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伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1

学生時代に仙台藩主伊達政宗が、慶長18年(1613)に家臣支倉常長をローマ教皇とスペイン国王のもとに派遣したことを学んだ(慶長遣欧使節)。
改めて「もう一度読む 山川の日本史」を読みなおすと、慶長遣欧使節に関しては「メキシコとの直接貿易をめざしたが、目的は達することが出来なかった」とのコメントがあるだけだ。

しかし、なぜ江戸幕府を差し置いて仙台藩がスペインとの交渉を直接行うことになったのであろうか。また、江戸幕府がキリスト教を禁止していた時期にもかかわらずこの使節がローマ教皇に謁見したことに違和感を覚えていた。

幕府が最初のキリスト教の禁教令を布告したのは慶長17年3月(1612)で、この時に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じ、そしてその年の8月にはキリシタン禁止が明確に成文化されて、法令として全国の諸大名に公布され、領内の一般庶民にキリシタン禁制が義務付けられている。もちろん伊達政宗の仙台藩も例外ではなく、この禁教令により長崎と京都にあった教会は破壊され、修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放されたり処刑されたりしているのだ。

伊達政宗

伊達政宗慶長遣欧使節を派遣した時期は、教科書には慶長18年(1613)と書かれていて幕府の禁教令公布の直後のことなのだが、この使節が派遣された背景などを詳しく知りたくなっていろいろ調べてみた。

ネットではWikipediaなどで慶長遣欧使節やその関連人物について詳しく記述されているし、関連した書物もいくつか出ているので、それらを参考にして簡単に纏めてみよう。

まず最初に、慶長14年(1609)に前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がメキシコへの帰路で台風に遭遇し、上総国岩和田村(現御宿町)に漂着するという事件があり、地元民に救助された一行に徳川家康がウィリアム・アダムス(三浦按針)の建造したガレオン船(サン・ブエナ・ベントゥーラ号)を贈って、メキシコに送還させたという出来事があった。

続いて、慶長16年(1611)に、その答礼使としてセバスティアン・ビスカイノがスペイン国王フェリペ3世の親書を携えてサン・フランシス号で来日した。そこには外交を開く条件としてカトリックの布教を認め、プロテスタントを排除することなどが記されていたらしい。
しかし家康は、スペイン側の条件を受け入れればわが国が植民地化されかねない、というウィリアム・アダムスの進言もあり、友好的な態度を取りながらも全面的な外交を開くことはしなかったという。

慶長17年(1612)9月にセバスティアン・ビスカイノは家康・秀忠の返書を携えて帰途に就いたが、11月14日に暴風雨に遭遇し、座礁して乗船(サン・フランシスコ号)を失ってしまった。メキシコに戻るために船の建造費の用立てを幕府に申し入れたが、日本の外交方針の変更により受け入れられなかったという。

このような状況のなか、伊達政宗は家康から「外交権」を得ることに成功する。スペインやメキシコと通商条約締結のためには、どうしてもスペイン国王に使節を派遣すべきであると伊達政宗に説得し、さらに家康に説得してそれを認めさせた人物がいた。その人物がフランシスコ会の宣教師であるルイス・ソテロである。

当時は500トン以上の船を国内で造船することが禁止されていたので、政宗にすれば、幕府が関与することでその造船許可を得ることも、海外渡航証明の朱印状も発行してもらうこともできる。
また幕府にしても、幕府の資金を使うことなく、国賓として来日していたセバスティアン・ビスカイノ一行をメキシコに帰国させる目途がたち、国際的な面目を保つことが出来る。

ところが、その後幕府は禁教令を公布し、慶長18年(1613)6月にソテロ自身も小伝馬町の牢屋に閉じ込められて危うく火刑に処されるところだったのだが伊達政宗の陳情により助けられ、その年の9月の伊達政宗の遣欧使節団に正使として参加することとなるのだ。 外交には当然通訳が必要であり、日本語だけでなくスペイン語での交渉力も不可欠だ。政宗からすれば、ソテロはそのために欠かすことのできない存在だったようだ。

しかしソテロは、出帆直前になって伊達政宗に対し重大な要求を行っている。イエズス会のアンジェリス神父が、政宗とソテロとの駆け引きについて、1619年のイエズス会本部に宛てた報告書で次のように記録している。

ルイスソテロと支倉常長

「…船の準備が整うと、ルイス・ソテロは、…政宗がイスパニア(スペイン)の国王陛下とローマ教皇聖下の下に使節を派遣すべきであることを指摘し、また交渉をうまく進展させるために両者へ相当な進物を持参する必要があると述べた。そしてこの条件が受け入れられなければ、自分は乗船しないだろうと述べた。…政宗はすでに相当の金額を船の建造のために出費していることを考慮し、ソテロの進言を受け入れてイスパニアとローマに使節を派遣することを同意した。…」(大泉光一『伊達政宗の密使』洋泉社p67-68所収)

サンファンバディスタ号

この使節の当初の目的は、メキシコとの直接通商交易を開くことであったのだが、サン・フアン・バウティスタ号が完成し、その出帆直前にソテロの一言によりスペイン、ローマにも使節を派遣することとなったのだ。そんなことを江戸幕府が許すはずがなかったのだが、伊達政宗は重臣たちから大反対されながらもそれを受け入れてしまうのだ。

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なぜ政宗はそれを受け入れたのか。その手掛かりになるのが、使節団がローマ教皇に謁見した際に奉呈された文書で、今もヴァティカンに残されている。
一部を読んでみよう。最初は政宗がローマ教皇パウロ五世に宛てた親書である。

「私はキリシタンになりたいと思うに至ったのですが、今のところ、どうしてもそうすることのできないような、差し障りになる事情があるため、まだ、そうするまでに至っておりません。しかしながら、私は、領分の国(奥州)で、しもじもの領民たちがことごとくキリシタンになるようにさらに勧奨するという目的のため、サン・フランシスコ御門派の中でもオウセレバンシアに所属するパードレ衆(宣教師)を派遣して頂きたく存じます。…」

「…なお、このパードレ・フライ・ルイス・ソテロと、六右衛門(支倉常長)とが、口頭で申上げるはずですから、この人々の申上げるところに従ってご判断頂きたく存じます。」

ソテロ自身がかなり作文した臭いが漂うのだが、伊達政宗自身も直接署名している文書であり、政宗が内容については承知していたと考えられるのだ。重要な極秘事項はこの時に口頭で語られたのだろうが、その内容についてはどこにも記録が残っていない。

次は同じく教皇に奉呈された、日本のキリスト教徒の連書状である。

「今年になってから新たな迫害が…将軍様によって引き起こされました。…
 偉大な教父(教皇)よ、神が…奥州の王(伊達政宗)を召し出して、彼を照らし出した時、大きな門が開かれたということを疑わないでください。…私たちは彼が将来出来るだけ早く支配者(将軍)になることを期待しております…」(同上書p192-193)

他にもう一通連書状が残されているが、いずれも同様に伊達政宗を支持する内容のものである。この内容もかなりソテロが手を加えたことはまず間違いないだろう。

慶長の遣欧使節に詳しい大泉光一氏は「伊達政宗の密使」のなかで、こう書いている。

「ソテロが、船が完成する直前に、スペインやローマに使節を派遣することを政宗に進言したのは、『訪欧使節団』派遣の真の目的を最初から明かしたのでは、メキシコとの直接通商交易を開始することを第一と考えていた政宗が、使節派遣計画を取り止める恐れがあったからである。」(同上書p84)

では、ソテロにとって「訪欧使節団」の真の目的とは何なのか。
大泉氏はさらにこう書いている。
「ソテロは、幕府のキリスト教の禁教令で自分が洗礼を授けた多くのキリシタンが処刑されるのを目撃し、また自らも囚われの身となり、火刑に処せられる直前に救出されるという経験から、将来の日本におけるキリスト教の布教活動に対し強い危機感を抱いたに違いない。

 そこでソテロは、…伊達政宗の保護の下、自ら東日本区の司教になって仙台領内に宣教活動を行うことを目論んだ。そして、キリスト教に対し理解を示し、自らも洗礼志願者となって、家臣にキリシタン改宗を勧めた政宗に日本全国のキリスト教徒の指導者になるように歓説したのだろう。

 それを現実のものにするためには、日本中のキリスト教徒(30万人以上)の支持を得て政宗がローマ教会に服従と忠誠を誓い、彼らの指導者として承認してもらう必要があった。そのためにソテロは、政宗にスペイン国王とローマ教皇のもとに極秘に使節を派遣することを持ちかけたのである。」(同上書p84-85)

と、なかなか説得力があるのだ。

大泉氏はさらに「政宗自身も天下取りの夢を捨て切れず、自ら「将軍職」に就くためにキリスト教を利用しようとした」とも書くのだが、この点について書きだすと長くなるので、次回以降に紹介することとしたい。
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メキシコで歓迎されず、スペインでは諸侯並に格下げされた~~慶長遣欧使節2

前回は、伊達政宗が慶長遣欧使節をスペインやローマに派遣した経緯と、真の派遣目的についての大泉光一氏の説を紹介した。

今回は、この使節が訪れた国々に残された記録から、この使節がどういう行動を取り、派遣先の国にどう記録されているかをみてみよう。

サンファンバウティスタ号

慶長遣欧使節は慶長18年9月15日(1613年10月28日)にサンファンバウティスタ号で牡鹿半島の月ノ浦(現在の宮城県石巻市)を出帆し、3ヶ月後の1614年1月28日にメキシコのアカプルコに入港した。
Wikipediaによると「3月4日、使節団の先遣隊がメキシコシティに入った。先遣隊の武士がメキシコシティで盗人を無礼討ちにし常長ら10人を除き武器を取り上げられた。」と記述されており、メキシコに着くなりいきなりトラブルからスタートしている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E9%81%A3%E6%AC%A7%E4%BD%BF%E7%AF%80

大泉光一氏の『伊達政宗の密使』には、「無礼討ち」のことまでは書かれていないが、副王のグアダルカサール侯が3月5日付けで軍事裁判長に宛てた命令書で、そのようなトラブルがあったことが推察できる。

「…彼ら(日本人)は見ての通りの性質・気性の人たちなので、争い、騒動、喧嘩のいかなる機会もつくらぬように、…スペイン人、現地人…は日本人に対し、悪意な行為や言葉、不正、暴力、また彼等を苛立たせる、不和の原因となるようなあるいは他の暴挙をすることなく…行動するように。…日本人の誰からもその意思に反して商品や代金を取り上げたり、彼らがそれらをどこででも売却する自由を奪ってはいけない。…」(大泉光一『伊達政宗の密使』p105-106)

文面から見てグアダルカサール侯は日本人に対して良い印象を持っておらず、日本人の傲慢な態度、相手に対する好戦性、気性の激しさなどから、もっと深刻な武力衝突を懸念して、日本人の武器を取り上げることをその命令書に明記しているようだ。

最初の訪問地であるメキシコでは決して歓迎されることなくスタートした使節団ではあったが、4月に使節団一行のうち42名が、サン・フランシスコ教会で洗礼を受けたという記録が残っているという。

大泉氏によると、当時のメキシコには「インディアス法」という法律があり、カトリック以外の宗教を信仰する者は法的能力が認められず「栄誉およびその財産を剥奪される」と規定されており、メキシコに渡航できる移住者は三代にわたってカトリック教徒であることを証明できるものに限られていたという。江戸幕府の禁教令にもかかわらず使節団の多くがここで洗礼を受けることにしたのは、この地において不利な条件を取り除くためにやむを得ないと考えたのだろう。 次のURLでは、この集団受洗が副王および大司教の態度を軟化させ、ソテロはスペイン、ローマへの渡航の手掛かりをつかみ、商人たちは船で運んだ商品の販路を見出したということが書かれている。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1149

その後使節は二つに分かれて、支倉常長他約30名がソテロの引率でスペイン、ローマに向かい、残りの100余名の日本人は約一年間メキシコに滞在後日本に帰国したという。

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スペイン・ローマを目指した支倉常長やソテロらは、遂に1614年10月にスペインのセビリヤ市に到着した。セビリヤは地中海航路と大西洋航路の中継地として繁栄していた、スペイン王国最大の商業都市であった。

マドリード王宮

セビリヤのファン・ギャラルド・セルペデスがスペイン国王宛に使節の処遇について意見を述べた書簡が残されていて、そこには
「フランシスコ会士(ソテロのこと)がスペインに到着した最初の訪問地セビリヤに、日本皇帝(将軍)と奥州王の大使を連れてきたことに敬意を払いました。…彼等は(スペイン国王)陛下と教皇聖下に服従するために来ました。…」と書かれているそうだが、この時支倉とソテロほかには国賓級のVIPが泊まるアルカサール宮殿が提供されたそうだが、よほどソテロの弁舌が巧みであったということなのだろう。

一方スペイン国王にはイエズス会のルイス・ピニィエロ神父から、日本において幕府がキリスト教を禁止し、キリスト教を弾圧していることについての情報がすでに入っていた。 またメキシコ副王からは、1614年5月22日付けのスペイン国王宛書簡で、「ルイス・ソテロは政宗を籠絡して使節を派遣したものであり、この使節派遣は徳川家康の思惑に反する行為である。日本のキリスト教化のためには将軍と親交をもつのが最善であり、一領主(大名)にすぎない奥州王と個人的に結託すべきではない」と主張していたという。
こうした状況下でソテロと支倉常長が事情聴取を受け、この使節は幕府ではなく奥州王が派遣した使節であることが明らかになっていく。

使節一行がマドリードに近づくと、スペイン国王は使節の宿泊先を王宮ではなくサンフランシスコ修道院とすることを命じた。大泉氏の表現を借りれば、国賓待遇から地方諸侯級の待遇となったということになる。

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マドリード到着から40日以上経った1615年1月30日、支倉常長とソテロはようやくマドリードの王宮でスペイン国王フェリペ3世に謁見することとなる。この時に支倉常長が国王に述べた口上が、アマーティの「遣欧使節記」に次の様に記されているという。

「私の主君は日本の宗派は悪魔による偽りであると考え、キリスト教の信心こそが救霊の真の道であり、…この神聖な志をすべての家臣が王に追従するように努めたいと願っております。…」
「…この使節を通して(キリスト)教会の堅固な柱石である陛下に訴え、(わが王に)聖なる福音書の真実を説き、聖なる秘跡を授けて下さるよう修道士と宣教師を派遣されんことを強く請願することを考えました。…」
「この素晴らしい君主国(スペイン)との間に結びたいと望んでいる友好と提携を陛下と陛下の統治国に対して私が申し入れる命を請けてまいりました。されば陛下にささげる情愛を好意的で寛大に示して下されますよう、また我らの王国すべてにおいて軍事力を備えておりますので、陛下のお役に立つ機会があれば力を尽くしたいと望んでいますのでいつでもお使い頂きたく国王陛下に請願します。…」(大泉光一「伊達政宗の密使」p145-146所収)

と述べたあと、支倉常長は自身の信仰の意思表示として、国王陛下のご臨席のもとでキリスト教の洗礼の秘跡を受けたいことを表明するのである。

国王陛下は、以下の様な返答をされた。
「使節を遣わした(奥州)王が求めていることに対し、喜んで応じることに決めました。私たちに示された提案、および友好を重んじ深く感謝いたします。我々としては現在もまた如何なる時もそれに応じぬことはありません。これに対する最も相応しい処置については、最も好都合な折に新たな協議をする機会を与えるでしょう」(同上書p147) 最後の言葉でわかるように、肝心な事を曖昧にしたままで問題を先送りにした外交辞令である。その後、再び政宗の提案事項についてスペイン側と新たに協議する機会は与えられなかったのである。

支倉常長像

フェリペ三世との謁見の中で支倉常長が手渡した政宗の親書の中に、九条からなる「申合条々」(協約案)が含まれていた。この文書は天理大学図書館に残されているが、最後の方に誰が読んでも驚くような内容の条文が書かれている。

「一、スペイン人で、当領内に滞在することを希望する者に対しては、その居住すべき場所及び土地を与える。万一、スペイン人と日本との間に、訴訟、論争または意見の相違が生じたときには、いかなる場合にも当人をスペイン人同士の統率者、または調停者であるスペイン人に引き渡すことを命令し、スペインの法律に基づいてその訴訟を解決し、右統率者または調停者の判断に従って裁判を行わせる。」

「一、スペイン国王と敵対関係にあるイギリス人、オランダ人、およびその他のいかなる国民でも、当領国内に渡来した者は、すべてこれを裁判に付す。詳細についてはルイス・ソテロが口頭で申上げます。」(同上書p152)

治外法権を認め、さらに単なる通商条約の枠組みにとどまらず、スペインの敵国であるイギリス、オランダ両国を政宗の領内から排斥することを約束している軍事同盟まで踏み込んだ内容になっている。

この「申合条々」は、船が出帆する直前に書かれたものであるが、明らかに幕府のキリシタン禁教方針や、オランダや英国との関係を重視する方針とも異なるものであり、幕府の承諾が得られるはずのない内容であった。
この時ソテロも熱弁を奮うのだが、フェリペ三世からはなんの返事も得ることが出来なかったという。

支倉常長はその後、国王に謁見時に口上で述べたとおり、フェリペ三世臨席のもと王立跣足女子修道院付属教会でキリスト教の洗礼を受けるのだが、対外交渉を良い結果に導くことにはならなかった。
結局使節団は、国王謁見の後約7ヶ月もマドリッドに居座るのだが、使節団が宿泊したサンフランシスコ修道院では厄介者扱いだったようだ。
スペイン政府にすれば、何の目的で来たかはっきりしない使節団に対し、巨額の経費をつぎ込むのは無意味であるとして、インティアス顧問会議が何度か国王に対して苦言を呈している記録が残っているし、使節団が修道院の病室や部屋に損傷を与え、それを修道院側が修理負担するのは理不尽だとの記録も残っている。

一方、この頃の日本はどういう状況にあったのだろうか。
慶長19年12月20日(西暦1615年1月19日)に豊臣家は大坂冬の陣で敗れ、慶長20年5月7日(西暦1615年6月3日)に大坂夏の陣で大坂城は陥落した。ソテロや支倉常長がスペインに滞在していたのはこういう時期だったのである。(使節団が国王に謁見した日:1615年1月30日)

また、同じキリスト教でもプロテスタントのオランダやイギリスは「キリスト教布教を伴わない貿易も可能」と主張していたため、この考え方であれば幕府にとって積極的に宣教師やキリスト教を保護する理由はなくなってしまう。この時期の幕府は明らかにカトリックのスペインを冷遇し、オランダとイギリスを厚遇する措置を取っていた。

平戸商館

慶長14年(1609)にはオランダ、慶長18年(1613)にはイギリスが肥前国(長崎県)平戸に商館を置いて「平戸貿易」を活発化させ、元和2年(1616)には、幕府はヨーロッパ船の来航を平戸と長崎に制限し、南蛮貿易(スペイン・ポルトガル)を縮小させた。
スペインにはそのような日本の情報が遅ればせながら入っていたはずで、国王フェリペ3世が、政宗が提示した「申合条々」に何の回答もしなかったのは、日本側の諸事情がある程度わかっており、使節団は日本国を代表するものではないと判断していたと考えられている。

そして、何の成果もないままに1615年8月22日に使節団はローマに向かうことになるのである。
(つづく)

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教皇謁見を果たしスペインに戻ると、国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3

1615年8月22日、遣欧使節一行はスペインのマドリードを出発してローマに向かった。

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この直前の8月1日付でスペイン国王フェリペ3世(画像)は、ローマ駐在大使フランシスコ・デ・カストロ伯爵に対し、支倉常長以下使節一行がローマ滞在中に援助をするように命じた書簡を送っている。

「…日本における奥州の王の大使が当地に参り、今その地(ローマ)へ渡航しようとしております。その重大な目的については、彼が諸君らに直接告げるでしょう。当地で協議した用件(交渉事)は、われらの主のために非常に有益であった。朕の名において彼(支倉)を助け、彼が諸君に求めることはすべて朕が非常によく奉仕したように、貴下も同様に彼らのために最も都合の良い方法で援助するように命じます。…」(「伊達政宗の密使」p.164所収)

この書簡の中で国王は支倉常長を「誠実で尊敬できる人物であり、人柄も賞賛を受けるに値し」と絶賛しているのだ。

しかしながら、同時に国王は駐ローマ・スペイン大使に宛てた書簡で次のようにも書いている。

「(ソテロや支倉が)貴下に、当地(スペイン)で拒否したことを許可するよう教皇パウロ5世に嘆願することを依頼し、もし教皇がこれを許可することがあれば、大変な不都合が生じる。いまその請願の各項目に対する(わが国の)返答を送付するので、もしこれらの諸項について教皇に請願するようなことがあったら、これを妨害せよ。これは日本におけるキリスト教の事情(迫害のこと)に鑑み、またこの施設が日本皇帝でなく奥州王の命令によって渡来したものであり、重要とは認め難いからである。」(同上書p.178-179所収)

したがって、ローマ駐在スペイン大使は使節の側面的な支援はしても、使節の使命達成のために力を尽くすことはなかったのだ。

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使節一行は1615年10月12日にイタリアのジェノバ港に到着し、翌日に共和国大統領に謁見している。そして10月25日についにローマに到着した。

使節一行はフランシスコ修道会のサンタ・マリア・アラチェーリ修道院で宿泊し、支倉とソテロはローマに到着後直ちにモンテ・カバルロのクィリナーレ宮殿にて、非公式にローマ教皇パウロ5世に謁見したという。

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この時の謁見の様子について、マドリードからこの使節に同行したローマ人歴史家のアマーティ博士の記録が残されている。

支倉常長は「…教皇の足許にひれ伏し、使節に多くの栄誉を授けられたこと、そして奥州王の名代として教皇聖下に服従と忠誠の誓いを無事にできるように導いてくれた神に対してお礼を申し上げ…」 ローマ教皇は、「使節の願いが完全に叶えられるように援助するよう努力しなければならない」と表明したものの、支倉らの要求に対しては即答を避けたとのことである。

10月29日に遠来の使節一行を歓迎する入市式で、軽騎兵を先頭に各国の大使や貴族らが着飾って行進する中で使節一行は各人が刀や脇差を帯刀して行進した記録が残されている。

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そして、11月3日に教皇宮のクレメンス広間の右にある部屋で、使節は正式にローマ教皇聖下に謁見することになる。

そこには教皇聖下のほか、枢機卿、大司教、司教、各国の大使らが着座しており、支倉常長は日本語で言上したのち、日本語及びラテン語で書かれた伊達政宗の親書を教皇に奉呈した。

この親書で政宗は、教皇に対し、ソテロと支倉は自分の名代として、教皇聖下に服従と忠誠を誓うために
① フランシスコ会所属の宣教師の派遣要請
② 大司教区の高位聖職者の任命
③ メキシコとの直接通商交易開始を実現するための仲介
④ 政宗および領国が教皇の最高権力の下に入ること
などを請願した。

上記の請願の回答については、同年の12月27日と翌年の1月2日になされるのだが、聞き入れられたのは宣教師数名の派遣のみであった。伊達政宗の領国内に司教区を設置することは拒否され、通商交易の開始の請願については教皇としては関与することは望まず、スペイン教皇特使に命じて、スペイン国王に依頼したいとの返事であった。
また4番目の請願については、教皇は次のように述べたという記録が大泉氏の著書に出ている。

「聖霊の御恵みによって貴殿(政宗)が生まれ変わり、イエズス・キリストを頭と仰ぎ、その境界に属することにより、ローマ教皇座より御子キリストにおいて最も愛する諸王に与える、恩恵及び厚遇を貴殿に与え、貴殿並びに貴殿の領国を私の聖ペトロの保護のもとに置きましょう。」(同上書p.183-184所収)
つまり、政宗が洗礼の秘跡を受けてキリスト教の信者にならずして、政宗とその領国をローマ教会の配下に置くことは認められないということだ。前々回の記事で紹介したとおり、政宗は親書の中で、「私はキリシタンになりたいと思うに至ったのですが、今のところ、どうしてもそうすることのできないような、差し障りになる事情があるため、まだ、そうするまでに至っておりません。」と書いていた点を突かれたのだ。

使節一行はローマに75日間滞在したが、期待した成果をほとんど得ることなく1616年1月7日にローマを去り再びスペインに向かったが、ようやくスペインに戻るとインディアス顧問会議から国外退去の勧告を受けている。

1616年7月5日付の交易裁判所から国王宛の書簡に次のようなものがある。
「…奥州王の大使が、(アンダルシア管区の)聖フランシスコ修道会のロレート修道院に居座ってしまっていた知らせを受けた。直ちに、当市に滞在していたフライ・ルイス・ソテロに対し、私、裁判長が奥州王の大使が留まることに不都合があると警告した。」(同上書p.201所収)

しかし、帰国を迫られたソテロと支倉は、政宗との密約を何も果たさずに仙台には帰れないと考え、国王陛下からの書状なしでは乗船できないとして、この修道院に約一年間留まったのだ。

1617年6月13日、インディアス顧問会議は支倉に対して強制的な国外退去を命じたが、支倉の執念によりその3日後にソテロが選任したフランシスコ会修道士8名を派遣することに合意し、政宗の「申合条々」(協約案)に関しては、一行がフィリピンに着いたときにソテロに返書を渡す確約をとった。これ以上スペインに留まっても意味がないことを悟った一行は、7月4日にセビリャから帰国の途に就いたのである。

翌年6月に使節はフィリピンに到着しここで約2年滞在し、滞在中にスペイン国王から政宗に宛てた返書を受け取ったのだが、この返書は儀礼的なもので、政宗が要望した点について具体的な回答はなかったという。

1620年8月26日、使節一行はマニラを離れ7年ぶりに長崎に向かうのだが、ソテロはフィリピンにとどまらざるを得なかった。ガルシア・セラノ・マニラ大司教がソテロの日本帰還を認めなかったためだ。

ソテロが日本に帰れなかったのは、イエズス会の宣教師ジェロニモ・アンジェリスが1617年11月28日付のイエズス会総長に宛てたソテロ批判の書簡が大きく影響したという。そこにはこう書いてあった。

「ソテロ師は使節に己の欲することを言わせたのであり、すべては天を騙したのである。何となれば、政宗は決して使節を教皇とスペインに派遣することを夢見たのではなく、彼が望んだのは船をメキシコに遣わすことだったからである。…ソテロがこの使節により求めていたのは日本の大司教座と大司教(のポスト)を得ることであった。しかし、彼にとって、事はうまく運ばず、彼らの代理人たちを(ヨーロッパへ)派遣したことにより彼の計略は露見した。彼が二度と日本に戻らぬことをデウスが嘉し給わんことを。なぜなら、もし彼が(再び)来たならば、我らを大いに不快にさせ、我らが常に訴訟を携えねばならなくなるからである…」(同上書p.212-213所収)

ところで、ソテロを批難する記録の多くはイエズス会によるものである。
ソテロはフランシスコ会の宣教師だが、使節に関し多くの書簡をスペイン国王やローマ教皇宛てに送ったアンジェリスやインディアス顧問会議の中心メンバーはイエズス会であった。 当時、フランシスコ会とイエズス会が対立関係にあったことをある程度割り引いて考える必要があるのだが、そもそもソテロという人物は信頼に足る人物であったのだろうか。

ソテロは日本語もラテン語もスペイン語も使いこなすことができたのだが、使節の日本人にソテロの翻訳が正しいかどうかを的確に判断する能力のある人物がいなければ、ソテロにすれば、二枚舌や三枚舌を使って政宗やスペインを騙してうまく立ち回ることが容易だったという見方もできるだろう。

しかし、もし彼がイエズス会が描いたような詐欺師のような人物だとすれば、1622年に命の危険を冒してフィリピンを脱出し、長崎に密入国したことをどう解釈すればよいのだろうか。

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  【支倉常長像:ボルゲーゼ宮】
ルイスソテロと支倉常長
  【ソテロと支倉常長:キリナーレ宮】
また日本人の中で最初に西洋で油絵の肖像画を描かれたのは、ローマで描かれた支倉常長で、この絵はボルゲーゼ宮という17世紀の代表的な宮殿に飾られているのだ。さらにソテロと支倉常長が談笑しているところを描いたフレスコ画は、当時の法王の居城で今は大統領官邸であるキリナーレ宮に描かれている。支倉やソテロという人物に敬意なくしてこのような絵が格式の高い宮殿で制作されるだろうかとも思えるし、ひょっとすると国王や法王は二人を評価していたが、日本におけるフランシスコ会の勢力拡大を阻もうとするイエズス会の妨害により、話が進まなかった可能性も考えられるのだ。

つまるところ「慶長の遣欧使節」はソテロという人物をどう見るか、イエズス会の記録をどう読むかで、評価が全く異なることになってしまう。

次回は、その後江戸幕府はどう動き伊達政宗はどう対応したか、ソテロや支倉常長はその後どうなったかなどを書くことにしたい。(つづく)
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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