HOME   »  大正時代~第二次世界大戦~連合国占領期
Category | 大正時代~第二次世界大戦~連合国占領期

「満州某重大事件」の真相を追う~~その1

昭和3年(1928)6月4日、中華民国陸海軍大元帥の張作霖を乗せた特別仕様の列車が、瀋陽駅に到着する寸前で爆破され、張作霖は瀕死の重傷を負い2時間後に死亡した。

張作霖記事

学生時代にこの「満州某重大事件」を学んだ時は、日本軍(関東軍)が張作霖を爆殺したと教えられ教科書にもそのように書かれていたが、関東軍が関与したとは考えられないとの説がかなり昔からあり、何度か目にしたことがある。

最近になって、ロシア人のドミトリー・プロホロフという歴史家が、2001年にGRU(旧ソ連赤軍参謀本部情報総局)の未公開文書*に基づいて『GRU帝国』という旧ソビエトの情報工作機関の活動を書いた本を上梓し、その中で張作霖爆殺事件の実行犯はコミンテルン**の工作員であることなど、数々のソ連の工作活動を明らかにしたそうだ。
 * GRU文書についてはソ連崩壊後一部公開されていたが、プーチン政権になってアクセスが難しくなりつつあるという。
**コミンテルン:共産主義政党の国際組織。第3インターナショナル。

マオ

2005年に出版された『マオ 誰も知らなかった毛沢東』には「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイチンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだ」と書かれているが、これはプロコホフの著書の記述に従ったものだという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96%E7%88%86%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%82%BD%E9%80%A3%E7%89%B9%E5%8B%99%E6%A9%9F%E9%96%A2%E7%8A%AF%E8%A1%8C%E8%AA%AC

『マオ』が我が国で出版されて、この事件のことが我が国の論壇誌に採りあげられ、プロホロフ氏がインタビューに答えた内容が、加藤康男氏の著書に纏められている。

「サルヌインは、1927年から上海で非合法工作員のとりまとめ役を務めていたが、満州国において、諜報活動にあたる亡命ロシア人移民や中国人の間に多くの工作員を抱えていたことが決め手となった。そして、暗殺の疑惑が、日本に向けられるよう仕向けることが重要だった
1928年6月4日夜(正確には4日未明)、張作霖は北京を出発して奉天に向かう特別列車の中にいた。列車が奉天郊外に差しかかったとき、車両の下で大きな爆発が起き、その結果、張作霖は胸部に重傷を負い、数時間後に奉天市内の病院で息を引き取った。

1990年代の初め、ソ連の機密度の高い公文書を閲覧できる立場にあった元特務機関幹部で、歴史家のドミトリー・ヴォルコゴノフ*氏は、ロシア革命の指導者の一人、トロッキー(1879-1940年)の死因を調べている際に、張作霖がソ連軍諜報局によって暗殺されたことを示す資料を見つけたのだという
トロッキーはスターリンとの激しい権力闘争でメキシコに移住したが、スターリンの手先によって自宅書斎で暗殺された。その際に関与していたのが、張作霖の爆殺で暗躍したソ連特務機関要員のエイチンゴンだ。」(加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.123)
*ドミトリー・ヴォルコゴノフ:1988年から1991年の間ソビエト連邦国防省の軍事史研究所長官であった。

張作霖

張作霖は北京政権を牛耳り露骨な反ソ姿勢を取って、1927年4月6日には張作霖の指示でソ連大使館捜索と関係者を大量に逮捕し、同時に武器などが多数押収されたことから、ソ連の特務機関に暗殺の指令が出たようなのである。

ソ連の資料だけなら、エイチンゴンが自分の功を誇るために嘘の記録を残したという解釈も可能ではある。しかしながら、この事件に関してソ連が関与していたことを強く疑っていた大国があったことは注目して良い。それがイギリスである。

imagesCAKOAUT6.jpg

先ほど紹介した加藤康男氏が、2007年に公開されたイギリスの外交文書を、著書『謎解き「張作霖爆殺事件」』の中で紹介しておられる。
【イギリス公文書館所蔵 ファイルNo.F4598/7/10】
1928年7月3日付 北京駐在公使ランプソンのオースティン・チェンバレン外相宛公電 「(殺意を抱く者は)ソヴィエトのエージェント、蒋介石の国民党軍、張作霖の背信的な部下など多岐にわたる。日本軍を含めた少なくとも4つの可能性がある。どの説にも支持者がいて、自分たちの説の正しさを論証しようとしている。」(同上書 p.149)
【イギリス公文書館所蔵 ファイルNo.WO106/5750】
張作霖の死に関するメモ
「a. ソ連は日本に劣らない満州進出・開拓計画を持っていた。
 b. 1927年4月の在北京ソ連大使館襲撃以来、張作霖は万里の長城の内側でも外側でも、自らの支配地でソ連に最も強硬に反抗してきた。
 c.  ソ連は張作霖と日本を反目させ、間接的にソ連自身の計画を進展させたいと願った上でのことだった。
 d. 満州で張り合うソ連と日本の野望は、張作霖がある程度両国を争わせるようにした側面がある。ソ連も日本も権益保護のため開戦する覚悟は今のところないが、必然的に中国を犠牲にして何らかの暫定協定を結ぶことを望んでいる。したがって張作霖の強い個性と中国での権利を守ろうとする決意は、ソ連が満州での野望を実現する上での一番の障害であった。そのため張作霖の排除と、それに代わる扱いにくくない指導者への置き換えは、ソ連にとって魅力的な選択肢であったと思える。」(同上書 p.151-152)

もっともあり得るシナリオは、ソ連がこの不法行為のお膳立てをし、日本に疑いが向くような場所を選び、張作霖に敵意を持つような人物を使った、ということだろう。」(同上書 p.155)
【イギリス公文書館所蔵 1928年12月15日付外交文書】
「調査で爆弾は張作霖の車両の上部または中に仕掛けられていたという結論に至った。ゆっくり作動する起爆装置、ないしは電気仕掛けで点火されたと推測される。
ソ連にこの犯罪の責任があり、犯行のために日本人エージェントを雇ったと思われる。決定的な判断に達することはできないにしても、現時点で入手できる証拠から見て、結局のところ日本人の共謀があったのは疑いのないところだ。」(同上書p.197)

ドミトリー・プロホロフが、『GRU帝国』で張作霖爆死事件がソ連の工作によるものだと記した内容にかなり近い記録が、事件直後のイギリスの外交文書に残されていることを加藤康男氏の著書で初めて知ったが、イギリスは張作霖爆殺事件について関与していたわけではないので、イギリス情報部が本国に対して報告した文書は、現地で収集した情報を分析した内容を率直にレポートしていると考えるべきであろう。
また『GRU帝国』の出版はイギリスの公文書公開よりも6年も早く、ドミトリー・プロホロフはこれらのイギリスの外交文書を読むことなしに、この事件をソ連の工作によるものだと結論付けていることは注目してよい。

加藤氏はイギリスの外交文書を読んでこう解説しておられる。
「ソ連の工作による利点は、日本が自動的に疑われ、無実であるとの証明がはなはだ難しいことだった。なぜなら、張作霖を排除したいと考えていた日本人を、奉天界隈で見つけることは、極めてたやすい作業だったからだ
そのうえソ連にとっては幸運なことに、日本は自らの無実の証明をまったく試みなかった、とも付け加えている。
イギリスの機密文書からは、少なくともイギリス自身が日本軍主犯説に首をかしげる様子が浮かび上がってくる。
こうしてみると、巧妙に仕掛けられたソ連の工作の可能性を見抜けず、早々と日本軍独自の犯行と言う結論で幕引きを図った日本側の対応ぶりには疑問を持たざるを得ない。」(同上書p.153)

この張作霖爆死事件については昔から諸説があったのだが、旧ソ連やイギリスの機密書類の一部が公開されたことにより、コミンテルンが関与した可能性がかなり高まってきているので、教科書の表現が多少なりとも修正されてはいないかという事が気になった。
自宅にある『もう一度読む山川日本史』の該当記述を確認すると、残念ながら昔とほとんど同内容だ。

「この頃満州に駐屯していた日本軍(関東軍)のなかには、張にかわって日本の自由になる新政権を樹立させようとする動きがあり、1928(昭和3)年、奉天郊外で張作霖を爆殺した(満州某重大事件)。」(『もう一度読む山川日本史』p.290)
と本文に書かれた後、囲み記事で、
「張作霖の爆殺は、関東軍の参謀がひそかに計画し、部下の軍人たちに実行させたものであった。この事件をきっかけに満州を軍事占領し、新政権をつくらせて満州を日本の支配下におこうとする意図であったといわれるが、関東軍首脳の同意を得られず、それは実現しなかった。」(同上p.291)
と、今も明確に、関東軍が実行したこととし、異論があることに一切触れていないのだ。

200px-Koumoto_Daisaku.jpg

では、当時のわが国は、なぜ関東軍が実行したと考えたのだろうか。
当時から関東軍がやったという噂があり、関東軍の大佐であった河本大作(上画像)自身が殺害計画があったことを認める発言を何ヶ所で残していたようなのだ。

河本本人は手記を残していないのだが、河本の義弟で作家の平野零児が『文芸春秋』昭和29年12月号に、河本の一人称を使って「私が張作霖を爆殺した」という手記のようなものを書いている。全文が次のURLで読める。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/koumotodaisaku.html

全文を読むのは大変なので肝心な部分だけ抜き出すと、
動機に関しては
「一人の張作霖が倒れれば、あとの奉天派諸将といわれるものは、バラバラになる。今日までは、張作霖一個によって、満州に君臨させれば、治安が保たれると信じたのが間違いである。
巨頭を斃す。これ以外に満州問題解決の鍵はないと観じた。一個の張作霖を抹殺すれば足りるのである。」

img20120425233727531.jpg

爆破に関しては
「来た。何も知らぬ張作霖一行の乗った列車はクロス点*にさしかかった。
 轟然たる爆音とともに、黒煙は二百米も空ヘ舞い上った。張作霖の骨も、この空に舞い上ったかと思えたが、この凄まじい黒煙と爆音には我ながら驚き、ヒヤヒヤした。薬が利きすぎるとはまったくこのことだ。
 第二の脱線計画も、抜刀隊の斬り込みも今は不必要となった。ただ万一、この爆破をこちらの計画と知って、兵でも差し向けて来た場合は、我が兵力に依らず、これを防ぐために、荒木五郎の組織している、奉天軍中の「模範隊」を荒木が指揮してこれにあたることとし、城内を竪めさせ、関東軍司令部のあった東拓前の中央広場は軍の主力が警備していた。
 そして万一、奉天軍が兵を起こせば、張景恵が我方に内応して、奉天独立の軍を起こして、その後の満州事変が一気に起こる手筈もあったのだが、奉天派には賢明な蔵式毅がおって、血迷った奉天軍の行動を阻止し、日本軍との衝突を未然に防いで終った。」
(『文芸春秋』昭和29年12月号)
*クロス点:事件の現場となった満鉄線と京奉線とがクロスしている地点。

この「手記」が文芸春秋に掲載された時点では、河本大佐は中国共産党軍に逮捕監禁された後に獄死(昭和28年8月25日)していたのだ。この「手記」が河本大佐の口述筆記によるものという平野零児の説明を鵜呑みにすることは危険だと思うのだが、どういうわけか今では河本大佐を実行犯とする説が定説になっている。

当時のイギリス情報部の外交文書の表現を借りると、河本大佐はコミンテルンと共謀した日本人の一人ではなかったのだろうか。またわが国や満州で、関東軍が張作霖を爆殺したとの噂をバラ撒いたのはコミンテルンによる情報工作によるものではなかったか。
そもそも張作霖爆殺事件については関東軍がやったという確実な証拠はなく、ほとんどすべてが噂や伝聞によるものと考えて良い。
関東軍謀略説を主張する論者は、平野零児の書いた「河本大佐の手記」と、東京裁判における田中隆吉の証言を重視しているようだが、平野零児は戦前に治安維持法で何度か捕まった人物だとされる。田中隆吉証言も伝聞に過ぎず、彼はゾルゲや尾崎秀実とも親交があり、コミンテルンにつながる人物であったと言われているのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%9A%86%E5%90%89#cite_ref-0
また、東京裁判で田中隆吉が証言台に立った時には主犯とされていた河本大佐は中国に生存していた。本来ならば、河本本人が証言すべきであったのだが、なぜ連合軍は当事者でない田中を証言台に立たせたのだろうか。

加藤康男氏の著書によると、当時の関東軍参謀長の斉藤恒(ひさし)は現場を検証し関東軍による実行とは考えられないことを論証する報告をしたのだが、なぜか軍上層部が斉藤の報告を無視し、いち早く罷免しているのだそうだ。この点について書くと話が長くなるので、次回に記すことにしたい。
とにかく関東軍謀略説には謎が多すぎて、私は素直に信じる気になれないのである。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加



【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。






「満州某重大事件」の真相を追う~~その2

前回の記事で、わが国では関東軍が実行したとされている「満州某重大事件」について、ソ連の機密文書ではソ連が実行し日本人の仕業に見せかけたものだと書かれており、イギリスの外交文書においても、ソ連に犯罪の責任があると記されていることを紹介した。

関東軍主犯説で必ず使われるのが、張作霖爆殺の瞬間の写真といわれる下の画像である。この写真が我が国の山形中央図書館にあることが、この事件を関東軍が実行したことの動かぬ証拠だと主張する人が多いようだ。

張作霖爆津瞬間

まずこの写真が何故山形中央図書館にあるのか、その入手経路を追ってみよう。
加藤康男氏の『謎解き「張作霖爆殺事件」』によると、爆破前後の写真から現場検証の様子や張作霖の葬儀の写真まで61枚の写真がでてきて、この写真はその中の1枚である。
「この写真を密かに保管していたのは、山形県藤島町(現鶴岡市)に住む元陸軍特務機関員で70歳(発見当時)になるSさんだった。彼は写真の束を河野又四郎という特務機関の上司から預かったという。
写真の謎を解くもう一つの手がかりは、写真の裏に書かれていた「神田」と言う文字にあった。「神田」と言えば事件の当事者として名前が出てくる神田泰之助中尉がいる。二人には明らかに接点があることが判明した。」(加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.77-80)
このSと言う人物は、ネットで検索すると元軍人の佐久間徳一郎という名前であることがわかる。
http://rekishi.blog41.fc2.com/blog-entry-26.html

また、加藤氏の前掲書を読むと、実はもう1組の同じ写真が防衛研究所戦史部に保管されているという。秦郁彦氏が『昭和史の謎を追う』のなかでそのことを書いているのだが、秦氏によると写真を撮ったのは桐原貞寿中尉だと記しながら、桐原中尉が爆破スイッチを押したと結論しているそうだ。
爆破スイッチがセットされた場所と爆破現場は200メートルも離れていた。どうして、スイッチを押した人物がこの写真を撮ることができるのであろうか。

現場見取り図

写真撮影者は神田泰之助中尉だという説もあるが、神田中尉も2度目の爆破スイッチを押した人物とされており、桐原中尉と同様の問題が残る。写真撮影は別の人物が行ったと考えないとどう考えても不自然である。(上の図は加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.45)

あまり指摘する人がいないのだが、よくよく見るとこの爆破瞬間の写真も不自然だ。煙が立ち上っていない場所でありながら、既に破壊されている部分がかなりある。満州鉄道の橋梁が一部崩れてすでに列車を押し潰した状態になっていることがわかるし、煙の位置は橋梁の位置と微妙に異なる。この画像は、既に爆殺が終わってから、小さな爆発物を破壊させて撮影したものではないのか。

そもそも何故、河本大佐がこのような写真を撮らせたのだろうか。私には加藤氏の結論が一番納得できるのだ。
「考えられる結論は、関東軍がやったことをあとで政府の調査委員会に認めさせるための証拠品として、河本が特務機関の人物に撮らせた。そのプリントが最低でも2組あって、出てきたというところではないか。」(同上書 p.223)

当初は河本も公式には爆殺実行を否定していたそうだ。あらかじめアヘン中毒患者3人を雇った上で声明文を懐に忍ばさせておいて銃剣で刺殺し、「犯行は蒋介石軍の便衣隊(ゲリラ)によるものである」と発表し、この事件が国民党の工作隊によるものであるとの偽装工作を行っていたのだそうだが、3人のうち王谷生という男は死んだふりをしていて現場から逃亡し、張学良のもとに駈け込んで関東軍がやったと証言したために、この事件は関東軍の仕業だという疑惑が強まっていったのだが、ひょっとすると関東軍は王谷生をわざと逃がして関東軍の仕業だと訴えさせたのではないか。
また爆破に用いた電線は巻き取らずに草むらに残していたというのだが、これもわざとらしい。
その上に写真を撮って「神田」という名前まで書き残したのは、少なくとも私には非常に不自然に見える。
こんな杜撰な偽装工作を本当に日本陸軍特務機関のやったことなのかと、詳しく知れば知るほど誰でも不審に思うことだろう。むしろ関東軍が疑われるために工作したものと考えたほうがスッキリするくらいだ。

今度は爆破された車両に目を移そう。
河本大作には義弟の平野零児が書いたものとは別に、昭和17年12月1日に大連河本邸で森克己との共同聴取筆録という「河本大作大佐談」というものがあり、次のURLで全文が読める。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/koumotodaisaku2.html

この記録で、爆破の場面を紹介すると、
「…鉄道の敷設材料を、支那側が瀋海鉄道の材料に、こっそり竊んで行って盗用することが多かったので、この年三月頃より、この盗用を防ぐために 土嚢を築いて居ったが、この土嚢を利用し、土嚢の土を火薬にすり代えて待機した
 愈々張作霖は六月一日北京を発って帰ることが判った。二日の晩にはその地点に到る筈であったが、…予定より遅れて四日午前五時二十三分過ぎに現場に差しかかった
 その場所は奉天より多少上りになっている地点なので、その当時、貨物泥棒が多く、泥棒は奉天駅あたりから忍び込んで貨物車の窓の鉄の棒をヤスリで摺り切り、この地点で貨物を窓の外へ投出すというのが常習手口であった。そこでこの貨物泥棒を見張るために、満鉄・京奉両線のクロスしている地点より二百米程離れた地点に見張台が設けられていた
 我々はこの見張台の中に居って電気で火薬に点火した。コバルト色の鋼鉄車が張作霖の乗用車だ。この車の色は夜は一寸見分けが付かない。そこでこのクロスの場所に臨時に電灯を取付けたりした。
 また錦州、新民府間には密偵を出し、領事館の電線を引張り込んだりした。そしてこれによって張作霖の到着地点と時間とが逐一私達の所へ報告されて来た。 
… 張作霖の乗用車が現場に差掛かかり、一秒遅れて予備の火薬を爆発させ、一寸行過ぎた頃また爆発させ、これが甘く後部車輪に引かかって張作霖は爆死した。」

仮にこの記録が河本の言葉を忠実に記録したものであったとしよう。
張作霖を乗せた列車は20両編成であった。少し考えればわかることなのだが、線路わきに設置した爆弾で列車の中の張作霖を爆殺しようとするならば、まず張作霖がどの車両に乗っているかがわかっていなければならない。しかも高速で駆け抜けるはずの車両をピンポイントで爆破しなければならない。このことは決して容易ではないはずだ。
また、閉鎖された空間であれば少量の火薬でも威力を発揮するが、オープンスペースでは四方八方に爆発のエネルギーが分散してしまうので相当量の火薬が不可欠となる。その場合は、線路脇に設置した場合は地面に大きな穴ができ、線路は折れ曲がって当然である。また、急に前に進めなくなるために列車の後続車両が次々と脱線しなければ不自然である。

20110110122150.jpg

上の画像は張作霖が乗っていた車両なのだが、大量の火薬を土嚢に詰め込んで爆発させたにもかかわらず、線路は傷んでおらず地面に穴も開いていない。列車の台車部分は原型をとどめているのに、列車は脱線していなかったのだ。そのことは、現場近くで列車を大幅に減速させていたことを意味している。
一方で京奉線の上を走る満鉄線の橋は半分が崩落し、橋梁には大きな破損が生じ、満鉄線の線路が京奉線に垂れ下がっている。

imagesCAIGKEMG.jpg

上の画像は満鉄の線路の状況であるが、被害が下方よりも上方に大きく出ていることは明らかである。
現場を見れば『河本大作大佐談』や前回紹介した『河本大作の手記』は作り話であることが明らかであり、最初に紹介した爆発の瞬間の写真は、事後で小爆発を起こして撮影したものと理解するしかないのだ。

現場を検証した日本人がそれらの矛盾点に気が付いていなかったのではなかった。
現場検証をした関東軍参謀長斎藤恒(ひさし)は、参謀本部に対してこのような所見を提出していたのである。

ic.jpg

「爆薬の装置位置に関しては、各種の見解ありて的確なる慿拠(ひょうきょ)なきも、破壊せし車両及鉄橋被害の痕跡に照らし橋脚上部附近か、又は列車自体に装置せられしものなること略推測に難しとせず
殊に六十瓩(キロ)内外の爆薬の容積は前記の如く僅かに〇.五立方米なるを以てこれが装置は比較的容易なればなり。」(『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.206)
と、斉藤は爆薬の設置位置は、満鉄の橋脚上部付近か列車自体に装置されたものと推測できると記している。

さらに斉藤は、現場付近を一般列車は時速約二〇マイル(約32km/h)で通行するところを、推定時速十キロ程度にまで減速させた理由について次のように書いている。
「何故かくも速度を落し且つ皇姑屯にも停車せざりしや、その理由に苦しむものにしてこの点を甚だしく疑問とせざるべからざる。
すなわち内部に策応者ありて、その速度を緩ならしめかつ非常制御を行いし者ありしに非ずや。(列車内中間、もしくは後部にて弁紐を引けば容易に非常制動行はる。)」
緩速度たらしめし目的は、要するに所望地点にて列車を爆破せむと欲せるものにて非ずや
前記の如く薬量の装置地点は、橋脚上部か又は列車内と判定せるを以て、陸橋上部とせばその位置に張作霖座乗車来る際、時を見計らひ爆破せるものに非ずや。列車内より橋脚上部の爆薬を爆破せむと欲せば、列車内に小爆薬を装置し、これを爆破し逓伝(ていでん)爆破に依りて行へば容易なり。」(同上p.208)
と、列車の内部に協力者がいたことと、爆薬は車両内部にあり、それを爆破させることにより橋脚上部に設置した爆薬を連鎖爆発させた可能性を示唆している。そのためには、列車はよほどゆっくり走らなければならなかったはずだ。

前回の記事で書いた通り、この斉藤の報告書はなぜか軍上層部に無視されて、斉藤は事件の2か月後に関東軍参謀長を罷免されてしまった。

img20120430190340923.jpg

このような記録を残したのは斉藤だけではなかった。奉天の内田五郎領事が首相兼外務大臣田中義一に宛てた昭和3年6月21日付の報告書には、
「調査の結果被害の状況程度より推し相当多量の爆薬を使用し、電気仕掛にて爆発せしめたるものなるべく。爆薬は橋上地下又は地面に装置したものとは思はれず、又側面又は橋上より投擲したるものとも認め得ず、結局爆薬は第80号展望車後方部ないし食堂車前部附近の車内上部か又は(ロ)橋脚鉄桁と石崖との空隙箇所に装置せるものと認められたり
外部より各車輛の位置を知ることすこぶる困難にかかわらず、爆発がほとんどその目標車両を外れざりし事実より推察し本件は列車の編成に常に注意し、能く之を知れるものと認められる点は本件真相を知る有力なる論拠たるべしと思考せられたり。右に対し支那側は爆発装置箇所に付いては明確なる意思表示を避けたり。」(同上p.217-218)
と書かれている。(上の図はイギリス公文書館に保管されていた爆発現場の見取り図。同書p.230)

この内田五郎の報告書も現場の状況からすれば当然の内容だと思うのだが、これも斎藤恒の報告書と同様に軍上層部で葬り去られたようなのである。そしていずれの報告書も、「昭和史研究家」と称する多くの人々から過小評価されているのはなぜだろうか。
この理由は簡単である。この資料の正当性を認めてしまえば関東軍主犯説が瓦解し、昭和史が全面的に書き換えられるきっかけともなり得るものだからである。そして、現状ではわが国の「昭和史研究家」の大半は、連合軍にとって有利な歴史叙述を変えたくない人たちなのである。

加藤康男氏がモスクワの書店で見つけられた『GRU百科事典』*という書物に張作霖爆殺事件のことが書かれており、その内容が前掲の著書の最後に紹介されている。
*GRU:旧ソ連赤軍参謀本部情報総局
フリストフォル・サルヌイニの諜報機関における最も困難でリスクの高い作戦は、北京の事実上の支配者張作霖将軍を一九二八年に殺害したことである。
張作霖は一九二七年以降も明確に反ソ・親日政策を実行していた。ソ連官吏に対する絶え間ない挑発行為のため、東清鉄道の運営はおびやかされていた。
将軍の処分は日本軍に疑いがかかるように行われることが決定されたのである

そのためにサルヌイニのもとにテロ作戦の偉大な専門家であるナウム・エイチンゴンが派遣された。

一九二八年六月四日、張作霖は北京-ハルビン(引用者注・正しくは奉天)間を行く特別列車で爆死した。そして張作霖殺害の罪は、当初の目論見通り日本の特殊部隊に着せられた。」(同上書p.242-243)
とあり、見事に関東軍の仕業であることを日本に認めさせたことが記さているのだ。

張作霖爆殺事件にかぎらず、昭和の歴史には多くの嘘があるのだろう。コミンテルンが多くの紛争に関与して、世界の共産主義化を画策していたとすれば、このような事件はほかにもいくつかあって、日本だけが侵略者にされている可能性はないのだろうか。
こういう議論をするとすぐに、「陰謀史観」とのレッテルが貼られてしまいそうなのだが、ソ連やイギリスから出てきた史料や論文まで「陰謀史観」扱いをしていることは、研究者のスタンスとしてはおかしなことだと思う。これでは、いつまでたっても歴史の真相は明らかにならず、戦勝国側に都合の良い歴史観の中で堂々巡りの議論を繰り返すことになるだけだ。
そもそも、戦争が行なわれていた時代に陰謀が存在していたことは珍しい事ではない。自国の陰謀を隠すために、他国の謀略に見せかけるような事件は世界史でいくらでも見つけることができる。にもかかわらず、わが国の歴史教科書は他国には陰謀がなく、日本軍にのみ陰謀があったことを印象づけたいかのようだが、これでは永遠に真実が何であるかが見えてこないだろう。
***************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加




昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか

前回まで2回に分けて、昭和3年(1928)の「満州某重大事件」について書いた。簡単に要約すると、この事件に関しては関東軍がやったということが定説となっているが、この説には確たる証拠はなくほとんどすべてが噂や伝聞によるものであり、現場で撮影された写真や現場検証の記録は悉く定説と矛盾している。その一方、公開されたイギリスの外交資料には明確にソ連が実行し日本に疑いが向くように工作したものと結論付けられており、旧ソ連の機密文書を調査したロシアの歴史学者の研究書にも、ソ連軍が計画し日本軍の仕業に見せかけたものと、イギリスの外交資料と同様のことが書かれている。

関東軍の謀略かソ連軍の謀略か、両方の説を読み比べて私は後者の説のほうに説得力を感じてしまうのだが、この説の問題点はこの事件に関する旧ソ連の資料が未だに公開されておらず、この資料にアクセスが許された少数のロシア人研究者の著述に頼るしかないという点にある。それでも私がソ連軍謀略説に説得力を感じるのは、現場の写真や検証内容と矛盾しないことと、イギリスの外交資料とソ連の機密文書の結論とも合致するからである。

しかしソ連謀略説が正しいとすると、昭和初期においてはコミンテルン(共産主義政党の国際組織。別名第三インターナショナル)に協力する軍人がかなりいたことが納得できなければリアリティがない。いままで習ってきた歴史では、日本軍人の中にコミンテルンに協力する左翼分子がいたという事は思いもよらないことであり、その点が長い間腑に落ちなかったのだ。

comintern.gif

コミンテルンは1919年3月に結成され、1935年までに7回の世界大会が開催されていている。昭和3年(1928)張作霖爆殺事件の翌月からモスクワで開催された第6回コミンテルン世界大会の決議内容の一部がWikipediaに出ている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3
「…ブルジョワジー絶滅のための革命のみが戦争防止の手段であり、さもなくば帝国主義戦争は避けがたいものとされ、それが勃発した場合に共産主義者はいわゆる敗戦革命論に基づき、(1)自国政府の敗北を助成すること、(2)帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦に転換させること、(3)民主的な方法による正義の平和は到底不可能であり、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行することが政治綱領となった。」

敗戦革命論」とは軍を取り込むか無力化させて革命勢力に対抗する力を削ぐという理論 で自国が対外戦争に参戦した場合、自国の勝利の為に挙国一致で戦うのでなく、むしろ自国を敗北させるように仕向けて、その混乱に乗じて自国の革命を成就させることと理解されている。具体的には反戦運動を高揚させたり、自国の戦争遂行を妨害したり、敵国を利するための各種活動を実施することなどがある。

この第6回コミンテルン世界大会には、日本を含め27か国92名の代表が集結したようだが、この時点の共産主義国はソ連のみであったことは言うまでもない。これだけの国の代表がモスクワの指示のもとで動く集団を自国でメンバーを集めて組織し、この政治綱領に基づいて自国を敗戦に導き内乱戦に転換させて、世界の共産国化を狙っていたのであり、重要なターゲットはそれぞれの国の軍隊であったと理解できるのである。

では、この時代にコミンテルンは日本国内でどのような活動をしていたのだろうか。

中西輝政

中西輝政氏は小堀桂一郎氏との対談でこう語っている。
「すでにシベリア出兵*時から、コミンテルンの対日工作は活発に始まっていたのですが、大正12年、関東大震災が起こった時に、各国の救援団が今の『国際NGO』の様な形でたくさん日本に入ってきます。当時すでにコミンテルンは、国際NGOを共産主義ネットワークを作る隠れ蓑としてよく利用していました。ベルリンを本拠にしていたコミンテルンの秘密機関『ミュンツェンベルグ・トラスト』はモスクワや日共とは全く別系統の対日秘密工作に早くから着手しています。はっきりしているのは『国際労働者救援会』というNGOですが、その他にもたくさん東京に入ってきていて、一遍に大きな機密ネットワークをつくっていきました。それが、急速に影響力を増して、大正15年(1926)の時点でコミンテルンの秘密宣伝部が日本の新聞と雑誌19のメディアをコントロール下においていたということは、資料的にも明らかになっています。実際の工作に携わっていたアーサー・ケストラーの告白にこの数字があげられています。」(明成社『歴史の書き換えが始まった~コミンテルンと昭和史の真相』p.43-44)
*シベリア出兵:1918年から1922年までの間に、日英米仏伊などの諸国がロシア革命に対する干渉戦争のひとつで、この時にわが国は73000人と他国と比して数十倍多い兵力を投入した。

ミュンツェンベルグ

ミュンツェンベルグ・トラスト』というのは、ミュンツェンベルグ(1889-1940)という人物が築き上げた機密ネットワークを指している。ミュンツェンベルグはドイツのエルフルトに生まれ、第一次大戦中スイスに亡命してレーニンと共に世界革命に献身し、ロシア革命成功後ソ連から豊富な資金を得てベルリンやパリ、上海などを拠点に1920年代以降世界革命のための謀略工作に献身した人物なのだそうだ。

ミュンツェンベルグは世界中の知識人群のなかに浸透し、彼らを動かして世論を形成して工作活動を行ったと言われ、ゾルゲやスメドレー、ハーバード・ノーマン、尾崎秀実、都留重人ら、当時の有名人の多くに彼のネットワークの息がかかっていたとされている。

尾崎秀実

尾崎秀実は朝日新聞に入社し後に近衛文麿政権のブレーンとなるが、後に「ゾルゲ諜報団」に参加していたソ連のスパイであることが発覚して、死刑に処せられた人物である。

中西輝政氏が指摘している「大正15年の時点でコミンテルンの秘密宣伝部が日本の新聞と雑誌19のメディアをコントロール下においていた」ということは『ケストラー自伝―目に見えぬ文字』という本に出ているようだが、この記述は真実なのかそれとも作り話なのか。

学生時代に学んできた歴史では、共産主義の思想は弾圧されて逼塞させられていたというイメージが強かったのだが、いろいろ調べると、少なくとも昭和前期においては、急速にマルクス主義思想がわが国に広がっていったということは間違いがないようだ。

大正14年(1925)のソ連との国交樹立により、共産主義革命運動の激化が懸念されたために日本政府は同年に治安維持法を施行し、天皇制廃止などの革命運動を行う団体として日本共産党を取り締まった事実はあるが、意外にも社会主義・共産主義思想に関わる出版については放置されていたことが、中川八洋氏の『山本五十六の大罪』に記されている。
たとえばマルクス/エンゲルスの『資本論』はこの時期に矢継ぎ早に6社が出版している。(1919年:緑葉社、経済社出版部、1920-24:大鐙閣、1925-26:新潮社、1927-1930年:岩波書店、1927-28:改造社)

マルクス・エンゲルス全集

日本初の『マルクス・エンゲルス全集』が全二十七巻で改造社から刊行されたのは1928年から1935年である。(画像は改造社版の一部)
二十四巻の『レーニン叢書』が白揚社から刊行されたのは1927年から1928年。十五巻の『スターリン・ブハーリン著作集』が同じく白揚社から刊行されたのは1928年から1930年で、この時期は、マルクスやレーニンの書籍がバカ売れしていたようなのだ。

共産党宣言

この種の思想書ばかりではなく、なぜかコミンテルンの大会の決議文書や綱領まで翻訳出版が放任されていたのは驚きである。マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』も、堺利彦と幸徳秋水が『平民新聞』に1904年に掲載した時は発禁処分になったが、その2年後に堺利彦が『社会主義研究』に全文を掲載した時は何の処分もされておらず、1932年には河西書店が公然と出版している。(画像は河西書店が出版したもの)

治安維持法の条文は次のURLで読めるが、これらの出版行為は治安維持法違反の対象にする解釈も可能であったと思うのだが、思想統制についてはこの法律には明確に書かれているわけではなく、ほとんど放任されていたかのようなのだ。
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/ht14-46.htm

ところで、なぜこの時期にマルクス・レーニンの翻訳本が爆発的に流行したのだろうか。このような堅い思想書が、ただ出版するだけで売れるものだとは考えにくいのだ。

今の世の中を見ても、マスコミが世論を誘導していることは誰でもわかるが、テレビのないこの時代にこれらの思想書が売れるためには、新聞雑誌が採り上げてくれることが絶対条件であったろう。
こう考えると、最初に述べたとおり「大正15年の時点でコミンテルンの秘密宣伝部が日本の新聞と雑誌19のメディアをコントロール下においていた」という中西氏の指摘が作り話ではなさそうに思えるのだ。

中川八洋氏はこれらの書籍が売れた理由を、もう少し詳しく書いておられる。
「1925年の治安維持法と時期を同じくして、マルクスやレーニンの翻訳本が爆発的に大量出版された。第一の理由は、同年のソ連との国交回復によって、大使館という情報調略工作基地を得たソ連が、すぐに日本の出版界や学界を牛耳り支配したからである。第二の理由は、日本人の知的水準や嗜好とよほど馬が合ったのか、猫も杓子もマルクスやレーニンに飛び付いたからである。それらの著作に対する需要は世界一だった。
しかも、1929年の米国での株の大暴落による世界恐慌で、翌1930年から、日本では、神話『ソ連型の計画経済のみが日本経済を救済する』が絶対的に信仰された。だから、ソ連型計画経済を概説した著作は大人気で、官界でも陸軍でも、学界と同じく、大量に読まれた。…」(中川八洋『山本五十六の大罪』p.259)
ソ連大使館は情報調略工作基地であり、大使館員の多くは情報収集と工作活動に従事していたということはこれまであまり考えたことがなかったのだが、その通りではなかったか。

かくしてこの時期に共産主義に憧れる日本人が大量に生まれたのだが、張作霖爆殺事件が起きる4か月前の昭和3年(1928)2月に日本国内で初めての普通選挙が行われ、この結果天皇制打倒を掲げた政党の躍進に脅威を感じた田中義一内閣は3月15日に、治安維持法違反による全国一斉検挙に踏み切った。
この時に、日本共産党および労働農民党などの関係者約1600人余が検挙され、そのうち484人が起訴された事件があった。(3.15事件)
この摘発により東京帝大以下148名のエリート学生が共産主義者として検挙され、政府指導者に衝撃を与えたという。
また、翌年の4月16日には地下党員を中心に339名が検挙され、日本共産党は一旦壊滅したのだが、共産党員でなくともソ連に憧れる日本人が増殖しており、そこまでは検挙できなかったことは当然だ。

岡田嘉子

昭和13年(1938)に美人女優の岡田嘉子がソ連に憧れて演出家の杉本良吉とともに樺太からソ連に亡命した有名な事件があった。ソ連にたどり着くと2人は捕えられて厳しい取調べを受け、杉本はスパイ容疑で銃殺刑に処せられてしまう。
戦後においても北朝鮮を地上のパラダイスのように伝えたマスコミがあり、多くの日本人が北朝鮮に渡ったのと同じように、当時のマスコミはソ連を地上のパラダイスのように煽っていたのではないだろうか。

私の学生時代を振り返っても、ソ連などの社会主義国に憧れる同級生が少なからずいたし、何を隠そう私にもそういう時期があったが、次第に離れて行ったのは「暴力革命」の考え方が馴染まなかったからだ。
マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』の中で「共産主義者は、自分たちの目的が、これまでのいっさいの社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを、公然と宣言する」と書いているのだが、この考え方に嵌ってしまうとあらゆる破壊行為が正当化されてしまう懸念がある。
もし、昭和時代の初期に日本軍人の間にマルキシズムが浸透し、軍命令よりもソ連の工作に協力することを優先し、日本軍の情報を漏洩し、コミンテルンからの指示で動く軍人が少なからずいたとしたらどうなっていたであろうか。コミンテルンの政治綱領からすれば、彼等は戦争を終わらせる方向ではなく、長引かせる方向に持ち込んで、体制の転覆に持ち込もうとするはずではないか。

通史では昭和の初期において軍部が政府の命令を無視し、暴走したことが書かれているのだが、彼らの「暴走」のいくつかはコミンテルンの工作指示に基づいたものではなかったのだろうか。
当時そのことに途中で気が付いた人物がいて、そのような記録もいくつか残されているのだが、その話を書きだすとまた長くなるので、次回に記すことにしたい。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓           


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加





軍部や官僚に共産主義者が多数いることに気が付いた近衛文麿

前回の記事で、日本軍には左翼分子が少なからずいて、軍部の「暴走」のいくつかはコミンテルンの工作指示に従ったものではないかということを書いた。当時、そのことに気が付いた人の記録が残っていることも書いたが、今回は昭和20年2月に近衛文麿が天皇陛下に対して戦争の早期終結を唱えた『近衛上奏文』を紹介したい。
この上奏文の中で近衛はわが国の左翼分子が我が国を第二次世界大戦に突入させたことを明確に書いているのだが、どういうわけかこの『近衛上奏文』は、わが国の「昭和史」の通説ではほとんど無視されているように見える。

近衛文麿

近衛文麿は3度にわたり内閣総理大臣に指名され、第一次近衛内閣(昭和12年6月~14年1月)では盧溝橋事件が引き金となって支那事変が泥沼化し、第二次近衛内閣(昭和15年7月~昭和16年7月)では八紘一宇による大東亜共栄圏の建設を宣言し、日独伊三国同盟や日ソ中立条約を締結させて世界大戦に突入させたイメージが強かったのだが、近衛文麿は学生時代から社会主義思想に深く共鳴し、当時著名であった河上肇の経済学を学ぶために東京帝国大学から京都帝国大学に転学しているほどのマルクス信奉者で、軍国主義的思想とは無縁の人物であった。

近衛は昭和8年(1933)に「昭和研究会」という政治・経済・社会に関する研究会を発足させ、その中心メンバーが後に近衛のブレーンとして彼の内閣を支えることになるのだが、その中に、のちにゾルゲ事件*の首謀者として昭和19年に絞首刑となった尾崎秀実がいた。
*ゾルゲ事件: リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたとして、昭和16年9月から17年4月にかけてその構成員が逮捕された事件。

ゾルゲ

また昭和14年(1939)から16年(1941)にかけて、多数の企画院職員・調査官らが左翼活動の嫌疑により治安維持法違反で検挙起訴された「企画院事件」があった。「企画院」とは首相直属の政府機関で統制経済を推進する部署であるが、この事件で「昭和研究会」のメンバーが多数逮捕されていることから見ても、このメンバーの中にコミンテルンにつながる人物がかなり存在したことは間違いがない。そもそも近衛が総理になった際の書記官長(官房長官)に、戦後はソ連のフロント組織「世界平和評議会」の評議委員で日ソ協会副会長となった共産主義者の風早章を選んでいる。これでは近衛内閣で決定されたことはソ連に筒抜けではなかったか。

近衛上奏文』はこれらの出来事を振り返りながら、戦争の早期終結を天皇陛下に奏上する文章なのだが、文面からはかつての社会主義者の面影はない。文章がやや長いので、「上奏文」のなかで近衛が、わが国にどの程度マルクス・レーニンの思想が広がっていて、高級官僚や軍部がどう動いたかについて述べている部分を中心に紹介することとする。
全文が読みたい人用に、掲載されているURLを紹介しておく。

原文     http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/text/konoejousou.html
読み下し   http://www.geocities.jp/since7903/zibiki/ko.htm#konoezyousyoubun

まず、近衛は「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」と述べ、これからもっとも憂うべきことは「敗戦よりも敗戦に伴うて起こることあるべき共産革命に御座候」と書き、世界の情勢について、ソ連が世界の共産国化のために露骨な策動を行っていることが明瞭となってきたと分析して、さらにそのソ連の工作が世界で大部分成功しつつあることを述べている。

続いて、国内の分析に入る。
「翻つて国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられ行く観有之候。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動及び之を背後から操る左翼分子の暗躍等々に御座候。
 右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之候。少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存候
。…」
と、わが国においても軍部内の革新運動とそれに便乗する新官僚の運動を背後から操る左翼分子が暗躍し、わが国で共産革命が成就する条件が揃いつつあると書いている。

「職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、其多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、只彼等は軍隊教育に於て、国体観念丈は徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候。

 抑も満洲事変、支那事変を起し、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、是等軍部一味の意識的計画なりし事今や明瞭なりと存候。満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も、「事変は永引くがよろし、事変解決せば国内革新はできなくなる」と公言せしは、此の一味の中心人物に御座候。是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候
此の事は過去十年間、軍部、官僚、左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到達したる結論にして、此の結論の鏡にかけて過去十年間の動きを照し見るとき、そこに思ひ当る節々頗る多きを感ずる次第に御座候。」
軍部内の革新論に立つメンバーが、共産革命に引きずり込もうとする官僚などに踊らされて、満州事変、支那事変を起こし、事変を拡大させて大東亜戦争に導いたのは、計画的なものであったことは今や明らかであると述べて、以上のことがわが国の政治の最高責任者として、静かに反省して到達した結論であるとし、さらに、昭和天皇にこのように謝罪している。

「不肖は此の間二度まで組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんが為、出来るだけ是等革新論者の主張を採り入れて、挙国一体の実を挙げんと焦慮したる結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能はざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座候。」
挙国一致の実を上げるために革新論者の主張を取り入れたが、その主張の背後に潜む意図が看破できなかったことに深く責任を感じているというのだ。更に、次のようにも述べている。

アッツ島の仇を討て

「昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加へつつありと存候。かかる主張をなす者はいわゆる右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候
一方に於て徹底的英米撃滅を唱ふる反面、親ソ的気分は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部には、いかなる犠牲を払ひてもソ連と手を握るべしとさへ論ずる者あり、又延安との提携を考へ居る者もありとの事に御座候
以上の如く國の内外を通じ共産革命に進むべきあらゆる好条件が、日一日と成長致しつつあり、今後戦局益々不利ともならば、此の形勢は急速に進展可致と存候。」

「一億玉砕」などのスローガンは典型的な軍国主義のスローガンだとばかり思ってきたが、近衛は、このようなスローガンで国内を混乱させて共産革命を成就させようとする共産分子が煽動していると睨んでいたのだ。
また軍部の一部にはソ連や延安の共産勢力と手を結ぶことを論じるものがいたとも書いている。

こう述べた後で、近衛は勝利の見込みのない戦いを継続することは共産主義者の思うつぼとなり、一日も早く戦争を終結させるべきであるが、その為には軍部の革新派の一味を一掃する必要があることを縷々述べているのだが、この部分については省略しておく。

この上奏文には様々な評価があり、近衛は共産主義の脅威を過大視しすぎているとか、近衛自身が対米英戦に追いやった最高責任者でありながら、マルクス主義者ではなくなったとのイメージを作る自己弁護の文書であるとか、この文章を素直に読もうとしない研究者が多いようなのだが、この文章を読んで近衛が嘘を言っているようには私には思えない。

確かに、近衛が心配していたようなわが国の共産革命にはならなかったのだが、それは米軍による広島・長崎の原爆投下とソ連の対日参戦の直後に、昭和天皇のご聖断で終戦に導いたことが大きいのだと思う。あの時の天皇陛下のご聖断がなければ、近衛が危惧したとおりになっていた可能性が高いのではないだろうか。

終戦の詔勅

そういえば「終戦の詔勅」を天皇陛下が吹き込まれた玉音放送のレコード盤を奪い取って終戦を阻止しようとした陸軍の将校らのメンバーが近衛第一師団長森赳中将を殺害し、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠した事件があった。(宮城事件)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E4%BA%8B%E4%BB%B6
この事件については上記URLに詳しく書かれているが、そもそもわが国の軍人でありながら、最高主権者たる天皇陛下のご聖断にも従おうとしないメンバーが右翼であるとは思えない。このようなメンバーは、近衛の言う「革命の目的を達せんとする共産分子」であったと考えたほうがずっとスッキリするのだ。

余談だが、この「上奏文」を書き上げた近衛は吉田茂邸を訪れ、吉田も共感し牧野伸顕にも見せるために写しをとったが、吉田邸の女中とその親類を名乗る書生はスパイであり、写しが憲兵側に漏れたのだそうだ。この時期はそこまで「共産分子」が情報網を張り巡らせていたことに驚きを禁じ得ない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%B8%8A%E5%A5%8F%E6%96%87

数年前に初めてこの『近衛上奏文』を読んだ時に、今まで学んできた歴史観とほとんど正反対のことが書かれていることに非常に驚いた。

いろいろ調べると、この時期にここで近衛が指摘したようなことを書いた人物は、探せば他にも何人か見つけることができる。近衛が妄想を書いているという指摘はあたらないのだ。

しかし、このような一次資料が「昭和史」の中で紹介されないのは、なぜなのだろうか。
今までこのブログで何度か書いてきたように、わが国の歴史叙述は、戦勝国にとって都合の良いことは書いても、都合の悪いことは書かれていないと考えて良い。
戦後のGHQによる検閲や焚書によって、多くの日本人は正しい史実にアプローチする術を失ってしまい、そしてわが国のマスコミは、戦勝国にとって都合の良い歴史観を、バイアスがかかったままで固定化する役割を未だに担っているかのようだ。

氷雪の門

以前このブログで、「終戦の詔勅」後にソ連軍によって南樺太が侵略され10万人余の日本人犠牲者が出た史実を映画化した「氷雪の門」が完成し、昭和49年に封切直前でソ連の圧力で葬り去られたことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-138.html
しかし、ソ連が崩壊したのちも長い間この映画が公開されることなく、ようやく2010年に一部の地域で小規模に上映されはしたが、テレビでは放映されることがない。未だに戦勝国に都合の悪いことを放送することが自主規制されているかのごとくである。

ところで、この時期に工作活動を繰り返した旧ソ連の全貌が海外で少しずつ明らかになりつつある。

img20120509000218303.jpg

冷戦末期に旧ソ連のKGB対外文書課長であったミトローヒンがイギリスに亡命し、その時に大量の機密文書(「ミトローヒン文書」)を持ち出したそうだ。そこにはアジアへのKGBの工作活動が書かれているそうで、多くの日本の政治家や官僚、マスメディアが国益に反する行動をとっていたことが、実名やコードネームで紹介され、日本の暗号システムまでソ連に渡した外交官がいたことなどが書かれているという。この文書の一部を分析した書物が、今から7年前に英国で出版されている。
このような本は是非邦訳を出版してほしいものである。こういう書物がわが国で多くの人に読まれれば、日本人の昭和史の見方が一変することだろう。

img20120509000209037.jpg

またアメリカ陸軍省の特殊情報部が1943年以降極秘裏に解読してきたソ連情報部暗号の解読内容を1995年から公開した「ヴェノナ文書」がある。この文書によると、この時代のルーズベルト政権では、常勤スタッフだけで2百数十名、正規職員以外で300人近くのソ連の工作員、あるいはスパイやエージェントがいたのだそうだ。

この文書を一部ではあるが分析した書物が2年前に邦訳されているが、残念ながらほとんどがアメリカに関する記述である。
しかし、第二次世界大戦中にアメリカで500人以上ソ連につながる人物がいたというなら、日本にも相当程度いたはずである。独ソ戦開始後、ソ連に近い満州まで進んでいた関東軍が北進してソ連を攻めることがないようにすることがソ連にとっては最大の関心事であったはずで、アメリカと変わらないレベルか、あるいはそれ以上の工作員やスパイやエージェントがいてもおかしくはないと思う。

こう見ていくとわが国は、太平洋戦争の頃から、情報戦や工作には弱い国であったことが見て取れる。そして、今は、この時期以上に謀略に弱い国に成り下がってしまった。
日本人の「和」を重視する伝統的な考え方は世界では多くの国で通用せず、深く考えずにまず謝罪し相手を刺戟しないとする姿勢がつけこまれて、問題をますます複雑にしてはいないだろうか。
先進国ならどこの国でもある「スパイ活動防止法」がないわが国は、他国から見ればスパイ天国であり、世論誘導や政治家やマスコミ・官僚に対する工作で、今や、わが国の富ばかりではなく国土まで奪われかねない状況にあるではないか。

この様な状況を生み出している要因の一つとして歴史観の問題があると思うのだが、「太平洋戦争は日本だけが悪かった」という歴史は、いずれソ連の機密文書が明らかになっていけば、確実にひっくり返されることだろう。
残念ながら、それにはまだまだ時間がかかるだろうが、「近衛上奏文」のような「通説」と異なるような史料は、探せばいくつも見つけることができる。
少しでも多くの日本人がこのような従来とは異なる歴史の見方を学ぶことで、自国に対する誇りを是非取り戻してほしいものだと思う。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。




尾崎秀実の手記を読めば共産主義者が軍部や右翼を自家薬篭中のものにした事がわかる

前回の記事で近衛文麿が、軍部内の革新論に立つメンバーが、わが国を共産革命に引きずり込もうとする官僚などに踊らされて、満州事変、支那事変を起こし、事変を拡大させて大東亜戦争に導いたのは計画的なものであったことは明らかであると述べていることを紹介したが、一人だけだとあまり信用していただけないと思うので、今回は軍部を動かしていた側の文書を紹介してみたい。

共産主義者に軍部を動かす動機があったことを知るためには、レーニンの「敗戦革命論」を知る必要がある。レーニンは1920年のモスクワ共産党細胞書記長会議でこのように述べている。

Lenin.jpg

「全世界における社会主義の終局的勝利に至るまでの間、長期間にわたってわれわれの基本的原則となるべき規則がある。その原則とは、資本主義国間の矛盾的対立を利用して、これらの諸国を互いにかみ合わすことである。われわれが世界を征服せず、かつ資本主義諸国よりも劣勢である間は、帝国主義国家間の矛盾対立を巧妙に利用するという規則を厳守しなければならぬ。現在われわれは敵国に包囲されている。もし敵国を打倒することができないとすれば、敵国が相互にかみ合うよう自分の力を巧妙に配置しなければならない。そして、われわれが資本主義諸国を打倒し得る程強固となり次第、直ちにその襟首を掴まなければならない。」(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.37)

このレーニンの考え方が、8年後の1928年コミンテルン第6回大会ではもっと過激で具体的なものとなっている。
「現代の戦争は、帝国主義国家相互間の戦争、ソ連及び革命国家に対する帝国主義国家の反革命戦争、プロレタリア革命軍の帝国主義国家に対する革命戦争の三つに分類し得るが、…、右の分類による第二の戦争は一方的反動戦争なるが故に勿論断固反対しなければならない。また第三の戦争は世界革命の一環としてその正当性を支持し帝国主義の武力行使に反対しなければならないが、第一の帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。

帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない。

(現在の帝国主義国家の軍隊の)最近の傾向は、第二次大戦の危機を前にして各国共に、人民の全部を軍隊にする傾向が増大して来てゐる。この現象は搾取者と被搾取者の関係を軍隊内に発生せしめるものであって、大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。…」(同上書 p.38-40)

コミンテルンは共産主義者に対し、資本主義国家間の戦争に対しては、自国の軍隊に進んで参加して自己崩壊の内乱戦とし、自国政府の敗戦に導くことによりプロレタリア革命を遂行せよと指令し、ソ連に対する戦争は反革命であり断固反対せよと指令しているのだ。

ゾルゲ事件の首謀者として昭和19年に絞首刑となった尾崎秀実は、生前に残した手記でこのように書いているが、この内容はコミンテルンの方針とよく符合しており、コミンテルンの方針に沿ったものであることは読めば明らかである。ポイントとなる部分を少し紹介してみよう。

尾崎秀実

「我々のグループの目的任務は、特にゾルゲから聞いた訳ではりませぬが私が理解する所では、広義にコミンテルンの目指す世界共産主義革命遂行の為、日本における革命情勢の進展と之に対する反革命の勢力関係の現実を正確に把握し得る種類の情報竝びに之に関する正確なる意見をモスコー(モスクワ)に諜報することにあり。狭義には世界共産主義革命遂行上最も重要にして其の支柱たるソ連を日本帝国主義より防衛する為、日本の国内情勢、殊に政治経済外交軍事等の諸情勢を正確且つ迅速に報道し且つ意見を申し送って、ソ連防衛の資料たらしめるに在るのであります。」(同上書 p.214)
我々のグループと言うのは「ゾルゲ諜報団」のことだが、このグループはコミンテルンの目指す世界共産主義革命の実現のため、また日本帝国主義からソ連を守るために情報を流す活動をしていたことを明確に書いている。

また、尾崎が当時の世界情勢をどう考えていたかという点についてはこう書いている。
「私はこの第二次世界戦争の過程を通じて世界共産主義革命が完全に成就しない迄も決定的な段階に達することを確信するものであります。その理由は、
第一に、世界帝国主義国相互間の戦争は、結局相互の極端なる破壊を惹起し、彼等自体の現存社会経済体制を崩壊せしめるに至るであろうと云ふことであります。…敗戦国家に於ては第一次世界大戦の場合と同様プロレタリア革命に移行する可能性が最も多く、又仮令一方が勝ち残つた場合でも、戦勝国は内部的な疲弊と敵対国の社会変革の影響とによつて社会革命勃発の可能性なしとしないのであります。
第二には、共産主義国家たるソ連邦の存在してゐる事実であります。私はソ連邦はあくまで帝国主義諸国家間の混戦に超然たるべきものであると考へ、その意味においてソ連邦の平和政策は成功であると考えていたのであります。…
第三には、植民地、半植民地が此の戦争の過程を通じて自己解放を遂げ、その間に或る民族に於いては共産主義的方向に進むであらうと言ふことであります。少なくとも支那に対しては斯る現実の期待がかけ得られると思はれます。」(同上書p.223)
と、尾崎は第二次世界大戦の過程を通じて、世界共産主義革命が完成に近づくものと考え、中国については特に期待していたと書いている。

そして尾崎自身は第二次世界大戦は次のようなものになると思い描いていたという。
「…私がしきりに心に描いていたところは、次の如きものでありました。
第一に、日本は独逸と提携するであろうこと。
第二に、日本は結局英米と相戦ふに至るであろうこと。
第三に、最後に我々はソ連の力を借り、先づ支那の社会主義国家への転換を図り、これとの関連において日本自体の社会主義国家への転換を図ること。」(同上書p.227)
そして尾崎が考えていた通りに、その後日本はドイツと同盟を結び、英米との戦いに突入する。

次が重要な部分である。
「私の立場から言へば、日本なり独逸なりが簡単に崩れ去つて英米の全勝に終わるのは甚だ好ましくないのであります。(大体両陣営の抗戦は長期化するであらうとの見通しでありますが)万一かかる場合になつた時に英米の全勝に終らしめないためにも、日本は社会体制の転換を以て、ソ連、支那と結び別な角度から英米に対抗する姿勢を採るべきであると考へました。此の意味に於て、日本は戦争の始めから、米英に抑圧せられつゝある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考えたのでありまして、私は従来とても南方民族の自己解放を「東亜新秩序」創設の絶対要件であるといふことをしきりに主張しておりましたのはかゝる含みを籠めてのことであります。この点は日本の国粋的南進主義者の主張とも殆んど矛盾することなく主張されている点であります。」(同上書p.227)
共産主義者の尾崎からすれば、この戦争で日本やドイツが簡単に敗れて英米の勝利に終わることは望ましい事ではなく、コミンテルンの指導の通りこの戦争を機に世界の共産革命に持ち込むことを望んでいたことが分かる。
また独ソ戦勃発以降、日本はドイツを助けるため北進してソ連と戦うか(北進論)、欧米の援蒋ルートを絶ち、資源確保のために仏印に進駐するか(南進論)の選択を迫られたのだが、わが国が南進論を選択したのは、尾崎の影響が大きかったと言われている。
「大東亜共栄圏」「八紘一宇」という崇高な理想を掲げたスローガンも、一部は「国粋的南進主義者」が作ったものかもしれないが、尾崎グループが日本軍をソ連と戦わせないよう、皇軍を南進に導くために何度も主張したことが書かれているのだ。

大東亜戦争とスターリンの謀略

今回の記事ですでに何度か引用させていただいた三田村武夫氏の『大東亜戦争とスターリンの謀略』という本には、このような当時の史料が満載で、第二次世界大戦にコミンテルンがどう関わったかを学ぶことができる良書なのだが、昭和25年にGHQにより販売禁止とされて長い間埋もれてしまっていた。遠山景久氏の努力により昭和62年に復刊されてその後何度か再版されているが、一般の書店には出回っていない書物である。

第56-57代内閣総理大臣の岸信介はこの本の序文にこう書いていることは注目に値する。

岸信介

「…支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から、対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀実であった、ということが、実に赤裸々に描写されているではないか。
 近衛文麿、東条英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなればスターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる。
私が東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、今、思うに、東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪人はスターリンでなければならない。然るに、このスターリンの部下が、東京裁判の検事となり、判事を務めたのだから、まことに茶番と言うほかない。

この本を読めば、共産主義者が如何に右翼・軍部を自家薬篭中のものにしたかがよく判る。なぜそれができたのか、誰しも疑問に思うところであろう。然し考えてみれば、本来この両者(右翼と左翼)は共に全体主義であり、一党独裁・計画経済を基本としている点では同じである。当時戦争遂行のために軍部がとった政治は、まさに一党独裁(翼賛政治)、計画経済(国家総動員法→生産統制と配給制)であり、驚くべき程、今日のソ連体制と類似している。ここに先述の疑問を解く鍵があるように思われる。…」(同上書 p.319-320)

200px-Charles_Willoughby_1918.jpg

三田村武夫氏の『大東亜戦争とスターリンの謀略』はGHQが我が国での販売を禁止した本なのだが、英訳されてGHQの情報部長であったウィロビーの眼に止まり、米国で「ゾルゲ捜査」を始めるきっかけとなり、その後ルーズベルト政権や戦前の日本政府に入っていた共産主義者の追及につながったと言われている。

いつの時代もどこの国でも情報工作活動を伴う出来事については、工作を仕掛けた側から動機や経緯などが詳細に書かれた史料が公表されることがほとんどないために、記述にはある程度著者の推測が伴うことは已むを得ないが、この三田村氏の著作については特に共産主義者の立場からの考察は説得力があり、かなり核心を突いた記述であると思うのだ。

多くの人に読んでほしい一冊なのだが、出版社側も通常の販売ルートに乗せられない事情があるのか書店での入手は出来ず、私は「GHQ発禁図書刊行会」というところから数年前に入手した。
この書が国民に幅広く読まれたら、『東京裁判史観』が崩壊することは確実だと思うのだが、そうさせたくない勢力が、わが国のマスコミや出版界、教育界などに未だに根強く残っているということなのだろう。
**************************************************************
ブログパーツ



最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓           


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加


「ドイツと日本を暴走させよ」と命じたスターリンの意図

国会図書館所蔵の興亜院政務部・コミンテルン関係一括資料の中に、入手経路が不明なるが故に怪文書とされているものがある。偽書なのか本物なのかは今となっては判断できないのだろうが、そこに書かれていることは極めて重大なことである。
入手ルートは秘匿されても、国会図書館に所蔵されていることは、当時としては信頼できる筋から入手したものなのだろう。
そこに書かれているのは、昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会におけるスターリン演説で、重要な部分は次の部分である。

スターリン

「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

有名な『砕氷船のテーゼ』と呼ばれているものだが、この内容は、前回書いたレーニンの「敗戦革命論」や尾崎秀実の手記や近衛文麿の上奏文の内容とも符合し、かつ歴史的経過から見ても納得できる内容である。
第二次世界大戦において、日本とドイツが砕氷船の役割を演じさせられて、日独の砕氷船が沈没した後に、ソ連と毛沢東の中国と米国の三社がうまく分け前を取り合った。日本を砕氷船に仕立てるために多大の貢献をしたのが、ゾルゲや尾崎秀実であるということになる。
今では、全てわが国とナチス・ドイツが悪者にされてしまったまま歴史が固定化されようとしているのだが、実際はほとんどがコミンテルンによる仕掛けで行われたものではなかったのか。

スターリンの演説の内、最後の一行に書かれている我が国の共産化だけは実現しなかったが、その要因は前々回に書いた通り、米軍による広島・長崎の原爆投下とソ連の対日参戦の直後に、昭和天皇のご聖断で終戦に導いたことが大きいのだと思う。あの時の天皇陛下のご聖断がなければ、樺太や千島以外の国土が、スターリン演説のとおり共産化していた可能性が高かったと思うのだ。

では、このスターリンの演説が行われたという第7回コミンテルン大会はどのような大会であったのか。

communist-rally.jpg

ネットで調べると、『近代デジタルライブラリー』に決議内容が書かれた文書があるが、ここには先ほどの『砕氷船のテーゼ』に関わる内容については非公開の決議ゆえに記されていないのはやむを得ない。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1460513/4

故・倉前盛通氏の著書でベストセラーとなった『悪の論理』にはこう書かれている。

悪の論理

「昭和十年に、モスクワで第7回コミンテルン大会が開かれ、全世界の共産党が集まって、直面する重大問題『日本とナチス・ドイツによって、ソ連が挟み撃ちされる危機を、いかにして防止するか』というテーマを討議し、そこで再びレーニン地政学の『砕氷船テーゼ』がとりあげられたという。
 この第7回コミンテルン大会の表面上のテーゼは『人民戦線の結成』であり、そのように公表されたが、それはあくまでも表のテーゼであり、裏の本当のテーゼは非公開の『砕氷船テーゼ』であるということは、昭和十年代に、心ある人が警告していたことであった。
 しかし、コミンテルンの表面上のテーゼとして『共産主義者は自由主義者と連携して人民戦線を結成し、反ファッショ、反戦の運動を展開しよう』と大々的に宣伝され、一部の進歩的人士がそれに同調する動きを示すような情勢下では、『コミンテルンの本当の狙いは日中を長期戦にひきずりこむことにあるのだ。蒋介石相手の長期戦は国力を消耗するだけであり、ただちに終結せしめるべきだ』という正論は全く世間から相手にされなかった。
 そればかりか、新聞が書きたてる『蒋介石討つべし』との強硬論(これを最も強く主張したのは朝日新聞であった)に煽られた民衆の白眼視を買ったばかりではなく、頭に血の昇った軍部からは、『米英の第五列、人民戦線のスパイ、反戦反軍通敵行為』という名で、弾圧の対象にされた。憲兵隊は、こういう正論をことごとくつぶしてしまったのである。
 まことに、人民戦線テーゼは、軍部の目をあざむく『おとり作戦』であった。本当のソ連のエージェントは、右翼や愛国主義者の仮面をかぶり、軍部に接近して、対支強硬論を煽っていたのである。その代表人物が尾崎秀実であった。彼は近衛文麿の秘書にまでなって、国家の中枢部に食い込んでいたのである。」(角川文庫『悪の論理』p.62-63)

尾崎秀実は昭和12年7月に朝日新聞を退社しているが、それまでは『蒋介石討つべし』の論陣を張って日中戦争に持ち込む世論誘導をしていたのであろう。
尾崎が朝日新聞社を退社する前月の昭和12年6月4日に第一次近衛文麿内閣が成立し、尾崎は翌月に近衛内閣の嘱託になっている。そして、盧溝橋事件が起きたのはその間の7月7日である。

盧溝橋事件記事

この事件から日中戦争が始まり、ドロ沼化していくことになるのだが、盧溝橋事件とはどんな事件であったかを振り返っておこう。

『もう一度読む山川の日本史』では「1937年7月7~8日、北京郊外で日本軍と中国軍の武力衝突が起こった(盧溝橋事件)。」とわずか1行で書かれているだけだが、この表現では両軍とも一触即発の状況であったと錯覚してしまう。

実はこの時の日本軍は「丸腰」(演習の為、実弾を携行していなかった)であり、日本側には戦う意思などは毛頭なかった。
橋本群・陸軍中将(駐屯軍参謀長)は当時の状況を、「実弾を持たずに発砲された為、応戦出来ず、非常に危険な状況に置かれた」と証言しており、日本側は何者かに仕掛けられたのである。

では、どこが仕掛けたのか。
実はこの時に、国民党軍も、日本軍同様、銃撃を受けている。

盧溝橋で銃撃を受けた日本軍は国民党軍によるものと思い込み、反対に国民党軍は日本軍によって銃撃を受けたものと思い込んで、この事件が発端となって、日本軍と国民党軍は交戦状態に突入したのだが、双方共、腑に落ちない点があり、事件発生後5日目に、日支両軍は停戦協定を結んでいる。つまり、日本軍は中国との全面戦争を、最初から欲してはいなかったのである。

誰がこの戦いを仕掛け、拡大させたのか。その答えは中国共産党であったことがわかっている。

周恩来

昭和24年(1949) 10月1日、「中華人民共和国」成立のその日、周恩来首相が、「あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ」と発言していることから明らかな事であり、中国共産党軍の兵士パンフレットにも「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志(後の国家主席)の指示によって行われたものである」と書かれているというから、中国共産党が謀ったことは疑いようのない事なのだ。
http://www.teikoku-denmo.jp/history/honbun/rokokyo.html

では、日中間で一旦停戦協定を結んだにもかかわらず、なぜ争いが拡大していったのか。

Wikipediaには、中国共産党が事件拡大にどう関わったかが詳しく書かれている。
「7月8日、全国に通電して、局地解決反対を呼びかけ、7月9日、宣伝工作を積極化し、各種抗日団体を組織すること、必要あれば抗日義勇軍を組織し、場合によっては直接日本と衝突することを、各級党部に指令した。…11日の周恩来・蒋介石会議で、周恩来は抗日全面戦争の必要を強調した。そして国民政府が抗日を決意し、民主政府の組織、統一綱領を決定すれば、共産党は抗日の第一線に進出することを約束した。7月13日、毛沢東・朱徳の名で国民政府に即時開戦を迫り…」などと、中国側に戦争を終結させる意思はどこにもない。

蒋介石抗戦記事

停戦協定は中国によって何度も破られて、19日に蒋介石は抗戦の覚悟を公式に明らかにした以降、25日の郎坊事件、26日の広安門事件を経て、28日には北支における日中両軍の全面衝突が開始してしまう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A7%E6%BA%9D%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6

我が国はこの中国の謀略に気付いていなかったのではなかったようだ。
前掲の倉前氏の書物にはこう書かれている。
「…巧妙な挑発に成功した劉少奇が、この旨を延安へ秘密の電波で通報したところを、千葉県の大和田にあった海軍通信所がキャッチして暗号を解読し、『これはおかしい。今回の事件は謀略だ』と海軍側は考えたと言われる。しかし、何分にも、陸軍の主流は、『支那大陸の支配』を夢見るグループによって握られており、中国内部も、国共合作による対日抗戦を決定している状況下では、いくら、良識ある政治家や軍人が、事変の不拡大に努力しても無駄であった。その上、米ソ両国の筋も、日本のマスコミに潜入していたコミンテルン筋も、日中戦乱の拡大を歓迎して、裏面で『戦火の拡大』を煽ったのであるから、とても戦乱を止めることができなかったのであろう。」(同上書 p.65-66)

それにしてもソ連とは恐ろしい国である。第7回のコミンテルン大会で、日本、ドイツ、イタリアを最も危険な戦争扇動者として、反ファシスト人民戦線の形成を各国共産党に指令しておきながら、ドイツとは1939年に独ソ不可侵条約を締結し、日本とは1941年に日ソ中立条約を締結している。
そして日本を支那とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて、漁夫の利を占める戦略を立てて、日本の敗戦が近いと分かった時点で、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告している。
これは『砕氷船のテーゼ』のシナリオ通りで、初めからそうするつもりであったと考えるしかないのだ。

倉前氏は盧溝橋事件をこう纏めている。
「日本と中華民国との全面武力衝突は、米国もソ連も大いに歓迎するところであったし、日本の本物の左翼も、中国共産党も大歓迎であった。巧妙なワナにはまったとも悟らず、暴走したのは愚かな日本の軍部と何も知らぬ日本人大衆だけだったわけである。」(同上書 p.64)

私は、コミンテルンを知らずして20世紀の歴史は語れないと考えるようになったのだが、このような史実に言及している論文や著書は極めて少なく、こういう史実を語ることが、未だにマスコミや歴史学会ではタブーになっているかのごとくである。
少なくとも、盧溝橋事件については中国共産党が、自らがやったことを表明しているのであるから、せめて教科書には「中国共産党の謀略により」と、堂々と書いて欲しいものである。

現在のように、諸外国の圧力を怖れるあまりに自国の歴史記述を歪めるような行為を続けることは、わが国に対しては嘘の歴史であっても何度も繰り返し圧力をかけておけば、いずれはその嘘が認められて我が国の教科書にも載るようになるとの誤ったメッセージを諸外国に発することになってしまう。

imagesCAYEXZ0E.jpg

我が国の立場と異なる歴史を広めることによって、いままでどれだけ多くの国益が失われてきただろうか。嘘の歴史記述を押し付けてくるような国に対しては、政治家はもっと毅然とした態度をとって欲しいし、有権者はそういう政治家を選ばなければ国が危うくなるばかりである。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓           


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加


「二・二六事件」と中国の「西安事件」に垣間見えるコミンテルンの影

前回の記事で、昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会におけるスターリン演説を紹介し、当時コミンテルンが立てていた戦略は、日本を支那とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて、最後に漁夫の利を占めることであったことを書いた。

このコミンテルン大会の後でわが国と中国で起こった事件を調べてみると、不可解でかつ重大な出来事が相次いでいることに気が付く。

先に中国側の出来事から見て行こう。
まず、第7回コミンテルン大会期間中に、モスクワにいた駐コミンテルン中国共産党代表団が、中国共産党と中華ソビエト共和国中央政府が共同で、日本の中国進出に対抗するよう要求した「八・一宣言」を発表した。
その当時中国国民党は反共主義者である蒋介石が率いており、蒋介石は日本に対しては宥和的な姿勢で臨みつつも、共産党に対しては激しい攻撃を加えていた。
多くの戦死者が出ていた共産党軍は、第7回コミンテルン大会の前年の1934年10月に瑞金から脱出してソ連国境に近い延安に逃れたのだが、この時も蒋介石軍に追撃されて65千人もの兵士を失っている。
「八・一宣言」を無視してさらに蒋介石は延安への攻撃を図り、共産党軍が壊滅的状態になるかと思いきや、ここで「西安事件」が起きて事態が一変するのだ。

西安事件

西安事件」とは1936年12月12日に西安で張学良らによって蒋介石が拉致監禁されて内戦の停止・政治犯の釈放などを要求した事件である。当初、蒋介石は張学良らの要求を強硬な態度で拒絶したのだが、共産党の周恩来らが西安入りして蒋介石らと話し合いがもたれてから、蒋介石の態度が急変する。
前回の記事で書いた盧溝橋事件がおこり日中戦争に突入すると、国民政府は中共掃討を放棄し、第二次国共合作が成立して、抗日全面戦争に進んでいく流れだ。

蒋介石監禁の報を受けた当初、中国共産党は蒋介石殺害を検討したようだが、スターリンからは「蒋介石を釈放しなければコミンテルンを除名する」と恫喝されて、中国共産党は国民党と手を組んで(「国共合作」)抗日戦を継続することとなった。どうやらスターリンは、早期に内戦を終焉させて日中戦争に持ち込み、日本を中国に釘付けにさせて対ソ戦を回避させるという思惑が存在していたようだ。

拉致監禁された蒋介石に対して周恩来が何を話したのかについては、記録が何もなく、本人も死ぬまで語らなかったために今も不明なままである。
ところで、もし「西安事件」が起こらなかったら中国共産党はどうなっていただろうか。 当時蒋介石に近かった文学者、外交官の胡適は「西安事変がなければ共産党はほどなく消滅していたであろう。・・西安事変が我々の国家に与えた損失は取り返しのつかないものだった」と述べているが、それほどこの事件は絶妙なタイミングで起こっているのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
次にわが国の出来事を見てみよう。

第7回コミンテルン大会の翌年の昭和11年(1936)の2月に二・二六事件が起こり、昭和12年(1937)7月に盧溝橋事件がおこり、同じ月に通州で日本人居留民が大量に虐殺される事件が起こっている(通州事件)。
またその年の12月に日本軍が南京を占領するが、この時に日本軍による大虐殺があったかなかったかで今も議論が続けられている。南京占領についてはいずれこのブログで書くことがあると思うが、日中間の争いを泥沼化させることがコミンテルンの戦略であったという流れの中で見ることが必要であるし、中国側の言っていることを鵜呑みにすることは危険であると考えている。

通州事件

また、我が国の教科書や通史には「南京大虐殺」は載せても「通州事件」を載せることがないのだが、「通州事件」を載せないというのは教科書記述としてはかなり公平性を欠くものだと思う。通州事件についてはネットでいくらでも読むことができるが、このような残虐な手口は卑劣な挑発行為であると誰でも思うのではないだろうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6
今回は二つの虐殺事件はこの程度にして、「二・二六事件」について振り返ってみることにする。この事件は『もう一度読む山川日本史』にはこう記述されている。

226事件

「…軍部はしだいに政治的発言権を強め、日本は、ワシントン海軍軍縮条約を廃棄し、ロンドン海軍軍縮会議も脱退して、着々と軍備拡張をすすめた。
このころ、陸軍の内部では皇道派と統制派の派閥的対立もからんで緊張が高まりつつあったが、1936年(昭和11)2月26日、皇道派の急進的な陸軍青年将校が、千数百名の兵士を率いて反乱をおこし、内大臣斉藤実・大蔵大臣高橋是清ら要人を殺害し、首相官邸などを占拠した。これが二・二六事件である。戒厳令が出され、反乱はまもなく鎮圧されたが、陸軍当局はその指導者を処刑し、陸軍部内の統制を確立するとともに、事件後の広田弘毅内閣に圧力をかけて、軍部大臣現役武官制を復活させるなど、政治の主導権をにぎっていった。」(『もう一度読む山川日本史』p.299-300)

事件の経緯についてはこれ以上詳しく書くつもりはないが、この事件によって軍部の勢力地図はどう変わったのかがこの教科書では良くわからない。
前回紹介した、倉前盛通氏の『悪の論理』にはこの点についてわかりやすくこう書かれている。

「これは同じ年に発生した中国の西安事変と、同じ目的を持っていた。
当時の陸軍内部は『蒋介石と和解し、ソ連に対抗するための国力の充実をはかろう』という派と、『対ソ作戦は棚上げにして、まず、シナ大陸を支配しよう』という二つの派に大別されていた。皇道派、統制派、中間派、いろいろな名称があり、一人一人の派閥関係には不明な点もあるが、いずれにせよ、二・二六事件によって『蒋介石と和解し、対ソ作戦の準備に力を入れよう』と主張する人々はほとんど陸軍から排除され『支那大陸への侵攻』を考えるグループによって陸軍の主導権が握られたことは疑いを入れない。ここにも、日中を戦わせようとする米ソ双方の巧妙きわまる陰謀工作が伏在していたと筆者は信じている。
こうしてみると、昭和十年の第七回コミンテルン大会、昭和十一年の二・二六事件と西安事変、昭和十二年の日支事変勃発(盧溝橋事件)の四者の間には密接不離の脈絡があることがわかるであろう。
昭和10年代に、この点をいうことはタブーであった。うっかり、こんなことをいえば、『皇軍を侮辱する気か』と憲兵隊に引っ張られることは明らかであった。
敗戦後も、この点を指摘することはタブーであった。これを言うことは『日本帝国主義の罪科を、米ソ両国と中国共産党に着せようとする反動分子の詭弁』として袋叩きに合うことは必至だったからである。」(倉前盛通氏『悪の論理』p.64-65)

倉前氏が書いている『蒋介石と和解し、対ソ作戦の準備に力を入れよう』と主張する人々は『皇道派』で、『支那大陸への侵攻』を考えるグループは『統制派』と言われるグループだと考えて良いが、『二・二六事件』を機に皇道派将校は予備役に追いやられて統制派が実権を握り、さらに退役した皇道派の将校が陸軍大臣になることを阻むべく、「軍部大臣現役武官制」が復活されたために、その後、特に陸軍は政治色を強めていくことになる。
統制派が実権を握るという事は、日中が戦うということであり、「軍部大臣現役武官制」が復活して軍隊が暴走したら総理大臣ですら止められない仕組みを導入してしまったという事は、まさにコミンテルンのシナリオ通り進んだということではなかったのか。
倉前氏が指摘しているのは、日中が同じ時期に、お互いが相戦う方向に突き進んだことに何らかの工作があったのではないかというのだが、確かに日中両国で、コミンテルンにとって都合のいい勢力だけがタイミングよく残り、双方の戦いが泥沼化する体制が完成したというのは、とても偶然だとは思えないのだ。

前々回の記事で紹介した三田村武夫氏の『大東亜戦争とスターリンの謀略』に、二・二六事件で被告となった反乱将校らの獄中手記がいくつか紹介されているが、これを読むと、当時の皇道派の反乱分子は、目の前の戦いに勝つことよりも、わが国の国家改造を第一に考えていたようである。現代人のイメージからすれば少なくとも右翼ではなく、反ソ・反共とは言いながら左翼の考え方に近いところがある。

例えば栗原中尉はこう書いている。

栗原安秀

「多くの同志にとり極めて不幸なりし二・二六事件は…大国民運動の前衛戦となりしことを自負し、以て自ら慰むるものなり。…事件以後は、青年将校の運動より、下士官、兵を一丸とせる大運動へ発展せざるべからず。」
「今日本を誤りつゝあるは、軍閥と官僚だ、その二者を殲滅せば失へる財閥は、自ら崩壊せざるを得ざるべく、財閥の背景なくして売国的政党の存立するなし。昭和維新も、兵卒と農民と労働者との力を以て軍閥、官僚、政党を粉砕せざる間は招来し得ざるものと覚悟せざるべからず」 (三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.123-124) と、最後の文章はまるで革命の闘士のようだ。

注目すべきは、新井元陸軍中尉の文章だ。
「国家改造を夢見ながらも、青年将校と幕僚との間には、十月事件以降溝ができた。続いて起こった血盟団や昭和七年の五・一五事件は、いづれも青年将校の流れをくむものであつたが、幕僚を主体とする軍はこの機会を巧みにつかんで、ついに政党政治に終止符を打つた。政権把握の軍の野望達成には、最早国内テロの必要はなくなつた。戦争が開始されれば、必然的に軍の権力は拡大する。望むのは戦争だけである。国際的進出―対外侵略―と併行し、その企画統制の下に国家改造を断行する。これが永田鐡山を首領とする統制派幕僚の政策であった。
政党政治が崩壊しても、それだけでは青年将校の国家改造運動は、到底おさまる筈がなかつた。昭和三年来全国を襲つた深刻な不景気、特に中小商工業社や、農、山、漁村の困窮を最も敏感に感じ取つたのは、兵と直接接触する青年将校である。腐敗した政党と貪欲な財閥を打倒し、悩む下層階級を救おうといふのが、かれらを貫く思想であつた。…中でも東北地方の冷害で、満州に出征した兵の家庭では、姉妹が娼婦に売られる悲劇さえ起きていた。この社会矛盾の解決なしには、青年将校の間に広まつた国家改造の機運はおさまる道理がなかつた。」

226事件2

新井がこの事件によって軍の政権掌握の野望のために国内テロは不要となったと言っているのは注目して良い。この文章から、この事件によって統制派が実権を掌握したことでわが国は戦争に突き進んで、敗戦革命による「国家改造」を断行するというシナリオが垣間見えるのである。
ところで新井中尉は二・二六事件の叛乱者としてではなく、司令官軍隊を率い故なく配置の地を離れたために、禁固6年を言い渡された人物である。

前々回の記事で、レーニンの「敗戦革命論」のことを書いたが、これらの青年将校のかなりの部分はこの考えに従っているか、あるいは何者かに洗脳され焚き付けられて、そのように動かされていたのではないだろうか。

第6回コミンテルン大会の決議の一部を再度引用してみたい。
「帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること
共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない」

新井中尉が、「青年将校の間に…国家改造の機運がおさまる道理がなかった」と書いている通り、このレーニンの「敗戦革命論」に刺激されて、軍隊を「内部から崩壊せしめる」ために入隊した隊員が少なからず存在し、その中で兵を統率する立場になった者が相当存在していたことは確実だ。そして彼らに手渡された兵器は、敵国から国を守るためよりも、「国家改造」のために、何度かわが国の政治家や経済人や軍閥に銃口が向けられることになったのだ。

軍部の統制派が我が国の実権を掌握したために、政治家では軍部の暴走を止めることが出来なくなっていった。
この軍部の暴走は、大日本帝国憲法第11条により陸海軍の統帥権を持つ天皇しか止めることができなかったはずだ。昭和天皇は、広島・長崎に原爆が投下されソ連が我が国への侵攻を開始した極めて適切なタイミングで終戦のご聖断を下され、わが国がドイツや朝鮮半島のように共産主義勢力により国家を分断される危機を救われたのだが、このことはもっと評価されて良いことではないかと考えている。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓           


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加


アメリカのルーズベルト政権に垣間見えるコミンテルンの影

前々回の記事で昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会におけるスターリンの演説で「砕氷船のテーゼ」と呼ばれる部分を紹介した。再掲すると、

「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

という内容だが、その後の歴史は日米開戦まではこのテーゼの通りに展開し、わが国は千島や樺太を除き大部分は共産化を免れたが、ドイツの半分は共産国となり、その後東欧やアジアのいくつかの国々が共産陣営に入ったのだ。

350px-Socialist_states_by_duration.png

前回までの記事で、相戦う気配もなかったわが国と中国とがドロ沼の戦いに突き進んで行ったのは、コミンテルンの工作によるものである可能性が高いことを書いた。
ここまで書くと、なぜわが国がアメリカと戦うことになり、その過程でコミンテルンの関与があったかどうかについても書かねばなるまい。

まず、一般的な日本史教科書では日米開戦についてどう書かれているか。たとえば、『もう一度読む山川の日本史』では、

「ゆきづまった日米交渉
日独伊三国同盟の成立と日本の南進開始以後、日米関係は悪化の一途をたどったが、1941 (昭和16) 年4月からワシントンで日米交渉が始まり、戦争を回避するための努力もつづけられた。しかし、日本軍の中国からの撤兵問題などをめぐって交渉は難航した。

1941年6月、独ソ戦争が始まると、日本はドイツが優勢になればソ連との戦争にのりだす準備をするため、関東軍特殊演習という名目で、ソ連との国境近くの北満州に大軍を動員するとともに、同年7月、南部仏印(フランス領インドシナ南部)進駐をはじめた。アメリカはこれに対抗して在米日本資産の凍結、対日石油輸出の禁止を断行し、イギリス・中国・オランダと協力して、日本に対する経済封鎖を強めた(ABCD包囲網)。石油の大部分をアメリカから輸入していた日本にとって、これは大きな打撃であった。日本国内では陸軍が対米開戦論をとなえ、慎重だった海軍でも、強硬意見が大勢を占めるようになった。

日米開戦
1941(昭和16)年10月、日米交渉にゆきづまって第3次近衛内閣が退陣すると、かわって陸軍の実力者東条英機が内閣を組織した。日米交渉はなおもつづけられたが、妥結のみとおしはほとんどなくなっていた。アメリカは日本のあいつぐ南進政策に不信感をいだき、同年11月、日本へきわめて強硬な内容のハル・ノートを提示したので、日本はここに最終的に開戦を決定した。
1941(昭和16)年12月8日、日本海軍はアメリカの海軍基地ハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、陸軍はイギリス領マレー半島に上陸するなど、東南アジア・太平洋各地で軍事行動をおこし、アメリカ・イギリスに宣戦布告した。…」(『もう一度読む山川日本史』p.307)

と記述されているが、この文章では、なぜわが国が日米開戦に追い込まれたのかが今ひとつピンとこないし、戦争の原因が主にわが国にあるような印象を受ける。
そもそも国家が理由もなく他国を攻撃することがあるはずがないのだが、我が国の開戦理由についてどれだけの人がこの程度の叙述で納得できているのだろうか。

ハリーホワイト

この教科書には「ハル・ノート」が、わが国が開戦を決定するに際して極めて重要な役割を果たしたことが書かれているが、この内容を起草したのはルーズベルト政権下で財務次官であったハリー・ホワイトであったことがわかっている。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722420010-n1.htm

このハリー・ホワイトという人物は、1948年の夏の下院非米活動委員会において共産主義者であると告発を受け、その時に彼は否定したのだが直後に不可解な死を遂げている。
その後アメリカが傍受していた大量のソ連の暗号文書「ヴェノナ文書」が公開され、その文書により彼がコミンテルンのスパイであったことが判明し、1948年の下院非米活動委員会における告発が正しかったことが証明されている。

venona.jpg

ヴェノナ文書」のことは以前このブログでも書いたが、アメリカ陸軍省の特殊情報部が1943年以降極秘裏に解読してきたソ連情報部暗号文書のことで、解読に成功したのは第二次世界大戦が終戦したあとの1946年以降のことである。
アメリカ国家安全保障局中央保安部の次のサイトから、解読され英訳された「ヴェノナ文書」のタイプ打ち原稿の一部を誰でも読むことができる。
http://www.nsa.gov/public_info/declass/venona/

この「ヴェノナ文書」の解読によって、当時のルーズベルト政権では、ハリー・ホワイトのほかに、常勤スタッフだけで2百数十名、正規職員以外で300人近くのソ連の工作員、あるいはスパイやエージェントがいて暗躍していたことが判明しているのだそうだが、彼等は太平洋戦争終戦後もしばらくアメリカの政権の中枢部にいたという。

ジョゼフ・マッカーシー

彼らがアメリカの中枢部から排除されたのは、1950年に共和党議員のジョセフ・マッカーシー(上画像)が、当時において「205人の共産主義者が国務省職員として勤務している」と告発したと伝えられる演説を契機に大規模な「赤狩り」が行われた以降のことであり、それまではソ連に繋がる人脈がアメリカの政治や外交に影響を与えていたことになるのだ。

F.ルーズベルト大統領の時代にこれだけコミンテルンに近い人材がアメリカの中枢部にいて、彼等はそこで何をしていたのか。その後のアメリカは、スターリンの「砕氷船のテーゼ」通りにドイツおよび日本と戦うことになったのだが、これは果たして偶然だったのであろうか。

そもそもF.ルーズベルトは、選挙では、戦争に介入をしないと宣言をして大統領に当選しており、参戦したくても出来ない状況にあったし、当時のマスコミも世論も、アメリカが戦争に参戦することに強く反対していた。
では、なぜアメリカは、ドイツと日本の二国と戦うことになったのか、ルーズベルト政権の動きを日米の問題を中心に纏めてみよう。

前回の記事で、日中が本格的に戦う体制が出来上がったのが、1936(昭和11)年の二・二六事件と12月の西安事件の頃で、1937(昭和12)年7月に日中の最初の衝突となる盧溝橋事件が起こったことを書いたが、F.ルーズベルトはこの直後から、中国国民党を追い込む日本に圧力をかけ、大量の軍事物資を援蒋ルートを通じて蒋介石率いる国民党政権に送り続け、さらに義勇軍「フライング・タイガース」(米国の正規兵300名)と100機の戦闘機(P40-B)、や軍事顧問の派遣を決定して実行している。
240px-Flyingtiger1.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B9

また1937 (昭和12) 年10月5日、F.ルーズベルトはシカゴで日本とドイツを侵略国家として非難する演説を行っている。 (「隔離演説」)
「世界の九割の人々の平和と自由、そして安全が、すべての国際的な秩序と法を破壊しようとしている残り一割の人々によって脅かされようとしている。…
不幸にも世界 に無秩序という疫病が広がっているようである。身体を蝕む疫病が広がりだした場合、共同体 は、疫病の流行から共同体の健康を守るために病人を隔離することを認めている。…
宣戦の布告も警告も、また正当な理由もなく婦女子をふくむ一般市民が、空中からの爆弾によって仮借なく殺戮されている戦慄すべき状態が現出している。このような好戦的傾向が漸次他国に蔓延するおそれがある。彼らは平和を愛好する国民の共同行動によって隔離されるべきである」

200px-FDR_in_1933.jpg

そして、この演説の翌日に、中国における日本の行為を、アメリカは九カ国条約とケロッグ-ブリアン条約(パリ不戦条約)違反だとみなし、声明は国際連盟の決議に沿うものとして、日本を明確に名指している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88

F.ルーズベルト大統領の「隔離演説」については、アメリカ国内ではマスコミや労働界から「アメリカを世界戦争に巻き込もうとしている」との大非難を受けたのだが、その後も1941(昭和16)年に「武器貸与法」を成立させ、終戦までに総額501億ドル(2007年の価値に換算してほぼ7000億ドル)の物資が供給され、そのうち314億ドルがイギリスへ、113億ドルがソビエト連邦へ、32億ドルがフランスへ、16億ドルが中国へ提供されたという。
このように、ルーズベルトが中国に対してとった支援内容は、冒頭の「砕氷船のテーゼ」のとおりに「日米決戦」まではアメリカは蒋介石の中国が日本と戦って日本軍を消耗させるために、アメリカの正規軍と戦闘機と武器を送り込んで実質上の参戦を果たしていたのだ。

1941(昭和16)年の4月からは日中間の戦争調停と日米間の合意を目指す日米交渉が本格化したが、日独伊三国同盟問題や満州国など日米の溝は大きく、交渉はまとまらなかったようだが、アメリカ側に交渉をまとめる意思があったのか。

そもそも当時日本の指導部は、日米の国力の差を考えて対米戦争に対しては消極的であったという。
前々回の記事で紹介した倉前盛通氏の『悪の論理』によると、こんな数字が出ている。
鉄鋼生産  日本800万トン、 米国1億トン
石油生産  日本 20万トン、  米国2億トン
自動車生産 日本 約6万台、 米国600万台
倉前氏がコメントしているように、こんな圧倒的な数字の格差を見れば、わが国が米国との戦争を考えるはずがなく、庶民ならともかく、政府も軍部も財界も、米国との戦争はどうしても避けたいと考えるのが当然であろう。

そして6月に独ソ戦が開戦する。
7月2日に策定されたわが国の「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」にもとづきわが国が南部フランス領インドシナ進駐をほのめかし7月28日に日本軍の進駐が実行されると、それに並行してアメリカは7月25日に在アメリカのわが国の資産凍結を行い、8月1日にアメリカは「日本を含む全侵略国」への石油禁輸を行った。

前々回の記事で紹介した『悪の論理』によると、当時わが国の石油消費量は約400万トンで、その95%近くを米国からの輸入に頼っていたそうである。また、当時のわが国の石油の備蓄は600万トンだった。1年半も経たないうちにわが国の経済が成り立たなくなることが目に見えていたはずだ。

野村吉三郎

日本政府は昭和16年1月末から野村吉三郎海軍大将を特命全権大使として派遣し、同年の11月には来栖大使もワシントンに派遣し、日米関係の好転と経済制裁解除のために最後の努力を振り絞り、あらゆる譲歩を行っている。

倉前氏はこう書いている。
「日本は米国の要求をいれて、日独伊三国同盟を死文化することに同意し、ハル長官はこれに満足の意を表している。その半面、米国は依然として、中立法をおかして、英国船団の護衛を続けていたのである。つまり、米国は英国を助けるが、日本はドイツを助けるなと言う一方的要求を日本はやむなくうけ入れたのである。また仏印、支那大陸から撤退することにも合意し、中国人民が望むなら、蒋介石が中国政府の中心人物に復帰することにも同意したのである。この事実も戦後、いっさい、日本国民に知らされていない。
日本政府も、軍部も、米国との和解を心から希望してここまで譲歩した。そこへ突如として11月26日のハル・ノートが届いたのである。」(倉前盛通『悪の論理』p.76-77)

わが国がここまでアメリカに譲歩したことについては、教科書や市販されている現代史の本にはほとんど書かれておらず、マスコミが報道することもないのだが、現代の日本人にはこういう史実を知られては困ると考える勢力が、未だに教育界やマスコミ・出版界にかなり存在しているという事なのか。
普通に考えれば、ここまで譲歩したのならばアメリカが我が国と戦う理由がどこにあったかのと疑問に思うのだ。アメリカはただ参戦したかったというだけで、ルーズベルト大統領にそのような決断を仕向けさせたのは、彼の周りにいたコミンテルンにつながる人脈で、もとを正せばスターリンの「砕氷船のテーゼ」と関係があるのではないだろうか。

随分長くなってしまったので、肝心のハル・ノートの内容および日米開戦については次回以降に書くこととしたい。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓           


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加


「ハル・ノート」は、アメリカが日米開戦に持ち込むための挑発だったのか

前回の記事で、わが国に日米開戦を決断させたとされる「ハル・ノート」を書いたのは、後にソ連のスパイであったことが判明した米国財務省次官のハリー・ホワイトであったことを書いた。また当時のルーズベルト政権の内部や周りには、ハリー・ホワイトだけでなく数多くのソ連スパイや工作人、協力者が存在したことが、戦後アメリカが解読に成功したソ連の情報文書(『ヴェノナ文書』)で判明しているのだ。

この『ヴェノナ文書』だけでは信じられない人もいるだろうが、旧ソ連側からも工作人が「ハル・ノート」作成に関与したことを裏付ける証言が近年になって出てきている。元ソ連NKVD(内閣人民委員部、後のKGB)工作員であったビタリー・グリゴリエッチ・パブロフが、当時このホワイトに接触し、ホワイトが草案を書くにあたって参考にするようメモを見せたと、近年になって証言しているのである。

パブロフは1995年にホワイトとの交渉などを『スノウ作戦』という自著に記し、1997年にNHKの特別番組の取材を受けて、その内容についてはわが国でも放送されたそうだが、この時のインタビューの内容の詳細が須藤眞志氏の『ハル・ノートを書いた男』(文春新書p.129-164)に記述されている。

ハルノートを書いた男

須藤氏の著書によると、パブロフとホワイトが会ったのは1941年の5月で、ワシントンで昼食を共にした時間にパブロフはホワイトにメモを渡している。証拠を残さないためにそのメモはその場で回収されたために内容の検証は不可能だが、そのメモの内容のいくつかが「ハル・ノート」の草稿に少なからずの影響を与えた可能性が高い。

またパブロフの著書『スノウ作戦』の内容の一部が産経新聞社の『ルーズベルト秘録 下』(p.272-276)に紹介されている。

ルーズベルト秘録

パブロフがホワイトに渡したメモがそのままハル・ノートになったわけではないようなのだが、その『スノウ作戦』という本には「作戦は見事に成功し、日本に突きつけられた厳しい対日要求、ハル・ノートこそがその成果だった」と書いていることは注目して良い。

では、ハル・ノートとはどのような内容で、なぜわが国はその内容を最後通牒と考えたのか。その点についてはあまり教科書には書かれていないのである。

次のURLに原文および日本語訳が紹介されているが、重要な部分は第2項の各条文である。
(英語原文) http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/dic/data/hullnote.html
(日本語原文ならびに口語訳)
http://members.jcom.home.ne.jp/rekisi-butaiura/hull%20note.htm
この内容が日本側に失望を与えたというのだが、そのことは8か月にわたる日米交渉の経緯をある程度知らなければ理解しづらい。

Wikipediaに日米交渉の経緯が書かれているので、それを参考に纏めてみる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88
1941(昭和16)年11月20日に日米交渉においてわが国は以下の「乙案」を提示した。
「1.日米は仏印以外の諸地域に武力進出を行わない
2.日米は蘭印(オランダ領東インド)において石油やスズなどの必要資源を得られるよう協力する
3.アメリカは年間100万キロリットルの航空揮発油を対日供給する
備考:(A) 交渉が成立すれば日本は南部仏印進駐の日本軍は北部仏印に移駐する (B) 日米は通商関係や三国同盟の解釈と履行に関する規定について話し合い、追加挿入する」

アメリカ政府は日本の「乙案」についての対応を11月21日に協議し、3か月間は日米の通商関係を資産凍結令以前の状態に戻すなどの内容の「暫定協定案」を検討していたが、26日早朝までにハル国務長官とルーズベルト大統領との協議が行われ、「暫定協定案」が放棄されて、ホワイト作成の「ハル・ノート」を提示することになったという。

「ハル・ノート」について、わが国が到底飲めなかった部分は以下の点である。
・支那大陸やフランス領インドシナからの即時無条件完全撤退(第2項-3)
・汪兆銘政権(南京政府)を見捨てて重慶の蒋介石政権(重慶政府)を支持すること(第2項-4)
・日独伊三国同盟の死文化(事実上の破棄)(第2項-9)
我が国に対しこれだけのことを要求しておきながら、わが国が最も強く求めていた経済封鎖解除に関する回答は一言もない。これでは石油などの必要資源が得られる保証が全くない。

今まで何度か紹介した倉前盛通氏の解説を紹介しよう。
「この電文をうけとった時、日本の首脳部は青天の霹靂に打たれた感を持ち、米国は、どうしても日本との戦争を欲しており、もし日本が手を出さなかったなら、米国の方から攻撃が加えられることをはっきり知らされた。それは、完全な日本への無条件降伏要求であり、『日本は明治維新以前の四つの島にもどれ』という通告であった。…

0815-pal01.jpg

極東軍事裁判の判事として列席したインドのパール判事は、その判決文、『日本無罪論』の中で、『アメリカ政府が日本政府へ送ったものと同じ通牒をうけとった場合、モナコ王国、ルセンブルグ大公国のような国でさえも、アメリカに対して武器をとって起ち上がったであろう』と述べている。およそ、世界の外交史でハル・ノートのように極端に挑発的な最後通告は空前絶後といえるであろう。…
米国が何故、この時点で態度を急変させたか、それは米国の戦争準備が完了したからである。大戦に参加する決意をさだめてから、米国は鋭意、戦争の準備をすすめていた。10か月にわたる日米交渉も、実はアメリカが時を稼ぐための芝居にすぎなかった。徹頭徹尾,不誠意であったのはアリカの方である。…
ハル国務長官は、ハル・ノートを日本につきつけたあと、米国の陸海軍首脳に対して、『これで僕の仕事は終わった。あとは君たちの仕事だ』と洩らしている。英国大使にも同じことを伝えた。
ルーズベルトは、日本の回答を待つことなく、11月27日付で米国前哨指揮者に『戦争体制に入れ』という命令を発した。真珠湾は断じて不意打ちではなかったのである。」(倉前盛通『悪の論理』p.77-78)

前回の記事に書いた通り、当時のわが国の石油消費量は年間約400万トンで、その95%近くを米国からの輸入に頼っていた。また当時のわが国の石油の備蓄は600万トン程度しかなく、その状態でアメリカは7月に石油をわが国に輸出しないことを一方的に通告してきたのである。それから約4か月日米交渉が続いた結末がハル・ノートで、石油の備蓄はさらに減って、開戦したころは1年分程度の備蓄しかなかったのである。これではハル・ノートを受諾したところでわが国の経済が成り立つはずがないではないか。満州や朝鮮半島や台湾やインドシナの権益をすべて捨てて石油も資源も手に入らないのでは、国民の支持が得られないどころか、暴動になってもおかしくない。

嶋田繁太郎

当時の海軍大臣であった嶋田繁太郎はこう語ったという。
「十一月二十六日、ハル・ノートを突きつけられるまで、政府、統帥部中、だれ一人として、米英と戦争を欲したものはいなかった。日本が四年間にわたって継続し、しかも有利に終結する見込みのない支那事変で、手いっぱいなことを、政府も軍部も知りすぎる程知っていた。天皇は会議のたびに、日米交渉の成り行きを心から憂慮されていた。第二次近衛内閣も、東条内閣も、平和交渉に努力せよという天皇の聖旨を体して任命され、政府の使命は日米交渉を調整することかかっていた。」(同上書 p.80-81)

東郷茂徳

また当時の外務大臣であった東郷茂徳は、こう述べている。
「ハル・ノートを野村大使からの電報で受けとった時、眼もくらむばかりの失望にうたれた。日本が、かくまで日米交渉の成立に努力したにもかかわらず、アメリカはハル・ノートを送って、わが方を挑発し、さらに武力的弾圧をも加えんとする以上、自衛のため戦うの外なしとするに意見一致した」(同上書 p.81)

驚くなかれ、アメリカ陸軍元帥、GHQ最高司令官を歴任したダグラス・マッカーサー自身が1951年の5月に上院軍事外交共同委員会で、この戦争を日本の自衛戦争だという趣旨のことを述べている。
http://www.chukai.ne.jp/~masago/macar.html

マッカーサー

「日本が抱える八千万人に近い膨大な人口は、四つの島に詰め込まれていたということをご理解いただく必要があります。
そのおよそ半分は農業人口であり、残りの半分は工業に従事していました。
潜在的に、日本における予備労働力は、量的にも質的にも、私が知る限りどこにも劣らぬ優れたものです。
いつの頃からか、彼らは、労働の尊厳と称すべきものを発見しました。つまり、人間は、何もしないでいるときよりも、働いて何かを作っているときの方が幸せだということを発見したのです。
このように膨大な労働能力が存在するということは、彼らには、何か働くための対象が必要なことを意味しました。
彼らは、工場を建設し、労働力を抱えていましたが、基本資材を保有していませんでした。
日本には、蚕を除いては、国産の資源はほとんど何もありません。彼らには、綿が無く、羊毛が無く、石油製品が無く、スズが無く、ゴムが無く、その他にも多くの資源が欠乏しています。それらすべてのものは、アジア海域に存在していたのです。 これらの供給が断たれた場合には、日本では、一千万人から一千二百万人の失業者が生まれるという恐怖感がありました。
したがって、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです。」
マッカーサーは朝鮮戦争でソ連軍と対峙してはじめて、満州を共産勢力に渡さないことが、わが国が国を守る為に必要であったことを理解したのだろうか。いずれにせよ、この発言の4か月後にアメリカはわが国の占領政策を変更し、わが国を独立させようとバタバタとサンフランシスコ講和条約を締結することになるのである。

「窮鼠猫を噛む」のことわざの通り、「ハル・ノート」を受け取ったわが国は生存権をかけて日米開戦の道を選択せざるを得なかったというのが真相であったと思うのだが、敗戦国の悲しさで、この戦争の責任のほとんど全てがわが国に擦り付けられた状態にあるのが現実である。
アメリカやロシアや中国など戦勝国にとって都合の悪い史実のほとんどが伏せられているために、わが国はリアリティのない浅薄な歴史記述を押し付けられて、それがマスコミや教科書に拡散され、いつの間にか日本人の常識になってしまっているのは残念なことだ。
しかし、この洗脳を解かないことには、本当の意味でわが国の「戦後は終わらない」のだと思う。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓           


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加


日本軍が真珠湾に向かっていることを知りながら手を出させなかったアメリカ側の事情

このブログで日中戦争からハル・ノートまでの流れをいろいろ書いてきたが、アメリカが絡む問題で、一つ書いておきたいことがある。

アメリカで1935年に成立した「中立法」という法律があるのだが、この時代を読み解くにあたっては、この法律を理解しておくべきであることを最近になってようやく分かってきた。
この法律を調べると、米大統領が、戦争状態にある国が存在していることまたは内乱状態にある国が存在していることを宣言した場合には、交戦国または内乱国に対して武器や軍需物質の輸出を禁止する法律であると説明されている。

例えば、盧溝橋事件を契機にわが国と中国とがお互いに宣戦布告をせずにずるずると軍事衝突の継続状態に入ったのだが、もしいずれかが宣戦布告をしていたとすれば米大統領により「戦争」状態と宣言されてアメリカの「中立法」の適用対象となってしまう。
中国はアメリカから武器や軍需物資の支援を受けられなくなって戦うことが困難となり、わが国はアメリカから石油や資源が輸入できなくなってしまって自国の経済が成り立たなくなってしまう。
だから日中は宣戦布告をしないまま戦い続けながら、この争いを「戦争」と呼ばずに「支那事変」などと呼び、日中両国がお互いにアメリカとの貿易がストップすることを避けようとしたということなのだ。
http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page061.html

ホワイトハウス

しかしながら、そもそも「中立法」は、アメリカが二国間の紛争などに巻き込まれることがないようにするための法律である。アメリカの議会では、日中間における「事変」については実質的には「戦争」であるから「中立法」を適用し、日本に戦争資材供給を禁止せよとの議論がかなりあったようだ。

ところが、「中立法」が発動されると、アメリカはわが国の交戦国である中国に対し武器の輸出が出来なくなってしまうことに、強く反対する国内勢力が存在した。
アメリカ政府は「相互に宣戦布告を行っていない両国間の関係で、アメリカが戦争の存在を確認するのは好ましくない」という理由で、日中の軍事衝突に関して「中立法」の発動を避けたという経緯があったようなのだ。

チャーチル

この「中立法」にからんで、もう一つの問題があった。同盟国からの参戦要請があっても簡単には応じられない点である。現にアメリカはイギリスのチャーチル首相から参戦の要請を受けていた。アメリカがすぐに参戦できなかったのは、参戦に反対する当時の世論もあったのだが、参戦すること自体が「中立法」に抵触することが問題であったようだ。

何度かこのブログで紹介している倉前盛通氏の『悪の論理』に、こう書かれている。

「昭和16年6月、ドイツがソ連と戦端を開いたとき、米国のルーズベルト大統領は、いよいよ、欧州の大戦に介入すべき時が来たと判断した。…
当時、米国には中立法という法律があり、海外の戦争に介入することを禁止していた。欧州でナチス・ドイツと英仏の間戦争がはじまり、フランスが降伏し、英国もドイツの猛烈な空襲と、ドイツ潜水艦による通商破壊戦のため、絶体絶命の危地に陥ってしまった。ルーズベルト大統領としては、この英国の危機を救うために、何とかして、欧州の戦争に介入してドイツと戦いたいと焦慮したが、中立法があるために意にまかせなかった。
しかし、米国は昭和15年、50隻の駆逐艦を英国に売り、その代償としてバミューダ島の永久租借権を得た。これは明らかに中立国としての国際法違反である。その上、米国駆逐艦によって、英国商船隊の船団防衛をおこなった。これは、もはや米国海軍の直接的な公然たる戦争介入であった。ヒトラーは米国の挑発に乗らぬようドイツ潜水艦に厳命を下していたが、米国駆逐艦による不法な爆雷攻撃が、あまりに執拗に続けられたので、たまりかねて、正当防衛のため、ドイツ潜水艦が米駆逐艦を撃沈してしまうという事件が発生した。 ルーズベルトは、こおどりして喜び、早速、議会に対し、「ドイツ潜水艦の不法攻撃のため、米駆逐艦が撃沈された。ただちにドイツに宣戦しよう」と提案したが、米議会がよく調べたところ、中立法を破って英国船団を護衛していたのは、米国の軍艦であったことが判明し、かえって、議会から「悪いのは米国海軍の方ではないか」とやっつけられ、ルーズベルトの目算は外れてしまった。
そこで、次に目をつけられたのが日本であった。」(倉前盛通『悪の論理』p.71-72)

アメリカがドイツと戦いたくてもできなかったのは「中立法」のためであった。では、どうすればアメリカがドイツと戦うことが可能となるのかというと、アメリカがドイツから攻撃される状態になるということ、すなわちアメリカが自衛のために戦わざるを得ない状態に持ち込むことが必要であったという事である。しかし、アメリカはその演出に失敗してしまった。
そこで、資源を持たない日本を経済制裁して資源が手に入らないようにした上で、挑発して戦争におびきよせて、うまく日本に先制攻撃をさせれば、日本の同盟国であるドイツに対してもアメリカが参戦できる正当な理由になる、とルーズベルトは考えたのではないのか。

この、アメリカ側の事情を理解すると、何故アメリカが我が国を異常に挑発したのかが見えてくる。アメリカは、どこかの国に攻撃されなければ第二次世界大戦に参戦したくともできなかったのだ。だからこそ、日本が応諾するはずのない「ハル・ノート」を突き付けたということではないのか。

ルーズベルト

1941年11月25日の戦争閣僚会議でルーズベルト大統領が議題としたのは和平の見通しではなく、戦争はいかにして開始されるかという事だったという。この会議に出席したスチムソン陸軍長官のこの日の日記にはこう書かれているそうだ。
「…大統領は対独戦略ではなく、専ら対日関係を持ち出した。彼は多分次の日曜日(12月1日)には攻撃される可能性があると述べた。…問題は我々自身に過大な危険をもたらすことなく、いかに日本を操って最初の発砲をなさしめるかと云ふことであった」(中村粲『大東亜戦争への道』展転社p.608)

この日記の下線部分は何を意味するのか。普通に考えれば、ドイツ参戦に失敗したアメリカは日本にターゲットを絞り、経済制裁とハル・ノートで日本が戦わざるを得ない状況にまで追い詰めた上で、最初の一発だけは日本に打たせてから参戦するという方針が決まっていたということだろう。ルーズベルトは初めから日米和平などは考えていなかったと思うのだ。

こういう議論をすると、必ず『陰謀論』とレッテルを貼る人がいるのだが、アメリカやイギリスにはルーズベルトが陰謀を考えていたという証言や記録がいくらもあり、歴史上の重要人物が自ら自国に不利なことを書いているのだ。普通に考えれば、陰謀がなかったと考える方が不自然だと思えるくらいである。

開戦に至る日米交渉に関する日本側の暗号電信などが、事前にアメリカ側に傍受され解読されていたことは常識である。

スティネットの『真珠湾の真実』という本には、ルーズベルトが刻々と真珠湾に向かっている日本軍の動きを知っていたことを、膨大な資料を掲げて実証している。

真珠湾海図

たとえば、この本の第9章を読むと、ヒトカップ湾から南雲中将の機動部隊が北太平洋に向けて出発した11月25日(ワシントン時間)の1時間後に、米海軍作戦本部はキンメル宛に「太平洋を横断する(米国及び連合国の)船舶の航路はすべてトレス海峡(ニューギニアとオーストラリアとの間の海峡)とする」との電報を出している。このことは、北太平洋を真空海域にし、日本海軍の進路を妨害するなという事を意味する。
その2週間前にはキンメル太平洋艦隊司令長官が疑心暗鬼のあまり、ハワイ北方海域での日本機動部隊の捜索を命じたのだが、ホワイトハウスは直ぐに探索を中止し、艦隊を北太平洋海域から真珠湾に戻すことを指示している。これは日本軍の真珠湾攻撃を成功させるためのものと考えるのが自然であろう。
その命令にキンメルが抗議した公文書も存在しているようだ。

またルーズベルトの前の米大統領であったフーバーまでもが、ルーズベルトのことを「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判しているのだ。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n1.htm

フーバー回顧録

フーバーの回想録「Freedom Betrayed(裏切られた自由)」の原稿は、フーバー自身が生前に出版することを希望しながら封印されて、死後47年経った昨年12月にようやくアメリカで出版されたばかりだ。この回想録に関する論文が一部紹介されているが、たとえば対日経済制裁についてはフーバーはこう書いている。
「…ルーズベルトが犯した壮大な誤りは、一九四一年七月、つまり、スターリンとの隠然たる同盟関係となったその一カ月後に、日本に対して全面的な経済制裁を行ったことである。その経済制裁は、弾こそ撃っていなかったが本質的には戦争であった。ルーズベルトは、自分の腹心の部下からも再三にわたって、そんな挑発をすれば遅かれ早かれ(日本が)報復のための戦争を引き起こすことになると警告を受けていた」
http://gekkan-nippon.com/?p=2969

またイギリスのチャーチル首相は『第二次世界大戦回想録』の中で、真珠湾攻撃のニュースを聞いて、日本軍が勝利したにもかかわらず、これで強力なアメリカの参戦が決まったと述べたあと、「戦争の結果については、もはや疑いようもなかった」と勝利を確信したことが書かれている。次のURLが該当のページである。
http://ksrd.yahoo.co.jp/PAGE=DT_SOLVED/OUTLINK=1/QID=1123030181/AID=65995847/SIG=12eoivcer/EXP=1339305045/*-http%3A//www.loc.gov/exhibits/churchill/images/wc0142_1s.jpg
この言葉は誰が読んでも、チャーチルが、アメリカの参戦を妨げていた中立法の束縛がとれたことを喜んだと考えるしかないだろう。

真珠湾地図

陰謀があったという説が正しい説に立てば、わざわざ真珠湾に太平洋艦隊を並べて見せたのは『オトリ』だということになるのだが、そのことは開戦当時の太平洋艦隊司令官セオポルト少将が『真珠湾の秘密』という本で明言し、証拠も上げていることである。

真珠湾

日本軍による真珠湾の奇襲である程度の被害が出なければ、世論を開戦に導くことはできないとのアメリカの計算があったのではないか。日本軍による奇襲により、アメリカは戦艦5隻沈没、航空機188機破壊、戦死者2345名などの損害が出たのだが、それによってアメリカは中立法の束縛から離れて、即日にわが国に宣戦布告している。
一方、ドイツは日独伊三国同盟によって、日本より少し遅れてアメリカに宣戦布告をし、このことによって、アメリカは堂々と第二次世界大戦に参戦し、日本だけではなくドイツとも戦ってイギリスを援けることのできる大義名分を得たのである。
先程紹介した、イギリスのチャーチル首相が『第二次世界大戦回想録』の中で、勝利を確信した理由がここにある。

アメリカは、わかりやすく言えば、裏口から第二次世界大戦に参戦した。そのためにわが国は経済制裁で追い詰められ、アメリカはハワイの米国艦隊を犠牲にしたというのが正しい解釈ではないかと考えている。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓           


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加




真珠湾攻撃のあとでわが国が対米宣戦布告をしたのは故意か過失か

前回は、ルーズベルトが真珠湾に向かっていることをわかっていながら、なぜハワイにいたキンメル太平洋艦隊司令長官にその情報を知らせなかったかという問題について、ルーズベルトは、中立法の束縛を解いて第二次世界大戦に参戦するために、日本軍に最初の一発を撃たせようと考えていたのではないかということを書いた。
この説は、日本軍による真珠湾攻撃が「騙し討ちだ」とする「通説」の内容とは全く異なるのだが、ルーズベルトの側近が真珠湾攻撃の日に記した日記などを読むと、「通説」の方が的外れであることが見えてくる。

スチムソン

たとえばスチムソン陸軍長官(上画像)は真珠湾攻撃の日の午後二時にルーズベルトの電話を受け、その日の日記にこう書いている。
「それはたまらなく面白い事だった。…今やジャップはハワイで我々を直接攻撃することで問題全部を一挙に解決してくれた。日本の攻撃を受けた時、私の気持ちは、不決断の状態が終り、全米国民を一致団結させるような仕方で危機がやって来たというほつとした気持であった。」(中村粲『大東亜戦争への道』展転社p.634所収)
また当時の労働長官であったフランシス・パーキンズ女史は1946年に、この時の大統領のことをこう書いている。
「12月7日の閣議で大統領は、彼の誇りや海軍への信頼や米情報機関への信用に対する大打撃にもかかわらず、また戦争が実際もたらした惨害にもかかわらず、いつもよりもずっと平静な様子であつた。彼の恐ろしい道徳的問題がこの出来事によつて解決されたのである。退出した時、フランク・ウォカー郵政長官は私に『大統領は何週間ぶりに心底からほつとしてゐることと思ふ』と述べた」(同上書 p.634)

真珠湾攻撃

これらを読むと、アメリカ側は日本軍の真珠湾攻撃を「騙し討ちだ」と激怒していた様子はなく、むしろルーズベルトとその側近は、やっとこの日が来たことを喜んでいたかのようである。ルーズベルトをはじめその側近たちがこのような心理状態にあったという事は、事実は、アメリカが経済封鎖とハル・ノートでわが国を追いこんで奇襲させようとしていたと考えたほうがスッキリと理解できるのだ。

しかし、日本側が真珠湾空襲に先だってなされるべきであった対米最後通告が、真珠湾攻撃開始から50分近く遅れてしまったという事があった。それがためにわが国は「真珠湾攻撃を騙し討ちした卑怯な国」だと烙印を押されてしまうのだが、日本側はなぜ対米通告が遅れてしまったのか。単なるミスなのか、故意なのか、あるいはそれ以外の事情があったのか。今回は、この問題について考察することにしたい。

imagesCAF5AXXK.jpg

ネットでいろいろ調べると、たとえば次のURLではこう纏められている。
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/gimon/gimon6.html
「12月6日午前6時30分(ワシントン時間、以下同じ)
 901号電発信。内容は「ハルノートに対する対米覚書を別電902号で送る。長文なので14部に分ける。極秘。アメリカ側通告時間は追って指示。いつでも手交しうるよう準備せよ」、通称パイロットメッセージ。 
時間不明 :「機密漏洩防止の為覚書作成にはタイピストを使わぬ事」の指示。
12月6日午前6時30分:902号電1部目発信、
12月6日午後0時30分:902号電13部目発信、
12月7日午前2時00分:902号電14部目発信
12月7日午前2時30分:904号電発信 内容は「7日午後1時(ホノルル時間7日7時30分、日本時間8日午前3時)に野村大使よりハル国務長官に本件対米覚書を直接手交せよ」
この最後の904号電が大使館に配達されたのは7日の午前7時頃。
電信員が解読してタイプが終わったのが午前10時30分、902号電14部目が午前11時30分。

しかし、ここで大使館員の不手際により、暗号解読、タイピング作業に予想以上の時間がかかり、開戦後のワシントン時間午後2時20分頃に宣戦布告文が手交された。」

この文書がどれだけ長文なのかと疑問を持ったので、国立公文書館アジア歴史研究センターのHPにその日本文及び英文が読めるので探してみた。
(文書を読むには、メインページに案内されているDjVuプラグインのダウンロードが必要。)
メインページ : http://www.jacar.go.jp/ 
該当ページ  : http://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index05.html
確かに長文ではあるが、「ハル・ノートに対する対米覚書」という事であれば、大使館員は万全の態勢で入電を待機するのが当然だろう。13部までが6日の昼過ぎに受信したのであれば、丸一日の余裕があるので充分に時間があったはずだ。最後の902電14部目は7日の未明に受信しているが、英語の原文はたかだか7行程度の文章だ。宇佐美保氏HPの次のURL にその英文が掲載されている。
http://members.jcom.home.ne.jp/u33/i%20think%20030719gmtyn.htm

通説に良く書かれている、「大使館員は英文の暗号解読やタイピング作業に手間取った」というのは、重要な事実を隠した書き方だ。事実は、こんなに重要な仕事があるにもかかわらず、米国大使館員は全員大使館を出払ってしまっていたという言い訳をしている。いったい何があったのか。

当時、アメリカ大使館の電信官であった堀内正名氏は、戦後の昭和21年6月20日に提出した「日米開戦当時華府大使館デノ対米通告ノ電報解読並ニ浄書ニ関スル事実ニ付テ」という回答書に、この日の経緯について驚くべきことを書いている。先ほど紹介した宇佐美氏のHPに原文が出ている。
「…電信課員ハ本件通告電報ノ十三本目迄ヲ処理シタ時ハ、之ガ緊急電報デモナカッタシ又内容カラシテ最後的ノ緊急且重大ナモノトハ認識セズ非常ナ緊迫ハ感ジナカッタ。…同夜(六日夜)(本件電報十三本目迄解読後)館員全部ガ支那料理屋デ寺崎書記官ノ南米転勤送別会ヲヤッテイタ様ナ次第デ、他ノ館員モ同様本件電報ヲ以テ最後的ノ重大電報トハ認メテ居ナカツタ様ニ思ウ。…」
なんと、大使館員全員が中華料理屋で寺崎英成書記官の送別会で出払っていて、この電報がとんでもなく重要なものだとは誰も認識していなかったというのだ。
また本来タイプを打つべき奥村勝蔵一等書記官は、緊迫の12月6日の夜の送別会の後に知人宅にトランプをしにいったという証言もあるのだそうだ。

何という緊張感のない職場だろうと思ってみても仕方がないが、それでも堀内氏は13本の電報は7日午前1時までに全部解読し、残りの電報が来るのを待ったが、午前5時半に帰宅。7日午前9時半ごろに電報がついている旨の電話連絡があり、午前10時に登庁して解読に着手。肝心な部分を原文のまま引用する。
「一、次デ普通電解読に着手セルガ、之対米覚書ノ第十四通目ニシテ其ノ出来上リタルハ丁度正午頃ニシテ、電信課員一同間ニ合フベシト思ヒ喜色アリタリ。」(同上HPより) と、12時ごろには解読が完了していたと書かれている。

奥村一等書記官が送別会の後に大使館に戻り、13本の浄書を早目に完成していたら、14本目の浄書を付け加えるだけの作業であり、それほど時間がかかるものではなかったはずだ。大使館から国務省までの道のりは徒歩10分程度だったので、約束の1時に届けることは余裕で間に合ったことなのである。
とすれば、奥村一等書記官は懲戒処分にされてもおかしくないほど罪が重いと誰しも思うのだが、全く処分されることなく1952年には外務省の事務次官に栄転し、1969年には勲一等まで授与されているのも妙な話である。
そもそも最後通牒よりも送別会を優先したことが真実なのだろうか。戦争が始まろうとしている緊迫した時期に、異動があったり送別会があるのも奇異に感じるのだが、本当に米国大使館の職員はこんなに怠惰だったのかと永年疑問に思っていた。

開戦通告はなぜ遅れたか

最近になって、全く別の証言があることを知った。
斎藤充功氏の『昭和史発掘 開戦通告はなぜ遅れたか』という本を取り寄せて読んでみた。この本によると、対米諜報を任務とし、アメリカの国力・戦力を調査していた陸軍主計大佐の新庄健吉(下画像)が12月4日に病死し、開戦当日の12月7日の朝からワシントンのバプテスト派教会で葬儀があったのだそうだ。

新庄健吉

『週刊原始福音』という雑誌の177号に、当時のアメリカ大使館で一等書記官であった松平康東氏が、その葬儀に野村、来栖の両大使が出席し、葬儀でアメリカ人牧師が新庄大佐の生前の英詩を読み上げて長々と追悼の辞を述べて予定以上に葬儀が長引いたことが、開戦通告が遅れた原因であることを対談の中で述べているという。
著者の斉藤氏がすごいのは、その記述内容の真偽を確かめるために各地に飛び、かつて新庄が学んだ陸軍経理学校の同窓会である『若松会』の人物にまで面談し、その会報誌に寄稿された記事の中から、野村、来栖の両大使が出席した新庄の葬儀が1時間以上予定を超過し、そのために最後通牒の手交が遅れたという別の会員の書いた記事を発見しておられるところだ。
信者向けの冊子の記事と、同窓会の冊子に書かれたことが一致していることに偶然という事はあり得ないことだ。おそらく、新庄氏の葬儀に野村、来栖の両大使が新庄健吉の葬儀に出席したことも、その葬儀が長引いたことも真実なのだろう。

とすると、奥村勝蔵は指定された時間内に対米覚書を手交できなかった野村大使と外務省を守るために、自らが犠牲になったことも考えられるのだが、外務省内ではなぜかこの葬儀自体が秘密にされてきていたようなのだ。
著者の斉藤氏は、この葬儀に出席したはずの、当時在米日本大使館の三等書記官であった人物に面談を試みたが、その葬儀に両大使が出席していたかどうかを尋ねたところ「強い口ぶりで」否定されている。

もし、この野村大使がこの葬儀に出席したために最後通牒の手交が遅れたということが真実であるならば、野村大使の責任が問われることは間違いがないだろう。外務省はそれを避けようとして、奥村一等書記官に責任を被せて、後に厚遇してその恩に報いたということではないのか。

斎藤氏の本を読んでいると、いろいろ面白いことが書かれている。

昭和天皇

たとえば、12月7日には東条英機は奇襲を成功させてから宣戦布告することを当初考えていたのだが、天皇から呼ばれて「最後まで手続きに沿って進めるように、宣戦布告は開戦前にすること」と、強く窘められて方針を変更し、暗号電文の発信を早めたのだそうだ。
その方針変更が米国大使館の両大使に伝わらなかった可能性はなかったか。
それとも、東条が天皇の意向に背いて、米国大使が捕まらない時間帯に暗号電文を発信させたのか。

あるいは、もっと踏み込んで、アメリカが新庄の葬儀に工作したという事は考えられないか。そもそも新庄の死因も良くわからず、関係者の間では「毒を盛られた」との噂もあるようなのだ。

斎藤充功

斎藤充功氏はこう書いている。
「ヨーロッパで戦火が広がる中、米国の国際的な体裁は、民主主義の国、平和愛好の国で通っていた。自国民に向けても、正義を貫く大義名分が必要であったろう。そのためには、あえて日本に先制攻撃をさせ、悪者になってもらわなければならなかった。しかもそれが『宣戦布告なき先制攻撃』であれば、こんな好都合なことはない。日本が『トレチャラス・アタック(卑怯な騙し討ち)』を仕掛けてきたと見せるために、宣戦布告を意図的におくらせることはできないか…。
そう考えた米国が、新庄の葬儀を巧妙に利用した、とは考えられないか。」(斎藤充功『昭和史発掘 開戦通告はなぜ遅れたか』p.58-59)

だとすると、新庄の葬儀に出席した野村大使はまんまとアメリカの仕掛けに嵌ってしまった事になり、大使の責任問題になりかねない。だから葬儀のことを隠して、事務手続き上のミスにすり替えたというのだが、斉藤氏の説になかなかの説得力を感じるのだ。
とはいいながら、これという証拠があるわけではなく、生存者がほとんどいなくなった今となっては何が真実か、確定させることは困難だ。

既に日本人の常識となっている説が正しいとは限らないと思う事が多くなってきた。
いつの時代もどこの国でも、歴史の叙述は、勝者にとって都合のいいように書き換えられていくものであり、特に現代日本史に関して言うと、戦勝国に都合の良いように事実が歪められたり、当事者の所属する組織のトップが傷つかないように書き換えられることがあることを考えておいたほうが良い。
現代史は、もし世界の勢力図が変わったりわが国の権力構造が変わったりすれば、かなり修正されていくと思われる。我々が学校で学び、マスコミで何度も垂れ流される歴史というものは、所詮はその程度のものなのだ。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓           


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加




太平洋戦争緒戦の日本軍の強さは米英軍の予想をはるかに超えていた

前回まで2回に分けて日米開戦の経緯について書いた。
真珠湾攻撃のことはあまり書かなかったが、アメリカ側は、戦艦8隻の内5隻が沈没され3隻が損傷により航行不能となったほか、航空機188機が破壊されて、戦死者が2345名など米軍の被害はかなり大きかった。一方日本軍の損害は、航空機29機、戦死者55名と少なく、日本軍の奇襲は大成功に終わっている。

アメリカは目論見通りに挑発によって日本軍に真珠湾を奇襲させたのだが、ここまで損害がでることは予想していなかったはずだ。
というのは、既にドイツとイギリスとの戦争は始まって約2年も経過しておりながら、ドイツ空軍はイギリス海軍に対して、有効な打撃を与えていなかったからだ。
ドイツの潜水艦は主に通商破壊のために商船を攻撃することを主任務としていたこともあるが、当時の魚雷は、海中から発射しても、厚さが数十センチもある戦艦の甲板の鋼板を貫くことは出来ず、戦艦を撃沈することはできなかった。
また上空から爆弾を落とす場合も、時速25ノット(時速約50km近い)で進む戦艦に命中させることは極めて困難であり、命中精度を上げようと低空から爆弾を落とそうとすると、戦艦の対空火砲によって撃ち落される可能性が高く、運よく撃ち落されずかつ爆弾が命中したとしても、加速度がついていないから甲板を貫くことができない。
そのような理由からドイツ空軍は、イギリスの戦艦に手も足も出なかったことが、以前紹介した倉前盛通氏の『悪の論理』に書かれている。

240px-Pearl_Harbor_looking_southwest-Oct41.jpg

上の画像は真珠湾攻撃前の2か月ほど前のものだが、真珠湾は湾の入り口が狭く、真ん中に島がある湖のような地形になっている。湾の深さは12メートル程度と浅く、この場所では雷撃機から魚雷を投下しても真珠湾の海底に魚雷の頭が突っ込んでしまうし、それを避けようと低空に降下してから魚雷を投下しようとすれば、ドーナツ状の湾内で投下しなければならないのだから相当戦艦に接近しなければならず、戦艦の対空火砲の餌食となりに行くようなものだ。
だから、もしドイツの空軍が同じ条件で真珠湾を奇襲しても魚雷は使えず、とても日本軍ほどの戦果を上げることはできなかったことは確実なのだ。
アメリカも、日本軍に奇襲をさせたところで、すべての戦艦が使えなくなるほどの被害が出ることは全く想定していなかっただろう。

ではなぜ、日本軍は真珠湾でこれだけの戦果を挙げることができたのだろうか。
倉前氏の『悪の論理』の説明がわかりやすいので、しばらく引用する。

img20120610180152963.png

「真珠湾に並んでいた米主力艦が何故、あのように、脆くも沈んだのか。それは日本の海軍機の爆弾が戦艦の主砲弾を改造して爆弾につくり変えていたからである。強力な装甲板を突き破る目的でつくられた戦艦の口径、三十六センチもしくは四十センチ砲弾を改造した、硬い弾頭をもった爆弾が急降下攻撃によって、絶対貫けないと思われていた米戦艦の装甲甲板をつき抜いたのである。ドイツ空軍も考えなかったアイデアであった。

また、真珠湾は水深が浅いため、雷撃機から魚雷を投下しても、いったん魚雷が深く沈んでから前進するので、真珠湾の海底に魚雷が頭を突っ込んでしまう。それゆえ、真珠湾に入っている艦船は、敵の飛行機から魚雷攻撃を喰らう心配はないと考えられていた。

ルーズベルトも、米海軍も、このような前提のもとでことを考えていたのである。だからこそ、11月26日、ハル・ノートという最後通牒を日本に突きつけ、11月27日には前線指揮官に戦争開始の指示を与えておきながら、それから2週間もすぎているのに、のうのうと真珠湾に全艦隊が入港して休息していた。これは、よほど油断していたのか、日本をおびき寄せるオトリに使うつもりであったのか。いずれにせよ、たとえ、日本の航空艦隊の襲撃をうけても、かすり傷ですむとタカをくくっていたことを意味する。

img20120620220328880.jpg

だが、爆弾ばかりではなく、日本は魚雷にも新しいアイデアをこらしていた。雷撃機から投下した魚雷が、深く沈まないように、翼のようなものを魚雷につけていたのである。しかも魚雷の威力は、ドイツが『涎』を流して欲しがり、ドイツ自慢のUボートとの交換を申し入れてきたほどのもので、米英海軍の魚雷とはケタ違いであった。それゆえ、戦艦の舷側に張られている、幾層もの強力無比な防御壁を一撃で粉砕し、あたりどころがよければ、一発で戦艦が二つに折れるほどの威力であった。

それにくらべ、米国の方は、開戦後まもなく、米潜水艦が当時軍事輸送に使われていた図南丸に魚雷攻撃を加えた時、六発命中させたが、一発も爆発しなかった。驚いた艦長はすぐに基地に帰り、こんな魚雷では戦争はできないと文句を言ったという。米国は大あわてで魚雷の全面改良をおこない、それに一年以上の時間をついやしたといわれている。」(倉前盛通『悪の論理』p.96-98)

この時代の魚雷は、雷撃機から投下すると一旦水深60m程度まで沈み、それから浮上し前進していくものだったそうだが、日本軍は短期間の間にそれを改良し、投下後水深10メートル以内で浮上する魚雷を開発したのだそうだ。

前々回のこのブログの記事で、真珠湾攻撃のニュースを聞いて、英国のチャーチル首相がこれによってアメリカが参戦し、イギリスの勝利を確信して喜んでいる旨の文章を書いていることを紹介した。しかしながら、真珠湾攻撃の2日後にイギリス軍の自慢の戦艦が日本軍と、マレー沖で戦うことになる。再び倉前氏の著書を引用する。

「チャーチルにも、喜びに満ちて安眠したあととすぐ、顔面蒼白になる悲報が届いた。ハル・ノートが突きつけられた後、行動を開始した日本の大輸送船団数十隻を、南シナ海の洋上で全滅させる目的で、シンガポールにいた英国自慢の不沈戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』と、もう一隻の戦艦『レパルス』の二隻および随伴の駆逐艦は、戦闘機の護衛もつけずに北上した。そして12月10日、ベトナムのフコク諸島から発信した日本の海軍航空隊から攻撃をうけた。英国海軍首脳は、ドイツ空軍でさえ、手の出せない英国不沈戦艦に、日本空軍が何ができるものかという思い上がりがあった。

300px-Prince_of_Wales-1.jpg

ところが、80機の日本海軍の投下する爆弾と魚雷によって、『プリンス・オブ・ウェールズ』と『レパルス』の二隻はたちまち撃沈され、日本側は三機を失ったのみであった。

チャーチルは驚愕して議会に駆け込み、不沈戦艦がいまや不沈でなくなったことを報告して泣いた。シンガポールにいた英国海軍将校など、ショックのあまり失心する者まで出たと言われている。

かくして、開戦後わずか3日でアメリカ太平洋艦隊とイギリス極東艦隊は全滅し、それ以後、約2年間、西太平洋と東インド洋の制海権は日本の掌中に帰した。」(同上書p.99-100) このように、日本軍はきわめて幸先の良いスタートを切ることができたのである。

ゼロ戦

この日本の快進撃がアメリカにとっていかに「想定外」の出来事であったことは、その直後のアメリカの動きを見ればわかる。

日本海軍は太平洋のアメリカ西海岸で潜水艦による通商破壊作戦を実施し、アメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船を10隻以上撃沈していた。
アメリカでは1942年の初頭にかけて日本軍によるアメリカ本土への上陸の可能性が高いと考えられるようになり、アメリカ西海岸の主要な港湾においては、機雷の敷設が行われたり、他の都市でも爆撃を怖れ、防空壕を作ったという。

そのような厳戒態勢下にあったにもかかわらず、1942年2月24日未明に日本軍はカリフォルニア州サンタバーバラの石油製油所を潜水艦による砲撃作戦を成功させるのだが、翌25日深夜にカリフォルニア州ロサンゼルスで面白い事件が起こっている。

日本海軍の艦載機による空襲を信じたアメリカ陸軍が対空砲火を中心とした迎撃戦を展開し、その模様はラジオ中継されアメリカ西海岸をパニック状態に陥れた(ロサンゼルスの戦い)というのだが、日本軍が空襲を行った記録はどこにもなく、真相はいまだに不明で、アメリカではUFOが飛来したのではないかと真面目に議論されているという。

この事件で米軍は同士討ちで6名を失ったというのだが、それほど日本軍の快進撃はアメリカ人を恐怖に陥れていたのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

最近になって知ったことだが、植村峻氏の『お札の文化史』という本に、アメリカはこの真珠湾攻撃の大敗北のあと、ハワイだけで通用する紙幣を刷りはじめたことが書かれているという。これは、ハワイ8島を放棄せざるを得ない局面もあり得ると考えてのことだと言われているが、アメリカ人はそれほど日本軍の快進撃にショックを受けながら、そしてハワイ陥落という最悪の事態をも想定していたというのだから、実にアメリカ人は抜け目のない人種である。その点は、最悪の事態を「想定外」として思考停止するどこかの国の人々は見習わなければならないと思う。
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4871883167/ref=dp_db_cm_cr_acr_txt?ie=UTF8&showViewpoints=1

トインビー

イギリスの歴史学者であるアーノルド・J・トインビーは、毎日新聞1968年3月22日付にてこう述べている。
「英国最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈された事は、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それはまた、永続的な重要性を持つ出来事でもあった。何故なら、1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。1941年、日本は全ての非西洋国民に対し、西洋は無敵でない事を決定的に示した。この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のヴェトナムに明らかである。」

太平洋戦争でわが国は敗れたが、緒戦とはいえ日本軍が米英軍を相手に圧倒的な勝利を得たことが、当時白人に支配されていたアジア・アフリカ諸国に、白人が無敵でない事を示したことは大きかった。
原材料に乏しいわが国が戦いに勝ち続けることはできなかったが、この戦争の後に、これらの諸国が次々と独立し白人の支配から解放されていくことになる。
もし日本がハル・ノートを受け容れて対米戦争を回避していたら、現在のような人種平等の世界が来ることはなかったであろう。そうすればわが国も、その後白人の支配下に置かれていたとしてもおかしくなかった。あの戦争の前の非西洋諸国は、日本とタイとエチオピアを除いたすべてが西洋の植民地であったことを忘れてはいけない。

西洋諸国は300年以上の長きにわたり支配してきたアジア・アフリカの植民地のほとんどを第二次世界大戦の後で失った。その意味で、我が国が戦争の目的とした「東亜諸民族の解放」は実現したという主張をすることも可能だが、終戦後に独立した国の多くは共産国となったので、終戦後実質的に勢力を伸ばしたのはソ連ではなかったかと思うのだ。ひょっとすると、「東亜諸民族の解放」というスローガンも、共産主義者から吹き込まれたものではなかったのだろうか。資源のない我が国が他国の白人支配からの解放を手助けする余裕があったとは思えないのだ。

img20120530214528657.jpg

このブログで何度かスターリンの『砕氷船のテーゼ』を紹介したが、もう一度、昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会におけるスターリン演説を引用しておきたい。

スターリン

「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

先進国同士を戦わせて消耗させ、最後に参戦して漁夫の利を得るスターリンの戦略は、世界に根を張っていた工作員や協力者によって、主要国でほとんどそのテーゼの通りに実行されていたのではないか。
アメリカは、言わば共産主義の脅威を作り出すために参戦したようなもので、つまるところスターリンの手の内で動いていたのではなかったか。ルーズベルト政権の中枢やその周りには500人以上のコミンテルンのスパイや協力者がいたことがわかっているのだ。
イギリスも、ナチの徹底的破壊を志向したために、結局はソ連の東欧進出を許したばかりか、植民地の全てを失って二流国に転落した。これもスターリンの戦略通りであったのではなかったか。
ルーズベルトもチャーチルも謀略家ではあったが、スターリンの方がはるかに上であったと思うのだ。

では、何故わが国は共産国化を免れることができたのであろうか。
これには、いろんな理由が考えられるのだが、以前にも書いたように、昭和天皇が、広島・長崎に原爆が投下されソ連が我が国への侵攻を開始した極めて適切なタイミングで終戦のご聖断を下されたことが大きかった。もしこの御聖断がなければ誰もこの戦争を止めることが出来ず、アメリカとの本土決戦となれば米軍もソ連軍の協力を要請していた可能性が高いと思われる。
もしそうなっていれば、ドイツや朝鮮半島と同様に、わが国も終戦後に、北海道や本州の一部が共産化することが避けられなかったと考えている。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓      


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ





このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。




「大東亜共栄圏」の思想が広められた背景を考える

昭和前期の「日本史」を学んだ際に、資源の乏しいわが国がアメリカにより経済封鎖されながら、「大東亜共栄圏」とか「東亜諸民族の解放」というスローガンを掲げて、植民地となっていたアジア諸国を解放するために戦おうとしたことにずっと違和感を覚えていた。資源のないわが国には、他国の為に貴重な資源と富を費やして戦うほどの余裕があるはずがないと考えていたからだ。

いつの時代でもどこの国でも、戦争を始めるには国民を納得させるだけの理由が不可欠だ。
アメリカの場合は「リメンバー、○○」と、嘘でもいいから国民に復讐心を煽ることで紛争に介入して何度も自国の権益を拡大してきた歴史があるのだが、そういう単純な世論誘導が出来たのは、アメリカにはいつでも戦争ができるだけの資源が国内に豊富にあり、周辺諸国よりも軍事力で圧倒的に勝っていたことが大きいのだと思う。
一方、わが国には長期にわたり戦争を継続できるだけの資源がないので、近隣諸国との問題が発生した場合は、まずは外交で問題の解決を図ることを優先してきたことは当然である。
いくら相手国が理不尽な要求をしてきた場合でも、勝算もなしに参戦したところで長期戦に持ち込まれれば敗戦が確実で、そうなれば国民を塗炭の苦しみに陥れてしまうことになってしまうからだ。

当時の日本軍の戦闘機や武器の性能がかなり高かったことを前回の記事で書いた。しかしそれらの性能が世界のトップレベルであったとしても、鉄や石油などの資源がなければ新たな兵器の製造も、飛行機や戦艦の製造も修理も困難となり、いずれは日本軍としての戦力が急低下していくことは明らかである。
だから、わが国が戦争する場合は、短期間で決着をつけるような戦い方しかできないはずなのだが、なぜか日中戦争に巻き込まれ、その上にアメリカとも戦わざるを得なくなってしまった。
その背景に何があったのかを掴もうとすると、通史をいくら読んでもピンと来るものがなかった。国益と国益がぶつかり合う世界で、ドロドロとしたものがあって当然であるのに、なぜかわが国だけが侵略国だったと片づけてられてしまうことが納得できなかった。

レーニン

レーニンの「敗戦革命論」やスターリンの「砕氷船のテーゼ」を知ったのは比較的最近のことなのだが、レーニンスターリンの言葉を読むと、この時代はこの二人の言葉通りに世界が動くように共産主義者とその協力者が工作活動をしていたと考えたほうが、納得できることが多いと思うのだ。少なくともわが国の昭和史についてはそう考えたほうが自然なのである。

レーニンの考えにもとづき1928年のコミンテルン第6回大会でこのように決議されている。

「帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。

… 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない。
…大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。…」(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.38-40)

当時の日本はマルクス・レーニンの著作などがバカ売れした時代であり、生まれてまだ日も浅い社会主義国であるソ連を理想国家と考える日本人が少なくなかったことをこのブログで書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

レーニンは、自国を敗北させて戦争を通じてプロレタリア革命を遂行せ、共産主義者は進んで軍隊に入隊して内部から崩壊させよ、などと恐ろしいことを述べていたのだが、この思想に共鳴したメンバーが実際に政府の中枢に実在し、軍隊にもかなり存在していたことがわかっている。
何故軍隊という規律が正しいはずの組織がわが国で暴走したか、何故日中戦争がズルズルと泥沼化していったかが長い間納得できなかったのだが、わが国の軍隊の中に、レーニンのこの敗戦革命理論を実践しようとする勢力が少なからずいたと考えればすっきりと理解できるのだ。

スターリン

また1935年(昭和10年)の第7回コミンテルン大会ではスターリンが、第二次世界大戦を機に世界の共産化を推進させる具体的な方法を述べている。
前回の記事で、そのスターリンの演説を引用したが、彼の戦略をまとめると、ドイツはフランスとイギリスと戦わせ、日本は中国に向けさせた後アメリカと戦わせ、日・独の敗北のあとにその荒らしまわった域と日独両国を共産化することを狙うというものだが、その後の歴史は、前回の記事で触れたとおり、途中までその目論見通りに進んでいくことになる。

今までこのブログで当時の記録を紹介しながら縷々述べてきたが、わが国はソ連の工作により、日中の戦いにひきずりこまれ、次いでアメリカとの戦いにも参戦させられたのであって、自らが侵略する目的で参戦したものではないと考えた方が当時の記録や史料と矛盾することがなく、すっきりと理解できるのだ。

開戦の詔書

真珠湾攻撃の日に昭和天皇が国民に向けて「開戦の詔書」を出しておられる。
この詔書にはどこにも「大東亜共栄圏」や「東亜諸民族の解放」などという勇ましい言葉がなく、戦うことは(昭和天皇の)本意ではないが自衛のためにやむなく参戦するしか道はないと書かれている。
原文では読みにくいので口語訳の一部を紹介する。全文の原文、読み下し文、口語訳は次のURLで読むことができる。
http://www.geocities.jp/kunitama2664/daitoua1208.html

昭和天皇

ここで昭和天皇は、わが国が戦わざるを得ない理由についてはこう述べておられる。

「…今や、不幸にして、米英両国との争いを開始するにいたった。まことに、やむをえない事態である。どうして、これが余の本意であろうか(このような事態は、余の本意ではない。)

…余は、政府をして、そのような事態を平和の裡(うち)に解決させようと、長い間、隠忍(いんにん)したのだが、米英は、寸毫も譲り合いの精神を持たず、むやみに事態の解決を遅らせ先延ばしにし、その間にもますます、英米による経済上・軍事上の脅威は増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。

 このような事態が、そのまま推移したならば、東アジアの安定に関して、帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、文字通り危機に瀕することになる。ことここに至っては、帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、英米による一切の障礙(しょうがい)を破砕する以外に道はない。…」

と、この戦いが自衛のためのものであることを明確に書いておられる。この内容は今まで私がこのブログで書いてきたわが国の出来事やの交渉経緯と矛盾することがなく、すっきりと理解出来る内容になっているのだが、この詔書が通史や教科書で紹介されていることはほとんどない。

ところが、4日後の12月12日に、東條内閣での閣議決定でこの戦争の名称を「大東亜戦争」と呼ぶことが決定し、同日情報局が「今次の對米英戰は、支那事變をも含め大東亞戰爭と呼稱す。大東亞戰爭と呼稱するは、大東亞新秩序建設を目的とする戰爭なることを意味するものにして、戰爭地域を主として大東亞のみに限定する意味にあらず」と発表し、この戦争はアジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指すものであると規定されている。

「情報局」というのは戦争に向けた世論形成、プロパガンダと思想取締の強化を目的に設置された日本の内閣直属の機関であるが、この文章には不思議なことに「自衛戦争」とのニュアンスが消えてしまっている。なぜ「情報局」が、昭和天皇の「開戦の詔書」の主旨と異なる発表をしたのであろうか。

そもそも、「大東亜共栄圏」とか「大東亜新秩序」という言葉はいつ頃誰が創ったのだろうかと調べると、昭和10年の第7回コミンテルン大会の後だということがわかる。
ネットで調べると昭和13年1月に「東亜新秩序」声明があり、それ以降「昭和研究会」のメンバーが中心となって東亜共同体の理論体系を展開していったとある。
ソ連のスパイであった尾崎秀実が手記に書き残した「昭和研究会」のメンバーには、後の「企画院事件」で検挙された革新(共産主義)官僚が数多くいたことがわかるし、それ以外のメンバーも、戦後には社会主義者・共産主義者として知られているメンバーが少なくない。
http://www.asyura2.com/0411/senkyo7/msg/981.html

以前このブログでも書いたように、大正15年(1926)の時点でコミンテルンの秘密宣伝部が日本の新聞と雑誌19のメディアをコントロール下においていたということがアーサー・ケストラーの手記に書かれているが、コミンテルン工作の最重要のテーマはソ連の防衛と、共産圏の拡大にあったことは言うまでもない。

ドイツソ連に宣戦布告

昭和15年(1940)9月にわが国は日独伊三国聯盟を締結し、翌年の昭和16年(1941)6月に、日本の同盟国であったドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻すると、当時の近衛内閣では、4月に締結された日ソ中立条約を破棄してでも同盟国としてソ連と開戦すべきとする松岡洋右外務大臣と近衛文麿首相との間で閣内対立が起きている。近衛は松岡の「北進論」を退けて内閣を総辞職し、改めて第3次近衛内閣を組閣して南進論の立場を確認し、7月に南部仏印への進駐を実行するのだが、この時期から「大東亜共栄圏」という言葉が流行しはじめ、公式文書に登場するのは昭和16年(1941)1月30日の「対仏印、泰施策要綱」が初出なのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%85%B1%E6%A0%84%E5%9C%8F

尾崎秀実

この時期に、尾崎秀実は「シベリア作戦で国力を消耗したところを背後から米国につかれる恐れがある。…南方には日本が戦争を完遂するに必要な資源(ゴム、錫、石油等)が豊富に存在する。だから、我々は今こそ、断乎、英米を討って南方に進むべきである」などと主張していたようだ。

この時にわが国がもし「北進論」を選択していれば、わが国はドイツとソ連を挟み撃ちすることができ、そうすればソ連の息の根を止めることができたのだろうが、それを阻止する勢力がわが国に多数いたことは確実だ。
昭和16年(1941)9月6日の御前会議で、わが国は日独伊三国同盟よりも日ソ不可侵条約を優先することが決定したのだが、その直後に満州国境にいたソ連軍は一斉にヨーロッパに移動し始め、独ソ戦線に向かったのだそうだ。このことは、御前会議の決定がソ連に筒抜けになっていたことを意味した。

ドイツからの照会を受けてこの重大情報漏洩の追及の結果、ゾルゲ尾崎秀実が1か月後に逮捕されることになるのだが、参考人として取調べを受けた関係者は数百人にも及んだという。

ゾルゲ

しかしゾルゲと尾崎が情報工作により日本を対ソ不戦に導き、その情報をいち早く伝えたことはソ連にとっては極めて貴重なものであった。
ソ連はゾルゲに対して、1964年11月5日に「ソ連邦英雄勲章」を授与している。また歴代の旧ソ連駐日大使やソ連崩壊後のロシアの駐日大使は、日本に赴任した時に東京の多磨霊園にあるゾルゲの墓参をすることが慣例となっているそうだ。
また尾崎もソ連のスパイとしての功績が高く評価され、2010年1月にロシア政府から、尾崎の親族からの申し出があれば、勲章と賞状を授与するとの発表が出ているらしいのだ。

大東亜共栄圏

「大東亜」と呼ばれた地域の多くが昔の英米仏蘭の植民地であり、「大東亜共栄圏」という言葉は白人に支配されている住民を解放するためにわが国が戦うことを暗示し、そのことが「対ソ不戦」を意味するということを今まで考えたことがなかったのだが、最近になってこの言葉が、尾崎をはじめとする「南進論」を唱えるメンバーにより広められたことに気が付いた。

「大東亜共栄圏」とか「東亜諸民族の解放」とかいう勇ましい言葉は、つい最近まで、この時期に右傾化した日本で広められたスローガンだとばかり思っていたのだが、このブログで記事を書いているうちに、これらの言葉は、レーニンの「敗戦革命論」やスターリンの「砕氷船のテーゼ」の考え方の中から、共産主義者やそのシンパによって編み出されたのではないかと考えるようになってきた。

尾崎やゾルゲらは、日本をソ連とは戦わせずに中国、ついでアメリカと戦わせ、わが国の国力を消耗させたのちに、世界の多くの国を共産国化させる戦略を練っていた。
最初に書いたように、我が国が戦争に参加するにあたっては、国民を納得せる理由が不可欠だ。しかし単なる「自衛戦争」では「敗戦革命」を実現し、あわせて世界の共産化を図ることは難しいと考えたのではないか。全世界の共産革命のためには、戦争はより大きくて複雑なほど都合が良いはずだ。
そこで、当時白人に支配されていた東亜諸民族の解放という崇高な目的が付け加えられ、マスコミによる世論工作が繰り返しなされて、わが国が無謀な戦争に突き進むように巧妙に仕掛けられたということではなかったのだろうか。
第二次世界他大戦後に、「大東亜共栄圏」にあった国々が西洋からの独立を果たしている。それは我が国が白人勢力を一時的にせよ追い払ったことがなければ実現しなかったことではあるのだが、それは、我が国の国力を消耗させ、わが国の敗戦の後でそれらの国を共産化させるというスターリンの謀略そのものではなかったのか。
**************************************************************
ブログパーツ



最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓           


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加


昭和天皇の『終戦の詔書』の後も戦争が続き、さらに多くの犠牲者が出たこと

昭和20年8月14日にわが国はポツダム宣言を受諾し、翌8月15日に昭和天皇が「終戦の詔書」をラジオを通じて発表され、全日本軍は一斉に戦いを止めて連合国に降伏した。

終戦の詔書

この8月15日が『終戦の日』で、この日に戦争が終わったものと子供の頃から思っていたのだが、樺太や千島や朝鮮半島ではその後もソ連軍と激しい戦いが続き、多くの犠牲者が出たことを知ったのは比較的最近のことである。

日本人の多くがそのことを知らないのは当然のことである。このことはGHQの検閲の為に、またその後のマスコミ・出版社の自己検閲の為に、その事実を日本人広く伝えられることがほとんどなかったからだ。

前回の記事で少しだけ触れたが、8月8日にソ連日ソ中立条約を一方的に破って対日宣戦を布告し、満州・北朝鮮・南樺太・千島列島の侵略を開始している。

このブログで何度か引用している勝岡寛次氏の『抹殺された大東亜戦争』の解説をしばらく引用する。
ソ連軍は、総員百七十四万人、火砲三万門、戦車五千二百五十両、飛行機五千機の圧倒的兵力で、八月九日午前零時を期して、満州・北朝鮮・南樺太になだれ込んだ。満州国を守備する関東軍は七十万人、火砲千門、戦車二百両、飛行機二百機と、兵数こそ三対一であったが、兵器は三十対一、全くお話にならない装備の貧弱さであった。(中山隆志『ソ連軍侵攻と日本軍』)。その上“弱り目に祟り目”ではないが、不意を突かれた関東軍は大本営の命令(朝鮮防衛・満州放棄策を採った)により、軍司令部を首都新京から通化に移したので、最後まで民間人を守るべき軍が、我先に逃げ出したとの悪印象を、後々まで与えることになった。」(『抹殺された大東亜戦争』p.416-417)

関東軍の兵器が少なかったのは、日本とソ連との間には『日ソ中立条約』が締結されており、ソ連軍がこんな時期に条約を破棄して攻めてくることを、政府・日本軍が想定していなかったからだ。
よく「ソ連が『日ソ中立条約』を一方的に破棄して攻め込んできた」という話を聞くのだが、Wikipediaの記述を読むと当時のわが国の政府や軍関係者がソ連の対日参戦の意志を読み取れなかった情報力不足にもかなり問題がありそうだ。

スターリン

1944年(昭和19年)にスターリンは革命記念日の演説で日本を「侵略国」と非難する演説を行っている。
また1945年2月のヤルタ会談の秘密協定でスターリンはルーズベルト、チャーチルに対してドイツ降伏後3か月以内に参戦することを密約している。
そして、昭和20年4月6日にソ連は、「情勢が締結当時と一変し、今日本はソ連の敵国ドイツと組んで、ソ連の盟友米英と交戦しており、このような状態において日ソ中立条約の意義は失われた」ことを理由に『日ソ中立条約』を延長しないことをわが国に通告し、その後5月8日にドイツが無条件降伏し、ソ連軍は、シベリア鉄道をフル稼働させて、満州国境に軍事力を集積させていたのだ。

このような状況であればわが国は、ソ連軍の日本侵略を警戒しなければならなかったと思うのだが、『日ソ中立条約』の期限である昭和21年4月25日にはまだ十分に日数があり、ヤルタの秘密協定の内容についての情報も入っていなかったことから、ソ連の対日宣戦の意志を読み取ることができなかったようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%AF%BE%E6%97%A5%E5%AE%A3%E6%88%A6%E5%B8%83%E5%91%8A

こともあろうにわが国は、このソ連に対して6月に連合国への和平工作の仲介を依頼し、終戦の模索を始めているのだが、この時点でソ連は対日勝利を確信したはずだ。わが国は、侵略しようとする国に対して、今が準備するタイミングであることを伝えたのと同じである。日本外交の間抜けさは今も昔も変わらない。

そしてソ連軍は8月8日に日ソ中立条約を破棄し、わが国への侵略を開始する。
再び勝岡寛次氏の著書を引用させていただく。

「8月14日の日本降伏後も、ソ連軍は進撃を止めず、九月初旬には北方四島を略取し、一旦合意した関東軍との停戦条項も無視して、略奪・暴行いたらざるなしといふ有様であつた。火事場泥棒よろしく手当たり次第に略奪し、女性とみては手当たり次第に強姦を続けるソ連軍によつて、百五十万在留日本人は恐怖のどん底に陥つた。そのやうな地獄の日々を綴つた手記は枚挙に暇(いとま)がないが、冷戦開始以前の占領軍は、検閲によってこれを悉く削除させたため、民族の苦難の体験は戦後世代には十分には伝はつてゐないのを遺憾とする。」(『抹殺された大東亜戦争』p.417)

勝岡氏の解説に驚かれた方も多いと思うのだが、これは史実である。同氏は、GHQの検閲により削除された事例を、前掲書のp.417-418で、いくつか紹介しておられる。削除理由はどちらも「ロシア」批判だそうだ。前回の記事でも書いたが、占領軍はたとえ事実であっても戦勝国に対する批判につながる記述を許さなかったのだ。

「突然、ソ聯軍が進駐してきてから、この幸福な町は急に恐怖のどん底にたゝき込まれた。
目ぼしい家に押し入つては、金を巻きあげ、好みの品は何であろうが掠奪し、なかには着ている着物さえもはぎとつてゆく者が現われてきたからである。しかも手むかいでもしようものなら、「ドン」と、一弾の下にもとにやられるばかりである。しかし、それ迄はまだよかつた。最後には、…女の大事な黒髪さえも切り落として、男装をしなければならない、實に悲惨な状態におちいつてきたのである。(中略)
突然『うわあ、うわあ』という声に、人々の顔からはさつと血の氣がひいていつた。(中略)私はもう、何がなんだかわからなかつた。唯、素裸にされたうら若い婦人が肩からしたたる眞赤な血潮をぬぐおうともせず…狂氣の如くよびまわつている悲惨な姿が、やけつく様に瞼に残つているばかりである。」(柳内孝子「私は犬です」『かたはま』第6号昭和23年3月)

「この第一夜から町のいたるところに泥酔兵士の暴行が始つた。婦女子の劣辱事件は頻々として巷間に傳はる、…。一方時計一個を拒否したゝめに拳銃彈數發を受け紅(くれない)に染つて絶命した有志、…娘の暴行現場に飛び込んで絶命する男、…大泊(おおどまり)においてのみでも數十名の犠牲者を出すに至り戰々兢々(せんせんきょうきょう)たる數日を經た。」(榎島伸二「樺太を回顧する」『新世紀』第1巻第1号、昭和23年1月)

この様な体験者が残した記録について、マスコミや出版社がほとんど採りあげてこなかったために、多くの日本人がソ連軍の戦争犯罪の犠牲者になったことを知る人は少ないだろう。私の世代は、子供の頃に大人から少しばかり聞く機会があったが、大人が子供に伝えることを憚ることも少なくなかったのだろう。私が、この時のソ連軍の実態がこんなにひどかったことを知ったのはつい数年前のことだ。

ソ連対日参戦による日本軍の戦死者や行方不明者は良くわかっていないが、戦死者だけで8万人以上と言われている。また、シベリア抑留の犠牲者についてはWikipediaにこう説明されている。
「終戦時、ソ連の占領した満州・樺太・千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られている。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著『検証-シベリア抑留』によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99

ようやくソ連崩壊後に、ソ連占領地区から引き揚げてきた人々の筆舌に尽くせぬ悲惨な経験をされたことを記した書物がいくつか出版された。次のURLでその一部を読むことができるが、日本人なら、少し読むだけで怒りが込み上げてくるだろう。なぜこのような史実が、長い期間にわたって伏せられてきたのか。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html

満州ではソ連軍は日本人を暴行し虐殺しただけではなく、中国住民に対しても暴行を働いたようだ。上記URLに中国人の徐焔氏が著した『一九四五年 満州進軍―日ソ戦と毛沢東の戦略』(三五館)という本が紹介されている。その本にはこう書かれている。

1945年満州進軍

「ソ連軍が満州に入った時点から、その相当数の将兵は直ちに、横暴な行為を露骨に現した。彼らは敗戦した日本人に強奪と暴行を振るっただけでなく、同盟国であるはずの中国の庶民に対しても悪事をさんざん働いた。
特に強奪と婦女暴行の二つは満州の大衆に深い恐怖感を与えた。
100万以上の満州に出動したソ連軍兵士の中では、犯罪者は少数というべきだが各地で残した悪影響は極めて深刻なものだった。」

この徐焔氏の文章の中で著者がソ連のことを「同盟国」と呼んでいることについて補足すると、ソ連は8月8日に日ソ中立条約を破棄した後に、8月14日に「ソ華友好同盟条約」を結んでいる。満州の出来事はその直後のことである。

ソ連軍はヨーロッパでも同様に、ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ユーゴスラビアなどで暴行・虐殺のかぎりを尽くした報告が残されていることがWikipediaに書かれているが、ソ連という国はどこの国に対しても野蛮な行為を行っていたことを知るべきである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88%E9%80%A3%E9%82%A6%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E6%88%A6%E4%BA%89%E7%8A%AF%E7%BD%AA

話をソ連軍の対日宣戦に戻そう。
ソ連は8月8日の対日宣戦布告の翌日、ソ・満国境を越えて満州に進攻し、8月14日に締結されたソ華友好同盟条約に基づいて、満州を日本軍から奪取した。

北方領土略図

南樺太では、8月11日に日ソ国境を侵犯し、ソ連軍は8月25日までに南樺太全土を占領した。
南千島についてはソ連の樺太占領軍の一部が8月26日に樺太・大泊港を出航し、28日には択捉島に上陸。9月1日までに、択捉・国後・色丹島を占領した。歯舞群島は9月3日から5日にかけて占領している。

占守島

北千島については、8月18日にソ連軍が千島列島の最北の占守島(しゅむしゅとう)に上陸。日本軍と激戦となり日本軍が優勢であったが、日本政府の意向を受け同日16時に戦闘行動の停止命令が出て21日に停戦となり、23-24日に武装解除がなされた。それ以降ソ連軍は25日に松輪島、31日に得撫(ウルップ)島を占領している。

北方領土

ソ連との戦いに関しては、わが国がポツダム宣言を受諾し、昭和天皇の「終戦の詔書」が出ていることを完全に無視して日本の領土を掠奪し、今も北方領土(国後島、択捉島、歯舞諸島、色丹島、南樺太)を不法占拠しているままだ。
それだけではない。ソ連は武装解除した日本軍将兵約60万人をシベリアに拉致・抑留し、極寒の地で強制労働に従事せしめ、多くの日本人を死に至らしめた。
この悲劇はアメリカの原爆投下とともに、日本人が絶対に風化させてはならない史実だと思うのだが、いずれも占領軍の検閲により徹底的に排除され、占領軍の検閲が終わっても外国と国内の反日勢力の圧力で、たとえ史実であっても戦勝国の批判が書けない時代が長く続いてきた。

以前このブログで『氷雪の門』という映画のことを書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-138.html

氷雪の門

昭和20年(1945)8月20日に樺太の真岡の沿岸に突如ソ連艦隊が現われ艦砲射撃を開始し、上陸したソ連兵は町の角々で機銃掃射を浴びせ、一般住民を見境無く撃ち殺していった。この映画は、ソ連兵の機銃掃射が続く中で、ソ連兵が近づく直前まで通信連絡をとり、若い命をなげうった真岡郵便局の電話交換手の乙女の悲劇を描いた真実の物語である。

昭和49年にこの映画が完成し公開直前になってソ連から「ソ連国民とソ連軍を中傷し、ソ連に対して非友好的」との圧力がかかり、公開中止に追い込まれてしまった。

この時代はまだソ連という社会主義国が存在していたのだが、終戦後29年という歳月が経過しても、わが国はソ連の圧力に屈したことを忘れてはならないと思う。この時に、圧力に抗して上映していたら、北方領土問題は、今よりも少しは良い方向に動いていたのではないだろうか。

img20120815192623701.jpg

前回はアメリカのことを書いたが、アメリカは都市空襲と原爆投下、ソ連は我が国のポツダム宣言受諾後の日本侵略とシベリア抑留と、どちらも世界史上特筆すべき戦争犯罪に手を染めた国なのである。そのことが追及されないために、わが国に対して検閲や焚書という手段でその史実を封印し、戦勝国に都合の良い歴史を強引にわが国民に押し付けたのだろう。
彼らにとっては我が国に押し付けた「自虐史観」の洗脳が解けてしまっては、今度は自国に「犯罪国家」のレッテルが貼られることになりかねないのだ。だから、わが国のマスコミや政治家に圧力をかけて、中国や韓国にも参戦させて、わが国に「自虐史観」の歴史認識を問い続けているのではないだろうか。

世界の多くの国は「国益」追及の為なら嘘もつくし、下手に謝罪をすればわが国に罪を押し付けて金まで要求してくる国がいくつも存在する。相手国の圧力が大きいと安易に謝罪する政治家が多いのは、「自虐史観」が本気で正しいと信じているからか、裏取引があるか、強いものには媚びを売って一時凌ぎをする事しか考えていないかのいずれかだろう。
政治家が歴史を知らないのは、戦後の歴史教育もマスコミも出版物も、戦勝国にとって都合の良い歴史しか伝えてこなかったのである程度は仕方がないのだが、戦勝国は良い国で日本だけが悪い国という歴史しか知らないで、どうしてわが国が、大国と対等に渡り合えることができようかと思う。
相手から抗議されて謝罪することは、相手の言い分を対外的に認めることと同じだから、このまま政治家が安易な謝罪を続ければ、わが国は中長期的に、国益や領土を侵害され続けることになるだろう。

その流れを止めるのは、やはり歴史の真実を知り相手国の嘘をきちんと見破り反論することしかないのだと思う。真実を知れば、相手が主張する歴史の嘘が通用しなくなる。
そして、国民もマスコミの嘘や露骨な世論誘導を見破る力が必要だ。どんな実力ある政治家も、マスコミを敵に回してはいい仕事ができず、世論の後押しが不可欠だからだ。
戦後の占領国による検閲と焚書により、戦勝国にとって都合の悪い真実のほとんどが埋もれてしまったのだが、その歴史を少しずつ取り戻し、それを広めていくことが重要なのだと思う。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓           


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加




ソ連の『北海道・北方領土占領計画書』を読む

前回の記事でソ連によるシベリア抑留のことを書いた。

シベリア抑留を体験された斉藤六郎氏が国を相手の補償要求裁判をされて「全国抑留者補償協議会(全抑協)」という会を立ち上げられ、その裏付けのためにモスクワに何度も足を運ばれてモスクワの公文書館に保存されていた極秘文書のコピーを大量に持ち帰られたのだそうだが、その資料の中にはわが国にとっても、かなり貴重なものが含まれているという。
以前は山形県の「シベリア資料館」に公開・展示されていたようだが、残念なことに斉藤氏は平成7年に他界され、「シベリア資料館」にあった膨大な史料は遺族のトラブルに巻き込まれて展示されなくなっているようだ。そして昨年5月には「全抑協」も解散されてしまった。

斎藤氏が集められた史料の中には旧ソ連軍の「北海道と南千島占領計画書」があるのだそうだ。
この文書はジャーナリストで近現代史研究家の水間政憲氏が、「シベリア資料館」の史料を調べられた時に発見されたものである。

領土問題の真実

文書の日付は1945年8月18日で、ソ連軍極東軍最高司令官ワシレフスキー元帥からスターリン、ブルガーニン、アントーノフの3名に宛てられたもので、この文書の全文が、水間氏の『領土問題の真実』(PHP刊)のp.60~p.62に翻訳されている。
この文書の冒頭で、日本軍の降伏と武装解除が順調に進んでいることを述べたあと、ワシレフスキー元帥はこのように記している。

middle_1207180487.jpg

「全満州、内モンゴル、遼東半島(大連港、旅順を含む)、北緯38度線までの朝鮮、サハリン(樺太)の南半分、釧路から留萌までの線から北の北海道の半分(釧路、留萌を含む)、クリル(千島)列島の全島の占領という、極東軍、太平洋艦隊に提起された任務に基づき、各方面軍には、即刻、任務が与えられた。」

と、北海道の北半分と北方領土の占領が、ソ連極東軍・太平洋艦隊の任務であることを明記している。

次いで、ザバイカル方面軍については、モンゴル人民共和国軍と共同で満州、遼東半島、関東半島の等の占領計画が書かれている。
続いて、重要な部分に入る。

北海道分割

「第一極東方面軍の任務は、ボーリ、ハルピン(含む)の線から南、チャンチュン、トゥンホゥア、ヤルツヤン川の線の東、北緯38度までの朝鮮領の占領である。ハルピン市とギリーン(吉林)市占領の時期は8月21日の朝までに、北朝鮮に関しては9月1日までとする。… 同時に、…釧路市から留萌市までの線の北側の北海道の半分と、シムシル島まで(含む)のクリル列島の南部の占領を委ねた。この目的のために、方面軍司令部は、太平洋艦隊と商船隊の船の援助を受け、1945年8月19日から9月1日までの期間に順次、クセノフォーントフを軍団長とする第87狙撃軍団のうち3個狙撃師団を送り込む。それらのうちの2個師団は北海道に、1個師団はクリル列島に配置する。軍団参謀本部は、北海道に置く。この同じ時期に、第87狙撃軍団とともに第9空軍のなかから1個駆逐航空師団と1個爆撃航空師団が基地移動する。」

シムシル島(新知島)はクリル(千島)列島のほぼ中央にある長さ59kmの島である。

Senryou.gif

続いて第2極東方面軍の任務について述べている。

「第2極東方面軍の任務は、…北満州の占領を1945年8月20日までに行うことである。 同時に、…、サハリン島の南半分、シムシル島(除く)までのクリル列島北部を占領する任務が課せられた。
サハリン島の南半分の占領のためには、現在ここにある軍を使用する。今後、補足的にさらに1個狙撃師団を送り込む。占領は8月18日の朝から着手される。クリル列島北部の占領のためには、8月18日にかけての夜に、カムチャトカに配備されている第101狙撃師団から2個狙撃連隊を列島に送り込む。今後、カムチャトカ区域とクリル列島の北部を、さらに1個の狙撃師団で強化する。ここのすべての軍の監督を、カムチャトカ防衛区域の長に委ねる。」

その上で、太平洋艦隊の一部をペトロハヴロフスク・ナ・カムチャトケに、主力部隊をオートマリ(サハリン南部)に基地移動することの許可を求めている。
そして最後にこう結んでいる。

「当計画に関するすべての予備命令は、各方面軍司令官に宛てられた。
太平洋艦隊司令官への指示は、大将クズネツォーフとともに、8月18日にウラジヴォストークで直接与える。

当計画によって決められた任務の遂行と同時に、押収した兵器、食料および工業企業の設備類の、早急な登録とわが領土内への搬出の組織化を、各方面軍に断固として要求する。

当計画に関する貴殿の承認か、あるいは指示をお願いする。」

この文書とは別に、同じ日付でソ連軍極東軍最高司令官ワシレフスキー元帥から第1極東司令官に宛てた文書がある。おそらくこの文書は、上記の文書に対するモスクワからの回答を入手したのち作成されたものなのだろう。そこには北海道占領計画に関する記述が、より詳細に書かれている。

「上記の命令の遂行と同時に、1945年8月19日から9月1日までの期間に北海道の半分、すなわち、釧路市から留萌市までを結ぶ線から北半分と、シムシル島までのクリル列島南部を占領すること。この目的のために、太平洋艦隊の船と部分的に海洋商船隊の援助を受けて、1945年8月19日から、9月1日の期間に、第87狙撃軍団の二個狙撃師団を投入すること。また同時期に、第九空軍の1個駆逐飛行師団と一個爆撃飛行師団を北海道とクリル列島に基地移動すること。」(水間政憲『領土問題の真実』p.63)

前回の記事に書いたが、ソ連軍は8月25日までに南樺太を占領し、南千島は歯舞群島については9月3~5日に占領となったが、他の島は9月1日までに占領している。また北千島は8月31日までに占領と、概ね計画通りに領土を奪っていることがわかる。
ところが、ソ連の計画では9月1日までに北海道の北半分を占領することになっていたのだが、幸運なことに北海道については手つかずで終わっている。それはどういう経緯であったのか。

米国は8月15日にマッカーサー元帥の命により、一切の戦闘行動を中止している。その3日前の8月12日にソ連は日本の武装兵力の全面降伏を受理し、調整・実行するために、連合軍最高司令官としてマッカーサーが任命されることを合意していた。
ところが、マッカーサーがソ連軍統帥部に攻撃作戦停止を要求してもソ連軍は無視し、むしろソ連軍の本格攻撃は終戦後から始まった。このような行動をとったのは、連合国ではソ連だけなのだ。

ソ連は自国の歴史では、どう説明しているのだろうか。
水間氏の著書によると、ソ連の『大祖国戦争史』には、
「8月14日、天皇の行った日本の降伏についての発表は、一般的な無条件降伏にすぎない。軍隊に対する戦闘行動停止命令はまだ出ていないし、日本軍は依然抗戦を続けている。したがって、日本軍の降伏はまだないのである。」(水間政憲『領土問題の真実』p.64-65)
と書かれているそうだ。

しかし、このソ連の『大祖国戦争史』の記述は嘘である。8月15日に昭和天皇の「終戦の詔書」が発表され、大本営は各方面軍に対し戦闘行動の停止を命令していたのだ。

そもそもわが国が徹底抗戦を続けていたら、ソ連軍がこんな短期間に領土を奪えるはずがなかった。ソ連軍の侵略は、日本軍の戦闘行動の停止命令が出て、日本軍の武装解除が進んでいることを確認してからその計画が策定されている。だからこそ、わずか2週間足らずで、南樺太も千島列島も北北海道も一気に占領できると判断したのだろう。このソ連軍の『北海道・北方領土占領計画書』は、ソ連という国が、いわば『火事場泥棒』的に、わが国の抵抗がほとんどない事を前提に、領土を奪い取る計画を策定したようなものだ。

img20120819230732114.jpg

しかし、ソ連軍の侵攻を頓挫させる戦いが起こった。
千島列島の最北にある占守島(しゅむしゅとう)での日本軍の戦いは特筆すべきだと思うのだが、こういう史実が伝えられないのは残念なことである。
占守島守備隊の村上大隊長は「軍使が来たら紛争を起こさず、直ちに連絡せよ」「敵軍が攻撃してきたら自衛戦闘は妨げず、ただし停戦は18日16時とする。」との指令を受けていたのだが、深夜に来たのはソ連軍の軍使ではなく砲弾だった。

樋口季一郎

第五方面軍司令部の樋口季一郎中将は、ソ連軍奇襲の報告を受けて、自衛のための戦いを決断したのである。

水間氏は前掲書でこのように書いている。
占守島守備隊は、竹田浜からの上陸を想定し、長い訓練の結果として、夜中でも竹田浜に上陸してくる敵を砲撃できるように鍛え抜かれていた。また竹田浜をはさんだ国端崎、小浜崎の両陣地は、洞窟陣地であり、敵艦の艦砲射撃にも微動だにしなかった。
そして、両陣地から砲撃が開始されると、反撃は激烈を極めた。
その結果、ソ連軍艦船は、撃沈、擱座して、竹田浜にはおびただしい兵士の遺棄死体が累々と晒されたのである。
日本軍の損害は、死傷者600名、破壊された砲6門、擱座した戦車20両であった。それに引き替え、ソ連軍の損害は甚大だったのである。
それは『戦艦撃沈破十四、舟艇二十』『破壊、水没した火器五十数門』『戦死二千五百人、戦傷行方不明二千人』だったのだ。」(水間政憲『領土問題の真実』p.69)

この記述は決して誇張されたものではない。ソ連政府機関紙『イズベスチャ』は「占守島の戦いは、満州、朝鮮における戦闘より、はるかに損害は甚大であった。8月19日はソ連人民の悲しみの日である。」と報道したそうだ。

このまま第五方面軍が攻撃を続ければソ連軍を水際で殲滅していたかもしれないが、この自衛の戦いを終息させた人物がいた。それが関東軍参謀長であった秦彦三郎中将である。

秦関東軍参謀長が第5方面軍参謀長に宛てた8月20日付の公文書が、水間氏の前掲書に紹介されている。そこに書かれていることは重大だ。
「小官本十九日東蘇軍最高司令官「ワ」元帥ト會見ノ際北東方面ノ戰闘未ダ終熄セザルヲ心痛致シ在ル旨述ベ小官ノ斡旋方依頼アリタリ至急処置相成度」

第五方面軍の抗戦によりソ連側の被害が甚大となり、急遽ソ連極東軍最高司令官ワシレフスキー元帥が仲介を求めてきたのだが、秦は相手の申し入れを真に受けて、直ちに停戦することを日本軍に要請しているのだ。そのために日本軍は優勢であったにもかかわらず、武装解除を余儀なくされ、シベリアに送られることになってしまった。

ところで秦参謀長の「心痛」とは、ソ連軍が計画書通りに9月1日までに北方領土と北北海道を占領できないことを心配したということなのか。
以前このブログで、当時わが国の政治家や官僚・軍人の中に、この戦争の混乱を機にわが国に社会主義革命を起こそうと考え、ソ連に協力する人物が少なからず存在したことを書いたが、秦参謀長もそのような男であったのか。この男がこのような指令を出さなければ、北方領土の問題は今は存在しないか、全く異なるスケールのものであったのではないだろうか。

秦関東軍参謀長とソ連極東軍最高司令官ワシレフスキー元帥の19日の会談の翌日に、ワシレフスキーはモスクワのスターリンに宛ててこんな文書を発信している。
「現在、私と第一極東方面軍司令部は、北海道への上陸作戦の準備に真剣に取り組んでいる。現在、海洋からの偵察を行ない、空軍、砲兵隊、輸送手段を準備しているところである。1945年8月22日頃になるだろうと思われるが、サハリン南部の占領の後、貴殿の許可が下り次第、ただちに海からの作戦を開始する。」
秦参謀長の停戦命令により、ようやくサハリン南部の占領に取り掛かれることになり、北海道の上陸作戦にも取り組めるようになったということだろう。

スターリン

しかしスターリンからは、北海道への侵攻の命令は出されなかった。
樺太南部の豊原、大泊をソ連軍が占領したのは8月25日だが、ソ連軍の侵攻を予定より遅らせたのは南樺太を守っていた日本軍の抵抗によるものだったと考えて良い。

しかしスターリンが南樺太占領後、北海道への侵攻をあきらめたのは何故か。
この経緯については伊勢雅臣氏の「国際派日本人養成講座」の記事が参考になる。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h13/jog203.html

スターリンは我が国の1945年8月16日付のトルーマン米大統領宛の書簡で、北北海道の割譲を要求したが、トルーマンは8月18日付の返書でそれを拒絶している。
そこで、ソ連極東軍ワシレフスキー元帥は、8月25日までに樺太全島と千島列島の北部 諸島、9月1日までには千島列島の南部諸島と北海道北半分を占領するよう命令を変更している。

しばらく伊勢雅臣氏の記事を引用させていただく。
「8月22日になって、ようやくスターリンはトルーマンあてに北海道占領を断念する旨の回答を送り、ワシレフスキー元帥は「連合国との間に紛争や誤解が生じるのを避けるために、北海道方面に一切の艦艇、飛行機を派遣することを絶対的に禁止する」という電報を打った。

22日は、千島列島北端の占守島の日本軍との間で降伏文書の調印が行われた翌日で、それ以南の諸島はほとんどが手つかずの状態であり、また樺太では真岡近郊での戦闘の最中であった。日本軍の頑強な抵抗により、ソ連としては樺太と千島列島の占領を優先するためには、もはや北海道をあきらめざるをえない状況に追い込まれたのである。」

かくしてソ連軍は南千島の占領に勢力を集中させて、北北海道はソ連の侵略から守られたのである。

トルーマン

トルーマンが北北海道の割譲に反対したことのインパクトもあったとは思うが、トルーマンがソ連の千島や南樺太の侵略行為に対して戦う意思を示したわけではない。
ならば日本軍が領土を守るために奮戦したことを、なぜ正当に評価しないのか。

もし日本軍がさしたる抵抗をせず、早い段階でソ連の北北海道占領を許していたらどうなっていたであろうか。
トルーマンがいくらソ連を批難しても、北北海道は今の北方領土と同様にソ連に奪われたままとなった可能性が高かったのではないか。そして満州や南樺太と同様に、北北海道の多くの民間人が虐殺されたり、シベリヤに送られたと思うのだ。

このような史実を教科書にはもちろん、普通の歴史書にはほとんど書かれていないし、テレビで解説されることもほとんどない。このままでは、戦勝国にとって都合の良い話だけが史実として固定化されてしまいそうなのだが、戦後のソ連軍による日本侵略にはどこに正当性があろうか。婦女暴行やシベリア抑留にいたっては世界史上特筆されるべき戦争犯罪であろう。

北方領土と住民を守るために命を捧げた日本兵士がいて、その後シベリアに抑留された兵士が多数いて、多くの人の犠牲によって日本の国土が守られてきたことを忘れてはならない。
『自虐史観』では、彼らは国家のために意味のない戦争に参加させられて「犬死に」したと蔑まれるのだが、彼らが領土と国民を守ってくれたことの意義を忘れてしまう事こそが、彼らの死を「犬死に」に貶めてしまうことであり、ロシアを「高笑い」させることではないのだろうか。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓           


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。





盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか

以前このブログで、昭和12年(1937)7月7日深夜に起こった「盧溝橋事件」のことを書いたことがある。
教科書などの多くは、一方的にわが国が中国に侵略したかのような書き方になっているのだが、日中戦争が泥沼化していった契機となった「盧溝橋事件」を仕掛けたのは、中国共産党であったことが今では明らかとなっている。

周恩来

中国共産党周恩来(1898-1976)が、昭和24年(1949)10月1日(中華人民共和国成立した日)に「あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ」と演説しており、また中国共産党軍の兵士パンフレットにも「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志(後の国家主席)の指示によって行われたものである」と書かれているというから、中国共産党が仕掛けたことについては今では疑いようがない。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

要するに中国共産党が国民党軍に潜り込んで日本軍と国民政府軍との衝突を意図的に作りだし、中国共産党が「漁夫の利」を得ようとしたというのが歴史の真実なのだ。だとすれば、なぜわが国が「侵略国」と呼ばれなければならないのか。

盧溝橋

この時日本軍が盧溝橋に駐留していたことがすでに侵略行為だと考える人がいるのだが、この指摘は間違いである。
当時清国に駐留していたのは我が国だけではなかった。1900年の『義和団事件』の後で清国が欧米列国及び我が国との間で締結した『北京議定書』に基づいて、わが国を含む8ヶ国が、居留民保護の目的で中国各地に駐留していたのであり、盧溝橋に日本軍がいたことについては「侵略」と呼ばれる筋合いのものではない。

日中戦争が中国共産党の挑発により始まり、日本軍が中国に駐留していたことが「侵略」に当たらないことは明らかであるにもかかわらず、わが国の教科書やテレビなどの解説では、未だにわが国が一方的に中国を侵略したとのストーリーで描かれることが多いのは、嘆かわしい事である。

東京裁判において、わが国が「平和に対する罪」を犯したとして東條英機らが死刑に処せられたことは、わが国が侵略国であると裁かれたようなものなのだが、その「戦勝国にとって都合の良い歴史」を日本人の間に広めるために、多くの歴史的事実が歪められて書かれたり、「戦勝国にとって都合の悪い真実」が伏せられたりしていることを、このブログで何度か書いてきた。このことは、日中戦争においても全く同様なのである。

『もう一度読む 山川の日本史』には盧溝橋事件につづいて、こう記述している。
「…つづいて上海でも日中両軍が衝突し、戦果は中国全土に広がった。日本軍がつぎつぎに大軍をおくって戦線を拡大したのに対し、中国側は国民党と共産党が協力して、抗日民族統一戦線を結成し(第2次国共合作)、日本に抵抗した。こうして事変は宣戦布告がないままに、本格的な日中戦争に発展した。」
と、盧溝橋事件のあとで日本が次々と大軍を送って戦線を拡大したというのだが、これは決して公平な記述ではないだろう。
今回は、なぜわが国が中国との戦いに巻き込まれたのかについて書くことにしたい。

imagesCAFGB8RD.jpg

盧溝橋事件からわずか3週間の間に、多くの日本軍人や日本人居留者が命を落としたことを私が知ったのは、最近になって中村粲(なかむらあきら)氏の『大東亜戦争への道』(展転社)という本を読んだからなのだが、このことは重要な事件だと思うのだが教科書には書かれていないし、マスコミで報道されたこともほとんどなかったと思われる。しかしこのことを知らずして、なぜわが国が中国戦に巻き込まれたかを語れないと思うのだ。
中村氏の著書を参考にしてその経緯を纏めてみよう。

盧溝橋事件で中国の挑発を受けても、当初は、陸軍も外務省も事件を拡大させるつもりはなかった。
盧溝橋事件翌日の昭和12年7月8日に、陸軍中央と外務省は事件の不拡大方針を決め、9日の臨時閣議中に現地停戦協議成立の報告が入って、派兵提案を見送っている。

しかしながら、中国側は停戦協議で約束した撤退をせず挑発を続けたために、わが政府は11日に三個師団を派兵することを閣議決定するも、同日夜にまた現地停戦協定が成立したため、再び派兵を見送り、現地軍に不拡大方針を再確認させた。
ところが、中国軍は再び停戦協定を破って、13日には天津砲兵聯隊第二大隊修理班が中国兵に襲撃され4名が爆殺されてしまう(「大紅門事件」)。
14日には天津駐屯騎兵隊の1名が襲撃され、残忍な手口で殺される事件が起きている。
また、20日には撤退する約束であった盧溝橋城の中国軍が、日本軍に一斉射撃を仕掛けてきたために、日本軍も盧溝橋城壁に向かって砲撃を行なった。
政府は再び三個師団の派兵を承認するも、現地に派遣していた軍務課長の報告を受けて、再び内地師団の派兵を見合わせている。

しかし、25日には廊坊の電線修理に派遣された日本軍の電信隊一個中隊が、中国軍に包囲、攻撃される事件があり(「廊坊事件」)、26日には天津駐屯第二聯隊第二大隊が支那軍から乱射を浴びる事件があった(「広安門事件」)。

日本軍は、盧溝橋事件以来3週間にわたって隠忍自重に努めてきたのだが、ここに至っては武力不行使の大方針を放棄するほかなく、28日に天津軍は中国二九軍に開戦を通告し全面攻撃を開始。中国軍は南へ敗走したという流れである。

img20120828233548105.jpg

しかし、翌7月29日に通州で、中国保安隊による大規模な日本人虐殺事件(「通州事件」)が発生したのである。
この「通州事件」を記述する歴史書はほとんどなく、新聞やテレビなどで解説されることは戦後では皆無に近い。しかし、当時の新聞や雑誌などではその惨状が大きく報道され、日本人の被害が克明に記録されており、証拠となる写真も多数残されている。

通州地図

通州という場所は北平(現在の北京)の東12kmにあり、南京政府から離脱して設立した冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)の中心都市で、北京議定書に基づき、欧米列強同様に日本軍が邦人居留民保護の目的で駐留していたのだが、「廊坊事件」や「広安門事件」などが起こり、北平の治安強化のために応援に出ていたために、通州の守備隊は110名程度と手薄になっていた。
このタイミングで、冀東防共自治政府の千数百名の保安部隊が、日本軍の守備隊や特務機関や民家を襲撃し、無辜の民に対して掠奪、暴行、凌辱、殺戮など残虐の限りを尽くしたのである。

中村粲氏の『大東亜戦争への道』のp.404-406に東京裁判で行われた証言内容が掲載されている。
「旭軒(飲食店)では四十から十七~八歳までの女七、八名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されて居り、その中四、五名は陰部を銃剣で突刺されてゐた。商館や役所に残された日本人男子の屍体は殆どすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだつた。」
(萱島高・天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第二連隊長(当時)の東京裁判における証言)

「守備隊の東門を出ると、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たはって居り、一同悲憤の極に達した。『日本人は居ないか』と連呼しながら各戸毎に調査してゆくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等がそこそこの埃箱の中や壕の中などから続々這ひ出してきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されてゐた。婦人といふ婦人は十四、五歳以上はことごとく強姦されて居り、全く見るに忍びなかった。旭軒では七、八名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されて居り、陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者等、見るに耐へなかつた。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合はせてそれに八番鉄線を貫き通し、一家六名数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があつた。池の水は血で赤く染まつてゐたのを目撃した」
(桜井文雄・支那駐屯歩兵第二連隊小隊長(当時)の東京裁判における証言)

通州城内見取り図

「近水楼入口で女将らしき人の屍体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあつた。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、四つ五つ銃剣で突き刺した跡があつたと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散乱してゐた。女中部屋に女中らしき日本婦人の四つの屍体があり、全部もがいて死んだやうだつた。折り重なつて死んでゐたが、一名だけは局部を露出し上向きになつてゐた。帳場配膳室では男は一人、女二人が横倒れ、或はうつ伏し或は上向いて死んで居り、闘つた跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のやうだつた。女二人は何れも背部から銃剣を突き刺されてゐた。階下座敷に女の屍体二つ、素つ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。一年前に行つたことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素つ裸の女の屍体があつた。その裏の日本人の家では親子二人が惨殺されてゐた。子供は手の指を揃えて切断されてゐた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の屍体が路上に放置されてあつたが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱してゐた。」
(桂鎮雄・支那駐屯第二連隊歩兵隊長代理(当時)の東京裁判における証言)

このような証言は決して作り話ではなく、証拠となる現場写真も多く残されている。
見るだけで気分が悪くなるのでここでは紹介しないが、例えば次のURL等に一部の写真が掲載されているが、日本人はこんなひどい殺し方をしないだろう。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/46489118.html

通州の在留邦人380人中惨殺された者は260名に達し、被害者の名簿もしっかり残されている。
また、今では冀東保安隊第一、第二総隊の計画的犯行であったことが中国側の資料で明らかになっているし、「防共」自治政府の保安隊と言いながら第二総隊には中国共産党の支部が結成されていたという。

この通州事件の詳細が我が国に伝えられて、国民の憤慨が頂点に達したことは言うまでもない。もし自国の同胞が理由もなく辱められ虐殺されたならば、世界中のどこの国であろうとも、いつまでも加害国を許せるものではないだろう。

以前このブログで「砕氷船のテーゼ」のことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html
1935年の第7回コミンテルン大会におけるスターリン演説はこのようなものであったという。
「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

要するに中国共産党は、凄惨な方法で日本人を虐殺することで、このシナリオ通りに、日本を中国との戦いにひきずりこむことに成功したということではなかったか。冒頭の周恩来の演説の通り、わが国は中国共産党の卑劣な罠にかかってしまったと解釈するのが正しいのだろう。

このブログで何度も書いているように、戦勝国にとっては、わが国がよほど邪悪な国でなければ自国にとって都合の良い歴史を叙述することができないのだ。もし「通州事件」を通史に書いてしまえば、わが国以上に中国が悪い国になりかねないことは、少し考えれば誰でもわかることだ。
だから、「通州事件」のような「戦勝国にとって都合の悪い史実」は日本人に知らせないように封印したのであろう。
何度も言うように、我々が戦後押し付けられている歴史は「戦勝国にとって都合の良い歴史」であり、日本人がこの歴史観に染まっている限り戦勝国は安泰なのである。

ところで「通州事件」の4か月後の12月13日から6週間にかけて「南京大虐殺」が起こったとされるのだが、普段は中国の言うことを全く信用しない人も、この事件だけは中国の言い分を丸呑みする政治家が多いことや、中国に気兼ねするマスコミの論調には閉口してしまう。

明らかに日本人が虐殺された「通州事件」の史実が封印されて、なぜ「南京大虐殺」ばかりが強調されなければならないのだろうか。
このことは、中国にとって都合の良い歴史とするためには、わが国が邪悪な国であり、中国がその邪悪な国と戦って勝った国であると書くしかないのだという事が理解できれば、疑問のすべてが氷解する。中国が日本人を虐殺した事件は他にも昭和3年(1928)の「済南事件」などがあるが、このような事件が戦後書かれた通史からことごとく無視されているのは、前述した事情によるものなのだろう。

キリスト教徒の久保在政氏が「キリスト教読み物サイト」というHPを運営しておられて、そのなかにある「日中戦争の真実」という論文は当時の写真や資料が豊富で非常にわかりやすく纏められており、イデオロギー臭も少ないので、一読を勧めておきたい。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi05.htm

この久保氏の論文で、当時のローマ法王ビオ11世が日本軍の事を絶賛していることが紹介されている。
「日中戦争(支那事変)が始まった年である一九三七年、一〇月に、当時のローマ法王、平和主義者として知られるピオ一一世(在位1922-39)は、この日本の行動に理解を示し、全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけました。法王は、
『日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ』といった内容の声明を出しています。」

またこのような記述もある。
「日本軍は、中国軍から虫けらのように扱われた中国民衆を、必死になって救済したのです。
こうした中国軍の性格は、蒋介石の軍だけでなく、毛沢東の共産軍でも同様でした。いや、共産軍はもっとひどいものでした。共産軍は、民衆から「共匪」(きょうひ)すなわち共産主義の匪賊と呼ばれていました。それは彼らが行く先々で、民衆に略奪、殺人、強姦を働いたからです。
中国の軍隊は、共産軍でも国民党軍でも、基本的に軍隊というより、ルンペンを寄せ集めたような集団にすぎなかったのです。彼らが軍隊に入ったのは、占領地区で略奪が出来るため、食いっぱぐれがなかったからです。
ですから中国の司令官は、ある土地を占領すると、最低一週間は兵士たちの好きなように略奪や強姦をさせました。また、そうしないと司令官が殺されてしまったからです。」

img20120830171429387.jpg

この久保氏のサイトに、当時の日本軍と中国の少年たちが1938年の正月を迎えている写真が掲載されているが、この写真は「南京大虐殺」があったと主張する人々が、虐殺があったとされる時期撮影された写真ということになる。本当にそのような凄惨な虐殺があれば、このような明るい笑顔が中国人に出せるはずがないのだ。日本軍は中国民衆にとっては、解放軍ではなかったか。

このような写真や論文はネットで探せばほかにもいくつも見つけることができるのだが、このような論文や写真に触れて、この事件に関しては教科書以外に様々な見方があることだけでも知ってほしいと思う。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加




第一次大戦以降、中国の排日運動を背後から操ったのはどこの国だったのか~~その1

最近出版された西尾幹二氏の『GHQ焚書図書開封7』(徳間書店)を読んでいる。
このシリーズは、戦後占領軍によって焚書処分された本の解説をしているものだが、「GHQ焚書図書」については少しだけ説明が必要だ。
GHQ(占領軍)が昭和20年9月から占領期間中に、わが国の新聞、雑誌、映画、ラジオの放送内容、あらゆる出版物や一部私信までも「検閲」をしていたことは良く知られているが、それとは別に、当時本屋の書棚や図書館などに並べられていた戦前・戦中の書籍のうち、日本人に読ませたくない本7769点を「没収宣伝用刊行物」に指定し日本政府に指定図書の没収をさせていた。その書物は我が国にとっては貴重な歴史書や研究書がかなり含まれていたのである。

西尾幹二

「焚書」といっても、指定される前に購入された学校や図書館や個人の蔵書までは没収されなかったことから一部の書物はある程度入手が可能で、西尾氏は焚書処分された書物を掘り起こされて解説するシリーズの第1巻を4年前に上梓され、今もそのシリーズが出版中で今回が7冊目になる。
このシリーズの本を読むと、占領軍が、どのような史実が書かれた書物を日本人に読ませたくなかったということがよく解り、戦勝国の本来の戦略や意図が透けて見えてきて、日本人が戦後、いかに浅薄な歴史観を押し付けられていることに気づくことが多いのである。

GHQ焚書開封7

今回の『GHQ焚書図書開封7』では、中国研究者の長野朗氏が昭和17年に上梓された『支那三十年』という本が紹介されている。その中で、中国の「排日運動」が何故起こったかについて具体的に書かれている部分を、長野氏の文章を引用しながら紹介したい。

長野氏は中国で「排日運動」が始まった大正8年(1919)には北京の中国人の家に下宿しておられて、「排日運動」が「抗日運動」になるまでを身近に見て来られた人物で、長野氏の中国に関する著作はこの著作も含めて18冊がGHQによって焚書処分の指定を受けているという。

『支那三十年』にはこのように書かれている。(原文は旧字・旧仮名遣いだが、新字・新仮名遣いに変更している。[ ]内は西尾氏の補足部分。以下も同様。)
「排日が起こったのは大正八年の五月四日であるから、五四運動(ごしうんどう)といわれている。やったのは北京大学の学生だが、起こりはいろいろでここに詳しく述べている暇もないが、第一には英米が欧州戦争[第一次世界大戦]中に、東亜の市場を日本に独占されていたのを、何とかして取戻そうとして、排日を煽り日貨排斥[日本製品ボイコット]を宣伝した[「五四運動」の裏にはイギリスとアメリカがいたというのです。]。欧州戦争中はさすがに気兼ねしていたが[日本は英米側についていたから]、休戦ラッパが鳴り響くや[1918年]忽ち英米新聞が排日の宣伝を始め、それが支那新聞に伝染し、漸く気勢[「排日」の気運]が出来てきた。」(西尾幹二GHQ焚書図書開封7』p.164)

この部分は一般的なわが国の教科書ではこう記述されている。
「中国では…1911年辛亥革命がおこり、翌年には、南京を中心に孫文を臨時大統領とする中華民国が成立し、新王朝はついにほろんだ。しかし、国内にはなお旧勢力が各地に分立し、軍閥の実力者袁世凱が孫文をしりぞけて大統領となり、北京に政権を樹立した。 第2次大隈内閣はこのような混乱に乗じて、1915 (大正4) 年、中国の袁世凱政府に中国における日本の権益を大幅に拡大する内容のいわゆる二十一ヵ条の要求を提出し、最後通牒を発して要求の大部分をみとめさせた。しかし、中国国内ではこれに反発して排日気運が高まった。」(『もう一度読む 山川日本史』p.270)
と、どこにもイギリスやアメリカの事が書かれていないのだ。

『山川日本史』にかぎらず、どの教科書にも「二十一ヵ条の要求」が排日の直接の原因のように書かれているのだが、この「二十一ヵ条の要求」の内容については従来の既得権益を中国側に確認させる目的で提示されたものが大半で、新たに追加された条項は最終的にはすべて削除されているのである。

孫文

Wikipediaによると、袁世凱の政敵である孫文は、「二十一ヶ条要求は、袁世凱自身によって起草され、要求された策略であり、皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払った代償である」、と断言しているというし、中国に対してはロシア、フランス、イギリス、ドイツも要求している内容と比べて、決して過激なものではなかったというのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E8%8F%AF21%E3%82%AB%E6%9D%A1%E8%A6%81%E6%B1%82
とすれば、二十一ヵ条の要求が排日の直接の原因であるという教科書の記述を鵜呑みにすることは危険である。
そもそも排日活動は中国だけで起こったわけではない。
例えば第一次世界大戦が終わると、アメリカではカリフォルニア州他各週で日本人の土地所有が禁止され、1924(大正13)年には日本人の移民を国家として禁止している。(排日移民法)
アメリカに対してわが国が悪いことをしたからアメリカが排日になったわけではない。わが国はアメリカの植民地にならずに近代国家に脱皮し、第一次世界大戦の間にわが国が東アジアのマーケットを開拓したことを快く思わない米英が、中国に排日を仕掛けて日本製品をボイコットさせたという長野氏の主張は非常に説得力があるのだ。

五四運動

中国で排日運動が始まった大正8(1921)年の五四運動の時の様子について、長野氏はこう書いている。
「五月四日の夜、親日派の曹汝霖(そうじょりん)邸を焼き討ちし、章駐日公使に負傷させた北京大学生は、…翌日の全市の新聞が大いに彼らの行動に肩を持っているし[北京の全新聞が彼らの行為を絶賛した]、政府の処置が緩やかであったのに元気をだし、忽ち火の手は北京の各大学から天津に伝わり、全国の学校に及んだ。全国の学生運動の中心をなしたのは英米系の学校と、基督教青年会[これも英米系ですね]の幹部とであった。基督教青年会の連中は学生を取り付けるために(取り込むために)映画を見せたり、お茶を出したりして誘い込むのである。」(西尾幹二GHQ焚書図書開封7』p.165-166)

長野氏が下宿していた中国人の家にはよく排日ビラが投げ込まれていて、長野氏は排日の行列を何度も見たそうだが、当時は排日行列に参加すると一日50銭が支払われていたそうで、演説をすると1回あたり50銭、巧い演説には1円、女学生の演説は効能があるので1円が支払われていたそうである。
当時中国には国定教科書がなく、商務印書館とか中華書局とかいうところで勝手に教科書が作られていたが、排日が流行になると盛んに排日記事を入れた教科書が売り出されるようになって、初めて排日教科書が現れたのは大正8年(1919)だったと書かれている。
その当時の排日的教科書の事例として、当時の地理の教科書が紹介されている。
「日本は島国なり、明治維新以来国勢驟(にわか)に盛なり、我が琉球[沖縄をシナのものとしている]を県とし、我が台湾[台湾も自分のものだ、と]を割き、我が旅順大連を租借し、朝鮮を併呑し、奉天、吉林に殖民し、航業商務(海上輸送や各種商業)を我国各地に拡張す。」(同上書p.169)
と、一度も中国の領土になっていないはずの、沖縄も台湾も日本に取られたと書いてある。
中国のやることは、今も昔も変わらない。

そして、
「国民政府になってからは、政府自ら排日教科書を編纂し、童謡に童話に児童劇に、皆排日を盛るに至った。」(同上書p.170)
と、子供の段階から排日を洗脳していったのである。
中国の排日の背景について長野氏はこう書いている。
排日運動を初めから眺めていると、英米人の煽動は実に目に余るものがあった。公吏[英米系の公共団体の職員]が自ら乗り出してやっているし、運動費を出す。それも一度に出すとパッと焚(も)えて後は火の消えたようになるから[一度に全額を出すと、シナ人は最初だけやって、あとは怠けるから]、毎月に出すし[小分けにして出した]、外字新聞[英米人経営の英語新聞]が排日煽動の音頭取りをやるし、それに自分の新聞だけで足らずに、支那紙[シナ語の新聞]を買収して盛んにやったものである。各地の学生会でも、英米人経営の学校が凡て中心になっている。宣教師共が排日運動に大童(おおわらわ)で活動する。殊に基督教青年会の活動が目立っている。英国は未だ日英同盟が存在していたので、表面には出ないで、アメリカを表に出して裏で盛んに活動した。彼らの最も恐れたのは日支の結合である。」(同上書p.171)
「日支が結合すれば、世界何物もこれ[日本とシナの結びつき]を冒すことはできない。それでは彼ら[英米]の野望が達せられないので、まず日支を離間する[日本とシナとの仲を引き裂く]ことに全力を注ぎ、次にこれ[日本とシナ]を衝突させ相闘(あいたたか)わしめようとした。この深謀遠慮は、二十年のたゆみなき努力により、蒋介石の長期抗戦となって現われた。」(同上書p.173)

1929日貨排斥と欧米輸出急増

要するに、英米の狙いは、中国市場を独占することにあった。しかし、中国大陸にはすでにイギリス、ロシア、ドイツ、フランスなどがすでに地歩を築いており、そこで武力を用いて中国市場を奪おうとすれば大戦争とならざるを得ないので避けた。
そこで、第一次大戦で東アジアの市場を拡大していた日本が狙われたということなのだが、そのために中国と日本を離反させ、中国に反日感情を植え付けて中国市場から日本の商品を排除して、その市場をアメリカが奪い取ろうとしたということになる。

1932アメリカが1位になる

そして実際に、1931年の対中国の貿易額は日本、イギリスを抜いてアメリカが第一位となるのであるが、そのやり方が実にひどいのだ。中国人に日貨排斥(日本商品のボイコット)をさせて、日本商品を売れないようにさせるのである。初めはボイコットの期間が短かったのだが、それが次第に長くなって、ボイコットを始める前の日本企業との契約も守られなくなっていく。

「…ボイコット[日本製品のボイコット]の期間が長くなり、又開始前の契約も認めないようになったので、日本の小さい店は倒れるものも出てきた。それにボイコットも部分的でなく多くは全国一斉に行われ、後には南洋まで拡がった。期間が短いと欧米に注文する暇はないが半年一年となると、欧米品が日本品に代ってどんどん入るようになり、この機会に支那にも盛んに工業が起こってきた。ボイコットの方法も深刻になり、違反者を捕えて檻に入れたり、爆弾を投げ込んだり、莫大な罰金を課したり、耳を切ったり、それをすべて私的団体でやり政府は見ているから、支那の政府に抗議しても何にもならない。
…又日貨[日本商品]の没収や日貨に課税したりしてその収入が数千万円に及び、それを争って上海では主謀者の争奪戦が行われた。」(同上書p.180)

このような史実を日本人に知られては、戦勝国が日本人に押し付けた「日本だけが悪かった」という歴史観が成り立たないことは誰でもわかる。長野氏の著作は「戦勝国にとっては都合の悪い史実」が縷々記述されていたために、GHQの焚書処分にあったというしかない。

すでに多くの大企業が中国に進出してしまったのだが、このことは排日運動から抗日に至る歴史に照らして考えれば、非常に危険なことなのだ。
もし長野氏の著作が今も国民に愛読されていたならば、これほど多くの日本企業が中国に工場などの進出をすることはなかったと思うのだが、ここまで進出してしまってはどうしようもないだろう。

今般の領土問題が契機となって、第一次大戦以降と同様な動きが起こっても何の不思議もない。
日系企業労働者にボイコットを仕掛けられ、日貨排斥を仕掛けられ、あるいは反日暴動を仕掛けられた時には、中国に進出した多くの日本の企業はどうやって中国に移した設備や技術や従業員や製品などを守ることが出来ようか。
中国だけではなく韓国でも同様の事が起こってもおかしくないだろう。

長野氏の論文で、中国の排日に英米の勢力が活発に動いたことが書かれていたが、中韓の反日は、今もアメリカが背後で政治家やマスコミを使って工作している可能性を感じている。
アメリカにとっては、自らは血を流すことなく、ライバル国同志の紛争や、ライバル国の内部対立を利用して、お互いを戦わせて消耗させることで自国の覇権を強化するという、戦わずして勝つ戦略がベストのシナリオであろう。
我が国に、中国や、韓国や、ロシアといくら紛争が起こっても、アメリカにプラスになることはあれ、マイナスになることは何もない。

アメリカにとって一番困るのは、わが国が中国や韓国と組むことであるはずだ。しかし、そうさせないためにアメリカはそれぞれの国との関係で紛争の火種をわざと残し、国内にも争いの火種を残して、タイミングを見てそれを刺激して覇権を維持できる仕組みが構築できており、どこの国も簡単には動けない。わが国の総理大臣が短命なのも、そのことと無関係ではないのではないか。
アメリカのやっていることは、長野氏の時代とそれほど変わっていないのかも知れないのだ。真実の歴史を知らなければ、わが国は何度も同じ過ちを繰り返すことになるのではないだろうか。
***************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓           


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加






米英が仕掛けた中国の排日運動はそれからどうなったのか~~中国排日その2

前回の記事で西尾幹二氏の『GHQ焚書図書開封7』に解説されている、長野朗氏の『支那三十年』という本の一部を紹介した。
この当時長野氏は北京の中国人の家に下宿しておられて、中国の排日運動をつぶさに見てこられたのだが、この著書の中で、中国の排日運動は、当初アメリカやイギリスが、対中貿易拡大のために日本企業が築き上げた中国市場における商圏を奪い取る目的で、中国人を煽動しはじめたということを、かなり具体的に書いておられる。

教科書などをいくら読んでも、この時期になぜ突然に中国で排日運動が起こったのかが長い間腑に落ちなかったのだが、長野氏の文章を読んでようやく納得した。
排日運動を仕掛けたことによって、アメリカの対中国貿易が、日本、イギリスを追い抜いて一気に首位に踊り出たと書いてあったので、当時の新聞記事を探してみた。こういう時は「神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ」の「新聞記事文庫簡易検索」を使えば、経済関連の古い記事が自宅のPCで検索できる。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html
例えば「対支貿易 アメリカが首位」と入力して検索すれば、昭和7年8月2日付の中外商業新報の記事がヒットする。

1932アメリカが1位になる

そこには、アメリカが首位に躍り出た理由がこう書かれている。
「米国が対支輸出国の首位を占めたるに至ったのは、支那の日貨排斥運動によりわが対支輸出が大打撃を蒙ったのに対し、米国が原料品は銀安にも拘らず商品価格の世界的低落の波に乗って銀竪*としても値段はなお出会う程度に低落し米国小麦、綿花、薬煙草、木材等が大量に支那に流入したことによる…」
ここにはアメリカが排日運動を主導したとまでは書かれていないが、最大の受益者がどの国であるかを考えればおおよそ見当のつく話だ。
*当時の米中貿易は決済を銀で行っていた

imagesCAWQX9R0.jpg

この「神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ」を使えば中国やアメリカ以外でも排日運動が起こっていた事が容易にわかる。例えば昭和10年5月25日付の大阪朝日新聞には、中南米の排日貨で斎藤駐米大使が米政府に「注意喚起」している記事が出ている。わが国の政府も、裏でアメリカが中南米の排日で動いていたことの裏付けなしで、このような会談を米国務省に公式に申し入れることはあり得ない話であろう。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10002662&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
戦後GHQは、このような戦勝国にとって都合の悪い真実を日本人に忘れさせるために、そのような記録のある書籍を徹底的に洗い出して焚書処分させ、さらに「戦勝国にとって都合の良い歴史」を日本人に押し付けてしまったので、ほとんどの日本人にとってはこのような史実を知る機会が失われてしまったのである。

再び長野朗氏の著作に戻ろう。
長野氏は中国の排日活動を4段階に分けて書いておられる。
第1段階では、排日と親英米の空気を造るために、中国の隅々に宣教師を送り込み、教会や学校や病院を創る一方で、中国人に「排日思想」を植え付け、日貨(日本製品)のボイコットを始めた。
第2段階では、日貨のボイコット期間が長くなり、日本品に代って欧米品が中国に入ってきた。前回はここまでの経緯について書いたのだが、その後、英米資本と中国の民族主義とが結びついていく。それが第三段階である。しばらく長野氏の文章を引用する。
(原文は旧字・旧仮名遣いだが、新字・新仮名遣いに変更している。[  ]内は西尾氏の補足部分。以下も同様。)

蒋介石

「第三期になってくると、国民政府[蒋介石の国民党政府]が自ら主宰し、政府の機関を動かし、商工部で立案し、支那は不自由せずに、日本だけが困る方法を考え、全国のボイコットを統一した。しかし表面は国民党によって組織された反日会が本部を上海に設け支部を全国に置き、国民党の支部員がこれ[日貨排斥]にあたった。この時期になると、ボイコットは政府の任務であり、政策として行われた対日経済戦であった。…
英米資本の東亜独占と、支那の民族主義とがからみつき、大正八年から排日が起こったが、その方向は二つの進路をとった。
一つは支那の民族運動として、満州の漢人化となり[清朝が倒れたので、清朝の故地である満州にどんどんシナ人が入っていった]、満州からすべての日本の勢力を駆逐しようとする企ては、遂に張学良をして満州事変を起こさせるに至った。
一つは経済的の現われで、上海を中心として興りかかった支那の新興財閥と英米資本との合作によるボイコットで、これは当然浙江財閥の傀儡たる蒋介石と、英米の合作にまで進んできたのである。」(西尾幹二『GHQ焚書図書開封7』p.181~183)

日本を追い詰めた排日運動は二つのコースをたどり、満州では張学良が盛んに日貨排斥を行ない、それが満州事変の引き金となった。もう一つは浙江財閥の蒋介石が英米資本と手を組んで日本を追い詰めたというのである。

「排日の内容も時には変化があった。排外運動が排日の形で出たのは当然であるが、その後ソ連の指導する中国共産党が現われるにしたがい、大正十二年から少し雲行きが変わってきた。…
学生会のリーダーは、英米系の基督教青年会の幹事から、いつの間にか共産主義青年団の幹部となり、排日から反帝国主義運動になったが、英米人は巧く游(およ)ぎ廻って、その鉾先をたえず日本側に向けたのと、支那人の外国崇拝と日本軽視とは、日本人には[排斥運動を]やるが外人には手を着け得なかった。」(同上書 P.183~184)

img20120909162418716.gif

と、排日の主役が英米系のキリスト教会からコミンテルン勢力に移っていくとともに、運動のターゲットが「排日」から「反帝国主義」に変わっていく。コミンテルンにとっては英米の資本主義は敵であり英米資本も一時は狙い撃ちにされたのだが、英米はうまく立ち回ってわが国に鉾先を向けさても、英米人には手を着けられることがなかったとある。
すなわち、英米は反日を優先しソ連を抱き込んで、中国人の「反帝国主義」の圧力をかわすことになるのだが、西尾幹二氏は「日本がなぜ日独伊三国同盟に走り、英米を敵に回さざるをえなかったという背景かが浮かび上がってくるように思います。すなわち、英米がシナ大陸をめぐってソ連に近づく、英米金融資本がコミンテルンと結託し、日本に攻撃を仕掛けてきたことが第二次世界大戦の主たる原因であった」と、巧く纏めておられる。

長野氏が英国の立ち回りの凄さを、具体的に記述しておられる部分を引用しよう。
「大正十五年の北伐[蒋介石の国民党軍が北方軍閥を倒してシナを統一しようとした内戦]には、国共合作[北伐で国民党軍と共産党軍が手を結んだ]であったため、ソ連と英国との仲の悪い時ではあり、反帝国主義運動の鉾先をまず英国に向け…

img20120909162349160.gif

武漢に飛び出してきた国民革命軍は口々に『打倒英国』を叫び、武漢政府[汪兆銘率いる国民党政府]は漢口の英租界を武力で占領した。すると機を見るに敏なる英国は、あっさりと漢口、九江の英租界を支那に返して反英の気を抜き…
今まで北方軍閥派の討赤連合軍[共産党潰しを狙っていた北方軍閥]」を助けていたのを、鮮やかに百八十度転回して、…
当時江西まで下っていた蒋介石と手を握り、蒋介石に国共分袂(こっきょうぶんべい:共産党とたもとをわかつこと)の芝居を打たせ、蒋介石の共産党弾圧[それまでイギリスを敵視していた共産党を弾圧させるように仕向けた]となり、ソ連は英国に背負い投げを食わさるるとともに、反英は又排日となり、国民革命軍が南京まで下ってくると、南京の日本領事館の襲撃が行われた。この蒋と英国との連合は今日[昭和16年時点]まで続いている。同時に排日も抗日から抗戦へと予定のコースをとってきた。」(同上書 P.186~188)

コミンテルンの息のかかった国共合作軍は、最初は「反帝国主義」でイギリスを狙って、漢口の英租界を武力占領するのだが、英国はすぐさま漢口と九江の英租界を返還して反英の気勢を削ぎ、さらに国共合作軍の蒋介石に接近して、日本に鉾先を向けさせたというのだ。このような巧妙なやり口は、農耕民族の日本人にはとても真似ができないところだ。
かくして、日本は再び狙われることとなるのだが、この時期となると、英米が中国に種をまいた「排日思想」の影響がとても無視できない状況になる。

長野氏はこう書いている。

「排日で日本は経済的打撃を受けたことも少なくなかったが、それにもまして大きな問題は、支那民衆の間に排日の感情を深く浸潤させたことである。ある支那の要人は『支那人は生まれながらにして排日だ』といった。四つか五つの何も知らない子供が、自分の好きな玩具(おもちゃ)で遊んでいるのに『それは日本品だ』と一言いうと、どんなに大事にしていた玩具でも投げ捨てるということである。支那人が日本人からの電話口に出ようとすると、女房と子供が反対して出さないということである。」(同上書 P.189~190)

「しかし何といっても女子供の頭の中に深く刻まれたのには困ったものである。大正八年から排日教育を受けているが、子供の頃に注ぎ込まれたものはなかなか抜けるものではなく、それが国民革命頃[昭和初期の「北伐」の頃]には排日の立派な闘志となっていたし、今度の事変[昭和12年の支那事変]には抗日の指導者となっている。…
街路の正面にも抗日の札があり、門にも壁にも抗日の文句があり、日本品には『仇貨』『敵貨』(敵国の製品)と銘打っているし、紙幣にも排日の文字が捺してあり、時計の中にも(排日と)書いてある。買うものには排日の字があり、町を出れば排日、新聞も書籍も排日、音楽も排日、これで二十年もたてば如何に鈍い支那人でも骨の髄まで排日にならざるを得ないだろう。これが蒋(介石)の長期抗戦の原動力となり、抗日連合戦線の糊付けとなっている。」(同上書 P.192)

中国における「排日の歴史」を見ていくと、ここまで中国人の洗脳が進んでしまったきっかけは英米が作ったものであり、それが日本と中国とを離間させて、最終的に支那事変を生み、日米開戦につながっていった流れなのだが、英米はわが国の勢力を削ぐために、中国人に親英米思想と排日思想を同時に植え付けることから始めたという点は注目して良いだろう。
中国の市場を奪い取ることは、弱小国ならば力で奪い取ることができるが、強国を武力で制圧することは多くの自国兵士の血を流し、さらに全世界からの非難を受けることになってしまう。
だから時間をかけて中国人を親英米・反日に洗脳することから始め、中国人が日本商品を買わなくなるように仕向けたのだ。その手法は今もいろんな国が密かに用いているのではないかと思うのだが、日本人にはそういう発想をする人は少なく、すべてを外交交渉に委ねようとしてしまう。それが誤りなのだと思ってしまう。

相手国が情報戦を仕掛けている段階では、わが国も情報戦で戦う意思が不可欠ではないか。
相手国が我が国について明らかな偽りの歴史を世界に広めようとしているときは、わが国はその主張が誤りである根拠を示し、何が真実であるかを客観的な史料で明らかにして論破し、並行して日本文化の素晴らしさを世界に向けて発信すべきではないのか。
そのことを、戦後のわが国はほとんど何も行わずにすごしてきたし、その場しのぎで安易な謝罪をすることも少なくなかった。

img20120909160131146.jpg

しかし、わが国がある国から偽りの情報を広められた時に、内容の検証もせずに謝罪してしまうことは、相手国の主張が正しいことを認めたことと同じだ。
また、偽りの情報に対してこれと言った反論をせずにずっと黙っていることは、わが国はその情報を正しいものと暗に認めているという、誤ったメッセージを世界に対して発することになってしまうことにならないか。

占領軍は日本を去る前に、わが国においても「排日思想」の種をばら撒き、そのために「国民の生命と財産を守り領土を守る」という当たり前のことでさえ、国論が割れてしまう国になってしまった。
例えば尖閣の問題では、「中国を刺激するべきでない」と言って中国を増長させる輩がわが国には結構多いのだが、そもそも領土問題というものは、譲歩や妥協でいい結果が残せるものではないだろう。

尖閣

中国も韓国もロシアも、英米が残した「排日思想」を利用し、わが国の「戦争責任」を追及する姿勢を示すだけで、日本との外交交渉は容易に勝利できることを修得済である。
一方、アメリカはわが国が近隣諸国と対立関係にあるという事だけで、わが国の政治に容易に介入できる立ち位置を確保できる。
それぞれの国にとっては、日本が「戦勝国にとって有利な歴史観」に洗脳されたままであることが、最も都合の良い状態にあると考えておいた方が良いのだと思う。

今も中国や韓国では出鱈目な反日教育が行われていることは日本人の多くが知っているのだが、いくら内容が誤っていようが何十年にもわたりそのような教育が続けられ国民が洗脳され続けていることが、将来のわが国にどのような災難をもたらすかは、長野氏の文章を読めばおおよそ見当がつく。
このまま放置しておけば、いずれ災いの鉾先がわが国に向かうことになってしまいかねないのだが、わずか90年程度前の歴史をわが国で、決して再び繰り返すことがないようにしなければならないと思うのだ。

史実に基づかない反日の種は史実で反論して、もっと早いうちから摘み取っておくべきであったと思うのだが、わが国のマスコミは史実を伝えず、正論を言う政治家を失脚させるようなおかしな動きを永年続けてきた。
いくら実力のある政治家でも、マスコミと戦うためには世論の後押しがなければ難しい状況だから、国民の大半が「日本だけが悪かった」とする浅薄な歴史観に洗脳されてしまっている状態を、一日も早く脱する必要がある。

そのためには、これからでも遅くないから、戦後のGHQによる検閲と焚書により長い間封印されていた「戦勝国にとって都合の悪い真実の歴史」を少しずつでも取り戻し、多くの人に広めていくことしかないのだと思う。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓           


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加





中国の排日が我が国を激しく挑発するに至った経緯~~中国排日3

前回まで、長野朗氏の『支那三十年』というGHQ焚書処分された書物の内容の一部を紹介してきた。

長野氏はこの著書で、中国の排日は中国大陸で最大の交易国であった日本の商圏を奪い取る目的で英米が最初に「排日思想」を中国人に植え付けたものであり、事実アメリカは日本を追い落として中国の最大の交易国となり目的を達したことや、その後中国では二十年もの間行われてきた「排日教育」が徐々に中国人に浸透して民族主義と結びつき、またコミンテルンも「排日思想」を利用するようになっていったことを極めて具体的に叙述しておられる。
また、当時の新聞記事のいくつかを紹介して、長野氏の主張が的を得ていることを検証してみたのだが、このような記事は当時の新聞を検索していけばいくらでも見つけることができる。
当時の日本人はこのような新聞記事を読んでいたのだから、中国人の排日の背後に英米やコミンテルンが関与していたことはある程度理解できていたはずなのだが、このような史実を伝えることが戦後GHQの焚書処分やプレスコードによるマスコミ・出版の自主検閲によって封印されたために忘れ去られて、今では日本人の多くが、「わが国が侵略国であり戦争の原因を作った」という歴史観に洗脳されてしまっていることは非常に残念なことである。
もし、GHQが焚書を行なっていなかったなら、近・現代史が今とは全く異なる内容になっていてもおかしくない。歴史の真実を知れば知るほど、戦後の日本人がいかにひどい歴史観を押し付けられてきたことに、誰しも容易に気が付くはずなのだ。

西尾講演

前置きが長くなったが、今回も「中国の排日」に関して書くことにしたい。
『支那三十年』の著者である長野朗氏が他にも中国に関する本をいくつか書いておられるが、同様にGHQの焚書図書に指定されている『民族戦』という本を、西尾幹二氏が『GHQ焚書図書開封7』でその内容を紹介しながら解説しておられる。

英米が仕掛けた「排日思想」になぜ中国人が飛び付いたのか。その経緯については、『支那三十年』にはあまり詳しくは書かれてなかったのだが、この『民族戦』にはその点について長野氏の所見が記述されている。しばらく長野氏の文章を引用させていただく。(原文は旧字・旧仮名遣いだが、新字・新仮名遣いに変更している。[  ]内は西尾氏の補足部分。以下も同様。)

「…日清戦争までは、支那は大国として日本を蔑視し、日本又支那に敬意を表していたが、日清戦争の結果、その地位は顚倒[日本とシナとの力関係が逆転]した。次いで北清事変[1900年(明治33年)義和団事件]、日露戦争を経て日本の地位が益々向上するにしたがい、支那はその積弱(せきじゃく:だんだんダメな国になっていること)を暴露してきた。」(西尾幹二GHQ焚書図書開封7』p.320)

「かくて日本が朝鮮を合邦し[1910年(明治43)日韓併合]、関東州[旅順・大連のある一帯。日本の租借地]を得、満鉄によって満州に進出し、さらに日独戦[第一次世界大戦のとき、日本がドイツをシナの租借地から一掃した戦い]により山東にまで迫るに及び支那の恐怖は漸く増大した。…
しかるに、欧州大戦が終わって英米が東亜にやって来たのと、支那人の思想が世界思潮の変化につれ変わったために、俄然排日の空気が勃発するに至った。加えるに当時の我が外交のやり口が、支那に誤解を抱かせるものもあり、口に日支親善と支那の領土保全を叫び、内政不干渉を唱えながら、裏の方は一党一派を助けて内政干渉をやり、…」(同上書p.321)
と書いてある。

GHQ焚書開封7

簡単に纏めると、誇り高き中国は日清戦争に敗れて凋落し、日本は日露戦争にも勝って、中国と日本との力関係は逆転してしまった。また当時の中国の政治は乱れていて、軍閥が4つも5つもあり、国がまとまりそうではなかったのだが、第一次大戦の後、英米が中国に進出して「排日思想」を撒き散らしてから流れが変わっていく。わが国が中国に対してやったことは中国に進出した西洋諸国と変わらなかったのだが、中国人はわが国に対してだけは許せなくなっていく。

「支那人には白人崇拝心はあるが、同じ人民[黄色人種である]である日本人に対して崇拝心なく、日本人が白人と同じように支那人に威張るのを小づら憎く思った[これが排日のいちばん大きな理由でしょう]。それに日本が小国でありながら、一躍世界列国の列に入り[第一次大戦後の「五大国」はイギリス、アメリカ、フランス、イタリア、そして日本でした]、列強の一つとして支那に臨んでいることに対しては、少なからざる嫉妬心さえ持っている.のである。」(同上書p.322)

中国にとっては、同じ黄色人種の日本との戦争に敗れ経済でも大きく遅れをとったことが面白くなかったことは容易に想像ができる。中国人は日本人に対して長い間民族的嫉妬心を抱いていたのだが、それに火をつけたのが英米だったのである。
中国人も英米と同様に日本人を中国市場から追い出そうとした。その背景について、長野氏はこう解説している。

「こうして排日が起こったが、彼らがボイコットを採用したのは、実に日本の経済的弱点に乗じたのである。日本は土地狭くして資源少なく、それに人口が多く、商工中心政策をとってはきたが、原料と販路を他に求めねばならぬ。しかるに隣邦支那には幾多の原料を蔵し、かつ四億の民衆があるから、日本はいきおい原料と販路を支那に求める。この関係を知っている支那人は、日本は支那がなくては生きていけないと思うから、日本を虐(いじ)めるには日貨排斥が第一策だということになる。即ちボイコットをやっていけば、日本人は生存ができなくて支那の言う通りになると思っているし、またいかに虐めても未練があるから[中国がどんなにいじめても、日本は中国のマーケットに未練があるから]、何もなし得ないと思っている。…

支那人は言う。日本は支那がないと生きて行けないから共存共栄かも知れないが、支那は日本がなくても生きて行くのに一向差支えないのだから、共存共栄を唱える必要がない。日支の共存共栄などは日本人が言っているので、支那人の方からかってそうした言葉を言い出したことはないと、武力では日本に及ばないことを知っている支那は、ボイコットにより日本のこの弱点を衝くことが最も有利な戦法であると考えているから、何かちょっとした事があっても、すぐにボイコットをやって日本の進出を防止せんと試みたのである。

img20120915213207791.gif

ボイコットの一因は支那民族資本の勃興であった。支那が外国の市場的位置から脱却せんとし、上海を中心に民族資本が起こるや、まず日本の産業と衝突した。日本の産業は支那よりは進んでいるが、欧米に較べては遅れている。そこで支那の産業が進歩するにしたがって、日本の産業とは競争的地位に立つことになり、日本工業品の輸入により圧迫される支那の工業家は、自己の販路を展開するため、ここに日貨排斥の挙に出て、日貨に代わり国貨[シナの国産品]を以てせんとしたから、日貨排斥にはかならず国貨提唱が付きまとい、国貨の製造販売業者が日貨運動[日貨排斥運動]の中心の一つになった。
同じ外貨[外国製品]でも欧米品は多く高級品であるか、あるいは支那品と競争しない特殊品であるため、欧米品を排斥しても得るところなく、排斥の必要を感じなかったことが、ボイコットの対象が日本品に限られた一因でもある。」(同上書p.324~325)

欧米が排斥されなかったのは、欧米製品は高級品か特殊品で中国製品と競合しなかったからであり、わが国だけが排斥されたのは、日本製品が中国製品と競合したからだという指摘は重要である。
現在の日本人が当時の中国における日貨排斥の歴史をすっかり忘れてしまったために、多くの日本企業が、人件費が安く通貨も安い中国に生産設備を中国に移転してしまっている。このことがいかに危険な事であるかは、長野氏の文章を読めば直感的にわかる。
今の中国は先進国からの設備投資を呼び込んですでに「世界の工場」になっている。
中国に生産設備を移転した日本企業にとっては、中国との共存共栄が望ましいところだが、中国にとっては日本との関係が共存共栄でなくともいくらでも生きていける。
いずれ近いうちに、中国は日本製品のボイコット(日貨排斥)や、サボタージュを仕掛けてくるのではないだろうか。中国にとっては、日本企業を追い出せば、うまくいけば日本企業が残した設備とインフラが安価で手に入るという誘惑がある。ところが、能天気な日本企業は、最先端に近い生産設備を中国に作ってしまっているのだ。

昭和120724北支事変

話を昭和初期の中国の排日運動に戻そう。
この排日運動が、昭和十(1935)年以降局面が変わっていく。再び長野氏の文章を引用する。

「北支問題[満州に境を接する北支は治安が悪かったのです]が起こるや、日貨排斥に代わって対日宣戦の叫びがいたる所にあがった。昭和十年の暮ごろから十一年に入っては、支那人の対日空気は、北から南まで非常に悪化し、従来比較的に良かった北支さえ険悪になった。宋哲元(そうてつげん)の二十九軍[宋哲元は馮玉祥の子分で、蒋介石に対立していた軍人。以前は排日ではなかった]の空気は悪化し、山西は中央支持となり、山東の態度も怪しくなった。民衆の態度は日本人に対して露骨に敵愾心をあらわし、官憲は日本人の旅行者に対してほとんど交戦国民扱いで、その一挙一動は憲兵によって監視された。支那人の細君[奥さん]となっていた日本夫人は続々離婚されて帰国した。…

支那人は傲語して言う『現在吾人[われらシナ人]に残された問題は一つしかない。それは何時日本と戦うかということである』と。」(同上書p.327~328)

教科書ではわが国が一方的に中国を侵略したように書かれているのだが、当時の日本政府は戦争をする気がなく、軍人もしたくなかった。戦争をしたくて仕方がなかったのは中国の方だったのだ。

その当時、戦争を煽ったのは中国においても日本においてもマスコミであった。
以前にこのブログに書いたように、大正15年(1926)の時点でコミンテルンの秘密宣伝部が日本の新聞と雑誌19のメディアをコントロール下においていたということが判明している。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html
コミンテルンは以前このブログで書いたように、日本と中国とを戦わせて戦力を消耗させた後に米国を参戦させて、わが国と中国の共産国化を狙っていたのだから、中国がわが国を戦争に挑発する行為を繰り返したことは、すべてコミンテルンの描いたシナリオ通りであったのではないだろうか。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

中国のマスコミによる煽動もかなり激しかったようだ。長野氏は次のように書いている。
「彼らは映画やその他の方法で、支那は日本と戦っても始めは負けるが最後には勝つという宣伝を普遍的に大衆の間に繰り返した。そうしてこの戦争は支那四億万民の存亡にかかる民族戦だとなした。かくて支那全国に漲るものは抗日救国[日本を倒して国を救え]の空気であった。…

昭和111118上海紡績暴動

抗日の気勢があがるとともに、従来に見られない邦人の生命財産に対する危害となり、昭和十一年の八、九月頃に至り、抗日テロがいたる所に起こり、その主なるものでも十七、八件に達し、彼らの凶弾に倒れた邦人も少なくなかった。…」(同上書p.328~329)

わが国の教科書では、中国側が卑劣な挑発行為を何度も繰り返したことが一切書かれていないのだが、戦争をしたくて仕方がなかったのは実は中国の方だったのだ。

わが国にとって、このような中国の排日の歴史の真実が忘却されてしまったことの影響は決して小さくない。そのために今では多くの日本の大企業が、共産主義国の中国に生産設備を移転してしまったのだが、それらの企業の多くはテレビや新聞の広告主でもあり、わが国のマスコミの論調はそれら広告主の圧力により、かなり中国寄りになっている事が多いのである。

o0450030012145065120.jpg

わが国が自国の領土である尖閣諸島を守るべきであることは当然の事なのだが、この問題でわが国が強く出れば出るほど、中国は反日暴動などを何度も仕掛けて、中国に進出した日本企業にジワジワ圧力をかけてくるであろう。これらの大企業に、いずれ反日暴動や従業員のサボタージュを仕掛けられたときに、どうやって企業の設備や技術を守ることが出来ようか。今の反日運動の先頭に立っているのは共産主義青年団で、この闘争が拡大していけばこのサイトで書かれている通り、死者が出てもおかしくないのではないかと思う。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/66410e7f46810a7f5e650f7e7c92a189

中国に進出した日本企業を守ることを優先しようとしてわが国が譲歩を繰り返していけば、領土問題が尖閣諸島だけではなくなっていく可能性が小さくない。しかし、いくらわが国が日本企業を守るために領土で譲歩しても、中国が日本企業に対して反日暴動などを起こさない保証はどこにもない。中国は領土だけでなく日本企業の設備と市場を一気に奪い取ろうとするのではないか。それが最悪のシナリオである。

どう考えてもわが国は中国に対して、まずは領土を守る意思を毅然と示すことが必要になってくるだろう。歴史の真実を知らない民主党内閣がどう対応するか。これからの中国の反日運動の行方に目が離せない。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓           


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加





中国全土に及んだ「排日」がいかに広められ、誰が利用したのか~~中国排日4

前回の記事で昭和11年(1936)の8~9月ごろになって、抗日テロが至る所に起こった経緯について書かれた長野朗氏の『民族戦』の文章を紹介した。今回はその続きである。

長野氏の著書によると、この年の11月に起こった『綏遠問題』によって、中国の抗日運動がピークに達したのだという。この『綏遠問題』とは何か。

長野氏の文章と西尾氏の解説を参考にまとめることにする。
「綏遠」というのは内蒙古にある省の名前で、そこに徳王という蒙古独立運動の指導者がいた。
その徳王が蒙古族を率いて反漢人闘争に立ちあがったのを受け、蒋介石が綏遠に八万の大軍を送り込むのだがその際に、「徳王軍の背後に日本軍がいる。」との情報を流して、全国民に対して民族戦のために蹶起を促したために、中国全土で抗日の機運が一気に盛り上がったというのだ。
わかりやすく言うと、蒋介石は米英が種をまいた「排日思想」のエネルギーを蒙古族の徳王に向けさせて、その鎮圧に利用したということだ。

S111118綏遠問題

以前このブログで紹介した「神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ」の「新聞記事文庫簡易検索」システムで「綏遠問題」を検索すると、昭和11年11月18日付の大阪毎日新聞の記事が見つかった。
この記事によると、「露国はすでに外蒙を完全に勢力下に入れ、さらに北支にも赤化[共産化]の魔手を伸ばそうとしている矢先、この内乱こそ露国にとっては乗ずべき絶好の機会に違いない。」とあり、単純に蒙古族と漢人との争いというだけではなく、ソ連も「排日思想」のエネルギーをうまく用いて、双方を消耗させることは共産革命に導く好機ではないかと述べている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10106668&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

ここでしばらく長野氏の文章を引用する。
(原文は旧字・旧仮名遣いだが、新字・新仮名遣いに変更している。[  ]内は西尾氏の補足部分。以下も同様。)

「綏遠問題は実に抗日に一大転換を与え、戦士は民族戦の英雄として全国民賞賛の的となり、かつ日本に対する自信力を得たため、[シナの民族は]従来の受動的消極的態度から、一変して積極的となった。そこにその年の暮れに西安事件[蒋介石が張学良に監禁され、共産党との協力を迫られた事件]が起こり、蒋介石は膝を共産党に屈し[蒋介石がそれまでは共産党征伐をやっていた蒋介石が共産党に膝を屈した]、共産党不討伐と抗日戦の実行を承諾して漸く免かれ[①共産党と手を握ること、②抗日を実行することを約束させられて解放された]、第二回の国共合作と抗日統一戦線が成立し、支那の抗戦体制が成った。」(西尾幹二GHQ焚書図書開封7』p.332)

西安事変

1936年12月の「西安事件」については教科書には詳しく書かれていないのだが、この事件が起こるまでの8年間は、蒋介石は共産軍を殲滅させるために戦ってきたのであり、新たに20個師団と100機を超える航空機を導入して2週間から1か月以内に共産軍に勝利して戦いを終息させようとしていた矢先に、蒋介石は張学良により拉致・監禁されてしまうのだ。この事件を機にそれまで反共産主義であった蒋介石は豹変し、共産党と手をにぎって抗日に転換することになる。

蒋介石を拉致監禁した張学良は張作霖の息子である。父親の張作霖は反共共産主義であり、1927年4月ににはソ連大使館を捜査して関係者を大量に逮捕し、武器も多数押収している。一方息子の張学良は、1925年には共産党に極秘入党していたとの記録もあるようだ。

このブログで2度に分けて張作霖爆殺事件のことを書いたが、ソ連の情報機関の資料から明らかになっているのは、この張作霖爆殺事件はスターリンの命令に基づいて、コミンテルンの工作員のナウム・エイチンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだというのだ。
この事件は調べれば調べる程不自然な事ばかりで、関東軍が疑われるように工作された可能性が極めて高いと私は考えている。主犯とされる河本大作に関しては信頼できる第一次資料は存在せず、通説と爆破された後の現場検証の記録とは完全に矛盾していて、通説が正しいことは物理的にあり得ないことが調べればわかる。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-205.html

http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-206.html

蒋介石の話に戻そう。
かくして、米英が最初に仕掛けた「排日思想」は、蒋介石だけでなくコミンテルンにも利用されて、彼らの工作により、この時期の多くの事件が日本軍の仕業によるものとされていったのではないかと考えている。

特に蒋介石の国民党は宣伝がうまかったようだ。長野氏の『民族戦』の文書をいくつか引用する。

「国民党は宣伝で政権を取っただけに、宣伝はお手のもので、ポスターに漫画に、市内の壁という壁、高い塔、町の入口、すべて排日の文字ならざるはなく、…

紙幣にも排日の二字が印され、商品にも排日の文字があり、民衆は足一歩出づれば、眼に見るもの耳に聞くもの、すべて排日ならざるはなく、長い間には無意識の間に排日思想が民衆の頭に刻み込まれて行った。…

排日教育については国民党のやり方は徹底していた。国民政府内に教科書の編纂委員会が出来、その方針を決定し、編纂を管理するにいたったから、排日教育は政府により行わるることとなった。国民党は自ら排日を行ったほか、その指導下に反日会なる排日実行団体が生まれ、これを通じて全国小学校に向け、たえず排日の教材を配布し、その他童謡に童話に、児童劇に、悉く激越な文字を羅列し、児童の頭に排日を植え付けて行った。…

img20120921204812101.jpg

かくて学生から商人へ、労働者へ、小学生へと広まっていった排日思想は、この事変[支那事変]により都市から農村へと拡大され、且つ事変の過程を通じて極めて深刻となり先鋭化しているから、現状においては日支親善の如きは一つの口頭禅[口先だけの念仏]で、如何にして尖鋭化した抗日思想を多少緩和するかくらいで、日支の感情融和の如き、一朝一夕のことでない。」(同上書 p.333-337)

蒋介石がここまでして排日思想を広めたことの意図はどこにあったのだろうか。ここからが重要な部分である。長野氏の文章を再び引用させていただく。

「次は民衆の戦争参加である。彼らはこの戦い[支那事変]を支那民族全部の戦いに持っていこうとしている。彼らは正規軍の力だけでは、日本軍に抗し得ないことを知っている。そこで民衆動員を企て、日本軍の背後にも一つの戦線を造ろうとした。これが遊撃隊である。かくて従来の戦争に見られない現象が起こった。即ち戦線が前方と後方とに二つ出来た。前方には正規軍、後方には民衆軍である。正規軍が二百万、これと同じくらいの数の遊撃隊がいる。この遊撃隊の組織に当たったのは主として共産軍である。…

ロシアの満州謀略

この民衆軍の組織に当たっては、その核心となるものがなくては、民衆だけでは成り立たない。そこで共産軍はその全力を挙げて遊撃区に入り、中央軍、雑軍もまた加わった。この正規軍を核心として、その周囲に遊撃隊が編成されていった。…

この後方戦線の仕事は、前方戦線とは全く異ったものであった。また従来の不正規戦やゲリラ戦とも異っている。従来の遊撃隊が主として相手方の後方攪乱であったのと異って、後方攪乱はむしろ従であり、その主任務は政治・経済・思想工作であった。政治工作として彼らは日本軍の被占領区域[日本軍に占領された地域]に入り込んで、自分たちの県長を任命し、地方政府を造り、課税し、学校を設け、紙幣を発行し、新聞を発行し、郵便局までを設けた。経済方面では日本側が必要とするものを一切供給せず、皆日本から持って来させるようにし、日本の国力消耗を計り、又日本品を購買しないようにした。彼らは農村に拠り、日本軍の占拠する都市と対立した。経済絶交のために農村は自給自足の状態にかえり原料生産から食糧生産に転じ[加工原料を作るのではなく、主食の生産に移った]、ために棉花の生産等は大いに減じた。又農村に手工業を興して、工業品の自給を企てた。[農村で手工業もはじめた。]…

思想戦においては二つの目標を設けた。一つは民衆獲得である。民衆を日支いずれが獲得するかは重大な問題である。民衆の獲得には民心を獲得すべきであり、民心を得るには民衆生活を安定にせねばならぬ。そのため民衆の生活問題については種々とやった。一つは抗日思想涵養である。日本側の和平運動に対し、長期抗戦のためには、民衆の間に抗日運動をうんと注ぎ込む必要があるので、民衆組織を通じて抗日宣伝に努めた。かくて抗日思想はこの機会に更に大衆の間に深刻に入っていった。」(同上書 p.338-340)

長野氏の視点は、「各民族のぶつかり合いが戦争を惹起せしめるのだ」という極めてシンプルなものだ。今まで資本主義が戦争を起こすとかファシズムが戦争にひきずりこむなどという考え方を吹き込まれてきたが、長野氏の視点の方がはるかに説得力を感じるのだ。 アメリカの民族戦は資本侵略であり、ロシアの民族戦は武力による領土侵略であり、中国の民族戦は民衆を盾にして人海戦術でもってする侵略であったのだが、今の世界もそういう視点が必要なのではないか。

おおよそ百年前の世界と異なるのは、わが国において「民族の衝突」に対処しようにも、戦後の長い期間にわたってそのような事態になることを「想定外」としてきた点だろう。今のわが国で、ある国が一方的に攻撃してきた場合にどう対処すればよいのか、その対策が十分に検討されているのかどうかが心配になってくる。

img20120921211638523.jpg

いずれの国においても、国を守るためには健全な愛国心が不可欠だと思うのだが、戦後のわが国においては、愛国心を育てる教育が学校で充分になされてきたとは思えない。
「ひとりひとりの命を大切に」という思想ももちろん大切だが、侵略する側からすれば抵抗する人間が少なくて逃げる人間が多ければ、その国を侵略することは容易であることは言うまでもない。
自らが犠牲になっても国を守り家族を守るという行為よりも自分の命が優先する価値観に国民が染まっていて、どうして国を守ることが出来ようか。

私には戦後にGHQが広めた歴史観にせよ、国家観にせよ、家族観にせよ、わが国が二度と戦わない国にする意図が隠されているような気がしてならない。そして中国や韓国の戦後の反日も、背後でアメリカなどの国が動いている可能性を感じている。

imagesCAIYZGGZ.jpg

今回の騒動で多くの日本企業が中国から撤退することになるだろう。日本企業が徹足したあとに、アメリカ企業が中国に進出したとしたら、昭和初期に実際に起こったことを繰り返すことになる。

以前にも書いたが、アメリカにとっては、ライバル国同志の紛争や、ライバル国の内部対立を利用すれば、自らは血を流すことなく、お互いを戦わせて消耗させることで自国の覇権を強化できる。我が国に、中国や、韓国や、ロシアといくら紛争が起こっても、アメリカにとっては、わが国が3国で開拓した市場を奪うチャンスでもあり、武器や兵器を売るチャンスでもある。プラスになることはあれ、マイナスになることは何もないのだ。

img20120921212202876.jpg

わが国は中韓ロがいかなる挑発をしてこようとも、領土問題では安易な妥協をすべきではないと思う。安易な妥協を繰り返せば沖縄も対馬も危なくなると考えるべきだし、自国の国土を守れない国は世界から軽蔑されるだけである。
かといって、武力衝突することはアメリカの思う壺かもしれないし、国力の消耗することは避けたいことは言うまでもない。
やるべきことは、これ以上問題を先送りすることなく、中韓ロがこれ以上武力挑発できない方向に世界の世論を向けていくしかないように思う。

いずれの領土問題についても、もともとわが国の領土であることを確かな証拠を示して説明することができるのである。その主張をわが国が他の世界諸国と国民に向けて繰り返しアピールし、中韓ロいずれの国も歴史を捏造して自国民を教育していることを示し、民間レベルでも、ネットを通じて世界にも領土問題の真実を広めていくべきではないのか。
中韓ロの主張に理がない事が世界に浸透すれば、それぞれの国が強硬策でわが国の領土を奪おうとすることが全世界から「野蛮な行為である」と認識され、そうすれば反日のエネルギーは弱まらざるを得ないだろう。

中韓ロの民衆が領土問題について自国側に理がない事を知れば、3国の民衆がこれまでの政府情報が虚偽であることを知り、それまでの反日エネルギーがいずれ自国政府に向けられる可能性も小さくはない。その兆候が出てきてはじめて、わが国は有利な立ち位置に立って交渉を行なうことが可能となるのだと思う。
相手国の情報戦には、情報戦で徹底的に戦うことが原則であり、何もしなければ先方のプロパガンダにより、再びわが国が「悪者」のレッテルを貼られることになるだけだ。
わが国のみを悪者とする「戦勝国にとって都合の良い歴史観」では、わが国が戦勝国に対して外交で勝利することがありえないことを、もうそろそろ認識すべきである。

中韓ロが理のない挑発行為を行った今こそ、戦後の長きにわたり戦勝国から押し付けられてきた歴史観から、国民が脱却するチャンスではないのか。
以前にも書いたが、これからでも遅くないから、戦後のGHQによる検閲と焚書により長い間封印されていた「戦勝国にとって都合の悪い真実の歴史」を少しずつでも取り戻し、国内外の多くの人に広めていくことが重要だと思う。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加




当時の米人ジャーナリストは中国排日の原因をどう記述しているか~~中国排日5

前回まで4回に分けて、GHQに焚書処分された長野朗氏の2つの著書の文章を当時の新聞記事とあわせて紹介したが、戦前の日本人の文章や新聞記事は信用できないという人も少なくないだろう。
そこで、今回はアメリカ人ジャーナリストのフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ氏が1938年(昭和13年)11月に著した、”Behind the News in China”(邦訳『中国の戦争宣伝の内幕』:芙蓉書房出版)という書物を紹介することにしたい。

無題

この本の中でウィリアムズ氏は、アメリカ人の視点で、中国が排日に至った経緯をこう述べている。

「日本は、…アメリカやヨーロッパに若者を留学させた。やがて日本は西洋列強が新しく見出した保護すべき友人という立場から、対等のライバルとみなす程度まで競争力を貯め、成長してきた。
彼ら(西洋列強国)の態度は変わった。日本の背中をやさしく叩いて、『お前はいい子だ』とはもう言わなくなった。彼らは態度を変え、団結して対抗するようになった。気が利いており、かつ危険なプロパガンダなのだが、日本の商品や国民に対する差別によって日本は世界中にその名誉を毀損され、人々に嫌われただけではなかった。日本をなだめすかして鎖国の孤立から引きずり出したあの西洋列強が、ゆっくりとそして段々と日本の工業生産物を世界の市場から締め出し始めたのだった。」(田中秀雄訳『中国の戦争宣伝の内幕』p.13-14)

中国の戦争宣伝の内幕

要するに西洋諸国は、わが国がこんなに早く西洋技術を修得して西洋のライバル国となるとは考えてもいなかったのである。西洋諸国は自国の製品を日本市場に売りつけて、日本から富を吸い上げるつもりだったのが、逆に西洋諸国の販売国に日本製品が食い込んで行った。それがアメリカをはじめとする西洋諸国には不愉快であったのだ。
そこで彼らは、わが国に対して「危険なプロパガンダ」を使ってでも、日本商品を市場から締め出そうとしたのである。
長野氏の著作では最初に排日を仕掛けたのは英米であったと書かれていたが、アメリカ人であるウィリアムズ氏も長野氏と同じことを書いていることに注目したい。

では当時の中国はどうであったのか。ウィリアムズ氏はこう書いている。

「日本には中国というよき教訓の対象となる国がある。隣国で大きく、その重い図体であえぎあえぎしていた。四億五千万の人々が住んでいながら、自らの足で立つこともできないでいた。貧困と悲惨にどっぷりと浸かっていた。その豊かな国土は軍閥によって強奪、掠奪され、西洋列強によって富が吸い取られていた。…

日本は西洋列強のライバルとなった。中国は彼らの奴隷となった。それゆえに日本は自分が一人の味方もいない事を思い知らされた。そして中国は、かつて外国人を殺戮し掠奪したという過去も忘れられて、突然同情と援助に値する国家と国民というように持ち上げられたのだ。」(同上書p.14-15)

このように、中国民衆は長い間、軍閥と西洋列強によって搾取されるばかりであったのだが、西洋列国が「危険なプロパガンダ」により日本商品を市場から排除する際に、中国を支援して排日思想を植え付けて民衆にそれを煽ったために、わが国は世界で孤立していくことになってしまったということになる。

西洋諸国が日本との貿易を避けようとするので、新たなビジネスを開拓せざるを得なくなったわが国は、当時掠奪と殺戮を繰り返す約30万の匪賊が横行していた満州に目をつけ、その地から張学良ら軍閥と傭兵匪賊集団を放逐し、学校や鉄道を作り工場などを誘致して、満州を北支人が嫉妬するほどの国に変えてしまったのである。

img20120927001900280.jpg

しかし、わが国に新たな危機が到来する。ウィリアムズ氏の文章を続けよう。

「この危機はソビエトロシアからやってきた。西洋諸国は中国で経済計画を作成していた。特にその中の一国は中国に大きな権益を持っていた。ソビエトロシアは政治的計画を作成していた。極東に起きたドラマにおけるソビエトの役割はまだほとんど語られていない。だから私が話そう。モスクワが日本と中国との間に戦争の火を点じたのだ。…

この四五年、ソビエトは中国に足場を持とうとしていた。…
共産主義者たちは飢える数百万の中国人を使って、金持ちや蒋介石、そして彼の南京の軍閥政府、そしてすべての外国人相手に戦わせようと慎重に計画していた。彼らは差し押さえた金持ちの財産、安楽な生活、有り余る食い物をすべての飢えた苦力たちに保証したのだ。…
蒋介石は驚き、『反日』という方法で中国を統一する考えに絶望的にしがみついた。そして彼や金持たちから大衆の視線をそらそうとしたのだ。いくつかの西洋列強からも彼はひそかにそれを奨励された。蒋介石は中国共産党の戦列についに加わった。

日本は中国だけでなく、国家を超えた反日計画に直面していることを理解した。それは西洋列強とリンクしていたのだ。日本が、またある西洋国家さえもが中国の混乱に秩序を与えてくれると期待していた蒋介石は日本の敵と合流した。しかし日本は果実に錐で穴をあけるような反日の嵐が遠くまで広がり、侮辱と周期的な自国民の殺害に至っても平和的であろうとした。」(同上書p.21-22)

ソ連満州の武装共産党員

ソビエトはさらに日本と中国を戦わせようと圧力をかけていく。これは以前このブログで書いた通り、スターリンは日中を戦わせてわが国を消耗させ、さらに日本をアメリカと戦わせて敗北させて、わが国を共産主義陣営に取り込む戦略であったのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

中国にせよ西洋列強にしても、満州の発展をそのまま放置して彼らのプロパガンダの嘘が明らかになってしまうことは、極めて都合の悪い事であった。ウィリアムズ氏はこう書いている。

満州とコミンテルン

「新しくできた満州国蒋介石やその配下の軍閥にとって目の上のたんこぶか、喉に刺さったとげのようなものであった。それは中国共産党にもロシアのボルシェヴィキにとってもそうであった。というのも、貧相きわまる満州から、幸福と繁栄の帝国に満州国は変貌を遂げていたからだ。日本が傀儡政権をうち立て、満州人を搾取しているというプロパガンダが世界的に広まっていてもである。日本の統治であっても、疑いなく満州帝国は繁栄をきわめるだろう。満州国の清潔で賑やかな町と村、よく秩序だった生活、近代的な鉄道と、中国本土の惨めで貧しい、紊乱した状態を比較してみるがいい。たちどころに南京政府もソビエトロシアも秩序というものからほど遠い事が理解されるだろう。

そういう時に西安事件が起こったのだ。それから北京の近くの盧溝橋での日中両国間の敵意の爆発までには大した時間はかからなかった。宣戦布告なき戦争である。真実はまだわからない。しかしその背後にあるものを見ようとする者には、真実は知れ渡っているのである。」(同上書p.23-24)

西安事件というのは前回の記事で書いた通り、1936年12月に反共の蒋介石が張学良に拉致・監禁された事件で、それ以降蒋介石はソビエトのコントロール下に置かれるようになる。
西安事件のあと、中国共産党はわが国を戦争に巻き込むために何をやったか。ウィリアムズ氏はこう書いている。

「…中国共産党は日本人を血祭りに挙げることに決めた。もし日本人が二、三千名殺されたして、誰が対応するのだ。虐殺は日本を激昂させるだろう。自国民を殺されて行動を起こさない国はない。面目は立たない。日本人虐殺は日本との戦争になるだろう。蒋介石も戦わざるを得なくなる。

そしてまた、蒋介石は南京で新たに軍隊を熱狂的に作り直そうとしていた。そしてこれによって中国中にさらに大きなスケールでの日本人男女、子供の虐殺がはじまることになった。これには朝鮮人も含まれる。防御方法を持たない無辜の日本人たちは、家で、店で屠殺され、町や村の街路で暴徒に殺された。数えきれない多数の日本人、朝鮮人たちがこうして死んだ。孤立したコミュニティで殺されていく。」(同上書p.32-33)

こういう史実はほとんどわが国では知らされておらず、日本人は中国大陸で悪いことをしてきたと多くの日本人は学校やテレビ番組などで教え込まれてきた。
以前にこのブログでも通州事件のことを書いたが、中国大陸でこの時期に大量に虐殺されたのは日本人の方なのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

この通州事件のことをウィリアムズ氏はこう書いている。
「私が住んでいた北支の150マイル以内のところに、200名の男女、子供たちが住んでいたが、共産主義者によって殺された。20名はほんの子供のような少女だった。家から連れ出され、焼いたワイヤーで喉を繋がれて、村の通りに生きたまま吊り下げられていた。空中にぶらぶらされる拷問である。共産党員は野蛮人のように遠吠えしながら、揺れる身体を銃弾で穴だらけにした。
日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供らの虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして1日中続いた。家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見した時には、ほとんどの場合、男女の区別もつかなかった。多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。水は彼らの血で赤く染まっていた。何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。…
…中国人たちは焼けたワイヤーを鼻から喉へと通し、両耳を叩いて鼓膜を破り、彼らの『助けてくれ』との叫びを聞こえなくさせた。目玉を抉り出し、自分の拷問者を見られなくした。」(同上書p.33-34)

img20120925074523948.jpg

通州事件のことは、以前このブログで詳しく書いたので繰り返さないが、死亡者の名簿も現場の写真も、生存者の手記も残されている。わが国では新聞や雑誌にも詳しく報道されている。ウィリアムズ氏の手記には誇張はないと思う。

しかし、この様な酷い事をした中国兵をせっかく日本軍が摑まえても、「罪を憎んで人を憎まず」のサムライ精神で臨み、「もうああいうことをしてはいけない。さあ行け。」と説いて帰したというのである。その点は、尖閣事件における不法侵入者に対する今回の日本政府の対応と似ている。
通州事件」の際に、わが国が世界に対して、このような残虐きわまりない行為を訴えていれば、世界が中国を非難していたのだろうが、日本側は中国側の酷い行為を世界にアピールしなかったために、世界は中国でこのような虐殺行為があったことを知られていないとウィリアムズ氏は書いている。ちなみにこの本が刊行されたのは、「通州事件」が起きてからわずか1年4か月しか経っていないのだ。

「…もし他の国でこういうことが起きれば、そのニュースは世界中に広まって、その恐ろしさに縮み上がるだろう。そして殺された人々の国は直ちに行動を起こすだろう。しかし、日本人は宣伝が下手である。…

中国にいる外国人には驚きとしか思えないのだが、日本はすぐには動かない。彼らは共産主義者によって虐殺が遂行されていたことが分っていた。また西洋諸国が日本を貿易市場から締め出した以上、北支との間でビジネスをしなければならないことが分っていた。率直に言って、中国とは戦争をしたくなかったのである。中国政府がロシアのボルシェヴィズムの罠に絡め取られていることも分っていた。しかしそれでも中国との人々とは戦争をしたくはなかったのである。なぜなら中国は隣国であり、もし望むならば、生きていくためのなくてはならないお客様だったのである。」(同上書p.36)

日本人は我慢強い民族であるが故に、わが国を蒋介石との戦争に引きずり込むために、中国共産党はここまで卑劣な行為で挑発をしなければならなかったのかも知れないが、歴史の真実は、こんな酷いことをされても、わが国は世界にアピールすることもせず、中国と戦おうともしなかったのである。

しかしながら戦後占領軍によって、このような「戦勝国にとって都合の悪い史実」が封印され、「わが国が侵略国家であり、戦争責任はわが国にある」という薄っぺらい歴史観を、日本人は戦勝国から押し付けられてしまった。
学校で学んできた歴史も、マスコミによる昭和史の解説も、いずれも同じ歴史観で語られるために、ほとんどの日本人がその歴史観に洗脳されてしまっているのが現状だ。しかし、中国や韓国や北朝鮮のような言論の自由がない国が、彼らの主張する歴史を声高にわが国に押し付けようとすることには、余程の魂胆があると考えるべきではないのか。

いずれ近現代史は全面的に書き換えられる日がるだろうが、その為には多くの日本人が現在流布されている歴史観の誤りに気がつき、正しい歴史を世界に広める強い意志が不可欠である。なぜなら、中国にせよ韓国にせよロシアにせよアメリカにせよ、わが国が「戦勝国にとって都合の良い」歴史観に洗脳されていることが、それぞれの国の国益に叶うからである。わかりやすく言うと、戦争の原因をすべてわが国に擦り付けることができるだけでなく、少し圧力をかけるだけでわが国から資金援助を得ることも可能だからである。
史実はその歴史観とは程遠いものであったのだが、彼らはいくら真実が明らかになっても、わが国がその歴史観を変えないように、様々な圧力をかけてくるだろう。
なぜならわが国が歴史の真実を知りそれを世界に広めることは、彼らの国はわが国から資金援助が得られないばかりではなく、今度は彼らの国が「戦争犯罪者」の汚名を被ることになりかねないからだ。

パール博士顕彰碑

戦勝国が我が国を裁いた東京裁判の11人の判事の中でただ一人、日本人被告全員無罪の判決を下したインド代表判事のラダビノード・パール氏の顕彰碑が東京都千代田区にあり、その碑にはこう刻まれている。
「時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には、その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求するであろう」

第二次大戦が終わって67年以上が経過した。そろそろ日本人も真実の歴史に目覚めるべき時ではないだろうか。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加




蒋介石はなぜ外国人居留地であった上海で日本軍と戦ったのか~~中国排日6

前回の記事で、1938年にアメリカ人ジャーナリストのフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズが著した”Behind the News in China” (邦訳『中国の戦争宣伝の内幕』)という本の中から、中国が「排日」に至った背景から「通州事件」に至る部分を紹介した。

この「通州事件」は誰が考えても重大事件であり、このように日本人が大量に虐殺されるような事件がなければわが国が戦争に巻き込まれることはなかったと私は考える。

12580226574afbe701bf775.jpg

この事件については当時の新聞や雑誌などで大きく報道され、中国人に虐殺された日本人の名前もすべてわかっており、史実であることを否定しようがないのだが、この事件を記述している歴史書は極めて少ないし、ましてテレビや新聞などで解説されることは私の記憶では皆無である。
なぜこのような重要な史実が日本人に知らされないのかと誰でも疑問に思うだろう。

このブログで何度も書いているのだが、いつの時代もどこの国でも、歴史は勝者が書き換えてきた。歴史とは単なる史実の叙述でなく、勝者にとって都合よく書き換えられ、時には史実がねじ曲げられて叙述されたものに過ぎない。そしてわが国の日本史教科書などに書かれている近現代史は「戦勝国にとって都合の良い歴史」と考えて良い。

通州事件」がほとんどの教科書に載らないのは、「戦勝国にとっては都合の悪い真実」であり、この事件を日本人に知らせてしまっては、それをきっかけに「戦勝国が日本人に押し付けた歴史」の嘘が誰の目にも明らかになることを戦勝国が怖れたからであろう。
日本人が虐殺された重要事件は他にいくつもあるのだが、このような事件が日本人にほとんど伝えられていないのは、今も中国、ロシアや日本の左翼勢力などが、文部省やマスコミ・出版各社に圧力をかけて、通州事件のような「戦勝国にとっては都合の悪い真実」を封印させ続けているからではないのか。

ソ連テロ計画

封印された史実はこの時代の中国に結構多い。そしてほとんどの事件に共産勢力が絡んでいるのだ。そのことを理解していただくために、一般的な歴史教科書とウィリアムズの本を少し読み比べてみよう。

手もとにある『もう一度読む山川の日本史』には、日中戦争についてこう記している。 「…1937(昭和12)年7月7~8日、北京郊外で日本軍と中国軍の武力衝突がおこった(盧溝橋事件)。つづいて上海でも日中両軍が衝突し、戦火は中国中部にもひろがった。日本がつぎつぎに大軍をおくって戦線を拡大したのに対し、中国側は国民党と共産党が協力して抗日民族統一戦線を結成し(第2次国共合作)、日本に抵抗した。こうして事変は宣戦布告がないままに、本格的な日中戦争に突入した。」(p.301)

このような事実の羅列だけのつまらない記述に学生時代は閉口しながら、テストのためにいやいや丸暗記した記憶があるのだが、この文章を普通に読めば、ほとんどの人は日本軍が一方的に大軍を送って中国を侵略し、中国は国民党と共産党が協力して日本軍と戦った解釈するだろう。しかしよく調べてみると、事実はそんなものではなかった。
盧溝橋事件の部分は省略して、1937年(昭和12年)8月から始まる上海での日中両軍の衝突の部分を、ウィリアムズ氏はどう描いているのか紹介しよう。

ウィリアムズ氏によると、蒋介石にはドイツの軍事顧問団がついていて、その顧問団が蒋介石に対して、日本に対しては単独では勝てないので外国に干渉させるように仕向けることをアドバイスし、さらに日本に干渉させる国はアメリカが最適で、日本が世界の侵略を企んでいるとの情報を流せば、アメリカは「世界から民主主義を救え」との理由で動き出すとの考えを述べたという。
そこで蒋介石はどういう行動をとったのか。しばらく、ウィリアムズ氏の文章を引用する。

imagesCA32EC5K.jpg

蒋介石はドイツ軍事顧問たちから干渉を引き起こすよう耳にささやかれて、上海に着目した。そこには上海租界*があった。外国人がいて、外国の銀行があって、会社があって、外国人住宅があった。ここで事を起こせばもっと簡単ではないのか?町は日本人の避難者でごった返していた。日本の水兵と陸戦隊は彼らを乗船させ、国外に出そうとして忙しかった。上海での戦いは結果として日本人を外国人区域に閉じ込め、そして外国人が殺害されることは、外国の干渉と日本に対抗する強力な同盟形成を意味することになる。」(『中国の戦争宣伝の内幕』p.41)
*租界:清朝末期から第二次大戦末期まで中国にあった、治外法権の外国人居留地

ドイツ軍事顧問たちはこの蒋介石の案に賛成し、戦いを決して長引かせず、「一撃して去る」ことをアドバイスしたという。
蒋介石は上海の混雑した地域に、十万を超える部下を集めて軍服を着せずに苦力のような格好で潜り込ませた。当時上海にいた日本の水兵と陸戦隊はわずかに二千名であったという。
圧倒的な数的有利な状態で、蒋介石軍は攻撃を開始する。攻撃を仕掛けたのは蒋介石軍なのだ。

「戦いは始まった。しかし、最初の銃撃が始まる前に、モスクワとヨーロッパのプロパガンダ機関、中国の報道機関が動き始めていた。
世界では、統一されて目覚めた中国が侵略者に直面しているのだと報道されていた。…

img20120930205405069.jpg


戦いは(日本軍が)圧倒的な不利にもかかわらず、血の1週間を持ちこたえた。しかしながら世界の新聞は日本を罵り、嘲った。特にアメリカが率先していた。と同時にある外国の国々は日本の没落を熱望しつつ、中国軍に援助と武器の供給を始めたのだ。貿易においては日本はライバルであるからである。…」(同上書p.43-44)

日本軍は圧倒的な数的不利の状況を良く持ちこたえたのだ。蒋介石はドイツ顧問団がすぐに撤退させよとのアドバイスを無視して、アメリカを巻き込むために、多くの犠牲者を出しながら戦いを続けることになる。

「干渉をもたらそうとする絶望的な努力が続けられていた。中国は何度も何度も日本軍の砲火を国際租界に命中させようと企んでいた。最初の頃だが、中国軍機がキャセイホテルやパレスホテルに爆弾を投下さえした。中国人が何百人も死んだ。…

Tokyo_Asahi_shinbun_1937-08-14.jpg

…毎日毎日、日本は蒋介石軍の精鋭を倒していった。…
しかし、ドイツ顧問団にとっては何年もかけて蒋介石のために作り上げた軍隊が消耗し、消滅の危機にあった。報道など気にしていられなかったのだ。アメリカ人よ、自国の新聞をよく読んでもらいたい。新しい統一された中国が日本と戦っていると書かれている。しかし実際の問題としては、蒋介石は「面子」を保つために彼の部下を犠牲にしていたのだ。そして中国にいる人々はほぼ一致して(特に上海では)軍閥のボスが上海から出て行き、平和を取り戻させてくれと神に祈っていたのだ。」(同上書p.44-46)

img20121002213031619.jpg

日本軍を挑発して国際租界地に砲撃させるために蒋介石は多くの部下を失い、中国人苦力の住む建物から銃を構えて多くの苦力を生贄にしたが、日本軍は蒋介石の攻撃の意図を理解し、他国から干渉される原因となるような行動はとらなかったのだ。

そのことはウィリアムズ氏だけが書いているのではない。アメリカの新聞報道を見ても同様の事が書かれているようだ。
Wikipediaによると1937年8月30日付のニューヨークタイムスでは一連の事件について「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も出させなかった。ただしそれによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが…」と上海特派員によって報じ、またニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙は9月16日に「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」と報じているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89

その後蒋介石はプロパガンダを強化して世界に訴えるようになっていく。欧米から物資や兵器の支援をつなぎ止めるためにはそれが必要だったのだが、宣伝の使い方は極めて巧妙で、わが国とは較べものにならなかった。ウィリアムズ氏はこう書いている。

「総統と軍閥の軍隊が日本の打撃に落ちこぼれ始めると、蒋介石は宣伝力を強化した。これはモスクワとあるヨーロッパの国々と結びついた。あらゆる退却が戦略の転換に、あらゆる敗北が英雄的な行為へと変えられた。後には嘘だと証明されるのだが、勝利の物語を新聞に載せさせた。同時に日本の本当の勝利の価値を貶めて差引きゼロにさせようとした。…
これらは、すべて外国の騙されやすい人々に鵜呑みにされたのである。…プロパガンダ機械によって世界中に蔓延した物語がその耳に吹き込まれ、多くの国の紙面に『中国は勝っている』という見出しが躍っていたのである。…

中国の勝利という物語が幾つも合わさってくると、一方では日本人は狂った野蛮人だということに照明を当て、キャセイホテル爆撃のような流血を巧妙に隠すことをおっ始めた。」(同上書p.48-49)

この軍事衝突で上海は陥落したのだが、この戦い(第二次上海事変)で日本側の犠牲者も大きかった。調べると戦死者は9115名、戦傷者は31257名だ。
さらに日本軍の掃討作戦で蒋介石軍の南方拠点である宿縣も陥落しようとしていた。あまりに早く宿縣が陥落しては欧米からの支援を得るのに不利となるので、ここで蒋介石はさらに大きな芝居を打つ。日本に飛行機を1機だけ飛ばして空襲を試みたのだ。しかし爆弾を搭載すると飛行高度が下がるので日本軍機に確実に撃墜されてしまう。そこで爆弾を積まずに高々度を飛行し九州南部の山の上から日本国民に向けた反戦パンフレットをばら撒いてすぐに引き返したのである。
蒋介石の宣伝班は世界に向けて6機 (本当は1機) の爆弾を持った飛行機が日本に深く潜入して日本軍を驚かせたとのニュースを発信し、それをアメリカの新聞は「中国軍機が日本を空襲」と報道したという。

さらに蒋介石夫人の宋美齢は外国人特派員を前に日本空襲の際に爆弾を落とさずにパンフレットを撒いたかの理由を語るのである。再びウィリアムズ氏の著書を引用する。

「彼女は世界にその理由を語ったのだ。彼女は会議の結果、日本空襲を優先する数名の将軍たちは勧告だけでなく強硬に日本の都市爆撃を主張したと思われると打ち明けた。彼女はクリスチャンで、そのバイブルを夫はいつも持ち歩いている。夫は立ち上がり、バイブルに手を置いて情感を込めて宣言した。
『こういうことはキリスト教的ではない。我々は世界に中国が人道的であることを示さなければならない。日本の野蛮人と同じことをしてはならない。つまり罪のない女子供の上に死の雨を降らせてはならない。』…

…ここに町や村を敵によって空から爆撃されているだけでなく、自国の飛行機が敵国を空襲できる時でも、彼らと同じ行為を拒否する侵略された国の国民の統治者がいた。蒋介石夫人に味方する小利口な新聞どもは大きな同情の波を作り、宿縣の敗北と夫の軍の逃走をひた隠しにして、落ち込んだ穴の中から拾い上げ、別口で生涯の信用を与えたのである。」(同上書p.61-62)

宋美齢

宋美齢は明らかな嘘を述べたのであるが、このスピーチで蒋介石は欧米のシンパシーを獲得することに成功してしまったのだ。

つくづく思うのだが、日本人は昔も今も、このような明らかな嘘に対する対応が甘くないだろうか。「相手を刺戟しない」とか、「真実は歴史が証明する」として相手が垂れ流す嘘にキチンと反論しない姿勢は、何も知らない国からすれば「日本が反論しないのならば、中国の方が正しいのではないか」と解釈されても仕方がないではないか。
昨今の領土問題にせよ、従軍慰安婦問題にせよ、反論すべき時にしっかりと対応しなかったことが往々にして問題を複雑にしてしまっている。
日本人は嫌なことをすぐに忘れようとするだが、相手の国はわが国が何も反論しないことをいいことに、自国民に嘘の歴史を教え込む教育を開始し洗脳してしまっているのだ。しかるべき時に相手に言うべきことを言わずに問題を先送りすることが、さらに大きな災いを生む原因となりうることを知るべきである。

ウィリアムズ氏の文章に戻ろう。ウィリアムズ氏は宋美齢のスピーチがプロパガンダであることを当然理解している。
「私が中国、その恐ろしい戦場、骨と皮ばかりの町や村から帰ってきたとき、私は心に残る別の画像を消し去ることができなかった。金持ちの政治家と軍閥とそのずる賢い妻、片手で麻薬中毒患者を殺害しながら片手で同胞に麻薬を売っている将軍、立派なスピーチをして国民の改善を約束しながら、その軍隊を維持するために貧弱な稼ぎの中から貢物を取り立てて人々を飢え死にさせ、彼の家族と取り巻きは豪華な宮殿に住んでいる一人の軍閥の画像を。」(同上書p.63)
ウィリアムズ氏は母国のアメリカ人に、中国の発表を信じることの危険性をこの著書で訴えようとしたのだが、アメリカの反日の流れは止まらなかった。

tom_simmen.jpg

ところで、この第二次上海事件の時に上海にいて、日本人捕虜と日本人に協力して逮捕された上海住民に対して行われた中国人兵士による残虐な処刑の一部始終を画像に収めた人物がいる。スイス人写真家トム・シメン氏は、生前にこの写真を息子のジョン・シメン氏に将来公開するように伝え、ジョン氏は現在、出版社を探しているのだそうだ。次のURLで写真の一部(残虐映像を含む)を見ることができる。
http://redfox2667.blog111.fc2.com/blog-entry-80.html

ここで最初に紹介した『もう一度読む山川の日本史』の記述をもう一度読んでみてほしい。そして日本人の多くがこの時期に虐殺された事件が幾つもあることを知ってほしい。

そして、この中国排日シリーズで何度か紹介した「神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ」の「新聞記事文庫簡易検索」http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.htmlで実際に検索して当時の新聞が何を書いているかを読んで、当時の空気を感じ取ってほしいと思う。このサイトで検索キーワードに「虐殺」と入れるだけで、経済記事にもかかわらず393件もヒットする時代の異常さに気が付いて欲しい。そして誰が、どの組織が、どの国が虐殺行為を行っていたかを記事から読み取って欲しい。中国、ソ連などの共産主義につながる勢力が恐ろしい活動をしていたことが誰でもわかるだろう。
当時の新聞を普通に読んで、史実を追いながらこの時代の「空気」に触れると、ほとんどの人は戦争の責任が日本にあるとは思わないと思うし、わが国が侵略国だと呼ばれることに疑問を感じることだろう。真実は、わが国が中国大陸を侵略したのではなく、侵略国にされたのではないのか。

もちろん当時の新聞やウィリアムズ氏の記述には、それなりのバイアスがかかっていることだろう。その点を割り引いて考えても、現在使われている教科書などに書かれている歴史は、中国やロシアや共産主義者の立場からは極めて都合のいい叙述になっていることについては理解して頂けると思う。

時事問題でも歴史記述でも同様だが、様々な利害対立が存在する場合は、立場が違えば主張する内容が違っていて当たり前だ。少なくとも、明らかな嘘を今も堂々と吐き続ける国が声高に主張し続ける歴史を、日本人が鵜呑みにすることは危険な事であるはずだ。

20111216_2288988.jpg

しかしながらわが国は、それらの国が一方的に主張する歴史の信憑性を確認もしないまま何度も謝罪し、相手国を喜ばせるために巨額の支援を続けてきたのだが、もし、もともとわが国に非がなかったことが明らかになれば、このようなことを独断で決めた政治家は「売国奴」と呼ばれても仕方がない。

「近いうちに」次の選挙があるはずなのだが、今度の選挙はかなり重要な選挙になる。世論に迎合したり、近隣諸国に甘い政治家を選んでは、かなりの確率で領土を失ってしまうだろう。今度の選挙こそは、マスコミの世論誘導に惑わされず、わが国の危機を乗り越えてくれる智恵と勇気のある政治家を選びたいものである。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加




プロパガンダでわが国に罪を擦り付け、世界を「反日」に誘導した中国~~中国排日7

前々回から紹介している”Behind the News in China” (邦訳『中国の戦争宣伝の内幕』)の著者であるフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズはサンフランシスコの新聞社の記者であった頃に東洋からアメリカのチャイナタウンに向かう暗黒街の麻薬ルートの情報を追及していたことがあり、彼によると蒋介石はかつて阿片の最大の取引をしていた実績がある人物だったという。

1937年から翌年にかけて、その蒋介石が「排日」活動でアメリカなど西洋諸国からの人気が高まった時期に、西洋諸国の歓心を買うために麻薬売買を禁止する決定を下し、阿片常習者の苦力たちを「逮捕」し、銃殺刑に処せられるところを世界に公開したのだが、その処刑に著者のウィリアムズ氏が立ち会ったことが紹介した著書に記述されている。

「中国の陰気な群衆は自分のかわいそうな友人たちの処刑を目撃している。そして処刑は抑止効果があると思わせられた。しかし実際問題としてまもなくその軍閥や役人の手先どもがちょこまかちょこまか小走りに人々に阿片を売り歩いていのである。このようにして二三週間もすると、別の一群の『吸飲者』たちが駆り集められて、撃たれ、写真に撮られ、死んだことが海外の新聞に出る。彼らの多くが吸飲者であることは疑いない。しかし鎮圧を命じ、使用者を死に至らしめたあの役人どもの手先によって、麻薬商売は続きに続いているのだ。」(『中国の戦争宣伝の内幕』p.95)

r06-32-01_convert_20120920190247.jpg

すなわち、蒋介石阿片常習者の苦力たちを、阿片の販売先として利用したのちに、西洋諸国に対し阿片販売を取り締まる国としてアピールするために処刑を公開にして利用したのである。そうしておきながら、麻薬商売をやめる気などは毛頭なかったというのである。
日本が侵略したとされる満州も、麻薬常習者が多かった。ウィリアムズは満州について次のように記している。

溥儀

「日本人が入ってくる前の満州は麻薬中毒患者であふれていた。その製造と使用は大きく広がっており、公的に認められていた。しかしその製造と消費についての何の記録も統計もなかった。軍閥が追放されてから、日本が新満州帝国の建設を始め、満州人の血統を持つプリンスが玉座に着いた。日本人が最初にやったことは麻薬売買の記録を正式に作ることである。覚えていて欲しい。これは満州で全く初めて作られたのである。

そして長い間の使用の結果の、驚愕すべき堕落の実態が完全に明らかにされたのである。平行して、出生、建築、病院、住宅、政府の各役所の記録が作られていった。これは法と秩序、治安と安定を確立させるためのものであった。日本はこれらの発見を誇りを持って世界に発信した。しかし世界はおおむね学校や病院その他の数とかに目配せもしなかった。国際連盟のあるジュネーブやアメリカは特にひどかった。…

満州での麻薬中毒とその使用を止めさせるための叩き台を作るというアイデアに基づいて満州の日本人の骨身を惜しまぬ努力によって集められた統計は、これらの偽善者によって反日の材料に使われたのだ。…

驚愕と痛みもいくらか感じながら、日本は自分たちが作ったリハビリテーションのための仕事が、自分たちに襲い掛かってくるのを発見した。日本人は宣伝が下手である。逆襲する代わりに彼らはすねた。もし西洋世界が自分たちのしていることが理解できなかったのなら「くたばりやがれ」というものだ。日本人のまさに沈黙は、数百万の新聞読者の目をぎくりとさせるような見出しとなり、彼らの明らかな罪悪の証拠として受け取られた。」(同上書 p.95-97)

日本は満州の麻薬を排除し、満州の治安と安定を確立させたのたが、中国の権力者にとっは麻薬の利権が脅かされたことを喜ぶはずがなかった。
いくら日本のしたことが道義的に正しくても、マスコミは往々にして権力者につながっている。ウィリアムズはここでも、日本人の宣伝下手を指摘している。 ウィリアムズの文章を続ける。

蒋介石

「さあ、中国、あるいは蒋介石一派は、麻薬まみれになり、実際に麻薬取引をやっているのは自分らなのに、悪臭ぷんぷんの悲しげな嘆願を世界に向けて放ち始めた。日本は中国人に阿片を吸い、ヘロイン、コカインを使うようにと勧め、我国の精神とモラルを破壊しようとしているのである。中国に住む事情通の外国人は、これは笑い話でしかない。しかし南京政府は、これはいつばれると思う罪障からの逃げ道であり、反日のためのいいプロパガンダであり、宣伝なのだ。めったにないチャンスでありペテンだったが、絶好の機会を捉えていた。軍閥が忌み嫌う日本人は、彼らのひどい罪を背負わされて世界から非難されたのだ。…

ほかのどんな国民と較べても、日本人ほど女性や麻薬の売買を忌み嫌う国民はいない。…

それにもかかわらず世界中の善男善女は、恐怖に陥り、思考停止になったままに、日本が哀れな国を征服しただけではなく、人々に阿片吸引を押し付けていると言うわけだ。…」(同上書 p.97-98)

蒋介石がこのような明らかな嘘を垂れ流した時に、日本人が具体的にどのような対応をしたかは具体的には書かれていないが、ウィリアムズ氏の「日本人のまさに沈黙は…罪悪の証拠として受け取られた」という文章からすれば、ほとんど反論せず黙っていたのであろう。

今もわが国は、外国から誹謗中傷を受けた時には、「沈黙は金なり」で沈黙することが多いのだが、このような考え方は相手が情報戦を仕掛けてきた際には世界では通用するはずがない。何も知らない世界ではむしろ、わが国が反論しないのは、わが国に後ろめたいものがあるのだろうと考えるのが普通ではないのか。
蒋介石は自国の犯罪をそのままわが国の責任に擦り付けるという明らかな嘘をついたのだが、わが国が反論らしき反論をしないために、世界では蒋介石の言葉が真実らしいと受け取られてしまった。

情報操作を仕掛ける国は、嘘を承知でそれを何度も浴びせてくる。そのような情報戦を仕掛けられた場合には、その都度しっかり反論し、世界にわが国の正しさを明確に論拠を示して主張する以外に方法はないのだ。

わが国の政治家も外務省も、このような歴史を知らないから、同じ誤りを何度も繰り返しすばかりである。

話をウィリアムズ氏の著書に戻そう。

中国のプロパガンダは言葉や活字だけでなく、写真でも行われている。下の画像は学生時代の教科書で見たような気がするのだが、ウィリアムズの著書にこの写真が作成された経緯が書かれている。

1029247.jpg

「カメラはアメリカにおける中国のプロパガンダの中で、日本への反感と中国への軍閥への同情を引き起こすのに掛け値のない役割を演ずるものである。これらの中国の宣伝屋たによって、今までかつてなかったほど沢山の贋物写真がアメリカの新聞雑誌にこっそりと挿入されている。彼らは次々に恐怖を越させようと、実にタイミングよくリリースしていったのだ。
代表作の一つは、上海の中心の爆撃で破壊された通りの廃墟に泣き叫ぶ赤ん坊のポーズの写真だ。これはニュースを操った。そしてこれは合衆国では最近でも毎日のようにプリントされている。写真は破壊されたビルディングを写している。そしてボロを着たちっちゃな赤ん坊が目をこすり、口を開けて泣き叫んでいるのがはっきりとわかる。…
何百万のアメリカ人が、まさに赤ん坊が泣き叫んでいる、爆撃で破壊された通りのさまを見た。『無法行為』をしでかした『非人間的な日本人』への反感から、義憤が立ち上がってきたのだ。このような写真が沢山ある。そしてこれらの写真は日本の敵には大変な名声を博してきた。」(同上書 p.119-120)

この泣き叫ぶ赤ん坊の写真は、アメリカの『ライフ』誌1937年10月4日号に掲載された有名なものだが、ウィリアムズ氏によると、前回の記事で書いた第二次上海事件のさなかに、日本軍を挑発するために中国空軍がキャセイホテルやパレスホテルを爆撃して中国の民間人が多数死んだ現場に、この赤ん坊が持ち込まれて撮影されたことが書かれている。
要するに、中国軍が中国人を空爆し虐殺した現場に、カメラと赤ん坊を持ち込んで泣いているところを撮影したというのだ。

51WHQF8P35L.jpg

この写真がアメリカの世論を沸騰させて「反日」に仕向けさせた。
中国のプロパガンダ写真を解説している『南京事件「証拠写真」を検証する』(草思社)の解説によると、この写真は『ライフ』1938年1月3日号で「読者の選ぶ1937年ニュース物語ベスト10」に選出されたという。この一枚の写真がアメリカの世論に強烈な印象を与えて、アメリカの世論を反日に傾けたことは想像に難くない。

d-nankinsyasin04.jpg

この著書を見るとこの赤ん坊を別のアングルで映した画像や運んでいる画像なども紹介されており、ウィリアムズ氏の記述の正しさが画像でも確認できる。

中国がこの時期に捏造した写真は他にも多数あり、上記図書にも多数の事例が出ておりほとんどが世界を「反日」に仕向ける意図で作成されたと言っていい。
上記図書の一部を、写真付きで紹介しているサイトがある。この図書を購入されるにせよしないにせよ、一度目を通されることをお勧めしたい。
http://www.geocities.jp/kawasaki_to/d-nankinsyasin.html

日本と中国との戦いは、戦争としては日本が勝っていたにせよ、宣伝戦に大敗して世界の敵にされてしまった。蒋介石の背後にはソ連共産党があり、わが国はソ連の思惑通り日米戦に巻き込まれていくのである。

以前にこのブログで書いたが、昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会における次のスターリン演説が気にかかる。この演説以降の歴史は、しばらくこの言葉の通りに展開しているのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

アメリカを戦争に巻き込むには、中国にとってはアメリカ人の「正義感」を刺戟するプロパガンダが不可欠であったはずだ。そのためには日本は絶対に「邪悪な国」でなければならなかった。しかし、日本軍は統制がとれていて、真実をそのまま伝えてもアメリカの介入は期待できなかった。そこで中国は嘘八百でわが国を「邪悪な国」にするプロパガンダに走ることになるのだが、これに対するわが国の対応が甘すぎた。
わが国にとっては馬鹿馬鹿しいほどの嘘であっても、何も反論しなければ世界はそう信じてしまうとまでは考えなかったようだ。いつの間にか世界は嘘にまみれたプロパガンダにより「反日」に染まり、わが国の反論ができない状況になっていたのである。

「嘘も百回言えば本当になる」という言葉があるが、情報戦対策が甘くほとんど反論しないわが国に対しては、この手法による効果が絶大であることを証明してしまったのだ。中国はこの手法で、ほとんどカネをかけずに、世界の世論を「反日」に染めていったのである。
もしわが国が、相手の事実無根のプロパガンダに対し、即座に嘘であることを世界に訴えていたら少しは流れが変わっていたと考えるのは私だけではないだろう。

尖閣問題にせよ従軍慰安婦問題にせよ、今も同様に甘い対応が続いており、明らかな嘘を広められてもわが国は「大人の対応」とか「いたずらに相手を刺戟すべきではない」と言って、公式には事実を世界に広める行動を殆んど何もしてこなかった。
歴史を知らない経済人が、反日国家に巨額の投資をしたために、両国の関係が悪化することを怖れて圧力をかけた面もあるようだが、そもそも反日を国是とするような国に投資すること自体が根本的な誤りであることに、そろそろ経済人は気が付かねばならないし、政府も国益のかかる重要な判断に、企業の事情を配慮すべきとは思わない。
それと、何よりも、戦後の長きにわたりわが国で封印されてきた中国や共産党の工作の史実をもっと日本人は知るべきだと思う。このことをしっかり学んでおかなければ、また同じ誤りを繰り返すことになるだけではないか。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加




「南京大虐殺」の真実を追う~~中国排日8

前回まで3回にわたり、米人ジャーナリストのフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ”が著した”Behind the News in China” (邦訳『中国の戦争宣伝の内幕』)の内容の一部を紹介してきた。この著書は1938年11月にアメリカで刊行され、とりわけ1936年12月に蒋介石が中国共産党に拉致監禁された西安事件から1938年10月の日本軍による広東攻略までの背景や中国の戦争宣伝についてかなり具体的に描かれている。
私がこのブログで紹介したのは、日本人が大量に虐殺された昭和12年(1937)7月29日の通州事件と、同年8月9日に日本兵が射殺されたことから始まった上海での日中の軍事衝突(第二次上海事変)であるが、この第二次上海事変は3ヵ月続き、11月9日の中国軍の一斉退却で終わっている。

ImageCache.jpg

そしてその第二次上海事変が終了した約1か月後、この軍事衝突を早く収束させるために日本軍は国民政府の首都である南京攻略を目指したのだが、この南京攻略の後に所謂「南京大虐殺」があったという説がある。ところが、その10か月後に出版されたウィリアムズ氏の著書においては、まだ日も浅い時期に起きたはずの「南京大虐殺」について、全く何も記載されていないのである。ここで、日本軍の南京攻略について簡単に纏めておく。

200px-Iwane_Matsui.jpg

このブログで何度も書いたように、当時の国際社会が日本に対して厳しい見方をすることが多かったので、上海派遣軍司令官の松井石根(まついいわね)大将は全軍に軍規の徹底を呼びかけた上で、昭和12(1937)年12月9日に籠城する国民政府軍に対し投降勧告を出し、彼らが拒否したのを確認してから翌日に攻撃を開始しているのだが、こともあろうに蒋介石は20万人近くの市民を置き去りにしたまま12月7日に南京を夜間脱出しているのだ。
日本軍の攻撃開始後には、国民政府軍の唐生智将軍までが南京から脱出したために国民政府軍の戦意は衰え、12月13日に南京が陥落し日本軍が城内に入っているのだが、「戦勝国にとって都合のよい歴史」では、それから約6週間にかけて日本軍が一般市民を殺戮した(「南京大虐殺」)という説が、今も強く主張されている。

南京地図

国民政府軍の責任ある地位の者が逃げて秩序ある降伏が出来なくなったために、一部の中国兵が軍服を捨て、平服に着替えて「安全区」に逃げ込みゲリラとなって抵抗したことから、日本軍がゲリラ狩りを行ない処刑を行なった事実はある。そもそもゲリラ戦は多くの無辜の市民を巻き込む懸念があることから、ゲリラをその場で処刑することはハーグ陸戦規定により認められている事であり、これを「虐殺」と呼ぶことは誤りである。
ゲリラと間違えられて犠牲になった民間人がいた可能性は否定できないという論者がいるが、それは遺憾な事故ではあっても、組織的な「虐殺」とは根本的に異なる。
蒋介石が首都攻防戦を決断しながら兵を残して逃亡したためにそのような状況になったのであり、本来その責任が問われるべきはどう考えても国民政府軍の方にある。

南京事件

上の画像が南京事件を伝えた12月10日の朝日新聞だが、国民政府軍は南京を廃墟にして出て行ったと伝えており、中国側に多くの「残忍行為」があったようなのだが、具体的な記述はないので詳しいことは分からない。この記事を読む限りでは、日本軍が問題のある行動をとったことは考えにくい。

もし日本軍による「南京大虐殺」と呼ぶべき事件があったとする説が正しいのであれば、もっと当時の記録に残っていなければおかしいのだが、前回まで紹介したウィリアムズ氏の”Behind the News in China”には一言も書かれていないし、この時期南京には日本だけではなく世界のジャーナリストが多数いたにもかかわらず、その当時の報道や記録で日本軍が虐殺行為を見たという記録は存在しないのだ。
評論家の阿羅健一氏が、当時の英米の新聞や雑誌の報道内容を調査したところによると、南京大虐殺について触れた記事や社説は皆無だったとのことである。
http://www.history.gr.jp/~nanking/reason14.html

中国共産党も共産軍も、南京陥落について国民党のだらしなさは書いても、日本軍が大虐殺を行なったとは一言も書かれていないという指摘もある。
高木桂蔵氏が『抗戦中の中国軍事』という中国で刊行された軍事に関する刊行物を研究されたレポートを『月曜評論』(昭和24年2月27日号)に発表しておられる。
そのレポートによると中国共産党の「軍事雑誌」1938(昭和13)年6月20日、刊行第109号に南京の戦闘に関する最初の記事が出ているのだそうだが、そこには
「十二日夜、敵軍侵入城内・激烈之巷戦・自此開始・同時機空軍亦協同作戦・迄十三日午・城内外仍在混戦中・戦軍以政府業巳西移・南京在政治上・軍事上・巳失其重要性・為避免無謂的犠牲・乃退出南京…」
と書かれているだけで、どこにも日本軍による市民の虐殺とか捕虜の大量殺戮のことが出てこないようなのだ。常識的に考えて、もしそのようなことがあったら中国共産党が黙っているはずがなかったことは誰でもわかることなのだが、何も書かれていないことに注目すべきである。
http://www.history.gr.jp/~nanking/reason11.html

当時わが国に対して厳しい姿勢であった、英米だけでなく中国においてすら、日本軍の大虐殺があったとはどこにも書かれていない。にもかかわらず、なぜ「南京大虐殺」があったと言えるのか。

このブログで縷々述べてきたように、当時のわが国は世界の報道を牛耳る力などは微塵もなく、前回の記事に書いたように、中国の虚偽のプロパガンダに翻弄されていたのが現実だ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-244.html

この様な史実を知れば知るほど、誰でも「南京大虐殺」という事件があったという説を疑わざるを得なくなるのだが、学校教育では戦後の長い間、「南京大虐殺」があったとして指導されてきた。

以前の教科書では、日本軍が虐殺した中国人の数は30万人とか20万人とか、人数について諸説があるような書き方が記述されていた記憶があるが、市販されている『もう一度読む山川日本史』ではこう書かれている。
「1937(昭和12)年12月、日本軍は中国の首都南京を占領した。この時日本軍は、非戦闘員を含む多数の中国人を殺傷して、国際的に大きな非難をうけた(南京事件)」(p.302)

人数の議論については書かなくなったにせよ、日本軍が非戦闘員を虐殺したような書き方は今も健在である。「戦勝国にとって都合のよい歴史」においては、いくら論拠が怪しいものであっても、日本軍が虐殺に関与した点だけは、どうしても譲れないようなのだ。

しかし、何度も言うように、もし日本軍による「大虐殺」というような事件があったなら、常識的に考えて、世界中で大きく報道されてわが国が非難されていないはずがない。英米も、中国も当時の記録が残っていないということは、世界が問題にするような規模の事件では到底なかったはずなのだ。

「南京大虐殺」については、ネットでも様々な議論がなされている。当時の記録や写真を豊富に集められて、説得力のあるサイトはいくつもあるが、一度目を通していただきたいのが次のサイトである。
http://www.history.gr.jp/~nanking/

上記サイトに明確に書かれているように、当時の陥落前の南京の人口は20万人であった。そして南京陥落後は難民が帰還して1か月後には25万人に人口が増えていることが公式文書で確認できるのだ。
もし日本人による虐殺があったとしても人口以上の虐殺はあり得ず、また、虐殺が今も続いている場所に人々が戻ってくるようなこともあり得ないことは誰でもわかるだろう。
難民が帰還して人口が増えたということは、常識的に考えれば南京は安全であったのだという事なのだ。

南京在住の婦人・子供を含む非戦闘員は、すべて国際委員会の管理する安全区(難民区)内に居住しており、松井軍司令官の厳命により、ここには一発の砲弾も撃ち込まれておらず、空爆もなく、放火もなかった。だからこそ、国際委員会の委員長ジョン・H・D・ラーベ氏が、国際委員会を代表して次のような書簡を日本軍に送っている。

ラーベ

「拝啓 私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります。」
http://www.history.gr.jp/~nanking/reason05.html
もし虐殺行為があれば、このような書状を出すはずがない。

また金陵大学病院医師マッカラム氏は、当時の日記および手記にこのような記録を残しているという。
「(日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本人がありました。
私は時々一日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました。」
「12月31日、今日私は民衆の群が該地帯から中山路を横断して集まるのを目撃しました。あとで彼らは、行政院調査部から日本軍の手によって配分された米を携帯して帰って来ました。今日は若干の幸福な人々がおりました。」 
「(1月3日)今日は病院職員の半数の登録をするのに成功しました。私は若干の日本兵によってなされた善行を報告せねばなりません。
最近7、8名のたいへんに立派な日本兵が病院を訪問しました。私どもは彼らに病人に与える食物の欠乏を語りました。
今日彼らは若干の牛肉を見つけて、100斤の豆をもって来ました。われわれは一ヶ月も病院で肉なんか食べなかったので、これらの贈り物は大いに歓迎されました。彼らはわれわれに他にどんなものが欲しいかを尋ねました。」

無名戦士の墓

南京陥落に際しては、日本軍の死者だけでなく中国軍の死者も出ていた。次のURLでは日本軍が「中国無名戦士の墓」を建てたことが写真付きで紹介されている。
http://www.history.gr.jp/~nanking/peace.html#15
昭和12年12月24日の朝日新聞にはこう書かれている。

「抗日の世迷い言に乗せられたとは言え、敵兵も又、華と散ったのである、戦野に亡骸を横たえ風雨にさらされた哀れな彼ら、が勇士達の目には大和魂の涙が浮かぶ、無名戦士達よ眠れ!白木にすべる筆の運びも彼らを思えばこそ暫し渋る優しき心の墓標だ。」
敵の無名戦士の墓標を建てる日本軍兵士が、罪のない婦女子を大量虐殺するという説は、どう考えても違和感がありすぎるのだ。

そもそも本物として通用する虐殺現場の写真は世の中に1枚も存在しないのだ。
前回の記事で『南京事件「証拠写真」を検証する』という本を紹介したが、その本の中で、日本軍による大虐殺があったという証拠写真としてよく用いられる143枚すべてを検証し、すべてが南京事件とは何の関係もない写真であることが論証されている。

南京風景

上の画像は毎日新聞社の佐藤カメラマンが12月17日に南京で撮影した画像だが、実在している写真は、南京の避難民が喜んでいる姿ばかりである。中国人難民の自然な表情からみても、日本軍を怖れているとは思えない。

南京事件1220

当時の写真は数多く残されているが、一度次のURLで確認されればよい。普通の人はこれらの写真を見て、日本軍により「大虐殺」があったと誰も思わないだろう。
http://www.online-utility.org/image/gallery.jsp?title=Battle+of+Nanking

虐殺の証拠となる記事もなければ、写真もない。日本人が多数虐殺された通州事件とは違い、「南京大虐殺」には死亡者のリストも作成されていない。
そもそも、その直前まで中国軍は、とんでもない嘘のプロパガンダで日本軍を貶めてきたのだ。普通に考えれば「南京大虐殺」は作り話としか考えられず、また作り話であるから「虐殺者数」がコロコロ変わっている。
あまり話題にならないが、この事件の直後の1938年2月に中国が国際連盟で「南京で日本軍による中国民間人2万人の虐殺があった」と発言しているが、この発言すら当時の世界のマスコミはほとんど採りあげなかった。当時は世界の記者が南京にいたので、デマだと即座に判断される内容だから報道されなかったと考えるのが自然だろう。
http://www.history.gr.jp/~nanking/books_shincho0738.pdf

他にもいろいろ論拠はあるがこれくらいにして、普通の人が普通に考えれば「南京大虐殺」はなかったか、もし一部の中国民衆が便意兵と誤認されて巻き添えを食ったとしても、日本軍が組織的に虐殺したことについてはありえないと考えられる程度のものであったと思われる。そのことは、南京にかなりの自国人がいたアメリカもイギリスもソ連も当然分っていたはずである。

「南京大虐殺」という話が公式の場に登場し広がっていくのは、実は昭和21年の5月3日に始まった「東京裁判」以降のことなのである。では、なぜ占領軍は東京裁判で日本人による30万人の大量虐殺の話を、唐突に持ち込んだのだろうか。

img20121010221811520.jpg

このブログで何度も「いつの時代もどこの国でも、歴史は勝者が書き換えてきた。歴史とは単なる史実の叙述でなく、勝者にとって都合よく書き換えられ、時には史実がねじ曲げられて叙述されたものに過ぎない。そしてわが国の日本史教科書などに書かれている近現代史は『戦勝国にとって都合の良い歴史』と考えて良い。」と書いてきた。
そして「戦勝国にとって都合の良い歴史」を書くためには、戦勝国が参戦することに崇高な目的と、勝利したことに意義があるものでなければならないのだが、そのストーリーを成り立たせる為には日本が余程「邪悪な国家」でなければないことは誰でもわかる。

しかし戦勝国のアメリカはわが国に2つの原爆を落とし、東京や大阪などの大空襲で無辜の民を大量虐殺した。ソ連も我が国のポツダム宣言受諾後に日本を侵略し多くの日本兵をシベリアに抑留し、極寒の地で強制労働に従事させて死に至らしめた。また中国共産党は、日本を戦争に引き摺り込むために多くの日本人を虐殺し、その背後にはソ連共産党がいた。アメリカの2つの原爆の死者だけでも21万人、ソ連のシベリア抑留時に死亡した日本人は29万人とも言われている。
それらの戦勝国の戦争犯罪を打ち消すためには、それ以上に酷い事をわが国が行っていれば好都合なのだが、わが国の方が「邪悪な国家」であることを全世界が納得するような事実はどこにも存在しなかった。ならば捏造するしかないではないか。

史実の捏造なら中国人の得意なところである。そこで戦勝国は、日本軍が「30万人」もの中国人民衆を虐殺したということにして、「戦勝国にとって都合の良い歴史」が完成した。
それまで中国の公式発表では日本軍による虐殺は2万人で、その数字ですら世界は信憑性を疑ったのだが、それをとんでもない数字に膨らませたのだ。「30万人」という数字は、アメリカやソ連にとっては自国の戦争犯罪を打ち消すために、こだわる理由のある数字ではなかったのか。

img20121011201017724.jpg

東京裁判は戦勝国のリンチ裁判のようなものである。判決文の多くは真実ではない。そして「戦勝国にとって都合の良い歴史」の解釈に基づき、7人の被告が死刑に処せられている。
その上でわが国に存在する「戦勝国にとって都合の悪い史実」が書かれた書物を徹底的に焚書処分し、同時にあらゆる出版物や放送原稿や私信までを検閲し、「戦勝国にとって都合の悪い」ことの一切を書いたり放送したりしないようにした一方、「戦勝国に都合の良い歴史」だけを広めて、日本軍が諸悪の根源であるイメージを日本人に洗脳した。

そして、「戦勝国にとって都合の良い歴史」を固定化させるために、中国・韓国・北朝鮮には「反日史観」を、わが国には「自虐史観」を広め、領土を曖昧にして、東アジアに紛争の種を残したということではないのか。そして中国・韓国・北朝鮮およびわが国の左翼が、「戦勝国にとって都合の悪い歴史」を封印して日本人の歴史認識の洗脳状態を維持する役割を、今も担っているようにも思えるのだ。

アメリカにとってもロシアにとっても、黄色人種同士が領土問題や歴史認識で対立したり、同様の問題でわが国内で対立があることは好都合であるはずだ。対立がある限りは、何もせずとも、自国の戦争犯罪が話題に上ることがないという都合の良い立ち位置に留まることができる。またアメリカにとっては、それらの国のいずれかがアメリカの経済的地位を脅かす国に成長しそうな勢いであったとしても、その対立関係をうまく利用すれば、すぐにその芽を潰すことが可能である。
領土問題にせよ従軍慰安婦問題にせよ、日中や日韓の諸問題にアメリカが介入してくれて解決を図ることについて過度な期待することは誤りではないのか。アメリカがそれらの問題にわが国のために介入することの方が、アメリカの国益を損なう可能性がありうるとの視点を持つことも重要だと思う。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加



【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。




カリフォルニア州の排日運動が、日露戦争後に急拡大した背景を考える~~米国排日1

昭和21年の3月から4月にかけて、当時の松平慶民宮内大臣・木下道雄侍従次長らが、戦争に至った遠因・近因、経過および終戦の事情について、昭和天皇から5回にわたって聞き書きをした貴重な記録がある。

その冒頭は昭和天皇の次のようなお言葉となっている。

昭和天皇

「大東亜戦争の遠因
この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然存在し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。…
かゝる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がつた時に、これを抑えることは容易な業ではない。」(『昭和天皇独白録』文春文庫p.24-25)

加州というのはアメリカのカリフォルニア州のことで、アメリカにおける排日運動はここから始まっている。
昭和天皇はこの戦争の遠因は人種問題にあったと考えておられると理解して良いが、このような視点は天皇陛下だけのものではなく、当時のマスコミもそのような論調の記事が少なくなかったようだ。しかしながらこの視点は、戦後になってわが国の歴史の記述からスッポリと欠落してしまっているように思われる。

以前このブログで中国における排日問題を考察した際に、神戸大学付属図書館の新聞記事文庫を紹介した。明治末から昭和45年までの経済記事に限られるという問題はあるが、検索キーワードで当時の新聞記事を探すことが出来るのはありがたい。新聞の過去記事についてはGHQの検閲や焚書などの対象にならなかったので、当時のわが国における論調をそのまま読むことが出来る。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html

この検索を使って、例えば「人種問題」と入力すると693件もの記事がヒットする。これだけの記事がヒットするということは、当時の経済状況や世界情勢を考える上において「人種問題」は無視できなかったはずである。

これから何回かに分けて、この「人種問題」がわが国にどのような影響を与えたかを考えることにして、今回は、カリフォルニア州で排日運動が起こってそれが全米に拡大した背景について書くことにしたい。

昭和天皇が提起された「加州移民拒否」、すなわちカリフォルニア州の日本人移民排斥の前に、支那人移民排斥運動が起こっている。
その経緯を調べると、カリフォルニア州で19世紀の半ばに金が発見され、金鉱脈目当ての山師や開拓者が殺到した(ゴールド・ラッシュ)。その時に中国人が苦力として投入され、1852年には2万人以上がカリフォルニアに到着し、中国人が州人口の1割にも及んだという。
その後中国人と白人労働者との摩擦が激しくなり、1870年代から支那人排斥運動が始まり、1882年には「中国人移民排斥法」が成立したために、中国人がアメリカに移民できなくなった。日本人の移民が増加するのはその頃からである。

先程紹介した神戸大学付属図書館の新聞記事検索で、やまと新聞が大正2年(1913)に日米問題についての特集記事を55回に分けて連載しているのが見つかった。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10024271&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
この記事によると、明治20年(1887)以降わが国からの移民数が急激に増加し、明治41年(1908)年には日本人移民数がピークとなり全米の移民総数は103,683人。その6割近くがカリフォルニア州に居住していたという。

日米問題の研究

日本人移民の評判が急変するのは日露戦争でわが国が勝利してからのようである。
日露戦争勝利の翌年の明治39年(1906)年にサンフランシスコ学童事件がおこる。先ほど紹介した新聞の記事を引用する。(桑港=サンフランシスコ)

「州知事改選期が迫るや、加州の共和党は労働者同盟の主張と同じく、日本人及び朝鮮人をも清国人と同一に排斥すべしとの一項を条項中に加えた、同時にバンネス、フィルヨープの両街の日本街にある日本人の店に立退きを迫る者があり、又日本人洋食店に対してボイコットが行われ、或は夜陰に乗じ通行の日本人を殴打し、白昼強盗横行して戮殺略奪を恣にし、殺気縦横、保安警察の途殆ど全く廃れた、又公立学校に通学中の日本児童二百余名突然放逐を命ぜられた、是に於て日本の学童は離隔小学校に通わなければならぬ事となったが、素と其学校は支那人の為めに建設せられたるもので、支那街にあって兇賊常に出没し、之れに通うにも遠きは四五哩、近きも二十三十町も遠方から通わねばならぬから、離隔学校に通う事は殆ど不可能であった。
 更に其の校舎の設備を見るに、一度焼けたものに臨時の小屋掛をなし、板壁を廻らし屋根もなく天井も備わらぬ処に、僅か数十脚の椅子があるのみの所へ、四人の教師が残って居るのみである、桑港の官憲は実に斯る仮小舎に日本の学童を放逐せんとしたのである。」(大正2年5月2日「日米問題研究」三十一)

また翌年(1907)5月には再びサンフランシスコで邦人虐待事件が起こっている。
「此暴行は約一週間継続し、帝国領事館及び連合邦人協議会より市の当局者並びに加州の知事に対して保護を求めたるにも拘わらず、依然として暴行は継続せられた、白人は群を為して日本人の飲食店を襲撃して店員を殴打し、或は石、鉄片を以て硝子窓を粉砕し、石を食堂に投入し、湯屋を破壊する等言語道断なる暴行を加え、甚だしきに至っては屋内に闖入して家具を持去るが如き事があった。
 検事は我領事と打合せて被害者の調査に従事したが、在留邦人は米国官憲が本件に対し一般に冷淡である事を憤慨せざる者はなかった」(大正2年5月26日「日米問題研究」三十三)
とアメリカ人のやったことは、先日の中国における反日暴動とあまり変わらない。

アメリカの日本人排斥原因

では、アメリカ人が排日に至った理由は何なのか。
大正2年(1913)12月2日から5日にかけて神戸又新日報で『米国の日本人排斥原因』という記事が書かれているが、そこに同年8月9日付のサンフランシスコ・ポスト紙の記事が翻訳され引用されている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10024153&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

「 (前略)然れども気の毒なることに添田博士は土地法を通過せる加州議会の真意を了解せざるなり。土地法の目的は日本人が善良なる米国市民となり能うやの問題に非ず。実に血液の混合を恐るるにあり。ウイッブ法案が僅か五名の反対者にて議場を通過したるは是が為めなり。此血液問題人種問題は実に深遠にして且つ世界的の問題なり。博士の意見の末節に対しては実にお気の毒と云わざるを得ず。然れども土地法の根底は実に日本人をして白人種に混合せしめざらんとするにあり。故に其目的さえ達成すれば排日感情は休止すべく即ち日米問題は在米日本人が否応言わず土地法に服従し、且つ米国に向て移民の輸入を断念さえすれば自ら根本的に解決さる可きなり云々」
この記事ではニューヨーマトリビューン紙やサクラメントユニオン紙等の記事も紹介されているが、これらを読むとアメリカ人は日本人という人種を嫌ったのであって、人種差別であったと理解するしかない。

上の記事は大正2年のものだが、排日活動はこの頃に急激に拡大しその後さらに本格化していく。

GHQ焚書図書開封6

西尾幹二氏の『GHQ焚書図書開封6』にサンフランシスコ総領事であった大山卯次郎氏の「米国における排日の動き」という論文が紹介されている。その論文を読めば、先ほどの記事の中の「土地法」の問題も解説されている。この文章をしばらく引用する。(原文を新字・新仮名に変更したもの)

「さればその最初の現われた1913年(大正2年)加州における第1回排日土地法の制定であって、加州は同法により日本人に対して土地の所有を禁じ、農業の目的をもってする土地の賃借を3箇年以内に限定した。これ日本人の農業経営に対する大打撃なるのみならず、実にその生業を奪うものであって、条約上ならびに人道上許すべからざる不正不当の行為なるにより、日本政府は米国政府に対し本法(排日土地法)が国家の平等を根本義とする日米条約に反すること、人間の平等機会均等を保証する米国憲法に違反すること、多年米国にあって粒々(汗水たらして)稼ぎあげた多数日本人の事業を破壊しその生業を奪うものなることを指摘し、厳重なる抗議を重ねたるも、要領をうるあたわず、本問題は形の上においては今なお懸案中なるも、その実泣き寝入りの姿成りいるのみならず、さらに1920年(大正9年)に至り、加州は第2回排日土地法を制定し、これにより日本人に対し今まで許した3箇年以内の農業上の借地権を剥奪し、地上権を禁じ、農業のためにはいかなる方法によるも土地の利用を許さないこととした。」(『GHQ焚書図書開封6』p.120-121)

わが国は米国法廷に訴えたが、米国大審院はこの「排日土地法」はアメリカ憲法、カリフォルニア州憲法、および日米条約に違反しないと判決を下す。すると、カリフォルニア州に続いて、ワシントン州、アリゾナ州、ニューメキシコ州、テキサス州、ネブラスカ州などの他州も同様の土地法を制定してしまうのだ。

排日土地法」だけではない。1922年に米国大審院は日本人の帰化を認めない判断を下し、1924年には連邦法で「排日移民法」が成立しアジアからの移民を禁止した。さらにアジア人は白人との結婚を禁止する「黄白人結婚禁止法」もこの頃成立したようだ。

しかし、なぜカリフォルニア州のサンフランシスコで、最初に排日運動が激しく燃え上がったのか。

imagesCA77LSVJ.jpg

五明洋氏の『アメリカは日本をどう報じてきたか~~日米関係200年』という本は、200年に亘ってアメリカ側の新聞や雑誌に書かれた記事を纏められたものであるが、そこにはわが国が日露戦争に勝利した1905年についてこう書かれている。

「サンフランシスコ・クロニクル紙が降って湧いたように排日キャンペーンを開始した。この唐突なキャンペーンは社主のデヤング氏が上院議員に立候補しようとしてのことであった。
排日はこれまで労働組合が先鞭をつけていたが、これ以降新聞が主導することになる。キャンペーンは1か月に及び、その後をハーストのエキザミナーや他紙が負けじと追従したので、サンフランシスコは排日の霧にすっぽりと覆われてしまった。
クロニクル紙の一連のキャンペーンの記事を要約すると、
『日本人はカリフォルニア、そして米国にとって一大脅威となった。日本人は白人の仕事に直ぐ慣れ、白人が生活出来ぬ安い賃金で働くので中国人よりも始末が悪い。日本人は米国人を嫌うが、米国人にも日本人を拒否する権利がある。』(1905/2/23)
『日本人の無制限移民に反対する動議がカリフォルニア州議会で3月1日満場一致で可決された。父達が多くの犠牲を払い勝ち取ったカリフォルニアを昔の姿に戻すのが我々の責務である。当紙は日本移民の制限を連邦議会と大統領に要請する』(1905/3/2)」(『アメリカは日本をどう報じてきたか』p.101-103)
日本人が嫌われたのは生活態度に問題があったわけではなく、まじめに働いて白人の仕事を奪っていったことが問題になっているのだ。

また著者の五明洋氏はサンフランシスコにおいて排日運動が激しくなった背景についてこう解説している。

「サンフランシスコが排日のメッカになった理由は、アイルランド系がこの市に集中していたからである。…
アイルランド人はポテト飢饉を逃れて移民した貧しい人々で、入植した東部では格好の差別対象であった。大陸横断鉄道工事に従事しフリーパスを得た彼らは、新天地サンフランシスコを目指して大移動を開始した。
ここで彼等は差別にもってこいの日本人に遭遇したのである。差別理由をあえて求めるなら、アイルランドが隷属を強いられた英国と日本が同盟を結んでいるくらいのことであった。彼らは「西部生まれの会」という組織を作り、1907年には「灰色熊(Grizzly Bear)」を創刊して日本人排斥に拍車をかけた。
当時排日の中心人物はすべてアイルランド系で、…排日家のカーニー、オンドネル、フィラン、シュミッツ、マクラッチ、インマン等すべてアイルランド系であった。」(同上書 p.110-112)
下層階級の白人ほど黒人を差別する傾向があるのと同様に、英国で虐げられてきたアイルランド人は黄色人種の日本人が豊かに暮らしていることが気に入らなかったという事なのだろう。

その後アメリカ各地に排日的な論調が広がっていき、1907年1月にはロサンゼルス・タイムスが日本脅威論を唱え始め、日米開戦論が公然と論ぜられるようになる。たとえば、こんな記事が書かれていた。
「日米の開戦危機が取り沙汰されるにつれ、太平洋岸の無防備状態が問題になってきた。特にロサンゼルスの表玄関に当たるサンペドロ港に要塞がないのは致命的で、これでは東郷提督の為すがままである。彼でなくとも誰が来てもサンペドロは易々と侵略され、豊かなロサンゼルスの街並みは日本軍に蹂躙されてしまうのである。」(LA Times1907.1.20)
「ハワイには日清、日露戦争で戦闘訓練を受けた日本人が6万5千人もいて、皆拳銃を所有している。日米開戦ともなればハワイは内外の敵により最も危険な状態になるであろう。」(LA Times1907.1.20)
と、日本の脅威を随分過大に煽っている。そもそもこの時期の日本に米国と戦う意志があったとは思えないのだ。

そしてこの時期に「黄禍(Yellow Peril)」という言葉がロサンゼルス・タイムズに登場したという。「黄禍論」というのは白人国家において現われた黄色人種脅威論のことだが、この言葉は1895年にフランスで生まれたと推定され、ドイツ皇帝(カイゼル)ヴィルヘルム2世が唱えたことが有名なのだが、マスコミで使われ出した影響は大きかった。

ところでアメリカ政府は、当初はカリフォルニアの排日政策に批判的であったのだが、1906年には長期的な対日戦争計画である「オレンジプラン」を大幅に改定していることに注目したい。「オレンジ」とは日本の隠語で、この時点でアメリカはわが国をロシアに代わる仮想敵国と考えていたのである。
最初の「オレンジプラン」は日露戦争の7年前の1897年に策定されていたそうだが、その後このプランは何度か改訂されて、最終的には日本の国土を無差別に焼き払い占領することまで盛り込まれていたのだが、このような「戦勝国に都合の悪い史実」は、戦後GHQに封印されたり反日国家の圧力で語られることがほとんどなく、日本人に知らされる機会があまりにも少ない。そもそもこのような史実を知らずして、公平な観点から太平洋戦争を語れるとは私には思えないのだ。

そして、先ほど大山卯次郎氏の論文にあった排日土地法が、1913年にカリフォルニア州で成立する。そしてその翌1914年に新聞王と呼ばれるウィリアム・.ハーストが排日キャンペーンを開始する。

William_Randolph_Hearst_cph_3a49373.jpg

五明洋氏の解説を引用すると
ハーストは扇動的な新聞を1セントという安値で売り大衆紙を確立した人物で、新聞王と呼ばれた。彼はロサンゼルス・エキザミナー紙、サンフランシスコエキザミナー紙、ニューヨーク・アメリカ紙等を傘下に、政界へ立候補する度に日本脅威論を唱える排日の元凶であった。ハースト・キャッスルは日本人観光客で賑わうが、この城塞のような豪邸は、排日煽動記事で発行部数を伸ばしその財源で建てられた、いわば邦人怨念の館である。」(同上書p.124-126)

ハーストキャッスル

ハーストは最盛期には26の新聞社、13の全国紙、8局のラジオ局、それに数多くの関連したニュースサービスを所有し、彼の築いた邸宅ハースト・キャッスルは城のような豪華な建物だ。
マスコミが大衆を煽動する世界は今も昔も変わらないのだが、ハーストが人種問題を煽ることによって部数を伸ばし、とんでもない財を築いたことをもっと日本人は知るべきではないだろうか。

ハースト系の新聞の記事が、五明洋氏の著書にいくつか紹介されている。
「ロサンゼルスの日系人は日本政府の要請があり次第5千の兵をヨーロッパ戦線へ送る準備をしている。彼らは徴兵すれば2万5千名の兵を集めることも可能と豪語している。…日本人のみ戦闘意欲に燃え意気盛んである。」(LA Examiner 1914.08.12)
「日本は1923年までに強大な海軍を造ろうと予算を計上し、超弩級戦艦4隻の建造に着手した。日本は常軌を逸した熱心さで海軍力を増強し、米国をアジアのみならず太平洋から追い出そうとしている」(LA Examiner 1916.07.28)

いずれの記事も事実ではないと思うのだが、ハーストが米国大衆に不要な危機感を煽って新聞が売れることを狙ったのか、権力がマスコミを使って反日に世論を誘導し、軍事力強化に舵を切ろうとしたとしか考えられない。
そして1916年7月30日には『カリフォルニアに危機迫る(Lookout! California-Beware!)』という、わが国を脅威とする歌が同じロサンゼルス・エグザミナー紙に大きく掲載された。ちなみにロサンゼルス・エグザミナー紙は米国最大の部数を誇った夕刊紙であった。
こんなプロパガンダが繰り返されることによって、アメリカ人は反日に洗脳されていったという事なのか。

「1.羊のような米国民は 平和の鳩と戯れる
  誰も気が付かないうちに 大災難が降りかかる
  JAPを追い出さない限り
 2.一寸の虫も愛おしむ 慈愛の声に抱かれて
  何の軍備もしない間に ゴールデンゲートを通り抜け
  JAPは岸辺を埋め尽くす
 3.敵艦隊がマグダレナに 彼らはニコニコよく働くが
  カリフォルニアを盗もうと 至る所に東郷が
  JAPを決して 信用するな」
(LA Examiner 1916.07.30『アメリカは日本をどう報じてきたか』p.127-128所収)

この様な経緯を知ると『昭和天皇独白録』で、昭和天皇が「人種問題」を戦争の遠因と述べられたことは、正しい指摘だと納得できる。
カリフォルニア州の排日は、わが国側には致命的となるような原因は見当たらない。アメリカ側が人種差別と対立を煽り立てて、米国大衆を反日に誘導し軍事力を強化した史実を知らずして、太平洋戦争の原因がどちらにあったかを正しく判断することはできないと思うのだ。<つづく>
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加







【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。




日露戦争後のアメリカにおける日本人差別の実態~~米国排日2

アメリカの排日は、日露戦争後にアメリカのマスコミが人種差別を国民に煽って急激に広がっていったことを前回の記事で縷々述べてきたが、日露戦争時にはアメリカはわが国では親日国だと見做されていたはずだ。なぜアメリカが、日露戦争後にわが国に対する方針を変えることになったのだろうか。

GHQ焚書図書開封6

前回紹介した西尾幹二氏の『GHQ焚書図書開封6』に高木陸郎氏の「米国の支那進出運動とその将来」という論文がある。ここにはこう書かれている。(原文を新字・新仮名に改めて引用)

「米国は満州に発展の強い意図を抱いていたため、一方において露国の満州独占を防止しつつ、他方において積極的開放政策をとり、満州を自国の商品市場として確保するに努めたのである。
その結果1903年の通商関係拡張に関する条約によって、新たに奉天(現在の瀋陽)および安東(現在の丹東)の二港を開かしむるに至った。
しかるに露国の満州侵略は依然その矛を収めず、團匪事件(だんぴじけん:義和団の乱)以来いよいよ露骨となり、…

ついに日本と交戦(日露戦争)するに至ったのであるが、米国はこの大戦中日本に対し非常に好意を示し、外債二億六千万円を引受け、あるいは講和条約の斡旋をなすなど反露親日の態度に出たのである。…

しかるに戦後(日露戦争後)日本が満州において優越的地位を占めたるため、米国の対満発展政策は転じて、日本の勢力排除に向けられるにいたった。…

即ち、米国は露国よりも御しやすい日本を利用して、満州に自国の商業的利益を伸長せんとしたのであるが、その期待が外れ満州の形勢は単に日露両国の勢力を入れ替えたにとどまり、戦前と大差なき状態を呈したからである。」(『GHQ焚書図書開封6』p.56-58)

要するにアメリカは、ロシアに満州独占をさせないためにわが国にロシアと戦わせ、わが国が日露戦争に勝利すると講和条約の斡旋をしてわが国に恩を売り、その後アメリカが我が国に圧力をかけて満州鉄道など満州の権益を手にすると考えていた。しかしながら、そのことはわが国の抵抗にあってうまくいかなかった。そこで、アメリカはわが国の勢力を排除する方向に舵を切ることになったというのだが、この説はなかなか説得力がある。

満州鉄道

1905年9月に米大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋により日露戦争の講和が成立し、わが国はロシアが敷設した満州鉄道の利権を獲得した。
中国に橋頭保を築きたいアメリカは、鉄道王と呼ばれたハリマンをわが国に特使として派遣し、シベリア鉄道の買収もしくは共同経営の折衝を開始したのだが、ロシアから賠償金が取れなかったことからわが国では反米感情が高まっていたため、満州鉄道までアメリカに譲歩できる状況ではなかったようだ。

わが国はアメリカの要請を断り独自で経営をスタートさせたのだが、アメリカからすれば中国大陸に拠点を持つというアメリカのアジア戦略にわが国が立ちはだかる存在となってしまった。そこで、わが国の勢力を排除するために、1906年にわが国を仮想敵国とする「オレンジ計画」(対日戦争計画)の策定を開始したという流れだ。

しかし、アメリカが我が国の勢力を排除するといっても、大義名分もなくいきなり武力を以て排除することはできない。日本人がまじめに働いている限りは通常の方法では排除できないからこそ、カリフォルニアで拡大していた排日の動きを利用し、全米に人種差別を煽って反日感情を拡げてわが国を追い詰めていくという最も卑劣な方法を用いたということではなかったか。

米国の排日大阪朝日新聞

大阪朝日新聞に連載された法学博士末広重雄氏の『米国の排日』という連載を読むと、サンフランシスコ・クロニクル紙がいつから排日キャンペーンを開始したかが明確に書かれている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10027103&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

「明治三十六年及び明治三十七年には日本人が太平洋沿岸に於て驚くべく多数になった。それに刺戟さられて明治三十八年(1905)二月二十五日から、米国太平洋沿岸に勢力のある桑港のクロニクル新聞が、連日日本移民に関する論説を掲げて、日本人の多数入国は将来大に危険であると云うことを論じて、日本人排斥の必要を絶叫し、同年労働派を基礎として日韓人排斥協会、後に亜細亜人排斥協会と改称になった会が組織せられて日本人排斥運動が愈組織的になって来たのである。」(1914年3月9日大阪朝日新聞)

1905年1月2日に旅順開城があり、3月1日に奉天会戦、5月27日に日本海海戦があったから、このキャンペーンは日露戦争の帰趨がはっきりしない段階で始まっているので、アメリカの対満発展政策とは無関係に始まったものだと理解できる。

500px-San_francisco_fire_1906.jpg

1906年4月18日にカリフォルニア州サンフランシスコで大地震が起こっている。
その時にわが国は直ちに同市に対して50万円の見舞金を送っているが、当時の50万円は現在の十数億円程度にも相当する金額で、この見舞金は他の国々からの見舞金の総額をも上回っていたという。

サンフランシスコ地震義捐金

こういう日本人の善意を感じて、すこしは対日感情が改善しても良さそうに思うのだが、先ほど紹介した大阪朝日新聞の『米国の排日』という連載記事を読むと、カリフォルニアの状況が具体的に書かれている。興味深いのでいくつか紹介したい。

「街上に於て、日本人に瓦礫やら、腐った玉子やら、噛りかけの果物を投げつけたり、鉄拳を下すが如きことは、曾て桑港(サンフランシスコ)の地震後に甚しく、当時地震研究の為に加州に出張して居った大森博士さえ此の厄に罹ったことがあった。今日は斯る強漢は殆ど其の跡を絶ったけれども、社会上尚種々なる形式に於て日本人排斥が行われて居る。」

「排斥の為先ず第一に日本人の困ることは下宿屋、貸部屋の誠に得難いことである。加州に長逗留をするものが、或は下宿或は貸部屋の必要を感じ、新聞の広告を見て、其の家に出掛け来意を通ずると、主婦が出て来て、日本人であるのを見ると、随分剣もほろろの挨拶をして断ることがある。甚しきに至っては、アイ・ドント・ウォント・ジャップ(日本人には用がない)と言って、頭ごなしに跳ねつけて仕舞う者がある。」

「又昨年(1913)バークレーに於て売出中であった市街宅地には、左の条件を附して居ると云うことである。即ち
 千九百三十年迄は阿弗利加(アフリカ)人、モンゴリア人及び日本人血統のものは此の土地を買い又は借受くることを得ず、若し此の条件に背いて、日本人に地面を売るものある時は売主も買人の日本人も共に、附近の食料品屋及び其の他の商店からボイコットせらる。 」

「桑港(サンフランシスコ)の水泳場、浴場は全く日本人を客としない。其の他劇場寄席活動写真等で、時としては全く日本人の入場を拒絶し、然らざるも上等席を売らざるところが少くない。公衆の出入する場所、例えば芝居で日本人を排斥するのは日本人にも罪があると云うことを認めなければならない。」

「桑港附近に於ては、労働者の勢力極めて強大で、排日感情も亦極めて猛烈であるから種々なる労働組合は日本人に対してボイコットを行う。理髪師の如きは組合規約に基いて、日本人の理髪をしないと云うことになって居る。又日本労働者の組合加入を拒絶して居る。是等労働組合員の日本人排斥は極端なところまで行われて居る。」

「桑港地震後には、日本人洋食店も一時随分迫害を受けた。暴徒連が我が洋食店の店先に群集して、白人客が食事の為店に居るのを引止めて営業に非常なる妨害を加えた。洋食店の主人連は相談の上、直接に、或は領事の手を経て警察の保護を請求した、ところが巡査の派遣はあったけれども、食事時、暴徒が来て邪魔するような時には、巡査は何処へか行って仕舞って居ない。食事時が過ぎ、暴徒が其の目的を達して散じた頃になると巡査連はノコノコ何処からか出て来ると云う有様で、一向何の役にも立たない。洋食店主人連は大に困った結果、労働組合の親分株に六百円の賄賂を贈って漸く迫害を免れることになったそうである。
桑港、オークランド地方に於ける我が洗濯業者に対する迫害に至っては最も甚だしい。凡ゆる手段を講じて我が洗濯業者の営業妨害をして居る。洗濯業に必要なる器具機械類の買入れの邪魔をすることを始めとして、監視員を設けて絶えず日本人洗濯業者の華客先を調べ、或は印刷物を配附し或は人を派して日本人との取引を断絶せんことを請求し其の華客を奪わんことを図り、今日でも尚運動を続けて居る。」

「日本人を劣等視するところの感情は、日本人と白人との結婚を許さざる法律となって現われて居る。加州民法第六十条は白人と黒人及びモンゴリア人との結婚は不法にして無効なるものであると規定して居る。恋愛神聖の白人国の法律としては、誠に不似合千万なことではないか。尤も加州在住日本人と相愛する間柄になった白人は、此非人情な法律の為…斯かる法律のあるのを見ても、如何に人種的偏見が、加州に於て猛烈であるかと云うことが分るのである。」

これらの記事を読むだけで、この当時アメリカにいた日本人が大変な苦労をしたことがよくわかる。

1920年の写真

ネットで当時の写真を容易に見つけることができるが、上の写真は1920年の画像である。

アメリカ人による人種差別は日本人に対してのみなされたのではない。黒人やユダヤ人に対しても同様だったようだ。その点についても大阪朝日新聞の『米国の排日』にこう書かれている。

「米国の東部で黒人及び猶太人(ユダヤ人)に対するのは、恰も西部で日本人に対するが如き有様である。白人の黒人排斥は今更のことでない、白人と黒人との間に屡(しばしば)大葛藤を生じ、流血の惨状を呈することがある。昨年の秋にも亦一騒動が米国の東部で持ち上ったことがある。ボルチモアと云う町で、黒人の一家族が白人街へ引越して行った、ところが近所の白人は彼等白人の独占のものと考えて居る場所へ黒人が侵入して来たのを見て大に憤激し、其の黒人の家に瓦礫を投ずると云う騒ぎになった。黒人の方でも白人の乱暴に立腹し、多数集まって白人の家に投石して復讎(ふくしゅう)をした。其の結果白黒人の大衝突となり、遂に市は市の安全の為、白人と黒人の衝突を避くる為、白黒人の住居を離隔する命令を発したそうである。」

アメリカは「人種のるつぼ」と呼ばれ、多種多様な民族が混在し独特な共通文化を形成していく社会だと言われていた時期があったが、実際はそれぞれの文化が混じりあって融合しているわけではなく、混じりあわない者同士が同じ地域に住んでいるだけのことだ。
アメリカのような多民族国家で、もし全米規模で人種問題が煽られたらどんなに危険なことが起こるかは、はじめからわかっていなければおかしいと思う。
前回の記事で1907年1月にはロサンゼルス・タイムスが日本脅威論を唱え始め、1914年には新聞王と呼ばれるウィリアム・.ハーストが排日キャンペーンを開始したことを書いたが、アメリカの大新聞がこのような記事を書くということは世論を対日宣戦に導くためのプロパガンダであり、対日戦争計画書である「オレンジプラン」と無関係ではなかったのだろう。

以前このブログで、第一次大戦以降本格化した中国の排日は、アメリカが我が国の中国におけるマーケットを奪い取る目的で仕掛けたものであることを当時の文章を引用して縷々説明してきた。
アメリカの排日キャンペーンと中国の排日暴動とは繋がっていたのだろう。
アメリカ側は人種問題を煽ることが、急成長していたわが国を追い落とし、中国大陸の権益を手にするために有効な方法だと考えていたのではないのか。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加




米人弁護士が書いた日露戦争後のカリフォルニアの排日運動~~米国排日3

前回まで二回にわけて、日露戦争以降のアメリカの排日活動の経緯や実態について書いてきたが、アメリカの知識人はこの時期のカリフォルニアで燃え上がった排日の原因をどう分析しているのだろうか。

日米開戦

ちょっと気になったのでネットで探していると、カレイ・マックウィリアムスの『日米開戦の人種的側面 アメリカの反省1944』という本があることを知り早速取り寄せた。著者は1905年生まれで南カリフォルニア大学で法律を学んだ後、弁護士資格を取得し、1938-1942年にはカリフォルニア州移民・住宅局長を務めた人物である。表題にあるように、この本は太平洋戦争の最中の1944年に出版されている。

マックウィリアムス氏は、1900年前後から始まったカリフォルニア州排日運動の火付け役は、宗主国イギリスの圧政から逃げ出してきたアイルランド系移民であったとはっきり書いている。この点については、前々回に紹介した五明洋氏の『アメリカは日本をどう報じてきたか』にも同じ指摘があったが、マックウィリアムス氏はもう少し詳しくその事情を述べている。

wwwg-jusa-geo-map13.gif

当時カリフォルニア州で働く外国生まれの移民の4分の1がアイルランド出身者で、アイルランド系移民のほぼすべてがサンフランシスコに集中していて、サンフランシスコの労働運動をリードしていたという。
彼らはアイルランド人移民を糾合するのに人種問題を取り上げるのが手っ取り早い事に気づき、州人口の1割にも達していた中国人移民を排除した後、中国人に代わって入ってきた日本人をも同様の方法で排除しようとした。

マックウィリアムス氏はこう書いている。
「この頃、アメリカ東部の諸都市ではアイルランド人への差別がひどかった。その鬱憤を晴らすには反東洋人のスローガンは心地よかった。これに加えて日本がイギリスと結んだ日英同盟が反日本人の運動の火に油を注いだ。アイルランド人はイギリスの圧政の中で悲惨な暮らしを強いられてきたのだ。」(『日米開戦の人種的側面 アメリカの反省1944』p.41)

もともとカリフォルニア州は、他州から移住してきた人が人口の半分を占めていて、移住者たちはカリフォルニア州の政治に強い影響力があったそうだ。

carey-mcwilliams-1-sized.jpg

マックウィリアムス氏はこう分析する。
「このカリフォルニアの特異な人口構成は、むしろばらばらなものを一つにまとめようとするベクトルを作り出していて、その動きの中で生まれた団体が政治力を持っていたと考えている。…
その連携を生み出すには反日本人のスローガンは格好の手段となった。共通の敵を作れば連携が容易というわけだ。日本人問題をシングルイッシューとすることで、こうした団体の活動に共通項が見出せた。…」(同上書p.45-46)
と述べ、この時期にE・A・ヘイズ議員やハイラム・ジョンソン議員など上下院選挙などで選出された議員の多くが反日本人を主張することで選挙に勝利してきたことを書いている。いつの時代もどこの国でも民主主義という政治制度では、候補者は大衆受けすることを公約して選挙に勝とうとするものだが、人種問題を公約して選挙に勝った政治家が少なからずいたのが当時のアメリカだったのだ。

1906年4月18日にサンフランシスコに大地震が起こったことを前回の記事で書いた。その時にわが国は、諸外国の援助額の総計を上回る復興資金を出したのだが、なぜこの時に排日活動が終焉しなかったのか。

マックウィリアムス氏はこう書いている。
「…震災後しばらくは反日本人の動きは沈静化を見せている。しかしそれも長くは続かなかった。
日本人住民への犯罪的ともいえる暴力的行為がすぐに再発している。震災復興にあわせた都市再開発の流れのなかで、日本人社会も拡大した。ビジネスの規模も大きくなり、活動するエリアも広がった。例えば日本食レストランの数は八つから三十に一気に増えている。また従来はリトルトーキョーに居住していた日本人がエリアの外に出て家を購入し始めている。こうした動きにすぐさま反応したのが日本人・朝鮮人排斥連盟であった。日本人のビジネスをボイコットする運動を開始したのだ。
…日本人・朝鮮人排斥連盟は日本人排斥を公式なスローガンとして掲げた。それに他の組織も賛同している。こうした組織の会員数は四百五十万人[他州のメンバー数を含む]にのぼっている。こうしたなかで一九〇六年、カリフォルニア州は日本人移民排斥を超党派で支持することを決定した。」(同上書p.48-49)
地震や災害の後に外国人が勢力を拡大することを警戒することは判らないではないが、その後日本人児童をチャイナタウンにある学校に隔離したことは日本人を憤慨させた。

ではなぜアメリカ政府はカリフォルニア州の危険な動きをストップさせるべく圧力をかけなかったのか。

マックウィリアムス氏は続けて、
「カリフォルニアは一八八二年に支那人排斥法を成立させるために、南部諸州の支援を得て連邦政府に圧力をかけた。今回の事件も同じやり方をとったのだ。最高裁判所がアジア人や黒人の公民権排除を憲法違反でないとしている以上、合衆国政府には州の政策を変更させる権限はなかった。たとえ外国人の権利が条約上保護されるべきであっても、連邦政府はそれを強制することができなかったのだ。
南部諸州の黒人の権利を保護することができないように、カリフォルニアの支那人や日本人の権利も保護が出来ないのだ。…」(同上書p.55-56)

このようにアメリカ政府にはカリフォルニアの排日の動きを止める権限がなかったのだ。そして、メディアはさらにわが国との戦争を煽り、わが国は反米感情を昂らせていくばかりであった。

「ルーズベルト大統領は、わが国は日本との関係が悪化し、一触即発の戦争の危機にさらされていると考えた。大統領はヘンリー・ホワイト宛ての私信(7月10日付)のなかで次のように憂慮している。
『カリフォルニアの日本人排斥は由々しき問題である。事態が改善する兆しが一向にない。』
また友人のヘンリー・ロッジへの同日付け私信では、メディアを強く批判している。
『日本との戦争を避けることが出来たとしても、(戦争を煽る)メディアの責任は免れ得ない。日本にもわが国にも、この問題を戦争で決着すべしと叫ぶ馬鹿野郎が同じ程度に跋扈している。』
西海岸のメディアは(三紙を除いて)こぞって戦争を煽っていたのだ。」(同上書p.57-58)

サイレントインベージョン

同上書に、ロバート・E・パーク博士の言葉が紹介されている。
「階級あるいは人種間の衝突は、単純な、闇雲な反感から生じる衝突から形を変え、より政治的な意味合いを持つようになった。それはあのヒットラーが表現しているように、より精神性を持った、いわば霊的な側面を持ち始めたといえる。つまり人種間の対立のなかでは言葉、スローガンあるいはプロパガンダが“生き生きとした嘘(Vital lies)”になり、いわば言葉が兵器に変質したのだ。ニュース、論評、コラムといった類のものがすべてそういう性格を持ち始めた」(同上書p.65-66)

しかし、日本人がカリフォルニア州で嫌われた理由は何なのか。嫌われるようなことをしたのではないかといろいろ読み進んでも、どこにもそのような記述はないのだ。むしろ日本人はその地で華々しい活躍をしていたのだ。たとえば、

「日本人移民は西海岸にそれまで知られていなかった労働集約型の耕作方法を持ち込んでいる。彼らは土そのものの知識があった。土と作物との関係をよく理解していた。だから耕作しようとする作物に適合するように土壌を改良していった。肥料と施肥の方法にも専門知識を持ち合わせていた。開墾、灌漑、排水の知識に加えて、労力を惜しみなく注ぎ込む不屈の精神があった。こうして日本人移民は数々の農作物栽培のパイオニアとなった。
彼らが開墾した土地はカリフォルニアの肥沃なデルタ地帯だけではなかった。太平洋北西部の切り株だらけの木材伐採地などもあった。日本人を差別する記事を書き続けたサンフランシスコ・クロニクル紙でさえ『カリフォルニアの荒れた土地や痩せ地を豊かな果樹園やぶどう園や庭園に変えたのは日本人の農業技術だ』と賞賛するほどだった。

リビングストンの町は打ち捨てられて荒廃していたのだが、この町を豊かな耕作地に変えたのも日本人の農民だった。カリフォルニア北東部のネバダ州境にあるプレーサー郡の丘陵地帯では果樹栽培が失敗したまま放置されていた。日本人はここでも果樹園経営を成功させている。

後年、カリフォルニア人は日本人がカリフォルニアの最も肥沃な土地を独占したと非難したが、素直に事実を見れば、こうした土地はもともと限界的耕作地だったのだ。
漁業についても同じような傾向が見出せる。西海岸の漁業は昔から移民たちが就いた職業だった。日本人移民はここでも漁獲量を増やすのに貢献した。…
彼らはガソリンを動力としたエンジンをつけた船で、かなり沖合まで漁場を求めて出て行った。新しいタイプの網や釣針を考案し、エサも工夫した。その結果、1回ごとの漁獲高は大きく増えたのだった。また彼らは通年で漁をしたから、市場にはいつも新鮮な魚が溢れることになった。」(同上書p.125-127)

このように、カリフォルニア州に移住した日本人は大変な努力をし、社会にも貢献して生活の基盤を築こうとしたのだが、この州は日本人の努力を正当に評価してもらえるところではなかったのだ。

国民の歴史

西尾幹二氏の『国民の歴史』に当時の米国大統領であるセオドア・ルーズベルトの言葉が引用されている。
「日米間の人種的相違には極めて根深いものがあるので、ヨーロッパ系のわれわれが日本人を理解し、また彼らがわれわれを理解するのは至難である。一世代の間に日本人がアメリカに同化することはとうてい望めないので、日本人の社会的接触はアメリカ国内の人種対立をますます悪化させ、惨憺たる結果をもたらす。その危険からアメリカを守らねばならない。」(『国民の歴史』p.555)

「日本人は勤勉で節倹精神に富んでいるので、カリフォルニアが彼らを締め出そうとするのも無理はない。」(同上書p.556)

要するに日本人は、劣っていたからではなく、優れていたからこそ排斥されたのである。日本人の成功が、他の有色人種を刺戟し白人優位の世界を崩していくことを怖れたのであろう。ルーズベルトが守ろうとした「アメリカ」は「白人が有色人種を支配するアメリカ」であったと考えて良い。

YellowTerror.jpg

当たり前のことであるが、戦争というものは、相手国に戦争をする意志がなければ起こらないものである。
勝手に人種問題を焚き付けて世論を動かし、勝手にわが国を仮想敵国にして、挑発行為を繰り返し仕掛けた国はアメリカだったではないか。
「戦勝国に都合の良い歴史」ではこの事実に目をふさいで、戦争の原因が一方的にわが国にあるとするのだが、いつかこの偏頗な歴史が書き換えられる日が来ることを期待したい。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ





このエントリーをはてなブックマークに追加


日露戦争以降、わが国は米国黒人の希望の星であった~~米国排日4

前回は日露戦争以降のアメリカで日本人排斥が急速に広まった経緯について、米人弁護士のカレイ・マックウィリアムスの著書の一部を紹介したが、当時の事を黒人の立場から書かれた書物を紹介することにしたい。

レジナルド・カーニー氏が『20世紀の日本人 アメリカ黒人の日本観1900-1945』という本を書いている。日露戦争でわが国が勝利した時に、黒人社会がわが国に対してどういう印象を持ったかについて述べている部分をしばらく引用する。

20世紀の日本人

「東アジアの覇権をめぐる争いを繰り返した後、日本とロシアは戦争に突入した。黒人知識人たちは、白人の国であり、ヨーロッパの列強のひとつであるロシアと、東洋の近代有色人国家、日本との戦争勃発を探っていた。
『セントルイス・パラディアム』紙は「今世紀もっとも重要な歴史的事件」であるという見出しをつけて、日露戦争を報じた。アメリカ人全体がそう思っていたかどうかは別にしても、少なくとも白人と黒人に共通してはっきりしていたことは、日本人が白人をその特権的地位から引きずり降ろそうとしている、ということだった。
…この戦争を機に、黒人には人種関係の大きな転換期が見えたのだ。この国際的事件は、国内の人種問題以外には無関心とされていた黒人が、大いに関心を示したものとなった。黒人は、白人を打ち負かす能力を持った、同じ有色人種としての日本人のイメージを磨き上げていったのである。」(『20世紀の日本人』p.54)

日露戦争風刺

カーニー氏の著書の中で、『インディアナポリス・フリーマン』紙の社説に次のような文章が掲載されたことが紹介されている。

「東洋のリングで、茶色い男たちのパンチが白人を打ちのめしつづけている。事実、ロシアは繰り返し何度も、日本人にこっぴどくやられて、セコンドは今にもタオルを投げ入 れようとしている。有色人種がこの試合をものにするのは、もう時間の問題だ。長く続いた白人優位の神話が、ついに今突き崩されようとしている。」(同上書 p.65-66)

「茶色い男たち」はもちろん日本人の事である。わが国はロシアとの戦いに勝利した。
この当時の米国黒人の知識人たちの反応のなかには次のようなものがあった。

「…おもな黒人の知識人やジャーナリストのなかには、白人支配を根底から覆し、黒人の地位を向上させる契機として、この戦争を捕えようとする者もいた。日本人という有色人種が、ロシアという白人国家を打ち負かしたのだから、黒人もやがてアメリカという白人優位国家に対して、同じことが出来るかもしれないと考えたのだ。

… 何と言っても、白人が有色人種を支配する人種構造はけっして真理ではなく、ただ創られた神話に過ぎないということを、明確に世界中に知らしめたのだから。この戦争を契機に、黒人は日本人が自分たちと同じ有色人種であったという同胞意識を、強く抱くようになった。…」(同上書 p.67-70)

当時の西洋社会では有色人種は白人より劣った人種であり、白人が有色人種を支配することは当たり前だという考え方が支配していたのだが、日露戦争でわが国が勝利したことが有色人種に与えた影響はかなり大きかったようなのだ。

またカーニー氏は、当時の『ニューヨーク・エイジ』紙にこんな記事が掲載されたことを紹介している。
「アジアは欧米の支配を受けないアジア人のためのものという信念が『黄禍』を生み出したとしたら、将来アフリカには『黒禍』なるものが生まれてくるであろう。」
「もし日本人が中国人に勇気と反抗の精神を植え付けることができたなら、高慢で横柄なノアの子孫たちは用心しておいた方がよいだろう。」

「高慢で横柄なノアの子孫たち」というのは白人のことを指している。
『旧約聖書』ではノアの息子たちはセム、ハム、ヤペテであることが記され、この3人はそれぞれ、セム=黄色人種、ハム=黒人種、ヤペテ=白人種の祖先になったとかなり古い時代から解釈されているようだ。

聖書創世記

そして『旧約聖書』創世記9章にはこのようなノアの言葉が書かれている。カナンはハムの父である。
「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべ*らのしもべとなれ。」
また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。
神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」
*しもべ:召使い、下僕
http://www.cty-net.ne.jp/~y-christ/reihai/reihai2011/reihai11.10.2.html

聖書この記述から白人による黒人支配が正当化され、西洋による有色人種の国々の植民地化が正当化されていた時期が長く続いたのだが、日露戦争における日本軍の勝利は、この白人優位の常識を覆したのだ。

カーニー氏が重要な指摘をしている部分を引用する。
「日本が…ただロシアをやっつけたというだけではなくて、白人が有色人種を支配するという神話を完全に打ち砕き、『他の呪われた有色人種たち』の秘めた力を引き出すきっかけを作った。それが日本だったのだ。
この頃から、デュボイスは**、ヨーロッパによる支配から有色人種を解放してくれる可能性のもっとも高い国として、日本を支持していた。ブッカ―・T・ワシントン派の有力な評論家は、日本人が『”白”という言葉の持つ近代の愚かなまやかし』をぶち壊したと言った。彼はまた『茶色と黒の人種』が日本人のあとに続くだろうと予言した。つまり、これこそが白人支配に脅威を与えた、いわゆる『黄禍』の本当の意味だったのだ。」(同上書 p.55)

デュボイス
**デュボイス:黒人運動の先駆的指導者。全米黒人地位向上協会の創立者(1868-1963)

またカーニー氏によると、インディアナポリスのYMCA黒人支部主催の討論会で次のような議論がなされたという。
「戦争の結果に暗示されたアジアの栄華とヨーロッパの衰退は、他の抑圧された有色人種たちの未来に、明るい兆しをもたらしたということ、であった。日本が中国をヨーロッパから解放してくれる……ひとたび日本と中国との関係が強化されれば、インドやアフリカや東南アジアをも、白人支配の手から救い出す大きな力になり得る、と考えたのだ。」(同上書p.69)

これらの文章を読むと、なぜアメリカで『黄禍論』が急速に広まったかがよくわかる。
アメリカに日本人が移住してから、アメリカに奴隷として送られてきた過去を持つ黒人や、移住してきた有色人種達が日本人の活躍をみて刺戟され、白人優位の社会に疑問を持ち始め、地位改善のための活動を始め出していたののだ。
白人たちは、早いうちに手を打たないと、いずれは世界中で有色人種たちが白人に抵抗するようになり、永年にわたり白人が築き上げてきた白人優位の世界が崩壊していくきっかけとなるとの危機感を持ったということではないか。

しかしながら、日本人は集団で犯罪行為を行っているわけでもなく、正常な経済活動を行っているにすぎない。これでは普通のやり方で日本人の勢力を排除することは不可能である。
そこでアメリカ白人たちは、別のやり方で日本を孤立させ、経済的に追い詰めていくことを考えた。
カリフォルニア州で起きていた排日運動を巧く利用し、二流三流のメディアを使って黄禍論を全米で煽り米国世論を反日にシフトさせた。そうして日本人がアメリカで築いた経済基盤を破壊し、さらに中国にも排日思想を植え付けてわが国の企業が苦労して築き上げた中国大陸の商圏を奪い取り、かつ黄色人種同士を相争わせることで日本の勢力を弱め、かつアジアで黄色人種が纏まることがないようにしたということではないのか。

黒人たちが望んでいたことは日本と中国とが手を結び、まずアジアが黄色人種で纏まることであったが、アメリカはそれを許さず、素早く黄色人種の間に対立軸を組み込んだのである。中国の排日については、今までこのブログで何度か書いたので繰り返さないが、これを仕掛けたのは英米であったことは当時の記録に残されているのだ。

パリ平和会議

第1次世界大戦が終焉し、1919年にパリ平和会議が開かれる。そこでわが国は人種差別撤廃を講和条件に盛り込むことを強く主張したのだが、標準的な教科書である『もういちど読む 山川日本史』では、アメリカの排日運動については何も触れずに、
「…パリ平和会議の結果、日本は、山東半島の旧ドイツ権益の継承、国際連盟の委任による赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島(サイパン島など)の統治を認められた。しかし中国は日本の山東権益承継に強く反対し、大規模な反日民族運動(五・四運動)が展開された。また日本がこの会議に提出した人種差別撤廃法案は、アメリカなどの大国の反対で採択されなかった」(『もういちど読む 山川日本史』p.278)
と書かれているが、この記述はフェアなものではない。

わが国がパリ平和会議人種差別撤廃条項を盛り込むことを主張したのは、日本人自身がアメリカで不当な人種差別を受けてきたことや、英米が中国の排日を仕掛けたことを抜きには考えられない。以前このブログで書いた通り、五・四運動の背後には英米がいたのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-238.html

『山川の日本史』の文章をいくら読んでも、そのような背景を理解することはできない相談だ。この文章を普通に読めば、日本が悪い国であったので、人種差別法案が採択されなかったと理解する人が大半だろう。
『山川の日本史』のこの部分だけが問題だというのではなく、概してわが国の教科書や通史における近・現代史の解説文においては、『戦勝国にとって都合の悪い史実』が記されていない。それが問題なのである。

パリ平和会議のことを書き出すとまた長くなるので、次回のテーマとすることにしたい。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ





このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。




パリ講和会議で人種差別撤廃案を提出した日本とその後の黒人暴動など~~米国排日5

1918年11月11日、ドイツは連合国に降伏し第一次世界大戦は終結した。翌年1月に開かれたパリ平和会議において世界の主要国の首脳が集まり、戦後処理および国際連盟を含め新たな国際体制構築について話し合われた。

国際連盟委員会

2月13日国際連盟委員会において、わが国の全権の牧野伸顕は連盟規約第21条の「宗教に関する規定」に次の条項を加えることを提案した。いわゆる「人種的差別撤廃提案」だが、Wikipediaの記述等を参考にパリ講和会議における議論を振り返ってみよう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E7%A8%AE%E7%9A%84%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%92%A4%E5%BB%83%E6%8F%90%E6%A1%88#cite_ref-13

わが国が提案したのは次のようなもので、国際会議の席上で人種的差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初であった。(原文は旧字旧かな)
「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り締約国は成るべく速(すみやか)に連盟員たる国家に於る一切の外国人に対し、均等公正の待遇を与え、人種或いは国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」

わが国がこの法案を提出した背景は、アメリカやカナダなどで日本人移民がひどい人種差別を受けている問題があり、わが国の外務次官幣原喜重郎が、この提案を行うことにより排日問題の解決のきっかけを作ろうとしていたとされている。

わが国の提案は会議で紛糾し、結局連盟規約第21条自体が削除され、全権の牧野伸顕は人種差別撤廃提案自体は後日の会議で提案すると述べて次の機会を待つこととなったのだが、わが国のこの提案は海外でも報道され様々な反響を呼んだ。
牧野伸顕の『回顧録』には、西洋列強の圧力に苦しんでいたリベリア人やアイルランド人などから人種的差別撤廃提案に感謝の言葉を受けたことが書かれているそうだ。
また、アメリカのウィルソン大統領は一時帰国して米議会に諮るも、この提案は内政干渉にあたるとの強い批判に直面し、上院ではこの提案が採択された際にはアメリカは国際連盟に参加しないとの決議がなされたという。

牧野伸顕

4月11日に国際連盟委員会の最終の会議が開かれ、牧野伸顕は連盟規約前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」との文言を盛り込むという修正案を提案した。

ウィルソン大統領

議長であったウィルソン米大統領は、提案そのものを取り下げるようわが国に勧告したが、牧野は採決を要求した。

議長を除く16名が投票を行い、フランス、イタリア、中国など計11名が賛成し、イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアの計5名の委員が反対した。
過半数の賛同を得たものの、議長のウィルソンは「全会一致でないため提案は不成立である」と宣言し、牧野は多数決で決すべきではないかと詰め寄ったのだが、ウィルソンは「このような重大な議題については、全会一致で決すべきである。」と答えて譲らなかったという。
牧野は最後に「今晩の自分の陳述および賛否の数は議事録に記載してもらいたい」と述べて、ウィルソンもそれを了解したという流れだ。

我が国が人種差別撤廃の提案をしたことは、これまで欧米植民地体制の下で呻吟してきたアジア・アフリカの人々やアメリカの黒人に大きな希望を与え、彼らは会議の行方を見守っていたのだ。

前回の記事でレジナルド・カーニー氏の『20世紀の日本人 アメリカ黒人の日本観1900-1945』という本を紹介したが、この本にはこう書かれている。

「どのような不都合が生じたとしても、人種平等を訴え続けることは、必ずアメリカ黒人の利益につながると、ジェイムズ・ウェルドン・ジョンソンは考えた。『おそらく世界で最も有望な、有色人種の期待の星』、それが日本であるという確信。日本はすべての有色人種に利益をもたらすという確信があったのだ。それは、たとえひとつでも、有色人種の国家が世界の列強の仲間入りをすれば、あらゆる有色人種の扱いが根本的に変わるだろうという、彼の強い信念によるものだった。

日本が人種問題を国際会議の卓上にのせたことで、黒人のあいだには、おのずと日本への興味が高まっていった。全米黒人新聞協会(NAAPA)は、次のようなコメントを発表した。『われわれ黒人は講和会議の席上で“人種問題”について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである。』『全米1200万人の黒人が息をのんで、成り行きを見守っている。』
黒人のなかには、この会議が日本を仲立ちとして、黒人の本当の苦しみを世界に伝えるいい機会だと考えるものもいた。そして、これを機に、黒人と日本人が人種差別撤廃にむけて手を取り合うべきだ、と。」(「20世紀の日本人」p.74-76)

国家と人種偏見

米国黒人がこれほどまでに期待していたパリ講和会議におけるわが国の「人種差別撤廃提案」が、賛成多数であったにもかかわらず、議長裁定により法案が成立しなかったことに失望して全米各地で紛争が起こったことがポール・ゴードン・ローレンの『国家と人種偏見』という本に書かれている。

「アメリカでも暴力的な反応があった。人種平等や民族自決の原則を講和会議が支持しなかったことにいらだち、あからさまに不法で差別的な政策を前にして自国の政府が意図的に無作為であったことに怒って、アメリカの多数の黒人が完全な市民権を要求することを決意した。この決意は特に黒人帰還兵の間で強かった。彼らの民主主義十字軍としての戦争参加は、祖国でももう少し民主主義を、という当然の夢をふくらませた。…その一方で、復活したクー・クラックス・クラン*の会員のような反対派の連中は、平等の要求などは絶対に許さないと決意しており、『生まれながらの白人キリスト教徒はアメリカ国家と白人の優位を維持するために団結して統一行動をとる』という計画を公然と発表した。
この相容れない態度が1919年の暑い長い夏に、剝きだしの暴動となって爆発した。6月から10月まで、アメリカの多くの都市のなかでも、シカゴ、ノックスヴィル、オマハ、それに首都ワシントンで大規模な人種暴動が発生した。リンチ・放火・鞭打ち、身の毛のよだつテロ行為、それから『人種戦争』と呼ぶのにふさわしい破壊。当局は秩序回復のために、警察、陸軍部隊、州兵を動員した。暴動が終わってみると、100人以上が死亡、数万人が負傷、数千ドルに及ぶ被害があった。ジョン・ホープ・フランクリンは次のように書いた。パリ講和会議の差別の政治と外交に続いたこの『赤い夏』は『全土をかってない人種闘争という大変な時代に追い込んだ。』彼が目撃した暴力は国内の一部の地区にとどまらず、北部・南部・東部・西部…『白人と黒人が一緒に生活を営んでいるところならばどこでも発生した』」(『国家と人種偏見』p.151-152)」

KKK.png

*クー・クラックス・クラン:アメリカの秘密結社、白人至上主義団体。略称KKK。

この様なアメリカ黒人の暴動は報道機関によって全世界に配信され、一部の記事を神戸大学図書館デジタルアーカイブの新聞記事文庫で読むことが出来る。

人種不平等の国

例えば、大正8年(1919)8月26日~27日付の神戸新聞はワシントンの黒人暴動を特集記事で伝えている。ワシントンの黒人暴動は白人が黒人にリンチを仕掛けたことから始まっていることがわかる。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10056149&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

「時は本年(1919)七月二十日夜華盛頓(ワシントン)市の中央に於て米国水兵、水夫、陸軍々人及び其他の市民は連合して黒人を襲撃した、其数数百より数千に達した、彼等は電車や自動車中に居る黒人を引ずり下した、而して此等の黒人を死刑に処せんとしたのである 。
 何故に彼等はかく野蛮なる行動に出でたかと云うに之は南部米国に於て屡々(しばしば)行わるる所謂(いわゆる)リンチ(私刑)を行わんとしたのである、先月より黒人にして白人婦女子を強姦する者が屡々であった、警察は敏活に活動して数名を捕えた、然し乍ら猶多くの捕われざる者がいると一般に思われていた、かくして白人等は警察の手をまだるしとなし、黒人と云えば手当たり次第に捕えたのである 。
 之は南部に於ては寧ろ(むしろ)当然として屡行わるる所であるが首府の中央に、斯(かか)る事件の発生したことは米国としても珍らしい事件である。然(しか)もそれより四日を経過せし今日は更に黒人側も連合して之に当り一種の内乱の有様を呈している、黒人は手に手に武器を有して決死の勢いを以て白人に対し双方に死傷者を出し遂に政府は軍隊を出して鎮静に努めたが今尚夜毎に争闘が行われている、新聞の報ずる所によればこは黒人間にある秘密結社の者が此運動に加わっているのであると云う 。
 二十二日夜も十時頃より黒人の暴動は益々猛烈となった、数多の騎兵、歩兵、水兵はハーン大将指揮の下に鎮静に努めているが猶止まない之は云う迄いなく黒人の非道徳的行為に原因しているのではあるが然し乍ら根本を正せば白人の黒人に対する軽蔑の念之に対する黒人の不平が有力なる原因たること勿論である、何となれば白人にして黒人婦人を強姦若くは其他の非行を行うも社会は一般に之を責めない、黒人がすれば之を責めると云うのは黒人自身多年の歴史より自己を白人より下位に見ると白人が又自己を黒人より上位と見るに原因する 。
 其証拠には日常の社会的習慣を見れば明かである、黒白人の区別最も甚しい米国南部では通路さえ区別されている、電車の中でも黒人がもし白人の傍へ坐すれば無礼だとせられる、汽車や電車も区別せられることがある、もし電車内で白人婦人が黒人の側に掛けてる場合、白人の男が其女と席を代えても敢て黒人に対し失礼とも思わない、こう云うようなことは沢山ある黒人がかかる待遇に対し不平を懐くのは勿論である、だから今度の華盛頓市の暴動も日頃の不平の勃発と見るべきである。 」

ボストン大暴動

上記画像は大正8年(1919)9月15日付けの大阪朝日新聞の記事で、ボストンでの黒人暴動を伝えている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=00791137&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

「暴動は容易に鎮定の見込なく更に二名の死亡者を出せり。知事は十一日陸海軍長官に向い州兵のみにては秩序維持に不足なるにより正規兵を直に派遣さるべき旨の電報を発せり。」
「ボストンの暴動以来十二日朝まで軍隊に打たれ死亡せし者七人に達せり。軍隊の警備あるに拘らず掠奪は到る処に行われ無政府状態は依然たり。」
「華盛頓(ワシントン)、市俄古(シカゴ)に於ける黒人暴動の時と同様無見識にて曩(さき)にシアトルに発生してウィンベッグに移りリヴァーノールに飛火し更にボストンに後戻りせる暴動は次には何処に伝染すべきか憂慮に堪えずと論じ居れるのみ。」
と書かれているが、このような黒人暴動が全米に次々に飛び火していったのだ。

パリ講和会議の後で暴動が起きたのはアメリカだけではなかった。ポール・ゴードン・ローレンの『国家と人種偏見』にはパリ講和会議の直後に世界各地で暴動などが起こったことが書かれている。
3月にエジプトで暴動が起こり、4月に起こったインドのパンジャブ地方で反乱では、イギリスの将軍が非武装のインド人群衆に発砲して死者400人、負傷者1000人が出たという。同じ月にパレスティナでも流血の惨事があり5月にはイギリスはアフガニスタンで戦争に突入し、トルコとは一触即発の状態となったという。

英米をはじめとする白人の帝国主義勢力は、それまで植民地で原住民を食い物にしてきた。
第一次大戦後に開かれたパリ講和会議で「民族自決」の要求と期待にどうこたえるかに世界の注目が集まったのだが、この会議で「民族自決」の原則を認めたのは東欧やバルカン半島などヨーロッパだけであり、期待を裏切られた有色人種たちはついに立ち上がったのだ。
この有色人種の怒りを抑え込むために、アメリカはわが国を仮想敵国とし、人種問題を焚き付けて全米を反日に染め上げ、中国には排日思想を植え付けてわが国が築いた中国大陸の商圏を奪い取り、黄色人種同士を反目させた上で、わが国に経済制裁まで仕掛けて挑発し、戦争に持ち込めれば徹底的に叩きのめして、白人優勢の世界を固守しようとしたのではなかったのか。

少なくとも太平洋戦争が終わるまでは、「人種戦争」という視点は当時の新聞記事の論説から容易に見出すことができるので、当時の論文や書籍でも同様な論調が多かったと思うのだが、戦後GHQがそのような視点で記述された書物を徹底的に焚書処分にし、事前検閲で占領軍批判につながる文章の掲載を禁止したことの影響が長らく続き、いまもこの「人種問題」という「戦勝国にとって都合の悪い史実」をテレビなどで解説されることはほとんど皆無ではないか。

しかしながら「人種戦争」の視点から20世紀の歴史を見直していくと、太平洋戦争の原因の全てがわが国にあるとする「戦勝国にとって都合の良い歴史」が、いかに浅薄で偏頗なものであることに誰でも気が付くことであろう。日本人が「自虐史観」の洗脳を解く鍵が、このあたりにあるのだと思う。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ







このエントリーをはてなブックマークに追加


関東大震災のあと日本支援に立ち上がった米国黒人たち~~米国排日6

レジナルド・カーニー氏の『20世紀の日本人』によると、米国黒人たちが自分たちと日本人を同一視する見方が一般的になったのは1920年代らしい。その当時西海岸において行われた調査で『フィラデルフィア・トリビューン』はこのように書いていた。
「黒人たちは、日本人を心から尊敬している。同じ『抑圧された民族』であるにもかかわらず、『自分たちのために、一生懸命努力する』日本人の態度は、見習うべきものである、と」(『20世紀の日本人』p.82)

アメリカ西海岸では白人と日本人と黒人が混在して居住していたのだが、概して黒人と日本人との関係は良好であったようだ。カーニー氏はこう記している。
「…白人のマジョリティーのなかにこれらふたつの人種が入り込み、そのうち徐々に、『白人と日本人、白人と黒人の意見の対立』が表面化していった。白人のなかには、日本人よりも黒人を好む者もいたし、またその逆もいた。しかし、白人たちの関心は、あくまで豪華できれいな家に住むことだった。つまり、彼らが気にしていたのは、黒人や日本人が近所に来ることによって、不動産の価値が下がることだった。かと思えば、黒人や日本人の流入を抵抗なく見守る、リベラルな白人もいた。
当時の日本人移民へのインタビューによると、白人は日本人を避ける傾向があったのに対し、黒人たちの反応は暖かいものだった。ある移民は、移り住む際に、あえて黒人の近所を選んだと語った。『黒人は白人に比べて、日本人への偏見が少ない。親切だし、一緒に住めることを喜んでくれさえもする』というのがその理由だった。」(同上書p.83)

黒人もまた日本人を暖かい存在だと感じていた。その理由をカーニー氏はこう書いている。
「…日本人は黒人の権利と尊厳を認め、平等に扱ってくれる。彼らはそう考えていたのだ。その証拠に、ロサンゼルスの日系病院の医師のうち、ふたりは黒人だった。そのことに触れて、『カリフォルニア・イーグル』紙は、次のように述べている。『ほとんどの病院が黒人に固く戸を閉ざしている昨今、日本の病院がどの人種にも、門戸を開放していることは本当に喜ばしい限りである。同じ人種の医者に診てもらうことの出来る安心を、患者は得ることが出来るのだから』。黒人を差別しない日本人というイメージは、黒人のメディアを通じて、またたく間に西海岸中にひろまった。そこには、黒人と結婚する日本人が取り上げられていた。白人がひどく嫌う黒人との人種混交を、日本人は受け入れている。このことは、日本人が人種平等を心から目指していることを示す、何よりの証拠だと黒人たちは考えた。」(同上書p.88-89)

関東大震災人形町

このように米西海岸では日本人移民と米国黒人との関係は良好であったようなのだが、その頃わが国に関東大震災が起こった。
大正12年(1923)9月1日に発生した相模湾の北部を震源地とするマグニチュード7.9の大地震は、東京、神奈川を中心に約10万5千人の死亡・行方不明者が出たことを以前このブログで2回に分けて書いたが、死者の9割近くは火災によるもので、東京、横浜の中心部がまるで大空襲でもあったかのように焼失し、津波による被害も大きかった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-23.html
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-24.html

この大地震のニュースは12時間後にはアメリカに伝わり、シカゴの白人政治家たちがわが国を救援するキャンペーンを始める記事が、黒人向けメディアの『シカゴ・ディフェンダー』紙の紙面を飾ったのだが、この記事に対する米国黒人の反応が非常に興味深いので、再びカーニー氏の文章をしばらく引用させていただく。

「…この記事を読んだある黒人の読者は、『アメリカの有色人種、つまりわれわれ黒人こそが、同じ有色人種の日本人を救えるのではないか』と主張した。それを受けて、同紙は即座に、黒人による日本人救済のキャンペーンを始めた。真っ先に100ドルの寄付を行なったのは、ジェシー・ビンガというビンガ州立銀行の頭取だった。ビンガは1921年に銀行の経営を始めた実業家であるが、以前から多くの不動産を持っていた。大震災の10か月ほど前、彼はアメリカの社会事情を学んでいた何人かの日本人留学生に会い、日本人がいかに一生懸命、人種平等のために努力を重ねているかを知り『痛く感激した』という経緯があった。このことが、逸早く多額な寄付につながったのは言うまでもなかった。『シカゴ・ディェンダー』紙は『黒人として何が出来るかを考えよう』と呼びかけた。『確かに、我々は貧しい。しかし、今、お金を出さなくていつ出すというのか』。同紙の熱心な呼びかけは、しだいに多くの黒人のあいだに浸透し、日本救済への機運は徐々に高まっていった。」(同上書p.83-84)

関東大震災 日本救済運動

海外から最終的に関東大震災の義捐金がどれだけ集まったかについては良くわからないのだが、全世界からかなりの義捐金が集まったようである。
当時の新聞記事を神戸大学付属図書館の新聞記事文庫から探すと、9月10日の大阪毎日新聞の記事が見つかった。ここには世界からの支援があったことに加えて、とりわけ排日活動が過激なサンフランシスコも日本支援に動いたことが書かれている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10070408&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

見出しには、「排日巨頭連も一様に日本支援の演説」とかかれ、こう解説されている。
「全米国各地は日本救済のため大運動中である。…ゴムバース、ジョンソン氏等の平素排日的論調を有する人々も皆一様に日本救助を演説している、全米各新聞は日毎に救助論を書いている、桑港(サンフランシスコ)赤十字社は五十万弗を送る筈で、その他の団体も送金の運動中である、ただ船腹がなくて品物の発送に困っている、桑港市長ロルフ氏は自分の船四隻を直ぐ出すことを発表した、米人側から子供や婦人が続々寄附に来て涙がこぼれる程である」

関東大震災 シカゴ市の日本救済運動

また次のサイトでは、アメリカ赤十字社に「日本救済事務所本部」が設置され、日本救済募金が2500万ドル(約5000万円:現在価値で600億円相当)が集まったと書かれ、シカゴ市で日本救済金を募集している人々の写真が紹介されている。このように人種に関係なく、わが国を助けようとする善良な人々が多かったこともまた事実なのだ。
http://www.blog.crn.or.jp/lab/06/21.html

しかしながら、この大震災における日本支援運動が米国の排日の流れを止めるきっかけにはならなかった。
地震からわずか3か月後に、帰化できない外国人のアメリカ入国を禁止する法案がアメリカの上下院に提出されている。この法案の内容は各国からの移民の上限を1890年の国勢調査時にアメリカに住んでいた各国出身者の2%以下にすることを目的とするもので、特にアジア出身者については全面的に移民を禁止する条項が設けられていた。
日本人のアメリカへの移民が増えだすのは以前にも書いた通り明治20年(1887)以降のことであり、この法律は実質的には日本人にターゲットを絞ってその移民を禁止するものであり、わが国では「排日移民法」と訳されている。
この法案は翌1924年4月に下院で、5月には上院で可決され、7月1日に施行されている。

何の自由平等ぞ

次に紹介するのはこの法案が下院を通過した直後の大阪毎日新聞の記事だ。
「…若し米国上院議員等が人種的僻見や一片の感情に囚はれていないとすれば、そして国家間の交渉に当り、これが埴原大使の所謂『常に公明正大という高遠なる原則の上に立脚せねばならぬもの』とすれば如何なる排日議員も、あの排日条項そのままに置く訳には行くまい。…
要は締盟国の或る国に差別的待遇を与えるか、与えないか、我等が今次の移民法案に反対するのは移民そのものの制限よりも何等移民と関係のない帰化不能の理由を以て特に日本移民を禁止する点にある。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10026392&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

少しわかりにくいので補足すると、関東大震災の1年前の1922年の11月にアメリカの大審院が「黄色人種は帰化不能外国人であり帰化権はない」という人種差別丸出しの判例を出している。それだけでも問題であるのだが、過去に帰化した日本人の権利まで剥奪ができるとし、第一次世界大戦にアメリカ軍の兵士として兵役に服し、復員後、帰化権を得てアメリカ市民になった500人以上の日本人も、その帰化権を剥奪されたのだ。
この「排日移民法」は、日本人は帰化が禁止されているので移民もできないという理屈なのだが、この法律は明らかに日本人を差別する法律であり、わが国が激怒したのも当然だと思う。

170px-Marcus_Garvey_1924-08-05.jpg

万国黒人地位改善協会を設立したマーカス・ガーベイは、アジアがアジア人でまとまることによってアフリカ人が本来のアフリカを取り戻すことが出来ると考えていた。関東大震災で大損害を受けたわが国に対して深く同情し、ガーベイと万国黒人地位改善協会で日本に対し500ドルの寄付を行なったのだが、関東大震災後に排日移民法が可決されて、ガーベイは日本とアメリカとの戦争を予期したという。

黒人の間でも日米開戦がささやかれはじめ、アメリカの黒人はもし開戦ともなれば、日本を無視すべきか、加勢すべきか、中立を守るべきかで議論がまき起こったことをカーニー氏が著書で書いている。
「『シカゴ・ディフェンダー』紙は、この黒人たちの迷いに、ある方向性を示した。同紙は、黒人の中には、日本の勝利を前提とした日米開戦を心待ちにしている者がいることに触れて、それは『堕落した夢』であると警告した。『たとえ日本に同情を寄せたとしても、身と心はアメリカに捧げなければならないのだ』。同紙はまた、現状を次のように見ていた。『白人のためなら…水の中にも潜らなければならない。たとえ溺れても、どこまでもついていかねばならないのだ』。最後に、同紙は次のように締めくくっている。アメリカの黒人たちはつねにこう答えるよう期待されている。『白人様がやれとおっしゃるのなら…』」。(同上書 p.86)

1863年のリンカーンの奴隷解放宣言でアメリカの黒人は白人と平等になったわけではなく、その後も人種差別が続いて貧困から解放されたわけでもなかった。
黒人たちは生活のために白人に仕え、兵士として戦場の最前線に送り込まれ、アメリカの白人社会を支える役割を担わされてきたのだが、貧困である限りアメリカ黒人たちは白人に逆らっては生きていけない悲しい存在であったのだ。
その貧しい黒人たちが、なぜわが国を愛したのか。なぜ、関東大震災の後にわが国を支援しようとしたのか。そしてわが国が関東大震災直後でまだまだ苦しんでいる時期に、なぜアメリカ議会で「排日移民法」提出され可決されたのか。
これらの史実は『人種問題』を抜きに理解することは困難である。黒人が自発的・献身的に日本を支援する動きは、白人にとっては脅威ではなかったのか。アメリカは、有色人種が白人社会を支える仕組みを崩壊させる可能性を秘めた動きを排除して、白人優位の社会を守ることを優先させたのではないのか。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ





このエントリーをはてなブックマークに追加


FC2カウンター
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。キーワードを含む全てのブログ記事のリストと、記事の最初の文章が表示されます。記事を探す場合は、カテゴリーで記事を追うよりも探しやすいです。
リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
最新記事
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
RSSリンクの表示
タグクラウド