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虎なら無量寺の「龍虎図」、串本の昼は萬口の鰹茶漬け

龍虎図

年賀状を準備する季節になってきた。といっても、15年ほど前からずっとパソコンで年賀状を作っているのでポイントはどの図柄を選ぶかなのだが、虎の絵なら今年見てきた無量寺にある長沢芦雪の「龍虎図」が素晴らしかったのでこの虎の顔を拡大して年賀状に使うことにした。

今年の9月に南紀方面の旅行を計画していた時に、無量寺というお寺が串本にあることを知って旅程に組み入れたのだが、実際に訪れてみると小さいお寺ではあるが、境内に日本で一番小さい美術館と言われる「串本応挙芦雪館」があり、江戸時代の画家円山応挙とその高弟長沢芦雪の素晴らしい襖絵の実物を見ることができる。

無量寺は1707年の宝永地震の津波によって全壊・流出してしまうのだが、その80年後に愚海和尚によってこの寺が再建され、和尚が京都にいたときの友人であった円山応挙がその祝いとして障壁画を12面を描き、高齢のために高弟であった長沢芦雪を南紀に呼んで残りの障壁画が作成されたとのことである。

串本・太地・勝浦・熊野旅行 008

応挙の「波上群仙図」も良いが、芦雪の「龍虎図」が強く印象に残った。
「龍虎図」は名前の通り、龍の絵と虎の絵が対になっているのだが、とにかく「虎」の絵が気に入った。

虎は実は龍を睨んでいる構図なのだが、こちらを睨みつけて今にも襲いかかってきそうなすごい迫力のある絵で、この虎の絵の前でしばらく釘づけになってしまった。芦雪はこの虎の絵を、猫をモデルにして描いたと言われているが、小さい猫を見て虎のしなやかな肢体と野性味を墨と筆だけで存分に引き出しているのは本当にすごいと思う。

p050212_03.jpg

串本は本州の最南端に位置する市だが、いろいろ見るところがあって面白いし、食べるものもおいしい。今回は、お昼のお勧めスポットを書いておきたい。

無量寺を見てから、お昼は萬口(0735-62-0344)というお店で有名な鰹茶漬けを食べることにしたが、開店前から10人以上の列ができていた。もし人が並んでいなかったら入るのをやめていたかもしれないほど、外見は相当ボロボロの建物だったが、食べてみればこれだけの列ができる理由はよくわかる。病みつきになりそうな味だ。

m0030010243_1_S2.jpg

一杯目はごはんの上に特製のごまだれで漬け込んだ薄切りの新鮮な鰹を並べて海苔をのせてたれを少し使って海鮮丼風に食べるのだが、二杯目は同様に鰹を並べて海苔をのせて残りのたれを使ってお茶をかけてお茶漬け風に食べる。こんな鰹茶漬けを出してくれる店が大阪にあれば喜んで食べに行くのだが、どなたかご存知でしたら教えてください。
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紀伊大島の樫野崎灯台、トルコ軍艦慰霊碑、海金剛など

前回串本で無量寺に行って萬口の鰹茶漬けに感激したことを書いたが、串本の旅行の当初の目的はそこからくしもと大橋を渡って紀伊大島に行き、樫野崎灯台、トルコ軍艦慰霊碑、トルコ記念館、海金剛を見ることがメインだった。

樫野崎灯台wibY01

実はこの場所をずっと前から見たいと思ってきたのだが、その理由は10年前にインターネットで次の文章を読んで感激してしまったからである。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog102.html

親善訪日施設としての役目を終えて、トルコの軍艦エルトゥールル号は帰国の途に就くのだが、1890年9月16日に紀伊大島の樫野崎で台風による強風にあおられ岩礁に激突して沈没し、587名が死亡または行方不明となる大惨事となった。

串本・太地・勝浦・熊野旅行 025

ここが有名な海金剛とよばれるところ。島の右端にみえるのが樫野崎灯台である。エルトゥールル号遭難場所はこの近くだが、遭難当時樫野崎灯台下に流れ着いた生存者は、この高さ60メートル近い断崖絶壁を這い登って灯台守に遭難を知らせたそうだ。
通報をうけた樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱にあたり、非常用のニワトリを供するなど生存者の健康回復に努め、69名が日本海軍の戦艦によって1891年1月2日に晴れて母国に帰ることができたのだが、詳しくは是非紹介したサイトの記事を読んで頂きたい。この文章を読めば、何故トルコが今なお親日国家であり、何故イランイラク戦争の時になぜ孤立した日本人のために救援機を出してくれたのかを理解することができる。

串本・太地・勝浦・熊野旅行 019

ここが遭難慰霊碑。今でも5年おきに串本町とトルコ大使館共催で慰霊祭が行われている。下はトルコ記念館だ。

トルコ記念館

この遭難事件の事はトルコの教科書にも永年記述されてきたらしいが、日本人はいいことも悪いことも忘れることが少し早すぎるのではないだろうか。昔の日本人の素晴らしい話を末長く記憶に留めておく努力が少しくらいは必要だと思う。
この日は、串本海中公園を見てから太地に向かい夕食は旅館のクジラ料理で大満足。翌日の昼食はマグロ料理を食べて帰ったことは言うまでもない。

ちなみに、私が泊まった宿はここです。






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日本の歴史を変えた紀伊大島の人々

前回はエルトゥールル号事件のことを書いたが、その事件の4年前の1886年10月24日に、やはり紀伊大島で日本の歴史を変えるきっかけとなったノルマントン号の遭難事件が起こったことも書いておきたい。この事件を最初に発見したのは紀伊大島樫野崎灯台の灯台守と記録にあるので、遭難場所はエルトゥールル号の遭難場所にかなり近かったはずである。

ノルマントン号事件

記録によると発見した灯台守の連絡により百四十人余りの漁師がただちに海に乗り出して、海上を漂っていたボートから、船長ドレイク以下27人を救出した。

ところが、ここで問題が起こった。

このノルマントン号には23人の日本人船客も乗っていたのだが、日本人は誰一人として救出されずに全員水死し、ボートで船長が救出したのは一人の中国人コックを除いてすべてイギリス人ばかりだったのである。

この事件に関して、当時イギリス人に対する裁判権はイギリス領事にあり、この領事による海難審判で船長ドレイク以下全員に無罪判決が下ったのだが、審判長も陪審もすべてイギリス人によって下されたこの審判に対する日本国民の怒りは大きく、日本政府は改めて船長を殺人罪で告訴し横浜領事裁判所で裁判することになるのだが、ここで出された判決も「陪審員は、船長ドレイクが殺人を犯したと判断する」としながらも、禁固三ヶ月程度で賠償を一切却下され、不平等条約の悲惨さを天下に知らしめることとなった。

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この事件を機に国内で不平等条約改正の世論が盛り上がり、日本政府も国内の法典の整備をし、欧風化を推進するなど努力をして、この事件の8年後の1894年に陸奥宗光がイギリスとの交渉により、領事裁判権の撤廃などを含む新条約締結に成功することになったのである。

ノルマントン号のイギリス人を救ったのも、エルトゥールル号の遭難者を救出したのも同じ紀伊大島の人たちで、エルトゥールル号事件の時は、4年前に起こったノルマントン号事件を恐らく経験したか少なくともその顛末を知っていたものと考えられる。それにもかかわらず、大島の人々は村中で一丸となってエルトゥールル号の遭難者を救い出したのである。

その献身的な島民の行為が、トルコとの友好のきっかけとなったことは前回記したが、ノルマントン号事件の時も、もし紀伊大島の人々がイギリス人の救出にあたらなかったら、条約改正を求める国内世論があれほどは盛り上がることはなかったし、イギリスもそう簡単には条約改正に応じることはなかったと思われるのだ。

いずれの事件も、大島の人々の献身的な行為が日本の歴史を動かす大きなきっかけとなったのである。

大島の岩礁と波

前回書き漏れたが、紀伊大島の岩礁が多く、波は非常に荒く、島全体がテーブル状になっていて海から島に入ることは容易ではない。特に樫野崎近辺は海抜60メートル近い断崖絶壁で、ボートに乗ったイギリス人を救うことも、海に漂うトルコ人を救うことも命がけの行為であったはずである。
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古代からの景勝の地であり和歌の聖地である和歌の浦近辺の歴史を訪ねて

『続日本紀』によると、神亀元年(724)2月に即位した聖武天皇は、その年の10月に紀州に行幸された際に、次のような詔を出されたという。
「山に登り海を眺めるのに、このあたりは最も良い。わざわざ遠出しなくても遊覧に充分である。それ故、弱(わか)の浜という名を改めて、明光浦(あかのうら)とし、守戸(もりべ)を設けて、荒れたり穢れたりすることのないようにせよ。また春と秋の二回、官人を派遣して、玉津島の神と明光浦の霊に供物を供え祭らせるようにせよ」(講談社学術文庫『続日本紀(上) 全現代語訳』p.264-265)

紀伊和歌浦 広重画

【紀伊和歌浦 広重画】

この行幸に同行していた山部赤人は、この景観の魅力を万葉歌でこう伝えている。
若(わか)の浦に 潮満ち来れば
潟(かた)をなみ 葦辺(あしべ)をさして
鶴(たづ)鳴き渡る
」(万葉集 巻6・919)

国指定の名勝である「和歌の浦」は和歌山市の南西部の玉津島と片男波を結ぶ砂嘴とその周辺を指し、もともとは「若の浦」と呼ばれていたという。
平安中期に高野山、熊野の参詣が次第に盛んになると、多くの歌人がこの景勝地を訪れて作品を残し、この地名を歌枕にするようになって、次第に「和歌の浦」と呼ばれるようになったという。

「和歌の浦」で最も著名な景勝地は玉津島で、昔は葦原だった内海の干潟に6つの小島(玉津島六山)が浮かんで、潮の干満で陸と続いたり離れたりしていたというのだが、現在は多くが陸地化して、妹背山一つを海上に残しているだけである。

玉津島六山

上の画像はGoogleマップによる近隣の航空写真だが、この画像で玉津島六山がどのように並んでいて、和歌の浦の規模がどの程度であったかがおおよそわかる。
画面中央の海上に浮かぶ島が妹背山で、鹽竈(しおがま)神社のある山が鏡山。玉津島神社のある山が奠供(てんぐ)山で、さらに北に雲蓋山、妙見山、船頭山がある。

玉津島を詠んだ万葉歌を2つ紹介しよう。
 玉津島 見れども飽かず いかにして
 包み持ち行かむ 見ぬ人のため (藤原卿 万葉集 巻7・1222)

 玉津島 磯の浦廻(うらみ)の 真砂にも
 にほいて行かな 妹も触れけむ (柿本人麻呂 万葉集 巻9・1799)


和歌の浦は歌人の聖地とも言える場所であったのだが、風光明媚なゆえに毎年多くの観光客が訪れてホテルや旅館が次々と建てられ、道路が拡張され宅地造成も進んだために歴史的景観の多くを失ってしまった感がある。

昭和25年(1950)には年間宿泊者350万人を記録したそうだが、今はその面影はない。
観光客が少なくなって、2008年6月にようやく和歌山県が和歌の浦を県指定文化財(名勝および史跡)に指定し、その2年後に国の名勝に指定されて、ようやく和歌の浦の景観が保全されることとなったのだが、こんなに対応が遅れたのは、観光投資による経済の活性化を優先してきたためなのだろう。

玉津島保存会 和歌の浦 干潟

しかしながら、『名勝和歌の浦 玉津島保存会』のサイトを見ると、地元の人々の尽力によって和歌の浦の自然が随分回復していることがわかる。上の画像は同サイトの干潟の写真だが、昔はこのような干潟に玉津島六山が連なっていたのだろう。
http://wakanoura.exblog.jp/i7/

和歌の浦を調べているうちに実際に訪れたくなったので、天気の良い5月の週末に早起きして近くの名所を巡ってきた。

和歌の浦は市販の観光ガイドにはあまり詳しく書かれていない場所なので、観光される方は、次のURLにある観光地図を印刷して訪問されることをお勧めする。
http://www.kankou.wakayama.jp/images/02_info/map/map.jpg

玉津島神社 鳥居

最初に訪れたのが玉津島神社(和歌山市和歌浦中3-4-25 ☎073-444-0472)
稚日女尊(わかひるめのみこと)、息長足姫(おきながたらしひめ)尊、衣通姫(そとおりひめ)尊の3柱に明光浦霊(あかのうらのみたま)を配祀し、古来玉津島明神と称されて、和歌の神として住吉明神、北野天満宮と並ぶ和歌3神の1柱として尊崇を受けてきた神社である。

社伝には「玉津島の神は『上つ世(かみつよ)』から鎮まり坐(ませ)る」とあるが、Wikipediaによると玉津島が描かれた最古の絵画は『慕帰絵詞(ぼきえことば)』巻7で、そこに描かれているのは絵馬が吊り下げられた松であるという。

慕帰絵詞 巻七

国会図書館デジタルコレクションで、その絵の写しがみつかった。確かに絵馬だけが描かれていて社殿らしきものがなく、中央で僧侶が参拝しているところが面白い。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590854/9

また、江戸時代後期に出版された『紀伊名所図会』には、「又東野州の書に、玉津島には社一つもなし、唯漫々たる海のはたに、古松一本横(よこたわ)れり。これを玉津島の垂迹のしるしとするなり。然るを『続拾遺』のとき、為氏卿洛中より御社を作らせて、玉津島に社壇を立つべきよし存ぜられて参詣あり。則ち彼所に社壇を立てらるる其夜、あらき浪風立ちて、一夜の中沙中に埋れりと云々。それよりのちはもとのごとく、古松ばかりなりといえり。」とある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959920/162

玉津島神社拝殿

玉津島神社に本格的な社殿が造営されたのは江戸初期のようである。
上の画像は玉津島神社の拝殿で、平成4年に修復されたという。中に神輿が保管されていて、奥には立派な本殿が建っている。

玉津島神社 根上り松

拝殿の左に天然記念物の根上松(ねあがりまつ)が展示されている。大正10年に旧和歌山大学付近にあった枯死状態のものを移したのだそうだが、和歌山市内には紀ノ川が運んできた砂が砂丘を造り、そこに生えていた松の木の根元が雨風に流された結果、根が露出した松(根上松)が多く見られたという。『紀伊名所図会』にその絵が描かれているが、現在では枯死したものが多いという。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563483/4

玉津島神社の拝殿の右を進むと、奠供(てんぐ)山の頂上への登り口がある。
冒頭に記した聖武天皇の和歌の浦行幸の時は、天皇はこの山の上から和歌の浦の景観をご覧になられたはずである。ゆっくり歩いても5分もすれば登れる程度の山の高さなのだが、頂上には『望海楼遺址碑』と記された石碑が建っている。『望海楼』は天平神護元年(765)に行幸された称徳天皇が和歌浦湾の眺望を楽しむために造営された建物の名前で、この石碑は文化10年(1813)に建立されたという。
手前に建物が建ちすぎた観があるが、それでもこの山の頂上からの景観は素晴らしい。昔はもっと美しい景観を楽しめたことだろう。

和歌の浦

左下に和歌の浦のシンボルとされてきた石造りの不老橋が写っているが、その後ろにあしべ橋という大きな橋が架かっていて車が走っている。この橋が完成したのは平成3年(1991)だが、地元では根強い反対運動が出たにもかかわらず、当時の自治会の大半は新橋建設推進に回ったという。
http://www.nwn.jp/old/kakokizi2014/20140712/hanseiki/4.html

画像の右に長く伸びている砂州が片男波でこの場所も万葉集で詠われている場所だが、1970年代に片男波は観光客を増やすために人工海岸に改造されてしまう。あしべ橋の建設に賛成する自治体が多かったのは、片男波の海水浴場に向かう車の渋滞解消が地元の悲願だったという事情があったようだが、そのような過剰な観光開発が和歌の浦の歴史的景観やその情緒の多くを失わせてしまった。
その後、観光客が減少したため多くのホテルが廃業し、多くの廃墟物件を抱えていた和歌の浦は「廃墟の聖地」と揶揄された時代があり、2005年5月にはこれらの廃墟物件の多くが軒並み撤去されたというが、今でも少なからず空き物件があるようだ。
http://againstars.blog20.fc2.com/blog-entry-279.html

和歌浦天満宮

玉津島神社から和歌浦天満宮(和歌山市和歌浦西2-1-24 ☎073-444-4769)に向かう。
上の画像は国の重要文化財に指定されている楼門である。慶長10年(1605)に再建されたものだという。

和歌浦天満宮 本殿

急勾配の石段をまっすぐ登っても良いのだが、左に折れて緩やかな坂道を登って本殿に行くことも出来る。中門の奥に本殿(国重文)が建っている。この神社の主祭神はいうまでもなく学問の神様・菅原道真公で、沢山の合格祈願の絵馬が懸っている。境内には末社の多賀神社本殿、天照皇大神宮、豊受大神宮本殿があり、いずれも国の重要文化財に指定されている。

和歌浦天満宮から片男波方面を眺める

楼門から眺める和歌の浦の景色も良い。遠くに見える砂浜は前述した片男波海水浴場だ。
楼門の案内板には、こう記されていた。
「天正十三年(1585)年四月に紀州を平定した豊臣秀吉は、吹上北側の岡山の地に城を築くことになりますが、その名を、築城の地である『岡山』に『和歌浦』を合成して『和歌山』城にしたとされ、和歌山という地名は、この時以来のものである。」

「和歌山城」は「和歌山」に在るからその名前があるのではなく、「和歌の浦」が近くにあるので、「岡山」という地名にある城を「和歌山城」と呼ぶようになり、それ以来「和歌山」が地名になったというのは面白い。

和歌浦天満宮から紀州東照宮(和歌山市和歌浦西2丁目1-20 ☎073-444-0808)に向かう。
和歌浦天満宮も紀州東照宮も雑賀(さいが)山の中腹にあるのだが、山の中に両社殿をつなぐ道はなく、いったん下まで降りて250mほど東に車を動かしてから、再び階段を登らなければならない。

紀州東照宮 侍坂

楼門(国重文)に向かう石段は108段あり、「侍坂」と呼ぶのだそうだ。
毎年5月に挙行される「和歌祭」には、この石段をかけ下るのだそうだ。Youtubeでその動画を見ることが出来る。
https://www.youtube.com/watch?v=fNKJK0DSQl0

左に折れて、この急坂を避けて楼門の正面に行く道もある。この楼門を抜けると唐門(国重文)の奥に拝殿(国重文)と本殿(国重文)がある。

紀州東照宮 本殿

上の画像は唐門と拝殿で、その奥に本殿がある。
祭神は徳川家康と家康の10男で初代紀州藩主の徳川頼宣である。

紀州の日光」と呼ばれているので、拝観を申し出て唐門を抜けて拝殿と本殿を外から見学したが、写真撮影禁止なので彫刻などを紹介できないのは残念だ。日光東照宮や滋賀の日吉東照宮では、内部にも入り、撮影もできたので、少し物足りなさを感じた。

紀州東照宮 紀伊名所図会
【紀州東照宮 『紀伊名所図会』】

『紀伊国名所図会』に江戸時代後期の紀州東照宮の絵が描かれている。昔は三重塔や本地堂、鐘楼などが存在したのだが、明治5年7月に神仏分離でいずれも取り壊されてしまったという。

養翠園 1

紀伊東照宮から車で5分ほど走ると、国名勝に指定されている養翠園(ようすいえん:和歌山市西浜1164 ☎073-444-1430)がある。
養翠園は紀州藩主の別邸として第2代藩主の徳川光貞が造営した西浜御殿を、第10代藩主徳川治宝(はるとみ)公が文政二年(1819)に隠居所として改修した池泉回遊式の大名庭園である。

養翠園

入口を入って左に折れるとすぐにあやめ池がある。ちょうどあやめの花の見ごろを迎えていた。

養翠園 2

さらに進むと大きな池があり、左に天神山、右に章魚頭姿山(たこずしやま)を借景とし、山の姿を水面に映している。
養翠園の敷地は約1万坪あるのだそうだが、池は3500坪とかなり広く、海水を引きこんでいるので潮の干満に応じて水面が上下するのだそうだ。
地図で確認すると養翠園は海に隣接していることが分かるのだが、池の周囲には松ヶ枝堤と呼ばれるクロマツの並木が茂り、そんなに近いところに海があるとはとても思えない。

今回は訪問しなかったが、妹背山には海禅院があり徳川頼宣公の母・養珠院を供養するための多宝塔がある。紀三井寺もすぐ近くにあり、和歌の浦には歴史遺産は充分にある。
また、『万葉集』にも詠まれた古くからの風光明媚なる地で、近世においても天橋立に比肩する景勝地とされてきたのだが、天橋立が昭和27年に国の特別名勝に指定された一方、和歌の浦の県名勝指定は平成20年、国名勝指定は平成22年で、観光客が激減して多くのホテルが廃墟化した時期以降のことなのだ。追加観光投資があり得ない状況になってからの名勝指定は遅すぎたというしかない。

観光客を呼び込むために多くの投資がなされてきたが、レジャー施設に集まるのは近隣からの観光客が大半でほとんどが日帰り客である。宿泊客を増やしたいところだが、宿泊客はそこにしかない価値を求めて宿泊当日と翌日の目的地のアクセスを考慮して、魅力のある場所を選んで宿泊するものだと思う。

玉津島神社 紀伊名所図会
【玉津島神社 『紀伊名所図会』】

江戸時代の旅行案内書である『紀伊名所図会』を読むと、たとえば玉津島神社には56もの歌が紹介され、和歌の浦も146もの歌が紹介されている。こんなに多くの歌が文中に紹介されていることは珍しく、昔からこの地は風光明媚で和歌の聖地であることが人々を惹き付けてきたことがわかる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959920/154

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959920/180

歴史遺産のある旅行地としての情緒はやや失われたものの、歴史遺産そのものは健在であり、海を眺める景色も素晴らしく、和歌の浦の自然環境も地元の人々の努力によって随分改善してきているようだ。
時間はかかるかも知れないが、昔の人々がその美しさに感動して歌に詠み込んだ景観を少しずつ取戻して、「和歌の聖地」としての和歌の浦に興味を覚えて、多くの観光客が訪れる日が再び来ることを祈りたい。

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【ご参考】
古くからの景勝地や文化財を護ることは、いつの時代も、いずれの地域においても容易なことではありません。
よかったら覗いてみてください。

鞆の浦周辺の古い街並みを楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-96.html

日本三景「天橋立」の楽しみ方~~~二年前の「天橋立」カニ旅行 その①
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-215.html

伊勢神宮より古い神社と伊根の舟屋を訪ねて~~二年前の天橋立カニ旅行②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-216.html

戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-350.html

日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-351.html

唐崎神社から日吉大社、日吉東照宮を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-344.html

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由良要塞の一部である深山砲台の跡地と淡島神社などを訪ねて~~加太の歴史散策

和歌山市に所用ができたので、早めに自宅を出て和歌山市の西端にある加太近辺を半日で巡って来た。
最初に訪問したのは、深山第一砲台跡である。国民休暇村紀州加太(和歌山市深山483☏073-459-0321)に向かう登り道の途中に、砲台跡につながる遊歩道の入り口があり、車10台程度が利用できる駐車場がある。

深山第一砲台跡遊歩道

駐車場からは森の中を歩くことになるのだが、砲台跡までは赤いレンガで敷き詰められた遊歩道が整備されていて道に迷うことはないだろう。駐車場からは徒歩10分程度で到着することができる。

深山第一砲台跡

深山第一砲台は、日清戦争開戦の2年前である明治25年(1892)に着工されたレンガ造りの建築物である。

深山第一砲台跡 2

上の画像は砲台跡で、ここには28cm榴弾砲の砲台が6門編成で置かれていたという。砲台は2門ごとに仕切られ、トンネルの通路でつながっていた。

深山第一砲台図

当時の砲台の写真

案内板に当時の砲台の写真が出ていた。(深山重砲兵聯隊 二十八糎榴弾砲々台)
案内板にはこう解説されている。
「28cm榴弾砲。曲射弾道で、艦船の甲板を射撃する大砲。着弾すると榴弾がはじけ飛び、広い範囲にダメージを与える。砲弾の落下速度の増加も考慮し、高い山頂や丘陵に設営された。」
「平射砲と違い、放物線を描いて砲弾が飛んでいくため、前面には胸しょうと呼ばれる防護壁がある」

深山砲台跡 3

弾薬庫はトンネルの地下にあるが、庫の入り口は海との反対側にある。万が一海から敵艦に砲撃されても、弾薬庫には命中しない構造となっている。

由良要塞の歴史

そもそもこの砲台は、どういう経緯で造られたのであろうか。
和歌山市の西端部・加太にある田倉崎と淡路島の洲本市の東端部にある生石鼻の間の海峡を紀淡海峡と呼び、その約10kmの間に友ヶ島の4つの島があり、海峡の真ん中にある沖ノ島と和歌山側の地ノ島によって紀淡海峡は3つに分かれて、昔から淡路島と沖ノ島の間の海峡を「由良の瀬戸」と呼び、沖ノ島と地ノ島との間の海峡を「中の瀬戸」、地ノ島と加太との間の海峡を「加太の瀬戸」と呼ばれていた。

もしどこかの国の軍艦が大阪湾に侵入してくることを想定すると、太平洋から攻めてくる場合は紀淡海峡を通るコースが最短となり、この3つの瀬戸のいずれかを通過する可能性が高いことは誰でもわかる。
わが国は、万が一のことを考えてここを通る敵艦を迎え撃つために、淡路島洲本市の由良地区に7、友ヶ島地区に5、加太地区に5ヶ所の砲台を設置し、これら合計17ヶ所の砲台や堡塁を総称して「由良要塞」と呼んでいる。これらの「要塞」が完成し、「由良要塞司令部」が開設されたのは明治29年(1896)のことである。

深山第一砲台跡 6

由良要塞」は終戦の昭和20年(1945)まで使用されていたそうだが、第二次大戦においては航空機が主力となっていたため、これらの砲台が活用されることは全くなかったという。終戦後米軍によって大砲や弾薬などは撤去されたのち遺構の大部分が失われていったのだが、深山第一砲台跡については森の中にあるからなのか、戦後73年もの年月が経過したにもかかわらず、保存状態は良好である。

紀淡海峡 加太瀬戸

砲台跡を見学した後、防護壁に設置された階段を上って展望台に出る。遠くにかすんで見える島が淡路島で、一番近くに見える島が友ヶ島4島のうちの地ノ島だ。ちょうど加太の瀬戸の狭い海域を船が通っている。


地ノ島には砲台の設置はないのだが、その奥にある沖ノ島の5ヶ所に砲台が設置されている。加太港から友ヶ島汽船に乗って沖ノ島に渡り砲台跡巡りをする旅もなかなか面白そうだ。

深山第二砲台弾薬庫跡

駐車場に戻って、国民休暇村紀州加太に向かう。深山第二砲台がこの敷地にあったようなのだが、この休暇村建築時にほとんどが取り壊されてしまって、今では休暇村の駐車場片隅に弾薬庫の跡が一つ残されているだけだ。

加太淡島温泉てくてくマップ

休暇村で加太の観光マップをゲットしてから加太の中心部に向かう。このマップは2016年版がネットでも公開されている。
http://www.kada.jp/topic/2017/tekutekumap.pdf

加太は昭和33年(1958年)に和歌山市に編入されているが、古くから水陸交通の要衝として栄えた歴史のある地域だ。この観光マップによると、紀伊国屋文左衛門がみかんを運ぶ船を出したのもこの港だったという。

南海加太駅

最初に向かったのは南海電鉄加太線の終着駅である加太駅。近畿地方の大手私鉄で最西端に位置する駅である。駅舎は明治45年(1912)の加太軽便鉄道開業以来のもので、洋風の趣のある建物だ。
この駅の北側の山麓に、役小角(えんのおづぬ)が開いたとされる葛城修験と結びついた伽陀寺(かだじ)という寺があったという。

中村家住宅

加太駅から400mほど西に進むと、木造2階建ての洋館が建っている。旧加太警察署庁舎で大正時代に警察署として建てられたがその後民宿として利用され、今は個人の住宅となっている (中村邸) 。内部を見学できないのは残念だが、国の登録文化財に指定されている貴重な建物である。

常行寺のビャクシン

そこから道沿いに進むと常行寺という寺がある。この寺の境内に和歌山県の天然記念物に指定されているビャクシン(柏槇)の樹があるので立ち寄ってみた。樹高13m、胸高幹回り4.7mとこの樹種としてはかなりの大樹で、樹齢は4百年と推定されているが、北半分の枝がほとんど枯死し、かろうじて南半分に枝張りを残している。
『紀伊名所図会』によると、「創草つまびらかならず。文禄年中軸翁栄玉上人を中興の開祖とす」とあり、このビャクシンよりもかなり古い歴史のある寺のようだが、詳しいことはわからない。

加太春日神社

常行寺から古い街並みを歩いて、加太春日神社に向かう。ここの本殿は慶長元年(1596)に建築されたもので、国の重要文化財に指定されている。
神社の案内板にはこう記されていた。
「現社殿は、羽柴秀長の家臣で和歌山城代をつとめた桑山重晴(くわやましげはる)により建立されたものです。一間社流造の檜皮葺で、屋根中央に突出する千鳥破風、残さ期には湾曲して屋根と一体化した軒唐破風がついています。木鼻・蟇股・欄間・脇障子などの彫刻はとても豪華で、安土桃山時代の特色をよく表しています」

加太春日神社 本殿

この彫刻が傷まないように本殿の中心部分は覆いに囲まれているのだが、拝殿からわずかだけ欄間の彫刻の観察が可能だ。
一方、本殿の屋根は覆いの外にあり、檜皮葺の立派な屋根を見ることができる。

加太春日神社本殿の屋根

社伝によると修験道の開祖・役小角が行場として友ヶ島を開いた際にこの神社の祭神を守護神としたと伝えられていて、そのことから聖護院門跡が今も毎年4月に山伏僧とともにこの神社を訪れるのだそうだ。

役行者堂

加太には役小角のゆかりの地がほかにもある。
加太大橋を渡ってから左折して狭い道を進み、117段の階段を上ると役行者堂(えんのぎょうじゃどう)がある。かつてここで修験者が修行を積んだところで、堂の奥には役行者像が安置されているようだ。
ここからは加太の街並みと海の景色を楽しむことが出来る。

役行者堂からの眺め

役行者堂からすぐのところに、淡島神社(和歌山市加太 ☏073-459-0043)がある。旧称は加太神社で『延喜式』神名帳の加太神社に比定されている神社である。

淡島神社の参道

社殿によると神功皇后が新羅出兵の帰途に嵐に遭遇され、神に祈ったところ友ヶ島にたどり着くことができ、皇后はお礼の気持ちを込めて、少彦名命を祀る友ヶ島の祠に持ち帰って来た品々をお供えになった。のちに神功皇后の孫である仁徳天皇がこの地に社を遷して社殿を建てたのが始まりとされている。古代から女性の守り神・航海の守り神として多くの信仰を集め、境内には神社に奉納された人形が所狭しと並べられている。

淡島神社

上の画像は本殿だが、左右に並べられている人形の数は半端なものではない。

淡島神社 人形2

淡島神社の人形

本殿の内部にも古い立派な人形が並べられている。中には江戸中期のものまである。また宝物館には、徳川家から奉納されたひな人形や宝物が多数展示されている。


淡島神社では毎年3月3日に行われる雛流しの神事が有名だ。供養のために全国から奉納されたひな人形が、3つの白木の船に満載され、女性たちに担がれたのち海に流される行事である。上の動画は5年前に制作されたものだが、女性たちの思いの詰まった人形が満載された小さな船が本殿から運び出されて、穏やかな加太の海に流されるまでの流れが良くわかる。

しらす丼

加太に来てこの神社を参拝したら、是非立ち寄ると良いと友人から勧められていた店があった。この神社の参道に新鮮な海鮮料理を楽しめる店があり、そこでしらす丼を賞味させていただいた。こんなに山盛りのしらす丼は初めてで大感激したが、今度来るときはコースでいろんな魚を食べてみたくなった。

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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

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