HOME   »  西郷隆盛
Category | 西郷隆盛

西郷隆盛なくして、地方の権力と武力を中央に集める廃藩置県が可能だったか

以前このブログでGHQによって焚書処分された菊池寛の『大衆明治史』という本を紹介したことがある。その時は中国人苦力(クーリー:単純労働者、奴隷)を乗せたマリアルーズ号というペルー船籍の船が横浜港で座礁したのだが、積荷が中国人苦力で、明らかに虐待されていた形跡から「奴隷運搬船」と判断して全員解放し、清国政府から感謝のしるしとして頌徳の大旆(たいはい:大きな旗)が贈られた話を紹介した。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-113.html

無題

この『大衆明治史』という本は、明治の人々が苦労を重ねながら難局を乗り越えて、新しい日本を築き上げていくところが具体的に書かれていて当時の時代背景がよく解って面白い。GHQの焚書処分を受けた本のために現物を入手することは容易ではないが、「歴史放浪」というサイトでPDFファイルが公開されており、誰でも読むことができるのはありがたい。
http://tncs.world.coocan.jp/tsmeijisi.html

この本の最初に書かれているのが「廃藩置県」である。
学生時代に明治の歴史を学んだ時に、どうして武士階級が自らの特権を消滅させる決断をなすことができたのかと疑問に思った記憶がある。

たとえば『もういちど読む 山川日本史』ではこう記述されている。
「政府はまず、諸大名がみずからの領地と領民を支配するこれまでの体制を打ち破るため、1869(明治2)年、諸大名に命じて領地と領民を天皇に返上させた(版籍奉還)。しかし藩主は、石高にかわる家禄の支給をうけ、そのまま知藩事(地方官)とされて藩政に当たったため、中央集権の実効はあまりあがらなかった。
そこで、木戸孝允・大久保利通ら政府の実力者たちは、中央集権体制を確立するため、1871(明治4)年7月、まず薩長土3藩から御親兵をつのって中央の軍事力をかため、ついでいっきょに廃藩置県を断行した。そしてすべての知藩事をやめさせて東京に住まわせ、政府の任命した府知事・県令を派遣して府県をおさめさせた。こうして全国は政府の直接支配のもとにおかれ、封建制度は解体した。
廃藩置県のような大変革が、諸藩からさして抵抗もうけずに実現したのはおどろくべき事実であったが、戊辰戦争で財政が窮乏していた諸藩には、もはや政府に対抗する力はほとんどなかったのである。」(『もういちど読む 山川日本史』p.219-220)

このように教科書には「大変革」という言葉を使いながらも、「さして抵抗もうけずに実現したのはおどろくべき事実」とスムーズに改革が出来たように書いてあるのだが、教科書のこのような記述には昔からリアリティを感じなかった。

焚書図書3

西尾幹二氏が『GHQ焚書図書開封3』で、この『大衆明治史』を採りあげておられ、わかりやすく廃藩置県の意義を解説しておられる。
「明治維新を迎え、大政奉還をすると天皇が江戸に移りました―――といってみたところで、地方にはまだたくさんの大名がいます。権力は各地に分散していました。明治新政府が権力を持つためには、地方の権力を全部取り上げてしまわなければならない。そこで大名の持っていた武力をすべて召し上げて、藩をなくして全部県にしたいわけですが、それを実施するには中央に武力がなければならない。中央に権力と武力があって初めて中央集権が成立する。それが廃藩置県の意義でした。
明治の冒頭で、菊池寛がまず廃藩置県に注目したのはじつにみごとだと思います。廃藩置県こそ明治維新の最初にして最大の出来事だったのです。」(『GHQ焚書図書開封3』p.258)

しばらく菊池寛の文章を引用してみる。[原文は旧字・旧かな]

「諸侯の土地を中央に収め、その軍隊を裁兵する。いわゆる、完全な封建制度の打破が、どんなに困難な大事業であるかは、外国の歴史をちょっと覗いてみただけでも分るだろう。これが日本では比較的スラスラ行われたのであるから、外国人が驚くのは無理もない。血を見ずして、憲法が発布されたのとともに、明治史の二大会心事といってよい。
しかし、廃藩置県の思想は、一部進歩的な具眼者の中には早くから萌していて、その先駆としての版籍奉還は、早くも明治二年に行われているから、すなわち幕府は折角倒しても、諸侯がなお土地人民を私有していては、真に維新の目的が達成されたとは言われない。この土地人民を朝廷に奉還し、復古の大業を完成しなくてはならぬと考えられていたのである。
木戸は藩主毛利敬親に説き、大久保は島津忠義に説き、こうして出来上がったのが、明治二年の四大藩主連署(島津忠義、毛利敬親、鍋島直大、山内豊範)の版籍奉還の上表である。」

『山川日本史』に名前が出てきた木戸孝允と大久保利通は、明治二年の「版籍奉還」で藩主を口説いたということが書かれている。しかし「版籍奉還」だけでは地方に大名がいる江戸時代と実質的には変わらない。「明治維新」がピリオドを打つためには、封建諸侯が土地人民を支配する体制を崩壊させることが必要となるのだが、そのハードルは相当高かったはずだ。「廃藩置県」となると全国に200万人にものぼるという藩士の大量解雇につながる話なのだ。

菊地寛

菊池寛の文章を読み進むと、この当時の明治新政府の舵取りが容易ではなかったことが見えてくる。

「明治二年から四年の廃藩置県にかけての、新興日本は、非常なピンチの中にあった。一歩誤れば建武の中興の二の舞である。
一見、王政は復古し、五箇条の御誓文は発布され、万機公論に決するという国是も確定されたが実際の政治は決してそんな立派なものではない。
維新大業に於ける薩長の功労は圧倒的だ。しかし彼等とても、公議世論の声に圧せられて、思い切って新政に臨むことが出来ない。まして、他の藩の有力者たちに、何も積極的にできるわけはない。
新政最大の弱点は、実にこの、政治に中心勢力がないことであった。」

「建武の中興」というのは、鎌倉幕府滅亡後の1333年6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始した事により成立した政権を指すが、わずか2年半で瓦解してしまった。菊池寛は、明治政府がわずか数年で瓦解するピンチであったことを述べているのだ。
明治政府を誕生させたのは、薩長土肥の4藩の活躍がなくてはなしえなかったのであるが、これらの藩がまとまっていたかというと、そうではなかったようなのだ。
薩摩の西郷隆盛は新政府の考え方と合わず距離を置いていたし、島津久光(藩主忠義の父、事実上薩摩の最高権力者)は、四民平等、廃藩置県などはもってのほかだと不機嫌であった。しかも西郷を嫌っていた。
長州の首領格の木戸孝允は薩摩嫌いで、土佐は薩摩の武力主義に対して、公議政治という奇手を用いて新政府に割り込もうとしていたし、肥前は薩長土が維新の渦中で人材を消耗しつつある間に、悠々と機会を窺っていたという。

明治二年四月二六日に大久保利通岩倉具視に宛てた手紙には、「…天下の人心政府を信ぜず、怨嗟の声路傍に喧喧、真に武家の旧政を慕うに至る…かくまでに威令の衰減せしこと歎息流涕の至りにたえず…」と書いており、その危機感がよく伝わってくる。

大久保利通

菊池寛は当時の大久保利通の危機感についてこう解説している。
「上下両極の議政所における、諸藩出身の貢士たちがいくら論議を重ねても、また群卿諸侯の大会議が何度開かれても、所詮朝廷の根軸を建て、確固たる中央政府が出来上がるわけではない。朝廷に実力ある兵力なく、また財力があるわけでもない。こんな風潮では、天下は遠からず瓦解してしまうというのである。

公議、世論など、亡国的俗説だ。薩長専横と言わば言え、今日において、薩長の実力に依らないで何が出来るか。我々はくだらぬ批難など耳に傾けず、薩長連合して、朝廷を中心に戴き維新当初の精神に立ち返って、働くべきだと論じた。この時に当たって、多少の摩擦混乱はやむを得ない。即今幸いにも外患がないから、多少の内乱恐るるに足らずだ。要は一刻も早く、国内統一し、国家の基礎を確立して、外国に対抗せねばならん、というのである。

この決心を以て、大久保はまず起ち、岩倉、木戸の同意を得て、一路薩長連合に向かって突進した。
この結果、西郷が再び中央の政界へ、薩長連合の党首として乗り出すことになり、朝廷に近衛兵が置かれることになり、そして、最後に封建的割拠主義に最後の止めを刺す、廃藩置県という、画期的な改革が見事に出来上がるということになったのである。」

要するに、薩長が明治政府の中心にならなければ抜本的な改革は出来ず、また薩長をひとつにまとめ上げるためには、中心に西郷隆盛がいることを必要としていたということなのだ。大久保は岩倉具視を勅使として薩摩にいる西郷を訪ねて上京を促し、西郷の同意を得たのである。
明治四年二月に西郷が東京入りして、朝廷に新兵が設置され薩長土三藩の兵が集められて中央政府の実力を固め、六月には自ら参議となって薩長の独裁政治体制が完成し、ようやく大改革を推進する体制が整った。

西郷の参議就任直後に山縣有朋は西郷を訪れ、滔々と廃藩置県の必要性を説き西郷の了解を得、七月九日には木戸孝允邸で廃藩置県の秘密会議が開かれた。大久保利通の日記を引用しながら、菊池寛はこう書いている。

「大久保の日記に
『九日、…五時より木戸氏へ訪。老西郷氏も入来、井上山縣も入来、大御変革御手順のこと、かつ政体基則のこと種々談義す。凡そ相決す。』
この時、木戸、大久保に苦慮の色があるのを見て、西郷は
『貴公らに、廃藩実施の手順さえ附いておれば、その上のことは拙者全部引受ける。暴動が各地に起きても、兵力の点なら、ご懸念に及ばず。必ず鎮圧して、お目にかけましょう』 と言った。
この一言に、一同は一息ついて、議論が一決したのである。…

こうして、七月一四日疾風の如く廃藩令が下ったのである。」

西郷隆盛

菊池寛の『大衆明治史』が面白いのは、立場の異なる人間の動きが具体的に記されていて時代の動きがダイナミックに読み取れる点だ。

「西郷上京に際して、(必ず廃藩置県などやるでないぞ)とダメを押した島津久光は、廃藩令の薩摩に伝わるや、花火を揚げて、不満を爆発させたという。諸侯と言わず、武士と言わず、保守派に与えたショックは、蓋し甚大なるものがあると思う。
西郷はその心境を家老に告げ、
『お互いに数百年来の御鴻恩、私情においては忍び難きことに御座候えども、天下一般此の如き世運と相成り、此の運転は人力の及ばざる所と存じ奉り候』
と述べている。どちらかと言えば保守派である西郷である。苦衷想うべきだろう。
廃藩令が下るとともに、従来の藩は、次第に県に改まり、十一月になって七十二県が出来たのである。
一方大久保は、現在の内務、大蔵、逓信、農林、商工の五省を兼ねた大蔵省に立てこもり、井上馨、伊藤博文、松方正義、津田出などの新人を引き具して、いよいよ新政策に邁進することになった。
彼等の眼よりすれば、西郷は一種のロボットである。廃藩置県の大仕事が済んでしまえば、もう西郷は必要としないのである。西郷の好みそうもない政策が次々と生まれてくる。
八月九日、散髪脱刀許可令
八月十八日、鎮台を東京、大阪に置き、兵部省に属せしむ。
八月二十三日、華士族平民婚嫁許可令。
等々、四民平等、士族の特権はどんどん剥ぎとられて行く。」

菊池寛の文章を読むと、この『廃藩置県』が大変な改革であり、西郷隆盛の存在がなければその実現が難しかったことがよく理解できる。
しかしながら、『山川日本史』をはじめとする教科書や通史には、この大改革がスムーズに進んだことを強調して、廃藩置県に西郷隆盛の名前が出ることがほとんどないように思う。

このブログで何度も、歴史は勝者にとって都合の良いように編集されることを書いてきた。明治政府にとっては、後に西南戦争で官軍と戦うことになった西郷隆盛の力がなければ、「廃藩置県」の大改革がなしえなかったという史実は「明治政府にとって都合の悪い真実」であり、教科書などの歴史叙述の中には書かせたくなかったのではないだろうか。多くの教科書や概説書で、廃藩置県を「さして抵抗もうけずに実現した」というスタンスで書くのは、西郷が西南戦争で明治政府軍と戦った史実と無関係ではないと思うのだ。

ct1_1_2.jpg

いつの時代でもどこの国でも、時の権力者が書かせたような歴史を何回読んだところで真実が見えてくるとは限らないのだと思う。基本的に権力者というものは、常に権力を握り続けるために嘘をつくものだと考えておいた方が良いだろう。
教科書を含めてわが国の歴史書の多くは官制史料を重視するスタンスで叙述されている傾向が強いと思うのだが、このようなスタンスでは、それぞれの時代で為政者にとって都合の悪い出来事については、いつまでたっても真実が見えて来ないのではないか。
官制の公式記録はもちろん参照すべき重要な史料ではあるが、内容がそのまま真実であるとして鵜呑みすることは危険なことではないのか。同じ時代を生きた人々の記録と読み比べることで本当は何があったのかを考える姿勢が、歴史を学ぶ上で大切なのだと思う。
***************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加




征韓論争は大久保が西郷を排除するために仕掛けたのではなかったか

前回は、GHQ焚書図書となった菊池寛の『大衆明治史』第1章の「廃藩置県」に関する記述を紹介し、西郷隆盛がいなければこのような大改革は為し得なかったのではないかといことを書いた。今回は、引き続き『大衆明治史』の第2章「征韓論決裂」に関する記述を紹介したい。

その前に、一般的な教科書の記述を読んでみよう。
「欧米諸国の朝鮮進出を警戒した日本は、鎖国政策をとっていた朝鮮に強く開国をせまった。これが拒否されると、西郷隆盛、板垣退助らは、武力を用いてでも朝鮮を開国させようと政府部内で征韓論をとなえた。しかし1873(明治6)年欧米視察から帰国した岩倉具視大久保利通らは、国内改革の優先を主張しこれに反対した。」(『もう一度読む 山川日本史』p.223-224)

この教科書の記述では西郷も板垣も武力で開国を迫り、岩倉や大久保は国内改革を優先したというのだが、史実はそれほど単純なものではなかったようだ。
菊池寛の文章を引用しながら説明したい。(原文は旧字・旧かな)

征韓論は一応合理的であった。韓国が小国であること。無礼であること、更に征韓に対して、清国はじめ諸外国が文句をつけぬと言っていること等が理由である。
当時の韓国の実権は、国王の生父大院君によって握られており、甚だしい欧米嫌いであった。だから日本の開国を欧米模倣であると罵り、禽獣に近づいたといって、蔑視しているのである。
だから、維新政府が宗対馬守を派遣して、いくら国交を調整しようとしても、剣もホロロの挨拶である。」(『大衆明治史』p.23-24)

自由党史

朝鮮国が無礼であった点については「近代デジタルライブラリー」で板垣退助『自由党史』第二章などを読めばわかるが、要するに当時の朝鮮国の外交方針は「鎖国攘夷政策」であり、欧米の先進文化の受容に努めていたわが国も西洋と同様に「攘夷」の対象であって、わが国が使節を送っても、侮辱した上威嚇して国外に追い出そうとしたことが書かれている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991339/1
しかし朝鮮国がこのまま鎖国を続けていてはいずれ朝鮮半島は欧米の植民地となり、そうなればわが国の独立も脅かされることになってしまう。

征韓論

そこで「征韓論」の議論が沸騰する。
しばらく、菊池寛の文章を読んでみよう。

「ここにおいて、明治六年六月十二日、朝鮮問題に対する会議が開かれることになったのである。
劈頭まず板垣退助は、
『居留民を保護するのは政府の義務だから、早速一大隊の兵を釜山に送り、それから談判をやろう』
と出兵論を唱えた。これに対して西郷は、
『それは少し過激だ。それより、まず平和的に堂々使節を派遣して、正理公道を説き、それで聴かなかったら公然罪を万国に鳴らして討伐すればよい』
と述べた。三條*は、
『大使を派するなら、兵を率いて軍艦に乗っていったらよかろう』
と言葉を挟むと、西郷は敢然として、
『いや兵を率いて行くのは、所詮穏やかでない。大使たるものは宜しく烏帽子直垂を着し、礼を厚くし道を正さねばならぬ』

と反対した。…
すると誰かが、
『これは国家の大事であるから、岩倉大使**の帰朝を待って決すべきであろう』
この言葉は西郷を怒らせた。
『堂々たる一国の政府が、国家の大事を自ら決めかねるなら、今から院門を閉じ、百般の政務を撤するがよい』
と叱し、一座は粛として静まり返ったのであった。西郷は更に言葉を進めて、
『この遣韓大使には、ぜひ自分を遣って貰いたい。』
再三再四、西郷はくどく三條に迫って、この件を上奏して欲しいと希望するのであった。
この日の会議は、このまま終わったが、西郷は尚熱心に朝鮮行きを希望してやまない。
『副島**君(遣清大使)の如き立派な使節は出来申さず候えども、死する位のことは、相調い申すべく』
とある様に、いつでも命を投げ出す位の覚悟を、淡々たる言葉の中に洩らしているのである。大使になって行けば韓国は必ず自分に危害を加える、そうしたら立派な征韓の名分が立つ、西郷の信念はここにあったのだ。」(同上書 p.24-26)
*三條實美(さんじょう さねとみ):公家出身。当時太政大臣。  
**岩倉具視:公家出身。当時右大臣外務卿で、全権大使として大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らとともに欧米視察中。
***副島種臣(そえじま たねおみ):佐賀藩出身。当時外務卿。

この西郷の発言内容は、先ほど紹介した板垣退助の『自由党史』と内容はほぼ同じであり、菊池寛の文章は当時の記録に忠実に書いている。『自由党史』には、この六月十二日の会議で、釜山に軍隊を送ろうとした板垣も自説をその場で引込めたとあり、この会議では平和裏に遣韓大使を送るとする西郷案で一旦決着し、誰を大使とするかについては8月17日に西郷とすることで決着したと書いてある。
征韓論」が決裂するのはそれからあとのことなのである。欧米視察を終えて帰国した、岩倉具視大久保利通らがこの決定を許さなかったのだ。10月14日に岩倉らの帰朝後第1回目の内閣会議が開かれる。
しばらく菊池寛の文章を引用する。

岩倉具視

「まず三條から一応の報告があると、岩倉は敢然として起ったのである。
『大使を韓国に派遣するについては、大戦争を覚悟した上でなければならん。朝鮮の背後には、支那もあるし、ロシアもある。迂闊に手を出して国家百年の大計を誤ってはならぬ。現状は国力涵養第一。征韓など無策、無為である』
初めて聞く、堂々たる反対意見である。
西郷は、
『しかし、朝鮮大使派遣は八月十七日の廟議ですでに決していることである。今更是非を議する必要がどこにあろう』
岩倉すかさず、
『いや、その為のみの、今日の廟議である』
『くどいようじゃが、その廟議は決まっているのだ』
この時、大久保、
『前閣議でどう決まったか知らんが、それは拙者らの知ったことではない』
『それは貴公、本気で言われるか』
西郷は血相を変えた。
『留守に決めたが不服と言われるのか。拙者も参議だ。これ程の大事を、貴公らの帰国するまで待てるか。留守の参議がきめたことに、なんの悪いことが御座るか。三條太政大臣も同意で、既に聖上の御裁可まで経たことであるぞ』…」(同上書 p.27-28) 
といった議論が続いていく。

征韓論の図2

翌日の会議も水掛け論で終わる。菊池寛はこう書いている。

「…問題は、奏問の手続き問題に入ってくる。こうなると、事務的にも政治的にも、征韓派は、岩倉や大久保の敵でない。
かくて二十三日、岩倉は参内して、征韓不可の書を奉り、大勢は決した。聖上は一日御熟慮の上、岩倉の議を御嘉納あらせられたのである。
二十三日、西郷は参議、陸軍大将、近衛都督の職を辞するの表を奉り、翌日、板垣、副島、後藤、江藤の諸参議もそれぞれ辞表を奉った。…
これと同時に、陸軍少将桐野利秋、篠原国幹なども、疾と称して、辞表を呈出し、これに倣って、近衛士官などは総辞職である。…
そこで陸軍卿山形有朋は、新たに近衛兵の再編成に着手し、かくて長州人が今度は陸軍部内に確固たる地位を占め『長の陸軍』の淵源をなしたのである。」(同上書 p.31-32)

明治政府は25日に非征韓派を中心にした内閣改造を行っている。
大久保利通が内務卿となり、また幕臣であった勝海舟を海軍卿に据え、榎本武揚を遣露大使としたほか、西郷を牽制するために島津久光(藩主忠義の父、事実上薩摩の主権者)を左大臣、内務顧問に登用した。
産業を奨励し、反対党の弾圧にいよいよ本腰を入れるとともに、強引にも華族、士族の家禄まで税金をかけた。そこで明治7年(1874) に佐賀で不平士族の叛乱が起こる。

江藤新平

「(明治)七年二月征韓論者の政府反撃の第一声として、大規模な佐賀の乱が勃発している。江藤新平、島義勇らの暴発であるが、大久保はかねて期していたものの如く、直ちに熊本、広島、大阪三鎮台の兵を動かし、同時に久光を帰国させて西郷を抑える一方、自ら急速に兵を進めて三月一日には佐賀城に入っている。文官である大久保としては一世一代の武勲であると言って良い。
江藤は後に捕えられ、極刑ともいうべき、梟首(きょうしゅ:晒し首)に処せられた。往年の同僚、参議江藤新平の首をさらして、あえて動ぜぬ、不適の面魂はいよいよ凄みを増してきたと言えよう。」(同上書 p.33-34)

大久保利通

教科書では大久保らは国内改革を優先したと書くのだが、実際はそうとも言えない。征韓論反対の舌の根も乾かぬうちに、大久保は台湾に出兵しているのだ。再び、菊池寛の文章を引用する。

「殊に征韓論を排撃して二ヶ年ならぬのに、大久保は、台湾出兵をやっている。これは全く国内士族の不平を、海外にはけさせるためにやった仕事で、征韓論反対の言い分は何処へやったといわれても仕方がないであろう。
神経衰弱で少し気の弱くなった木戸など。
『切に希くは、治要の本末を明かにせよ』
と悲壮な言葉を残して、幕閣を去ったが、大久保は断固として、この出兵をやり、しかも戦後の談判に、自ら清国に乗り込んで、李鴻章と大いに交驩し、五拾萬両の償金と、台湾征討は義挙であるという、支那側の保証まで得て帰ってきているのである。昭和の外交官、顔負けである。内治によく外交によく、大久保の幕閣における地位は、この時において、圧倒的、独裁的な域まで達したのである。」(同上書 p.34)

大久保にとっては、朝鮮よりも台湾の方が制圧が容易で、他国の干渉を受ける可能性も低いとの判断があったのかもしれないが、「現状は国力涵養第一。征韓など無策、無為である。」と言っていた反征韓論者が、西郷が職を辞した4カ月後の明治7年(1874)2月に台湾出兵を計画し、5月に出兵したというのはどう考えても違和感がありすぎる。

当時、廃藩置県により失業した士族は全国に40万人から50万人程度いたというのだが、それまで各藩が支払っていた禄は政府の支出となっており、その支出額は国家予算の大きな部分を占めていた。明治5年(1872)の地租収入は2005万円に対し禄の支出は華族・士族合せて1607万円にも達していたのだ。このままでは維新政府が長く続くはずがなかった。

大久保にとっては、西郷の力を借りて廃藩置県の大改革が終われば、次にやるべきことは政府支出構造の抜本的改革であっただろう。そのためには士族の既得権に大ナタを入れざるを得なかった。そのためには、政府内の抵抗勢力を出来るだけ早い時期に排除することが必要であったのではなかったか。

大久保らの欧米視察中に、西郷らが留守中に決定した遣韓大使派遣のような重大事を追認しては、主導権を西郷らに握られることになりかねず改革が遅れてしまう。もちろん出兵には多大な費用がかさみ、戦争となって勝利しても士族の地位が再び高まっては困るのだ。

大久保は征韓論争を仕掛けて、政府内の抵抗勢力を切り、士族の既得権にもメスを入れることをはじめから狙っていたのではないだろうか。
西郷、江藤らが下野したのは明治6年10月23日だが、2日後に新政府を組閣し勝海舟を入閣させのちに島津久光を内務顧問に任じている。また2か月後の12月には「秩禄奉還の法」を定めて禄に課税が行われている。ちょっと準備が良すぎると思えるのである。

島津久光

大久保は、不満をもった旧士族が各地で反乱を起こすことを覚悟していたからこそ、島津久光を登用したのだ。明治7年2月に江藤新平が佐賀の乱を起こした際に西郷が動かなかったのは、大久保の指示で島津久光が薩摩に帰ってきたからではなかったか。
また大久保は、征韓論にはあれだけ反対を唱えながら、佐賀の乱があった2月に木戸の反対を押し切って台湾出兵を決定し、5月には出兵している。
教科書などでは大久保利通らは「国内改革を優先した」と叙述されるのだが、その記述をそのまま鵜呑みにしては、明治時代を正しく理解したことにならないのではないか。
****************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加





西南戦争が起こる前の鹿児島県はまるで独立国のようだった

前回の記事で、明治6年に征韓論争が決裂して西郷らが下野して鹿児島に戻ったことを書いた。その後の西郷が薩摩でどのような生活であったのか、菊池寛の文章を読むと驚くべきことが書かれている。しばらく引用してみる。(原文は旧字・旧かな)

西南戦争の原因は、発展していく中央政府と、古きを守ろうとする西郷党との間に醸し出された矛盾対立が、遂に爆発した結果にほかならない。
言葉を換えて言うなら、明治六年の征韓論の対立が、明治十年の西南戦争によって、結論がついたとも言えるのである。
村田新八の言葉を借りるなら、西郷と大久保の征韓論の論争は、横綱の立会いのようなもので、どっちに軍配を上げてよいものかわからぬと言うのである。
なるほど、形の上では、西郷が廟議に敗れて、鹿児島に引っ込んだのであるから、西郷の負けのようであるが、西郷の持っている一世の輿望というものは、九州の一角において、文字通り西郷王国を築き上げているのである。
鹿児島県の官吏の任免でさえ、この一派の手の中にあったのであるから、まるで一種の独立地域である。アンチ大久保アンチ中央政府の欝然たる牙城となってしまったのだ。
いつかこの力のバランスは崩れ、互いに正面衝突をすべき運命にあったことは、誰の眼にも歴々として映じていたのである。」(『大衆明治史』p.51-52)

廃藩置県によって、てっきり中央政府が地方の官吏の任免権を手中に収めたものとばかり考えていたが、鹿児島県は例外であったというのである。菊池寛の文章を読んでいると、鹿児島県は別世界で「西郷王国」のような状態であったことがよく解る。
中央政府が当たり前のことを実行しようとしても、鹿児島県に対しては随分苦労していることが書かれていて面白い。

ooyama.jpg

「これが爆発の直接原因は、内務省の発動による、鹿児島県の役人の転免である。つまり中央政府が封建的最後のものとしての薩摩をその統制下に据え直そうとしたことによる。
明治九年七月初旬、大久保は鹿児島県令、大山綱紀に上京を命じた。県令は当時奏任官だから、内務卿の一断で自由になるであるが、それを呼び寄せて相談を図らねばならないところに薩摩の特殊性があるわけである。
大山は十七日に入京、病中の大久保は、大山に向かって、
『近く内政改革をやる積りだが、鹿児島県も参事課長以下官吏の更迭をやるが、宜しく頼む』
と語った。
大山は西郷派の一人であるから、とてもこんなことが出来るわけはない。一方地方長官としての苦しい立場もあり、
『それでは辞職させていただきます』
と辞任を申し出た。
大久保は強いてこれを宥めて、内務省林友幸を同行させて、鹿児島へ帰らせた。
林は十年正月四日、登庁して様子を見たが、とても手がつけられないと直感して、帰京することになった。」(『大衆明治史』p.52-53)

しかし鹿児島県では、中央政府が鹿児島県の西郷系の官吏を一挙に更迭しようとしているという話が一気に拡がって行ったのである。

私学校跡

征韓論争の後鹿児島に帰った西郷は、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設し、西郷とともに下野した不平士族たちを統率し、県内の若者の教育に力を入れていた。
その私学校党の青年たちが暴発してしまうのである。その経緯を菊池寛はこう書いている。

「血気に速る私学校党の青年たちは、公然銃器を携えて鹿児島城下を横行し、喋々として政府の挙措を誹謗し、まさに一大変動勃発の徴があった。
この形勢に更に火を注いだのは、中央から発せられた密偵であった。中原尚雄以下二十三名の鹿児島県出身者は結束して帰省し、正月六日頃から、鹿児島各方面をスパイして歩いた。これを発見して捕えた私学校生徒たちは、これを西郷への刺殺者であると憤怒する。形勢は刻々に暗澹たるものになっていった。
二月九日の郵便報知新聞は
『この間から鹿児島県の動静をチラホラ耳にしましたが、滅多なことを掲げて天下の視聴を驚かしては容易ならぬことと控えておりましたが、あまり噂が甚だしくなりましたからちょっと述べます。
三菱会社の赤龍丸は大阪鎮台の御用船となり、去月二十七日鹿児島県着三十一日同所にあるところの弾薬二千個を滞りなく積み入れ、本月一日に千八百個を積み入れる手筈の際、突然士族輩二千五百人程にて取囲み、この囲みを出るものは切殺すぞと脅し、この弾薬を悉く持ち去りたり。よつて鎮台士官も赤龍丸に乗組み、ただちに出帆、六日暮神戸に着せり。林内務少輔は大分県辺巡回中なりしが、直ちに引返し、説諭のため鹿児島に出張せらるるよし』
火薬搬出は要するに、事実上の挑戦であった。しかもこの火薬に火は点ぜられたのである。」(同上書 p.53-54)

中原尚雄以下23名の鹿児島県出身者が帰省したのは明治9年1月11日の事だ。その目的は、西郷隆盛私学校幹部の偵察や旧郷士族の私学校からの離間工作が目的であったと言われているが、私学校の学生たちが警戒して当然だ。
そして1月29日に政府は鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠の武器弾薬を大阪へ移すために、秘密裏に赤龍丸を鹿児島へ派遣して搬出を行おうとした。それを私学校学生が奪い取る事件が起きている。
Wikipediaによると、「鹿児島属廠の火薬・弾丸・武器・製造機械類は藩士が醵出した金で造ったり購入したりしたもので、一朝事があって必要な場合、藩士やその子孫が使用するものであると考えられていた」こともあり、私学校学生にとっては「中央政府が泥棒のように薩摩の財産を搬出した事に怒るとともに、当然予想される衝突に備えて武器弾薬を入手するために」奪い返そうとしたのは心情的には理解できる。しかし私学校学生が奪い取った武器と弾薬は、旧式のものであったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89

1月30日に私学校幹部は中原尚雄等を内偵し、中原らの帰郷が西郷暗殺を目的としているという情報を入手している。
Wikipediaによると、中原尚雄は旧知の谷口登太に「自分は刺し違えてでも西郷(隆盛)を止める」といったとされ、これが「明治政府による西郷暗殺の陰謀」の証拠とされて、同年2月3日、他の帰郷中の同僚らと共に私学校生徒に捕らえられ、厳しい尋問の末に明治政府が西郷を暗殺しようとした陰謀があったことを自白したという。その結果、私学校生徒の暴走に歯止めが効かなくなってしまったと書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%B0%9A%E9%9B%84
中原が「西郷らを視察する」と言った言葉が「刺殺する」と誤解されたという説もあるようだが、今となっては知る由もない。重要なのは、彼等が西郷らの刺客として中央政府から送り込まれたと私学校生徒が判断した事実である。

西郷隆盛に1月29日の武器弾薬略奪事件の情報が届いたのは、2月2日のことだった。隆盛は大隅で漁をしているときに、弟の小兵衛からその報告を受けている。ふたたび菊池寛の文章を引用する。

「『おはん達は、何たることを仕出かしたか』
と大喝したが、しばらくして、
『それでは、おいどんの身体を上げまっしょう』
と言ったのは、誰でも知っている話である。
一万三千人の愛する私学校生徒の為に命を投げ出す、その心情は美しいが、同時に征韓論決裂以来押さえに押さえてきた鬱屈が、子弟1万余の動揺を前にして、一時に爆発したのではなかろうか。
ことに西郷を怒らせたのは、彼に刺客を向けたということであろう。政府の考えでは、恐らく単なるスパイのつもりであったのだろうが、これがいつしか暗殺者と言われるようになり、これが西郷の耳に入って嚇怒させたのであろう。

西郷隆盛

維新以来、国家のため犬馬の労を尽くした、自分を殺させるという法があるか。これが西郷の戦争の理由のポイントである。だから、刺客を寄こした木戸、大久保を朝廷から一掃する、その為の精鋭三万の大挙東上なのである。
暗殺ということは、現在のわれわれにはあまりピンと来ない。しかし、維新の動乱時代に様々の暗殺の経験を経てきている西郷などには、われわれの想像以上に生々しく切実な感じがしたのであろう。
だから西郷が征韓論に敗れた時、逸早く身を隠して、政府の眼をくらましたのは、気持ちの上のいろいろな複雑なものがあったであろうが、その一部分には、暗殺の危険というものを、実に素早く感じたには違いないのである。 …
…中原尚雄らを刺客として、ハッキリ眼前に見た時、西郷は遂に最後の肚を決めたのであろう。
大山綱紀の名で、征討将軍に奉った一文に、西郷は断乎として述べている。
『隆盛等を暗殺すべき旨官吏の者に命じ、事成らざるに発覚に及び候。此の上は人民憤怒の形勢を以て、征討の名を設けられんとする姦謀、千載の遺憾此の事と存じ奉り候』」(同上書 p.55-57)

西郷隆盛が戦う肚を固めて、その準備が進んでいく。

SumiyoshiKawamura.jpg

時局収集の任を帯びて、薩摩出身の海軍大輔川村純義が急遽鹿児島にやって来たのだが、この時は川村は上陸すらできなかったという。菊池の文章を読むとその時の鹿児島の異常な空気が伝わってくるようだ。

「『それ西郷先生が軍艦へ行く。危ないからお供をしろ』
と私学校の若者たちが殺到して物凄い光景を呈した。川村は危ないとみて艦をずっと沖合に移動させる。艦長伊東祐享が、撃ってもよいかと川村に聞いた程、この私学校党の勢いは凄まじいのであった。
西郷は近衛都督の時分、この私学校系の兵士の駕御の困難を譬えて『破裂弾上に寝る』と言ったことがあるが、今やその統制は全く西郷一人の力では、如何ともすることが出来ない状態である。
私学校徒にとって、郷党大先輩であり、西郷の親戚であり、然も温かい手をさしのべようとしてやってきた川村中将に対してすら、政府の一員、敵の一人として以外に見ることが出来ぬ程、偏狭になり、陰悪になっているのである。
何故であろうか。想うに、南隅なるが故に、最後まで取り残されたこの古い一団は、新時代の寒風が吹き募るにつれ、互いに団まり合い、抱き合い、今では互いの体温を温めあうところ迄追い詰められていたのである。薩摩の天地に人無きにあらずだ。しかし時代のわかる連中は中央へ出きってしまい、古さと人情だけで生きる人たちだけが残って、その不満と反抗だけが固まって出来上がったものがこの西郷王国だとしたら、その最後は飽くまで悲劇的ならざるを得ないではないか。」(同上書 p.58-59)

Wikipediaによると、鹿児島の私学校は明治7年4月に旧鹿児島城(鶴丸城)内に陸軍士官養成のための「幼年学校」「銃隊学校」「砲隊学校」の三校が設立され、「幼年学校」の設立に当たっては西郷隆盛が二千石、大久保利通も千八百石、鹿児島県令大山綱良が八百石、桐野利秋が二百石を拠出しているが、「銃隊学校」「砲隊学校」は鹿児島県の予算によって設立されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%AD%A6%E6%A0%A1

桜島

重要なことは、大山が県令を務める鹿児島県は西郷が下野した後は、驚くべきことに新政府に租税を納めていなかったようなのだ。その一方で私学校党を県官吏に取り立てて、鹿児島県はあたかも独立国家の様相を呈していたという。さらに大山は西南戦争の際に官金を西郷軍に提供していたのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E7%B6%B1%E8%89%AF

前々回の記事で西郷隆盛がいなかったら廃藩置県の大改革が出来なかったことを書いたが、西郷のお膝元の鹿児島県だけは例外で、むしろ独立国の様相を呈していた。政府の命令を無視して地租改正も行わず、旧士族は刀を差し、銃や弾薬を蓄えて戦いに備えての訓練をしていたというのである。
今までこのような史実を学ぶ機会はほとんどなかったのだが、こういう史実を知らずしては、なぜ西南戦争が8か月も続く大変な戦いになったかを理解することが難しいのではないか。

西南戦争のことは次回に書くことにしたい。

****************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加





西郷隆盛はなぜ西南戦争を戦ったのか

前回は、GHQ焚書図書である菊池寛の『大衆明治史』の第4章「西南戦争」の前半部分を紹介した。前回の記事で書いたように、征韓論争に敗れて西郷隆盛が地元に戻ったころの鹿児島県は、中央政府に租税を納めず官吏の任免権を西郷らが掌握し、一種の独立国の様相を呈していた。明治10年(1877)1月になると中央政府が西郷らに刺客を送り込んだとの情報が拡がり、続いて私学校党の学生が、武器・弾薬庫を襲う事件が起こり、西郷はいよいよ政府と戦う肚を固めた。今回はその続きである。

官軍の総指揮を執ったのは長州出身で第3代・9代の総理大臣となった山縣有朋(やまがたありとも)だが、菊池寛が山縣の西南戦争に対する戦略を書いている部分をしばらく引用する。(原文は旧字・旧かな)

山縣有朋

「西郷の盟友山縣有朋は、西郷征討の戦略を次の如く書いている。
『南隅破裂するに当たり、渠(きょ:首領[西郷のこと])の策略その何の点にいずるは量り知るべからずといえども、これを要するに三策に過ぎず。第一は火船に乗じて東京あるいは浪華(大阪)に突入すること。第二は長崎および熊本鎮台を襲撃し、全九州を破り、以て中原に出ること。第三には鹿児島に割拠し以て全国の動揺を窺い、暗に海内の人心を揣摩(しま:推量)し、時機に投じて中原を破ること、恐らくは此の三項の外に出でずと洞察せり。よってそのいずれの点に出ずるも、我にあっては他を顧みず、力を一にして鹿児島城に向かい、海陸並進、桜島湾に突入し、奮闘攻撃し、瞬間鹿児島城を殲滅するを期して後に止む。
而して更に中国四国及び両肥等に向かってこれを撃破せんも難らず。…」
さすがによく喝破していると思う。要するに熊本の鎮台を捨て身で守ると同時に、全力を挙げて、敵の拠点鹿児島を揉み潰せというのである。敵は薩摩ばかりではない。天下の変を窺う守旧派は九州にも四国にも、奥羽にもあるが、わき目もふらずに鹿児島城を屠ってしまえば、他は問題とするに当たらないというのである。
この戦略が遂に成功して、鹿児島を襲った官軍は、西郷軍の糧道を絶ち、これを北九州に空しく彷徨四散させたのである。」(『大衆明治史』p.59-60)

西郷の率いる1万3千の軍は2月15日に鹿児島を発って北に向かい、「西郷立つ」の知らせを聞いた各地の士族が次々に合流し、この軍はわずかの間に3万に膨れ上がったという。
西郷軍が最初に目指したのは熊本城であったが、この城を目指したのは正しかったのか。

西南戦争熊本城

「…彼等の第一の誤算とも言うべきは、鎮台兵の戦闘能力に対する評価であろう。百姓や町人上がりの兵隊に何が出来るという肚なのである。戦争は武士がするもの、即ち武士が一番強い者と信じ切っていた彼等士族が、やがて当面しなければならなかったのは、精鋭な武器を持ち、近代的な戦闘法を会得した平民どもの執拗なる反撃なのであった。
熊本鎮台の頑強なる抵抗がそれである。然し一方、彼等薩南健児もまた善戦したと言うべきである。白刃を閃かせて、猛烈な肉弾戦を演じ、寡兵を以て雲霞のごとき官軍の陣営を脅かしている。
田原坂の一戦など、まことに薩南健児の真面目を遺憾なく発揮したものと言うべきだろう。
田原坂の戦いがはかばかしくいかない頃、木戸孝允は、岩倉に手紙を出し、
田原坂口も最初の算用と齟齬、既に20日近く相成り候えども、日々百五六十の死傷、既に傷人のみにても、二千五百人これある由、死人は未詳、実に大難戦にて御座候』
悲観的な言葉を述べているくらいだ。尤も木戸は元来悲観的にものを見るくせがあり、この時はちょうど病気だったので一層気が弱くなっていたのであろう。(これから2ヶ月後、木戸は病死している。)」(同上書 p.60-61)

c0013687_2291464.jpg

天下無敵の西郷軍はまず熊本城を包囲したが、熊本鎮台司令長官谷干城率いる熊本城は落ちなかった。熊本を包囲した西郷軍は官軍を迎え撃つために熊本城の北16kmにある田原坂を固める。
田原坂は長さ1.5km、標高差60mのゆるやかな坂だが、この坂を越える峠道は、非常に狭く曲がりくねった道となっている。この場所が西南戦争最大の激戦地となり、40日にも及ぶ両軍の死者は約4000人にも及ぶと言われている。

西南戦争田原坂

西郷軍3万に対し、官軍は7万。武器の性能においても官軍の方が優れていたという。西郷軍は良く戦ったとはいえ、こんな場所で苦戦することになることをはじめから想定していなかったとしか考えられない。

西郷軍の兵站方を担当することになった県令の大山綱吉は、出兵前に西郷に「多数の兵士を引率して、東京まで無事に行けるでしょうか」と質問しているが、その問いに対する西郷の回答は驚くべきものであった。菊池はこう書いている。

「『いや自分は陸軍大将だからたとえ全国の兵を率いるとも、陛下から特にお許しを受けている次第である』と答えている。
それでも、大軍の登場するに当たって、鎮台の軍隊が妨害を加えることになろうから、それをどうするかと重ねて訊ねても、西郷は、
『途中の県庁の方は、然るべく取り計ってもらいたい』
と簡単に答えているが、西郷とても血気に逸る三万の兵を引率して、坦々として東京に出で、闕下(けっか:天皇陛下の前)にその所信を訴えられるとは考えていないのだ。
鎮台は必ずこれを阻止する。これが戦争だ。…」(同上書 p.57-58)

簡単には行けるとは考えてはいなかったにせよ、東京には行けると考えていたからこそ西郷は戦う肚を固めたのだろう。しかし西郷軍は武器弾薬が不足し、圧倒的な兵力と物資を誇る政府軍に追い詰められて、敗色濃厚となっていくのだ。

img_325806_14445751_8.jpg

8月17日、西郷は官軍の包囲網を脱するために可愛岳(えのたけ)突破を決意する。この日に急坂を登り可愛岳頂上を目指した西郷軍は600人だったという。翌朝4時に到達した頂上には、第二旅団の官軍が屯していたが、こんなところに西郷軍が現われるとは考えておらず、官軍は総崩れとなる。

map.jpg

可愛岳突破に成功し、西郷軍は鹿児島に向けて南進した。宮崎県の山岳地帯を、全行程400kmの道のりを、官軍と戦いながら、14日間も歩きとおしたのである。

西郷らは、9月1日に再び故郷・鹿児島の土を踏んだ。
一旦は鹿児島市街をほぼ制圧したが3日には形勢が逆転し、その後官軍は続々と鹿児島に到着した。6日には城山包囲体制が完成した総勢7万の兵士がわずか372人の西郷軍を取り囲んだという。

seinan.jpg

9月22日に西郷は「城山決死の檄」を出している。これが西郷の絶筆となった文章である。

「今般河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、全く味方の決死を知らしめ且(か)つ義挙の趣意を以て大義名分を貫徹し、法廷において斃れ候賦(つもり)に候間、 一統安堵し、此の城を枕にして決戦致すべき候に付き、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様、覚悟肝要にこれあるべく候也」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89

翌23日、軍使が持ち帰った参軍川村純義からの降伏の勧めを無視し、山縣有朋からの西郷に自刃を勧告する書簡にも返事をしなかったという。

9月24日午前4時、官軍の総攻撃が始まった。弾丸に斃れる者が続き、西郷も股と腹に被弾した。西郷は、負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し、遙かに東方を拝礼した。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を介錯した。その後別府晋介はその場で切腹したという流れだ。

西郷の最期

西郷が何のために戦ったのかは様々な説があるが、この西郷の最後の「檄文」のポイントの部分を政治哲学者の岩田温氏は著書の中でこう訳しておられる。

「味方の決死の覚悟を敵陣に伝えるとともに、この挙兵の意義を以って、大義名分を貫徹し、理がどちらにあるかを明らかにして斃れるつもりなので、諸君らは心安くしなさい。この城を死地と考えているので、今一層の奮発と、後世に恥辱を残さないよう覚悟して戦うように」(『日本人の歴史哲学』p.158)
では命を捨ててまで西郷が守るべきものは何であったのか。この問いに対しては、岩田温氏の文章が私には一番納得できる。岩田氏は江藤淳の『南洲残影』の文章を引きながらこう書いている。

「明治維新の目的とは無道の国から派遣された黒船を撃ち払い、国を守ることにあったのではなかったか。ところが天子をいただく明治政府は何を為したか。彼らは自ら進んで国を西洋化し無道の国への道を歩むに至った。彼らは『日本の津々浦々に黒船を導き入れ、国土を売り渡そうとしている』。(江藤淳氏は)これを西郷が許せるはずもなく、挙兵に至ったとする。
筆者もここにこそ、西郷挙兵の大義を求めるべきであろうと考える。

維新を成し遂げた日本が盲目的に西洋化を推し進めている。本来進むべき道を誤っているように思われてならない。このままでは国が滅びる。それこそが、下野して以来の西郷の真意であったのではないか。

では何故に国家を守らんとするものが、国家を代表する 政府に反旗を翻すのか。
それは国家とは現に存する国民の専有物ではありえないからに他ならない。過去、現在、未来と連綿と続く垂直的なるもの、それこそが西郷の守らんとした国家であったからである。現在の政府は垂直的共同体としての国家を断ち切り、これを滅ぼさんとする革命勢力ではないか。これを断固として拒絶せねばならない。これが西郷の思いではなかったろうか。

後世の国民に敢闘の記憶を残すことによって垂直的共同体としての国家を守り抜く。歴史の中で自らを犠牲にしても国家という垂直的共同体を守らんとすること、これこそ が西郷の思想であり、日本人の歴史哲学であったのではないか。
それゆえ西郷は最後に至るまで戦い抜く道を選ぶ。何故ならこの徹底抗戦である姿こそが肝要であるからである。拙くとも徹底して西洋、近代に対峙し戦い抜いた記憶をも国民と持たざる国民とでは自ずからその未来の差はあきらかであろう。そのためにこそ必敗の戦いを選んだのだ。」(『日本人の歴史哲学』p.152-155)

e0q.png

西郷が23日に川村純義からの降伏の勧めを無視し、山縣有朋の自刃を勧告する書簡にも返事をしなかったのは、こう考えるのが私には一番すっきりするのだ。
勝海舟は西郷を「西郷さんは自分の思想を歴史に委ねようとした」と評したというが、もし西郷が川村や山縣の勧告をあの時に受け入れてしまっていれば、西郷が西洋的価値観と戦ってきたことの意義を失って、西郷が守ろうとしたものは、いずれ何も残らなくなってしまったことだろうし、自由民権運動があれほど盛り上がることもなかったのではないか。

岩田氏が指摘している問題は、現代社会にもつながるところがある。
グローバル経済社会は、日本各地にあった「垂直的共同体」としての地域共同体を破壊していくばかりで、このままでは地域の伝統を維持するどころか、わが国の伝統や文化を守ることも、国土を守ることすらもいずれは難しくなっていくのではないだろうか。
核家族化が進み単独世帯が増えれば増える程「垂直的共同体」の維持が困難とならざるを得ない。我々現役の世代が、次の世代に命がけで伝え残すべきものがなくなり、その次の世代すら地元に残らなくない時代が続けば、いずれわが国は「国家」の体をなさなくなってしまうのではないか。特定の価値観を是とすることは、いずれは国家観や歴史観にも繋がっていくものなのである。
「グローバリズム」という思想は、長い目で見れば日本人を幸せにしないのではないだろうか。
普通の人間が、普通の努力をして地方で家族が共に普通に暮らせる社会を、どうすればわが国はもう一度構築しなおすことができるのか。
***************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加






西郷との会談で江戸城の無血開城を実現させた勝海舟は西郷の遺児支援に奔走した

慶応3年(1867)12月9日に薩長両藩および岩倉具視らの討幕派は王政復古の大号令を発し、天皇親政による新政府を樹立した。新政府は幕府だけでなく摂政・関白を廃絶し、会津藩・桑名藩の宮門警衛を停止した。また同日夜の小御所会議で、前将軍慶喜に内大臣の官職と領地の一部を返上(辞官・納地)させる決定をしている。

この決定に憤激した旧幕府方や会津・桑名の二藩は、明治元年(1868)1月、薩摩・長州両藩兵を中心とする新政府軍と鳥羽・伏見で戦闘を交えた(鳥羽・伏見の戦い)が敗れ、敗戦の報を受けた慶喜は大阪城を出て江戸に向かって、朝廷に恭順の姿勢を示した。
新政府の征討軍は慶喜を朝敵とみなして江戸に迫ったが、官軍参謀西郷隆盛と徳川方の旧陸軍総裁勝海舟との会談が行われ、4月に江戸城の無血開城が実現している。

江戸無血開城

Wikipediaの解説によると、「勝は東征軍との交渉を前に、いざという時の備えのために焦土作戦を準備していたという。もし東征軍側が徳川家の歎願を聞き入れずに攻撃に移った場合や、徳川家臣の我慢の限度を越えた屈辱的な内容の条件しか受け入れない場合には、敵の攻撃を受ける前に、江戸城および江戸の町に放火して敵の進軍を防いで焦土と化す作戦である」と書いてあり、3月10日付の『海舟日記』が引用されている。

「もし今我が歎願するところを聞かず、猶その先策を進まむとせば、城地灰燼、無辜の死数百万、終にその遁れしむるを知らず。彼この暴挙を進むに先んじ、市街を焼きてその進軍を妨げ、一戦焦土を期せずんばあるべからず」

勝海舟

勝は江戸湾にあらかじめ船を用意しておいて、火災が起こった後に避難民を救出する計画まで具体的に立てていたことを後年語っているそうだが、それくらいの覚悟がなければ、西郷相手に譲歩を引き出すような交渉はとても出来なかったのではないか。

この時の西郷と勝の会談の場面が、勝海舟の談話集である『氷川清話』という本に書かれている。ポイントとなる部分を引用する。(原文は旧字・旧かな)

「西郷なんぞは、どの位ふとっ腹の人だったかわからないよ。手紙一本で、芝、田町の薩摩屋敷まで、のそのそ談判にやってくるとは、なかなか今の人では出来ない事だ。
あの時の談判は、実に骨だったヨ。官軍に西郷が居なければ、談(はなし)はとても纏まらなかつただらうヨ。

さて、いよいよ談判になると、西郷は、おれのいう事を一々信用してくれ、その間一点の疑念も挟まなかった。『いろいろむつかしい議論もありましょうが、私が一身にかけて御引受します』西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産とを保つことが出来、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。もしこれが他人であったら、いや貴様のいう事は、自家撞着だとか、言行不一致だとか、沢山の兇徒があの通り処々に屯集しているのに、恭順の実はどこにあるかとか、いろいろ喧しく責め立てるに違いない。万一そうなると、談判は忽ち破裂だ。しかし西郷はそんな野暮はいわない。その大局を達観して、しかも果断に富んでいたには、おれも感心した。
この時の談判がまだ始まらない前から、桐野などという豪傑連中が、大勢で次の間へ来て、ひそかに様子を覗(うかが)っている。薩摩屋敷の近傍へは、官軍の兵隊がひしひしと詰めかけている。その有様は実に殺気陰々として、物凄いほどだった。しかるに西郷は泰然として、あたりの光景も眼に入らないもののように、談判を仕終えてから、おれを門の外まで見送った。おれが門を出ると近傍の街々に屯集して居た兵隊は、どっと一時に押し寄せて来たが、おれが西郷に送られて立って居るのを見て、一同恭しく捧銃(ささげつつ)の敬礼を行なった。…
この時、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判の時にも、始終座を正して手を膝の上に載せ、少しも戦勝の威光でもって、敗軍の将を軽蔑するというような風が見えなかった事だ。」(『氷川清話』講談社文庫p.62-63)

勝は旧幕府方が新政府に抵抗することには反対だったという。内戦が長引けば、イギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が2分される事態を避けるべきだとの考えであったようだ。
勝海舟は新政府でも海軍大輔、参議兼海軍卿などを歴任しているが、西郷が西南戦争で非業の死を遂げた頃からは表舞台から離れて、著作や旧幕臣たちの救済に力を注いだようである。

Wikipediaによると勝海舟は、「慶喜を明治政府に赦免させることに晩年の人生のすべてを捧げた。この努力が実り、慶喜は明治天皇に拝謁を許され特旨をもって公爵を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことが許されている。そのほかにも旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた」とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F

新政府に江戸城を明け渡したのち徳川家は静岡に移住し、旧幕臣たちも多くが静岡に移ったのだが、徳川宗家の公称800万石が70万石に縮小されて大量の武士たちが職を失い、生き抜く術を自ら決断しなければならなくなってしまった。旧幕臣たちの中には一家が離散し、悲惨な暮らしをしていた者も少なくなかった。
そこで勝はそんな人々をなんとか助けてやろうと起ち上がったという。
勝は明治新政府や全国の大名に人材の売り込みを行なったり、旧幕臣たちが持っていた刀剣類や古美術品などを売り捌いたりしたのだそうだ。

makinohara01.jpg

静岡県の牧之原台地といえばお茶の生産地で有名だが、この土地を開墾して茶畑にしたのは、旧徳川幕府に仕えた幕臣たちである。勝海舟は開墾の為にかなりの資金を中條景昭らに支援したと言われている。
以前このブログで坂本龍馬暗殺したと言われている今井信郎のことを書いたが、この今井信郎も明治11年に牧之原台地に入植し茶の生産に携わっているという。
http://www.daitakuji.jp/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E3%81%AE%E5%B9%95%E6%9C%AB%E5%8B%87%E5%A3%AB/

明治新政府の改革で職を失い、不満を持った士族が新政府に反乱を起こす事件が全国各地で起こったのだが、旧幕臣からは反乱がおきなかったのは勝海舟のような人物がいたからなのだろう。
勝海舟が手を差し伸べたのは、旧幕臣だけではなかった。なんと、江戸城無血開城のためにともに談判した西郷隆盛の名誉回復の為に尽力し、西郷の遺児の援助も買って出ているのだ。

勝海舟と西郷隆盛

松浦玲氏の『勝海舟と西郷隆盛』によると、西郷の死から2年後の明治12年(1879)に勝海舟は、隆盛を偲んで留魂碑を建立している。朝敵として征討された男の記念碑のことなど誰も言い出せないような時期に、海舟は独力でこの碑を建立しているのだ。
当初は東京都葛飾区の浄光寺という寺に建てられたそうだが、海舟の死後に東京都大田区の洗足池の畔にある海舟の墓域に移されたのだそうだ。
碑の表には西郷の『獄中有感』と題された漢詩が彫られ、裏面には勝海舟の隆盛に対する熱い思いが綴られている。(原文は漢文)

留魂碑

「慶応戊辰の春、君大兵を率いて東下す。
人心鼎沸、市民荷担す。
我之を憂へて、一書を屯営に寄す。
君之を容れ、更て令を下して兵士の驕傲(きょうごう)を戒め、
府下百万の生霊をして塗炭に陥らしめず。
これ何らの襟懐、何らの信義ぞ。
今君已に逝たり。たまたま往時書する所の詩を見る。
気韻高爽(きいんこうそう)、筆墨淋漓(りんり)、恍としてその平生を視るが如し。
欽慕の情、自ら止む能はず、石に刻して以て記念碑と為す。
ああ君よく我を知れり、而して君を知る亦(また)我に若(し)くは莫(な)し。
地下もし知る有らば、それ将に掀髯(きんぜん)一笑せんか。
明治十二年六月 友人勝安芳誌す」

前半の部分は言うまでもなく、二人で会談した江戸城無血開城のことである。 また最後の方で、誰よりもこの海舟が西郷のことをよく理解していたという意味のことを書いているが、この点は注目して良い。当時薩摩藩出身の者は数多く生存していたにもかかわらず、西南戦争直後に新政府軍に反旗を翻した西郷を褒め称えることが出来る雰囲気ではなかったことが考えられる。

そして勝海舟は西郷の七回忌の頃に、当時明治天皇の侍従を務めていた山岡鉄舟への書状の中で、西郷の罪科を取り消し、西郷の遺児を江戸に呼ぶことを提案したという。
この書状は明治天皇のもとに届き、西郷の嫡男・寅太郎は明治政府に採用されてポツダム陸軍士官学校留学を命ぜられ、隆盛が徳之島に遠島されていた時代に愛加那との間に生まれた菊次郎は外務書記生として米国公使館勤務が決まった。
隆盛の弟・吉二郎の長男の隆準も寅太郎と同行し留学を希望したので、勝海舟は徳川家から借金までして、寅太郎と隆準の留学の際の餞別金350円を手渡したそうだ。

西郷寅太郎

西郷寅太郎は13年間ドイツで学んだ後帰国して明治25年(1892)陸軍少尉に任じられている。明治35年(1902)には父・隆盛の功により侯爵を授かり華族に列せられ、貴族院議員に就任している。この日に徳川慶喜も公爵を授けられている。

西郷菊次郎

また西郷菊次郎は外務省勤務の後、日清戦争で日本が台湾を得た明治28年(1895)に台湾に転じ、台北県支庁長、宜蘭庁長(4年半)に就任。日本に帰国後、京都市長(6年半)などの任に就いている。

また西郷隆盛は明治22年(1889)の大日本帝国憲法発布大赦により過去の罪が赦されて正三位が贈られている。またその年に西郷隆盛像の建設の話が持ち上がる。高村光雲らの制作による西郷隆盛像が上野公園に完成したのは明治31年(1898)年だった。

saigou.png

しばらく松浦玲氏の著書を引用する。

「…12月18日、いよいよ上野の西郷隆盛像の除幕式である。午前10時開会で建設委員長樺山資紀の報告、除幕委員長川村純義の挨拶、内閣総理大臣山縣有朋の祝辞と式次第が進む。
次いで川村純義がまた立って海舟の和歌を代読し、南洲(西郷隆盛)と海舟の功績を讃える演説を追加した。代読した歌は次の三首である。

せめつゞみ みはたなびかし たけびしも 昔の夢のあとふりにける
咲花の 雪の上野に もゝつたふ いさをのかたみ たちし今日かな
君まさば 語らんことの沢なるを 南無阿弥陀仏 我も老いたり

… 川村は追加演説で、いまや幽明界を異にするけれども両雄が一場に会したのだと、本日の意義を強調した。「幽」の西郷が銅像となり、「明」の海舟と「一場に会した」というわけである。当人の演説はないけれども、海舟がもう一人の主人公なのだった。」(『勝海舟と西郷隆盛』p.192-193)

この除幕式からわずか1ヶ月後の明治32年(1899)年1月19日に勝海舟は脳溢血で倒れ、帰らぬ人となった。最後の言葉は「コレデオシマイ」だったという。

勝海舟という人物が明治の時代にいなければ、明治の歴史は随分異なったものになっていたことだろう。
徳川慶喜が処刑され、東京が火の海になってもおかしくなかったし、幕臣による士族の叛乱が長く続いたことであろう。わが国が長い間分裂状態にあれば、諸外国がわが国につけ入る隙はいくらでもあったと思うのだ。
明治という時代は国内が分裂する危機が何度かあったのだが、旧幕臣が明治という国家の不安要因とならなかったのは勝の尽力によるものが大きかったと思う。
西郷の名誉が回復され、徳川慶喜と天皇との和解の儀が成功し、西郷の銅像の完成を見届けて、勝海舟は自分の使命を終えたことを自覚したかのように77歳の生涯を終えたのである。
***************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。




FC2カウンター
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。キーワードを含む全てのブログ記事のリストと、記事の最初の文章が表示されます。記事を探す場合は、カテゴリーで記事を追うよりも探しやすいです。
リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
最新記事
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
QRコード
QRコード
RSSリンクの表示
タグクラウド

年別アーカイブ一覧
RSS登録er
おすすめ商品
ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
おきてがみ
ブログサークル
ブログサークル
ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!
文字を大きく・小さく
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    人気ページランキング
    集計スタート時期が良くわかりませんが、おそらく2016年の夏ごろから現在までの記事アクセスランキングです。
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    読書
    このブログで採り上げた本のいくつかを紹介します
    三田村武夫の 『戦争と共産主義』復刻版

    同上 電子書籍

    同上 自由選書版

    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史