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西郷隆盛なくして、地方の権力と武力を中央に集める廃藩置県が可能だったか

以前このブログでGHQによって焚書処分された菊池寛の『大衆明治史』という本を紹介したことがある。その時は中国人苦力(クーリー:単純労働者、奴隷)を乗せたマリアルーズ号というペルー船籍の船が横浜港で座礁したのだが、積荷が中国人苦力で、明らかに虐待されていた形跡から「奴隷運搬船」と判断して全員解放し、清国政府から感謝のしるしとして頌徳の大旆(たいはい:大きな旗)が贈られた話を紹介した。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-113.html

無題

この『大衆明治史』という本は、明治の人々が苦労を重ねながら難局を乗り越えて、新しい日本を築き上げていくところが具体的に書かれていて当時の時代背景がよく解って面白い。GHQの焚書処分を受けた本のために現物を入手することは容易ではないが、「歴史放浪」というサイトでPDFファイルが公開されており、誰でも読むことができるのはありがたい。
http://tncs.world.coocan.jp/tsmeijisi.html

この本の最初に書かれているのが「廃藩置県」である。
学生時代に明治の歴史を学んだ時に、どうして武士階級が自らの特権を消滅させる決断をなすことができたのかと疑問に思った記憶がある。

たとえば『もういちど読む 山川日本史』ではこう記述されている。
「政府はまず、諸大名がみずからの領地と領民を支配するこれまでの体制を打ち破るため、1869(明治2)年、諸大名に命じて領地と領民を天皇に返上させた(版籍奉還)。しかし藩主は、石高にかわる家禄の支給をうけ、そのまま知藩事(地方官)とされて藩政に当たったため、中央集権の実効はあまりあがらなかった。
そこで、木戸孝允・大久保利通ら政府の実力者たちは、中央集権体制を確立するため、1871(明治4)年7月、まず薩長土3藩から御親兵をつのって中央の軍事力をかため、ついでいっきょに廃藩置県を断行した。そしてすべての知藩事をやめさせて東京に住まわせ、政府の任命した府知事・県令を派遣して府県をおさめさせた。こうして全国は政府の直接支配のもとにおかれ、封建制度は解体した。
廃藩置県のような大変革が、諸藩からさして抵抗もうけずに実現したのはおどろくべき事実であったが、戊辰戦争で財政が窮乏していた諸藩には、もはや政府に対抗する力はほとんどなかったのである。」(『もういちど読む 山川日本史』p.219-220)

このように教科書には「大変革」という言葉を使いながらも、「さして抵抗もうけずに実現したのはおどろくべき事実」とスムーズに改革が出来たように書いてあるのだが、教科書のこのような記述には昔からリアリティを感じなかった。

焚書図書3

西尾幹二氏が『GHQ焚書図書開封3』で、この『大衆明治史』を採りあげておられ、わかりやすく廃藩置県の意義を解説しておられる。
「明治維新を迎え、大政奉還をすると天皇が江戸に移りました―――といってみたところで、地方にはまだたくさんの大名がいます。権力は各地に分散していました。明治新政府が権力を持つためには、地方の権力を全部取り上げてしまわなければならない。そこで大名の持っていた武力をすべて召し上げて、藩をなくして全部県にしたいわけですが、それを実施するには中央に武力がなければならない。中央に権力と武力があって初めて中央集権が成立する。それが廃藩置県の意義でした。
明治の冒頭で、菊池寛がまず廃藩置県に注目したのはじつにみごとだと思います。廃藩置県こそ明治維新の最初にして最大の出来事だったのです。」(『GHQ焚書図書開封3』p.258)

しばらく菊池寛の文章を引用してみる。[原文は旧字・旧かな]

「諸侯の土地を中央に収め、その軍隊を裁兵する。いわゆる、完全な封建制度の打破が、どんなに困難な大事業であるかは、外国の歴史をちょっと覗いてみただけでも分るだろう。これが日本では比較的スラスラ行われたのであるから、外国人が驚くのは無理もない。血を見ずして、憲法が発布されたのとともに、明治史の二大会心事といってよい。
しかし、廃藩置県の思想は、一部進歩的な具眼者の中には早くから萌していて、その先駆としての版籍奉還は、早くも明治二年に行われているから、すなわち幕府は折角倒しても、諸侯がなお土地人民を私有していては、真に維新の目的が達成されたとは言われない。この土地人民を朝廷に奉還し、復古の大業を完成しなくてはならぬと考えられていたのである。
木戸は藩主毛利敬親に説き、大久保は島津忠義に説き、こうして出来上がったのが、明治二年の四大藩主連署(島津忠義、毛利敬親、鍋島直大、山内豊範)の版籍奉還の上表である。」

『山川日本史』に名前が出てきた木戸孝允と大久保利通は、明治二年の「版籍奉還」で藩主を口説いたということが書かれている。しかし「版籍奉還」だけでは地方に大名がいる江戸時代と実質的には変わらない。「明治維新」がピリオドを打つためには、封建諸侯が土地人民を支配する体制を崩壊させることが必要となるのだが、そのハードルは相当高かったはずだ。「廃藩置県」となると全国に200万人にものぼるという藩士の大量解雇につながる話なのだ。

菊地寛

菊池寛の文章を読み進むと、この当時の明治新政府の舵取りが容易ではなかったことが見えてくる。

「明治二年から四年の廃藩置県にかけての、新興日本は、非常なピンチの中にあった。一歩誤れば建武の中興の二の舞である。
一見、王政は復古し、五箇条の御誓文は発布され、万機公論に決するという国是も確定されたが実際の政治は決してそんな立派なものではない。
維新大業に於ける薩長の功労は圧倒的だ。しかし彼等とても、公議世論の声に圧せられて、思い切って新政に臨むことが出来ない。まして、他の藩の有力者たちに、何も積極的にできるわけはない。
新政最大の弱点は、実にこの、政治に中心勢力がないことであった。」

「建武の中興」というのは、鎌倉幕府滅亡後の1333年6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始した事により成立した政権を指すが、わずか2年半で瓦解してしまった。菊池寛は、明治政府がわずか数年で瓦解するピンチであったことを述べているのだ。
明治政府を誕生させたのは、薩長土肥の4藩の活躍がなくてはなしえなかったのであるが、これらの藩がまとまっていたかというと、そうではなかったようなのだ。
薩摩の西郷隆盛は新政府の考え方と合わず距離を置いていたし、藩主島津久光は、四民平等、廃藩置県などはもってのほかだと不機嫌であった。しかも西郷を嫌っていた。
長州の首領格の木戸孝允は薩摩嫌いで、土佐は薩摩の武力主義に対して、公議政治という奇手を用いて新政府に割り込もうとしていたし、肥前は薩長土が維新の渦中で人材を消耗しつつある間に、悠々と機会を窺っていたという。

明治二年四月二六日に大久保利通岩倉具視に宛てた手紙には、「…天下の人心政府を信ぜず、怨嗟の声路傍に喧喧、真に武家の旧政を慕うに至る…かくまでに威令の衰減せしこと歎息流涕の至りにたえず…」と書いており、その危機感がよく伝わってくる。

大久保利通

菊池寛は当時の大久保利通の危機感についてこう解説している。
「上下両極の議政所における、諸藩出身の貢士たちがいくら論議を重ねても、また群卿諸侯の大会議が何度開かれても、所詮朝廷の根軸を建て、確固たる中央政府が出来上がるわけではない。朝廷に実力ある兵力なく、また財力があるわけでもない。こんな風潮では、天下は遠からず瓦解してしまうというのである。

公議、世論など、亡国的俗説だ。薩長専横と言わば言え、今日において、薩長の実力に依らないで何が出来るか。我々はくだらぬ批難など耳に傾けず、薩長連合して、朝廷を中心に戴き維新当初の精神に立ち返って、働くべきだと論じた。この時に当たって、多少の摩擦混乱はやむを得ない。即今幸いにも外患がないから、多少の内乱恐るるに足らずだ。要は一刻も早く、国内統一し、国家の基礎を確立して、外国に対抗せねばならん、というのである。

この決心を以て、大久保はまず起ち、岩倉、木戸の同意を得て、一路薩長連合に向かって突進した。
この結果、西郷が再び中央の政界へ、薩長連合の党首として乗り出すことになり、朝廷に近衛兵が置かれることになり、そして、最後に封建的割拠主義に最後の止めを刺す、廃藩置県という、画期的な改革が見事に出来上がるということになったのである。」

要するに、薩長が明治政府の中心にならなければ抜本的な改革は出来ず、また薩長をひとつにまとめ上げるためには、中心に西郷隆盛がいることを必要としていたということなのだ。大久保は岩倉具視を勅使として薩摩にいる西郷を訪ねて上京を促し、西郷の同意を得たのである。
明治四年二月に西郷が東京入りして、朝廷に新兵が設置され薩長土三藩の兵が集められて中央政府の実力を固め、六月には自ら参議となって薩長の独裁政治体制が完成し、ようやく大改革を推進する体制が整った。

西郷の参議就任直後に山縣有朋は西郷を訪れ、滔々と廃藩置県の必要性を説き西郷の了解を得、七月九日には木戸孝允邸で廃藩置県の秘密会議が開かれた。大久保利通の日記を引用しながら、菊池寛はこう書いている。

「大久保の日記に
『九日、…五時より木戸氏へ訪。老西郷氏も入来、井上山縣も入来、大御変革御手順のこと、かつ政体基則のこと種々談義す。凡そ相決す。』
この時、木戸、大久保に苦慮の色があるのを見て、西郷は
『貴公らに、廃藩実施の手順さえ附いておれば、その上のことは拙者全部引受ける。暴動が各地に起きても、兵力の点なら、ご懸念に及ばず。必ず鎮圧して、お目にかけましょう』 と言った。
この一言に、一同は一息ついて、議論が一決したのである。…

こうして、七月一四日疾風の如く廃藩令が下ったのである。」

西郷隆盛

菊池寛の『大衆明治史』が面白いのは、立場の異なる人間の動きが具体的に記されていて時代の動きがダイナミックに読み取れる点だ。

「西郷上京に際して、(必ず廃藩置県などやるでないぞ)とダメを押した島津久光(藩主忠義の父、事実上薩摩の主権者)は、廃藩令の薩摩に伝わるや、花火を揚げて、不満を爆発させたという。諸侯と言わず、武士と言わず、保守派に与えたショックは、蓋し甚大なるものがあると思う。
西郷はその心境を家老に告げ、
『お互いに数百年来の御鴻恩、私情においては忍び難きことに御座候えども、天下一般此の如き世運と相成り、此の運転は人力の及ばざる所と存じ奉り候』
と述べている。どちらかと言えば保守派である西郷である。苦衷想うべきだろう。
廃藩令が下るとともに、従来の藩は、次第に県に改まり、十一月になって七十二県が出来たのである。
一方大久保は、現在の内務、大蔵、逓信、農林、商工の五省を兼ねた大蔵省に立てこもり、井上馨、伊藤博文、松方正義、津田出などの新人を引き具して、いよいよ新政策に邁進することになった。
彼等の眼よりすれば、西郷は一種のロボットである。廃藩置県の大仕事が済んでしまえば、もう西郷は必要としないのである。西郷の好みそうもない政策が次々と生まれてくる。
八月九日、散髪脱刀許可令
八月十八日、鎮台を東京、大阪に置き、兵部省に属せしむ。
八月二十三日、華士族平民婚嫁許可令。
等々、四民平等、士族の特権はどんどん剥ぎとられて行く。」

菊池寛の文章を読むと、この『廃藩置県』が大変な改革であり、西郷隆盛の存在がなければその実現が難しかったことがよく理解できる。
しかしながら、『山川日本史』をはじめとする教科書や通史には、この大改革がスムーズに進んだことを強調して、廃藩置県に西郷隆盛の名前が出ることがほとんどないように思う。

このブログで何度も、歴史は勝者にとって都合の良いように編集されることを書いてきた。明治政府にとっては、後に西南戦争で官軍と戦うことになった西郷隆盛の力がなければ、「廃藩置県」の大改革がなしえなかったという史実は「明治政府にとって都合の悪い真実」であり、教科書などの歴史叙述の中には書かせたくなかったのではないだろうか。多くの教科書や概説書で、廃藩置県を「さして抵抗もうけずに実現した」というスタンスで書くのは、西郷が西南戦争で明治政府軍と戦った史実と無関係ではないと思うのだ。

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いつの時代でもどこの国でも、時の権力者が書かせたような歴史を何回読んだところで真実が見えてくるとは限らないのだと思う。基本的に権力者というものは、常に権力を握り続けるために嘘をつくものだと考えておいた方が良いだろう。
教科書を含めてわが国の歴史書の多くは官制史料を重視するスタンスで叙述されている傾向が強いと思うのだが、このようなスタンスでは、それぞれの時代で為政者にとって都合の悪い出来事については、いつまでたっても真実が見えて来ないのではないか。
官制の公式記録はもちろん参照すべき重要な史料ではあるが、内容がそのまま真実であるとして鵜呑みすることは危険なことではないのか。同じ時代を生きた人々の記録と読み比べることで本当は何があったのかを考える姿勢が、歴史を学ぶ上で大切なのだと思う。
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征韓論争は大久保が西郷を排除するために仕掛けたのではなかったか

前回は、GHQ焚書図書となった菊池寛の『大衆明治史』第1章の「廃藩置県」に関する記述を紹介し、西郷隆盛がいなければこのような大改革は為し得なかったのではないかといことを書いた。今回は、引き続き『大衆明治史』の第2章「征韓論決裂」に関する記述を紹介したい。

その前に、一般的な教科書の記述を読んでみよう。
「欧米諸国の朝鮮進出を警戒した日本は、鎖国政策をとっていた朝鮮に強く開国をせまった。これが拒否されると、西郷隆盛、板垣退助らは、武力を用いてでも朝鮮を開国させようと政府部内で征韓論をとなえた。しかし1873(明治6)年欧米視察から帰国した岩倉具視大久保利通らは、国内改革の優先を主張しこれに反対した。」(『もう一度読む 山川日本史』p.223-224)

この教科書の記述では西郷も板垣も武力で開国を迫り、岩倉や大久保は国内改革を優先したというのだが、史実はそれほど単純なものではなかったようだ。
菊池寛の文章を引用しながら説明したい。(原文は旧字・旧かな)

征韓論は一応合理的であった。韓国が小国であること。無礼であること、更に征韓に対して、清国はじめ諸外国が文句をつけぬと言っていること等が理由である。
当時の韓国の実権は、国王の生父大院君によって握られており、甚だしい欧米嫌いであった。だから日本の開国を欧米模倣であると罵り、禽獣に近づいたといって、蔑視しているのである。
だから、維新政府が宗対馬守を派遣して、いくら国交を調整しようとしても、剣もホロロの挨拶である。」(『大衆明治史』p.23-24)

自由党史

朝鮮国が無礼であった点については「近代デジタルライブラリー」で板垣退助『自由党史』第二章などを読めばわかるが、要するに当時の朝鮮国の外交方針は「鎖国攘夷政策」であり、欧米の先進文化の受容に努めていたわが国も西洋と同様に「攘夷」の対象であって、わが国が使節を送っても、侮辱した上威嚇して国外に追い出そうとしたことが書かれている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991339/1
しかし朝鮮国がこのまま鎖国を続けていてはいずれ朝鮮半島は欧米の植民地となり、そうなればわが国の独立も脅かされることになってしまう。

征韓論

そこで「征韓論」の議論が沸騰する。
しばらく、菊池寛の文章を読んでみよう。

「ここにおいて、明治六年六月十二日、朝鮮問題に対する会議が開かれることになったのである。
劈頭まず板垣退助は、
『居留民を保護するのは政府の義務だから、早速一大隊の兵を釜山に送り、それから談判をやろう』
と出兵論を唱えた。これに対して西郷は、
『それは少し過激だ。それより、まず平和的に堂々使節を派遣して、正理公道を説き、それで聴かなかったら公然罪を万国に鳴らして討伐すればよい』
と述べた。三條*は、
『大使を派するなら、兵を率いて軍艦に乗っていったらよかろう』
と言葉を挟むと、西郷は敢然として、
『いや兵を率いて行くのは、所詮穏やかでない。大使たるものは宜しく烏帽子直垂を着し、礼を厚くし道を正さねばならぬ』

と反対した。…
すると誰かが、
『これは国家の大事であるから、岩倉大使**の帰朝を待って決すべきであろう』
この言葉は西郷を怒らせた。
『堂々たる一国の政府が、国家の大事を自ら決めかねるなら、今から院門を閉じ、百般の政務を撤するがよい』
と叱し、一座は粛として静まり返ったのであった。西郷は更に言葉を進めて、
『この遣韓大使には、ぜひ自分を遣って貰いたい。』
再三再四、西郷はくどく三條に迫って、この件を上奏して欲しいと希望するのであった。
この日の会議は、このまま終わったが、西郷は尚熱心に朝鮮行きを希望してやまない。
『副島**君(遣清大使)の如き立派な使節は出来申さず候えども、死する位のことは、相調い申すべく』
とある様に、いつでも命を投げ出す位の覚悟を、淡々たる言葉の中に洩らしているのである。大使になって行けば韓国は必ず自分に危害を加える、そうしたら立派な征韓の名分が立つ、西郷の信念はここにあったのだ。」(同上書 p.24-26)
*三條實美(さんじょう さねとみ):公家出身。当時太政大臣。  
**岩倉具視:公家出身。当時右大臣外務卿で、全権大使として大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らとともに欧米視察中。
***副島種臣(そえじま たねおみ):佐賀藩出身。当時外務卿。

この西郷の発言内容は、先ほど紹介した板垣退助の『自由党史』と内容はほぼ同じであり、菊池寛の文章は当時の記録に忠実に書いている。『自由党史』には、この六月十二日の会議で、釜山に軍隊を送ろうとした板垣も自説をその場で引込めたとあり、この会議では平和裏に遣韓大使を送るとする西郷案で一旦決着し、誰を大使とするかについては8月17日に西郷とすることで決着したと書いてある。
征韓論」が決裂するのはそれからあとのことなのである。欧米視察を終えて帰国した、岩倉具視大久保利通らがこの決定を許さなかったのだ。10月14日に岩倉らの帰朝後第1回目の内閣会議が開かれる。
しばらく菊池寛の文章を引用する。

岩倉具視

「まず三條から一応の報告があると、岩倉は敢然として起ったのである。
『大使を韓国に派遣するについては、大戦争を覚悟した上でなければならん。朝鮮の背後には、支那もあるし、ロシアもある。迂闊に手を出して国家百年の大計を誤ってはならぬ。現状は国力涵養第一。征韓など無策、無為である』
初めて聞く、堂々たる反対意見である。
西郷は、
『しかし、朝鮮大使派遣は八月十七日の廟議ですでに決していることである。今更是非を議する必要がどこにあろう』
岩倉すかさず、
『いや、その為のみの、今日の廟議である』
『くどいようじゃが、その廟議は決まっているのだ』
この時、大久保、
『前閣議でどう決まったか知らんが、それは拙者らの知ったことではない』
『それは貴公、本気で言われるか』
西郷は血相を変えた。
『留守に決めたが不服と言われるのか。拙者も参議だ。これ程の大事を、貴公らの帰国するまで待てるか。留守の参議がきめたことに、なんの悪いことが御座るか。三條太政大臣も同意で、既に聖上の御裁可まで経たことであるぞ』…」(同上書 p.27-28) 
といった議論が続いていく。

征韓論の図2

翌日の会議も水掛け論で終わる。菊池寛はこう書いている。

「…問題は、奏問の手続き問題に入ってくる。こうなると、事務的にも政治的にも、征韓派は、岩倉や大久保の敵でない。
かくて二十三日、岩倉は参内して、征韓不可の書を奉り、大勢は決した。聖上は一日御熟慮の上、岩倉の議を御嘉納あらせられたのである。
二十三日、西郷は参議、陸軍大将、近衛都督の職を辞するの表を奉り、翌日、板垣、副島、後藤、江藤の諸参議もそれぞれ辞表を奉った。…
これと同時に、陸軍少将桐野利秋、篠原国幹なども、疾と称して、辞表を呈出し、これに倣って、近衛士官などは総辞職である。…
そこで陸軍卿山形有朋は、新たに近衛兵の再編成に着手し、かくて長州人が今度は陸軍部内に確固たる地位を占め『長の陸軍』の淵源をなしたのである。」(同上書 p.31-32)

明治政府は25日に非征韓派を中心にした内閣改造を行っている。
大久保利通が内務卿となり、また幕臣であった勝海舟を海軍卿に据え、榎本武揚を遣露大使としたほか、西郷を牽制するために元薩摩藩主の島津久光を左大臣、内務顧問に登用した。
産業を奨励し、反対党の弾圧にいよいよ本腰を入れるとともに、強引にも華族、士族の家禄まで税金をかけた。そこで明治7年(1874) に佐賀で不平士族の叛乱が起こる。

江藤新平

「(明治)七年二月征韓論者の政府反撃の第一声として、大規模な佐賀の乱が勃発している。江藤新平、島義勇らの暴発であるが、大久保はかねて期していたものの如く、直ちに熊本、広島、大阪三鎮台の兵を動かし、同時に久光を帰国させて西郷を抑える一方、自ら急速に兵を進めて三月一日には佐賀城に入っている。文官である大久保としては一世一代の武勲であると言って良い。
江藤は後に捕えられ、極刑ともいうべき、梟首(きょうしゅ:晒し首)に処せられた。往年の同僚、参議江藤新平の首をさらして、あえて動ぜぬ、不適の面魂はいよいよ凄みを増してきたと言えよう。」(同上書 p.33-34)

大久保利通

教科書では大久保らは国内改革を優先したと書くのだが、実際はそうとも言えない。征韓論反対の舌の根も乾かぬうちに、大久保は台湾に出兵しているのだ。再び、菊池寛の文章を引用する。

「殊に征韓論を排撃して二ヶ年ならぬのに、大久保は、台湾出兵をやっている。これは全く国内士族の不平を、海外にはけさせるためにやった仕事で、征韓論反対の言い分は何処へやったといわれても仕方がないであろう。
神経衰弱で少し気の弱くなった木戸など。
『切に希くは、治要の本末を明かにせよ』
と悲壮な言葉を残して、幕閣を去ったが、大久保は断固として、この出兵をやり、しかも戦後の談判に、自ら清国に乗り込んで、李鴻章と大いに交驩し、五拾萬両の償金と、台湾征討は義挙であるという、支那側の保証まで得て帰ってきているのである。昭和の外交官、顔負けである。内治によく外交によく、大久保の幕閣における地位は、この時において、圧倒的、独裁的な域まで達したのである。」(同上書 p.34)

大久保にとっては、朝鮮よりも台湾の方が制圧が容易で、他国の干渉を受ける可能性も低いとの判断があったのかもしれないが、「現状は国力涵養第一。征韓など無策、無為である。」と言っていた反征韓論者が、西郷が職を辞した4カ月後の明治7年(1874)2月に台湾出兵を計画し、5月に出兵したというのはどう考えても違和感がありすぎる。

当時、廃藩置県により失業した士族は全国に40万人から50万人程度いたというのだが、それまで各藩が支払っていた禄は政府の支出となっており、その支出額は国家予算の大きな部分を占めていた。明治5年(1872)の地租収入は2005万円に対し禄の支出は華族・士族合せて1607万円にも達していたのだ。このままでは維新政府が長く続くはずがなかった。

大久保にとっては、西郷の力を借りて廃藩置県の大改革が終われば、次にやるべきことは政府支出構造の抜本的改革であっただろう。そのためには士族の既得権に大ナタを入れざるを得なかった。そのためには、政府内の抵抗勢力を出来るだけ早い時期に排除することが必要であったのではなかったか。

大久保らの欧米視察中に、西郷らが留守中に決定した遣韓大使派遣のような重大事を追認しては、主導権を西郷らに握られることになりかねず改革が遅れてしまう。もちろん出兵には多大な費用がかさみ、戦争となって勝利しても士族の地位が再び高まっては困るのだ。

大久保は征韓論争を仕掛けて、政府内の抵抗勢力を切り、士族の既得権にもメスを入れることをはじめから狙っていたのではないだろうか。
西郷、江藤らが下野したのは明治6年10月23日だが、2日後に新政府を組閣し勝海舟を入閣させのちに島津久光を内務顧問に任じている。また2か月後の12月には「秩禄奉還の法」を定めて禄に課税が行われている。ちょっと準備が良すぎると思えるのである。

島津久光

大久保は、不満をもった旧士族が各地で反乱を起こすことを覚悟していたからこそ、元薩摩藩主の島津久光を登用したのだ。明治7年2月に江藤新平が佐賀の乱を起こした際に西郷が動かなかったのは、大久保の指示で島津久光が薩摩に帰ってきたからではなかったか。
また大久保は、征韓論にはあれだけ反対を唱えながら、佐賀の乱があった2月に木戸の反対を押し切って台湾出兵を決定し、5月には出兵している。
教科書などでは大久保利通らは「国内改革を優先した」と叙述されるのだが、その記述をそのまま鵜呑みにしては、明治時代を正しく理解したことにならないのではないか。
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西南戦争が起こる前の鹿児島県はまるで独立国のようだった

前回の記事で、明治6年に征韓論争が決裂して西郷らが下野して鹿児島に戻ったことを書いた。その後の西郷が薩摩でどのような生活であったのか、菊池寛の文章を読むと驚くべきことが書かれている。しばらく引用してみる。(原文は旧字・旧かな)

西南戦争の原因は、発展していく中央政府と、古きを守ろうとする西郷党との間に醸し出された矛盾対立が、遂に爆発した結果にほかならない。
言葉を換えて言うなら、明治六年の征韓論の対立が、明治十年の西南戦争によって、結論がついたとも言えるのである。
村田新八の言葉を借りるなら、西郷と大久保の征韓論の論争は、横綱の立会いのようなもので、どっちに軍配を上げてよいものかわからぬと言うのである。
なるほど、形の上では、西郷が廟議に敗れて、鹿児島に引っ込んだのであるから、西郷の負けのようであるが、西郷の持っている一世の輿望というものは、九州の一角において、文字通り西郷王国を築き上げているのである。
鹿児島県の官吏の任免でさえ、この一派の手の中にあったのであるから、まるで一種の独立地域である。アンチ大久保アンチ中央政府の欝然たる牙城となってしまったのだ。
いつかこの力のバランスは崩れ、互いに正面衝突をすべき運命にあったことは、誰の眼にも歴々として映じていたのである。」(『大衆明治史』p.51-52)

廃藩置県によって、てっきり中央政府が地方の官吏の任免権を手中に収めたものとばかり考えていたが、鹿児島県は例外であったというのである。菊池寛の文章を読んでいると、鹿児島県は別世界で「西郷王国」のような状態であったことがよく解る。
中央政府が当たり前のことを実行しようとしても、鹿児島県に対しては随分苦労していることが書かれていて面白い。

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「これが爆発の直接原因は、内務省の発動による、鹿児島県の役人の転免である。つまり中央政府が封建的最後のものとしての薩摩をその統制下に据え直そうとしたことによる。
明治九年七月初旬、大久保は鹿児島県令、大山綱紀に上京を命じた。県令は当時奏任官だから、内務卿の一断で自由になるであるが、それを呼び寄せて相談を図らねばならないところに薩摩の特殊性があるわけである。
大山は十七日に入京、病中の大久保は、大山に向かって、
『近く内政改革をやる積りだが、鹿児島県も参事課長以下官吏の更迭をやるが、宜しく頼む』
と語った。
大山は西郷派の一人であるから、とてもこんなことが出来るわけはない。一方地方長官としての苦しい立場もあり、
『それでは辞職させていただきます』
と辞任を申し出た。
大久保は強いてこれを宥めて、内務省林友幸を同行させて、鹿児島へ帰らせた。
林は十年正月四日、登庁して様子を見たが、とても手がつけられないと直感して、帰京することになった。」(『大衆明治史』p.52-53)

しかし鹿児島県では、中央政府が鹿児島県の西郷系の官吏を一挙に更迭しようとしているという話が一気に拡がって行ったのである。

私学校跡

征韓論争の後鹿児島に帰った西郷は、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設し、西郷とともに下野した不平士族たちを統率し、県内の若者の教育に力を入れていた。
その私学校党の青年たちが暴発してしまうのである。その経緯を菊池寛はこう書いている。

「血気に速る私学校党の青年たちは、公然銃器を携えて鹿児島城下を横行し、喋々として政府の挙措を誹謗し、まさに一大変動勃発の徴があった。
この形勢に更に火を注いだのは、中央から発せられた密偵であった。中原尚雄以下二十三名の鹿児島県出身者は結束して帰省し、正月六日頃から、鹿児島各方面をスパイして歩いた。これを発見して捕えた私学校生徒たちは、これを西郷への刺殺者であると憤怒する。形勢は刻々に暗澹たるものになっていった。
二月九日の郵便報知新聞は
『この間から鹿児島県の動静をチラホラ耳にしましたが、滅多なことを掲げて天下の視聴を驚かしては容易ならぬことと控えておりましたが、あまり噂が甚だしくなりましたからちょっと述べます。
三菱会社の赤龍丸は大阪鎮台の御用船となり、去月二十七日鹿児島県着三十一日同所にあるところの弾薬二千個を滞りなく積み入れ、本月一日に千八百個を積み入れる手筈の際、突然士族輩二千五百人程にて取囲み、この囲みを出るものは切殺すぞと脅し、この弾薬を悉く持ち去りたり。よつて鎮台士官も赤龍丸に乗組み、ただちに出帆、六日暮神戸に着せり。林内務少輔は大分県辺巡回中なりしが、直ちに引返し、説諭のため鹿児島に出張せらるるよし』
火薬搬出は要するに、事実上の挑戦であった。しかもこの火薬に火は点ぜられたのである。」(同上書 p.53-54)

中原尚雄以下23名の鹿児島県出身者が帰省したのは明治9年1月11日の事だ。その目的は、西郷隆盛私学校幹部の偵察や旧郷士族の私学校からの離間工作が目的であったと言われているが、私学校の学生たちが警戒して当然だ。
そして1月29日に政府は鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠の武器弾薬を大阪へ移すために、秘密裏に赤龍丸を鹿児島へ派遣して搬出を行おうとした。それを私学校学生が奪い取る事件が起きている。
Wikipediaによると、「鹿児島属廠の火薬・弾丸・武器・製造機械類は藩士が醵出した金で造ったり購入したりしたもので、一朝事があって必要な場合、藩士やその子孫が使用するものであると考えられていた」こともあり、私学校学生にとっては「中央政府が泥棒のように薩摩の財産を搬出した事に怒るとともに、当然予想される衝突に備えて武器弾薬を入手するために」奪い返そうとしたのは心情的には理解できる。しかし私学校学生が奪い取った武器と弾薬は、旧式のものであったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89

1月30日に私学校幹部は中原尚雄等を内偵し、中原らの帰郷が西郷暗殺を目的としているという情報を入手している。
Wikipediaによると、中原尚雄は旧知の谷口登太に「自分は刺し違えてでも西郷(隆盛)を止める」といったとされ、これが「明治政府による西郷暗殺の陰謀」の証拠とされて、同年2月3日、他の帰郷中の同僚らと共に私学校生徒に捕らえられ、厳しい尋問の末に明治政府が西郷を暗殺しようとした陰謀があったことを自白したという。その結果、私学校生徒の暴走に歯止めが効かなくなってしまったと書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%B0%9A%E9%9B%84
中原が「西郷らを視察する」と言った言葉が「刺殺する」と誤解されたという説もあるようだが、今となっては知る由もない。重要なのは、彼等が西郷らの刺客として中央政府から送り込まれたと私学校生徒が判断した事実である。

西郷隆盛に1月29日の武器弾薬略奪事件の情報が届いたのは、2月2日のことだった。隆盛は大隅で漁をしているときに、弟の小兵衛からその報告を受けている。ふたたび菊池寛の文章を引用する。

「『おはん達は、何たることを仕出かしたか』
と大喝したが、しばらくして、
『それでは、おいどんの身体を上げまっしょう』
と言ったのは、誰でも知っている話である。
一万三千人の愛する私学校生徒の為に命を投げ出す、その心情は美しいが、同時に征韓論決裂以来押さえに押さえてきた鬱屈が、子弟1万余の動揺を前にして、一時に爆発したのではなかろうか。
ことに西郷を怒らせたのは、彼に刺客を向けたということであろう。政府の考えでは、恐らく単なるスパイのつもりであったのだろうが、これがいつしか暗殺者と言われるようになり、これが西郷の耳に入って嚇怒させたのであろう。

西郷隆盛

維新以来、国家のため犬馬の労を尽くした、自分を殺させるという法があるか。これが西郷の戦争の理由のポイントである。だから、刺客を寄こした木戸、大久保を朝廷から一掃する、その為の精鋭三万の大挙東上なのである。
暗殺ということは、現在のわれわれにはあまりピンと来ない。しかし、維新の動乱時代に様々の暗殺の経験を経てきている西郷などには、われわれの想像以上に生々しく切実な感じがしたのであろう。
だから西郷が征韓論に敗れた時、逸早く身を隠して、政府の眼をくらましたのは、気持ちの上のいろいろな複雑なものがあったであろうが、その一部分には、暗殺の危険というものを、実に素早く感じたには違いないのである。 …
…中原尚雄らを刺客として、ハッキリ眼前に見た時、西郷は遂に最後の肚を決めたのであろう。
大山綱紀の名で、征討将軍に奉った一文に、西郷は断乎として述べている。
『隆盛等を暗殺すべき旨官吏の者に命じ、事成らざるに発覚に及び候。此の上は人民憤怒の形勢を以て、征討の名を設けられんとする姦謀、千載の遺憾此の事と存じ奉り候』」(同上書 p.55-57)

西郷隆盛が戦う肚を固めて、その準備が進んでいく。

SumiyoshiKawamura.jpg

時局収集の任を帯びて、薩摩出身の海軍大輔川村純義が急遽鹿児島にやって来たのだが、この時は川村は上陸すらできなかったという。菊池の文章を読むとその時の鹿児島の異常な空気が伝わってくるようだ。

「『それ西郷先生が軍艦へ行く。危ないからお供をしろ』
と私学校の若者たちが殺到して物凄い光景を呈した。川村は危ないとみて艦をずっと沖合に移動させる。艦長伊東祐享が、撃ってもよいかと川村に聞いた程、この私学校党の勢いは凄まじいのであった。
西郷は近衛都督の時分、この私学校系の兵士の駕御の困難を譬えて『破裂弾上に寝る』と言ったことがあるが、今やその統制は全く西郷一人の力では、如何ともすることが出来ない状態である。
私学校徒にとって、郷党大先輩であり、西郷の親戚であり、然も温かい手をさしのべようとしてやってきた川村中将に対してすら、政府の一員、敵の一人として以外に見ることが出来ぬ程、偏狭になり、陰悪になっているのである。
何故であろうか。想うに、南隅なるが故に、最後まで取り残されたこの古い一団は、新時代の寒風が吹き募るにつれ、互いに団まり合い、抱き合い、今では互いの体温を温めあうところ迄追い詰められていたのである。薩摩の天地に人無きにあらずだ。しかし時代のわかる連中は中央へ出きってしまい、古さと人情だけで生きる人たちだけが残って、その不満と反抗だけが固まって出来上がったものがこの西郷王国だとしたら、その最後は飽くまで悲劇的ならざるを得ないではないか。」(同上書 p.58-59)

Wikipediaによると、鹿児島の私学校は明治7年4月に旧鹿児島城(鶴丸城)内に陸軍士官養成のための「幼年学校」「銃隊学校」「砲隊学校」の三校が設立され、「幼年学校」の設立に当たっては西郷隆盛が二千石、大久保利通も千八百石、鹿児島県令大山綱良が八百石、桐野利秋が二百石を拠出しているが、「銃隊学校」「砲隊学校」は鹿児島県の予算によって設立されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%AD%A6%E6%A0%A1

桜島

重要なことは、大山が県令を務める鹿児島県は西郷が下野した後は、驚くべきことに新政府に租税を納めていなかったようなのだ。その一方で私学校党を県官吏に取り立てて、鹿児島県はあたかも独立国家の様相を呈していたという。さらに大山は西南戦争の際に官金を西郷軍に提供していたのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E7%B6%B1%E8%89%AF

前々回の記事で西郷隆盛がいなかったら廃藩置県の大改革が出来なかったことを書いたが、西郷のお膝元の鹿児島県だけは例外で、むしろ独立国の様相を呈していた。政府の命令を無視して地租改正も行わず、旧士族は刀を差し、銃や弾薬を蓄えて戦いに備えての訓練をしていたというのである。
今までこのような史実を学ぶ機会はほとんどなかったのだが、こういう史実を知らずしては、なぜ西南戦争が8か月も続く大変な戦いになったかを理解することが難しいのではないか。

西南戦争のことは次回に書くことにしたい。

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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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