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「お彼岸」で先祖を祀るのは仏教以前の風習か

もうすぐ春分の日だが、この日を挟んで前後三日ずつの一週間を「春のお彼岸」といい、今年の春の「彼岸の入り」は3月18日で、「彼岸の明け」は3月24日だ。
同様に秋分の日を挟んだ一週間を「秋のお彼岸」と言い、今年の秋の「彼岸の入り」は9月20日で「彼岸の明け」は9月26日となる。

「彼岸」とは向こう岸を意味する言葉だが、仏教では煩悩を脱した悟りの境地に達した事を言い、煩悩や迷いに満ちた現世の事を、こちら側の岸「此岸(しがん)」という。

何故「お彼岸」に仏事をするようになったのだろうか。この時期に仏事を行うのは仏教国多しといえど日本だけだそうだ。

春分の日や秋分の日は丁度昼夜の長さが同じで太陽が真西に沈む。仏教の浄土思想では「西方極楽浄土」といって阿弥陀様が治める極楽浄土は西方のはるかかなたにあると考えられている。そこで、太陽が真西に沈むこの時期に、遥かかなたの極楽浄土に思いをはせたのが、「彼岸会」の始まりと説明されている。

しかし、何故日本だけなのだろうか。何故御先祖様をこのお彼岸の間にお参りするのだろうかと考えると、よくわからなくなってくる。何となく太陽信仰のようなものを感じたりもする。

shitennoji1.jpg

では、「彼岸会」はいつごろから始まったのであろうか。

佐伯恵達氏の「廃仏毀釈100年」によると「推古天皇の時(593)、聖徳太子が四天王寺を建立されて、東門より西門を通じて極楽浄土を欣求する道を開かれたことにはじまるといわれています」(P341)とある。仏教伝来が538年とか552年とか言われているが、日本しか行われていない「彼岸会」が始まった時期にしては少し早過ぎはしないか。ひょっとしたら、日本の古来から春分の日や秋分の日にこのような風習があったのではないか、と思ってネットで調べてみると、いろいろ面白い記事が見つかる。

たとえば、「西野神社社務日誌」にはこんなことが書いてある。
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20070920

「…日本では大陸から仏教が伝来する以前から、固有の信仰(神道)によって御先祖様をお祀りする年中行事が営まれており、特に彼岸には太陽を崇拝する行事を行う所が多かったと云われています。例えば、丹後(京都府)や但馬・播磨(兵庫県)などの地方では、春分の日の朝は「日迎え」といって東の堂に集まり、昼は南の堂に移動し、夕方には「日送り」といって西に集まって拝むという風習がありました。つまり、一日中太陽のお供をして歩くのです。

また、熊本県や鹿児島県では「彼岸籠もり」といって、春・秋それぞれの彼岸の頃に山登りを行って御先祖様をお祀りするという風習があり、秋田県でも、子供が山に登って「万灯火」という火を焚いて御先祖様をお迎えするという風習があります。これは、山という所が、田の神が下界へ降りてきたり帰っていったりする神聖な場所であると同時に、御先祖様の霊が宿っている所であるとも考えられていたからです。…(引用終わり)」

と、なかなか面白いことが書いてある。

また別のサイトでは、「彼岸」は「日願」という説もあると書いてある。
http://www.ffortune.net/calen/higan/higan.htm

しかし、この時期に先祖をおまいりするのが日本古来の風習だとするならば、何故正月や節分のように神社でずっと行事が執り行われてこなかったのか。「彼岸会」が一般民衆に広がって各地の寺院で法要が営まれるようになったのは江戸時代だといわれているが、それまでは先祖をどのようにお祀りしていたのであろうか。

皇霊祭遥拝

毎年春分の日や秋分の日には、毎年宮中の皇霊殿で歴代の天皇の霊を祀る春季皇霊祭や秋季皇霊祭を執り行われ、全国の神社で皇霊遥拝式がなされるが、この儀式は明治政府が明治11年に廃仏毀釈の流れの中で始められたものであり、それほど古い歴史があるわけではない。
神道の考え方では死とは穢れであり、神の聖域である神社で先祖の霊を祀る発想は明治まではなかったのではないか。神葬という神道の葬式が始まったのは明治五年だ。その2年後に明治政府は寺院の葬式を禁止しているが、さすがにこのことは徹底できなかった。

彼岸で先祖を祀るのは本来神社の行事と考える人もいるようだが、この考え方には無理がある。日本古来の風習がそのまま仏教にとりこまれたのではないだろうか。民衆は太陽に祈って、長い間先祖をお祀りしてきたのかもしれない。

これからも、祖先を敬いなくなった人を偲ぶ日本の良き伝統は、末永く続いてほしいと思う。
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鳥居は神社のものなのか

鳥居は神社の入り口にあるもので、お寺に鳥居などはあるはずがないものだと子供の頃から思ってきたのだが、その考え方が正しくないことが分かってきたのはつい昨年のことだ。

たとえば、聖徳太子の創建である大阪の四天王寺に行くとこのように西の入口に石の鳥居が建っている。

四天王寺石の鳥居

この鳥居は永仁2年(1294)に再建された、日本最古の石造りの大鳥居とされ、国の重要文化財に指定されている。

四天王寺扁額

扁額には「釈迦如来 転法輪所 当極楽土 東門中心」と書かれているが、この意味は「お釈迦さまが説法を説く所であり、ここが極楽の東門の中心である」という意味である。
この扁額は見るからに新しく制作されたものであるが、ここに書かれている文字は昔から同じもののようだ。「法然上人行状画図」という本の第十六に四天王寺の鳥居が書かれており、扁額には、今と全く同じ文字が書かれているらしい。

以前このブログにも書いたが、吉野の蔵王権現堂の近くに鳥居が建っている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-85.html

吉野銅の鳥居

上の画像が有名な「銅(かね)の鳥居」で、日本最古の銅製の鳥居でこれも国の重要文化財に指定されている。高さが7.6m、柱の径が1mで、東大寺の大仏さんを造る時に余った銅を用いたという言い伝えもある。また鳥居の柱は、仏の台座である蓮華座の上に立っているそうだ。
この鳥居の扁額には「発心門(ほっしんもん)」と書かれているが、この字は弘法大師の筆によるものと伝えられている。

発心門扁額

この鳥居は聖地への入り口であり、俗界と聖地との境界を象徴する。
大峯山に入る修験者は、この門に手をかけて廻りながら、
吉野なる銅の鳥居に手をかけて、弥陀の浄土に入るぞ嬉しき」
との讃仏歌を三度唱えて修行の心を新たにして出発するそうだ。

宮島の大鳥居

日本の三大鳥居は安芸の宮島・朱丹の大鳥居(木造)と大阪四天王寺・石の鳥居、吉野・銅の鳥居であることを最近知ったのだが、3つのうち2つがお寺に関わるものなのである。

地図記号で使われる鳥居は神社を意味するのだが、そもそも鳥居とは何なのか。

鳥居の起源についてネットで調べるとWikipediaにかなり詳しく書かれているが、結論としては「諸説あるが、確かなことはわかっていない」のだが、延暦23年(804)に書かれた「皇太神宮儀式帳」という文献によると鳥居は「於不葺御門(うえふかずのみかど:上に屋根のない門)」として、「奈良時代から神社建築の門の一種としている」ようで、「8世紀頃に現在の形が確立している」と書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85
では鳥居の起源について「諸説」としてどんな説があるのかというと、

インドの仏教やヒンドゥー経寺院に見られる門である「トラナ」が狛犬などと同じく仏教に付随して伝来したという説。

Wikipediaには「トラナ」の写真が出ていたが、これは確か鳥居に似ていると言えば似ている。

180px-Sanchiトラナ

この画像は紀元前2世紀から紀元前1世紀頃に建設されたサンチのトラナだが、獅子像などが彫り込まれている。

また、中国で宮殿や陵墓へ続く参道の入り口に入口両側に置かれる「華表」が鳥居の起源であるという説もある。
180px-Tiananmen_huabiao華表

上の写真はWikipediaの「天安門前の華表」の写真である。

中国には「牌坊(はいぼう)」という伝統的建築様式の門がある。神戸や横浜の中華街に、このような建物が確かにあった。
250px-SaiKung-SeafoodStreet牌坊

上の画像は、香港西貢区の「海鮮街」にある「牌坊」である。

他には日本古来のものだという説もあり、天照大御神を天岩戸から誘い出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)にちなみ、神前に鶏の止まり木を置いたという説や、現在の雲南省とビルマとの国境地帯にすむアカ族の「精霊の門」には、上に木彫りらしき鳥が置かれたりしていることから、これが日本の鳥居の起源であるという説まである。

ak221精霊の門

子供の頃に山で良く友人と遊んで仲間同士で陣地のようなものを作って入口に門らしきものを構えたのだが、陣地の中に入るメンバーを絞る目的で門らしきものを作る発想はどこの部族でもするのではないかと考えてしまう。

このような諸説がまじめに議論されているのなら、インディアンのトーテムポールが鳥居の起源だという説が出てきてもおかしくないではないか。
「皇太神宮儀式帳」の原文は誰でも次のURLで読む事が出来るが、7/76面の5行目に出てくる「於不葺御門(うえふかずのみかど:上に屋根のない門)」のところは、その大きさが書かれているだけのことである。
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/h248/image/01/h248s0001.html

この資料では、四天王寺吉野蔵王権現堂に鳥居があることを納得させるものではない。いずれも神仏習合以前に作られた寺院はであるが、なぜお寺に鳥居を建てたのだろうか。この2寺院にかぎらず、ほかにも鳥居のある寺院はいくつも存在するのだ。

つまるところ、鳥居とは「於不葺御門」、つまり屋根のない門と考えれば良いだけのことではないか。そう理解すれば、お寺に鳥居があっても何の不思議もない。

そういえば「門」という字は鳥居に似ているような気がする。

鳥居のことをいろいろ調べていると、青い鳥居のある神社が存在するようだ。ネットで画像を検索するといろんな神社が出てくる。この画像は、知多半島にある恋の水神社の鳥居だが、ちょっとチープな印象を受けるのは私だけだろうか。

恋の水神社鳥居

やはり鳥居は朱色が良く似合うと思う。
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お寺に「神棚」がある不思議

私の実家はお寺であるが、「神棚」があって毎日母親が御供えをしていた。私の友人の家にも、古い家で「神棚」がある家が少なくなかった。

子供の頃、実家がお寺なのになぜ「神棚」があるのか疑問に思ったことがあったが、神仏習合と関係があると勝手に考えて、あまり詳しくは聞かずに過ごしてしまった。

神棚

そもそも「神棚」とは何なのか。いつ頃から普及したのかといろいろネットで調べると、明治時代以降とする説と江戸時代初期とする説と二つの説があるようだ。

まず明治時代以降の説は、明治時代の宗教政策から神棚が生まれたと考える説である。

明治初期の太政官布告にこのようなものがある。(明治4年7月4日第322)
一、臣民一般、出生の児あらば、その由を戸長に届け、必ず神社に参らしめ、その神の守札を受け所持いたすべきこと。
但し、社参の節は戸長の証書を持参すべし。その証書には、生児の名、出生の年月日、父の名を記し、相違なく旨を証し、これを神官に示すべし。
一、今既に守札を所持せざる者、老幼を論ぜず。生国及び姓名・住所・出生の年月日と父の名を記せし名札をもって、その戸長へ達し、戸長よりこれをその神社に達し、守札を受けて渡すべし…。
一、守札焼失または紛失せしものあらば、その戸長にその事実を糺して、相違なきを証し、改て申受くべし。
一、これより6ケ年ごと、戸籍改の節、守札を出し、戸長の検査を受くべし。

要するに日本国民は、神官からいただいた守り札を紛失することなく保管しなければならず、もし紛失したならば、戸長(自治会長)から尋問を受けて、何故なくしたかの確認を得なければならなくなった。
守り札を紛失すると面倒なので、守り札を安置させるために各家庭で自然に神棚を置くようになったのが神棚の起源と考える説だ。

江戸時代初期に神棚が生まれたという説は、神棚は江戸時代の初期に流行した「伊勢参り」の御札を納めるのに生まれたという考え方である。


伊勢参り」は「お蔭参り」ともいうが、確かに江戸時代に大変流行した。Wikipediaによると、数百万人規模のものが60年間に3度起こったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E8%94%AD%E5%8F%82%E3%82%8A

伊勢神宮

宝永2年(1705)には、日本の人口が2769万人程度だった時代に330-370万人が伊勢神宮に参詣したと推定されているが、日本人口の12~13%が伊勢に行ったという数字はすごい話であるし、その時期に家でも「お伊勢さん」に参詣できるようにと神棚が流行したという説もそれなりに説得力がある。

豊穣御蔭参之図

上の錦絵は慶応三年(1867)の「豊穣御蔭参之図」で伊勢神宮の神札等が降下する状況が描かれている。
しかしそんなに古い歴史があるなら、江戸時代に創業した神棚製造の企業があってもおかしくないのだが、仏壇のメーカーはあっても神棚については明治以降の会社ばかりである。

よく武道の道場などにある神棚は江戸時代には存在せず、武道の神様とされた「鹿島大明神」「香取大明神」の二柱の神名と幕末期には尊王攘夷思想の高まりとともに、「天照大御神」を加えた三柱の神名を書いた掛け軸を床にかける「神床」だったらしく、江戸時代に神棚が生まれたとしても、本格的に普及したのはやはり明治時代ではないのだろうか。伊勢参りがいくら大流行したとしても、神棚の設置に強制力があるわけではなく、江戸時代に全国津々浦々に普及したと説明するのには無理がありそうだ。
神棚を自宅に設置する目的で作られたのが江戸時代からだとしても、全国的に普及したのは先程の太政官布告の出た明治4年以降ではないのか。

しかし、この太政官布告には相当抵抗があったらしく、この布告は明治6年に中止されたようなのである。ではどういう勢力からの抵抗があったのか。

今年の一月にこのブログで東本願寺のことを書いたが、浄土真宗は廃仏毀釈の影響をあまり受けていない。
西本願寺は江戸時代を通じで朝廷に忠誠を誓い、明治に入っても政府に巨額の寄付をしてきた経緯から、政府も手を出せなかったと言われる。
一方東本願寺は、幕末までは一貫して江戸幕府を支援し、戊辰戦争以降に急遽勤王方に着くのだが、明治政府の重鎮には東本願寺を廃絶させる意見が強いなかを、かなり苦労をして危機から脱出している。詳しくは、この記事を参考にしていただきたい。
「明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

「神々の明治維新」(安丸良夫著:岩浪新書)という本によると、(196p)
「…神仏分離政策以下の排仏的な気運の中でも、東西本願寺派に代表される真宗の教勢は、必ずしも衰退に向かっていたのではなかった。成立直後の新政府は、財政的に両本願寺に依存することが大きかった…。…地域で廃仏毀釈がすすめられても、一貫してそれに抵抗したのは真宗であり、…廃仏毀釈の嵐がすぎると、いちはやく寺院を再興させたのも真宗であった。」

西本願寺

「…佐渡、松本藩、富山藩などで廃寺廃仏への粘り強い抵抗や、大浜騒動、越前一揆のような闘争などにおいてしめされた真宗信仰の固有性と強靭さこそが、限定づきにしろ、「信教の自由」への道をきり拓いた深部の力であった」

と書いてある。真宗が明治政府を資金面で支援しつつ、真宗寺院の廃寺廃仏に相当抵抗したということだ。

もともと真宗門徒は他の宗派とは異なる宗教生活の独自性がある。大きな仏壇を家ごとに備え、在家での説教や夜間の法談を行い、神祇不拝が指導されている。
神棚に関しては今も設置すべきでないとの考えが徹底しているようだ。例えば、真宗大谷派大阪教区のHPでは、信者に対して「神棚は必要でないと気付いたら、速やかに取りはずすべきでしょう。決して罰(ばち)は当たりません。」と書いている。
http://www.icho.gr.jp/faq/q_a_032.htm

現代人にはやや過激にも見えるこのような真宗の抵抗がなければ、廃仏毀釈による文化破壊がどこまで進んだかわからない。
梅原猛氏によれば、「明治の廃仏毀釈がなければ、現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と考察しておられるが、真宗の廃寺・廃仏に対する抵抗がなかったら、我が国はもっと多くの文化財を失っていたのではないだろうか。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了することが決定しています。BLOGariの旧メインブログの「しばやんの日々」はその日以降はアクセスができなくなりますことをご承知おき下さい。

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