HOME   »  平安時代
Category | 平安時代

武士であることを捨てた弓の名人、那須与一

元暦2年(1185)2月19日、平家軍は四国屋島の入江に軍船を停泊させて海上からの源氏の攻撃に備えるも、源義経は牟礼・高松の民家に火を放ち、陸から大軍が来たかに見せかけて浅瀬を渡って奇襲攻撃をかけた。世にいう「屋島の戦い」の始まりである。平家軍は船で海に逃れるも、源氏の兵が少数であることを知り、態勢を立て直した後、海辺の源氏と激しい矢戦となる。

屋島

夕暮れになって休戦状態となると、沖から一層の小舟が近づき、見ると美しく着飾った若い女性が、日の丸を描いた扇を竿の先端につけて立っていた。

義経は弓の名手・那須与一を呼び、「あの扇の真中射て」と命ずる。平家物語巻第十一の「扇の的」の名場面である。

那須与一1

「…これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向かふべからず。今一度本国へ帰さんと思しめ召さば、この矢はづさせ給ふな」と、心の中に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱つて、扇も射よげにこそなつたりけれ。輿一鏑を取つて つがひ、よつ引いてひやうど放つ。小兵といふ條、十二束三ぶせ、弓は強し、鏑は浦響く程に長鳴りして、あやまたず扇の要際、一寸許りおいて、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ揚りける。春風に一揉み二揉みもまれ て、海へさつとぞ散つたりける。皆紅の扇の、夕日の輝くに、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬゆられけるを、沖には平家舷(ふなばた)をたたいて感じたり。陸には源氏えびらをたたいて、どよめきけり。…」

平家軍の挑発を断れば源氏軍の士気は下がり、射損じては逆に平家軍を勢いづかせてしまう。失敗が許されない緊迫した場面で、那須与一は見事に扇の的を射抜くという話なのだが、この話を高校の古文の授業で読んだ時に、「本当にこんな話があるのだろうか」と疑問に思った。すでに屋島の戦いは始まっており、もう何人も討ち死にしている状況下にもかかわらずである。

また平家物語では与一と扇の的までの距離は「七段ばかりあるらんとこそ見えたりけれ」とある。
1「段」は6「間」で、1「間」は6「尺」。1「尺」は30.3cmであるから、7段は76.35mという計算になるが、こんな距離で波に揺られて動く的を射ぬけるのだろうか。 この問題については、中世の頃の一段は9「尺」であったという説もあり、この説であれば19.09m程度の距離となる。
どちらが正しいかよくわからないが、現在の弓道競技では遠的競技の射距離は60m、近的競技の射距離は28mなので、76.35mとすればかなり長く、一方19.09mでは近すぎて挑発にもならないような気がするので、射距離の問題は私は前者に軍配を上げておこう。

平家物語那須与一

しかし、そもそも何人も犠牲者の出ている戦いの最中に、こんな悠長な場面がありうるのだろうか。

あまり知られてはいないが、平家物語では那須与一が扇の的を射抜いた後、その船の上で踊り始めた平家の武士をも射ぬいてしまうのだが、何故平家軍はこの時に那須与一に復讐をしなかったのか。

Wikipediaによると、那須与一の名前は後世の「軍記物」である「平家物語」や「源平盛衰記」には出てくるものの、「吾妻鏡」など同時代の史料には名前は出て来ないために、学問的には与一の実在すら証明できないと書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E4%B8%8E%E4%B8%80

私には、「平家物語」の那須与一の物語そのものが、後世の創作のように思えるのだ。那須与一が描かれている「平家物語」の成立時期は通説では1230年代とされ、作者すらわかっていない「平家物語」は「物語」ではあっても決して歴史書ではない。
「吾妻鏡」にも書かれていない内容を、「平家物語」や「源平盛衰記」にあるからと歴史的真実だ考えることは危険ではないのか。

ところで、平家物語巻第十一には、屋島の戦いの「扇の的」の場面で、那須与一は「二十許んの男子なり」と書かれている。いくら「物語」だとしても、年齢までは創作することはないだろう。
那須与一という人物が源氏方の軍人にいたことは間違いないのだろうと思うが、それから後の那須与一についてはどうなったか。

Wikipediaの記事を読むと、「頼朝の死後に赦免され那須に戻った後に出家して浄土宗に帰依し、源平合戦の死者を弔う旅を30年あまり続けた」と書いてあるところに非常に興味を覚えた。なんと弓の名手は仏門に入ったのである。

いろいろネットで調べてみると、那須与一は浄土宗開祖法然の弟子になっていることが分かった。

例えば、次のURLでは
http://hp.kutikomi.net/ayawaka/?n=diary9&oo=7

…『那須記』の「那須与一」の項に、「落髪申致上洛…」と、出家して京都に行ったことが伝えられており、京都府ニ尊院所蔵の『源空七箇條起請文』という古文書に、那須与一が、「源蓮(げんれん)」という名で記されているという。 彼は、1202(建仁2)年、34歳頃(推定年齢)に出家し、浄土宗を開いた法然に弟子入りし、その2年後には、早くも法然の高弟となったというのである。…(引用終わり)

法然

ちなみに浄土真宗を興した親鸞は同じ書に「綽空(しゃくくう)」という名で記されており、親鸞は与一の前年に法然のもとに入門しているので、与一とは一年違いの兄弟弟子にあたる。

では、なぜ与一は仏門に入ったのであろうか。

彼は義経の軍勢で活躍したが、義経は平家滅亡後に頼朝と不和になる。しかも、頼朝の腹心・梶原景時に攻撃された時は幕府軍を退け、有利な条件で和睦に持ち込んでいた。こうした経緯から、与一は武士として生きることをあきらめざるを得なくなり出家を選んだのだと考えられる。
幕府軍と戦って退けたことから、武士としても一流の人物であったことは確実だ。

神戸市須磨区に北向八幡宮という神社があり、与一はこの地で64歳で大往生を遂げたという。
墓所は京都の即成院だそうだが、那須氏の菩提寺である玄性寺(栃木県大田原市)にも分骨され、那須氏ではこちらを本墓としているそうだ。
***************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。





栄華を極めた藤原道長の晩年を襲った相次ぐ不幸な出来事

藤原道長(966-1028)といえば摂関政治の全盛期を築き上げた人物で名高いが、この地位に昇りつめた経緯はすさまじいものがある。

藤原道長1

教科書を読むと藤原道長の「4人の娘が天皇の后(きさき)となった」と簡単に書いてあるが、その異常性は西暦で生存期間や天皇家との関係を付記しておくとよくわかる。

道長の長女の彰子(しょうし:988-1074)は999年11月に一条天皇(980-1011)のもとに女御として入内させるが、翌1000年の2月に道長は彰子を皇后(号は「中宮」)とした。

一条天皇には先立の后(定子)がおり皇子もすでにいたのだが、道長は定子を「皇后宮」と号することで一帝二后を強行したという。「中宮」というのは二人の后が並立する場合の、「皇后」に次ぐ后の称である。

1008年に彰子は皇子・敦成親王(あつひらしんのう)を出産し、翌年に敦良親王(あつながしんのう)も生まれた。 1011年には一条天皇は病に倒れ、崩御されたために、居貞親王が即位され三条天皇となられた。

道長の次女の藤原妍子(けんし:994-1027)は、1004年に居貞親王(三条天皇)に入内させ、1012年に三条天皇(976-1017)の皇后(号は「中宮」)とした。

三条天皇にも先立の后(娍子:せいし)がいて、多くの皇子女が生まれていたが、道長は再度一帝二后を強行した。 三条天皇は天皇親政を行おうとし道長と長らく対立したが、1016年には道長からの圧力に屈して退位し、道長の長女の彰子の子で、わずか9歳の敦成親王が即位した。(御一条天皇:1008-1036)

道長の四女の藤原威子(いし:1000-1036)は、1018年に8歳も年下のこの幼い後一条天皇(1008-1036)の女御として入内させ、その年に「中宮」とした。

この威子が后となる日に道長の邸宅で祝宴が開かれて詠まれたのが、有名な
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(『小右記』、原文漢文)なのだそうだ。

道長の六女の藤原嬉子(きし:1007-1025) も将来の皇妃となるべく、道長の長女の彰子の子で、2歳年下の敦良親王(後の後朱雀天皇:1009-1045)に1021年に尚侍として侍した。

後一条天皇も敦良親王も藤原道長にとっては孫であるが、道長は自分の二人の娘(威子・嬉子)を、それぞれ自分の孫と結婚させたことになる。

藤原家が「摂政」や「関白」として天皇を補佐する立場で国家権力を掌握した「摂関政治」の全盛期が藤原道長藤原頼通親子の時代だが、調べると藤原道長は関白にはなっておらず、摂政となったのも後一条天皇を補佐する立場で1016~1017年のわずか1年だけというのは意外だった。

藤原頼通

道長が摂政を退位した後は26歳の嫡男の藤原頼通(上画像)を摂政につけて自らは後見人となって後継体制を固め、以降頼通は摂政職を3年、関白職を48年務めている。

藤原道長は、国家の実権を掌握し栄華の絶頂に達して頼通へ権力の承継も成功した。しかしながら、その生涯を調べると道長の晩年はまるで怨霊にたたられたかのように悲劇的なものであった。

有名な望月の歌を詠んだ年の夏に、道長は胸部に激しい痛みを覚え、一時意識もうろうとなり、さらに視力も低下してしまう。当時の人々は「怨霊」の存在を真剣に信じていた時代であったので、道長も自分の病は自分が追い落としていった者の怨念に違いないと考え、ともかく呪いから遁れるために道長は髪をそり落として祈り続け、ある程度健康は回復するのだが、今度は災いは道長の娘たちを襲っていった。

最初の不幸が道長を襲ったのは、万寿二年(1025)7月の三女寛子(かんし:999-1025)の死だった。寛子は、道長により皇太子を退かされた小一条院敦明親王に嫁がされたが、親王にはすでに藤原顕光の娘・延子と結婚し六人の皇子・皇女がいた。夫を奪われた延子は病死し、父親の顕光も道長・寛子親子を激しく呪って死んだ。その二人の死霊が寛子に取り憑いたということが「栄花物語」に書かれているそうだ。

そして寛子が亡くなった1ヶ月後の8月に、今度は六女の東宮后嬉子が皇子(後の後冷泉天皇)を生んで2日後に亡くなってしまう。これも、顕光・延子の霊によるとされた。

さらに万寿四年(1027)5月に三男の顕信が病死で亡くなった後、9月には次女の皇太后妍子の命も奪ってしまう。わが子を相次いで失った道長はすっかり心身を衰弱させて病にかかり、11月には危篤に陥り背中には大きな腫物が出来て言語も不明瞭になったという。

さすがの親族も、命は長く持たないことを悟り、道長を(法成寺)阿弥陀堂に運び込んで、九体の阿弥陀如来像の前に寝かせ、各阿弥陀の手から伸ばした五色の糸を道長の手に握らせて、読経が続けられる中、12月3日に道長はとうとう息を引き取った。62歳だった。

道長が大往生した場所である法成寺は、東西2町南北3町に及び、豪壮な伽藍であったそうだが、1058年の大火で堂宇を全焼し、頼通が再建するも1219年に再び全焼し、廃絶されたそうだ。

宇治平等院

上の画像は先日行ってきた世界遺産の宇治平等院。もともとは、9世紀末頃、光源氏のモデルとも言われる左大臣である嵯峨源氏の源融(みなもとのとおる)が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となる。そして長男の藤原頼通が永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めたのが平等院のはじまりで、その翌年に阿弥陀堂(現鳳凰堂)が建立されたそうだ。

宇治平等院の藤

平等院には大きな藤棚が2ヶ所あり藤の名所としても有名だが、先日行った時は日当たりのよい表門の藤棚でやっと咲き始めたばかりだった。もう少し花房が伸びて見頃を迎えるが、観音堂の横の藤棚はまだまだ蕾が固かった。平等院のHPによると、今年の藤の花が見頃を迎えるのは5月7日頃から11日頃なのだそうだ。
http://www.byodoin.or.jp/
***************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加



菅原道真が全国の天満宮で祀られることになった経緯

菅原道真」といえば「学問の神様」で有名だ。

菅原道真肖像

菅原道真公をお祀りしている神社は全国にあり、「天満宮」あるいは「天神」と呼ばれて、京都の北野天満宮と大宰府天満宮が全国の天満宮の総本社とされている。下の画像は北野天満宮の本殿だ。

北野天満宮

どれだけ「天満宮」が全国にあるかというと、1万社を超えるという説もあるようだが、次のサイトの記事では3,953社なのだそうだ。
http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/quiz/gb01-8.htm

北野天満宮の牛の像

「天満宮」では牛の像をよく見かけるのだが、これは「菅原道真公が丑年の生まれである」、「亡くなったのが丑の月の丑の日である」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など多くの説があり、どこまでが真実なのかは今となっては良くわからないそうだ。

しかし、なぜこれだけ多くの神社で菅原道真が祀られることになったのかについて興味を覚えたので、菅原道真について調べてみた。

菅原道真は代々続く学者の家に生まれ、11歳にして詩を詠むなど幼少の頃からその才能を発揮し、30歳にして貴族の入口である従五位下に叙せられ、33歳では最高位の教授職である文章博士(もんじょうはかせ)に昇進している。

しかしながら学者同士の対立もあり、道真のスピード出世を良く思わない者も少なくなかったようだ。後ろ盾ともいうべき父親を失ったのち、仁和2年(886)から道真は4年間地方官である讃岐守(今の香川県)に任命されて都を離れることになる。しかしその後に道真に転機が訪れる。

宇多天皇

当時は藤原氏が政治の実権を掌握していたが、それを快く思わなかった宇多天皇<上画像>は律令政治に精通する道真に目をつけ、道真は天皇に請われて帰京し、寛平3年(891)に蔵人頭(くろうどのとう)に就任する。蔵人頭とは勅旨や上奏を伝達する役目を受け持つなど天皇の秘書的役割を果たす要職である。

道真は、寛平5年(893)には参議に列せられ翌年には遣唐使の廃止を提言するなど、宇多天皇のもとで政治手腕を存分に発揮し、その後中納言、大納言と順調に出世していく。

寛平9年(897)に醍醐天皇が即位し、父親の宇多天皇は上皇となった。関白・藤原基経の子の藤原時平が左大臣に就任し、道真は宇多上皇の意向で右大臣に抜擢された。事実上朝廷のNo.2への昇格であった。

藤原時平は道真の出世を快く思っていなかったし、醍醐天皇も宇多上皇の影響力の排除を考えていた。宇多上皇は藤原氏の血を引いていなかったが、醍醐天皇の母親は傍流ではあるが藤原氏であったこともポイントである。醍醐天皇は昌泰4年(901)、時平の「道真が謀反を企てている」との讒言を聞き入れて、父の宇多上皇に相談もせず、菅原道真を太宰権帥(だざいごんのそち)として北九州に左遷してしまった。

道真は京都を去る時に
「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
と詠んだ歌を残している。

菅原道真は北九州に左遷された二年後の延喜三年(903)に大宰府で死去し同地(現大宰府天満宮)で葬られたのだが、その後、京で異変が相次いで起こっている。

まず、延喜9年(909)に道真の政敵であった藤原時平が39歳の若さで病死し、延喜13年(1573)には道真の後任の右大臣源光が死去。
延喜23年(923)には醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥)が、次いで延長3年(925)その息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫)が相次いで病死。
極めつけは延長8年(930)朝議中の清涼殿が落雷を受け、道真の左遷に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ、朝廷要人に多くの死傷者が出た清涼殿落雷事件が起こっている。この落雷がショックで醍醐天皇は病に倒れ、皇太子寛明親王(ゆたあきらしんのう:後の朱雀天皇)に譲位されて1週間後に崩御されてしまう。

道真の左遷に関係のある人々が死んだだけではなく、「扶桑略記」という書物には自然災害も京都で頻繁に起こっていることが書かれているそうだ。
延喜10年(910)洪水、延喜11年(911)洪水で多くの町屋が破損、延喜12年(912)洛中で大火、延喜13年(913)は大風で多くの町屋が倒壊、延喜14年(914)洛中で大火、延喜15年(915)水疱瘡が大流行、延喜17年(917)渇水になる、延喜18年(918)洪水が起こる、延喜22年(922)咳病が大流行、と次から次にいやなことが起こる。

北野天神縁起絵巻

朝廷はこれらはすべて菅原道真の祟りだと考えたが、確かにこれほどいやなことが続くと、誰でも自然にそう信じてしまうのではないか。一度そう信じてしまうと、祟りがますます怖くなって、心身ともに衰弱してしまうことも理解できる話だ。上の図は国宝の「北野天神縁起絵巻」の一部で、清涼殿に雷が落ちた絵が描かれている。
道真はずっと以前に死んだにもかかわらず、延喜23年(923)には道真を従二位大宰権帥から右大臣に復し、正二位を贈られたのを初めとして、正暦4年(993)には贈正一位左大臣、同年贈太政大臣となり、火雷天神が祭られていた京都の北野には、道真の祟りを鎮めようと北野天満宮が建立されたという。

以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられ、道真を「天神様」として信仰する「天神信仰」が全国に広まっていったのだそうだ。今では災害の記憶が風化してしまい、今では天満宮は学問の神様から受験の神様として厚く信仰されている。

ゴールデンウィーク中に阪急電車に乗って「長岡天満宮」に行って来た。この周辺は菅原道真公の所領であったところで、生前に在原業平らと共に、しばしば詩歌管弦を楽しんだ縁のある場所だそうだ。

長岡天満宮つつじ

正面の大鳥居を抜けると参道には有名な霧島ツツジが丁度見ごろを迎えていた。このツツジの樹齢は100~150年といわれており、高さは2m以上ある。

長岡天満宮本殿

現在の御本殿は昭和16年に京都の平安神宮の御社殿を拝領し移築したもので朱塗りの拝殿は既存の拝殿を増改築したものだそうだ。(平成10年竣工)

八条が池

八条ケ池を取り入れての数寄屋造りの建物は「錦水亭」という料亭で、明治14年1881)創業の老舗だ。名物のたけのこ会席は自店の山より掘ったばかりの筍を料理することで有名なのだが、コースで12千円からの高級料亭は庶民には少し入りづらい。

錦水亭

仕方なく駅前のお店で筍ご飯を昼食にいただいてこの日は満足して帰った。
****************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓      


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。





桓武天皇が平城京を捨てたあと、二度も遷都を行った経緯について

前回の記事で、京都府長岡京市にある長岡天神のことを少し書いた。
長岡京市」という名称は、以前わが国の都があった「長岡京」から名づけられたのだが、「長岡京」については、教科書にはあまり詳しく書かれていなかった。

平安京と長岡京

ネットで「長岡京」の地図を探すと、「長岡京」は今の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区に跨っているかなり大きな都で、平安京の大きさと比べてもそれほど大差がないことが分かった。長岡京の中心部は「長岡京市」ではなく、むしろ「向日市」にあることは意外だ。

次のURLでは長岡京の大極殿跡などの史跡のレポートが詳しく出ている。
http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1700/25343873.html

光仁天皇の後を受けて即位した第50代の桓武天皇は、それまで都が置かれていた平城京を捨てて、延暦3年(784)に平城京から長岡京に遷都したのだが、これだけ大きな都を建設しながら、そのわずか10年の延暦13年(794)に平安京に遷都してしまっている。
なぜ、そんなに短い期間で都を移すことになったのか。今回は桓武天皇について書くことにしたい。

少し時代は遡るが、671年に天智天皇が没したのち、その子である大友皇子と大海人皇子との間に皇位継承争い(壬申の乱)があり、大海人皇子が勝利して天武天皇となるのだが、それ以降の歴代の天皇はしばらく天武天皇系から出ていたことが系図を見ればわかる。

天智天皇・天武天皇系図

しかし天武系に男子の血統が絶えてしまって、宝亀元年(770)に天智天皇の孫にあたる62歳の白壁王が即位し光仁天皇となっている。

光仁天皇には皇后である井上内親王とその子・他部(おさべ)親王がいたが、宝亀三年(772)に藤原氏の陰謀によりそれぞれ皇后・皇太子の地位を剥奪されたのちに幽閉され、それから二年後に二人とも同時に亡くなってしまう。おそらく藤原一族の手で暗殺されたのだろう。

そこで光仁天皇は、自分と百済系の渡来人の系列の高野新笠(たかのにいがさ)との間に生まれた山部親王を皇太子としたのち、天応元年(781)に山部親王に皇位を譲って桓武天皇が即位することとなる。下の画像は桓武天皇だ。

桓武天皇

桓武天皇は平城京を捨てて、延暦3年(784)に山城国乙訓郡で建築中の長岡京に遷都する。

桓武天皇が平城京を離れて都を遷そうとしたのは、教科書などでは「奈良の仏教界からの決別」にあったという記述が多いのだが、天智系の桓武天皇にとって平城京は、関祐二氏の言葉を借りれば「『祟る天武』の亡霊の巣窟」でもあり、自分の異母兄(他部親王)やその母(井上内親王)が殺された場所である。この魑魅魍魎の住む世界から一日も早く離れたかったということなのであろう。

しかし、ここで事件が起こる。
延暦四年(785)に長岡京造営の責任者・藤原種継が何者かによって射殺されてしまった。
犯人は、桓武天皇の(同母の)弟であり皇太子である早良親王(さわらしんのう)と大伴家持とされ、早良親王は捕えられて、乙訓寺で幽閉されその間無実を主張して抗議の断食をし、淡路国へ流される途上で三十六歳の若さで亡くなってしまう。

藤原種継暗殺の犯人については諸説がある。奈良仏教の勢力や藤原家の関与を疑う説もあれば、早良親王説もあり、桓武天皇自身が怪しいという説まである。

東大寺桜

奈良仏教勢力説は教科書などで出てくる説なので省略するが、早良親王説は、親王は桓武天皇の即位の以前は僧侶であり、奈良の東大寺など南都寺院とつながりがあるということで疑わしいとする説で、奈良仏教勢力説に近いものである。
また桓武天皇説というのは、桓武天皇が桓武天皇の第一皇子である安殿親王(あてしんのう)に皇位を継承させるために、早良親王を排除したという説である。早良親王を排除することの最大の受益者が桓武天皇ではないかという観点からは説得力があり、今では結構有力な説になっているようだ。確かにその後の桓武天皇の行動を考えるとその可能性を強く感じるのだが、決定的な証拠があるわけではない。

早良親王が亡くなられた後に、桓武天皇の身の回りや都に、良くないことが相次いで起こっている。この点は前回の菅原道真や前々回の藤原道長のケースとよく似ている。

桓武天皇の夫人である藤原旅子が延暦7年(788)に30歳の若さで亡くなり、翌年の延暦8年(789)には桓武天皇の母親である高野新笠が亡くなり、その翌年延暦9年(790)には皇后の藤原乙牟漏(おとむら)も31歳の若さで亡くなり、都では天然痘が大流行する。
延暦7-9年(788-790)には旱魃のために大凶作となり、延暦9年(790)には都で疫病が大流行となり、早良親王を廃したのち皇太子とした安殿親王(あてしんのう)も病に倒れてしまう。また延暦11年(792)には、桂川が氾濫し長岡京に大きな被害が出た。

これらすべては早良親王の祟りであると考えた桓武天皇は、怨霊のゆかりの地である長岡を退去することを決意し、延暦12年(793)に遷都を打ち出し、延暦13年(794)には平安京に都を移されてしまう。

桓武天皇は平安遷都後も早良親王の怨霊におびえ続け、早良親王の霊を祀り、延暦19年(800)には早良親王に崇道天皇を追号し、種継暗殺事件に連座した大伴家持の名誉回復もはかっている。

お彼岸の時期に祖先の墓参りをするのは日本特有なのだそうだが、歴史的には大同元年(806)の三月に早良親王(崇道天皇)の霊を慰めるために各地の国分寺で7日間「金剛般若経」を読経して供養がなされた記録が「日本後紀」にあり、これが日本で最初のお彼岸の祖先供養の記録なのだそうだ。そしてその年に桓武天皇は崩御されている。

ところで、陰陽道で「北に山(玄武)、東に川(青龍)、南に池(朱雀)、西に道(白虎)」が最良の土地だとする「四神相応」という考え方があり、平安京はその考え方に基づいて造られているそうだ。

船岡山から見た東山

即ち北には船岡山があり、東に鴨川があり、南に巨椋池があり、西には山陰道があるという場所である。上の画像は船岡山から見た東山連峰(比叡山から大文字山)である。

桓武天皇は結果として山紫水明の地の京都を都として選び、京都はその後4世紀近くにわたって平安京繁栄の礎を築き、その後も日本文化の中心地として発展して、多くの文化財を今も残してくれている。

京都鴨川

もし桓武天皇が長い間怨霊に脅え続けるようなことがなければ、京都に遷都されることはなかったであろうし、そうなれば今の京都も、その後の仏教の発展も、随分異なったものになっていてもおかしくなかったと思う。
****************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加



伝説の美女・小野小町とその後の伝承

紀貫之は、延喜5年(905)に醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である「古今和歌集」の撰者のひとりとなり、仮名でその序文(「古今和歌集仮名序」)を執筆した。その中で「近き世にその名きこえたる人」として「六歌仙」を選んでいる。

紀貫之

紀貫之が選んだ6人の歌人は、僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、僧喜撰、小野小町、大友黒主であるが、紀貫之はこの6人全員について短いコメントを書き残している。

たとえば五人目の小野小町についてはこう書いている。
小野小町はいにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにてつよからず。いはばよき女のなやめる所あるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし。」
(古代の衣通姫の系統である。情趣がある姿だが、強くない。たとえて言うとしたら、美しい女性が悩んでいる姿に似ている。強くないのは女の歌であるからだろう。)

「衣通姫(そとおりひめ)」とは、記紀で絶世の美女と伝承される人物で、その美しさが衣を通して光り輝いたと言われている。この紀貫之の文章を普通に読むと、誰でも小野小町が美人であったと連想してしまうだろう。

また「百人一首」には、小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」(古今集)が選ばれている。
この歌で、小町は自分の容姿を花にたとえて、歳とともに衰えてしまったことを言っているのだが、裏を返すと、若いころは自分でも美しいと思っていたということになる。

小野小町土佐光起

昔から「小野小町」といえば「美人」の代名詞のようになっていたようだが、紀貫之の文章や小町の歌などの影響が大きいのだろう。
しかしながら、小野小町の肖像画や彫像はすべて後世に造られたものであり、本当に美人であったかどうかは確認のしようがない。

実在したことは間違いないのだろうが、小町の生年も没年も明らかでなく、どこで生まれどこで死んだかすらわかってはいない。

たとえ有名な人物であっても、生没年が良くわからないことはこの時代では珍しくない。
紀貫之も没年は天慶8年(945)説が有力だが、生年については貞観8年(866)、貞観10年(868)、貞観13年(871)、貞観16年(874)と諸説ある。紫式部も生年について6つの説があり没年についても6つの説があり定説はない。清少納言も同様である。

Wikipediaによると、小野小町は「生没年不詳」としながらも「数々の資料や諸説から生没年は天長二年(825)から昌泰三年(900)頃と考えられている」と書かれているが、この説はどこまで信用できるのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%B0%8F%E7%94%BA

南北朝期から室町時代の初期に、洞院公定(とういん きんさだ)によって編纂された「尊卑分脈」(別名「諸家大系図」)という書物に、小野小町は小野篁(おののたかむら)の息子である出羽郡司・小野良真の娘と記されているそうだ。

小野篁

小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫であり、歌人としても有名な人物で、「百人一首」に選ばれた「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」が有名である。

小野小町は有名な歌人の血筋に繋がっているのかと何の抵抗もなく納得してしまいそうな話だが、よくよく考えると年齢に矛盾がある。
小野篁は延暦21年(802)に生まれ仁寿2年(853)に没したことが分かっているので、先程のWikipediaによる小野小町の推定生没年と比較すると、年齢差はわずかに23歳しかなく、小野小町が小野篁の孫娘であるという「尊卑分脈」の記録を信用していいのだろうか。

また紀貫之の「古今和歌集仮名序」の小町に関する記述は、小町が美人であることを確信していないと書けないような気がするのだが、古今集を完成させたのは延喜5年(905)には小町は没しておりまた小野小町は紀貫之よりも41~49歳も年上になるのだが、この年齢差にも少々違和感がある。

となると小野小町が小野篁の孫娘だとする「尊卑分脈」の記述が正しいのか、小野小町の生没年の推定値が正しいのか、紀貫之の生没年の推定値が正しいのか、わけがわからなくなってくる。

出生地を調べるとこれも諸説ある。
秋田県湯沢市小野、福井県越前市、福島県小野町など生誕伝説のある地域は全国に点在しているらしい。
小町の墓所も全国に点在している。
宮城県大崎市、福島県喜多方市、栃木県下都賀郡岩船町、茨城県土浦市、茨城県石岡市、京都府京丹後市大宮町、滋賀県大津市、鳥取県伯耆町、岡山県総社市、山口県下関市豊浦町などがあるそうだ。

若い頃の小町は、誰もがうらやむ美しさで多くの男を虜にしたのかもしれないが、彼女のその後はとことん落ちぶれて、悲惨な伝承がかなり多いようだ。

小町を脚色した文芸や脚本では落ちぶれた小町を描いたものが多く、室町時代には観阿弥・世阿弥が書いた「卒塔婆小町」など、さまざまな作品があるようだ。次のURLで「卒塔婆小町」のあらすじが読める。
http://www.asahi-net.or.jp/~HF7N-TKD/explanationJ/Jsotoba.html

卒塔婆小町面

上の画像は「卒塔婆小町」で使われた能面である。

夫も子も家もなく、晩年になると生活に困窮して乞食となって道端を彷徨った話や、ススキ原の中で声がしたので立ち寄ってみると目からススキが生えた小町の髑髏があったなど、およそ若い時の姿とはかけ離れたような話がいろいろある。

滋賀県大津市の月心寺には「小町百歳像」という像があるらしいが、ネットで画像を探すと、ここまで醜く小町を彫るかと驚いてしまった。薄暗いお堂の中では、妖気がこもって怖ろしく感じることだろう。

小町100歳像

京都市左京区の安楽寺という浄土宗の寺院には「小野小町九相図」(三幅)という掛け軸があり、老いた小町が死んで野良犬に食い荒らされて白骨となるまでの九つの姿を描いた絵巻が画像と共に次のURLで紹介されている。
http://hiratomi.exblog.jp/4036054/

晩年の小町に関する悲惨な話は何れも信憑性に乏しいものだとは思うが、こんな話や像や掛軸がなぜ作られたのかと考えこんでしまう。単純に小野小町の美貌と才能を妬んだからというのではなさそうだ。

若い時にいくら周囲からチヤホヤされて浮き名を流した女性でも、やがて老醜を蔑まれ惨めな人生を迎える時が来る。このことは男性も同様で、いくらお金をつぎ込んでも「老い」を避けることは不可能だ。つまるところいつの時代も、老いても多くの人から愛される人間になることを目指すしかないと思うのだ。

今のような年金制度はなかったが、昔の時代は、近所付き合いを大切にし家族を大切し老人を敬うことで、惨めな老後を迎える人は今よりもはるかに少なかったように思う。逆に近所づきあいをせず家族もなければ、今よりもずっと悲惨な老後が待っていた時代でもあった。
そこで、孤高では老後を生きていくことができないということを伝えるために、若かりしときは伝説の美人であり才女であった「小町」の老いさらばえた姿を絵や物語に登場させることになったのだと思う。「小町」の伝承が全国にやたら多いのは、史実と物語とが時代と共に渾然としてきて、その見極めができなくなってしまったからなのだろう。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。







源頼朝が挙兵後約2ヶ月で南関東を制圧し、その後争いが鎮静化した理由を考える

前回の記事で天長8年(831)から桜の花見が天皇主催の定例行事として宮中で行われるようになったことを書いたが、一度決められた「花宴」はその後も毎年のように行われて、以降1200年分もの京都の花見の記録が残されているのだそうだ。

花見が行なわれる日はほぼ満開に近い時期と考えられるので、記録されている日付すべてを太陽暦に読み替えて、時代ごとの気候変動を調べる研究が戦前から続いているのだという。

伊勢物語絵巻八二段
【伊勢物語絵巻八二段】

桜の開花が早いか遅いかについては開花直前の春先の気温に依存するところが大きく、このことから各年の3月の京都の平均気温がある程度推定できるというのだが、11世紀半ばの気温推定についてはデータが少ないので不可能だという。ちなみに1040年から1080年までの40年間は太陽活動の低下期であったことが分かっており、この期間についての記録で桜の満開日と推定できる記録は、わずか3例があるのみだという。

それ以降のわが国の気候はどうであったのか。
この時期のわが国の歴史を簡単に振り替えると、保元元年の(1156)の保元の乱、平治元年(1159)の平治の乱で平氏が勝利したのち、平清盛が武士として初めて公卿となり、仁安元年(1166)には内大臣、翌年には太政大臣に昇進し、一族も高位高官についただけでなく清盛の娘・徳子(建礼門院)は高倉天皇の中宮となって、一時は『平家にあらざれば、人にあらず』と伝えられるほどの栄華を極めたのだが、その後の平氏は治承・寿永の乱で敗れ続けて、政権はずいぶん短命で終っている。この理由は「貴族のような政治を行って、直属の家人以外には恩恵が及ばず、全国の武士に見限られた」とよく解説されるのだが、この時代の西国の異常気象を無視して論じているものが多い。

気候で読み解く日本の歴史

田家康氏の『気候で読み解く日本の歴史』によると、平氏政権の時代の天候についてこう解説されている。(日付は太陽暦に読み替え後)

1160年代の終わりから、桜の満開日は遅くなる傾向にあった。『醍醐寺雑要』の記述を追いかけると、1167年~1175年にかけての9年間のうち1172年を除いて桜の満開日は4月20日過ぎである。3年続いて4月20日以降になるのは1173年~1175年以降では1548年まで待たねばならない。ところが一転して『明月記』によると1180年(治承4)の満開日は4月7日と早かった。10世紀のもっとも早い年である955年(3月30日)と961年(3月28日)とまではいかないまでも10世紀の平均日よりは早いことから、1180年3月の京都の平均気温は7℃を超え、ヒートアイランド現象の要因を除いた現在の気温と変わらない暖かさであっただろう。
 春先の暖かさが降水量の少ない夏へと続き、翌1181年にかけて養和の飢饉をもたらす。荒川秀俊*博士は、この年の京都での水不足について古い文献を調べ上げた。荒川博士は5月1日から8月31日にかけて『山槐記』『吉記』『玉葉』のいずれかに雨の記述がある日を数えていった。その結果、7月は全く降らず、8月も驟雨が4日降っただけであった。そして明治以降での3回の干ばつ発生年(明治16年、大正13年、昭和14年)での雨天日数とも比較し、1180年(治承4)では7月に晴雨不明の日が7日あるものの、明治以降の干ばつ発生年と比較しても雨天日数が少なかったことをつきとめている。
明治以降の干ばつ八青年の場合、5月から8月にかけての降水量は300ミリ台の後半であり、現在の平均値の約半分しか降らなかった。1180年の場合、雨天日数や8月に驟雨しか降らなかったことを勘案すると、降水量は明治以降の3回の干ばつ年よりも少なかったであろうと、荒川博士は結論付けている。」(『気候で読み解く日本の歴史』p.90~91)
*荒川秀俊(1907~1984):昭和期の気象学者。予報技術の発展に貢献したほか、古文書により気象・災害と歴史的事件の関係を研究。

方丈記

1180年は源平合戦とも呼ばれる治承・寿永の乱が始まった年なのだが、この年は春が暖かく、夏にほとんど雨が降らず農産物が大凶作となり、さらに秋には台風が上陸して翌年にかけて養和の大飢饉が起きていることに注目する必要がある。この飢饉の悲惨さについては、例えば鴨長明の『方丈記』にこう記されている。テキストと現代語訳は次のURLを参照願いたい。
http://www.manabu-oshieru.com/daigakujuken/kobun/houjyouki.html

「又、養和の頃とか、久しくなりて覚えず。二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。或は春・夏 日でり、或は秋・冬 大風・洪水など、よからぬことどもうち続きて、五穀 ことごとくならず。むなしく春かへし、夏植うるいとなみありて、秋刈り、冬收むるぞめきはなし。これによりて国々の民、或は地を捨てて境を出で、或は、家を忘れて山に住む。さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、さらにそのしるしなし。

京の習ひ、何わざにつけても、みなもとは、田舍をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへむ。念じわびつゝ、さまざまの財物、かたはしより捨つるが如くすれども、更に目見たつる人もなし。たまたま換ふる者は、金を軽くし、粟を重くす。乞食、路のほとりに多く、憂へ悲しむ声、耳に滿てり

 前の年、かくの如く、辛うじて暮れぬ。明くる年は、立ち直るべきかと思ふに、あまりさへ、疫病うちそひて、まさざまにあとかたなし。世の人、みなけいしぬれば、日を経つつ、きはまりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。果てには、笠うち着、足ひきつつみ、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものども、歩くかと見れば、即ち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、臭き香、世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち、ありさま、目もあてられぬこと多かり。いはんや、河原などには、馬・車の行き交う道だになし。」

餓鬼草子
【餓鬼草子】

では、どの程度の餓死者が出たかというと、仁和寺の隆暁法印が額に『阿』の文字を書いて回ったところ、その数が「4万2千3百余り」になったと書かれている。その前後や、周辺地を考慮すれば、亡くなった人の数は計り知れない。
http://www.manabu-oshieru.com/daigakujuken/kobun/houjyouki/08.html

この『方丈記』の記録は決して誇張されたものではなく、他にも多くの記録が残されているようだ。先ほど紹介した田家氏の『気候で読み解く日本の歴史』にはこう解説されている。

「大きな干ばつが発生すると飢饉は翌年の収穫まで続く。収穫が多少なりとも得られれば、その年の暮れまでは何とか過ごすことが出来る。問題は年明けになって食料が尽きた後だ。奈良時代から江戸時代に至るまで、干ばつなり冷害なりで飢饉が起きると、餓死者が大量に出るのは翌年春以降という傾向がある。1180年(治承4)の干ばつによる飢饉は1181年(養和元)から1182年(寿永元)まで続いた。『百錬抄』には1881年6月の記述に『近日、天下飢饉、餓死者その数を知らず。僧綱有官の輩すら其の聞あり』、『皇帝紀抄』の安徳天皇の項には、『今年、天下飢饉、道路に餓死者充満す。開闢以来此の程の子細無し』とある。」(同上書 p.91~92)

また吉田経房の日記『吉記』養和2年(1182)2月には強盗や放火が起こり、飢者が人間の肉を食べたことなどが記されている。3月には道路に死体が充満していたことや、源氏が各地で謀反をしたことなどが記されている。下のURLはその原文である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1236604

以仁王像
【以仁王像】

分かりやすいように干ばつが発生する前後の源平合戦を振り返ってみよう。
治承4年(1180)の4月に以仁王が平家追討の令旨を発し、5月に源頼政、以仁王が挙兵したが、平家の追討を受けて源頼政は自害し、以仁王は戦死したとされる。
しかしながら、以仁王の令旨は各地の武士に配られて、源頼朝は相模・伊豆・武蔵の武士団へ呼びかけ、8月に挙兵して相模国石橋山で大庭景親らと交戦し敗北したものの(石橋山の戦い)、さらに勢力を拡大して10月に先祖ゆかりの鎌倉に入りそこを本拠地とした。
東国での状況を受けて平氏政権は平維盛、平忠度らが率いる追討軍を派遣し、両軍は富士川で対峙したのだが、目だった交戦がないままに、平氏軍は敗走する (富士川の戦い)

この戦いは米の収穫期に起きているのだが、この年は西国では米は大凶作であったことが分かっている。一方源氏の本拠地である東国は、干ばつ被害については西国ほどひどい状況ではなかったようである。再び田家氏の著書を引用する。

富士川の戦い

「同年8月23日、源頼朝は石橋山の戦いで敗れたものの、2カ月後の10月20日(11月9日)の富士川の戦いで平維盛の軍勢を破る。『平家物語』や『源平盛衰記』では武田信義の一軍が富士川に馬で乗り入れたところ、水鳥が一斉に飛び立ち、その水音に平氏軍は驚いて大混乱に陥り退却したエピソードで語られている。荒川博士は、平氏軍の撤退とはこの年の干ばつによる凶作で西日本が食糧不足に陥ったためではないかと考えた。駿河まで出陣したものの、兵糧が不足したことで軍内に厭戦気分が高まり、撤退したのではないかとみる。平氏が拠点とする西日本が深刻な干ばつと飢饉に見舞われたのに対し、頼朝が兵を募った東日本は…『干ばつに不作なし、雨年に豊作なし』の土地柄である。荒川博士の描く構図は、1180年の干ばつが東日本と西日本の農業生産にまったく逆の状況をもたらし、これが治承・寿永の乱で頼朝が勝利する背景であったとする。」(同上書 p.91)

大干ばつの西国で、平氏が食糧を調達することも兵士を集めることも容易でなかったことは間違いないだろう。
Wikipediaによると、頼朝挙兵の報が福原にもたらされたのは9月1日(9月21日)で、清盛は9月5日(25日)に関東に追討軍派遣を決定している。しかし追討軍の編成は遅々として進まず、福原を出立したのは9月22日(10月12日)で、京を発したのは29日(10月19日)と随分日数がかかっている。追討軍は進軍しながら諸国の「駆武者」をかき集めて7万騎の大軍となるも、所詮は寄せ集めで士気は非常に低かったようだ。
その追討兵が10月20日(11月9日)に富士川の西岸に布陣したのだが「兵糧の欠乏により平家方の士気は低下し、まともに戦える状態になかった。『吾妻鏡』によると、この時点での平家方は4000余騎でかなり劣勢であり、さらに脱走者が相次いで2000騎ほどに減ってしまう有様だった」という。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

平家方の兵糧の欠乏は士気の低下を招いただけではなく、兵糧の足りている源氏に逃亡しようと考える者もいたという。権中納言中山忠親の日記『山槐記』の治承4年11月6日条には、「或る者」からの情報としてこう記されている。
「兼ねてまた諸国の兵士、内心皆頼朝に在りて、官兵互いに異心を恐る。暫く逗留せば後陣を囲み塞がんと欲すと云々。忠景等此の事を聞き、戦わんと欲するの心なきの間、宿の傍らの池の鳥、数万にわかに飛び去る。其の羽音雷を成す。官兵皆軍兵寄せ来たると疑い、夜中に引き退く。上下競い走る。」

九条兼実
【九条兼実】

平氏がかき集めた「駆武者」のなかには、軍に入れば食えることを期待して入った者もかなりいたのではないか。九条兼実の日記『玉葉』の11月5日の記録には
「所残之勢、僅不及一二千騎。武田方四万余云々。依不可及敵対、竊以引退。是則忠清之謀略也。於維盛者、敢無可引退之心云々。而忠清立次第之理、再三教訓。士卒之輩、多以同之。仍不能黙止、自赴京洛以来、軍兵之気力、併以衰損。適所残之輩、過半逐電。凡事之次第非直也事云々」とある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920201/228
平家軍が敵の武田軍に対して劣勢であったために、平家軍の侍大将・伊藤忠清は大将軍の平維盛に退却を献策し、他の武士たちもそれに賛同したため、維盛もその策を受けいれざるを得なかった。平家軍の士気は衰え損なわれて、富士川に対陣で残った兵も過半が逐電(逃亡)したという。
兵糧が乏しかったのならかき集めた兵が逃亡することは当然だと思う。

かくして源頼朝は挙兵後わずか2ヶ月で南関東を制圧し、その後しばらく鎌倉に根拠地として幕府の基礎を固めていくことになる。

そして翌年(治承5年[1181])には閏2月には平清盛が没し、4月には尾張・美濃国境付近の墨俣川(現長良川)において平家軍と源行家軍との間で行われた墨俣川の戦いで平家軍が大勝した。しかしながら西日本はこの年も干ばつとなり、平家は都を中心とした専守防衛対策を堅持することとなる。またこの年は東日本も凶作であったため、頼朝も守りをかためることとなり、その後源平の合戦は寿永2年(1183)まで膠着状態にとなっている。

これらのことは深刻な大飢饉の影響を抜きに考えられないと思うのだが、教科書やマスコミなどで広められている歴史叙述には、多くの場合その視点が欠落している。
この時代の歴史が、『平家物語』の影響を脱する日は来るのか。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ





【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみててください。

祖谷の平家屋敷と平家落人伝説
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-68.html

武士であることを捨てた弓の名人、那須与一
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-62.html

「牛若丸と弁慶の物語」の虚構
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-198.html

源義経が奥州平泉で自害したというのは真実なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-60.html

謎に包まれた源頼朝の死を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-61.html

このエントリーをはてなブックマークに追加

大飢饉の西日本で平氏や源氏はどうやって兵粮米を調達したのか

前回の記事で、源頼朝や木曽義仲が平氏打倒のために挙兵した治承4年(1180)は大干ばつのために西日本は大凶作となり、平氏は関東に追討軍を送り込んだものの、10月の富士川の戦いでは平氏軍は兵粮不足で逃亡者が続出し、まともに戦える状況ではなかったことを書いた。

「平家物語絵巻」洲股合戦のこと(部分・林原美術館蔵)
【「平家物語絵巻」洲股合戦のこと(部分・林原美術館蔵)】

その翌年の治承5年(1181)は、閏2月に平清盛が没した後、4月には尾張・美濃国境付近の墨俣川(現長良川)において平氏軍と源行家軍との間で行われた墨俣川の戦いで平氏軍が大勝している。前年の大凶作のあとだけに、兵粮米の調達にかなり苦労したようだ。

源平合戦の虚像を剥ぐ

川合康氏が『源平合戦の虚像を剥ぐ』で、このように解説している。
「治承5年2月、尾張国まで進出してきた源行家を中心とした反乱勢力を美濃・尾張国境の墨俣川で迎撃するために、2月7日に『官使・検非違使を美乃国に遣わし、渡船等を点じ、官軍に渡すべしの由、同じくもって宣下す』という宣旨が発給され」(『玉葉』治承5年2月8日条)、それをうけて伊勢国留守所は2月20日に『早く宣旨状に任せて、二所太神宮・神戸・御厨・御園ならびに権門勢家庄園・嶋・浦・津等を論ぜず、水手・雑船などを点定し、尾張国墨俣渡に漕送すべき事』という下文を出している(治承5年2月20日『伊勢国留守所下文』<書陵部署象壬生古文書『平安遺文』8-3952>)
 伊勢国内において伊勢神宮領・権門勢家領を問わず徴発を命じており、これなどは典型的な一国平均賦課の形態といえよう。なお、このときに水手・雑船だけではなく、兵粮米の徴集もおこなわれていたことは、じっさいに伊勢神宮領で徴発を完了した2月24日の『大神宮司庁出船注文』の一艘に『兵粮米積む』と記載されていることから明らかである。(治承5年2月『大神宮司庁出船注文』<書陵部署象壬生古文書『平安遺文』8-3956>)」(講談社学術文庫『源平合戦の虚像を剥ぐ』p.127-128)

このように、諸国の国衙機構を通じて、国内の荘園・公領を問わず平均に賦課されることを「一国平均役」と呼ぶそうだが、このような調達方法には限界があり、その不足分を賄うために富裕者(有徳人)を対象とした賦課も行なわれた。

「治承5年2月7日、『京中の在家、計らい注せられるべきの由、仰せ下さる。左右京職の官人、官使、検非違使等これを注す』という内容の宣旨が出され(『玉葉』治承5年2月8日条)、京中在家の検注(屋敷地の規模や住人の調査)が左右京職の官人・検非違使らに命じられている。…
京中在家の検注の目的は、京都に屋敷を有する住民のうち『富裕の者』を調査・把握し、その者を対象に兵粮米を賦課しようとするものであって、同時にまた院宮・諸家の備蓄米の徴発をも実施し、京都住民の飢餓の窮状を救おうとするものであった
 …
このような有徳役による兵粮米の徴発は、治承5年5月には大和国においても実施されている。そこでは、『国中有徳者』にたいして兵粮米賦課をおこなっていた『官兵の使』が、賦課を逃れようとする『有徳者』の屋敷に乱入し、倉を検封するなどの実力行使におよんだことが知られるのである(『吉記』治承5年5月4日条)。」(同上書 p.129-130)

平氏はこのようなやり方で兵粮を集め、墨俣川の戦いでは平氏軍が大勝したのだが、前年の干ばつによる大凶作のため各地で餓死者が出ているなかで、こんな強引な徴発方法を繰り返そうとして公卿たちの反発を買うこととなる。

「…治承5年には養和*の大飢饉がひろがるなか、平氏はこのほかにも西海・北陸道などから運上物を点定して兵粮米にあてるなどの提案をおこなって、なんとか兵粮米を確保しようと躍起になるが、これは公卿たちの反対にあって実現せず(『玉葉』治承5年2月6日条)」、『兵粮已に尽き、征伐するに力なし』(同前)とか『凡そ官兵兵粮併しながら尽き了んぬ。更にもって計略なし』(『玉葉』治承5年3月6日条) と呼ばれた状況は、容易に打開しようがなかったのである。
大飢饉がさらに拡大した翌養和2年(1182)3月、左大臣吉田経房は『兵粮米の事、万民の愁い、一天の費え、ただ此の事に在るか』と日記に記している(『吉記』養和2年3月26日条)。こうした状況のなか、目立った軍事行動がなくなり、戦線が膠着化していったのは、むしろ自然のなりゆきであった。」(同上書 p.130)
*養和:治承5年(1181)7月14日に改元され、養和2年(1182)5月27日に寿永に改元された。源頼朝の源氏方ではこの元号を用いず、引き続き治承を使用した。

餓鬼草子
【餓鬼草子】

前回記事で紹介したとおり、鴨長明は『方丈記』でこの頃の京都の惨状を「乞食、路のほとりに多く、憂へ悲しむ声、耳に滿てり」「築地のつら、道のほとりに飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、臭き香、世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち、ありさま、目もあてられぬこと多かり」と書いている。食糧の絶対量が不足していて人々が飢餓で苦しんでいる状況下では、兵粮米が集まらないことは当然であろうし、強引に集めれば人々の恨みを買うことは誰でもわかる。

しかし、大飢饉の年が明けて寿永2年(1183)となると、平氏は木曽義仲を征討するため大規模な北陸道の遠征計画を立てている。前年は凶作ではなかったにせよ、4万とも言われる平氏軍の兵粮米を調達することは容易ではなかったはずだ。

川合康氏によると寿永2年に北陸道に進軍していった平氏軍は、往路の兵粮を北陸に向かう路次の地域で徴発することが朝廷から認められていたという。

p_kawai2016.jpg
【川合康氏】

そのありさまが平家物語に出ていて、川合氏の同上書に引用されている。
片道給わりてければ、路次持て逢える物をば、権門勢家の正税官物、神社仏寺の神物・仏物をも云わず、押し並べて会坂関(おうさかのせき)より、是れを奪い取りければ、狼藉なる事おびただし。まして、大津・辛崎・三津・川尻・真野・高嶋・比良麓・塩津・海津に至るまで、在々所々の家々を次第に追捕す。かかりければ、人民山野に逃げ隠りて、遥かに是れを見遣りつつ、おのおの声を調えてぞ叫びける。昔よりして朝敵を鎮めんが為に、東国・北国に下り、西海・南海に赴く事、其の例多しといえども、此の如く、人民を費やし国土を損ずることなし。されば源氏をこそ滅ぼして、彼の従類を煩わしむべきに、かように天下を悩ますことは只事に非ずとぞ申しける。」(『延慶本平家物語』第三末「為木曽追討軍兵向北国事」)

平氏軍は源氏を討伐するのではなく、進軍する街道筋にある村々に押し入って、寺や神社や家々から手当たり次第に掠奪したことが記されている。

川合氏はこう解説しておられる。
寿永2年は前年の収穫・納入で事態は少し好転したとはいえ、大軍勢の遠征をまかなう兵糧を畿内近国で確保することができなかった平氏は、朝廷公認のもとに、ここでいわば現地調達方式に切りかえたのである。三、四月が農村では冬作麦の収穫期にあたっていたという事実も、このこととけっして無関係ではないだろう
 しかし、やっとの思いで大飢饉をしのぎつつあった街道沿いの村々にとっては、たとえ朝廷の承認を得たものであったとしても、これは残酷な掠奪行為にほかならない。その意味で、村人たちが山野に避難しつつも、集落を見下ろす山の上から平氏の軍勢にたいし、『かように天下を悩ますことは只事にあらず』と大声で叫んだという『延慶本平家物語』の記述は、この時期の民衆たちの心情をよく描いているといえよう。
 しかし、このような路次追捕は、平氏軍による北陸道遠征に特殊なものとはならず、これ以後各地で展開するようになる。」(『源平合戦の虚像を剥ぐ』p.132-133)

源平倶利伽羅合戦図屏風
【源平倶利伽羅合戦図屏風】

こんな具合に平氏の北陸追討軍は進軍していったのだが、5月11日の越中国礪波山の倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に敗れてしまう。義仲は篠原の戦いにおいても平氏軍に勝利して沿道の武士たちを糾合し、破竹の勢いで京都を目指して進軍していく。
平氏は都の防衛を断念して7月25日に安徳天皇らを擁して西国に逃れたのち、28日に木曽義仲が入京している。木曽義仲は京中の狼藉の取締りを委ねられたのだが、それがとんでもないことになる。

九条兼実は木曽義仲や源行家の軍勢が入京して1ヶ月余りたった寿永2年9月の状況を日記『玉葉』に記している。原文は漢文だが、読み下し文が川合氏の著書に出ている。

9月3日
「凡そ近日の天下、武士の外、一日も存命の計略なし。仍(よ)つて上下多く片山田舎等に逃れ去ると云々。四方皆塞がり、…畿内近辺の人領、併しながら苅り取られ了んぬ。段歩残らず、また京中の片山および神社仏寺、人屋在家、悉(ことごと)くもって追捕す。其の外たまたま不慮の前途を遂ぐるところの庄公の運上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆もって奪い取り了んぬ。此の難市辺に及び、昨今買売(ばいばい)の便を失うと云々。天何ぞ無罪の衆生を棄つるや。悲しむべし、悲しむべし」(同上書 p.134)

9月5日
京中の万人、今においては一切存命するに能わず。義仲、院の御領己下、併しながら横領す。日々倍増し、およそ緇素貴賤(しそきせん)涙を拭わざるはなし。憑(たの)むところ只頼朝の上洛と云々」(同上書 p.135)

木曽義仲像(徳音寺所蔵)
【木曽義仲像(徳音寺所蔵)】

義仲軍は狼藉を取締るどころか京の食糧などを奪い取ること甚だしく、京の人々は頼朝の上洛により義仲が成敗されることを期待するようになっていく。頼朝は翌年に入京しているのだが、頼朝が引連れた軍(鎌倉軍)の場合はどうであったのか。

川合氏はこう述べている。
「…翌寿永3年(1184)1月に義仲軍を破って入京した鎌倉軍は、たしかに京中の治安維持には勤めようとするものの、たとえば生田の森・一の谷合戦に向かうさい、摂津国垂水東・西牧において『路次たるにより、追討使下向の時、雑人御牧に乱入し、御供米を取り穢し、住人らを冤陵(えんりょう)*す』(寿永3年2月18日『後白河院庁下文案』<春日神社文書、『平安遺文』8-4131>)と訴えられるような掠奪をともなって進軍した…」(同上書 p.135)
*冤陵:無実の者に暴力を加えて苦しめること

このように、源氏も平氏も掠奪をしていたのだが、このような行為は源平に限らずどの武将も良く似たもので、騎兵とは別に、軍の中に兵粮の稲の刈取りを組織的に行う歩兵が存在していたというのだ。

川合氏の解説を続ける。
このような部隊は、院政期においても確認することができ、たとえば康治元年(1141)10月に、目代(もくだい)・在庁官人らにひきいられた紀伊国衙の軍勢が大嘗会所役をめぐって大伝法院領に乱入したさいには『数百軍平』とともに『数千人夫』が催され、彼らは稲・大豆の刈取りや、在家・諸堂における資材や雑物の追捕・運搬活動に従事しているのである。(康治元年10月11日『紀伊国大伝法院三綱解案』<根来要書上、『平安遺文』6-2481>)
 治承・寿永内乱期の路次追捕が、たんなる場あたり的な掠奪ではなく、遠征を行うにあたり当初から予定されていた『合法的』軍事行動だったとすると、当然この時期の軍隊にも、兵糧の刈り取りや追捕活動を専門的におこなう補給部隊が組織されていたはずである。そして、目代ひきいる紀伊国衙の軍勢が発向したさいに、こうした活動に従事する存在として国内で人夫が徴発されていた事実をふまえるならば、おそらく治承・寿永内乱期においても、工兵隊と同様に、兵士役によって徴発された一般民衆が補給部隊を構成したものと思われる。」(同上書 p.136)

「兵粮の現地調達」については、大凶作のため飢饉が発生しているような状況では容易ではないことは誰でもわかる。こんな時期に進軍する兵士に必要な食糧を手配しようとすれば、現地でかなり強引に奪い取るしか方法はなかったと思うのだが、そうすることで政権に対する人々の信頼は急速に失われていったことであろう。
一度信頼を失ってしまえばそれを取り戻すことは容易ではなく、いずれ豊作となった際に人々が簡単に兵糧を差出すとは思えない。
その後平氏が短期間で源氏に滅ぼされたことや、源氏が鎌倉を本拠地としたことは、このような観点から考察することも必要ではないだろうか。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ





【ご参考】このブログで、わが国で起こった大きな飢饉の事を何度か書いてきました。
我が国のカロリーベースの食料自給率は39%しかありません。もし世界的な凶作で食糧不足となれば、いずれの国も自国民のための食糧確保を優先することが確実となります。
自国民の食糧生産を他国に依存しすぎることは過去の歴史に照らして危険なことではないでしょうか。

アイスランドの火山爆発と天明の大飢饉
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-117.html

飛騨地方を舞台にした悪代官と義民の物語
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-131.html

田沼意知の暗殺を仕掛けたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-417.html

郡上一揆と白山信仰のゆかりの地を訪ね、白川郷の合掌造りの民宿で泊まる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-335.html

戦国時代に多くの農民が大名の軍隊に加わった理由
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-462.html

応仁の乱の前に何度も土一揆がおきた背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-463.html

飢饉がありながら、応仁の乱の10年間に土一揆の記録がないのは何故か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-464.html

室町幕府の弱体化を招いた『応仁の乱』はなぜ起こったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-465.html

このエントリーをはてなブックマークに追加

源平両軍の兵士による掠奪から民衆は如何にして食糧や家財を守ろうとしたのか

前回の記事で、平氏軍も源氏軍も兵粮が不足していて、進軍する街道筋にある村々に押し入って、寺や神社や家々から手当たり次第に掠奪したり、穀物を刈り取ったりしたことを書いた。
しかしながら、西日本では治承四年(1180)から干ばつのために凶作が二年続き、京では餓死者が道にあふれるほど食糧の絶対量が不足していた。街道筋にある村々にとっては彼らの食糧を守ることは家族の生死にかかわる大問題であったのだ。
では、彼らはどういう方法で、食糧や家財を両軍の兵士の掠奪から守ろうとしたのだろうか。

延慶本平家物語

前回紹介した川合康氏の『源平合戦の虚像を剥ぐ』にはこう解説されている。

「では、彼らの財産のほうはどうなっていたのだろうか。自分達の米や麦、その他の資材が補給部隊によって家のなかから運びだされていくのを、避難先からこっそりうかがうしかなかったのであろうか。
 すでに引用した『延慶本平家物語』には、北陸道に向かう平氏軍にたいして山の上から抗議の声をあびせかけた村人たちの姿が描かれているが、こうした軍隊の追捕から、みずからの資材を守ろうとする彼らの具体的行動を知ることが出来るのは、これも…木曽義仲・源行家軍の入京を描いた『延慶本平家物語』のつぎの一節である。

 平家西国へ落ち給いしかば、其の騒ぎに引かれて安き心なし。資材・雑具、東西南北へ運び隠すほどに、引き失う事、数を知らず。穴を掘りて埋みしかば、或いは打ち破れ、或いは朽ち損じてぞ失せにける。浅猿とも愚かなり。

ここでは軍勢の追捕から逃れるために、京の周辺に資材・雑具を運び隠し、また穴を掘ってそれらを埋める民衆の動向が示されているのである。
京の周辺に資材・雑具を運び隠しているようすについては、…穴を掘って埋めるという方法は、17世紀に成立した『雑兵物語』にもその摘発の心得として、

又家内には米や着物を埋めるんだ。そとに埋める時は、鍋谷釜におつこんで、上に土をかけべいぞ、その土の上に霜の降りた朝みれば、物を埋めた所は必ず霜が消えるものだ。
それも日数がたてば見えないもんだ
と云う。能々(よくよく)心を付けて掘り出せ。(『雑兵物語』下巻 「荷宰料 八木五蔵」)

と語られており、屋内の床下には食糧や衣類を埋め、屋外の場合は鍋や釜に財物を詰めて土をかけていたことが示されている。穴を掘って土の中に埋める方法は、軍勢の掠奪から資材を守る方法の一つとして、近世に至るまで民衆の間で行われていたことが確認されよう(藤木久志『村の隠物・預物』)
それとともに、もう一つここで注目しておきたいのは、先に揚げた京中での義仲・行家軍の掠奪を記した『延慶本平家物語』のつづきの部分に、

家々には武士有る所もなき所も、門々に白旗*立ち並べたり。

と見えることである。
おそらくこれは、家の門に掲げられた白旗が源氏軍勢の寄宿先であることを表示し、その家は追捕の対象にならなかったことを利用して、寄宿地であるなしにかかわらず、皆が白旗を並べ立てたということなのであろう。」(『源平合戦の虚像を剥ぐ』p.140-142)
*白旗:源平の時代は源氏が「白旗」で平氏が「赤旗」を用いていた。

源氏の白旗と平家の赤旗

はじめのうちは、食糧や衣類を家の敷地のどこかに隠していたのであろうが、探す方も必死になって探すので見破られてしまうことが多く、次第に隠す場所が多様化していくようになる。

藤木久志氏の指摘によると、「町場から周辺の村へ、『里』村から『山』村へ、民家から寺社・有徳人の家などへ預ける『隠物』『預物』の習俗が拡がっており、戦乱から財産を保全する措置が取られていた」という。

川合氏の著書を読み進むと、大阪府箕面(みのお)市の山の中に西国三十三所の第二十三番札所となっている勝尾寺(かつおうじ)が、源頼朝方の梶原景時の兵に焼き討ちされる話が出ている。この事件を紹介する前に、それまでの源平合戦の流れを簡単に振り返っておこう。

寿永二年(1183年)五月の倶利伽羅峠の戦いで敗れた平氏が、都の防衛を断念して七月に安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちし九州大宰府まで逃れた。代わって木曽義仲が入京して京の治安に携わったのだが、義仲軍は京の食糧などを奪い取ること甚だしく、治安は悪化の一途をたどっていった。

そして八月・九月の収穫期を迎えるのだが、京の朝廷にとっての最大の問題は官物・年貢の確保であった。Wikipediaの解説によると、

西走した平氏は瀬戸内海の制海権を握り、山陽道・四国・九州を掌握していたため、西国からの年貢運上は期待できなかった。また東国も、美濃以東の東海・東山道は源頼朝政権の勢力下におさめられ、北陸道は源義仲*の支配下にあった。これら地域の荘園・公領は頼朝あるいは義仲に押領されていたため、同じく年貢運上は見込めなかった。さらに義仲は入京直後、山陰道へ派兵して同地域の掌握を図っていた。…さらに、入京した源義仲軍が、京中および京周辺で略奪・押領をおこなっていたことも併せて、京の物資・食料は欠乏の一途をたどり朝廷政治の機能不全が生じ始めていた。」
*源義仲:木曽義仲のこと。源頼朝の従兄弟にあたる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E6%B0%B8%E4%BA%8C%E5%B9%B4%E5%8D%81%E6%9C%88%E5%AE%A3%E6%97%A8

後白河法皇像(神護寺蔵)
後白河法皇像(神護寺蔵)】

そこで後白河法皇は義仲を見放して十月に源頼朝に接近したのだが、それを知って怒った義仲は十一月に院御所を襲撃し、法皇を幽閉して政権を掌握した (法住寺合戦)。つづいて十二月には法皇に頼朝追討の院宣を出させている。
一方、源頼朝は翌寿永三年(1184)一月に、近江にまで進出させていた弟の範頼、義経に義仲追討を命じ、宇治川の戦い・粟津の戦いで鎌倉政権軍が木曽義仲軍を壊滅させている

このような源氏同士の抗争を機に勢力立て直しをはかっていた平氏は、以前平清盛が都を計画した福原まで進出し、数万騎の兵力を擁するまでに回復して、二月にはいよいよ京を奪回する計画を立てていた。それを阻止するために、一月二十六日に後白河法皇源頼朝に平家追討の宣旨を出している。
頼朝の命を受けて範頼と義経は二月四日に京を出発し、範頼は大手軍五万六千騎を率いて摂津を下り
、義経は搦手軍一万騎を率いて丹波から播磨に進んだ。
梶原景時は範頼率いる大手軍に属していたのだが、この景時の軍勢が山陽道を下る途中で勝尾寺を焼き討ちしたというのである。

勝尾寺の紅葉
【勝尾寺の紅葉】

川合氏は同上書でこう解説しておられる。

「そこで注目したいのは、寿永三年(1184)二月四日、摂津国勝尾寺が生田の森・一の谷合戦に向かうのに山陽道を下る梶原景時の軍勢によって焼き討ちされた事件である。『延慶本平家物語』や延宝三年(1675)書写の『勝尾寺縁起』(『箕面市史 第一巻(本編)』p.160)は、この襲撃の事情をつぎのように記している。

 元暦元年(寿永三年)二月四日、梶原一の谷へ向かいけるに、民共勝尾寺に物を隠す由をほの聞きて、兵の襲い責めしかば、老いたるも若きも逃げ隠れき。三衣一鉢を奪うのみにあらず、忽ちに火を放ちにければ、堂舎仏閣悉く春の霞となり、仏像・経巻併しながら夜の雲とのぼりぬ。…然るを今滅ぼす所は仏閣・僧坊六十八宇、経論章疏(きょうろんしゅうしょ)九千巻、仏像・道具・資材・雑物、すべて算数の及ぶ処にあらず。(『延慶本平家物語』第五本 「梶原摂津国勝尾寺焼払事」)

すなわち、景時の軍勢が勝尾寺に押し寄せた理由は、近隣の民衆が勝尾寺に資材を隠しているということを聞きつけたからで、寺僧が制止するのを排除して軍勢が乱入し、資材や衣類を掠奪したうえ、最後には焼打ちにまでおよんだのであった。勝尾寺再建のさいに作成されたと推測される『勝尾寺焼亡日記』によれば、衣類を剥ぎ取られた住僧は百余人にのぼり、抵抗した老僧が一人誅殺されたという。 (寿永三年二月『勝尾寺焼亡日記』<『箕面市史 史料編1 勝尾寺文書』26>)」(同上書 p.142-143)

近隣の人々が兵粮の協力をしないのは平氏に協力するものであるとの嫌疑から、景時の軍勢が勝尾寺を焼打ちしたものと考えるが、この寺はその後南北朝の内乱が勃発した直後の建武三年(1336)にも足利軍の掠奪にあっているという。

人々が大きな寺や神社に大切なものを預けたのは何も勝尾寺だけではなく、軍が動いた街道筋の多くの寺社で同様のことがあったそうだ。
民衆にとっては寺社の境内は聖域であり、自らの家族の生命と財産を守ることができるようにと祈りを込めてそこに預けたのであろう。

しかし民衆の祈りは裏切られ、寺社は何度も軍勢による掠奪にあっている。

寺社や近隣民衆は兵士による掠奪被害からなんとか逃れたいのだが、武器らしい武器も持たずに広い境内を守ることはそもそも不可能に近い。そこで寺社も民衆も掠奪にあわないために知恵を絞ることになる。

玉祖神社
【玉祖神社】

川合氏の著書を読み進むと、現存最古の「制札」が大阪府八尾市の玉祖(たまおや)神社に残されていることが紹介されている。そこにはこう記されているという。

河内国薗光寺(おんこうじ)は鎌倉殿御祈祷所なり。寺并(ならび)に田畑山林において、甲乙人等乱入妨げ有るべからざるの状件の如し
 文治元年十二月 日」

この「制札」は、文治*元年(1185)に頼朝の舅である北条時政が河内薗光寺に対して発給したもので、ここに出て来る「薗光寺」という寺は玉祖神社の神宮寺である。残念ながらこの寺は、明治維新後の神仏分離で廃寺にされたのだそうだ。
文治:元暦二年(1185)八月から文治に改元され、文治六年(1190四月に建久に改元となった。この時代の天皇は後鳥羽天皇。

この「制札」について、川合氏はこう解説しておられる。
「…一見すると平治において鎌倉殿(頼朝)祈祷所の聖域性を保障したものであるかのように理解されてしまう。
 が、文治元年十二月という時期は、同年十月に源義経・行家らの頼朝に対する反乱が畿内において勃発し、十一月末に一千騎の軍兵をひきいて上洛した北条時政によって、畿内近国に総力的な軍事動員態勢が敷かれた段階にあたる。まさにその時期に、総司令官の地位にある京都守護北条時政によって発給された制札である以上、これは明らかに鎌倉方軍勢による境内への乱入と寺中での追捕を停止(ちょうじ)する制札であったと考えられる(川合康『鎌倉初期の戦争と在地社会』)」(同上書 p.147-148)

治承・寿永内乱期の制札で現存しているものは玉祖神社のものだけなのだそうだが、平氏方として嫌疑をかけられた僧侶の居住する伊勢国河田別所で、鎌倉殿から札を賜るとの文治2年の記録があるという。河内薗光寺と同様な鎌倉殿御祈祷所の制札が、各地の寺社に給付されていた可能性が高そうだ。

川合氏はこう解説しておられる。
鎌倉方軍勢による追捕が広範に展開するなかで、それを回避するために、鎌倉軍の『味方の寺社』であることを表示する『鎌倉殿御祈祷所』という形式の制札が、祈祷や礼物を条件に寺社側からひろく要求され、給付されていったと考えられよう
 そして、ここで前述したような戦乱時における地域社会での寺社の役割を想起すれば、このような制札の発給は、たんに寺社内の僧侶・神官やその資財を安堵したにとどまらず、自分達の貴重な財産を隠し置き、自身の安全をもとめて避難してきたような近隣住民の安堵にもつながっていたはずである。」(同上書 p.150)

このような制札を受けることで寺社は建物等が守られ、人々の財産も守られて安んじて生活が出来ることとなる。また、鎌倉方からすれば、寺社側からの求めに応じて『鎌倉殿御祈祷所』制札を発給することで、鎌倉軍兵士の乱暴狼藉を禁止するとともに、寺社周辺の地域全体を喜んで鎌倉方に靡かせることが出来る。

養和の飢饉があったにもかかわらず、西国で掠奪するように兵糧を徴発してきた平氏や木曽義仲らは、民衆の支持を急速に失っていったと思われる。こういう場合人々は、兵粮に余裕がありそうな鎌倉の源頼朝の力に期待したことは当然だと思うのだ


源頼朝像(神護寺蔵)
【源頼朝像(神護寺蔵)】

源頼朝が西国で広く支持を集めていった背景には、このような「制札」を出すことで自軍兵士による掠奪を禁止することを約して、人々を安堵させた効果が大きかったのではないだろうか。次のURLで『吾妻鏡』の訳文と解説が出ているが、これを読むと頼朝は、自分の権威を利用して武士が狼藉を行っている状況を止める意思があったことがわかる。
例えば元暦*二年(1185)三月四日の記録では、頼朝は藤原(吉田)経房に仲介を依頼して後白河院にこのような書状を送っている。
*元暦(げんりゃく):寿永三年四月に元暦に改元され、元暦二年八月に文治に改元された。この元号は平氏方は使用せず、寿永を使用していた。

「…海を隔てた平家の追討は今だに終っていません。転戦する武士たちによる再三の狼藉も判っており、追討が済んでから相当の措置を行うつもりですが、既に代官二名を派遣しておりますから不心得者がいれば院宣に従って処理をいたします。頼朝の権威を利用する武士の違法行為を止めるつもりでいる事をご了解ください。」
http://23.pro.tok2.com/~freehand2/rekishi/1185.html

よく平氏政権が短命に終わった理由として、平氏は文弱で武士としては勇猛さに欠けていたという類の解説を何度か聞いた記憶があるのだが、寿永二年(1183)の初頭までは何度も平氏軍が源氏軍と戦って勝利したことを考えると、平氏が勇猛さに欠けていたという説明は説得力に欠ける。
食糧が不足していた西国で、掠奪行為を繰り返した平氏や木曽義仲らは朝廷や民衆の支持を失い、源頼朝だけはそれを止めようとしたことに、もっと注目すべきではないだろうか。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ





【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみててください。

祖谷の平家屋敷と平家落人伝説
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-68.html

武士であることを捨てた弓の名人、那須与一
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-62.html

「牛若丸と弁慶の物語」の虚構
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-198.html

源義経が奥州平泉で自害したというのは真実なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-60.html

謎に包まれた源頼朝の死を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-61.html

吉野山の世界遺産を訪ねて~~金峯山寺から吉水神社、水分神社、金峯神社
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-108.html

このエントリーをはてなブックマークに追加

FC2カウンター
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。キーワードを含む全てのブログ記事のリストと、記事の最初の文章が表示されます。記事を探す場合は、カテゴリーで記事を追うよりも探しやすいです。
リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
最新記事
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
RSSリンクの表示
タグクラウド

年別アーカイブ一覧
RSS登録er
おすすめ商品
ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
おきてがみ
QRコード
QRコード
ブログサークル
ブログサークル
ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!
文字を大きく・小さく
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    人気ページランキング
    集計スタート時期が良くわかりませんが、おそらく2016年の夏ごろから現在までの記事アクセスランキングです。
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    読書
    このブログで採り上げた本のいくつかを紹介します
    三田村武夫の 『戦争と共産主義』復刻版

    同上 電子書籍

    同上 自由選書版

    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史