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GHQが日本人に封印した歴史を読む~~イギリスとインド・中国

前回の記事で、GHQ焚書である菊池寛の『大衆明治史』に書かれている文章を紹介した。
今回は、GHQが終戦直後から実施した検閲に引っかかって、抹消された文章を紹介しよう。

アメリカのメリーランド大学にあるマッケルディン図書館に、プランゲ文庫といってGHQ検閲官が検閲したゲラ原稿の資料が持ち帰られて保存され、マイクロフィルム化されて誰でも自由に閲覧ができるようになっているそうだ。このプランゲ文庫を5年間にわたり調査して、日本の歴史がいかにGHQによって歪められたかを紹介した本がある。

抹殺された大東亜戦争

『抹殺された大東亜戦争~~米軍占領下の検閲が歪めたもの』(勝岡寛次著:明成社)という本がこれから紹介する本なのだが、プランゲ文庫を引用する場合は検閲官が当初の論文のどの部分を削除したかがわかるようにして近世以降の日本史を纏めておられる。この本と他の本を対比すると、占領軍がどんな歴史を日本人の頭に叩き込みたかったが誰でもおおよそ見当がつく。

GHQの検閲

私もこの本を読むまでは、スペインは中南米でインディオを大量に虐殺してひどいことをしたが、イギリスやアメリカは比較的うまく植民地を統治したと思っていた。しかし、実態はイギリスもアメリカもスペインと似たり寄ったりである。
わが国に近いアジアの歴史を調べてみると、インドや中国で起こったこともかなり悲惨な状態であったのだが、そのことを戦後のわが国にどれだけ知らされているのだろうか。

ラス・ビハリ・ボース

勝岡氏はこう書いている。
「西欧の植民地化により、最も悲惨な状態に貶められたアジアの国はどこだろうか。それはインドである。『かって世界最富の国であった印度で人々は今日骨と皮のみの生活を送っている』という悲痛な叫びに始まる、インド独立の志士ラス・ビハリ・ボースの書『インドは叫ぶ』を一読すれば、このことがはっきりわかる。
 インドはイギリスの統治下に入るや、それまでに経験したことのないような大飢饉に見舞われる。1770年のベンガル大飢饉が最初であった。この時の死者1千万人。次いで19世紀前半に死者140万人、19世紀後半には死者2千万人、20世紀初頭には1千万人がやはり大飢饉によって死亡する。而してこれがイギリスのインド植民地統治に由来するものであることは、イギリス人自身が認めることであった。
 …
 『英国侵入前の方がインド人は富み栄えていたのである。1750年頃までインドの村落には必ず学校があり、人口の6割は読み書きができたのである。然るに今日9割すなわち3億2千万が文盲であって、過去150年間読み書きなしえたものの総数は2260万にすぎない。かかる英国が果たしてインドを統治するに適するであろうか。(チャールス・ラッセル)』」(『抹殺された大東亜戦争』p.92-93)

一方、市販されている高校用の教科書『もう一度読む山川世界史』では、1757年のプラッシーの戦いで、イギリス東インド会社がベンガル地方政権とフランスの連合軍に勝利して、インド侵略の足場を固めた。当時はムガル帝国の衰退期で、イギリスは内陸部に容易に進出できたことに続けてこう書いている。

「イギリスの支配は、インド社会を大きく変えた。安い機械織り綿布の輸入によってインドの古くからの木綿工業は大打撃をうけ、また綿花・藍・アヘン・ジュートなどの輸出用作物の栽培、商品経済の浸透、あたらしい地税制度の採用などにより、伝統的な村落社会が崩れた。一方、植民地支配を行うため資源開発や交通網・通信網の整備がなされ、イギリス流の司法・教育制度が導入された。思想面では、カースト制の否定や女性地位改善などのヒンドゥー教近代化運動がおこった。」(『もう一度読む山川世界史』p.187-188)

ラス・ビハリ・ボースや英国人チャールス・ラッセルの文章と同じ時代のことを書いているにもかかわらず、あまりにもギャップがあると誰しも思う事だろう。
次の勝岡氏の記述を読めば、おおよその背景を理解することができる。

「…(プラッシーの戦いで)インド全域における覇権を確立した。しかし、イギリスにとって、インドとの貿易は当初は割の合わぬものであった。インド産綿織物に対するイギリス国内需要は着実に増大しつつあったのに対し、イギリス産の毛織物はインド国内や支那ではさっぱり不評で捌けなかった。支那産の茶もイギリス人の日常必需品に成長し、需要は激増したが見返りの商品をイギリス側は欠いていた。この結果、大量の銀がイギリスから支那へと流出し、イギリス側を慌てさせたのである。
 だが、この問題はこうして解決された。東インド会社は1765年にベンガル地方の徴税権を獲得し、それまで3割であった地租を、6割から8割にも引き上げ、茶の購入資金に流用したのである。…
イギリス東インド会社は、こうして単なる貿易会社からインド人を搾取する権力機構へと、その性格を一変させた。だが、これではインド人は食べていけるわけがない。餓死者1千万人を出したインド史上初のベンガル大飢饉(1770)はこうして発生したのである。」(『抹殺された大東亜戦争』 p.94-95)

『もう一度読む山川世界史』の記述では、誰もイギリスが酷いことをしたようには読めず、むしろ高度な文明をインドに齎したかのような印象を受ける。
山川世界史の「あたらしい地税制度の採用」などという記述を読んで、地租が倍以上に跳ね上がった事実を想像する人は皆無だと思うし、また「イギリス流の教育制度が導入され」たという記述で、文字が読める人口の比率が6割から1割に激減した事実を、誰が読み取れようか。「イギリス流の教育制度」といっても、大多数のインド人は文盲のままで放置されていたのだ。これではインド人は、ほとんど奴隷のようなものではなかったか。今の教科書に書かれていることは綺麗ごとばかりで、これでは本当に何があったかが見えて来ない。

防衛省OBの太田述正氏のブログを読むと、イギリス統治下になってからインドが凋落したことが、数字の変化を読むことでよく理解できる。
http://blog.ohtan.net/archives/51006404.html
http://blog.ohtan.net/archives/51007300.html

「1700年の時点を振り返ってみれば、支那とインドは併せて世界のGDPの47%を占めていたと推計される一方で、西欧(含むブリテン諸島)の推計値は26%に過ぎなかったのです。
 1870年には支那とインドを併せたGDPの世界のGDPに占めるシェアは29%にまで落ち込み、その一方で西欧(含む英国)シェアは42%へと上昇した」
「1757年には、英東インド会社が報告書の中でベンガル地方のムルシダバードについて、『この都市はロンドンのように広くて人口が多くて豊かだ』と記したというのに、1911年にはボンベイの全住民の69%が一部屋暮らしを余儀なくされるようになっていました。(同じ時期のロンドンでは6%。)1931年には74%にまでこの比率が高まっています。インド亜大陸の他の大都市も皆同じようなものでした。」
東インド会社の搾取と自然災害によって、ベンガルで1770年に大飢饉が起きるのですが、その際、同会社が減税どころか増税を行い、穀物の放出どころか強制買いだめを行ったため、前述したように120万人もの死者が出たのです。やがて、東インド会社は、イギリスの大土地所有制に倣って、支配下の地域に大土地所有制(ザミンダール(zamindar)制)を導入し、大土地所有者を東インド会社の藩塀としました。この過程で、2000万人にのぼる小土地所有者達が所有権を奪われ、路頭に迷うことになったのです。」とある。

ベンガル大飢饉の死者の数が随分違うのが気になるが太田氏は公式発表の数字を用いたのだろう。いずれにしても、インドにおいてはイギリスの植民地となってからはイギリスに富を奪われているだけで、まるで歴史が逆行しているかのようだ。

ここまででも随分ひどい話なのだが、東インド会社は更にひどいことを始めるに至る。
インドで強制栽培させた大量のアヘンを銀塊の代わりにインドから中国に運ぶことを思いつき、18世紀末にはたちまちのうちにアヘンが中国全土に広まり、夥しい数のアヘン中毒患者を生み出した。

opium20war.jpg

清は1757年以降貿易を広東港一港に絞るなどの制限を加えたが効果なく1839年に林則徐を広東に派遣して密輸アヘンを没収し処分させた。林則徐はアヘンを清国に持ち込まない旨の誓約書を提出しないイギリスとの貿易を拒否したため、イギリスは海軍を派遣しアヘン戦争が勃発する 。
戦争はイギリスの勝利に終わり、清は1842年の南京条約によって香港を割譲、上海・寧波・福州・厦門・広東の5港開港を余儀なくされてしまう。

勝岡氏は前掲書で、GHQにより抹消された阿片戦争に関する次の論文の記述を紹介している。この論文は『国際法外交雑誌』昭和21年5月号に掲載予定であった植田捷雄『南京条約の研究』のゲラ原稿の一部だが、紹介箇所は検閲官により全文抹消されている。

阿片戦争2

「併し、本来アヘン貿易の杜絶を恐れるの餘り英国が支那に挑んで戦いを開いたのが阿片戦争であることは既に論決した通りである…。唯、流石の英国も阿片といふ有害物を支那に強要するために開いた戦争であるとは公然に主張し得なかったと見え、パーマストーンは清国宰相に宛てた書簡に於いて林則徐の処置を以て『国際法に違背し、英国官吏が当然に受くべき尊敬を無視した』不法監禁なりとし、(中略)英国政府は焼棄せられたる英国商人の阿片に対する賠償を支那政府より要求するなりとしている。併し、林の処置が支那の禁令を破って密輸入された阿片の提供を要求し、英国商人がこれに従わざりしためその反省を促す目的を以て行なわれた監禁であることも既に述べたところである。…。故にこれを以て不法監禁なりとなすことはあたらない。(中略)」(『抹殺された大東亜戦争』 p.96)

またこの論文のゲラ原稿で、南京条約による香港の領有に関する記述についても、全文抹消されている。

「英国人は常に英国がかかる香港の領有によって支那に於ける領土侵略の先鞭を着けたといはれることを嫌ひ、彼らはこれに対する反駁の語として必ず英国の終始変わらざる政策は香港を通じて通商上の利益を擁護し発展せしむるに在りといふのである。…併し、これ等の言は…必ずしも香港領有の真相を語れるものとは考へられない。…。ボッチンヂャーは本国の命令を堅持して勇敢に武力弾圧の政策を行ひ遂に南京条約を通じて香港を明白成る海軍根拠地たらしめ、施政の方針は完全なる植民地を目標とするものとなった。南京条約後、香港が正式に皇領植民地に編入せられたのは即ちこれがためである。」(同上p.96-97)

マッカーサー

こんな論文がGHQの検閲により抹消されているのだが、その理由は「英国批判(critical of Britain)」と記されているのだそうだ。
書かれていることが史実であっても、こんなレベルの表現までが日本人に読ませないために検閲で抹消の対象とされていたことを知るべきだと思う。
前回の記事に紹介したが、GHQの検閲基準は次のURLに書かれている。この基準を読めば、当時のわが国においては戦勝国に対する批判が不可能だったことが誰でもわかる。
http://www.tanken.com/kenetu.html

果たして真の文明はキリスト教を奉じる国にあったのか、それともその武力の前に支配されたアジアの国にあったのかという問いは、今なお検討に値する問題であるのだが、シカゴにおける万国宗教大会席上でインド代表が述べた演説の邦訳を『理想日本』という雑誌(昭和22年6月)に掲載予定のゲラ原稿も、GHQが全文削除している。

「諸君は我々の国に宣教師を送り来り、諸君の宗教を傳へる。我々は諸君の宗教の価値を否定する者ではない。然しながら、最近二世紀の間諸君が為す所を見るに、それは、諸君の信仰が要求する所のものと、明らかに反してゐる。諸君の実際行動を指導するものは、諸君の信仰する神の遺誡たる正義と愛の精神ではなくて、貪婪と暴力の精神である。斯くして我々は、次の判断を下すことを余儀なくされる。即ち、或は諸君の宗教は、その内面的優秀性にも拘らず、実現できないものであり、…或は諸君が余りに劣悪であるがため、実行し得ること又実行せねばならないことを実行しないのか、二者其一(ふたつにひとつ)である。何れの場合に於いても、諸君は我々と比べて、何らの優越を持たない。」

インドがイギリスから独立したのは、1947年の8月だ。まだイギリスの植民地であったインドの代表が公の場でこのような演説をしたことに驚くのだが、これはインド人にとっては宗主国のイギリスの方が野蛮国であったと発言しているようなものだ。

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GHQによる事前検閲は昭和20年(1945)9月からはじまり、ピークは8000人の検閲官が存在して、新聞や雑誌からこれから出版される本や論文の原稿、私信に至るまでを徹底的に検閲し、プレスコードにかかる記述を削除させていた。
事前検閲は昭和23年(1948)7月までに廃止され事後検閲となり、事後検閲に関しても新聞、ラジオの昭和24年(1949)10月をもって廃止されたことになっている。

昭和22年(1947)5月3日に公布された日本国憲法第21条には
「1.集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2.検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」
とあるのだが、検閲制度が廃止されるまでの2年半はGHQは堂々と憲法を破り、検閲者も憲法違反の仕事にともに従事していたことになる。

しかし検閲が廃止されたからと言っても、わが国の言論が自由になったわけでもなさそうだ。歴史的事実でありながら日本人に知らされないことが今も多すぎはしないか。
検閲制度は実態的にはその後も続き、今も外国勢力などによって維持されているのではないだろうかと思うことがよくある。
次のURLで、大手マスコミで報道されない事件などのリストがでているが、このリストを見てなぜこういうことが今も続くのかを是非考えて頂きたいと思う。GHQの検閲基準は検閲者がいなくなった今も、外圧を避けるための組織内の自己検閲やスポンサーなどの圧力によって実質的には部分的に機能しているのではないか。
http://blog.livedoor.jp/waninoosewa/archives/975894.html

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次のURLで、自らが検閲官であったことを自著『鎮魂の花火輝け隅田川』『ああ青春』で公表した横山陽子さんの対談(『諸君』平成16年1月号)が読めるが、彼女の父が現金で500円しか現金で給料がもらえなかった時代に18歳の時の横山さんの最初の月給が450円で、上級になったときは家族が養えるくらいの3000円をもらい、昭和23年に結婚して仕事を辞めるころには8000円も貰っていたし、辞めてからも差額を3か月頂いたというのは驚きだ。
ちなみに、横山さんが通った日本女子大の授業料は昭和21年で年間300円、その後インフレで3000円になったというのだが、それでも検閲官の待遇が良かったかがよくわかる。
http://nishimura.trycomp.net/works/010-2.html

他に、英文学者の甲斐弦氏が書いた『GHQ検閲官』という本がある。この本もご自身の検閲官の体験を綴ったもので、日本軍の行動を賛美したものも非難したものもいけない、マッカーサーを賛美したものも罵ったものもいけない、占領軍を歓迎したものも批判したものもいけないというように、そのような話題を書くこと自体が手紙などの検閲の対象とされていたというのだ。

ところでピークは8000人いたという検閲官のメンバーはどのような人物で、その後はどのような職業に就いたのであろうか。残念ながら過去検閲に携わったことを公表した方は上記2名のほかには数えるほどしか存在しないようである。
外国籍の日系人が検閲官にかなりいたことがわかっているが、日本人も相当数がいて、そのなかにはマスコミや教育界や官僚の重要なポストに就き、あるいは政治家となって、わが国の国益に反する活動をし続けてきたのではないだろうか。あるいは、単純に外国やスポンサーの言いなりになっているという事なのだろうか。
ひょっとすると、GHQが国内要因と外圧要因の両方を残して、その後も検閲が実質的に継続される仕組みを作っておいたのかもしれないが、そうでも考えないと今日のマスコミの偏向報道や教科書や教育等の偏向傾向を説明し難いと思うのだ。

せめて、他国では常識となっているレベルの知識は国民にしっかり伝え、広めていかなければ、今後わが国から世界レベルで活躍する政治家やジャーナリストが出てくるとはとても思えない。
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GHQが日本人に封印した歴史を読む~~ペリー来航

嘉永6年(1853)6月に、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーの率いる4席の軍艦が、江戸湾入口の浦賀の沖に姿を現した。
ペリーは何のためにわが国に来たのか。市販されている高校教科書『もう一度読む山川日本史』にはこう書かれている。

ペリー来航1

「そのころアメリカは、北太平洋での捕鯨や太平洋を横断して中国にいたる新しい貿易ルートを開拓するために、日本の港で食料や燃料を補給する必要を感じていた。このため上陸したペリーは、開国と通商をもとめるアメリカ大統領の国書を幕府側の役人に手渡した。」(『もう一度読む山川日本史』p.209)

と、まるで野心のかけらもないような書き方になっている。これでは江戸幕府がなぜあれだけ抵抗したかが見えてこないし、なぜペリーがかくも強硬であったかという事がわかるとは思えない。その魂胆がどこにあったかという肝心な点については教科書には何も書かれていないのと同じだ。

前回の記事で紹介した勝岡寛次氏の『抹殺された大東亜戦争』に『ペルリ提督日本遠征記』の重要な部分が引用されている。

ペリー

「…若し日本政府が本島内にかかる[捕鯨船の避難・給水用の]港を許與することを拒否せば、且若し軍隊と流血とに頼ることなくしてはそれを獲ること能はざりせば、吾が艦隊は、先づ最初に日本南部の一二の島内によき港を手に入れ、水と食料とを獲るに便利なる所に集合地を確立し、而して親切温和なる待遇によって住民を待遇し、彼等と友好を結ぶやう努力することこそ望ましく、またかく望むことは誠に當然ならん。(中略)

…大英国はすでに東印度及び支那の諸海灣に於て、最も重要なる地點を占有し居れり。殊に支那の海灣に於て然り。

彼等はシンガポールをもつて西南の門戸を、他方香港によつて東北の門戸を制扼[制圧]し、…海洋上に於ける莫大なる通商を壟断制御する力を有すべく…

幸に日本及び太平洋上のその他の多くの島々は、未だこの『併呑』*政府に手を觸られずして残れり。而してそのあるものは、合衆国にとりて重大となるべき運命を有する通商路の途中に横たはるものなれば、時を移さず十分なる数の避難港を獲得するために積極的方策を採るべきなり。」(『抹殺された大東亜戦争』p.114-115) *イギリスのこと

この引用部分は、ペリーが日本に向かう途上で記した海軍長官宛書簡(マデイラ発1852年12月14日付)であるが、軍隊を派遣してでも日本領土の一部を占有する意図が明らかだ。

また同上書に、日米和親条約締結後にペリーが本国政府に提出した報告書も紹介されている。ここでペリーは、小笠原諸島を植民地にする考えであることを明確に述べている。

「余の計画は、小笠原諸島の主島(父島)の内ロイド港に、一植民地を建設することとなし、その主権については今後の討議に附せられるべきである。」(同上 p.115)

ペリーは、中国に向かう戦略上の日本列島の要衝の地を、イギリス政府が触手を伸ばす前に力づくで抑えようという考えなのだが、アメリカの方針も同様のものであったはずである。
そのことは、ペリー来航までのアメリカの年表を見れば見当がつく。

1845年 テキサス併合
1846年 オレゴン併合、米墨戦争勃発
1848年 米墨戦争終戦 メキシコよりテキサス、ニューメキシコ、カリフォルニアを取得
1849年 ハワイと和親条約締結
1853年 アリゾナ南部をメキシコより買収、ペリーが浦賀に来航

と、ペリー来航の直前のわずか8年間に北米大陸の西半分を獲得し、現在の米国の領土をほぼ手中に収めている。しかもその領土の奪い方はひどかった。

たとえばテキサスは、もともとはメキシコの領土であったが、黒人奴隷を使役するプランテーションを経営するアメリカ人移民が、綿花栽培の土地を求めて続々とテキサスに移住し、勝手にメキシコからの独立を宣言する。

アラモ砦

それを制圧するために、メキシコ軍がアラモ砦に立て籠るアメリカ人入植者を襲撃し、銃撃戦の末にアラモ砦は陥落する。
アメリカはそれを口実とし「リメンバー・アラモ」をスローガンにしてメキシコに宣戦布告し(アラモ砦の戦い)アメリカが勝利した。
1836年にメキシコ領テハスはテキサス共和国として独立し、その後米国が1845年に併合する。
翌1846年にテキサスを巡り再度アメリカとメキシコとが戦うも(米墨戦争)アメリカが勝利し、メキシコから広大な領土(テキサス、ニューメキシコ、カリフォルニア)を奪い取ったという流れだ。

アメリカ領土拡大

北米大陸をほぼ手中にした後は、アメリカの領土拡大は西に進むしかない。たまたまカリフォルニアで砂金が発見されたことからゴールドラッシュを生み、西へ西へという辺境開拓の勢いはさらに強まった。
こんな時期にペリーが浦賀に来航することの意味は、普通に考えれば日本領土の侵略目的しか考えられない。

ちなみにアメリカは、19世紀以降キリスト教宣教師を通じてハワイ王朝への影響力を強め、先住民の伝統文化や儀式を邪教として排斥し、ペリー来航の翌年である1854年にはカメハメハ三世に対して併合要求を突き付けている。

また朝鮮に対しては1866年にアメリカの武装商船ジェネラル・シャーマン号が朝鮮に不法侵入し民間人の虐殺や略奪を働いたため朝鮮側の報復により焼き討ちされた事件があった。
1871年にアメリカはジェネラル・シャーマン号事件の謝罪と通商を要求し、アジア艦隊に朝鮮襲撃を命令し、極東艦隊司令長官ロジャースは、5隻の軍艦を引き連れて江華島に現れ、陸戦隊を上陸させているのだが、このような史実は勝岡氏の著書を読んで初めて知ったことだ。

このようなアメリカの侵略の歴史を知らずして、幕末以降の時代を正しく理解できるとは到底思えないのだが、そういう史実を書いた論文がGHQによって抹消されている。

次の文章は『中國評論』の昭和21年6月号に掲載予定であった、石濱知行氏の「中國民主化と米國の役割」という論文だが、引用部分がすべてGHQにより削除されている。

「ハワイ及びフィリッピン併合よりも三十年前に朝鮮に着目し朝鮮の江華灣に艦隊を入れて、『四八一門の大砲を有する五要塞を破壊し、五〇の軍旗を奪ひ、二五〇名の朝鮮兵士を殺し多数の負傷者を出す』(モーズ、支那帝国の國際關係、七頁)ことによつてはじめてアジア大陸に延びたアメリカ資本主義は『門戸開放・機會均等』によつて列國の對中國政策に割り込み『領土保全。中國獨立』政策によつて日本帝国主義を廢除し、いまや『中國民主化』のスローガンによつて漸く多年の収穫を刈り取らんとしつつある。」(同上書p.116-117)

要するにGHQは、日本人にアメリカの侵略の史実を歴史教科書に書くことを許さなかったし、今もその記述はタブーとなっているということなのだ。

次に紹介するのは、『文芸春秋』昭和21年10月の森恭三氏の論文「『邊境(へんきょう)』の開拓」という論文で、この文章はGHQによる検閲で全文が削除となっている。

「ゴールド・ラッシュ、人口の大移動は、新大陸横断鐡道の建設を刺戟した。何萬といふ支那人苦力によつてきづかれたユニオン・パシフィック鐡道がはじめて大西洋と太平洋をむすんだのは1869年のことである。(中略)」
米國人にとつては、邊境といふものは、いつも西にあつたので太平洋岸にいたるまで開拓しつくし、その岸になつて、あたらしい邊境を物色するときも、自然、その眼は西にそそがれた。だから、太平洋への關心は、米國として、ある意味では、歴史的因縁といへよう。
まして、對支貿易は、クリッパー帆船の昔から、もつと有利な商賣として、ニユーイングランドから南米の南端を迂回する航路が開かれてゐた。ニ大洋の結合、支那にいたる距離の短縮…が至上命令とされるにいたったのも、自然の勢であつた。」(同上書p.112)

アメリカの究極の狙いは中国のマーケットにあったのだが、当時の中国は既に英国が大西洋航路で利権を押さえており、それに対抗するためには、アメリカは太平洋航路を開拓するしかなかった。その目的を達するためにアメリカには、ハワイも日本も必要であったというわけである。

勝岡氏の本を読んで驚いたのだが、太平洋戦争で日本が敗れた1945年8月14日付のニューヨーク・タイムスの社説にはこう書かれていたのだそうだ。
「我々は初めてペルリ以来の願望を達した。もはや太平洋に邪魔はいない。これで中国大陸のマーケットは我々のものになるのだ。」(同上書p.113)

このニューヨーク・タイムスの社説は、アメリカ人の本音なのだと思う。
しかしこのような社説を即座に理解できるようなアメリカの世界侵略の史実を知る機会が、今までほとんどなかったのは私ばかりではないだろう。
日本人には未だに意図的に知らされていない歴史があるということであり、その意味では戦後はまだ終わったわけではないのだと思う。

列強地図

私が学生だった頃には欧米列強が世界を侵略し植民地化した地図が教科書に掲載されていた記憶があるのだが、今の教科書にはこのような地図がなくなっているのに気が付いた。第二次世界大戦が行われていた時は、日本のほかに独立国の体裁を維持していたのは、辛うじてタイとかエチオピアぐらいしかなかったのではないか。そのことを知らずして、近現代の歴史を正しく理解できるとは思えないのだ。

GHQによって押し付けられた日本国憲法の前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあるが、GHQがこの考え方を日本国民に浸透させるためには、「諸国民」が侵略国であるという歴史であっては都合が悪かったのではないのか。

日本人はGHQによる占領時代以降、綺麗ごとの歴史に洗脳されてしまって、いつのまにか国民の生命も財産も裸になったも同然だ。国民の生命も財産も他国に委ねながら、自国を守ることができるというのは、過去の侵略の歴史に照らせば幻想でしかない。

アメリカのテキサス併合の手口を振り返ると、アメリカはまずテキサスに移民を送り込み、それからアメリカ移民がメキシコからの独立を宣言し、アメリカ軍が動いてテキサス国の独立を成就させ、その後にアメリカに併合させている。
この手法ならその気にさえなれば、今の日本の領土を奪うことは決して難しくはないだろう。

領土問題は、決して尖閣諸島や竹島だけが問題なのではない。
バブル崩壊以降の経済施策に問題があったのだと思うのだが、地方の多くは若い世代が生計を立てることが厳しく、高齢化・過疎化が進むばかりだ。特に小泉改革以降は、地方の経済がさらに縮小し、国土面積の大半が過疎化・高齢化していくのに有効な対策が講じられていない。
もしわが国が地方の過疎対策として大量の外国人移民を受け入れて、さらに参政権まで認めたらどういう危険なことが起こり得るかは、過去の歴史を知っていれば容易に想像できるはずなのだが、欧米列強や中国による侵略の真実を国民に学ばせず、マスコミもそれを広めようとしない。

吉田茂

自民党を作った吉田茂が「歴史に学ばない国民は滅びる」と言ったそうだが、日本人の大半はGHQによって封印された歴史を知らないだけではなく、戦勝国にとって都合の良い歴史観に洗脳されてしまっており、その洗脳を解くことは容易なことではないだろう。
今の日本人はまず洗脳を解かなければ真実に近づけないという意味で、「歴史に学ばない」国民よりもなおさら危険な状態にあるとの認識が必要であると思う。
日本がチベットやウイグルのようにならないことを祈るばかりである。
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幕末の動乱期にわが国が独立を維持できた背景を考える~~GHQが封印した歴史 3

嘉永6年(1853)6月に、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航し強硬な態度で幕府に開国を迫り、翌年にその圧力に屈して日米和親条約を締結し、寛永16年(1639)以降200年以上続いた鎖国体制は終りを告げた。
その後、和親条約により下田に駐在したハリスの強い要求に応じて、江戸幕府は安政5年(1858)に日米修好通商条約に調印した。

ハリス

この幕府の決定が反対派の公家・大名や志士達を憤激させた。大老の井伊直弼は自らの政策を推し進めるとともに反対派を大弾圧し、徳川斉昭、松平慶永らは蟄居させられ、吉田松陰や橋本左内らの志士は刑死させられた(安政の大獄)のだが、その後も国内に反幕府勢力が燎原の火のごとくに広がっていく理由が教科書を読んでもわからなかった。
私の感覚だと、国家の最高権力である徳川幕府が大弾圧を加えたのならば、普通の国なら反対勢力はそれ以降は下火になっていくのではないかと思うのだが、そうとはならず、むしろ公然と広がっていった。
しかしながら、反幕府勢力が無秩序に広がって国論が四分五裂することもなかった。もし国論が割れていれば、欧米列強による分裂離間策でインドやインドネシアと同様に植民地化への転落すらあり得たと思うのだが、なぜ出身地も立場も考えも身分も異なる者同士が力を合わせて、独立国家を堅持することができたのか。
誰かが強力なリーダーシップをとらないとそのようなことはありえないと考えていたのだが、一体どういう経緯があったのだろうか。

学生時代に歴史を学んだ時は、「尊王攘夷」というのは偏狭な排外運動だったとイメージしていたのだが、以前紹介した勝岡寛次氏の『抹殺された大東亜戦争』によると、攘夷の急先鋒であった水戸藩主徳川斉昭は、終局的には開国・通商はやむなしと当初から考えており、国民の士気を鼓舞し充分力を蓄えてから開国に転じるという考え方であり、頑迷固陋なものではなかったようだ。

西郷隆盛

また西郷隆盛も「尊王攘夷というのはネ。ただ幕府を倒す口実よ。攘夷攘夷といって他の者の志気を鼓舞するばかりじゃ。つまり尊王の二字の中に倒幕の精神が含まれているわけじゃ」と、有馬藤太に語った記録が残されている。(『有馬藤太聞き書き』)
つまり「尊王攘夷」は愛国心を鼓舞して、開国路線をとった幕府を倒すためのスローガンとして使われたという側面もあったのだ。

以前、私のブログで孝明天皇のことを書いたことがある。孝明天皇は天保2年(1831)に生まれ、弘化3年(1846)に父・仁孝天皇の崩御を受けて即位した第121代の天皇で、その次の天皇が明治天皇である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-159.html

教科書には、孝明天皇の妹の和宮を将軍徳川家持の夫人として迎えて公武合体を推進し、幕府の権威の回復を図ったことと、強固な攘夷論者であったことくらいしか書かれていない。

孝明天皇

ずっと長い間、私も孝明天皇は偏狭な攘夷論者のイメージが強かったのだが、勝岡寛次氏の著書に紹介されている孝明天皇ご自身の勅書を読んで考え方が改まった。誰でもこの勅書を読むと、維新に至る幕末の志士達を多く輩出させた背景には、孝明天皇の存在が大きかったことに気が付くのではないだろうか。

しばらく勝岡寛次氏の解説を引用する。

「孝明天皇陛下の攘夷論は、遠く印度の運命に想いを馳せながら、欧米による日本植民地化の回避といふ一点の工夫に発し、又其処に尽きてゐたのであって、西洋人への生理的な「毛嫌い」といふやうな浅薄な次元のものでは決してなかった事を、天皇陛下の時局御軫念の勅書[所謂「御述懐一帖」、文久二年(1862)五月十一日付]は、或いは若き将軍徳川家茂に下された勅書[元治元年(1864)正月二十一日付]は、明示して余りあるからである。

…惟に因循姑息、旧套[旧来のやり方]に從ひて改めず、海内[国内]疲弊の極[結果]、卒(つひ)には戎虜(じゅうりょ:外国人)の術中に陥り、坐しながら膝を犬羊[西洋人]に屈し、殷鑑遠からず、印度の覆轍(ふくてつ:二の舞)を踏まば、朕實に何を以てか先皇在天の神靈に謝せんや。若し幕府十年を限りて、朕が命に従ひ、膺懲(ようちょう)の師[懲らしめの軍隊]を作(おこ)さずんば、朕實に斷然として神武天皇神功皇后の遺蹤(いしょう)[前例]に則り、公卿百官と、天下の牧伯[諸侯]を師(ひき)ゐて親征せんとす。卿等其(それ)斯(この)意を體(たい)して以て報ぜん事を計れ。(時局御軫念の勅書)

…然りと雖も無謀の征夷は、實に朕が好む所に非ず。然る所以の策略を議して、以て朕に奏せよ。朕其(その)可否を論ずる詳悉、以て一定不抜の國是を定むべし。(中略)嗚呼、朕汝と與(とも)に誓て哀運を挽回し、上は先皇の霊に報じ、下は萬民の急を救はんと欲す。若し怠惰にして、成功なくんば、殊に是朕と汝の罪なり。(徳川家茂に賜はれる勅書、同上)

明治維新とは、この孝明天皇の身命を擲(なげう)った驚くべき御覚悟に打たれた将軍家茂が、雄藩各藩主が、各藩士が、そして志士が、幕府といふ其れまでのパラダイム(旧枠)を乗り越えて、次々に天皇と直結していった、日本国の精神的統合の全過程をば、指して謂う言葉なのである。

文久二年(1862)12月、将軍家茂は書を天皇に奉り、二百数十年来の幕府専断の誤りを公式に謝罪し、超えて三年三月には、實に二百三十年ぶりに上洛(入京)の上、君臣の名分を正して天皇に帰順した。又、これに先んずる文久二年十月から十二月に掛けて、雄藩各藩主が(長州藩・土佐藩・筑前藩・因幡藩・宇和島藩・安芸藩・津軽藩・肥前藩・阿波藩・岡藩・肥後藩・備前藩・津和野藩)、天皇の内勅を奉じて続々京に至り、やはり天皇に忠誠を誓ってゐる様を見るのは壮観である(『孝明天皇紀』)。謂はば大政奉還の5年も前に、既に事実上の天皇政府が形勢されつつあったのであり、この事は。もっともっと注目されて然るべき事と考へる。

将軍・藩主のレベルに止まらぬ。文久二年十二月、天皇は薩摩・肥後・筑前・安芸・長門・肥前・因幡・備前・津・阿波・土佐・久留米十二藩士を学習院に召し、京都内外の守備を策問し、或いは超えて文久三年二月、草莽微賤の者とても、学習院に詣(いた)りて時事を建言することを許可された。」(勝岡寛次:『抹殺された大東亜戦争』p.101-102)

竹田恒泰

学習院」については、明治天皇の玄孫にあたる竹田恒泰氏の「皇室のきょうかしょ」に詳しいが、位の高い公家の子弟が学ぶ学校として京都御所内に設立され、文久2年(1862)の尊皇攘夷運動が盛んな折、学習院は公家衆と武家衆、そして草莽の志士たちが集う政治的な会合の場所となり、そこで攘夷決行の策が議論されたとある。
当時、公家と草莽の志士が接触することは堅く禁止されていたのだが、学習院という学問の場だけが、公家と志士が公然と会合することができる唯一の場所だったのだそうだ。
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu64.html

身分の異なる者同士を一堂に集めて、わが国の進むべき道を議論できる場を「学習院」に作られたということは画期的な出来事だと思うのだが、こういう史実がなぜ広く知らされていないのだろう。
孝明天皇の国を愛する気持ちが伝わり、国を守り独立を堅持するという目的が共有されてはじめて、身分を超え藩を超えて、人々が繋がっていったということではないのか。
「草莽の志士」と呼ばれた下級武士達がなぜ身分の高い公家らとともに明治維新を為し得たか、なぜ下級武士たちが明治政府の中心勢力になりえたかは、孝明天皇の存在を抜きには語れないことだと思うのだ。

勝岡寛次氏の著書に、GHQの検閲によって抹消された論文が掲載されている。
(西谷啓治「現在における民主主義の問題」昭和21年11月『ひょうご』)

「明治維新は、萬民がその一君の赤子として、國家の全體性へ直結するといふ形で成就されたのであり、それが…各人が『国民』となったことであった。…他の諸國では、概ね、人民が貴族階級を顚(くつが)へし、力を以て政権を自らに奪ふといふ『革命』によつて、民主主義が實現され、近世國家への移行が行はれたのであるが、日本では、國家統一の肇(はじ)めから國家的な『一』の象徴であった天皇への歸一といふ仕方で行はれたのである。…
この様にして日本では、近世國家への移行は、諸外國に見られたやうな大きな擾亂(じょうらん)や流血を經ずに、短日月の間に圓滑に行はれた。その意味で明治維新は世界史の上でも稀有な出来事である。…

列強地図

言ふまでもなく當時は、列強の膨張政策が頂點に達し、南方からは英佛の勢力が、北方からは露國の勢力が、日本まで延び、日本を終點としてそこに渦巻いていた時代であつた。亜細亜の諸國はその植民地又は半植民地と化し、日本も存亡の岐路に立つたといつてよい。その際最も緊要なことは、新しい政治的中心のもとに國家全體が眞に強固な統一を形成し、國内の結果が根本から打ち建てられることであつた。といふのは、國家の滅びる場合は、概ね一方に諸外國の相對立する勢力の干渉があり、他方には國内に相對立する勢力の分裂があつて、然もその國内の對抗勢力がその敵對關係のために、共通の地盤である祖國と同胞性とを忘れ、政敵を倒すために互ひに外國の勢力と結合し、かくして外國勢力の間の闘争と國内の闘争とが一つに聯環して來る場合である。その際、諸外國のひとつが勝つ場合には、國家はその國に征服され、諸外國の間に協定が成立する場合には、國家は分断される危険がある。後の場合の適例は、曾てポーラーン[ポーランド]が三度の分割によつて滅亡した場合である。その時は国内の親露的、親普的等の黨派が夫々に諸外國と結びついて、國家を分裂させ滅亡に導いたのであつた。かかる危険の兆しは明治維新の際にも現はれてゐた。特に一方に英國と佛蘭西(フランス)の間の勢力爭い、他方に薩長と幕府との闘爭があつて、それが複雑に絡み合つてゐたのである。かかる事情のもとでは強固な統一國家の態勢を、然も長い内爭や動亂なしに出来る限り短期間に調(ととの)へることが、何よりも緊急事であつた。」(勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争』p.104-105)

引用部分の内「言ふまでもなく當時は…」以降の文章がすべてGHQの検閲で削除されているのだが、要するにGHQは日本人が欧米列強の世界侵略の手口やわが国が短期間で統一国家の態勢を整えたことについて学ぶことを許さなかったし、幕末に欧米列国の植民地にされる可能性があったことを考えさせたくもなかったのだろう。

孝明天皇の攘夷論は「倒幕」ではなく「公武合体」の考えであったのだが、天皇親政を復活させようする過激な尊王攘夷派が多数派となり、天皇は八・一八の政変で尊王攘夷派を朝廷から一掃したのだがそのために朝廷は勢いを失い、天皇は失意の中で孤立していく。
慶応二年(1866)に将軍家茂が亡くなる頃から、対幕府強硬派が力をつけて倒幕の勢いが加速する。それでも、公武合体への信念を枉げなかった天皇の存在は倒幕派にとっては最大の障壁となってしまうのだ。

以前私のブログで孝明天皇が暗殺された可能性が高いことを書いたが、真相は闇の中だ。ただ倒幕派にとっては非常に都合の良いタイミングで崩御されことだけは事実である。
結果として孝明天皇が望んだ方向には歴史が進んだわけではないのだが、幕末から明治維新で活躍した数々の人材を輩出させるきっかけを作った天皇であったことは間違いがないと思う。

幕末維新期の和歌がいくつか残されているが、わが身を捨てても国を守るということの思いが伝わってくるものがある。
あさゆふに民やすかれとおもふ身のこゝろにかかる異国(とつくに)の船[孝明天皇(1831-1867)]
君が代を思ふ心の一筋にわが身ありとも思はざりけり[梅田雲浜(1815-1859)]

吉田松陰

かくすればかくなるものと知(しり)ながら已むに已まれぬ大和魂[吉田松陰(1830-1859)]
わが霊はなほ世にしげる御陵(みささぎ)の小笹の上におかむとぞおもふ[伴林光平(1813-1864)]
大山の峰の岩根に埋(うめ)にけりわが年月の大和魂[真木和泉守(1813-1864)]
もののふの大和ごころを縒りあわせすゑ一すぢの大縄にせよ[野村望東尼(1806-1867)]

平和な国や侵略する側の国にはこのような思いは不要であろうが、侵略される側の国には、国を愛する強い心と愛する国を守り愛する人を守るためにはわが身を犠牲にしてもいいという覚悟が大半の国民に存在し、かつ強力なリーダーシップと戦略がなくては、国を守れるはずがないである。
このことはどこの国でもいつの時代にも言えることだと思うのだが、このようなあたりまえの事が戦後の日本で充分に伝えられていないのではないだろうか。

ペリー来航2

以前私のブログで、ペリーの来航の真の目的は、アメリカが日本を奪い取ることであったことを書いたが、そのことをしっかり理解できれば、幕末から明治以降の歴史の見方が変わらざるを得ないだろう。

先ほど紹介した竹田恒泰氏は『旧皇族が語る天皇の日本史』という著書の中で、孝明天皇を「封印された天皇」としたうえで、こう記されている。

「孝明天皇の崩御がもし少しでも前後していたら、おそらく今の日本はない。皇室も幕府もともに倒される対象とされていたろう。王政が打倒され、共和国が成立するのは世界史の大勢だった。
 もし崩御がより早ければ、倒幕の原動力となった尊攘派が育つことはなく、もし崩御がより遅ければ、天皇親政による新政府構想は成立するはずもない。孝明天皇は生きて国を守り、そして死して国を守ったことになろう。」(『旧皇族が語る天皇の日本史』p.205)
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レザノフを全権使節として派遣したロシアにわが国を侵略する意図はあったのか

前回の記事で、戦国時代にキリシタンによって多くの社寺仏閣や仏像等が破壊され、また多くの日本人が海外に奴隷に売られて行った背景には、異教国や異教徒に対してそのような方法で異教徒の世界を破壊してキリスト教世界を拡げることが、ローマ教皇による教書で認められていたことが背景にあることを書いた。

たまたまこの時代はわが国に優良な武器が大量に存在し、またわが国の為政者がキリスト教の宣教師が侵略の手先であることを看破して布教を警戒したので、この時代にわが国はインドやフィリピンのように植民地にならずに済み、それから長い期間にわたりわが国に平和な時代が続くのだが、その間に世界の情勢が大きく変わってスペイン、ポルトガル、オランダが凋落し、代わってイギリス、フランス、ロシアが海外に版図を拡げていくことになる。

鎖国以降のわが国に、最初に接近してきたのはロシアなのだが、高校の標準的な教科書にはロシアの接近についてどう書かれていたかを確認したくなった。
山川の教科書にはこのように記されている。

「ロシアは東方への進出に力を入れ、18世紀初めころにはシベリアをへて日本の近海にあらわれ、オットセイなどの毛皮をとるようになった。ラクスマン来航のあと、1804(文化元)にはレザノフが長崎に来航して日本との通商をもとめた。このロシアの接近におどろいた幕府は、近藤重蔵や間宮林蔵を派遣して千島や樺太の探検をおこない、蝦夷地を幕府の直轄地にして、北方の警備をきびしくした。」(『もういちど読む 山川の日本史』p.192~193)

この文章を普通に読めば、ロシアは交易のためにわが国に接近したのであって、わが国を侵略する意思はなかったかのような印象を受けるのだが、ではなぜ江戸幕府はロシアの接近を警戒したのだろうか。

まず、鎖国以降のわが国とロシアの関係について、Wikipedia等を参考にレザノフ来航までの歴史を簡単に振り返っておこう。

ピーター大帝
【ピョートル1世】

元禄6年(1696)頃に、大阪出身の商人であった伝兵衛という人物が、江戸に向かう航海の途上で嵐に遭い、カムチャッカ半島に漂着して現地民に捕えられた。この男が翌1697年にロシア人ウラジーミル・アトラソフの探検隊に発見され、その後モスクワに連れて行かれて初代のロシア皇帝・ピョートル1世(在位:1682-1725)に謁見したという。国王は日本という国に大いに関心を持ち、サンクトペテルブルクに日本語学習所を設置して、伝兵衛をその教師としたのだそうだ。下の画像はWikipediaに紹介されている伝兵衛の署名入りの文書である。

伝兵衛

1706年にはロシアがカムチャッカ半島を占領し、毛皮などを獲るために千島列島に出没するようになり、1711年にはイワン・コジレフスキーが国後島に上陸している。
1739年にはヴィトウス・ベーリングが派遣したマルティン・シュパンベルク隊が仙台や安房国沖、伊豆下田に接近した旨の記録が残されている。わが国は当初、これ等の船がどこの国のものか判らず、現地住民が船員から入手した銀貨・紙札を長崎出島のオランダ商館に紹介して、ようやくロシアの船であることが判明したという。

エカチェリーナ2世
【エカチェリーナ2世】

エカチェリーナ2世の治世(在位:1762-1796)となって、1764年に東方のイルクーツクに日本航海学校が、1768年に日本語学校が設置され、日本近海への航海が増加する。

1771年に阿波国徳島藩の日和佐にロシア船が漂着したが徳島藩は上陸を許さず、水と食糧と燃料を与えて追い返した事件があった。この船に乗っていたモーリッ・ベニョフスキーという人物は犯罪者で、脱獄して帆船を奪って「聖ピョートル号」と名付けて日本に向かったのだが、彼を追い返した徳島藩に、高地ドイツ語で書かれたオランダ商館長宛の手紙を手渡したという。オランダ商館長がその手紙を解読したところ、そこにはロシア帝国が松前藩近辺(北海道)を占領するためにクリル諸島(千島列島)に要塞を築いているという出鱈目が書かれていたそうだが、この手紙がきっかけとなってわが国がロシアを警戒するようになったのだという。

また1778年にはロシアの勅書を携えたイワン・アンチーピンの船が蝦夷地を訪れて直に通商を求めたが翌1779年に松前藩はそれを拒否した記録がある。
それから2年後の安永10年(1781)、仙台藩の藩医工藤平助はロシア研究書である『赤蝦夷風説考』を著述し、また林子平は寛政3年(1791)に『海国兵談』を上梓して、ロシアの南下政策に危機感を懐き海防の充実を唱えたが、いずれの書物も1771年にベニョフスキーがオランダ商館長に宛てた手紙に刺激されて書かれたようである。

続いて寛政4年(1792)には、日本人漂流者でロシアに保護されていた大黒屋光太夫ら3名の送還と通商開始交渉のため、アダム・ラクスマンの使節が根室に来航したが、老中松平定信は長崎のオランダ商館と交渉することを求めたため、ラクスマンは長崎に行かずに帰途についている。

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【ロシア領アメリカ】

一方江戸幕府は、寛政11年(1799)に松前藩にかわって幕府が東蝦夷地の直轄統治を開始し、最上徳内や近藤重蔵に蝦夷地探検を行わせているのだが、その年にロシアはアラスカをロシア領アメリカとして領有を宣言している。
ロシアがアラスカを領有すると、その領土維持の為に人の送り込みと、さらには食糧が必要となってくる。ロシアとしては極東に親密な貿易国を持つことを希求していたことから、わが国への開国要求はますます熱を帯びてくる。

ニコライ・レザノフ
【ニコライ・レザノフ】

1804年9月にニコライ・レザノフが日本人漂流者の津太夫らを伴い国書を携えて長崎に来航している。ラクスマンの時は半ば非公式的な使節であったが、レザノフはロシアの全権使節として乗り込んできたのである。

徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第25 幕府分解接近時代』に、レザノフが携えてきた国書の訳文が掲載されている。ポイントとなる部分はこの一節である。
「…朕の商人が、貴国に出入するを許容せらるるのみならず、貴国の隣邦たるクリル諸島*、アレウト諸島*、カヂアク諸島*の住民にも、長崎一港に止まらず、また一艘の船舶のみならず、陛下の意志により、数多の船舶をして、他の諸港にも出入するを得るに至らしめんとするに在り。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228542/96
*クリル諸島=千島列島、アレウト諸島=アリューシャン列島、カヂアク諸島=アラスカ海岸にあるコディアク島を中心とする列島

アリューシャン列島 コディアク島

船には将軍や重臣への豪華な贈物33品が積み込まれ相当気合が入っていたのだが、日本側はそれを受け取らず、レザノフたちは半年間も監視されたまま出島に留め置かれることとなる。
翌年の3月にようやく幕吏との会見が持たれたのだが、ロシア側の記録によると江戸幕府からの回答は以下のようなものであった。

「日本の政治家は、かつてラクスマンに教示したとおり、ロシア人とはなんらの交渉をも開始すべからざるにより、ロシア使節の到来を、はなはだ訝しく思うこと。…日本君主はロシア使節を接受するあたわざること。また日本は通商をこいねがわず、これを以て、ロシア使節の、日本退去せんことを請求すべきこと。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228542/122

散々待たされたあげくにこのような拒否回答を得て、レザノフが憤慨したことは言うまでもない。レザノフはこのように書いている。
「通詞はかかる拒絶あらんとは、待ち設けて居なかったから、この宣告を聞くや、(使節拒否)全身凝りて石の如く、辛うじてこれを通訳した。予もまた顔色全く変じ、知らず知らずのあいだ、自らかかる侮辱は、ただ驚くより外はない。…我が君主から求むるところは、日本人が博愛的精神よりして、ロシア人の不便を救わんとする好意に外ならぬ。しかるに彼等日本人は、ロシア人と見る、ポルトガル人と擇(えら)ぶなきかと。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228542/123

レザノフが施設の目的を達することが出来なかった点につき、ロシアでは様々な論評がなされたようだ。レザノフの交渉を問題視する説のなかに、レザノフがオランダ商館の支配人ズーフに対して警戒を怠ったとする説があるという。わが国に接近する際に、ロシアはオランダ商館に協力を要請していたのだが、実はオランダは表向きにはレザノフの為に周旋しつつ、裏にまわってロシアのわが国との交渉を失敗に導かせようとしたのではないかというの説なのだが、オランダからすれば日本との貿易を独占できることの方が国益に資するのであり、充分あり得る話である。

しばらくしてレザノフの部下の中から、武力で日本を開国させようと考える者が出てきた。徳富蘇峰の前掲書にはこのよう記されている。

「…彼の船長クルゼンステルンは、後年その著『奉使日本紀行』中に、樺太侵略について、左の如く意見を陳べている。
 『アニワ*を取りて、これに拠らんとは、少しも難事ではない。此処の兵器の用意もなければ、防守の備えもないようだ。またここを他に奪われたとて、日本の為政者は、容易に之を取り返すことは出来ないであろう。そは彼らは、其の必勝の算が立ちかぬるからだ。もし戦端を啓いて、勝利を得ざれば、その国の威光を損し、その国民に危惧の念を生ぜしめ、国内の騒動を惹き起こす虞(おそ)れあれば、為政者はこれがために、全く蝦夷を失うよりも、大なる危険を冒さねばならぬ。
 もしまたこれを取返さんとて、大軍を起こすも、軍艦なく、大砲なく、海軍の備えも全くなきことであれば、いかに防備の法なきアイヌにても、之を拒めば一寸の地でも彼は取り得べきではない。いわんやもし、16門の砲を備えたるコッテルズ2艘に、兵卒60人を載せ、風に乗じてこれを伐たしめば、日本大船に一万の兵を乗せ来たるも打ち崩すべしだ。」
*アニワ:サハリン(樺太)南部のアニワ湾に面した町。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228542/143

アニバ湾

少なくともレザノフ一行が日本に来るまでは、ロシアは樺太を侵略する意志を表に出す事はなかったのだが、航海の途上で我が国の守りの脆弱さを確認して、充分に占領できることを認識したようだ。そして、その後のロシアは、わが国の各地で乱暴狼藉を働いていることを知るべきである。

文化3年(1806)にレザノフの部下ニコライ・フヴォストフが樺太の東浦にあるオフィトマリヤに到来し、小児を掠め去ったのちクシュンコタンの波止場で会所番人4人を捕え、倉庫の穀物を奪い、会所そのほか悉く焼き払ったことがわが国の記録に残されているようだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228542/144

また翌文化4年(1807)にはこんな記録もある。異賊とあるのはロシア人のことである。
「…異賊またエトロフ島シャナに上陸して会所に鉄砲を打ちかけ乱暴に及ぶ。よて箱館奉行支配の士、および南部、津軽両氏の人数防戦し、異人を撃取るといえども、防ぎ難くして、同島のルベツの方に逃れ、遂に箱館に退く。かれ5月1日より2日に及び、米酒等を奪い、本船に積み入れ、処々放火して、同3日出帆す。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228542/146

幕府は北方警備の重要性を悟り、西蝦夷地も幕府の直轄領とし、さらに奥羽四藩に北海道の沿岸警備を命じている。

津軽藩士たちは北海道の北端の宗谷に向かい、その内の100名が知床半島の付け根にある斜里に向かったのだが、周辺の山林からトドマツを伐採して建てた急造の施設に本格的な冬が到来し、北からの季節風をまともに浴びて隙間風に悩まされ、海は流氷に閉ざされて新鮮な魚も野菜も口にすることが出来ず、寒さと栄養不足から大量の病死者を出したという。

松前詰合日記

斎藤文吉という下級武士が書き残した『松前詰合日記』が昭和29年(1954)に偶然発見され、津軽藩士の悲劇が知られるようになったようだが、藩士の大量死は津軽藩の「恥部」として厳重な緘口令が布かれ、藩の公式記録にも載せられなかったのだそうだ。
この『松前詰合日記』については次のURLで一部を解説付きで読むことが出来るのはありがたい。
http://island.geocities.jp/pghpnit1/saitohbunkichi.html

津軽藩士殉難慰霊の碑

北海道の斜里の地に昭和48年(1973)には72名の津軽藩士殉難慰霊の碑が建立され、毎年7月下旬にこの碑の前で慰霊祭が毎年行われているのだという。

レザノフが来航してから50年後にペリーが来てわが国は開港することになるのだが、もしわが国がこの時にロシアとの交易を開始したとしたら、おそらく不平等条約を押し付けられるようなことはなかったであろうし、幕府としてもロシアとの交易で財政が潤い、少なくとも江戸幕府にとっては結果的に悪い選択ではなかったと思われるのだが、ロシアの使節をさんざん待たせておきながら国是の「鎖国」にこだわって帰してしまった。

一度国是としたことを、世界情勢が変わって柔軟に考え方を見直すべき時代が到来しても、外圧がなければ変えられないことがわが国では今もよくある話だが、行き過ぎるとむしろ外圧を呼び込んで収拾がつかなくなってしまう危険性を孕んでいる。いつの時代においても、何事もあまり頑なになるのではなく、国内で議論を尽くして柔軟に対応できる国であって欲しいものである。

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【ご参考】このブログでんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

北清事変で北京制圧の後に本性を露わにした「文明国」の軍隊
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-324.html

日露開戦を決定したわが国の首脳に、戦争に勝利する確信はあったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-326.html

なぜ米国は日露戦争開戦当初から日本の勝利を確信したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-327.html

日露戦争の原因となったロシアの朝鮮侵略をけしかけた国はどこの国か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-328.html



ペリー来航の45年前のわが国でロシアとの交易を開始する準備がなされていた

前回の記事でロシアの全権使節であるニコライ・レザノフがわが国に通商を求めてきたことに対し、わが国は半年間待たせた上で拒絶回答をして以降、蝦夷地にロシア船が出没して乱暴狼藉を働く事件が相次いだことを書いた。

休明光記

その後江戸幕府内で、ロシアと通商を開始すべきではないかとする意見が出てきたという。
当時箱館奉行、松前奉行として蝦夷地経営の最高官僚であった羽太正養(はぶとまさやす)が記録した『休明光記』に詳しく叙述されているようだ。

渡辺京二氏の『黒船前夜』に、こう解説されている。

「…『休明光記遺稿』のうちに『魯西亜(ロシア)人乱妨に付、江戸において御評議の事』という文書があり、それには清国との貿易を停止し、かわりにロシアと通商を開くべしとする意見があったことを長々と紹介している。清との貿易を停止する根拠は、長崎の唐船貿易は商人の私商売であって、清は一度も正式な使節を派遣したことがない。交易でわが国の棹銅(さおどう)を得て銭を鋳造しているのに、そのような大切な交易を商人任せにしているのは日本をあなどっている証拠だ。しかも日本は貴重な銅を輸出ししながら得るものは薬種ぐらいにすぎない。また近年不礼不法を働く輩も多いというのである。
 それに反してロシアは、二度にわたって使節を派遣して信義を尽くしている。それに報いて国交を開き、国境を定めて交易のことを議すべきである。ロシアのような世に聞こえた強国が折角信義を尽くして交易を乞うているのに、わざわざ恥辱を与えて戦端を開けば費用は莫大なものになる。しかるに彼の望みを容れてやれば、かの国も多年の宿望を果たし恥辱も雪がれて、わずかな島々など喜んで返却するだろう。…
…以上のように論じて『然るにおいては、万々一外の蛮国より日本を伺ふ事ありといえども、世界第一の強国たる魯西亜と交わりを結びたるにおいては、諸国よりまた猥(みだ)りに手を出すべからざるべし。返えす返えすも交易の道を開き給う方こそ然るべし』と結ぶ。何とこのとき幕府内では、日露同盟による安全保障論が公然と唱えられていたのだ。」(『黒船前夜』p.271-272)

杉田玄白
杉田玄白

この時期にロシアと通商すべきとする意見は幕府内だけでなく民間にも存在したという。文化4年(1807)に杉田玄白は『野叟独語』を著して、国法をまげてもロシアとの通商を開くべきことを主張したのだそうだ。

もちろん幕府がこの説を採用することはなかったのだが、もし採用したとしたらどうなっていただろうか。渡辺氏は前掲書でこう述べておられる。

黒船前夜

もしこのときロシアと国交を開始していれば、あとには当然欧米列強が続いただろう。さすれば、…幕府は後年の攘夷論などに煩わさされることなく、主体性を堅持したまま欧米諸国に門戸を開くことになったのである。列強の砲艦外交はまだ始まっていない。すなわち日本はこのとき、幕府主導の開国というひとつの近代化の可能性を喪ったのだった。」(同上書p.272)

江戸幕府は、国是としていた「鎖国」を守るためにロシア船は打払うべしと命じたのだが、そもそも「鎖国」はまずキリスト教を宣教して国を割った後にわが国を占領しようとしたスペイン・ポルトガルの意図を封じるため、キリスト教を禁教したうえで海外貿易を長崎の出島に限定したものである。ところがロシアがはわが国に接近した目的は布教とは関係なく、また侵略を企んでいるわけでもなく、ほとんど交易が目的の全てと言ってもよかった。
にもかかわらず、二度にわたり礼を尽くして使節を送り込んだロシアを、江戸幕府は拒絶したのである。

幕閣はロシア船を打払えと指令したのだが、そもそも広い蝦夷地のどこに現われるかもわからないロシア船を追い払うために、どれだけの兵士と大砲と軍艦が必要で、どれだけの費用がかかるかを検討したのだろうか。ロシア船の乱暴狼藉のあと津軽、南部、秋田、庄内の藩兵3千が配置されているが、そんなわずかの人数ですべてのロシア船を打払えるはずがないではないか。

レザノフ来航絵巻 ロシア使節
レザノフ来航絵巻】

後に箱館奉行となった河尻春之と荒尾成章は、文化5年(1808)2月に老中の諮問を受けて意見書を提出しているのだが、この内容は注目するに値する。渡辺氏の前掲書にこう解説されている。

「まず驚かされるのは、文化3年度、4年度の暴行を謝罪するならば交易を許して良いとしていることだ。もし今年願い出てくれば来年回答し、再来年より交易を開始するという日程まで考えている。当時日本の当事者はフヴォストフ*の書簡によって、彼らの蝦夷地襲撃が交易許可を望んでのことだと正確に理解していた。従って、今年来るか来年来るかわからないが、近いうち必ずロシア側から接触してくるはずだと考えて、対策を練っていたのである。…
 会談に当たっては先方の『不束(ふつつか)』を咎めるとともに、『此方にて不行届の義は取繕いなく申し達し、理非明白に仕り、手前勝手これなき義と、彼方にても服する様したき儀に存じ奉り候』というのだから、長崎でのレザーノフの扱いについても、こちらの落ち度を認める用意があったのだ。このように和睦を旨としても、来たるべき日露会談では手切れも含めて曲折が予想されるから、それなりの備えを怠ってはならない。河尻と荒尾は千石ほどの軍艦を10隻建造し、エトロフより先の島々、さらにはカムチャッカまで派遣せよと提案する。…」(同上書 p.274-275)
*フヴォストフレザノフの部下ニコライ・フヴォストフで、1806年に樺太の松前藩の番所、1807年に択捉港ほか各所を襲撃した。(文化露寇)

レザノフ来航絵巻
レザノフ来航絵巻】

この意見書を読んで老中は「和議交易の方のみ重じているが、わが国の武威をいかにして示すのか」と質したので、ふたたび河尻と荒尾は意見書を上申した。

「交易については、長崎でお諭しになった国法はそむいてはならぬことではあるけれども、ロシアの辺境と松前付属の土地との間の交易となれば別問題なのではないか。国同士ではなく辺境同士の交易という『軽き事』として許可あってしかるべきであると両人は主張する。…また…武威については、狼藉を働かずわびてくるとなれば、畢竟お備えが万全だから神妙な態度で出てくるわけで、武威はそれで立っているのではなかろうか。」(同上書 p.275-276)と述べた上で、このような『軽き事』を幕府が許可しないがために蝦夷地全域を警衛せざるをえなくなったのだが、たとえ2万3万を動員しても、この広い蝦夷地を護ることは難しいと説く。

続いて、河尻と荒尾の意見書のポイントとなる部分が引用されている。
民命を申し候えば、警衛の人数、事により候ては、生きて帰り候もの少々に至り候べし。矢玉に当たり、風波に没し、または水上に傷を被る等々、番手死亡仕り候もの幾件あるべきや。その国々の民、課役人夫に疲れ、辛労を受け、その責めにたえずして、家を離れ妻子を捨て、路頭に斃れ候もの、宿次助郷(しゅくつぎすけごう)に至るまで困窮致し候わば、際限もこれなく、難渋の内には不慮の変を引出し申すべき程も計り難し。」(同上書 p.276)

前回の記事で、文化4年(1807)に北辺の守りのために派遣された津軽藩士が、寒さと栄養不足から大量に病死したことを書いたが、そんな犠牲を強いるようなことを繰り返しては、いずれ幕府に反抗する動きがでてきてもおかしくないだろう。

そして、「この時に当たり、精々その理を尽くさずして御処置ござ候て、後々に至り後悔候義も候ては、あいすまざる事にござるべく候。その時、天の責め誰人に当たり申すべきや。天職の御方ここにおいて至極御大切の御場合にござ候あいだ」、位も処もわきまえず死罪に当たることではあるが、黙視しがたく申し述べたとある。

この、命がけで書かれた意見書が老中たちを動かし、乱暴狼藉を繰り返していたフヴォストフに対する返事が準備されたという。渡辺京二氏はこう解説している。

渡辺京二
【渡辺京二】

「両人の上書を読んだ老中たちは『ともかくもその時に応じよろしく取り計らうべし』と答え、同時に再来が予想されるフヴォストフに与える返事が作成された。…『いよいよご無事を祝し申し候。然らば御手紙の通りにては、通商の願いかない申さず候』と書き出された返事は、狼藉を働いた上に、いうことをきかねばまた船を沢山出して乱暴するというような国とは通商できない。いくさをする用意はこちらにもある。本当に交易したいのなら、悪心のない証拠として日本人を全部返した上で願い出よ。来年6月カラフト島にて会談しよう。この上狼藉するなら交易どころではないぞと述べる。…

もしこの時ロシアが船を派遣して日本側と接触していたら、交渉次第では日露の通商関係が成立していた公算が高い。しかしフヴォストフらはオホーツクの獄につながれ、通商を願い出るロシア船の訪れはなく、幕府の返書はロシア側には渡らなかった。蝦夷地襲撃があとを絶ったとなれば、交易に応じてやろうという気遣いもいらなくなる道理だ。ただロシア船の接近を厳戒する気分だけは残る。…」(同上書p.277~278)

アレクサンドル1世
【アレクサンドル1世】

フヴォストフらがオホーツクの獄に繋がれたのは、ロシア皇帝アレクサンドル1世の許可もなく日本国に対して乱暴狼藉を働いたことに皇帝が不快感を示したことが理由だったようだが、1808年に全軍に撤退命令が出されていたために、幕府が用意した手紙はロシアに手渡されずに終わってしまったのである。

おそらくロシアはフヴォストフがわが国で乱暴狼藉を働いてしまったために、わが国との交易が実現する希望がなくなったと考えたのであろう。レザノフは次いでカリフォルニアに向かったのだが、現在のアメリカ合衆国の南西部は、当時ヌエバ・エスパーニャ(ノビスパン)といってスペイン帝国の副王領地であった。レザノフは北米西海岸を全面的にロシアに併合し、本国から即座に大量の移民を送ろうと考えていたのだが、彼が病死したためにロシア皇帝はスペインとの条約に調印せず、ロシア領アラスカを立て直すというレザノフの改革は頓挫してしまう。

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【ヌエバ・エスパーニャ】

前回の記事で1799年にロシア領アラスカが成立したことを書いたが、その領土維持のためには多くのロシア人を送り込まねばならなかった。しかし、アラスカは極北の地ゆえ食糧不足のために、ロシア人や先住民族が飢餓に苦しんでいたという。
このアラスカを立て直すためには近隣国から大量の食糧を調達することが喫緊の課題であり、そのためにロシアはわが国に対して礼を尽くして接近してきたのだが、ロシアはわが国のみならずヌエバ・エスパーニャとも交渉をまとめることが出来ず、困窮したアラスカは1867年にアメリカへ720万ドルで売却されることとなった。

アラスカゴールドラッシュ
【アラスカ ゴールドラッシュ】

ところが1880年代の後半以降にアラスカで金鉱が相次いで発見されてゴールドラッシュがはじまり、1968年には油田が発見されている。ロシアは148万㎢のアラスカを1㎢あたり5ドル以下の価格で売却したのだが、随分安く売ってしまったことをあとで後悔したのではないだろうか。

話をわが国がフヴォストフに手渡そうとした手紙の話に戻そう。
もしこの手紙がロシアに渡っていれば両国の交易が開始され、江戸幕府にとってもロシアにとってもプラスになっていたことは確実だ。
江戸幕府は、列強諸国の砲艦外交によって不平等条約を押し付けられることもなく、渡辺氏の表現を借りれば「幕府主導の開国」を実現し、日露関係を基軸にして近代を迎えていた可能性を感じるのである。
またロシアはアラスカを手放さなくて済んだだけでなく金鉱を発見し、さらにヌエバ・エスパーニャに手を伸ばしてその植民地化を図ろうとしたことであろう。そして、もしロシアが北アメリカ大陸の西側に勢力を伸ばしていれば、アメリカは西進することは困難であり、わが国にペリー艦隊を派遣することはなかったと考えられる。

いつの時代においてもどこの国においても同じだと思うが、外交というものは初期の対応が極めて重要で、とりあえず現状維持を優先して問題を先送りするような姿勢を続けては、後々で問題解決を困難にさせるばかりではないか。
文化3~4年(1806~7)のロシアのフヴォストフらによる文化露寇の後で、命がけで老中たちを説得して開国を迫った河尻春之と荒尾成章のように、権力者や諸外国に対し堂々と正論を主張できる官僚や政治家が、今のわが国にいて欲しいものだと思う。

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間宮林蔵は原住民の小舟で北樺太を探検し、海峡を渡って樺太が島であることを確認した

前回の記事で、江戸幕府はフヴォストフが次回蝦夷地に現われた時には、ロシアとの交易を条件付きで認める返書を手渡す準備していたのだが、フヴォストフはわが国で乱暴狼藉を働いたことでロシア皇帝の命令によりオホーツクの獄に繋がれたために、手紙をロシア側に手渡すことが出来なかったことを書いた。

この手紙がロシア側に届けば別の展開になっていたのだろうが、届かなかったので幕府はますますロシア船を厳戒せざるを得なくなっていく。とはいえ、幕府は蝦夷地を直轄領にしたばかりであり、樺太や千島列島の状況についても良く分かっておらず、そもそも樺太が島であるのか大陸と繋がっているのかを知る国は世界中でどこにもなかったのである。

そこで江戸幕府は近藤重蔵や間宮林蔵に千島や樺太を探索させるのだが、この件に関しては、一般的な教科書である『もういちど読む山川の日本史』では、こう記されている。

レザノフ一行
レザノフ一行】

「1804(文化元)にはレザノフが長崎に来航して日本との通商をもとめた。このロシアの接近におどろいた幕府は、近藤重蔵や間宮林蔵を派遣して千島や樺太の探検をおこない、蝦夷地を幕府の直轄領にして、北方の警備を厳しくした。」(p.193)

この文章を普通に読むと、江戸幕府がレザノフの来航に脅威を覚えたような印象を受けるのだが、幕府が間宮林蔵らに蝦夷地の探検を命じたのは、レザノフがわが国から交渉を拒絶されて帰国した1805年から3年も後の話である。

根室でのラクスマン一行(天理大図書館蔵)
【ラクスマン一行】

レザノフの使節のみならず、1789年に来航したラクスマンも、ロシアに漂流してきた日本人漂流民を引き渡した上で通商を求めてきたのだが、いずれの使節もわが国に対しては、決して威圧的なものではなかったのである。

江戸幕府がロシアという国に脅威を覚え、海防の重要性を認識したのは、わが国を武力で開国させようとしたフヴォストフ樺太や択捉島など北方における日本側の拠点を攻撃した文化露寇(1806~1807)以降のことであり、幕府が蝦夷地の探検を命じたのはその翌年の文化5年(1808)であることを知るべきである。

間宮林蔵
間宮林蔵

そして、この文化露寇に択捉島で間宮林蔵自身が巻き込まれている。Wikipediaにはこう記されている。
「…寛政11年(1799)、国後場所(当時の範囲は国後島、択捉島、得撫島)に派遣され、同地に来ていた伊能忠敬に測量技術を学び享和3年(1803年)、西蝦夷地(日本海岸およびオホーツク海岸)を測量し、ウルップ島までの地図を作製した。
文化4年4月25日(1807年6月1日)、択捉場所(寛政12年(1800年)クナシリ場所から分立。択捉島)の紗那会所元に勤務していた際、幕府から通商の要求を断られたニコライ・レザノフが復讐のため部下のニコライ・フヴォストフたちに行わせた同島襲撃(文化露寇)に巻き込まれた。この際、林蔵は徹底抗戦を主張するが受け入れられず、撤退。後に他の幕吏らが撤退の責任を追及され処罰される中、林蔵は抗戦を主張したことが認められて不問に付された。
文化5年(1808年)、幕府の命により松田伝十郎に従って樺太を探索することとなり、樺太南端のシラヌシ(本斗郡好仁村白主)でアイヌの従者を雇い、松田は西岸から、林蔵は東岸から樺太の探索を進めた
。」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E5%AE%AE%E6%9E%97%E8%94%B5

文化4年(1807)フヴォストフによる択捉島シャナ襲撃では、4月23日にロシア兵によって米塩什器衣服を略奪され、南部藩の番屋に火を放たれ、5名が拉致され、さらに4月29日には幕府方は対話の機会を探るために白旗を振ったのだが、ロシア兵はそれを無視して幕府軍に銃撃を仕掛けたために、幕府軍は圧倒的な戦力差で戦意を失いシャナを捨てて撤退し、5月1日にもロシア兵が再び上陸し、倉庫を破り米、酒、雑貨、武器、金屏風その他を略奪した後放火して去っていったという。

その後で間宮林蔵は樺太踏査を命じられたのだが、この危険な仕事を受けたことを喜んだという。津軽藩士山崎半蔵の日記に、林蔵についてこう記されているのだそうだ。
エトロフでの戦い*で死ななかった事を悔やみ夜も眠れない日々を送っていたが、樺太調査を命じられ死に場所を得たようである
http://www.asahi-net.or.jp/~XC8M-MMY/rinzo02.htm
*エトロフでの戦い:文化4年(1807)フヴォストフによる択捉島シャナ襲撃

間宮林蔵墓石

茨木市のつくばみらい市上柳にある専称寺という寺に、林蔵が蝦夷地探査に先立って決死の覚悟を持って建てたとされる墓があるという。「間宮林蔵墓」と記された文字は林蔵の自筆であると伝わっていて、この墓石は昭和30年に茨城県文化財に指定されたのだそうだ。
http://www.asahi-net.or.jp/~XC8M-MMY/psetumei.htm

間宮林蔵は2度にわたり樺太を探検して、樺太が島であることを確認したのだが、風波を凌ぎ、寒さと戦いながら、小さな船に乗って命懸けで未開地を進んでわが国に貴重な情報をもたらしたことは、もっと顕彰されてしかるべきではないかと思う。

戦前は『尋常小學國語讀本. 卷12』でかなり詳しく間宮林蔵のことが記されており、全国民が学校でこの人物の事績を学んでいたのだが、今では樺太を探検した人物として名前が知られている程度に過ぎない。『尋常小學國語讀本』は『近代デジタルライブラリー』で誰でもネットで読むことが出来るので、興味のある方は覗いて頂きたいと思う。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874198/43

間宮林蔵は1回目の樺太探検ではノテトで松田伝十郎と合流後北樺太に向かい、西岸のラッカという地に「大日本国国境」の標柱を建てて文化6年(1809)6月に宗谷に帰着したのだが、報告書を提出したのち更に奥地の探索を願い出てこれが許されると、単身で樺太に向かっている。

この2度目の樺太探検について記された間宮林蔵の『東韃(とうたつ)紀行』も『近代デジタルライブラリー』で読むことが出来るのだが、これが非常に面白い。
原文 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991473/13
抄訳 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1877865/15

間宮林蔵の樺太探検
北夷分界余話

この最初の部分はこう書かれている。
文化5年、間宮林蔵一人、カラフト奥地探検の命を受け、その年の7月13日、蝦夷ソウヤを土人の船に乗って出帆し、その日シラヌシに到着した。
 このシラヌシには、土人が多く住んでいないので、従者として連れて行こうと思うものを雇うことができなかった。余儀なくそこから奥地に行くアイヌ船を待つため3日間同地に滞在し、7月17日、その船に乗ってそこを出帆し、5日間航海して、7月23日にトンナイというところに到着した。」

北夷分界余話 国立公文書館蔵
北夷分界余話

間宮林蔵は、西洋列強のように巨大な船に大量の食糧と武器を積んで探検したのではなく、原住民と交流しながら原住民の小舟を乗り継いで前人未到の地を進んでいったのである。

トンナイは戦前には真岡(まおか)と呼んだ地で、以前このブログで太平洋戦争の終戦直前にソ連が対日参戦し8月15日の玉音放送の後も樺太でソ連軍の侵攻が続き、8月20日にソ連軍が真岡に上陸したことを書いた。郵便局で勤務していた女性電話交換手12名の内10名が局内で自決した事件がこの地で起きた(真岡郵便局事件)のだが、この事件のあった場所が「トンナイ」である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-138.html

北夷分界余話2 国立公文書館蔵
北夷分界余話

林蔵は9月に北樺太の境界を越えたのだが、樺太の地は9月(旧暦)でもすでに寒かったようだ。寒さがつのり食糧も乏しくなってきたので、結局トンナイまで引き返して年を越している。
そして翌文化6年(1809)1月29日に再び北に向かって出発し、4月9日には第1回目の樺太探検で訪れたノテトに着き、更に進んで5月12日には、樺太の北端近いナニヲーに達している。

東韃紀行』にはこう記されている。
ノテト崎からこのナニヲに至る間は、カラフトと東韃大陸とが向かい合った狭い水路で、海水は悉く南に流れ、その間には潮の頗る速いところもあったけれども、折よく波も高からず小さな木船ではあったが、進退にはさほど難儀はしなかった。しかしそれから北方の海面は渺茫として果てしなく広がり、潮も悉く北方へ流れ、加うるに怒涛逆巻くという有様なので、とてもこのような粗末な船では進むことはできなかった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1877865/18

この光景を見て林蔵は樺太が島であることを確信し、そしてなおも北進して樺太の北端を目指そうとしたが、ここから北は波が荒れてどうしても小さい木船では進むことが出来ず、あきらめてノテトに引き返している。

林蔵はノテトの酋長コーニーの家に滞在して、その家の稼業の手伝いをしながら、原住民からも親しまれるようになった。彼らに、カラフトの地理やロシアとの国境などについて尋ねると、彼らは一様にカラフトが島であり大陸には繋がっていないと答えたという。それを確認するには、海峡を渡るのが手っ取り早いとのアドバイスを受けている

官命なしにみだりに異国の地に渡ることは国禁を犯すことになりかねないのだが、林蔵の使命はカラフトに関する全ての調査であり、海峡を渡って確認をしなければ不十分な調査で終ってしまうと考え、ノテトの人々が大陸に向かう際に同行させてもらうことを決意したのである。

間宮林蔵大陸探検
北夷分界余話

6月26日に長さおよそ五尋*、幅四尺ばかりの山旦船一艘に乗組んでノテト崎を出発し、対岸の大陸に渡り、黒竜江のキチ湖に出て、ここで一夜泊まった時に林蔵は夷人の家へ連れ込まれてとんでもない目に遭っている。
尋(ひろ): 1尋は6尺(約1.8m)。長さ五尋は約9m、幅四尺は約1.2m。

東韃紀行』にはこう記されている。
「…こうして家の中に連れて行かれた。家の中はもう真っ暗で様子も解らなかったが、なんでも毛氈のような物の上にしゃがませられた。すると多勢のものがまたどやどやとやって来て林蔵を抱くやら、頬ずりをするやら、唇をなめるものもあれば、着衣を引っ張る者もあり、懐中を探るものもあれば、手足をいぢくる者もあり、あるいは頭髪を握るもの、あるいは頭をポンポン叩くものもあり、散散に揶揄嘲弄されながらしばらく時を移した。そうこうするうちに酒肴など取出して、林蔵にしきりとそれを勧めるのであった。
 その意味は携行した物資を貰おうという下心であったものらしい。この間、まるで夢のような心地でいたが、とかくするうちに、ラルノという同船のものがやって来て、土人どもを厳めしく叱り飛ばして林蔵を連れ出して河岸に行った。ラルノの話にこの地の土人がニシバ(林蔵)を殺そうとたくらんでいるところであったという。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1877865/24

デレン仮府での進貢の様子。(国立公文書館所蔵『北夷分界余話』
【北夷分界余話】

7月11日に林蔵はデレンの満州仮府へ着いている。この場所に清国の官人が夏期2ヶ月ほど出張して仮府を設け、黒龍江下流域はもとより、カラフトや沿海州方面から清への進貢にやってくる土着酋長より貢物として黒豹の皮を受け取り、これに賞賜の品が施される。また建物の中に交易所が設けられており、さまざまな人々が交易することが許されていたのだが、取引につきものの喧嘩があちこちで起こったさまが記されている。

デレン仮府での交易所
【北夷分界余話】

林蔵が口述した『北夷分界余話』の挿絵には、デレン仮府の様子が何枚か描かれているが、喧嘩をしている絵などが活き活きと描かれていて実に面白いのである。

デレンで清の役人と筆談する林蔵
【北夷分界余話】

また林蔵は清の官吏とも筆談で話をしたことを記している。以下は林蔵が清の官吏のことを評している部分である。

「いったい彼らは中国以外は万国ことごとく『無政の夷』であると思い、すべて異邦人と蔑視しているものの如くで、林蔵が文章を書くのを見て、大いにこれを怪しみ、恐らくこの人は中国人であろうなどと言い、あるいは『ロシアは中国の属国』であるなどといってその境界を語らず、また『日本は中国に入貢の事があるか』など質問したりして、その驕傲なること言語に絶するものがあった。このような有様であるから各土人に対しては物の数とも思わぬいかにも尊大な態度を持していたのであった。
(註:他本には『中国の人なるべし』の下に、日本は中国に入貢のことがあるか否かを問うたに対し、林蔵は日本は支那と長崎あたりで通商貿易のことはあるが、入港のことなどないと答えた。すると彼らは『天地の間に中国に対して入貢せざる国はわずかに三国を余すのみ』などと言ったとある)」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1877865/35

一行がノテトに帰りついたのは8月8日で、林蔵はこの探検で樺太が島であることを身をもって知り、黒龍江沿岸や樺太の人々が清国の官吏に朝貢する実態を見てこの地にロシアの勢力が及んでいないことを確認し、9月に宗谷に戻って11月に松前奉行所へ出頭し帰着報告をしている。そして松前で探索の結果報告の作成に取り掛かり、『東韃紀行』、『北夷分界余話』としてまとめ、文化8年1月、江戸に赴いて地図と共に幕府に提出している。
林蔵の残した冒険の記録は、樺太や黒龍江周辺の人々の生活や文化がわかりやすく描かれて読んでいて引き込まれるのだが、西洋列強よりも早く樺太が島であることを実証したこの人物のことは、戦前のようにもっと広く今の日本人に知られるべきだと思う。

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【ご参考】
間宮林蔵が命がけで探索して制作した樺太の地図がのちにシーボルトにより持ち帰られ、現在オランダのライデン大学の図書館に保管されています。この貴重な樺太地図がどういう経緯でシーボルトの手に渡ったのかをこのブログで書きました。

押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-124.html

シーボルトについてはこんな記事も書いています。良かったら覗いてみてください。

シーボルトと日本の開国
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-30.html

シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-59.html

シーボルトはスパイであったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-93.html





ゴロウニンを解放させた高田屋嘉兵衛の知恵

文化元年(1804)にレザノフが長崎に来航したのだが翌年に追い返されたのち、文化3年(1806)、文化4年(1807)にレザノフの部下であるフヴォストフが武力でわが国を開国させようと乱暴狼藉を働いた事件があり、その翌年の文化5年(1808)に江戸幕府は間宮林蔵に樺太の探検を命じている。林蔵は2度にわたる探検で樺太が島であることや、樺太や大陸の黒龍江周辺地域がロシアの支配下にないことを確認した。

一方長崎では、文化5年(1808)8月にイギリス海軍のフェートン号が、オランダ国旗を掲げて国籍を偽って長崎港に入港し、出迎えのため船に向かったオランダ商館員2名を拉致すると、オランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げた事件が起きている。
翌日、フェートン号のペリュー艦長は人質1人を釈放して、薪、水、食料の提供を要求し、供給がない場合は、港内の船を焼き払うと脅迫してきたのだが、長崎奉行の松平康英は人質を取られていただけでなくフェートン号を追い払うだけの充分な兵力がなかったために、ペリュー艦長の要求に応じざるを得なかった。ただし水については少量の提供にとどめて明日以降充分な量を提供するとして応援兵力の到着を待つこととしたのだが、フェートン号は碇を上げて早々と長崎港外に去ってしまったという。

このフェートン号事件でわが国には人的・物的な被害はなかったとはいえ、江戸幕府の警戒体制の不備が明らかとなり、松平康英は国威を辱しめたとして自ら切腹し、本来配置すべき兵力を無断で大幅に減らしていた鍋島藩家老など数人も責任をとって切腹したという。
この事件を機に幕府の対外姿勢が硬化したことは言うまでもないが、その3年後の文化8年(1811)にはまたロシアの船がやってきた。

ディアナ号
【ディアナ号】

軍艦ディアナ号の艦長ゴロウニンは千島列島南部の測量任務を命じられていて、5月に択捉島の北端に上陸したのち国後島の南部に向かい、泊湾に入港すると補給を受けたい旨のメッセージを樽に入れて送って海岸で日本側の役人と面会することとなり、陣屋に赴くことを要請されてそこで松前奉行配下の役人に食事の接待を受けたのち、補給して良いかどうかは松前奉行の裁可が必要であり、それまで人質をここに残してほしいという日本側の要求を拒否し、船に戻ろうとしたところを捕縛されてしまう。

俄羅斯(おろしや)人生捕之図 先頭がゴロウニン
【俄羅斯(おろしや)人生捕之図 先頭がゴロウニン

ディアナ号副艦長のリコルドは、ゴロウニンが戻ってこないことを心配し、救出のための遠征隊派遣を要請しようとペテルスブルグに向かったのだが、滞在先のイルクーツクで日本への遠征隊派遣が却下されたとの結論を聞き、リコルドは、通訳として文化露寇で捕虜となりロシアに連行されていた良左衛門という人物を連れてオホーツクに戻っている。

ロシア地図


文化9年(1812)の夏にリコルドは、他の漂流民を加えて国後島に向かいゴロウニンとの交換を求めたが、松前奉行の役人は漂流民は受け取ったが、ゴロウニンらは処刑されたと偽りを言って拒絶したという。

仲間達が生存していることを信じて疑わないリコルドは、さらなる情報を収集するために、たまたま択捉島から函館に向かう途中で泊に寄港しようとしていた官船・観世丸を拿捕したのだが、この船に乗っていた船主の高田屋嘉兵衛はゴロウニンが生きていることを知っていたのである。

リコルド
リコルド

副艦長のリコルドの手記が徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第25』に引用されているが、彼は嘉兵衛という人物をこう記している。

「この船長(高田屋嘉兵衛)なる者は、絹布の美服を着し帯剣をなし、一目して凡庸たらざるを知る。予ただちにこの者を艦長室に誘うたれば、彼は泰然として、毫も憂懼の態なく、日本風にて丁寧に敬礼をした。…
 この時から日本人を襲撃し、復讐するの企てを一時停止し、天帝の賜たる高田屋嘉兵衛を率い、カムチャッカに至り、冬籠りをなし、彼よりゴロウニン等の現状を詳に聞質し、なお日本政府の露人に対する政策を聞かんと決定した。そもそもこの嘉兵衛は、これまで捕えたる愚昧卑野の蛮民ではなく、よく事理を弁えたる天晴(あっぱれ)の勇士だ。予嘉兵衛に、露国に汝を伴い往かんと言いたれば、彼は更に憂慮する色なく、勇気凛然として『よろし』予は差支えなし、同伴すべし。ただねがわくは露国に帰りたるのち、貴下予と相別るるなかれと言うた。予は誓いて然せじと答え、かつ明年に至らば、汝を送還せんと慰めた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920574/180

リコルドが高田屋嘉兵衛の乗る船を拿捕した1812年のロシアは、フランスのナポレオンが69万人の兵を率いてロシアを侵攻した戦争の真最中であった。ナポレオンは当時産業革命中のイギリスを封じ込めるために1806年に「大陸封鎖令」を同盟国に発令してイギリスとの通商を禁じ、フランスがヨーロッパの経済の中心となることを狙ったのだが、ロシアがその命令を守らないためにナポレオンのロシア戦役が始まったのである。
この時代に相次いでわが国の近海にロシアやイギリスの船が現われるようになったのは、ナポレオンの「大陸封鎖令」と無関係ではないのだが、その話をするとまた長くなるで、話題を高田屋嘉兵衛に戻そう。

対日折衝記

嘉兵衛にはゴロウニン事件を解決するアイデアがあった。リコルドの『対日折衝記』によると、嘉兵衛は幕府への報告書を書き上げることに没頭していたという。その報告書の内容について、リコルドはこのように記している。
「…報告書で嘉兵衛が意図したのは、ロシア人についてかつて日本の誰からも示されたことのない、全く異なった説明を与えようとするものだった。…彼自身、憂国の情なく考えることのできなかった祖国の前途のために、両政府が関与していない、不測の事態より生じた事件に関する日露両政府の敵意を、平和的に解決することが必要であると明確に認識していた。嘉兵衛はこの敵意が埋められないままでいると、それは日本に致命的な損失を与えるであろうことを確信していた。…日本人は決して隣国の列強達と無益な争いをしようという意図はないこと、幾人かのわが同国人が犯した罪によって、ロシアが自分達に敵意を抱いているという考えを持つように至り、やむなく防衛のため武器を手に取った。他の列強同様、日本が隣国との間で情報をやり取りしていれば、このような誤った考えは簡単に改められたであろう。しかしながら、他国との交流は日本の法律が禁じるところであった。結果的にこれらの極悪な行為が、我が政府の命令であるかどうかを確かめることは不可能であった。日本全土にわたって戦争への準備が進められた。しかし日本人の目的は、単にロシア政府の釈明を得ることだけであったのだ。『私は信じます』嘉兵衛は言った。『もしイルクーツクの長官様から、フヴォストフの蛮行には全く政府が関与してない旨の証言があれば、皆さんのお仲間を解放するのに充分でしょう。』」(リコルド『対日折衝記』p.56)

高田屋嘉兵衛

文化10年(1813)に嘉兵衛の懇請によりディアナ号はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクを出航し国後島に向かった。嘉兵衛は泊に着くとリコルドが記した謝罪文を携えて国後陣屋に赴き、事の経緯を説明したという。
数日後嘉兵衛がロシア語の手紙を持ち帰った。リコルドはこう記している。

「私の喜びはどのようなものであったか。わが友嘉兵衛の手から手紙を引ったくって、ゴロウニンの筆跡を認めた。手紙の大きさから、それには彼の抑留中の出来事が説明されているのだと思ったが、手紙を広げるとただ次のように書かれているだけであった。
士官も水夫も千島人アレクセイも、私たちは皆生きて松前にいる。』…
 この喜ばしい数行によって、同胞の生存へのあらゆる疑いは解け去った。そして甲板で乗組員たちにこの文章を読み上げた。多くの者が敬愛する艦長の筆跡を覚えていたので、手紙に目を凝らし、高田屋嘉兵衛に感謝を捧げた。…」(同上書 p.71)

数日後に松前奉行の高橋重賢を載せた船が国後に到着し、ロシアとの交渉が始まった。奉行所はリコルドとの交渉相手として、双方の意思疎通が可能な高田屋嘉兵衛を指名したという。
また、その船にはゴロウニンと同様に幽囚の身となっていたディアナ号の水夫一人が乗っていた。その仲間が、日本人官吏の目を盗んでゴロウニンが記した仲間宛の手紙を持ち出すことに成功している。

ゴロウニン

少し長い手紙だが、最初の部分だけ引用させていただく。

「敬愛する友よ!
 日本人は、ロシアの平和的意図とフヴォストフの不法行為に関する私達の主張の真実を確信したようだ。しかし彼等は公印のあるわが政府長官からの謝罪状を要求している。ロシアの友好的意図を充分に認識させれば、通商関係に入る望みがある。彼等は、既にオランダ人の狡猾な意図に気付いているようだ。私達は、イギリス人の手に渡った手紙の中で、長崎のオランダ人通訳がレザノフと日本人との間を決裂させてやったと自慢しているのを彼等に教えてやった。それでも君が彼等となんらかの交渉を持つ時は、とにかく注意をしろよ。…彼等の交渉が遅いと苛立ってはいけない。ヨーロッパでは1日2日で済むことでも、日本人は数ヶ月をかけて議論するのだ。彼等と交渉するにあたって、4つの留意点を薦める。慎重と忍耐と礼節と、そして公明正大に振舞うことだ。私達の解放のみならず国益は、君の思慮分別にかかっている。…」(同上書 p.78~79)

高田屋嘉兵衛は幕府をどう説得すればゴロウニンの解放が可能となるかが良く分かっていた。フヴォストフの乱暴狼藉はわが国の人々にロシアに対する恐怖感を植え付けてしまったが、彼のとった勝手な行動はロシア皇帝の不興を買い処罰されて、今はオホーツクの獄に繋がれている。ならば、フヴォストフの蛮行についてロシア政府は関知していないことを公文書で幕府に提出し、その上でこの男が掠奪した物品をわが国に返すべきである。そうすれば、両国の囚人の交換が可能となる…。

前々回の記事で、文化5年(1808)2月に、後に箱館奉行となった河尻春之と荒尾成章が老中の諮問を受けて提出した意見書に、もしロシアが文化3年度、4年度の暴行を謝罪するならば交易を許して良いと主張し、その意見書に基づいて幕府でフヴォストフの再来時に手渡そうと準備した手紙があったことを書いた。その内容を繰り返すと、「狼藉を働いた上に、いうことをきかねばまた船を沢山出して乱暴するというような国とは通商できない。戦をする用意はこちらにもある。本当に交易したいのなら、悪心のない証拠として日本人を全部返した上で願い出よ」というもので、奇しくも高田屋嘉兵衛の考えに近いものがある。

さらに注目すべきは、ゴロウニンの手紙の中で、彼が文化元年(1804)にレザノフの使節が長崎出島に来航した際の長崎のオランダ人通訳を疑っている点である。わが国の記録では、老中土井利厚から意見を求められた林述斎が、ロシアとの通商は「祖宗の法」に反するために拒絶すべきだと主張したことになっているが、オランダ側に日露との交易が始まることを阻止したいとする動機は間違いなく存在した。
以前、このブログで記したとおり、日本の良質な銅が西洋では高く取引され、オランダはわが国との貿易を独占して莫大な利益を獲得していたのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-393.html

そんなに日本との交易が儲かるのならば、普通に考えれば、ロシアが日本との交易を開始する交渉にオランダがロシアに協力することは考えにくい。ゴロウニンが、長崎のオランダ人通訳がレザノフと日本人との間を決裂させたと書いていることはおそらく史実なのだと思う。

高田屋嘉兵衛が呈示した解決策は、松前奉行もロシア側も満足のいくものであり、文化10年(1813)9月に松前奉行はロシア側の釈明を受け入れ、2年3か月ぶりにゴロウニンは解放されることとなる。
ロシア側は国境画定と国交樹立も希求していたのだが幕府は国境画定のみ交渉に応ずることとし、1814年春に高橋重賢を択捉島に送り6月8日に到着した時にはロシア船は去った後だったのだそうだ。ゴロウニンもリコルドも長い交渉で疲れて、まずは帰国したかったのであろうが、そのために国境画定は幕末のプチャーチンまで持ち越されることとなってしまった。

日露友好の像

江戸幕府がロシアとの国交樹立を先送りにしたのは松前奉行にそこまでの権限がなかったのだろうが、ロシアがもう少し粘れば、意外と早く決着したのではないだろうか。
というのはゴロウニンもリコルドも、日本との交渉の過程でわが国に対して好意的になっており、この事件の解決に関わった日本人もロシアに対して好意的であったからである。

日本幽囚記

最後にゴロウニンの日本人に関する記述を紹介して、この記事を終えることに致したい。
日本人が聡明で洞察力に富む国民であることは、外国人に対する態度や内政での取り計らいによっても証明される。この国民が自分達の同胞の不幸に接する時となんら変わらない思いやりのある態度を示してくれるのを、私達は幾度となく経験した。」(ゴロウニン『日本幽囚記Ⅲ』p.18)
日本人はあらゆる階層を通して、人への接し方が極めて丁寧である。互いの礼儀正しい態度と洗練された振る舞いは、この国民が真に文明の民であることを証明するものである。幽囚の全期間を通じて、私達と時を過ごした日本人達はさほど高位の階級ではなかったが、彼等が喧嘩したり互いに口汚く悪罵し合ったりするのを聞いたことは一度もなかった。時には彼等の間で、議論が戦わされることもあったが、すべては節度と平静さの中で行われた。わが国の上流階級の集まりの中においてさえ、常にこのようにはいかない。」(同上 p.28)

ゴロウニンは2年3ヵ月もわが国で捕えられながら、最後は日本人に好意を抱くようになったことはこの文章を読めば明らかである。その点についてはリコルドも同様で、後に海軍大将となった彼の墓碑には「日本」という文字が刻まれていたことが『対日折衝記』の解説に書かれている。

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【ご参考】ゴロウニン『日本幽囚記(全三巻)』とリコルド『対日折衝記』は、淡路島の洲本市五色町にある高田屋顕彰館・歴史文化資料館で販売しています。以前淡路島の日帰り旅行でこの資料館に立ち寄りました。

淡路人形浄瑠璃と高田屋嘉兵衛と淡路特産玉葱の「七宝大甘」~淡路島文化探訪の旅3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-52.html

そろそろ桜が満開ですね。まだ計画を立てていない方は、こんな場所はいかがですか。

龍野公園と龍野城の桜を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-204.html

桜の咲く古民家の風景を求めて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-232.html

津山城址と千光寺の桜を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-247.html

津山の文化財を訪ねた後、尾道の桜を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-249.html

石山寺の桜と、湖東三山の百済寺、金剛輪寺を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-382.html

「観音の里」長浜の桜と文化を楽しんだあと、徳源院や龍潭寺、井伊神社を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-384.html

湖底に沈んだ「飛騨の白川郷」と呼ばれた合掌造り集落の話
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-336.html







長州藩が攘夷の方針を改めた経緯

文久2年(1862)に公武合体策の一環として和宮と結婚した将軍徳川家茂は、翌文久3年(1863)3月に上洛した際、義兄にあたる孝明天皇に攘夷の沙汰を申しつけられ、幕府はやむなく5月10日をもって攘夷を実行することを奏上し諸藩にも通達した。

攘夷運動の中心となっていた長州藩は、日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である馬関海峡(下関海峡)に砲台を整備し、軍艦4隻を配備して海峡封鎖の態勢をとり、攘夷期日の5月10日に田ノ浦沖に停泊していたアメリカ商船ベングローブ号を砲撃した。ベングローブ号は周防灘に逃走したが、続く5月23日には、長府沖に停泊していたフランスのキャンシャン号には数発が命中し、キャンシャン号から交渉の為に書記官をボートに乗せて陸に向かわせたところ、藩兵が銃撃を加えたために水兵4人が死亡した。
さらに5月26日、オランダ東洋艦隊所属のメデューサ号にも攻撃を加え17発が命中し死者4名が出たという。

オールコック卿
【ラザフォード・オールコック】

長州藩はその後も攘夷の姿勢を崩さなかったために、下関海峡は通航不能となってしまった。イギリスの駐日公使ラザフォード・オールコックは、長州藩による攘夷が継続することで幕府の開国政策が後退することを心配していた矢先に、翌元治元年(1864)2月に幕府は横浜鎖港を諸外国に持ち出してきた。
そこでオールコックは日本人に攘夷が不可能であることを知らしむべく、長州藩への懲罰攻撃を決意したのである。

アーネスト・サトウ22-23歳

当時イギリスの駐日公使館の通訳として横浜にいたアーネスト・サトウは著書にこう記している。

「ラザフォード卿は帰任するに際し、実に大きな権限を与えられていた。彼は、長州藩の敵対的態度に対し膺懲(ようちょう)を加えようと決心していた。われわれは、もはや薩摩の好意を獲得したと言っても良かったので、もう一方の攘夷派の首魁(しゅかい)である長州に対しても薩摩に対したと同様の手段を用いるならば、同じく有利な効果が得られるものと充分に期待していた。」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.115)

サトウが「薩摩藩の好意を獲得した」と述べている点について補足しておこう。
このブログで前年の文久3年(1863)の薩英戦争で薩摩藩が善戦したことを書いたが、薩摩藩が善戦できたのは天候の要因が大きかったことは明らかで、悪天候でなければ射程距離の長いアームストロング砲相手では勝負にならなかったことを薩摩藩が認識し、無謀な攘夷を行なってはかえって国を危うくすると考えてイギリスとの講和談判を開始したことを指している。興味のある方は次のURLの記事を読んで頂ければありがたい。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-319.html

一外交官の見た明治維新

アーネスト・サトウの著書を続けよう。
「…今や一隻も下関海峡を通ることができなくなったのだ。これでは、ヨーロッパの威信が失墜すると思われた。日本国内の紛争に頓着なく、いかなる妨害を排除しても条約を励行し、通商を続行しようとする当方の決意を日本国民に納得させるには、この好戦的な長州藩を徹底的に屈服させて、その攻撃手段を永久に破壊するほかない。
 そこで、ラザフォード・オールコック卿は、時を移さずフランス、オランダ、合衆国代表との提携を実現しようと苦慮し、ついに完全にこれに成功した。そこで大君の政府に対し、日本側が20日以内に下関海峡を再開するという満足な保証を与えなければ、外国艦隊を同地へ急派して、長州藩主の非を正すであろうと警告した
。不思議な偶然の一致であるが、その時ちょうど、長州から洋行していた若侍5名の一行中、その2名が外国から帰朝したばかりのところであった。この2人は、世界を見学して列強国の資源について多少の知識をうるために、前の年ひそかにイギリスに派遣されたのである。その名前は伊藤俊輔(訳注:後、博文)と井上聞多(訳注:後、馨)。この2人は、煉瓦塀に自分の頭をぶっつけるのは無益だということを藩の同志に警告しようと、知識を身につけて、日本に帰って来たのであった。…伊藤と井上はラザフォード卿に面会して、帰国の目的を知らせた。そこで卿は、この好機を直ちに捕え、長州の大名と文書による直接の交渉に入ると同時に、一方では最後の通牒ともいうべきものを突きつけ、敵対行動をやめて再び条約に従う機会を相手にあたえようと考えた。卿は仲間の諸公使の承諾を得た上で、伊藤と井上の二人を便宜の地点に上陸させようと、二隻の軍艦を下関の付近へ急派したが、その際この両名に1通の長い覚書を託して、藩主に提出させることにしたのである。」(同上書 p.116-117)

洋行前の伊藤博文
【洋行前の伊藤俊輔(後の伊藤博文)】

サトウが記している日本人は、後に初代内閣総理大臣となる伊藤博文と、外務卿、農商務大臣などを歴任した井上馨なのだが、海外渡航が国禁であった時代に長州藩は極秘に若手侍を洋行させていたのである。要するに、長州藩が唱えていた「尊王攘夷」は本物ではなく、当初から二股をかけていたと理解するしかない。
遊学先で長州藩が馬関で外国船を砲撃したことを知り、3人を残して伊藤・井上の2名が大急ぎで帰国して英国公使オールコックに会見し、公使が二人に託した覚書の訳文を持って長州に向かった。

長州藩士時代の井上馨
【長州藩士時代の井上馨】

サトウの著書には、山口で藩主に面談し、その回答についてこう述べている。
「…両人はまず、山口で主君に面謁して四ヶ国外交代表からの手紙を直接渡したと述べてから、主君から託されてきた回答について語り出した。それによると、藩主は重臣との相談の末に、次のような結論に達した。すなわち、藩主は外国代表の手紙の趣旨がもっとも至極なことを充分に認め、また自分の力では西洋諸国の兵力に対抗できないことも承知しているのだが、大君(タイクーン)*から一回、天皇(ミカド)からは再三の命令を受けており、これに従って行動している次第である。だから、自分の責任でやっているのではないし、また許可を待たずに外国代表に回答を与えることは自分の権限外に属する。よって、自分は京都へ上り、意見を具申して天皇の心を動かそうと思うが、それには三か月を要する見込みであるから、それまでは列強諸国が行動を起こすのを待ってほしい、というのだった。」(同上書 p.119-120)
*大君(タイクーン):徳川将軍のこと

伊藤と井上は何等の文書も持たずに口頭で語ったのみで、藩論が攘夷に傾いて収拾がつかず、戦争にならずに済みそうもないとも言った。
二人によると、「外国の代表は大君を見限って大坂へ行き、直接天皇と条約を結ぶために、天皇の大臣たちと会見するのが一番の上策であろうと言った。そして、きわめて痛烈に大君の政治を非難し、幕府が長崎とか新潟とかの、商業の発達しそうな場所をことごとく専有して、内外の交易を全部独占していることを責め、国民の大部分もこれと同じ考えである」とも言ったのだが、なぜ伊藤や井上は長州藩でなく、英国公使官に報告したのだろうか。この点の疑問については後述する。

伊藤・井上による藩主への忠告が失敗に終わったことにより、四国連合は20日以内に海峡封鎖が解かれなければ武力行使を実施する旨を幕府に通達した。
なお、艦隊の出発前に、フランスから幕府の外交使節団が帰国したのだが、幕府は約定の内容を不満として批准されなかった結果、武力行使は予定通り準備されることとなった。

7月27、28日に四国連合艦隊は横浜を出港。艦隊は17隻で、内訳はイギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ仮装軍艦1隻で、総員約5000の兵士が乗艦していたという。
対する長州藩は奇兵隊2000と砲100門で兵力差は歴然としていた。

馬関戦争図
【馬関戦争図】

8月5日の午後から四国連合艦隊の砲撃が始まったのだが、この戦いはどのような戦いであったのか。アーネスト・サトウの記録をしばらく引用させていただく。

「ユーリアラス号から第一弾が発射された。田野浦側の艦隊全部がこれにならった。串崎岬の砲三門を備えた砲台から撃ち出す砲弾が、イギリス旗艦のかなり近くまで飛来すようになったと思う間に、軽艦隊がこの砲台を沈黙させてしまった。やがて、錨綱に発条(バネ)の取りつけをやっていたセミラミス号が、後甲板砲の恐るべき威力をもって砲撃を開始した。その弾丸はほとんど全部命中した。ターキャング号は、たった一門の砲で最善の効果を発揮した。コンカラー号は三発の炸裂弾を発射したが、その中の一発は多人数の密集している砲台軍の間で見事に炸裂した。…」(同上書p.128-129)

下関戦争

こんな具合で、連合軍は圧倒的な兵力差で次々と砲台を占拠し砲を破壊していった。
8月7日には彦島の砲台軍を集中攻撃し、陸戦隊を上陸させ砲60門を鹵獲し、8日までには長州藩の砲台は悉く破壊され、火薬庫も焼き払われてしまったという。

高杉晋作
【高杉晋作】

8月8日、戦闘で惨敗を喫した長州藩は高杉晋作を送り込んで、四国連合艦隊旗艦のユーライアラス号で行われた談判の席に臨ませている。
18日に講和が成立し、下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要とする者の売渡しなどのほか、賠償金3百万ドル支払いを長州藩が受けいれて講和が成立したのだが、賠償金については、今回の外国船に対する攻撃は幕府が朝廷に約束し諸藩に通達した命令に従ったのであるから、請求すべきは長州藩ではなく幕府であるということになったという。

かくして長州藩は、この「下関戦争」ののち、冒頭のアーネスト・サトウの言葉通りにイギリスに接近することになるのだが、イギリスは元治元年(1864)の時点で明治維新の中心勢力となった薩摩藩・長州藩の両藩を手なずけたことになる。

先ほど、長州藩からイギリスに密留学した者がいたことを書いたが、このメンバーは伊藤博文、井上馨、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の5名で、この密留学の手助けをしたのがトーマス・グラバーである。

実は、グラバーは薩摩藩にも働きかけて、15名の留学生をイギリスに送る手助けをしているのだが、その留学メンバーの中には五代友厚、寺島宗則、森有礼、長澤鼎がいたという。

明治維新という名の洗脳

認知科学者の苫米地英人氏の著書『明治維新という名の洗脳』という面白い本がある。

苫米地氏は、『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』のなかに、イギリスのハモンド外務次官からイギリス駐日公使ハリー・パークスに宛てた1866年4月26日付の文書の一節が引用されていることに注目しておられるのだが、その内容は実に驚くべきものである。

日本において体制の変化がおきるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない。じじつ、その変化はわれわれの考え方と異なる仕方でおきるかもしれないが、それが真に恒久的なものであり、且つ有益なものであるためには、徹頭徹尾、日本的性格という特徴を帯びていなければならない。」(『明治維新という名の洗脳』p.44)

イギリスのハモンド外務次官は、イギリスの極東政策の現場のトップであった人物であり、イギリスが幕末の日本を裏から動かしていた可能性を感じさせる文章である。

それだけではない。薩摩・長州の留学生たちのことは、パークスらの通信文の中でエージェントと書かれているらしい。通常エージェントと言えばスパイを意味することは言うまでもない。また、歴史家の犬塚孝明氏の『密航留学生たちの明治維新』という著書には、長州留学生たちは留学に必要な授業料を払っていなかったことが記されているのだそうだ。伊藤が支払ったのは2ヶ月分で井上は授業料を全く払っていないという話も興味深いところである。伊藤や井上が最初に長州藩のためではなくイギリス公使館のために動いたのはそういう背景を知らなければ理解できるものではない。

明治維新については、教科書などでは外国人の関与があったことを書いている本はまずなく、テレビでそのような解説がなされることも無い。私自身も長い間、明治維新については日本人によって成し遂げられてわが国が西洋の植民地となる危機から守ったと理解して来たのだが、どうやらそんなに単純なものではなさそうだ。
幕末の志士と呼ばれる若い侍がなぜ異なる藩と横で繋がっていったのか。江戸幕府を転覆させるための資金を薩摩や長州などの藩はどうやって調達したのかなど、理解しがたいことがあまりに多すぎる。不思議なことが多い理由は、多くの肝腎な事実が隠蔽されているからではないのか。

また苫米地氏は、アーネスト・サトウも『一外交官の見た明治維新』のなかで、英国の日本統治方法についてこんな意味深なことを書いていることを紹介しておられる。文中の「両刀階級」とは武士のことである。

もしも両刀階級の人間をこの国から追い払うことができたら、この国の人民には服従の習慣があるのであるから、外国人でも日本の統治は困難ではなかったろう。だが、外国人が日本を統治するとなれば、外国人はみな日本語を話し、また日本語を書かねばならぬ。さもなければ、そうした企画は完全に失敗に終わるだろう。しかし、この国には侍が多く存在していたのだからこうした事は実現不可能であった。」(『明治維新という名の洗脳』 p.73)

アーネスト・サトウは、日本を植民地化するためには武士を排除しなければならないし、外国人が日本語をマスターしなければならないが、そんなことは不可能だ。日本人を統治は武士に任せるべきであり、イギリスはその武士階級を統治すれば日本を掌握することができるという考えのようだが、よくよく考えてみると今のわが国も、一部の政治家やマスコミや教育界などがどこかの外国勢力に手なずけられていて、いいようにコントロールされている状態が続いているような気がする。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

生麦事件は、単純な攘夷殺人事件と分類されるべきなのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-317.html

薩英戦争で英国の砲艦外交は薩摩藩には通用しなかった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-318.html

薩英戦争の人的被害は、英国軍の方が大きかった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-319.html

GHQが日本人に封印した歴史を読む~~イギリスとインド・中国
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-156.html

GHQが日本人に封印した歴史を読む~~ペリー来航
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-157.html


薩摩藩・長州藩の討幕活動に深く関わったグラバー商会のこと

前回の記事でトーマス・グラバーが薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長澤鼎や長州藩の伊藤博文井上馨らの海外密航留学の手引きをしたことを書いた。

トーマス・ブレーク・グラバー

グラバーは安政6年(1859)に、21歳の時に「ジャーディン・マセソン商会」に入社後、開港後間もない長崎に移り、2年後には「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店として「グラバー商会」を設立し貿易業を営んだ。当初は生糸や茶の輸出が中心だったのだが、8月18日の政変後の政治的混乱に着目して、討幕派、佐幕派、幕府のそれぞれに武器や弾薬を販売して大稼ぎした人物である。

ラザフォード・オールコックのあとで慶応元年(1865)にイギリス公使となったハリー・パークスは当初は幕府支持であったようだが、グラバーは本国の動きとは別に早い時期から討幕勢力に肩入れして、明治維新に大きく関わったのである。

慶応元年(1865)に幕府が第二次長州征伐の軍を起こし、14代将軍家茂が大坂城に入って大本営とした頃に、長州藩では大量の武器弾薬を密輸入して戦争準備を進めていた。

開国の真実

鈴木荘一氏の『開国の真実』にはこう記されている。
長州藩の慶応元年(1865)5月の武器購入概算は、装条銃千八百挺、剣銃二千挺、金額合計四万六千両という厖大なものである。長州藩が密輸入した小銃等は、下関―上海の直行ルートや、下関―長崎―上海の三角ルートで運ばれ、船がひっきりなしに往復していた。
 下関には上海から入荷した外国品があふれ、上海には下関から輸出された品物が沢山あった。
 長州藩領内の下関は小銃・弾丸・火薬など武器輸入の密貿易の拠点となった
のである。
 密貿易には莫大な利益がともなう。外国商人は危険を冒して下関へ集まってきた。これ等の武器商人のうち、もっとも代表的なのがイギリス商人トマス・グラバーである。」(『開国の真実』p.246)

当時は、大量の外国製武器が上海に集まっていたようなのだが、その事情についてはWikipediaの解説がわかりやすい。
1865年(慶応元年)に双方で300万もの兵士が戦ったアメリカの南北戦争が終結すると、南北両軍が使用していた大量の軍需品が民間業者に払い下げられた。これらの払い下げ品には、90万丁近くが米国に輸出されていたエンフィールド銃も含まれており、その多くは市場を求めて太平天国の乱が続いていた中国(上海・香港)へ集まり、幕末の日本にもグラバーに代表される外国商人によって輸入された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E9%8A%83

アメリカの南北戦争では62万人もの戦死者が出たというが、多数の戦死者が出た原因は破壊力の強い最新鋭の小銃がこの戦争で大量に用いられたことによる。戦争が終わってアメリカで用済みとなった大量の武器が、「死の商人」たちによって次の紛争地である中国に集められ、さらに幕末の日本にも流れて行ったというわけである。
長州藩が慶応元年にグラバーを通して密輸入した銃はいずれも口径が大きく、命中すれば即死となる可能性の高いものだったという。

第二次長州征伐で15万人の幕府軍が4千人の長州軍に敗れた原因は、兵士の士気の差もあっただろうが武器の性能が桁違いであったことをまず知る必要がある

ライフリング

江戸幕府や他藩が西洋軍制を導入した時期に相次いで買った銃はゲベール銃と呼ばれるもので、射程距離は100mから300m程度しかなかったのだが、長州藩や薩摩藩は早い時期から、ミニエー銃などの最新の武器を購入していたという。

200px-Minie_Balls.jpg

ミニエー銃にはゲベール銃と違い、銃砲身内にライフリングとよばれる螺旋状の溝が施されていて、銃弾はロケットの様に円柱の先が尖った形になっている。(ゲベール銃の銃弾は球状)

ゲベール銃とミニエー銃

その改良を加えることで銃弾に回転を与えることとなり、飛距離と命中精度と破壊力が飛躍的に向上した
のである。
Wikipediaによるとミニエー銃の有効射程はゲベール銃の3~6倍に延びたとあるが、長州軍はこの銃で、幕府軍の銃の届かないところから幕府軍を狙い撃ち出来るので、いくら兵力差があっても銃弾が続く限り負けることはないだろう。

そして、このような殺傷能力の高い武器の密輸に、グラバーの手引きによって英留学を果たした伊藤博文井上馨が関与していたのである。

鈴木荘一氏の著書を再び引用させていただく。幕府による第二次長州征伐に対抗するために、長州藩の伊藤博文井上馨はグラバーから武器を購入契約を結ぶのだが、その時のグラバーの発言に注目である。

「慶応元年(1865)7月、幕府は長州藩の不始末による下関戦争賠償金1回分五十万ドルを長州藩の代わりにイギリスに支払ったのだが、実はこの慶応元年(1865)7月、長崎で妙な密談が行なわれていた。この月、井上馨(当時は井上聞多)と伊藤博文(当時は俊輔)は長崎で密かにグラバーと会見しミニエー銃四千三百挺、ゲペール銃三千挺、金額にして九万二千四百両の購入契約を結んだ。このときグラバーは井上馨等に対し『百万ドルぐらいの金はいつでも用立てるから、決して心配には及ばない』と申し出た
 一口に百万ドルというが…。百万ドルとは半端な金額ではない。
 百万ドルといえば、幕府がアメリカから購入した強力軍艦『甲鉄』を二隻も買える大金だ。
 当時、社員15人のグラバー商会にそれだけの資力があっただろうか。グラバー商会の財務内容を洗ってみる必要がある。1866年(慶応2年)6月末のグラバー商会の決算書をみると、ジャーディン・マセソン商会からの債務額が38万ドルに膨れ上がっている。グラバー商会は負債過多の状態にあり、百万ドルもの大金は持っていなかったようだ。
 しからば、グラバーが井上馨等に語った百万ドルの出所は、一体、何処だったのか
 それは今でも謎のままである。
 しかしながら、長州藩の不始末により幕府がイギリスに対し長州藩の代わりに下関戦争賠償金第一回分五十万ドルを支払った慶応元年(1865)7月という同じ時期に、グラバーから長州藩に対し百万ドルの信用供与の話が出たとなると、『イギリスは幕府から召し上げた五十万ドルをグラバーを通じて長州藩に信用供与したのか?』と邪推してみたくなる。
 少なくとも確かなことは、イギリスは『幕府から五十万ドルを召し上げた』という事実と『長州藩に百万ドルの信用供与を申し出た』という事実である。幕府の軍資金と長州藩の軍資金の間に、『行って来いで150万ドルのハンディキャップを付ければ…』幕府と長州藩の軍事バランスが逆転するのも当然の事だ。」(同上書 p.253-254)

文久3年(1863)の薩英戦争の時は薩摩藩も賠償金の支払いを幕府より借用して支払うことで決着し、あとで踏み倒している。長州藩は下関戦争の賠償金3百万ドルは、幕府が攘夷の実行を朝廷に約束し諸藩に通達したものであるから、請求先は幕府であるとした。
薩摩も長州もイギリスと和解する際に幕府に賠償金を支払わせたのだが、これは幕府を弱体化させるために何者かによって仕組まれたものかもしれない。

「死の商人」の発想からすれば、射程距離が従来の3倍以上もある最新兵器を初めから幕府に大量に売っていたのでは、幕府による統治がより強固になるだけでわが国での武器取引はすぐに終焉してしまうことになる。彼らができるだけ長く大量の武器を販売するためには、最新武器を有力な討幕勢力に提供し続け、双方の兵力のバランスを勘案しながら、敵対する勢力にも武器を提供し、できるだけ紛争が長引くようにすることが望ましかったはずなのだ
実際グラバーは討幕派・佐幕派双方に武器取引をしていたのだが、こんなことを繰り返していたのだから、グラバーは武器弾薬の売買で大儲けしたことだろうと誰でも思う。

しかしながらグラバー商会は明治3年(1870)に倒産しているのだ。
その経緯については前回記事で紹介した苫米地英人氏の著書に詳しく記されている。少し引用させていただく。

徳川慶喜
【徳川慶喜】

1868年、1月鳥羽伏見戦いが勃発、グラバーの期待どおり、薩長軍は連戦連勝する。
 将軍慶喜は大坂城に敗走し、大広間に家臣団を集めて『事すでにここに至る。たとい1千騎が戦没して一騎となるといえども退くべからず。汝らよろしく奮発して力を尽くすべし。もしこの地敗るるとも関東あり、関東敗るるとも水戸あり。決して中途にやまざるべし』(『会津戊辰戦史』)と大演説を行い、兵たちを鼓舞した。
 が、その翌日、慶喜は側近数名を伴って大坂城を密かに出奔し、江戸へと帰ってしまうのだ。
 置き去りにされた幕兵たちのショックは大きかっただろうが、グラバーにとってもショックだったろう。大阪城は難攻不落の城であり、幕府軍が籠城すれば数ヶ月は余裕で抗戦することができる。そうなれば、相当量の武器弾薬がここで消費されたはずだったのだが、大将が逃げてしまっては話にならなかった
 これをグラバーの読みが外れたという言い方をする人も多いが、敵を前にして緒戦で逃げ出す総大将がいると想像する方が難しい。
 しかも、グラバーは戦争が長引くと読んでいたわけではない。
 彼は当時、日本で一番の武器商人であり、その彼が日本で内戦が起き、それが拡大すると判断していたということは”戦火が広がる仕掛け”を施したことを意味する。
 実際、グラバーは薩摩に大量に戦艦、武器弾薬を売る一方で幕府からの武器発注の仕事も受けていた。それも当時、最強の大砲といわれたアームストロング砲35門と砲弾10万発を、だ。総額18万3847ドルの大取引だが、幕府軍の手にそんな強力な火器が渡れば薩長軍の苦戦は免れず、場合によっては敗戦だってあっただろう。
 ところが、グラバーの抜け目のないところは、幕府から支払われた手付金6万ドルのうちの半分、3万ドルを薩摩藩に貸し付けていたことだろう。
 なぜそんなにことをしたのかと言えば、幕府に武器を売って金を儲け、その儲けた金から敵対する薩摩に武器代金を貸してやり、また武器を売る。この循環によって武器を戦場に供給するシステムができるからだ。
 実はこの時期、幕府も反幕府の雄藩たちも武器の買い過ぎで資金がショートし始めていた。これを補うためにも具体的な資金供給システムが必要だったのである。ただし、このシステムはかなり投機的なことは否めず、ちょっとしたきっかけで瓦解する可能性を常にはらんでいた
 ちなみに幕府発注のアームストロング砲だが、その一部は1867年の夏頃には長崎に到着していた。これをただちに引き渡していれば、翌年開戦する鳥羽・伏見の戦いに間に合っていたが、グラバーは残金との引き換えを要求し、受け渡しを拒否していた。…
 …
 グラバー商会を苦しめたのは武器の過剰在庫だけではない。数年前の新造船の発注も重くのしかかっていた
 1867年、萩藩から新造艦船の建設を依頼されたグラバーは、兄が経営する船舶保険会社グラバー・ブラザーズ社を通じてアレキサンダー・ホール社に発注をかけていた。…また、熊本藩からは日本名・龍驤(りゅうじょう)艦の建造も依頼された。この龍驤艦は…堂々たる戦艦で、金額は36万ドルという高額なもの。…
 しかし、これらの船が日本に届いたのは1870年前後で既に戊辰戦争も終ろうか、もしくは終わっている時期。発注元の藩も既に使う必要のない軍艦に代金を払うモチベーションは下がっており、その多くが焦げ付いてしまう
 さらに、新政府は徳川幕府から領地を受け継いでおらず、戦争に勝ったとはいえ、まったく金がなかった。新政府が旧幕府時代の債務を全部肩代わりしたとはいいえ、一朝一夕に支払う能力はない。グラバーは勝ち馬に乗っていながら、財政的には敗者に等しい状態に陥ってしまう。」(『明治維新という名の洗脳』p.86-90)

史談会速記録

前掲書によると、『史談会速記録』という書物に肥後熊本藩主細川斉護の六男長岡護美が、龍驤艦の到着が遅れた経緯について語っている記録があるのだそうだ。
苫米地氏によると龍驤艦は実はもっと早く完成していたのだが、薩長側が完成した艦船を日本に到着させない妨害工作をし、英国のジャーディン・マセソン商会も薩長の要請に応じていたという。とすると、グラバーは彼が応援してきた薩長やイギリスに最後には裏切られたことになる。そのためにグラバー商会は資金繰りにつまって明治3年(1870)8月に倒産してしまうのだ。

グラバーはただの武器商人で、彼の嗅覚で利があると思う方向に動いただけだったのかもしれないが、実はイギリスがフィクサーとして幕末の日本を混乱させるために差し向けて、討幕派の勝利を確認したのち、明治維新にはイギリスの関与は全くなかったことを印象付けるためにグラバー商会を倒産させたという観方はできないか。
前回の記事でイギリスのハモンド外務次官がイギリス駐日公使ハリー・パークスに宛てた文書を紹介したが、「日本において体制の変化がおきるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」という文章は、イギリスの植民地支配の基本的な考え方を簡潔に述べたものである。もしグラバーが明治維新後に大富豪として存在していたとしたら、討幕が「日本人だけから端を発している」ようには見えなかったように思えるのだ。
幕末期にグラバーがいち早く薩摩藩・長州藩に対し当時の最新鋭の武器を大量に融通したことによって「討幕」に向かう流れを加速させたことは確実なのだが、そこにイギリスの関与はなかったと単純に考えて良いのだろうか。

このブログで何度も書いているように、いつの時代もどこの国でも、勝者は自らにとって都合の悪い真実を歴史の記述に残すことを許さない。現在流布している教科書や一般的な幕末史ではグラバーのことがほとんど記されていないし、伊藤博文や井上馨がイギリスのエージェントであったことが書かれる書物にお目にかかることはまずないのだが、明治維新からすでに150年近い年月が過ぎたのだから、そろそろ薩長中心史観を見直す議論を期待したいところである。

トーマス・ブレーク・グラバー2

明治41年(1908)に明治政府は、グラバーに対して外国人としては破格の勲二等旭日章を贈っている。表向きは日本の近代化への貢献がその主な授賞理由だったようだが、明治維新後のグラバーは三菱財閥の相談役として活躍しキリンビールの基礎を築いたとはいえ、外国人として最初に破格の勲章が贈られた理由としてはあまりピンと来ないのは私だけではないだろう。
この授賞は、明治維新の勝者となった薩摩藩や長州藩に対して、密留学を手配したり、幕府に先んじて最新鋭の武器・弾薬を大量に持ち込んだ上に、金融面でも支援したことと無関係ではないと思うのだが、皆さんはどう考えられますか。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

韓国皇帝が伊藤博文を「韓国の慈父」と呼んだ経緯~~~伊藤博文暗殺その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-233.html

伊藤博文を撃ったのは本当は誰なのか~~~伊藤博文暗殺その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-234.html

なぜわが国は安重根を犯人とすることで幕引きをはかったのか~~伊藤博文暗殺3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-235.html

日露開戦を決定したわが国の首脳に、戦争に勝利する確信はあったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-326.html


なぜ資力の乏しい長州藩が、グラバーから最新鋭の武器を大量に入手できたのか

先日このブログで、慶応元年(1865)に幕府が第二次長州征伐の軍を起こし、14代将軍家茂が大坂城に入って大本営とした頃に、長州藩では大量の武器弾薬を上海ルートから密輸入して戦争準備を進めたことを書いた。アメリカの南北戦争が終わって用済みとなった大量の最新鋭武器が、「死の商人」たちによって次の紛争地である中国に集められ、さらに幕末の日本にも流れて行ったわけなのだが、この第二次長州征伐の戦争準備のために長州藩は慶応元年(1865)5月にミニエー銃千八百挺、ゲベール銃二千挺を金額合計四万六千両で密輸入する契約をしたという。
すると内戦勃発の戦雲が漂い始めて、欧米の駐日外交官が動き出した。鈴木荘一氏の『開国の真実』にはこう記されている。

開国の真実

「イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国代表は会談をもち、慶応元年(1865)5月『四国共同覚書』を作成した。四国共同覚書は長州藩のきたるべき幕長戦争に際し、
 第一 日本の内戦に対する厳正中立。
 第二 絶対不干渉。
 第三 密貿易(開港場以外での貿易)禁止。

を取り決め、わが国に対する内政不干渉を申し合わせた。当然の姿勢と言うべきである。
 四国共同覚書のなかで特に重要な意味をもつのは、第三番目の密貿易禁止条項である。
 というのは、当時の開港場は通商条約が定めたうち長崎、函館、神奈川(横浜)の三港であり、
『通商条約で定められた兵庫については勅許がおりないため…』
いまだ開港されず外交懸案事項となっていた。
だから四国共同覚書がうたった第三項の『密貿易禁止=開港場以外での貿易禁止』とは、イギリスの長州藩に対する下関における小銃等の武器密輸出を禁止したことを意味する
 イギリスが長州藩に心を寄せていることは他の三国に周知の事実だった。
 だから第一項の『日本の内戦に対する厳正中立条項』も、第二項の『絶対不干渉条項』も、イギリスが日本の正統政府であり開国方針を堅持する徳川幕府に敵対する長州藩を支援しないよう、フランス、オランダ、アメリカ三国が牽制したものである。」(鈴木荘一『開国の真実』p.250-251)

 かつて徳川幕府はオランダのみに貿易を認めていたのだが、安政期にアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと相次いで通商条約を締結し、それぞれの国が平等にわが国と交易が出来る状態にあった。にもかかわらず、イギリスが通商条約で禁止されている武器を討幕勢力に密売する動きが出てきたことを各国が警戒したのは当然である。
以前このブログで書いたように、当時の最新鋭の銃は幕府軍が所有していた銃と比較して飛距離、命中精度、破壊力に格段の差があり、大量に保有していれば幕府に対し銃撃戦で勝てる可能性が高かったし、イギリスには各国から警戒されるだけの前科があった。鈴木氏の著書の解説を続けよう。

「それなのに幕長戦争でイギリスが長州藩を軍事支援し、最新鋭小銃を装備した長州藩が勝って幕府が敗れ、長州藩の天下になれば、対日貿易は長州藩を軍事援助したイギリスの独断場となりかねない
 …
 思い返せば結局のところ、清国市場は香港・上海を押さえたイギリスが統治してしまい、他の三国は清国市場から事実上締め出されてしまった
 とくにフランスは『苦い思い』があった。フランスはこれまでイギリス外交に追随してきたが、その結果、良い思いをすることは無かった。対清国外交では、当時の広東駐在イギリス領事パークスが仕掛けたアロー号事件に際し、フランスもフランス人神父が殺害されたことを理由にイギリスと共に安政4年(1857)に清国へ出兵し、更に万延元年(1860)にはイギリスと共に大軍を送って清国を屈服させたのだが…。結果をみると、イギリスが香港対岸の九龍の割譲を得るという戦後処理となって、イギリスが清国市場を独占してしまった
 フランスは、イギリスの外交に追随して『骨折り損』という結果に終わったのである。」(同上書 p.251)

ここで、イギリスが清国に対してそれまでどのような事をしてきたかを簡単に補足しておこう。
『もういちど読む 山川の世界史』にはこう記されている。

「中国では古くから物資が豊かで、日用品の輸入を必要としなかった。このため、イギリスは茶を買い入れるにあたって、中国に銀を支払わなければならなかったが、18世紀末ころから銀にかえてインド産のアヘンを持ち込むようになった。1830年代には中国ではアヘンの輸入が激増し、逆に大量の銀が流出して国内経済が不況におちいった。アヘンの害毒は大きく、清朝はしばしば禁令をだしたが改まらなかったので、ついに強硬な措置を取ることをきめ、1839年、林則徐(りんそくじょ)を広州に派遣してとりしまりにあたらせた。彼はイギリス商人所有のアヘンを没収して廃棄し、一般の通商を禁じたため、イギリスは外交・貿易上の問題点を一挙に武力で解決しようとして翌年遠征軍を送り、アヘン戦争(1840~42年)がおこった。」(『もういちど読む 山川の世界史』p.191-192)

アヘン戦争

林則徐はアヘン吸飲者・販売者の死刑執行を宣言し、イギリス商人に対し期限付きでアヘンの引き渡しを要求したのだが、それが履行されないために貿易停止、商館閉鎖の強硬手段に出て、アヘン2万箱を押収し焼却したのだが、イギリスは清に対して焼却されたアヘンの賠償を要求し、それが容れられないために海軍を派遣し中国海岸を北上して1840年に戦端を開いた。
イギリスはこのアヘン戦争で清国を圧倒し、1842年に南京条約が締結されて、清国は上海などの五港の開港および香港島の割譲と賠償金の支払いを余儀なくされたのである。

 このようなとんでもないやり方でイギリスは清国との貿易を開始したものの、その後も綿布などのイギリスの工業製品の中国への販売が伸びなかったため、イギリスはさらなる利権の拡大を武力によって勝ち取ろうと動いている。
再び『もういちど読む 山川の世界史』の解説を引用する。

「たまたま1856年広州港でおこったアロー号事件(イギリス船籍であったアロー号の中国人船員を逮捕した事件)が契機となって、英仏(フランスはカトリック宣教師の殺害事件を口実にした)両国と清とのあいだに戦争がおこった。これをアロー号戦争(第2次アヘン戦争、1856~60年)といい、英仏軍が北上して天津にせまったので、1858年天津条約が結ばれていちおう講和できたが、清が批准を拒絶したため、60年英仏連合軍は北京に進撃し、清は敗れて北京条約を結んだ。天津条約・北京条約によって清はイギリスに九竜(きゅうりゅう)割譲するほか、天津など11港の開港、外国公使の北京駐在、キリスト教の信仰と布教の自由、外国人の中国内地旅行の自由などを認めた。その結果、欧米諸国の中国における権利は、南京条約にくらべ一段と大きくなった。」(同上書 p.194-195)

アロー号事件

教科書には何も書かれていないのだが、アロー号はアヘンの密輸船でありその船に清朝の官憲が海賊容疑の立入りの検査を行い船員を逮捕した。ところが、イギリス領事のパークスはアロー号はイギリス領香港船籍の船であり、掲げていたイギリス国旗が引きずりおろされたことはイギリスへの侮辱であるとして清国に対し開戦に踏み切ったのである。実際のところアロー号の香港船籍は期限が切れていたらしく、イギリス国旗が降ろされたというのも事実かどうかはっきりしていないというからひどい話である。

こんな理由でイギリスは清国と開戦し、かくしてイギリスは清国を半植民地状態に陥れたわけだが、イギリスがこのようなひどいやり方をしたのは清国に対してだけではなかった。

インド大反乱

イギリスの植民地であったインドで、1857年にムガール帝国の皇帝を担ぎ出してイギリスの植民地統治に反対する大反乱*が全土で拡がったのだが、イギリスはこの反乱を鎮圧するためにイスラム教徒と対立関係にあったパンジャブのシーク教徒を味方につけ、射程距離が長く命中精度も高い新式の銃で、旧式の銃を持つ反乱軍を圧倒し、みせしめのために捕虜となった反乱軍の兵士たちを、大砲の砲口に縛り付け、木製の砲弾を発射して体を四散させるといった極めて残虐な方法で処刑している。

インド大反乱 反乱軍の処刑

このようにアジアの国々でひどい事をしでかした国が、わが国に対してだけは例外的に悪意を持っていなかったかのような幕末の歴史叙述はあまりに不自然で、そのまま鵜呑みにして良いとはとても思えないのは私だけではないだろう。
イギリスは、わが国に対しても清国と同様に、武力を用いてわが国を混乱させ疲弊させて、最後に半植民地化することを考えていたのではないのか。
*大反乱:以前は「セポイの反乱」と呼ばれていたが、最近では「インド大反乱」。インド側では「第一次インド独立戦争」と呼ばれている。

再びイギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国代表が合意した『四国共同覚書』の話題に戻そう。
この覚書は、前述したとおり幕府に敵対する長州藩を支援するイギリスをフランス、オランダ、アメリカの三国が牽制するために交わされたものなのだが、イギリスはこの覚書があるにもかかわらず、長州藩に対する武器の供給を続けているのだ。

江戸幕府は長州藩が密貿易で最新鋭の銃を密輸入していたことを把握しており、幕府探索方が眼を光らせていた。また、長州藩は武器代金を特産物などで支払おうとしたくらいだからそれほどの資金があるわけではなかったようなのだが、では長州藩はどうやってイギリスから大量の武器を手に入れたのだろうか。

鈴木荘一氏は著書でこう解説しておられる。
長州藩がイギリスから密輸入する武器類は薩摩藩名義にして幕府探索方の眼を盗むと同時に、慢性的な米不足に薩摩藩は長州藩からの米の融通を受けて米不足を補い、また長州藩の資金不足を救ったのである。長州藩の武器輸入が『薩摩藩名義』で行われることになると、四国共同覚書によって禁止された長州藩の武器密輸入は法の網をかい潜ることが可能となった。長州藩が薩摩藩名意義で購入した銃火器類は、薩摩藩の船や長州藩が薩摩藩から購入した船で、長州藩内に搬入された。
 代わりに長州藩は米不足の薩摩藩に軍糧米を融通した。…こうして長州藩は近代兵器を揃えてますます強くなり、薩摩藩も農村の疲弊を顧みることなく強兵政策を推進しますます強くなった。」(同上書 p.256-257)

強兵政策に走ったことで農業生産者が兵士に取られたために薩摩藩では米が不足していた一方、薩英戦争講和後は、薩摩藩は大手を振ってイギリスから最新武器を購入できるようになっていた。そこで薩摩藩名義で長州藩の武器購入契約が結ばれて、薩摩藩の船で武器を長州藩に運び、長州藩の米と交換することで、長州藩の武器密輸入は法の網をかい潜ることが出来たのだが、その長州藩の武器の取引に土佐郷士の坂本龍馬が関与している

坂本龍馬

坂本龍馬が薩摩藩や商人の援助を得て亀山社中を結成したのが慶応元年(1865)閏5月で、その頃に『四国共同覚書』フランス、オランダ、アメリカの三国がイギリスと長州との密貿易を牽制している。
そして、7月には坂本龍馬の周旋により長州藩の伊藤博文・井上馨が薩摩藩名義でグラバーとミニエー銃四千三百挺、ゲペール銃三千挺、金額にして九万二千四百両の購入契約を結んでいるのだが、出来たばかりの亀山社中にこんな巨額の取引が周旋出来たのは不自然だと思うのは私ばかりではないだろう。

パークス

注目したいのは、清国でアロー号事件を仕掛けたパークスが、同年の閏5月に駐日公使として来航し着任している点。パークスは幕末から明治初期にかけて18年間駐日公使を務めたのだが、着任当初からグラバーらが通商条約と四国共同覚書に違反する取引を黙認しただけでなく、同年9月に幕府が第二次長州征伐を開始しようとした矢先に、幕府に対して『下関戦争賠償金第二回以降支払延期要請は、朝廷から通商条約勅許を得ない限り認めない』と突っぱねて、第二次長州征伐の開始を9か月遅らせたのである。
そのおかげで、長州藩はイギリスの支援を得て戦争の準備を整え、翌慶応2年(1866)の1月に坂本龍馬の活躍で薩長同盟が成立するという流れだが、鈴木荘一氏の同上書にはこう解説されている。

薩長両藩の連携は、薩摩藩が長州藩に武器輸入の名義を貸し、長州藩が薩摩藩に軍糧米をを融通する『三角貿易の商取引』がベースになったことは言うまでもない
 イギリス公使パークスとイギリス武器商人グラバーは、反幕府の旗印を鮮明にする長州藩と我が国最強の戦闘集団薩摩藩を合力させ、第二次長州征伐に備えた。こうした事情についてグラバーは、
『つまり自分の一番役に立ったのは、パークスと薩長の間にあって壁をこわしたことで、これが自分の一番の手柄だったと思います(史談会雑誌)』
と率直に告白している
。」(同上書 p..265-266)

パーマストン子爵

ついでに言うと、当時のイギリスの首相はアロー号事件、インド大反乱の反乱軍処刑に関わり、以前には外相としてアヘン戦争を主導したパーマストン子爵なのである。こんな人物がイギリスの政治や外交の主導権を握っていた時代にわが国の明治維新が起きていることは、とても偶然とは思えないのだ。

以前このブログで、イギリスのハモンド外務次官が1866年4月26日付でイギリス公使ハリー・パークスに宛てた文書の一節に「日本において体制の変化がおきるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」と書かれていることを紹介したが、明治維新が「日本人だけから端を発しているように見え」るためには、イギリスが討幕勢力に最新鋭武器の密貿易に加担したように見えては拙いことは言うまでもないだろう。
イギリスには、自国あるいはグラバー商会の意向に沿って動く日本人がどうしても必要になってくるのだが、その人物が坂本龍馬だったという説がある。私はその可能性がかなりあると考えるのだが、みなさんはどう思われますか。

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坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか②
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坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか③
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坂本龍馬の妻・お龍のその後の生き方
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江戸幕末におけるイギリスの対日政策と第二次長州征伐

前回の記事で江戸幕末期におけるイギリスの首相がパーマストン子爵であったことを書いたが、この人物は三度外務大臣を務めたのち二度首相を勤め、二度目の外務大臣ときには清国に介入してアヘン戦争を引き起こし、第一次パーマストン内閣(1855~1858)の時にはアロー号事件で清国に対する武力行使を容認して北京を占領し、アロー号戦争中の1858年8月には、天津条約締結で一時暇になっていた英国艦隊を日本に派遣し、「応じないなら50隻の軍艦で攻めよせる」と江戸幕府を脅迫して不平等条約である日英修好通商条約を締結させている

パーマストン

第二次パーマストン内閣(1859~1865)においても武力にモノを言わせる外交姿勢は変わらなかった。鈴木荘一氏の『開国の真実』にはこう記されている。

「第二次パーマストン内閣は万延元年(1860)には清国に2万人の大軍を送って、天津を奪い、北京西郊の離宮円明園に入り略奪の限りを尽くして火を放って焦土とし、北京条約を結んで香港対岸の九龍の割譲と賠償金8百万両を召し上げ、清国を完全に屈服させた
 第二次パーマストン内閣の対日政策は、当初は駐日公使オールコックの進言によりロンドン覚書を調印するなど柔軟に対応したものの、生麦事件が起きると本来の武断的性格を剥き出しにし、文久3年(1863)には薩英戦争を、元治元年(1864)には四国連合艦隊による下関攻撃を行ない賠償金3百万ドルを幕府に請求した。」(『開国の真実』p.269)
と、相変わらずひどいものである。

鈴木氏によるとイギリスの伝統的植民地政策は、「相手側の民族対立・宗教対立等の国内的軋轢に乗じて、その一方を支援して分割統治を行ない、植民地として支配する」というもので、国内に内紛があれば、イギリスは反政府勢力を支援して政権転覆後に親英政権をつくってイギリスの影響力を再度強めようとしたという。そしてイギリスはわが国においても同様のことを行なおうとしたことは間違いないだろう。

英国策論

薩長同盟が成立した3カ月後の慶応2年(1866)4月、横浜で発行されている英字新聞ジャパンタイムズ紙に、イギリス公使館の通訳官であるアーネスト・サトウが『英国策論』を発表した。しばらく鈴木氏の解説を引用する。

「アーネスト・サトウは有能な通訳官で日本語に堪能で独自の情報を入手できたから、イギリス公使パークスの判断は、アーネスト・サトウの意見に大きく依存するようになった。こうしてアーネスト・サトウは、イギリス公使パークスの片腕とも、助言者とも言うべき立場になった。その後、イギリス公使館の対日政策はほぼアーネスト・サトウの『英国策論』のシナリオどおりに展開していった。そうした意味でアーネスト・サトウは、駐日イギリス公使館における対日政策立案者というべき重要な立場にあった。
『英国策論』の内容は、
『私の提案なるものは、大君(将軍)を本来の地位に引き下げてこれを大領主のひとりとなし、ミカド(天皇)を元首とする諸大名の連合体が、大君(将軍)に代わって支配勢力となるべきだ』

 というものである。更にアーネスト・サトウは、
『外国人は大君を日本の元首と見るべきでなく、早晩、ミカドと直接の関係を結ぶようにしなければならぬ、という確信を強くした』
 とも述べている。アーネスト・サトウ『英国策論』で展開した『幕府の政権担当を否認し天皇を元首とする諸大名の連合意見樹立論』は、幕府政権を否定する長州藩や薩摩藩の主張と合致している。」(同上書 p.272-273)

アーネスト・サトウの『英国策論』は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されており、次のURLで全文を読むことが可能だが、いささか読みづらい。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900382

遠い崖 アーネストサトウ日記抄3

『英国策論 遠い崖―アーネスト・サトウの日記抄3』を取り寄せて読むと、サトウがこの『英国策論』を著した基本的な考え方が、彼の日記にわかりやすい言葉で記されている。

「われわれは、厳粛且つ真剣に根本的な変革を提唱する。われわれが望んでいるのは、ただひとりの有力者との条約ではなくて、この国のすべてのひとにたいして拘束力を持ち、且つ利益をもたらす条約である。われわれは、将軍を日本の唯一の支配者なりとする陳腐な虚偽を捨てて、他の同等な権力者の存在を考慮に入れなければならない。言いかえれば、われわれは、現状の条約を、日本の連合諸大名との条約によって補足するか、あるいは、前者を後者と取り換えるかしなければならないのである。

 現行の条約が永久不変のものではないことを、いまではだれもが確信している。
最近、われわれは、天皇の勅許なくしては、条約は実行されず、大名たちによって認められもしないことを、将軍が自らの行動によって是認するのを知ったのである。

 このことから、天皇は将軍よりも上位にあると、ひとびとが結論したのは当然であり、理屈にかなっている。」(『英国策論 遠い崖―アーネスト・サトウの日記抄3』p.255-257)

徳川幕府はペリー来航以降の相次ぐ列強からの開国要求に対し、当初は朝廷の承認を得て和親条約を締結する方針をとったのだが、攘夷主義の朝廷は通商条約の締結に反対して勅許を与えなかったために、大老井伊直弼は幕府の専断で通商条約に調印した。そのために各地で攘夷事件が起こり、列国は幕府の統治能力に疑問を持つに至り、武力を行使して条約勅許の獲得を幕府に迫って、幕府は朝廷を説得して慶応元年10月にようやく朝廷より勅許を得たのだが、この一連の動きからイギリスは、幕府は日本国の元首ではなく条約を批准する権利を持たないと判断し、また幕府と結んだ条約は将軍の管轄地でしか効力を持たず、他の大名たちに対しては拘束力がないと理解した。現状の条約では日英貿易の自由な拡大は難しいため、アーネスト・サトウは幕府に期待するのではなく、条約を締結する相手の切り替えを通して天皇をいただく雄藩連合に政権を移すという意見を表明していたのである。単刀直入に言えばサトウの考えは討幕論だ。

しかしながら、1865年10月に第二次パーマストン内閣が退陣して、その後イギリス本国では対日政策が軌道修正される動きがあった。
新外相クラレンドンは1866年4月9日付で公使パークスに宛てて「日本における政治的影響力の行使を求めるのではなく、たんに通商の発展だけを求め、内乱の際には厳正な中立政策をとる方針」と指示したのだが、船便のためその公信がパークスの手元に届いたのは6月であったという。

ところが、すでに述べたようにアーネスト・サトウの『英国策論』が発表されたのは同年の4月で、イギリスの対日政策は、サトウの描いたシナリオ通り反幕府・薩長支持で動き始めていてそれを逆転させることは困難な情勢にあった。というのは5月に幕府と長州との談判が決裂し、6月には幕府軍が長州に向かっていて第二次長州征伐がいよいよ目前に迫っていたからである。
パークスが新外相の中立指示に従う意思がどれだけあったかはよくわからないが、結局イギリス公使館はサトウの『英国策論』のシナリオ通りの路線を進めることとなる。

再び鈴木氏の著書を引用させていただく。文中の「幕長戦争」とは、「第二次長州征伐」のことである。

周防大島への砲撃

「こうして幕長戦争が間近に迫ると駐日イギリス公使館は長州藩支持の立場で活発に動き始めた。実は既にこの年の正月、イギリス武器商人グラバーが薩摩藩を訪れ、島津久光の次男島津久治から手厚い接待を受けた。このときグラバーは、薩摩藩とイギリスの友好関係を一層深めるためパークス公使を鹿児島に招くように提案し、薩摩藩は快諾してパークスに招待状を送った。この仲介により…5月20日頃横浜を出帆して薩摩藩訪問の旅に出たパークスは下関に立ち寄り、5月24日、秘かに高杉晋作、伊藤博文と会見し『帰路に長州藩主と正式に会見する』と約束した。その後、パークスは長崎へ向かい長崎にしばらく滞在した。
 一方、第二次長州征伐の開戦が迫ってきた。慶応2年(1866)6月初旬に老中小笠原長行が幕府九州方面軍の主将として小倉に布陣し、6月5日には幕府先鋒総督徳川茂承(もちつぐ)が広島に到着して長州藩包囲態勢が完成し、幕府軍の戦闘準備が整ったからである。
 慶応2年6月7日朝、幕府軍艦富士山丸が長州藩領の周防大島を砲撃し、翌6月8日以降幕府歩兵、幕府砲兵、松山藩兵が周防大島に上陸し、第二次長州征伐が始まった
 長崎に居たパークスは幕長間の開戦を見届けると、早速、活発に動き出した。
 パークスは、6月14日長崎を出帆し、同月16日鹿児島湾に入った。翌日、パークスは島津久光や薩摩藩主島津忠義(当時は茂久[もちひさ])と会見して交歓し、その後、数日にわたってパークスと薩摩藩の交換は続いた。この時西郷隆盛は薩摩藩代表としてパークスと懇談を行い、時局認識について腹を割った意見の擦り合わせを行った。この席でパークスは、
『ミカド(天皇)と大君(タイクン:将軍)の二人の君主があるような姿は外国では決して無いことで、いずれは日本も国王ただ一人とならなければ済まないだろう』
と述べ、薩長等雄藩による討幕を示唆し、さらにパークスは、
『このようなことを外国人が言い出すと、日本人は不満を持つようになる。日本人がこれをおのずから決すべきである』
とも述べた
。これに対して西郷隆盛は、
『なんとも外国人に対して面目ないこと』
 と答えた。パークスは西郷隆盛に対し『イギリスは直接介入は避けるが間接的支援を惜しまない』ことを示して薩摩藩を激励したのである。」(同上書 p.275-277)

イギリスのハモンド外務次官がパークスに宛てた文章に「日本において体制の変化がおきるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」と記されていることをこのブログで何度か紹介したが、パークスが西郷に話した「(元首をただ一人にするという問題は)日本人がこれをおのずから決すべきである」「直接介入は避けるが間接的支援を惜しまない」という部分は本国の指示の通りとなっていることは注目して良い。

ところで、幕府軍と長州軍との戦いはどんな戦いであったのか。
以前も書いたが、長州の武器の多くはアメリカの南北戦争で用いられた最新鋭のもので、幕府軍のものよりはるかに射程距離が長く命中精度が高かった。薩摩藩も最新鋭の武器を大量に保有していて幕府から出兵を要請されていたのだが、薩摩藩は出兵を辞退している。一方、幕府軍および幕府軍の要請で出兵した諸藩の武器は一時代古いものが大半だったようだ。

第二次長州征伐

兵の数では幕府軍が長州軍を圧倒していたのが、戦いは最新鋭の武器を大量に持ち、兵の士気の高い長州軍の方がはるかに強かったという。
副将として広島にいた老中本荘宗秀(ほんじょうむねひで)は、大阪にいる老中に宛てて、このように報告している。

長防御討入については諸大名へ人数を差出し候向きも少人数。少し多き分は農民共が過半にて兵勢甚だもって振わず。鉄砲も幕軍はゲペル甚だ少なく、火縄付の和筒のみ。長州は農民に至るまでゲペル銃を用い必取の英気鋭く、なお薩摩も長州へ心を寄せ、イギリスも長州へ応援致し候様子。この分にては、とてもすみやかに御成功はおぼつかなく」(同上書 p.283-284)

本荘宗秀は「ゲペール銃」と書いているが、この銃は江戸幕府や他藩が西洋軍制を導入した時期に相次いで購入したもので、長州藩はその銃砲身内にライフリングとよばれる螺旋状の溝が施され、銃弾にロケット状のものを装填する最新鋭の「ミニエー銃」を多数保有していた。ミニエー銃は銃弾に回転を与えることで飛距離と命中精度が向上し、有効射程はゲペール銃の3~6倍もあったうえに命中した場合の殺傷力が圧倒的に強かった。ミニエー銃を持つ長州軍は、幕軍の銃の届かないところから幕軍を狙い撃ちすることが可能だったのだ。

国会図書館デジタルコレクションに、明治大正の歴史家である中原邦平が明治42年の講演を書き起こした『忠正公勤王事蹟』という本がある。
そこには芸州口で行われた長州藩と幕府軍との戦いをこう記している。

長州征討に出陣す高田藩兵
【長州征討に出陣する高田藩兵】

「そうして小瀬川を渡って、井伊、榊原の兵が陣羽織立烏帽子で押太鼓を打ち、法螺貝を吹き、ブーブードンドンでやって来るところを、不意に西洋の利器で撃ち掛けましたから、ひとたまりもせず、みな崩れて敗走したので、一戦でもって大竹、玖波、小方を占領してしまいました。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782028/312

このように、彦根藩や高田藩は槍や刀で争う時代の戦い方で臨んだために小瀬川ではあっけなく潰滅したのだが、赤坂・鳥越の戦いのように肥後藩細川氏の奮戦で幕府軍が長州軍を圧倒した戦いもあったようだ。

小倉城への砲撃

しかし、第二次長州征伐の戦況が厳しい中、7月20日に大坂城在陣中の将軍家茂がわずか21歳で病没し、それを理由に幕府軍の総督・小笠原長行は戦線を離脱し、小倉口に集結していた九州諸藩の兵士達も相次いで帰国して、孤立した小倉城は長州藩の猛攻を受けて8月1日に落城してしまう。

徳川慶喜は朝廷に休戦協定を願い出て幕府軍は撤退し、第二次長州征伐は幕府軍の大敗に終ったのだが、兵士の数では圧倒しながら長州藩に敗れたことで幕府の権威が失墜し、幕府の求心力が急速に低下していくことになる。
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生麦事件は、単純な攘夷殺人事件と分類されるべきなのか
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薩英戦争で英国の砲艦外交は薩摩藩には通用しなかった
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薩英戦争の人的被害は、英国軍の方が大きかった
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押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか
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薩長を支援したイギリスに対抗して江戸幕府に接近したフランス

元治元年(1864)3月にフランスの新公使ロッシュが日本に着任した。この人物は、前任のド・ベルクールがイギリス追随であったのに対し、イギリスと対抗しようとする姿勢で臨んでいる。

ロッシュ
【フランス公使 ロッシュ

鈴木荘一氏の『開国の真実』にこう解説されている。

ロッシュは、着任早々、幕府首脳陣に対し、
『アヘン戦争がはっきり示しているように、イギリスは工業製品の市場を拡大するためには他国を侵略して顧みない。これにひきかえフランスは天然の資源に富み、芸術・科学もそうであるように、軍事上でも偉大な、しかも正義を愛する国である』
と公言した。
当時57歳、老練な外交官ロッシュの指摘は、宣伝臭があるにしてもなかなか鋭い。
ロッシュは、就任早々から大見得をきってイギリスと一線を画し、イギリスに対抗した独自の対日政策を打ち出したのである。
当時、アメリカは南北戦争の終盤で対外的意欲はなく、ロシアもクリミア戦争でイギリス・フランス連合軍に負けたのち農奴解放問題など国内矛盾を抱えて対外的覇気は無く、世界の覇者イギリスに対抗しようという『元気印』はフランスぐらいだった。しかもフランスには『条約の締結相手であり日本の正統政府である徳川幕府と親交を深める』という大義名分があった。
また当時、対日貿易はイギリスが圧倒的なシェアを占め、フランスはアメリカ、オランダにも劣後していた。フランスにとってこの改善も課題だった。

とくに貴婦人が装う高級絹織物で世界一の生産量を誇ったフランスは、我が国の東日本で産出される高品質の原料生糸や蚕卵紙の独占的確保を希望した。…
フランスは貴婦人の為の絹織物工業という平和産業に必要な原料生糸を我が国から輸入しようとし、イギリスはわが国へ人殺しの道具である武器を輸出しようとした。
こうした通商政策の相違が、イギリスとフランスの対日政策の対立となったのである。」(『開国の真実』p.289-291)

しかもイギリスが我が国に輸出しようとした武器は極めて殺傷力の高い最新鋭のものであり、しかもそれを我が国の正統政府である幕府ではなく、それに敵対する薩摩藩、長州藩に輸出していたのである。
もし、イギリスが支援する薩摩藩・長州藩が、最新鋭の大量の武器で幕府を倒すことになれば、イギリスが対日貿易を独占してしまい、フランスは日本市場から締め出されることになりかねない。

イギリスを牽制するために、慶応元年(1865)5月にイギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国代表を集めて、わが国に対する内政不干渉・密貿易禁止などを定めた『四国共同覚書』を取り交わしたのだが、イギリスはその取り決めを守らず、その後も薩摩藩・長州藩への武器輸出を続けたのである。

前回の記事で記したとおり第二次長州征伐は幕府軍が大軍を擁しながら三十六万石の長州藩に敗れてしまったのだが、徳川幕府はその直後の8月に、旗本の刀と槍を捨てさせて全員に銃を携行させ、少数精鋭で攻撃力強化をはかる軍制改革を断行した。

フランス軍事顧問団
【フランス軍事顧問団】

将軍徳川慶喜はフランス公使ロッシュの勧めでフランスから陸軍軍事教官を招き、軍の教育を要請している。再び鈴木荘一氏の解説を引用する。

「当時、フランスはナポレオン3世の時代で、全欧州を席巻したナポレオン1世の時代ほどではなかったが、それでもなお有力な陸軍国だった。慶応3年(1867)2月フランス陸軍士官シャノアン、ブリュネー以下18名の教官が来日し、横浜に設けられた伝習所で歩兵・騎兵・砲兵の教育が開始された。フランスから士官と兵士の軍服類も日本へ送られ、旗本たちはこれを着用した。その後、伝習所は江戸郊外の駒場野に移された。慶応3年(1867)6月には陸軍幹部養成のための三兵(歩兵、騎兵、砲兵)士官学校創設が決まり、旗本の子弟で14歳から19歳までの志願者を募集した。
 こうして徳川慶喜は慶応3年(1867)年末には歩兵7個連隊、騎兵1隊、砲兵4隊、計1万数千人の近代的陸軍を整備した。」(同上書 p.295-296)

Franco-JapaneseInfantryTraining.jpg
【幕府歩兵の調練風景 Wikipediaより】

かくして徳川幕府は、討幕勢力から畏怖されるまでに武力を整えたのだが、イギリスが長州藩を支援して上海―下関ルートで武器の密輸が行なわれていることを咎めることができない事情があった。

「…イギリスは『世界の覇者』である。幕府に、イギリスの不法行為を非難する力は、到底なかった。だから幕府は、イギリスと直接対決しないように細心の注意を払いながら長州藩を膺懲しようして、第二次長州征伐に踏み切り、あえなく返り討ちにあった。
 第二次長州征伐での幕府軍の敗北は、結局、長州藩とイギリス商人達の武器の密貿易を容認する結果となったのである。
 通商条約は『下関の開港』も『幕府以外の者による運上所への無届け武器輸入』も認めていない。
 それなのに世界の覇者イギリスは、通商条約違反を先頭に立って行っている

 …
 幕府はこの問題を軍事力によって解決する選択肢を持ち得なかった。
 第十五代将軍徳川慶喜は、この難問を外交によって解決するしか無かった。問題の焦点は、
『イギリスが、開港場以外の下関で、幕府以外の者に対する無届け武器密輸を行なっている』という『通商条約違反』である

しかし幕府にはイギリスの通商条約違反を強く論難できない事情があった。
それが、『兵庫開港問題』であった。
井伊大老が調印した通商条約は『兵庫開港』を定め、その実施時期はロンドン覚書により、『慶応3年12月7日(西暦1868年1月1日)まで』と対外公約していた。
しかし兵庫開港は朝廷から勅許が下りず、暗礁に乗り上げたまま手付かずの状態
にあった。

朝廷から兵庫開港の勅許が下りず『兵庫未開港という通商条約不履行』のままでは、幕府としても、『イギリスの通商条約違反を強く論難することは出来なかった』のである

だからパークス*は、幕府に兵庫開港を強く要求しつつ、一方ではイギリス商人達の『下関での密貿易という通商条約違反』を臆面もなく黙認した。」(同上書p.298-299)
*パークス:イギリス公使

この問題の解決のため、フランス公使ロッシュは幕府に対して兵庫開港の決断を促す書状を出している。慶応3年(1867)3月に徳川慶喜に謁見の際にロッシュが言上した内容が『徳川慶喜伝 巻3』に記されていて、この本は『国立国会図書館デジタルコレクション』に収められているので、誰でもネットで読むことができる。

条約は必ず履行せざるべからず。これを履行せざるは、政府が外交を好まざるか、または微力にして決行する能わざるかの二つにもとづく。外国政府はその目的を達せんがため、もし前者ならば兵力に訴うべく、後者ならば有力の諸藩と交を結ぶに至るべし。…薩長二藩はすでに英国と通じて公然幕府に反抗せんとす。この際宜しく処分の法を定めて、兵庫と新潟の代港を開き、江戸・大坂は人心不居合の故をもって注視し、更に下関・鹿児島の二港を開くべし。しからば二藩が流布したる幕府外交を好まずと言える説は自ずから消滅せん。また二藩にして領内の開港を拒まば、その奸計は暴露すべし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953148/284

徳川慶喜
【徳川慶喜】

ロッシュの提案は、薩長の先手を打って幕府が兵庫を開港し、日本国の外交の主導権が徳川幕府に存することを諸国に示すことなど多岐にわたるが、徳川慶喜はさすがに下関・鹿児島の開港には賛同しなかったものの、兵庫の開港については対外公約したものであり、履行することをロッシュに明言し、すぐに行動に移している。

慶喜は4月に兵庫開港の勅許を朝廷に要請し、勅許が下りない状態で5月に四国(英仏米蘭)公使と正式に接見し、兵庫開港後の規則などを協議している。この接見は外国側に好印象を与えたことが記録されているようだが、慶喜が諸外国と親密な関係になることは、討幕勢力に肩入れしているイギリスにとっては望ましいことではなかったはずだ。

『国立国会図書館デジタルコレクション』に大熊真氏が著し昭和19年に出版された『幕末期東亜外交史』という本がある。その本に、その頃のイギリスと薩摩の動きが記されているので紹介したい。

幕末期東亜外交史

「慶喜の四国公使接見は、外国側に非常な好印象を与えた。諸公使の記述は、その点で一致している。『大君*陛下は31歳で極めて交換を持たせる容子の持主であった…』とファンケンブルグ**は慶喜をほめそやし、サトウ***も『彼は余の見たうちで最も貴族的な容貌をしていた。その額は高く、その鼻は姿よく隆起し―申し分なき紳士であった…』といっている。こうして諸国と幕府とが、しっくりと結び合おうとしている形勢が、薩長にとっては焦慮の的となった。この前後、サトウは、西郷隆盛らの訪問を受けた。サトウは書いている。
余は西郷に言った。革命の機会を逃してはいけない。もし兵庫が開かれてしまったら、諸大名にとっての機会は永遠に去るであろう。』(Satow, Diplomat, p.200)
 兵庫・大坂が幕府の手で開かれてしまえば、その地の平和と安全とは、諸外国の関心事となるから、これらの土地の争奪、これらの土地での戦闘は、諸外国が、艦砲と陸戦隊との力にかけて、防止するであろう。…サトウは、そういうことを念頭において、西郷らに『やるなら今のうちだ、機会を失すれば、諸侯はつぶされるぞ』と警告したのであろう。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041865/139
*大君(タイクーン):徳川幕府将軍
**ファルケンブルグ:アメリカ公使
***サトウ:イギリス公使館の通訳官のアーネスト・サトウ


そして慶喜は、慶応3年(1867)5月23日の朝議の場で、兵庫開港の勅許を要請した。

慶喜は勅許を得るまでは帰らないことを決心して朝議に臨み、夜8時より始まった会議は翌朝まで続いたが結論が出ず、さらに翌日の夜まで続いたという。朝彦親王御日記によると、朝議の時間がかかった主な理由は、近衛忠熙、近衛忠房の父子が薩摩藩の意見を確認するためにことさらに議論を引き伸ばし、近衛忠房は非蔵人口で薩摩藩士と談合していたというのだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228700/72

しかしながら慶喜は一昼夜の議論に打ち勝って、24日の夜8時になって兵庫開港の勅許を獲得している。

開港したばかりの神戸港
【開港したばかりの神戸港】

慶喜は6月6日付で、「慶応3年12月7日(西暦1868年1月1日)から兵庫港を開港し、江戸・大坂両市に外国人の居留を許す」との布告を出している。

かくして徳川慶喜はフランス公使ロッシュの献策のとおり、兵庫開港の勅許を得て井伊大老の調印した通商条約の不備を補完し、これによって諸外国からの苛烈な要求を封じることができたのである。しかしながら、アーネスト・サトウが西郷に語った「もし兵庫が開かれてしまったら、諸大名にとっての機会は永遠に去る」ということにはならなかった。
その点については次回以降に記すことにしたい。

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プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
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    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史