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若草山の山焼き

奈良には何度か行ったが、今まで若草山の山焼きを見たことがなかった。遷都1300年の今年こそは見てみたいと思い、天気も良いので家内と二人で久しぶりに奈良に行ってきた。

ちょっと奈良を歩こうと思って近鉄奈良駅に2時頃と早目に着いて、ひがしむき商店街、もちいどの商店街を抜けて、奈良町界隈を歩き、世界遺産の元興寺から春日大社に向かう。春日大社の本殿を参拝後、4時ごろに水谷橋付近の「茶亭ゆうすい」というところで早目の夕食をとったが、ついでながらこのお店の「奈良茶めし」は素朴な味でとても気にいった。茶粥も有名なようで、また奈良に行くときは立ち寄りたい店だ。

この「茶坊ゆうすい」から20メートル程下ると、山焼きの松明が点火される場所があることをお店の従業員から聞き、早めに店を出て、松明点火場で陣取りをする。5時5分からこの場所で春日大社の聖火が点火される予定だが4時45分頃に着いた時にはまだ人は少なく、良い場所がキープできた。

5時過ぎに雅楽道楽―僧兵―奈良奉行所役人―法螺衆―興福寺―東大寺―春日大社の順に総勢30名の行列が点火場に到着。

若草山の山焼き 036

用意されていた小さな火床に聖火が点火されると、次第に炎は大きくなり、そして松明の点火がはじまる。

若草山の山焼き 044

松明の火の勢いが強くなると、行列は若草山に向かって進みだす。点火場にいた人たちも行列とともに若草山に進む。若草山のふもとにはすごい数の人が集まっていた。外国人もかなり来ている。

若草山の山焼き 049

5時半ごろ行列は若草山麓にある野上神社に到着し、そこに用意されていたかがり火に点火してから、山焼き行事の無事を祈願する祭礼が始まる。僧侶も山伏も柏手を打ち、玉串奉奠をするところがなんとなく面白い。続いて東大寺、興福寺による般若心経の読経がはじまり、かがり火から大きな松明に火が移されていく。

若草山の山焼き 054

松明の火が勢いを増すと、松明を先頭に行列は野上神社を出て、山麓中央に設けられた大かがり火に進み、そのかがり火に火をともすと、炎が次第に大きくなり周りの人々の顔を赤々と照らす。

6時頃になると、中腹から花火が次々と打ち上げられる。
6時15分ごろ、花火が終わるといつのまにか、消防団が大かがり火から松明に火を移して若草山の正面の何か所かに火を運んで待機していた。

若草山の山焼き 083

法螺貝の合図とともに、若草山に一斉に点火されると、あっという間に火は拡がり、しばらく火の美しさに引き込まれてしばらく動けなかった。火は見る人の心を一つにして時間を止める。なんとなく京都の大文字の送り火を思い出した。

ところで、この山焼きはどういう経緯でいつから始まったのか。

「若草山焼き2010ガイドブック」によると、若草山の「三重目の頂上は前方後円墳の巨大な鶯塚古墳で、江戸末期頃までは、この鶯塚はウシ墓と呼ばれ、ここからでる幽霊が人々をこわがらせるという迷信が長く続いていたらしく、しかもこの山を翌1月頃までに焼かねば、翌年に何か不祥事が起こるといったことで、通行する人が放火し東大寺境内の方に火が迫る事件が再三起こりました。」
「元文3年(1738)12月に、奈良奉行所は…放火停止の立札を、山の枯れ草が青芝になる正月から三月まで立てましたが、…その後も放火事件が起こり、結局その犯人は検挙されぬまま、誰が焼くともなく焼かれるようになりました。」
「それは山上古墳の鶯陵に葬る霊魂を鎮めるそまびとの祭礼ともいうべき供養のためでもありました。」
とあり、「山焼きは社寺の境界争いのためと一部伝わっていますが『俗説』です。」と、境界争い説を明確に否定している。

しかし、このガイドブックの説明で、今まで何百年もあいだ、奈良の奉行所と興福寺、東大寺、春日大社が、毎年人と資金を出して協力して山焼きを続けてきた理由として、どれだけの人が納得できているのだろうか。

少し気になったのでネットで調べると、2007年の秋までの奈良県のホームページでは「領地争いが元」と書かれていたらしく、それを春日大社や東大寺、興福寺が訂正要求を出したために奈良県が修正した経緯のようだ。ということは、それまでは若草山焼きの由来は領地争いと考えるのが通説だったということだ。
産経ニュース2007.12.5
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/071205/trd0712052153013-n1.htm

次のサイトを読むと、鎌倉時代の「南都年代記」という書物に建長7年(1255)、東大寺と興福寺との間で領地争いがあった記録などの紹介があり、それから以降も東大寺と、興福寺・春日大社との領地争いがあった物証があり、私は3社寺の間の領地争いが由来と考えることの方が自然だと考えますが、皆さんはどっちの説が正しいと思われますか。

「奈良歴史散歩No.047」
http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm050.html
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節分の不思議

子供の頃に家族と京都にある吉田神社の節分に行ったことがある。私の実家はお寺なのだが、節分の日は行事らしきものがなかったので、それ以来長い間、節分は神社の行事だと思っていた。
高校の時に、壬生寺などお寺で節分の行事を行うところがあることを知った。京都では壬生寺の他にも、六波羅蜜寺、廬山寺などのお寺で節分の行事がとりおこなわれている。一方、神社では、吉田神社、上賀茂神社、下鴨神社、伏見稲荷大社などでも節分の行事が行われている。
「節分」はなぜ、お寺でも神社でも行われているのか興味を覚えていろいろ調べたことがあったがその時はあまりよくわからなかったし、節分行事に神道とも仏教とも異質なものを感じた。

「節分」について、どこにでも書いてある内容は、
「節分」とは季節の変わり目のことで、正しくは立春・立夏・立秋・立冬の前日の4回あること。
各季節の終わりの18日間は「土用」と言われ、季節の変わり目で体調が不安定になりやすく、特に冬の時期は鬼門が開くと言われて、鬼が出没して人間界に悪さをすると考えられてきたこと。
これを封じるために、豆まきをして鬼を追い払い福を招く、あるいは鰯の頭を柊の枝にさして門戸に立てて邪気の侵入を防ぐというのだが、古代中国の「追儺(ついな)」といわれる厄祓いの行事が、日本に入って宮廷の越年行事として迎えられ、朝廷での追儺は陰陽師によって行われたということなどである。

古代中国では「鬼」が出てくることはないが、なぜ日本の行事では「鬼」が出てくるのか。なぜ「豆」が出てくるのか。なぜ、神社でもお寺でも行事が行われるのか。

中国の「五行説」によると季節と方角との関係が記されており、冬と春の間の「節分」は方角で言うと東北を指すそうだが、東北の方角は日本では「鬼門」と言われるので、鬼が出てきたという説もある。では、何故東北の方角を「鬼門」と呼ぶようになったのかがわからない。

また何故炒った豆を撒くことが、邪気を追い払うことにつながるのか。「豆」は「魔目」あるいは「魔滅」と解釈し、豆を持って鬼の目を潰し魔を滅するという説が有力だそうだが、どうもしっくりこない。何故年齢の数プラス1個の豆を食べるのかもよくわからない。

何故神社でもお寺でも行事が行われるのかについては、明治以前は、神社もお寺も神仏習合で境目がなかったと理解すれば少しは理解しやすい。旧暦で言えば、「節分」は「正月」と同じようなものだ。正月にお寺に初詣する人は神社ほどではないが、少なからずおられる。それと同じだと考えれば良いのではないか。

しかしながら、「鬼は外、福は内」などというのは、仏教の考え方とは何か違和感があるような気がする。仏教の考え方では、簡単に福が来るのではなく、それなりの努力をして福が来るとするのが普通ではないかと。

そんなことを考えて色々調べると、成田山新勝寺では「福は内」だけを唱えて、「鬼は外」を言わないらしい。東京の亀戸天神では逆に「鬼は外」しか言わないとのことである。雑司ケ谷の鬼子母神では「鬼は内、福は内」、奈良県吉野山の蔵王堂では「福は内、鬼も内」、京都福知山の大原神社では「鬼は内、福は外」と言うそうで、どういう経緯でそう唱えるかはよくわからないが、日本全国のお寺や神社でいろんな節分があるようである。
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東大寺二月堂のお水取り

例年3月1日から14日まで行われる東大寺の二月堂の「お水取り」だが、一回り大きい松明が欄干に並ぶ12日の「お松明」や最終日は毎年凄い人らしい。今年は平城遷都1300年に当たり、バスツアーでの観光客も多く例年以上の人出が予想されている。

修二会

「お水取り」は修二会(しゅにえ)と呼ばれ、天平勝宝4年(752)東大寺開山良弁(ろうべん)僧上の高弟、実忠和尚によってはじめられた春を迎える法会で、本尊の十一面観音の前で、11人の僧侶(練行衆)たちが、全ての人の罪を背負って懺悔をし、全ての人に代わって祈る法会である。

旧暦の二月はインドの正月にあたるので、仏への供養を行うと言われているが、外国には修二会はなく、本当の起源ははっきりしていない。仏教伝来以前からの作法がかなり色濃く残されているとも言われ、神仏習合の不思議な世界を見ることのできる行事である。 東大寺のHPなどに書かれてあるが、修二会は良弁僧上が始めて以来過去一度も途絶えることなく続けられ、今年は1259回目になるそうだ。

しかし、東大寺は過去堂宇が焼失した歴史が何度かある。また以前ブログに書いたように明治初期の東大寺は収入源の大半が断たれ、傷みのひどかった大仏殿を長い間修復できなかった経緯にある。また太平洋戦争の時は多くの僧侶が徴兵されて戦場に行ったり空襲を警戒して灯火管制も厳しかったはずである。

これだけ長い期間にわたって途絶えることなく続けるということには大変な苦労があったことは容易に想像がつく。

いろいろ調べていくと、最大の危機は治承5年の時だそうだ。東大寺は前年の治承4年(1180)の12月に平重衡の兵火によって大仏殿が焼け落ち、大仏も上半身を失い、講堂や僧房など東大寺伽藍の大部分が焼けたが、二月堂は類焼を免れた。この時は、東大寺当局は「寺が復興したらまたやればよい」として「お水取り」の中止を決定したのだが、練行衆達が「大事な法会を、寺を修理してから元に戻して何の甲斐があるか」と反対し、東大寺当局とは関わりなく有志15人でこの行事を行ったとの記録があるとのことだ。

永禄10年(1567)の三好・松永の兵乱によってまた伽藍の多くを失ったが、この時も二月堂は類焼を免れている。この兵乱で焼失した大仏殿が再建されるのは140年後とのことで、その間は大仏様は露座のまま座っていたということだそうだ。

寛文7年(1667)2月に二月堂は満行に近い2月13日早朝に失火で焼失(明治以前は旧暦の2月1日~14日に行われていた)、現存の二月堂は、寛永9年に再建されたとある。この時は三月堂で「お水取り」が行われた記録がのこっているとのことだ。(「二月堂修中練行日記」)

明治時代の廃仏毀釈の頃は僧侶も人数も減り東大寺の存立そのものが危ぶまれたのだが、修二会は規模を縮小して守られ続けたそうだ。今は連行衆11名が二週間勤めているが、この人数は廃仏毀釈以降のことで、江戸時代は26人の連行衆がいて前後半それぞれ13人ずつだったそうだ。

太平洋戦争の時は、修行中の練行衆に召集令状が来て人手が足りないことがあったが、別の宗派のお坊さんが練行衆に加わってなんとか乗り切ったそうである。

しかし僧侶だけが時代の節目節目で苦労したのではない。この修二会は良質の竹やヒノキ材や菜種油などが入手できなければ成り立たない行事である。

京都新聞の「ふるさと昔語り」によると、竹は山城地域の竹が使われ、奈良へ向かう街道を通る旅人らがリレー式に運ぶ「竹送り」の風習によって、山城地域から二月堂まで届けられていたそうである。

戦国時代の天正年間の文書を読むと、山城地域で二男、三男を東大寺の僧にする大農家があり、大農家にとっては家の名誉になり、東大寺にとっては金銭や物資の仕送りが期待できるという関係にあったそうだ。

また江戸初期には、村の有力農民らが共同で二月堂に物資を送る講が各地に作られたという。 民衆のこのような素朴な信仰心が、僧侶達のモチベーションを高めて、いかなる困難をも乗り越えて、この修二会を長い間継続させてきた原動力になったのではないだろうか。

山城地区の竹送りは風水害などが原因で戦後いったん途絶えたが、昭和53年に復活し、今も、山城松明講によって、京田辺市の竹林から切り出された7本の竹が、毎年二月堂に運ばれているそうだ。
「京都新聞 ふるさと昔語り」
http://kyoto-np.jp/info/sightseeing/mukasikatari/080208.html
「奈良日日新聞 竹送り700人が街道練る」
http://web1.kcn.jp/tsuzaka-silver-bbc/page221.htm
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端午の節句と「鯉のぼり」

もうすぐ端午の節句(5月5日)だ。子供の頃、4月の下旬にもなると、自宅近隣のあちこちの家で「鯉のぼり」が屋根の上を泳いでいた。

屋根より高い鯉のぼり

私の実家のお寺も、この時期は祖父や父が、何年も使ってきたであろう太くて長い竹を取り出して、毎年兄と私のために大きな「鯉のぼり」を毎日立ててくれたことを思い出す。

子供のためとはいえ、大きな鯉のぼりを毎朝立てて毎夕片づけることは簡単なことではなかったはずである。雨が降りだせばあわてて片づけなければならなかったので母も大変だったと思うが、近所の家のどこよりも大きく、どこよりも高く「鯉のぼり」が毎日泳いでいることが、子供の頃の私にとっては誇らしく思えた。

言葉をあまり使わないで、鯉のぼりや兜などで喜ばせながら子供をたくましく育てていく日本の伝統や風習の良さを感じて、最近になって端午の節句の由来を調べた時は驚いてしまった。

端午の節句は男子のお祭りとして相当古くから続く伝統行事だとばかり思っていたが、もともとは女の子のお祭りだったらしいのだ。

飯倉晴武氏の「日本人のしきたり」という本によると、「…田植えが始まる前に、早乙女と呼ばれる若い娘たちが、「五月忌み」といって、田の神のために仮小屋や神社などにこもってケガレを祓い清めていたのです。つまり、この日は、田の神に対する女性の厄払いの日だったのです(68p)」とある。

面白そうなので、ネットで「五月忌み」を調べると、結構詳しく書かれたサイトが見つかった。
http://www.bite-japan.com/kako/saijiki05-j.html

「稲作が生活の中心だった当時の日本では、田植えは1年の中で最も重要だと考えられていました。その頃、田植えを行うのは生命を産み出す女性の役目で、田植えが始まる前の晩には早乙女(さおとめ)と呼ばれる若い娘達が、仮小屋や神社などにこもって、田の神様(稲の神様)のために穢れ(けがれ)を祓い(はらい)、身を浄(きよ)めたと言われています。こうした儀式を「五月忌み(さつきいみ)」とか「忌みごもり(いみごもり)」と呼ぶんだそうです。

このような風習はおそらく、桜の咲く頃に山から里に降りて来た山の神様(田の神様、稲の神様)を、田植えを前に田んぼに招き入れるための儀式だったのではないでしょうか。その頃、山の神様は春になると里に降りて来て田の神様、あるいは稲の神様になり、秋になって田に実りをもたらした後、再び山に帰って山の神様になり、冬の間は山で過ごすと信じられていました。こうした田の神様(稲の神様、山の神様)の崇拝(すうはい)は、サ神(サガミ)信仰と呼ばれるものだと考えられています。…」とある。

「サ神信仰」とは原始宗教の山岳信仰のことでいわゆる「山の神」のことである。話が長くなるので、参考までに参考になるサイトを紹介しておこう。
http://blog.goo.ne.jp/hardsix/e/540040751aa668cc19ed07a4eb379a6d

女性の厄払いとしての端午の節句が男子の伝統行事になっていったのは平安時代の頃らしい。

平安時代には宮中では馬の上から矢を射たり、競べ馬などの勇壮な行事が行われていたが、端午の節句で厄除けに使われていた菖蒲(ショウブ)が、武事を尊ぶ「尚武」や「勝負」に通じることから、男の子が菖蒲を使って兜を作ったりして遊ぶようになって、女の子のお祭りであった五月忌みが男の子のお祭りになっていったそうである。

また、家の中に飾る五月人形は、元々は雛人形と同じように、穢れを移して川に流すための紙人形であったが、江戸時代に武士たちの間で鎧や兜などの武具を飾り立てるのがひろがり、また「鯉のぼり」は江戸時代の中頃には登場していたようで、家の中に五月人形を飾り、外には鯉のぼりを飾る風習が武士階級だけではなく商人たちの間にも次第に広まっていったそうだ。

では何故「鯉のぼり」を立てるようになったのか。中国の「龍門を登って鯉が龍になった」という登竜門の故事にあやかって、子供の出世を願うために鯉のぼりをたてるようになったのが全国に広まっていったということらしい。

鯉のぼり

上の絵は歌川広重による名所江戸百景の「水道橋駿河台」であるが、江戸時代の鯉のぼりは黒一色だったようだ。明治時代になって緋鯉と対に掲げられるようになり、子鯉も一緒に掲げられるのは昭和になってからだそうだ。

最近では、この時期に鯉のぼりを見ることが随分少なくなった。今日、通勤途上で「鯉のぼり」を探してみたのだが、マンションのベランダに立てかけられた小さいものをひとつ見つけただけだった。

大きな家が減り、核家族になって若い世代がマンションや団地に住み、少子化が進んでいるうえに共稼ぎの世帯が増えれば仕方のないことかも知れないが、私の場合は鯉のぼりを通じて親の愛情を感じ、雄々しく泳ぐ鯉のぼりを見て感じるものがあったような気がする。

親ならば誰しもわが子が健康でたくましく育ち、将来は大きく出世してほしいことを願う。しかしそのことを言葉で何遍言っても子供が育つものでもなく、親の気持ちが伝わるものでもない。ましてお金を子供に与えたのではそのような大事なものはますます伝わらなくなるのではないか。子供に与えるべきものは大きな希望であり夢であり智恵であって、断じてお金ではない。

言葉では伝えにくいものをさりげなく小さい子供に伝えていくヒントが、日本の伝統行事や風習の中に沢山ちりばめられているような気がするのだが、戦後になってこのようなものを切り捨て過ぎてはいないだろうか。

以前にも書いたが、長い年月をかけた成功体験の蓄積により培われた日本の伝統や風習を、もう少し振り返るべき時期が来ていると思う。

祖谷渓・こんぴら 025

家庭では鯉のぼりを使わなくなって、このように観光地などで活用されている。活用されることは悪いことではないが、このような田舎の地で鯉のぼりを屋根より高く泳がすことのできる場所であるならば、親の心と幼い子供の心とをつなぐものを家庭に残して、次の世代のために引き継いでいってほしいものだ。
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七夕の由来

いよいよ明日は七夕の日だ。

七夕飾り

子供の頃に五色の短冊に願い事を一生懸命書いたが、折角作った短冊が何度か雨で濡れてしまい、楽しみにしていた星空を見ることができなかった記憶が何度かある。よくよく考えると、七夕の日に梅雨が明けていることは考えにくく、この日に雨がよく降って星空の見える日が少ないのは当然のことである。

しかし仙台では8月6~8日に七夕祭りがある。仙台に限らず北海道や関東では1カ月遅れで七夕を祝う地域が多いようだ。なぜ同じ行事を異なる時期に行う地域があるのだろうか。

450px-SendaiTanabata1.jpg

それは、我が国が明治6年に太陰暦から太陽暦に切り替えられた際に、この行事を新暦で行うか旧暦のその日に近い日を選んで行うか、地域によって分かれたということがその理由のようだ。

七夕についていろいろ調べていくと、明治政府が面白い布告を出している。
ちょうど太陰暦から太陽暦に変わった明治六年の1月4日の太政官布告で
「今般改暦ニ付人日上巳端午七夕重陽ノ五節ヲ廃シ神武天皇即位日天長節ノ両日ヲ以テ自今祝日ト被定候事」と七夕を廃止して神武天皇即位日と天長節(天皇誕生日:11月3日)を祝日とすると記されている。

「五節」とは「五節句」のことで、人日(じんじつ:1月7日)、上巳(じょうし:3月3日)、端午(たんご:5月5日)、七夕(たなばた:7月7日)、重陽(ちょうよう:9月9日)を指すが、毎年これらの日は季節の節目として、古くは朝廷にて「節会(せちえ)」と呼ばれる行事が行われ、江戸時代には幕府が公的な行事・祝日と定めていたのだが、これを明治六年の太陽暦導入とともに廃止したということである。

公式行事や祝日として七夕はなくなってしまったが、もともと民衆の間に根付いたものはそう簡単にはなくならず、この時期に新暦の7月7日で行うこととした地域と、旧暦の7月7日に近づけるために1か月遅れで実施する地域とに分かれたということなのだ。

ところで「七夕」は俳句では秋の季語であるのだが、このことは旧暦を知らなければまず理解できない。
旧暦の7月7日は太陽暦の8月半ばに相当し、立秋を過ぎている時期になることを知ってはじめて秋の季語であることが腑に落ちる話だ。(ちなみに、今年の「旧暦の7月7日」は8月16日。太陰暦では七夕の日は毎年上弦の月となる)

太陽暦しか知らない我々には、旧暦を使っていた時代の俳句や和歌の季節や情景を誤って理解してしまっていることが少なくない。
たとえば松尾芭蕉の有名な「五月雨を集めて早し最上川」は、旧暦の五月は梅雨の時期であることを理解しないと、芭蕉の伝えようとした情景が伝わらないのではないか。「五月晴れ」という言葉も、今は快晴イメージが強いが、旧暦では梅雨の晴れ間を意味する言葉なのだ。

太陽暦の採用は、日本の伝統行事に様々な影響を与えたことは想像に難くない。あまり知られていないが、「お盆」は、明治5年までは太陰暦の7月15日が「お盆」だったようだ。ということは、七夕とお盆とはわずか8日間の違いしかないことに気付く。
太陰暦の時代では、七夕が終わればすぐにお盆という感覚であったはずなのだが、こんなことは調べて初めてわかる話だ。Wikipediaでは、太陰暦の時代は、七夕はお盆の行事の一環であったと書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E7%9B%86
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%A4%95

「七夕」は「棚幡」とも書くが、そもそも七夕の日の夕方には故人をお迎えするための精霊棚とその棚に安置する幡を拵えることから、「棚幡」がいつしか「七夕」に転じたとも言われる。またお盆の間に、僧侶に読経してもらい報恩することを「棚経参り」というが、これは精霊棚で読むお経が転じて棚経というようになったそうだ。

しかしながらこの「七夕」の説明は、現代人の知る「七夕」とは内容が違いすぎる。織姫と彦星の七夕伝説や五色の短冊に願い事を書くのとどう結びつくのか。

ネットでいろんな人が解説している内容をまとめると、七夕伝説は日本に古くから伝わる棚織津女(たなばたつめ)の物語と、中国の牽牛星と織女星の伝説が合わさってできたと考えられる。
日本の棚織津女(たなばたつめ)の物語とは、村の災厄を除いてもらうために、棚織津女が機屋(はたや)にこもって、天から降りてくる神の一夜妻になるという巫女の話。
中国の伝説は、夫婦であった牽牛と織女が天帝の機嫌を損ねて、天の川をはさんで引き離されてしまい、一年に一度だけ天の川にかかる橋で会うことを許されたという話である。

この機織りに秀でた織女にあやかり、織女星に機織りや技芸の上達を願い、庭に祭壇を設け、糸や針、布などを備えた「乞巧奠(きっこうてん)」という行事が奈良時代に中国から伝えられたらしく、この行事に用いられたと思われる大きな針が、正倉院の宝物に残されているそうだ。また万葉集にも山上憶良をはじめ七夕を歌った歌が132首もあり、その頃はすでに七夕伝説は一般に知られていたことは明らかである。

京都の冷泉家では今なお王朝の名残をとどめる七夕行事が行われておりその写真が次のURLで紹介されているが、今の七夕行事とは随分異なることがわかる。
http://www.iz2.or.jp/rokushiki/7.html

冷泉家七夕行事

写真は冷泉家が毎年旧暦7月7日に庭に設ける「星の座」である。笹は使うようだが、五色の短冊で飾るのではなさそうだ。

このような宮中の行事であったものが、一般庶民に広がっていくのは江戸時代の半ばごろと言われている。織物などの手習い事に長けていた織姫にあやかろういうことで、手習いごとの願掛けとして広がっていったそうだが、このような風習は日本だけのものだそうだ。その頃に、バレンタインデーにチョコレートを贈る習慣を仕掛けるような知恵物が日本にいたのだろう。

江戸百景七夕祭

上の絵は安藤広重の「名所江戸百景」にある「市中繁栄七夕祭」である。制作年代は安政3~5年(1856~1858)で、幕末に近い頃の江戸の風景であるが、当時の七夕飾りは随分大きい竹を使っていたことに驚いてしまう。願いが天まで届けと、どこの家も大きなものを用意したのであろうか。

子供の頃に五色の短冊にいくつもの願い事を書いたことを覚えているが、自分なりに一生懸命綺麗な字を書こうとしたし、友達に笑われないよう、願い事に何を書くかもそれなりに考えたと思う。七夕の伝統を「非科学的な話」と切り捨てるのは簡単だが、子供が本気になって綺麗な字を書こう、自分の夢を書こうとする機会をなくしてしまうにはもったいない話である。こういうおおらかな行事を失ってしまえば、子供にとっては幼いころからギスギスした競争社会ばかりになってしまう。

残念ながら、大気汚染や夜の照明で、天の川どころか星も見えない空になってしまった。ミシンやパソコンや電卓などの普及で、「習い事」の多くが消えてしまった。住宅地から自然が消えて笹や竹が手に入りにくくなり、学校の近くにあった文房具屋の多くが廃業して、子供が「色紙」を買うのも簡単ではなくなった。
いずれは衰えていく運命にある風習なのかもしれないが、子供のために、長く残していきたいと思う。
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大文字山の送り火のこと

いよいよ8月16日は大文字山(如意が岳)の送り火のある日だ。もっとも他にも「妙法」「舟形」「左大文字」「鳥居」も次々と点火されるのだが、五山の送り火で最初に点火される「大文字」のスケールが最も大きく、圧倒的に存在感がある。

大文字の送り火

大文字山は実家から近かったので愛着があり、子供の時に何度登ったかわからない。また送り火もいろんな場所で見てきたが、一番思い出に残っているのは小学校と中学校の時に大文字山の上に登って、送り火の炎を間近に見たときのことだ。

この場所こそが送り火の最高の鑑賞スポットだと今も思うのだが、さすがに観光客が増えすぎて危険なために年々入山制限が強化され、特に今年はカシノナガキクイムシによる虫害でナラの木の立ち枯れが火床の近くでも起こっており、火の粉が飛んで山林火災を招いては大変なことになるので、大文字保存会では松の割木の束を2割程度減らしたうえで、見物客の登山を全面禁止とするそうだ。
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/kyoto/100813/kyt1008130223003-n1.htm
今回は子供の頃を思い出しながら、大文字山の送り火を山の上で見た時のことを書こう。

「大」の字は三画だが、一画目の「一」の字だけで長さが95mあり火床が18ある(「一文字[いちもんじ]」という)。
二画目はてっぺんの「字頭[じがしら]」から一画目と交わる部分(「金尾」)までで51mあり9床。一画目と交わったのちに100mで20床(「北の流れ」)。
三画目は133mで27床ある(「南の流れ」)。これらの75の火床を浄土寺地区に住む家が毎年輪番で護摩木を運び火床に点火するのだ。

8時が近づくと京都の街のネオンが一つひとつ消えていき、山は暗闇に包まれる。

最初に大きな松明に火がともされる。

そして一人の男性がその松明を振り回しながら大声で「一文字よいかあー 字頭よいかあー 北の流れよいかあー 南の流れよいかあー」と合図され、法螺貝の音が鳴り響くなか一斉に火床に火がともされる。

読経の声が流れて、炎は次第に勢いを増して音を立てて燃え上がり、あたりが急に明るくなって人々の顔を赤々と照らす。

火床により積む護摩木の束数が定められており、書道で「大」の字を書く場合に筆圧が高い部分は束数も多めになっている。「字頭」は20束、「金尾」は30束と決まっていたのだが、今年は薪を減らすそうなので何束になるのだろうか。下の写真は比較的大きな火床のものである。

大文字の炎1

もっとも大きな「金尾」の炎の高さは最大で5mくらいにはなったように記憶しているが、これくらいの大きさの火になると、火がちぎれる様に飛ぶことがよくある。風が強ければ風向き次第で枯れ木や枯れ草に火が移ることは充分ありうる話だ。

大文字保存会が今年発表した入山禁止は、枯木の多い今年は適切な措置だと思う。京都市内では送り火が見られる場所はいくらでもあるので、今年は船岡山や将軍塚、吉田山、出町柳などで見られることをお勧めしたい。

photo-0815daimonji01.jpg

ところで、大文字の送り火はいつ頃から始まったのだろうと思っていつものように調べてみた。

京都の伝統行事は1000年以上続いているものがいくつもあるのだが、大文字山の送り火については文献で確認できるのは思ったよりも古くなく、公家の舟橋秀腎の日記「慶長目件録」の慶長八年(1603年)の7月16日のところに「鴨川に出て山々の送り火を見物した」と記されているのが最初らしいと知って驚いた。また残念なことに、この日記には大文字の送り火の由来については何も書かれていないそうだ。

大文字の送り火の伝統を代々承継してきた浄土寺地区の人々が信じているのは、弘法大師この行事を始めたという説で、平安時代に京都で伝染病が流行ったり飢饉があって人々が苦しんだ時、弘法大師に「如意が岳に、大という字をかたどり火をともせば、人々を苦しみから救える」という仏様からのお告げがあって、お告げの通りに大の字をかたどって火をともしたというものである。

弘法大師

しかし、そんなに古くからあったのであれば、平安期や室町期の書物に書かれていてもおかしくないのだが、そのような書物や絵は存在していないそうだ。

他に、足利義政が始めたという説もあり、江戸時代前期に記された『菟芸泥赴』などの史料によると相国寺の僧で足利義政とも交流の深かった横川景三(おうせんけいさん)が大の字型を定めたという記述があるそうだ。確かに、如意が岳の大の字が旧室町幕府跡に向いており、足利家とゆかりのある銀閣寺が大文字山の麓にあることも関係がありそうにみえる。

また、安土桃山時代の公家・近衛信尹(このえのぶただ1565-1614)がはじめたという説もある。このことは寛文二年(1662)の書物である「案内者」という書物に書かれているらしいが、江戸時代においても、この送り火の由来については諸説に分かれていたことがわかる。

地元の浄土寺地区の旧家に残されている古文書は、この地区が嘉永六年(1853)一月の大火事で全焼したため、この年よりも古い記録がないそうである。

しかし、浄土寺地区の史料を焼失する前に、江戸時代には旅行案内の様な書物がいくつか世に出ている。たとえば安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」という本には、大文字の送り火のことが書かれている。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7/km_01_229_f.html

都名所図会大文字山

しばらく引用すると、

「毎年七月十六日の夕暮、大文字の送り火は銀閣寺の後山如意が嶽にあり。昔此麓に浄土寺といふ天台の伽藍あり。本尊阿弥陀は一とせ回禄の時、此峯に飛去り光明を放ち給ふ。これを慕ふて本尊を元の地へ安置し、夫より盂蘭盆会に光明のかたちを作り、火をともしける。其後弘法大師大文字にあらため給ふ。星霜累りて文字の跡も圧しなば、東山殿相国寺の横川和尚に命ぜられ、元のごとく作らしめ給ふ。大の字初画の一点長さ九十二間ありといふ。…」
と弘法大師と横川景三の名前が出てくる。

大文字火床

上の画像は大文字山の送り火の際に薪を置く火床で、場所によって薪を積む量が定められている。この火床の位置と火の大きさとバランスが、「大」の字を美しく見せるために重要であることは言うまでもない。

昔はコンクリートの様なものがなく、火床を固定することができなかったから年々火床の位置が微妙にズレて字が崩れていくことが容易に考えられる。いろんな人が、「大」の字のバランスを何度か再調整したことは充分考えられることではないか。「都名所図会」の解説文の通り、「大」の字型に関わった人が複数いることはおかしいことではないと思っている。

全国にこの大文字山を真似た山がいくつかあるのだが、私が他の地方で今まで見たのは昔のワープロの字の様な味気ないものばかりであった。人間が書く場合の筆圧まで考えて、火床の間隔から大きさまで充分バランスを整わせて人間の字に近づけたのは、京都の大文字山(如意が岳)の「大」をおいて他にはないのではないか。

また「都名所図会」の文章では7月16日とあるが、旧暦のお盆は7月15日で、13日の夕方に「迎え火」を焚いて祖先の霊を迎えたり、16日の夕方に「送り火」を焚いたりして祖先の霊を送るならわしが古くから各地で行われていた。それが明治になって太陽暦が採用されて日付が1ヶ月ずれ、「送り火」の代表的な行事である大文字山の送り火も旧暦の7月16日から新暦の8月16日におこなわれることに変更された経緯にある。

この「大文字山の送り火」のことを「大文字焼き」と呼ぶ人がいるが、京都人はこの呼び方を好まないと思う。京都人にとっては先祖の霊を迎え、先祖の墓をお参りし、最後に山の送り火で先祖の霊を送ってお盆が終わるのである。ただ山に火を点けるのではなく、あくまでも宗教行事であるからこそ、あれだけ観光客が集まるのにお祭りではないので露店がでることもないのである。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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