究」という本には、ポルトガル側の資料では1555年11月のマカオ発のパードレ・カルネイロの手紙の中に、大きな利潤と女奴隷を目当てにするポルトガル商人の手で、多くの日本人がマカオに輸入されていると書かれていることが紹介されているそうだ。中国のマカオといえば、ポルトガルの日本貿易の拠点であり、日本貿易の初期の段階から日本人が奴隷として売られていたことになる。1555年は「伴天連追放令」の32年も前の話である。

また、日本イエズス会からの要請を受けてポルトガル国王は何度も「日本人奴隷取引禁止令」を出しているが、東南アジアに暮らすポルトガル人は、国王の禁令はわれわれに致命的な打撃を与えると抗議し、奴隷を買ったのは善意の契約であり、正義にも神の掟にも人界の法則にも違反しないと主張し、この勅令は無視されたそうだ。
しかし、そのような奴隷商人に輸出許可を与えていたのもイエズス会であり、もともとイエズス会が奴隷輸出禁止にどれだけ尽力したかはかなり疑問である。むしろ積極的に関与した可能性がある。
ネットでいろいろ調べると、奴隷貿易に熱心であった宣教師の名前が出てくる。たとえばアルメイダは大友宗麟に医薬品を与え、大分に病院を作ったイエズス会の宣教師だが、奴隷貿易を仲介し、日本に火薬を売り込み、海外に日本女性を売り込んだ人物と書かれている。

ポルトガル国立小美術館にある桃山時代の「南蛮屏風」
<ポルトガル国立小美術館/日本の桃山時代の「南蛮屏風」…黒人奴隷が描かれている>

当時のキリスト教の考え方では、キリスト教を広めるために、異教徒を虐殺することも奴隷にして売買することも神の意志に叶った行為と考えられており、1455年にローマ教皇ニコラウス5世が勅書により奴隷貿易を認め、さらに教皇アレキサンドル6世がこれに追随して神学的に奴隷制度を容認したことから、イエズス会の海外布教戦略が展開していくことになるのだ。イエズス会が、教皇が認めた奴隷貿易を容易に手放すことは考えにくいのではないか。
そもそもキリスト教の「聖書」レビ記25章には、異教徒を「奴隷として買う」ことも「永遠に奴隷として働かせることもできる」と書かれているが、このような考え方で布教されては、他の宗教を奉ずる国にとっては社会も文化も破壊され若い世代の多くが連れ去られてしまって、甚だ迷惑な話である。
http://www.bible.or.jp/read/aidoku.cgi?day=20110818

奴隷を買う側の事情は何となくわかったが、しかし売る側の日本の事情はどうなっているのだろう。どういう経緯で大量の日本人が九州から奴隷船に乗せられたのか。
外国人により拉致されたのか、貧しい日本人が家族を売り飛ばしたのか、あるいは戦国大名が捕虜を売ったのか、住民を拉致して売ったのか。また、何のためにポルトガル人に売却したのか。

そのことを書きだすとまた長くなるので、日本側の事情は次回に記すことにするが、平和な時代しか知らない我々には到底想像もできないような戦国時代の凄まじさが見えてくるのだ。

<つづく>
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秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その3

戦国時代の九州で、なぜ大量の日本人がポルトガル商人に奴隷として売られてしまったのか。

この点については、前々回紹介したルイス・フロイスが、その当時の九州の実態について、「奴隷」という言葉こそ使っていないがその事情が理解できるような記録を残している。

イエズス会士とフランシスコ会士

たとえば、豊後については薩摩軍との戦いが続いて惨憺たる状況であった上に、次の様なことが起こっていた。フロイスの記録をしばらく引用する。

「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(「完訳フロイス日本史8」中公文庫p.268)…1588年の記述

「豊後の国の全領民は次のように三分された。その第一集団は、戦争のために死亡し、第二集団は、敵の捕虜となって薩摩や肥後に連行されたのち、羊の群れのように市場を廻り歩かされたあげく売られていった。彼らの多くは、二束三文の安価で売却された。第三の集団は、疾病や飢餓のために極度の貧困に陥って人間の容貌を備えていないほどであった。彼らは互いに殺し略奪し合っていた。」(同書p.314)…1589年

フロイスは日本の戦国時代末期の三十年以上を九州や畿内で暮らした人物であり、誰が売ったかという点について記述している内容はかなり信頼できると考えて良いだろう。豊後とは今の大分県で、肥後とは今の熊本県と考えて良いが、太閤検地の頃の豊後国の人口は418千人であるから、フロイスが「おびただしかった」と書いた、島原まで連行された豊後の婦人や男女の子供たちの数がどれくらいの数字になるかは、人によってイメージする数字が異なるだろうが、人口の5%~10%と考えても20~40千人という数字になってしまう。

狩野内膳筆南蛮屏風

フロイスは口を閉ざして語らないが、それらの人々の多くが島原でポルトガル商人に奴隷として売られていったと考えてまず間違いないだろう。
島原半島の南にある口の津は南蛮貿易の拠点であった港で、口の津の約10km東に原城があり、そこに爆薬に使われる硝石の集積場があった。硝石(硝酸カリウム)は爆弾を製造するに不可欠な原料なのだが、湿潤気候の日本国内では天然に産出しないため当初は南蛮貿易で入手するしかなかった。それを入手するための対価のかなりの部分が、奴隷を売ることによって作られたと考えられている。

硝石の価格について、Wikipediaには「バチカンにある過去の日本の記録には、アフリカ人奴隷に掘らせたチリの硝石1樽で日本人女性が50人買える」と書かれている。同様の記述はネットで多くの人が書いているが、バチカンの記録の原典を引用しているものはなく、どこまでこの記述が信頼できるのかは良くわからない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1
もっとも、フロイスの記述のとおりに日本人がよほど安価で売られていたなら、その可能性が考えられないわけでもないが…。

島原地図

口の津のある島原半島は、当時切支丹大名の有馬晴信の領地であった。結局この硝石は後に島原の乱で天草四郎が江戸幕府軍との戦いで使われることになる。原城に立て籠った天草四郎らの反乱軍が長らく持ちこたえられた理由は、キリスト教の信仰もあったのだろうが軍事力の観点からすれば、貯め込んだ大量の火薬の存在を無視できないのだと思う。

日本人奴隷を買ったポルトガル商人がいて、またポルトガル商人に売った有馬晴信に近い商人がいる。しかしその商人に売るために、はるばる島原にまで住民を連行して行った人間集団はどういう連中なのか。どこかの藩の正規軍なのか。

立教大学名誉教授藤木久志氏が著した「雑兵たちの戦場」(朝日新聞出版)という本を読むと、この時代を読み解くうえで「雑兵(ぞうひょう)たちの戦場」という視点が極めて重要であることを痛感させられる。

「雑兵(ぞうひょう)」とは武士に奉公する「足軽」や、足軽より身分が低く戦場で馬をひいたり槍を持つ「下人」や、村々から駆り出されて物を運ぶ「百姓」などの総称で、戦国大名の軍隊は、騎馬姿の武士はせいぜい1割程度で、残りの9割は「雑兵」であったそうだ。

「凶作と飢饉のあいついだ戦国の世、懸命に耕しても食えない人々は傭兵になって戦場へ行った。戦場に行って、わずかな食物や家財や男女を奪い、そのささやかな稼ぎで、なんとか冬を生き抜こう。そんな雑兵たちにとって、飢えに見舞われる冬から夏の端境期の戦争は、たったひとつのせつない稼ぎ場であった。そこには、村にいても食えない二、三男坊もゴロツキも悪党も、山賊海賊や商人たちも殺到して、活躍した。戦場にくり広げられた濫妨狼藉、つまり掠奪・暴行というのは『食うための戦争』でもあったようだ。」(「雑兵たちの戦場p.7」)

雑兵たちは、懸命に戦っても恩賞があるわけではない。彼らを軍隊につなぎとめて作戦に利用しようとすれば、ある程度の掠奪や暴行を許容する武将が多く、フロイスが詳細に記述した薩摩のほかにも全国各地で同様な記録が残されている。
人を奪うケースの多くは身代金目当てで行われていて、「雑兵たちの戦場」にはそのような記録が数多く紹介されている。

例えば甲斐国の年代記である「勝山記」という書物には、武田信玄軍に生け捕られて甲府へ連れ去られた男女のうち「身類(親類)アル人」は二~十貫文ほどの身代金で買い戻されていたという記述があるそうだ。(一貫文=1000文)

また、永禄九年(1566)に小田氏治の常陸小田城が長尾景虎(上杉謙信)に攻められて落城すると、城下はたちまち人を売り買いする市場に一変し、景虎自身の指図で、春の二月から三月にかけて二十~三十文ほどの売値で、人が売られたという記録があるそうだ。折から東国はその前の年から深刻な飢饉に襲われており、時代や地域によってその価格は異なる。

本州や四国での人身売買については海外に売られていくことはなかったのだろうが、九州で分捕られた場合は、親族の引き取りがなければ安値で海外に売られていくルートが存在した。
薩摩軍が分捕った人の売値は、フロイスの記録では、飢饉の時代とは言え「二束三文」でタダ同然だった。

この時期の貨幣価値については、永禄2年(1559)相模国の北条氏康に納められていた魚の価格が鰯二匹が1文、大あじが2文、鯛6~7寸で10文、1尺で15文といった記録があるが、九州では魚と変わらない価格で人間が取引されていたのだろうか。
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/J020.htm

私自身が最近までイメージしていた戦国時代は、英雄と英雄との戦いであり武士の世界でしか見てこなかったのだが、藤木久志氏の「雑兵たちの戦場」を読んで、今までの戦国時代の見方は歴史の表面だけを見ていただけだということに気がついた。この時代に興味のある方は是非お勧めしたい本である。

大阪城

ところで、このような濫妨狼藉による人身売買を禁止したのも豊臣秀吉なのである。
前々回に「伴天連追放令」国内向けの条文の中に人身売買の禁止が明記されていることを書いたが、①人の売り買いはすべて停止せよ。②去る天正16年以降の人の売買は破棄する③だから買い取った人は元へ返せ④以後は、人の売買はともに違法だという趣旨の命令を、相次いで全国に秀吉が出している。

秀吉がただ全国を統一しただけで、平和な世の中になるのではなかった。このような人身売買を固く禁じてはじめて、人々が安心して暮らせる社会が実現できたのだと思う。

しかし秀吉の命令も、残念ながら東国までには行き渡らなかった。「大坂夏の陣図屏風」の左半分には徳川軍の雑兵が大阪城下の民衆に襲いかかる現場が描かれている。

大阪夏の陣図屏風
<大阪夏の陣図屏風(部分)>

秀吉のやったことは正しかった。東国には人身売買の禁止を徹底できなかったが、秀吉は権力を握った者にしかできないことを適切に実施し、九州で日本人が奴隷として海外に流出していくのを止め、日本が植民地化していく危機を救ったと評価できるのではないか。
もし秀吉が南蛮貿易の利権を選択して、キリスト教を保護し、雑兵の濫妨狼藉を放任し日本人奴隷の海外流出も放置するような馬鹿な男であれば、今の日本がキリスト教国で白人が支配する社会になっていてもおかしくなかったと思う。

信長、秀吉、家康の3人の中で昔から秀吉が庶民から最も親しまれてきた存在であるのは、下層階級の出身でありながら全国を統一したということもあるだろうが、庶民が一番嫌う人身売買と言う悪弊を断ち切って、誰もが安心して暮らせる平和な社会を実現させる道を開いたということも、庶民から評価されてきた要因の一つではないかと考えている。
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戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのはキリシタン大名か、宣教師か

前回まで3回にわたって、豊臣秀吉が「伴天連追放令」をだした背景を日本人奴隷の問題を中心にまとめてみたが、秀吉が問題にしたのは奴隷の問題だけではなかった。

「秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したか~~その1」で紹介した、秀吉がイエズス会の日本準管区長コエリョにつきだした質問のなかには、伴天連が牛や馬を食べることも問題にしていたくだりがあったが、このことは今の時代に生きる我々にはどうでもよい。
それよりも、「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」という秀吉の問いの方が私には気になった。

秀吉

秀吉の質問に対するコエリョの回答では「彼らは、…神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅した。」とキリスト教信者が勝手にやったことだと言っているのだが、キリスト教の信仰を始めたばかりの信者が、子供の頃から信仰してきた寺社を自発的に破壊することがありうるのだろうか。常識的に考えて、誰かが命令しない限り起こり得ない話だと思う。

この問題は日本史の教科書などではキリシタン大名が寺社を破壊したように書かれているのだが、もしそうならば「伴天連追放令」の中になぜ寺社の破壊を伴天連追放理由の中に入れたのであろうか。少なくとも秀吉は、寺社や仏像の破壊は宣教師の教唆によるものと考えていたはずである。

img20110219194444638.jpg

今まで何度も紹介させていただいた、ルイス・フロイスの「日本史」を読むと次の様に書かれている。しばらく引用させていただくことにする。

以下の文章の中で、「殿」とは肥前(長崎)国の切支丹大名である大村純忠で、「司祭」とはイエズス会日本準管区長のコエリョである。大村純忠が伊佐早との戦いに勝利した時にコエリョが純忠を説得する場面である。

「…殿がデウス(神)に感謝の奉仕を示し得るには、殿の所領から、あらゆる偶像礼拝とか崇拝を根絶するに優るものはない。それゆえ殿はその用に努め、領内には一人の異教徒もいなくなるように全力を傾けるべきである。
 …殿は、さっそく家臣団あげての改宗運動を開始すべきである。ただしそれは、その人々が自由意思によって、道理と福音の真理の力を確信し、自分達が救われる道は、絶対にこの教え以外にないのだということを判らせるようにせねばならない、と。

…大村の全領域には、いともおびただしい数の偶像とか、実に多数かつ豪壮な寺院があって、それらすべてを破壊することは容易にできることではなかった。」(「完訳フロイス日本史10」大村純忠・有馬晴信編Ⅱ[中公文庫p.12])

「その地の住民たちは説教を聴きに来た。ところで日本人は生まれつきの活発な理性を備えているので、第一階の説教において、天地万物の根元であり創造者、また世の救い主、かつ人間の業に報いを与える御方であるデウスと、彼らの偶像、偶像崇拝、欺瞞、誤謬等の間にどれほどの差異があるかについて述べられたところ、人々は第二の説教まで待ってはいなかった。そしてあたかも司祭が、『寺を焼け、偶像を壊せ』と彼等に言ったかのように、彼らは説教を聞き終えて外に出ると、まっしぐらに、その地の下手にあったある寺院に行った。そしてその寺はさっそく破壊され、何一つ残されず、おのおのは寺院の建物から、自分が必要とした材木を自宅に運んだ。
 仏僧たちはきわめて激昂し、ただちに司祭のもとに二人目の使者を遣り、『神や仏の像を壊すなんて、一体全体、これはどういうことか』と伝えた。司祭は仏僧たちにこう答えた。『私が彼らにそうするように言ったのではない。ところで、説教を聞いた人たちは皆あなたの檀家なのだから、あなた方がその人たちにお訊ねになるべきです』と。…」(同書p.14)

上の文章で何度も出てくる「偶像」とは仏像のことだが、この文章を読んで宣教師の教唆がなかったと思う人は誰もいないであろう。

フロイスの本を読んでいると、宣教師が寺院を焼くことを信者に指示している場面がある。 つぎにその部分を引用しよう。

「…たまたまあるキリシタンが、ガスパル・コエリョ師のところにやって来て、司祭にこう頼んだ。『今はちょうど四旬節でございます。私は自分がこれまで犯して来た罪の償いをいたしたいと存じますので、そのためには、どういう償いをすることができましょうか。どうか伴天連様おっしゃって下さい』と。司祭は彼に答えて言った。『あなたがデウス様のご意向になかってすることができ、また、あなたの罪の償いとして考えられることの一つは、もしあなたが良い機会だと思えば、路上、通りすがりに、最初の人としてどこかの寺院を焼き始めることです』と。この言葉を、そのキリシタンは聞き捨てにしなかった。そして彼は、いとも簡単で快い償いが天から授かったものだと確信して、自分がそれによって、どんな危険に曝されるかも忘れ、さっそく帰宅の道すがら、ある大きく美しい寺院の傍らを通り過ぎた時に、彼はそれに放火して、またたく間にそれを全焼してしまった。…」(同書p.22-23)

南蛮船

寺社破壊に関してフロイスの著作には、領主の大村純忠は「そ知らぬふりをして、不快としてはいないことを明らかに示して」いただけで、破壊を領民に命じたとはどこにも書いていない。
このキリシタンの行動がきっかけとなり大村領の神社仏閣が破壊されて、大村領は6万人以上のキリスト教信者が生まれ、87の教会ができたという。

次に肥前国有馬晴信の所領を見てみよう。加津佐の海岸近くにある岩石の小島の洞窟中に建てられていた祠に、領内から追放された僧侶達が大量の仏像を隠していたのをイエズス会の宣教師が発見する。それらの仏像を取り出していくと、大きい仏像だけが残ってしまった、という場面から引用する。

「それらは分断しなければ、そのまま入口から外にだすことが出来なかった。だが我らは、仕事を早めるためにそれらに火を付けた。礼拝所や祭壇も同様にした。それらはすべて木製で、燃やすのにはうってつけの材料であったから、暫時にしてことごとくが焼滅してしまった。
 副管区長の司祭(ガスパル・コエリョ)は、…少年たちを招集させた。少年達は…それらの仏像を背にして運んだ。…教理を教わっている少年たちは、仏像を曳きずって行き、唾を吐きかけ、それにふさわしい仕打ちを加えた。
 折から寒い季節のことで、口之津の我らの司祭館では炊事用の薪が欠乏していた。そこでそれらの仏像はただちに割られて全部薪にされ、かなりの日数、炊事に役だった。」(同書p.208~209)

と、九州の寺社を破壊し仏像を焼却させたのは、明らかにキリスト教の宣教師である。記録を残したフロイス自身も、寺社を破壊し仏像などを焼却することは正しいことだと思っているからこそ、これだけ詳細に書いているのだ。
彼ら宣教師のために、この時代にどれだけの貴重な我が国の文化財が灰燼に帰したかわからない。

穴観音

フロイスが記述した場所は特定されており、多くの人がネットで紹介している。場所などが知りたければ例えばつぎのサイトなどに書かれている。上の写真は、大量の仏像が隠されていた穴観音という場所の写真である。
http://himawari-kankou.jp/spot/5/34/

フロイスの記録などを読むと、秀吉の「伴天連追放令」は、このまま放置すると日本人の信仰の対象であった寺社の文化財が破壊されてしまうという観点からも当然の措置であったし、何故キリスト教が日本で広まらなかったかということも当然のように思えてくる。今の日本で、評判の悪い新興宗教ですらしないようなことを、当時のキリシタンは平気で実行していたのだ。

宣教師らにとっては正しい行為をしているつもりなのかもしれないが、一般の日本人にとっては迷惑な話ばかりだし、このような布教のやり方をすれば、日本に限らずどこの国でも異教徒である一般民衆は反発し、衝突が起こって当たり前だと思う。
他の宗教や価値観を許容しない考え方や宗教は、異質なものとの共生ができない未熟さがある。そのような宗教や価値観が今も世界をリードしているから今も争いが絶えないのだと思う。

ニーチェ

ドイツの哲学者であるF・Wニーチェは晩年に「アンチキリスト」(邦訳「キリスト教は邪教です!」講談社+α新書)を著し、キリスト教が多様な文化を認めず徹底的に迫害し、戦争を必要とする宗教であるとの本質を見抜いている。わかりやすい訳文で、この本はニーチェの本にしては誰でもすぐに読了できる。

世界全体でキリスト教の信者が現在20億人いて、キリスト教が世界で最も信者数が多い宗教であることは周知の事実だが、これはキリスト教の教義が素晴らしかったから全世界の民衆に支持されて広まったというわけではなく、侵略国家の宗教であったから住民に押し付けて広められたという側面を無視できないのではないか。

西洋が全世界を侵略しその固有の文化を破壊していた時代に、日本はキリスト教の危険性を察知するだけの為政者がいて、侵略の先兵となっていた宣教師を斥けるだけの武力があったから日本固有の文化を守ることが出来たのだ。多くの国ではそうはいかなかったから世界中にキリスト教徒が多くなったというだけのことだと思う。
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永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか

以前このブログで、江戸時代の明和元年に林自見という人物が『雑説嚢話』という本に、東大寺の大仏の首が斎衡2年(855)、治承4年(1180)、永禄10年(1567)の3回落ちたということを書いていることを紹介したことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-120.html

東大寺と郡山城の桜 045

最初の斎衡2年の時は地震で、治承4年の時は平重衡による南都焼討、永禄10年は松永久秀が夜襲をかけたのが原因とされているが、永禄10年については異説があることを記事に少しだけ触れておいた。

その異説とは、松永久秀の敵方である三好三人衆にいたキリシタンの誰かが東大寺に火を付けたという説なのだが、その記録が今まで何度か紹介させていただいたルイス・フロイスの「日本史」の中に出ているのである。

この時代の歴史に興味を持ったので、ルイス・フロイスの本を取り寄せて、どこに書いてあるか調べたところ、意外と早く該当箇所を探しあてることが出来た。

中公文庫の「完訳フロイス日本史」第1分冊の第20~22章(原書では第1部59~61章)に、ルイス・デ・アルメイダ修道士の書簡が紹介されていて、22章に東大寺に関するアルメイダの記述がなされている。

文章を引用する前に、ルイス・デ・アルメイダについて簡単に紹介しておく。

アルメイダ

アルメイダは1525頃にポルトガルのリスボンに生まれ、1552年に貿易目的で来日したが、医師の免許も持っていて西洋医学を日本に導入し、大分に日本で最初の病院を建てた人物でもある。上の写真は大分市にある西洋医術発祥記念像で中央の人物がアルメイダである。 彼は学識もあったことから、僧侶など知識人の欲求に良く答えて改宗に導き、医師として貧しい人を助けたので多くの信者を獲得したと言われている。

アルメイダ修道士は、永禄10年に大部分が焼失する前の東大寺を訪れ、東大寺に関して様々なことを書いているが、内容の多くは建物の大きさや仏像の大きさ、梵鐘の大きさなどで、大仏に関しては次の様な感想を書いている。

「…私達は、日本のあらゆる遠隔の地方から人々がこの寺院に参詣する盲目さ、ならびに彼らが拝む悪魔や偶像によるほかになんの救いもないかのように、こうして誤った救いを渇望している有様に接しては、涙し、同情せずにおれません。そして私どもがもっとも驚かざるを得ないのは、日本人は、シナ人やインド人とはすべてにおいて非常に異なっているにもかかわらず、かくも賢明、清潔、優秀な国民の許でなおかつこうしたひどい無知を見出す事なのです。」(中公文庫「完訳フロイス日本史」第1分冊p279)
とあるように、キリスト宣教師にとっては異教である仏教の仏像は、いかなるものも排除すべき対象物であるにすぎないのだ。

この文章に続いて鐘楼の鐘の大きさについて驚いたとの記述があり、そこで一旦アルメイダの書簡の引用を中断し、ルイス・フロイス自身が次の様な文章を書き込んでいる。

「今から二十年くらい以前のことになるが、ルイス・デ・アルメイダ修道士が下(シモ:九州)へ帰った数年後に、(松永)弾正殿は、同修道士が先に述べた、かの豪華な城で包囲された。その多聞山城(タモンヤマ)を包囲した軍勢の大部分は、この大仏の寺院の内部とこの僧院(東大寺)のあらゆる場所に宿営した。その中には、我らイエズス会の同僚に良く知られていた一人の勇猛な兵士もいたのであるが、彼は、世界万物の創造者に対してのみふさわしい礼拝と崇敬のことに熱心なあまり、誰かにたきつけられたからというのではなく、夜分、自分が警護していた間に、密かにそれに火を放った。そこで同所にあったすべてのものは、はるか遠く離れた第一の場所にあった一つの門、および既述の鐘楼以外はなにも残らず全焼してしまった。丹波および河内の国では、同夜、火の光と焔が大和国との間に横たわる山々の上に立ちあがるのが見られた。」(同書p279-280)

東大寺と郡山城の桜 006

永禄10年(1567)の松永弾正と三好三人衆・筒井順慶連合軍との戦いは、「東大寺大仏殿の戦い」と呼ばれ、通史では松永弾正が、東大寺に布陣している三好三人衆・筒井順慶連合軍に夜襲をかけて、その時に東大寺に火を付けたのは松永弾正軍だということになっている。

では、通史で松永弾正軍が火を付けたという根拠は何なのか。
前回でも紹介したが、興福寺の塔頭多聞院で文明10年(1478)から元和4年(1618)までの出来事を記録された「多聞院日記」の口語訳がWikipediaに紹介されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

「今夜子之初点より、大仏の陣へ多聞城から討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼して、丑刻に は大仏殿が焼失した。猛火天にみち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった。釈迦像も焼けた。言語道断」

と、ここには松永弾正軍がやったとは書かれていない。

松永弾正太平記

午後11時に戦闘が開始され、戦闘中に穀屋から失火し法花堂それから大仏殿回廊、そして日をまたいだ翌10月11日午前2時には大仏殿が焼失したようである。また『東大寺雑集録』によると、

「四ツ時分から、大仏中門堂へ松永軍が夜討、三人衆側も死力を尽くして戦ったが対抗できず、遂には中門堂と西の回廊に火を放たれて焼失した。この戦いで多くの者が討ち死にした。」

と記されているのだが、普通に読めば松永軍が火を放ったとなるので、これが通説の根拠であろう。しかし、これを書いた僧侶は誰かが東大寺に火を放った現場を見たのであろうか。

ルイス・フロイスが書いているように、三好三人衆側のキリスト教徒が「自分が警護していた間に、密かにそれに火を放った」のであれば、どちらが火を放ったかがわからず、恐らく攻めてきた側の松永軍が多分火を付けたと考えただけだと思われる。

紹介したWikipediaの記事では、日本側の記録も紹介している。

『大和軍記』という古文書には「(三好軍の)思いがけず鉄砲の火薬に火が移り、」と記載されているそうだし、『足利李世紀』という古文書には「三好軍の小屋は大仏殿の周囲に薦(こも)を張って建っていた。誤って火が燃えつき、」と記載されているそうだ。
とすれば、松永弾正が東大寺を焼失させたという通説はおかしい、ということになる。

確かに松永弾正軍は過去も火を用いて寺を焼いたことがあり、将軍足利義輝の暗殺も主導した人物でもあり、その連想から松永軍が火を放ったと思われても仕方がなかった面もあるが、史料を読む限りでは松永弾正は、東大寺に関しては無実である可能性が高いと思われる。

しかしながらなぜ通史では、ルイス・フロイスが「日本史」に三好軍のキリシタンが火を付けたとわざわざ書き込んでいることを無視し、「大和軍記」や「足利李世紀」の記述をも無視するのか。私にはこのことは非常に不自然に思える。
せめて教科書や通史には両論を併記すべきではないのかと私は思うのだが、皆さんはどう思われますか。

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永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど

前回は、永禄10年(1567)に大仏殿をはじめ東大寺の多くの伽藍を焼失させたのは、松永弾正久秀ではなく三好軍にいたイエズス会のキリシタンであると、同じイエズス会のフロイス自身が記録していることを書いた。

東大寺と郡山城の桜 040

松永弾正は東大寺には火をつけなかったかもしれないが、それ以前に三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)との戦いで多聞城の間際まで攻め込まれた松永弾正は、相手方が陣地として利用しそうな(般若寺、文殊堂など)寺を相次いで焼いている。
松永弾正、三好三人衆のうち、三好長逸はキリスト教に寛容なところがあったそうだが、全員が仏教を信仰する武士であった。それなのになぜ仏教施設に火を付けさせたのだろうか。あるいは配下の兵士達が自発的に火を付けて焼き払ったのか。

いろいろ調べると、松永弾正の配下にも、三好三人衆の配下にも、かなりのキリシタンがいたらしいのだ。
実は松永弾正は、東大寺が焼失した2年前の永禄8年(1565)に将軍足利義輝を攻め滅ぼした際に、キリシタンの宣教師を京から追放した人物である。また後に、織田信長によって京に宣教師が戻された時に、「かの呪うべき教えが行き渡る所、国も町もただちに崩壊し滅亡するに至る事は、身共が明らかに味わった事である」と信長に進言した人物でもあり、ルイス・フロイスから「悪魔」とまで呼ばれたキリスト教嫌いの人物でもあるのだ。

その松永弾正が率いる軍隊においてもキリスト教の信者が多くいたことに、多くの人が違和感を覚えるのではないか。また松永軍と戦っていた三好三人衆の軍隊にもキリスト教の信者がいたことから、永禄9年(1566)のクリスマス(降誕祭)の日に両軍がミサのために休戦したということが、今まで何度か紹介したルイス・フロイスの「日本史」に記録されていることを知って驚いてしまった。両軍の指導的立場にある武士に、相当数のキリシタンがいなければこのようなことはあり得ないはずだ。

しばらくこの戦場のクリスマス休戦の場面を引用しよう。

img20110304000858513.jpg

「降誕祭になった時、折から堺の市(まち)には互いに敵対する二つの軍勢がおり、その中には大勢のキリシタンの武士が見受けられた。ところでキリシタンたちは、自分達がどれほど仲が良く互いに愛し合っているかを異教徒たちによりよく示そうとして、司祭館は非常に小さかったので、そこの町内の人々に、住民が会合所に宛てていた大広間を賃借りしたいと申し出た。その部屋は、降誕祭にふさわしく飾られ、聖夜には一同がそこに参集した。
 ここで彼らは告白し、ミサに与かり、説教を聞き、準備ができていた人々は聖体を拝領し、正午には一同は礼装して戻ってきた。そのなかには70名の武士がおり、互いに敵対する軍勢から来ていたにもかかわらず、あたかも同一の国守の家臣であるかのように互いに大いなる愛情と礼節をもって応援した。彼らは自分自身の家から多くの料理を持参させて互いに招き合ったが、すべては整然としており、清潔であって、驚嘆に値した。その際給仕したのは、それらの武士の息子達で、デウスのことについて良き会話を交えたり歌を歌ってその日の午後を通じて過ごした。祭壇の配置やそのすべての装飾をみようとしてやって来たこの市の異教徒の群衆はおびただしく、彼らはその中に侵入するため扉を壊さんばかりに思われた。」(中公文庫「完訳フロイス日本史2」p.55)
と、両軍の内訳については書かれていないものの、両軍で70名ものキリシタンの武士がいて、戦争では敵として戦いながら、信仰ではしっかり繋がっていたということは驚きである。このことはどう考えればいいのだろうか。

前回までの私の記事を読んで頂いた方は理解いただいていると思うのだが、イエズス会の日本準管区長であったコエリョをはじめ当時の宣教師の多くは仏像や仏教施設の破壊にきわめて熱心であり、九州では信者を教唆して神社仏閣破壊させたことをフロイス自身が書いている。

京都を中心に活動したイタリア人のイエズス会宣教師であるオルガンディーノも、巡察師ヴァリニャーノに送った書簡の中で、寺社破壊を「善き事業」とし「かの寺院の最後の藁に至るまで焼却することを切に望んでいる」と書いているようなのだ。とすれば、彼らは両軍にキリシタンの武士を増やして、寺社破壊を意図的に仕組んだということも考えられるのだ。

すなわち、キリスト教の宣教師は日本でキリスト教をさらに弘めるために、日本の支配階級である武士をまずキリスト教に改宗させて、戦国時代を出来るだけ長引かせ、キリシタンである大名や武士に神社仏閣を徹底的に破壊させ、彼等の力により領民を改宗させていくことをたくらんではいなかったか。

宣教師が戦争で戦っている両軍のキリシタンに寺社の破壊を吹きこんだとしたら、両軍の指導的地位にある彼らは大きな寺の境内に陣を構えて積極的に火を使えば、容易に宣教師の希望を実現することが出来ると考えても何の不思議もない。

高山右近

キリシタン大名として有名であった高山右近は高槻城主であった時に、普門寺、本山寺、広智寺、神峯山寺、金龍寺、霊山寺、忍頂寺、春日神社、八幡大神宮、濃味神社といった結構大きな寺社を焼き討ちにより破壊したといわれているが、私にはこれなども宣教師の教唆が背景にあるように思えるのだ。また織田信長も多くの寺院を焼き討ちしたが、信長の配下にはこの高山右近などキリシタン大名が多かったことと関係があるのかもしれない。

ルイス・フロイスの「日本史」の次の部分を読むと、三好軍にいたキリスト教の信者が、偶像崇拝を忌むべきものであることを宣教師から吹き込まれていたかがよくわかる。 ここに出てくる「革島ジョアン」は、三好三人衆の中でキリスト教に対して比較的寛大であった三好長逸の甥にあたる人物である。

「…彼(革島ジョアン)はどこに行っても異教徒と、彼らの宗教が誤っていることについて論争した。この殿たちが皆、津の国のカカジマというところで協議した際、このジョアンは他の若い異教徒たちと一緒に立ち去って、彼らとともに西宮という非常に大きい神社に赴いた。そこには多くの人が参詣し、異教徒たちから大いに尊崇されている霊場であった。

他の若い同僚たちは、キリシタンになったそのジョアンを愚弄して、彼にこう言った。『貴殿はあのような邪悪な宗教を信じたし、また貴殿は日本の神々を冒涜する言葉を吐いたことだから、近いうちに神々の懲罰を受けるであろう』と。

ジョアンはそれに答えて言った。『予が、死んだ人間や、木石に過ぎないそれらの立像に、いかなる恐れを抱けというのか。ところで予がそれらをどれほど恐れてはいないか、また悪魔の像を表徴しているにすぎない彫像を拝むことがどんなに笑止の沙汰であるかをお前たちが判るように、これから予がそれらをどのように敬うかを見られるがよい』と。

こう語ると彼は、非常に高く、すべて塗金されている偶像の上に登り、その頭上に立ち、そこで一同の前で偶像の上に小便をかけ始めた。…」(同書p.70-71)

この事件があってからは三好長逸も、司祭や教会のことには一切耳を貸さなくなったそうであるが、当時のキリスト教信者にとって仏教施設はすべて愚弄し破壊すべき対象物にしか過ぎなかったのだ。

十日戎

ここに出てくる「西宮」とは、毎年1月10日の本えびすの朝に「開門神事福男選び」が行われる有名な西宮神社だが、廃仏毀釈で仏教施設が破壊されるまでは、神仏習合でお寺も仏像も存在していたのだ。今は西宮社にあった大般若経が播磨三木市吉川にある東光寺というお寺に残されているようだが、仏像や寺院がどうなったかはネットで調べても良くわからなかった。

戦国時代にキリシタンの武士がさらに増えていれば、また戦国時代がもっと長引いていれば、もっと多くの日本の文化財がこの時代に破壊されていたことは確実だろう。

以前にも書いたが、豊臣秀吉が伴天連を追放し全国を統一して平和な社会を実現させたことが日本人奴隷の海外流出と寺社の破壊に歯止めをかけた。
もし秀吉がキリスト教を信奉していたら、あるいはキリスト教宣教師の野心を見抜けず何の対策も打たなければ、日本はこの時期にキリスト教国になっていてもおかしくなかったと考えるのは私だけなのだろうか。
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前期倭寇は元寇の復讐だったのか~~倭寇1

中学や高校時代に日本史の室町時代の授業で「倭寇」を学んだ。その時はなぜ、日本人がこの時期に急に海賊行為を始め、その活動が大規模になったのかが良くわからなかった。

対馬や壱岐の歴史を振り返ると、平安時代の寛仁三年(1019)に「刀伊の入寇」という事件がある。この事件を調べると市販の山川の日本史教科書では「とつぜん刀伊(女真人)が、対馬・壱岐・筑前をおそった。…これは大宰府とその周辺の土豪の力によってしりぞけられたものの、平安になれた朝廷や貴族に大きな衝撃をあたえた。」と簡単に書かれている。

刀伊の入寇

しかし「刀伊の入寇」を調べてみると、この戦いもかなり壮絶な戦いであったようだ。詳しいことは平安時代の藤原実資の『小右記』という日記や三善為康の『朝野群戴』という文書に書かれているそうだが、Wikipediaの記事にはこう纏められている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E4%BC%8A%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87

「刀伊は賊船約50隻(約3000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火を繰り返した。この時、国司の対馬守遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れている。
賊徒は続いて、壱岐を襲撃。老人・子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした。賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3000人という大集団には敵わず玉砕してしまう。
理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を 焼こうとした。これに対し、嶋分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦した。そして賊徒を三度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は一人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい嶋分寺は陥落した。この時、嶋分寺は全焼している。
その後、筑前国怡土の郡に襲来、4月8日から12日にかけて現在の博多周辺まで侵入し、周辺地域を荒らし回った。これに対し、大宰権帥藤原隆家は九州の豪族や武士を率いて撃退した。たまたま風波が厳しく、博多近辺で留まったために用意を整えた日本軍の狙い撃ちに遭い、逃亡したと記されている。」とここでも風が吹いているのが面白い。

被害は、記録されただけでも殺害された者365名、拉致された者1,289名、牛馬380匹、家屋45棟以上。女子供の被害が目立ち、壱岐島では残りとどまった住民が35名に過ぎなかったという。

彼らは「牛馬を切っては食い、また犬を屠殺してむさぼり食らう」と記録され、また「人を食う」 との証言も見られるという。斬り込み隊、盾を持った弓部隊らが10-20組も繰り出してあっというまに拉致・虐殺・放火・掠奪をやってのけ、牛馬を盗み、切り殺して食うなどしては次の場所へと逃げてゆく、という熟練ぶりであった。逃げるのに邪魔になった病人や子供は簀巻きにして海に投げ入れたという記録も残されているそうだ。

彼らの正体は満州を中心に分布する女真族だとされているが、9月には高麗が拉致した対馬・壱岐の島民270人を日本に送り届けてきたので高麗政府として関与してきた可能性は少ないと考えられている。

上掲のWikipediaの記事が正しいとすると、彼らの乱暴狼藉ぶりは、以前私のブログで紹介した、文永の役で記録されている元・高麗軍の乱暴狼藉ぶりとかなり似ているように思える。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-34.html

以前文永の役の記事で書いた通り、日蓮宗の宗祖である日蓮は「高祖遺文録」の中で、元蒙古連合軍のために、対馬では百姓ら男は殺されたり生け捕りにされ、女は一箇所に集めて掌に穴をあけられ革ひもを通して船に結いつけられたり生け捕りにされて、一人も助からなかったと書いている。また『高麗史』には日本で拉致した少年少女200人を高麗国王に献上したことも書かれている。

刀伊の入寇」にせよ「文永の役」にせよ、野蛮とも思える乱暴狼藉を働いたのは相手国の軍隊の方だ。何故室町時代に入って日本人が朝鮮半島に行って収奪を繰り返すような事をしたのか長い間腑に落ちなかったのだ。

元寇の記事を書いている時に、読者の方から「初期の倭寇元寇の復讐であった」とのコメントを頂いた。この説については初耳であったのでちょっとこの説を調べてみた。

刀伊の入寇」の時とは違い、「文永の役」は高麗の正規軍であり、当然のことながら高麗は拉致された日本人を送り返しては来なかった。無能な政府は、蒙古調伏の祈祷をした寺社に恩賞を与えても拉致家族の奪還には動かない。では対馬や壱岐や松浦などで家族を拉致された人々は泣き寝入りだったのかという問題がある。

そこで、「倭寇元寇の復讐であったのではないか」と言う説が出てくる。対馬や壱岐や松浦の人々が立ちあがっても何の不思議もないではないか、というのは確かに説得力がある。そういうことがなければ、日本人の私兵が急に他国を侵略するようなことは考えにくい。

対馬観光協会のHPを見ると、明確に倭寇元寇の復讐だと書かれている。
http://www.tsushima-net.org/tourism/history_03.php
このHPをしばらく引用する。

元寇では、日本は『神風』により侵略を免れたと言われますが、対馬・壱岐は全島にわたって甚大な被害を受けました。元寇への復讐の意味もあり、倭寇が盛ん に朝鮮半島・中国大陸で略奪・人さらいを行うようになっていきます。高麗は倭寇の被害が原因のひとつとなって滅亡、倭寇討伐で名をあげた李成桂が李氏朝鮮 を建国します。」

またWikipediaにはもっと詳しく書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%AF%87

倭寇2

「前期倭寇が活動していたのは14世紀、日本の時代区分では南北朝時代から室町時代初期、朝鮮では高麗から朝鮮王朝の初期にあたる。日本では北朝を奉じて室町幕府を開いた足利氏と、吉野へ逃れた南朝が全国規模で争っており、中央の統制がゆるく倭寇も活動し易かった。前期倭寇は日本人が中心で、元寇に際して元軍とその支配下にあった高麗軍によって住民を虐殺された対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民が中心であり、『三島倭寇』と総称された。
朝鮮半島や中国沿岸に対する海賊行為は、元寇に対する地方の私軍による復讐の意味合い、および、再度の侵攻への予防という側面もあったと考えられ る。また、これらの地域では元寇による被害で労働力不足に陥り農業生産力が低下したために、これを補完する(奪還する)目的があったとも考えられている。」
と、元寇の復讐であると推定している書き方だ。推定の根拠としては、「朝鮮半島で当時唯一稲作が盛んに行われていた南部沿岸地方を中心に襲撃し、食糧や人間を強奪しており、さらには連れ去られた家族を取戻した事例もあり、実際に家族に再会した記録もある。」というのだが、その記録の文献が記載されていないのは残念だ。

結局、倭寇が元弘の復讐だと言う説を裏付ける日本側の史料がなにかあるのかどうかはよくわからなかった。

倭寇図会

しかし、清や李氏朝鮮には倭寇は元寇の復讐であると記載されている書物があると言う。つぎのURLによると、「朝鮮半島や中国沿岸に対する海賊行為は、元寇に対する被害地方の復讐行為と考えられる。清の徐継畭の「瀛環志略」や李氏朝鮮の安鼎福の「東史綱目」には倭寇の発生原因は、日本人による元寇への報復であったという記述がある。」と記されている。
http://blogs.yahoo.co.jp/teisitu/51336005.html

この部分の説明は先程のWikipediaでは「応永の外寇以前の形態は単なる局地的な奪還・復讐戦であり、これを倭寇と分類せず、それ以降を倭寇と考える説もある。清の徐継畭の『瀛環志略』や李氏朝鮮の安鼎福の『東史綱目』には、倭寇の原因は日本に対する侵略行為を行った高麗人(朝鮮人)への報復である」とは書かれているが、この文脈では、元寇に対する復讐とは読み辛く、応永26年(1419)「応永の外寇」に対する復讐とも読める曖昧な表現だ。
「瀛環志略」「東史綱目」にどういう文章が書かれているか紹介されていればこの点がはっきりするのだが、ネットではいろいろ検索してもこの2つの書物の該当部分の文章は見当たらなかった。

刀伊の入寇や元寇の残忍さと、倭寇の残忍さのイメージが長い間重ならなかったのだが、前期倭寇の初期に於いて日本人が関与した理由は元寇に対する復讐であったという説はわかりやすく、その可能性を感じる。明確に書かれている当時の書物のテキストが分かれば、是非読んでみたいものである。

倭寇の回数

しかし田中健夫氏の倭寇の回数のグラフを見ると、倭寇の回数が急増するのは14世紀の後半からだ。これは元寇のあった13世紀後半とは、年数が離れ過ぎてはいないだろうか。私は『明史』日本伝に次の様に記述されているこの部分をもっと注目して良いと思うのだ。
「明が興り、太祖高皇帝(朱元璋)が即位し、方国珍・張士誠らがあい継いで誅せられると、地方の有力者で明に服さぬ者たちが日本に亡命し、日本の島民を寄せ集めて、しばしば山東の海岸地帯の州県に侵入した。」(講談社学術文庫『倭国伝』p.394)

中国の正史にこのように明記されている記述を、なぜ歴史家は無視するのだろうかと不思議に思う。『明史』の記述の正しさは、上記グラフで1368年頃から倭寇の回数が急増しているのをみれば明らかである。

倭寇ルート

倭寇の構成は、それから時代を経るにつれて日本人主体から、中国人、高麗人主体に移っていくと多くの本に書かれているのだが、なぜこの特定時期に回数が増えた背景については、『明史』を読んではじめて納得した。
しかし教科書では、途中から倭寇の主体が日本人ではなくなって行くことがはっきり書かれておらず、そのために多くの人が、この時期の日本人が朝鮮半島で海賊行為を繰り返していたかのような印象を持ってしまうのは残念なことだと思う。
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「高麗史」を読めば朝鮮半島の倭寇をエスカレートさせた原因がよくわかる~~倭寇2

高麗史』を読んでいると、14世紀の半ばから倭寇の話が驚くほど頻繁に記述されている。Wikipediaによると高麗末期に500回前後の記述があるとのことだが、その内高麗人が加わっていたことが明記されているのは3件だけなのだそうだ。そのことから、前期の倭寇の主体は日本人だったと考えられている。

倭寇の半島地図

前回の記事で書いた通り、中国の正史である『明史』には明が興こった (1368年) 頃に、「地方の有力者で明に服さぬ者たちが日本に亡命し、日本の島民を寄せ集めて、しばしば山東の海岸地帯の州県に侵入した」と記述されている。『明史』なので「山東地区」だけが書かれているが、この時期の倭寇は対馬・壱岐を拠点とし、山東地区や朝鮮半島に出没していた。

倭寇の回数が激増するのがこの時期であるから、元の末期あたりから中国人が相当数関与していたことが『明史』の記述から推察されるが、それまでは日本人が主体と考えて良いのだと思う。
倭寇の初期には、元寇に際して元軍とその支配下にあった高麗軍によって家族を虐殺され奴隷にされた対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民がかなりいて、「三島倭寇」と総称されたそうだ。「三島」とは対馬・壱岐・松浦のことを指していたと言われているが、この「三島」の住民と、この地域に亡命してきた中国人とが手を組んだことも考えられるのだ。

弘安の役の失敗にもかかわらず、元も高麗も日本征服を諦めたわけではなかった。弘安の役の翌年の1282年に高麗の忠烈王は兵船150隻を造り元のクビライに三度目の日本侵攻を促し、クビライも大小3000隻の艦隊を準備したのだが、1283年に江南で内乱があり、その翌年にはベトナムで反乱などがあってその対応に追われ、日本侵攻は実行されなかったという。

三度目の元寇があるかどうかは、何度も住民を虐殺され、拉致された対馬・壱岐の人々にとっては死活問題であったろう。今回は、元寇後に起こった倭寇と朝鮮半島の事を書いて見たい。

元寇の後で、『高麗史』に「倭」について書かれている部分を抜き出してみた。この頃は、ただ倭の船が国境を越えてきただけのことが書かれている。

「忠烈王十五年(1289)[十二月]戊戌(23日)、倭船、蓮花・楮田の二島(いずれも朝鮮半島南端の島)に泊まる。」(岩波文庫『高麗史日本伝(上)』p.172)
「忠烈王十九年(1293)[七月]丁丑(24日)、鎮辺万戸の韓希愈、漂風せる倭八人を捕らえ来る。」(同上書p179-180)

二度目の元寇である弘安の役(1281年)からまだ日が浅い時期の記録はこの程度のもので、倭人が特に危害を加えたわけではなく、単に国境を超えて様子を探る程度の記述だ。

高麗史』に倭船が初めて具体的な掠奪行動を起こしたことが書かれているのは、次の部分だろう。この時は倭寇のメンバーの多くが斬殺されている。
「忠粛王一〇年(1323)[六月]丁亥(27日)、倭、会原の漕船を群山島に於いて掠す。戊子(28日)、又楸子等の島に寇し、老若男女を擄(とりこ)にして、以て去る。秋七月庚子(10日)、内府副令の宋頎を全羅道に遣わし、倭と戦い、百余級を斬す。」(同上書p.192)

次の文章は「倭寇」という言葉を最初に使った、『高麗史』の記述である。
「忠定王二年(1350)」二月、倭、固城・竹林・巨済に寇す。合浦千戸の崔禅と、都領の梁琯等、戦いて之を破り、三百余級を斬獲す。倭寇の侵すは、此れより始まる。」(同上書p.200)
ここに書かれている通り、この年以降、倭寇の襲来が広域的・連続的かつ大規模となるのである。初期の倭寇の手口は家や船に火を付けて食糧などを奪い去るというものであった。船に火をつける行為は、当面日本に攻めて来させないための措置だと考えられている。

倭寇3

高麗史』のこの頃の記述を読んで、初期の倭寇が重武装していたとはとても思えないのだが、高麗側からすれば、いつ、どこに現れるかわからない敵に対して準備することは容易ではなく、倭寇にかなり手を焼いていた。そこで高麗側は、倭寇の本拠地である対馬や壱岐を攻めてその勢力を根絶させようと考えた。

『高麗史』に次のような記述がある。(鄭地列伝)
「…近ごろ、中国は征倭を声言す。若し我が境に並(あつま)り、戦艦を分泊すれば、則ちただ支待すること艱しと為すのみに非ず、亦た我が虚実を覘(うかが)うを恐る。倭は国を挙げて盗を為すに非ず。其の叛民は、対馬・一岐(壱岐)の諸島に拠り…。若し…先に、諸島を攻め、その巣窟を覆し、また日本に移書して尽く漏賊を刷(はら)い、之をして帰順せしむれば、即ち倭患は以て永く除かるべし。中国の兵も亦た由りて至ることなし。…」(岩波文庫『高麗史日本伝(下)』111)

この記述にあるとおり、中国の「征倭」の申し出を受け入れれば、高麗に中国の戦艦が駐留し、その接待やら費用負担が大変である。日本は国を挙げて盗みを働いているのではないので、倭寇の拠点を叩けばその原因を断つことが出来るとの考えだ。高麗は倭寇を撃退するのに中国の力を借りる気はなかったようだ。

倭寇掠奪

何度も倭寇との衝突があり、何度も倭寇の勢力は半島で人や食糧を奪い、あるいは高麗の勢力に斬られたり捕虜にされたりしている。その繰り返しだ。

『高麗史』金先致伝に、倭寇は1375年までは高麗人を殺していなかったことが明記されているのに驚いた。一方で高麗人はそれまでに何人も倭人を殺す記述があるのにもかかわらずである。では、この1375年にどのような事件があったのか。

この年に高麗は全羅道の金先致という武官に対し、倭寇の藤経光という人物に食事をふるまって毒殺せよと命じたのだが、その謀が途中で見破られてしまい藤経光に逃げられてしまう。この事件が倭寇のメンバーを激怒させてしまった。

『高麗史』・金先致伝には、これ以降の倭寇は半島に来るたびに殺戮を繰り返すことになったと記述されている。
「此れより前、倭の州都に寇するに、人畜を殺さず。是より入寇する毎に、婦女・嬰孩すら屠殺して遺(のこ)すなし。」(同上書p.121)
そのために、全羅道・楊広道・慶尚道の3道沿岸地帯の人々は沿岸を離れて仮住まいし、村々は荒廃して「粛然一空」*となってしまった、とも書かれている。(*がらんとして何もないさま。)

読者の方からご指摘いただいたが、『高麗史』恭愍王9年(1360)と23年(1374)に倭が高麗人を殺した記録がある。実際には、もう少し前から相互に激しい復讐行為を繰り返していたようだ。

さらに1389年には、高麗は戦艦百艘で倭寇の拠点であった対馬を攻撃している。
「…倭船三百艘、及び傍岸の盧舎を焼きて殆ど尽く。元帥の金宗衍・崔七夕・朴子安等継ぎて至り、本国の被虜男女百余人を捜して以て還る。…」(同上書p157)

倭寇船

14世紀後半の『高麗史』は、このような記録ばかりだが、要するに元寇以降対馬や壱岐を中心とする人々と高麗とが相互に復讐行為を繰り返していただけのことではないのか、という印象を持った。また、これほどまでに倭寇をエスカレートさせた原因はどちらにあったのかというと、高麗側の方に多かったようにも思える。

 文永の役で元・高麗連合軍が対馬や壱岐の多くの人々を虐殺し、若い男女を拉致して持ち帰り高麗王に献上したことからすべてが始まり、それから後の倭は偵察行為を行った程度だったが、最初に多くの人を斬殺したり、リーダーを饗応すると見せかけて毒殺しようとしたのは高麗側である。これらはすべて高麗の正史である『高麗史』に書かれていることなのである。

高麗は倭寇が原因で国力を弱め1392年に李成桂に滅ぼされることになるのだが、その後の倭寇のメンバーについては、朝鮮人の割合が圧倒的となっていたという記録が残っている。
朝鮮王朝実録の『世宗実録』114卷二十八(1446年丙寅)十月壬戌条(10月 28日 (壬戌))には、

「臣聞前朝之季、 倭寇興行、 民不聊生、 然其間倭人不過一二、而本國之民、 假著倭服、 成黨作亂、 是亦鑑也。」とあり、真倭は一割、二割にすぎず、残りは我が国の賎民であると記述されている。

朝鮮王朝実録」は韓国の歴史書で、世界遺産にも登録されている書物で、そこに15世紀の半ばには倭寇の構成員のうち日本人は二割程度で、残りの八割は李氏朝鮮国の賎民だと明確に書かれている事実は重要である。同じ「倭寇」という呼び名でありながら、途中で日本人中心の集団から自国民中心の集団に変質していたのだ。
高麗時代についても、高麗の反政府勢力が倭寇の中心メンバーであったという説もあるが、その説も一理あると考えている。

こういう史実を知ると、次のような日本史教科書の「倭寇」の記述に、多くの人が違和感を感じるのではないだろうか。

「…海の道を舞台に活動する集団がいた。その出身は九州や瀬戸内海沿岸の土豪・商人で、彼らの一部は貿易がうまくいかなくなると、海賊的な行動をとり、倭寇とよばれておそれられた。李成桂はこの倭寇撃退に名をあげ、ついに高麗をたおしたのである。」(『もう一度読む山川日本史』p109)

李成桂

この記述では、李成桂は倭寇を撃退した英雄扱いだし、倭寇は日本人ばかりであったような印象を持ってしまう人が大半だと思うのだが、なぜ日本の教科書はこのような書き方になるのだろうか。高麗や李氏朝鮮の正史で、明らかに自国に不利な事を書いている部分を見落としてしまっては、歴史の真実が見えてくるとは到底思えないのだ。
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【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。





中国の史料では後期倭寇は中国人が中心だが、奴隷売買に関与はあったか~~倭寇3

以前このブログで、「400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと」という記事を書いた。この記事は、ブラジルの日系人のための新聞である「ニッケイ新聞」に連載された記事の紹介から書き起こしている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-116.html

天正少年遣欧使節

その記事とは16世紀の中頃から1600年頃までの間の50年間に大量の日本人が南米に奴隷として渡ったことを当時の記録などを引用しながら書かれた記事なのだが、この時期は南米ばかりではなく、ヨーロッパやインドにも大量の日本人が奴隷として存在していた記録が残されている。インドのゴアにはポルトガル人よりも日本人の奴隷の方が数倍多かったという記録があるそうだし、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の四人も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕したという記録も残されている。

その記事を書いてから、日本及び海外の日本奴隷に関する当時の国内外の史料を調べて、「秀吉は何故伴天連追放令を出したのか」というテーマで3回に分けて書いた。布教の妨げになるとの理由からイエズス会の要請を受けてポルトガル国王が何度も「日本人奴隷取引禁止令」を出している事実からしても、この時期に奴隷として売られた日本人は半端な数ではなかったはずだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-132.html
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-133.html
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-134.html

しかし、奴隷は日本人だけではなく中国人も朝鮮人もかなりいた。
どうしても理解できなかったのは、これだけの奴隷を誰が何のために集め、どうやって運んだかという点であった。ポルトガル商人が、ポルトガルの船だけでそれを実行できたのであろうかと疑問を持っていた。当時の船は帆船であり、船が進みたい方向に進める季節は限られている。日本から西に向かう季節は冬、西から日本に向かうには夏しかあり得ないのだ。

倭寇の回数

前々回の記事で田中健夫氏による「倭寇の回数」のグラフを紹介したが、これをもう一度見てみよう。16世紀に於いて倭寇の活動が活発であった時期と、日本人・中国人・朝鮮人奴隷が世界に送られた時期とがほぼ一致するのだ。倭寇はポルトガルへの奴隷の供給を行うことに関わっていたのではないだろうか。

そのように考えれば、倭寇があれだけ長い期間にわたって金品の略奪のみならず、なぜ人攫いを何度も繰返したのかという疑問も氷解するのだ。

ネットで「倭寇」と「奴隷」をキーワードに検索を試みると、「倭寇」が「奴隷」の送り込みに関与した可能性を感じさせるいくつかの記述にヒットする。戦前に書かれた興味深い表題の論文もあったのだが、その内容までは紹介されていなかったので、ここでは当時の記録が紹介されているサイトを紹介しておこう。

明の人物で鄭舜功という人物が、日本にも滞在して自らの功績とともに日明間の密貿易の実態などを詳しく書いた『日本一鑑』という書物があり、次のサイトでその翻訳文が詳しい注記と原文とともに紹介されている。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/kaizoku/ikkan1.html

「嘉靖21年(1542年)、寧波知府の曹誥は密貿易船が海寇を招いているとして、これと取引したり密航する者を大々的に捕縛したが、寧波の有力者たちが手を回して彼らを救いだしてしまった。曹誥は『今日もまた通番(外国との交易)を説く、明日もまた通番を説く。これはもう血が流れ地方を満たすまで止まらないだろう』と言った。

 翌年(1543年)、トウリョウらが福建沿海を荒らしまわった。浙江海域の海賊もまた発生した。海道副使・張一厚は許一・許二らが密貿易を行うために地方に海賊の害を及ぼしていると考え、兵を率いてこれを捕らえようとした。許一・許二らはこれを撃退して気を大きくし、ポルトガル人たちと双嶼港に拠点を構えた。

 その部下である王直は、乙巳歳(24年=1545年)に日本に行って交易し、はじめて博多の助才門ら三人を誘い、双嶼に連れて来て交易を行った。翌年もまた日本に行き、その地との結びつきを強めるようになった。直隷・浙江の倭寇の害がここに始まることとなるのである。」

倭寇ルート

詳しい内容は上記のサイトで確認願うこととして、この時期に中国沿岸部の民家を襲撃している倭寇のメンバーで名前が挙がっている人物はほとんどが中国人である。
また、ポルトガル人たちと拠点を構えたという「双嶼港」は、倭寇の地図で種子島の西にある中国沿岸部の「舟山列島」にある港である。

王直像

王直」は、日本に初めて鉄砲が伝わった際に、船でポルトガル人を種子島に導いた中国人だが、この男が「倭寇」の中心人物であった。

この『日本一鑑』という書物に著者の鄭舜功が、倭寇に連れ去られた明人たちが奴隷として酷使・売買されて施設が九州の高洲(現在の鹿児島県鹿屋市)という場所にあり、そこを訪れると明人の被虜者が二、三百人集められていたという記録があるらしいのだが、このサイトにはこの部分(窮河話海巻之四)の原文と翻訳が割愛されていたのは残念だ。そのかわり、このサイトの管理人は、別のページでこの部分のあらすじなどをまとめておられる。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/kaizoku/fengc1.html

このサイトでは「明人の被虜者」と書かれているのだが、日本人奴隷がこの収容所にいた可能性はないのだろうか。相沢洋氏の「倭寇と奴隷貿易」という論文には、南九州では鎌倉時代から人身売買が行われていた記録があることが指摘されており、この高洲の奴隷収容所も大隅の戦国大名であった肝付氏が経営に関与していただろうと書かれているそうだ。

日本人奴隷については、九州でポルトガルに売却されていたことを以前私のブログに書いた。当時は火薬の原料となる硝石を手に入れるために、切支丹大名などが日本人捕虜をポルトガル人に売却していたのだ。
ルイス・フロイスの『日本史』には「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却され…売られた人々の数はおびただしかった」と記述されている。日本の南蛮貿易拠点は島原半島の口の津にあり、そこに人々が連行されていったのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-134.html

倭寇船

しかし、それほど多いとは思えないポルトガル船に乗せるためにわざわざ肥後国に行かなくとも、倭寇はかなりの船を所有していた。日本から西に進めば中国の沿岸部にはポルトガル人の拠点がいくつもあったのだ。
奴隷をマカオやゴアなどに運んだのは、倭寇の勢力が関与した可能性は小さくないと私は考えている。

次に、倭寇を構成していたのはどういうメンバーであったのか。
前回にも書いたが、『明史』には14世紀後半から、明に抵抗する勢力が日本に亡命し、倭寇に関与していったことが明記されている。
さらに『明史』を読み進むと、「後期倭寇」と呼ばれる16世紀の「倭寇」も、中国人が中心であったことが良くわかる。彼らは日本人の着物や旗しるし*を真似て、いかにも日本人の勢力であるかのごとく偽装して活動していたのだ。今も昔も中国人のやることはよく似ている。
*旗しるし:天照皇太神・春日大明神・八幡大菩薩などが用いられた

「…大悪党の汪直・徐海・陳東・麻葉のごとき輩は、日頃から倭人の中にくいこみ、国内ではかってにふるまうわけにはいかないので、すべて海上の島に逃れて奸計の采配をふるった。…外海に出たこれらの大盗賊は、やがて倭人の着物や旗しるしをまねて用い、船団をいくつかに分けて本土に侵攻して掠奪し、一人残らず大いに懐を肥やした。…」(講談社学術文庫『倭国伝』p.420)

「これらの賊軍のあらましは、真の倭人は十人のうち三人で、残りの七人は倭人に寝返った中国人だった。倭人はいざ戦いとなると、捕虜の中国人を先陣に駆り立てた。軍法が厳しかったので、賊軍の兵士たちは死にもの狂いで戦った。ところが官軍の方はもともと臆病者ぞろいだったから、戦えば必ずなだれをうって逃げるという始末だった。」(同上書p.422)

『明史』を普通に読むと、倭寇のリーダーが中国人であることは明らかであり、「倭人」は必ずしも「日本人」と言う意味ではなさそうだということに気がつく。日本海から朝鮮半島、中国沿岸部で海賊行為を行っていたメンバーを総称して「倭人」と呼んでいるなどの諸説がある。

中国の当時の記録で采九徳が記した『倭変事略』には「この四十賊を観みるに亦た能く題詠する者あり。則ち乱を倡える者はあに真倭の党なりや。厥の後、徐海・王直・毛烈ら並べて皆華人なり。信ず可し」とあり、倭寇のメンバーはすべて中国人だと書かれている。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/kaizoku/kaisi.html

倭寇掠奪

前回の「高麗史」においても同様なのだが、倭寇に関して、中国の正史である「明史」や当時の記録において、明の国民にとって不利な出来事や恥ずべき事実が数多く記録されているのだが、こういう書き方をする場合には嘘があるはずがないのだ。しかしながら、前回の記事で紹介したとおり、わが国の多くの教科書では倭寇は日本人が中心メンバーであったと思わせるような表現になっているのは非常に残念なことである。

この時代に限らず、わが国の歴史記述は他国の反応を配慮してか史実が歪められ、真実をありのままに綴ることが自主規制されているかのような文章が散見されるのだ。
どの国にもその国にとって都合の良い歴史と都合の悪い歴史があるのだろうが、お互いその片方を知るだけでは、成熟した二国間関係の構築は難しいと思う。

歴史をどう書くか、どう教えるかは、その国の外交スタンスまで影響を与えるものとの認識が必要で、相手国の立場と自国の立場と第三国の立場から史実を検証し、真実を追求する姿勢を崩すべきではない。相手国が主張する歴史を鵜呑みにしては、わが国の外交的立場を弱めてしまうばかりだ。もっとわが国の政治家が歴史に詳しければ、尖閣や竹島や、北朝鮮問題などに対する対応が、今とは随分異なったものになるのではないだろうか。
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秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか~~朝鮮出兵1

秀吉の朝鮮出兵については、晩年の秀吉は征服欲が嵩じて意味のない戦いをしてしまったようなニュアンスで学んだような記憶がある。歴史家も秀吉の誇大妄想と記述しているケースが多いようだ。

朝鮮出兵

最近の高校教科書で確認してみよう。例えば『もう一度読む山川日本史』には朝鮮出兵についてこう書かれている。
「秀吉はまた外交の面でも積極的で、倭寇などの海賊的な行為を禁じるとともに、日本人の海外発展を援助したので、日本船の東南アジア方面への進出が盛んになった。秀吉はさらに明(中国)の征服をくわだて、まず朝鮮に対して国王の入貢と明への先導をもとめた。しかし朝鮮がこれに応じなかったので、秀吉は2度にわたって出兵をおこない、明の援軍や、朝鮮民衆のはげしい抵抗にあって苦戦を強いられた(文禄・慶長の役)。1598(慶長3年)年、秀吉の死によって全軍は撤兵したが、朝鮮出兵とその失敗は、明・朝鮮両国の反日感情をつのらせたほか、国内的にも豊臣政権がくずれる原因の一つになった。」(『もう一度読む山川日本史』山川出版社P147)

今年の2月にこのブログで秀吉が伴天連禁止令を出した背景について書いたことがある。 当時の秀吉はポルトガルやスペインがキリスト教を布教させて住民を手なずけた後に日本を武力で侵略する意図を見抜いており、その流れを止めるために伴天連禁止令を出したことを、当時の記録などを参考にして記事を3回に分けて書いたのだが、そんな炯眼を持つ秀吉が、自らの征服欲のために朝鮮出兵を行ったとする説に違和感を覚えて、自分でいろいろ調べてみた。

スペインは1571年にフィリピンを征服し、直ちに明国(中国)の征服計画に着手している。 織田信長が本能寺の変で明智光秀に殺された翌年の1583年にマニラ司教のサラサールがスペイン国王に送った書簡(6月18日付)には
「…シナの統治者たちが福音の宣布を妨害しているので、これが陛下が武装して、シナに攻め入ることの正当な理由になる…。
そしてこのこと(シナの征服)を一層容易に運ぶためには、シナのすぐ近くの国の日本人がシナ人のこの上なき仇敵であって、スペイン人がシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを陛下が了解されると良い。そしてこの効果を上げる為の最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。…」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.85-88)

と書かれており、
その二年後にイエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョも、フィリピン・イエズス会の布教長への書簡で、日本への軍隊派遣を求めるとともに「…もしも国王陛下の援助で日本66ヶ国凡てが改宗するに至れば、フェリペ国王は日本人のように好戦的で頭の良い兵隊を得て、一層容易にシナを征服することが出来るであろう…」(1585年3月3日付)とあり、キリスト教の布教がスペインの侵略政策と密接に関係し、スペインが中国の征服を狙っていたことは明確なのだ。

当時の情勢からすれば、スペインは日本よりも明から攻める方が容易であっただろう。
もしスペインが明を征服すれば、朝鮮半島も同時にスペインの支配下に落ちただろう。スペインに朝鮮半島から攻められればわが国も相当な犠牲が避けられないはずだ。

359_Namban-11.jpg

イエズス会日本準管区長のコエリョがスペインに軍隊派遣を要請した直後の1585年5月4日に、秀吉はコエリョと会っている。ムルドック「日本史」にはこう記されている。
「秀吉はコエルホ(コエリョ)に語りて曰く、予が日本全国を平定するの日は近きにあり。この上は…親から(みずから)進んで、朝鮮、支那の征服に従事する筈ぢゃ。今や大兵輸送の為めに、戦艦二千艙を造る可く、樹木伐採の命を布かんとする所である。予は師父等に、何等の註文なし、但だ彼等の力によりて、葡萄牙(ポルトガル)より二個の巨大にして、武装したる船を獲来る丈の事のみだ。…若し成功して、支那人悉く皆予に恭順せんか、予は支那人より支那を奪うを欲せず、又た予自ら支那にあるを欲せず。予は唯だ支那人をして、予を其の君主と認めしむるを以て、足れりとするのみ。然る時には、其の全土に教会堂を建てしめ、総ての人民に令して、邪蘇教徒たらしめ、聖律に遵由せしむ可し。」(徳富蘇峰『近世日本国民史』)

秀吉は、コエリョの計画を逆手に取って自らの手で明を征服すべく、キリスト教の布教を認める代わりに軍艦を手に入れて、逆に彼等を利用しようとしたのだ。

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さらに秀吉は朝鮮出兵の前年である天正19年(1591)に、ゴアのインド副王(ポルトガル)とマニラのフィリピン総督(スペイン)にも降伏勧告状を突き付けて、応じなければ明征服のついでに征服するから後で後悔するな、と恫喝している。

このような降伏勧告状を突き付けても、スペインは日本には攻めて来なかった。
今年の1月にこのブログに書いたが、鉄砲の大量生産に成功した日本は世界に輸出し16世紀末には世界最大の鉄砲保有国になっていたし、当時の英国の鉄砲保有数は肥前国の保有数の3分の2程度にすぎなかった。それほど日本の鉄砲保有台数は多かった。
鉄砲だけではなく刀も鎧も日本の物の方が優っていた。ヨーロッパの剣も鉄砲の銃身も日本の刀剣で真っ二つに切り割かれる程度のものだった。
さらに日本の武士の数は、人口の7%から10%近くもいたが、ヨーロッパはどの国も人口の1%を超えなかったと言われている。
正面から攻めるやり方では、スペインは日本に勝てるはずがなかったのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-5.html

また、秀吉は李氏朝鮮軍も明軍も決して強くないことが分かっていた。スペインが先に攻撃を仕掛ければ、明も李氏朝鮮も簡単に征服されてしまうだろう。ならば、スペインに先んじてわが国から明を攻めて、支配下に置こうと考えたのではないか。

『明史』にはこう書かれている。
「秀吉は…年号を文禄と改め(1592年)、そのころから中国を侵略し、朝鮮を滅ぼして併合しようという野心を抱くようになった。そこで以前の汪直(倭寇の頭目)の残党を呼んで情報を集めた結果、唐人が倭人を虎のように恐れていることを知り、…着々と軍備を整え、艦船を修理し、家臣と謀略を練り、中国の北京に侵入するには朝鮮人を案内者とし、浙・閩等沿海地方の郡県に侵入するには中国人を案内役にするのがよかろうということになった。…」(『倭国伝』講談社学術文庫p.432)

前回までに記した通り、倭寇のメンバーの大半が李氏朝鮮や明国の民衆であり、もし明国を征伐したとしても協力する朝鮮・明国の勢力があったことを中国の正史である『明史』に書かれているのだ。

文禄の役ルート

秀吉軍は文禄元年(1592)4月13日に釜山(プサン)攻撃開始後僅か20日の5月3日に首都漢城(現在のソウル)を陥落させているのだが、500km近いプサンからソウルの距離*をこんなにはやく進軍できたのは、相手の抵抗があまりなかったからではないのか。この時に日本軍兵士の半分は朝鮮の民であったという記録があり、多くの朝鮮民衆が秀吉軍に加勢したのである。この話を書きだすと長くなるので、別の機会に書くことにしよう。(*東海道五十三次の約500kmは旅人が通常15日程度で旅をしていたと言われている。)

秀吉の第一回目の朝鮮出兵の後に文禄五年(1596)土佐沖で起きた有名な事件がある。
300人近い黒人奴隷を満載しメキシコに移送中であったスペイン船サン・フェリペ号が座礁してしまった。秀吉は家臣の増田長盛を派遣して、積荷一切を没収しようとしたが、それに抵抗しようとしたサン・フェリペ号の水先案内人が増田の前に世界地図を広げ欧州、南北アメリカ、フィリピンに跨るスペインの領土を示し、何故スペインがかくも広大な領土を持つにいたったかと増田の問いに対し、その水先案内人は「それはまず、宣教師を諸国に派遣し、その民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」と答えたと徳富蘇峰が書いているが、実際にそのようなやりとりがあったかどうかは日本側の記録には見当たらない。

200px-AlessandroValignano.jpg

しかし、同様の発言があっても不自然ではない史料はイエズス会側に残されている。 日本にいたイエズス会のヴァリヤーニは翌年にイエズス会フィリピン準管区長ライムンド・プラドに宛てて、
「(日本などの)地域の王や領主はすべてフィリピンのスペイン人に対して深い疑惑を抱いており、次のことを知っているからである。即ち、彼等は征服者であって、ペルー、ヌエバ・エスパーニャを奪取し、また近年フィリピンを征服し、日々付近の地方を征服しつつあり、しかもシナと日本の征服を望んでいる。…何年か前にボルネオに対し、また二年前にカンボジャに対して攻撃を加えた。少し前に彼等はモルッカ諸島を征服するための大艦隊を有していた。…日本人やシナ人も、それを実行しているスペイン人と同様にその凡てを知っている。なぜなら毎年日本人やシナ人の船がマニラを行き来しており、見聞したことを語っているからである。このようなわけで、これらの国民は皆非常に疑い深くなっており、同じ理由から、フィリピンより自国に渡来する修道士に対しても疑惑を抱き、修道士はスペイン兵を導入するための間者として渡来していると思っている。…」と書いている。(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.132-133)

秀吉はスペインの日本征服の魂胆を見抜き、修道士はその為に送り込まれたスパイだと認識していることをヴァリヤーニはプラドに警告しているわけである。この書簡から、秀吉は倭寇のメンバーからも情報を収集していることが伺える。

これらの一連の流れから考えれば、秀吉は単なる征服欲で明国に出兵したという教科書の記述は、当時の時代背景を理解していない浅薄な見方としか思えないのだ。

秀吉は当時のスペインの明征服計画が存在することを知っていたことは確実だ。
もし明がスペインに征服されれば、朝鮮半島をスペインが支配することは時間の問題であり、そうなればスペインは朝鮮半島から最短距離でわが国を攻めてくることになってしまう。大量の食糧や武器弾薬をつぎ込んで大軍団でわが国を攻めてきた場合、一部の切支丹大名が離反することが想定されるので、そうなればわが国は分裂して、元寇のときよりもはるかに大きな危機に陥ると考えていたのではないか。
そうならないために秀吉は、スペインの先手を打つことで明・李氏朝鮮を傘下に治めてわが国を西洋植民地化されることから守ろうとした、と考える方がずっと自然だと思うのだ。

晩年の秀吉が教科書などでロクな書かれ方をしないのは、当時の世界史の大きな流れの中で秀吉の朝鮮出兵や伴天連禁止令を考えないからではないのか。
(つづく)
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多くの朝鮮民衆が味方し勝ち進んだ秀吉軍~~朝鮮出兵2

前回の記事で秀吉の軍隊に加勢した朝鮮の人々が多かったことを書いた。この点については教科書には全く記述されていないところである。第一回目の朝鮮出兵である「文禄の役」の記録を見てみよう。

秀吉の朝鮮出兵については日本のみならず李氏朝鮮や明国にも記録が残されており、「文禄の役」の戦の経緯は次のサイトでコンパクトに纏められている通りで、日本軍は連戦連勝で平壌まで進んでいる。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-4/ad1592a.htm

朝鮮出兵については、山川の日本史をはじめ多くの教科書には「朝鮮民衆の激しい抵抗にあって苦戦した」と簡単に書いているのだが、それならばなぜ簡単に日本軍が平壌まで進む事が出来たのか。

文禄の役ルート

まず、日本軍が上陸した釜山(プサン)では4月13日の早朝に攻撃開始後数時間で日本軍は釜山城に攻め入って勝利している。
日本軍が短時間で勝利した理由は簡単だ。日本軍は大量の鉄砲があったが朝鮮軍は鉄砲を持っておらず、刀も槍も弓矢も性能は日本の武器の方がはるかに優秀だったからだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E5%B1%B1%E9%8E%AE%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

日本軍が釜山を橋頭保として北の漢城(ソウル)に軍を進めて行くためには、釜山から数キロ北にの東菜城を陥落させる必要があった。翌4月14日早朝に戦闘開始し、この戦いでは朝鮮軍は奮戦し8時間持ちこたえるのだが兵器の差で日本軍が勝利し、北から現地に向かっていた慶尚道の全軍の指揮官らは、その報を聞いて逃げたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%8E%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

文禄の役

その後、4月24日に「尚州の戦い」、4月28日に「弾琴台の戦い」があり、いずれも日本軍が簡単に勝利し、5月3日には現在のソウルである首都・韓城が陥落する。

韓城では戦いらしい戦いはなく、小西行長らの一番隊が漢城に到着した時には、守備隊は誰もいなかったという。前日に宣祖王は平壌に向かって逃亡していたのだ。

Wikipediaにはこう書かれている。
「…漢城は既に一部(例えば、奴婢の記録を保存していた掌隷院や、武器庫など)が略奪・放火されており、住民もおらず放棄されていた。漢江防衛の任に当たっていた金命元将軍は退却した。王の家臣たちは王室の畜舎にいた家畜を盗んで、王よりも先に逃亡した。全ての村々で、王の一行は住民たちと出会ったが、住民たちは王が民を見捨てて逃げることを悲しみ、王を迎える礼法を守らなかった。
また、明の朝鮮支援軍が駆けつけると、辺りに散らばる首の殆どが朝鮮の民であったと書かれてある。景福宮・昌徳宮・昌慶宮の三王宮は、日本軍の入城前にはすでに灰燼となっており、奴婢は、日本軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った…」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9

当時の李氏朝鮮は両班(ヤンパン)を最上位とする強固な身分制社会で、全人口の三割から五割は奴婢 (ぬひ、奴隷の一種) 身分だったと言われている。「宣祖実録」によると、このとき朝鮮の民衆は朝鮮政府を見限り、日本軍に協力する者が続出したというのだ。
宣祖実録」は宣祖帝の時代の出来事の李氏朝鮮国の公式記録だが、原文で良く引用されるのが宣祖帝が漢城を脱出するところの記述である。(下の画像のピンク部分)

宣祖実録

「人心怨叛,與倭同心」(人心は怨み叛き、倭に同調するのみ)
「我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也?」(我が民は言った「倭もまた人である。どうして我々が家を捨てて逃げる必要があるのか?」)

したがって、日本軍が漢城に進駐しても「京中の市民、安居して移ら」なかったばかりか、朝鮮の王である宣祖が「賊兵の数はどうか。半ば是我国の人と言うが、然るか」と尹斗壽に尋ねたように、日本軍には朝鮮の民衆が半分近く含まれていたのである。
http://ccce.web.fc2.com/rekisi1.htm#karairi

韓国の教科書には「(日本軍侵略の為に)文化財の被害も大きかった。景福宮が焼け、実録を保管した書庫が消失した」と書かれているそうだが、史実は朝鮮の民が景福宮等に火をつけたものであり、秀吉の軍隊が漢城に入る前には既にそれらの建物は焼け落ちていたのだ。

多くの民衆が国王に対し、国民のことを顧みずもっぱら後宮を富ませたと罵声をとばし、石を投げたという記録もあるそうだ。
日本軍は、朝鮮軍からの抵抗をあまり受けることなく北進を続け、6月15日には平壌が陥落した。日本軍より先に漢城から平壌に逃亡した宣祖王は、平壌に日本軍が迫ると再び逃亡し、冊封に基づいて明国(中国)に救援を要請。小西行長らの一番隊は和平交渉を模索して平壌で北進を停止した。

7月16日に明軍の援軍が平壌に到着するが、日本軍はこれを撃退する。

朝鮮半島地図

加藤清正らの二番隊が進んだ咸鏡道(半島の北東部)については『(道内)各地の土兵・土豪は役人を捕らえて降る。日本兵は刀剣を使わず』に快進撃したという記録があるそうだ。
人々は日本軍の侵入前に、咸鏡道観察使(知事)柳永立・兵使(軍司令官)李渾さえも捕らえて一気に惨殺してしまい、この結果、咸鏡北道明川以北の八城市は従来の政府役人に代わって、日本軍の庇護のもとに蜂起した民衆が首長となったという。

という具合で、上陸した日本軍は各地で勝利し全羅道を除く全土を早い時期に制圧したのだ。

しかし日本軍の弱点は船にあった。
日本の船の底は平らで、帆を一本かけるだけだから順風でないとロクに使えなかったし、船も小さかった。

亀甲船

一方朝鮮の船は李舜臣(りしゅんしん)が考案した亀の形をした有名な「亀甲船(きっこうせん)」といわれる大きな船で、日本軍の船よりも安定感があり、船体の上部に槍や刀を上向きに植えこんでいたので、日本軍が乗り移って戦うことが困難な構造になっていた。
朝鮮の船は戦うことを前提にした船であるのに対し、日本の船は輸送船団に武士を乗せたようなものだ。
海の戦いでは日本軍は劣勢が続き、全羅道から北上することが出来なくなって、そのために前線に充分な武器や食糧が運べなかったのだ。

朝鮮出兵日本船

日本軍は陸戦では勝ち進んで平壌まで来たが、これから先、明国に進もうにもまともな道路がないし、一方で兵糧は不足する。日本の船は来ないし寒さは厳しくなるばかり。ゲリラも現れ、疫病にも苦しめられたという。これでは日本軍の士気は上がらない。

文禄二年一月八日、李如松(りじょしょう)率いる明軍が平壌に総攻撃を仕掛けてきた。明軍は城の食糧庫に火を放ち、そうなると日本軍ももう長くは戦えない。日本軍は大同江を渡って逃げたが、明兵も朝鮮兵もそれ以上は追ってこなかったという。この平壌の戦いが、陸における日本軍の唯一の敗戦と考えてよい。

明がこの時の戦果を調べさせたところ、李如松が平壌でとった首の半ばは朝鮮人だったという報告があるそうだ。多くの朝鮮民衆が日本軍に加担していたことは確実なのである。

日本軍は一旦漢城に戻って体制を立て直す。補給に問題があるので籠城戦を避け、碧蹄館(へきていかん)で再び明軍と戦い日本軍は大勝し、明軍の李如松は命からがら逃走したという。

文禄二年の三月に漢城の日本軍の食料貯蔵庫であった龍山の倉庫を明軍に焼かれてしまい、窮した日本軍は講和交渉を開始する。これを受けて明軍も再び沈惟敬を派遣し、小西行長・加藤清正の三者で会談を行い、4月18日に日本軍は漢城より釜山へ退却した。

しかし、秀吉には明が降伏したと言い、明朝廷には日本が降伏したと言って双方の講和担当者がそれぞれ偽りの報告したため、両国とも受け入れられない講和条件を要求してきたが、日本側の交渉担当の小西行長と小西如安は偽りの降伏文書を作製して戦争を終結させてしまう。
文禄五年(1596)9月、秀吉は来朝した明使節と謁見。自分の要求が全く受け入れられておらず、自分が明の臣下の扱いであることを知り激怒する。秀吉は明の使者を追い返し朝鮮への再度出兵を決定したというのが、文禄の役の流れである。

このような史実を知ると、第二次世界大戦の日本軍がマレー半島からシンガポールに進み、ジャワやラングーンを電光石火で陥落させたが補給を軽視して失敗した歴史を思い出す人が少なくないだろう。
歴史に学ばない国民は、何度も同じ過ちを繰り返すということなのか。

また当時の記録などを読めば読むほど、わが国で流布している教科書の「明の援軍や朝鮮民衆のはげしい抵抗にあって苦戦を強いられた(山川日本史)」という記述がばかばかしくなって来る。なぜ日本の教科書は朝鮮人口の多くが奴婢身分であり、民衆の多くが日本軍に加勢したという史実を書かないのか。

この朝鮮出兵で多くの朝鮮の陶工が捕虜として日本軍に連行されたとよく言われるのだが、彼等にとっては自国に残っても奴隷(奴婢)の過酷な暮らしが待っているだけではなかったのか。日本で技能者として優遇されるのであれば、日本での暮らしを望んだ人が多くいても不思議ではないのだ。
秀吉の朝鮮出兵が終わって60年程度あとに、船が難破して李氏朝鮮に流れ着き1653~66年の間出国が許されず朝鮮に留めおかれていたオランダ人のヘンドリック・ハメルは「朝鮮幽囚記」(平凡社東洋文庫)に、こう記述しているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%A1%E3%83%AB
「奴隷の数は全国民の半数以上に達します。というのは自由民と奴隷、あるいは自由民の婦人と奴隷との間に一人または数人の子供が生まれた場合、その子供たちは全部奴隷とみなされるからです。…」
秀吉の朝鮮出兵の後も、李氏朝鮮には相変わらずの身分制度が相当強固に残されていた国だったのだ。
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第二次朝鮮出兵(慶長の役)も秀吉軍の連戦連勝であった~~朝鮮出兵3

前回は第一回目の朝鮮出兵である「文禄の役」の概略を書いた。
この戦いは陸戦では多くの朝鮮民衆が日本軍を支援して連戦連勝で勝ち進んだが、船の進路を阻まれて補給路を断たれて前線が孤立し、さらに前線の食糧倉庫を焼かれてしまったために一旦漢城に戻って体制を立て直すのだが、そこでも日本軍の食糧倉庫が焼かれてしまい、窮した日本軍は和平交渉に入るのだが、日本側の和平交渉を担当した小西行長と小西如安が早く交渉を終えるために偽りの降伏文書を作成したことが後に発覚し、秀吉が激怒する。秀吉は直ちに第二次朝鮮出兵を命じ、第二次朝鮮出兵と言われる「慶長の役」が始まるのだ。

慶長の役ルート

第一回目の「文禄の役」は明の征伐が目的であったが、「慶長の役」は朝鮮征伐が目的であった。諸将に発せられた慶長2年(1597)2月21日の朱印状(『立花家文書』等)には「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」「これを達成した後は守備担当の武将を定め、帰国予定の武将を中心として築城すること」とあり、朝鮮半島の西南部を侵攻し、半島南部に城を築き城主を定めてわが国の領土とするという計画だったようだ。

全羅道への進撃

九州・四国・中国勢を中心に編成された総勢14万人の日本軍に、李氏朝鮮軍は釜山周辺に布陣する。最初の「漆川梁(チルジョンリャン)海戦」は7月16日に水陸から攻撃した日本軍が大勝し、朝鮮水軍の幹部指揮官の元均らを戦死させ、軍船のほとんどを撃沈して壊滅的打撃を与えている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%86%E5%B7%9D%E6%A2%81%E6%B5%B7%E6%88%A6

李氏朝鮮水軍勢力をほぼ一掃した日本軍は、8月16日に黄石山城、南原城の二城を陥落させ、さらに全州城に迫るとそこを守っていた明軍は逃走し、8月19日に日本軍は全州城を無血占領している。そしてまたたく間に朝鮮半島の南東部である全羅道、忠清道を占領してしまった。

慶長の役画像

海上では、李舜臣率いる朝鮮水軍の残存部隊が日本水軍を攻撃したが痛打を与えると速やかに退却し、この鳴梁海戦の結果日本軍は全羅道西岸を制圧した。また、拠点を失った朝鮮水軍は、全羅道北端まで後退した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E6%A2%81%E6%B5%B7%E6%88%A6

ここで日本軍は、当初の計画通り朝鮮半島南部(東は蔚山から西は順天に至る範囲)の恒久領土化を目指して、城郭群の建築に取り掛かる。

蔚山倭城

しかし完成直前の蔚山倭城に12月22日に明・朝鮮連合軍56,900人が襲撃してきた。 加藤清正をはじめ日本軍は、食糧準備の出来ていないままの籠城戦となり苦戦するが、1月3日に毛利秀元等の援軍が到着し、翌日に水陸から明・朝鮮軍を攻撃し敗走させて日本軍が勝利している。

その後城郭群が完成し、九州衆が城の守備のために朝鮮に残留し、四国衆・中国衆と小早川秀秋は予定通り順次帰国して、翌年以降の再派遣に備えたという。

秀吉は翌慶長4年(1599)に大軍を再派遣して攻撃する計画を発表していたが、8月18日に死去し、五大老や五奉行を中心に、密かに朝鮮からの撤収準備が開始された。

9月に入って明・朝鮮連合軍は総力を結集して三つの倭城(蔚山、泗川、順天)の同時攻撃をしかけるが、第二次蔚山城の戦いでは、加藤清正が明・朝鮮連合軍を撃退し防衛に成功。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%9A%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
泗川の戦いでは島津軍7000が明・朝鮮連合軍20万を迎撃し、結果連合軍8万を討ち取り壊滅させた記録がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%97%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
また順天を守っていた小西行長も順天城の戦いで勝利している。
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E9%A0%86%E5%A4%A9%E5%80%AD%E5%9F%8E_%E9%A0%86%E5%A4%A9%E5%80%AD%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81

順天倭城の戦い

上の図は順天城の戦いを描いた図だが、これだけ鉄砲で待ち構えられたら、明・朝鮮軍に勝ち目がなかったことが誰でもわかる。
李氏朝鮮の公式記録『宣祖実録十月十二日条』には「…資糧、器械稱是, 而三路之兵, 蕩然俱潰, 人心恟懼, 荷擔而立…」(三路に分かれた明・朝鮮連合軍は溶けるように共に潰え、人心は恐々となり、逃避の準備をした)と書かれている。

10月15日秀吉の死は秘匿されたまま五大老による帰国命令が発令され、命令を受領した小西行長は明軍の陸将劉綎との交渉により無血撤退の約束を取り付けたのだが、引き揚げてくる日本軍を李舜臣率いる朝鮮水軍が明の大将陳璘(ちんりん)率いる水軍と共に海上を閉鎖し、撤退を妨害した。
そこへ島津軍の引き揚げ船団が合流し、露梁津(ろりょうしん)の戦いが起こる。島津軍は苦戦するが、この戦いで朝鮮水軍の大将李舜臣も明水軍の副将鄧子龍(ていしりゅう)は戦死している一方、島津軍の主だった武将で戦死者はいなかった。この戦いでは日本軍が負けたと書く歴史家もいるが、この戦いにおいて日本軍は敗走したのではなく、目的は海戦海域を脱出して釜山に戻ることでありその目的はしっかり果たしているのだ。この戦いで敗れたのは、日本軍の進路妨害に失敗したにもかかわらず追撃もせず、主要な武将を失った明・朝鮮連合軍の方ではないのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E6%A2%81%E6%B5%B7%E6%88%A6

かくして日本の出征大名達は無事に日本に帰国し、秀吉の計画は成功に至らぬまま秀吉の死によって終結してしまうのだ。

以上見てきたとおり、日本軍は慶長の役では一戦たりとも敗北していないのだが、何故五大老は日本軍に帰国命令を出したのであろうか。この点については、秀吉が死亡し、家康等有力大名間の権力を巡る対立が顕在化して対外戦争を継続できる状況ではなくなったと考えられている。

明史朝鮮伝

明史・朝鮮伝』では秀吉の朝鮮出兵をこう総括している。
豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した。」(自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。)
http://halto112.blogspot.com/2011/07/3_20.html

このように中国の正史である『明史』で、明と朝鮮には「勝算がなかった」と総括している事実は重たいはずだ。なぜなら正史というものは、自国に都合の良いことは誇大に書き、都合の悪いことはあまり記述しない傾向にあるものであるからだ。事実は、明・朝鮮連合軍が大敗し、たまたま秀吉が死んだことで戦争が終わったということは明も認めている真実なのだ。

お隣の韓国の歴史教科書にはこの秀吉の朝鮮出兵をどう書いているか、興味があったのでちょっと調べてみた。
「…全国各地で儒生、農民、僧侶などが義兵を組織し、いたるところで倭軍をうち破り、苦しめた。義兵は自発的に立ちあがり、自分の家族と財産、そして村を守る一方、国家を守るために倭軍を迎え撃った。
義兵は、自分の地元の地理に明るく、地形をうまく利用することができただけではなく、自然条件に合った武器と戦術を活用したために、少ない犠牲で大きな被害を与えた。…」(勝岡寛次『韓国・中国歴史教科書を徹底批判する』[小学館文庫]所収)

随分勇ましい記述であるが、日本軍の圧倒的な鉄砲の威力の前にほとんどの戦いで大敗している史実とはかけ離れた記述になっている。一部の地域で義兵があった記録はあるが、日本軍の大半の地域で朝鮮民衆が日本軍に味方した事実や、当時の朝鮮人口の3割から5割は奴婢身分であり、この時に国王や両班に多くの民衆が反旗を翻した史実を書かなければ嘘を書いているのと同じだ。

この韓国が、日本の歴史教科書に何度も修正要求書を提出している。
http://homepage2.nifty.com/tanimurasakaei/new_page_114.htm
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110719-00000023-yonh-kr

「壬辰倭乱」という用語は、韓国では「秀吉の朝鮮出兵」を意味するが、韓国政府は文部省検定済みの扶桑社の教科書の記述について、「出兵」ではなく「侵略」という言葉を使え、この原因は「秀吉の個人的妄想とだけ記述」せよ、「日本軍によりほしいままにされた人的・物的被害の様子を縮小」するな、などとコメントしている。

要するに「秀吉の朝鮮出兵」は日本軍の侵略行為であり、朝鮮民衆はその被害者でひどい目に遭っているとのイメージを日本人に広げたいのである。いずれ書くことがあると思うが、他の時代についても同様のスタンスだ。韓国にとっては、李氏朝鮮が劣悪な身分制度であったことを隠蔽し、秀吉を侵略者であるとすることが都合が良いと考えているのだと思う。
韓国の教科書は国定教科書であり、いずれの時代の対日関係史の出来事はほとんどが日本が悪いと決めつけている。こんな教科書で全国民を指導すれば、韓国が「反日国家」となるのは当たり前のことある。
スタンフォード大学のアジア太平洋研究センターの日・中・韓・米・台の高校歴史教科書についての報告で、韓国の歴史教科書については「韓国は日本が自国以外に行った行為には興味はなく、日本が自分たちに行ったことだけに関心がある。」とし、自己中心的にしか歴史を見ていないと指摘したそうだが、これは多くの日本人が納得する話ではないのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8%E5%95%8F%E9%A1%8C

そもそも一方的な韓国側の主張に、なぜ日本の教科書が配慮する必要があろうか。
私は「近隣諸国条項」を撤廃すべきだと思うのだが、それができないのであれば、中国や韓国の正史や公式記録等にいくらでも彼らの主張に反論できる根拠があるので、それを使うべきだと思うのだ。
当時の李氏朝鮮国の身分制度のことはもちろんのこと、朝鮮出兵において韓国人の民衆の多くが日本軍に加担したことを出典や論拠を明確にしたうえで堂々と日本の教科書に書き、先方の教科書記述にも論争をしかけるくらいのことが必要ではないのか。いずれの国にとっても重要なのは、それぞれの時代の様々な出来事についてその時代背景を把握した上で、史実に基づいて真摯に真実を探求することであるはずである。

どこの国でも、他国の圧力で史実に基づかない歴史記述を押しつけられるようなことが続けば、次第に他国に軽んじられるようになり、国民は自国に誇りが持てなくなり、国がバラバラになって衰退していくだけだと思うのだ。
史実に忠実であるならば、国によって歴史の見方に違いがあっても許容できるが、史実に基づかない歴史を無理に押しつけてくる国に対しては、わが国は史実を示して反論するしかない。政治家は安易に謝罪を繰り返すのではなく、もっと歴史を学んで言うべき事を言って欲しいものである。
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金閣寺と足利義満の野望

幕末から明治にかけて外国人も含め多くの写真師が写真館を開業し、慶応2年に来日したイタリア生まれ英国籍のフェリックス・ベアトが撮影した日本の景色や風俗の写真が、横浜のファーサリ商会に引き継がれて明治23年(1890)に写真帖が出版されている。その写真帖の貴重な当時の写真が早稲田大学の次のURLに紹介されている。
http://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/farsari/index.html

金閣寺1890

上の画像は、ファーサリ商会の写真帖にある金閣寺の写真だが、金閣寺は昭和25年(1950)の7月2日に学僧・林承賢(当時21歳)の放火により焼失してしまった(金閣寺放火事件)。焼失以前はすっかり金箔も黒漆も剥がれてしまっていて、それはそれで趣きを感じさせる建物であった。
金閣寺焼失

また、ネットでは焼失直後の画像も紹介されている。
http://otona.yomiuri.co.jp/history/090702.htm

焼失後金閣寺は昭和27年(1952)から3年かけて復元され、昭和30年(1955)に再建されたが、その後金箔が剥落して下地の黒漆が見えるようになり、その黒漆も劣化してきたために、昭和61年(1986)から翌年にかけての「昭和大修理」で、金箔の張り替えや黒漆の塗り替えが行われた。

金閣寺2011春

上の画像は今年の春に金閣寺に行った時に写したものだが、昭和の大修理から25年経っても、まだまだ金閣寺は色褪せることなく完璧な美しさだ。

金閣寺の歴史を調べると、この場所は鎌倉時代の元仁元年(1224))に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、あわせて山荘「北山第(ほくさんてい)」を営み、それ以来西園寺家が代々所有していたのだそうだが、鎌倉幕府滅亡直後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇の暗殺を企てたという容疑をかけられて処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E8%8B%91%E5%AF%BA

そこで室町幕府第三代将軍である足利義満が応永4年(1397)に西園寺家からこの北山第を譲り受け、舎利殿(金閣)を中心とする山荘「北山殿(きたやまどの)」を造営し、この場所で政務を行ったという。

義満の死後大塔が焼失し、義満の子である義持は寝殿や仏殿、書院、不動堂等の建物を解体して舎利殿のみを残し、舎利殿を義満の遺言により禅寺とし、義満の法号「鹿苑院」から「鹿苑寺」と名付た。これが寺院としての「金閣寺」の始まりとされている。

ところで、この金閣寺を建てた第三代将軍足利義満については、その死が不自然であり「暗殺されたのではないか」という説があるようだ。この話は興味深いので少し詳しく書いて見たい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%BA%80

足利義満は征夷大将軍の座を父の義詮から引き継ぐと、朝廷と幕府に二分化されていた行政権を握り、配下の守護大名に睨みをきかせ、相手の内紛に乗じて権力を掌握していく。 明徳元年(1390)には土岐氏、翌年には山名氏清を討伐し、明徳3年(1392)には、南北朝を統一した。
そして応永元年(1394)には、将軍職を嫡男の義持に譲り、同年に太政大臣に昇進している。 この時点で義満は武家の最高位である征夷大将軍と、公家の最高位である太政大臣とを同時に手にしたことになる。

足利義満像

また、義満は若いころから明への憧憬を深く抱き、明との正式な通交を望んでいたが、明は天皇の臣下との通交は認めない方針のため、幕府との交渉は実らなかった。そこで義満は応永元年(1394)12月に太政大臣を辞して出家し、これにより義満は天皇の臣下ではない自由な立場となる。
応永8年(1401)、明の建文帝は義満を日本国王に冊封し両国の国交が正式に樹立されて、日本国王が皇帝に朝貢する形式をとった勘合貿易が1404年(応永11年)から始まる。 しかし、義満が明皇帝の臣下となる朝貢貿易を始めたことに対して、公家からの不満や批判がかなり多くあったという。

義満はさらに宗教界の最高位である皇位の簒奪を狙っていたという説が明治期から田中義成氏により唱えられている。義満自身が天皇となることを狙っていたのではなさそうだが、少なくとも実子の義嗣を天皇とすることを狙っていたふしがある。

義満は応永13年(1406)に、自分の2番目の妻である日野康子を後小松天皇の准母(じゅんぼ:天皇の母の代わり)とし、義満の参内や寺社への参詣にあたっては、天皇の父である上皇と同様の礼遇を求めるなど自ら准太上天皇*(じゅんたじょうてんのう)として振舞い、義嗣(父:義満、母:日野康子)を天皇の御猶子(ごゆうし)つまり名目上の天皇の子供として「若宮」と呼ばせていた。(*太上天皇:皇位を後継者に譲った天皇)
応永15年(1408) 3月に北山第へ後小松天皇が行幸したが、義満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁(うんげんべり)が用いられた。
その年の4月25日には自分の子供の義嗣の元服の儀を後小松天皇のご臨席のもとに宮廷の清涼殿で行っている。この時の衣服は天皇より賜り、式次第は親王と同じであったというのだ。

しかし、ここで不思議な事が起こる。
義嗣の元服式が行われた二日後の4月27日に義満は発病し、5月3日にはいったん持ち直したが、再び病状が悪化し、5月6日に51歳で亡くなっている。これは偶然だとしても、あまりにもタイミングが良すぎる。
例えば井沢元彦氏は毒殺説で、著作の中で犯人を世阿弥と二条満基の共犯と推理しているそうだが、当時の公家の日記などには義満の行為が皇位簒奪計画の一環であるとしたり、その死を暗殺と疑った記録はなく、直接の証拠はないのだそうだ。また、皇位簒奪のために最大の障害となるはずの後小松天皇の皇子に対して、何らかの圧力があったとの記録もない。

とは言いながら、もし義満がもう少し長生きすればその政治的権力によって、天皇家とは全く血縁関係にない義嗣が天皇となる可能性はあったのである。
しかし義満は死んでしまった。また義満の嫡男で将軍の義持は、父義満に偏愛された異母弟の義嗣のことを良く思っていなかった。
応永23年(1416)に将軍義持は、関東における内紛を利用して兄を討とうとした義嗣を捕えて相国寺の林光院に幽閉し、応永25年(1418)に建物もろとも焼き殺してしまっている。

250px-Ashikaga_Yoshimochi.jpg

その後4代将軍義持は、父・義満とは異なる道を歩み始める。
義満の死後に、朝廷から義満に対して「鹿苑院太上法皇」の尊号が宣下されたが、義持は「そんな破格な尊号をもらった臣下はない」と言ってそれを返上し、後小松天皇の准国母日野康子(弟義嗣の母)が亡くなった時も葬式を簡単に行い、義満が始めた勘合貿易も取りやめ、北山殿の建物も舎利殿(金閣)を残して殆どを取り崩し、庭石まで崩してしまった。
この義持によって、再び武家としての節度を回復し、室町幕府は政治的な安定を取り戻すことになるのである。

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【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。




本能寺の変で信長の遺体が見つからなかったのはなぜか~~本能寺の変1

都名所図会本能寺

上の図は安永九年(1780)に刊行された「都名所図会」に描かれた本能寺だが、秀吉の命により移転され再建されたものである。信長の時代の本能寺は四条西洞院・油小路・六角・錦小路にわたる地域にあったのだそうだ。

本能寺本堂

秀吉によって移転され再建された本能寺の境内は、今の京都市役所や御池通りを含む広大なものであったそうだが、現在の本能寺はビルに囲まれて随分狭い境内だ。有名な寺院ではあるが、観光客はそれほど多くない。

天正10年6月2日、織田信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、京都の本能寺で主君信長を襲った「本能寺の変」については何度もドラマ化されて、知らない人がいないくらい有名な事件だが、この事件で織田信長の遺体が見つからなかったという記録があることを最近になって知った。

信長は本能寺で自刃したことになっているのだが、遺体が見つからないのになぜ自刃したと言えるのか、誰が自刃するのを見たのか、なぜ死んだと言えるのかなどと多くの人が疑問に思うに違いない。
「自刃した」と書かれているので明智軍の武将が信長を斬ったのではないことは確実だが、もし信長の遺体が発見されなかったのならば、明智軍にとっては、信長が逃げて生き延びた可能性を否定できないはずである。

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織田信長はこの本能寺をよく上洛中の宿所として利用していたそうだが、事件のあった日に本能寺から200mほど離れた教会にいた宣教師ルイス・フロイスの記録が残っている。この該当部分を読んでみよう。

「…本能寺と称する法華宗の一大寺院に到達すると、明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。ところでこの事件は市(まち)の人々の意表をついたことだったので、ほとんどの人には、それはたまたま起こったなんらかの騒動くらいにしか思われず、事実、当初はそのように言い触らされていた。我らの教会は、信長の場所からわずか1町(ルア)を距てただけのところにあったので、数名のキリシタンはこちらに来て、折からの早朝のミサの仕度をしていた司祭(カリオン)に、御殿の前で騒ぎが起こっているから、しばらく待つようにと言った。そしてそのような場所であえて争うからには、重大な事件であるかも知れないと報じた。まもなく銃声が響き、火が我らの修道院から望まれた。次の使者が来て、あれは喧嘩ではなく、明智が信長の敵となり叛逆者となって彼を包囲したのだと言った。」(中公文庫『完訳フロイス日本史3安土城と本能寺の変』p147-148)

明智光秀

「明智の軍勢は御殿の門に到着すると、真先に警備に当たっていた守衛を殺した。内部では、このような叛逆を疑う気配はなく、御殿には宿泊していた若い武士たちと奉仕する茶坊主(ラパードス)と女たち以外は誰もいなかったので、兵士たちに抵抗する者はいなかった。そしてこの件で特別な任務を帯びた者が、兵士とともに内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手拭いで身体をふいている信長を見つけたので、直ちにその背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である長刀という武器を手にして出てきた。そしてしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り、戸を閉じ、そこで切腹したと言われ、また他の者は、彼はただちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。だが火事が大きかったので、どのように彼が死んだのかは判っていない。我らが知っていることは、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が、毛髪といわず骨といわず灰燼に帰さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては地上になんら残存しなかったことである。…」(同上書p148)

このように、フロイスの記録によると信長がほとんど警戒しておらず、無防備に近い状態であったことは間違いがなさそうだが、信長の死の場面についてはこんなに現場に近い場所でも諸説があったことがわかる。
しかしなぜ信長の遺体が見つからなかったのだろうか。木造建築物が火事になった場合の温度は1000度程度だ。「生きながら焼死」したのがわかっているのであれば、この温度で骨が残らないのは不自然だ。

Wikipediaによると、
「光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまったためと考えられる。しかしながら、密かに脱出し別の場所で自害したという別説がある。また信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に黒人の家来・弥助がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明となっている。」と書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
遺体については火薬で爆散したという説を支持しておられるようだが、それならばフロイスの記述の中に、爆発があったことが書かれていないのが不自然だ。
よしんば火薬の爆発があったとしても、信長の遺体や遺品がいくら探してもみつからなければ、信長が逃亡して生き延びている可能性を考えない方がおかしいような気がする。なぜこのことを議論しないのだろうと思っていると、ネットでこんな記事が見つかった。

次のURLに、いずれも江戸時代の初期に書かれた小瀬甫庵の『甫庵信長記』、松平忠明『当代期』で光秀が行った信長の遺体の捜索状況について書かれている部分が引用されている。
http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide081.htm

小瀬甫庵の『甫庵信長記』では
「御首を求めけれどもさらに見えざりければ、光秀深く怪しみ、最も恐れはなはだしく士卒に命じて事のほかたずねさせけれども何とかならせ給ひけん、骸骨と思しきさえ見えざりつるなり。」と記している。
『当代記』では「焼死に給うか。終りに御死骸見え給わず。惟任も不審に存じ、色々相尋ねけれども、その甲斐なし。」とある。
「惟任(これとう)」というのは明智光秀のことだが、もし信長の遺体が見つからないのであれば、光秀は信長の生存を怖れないはずがないと思うのだ。

『甫庵信長記』は文学作品としては読まれても、記述の3割以上がフィクションで史料としては評価されていないのだが、では史料価値が高いとされている『信長公記』ではどう記述されているのか。つぎのURLでその原文を読むことができる。
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/sintyokouki_16.pdf

織田信長

そこには、
「信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし侯へば、何れも時刻到来侯て、御弓の絃切れ、其の後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、是れまで御そばに女どもつきそひて居り申し侯を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来なり侯。御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ侯か、殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めされ、…」(巻十五、「信長公本能寺にて御腹めされ侯事」)
と、ここには信長が自刃したことは書かれていても、遺体のことについては何も書かれていない。

織田信忠

ところが、同じ日に信長の嫡男である信忠が二条新御所に篭城して明智軍と戦い、最後に自害する場面では『信長公記』にはこう書かれている。
「…三位中将信忠卿の御諚には、御腹めされ候て後、縁の板を引き放し給ひて、後には、此の中へ入れ、骸骨を隠すべきの旨、仰せられ、御介錯の事、鎌田新介に仰せつけられ、御一門、歴貼、宗従の家子郎等、甍を並べて討死。算を乱したる有様を御覧じ、不便におぼしめさる。御殿も間近く焼け来たる。此の時、御腹めされ、鎌田新介、冥加なく御頸を打ち申す。御諚の如くに、御死骸を隠しおき、無常の煙となし申し、哀れなる風情、目も当てられず。」(巻十五、「中将信忠卿、二条にて歴々御生害の事」)
と、信忠については遺体を隠す命令を出したことが明記されている。

『信長公記』には信長の遺体については書かれていなくとも、信長が信忠と同様の措置を部下に指示した可能性は高いと思われる。

しかし信長の遺体は、後日秀吉が探しても見つからなかったという。
ということは、信長の遺体を余程わかりにくいところに隠したか、遺体を外部に持ち去った人物がいるのか、明智軍が遺体を確保したがその事実を秘匿したか、あるいは隙を見て信長が逃亡するのに成功したかのいずれかだろう。
次のURLでは本能寺の変の黒幕がいて、明智軍が遺体を確保したが秘匿したという推理をしているが、この説も面白い。確かに、もし信長が生きていたら、明智光秀は信長からいつ報復を受けてもおかしくないのだが、なぜ悠長に京都にとどまっていたのは不自然だ。
http://www.uiui.net/~9musai/pc/odanobunaga/NobunagaChapter-020102.htm
私も黒幕がいた可能性を考えているのだが、それを書くのは別の機会にしておこう。

話を元に戻そう。信長や信忠はなぜ部下に自分の遺体を隠せと言ったのだろうか。
一言でいうと、当時は首級を晒すことによってはじめて、その人物を討ち取ったことを世間に認識させることができた時代なのだ。もし明智光秀が信長の首を討ち取っていれば、その後の歴史の展開は大きく異なっていた可能性が高いと言われるほど、相手の首級を取ることが重大事であったのだ。

摂津の梅林寺所蔵(天正十年)六月五日附中川瀬兵衛尉宛羽柴筑前守秀吉書状にこんなものがある。
「上様(信長)并(ならびに)殿様(信忠)、何も無御別儀御きりぬけなされ候。ぜゝか崎へ御のきなされ候内に、福平左三度つきあい、無比類動候て、無何事之由、先以目出度存候云々。」
要するに秀吉は、信長も信忠も巧みに明智の難をまぬがれて無事であったという具合に茨木城主の中川清秀に宣伝しているのだ。
http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20100131/1264953705
豊臣秀吉

秀吉は、こういうニセ情報の手紙を各地に送り、他の武将が明智光秀に味方するのを妨害したということだ。
信長の家臣の大半が日和見を決め込んだのは、信長の首が見つからなかったことがかなり響いているのではないか。明智光秀は秀吉の情報戦に敗れたとはいえないか。
当たり前のことなのだが、テレビもラジオも写真もなく、手書きの文書と口頭報告で情報を伝えていた時代のことだ。ニセの文書もいくつも作られていたことだろう。有名武将の死を広めるには、人通りの多いところで晒首にすることが明治維新の頃まで続いたことを忘れてはならない。要するに敵方の武将の首を取ることができなければ、情報戦に勝つことは難しい時代だったのだ。

ところで、遺体がなかったはずの織田信長の墓が全国に何か所もあるのは面白い。
一つは京都市上京区にある阿弥陀寺の石碑。当時の住職が本能寺の変直後に家臣が信長の遺体を火葬した場に遭遇し、その遺骨と後日入手した信忠遺骨を寺に葬ったと伝えられている。
一つは京都市北区にある大徳寺総見院の五輪塔。この寺は秀吉が建立し、木造を2体作って1体は火葬し、1体を寺に安置したという。
一つは静岡県富士宮市の西山本門寺。ここには原宗安が本能寺の変で戦死した父と兄の首とともに、信長の首を持ち帰り首塚に葬ったという話が残されている。
他にも、高野山奥の院、安土城二の丸跡、岐阜市崇福寺、名古屋市総見寺などがWikipediaで紹介されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7

阿弥陀寺

以上の中で、私が最も注目したいのは京都市上京区の阿弥陀寺
当時の住職であった清玉(せいぎょく)上人は、元亀元年の東大寺大仏再建の勧進職を務め天皇家や織田家とも親交があった人物だそうだが、この寺に残されている『信長公阿弥陀寺由緒之記録』は非常に興味深い。
本能寺の変を聞いて清玉上人は僧20人以上を連れて現場に駆け付けた。
「…表門は厳重に軍兵四方を囲み寺内に入る事出来ず、裏道より辛うじて入るが堂宇に火が放たれ、すでに信長公が割腹せられしと聞き、そばの竹林に十人余の武士集まりて火を焚く者あり、上人がこれをみるに信長の家臣なり、之に顛末を聞くに信長公割腹の時必ず死骸を敵に渡すことなかれと遺言あり、しかし四方敵兵にて死骸を抱きて遁れ去る道なし、やむなく火葬して隠しおいて各々自殺せんと一同答えたり、上人信長公とは格別の由縁あるを以て火葬は勿論将来の御追悼をもなさんとて武士に乞い、各々自殺するよりむしろ信長公の為に敵にあたりて死せんことを望むと語りければ、武士ら大いに喜び門前の敵を向うすきに上人火葬し白骨を法衣につつみ本能寺の僧徒らが逃げるのにまぎれこんで苦もなく帰寺し白骨を深く土中に隠しおきたる。…」とリアリティを感じるのだ。

また、秀吉が清玉上人に信長の1周忌を喪主して執り行うことを申し出たということも興味深い。その際清玉上人は、信長の継承者争いを勝ち抜くために信長の一周忌を利用しようとする秀吉に対し「人の道にあらず」と断ったという。秀吉が他の寺ではなく最初に阿弥陀寺に申し出ているところに信憑性がありそうだ。
清玉上人に断られた秀吉は、大徳寺総見院を創建して信長を弔い、その後天下人となってから、この阿弥陀寺を上立売大宮東から今の寺町今出川に移転させ、所領を大幅に削っている点も面白い。
http://www.nobunaga-lab.com/labo/07_ibutu/07-03_iseki/byousyo/amidaji.html

私には『信長公阿弥陀寺由緒之記録』が作り話のようには思えないのだが、もし伝えられている内容が真実であれば、秀吉は阿弥陀寺の信長の遺骨は本物だということを確信していたということになる。しかし、自らが喪主になることが許されなかったので、今度は阿弥陀寺にある遺骨が本物である事が流布しないように、信長の遺体が見つからなかったということを広めて光秀の戦略の拙さに焦点を当てた物語を書かせて、阿弥陀寺のことを人々の記憶から消し去ろうとしたという見方はできないだろうか。
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本能寺で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変2

前回の記事で、イエズス会のフロイスが書いた本能寺の変に関する記述の一部を紹介した。 その引用した部分の少し前に、驚くべきことをフロイスが書いている。

「…そして都に入る前に兵士たちに対し、彼(光秀)はいかに立派な軍勢を率いて毛利との戦争に出陣するかを信長に一目見せたいからとて、全軍に火縄銃に銃弾を装填し火縄をセルベに置いたまま待機しているように命じた。
 …兵士たちはかような動きがいったい何のためであるか訝り始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(家康)を殺すつもりであろうと考えた。このようにして、信長が都に来るといつも宿舎としており、すでに同所から仏僧を放逐して相当な邸宅となっていた本能寺と称する法華宗の一大寺院に到達すると、明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。…」(中公文庫「完訳フロイス日本史3」p.147)

明智軍は毛利攻めへの出動を信長から命じられていたはずなのだが、兵士たちは家康を討ちにいくのではないかと考えていたというのだ。

このような記録は、この戦に参加した武士の記録にも残されている。
Wikipediaには本能寺の変明智光秀に従軍していた光秀配下の武士本城惣右衛門が、江戸時代に入って晩年、親族と思われる三人の人物に宛てた記録(『本城惣右衛門覚書』)の原文と翻訳文が掲載されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E6%83%A3%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80%E8%A6%9A%E6%9B%B8

「…あけち(明智)むほんいたし、のぶなが(信長)さまニはら(腹)めされ申候時、ほんのふ寺(本能寺)へ我等よりさきへはい入申候などという人候ハバ、それハミな(皆)うそにて候ハん、と存候。其ゆへ(故)ハ、のぶながさまニはら(腹)させ申事ハ、ゆめともしり不申候。其折ふし、たいこ(太閤)さまびつちう(備中)ニ、てるもと(毛利輝元)殿御とり相ニて御入候。それへ、すけ(助)ニ、あけちこ(越)し申候由申候。山さき(山崎)のかたへとこころざし候へバ、おもい(思い)のほか、京へと申候。我等ハ、其折ふし、いへやす(家康)さま御じやうらく(上洛)にて候まま、いえやすさまとばかり存候。人じゅの中より、馬のり二人いで申候。 たれぞと存候へバ、さいたうくら介(斉藤利三)殿しそく、 こしやう共ニ二人、ほんのぢのかたへのり被申候あいだ、 我等其あとニつき、かたはらまち(片原町)へ入申候。… 」

と、一般の兵士は、毛利攻めに行くつもりが、急に京都に向かうこととなり、てっきり家康を討ちに行くのだと考えたが、信長を討つことは夢にも思わなかったと書いてある。 基本的に書いてあることはフロイスの記述とほぼ同じだが、斉藤利三が本能寺へ向かう明智軍を先導したということは注目してよい。

いずれの記録にも、信長から「家康を討て」という命令があったとは書いていないが、多くの兵士たちが「家康を討つことになるのだろう」と考えたのは何故なのだろうか。本能寺の変に至るまでの経緯をまず振り返ってみることにしよう。

安土城絵

天正10年(1582)までに、織田信長は京を中心とした畿内とその周辺を手中に収め、天正10年3月には武田氏を滅ぼしている。
明智光秀は、武田征伐から帰還したのち、5月15日より安土城において武田氏との戦いで長年労のあった徳川家康の接待役を務めた。しかしながら、15日に秀吉から応援の要請が届いたため信長はその日に光秀・高山右近・中川清秀らに羽柴秀吉援護の出陣を命じ、17日に光秀は接待役を途中解任されて居城・坂本城に戻り、26日には別の居城丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めたとある。
「丹波亀山城」は今の京都府亀岡市にあり「亀岡城」とも呼ばれた城だが、一旦京都から遠ざかる位置にある城に向かったのは、毛利攻めに行くと見せかける必要があったのだろうか。

一方徳川家康は、重臣たちを引き連れて5月14日に安土に到着し、安土城での饗応の後、信長の命により5月21日に安土を出て、京都や堺などを見学することとなる。

また、信長は29日に秀吉の援軍に自ら出陣するため小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土城を発つ。同日、京・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った。同時に、信長の嫡男・織田信忠は妙覚寺に入った。翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いている。

そして本能寺の変のあった6月2日には家康とその重臣一行の三十名ほどが早朝に堺を出てこの本能寺に向かっていたことが、家康に同行していた茶屋四郎次郎の『茶屋由緒記』に記載されているそうだ。

武田が滅亡して日も浅い時期である。徳川家康が少数の家臣を引き連れて安土に行くだけでもリスクがあることなのに、信長に命令されて京都や堺を見学させられることになった。家康ほどの人物ならば、重臣たちとともにどこかで命が狙われる危険を察知していて当然だろう。

427年目の真実

またこのとき筒井順慶も軍を引き連れて大和郡山城から京都に向かっていたというのだが、信長が光秀にも順啓にも本能寺に集結することを指示していたのなら、この日に信長が本能寺で家康の暗殺を仕掛けていたという明智憲三郎氏の説(プレジデント社『本能寺の変四二七年目の真実』)は、的を得たものであると思う。

老人雑話

この時代を生きた江村専斎という医者が書き残した『老人雑話』という本が京都大学のデータベースで公開されている。テキストデータがみつらなかったが画像の文字で大体の意味は分かる。上の画像は、本能寺の変について書かれた部分だ。
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/t176/image/1/t176s0034.html
画像の左のほうに「明智の乱(本能寺の変)のとき、東照宮(家康)は堺にいた。信長は羽柴藤吉郎に、家康に堺を見せよと命じたのだが、実のところは隙をみて家康を害する謀であったという。」と書かれている。

信長は家康を警戒させないために、信長は関西の諸大名に毛利攻めへの加勢を命じて手薄にさせ、信長自らも本能寺にわずかの人数で宿泊している。信長は6月4日に毛利攻めに出陣することを決定しており、織田軍の主力は出陣に備えて上洛途中か、安土城に集結していたと考えられる。
手勢が少なかったのは家康も同じであったのだが、明智憲三郎氏の考えでは、家康はまんまと信長の術中にはまったふりをしながら、この危機から逃れる手をすでに打っていたということになる。明智光秀徳川家康と繋がっていたというのだ。

本能寺の変の謎はいくつもあるのだが、なぜ信長は本能寺にあれほどに無警戒であったのか。この点は重要なポイントであるはずだ。

徳川家康

その理由を明智憲三郎氏は
「…信長が謀反に全く無警戒であったのは、自分自身が家康を討つ罠を仕掛けていたからです。自分の仕掛けた罠の実行に気を取られ、それを逆手に取られることなど思いも及ばなかったからです。」(同上書p133)
光秀は信長による家康の暗殺計画の全貌を知っていたからこそ、それを「逆手に取る」ことで簡単に謀反を起こすことができた、と分かりやすい。

『信長公記』の本能寺の朝の場面を読むと、確かに信長の発した言葉は、光秀に自分の考えた策の「逆手を取られた」という気持ちが出ているように思える。

本能寺の変錦絵

原文ではこう書かれている。
「…(光秀は)桂川打ち越え、漸く夜も明け方に罷りなり侯。既に、信長公御座所、本能寺取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり、…。是れは謀叛か、如何たる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し侯と、言上侯へば、是非に及ばずと、上意候。…」
信長が何故「是非に及ばず」(確認する必要なし)と言ったのか。
謀反を起こしたのが明智勢と聞いて、信長に思い当たるところがあったということではないのか。

本能寺の変錦絵2

では、明智光秀織田信長から家康暗殺を指示されたのはいつなのか。
この記事の最初に本能寺の変までの流れをまとめたのだが、光秀は安土城で家康の接待役を務めている。その接待の打ち合わせを不思議なことに信長と光秀は密室で行っているのだ。
ルイス・フロイスの「日本史」にはこう書かれている。
「これらの催し物の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが…、人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長が立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。だが、これは密かになされたことであり、二人だけの間での出来事だったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが…」(中公文庫p.144-145)
と書かれているが、そもそも饗応の打ち合わせについてなぜ密室でなされる必要があるのか、この時に家康の暗殺の手筈が光秀に指示されたのではないかということを明智憲三郎氏をはじめ多くの人が指摘している。光秀が信長に足蹴にされたのは、一旦は光秀は家康暗殺に反対したのではないのか。

安土城

次に、光秀はいつ家康と本能寺の変の打ち合わせをすることができたのか。 先ほど本能寺の変が起こるまでの経緯を記述したが、5月15日に安土城で光秀が家康の接待役を命じられている。その時に信長の計画を逆手に取る密談ができる時間はたっぷりあったのである。

信長の謀略を裏付ける資料はほかにもある。 奈良の興福寺多聞院で140年間書き継がれた『多聞院日記』に、この日の筒井順慶軍のことが記述されている。
「一順慶今朝京へ上処、上様急度西國へ御出馬トテ既ニ安土へ被帰由■、依之被帰了」
(筒井順慶は今朝上洛の途中、信長は急に中国へ出陣するために安土へ帰ったとのことなので引き返した)
この記述には2つのポイントがある。1つはなぜ信長が出陣したので順啓が京都に行く必要がなくなったと納得したのか。もう一つは誰が、信長が安土に向かったというデマを流したのか。
前者については、順啓は毛利攻めに加担するのではなく、京都にしか用事がない仕事であった。これは向かう先は本能寺しかありえないということになる。
2つ目は光秀以外の何者かが、この日の朝に本能寺に何が起こるかがわかっている人物いて、ニセ情報を使って筒井順慶が京都(本能寺)に近づくことを阻んだという事実である。もしこのデマが流されなかったら、明智光秀と縁戚関係にある筒井順慶は、明智方についた可能性が高かったと考えられるのだ。
ではそのニセ情報の出し手は誰なのか。家康なのか、秀吉なのか。秀吉も安土城での家康の接待の日にあわせて毛利攻めの加勢を申し入れている。これは恐らく信長か仕掛けたのではないか。とすれば、秀吉は本能寺で6月2日に何があるかは判っていたはずだ。

このように本能寺の変を当時の史料で見ていくと、通説とは全く異なる有力武将同士の権謀術数の世界が見えてくる。明智光秀が単独で謀反に及んだというのが通説だが、これらの史料を読めば、明智光秀の単独の犯行というような単純な話ではなさそうだと誰でも思うだろう。戦国時代の真実は、我々が学んできた歴史よりもはるかにドロドロとしたものなのだ。

しかし、明智光秀はなぜ謀反を起こしたのか。その動機はどこにあったのだろうか。そのテーマを書きだすとまた長くなるで、次回に書くことにしたい。
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明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変3

本能寺の変について当時の記録を紹介しながら今まで2回に分けて書いてきたが、ここまで読んでいただいた方には、この事件については真実が相当歪められて後世に伝えられていることに気付かれたのではないだろうか。

本能寺の変については、市販されている「もう一度読む山川日本史」では
「信長は1582(天正10)年に武田氏をほろぼしたあと、さらに中国地方の毛利氏を攻撃するために安土を出発したが、京都の本能寺に宿泊中、家臣の明智光秀に攻められて敗死した(本能寺の変)」(p.142)
と、きわめて簡単に書かれているだけだ。
他の教科書も大同小異だが、共通しているのは光秀の単独犯行らしき書き方をしている点と、光秀が謀反を起こした動機については何も書かれていないという点である。

前回記事で信長暗殺が光秀の単独犯行説とは考えにくいような当時の文書がいくつも残されていることを紹介したが、そもそも光秀はなぜ信長を討つことを決意したのだろうか。
この点について教科書が書けないのは、あまりにも多くの説が存在し、定説がないからである。

Wikipediaには、明智光秀の単独説が5件、黒幕説が19件もの説が紹介されているのだが、他にもここに記載されていない説があるはずだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89#.E5.A4.89.E3.81.AE.E8.A6.81.E5.9B.A0

詳しくは上記サイトを読んでいただきたいが、そこでは次のように総括されている。
「江戸時代を通じて、信長からの度重なる理不尽な行為が原因とする『怨恨説』が創作を通じて流布しており、明治以降の歴史学界でも俗書や講談など根拠のない史料に基づいた学術研究が行われ、『怨恨説』の域を出ることはなかった。
こうした理解は、映画やドラマなどでも多く採り入れられてきたため、「怨恨説」に基づいた理解が一般化していた。」
また、
「これまで「怨恨説」の原因とされてきた俗書を否定し、良質な一次史料の考証に基づき議論」がなされるようになったのは戦後の研究からで、「…現在ではさまざまな学説が唱えられており、…意見の一致をみていない。」と書かれている。

この記述の裏を返すと、戦前の研究は「怨恨説」が主流で、それらの説は俗書や講談など根拠のない史料に基づいたものであったということだ。
「怨恨説」はつまるところ明智光秀の単独犯行説であり、死んだ光秀に原因のすべてを擦り付ける意図がある可能性が濃厚だ。

Wikipediaの記事には何が「俗書」なのかは明確には書かれていないが、「俗書や講談など根拠のない史料」とは具体的にどの書物を指し、どういう経緯でそのような書物が世に出たのだろうか。

信長公記

本能寺の変」に関して最も史料的価値が高いと歴史家から評価されているのは『信長公記』で、これは織田信長の家臣である丹羽長秀の祐筆であり後に秀吉に仕えた太田牛一が記録した文書で、信長の幼少期から本能寺の変までの記録が全16巻にまとめられている。
同時代に刊行されたものではなく、写本だけが残っており、池田家文庫本には慶長15年(1610)の太田牛一の自署があり、完成されたのは江戸時代の初期と考えられている。
原文を紹介すると、巻十五に
「六月朔日、夜に入り、丹波国亀山にて、惟任日向守光秀、逆心を企て、明智左馬助、明智左馬助、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵佐、是れ等として、談合を相究め、信長を討ち果たし、天下の主となるべき調儀を究め、亀山より中国へは三草越えを仕り侯ところを、引き返し、東向きに馬の首を並べ、老の山へ上り、山崎より摂津の国の地を出勢すべきの旨、諸卒に申し触れ、談合の者どもに先手を申しつく。」
と書いてあるだけで、明智光秀が謀反に及んだ動機らしきものにはあまり踏み込んだ記載がない。強いて分類すれば天下取りの野望説ということになるのだろうか。
しかし、『信長公記』は当時において一般刊行されたものではなく、人々に広く読まれたものではなかった。

刊行されたものでは天正10年(1582)の本能寺の変のわずか4か月後に『惟任退治記』(これとうたいじき: 惟任は光秀のこと)という書物が世に出ている。著者の大村由己は豊臣秀吉の家臣である。
このなかで大村由己は、「惟任公儀を奉じて、二万余騎の人数を揃へ、備中に下らずして、密に謀反をたく企む。併しながら、当座の存念に非ず。年来の逆意、識察する所なり。」と書き、織田信長の最期の言葉として「怨みを以って恩に報ずるのいわれ、ためし(前例)なきに非ず」と語らせるなど、明智光秀の信長に対する長年の怨恨が謀反の原因であることを印象付けようとしていることが明らかだ。

大村由己は豊臣秀吉の偉業をたたえるスポークスマンのような存在で、「天正記」と呼ばれる軍記物のほか、秀吉を主役とする新作能もいくつか書いている。本能寺の変をテーマにした『明智討』は、文禄3年(1594)に大阪城および宮中で秀吉本人の手によって披露されたのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%94%B1%E5%B7%B1

川角太閤記

そして江戸時代に入って『太閤記』がいくつも刊行されている。
江戸時代初期に書かれた『川角太閤記』(かわすみたいこうき)は、秀吉の死後家康に仕え柳川城主となった田中吉政の家臣であった川角三郎右衛門という人物が、当時の武士の証言をもとに書き記した全五巻の書籍だが、事件後40年以上も経ってから書かれた物語でありかなり事実と異なる部分があるようだ。
この本では先ほどの『惟任退治記』が公式化した光秀の信長に対する怨みを裏付けようと、その怨みのもととなる話をいくつか創作し、「怨恨説」をさらに強化したと言われている。

甫庵太閤記

また『甫庵太閤記』(ほあんたいこうき)という全20巻の書物が、寛永3年(1626)から版を重ねている。
著者の小瀬甫庵(おぜほあん)は、豊臣秀次に仕えたのち、秀吉家臣の堀尾吉晴に仕えた人物で、『信長公記』や『惟任退治記』を参考にして著述したといわれ、この本もかなり創作がなされている。光秀が小栗栖の竹藪で土民に刺されて殺された話はこの書物ではじめて書かれたものだそうだ。この本では、光秀の謀反の理由を、安土での家康饗応役を取り上げられて、毛利攻めを命令されたことを恨んだためと書かれているそうだ。

絵本太閤記

また『絵本太閤記』という書物が、寛政9年(1797)~享和2年(1802)まで7編84冊が刊行され、人形浄瑠璃にもなって評判を博したと言われている。
本書は大阪の戯作者・武内確斎(たけうち かくさい)が大阪の挿絵師・岡田玉山と組んで出版した読本で、『川角太閤記』をもとに記述したものである。この本も光秀の謀反の理由は怨恨によるものというストーリーである。

浄瑠璃舞台

これらの『太閤記』などによって秀吉伝説が作られ、光秀の怨恨による謀反であるとの本能寺の変の常識が一派民衆に定着していくことになった。明治以降に書かれた小説の多くが同様に怨恨説を採用しているのは、これらの『太閤記』などを参考にして書かれたという事なのだろう。

よくよく考えればわかることなのだが、秀吉の家臣である大村由己が秀吉の不利になることを封印して秀吉を礼賛することは当たり前のことなのだ。
また秀吉の時代はもちろんのこと、江戸時代についても今よりもはるかに言論統制が厳しかった時代だから、そもそも徳川家康の悪口が書けるはずがなかったのだ。
したがって、そのような書物を参考にして歴史小説を書けばどんな作家でも、光秀の謀反は単独実行で謀反を起こした理由は信長に対する怨恨にある、とならざるを得ないのだと思う。

しかし前回の記事に書いた通り、当時の記録からすれば信長自身が本能寺で家康を討つことを画策していた可能性がかなり高い。そのことを家康も秀吉も事前に知っていたから、二人は勝ち残ることができた。そして、少なくとも家康は、光秀と繋がっていた可能性が高いと前回書いたのだが、そもそも光秀はなぜ信長を討とうと考えたのか。

『信長公記』には信長が光秀を苛めたようなことは一切書かれておらず、むしろ信長は光秀を高く評価し信頼を置いていたのであり、二人の間に相克があったとい話は、怨恨説を書くために後になって創作されたものらしいのだ。

しかし、前回の記事で紹介したルイスフロイスの記録で、安土城で家康を接待する前の打ち合わせで、信長と光秀が「密室」で何かを話し合い、光秀が言葉を返すと信長が怒りを込めて光秀を足蹴にしたという話がどうも引っかかるのである。

                              
明智憲三郎氏はここで、家康を畿内におびき寄せて暗殺する策を光秀に伝えたのち、光秀が信長に対して長宗我部征伐を思いとどまるように直訴したが、信長から拒絶されたと推理しておられるのだが、なぜ光秀は信長の長宗我部征伐に反対したのだろうか。

信長はそれまで光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていた。
光秀は重臣である斎藤利三(さいとうとしみつ)の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結び、光秀と長宗我部との関係もきわめて親密な関係になっていたのだが、天正8年(1580)に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれとなり、実現に向かっていた光秀と長宗我部との畿内・四国同盟崩壊という死活問題でもあった。

前回の記事で『本城惣右衛門覚書』を引用して、明智軍を本能寺まで先導したのは斉藤利三であったと書かれていることを紹介したが、利三にとっては姻戚関係にある長宗我部氏を征伐することを阻止したかったことは当然である。

私も詳しく知らなかったのだが、信長は毛利攻めだけでなく、四国攻めの朱印状をも同時に出していた。織田信長が三男の信孝に与えた天正10年(1582)5月7日の朱印状は、信孝に讃岐(現在の香川県)を、三好康長に阿波(徳島県)を与えるとともに、残りの土佐(高知県)・伊予(愛媛県)は信長が淡路島に到着したときに沙汰すると書かれているそうだ。
そして、大阪に集結した長宗我部征伐軍の四国渡海は天正10年6月3日、つまり本能寺の変の翌日に予定されていたというのだ。
そしてこの計画は本能寺の変により吹き飛んで、長宗我部征討軍は崩壊してしまった。

長宗我部元親

危機一髪、長宗我部氏は滅亡を免れ、そしてその3年後の天正13年(1585)に長宗我部元親は四国全土の統一に成功するのである。

長宗我部元親の側近である高島孫右衛門という人物が記した『元親記』には「斉藤内蔵介(斉藤利三)は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いを差し急いだ」と書かれているそうだ。光秀の信長に対する謀反の早期実行を迫った人物は斉藤利三だというのだ。

明智憲三郎氏によると、
「光秀の家臣団は、明智秀満などの一族衆と斉藤利三等の美濃出身の譜代衆が中核となり、光秀が坂本城主となって以降抱えた西近江衆、山城衆、さらに義明追放に伴って組み込まれた旧幕臣衆、丹波領有により配下となった丹波衆などから構成されていました。その求心力となっていたのは、一族衆をはじめとする土岐一族でした。」(「本能寺の変四二七年目の真実」p.76)と書いてある。

桔梗紋

土岐氏は室町時代には美濃・尾張・伊勢を治めた名門だが、天文21年(1552)に土岐頼芸が斉藤道三により美濃を追われて没落したため、明智光秀によって土岐氏再興をはかることが一族の悲願であったというのだ。また鎌倉時代には土岐三定(ときみつさだ)が伊予守となって以来土岐氏が伊予守を継承しており、四国は土岐氏にとって特別な場所だった。だから、土岐一族は信長の長宗我部征討の命令には従えなかったという事になる。

決定的な裏付け資料があるわけではないのだが、証拠が乏しいのはどの説を取っても同じことだ。限られた史料の中で、もっともこの説が他の史料との矛盾が少なく、真実に近いものではないかと私は思う。家康と光秀は繋がっていて、秀吉は光秀が本能寺で何をするかがわかっていなければ、他の史料と矛盾してこの事件は説明ができないのだ。

しかし、秀吉の情報工作にはほとほと感心してしまう。彼が最初に書かせた『惟任退治記』や『太閤記』などがベースになって物語や戯曲化され、各時代の人々に広まって、嘘話があたかも史実のように広まってしまっている。

尖閣


「嘘も百回言えばそれが史実になっていく」という方法での情報操作はかなり古くからあったし、どこかの国ばかりではなく日本でも、マスコミを使って露骨な情報操作がなされることが少なくないようだ。
しかし、今はネットで正しい情報を拡散させることが誰でもできる。せめて、我々が生きている時代については、おかしな情報工作を排除させて、真実の歴史を後の世に伝えていきたいものである。
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家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変4

歴史の定説では、「本能寺の変」を知った徳川家康は、明智光秀軍や混乱に乗じた落武者狩りなどの遭遇を回避するために、わずか34名の供回りで堺から脱出したのち伊賀の山を越え、大変な苦労をして命からがら三河に帰ったことになっている。(「神君伊賀越え」)
また途中で家康と別行動をとった穴山梅雪(あなやまばいせつ)は、落武者狩りの土民に襲撃されて殺害されたことになっている。穴山梅雪とは武田勝頼滅亡後に甲斐武田家の名跡を継いだ人物である。
家康に関する小説やドラマを見ても、またブログの記事を見ても大半が同様な内容になっている。

前回記事で、当時の史料を読むと家康と光秀はつながっていた可能性が高いことを書いた。
ある読者から質問が来て、もし家康と光秀とがつながっていたとしたら光秀軍が襲ってくることはありえないのだから、家康生涯の最大の危機と言われている「神君伊賀越え」というのは何だったのかという質問を受けた。
その点については前回紹介した明智憲三郎氏の著書に、家康は悠々と三河に帰っているという当時の記録が紹介されているから面白い。

伊賀越えルート

茶屋四郎次郎の『茶屋由緒記』を明智氏が要約した文章を引用する。
「茶屋四郎次郎清延は家康一行の堺遊覧が済んだ旨を信長に伝えるため六月一日に(先発して)京都に向かった。
 本能寺の変が勃発すると直ちに堺へ急信に走り、(途中の中間点に近い)枚方で、(その朝先行して堺を出た)家康家臣の本田平八郎と行き会った。
 (さらに少し堺へ引き返した)飯盛山で家康一行と行き会い、事後処理を相談した。帰国して弔い合戦をすることに評議が決まり、所々山賊の蜂起に遭遇したが、四郎次郎が先発して金を撒いたので所々の者が案内を申し出て、家康は御機嫌よく三河へ帰った。」(『本能寺の変四二七年目の真実』p.165)

また、『伊賀者由緒忸御陣御伴書付』には服部半蔵ら伊賀者190人が伊賀から伊賀白子まで家康のお供をしたことが書かれているそうだ。なぜ、伊賀者が家康の護衛をしたかについては、家康の家臣である大久保彦左衛門尉忠教が『三河物語』にこう書いている。

「…信長がかつて伊賀の国を攻めとられたとき、みな殺しにして、諸国へ逃げた者も、つかまえて殺したが、三河へ落ちて家康をたのんだ人びとを、家康はひとりも殺すことなく、生活の世話をなさったが、国に討ちもらされていた者が、そのときのことをありがたく思っていて『こんなときにご恩をおかえししなくては』と家康をお送りした」(同上書p.166)というのだ。

伊賀越えの道

常識的に考えて200人近い護衛を即座に集めることは難しいだろう。明智憲三郎氏は、家康はあらかじめ伊賀越えをルートに選んで、逃走のための護衛も準備したと推理されているが、私もその通りだと思う。

また、穴山梅雪が死亡したのは落武者狩りの土民に襲撃されたのではなく、切腹して死んだことが三河深渦城主の松平家忠が残した『家忠日記』に明確に記されている。

「六月四日  家康は堺にいたが岡崎へ帰ってきた。家康以下、伊勢を発って大浜に上陸した。町まで出迎えに行った。穴山は切腹した。…」(同上書p.168)

岡崎に到着したのが6月4日というのも注目だ。本能寺の変は6月2日だからわずか3日で、初めて歩く山道を進んで堺から岡崎に戻っていることになるのだが、200kmを優に超える距離を一揆と何度も戦いながら命からがら逃げて帰ったにしてはどう考えても早すぎる。早駕籠にでも乗って、ほとんど何のトラブルもなく岡崎に戻ったのでないだろうか。
ちなみに江戸幕府の公式記録である『徳川実紀』では、「七日に岡崎へかへらせ給ひ。主從はじめて安堵の思をなす。」とあり、さらに3日かけて帰ったことになっている。

家康は信長の仇討ちをするために三河に戻ったのであるから、戦闘準備を整えて西に進んで光秀を討ちに行かなければ筋が通らないのだが、家康は直ちに織田領となっていた甲斐・信濃への進攻を開始し、6月18日に甲斐を治めていた織田家重臣の河尻秀隆を討ち果たし、最終的には織田の領土である甲斐全土と信濃半国を手中に収めてしまっている。

家康には、信長の弔い合戦で光秀を討伐する意志など金輪際なかったとしか考えられない。家康が急いで三河に帰ったのは、武田を滅ぼして織田領になったばかりの甲斐・信濃を徳川の領土とすることしか眼中になかったのではないか。

徳川実紀

もしそうだとすれば、家康にとっては、甲斐を攻めるにあたり武田家を継いだ穴山梅雪の存在は邪魔なものでしかなかったはずだ。穴山梅雪は、一揆勢に殺されたのではなく家康により切腹させられたと考えるのが妥当なところではないのか。『徳川実紀』で、家康が戻った日が3日も違うのは、梅雪が殺された理由を一揆勢とした手前、家康らも何度か一揆勢に襲われる危険があったとしなければ辻褄が合わず、また光秀の討伐ではなく織田領の甲斐・信濃をあまりに早く攻めたのでは織田家に敵対する意図が露見してしまう。

そこで、家康の行動を正当化するために、徳川幕府の正式記録には家康の「神君伊賀越えは家康の生涯最大の危機だった」と書き、大変な苦労をして三河に帰ったこととした。ほとんどの小説はその立場をとり、ネットで書かれている記述の大半も通説と変わらない記述になっている。
では、通説などが「神君伊賀越え」の記述の参考とした、江戸幕府の公式記録をまとめた『徳川実紀』という書物にはどう記されているのか。
『徳川実紀』は歴代の将軍ごとに纏められていて、徳川家康に関する記録は『東照宮御実紀』と称している。次のURLで誰でも読むことができる。
http://www.j-texts.com/jikki/toshogu.html
この文の中に「これを伊賀越とて御生涯御艱難の第一とす」という記述があり、全文検索を使えば該当箇所を容易に探すことができる。
この前後を読むと「伊賀越え」に関する通説はすべてこの『徳川実紀』を参考にしていることがわかる。
一部を紹介しておこう。

「我本國に歸り軍勢を催促し。光秀を誅戮せん事はもとより望む所なり。去ながら主從共に此地に來るは始なり。しらぬ野山に さまよひ。山賊一揆のためこゝかしこにて討れん事の口おしさに。都にて腹切べしとは定たれと仰らる。」
三河に帰って軍隊を引き連れて光秀を討ちたいところだが、ここから帰ろうにも初めて歩く道で野山にさまよい、山賊一揆のために命を落とすくらいなら都で腹を斬るべしと家康が言ったというのだが、嘘くさい話だ。

「穴山梅雪もこれまで從ひ來りしかば。御かへさにも伴ひ給はんと仰ありしを。梅雪疑ひ思ふ所やありけん。しゐて辭退し引分れ。宇治田原邊にいたり一揆のために主從みな討たれぬ。(これ光秀は君を途中に於て討奉らんとの 謀にて土人に命じ置しを。土人あやまりて梅雪をうちしなり。よて後に光秀も。討ずしてかなはざる德川殿をば討もらし。捨置ても害なき梅雪をば伐とる事も。吾命の拙さよとて後悔せしといへり。)」
穴山梅雪は家康と一緒に進むことを辞退し、宇治田原あたりで一揆のために殺害された。一揆勢は光秀に命じられて家康を討うとしたのだが、梅雪を家康と間違えて殺した、などと書かれているが、別行動を取った人物のことをなぜ家康と間違えて一揆で殺されたと断定できるのだろうか。

また『徳川実紀』には19日に秀吉の使いが来て、13日の山崎合戦で光秀を討ち取ったので上洛する必要がないことがわかり、一方で織田領であった甲斐国は信長が死んで一揆が頻発していたのでそれを鎮めるために甲斐に進軍したとある。
先ほど記したように家康軍は18日に織田領の甲斐国を制圧している。それを『徳川実紀』では19日以降に甲斐に進軍したような書き方だ。そのように書くのは、家康が甲斐国をはじめから狙っていたと思われたくなかっただけのことだろう。

日光東照宮

このように家康の時代の江戸幕府の公式記録である『徳川実紀』の一部である『東照宮御実紀』には、真実であることが疑わしい話がいくらもありそうだ。
しかしながら何度も言うように、多くの歴史書や小説やドラマは、このような書物を参考にして書かれている。歴史はいつの時代もどこの国でも、権力者の都合の良いように歪められていくもので、公式記録は特にその傾向が強いと思うのだが、公式記録を参考に書かれた小説やドラマがあまりにも多いために、真実と異なる話が常識として国民に定着してしまってはいないか。

春日局

前回、本能寺の変で明智軍を本能寺まで先導した武将が斉藤利三で、その妹が長宗我部元親の妻であることを紹介したが、この斉藤利三の娘の「福」は稲葉重通(いなばしげみち)の養女となり、江戸幕府の第3代将軍徳川家光の乳母となり、後に「春日局(かすがのつぼね)」として権勢を誇り江戸城大奥の礎を築いたとされる人物である。
乳母という立場は、その気になれば嬰児の命を奪うことは容易にできる。もし徳川家康と明智光秀とが敵対関係にあったなら、敵である明智光秀の重臣の娘を引き取って、孫の家光の乳母に抜擢できるであろうか。家康と利三との間に余程の信頼関係がなければ、このようなことは絶対にあり得ない話である。

斉藤利三は本能寺の変の後、中国から引き返してきた羽柴秀吉との山崎の戦いで先鋒として活躍するのだが敗れて逃走し、その後、秀吉の執拗な捜索により近江堅田で捕縛され、六条河原で斬首となったとされている。
処刑される前に秀吉軍から、謀反に加担した者の名前を執拗に追及されていたはずだ。その時にもし利三が家康の名前を白状していたら、秀吉が直ちに徳川家征伐に動いて、徳川の時代は来なかったかもしれない。
明智憲三郎氏は、利三がこの時に口を割らなかったから家康は安堵して、利三の娘の福を孫の乳母に採用することにつながったことを示唆しておられるが、的を得た指摘であるように思う。
ところで徳川幕府の2代将軍は秀忠で3代将軍は家光だが、明智光秀の名前の字を一字ずつ入れているとも読める。もし明智光秀が敵対していたのならば、秀や光という字を将軍の名前に入れることを忌み嫌っていてもおかしくないとも思う。
家康と光秀とは繋がっていたと考えたほうが正しいのではないだろうか。

見ざる言わざる聞かざる

徳川家康を祀った日光東照宮に「見ざる言わざる聞かざる」の彫刻がある。この彫刻は何のために作られたのだろうか。
人生訓としては普通の人間には含蓄がなさすぎるのだが、謀略を繰り返してきた家康にとっては、子子孫孫の発展のために徳川家の秘密を一切外に洩らすなという強い思いが、この三匹の猿に込められているのかもしれない。
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秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5

天正10年(1582)6月、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での横死を知り、速やかに毛利氏との講和を取りまとめて、明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した軍団大移動を「中国大返し」と呼ぶのだが、備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城国山崎(京都府乙訓郡大山崎町)まで235kmもある。「日本史上屈指の大強行軍」と言われることは理解するのだが、武装した集団が武器・食糧を運びながら、なぜ、本能寺の変からわずか10日で山崎に着くことができたのだろうかと誰しも疑問に思う。

本能寺の変は6月2日の朝だが、そもそも信長が死んだという情報が届かなければ秀吉は動けない。しかし秀吉が毛利と和睦したのは2日後の6月4日である。本能寺の情報は6月3日か4日の未明時期には秀吉の手元に届いていたことになるのだが、この情報が届くのがそもそも早すぎるし、また毛利との交渉がまとまるのも早すぎるのではないかと疑う人も少なくないようだ。
このことから、秀吉が本能寺の変の黒幕であるとする説も存在するのだが、もし秀吉と光秀が共謀していたのなら、山崎の合戦で光秀はそのことを黙って討たれたことになってしまう。そこで光秀が秀吉との共謀が事実ならばそのことを公表すれば、秀吉は謀反の一味となって織田一族との連合はほぼ不可能となり、光秀方に有利な状況を作り出せると考えると不自然な印象がある。

豊臣秀吉

秀吉は謀反に加担はしていなかったが、家康が畿内にいる間に何が起こってもおかしくないことを事前に察知していて、もし何かが起これば、その情報をできるだけ早く伝える指令を出していたのではないだろうか。
明智憲三郎氏の『本能寺の変四二七年目の真実』に『宇野主水(うのもんど)日記』という書物が紹介されている。
宇野主水とは本願寺顕如の祐筆であった人物だが、この日記に、京都滞在を終えて堺に入った家康一行に、織田信長と織田信忠からそれぞれ「長谷川竹」と「杉原殿」という人物が同行していたことが書かれているそうだ。
ところが、「長谷川竹」は本能寺の変後も三河まで家康と同行していることが『信長公記』でも確認できるが、「杉原殿」は忽然と記録から消えているのだそうだ。この「杉原殿」が誰かについては諸説があるようだが、織田家の家臣でもあり秀吉の正室・寧々の叔父でもある杉原家次だと考えられている。

明智憲三郎氏は、こう推理されている。
「秀吉は家康が上洛するタイミングを掴むために、この杉原家次を家康一行に同行させていたとみられます。
 なぜ家康にわざわざ同行させていたのでしょうか。それは家康が信長に会うために上洛する日が本能寺の変の起こる日、ということを知っていたからに他なりません。
果たせるかな杉原家次は六月二日の朝、家康の上洛を確認すると、家康一行と離れ、堺を発って備中の秀吉に注進しました。『惟任退治記』には「備中表秀吉の陣には、六月三日夜半許り、密かに注進あり」と書かれています。注進した人物の名は書かれていませんが、家次が最も早く注進できた人物であることは間違いありません。」(『本能寺四二七年目の真実』p.198)

秀吉が大村由己に書かせた『惟任退治記』には、この杉原家次の名が、本能寺の変翌日の六月三日に備中高松において毛利との和議をまとめたことが書かれているという。また杉原家次は、本能寺の変・山崎の戦いの後は丹波福知山の領主となり、その後は坂本も領有し、京都所司代も兼ねるなど異例の扱いを受けているのだそうだ。
秀吉は、杉原家次が本能寺の変の情報をいち早く伝えたことを、高く評価したという事なのだろうか。

しかし、秀吉はなぜ明智光秀が信長に対して謀反を起こすという事を予見できたのだろう。杉原家次を家康に同行させる前に、その家康と信長が京都で会う日に何かが起こるという確信がなければ適格な指示は出せなかったはずだ。

明智憲三郎氏によると、そもそも秀吉は長宗我部元親と対立する三好康永に肩入れして、信長の四国政策の変更を仕組んだ。長宗我部氏と結びついた明智氏はそれにより窮地に立つことを当然理解しており、それにより光秀がどう動くかに注目していた。
そのタイミングで信長の上洛命令にも従わず、光秀の謀反にも加担せずに秀吉に情報を流した武将がいた。それが細川藤孝(幽斎)である。細川藤孝は安土城で徳川家康と明智光秀が談合した際に同席しており、信長に対する謀反の計画を知っていた可能性が高い。

秀吉が大村由己に書かせた『*惟任退治記(これとうたいじき)』にこういう記録がある。
「長岡兵部大輔藤孝は、年来将軍(信長)の御恩を蒙ること浅からず。これに依って、惟任が一味に与せず。秀吉と心を合わせ、備中表に飛脚を遣わし、爾来、江州、濃州、尾州(近江、美濃、尾張)に馳せ来たり」(同上書p.200: *惟任とは明智光秀のこと。)
日付が書かれていないが、信長の命に従わず6月2日に上洛しなかったことから、比較的早い時期でかつ秀吉が備中にいたという微妙な時に、細川藤孝が重要な情報を秀吉に流したと考えられるのだ。

かくして、秀吉は他の大名よりも格段に早く、明智光秀による信長への謀反の情報を得ることができたのである。

備中高松城水攻め

では、何故一日で毛利との和解が成立できたのか。
この点について明智憲三郎氏は、安国寺恵瓊と共謀していつでも和解できる状況にあり、膠着状態においてタイミングを計っていたと書いておられる。
これにも根拠があって、『惟任退治記』には、「既に毛利からは高松城明け渡しや五ヶ国割譲などの申し入れが再三あった」と正直に書かれており、それを裏付ける古文書が、毛利家に伝わる『毛利文書』に残っているそうだ。

秀吉大返し地図2

次に、備中高松城から山崎までの235kmをどうやって兵をすすめたのか。
秀吉が書かせた『惟任退治記』では、
「六月六日未(ひつじ)の刻、備中表(おもて)を引き、備前の国沼(ぬま)の城に至る。七日、大雨疾風。数か所大河の洪水を凌ぎ、姫路に至ること二十里ばかり、その日、着陣す。諸卒相揃わずといえども、九日、姫路を立って、昼夜の堺もなく、人馬の息をも休めず、尼崎に至る。・・・・・・」とある。

次の表は、明智憲三郎氏がご自身のブログで『惟任退治記』の通りに軍をすすめた場合に、1日何キロ進んだことになるかをまとめたものである。
http://praha.at.webry.info/200911/article_3.html

6月 6日 備中高松*~沼  35km (*午後2時出発)
6月 7日 沼~姫路    70km (大雨疾風)
6月 9日 姫路~明石   35km
6月10日 明石~兵庫   20km
6月11日 兵庫~尼崎   25km
6月12日 尼崎~京都山崎 50km

明智氏が指摘しておられるように、6月の6日と7日の距離は異常な距離だ。武具をつけ、武器を持ち、食糧を持って2万人以上の集団がこれだけの距離を進めるのかどうか。しかも6日は実質半日、7日は大雨疾風の日だ。こんな日に動いたら軍の体力を消耗するだけではないか。

お遍路さん

ちなみに四国八十八箇所巡りのお遍路さんは、40日から50日で1200km、つまり1日で24から30km歩くのだそうだ。それよりも少々長い距離を進むことは理解できるが、70kmというのはその倍以上の距離である。その速さを持続して、武装集団が食糧などを運びながら山道を含む道を進むことができるとは思えない。

ところで、進軍しながら秀吉軍がいくつか書状を書いており、それがいくつか残されている。

中川清秀宛て書状

ひとつは秀吉が摂津の中川清秀に宛てた6月5日付の書状である。これには、「我々は途中の沼(岡山)まで、既に引き返してきている」と書かれているそうだ。この日は、『惟任退治記』ではまだ出発してもいない日である。
また6月8日付の秀吉重臣の杉若無心より細川藤孝の家老松井康之に宛てた書状には「去六日に姫路に入城した、明日ことごとく出陣する」と書かれているという。
秀吉が情報工作のために嘘を書いたという解釈もあり得るが、秀吉軍の行程を見る限りにおいてはどちらの書状正しい可能性のほうが高いのではないだろうか。もしそうだとすると、実際は『惟任退治記』の記録よりも早く秀吉は出発していなければならないことになる。
また、6月9日以降の日程については、「萩野文書」「蓮成院記録」などで確認されているので問題がないそうだ。

明智氏は次のURLで、上記の書状から秀吉軍は4日の朝に出発していると推理しておられる。7日の台風は姫路城でやり過ごし、休息にあてたと行程からすれば無理のない距離配分になっている。
http://praha.at.webry.info/200911/article_5.html

6月4日朝~4日夜  備中高松~沼  35km
6月5日朝~6日夜  沼~姫路    70km
6月7日       姫路(大雨疾風)
6月8日朝~8日夜  姫路~明石   35km
6月9日朝~     明石~兵庫   20km
~10日夜   兵庫~尼崎   25km
6月11日~12日昼  尼崎~京都山崎 33km

ということは毛利軍との和睦が成立するかのうちに備中高松の撤収の準備を始めていなければ不可能だという事になる。明智説によると秀吉はフライングをしていたということになる。

6月4日に出発していたのならば、備中高松から235kmを進軍させたこと自体はそれほど驚くべきことではない。特に姫路からの距離は普通のスピードで進んでいる。
秀吉が山崎に戻るのが早かった最大のポイントは進軍の速さではなく、本能寺の変の情報をいち早く掴み、毛利との和睦を1日でまとめたことによるのだが、それが可能であったのは、初めから何が起こるかがわかっていて、その準備をしていたからだという事になる。

中国大返し絵

では、秀吉が『惟任退治記』で備中高松を出発した時期をなぜ2日も遅らせて書かせたのか。これは、秀吉が事前に光秀が信長に謀反を起こす情報を事前に掴んでいたことを疑われたくなかったからではないのか。
姫路からの行程は多くの人が秀吉軍が進軍するところを目撃していたので嘘を書くわけにはいかなかった。そのために目撃者の少ない備中高松から姫路までの所要日数を誤魔化すしかなかったのだろう。
そのために、毛利との和睦を一日で決着させ、備中高松から姫路までの105kmの道のりを、暴風雨の中1日半で駆け抜ける英雄の物語となってしまった。
有名な秀吉の「中国大返し」は、こういう経緯で秀吉によって作られた話だと思えば、すっきりと理解できるのだ。
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16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1

昨年にこのブログで、「400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと」というタイトルで、16世紀の後半の約50年間に大量の日本奴隷が海外に売られていったことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-116.html

続けて、日本人奴隷を買う側の事情と、売られていく事情について調べて、秀吉の出した『伴天連追放令』がこの日本人奴隷の流出を止める役割を果たしたのではないかということを当時の史料をもとに3回に分けて書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-132.html
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-133.html
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-134.html

「伴天連」とはキリスト教の宣教師の事だが、伴天連は日本人奴隷の流出を拱手傍観するどころか、初期にはポルトガル商人に代わって日本人奴隷売買契約書に署名をしていたというレポートもある。(藤田みどり『奴隷貿易が与えた極東への衝撃』、小堀桂一郎編『東西の思想闘争』所収)。
ルイス・フロイスの記録によるコエリョと秀吉との論争を読んだ印象では、キリスト教の布教と奴隷売買とは繋がっていたと私は判断しているのだが、あるSNSで私のブログの上記記事を紹介したところ、キリスト教会は奴隷貿易に積極的であったわけではないとの意見が出てかなり議論になった。

この問題について、新たに調べて勉強になったこともあるので自分の考えを整理する意味で、当時のキリスト教奴隷貿易にどう関わっていたのかについて、自分なりに纏めておくことにしたい。

有史以来、戦争の勝者が捕虜や被征服国の住民を奴隷とすることは、程度の差はあるが世界中で存在したし、わが国でもそれは例外ではなかった。

一口に「奴隷」といっても待遇は時代・地域によりさまざまで、例えばスパルタの奴隷は移動の自由こそなかったが、一定の租税さえ納めれば経済的に独立した生活を送ることができたそうだし、アテナイの奴隷は市内移動の自由が認められ、知的労働に従事することもあったというし、古代ローマではローマ市民権を得て自由人となる道も開かれていたそうだ。

奴隷貿易が質量ともに変化するのは15世紀から始まる「大航海時代」以降の話で、ヨーロッパ人がインド・アジア、アメリカ大陸、アフリカ大陸などに進出し植民地的な海外進出を始めた頃からなのだが、「奴隷狩り」で大量に集められた奴隷が商品として地球規模で売られていったのはこの時期からだと考えて良い。
この時期に日本人奴隷が大量に流出したことは、こうした世界史の流れの中で理解すべきであると思うのだ。

では、この時期のスペイン・ポルトガルの世界侵略の実態はいかなるものであったのか。その点が日本の教科書には、残念ながら綺麗ごとが書かれているだけなのだ。

教科書では『侵略』という言葉を使わず『ヨーロッパの世界進出』とか『ヨーロッパ世界の膨張』という無味乾燥な言葉を必ず使うことにいつも違和感を覚えるのだが、この時代に起こったことは、普通に考えれば『侵略』とか『大虐殺』という表現こそがずっと相応しいと思うのだ。

ヨーロッパ人がこの時期に世界中を荒らしまわった背景について、教科書によく書かれているのは、マルコ・ポーロの『東方見聞録』によって金の空想にかきたてられてアジアの関心が高まったこと、ヨーロッパ人の必需品となっていた香辛料がイスラム圏との争いで手に入りにくくなって価格が高騰したこと、羅針盤の改良などの遠洋航海術の発達や地理学の発達したこと、キリスト教の布教熱の高まりがあったことなどがあげられて、1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見したことや、1498年ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見したことなどが淡々と記載されていると思う。

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教科書だけで歴史を学べば、大半の人がコロンブスは英雄だと思ってしまうところだろうが、当時の記録などを実際に読んでみると多くの人がショック受けることだろう。

後に地球規模の奴隷貿易を出現させたと言われているコロンブスの航海を最初にふりかえってみることにしたい。

1492年8月3日にコロンブスは約90名の乗組員を乗せてサンタ・マリア号以下3隻の船でパロス港から出帆し、西回り航路でインディアスを目指した。
10月12日に今のバハマ諸島のウォトリング島に到着し、この島をインディアスの一部と考え、そこに住む人々を「インディオ」と呼び、島の名前をサンサルバドル島とした。

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コロンブス自身が、サンサルバドル島に到着した時に書き残した記録がWikipediaに邦訳されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%96%E3%82%B9

「彼らは武器を持たないばかりかそれを知らない。私が彼らに刀を見せたところ、無知な彼らは刃を触って怪我をした。 彼らは鉄を全く持っていない。彼らの槍は草の茎で作られている。彼らはいい身体つきをしており、見栄えもよく均整がとれている。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう。50人の男達と共に、私は彼らすべてを征服し、思うままに何でもさせることができた。」

「原住民たちは所有に関する概念が希薄であり、彼らの持っているものを『欲しい』といえば彼らは決して『いいえ』と言わない。逆に彼らは『みんなのものだよ』と申し出るのだ。彼らは何を聞いてもオウム返しにするだけだ。彼らには宗教というものがなく、たやすくキリスト教徒になれるだろう。…」

航海図

コロンブス一行は、サンサルバドル島だけでなく武器で原住民を脅迫して金銀宝石、真珠などを強奪し、イスパニョール島にスペイン初の入植地を作り、39名を残して、翌1493年3月にスペインに戻っている。
スペインでは大歓迎されて、この地にキリスト教徒になりうるあるいはスペインの下僕になりうるインディオが住んでおり、また黄金も発見されたことを国王や教会関係者、出資者に報告している。彼は2回目の航海の目標をこう書いているという。

「彼らが必要とするだけのありったけの黄金… 彼らが欲しがるだけのありったけの奴隷を連れてくるつもりだ。このように、永遠なる我々の神は、一見不可能なことであっても、主の仰せに従う者たちには、勝利を与えるものなのだ。」

早速2回目の航海が準備され、1493年の9月25日に出帆することになるが、今度は植民が目的のために農民や坑夫を含む17隻1500人という大船団であった。

しかしながら、11月にドミニカ島に到着し、前回作った入植地に行ってみると基地は原住民により破壊されており、現地に残したメンバー39人は全員が殺されていたという。
コロンブスはこの場所を放棄して新たなイザベル植民地を作ったが、スペイン人の行為に対して次第に原住民の怒りが高まっていく。1494年末に最初の原住民の反乱があり、それに対してスペイン人は武力報復を敢行し、多数のインディオを殺害し、また捕虜にした。この多くは現地で奴隷として使役されたが、一部は奴隷としてスペインに送られている。

布留川正博氏は『近代世界と奴隷制』という本の中で、
「1498年、第3次の航海では、コロンブスがおよそ600人ものインディオを奴隷としてスペインに連れて帰っている。こうして、強制労働→インディオ反乱→武力制圧→強制労働という「閉じた回路」がこの時点で形成される。この回路を成立させていたのは、レコンキスタ*の延長線上にある当時のスペインの好戦的姿勢とそれを物質的に保証する武力的優位、それにイスラム教徒でさえない邪教徒インディオに対する極端な侮蔑意識であった。
コロンブスによってきり拓かれたインディオに対する支配とその奴隷化への道は、ここエスパニョーラ島だけでなく、時を移さずカリブ海諸島全域に広がり、その後アステカ帝国やインカ帝国、「新世界」全域に及んだ…」(p.58)と述べている。
*レコンキスタ:718年から1492年までに行われたキリスト教国によるイベリア半島の再征服活動

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岩波文庫にラス・カサス神父が著した『インディアスの破壊についての簡潔な報告』という本がある。神父の父ペドロがコロンブスの第2回目の航海に参加し、自身は1502年以降インディオスに何度も渡り、コロンブス以降のインディオの社会崩壊を目の当たりにした。
ラス・カサス自身は何よりも平和的な方法によるインディオのキリスト教化を望んでいたのだがインディオの状況は酷くなるばかりであり、1541年に国王カルロス5世に謁見してインディオの社会崩壊はスペイン人の非道な所業によるものであるとの報告書を提出している。『インディアスの破壊についての簡潔な報告』は、その時の報告書をもとに著されたものであるが、ここにはこう書かれている。

著書

「インディアスが発見されたのは1492年のことである。その翌年スペイン人キリスト教徒たちが植民に赴いた。…彼らが植民するために最初に侵入したのはエスパニョーラ島(現在のハイチ、ドミニカ共和国のある島)で…非常に豊かな島であった。周囲には無数の大きな島が点在し、その島一帯には、我々も目撃したのであるが、世界のどこを探しても見当たらないほど大勢の土着の人びと、インディオたちがひしめきあって暮らしていた。…1541年までに発見された土地だけについてみても、人びとはまるで巣に群がる蜂のようにひしめきあい、さながら神が人類の大部分をそこに棲まわせたかのようであった。

神はその地方一帯にすむ無数の人びとをことごとく素朴で、悪意のない、また陰ひなたのない人間として創られた。彼らは土地の領主たちに対し、また、現在彼らが仕えているキリスト教徒たちに対しても実に恭順で忠実である。彼らは世界でもっとも謙虚で辛抱強く、また温厚で口数の少ない人たちで、諍いや騒動を起こすこともなく、喧嘩や争いもしない。そればかりか、彼らは怨みや憎しみや復讐心すら抱かない。…」(岩波文庫p.17-18)

「…スペイン人たちは、…これらの従順な羊の群に出会うとすぐ、まるで何日も続いた飢えのために猛り狂った獅子のようにその中に突き進んで行った。この40年間の間、また、今もなお、スペイン人たちはかって人が見たことも読んだことも聞いたこともない種々様々な新しい残虐きわまりない手口を用いて、ひたすらインディオたちを斬り刻み、殺害し、苦しめ、拷問し、破滅へと追いやっている。例えば、われわれがはじめてエスパニョール島に上陸した時、島には約300万人のインディオが暮らしていたが、今では僅か200人ぐらいしか生き残っていないのである。…」(岩波文庫p.19-20)

「インディアスへ渡ったキリスト教徒を名のる人たちがその哀れな人びとをこの世から根絶し、絶滅させるに用いた手口は主に2つあった。ひとつは不正で残酷な血なまぐさい暴虐的な戦争による方法である。いまひとつは、何とかして身の自由を取り戻そうとしたり、苦しい拷問から逃れようとしたりする領主や勇敢な男たちを全員殺害しておいて、生き残った人たちを奴隷にして、かつて人間が、また、獣ですら蒙ったことのないこのうえなく苛酷で恐ろしい耐え難い状態に陥れ、圧迫する方法である。キリスト教徒たちが無数の人びとを殺戮するのに用いたそのほかの様々な手口は、ことごとくこの2つの極悪無慙で暴虐的な方法に集約される。

キリスト教徒たちがそれほど多くの人びとをあやめ、破滅させることになったその原因はただひとつ、ひたすら彼らが黄金を手に入れることを最終目的と考え、できる限り短時日で財を築こうとし、身分不相応な高い地位に就こうとしたことにある。…」(岩波文庫p.21-22)

インディオ虐殺

具体的な暴虐の実態はラス・カサスの上記著書の各ページに書かれているが、紹介してもきりがないので、ここではラス・カサスの著書に添えられたテオドール・デブリーの版画を紹介しておく。

ラス・カサスはエスパニョール島の人口はかって300万人いたと書いているが、統計があるわけでもないので数字はあまりあてにしないほうが良いだろう。
布留川正博氏の上掲書よると、コロンブスが来る以前のエスパニョール島の人口は20万~30万人で、それが1570年には2集落を残すのみとなったとあり、キューバ島に関しては、当初6万人いたインディオが1544年にはわずか千人になったと書いてある。ラス・カサスよりもこちらの数字のほうが正しいような気もするが、この説も論拠についてはよくわからない。
いずれにせよ南海の楽園が、スペイン人によってほとんど壊滅状態になったことだけは間違いがない。ほとんど原住民がいなくなってしまったので、不足する労働力を補うために、後に白人がこの地にアフリカから大量の奴隷を輸入することになったのだ。

しかし、このようなインディオの悲劇はなぜ起こったのだろうか。
ローマ教皇はこんなに残虐な行為を止めるつもりがあったのか、なかったのか。
これはキリスト教国だから起こった出来事なのか、どの宗教の国でもありえたことなのだろうか。
その点については、次回以降のテーマとして書くことにしたい。
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日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その2

前回は15世紀末から始まるインディオの悲劇のことを主に書いたが、北アメリカにもアフリカにも同様な悲劇があったことは言うまでもない。
カリブ海地域から拡がった地球規模の奴隷貿易に対しては、宗教的あるいは人道主義の立場から批判が古くからあったようだが、ローマ教皇が奴隷制度自体を弾劾したのは、後で記すとおり、比較的最近の話なのである。

前回紹介したラス・カサス神父は、インディオの虐待を即時中止して平和的にキリスト教を布教するべきとの考えであったのだが、それがキリスト教全体の方針ではなかったことを書いておかねばならない。

15世紀中ごろから17世紀中ごろまで続いたヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出を「大航海時代」というが、この時代にローマ教皇が多くの教書を出している。
高瀬弘一郎氏によると、当時のローマ教皇は「キリスト教世界の首長として絶大な影響力を持ち、その決定はヨーロッパのキリスト教国王すべてにとって精神的拘束力となり、一種の国際法的な意味すらもつものであった…。ポルトガル国王もスペイン諸侯も、自己の海外発展の事業を正当化し、さらに鼓吹するために随時教皇に対してこの種の精神的支援を求め、一方教皇の側は、カトリック教勢の伸長を図る意味からも常にこれに応じて明確な援助を与えてきた。」(岩波書店『キリシタン時代の研究』p.7)とあり、当時においてローマ教皇の教書は影響力のきわめて大きい文書であったことは間違いがない。

ではこの時代のローマ教皇の公式文書で、奴隷制についてはどのように書かれているのだろうか。
この点については、西山俊彦氏の『近代資本主義の成立と奴隷貿易』という論文に詳述されている。西山俊彦氏はカトリックの司祭でもあり国際政治学者でもある人物だが、この論文はありがたいことに第4章までがネットで公開されており、誰でもPDFファイルを読むことができる。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/2003_doreimondai_index.htmこの論文をベースに加筆された『カトリック教会と奴隷貿易』という本も上梓しておられ、一時期は品切れとなっていたが、今はネットなどで注文できるようである。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/2005_doreiboueki.htm

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この西山氏の論文にキリスト教に敵対する者を奴隷とする権利を授与する教書が紹介されていて、次のように書かれている。

「サラセン人等、キリストに敵対する者を奴隷とする権利を授与する教書 キリスト教徒の奴隷化を禁止する教書と対をなしているのが、キリストの敵の奴隷化を許容する教書で、次のものが代表的です―
(1) 教皇ニコラス五世『ドゥム・ディベルサスDum Diversas』(1452・6・18)
(2) 同 『ディヴィーノ・アモーレ・コンムニーティDivino Amore Communiti』(1452・7・14)
(3) 同 『ロマーヌス・ポンティフェックスRomanus Pontifex』(1454・1・8)
(4) 教皇カリスト三世『インテル・チェテラ・クエInter Caetera Quae』(1456・3・15)
ここに⑶『ロマーヌス・ポンティフェックス』を例に紹介すれば、次のように記されています―

『神の僕の僕である司教ニコラスは、永久に記憶されることを期待して、以下の教書を送る。・・・・・・
以上に記した凡ゆる要件を熟慮した上で、我等は、前回の書簡によって、アルフォンソ国王に、サラセン人と異教徒、並びに、キリストに敵対するいかなる者をも、襲い、攻撃し、敗北させ、屈服させた上で、彼等の王国、公領、公国、主権、支配、動産、不動産を問わず凡ゆる所有物を奪取し、その住民を終身奴隷に貶めるための、完全かつ制約なき権利を授与した。
…ここに列挙した凡ゆる事柄、及び、大陸、港湾、海洋、は、彼等自身の権利として、アルフォンソ国王とその後継者、そしてエンリケ王子に帰属する。それは、未来永劫迄令名高き国王等が、人々の救い、信仰の弘布、仇敵の撲滅、をもって神とみ国と教会に栄光を帰する聖なる大業を一層懸命に遂行するためである。彼等自身の適切な請願に対し、我等と使徒座の一層の支援が約束され、神の恩寵と加護がそれを一層鞏固なものとするであろう。
我が主御降誕の1454年1月8日、ローマは聖ペトロ大聖堂にて、教皇登位第8年』」

下線部の「終身奴隷に…授与した」という文言は、上記(1)~(4)に共通した部分で、 (4) は(3)を再掲載したものだそうだ。

この(3)教書における異教徒は、時代背景からすると主にイスラム教徒との戦いを念頭に置いて書かれたものと思われるが、コロンブスが新大陸を発見した翌年(1493)に、教皇アレキサンデル6世がカスティリア=レオン(後のスペイン)の国王に対して「贈与大勅書Inter Caetera」を発布している。
この勅書の訳文は前掲の西山論文によると次のとおりである。

「全能なる神よりペトロに授与された権威と、地上において行使するイエス・キリストの代理人としての権威にもとづき、他のいかなるキリスト教を奉ずる国王もしくは君主によっても現実に所有されていないすべての島々と大陸、および、その一切の支配権を、汝ら、および汝らの相続人であるカスティリアならびにレオンの国王に永久に…贈与し、授与し、賦与するとともに、汝らと汝らの相続人を…完全無欠の領主に叙し、任命し、認証する。」

この勅書が、スペイン国王に絶対的支配権を与えたと解釈され、インディアスの征服が福音弘布のための「予防戦争」とみなされることになり、平和なインディオの社会が急激に崩壊していくことになるのだ。

スペイン国内においてもインディアスの扱いについて関心が高まり、ラス・カサスの地道な啓蒙活動が徐々に評価されるようになって、1537年には教皇パウルス3世がインディオを「真の人間」と認めて、たとえキリスト教徒でなくとも奴隷状態に貶めるべきでないとする勅令『スブリームス・デウス』を出している。西山氏の前掲の論文に訳文が出ている。

「インディオ、及び、キリスト教の知見に最も遅れて到達した人々も、たとえ現時点で、キリストへの信仰の外にいたとしても、自由と所有への権利を剥奪されたり、剥奪されるべき者ではない。反ってそれらは尊重されるべきであって、決して奴隷状態に貶められるべきではない。また、たとえ、そのようなことが起こったとしても、それらは無効であって、何らの効力も拘束力も有するものではない。…」

と、現代人なら誰もが納得する内容になっている。

しかし、この勅令は翌1538年に教皇パウルス3世自身が出した『 ノン・インデーチェンス・ヴィデートゥール』により撤回されている。教書の一部を紹介すると、

「…カルロ国王の尽力によって彼の地にキリストの御教えが短期間に弘布されたことに鑑み、同時に、聖なる事業の障げとなることは何物たりとも除去したいがために、使徒座の権威に基づいて、前記教書を撤回・失効・無効とし、そこに含まれるいかなる事項をも、逐語的に、撤回、失効・無効とされたと見なすよう欲する。…」

『スブリームス・デウス』が撤回された理由は、西山論文では王権からの横やりが入った旨説明されている。

それ以降も奴隷制に関わるローマ教皇の教書は何度か出ているのだが、ローマ教皇が奴隷制度自体を断罪したのは文明諸国の法律から姿を消してずっと経ってからの話だそうで、J.F.マックスウェルの著書によれば1965年の第2バチカン公会議の『現代世界憲章』だというのだ。

ここで日本の歴史を振り返ってみる。
フランシスコ・ザビエルがキリスト教布教のために日本に来たのが1549年だ。大村純忠の洗礼が1562年、大友宗麟が1578年、有馬晴信が1580年。大友・大村・有馬の三氏が7遣欧少年使節を派遣したのが1582年である。この時期にはかなりの日本人奴隷が流出していた時期であり、秀吉の伴天連追放令は1587年だ。

この時期に日本に来たポルトガル人は、ローマ教皇の教書により我が国を支配する権利を付与され、日本人を奴隷にする権利を付与されていた状態にあったということになる。
例えば高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』にイエズス会の宣教師ヴァリニャーノがマカオからフィリピンの同僚に送った書翰の一節が紹介されているが、そこには「シナ、日本、その他ポルトガル国民の征服に属する地域において…」という表現が使われており、わが国は「ポルトガル国民の征服に属する地域」になっている。同様な表現が他の文書にもあることが同書に紹介されているが、この言葉の意味を理解するには1494年に教皇アレクサンデル6世の承認によるトリデシリャス条約によって、スペインとポルトガルとがこれから侵略する領土の分割方式が取り決められ、さらに1529年のサラゴサ条約でアジアにおける権益の境界線が定められていたことを知る必要がある。下図の緑色の線がサラゴサ条約における境界線で、スペインとポルトガルの境界線はこの図の通り、日本列島を真っ二つに分断していたのだ。

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これらの条約に基づきスペインは西回りで侵略をすすめ、1521年にアステカ文明のメキシコを征服し、1533年にインカ文明のペルー、1571年にフィリピンを征服した。
一方ポルトガルは東回りで侵略を進め、1510年にインドのゴアを征服し、1511年にはマラッカ(マレーシア)、ジャワ(インドネシア)を征服した。いずれもキリスト教の神父が先兵となっているのは同じである。そして1549年に日本に上陸しキリスト教の布教が開始されたのだ。

1532年にスペインのフランシスコ・ピサロインカ帝国をいかなる方法で攻撃したかが参考になる。

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ピサロは1532年にインカ帝国皇帝アタワルパに部下と通訳と神父を送って交渉させている。神父の役割に注目である。Wikipediaの記述を引用すると、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%91

「バルベルデ神父は通訳を通し、皇帝と臣民のキリスト教改宗を要求し、拒否するならば教会とスペインの敵と考えられると伝えた。アタワルパは「誰の属国にもならない」と言うことによって、彼の領土におけるスペインの駐留を拒否した。使節はピサロの元に戻り、ピサロは後に1532年11月16日のカハマルカの戦いと呼ばれるアタワルパ軍に対する奇襲を準備した。

スペインの法に従い、ピサロたちスペイン人はアタワルパが要求を拒否したことで公式にインカの人々に宣戦布告をした。アタワルパがバルベルデ神父に対し、彼らがどんな権威でそのようなことを言うことができるかと冷たく尋ねたとき、神父は聖書を皇帝に勧め、この中の言葉に由来した権威だと答えた。皇帝は聖書を調べ、『なぜこれは喋らない』と尋ね、地面に放り投げた。この行動はインカには書き文字が無かった事によるものだが、結果的にスペイン人に対しインカと戦うための絶好の口実を与えてしまった。神父が神に対する冒涜だと叫ぶ声を合図に、射撃は開始され、2時間にわたり7,000人以上の非武装のインカ兵が鉄剣により殺された(この時使われた鉄砲はごくわずかで、スペイン人の武器の大半は剣だった)。アタワルパは輿から引き摺り下ろされ、太陽の神殿に投獄された。」

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と書かれている。アタワルパはピサロに金を大部屋1杯分、銀を2杯分提供し釈放を求めたが、幽閉されたまま絞首刑に処されたという。

この記録を読めば、バルベルデ神父が重要な役割を果たしていたことがわかる。
スペインは「贈与大勅書」により非キリスト教国を支配する権利をローマ教皇より付与されていた。従ってアタワルパがキリスト教に改宗する意思がないことを神父が見極めれば、いつでもその権利を行使してインカ帝国を堂々と侵略し、財宝をわがものにすることができるし、また住民を奴隷にすることもできるのである。現在の価値観では極めて非人道的行為ではあるが、当時に有効であった教皇の教書には全く矛盾しない行動なのだ。

日本がインカ帝国のようにならなかったのは、この当時の日本は戦国時代で日本の刀や鎧は西洋の武器よりもはるかに優秀であったことや、天文12年(1543)に鉄砲が伝来し、その翌年には鉄砲の大量生産を開始して以後急速に各地に広まったばかりではなく、世界最大の武器輸出国となっていたことなどの要因を無視できないだろう。
以前このブログで書いた通り、当時のイギリス軍全体よりも多くの鉄砲を所有する戦国大名が日本に何名もいたのである。ポルトガルは日本よりも軍事的劣勢であったがゆえに、ローマ教皇によって日本を支配する権利を授与されながらも、日本には容易に手を出せなかったのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-5.html

そこで彼らはキリシタン大名を育てて武器を融通し、彼らに日本を統一させようとするのだがそれも見破られて失敗した。
当時の日本に秀吉や家康のようなポルトガルの野望を見抜くリーダーがいたことも幸運であったが、もしキリスト教の伝来が天文18年(1549)ではなく、鉄砲伝来よりも20年以上早かったとしたら、日本も西洋の植民地になっていた可能性があるのではないか。少なくとも平安時代や南北朝時代の日本にキリスト教が伝来していたら、朝廷は祈祷をするばかりで簡単に征服されてしまい、インカ帝国と同様のことが起こっていても不思議ではないような気がするのだ。

新約聖書には「汝の隣人を愛せよと」いった言葉もあるのだが、旧約聖書には普通の日本人が読めば首をかしげるような言葉を目にすることがある。たとえば、

『あなたの神、主があなたに渡される国民を滅ぼしつくし、彼らを見てあわれんではならない。』(申命記・7章16節)
『そしてあなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時、つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない。
ただし女、子供、家畜およびすべて町のうちにあるもの、すなわちぶんどり物は皆、戦利品として取ることができる。また敵からぶんどった物はあなたの神、主エホバが賜わったものだから、あなたはそれを用いることができる。』(同・20章・13節)

この旧約聖書の言葉を文字通り読むと、この時代のスペイン人もポルトガル人もこの言葉通りのことを行っただけだという解釈も可能だ。しかしこの言葉通りにキリスト教国が動けば、世界中がキリスト教に改宗しない限り、争い事がいつまでも繰り返されることになる理屈にならないか。

奴隷の家1

アフリカ大陸西端のゴレ島に1776年に建てられた「奴隷の家」という赤褐色の二階建ての建物がある。窓のほとんどない小部屋ばかりの一階には船に積み出しされるまでの奴隷が詰め込まれ、二階は奴隷商人である主人とその手下らの住いであったという。
1992年2月22日、この「奴隷の家」に、教皇ヨハネ・パウロ二世が、「奴隷貿易に従事したキリスト教国家とキリスト教徒に神の許しを乞うために」訪問されたそうだ。この記事で紹介した西山俊彦氏の『カトリック教会と奴隷貿易』の表紙にはその時の教皇の写真が掲載されている。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/JP2006.3.pdf

ヨハネ・パウロ2世

奴隷貿易が「キリスト教国とそれに属する人々によってなされた罪過」なのか、それとも同時に、「キリストの御名を戴く教会も関与した罪過」なのかという問いが良く発せられるのだが、ローマ教皇が奴隷貿易の謝罪のためにこの場所を訪れたという事実は、大航海時代以降のキリスト教会が奴隷貿易に関与していたことの、何よりの証になるのではないだろうか。
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日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その3

前回は、大航海時代以降に西洋諸国が世界各地を侵略し地球規模で奴隷貿易を開始したのは、ローマ教皇の教書に則った活動であることを書いた。
インカ帝国が滅亡した事例で、キリスト教の神父が重要な役割を演じていることを紹介したが、わが国の場合はキリスト教の宣教師に日本を侵略する意思や、日本人を奴隷化する意思はあったのだろうか。表題のテーマからすれば、日本も例外ではなかったことを、当時の記録から論証する必要がある。

ルイスフロイス

大量に日本人奴隷が海外に輸出された事実は、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの記録を読めばわかる。以前私のブログで引用した部分だが、

「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(「完訳フロイス日本史8」中公文庫p.268)…1588年の記述

この「おびただしかった」という数字がどの程度であったかは諸説があるが、

「豊後の国の全領民は次のように三分された。その第一集団は、戦争のために死亡し、第二集団は、敵の捕虜となって薩摩や肥後に連行されたのち、羊の群れのように市場を廻り歩かされたあげく売られていった。第三の集団は、疾病や飢餓のために極度の貧困に陥って人間の容貌を備えていないほどであった。」(同書p.314)…1589年の記述

という記録もあり、数千人レベルではなさそうだ。
太閤検地の頃の豊後の人口が418千人であったことから勘案すると、鬼塚英昭氏が『天皇のロザリオ』という本で書いた50万人説は、豊後以外の人々が奴隷にされていたとしても多すぎると考える。
史料を読む人によってイメージする数字が異なるのだろうが、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の会話録の中で、彼らが世界各地で日本人奴隷を見て驚愕した記録や、インドのゴアにはポルトガル人よりも日本人奴隷のほうが多かったという記録があることなどからしても、数万人程度は海外に奴隷として送られたと考えてもおかしくはないだろう。

日本人奴隷は鎖につながれて数百人が奴隷船に積み込まれた記述がある。
秀吉の祐筆であった大村由己(おおむらゆうこ)が『九州御動座記』に、秀吉が「伴天連追放令」を出した経緯をまとめている。

「今度伴天連等能き時分と思候て、種々様々宝物を山と積、…日本人を数百男女によらず、黒船へ買取、手足に鎖を付け、船底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、…今世より畜生道の有様、目前之様に相聞候。…右之一宗御許容あらば、忽日本外道之法に成る可き事、案の中に候。然らば仏法も王法も、相捨つる可き事を歎思召され、忝も大慈、大悲の御思慮を廻らされて候て、即伴天連の坊主、本朝追払之由仰出候。」

奴隷船

手足に鎖をつけて、数百人も船に積み込むのはアフリカの奴隷船と全く同じやり方だ。 アフリカで実際に使われた100tクラスの奴隷船は全長が約30mで414人の奴隷を乗せたという記録があるそうだが、船底の3~4段のスペースに身動きできない程ぎっしりと詰められた暗くて狭い空間で、何か月もろくな食事も水も与えられずに波に揺られて運ばれていたかと思うとぞっとする。

当時日本にいたキリスト教宣教師のトップであるイエズス会日本準管区長のガスパル・コエリョと秀吉のやりとりが、ルイス・フロイスの記録に残されている。

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「…予(秀吉)は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」(ルイス・フロイス「日本史4」中公文庫p.207-208)

秀吉が、奴隷を連れ戻すために必要な金を払うとまで言ったのに、コエリョは我らも廃止させようと努力しているのに取り締まらない日本側に問題があると答えて秀吉を激怒させ、『伴天連追放令』を出すこととなる流れだ。
前回の記事でも書いたように、コエリョ自身が署名した奴隷売買契約書も発見されている。コエリョはローマ教皇教書によって認められていた、異教徒を奴隷にする権利を行使していたことは間違いがない。

しかしながら、途中から日本での奴隷貿易を廃止させようと動いたこともまた事実である。
Wikipediaによると、「1560年代以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教のさまたげになり、宣教師への誤解を招くものと考え、たびたびポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を求めていたが、1571年に当時の王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功した。それでも、奴隷貿易は根絶にいたらなかった。」と書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.A5.B4.E9.9A.B7.E3.81.AE.E8.B2.BF.E6.98.93

ここで、前回の記事を思い出してほしい。
ローマ教皇パウルス3世が異教徒を奴隷とすることを禁止する教書を出したのは1537年。しかし、それが翌1538年に教皇パウルス3世自身により撤回されて異教徒を奴隷にする権利が元どおりに復活しているのだ。
当時のローマ教皇はキリスト教世界の首長として絶大な影響力を持っており、その決定はヨーロッパのキリスト教国王に対しても拘束力があった。したがってローマ教皇の教書で異教徒の奴隷化を全面禁止としない限り、奴隷貿易がなくなるはずがなかったのだ。

上記のWikipediaの記事には秀吉が『伴天連追放令』を出した9年後の1596年(慶長元年)に、「長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンスはキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達している」ことが書かれているが、ガスパル・コエリョがそのような通達を早い段階から出していれば、日本のキリスト教の布教がその後も拡大した可能性はあったかもしれない。しかしながら、自らが奴隷貿易に関与していた男が、ローマ教皇の教書によって与えられた権利を捨ててまでしてそのような通達を出すことはなかっただろう。

日本の歴史の教科書にはほとんど何も書かれていないので、中学高校時代にはイエズス会の宣教師はキリスト教を広めるためにわざわざ日本にやってきたとしか考えなかったのだが、私がスペインやポルトガルにわが国を侵略する意図があったことを知ったのは数年前のことである。
この頃の日本は「戦国時代」で、どの大名も軍事力を大幅に増強していた時期であったことは幸運なことだった。だからこそわが国は、この時にスペインやポルトガルに征服されずに済んだのだと思う。最初に日本に来たイエズス会のザビエルですら、ポルトガルのロドリゲス神父宛ての1552年4月8日付の書簡で日本を占領することは無理だと報告している。

ザビエル

「…貴兄に、我らの国王と王妃とに、次の献言をして頂きたいためである。即ち此の御ニ方は、その良心を軽くせんがため、カスチリヤ(スペイン)の艦隊を、ノヴ・イスパニヤ経由で、*プラタレアス群島の探検のために、送らないようにと、皇帝やカスチリヤ国王達に知らせなければならないことである。何となれば、幾つの艦隊が行っても皆滅びてしまうからである。そのわけは、海底に沈没しなくても、その島々を占領するならば、日本民族は甚だ戦争好きで貪欲であるから、ノヴ・イスパニヤからくる船は、皆捕獲してしまうに違いないからである。他方日本は、食物の頗る不作の土地であるから、上陸しても皆飢え死にするであろう。その上、暴風が激しいので、船にとっては、味方の港にいない限り、助かるわけは一つもない。
…日本人は貪欲であるから、武器や品物を奪うために、外人のすべてを殺すであろう。…」
*プラタレアス群島:「銀の島」。日本はそう呼ばれていた。
(岩波文庫『聖フランシスコ・ザビエル書簡抄(下)』p172-173)

同様のことを織田信長とも親交のあったイエズス会の東インド巡察師ヴァリヤーニも1582年12月14日付のフィリッピン総督あての書簡に書いている。本能寺の変から半年後に次のような書簡が書かれたことに注目したい。当時のフィリピンはすでにスペインの植民地であり、スペインが次にどの国に向かうべきかがこの書簡の主題である。

ヴァリャーニ

「これら東洋における征服事業により、現在いろいろな地域において、陛下に対し、多くのそして多き門戸が開かれており、主への奉仕及び多数の人々の改宗に役立つところである。…それらの征服事業の内最大のものの一つは、閣下のすぐ近くのこのシナを征服することである。…
私は3年近く日本に滞在して、…霊魂の改宗に関しては、日本の布教は、神の教会の中で最も重要な事業の一つである旨、断言することが出来る。何故なら、国民は非常に高貴且有能にして、理性によく従うからである。尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.81-83)
と、まずシナから征服すべきであるとし、日本は武力征服が成功する見込みがないし国土が不毛でメリットがないということを書いているのだ。
イエズス会の巡察師というのはイエズス会総長から全権を委託されて、東アジアの布教を統括した役割の宣教師と理解すればよい。彼ら宣教師の目的が布教だけでなかったことは彼らの書簡を読めば明らかなことである。

また、フィリピンのマニラ司教のサラサールが1583年6月18日付でスペイン国王宛にシナに対する武力征服の正当性を主張した報告書が残されている。この報告書は当時のスペインの征服事業が、前回の記事で記したローマ教皇の教書に基づいたものであることを裏付けているし、日本をどうするかについても書かれている。
「私がこの報告書を作成した意図は、シナの統治者達が福音の宣布を妨害しているので、これが、陛下が武装してかの王国に攻め入ることの出来る正当な理由になることを、陛下に知らせるためである。…
…もしも迅速に遠征を行うなら、シナ人がわれわれを待機し、われわれに対して備えをするのを待ってから事を起こすよりも、はるかに少数の軍勢でこと足りよう、という点である。そしてこのことを一層容易に運ぶには、シナのすぐ近くにいる日本人がシナ人の仇敵であって、スペイン人がシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを、陛下が了解されると良い。
そしてこれが効果を上げるための最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、この点日本人に対し、在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。」(同書p.85-88)

キリスト教の布教に協力しないということだけで宣戦布告できるというのは、前回の記事で書いたインカ帝国を滅ぼした手口と同様である。
これはローマ教皇アレキサンデル6世が1493年に出した『贈与大勅書』により、異教徒であることが認定されればすべての権利がスペインに帰属するという解釈により、「福音の宣布を妨害している」ことを口実にシナも攻め入ることができると進言しているのだ。

この2年後の1585年3月3日にイエズス会日本準管区長のコエリョは、フィリピンイエズス会の布教長に対し、日本への軍隊派遣を求め「もしも国王陛下の援助で日本66か国凡てが改宗するに至れば、フェリペ国王は日本人のように好戦的で頭のよい兵隊を得て、一層にシナを征服することができるであろう」と書いている。すなわちコエリョは、日本人をキリスト教に改宗させたうえで、その軍事力を使ってシナ征服にとりかかろうという考えであったのだ。

これらの書簡を読めば、キリスト教の布教は単に信者を増やすというレベルの問題ではなく、スペインが海外を征服していくための国家戦略に組み込まれていて、宣教師は世界征服のための先兵のようなものであったことが誰でもわかるだろう。

当時のわが国で、カトリックに本気で帰依したキリシタン大名はすでに何名もいた。彼らは秀吉の統制の外にいて、いずれスペインが明を征服し朝鮮半島から最短距離でわが国に向かったとすれば、キリシタン大名の銃口は秀吉に向かい国内は内乱状態になっていたはずだ。

彼らの意図を察知した秀吉の動きは早かった。天正15年の5月4日に、秀吉は自らの明征服計画をコエリョに被瀝し、キリスト教布教を認める代わりにポルトガルの軍船2隻を所望している。さらに秀吉は、天正19年(1591)にはゴアのインド副王とマニラのフィリピン総督に降伏勧告状をつきつけ、応じなければ明征服のついでに征服するから後悔するな、と恫喝している。
その秀吉のフィリピン総督宛ての書状には、「今や大明国を征せんと欲す。…来春九州肥前に営すべく、時日を移さず、降幡を偃せて伏(降伏)すべし。若し、匍匐膝行(ぐずぐすして)遅延するに於いては、速やかに征伐を加ふべきや、必せり。悔ゆる勿れ…」と書かれているという。

以前に私のブログで、秀吉の朝鮮出兵は、スペインの先手を打つことで明・李氏朝鮮を傘下に治めてわが国を西洋植民地化されることから守ろうとしたと考える方がずっと自然ではないかと書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-188.html

秀吉の朝鮮出兵【文禄の役(1592)、慶長の役(1597)】については教科書や通説ではロクな評価がなされていないのだが、以上のような歴史的背景を知らずして、その意義を正しく理解できるとは思えないのだ。

われわれが学校で学んできた歴史は、西洋にとって都合の良い内容を押し付けられてきたのではなかったか。西洋の世界侵略や奴隷貿易のことを知らずに日本史を理解しようとするために、戦国時代以降近現代の歴史理解が随分歪んだものになってはいないだろうか。

西尾幹二氏の著書で『GHQ焚書図書開封』というシリーズ本があり、すでに6巻まで刊行されている。

焚書図書開封

その第1巻の第1章には、第二次大戦後GHQが日本を占領していた時代に7769タイトルの単行本を全国の書店、古書店、官公庁、倉庫、流通機構で輸送中のものも含めて没収し廃棄されたことが書かれている。幸い国会図書館の蔵書と個人が購入していた本までは没収されておらず、西尾氏が入手した本を解説しているのが上記のシリーズだ。
焚書処分された本の中には、国粋主義的なタイトルのものもあるが、西洋の侵略の歴史や奴隷貿易にかかわる研究書や学術書などがかなり含まれている事がわかる。
またGHQは、焚書とは別に、昭和20年9月からの占領期間中に新聞、雑誌、映画、放送内容をはじめ一切の刊行物から私信に至るまで、徹底した「検閲」を実施している。
次のURLに昭和21年11月25日付の占領軍の検閲指針の30項目が出ている。
http://www.tanken.com/kenetu.html

この検閲指針を読めば、東京裁判を批判したり、SCAP(連合国最高司令官=マッカーサー)が日本国憲法を起草したことを批判したり、米国、英国、ロシアや中国を批判したり、韓国人を批判することなどが禁止されていたことがわかる。
しかし終戦後67年目にもなるのに、これらの指針が今も活きているように錯覚してしまうことが少なからずあるのはなぜなのだろうか。
なぜマスコミは、東京裁判史観を否定する論拠となる史実を伝えようとせず、またアメリカや中国や韓国などに主権が侵害されていても充分な抗議をしようともしないのだろうか。

GHQに代わってこれらの検閲基準を今も守らせようとする勢力が国内外に存在して、大手のマスコミや出版界がその勢力とのトラブルを避けるために、未だに自主規制をしているということなのだろうか。
そんな自主規制のようなものが存在しないというのなら、少なくとも主権を侵害されているような事案に関して堂々と抗議してくれなければ、一体どこの国の会社なのかと問いたくなるところだ。
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安土城を絶賛した宣教師の記録を読む

安土城は天正4年(1576)に織田信長によって琵琶湖東岸の安土山に築城された山城で、わが国で最初に大型の天守閣を持った城なのだが、建造後わずか6年後の天正10年(1582)に天守閣が焼失し、その後天正13年(1585)に廃城となっている。
下の図は大阪城天守閣所蔵の「安土城図」で、当時は琵琶湖に接していたのだが、昭和期に周囲が干拓されて今では湖岸から離れた位置に城址が残っている。

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前回の記事で紹介した『フロイス日本史』の第3巻に、安土城が焼失する前年の1581年に、イエズス会の巡察師ヴァリニャーノがこの安土城の天守閣を訪問した記録がある。
結構興味深いことが書かれているので、今回はこの内容を紹介したい。

「信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩しうるものである。事実、それらはきわめて堅固でよくできた高さ60パルモを超える―それを上回るものも多かった―石垣のほかに、多くの美しい豪華な邸宅を内部に有していた。それらにはいずれも金が施されており、人力をもってしてはこれ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄えを示していた。
そして(城の)真中には、彼らが天守と呼ぶ一種の塔があり、我等ヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。
事実、内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている。外部では、これら(七層) の層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられる漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上層はすべて金色となっている。
この天守は、他のすべての邸宅と同様に、我らがヨーロッパで知る限りのもっとも堅牢で華美な瓦で掩われている。それらは青色のように見え、前列の瓦にはことごとく金色の丸い取り付け頭がある。屋根にはしごく気品のある技巧を凝らした形をした雄大な怪人面が置かれている。このようにそれら全体が堂々たる豪華で完璧な建造物となっているのである。これらの建物は、相当な高台にあったが、建物自体の高さのゆえに、雲を突くかのように何里も離れたところから望見できた。それらはすべて木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰でつくられているかのようである。」(中公文庫『フロイス日本史3』p.112-113)

「パルモ」というのは掌を拡げた時の親指から小指の長さをいい、ポルトガルでは1パルモは約22cmであるから、石垣の高さが13メートルを超えていたことになる。
フロイスが、安土城をヨーロッパのどこの城と比較して書いているかはよくわからないが、この当時に建築された城を探すと、世界遺産のフランスのユッセ城は1485年から1535年に建築され、ヴァリニャーノ(1539-1606)やフロイス(1532-1597)の時代に近い建築物である。

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今ではこのようなヨーロッパの城に憧れる日本人が多いのだが、フロイスが安土城の天守閣を「これ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄え」と書き「内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営され」「全体が堂々たる豪華で完璧な建造物」と書いていることから、わが国の建築は世界でもかなり高い水準にあったことは間違いないだろう。

フロイスの文章は続く。

「信長は、この城の一つの側に廊下で互いに続いた、自分の邸とは別の宮殿を造営したが、それは彼の邸よりもはるかに入念、かつ華美に造られていた。我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭、数ある広間の財宝、監視所、粋をこらした建築、珍しい材木、清潔さと造作の技巧、それら一つ一つが呈する独特でいとも広々とした眺望は、参加者に格別の驚愕を与えていた。
この城全体が、かの分厚い石垣の上に築かれた砦に囲まれており、そこには物見の鐘が置かれ、各砦ごとに物見が昼夜を分かたずに警戒に当たっている。主要な壁はすべて上から下まで見事な出来栄えの鉄で掩われている。…」(同上書p.113)

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と、本丸御殿、二の丸御殿も素晴らしい出来栄えであったことがわかる。

以前このブログで書いたが、当時の宣教師の役割は単にキリスト教を広めることだけではなかった。彼らは侵略の先兵として派遣されていたことは、彼らが本国に送っている書状をみれば読めば誰でもわかる。
最初に日本に来たイエズス会のザビエルですら、ポルトガルのロドリゲス神父宛ての1552年4月8日付の書簡で、ポルトガルが日本を占領することは無理だと報告しているし、安土城を訪れたヴァリニャーノも、1582年12月14日付のフィリッピン総督あての書簡で「日本は…国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではない。」と書き送り、まずシナから征服することを進言しているのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html

宣教師に城の内部を公開することは、今から思えば、敵に軍事機密をオープンにしてしまうようなものであるのだが、信長は秀吉とは異なり宣教師に対しては無警戒に近かった。ヴァリニャーノは別の目的があって安土に来たのだが、信長がヴァリニャーノに安土城の内部を見せたのは、ヴァリニャーノ(下画像)から要請されたわけでもなく、信長からの招待によるものである。

ヴァリニヤーノ

「巡察師(ヴァリニャーノ)が安土山に到着すると、信長は彼に城を見せたいと言って召喚するように命じ、二名の身分ある家臣を派遣して往復とも随伴せしめた。なお信長は、修道院にいるすべての司祭、修道士、同宿たちにも接したいから、いっしょに来るように命じた。彼らが着くと、下にも置かぬように歓待し、城と宮殿を、初めは外から、ついて内部からも見せ、どこを通り何を先に見たらよいか案内するための多くの使者をよこし、彼自らも三度にわたって姿を見せ、司祭と会談し、種々質問を行ない、彼らが城の見事な出来栄えを賞賛するのを聞いて極度に満足の意を示した。事実、同所には、見なくても良いようなものは一つとしてなく、賞賛に値するものばかりであった。…
城から出ると、ようやく通過できるほどの異常な人出であった。キリシタンたちは、彼ら司祭らが、このように名誉ある慰め深い好意と待遇を受けたのを見て、喜びを隠すことができなかった。」(同上書p.115)

信長

読み進んでいくと、信長が宣教師に対して非常に好意的であったことがいろいろ書かれている。
ヴァリニャーノが安土に1か月ほど滞在したのち九州に行くこととなり、信長に別れを告げに来た際に、信長は餞別に安土城を描いた屏風を与えている。

「巡察師がまもなく出発することになったことを知ると、信長は側近の者を司祭の許に派遣し『伴天連殿が予に会うためにはるばる遠方から訪ね来て、当市に長らく滞在し、今や帰途につこうとするに当り、予の思い出となるものを提供したいと思うが、予が何にも増して気に入っているかの屏風を贈与したい。ついては実見した上で、もし気に入れば受理し、気に入らねば返却されたい』と述べさせた。ここにおいても彼は司祭らに抱いている愛情と親愛の念を示したのであった。
 巡察師は自らになされた恩恵を深く感謝し、それは信長の愛好品であるから、また特に安土山に関して言葉では説明しかねることを、絵画を通じ、シナ、インド、ヨーロッパなどにおいて紹介できるので、他のいかなる品よりも貴重である、と返答した。」(同上書p.117)

この安土城図は天正遣欧使節とともにヨーロッパに運ばれ、1585年3月にローマ法王グレゴリオ13世に献上されたことまでは分かっているようだが、今ではどこにあるかわからないのだそうだ。

フロイスはただ日本の木造建築技術を絶賛しているだけではない。このような素晴らしい建築物を造りだす大工の仕事を良く観察して、その手際の良さに感心している。

「日本の大工はその仕事にきわめて巧妙で、身分ある人の大きい邸を造る場合には、しばしば見受けられるように、必要に応じて個々に解体し、ある場所から他の場所へ運搬することができる。そのため、最初に材木だけを全部仕上げておき、三、四日間組み立てて打ち上げることにしているので、一年がかりでもむつかしいと思われるような家を、突如としてある平地に造り上げてしまう。もとより彼らは木材の仕上げと配合に必要な時間をかけてはいるが、それをなし終えた後には、実に短期間に組み立てと打ち上げを行なうので、見た目には突然出来上がったように映ずるのである。」(同上書p.114)

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フロイスが絶賛したわが国の木造建築技術は承継され、今もなお世界に誇れるものだと思うのだが、釘もボルトも使わずに頑丈な建築物を組み立てる高度な技術が次世代にうまく承継されているのだろうかと思うと心配になってくる。
大学では近代的な建築技術ばかりが教えられ、伝統的日本建築技術の承継は現場の宮大工に委ねられていて先細りしてはいないか。世界に誇れる日本の技術を次の世代に承継できずして、どうやって、各地に存在する素晴らしい木造建築物の価値を減じることなく未来に残すことが出来ようか。
宮大工ばかりではない。木造住宅の新築が減り、従来工法の大工も仕事が激減してきている。伝統芸能や工芸などの承継者は国や地方からの補助が出ているが、宮大工や大工は仕事がなければ生きていけない。
彼等の仕事がこれからも少なくなるようだと後継者を育てることが出来ず、各地に残っている古い街並みや地域の風情を残すことが次第に難しくなっていくのではないか。

これからのわが国は人口が減少していくのだから、高層マンションばかりを建てては空き地と空き家をあちこちに増やして、地域の景観を悪化させるばかりではなく治安の悪化にもつながっていくことになる。
これからは多くの地域で、土地の効率的利用よりも、空き地を減らしていく施策や、土地を広く使う大きな住宅建設を推進することの方が求められていくのではないだろうか。

富田林寺内町

その流れの中で、土地の価格が下がり庭付き一戸建ての家が増えて、伝統的工法が見直される日が来ないものだろうか。各地に今も残る日本らしい街並みや地域の風情を次世代に残していくためには、昔ながらの大工が忙しくなることが必要なのだと思う。
(上画像:富田林市寺内町)

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光秀は山崎の合戦で死んでいないのではないか…「光秀=天海説」を考える その1

天正10年(1582)6月13日の深夜に、山崎の合戦に敗れた明智光秀が坂本城を目指して落ち延びる途中の京都山科の小栗栖(おぐるす)という地で、農民に竹槍で刺されて死んだという通説は作り話である事を前回の記事で書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-345.html

山崎の合戦の後に秀吉が書いた書状(『浅野家文書』)には「山科之藪之中へ北入、百姓ニ首をひろはれ申候」とある

秀吉配下の武士は武功を上げるために、競って光秀を討ってその首を狙おうとする。
一方、光秀の家臣は必死で主君を守ろうし、もし主君が討たれても首だけは敵に渡すまいとするので、いずれにせよ主君の首が放置されることはあり得ない。
普通に考えれば、光秀の顔を知っているはずがない百姓が拾ったような首が、光秀のような重要人物のものであるはずがない

秀吉

秀吉も、百姓が拾ったような首を光秀のものと確信していたはずはなく、おそらく彼は比較的良く似た首を光秀のものとしたのだろう。その上で秀吉は、光秀を貶めるために「百姓に(光秀の)首を拾われた」という嘘の情報を広めて、光秀は味方からも見捨てられて命を落としたとの印象を人々に植え付けようとしたのではないか。光秀がそのような死に方をしたことを広めれば、たとえ光秀が生きていたとしても、再起する可能性はほとんどなくなるぐらいのことを考えたのだと思う。
また信長亡き後の天下を狙っていた秀吉からすれば、徹底的に光秀を貶めて極悪人にしておかなければ、秀吉が明智軍を討伐したことの正当性を世間にすんなり納得させるストーリーが成り立たないことも考えておいてよい。

この戦いのわずか4か月後に秀吉が御伽衆の大村由己に書かせた物語である『惟任退治記(これとうたいじき)』の記述には「諸国より討ち捕り来る首、ことごとく点検のところに、其の中に惟任(光秀)が首あり」となっているのだが、その物語が時代とともに尾ひれがついて、寛永3年(1626)に小瀬甫庵(おぜほあん)が書いた『甫庵太閤記』では「光秀が小栗栖の竹薮で土民に殺された」という話になり、光秀が「竹槍」で農民に殺されたことになったのは、昭和になって戦国史の泰斗と呼ばれた高柳光寿氏が著書で書いてから広まった話なのである。
光秀の死に関する通説は、こういう経緯を知るとバカバカしくなってくる。

では光秀は山崎の合戦で命を落としたのだろうか、あるいはその後も生き延びたのだろうか。

Wikipediaの「明智光秀」の解説では「槍で深手を負った光秀は自刃し、股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、茂朝はその首を近くの竹薮に埋めたとも、丹波亀山の谷性寺まで持ち帰ったとも、あるいは坂本城まで持ち帰ったともいわれる」と書かれているが、同じWikipediaの「溝尾茂朝」の解説では「山崎の戦いにも参加し、一番の中備を務めたが、敗れて光秀と逃走する。しかし遺憾なことに、光秀が百姓によって重傷を負わされると、光秀の命令で介錯を務めることとなる。そして光秀の首を近江の坂本城にまで持ち帰った後、自害して果てた。享年45。」とある。
どちらも興味深い話なのだが、坂本に持ち帰られた3つの首については、前回の記事で記したように、西教寺の記録では光秀のものとは確認されていない。

谷性寺首塚

Wikipediaの記事に名前の出てくる丹波亀山の谷性寺(こくしょうじ)は別名を「光秀寺」といい、境内に「光秀公首塚」があるようだが、この石碑が建てられたのは幕末期のようだ。
この寺に光秀の首が持ち込まれたことを記した古文書があれば面白いのだが、誰か研究している人はいないのだろうか。
http://www.y-morimoto.com/kanko/kokushoji.html

一方、岐阜県山県郡美山町には、山崎の合戦で死んだのは影武者の荒木山城守行信で、光秀は自分を荒深小五郎と名乗り西洞の寺の林間に隠宅に住み、その後光秀は雲水の姿になって諸国遍歴の旅に出て、慶長5年(1600)に死んだという伝承があるという。

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地元の白山神社には明智光秀のものとされる墓があり、次のURLに写真と解説が出ているが、もし光秀が生きていたとしたら、他人の名を名乗ってこのような山深い場所に生きるしか仕方がなかったかもしれない。
http://space.geocities.jp/minokoku1534/ziinn/gifu/fileg/hakusann.html
また次のURLには白山神社にある光秀の墓への行き方が案内されている。興味深い話だが、この墓の由来についての古文書のようなものはないのだろうか。
http://blogs.yahoo.co.jp/supopopo_pop/34352170.html

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また、教科書などでよく目にする明智光秀像は、大阪府岸和田市にある臨済宗の本徳寺にあるのだが、これがわが国で唯一残されている明智光秀像だそうだ。
この寺を開基した南国梵桂(なんごくぼんけい)は明智光秀の長男・明智光慶(みつよし)と言われているのだが、光秀の子供で男は光慶一人しかいない。長男の光慶が生存していたのなら、光秀が生きていてもおかしくないだろう。
そして、この光秀の肖像画には「放下般舟三昧去」、つまり「仏門に入り去っていった」との一文が記されていて「雲道禅定門肖像賛」と書いてあり、位牌の戒名は「鳳岳院殿雲道大禅定門」で「光秀」という名前が隠れている。
また光秀の位牌の裏には「当寺開基慶長四巳亥」、つまり「慶長4年(1599)に当寺を開基した」と記されており、この文章を素直に読むと、この寺を開基したのが明智光秀で、関ヶ原の前年である慶長4年には、光秀がまだ生きていたことになり、当然のことながら、この肖像画もその年以降に書かれたことになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BE%B3%E5%AF%BA_(%E5%B2%B8%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%B8%82)
岸和田市が「市政だより」で制作し、本徳寺の住職がこの肖像画を解説しておられる動画がyoutubeにあるのだが、住職も当然ながら光秀生存説を唱えておられる。興味のあるかたは見て頂くと良い。


ほかにも光秀が生きていたという説がある。
前回の記事の最後に、家康の政治顧問であった南光坊天海が明智光秀と同一人物であるという説があることを触れたが、ネットでは多くの方がこの説を論じておられていてWikipediaにもとりあげられている。

この説の論拠の幾つかを紹介しておく。
日光東照宮陽明門随身像

1. 日光東照宮陽明門にある随身像の袴や、多くの建物に明智家の家紋である桔梗の紋が描かれている。
2. 徳川幕府の2代将軍は忠で3代将軍は家だが、明智光秀の名前の字を一字ずつ入れているとも読める。もし明智光秀が敵対していたのならば、秀や光という字を将軍の名前に入れることを忌み嫌っていてもおかしくない。
3. 三代将軍家光の乳母のお福こと春日局は、光秀の重臣であり本能寺の変で全軍の指揮を執った、明智家筆頭家老の斎藤利三の娘である。またお福の子の稲葉正勝は老中となり、養子の堀田家も代々幕府の中枢を占めた。
さらに家康は土岐明智一族の菅沼定政に土岐姓への復帰を命じ、土岐明智家を復活させている
斎藤利三の娘を重用したり、光秀の悲願であった土岐明智家を復活させたことなど、家康が明智家に配慮したのは、明智家に感謝する理由があったのか、家康の参謀となった天海が明智家かそれに近い人間であったのではないか
4. 学僧であるはずの南光坊天海が関ヶ原戦屏風に家康本陣の軍師として描かれている。
5. 京都市右京区京北周山にある慈眼寺に明智光秀の位牌と木像があるが、この寺の名前は天海の諱の慈眼大師と同じである。
6. 比叡山・松禅寺に「慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀」と刻まれた石灯籠がある。
7. 日光に「明智平」と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある。

これ等の指摘は結構説得力があって引き込まれるのだが、調べていくと、それぞれについてこのような反証がある。

桔梗紋と木瓜紋

1. 日光東照宮陽明門にある随身像や、多くの建物にある家紋は、明智家の桔梗紋ではなく織田家の家紋である木瓜紋(もっこうもん)である
2. 家光の諱を選定したのは、天海とライバル関係にあった金地院崇伝である。
3. 福は小早川秀秋の家臣である稲葉正成に嫁いだが、正成は関ヶ原の戦いで小早川軍を東軍に寝返らせ徳川軍を勝利に導いた功労者である。
4. 関ヶ原歴史民俗資料館が所蔵する関ヶ原戦屏風には「南光坊」の名があるが、この屏風は彦根城博物館が所蔵する江戸時代後期に狩野貞信が描いた屏風を模写したもので、この彦根城博物館の屏風には「南光坊」の記載がない。
5. 慈眼寺にある明智光秀の位牌と木像は、周山の東北にあって廃寺となった密巌寺から1912年に移されたもの。天海の諱の慈眼大師と一致するのは偶然だと思われる。次のURLに光秀の位牌や木像の写真が紹介されている。
http://everkyoto.web.fc2.com/report667.html
6. 比叡山の石灯籠に刻まれた「光秀」が明智光秀本人であることの立証は困難。
7. 「明智平」を天海が名づけたというのは伝承にすぎない。

他にも次のような反論がある
8. 光秀=天海とする説は明治時代の作家・須藤光輝が唱え出したもので、当時の記録に光秀と天海とを結びつける記録が全くないのはおかしい。
9. 天海と光秀が同一人物だと享年は116歳となり天海を光秀とするのは年齢的にやや無理がある

確かにその通りなのだが、いくら反論を読んでみても、なぜ家康が明智家に配慮したのかという根本的な疑問がどうしても残ってしまう。

春日局

通説では明智光秀は主君の信長を討った謀反人であるわけだが、なぜ、その謀反を主導した明智家筆頭家老の斎藤利三の娘を、2代将軍徳川秀忠の嫡子・竹千代(のちの3代将軍・家光)の乳母に任命したのだろうか。
少し考えればわかる事だが、乳母という立場はその気になれば嬰児の命を奪うことは容易な事であり、そのような重要な任務を光秀の重臣の娘に抜擢することは常識では考えにくいところだ。
また土岐明智家を復活させたのも理解に苦しむ。なぜ謀反人である光秀に配慮したのだろうか。

これらの点をスッキリさせるためには、本能寺の変の原因が明智光秀の信長に対する怨恨であるという通説を一旦リセットする必要がある。

以前このブログで本能寺の変について5回に分けて書いたことがあるのだが、この事件から家康と光秀との関係から述べだすと、かなり長くなってしまうので、次回に記すことにしよう。

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【ご参考】
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本能寺の変で信長の遺体が見つからなかったのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-97.html

本能寺の変で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-98.html

明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変③.
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-99.html

家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変④
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-100.html

秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-101.html


南光坊天海は明智光秀と同一人物なのか…「光秀=天海説」を考える その2

前回の記事で、光秀が山崎の合戦以降も生きていた伝承や形跡が多いことを書いた。
また「明智光秀がのちに南光坊天海になった」という説を紹介し、その説が唱えられている根拠の一つに、家康が重臣の娘を家光の乳母にしたり、土岐明智家を復活させるなど、家康が明智家に配慮しているように見えるのは、家康の参謀であった南光坊天海が、明智家に近い人物ではないかと思われることを書いた。

通説が正しいことを前提にすると「謎」になるような事象が多い場合は、通説の信憑性を疑ってみても良いのではないかと思うのだ。

明智憲三郎

最近注目されている明智憲三郎氏の論考では家康と光秀は繋がっていたと考察しておられ、本能寺の変のについて通説とは全く異なる説を唱えておられる。しかも、その論拠は明快で、通説よりもはるかに説得力がある。明智憲三郎氏の視点に立てば、光秀の謎は消えるのである。

本能寺の変の前後の歴史は、秀吉がその4か月後に家臣に書かせた『惟任(これとう:光秀の事)退治記』で、光秀を謀反人に仕立て上げてそれを秀吉が退治したとの物語を広めて以降、歌舞伎などで演じられ、それをもとに物語が書かれて、今ではその内容が通史にも使われて、それが日本人の常識となっている。
明智憲三郎氏の表現を借りると、今も「秀吉の嘘に日本国中がだまされて」「軍記物依存症の三面記事史観」の闇の中に彷徨っている状態にあるということになる。

以前このブログで本能寺の変について、明智憲三郎氏の著作『本能寺の変 427年目の真実』などを参考に5回に分けて書いたことがあるが、最近調べた事などを付け加えながら、簡単にこの事件の原因を振り返っておこう。

当時のルイス・フロイスの記録や、明智光秀の配下の武士で本能寺の変に従軍した本城惣右衛門が知人に宛てた記録(『本城惣右衛門覚書』*)に明確に記されているのだが、フロイスも明智軍も、この日に命を狙われていたのは信長ではなく、家康だと考えていた
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-98.html

老人雑話

また、秀吉や細川藤孝とも交流のあった江村専斎という医者が書き残した『老人雑話』という書物でも、「明智の乱(本能寺の変)のとき、東照宮(家康)は堺にいた。信長は羽柴藤吉郎に、家康に堺を見せよと命じたのだが、実のところは隙をみて家康を害する謀であったという」と記されているのだが、当時のいくつかの記録から見えてくるものは、信長自身が家康を関西に呼び寄せて、機をみて殺害する謀略を考えていたということである。

『本城惣右衛門覚書』の文章と訳文は次のURLにあるが、本能寺襲撃の指揮を執ったのは、光秀の重臣の斎藤利三(さいとうとしみつ)であり、光秀が先導したのではないことが記されていることはもっと注目して良いと思う。
http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide072.htm
この時代の公家の山科言経が記した『言経卿記』によると光秀は戦勝祈願の為に愛宕山に登っており、下山したのは6月1日になってからであったという。丹波亀山城に戻って出陣の準備をし、兵を率いて2日未明に本能寺に辿りつくのは物理的に不可能という説もある。
http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide083.htm

安土城絵

一方家康は5月14日に安土に到着し、安土城での饗応を受けたのち、信長の命により京都や堺の見学をすることになった。5月21日に安土を出て、本能寺の変のあった6月2日の早朝に、家康とその重臣一行の三十名ほどが堺を出て、信長と会うために本能寺に向かった記録がある (『茶屋由緒記』) 。

また信長は、家康を警戒させないために、関西の諸大名に毛利攻めへの加勢を命じて京都を手薄にさせ、本能寺には信長を含めてわずかの人数で宿泊していたという。

ところが家康は、手薄な本能寺を明智が討つ計画がある情報を事前に入手していて、信長に対しては警戒していないふりをして信長を油断させ、本能寺を無防備な状態のままとさせて明智の信長討ちを成功させようとした。
おそらく家康と光秀は繋がっていた。光秀は信長より、5月に安土城で家康を饗応することを命じられていたので、本能寺の少し前に家康と密談する機会は充分にあったのである。

では明智光秀はなぜ信長を裏切ったのか。
それまで光秀は、信長から四国の長宗我部氏の懐柔を命じられていて、重臣である斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結び、光秀と長宗我部との関係もきわめて親密な関係になっていたのだが、信長は急遽方針を変更して天正10年(1582)5月に三男の織田信孝に四国攻めの朱印状を出していた。そして長宗我部征伐軍の四国渡海は天正10年6月3日、つまり本能寺の変の翌日に予定されていた。
そしてこの計画は本能寺の変により吹き飛んで、長宗我部征討軍は崩壊してしまった
のである。

元親記

本能寺の変の原因は、長宗我部征伐を中止させることが目的であったという「四国説」は、長宗我部元親の側近だった高島孫右衛門という人物が記した『元親記』にも「斎藤内蔵介(利三)は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いを差し急いだ」と記されている。
http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/746430c823d3cd630ff0816b9f3e596a
明智憲三郎氏の著書によると、山科言経の『言経卿記』や勧修寺晴豊の『晴豊公記』にも、そのことを裏付ける記録があるようだ。

このような視点に立って本能寺の変を考えると、なぜ家康が光秀や斎藤利三に配慮したかが見えてくる。
もし本能寺の変で光秀が本能寺で信長を討たなければ、家康自身の命が奪われていた可能性が高かった。家康にすれば、明智光秀斎藤利三は命の恩人なのである
だとすると、家康が土岐明智家を復活させたり、斎藤利三の娘を家光光秀の乳母としたことが「謎」ではなくなってしまうのだ。

前回の記事で、山崎の合戦の後も光秀が生きていたと思わせる伝承や文書が、多くの場所に残されていることを書いた。
これらの伝承などは、通説が正しいという前提に立てば、すべて「ありえない」ことばかりだが、通説が正しくない前提に立てば、全てがつながる仮説を立てることが出来る。
しばらくの間、私の推理にお付き合いいただきたい。

光秀は山崎の合戦で死んだのかもしれないが、もし生き残っていたとしても、死んだことにしなければ、秀吉に必ず命を狙われることになる。
だから光秀と縁の深かった丹波亀山の谷性寺や近江坂本の西教寺に、本物かどうかもわからない首を持ち込んで墓を造らせたとは考えられないか。

光秀だけではない。光秀の兄弟や重臣たちにも言えることだが、もし彼らが生きていたとしたら平家の落人と同様に、身の安全を守るために山深いところに名前を変えて住むことは、充分にありうることだと思う。光秀のものだと伝えられている墓のある岐阜県山県郡美山町は、まさにそのような場所のようだ。

hakusann3.jpg

しかし慶長3年(1598)に豊臣秀吉が亡くなり豊臣家の力が次第に衰えて、自らの命が狙われるような危険が遠ざかる日が来た。いつまでも山深い場所(岐阜県山県郡美山町)で隠棲する必要もなくなってきたので、今まで使っていた名前の人物(荒深小五郎)は死んだことにして、慶長5年(1600)に白山神社にその人物の墓を造らせ、新たな活動を開始したとは考えられないか。
面白いことに、この地の伝承ではこの人物は、「関ヶ原の合戦の時、東軍に味方せんと村を出発したが途中藪川の洪水で馬と共に、押し流されて死んだ」となっている。
そして「関ヶ原合戦屏風」には天海らしき人物が描かれているのである。そして関ヶ原以降は家康の近くに居場所を移したことも考えられる。

実際のところ、光秀らしき人物が生きていたと思われる形跡は秀吉が亡くなったあとからのものばかりなのである。
その人物が、岸和田に本徳寺を開基したのが慶長4年(1599)。また比叡山の石灯籠が「光秀」の名で寄進されたのは慶長20年(1615)2月17日で、大阪冬の陣の2ヶ月後のことである。そしてその3カ月後に大阪夏の陣で徳川軍が勝利し豊臣家は滅亡している。

南光坊天海

次に南光坊天海に話題を移そう。
面白いことに、天海」という僧侶が歴史の表舞台に登場するのも、秀吉が亡くなったあとからのことである。

徳川家康が「天海」を駿府に招き、初めて公式に対面したのは慶長13年(1608)なのだそうだが、その時に家康は「天海僧正は、人中の仏なり、恨むらくは、相識ることの遅かりつるを」と嘆いたと伝えられている。しかし、実際はもっと早くから家康は天海という人物を知っていたはずである。
というのは、家康は慶長8年(1603)に下野国久下田(栃木県真岡市)に新宗光寺の再興を託し、慶長12年(1607)には比叡山東塔の南光坊在住を命じ、織田信長の焼き討ち以後、荒廃していた比叡山の復興にあたらせているのだが、会ってもいない人物に対して、こんな重大な仕事を次々と命じることは不自然だ。

そして天海は明智光秀の御膝元であった坂本の復興に力を注ぎ、美しい坂本の町並みを作っている
前回の記事で紹介した滋賀院門跡は、天海が元和元年(1615)に後陽成天王から京都法勝寺を下賜されてこの地に建立した寺であり、日吉東照宮も元和9年(1623)に天海が造営した建物である。

方広寺の鐘

また、天海は大阪の陣で豊臣家を攻撃する口実となった方広寺鐘銘事件は、徳川の正史である『台徳院殿御実紀』巻廿七(慶長19[1614]年7月21日)に天海が関与したことが記されている。
「世に傳ふる所は。此鐘銘は僧淸韓がつくる所に して。其文に國家安康。四海施化。萬歲傳芳。君臣豐樂。又東迎素月。西送斜陽などいへる句あり。御諱(いみな)を犯すのみならず。豐臣家の爲に。當家を咒咀するに 似たりといふ事を。天海一人御閑室へ召れたりし時。密々告奉りしといふ。此事いぶかしけれども。またなし共定めがたし。いま後者の爲めにしるす。」
http://www.j-texts.com/jikki/taitoku.html

なぜ僧侶である天海が、このように家康の政治に意見することができたのか誰でも不思議に思うところで、この記録を読むと、天海という人物が、豊臣家に強い怨みを持っていた可能性を感じる。 

もちろん、天海という人物が明智家と全く関係のない人物である可能性も小さくないのだが、もしかしてと思わせる事象が偶然にしては多すぎて、ちょっと考えさせられてしまうところだ。

明智光秀

しかし、天海と明智光秀が同一人物だという説の最大の問題は、年齢であろう。
天海の生年がはっきりしていないようだが、没年は寛永20年(1643)で100歳以上の長命であったという。
もし天海と光秀(誕生:享禄元年[1528])が同一人物だとすると115歳で没したことになり、常識的には、この時代にこの年齢まで生きる人物がいたことは考えにくい。また春日局との関連から、天海は斉藤利三(誕生:天文3年[1534])ではないかという説もあるようだが、斎藤利三については6月17日に六条河原で斬首されたと具体的な記録があるので、その可能性は低いし、109歳で没したことになるという年齢の観点からも問題がある。
諸説の中には、光秀の死後に長男の光慶(誕生:永禄12年[1569])が天海を演じたという説も存在するというが、それだと年齢の問題についてはクリアされる。しかし、もしそうだとしたら、そのことを裏付ける記録が残っていてもおかしくないのだが、そのようなものは何も存在しないのだ。
前回の記事に書いたのだが、そもそも天海と光秀とが同一人物であるという説は、明治時代の作家・須藤光輝が最初に唱えたものであり、当時には光秀と天海とを結びつける記録が全く存在しないのである。

最後に結論めいたことを言わせてもらうと、明智光秀はおそらく山崎の合戦を生き延びた。
そして豊臣秀吉が亡くなったあたりから活動を開始し、家康を陰で補佐していたのではないか。
光秀が生きていて家康に意見具申できる立場であったなら、方広寺鐘銘事件や近江坂本の復興などは、天海が光秀と同一人物でなくとも、光秀の考えを天海という僧侶に代弁させるなり、必要資金の大半を家康が出してその実行を命じれば済む話であるともいえる。
あるいは徳川幕府が、光秀から得た知恵は、死んだ人物の名前を出せないために、天海の名前を用いて記録したということも考えられる。

僧侶には家康の政治顧問は務まらないとの意見もあるが、光秀が生きていたのなら家康に意見を述べることができた可能性が高い。また家康が光秀から政治に関する知恵を真に必要としたのは豊臣家が滅亡する頃までであり、本物の光秀が死んでからは天海の政治顧問としての出番は多くはなかったと考えれば、光秀が長寿である必要もなくなる。

南光坊天海は明智光秀と同一人物であったという説は、個人的には面白いとは思うし完全否定をするつもりはないのだが、天海が光秀と同一人物でなくとも、すべての事象が合理的に説明可能なので、私は、この説が真実である可能性は低いと考えている。
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16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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