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韓国皇帝が伊藤博文を「韓国の慈父」と呼んだ経緯~~~伊藤博文暗殺その1

わが国の初代首相であった伊藤博文は、明治42年(1909)10月26日にハルビン駅頭で、韓国の独立運動を進めていた安重根によって射殺されたというのが定説になっている。

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韓国では、安重根は抗日戦争の英雄と評価され、1970年にはソウルに「安重根義士記念館」が建設されるなど、まるで韓国の国民的英雄扱いだ。

しかし、伊藤博文を暗殺した犯人は安重根でないという説が、随分昔からある。

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そもそもこの時に伊藤博文の随行員として事件現場にいて、自らも5発も銃弾を受けたものの一命を取り留めた貴族院議員の室田義文(むろたよしあや)が、「伊藤に命中した弾丸は安重根の拳銃から発射されたものではない」と断言しているようなのだが、なぜこのような重要な証言が永年無視されてきたのかと疑問を持たざるをえない。そもそも安重根が撃った銃弾は5発なのだ。伊藤、室田の他にも4名の随行員が撃たれているのだ。

室田義文の証言の話に入る前に、伊藤博文が暗殺されるまでの経緯を、Wikipediaなどを参考に振り返ってみよう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87

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明治38年(1905)の第二次日韓協約によって大韓帝国が大日本帝国の保護国となり、韓国統監府が設置されると伊藤博文はその初代統監に就任した。
伊藤は国際協調重視派で、韓国の直轄植民地化を急ぐ山縣有朋や桂太郎、寺内正毅ら陸軍軍閥としばしば対立し、韓国については、国力がつくまでは保護国による実質的な統治で充分との考えから、当初は日韓併合反対の立場を取っていたという。しかし、その後韓国内で義兵闘争が盛んになって考え方が変化したらしく、明治42年(1909)4月に、時の首相・桂太郎と外相・小村寿太郎が韓国併合策を陳述すると伊藤統監はそれを是とし、5月には統監職を辞し帰国して枢密院議長となり、7月に閣議決定された「適当ノ時期ニ於テ韓国ノ併合ヲ断行スル事」に伊藤が反対した形跡はないのだそうだ。
そして伊藤はその年の10月にロシア帝国蔵相ウラジーミル・ココツェフと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うために哈爾濱(ハルビン)を訪れた際に、そこで何者かに射殺されてしまった。

では、この背景について、一般的な教科書ではどう書かれているのか。
『もう一度読む 山川の日本史』には、こう記述されている。
「(わが国は)列強の植民地政策をまねて、東アジアにおいて勢力拡大をはかった。日露戦争中から戦後にかけて、3次における日韓協約を結んだ日本は、韓国を保護国として統監をおき、韓国の外交・内政・軍事の実権をつぎつぎと手中におさめていった。
韓国では、韓国軍の解散に反対して義兵運動を展開するなどはげしく日本に抵抗したが、日本は軍隊を出動させて鎮圧した。1909(明治42)年には、前韓国統監伊藤博文がハルビンで韓国の民族運動家に暗殺される事件がおこった。日本政府は1910(明治43)年、ついに韓国併合をおこなって(韓国併合条約)、韓国を日本の領土とし、朝鮮総督府をおいて植民地支配をはじめた。」(p.253)

このような記述を普通に読めば、西洋列強が植民地を搾取したのと同様に、わが国も韓国を搾取したように解釈してしまうところだが、当時の韓国は国家の体をなしていなかったことをまず理解しておく必要がある。

加耶大学客員教授の崔基鎬氏はこう書いている。
「…当時の韓国の財政は破滅的状態で財源は涸渇し、政財界には不正と腐敗だけが蔓延していた。
伊藤が統監として赴任した三年間、彼は祖国日本から無利子、無期限の資金3000万円を引き出し、韓国の道路、学校、土木工事、鉄道、病院建設にこれを充当した。
彼は韓国および韓国人のために、中央政府の大臣と、地方長官には韓国人を任用し、日本人はその下の補助役に就かせるにとどめた。そればかりではなく、日本人には荒蕪地の開発などの難しい仕事をやらせた。だがこうした事績は、韓国では(あるいは日本でも)、不当にも抹殺されて、顧みられることもない。…
李朝当時の韓国は、両班(ヤンパン)という堕落した不労所得者の貴族集団が、良民、農民たちから財産と生産物を奪い、百姓たちは瀕死の状態に喘いでいた。
李朝の500余年間、正式の学校もなく、名ばかりの国立(官立)学校が4校あるにすぎなかったが、伊藤は、教育の重要性を考えて『普通学校令』を公布し、統監府時代(1906-1910)には、すでに日本の資金で100校以上が築造され、合邦以後もそれは続き、1943年には5000校に達した。
また李朝の腐敗した統治にあってインフレーションに悩む民衆のために、朝鮮を『円通貨圏』に統合した。朝鮮史上、紙幣が流通したのは、実はこれが初めてのことで、これによって物価が安定し、朝鮮に『現代的貨幣制度』が確立されたことも、伊藤の功績である。」(『歴史再検証 日韓併合』祥伝社黄金文庫p.18-19)

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「敵国であった明の協力で打ち立てた国であるから、その後の李朝が明の隷属国家に転落したのは必然である。国民は奴隷民族化され、私有財産も没収された。李朝は専制王権制度に体制を変え、朝鮮民族が古代から高麗にいたるまで連綿と持ち続けた国際的自尊心を放棄し明の属国として堕落が始まった。
このような環境の中で、階級制度は固定化し、創意工夫の精神は圧殺された。こうして李朝は、搾取と虐政の中にあり、国王は名ばかりでなんら政策も施さず、その政府には国家の予算すら存在しないという無軌道ぶりだった。いわば民衆は無政府状態に置かれていたのだった。

清と朝鮮との主従関係を断ち切ろうとした日本の狙いは、実際には実現にはほど遠く、清の保護下にある李朝の専横は変わることなく、民衆は相も変わらず、塗炭の苦しみを味わいづけてきた。近代化と自主独立の道を拒否しつづける李朝の存在は、東アジアの状勢に不穏な種を宿していたのである。


目賀田種太郎

1904年、日清戦争に続いて日露戦争を控えた日本は、こうした朝鮮の惨状を見かねて、目賀田種太郎を財政顧問として派遣し、日本からの財政支援をもとに、李朝をまともな国として建て直すという態勢がようやく緒につくことになった。
目賀田財政顧問と統監府は朝鮮の歳入不足分を補填するために、日本国民の税金から、大韓帝国政府に無利子、無期限の資金『立替え』を実施したほか、直接支出で援助した。
たとえば1907年度で、朝鮮の国家収入は748万円しかなく、必要な歳出は3000万円以上であったから、その差額は全額日本が負担した。
1908年度には、これがさらに増えて、合計3100万円という巨額の資金を日本は支出した。
統監府時代の4年間に、日本政府が立て替えた朝鮮の歳入不足分は、1428万円にのぼった。
そればかりではなく、司法と警察分野などに日本政府が直接支出した金額は、立替金の数倍、9000万円に達している。現在の朝鮮・韓国の歴史では、日本の特恵的支援には一言も言及がなく、侵略だけを強調しているが、これがいかに偏狭な史観であるかを自覚しなければ将来は開けない。
1910年8月29日には、明治天皇から恩賜金として3000万円が与えられ、旧韓国が日本政府から借用していた2651万円は、そっくり棒引きされた。」(同上書p.20-22)

わが国の教科書も崔基鎬氏のいう「偏狭な史観」に少し毒されていることになるのだが、韓国の学者が次のように述べていることを日本人はもっと知るべきではないだろうか。
「日韓併合によって、搾取され呻吟したのは、韓国・朝鮮国民ではなく、日本国民であった事実を認めるべきである。」(同上書p.24)

この記述が正しいことはわが国が統治する前と統治後の写真を比較すればわかる。

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いずれもソウルの南大門の写真だがどう変わったか一目瞭然だ。

次の写真もソウルのものだが、貧民窟のような首都に道路が整備され瓦屋根の家が立ち並ぶようになったことがわかる。

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イギリスの旅行家・イザベラ・バードが1894年から1897年にかけて4度にわたり朝鮮を旅行し、首都ソウルについてこのように記している。
「都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民はおもに迷路のような横町の『地べた』で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。悪臭ぷんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている。…」(『朝鮮紀行』講談社学術文庫p.59)
このような記述がまだまだ続くのだが、この本は韓流ドラマかぶれの方に是非読んでいただきたいものである。

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次のURLに多くの写真が紹介されているが、この写真を見れば、李氏朝鮮の時代は、イザベラバードの記述が正しいことは誰でもわかる。
http://www.geocities.jp/hiromiyuki1002/cyousenrekishi.html

朝鮮半島はわが国のインフラ投資などにより急激に豊かになり、人口が大幅に増加していることが統計数字からわかる。
韓国の教員用国定歴史教科書によると、1777年に韓国の総人口は1804万人であったが、100年後の1877年には1689万人で減少していた。それが日韓併合時の1910年には1313万人で、それが32年後の1942年には2553万人になっているという。

このような背景を知ると、韓国の近代化に尽力した前統監の伊藤博文が韓国人によって暗殺されたという話は、当時一般の韓国人にとって喜べる話であるはずがなかったと思われる。伊藤博文が暗殺された翌日(10/27)に韓国皇帝(高宗)は伊藤のことを「韓国の慈父」だと述べたそうだが、多くの韓国人も同じような思いではなかったか。

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皇帝の言葉は次のようなものであった。
「伊藤を失った事で、東洋の偉人がいなくなった。
伊藤は我が国に忠実と正義の精神で尽くしてくれた。
自分の骨を長白山に埋める覚悟で、韓国の文明発達に尽くすと言っていた。
日本に政治家はたくさんいるだろう。
しかし伊藤のように国際政治を理解し、東洋の平和を祈った者はいない。
本当に伊藤は韓国の慈父だった。
その慈父に危害を加える者があるとすれば、物事を理解できない流浪人だろう。」

また、10月28日には韓国皇帝はさらにこう述べたという。
「伊藤を失った事は、我が国だけの不幸ではない。
日本だけの不幸ではない。
東洋の不幸である。
その暴徒が韓国人である事は、『恥ずかしさの極限』である。」

韓国は今の北朝鮮と同じで、どこかの国の支援がなければいつ国家破産してもおかしくなかった。普通に考えればわかることだが、経済で自立ができるはずもない状態の国が独立する力などあろうはずがない。

にもかかわらず、今の韓国では安重根を「独立の闘士」などと呼んで英雄扱いしているようなのだが、多くの識者が指摘しているように、伊藤博文の暗殺事件によって、結果的に日韓併合は早まったのである。日韓併合を望んでいた勢力に勢いを与えた安重根の行動を賞賛することは論理的にもおかしなことであり、皇帝の言葉でも明らかなように、当時の国民が安重根を賞賛していたわけではない。安重根が英雄扱いされるようになったのは戦後になってからのようなのだ。

伊藤の暗殺事件のわずか39日後に、韓国最大の政党であった一進会が「韓日合邦を要求する声明書」を上奏している。
Wikipediaにこの声明の一部が紹介されているが、あの国がわが国に出す声明にしては随分低姿勢だ。
「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88

伊藤博文の暗殺を機に韓国では独立を堅持することよりも日本との併合によって地位の向上を図るとする考えが優勢となった。
わが国は、莫大な資金が必要となる韓国併合に反対する声が強かったのだが、伊藤博文暗殺後に併合推進派が優勢となり、主要国も日韓併合に賛成したことから、早期併合することが閣議決定し、1910年8月22日に日韓併合条約が調印されて、正式にわが国は韓国を併合したのである。

そこで、再び伊藤博文の暗殺事件に話を戻す。この暗殺事件は目撃証言や、銃声の数、弾丸の種類、死体検視調書からは単独犯ではあり得ず、伊藤を死に至らしめた銃弾は安重根の撃ったものではないという室田義文の重要な証言などは、どういうわけか葬られてしまった。それは何故なのだろうか。

その話を始めるとまた文章が長くなるので、次回に記すことにしたい。

<つづく>
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伊藤博文を撃ったのは本当は誰なのか~~~伊藤博文暗殺その2

韓国最大の発行部数を誇る「朝鮮日報」という新聞の日本語サイトに、今年の3月24日付で「安重根の公判記録を隠した日本」という記事が出たようだ。この記事は多くの人が注目して、2ちゃんねるやさまざまなブログなどで紹介されている。
今回のテーマに関わる部分なので、記事の肝心な部分を引用しておく。記事の全文は、次のURLで読むことが出来る。
http://asia-news.doorblog.jp/archives/24925872.html

「今月26日に没後103周年を迎える安重根の公判記録のうち、3分の2以上(68%)を日本が隠していたことが分かった。
隠された記録の中には、安重根の遺体の行方を明らかにする手掛かりとなる死刑執行報告書も含まれていた。
 国史編さん委員会の李泰鎮(イ・テジン)委員長は20日『現存する旅順の裁判所(関東都督府地方法院)の安重根に関する公判記録は、計173件のうち55件しか公開されていないことが分かった』と発表した。
安重根は1909年10月26日にハルビン駅で伊藤博文・初代韓国統監を暗殺した後、日本の関東都督府が管轄していた旅順に連行され、裁判を受けて死刑となった。
 日本が隠した記録の中には ▲伊藤博文の秘書官や主治医など暗殺現場にいた伊藤博文の随行員の調書 ▲安重根の背後組織に関する韓国人の調査資料 ▲勾留状・送致書・回答書など公判の進行に関する文献 ▲『安重根伝』など安重根自身に関する資料 ▲死刑執行報告書―などが含まれていた。
安重根による伊藤博文暗殺や公判の進行プロセスを明らかにする重要な記録が消えたわけだ。」

いったい誰が、何のために118件もの文書を隠したのかという重要な点については、この朝鮮日報の記事では国史編纂委員会の李委員長の談話として、
「日本で英雄としてあがめられている伊藤博文の最期に関する証言を隠し、また安重根の背後にあった大韓義軍の存在を消すことで、個人的な暗殺に仕立てようとしたものとみられる」
と書いているのだが、当時のわが国が主治医や暗殺現場の証言記録までも隠した動機の説明としては、説得力が乏しすぎる。

歴史通

若狭和朋氏が『歴史通(2010/7号)』で「伊藤博文暗殺■安重根は犯人ではない」という論文を書いておられる。その論文に、重要な指摘がある。
「…奇妙な事実がある。外務省外交史料館に残された『裁判資料』の目次に、『室田義文の証言』とありながら、『証言』の本文が欠落している。」(『歴史通(2010/7号)』p.83)

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前回の記事で少しだけ触れたが、室田義文(むろたよしあや)という人物は貴族院議員で、この事件で伊藤博文の随行員として現場にいて自らも5発も銃弾を受けたものの一命を取り留めた男である。この人物の証言が外務省外交史料館に残されていたはずなのに、『裁判資料』から何者かによって抜き取られているというのである。ではそこには何が書かれていたのだろうか。

この室田義文の死後に出版された『室田義文翁譚』(昭和13年12月発行)という本があり、この中で室田が伊藤博文の暗殺事件を詳しく述べているのだそうだ。この本は、暗殺事件から29年も経過してから出版されたわけだが、外務省の裁判資料から抜き取られた室田の証言内容に近いものである可能性が高い。
ほとんど出回っていない本なので、その原文を引用している人はネットではよくわからなかったが、若狭氏が上記論文の中で室田の文章を引用しながら、伊藤博文の暗殺当日のできごとを解説しておられる。
若狭氏の論文などを参考に、室田の主張も紹介しながら、伊藤博文が暗殺された日の出来事を振り返ってみたい。

ハルビン駅

明治42年(1909)10月26日の午前9時に伊藤たちを乗せた列車がハルビン駅に到着した。
ロシア蔵相ココーフツォフは列車内のサロンで伊藤らとしばらく歓談したのち、駅頭における歓迎行事に臨むため、ココーフツォフが先導して伊藤らはプラットホームに降り立つ。

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兵列を閲兵し、各国の領事たちと挨拶を交わしながら進んでいくと何発かの銃声がし、伊藤が倒れ、抱えられて貴賓者に運ばれたが、約20分後に落命してしまった。

室田の証言によると、この時に13発が撃たれたという。その内訳は、
伊藤博文  3個(盲管*2、貫通1)  *盲管:体内に弾が止まっていること
室田義文  5個(小指の擦過傷1、衣服貫通痕4)
中村是公  2個(衣服貫通痕2)
森泰二郎  1個(衣服貫通痕1)
川上俊彦  1個(盲管1)
田中清二郎 1個(足首貫通。靴に弾が止まっていた)
である。

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その場でロシア兵に取り押さえられた安重根は7連発式のブローニング拳銃で狙撃し、6発を装弾し1弾を残していた。つまり安重根が撃ったのは5発で、弾頭には殺傷力を高めるために十字の刻み痕をほどこしていたという。上の画像がブローニング拳銃である。

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しかし、伊藤博文の体内に残っていた弾丸は、後の調べで二発のフランス騎馬銃の弾丸であった。騎馬銃とは、けん銃より長く小銃よりは短い、カービン銃のことで、この弾をブローニング拳銃で撃つことはできない。従って、伊藤を撃ったのは安重根ではないということになる。

若狭氏の論文の中で、『室田義文翁譚』のポイントとなる部分を現代仮名遣いにして引用しておられるので紹介したい。
「駅の二階の食堂からフランスの騎馬銃で撃った者がある。…右肩から斜め下に撃つにはいかなる方法によるも二階を除いて不可能である。そこは格子になっていて斜め下に狙うには絶好であった。
(中略)
義文は、ともすれば嗚咽をじっと押さえながら、ココーフツォフに『犯人はどうなりましたか』と尋ねた。
ココーフツォフは『犯人は安重根という朝鮮人です。事件発生と同時にすぐ捕えて護送致しました。昨夜も騎兵銃を持った怪しげな朝鮮人が三人、隣のステーションの付近を徘徊しておりましたので、捕えるようにすぐ返電致しましたが逃してしまったと言うので、ことさら厳重に警戒を加えたのですが、多分その一味であろうと思います』」(『歴史通(2010/7号)p.82』)
このやりとりで室田は、朝鮮人が伊藤を撃ったのではないと考えるに至ったという。

無題

記事のはじめに紹介した「朝鮮日報」が、2009年11月に二回に分けて「伊藤博文を撃ったのは安重根ではない!?」という記事を掲載し、その中で「信憑性が低い」とのコメント付きで室田の主張を紹介し、室田が描いたという「伊藤被撃陳述図」を載せている。
http://blogs.yahoo.co.jp/tncfn946/22172209.html

しかし室田は伊藤博文に最も近い場所にいた人物である。しかも伊藤の遺体から弾丸を摘出すところに立ち会い、弾丸が伊藤の右肩を砕き右乳下に止まった一弾と、右肩関節を貫通して臍下に止まった一弾を現認したという。
室田の記述が正しいとすると、高い位置から伊藤を狙って銃を撃たなければそのような弾痕が残るはずがないのだ。しかし、検事田村光栄の調書にも、安重根を裁いた公判記録にも、どこにも「騎馬銃」という文字が見つからないのだそうだ。

ところが、外務省外交史料館には、安重根以外に銃を撃った者がいることを示す資料が残されているという。
『伊藤公爵満州刺殺一件』というファイルのなかに、問題の『曾禰荒助朝鮮統監が桂首相に宛てた電報』があるという。しばらく若狭氏の文章を引用する。

「核心部分は次の通りである(現代表記に直した)。
『…真の凶行担当者は、安重根の成功とともに逃亡したるものならんか。今、浦塩(うらじお)方面の消息に通じたる者の言うところに照らし凶行主謀者および凶行の任に当たりたる疑いある者を挙げれば左の数人なるべきか』
として二十五名を記している。安重根の名もこのなかにある。浦塩(ウラジオストック)には多数の韓国人が居住していて、「韓民団」という組織はロシアの「特務機関」の影響下にあった。
浦塩方面の消息に通じたる者とは、朝鮮憲兵司令官明石元二郎だろうかと、私(若狭氏)は推測している。
要するに、日本政府は本件を安重根の凶行として幕にしたのである。」(同上書 p.83)

明石元二郎は日露戦争において機密工作によりロシア革命を支援し、日本の勝利に大きく貢献した蔭の立役者といわれる人物だが、この人物のことは別の機会に書くことにして、今回は伊藤博文暗殺のことに話を絞ろう。
この電報の引用部分を読めば、当時の朝鮮統監・曾禰荒助も伊藤博文を撃った犯人は別にいると考えていたことが明らかである。そしてこの電報は、統監という立場で桂首相に宛てた電報である。いい加減な調査に基づくものであるはずがないのだ。

若狭氏の論文によると、この電報に記されていた二十五名はすべて「韓民団」のメンバーだったようだ。事件直後にロシア軍と警察が、事件現場で拳銃を所持していた挙動不審者を安重根以外に3名の韓国人を検束していたが、彼らも全員が「韓民団」のメンバーだったようである。

ロシア側では「一味」とされた三十余名を拘束し事情を調べたが、裁判管轄権が日本側であると決定すると、犯行と関係がないと判断した者たちを釈放し、その他の容疑者は旅順に送られて収監されたという。
明治43年(1910)2月14日、関東都督府地方法院は安重根以下4名の判決を言い渡した。
安重根は死刑とされ、懲役3年が1名、懲役1年6月が2名だった。
伊藤博文が暗殺されてから5か月後の3月26日に安重根の死刑が執行され、それからほぼ5か月後の8月22日に、日韓併合により大韓帝国は消滅した。

伊藤博文

伊藤博文暗殺事件を追っていくと、日本政府が徹底的に犯行グループを追及する姿勢がなかったことがなんとなく見えてくる。
若狭氏が書いているように、日本政府は、安重根の犯行ということにして幕引きを図ろうとして、真の暗殺者につながる資料の全てを隠そうとしたのではないか。
では、なぜわが国政府は、真の犯人を追及することをあきらめたのか。
この点については次回のテーマで書くこととしたい。
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なぜわが国は安重根を犯人とすることで幕引きをはかったのか~~伊藤博文暗殺3

前回まで2回に分けて伊藤博文暗殺事件について書いてきた。
通説では犯人は安重根という事になっているが、安重根が拳銃を撃ったことは間違いないものの、伊藤の最も近い位置にいた室田義文の証言によれば、安重根の用いた銃の弾丸と、伊藤の体に残された銃の弾丸とは異なり、また伊藤の体に残された弾丸は、右肩を砕き右乳下に止まった一弾と、右肩関節を貫通して臍下に止まった一弾であったという。室田の証言が正しければ、安重根が撃った5発の弾はいずれも伊藤には当たらず、伊藤は別の人物によって上方から狙撃され命中したものが致命傷になったことを意味する。

室田義文は詳細な証言を残したのだが公式書類から抜き取られて、前回紹介した若狭和朋氏の論文(「伊藤博文暗殺■安重根は犯人ではない」)の表現を借りると、わが国政府はこの事件を「安重根の凶行として幕にした」、ということになる。

他にも同様な証言があったようなのだが、ではなぜわが国政府は室田らの証言を隠蔽したのだろうか。本当の犯人は誰だったかを考える前に、何のために伊藤博文がハルビンを訪問したのかを先に考えることにしたい。

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前回の記事で紹介した若狭氏は、伊藤博文のハルビン訪問の目的は朝鮮問題ではなく満州問題であったと述べている。

満州とは現在の中国東北部を指すが、当時の満州はどんな状況であったのか。Wikipediaの解説が解りやすい。

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「ロシアは日清戦争直後の三国干渉による見返りとして李鴻章より満洲北部の鉄道敷設権を得ることに成功し(露清密約)、1897年のロシア艦隊の旅順強行入港を契機として1898年3月には旅順大連租借条約を締結、ハルピンから大連、旅順に至る東清鉄道南満洲支線の敷設権も獲得して満洲支配を進めた。
20世紀初期の日本では、すでに外満州(沿海州など)を領有し、残る満洲全体を影響下に置くことを企図するロシアの南下政策が、日本の国家安全保障上の最大の脅威とみなされていた。1900年(明治33年)、ロシアは義和団の乱に乗じて満洲を占領、権益の独占を画策した。これに対抗して日本はアメリカなどとともに満洲の各国への開放を主張し、さらにイギリスと同盟を結んだ(日英同盟)。
日露両国は1904年(明治37年)から翌年にかけて日露戦争を満洲の地で戦い、日本は苦戦しながらも優位に展開を進めて戦勝国となる。これにより南樺太は日本に割譲され、ポーツマス条約で朝鮮半島における自国の優位の確保や、遼東半島の租借権と東清鉄道南部の経営権を獲得した。その後日本は当初の主張とは逆にロシアと共同して満洲の権益の確保に乗り出すようになり、中国大陸における権益獲得に出遅れていたアメリカの反発を招くことになった」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD

韓国については各国ともわが国の自由裁量権を認めていたのだが、満州についてはアメリカも清国もロシアも狙っていた地域であった。そして伊藤博文が暗殺されたハルビンは、清国の領土(満州)ではあったが、ハルビン駅はロシア東清鉄道付属地内であった。
Wikipediaによると、ハルビンには19世紀末から白系ロシア人が急激に増加し、ロシアは1907年には中東鉄道管理局による『ハルビン自治公議会章程』を発布し、埠頭区(現在の道里区)、新市街(現在の南崗区)の7,000平方キロメートルの地域を市区と定めロシアの公議会の管轄として清朝と対抗したとある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%B3%E5%B8%82
ロシアはこのように、日露戦争で敗戦後も着々と満州の権益拡大をはかっていたのだ。

伊藤博文

前回紹介した若狭氏の論文では伊藤のハルビン訪問の目的についてこう書いている。
「満州はアメリカ、清国、ロシアがそれぞれ食指を動かしているのだから、最悪の場合、日本はこれら三国と敵対することになりかねないとの不安が伊藤の頭を支配していた。後に満州事変に始まる日本の悲劇は伊藤の不安が的中したものともいえる。
…こうした不安を抱いて、伊藤博文は満州に『最後の御奉公』に出かけていったのである。満州問題の根本的な解決の下準備の方途を探るべく伊藤は満州に出向いたのだ。…
伊藤とコ蔵相の会見には、何か重要な目的があるものと推測するのは不自然ではない。清国政府はそのように考え、盛んに情報の収集・解析に努めていた。清国側には日露の接近により、将来、満州問題について清国にとって非常な不利益が生じるとの観測が支配的であった。
そして、伊藤は凶弾に倒れるのである。安重根の『義挙』を愛国至誠の行動とすますのは安易に過ぎると言わざるを得ない。」(『歴史通(2010/7号)』p.84)

安重根が使用したブローニング拳銃はベルギーのFN社製のもので、拳銃の製造番号(262336)から、1906年9月8日に「クンフト社」に販売されたものであることが解っているのだそうだが、この拳銃に関して若狭氏は興味深いことを書いておられる。

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「大野芳*氏は次のような事実を指摘している。つまり第一次世界大戦の契機となったオーストリア皇太子夫妻暗殺に使われた拳銃が、同型の次のタイプだというのだ。次からは私の推測である。

クンフト社ならば販売先はロシア陸軍である。皇太子夫妻を暗殺した犯人は『セルビアの民族主義の青年』だと、高校教科書は書く。
だが、これは間違いである。犯人たちはセルビア陸軍の青年将校たちであり、レーニンの同志であった。世界大戦を共産主義革命の起点と考えたレーニンはセルビアの国王や閣僚たちをクーデターで殺し、セルビアを制圧していたのである。クーデターを起こした将校たちはレーニンから支給された武器で武装していたのである。」(同上書 p.82)
*大野芳:ノンフィクションライター。『伊藤博文暗殺事件』の中にその記述がある。

要するに若狭氏は、安重根は伊藤博文の真の暗殺者を隠すための存在にすぎず、真犯人はロシア側にいるという考え方であるが、クンフト社によってロシア陸軍に販売された拳銃が、どういう経緯でレーニンに渡ったかについては、この叙述ではよく解らない。

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確かにロシアには不審な点がいくつかある。
事件の日、伊藤をプラットフォームに連れ出したのはロシア蔵相ココーフツォフで、銃撃の時に伊藤のすぐそばにいながら、かすり傷ひとつ負っていない。
また、前述したとおり、事件の起きたハルビン駅はロシア東清鉄道付属地内であり、不審な人物をVIPに近づかせない義務はロシアにあったはずだが、ロシア軍や警察が多数いた中で、ロシア兵の間から(股の下からという説もある)、拳銃を持った韓国人を伊藤らのすぐ近くにまで接近させて拳銃を発射させてしまった。そしてロシア軍や警察にも負傷者はいなかった。
さらに、ロシア国境裁判所は、安重根らは韓国人であるから、ロシアには裁判管轄権がないと決定した…。

直感的にはロシア関与の可能性はかなり高そうなのだが、もしそうだとすると、ロシアが伊藤を暗殺する動機は何処にあったのか。若狭氏によると、ロシア皇帝にとって伊藤は許しがたい存在であったという。
若狭氏の論文のポイントを引用する。
「日露開戦の前には伊藤は日露協商を唱えて、日英同盟に反対の先頭に立っていた。日英同盟を主導したのは山縣有朋や桂太郎であり、日露協商を主導したのが伊藤や井上馨たちである。…
しかし、…満州のロシア軍の態勢は整うばかりである。日本参謀本部の戦略は、ロシア軍の態勢が整う以前に決戦を臨むことであり、ロシア軍の態勢が整った後には日本には勝ち目はないという判断であった。…明治35年(1902)1月30日、日英同盟は条約として署名され…た。これはロシアにとっては完全な不意打ちであった。
ロシア皇帝の戦略では、あと2年後に日露は開戦すべきであった。ロシアにしてみれば態勢の整う前に戦いを日本から強いられたものであり、その『策略』の中心部にいたのが伊藤博文にほかならなかった――ロシアはそう見たのである。」(同上書 p.88)

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Wikipediaによると、伊藤は日露開戦までは日露協商の立場から満韓交換論を提唱してロシアとの交渉にあたっていたが、山縣や桂は、仮に日露協商が成立しても長続きせず、ロシア側がこれを破棄することは確実で、戦争は避けられないのなら相手の準備が整わない内に早く手を打った方が良いと考えていた。
1902年の日英同盟で、わが国はイギリスを後ろ盾としてロシアに対抗する方針に転じ、1903年8月にわが国はロシアに満韓交換論を提示したがロシアはこれを拒否し、逆に朝鮮半島を南北に分け、南側を日本の勢力下に、北側を中立地帯として軍事目的での利用を禁ずるという提案を突きつけてきた。これは事実上ロシアの支配下に朝鮮半島が入ることを意味し、当時の日本としてはのめる提案ではなく、翌1904年日本はロシアと国交を断絶。満韓交換論は完全に消滅し、日露戦争へと向かうことになる流れだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E9%9F%93%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E8%AB%96

ロシア海軍軍令部編纂『一九〇四・五年露日海戦史』という本には、当時のロシアの戦略が書かれていて、その内容はロシアは朝鮮を全面征服し、馬山浦を完全に根拠地にして、対馬、壱岐を基地化し、日本を完全に無力化する計画であったという。
もし朝鮮半島と対馬・壱岐がロシアに占領され、そこからバルチック艦隊が日本海を最短距離で進んでわが国に攻撃をしかけてきたとすれば、日本連合艦隊が日露戦争に勝つことは厳しかったことは間違いなく、もしわが国が敗れていたら、明治時代に多くの領土がロシアに奪われたとしてもおかしくなかったと思う。

だからロシアにとっては伊藤博文は日露協商・満韓交換論路線の裏切者であり、それにもかかわらず伊藤博文が、復讐心に燃えるロシアに出向いたことが結果として自らの寿命を縮める原因となってしまったことになる。

とは言いながら、若狭氏はロシア政府や皇帝の意志が伊藤暗殺にあったと考えている訳ではなく、ロシアの暗殺史は日本人の発想の外にあるとも言っている。
「日露戦争にロシアの敗色が兆しはじめた時期に、ロシア各地にストライキや暴動が頻発した。明石元二郎やレーニンの同志たちの姿が見える。
バクー油田、プチーロフ工場のストライキ、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの反乱、怪僧ラスプーチンの暗殺、ゼネストの広がりとロシア国内は政治危機の様相を呈してきた。この混乱を背景にポーツマス条約は成立した。」(同上書p.89)

若狭氏の論文は、殺人犯の黒幕がロシアの「特務機関」なのか、レーニンに近いグループなのか、どちらとも読めるような書き方になっている。ひょっとするとレーニンは「特務機関」の中に、工作員を送り込んでいたのだろうか。
また若狭氏は、わが国とロシアとの間に水面下でどのような交渉があったかについては何も触れていない。ただ、最後に「日本は事件を糾明するよりは、朝鮮青年を『犯人』として処刑することにロシアと『外交的に』同意した」とまとめているのだが、ロシア側の資料など確かな資料が出てこない限りは真の犯人グループを特定することは難しいということなのだろう。

わが国政府もロシアに疑いの目を向けたと思うのだが、なぜ真犯人をつきとめることなしに、安重根を犯人とすることでロシアと『外交的に』同意したのだろうか。

わが国が『外交的に』ロシアと同意できるケースとして考えられるのは、犯人を追及しないことで手を打った方がわが国にとってプラスである場合に限られると思うのだが、そのようなケースは、
①ロシアの犯行と分かっていながら、裏交渉でわが国に有利な条件を引き出すことに成功した場合
②犯人をあまり追及するとわが国の立場が悪くなることがわかっている場合(真犯人がわが国側の権力に近い人物に繋がるなど)
のいずれかに限られてくるだろう。

①のケースとしては、
たとえば日韓併合推進派にとっては、伊藤がいなくなったことはチャンスととらえた可能性がある。また、ロシア側に非がある場合は、わが国が事件の追及を緩めることで、水面下で満州権益の確保などの条件闘争を有利に進めたことも考えられる。
あるいは将来的に「韓民会」勢力を温存したほうが、ロシアの弱体化につながるという判断があったのかもしれない。

また②は、わが国の方に伊藤暗殺の黒幕がいたケースである。
ネットなどで検索していくと、伊藤のライバルであった山縣有朋や、政界の黒幕的存在であった杉山茂丸、レーニンに接近し機密工作により日露戦争を勝利に導いた明石元二郎の名前がでてくるようだ。

この事件に関しては多くの史料が伏せられたままなので、さまざまな説がありうるのだが、いずれの説も、新たな資料でも発掘されない限りは、立証困難だと思う。

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話を安重根に戻そう。
安重根が伊藤博文を暗殺しようとして拳銃の引き金を引いたことは間違いがない。
彼が撃った弾丸は伊藤博文には当たっていなかったようだし、当たっていようがいまいが彼の行為は結果として日韓併合を早めたことになるのだが、どういうわけかお隣の国では、この人物を今も「義士」と呼び、国民的英雄扱いにしているようだ。

しかし、普通に考えれば安重根は単なるテロリストか、あるいはロシアからの指令で動いただけの人物なのだが、このような人物を「偉人」として教育しているようでは、お隣の国に世界から尊敬されるような人材が育つとは思えない。
竹島を不法占拠していることだけでなく、対馬市観音寺の仏像盗難まで正当化するのも同根だと思うのだが、このような不法行為を是とする教育をこれからも続けているようでは、隣の国はいずれ国際的信用を失い活力を失っていくことになると思う。

伊藤博文の暗殺事件が起きる18年前の明治24年(1891)5月に、来日中のロシア帝国皇太子ニコライの通る沿道警備の現場において、巡査の津田三蔵が、ニコライをサーベルで斬りつけ負傷させた事件があった(大津事件)。

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若狭氏はわが国とお隣の国の教育スタンスの違いを的確に述べておられるので、最後に引用させていただくことにする。
「わが国ではロシアの皇太子ニコライに斬りつけた大津事件の津田三蔵巡査は教室の偉人ではない。むしろ、本件に腰を抜かした政府の圧力に屈することなく『罪刑法定主義』を貫いた大審院長の児島惟謙の姿勢を学べと教えてきたのである。」(同上書 p.89)
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