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三方五湖観光後昼食は「淡水」の鰻。続けて紅葉名所・鶏足寺を訪ねて~若狭カニ旅行3

旅行の2日目は、民宿をチェックアウトしてから、まだ走ったことのない「三方五湖レンイボーライン」を走ることにした。この道はカメラマンの須藤英一氏が選んだ『日本百名道』のうちの一つになっている道だ。
http://blog.goo.ne.jp/adriveki/c/fce0a5a016f7afe0083accd5751a96a7

11.24kmの有料道路だが、カーブが多く、運転しながら景色を楽しむわけにもいかないので、3つある駐車場で車を停めて景色を楽しむことしかできなかったが、快晴だったらもっと素晴らしい景色が望めたのにと思うと残念だ。

1三方五湖

この季節に朝一番にレインボーラインを走ったのも失敗で、薄曇りの天気ながら湖の方角が逆光のために、良い写真が撮れなかった。綺麗な写真が撮れそうだったらリフトに乗って頂上まで登ってもよかったのだが今回は断念して、次の訪問先の「若狭三方縄文博物館」に向かうことにした。

縄文博物館外観

この博物館のすぐ近くに、今から12000年~5000年前の縄文時代草創期から前期にかけての集落遺跡「鳥浜貝塚」があり、低湿地で発見されたために保存状況が極めて良好で、木製遺物など1376点が国の重要文化財に指定されているのだそうだ。その遺物の一部がこの「若狭三方縄文博物館」に展示されている。

博物館の中は撮影禁止のため紹介できないが、次のURLで「鳥浜貝塚」のことが写真入りで詳しく書かれている。
http://infokkkna.com/ironroad/dock/iron/8iron08.pdf

縄文式の遺物というと、普通は石器や土器や骨や貝殻といったものしか出てこないことが大半なのだが、ここでは当時の丸木舟 木製品や縄、編物、漆製品、木の実・魚・貝類なども含め、自然遺物といった有機物が半ば水漬けの状態で大量に発掘されているので、「鳥浜貝塚」のことを「縄文のタイムカプセル」などと呼ばれているのだそうだ。

縄文住居

驚いたのは、赤漆塗の櫛をはじめとする漆製品がでていることで、この時代の日本人はすでに漆塗りの器や生活道具を作っていたことを初めて知ったし、漆の技術は同時代の中国の物と比べても若狭のものの方が優れているのだそうだ。また、真珠や骨角や石のアクセサリーなどの装身具や工芸品も出土しており、こんなに古い時代においても高度な文化を持っていたことがわかっている。

遺物層の中には、ドングリ・クルミなどの種子層、魚の骨やウロコなどの魚骨層、淡水の貝殻の貝層が確認されている。これらの堆積状況から、縄文の人々の季節ごとの食生活が明らかとなり、秋に採取した森の食物を秋から冬にかけて食べ、春には三方湖で魚や貝を、夏は若狭湾に回遊するマグロ・カツオ・ブリ・サワラを捕って食べていたことがわかったという。また、ゴボウ、アブラナ、シソ、ヒョウタンなどの種も見つかっており、すでに植物栽培も始められていたようだ。この時代の人々の食生活は、私が想像していたよりもはるかに豊かなものであったようだ。

野菜直売会

博物館のすぐ近くに「若狭町観光案内センター」があり、農産物の販売所があったので立ち寄ってみた。たまたまイベントをしておられて、地元の方が作られた「けんちん汁」を御馳走になった。野菜の旨みがたっぷりあって、とても体が温まった。

新鮮野菜

中に入って地元の野菜やお酒などを買い込むと、イベントで輪投げがセットされていて、うまい具合に地元のお味噌や梅の加工品などが当たってしまった。旅行先でこういう時間が持てると思わなかったが、地元の元気な叔母さんたちと交流ができて楽しかった。

三方五湖は鰻が有名なので、昼食はこの近くで鰻料理と初めから決めていた。
11時を過ぎたので早目の昼食をとることとし、すぐ近くにある鰻料理店「淡水」に行く。
ネットでは評判のよさそうな店だったので早めに入ったのが正解だった。開店が11時なのだが、三方湖に面した窓際の席はすでに埋まっていて、12時になるまでに満席になってしまった。

淡水うなぎ

これが「淡水」の「うなぎ丼」。肉厚の鰻の身と皮の表面がカリッと焼かれていて、身には脂がしっかり乗っていて旨かった。

他にもいろいろ行きたいところがあったのだが三方五湖を後にして、次の目的地である滋賀県長浜市にある鶏足寺に向かう。

さすがに紅葉の名所で有名な場所だけある。駐車場に入れなかった車が道路にあふれていた。たまたま臨時駐車場に入っていた車が2台程空いたので、運よくすぐに車を駐車することができた。

よしろ神社

大勢の人が歩く道をしばらく進むと、與志漏神社(よしろじんじゃ)がある。この参道の紅葉が美しい。

旧岩戸寺

参道を進むと薬師堂(旧戸岩寺)があるが、今は無住の寺である。この寺は、715年に行基が北西の異光山から遷したと伝えられている古刹で、この本尊の薬師如来は滋賀県最古の仏像で重要文化財に指定され、当地の氏仏として信仰を集めていたのだが今はここにはない。

己高閣

その近くに己高閣(ここうかく)、世代閣(よしろかく)という仏像が収蔵され公開されている施設がある。
「己高閣」は国庫の補助を受けて建設されたが、「世代閣」は住民の浄財を集めて建築され、地域の住民の力で文化財が守られているのだ。

己高閣には鶏足寺の本尊の十一面観音立像(平安時代:国指定重要文化財)などがあり、世代閣には先ほど紹介した薬師堂(旧岩戸寺)の本尊であった薬師如来立像(奈良時代:国指定重要文化財)などが収められている。
平安時代に制作された仏像が他にもあったが、立派な仏像にしては後ろに光背がないものが多く、光背があっても最近に作られたものであることが一目でわかるし、立派な仏像に釣り合わないものが大半だ。台座も同様だ。
かなり破損した仏像がいくつかあったが、以前このブログでレポートした、金刀比羅宮の宝物館で見た廃仏毀釈で仏像にかなり似ていた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html

明治の廃仏毀釈によって多くの寺院が破壊され、仏像も壊されたり、燃やされたり、捨てられたりしたことを過去何度かこのブログで書いてきたが、己高閣・世代閣にある仏像の多くは、明治の初期によく似たことがあったのだと思う。

鶏足寺鳥瞰図

近くに、応永14年(1407)頃の伽藍配置を想定して書かれた鳥瞰図があり、その下に鶏足寺の由緒について記載されていた。そこには、
「(鶏足寺は)室町期には僧坊百二十宇を容する大寺院となり、湖北仏教文化圏の中核として隆盛を極め、後期には小谷城主浅井家三代、次いで豊臣家の祈願所となり、石道寺・法華寺・飯福寺その他の名刹を別院としてその格調を誇っていた。
江戸時代には徳川幕府も京都所司代に命じて寺領を保護し寺の維持を図ったが、地理的悪条件から次第に衰退し、末期には無住となり権現堂とともに最後まで残っていた本堂も昭和八年冬不審火により焼失した。
御本尊は大正三年に與志漏神社境内に遷佛していたため無事であり、数奇な運命をたどられた観音菩薩を千二百年後の今も「己高閣」で拝することができるのは誠に幸いである。」 とあるが、明治初期の廃仏毀釈のことは何も書かれていないのは不自然だ。
そもそもなぜ、鶏足寺の本尊が與志漏神社境内に持ち込まれていたのだろうか。

IMG_3622.jpg

紅葉散策のために歩き出して鶏足寺(旧飯福寺)の参道に達すると、案内板には「明治時代に入り廃仏毀釈などによって寺院の規模は縮小されてしまいました。」とだけ書かれていたが、パンフレットや説明書になぜ廃仏毀釈のことを書かないのだろうか。何もなかったように自然消滅したような書き方では、地域の人々が苦労して文化財を護ってきたことが伝わらないだろう。

鶏足寺のある己高山(こだかみやま)には小浜のように1000年以上の歴史のある寺がいくつも存在していたのだが、明治初期の廃仏毀釈・神仏分離で、そのうちのいくつかの寺が破壊されるか、神社に変えられたか、後に廃寺となるか、無住の寺院となっており、最盛期には120近くあったという堂宇はこの時期にかなり失われてしまった。
以前、ここにどれだけの寺院があり、それらの寺がどうなったかについて、詳しく知るにはs.minagaさんの次のURLが参考になる。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/ato_kodakamiyama.htm

鶏足寺の参道の紅葉

この鶏足寺の参道あたりが特に紅葉の美しいところであるが、今年は紅葉が全国的に遅くて、ピークよりも1週間程度早く来てしまったようだ。

鶏足寺の紅葉

それでも、所々で鮮やかな紅葉を楽しむことができた。

この参道を進んでいくとお堂が建っていたが、あまりに安普請なのでシャッターを押す気にもならなかった。

飯福寺之景

ネットでいろいろ調べると、先ほど紹介したs.minagaさんのサイトに鶏足寺(旧飯福寺)の明治29年の絵が見つかった。こんな古いお寺が仏像とともに残っていたらもっと素晴らしいのにと思うのだが、ほとんどが廃墟となってしまっている。それでも紅葉だけでこれだけの観光客が集まることに、やや複雑な思いがした。

鶏足寺(旧飯福寺)から少し歩くと、石道寺(しゃくどうじ)というお寺がある。この寺の周辺も紅葉がきれいなところだ。

石道寺本堂

今の本堂は大正3年に、現在地より東1kmの山間僻地にあった旧石道寺の本堂を移築したものだが、旧石道寺は神亀三年(726)の開基で、のち行基菩薩が堂宇を建てたという古刹である。
この石道寺の本堂には平安中期の作とされるケヤキの一木造の本尊・十一面観音立像(国・重文)、鎌倉時代の作とされる木彫持国天立像(国・重文)、木彫多聞天立像(国・重文)が安置されている。
これだけの歴史があり文化財がある寺であるのに住職が不在で、集落全体が観音様のお世話を続けているのだそうだが、己高閣・世代閣とは違って暗い本堂の中で、手を合わせることできる空間が残されていることがありがたい。

石道寺本尊

この画像はネットで探した本尊の十一面観音立像だ。
ケヤキの木は堅いので、仏像を制作するのは大変な苦労があっただろう。ケヤキの一木彫りで複雑な十一面観音像を彫るというのは、余程深い思いがなければできない仕事だろう。
これらの仏像が地域の人々の信仰を集め、住職不在の寺となっても人々が観音様の世話を続けてきたのは、地域の人々がこの仏像の素晴らしさを理解し、親が大事にしてきたものを後世にも伝えていきたいという共通の思いからなのだろう。もし芸術的な価値が認められなかったら、人々がここまで長い年月を超えて護られるはずがないのだと思う。

文化財の護り方は、小浜のようにお寺の住職の生活ができるようにして古いものを、古いまま残せれば一番良い。そこで住職の生活ができなければ、石道寺のように地域の人々によって祈りの空間が残せればよい。しかし建物の維持すら困難になれば、祈りの空間は失われ、多くの仏像が博物館に並ぶか売却されていくしかない。

先人たちが苦労して制作し、長い年月にわたり地域の人々が苦労して残してくれた祈りの空間を、できる限り後世に残していくことは、今生きている世代の務めだと思うのだが、今の経済効率優先の政策では地方によっては地元に若い世代が残らず高齢化・過疎化が進むばかりで、いずれは地方の貴重な文化や伝統は担い手を失って、次代に承継することが難しくなっていくことを危惧している。そのような地域で若い人が生活できる仕組みを考えないと地域の文化・伝統が護れるとは思えない。
私ができることはこのような地方を訪れて、わずかばかりの拝観料を支払い、お賽銭を入れ、地域の野菜や魚やお土産を買い、地域のお店で食事をしたり宿泊することくらいなのだが、同じことを少しでも多くの人が行えば、地域の古き良き文化伝統を次代に残す道を拓くことができるのではないだろうか。
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唐崎神社から日吉大社、日吉東照宮を訪ねて

前回は慶応4年(明治元年1868)3月に神祇官から神仏分離令が出された直後に、神祇官の樹下重国らによって日吉大社の仏像仏具など数千点が破壊され焼却されたことを書いた。
この日吉大社には行ったことがなかったので、滋賀県大津坂本から比叡山延暦寺に向かう日帰り旅行を企画して先日行ってきたのだが、結構見るべきところがあったので、今回はそのレポートをしたい。
車などで行かれる方のために、私が訪れた場所の住所・電話番号などを付記しておく。

唐崎神社

最初に訪れたのは唐崎神社(大津市唐崎1-7-1、077-579-8961)である。この神社は日吉大社の摂社で、この場所が室町時代の終わりに選定された「近江八景」の1つになっているので立ち寄ることにした。

hirosige-karasaki.jpg

上の画像は歌川広重が描いた「近江八景・唐崎夜雨」で、ここに描かれている松は大正10年(1921)に枯れてしまった2代目の松だそうで、今ある3代目の松はやや小振りながら、それでもなかなか見事な枝ぶりである。
唐崎神社 松

松尾芭蕉がこの地を訪れて、「からさきの松は花よりおぼろにて」という句を残していて、松のちかくにその句碑があるが、立派な松の枝ぶりに隠れてしまっていた。

日吉大社鳥居

唐崎神社から日吉大社(大津市坂本5-1、077-578-0009)に向かう。
京阪坂本駅の近くに石の鳥居があるが、この鳥居からの参道を日吉馬場と呼ぶのだそうだ。
山川出版社の『滋賀県の歴史散歩』によると、
参道の両側にたくさんの石灯籠がならんでいるが、これは明治時代初期に廃仏毀釈がこの日吉大社から始まったとき、神社境内から仏教的なものを放り出した名残である。しばらくは乱雑におかれていたが、廃仏毀釈の嵐の静まりとともに、現在のように整然と並べられた」(p.15)とある。

日吉神社 参道

灯籠は仏教の伝来とともに伝わったとされているが、平安時代以降は神社でも用いられており、日吉大社の廃仏毀釈で灯籠までもが「仏教的な」ものとして放り出されたとは知らなかった。

日吉大社には受付が東と西の2箇所あり、どちらから入ってもよかったのだが東受付の近くに駐車して東本宮(ひがしほんぐう)から参拝することにした。日吉大社は、駐車場は無料だが、文化財の維持管理の為に入苑協賛料\300円が必要だ。境内はとても広くて平成18年に歴史的風土特別保存地区に指定されており、国宝に指定されている建物が2棟、国の重要文化財に指定されている建物が17棟も存在するので維持管理費はかなりかかるだろう。

日吉神社 東本宮 楼門

受付を済ませてすぐに見えるのが東本宮の楼門(国重文)である。
織田信長の比叡山焼き討ちで日吉大社も全焼してしまい、現在の建物で国宝や重要文化財に指定されている19棟の建物は、いずれも安土桃山時代以降に再建されたもののようだ。

東本宮全景

楼門を過ぎると、右に樹下神社拝殿、左に樹下神社本殿、中央に東本宮拝殿があっていずれも国の重要文化財に指定されている。

廃仏毀釈以前は樹下神社を十禅師、東本宮を二宮とよび、御祭神はそれぞれ大山咋神、鴨玉依姫神で、本殿に本地仏としてそれぞれ地蔵菩薩、薬師如来があったのだが、慶応4年(明治元年、1868)4月に樹下重国らが主導した廃仏毀釈で、重要な仏像・仏具は持出され徹底的に破壊されてしまった。
十禅師を「樹下神社」と、廃仏毀釈で破壊したリーダー本人の苗字を残しているのだが、日吉大社の由緒にも、大津市教育委員会が設置した案内板の説明にも、どこにも「廃仏毀釈」や「樹下重国」の記載がないのが気になるところで、おそらくこのよう歴史は参拝者に知らせたくないということだろう。

日吉神社 東本宮 本殿

東本宮拝殿の後方に、国宝の東本宮本殿がある。最近改修されたばかりのようで、朱塗りの欄干が色鮮やかで、檜皮葺の屋根も美しい。

東本宮の参拝を終えて西に進み、途中で奥宮である牛尾神社三宮神社(いずれも国重文)に向かう石段が見えた。いずれも崖上に建てられていて、琵琶湖の眺めも素晴らしいようなのだが、往復で1時間の急坂は厳しいので今回はカットして、山王鳥居を目指して歩く。

途中に神輿収蔵庫があるが、そこには桃山時代から江戸時代にかけて作られた7基の神輿(いずれも国重文)があり、中に入れば古い神輿を見ることが出来たようだ。日吉大社のお祭りである山王祭は大津祭、長浜曳山祭と並ぶ湖国三大祭の一つで、1300年の歴史があるののだそうだが、ここに収納されている神輿は以前は使われていたが、今では別の神輿が用いられているという。

日吉神社 鳥居

左に折れて山王鳥居に向かう。
山王鳥居は普通の鳥居の上に三角形の屋根が乗ったような独特な形をしている。この鳥居辺りは紅葉が特に美しく、秋の紅葉シーズンにはライトアップもされるようだ。

日吉神社 西本宮 楼門

上の画像は西本宮の楼門(国重文)。ここをくぐると拝殿(国重文)があり、拝殿の奥には、豊臣秀吉が天正14年(1586)に寄進したと伝えられている西本宮本殿(国宝)がある。

日吉神社 西本宮 本殿

西本宮は天智天皇が大津宮を造営する時に大和の三輪明神(現在の大神[おおみわ]神社:奈良県桜井市)を勧請したと伝えられ、ご祭神は大己貴命(おおなむちのみこと:大国主命)だというが、廃仏毀釈の前にはここに本地仏として釈迦如来が安置されていたのだそうだ。

西本宮の東には豊前の宇佐八幡宮から勧請された宇佐宮本殿及び拝殿(国重文)があり、さらに東には加賀の白山比咩(ひめ)神社から勧請された白山姫神社本殿及び拝殿(国重文)と続く。廃仏毀釈前には本地仏として宇佐宮には阿弥陀如来が、白山姫神社には十一面観音が安置されていたという。

日吉神社 大宮橋

再び山王鳥居をくぐって大宮橋(国重文)という石橋を渡る。そのすぐ近くには、欄干のない走井橋(国重文)がある。上の画像は走井橋から大宮橋を写したものである。このように、残されている建物から神輿まで、多くが国宝や重要文化財に指定されている。
これだけ多数の国宝や重要文化財があれば、もっと観光客が来てもおかしくないと思うのだが、日曜日でこの程度なら文化財の維持管理や境内の清掃などが大変ではないかと心配になってくる。もし、廃仏毀釈で破壊焼却されたいう数千点の仏像・仏具などが残されていたとしたら、国宝級のものが相当あったはずで、この場所が比叡山延暦寺以上に観光客で賑わう場所になっていてもおかしくないのではないかと思う。少なくとも建物については、滋賀県で日吉大社以上に国宝や国の重要文化財の多い寺社は存在しないのだから。

西受付を出て右に折れて、次の目的地である日吉東照宮(大津市坂本4-2-12)に向かう。

日吉東照宮はもともとは延暦寺が管理していたのだが、明治9年(1876)からは日吉大社の末社となって現在に至っている。
建物は国の重要文化財に指定されているのだが、観光客が少ないために、一般に公開されているのは日曜日と祝日の10時から16時だけのようだ。
ここには日吉大社からは歩いて10分ぐらいで辿りつけるが、車で行く場合は「坂本ケーブル乗り場横の橋を渡りすぐ左手にある駐車場」を用いると、正面階段下の観光駐車場から続く長い階段の大半をカットすることが出来る。

日吉東照宮は元和9年(1623)徳川三大将軍家光公の時に、天台宗の大僧正・天海上人によって造営されたのだが、寛永11年(1634)に権現造の様式で改築されている。
ちなみに日光東照宮も元和4年(1618)に社殿が完成した後、寛永13年(1636)に寛永の大造替がはじめられており、その際に、日吉東照宮が日光東照宮の雛形になったと伝えられているようだ。
「東照宮」は東照大権現である徳川家康を祀る神社で、江戸時代には「東照宮」と名の付く建物が500以上建てられたそうだが、現存するのは130社程度なのだそうだ。

日吉東照宮唐門

上記画像が正面の唐門(国重文)で、周囲を囲む透塀(すかしべい)も国の重要文化財だ。

日吉東照宮 彩色2

正面の拝殿(国重文)の彫刻を写してみたものだが、虎が彫られ彩色されていた。徳川家康は寅年生まれなので、どこの地方の東照宮にも虎の彫刻が多いのだという。

日吉東照宮 内部

拝殿から本殿(国重文)の間に石の間(国重文)があり、石の間が本殿・拝殿よりも数段低くなっている。これは祭典奉仕者が将軍に背を向けて奉仕しても非礼にならない様に配慮されていると説明があった。御祭神は三柱で、中央が徳川家康、向かって右が日吉大神、左が豊臣秀吉なのだそうだ。

日吉東照宮 石の間と本殿

内部からは本殿の奥行きがよく分からないので外に出てみると、本殿は想像した以上に大きな建物であった。上の画像は建物を南側の側面から写したものだが、戸が開放されているのが石の間でその奥が本殿である。

建物の外側は雨風に曝されて彩色が一部色落ちしているが、内部の彩色は綺麗に残されている。
規模は日光東照宮とは比べものにならない建物だが、桃山文化を彷彿とさせる歴史的空間で、鳥の囀りを聴きながら説明員の方の話を受け、建物をじっくりと観賞できるという贅沢な時間を過ごすことができた。

日吉東照宮から二上山

唐門を出ると琵琶湖が良く見えた。木々の間から見える山は、近江富士として知られる三上山(みかみやま)である。
日吉東照宮は文化財だけでなく景色も素晴らしいのに、どうしてもっと観光客が来ないのかと不思議に思う場所である。(つづく)
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いています。
良かったら覗いてみてください。

東大寺二月堂に向け毎年「お水送り」神事を行う若狭神宮寺を訪ねて~~若狭カニ旅行1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-217.html

国宝の明通寺本堂・三重塔から紅葉名所・萬徳寺などの古刹を訪ねて~~若狭カニ旅行2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-218.html

三方五湖観光後昼食は「淡水」の鰻。続けて紅葉名所・鶏足寺を訪ねて~若狭カニ旅行3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-219.html

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html




慈眼堂、滋賀院門跡から明智光秀の墓のある西教寺を訪ねて考えたこと

日吉東照宮からケーブルの坂本駅方面に抜けて右折し、坂を下って県道47号線を超えると、すぐ近くに滋賀院門跡につながる小道がある。しばらくこの小道を歩くと、木々に囲まれて、スギ苔と石畳の美しい空間に辿りつく。

慈眼堂

石灯籠が導く先には、天台宗の僧で徳川家康の政治顧問であった南光坊天海の坐像のある廟所で、三代将軍徳川家光が作らせたという延暦寺慈眼堂(滋賀県文化財:大津市坂本4-6)という建物がある。

慈眼堂の向かって左には、近世以降の天台座主らの廟所になっていて多くの石造五輪塔や宝篋印塔がある。あまり詳しく見なかったのだが、桓武天皇、後陽成天王、後水尾天皇や、徳川家康、新田義貞、紫式部、和泉式部などの供養塔もここにあるそうだ。

滋賀院門跡

慈眼堂から右に進むと下り坂が続いてすぐに滋賀院門跡(077-578-0130、大津市坂本4-1772)が見えてくる。

案内板には寺の由来をこう解説している。
「元和元年(1615) 慈眼大師天海(1536~1642)が、後陽成上皇より法勝寺(京都北白川に在り六勝寺の一つで歴代天皇ご授戒の寺として四箇戒場の一つでもあった)を下賜されこの地に移築されたもので、明暦元年(1655)後水尾天皇より滋賀院の号と寺領一千石を賜り江戸時代の末までは天台座主であった法親王が代々住まっておられた寺である。
 外観は堂々たる穴太衆積みの石垣に白壁がつづいており滋賀院御殿といわれる名に恥じない威容を見せている。
 御殿については明治11年(1878)11月の火災のためすべて灰となったが、現在の建物は山上より三塔それぞれ最高の建築を移築し、明治13年5月に復旧したものである。」

滋賀院石垣

慈眼堂から滋賀院門跡に入ると、どこに立派な石垣があるのかよく分からないのだが、境内をそのまままっすぐ進むと右に門があり、そこから塀の外に出ると、立派な石垣を見ることが出来る。

比叡山のお堂の基礎の石組を担当した石工の集団が穴太(あのう)村の者であったことから「穴太積み」と名付けられたのだが、その特徴は、自然石の組合せのみで積み上げ、小石を詰め石として用いる技法にある。
戦国時代以降、築城時の石垣づくりなどで穴太衆が重用されたというが、今では坂本で1軒のみがその技術を承継しているだけだという。
コンクリートなどの擁壁は排水に問題があり、水圧のために亀裂が入ったり、次第に形が変わることが多いのだが、石垣は石の隙間から余分な水分を逃すので形が崩れにくい。この石垣は造られて400年近くなるのだが、今も均整のとれた美しさを保持している。

拝観を申し込んで中に入ると、狩野派や渡辺了慶の襖絵などがあったが、内部は撮影が禁止されていたので画像で紹介できないのは残念だ。
滋賀院門跡 庭園

宸殿の西側に、小堀遠州が3代将軍家光公の命により作庭した南北に細長い庭園があり、国の名勝に指定されていて写真撮影も可能なのだが、どうせ写真を撮るなら紅葉か新緑の季節に訪れたいところである。

鶴喜そば

11時を過ぎたので、早目の昼食をとることにした。
昼食は、享保元年創業の老舗・「鶴喜そば」(滋賀県大津市坂本4-11-4、077-578-0002)に決めていた。大正時代に建てられたレトロな建物で平成9年には国の登録文化財にも指定されていて、そんな場所で食事をしてみたかったからである。
おろし蕎麦の大盛りをオーダーしたが、すぐに食べ始めてしまってメニューの写真を撮るのをうっかりして忘れてしまった。
蕎麦はコシがしっかりしていて喉越しが良く、食後に頼んだそばアイスも旨かった。

西教寺総門

食事を終えて次の目的地である西教寺(さいきょうじ:大津市坂本5-13、077-578-0013)に向かう。
上の画像は西教寺の総門だが、坂本城のものを移築したものだと言われている。

西教寺の歴史はかなり古く、この寺の案内板の記述によると、
「…聖徳太子が仏法の師である慧慈・慧聰のために開創された寺で、推古天皇の26年(618)に大窪山の号をたまわり、天智天皇の8年(669)に西教寺の号を下賜されたと伝えられている。
 寺記には天台座主慈恵大師良源大僧正・恵心僧都が念仏道場とした。その後、比叡山で修行された真盛上人が文明18年(1486)入寺し、不断念仏の根本道場として、西教寺を再興された。
 明治11年(1878)明治政府によって別派独立が公許、『天台宗真盛派』の本山となった。
 昭和16年(1941)に天台宗三派合同となったが、終戦とともに、昭和21年(1946)に天台宗三派、延暦寺(山門)、三井寺(寺門)、西教寺(盛門)が分離、天台宗真盛派を『天台真盛宗』と公称して独立、今日に至っている。」とある。

Wikipediaによると、西教寺は天台真盛宗の総本山で末寺は全国に400以上あるのだそうだ。天台系の三つの宗派の違いについては、延暦寺(山門)、三井寺(寺門)は密教色が強いのに対し、西教寺は阿弥陀如来を本尊とし、念仏(阿弥陀如来の名を称えること)を重視するなど、浄土教的色彩が濃いのだそうだ。この違いは、この西教寺の中興の祖と言われる真盛上人(1443~1495)の「戒律」と「念仏」の両方を重視する思想の影響が大きいのだという。

西教寺石垣

本堂に向かう階段を歩くと、お城のような立派な石垣を見ることが出来る。もちろんこの石垣も穴太積みである。

西教寺本堂

これが西教寺の本堂。享保16年(1731)に改築されたもので、国の重要文化財に指定されている。本尊は平安時代に制作された木造阿弥陀如来坐像(国重文)で、後陣には平安時代の木造聖観音立像(国重文)があるのだそうだが、延暦寺に向かう予定なので拝観することは諦めた。拝観すれば客殿(国重文)の仏間にある木造薬師如来坐像(国重文)や、庭の石灯籠(国重文)など、この寺も重要文化財が目白押しだ。

今回西教寺を訪れた目的の一つは、この寺にある明智光秀とその一族の墓をこの寺の案内板にどう書かれているかを確認することであった。

明智光秀の墓

案内文の前半には、元亀2年(1571)に織田信長が比叡山を中心に近江国の寺院を焼き討ちした際にこの寺も焼かれてしまったのだが、その後明智光秀が坂本城を築き、坂本城主として坂本の復興に尽力し、この西教寺の大本坊(庫裏)を増築し、仮本堂を完成させて現在の本尊を迎えたことが記されている。
しかし問題は、明智一族の墓に関しての記述にある。案内板にはこう書かれていた。

「(光秀が庫裏を増設し仮本堂を完成させて)以来、(西教寺)と光秀との由縁はふかく、元亀4年(1573)2月、光秀が堅田城に拠った本願寺光佐を討った時、戦死者18名の菩提のため、武者、中間のへだてなく供養米を寄進したと言われている。また早逝した内室(凞子[ひろこ])の供養もされ、墓が安置されている。
 天正10年(1582)本能寺の変のあと、山崎の合戦に敗れて非業の最期をとげた時、光秀一族とともに当寺に葬られたと言われている。のちに坂本城の城門の一つも当寺に移されたと伝えられている。…」
内室の墓は本物であるようなのだが、光秀の墓については本物であるとは断言していない点に注目したい

明智光秀

Wikipediaによると光秀は山崎の合戦に敗れて、坂本城を目指して落ち延びる途中の天正10年(1582)6月13日の深夜に京都山科の小栗栖(おぐるす)という地で農民・中村長兵衛に竹槍で刺されて深手を負い、家臣溝尾茂朝に介錯させて自害したとされているのだが、光秀の周りには10名以上の家臣がいたはずだ。なぜ農民が竹槍のような武器で家臣らに気付かれずに光秀を襲うことが出来たのか。鎧を着用したはずの光秀がなぜ農民の竹槍で致命傷を負ったのか。
また、この農民が暗闇の中で刺した相手をなぜ光秀だと認知できたのか。
主君の首を渡さないのが家臣の務めであるのに、なぜ光秀の首が農民の手に渡ったのか。普通なら、主君を襲おうとした輩はその場で家臣によって切り捨てられるのが普通ではないか…。
通説で語られる光秀の死については、どう考えても不自然すぎるのだ。
そもそも秀吉が首を検分したのは6月16日で、旧暦だから真夏の暑い時期である。腐敗が進んで顔が判別できる状態ではなかったのではないか。
農民が拾った首を、光秀の首だとして差し出したか、秀吉が光秀の首だということにしたのかはわからないが、いずれにしても、光秀は山崎の戦で敗れた段階で政治的には死んだも同然であり、秀吉にとっては、首実検はどうでもよかったということもあり得る話なのである。

Wikipediaにはこう書かれている。
「光秀の墓がある西教寺の記録によると、光秀のものとして首実検に出された首級は3体あったが、そのいずれも顔面の皮がすべて剥がされていたという。光秀のものとして実検された首級が暑さで著しく腐敗していたことは他の多くの史料にも記されている。実検の後、光秀の首級は京都の粟田口にさらされたという。」
西教寺は光秀本人の首である事を確認してこの墓に葬った訳ではないので、墓の前の案内文が光秀の墓であると断言できないのだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80

3フロイス日本史

ところで、本能寺の変の時に、近くにある南蛮寺にいたイエズス会のルイス・フロイスは通説とは異なることを書いている。光秀の首は刀で農民に刎ねられて本能寺に運ばれたというのだ。
「…信長が殺された場所へは、初回分としてだけで一千以上の首級がもたらされた。すなわち、すべての首級を同所(本能寺)に持参するようにという命令が出されていたからで、それらを供えて信長の葬儀を営むとの指令でなされたのである。日盛りとなると、堪えがたい悪臭が立ち込め、そこから風が吹き寄せる際には、我らの修道院では窓を開けたままではいられぬほどであった。…
 哀れな明智は、隠れ歩きながら、農民たちに多くの金の棒を与えるから自分を坂本城に連行するようにと頼んだということである。だが彼らはそれを受納し、刀剣も取り上げてしまいたい欲にかられ、彼を刺殺し首を刎ねたが、それを三七殿*に差し出す勇気がなかったので、別の男がそれを彼に提出した。そして次の木曜日に、信長の名誉のため、明智の身体と首を、彼が信長を殺し、他の首が置かれている場所に運んだ。」(中公文庫『完訳フロイス日本史3』p.174-175)
*三七殿:織田信長の三男である織田信孝。

フロイスは明智の首を見た訳ではなく、人から聞いた話を書いているだけだ。真実を書いていると思われるのは、信長の死のあとで本能寺に大量の首が集められていたという部分だけだと思う。

明智光秀の最後についてネットでいろいろ探っていくと、奈良大学の河内将芳教授のブログの記事が見つかった。河内教授は次のURLで、当時の人々が記した日記や書状に光秀の死がどう記されているかを調べておられる。これらを読むとどこにも「竹槍」の話がどこにも出てこないのである。
http://ameblo.jp/kawauchi1/entry-11902065396.html
特に秀吉の書状(『浅野家文書』)には「山科之藪之中へ北入、百姓ニ首をひろはれ申候」とあるそうなのだが、殺されて首を刎ねられたのと、首を拾われたのとでは全く話が違うし、拾われた首が光秀のものであることはますますあり得ないことだと思う。主君の首を家臣がそのまま放置することなどは、どう考えてもありえないことではないか。

明智憲三郎氏のブログによると、秀吉が本能寺の変のあった天正10年(1582)に大村由己(おおむらゆうこ:秀吉の御伽衆として仕えた)書かせた『惟任退治記(これとうたいじき)』の記述には「諸国より討ち捕り来る首、ことごとく点検のところに、其の中に惟任(光秀)が首あり」となっているが、それから40年後に小瀬甫庵(おぜ・ほあん)が記した『太閤記』にはじめて「光秀が小栗栖の竹薮で土民に殺された」と書かれている。そして、現在通説となっている「竹槍で刺された」ことを始めて書いた書物が、元国学院大学の教授・高柳光寿氏が著した『明智光秀』(吉川弘文館1958)なのだそうだ。
http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/7de110e16fc3c3477cd00e1f15460996

もともと史料の少ない時代を、勝者が編纂した正史や勝者が意図的に広めた軍記物などの記述に根拠を求め、さらに、戦国史の泰斗とまで呼ばれた人物が創作まで加えた歴史記述がいつのまにか定着し、それが日本人の常識になってしまっている。
このような事例は他にも多数あってこのブログでいくつか紹介してきたのだが、勝者にとって都合の良いように書かれた史料に頼って編まれた歴史書などに頼っていては、正しい事実認識が出来るとは思えないのだ。

百姓に拾われた首が光秀のものではないことは、おそらく秀吉自身も本当は分かっていただろう。とすれば光秀は生きていたのではないか考える人もいる。
今回の記事の最初に、家康の政治顧問であった南光坊天海の廟所である慈眼堂を紹介したが、この天海こそが明智光秀ではないかという説が存在する。
次回にその説について、もう少し考えてみることにしたい。
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

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