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浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした原因は何だったのか~~忠臣蔵1

毎年12月になるとよく「忠臣蔵」に関する番組が放映される。
子供のころから何度もよく似たドラマや映画などを見てきたが、これだけ何度も実在した人物の名前で演じられるので、大半が実話なのだろうと長らく思ってきた。

赤穂浪士出陣

Wikipediaによると、『忠臣蔵』とは
「江戸時代中期、元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)、江戸城内の松の廊下にて赤穂藩藩主浅野長矩が、高家肝煎・吉良義央に切りつけた刃傷沙汰に端を発する。松の廊下事件では、加害者とされた浅野は、即刻切腹となり、被害者とされた吉良はおとがめなしとされた。その結果を不服とする家老大石良雄をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人(赤穂浪士、いわゆる“赤穂四十七士”)による、元禄15年12月14日(西暦1702年1月30日)の本所・吉良邸への討ち入り及びその後の浪士たちの切腹までを題材にとった物語の総称として使われる。
ただし忠臣蔵は、かなりの演出・創作・脚色が行われており、必ずしも史実の通りではないことも周知とされている。」とある。

物語や映画などにかなりの演出・創作・脚色は付き物だが、ではどこまでが史実でどこまでが作り話なのかという肝心なことが何も書かれていない。

忠臣蔵』のハイライトは言うまでもなく赤穂浪士の討ち入りの場面だが、このきっかけとなったのは江戸城中松の廊下の刃傷事件だ。今回は松の廊下の事件について考えてみたい。

松の廊下

子供の頃から疑問に思っていたのだが、なぜ刃傷事件の被害者である吉良上野介が悪者となるのか。本来は逆で、江戸城中で勅使接待役の浅野内匠頭が本来の業務を捨てて刀を抜き吉良を斬りつけた方がはるかに悪者ではないのか。

刃傷事件の起こった日は、勅使(天皇の使者)が江戸城内に入って将軍と面談し、天皇のお言葉(勅語)を受けた将軍が挨拶を返す(勅語奉答)という最大の儀式が行われる日であり、浅野内匠頭は勅使御馳走役という勅使接待の直接担当者で、接待総責任者の吉良に対して刃傷事件を起こしたということなのだ。
浅野内匠頭はこの重要な儀式をぶち壊してしまったのだが、この時の吉良上野介は全く無抵抗だった。普通に考えれば、悪いのは浅野内匠頭で、吉良はただの被害者だ。

それが、『忠臣蔵』のストーリーでは逆転してしまって、吉良が大悪人になってしまっている。

そもそも『忠臣蔵』は吉良が余程の大悪人でなければ成立しえない物語である。

吉良上野助

ところが、吉良上野介の地元である愛知県吉良町では、今も上野介を名君として称えているのだそうだ。上野介の功績としてあげられるのは、洪水に苦しむ領民のために「黄金堤」を築き、また、新田の開拓に努めた、吉良庄に立ち寄ると赤毛の馬にまたがり領内を巡検し、領民と語らったなどである。実際吉良町には「赤馬」という郷土玩具があるが、これは上野介の馬をモチーフにしたという。
世間の吉良への逆風をものともとせず、今もって名君として慕われているというのだが、どうも『忠臣蔵』とのギャップがありすぎるのだ。

では、当時の記録ではどう書かれているのかを見てみよう。

江戸城中間取り

まず、松の廊下で浅野が吉良に切り付けた時、後ろから浅野を羽交い絞めにして取り押さえた梶川与惣兵衛頼照(かじかわよそべえよりてる)という人物が、この事件の一部始終を書き残している。(『梶川氏筆記』)
この文書を原文とともに現代文に訳して読みやすくしているサイトがあるのはありがたい。
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/siryo/siryo02a.htm
これによると、

「…内匠殿が参られたので、『私儀、今日、伝奏衆へ御台様よりの御使を勤めるので、諸事よろしくお頼みます』と申しました。
内匠殿は『心得ました』と言って本座(所定の場所)に帰られました。

その後、御白書院(桜間)の方を見ると、吉良殿が御白書院の方よりやって来られました。そこで、坊主に吉良殿を呼び遣わし、吉良殿に『その件について申し伝えるように』と話すと、吉良さんは『承知した』とこちらにやって来たので、私は、大広間に近い方に出て、角柱より6~7間もある所で、吉良さんと出合い、互いに立ったままで、私が『今日、御使の時間が早くなりました』と一言二言言ったところ、誰かが、吉良殿の後ろより『この間の遺恨覚えたるか』と声をかけて切り付けました。その太刀音は、強く聞こえましたが、後で聞くと思ったほどは切れず、浅手だったそうだ。

私たちも驚き、見ると、それは御馳走人の内匠頭殿でした。上野介殿は、『これは』と言って後の方へ振り向かれました所を、また、内匠頭は切り付けたので、上野介は私たちの方へ前に向き直って逃げようとした所を、さらに二太刀ほど切られました。

上野介殿はそのままうつ向きに倒れられました。
吉良殿が倒れたとほんとうにびっくりした状態で、私と内匠頭との間は、二~三足ほどだったので組み付いたように覚えています。その時、私の片手が内匠殿の小刀の鍔にあたったので、それと共に押し付けすくめました。

浅野内匠頭

内匠殿を大広間の後の方へ大勢で取り囲んで連れて行きました。
その時、内匠殿が言われるのは、『上野介の事については、この間からずーっと意趣があったので、殿中と申し、今日の事(勅使・院使の接待)のことに付き、恐れ入るとはいえ、是非に及ばず、討ち果たしたい理由があり』ということを、大広間より柳の間溜御廊下杉戸の外迄の間、何度も何度も繰り返し口にされていました。
刃傷事件のあった後なので、咳き込んで言われるので、ことのほか大声でした。高家衆はじめとり囲んで連れて行く途中、『もはや、事は済んだ。お黙りなされよ。あまり高い声では、如何かと思う』と言われると、その後は言わなくなりました。

この時のことを後に思い出して考えると、内匠殿の心中を察し入る(同情する)。吉良殿を討ち留めされなかったことは、さぞさぞ無念であったろうと思います。誠に思いもかけない急変だったので、前後の深い考えも及ばず、上のような取り扱い(抱き止め)をしたことは是非も(仕方が)ありませんでした。
とは言っても、これらのことは、一己(じぶんだけ)のことで、朋友への義のみです。上へ対してはかのような議論には及ばないのは勿論ですが、老婆心ながらあれこれと思いめぐらすことも多くあります。」

有名な『この間の遺恨覚えたるか』という部分がない写本もあり、この部分は後世に挿入されたという説もあるようだが、この文書のポイントとなるところをまとめると、
浅野内匠頭吉良上野介を斬る直前は、吉良は梶川と話していた。
② 浅野内匠頭は吉良上野介を後ろから斬りかかり、合計で四太刀も浴びせている。その後梶川が止めに入る。
③ 浅野が吉良を斬った理由はずっと恨みに思っていたからというのだが、何があって恨みに思っていたかは具体的には何も書かれていない。
となる。

これが芝居や映画では、多くの作品が
① 吉良が浅野内匠頭を侮辱する。
② 浅野内匠頭が「吉良待て」と声をかけてから正面から吉良に一太刀浴びせ、吉良は額に傷を負う。
③ 逃げる吉良を追って浅野は吉良の肩口に一太刀浴びせる。そこへ梶川が止めに入る。

となっている。

梶川与惣兵衛頼照は八代将軍吉宗の家臣大奥御台所付き留守居番であり、現場にいた彼の記述が事実とかけ離れたことを書くことは考えにくいのだが、彼の記述を正しいとすると浅野内匠頭は吉良を不意打ちしている卑怯な男で、しかも四太刀も浴びせながら吉良を仕留めることができなかったのではダメな武将になってしまう。これでは物語にならないことは誰でもわかる。
四十七士の義挙の物語を描く上では、浅野内匠頭が善玉であり吉良上野介が悪玉でなければならないだろう。なぜならば、吉良が善玉であるならば、四十七士が吉良を討ち入りに行くことに「義」がないことになってしまうからだ。

それゆえに芝居や映画では、吉良は悪い男に描かれることになる。
吉良が浅野に対して多額の賄賂を要求したとか、間違ったことを浅野に教えて恥をかかせたとか、当日浅野を大勢の前で罵倒したなど諸説があるが、そのようなことを記録した当時の史料は存在せず、事件の後で創作されたものである。

では浅野内匠頭の家臣は、主君が吉良を斬った理由について心当たりがあったのだろうか。

吉良邸討ち入りに参加した赤穂浪士の手になる文書が今に残されている。

大石内蔵助

大石内蔵助が書いた口上書には、
「去年三月、内匠頭儀、伝奏御馳走の儀につき、意趣を含み罷りあり、殿中に於いて、忍び難き儀ご座候か、刃傷に及び候。…」とあり、主君が吉良を斬りつけた理由については「何か我慢できないところがあったのか」と、家臣ですら肝心なことがよくわかっていないのだ。

『忠臣蔵』のストーリーに影響されてか、浅野は吉良に恨みを持っていたという説が多数説になっている。しかしそれを裏付ける確実な当時の史料は存在せず、浅野内匠頭は何も語らないまま処刑されてしまった。

確かな裏付けがない事から、浅野内匠頭が発狂したとか、精神障害があったという説も結構根強くある。浅野内匠頭自身が当時鬱状態で治療を受けていたことや、内匠頭の母方の叔父にあたる内藤忠勝という人が刃傷沙汰を犯して切腹させられている事実もあり、遺伝的にそのような事件を起こす要素があったという説もはかなり説得力がある。
http://www.geocities.jp/toshio2003jp/tyusin-4.html

しかし、『忠臣蔵』の愛好家には、浅野内匠頭に精神障害があったという説は受け入れがたい事だろう。これでは感激のドラマには到底なりえないからだ。

多くの人が歴史小説や時代劇や映画やドラマを親しみながら知識を蓄積してこられているが、小説等には多かれ少なかれ創作部分が含まれていることに留意すべきである。それがわかっていても、ストーリーの中に実在の人物が出てくると、その多くが史実であるかのように錯覚し、作者の描く人物像に強く影響を受けることは避けられないだろう。

それが国民の常識になっているような歴史上の出来事であっても史実ではないことが少なからずあることをこのブログで何度か書いてきたが、どんな有名な事件であっても多数説を鵜呑みにするのではなく、複数の説を読み比べて自分で考えることが、事実が何かを知る上で重要なのだと思う。

それでも史料がある時代は、議論のできる余地があるからまだ良い。史料のない時代について、実在したとされる人物のドラマを、あたかも真実であるかの如くにドラマ化してテレビに放映されては、多くの国民はそれが真実だと受け取ってしまうだろう。
隣の朝鮮半島に残っている最古の歴史書は『三国史記』で、12世紀(1145年)に書かれたものでしかない。
http://dametv.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-89c6.html


それ以前の時代のドラマはほとんどすべてが想像の産物であるのだが、韓流ドラマを見てこれが史実だと信じて憧れる日本人が多いことは嘆かわしいことである。何らかの韓国の政治的意図があるのだと思うのだが、そのようなドラマを流し続ける日本のテレビ局も困ったものだと思う。
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赤穂浪士の処刑をどうするかで、当時の幕府で大論争があった~~忠臣蔵2

前回の記事で赤穂浪士の吉良邸討ち入りも、吉良上野介が大悪人でなければただの殺人行為となってしまって物語が成り立たないことを書いた。
この討ち入りについて「主君の仇討ち」という言葉がよく使われるのだが、松の廊下では浅野内匠頭の方が吉良上野介を殺そうとして斬りつけたのであって、吉良が浅野を殺そうとしたのではない。普通に考えれば、浅野の家臣である赤穂四十七士が吉良邸に討ち入りすることを「仇討」というのはどこかおかしい。

江戸城松の廊下

そもそも浅野内匠頭吉良上野介を斬りつけた理由がよくわからない。『忠臣蔵』の物語には吉良がひどく浅野を苛めたことがいろいろ創作されて書かれているのだが、当時の記録からはそれらしき理由が見えてこないのだ。そして肝心の赤穂浪士もその理由がよくわかっていなかったとしか思えない。

刃傷事件の当日の浅野内匠頭に関する記事は、現場にいて後ろから浅野を羽交い絞めにして取り押さえた梶川与惣兵衛頼照の記した『梶川氏筆記』に詳しい。
該当部分の現代語訳は前回の記事で紹介したので繰り返さないが、この記録によると浅野内匠頭は吉良を「この間の遺恨覚えたるか」と声をかけて切り付け、取押えられてから大勢の前で「上野介の事については、この間からずーっと意趣があったので、殿中と申し、今日の事(勅使・院使の接待)のことに付き、恐れ入るとはいえ、是非に及ばず、討ち果たしたい理由があり」と何度も繰り返し口にしたという記述があるのみで、過去にどのようなことがあって吉良に恨みを持つに至ったかについては、浅野は何も語らなかった。

その後浅野内匠頭に対し老中の取調べがあり、取り調べにあたった目付の一人が記述した『多門伝八郎筆記』によると、こう書いてある。
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/siryo/siryo02c.htm

「私が内匠頭さんに『どうして場所を考えずに上野介さんに切りつけたか』と聞きました。内匠頭さんは一言の弁解もせず、『お上に対しては少しも恨みはありません。上野介には個人的な恨みがあり、前後も忘れて殺そうと切りつけました。この上はどのような処分でもお受けいたします』と答えました。
なおも内匠頭さんは『しかしながら、上野介を打ち損じたのはいかにも残念である』と悔しがっていました。」

というのだが、この『多門伝八郎筆記』は自己宣伝の臭いが強く、史料としてはあまり評価されていないようなのだが、この文書にも浅野が吉良に恨みを持った具体的な理由が書かれていないのは、浅野が何も語らなかったので書けなかったのだろう。

浅野内匠頭は即日切腹が命ぜられて田村右京太夫の屋敷に預けられる身となり、そこに訪ねてきた家来の片岡源五右衛門に遺言を残している。その遺言には

「兼ねては知らせ置く可く存ぜしも、その遑(いとま)なく、今日のことは已むを得ざるに出でたる儀に候。定めて不審に存ず可き乎。(かねてから知らせておこうと思ったが、その時間がなく今日やむを得ずやってしまった。さだめし不審に思うだろう。)」

と書かれているだけなのだが、この言葉を赤穂に持ち帰って大石内蔵助に伝えても、主君が吉良を斬りつけた理由は、誰もさっぱり判らなかっただろう。

このとおり死ぬ間際まで浅野内匠頭は吉良を斬りつけた理由を語らないまま処刑されてしまったのである。

しかし元禄15年12月14日に吉良邸への討ち入りは実行された。
浅野の家臣たちは主君が刃傷事件を起こすに至った理由が少しでもつかめたので討ち入りを決心したのかというと、そうでもなさそうだ。

浅野内匠頭家来口上

前回に紹介したが志士たちが討ち入りを決行した際に吉良邸の門前に突き立てられたとされる『浅野内匠頭家来口上書』という書状が残っている。
ここには内匠頭が「吉良上野介殿へ意趣を含み罷りあり候処(何か到底我慢ができないことでもあったでしょうか)」と述べているだけで、主君が吉良に刃傷に及んだ理由については、討ち入りを実行した時点でも何も分かっていなかったようなのである。

口上書はさらに「右喧嘩の節、御同席に御差留の御方これあり、上野介殿討留め申さず候。内匠頭末期残念の心底、家来共忍び難き仕合にご座候。…」と続き、討ち入りの理由は要するに、主君が吉良を恨んで殺そうとしたのだが、梶川与惣兵衛に止められて思いを成就することができなかった。なき主君が生前に果たそうとしたことを主君に代わって成し遂げたい、と言っているだけなのだ。
単刀直入に言えば、主君が殺そうとして殺せなかった吉良を殺して、主君の無念を晴らしたいということだが、これは仇討というよりも、恨みを残して死んだ主君の霊を鎮めるための行動と理解した方が適切であるような気がする。

吉良邸討ち入り

忠臣蔵』の物語がテレビや映画などで毎年のように放映されて、四十七士の討ち入りが義挙であると考えることが日本人の常識のようになっているのだが、忠義を奨励していた将軍綱吉や側用人柳沢吉保をはじめとする幕閣は、当時の民衆は四十七士に対する同情と讃嘆が白熱し、志士たちを預けていた細川、松平、毛利、水野各家から助命嘆願書が提出されていた中で、四十七士を死罪とするか切腹させるか助命するかで随分対応に苦慮した記録が残っている。

Wikipediaによると
「幕閣の中にも『夜中に秘かに吉良を襲撃するは夜盗と変わる事なし』と唱え、磔獄門を主張した者もいた(『柳沢家秘蔵実記』)。その一方で、主君仇討ち事件に大いに感激した幕閣もいて、その内部でも意見の違いがあった。」

「学者間でも議論がかわされ、林信篤や室鳩巣は義挙として助命を主張し、荻生徂徠は『四十六士の行為は、義ではあるが、私の論である。長矩が殿中もはばからないで罪に処されたのを、吉良を仇として、公儀の許しもないのに騒動をおこしたことは、法をまぬがれることはできない』と主張した。この荻生の主張が採用され、浪士には切腹が命じられた。『浅野は殿中抜刀の犯罪で死罪なのに、吉良を仇と言うのはおかしい。幕府の旗本屋敷に乗り込み多数を殺害する騒動には死罪が当然』というのが江戸幕府の見解ということになる。」とまとめられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A6%84%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6

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荻生徂徠の意見書は、理路整然としたもので非常にわかりやすい。この意見が将軍を動かして赤穂浪士に対し「切腹申付」を決心させたものである。福島四郎著『正史忠臣蔵』という本に現代語訳がでている。この本は今は絶版となっているが、次のURLの「林大学頭と荻生祖裸の対立意見」のところで誰でも読むことができる。
http://books.salterrae.net/amizako/html2/seishichuushinngura.txt

「大石ら四十余人は、亡君の仇を復したといわれ、一般世間に同情されているようであるが、元来、まず上野介を殺さんとしたのであって、上野介が内匠頭を殺さんとしたのではない。だから内匠頭の家臣らが上野介を主君の仇と狙ったのは筋違いだ。内匠頭はどんな恨みがあったのかは知らんが、一朝の怒りに乗じて、祖先を忘れ、家国を忘れ、上野介を殺さんとして果たさなんだのである。心得ちがいといわねばならぬ。四十余人の家臣ら、その君の心得違いを受け継いで上野介を殺した、これを忠と呼ぶことができるであろうか。しかし士たる者、生きてその主君を不義から救うことができなんだから、むしろ死を覚悟して亡君の不義の志を達成せしめたのだとすれば、その志や悲しく、情に於いては同情すべきも、天下の大法を犯した罪は断じて宥 (ゆる) すべきではない。」

「…内匠頭は殿中を憚らずして刃傷に及び処刑せられたのであるから、厳格に言えば内匠頭の仇は幕府である。しかるに彼らは吉良氏を仇として猥りに騒動を企て、禁を犯して徒党を組み、武装して飛道具まで使用したる段、公儀を憚らざる不逞の所為である。当然厳罰に処せられるべきであるが、しかし一途に主君のためと思って、私利私栄を忘れて尽したるは、情に於て憐むべきであるから、士の礼を以て切腹申しつけらるるが至当であろう。…」

「…もし私論を以て公論を害し、情のために法をニ、三にすれば、天下の大法は権威を失う。法が権威を失えば、民は拠るところがなくなる。何を以て治安を維持することができよう。」

荻生徂徠はこのように赤穂浪士同情論を排して法を犯した罪を問うべきであり、情のために法を曲げれば、法が権威を失って治安を維持できないと述べており、法治国家として極めて当然のことを述べている。

荻生徂徠よりももっと厳しく、儒学者の佐藤直方は「…仙石の屋敷まで自訴して出て、上の命を待った。これは死をのがれ、あわよくば賞誉してもらおうとの魂胆に外ならない。流浪困窮して腹立ちまぎれに吉良を討ったもので、忠義心や惻怛(そくだつ:いたみ悲しむ)の情から出た行動ではない」と、もっと厳しい評価をしているのだ。

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荻生徂徠佐藤直方も現代でも通用するような正論を堂々と述べているのだが、幕府も自らの命を捨てて亡き主君の思いを成し遂げた四十七士を義士と認め、義士の行動を賞賛する世論に迎合した『忠臣蔵』が書かれ、それが舞台で演じられ映画やテレビ番組でも何度も放映されて、史実とかなり違う物語が日本人の常識になってしまった。

しかし、一旦日本人の常識となってしまうと多くの人の思考が停止してしまい、異論が耳に入らなくなることは決して好ましい事ではない。大激論となった四十七士の処分に関する議論を少しでも知ることで、元禄時代がもっと身近に感じられて、この時代の歴史を学ぶことが楽しくなってくる。
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赤穂浪士に切腹を許した江戸幕府の判断は正しかったのか~~忠臣蔵3

吉良邸討ち入りを決行した赤穂浪士を死罪とするか、切腹させるか、助命するかで意見が割れて幕府がその判断に随分苦慮したことを前回の記事で書いた。

当時の著名な学者にも意見を求め、結局荻生徂徠の意見が採用されて赤穂浪士たちには切腹が命じられたのだが、五代将軍徳川綱吉はこの裁断を下すのに、なんと四十日近くかけたのだそうだ。

綱吉

将軍綱吉といえば貞享4年(1687)に出した「生類憐みの令」があまりに有名で、厳しい態度で政治に臨んで民衆を苦しめたイメージがあるのだが、学問を重んじて文治政治を推進し、好景気を現出して近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉らの文化人を生み、新井白石、室鳩巣、荻生徂徠らの学者を多く輩出し、最近では少なくとも綱吉の治世の前半については評価が高まっているという。
綱吉は特に儒学(朱子学)を重視した影響から尊皇心が非常に厚く、元禄14年(1701)の松の廊下事件の際に、浅野内匠頭が大名としては異例の即日切腹に処されたのは、将軍綱吉が朝廷との大事な儀式を浅野のために台無しにされたことに激怒し、直ちに切腹させることを命じたからである。

しかしながら松の廊下事件の時は、浅野内匠頭の切腹を即日に執行させた将軍綱吉が、吉良邸討入りの時は赤穂浪士の処分の決定に四十日近くかけてしまったのは何故なのか。
普通に考えれば、綱吉が松の廊下で吉良を斬りつけた浅野内匠頭の行為を許せないのであれば、浅野の家臣が吉良を討ち取った行為を直ちに厳罰に処す裁断がおりなければ辻褄が合わないのだ。

将軍綱吉の考えが明確に文章で残されているわけではないが、裁断を下すのに四十日近くかかったという事は綱吉が厳罰説ではなかったことを意味する。
幕府の公式的な考え方は大学頭の林信篤が唱えた助命論と考えるべきであろう。
林信篤の説は、「天下の政道は忠孝の精神を盛ならしむるを第一とする。国に忠臣あり、家に孝子あれば、百善それから起って、善政おのずから行われる。」と、赤穂浪士のように家臣が主君に対して絶対的に忠実であるならば、当然大名の将軍に対する忠義も揺るがないという考え方で、「もしかかる忠義の精神を一貫して亡主のために尽した士を処罰する時は、忠孝御奨励の御趣旨を滅却することになり、御政道の根本が覆ってしまう。」と、四十七士を直ちに無罪とすべきと論じている。

しかし、幕閣の中には赤穂浪士を厳罰に処すべきとの意見もあり、幕府は当時の学者に意見を求めたところ、同様に死罪とするか、切腹させるか、助命するかの意見が分かれたが、法の権威を維持すべきとの荻生徂徠の説が採用され、全員切腹と相成った。

死罪説と切腹説との違いは、赤穂浪士を単なる犯罪者として処刑するか、武士の体面を保つ方法で処刑するかの違いで、赤穂浪士を義士と認めるかどうかにポイントがある。また助命説は、赤穂浪士を義士と認めて助命させようとする説であり、結論は異なるものの討ち入りを義挙と考える点では切腹説と同じである。

忠臣蔵討ち入り

赤穂浪士の討入りを普通に考えれば、徒党を組んで他人の家に押し入って主人を殺すという犯罪行為である。吉良上野介は、処刑された浅野内匠頭が恨んでいたという理由で殺された被害者であったにもかかわらず、吉良を殺した赤穂浪士の行為を幕府が「義挙」とした判断を、吉良の関係者にとっては容認し難いものであっただろう。

この赤穂浪士の討入りを義挙とすることにこだわった幕府の判断に、問題はなかったのだろうか。
幕府は、大学頭である林信篤の「家臣が主君に対して絶対的に忠実であるならば、当然大名の将軍に対する忠義も揺るがない」の考え方で赤穂浪士を義士として認めてしまったのだが、この判断は幕府の大失敗で、後に幕府を滅ぼすことにつながったという説があることを最近になって知った。

今回の記事のはじめに将軍綱吉が儒学(朱子学)を重んじたことを書いたが、そもそも江戸幕府は徳川家康の時代に武家政治の安定のために朱子学を公式学問として採用している。その理由は朱子学が主君への絶対の忠誠を説くものであったからだ。

しかし、朱子学において忠誠を尽くすべき対象は「覇者(武力をもって統治する者)ではなく王者(徳をもって統治する者)である」とされており、その解釈において山崎闇斎(やまざきあんさい)のように「天皇こそが王者であり、この国を統治する者は幕府ではなく天皇家であるべきだ」との考えを持つ学者が当時は少なからず存在した。

山崎闇斎

山崎闇斎の提唱した朱子学は崎門(きもん)学と呼ばれて、水戸学・国学などとともに幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えたとされている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E9%97%87%E6%96%8E

山本七平

評論家の山本七平氏が、山崎闇斎の門下生である浅見絅斎(あさみけいさい)こそが明治維新の招来者であると主張しているのだが、浅見絅斎は赤穂浪士を完全な義士と高く評価した人物であり、主著の『靖献遺言(せいけんいげん)』は尊王思想の書で幕末の志士達の必読書となり、明治維新の原動力の一つとなった書物だと言われている。

井沢元彦氏の『逆説の日本史⑭近世爛熟編』で山本七平氏の文章が紹介されている。
「…浅野長矩は法を犯して処刑された。そのことを否定している者はいない。…違法行為をした、しかしそれが未遂であった。そこでそれを既遂にしようとしたのが赤穂浪士の行動だから、法の適用が正しいというのなら、赤穂浪士の行動も否定しなければ論理があわない。現代でも『殺人未遂で逮捕され処刑された。その判決は正しく、誤判ではない。従ってそれは怨まない。しかし未遂で処刑されては死んでも死にきれまい。ではその相手を殺して犯行を完遂しよう』などということは、それを正論とする者はいないであろう。こうなれば結局、…理屈はどうであれ、私心なく亡君と心情的に一体化してその遺志を遂行したのは立派だという以外にはない。これでは動機が純粋ならば、法を犯しても倫理的には立派だという事になる。」(『現人神の創作者たち』)

「…対象が天皇で、幕府が天皇に対して吉良上野介のように振舞ってこれを悩ませ、天皇が幕府を怨んでいると思い込んだ人間が『靖献遺言』を読んだらどうなるであろうか。何しろ死んだ浅野長矩に対して心情的にこれと一体化できるなら、勝手に天皇の心情なるものを仮定し、一方的にこれに自己の心情を仮託してこれと一体化し、全く純粋に私心なくそれを行動に移したら、その行為は法に触れても倫理的に立派だということになる。いわば処刑されても殉教者のような評価を受けることになるのである。…」(『現人神の創作者たち』)

赤穂浪士の討入りはただの殺人事件として処理すべきであったのだが、幕府は事件を起こした浪士を犯罪者とはせず義士であることを認めてしまった。
そのために、この事件は『忠臣蔵』として歌舞伎や人形浄瑠璃で繰り返し演じられ、赤穂浪士の討入りは義挙であるとの考えが人々の間に定着していった。
さらに、天皇が国を統治するべきであるとする山崎闇斎浅見絅斎の思想が、幕末時期に倒幕思想として急激に広まっていった。

このように幕末に倒幕運動が盛り上がった背景をたどっていくと、幕府が赤穂浪士を義士と認めてしまった事から始まったという説にはかなり説得力がある。

井沢元彦

井沢元彦氏が『逆説の日本史⑭近世爛熟編』で指摘している通り、明治天皇の父である孝明天皇はあくまで幕府の力による鎖国維持を望んでいたのだが、多くの「勤王の志士」は「倒幕こそ天皇の意志」と勝手に考え、倒幕運動をすることが正義であると考えて行動していったのである。
この点については昭和の『2.26事件』を起こした陸軍将校についても同様で、武力を以て元老重臣を殺害すれば天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗や、農村の困窮が収束すると考えて昭和天皇が信頼していた政府の重臣達の殺害に及んだのと良く似ているのだ。

山本七平氏の言う「勝手に天皇の心情なるものを仮定し、一方的にこれに自己の心情を仮託してこれと一体化し、全く純粋に私心なくそれを行動に移したら、その行為は法に触れても倫理的に立派だということになる」と信じたメンバーが、実際に日本の歴史を動かしていったことになる。
朱子学の「忠義」なるものを重視して国の統治を行うという考え方そのものが、一歩誤れば危険な方向に進む要素があることを知るべきである。

江戸幕府が赤穂浪士を義士と認めたことは、言い方を変えると、幕府の法よりも超越する正義があることを幕府自身が認めたということである。幕府は自ら墓穴を掘ったと言うこともできるのだ。

もし幕府がこの時に赤穂浪士を直ちに打ち首にしていればどうなっていただろうか。
赤穂浪士はただの殺人犯であるので『忠臣蔵』という物語は成立せず、山崎闇斎浅見絅斎の説が全国に広がることもなかっただろう。とすれば幕末の倒幕運動があれほどに盛り上がることもなく、明治維新で天皇中心の国に生まれ変わることもなかったかもしれないのだが、無能な江戸幕府がペリー来航以降の対応を誤って近代国家への脱皮ができずに、列強にもっと多くの国富を奪われていたことも考えられないわけではない。

わが国の歴史を見ていると、何度も大きな危機に遭遇しながらも様々な偶然に助けられたり、新しいリーダーが現われたりして、結果としてベターな方向に進んでいくことがよくある。
昨今のわが国の情勢は決して楽観できるものではないが、過去の歴史がそうであったように、様々な難題を抱えながらも、なんとかうまく乗り越えていって欲しいものである。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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