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中国人苦力を全員解放させた日本人の物語

19世紀に奴隷制の廃止運動が起こり、イギリスでは1833年、フランスでは1848年に奴隷制度が廃止され、アメリカは少し遅く南北戦争後の1865年に漸く奴隷制度が廃止されている。
しかし、これで完全に世界で奴隷制度がなくなったわけではなく、奴隷商人たちは彼らに代わる奴隷をアジアの地に求めるようになった。
かくして中国人の苦力(クーリー)貿易がアヘン戦争直後の1845年から本格化する。彼らは建前上は契約労働者であったが実態は奴隷であり、前回紹介した奴隷船と同様な構造の船に詰め込まれて鎖につながれて運ばれていった。

1860年代半ばには、こうした苦力を運ぶ定期航路が開かれて大量移民に拍車がかかり、1930年代に下り坂に向かうまで、数百万人にもおよぶ中国人苦力が運ばれていったと言われている。

私の書棚に1冊のGHQ焚書図書がある。
ある古本屋で見つけて1000円で買った菊池寛の『大衆明治史』(国民版)という本だ。

大衆明治史

何も苦労して古本を探さなくとも、ネットで全文を公開している奇特な人がいるので、今では誰でもダウンロードして読む事が可能だ。
http://tncs.world.coocan.jp/tsmeijisi.html

この本は、明治に起こった21の出来事を事実に基づきわかりやすく叙述した書物で、明治21年生まれの作家・菊池寛が明治という時代をどのように捉えていたかがわかって興味深く読める。少し読んで頂ければわかると思うが、国家主義的な思想性は特に感じられない。なぜこの本がGHQの焚書対象とされたかの理由を推定するに、西洋諸国にとって都合の悪い史実が記されていたからだと思う。

目次をみると最初が廃藩置県で、次が征韓論決裂、そして次が問題のマリア・ルーズ号事件だ。
今ではこのマリア・ルーズ号事件のことを記述している本がほとんど見当たらないのだが、菊池寛がこの事件の事を書いたことがGHQの焚書につながった一番大きな理由ではないかと私は考えている。この事件は西洋諸国にとっては、日本人に知らせたくない、都合の悪い出来事であったはずだ。

ではマリア・ルーズ号事件とはどんな事件なのか。菊池寛やWikipediaなどの叙述を参考にしながら、纏めることにする。(Wikipediaでは「マリア・ルス号事件」と表記されている。日付が双方で異なるのは、菊池の文章は旧暦でWikipediaは新暦で統一されている。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%B9%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

明治5年(1872)6月1日(旧暦)に古い帆船が横浜港口に横付けとなったが、途中で暴風雨に遭ったらしく、マストの一部が破損し、帆綱も断れていた。
横浜港長パーヴィス大佐の命令を受けて同船に対し役人の臨検が行われ、この船の正体が明らかになった。
この船は南米ペルー船籍の350tの商船で船名はマリア・ルーズ号。
船長はペルー国大尉のドン・リカルドオ・ヘレラ。
中国のマカオを出港しペルーのカリアオに向かう途中で台風に遭遇し、修理のために横浜に入港したが積荷はなく、中国人苦力225名ならびに船長自身が雇入れた中国人のボーイ23人を載せていたという。

それから数日後、マリア・ルーズ号の過酷な待遇から逃れるために一人の中国人が海へ逃亡し、近くに停泊していた英国軍艦アイアン・デューク号が救助した。その中国人には明らかな虐待の形跡があり、本人の陳述から英国領事館はマリア・ルーズ号を「奴隷運搬船」と判断し、「この驚くべき蛮行の事実を率直に当局に告げ、日本政府が適宜の処置を執られんことを切望する」旨を、神奈川県庁を通じて通告した。

菊地寛

菊池寛は、この事件の背景をこう書いている。
「南北戦争の結果奴隷が解放され、その為新大陸では極度の労力不足を感じていた。これに乗じた、一部の奸商共は、新たに支那の苦力を大量にアメリカに送って、これを奴隷同様に売買して、巨利を博していたのである。」

神奈川県庁の権令(副知事)の大江卓は義憤を感じつつも、条約が締結されていない日本とペルーとの間で国際紛争を起こすことはないとの考えでその苦力をヘレラ船長に戻したのだが、船に戻すと船長はその苦力に笞刑を加えその悲鳴が遠くまで達したという。
数日後またもや別の苦力が英艦に泳ぎ着き、再び船長の暴状を訴えた。激昂した英艦乗組員は英国代理公使ワットソンに急報し、ワットソンは米国公使とともに外務卿の副島種臣を訪ねて日本政府に注意を喚起した。

当時政府部内では、司法卿江藤新平や陸奥宗光等は条約国でもないペルーと事を構えるのは不得策だと反対したが、副島はこの非人道的な事件に対して断固糾弾すべきだとし、中国及びペルーに対しては条約による領事裁判を認めていないので、この事件の処断はわが国における正当な権利であると主張したのである。

副島種臣

「領事裁判」とは在留外国人が起こした事件を本国の領事が本国法に則り領事裁判所で行う裁判のことをいい、江戸幕府が安政年間に結んだ米・英・仏・蘭・露各国と結んだ条約では認められていたが、領事は本来外交官であり、本国に極めて有利な判決が下される傾向が強かった。副島種臣はペルーとはこのような条約がないので、わが国の法律で処すべきであると述べたのである。
この副島の主張は閣議を通過し、この事件の調査は神奈川県令大江卓に命ぜられた。

大江の査問に対しヘレラ船長と弁護人は、問題の苦力たちはいずれも乗客であるから相当な待遇を与えていると主張し、「本事件は公海において発生したものであり、日本国法権の及ぶところでない。」「マリア・ルーズ号出港停止による、損害賠償を請求する」と主張した。一方、大江は他の苦力たちを公判に呼び証言させたところ、いずれも船内の暴状を訴えたという。

大江卓を裁判長とする特設裁判所による7月27日の判決は、中国人の解放を条件にマリア・ルーズ号の出港を認めるものであったが、ヘレラ船長はこの判決を不服としたうえ、中国人苦力に対しての移民契約破棄の罪状で告訴するに至った。

大江卓

しかし大江卓が出した8月25日に出した判決は痛快である。移民契約は奴隷契約であり、人道に反する者は無効であると却下し、中国人苦力全員解放という快挙をやってのけたのである。
「…若し人にして肆に幽閉せられた際は、ハーベーオス・コーポスなる公法によりて、其の者の自由を完全ならしむるが通議なり、今我国に於ては、この公法の設定なし。然れども、何人と雖も、この自由の通議あり。これが我が国の本理なり。然るにマリア・ルーズ船の清国船客の如きは、外国人のために肆に幽閉せられしこと判然たり。故に彼らは盡く釈放さるべし…」

清国政府は直ちに特使陳福勲を派遣して大江卓神奈川県県令および副島種臣外務卿に深謝し、9月13日に苦力から解放された者とともに上海に向かったのである。

菊池寛はこう解説している。
「阿片売買と共に、この苦力売買は、西欧人が支那に対して行った罪悪の、最も悪逆なるものの一つである。当時ハバナの総領事から、外務大臣への報告に依ると、この奴隷船の支那苦力の死亡率は14パーセントに達したと言われる。ひどい例になると、同じく澳門(マカオ)からペルーへ送られた二隻740名の苦力中、航海中死んだ苦力が、240名という記録さへある。…
後に清国政府は、わが国の厚誼を徳として、副島外務卿及び大江県令に対し、感謝のしるしとして、頌徳の大旆(たいはい)*を送ったという。」*大旆:大きな旗

大江卓宛大旆

ちなみにこの時に清国から送られた頌徳の大旆は、神奈川県立公文書館に保管されており、神奈川県のホームページにその写真が掲載されている。
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f100108/p10431.html

しかし、この事件はまだ終わらなかった。
翌年2月にペルー政府は海軍大臣を来日させ、この事件に対する謝罪と損害賠償を要求してきた。この両国間の紛争解決のために、ロシア皇帝アレクサンドル2世が仲裁に立つこととなり、国際仲裁裁判が開催されたが、この裁判は1875年に6月に「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」との判決が出て、ペルー側の訴えが退けられている。

菊池寛はこう結んでいる。
「国際法の知識の貧弱なわが外務当局が、敢然起って、自主的にこの事件に干渉し、この好結果を得たのは、もとより副島の果断、大江の奮闘にもよるが、わが当局が、人道上の正義に基づく行動は、結局世界の同情を得る、と云う確信から出発したことにも依る。外務省公刊の『秘魯国(ペルー)マリヤルズ船一件』なる文書の末尾に、
『此一件ノ当否ハ普ク宇内ノ正決ニ信ズ』
と壮語しているが、全くこの自信を現したものに外ならない」

明治維新直後の新政府において外交が務まるだけの素養や国際法の知識のあるものなどは皆無に近かった中で、副島種臣は佐賀藩の「致遠館」でフルベッキに英米法や各国の法制経済を学んでいた。だからこそ正論を押し通すことができ、土佐藩出身の大江も体を張って奮闘した。
人権という考え方が世界的にも未成熟な時代に、各国領事の圧力をはねのけたことは、わが国が近代国家の仲間入りを果たす契機ともなり、明治人の気概を感じさせる物語である。

同様な事件は、実はこの事件の20年前にも石垣島で起こっていた。石垣島の出来事については次のURLが詳細なレポートを載せている。
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/123456789/1835/1/Vol29p92.pdf

ペリー来航の1年前の1852年3月に、厦門(アモイ)で集められた400人余りの苦力が、米国船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途中で暴行に堪えかねて蜂起し、船長ら7人を打ち殺し、その船はその後台湾に向かう途中に石垣島沖で座礁したため、苦力380人が石垣島に上陸し、船は残りの20余名の苦力を載せて厦門に引き返した。

石垣島の人々は仮小屋を建てて彼らを収容したのだが、米国と英国の海軍が来島して砲撃を加え、武装兵が上陸して逃走した苦力を捜査し、百名以上の苦力が銃撃され、逮捕され、自殺者や病没者が続出したという。
石垣島の人々は苦力達を深く同情し、彼らに食糧を与えて援助した一方、清国に戻った苦力達が船内の虐待を訴えたことから厦門民衆の苦力貿易反対運動が高まったという。

琉球王府は、もし再度米国と英国の海軍が来島した場合は、米英と戦うことは不可能であるとして、苦力全員を引き渡す方針をも検討していた。一方厦門では苦力貿易反対運動が更に激化し、英国は陸軍を厦門に上陸させて中国人4名を銃殺、5名以上を負傷させて辛うじて運動を鎮圧させたという。
その後ロバート・バウン号で厦門に引き返した苦力が無罪釈放されることとなり、石垣島に残留したメンバーの罪も不問に付すとの情報が福建当局から入り、翌1853年11月に琉球の護送船二隻を仕立てて、生存者172人を福州に送還したという話である。
もし、苦力の一部が厦門に戻ることがなければ苦力貿易反対運動も燃え上がらなかったであろうし、さらに米英の海軍が石垣島を砲撃しに再来した場合には、島民が巻き込まれて多くの犠牲者が出てもおかしくなかった。最悪の場合は、島が占領されて島民自身が苦力にされた可能性も否定できないだろう。

石垣島の人々は、島で亡くなった中国人苦力達の墓を作って慰霊を続けて、そのような墓が昔は島内各地に点在していたそうだ。

唐人墓地図

1971年に石垣市が台湾政府、在琉華僑の支援を得て、これらを合同慰霊するための唐人墓を建てている。
島の人々が、この事件で命を落とした苦力達の慰霊を160年も続けてきているということを知って驚かされたのだが、つくづく日本人は心優しい、素晴らしい民族だと思う。

唐人墓

この唐人墓の横にある1971年に作られた石碑には
「人間が人間を差別し憎悪と殺戮がくりかえされることのない人類社会の平和を希いこの地に眠る異国の人々の霊に敬虔な祈りを捧げる」
と記されているそうだ。
1971年は石垣島をはじめ琉球列島は米国の占領下であり、アメリカとの無用のトラブルを避けるために墓建立の経緯を詳しく書かなかった経緯があるとのことだが、この事件を知れば、この言葉の重みを深く感じることができる。今では事件の経緯を記した碑文もあるようだ。

もしマリア・ルーズ号やロバート・バウン号の事件に関する史実が、GHQによる焚書や検閲対象にもされず、その後教科書やマスコミなどで報道されて国民に広く知れ渡っていくとどういうことになっていただろうか。
欧米諸国が世界侵略をし、奴隷貿易という非人道的な行為を4世紀近く地球規模で行ってきた史実が国民の常識となれば、今の日本史の通史や教科書における戦国時代以降の歴史観が、今とは随分異なるものにならざるを得なくなるし、多くの国民が自分の国を自分で守ることの大切さを認識することになるのではないだろうか。

どこの国でも、いつの時代も歴史というものは勝者にとって都合の良いように書き改められる傾向があるものだが、わが国の第二次世界大戦敗戦後に、多くの歴史叙述が戦勝国にとって都合の良い内容に書き換えられたことを知るべきである。そして、国民の洗脳を解くカギの一つが、GHQが封印した史実にヒントがあると私は考えている。

私は戦前の史観が正しいと言っているのではない。ただ、史実に基づかない、あるいは史実と矛盾する記述は、史実に基づくものに置き換えられていくべきだということが言いたいだけなのだが、多くの重要な史実が封印されてほとんどの人が知らされていない現状を放置しては、教科書や通史における記述が簡単に変わるものではないだろう。
まずは、多くの人が歴史に興味を持ち、何が真実かを正しく知り、それを広めていくことが重要なのだと思う。二国間の真の交流を深めていくためには、お互いの国が、実際に起こった出来事を正しく知ることが不可欠で、事実でもない歴史には決して振り回されるべきではない。

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ハワイ国王を援けられなかった明治の日本~~GHQが封印した歴史4

ハワイの先住民族はポリネシア系に属し日本と同じモンゴロイドで、宗教も多神教であったそうだ。人々が島々で平和な暮らしをしていたのだが、1778年にイギリス人の探検家ジェームス・クックに発見され、それから欧米人との接触により急速に変貌していった。

ハワイ諸島地図

それまでハワイ先住民は小さな部族に分かれていたが、ハワイ島のカメハメハがイギリスから武器や軍事顧問などの援助を受けて、マウイ島、オアフ島などの周辺の島々を征服して1795年にハワイ王国の建国を宣言し、18世紀末までにはカウアイ島、ニイハウ島を除く全地域を支配下におさめ、1810年にこの2島もカメハメハに服属して国家統一を成し遂げた。

カメハメハ2世の治世の1820年以降、米国から集団でやってきた宣教師たちが、独自の文字を持たなかったハワイ王国にローマ字のハワイ語聖書や教育と医療をもたらすことによって、瞬く間に文化的・宗教的にも席巻され、1840年には米国人宣教師主導による立憲君主体制が樹立され、以降欧米人(大部分がアメリカ人)がハオレ(白人)官僚として、ハワイ政府の中枢を独占し、ハワイ王朝の生殺与奪権を掌握するに至ったという。

1848年には土地法が制定され、1850年に外国人による土地の私有が認められると、対外債務を抱えていたハワイ政府が.土地の売却で負債を補ったり、宣教師が土地所有観念のない島民から土地を寄進させるなどして、国王領以外のハワイ諸島土地の多くがハオレの所有地となり、また議会もハオレが多数を占めていたという。
一方ハワイでは白人がもたらした病気の影響などにより、人口が百年間に30万人が5万人に激減していた。

カラカウア王の日本滞在

このままでは国がアメリカに併呑されることを怖れた7代目の国王カラカウアが、1881年(明治14年)に国際親善訪問の旅に出た。この旅行で国王が一番感動したのが、明治維新からまだ14年しかたっていない日本だったそうだ。上の画像は、一行が来日した時に撮影されたものである。

国王は明治14年の3月に横浜に上陸し、翌日横浜駅から特別列車で新橋駅に着き、そこから赤坂離宮に向かうのだが、横浜港も鉄道も日本人が仕切っていることに驚いたという。 例えばインドでは、鉄道輸送から徴税、税関業務までが英国が独占し、インド綿には英国で高額な輸入税がかけられ、一方英国綿製品は関税なしでインドに輸入されて、インドの綿工業は全滅した。イランでは、郵政や電信電話は英国、カスピ海航路はロシア、税関がベルギー、銀行は英国とロシア…という具合で、自国民が重要施設を仕切っている国は欧米以外の国ではほとんどなかったのが現実だった。

カラカウア王

3月11日、日本を訪れていたカラカウア王は随員の米国人には一言も知らせずに、一人で極秘に明治天皇に会見を申し入れたという。この会見の内容は驚くべきものであった。 この時のカラカウア王の言葉が明治天皇の公式記録である『明治天皇紀』に残されている。

「今次巡遊の主旨は、多年希望する所の亞細亞諸國の聯盟を起こさんとするに在り。歐州諸國は只利己を以て主義と為し、他國の不利、他人の困難を顧みることなし、而して其の東洋諸國に対する政略に於いては、諸國能(よ)く聯合し能く共同す、然(しか)るに東洋諸國は互いに孤立して相援(たす)けず、又歐州諸國に対する政略を有せず、今日東洋諸國が其の権益を歐州諸國に占有せらるる所以は一に此に存す、されば東洋諸國の急務は、聯合同盟して東洋の大局を維持し、以て歐州諸國に対峙するに在り、而して今や其の時方(まさ)に到来せり…(中略)
 今次の旅行、清國、暹羅(シャム)、印度、波斯(ペルシャ)等の君主にも面会して、具(つぶさ)に聯盟の利害得失を辨説せんと欲す、然れども、弊邦[ハワイ]は蕞爾(さいじ:小さい)たる島嶼(とうよ)にして人口亦(また)僅少なれば、大策を企畫するの力なし。然るに貴國は、聞知する所に違わず、其の進歩実に驚くべきのみならず、人民多くして其の気象亦勇敢なり、故に亞細亞諸國の聯盟を起こさんとせば、陛下進みて之が盟主たらざるべからず、予は陛下に臣事して大に力を致さん…」
(『明治天皇記』第五 : 勝岡寛次「抹殺された大東亜戦争」p.170所収)

カラカウア王明治天皇に対して、西洋諸国の侵略に対して東洋諸国が団結する必要がある。ひいては明治天皇には「亜細亜諸国の聯盟」の「盟主」になって欲しいと嘆願したというのだ。

この提案に対する明治天皇の回答も続けて記録されている。

明治天皇

「歐亞の大勢實に貴説の如し、又東洋諸国の聯合に就きても所見を同じくす。(中略)然れども、我が邦の進歩も外見のごとくにはあらず、殊(こと)に清國とは葛藤を生ずること多く、彼は常に我が邦を以て征略の意圖(いと)ありと爲す、既に清國との和好をも全くすること難し、貴説を遂行するが如きは更に難事に屬す、尚閣臣等に諮り、熟考して答ふべし…」

カイウラニと山階宮

さらにカラカウア王は、この時に日本人の移民を要請され、さらに姪であるカイウラニ王女に皇族山階宮定麿王(のちの東伏見宮依仁親王)を迎えて国王の後継者としたいとの提案もあったという。当時山階宮定麿王は13歳、カイウラニは5歳で、ハワイ王室と日本の皇室とを結び付きを強くして、ハワイ王国を存続したいと考えての発言であった。下の画像は成人となったカイウラニ王女であるが、なかなかの美人である。

カイウラニ

この会見内容は国家的重要事であるので、明治天皇の御指示により、ハワイから来た随行員にも伝えられた。

カラカウア王が世界一周旅行から帰国したのちに取り組んだのは、米国宣教師が否定した神話・伝説の復活であり、ハワイ正史の編纂事業だった。また宣教師によって禁止されていたフラダンス*を復活させ、自らもハワイ国家をはじめたくさんの民族音楽を作詞作曲したという。
*フラは神を意味し、フラダンスは神にささげる神聖な舞踏で、男の踊りであった。

こうした動きが、米国を刺戟する。
同じ年の1881年(明治14年)12月に米国国務長官ブレーンが、ハワイ公司にあてて次のような訓令を発信していることが、戦後GHQに焚書処分された吉森實行氏の『ハワイを繞る日米関係史』という本に紹介されている。

「ハワイはその位置から見て北太平洋における軍事上樞要の地點を占めているから、同島の占領は全くアメリカ國策上の問題である。(中略)
最近ハワイの人口は激減を来し…減退の一途をたどつていることは、ハワイ政府の一大憂患たることは疑へない。(これが解決策としてアジア人をもつてハワイ人に代へ、…かかる方策を用ひて)ハワイをアジア的制度に結合しようとするのは出来ない相談だ。もし自立することが出来なければ、ハワイはアメリカの制度に同化すべきものであつて、それは自然法並びに政治的必要の命ずるものである。」(勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争』p.173に所収)

と、アメリカは自国の国益上に有益な場所にある国は、国策上占領すべきだという勝手な考え方なのである。

翌明治15年2月(1883)に明治政府はハワイに特使を派遣し、「亜細亜諸国の聯盟」の「盟主」となることと婚姻の申し出については丁重に謝絶した。しかし、移民の申し出に関しては明治17年(1885)には946名を送ったのを皮切りに、日本人移民は続々とハワイに渡航し、20世紀初頭にはハワイ人口の4割を日本人が占めるようになったという。

アメリカは反撃に転じ、1887年に、王権の制限・弱体化を目的とした新憲法を米国側で起草し、ハオレ(白人)の私設部隊である「ホノルル・ライフル」を決起させ、武力で威嚇してカラカウア王に迫り強制的に調印させた。この憲法は別名「ベイオネット(銃剣)憲法」とも呼ばれているそうだが、この内容がどんなにひどいかは読めばすぐにわかる。

「ハワイ國の臣民にして年齢二十一歳に達し、ハワイ語・英語若(もし)くは他のヨーロッパ諸国語を讀み、書き、算數を會得し、少なくも三ケ年間國内に居住し、竝(ならび)に五〇〇ドル以上の財産を國内に有し、或は一ケ年少なくも二五〇ドルの所得を有するハワイ・アリカ若しくはヨーロッパ人種たる男子にあらざれば代議士に選挙せらるることを得ず(第六一條)」
と、これでは貧しいハワイ人やアジアからの移民には被選挙権がない。

選挙権についてはこう書かれている。

「ハワイ國に居住するハワイ・アメリカ若(もし)くはヨーロツパ人種の男子にして國法遵守を宣言し、國税を納め、年齢二十一歳に達し、選擧日に際して1ヶ年國内に居住し、ハワイ語・英語若くは他のヨーロッパ諸國語を讀み、書き、法律の規定に従つて選擧人名簿にその氏名を登録せられた者は、代議士を選擧する權利を有す(第六二條)」

先程紹介した吉森實行氏の著書『ハワイを繞る日米関係史』にはこうコメントされている。
「…白人はハワイに歸化(きか)しなくても國法遵守を宣言しさへすれば参政權を享有し得る一方、有色人種の参政權を拒否したもので、早くもアジア移民の増加に猜疑(さいぎ)の眼を光らせたアメリカ意志を反映したものであつた。原住民は勿論、當時(とうじ)すでに千を超えていたわが移民(説明:日本移民)は大いに激昂し、ハワイ駐在の日本總領事安藤太郎は外務大臣(説明:井上薫)の訓令を仰いで大いに抗議せんとしたが、歐米追従をもつて聞こえる井上薫がこれを許さなかつたのは當然である。
 かくてハワイの政治はいよいよアメリカの左右するところとなつたが、その経済もまたアメリカの政策にたへず繰(あやつ)られてゐた。」(西尾幹二『GHQ焚書図書開封5』p.46-47)

選挙権が与えられる人種のなかに日本人が入っていないということは、帰化してハワイ国籍を取得していても日本人移民には選挙権を与えられなかったということである。
この憲法の問題点は選挙権・被選挙権だけではない。国王の閣僚罷免権が剥奪されるなど、国王の国政の関与を一切否定する内容が書かれていたようだ。

井上馨

しかし、この時に何故外務大臣の井上薫はアメリカに抗議しなかったのであろうか。今の外務省も欧米追従の傾向が強いが、長いものには巻かれろと言う考え方が当時から強かったのだろうか。
もしハワイがアメリカに併呑されれば、太平洋は広いとはいえ隣の国はわが国である。次は日本が危ないという発想はなかったのだろうか。

ところで、国王の世界一周旅行に随行したアメリカ人のアームストロング自身が、もし日本がカラカウア王の提案を受け入れていたとすれば、ハワイは日本のものとなっていたと書いている。
「われわれ国王の側近者は、その後[世界一周旅行の後]の王の行動に深き注意を払うやうになつた。国王の計画が日本天皇陛下によつて御嘉納になつていたらハワイは日本領土となる経路をとるに至ったであろう。」(西尾幹二 同上書 p.39)

imagesCA2BXFFM.jpg

わが国がハワイを国土とすることはなかったとしても、山階宮定麿王がハワイ王女と結婚し、わが国がハワイを側面で支援していれば、ハワイにあのような屈辱的な憲法を結ばせることはまずなかっただろう。またあの憲法がなければ、ハワイがアメリカに併呑されることもなかったのではないだろうか。
もしハワイ王国が独立国として20世紀に入っても存続していれば、71年前にわが国がアメリカと戦うことにならなかったことは大いにあり得ると思うのだ。
もっとも明治14年(1881)と言えば、国会開設運動が興隆するなかで政府はいつ立憲体制に移行するかで、漸進的な伊藤博文・井上馨がやや急進的な大隈重信を追い出した政変劇のあった時期でもあり、内政問題を抱えながらアメリカを敵に回すような施策は財政面からみても難しかったとも思われる。

しかしカラカウア王に憲法をごり押ししてからのアメリカは、露骨にハワイ王国を奪い取りに行っている。政治も経済も情報も白人に握られてしまえば、抵抗することは難しくなるばかりだった。

イオラニ宮殿

カラカウア王が神官たちを集めて王宮の扉を閉ざし古代伝承を記録させていたことを、実は女たちを交へての酒池肉林に耽(ふけ)っていたという噂が白人によってまことしやかに流され、晩年の王は白人たちによって「奇行の王」と渾名(あだな)されてしまう。
アメリカ人により貶められ国政に対する権限を奪われたカラカウア王は、失意と孤独の内に1891年1月病死してしまい、その志を継いだ妹のリリウオカラニ女王が即位することになるのだが、これから後いかにひどいやり方でアメリカに国が奪われたかを書きだすと随分文章が長くなるので、次回に続きを書くことにしたい。

アメリカにより憲法を押し付けられ、国王家の弱体化を仕掛けられた国である点については、わが国はハワイ王国とよく似ている。
ハワイ王国は外国人に選挙権を与えることによって滅んだのであるが、なんとなくわが国はその方向に進んではいないか。
この頃にハワイ王国で起こったことを日本人はもっと知るべきだと思う。
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アメリカ人が王朝を転覆させたハワイ王国の悲劇と日本~~GHQが封印した歴史5

前回は、アメリカ人の武力による圧力で署名させられた憲法により、国政に対する権限のほとんどを奪われたカラカウア王が、失意と孤独の内に1891年1月に病死し、その志を継いだ妹のリリウオカラニ女王が即位したところまでのことを書いた。
今回は、その後ハワイがいかなる方法でアメリカに奪われたかを記すことにする。

リリウオカラニ

リリウオカラニ女王は、アメリカ人を中心とする共和制派との対決姿勢を強め、純粋なハワイ人の王朝を回復するために、憲法の改正に着手した。
アメリカの圧力により貧しいハワイ人やハワイに帰化した移民たちの選挙権・被選挙権が奪われ、国王の権限が剥奪されていたのを改正したい気持ちはよくわかるのだが、この憲法を変えようとしたことがアメリカを刺戟し、ハワイ王朝の衰亡に拍車をかけることになってしまった。

1893年1月14日、ハワイ人の一党が王宮に向かい、女王にアメリカ人の権限に制限を与える新憲法を捧呈してその発布を請願した。その内容は以下のような内容であったと言われているが、ハワイ人としては当然の主張だと思う。
・白人高額納税者に独占されていた投票権をハワイ島民にも認めること
・上院議員の任免権を国王に復すること
・内閣の大臣の任免権を国王が握ること
・ハワイ人には人頭税を免除し、白人はハワイ人と結婚した者以外はこの特権を与えないこと 等

イオラニ宮殿

前回の記事で紹介した、GHQに焚書処分された吉森實行氏の『ハワイを繞る日米関係史』という本にはこう書かれている。

「當日午後、多數のハワイ人は王室の内外にまたは王宮の階段や政廳の内外に群集してゐた。此時、女王は出御になり、召に應じて参内せる内閣大臣に新憲法草案を交付し、これに記名調印を命じた。彼等は之を拒んで政廳を退出し、急を市民に告げて国王のクー・デタを阻止するやう協力を求めた。」

「武装せる一隊は直ちに組織された。かくて閣僚は再び王宮に到り、国王にその企圖(きと)を断念されんことを諫奏(かんそう)した。
…王の意は容易に決しなかつたが、ややあつて新憲法發布はひとまづ延期さるることとなつた。
…王は更に群衆に向ひて、宣告して曰(いわ)く、
余カ企圖ハ大臣ノ不忠ニヨリ妨害セラレタリ故ニ余カ曾テ嘉納シ汝等ニ約束シタル新憲法ハ今之ヲ發布スルヲ得サルト雖モ好機き來ラハ速カニ之カ施行ヲ怠ラサルヘシ」(西尾幹二『GHQ焚書図書開封5』p.55-57所収)

白人の大臣たちは新憲法を認めることを拒否し、「国王がクーデターを起こした」と市民に告げ、直ちに武装集団を組織して、女王による新憲法発布を延期させた。ハワイの先住民の多くがこの新憲法を待ち望んでいたことは女王の言葉を読めばわかる。
しかし白人派は、直ちに次の行動を開始した。

「一方白人派はこれを以て事の終局と認めず、直ちに十三人の治安委員を設けて非常対策に備え、翌十五日白人市民の大集会を開いた。席上治安委員の選定せられたことにつき諒解が求められ社会の安寧と市民の権利を保持するために必要と認める場合には、如何なる処置をもとり得る権力をこれら委員に付与することが議決された。翌十六日再び集会は開かれた。この会合に於いて委員等は市民の意向を察知し、君主政治を廃して直ちに仮政府を構成する準備に着手した。
…即ち、同島駐劄のアメリカ公司に依頼して財産保護の目的をもつて軍艦ボストン號より海兵の上陸を求めた。」(同上書 p.58-59)

アメリカ人たちは軍事力を使って君主制を廃止させようとし、16日にはすでに150名の武装した米海兵隊がハワイに上陸してホノルル市内を制圧し、イオラニ宮殿を包囲させ、軍艦ボストン号の主砲はイオラニ宮殿に照準を合わせたという。

ハワイ人側においても集会がもたれて千四五百名が集まり、原住民の牧師と共に白人の災いが至らず王位が安泰であることを神に祈祷したという穏健なものであった。これでは、アメリカ人には対抗できるはずがなかった。

サンフォード・ドール

次に白人の治安委員たちは政庁を奪取し、群衆に向かって王政の廃止と臨時政府の設立を宣言する。この時に大統領となったサンフォード.B.ドール(上画像)という人物は、もともとは布教のためにハワイに来たプロテスタントの宣教師一家の出身で、ドール・フード・カンパニーを創業したハワイのパイナップル王ジェームズ・ドールはその従弟にあたるのだそうだ。

ドール

こうして臨時政府は、王宮・警視庁・兵営の引き渡しを要求し、国王は王宮を退き、兵営は翌日占領させたという。

アメリカ大統領ハリソンは、ハワイ臨時政府代表がワシントンに到着すると、リリウオカラニ女王から派遣されていた陳情使節を度外視して、直ちに内閣の意見をハワイとの併合の方向にまとめ上げて、次のような大統領教書を発表している。

200px-Benjamin_Harrison.jpg

「合衆國は何等(なんら)王政顚覆(てんぷく)を扶助せず、革命は全くリリオカラニ女王の革命的施政に起因したものである。女王の施政はハワイに於けるアメリカの優越する利益を非常な危殆に陥れたばかりではなく、外國の利益をも危殆にした。…
女王リリオカラニの復位は望ましいことではない。その復位はアメリカの援助がなくては非常な不幸を招き、商業上の利益を悉(ことごと)く破壊して了(しま)うであろう。ハワイ諸島に於けるアメリカの勢力と利益とは增進されねばならない。ここに於いて採るべき道は二つある。
ハワイをアメリカの保護國とすることがその一つである。他の一つはその完全なる併合である。
ハワイ人民の利益を最も善く著しく増進し、また、アメリカの利益を適當に保證する方法は併合以外に求められない。…これによって列強が本諸島を占領しなくなるのは當然のことである。外国に同諸島を占領されることはアメリカの安全と世界の平和に一致しない。」

軍艦と海兵隊をハワイに差し向けて支援していながら、「アメリカとしては革命を起こした勢力を援助した覚えはない。ただ女王が過激な政策をとったために王座から追われたのである。」とはよく言ったものであるが、ここで面白いことが起きる。

200px-President_Grover_Cleveland.jpg

この教書を発表したハリソン大統領の任期があと二週間しかなく、1893年3月4日に就任式を終えたクリーブランド新大統領(上画像)の考えはハリソンと異なり、アメリカ公使が許可なく米軍を用いてハワイ王朝を転覆させた非行は許されるべきものではないというものであった。新大統領は上院に条約案の撤回を求め、ハワイ問題調査団の派遣を決めたために併合はしばらく見送られることとなる。

カイウラニ

前回の記事でカラカウア王が訪日時に、王女と山階宮親王との結婚の話の提案があったことを書いたが、そのカイウラニ王女が着任早々の新大統領に面談してクーデターの不当性を訴えたのだそうだ。彼女の美貌と感動的なスピーチにアメリカのマスコミも一気にハワイ王家を味方するようになったらしい。
http://www.legendaryhawaii.com/lady/lady02.htm

クリーブランド大統領がハワイに派遣したハワイ問題調査団は、この一連の動きは米国人宣教師の二世・三世グループが仕組んだ陰謀であり、さらに米国公使が米軍艦と海兵隊を使ってハワイ王朝を葬ったことを明らかにし、その報告を受けてクリーブランド新大統領はハワイ王国に謝罪したのだが、ハワイ臨時政府はそれを内政干渉としてはねつけたのだそうだ。
その後米国で議会工作がなされて1894年1月のアメリカ連邦議会において上院議員の多数がハワイ臨時政府を支持したために、リリウオカラニ女王を復位させようとした米大統領の目論見は外れてしまった。

こうした状況下でハワイ臨時政府は、クリーブランド大統領の在任中に、アメリカにハワイを併合させることは難しいと判断し、次の一手として、アメリカの独立記念日である7月4日にハワイ共和国の独立を宣言してハワイ王家を廃絶させ、初代大統領にドールが就任している。

すると王党派の反撃が開始される。1895年1月に王党派はホノルルで王政の回復を企てるも数日の銃撃戦の後に政府に鎮圧されてしまう。

吉森實行氏の『ハワイを繞る日米関係史』にはこう書かれている。
「…その指導者たちは悉く共和政府の軍法会議に附せられ、罪を糾弾された。リリオカラニもまた逮捕され、王宮に幽閉されたが、自ら書面を以て反乱に関係なきこと、共和政府を承認すること(共和政府を認めるということは、王家が無くなるということ)、政治上その他の権利を一切放棄する等を言明し、なほ共和政府に対し忠誠を誓う宣言書を提出した。そこで政府は10月、女王を放免して之に市民権を付与し、ここに反亂の最後の幕は閉じたのである。」
Wikipediaにはもう少し詳しく、「リリウオカラニは反乱の首謀者の容疑で逮捕され、イオラニ宮殿に幽閉された。(1895年)1月22日、反乱で捕らえられた約200人の命と引き換えに、リリウオカラニは女王廃位の署名を強制され、ハワイ王国は滅亡した。」と書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%8B

「共和国の独立を宣言する」という言葉の意味がなかなかピンとこないのだが、西尾幹二氏の表現を借りれば「ハワイは現実にはアメリカに支配されているのです。政治的にも経済的にも支配されている。『独立』は形式的なものにすぎないうえに、王家という”支柱”を失ってしまうから、最終的にはアメリカに併合されてしまう事態となる。」とわかりやすい。 ハワイは王家という精神的支柱を失って、「結局、独立という名のもとで、かえって独立を失ってしまう」という事になってしまったということだ。
これと同様な事が、身近な国で仕組まれてはいないだろうか。
もしある国を侵略あるいは支配することを企む国があったとすれば、対象とする国が共和制・民主制の国家の方が工作活動で国論を分断しやすく、マスコミを押さえれば世論誘導で合法的にその国を実質支配できるということである。ある大国が、小国相手に内政干渉をしてやたら「民主化」を押し付けるのは、そういう意図があることも考えてみるべきだろう。

話をリリウオカラニ女王の退位の直後に戻そう。
リリウオカラニ女王を援けるために、わが国が軍艦を差し向けたことを書かなければならない。
カラカウア王との約束で明治18年から始まった日本人のハワイ移民はこの年までに25千人を数えていたそうだ。その日本人移民の生命と財産の安全を守るためというのが表向きの理由だった。

東郷平八郎

ハワイ王朝が倒れて約1か月後の2月23日に巡洋艦「浪速」と、5日遅れてコルペット艦「金剛」が相次いでホノルル港に入り、米軍艦「ボストン」のすぐ近くに投錨したが、「浪速」の艦長は東郷平八郎であり、同じ艦上には若い青年将校がいた。その青年は先代国王カラカウアに王女との結婚を求められた山階宮親王本人だったという。

Higashi-Fushiminomiya.jpg

ハワイ臨時政府は、アメリカ人によるクーデターの1周年となる1894年1月17日、「建国1周年」を祝う21発の礼砲を要請したのだが、東郷艦長は「その理由を認めず」と突っぱねたそうだ。ホノルル港の各国軍艦はこれにならい、クーデター1周年の記念日はハワイ王朝の喪に服するような静寂の一日に終わったという。

1898年に米西戦争が勃発し、この戦争を有利に展開するための恒久的な補給基地が必要との理由でクリーブランドの次の米大統領であるウィリアム・マッキンリーの署名により、この年の7月7日にハワイがアメリカに正式に併合されたのであるが、この時にはすでに真珠湾はアメリカは独占的使用権を獲得していたのだそうだ。

現在のハワイ州の40%にのぼるカメハメハ王朝の土地は米政府が譲り受け、真珠湾のウィッカム基地やハワイ国際空港などが作られ、カホオラベ島のように先住民を追い出して、島全体が射爆撃標的にされたところもある。
一方共和国の実権を握った宣教師の息子たちは、所有していた土地をそのまま私有地として認められて、大地主として併合前と同様に経済の実権を握ったという。

その後ハワイに移住していた多数の日本人たちは、その後大挙してアメリカ本土に移り住むようになった。そのために日本人移民が問題視され、アメリカでの排日移民運動へとつながっていったのだが、こういう歴史の流れを知らなければ、何故カリフォルニアで排日運動が起こったかわからないと思うのだ。

ところで、ハワイの歌として誰でも知っている「アロハ・オエ」はハワイ王国最後の王であるリリウオカラニ女王が作詞・作曲したものである。
ハワイのことを調べるうちに、「アロハ・オエ」の原詩の邦訳を読みたくなった。
邦訳はWikipediaに出ている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%8F%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%A8

雨を白人勢力、花をハワイ民衆と考えれば、リリウオカラニ女王が愛する祖国を失う悲しみや無念に思う気持ち、ハワイの人びとを愛する思いや感謝の気持ちが自然と伝わってくる。(アロハ=愛する気持ち、オエ=あなた)

アロハオエ

雨が誇らしげに尾根を横切り
森の中を通り抜けていく
未だ開かぬ蕾を探しているかのように 山あいに咲くレフアの花よ

あなたにアロハ あなたにアロハ
木の陰に佇む心優しき人
去っていく前に
もう一度あなたを抱きしめよう
また会えるその時まで

懐かしく暖かい思い出が胸をよぎる
ついこの間のことのように
愛する人よ 我が愛しき人よ
真心は決して引き裂くことはできない

私はあなたの素晴らしさをよく知っている
マウナヴィリに静かに咲くバラの花
そこにいる啼かない鳥たち
そして木の陰にいる美しい人

あなたにアロハ あなたにアロハ
木の陰に佇む心優しき人
去っていく前に
もう一度あなたを抱きしめよう
また会えるその時まで
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アメリカはいかにしてスペインからフィリピンを手に入れたか~GHQが封印した歴史6

前回まで2度に分けてアメリカによるハワイ王朝打倒の話を書いたが、ハワイ以降のアメリカによる19世紀末の太平洋進出を理論的に正当化した人物として、A.T.マハンという人物がいる。彼は『海上権力史論』という著書の中で、欧米史においてシーパワーがいかに重要であったかを論証したのだが、そのA.T.マハンが、1897年の米上院外交委員会の報告書で次のように記している。

200px-Alfred_thayer_mahan.jpg

「現下のハワイ紛争は、めざめつつある東洋文明の力と西洋文明の力との間の、きたるべき大闘争の前哨戦にすぎない。真の争点は『太平洋の鍵』を支配して優位を占めるのがアジアか、それともアメリカか、ということなのだ。」(勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争』p.176所収)

前回、前々回のこのブログの記事を読んで頂ければわかると思うが、マハンがここで「アジア」と書いているのはわが国のことを指している。マハンのこの文章は、すでにこの時点で、アメリカが後に日本と相争うことを予見しているかの如くである。

マハンはこの報告で『太平洋の鍵』という表現を使っているが、どの場所を支配すれば太平洋の制海権を握ることができるかという意味であろう。もちろんハワイは重要な『鍵』であったが、他にもいくつかの『鍵』があり、フィリピンもその一つであったようで、アメリカはハワイに続いて、フィリピンをかなり強引に獲りにいっている。今回はそのフィリピンのことを書いてみたい。

Wikipediaを読むと、1521年ヨーロッパ人として最初にフィリピンを訪れたのは、世界一周で名高いポルトガル人のマゼランのようだが、マゼランは強引なキリスト教の布教が原因で原住民の反撃を受け、マクタン島の首長ラプ・ラプに攻撃されて戦死してしまっている。
人類初の世界一周の偉業は、正確にはマゼランが成し遂げたものではなく、マゼラン艦隊が成し遂げたものと言うことだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%BC%E3%83%A9%E3%83%B3

その後1565年にはスペイン人のミゲル・ロペス・デ・レガスピがセブ島を領有したのを皮切りに徐々に植民地の範囲を広げ、1571年にはマニラ市を含む諸島の大部分が征服されてスペインの領土となったとある。
しかし19世紀末にフィリピン原住民の民族的自覚が高まり、特に1887年にホセ・リサールが書いた小説『ノリ・メ・タンヘレ(我に触るな)』がスペイン圧政下に苦しむフィリピンの諸問題を告発したことが、民族運動に強く影響を与えたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

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ホセ・リサールという人物は日本ではあまり知られていないが、医者でもあり、小説家、歴史家、芸術家としても知られ、語学は21か国語に通じた天才で、フィリピンではフィリピンの国父ともいうべき国民的英雄だそうだ。
彼の思想はスペインからの分離独立を志向するような過激なものではなく、フィリピン人の生活改善を願う改革者であったのだが、スペイン当局からは危険人物としてマークされ、当局から逃れるためにロンドンに向かう途中で、1888(明治21)の2月に日本にも立ち寄った。
日本には束の間の滞在のつもりであったのだが、すぐに彼は日本の魅力に取りつかれてしまい、出発を先延ばしにする。案内してくれた江戸旗本の武家の育ちであった臼井勢似子[おせいさん]にも魅了されて、東京や箱根など各地を精力的に見て回り40日以上も滞在したのだそうだ。
しかし世界各地にはフィリピンの独立のために戦う同志が待っている。断腸の思いで彼は日本を離れてヨーロッパに旅立つのだが、この時におせいさんに手渡した手紙にはこう書かれていたそうだ。

臼井勢似子

「日本は私を魅了してしまった。美しい風景と、花と、樹木と、そして平和で勇敢で愛嬌ある国民よ! おせいさんよ、さようなら、さようなら。・・・
思えば私はこの生活をあとにして、不安と未知に向かって旅立とうとしているのだ。この日本で、私にたやすく愛と尊敬の生活ができる道が申し出されているのに。
私の青春の思い出の最後の一章をあなたに捧げます。どんな女性も、あなたのように私を愛してはくれなかった。どの女性も、あなたのように献身的ではなかった。・・・
もうやめよう。みんなおしまいになってしまった。 さようなら。さようなら。」

その後リサールは、ヨーロッパにわたって執筆活動をしたのち、1892年に危険を冒してフィリピンに戻って「フィリピン同盟」を結成するのだが、その直後に逮捕されミンダナオ島に流刑されてしまう。
1896年にフィリピンの革命軍が武器を持って立ち上がり、革命軍の蜂起に慌てたフィリピン総督は、リサールを逮捕してマニラに連れ戻して裁判にかけた。彼は暴動の扇動容疑で銃殺刑を宣告され、マニラ湾の見える刑場でスペイン兵により銃殺され35歳の短い人生を終えたという。

リサール公園

彼が処刑された場所はリサール公園として整備され、処刑日の12月30日フィリピンの祝日とされて、毎年フィリピンの国父であるリサールを追悼する儀式が行われているのだそうだ。

リサールが処刑された前後から独立派内部の対立が激化し、リサールの処刑の翌年5月に親米派のアギナルドは親日派のボニファシオを捕えて処刑して全権を掌握し、山中の根拠地にフィリピン共和国臨時政府を樹立し、6月に「フィリピン共和国独立宣言」を発表したが、植民地軍はスペイン本国からの兵力補給により優勢に転じた。

150px-Aguinaldo.jpg

形勢不利と判断したアギナルドは簡単に「独立」を反故にして、スペインから80万ペソを受取ることを条件に和平協定を結び、自発的に香港に亡命してしまった。

ところが翌1898年に米西戦争が勃発し、フィリピンを支配しているスペインとアメリカとの戦いが始まった。
この戦争が勃発する前後に米大統領がフィリピンのことをどう述べているかは注目してよい。

245px-William_McKinley_by_Courtney_Art_Studio,_1896

マッキンレー大統領は1897年の教書ではこう述べている。
「(スペイン領土の)強制的併合などは、まったく思いもよらぬことだ。それは我々の道徳律に照らして、犯罪的侵略であろう。」
それがわずか二年後には次のように変わるのである。
「われわれのなすべき唯一のことは、フィリピン諸島をわがものとなし、フィリピン人を教育し、彼らを向上せしめ、文明化し、キリスト教化する…ことである。」 (ビーアド『アメリカ精神の歴史』)

1898年の米西戦争はアメリカの新型戦艦メイン号がキューバのハバナ港内で爆発・沈没し、将兵260名が死亡する事件が起こり、これをスペイン側の仕業と断定して「リメンバー・メイン(メイン号を忘れるな)」というスローガンで国民世論を対スペイン開戦論一色に染め上げることに成功し戦争に突入したのだが、今日ではメイン号を爆発させたのはスペインの機雷ではなかったという説が多数説となっており、原因が石炭の自然発火かアメリカの自作自演かのいずれかについて未だに結論が出ていない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3_(ACR-1)
アメリカが「リメンバー」と高らかに唱えて世論を動かし、戦争に突入する事例はアメリカの歴史では過去に何度かあるのだが、アメリカがこの「リメンバー」という言葉が唱えて戦争に入る時は、開戦に導くためのプロパガンダであった臭いがあり、アメリカの主張をそのまま鵜呑みにすることは危険であることは過去の歴史が証明しているように思う。
http://onoderakouichi-truth.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-a425.html

話をフィリピンに戻そう。この米西戦争はスペイン領であったフィリピンにも波及し、米海軍のデューイ提督はマニラ湾のスペイン艦隊を撃破した。提督はその後、香港に亡命していたアギナルドに「独立運動を支援する」という触れ込みで接近し、もともと親米傾向のあったアギナルドは「決してフィリピンをアメリカの植民地にはしない」という約束を信じて米軍艦で帰還し、対スペイン独立戦争を再開した。

ここから、いままで何度か紹介した勝岡寛次氏の著書を引用する。

「5月24日、米国の勧めで独裁政府を樹立したアギナルドは、国民に向かって次のようによびかけた。
『フィリピン国民よ。偉大なる北米合衆国は真正な自由の揺籃(ようらん)であり、…かれらは保護を宣してわれらに手を差伸べた。これは決意に満ちた行為である。米国は、フィリピン国民が不幸な祖国を自治する能力を持つ十分に開花した民族であると做すが故に、わが住民にたいし微塵の私欲も抱くはずがない。寛大なる北米合衆国がわれらに与えた高き評価を維持するために、われらは、この評価を低めうる一切の行為を嫌悪すべく心掛けねばならぬ。』(レナト・コンスタンティーノ『フィリピン民衆の歴史』Ⅱ)」

…かうして、フィリピン独立に対する米軍の支持を取り付けたと信じたアギナルドは、破竹の勢いで、スペイン勢力を駆逐し、翌1899年1月、第一次フィリピン共和国(マロロス共和国、大統領アギナルド)が誕生した。ここに独立が達成されたかに見えたが、何ぞ知らん、米国は前年12月のパリ条約でスペイン側と勝手に取り引きし、フィリピンを2千万ドルで買収・割譲せしめることに合意してゐたのであった。」(勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争』p.184)

要するにアメリカはアギナルドを騙してスペインと戦わせ、スペインが敗れると安い価格でスペインからフィリピンを買い取った。そしてアメリカはフィリピン共和国の建国を認めず、今度は独立派を虐殺にかかる。

340px-Battle_of_Paceo.jpg

Wikipediaによると
「アメリカ合衆国からは8月14日に11,000人の地上部隊がフィリピンを占領するために送られた。アメリカ合衆国はフィリピン侵略のために残虐の限りを尽くし、反抗するフィリピン人60万人を虐殺した。 この時、フィリピン駐留アメリカ軍司令官となり、実質的なフィリピンの植民地総督となったのが、アーサー・マッカーサー・ジュニアである。(彼の三男がダグラス・マッカーサーである)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E6%AF%94%E6%88%A6%E4%BA%89

この米比戦争でどれだけのフィリピン人が虐殺されたかについては諸説があるようだが、抵抗するゲリラに味方したとして米軍が村々を焼き払い多くの農民を虐殺したことは事実であり、「フィラデルフィア・レジャ」紙は、米比戦争の二年間でルソン島住民の六分の一が殺されたと当時報道しており、これは約61万6000人にあたる数字なのだそうだ。

米比戦争

上の図はネットで見つけたものだが、当時ニューヨークジャーナルに掲載された風刺画で、フィリピン人を銃殺しようとするアメリカ兵が描かれている。アメリカ兵の背後に”KILL EVERY ONE OVER TEN(10歳以上の者は皆殺し)”と書かれているのが読める。

アメリカに欺かれたアギナルドは、首都マロロス陥落後は正規軍を解散してゲリラ戦を展開するも1901年に米軍に逮捕されると、アギナルドは態度を一変しアメリカへの忠誠を誓い、仲間に抵抗の中止を呼びかけたという。その後抵抗運動は次第に下火となり、1902年に鎮圧されてフィリピンはアメリカの植民地支配下に置かれることとなったのだ。
独立派はよく戦ったが、選んだリーダーを誤ってしまったようだ。

この間の経緯を述べた次の論文は史実からすれば当たり前ことを書いているにすぎないのだが、引用部分がすべてGHQの検閲により削除されてしまっている。(木村毅「マッカーサー元帥」昭和21年1月『キング』第22巻第1号)
「私は實は、米西戰爭から引き続いての米比戰争は、アメリカ史の汚点だと思って、心からこれを惜しんでいる。…ヒリッピンに獨立を約束して、スペインに叛(そむ)かせ、後でその約束を踏みにじったのだけは、辨解(べんかい)の餘地(よち)がないだろう。」(勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争』p.185所収)

終戦直後のアメリカにとっては、今後日本が二度とアメリカに歯向かう事がないようにしたかったのは当然のことで、アメリカに騙されたり裏切られたりした国の歴史を日本人に知られてはまずいとの判断から、そのような記述を封印したということはわからないでもない。

しかし、終戦後66年以上が過ぎてもこのような歴史が日本人に知らされない状況が続いていることおかしなことだと思う。手元にある「山川の日本史」にはハワイのこともフィリピンのことも全く何も書かれていないのだ。
このような歴史を知らずして、どうして明治の日本人が軍事力強化を急いだかを正しく理解できようか。ハワイもフィリピンもアメリカに酷いやり方で侵略された事実があり、他の欧米列強各国も世界を侵略していた事実があるからこそ、わが国が自国を守るために富国強兵政策をとったのではないのか。

このブログで何度も書いていることだが、どこの国でもいつの時代も、歴史は勝者にとって都合の良いように書き換えられるものである。
我々が今まで学び、マスコミや出版物などで接してきた歴史はほとんどが、第二次世界大戦の勝者にとって都合の良い歴史であることを知るべきだと思う。

真実は、彼らが日本人に広めようとした歴史と、封印した歴史の双方をバランス良く学び、その違いを知ることによって少しずつ見えてくるのではないかと考えている。
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キリスト教国を相手に開国したわが国がキリスト教を禁止し続けた矛盾

江戸時代の末期に、わが国は米国からの要求をきっかけに西洋諸国に門戸を開くようになり、通商条約が結ばれたことで各国の外交使節と共に多くの宣教師が来日している。

大浦天主堂
【大浦天主堂】

横浜には1862年に聖心教会(その後移転し、現在の山手教会)が建てられ、1865年には長崎に大浦天主堂が建てられたのだが、二百数十年にわたり『隠れキリシタン』として代々人目を忍んで信仰を守り続けていた浦上村の村民たちが、大浦天主堂を訪ねてキリスト教を信仰していること表明したという記録がある。彼等はのちに江戸幕府の指令により、多数捕縛されて激しい拷問を受けたという。

その後江戸幕府が崩壊して、明治新政府はこの浦上の『隠れキリシタン』たちとどう向き合ったのか。

五榜の掲示
五榜の掲示

明治政府は五箇条の御誓文が出された翌日(慶応4年[1868]3月15日)に、全国各地の高札場に『五榜の掲示』と呼ばれる高札を掲示し、その第三札にはこう記されていた。

切支丹邪宗門の儀は堅く御制禁たり。若し不審なるものこれ有れば、その筋の役所へ申し出づべし。御褒美下さるべき事。」

普通に読めば、キリスト教は邪悪な宗教であると明治政府が断定したような文章なのだが、この第三札が欧米各国から激しく非難されることになる。いうまでもなくそれらの国々はいずれの国もキリスト教を奉じており、国教を邪教扱いされて外国人が激怒したことは当然であろう。

『国立国会図書館デジタルコレクション』に大正11年に出版された『近世日本基督教史』(山本秀煌著)が公開されていて、その第5章に、各国からの厳しい批判を明治政府が如何に切り抜けたかが記されている。面白いので紹介しておこう。

五榜の掲示 第三札
五榜の掲示 第三札(変更後)】

「苦心惨憺・鳩首協議の末、漸(ようや)くにして一つの名案を按出せり。即ち切支丹と邪宗門とを引き分かち、告示中切支丹邪宗門と記せしは切支丹を邪宗門なりと言う意義に非ず、切支丹または邪宗門という意味なりとの曲解的、頓智的の弁解をなしてこの難関を切り抜けたり。…
かくて、高札は…書き改めて掲示せられたり。
一 切支丹宗門之は是迄御制禁之通固く可相守事。
一 邪宗門之儀は固く禁止之事。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963367/359

明治政府は、「キリスト教は邪教であるという意味で書いたのではなく、キリスト教あるいは邪宗門はという意味で記したものだ」と苦しい言い訳をしてこの難局を乗り越えたのだが、かといって明治政府がキリスト教を禁止する方針を変えたわけではなかった。

また、『五榜の掲示』第三札のなかで、キリスト教徒らしき人物を見つけたら役所に密告することを奨励している部分が削除された点も重要な変更部分なのだが、その代りに明治政府は、宣教師のもとに潜入して内部情報を収集する目的で「異宗徒掛諜者」を長崎、大阪、東京、横浜、函館に送り込んでいる。その中には浄土真宗の僧侶が少なからずいたようだが、キリスト教の広がりを早期に阻止することは本願寺にとっても望ましいことであり、恐らく本願寺は、危険な仕事に協力することで明治政府に貸しを作る目的があったのだと思われる。

前回の『越前護法一揆』の記事で書いた石丸八郎という人物も浄土真宗の寺の出身者で、この頃に新政府より長崎の「異宗徒掛諜者」に任命された一人なのだが、実は西本願寺も以前から同様な活動をしていて、1868年に「破邪顕正出国掛」として彼を長崎に送り込んで地域の探索・工作活動を行なわせていたという。

しかしながら、いくら内部情報を収集したところで、キリスト教が広がっていく勢いを止めることはできなかったようだ。大日向純夫氏の『明治新政府とキリスト教』という論文によると、1871年時点で長崎周辺の天主教(カトリック)信者はすでに千人を超えていて、全国では万を超えていたというから、開国以後キリスト教は着実に信者を増やしていたのである。
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/8566/1/80704_45.pdf

ところが明治新政府は、当初は天皇陛下による祭政一致の旧態に戻ろうと考えていたため、仏教に対してもキリスト教に対しても厳しいものとならざるを得なかった。仏教に対しては、廃仏毀釈を推し進めたことをこのブログで何度も書いてきたので繰り返さないが、キリスト教に対してはどうであったかが気になって長崎・浦上の隠れキリシタンについて調べてみると、明治政府は想像した以上に厳しい処分を下しているのに驚いてしまった。

浦上4番崩れ

Wikipediaの解説によると、
「(慶応4年閏4月17日)太政官達が示され、捕縛された信徒の流罪が示された。5月20日木戸孝允が長崎を訪れて処分を協議し、信徒の中心人物114名を津和野、萩、福山へ移送することを決定した。以降明治3年まで続々と長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処された。彼らは流刑先で多くの拷問・私刑を加えられ続けたが、それは水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなどその過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕時代以上であった。浦上地区の管理藩である福岡藩にキリシタンは移送され、収容所となった源光院では亡くなったキリシタンの亡霊がさまよっているともいわれた」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E5%9B%9B%E7%95%AA%E5%B4%A9%E3%82%8C

長崎で捕縛されたキリスト教信者を流罪にするという風説が流れた時点で、明治政府は欧米諸国から強硬な抗議を受けている。

この点について、明治政府が大阪本願寺にて外国公使と談判した様子が『近世日本基督教史』に記されている。

パークス

「(英国公使)パークスは、宗教と道徳とは宇内共通のものにして、文明諸国はいずれも皆信仰の自由を承認せざるはなし。然るに今日本においては無辜の民を罰する法律を作り、真理を遮断するの関門を設けるとは何事ぞ。…日本政府は速やかに今回捕縛したる教民を赦免し、耶蘇教の禁を解くべしと強請したり。これに対して大隈大八郎は、わが国には数百年来養いきたりし習慣ありて事情耶蘇教を公許する能わず。…わが国には古来より切支丹禁制の法律有、わが国の法律を以てわが国の人民を処分するに決して外国の干渉を受くべき理由なしと撥ねつけたり。…パークス怒りて他国の好意を一笑の下に排斥せんとす。日本前途知るべきなりと憤慨し、激論数刻、午前10時より開始されたる談判はその進むに従って弁難攻撃ますます激しく、昼飯も喫せずして夕刻に達し、遂に何等まとまりたる事無く、喧嘩別れとなれりとぞ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963367/361

しかしながら、明治政府は列藩の意見を徴集した結果、長崎で捕縛されたキリスト教徒の流罪処分が断行されることとなる。新政府にとっては、祭政一致の国家を実現するためには、キリスト教に対する信仰を根絶させねばならず、いくら説得しても棄教しない者は厳刑に処すしかないとの考えであった。

そこで英国公使パークスは、米・独・仏・蘭の4か国公使とともに、信徒処分に関する抗議書を明治政府に提出している。そして明治政府は、明治2年(1869)12月に5ヶ国公使を集めて再び談判している。
この会議における各国の発言内容が『近世日本基督教史』に詳しく紹介されているが、要するに各国公使は浦上村信徒の流罪を中止すべきであるとし、政府はキリスト教を許可すれば神道を基礎とする政府を維持することが出来なくなると論じて、議論は平行線であった。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963367/365

冒頭で英国公使パークスがこう述べている。
キリスト教は我が国民の宗門でこれあり候。思うに何様なる儀が英国に知らるる時は面白からぬ結果を生じ、最も非友誼的の所為と見なさるべし。もし、これら人民中の幾人かが曲事をなせしならば、これを罰せられて可なり。されどその刑罰を家族と数千人の上に及ぼすは、吾人の正義より見たる見解に反する事と存ず。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963367/366

キリスト教徒にとっては、キリスト教を奉じているということだけで流罪に処せられることは極めて不愉快なことであり、野蛮な行為にしか見えなかっただろう。

岩倉具視

談判の席で岩倉具視はこう述べたという。
「政府が日本において切支丹宗を禁ずるは、これに反対する故にあらず。これより大なる困難の起こるを予知すればなり。たとえば百人の中一人にても切支丹宗を信ぜば人々の心一致せずして分れ分れとなるべし。以前は切支丹宗に対する法律頗る峻厳なりしが、今は前よりも三四等も軽くなりぬ。しかしながら我らはこれを信ずることを一般に許可する能わず。…彼らが天皇陛下の宗門に従い、政府の権威に服せばこれを罰すべき理由なし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963367/368

明治政府は多神教である日本神道に天皇を中心に据えて国を治めようとしたわけだが、キリスト教徒は神社や天皇に敬意を示すことが無いので認めるわけにはいかないという。
明治政府が広めようとした神道はいわば一神教のようなもので、異質なものを極力排除しようとした。岩倉らはそのために、国是であるキリスト教の禁教を守ろうとしたのだが、この考え方は神仏分離・廃仏毀釈にもつながるものである。

近世日本基督教史

『近世日本基督教史』を読み進むと、明治初期の思想潮流の変化をこのように表現している。
「地の東西を論せず、時の古今を問わず、世界何の邦に於いても其の中には進歩・保守両主義の相対峙するありて、政治に、宗教に、文学に、その他百般の事物の上に互いに軋轢消長するを見る。我国維新前後の政界はその衝突の最も甚(はなはだ)しき時代なりき。所謂(いわゆる)進歩主義者は尊王討幕・開国外交・旧物の破壊、百事の改革を標榜して勇往邁進せんとし、保守主義の人々は尊王攘夷・旧物の保存、百時復古の旗幟を押し立ててこれに対抗し、反目睨争互いに消長する所ありしが、この両主義は宗教問題に関してゆくりなくも、期せずして、一時合致の行動をとりぬ。…神祇官の設置、排仏毀釈、基督教禁制これなり。されど吾人はその合致は一時的なりと言う。何となれば既に其の根本主義において世界的となり、人道的となりうべき要素を備えたる進歩党は、到底偏狭なる尊王、頑迷なる愛国をもって満足すべからざればなり。…果たして彼らは宗教問題において、就中(なかんずく)基督教に対する態度に於いて意見を異にし衝突し始めたり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963367/356

維新政府の中の進歩派も保守派も当初はキリスト教禁教であったのだが、浦上の信者を流罪に処すことで諸外国が一斉に抗議するに及び、進歩派の態度が変化していったという。

「彼らは思えらく、浦上信者は天主教なり。これに関係ある宣教師は仏蘭西人なり。而して新政府の最も親交ある英米は新教国なり。たとえ旧教徒たる浦上信徒を迫害するも英米諸国の賛成するところなるべし、よし賛成せざるまでも傍観の態度に出べしと。然るに、意外にも、英米公使が率先して厳しき抗議を申込みしのみならず、その言明するところにも首肯すべき点多かりしかば、宗教問題は容易ならざる難件なるを認め、…外国と交通する以上は耶蘇教と雖も之を容れざるべからずとの急進の説をさえ懐くもの起こるに至りぬ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963367/407

浦上の隠れキリシタンの宣教師は旧教(カトリック)なので、政府と親交のあった新教(プロテスタント)国の英米は傍観の態度に出ると考えていたのだが、英米は浦上教徒の処分に強く抗議したばかりではなく、主張する内容も進歩派にとっては納得できるものであったことから、英米両国に対する信頼度が高まるとともに、キリスト教に対する態度が次第に寛大になっていったという。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963367/427

岩倉使節団

ところで、政府は明治4年(1871)11月に、右大臣岩倉具視を全権大使とし、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳を副使とする遣外使節団を米欧に派遣し、相手国の元首に国書を捧呈し、海外文明の情況を視察させている。
この時期に欧米に使節団を送り込んだ理由は、江戸時代の安政期に欧米15か国と結んだ通商条約の協議改定期限が半年後に到来するので、その予備交渉を行ない、併せて政府首脳が外国の諸法制・諸機構についての知見を深めるねらいがあったとされる。

岩倉使節一行は同年12月4日にサンフランシスコに入り、翌年1月21日に米大統領に接見し、国務卿フィシュと条約改正について談判を開始したのだが、その席で国務卿はこう述べたという。
「『日本が治外法権を撤去せんことを望まるるは固より正当のことなり。されど我が合衆国民をして貴国の治下に立たしむるに先んじ、貴国の法律制度を調査せざるべからず。聞く貴国は基督教を禁ぜりと。果たして然らば此れは由々しき大事なり』とて、進んで宗教制度及び基督教禁制高札に関して質す所ありしかば、大使は之に答え『我国数百年の仕来(しきたり)に従い、切支丹禁制の高札は未だ撤去せざるも、此の数年来は禁制を施行したることなく、今や高札は死法にして宗教上の信仰は自由なり』と言いしに、デロング公使は傍らよりこれを遮り最近神戸にありし市川栄之助夫妻捕縛事件を挙げて大使の答えを難じ、条約改正に先んじて高札撤去を断行せざるべからずの理由を詳論せり。大使らは…切支丹禁制の条約改正に大妨害たるを覚り、高札撤去に黙諾を与えしものの如し。明治5年4月大久保・伊藤両副使が米国より中途帰朝して、我が政府の廟議を求めたる個條中に(次の)言あるを以て知るべし。
一 日本の法律中に外教の明禁なしと雖も、尚高札にその禁令を掲示するを以て外人は一概に自由親交を妨ぐるの野蛮国と見做し、対等の権を許すことを甘んぜず。故に此の高札の禁令を除く事』とあり、而して廟議は之に対して異論なかりしが如し。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963367/429

岩倉使節は米国から欧州に向かっているが、そこでもわが国のキリスト教徒迫害が問題とされたようだ。副使の伊藤博文は日本政府に宛てて次のような文章を残しているという。
吾人は行く所として切支丹追放者と信教自由との為に外国人民の強訴に接せざるはなし。思うにこの際前者については速やかにこれを解放し、後者に関しては幾分自由寛大の意向を表明せずんば、到底外国臣民の友誼的譲与を期待すべからず
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963367/430

キリスト教国からすれば、わが国がキリスト教禁教を国是とし、キリスト教徒であることを理由に捕縛し流罪に処すことはとんでもないことなのだが、そんな国がキリスト教国相手に条約改正を交渉するなどは論外だという意識であったと思われる。
もし条約改正がなされたとしたら、キリスト教国の同胞が我が国で罪を犯した場合に、非キリスト教国であるわが国が作った法律で裁かれることになる。キリスト教を信じているというだけで一族全員が流罪にされるような国が作る法制度をそもそも信用して良いのかということになるだろう。その疑念を覆すには、わが国がキリスト教を解禁して欧米諸国並みに法律が整備されることがどうしても必要であった。

しかしながら、明治6年(1873)にキリスト教禁止が解かれ、その後国内法が整備されてからも不平等条約の改正交渉は続き、条約改正が実現したのは明治44年(1911)のことである。
これだけ交渉が長引いたのは、明治政府の初期の宗教政策でキリスト教徒を流罪にして欧米諸国を激怒させ、その時に彼らが抱いたわが国のマイナスイメージを払拭させるのに随分時間がかかったと理解すればよいのだろうか。

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【ご参考】
このブログで、条約改正に関連してこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

英商人に阿片を持込まれ、コレラ流行時に港で外国船の検疫を拒否された明治日本
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-303.html

英国船が沈没して白人が助かり、日本人乗客は全員溺死したノルマントン号事件
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-304.html

条約改正が成功する寸前で大隈重信の脚を引っ張ったのは誰か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-305.html

陸奥宗光が条約改正を一部実現させた経緯について
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-306.html



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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

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