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前期倭寇は元寇の復讐だったのか~~倭寇1

中学や高校時代に日本史の室町時代の授業で「倭寇」を学んだ。その時はなぜ、日本人がこの時期に急に海賊行為を始め、その活動が大規模になったのかが良くわからなかった。

対馬や壱岐の歴史を振り返ると、平安時代の寛仁三年(1019)に「刀伊の入寇」という事件がある。この事件を調べると市販の山川の日本史教科書では「とつぜん刀伊(女真人)が、対馬・壱岐・筑前をおそった。…これは大宰府とその周辺の土豪の力によってしりぞけられたものの、平安になれた朝廷や貴族に大きな衝撃をあたえた。」と簡単に書かれている。

刀伊の入寇

しかし「刀伊の入寇」を調べてみると、この戦いもかなり壮絶な戦いであったようだ。詳しいことは平安時代の藤原実資の『小右記』という日記や三善為康の『朝野群戴』という文書に書かれているそうだが、Wikipediaの記事にはこう纏められている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E4%BC%8A%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87

「刀伊は賊船約50隻(約3000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火を繰り返した。この時、国司の対馬守遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れている。
賊徒は続いて、壱岐を襲撃。老人・子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした。賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3000人という大集団には敵わず玉砕してしまう。
理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を 焼こうとした。これに対し、嶋分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦した。そして賊徒を三度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は一人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい嶋分寺は陥落した。この時、嶋分寺は全焼している。
その後、筑前国怡土の郡に襲来、4月8日から12日にかけて現在の博多周辺まで侵入し、周辺地域を荒らし回った。これに対し、大宰権帥藤原隆家は九州の豪族や武士を率いて撃退した。たまたま風波が厳しく、博多近辺で留まったために用意を整えた日本軍の狙い撃ちに遭い、逃亡したと記されている。」とここでも風が吹いているのが面白い。

被害は、記録されただけでも殺害された者365名、拉致された者1,289名、牛馬380匹、家屋45棟以上。女子供の被害が目立ち、壱岐島では残りとどまった住民が35名に過ぎなかったという。

彼らは「牛馬を切っては食い、また犬を屠殺してむさぼり食らう」と記録され、また「人を食う」 との証言も見られるという。斬り込み隊、盾を持った弓部隊らが10-20組も繰り出してあっというまに拉致・虐殺・放火・掠奪をやってのけ、牛馬を盗み、切り殺して食うなどしては次の場所へと逃げてゆく、という熟練ぶりであった。逃げるのに邪魔になった病人や子供は簀巻きにして海に投げ入れたという記録も残されているそうだ。

彼らの正体は満州を中心に分布する女真族だとされているが、9月には高麗が拉致した対馬・壱岐の島民270人を日本に送り届けてきたので高麗政府として関与してきた可能性は少ないと考えられている。

上掲のWikipediaの記事が正しいとすると、彼らの乱暴狼藉ぶりは、以前私のブログで紹介した、文永の役で記録されている元・高麗軍の乱暴狼藉ぶりとかなり似ているように思える。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-34.html

以前文永の役の記事で書いた通り、日蓮宗の宗祖である日蓮は「高祖遺文録」の中で、元蒙古連合軍のために、対馬では百姓ら男は殺されたり生け捕りにされ、女は一箇所に集めて掌に穴をあけられ革ひもを通して船に結いつけられたり生け捕りにされて、一人も助からなかったと書いている。また『高麗史』には日本で拉致した少年少女200人を高麗国王に献上したことも書かれている。

刀伊の入寇」にせよ「文永の役」にせよ、野蛮とも思える乱暴狼藉を働いたのは相手国の軍隊の方だ。何故室町時代に入って日本人が朝鮮半島に行って収奪を繰り返すような事をしたのか長い間腑に落ちなかったのだ。

元寇の記事を書いている時に、読者の方から「初期の倭寇元寇の復讐であった」とのコメントを頂いた。この説については初耳であったのでちょっとこの説を調べてみた。

刀伊の入寇」の時とは違い、「文永の役」は高麗の正規軍であり、当然のことながら高麗は拉致された日本人を送り返しては来なかった。無能な政府は、蒙古調伏の祈祷をした寺社に恩賞を与えても拉致家族の奪還には動かない。では対馬や壱岐や松浦などで家族を拉致された人々は泣き寝入りだったのかという問題がある。

そこで、「倭寇元寇の復讐であったのではないか」と言う説が出てくる。対馬や壱岐や松浦の人々が立ちあがっても何の不思議もないではないか、というのは確かに説得力がある。そういうことがなければ、日本人の私兵が急に他国を侵略するようなことは考えにくい。

対馬観光協会のHPを見ると、明確に倭寇元寇の復讐だと書かれている。
http://www.tsushima-net.org/tourism/history_03.php
このHPをしばらく引用する。

元寇では、日本は『神風』により侵略を免れたと言われますが、対馬・壱岐は全島にわたって甚大な被害を受けました。元寇への復讐の意味もあり、倭寇が盛ん に朝鮮半島・中国大陸で略奪・人さらいを行うようになっていきます。高麗は倭寇の被害が原因のひとつとなって滅亡、倭寇討伐で名をあげた李成桂が李氏朝鮮 を建国します。」

またWikipediaにはもっと詳しく書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%AF%87

倭寇2

「前期倭寇が活動していたのは14世紀、日本の時代区分では南北朝時代から室町時代初期、朝鮮では高麗から朝鮮王朝の初期にあたる。日本では北朝を奉じて室町幕府を開いた足利氏と、吉野へ逃れた南朝が全国規模で争っており、中央の統制がゆるく倭寇も活動し易かった。前期倭寇は日本人が中心で、元寇に際して元軍とその支配下にあった高麗軍によって住民を虐殺された対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民が中心であり、『三島倭寇』と総称された。
朝鮮半島や中国沿岸に対する海賊行為は、元寇に対する地方の私軍による復讐の意味合い、および、再度の侵攻への予防という側面もあったと考えられ る。また、これらの地域では元寇による被害で労働力不足に陥り農業生産力が低下したために、これを補完する(奪還する)目的があったとも考えられている。」
と、元寇の復讐であると推定している書き方だ。推定の根拠としては、「朝鮮半島で当時唯一稲作が盛んに行われていた南部沿岸地方を中心に襲撃し、食糧や人間を強奪しており、さらには連れ去られた家族を取戻した事例もあり、実際に家族に再会した記録もある。」というのだが、その記録の文献が記載されていないのは残念だ。

結局、倭寇が元弘の復讐だと言う説を裏付ける日本側の史料がなにかあるのかどうかはよくわからなかった。

倭寇図会

しかし、清や李氏朝鮮には倭寇は元寇の復讐であると記載されている書物があると言う。つぎのURLによると、「朝鮮半島や中国沿岸に対する海賊行為は、元寇に対する被害地方の復讐行為と考えられる。清の徐継畭の「瀛環志略」や李氏朝鮮の安鼎福の「東史綱目」には倭寇の発生原因は、日本人による元寇への報復であったという記述がある。」と記されている。
http://blogs.yahoo.co.jp/teisitu/51336005.html

この部分の説明は先程のWikipediaでは「応永の外寇以前の形態は単なる局地的な奪還・復讐戦であり、これを倭寇と分類せず、それ以降を倭寇と考える説もある。清の徐継畭の『瀛環志略』や李氏朝鮮の安鼎福の『東史綱目』には、倭寇の原因は日本に対する侵略行為を行った高麗人(朝鮮人)への報復である」とは書かれているが、この文脈では、元寇に対する復讐とは読み辛く、応永26年(1419)「応永の外寇」に対する復讐とも読める曖昧な表現だ。
「瀛環志略」「東史綱目」にどういう文章が書かれているか紹介されていればこの点がはっきりするのだが、ネットではいろいろ検索してもこの2つの書物の該当部分の文章は見当たらなかった。

刀伊の入寇や元寇の残忍さと、倭寇の残忍さのイメージが長い間重ならなかったのだが、前期倭寇の初期に於いて日本人が関与した理由は元寇に対する復讐であったという説はわかりやすく、その可能性を感じる。明確に書かれている当時の書物のテキストが分かれば、是非読んでみたいものである。

倭寇の回数

しかし田中健夫氏の倭寇の回数のグラフを見ると、倭寇の回数が急増するのは14世紀の後半からだ。これは元寇のあった13世紀後半とは、年数が離れ過ぎてはいないだろうか。私は『明史』日本伝に次の様に記述されているこの部分をもっと注目して良いと思うのだ。
「明が興り、太祖高皇帝(朱元璋)が即位し、方国珍・張士誠らがあい継いで誅せられると、地方の有力者で明に服さぬ者たちが日本に亡命し、日本の島民を寄せ集めて、しばしば山東の海岸地帯の州県に侵入した。」(講談社学術文庫『倭国伝』p.394)

中国の正史にこのように明記されている記述を、なぜ歴史家は無視するのだろうかと不思議に思う。『明史』の記述の正しさは、上記グラフで1368年頃から倭寇の回数が急増しているのをみれば明らかである。

倭寇ルート

倭寇の構成は、それから時代を経るにつれて日本人主体から、中国人、高麗人主体に移っていくと多くの本に書かれているのだが、なぜこの特定時期に回数が増えた背景については、『明史』を読んではじめて納得した。
しかし教科書では、途中から倭寇の主体が日本人ではなくなって行くことがはっきり書かれておらず、そのために多くの人が、この時期の日本人が朝鮮半島で海賊行為を繰り返していたかのような印象を持ってしまうのは残念なことだと思う。
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「高麗史」を読めば朝鮮半島の倭寇をエスカレートさせた原因がよくわかる~~倭寇2

高麗史』を読んでいると、14世紀の半ばから倭寇の話が驚くほど頻繁に記述されている。Wikipediaによると高麗末期に500回前後の記述があるとのことだが、その内高麗人が加わっていたことが明記されているのは3件だけなのだそうだ。そのことから、前期の倭寇の主体は日本人だったと考えられている。

倭寇の半島地図

前回の記事で書いた通り、中国の正史である『明史』には明が興こった (1368年) 頃に、「地方の有力者で明に服さぬ者たちが日本に亡命し、日本の島民を寄せ集めて、しばしば山東の海岸地帯の州県に侵入した」と記述されている。『明史』なので「山東地区」だけが書かれているが、この時期の倭寇は対馬・壱岐を拠点とし、山東地区や朝鮮半島に出没していた。

倭寇の回数が激増するのがこの時期であるから、元の末期あたりから中国人が相当数関与していたことが『明史』の記述から推察されるが、それまでは日本人が主体と考えて良いのだと思う。
倭寇の初期には、元寇に際して元軍とその支配下にあった高麗軍によって家族を虐殺され奴隷にされた対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民がかなりいて、「三島倭寇」と総称されたそうだ。「三島」とは対馬・壱岐・松浦のことを指していたと言われているが、この「三島」の住民と、この地域に亡命してきた中国人とが手を組んだことも考えられるのだ。

弘安の役の失敗にもかかわらず、元も高麗も日本征服を諦めたわけではなかった。弘安の役の翌年の1282年に高麗の忠烈王は兵船150隻を造り元のクビライに三度目の日本侵攻を促し、クビライも大小3000隻の艦隊を準備したのだが、1283年に江南で内乱があり、その翌年にはベトナムで反乱などがあってその対応に追われ、日本侵攻は実行されなかったという。

三度目の元寇があるかどうかは、何度も住民を虐殺され、拉致された対馬・壱岐の人々にとっては死活問題であったろう。今回は、元寇後に起こった倭寇と朝鮮半島の事を書いて見たい。

元寇の後で、『高麗史』に「倭」について書かれている部分を抜き出してみた。この頃は、ただ倭の船が国境を越えてきただけのことが書かれている。

「忠烈王十五年(1289)[十二月]戊戌(23日)、倭船、蓮花・楮田の二島(いずれも朝鮮半島南端の島)に泊まる。」(岩波文庫『高麗史日本伝(上)』p.172)
「忠烈王十九年(1293)[七月]丁丑(24日)、鎮辺万戸の韓希愈、漂風せる倭八人を捕らえ来る。」(同上書p179-180)

二度目の元寇である弘安の役(1281年)からまだ日が浅い時期の記録はこの程度のもので、倭人が特に危害を加えたわけではなく、単に国境を超えて様子を探る程度の記述だ。

高麗史』に倭船が初めて具体的な掠奪行動を起こしたことが書かれているのは、次の部分だろう。この時は倭寇のメンバーの多くが斬殺されている。
「忠粛王一〇年(1323)[六月]丁亥(27日)、倭、会原の漕船を群山島に於いて掠す。戊子(28日)、又楸子等の島に寇し、老若男女を擄(とりこ)にして、以て去る。秋七月庚子(10日)、内府副令の宋頎を全羅道に遣わし、倭と戦い、百余級を斬す。」(同上書p.192)

次の文章は「倭寇」という言葉を最初に使った、『高麗史』の記述である。
「忠定王二年(1350)」二月、倭、固城・竹林・巨済に寇す。合浦千戸の崔禅と、都領の梁琯等、戦いて之を破り、三百余級を斬獲す。倭寇の侵すは、此れより始まる。」(同上書p.200)
ここに書かれている通り、この年以降、倭寇の襲来が広域的・連続的かつ大規模となるのである。初期の倭寇の手口は家や船に火を付けて食糧などを奪い去るというものであった。船に火をつける行為は、当面日本に攻めて来させないための措置だと考えられている。

倭寇3

高麗史』のこの頃の記述を読んで、初期の倭寇が重武装していたとはとても思えないのだが、高麗側からすれば、いつ、どこに現れるかわからない敵に対して準備することは容易ではなく、倭寇にかなり手を焼いていた。そこで高麗側は、倭寇の本拠地である対馬や壱岐を攻めてその勢力を根絶させようと考えた。

『高麗史』に次のような記述がある。(鄭地列伝)
「…近ごろ、中国は征倭を声言す。若し我が境に並(あつま)り、戦艦を分泊すれば、則ちただ支待すること艱しと為すのみに非ず、亦た我が虚実を覘(うかが)うを恐る。倭は国を挙げて盗を為すに非ず。其の叛民は、対馬・一岐(壱岐)の諸島に拠り…。若し…先に、諸島を攻め、その巣窟を覆し、また日本に移書して尽く漏賊を刷(はら)い、之をして帰順せしむれば、即ち倭患は以て永く除かるべし。中国の兵も亦た由りて至ることなし。…」(岩波文庫『高麗史日本伝(下)』111)

この記述にあるとおり、中国の「征倭」の申し出を受け入れれば、高麗に中国の戦艦が駐留し、その接待やら費用負担が大変である。日本は国を挙げて盗みを働いているのではないので、倭寇の拠点を叩けばその原因を断つことが出来るとの考えだ。高麗は倭寇を撃退するのに中国の力を借りる気はなかったようだ。

倭寇掠奪

何度も倭寇との衝突があり、何度も倭寇の勢力は半島で人や食糧を奪い、あるいは高麗の勢力に斬られたり捕虜にされたりしている。その繰り返しだ。

『高麗史』金先致伝に、倭寇は1375年までは高麗人を殺していなかったことが明記されているのに驚いた。一方で高麗人はそれまでに何人も倭人を殺す記述があるのにもかかわらずである。では、この1375年にどのような事件があったのか。

この年に高麗は全羅道の金先致という武官に対し、倭寇の藤経光という人物に食事をふるまって毒殺せよと命じたのだが、その謀が途中で見破られてしまい藤経光に逃げられてしまう。この事件が倭寇のメンバーを激怒させてしまった。

『高麗史』・金先致伝には、これ以降の倭寇は半島に来るたびに殺戮を繰り返すことになったと記述されている。
「此れより前、倭の州都に寇するに、人畜を殺さず。是より入寇する毎に、婦女・嬰孩すら屠殺して遺(のこ)すなし。」(同上書p.121)
そのために、全羅道・楊広道・慶尚道の3道沿岸地帯の人々は沿岸を離れて仮住まいし、村々は荒廃して「粛然一空」*となってしまった、とも書かれている。(*がらんとして何もないさま。)

読者の方からご指摘いただいたが、『高麗史』恭愍王9年(1360)と23年(1374)に倭が高麗人を殺した記録がある。実際には、もう少し前から相互に激しい復讐行為を繰り返していたようだ。

さらに1389年には、高麗は戦艦百艘で倭寇の拠点であった対馬を攻撃している。
「…倭船三百艘、及び傍岸の盧舎を焼きて殆ど尽く。元帥の金宗衍・崔七夕・朴子安等継ぎて至り、本国の被虜男女百余人を捜して以て還る。…」(同上書p157)

倭寇船

14世紀後半の『高麗史』は、このような記録ばかりだが、要するに元寇以降対馬や壱岐を中心とする人々と高麗とが相互に復讐行為を繰り返していただけのことではないのか、という印象を持った。また、これほどまでに倭寇をエスカレートさせた原因はどちらにあったのかというと、高麗側の方に多かったようにも思える。

 文永の役で元・高麗連合軍が対馬や壱岐の多くの人々を虐殺し、若い男女を拉致して持ち帰り高麗王に献上したことからすべてが始まり、それから後の倭は偵察行為を行った程度だったが、最初に多くの人を斬殺したり、リーダーを饗応すると見せかけて毒殺しようとしたのは高麗側である。これらはすべて高麗の正史である『高麗史』に書かれていることなのである。

高麗は倭寇が原因で国力を弱め1392年に李成桂に滅ぼされることになるのだが、その後の倭寇のメンバーについては、朝鮮人の割合が圧倒的となっていたという記録が残っている。
朝鮮王朝実録の『世宗実録』114卷二十八(1446年丙寅)十月壬戌条(10月 28日 (壬戌))には、

「臣聞前朝之季、 倭寇興行、 民不聊生、 然其間倭人不過一二、而本國之民、 假著倭服、 成黨作亂、 是亦鑑也。」とあり、真倭は一割、二割にすぎず、残りは我が国の賎民であると記述されている。

朝鮮王朝実録」は韓国の歴史書で、世界遺産にも登録されている書物で、そこに15世紀の半ばには倭寇の構成員のうち日本人は二割程度で、残りの八割は李氏朝鮮国の賎民だと明確に書かれている事実は重要である。同じ「倭寇」という呼び名でありながら、途中で日本人中心の集団から自国民中心の集団に変質していたのだ。
高麗時代についても、高麗の反政府勢力が倭寇の中心メンバーであったという説もあるが、その説も一理あると考えている。

こういう史実を知ると、次のような日本史教科書の「倭寇」の記述に、多くの人が違和感を感じるのではないだろうか。

「…海の道を舞台に活動する集団がいた。その出身は九州や瀬戸内海沿岸の土豪・商人で、彼らの一部は貿易がうまくいかなくなると、海賊的な行動をとり、倭寇とよばれておそれられた。李成桂はこの倭寇撃退に名をあげ、ついに高麗をたおしたのである。」(『もう一度読む山川日本史』p109)

李成桂

この記述では、李成桂は倭寇を撃退した英雄扱いだし、倭寇は日本人ばかりであったような印象を持ってしまう人が大半だと思うのだが、なぜ日本の教科書はこのような書き方になるのだろうか。高麗や李氏朝鮮の正史で、明らかに自国に不利な事を書いている部分を見落としてしまっては、歴史の真実が見えてくるとは到底思えないのだ。
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中国の史料では後期倭寇は中国人が中心だが、奴隷売買に関与はあったか~~倭寇3

以前このブログで、「400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと」という記事を書いた。この記事は、ブラジルの日系人のための新聞である「ニッケイ新聞」に連載された記事の紹介から書き起こしている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-116.html

天正少年遣欧使節

その記事とは16世紀の中頃から1600年頃までの間の50年間に大量の日本人が南米に奴隷として渡ったことを当時の記録などを引用しながら書かれた記事なのだが、この時期は南米ばかりではなく、ヨーロッパやインドにも大量の日本人が奴隷として存在していた記録が残されている。インドのゴアにはポルトガル人よりも日本人の奴隷の方が数倍多かったという記録があるそうだし、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の四人も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕したという記録も残されている。

その記事を書いてから、日本及び海外の日本奴隷に関する当時の国内外の史料を調べて、「秀吉は何故伴天連追放令を出したのか」というテーマで3回に分けて書いた。布教の妨げになるとの理由からイエズス会の要請を受けてポルトガル国王が何度も「日本人奴隷取引禁止令」を出している事実からしても、この時期に奴隷として売られた日本人は半端な数ではなかったはずだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-132.html
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-133.html
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-134.html

しかし、奴隷は日本人だけではなく中国人も朝鮮人もかなりいた。
どうしても理解できなかったのは、これだけの奴隷を誰が何のために集め、どうやって運んだかという点であった。ポルトガル商人が、ポルトガルの船だけでそれを実行できたのであろうかと疑問を持っていた。当時の船は帆船であり、船が進みたい方向に進める季節は限られている。日本から西に向かう季節は冬、西から日本に向かうには夏しかあり得ないのだ。

倭寇の回数

前々回の記事で田中健夫氏による「倭寇の回数」のグラフを紹介したが、これをもう一度見てみよう。16世紀に於いて倭寇の活動が活発であった時期と、日本人・中国人・朝鮮人奴隷が世界に送られた時期とがほぼ一致するのだ。倭寇はポルトガルへの奴隷の供給を行うことに関わっていたのではないだろうか。

そのように考えれば、倭寇があれだけ長い期間にわたって金品の略奪のみならず、なぜ人攫いを何度も繰返したのかという疑問も氷解するのだ。

ネットで「倭寇」と「奴隷」をキーワードに検索を試みると、「倭寇」が「奴隷」の送り込みに関与した可能性を感じさせるいくつかの記述にヒットする。戦前に書かれた興味深い表題の論文もあったのだが、その内容までは紹介されていなかったので、ここでは当時の記録が紹介されているサイトを紹介しておこう。

明の人物で鄭舜功という人物が、日本にも滞在して自らの功績とともに日明間の密貿易の実態などを詳しく書いた『日本一鑑』という書物があり、次のサイトでその翻訳文が詳しい注記と原文とともに紹介されている。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/kaizoku/ikkan1.html

「嘉靖21年(1542年)、寧波知府の曹誥は密貿易船が海寇を招いているとして、これと取引したり密航する者を大々的に捕縛したが、寧波の有力者たちが手を回して彼らを救いだしてしまった。曹誥は『今日もまた通番(外国との交易)を説く、明日もまた通番を説く。これはもう血が流れ地方を満たすまで止まらないだろう』と言った。

 翌年(1543年)、トウリョウらが福建沿海を荒らしまわった。浙江海域の海賊もまた発生した。海道副使・張一厚は許一・許二らが密貿易を行うために地方に海賊の害を及ぼしていると考え、兵を率いてこれを捕らえようとした。許一・許二らはこれを撃退して気を大きくし、ポルトガル人たちと双嶼港に拠点を構えた。

 その部下である王直は、乙巳歳(24年=1545年)に日本に行って交易し、はじめて博多の助才門ら三人を誘い、双嶼に連れて来て交易を行った。翌年もまた日本に行き、その地との結びつきを強めるようになった。直隷・浙江の倭寇の害がここに始まることとなるのである。」

倭寇ルート

詳しい内容は上記のサイトで確認願うこととして、この時期に中国沿岸部の民家を襲撃している倭寇のメンバーで名前が挙がっている人物はほとんどが中国人である。
また、ポルトガル人たちと拠点を構えたという「双嶼港」は、倭寇の地図で種子島の西にある中国沿岸部の「舟山列島」にある港である。

王直像

王直」は、日本に初めて鉄砲が伝わった際に、船でポルトガル人を種子島に導いた中国人だが、この男が「倭寇」の中心人物であった。

この『日本一鑑』という書物に著者の鄭舜功が、倭寇に連れ去られた明人たちが奴隷として酷使・売買されて施設が九州の高洲(現在の鹿児島県鹿屋市)という場所にあり、そこを訪れると明人の被虜者が二、三百人集められていたという記録があるらしいのだが、このサイトにはこの部分(窮河話海巻之四)の原文と翻訳が割愛されていたのは残念だ。そのかわり、このサイトの管理人は、別のページでこの部分のあらすじなどをまとめておられる。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/kaizoku/fengc1.html

このサイトでは「明人の被虜者」と書かれているのだが、日本人奴隷がこの収容所にいた可能性はないのだろうか。相沢洋氏の「倭寇と奴隷貿易」という論文には、南九州では鎌倉時代から人身売買が行われていた記録があることが指摘されており、この高洲の奴隷収容所も大隅の戦国大名であった肝付氏が経営に関与していただろうと書かれているそうだ。

日本人奴隷については、九州でポルトガルに売却されていたことを以前私のブログに書いた。当時は火薬の原料となる硝石を手に入れるために、切支丹大名などが日本人捕虜をポルトガル人に売却していたのだ。
ルイス・フロイスの『日本史』には「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却され…売られた人々の数はおびただしかった」と記述されている。日本の南蛮貿易拠点は島原半島の口の津にあり、そこに人々が連行されていったのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-134.html

倭寇船

しかし、それほど多いとは思えないポルトガル船に乗せるためにわざわざ肥後国に行かなくとも、倭寇はかなりの船を所有していた。日本から西に進めば中国の沿岸部にはポルトガル人の拠点がいくつもあったのだ。
奴隷をマカオやゴアなどに運んだのは、倭寇の勢力が関与した可能性は小さくないと私は考えている。

次に、倭寇を構成していたのはどういうメンバーであったのか。
前回にも書いたが、『明史』には14世紀後半から、明に抵抗する勢力が日本に亡命し、倭寇に関与していったことが明記されている。
さらに『明史』を読み進むと、「後期倭寇」と呼ばれる16世紀の「倭寇」も、中国人が中心であったことが良くわかる。彼らは日本人の着物や旗しるし*を真似て、いかにも日本人の勢力であるかのごとく偽装して活動していたのだ。今も昔も中国人のやることはよく似ている。
*旗しるし:天照皇太神・春日大明神・八幡大菩薩などが用いられた

「…大悪党の汪直・徐海・陳東・麻葉のごとき輩は、日頃から倭人の中にくいこみ、国内ではかってにふるまうわけにはいかないので、すべて海上の島に逃れて奸計の采配をふるった。…外海に出たこれらの大盗賊は、やがて倭人の着物や旗しるしをまねて用い、船団をいくつかに分けて本土に侵攻して掠奪し、一人残らず大いに懐を肥やした。…」(講談社学術文庫『倭国伝』p.420)

「これらの賊軍のあらましは、真の倭人は十人のうち三人で、残りの七人は倭人に寝返った中国人だった。倭人はいざ戦いとなると、捕虜の中国人を先陣に駆り立てた。軍法が厳しかったので、賊軍の兵士たちは死にもの狂いで戦った。ところが官軍の方はもともと臆病者ぞろいだったから、戦えば必ずなだれをうって逃げるという始末だった。」(同上書p.422)

『明史』を普通に読むと、倭寇のリーダーが中国人であることは明らかであり、「倭人」は必ずしも「日本人」と言う意味ではなさそうだということに気がつく。日本海から朝鮮半島、中国沿岸部で海賊行為を行っていたメンバーを総称して「倭人」と呼んでいるなどの諸説がある。

中国の当時の記録で采九徳が記した『倭変事略』には「この四十賊を観みるに亦た能く題詠する者あり。則ち乱を倡える者はあに真倭の党なりや。厥の後、徐海・王直・毛烈ら並べて皆華人なり。信ず可し」とあり、倭寇のメンバーはすべて中国人だと書かれている。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/kaizoku/kaisi.html

倭寇掠奪

前回の「高麗史」においても同様なのだが、倭寇に関して、中国の正史である「明史」や当時の記録において、明の国民にとって不利な出来事や恥ずべき事実が数多く記録されているのだが、こういう書き方をする場合には嘘があるはずがないのだ。しかしながら、前回の記事で紹介したとおり、わが国の多くの教科書では倭寇は日本人が中心メンバーであったと思わせるような表現になっているのは非常に残念なことである。

この時代に限らず、わが国の歴史記述は他国の反応を配慮してか史実が歪められ、真実をありのままに綴ることが自主規制されているかのような文章が散見されるのだ。
どの国にもその国にとって都合の良い歴史と都合の悪い歴史があるのだろうが、お互いその片方を知るだけでは、成熟した二国間関係の構築は難しいと思う。

歴史をどう書くか、どう教えるかは、その国の外交スタンスまで影響を与えるものとの認識が必要で、相手国の立場と自国の立場と第三国の立場から史実を検証し、真実を追求する姿勢を崩すべきではない。相手国が主張する歴史を鵜呑みにしては、わが国の外交的立場を弱めてしまうばかりだ。もっとわが国の政治家が歴史に詳しければ、尖閣や竹島や、北朝鮮問題などに対する対応が、今とは随分異なったものになるのではないだろうか。
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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