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「文永の役」で蒙古軍を退却させたのは「神風」だったのか~~元寇その1

学生時代に学んだ歴史では二度にわたる蒙古襲来を終息させたのはいずれも「暴風雨」だったと記憶しているが、こんな国難の時に二度にわたり自然の力に救われたことは、人知を超えた偉大な力によって奇跡的に国が守られたようなイメージを多くの人が持つことだと思う。

蒙古襲来絵詞

「神国思想」は二度の蒙古襲来時に二度とも「神風」が吹いたと言う話があってはじめて成立するような考え方だと思えるのだが、最近の研究では第一回目の文永の役では「神風」は吹かなかったという説が有力なのだそうだ。

たとえば、市販されている山川出版社の高校教科書『もう一度読む山川日本史』では、文永の役に関する記述は昔の教科書とは異なるようである。
元寇」の復習も兼ねて、この教科書を引用してみる。

「1274年(文永11年) 、元は徴発した高麗の軍勢をあわせて対馬・壱岐をおかし、九州北部の博多湾に上陸した。太鼓やどらを打ちならし、毒をぬった矢や火薬をこめた武器を手にして、集団でおしよせた。この元軍の戦法に、一騎討ちを得意とする御家人たちは苦戦の連続で、このために日本軍の主力は大宰府にしりぞいたが、元軍は海を渡っての不慣れな戦いによる損害や内部対立から、兵をひきあげた。(文永の役)」(同書p.98)
と、文章のどこにも「風」が吹いたとは書かれていないのだ。

では、当時の記録ではどうなっているのだろうか。

元(蒙古)側の公式記録(「元史」日本)では文永の役について、
「至元十一年(1274年)、鳳州経略使の忻都・高麗軍民総管の洪茶丘に命じ、二百人乗りの船、戦闘用の快速艇、給水用の小舟それぞれ三百艘、合わせて九百艘を擁し、一万五千の士卒をそれに乗せ、七月を期して日本に攻撃をかけさせた。冬十月、遠征軍は日本に進攻して日本軍をうち破った。しかし官軍も統率を失い、また矢も尽き、そのあたりを掠奪し、捕虜を得ただけで帰還した。」(口語訳:『倭国伝』講談社学術文庫p.331)
と書かれているだけだ。
倭国伝

元の軍隊が風で退却を余儀なくされたような情けない公式記録を残したくなかったのかなと思い、二度目の弘安の役(1281)についての記録に進んでいくと、そこには暴風が起こって舟が毀されたことが書かれており、将軍たちは部下を捨てて逃げ、残されたものは舟を作って帰ろうとしたが、日本軍がやってきて戦闘した結果全滅となり、生き残った二、三万の兵は日本の捕虜になって、元に生還できたのは遠征軍十万のうちわずか三名だったと明確に記述されている。
元史」を素直に読めば、文永の役には「神風」はなかったということになる。

高麗の正史である『高麗史』にも文永の役に関する記述がある。
船の中で軍議が行われ、高麗軍司令官の金方慶は抗戦論を唱えたのだが、総司令官の忽敦から「孫子曰く、〈小敵の堅、大敵の擒〉味方の敗残兵(原文:疲乏之兵)を掻き集めて挑んでも、刻々と増強される優勢な日本軍(原文:敵日滋之衆)には抗し得ず。退却するより他無し。」と却下され、「全軍退却(原文:遂引兵還)」が決定され、「たまたま、夜、大風雨に遭い、戦艦、巌崖に触れて大敗す」と記述されている。ある程度の風は吹いたようだが、それでも約半数が帰還し、日本で拉致した少年少女200人を高麗国王に献上したことなども書かれている。

では、日本側のこの当時の記録ではどうなっているのか。
この点についてはWikipediaも原典のテキストを紹介しているが、「モンゴル襲来と神国日本」(三池純正著:洋泉社歴史新書)が、原典を口語訳されており読みやすい。
モンゴル襲来と神国日本

この本によると、当時の記録として判明している唯一の文書が、京都の公家・勘解由小路兼仲(たでのこうじかねなが)の日記『勘仲記』の中の「文永十一年十一月六日付」の記事で、そこには「或る人が言うには…、凶賊船数万艘が海上に浮かんでいたが、にわかに逆風が吹いて、本国に吹き帰され、少々の船は陸に上がった。」とだけ、簡単に記されているそうである。
11月6日ということは事件後17日目のことになるが、あくまでも人から聞いた話として書かれている。

『勘仲記』の次に古いとされる記録は『薩摩旧記雑録前編』のなかに収められている文永十二年の「国分寺文書」で、事件から一年後に書かれたものである。
そこには「蒙古の凶賊等が鎮西に来嫡子、合戦をしたが、神風が荒れ吹き、異賊は命を失い、その乗船は海底に沈んだり、あるいは入江や浦にうち寄せられた」と書かれているそうだ。

一方で、風について何も書かれていない文書もある。鎌倉末期に石清水八幡宮の社僧が記した八幡神の寺社縁起である『八幡愚童訓(はちまんぐどうきん)』には、前日までの激しい戦闘の記録のあとで、翌朝の朝の様子をこう記しているそうだ。
「二十一日の朝、博多湾の海面を見ると、蒙古軍の船は一艘もなく、皆々馳せ帰ってしまっている。…皆、滅んでしまうのかと一晩中歎き明かしたというのに、(モンゴル軍は)どうして帰ってしまったのであろうか。ただ事とも思えない。皆、このことで泣き笑いをしたものだ。」
と、文永の役に関する日本側の記述は様々だ。

最初に、最近の研究では文永の役では「神風」は吹かなかったという説が有力と書いたが、最初に「神風説」を否定したのは気象学者の荒川秀俊氏で、昭和33年にが「文永の役の終わりを告げたのは台風ではない」という論考を発表され、旧暦10月20日以降に西日本が台風に遭遇することは統計的にも存在せず、『八幡愚童訓』等の資料を見ても大風雨があった記録も、モンゴル軍の難破船が海岸になかったことなどを理由に、モンゴル軍船団が一夜にして博多湾から消滅したのは予定の行動であると主張したそうだ。この説が現在では有力説になっているようなのだが、ではなぜ「神風」があったような古い記録が残っているのだろうか。

三池純正氏は先程紹介した著書の中で、非常に興味深い指摘をしておられる。

「…モンゴル・高麗軍との戦いはわずか一日の戦闘だったものの、日本軍は明らかに敗北していたのだ。…ところが、事件後、幕府を糾弾する声はどこからも上がってこなかった。それはなぜであろうか。

翌日…の光景を、遠征軍が勝利の中で撤退したと心底思わない人々が見たとしたら、十中八九同軍が一夜の暴風雨のせいで壊滅したと思うのは無理もないことである。
しかし、これは歴史上の大きな錯覚であり、勘違いであった。だが、この歴史的勘違いは幕府にとって、幾重にも幸運をもたらした。

幕府はこの戦いでは九州を中心とした御家人・武士たちを博多湾岸に派遣し、その一方全国の主要な社寺に命じて『蒙古調伏』の祈祷を熱心にさせていた。幕府に対する非難の声が止んだのは、その幕府が行った祈祷が功を奏して暴風雨=『神風』を吹かせ、モンゴル軍を壊滅させたと認識されたからであった。」(「モンゴル襲来と神国日本」p.96-98)

「(歴史学者の海津一朗によると)当時の考え方では、モンゴル軍との戦争で原動力となって活躍した神々は現場で同軍と戦った武士同様に恩賞をもらう権利があるとされていたという。
文永のモンゴル襲来からほぼ一年後の建治元年(1275)11月、薩摩国の天満宮と国分寺の神官・僧侶は『蒙古退散』の祈祷の成功、すなわち『神戦』への恩賞として、荒れ果てた建物の修理を朝廷に訴え、それが翌月認められたという文書が残っている。同じ理由で京都の東寺も寺の修理や僧侶の待遇改善を朝廷に訴えている。

記録には残っていないものの、全国各地の多くの社寺はこうして朝廷や幕府に『神戦』への勝利の恩賞を求めていったことは間違いない。また幕府も、伊勢神宮や宇佐八幡宮に実際にモンゴルと戦った現場の武士たちに与える恩賞そっちのけでいち早く所領を寄進している。」(同書:p.101)
わかりやすく言うと、幕府にとっても祈祷した寺社にとっても、「神風」が吹いてモンゴル軍が退却したことにした方が都合が良かったという事なのだ。当時はテレビもラジオもない時代だ。事実でなくとも都合のよい情報を流布させた方が強い世界ではなかったか。 先程紹介した『勘仲記』はともかく、『薩摩旧記雑録前編』『八幡愚童訓』にせよ、『蒙古調伏』の祈祷の効果があったことにしたい人物が書いているという点がポインである。

ちょっと意外に感じたのだが、江戸時代文政十年(1827)に書かれた頼山陽の『日本外史』も文永の役について「風」のことは一言も書いておらず、敵将を倒したことで敵兵の統制が乱れたことが書かれているだけだ。
天皇中心の国家体制を築こうとした明治政府も、文永の役の「神風伝説」に飛びついて、わが国が「神国」であるとのイメージを国民に広めようと考えたのではないだろうか。

叡尊像

前回の記事で荒れ果てていた奈良の西大寺が、鎌倉時代に叡尊によって復興され、今ある文化財の多くがこの時期に造られていることを書いたが、この叡尊は文永10年(1273)に伊勢神宮、文永11年(1274)に枚岡神社、住吉大社、広田神社、四天王寺、で大規模な『蒙古調伏』の祈祷を行い、それ以降も伊勢神宮、石清水八幡宮などでも祈祷を行って名声を得た僧侶である。その時に恐らく得たであろう祈祷料や恩賞が、鎌倉期の西大寺復興と大いに関係がありそうだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-130.html

しかし、寺社には多くの恩賞が与えられた反面、よく戦った御家人たちにはほとんど恩賞がなかったらしい。
学生時代に学んだときは、外国との戦いでは没収地があるはずもなかったので、御家人に充分な恩賞を与えることが出来なかったという説明を聞いた記憶が残っている。しかしよくよく考えると、外国からの侵略を防いだとしても没収地がないことは初めからわかっている話だ。祈祷に参加した社寺には金銭等の恩賞を実施したのであるから、蒙古軍と戦った御家人たちにも同様の恩賞を実施してもおかしくなかったはずだ。

竹崎季長

肥後国御家人の竹崎季長(たけざき・すえなが)は文永の役の恩賞が何もないのを不服として、建治元年(1275)6月に馬などを処分して旅費を調達し、鎌倉へ赴いて幕府に直訴し、同年8月には恩賞奉行である安達泰盛との面会を果たして、恩賞地として肥後国海東郷の地頭に任じられたそうだ。彼が作成させた 『蒙古襲来絵詞』には安達泰盛と交渉している姿が描かれているが、このようにして恩賞を得た御家人は例外的だったようだ。
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熾烈を極めた「文永の役」の戦闘でよく闘った鎌倉武士たち~~元寇その2

前回は、蒙古軍が最初に日本を攻めてきた「文永の役」については、元や高麗の史料を見る限りでは「神風」が吹いて蒙古撤退させたとは考えにくく、最近の教科書では「神風」が出てこないことを紹介した。また当時の日本側の史料には「神風」が吹いて蒙古軍を撤退させたとする記録があるのは、幕府にとっても、また幕府の要請を受けて「蒙古退散」祈祷してきた寺社にとっても、「神風」があったことにした方が都合が良かったからではなかったか、ということを書いた。

いつから教科書の内容が変わったのかは良くわからないが、私も含めて、二度とも暴風雨が蒙古軍を退散させたと学んだ世代にとっては、元寇については大規模な戦闘は行われなかったし、わが国には大きな被害はなかったというイメージが強いのではないかと思う。

しかし「文永の役」に「神風」が吹かなかったことを知ってから、「元寇」のことをもう少し詳しく知りたくなって調べてみると、日本側の被害は結構大きかったし、鎌倉武士も良く戦ったことを知った。今回は、今の教科書にもほとんど書かれていない「元寇」の実態について書くことにしたい。

文永五年(1268)ジンギスカンの孫の世祖フビライ・ハンが高麗を通じて日本に国書を送ってきたが、当時17歳の執権北条時宗は国書の内容が無礼だとして黙殺し、その後も元は数年間にわたり何度か使者を送るも日本側が無視したため、怒ったフビライ・ハンは日本への武力進攻を命令する。

フビライ・ハンは高麗に命じて艦船を造らせ、この時高麗はわずか半年で大小900艘といわれる船を突貫工事で完成させたそうだ。

文永11年(1274)10月3日[旧暦:以下同じ]に、元・高麗連合軍は朝鮮半島の合浦(現在の大韓民国馬山)を出発した。連合軍の構成は『高麗史』によると蒙古・漢軍25千人、高麗軍8千人、高麗水夫6700人で総数は約4万人の規模であった。

文永の役ルート

連合軍は二日後の10月6日に対馬に上陸。対馬守護代宗資国は八十余騎で応戦するが討ち死にし、元・高麗連合軍は周辺の民家を焼き払って対馬全土を制圧した。対馬が襲われたことは、助国の郎等小太郎・兵衛次郎のニ人は急遽小舟を操って博多に渡りこの顛末を注進したという記録が残っている。

ついで連合軍は10月14日には壱岐に上陸した。守護代・平景隆は百騎で樋詰城に立て籠って応戦したが、翌日に攻め落とされて城内で自害した。

その後、10月16日から17日にかけて元軍は平戸・能古・鷹島を襲撃し、松浦党武士団を粉砕した。
これらの侵略地において、連合軍が暴行を働いた記録が残されている。

例えば日蓮宗の宗祖である日蓮の記録にはこう書かれている。
「去文永十一年大歳庚戌十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ總馬尉等逃ケレ ハ、百姓等ハ男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是、船オシ ヨセテ有ケルニハ、奉行入道豊前前司ハ逃テ落ヌ、松浦党ハ数百人打レ、或ハ生取ニセラレシカハ、寄タリケル浦々ノ百姓共、壱岐・対馬ノ如シ…」(「高祖遺文録」)
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8071/genko/s_1/kamakuraibun_11896.html

元蒙古連合軍のために、百姓ら男は殺されたり生け捕りにされ、女は一箇所に集めて掌に穴をあけられ革ひもを通して船に結いつけられたり生け捕りにされて、一人も助からなかったと書かれているのだ。

この記述はわずかの生き残りの証言をもとにして書かれたものかどうかは不明だが、「掌に穴をあけて革ひもを通す」という行為については、「日本書紀」巻第二十七の天智天皇二年六月に「百済王豊璋(ほうしょう)は、福信に謀反の心あるのを疑って、掌をうがち革を通して縛った」という記録があり、大陸ではこのようなこと残虐行為が古くから行われていたということなのだろうか。

話を文永の役に戻そう。対馬、壱岐、平戸、能古、鷹島を襲撃したのち、元・高麗連合軍は、10月19日夕刻に大宰府を目指して博多湾に侵入した。

九州での戦いの概要はわが国の同時代の文書では『八幡愚童記』に記述されているそうだが、前回の記事で紹介した三池純正氏の『モンゴル襲来と神国日本』や『元史』『高麗史』を参考に纏めてみよう。

蒙古軍の銅鑼

日本軍の悠長な戦い方とは違い、先鋒を務めた高麗軍は集団戦法で「太鼓をたたき、銅鑼を撃って時を作」るというもので、集団で鳴らす太鼓や銅鑼の音に日本軍の馬は跳ね狂って使い物にならなかったようだ。
また、「蒙古の矢は短いとは云っても、矢の根っこに毒が塗られ」ており、その矢が間断なく発射され日本軍を苦しめた。

蒙古襲来絵詞

しかも、高麗軍らは「逃げる時は鉄砲を飛ばして暗くし、その音が高く鳴り響くので」日本軍は「心を迷わして肝を失って、目も耳も塞がれて茫然と」するばかりだったそうだ。
てっぱう

この「鉄砲」とは、上の画像のようなもので、中に火薬を詰めて点火した後に相手に投げつける武器で、鉄製と陶器製のものがあったそうだ。

このような武器を用いて、元・高麗連合軍が日本軍よりも強かったことは間違いない。『元史』では「日本を打ち破った」と書き、『高麗史』では「倭は却走し、伏屍は麻の如く、」と戦いに勝利したと書いており、日本軍は戦闘には負けていたようだ。

蒙古兵撃退す

しかし日本の武士もよくがんばった。
『八幡愚童記』には、肥後国の御家人菊地次郎が敵陣に必死に切り込んで、多数の敵の首を取って凱旋したことや、肥後国の御家人竹崎季長はたった5騎で敵軍に突撃したことなどが書かれている。
またいよいよ蒙古軍の大将らしき大男が十四五騎を引き連れて本陣まで迫ってきたとき、日本軍の大将小弐景資(しょうにかげすけ)は「馬に乗って、一鞭売ってその前に姿を現し、その大将を見返ってよく引き放った矢が一番に駆けだした大男の真中を貫き、(大男は)逆さに馬から落ちた」と景資の放った矢が命中したも書かれている。

この話は日本側の創作話ではなく、「高麗史」にも「劉復亨(りゅうふくこう)、流矢に中(あた)る。先に船に登り、遂に兵を引きて還る。」と書いてある。劉復亨は蒙古軍の左副元帥であり、副総司令官という地位の人物であるが、先に戦場を離れ元に戻っている。

日本軍は本陣も破られて大宰府まで退いていき、大勢は元・高麗連合軍の勝利に帰したいたのだが、元・高麗連合軍の戦闘における損害も小さくなかったし、ここまで戦うのにかなりの武器を使ってしまった。

そこで前回の記事の連合軍の作戦会議に戻る。『高麗史』によると高麗軍司令官の金方慶は抗戦論を唱えたのだが、元の最高司令官が「…味方の敗残兵(原文:疲乏之兵)を掻き集めて挑んでも、刻々と増強される優勢な日本軍(原文:敵日滋之衆)には抗し得ず。退却するより他無し。」と却下し、「全軍退却(原文:遂引兵還)」が決定されたのである。 『元史』では撤退の理由を「統率を失い、また矢も尽き」と書いている。武器が底をつけば、これからまだまだ繰り出される日本軍には全滅することになると考えるのは当然ではないのか。

日本の武士たちは敵軍の予想以上に勇敢であり、強かったのである。だから敵軍は撤退したと考えるのが妥当だろう。
元の総司令官である忻都は文永の役後にフビライ(元の世祖)にこのような報告をしたと言う話があるそうだ。(『元韃攻日本敗北歌』)
「倭人は狠ましく死を懼れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。」
本当に忻都が言ったかどうかはわからないが、そういう話が元に伝わっていると言うことは興味深い。

文永の役については敵軍が撤退を決定したのち、帰路で強い風が吹いたことは前回に書いたので繰り返さない。
大風が日本を救ったなどという誤った歴史解釈が長い間日本人の常識になっていたのだが、そのような考え方がこの戦いで犠牲になった対馬や壱岐等の人々のことや、武士が奮戦して敵軍の退却を決断させたことを風化させてしまい、元・高麗連合軍は多くが日本人の人質を本国に持ち帰ったという事実をも忘れさせてしまった。

元寇の真実を知り、日本の領土が多くの人の努力と犠牲によって守られてきた歴史について、もっと知ることが必要だと思う。政治家や官僚やマスコミがこういう歴史を熟知していれば、尖閣諸島や北方領土の問題などの対応や論評がもう少しまともになるのだと思う。

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「弘安の役」で5月に出港した蒙古連合軍が台風に襲われたのは何故か~~元寇その3

前回までは「文永の役」について書いたが、結論として「文永の役」については鎌倉武士はよく元・高麗連合軍と戦い、「神風が吹いて敵軍を追い返した」という説は元・高麗・日本の史料を読む限りは考えにくいということだ。

では二回目の元寇である「弘安の役」についてはどうなのか。この戦いについては、『元史』も『高麗史』も「暴風」があったことを明確に書いているのだが、なぜ敵軍は台風の多い時期に日本に来たのかずっと疑問に思っていた。

この時遠征軍は数の上では14万人もの大軍で、中身は蒙古、(旧)南宋、高麗の混成軍である。内訳は東から日本を攻める蒙古・高麗の『東路軍』4万人と、南から日本を攻める(旧)南宋の『江南軍』10万人だ。
『八幡愚童記』によると、蒙古は日本を占領しそこに移民するために、穀物の種や農耕具までを大量に船に積込んでいたと言う。

弘安の役ルート

高麗史』を読むと、東路軍が朝鮮半島の合浦を出発したのは(弘安4年)五月三日だ。太陽暦にすると5月29日で台風が上陸する可能性はほとんどない時期だ。
また、江南の役で敵軍が暴風雨に襲われて壊滅状態になったのは八月一日(太陽暦の8月23日)だ。なぜ、こんなに時間をかけているのだろうかと誰しも疑問を持つ。文永の役では合浦を出発して対馬や壱岐で戦いながらも17日で博多に着いているのだ。連合軍がもたついている間に台風のシーズンに突入してしまったということではないのか。

今まで「弘安の役」については、日本軍はほとんど戦わずして「神風」が吹いて勝ったとばかり思っていたが、どうもそういうことではなさそうだ。調べてみると「弘安の役」においても、鎌倉武士たちはこの時も良く戦ったことが国内外で記録されている。

今回は、教科書や通史に書かれていない「弘安の役」の実態についてまとめてみることにする。参考にしたのは前回の記事で紹介した三池純正氏の『モンゴル襲来と神国日本』と『元史』『高麗史』である。

「文永の役」の後、元のフビライはすぐに再征を決意し、博多湾岸の戦闘から三ヶ月半たった建治元年(1275)の二月に日本に使者を送っている。その使者たちは鎌倉に到着するや、全員斬首され曝し首に処せられている。

また幕府は、同年の三月から博多湾沿岸から長門にかけて「石築地 (石塁) 」という石垣の要塞の建築を九州等の御家人たちに命じている。もちろん、元との戦いを想定してのことだ。

元寇防塁

また元も同様に日本遠征の準備をしており、弘安元年(1278)の八月に元・高麗・(旧)南宋三国の作戦会議を開き、東路軍、江南軍の規模と、両軍が壱岐で合体した後に日本を攻めることが決定されている。

翌年に元は南宋を滅ぼしてさらに版図を拡大し、フビライは弘安二年(1279)に再び日本に使者を送るが、書状が京都に送られるも朝廷は受け取りを拒否し、この使者も斬首されたことが記録に残っている。

弘安四年(1281)に、フビライは日本遠征の命令を出した。 両軍が壱岐で落ち合うのは予定では六月十五日だったのだが、東路軍はかなり早い五月三日に合浦を出発した。東路軍は至近にある巨済島で二週間ほど錨を下した後、五月二十一日に対馬に上陸し攻撃を開始している。

『八幡愚童記』にこの時の東路軍のうち高麗軍の狼藉ぶりが記されている。
「また弘安四年五月二十一日、蒙古の賊船おそひ来たる、このたひは蒙古大唐高麗以下国々の兵等を駆具して凡三千余艘の大船に、十七八万の大衆のりつれてそ来ける、其中に高麗の兵船四五百艘、壱岐対馬より上りて。見かくる者を打ころしらうせきす、国民さゝへかねて、妻子を引具し深山に逃かくれにけり、さるに赤子の泣こゑを聞つけて、捜りもとめて捕けり、さりけれハ片時の命ををしむ世のならひ、愛する児をさしころしてにけ隠れするあさましきありさまなり、此高麗の賊、捕へきほととりて宗像の沖にこきよす、蒙古大唐の船ともは、対馬にはよらず、壱岐島につく、されともらうせきせず、…」

高麗軍は、対馬や壱岐の人々を虐殺し、赤子の泣き声を聞きつけて彼らを探し求めていくので、住民は仕方なく愛するわが子を刺し殺して逃げ隠れたと言うのだ。蒙古人や漢人にはそのような狼藉はなかったらしい。

東路軍は江南軍との合流を待つことなく、六月五日単独で博多の侵攻を開始した。これを迎え撃つ日本軍は、博多に鎮西軍が4万人いた。

元寇の博多侵攻図

蒙古襲来に備えて築造した「石築地(石塁)」は高さが2メートルを超えるものであった。その長さは延々20km近くあったそうだが、モンゴル軍を威圧するには堅固な防備となっていた。敵軍は博多湾の正面からの上陸をやめて、比較的防備の薄い志賀島と能古島に停泊し、志賀島で両軍が衝突する。
弘安の役防塁

高麗史』を読むと、日本軍の奮戦ぶりがよくわかる。
「六月、…日本兵と合戦し、三百余級を斬す。日本兵突進し、官軍(東路軍)は潰え、[洪]茶丘(東路軍司令官)は馬を捨てて走る。王万戸、復た之を横撃し、…日本兵、乃ち退き、茶丘は僅かに免る。翌日、復び戦いて敗績す。…」(岩波文庫『高麗史日本伝(下)』p39) と、高麗軍から見ても、両軍合い乱れての激戦だった。

『八幡愚童記』によると、「(六月)六日より十三日に至るまで、昼夜の間に合戦して、打ち殺した蒙古は千余人…」と、日本軍が頑張った記録が残っている。草野次郎という武士が舟二艘に夜討ちをかけて、敵軍の船に乗り移って敵兵の首を取って引きあげてきた。恩賞目当てとは言え、それから後も竹崎季長など東路軍に夜討ちをかける武士が後を断たなかったとのことだ。

弘安の役絵詞

志賀島でモンゴル軍を食い止めて、九州本土に一歩も踏み込ませなかったことが、後の東路軍の軍事行動に大きな影響を及ぼすことになる。六月十三日を過ぎると、東路軍は博多湾を引き上げて壱岐に向かう。

敵軍が博多を引き上げた理由は、『高麗史』には明確に書かれている。
一つは東路軍で疫病が発生しており、病死と戦死とあわせて三千人を超えていたこと。 もう一つは、江南軍を待たずに侵攻を開始したが、江南軍と壱岐で合流する約束の六月十五日が迫っていたからであった。

江南軍と合体し体制を立て直して再度出撃する予定であったが、予定の十五日に江南軍は慶元の港(現在の寧波[ニンポー])を出港もしていなかった。江南軍の出港の遅れは、作戦の変更もあるが、出発直前に総司令官の阿刺罕(アラハン)が病に伏し、司令官が交代するというアクシデントがあったという。
江南軍の主力部隊が出航したのは六月十八日だった。ようやく七月初旬に両軍は平戸島の近海に集結し軍船の数は4400という数だったと記録されている。

しかし、両軍は何故かこの場所を1ヶ月近くも動かなかった。先に日本軍と戦った東路軍と江南軍との間で意見交換がなされ、疫病に罹った将兵の回復を待ったものと思われるが、この点については元にも高麗にも記録には残されていないようだ。それにしてもこの日数は長過ぎた。この大軍がようやく動き出すのは七月の末のことだった。
そんな中、七月三十日に暴風雨が吹き始め、運命の八月一日(太陽暦の8月23日)を迎えることになる。

『高麗史』にはこう書いてある。
「八月、大風に値 (あ) い、蛮軍(江南軍)皆な溺死す。屍は潮汐に随いて浦に入り、浦は之が為めに塞(ふさ)がりて、践(ふ)みて行く可し。遂に軍を還す。」

元や高麗の記録によると、全軍十四万のうち、三万数千名は無事に生還しているので、すべての船が破壊されたのではない。

生き残ったものの船を失ったために帰れなかった兵士も少なからずいた。八月五日から七日まで日本軍による掃討戦で千人近くが捕虜となり、日本軍は博多の那珂川付近で全員の首を斬ったという記録が残っている。

弘安の役に吹いた「台風」は確かにタイミングが絶妙であった。後世に「神風」と呼ばれるのもわかるのだが、三ヶ月も戦いが長引いたために台風シーズンに突入したことを考えると、モンゴル連合軍の作戦失敗や江南軍の出発の遅れもあるのだが、ここまで戦争を長引かせた日本の武士の頑張りを、もっと正当に評価すべき事ではないだろうかと思う。

すなおに『元史』や『高麗史』を読めば日本軍の頑張りが良くわかるのだが、日本を「神国」と思いたい人が多いのか、日本人に日本軍の活躍を教えたくない人が多いのか、「元寇」に関する教科書の記述にはあまりに緊迫感がなさすぎる。

わが国の国難とも言える状況下に政治家やマスコミにほとんど緊迫感が感じられないのは、元寇に限らず日本が侵略されそうになった時の歴史の真実を、しっかりと教えられていないからではないだろうか。
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プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
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