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天平彫刻の宝庫、東大寺三月堂の解体修理

東大寺と郡山城の桜 069

東大寺は治承4年(1180年)の平重衡の兵火と、永禄10年(1567年)の三好・松永の兵乱とにより、創建当時の建物の多くが失われたが、奈良時代の建物としては転害門(てがいもん)と本坊経庫などの校倉(あぜくら)と三月堂(法華堂)が残されている。

そして三月堂(法華堂)は東大寺大仏殿が建立された時代よりも前に建てられた東大寺最古の建物で、創建は天平12年(740)から19年(747)の間と言われている。

東大寺と郡山城の桜 020

東大寺は何度か行っているのだが、この三月堂(法華堂) には高校の頃に行ってから40年近く行っていない。ここには本尊の不空羂索観音立像(国宝)のほか、日光・月光菩薩立像(国宝)、執金剛神立像(国宝)、金剛力士立像(国宝)、四天王立像(国宝)など合計16体の仏像が安置されており、そのうち天平時代に制作されたものが14体(内国宝12体、重要文化財2体)もあるので、ずっと前からもう一度じっくり参拝したいと思っていたのだが、この新聞記事を読んでから早く行かなくてはと思っていた。
http://sankei.jp.msn.com/culture/arts/100222/art1002222108001-n2.htm

この記事および東大寺のホームページによると、鎌倉時代に作られたとされる板張りの須弥檀がシロアリの被害などで傷みが激しく、地震対策のなどのために三月堂が5月から3年間の予定で本格的解体修理に入るために5月18日から7月31日までは拝観停止になり、全仏像が一時的に移動される。

8月から入堂拝観が再開されるそうだが内陣の中には入れず礼堂からの参拝となり、堂内に残る仏像も弁才天(重要文化財)、日光菩薩・月光菩薩(国宝)、帝釋天(国宝)、梵天(国宝)、地蔵菩薩(重要文化財)、不動明王(重要文化財)の7体が予定されているだけだ。

そして3年後の修理完成後は塑像の日光・月光菩薩立像(国宝)と弁財天堂(重要文化財)、吉祥天像(重要文化財)の4体は、南大門近くで建設されている寺総合文化センターに半永久的に移されると書いてある。

ということは、16体の仏像が須弥檀に林立する姿があとおおよそ1ヶ月で見られなくなってしまうのだ。

というわけで先日、桜の咲く東大寺大仏殿を横目に、家内と朝一番で東大寺三月堂へ行って来た。よほど人が多いかと思っていたのだが、修理されることがあまり知られていないのか、拝観料(@\500)を払ってすぐに内陣に入ることができたのは意外だった。

東大寺三月堂

中に入ると、林立している16体の巨大な仏像の神々しさにまず圧倒される。また、本尊の不空羂索観音像をはじめとする16体の仏像それぞれが素晴らしく、それらの仏像が醸し出す荘厳な空気が、観る人をいにしえの時代にいざなっていく。

ここは博物館ではない。仏像と観光客とは空間を共有し、遮るものは何もない。建物も、仏像も、1250年近く古いものが今も残されて目の前に祈りの対象として存在し、観光客も千年以上前と同じ状態の仏像に手を合わせて参拝することができるのだ。

度重なる兵乱や地震や台風や廃仏毀釈などの大変な危機を乗り越えて、これらの仏像が今も残されている。素晴らしい仏像を制作したことも凄いことなのだが、私は1250年近く守られて、今も信仰の対象であることに日本人の凄さを感じている。

三月堂のパンフレットには、これらの仏像を制作した仏師の名前は記されていないが、田中英道氏は、「国民の芸術」という著書の中で不空羂索観音立像(国宝)や日光・月光菩薩立像(国宝)を制作したのは国中連公麻呂(くになかむらじきみまろ)と推定している。国中連公麻呂は東大寺大仏を制作したことでも有名であるが、三月堂の秘仏である執金剛神像や東大寺戒壇院にある四天王像も公麻呂の制作だとされ、それらの仏像の質的レベルの高さから、田中英道氏は公麻呂のことを「天平のミケランジェロ」と呼んでいる。

ミケランジェロもすばらしい作品を残しているが、お寺で生まれ育った私には西洋彫刻に精神性の高さがあまり感じられず、個人的にはミケランジェロよりも天平仏の方が好きなのだ。

京都出身でありながら、仏像は奈良のものが以前から好きだったのだが、私が写真などで見て好きだった奈良の仏像の多くが、公麻呂の制作によるものであることに気がついた。、奈良の仏像が好きだったのは公麻呂の仏像が好きだったということなのか。

仏像は本来祈りのためにある。お寺の建物の中で参拝者と空間を共有できてこそ祈りの対象となりうるのだが、三月堂の14体もの天平仏を参拝できるのはあと1ヶ月が残されているだけである。
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東大寺大仏のはなし

東大寺大仏殿(金堂)の本尊である盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)は、一般に「奈良の大仏」「東大寺大仏」などと親しまれている。

東大寺と郡山城の桜 064

聖武天皇の発願で天平17年(745)に国中連公麻呂らによって大仏の制作が開始され、天平勝宝4年(752)に開眼供養会が行われたのだが、現存する像は中世・近世にかなり補修がなされており、当初の部分は台座、腹、指の一部などが残っているに過ぎないそうだ。「週刊朝日百科:日本の歴史54」には東京芸大グループが調査した大仏の補修個所が修理時期別に色分けされておりわかりやすい。

東大寺大仏の修復状況

では東大寺の大仏はどういう経緯で修理されることになったのか。いろいろ調べると、東大寺大仏が破壊されたのは三度もあるのだ。

江戸時代の明和元年に林自見という人物が『雑説嚢話』という本に、東大寺の大仏の首が3回落ちたということを書いているそうだが、それによると、その時期は
斎衡2年(855)、治承4年(1180)、永禄10年(1567)だそうだが、その時にいったい何があったのか。

最初の斎衡2年は地震が原因らしい。全国で貴賎を問わぬ修復費用の調達が行われて、この時は貞観三年(861)に開眼供養会が行われたようだ。

二度目の治承4年は有名な平重衡による南都焼討である。この時は東大寺だけではなくて、興福寺も焼かれてしまっている。

平治元年(1159)の平治の乱の後、大和国が平清盛の知行国となったが、清盛は南都寺院が保持していた旧来の特権を無視したことに対して南都寺院側は強く反発し、特に東大寺、興福寺は僧兵と呼ばれる武装組織を背景に、強く平氏に反抗していたのだが、治承4年(1180)5月の以仁王の乱を契機に、園城寺や諸国の源氏とも連携し反平氏活動に動き出す。

12月に平重衡(平清盛の五男)が園城寺を攻撃して焼き払い、奈良については当初は平和的解決を目指して清盛はまず使者を送るのだが、南都の僧兵により60人の使者の首が切られてしまう。

激怒した清盛は、南都攻撃を命令しその際に奈良の主要部を巻き込む大火災が発生し、特に東大寺は法華堂と二月堂・転害門・正倉院以外はすべて焼け落ち、興福寺も三基の塔の他、金堂・行動・北円堂・南円堂など38の施設を焼失してしまう。

この時の大仏がどうなったかについては、『平家物語』巻第五「南都炎上」の段には「御頭は焼け落ちて大地にあり、御身は鎔きあいて山の如し」とあり、大仏の頭は下に落ち、体は熱で溶けて山の塊のようになったと書いてある。

東大寺の復興事業は平家政権によって始まり、俊乗坊重源が造営勧進となり大仏は運慶らの制作によりまず大仏が完成し、文治元年(1185)8月28日に後白河法皇を導師として大仏様開眼供養が行われている。壇の浦の戦いは3月なので、平家滅亡の後のことである。

ところが肝心の大仏殿の建築は用材の調達に支障がありなかなか進まず、上棟式が行われたのは建久元年(1190)で大仏殿が完成し落慶供養が行われたのは建久六年(1195)で、その時は後鳥羽上皇や源頼朝が臨席したとの記録が残っている。源頼朝は奈良の復興を鎌倉幕府の最重要の政策とし、巨額の再建資金を支援したそうである。

三度目の永禄10年は、戦国時代の真っただ中の永禄10年(1567)の10月10日で、この時も大仏は火災で鎔けて首が落ちている。

松永久秀と対立していた三好三人衆・筒井順慶が奈良に侵入し東大寺や興福寺に陣を構えたなかで、松永久秀が三好三人衆の本陣のある東大寺大仏殿に夜襲をかけたとされるのだが、この経緯はWikipediaにかなり詳しく書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

興福寺の塔頭多聞院で文明10年(1478)から元和4年(1618)までの出来事を記録された「多聞院日記」にはこの日のことを、次のように記載されているという。

「今夜子之初点より、大仏の陣へ多聞城から討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼して、丑刻には大仏殿が焼失した。猛火天にみち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった。釈迦像も焼けた。言語道断」

しかし、誰が東大寺に火をつけたかについては諸説がある。当時日本で布教していたイエズス会のルイス・フロイスは「日本史」という著書を残しているが、そこにはイエズス会に入信していた三好方の誰かが夜分、本陣のあった東大寺を警護している時にひそかに火をつけたと書いている。

ルイス・フロイスは火をつけた者の名前までは明記していないが、フロイス自身がイエズス会に不利なことを書いていることを何故注目しないのかは良く分からない。ここではその可能性もあるとだけ書いておこう。

とにかくこの兵火のために東大寺は、二月堂・法華堂・南大門・転害門・正倉院などは残ったものの、大伽藍の大半を再び焼失させてしまっている。

元亀元年(1570)、朝廷は京都の阿弥陀寺の青玉上人に、大仏の修復のための諸国勧進を行うべしと命じ、織田信長や武田信玄へも勧進への協力が命じられたようだが、当時はなかなか資金が集まらなかったようである。

天正6年に鋳物師の弥左衛門久重が起用され大仏が修復されたが、頭部は銅板で仮復旧したままの状態だったらしい。大仏殿も仮堂で復興したがそれも慶長15年(1610)に大風で倒壊し、大仏は無残な姿のままで数十年雨ざらし状態だったことになる。

万治3年(1660)東大寺の公慶上人が立ち上がり、奈良の町人に大仏殿再建のための勧進を呼び掛け、江戸をはじめ遠い国からの勧進も盛んになった。

貞享3年(1686)から大仏の本館修復が始まり、元禄5年(1692)には露座の大仏開眼供養が行われ、全国から20万人を超える参詣人が集まったと言われている。下の図は東大寺に残されている「開眼供養屏風」で、露座のままで法要が行われているところが描かれている。

開眼供養屏風

そして大仏殿は宝永6年(1709)に完成し、落慶法要には24万人が詰めかけたというのだが、 三好・松永の戦乱で焼けて以来大仏が修復され、立派な大仏殿の屋根の下に納まるのに142年もかかっているのだ。

東大寺と郡山城の桜 006

今我々が目にすることのできる東大寺の盧舎那仏像は、このようにさまざまな人々の努力により残されてきた貴重な文化財であることを忘れてはならない。この仏像は国宝に指定されているが、ただ古いから国宝であるのではなく、その時代時代の最高の技術で修復されてきたからこそ国宝なのである。

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世界遺産の吉野山金峯山寺と特別公開中の秘仏・蔵王権現像

奈良県にある吉野山は古来桜の名所として有名で、三年前の桜の時期にバス旅行で行った時はものすごい人だった。吉野に来たほとんどの観光客が最初に訪れる世界遺産の金峯山寺(きんぷせんじ)は、明治7年に修験道が禁止されて一時的に廃寺となり、国宝の蔵王堂などは強制的に神社にされてしまったことは以前このブログにも書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-85.html

yosinosan80.jpg

上の画像は江戸時代後期に描かれた「吉野山勝景絵図」だが、これを見ると江戸時代はこの山に多くの僧坊があったことがわかるが、その多くが廃仏毀釈により消滅してしまっている。

和州芳野山勝景図

上の図は正徳3年(1713)に描かれた「和州芳野山勝景図」の蔵王堂の近くを拡大したものだが、蔵王堂のすぐ近くにあった多宝塔や、後醍醐天皇の行宮となった實城寺も明治期に破壊されてしまったようだ。

明治19年(1886)に金峯山寺が神社からお寺に戻った経緯は以前書いた記事を読んで頂くこととして、前回に訪れた時は蔵王堂内陣の巨大な厨子に安置される3体の蔵王権現像(重要文化財)は公開されていなかったので見ることが出来なかった。
この仏像は今まで滅多に公開されることのない秘仏で、最近では吉野・大峯の史跡が世界遺産に登録された6年前に1年近く公開されたのち、3年前に5日間だけ公開されたそうだが、今年は奈良遷都1300年のイベントの1つとして9月1日から12月9日まで公開されている事を新聞で知り、どうしても見たいと思って先週の6日に行って来た。

吉野銅の鳥居

駐車場に車を置き、黒門を過ぎてしばらく歩くと、四天王寺の石の鳥居、厳島神社の朱の鳥居とともに日本三鳥居の一つとされる「銅(かね)の鳥居(重要文化財)」が見えてくる。以前このブログで「鳥居は神社のものなのか」という記事の中でこの鳥居を紹介したが、鳥居は神社だけのものではないのだ。探せば大分県の富貴寺や岩戸寺など結構お寺に鳥居が存在する。佐伯恵達氏によると、画像のように鳥居に丸い台座のあるものは仏教信仰によるものだそうだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-56.html

吉野蔵王堂仁王門

銅の鳥居から少し歩くと、金峯山寺の仁王門(国宝)が見えてくる。重層入母屋造,本瓦葺の楼門で康正2年(1456)の再建である。左右にある仁王像は鎌倉末期の仏師康成の作だそうだ。

吉野蔵王堂

そして仁王門を登るとすぐに国宝の蔵王堂が見えてくる。この建物は天正19年(1592)の豊臣家の寄進で建立されたもので、高さ34メートル、奥行、幅ともに36メートル。木造の古建築としては東大寺大仏殿に次ぐ大きさだそうだ。

蔵王権現像

中に入ると、内陣の厨子の扉が開けられており、巨大な蔵王権現像(ざおうごんげんぞう:重要文化財)を拝むことができた。この仏像は木造で、制作されたのは天正19年(1592)頃と言われているのだが、保存状態はかなり良好で青黒い彩色が今も色鮮やかである。秘仏なので写真を撮ることは許されないのでネットで見つけた画像を添付したが、この画像で本物の迫力がどの程度伝わるだろうか。

寺伝では中央の像が釈迦如来(7.3m)、向かって右が千手観音像菩薩(6.1m)、左の像が弥勒菩薩(高さ5.9m)を「本地」とするもので、それぞれ過去、現世、来世を象徴していると言われている。

「本地」という言葉を理解するには、学生時代に学んだ「本地垂迹説」という言葉を思い出す必要がある。
神道と仏教を両立させるために神仏習合という信仰行為を理論づけし、整合性を持たせるために平安時代に成立した「本地垂迹説」、をわかりやすく説明すると、「本当は仏教の仏(本地)で、日本では神道の神としてやっています(垂迹)」ということ。「権現」とは仏が神の形をとって仮の姿で現れたということを意味している。

この大きな権現像が安置されている厨子の近くに、特別拝観期間中だけのためにいくつか仕切られた特設スペースが設けられていて、正座しながら蔵王権現像を目の前で見ることが出来た。これだけ近づくと外陣から見るよりもはるかに大きく、その存在感に圧倒されてしまう。

火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開き、右足を高く上げて虚空を踏む。
右手に持つ法具は三鈷(さんこ)といい、煩悩を打ち砕くものだ。左手は一切の情欲や煩悩を断ち切る剣を持ち、左足で地下の悪魔を押さえ、右足は天地間の悪魔を払う姿だという。青黒い色は仏の慈悲、赤い炎は偉大なる知恵を表すもので、蔵王権現像は神も仏も自然も一体になった日本独自の存在だそうだ。

蔵王権現up

悪を払うという怒りの形相は今の世の中を怒っているのか、それに対して何もしていない私のことを怒っているのか。じっと見ているうちに次第に自分を奮い立たせて、励まされているような気分にもなる。
普通の寺院の仏像なら、柔和な表情で鑑賞するだけで穏やかな気分になるのだが、蔵王権現像はむしろ見ているだけで力がみなぎり、自然に背筋が伸びるような思いがする。しばらくこの仏像に釘付けになってしまった。

役行者

金峯山寺は白鳳年間(7世紀末)に修験道の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)がこの山で修行され、蔵王権現を感得し、そのお姿を桜の木で刻み、蔵王堂を建ててお祀りしたのがはじまりだそうだが、その時代は様々な悪事がはびこり、悪を調伏させるためにこのような蔵王権現像を作ったと言われている。

ならば今の時代にこそ、憤怒の形相の蔵王権現像が必要なのではないか。
今の政治家や企業経営者、教育者、公務員など、国家や社会や組織のリーダーたるべき立場の人間が、本当の「悪」と戦っているのか。戦うどころか、自己の利益や保身ばかりを優先し問題を先送りして、結果として大きな「悪」をのさばらせてはいないだろうか。そのことが、真面目に働き真面目に学ぶ人々を苦しめてはいないか。

日本人は争いごとを好まず、怒りは抑えて表に出すことが少ない民族だと思うのだが、怒らないから多くの問題が先送りされて、なかなか問題が解決されない側面もある。
日常生活の中で人の怒りを感じることが少ないからこそ、神や仏の怒りと対峙して自分を謙虚に振り返り、自分に関係する様々な問題を見つめる機会を持つことが、現代社会に生きる多くの日本人にとってきっと必要な事だと思うのだ。

圧倒的な存在感で怒りを感得できる素晴らしい秘仏の特別公開も、残すところあと1ヶ月を切ってしまったが、この機会に「蔵王権現像」を出来るだけ多くの人に見てもらいたいものだと思う。
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吉野山の世界遺産を訪ねて~~金峯山寺から吉水神社、水分神社、金峯神社

前回は吉野山の金峯山寺のことを書いた。
「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されたのは平成16年(2004)だが、この時に世界遺産に登録されたのは、①吉野・大峯②熊野③高野山のそれぞれの霊場とそれらの参詣道で、吉野山における世界遺産の構成資産は、金峯山寺だけでなく、吉水神社(よしみずじんじゃ)、吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)、金峯神社(きんぷじんじゃ)の寺社の他に大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)および吉野山全体もあわせて登録されている。

金峯山寺の蔵王権現を見たあとで、前回の旅行では時間がなくて充分に見ることが出来なかった吉野山の世界遺産を訪ねようと歩き始める。

金峯山寺から500mも歩けば吉水神社(よしみずじんじゃ)がある。

吉水神社の門

今は神社になっているが、もともとは「吉水院(きっすいいん)」といって、今から1300年ほど前の白鳳年間に役行者(えんのぎょうじゃ)が修験僧の僧坊として創建した寺院であった。鳥居はあるのだが、入口にはいかにもお寺のような門が残っている。

吉水院絵図

上の図は江戸時代の末期から明治初期の間に描かれたとされる「南朝皇居之地吉野山吉水院境内之図」であるが、これをみれば神社に改める前の「吉水院」の境内がどうだったかを知ることが出来る。

南北朝時代の延元元年(1336)後醍醐天皇が吉野に潜幸された時に、この吉水院に行宮(あんぐう:一時的な宮殿として利用された施設)を設けて以来、吉野は56年間にわたり南朝の帝都となったのだ。この後醍醐天皇を吉野に迎え入れたのが、この吉水院の住職であった吉水宗信法印である。

後醍醐天皇

吉野の人々は後醍醐天皇に味方すれば足利幕府の怒りを買い、平和な吉野が戦争に巻き込まれることを恐れて反対した人が多かったそうだが、吉水宗信法印は「この吉野は壬申の乱において天武天皇に御味方した歴史がある。」「後醍醐天皇と共に火の中で死すとも恥にはならないが、損得勘定で逃げたら、恥は千載に残す。」「吉野が勤王であるのだから筋を通すべきだ。反対する者があらば、私を殺してから反対されよ」と全身烈火のごとくの形相で叫び、反対する吉野人を説得したのだそうだ。

しかし後醍醐天皇は、延元4年(1339)に夏風邪をこじらせて病床につかれ、肺炎を併発されて、吉水宗信法印らの看病の甲斐なく8月16日についに崩御された。
「玉骨(ぎょっこつ)はたとえ南山(なんざん)の苔に埋もるとも、魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほっけつ)の天を望まむと思ふ」という天皇の遺言が残されている。
玉骨は天皇の肉体、魂魄は天皇の魂を、南山は吉野山、北闕は京都をさしている。後醍醐天皇の悲願は、この地に留まりながらもいつかは京都に帰るという思いをずっと抱いておられたのだ。

後醍醐天皇の崩御を知った足利尊氏は高師直に吉野を襲わせ、この時に金峯山寺蔵王堂を始め吉野全山が焼失してしまったが、吉水宗信法印らが後村上天皇を支えて吉野は復興したのである。

このように吉水院は吉野の歴史に欠かせない寺院だったのだが、明治元年の神仏分離令に続く修験道廃止令により一時は廃寺となってしまう。ところが明治7年(1874)にこの場所で建武中興の理想が成就されたとして、明治政府より「後醍醐天皇社」という名で創立が許可され、翌年に「吉水神社」に名称を改めて存続し現在にいたっている。

明治になるまではこの吉野山には100以上のお寺があったらしいのだが、今残っているのは8寺のみだそうだ。明治政府により半ば強制的に神社に変えられてしまった吉水神社だが、どんな形であれ文化財が残されたことは良かったと考えるべきなのだろう。

吉水神社本殿

ここが吉水神社の本殿であるが、以前は吉水院の本堂であったようだ。今はもちろん仏像はなく、後醍醐天皇と楠正成、吉水院宗信法印を主祭神としている。

その隣に、今は楠正成を祀る祠があり、その隣に書院がある。

吉水神社豊臣公花見の本陣

この建物は、初期書院建築の傑作と言われており、国の重要文化財に指定されている。中に入ると「源義経潜居の間」と呼ばれる部屋があり、義経が使った鎧の「色々威腹巻」(国指定重要文化財)がガラスケースに展示され、静御前の衣装などが展示されている。

吉水神社書院内部

文治元年(1185)源義経は、兄である源頼朝の追手を逃れてこの吉野に潜入され、この書院にしばらく留まったのだが、ここでも追討を受けたために静御前と別れ、東国へ脱出したと伝えられている。

源義経

敵である頼朝を前にして、義経との別離を静御前が歌った和歌が残されている。

「吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」
人の跡というのはもちろん義経のことで、この吉水神社は義経と静御前のロマンスの舞台なのである。

そしてすぐ近くに後醍醐天皇の玉座がある。

吉水神社南朝皇居

書院の中には、ほかにも掛け軸や屏風や能面などさまざまな文化財が展示されている。

また吉水神社は、豊臣秀吉が吉野で花見をした時にここに本陣を置いて数日間滞在し、御茶会や歌の会、能の会を開いて豪遊したことでも名高い。

吉水神社一目千本

この場所は「一目千本」といって、春の桜の頃には千本の桜が咲き誇っている景色が見渡せる場所である。豊臣秀吉はここからの景色に感動し、「絶景じゃ!絶景じゃ!」と子供のように喜ばれたそうである。

吉水神社をあとにして、次の世界遺産の吉野水分神社に向かう。
吉野蔵王堂を臨む

上千本あたりから蔵王堂が見渡せる。この辺りの景色はすばらしい。

桜の時期は人も多かったが、この時期に水分神社を訪れる人は少ないようだ。

水分神社鳥居

この神社は神仏習合の時代には、水分神は地蔵菩薩の垂迹とされて金峯山寺に属する神社として修験道の行場の一つとされていたのだが、明治の神仏分離により金峯山寺から独立したそうだ。
平安時代の中頃から「子守明神」とよばれ、豊臣秀吉もここに来て秀頼を授かったと言われている。現在の社殿は慶長10年(1605)に秀頼により創建されたもので、国の重要文化財に指定されている。

水分神社

また本殿には「木造玉依姫命(たまよりひめのみこと)坐像」という鎌倉時代の神像彫刻があり国宝に指定されているが、神社の神体であるために公開はされていない。

続いて、次の世界遺産の金峯神社に向かう。吉野水分神社からここまでの1.6kmは上り坂が続き正直言って楽ではなかった。
金峯神社の創建の経緯などは不明なようだが、平安時代に金峯山は金鉱のある山として信仰され、平安時代に関白藤原道長が参詣したことが「栄華物語」に記されているそうだ。
金峰神社

画像は金峯神社の鳥居と拝殿だが、この神社が所有し京都博物館に寄託されている国宝「金銅藤原道長経筒」はこの神社の境内から発掘されたものだそうだが、神社が経筒を所有しているのが面白い。

義経隠れ塔

金峯神社の左の道を抜けると、文治年間に源義経が弁慶ほか家来と共に塔内に隠れて一時難を免れたという「義経隠れ塔」(別名「蹴抜塔(けぬきとう)」)が境内にある。この建物は付近の堂塔中唯一残された鎌倉時代の建造物として国宝に指定されていたのだが、明治29年に惜しくも焼失し、現在の建物は大正時代に再建されたものだそうだ。

yosino_m16.jpg

「和州芳野山勝景図」 正徳3年(1713)の図を見ると、この塔の焼失前は三重塔だったらしい。この図の右側に「金精大明神」とあるのは「金峯神社」のことで、この絵図の左上に描かれている「安禅寺」は廃仏毀釈で毀された経緯にある寺だ。

水分神社から金峯神社に向かう道の途中でも牛頭天王社跡があり、水分神社のすぐ近くには世尊寺跡があったが、いずれも明治になって毀された寺である。これだけの寺院が廃仏毀釈で破壊された中で、よくぞ金峯山寺を残すことが出来たものだとつくづく思う。

明治6年には教部省から「蔵王堂並びに仏具仏体等、悉く皆、取除き致すべき事。」という通達も出ているのだが、吉野の人々はずっと明治政府に抵抗してきたのだ。その抵抗がなければ、我々は蔵王堂も蔵王権現像もこの時に失っていたと思うのだ。

文化財のほとんどは、ただ残ってきたというのではない。戦乱や廃仏毀釈の嵐の中を、人々の信仰に支えられて、必死に守られることによって今の世に残されてきていることを忘れてはならないのだと思う。
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奈良の白毫寺と消えた多宝塔の行方

奈良は国宝や重要文化財の宝庫である。
平成16年のデータでは奈良県の国宝数は205で、東京、京都に次いで多く、全国の国宝の19%が奈良県にあることになる。また奈良県の国指定重要文化財の数は1377で、全国の11%だ。
www.bunka.go.jp/1hogo/excel/kokuho0430.xls

しかし上のデータには美術館や博物館などが所蔵する美術品や書跡、古書などの数字がかなり含まれている。大きな博物館や美術館が多い東京や京都の数字が多いのは当然のことだ。博物館などでいくつもの文化財をまとめて見るのもいいが、できればガラスケースの中にあるのではなく、昔から安置されていた場所で、古いままの姿で、仏像ならば祈りの空間の中で鑑賞しながら、古き時代を偲びたいと考える人は少なくないだろう。

統計データを見ると、奈良県にはそういう場所がいくつかありそうだ。
博物館などでは絶対に所蔵できない「建物」分類の国宝は奈良県に62件あり、この数では京都の48件を上回り奈良県がトップで全国の29%にもなる。重要文化財は261件で全国の12%だ。
「彫刻」分類の国宝はほとんどが仏像だと思うが、この数も奈良県は70で全国のトップで全国の56%にもなる。重要文化財は488で全国の19%だ。

こんな数字を見ていると、たまには奈良に行きたくなって、先日来久しぶりに奈良の古刹をいくつかまわってきた。

最初に紹介するのは「白毫寺(びゃくごうじ)」だ。「白毫」とは仏様の眉間にある白い巻き毛のことだそうだ。

近鉄奈良駅あたりからバスに乗って、高畑町の停留所から20分ほど山の方向に歩いて行くと、白毫寺の山門に辿り着く。このお寺は若草山・春日山に連なる高円山のふもとにある。

この寺は関西花の寺二十五霊場の第18番で、萩の花が有名だ。

白毫寺山門

参道の両脇には萩が植えられていて秋には萩の花で階段が埋め尽くされることから、この階段を「萩の階段」と呼ぶのだそうだ。

白毫寺石段から奈良盆地を見る

この階段を上りきると奈良盆地が見渡せる。正面に見える山は生駒山である。

白毫寺のパンフレットによると、天智天皇の第七皇子である志貴皇子の離宮がこの地にあり、その山荘を寺としたと伝えられ、当寺の草創については天智天皇の勅願によるという説や、かつてこの高円山近辺に存在した「岩淵寺(いわぶちでら)」の一院であったとの説があるが、確かなことはわからないそうだ。

この寺は鎌倉時代に西大寺の叡尊(えいそん)により再興され、その弟子の道照が弘長元年(1261)に宋より「大宋一切経」の摺本を持ち帰ったことから、「一切経寺」と呼ばれて繁栄したそうだが、明応6年(1497)の古市・筒井勢による戦乱でほとんどの堂宇を焼失した。 その後度重なる兵火・雷火により堂塔を失うのだが、江戸時代の寛永年間に興福寺の空慶上人が再興し、江戸幕府からご朱印寺として禄高五十石を扶持されて繁栄したとあり、パンフレットの解説は江戸時代で終わってしまっている。

パンフレットには何も書かれていないが、実は白毫寺は明治時代の廃仏毀釈で廃寺寸前になった寺なのだ。
岩波新書の「博物館の誕生」(関秀夫著)という本には
「閻魔像で知られる奈良の高円山の麓の白毫寺も…無住となり荒れるにまかされた。」(p.75)
と短く書かれている。

廃仏毀釈に詳しいs_minagaさんのサイトに、明治36年に出版された「大和名勝」(藤園主人述、東京:金港堂)という本の白毫寺について述べられている部分が引用されている。そこには、
「今はいたく衰へて、石段芝草に没し、本堂傾き軒朽ちて、本尊もおはさねなるべし。二層塔の古式なるがあれども、雨漏り壁落ちて蔦葛はひかゝれり。境内惣て雑草生ひ茂り、その地蔵堂のごときは、殆ど倒れんとせり。素より番僧もなく詣づるものもなし。」 と荒れるに任されていたことがかなり具体的に書かれている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/tou_byakugoji.htm

「二層塔の古式なるがあれども」とあるように、昔は境内に多宝塔が建っていた。

byakugoji_n.jpg

「南都名所集」巻之4(延宝3年・1675版)という書物には、白毫寺の多宝塔が描かれているのがわかる。この多宝塔がその後どういう運命をたどるかについては後で書くことにして、まず境内の建物を紹介しよう。

白毫寺本堂

上の画像は本堂で江戸時代に建築され、中には勢至・観音菩薩像、聖徳太子二歳像他が安置されている。

その奥に御影堂と宝蔵がある。
この寺院には7体の仏像が国の重要文化財に指定されており、すべてがこの寺の宝蔵に安置されている。
宝蔵は比較的新しい建物だか、仏像と参拝者を遮るガラスのようなものは存在せず、かなり近づいて仏像の表情を鑑賞し参拝することができる。
宝蔵の内部の仏像は撮影禁止だが、先程紹介したs_ninagaさんのサイトにいくつかの仏像の画像を見ることができる。

18byakugo_03f.jpg

本尊の阿弥陀如来坐像(重要文化財)は平安時代から鎌倉時代の仏像で当寺院の御本尊である。

白毫寺閻魔王坐像

閻魔王坐像(重要文化財)は鎌倉時代の仏像で昔あった閻魔堂の本尊である。憤怒の形相に迫力がある。以前このブログで紹介した、京都の大山崎にある宝積寺の閻魔大王像に良く似ている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-54.html

白毫寺から奈良盆地を臨む

宝蔵あたりから奈良盆地を北に見ると、東大寺の屋根がひときわ大きく見えた。

白毫寺多宝塔跡

本堂の近くに多宝塔の跡があった。
この多宝塔は廃仏毀釈で毀されたのではなく、焼失したのでもなく、大正6年に兵庫県宝塚市切畑長尾山の個人所有の山荘に移築されたのである。

藤田伝三郎

大阪の大富豪藤田伝三郎男爵が宝塚に贅を尽くした13万坪余の別邸を建て、そこに白毫寺の多宝塔が移築されたそうだ。
移築先の地図が見つかった。「井植山荘」がその場所である。
http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/sub_file/01010102000000-iuesansou-ichizu.pdf#search=%27%E4%BA%95%E6%A4%8D%E5%B1%B1%E8%8D%98%27

藤田伝三郎が白毫寺からいくらで多宝塔を買ったかは不明だが、先程紹介した「大和名勝」の記述を読めば、長い間荒れるに任されており「雨漏り壁落ちて蔦葛はひかゝれ」る状態で、相当修理の手を加えなければならなかったはずだと思う。むしろ藤田伝三郎によって多宝塔の寿命は延びたのかもしれない。

しかし戦後になって、昭和24年にこの山荘は三洋電機(株)創業者の井植歳男氏に売却され、それ以来、「井植山荘」と呼ばれるのだが、平成14年(2002)3月19から20日に山火事がおこり、その多宝塔は残念なことに焼失してしまったのだそうだ。

byakugoji03s.jpg

この多宝塔が山荘に存在していた頃の写真が「兵庫の塔」(寺師義正著 光村推古書院、1994.3)という書物に「白毫寺多宝塔(在井植山荘)」として出ているのを、先程のs_minaga氏のサイトで紹介されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/tou_byakugoji.htm
井植山荘については、次のURLで詳しく書かれている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/kisida00.htm

白毫寺の多宝塔は、桧皮葺の相当古い建築物で「大化年中草創の儘」という記録もあるそうだが、室町時代に再建されたという説もある。

明治の廃仏毀釈は仏像や建築物が多数破壊されたというイメージが強いのだが、破壊活動がなくとも多くの寺院が収入源を断たたれて衰退し、無住の寺院となって廃絶されているケースも少なくないようだ。
白毫寺が今に残るのは多宝塔を売却したお金で建物を修復できたからなのかとも考えるのだが、小さなお寺で貴重な文化財を守り続けることは大変なことだったのだと改めて認識し、素晴らしい仏像を見ながらやや複雑な気分になった。
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国宝の新薬師寺本堂で12体の国宝仏像に囲まれて

前回は白毫寺のことを書いたが、白毫寺から田園風景の残る静かな住宅地のなかの細い道を歩いて15分もすれば新薬師寺の南門に到着する。

新薬師寺本堂

門をくぐると国宝の本堂が見えてくる。この建物は天平時代の建築で、新薬師寺創建当初の建物なのだそうだ。この本堂の中に、国宝の仏像が12体も安置されているのだ。

古刹の一つの建物の中で、これだけ多くの国宝の仏像を間近に参拝できる場所はかなり少ないと思われる。
以前このブログで「東大寺三月堂」(国宝12体) の記事を書いたのだが、昨年5月に東大寺三月堂は須弥檀と仏像の修理が開始されて、今は国宝4体と重要文化財3体が安置されているだけだと思う。今年8月からは須弥檀の修理工事のために平成25年3月まで拝観停止となり、今年10月には日光菩薩像(国宝)、月光菩薩像(国宝)、弁財天像(重要文化財)、吉祥天像は(重要文化財)が、現在建築中の「東大寺ミュージアム」に移されることが決定している。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-106.html
次のサイトを良く見ると、新薬師寺よりも多くの国宝仏像で囲まれた空間を公開している寺院は、興福寺東金堂や東寺講堂、三十三間堂、中尊寺金色堂くらいしか残されていないようなのだが、参拝者が目の前で国宝と対峙できる空間となると、新薬師寺本堂は貴重な場所であることが分かる。
http://www.kokuhoworld.com/bhome.html

ここで少し、新薬師寺の歴史を振り返ってみよう。
パンフレットによると、
「新薬師寺は聖武天皇眼病平癒祈願の為、天平十九年(747)勅願により光明皇后によって建立され、新薬師寺の「新」は「あたらしい」ではなく「あらたかな」薬師寺という意味であります。
 当時東大寺とともに南都十大寺の一つに数えられ、四町四方の境内に七堂伽藍甍をならべ住する僧一千人と記録にあります。
 三十三年後の宝亀十一年西塔に落雷、瞬時にして炎上、現本堂のみが焼け残ったわけです。」
と簡単に書かれているが、「四町」とは約440mなので「四町四方」という広さは今の新薬師寺の境内の20倍近い広さになる。

今の奈良教育大のキャンパスは新薬師寺の境内であったらしく、平成20年の10月に同大学の敷地から現在の東大寺大仏殿よりも大きな新薬師寺の建物跡が発掘されているようだ。
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_11_22.htm
この建物跡は新薬師寺の金堂のものだと考えられているが、講堂だとする説もあるようだ。

新薬師寺が建てられた天平19年(747)は、東大寺大仏の鋳造が開始された年でもある。大仏開眼が天平勝宝4年(752)で大仏殿竣工は天平宝字2年(758)のことだ。

こんなに大きな寺を建てているにもかかわらず、正史である「続日本紀」に新薬師寺の建立のことが何も書かれていないのは、この寺が光明皇后によって建てられたからなのだろうか。

光明皇后

光明皇后は聖武天皇の皇后で、父親は藤原不比等である。皇族以外から立后された初めての例で、Wikipediaによると、「…仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられる。また貧しい人に施しをするための施設『悲田院』、医療施設である『施薬院』を設置して慈善を行った。夫の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創設された。さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わった。」と書かれている。
藤原家にとっては光明皇后が大きな寺院を建立することは、藤原家の権勢がいかに大きいかを当時の人々に知らしめることでもあったと考えればいいのだろうか。

新薬師寺の建立については、『東大寺要録』という書物の中に記録があるらしい。そこには「天平十九年(747)三月、仁聖天皇(光明皇后)、聖武天皇不予(ふよ:病気)により新薬師寺を立てる。並びに七仏薬師像を造る」とあるそうだ。『七仏薬師像』については正史である『続日本紀』巻第十六に天平十七年の9月、聖武天皇が6尺3寸(約1.9m)の薬師仏像を7体制作することを命じたことが記録されている。

新薬師寺のホームページには、創建当初にはこの7体の薬師仏が新薬師寺の金堂に安置され、それぞれの薬師仏の左右には日光・月光菩薩が脇侍に付き、周りに十二神将像が安置されていたと記されている。それならば、新薬師寺金堂が東大寺大仏殿に匹敵する大きさの建物になることは納得できるというものだ。
新薬師寺の創建当初にはこの金堂の左右には東塔と西塔が並び、境内には100人余の僧侶が修行する僧坊や壇院があり、七堂伽藍が整う大寺院だったそうだ。
http://www.k5.dion.ne.jp/~shinyaku/about.html

奈良時代に「南都十大寺」のひとつに数えられていたという新薬師寺が、どういう経緯でこれだけ規模が小さくなってしまったのか。この経緯はパンフレットにあるように、最初は落雷による火災だ。
『続日本紀』巻第三十六には宝亀十一年「庚辰。大雷。災於京中数寺。其新薬師寺西塔。葛城寺塔并金堂等。皆焼尽焉。」(正月十四日に大きな雷があり、京中[奈良]の数か所で火災が起こり、新薬師寺の西塔や葛城寺の塔と金堂が焼失した。)と書かれている。
新薬師寺のパンフレットではこの時に「現本堂のみが焼け残った」とあり、新薬師寺のホームページにも「建物のほとんどが焼失した」と書かれているが、『続日本紀』を素直に読めば、この時に焼失したのは西塔だけであったという可能性が高そうだ。

『東大寺要録』という書物に、応和2年(962年)に「大風により、七仏薬師堂(金堂)等堂舎顛倒、他に東大寺南大門等も倒壊」した旨の記述があるので、多くの堂宇を失ったのはこの時期なのだろうか。

奈良教育大学で発掘された新薬師寺金堂跡の遺物の中には、仏像の破片らしき乾漆片もあったそうだ。そんな大きな金堂が倒壊したのであれば、仏像も破壊されたことは間違いないだろう。

その後鎌倉時代に解脱上人(げだつしょうにん)、明恵上人(みょうえしょうにん)により再興され、東門、地蔵堂、鐘楼が建立され、天平の建造物である現本堂を中心に、今の新薬師寺が整ったのだそうだが、以前の規模には戻らなかったようだ。

それにしても、随分小さなお寺になったものだと思う。
今の本堂は他の目的で使用されていたお堂が転用されたものだそうだが、以前はどんな目的で使われていたかは良くわかっていないようだ。ただ古い建築物であることは確かであり、遺構の少ない奈良時代の建築物として国宝に指定されている。

新薬師寺内部仏像

本堂の中に入ってみると、すべての仏像が円形須弥壇に並んでいるのに驚いた。目に入る仏像のほとんど総てが国宝だと思うと嬉しくなってくる。中は撮影禁止だが、ネットでイメージのわかる写真があった。

堂内の中央に安置されている「薬師如来坐像」は平安初期の制作だと考えられ国宝に指定されているが、昭和50年の調査で像内から平安時代初期と見られる法華経8巻が発見され、このお経も国宝に指定されているそうだ。

周りの「十二神将立像」はもとから新薬師寺にあった仏像ではなく、前回白毫寺の記事の中で書いた「岩淵寺(いわぶちでら)」という近くのお寺から移したものだと伝えられている。この内、宮毘羅(くびら)大将像[寺伝では波夷羅(はいら)大将像]は江戸時代末期の地震で倒壊し、昭和になって補作されたもので国宝指定外となっているが、その他の11体の仏像は天平年間(729-749)に作られたことが確認されているのだそうだ。

新薬師寺バサラ像

本尊に向かって右にあるのが、日本の500円切手のデザインに使用されている有名な迷企羅(めきら)大将像[寺伝では伐折羅(ばさら)大将像]である。

バサラ像切手

1260年以上前に制作されたものであることはわかっているのだが、今も迫力のある表情で、今にも動き出しそうな格好で、未だに生き生きと感じられるのだ。

何度も破壊される危機を乗り越えて、かけがえのない大切な宝として、何代にもわたって守られてきたからこそ、この空間がある。昔の人々に感謝したい気持ちになった。
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東大寺戒壇院と、天平美術の最高傑作である国宝「四天王立像」

新薬師寺の国宝仏像を鑑賞した後、続けて天平時代の国宝仏像が見たくなった。

東大寺の戒壇院には有名な国宝の「四天王立像」がある。この仏像は今までテレビや写真でしか見たことがなかったのだが、ずっと以前からこの仏像を自分の目で見たいと思っていたので、新薬師寺を見た後に奈良公園を抜けて東大寺戒壇院に向かった。

東大寺戒壇院

上の画像が東大寺戒壇院だ。戒壇院は誰でも知っている東大寺大仏殿から300m程度西側にあるのだが、ここに来る観光客はかなり少なかった。

「四天王立像」のことを書く前に、東大寺戒壇院の歴史をパンフレットの記事などを参考にまとめておく。

天平勝宝6年(754)に僧鑑真が来朝し、東大寺大仏殿の前に戒壇を築いて、聖武天皇をはじめ百官公卿四百人に戒を授けた記録があるが、同年五月一日孝謙天皇の戒壇院建立の宣旨により、東大寺戒壇院が造営されたそうだ。創建当初は金堂、講堂などが建てられていて、かなり大きな寺院であったらしい。

東大寺戒壇院戒壇堂

その後、治承4年(1180)、文安3年(1446)、永禄10年(1567)の三度の火災により、創建当初の堂宇をすべて失い、国宝の「四天王立像」が安置されている現在の戒壇堂(上の画像)は享保17年(1732)年に建立されたもので、現在奈良県の重要文化財に指定されている。

ところで、「戒壇」とは受戒の行われるところで、「受戒」とは僧侶として守るべき事を確かに履行する旨を仏前に誓う厳粛な儀式のことだ。

創建当初の「四天王立像」は銅造のものであったらしいのだが今はなく、今の国宝「四天王立像」は東大寺内の「中門堂」から移されたものと言われているそうだ。その「中門堂」も焼失して今の東大寺にはない建物であり、よくぞこの戒壇堂に天平時代の最高傑作が残されることになったものだと思う。

入堂すると二重の檀があって、参拝者は下の檀に上がってぐるりと一周しながら上檀の四隅に立つ各像と目の前で対面することになる。

東大寺戒壇院四天王2

東大寺戒壇院四天王1

東南隅に剣を持つのが持国天、西南隅に槍を携えて立つのが増長天。北西隅に巻物を持つのが広目天、北東隅に宝塔を高く掲げているのが多聞天である。

像の高さは163cmほどの等身の像で、増長天のみが口を開いて忿怒形をしているが、広目天・多聞天・持国天は口を閉じてはいるものの内面に怒りを秘めており、それぞれの表情に深みがあり、写実的で迫力がある。

特に広目天の眉間に皺を寄せ両眼を細めて遠くを凝視する表情や、多聞天の口をへの字に曲げてすぐにでも怒りが爆発しそうな表情が印象に残った。像の足元で脅えている邪鬼の表情もまた面白い。
この天平時代に、人間の内面の怒りや感情をこれほど高度に描写する天才仏師が日本にいたというのが凄い。

この「四天王立像」を制作した仏師はいったい誰なのだろうか。

Wikipediaによる「東大寺」の解説によると、この「四天王立像」は、「法華堂の日光・月光菩薩像とともに、奈良時代の塑像の最高傑作の1つで、国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)の作」と書かれているのだが、この「国中連公麻呂」という人物は何者なのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA

「続日本紀」の巻第三十三光仁天皇の宝亀五年(774)の記録の中に「国中連公麻呂」が亡くなったことと、その業績などが簡記されている一節がある。しばらく引用してみる。

「冬十月三日、散位・従四位下の国中連公麻呂が卒した。もとは百済の人である。祖父の徳率(百済の官位の第四位)・国骨富は、近江朝廷(天智朝)の癸亥年(663)に本国が滅びる戦乱にあって帰化した。天平年間に、聖武天皇が広大な願いをおこして盧舎那仏(東大寺大仏)の銅像を造ろうとした。その高さは五丈(15m余り)である。当時の鋳造の工人はあえてそれに挑む者はいなかったが、公麻呂は大変優れた技巧と思慮があり、ついにその仕事をなしとげた。その功労によって、最後には四位を授けられ、官も造東大寺次官兼但馬員外介になった。天平宝字二年に、大和国葛下郡国中村に居住していたので、地名に因み「国中」の氏を命じられた。」(「続日本紀(下)現代語訳」講談社学術文庫p133-134)

と、ここには国中連公麻呂が東大寺大仏の鋳造に関わった事だけが書かれている。これだけ大きなプロジェクトに関わった人物が、他にも多くの仏像を造ったことは間違いないのだろうが、「続日本紀」に国中連公麻呂が異例のスピードで昇進した記録と、「寧楽遺文」という書類に東大寺三月堂の不空羂索観音の制作に関わったと思われる記述がある程度らしいのだ。では戒壇堂の四天王寺立像の制作者が国中連公麻呂という説は何を根拠にしているのだろうかというと、それについては過去の記録は何もないようなのだ。

奈良時代の天平期には素晴らしい仏像がいくつもあるが、制作した仏師が記録で判明しているものはわずかしかない。
東北大学名誉教授の田中英道氏はこの時期の仏像を作風や技術、表現力のレベル別に分類されて、以下の仏像はいずれも同一人物の手になるものであり、国中連公麻呂の制作によるものである可能性が高いと結論付けておられる。(「国民の芸術」)

【東大寺大仏殿】盧舎那仏(東大寺大仏)
【東大寺三月堂】不空羂索観音像、日光菩薩像、月光菩薩像、執金剛神像(秘仏)
【東大寺戒壇院】四天王立像
【新薬師寺】十二神将像
【唐招提寺】鑑真和上像
【法隆寺夢殿】行信僧都像

日光月光菩薩
<不空羂索観音像(中央)、日光菩薩像(右)、月光菩薩像(左)>

執金剛神像
<執金剛神像>

田中英道氏はこう書いている。(同書p250-251)
「…西洋「中世」美術でさえも、現在では様式に基づいて議論が行われ、出来る限り作者認定の試みが行われている。」
「…日本における奈良時代のこの大芸術家だけが、日本でも世界でも知られていない。作品があれば当然、それを作った作家がいる、という平凡な事実が、わが国ではなぜか無視されている。
 わが国では、史料がなければ、作家を認定することが出来ぬという、悲しむべき美術史家の史観におおわれていきた。「様式」観察を基礎とする美術史的な訓練に欠けた考察しかなかったとも言える。作風を検討し、多くの眼が共通性を一致して認める。そこではじめて、作風認定による一人の芸術家が生まれる。それが美術史の基本である。史料はその上に補強材料として組合わせられていくにすぎない。」

さらに田中英道氏は「公麻呂の芸術性はミケランジェロに相当する」と書いておられるが、この評価は人によって異なるだろうし、田中英道氏が掲出した作品がすべて国中連公麻呂の作品だとすれば、ミケランジェロよりも上だと考える人がいてもおかしくない。しかも国中連公麻呂の時代はミケランジェロよりも800年も以前にこれらの仏像を造ったことになる。
私にとっては天平期の仏像の方が深いものを感じるし、少なくとも奈良時代においては、日本の彫刻や造形技術、その芸術性が世界最高レベルにあったことは間違いないのだと思う。
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【ご参考】
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奈良西大寺から秋篠寺を訪ねて

西大寺東門

東大寺戒壇院の四天王立像を見た後に、近鉄奈良駅から西大寺駅まで乗って、そこから歩いてすぐの「西大寺」に向かった。上の画像は「東門」だ。

西大寺の創建は、奈良時代の天平宝字8年(764)に称徳天皇が鎮護国家と平和祈願のために七尺の金銅四天王像の造立を発願されたことから始まるのだが、造営当初の境内の広さは東西十一町、南北七町、面積三十一町(約48ヘクタール)と広大で、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院など110以上の堂宇が立ち並び、東の大寺(東大寺)に対する西の大寺に相応しい官大寺だったそうだ。

その後、平安時代に火災や台風で多くの堂塔が失われ衰退したのだが、鎌倉時代に叡尊(えいそん1201~1290)が荒廃していた西大寺の復興に努め、西大寺に現存する仏像、工芸品の多くはこの時期に制作されたものである。

室町時代の文亀2年(1502)の火災で、大きな被害を受け、現在の伽藍はすべて江戸時代の再建なのだそうだ。

西大寺四王堂

東門を入って暫らく進むと右手に「四王堂」が建つ。この建物は延宝二年(1674)築で、堂の中には十一面観音立像(重要文化財)と四天王立像(重要文化財)がある。

西大寺四天王

堂内は撮影禁止なので、ネットで探した画像を貼っておいたが、四天王が足で踏みつけている邪鬼の部分だけが西大寺で唯一残る、奈良時代の制作によるものだそうだ。

西大寺本堂

西大寺の本堂は江戸時代宝暦二年(1752)の建立で、国の重要文化財に指定されている。

西大寺文殊菩薩

堂内のお勧めは鎌倉時代に制作された文殊菩薩騎獅像(重要文化財)。この像の両脇にある脇侍像のうち右にある善財童子も可愛らしくていい。

西大寺東塔跡

上の画像は文亀2年に焼失した東塔の跡で、巨大な基壇や礎石は往時の偉容を偲ばせる。高さは45mあったというからかなり高い塔であったようだ。(現存する近世以前の塔の高さでは東寺54.8m、興福寺50.8mに次ぐ高さ。)

その西側にある愛染堂には有名な愛染明王坐像(重要文化財)があるが、秘仏のため普段は公開されずレプリカが展示されていた。

以前奈良における明治時代の廃仏毀釈の話を何回かに分けて書いた。そのなかで興福寺は僧侶130人が春日大社の神官となり、明治5年には興福寺は廃寺となって、明治14年に再び住職を置くことが認められるまでは興福寺は無住の地であったことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-76.html

興福寺諸仏

その当時の写真を紹介したが、興福寺の貴重な仏像がこんな風に等級をつけて並んでおり、有名な阿修羅像の腕は二本が欠けている。上記の記事を書いた際にこの時期の興福寺の建物や仏像は誰が管理していたのかと疑問に思ったが、最近になって興福寺のホームページに「興福寺は明治8年(1875)から同15年まで、西大寺住職佐伯泓澄によって管理された。」と書いてあることを知った。
http://www.kohfukuji.com/about/history/04.html

西大寺が衰退した平安時代には、西大寺は興福寺の管理下に入っていたのだが、その歴史を踏まえて西大寺は興福寺を荒廃から守ろうと考えたのだろうか。廃仏毀釈の頃は西大寺も多くの収入減を失って苦しかったはずなのだが、詳しいことはよくわからない。

続けて、最後の目的地である「秋篠寺」に向かった。

秋篠寺南門

西大寺から「歴史の道」と名付けられた迷路のような道を歩いていくと15分ほどで秋篠寺の南門に辿り着く。この辺りの鄙びた雰囲気はタイムトリップした気分になる。

秋篠寺参道

南門から木々に囲まれた参道を歩くと境内は苔むして、ひっそりと静寂な空気に包まれて別世界に来たようだ。この苔むした雑木林の中に、かって存在した金堂、東西両塔の跡があり、それぞれの礎石が残されているそうだ。

秋篠寺庭

簡単に秋篠寺のパンフレットなどによりその歴史を振り返ってみる。
秋篠寺は宝亀7年(776)光仁天皇の勅願により、薬師如来を本尊とする寺を造営したのが始まりとするが、天応元年(781)富士山が噴火した年に光仁天皇が崩御されたために、造営は桓武天皇に引き継がれ、完成したのは平安遷都の頃だそうだ。

保延元年(1135)に兵火により金堂、東西の両塔など主要伽藍を焼失し、鎌倉時代以降現本堂の改修や仏像の修理がおこなわれたのだが、明治初期の廃仏毀釈により「諸院諸坊とともに寺域の大半を奪」われてしまったとパンフレットには明記されている。
Wikipediaによると平安時代に大安寺と寺領争いがあった記録が西大寺側に残されていることが書かれているので、以前の境内は相当広かったのだと思う。

秋篠寺本堂

境内の雑木林を抜けると国宝の本堂が建つ。この建物は創建当初は講堂として建立されたが、金堂が焼失した後鎌倉時代に大修理を受け、それ以降は本堂と呼ばれてきたそうだ。シンプルではあるが均整のとれた美しい建物である。

この本堂の中に、かって作家・堀辰雄が「東洋のミューズ*」と絶賛した有名な仏像がある。
伎芸天像(ぎげいてんぞう:重要文化財)がその仏像だが、私もそのしなやかな立ち姿にくぎ付けになってしまった。(*ミューズ:ギリシャ神話の女神で音楽・舞踏・学術・文芸などを司る。)

秋篠寺伎芸天

伎芸天は諸技・諸芸の守護神で、秋篠寺のこの仏像はわが国に残る唯一の伎芸天像なのだそうだ。

他にも素晴らしい仏像がいろいろあるのだが、画像はこの伎芸天像だけを紹介しておこう。この仏像を見ている時はずっと、一人の優れた仏師が制作したものとばかり思っていた。 自宅に戻って、パンフレットを読んで驚いた。パンフレットには「頭部乾漆天平時代、体部寄木鎌倉時代、極彩色立像」と書いてある。

秋篠寺の歴史で少し書いたが、保延元年(1135)に兵火により金堂、東西の両塔など主要伽藍が焼失し大切な仏像にも火が付いたのだが、焼けなかった頭部を活かして鎌倉時代に体部を制作しなおしたということなのだ。

心持ち首を左に傾げてわずかに微笑む顔立ちの頭部をそのまま活かして、天衣を羽織ってしなやかに立つ仏像を寄木造りで再現することは相当難易度が高いと思うのだが、秋篠寺の伎芸天像はよくバランスがとれていて全く違和感がなく、むしろ一つの仏像としての芸術性の高さを感じるくらいであった。

パンフレットによると伎芸天像と同様に、帝釈天像(たいしゃくてんぞう:重要文化財)、梵天立像(ぼんてんりゅうぞう:重要文化財)、救脱菩薩像(ぐだつぼさつぞう:重要文化財)という仏像も兵火で体部を破損し鎌倉時代に体部を造りなおしたのだそうだが、梵天立像と救脱菩薩像は奈良国立博物館に寄託されており見ることが出来なかった。

伎芸天像にせよ帝釈天像にせよ、400年以上の時を超えて、先人が作った美しきものの価値を落とすことなく、素晴らしい仏像に再生させた鎌倉時代の仏師たちの芸術的センスと技術力の確かさに驚くばかりである。

朝から白毫寺、新薬師寺、東大寺戒壇院、西大寺、秋篠寺と5つの奈良の古刹を廻って建造物や仏像を見てきたが、日本文化の質的レベルの高さにふれ、これらの文化財を後世に残そうとしてきた人々の思いを感じて有意義な一日であった。
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五條市に天誅組と南朝の歴史を訪ねて~~五條・吉野の旅その1

奈良県の五條市に天平時代の建築物である栄山寺(えいさんじ)八角堂という建物が残されていることを知った。何度か戦火に遭い、八角堂だけは焼けなかったそうだが、法隆寺の夢殿のようなこの国宝の建物をこの目で見たいと思って、五條市や吉野郡の天誅組や南朝の史跡を中心に巡る旅行を計画して、先日行ってきた。

栄山寺は、藤原不比等(ふひと)の長子である武智麻呂(むちまろ)が養老3年(719)に創建したと伝わり、その後、武智麻呂を祖とする藤原南家の菩提寺として鎌倉時代になるまで大いに栄え、南北朝時代には南朝の後村上・長慶・後亀山天皇の行宮*(あんぐう)が置かれていた歴史があるという。
*行宮:天皇の、行幸時あるいは、政変などの理由で御所を失陥しているなどといった場合、一時的な宮殿として建設あるいは使用された施設の事。行在所(あんざいしょ)、御座所(ござしょ)、頓宮(とんぐう)とも言う。

境内を少し進むと国宝に指定されている平安時代の梵鐘がある。小野道風(おののとうふう)の書と伝えられる銘文から延喜17年(917)11月3日に鋳造されたものであることがわかっている。

栄山寺本堂
本堂には本尊の木造薬師如来坐像(国重文)がある。たまたま春の御開帳の時期にあたっていて、ラッキーだった。本堂・八角堂は春(4/25~5月第3日曜)と秋(10/25~11月第3日曜)と正月(3が日)に御開帳され、今年の春の御開帳は5月26日までである。
http://inori.meguru-nara.jp/hihou/result.php?e=30

上記URLに御本尊の画像があるが、木造薬師如来坐像(国重文)は室町時代永享3年(1431)に制作されたもので、仏像だけでなく後背も金色が驚くほど鮮やかだった。また左右に並んでいる木造十二神将立像(国重文)も室町時代に制作されたものである。
本堂前には鎌倉時代に建立された石灯籠があり、この石灯籠も国の重要文化財に指定されている。
先日訪れた時は新緑の緑が鮮やかであったが、秋の紅葉の時期もきっと素晴らしいだろう。そして裏山の山頂には藤原武智麻呂の墓があるという。

栄山寺八角堂

これが国宝の八角堂だが、御開帳の時期だったので、中にも入ることが出来た。かなり剥落してしまってはいるが、内陣の天蓋や柱などには装飾画が描かれていて、この装飾画も国の重要文化財に指定されている。

この栄山寺にはほかにも貴重な文化財が多数残されているが、すばらしい文化財を、昔から安置されていた場所で、古いままの姿で、仏像ならば祈りの空間の中で間近に鑑賞しながら、古き時代を偲ぶことができることはありがたいことだ。

栄山寺を出て国道24号線に向かって600m程走ると右に折れる細い道があり、しばらく進むと「宇智川磨崖碑(うちがわまがいひ)」の入口がある。
この磨崖碑に彫られているのは「大般涅槃経(だいはつねはんきょう)」というお経の一部で、彫られた時期は宝亀7年か9年(776か778)で、その頃はこのあたりも栄山寺の境内であったのだそうだ。

宇智川磨崖碑
私はこの宇智川を渡るのを諦めたので、対岸からは彫られた字が岩のどこにあるかよく解らなかったのだが、次のURLには写真などで詳細にレポートされている。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/7460/nara-gojyou-utigawahi.html

五條市立民俗資料館
次に車を五條市立民俗資料館に進める。
江戸時代は、奈良県五條市は徳川幕府の直轄地で、現在の五條市役所の場所に五條代官所があったという。この民俗資料館は江戸末期には五條代官所の長屋門だった建物である。
文久3年(1863)8月17日に尊王攘夷派の天誅組(てんちゅうぐみ)によって五條代官所が焼き討ちにされる事件が起こった。この事件は立場により「天誅組大和義挙」と呼んだり「天誅組の変」と呼んだりするのだが、この資料館には天誅組に関する多くの資料が展示されている。

そして今年はこの事件が起こってからちょうど150年の節目の年になるので、各地でイベントが企画されているようだ。

しかし天誅組のことは、一般的な歴史叙述からほとんど無視されており、私も最近までほとんど何も知らなかった。どんな事件であったのか、Wikipediaなどを参考にして簡単に振り返ってみよう。

徳川幕府が外国勢力に屈して開国した後、幕府勢力に対抗する旗頭として朝廷を担ぎ出す動きが広まり、脱藩した武士たちが尊王攘夷の中心となっていた長州藩に集まり、攘夷派公卿とともに反幕活動を活発化させていった。
この事件が起こった文久3年(1863)には、孝明天皇の勅命を以て幕府に攘夷を迫り、朝廷の権威を高めるために孝明天皇は賀茂神社・石清水八幡宮と2度の行幸をされている。さらに3度目の行幸として大和(奈良)に行幸するという詔が8月13日に発せられた。

天誅組
ここで先に大和入りして天領である五條を平定しようと、中山忠光(明治天皇生母・中山慶子の実弟)、土佐脱藩吉村寅太郎、刈谷脱藩松本奎堂・備前脱藩藤本鉄石ら38名の同志が五條に向かった。これが「天誅組」である。当時の記録によると38名の内18名が土佐脱藩浪士、8名が久留米脱藩浪士であったそうだ。

彼らは8月17日に五條代官所を襲撃し鈴木源内ら役人を殺害し、櫻井寺に本陣を置き五條を天朝直轄地とする旨宣言して「五條新政府」を置いた。

ところが、尊王攘夷派のやり方に反発する薩摩藩と会津藩とが、討幕に繋がる今回の行幸を阻止しようと手を組み、8月18日に宮中でクーデターを起こしたのである。(8月18日の政変)
そのために朝廷の人事変更と孝明天皇の奈良行幸が、急遽中止されることとなり、長州藩と尊王攘夷派公卿たちは京都から追放されてしまう。

わずか1日で、天誅組は、皇軍御先鋒の大義名分を失い、反乱を起こした賊として討伐を受ける側に立たされたのである。
彼らの軍議で決まったのは、解散ではなく徹底抗戦。いずれ尊王攘夷派が決起することを信じて抗戦し、武力討幕が可能であることを証明し、たとえ途中で倒れても、続く者の為に捨て石になることを選択したのである。

総勢100名程度の天誅組征伐に、幕府は近畿一円の藩に出動命令を出して約1万の兵を動員し、天誅組は命からがら十津川へ撤退し、その後大峰山を超えて下北山村に出て、9月27日に吉村寅太郎が東吉野で討たれたのを最後に壊滅してしまった。

彼らの善戦は時代を変える突破口になり「明治維新の魁(さきがけ)」となったという評価は正しいと思う。
その後生野義挙、禁門の変などがおこり、時代は武力討幕へと移っていく。そして4年後、徳川幕府が倒れ明治新政府が誕生した。彼らは自ら新時代を見ることなく散っていったのである。

櫻井寺
上の画像は天誅組の本陣が置かれた櫻井寺である。現在はコンクリート造りのモダンな建物だが、当時の堂宇は国道24号線が計画された時に撤去され、神奈川県箱根町に移築されたのだそうだ。境内には五條代官であった鈴木源内らを殺害した後首を洗ったという「首洗いの石手水鉢」が残されている。

新町通り
五條市の「新町通り」は、江戸時代の情緒漂う古い町並みが残されていて一見の価値がある。電柱と電線くらいは地中に埋めてほしいところだが、漆喰塗の壁や虫籠窓、格子の家々の連なる通りを歩くと、タイムスリップしたような気分になる。
「新町通り」に沿って歩くと古い家並みが続くが、第一次吉田内閣の司法大臣などを勤めた木村篤太郎の生家が「まちや館」として公開されており、木村篤太郎の写真や勲章などが展示されている。さらに行くと「まちなみ伝承館」という施設があり、昔の五條市内商店の「引き札」(ポスターのようなもの)や、雛人形などが展示されていた。

栗山邸
また新町通りの入口あたりには、国の重要文化財に指定されている栗山邸がある。棟札には慶長12年(1607)の銘があり、建築年代のわかっているものでは日本最古の民家なのだそうだが、公開されていないのは残念だった。

賀名生の里歴史民俗資料館
昼食に柿の葉寿司で腹ごしらえをしてから、五條市西吉野町にある「賀名生(あのう)の里歴史民俗資料館」に車を進める。ここには南朝の宝物や天誅組の資料などが展示されている。

堀家住宅
この隣にある立派な茅葺の家が堀家住宅(国重文)で、南北朝時代に3代にわたり天皇の皇居になったとされている。今も住居として利用されているために、中に入るには事前に往復はがきを送付して堀家の訪問許可を得る必要があるのだそうだが、門には天誅組の吉村寅太郎の筆になる「皇居」と書かれた扁額が掛けられていた。

南朝三帝賀名生皇居之址
堀家背後にある丘陵上に黒木御所が造られたとされ、「南朝三帝賀名生皇居之址」と書かれた石碑があり、その近くに『神皇正統記』を著して後村上天皇のために南朝の正当性を主張した北畠親房の墓がある。
北畠親房墓

延元元年(1336)後醍醐天皇が足利尊氏の謀反により吉野に遷られてから、後亀山天皇が京都に戻られた元中9年(1392)までの57年間を南北朝時代と呼ぶのだが、その間南朝の皇居が転々と遷って行ったことを、今回の旅行の下調べで初めて知った次第である。

Wikipediaに南朝の行宮がどのように遷って行ったかが書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E8%A1%8C%E5%AE%AE

南北朝系図
後醍醐天皇は吉野山の吉水院に入られたのち金峯山寺の塔頭・実城寺を「金輪王寺」と改名して行宮とされたのだが、この場所で延元4年(1339)に後村上天皇に譲位した直後に崩御され、正平3年(1348)には高師直率いる室町幕府軍が吉野に侵入して行宮を焼き払い、後村上天皇は賀名生行宮に移られたという。
その後長慶天皇が文中2年(1373)に吉野に行宮を戻すも長く維持することが出来ず、天授5年(1379)には今回の記事の最初に記した栄山寺に行宮を移されている。
その後、元中9年(1392)に南北朝合一を迎えるまでは賀名生などに行宮が置かれたと推定されるとある。

南朝のことをよく「吉野朝」というのだが、南朝56年の歴史の中で、吉野に行宮が置かれたのはわずかに20年弱だったとは知らなかった。

しかし、南北朝の合一で全ての問題が解決したわけではなかった。
歴代天皇が承継してきた三種の神器を北朝の後小松天皇に渡したあとは、南朝の後亀山天皇は冷たい仕打ちを受け、以後は大覚寺統(北朝)と持明院統(南朝)が交互に天皇の位につくという約束であるのに皇太子すら立てることもできなかったし、国衙領を支配しても良いという約束も守られなかった。怒った後亀山天皇は再び吉野に戻ったのだが、南北朝合一の事実は残り、以後は北朝系によって天皇位が独占されてしまう。
そして、その後も南朝の子孫は反幕勢力に担がれたりしながら、応仁の乱の頃まで南朝復興運動が続けられたという。吉野の山奥にはその歴史が刻まれているのだ。
<つづく>
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天誅組の最後の地・東吉野から竹林院群芳園へ~~五條・吉野の旅その2

孝明天皇の大和行幸に先行して天皇の鳳輦を迎えようと、文久3年(1863)8月17日に五條代官所を襲って「五條新政府」を置いた天誅組であったが、翌8月18日に宮中でクーデターが起こって長州藩と尊王攘夷派の公卿が京都から追放され、孝明天皇の大和行幸も中止となって天誅組は1日で皇軍御先鋒の大義名分を失い、反乱を起こした賊として討伐を受ける側に立たされたことを前回の記事で書いた。
天誅組行路

総勢100名程度の天誅組征伐に、幕府は近畿一円の藩に出動命令を出して約1万の兵を動員したという。天誅組は十津川から大峰山を越えて下北山村に抜け、川上村から東吉野村に入ると9月24日に追討軍である紀州・彦根藩兵と遭遇した。那須信吾(土佐脱藩)は大将・中山忠光(明治天皇の生母・中山慶子の弟)を逃すべく決死隊を編成して敵陣に突入して討ち死にしたほか、この東吉野村で藤本鉄石(備前脱藩)、松本奎堂(刈谷脱藩)、吉村寅太郎(土佐脱藩)ほか多くの志士たちが数日間の間で無念の最期を遂げた。そして、東吉野には天誅組の事績を伝える碑や墓が、今も村人たちの手により守り伝えられている。

しかし、なぜ天誅組は吉野の山の中で生き延びることが出来たのであろうか。
彼らが「五條新政府」を置いたのは、太陽暦でいえば9月29日である。また那須信吾が討ち死にしたのは太陽暦では11月5日だ。そもそも食糧はどうしたのか、野宿するには朝晩はかなり厳しい季節になっていったではないかと調べていくと、吉野の人々が天誅組を助けた記録がいくつかあるようなのだ。

たとえば次のURLに、天誅組に関する資料が紹介されている。
http://yama46.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-2d45.html
「『吉野郡史料』によると、『川上村上谷ニ、中谷吉左衛門ナル者アリ。<中略>中山卿ノ義ヲ唱フルヤ、志士ト通ジテ、畫策スル所アラントセシモ、病痾ノ為メニ能ハズ、天誅組ノ伯母谷ニ至ルヤ、其家ニ止ルコト三日、旦傷病者ヲ嘱セラレシカバ、小川佐吉以下十余人ヲ家に看病シ、追兵ノ来リ索メン事ヲ恐レテ、其族ト共ニ、之ヲ深林幽谷ノ中ニ潜匿シ、養護セル者六十余日、皆癒ヘ、各々散逸セリト云フ。』
 後日、病臥中の吉左衛門に代わり、その妻カイが五條代官所の白州にて取調を受けたが、尋問だけで仕置はなかったと云う。今、中谷吉左衛門の子孫の家には、小川佐吉の残した当時の武具などがある。(こうだに誌 中谷順一 1986年)より」
天誅組の変

伯母谷というのは現在の吉野郡川上村伯母谷(おばだに)であるが、最近出版された舟久保藍氏の『天誅組の変』を取り寄せると、こう記されている。

「天誅組隊士約30人が伯母谷村へ先着し、隊の到来を村に告げたのは23日夕方であった。伯母谷村の水本家に残る口碑や文書によると、この時、同村の庄屋上田伊左衛門、水本茂十郎、石窪新七郎、泉谷庄三郎らが、上谷(こうだに)村・大迫(おおさこ) 村に呼び掛け、庄屋たちで対応を協議したという。その状況は、…当時の庄屋が生存しているうちに聞き取りまとめられた文書に詳しい。
素より天忠組とは勤王家の義団にして各藩に就いて尊王の趣意を説くものなれば我村また南朝勤王の遺民、宜しく此の時に当たり鞠窮(きっきゅう)力を致し微力ながらも我ら先祖の意思を継ぎ聊か天忠組その人々の便を図らんは、亦以てこの先祖の名に恥ちざるなりと、ここに協議一決して、負傷者の介抱は勿論、糧食の用意、武器の運送等、万事慎重に取り扱い』
後南朝の遺民として同じ勤王の義士である天誅組を支援するのが、先祖に対して恥じない行為であるとの結論に達し、三村を挙げて彼らの面倒をみたのであった。」(『天誅組の変』p.190)

天誅組に対しては9月1日に朝廷からも追討命令がでていた。幕府からは「賊軍」とされ、朝廷からは「朝敵」とされた天誅組に手を差し伸べることは、吉野の村人にとっては命がけではなかったか。下手に匿って追討軍との争いになれば、村ごと火を放たれる可能性もあっただろうし、処罰される可能性は高かったはずだ。
実際、白川村では天誅組に献上された米を運ぼうとした村人が、藩兵により斬首された記録が残されているという。
山深い吉野の民は、南朝の天皇家を助けてきたことを誇りとする人々であった。少数の天誅組が総勢1万もの幕府軍と戦って、予想外に長く持ちこたえた背景には、吉野の尊王の歴史を知る必要がありそうだ。

オオカミ像

賀名生の里歴史民俗資料から1時間近く走って東吉野に入る。途中でニホンオオカミの像があったのでカメラに収めた。明治38年(1905年)当村において捕らえられた若雄のニホンオオカミがわが国における最後の捕獲記録となったのだそうだ。

天誅組義士の碑

その像のすぐ近くに宝泉寺があり、その門前には天誅義士記念碑がある。

宝泉寺

この寺には、天誅組事変の際に、鷲家口(わしかぐち)に布陣した彦根勢が篝火の代わりに寺を焼こうとしたのを、当時の和尚が阻止したという謂れがあるという。またこの寺は、鷲家口の戦いで戦死した天誅組志士や彦根藩士の菩提寺でもあり、今も毎年11月5日には天誅祭が法要されているというのは驚きである。また近くの明治谷墓地には天誅義士たちの墓があり、今も地元の方によって花が供えられている。

天誅組終焉の碑

この場所から北方向に7分ほど車を進めると、「天誅組終焉の地」という大きな碑がある。
横に小さい碑がありこう刻まれていた。

「心を焦がし身を捨てし
壮士は散りて春秋の
うつりはここに百幾十
もみじとともに偲ぶかな

それ南山のさや風に
うそぶき見ずや山月を
夕べに辿る嶮涯に
かよへる夢の浅かりし

秋風ふかし鷲家口
碎けて飛べる黒雲は
北風かえすすべもなく
はかなく消えぬ銃煙に

悲命の志士よ冥すべし
靑史に鑑らし見るところ
ももこせののち今もなほ
まこと盡せし勲しを」

吉村寅太郎の墓

そして、奥に進んでいくと吉村寅太郎の墓がある。
寅太郎は傷が悪化して歩行困難になっていたために一行から遅れて駕籠に乗って鷲家口まできたが、27日に津藩兵に発見されて射殺されてしまったという。墓には今もきれいな花が供えられていた。

昼食が早かったのでお腹がすいてきた。この近くで「きのこの館」という店があるので立ち寄った。宿の夕食のこともあるので、お腹が満腹にならないよう「きのこの網焼き」と「しいたけ造り」を注文したが、どちらも期待以上に旨かった。

きのこの館

この店の隣のスペースで大量のキノコを無菌栽培しており、採りたての新鮮なきのこが食べられる。採りたては味も香りも食感もスーパーなどで買うものとは全く違うことが一口味わうことで解った。しいたけのお造りは、採取して3時間以内に食べないと味が変わってしまうのだそうだ。
今度来る時はきのこのフルコースを注文したいと思う。この店のことは、次のURLの記事が参考になった。
http://small-life.com/archives/08/11/0120.php

つぎに向かったのは天誅組の菩提寺の龍泉寺。

龍泉寺

この寺の住職さんとは随分話が弾んで、随分長い間話し込んでいる内に、寺の宝物である平安時代の木造如来坐像(県重文)を見せて頂いた。この寺の歴史より古い仏像が伝わった経緯についいてはよく解っていないそうだが、貴重な仏像がこんな山奥に残されていることに興味を覚えた。仏像の写真は次のURLに掲載されている。
http://higashiyoshino.com/modules/pico2/index.php?content_id=12

龍泉寺岩松

境内に松の盆栽のようなものが沢山並べられていたが、「岩松」といって苔の一種なのだそうだ。
1年に1mm程度しか成長しないものだそうだが随分大きなものがあり、樹齢千五百年という貴重なものまであることに驚いた。

東吉野から、本日の宿泊先である吉野山山上にある竹林院群芳園に向かう。

竹林院群芳園

この寺の寺伝によると、聖徳太子が開創して椿山寺と号し、その後弘仁年間(810-824)に空海が入り常泉寺と称したが、南北朝の対立後至徳2年(1385)に竹林院と改められたとある。

竹林院本堂

「群芳園」というのは、千利休が作庭し、一説には細川幽斎が改修したと言われるこの寺の庭園で大和三庭園の一つとされているのだが、この庭園の名前で宿泊施設がある。昭和56年には昭和天皇・皇后両陛下がこの旅館に宿泊されたのだそうだ。
本館は檜皮葺の素晴らしい建築で、調度品も一級品ぞろいである。数百年の歴史を持つからこそ、庭も建物も自然の景色に溶け込んで、凛とした風格を備えたお宿であるが、価格が普通の旅館並みであることはあり難い。

竹林院夕食

歴史を感じさせる施設で、料理もとてもおいしく頂けたし、朝は世界遺産の金峯山寺から読経の太鼓をたたく音がして、小鳥の囀りとともにとても清々しい朝を迎えることが出来た。訪れた日は藤の花が満開だったが、ネットで調べると四季折々の景色が楽しめそうである。

旅行が好きな私の信念であるが、宿泊先は地元の旅館を選び、土産物は地元の店で地元産の物を買う。そうすることで地元が潤い、地域の伝統文化や歴史ある風景を維持することが出来るのだと思う。
以前は割安なバス旅行をよく利用したが、観光地の中心部からずいぶん離れたドライブインで買い物をしたり、都会資本のホテルで宿泊してそのホテルで土産物まで買ってしまったのでは、観光地の伝統や文化を支えてきた地元の人が決して潤わないことに途中で気が付いた。

パック旅行などで地元に富を落さない旅行者が増えるばかりでは、観光地に生まれ育った若い世代が地元に残るはずもなく、それでは観光地の情緒や地元の伝統文化を後世に残すことが難しくなるばかりだ。旅行に携わる多くの企業が自社の利益追求を優先してしまって、以前は存在した観光客が増えれば観光地が豊かになる仕組みを破壊する側になってはいないだろうか。
<つづく>
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吉野の森林王と、闇の歴史である後南朝の史跡を訪ねて~~五條・吉野の旅その3

竹林院群芳園で朝食を済ませて、吉野郡川上村にある蜻蛉(せいれい)の滝に向かう。
あきつ小野スポーツ公園があり、その園内を川沿いに進むとこの滝が見えてくる。
蜻蛉というはトンボのことだが、『日本書紀巻第十四』雄略天皇の4年の記録にこの地名の謂れが出てくる。

「秋八月十八日、(雄略天皇は)吉野宮においでになった。二十日に川上の小野にお越しになった。山の役人に命じて獣を狩り出させられた。自分で射ようとして構えておられると、虻(あぶ)が飛んできて天皇の臂(ひじ)を噛んだ。そこへ蜻蛉(あきつ)が急に飛んできて、虻を咥(くわ)えて飛び立った。天皇は…蜻蛉をほめて、此の地を名づけて蜻蛉野(あきつの)とした。」(講談社学術文庫『現代語訳日本書紀(上)』p.290)

『日本書紀』には滝のことが書かれていないのだが、『萬葉集第六巻』に笠金村の雑歌があり、この滝のことを詠んだものと考えられている。養老7年は西暦では723年のことである。

「養老七年癸亥の夏五月、芳野離宮に幸(いでま)す時に、笠朝臣金村の作る歌 并せて短歌

の上(うへ)の 三船(みふね)の山に 水枝(みづえ)さし 繁(しじ)に生ひたる 樛(とが)の木の いや継(つ)ぎ継ぎに 万代(よろづよ)に かくし領(し)らさむ み吉野(よしの)の 秋津(あきづ)の宮は* 神柄(かみから)か 貴(たふと)かるらむ 国柄(くにから)か 見が欲(ほ)しからむ 山川(やまかは)を 清(きよ)みさやけみ 大宮(おほみや)と 諾(うべ)し神代ゆ 神代の昔から 定めけらしも (万6-907)

反歌二首
毎年(としのは)にかくも見てしかみ吉野の清き河内(かふち)の激(たぎ)つ白波(万6-908)
山高み白木綿花(しらゆふはな)に落ちたぎつ滝の河内は見れど飽かぬかも(万6-909)」
*原文は「三芳野之  蜻蛉乃宮者」となっている
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kasaka2.html

私も今まで知らなかったのだが、古くは斉明天皇の時代から吉野に離宮が存在したらしいのだ。どこに離宮があったかは諸説あるようだが、吉野町の宮滝という地域で土器や遺構が出てきたことから、その場所にあった可能性が高いと考えられているようだ。

蜻蛉の滝

蜻蛉の滝は、高さが50m近くある2段の滝でなかなか美しい滝である。滝をじっと見ているだけで、心身ともにリフレッシュしたような気分になってくる。
滝の下から、上からと色々な角度から楽しめるように遊歩道が設けられているが、カメラをどう構えても上から下まできれいに収まりきらなかった。上の画像は滝の上半分を写したものである。

蜻蛉の滝から東に戻ると、『山幸彦のもくもく館(川上村林業資料館)』がある。

もくもく館

館内には吉野林業の歴史や特徴、林業によって培われてきた川上村の生活や文化などが紹介されている。

奈良県は、面積の7割が山林に覆われており古くから林業が盛んな県である。
特に吉野川の源流地域にあたる吉野地方は、わが国を代表する美林として有名な吉野杉の産地で、川上村は吉野の林業の中心的存在だ。
最初に吉野地方で植林されたのは室町時代の文亀年間(1501-1503)との記録が残っているのだそうだが、植林による林業が活発化するのは江戸時代の中ごろで、建築用材だけではなく、酒樽の樽丸材、家具の材料としても用いられるようになったという。

土倉胸像

この資料館の入口に土倉庄三郎の胸像があるが、この人物のことを旅行の前に下調べしていると、なかなかすごい人物であったことを知った。この人物については田中淳夫氏の『森と近代日本を動かした男』(洋泉社)に詳しいが、著者の田中氏が『ひととき』という雑誌に書かれた原稿がネットで公開されているので、この人物に興味のある方は次のURLを覗いてみて頂きたい。
http://homepage2.nifty.com/tankenka/dokura-2.htm

土倉庄三郎は天保11年(1840)に吉野郡川上村大滝の山林地主の家に生まれ、16歳の時に家を継いだ後、若くして吉野材木方(ざいもくかた)の代表となって吉野林業の発展に力を注いだ。
山深い吉野の奥地から材木を効率的に運ぶために筏流しの水路の整備を行うなど吉野川の改修を進め、さらに道路の建設にも力を注いだという。
川の改修工事といっても、当時は重機もなければダイナマイトもない時代だ。ノミとゲンノウだけで岩を穿つ労力は大変だったと思う。

川上村の土倉邸があった場所の近くに、土倉翁が行った吉野川の改修工事のあとがわかる場所があることを地元の方に教えて頂いた。
画像ではわかりにくいので印をつけておいたが、吉野川の岩場に丸太を通しやすくするために岩を穿ったノミの跡がある。この日は水が流れていないが、土倉翁はこの新しい水路を使って材木を運ぶコストを下げようとしたのだ。
吉野川掘削

この写真を撮った場所のすぐ近くに土倉庄三郎の邸宅があったのだが、昭和34年の伊勢湾台風の時に吉野川が氾濫して建物が破壊されてしまい、いまは跡地に銅像が建てられている。

土倉立像

『山幸彦のもくもく館』のパネルを見て初めて知ったのだが、吉野杉は年輪幅が非常に緻密でかつ年輪の幅がほぼ一定している。どうしてこんなきれいな年輪になるのかと不思議に思ったのだが、それは土倉翁が確立させたという吉野の造林技術と関係があるという。

杉の年輪

吉野林業では1haの育林地に1万本前後と他の地域の倍近い苗木を植える。密植すると苗は早く上に伸びて幹がまっすぐで真円に育ちやすく、しかも年輪が密になる。そして間伐を繰り返して良い木だけを残していく。そして、間伐木のうち利用できるものは木材として売却する…それを繰り返していくのだそうだ。

このような努力により吉野材は品質だけではなく安定供給の面でも全国を席巻し、明治初年の全国長者番付で土倉翁は三井財閥と並んで横綱の地位にあったと伝えられている。最盛期には約9000ヘクタールの山林を所有し、そのすべてに吉野の銘木が育っていたのだ。

吉野杉の森

しかし土倉翁は、自分の利益の3分の1を国や社会に還元し、3分の1を教育に、3分の1を事業に使うという考えの持ち主で、道路や河川の改修をしただけでなく、山村の財政基盤を確立するために村有林の造林を行なって今日の川上村の礎を築き、また同志社大学や日本女子大学の創設に多額の寄付をし、さらに自由民権運動を支援し、「自由民権運動の台所は大和にあり」といわれるほど、板垣退助らの政治家を資金面で支えたという

吉野の桜

明治初期の廃仏毀釈で吉野山上にあった多くの寺が廃寺となったことは以前このブログで書いた。当時は煮炊きや暖房、産業のエネルギーは殆んど薪で賄われていた時代であったが、ある大阪の業者が荒れていた吉野山の木を買い取る話を持ち込み、吉野山の住民もそれに応諾して、その後に植えるスギやヒノキの苗を買う相談で土倉邸を訪れたのだそうだ。
しかし、土倉翁は吉野の桜は将来の為に残さなければならないと考え、スギやヒノキの苗を売る商機を捨てて吉野山の桜をすべて買い取り、歴史的景観を守ることを即決したという。今も多くの観光客が吉野山の桜を楽しむことが出来るのは、土倉庄三郎のお蔭であることを今回調べて初めて知った次第である。

土倉庄三郎は吉野郡川上村大滝村で生涯を過ごし、大正6年(1917)7月に78才で多くの人々に惜しまれながら亡くなり、蜻蛉の滝に近い龍泉寺という寺にお墓があるそうだ。
大正10年(1921)10月に生前の功績を記念して、川上村大滝の鎧掛岩に「土倉翁造林頌徳記念」の文字が刻印された碑が建立され、今もその字をしっかり読むことが出来る。

土倉翁造林頌徳記念

前回の記事で、川上村の人々が「後南朝の遺民として同じ勤王の義士である天誅組を支援」することを協議して決めたことを書いたのだが、川上村の人々が自らを「後南朝の遺民」と考えた背景にはどのような史実が隠されていたのだろうか

南朝の後亀山天皇が京都に還幸して北朝の後小松天皇に譲位し、以後皇位を交代で承継することで和約し、三種の神器を差し出して明徳3年(1392)に南北朝が統一されたことはどこの教科書にも書かれているのだが、その後北朝の後小松天皇は南朝の後亀山天皇との約束を一切守らなかったのだ。
南北朝統一後は、大覚寺統(北朝)と持明院統(南朝)が交互に天皇の位につくという約束であったのに、後亀山殿は皇太子すら立てることもできなかったし、南朝は国衙領を支配しても良いという約束も守られなかったのである

北朝が南朝との約束を反故にして皇位を独占したために、依然として南北朝の対立は続いたのだ。山深い吉野の地には「後南朝」を援けてきた歴史があり、そのことを村人は「誇り」としてきたのだが、このような史実を学ぶ機会は今までほとんどなかったと言って良い。

森と近代日本を動かした男

土倉庄三郎の伝記である田中淳夫氏の『森と近代日本を動かした男』を読み進むと、今まで知らなかった後南朝の歴史と川上村との関係がよく解る記述があり、興味深いのでしばらく引用する。

「しかし、後小松天皇は皇太子に弟(後の称光天皇)を立てた。そのため1410年、後亀山殿は隠棲していた嵯峨野から密かに吉野に戻る挙に出た。その後の彼の血統を後南朝と呼び、二朝並立が繰り返されたのである。
後南朝は、時の政権に不満を持つ勢力に担がれることで、一定の勢力を保ち続けた。1443年9月に、北朝の後花園天皇の内裏を襲撃し、三種の神器のうち神璽(しんじ:勾玉[まがたま])を奪取する『金闕(きんけつ)の変』を起こす。同年、後亀山殿の曾孫(そうそん)の尊義王が亡くなり、その子、尊秀王(自天王)と忠義王が皇胤(こういん)を継いだ。彼らは川上郷に分散して居を構えた。
とろが赤松家の旧臣が神璽の奪還をめざして川上郷に潜入した。当時赤松家は断絶していたが、旧臣たちは神璽の奪還で武功を上げ再興を果たそうとしたのだ。
1457年(長禄元)12月2日の大雪の夜、彼らは18歳の尊秀王と12歳の忠義王が滞在していた御所を8人で襲い、2人を惨殺して首を取り、神璽を奪った
。(この経緯は赤松側の資料による。川上村の伝承では、忠義王は病没したとある。)
川上郷の民は、彼らを追跡し、雪に阻まれて脱出が遅れていた旧臣たちを格闘の上に倒し神璽と皇子の首を取り戻す。そして村人は尊秀王の首を金剛寺に葬ったという
この事件を『長禄の変』と呼ぶが、追跡に関わった郷民が『筋目(すじめ)』と呼ばれる血筋となる。土倉家は、とくに少ない一番筋の系譜だったという。
なお取り戻した神璽は、東吉野の小川にある皇子の母の在所に隠したが、翌年三月末に赤松側が再び乱入して奪い取られてしまった。
奉じていた皇子が二人とも亡くなり神器も奪われた川上郷では、この年以降、皇子の鎧や兜、長刀、太刀など遺品を祀る朝拝式を執り行い続ける。それは555年の時を超えて、今も続く。近年まで朝拝式に参加できるのは、筋目だけであった。」(『森と近代日本を動かした男』p.209-210)

尊秀王系図

森林王・土倉庄三郎の先祖は『長禄の変』で赤松家の旧臣から、尊秀王の首と神璽を取り戻したメンバーのうちの一人で、代々「筋目」とされて村人から敬われてきたのである。そしてこの地で若くして亡くなられた尊秀王の遺品を祀り、今も毎年2月5日に朝拝式が行われ、この儀式が555年も続いているというのは驚きである。川上村のホームページにこの朝拝式の記事が載っている。
http://www.vill.kawakami.nara.jp/n/j-03a/j-03a-01.htm

この文章を読んで、今回の旅行の最後に金剛寺には必ず行こうと考えていた。
かなり細い道で対向車が来ることはないと地元の方から聞いてはいたが、吉野川を渡って山の中に入ると、心細くなるような細い道が続く。途中で金剛寺への分かれ道があり、そこを右折してなんとか辿りついた。無人の寺のようだが、境内は綺麗に掃き清められていた。

金剛寺本堂

上の画像が金剛寺の本堂で、本尊は平安時代の様式の地蔵菩薩立像なのだそうだ。
自天王の遺品は収蔵庫に保管されているようだが、兜や金具、大袖は国の重要文化財に指定されており、太刀、長刀、胴丸は川上村の文化財に指定されている。

自天親王神社

本堂の右後方に自天親王神社があり、後南朝最後の自天王と忠義王を祀っている。また本堂の左後方には後南朝の忠義王の陵墓がある。
また境内には推定樹齢800年と言われているケヤキの大木がある。
金剛寺にいると、なんだか時空を超えてとても不思議な場所に舞い降りたような気分を覚えた。

金剛寺のけやき

残念な事だが、川上村も過疎化・高齢化が進み、「筋目」だけで朝拝式を行う事が難しくなってしまったという。6年前から「筋目」以外の参加も認め、川上村高原にある福源寺でも行われていた朝拝式を金剛寺一箇所に絞った上で、無形民俗文化財の指定を受けて保護されるようになったのだそうだ。
どこの地方についても言えることなのだが、その地域で数百年ものあいだ伝承されてきた伝統文化であっても、若い人がその地方で残って生計を立てることが出来なければ、地元を去っていかざるを得ない。年寄りだけが地域に残ってどうやって伝統文化を残すことが出来ようか。

わが国の国土の7割は森林であることを多くの政治家や官僚は忘れてはいないか。このまま林業を軽視し続けては、いずれ国土面積の大半が荒廃して、いずれは都会に住む人間だけで荒廃しつつある地域のインフラなどの維持管理にかかわるコストや、過疎地対策費などの負担を余儀なくされることになるだろう。
豊富な森林資源を持ちながら活用せずに放置し木材需要の7割を外国産に頼っているという、わが国の林業政策そのものがどこか誤っているような気がしてならないのだ。

そんなことを考えながら、吉野地方の伝統や歴史的風土が守られることを祈って、わずかではあるがお土産を買って、この旅行を終えることにした。
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文化財の宝庫・室生寺とそのルーツを訪ねて

室生寺のことを調べていると、久しぶりに奈良に行きたくなって、先日、室生寺にゆかりのある寺社と、私が訪ねたことのない近くの奈良の古い寺社などをおりまぜて、1泊2日で周ってきた。

朝早く自宅を出て、最初に訪れたのは室生寺の末寺である大野寺(おおのじ:0745-92-2220)。かつては室生寺の西の大門とも呼ばれていたという寺だ。

寺伝によるとこの寺は、白鳳9年(681年)に役小角(えんのおづぬ)により創建され、天長元年(824)に弘法大師が堂を建立して本尊弥勒菩薩を安置し「慈尊院弥勒寺」と称したのがはじまりだとされている。

大野寺

これが大野寺の本堂だが、残念ながらこの寺は明治33年(1900)に火災に遭い、現在の堂宇はその後再建されたものである。中には国重文の木造地蔵菩薩立像が安置されているという。

境内には、樹齢300年を超える小糸桜や、樹齢100年の紅枝垂れ桜が30本もあり、桜の季節には多くの観光客が訪れるという。

この寺を訪れたかったのは、宇陀川を挟んだ対岸の正面の巨岩に彫られている、像高約11mの弥勒如来立像(国史跡)を観賞したかったからである。

大野寺石仏

この磨崖仏は、興福寺の僧・雅縁が笠置寺の磨崖仏を模して造立する事を発願したといい、承元元年(1207)10月から1年かけて、宋人の石工伊行末(いのゆきすえ)とその一派が線刻を施したという。承元3年(1209)3月7日の落慶供養には後鳥羽上皇の御幸があり、盛大に行われた記録があるという。それから800年以上が経過しているにもかかわらず、今も線刻がしっかりと確認できる。
しかし、この大野寺の磨崖仏も地下水の滲出等で剥落する危険があったため、1993年から1999年にかけて保存修理工事を実施したという。その工事によって地下水の流路が変わって、ようやく線刻が鮮明に見えるようになったのだそうだ。

室生寺境内

この大野寺から車で10分ほど走ると室生寺(045-93-2003)がある。

室生寺仁王門

朱塗りの太鼓橋を渡り、右に進んで昭和時代に再建された仁王門を潜ると、左にばん字池と石段が現われる。鎧(よろい)坂と呼ばれるこの石段を登ると、左に弥勒堂(国重文)、正面に金堂(国宝)がある。

室生寺弥勒堂

弥勒堂は鎌倉時代前期に建立された建物で、中央の厨子に木造弥勒菩薩立像(国重文)があり、向かって右に釈迦如来坐像(国宝)が安置されている。

室生寺金堂

金堂は平安時代前期の建物で、内陣には中央に木造釈迦如来立像(国宝)が、向かって左には木造文殊菩薩立像(国重文)・木造十一面観音菩薩立像(国宝)が、右には木造薬師如来立像・木造地蔵菩薩立像(ともに国重文)が安置されているがいずれも平安時代前期の仏像である。
そして5体の平安仏の前には鎌倉時代の十二神将立像(国重文)が並んでおり、本尊の背後の板壁には国宝の帝釈天曼荼羅図が描かれている。

室生寺ポスター

上の画像はJR東海が2009年に制作した室生寺キャンペーンのポスターだが、ここに写っているのは、室生寺金堂の内陣である。

最近は古刹を訪れても、国宝などの仏像がガラスケースに入れられて、宝物館で拝観するケースが多くなっているのだが、室生寺の良いところは、観光客と文化財である仏像との間に遮るものが何もないところである。
金堂だけではなく室生寺の他の堂宇もそうなのだが、千年以上の歴史のある仏像などが、参拝者の目の前に祈りの対象として存在し、観光客は昔の人と同様に、これらの仏像に手を合わせることが出来る。この当たり前のことが出来る空間が、ずいぶん減ってきていることは悲しいことだ。

室生寺本堂

金堂から石段をさらに登ると国宝の本堂がある。鎌倉時代の延慶(えんぎょう)元年(1308)に建てられもので、内陣にある厨子には、御本尊の木造如意輪観音坐像(国重文)が安置されている。密教系の6本の腕を持った仏像で、観心寺(大阪)・神咒寺(かんのうじ:兵庫)の如意輪とともに日本三如意輪の一つと称されているのだそうだ。

室生寺五重塔

本堂左の石段を登って行くと、国宝の五重塔が姿を見せる。この建物は室生寺の草創期である9世紀前半頃に建てられたとされ、屋外に建てられた五重塔としては法隆寺の塔に次いでわが国で2番目に古く、高さは16.1mで、屋外にあるものとしては日本最小なのだという。
この塔は平成10年(1998)の台風による倒木で大きな被害を受けてしまったが、2年後に修復されて、今も色鮮やかである。

ここで、少しばかり室生寺の歴史を振り返ってみよう。
室生寺の草創期については『宀一山年分度者奏状』(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)という文書に記録があり、それによると、奈良時代末期の宝亀年間(770年-781年)に、皇太子山部親王(やまべしんのう)の病気平癒のため、5人の僧侶が室生の龍穴にて延寿法(えんじゅほう)を行なったところ、親王は龍神の力で見事に回復したという。
そこで朝廷の命で興福寺の僧賢璟(けんけい)がこの場所に寺院を造ることになったのだそうだが、その後賢璟が没し、山部親王は即位をして桓武天皇となり、この寺の造営は興福寺の僧・修円に引き継がれ、それから相当の年月をかけてこの寺の伽藍が整えられたと考えられている。

以降、室生寺は興福寺の僧侶を中心とする修業の場として発展したのだが、江戸時代に、5代将軍綱吉の母桂昌院(けいしょういん)の命により興福寺から分離独立し、当時女人禁制であった高野山とは異なり、女性にも開けた寺として「女人高野」と呼ばれるようになったのだそうだ。

このような室生寺の歴史を知ってから、室生寺のルーツとも言える「龍穴」を祀る、室生龍穴(むろうりゅうけつ)神社に興味を覚え、今回の旅行で是非訪れたいと思っていたので、今回の旅行では室生寺の奥の院をカットして旅程に入れていた。

室生龍穴神社正面鳥居

室生寺から室生川に沿って東に1kmほど進んだ場所に室生龍穴神社(0745-93-2177)がある。
この神社は室生寺よりも古く、この神社の上流に龍神が住むと伝わる「龍穴」があり、古代からこの場所が聖地とされてきたようだ。

そしてこの神社は請雨の神として国家的崇拝を受けてきた記録が残されている。

『日本後紀』をネットでテキストを探して「室生」で文字検索を試みると、嵯峨天皇の御代に室生で雨乞いをした記事がヒットする。

巻第二十六の弘仁8年(817)6月の記録
六月己未朔、庚申。遣律師伝統大法師修円於室生山祈雨。(6月2日 律師伝灯大法師位修円を室生山に派遣して、祈雨をした)」(訳文は講談社学術文庫『日本後紀 下』p.40)
この雨乞いの祈禱をした修円は、先ほど紹介した、室生寺の草創期に伽藍を整えた興福寺の僧のことである。

また巻二十七の弘仁9年(818)7月の記録。
丙申。遣使山城国貴布禰神社・大和国室生山上竜穴等処。祈雨也。(7月14日 使いを山城の国の貴布禰神社・大和国の室生山上の竜穴等に遣わして、祈雨を行なった。)」(訳文は講談社学術文庫『日本後紀 下』p.57)
「貴布禰神社」というのは京都の「貴船神社」の事だと思うが、どうやら室生の「龍穴」は、貴船神社とともに日本有数の雨乞いの聖地のような存在であったようだ。

室生龍穴神社

上の画像は寛文11年(1671)の建立と伝えられている本殿で、奈良県の文化財に指定されている。
また、この神社の狛犬もまた素晴らしい。

室生龍穴神社狛犬

このように由緒ある神社なのだが、社務所は無人だった。あまり寄付が集まっているようではなさそうだが、過疎化の進む山合いの地で、このような歴史ある文化財を後世に守り伝えることは大変な事だと思う。

「龍穴」へは、神社の境内から山に入る道があるだろうと思っていたのだが、境内からは聖地に繋がる道がないようだった。

境内を見渡すと「龍穴」への案内地図の看板があるが、わかりにくいので地元の人に聞くと、この神社から28号線をさらに東(室生寺と反対側)に400mほど進むと途中で左に折れる道があり、その山道をまっすぐ進むと「龍穴」があるという。その道は舗装されているとのことだったので車で行くことにした。

道は決して広くはないが、対向車はほとんどなく、待避所もいくつかあるので、運転は心配なかった。

「龍穴」に向かう途中で、天照大神が籠もったとされる「天の岩戸」と呼ばれる巨石があり、その巨石が見事に2つに割れている。

天の岩戸

そこから少し進むと「龍穴」の入口を示す鳥居がある。この辺りは道幅が広くなっていて、2-3台の車は路肩に駐車が可能だ。

室生龍穴

鳥居を潜り川の方向に進むと遥拝所があり、そこから「龍穴」を拝することになる。
上の画像が「龍穴」で、大きな岩にぽっかりと洞穴が開き、しめ縄が架けられている。
この辺りには土はほとんどなく、一帯が大きな岩のようで、岩の割れ目が龍の鱗のようにも見える。

招雨瀑

遥拝所の右手には、巨大な岩盤の上を滑るように水が流れ落ちていく「招雨瀑」(しょううばく)という小さな滝がある。

この滝の上もずっと岩山であり、いかにも巨大な龍が「龍穴」に向かって何度もここを通ったために、岩が平らになっているようにも見える。
何万年かかって自然が造りあげたのだろうがなかなか見事な眺めで、この地に神が宿っていると考えて、古代の人々がこの地を大切にしてきた気持ちが伝わってくる。この日は水量が少なかったが、雨上がりの後の水量の多い時にはかなり見ごたえがありそうだ。

室生寺を訪れる観光客は多くても、その近くに千年以上前から歴史に残される祈禱が行なわれた場所があり、それが室生寺のルーツであり、今も手つかずの自然が残されていることを記した旅行書のようなものがないので、この地を訪れる人はほとんどいないと言って良い。
室生寺に行く予定のある方は、古代の日本人が祈りをささげて来たこの場所に立ち寄ってみられてはいかがだろうか。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。奈良県に興味のある方は覗いてみてください。

奈良の白毫寺と消えた多宝塔の行方
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-127.html

国宝の新薬師寺本堂で12体の国宝仏像に囲まれて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-128.html

東大寺戒壇院と、天平美術の最高傑作である国宝「四天王立像」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-129.html

奈良西大寺から秋篠寺を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-130.html


長谷寺、宇太水分神社、片岡家住宅を訪ねたのち洞川温泉へ

室生寺のルーツである「龍穴」を訪ねた後、次の目的地である長谷寺(はせでら:0744-47-7001)に向かう。
室生の龍穴からは30分ぐらいで辿りつく。

長谷寺仁王門

参道の入り口あたりに車を駐車して、門前町の賑わいを感じながら歩いていくと、正面の石段の上に仁王門が見えてくる。現在の建物は明治27年(1894)に再建されたもので、扁額の「長谷寺」の題字は、後陽成天皇の御宸筆だという。

長谷寺は朱鳥(あかみどり)元年(686)に、天武天皇の病気平癒を願って道明(どうみょう)上人が初瀬山西の岡に「銅版法華説相図(国宝)」を安置したのが創建と伝えられ、のちに奈良時代の神亀4年(727)に徳道上人が東の岡に十一面観音をまつったのが現在の長谷寺の始まりであると伝えられている。

この寺は平安時代中期以降、観音霊場としての貴族の信仰を集めて「長谷詣(はせもうで) 」が盛んに行われたという。
Wikipediaによると万寿元年(1024)には藤原道長が参詣しているほか、『枕草子』『源氏物語』『更級日記』『蜻蛉日記』にも文中にこの寺が登場しているとのことだ。

長谷寺登廊

仁王門を潜ると長い登廊(のぼりろう:国重文)がある。屋根があるおかげで参拝者は雨の日も傘をささなくても本堂まで進むことが出来るのだが、この建物が建てられたのは「長谷詣」が盛んになった平安時代とのことである。

長谷寺境内図

寺のリーフレットには「…長暦三年(1039)に春日大社の社司(しゃし)中臣信清が子の病気平癒のお礼に造ったもので、百八間、三九九段、上中下の三廊に分かれている。下・中廊は明治27年(1894)再建…」と書かれている。

仁王門と登廊(中、下)の再建が同じ年であるのは、いずれも明治15年(1882)に火災で焼失したためだが、歴史的景観を失わずに再建されたことから、昭和61年(1986)に焼けなかった上登廊や再建された仁王門とともに昭和61年(1986)に国の重要文化財に指定された経緯にある。
途中に宗宝蔵(しゅうほうぞう)があり、この寺に伝わる文化財などを見てから国宝の本堂に向かう。

長谷寺本堂

本堂は小初瀬山中腹にあり、京都・清水寺のような舞台がある立派な建物だ。

本尊の十一面観音立像(国重文)は、西国三十三所観音霊場の第8番札所になっている観音様で、右手には数珠をかけて錫杖を持ち、左手には水瓶を持って台座に立っておられる。高さが12mを越え、誰でもこの仏像を観てその大きさに驚かれることと思う。

長谷寺本尊特別拝観

この本尊様を間近で観賞して御足(おみあし)に触れることのできる特別拝観が今年の春から6月末まで行なわれていて、滅多にない事なので内陣を拝観させていただいた。中の写真撮影が出来ないのでチラシの画像を紹介するが、実際に間近に観るとすごい迫力で、一見の価値はある。

長谷寺五重塔

上の画像は長谷寺の五重塔だが、この塔は昭和29年(1954)に、戦後わが国で初めて建てられたものだそうだ。寺のリーフレットには「昭和の名塔」と書かれているが、なかなか均整のとれた美しい塔である。

この頃から雨が降ってきたので、長谷寺の観光を早目に済ませて、参道近くの食堂で昼食をとり、小降りになってから次の目的地に向かった。

長谷寺から13km程度走ると、宇太水分(うだみくまり)神社(0745-84-2613)という古い神社がある。この本殿が国宝に指定されているのでずっと以前から見たいと思っていて今回旅程に組み込んでいた。

水源地は農耕に欠かすことのできない水を供給してくれるので、古くから各地で信仰の対象とされたのだろうが、奈良県には「水分(みくまり)神社」という名の神社が各地にある。

Wikipediaによると、大和の東西南北(都祁・宇陀・吉野・葛城)に水分神社が祀られており、宇太水分神社は大和の東に当たる地域の水の神様とある。
宇陀地域には他にも2つの水分神社があり、「宇陀市榛原下井足(はいばらしもいだに)の宇太水分神社を『下社』、同市菟田野上芳野(うたのかみほうの)の惣社水分神社を『上社』、…同市菟田野古市場の神社を『中社』とも称する」と記されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%AA%E6%B0%B4%E5%88%86%E7%A5%9E%E7%A4%BE

宇太水分神社

また宇太水分神社のホームページによると、第十代崇神天皇勅命により、大和朝廷が飛鳥に置かれた頃に、大和の東西南北に水分神社が祀られたとある。そして、国宝の本殿が建てられたのは元応2年(1320)というから鎌倉時代の終わりの頃である。
http://www1.odn.ne.jp/udanomikumari/history.htm

宇太水分神社本殿

上の画像が本殿だが、同じ大きさの社殿が並んでいて、この3棟がいずれも国宝に指定されている。
その右側には2棟の末社(春日神社本殿、宗像神社本殿)があり、いずれも室町時代末期の建立で国の重要文化財に指定されている。

以前は神社の周辺が地域の中心であったようだが、この辺りも過疎化・高齢化が進行しており、かつての賑わいは失われてしまっている。国宝や重要文化財に指定されている建物がある神社であるのに、参拝者や観光客が他に誰もいないのは寂しいかぎりである。

片岡家住宅外観

次に向かったのは国の重要文化財である片岡家住宅(宇陀市大宇陀区田原938 :0745-83-2000)。
近くに来るとその存在感に圧倒されるような、すごい住宅であった。

片岡家住宅2

長屋門を潜ると、広い庭に面した母屋が見える。この建物は寛文10年(1670)の建築である。

個人の住宅なので、訪問するには予約が要るので注意が必要だが、第20代当主の片岡彦左衛門氏の貴重なお話を拝聴することが出来たことは嬉しかった。

片岡家は江戸時代にこの地方9ヶ村の大庄屋を務めてきた家柄で、初代は南北朝時代にまで遡るのだという。

片岡家客間

母屋と客室部は土塀により仕切られていて、客室も案内頂いたのだが、昔はこの部屋に藩主が宿泊された記録もあるのだそうだ。

この片岡家には1万点以上の古文書が残されており、一番古いものは永正3年(1505)のものがあるというのは驚いた。
先祖が幕府の通達を各村に知らせるなどの記録や、藩主の接待にどのような対応をしたか、飢饉のときに先祖が地元の住民を助けたことなどの記録があるらしいのだが、当主自らが独学で読み解いて年代と内容別に分類されたという。

片岡家新聞記事

宇陀市も片岡家の古文書に着目していて、パウチされていた今年3月16日付けの奈良新聞の記事によると、今年にその調査結報告書が刊行される予定のようだ。

片岡家に別れを告げて、五代松(ごよまつ)鍾乳洞(0747-64-0188)に向かう。この近くから、名水百選に選ばれている「ごろごろ水」が湧き出ている。

五代松鍾乳洞モノレール

鍾乳洞の入口までは歩いて行くことも出来るが、空いていたので小型モノレールに乗った。定員が数名の小さなものだが、こういう乗り物にヘルメットを被って乗ることはそれなりに楽しいものである。季節によっては1時間待ちになったりするようだが、この日はすぐに乗ることが出来た。

案内のおばさんが鍾乳洞の入口の鍵を開けて中に入ると、狭いところや腰を屈めてところが何箇所かあり、ヘルメットがなければ危険な場所であることを何度も納得しながら前に進む。

五代松鍾乳洞

比較的小さな鍾乳洞だが観光客はそれほど多くないので、ほとんど独占状態で鍾乳洞を観察できる。結構見ごたえがあり楽しむことができた。

鍾乳洞観光を終えて宿泊先の洞川(どろかわ)温泉に向かう。
この温泉は、日本百名山の一つである大峯山・山上ヶ岳の登山口で、山上にある大峯山寺に参詣する行者さんや観光客をおもてなししてきた古い歴史を持つ。標高約820m余りの高地に位置しており、下界とは結構な温度差がある。

洞川温泉街

これが洞川温泉の中心部の旅館街だが、大きなホテルはなく、昔ながらの木造の旅館が立ち並び、レトロで落ち着いた雰囲気がある。

日本古来の民間薬である陀羅尼助(だらにすけ)は吉野や洞川で古くから製造される胃腸薬で、この通り沿いにいくつかのお店が出ている。
陀羅尼助の歴史を調べると、飛鳥時代に畿内で疫病が拡がり、役行者(えんのぎょうじゃ)が道場茅原寺(今の奈良県御所市茅原吉祥草寺)の門前に大釜を据えて薬草を煎じて呑ませたことにより、流行が収まったと伝えられているのだそうだ。また役行者は大峰山中で修業する山伏たちの為に、この山中にあるキハダの皮から、万病に効く薬の製法を弟子の後鬼(ごき)に伝授した。それが洞川の陀羅尼助の起源だという。私も試しに小さな箱を1つ買った。

花屋徳兵衛夕食

私が宿泊した花屋徳兵衛は、創業500年とかなり古く、洞川温泉では一番の老舗旅館なのだそうだ。大きな旅館ではないが、料理は落ち着いた部屋で美味しくいただたし、温泉もおもてなしも申し分なく、宿泊した部屋も木のぬくもりを感じてとても寛げた。

いつものようにハードな旅程だったが、何度も温泉に浸かり、おいしい料理と地酒を味わって早く寝る。疲れを癒すには、これが一番である。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。奈良県に興味のある方は覗いてみてください。

世界遺産の吉野山金峯山寺と特別公開中の秘仏・蔵王権現像
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-107.html

吉野山の世界遺産を訪ねて~~金峯山寺から吉水神社、水分神社、金峯神社
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-108.html

東大寺大仏のはなし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-120.html

五條市に天誅組と南朝の歴史を訪ねて~~五條・吉野の旅その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-11.html

天誅組の最後の地・東吉野から竹林院群芳園へ~~五條・吉野の旅その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-12.html

吉野の森林王と、闇の歴史である後南朝の史跡を訪ねて~~五條・吉野の旅その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-13.html



修験道の聖地・龍泉寺から天川弁財天神社、丹生川上神社下社を訪ねて

翌朝は雨が降っていたのだが、せっかく来たので朝食前に龍泉寺(りゅうせんじ:0747-64-0001)に出かける。

龍泉寺1

伝承によると役小角(えんのおづぬ)が大峯山で修業中に洞川に降りて泉を発見し、「龍の口」と名付けて小堂を建て、八大龍王尊を祀ったのがこの寺の起源とされている。

龍泉寺2

龍泉寺の境内には「龍の口」と呼ばれる泉から清水が流れ出ていて、大峯山に登る修験者達はここで水行して身を清めて、八台龍王尊に道中安全の祈願をして山に入るのだそうだ。

龍泉寺本堂

龍泉寺の本堂は昭和21年(1946)に洞川の大火災時に類焼してしまい、昭和35年(1960)に再建されたものだという。背後の山は龍泉寺の自然林で奈良県の天然記念物に指定されている。

この龍泉寺の境内は今でこそ誰でも入ることが出来るが、昭和35年7月10日までは大峯山内道場として女人禁制であったという。

修験道は神仏習合の信仰であり、日本の神と仏教の仏がともに祀られている。また修験道の修行の場は、日本古来の山岳信仰の対象であった山々で、白山や立山や御嶽山など多くは明治期に女人禁制が解かれているのだが、修験道の根本道場である大峯山寺山上蔵王堂のある大峯山山上ヶ岳は今も女人禁制で、蔵王堂に繋がる登山道には女人結界門があるのだそうだ。

龍泉寺の自然林の道

天候が悪くて境内から大峯山を望むことが出来なかったのは残念だったが、少し山道を歩きたかったので龍泉寺の境内から自然遊歩道に入った。天気が良ければこんな雰囲気の道を歩いてかりがね橋から大原山の展望台で景色を楽しむ予定だったが、かなり雨脚が強くなってきたので諦めた。

天川大弁財天社

宿に戻り朝食を済ませてから、天川(てんかわ)弁財天神社(0747-63-0558)に向かう。
この神社は白鳳時代に役小角が大峯開山の際に蔵王権現に先立って勧請され、最高峰である弥山(みせん)の鎮守として祀られたのが始まりとされ、また弘法大師が高野山を開く前にここを拠点てして大峯山で修業し天川弁財天を「琵琶山妙音院」と名付けて神仏習合の聖地としたという。
南北朝時代には社家18戸、僧坊3ヶ寺、供僧9ヶ院と伝えられており、多くの寺院があったようだが、今はない。

大峯天河社

国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に、寛政3年(1791)に刊行された『大和名所図会』が公開されていて、巻六に『大峯天河社』の絵が出ているが、これを見ると今の社宇とは随分異なる。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/360
さらに、名所図会の「琵琶山白飯寺」の本文には、「正殿拝殿・御厨所・十二の小祠、四個の怪石、三所の清泉あり。寺を妙音院とも号す。観音堂・地蔵堂・薬師堂・行者堂・護摩堂・二重宝塔・僧舎三宇あり。また護良親王寓居の所を御所坊という。即ち来迎院なり。…」と記されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/362

またWikipediaには「当社は江戸時代までは琵琶山白飯寺と号し、本尊を弁才天(宇賀神王)としていたが、明治の廃仏毀釈で白飯寺は廃寺となり、本尊の弁才天は市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)と改められた」と解説されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B2%B3%E5%A4%A7%E5%BC%81%E8%B2%A1%E5%A4%A9%E7%A4%BE
要するに、明治の廃仏毀釈で仏教施設が破壊されて、『天河神社』と改号されてしまったということのようだ。

Wikipediaでは淡々と記されているのだが、このような文化破壊が修験者や庶民の抵抗もなく行なわれたとは考えにくいところである。どのような抵抗があったかをネットで見つけることはできなかったが、明治政府が主祭神を市杵島姫命と勝手に変え、社名を天河神社としたところで、修験者や庶民の信仰が簡単に変わるものではなかった。
だから今も社名には「弁財天」の名前が残り、この神社は厳島、竹生島とならぶ「日本三大弁財天」のひとつとされ、さらに「琵琶山白飯寺」の本尊であった弁財天は、今もこの神社に残されているのである。

天川弁財天曼荼羅図

「弁財天」とは七福神の中の唯一の女性神であるが、楽器を演奏している美しい女性として描かれるのが普通である。ところが、ネットで「天河弁財天」の画像を調べると蛇の姿で描かれている『天川弁財天曼荼羅図』が、前日訪れた長谷寺の能満院に所蔵されているのに驚いた。
女人禁制の大峯山に入山する修験者には、女性は魔物と思って修行に励めということなのだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/nikogori12/20080713/p2

またこの神社には、室町幕府6代将軍足利義教から圧迫を受けた世阿弥とその嫡男・元雅(もとまさ)が、京都を追われて大和国に住んでいた時に、当社に所領成就を祈願して能面を奉納したという歴史があり、それ以来能面や能装束の寄進などが相次いで、江戸時代初期にはこの神社で能楽が盛んに行われたという。

天川大弁財天社能舞台と本殿

明治初期の廃仏毀釈で一時期衰えたようだが、その後に能楽の奉納が復活し、今も毎年7月17日の例大祭には、能舞台で観世座の奉納が行なわれているのだという。画像の左が本殿で右が能舞台である。

tenkawa39.jpg

そして、例大祭の行なわれる日には、本殿の中央にある弁財天像が御開帳されるそうだが、この像が、廃仏毀釈に詳しいminagaさんの『がらくた置場』で紹介されていて、普通の女性の顔をしている。また、60年に1度開帳される裏弁天と呼ばれる像もあるが、その像も同じサイトで紹介されているので両方のURLを紹介しておく。
御開帳仏 http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2007toba/tenkawa39.jpg
裏弁天像 http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2006to//tenkawa32.jpg

南朝黒木御所跡

この神社の駐車場の近くに「南朝黒木御所跡」と書かれた石碑があった。
南北朝時代の貞和4年(1348)に南朝皇居のあった吉野山が足利勢の大軍に攻められて焼き払われた時に、後村上天皇はじめ皇族がこの天川に逃れて来たのだそうだ。

天川村役場のHPにはこう解説されている。
「天川の郷でも川合地区の河合寺が黒木の御所として、また沢原地区の光遍寺、坪内地区の天河大辨財天社についても南朝に組しそれぞれ行宮とされました。なかでも天河大辨財天社の行宮では、宮中さながらの栄華を極めたといわれています。嘉喜門院集に『天授三年七月七日吉野行宮御楽あり、嘉喜門院琵琶を弾じ天皇和歌を詠ず』としるされています。
天川郷の人々も積極的に加担し、村内の地区ごとに傳御組(おとな組)を組織して忠勤を果たしました。天河郷には十三通の綸旨、令旨が下賜され現存しています。」
http://www.vill.tenkawa.nara.jp/sightseeing/tenkikawa/ten.html

黒木の御所としていた河合寺は戦いの果てに炎上してしまったのだが、天川郷の人々は果敢に戦ったと伝えられているという。そののち後村上天皇らは難を避けて西吉野の賀名生(あのう)を皇居とし、皇族の多くはこの天川に残ったと言われている。天川村近辺には南朝の史跡がいろいろあるようで、今度この近くに来た時にいろいろ巡って調べたいと思っている。

丹生川上神社下社正面

天川弁財天神社から次の目的地である丹生川上神社下社(0747-58-0823)に向かう。ここは、宿の主人から勧められたので立ち寄ることにした神社である。

「丹生川上」という地名は『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』などに数多く記録が残されている。
最も古い記録は神武天皇の東征時に関する記述である。
「天の香具山の社の中の土を取って、平瓦八十枚をつくり、同じくお神酒を入れる瓶をつくり、天神地祇をお祀りせよ。また身を清めて行う呪詛をせよ。このようにすれば、敵は自然に降伏するだろう」という天神のお告げがあり、その通りに平瓦などを制作したのち、天皇が「丹生の川上にのぼって、天神地祇を祀られた。」(講談社学術文庫『日本書紀 上』p.99)とある。「丹生川上」という地は神代から、祈りをささげるべき聖地であったのである。

また『続日本紀』巻第三十四(光仁天皇)のテキストを「丹生川上」で検索すると、たとえば、宝亀7年(776)6月に黒馬、宝亀8年5月には白馬、8月に白馬を奉納して祈禱をしていたことがわかる。雨乞いには黒馬、晴れを乞うときには白馬を丹生川上神社に奉納する習わしであったようだ。
http://j-texts.com/jodai/shoku34.html

これだけ由緒のある「丹生川上神社」であるのだが、応仁の乱以降は朝廷も資金的な余裕がなくなり、祈禱が行なわれなくなって神社は衰微してしまうのだ。

吉野地方には現在3つの「丹生川上神社」があって、それぞれ上社、中社、下社と呼ばれているが、『日本書紀』『続日本紀』などの記録に残されている場所がどれであるのかについて、江戸時代からずっと議論されていたようだ。

丹生川上神社地図

Wikipediaによると、江戸時代前期にはこの丹生川上神社下社に比定する説が有力となり、
「宝永7年(1710年)に中御門天皇の勅使が差遣されたのを始め、時には祈雨の奉幣がなされ、また嘉永6年(1853年)に黒船が来航すると、翌7年に孝明天皇が当神社に宣旨を下して国家安泰を祈願し、文久2年(1862年)には攘夷を祈願するなど、二十二社の1社として遇された。文久3年(1863年)、天誅組の蜂起が起きると、橋本若狭や中井越前という当神社社家の者がこれに参画したため、討伐軍の兵火により本殿が罹災するとともに、拝殿や社務所などが焼失した」と記されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%94%9F%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E4%B8%8B%E7%A4%BE

しかしながら、古代の記録に出ている「丹生川上神社」が3社のうちどこなのかという論争が、明治に入ってから再燃し、「寛平7年(895年)の太政官符(『類聚三代格』所引)『応禁制大和国丹生川上雨師神社界地事』に記す丹生川上神社の四至境域に合致しない」との指摘や、「東吉野を流れる高見川が古代の丹生川である」との説が出て、今も結論が出ていないようである。いずれの神社も神代に繋がる神社であることにしたいのだろうから、むしろ、結論を出さないことを望んでいるのではないだろうか。

丹生川上神社下社の黒馬と白馬

一の鳥居をくぐると、境内で白馬と黒馬が飼われていた。

丹生川上神社下社2の鳥居と拝殿

まっすぐ進んで石段を登ると二の鳥居があってそして立派な拝殿がある。

拝殿で参拝すると本殿はかなり離れた高い場所にあり、本殿と拝殿とはまっすぐ続く長い階(きざはし)で繋がっている。
この階の入口には障壁が設けられており、一般の参拝者は昇段することが許されていないようだ。

丹生川上神社下社

拝殿の裏にまわってこの階を撮影したが、長谷寺の登廊のようで、なかなか見ごたえがあった。階の周りには太いスギが林立し、また拝殿の左には樹齢500年と推定されている堂々たるケヤキの大樹があり、この神社のご神木とされている。

丹生川上神社下社ご神木

このご神木の前には立札にこう記されていた。
「大昔より涸れたことのないご神木の恩恵を受け、四方に伸びた枝に茂る若葉は、神の恵みそのままに朝日に映えて神々しく輝き、秋の紅葉はさがら錦絵のようで、見る人のこころを捕えて離さない。
今、心静かに大木の幹に手を触れて生気を頂きながら、何か一つだけ願いをかけてみよう、思わぬご利益に預かることができるかも。」

古代から水の神として名高いこの神社の境内を覆う、見事な枝振りのケヤキの大樹の幹に手を触れながら、私も少しばかり元気をもらったような気がした。
(つづく)
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「奈良県」が地図から消えた明治の頃のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-90.html

聖徳太子の時代にわが国は統一国家であったのか~~大和朝廷の統一1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-7.htm

唐の時代の正史では倭国と日本国とは別の国である~~大和朝廷の統一2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-8.html

『日本書紀』は、わが国が統一国家でなかった時代を記述している~~大和朝廷の統一3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-9.html

仏教伝来についての教科書の記述が書きかえられるのはいつか~~大和朝廷4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-4.html

日本百名城の一つである高取城址から壺阪寺を訪ねて

丹生川上神社下社を参拝した後、道の駅で昼食を済ませて、「日本百名城」の一つであり、「日本三大山城」の一つである高取城の城址に向かう。

高取城は標高583メートルの高取山山上に築かれた山城で、Wikipediaの解説によると
「曲輪の連なった連郭式の山城で、城内の面積は約10,000平方メートル、周囲は約3キロメートル、城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルに及ぶ。日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられる」とある。

高取城図

山城では、今は竹田城がすごい人気で多くの観光客を集めているのだが、竹田城は山城でも「日本三大山城」には入っていないのである。
竹田城の面積は18,473㎡というから高取城の方がはるかに大規模であるのだが、にもかかわらず観光客が少ないのは、高取町の宣伝力の弱さもその理由の一つだろうが、最大の理由はそのアクセスにある。
もし壺阪寺の駐車場から歩いていくとしたら片道1時間は覚悟が必要だ。
もし近鉄電車を利用して壺阪山駅から歩くとすると、片道2時間程度もかかってしまうし、近くまで運んでくれるようなバスも存在しない。
大阪方面から電車で行く人には良く出来たアクセスマップが次のURLにあるが、1日かけて近隣の社寺とともに周ることになる。
http://sightseeing.takatori.info/sightseeingspot/siroato_access.html

せっかく車で行くのだから高取城址往復の時間をできるだけ短くしたいと思って、ネットで高取城址近辺の駐車場情報を探していたが、『奈良に住んでみました』というブログにかなり詳しく出ているのを見つけた時は嬉しかった。このブログは他のページも写真が沢山あって非常にわかりやすい。
http://small-life.com/archives/14/06/1420.php

結論から言うと、駐車場は道路終点にある「七ツ井戸」の駐車場に4台程度と、八幡神社付近の路肩に3台分程度の駐車スペースしかないのだが、ハイキング客が多いことを勝手に期待して高取城の近くまで車で行くことにした。
午前中の雨が幸いしたのか、お昼時にここに着いたことが良かったのか、八幡神社付近の路肩に駐車できたのはラッキーだった。ここからなら、本丸まで15分程度で登ることができる。

高取城の図

ここで簡単に高取城の歴史を振り返っておく。

この城は南北朝時代に南朝方であった越智邦澄が元弘2年(正慶元年、1332年)に築城したのが始まりと伝えられるが、織田信長の時代に大和国内の城は郡山城のみと定められ、天正8年(1580)に廃城となっている。
信長より大和一国を与えられて郡山城主となっていた筒井順慶が、本能寺の変の後天正12年(1584)にこの城を本格的城塞に改めたのだが、翌天正13年(1585)に伊賀国上野へ転封となり、大和国は豊臣秀長(豊臣秀吉の異父弟)の支配下となり、その重臣・本多利久がこの城の城主となり大改修を敢行したという。
関ヶ原の戦いの後高取藩が成立し、本多利久の子・俊政が初代藩主となるも、その長男・本多政武に嗣子がなかったために本多氏は改易となり、寛永17年(1640)に旗本の植村家政が高取城主となって、以降明治4年(1871)の廃藩置県まで植村氏が14代234年にわたってこの城の城主であったのだが、明治6年(1873)に廃城が決定し、その後入札により建造物の一部が近隣の寺院などに売却されている。
明治20年(1887)頃までは天守をはじめとした主要な建造物の多くが城内に残されていたようだが、明治24年(1891)頃に建物のすべてが取り壊されたという。今では立派な石垣だけが残されている。

高取城二の丸石垣

車から降りて、よく整備された坂道をしばらく登っていくと「壺坂口門」があり、もう少し行くと二ノ丸の高い石垣(上画像)が続いて、右に折れると高取城大手門址に到る。下の画像は「大手門址」の石垣である。

高取城大手門址

明治時代に取り壊される直前に、大手門から撮影された高取城の貴重な写真が1枚残されている。
城の写真を撮るとすれば天守閣をアングルに入れようとするのが普通だと思うのだが、当時はすでに取り壊されていたか、相当傷んでいたのではないだろうか。この写真で言えば、本丸や天守閣はもう少し左に存在していたはずである。

高取城古写真

奈良産業大学が高取城をコンピューターグラフィックで再現していて、この写真のアングルからの高取城の雄姿を次のURLで見ることが出来るのだが、こんな立派な城がこんな山奥に資材を運んで建立されていたというのは驚きである。
http://sightseeing.takatori.info/sightseeingspot/shiro_cg.project/old_photo.html

高取城址の石碑

大手門を抜けると二の丸跡で、更に進むと本丸跡がある。本丸の高い石垣の前に「高取城址」と彫られた石碑があるが、石垣の大きさには不釣り合いなサイズだ。

高取城天守台石垣

天守閣はこの上に建てられていたそうだが、この石垣は石を平らにしてきっちりと積み重ねられており、数百年の年月を経たにもかかわらず今もなお堅牢な造りである。

高取城本丸跡付近

本丸に到着すると、思った以上の広さで、南には吉野方面の山々を望むことができる。

壺坂口から城郭に入ったので城の中心部を観ただけだったが、もう少し時間があれば、国見櫓址や猿石なども観ておきたかったところである。

車に戻って山を下り壺阪寺(0744-52-2016)に向かう。10分程度で到着する。

この寺は高取山の中腹にあり、西国三十三ヶ所の第6番札所で正式名称は「壺阪山平等王院南法華寺」というのだそうだ。

壺阪寺全景

寺のリーフレットによると「大宝3年(703)に元興寺の弁基上人がこの山で修業していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した像を刻んで祀ったのが始まり」と記されているが、この大宝3年という年は持統天皇が火葬された年で、そのことと壺阪寺の創建とは関係があるという説がある。

壺阪寺のホームページに、『月刊ならら2003年6月号』の記事が紹介されているが、この記事がなかなか面白い。

壺阪寺聖なるライン

関西外国語大学戸田秀典氏が指摘した「壷阪寺は藤原京の中心道路である朱雀大路を拡張した線上の高取山に位置する。」という事実と、岸俊男氏が指摘した「藤原京の中軸線上に7~8世紀の天武・持統陵、中尾山古墳(文武陵)・高松塚古墳・キトラ古墳など、天武朝の皇族に関係する古墳が多く点在している」という事実をどう考えるかについての論考だが、この記事はこう結論付けている。

「…八角円堂はすべて、誰かの霊をなぐさめるために建てられている。
壷阪寺の八角円堂は、持統天皇の霊を弔うため、弁基が建立したという以外には考えられない。壷阪寺に伝わる『古老伝』に元正天皇が壷阪寺を南法華寺と称して勅願寺にし、長屋王が永代供養することになったという記事がある。元正天皇は持統天皇の孫であり、長屋王も義理の孫にあたる。壷阪寺は祖母の供養のための寺であったのである。」
壺阪寺の発掘調査で、本堂の基檀は創建当初から八角形であったことが判明しており、白鳳時代の瓦もそこから発掘されているという。
http://www.tsubosaka1300.or.jp/line.html

壺阪寺三重塔

壺阪寺の仁王門を通って石段を登ると三重塔(国重文)が建ち、その奥に礼堂(国重文)と本堂、阿弥陀堂、弁天堂、権現堂、鐘楼などの堂宇が建っている。

随分建物が多いので昔の壺阪寺はどのようであったのかを知りたくなって、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で『大和名所図会』の記事を探してみる。

壺阪寺大和名所図会

『名所図会』は江戸時代末期に、日本各地の名所・旧跡・景勝地の由来などを記し、風景画を多数添えた刊行物だが、『大和名所図会』は寛政3年(1791)に出版されている。大正8年(1919)以降4年がかりで、大日本名所図会刊行会が諸国の『名所図会』を集めて『大日本名所図会』としてシリーズ出版して、その第1輯 第3編が『大和名所図会』になっている。
その巻五に壺阪寺の絵があるが、今の堂宇と比べると随分建物が少ないことがわかる。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/278

堂宇や仏像等が増えることは寺が豊かになったと理解して良いのだろうが、この寺が大きく変わった要因のひとつは明治時代のはじめに人形浄瑠璃『壺阪霊験記』が大流行して、それ以降この寺の参拝者大幅に増加したことにある。
『壺阪霊験記』は、盲目の夫『沢市』の開眼を祈る妻『里』の純愛が、沢市の目を開けさせるという夫婦愛の物語なのだが、壺阪寺のHPにそのあらすじが出ている。
http://www.tsubosaka1300.or.jp/report.html

壺阪寺壺阪大仏

この寺を大きく変えたもう一つの要因は、先代住職が昭和40年インドにてハンセン病患者救済活動に参加されて以降、インド国内各地において奨学金事業、学校運営助成事業などの国際交流を展開され、そのご縁から南インドカルカラの三億年前の古石を切り出してインドで制作された石造物が、この寺に置かれるようになったことである。
その志は素晴らしく、また個々の作品はそれなりによく出来ているのだが、これらの石造物が白すぎて、古い木造の日本の伝統的な建物のある歴史的景観を損ねてはいないだろうか。

観音壺阪寺

その点で、道路の反対側にある建立された高さ28mの大観音石像と全長8mの大涅槃石像は、周囲に古いものがないからか、特に違和感を覚えない。三重塔の裏のレリーフなども、こちらのエリアに設置したほうが良いと私は考える。

壺阪寺から奈良盆地を望む

大観音像付近からは、生駒山や奈良盆地、大和三山などが良く見えてなかなかの眺めである。
先程、「藤原京の中軸線上に7~8世紀の天武・持統陵、中尾山古墳(文武陵)・高松塚古墳・キトラ古墳など、天武朝の皇族に関係する古墳が多く点在している」ということを述べたが、古代史学者の岸俊男氏はこのラインを『藤原京の聖なるライン』と名付けたという。そしてこのラインが上の画像の右寄りに存在することになる。

古代の人々は皇居に向かって遥拝をし、皇室の人々は先祖に対して祈りを捧げた。
その方角が一直線であることにより、祈りのパワーが高まるとでも考えたのであろうか。
以前このブログで若狭彦神社-平安京-平城京-飛鳥京-熊野本宮が直線上にあることを書いたが、有名な社寺や都が直線上にある事は少なくないのである。
(つづく)
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このブログでこんな城址の記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

日本百名城の一つである岩村城を訪ねた後、国宝・永保寺に立ち寄る
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-194.html

「天空の城」竹田城を訪ねて~~香住カニ旅行3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-229.html

白骨温泉から奈良井宿、阿寺渓谷を散策のあと苗木城址を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-165.html

津山城址と千光寺の桜を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-247.html


若狭彦神社-平安京-平城京-飛鳥京-熊野本宮が直線上にある事を次の記事で書いています

東大寺二月堂に向け毎年「お水送り」神事を行う若狭神宮寺を訪ねて~~若狭カニ旅行1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-217.html

高松塚から奈良県最大の廃仏毀釈のあった内山永久寺の跡を訪ねて

前回の記事で『藤原京の聖なるライン』のことを書いた。すなわち壷阪寺は藤原京の中心道路である朱雀大路の延長線上にあり、そのライン上に天武・持統天皇陵や高松塚古墳・キトラ古墳など天武朝の皇族に関係する古墳が点在する。

壺阪寺の後は、ほぼ聖なるライン上にある高松塚古墳を訪れるため、国立飛鳥歴史公園館(0744-54-2441)に向かう。
飛鳥歴史公園は5地区からなり、その中心が高松塚周辺地区で、公園の入園料も駐車場料金も無料であることは有難い。

飛鳥歴史公園

駐車場から高松塚古墳までは歩いて5~6分程度だが、思った以上に緑が多くて、軽いハイキング気分で歩けるのは楽しいものである。

高松塚は小さな古墳なのだが、昭和47年(1972)の発掘調査で彩色壁画が発見されたことで一躍有名になった。石槨内部の天井と側面には漆喰が塗布され、その上に彩色された高松塚古墳壁画(国宝)が描かれているのだが、もちろん本物を見ることは叶わない。

高松塚壁画館

古墳の西側にある『高松塚壁画館』に入る。そこに国宝高松塚壁画の模写、棺を納めていた石槨の原寸模型、副葬品のレプリカなどが展示され、高松塚古墳の全貌がわかりやすく再現されている。

Takamat1.jpg

今まではテレビや書物などで何度見たかわからない壁画なのだが、レプリカとは言え実物大の絵はなかなか迫力がある。

高松塚古墳

そのすぐ近くに特別史跡『高松塚古墳』がある。
思いのほか小さな古墳で、鎌倉時代頃に石室の南壁に盗掘された孔が開けられていたのだそうだが、孔があったにもかかわらず、よくぞ壁画の彩色が、1300年以上の時を超えて鮮やかに残されていたものだと感心する。

ところでこの高松塚古墳の被葬者が誰であるのかについては諸説があるという。
Wikipediaによると、古墳が造られた時期については「2005年の発掘調査により、藤原京期694年~710年の間だと確定された」のだそうだが、被葬者については、忍壁皇子、高市皇子、弓削皇子ら、天武天皇の皇子を被葬者とする説や、臣下の石上麻呂だとする説や朝鮮半島から来た王族の墓とする説などいろいろある。
しかし、この古墳が、ほぼ『藤原京の聖なるライン』の上にあるので、天武天皇の皇子の可能性を考えたくなってしまうところである。

石上神宮

『藤原京の聖なるライン』を離れて、天理市にある石上(いそのかみ)神宮(0743-62-0900)に向かう。
この神社は桜井市の大神(おおみわ)神社と並ぶ日本最古の神社とされているのだが、その理由は『日本書紀』の第十代崇神天皇の記述の中に大神神社と比定される神社があり、第十一代垂仁天皇の記述の中には『石上神宮』が実名で出てくるからなのであろう。

『日本書紀 巻第六』垂仁天皇39年10月の条にはこう記されている。
五十瓊敷命(いにしきのみこと)*は、茅渟(ちぬ:和泉の海)の菟砥(うと)の川上宮(かわかみのみや)においでになり、剣1千口を造らせられた。よってその剣を…石上神宮に納めた。この後に、五十瓊敷命に仰せられて、石上神宮の神宝を掌らせられた」(講談社学術文庫『日本書紀(上)』P.148)
*五十瓊敷命:景行天皇の皇子で、第12代景行天皇の異母兄

また石上神社のホームページにはその歴史についてこう記されている。
当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。 
総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました
。」
http://www.isonokami.jp/about/index.html

この神社が物部氏の総氏神となった経緯については、『日本書紀』にしっかり記されている。
垂仁天皇87年2月5日条にはこんな記述がある。
「五十瓊敷命が妹の大中姫命(おおなかつひめ)に語って言われるのに、『自分は年が寄ったから、神宝を掌ることができない。今後はお前がやりなさい』と言われた。大中姫は辞退していわれるのに『私はか弱い女です。どうしてよく神宝を高い宝庫に登れましょうか』と。五十瓊敷命は『神庫が高いと言っても、私が梯子を造るから、庫に登るのが難しいことはない』と。…そして大中姫命は、物部十千根大連(もののべとおちねのおおむらじ)に授けて治めさせられた。物部連らが今に至るまで、石上の神宝を治めているのは、これがそのもとである。」(講談社学術文庫『日本書紀(上)』P.148)

要するに、五十瓊敷命が石上神社の神宝を掌る役割を妹の大中姫命に引継ごうとしたのだが、重たい神宝を運ぶのは力のいる仕事なので大中姫命は物部氏に譲ってしまい、それ以来この神社は物部家の総氏神となったというのである。

石上神宮楼門

これだけ古い伝承を残す神社であるので、価値あるものが数多く残されていることは注目して良い。
運悪く土塀が修理中であったが、国重文の楼門は文保2年(1318)の建立である。

石上神宮拝殿

中に入ると拝殿(国宝)がある。この建物は白河天皇が永保元年(1081)に皇居の神嘉殿(しんかでん)を移したとされている。面白いことに、石上神宮には大正時代までは本殿がなく拝殿後方の禁足地を神聖な地として、拝殿が本殿と同等の扱いを受けていたそうだ。
その禁足地に本殿を建てるべく明治7年(1874)以降に発掘すると、4世紀ごろの勾玉や武具類が大量に出土して、そのすべてが重要文化財に指定されているという。

またこの神宮の神庫に伝わる「七支刀(しちしとう:国宝)」は『日本書紀』の神功皇后摂政52年に百済から献上されたとみえる「七枝刀(ななつさやのたち)」にあたると考えられており、製作年は西暦369年と考えられている。

出雲建雄神社拝殿

石上神宮のホームページには一言も書かれていないのだが、実はこの神社の摂社に国宝の建物が存在する。
修理中で良い写真を撮ることが出来なかったのは残念だったが、上の画像が国宝の出雲建雄(いずもたけお)神社の拝殿(文永年代[1264―75]の頃の建立)である。実はこの建物は、ここから800mほど南に存在した内山永久寺の鎮守住吉社の建物を明治時代に移築したものなのである。

江戸時代寛政3年(1791)に出版された『大和名所図会』には、内山永久寺の僧侶が、石上神社のお祭りに関与していた記述がある。
「祭礼にはかの浣布*にとどまりし剣とて、袋におさめて鳥居の外まで出し奉る。また笈渡しということあり。神前に護摩を修し、寶蔵の笈**三負い出して、僧の肩にかけて行いあり。この時内山永久寺・横尾山龍福寺、産沙数村の僧侶ここにあつまりて勤めけるとぞ。」
*浣布(かんぷ):対火性の布  **笈(おい):修験者などが仏具・衣服などを収めて背に負う箱
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/179

神仏習合時代の石上神宮の祭りの形が垣間見える文章だが、調べると内山永久寺は、鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第二世頼光によって12世紀のはじめに創建され、後に石上神宮の神宮寺として栄え、「太平記」には後醍醐天皇が一時ここに身を隠したと記され、江戸時代には「西の日光」とも呼ばれた大寺院であった。
ところがこの寺は、明治の廃仏毀釈で完全に破壊されてしまったのである


内山永久寺地図

今回の奈良旅行で、最後に内山永久寺の跡地を訪れる計画を立てていた。
カーナビでは行けない場所なのだが、石上神宮から山の辺の道を南に歩けば辿りつけるはずである。
石上神宮の境内にわかりやすい地図が掲示されているが、山の辺の道を歩いて散策するには次のURLの地図が役に立つと思う。
http://kanko-tenri.jp/hiking_course/yamanobe_minami.html

山の辺の道

山の辺の道はしばらく石上神社の境内の森の中を歩く。この辺りは緑に囲まれて非常に気持が良い。

内山永久寺池

そこから細い道を道なりに15分ほど歩いていると大きな池につきあたる。この池が内山永久寺の境内にあった大亀池である。この池に半島の様に突き出した場所があり、そこに「内山永久寺記念碑」が建てられている。
内山永久寺跡

下の画像は江戸時代の享和年中から文化年中(1801-1818)に制作された『和州内山永久寺図』である。中央の池が大亀池で境内には多数の堂宇があったのがわかるのだが、明治初期にすべてが破壊されて今は果樹園になってしまっている。

和州内山永久寺図

先程紹介した『大和名所図会』にはこの寺の挿絵が2枚もあるのだが、同じ寺社についての記事で挿絵が2枚もある事例は珍しい。下の絵はその1枚目のものである。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/181
内山永久寺 大和名所図会

またこの書物には、この寺についてこう記述されている。
「宗旨は真言にして、本堂は阿弥陀仏を本尊とす。奥の院の不動明王は、日本三体のその一なり。観音堂・千体仏堂・二層塔・大師堂、真言堂には大日如来を安ず。額は鳥羽院の宸筆(しんぴつ)なり。鎮守の社は清瀧権現・岩上明神・長尾天神を勧請す。また元弘年中笠置城没落の時、後醍醐天皇しのびて入御したまう遺跡、本堂の乾(いぬい)*にあり。また大塔宮(だいとうのみや)**もこの内山に隠れ給う。そのほか諸堂魏々として、子院四十七坊ありとなん。宗派は醍醐金剛院の法流にして、当山派の法頭なり。」
*乾(いぬい):北西の方角   **大塔宮:後醍醐天皇の皇子の護良(もりなが)親王
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/182

少し補足すると「当山派」というのは、真言宗系の修験道の一派である。Wikipediaによると、「平安時代から江戸時代にかけて存在した真言宗系の修験道の一派。金峯山を拠点とし、三宝院(醍醐寺)を本寺とした」とあり、「平安時代、9世紀に聖宝が金峯山を山岳修行の拠点として以降、金峯山及び大峯山での山岳修行は真言宗の修験者によって行われるようになった。鎌倉時代に入ると、畿内周辺にいた、金剛峯寺や興福寺・法隆寺などの真言宗系の修験者が大峯山中の小笹(おざさ、現在の奈良県天川村洞川(どろがわ)地区)を拠点に結衆し、『当山方大峯正大先達衆(とうざんがたおおみねしょうだいせんだつしゅう)』と称し、毎年日本各地から集まる修験者たちの先達を務め、様々な行事を行った。」と解説されているのだが、今回の旅行で宿泊した洞川温泉が内山永久寺と繋がっていたことは旅行を終えてから知って驚いてしまった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%93%E5%B1%B1%E6%B4%BE

S.Minagaさんのホームページ『がらくた置場』の「大和内山永久寺多宝塔・西谷薬師院三重塔」のページに、この寺に関する多くの史料が紹介されており、その文章の中に、昨年夏に行われた、天理大学の吉井敏幸教授の講演内容が紹介されている。
永久寺東の山中に奥之院、行場が存在した。中世、当山派修験は興福寺金堂衆を中心とする興福寺末寺で構成する寺院の山伏で組織される。中世後期には内山修験(上乗院)は当山派修験の中で重きをなす。」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_eikyuji.htm

内山永久寺は前々回の記事で紹介した洞川温泉の龍泉寺と同様に修験道の聖地であったのだが、修験道は神仏習合の信仰であったが故に、この寺が激しく破壊されてしまうことになったのだと思う。

内山永久寺はただ規模が大きかっただけではなく、数多くの価値ある文化財があったことを記さねばならない。
その多くは破壊されてしまったのだが、国内に残されたものの大半が、国宝や国重文に指定されている。また海外に流出した文化財もいくつかあり、ボストン美術館所蔵となっている鎌倉時代の仏画『四天王像』は、国内にあれば間違いなく国宝指定だと言われている。

その点については以前このブログで「奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか」という題名で記事に書いたので、よかったら覗いてみて頂きたい。
東京美術学校(現東京芸術大学)の第五代校長を勤めた正木直彦の著書で昭和12年に出版された『十三松堂閑話録』の一部を紹介したが、これを読めば内山永久寺の優品がどういう経緯でわが国に残されたかを理解していただけると思う。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-176.html

内山永久寺の芭蕉句碑

内山永久寺の境内の中央にあった大亀池のほとりに芭蕉の句碑があったのでカメラに収めておいた。
松尾芭蕉(1644~1694)が伊賀上野に住んでいた頃に、たまたま春にこの地を訪れて、桜が満開であったことを詠んだ作品で、寛文10年(1670)に刊行された『大和順礼』に収録されているという。

うち山や とざましらずの 花ざかり

この場所を訪れて見事に咲き誇る桜を観賞した若き日の芭蕉が、その200年後に、この歴史ある大寺院が日本人の手によって徹底的に破壊されることになるとは、思いもよらなかったことであろう。

明治以降のわが国の歴史叙述では、薩長にとって都合の悪い歴史はほとんどが封印されてしまっており、こういう歴史に触れる機会がほとんどない現状ではあるが、明治維新から150年近く経って、そろそろ明治維新の功罪について公平な視点で議論されても良いのでないだろうか。この時期にわが国で大規模な文化破壊があった事実は、もっと多くの人に知っていただきたいものである。

梅原猛氏は「明治の廃仏毀釈が無ければ現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と述べておられるそうだが、現在わが国に残されている文化財の一つひとつが、わが国の歴史の中で何度も訪れた様々な危機を乗り越えて、我々の先祖によって代々護られてきた貴重なものであることを知ることが、文化財を大切にすることに繋がるのだと思う。
そんな事を考えながら2日間の奈良の旅行を終えるとにした。

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【ご参考】
このブログで、奈良の廃仏毀釈についてこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

悲しき阿修羅像
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-76.html

寺院が神社に変身した談山神社
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-78.html

文化財を守った法隆寺管主の英断
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-80.html

明治期の危機を乗り越えた東大寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-84.html

一度神社になった国宝吉野蔵王堂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-85.html

奈良の白毫寺と消えた多宝塔の行方
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-127.html

奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-176.html

廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

又兵衛桜を楽しんだのち宇陀松山の街並みを歩く

毎年4月の上旬に桜を楽しみながら歴史を散策する旅行を計画するのだが、今年は奈良の宇陀市から十津川村を巡ることにした。

最初に訪れたのは宇陀市榛原区赤埴の仏隆寺(0745-82-2714)だが、この寺は室生寺の南門と言われていて室生寺とは本寺と末寺の関係にある。
この寺の歴史は古く、嘉祥3年(850)に空海の高弟・堅恵(けんね)により創建されたと伝えられているが、これより先に興福寺別当の修円僧都がこの地に開いた説もあるという。

仏隆寺 石室

建物は近年建てられたものなのだが、境内に堅恵の廟と伝えられる石室があり、これが国の重要文化財に指定されている。

この寺の境内で空海が唐から持ち帰った最古の茶を栽培したと言われており、境内に『大和茶発祥伝承地』と刻まれた石碑がある。

仏隆寺桜

この寺の参道の横にある千年桜が特に有名なのだが、この桜が見頃を迎えるのは毎年4月の中頃のようである。暖かい日が続いたので3分咲き程度を期待したのだが、さすがに4月2日では早すぎた。上の画像の左下に移っている太い桜の樹が奈良県で最古・最大と言われる『千年桜』で奈良県の天然記念物に指定されている樹なのだが、この桜が満開となるのは今年も4月10日前後なのだろう。但し、駐車場が狭いので早い時間に行かれることをお勧めしたい。

満開の時期の画像は次のURLなどを参考にして頂きたい。
http://www.tree-flower.jp/29/butsuryuji/sennenzakura.htm

次に訪れたのは『又兵衛桜』(宇陀市大宇陀拾生714-1)。仏隆寺からは14km程度走れば到着する。

又兵衛桜1

この桜は、幹回り3m、高さ13mで大きく枝を拡げた美しい桜で、『本郷の瀧桜』とも呼ばれている。樹齢300年とされるこの1本の桜が昨年は8万人もの観光客を集めたという。

後藤又兵衛

『又兵衛桜』という名前は、この場所が、戦国時代から江戸時代にかけて黒田氏、豊臣氏に仕え、数多くの軍功を挙げた武将である後藤又兵衛の屋敷の跡だと言われていることに由来するのだが、通説ではこの武将は大坂夏の陣で討死したことになっている。

ところが、又兵衛は大坂の役を生き延びたという説もいくつかあり、この地に落ち延びたという説が駐車場の脇にあった看板に記されていた。

「当区の宇道辺寺にある薬師寺の境内に、大阪冬の陣、大阪夏の陣で活躍した豪傑、後藤又兵衛の墓がある。
 周囲に玉垣がめぐらされ、石碑には『法泉院量嶽安壽居士』と彫られている。
 1615年(元和元年)5月8日、大坂夏の陣で豊臣方は敗退したが、又兵衛は再挙兵の希望を捨て難く、城中より逃れ落ちた。
 紀州を廻って知人を頼り大和宇陀の当地へ来て、本郷の鉱泉で傷を癒し、豊臣家の再興を待ったが、世は徳川の天下となったので、又兵衛は僧になり『後藤』の姓を一時『水貝』と改めて生活していたと伝えられている。
 当地には、後藤の姓を名乗る家が数軒あり、この又兵衛ゆかりの枝垂れ桜が残っている場所も、後藤家の屋敷跡である
。」

なんとかこの場所を後藤又兵衛と結び付けようとしているような微妙な言い回しだが、「当地には後藤という姓を名乗る家が数軒」あり、この場所が「後藤家」の屋敷跡の一つであるとは書いているものの、この場所にあった「後藤家」が後藤又兵衛が僧になって生活していた場所だとは書かれていないことに違和感がある。

又兵衛桜4

普通に考えれば、このような立派な石垣のある大きな屋敷に、自分の本名を隠して住まねばならない立場の人物が住むことは考えにくいし、大坂から近い宇陀の地が、落ち延びて隠棲する場所として適しているとは思えない。
また、この木の樹齢が300年ということは、又兵衛が生存していた時には存在しなかった桜であることを意味している。この素晴らしい桜を後藤又兵衛ゆかりの桜とする伝説には、かなり無理がありそうである。

Wikipediaで調べると、大分県中津市耶馬渓に、市の史跡として「後藤又兵衛の墓」があるという。この地では大坂夏の陣で戦死した人物は影武者で、本物の又兵衛は大坂城落城の前に豊臣秀頼を護衛し、真田幸村と共に瀬戸内海から豊後国日出に上陸して薩摩国の島津氏を頼りに落ち延びたと伝えられているそうだが、外にも大阪府柏原市の玉手山公園、愛媛県伊予市の長泉寺、鳥取市の景福寺など何箇所かで又兵衛の墓があるようだ。
どの墓が本物であるかは今となってはさっぱりわからないが、この桜を眺めているとそんなことはどうでもよいような気になってくる。とにかくこの桜は美しいのだ。

又兵衛桜2

駐車場あたりから眺めるのも良いが、近くから見るのも良い。枝ぶりが特に美しく、何本もの放物線を描く枝垂れは『本郷の瀧桜』と呼ばれるに相応しい。満開を迎えたら、もっと存在感を増すことだと思う。

宇陀松山地図

又兵衛桜を楽しんだ後、道の駅宇陀路大宇陀(宇陀市大宇陀拾生714-1 0745-83-0051)に車をとめて、重要伝統的建造物保存地区に指定されている宇陀松山の街並みを歩く。
地図は次のURLで簡単に手に入る。
http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/masumasu/ebooks/udamatsuyama_map/#page=1

大宇陀は飛鳥時代から「阿騎野(あきの)」と呼ばれ宮廷の狩場だったそうだが、この地に秋山氏が城を築き、その麓に栄えた城下町が宇陀松山の始まりとされている。

松山 千軒舎1

詳しい地図やリーフレットは、赤砂交差点のすぐ北にある「千軒舎(秋山地区 まちづくりセンター)」にあると聞いたので、最初に入ることにした。
この建物は明治前期に建てられたもので、かつては「内藤修精堂」の屋号で薬屋を営み、昭和初期から歯科医院だったそうだ。

松山 森野旧薬園

ここから200mほど北に行くと国史跡の「森野旧薬園」がある。
パンフレットにはこう解説されている。
森野家の祖先は吉野南朝に仕えたと伝えられ、大和国吉野郡下市に居住していました。初代兵部為定(元禄11年[1568]9月3日没)は農業の傍ら葛(くず)粉の製造を始め『吉野葛』の名称が生まれ、世に知られるようになったのが森野吉野葛本舗の始まりです。およそ450年前のことです。その後、数代を経た元和2年(1616)、葛晒しに欠かすことができないより良質の水、寒冷な気候を求めて現在の地『大宇陀』に移住しました。
 代々葛粉の製造を継承する中で、当主第11代森野通貞(元禄3年[1690]~明和4年[1767])は若い頃より薬草木を愛好し、屋敷内にこれを栽培、また研究をしておりました。これが当時の幕府にも聞こえ、幕府採薬使である植村佐平次とともに、近畿一円、美濃、北陸方の山野からも薬草を採取し、それを幕府に献上しました。
またその褒賞として幕府から貴重な中国産の薬草が下付され、江戸中期の享保14年(1729)、当時では唯一の私園としての森野薬園を開設し、8代将軍徳川吉宗の国内産で漢方薬を普及させるという国策に貢献しました。
 その後吉野葛、薬草に加え、現在も当薬園で自生するカタクリ(3月下旬~4月上旬開花)の根を精製した『かたくり粉』などの製造も手掛け、幕府に献上しております。」

松山 森野旧薬園 カタクリ

この薬園には今も13000株以上のカタクリが自生していて、ちょうど見頃を迎えていた。かたくりの花を見るのは初めてだが、桜の咲く季節にここを訪れたのはラッキーだった。

松山 森野旧薬園 桃岳庵

森野通貞は晩年にこの薬園の桃岳庵で、薬草や動物を写生し彩色した図鑑である『松山本草』10冊を描きあげたという。通貞の死後子孫は家業である葛製造と薬園の経営維持に努め、明治以降わが国に新薬が伝えられて多くの薬園が廃園となるなかで、この薬園は江戸時代の面影をそのまま残した希少なものとして、大正15年に国史跡に指定されている。

松山 黒川本家

すぐ近くにある黒川本家。この家も代々吉野葛の製造販売を行なっている家だという。

松山 山邊家住宅

宇陀松山の街並みを楽しみながらさらに4分ほど歩くと奈良県指定文化財の山邊家住宅がある。この家はかつて宇陀紙の問屋であった邸宅で、宇陀松山地区でもかなり古い家なのだそうだが、残念ながら内部は公開されていない。
宇陀紙というのは吉野の下市と国栖あたりでつくられた手漉き和紙で、楮(こうぞ)を原料にしており非常に丈夫な紙なのだそうだ。

松山 薬の館

山邊家住宅から少し行くと「薬の館(旧細川家住宅)」がある。この建物は宇陀歴史文化館として公開されていて入場料(JAF割引あり)を払って中に入ると、地元の方から詳しい解説を聴くことができる。

この宇陀松山の地には江戸時代の安政期には50軒を超える薬問屋があって、この家はアステラス製薬(旧藤沢薬品)の創始者の母の生家なのだそうだ。

松山 薬の館4

屋根の上に禅宗様唐破風付の薬の看板には「人参五臓圓・天壽丸」と書かれているが、この名前は天保7年(1835)に売り出された腹薬なのだそうだ。よく見ると、だんじりの屋根のような精巧な造りである。看板だけでなく、この家の造りや襖絵や掛軸も立派なものばかりで、細川家はかなりの豪商であったことが窺える。

松山 薬の館5

この建物の展示物には旧藤沢薬品工業のほか、この地で創業したロート製薬、ツムラ(津村順天堂)などの広告看板やパッケージなどが多数あって、レトロな雰囲気が結構楽しめる場所でありお勧めしたい。

松山 慶恩寺

時間があれば、春日神社の境内から松山城址に行きたいところだが時間がないので省略して、まっすぐ進んで慶恩寺(浄土宗)に向かう。
この寺の寺伝によると創建は695年とされ、文治2年(1186)に重源が奈良の大仏再興のために、伽藍指図の5分の1の試みとしてこの寺を造営したという。南北朝時代に宇陀松山に山城を築き天正13年(1585)に豊臣秀長に追われるまでこの地を治めた秋山氏の菩提寺である。

松山 西口関門

慶恩寺の南西方に松山西口関門(国史跡)がある。この門は江戸時代の初期に造られたもので、すべて黒塗りされていることから「黒門」とも呼ばれ、城下町の門であったものが今も創建当初と同じ場所に残されている。

松山 光明寺 山門

黒門から橋を渡って北に進むと光明寺という融通念仏宗の寺がある。本堂は寛政5年(1793)の建立で山門は17世紀中ごろの建築だが、この山門が奈良県の指定文化財となっている。

近くの蕎麦屋で昼食を済ませ、葛の館で葛餅を食べたのだがこれが旨かった。この店で葛湯をいくつか買ったのだが上品な味わいが好評で、もっといろんな種類を買って帰ればよかったと思う。

松山 久保本家酒造

来た道を戻って酒蔵通りに向かう。宇陀松山に2軒の酒造会社が残されている。
上記画像は元禄15年(1702)創業の久保本家酒造(0745-83-0010)だが、敷地内に酒蔵カフェを営んでいて、土日限定で予約すればランチもできる。

松山 久保酒造

店の入口に杉玉がいくつかぶら下がっていたのでカメラに収めた。杉玉は酒林(さかばやし)とも呼ばれ、造り酒屋のシンボルのようなものだ。

店の人に聞くと、桜井市にある大神神社(おおみわじんじゃ)に新酒を奉納して、神社から杉玉を戴くのだという。
調べると、大神神社の主祭神は大物主神(おおものぬしのおおかみ)で、稲作豊穣、疫病除け、酒造りなどの神様である。この神社で毎年11月14日に全国から蔵元・杜氏が集まって醸造安全祈願祭が行われ、拝殿に吊るされた新しい杉玉が配られるのだそうだ。
作られたばかりの杉玉は青々としているが、やがて茶色になっていく。この杉玉の色合いで人々に新酒の熟成具合を知らせるのだという。

またこの会社は大正6年(1917)に自動車を購入して、大宇陀から桜井駅を結ぶ約12kmの乗合自動車の運行を始めたという。それが今の奈良交通のルーツになるのだそうだ。
Wikipediaで調べると、奈良市内で最初にバスの運行が開始されたのは昭和3年(1928)のことで、路線も奈良駅と春日大社とを結ぶ2km程度の短いものであった。当時の宇陀松山がいかに豊かな町であったかを物語るエピソードでもある。

古代から交通の要衝の地として栄えて豊かな文化を育んできた宇陀松山も、過疎化の進行が止まらないという。近鉄がこの地に線路を敷かなかったことで経済発展から取り残されてしまったようなのだが、逆にそのことがこの地域の歴史的文化的観光価値を高めているような気がする。
今のところ訪れる人は決して多くはないが、美しい街並みのなかで内部を見学できたり、食事をしたりして寛げる場所がもう少しあれば、もっとこの街が魅力を増すことだと思う。
室生寺や吉野や又兵衛桜の観光のあとに宇陀松山を訪れる人が増えて、この美しい街並みと地域文化が末永く維持されていくことを祈りたい。
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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

白骨温泉から奈良井宿、阿寺渓谷を散策のあと苗木城址を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-165.html

濁河温泉から寝覚ノ床、妻籠・馬籠へ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-104.html

信州の諏訪大社を訪ねて~~諏訪から南信州方面旅行1日目
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-39.html

御柱祭の木落し坂から名所を訪ねて昼神温泉へ~~諏訪から南信州方面旅行2日目
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-40.html



天誅組の足跡を追って天辻峠から十津川村へ

宇陀松山を楽しんだのち、十津川村に向かう。

十津川村の面積は672.38 km²あって「日本一の面積を持つ村」と言われるのだが、Wikipediaによると「北方領土である留別村・紗那村・留夜別村・蘂取村に次いで日本で5番目に大きな面積を持つ村であり、東京23区全体の面積(621.98km²)よりも大きい」とあり、わが国の施政権が及んでいる地域としては日本一大きな面積を持つというのが正しい表現になるようだ。
ちなみに、日本一大きい村である留別村は択捉島にあり、面積は1442.82 km²で、十津川村の倍以上の広さである。

十津川村は、奈良県の南西部を流れる熊野川の上流である十津川とその支流の流域をかつて十津川郷と呼び、峻険な山々に囲まれた山岳地帯にある。農耕に適さない場所であり、地域の人々は権力者に協力することで租税減免を勝ち取ってきた歴史がある。

Wikipediaにはこう解説されている。
「古くから地域の住民は朝廷に仕えており、壬申の乱の折にも村から出兵、また平治の乱にも出兵している。これらの戦功によりたびたび税減免措置を受けている。これは明治期の地租改正まで続き、全国でもおよそ最も長い減免措置であろうと言われている
南北朝時も吉野の南朝につくしている。米のほとんどとれない山中ということもあり、室町時代になっても守護の支配下に入らなかったという。太閤検地時にも年貢が赦免された。大坂の役の際は十津川郷士千人が徳川方となり、近隣の豊臣派の一揆を鎮圧した。この功も合わせて、江戸時代に入っても大和の五條代官所の下で天領となり免租され、住民は郷士と名乗ることを許された。
以上のような経緯があり、十津川郷士は純粋な勤皇であり、討幕の意識は薄かったとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E9%83%B7%E5%A3%AB

3年前に天誅組の足跡を追って奈良県の五條市から東吉野を旅行したことを書いた際に、天誅組が五條で挙兵してから東吉野で討ち取られるまでの経緯を記したのが、今回は天誅組が天辻峠に本陣を移したのち、多数の十津川郷士を集めたことを中心書くことにする。

天誅組

文久3年(1863)8月13日に孝明天皇の神武天皇陵参拝、攘夷親征の詔勅が発せられて大和御幸が決定し、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎ら攘夷派浪士は大和行幸の先鋒となるべく、攘夷派公卿の中山忠光を主将に迎えて天誅組を組織し京都を出発した。出発時の同志の人数は38人で、18人が土佐脱藩浪士、8人が久留米脱藩浪士であったという。

天誅組行路

天誅組は8月17日に大和の五條代官所を襲撃し、桜井寺に本陣を置き五條を天朝直轄地とする旨を宣言したが、その翌日の8月18日に宮中でクーデターが起こって長州藩と尊王攘夷派の公卿が京都から追放され、孝明天皇の大和行幸も急遽中止となってしまった
19日には五條にその知らせが伝わり、わずか1日で天誅組は挙兵の大義名分を失い、「暴徒」とされて追討を受ける立場となってしまう

天誅組は追討の兵を警戒して、要害堅固の天辻峠に本陣を移しそこで十津川郷士を募ることに決したのである。

十津川郷は、神武天皇東征軍の先鋒を勤め、皇軍を案内した八咫烏が十津川の祖先とされているほか、壬申の乱の時には大海人皇子(天武天皇)を助け、南北朝時代には、大塔宮護良親王の十津川御潜居をお守りしたという勤王の歴史を持つ土地柄である。
吉村寅太郎が22日に十津川郷川津村の野崎主計と対面し十津川郷士の協力を要請して了解を得、23日に十津川郷で檄文を発すると、25日朝までに天辻峠の本陣に1100人が集結したという。

天誅組の変

舟久保藍氏の『実録 天誅組の変』に吉村寅太郎の檄文が引用されているが、檄文というよりは脅迫に近いものがある。
「昨廿二日申渡し候上は、早刻出張有るべく候得共、火急の御用に付十五歳より五十歳迄残らず明廿四日御本陣へ出張これ有るべく、若し故なく遅滞に及び候者は、御由緒召放され、品(法の意。ここでは軍令をさす)により厳科に処されるべく候條、其心得を以て早々出張これ有るべく候、以上」(『実録 天誅組の変』p.106)

天誅組本陣遺址

道の駅『吉野路大塔』の手前を急な角度で左折する道があり、その急坂を1kmほど登って行くと『天誅組本陣跡』の碑がある。
この場所はこの地方きっての富豪であり有力者であった鶴谷治兵衛の屋敷があった場所で、治兵衛をはじめ村人たちは天誅組に協力を惜しまなかったというのだが、この時点では十津川郷士たちは、8月18日に宮中でクーデターがあって、孝明天皇の大和行幸が中止となったことを知らなかったことは重要なポイントである。

本陣に集まった郷士たちは、天誅組は勅命により組織された御親兵でありこれから幕府を迎え撃つことの説明を受けたのだが、その時に玉堀為之進と上田主殿の二人が勅命の真偽を問い質し、京都に使いを出して事実確認をしたうえで十津川郷士の行動を決めるべきだと主張したのだそうだ。
もともと「勅命」というのは徴兵のための方便であったため、吉村寅太郎は他への影響を恐れてこの二人を斬首したという。

天誅組は高取城の攻撃に向かうが、高取藩兵の銃砲撃を受けて敗走。その後も討伐軍との戦いで敗北を繰り返し、また朝廷から天誅組を逆賊とする令旨が天誅組の十津川郷士たちに届き、天誅組の主戦力であった十津川郷士が9月15日に天誅組から離反してしまう。主将の中山忠光は9月19日に天誅組の解散を命じて残党は伊勢方面に脱出を図るも、東吉野の鷲家口で幕府軍に捕えられ、天誅組は壊滅するという流れである。

大塔郷土館

『天誅組本陣跡』から道の駅『吉野路大塔』(0747-35-0311)の駐車場に車をとめて、国道の東側にある『大塔郷土館』に入る。上の画像の茅葺の建物が16品の郷土料理を食することのできる施設で、白壁の建物が旧大塔村の歴史・文化・伝統技術の展示館になっている。
次のURLに郷土料理のメニューが出ているが、タイミングが合えばここで食事するのも良さそうだ。
http://www.pref.nara.jp/norinbu/umaimono/kt-omise/ootou-kyodokan.html

展示館には南北朝時代の護良親王や幕末の天誅組に関する展示と、「木地師(きじし)」と呼ばれ、トチやブナやクリの木を加工して椀や盆をつって生業とした技術者集団の展示物があった。大塔村では壺杓子が特産品になっているそうだが、残念ながらこの伝統技術を受け継ぐ人は少なくなってきているという。また1階で大塔町と天誅組と護良親王との歴史についてわかりやすい映像を観ることが出来る。

大塔宮護良親王

この『大塔郷土館』の近くに大塔宮と呼ばれた護良親王の銅像がある。
護良親王は後醍醐天皇の皇子で、元弘元年(1331)に後醍醐天皇が幕府討幕運動(元弘の変)を起こすと戦いに加わり、令旨を発して反幕勢力を募り十津川・吉野・熊野等を転々として2年間にわたり幕府勢力と戦った。「大塔」という地名は、護良親王がこの地の豪族である戸野兵衛・竹原八郎らに匿われたことに由来するという。

護良親王

鎌倉幕府討幕後、建武の新政で征夷大将軍に任ぜられたが足利尊氏と対立し、尊氏の弟・直義が差し向けた刺客に襲われ最期を遂げたのだが、南朝のことはいずれ調べて書くことになるだろう。

大塔町はまだ五條市で、十津川町との境界線のある城門トンネルまではあと12km以上あり、目的地の温泉地(とうせんじ)温泉に行くにはさらに30km程度走る必要がある。カーブが多くまた道幅が細いところもあって、山道のドライブは思った以上に時間がかかった。

十津川温泉マップ

温泉地温泉は十津川村のほぼ中央に位置し、十津川の温泉の中でも最も古い歴史がある。
「温泉地(とうせんじ) 」温泉という名に違和感を覚えて調べてみると、昔は薬師如来を本尊とする「東泉寺(とうせんじ)」という寺がこの近くにあったという。

Wikipediaによると『東泉寺縁起』という書物が現存し、それによると、役行者(えんのぎょうじゃ)が十津川の流れを分け入ったところにある霊窟で加持祈祷を行ったところ湯薬が湧出し、弘法大師が大峯修行の際に湯谷の深谷に先蹤をたずね薬師如来を造顕したと伝えられているのだそうだが、この話は嘘っぽくてそのまま鵜呑みにはできないものの古くからこの地に湯が沸き出ていたことは想像できる。その後宝徳2年(1450)の地震で湯脈が変わって武蔵の里に湧出するようになり、いつしか十津川沿いの現地に移ったと記されている。

『東泉寺縁起』以外の文献にこの温泉が記されているのは、天文22年(1552)に本願寺寺僧の湯治(『私心記』)という記録があり、その後も天正9年(1581年)に佐久間信盛(『多聞院日記』)、天正14年(1586)に顕如上人(『宇野主水記』)に、訪れた記録が残されているようだ。

大和名所図会

寛政3年(1791)刊の『大和名所図会』にこの温泉のことが書かれているが、この当時は湯原(ゆはらの)温泉と呼ばれていたようだ。
湯原温泉 二所あり。一所は十津川荘湯原村にあり。一所は同荘武蔵村の東泉寺にあり。浴(ゆあみ)する時は則(すなわ)ち痼疾は治す。湯原は[類字名所]に大和国にあり。十津川の温泉(いでゆ)にこそ侍(はべ)らめ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/364

地図で確認すると、「湯原」という地名は今はなく「湯之原」という地名が今の温泉地温泉のある武蔵、小原地区の少し北にある。

温泉地温泉には十津川村役場の周辺に、3軒の旅館と1軒のホテルと2軒の民宿があり、さらに10km以上南にある十津川温泉・上湯温泉とともに「十津川温泉郷」として、国民保養温泉地、日本名湯100選に指定されているのだが、「十津川温泉郷」というと「十津川温泉」をまず連想してしまって、そちらに予約する観光客が多いことと思われる。しかしながら江戸時代から続く名泉は十津川温泉ではなく温泉地温泉なのであり、湯質もそれぞれ異なり十津川温泉・上湯温泉がナトリウム炭酸水素塩泉であるのに対し温泉地温泉は単純硫黄泉だ。
http://www.gensen-kakenagashi.jp/cgi/spa.cgi?totsukawa

かたやま夕食

交通不便な場所にあるために宿探しに迷った末、私は「かたやま」という民宿を選んだが、食事は地元のものを自然に料理してあり美味しくて、風呂は源泉かけ流しの硫黄泉で体の芯から温まった。これで1泊2食付7千円台の価格は随分リーゾナブルだった。

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【ご参考】天誅組と南朝の歴史を辿って、3年前にこんな旅行をしてみました。良かったら覗いてみてください。

五條市に天誅組と南朝の歴史を訪ねて~~五條・吉野の旅その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-11.html

天誅組の最後の地・東吉野から竹林院群芳園へ~~五條・吉野の旅その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-12.html

吉野の森林王と、闇の歴史である後南朝の史跡を訪ねて~~五條・吉野の旅その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-13.html



誇り高き十津川村の歴史を訪ねて

温泉地(とうせんじ)温泉まで来れば熊野本宮大社もすぐ近くなので訪れる観光客が多いと思うのだが、熊野三山めぐりは別の機会にすることとして、今回の旅行の2日目に旅程に入れていたのは、熊野三山の奥の院と位置付けられ世界遺産にも登録されている玉置(たまき)神社である。

野猿 地図

神社に行く前に、十津川温泉近くにある野猿(やえん)を見に行く旅程を組んでいた。
温泉地温泉から国道168号線を新宮方面に進み、十津川温泉に入ると途中で分岐があり右折して国道425号に入りすぐに左折して県道735号の上湯川沿いを走ると野猿が見えてくる。

十津川 野猿

上の画像が野猿で、吊り下げられた「屋形」に乗って自力で引き綱を手繰り寄せて進んで対岸を渡る人力ロープウェイなのだが、対岸までは優に50mはありそうだ。昔の人々は、吊り橋がかかるまではこれに乗って対岸に渡っていたのである。

この歳になって野猿に乗るわけにもいかず、次の目的地である玉置神社(奈良県吉野郡十津川村玉置川1 0746-64-0500)に向かう。

野猿から玉置神社は距離にすれば15km程度なのだがカーブの多い山道は結構時間がかかる。駐車場につくと本来ならば素晴らしい紀伊山地の山々が眺めることができ、運が良ければ雲海を観ることもできる場所のようだが、この日は霧と雨で何も見えなかった。

玉置神社鳥居

上の画像は、駐車場のすぐ近くにある鳥居である。ここから本殿までは結構な距離がある。

玉置神社の由来について、山川出版社の『奈良県の歴史散歩 下』にはこう記されている。

「神社の由来によれば、『神武天皇熊野上陸後、この宮で兵を休めたと伝え、崇神天皇、王城火防鎮護と悪神退散のため早玉神社を奉祀され、以後玉置と名付けられた』という。その後858(天安2)年、天台宗智将大師が那智の滝にこもった後、当山で修法加持をして本地仏をまつり、神仏混淆となった。平安時代には大峯修験道の本拠となり、熊野三社権現の奥之院として繁栄し、花山院・白河院・後白河院・後鳥羽院・後嵯峨院らが登拝している。
1727(享保12)年に京都聖護院(しょうごいん)門跡派に属し、高牟婁(たかむろ)院を中心に7坊15ヵ寺が境内に点在し、社僧数百人を擁したが、神仏分離令に先駆けて神社復活の請願を行ない、玉置三所大神(さんじょおおかみ)となり、さらに現在の玉置神社と改称したと伝える。」(『奈良県の歴史散歩 下』p.224)」

十津川郷で、明治の神仏分離令に先駆けて神社復活の請願が行なわれたとの記録は確認できなかったが、修験道の本拠地であった玉置三所権現が江戸時代に地元民の支持を失っていったことは確かなようだ。
その経緯については『日下古文書研究会』のブログに『玉置山始末書写』という書物の解説記事がわかりやすい。
http://kusaka-od.blogspot.jp/2012/08/blog-post_2645.html
この記事を読むと、全国各地で激しく行われた廃仏毀釈のうち、特に修験道にかかわる寺院が破壊されたケースは、玉置山と同様な背景があったのではないかと考えさせられる。しばらく引用させていただく。

「聖護院は玉置山に寺院を建立し、高牟婁(たかむろ)院と号し玉置山領分山林まで支配下に置いた。修験集団としての聖護院の末寺となったことで、僧兵らが実力行使で収納物を横領し、十津川郷の領主のごとき専横となった。
社家は京都役所へ高牟婁院の横暴を訴えるが、門跡寺院の権威のもとでは成すすべもなく社家の敗訴となった。これ以後社家は衰え、高牟婁院の強権支配は激しさを増した。地頭代官へ訴えるも、強大な権威を持つ宮支配ゆえに力が及ばず、玉置山は僧徒の巣窟となりはて、郷中とは隔絶状態となった。郷民は自分たちの神でありながら、神祭りにも参加できず、神事も仏式で行われるに至った
。」

聖護院門跡

少し補足すると、門跡寺院というのは皇族や摂家が出家する特定の位の高い寺院を意味し、なかでも聖護院(京都市左京区)は皇室と関係が深く特に位が高い門跡寺院であった。
その聖護院門跡の威光を借りた社僧が玉置山神領の山林だけでなく、近隣諸村の山林をも横領して聖護院領としたため、十津川郷との関係は疎遠なものとなっていったのだが、そもそも玉置神社は、古来より十津川郷の鎮守社であったのだ

ところが徳川幕府が倒れて新政府が誕生し、慶応4年4月に神仏判然令が出てさらに同年閏4月4日の太政官通達で神仏混淆が廃止とされ、別当・社僧は還俗し、神道を以て勤めることが命じられることになる
再び『日下古文書研究会』の解説を引用させていただく。

この通達を受けて郷民はすばやく動いた。同月二十七日には十津川郷中より願書を差し出す。その冒頭に、
  玉置山復古之義は積年之志願ニ候
とある、十津川郷中の祖神、三柱鎮座の神社が中古以来仏教寺院勢力に席巻され、神事祭禮も僧の扱いとなり、郷民の手の届かない状態となった玉置山復古の願いは郷民すべての積年の志願であった。この度の御一新により、僧徒は隠居寺へ住居させ、神事祭禮は社家一統立会の上勤めたき旨の嘆願を出した。神祇官事務局からは『玉置三所大神』と称すことを許され、郷民の願いの通り、十津川郷中一統にて奉仕することを命じられた。郷民の志願は聞き届けられたのである。」

高牟婁院を立退かせるのに山林田畑買受料として二百五十両を差出したそうだが、位の高い門跡寺院ではあっても太政官通達に対しそれ以上の抵抗はできなかったようだ。

廃寺となったのは高牟婁院だけではない。十津川郷にはあわせて51もの寺があったのだそうだが、明治4年から6年にかけてすべての寺が廃寺となり、跡地は田畑や集会所や学校などになり、その後再興された寺はないという。

なぜ、十津川郷において廃寺が容易に行われたかについて、『日下古文書研究会』の上記の記事にはこう記されている。
「…その背景には、郷内五一ヶ寺がすべて禅宗であったことが大きい。禅宗は檀家との精神的繋がりが淡泊であり、村民の中に宗教的欲求がそれほど強烈ではなかったことが作用している。しかも明治維新の理想とする王政復古の精神こそが十津川郷民の理想とする勤皇思想そのものであったことも、彼らをして必然的に維新の先駆者として改革へと駆り立てたのである。しかも玉置山のいち早い廃仏毀釈も彼らの行動に拍車をかけることとなった。」

玉置神社をはじめとする十津川郷の廃仏毀釈を敢行した中心メンバーは、丸田藤左衛門、松實富之進、更谷喜延らであったが、この丸田藤左衛門は尊王攘夷思想に傾倒し、坂本龍馬や大村益次郎、西郷隆盛らの志士達と親交があり、ともに国事を議論した人物だという。
藤左衛門は天誅組の乱の時には京都にいて御所を警衛していたが、8月18日の政変によって長州藩と尊王攘夷派の公卿が京都から追放され、孝明天皇の大和行幸も急遽中止となって天誅組は挙兵の大義名分を失ってしまう。藤左衛門は十津川郷の立場の変化を憂慮して上平主税(かみだいらちから)らとともに郷里に戻り、天誅組の伴林光平、乾十郎らと会見し、十津川郷士たちを天誅組から退陣させることを決めて帰京したという。
http://www.totsukawa-nara.ed.jp/bridge/guide/person/pn_022.htm

旧丸田家住宅

大阪豊中市の「日本民家集落博物館」に、丸田藤左衛門が十津川で居住していた住宅が移築されて大阪府の指定文化財となっている。上の画像は以前ブログで紹介した旧丸田家住宅である。
十津川やその周辺は杉の産地として知られ、屋根には杉材を薄く削いで厚さ5mm、30cmのソギ板を作ってそれを少しずつずらして重ねて竹釘で固定するソギ葺きという方法で建てられている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-232.html

玉置神社 参道の杉

話を玉置神社に戻そう。
玉置神社の参道には天然記念物に指定されている杉の巨樹が多数林立し、本殿に近づくにつれ荘厳な雰囲気が伝わってくる。雨が降るなかを20分近く歩いて、ようやく神社の本殿の前に到着した。

玉置神社 本殿

雨が気になって良いアングルで写真を撮ることが出来なかったのだが、霧の中の本殿は思ったよりも美しく撮れた。

玉置神社 神代杉

本殿の参拝を済ませて少し境内を歩くと、樹齢3千年と伝わる神代杉を間近に見ることが出来る。幹回りは8.3m、高さ20mと書かれていたが、観ているだけでパワーが湧いてくるようなすごい巨木だ。他にも樹高20mを越える巨木が何本もあり見所満点である。

社務所及び台所は高牟婁院の建物を改修した建物で国の重要文化財に指定されている。
拝観の案内表示が無かったので中には入らなかったのだが、内部には狩野派の絵師が戸襖に描いた素晴らしい絵があり、拝観可能で写真撮影もできたようなのに随分残念なことをした。襖絵は例えば次のURLで見ることが出来る。
http://mobili.exblog.jp/m2010-04-01/

玉置神社 鐘

社務所のすぐ近くに、かつてはここが寺院であったことを示す鐘楼が残されていた。
玉置神社の保有文化財の中に応保3年(1163)に佐々木高綱が寄進した梵鐘があり、国の重要文化財に指定されているのだが、この鐘は別のもので本物は十津川村歴史民俗資料館に寄託されている。

十津川歴史民俗資料館

玉置山を下りて温泉地温泉に戻り、十津川村歴史民俗資料館に入る。駐車場は道の駅十津川郷か十津川村役場を利用すればよい。

1階には坂本龍馬と交流のあった中井庄五郎の刀や、龍馬から庄五郎に宛てた手紙などが展示されている。庄五郎は、坂本龍馬らを暗殺した刺客が十津川郷士を騙ったとの情報から、必死になって犯人を捜したのだが、新選組に斬りつけられて討死したという。
他には、明治22年の大水害の記録や、世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道のパネル展示などがある。
二階には、十津川郷の廃仏毀釈に関する資料が展示されていて、そこに玉置神社の梵鐘(国重文)のほか、秘かに守られてきた仏像・仏具などを見ることが出来る。他にも南朝ゆかりの資料や天誅組の史料など、小さな施設ではあるが、結構中身が濃くて楽しめる資料館である。

資料館の近くに道の駅十津川郷がありそこでお土産や、地元産の野菜やヨモギ餅等を買う。
昼食を2階にある『行仙』という蕎麦屋で頂いたが、ここの蕎麦は旨かった。

食事を終えて、最後の目的地である谷瀬(たにぜ)の吊橋に向かう。十津川村役場から22km程度走れば到着する。

天誅組 上野地本陣址

吊橋の駐車場に、『天誅組上野地(うえのじ)本陣跡』と書かれた碑がある。
江戸幕末にはこの場所に東雲寺という寺があり、天誅組の本陣が一時ここに置かれたのだが、丸田藤左衛門らが京都から到着して、郷士達はこの時初めて、天誅組が「勅命」と言っていたのが偽りであり、このままでは、十津川郷が朝敵にされてしまいかねないことを知る事となる。
そこで郷士達は、十津川郷はこれ以上天誅組に協力できないことと、全員十津川郷から退去することを願う書状を提出している。天誅組主将の中山忠光は京都出発時からのメンバーで協議し、上野地村に滞陣中の隊士全員に解散を宣言して十津川郷士たちは天誅組から離反し、天誅組が郷外に脱出できるよう道案内をしたという。
天誅組の残党は北山郷へ出る山越えの道を進み伊勢方面に脱出を図るも、東吉野の鷲家口で幕府軍に捕えられ、天誅組は壊滅することとなる。

一方十津川郷士たちはその後大総督官直属の朝廷御親兵として、越後から会津の倒幕戦争に参加し、明治4年(1871)には全員士族に列せられ、宮廷警護については薩摩、長州、土佐の三藩以外では十津川郷士のみが任ぜられたという。

谷瀬の吊り橋

十津川村上野地と谷瀬を結ぶ谷瀬の吊橋は昭和29年(1954)に架橋され、長さ294m、高さ54mあり、鉄線の吊橋としては日本最長なのだそうだ。
対岸の谷瀬の人々が、教員の初任給が7800円の時代に一戸当たり20~30万円もの大金を出し合い、村の協力を得て総工費800万円で完成した橋とのことだが、それ以前は川に丸木橋を架けて往来していたという。この橋は地元の人にとっては生活道路であり、通行料は無料である。地元の学校の通学路にもなっているのだそうだ。
中央部に板が敷いてありその上を歩くのだが、中央部分は結構揺れる。スリルが味わえるとでも書きたいところだが、橋を渡っている間はカメラを構える気になれなかったというのが正直なところだ。

黒木御所跡

橋を渡って右に行くと、黒木御所跡碑がある。黒木御所の「黒木」というのは、「白木」の反意語で、「皮を削っていない木材」という意味である。ここに急造された仮の御所があったと理解すれば良いと思う。

大塔宮
【『大和名所図会 巻六』の挿絵 竹原八郎の名が書かれている】

前回の記事で後醍醐天皇の皇子である護良親王(大塔宮)が、元弘元年(1331)に後醍醐天皇が幕府討幕運動(元弘の変)を起こすと、討幕の戦いに加わったことを書いた。

元弘の変で後醍醐天皇は捕えられ隠岐の島に流罪となったが、護良親王は同年の11月下旬頃には十津川に入り、この地帯を統括する豪族である竹原八郎に迎え入れられたという。八郎らはこの場所に仮宮殿を建てて、親王をお守りしたと伝えられている。
以前はこの場所に、親王や従臣が弓術や馬術を練習した場所や竹原八郎の墳墓と言われる五輪塔が存在したそうだが、明治22年の大水害で水没してしまったのは残念なことである。

十津川村はこんな山奥の僻地にありながら日本史の大きな舞台に何度も登場し、それぞれの時代でこの地域の人々が「事が起これば国事に尽くす」という気概をもって歴史に残る働きをしてきたことを、代々この地域の誇りとしてきた経緯にある。

しかしながらこの十津川村も、御多分に漏れず急速に過疎化・高齢化が進行している。
かつては15千人あった村の人口が、1970年には8,502人となり、今年の4月1日現在で3,504人まで減少してしまっているようだ。
面積の96%が森林であるこの村の主要産業であった林業が衰退してしまったために、多くの村民が収入源を断たれて人口流出が止まらないのだが、この村には誇るべき歴史と伝統があり、素晴らしい温泉があり自然がある。この素晴らしい観光資源を今まで以上に活かすことによって、なんとか人口減少に歯止めをかけて欲しいものである。
そんなことを考えながら、この村の魅力が末永く失われないことを祈って、2日間の奈良の旅を終えることにした。

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この度の熊本県を中心とする地震で被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます。
被災を受けた地域が、一日も早く復旧・復興することをお祈り申し上げます。

地震の多いわが国では同様な地震がいつどこで起きても不思議ではありませんが、大正12年(1923)に発生した関東大震災では、東京が大火災になったことはある程度知られているものの、横浜も火災になったことや、神奈川県・静岡県で津波や土砂崩れで多くの犠牲者が出た史実は伏せられているのか、ほとんど知られていません。実際に何が起こったかを知らずして、どのような危険があるかを認識することは困難であり、地震に対する備えも不十分にならざるをえないと思います。

このブログで地震に関する記事をいくつか書いてきましたが、よかったら覗いてみてください。

関東大震災の教訓は活かされているのか その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-23.html

関東大震災の教訓は活かされているのか その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-24.html

飛鳥時代から平安時代の大地震の記録を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-20.html

「稲むらの火」の物語と安政南海地震の津波の真実
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-19.html

軍部が情報を握りつぶした「昭和東南海地震」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-420.html


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プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
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    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史