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三方五湖観光後昼食は「淡水」の鰻。続けて紅葉名所・鶏足寺を訪ねて~若狭カニ旅行3

旅行の2日目は、民宿をチェックアウトしてから、まだ走ったことのない「三方五湖レンイボーライン」を走ることにした。この道はカメラマンの須藤英一氏が選んだ『日本百名道』のうちの一つになっている道だ。
http://blog.goo.ne.jp/adriveki/c/fce0a5a016f7afe0083accd5751a96a7

11.24kmの有料道路だが、カーブが多く、運転しながら景色を楽しむわけにもいかないので、3つある駐車場で車を停めて景色を楽しむことしかできなかったが、快晴だったらもっと素晴らしい景色が望めたのにと思うと残念だ。

1三方五湖

この季節に朝一番にレインボーラインを走ったのも失敗で、薄曇りの天気ながら湖の方角が逆光のために、良い写真が撮れなかった。綺麗な写真が撮れそうだったらリフトに乗って頂上まで登ってもよかったのだが今回は断念して、次の訪問先の「若狭三方縄文博物館」に向かうことにした。

縄文博物館外観

この博物館のすぐ近くに、今から12000年~5000年前の縄文時代草創期から前期にかけての集落遺跡「鳥浜貝塚」があり、低湿地で発見されたために保存状況が極めて良好で、木製遺物など1376点が国の重要文化財に指定されているのだそうだ。その遺物の一部がこの「若狭三方縄文博物館」に展示されている。

博物館の中は撮影禁止のため紹介できないが、次のURLで「鳥浜貝塚」のことが写真入りで詳しく書かれている。
http://infokkkna.com/ironroad/dock/iron/8iron08.pdf

縄文式の遺物というと、普通は石器や土器や骨や貝殻といったものしか出てこないことが大半なのだが、ここでは当時の丸木舟 木製品や縄、編物、漆製品、木の実・魚・貝類なども含め、自然遺物といった有機物が半ば水漬けの状態で大量に発掘されているので、「鳥浜貝塚」のことを「縄文のタイムカプセル」などと呼ばれているのだそうだ。

縄文住居

驚いたのは、赤漆塗の櫛をはじめとする漆製品がでていることで、この時代の日本人はすでに漆塗りの器や生活道具を作っていたことを初めて知ったし、漆の技術は同時代の中国の物と比べても若狭のものの方が優れているのだそうだ。また、真珠や骨角や石のアクセサリーなどの装身具や工芸品も出土しており、こんなに古い時代においても高度な文化を持っていたことがわかっている。

遺物層の中には、ドングリ・クルミなどの種子層、魚の骨やウロコなどの魚骨層、淡水の貝殻の貝層が確認されている。これらの堆積状況から、縄文の人々の季節ごとの食生活が明らかとなり、秋に採取した森の食物を秋から冬にかけて食べ、春には三方湖で魚や貝を、夏は若狭湾に回遊するマグロ・カツオ・ブリ・サワラを捕って食べていたことがわかったという。また、ゴボウ、アブラナ、シソ、ヒョウタンなどの種も見つかっており、すでに植物栽培も始められていたようだ。この時代の人々の食生活は、私が想像していたよりもはるかに豊かなものであったようだ。

野菜直売会

博物館のすぐ近くに「若狭町観光案内センター」があり、農産物の販売所があったので立ち寄ってみた。たまたまイベントをしておられて、地元の方が作られた「けんちん汁」を御馳走になった。野菜の旨みがたっぷりあって、とても体が温まった。

新鮮野菜

中に入って地元の野菜やお酒などを買い込むと、イベントで輪投げがセットされていて、うまい具合に地元のお味噌や梅の加工品などが当たってしまった。旅行先でこういう時間が持てると思わなかったが、地元の元気な叔母さんたちと交流ができて楽しかった。

三方五湖は鰻が有名なので、昼食はこの近くで鰻料理と初めから決めていた。
11時を過ぎたので早目の昼食をとることとし、すぐ近くにある鰻料理店「淡水」に行く。
ネットでは評判のよさそうな店だったので早めに入ったのが正解だった。開店が11時なのだが、三方湖に面した窓際の席はすでに埋まっていて、12時になるまでに満席になってしまった。

淡水うなぎ

これが「淡水」の「うなぎ丼」。肉厚の鰻の身と皮の表面がカリッと焼かれていて、身には脂がしっかり乗っていて旨かった。

他にもいろいろ行きたいところがあったのだが三方五湖を後にして、次の目的地である滋賀県長浜市にある鶏足寺に向かう。

さすがに紅葉の名所で有名な場所だけある。駐車場に入れなかった車が道路にあふれていた。たまたま臨時駐車場に入っていた車が2台程空いたので、運よくすぐに車を駐車することができた。

よしろ神社

大勢の人が歩く道をしばらく進むと、與志漏神社(よしろじんじゃ)がある。この参道の紅葉が美しい。

旧岩戸寺

参道を進むと薬師堂(旧戸岩寺)があるが、今は無住の寺である。この寺は、715年に行基が北西の異光山から遷したと伝えられている古刹で、この本尊の薬師如来は滋賀県最古の仏像で重要文化財に指定され、当地の氏仏として信仰を集めていたのだが今はここにはない。

己高閣

その近くに己高閣(ここうかく)、世代閣(よしろかく)という仏像が収蔵され公開されている施設がある。
「己高閣」は国庫の補助を受けて建設されたが、「世代閣」は住民の浄財を集めて建築され、地域の住民の力で文化財が守られているのだ。

己高閣には鶏足寺の本尊の十一面観音立像(平安時代:国指定重要文化財)などがあり、世代閣には先ほど紹介した薬師堂(旧岩戸寺)の本尊であった薬師如来立像(奈良時代:国指定重要文化財)などが収められている。
平安時代に制作された仏像が他にもあったが、立派な仏像にしては後ろに光背がないものが多く、光背があっても最近に作られたものであることが一目でわかるし、立派な仏像に釣り合わないものが大半だ。台座も同様だ。
かなり破損した仏像がいくつかあったが、以前このブログでレポートした、金刀比羅宮の宝物館で見た廃仏毀釈で仏像にかなり似ていた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html

明治の廃仏毀釈によって多くの寺院が破壊され、仏像も壊されたり、燃やされたり、捨てられたりしたことを過去何度かこのブログで書いてきたが、己高閣・世代閣にある仏像の多くは、明治の初期によく似たことがあったのだと思う。

鶏足寺鳥瞰図

近くに、応永14年(1407)頃の伽藍配置を想定して書かれた鳥瞰図があり、その下に鶏足寺の由緒について記載されていた。そこには、
「(鶏足寺は)室町期には僧坊百二十宇を容する大寺院となり、湖北仏教文化圏の中核として隆盛を極め、後期には小谷城主浅井家三代、次いで豊臣家の祈願所となり、石道寺・法華寺・飯福寺その他の名刹を別院としてその格調を誇っていた。
江戸時代には徳川幕府も京都所司代に命じて寺領を保護し寺の維持を図ったが、地理的悪条件から次第に衰退し、末期には無住となり権現堂とともに最後まで残っていた本堂も昭和八年冬不審火により焼失した。
御本尊は大正三年に與志漏神社境内に遷佛していたため無事であり、数奇な運命をたどられた観音菩薩を千二百年後の今も「己高閣」で拝することができるのは誠に幸いである。」 とあるが、明治初期の廃仏毀釈のことは何も書かれていないのは不自然だ。
そもそもなぜ、鶏足寺の本尊が與志漏神社境内に持ち込まれていたのだろうか。

IMG_3622.jpg

紅葉散策のために歩き出して鶏足寺(旧飯福寺)の参道に達すると、案内板には「明治時代に入り廃仏毀釈などによって寺院の規模は縮小されてしまいました。」とだけ書かれていたが、パンフレットや説明書になぜ廃仏毀釈のことを書かないのだろうか。何もなかったように自然消滅したような書き方では、地域の人々が苦労して文化財を護ってきたことが伝わらないだろう。

鶏足寺のある己高山(こだかみやま)には小浜のように1000年以上の歴史のある寺がいくつも存在していたのだが、明治初期の廃仏毀釈・神仏分離で、そのうちのいくつかの寺が破壊されるか、神社に変えられたか、後に廃寺となるか、無住の寺院となっており、最盛期には120近くあったという堂宇はこの時期にかなり失われてしまった。
以前、ここにどれだけの寺院があり、それらの寺がどうなったかについて、詳しく知るにはs.minagaさんの次のURLが参考になる。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/ato_kodakamiyama.htm

鶏足寺の参道の紅葉

この鶏足寺の参道あたりが特に紅葉の美しいところであるが、今年は紅葉が全国的に遅くて、ピークよりも1週間程度早く来てしまったようだ。

鶏足寺の紅葉

それでも、所々で鮮やかな紅葉を楽しむことができた。

この参道を進んでいくとお堂が建っていたが、あまりに安普請なのでシャッターを押す気にもならなかった。

飯福寺之景

ネットでいろいろ調べると、先ほど紹介したs.minagaさんのサイトに鶏足寺(旧飯福寺)の明治29年の絵が見つかった。こんな古いお寺が仏像とともに残っていたらもっと素晴らしいのにと思うのだが、ほとんどが廃墟となってしまっている。それでも紅葉だけでこれだけの観光客が集まることに、やや複雑な思いがした。

鶏足寺(旧飯福寺)から少し歩くと、石道寺(しゃくどうじ)というお寺がある。この寺の周辺も紅葉がきれいなところだ。

石道寺本堂

今の本堂は大正3年に、現在地より東1kmの山間僻地にあった旧石道寺の本堂を移築したものだが、旧石道寺は神亀三年(726)の開基で、のち行基菩薩が堂宇を建てたという古刹である。
この石道寺の本堂には平安中期の作とされるケヤキの一木造の本尊・十一面観音立像(国・重文)、鎌倉時代の作とされる木彫持国天立像(国・重文)、木彫多聞天立像(国・重文)が安置されている。
これだけの歴史があり文化財がある寺であるのに住職が不在で、集落全体が観音様のお世話を続けているのだそうだが、己高閣・世代閣とは違って暗い本堂の中で、手を合わせることできる空間が残されていることがありがたい。

石道寺本尊

この画像はネットで探した本尊の十一面観音立像だ。
ケヤキの木は堅いので、仏像を制作するのは大変な苦労があっただろう。ケヤキの一木彫りで複雑な十一面観音像を彫るというのは、余程深い思いがなければできない仕事だろう。
これらの仏像が地域の人々の信仰を集め、住職不在の寺となっても人々が観音様の世話を続けてきたのは、地域の人々がこの仏像の素晴らしさを理解し、親が大事にしてきたものを後世にも伝えていきたいという共通の思いからなのだろう。もし芸術的な価値が認められなかったら、人々がここまで長い年月を超えて護られるはずがないのだと思う。

文化財の護り方は、小浜のようにお寺の住職の生活ができるようにして古いものを、古いまま残せれば一番良い。そこで住職の生活ができなければ、石道寺のように地域の人々によって祈りの空間が残せればよい。しかし建物の維持すら困難になれば、祈りの空間は失われ、多くの仏像が博物館に並ぶか売却されていくしかない。

先人たちが苦労して制作し、長い年月にわたり地域の人々が苦労して残してくれた祈りの空間を、できる限り後世に残していくことは、今生きている世代の務めだと思うのだが、今の経済効率優先の政策では地方によっては地元に若い世代が残らず高齢化・過疎化が進むばかりで、いずれは地方の貴重な文化や伝統は担い手を失って、次代に承継することが難しくなっていくことを危惧している。そのような地域で若い人が生活できる仕組みを考えないと地域の文化・伝統が護れるとは思えない。
私ができることはこのような地方を訪れて、わずかばかりの拝観料を支払い、お賽銭を入れ、地域の野菜や魚やお土産を買い、地域のお店で食事をしたり宿泊することくらいなのだが、同じことを少しでも多くの人が行えば、地域の古き良き文化伝統を次代に残す道を拓くことができるのではないだろうか。
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唐崎神社から日吉大社、日吉東照宮を訪ねて

前回は慶応4年(明治元年1868)3月に神祇官から神仏分離令が出された直後に、神祇官の樹下重国らによって日吉大社の仏像仏具など数千点が破壊され焼却されたことを書いた。
この日吉大社には行ったことがなかったので、滋賀県大津坂本から比叡山延暦寺に向かう日帰り旅行を企画して先日行ってきたのだが、結構見るべきところがあったので、今回はそのレポートをしたい。
車などで行かれる方のために、私が訪れた場所の住所・電話番号などを付記しておく。

唐崎神社

最初に訪れたのは唐崎神社(大津市唐崎1-7-1、077-579-8961)である。この神社は日吉大社の摂社で、この場所が室町時代の終わりに選定された「近江八景」の1つになっているので立ち寄ることにした。

hirosige-karasaki.jpg

上の画像は歌川広重が描いた「近江八景・唐崎夜雨」で、ここに描かれている松は大正10年(1921)に枯れてしまった2代目の松だそうで、今ある3代目の松はやや小振りながら、それでもなかなか見事な枝ぶりである。
唐崎神社 松

松尾芭蕉がこの地を訪れて、「からさきの松は花よりおぼろにて」という句を残していて、松のちかくにその句碑があるが、立派な松の枝ぶりに隠れてしまっていた。

日吉大社鳥居

唐崎神社から日吉大社(大津市坂本5-1、077-578-0009)に向かう。
京阪坂本駅の近くに石の鳥居があるが、この鳥居からの参道を日吉馬場と呼ぶのだそうだ。
山川出版社の『滋賀県の歴史散歩』によると、
参道の両側にたくさんの石灯籠がならんでいるが、これは明治時代初期に廃仏毀釈がこの日吉大社から始まったとき、神社境内から仏教的なものを放り出した名残である。しばらくは乱雑におかれていたが、廃仏毀釈の嵐の静まりとともに、現在のように整然と並べられた」(p.15)とある。

日吉神社 参道

灯籠は仏教の伝来とともに伝わったとされているが、平安時代以降は神社でも用いられており、日吉大社の廃仏毀釈で灯籠までもが「仏教的な」ものとして放り出されたとは知らなかった。

日吉大社には受付が東と西の2箇所あり、どちらから入ってもよかったのだが東受付の近くに駐車して東本宮(ひがしほんぐう)から参拝することにした。日吉大社は、駐車場は無料だが、文化財の維持管理の為に入苑協賛料\300円が必要だ。境内はとても広くて平成18年に歴史的風土特別保存地区に指定されており、国宝に指定されている建物が2棟、国の重要文化財に指定されている建物が17棟も存在するので維持管理費はかなりかかるだろう。

日吉神社 東本宮 楼門

受付を済ませてすぐに見えるのが東本宮の楼門(国重文)である。
織田信長の比叡山焼き討ちで日吉大社も全焼してしまい、現在の建物で国宝や重要文化財に指定されている19棟の建物は、いずれも安土桃山時代以降に再建されたもののようだ。

東本宮全景

楼門を過ぎると、右に樹下神社拝殿、左に樹下神社本殿、中央に東本宮拝殿があっていずれも国の重要文化財に指定されている。

廃仏毀釈以前は樹下神社を十禅師、東本宮を二宮とよび、御祭神はそれぞれ大山咋神、鴨玉依姫神で、本殿に本地仏としてそれぞれ地蔵菩薩、薬師如来があったのだが、慶応4年(明治元年、1868)4月に樹下重国らが主導した廃仏毀釈で、重要な仏像・仏具は持出され徹底的に破壊されてしまった。
十禅師を「樹下神社」と、廃仏毀釈で破壊したリーダー本人の苗字を残しているのだが、日吉大社の由緒にも、大津市教育委員会が設置した案内板の説明にも、どこにも「廃仏毀釈」や「樹下重国」の記載がないのが気になるところで、おそらくこのよう歴史は参拝者に知らせたくないということだろう。

日吉神社 東本宮 本殿

東本宮拝殿の後方に、国宝の東本宮本殿がある。最近改修されたばかりのようで、朱塗りの欄干が色鮮やかで、檜皮葺の屋根も美しい。

東本宮の参拝を終えて西に進み、途中で奥宮である牛尾神社三宮神社(いずれも国重文)に向かう石段が見えた。いずれも崖上に建てられていて、琵琶湖の眺めも素晴らしいようなのだが、往復で1時間の急坂は厳しいので今回はカットして、山王鳥居を目指して歩く。

途中に神輿収蔵庫があるが、そこには桃山時代から江戸時代にかけて作られた7基の神輿(いずれも国重文)があり、中に入れば古い神輿を見ることが出来たようだ。日吉大社のお祭りである山王祭は大津祭、長浜曳山祭と並ぶ湖国三大祭の一つで、1300年の歴史があるののだそうだが、ここに収納されている神輿は以前は使われていたが、今では別の神輿が用いられているという。

日吉神社 鳥居

左に折れて山王鳥居に向かう。
山王鳥居は普通の鳥居の上に三角形の屋根が乗ったような独特な形をしている。この鳥居辺りは紅葉が特に美しく、秋の紅葉シーズンにはライトアップもされるようだ。

日吉神社 西本宮 楼門

上の画像は西本宮の楼門(国重文)。ここをくぐると拝殿(国重文)があり、拝殿の奥には、豊臣秀吉が天正14年(1586)に寄進したと伝えられている西本宮本殿(国宝)がある。

日吉神社 西本宮 本殿

西本宮は天智天皇が大津宮を造営する時に大和の三輪明神(現在の大神[おおみわ]神社:奈良県桜井市)を勧請したと伝えられ、ご祭神は大己貴命(おおなむちのみこと:大国主命)だというが、廃仏毀釈の前にはここに本地仏として釈迦如来が安置されていたのだそうだ。

西本宮の東には豊前の宇佐八幡宮から勧請された宇佐宮本殿及び拝殿(国重文)があり、さらに東には加賀の白山比咩(ひめ)神社から勧請された白山姫神社本殿及び拝殿(国重文)と続く。廃仏毀釈前には本地仏として宇佐宮には阿弥陀如来が、白山姫神社には十一面観音が安置されていたという。

日吉神社 大宮橋

再び山王鳥居をくぐって大宮橋(国重文)という石橋を渡る。そのすぐ近くには、欄干のない走井橋(国重文)がある。上の画像は走井橋から大宮橋を写したものである。このように、残されている建物から神輿まで、多くが国宝や重要文化財に指定されている。
これだけ多数の国宝や重要文化財があれば、もっと観光客が来てもおかしくないと思うのだが、日曜日でこの程度なら文化財の維持管理や境内の清掃などが大変ではないかと心配になってくる。もし、廃仏毀釈で破壊焼却されたいう数千点の仏像・仏具などが残されていたとしたら、国宝級のものが相当あったはずで、この場所が比叡山延暦寺以上に観光客で賑わう場所になっていてもおかしくないのではないかと思う。少なくとも建物については、滋賀県で日吉大社以上に国宝や国の重要文化財の多い寺社は存在しないのだから。

西受付を出て右に折れて、次の目的地である日吉東照宮(大津市坂本4-2-12)に向かう。

日吉東照宮はもともとは延暦寺が管理していたのだが、明治9年(1876)からは日吉大社の末社となって現在に至っている。
建物は国の重要文化財に指定されているのだが、観光客が少ないために、一般に公開されているのは日曜日と祝日の10時から16時だけのようだ。
ここには日吉大社からは歩いて10分ぐらいで辿りつけるが、車で行く場合は「坂本ケーブル乗り場横の橋を渡りすぐ左手にある駐車場」を用いると、正面階段下の観光駐車場から続く長い階段の大半をカットすることが出来る。

日吉東照宮は元和9年(1623)徳川三大将軍家光公の時に、天台宗の大僧正・天海上人によって造営されたのだが、寛永11年(1634)に権現造の様式で改築されている。
ちなみに日光東照宮も元和4年(1618)に社殿が完成した後、寛永13年(1636)に寛永の大造替がはじめられており、その際に、日吉東照宮が日光東照宮の雛形になったと伝えられているようだ。
「東照宮」は東照大権現である徳川家康を祀る神社で、江戸時代には「東照宮」と名の付く建物が500以上建てられたそうだが、現存するのは130社程度なのだそうだ。

日吉東照宮唐門

上記画像が正面の唐門(国重文)で、周囲を囲む透塀(すかしべい)も国の重要文化財だ。

日吉東照宮 彩色2

正面の拝殿(国重文)の彫刻を写してみたものだが、虎が彫られ彩色されていた。徳川家康は寅年生まれなので、どこの地方の東照宮にも虎の彫刻が多いのだという。

日吉東照宮 内部

拝殿から本殿(国重文)の間に石の間(国重文)があり、石の間が本殿・拝殿よりも数段低くなっている。これは祭典奉仕者が将軍に背を向けて奉仕しても非礼にならない様に配慮されていると説明があった。御祭神は三柱で、中央が徳川家康、向かって右が日吉大神、左が豊臣秀吉なのだそうだ。

日吉東照宮 石の間と本殿

内部からは本殿の奥行きがよく分からないので外に出てみると、本殿は想像した以上に大きな建物であった。上の画像は建物を南側の側面から写したものだが、戸が開放されているのが石の間でその奥が本殿である。

建物の外側は雨風に曝されて彩色が一部色落ちしているが、内部の彩色は綺麗に残されている。
規模は日光東照宮とは比べものにならない建物だが、桃山文化を彷彿とさせる歴史的空間で、鳥の囀りを聴きながら説明員の方の話を受け、建物をじっくりと観賞できるという贅沢な時間を過ごすことができた。

日吉東照宮から二上山

唐門を出ると琵琶湖が良く見えた。木々の間から見える山は、近江富士として知られる三上山(みかみやま)である。
日吉東照宮は文化財だけでなく景色も素晴らしいのに、どうしてもっと観光客が来ないのかと不思議に思う場所である。(つづく)
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いています。
良かったら覗いてみてください。

東大寺二月堂に向け毎年「お水送り」神事を行う若狭神宮寺を訪ねて~~若狭カニ旅行1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-217.html

国宝の明通寺本堂・三重塔から紅葉名所・萬徳寺などの古刹を訪ねて~~若狭カニ旅行2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-218.html

三方五湖観光後昼食は「淡水」の鰻。続けて紅葉名所・鶏足寺を訪ねて~若狭カニ旅行3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-219.html

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html




慈眼堂、滋賀院門跡から明智光秀の墓のある西教寺を訪ねて考えたこと

日吉東照宮からケーブルの坂本駅方面に抜けて右折し、坂を下って県道47号線を超えると、すぐ近くに滋賀院門跡につながる小道がある。しばらくこの小道を歩くと、木々に囲まれて、スギ苔と石畳の美しい空間に辿りつく。

慈眼堂

石灯籠が導く先には、天台宗の僧で徳川家康の政治顧問であった南光坊天海の坐像のある廟所で、三代将軍徳川家光が作らせたという延暦寺慈眼堂(滋賀県文化財:大津市坂本4-6)という建物がある。

慈眼堂の向かって左には、近世以降の天台座主らの廟所になっていて多くの石造五輪塔や宝篋印塔がある。あまり詳しく見なかったのだが、桓武天皇、後陽成天王、後水尾天皇や、徳川家康、新田義貞、紫式部、和泉式部などの供養塔もここにあるそうだ。

滋賀院門跡

慈眼堂から右に進むと下り坂が続いてすぐに滋賀院門跡(077-578-0130、大津市坂本4-1772)が見えてくる。

案内板には寺の由来をこう解説している。
「元和元年(1615) 慈眼大師天海(1536~1642)が、後陽成上皇より法勝寺(京都北白川に在り六勝寺の一つで歴代天皇ご授戒の寺として四箇戒場の一つでもあった)を下賜されこの地に移築されたもので、明暦元年(1655)後水尾天皇より滋賀院の号と寺領一千石を賜り江戸時代の末までは天台座主であった法親王が代々住まっておられた寺である。
 外観は堂々たる穴太衆積みの石垣に白壁がつづいており滋賀院御殿といわれる名に恥じない威容を見せている。
 御殿については明治11年(1878)11月の火災のためすべて灰となったが、現在の建物は山上より三塔それぞれ最高の建築を移築し、明治13年5月に復旧したものである。」

滋賀院石垣

慈眼堂から滋賀院門跡に入ると、どこに立派な石垣があるのかよく分からないのだが、境内をそのまままっすぐ進むと右に門があり、そこから塀の外に出ると、立派な石垣を見ることが出来る。

比叡山のお堂の基礎の石組を担当した石工の集団が穴太(あのう)村の者であったことから「穴太積み」と名付けられたのだが、その特徴は、自然石の組合せのみで積み上げ、小石を詰め石として用いる技法にある。
戦国時代以降、築城時の石垣づくりなどで穴太衆が重用されたというが、今では坂本で1軒のみがその技術を承継しているだけだという。
コンクリートなどの擁壁は排水に問題があり、水圧のために亀裂が入ったり、次第に形が変わることが多いのだが、石垣は石の隙間から余分な水分を逃すので形が崩れにくい。この石垣は造られて400年近くなるのだが、今も均整のとれた美しさを保持している。

拝観を申し込んで中に入ると、狩野派や渡辺了慶の襖絵などがあったが、内部は撮影が禁止されていたので画像で紹介できないのは残念だ。
滋賀院門跡 庭園

宸殿の西側に、小堀遠州が3代将軍家光公の命により作庭した南北に細長い庭園があり、国の名勝に指定されていて写真撮影も可能なのだが、どうせ写真を撮るなら紅葉か新緑の季節に訪れたいところである。

鶴喜そば

11時を過ぎたので、早目の昼食をとることにした。
昼食は、享保元年創業の老舗・「鶴喜そば」(滋賀県大津市坂本4-11-4、077-578-0002)に決めていた。大正時代に建てられたレトロな建物で平成9年には国の登録文化財にも指定されていて、そんな場所で食事をしてみたかったからである。
おろし蕎麦の大盛りをオーダーしたが、すぐに食べ始めてしまってメニューの写真を撮るのをうっかりして忘れてしまった。
蕎麦はコシがしっかりしていて喉越しが良く、食後に頼んだそばアイスも旨かった。

西教寺総門

食事を終えて次の目的地である西教寺(さいきょうじ:大津市坂本5-13、077-578-0013)に向かう。
上の画像は西教寺の総門だが、坂本城のものを移築したものだと言われている。

西教寺の歴史はかなり古く、この寺の案内板の記述によると、
「…聖徳太子が仏法の師である慧慈・慧聰のために開創された寺で、推古天皇の26年(618)に大窪山の号をたまわり、天智天皇の8年(669)に西教寺の号を下賜されたと伝えられている。
 寺記には天台座主慈恵大師良源大僧正・恵心僧都が念仏道場とした。その後、比叡山で修行された真盛上人が文明18年(1486)入寺し、不断念仏の根本道場として、西教寺を再興された。
 明治11年(1878)明治政府によって別派独立が公許、『天台宗真盛派』の本山となった。
 昭和16年(1941)に天台宗三派合同となったが、終戦とともに、昭和21年(1946)に天台宗三派、延暦寺(山門)、三井寺(寺門)、西教寺(盛門)が分離、天台宗真盛派を『天台真盛宗』と公称して独立、今日に至っている。」とある。

Wikipediaによると、西教寺は天台真盛宗の総本山で末寺は全国に400以上あるのだそうだ。天台系の三つの宗派の違いについては、延暦寺(山門)、三井寺(寺門)は密教色が強いのに対し、西教寺は阿弥陀如来を本尊とし、念仏(阿弥陀如来の名を称えること)を重視するなど、浄土教的色彩が濃いのだそうだ。この違いは、この西教寺の中興の祖と言われる真盛上人(1443~1495)の「戒律」と「念仏」の両方を重視する思想の影響が大きいのだという。

西教寺石垣

本堂に向かう階段を歩くと、お城のような立派な石垣を見ることが出来る。もちろんこの石垣も穴太積みである。

西教寺本堂

これが西教寺の本堂。享保16年(1731)に改築されたもので、国の重要文化財に指定されている。本尊は平安時代に制作された木造阿弥陀如来坐像(国重文)で、後陣には平安時代の木造聖観音立像(国重文)があるのだそうだが、延暦寺に向かう予定なので拝観することは諦めた。拝観すれば客殿(国重文)の仏間にある木造薬師如来坐像(国重文)や、庭の石灯籠(国重文)など、この寺も重要文化財が目白押しだ。

今回西教寺を訪れた目的の一つは、この寺にある明智光秀とその一族の墓をこの寺の案内板にどう書かれているかを確認することであった。

明智光秀の墓

案内文の前半には、元亀2年(1571)に織田信長が比叡山を中心に近江国の寺院を焼き討ちした際にこの寺も焼かれてしまったのだが、その後明智光秀が坂本城を築き、坂本城主として坂本の復興に尽力し、この西教寺の大本坊(庫裏)を増築し、仮本堂を完成させて現在の本尊を迎えたことが記されている。
しかし問題は、明智一族の墓に関しての記述にある。案内板にはこう書かれていた。

「(光秀が庫裏を増設し仮本堂を完成させて)以来、(西教寺)と光秀との由縁はふかく、元亀4年(1573)2月、光秀が堅田城に拠った本願寺光佐を討った時、戦死者18名の菩提のため、武者、中間のへだてなく供養米を寄進したと言われている。また早逝した内室(凞子[ひろこ])の供養もされ、墓が安置されている。
 天正10年(1582)本能寺の変のあと、山崎の合戦に敗れて非業の最期をとげた時、光秀一族とともに当寺に葬られたと言われている。のちに坂本城の城門の一つも当寺に移されたと伝えられている。…」
内室の墓は本物であるようなのだが、光秀の墓については本物であるとは断言していない点に注目したい

明智光秀

Wikipediaによると光秀は山崎の合戦に敗れて、坂本城を目指して落ち延びる途中の天正10年(1582)6月13日の深夜に京都山科の小栗栖(おぐるす)という地で農民・中村長兵衛に竹槍で刺されて深手を負い、家臣溝尾茂朝に介錯させて自害したとされているのだが、光秀の周りには10名以上の家臣がいたはずだ。なぜ農民が竹槍のような武器で家臣らに気付かれずに光秀を襲うことが出来たのか。鎧を着用したはずの光秀がなぜ農民の竹槍で致命傷を負ったのか。
また、この農民が暗闇の中で刺した相手をなぜ光秀だと認知できたのか。
主君の首を渡さないのが家臣の務めであるのに、なぜ光秀の首が農民の手に渡ったのか。普通なら、主君を襲おうとした輩はその場で家臣によって切り捨てられるのが普通ではないか…。
通説で語られる光秀の死については、どう考えても不自然すぎるのだ。
そもそも秀吉が首を検分したのは6月16日で、旧暦だから真夏の暑い時期である。腐敗が進んで顔が判別できる状態ではなかったのではないか。
農民が拾った首を、光秀の首だとして差し出したか、秀吉が光秀の首だということにしたのかはわからないが、いずれにしても、光秀は山崎の戦で敗れた段階で政治的には死んだも同然であり、秀吉にとっては、首実検はどうでもよかったということもあり得る話なのである。

Wikipediaにはこう書かれている。
「光秀の墓がある西教寺の記録によると、光秀のものとして首実検に出された首級は3体あったが、そのいずれも顔面の皮がすべて剥がされていたという。光秀のものとして実検された首級が暑さで著しく腐敗していたことは他の多くの史料にも記されている。実検の後、光秀の首級は京都の粟田口にさらされたという。」
西教寺は光秀本人の首である事を確認してこの墓に葬った訳ではないので、墓の前の案内文が光秀の墓であると断言できないのだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80

3フロイス日本史

ところで、本能寺の変の時に、近くにある南蛮寺にいたイエズス会のルイス・フロイスは通説とは異なることを書いている。光秀の首は刀で農民に刎ねられて本能寺に運ばれたというのだ。
「…信長が殺された場所へは、初回分としてだけで一千以上の首級がもたらされた。すなわち、すべての首級を同所(本能寺)に持参するようにという命令が出されていたからで、それらを供えて信長の葬儀を営むとの指令でなされたのである。日盛りとなると、堪えがたい悪臭が立ち込め、そこから風が吹き寄せる際には、我らの修道院では窓を開けたままではいられぬほどであった。…
 哀れな明智は、隠れ歩きながら、農民たちに多くの金の棒を与えるから自分を坂本城に連行するようにと頼んだということである。だが彼らはそれを受納し、刀剣も取り上げてしまいたい欲にかられ、彼を刺殺し首を刎ねたが、それを三七殿*に差し出す勇気がなかったので、別の男がそれを彼に提出した。そして次の木曜日に、信長の名誉のため、明智の身体と首を、彼が信長を殺し、他の首が置かれている場所に運んだ。」(中公文庫『完訳フロイス日本史3』p.174-175)
*三七殿:織田信長の三男である織田信孝。

フロイスは明智の首を見た訳ではなく、人から聞いた話を書いているだけだ。真実を書いていると思われるのは、信長の死のあとで本能寺に大量の首が集められていたという部分だけだと思う。

明智光秀の最後についてネットでいろいろ探っていくと、奈良大学の河内将芳教授のブログの記事が見つかった。河内教授は次のURLで、当時の人々が記した日記や書状に光秀の死がどう記されているかを調べておられる。これらを読むとどこにも「竹槍」の話がどこにも出てこないのである。
http://ameblo.jp/kawauchi1/entry-11902065396.html
特に秀吉の書状(『浅野家文書』)には「山科之藪之中へ北入、百姓ニ首をひろはれ申候」とあるそうなのだが、殺されて首を刎ねられたのと、首を拾われたのとでは全く話が違うし、拾われた首が光秀のものであることはますますあり得ないことだと思う。主君の首を家臣がそのまま放置することなどは、どう考えてもありえないことではないか。

明智憲三郎氏のブログによると、秀吉が本能寺の変のあった天正10年(1582)に大村由己(おおむらゆうこ:秀吉の御伽衆として仕えた)書かせた『惟任退治記(これとうたいじき)』の記述には「諸国より討ち捕り来る首、ことごとく点検のところに、其の中に惟任(光秀)が首あり」となっているが、それから40年後に小瀬甫庵(おぜ・ほあん)が記した『太閤記』にはじめて「光秀が小栗栖の竹薮で土民に殺された」と書かれている。そして、現在通説となっている「竹槍で刺された」ことを始めて書いた書物が、元国学院大学の教授・高柳光寿氏が著した『明智光秀』(吉川弘文館1958)なのだそうだ。
http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/7de110e16fc3c3477cd00e1f15460996

もともと史料の少ない時代を、勝者が編纂した正史や勝者が意図的に広めた軍記物などの記述に根拠を求め、さらに、戦国史の泰斗とまで呼ばれた人物が創作まで加えた歴史記述がいつのまにか定着し、それが日本人の常識になってしまっている。
このような事例は他にも多数あってこのブログでいくつか紹介してきたのだが、勝者にとって都合の良いように書かれた史料に頼って編まれた歴史書などに頼っていては、正しい事実認識が出来るとは思えないのだ。

百姓に拾われた首が光秀のものではないことは、おそらく秀吉自身も本当は分かっていただろう。とすれば光秀は生きていたのではないか考える人もいる。
今回の記事の最初に、家康の政治顧問であった南光坊天海の廟所である慈眼堂を紹介したが、この天海こそが明智光秀ではないかという説が存在する。
次回にその説について、もう少し考えてみることにしたい。
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世界遺産の比叡山延暦寺の諸堂を巡って

滋賀県大津市坂本の観光の途中で明智家の菩提寺である西教寺(さいきょうじ)に立ち寄り、光秀の墓の案内文に違和感を覚えたので、しばらく脱線して「明智光秀=天海説」について思うところを書いてきたが、再び滋賀の旅のレポートを続けることにしよう。

西教寺をあとにして、湖西道路を北に進み、雄琴IC口を左折し、仰木郵便局前から奥比叡ドライブウェイに入る。ちょっと割高な有料道路だが、よく整備されていて走りやすく、秋の紅葉時期は結構楽しめそうだ。

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大津市坂本から車で比叡山に登るのは北の仰木ゲートから奥比叡ドライブウェイに入るか、南の田の谷ゲートから比叡山ドライブウェイに入るかのいずれかだが、延暦寺の諸堂を訪れるのならば、両方の有料道路を使って縦走する方が割安になる。
奥比叡ドライブウェイや比叡山ドライブウェイを走る際に忘れないでほしいのが割引クーポン券。ネットで簡単に手に入るので、延暦寺に自家用車で行かれる方は、事前にプリントアウトされることをお勧めしたい。
http://www.hieizan.co.jp/access/coupon.html

奥比叡ドライブウェイは初めて走ったのだが、途中で琵琶湖が望める見晴らしの良い場所がいくつもある。
路肩に車を停めて琵琶湖の景色をカメラに収めたが、中央に見える橋が琵琶湖大橋で、湖に浮かぶ島は「沖島」と名付けられている琵琶湖最大の島だ。

琵琶湖大橋を臨む

昔は、この島に余り人が住んでいなかったようだが、保元・平治の乱(1156~1159)のあとに源氏の落ち武者7人が山裾を切り開き漁業を生業として住み着いて以降、本格的に人が住むようになったという。
昭和の時代は漁業と石材業で栄えて人口が800人近かったそうだが、急激に過疎化が進んで現在の人口は350人程度だという。
それでも淡水湖にある島でこれだけ人口のある事例は珍しいのだそうだ。住民のほとんどが漁業に従事していて、車の代わりに一家に一艘の船があって島には信号が一つもないという。
http://matome.naver.jp/odai/2139738895869575501

琵琶湖の景色を楽しんだのち、ドライブを再開して比叡山延暦寺に向かったのだが、ここで簡単に比叡山延暦寺の歴史を振り返っておこう。

最澄

比叡山を本格的に開いたのは伝教大師最澄(さいちょう)で、奈良東大寺戒壇院で受戒したのち比叡山に入り、延暦7年(788)に薬師如来を本尊とする一乗止観院(いちじょうしかんいん)を創建したと伝えられている。
その後最澄は唐へ渡り、帰国したのち天台宗を開き、一乗止観院を根本中堂(こんぽんちゅうどう)と名を改め、弘仁14年(823)に「延暦寺」と称することの勅許を得て、この寺は鎮護国家の祈禱道場となり、京都御所の鬼門を守る寺として不動の地位を占めることになる。

昔は比叡山も神仏混淆であり、神と仏は同一であった。
延暦寺は自らの意に沿わないことがあると、僧兵たちが神輿を奉じて強訴するという手段で勢力を拡大し、Wikipediaによると「祇園社(現在の八坂神社)は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の抗争により延暦寺がその末寺とした。同時期、北野社も延暦寺の配下に入っていた。1070年には祇園社は鴨川の西岸の広大の地域を『境内』として認められ、朝廷権力からの『不入権』を承認された」とあるが、京都から滋賀のかなり広い地域が延暦寺の影響下にあり、ほとんど独立国のような状態が長く続いたようである。

延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺と並び称せられて南都北嶺と恐れられ、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」という言葉を残している。「山法師」とはもちろん比叡山の僧兵のことである。

しかしながら有能な僧を輩出したことも記しておく必要がある。鎌倉仏教の宗祖の多くがこの延暦寺で修業している。浄土宗法然、浄土真宗親鸞、日蓮宗日蓮、曹洞宗道元、臨済宗栄西らはすべて、延暦寺で学んだのである。さらに六歌仙の一人、僧遍照や、『徒然草』を著した吉田兼好も延暦寺で修業をした人物である。

この延暦寺を初めて制圧しようとした権力者は室町幕府六代将軍の足利義教で、永享7年(1435)に謀略により有力僧を斬首し、絶望した僧侶たちは根本中堂に火を放ち、多くの堂宇や仏像が焼失したそうだ。(根本中堂は宝徳2年[1450]に再建)
しかし延暦寺は再び武装して、勢力を回復したため、明応8年(1499)に管領・細川政元が延暦寺を攻め、再び根本中堂を焼失させたという。

織田信長

また織田信長は、延暦寺が全国統一の障害になると考え、元亀2年(1571)に比叡山の焼き討ちを実行している。
『信長公記』にはこう記されているのだが、ここまでやったのかと驚いてしまった。
「九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ、山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、取物も取敢へず、悉くかちはだしにして八王子山に逃上り、社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童其員を知れず召捕り」とすさまじい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E5%8F%A1%E5%B1%B1%E7%84%BC%E3%81%8D%E8%A8%8E%E3%81%A1_(1571%E5%B9%B4)

山王21社というのは、今回の滋賀の旅行の最初の記事で記した大津市坂本にある日吉神社のことで、八王子山というのは、日吉神社の奥宮のことである。
信長は延暦寺だけを焼き討ちしたのではなく、麓の坂本から火を放ち、僧侶だけでなく女子供も多数殺したのである。そして信長はこの焼き討ちの後、明智光秀に志賀郡を与え、光秀は日吉神社に近い坂本に居城を構えたのである。

その後、豊臣秀吉や徳川家康によって延暦寺の諸坊は再建され、荒廃した坂本も家康が南光坊天海に命じて再興させたのだが、家康の死後に江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されてからは、延暦寺の権威を復活することはできなかったようだ。 

奥比叡ドライブウェイを走って、まず最初に向かったのは7km程度先の「横川」である。

比叡山延暦寺には全部で133もの堂宇があるそうだが、延暦寺は横川中堂を中心とする「横川」と、転法輪堂などがある「西塔」と、根本中堂を中心とする「東塔」の3つの地域に大きく分けられる。
「延暦寺」は平成6年(1994)に、ユネスコの世界文化遺産に登録されているのだが、「延暦寺」という名称の個別の寺院が存在するわけではなく、この3つの地域を総合して「延暦寺」と呼ぶのだそうだ。

奥比叡ドライブウェイを途中で左折して、延暦寺の横川(よかわ)駐車場に到着する。
横川は、最澄の教えに従って第3代天台座主の円仁(慈覚大師:794~864)が開いたと伝えられている地域である。

横川中堂

上の画像は横川中堂で、嘉祥元年(848)に聖観音像と毘沙門天像を安置して円仁が建てたと伝えられているが、信長の焼き討ちで焼失してしまい、慶長9年(1604)に豊臣秀頼によって再建されるも、昭和17年(1942)に落雷により再び焼失し、現在の建物は昭和46年(1971)に鉄筋コンクリートで再建されたものである。
ところが、これだけ多くの難に遭ったにもかかわらず、平安時代に制作された本尊の聖観音立像が残されていて国の重要文化財に指定されている。

元三大師堂

横川中堂から鐘楼に向かい、左に折れると元三大師堂(がんざんだいしどう)がある。
元三大師というのは第18代の天台座主を務め、比叡山延暦寺の中興の祖と言われる良源(慈恵大師:912~985)の尊称である。命日が1月3日であることから元三大師と呼ばれるようになったという。

おみくじ発祥の地

元三大師堂の近くにこんな石碑が2つ建っていた。
ひとつは「元三大師と角大師の由来」と書かれた石碑で、上部に「角(つの)大師」の絵が描かれている。

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この絵は、永観2年(984)に全国で疫病が流行したときに、良源がこのような鬼の姿に化けて疫病神を追い払ったという言い伝えがあり、この絵を描いたお札が魔除けになるとして京都や坂本に拡がったという。今ではこのようなお札を見ることがほとんど無くなってしまったが、子供のころに、実家や友人の家の神棚に「角大師」の絵が描かれたお札があったのを良く見た記憶がある。

lot1720.jpg

もうひとつは「おみくじ発祥の地」と書かれた石碑。多くの神社仏閣でみられる現在のおみくじの原型は良源が創始したと伝えられているようだ。

横川の駐車場から西塔に進む。

延暦寺 常行堂

駐車場から歩いてすぐに常行堂(じょうぎょうどう:国重文:上画像)と法華堂(国重文)が左右に並んでいる。この2つのお堂は文禄4年(1595)の建築で、間に渡り廊下が配されていて、弁慶がこの廊下に肩を入れて担ったとの言い伝えから、「にない堂」とも呼ばれているのだそうだ。いずれも内部が一般公開されていないのが残念だが、訪れた日は中で修業が行なわれていたようである。

延暦寺 西塔釈迦堂

にない堂の渡り廊下を門のようにしてくぐってしばらく進み、石段を降りると転法輪堂(釈迦堂:国重文)がある。この大きな建物は、織田信長による焼き討ちのあと、文禄4年(1595)に秀吉の命により、園城寺の弥勒堂(貞和3年[1347]頃築)を移築したもので、比叡山では最古の建物だそうだ。本尊は木造釈迦如来立像(国重文)である。

西塔から東塔に進む。
駐車場の近くにある国宝殿がある。
延暦寺は何度か火災に遭っているため、古い仏像はあまり残されていないのではないかと思っていたが、鎌倉時代や平安時代の仏像が結構残されていた。

延暦寺 戒壇院

上の画像は戒壇院(国重文)で、戒壇とは仏門に入る者に戒法を授けることを言う。立派な建物だが中には入れなかった。
戒壇堂の西には昭和52年に再建された法華総持院の諸堂がある。

東に進むと、いよいよ東塔の中心地区になる。

大講堂IMG_7042

上の画像は大講堂(国重文)で、結構大きな建物である。
案内板には「昭和31年の旧堂の焼失後、山麓坂本にあったものを移築した」と書かれているのだが、こんな立派な建物を坂本のどこから移築したのか気になって調べたところ、午前中に訪れた日吉東照宮にあった本地堂を移築したようだ。
日吉東照宮は創建時は延暦寺の末寺であったが、明治の廃仏毀釈のあと、明治9年に日吉大社の末社となったそうだが、神社には「本地堂」は不要なので手放したという事なのだろう。日吉東照宮が「西の日光」と呼ばれているにしては随分狭くて違和感を覚えたのだが、その理由がよくわかった。

延暦寺根本中堂

大講堂から少し東に行くと、国宝の根本中堂がある。この建物は全国で3番目に大きい木造建築で、三方を廻廊で囲まれている。
内部は、人々が座る外陣が高く、天皇の御座所となる中陣が一段低くなっていて、中央の本尊の木造薬師如来立像と同じ高さになっているという。
内陣は格子戸があって見えにくいが、大きな厨子があって、その前に1200年以上ともし続けられているという「不滅の法灯」がある。

この「不滅の法灯」については、元亀2年(1571)の信長の焼き討ちにより失われているはずだと誰でも考えるところだが、天文12年(1543)に山形県の立石寺という寺にこの「法灯」を分灯した記録が残されていて、この灯名が再建された根本中堂に運ばれたのが天正17年(1589)なのだそうだ。
http://www.kagemarukun.fromc.jp/page011.html

しかし、いろいろ調べていくと『太平記』巻五に『中堂新常灯消ゆる事』という記事が書かれている。簡単に記すと根本中堂の内陣に鳩1つがいが飛んできて、新常灯の油つぎの中に飛び入り、暴れたので燈明が消えてしまった事が書かれている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/877613/102
このことは重要文化財である『花園天皇宸翰御消息』にも書かれているので史実であることは間違いなさそうだ。
http://www.emuseum.jp/detail/101087/000/000?mode=simple&d_lang=ja&s_lang=ja&word=%E5%B0%8A%E5%86%86&class=&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=1&num=6

同様のことは1200年以上の歴史の中で、何度かあったのかもしれないが、灯明はおそらく比叡山の中や各地の天台宗の寺院に分灯されていたので、灯りをつなぐことが出来たのだと思う。たとえ何度か灯りが消えたことがあったとしても、その灯りを千年以上にわたって守ろうとしてきたことが尊いのである。

そのことは、わが国の伝統や文化を世代から世代に繋いできたことと良く似ている。
各時代の人々がかけがえのない価値を感じたものを、次の世代に残そうとすることによって、わが国の文化や伝統が洗練されながら、継承されてきたのであるが、これからも是非そうあってほしいものだと思う。

延暦寺の根本中堂でそんなことを考えながら、滋賀の旅を終えることにした。
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石山寺の桜と、湖東三山の百済寺、金剛輪寺を訪ねて

毎年桜の咲くころになると、桜の名所やその近辺の社寺を訪ねるブログの記事を書いてきた。今までは旅行記事の直前に連載記事を終えるように調整ができていたのだが、先月来書き始めた鎖国のテーマが意外と長くなりそうなので、しばらくは重たいテーマから離れて、滋賀県の湖東の桜を訪ねる小旅行のレポートをさせていただくことにする。車で行かれる方のために、今回もカーナビで登録できるよう、私が訪れた場所の住所と電話番号を付記しておく。

石山寺 仁王門

自宅を早めに出発して、最初に訪れたのが滋賀県大津市にある西国巡礼第13番札所の石山寺(滋賀県大津市石山寺1-1-1:077-537-0013)。
寺伝では、天平19年(747)に聖武天皇の命により良弁僧正が開創したという古いお寺だ。
滋賀県の桜の名所としては結構有名なので、開門時間の朝の8時を目指して向かったのだが、少し早めに駐車場に到着した。駐車場から歩いてすぐに、東大門(国重文)がある。

石山寺の参道の桜

開門となり東大門をくぐるとしばらく参道が続き、参道に沿って多くの桜の木が植えられている。桜並木を過ぎると右手に、やや急な石段が続き、それを登りきると、石山寺の名前の由来でもある硅灰石(けいかいせき:国指定天然記念物)の奇岩・怪石があり、その石の向こうに国宝の多宝塔が見える。

石山寺 硅灰石

左には蓮如堂(国重文)があり、近くの桜がちょうど満開であった。この建物は仏事だけでなく神事にも用いられてきたのだそうだ。

石山寺 蓮如堂

更に進むと、滋賀県最古の木造建築物で国宝の本殿がある。天平時代建てられた本殿は承暦2年(1078)に焼失し、今の本堂は永長元年(1096)に再建されたものだそうだ。

石山寺 紫式部

本堂の一角に3畳ばかりの薄暗い「源氏の間」があり、紫式部が『源氏物語』の構想を練り筆を起こした場所と伝えられている。石山寺のHPによると『石山寺縁起絵巻』には、「右少弁藤原為時の娘、上東門院の女房であった紫式部は一条天皇の叔母の選子内親王のためにと、女院から物語の創作を下命され成就を祈願するため当寺に七日間参籠した。心澄みわたり、にわかに物語の構想がまとまり、書き始めた」ことが記されているのだそうだ。

石山寺 多宝塔

本堂の横から石段を登ったところに、さきほど奇岩の向こうに向うに見えた多宝塔(国宝)が目前にある。この多宝塔は建久5年(1194)に、源頼朝の寄進により再建されたもので、屋根の曲線美の優美な姿が印象に残った。

石山寺鐘楼

多宝塔から石段を下ったところにある鐘楼(国重文)も源頼朝の寄進とされ、均整のとれた美しい建物である。

石山寺の境内は広く、月見亭、宝物殿や3つの梅園や回遊式庭園の無憂(むゆう)園など見所は結構あるのだが、宝物殿の開館は10時なので入ることを諦めた。

石山 貝塚標本

石山寺の駐車場の周辺で、昭和15年(1940)に縄文時代早期(約6~7千年前)の淡水貝塚が発見され、石山貝塚と命名されている。かつては貝層がむき出しになっていたのだそうだが今はコンクリートで覆われてしまって、近くの石山観光会館内に剥ぎとった貝塚の一部が展示されているだけのようだ。

次に向かったのは東近江市にある百済寺(ひゃくさいじ: 滋賀県東近江市百済寺町323:0749-46-1036)。石山寺から44kmで、名神高速を用いて30分程度で到着する。

この百済寺は、愛知郡愛荘町の金剛輪寺、犬上郡甲良町の西明寺の3つの寺とともに「湖東三山」と称される天台宗の寺院だが、いずれも応仁の乱や織田信長の焼き討ちによって衰退し、江戸時代以降復興した寺と言われている。3つの寺ともかなり広い境内を持ち、特に紅葉が有名で、秋には多くの観光客で賑わうのだが、桜もまた多いと聞いていたので、今回の旅程に入れていた。

百済寺 桜

境内には確かに桜の木が数多くあり、満開時にはこの門前の桜が素晴らしいはずなのだが、まだつぼみが開いていなかったのは残念だった。

寺伝によるとこの寺は、聖徳太子の発願により、高句麗の僧・恵慈(えじ)を導師に百済僧・道欣が推古天皇法興元年(590)に創建したと伝えられており、近江最古の寺の一つと考えられているようだ。この一帯には古代より、渡来人が多く定住していた地域であり、寺号からしてもこの寺が渡来人と関わりがあった可能性が高そうだ。

平安時代には僧坊が300あったという大寺院だったが、何度か火災に会い、特に天正元年(1573)には織田信長の焼き討ちに遭ったと記録されている。

近代デジタルライブラリーで『信長公記』巻六が公開されており、百済寺の焼き討ちに関する記録を誰でも読むことができるので紹介しよう。
「近年鯰江之城百済寺より持続一揆同意たるの由被及聞食 四月十一日 百済寺堂塔伽藍坊舎仏閣悉灰燼となる哀成様不被当目」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/103

少し補足すると、織田信長の侵攻を受けて観音寺城から逃れた六角義賢(ろっかくよしかた)らを鯰江(なまずえ)城の城主・鯰江貞景(なまずえさだかげ)が迎え入れたため、信長は百済寺に陣を構え、佐久間信盛、柴田勝家、蒲生賢秀(がもうかたひで)、丹羽長秀により鯰江城を囲んだのだが、4月11日に百済寺が六角勢を支援していたとして信長軍がこの寺を焼き払ったと伝えられている。
この時にこの寺の堂塔・伽藍・坊舎・仏閣の全てが灰になり、哀れな様は目も当てられなかったと『信長公記』には書かれているのだが、信長勢は鯰江城の六角義賢らと戦わなければならなかったのに、百済寺焼き討ち後、兵を引き揚げたのは何故なのか。
調べると、柴田勝家が鯰江城を攻略して六角義賢を降参させたのは、百済寺焼き討ちから5ヶ月もあとの9月4日の事なのである。となると織田軍は敵軍を倒す事よりも、自陣を構えた百済寺を焼き尽くすことに熱心であったことになるのだが、自陣に火をつけることを「焼き討ち」と呼ぶことに違和感を覚えるのは私ばかりではないだろう。

このブログでも紹介したが、当時宣教師として来日していたルイス・フロイスの『日本史』を読むと、宣教師たちが大名や信徒たちに寺を焼くことを教唆していたことが具体的に記されており、永禄10年(1567)に東大寺大仏殿に火をつけたのは三好三人衆側の警備に当たっていたキリシタン武士であったことが明記されている。
もしかすると百済寺も東大寺と同様に、偶像崇拝を禁じるキリスト教を奉じる武将が織田方に多数いて、警護あたっていたメンバーが宣教師の教え通りに火をつけたのではないだろうか。この時代に数多くの寺が「焼き討ち」に遭って焼失してしまっているのだが、私はこの時期にキリスト教が布教されていたことと関係があるのではないかと考えている。

百済寺はその後、寛永11年(1634)に天海僧正の高弟の亮算が入山して百済寺の復興に着手し、彦根藩の支援もあって現在の山門、仁王門、本堂などが再建されたのだが、以前の規模とは全く比較にならない。

喜見院(きけんいん)で拝観の受付けをし、喜見院の庭園を観賞したのち長い石段を上っていく。昔は石段やなだら坂の周囲には300を数える寺坊が存在していたというが、今は喜見院と本堂と門だけが残されている。広い境内に桜の木は結構あるのだがつぼみはまだ固かった。

百済寺 仁王門

ようやく大きな草鞋のかかった仁王門に辿りつく。普通の寺の金剛力士像は門の外側に向いているのだが、この寺では門を潜る者を睨むように向かい合っている。
また、門の右側に咲いている黄色い花は「みつまた」といい、この寺の境内に数多くの花を咲かせていた。

百済寺 本堂

さらに階段を上ると、本堂(国重文)がある。この本堂は仁王門とともに慶安3年(1650)に再建されたものである。
かつての本堂は現在よりもさらに山手にあって、大きさは現本堂の約4倍もあり、近くには五重塔もあったという。いずれも信長勢に焼かれてしまったのだが、この時、高さ2.6mもあるご本尊の十一面観音像(平安時代)など多くの寺宝は、奥の院不動堂に避難して難を逃れたのだそうだ。

このご本尊は御開帳の時しか観ることができないのだが、『観仏日々帖』にその画像が紹介されている。
http://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-19.html
また今年の3月から8月末まで、本尊の左右にある如意輪観音半跏思惟像と聖観音座像が公開されていて、観ることができたのはラッキーだった。

次に向かったのが金剛輪寺(こんごうりんじ: 滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874:0749-37-3211)だ。
この寺は天平13年(741)に、聖武天皇の祈禱寺として行基が開山し、嘉祥年間(850)に延暦寺の慈覚大師が来山し天台宗に改められたと伝えられている。応仁・文明の乱以降の争乱や織田信長の近江侵攻と佐々木、六角氏の滅亡により多くの坊舎を失ってしまったが。湖東三山の中では最も多くの文化財を残している寺なのだそうだ。
織田信長勢に百済寺が焼かれた天正元年(1573)にこの寺も焼かれた記録があるようだが、焼かれたのは本坊や総門で、本堂および三重塔はさらに数百メートルも奥にあるために、見落とされて、焼失を免れたという。
しかし、織田勢がこの寺を焼いたことについては『信長公記』には全く何も書かれていないのである。戦場でもないのに織田勢がなぜ火を放ったか、原因を明確に論じている記録がないのになぜ『焼き討ち』という呼び方をするのだろうか。単なる『放火』と呼ぶべきではないのか。

金剛輪寺 庭

金剛輪寺の総門をくぐりしばらく進むと、左に本坊明壽院(みょうじゅいん)がある。ここの庭園が、桃山、江戸初期、江戸中期に作庭された三つの庭から構成され、国の名勝に指定されているという。この庭の紅葉は「血染めのもみじ」と呼ばれて有名なのだそうだが、桜の木はわずかしかなかった。やはり、訪れるべきは秋のようだ。

金剛輪寺三重塔

明壽院を出て、かなり長い参道を登って行くと、室町時代後期に造営された二天門(国重文)があり、それを抜けると国宝の本堂とその左手に重要文化財の三重塔が見えてくる。

kongorinji01s.jpg

三重塔は室町時代前期の建立で、長らく荒廃していたのを昭和53年に解体復元工事がなされて、その優美さを取り戻したという。修復される前の三重塔の写真がminagaさんのサイトにあるが、江戸時代の天保期からこのような状態であったのだろうか。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/hoso_kongorinji.htm

金剛輪寺本堂

国法の本堂も室町時代前期の造営と考えられており、内部は外陣・内陣・裏堂に分かれていて、内陣には平安時代から鎌倉時代にかけて制作された数多くの仏像が並んでおり、10体ばかりが国の重要文化財に指定されている。裏堂にまわると、客仏が立ち並んでいるのだが、平安時代の木造十一面観音像や慈恵大師坐像は国の重要文化財に指定されている。

わが国の多くの寺が明治の廃仏毀釈で苦しんだのだが、この寺もかなり苦労したことは間違いないだろう。アメリカのボストン美術館が所蔵する金銅造聖観音坐像は、金剛輪寺本堂に安置されていた像であることがわかっており、また東京都港区・根津美術館の刺繍曼荼羅図もこの寺の旧蔵品であったことがわかっているという。
明治4年(1871)の太政官布告で寺の領地を国が接収したために収入が激減し、少なからずの寺院が生活の為に宝物を売ることを余儀なくされてしまった。この事は、過去このブログでいくつかの事例を書いて来たので、興味のある方は覗いてみてしていただきたい。

あびこ屋

丁度お昼の時間になったので、地元で創業70年のあびこ屋(0749-37-2016)という日本料理店に向かった。
ネットで事前に調べて選んでいたのだが、きれいな個室で最高の料理を頂くことができて大満足だった。都会の高級料亭に引けを取らないような料理がリーズナブルな価格で頂ける店があるのはうれしい限りだ。

あびこ屋 うなぎ料理

メニューの中からうなぎ御膳を選んだのだが、うなぎは外はカリッと焼かれて中はふかふかでとても旨かった。また機会があれば、この店を訪れたいと思う。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。
良かったら、覗いてみてください。


戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのは切支丹大名か、宣教師か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-136.html

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-372.html

文化財を守った法隆寺管主の英断
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-80.html

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-176.html

廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

伊勢の廃仏毀釈と伊勢神宮の式年遷宮に多大な貢献をした尼寺のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-314.html


湖東三山・西明寺から多賀大社、国友鉄砲の里を訪ね、長浜の茅葺の宿に泊まる

あびこ屋で昼食を終えてから、次の目的地である西明寺(さいみょうじ:滋賀県犬神郡甲良町池寺26:0749-38-4008)に向かう。金剛輪寺からは8分程度で到着する。

西明寺 本坊庭園入口

この寺は平安時代の承和(じょうわ)元年(834)に三修上人が、仁妙天皇の勅願により開創されたと伝えられ、平安時代から室町時代にかけて、修行・祈願の道場として栄え、山内には17の諸堂と300の僧坊があったという。
しかしながら、元亀2年(1571)に織田信長はこの寺にも「焼き討ち」をかけたとされ、幸い本堂・三重塔・二天門だけが焼け残ったという。
その後は、天海大僧正や公海大僧正の尽力により復興に務められたが、旧観に復すことは出来なかった。

西明寺 不断桜

惣門をくぐり参道を進むと左手に天然記念物のフダンザクラ(不断桜)が見ごろを迎えていた。
西明寺にはフダンザクラが7本もあるのだそうだが、上の画像は本坊の庭に咲いていたものである。
フダンザクラは、何も知らなければ普通の桜のようにみえるのだが、バラ科の植物で毎年の9月上旬から 翌年の 5月上旬まで花を咲かせるのだそうだ。

西明寺 二天門

本坊庭園を抜けて参道を登って行くと二天門(国重文)があり、増長天像と持国天像が安置されている。


西明寺 本堂2
この門を抜けると、正面に国宝の本堂が建っている。この本堂は入母屋造・檜皮葺の純和風様式の建物で、鎌倉時代の初期に造営されたのだそうだ。秘仏の木造薬師如来立像(国重文)は公開されていなかったが、木造十二神将像(県文化)の両脇にある多聞天・広目天の木造二天王立像(国重文)など見ごたえのある仏像が多い。

西明寺 三重塔

本堂の左にある三重塔(国宝)は鎌倉時代後期建てられたもので、高さが約24mの均整のとれた美しい建物である。塔の内部中央には木造大日如来坐像が安置され、壁には法華経曼荼羅図などが描かれているそうだが、普段は公開されていないようだ。

次の目的地である多賀大社(0749-48-1101)に向かう。西明寺からは14分程度で到着した。

伊勢へ参らばお多賀へ参れ、お伊勢はお多賀の子でござる」という里謡があるそうだが、「お多賀の子」というのは、伊勢神宮の祭神である天照大神(アマテラスオオミカミ)が伊邪那岐命(イザナギノミコト)・伊邪那美命(イザナミノミコト)両神の御子であることをさしている。中世になって多賀信仰が広まり、庶民から「お多賀さん」として親しまれただけでなく、戦国武将の崇敬も篤かったようだ。

多賀大社 太閤橋と桜

天正16年(1588)に豊臣秀吉が、母の病気平癒のため米1万石を寄進して、それにより社殿が整備され、参道に太閤橋(太鼓橋)が架けられたという。
上の画像の石橋が太閤橋だが、御神門の前の桜がほぼ満開だった。

多賀大社本殿

御神門をくぐると拝殿と幣殿、本殿が見えてくるのだが、境内が随分広く感じるのは、以前は神仏習合で多くの仏教施設があり明治初期の廃仏毀釈でそのほとんどが破壊されたからであろう。

taga31.jpg

上の画像は『多賀明神社頭古絵図』で、徳川幕府寛永造営後の景観を描いたものだと考えられているが、境内の中に三重塔や本地仏堂や経蔵などの仏教施設が描かれている。
その後何度か大火に遭い、特に安永2年(1773)の大火で社殿・堂塔のほとんどが焼失してしまい、それ以降多くの建物が再建されたのだが、三重塔は再建されないまま明治維新を迎えたようだ。
上の古絵図はminaga氏のHPに紹介されており、このHPには他にも多くの画像を観ることができるのだが、minaga氏の解説によると、明治4年(1871)に社家側は不動院、観音院、成就院、般若院に乱入して社僧を排撃し、仏像・仏器を投棄し、本地堂に祀られていた平安時代の阿弥陀如来坐像をも路上に遺棄したという。
その仏像は多賀大社の西にある真如寺が保護を願い出て同寺の本堂に安置されたそうだが、その仏像は今も真如寺に残されていて、国の重要文化財に指定されているそうだ。
また、不動院は破壊を免れたものの改造されて社務所にされ、観音院、成就院、般若院は破壊され、本地堂は後で何者かによって火をつけられたようだ。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/hoso_taga.htm

多賀大社 奥の院

多賀大社の奥書院(県文化)は江戸中期の建物で、庭園が国の名勝に指定されているので中に入ったのだが、この建物も庭も、明治の廃仏毀釈以前は不動院の所有であったという。

多賀大社奥書院
雨が降っていたので、庭園はガラス越しに観るしかなかったのは残念だったが、建物はなかなか格調が高く、障壁画もなかなか見ごたえがあった。
また、参集殿につながる廊下を歩いていると、昭和の時代に各界で活躍した著名人が奉納した絵馬が両側の壁に展示されていて、結構楽しむことができた。

次の目的地は国友鉄砲の里資料館(長浜市国友町534:0749-62-1250)。多賀大社からは30分程度で到着する。

国友鉄砲の里資料館

以前このブログで天文12年(1543)、種子島に2挺の鉄砲が伝来した翌年に、我が国で鉄砲の大量生産に成功したことを書いた。
『鉄炮記』によると、2挺の火縄銃を手に入れた種子島時尭は、1挺を室町幕府将軍足利義晴に献上し、もう1挺は鍛冶職人の八板金兵衛に命じて、鉄砲を分解させて調べさせ鉄砲の生産に成功させたとあるが、金兵衛が最も苦労したのは、銃身の底を塞ぐネジの製造方法であったという。金兵衛の娘の若狭が、ポルトガル人から教えを乞い、種子島では鉄砲伝来からわずか数年で、本物に劣らない鉄砲を生産するようになったという。

また、足利将軍に献上されたもう1挺は、根来の砲術家・津田堅者算長が手に入れ、堺の刀工・柴辻清右衛門に命じて堺鉄砲の元を作らせ、さらに大量生産にも成功したという。

では国友の鉄砲生産はどういう経緯で始まったのか。
湯次行孝氏の『国友鉄砲の歴史』によると、こう解説されている。
「『国友鉄砲記』などによると、足利義輝*は、細川晴元を通じて、国友の鉄匠、善兵衛、藤九左衛門を知り、手許の鉄砲を貸し渡して製造を命じた。当時、国友は京極氏の支配下にあり、京極氏は細川党であった関係上、国友鍛冶の技術が細川氏に見出されたのである。」(別冊淡海文庫5『国友鉄砲の歴史』p.10)
*足利義輝:室町幕府12代将軍・足利義晴の嫡男で、のちに13代将軍(在職:1546~1565年)となる。

当時の刀工の技術では銃身を作ることは難しくなかったようだが、ネジの製造については苦労した記録があるようだ。『国友鉄砲記』によると、「次郎介、小刀の欠けたるをもって大根をくりぬくと刃の欠けたる通りに道つきたり、この道理に惑解け、捻というもの出来云々」と、ネジを国友で独自に開発したことが記されているという。
刀工たちは天文13年(1544)8月12日に、足利将軍に完成した鉄砲を2挺献上したというから、種子島で鉄砲が伝来した翌年に、国友でも鉄砲の生産が成功していたようなのだ

国友鉄砲

国友で生産された鉄砲は品質が高かったことから、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受け、また各地の大名に召し抱えられるなどしてその技術を発展させていったのだが、徳川家康が江戸幕府を開いて以降、鉄砲を必要としない時代が到来する。

慶長12年(1607)に徳川家康は国友の鉄砲鍛冶年寄4名を侍身分にとりたてて、鉄砲鍛冶の管理に関わる法度を申し渡している
「…一、諸国より大小の鉄砲多く誂候はば、早速相届け申すべきこと
   ならびに惣鍛冶新筒受け取り候はば、年寄へ相届もうすべきこと」
一、 鉄砲職分の者猥(みだり)に他国え出で候こと堅く無用たること
一、 鉄砲細工猥に余人へ相伝え申すまじきこと
一、 鉄砲薬調合のこと、ならびに力様薬込、年寄の外、他見他言すまじきこと…」

これらの規則が遵守されるように鉄砲代官が任命され、この年から鉄砲は徳川幕府の許可がなければ製造が出来なくなったのである。
鉄砲代官は幕府の注文以外はほとんど許可しなかったことや、特に島原の乱以降は大量注文を受けることが少なくなって、国友の鉄砲鍛冶の生活はまもなく困窮し始め、かなりの者が農業に従事したり、花火を製造したり、刀鍛冶や金属加工などで収入の道を求めたという。

戦国時代に鉄砲の生産で栄えた日野も堺も早い時期に衰退したにもかかわらず、国友だけが滅亡を免れたのは、国友一貫斎という人物の存在が大きいと言われている。

国友一貫斎生家 

天明3年(1783)以来大飢饉がわが国を襲ったのだが、一貫斎が制作した反射式天体望遠鏡や空気銃などが大名家などに買われて、国友の住民に仕事と現金収入をもたらしたのだそうだ。国友鉄砲の里資料館から少し北に行くと国友一貫斎の生家があり、上の画像はその門を写したものである。個人の家なので内部は公開されていない。

1日目の旅程を終えて、宿に向かう。
この日に予約を入れていたのは、江戸時代から料理旅館を営んでいるという長治庵(0749-84-0015)。
http://chojian.com/index.html

長治庵 外観

長浜市の中心部からかなり離れて、木之本町の山間部にある杉野という小さな集落にある茅葺の1軒宿である。
近くに観光名所があるわけでもなく、こんな田舎にと言っては失礼であるが、創業来270年も続く宿があることに驚いた。

長治庵 いろり

上の画像は私が食事をした茅葺の母屋だが、こういう場所で食事をすると随分ほっこりとした気分になる。

夕食は地元で採れた山菜や川魚や肉を素材にしたものばかりであるのが良い。お米もオーナー自らが無農薬で作っておられるのだそうだ。

長治庵 夕食

上の画像はしか肉のルイベと、ますの竹皮蒸しと長治なべ(いのしし鍋)だが、次から次へと出てくる10品近くのすべての料理がとても美味しくいただけて大満足だった。

近くに店らしきものが見当たらない、自然たっぷりの田舎の集落の一軒宿であるからこそゆっくりと時間が流れて、静けさに心が休まる宿で泊まる旅行もなかなか良いものである。

<つづく>
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。
良かったら、覗いてみてください。

鉄砲伝来の翌年に鉄砲の量産に成功した日本がなぜ鉄砲を捨てたのか~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-5.html

鉄砲の量産に成功した日本が何故鉄砲を捨てたのか~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-6.html

秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか~~朝鮮出兵1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-188.html

多くの朝鮮民衆が味方し勝ち進んだ秀吉軍~~朝鮮出兵2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-189.html

第二次朝鮮出兵(慶長の役)も秀吉軍の連戦連勝であった~~朝鮮出兵3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-190.html

鎖国前の台湾で、新参者のオランダの苛政に抵抗した日本商人の話
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-368.html

日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html

「観音の里」長浜の桜と文化を楽しんだあと、徳源院や龍潭寺、井伊神社を訪ねて

鶯の鳴き声で目が覚めて、清々しい朝を迎えた。
昨日の夕刻から降り出した雨も上がり、今日は存分に桜が楽しめそうだ。

長治庵の朝食を終えて、最初に向かったのは渡岸寺観音堂(長浜市高月町渡岸寺50:0749-85-2632)だ。

「渡岸寺(どうがんじ)」というと誰でも寺の名前だと思ってしまうところだが「渡岸寺」は地名であって、寺の名前は向源寺(こうげんじ)だという。
もしかすると、その「渡岸寺」という名の寺が以前は存在したのかもしれないが、記録には残されていないようである。

渡岸寺観音

広い境内の奥に本堂があり、内陣の中央には平安時代後期の木造阿弥陀如来座像が安置されているのだが、この本堂の横に収蔵庫があり、その中に、有名な木造十一面観音像(国宝)が安置されている。

向源寺木造十一面観音像

内部の撮影は禁止されているので、ネットで公開されている画像を紹介するが、この仏像の素晴らしさはとても画像では伝えることができないし、言葉で表現することも難しい。
頭上に11面の小面が実にバランスよく配置されて、わずかに腰をひねっている姿勢が、どんな角度から眺めても美しく、観ていて飽きないのである。

長浜市に限らず、湖北地方は仏教文化財が多く、特に観音菩薩像がほとんどの集落にあって、長い間それぞれの村人たちによって大切に守られてきた。
4年前にこのブログで、紅葉で有名な鶏足寺の近くにある石道寺(しゃくどうじ)という寺を訪ねたことを書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-219.html

石道寺本尊

石道寺の本堂には平安中期の作とされるケヤキの一木造の本尊・十一面観音立像(国・重文)、鎌倉時代の作とされる木彫持国天立像(国・重文)、木彫多聞天立像(国・重文)が安置されているのだが、これだけの文化財がある寺であるにもかかわらず住職が不在で、集落全体が観音様のお世話を続けていることを知って驚いた。

『観音の里』というホームページで、この地域の観音像の幾つかが紹介されているが、そのうちの幾つかの仏像は寺院にはなく、公民館や神社などで安置されている。様々な経緯があって寺院が廃絶されたのだと思われるが、古い仏像を地元の人々が代々大切にし、小さな建物に安置されて地元の人々に護られてきたことは素晴らしいことである。
http://kitabiwako.jp/kannon/k_spot/

前回と前々回の記事で、織田信長勢が湖東三山に火をつけたことを書いたが、この湖北の地にも信長勢が現われて、観音堂に焼き討ちにかけようとしたのだそうだが、村人たちが観音像を川底に沈めたり、地中に埋めたりして、戦火から守ってきたと伝えられている。

しかしながら、『観音の里』の解説によると、
「平安時代以降、天台傘下として己高山(こだかみやま)を中心に栄えた湖北の寺々は、室町期頃には弱体化し、代わって浄土宗・曹洞宗・浄土真宗・時宗らのいわゆる新仏教が農民勢力の台頭に併せて勢力を伸ばし、戦国の動乱期にいたって、…村々にあった天台寺院の多くは衰退して無住・廃寺化し、そこに残された尊像たちは、宗派・宗旨の枠を超越して、村の守り本尊として民衆に迎えられていきました。」とある。
http://kitabiwako.jp/kannon/about/

そんなに弱体化した寺を攻めたところで軍事的には何の意味もなく、地元の人々が大切にしてきた仏像に火をつけてしまっては民衆の支持を失うだけだろう。ではなぜ信長勢が、こんな場所にまで焼き討ちをかけようとしたのだろうか。

前々回の記事で、戦国時代に多くの寺院が焼き討ちされたことについての私の考え方を紹介したが、当時のキリスト教宣教師が大名や信徒たちに寺を焼き仏像を破壊することを教唆していたことをイエズス会のルイス・フロイスが記録していることは極めて重要である。
またフロイスと同様に日本にいたジアン・クラッセも、『日本西教史』に、イエズス会日本準管区長コエリョの言葉として、寺社を破壊した理由についてこう記している。

「キリストの教えはただ天地創造の一真神を崇拝するにより、殿下は日本人のキリスト教に入るを許し、偶像を拝するを禁じ、而して真神に害する所あるを以てその社寺を毀つを許されしなり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943460/359

文中の「殿下」は秀吉のことだが、信長にせよ秀吉にせよ、他の大名にしても同じ発想になるだろう。キリスト教の教義では偶像崇拝を禁止しているのだが、当時来日していたイエズス会のトップが、権力者からキリスト教の布教が認められたということは、異教である仏教の寺や仏像・神社を破壊することも同時に許されたと解釈していたことに、もっと注目する必要があるのだと思う。多神教を奉ずる日本人にはなかなか信じられない発想だが、一神教を奉じる人々の発想は単純すぎて、教義と異なる考え方や文化的価値を許容できないところに怖さがある。
キリスト教の宣教師は、わが国が戦国時代において各地で戦を繰り返していたことを、異教世界を一掃するための好機と捉えていてもおかしくない。この時代には、滋賀だけでなく全国各地の寺や仏像を破壊した事例がやたら多いのだが、キリスト教宣教師たちに教唆されたキリシタン武士や信徒達がで実際に火をつけたケースが少なからずあったと私は考えている。

話を元に戻そう。
向源寺を出て次の目的地である長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市公園町10:0749-63-4611)に向かう。向源寺からは25分ほどで到着する。

長浜駅の西側を走る湖周道路のさらに西に長浜城跡があり、周囲は豊臣秀吉にちなんで豊(ほう)公園と名付けられ、ソメイヨシノを中心に約700本の桜が城郭風の長浜城歴史博物館を囲むように植えられていて「日本さくら名所100選」にも選ばれている。駐車場が気になっていたので、早い時間に到着するように旅程を組んでいたのだが、9時40分頃に着いたので駐車場も問題なく入ることができた。

長浜城の桜

駐車場方向から観る桜は、長浜城歴史博物館の白壁と青い空に映えて美しかった。
いろんな角度からその景観を楽しんだのち、長浜城歴史博物館に入ることにした。

長浜城の桜2

上の画像は、天守閣に似せた博物館の展望階から見た景色だが、桜と琵琶湖の素晴らしい景観を独占することができた。桜はまだ7分咲きではあったものの、豊公園の桜が思う存分に枝を拡げて花を咲かせていて、雨上がりの琵琶湖の空は澄み、北は竹生島、西には比良山地、南は沖島まで良く見渡せた。

桜と琵琶湖の雄大な景色を楽しんだのち、駐車場に車を置いたまま、長浜市をしばらく散策することにした。

大通寺 山門

最初に訪れたのは長浜御坊・大通寺(長浜市元浜町32-9)。
慶長元年(1596)に長浜城内に営まれた講の会所がのちに大通寺と号したのだそうだが、彦根藩2代目の藩主井伊直孝により寺地の寄進を受け、慶安2年(1649)に現在の場所に移ったのだそうだ。
上の画像は山門で、東本願寺の山門を模して天保11年(1840)に完成したものだそうだ。

東本願寺から伏見城の遺構を移して伽藍が整えられたと伝えられていて、本堂は国の重要文化財に指定されている。
また広間も国の重要文化財で、狩野派の絵師らによる障壁画は結構見ごたえがあった。

大通寺 庭園

上の画像は含山軒庭園(国名勝)で、名前の由来は、伊吹山を借景にしていることからなのだそうだ。

長浜八幡宮鳥居

大通寺の参道を戻って、やわた夢生小路を東に進むと長浜八幡宮(長浜市宮前町13-55)の鳥居が見えてくる。

長浜八幡宮 拝殿本殿

長浜八幡宮は、源義家が京都の石清水八幡宮を勧請して創建したものとされ、豊臣秀吉の庇護を受けて発展したという。
この八幡宮の春の例祭が有名な長浜曳山祭で、京都の祇園祭、高山の高山祭と並んで日本三大山車祭りの一つになっている。曳山は全部で13台あり、その内長刀山以外の12台には歌舞伎が演じられる舞台があり、毎年4台の曳山が長浜八幡宮に集まって、この境内をはじめいくつかの場所で子供歌舞伎が演じられるのだそうだ。祭りの日程は次のURLに出ている。
http://www.geocities.jp/nagahamamap/hikiyama.html


祭りの様子は、多くの方がYoutubeなどで紹介しておられるが、子供の歌舞伎といっても相当レベルが高く、伝統行事が現代っ子にもしっかり受け継がれてきていることに感心してしまう。

長浜曳山祭り 山車とシャギリ

私は残念ながらこのお祭りを映像でしか見たことがなかったのだが、たまたま私が長浜を訪れた4月4日は、曳山博物館に展示されている2基の山車が入れ替えられる日で、市内の各所で「シャギリ」と呼ばれる囃子に合わせて山車を曳く光景を見ることができてラッキーだった。

長浜曳山祭り 稽古場

昔はお祭りなどの行事を通じて、地域の人々が世代を超えて一つに繋がる仕組みが各地に残されていたのだが、今は多くの地域でこのような仕組みが失われつつあることは残念なことである。

翼果楼

そんな事を考えながら、久しぶりに長浜名物の「焼き鯖そうめん」を食べたくなって翼果楼(長浜市元浜町7-8)に行く。
昔食べた味が忘れられなくて長浜に来るとつい食べたくなるのだが、そうめんが焼き鯖の煮汁のうまみを吸って、これがなかなか旨いのである。

鯖そうめん

昼食を終えて、次の目的地に向かう。
次に向かったのは、知られざる桜の名所・徳源院(滋賀県米原市清滝288:0749-57-0047)

古くから近江を領していた佐々木氏は、鎌倉時代中期に六角氏・京極氏等に分かれ、本家筋の六角氏は織田信長に攻められて滅亡したが、京極氏は転封を重ねながら明治維新にいたるまで大名家としての命脈を保ち続けている。この京極氏が最初に本拠地としたのがこのあたりで、この寺は京極氏初代の氏信(うじのぶ)が、京極家の菩提寺として創建した寺だそうだ。

徳源院 庭園

上の画像は徳源院庭園(県名勝)で、清滝山を借景にして、秋の紅葉が美しいという。

徳源院三重塔と道誉桜

バサラ大名として知られる佐々木道誉は京極氏に生まれ、京極高氏とも呼ばれるのだそうだが、この道誉が植えたと伝えられる枝垂れ桜がほぼ満開を迎えていた。
杮葺きの三重塔(県文化)をバックにして、「道誉桜」と親しまれるこの桜にカメラを向けてみたのだが、古い三重塔に枝垂れ桜はよく似合う。この三重塔は寛文12年(1672)に第22代高豊(たかとよ)が建てたという。

龍潭寺山門

最後に訪れたのが、彦根市の佐和山西麓にある龍潭寺(りゅうたんじ:彦根市古沢町1100:0749-22-2776)。
この寺は、静岡にあった井伊家の菩提寺を、慶長5年(1600)に井伊直政公が佐和山城主となったのを機にこの地に移して開山され、元和3年(1617)に諸堂が完成したという。
この寺の山門は、佐和山城の城門を移築したものだと伝えられている。

龍潭寺 庭園

上の画像は方丈南の枯山水庭園だが、書院東にある鶴亀蓬莱庭園も有名だ。

龍潭寺の枝垂れ桜はまだ咲いていなかったのだが、この隣にある井伊神社の枝垂れ桜を見に行くことにした。

井伊神社

井伊神社は天保13年(1842)に彦根藩12代藩主の井伊直亮が、井伊谷(現静岡県)にある井伊谷八幡宮から井伊大明神を分霊して龍潭寺の参道脇に祀ったことからはじまるのだが、現在の社殿は弘化2年(1845)に造営されたものだそうだ。

昔から「彦根日光(東照宮)」とも言われた建物なのだそうだが、数十年前から雨漏りがひどくなり、修理に6億円もかかることがわかって、数十年前から素屋根で覆われるようになったようだ。
素屋根を作ったのは平成元年まで9期彦根市長を務めた井伊家第16代当主の井伊直愛(なおよし)氏で、この方は幕末の大老・井伊直弼の曾孫にあたり、この神社の宮司も兼ねていた人物である。

彦根市長としての立場上、自らが宮司を務める神社に大金を集めて修理することもできず、かといってこれ以上建物を傷めるわけにもいかないので素屋根で覆うことにしたのだろう。
のちにこの建物は彦根市に寄贈されて、平成25年に彦根市指定文化財となったのだが、今も素屋根で覆われたままになっているのは残念である。

井伊神社 覆い屋の中

覆い屋の金網の隙間からカメラレンズを向けて撮影したのだが、なかなか見事な建物である。時々内部が公開されているらしく、次のURLなどで、美しい内部の様子を知ることができるが、いつか修理され覆い屋が外されて、観光できる日が来ることを祈りたい。
http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/7d2af2444887d53e2c5edc9493351fdf

井伊神社しだれ桜

この井伊神社の隣には井伊直弼の御手植えと伝えられ、彦根市の保存樹に指定されている枝垂れ桜が満開であった。
長浜城跡の豊公園のように観光客が多く集まる桜の名所も良いが、歴史のある場所で見事な桜の花が咲かせる空間をほとんど占有して、心静かに桜を楽しむのもなかなか良いものである。

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「桜田門外の変」と、井伊直弼の死が長い間隠蔽された事情
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寺院の梵鐘を鋳つぶして大砲を作れという太政官符に苦慮した江戸幕府
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幕末の動乱期にわが国が独立を維持できた背景を考える~~GHQが封印した歴史 3
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幕末の孝明天皇暗殺説を追う
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国宝・新羅善神堂近辺の散策の後、大津市歴史博物館で比叡山ゆかりの古仏を楽しむ

都道府県格付研究所のホームページで「国宝・重要文化財総数ランキング」が公開されている。第1位が東京都で2729件、第2位が京都府で2144件、第3位が奈良県で1311件までは誰でも納得するところだが、4位が滋賀県で813件もあることを意外に感じるのは私ばかりでないだろう。
http://grading.jpn.org/y2308a05.html#map

国宝・文化財ランキング

次に「国宝・重文の建造物数ランキング」を見てみると、第1位が京都府で292件、第2位が奈良県で261件、滋賀県は第3位で182件である。
http://grading.jpn.org/y2308a04.html

国宝・重要文化財の建造物ランキング

この2つのランキング件数の差が、仏像や仏画や経典、障壁画、刀剣など、美術品・工芸品・文書等の国宝・国重文の合計値と考えれば良いと思うのだが、これも滋賀県は631件とかなり多く、全国的にも第4位の水準にあることがわかる。
1位は東京都で2657件にもなるのだが、東京都は建造物のランキングでは9位72件と決して多くなく、国宝・重要文化財の大半は美術館や博物館に収まっていることを意味している。
以上の数字からわかることは、滋賀県は京都・奈良に次ぐ仏教文化財の宝庫であり、古い建物とともに仏像や仏画などが多数残されていることが推定できる

以前このランキングを見つけた際に、滋賀県の文化財をもっと探訪しようと考えていたのだが、たまたま、大津市歴史博物館の開館25周年を記念して『比叡山―みほとけの山―』という企画展示を11月23日まで開催しているということを教えてもらった。
次のURLがその案内である。
http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/news/1510.html

滋賀県には、せっかく美しい仏像を所蔵していても一般観光客には公開していない寺院が多いのだが、今回の企画展はそれらの非公開寺院の仏像などが多数展示されているようなので是非観賞したいと思い、大津市にある国宝や文化財指定の社寺とともに、先日訪問してきた。

弘文天皇陵地図

大津市役所(077-523-1234)の駐車場に車を停めて、最初に訪れたのは、弘文天皇陵
この場所は車では行けず、しかもわかりにくい場所にあるので上の地図を参考にして訪れていただきたい。市役所の駐車場から一旦表通りに出て北に進み、一筋めの道を左手に折れて、しばらく進むと天皇陵への細い参道の入口が見えるので、その道を南に進めばすぐに見えてくる。

弘文天皇陵

天智天皇がなくなった翌年(672年)に、天智天皇の子・大友皇子(おおとものおうじ)と天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)との間に皇位をめぐる争いが起こり(壬申の乱)、大海人皇子が勝利し翌年飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となったのだが、天智天皇が正式に皇太子としたのは、『日本書紀』には大海人皇子であったとされ、漢詩集『懐風藻』や『万葉集』には、大友皇子であったと書かれている。
私は、大友皇子が正式の皇太子であったと考えるがこの問題についてはいずれ書くことにして、この大友皇子が皇位についたかどうかは古くから議論があって非即位説が有力なのだそうだが、面白いことに明治3年(1870)に明治天皇が大友皇子に弘文天皇の諡号(しごう)を贈られて、陵墓については滋賀県令・籠手田安定(こてだやすさだ)がこの地を申請して、明治政府もこれを認めて、弘文天皇陵と定められたという。
しかし、この陵は年代があわず、大友皇子の墓である可能性は低いのだそうだ。

新羅善神堂

弘文天皇陵から少し南に行って右折し突き当りを右に折れると、園城寺(三井寺)の鎮守社の1つであり、国宝に指定されている新羅善神堂(しんらぜんしんどう)がある。
この建物は足利尊氏が貞和3年(1347)に再建した、三間社流造の神社本殿の建築で、明治の神仏分離以前は新羅社・新羅明神社と呼ばれていたそうだ。
建物も内部も公開されておらず塀の外から観るだけなのだが、中には平安時代に制作された木造新羅明神坐像(国宝)があるという。
新羅明神と源氏との関係は深く、源頼義は前九年の役(1051-62)の出陣に当たり、新羅明神に戦勝を祈り、頼義の3男義光はここで元服し、新羅三郎義光と名乗ったと大津市の案内板に書かれていた。

300px-Ernest_Fenollosa.jpg

元の道に戻って、再び西に進むと法明院という寺がある。この寺は三井寺の北院として江戸時代の初めに創建された寺だそうだが、一時廃絶され、その後享保9年(1724)に再興されたという。
この寺にはこれといった文化財があるわけではないのだが、明治11年(1878)に来日したアーネスト・フェノロサが、東京大学で哲学や政治学を講じるかたわら、日本美術に深い関心を寄せて、弟子の岡倉天心とともにその素晴らしさを世界に伝えたのだが、その墓がこの寺の墓地にあるのだ。

フェロノサの墓

墓の前にあった大津市の立札にはこう解説されていた。
「明治18年(1885)に、景勝をこよなく愛した法明院で得度受戒し、法名を諦伸という。…明治41年(1908)の死後、その遺言によってこの地に葬られた。…また隣には博士の親友・ハーバード大学のビゲロー博士の墓もある。」

廃仏毀釈で日本の仏教美術が見捨てられていた時代に来日し、日本美術に心酔してその価値を世界に広め、文化財保護法の前身である古社寺保存法の制定(1897)に道を開いた人物であり、もしフェロノサが明治時代に来日していなければ、もっと多くの寺院が廃寺となって、多くの文化財が失われたことは確実である。
フェロノサはロンドンで客死後、遺言によりこの地に葬られ、墓碑には「玄智明徹諦信居士」と彫られていた。死後107年も経つのだが、墓前には新しい花が供えられていた。

大津市役所の駐車場に戻り、車で大津市歴史博物館(077-521-2100)に向かう。

大津市歴史博物館

開館25周年記念企画展『比叡山―みほとけの山―』の会場は2階にあり、70躯を越える仏像の展示には圧倒された。

比叡山は京都盆地の東側に連なる山の中では最も高く目立つ山で、古くから信仰の山として崇められ、延暦7年(788)に最澄が延暦寺を建立して以来、膨大な数の堂宇や山坊が周囲に建てられ、そこに仏像や仏画が造られて安置されていったのである。
今般この大津市歴史博物館に、御膝元の大津市坂本の寺院だけでなく、仰木、堅田、さらには比良山や京都側の寺院からも、比叡山にゆかりのある仏像や仏画などが多数集められていて、しかも、その多くが初めて出展されたものであることが私には嬉しい。

この企画展示の仏像で国の重要文化財は10躯、滋賀県の指定文化財が2躯、大津市の指定文化財が5躯あるのだが、昔は文化財指定のある仏像の方が指定のない仏像よりも価値が高いと単純に考えていた。
しかしながら、たとえ価値のある仏像であっても、所有する寺院が文化財指定を求めないことが良くあるのだという。
というのは、もし文化財の指定を受けてしまうと、「文化財保護法」に基づき文化庁から管理方法や修理の方法まで、その命令や勧告に従うなどの制約を受けることになってしまう。そうなることを避けるために、あえて文化財指定を求めない寺院が少なからず存在するようだ。

もう少し具体的に書こう。文化財保護法第三十六条にはこう記されている。 
重要文化財を管理する者が不適任なため又は管理が適当でないため重要文化財が滅失し、き損し、又は盗み取られる虞(おそれ)があると認めるときは、文化庁長官は、所有者、管理責任者又は管理団体に対し、重要文化財の管理をする者の選任又は変更、管理方法の改善、防火施設その他の保存施設の設置その他管理に関し必要な措置を命じ、又は勧告することができる。」

有名な社寺に行くと、よく「宝物館」という名のコンクリートの建物があって、その中に国宝や重要文化財の指定を受けた仏像などが施錠管理されてしまっているのだが、それでは「美術工芸品」としての仏像などの価値は守れても、何百年もの長きにわたり地域の人々によって守られてきた「祈りの空間」としての建物の価値や、「祈りの対象」としての仏像の価値の多くが失われてしまうことになる。寺は本来「祈りの空間」を提供するためにあり、そのために仏像は欠かせない存在であるのだが、文化財保存法は文化財を維持・管理することに焦点が絞られてすぎてはいないか。寺は美術館や博物館とは違うことは言うまでもないのだが、法律は寺に博物館並みであることを要求しているのだ。

もし文化財保護法に基づき修理をすることになると、文化財としての価値を減じないために、制作された当時の伝統技法で昔と同様の素材を用いて修理をすることとなる。そのため、国庫の一部補助があると言っても多額の出費を求められることになるし、適切な温度・湿度を維持するための装置や、盗難に遭わないための装置の設置のみならず、セキュリティ費用や火災保険なども今まで以上に経費をかけざるを得なくなってしまう。
そのような制約を受けることを嫌って、価値ある文化財であることを知りながら、文化財指定を敢えて求めない寺が少なくないようなのである。そのことは仏像・仏画だけでなく、建物についても同様である。
拝観料を主たる収入源としたい寺は、箔付けのために文化財指定をとることにそれなりのメリットがあるのだろうが、それ以外の多くの寺にとっては文化財指定を取ることのメリットをあまり感じないので文化財の指定を求めない。だから文化財の指定がなくとも、価値のある仏像や仏画などが全国に少なからず存在するのである。

比叡山 みほとけの山

話を大津市歴史博物館開館25周年記念企画展に戻そう。
今回の企画で展示されている仏像は白鳳時代のものから江戸時代のものまでさまざまだが、無名の寺院から初めて公開されたものや、所有者の希望により寺院名を伏せて展示されている仏像のなかに、文化財の指定が無くても魅力的なものがいくつもあって、私自身、会場を巡りながら、仏像の放つオーラを感じて何度か立ち止まってしまった。

信長の時代に比叡山の焼き討ちがあり多くの堂宇が焼かれて、仏像も焼かれたとばかり思っていたのだが、平安・鎌倉期の仏像が数多く展示されているのは意外であった。

比叡山焼き討ち

元亀2年(1571)の比叡山の焼き討ちについて、『信長公記』にはこのように記されている。
九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ、山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、取物も取敢へず、悉くかちはだしにして八王子山に逃上り、社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童其員を知れず召捕り
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E5%8F%A1%E5%B1%B1%E7%84%BC%E3%81%8D%E8%A8%8E%E3%81%A1_(1571%E5%B9%B4)

ここまで激しく焼かれたなら、価値のある文化財の大半がこの時期に失われたと誰でも考えるところなのだが、延暦寺やその里坊や、ゆかりのある周辺の寺院に、平安時代、鎌倉時代の仏像が多数残されており、それらを目の前で観ることができる。次のURLは出品された仏像・仏画などのリストだが、仏像は信長の時代よりも古いものがほとんどである。
http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/news/image/201510/hieizantennrist_0.pdf

今までに何度か焼失したり奪われる危機があったと思うのだが、それぞれの時代の多くの人々の信仰に支えられ、必死に守られて今日に残された仏像が、この博物館に一堂に集められて展示されていることはすごいことだと思う。

もうすぐ比叡山が紅葉の季節を迎え、麓の大津市の寺社の庭が鮮やかに色づく時期が近い。
秋の週末に、比叡山ゆかりの仏像鑑賞に立ち寄られてはいかがだろうか。
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唐崎神社から日吉大社、日吉東照宮を訪ねて
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慈眼堂、滋賀院門跡から明智光秀の墓のある西教寺を訪ねて考えたこと
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光秀は山崎の合戦で死んでいないのではないか…「光秀=天海説」を考える その1
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南光坊天海は明智光秀と同一人物なのか…「光秀=天海説」を考える その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-347.html

世界遺産の比叡山延暦寺の諸堂を巡って
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-348.html

三井寺の国宝・重要文化財観賞の後、非公開の寺・安養寺を訪ねて

大津市歴史博物館の企画展を楽しんだ後、すぐ近くにある円満院を訪れた。

円満院は寛和3年(987)に村上天皇の皇子である悟円法親王によって創建され、以来皇族が入寺する門跡寺院となり、戦前までは三井寺(園城寺[おんじょうじ])三門跡の1つであったのだが、戦後になって三井寺から独立したのだそうだ。

円満院宸殿

安土桃山時代の建築物である宸殿(しんでん)は、明正天皇の御殿を下賜されて正保4年(1647)に御所からここに移築されたもので、国の重要文化財に指定されている。以前各室には狩野派による障壁画(国重文)が描かれていたのだが、今は複製したものが襖に貼られている。本物は売却されて京都国立博物館に収納されているのだそうだ。

円満院庭園

宸殿に南面して作られた庭園は、室町時代の造園家である相阿弥の作と伝えられる池泉観賞式庭園で、国名勝・国史跡に指定されている。

いろいろこの寺について調べていくと、宸殿の障壁画が売却されただけでない。円山応挙の「絹本著色孔雀牡丹画」「紙本著色七難七福図」ほか、絵画や書跡など多くの重要文化財を保有していたのだが、すべて手放してしまっている。
http://www.pref.shiga.lg.jp/edu/katei/bunkazai/bunkazaimokuroku/files/20.pdf
また、2009年には宸殿や庭園までもが競売にかけられて、ある宗教法人に10億6700万円で落札され所有権が移転しているようだ。
http://blog.goo.ne.jp/jiten4u/e/97d33b3c3e48bf160e09dba733fc283a

以前の門主が水子供養事業などに乗り出して多額の債務を抱え込み、借金のカタに取られていた文化財が競売されることになってしまったわけだが、文化財を担保に金を借りるという行為自体を禁止しなければいけないのだと思う。この人物は円満院を追われた後、戒名ビジネスを展開し、さらにその息子は、出家すれば戸籍の名前を法名に変更できる仕組みを悪用して、多重債務者を出家させて別人とし、金融機関からローンをだまし取る詐欺行為(出家詐欺)で逮捕されているようだ。
https://sites.google.com/site/antireligionwiki/shukkesagi
宗教法人の悪用が後を絶たないようだが、こういうことを許さない取組みが、行政にも宗教界にももっと必要だと思う。

大津絵美術館

円満院の拝観ルートを進んでいくと、最後に大津絵美術館がある。大津絵は江戸時代の初期から大津で描かれていた民族絵画で、神仏や人間や動物などがユーモラスに表現されていて、大津の宿場を訪れた旅人達が縁起物として購入していったという。

三井寺マップ

途中で昼食を取って、いよいよ三井寺の中心部に向かう。

園城寺仁王門

上の画像は、国の重要文化財に指定されている仁王門で、宝徳4年(1452)に建立の湖南市の常楽寺の門を、慶長6年(1601)に徳川家康によって移築されたものである。

園城寺釈迦堂

この門を潜ると右手に釈迦堂(国重文)がある。これは室町時代中頃の建物を元和7年(1621)に移築したものだそうだ。

たまたま、国宝の光浄院(こうじょういん)客殿が特別公開をしていたので、そちらに向かうことにした。

光浄院客殿

境内での写真撮影が禁止されていたので、自分のカメラで外から撮影したのだが、門の奥にある大きな屋根が、国宝の光浄院客殿の屋根で、その左側に国名勝の光浄院庭園がある。

光浄院は三井寺の子院で、客殿は慶長6年(1601)に山岡道阿弥によって再建され、「書院造」の代表的遺構として国宝に指定されている。障壁画は狩野山楽をはじめとする狩野派の筆によるもので、国の重要文化財に指定されている。

光浄院

また客殿の南面に拡がる光浄院庭園は室町時代に作庭されたもので、国の名勝史跡に指定されている。上の画像は入口で頂いた絵葉書であるが、せめて庭園や建物ぐらいは自由に撮影させてほしいものである。

光浄院から南に進むと国宝の三井寺の金堂が見えてくるのだが、ここで三井寺の歴史を簡単に振り返っておこう。

壬申の乱(672)に敗れた大友皇子の子、大友与多王が父の霊を弔うために「田園城邑(でんえんじょうゆう)」を寄進して寺を創建し、天武天皇から「園城」という勅願を贈られたことが園城寺(おんじょうじ:三井寺)の始まりだとされている。
実際に境内からは白鳳時代の瓦が出土しており、その時期の創建であることが裏付けられているという。
その後9世紀に唐から帰国した留学僧円珍により再興されたが、円珍の死後、延暦寺では円仁派と円珍派との対立が激化し、正暦4年(993)に円珍派が比叡山を下りて園城寺に入り、以後山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺)の抗争が繰り広げられるようになり、園城寺はしばしば戦禍を被ることとなる。
そして文禄4年(1595)、豊臣秀吉の怒りに触れ、寺領の没収を命じられて、金堂をはじめとする堂宇は強制的に移築されたのだが、慶長3年(1598)に秀吉は死の直前にこの寺の再興を許可し、徳川家康らが再建に着手し、現在の堂宇が整えられたという。

園城寺金堂

上の画像は国宝に指定されている三井寺の金堂で、秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)の寄進により慶長4年(1599)に再建された安土桃山時代を代表する建物である。

金堂の南東には、慶長7年(1602)に再建された鐘楼(国重文)がある。鐘楼にかかる梵鐘は、近江八景「三井の晩鐘」で知られ、宇治の平等院、高尾の神護寺とともに日本三名鐘に数えられている。

閼伽井屋

金堂の後ろには慶長5年(1600)建立の閼伽井屋(あかいや:国重文)があり、その中に天智・天武・持統天皇の産湯に用いられたとされる泉があることから「御井(みい)の寺」とされ、「園城寺」の別名を「三井寺」と呼ぶのは、この泉に由来するのだそうだ。この閼伽井屋の正面上部に、左甚五郎作と伝えられている龍の彫刻がある。

園城寺 弁慶鐘

ここから山手に上がると、「弁慶の引摺り鐘」伝説で知られる奈良時代の梵鐘(国重文)がある。

園城寺一切経蔵

そのすぐ南には室町時代の中期の建造物で、慶長7年(1602)に毛利輝元が周防国の洞春寺から移築し寄進した一切経蔵(国重文)がある。堂内には輪蔵と呼ばれる八角形の回転書架がありその中に高麗版一切経が収められているという。

園城寺三重塔

その南には室町時代の建物で、徳川家康により慶長6年(1601)に大和吉野の比曽寺(現在の世尊寺)から移築された三重塔(国重文)がある。

園城寺 唐院灌頂堂

そしてその南には円珍の廟所である唐院があり、灌頂堂(国重文:上画像)、唐門(国重文)、大師堂(国重文)、四脚門(国重文)がある。この辺りは三井寺の中でもっとも神聖な区域とされ、大師堂には2つの木造智証大師坐像(国宝)があるが、普段は公開されていない。

園城寺毘沙門堂

唐院を出て石段を下りて南に行くと、右手に元和2年(1616)建立の毘沙門堂(国重文)がある。

園城寺観音堂

さらに右手の石段を登って行くと、元禄2年(1689)に再建された観音堂や観月舞台などの伽藍が立ち並んでいる。観音堂は西国三十三所観音霊場の14番札所となっており、本尊の木造如意輪観音坐像は国の重要文化財となっているが、33年ごとに公開される秘仏のため拝見することはできなかった。

三井寺の観光を切り上げて、最後の目的地である大津市木戸の安養寺に向かう。大津市は想像していた以上に広く、ここまで来ると比良山の麓になる。

安養寺

この寺は非公開寺院で、文化財指定のある仏像などはないのだが、前回記事で紹介した大津市歴史博物館の25周年企画で、この寺の末寺である西方寺の平安時代の仏像を出展しておられる。今回ある人の紹介を得て安養寺の住職のお話を伺うことができたのは有難いことである。

安養寺の由緒書きによると、この寺は貞和4年(1348)に木戸城主・佐野豊賢により建立されたのだそうだが、元亀3年(1572)に織田信長に木戸城が攻められた際にこの寺も罹災してしまう。

安養寺本堂

その後天正9年(1581)に幻誉信窮(げんよしんきゅう)上人により再興され、現在の本堂は寛政6年(1794)に再建されたものだそうだ。

安養寺阿弥陀如来像

安養寺の御本尊の木造阿弥陀如来立像は鎌倉時代に制作されたもので、もともとはこの地にあった正法寺という寺にあった仏像だと伝えられているが、6年前の調査でこの仏像の中から、鎌倉時代に納めたとみられる人間の歯と髪の束が見つかったという。そして輪状の髪の奉書の表面には「源氏女」と記されていたという。
このことは新聞でも大きく報道され、この仏像が大津市歴史博物館の『湖都大津社寺の名宝』展で、展示されたのだそうだ。

安養寺木造阿弥陀如来記事

平成21年10月7日付の京都新聞の記事によると、
「歯と髪の納入品が確認された仏像は全国的にも少ないという。歯等を入れるのは極楽往生を願ったり、仏像が生身に近づくという思想があり、博物館は『特殊な阿弥陀信仰の一端がうかがえ、貴重だ』としている」と書かれている。

また安養寺には、南北朝時代に描かれたという「阿弥陀来迎図」もある。写真で見ると衣の柄までが細かく描きこまれていて、頭髪には本物の人毛がらせん状に編み込まれているのだそうだ。

本物の「阿弥陀来迎図」は33年に1度開帳されるのだそうだが、2008年に開帳された際に傷んでいることに気付き、住職がこの来迎図を修復すると同時に、常に多くの人に見てもらえるようにと復元品の制作を決心され、4年がかりで完成されたという。

住職に本堂に案内いただいて貴重な復元品を見せていただいたが、素晴らしい阿弥陀来迎図であった。良く見ると金箔を髪の毛ほどの細さに切って後光だけでなく衣の模様までもが細かく表現されているのだが、遠くから見ると阿弥陀如来が光を発しているかのように神々しく見えた。
また本堂の裏には、円山応挙の次男である木下応受が描いた「拈華微笑図」もある。

前回の記事で、滋賀県には京都や奈良に次いで国宝や重要文化財が多いことや、文化財の指定を受けると法律の制約が多すぎるために、所蔵している仏像などに価値があることが分かっていてもあえて文化財指定を望まない寺社が多いことを書いた。
安養寺はかなり古くてしかも価値のあるものが残されていることは間違いがないのだが、いずれも文化財指定を受けていないのは、非公開寺院にとっては文化財の指定を受けるメリットよりもデメリットの方が大きいからだと私は理解している。

前回の記事で紹介した大津市歴史博物館の25周年の企画展で出展した寺院の多くは、観光においてはほとんど無名の寺である。滋賀県にはこういう名もなき寺に、古い仏像や仏画がいくつも残されていることに感心してしまったのだが、大津市歴史博物館の学芸員によると、「大津市近辺には今まで知られていなかった平安・鎌倉時代の仏像が数多くある」のだという。
「今まで知られていなかった」ということは文化財の指定を受けていないものがほとんどだと思われるが、そのような古い仏像が今まで大切に守られてきたことは素晴らしいことである。しかしながら、これから先このような貴重なものを、昔ながらの「祈りの空間」のままで、何百年にわたり維持していくことが可能なのだろうか。

冒頭で記した円満院の様に、戦後になって国の重要文化財すべてを失ってしまった寺もあるのだが、地域の高齢化が進んで寺を支えてきた檀家が減少するなどして、本業収入が減少傾向となっている寺は少なくない。安養寺はともかくとして、価値あるものを守り続けることは、多くの寺にとって容易なことではないのである。

前回の記事で少し触れたのだがが、今の文化財保護法では地方の文化財は守れない。この法律では、大手建設業者やセキュリティサービス業者は潤っても、寺社は逆に富を吸い取られることになりはしないか。
文化財を守るために一番大切な事は、これらの文化財を代々大切に守ってきた人々が、地元で普通の暮らしができる環境を整えることではないのか。若い世代が地元に残って生活が出来ない地方に未来はなく、地方の経済を活性化させて若い人が戻って来る経済施策こそが、地域の文化財を守り、地域の伝統文化を後世に繋いでいくために必要なことなのだと思う。

ではどうすれば地域を豊かにすることができるのか。
農家の人に話を聞くと、作物によっては、農協を経由して大手流通に売る場合と産直などで売る場合とは、農家の手取り収入が倍ほど違うのだそうだ。大手流通は利幅を取り過ぎており、地方の生産者は大手流通に農作物を売っても豊かになれない仕組みになっているということなのだが、このことを理解すると地方を豊かにさせるヒントが見えてくる。

都会の消費者が、都会資本の大手スーパーばかりで買い物をするのではなく、一部でも産直で買ったり、地元の生産者や加工業者などから直接ネットで買うようになれば、確実に地方の生産者は豊かになるのだ。そうすることで都会の消費者は、今まで以上に新鮮で美味しいものがかなり安く手に入り、地方の生産者は政府の補助金がなくとも潤うようになり、地域によっては若い世代が住み着くようになって、地域が経済的にも文化的にも甦ることが可能になるのではないだろうか。

そんな事を考えながら、滋賀県の文化財がこれからも長く地域の人々によって守られることを祈りつつ、いつものように地元の農産物や加工品などをいくつか買って、半日の旅を終えることにした。
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【ご参考】
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出石散策の後、紅葉の美しい国宝・太山寺へ
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近江八幡の歴史と文化を楽しんで

しばらく重たい話題が続いたので、気分転換がしたくなって滋賀県の湖東地区の文化財を訪ねる旅行をしてきた。

最初に訪れたのは西国三十三カ所の第三十一番観音霊場の長命寺(近江八幡市長命寺町157、☎0748-33-0031)である。聖徳太子開基と伝えられている古い寺で、近江守護佐々木氏の崇敬と庇護を受けて栄えたのだが、永正13年(1516)に佐々木氏と伊庭氏の対立による兵火により伽藍が全焼し、現存する堂宇は室町時代から近世初期にかけて再建されたものである。

かつての巡礼者は三十番観音霊場の竹生島宝厳寺から船でこの寺に参詣したというが、湖岸から長命寺まで続く808段もの石段を登るしかなかった。昔から「健康長寿」の御利益があるとされてきたのだが、健康で足腰が丈夫でなければ参詣することができなかった山寺である。

長命寺 階段

いまでは、細い道ではあるが8合目近くまで進むことが出来る舗装道が整備され、20台程度収容可能な駐車場がある。ここからだと、5~6分程度石段を登れば本堂に辿りつくことが出来る。しかしバスはこの細い道を走ることが出来ず、公共交通機関を使ってこの寺に行こうとすると、長命寺のバス停から30分程度かけて長い石段を登るしかないようだ。

長命寺 本堂

上の画像は本堂(国重文)で、大永4年(1524)に再建されたものである。堂内には聖徳太子作と伝えられる木造千手観音立像(国重文)が安置されているほか、多くの仏像が国の重要文化財に指定されているのだが、よく見ることができなかった。

長命寺三重塔

本堂右手には慶長2年(1597)に再建された杮葺きの三重塔(国重文)がある。

長命寺 境内

本堂の左手には三仏堂(県文化)、護法権現社拝殿(県文化)が続き、その左の少し高いところに鐘楼(国重文)がある。

長命寺 琵琶湖周遊の歌

この長命寺の境内に『琵琶湖周遊の歌』の歌碑があるのだが、西国31番の霊場であるのになぜ歌詞では10番なのかと寺の人に聞くと、昔から長命寺は31番であり、歌詞が誤っているとのことであった。帰宅後ネットで調べると、近江今津にある『琵琶湖周航の歌資料館』の係員がこの問題について、こう回答したと書かれていた。
「作詞の小口太郎は『西国三十一番長命寺』では歌にならない。其処で語呂合せして『西国十番長命寺』としたとの事である。その様にして全国的に歌われるように成ったが、長命寺の方からも事情熟知の上、寛大な処置を執られ変更要求はないと云う。」
http://www.geocities.jp/ikikansai_ryokoukenbunroku2/ryokoukenbunrokuno2/h19biwakosyuukousiryoukan.html

小口太郎は、21歳の頃三高(現京都大学)ボート部員として琵琶湖周航中、故郷の諏訪湖に思いを馳せながらこの詞を書いたのだそうだが、まさか100年近くこの歌が、国民に愛されて歌い継がれることになるとは予想もしていなかっただろう。仲間同士で歌うのだから、この程度の誤りは許されると軽く考えたのではないだろうか。
ちなみに、正しい西国十番観音霊場は京都府宇治市にある三室戸寺であり、間違えることがないようにしたい。

長命寺の観光を終えて、近江八幡の中心地に向かい、市営小幡駐車場(0748-33-2411)に車を駐める。

近江八幡観光マップ

近江八幡は五箇荘・日野とともに近江商人の代表的な出身地だが、もともとは豊臣秀次の八幡城築城にあわせてつくられた城下町であった。その際に造られた八幡堀は、城を防御する軍事的な役割だけでなく琵琶湖に直結して水運を利用する目的があり、八幡城が廃城後の江戸時代には、近江八幡は大阪と江戸を結ぶ重要な交易地として栄え、堀沿いには豪商たちの家や土蔵が立ち並んで、重要伝統的建造物保存地区に選定されている。

近江八幡 旧伴家住宅

最初に旧伴家住宅(近江八幡市立資料館)に入る。郷土資料館・歴史民俗資料館、旧西川家住宅と共通の入場券があるのでそれを買うのがお勧めだ。
旧伴家住宅は天保11年(1840)建築の木造一部3階建ての豪邸で、伴家は江戸時代から蚊帳・畳表・蝋燭などを商った家だという。

近江八幡 旧伴家 左義長

中に入ると、毎年3月中旬に行われる日牟禮八幡宮の左義長祭りの山車(だし)が展示されていた。本物の山車は祭りの最後に燃やされるので、この山車は展示の為にわざわざ制作されたものだが、するめやコンブやガムなどの食材だけで作られているのだそうだ。

明治時代になって伴家が没落したあと、この建物は学校や図書館などに利用されていたのだが、平成9年(1997)に明治26年(1893)当時の尋常高等小学校の姿に復元され、内部には近江八幡の歴史資料が展示されている。

旧伴家住宅の向かいには、近江八幡市立郷土資料館があり、隣接して歴史民俗資料館があり、考古資料や近江商人の帳場や生活用具などが展示されている。

次に旧西川家住宅に向かう。
西川家は蚊帳や畳表を商いした家で、この主屋は宝永3年(1706)に建てられて、土蔵とともに国の重要文化財に指定されている。

近江八幡 旧西川邸

西川家の家訓が記された掛軸があったのでカメラに収めておいた。
先義後利栄 好富施其徳」とは「道理をわきまえて商いをすれば、おのずと利益はついてくる。利益を得ることはわるいことではないが、それに見合った社会貢献をすることが大切である。」と説明してあった。昨今のわが国の大企業に、この家訓を実践している経営者がどれだけいるのだろうか。

近江八幡 商家の街並み2

上の画像は旧西川家の近くを写したものだが、近江八幡の中心部にはこのような街並みが残されていて、タイムスリップしたような気分になる。

近江八幡 日牟礼八幡宮 楼門

日牟禮八幡宮の鳥居を抜けて白雲橋を渡ると、立派な楼門が見えてくる。

近江八幡 日牟礼八幡宮 社殿

この楼門を抜けると優美な日牟禮八幡宮の社殿が並んでいる。
この神社は11世紀に勧請され、中世には近江守護の佐々木氏より武神としての信仰を集め、近世になって豊臣秀次によって城下町が形成され、のちに大阪と江戸を結ぶ重要な交易地として栄えるようになると八幡商人の熱心な信仰対象になったという。

この神社では、先ほど紹介した3月中旬に左義長祭のほかに4月中旬に八幡祭りという火祭りが執り行なわれ、ともに国の無形文化財に指定されているという。

近江八幡 八幡堀風景

参拝のあと境内のかたわらにある「たねや日牟禮茶屋」で昼食を取って、白雲橋を渡ってすぐの石段を下りて八幡堀巡りの船に乗る。上の画像は白雲橋から八幡堀を写したものである。

近江八幡 八幡堀遊覧1

八幡堀は琵琶湖の内湖である津田内湖と北の庄沢・西の湖を繋ぐ運河で、豊臣秀次が自刃して八幡城が廃城になった後は、八幡商人の拠点となり、地場産物の畳表・蚊帳・米・酒などを積んで、塩津で陸揚げされた産物は敦賀から奥州、蝦夷地に運ばれ、琵琶湖を南下すれば瀬田川から大坂にいたり、江戸まで運ばれたという。

鉄道や道路が出来て、水運としての役割を終えて、八幡堀はかなり荒廃したのだそうだが、市民の運動によって整備が進められて、今は近江八幡の観光名所となって時代劇などのロケ地に良く使われているようだ。

近江八幡のみどころは白壁、土蔵の続く街並みや八幡堀ばかりではない。市内の所々に美しい西洋建築物を楽しむことが出来ることもその魅力のひとつである。

近江八幡 白雲館

上の画像は、日牟禮八幡宮の鳥居の前にある白雲館だが、明治10年(1877)に八幡東学校として建てられ、建築費6千円の大半が近江商人の寄付によって賄われたという。その後この建物は役場などに利用されたのだが、今は観光案内所になっている。

白雲館は日本人大工・高木作右衛門が建てたのだそうだが、近江八幡の洋風建築の多くは米国人W.M.ヴォーリスが手掛け、市内の各地に現存している。

ヴォーリス

W.M.ヴォーリスは明治38年(1905)に滋賀県立八幡商業高等学校の英語教師として来日したのだそうだが、放課後バイブルクラスを開いて多くの学生を感化したことから町民の反感を買い、明治40年(1907)に教職を追われて翌年に京都で建築設計監督事務所を開業し、明治43年(1910)に近江八幡でヴォーリス合名会社*を設立した。
彼はこの近江八幡を拠点にして日本各地で学校や教会、病院、商業建築、個人邸宅などの建築に携わり、1千棟を越える建物を設計したという。
*大正9年には「近江セールズ株式会社」を創業し、のちに「株式会社近江兄弟社」と改名し、「メンソレータム」の販売権を取得した。しかし昭和49年(1974)に経営が傾いて販売権を売却。今は少し処方を変えて「メンターム」という商品名で販売している。

近江八幡 旧ヴォーリス住宅

上の画像は旧ヴォーリス住宅で、ヴォーリスの後半生の自邸である。(県指定有形文化財)

近江八幡 アンドリュース記念館

上の画像は明治40年(1907)に竣工したアンドリュース記念館で、ヴォーリス建築第1号の建物である。

近江八幡小学校

上の画像は近江八幡市立八幡小学校で、ヴォーリス建築には分類されていないようなのだが、改築時にヴォーリス事務所が関わったという情報がある。改築時期が判明せずW.M.ヴォーリス本人が関与したかどうかは確認できなかったが、いずれにしてもこんなに素晴らしい校舎で学べる子供達は幸せだと思う。
http://biwahama.exblog.jp/3052488/

近江八幡 池田町洋風住宅街

上の画像は、池田町洋風住宅街で、古い煉瓦塀の中に洋館が建っている。これもヴォーリスが手掛けた建物である。

近江八幡 たねや日牟禮茶屋

近江八幡の中心部を歩いて多くの人が気付くと思うのだが、ここにはチェーン店の派手な看板がほとんど見当たらない。古い街並みの美しさを残すためには看板は控えめであるべきなのだが、地元の店舗の店構えを見るとそのことがよく理解されていて、景観を大切にしておられることがよく分かる。

昭和30年代から40年代の高度経済成長期に、「国土の再開発」と称して全国各地に残されていた古い街並みが破壊されて多くの都市が個性を失っていった。また平成7年(1995)の阪神大震災で、「瓦屋根は危険」と喧伝されて、多くの古い住宅が建て替えられていったのだが、近江八幡にこれだけの古い街並みが美しく残されていることは本当にすごいことだと思う。

この景観を守るために地元の人々に様々な苦労があったことだと思うのだが、それを乗り越えることが出来たのは、地元の人々に郷土を愛する心が経済的動機以上に強かったからなのであろう。

近江八幡が観光地として発展して、素晴らしい伝統文化が承継されて歴史的景観が末永く守られることを祈りたい。
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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

国宝・新羅善神堂近辺の散策の後、大津市歴史博物館で比叡山ゆかりの古仏を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-418.htm

三井寺の国宝・重要文化財観賞の後、非公開の寺・安養寺を訪ねて
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http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-422.html


誰が安土城を焼失させたのか~~安土城跡と近隣散策記

近江八幡の中心地の観光を終えて安土城跡(近江八幡市安土町下豊浦)に向かう。

安土城絵

安土城は、織田信長が天下統一の拠点として、重臣である丹羽長秀を総普請奉行に据えて安土山に築城させた城である。上の画像は大阪城天守所蔵の「安土城図」で、現在は四方とも干拓されて陸地になっているが、当時は琵琶湖の内湖に囲まれていたことがわかる。

安土城の天守が完成したのは天正7年(1579)のことだが、その3年後の天正10年(1582)の6月2日に本能寺の変が起こり、織田信長は自刃したとされ、その混乱の最中の6月15日に、この城は天守などを焼失してしまったのだが、焼けた原因については諸説がある。

豊臣秀吉が祐筆の大村由己(おおむらゆうこ)に書かせた『惟任*退治記』では光秀の娘婿・明智秀満が放火したことになっているが、秀満は安土城を14日未明に撤収しており、安土城が焼けた15日には坂本城で堀秀政の軍の包囲されたのち自害しているので、安土城の焼失に関わっていることはありえない。また信長の二男の織田信勝という説もあるが、安土城を受け継ぐべき信長の息子が、放火することには違和感を覚えざるを得ない。他には、略奪目的で野盗や土民が放火したとか、落雷で焼失したという説があるが、そのような原因であるならば、何も記録に残っていないことが不自然すぎるのだ。
*惟任(これとう):明智光秀のこと

明智憲三郎

以前このブログで「本能寺の変」とその後の勢力争いについてについて5回に分けて書いたが、そこで何度か紹介させていただいた明智憲三郎氏の『本能寺の変 427年目の真実』では、安土城に火をつけさせたのはズバリ徳川家康だとしている

明智憲三郎氏はこの著書で、家康と光秀が繋がっていたことを論証しておられ、その流れで考えると徳川家康説はなかなか説得力があるのだ。明智氏はこう解説しておられる。

「家康は10日に光秀支援に向かう出陣の命令を出し、6月14日に尾張鳴海に進出しました。そして19日まで戦闘態勢をとっていました。では光秀を支援するための軍事行動として鳴海に出陣しただけだったのでしょうか。
 その時点では安土に明智秀満がいました。当然、家康は安土城の秀満とも連携をとろうとしたはずです。家康は安土城へ支援部隊を送ったと考えられます。
 それを裏付けるように、奈良興福寺多聞院主の書いた『多聞院日記』の12日の記述には、『秀吉が既に摂津に到着して猛勢な上に、家康が既に安土に着陣したとのこと』と書かれています。興福寺は筒井順慶と密接な関係があり、順啓に関わる情報はかなり確度の高い情報を入手していたことで知られています。12日時点で『家康が安土に着陣』ということは、家康は10日の出陣命令と同時に安土へ支援部隊を送っていたのではないでしょうか。
 14日に、山崎の合戦の敗北を知った秀満は、徳川の支援部隊に安土城を委ねて坂本城へ向かいました。そのあと安土に残った家康軍の支援部隊はどういう行動をとったでしょうか。…
 三河の家康にとって安土城がどのような意味を持っていたかを考えれば答えは明白です。家康の領土近くに存在する強大な軍事拠点である安土城は、家康にとって脅威以外の何物でもなかったのです。これを信長の後継者が確保することは何としても阻止したかったはずです。何しろ家康は甲斐の織田勢と戦っている最中だったのです
 したがって家康は、支援部隊が安土城を放棄する場合には城を破壊せよ、と命じていたに違いありません。支援部隊はその命令に従い、安土城天守に火を放って撤退したのです。
 この推理を裏付けるのが、そこに実行犯とされる部隊がいたことです。つまり服部半蔵たちの伊賀者です。『伊賀者由緒忸(ならびに)御陣御供書付』には、伊賀越えで家康を護衛した伊賀者たちが、15日に鳴海で揃って徳川家に侍として採用されたことが書かれています。15日といえば、まさに安土城天守炎上の当日です
 家康は身軽に動ける伊賀者を安土に送り、彼らが安土城破壊を成し遂げた褒美として、徳川家の家臣に正式に取り立てたのです。それはある種の口止め策でもあったでしょう。後には江戸城の裏門を勲功の褒賞として半蔵門と命名したのはあまりにも有名です。」(プレジデント社刊『本能寺の変 427年目の真実』p.185-187)

いつの時代もどこの国でも、権力を奪いとる戦いの中には記録が残されていない出来事が多々あるもので、このような出来事の真相究明には、確認されている事実と矛盾しない仮説を立てるしかないのだが、私は従来説よりも明智憲三郎氏の説の方に信憑性を感じている。

安土城地図

近江八幡の小幡駐車場から安土城跡へは6km程度で15分程度で到着する。
安土城跡には2つの駐車場があって、西側にある市営駐車場は有料(\510)で、東側の摠見寺(そうけんじ)の駐車場(☎0748-46-2142)は無料である。
国の特別史跡に指定されているとはいえ、城跡の拝観料としては700円は結構高いので、知っている人は誰でも東側の駐車場を利用する。この日の西側の駐車場はガラガラだった。

安土城 大手道石段

受付を過ぎると、山腹まで幅広い大手道がまっすぐに伸びている。
大手道の左側の伝羽柴秀吉邸跡があり、大手道の右側には伝前田利家邸跡がある。その上に摠見寺仮本堂がある。摠見寺は以前はもっと西側にあったのだが、安政元年(1854)に本堂などを焼失してしまい、昭和7年(1932)になって、かつて徳川家康邸があった場所に仮本堂が建てられたのだそうだ。

安土城 大手道の石仏

山腹部分に入ると、大手道はジグザグに屈曲しながら延びていて、この部分の踏石や縁石に石仏が数多く使われているのに驚いてしまった。

安土城 本丸跡

城の主郭部へは黒金門跡から入り、二の丸跡には信長廟があり、その東側には本丸跡がある。

上の画像は本丸跡である。『信長公記』によると、この建物には天皇を招き入れる『御幸の間』があったと記載されており、その後の調査で慶長年間に改修された京都御所内の清涼殿に酷似した構造になっていることが判明したという。

安土城 天守閣への石段

本丸跡から天守跡に繋がる階段を登っていく。

安土城天守跡

ここが天守跡だがこの場所に五層七階の天守が聳えていたのだ。

安土城の天守を訪れたイエズス会のルイス・フロイスはこのようにこの城を絶賛している。

「信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩しうるものである。事実、それらはきわめて堅固でよくできた高さ60パルモ*を越える――それを上回るものも多かった――石垣のほかに、その美しい華麗な邸宅を内部に有していた。それらにはいずれも金が施されており、人力をもってしてはこれ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄えを示していた。そして(城の)真中には、彼らが天守と呼ぶ一種の塔があり、我らヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。事実内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている。外部では、これら(七層)の層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を拝した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上階はすべて金色となっている。この天守は、他のすべての邸宅と同様に、我らがヨーロッパで知る限りのもっとも堅牢で華美な瓦で掩われている。それらは青色のように見え、前列の瓦にはことごとく金色の丸い取り付け頭がある。屋根にはしごく気品のある技巧を凝らした形をした雄大な怪人形が置かれている。このようにそれら全体が堂々たる豪華で完璧な建造物となっているのである。これらの建物は、相当な高台にあったが、建物全体の高さのゆえに、雲を突くかのように何里も離れたところから望見できた。それらはすべて木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰で造られているかのようである。」(中公文庫『完訳フロイス日本史3』p.112-113)
*パルモ:掌を拡げた時の親指から小指の長さをいい、1パルモは約22cm

イエズス会のフロイスがこう書いているのだから、この時代のわが国の建築技術は世界的に見てもかなり高い水準にあったことは確実だ。しかし、ここまでフロイスから絶賛された建物は、先ほど記したとおりわずか3年で焼失してしまい、再建されることはなかったのである。

安土城天守跡からの眺め

天守跡に立って琵琶湖の方面を眺めると、遠くの方にかすかに湖面が見える。冒頭に記したとおり眼前に広がる水田のかなりの部分は干拓地で、以前の安土城は琵琶湖の内湖に囲まれていた。

琵琶湖干拓

小中之湖地区地域用水能増進事業のホームページ『水土里ネット』に干拓前の昭和10年頃と現在の琵琶湖のわかりやすい地図が掲載されている。この地図で安土城の位置を確認すると、天守の最上階からの景色がどのようなものであったか、おおよその見当がつく。
http://shonaka.siga.jp/now_past/

安土城 摠見寺三重塔

天守跡を下りて、摠見寺三重塔(国重文)に向かう。

摠見寺

摠見寺は安土城築城時に城内に創建され、安土城炎上に際しては類焼を免れて、江戸時代末期までは織田信長の菩提をまもるという役割を担ってきた寺である。しかし先ほど述べたように、嘉永7年(1854)にこの近くにあった本堂を含む大半の伽藍が焼失し、幸運にも焼けなかった三重塔と仁王門が今も旧境内地に残されている。上の画像は『近江名所図会』に描かれた、本堂を焼失する前の摠見寺の境内である。

安土城 摠見寺仁王門

上の画像は摠見寺の仁王門(国重文)で、脇間の金剛二力士像も国の重要文化財に指定されている。

安土城 伝秀吉邸の石垣

摠見寺の仁王門から石段を下りていくと左に折れて大手道方面に向かう道があり、まっすぐ進むと、伝羽柴秀吉邸跡に到着する。ずいぶん立派な石垣のある邸宅跡に驚いてしまった。

摠見寺の駐車場に戻って、次の訪問地である沙沙貴(ささき)神社(近江八幡市安土町常楽寺1 ☎0748-46-3564)に向かう。この神社は、近江源氏佐々木氏の氏神として尊崇されてきた『延喜式』式内社の古社である。
佐々木氏の子孫には、京極、黒田といった大名家や旧財閥の三井家や乃木希助らがいて、毎年10月の第2日曜日に行われる近江源氏祭には、全国から佐々木氏ゆかりの人々が参集し、宇多天皇*が愛護したという舞楽を奉納するのだという。
*宇多天皇:在位887~897年。近江佐々木氏は自らを宇多天皇の皇子敦実親王の子孫としている。

沙沙貴神社

神社でこんなに豪壮な楼門(県指定有形文化財)はあまり見たことがないのだが、茅葺の大きな屋根が独特の雰囲気を醸し出している。提灯に描かれている四つ目結紋は佐々木氏の家紋だ。

沙沙貴神社 拝殿本殿

上の画像は拝殿本殿(いずれも県指定有形文化財)だが、火災で焼失したのち嘉永元年(1848)に再建されたものである。

沙沙貴神社のすぐ近くに、ヴォーリス建築の旧伊庭家住宅(近江八幡市安土町小中191 ☎0748-46-6324)が常時公開されているので立ち寄った。

旧伊庭家住宅

この建物は大正2年(1913)に、旧住友財閥の総理事伊庭貞剛が発注し、その4男の伊庭慎吉の邸宅として建てられたものである。
伊庭慎吉は絵画の勉強に学生時代にフランスに留学し、明治43年(1910)に帰国後八幡商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)の美術教員となり、結婚後明治44年(1911)に沙沙貴神社の神主となって大正2年(1913)にこの邸宅が完成後に移り住んだという。その後大正10年まで同神社の神主を勤めたのち、昭和6年(1931)から昭和8年(1933)までと、昭和16年(1941)から20年(1945)までの2期にわたり安土村長となったのだが、昭和26年(1951)には京都の牛ヶ瀬にある親族の離れに移り住み、この家は人手に渡ったという。
昭和53年(1978)に土地建物が安土町の所有となり、老朽化のため建物は取り壊される予定があったのだが、後世に残すべきとの声や篤志家の寄付もあって、安土町の指定文化財第1号*として修復され保存されることになった経緯にある。
*現在は近江八幡市指定文化財

詳しい年表が次のURLに出ているが、伊庭慎吉は村長に就任する前に安土城の石段の修復や、摠見寺の仮本堂の建築に資金面で尽力*していたことが記されている。彼がそのために支援した金額は半端な数字ではなかったことは想像するに難くない。
*絵画仲間の小杉放庵の絵を伊庭慎吉が買いとって、仮本堂建築や石段の整備のための基金にしたことを、放庵の長男が記述しているという。
http://wayback.archive.org/web/20080130142708/http://www.town.azuchi.shiga.jp/edu/iba/ibatei5.html

外観は洋風の建物であるのだが、1階には和風の玄関や書院造の座敷があるのは意外であった。2階は全体的には洋風を基調としているが建具や天井などに和風を取り入れていているほか、伊庭慎吉の広いアトリエがあり、窓からは安土城跡と摠見寺のある安土山を望むことが出来る。慎吉は部屋からこの山を眺めながら、安土城の修復や摠見寺の再建に思いを馳せていたことだろう。

旧伊庭家住宅 内部

ボランティアの方の説明を聞いた後、1階の食堂の椅子に腰を掛けて冷たいお茶をいただくことができた。レトロな雰囲気の中でゆったりとした時間が流れ、寛ぐことが出来てとても良かった。

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【ご参考】安土城が焼失する前に本当は何があったのか。興味のある方は覗いてみてください。

本能寺の変で信長の遺体が見つからなかったのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-97.html

本能寺の変で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-98.html

明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変③.
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-99.html

家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変④
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-100.html

秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変⑤
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-101.html


白壁と蔵に囲まれた五箇荘の近江商人屋敷めぐり

今回の旅行の計画を練っている時に、現在のわが国の一流企業で近江商人にルーツがある企業が随分多いのに興味を覚えた。近江商人とは近江に本拠地をおく他国稼ぎ商人のことである。

Wikipediaに近江商人の流れを汲んでいる主な企業名が出ている。
【流通業】
大丸、高島屋、白木屋、藤崎、山形屋、西武グループ、セゾングループ
【商社】
伊藤忠商事、住友財閥、双日、トーメン、兼松、ヤンマー
【繊維関係】
日清紡、東洋紡、ワコール、西川産業
【その他】
トヨタ自動車、日本生命保険、武田薬品工業、ニチレイ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%95%86%E4%BA%BA

わが国を代表するような有名企業が多いのに驚いたのだが、ネットで調べるとほかにも数多くの上場会社がヒットする。
ではなぜこの地域に商業が栄え近江商人が勇躍するようになったのか。東近江市にある近江商人博物館の林氏によると、きっかけは織田信長だという。

織田信長

2014年8月22日の日経記事にこう解説されている。
「 信長は自らが支配下に置いた中部から近畿にかけて関所を撤廃し、人と物資の往来を自由化。水運の大動脈、琵琶湖を擁する近江では、商売にまつわる旧来の制約を取り払って楽市・楽座を敷いた。『そのおかげで商才にたけた人材が育った』(林さん)
 江戸期に入っても、近江は江戸と京都、大坂を結ぶ交通の要衝だった。林さんは『近江商人の強みは、江戸や京都、大坂など各地の情勢をいち早く知る情報収集機能を持っていたこと。現在の商社のような存在だった』と話す。
 近江商人が商売の心得としたのが『三方良し』、すなわち『売り手良し、買い手良し、世間良し』の精神だった。特に『世間良し』とは、質素倹約や地域社会への還元を重んじる考えだという。」
http://www.nikkei.com/article/DGXLASHC14H0F_V10C14A8AA1P00/

『三方良し』は、近江商人が到達した商いの精神を端的に表す言葉として良く引用される言葉で、その意味するところは「商いというものは売り手も買い手も適正な利益を得て満足する取引であるべきであって、その取引が地域社会全体の幸福につながるものでなければならない」といった共存共栄の精神である。

しかるに戦後のわが国の大企業の経営は、いつしか『三方良し』の精神を忘れ、優越的地位を濫用して自社の利益ばかりを追求する企業が出てきて数々の問題を起こしてきたのだが、その反省から昨今ではようやく『企業の社会的責任』が重視されるようになってきている。
近江商人は古くから、収益至上主義を戒め経済合理主義だけで会社を経営することは誤りであることを認識していたのだが、今の大企業の経営者で、近江商人の『世間よし』の考え方を実践している人がどれだけいるのだろうか。

前々回の記事で近江商人の町である近江八幡の古い街並みを紹介したが、ほかにも多くの近江商人を輩出した地域がある。
東近江市五箇荘金堂地区もその一つで、この地域は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、その町並みが観たくて今回の旅行の2日目に組んでいた。

町並みを観る前に近江商人博物館(東近江市五箇荘竜田町583 ☎0748-48-7101)に行く。

3階が近江商人博物館で映像やジオラマで近江商人を育んだ地域の歴史や文化、近江商人の暮らしや教育などの展示がわかりやすく説明されている。体験コーナーではてんびん棒などを実際に肩に担いでみることが出来たが、結構重かった。
建物の2階は東近江市名誉市民の日本画家で文化功労者の中路融人の作品が展示されている記念館になっており、結構楽しむことが出来る。

博物館に車を置いたまま五箇荘金堂地区の重要伝統的建造物群保存地区に向かう。

弘誓寺 表門

最初に浄土真宗の弘誓寺(ぐぜいじ)に立ち寄る。
この寺の記録では正応3年(1290)の創建で、開基は本願寺第3世・覚如(かくにょ)上人の高弟・愚咄(ぐとつ)坊とされ、初めは犬上郡石畠(現豊郷町石畑)にあったが、慶長の頃にこの地に移ったと伝えられている。一説では愚咄は、平家物語巻十一で弓矢で扇の的を落とした人物として描かれている那須与一の嫡孫と言われていて、表門の瓦をよく見ると扇がデザインされている。

弘誓寺

本堂(国重文)は入母屋造・本瓦葺の立派なものでは寛政8年(1796)頃に完成したと推定されている。

外村繁邸 正面
鯉の泳ぐ通り沿いに北東に進むと、近江商人屋敷の外村繁邸がある。近くに外村宇兵衛邸・中江準五郎邸があるので、3館セットの入館券を購入する。

外村繁

外村繁邸は明治28年(1895)に、4代外村宇兵衛の分家として始まり、東京日本橋と高田馬場に呉服木綿問屋を営んだ家なのだが、この家に生まれ育った外村繁は大学卒業後父親が急逝したため家業を継ぐが、やがて弟に家業をゆずり小説家として再出発し『草筏』(第5回池谷信三郎賞)『筏』(第9回野間文芸賞)、『澪標』(読売文学賞)がその代表作だ。邸内には外村繁の作品原稿などの展示がある。

外村繁邸 庭

この家の庭は幕末から明治前期に活躍した勝元鈍穴が作庭したものだそうだが、よく整備されていて、今もなかなか趣がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E5%85%83%E9%88%8D%E7%A9%B4

外村繁邸 台所

昔は私の実家にも大きな竈があり「おくどさん」と呼んでいた。「おくどさん」のある空間を見るとなぜか心が落ち着く。

外村宇兵衛邸

花筏通りをはさんで向かい側には外村宇兵衛邸がある。この建物は万延元年(1860)に建てられたものだという。
宇兵衛家は呉服類の販売を中心に商圏を広げ、明治時代には全国長者番付に名を連ねて近江を代表する豪商としての地位を築き、2723㎡という広大な敷地に主屋・書院・大蔵・米蔵など十数棟が立ち並んでいたそうだが、建物や庭が半分程度取り壊されてしまったことは残念なことである。

外村宇兵衛邸庭

五箇荘町が主屋や庭の改修をしたのだそうだが、ただ樹木を植えればよいものでもなかろう。

外村宇兵衛邸 人形

中に入ると、五箇荘在住の人形師である東之湖(とうこ)さんの作品が展示されていた。
いずれの人形もとても愛らしく、じっと見ていると語りかけてきてくれそうなリアリティがある。
東之湖さんの高校時代はラグビーで国体に出場し活躍した選手だったのだそうだが、高校卒業後家業の人形屋の手伝いを始めて数年後に、顔の皮膚が壊死する難病(膠原病)を患い、入退院を繰り返す生活が彼の人生観を変えた。毎日新聞の今年3月19日の記事によると、彼はこの闘病生活によって「一生懸命生きることの大切さ、人の優しさのありがたみを知りました。人にとって最も大切なのは愛。『人の形』とは『愛の形』だと思うようになりました。」という。
http://mainichi.jp/articles/20160319/ddl/k25/040/614000c

そして平成23年(2011)に東日本大震災が起き、被災された地域の人々の苦しみが今までの自分の境遇と重なり、何か自分に出来ることはないかと考えて、毎年一対のひな人形を製作して被災地に贈っておられるのだそうだが、実にすばらしい心がけだと思う。

五箇荘の街並み

外村宇兵衛邸から北西に向かう。上の画像は花筏通り街並みを写したものだが、左手は中江準五郎邸だ。

あきんど通り沿いに昭和8年に建てられた中江準五郎邸の入口がある。

中井準五郎邸 内部

中江家は近世に呉服小間物商を営み、明治時代に近江商人の家に奉公していたというが、その後明治38年(1905)に三中井呉服店を発足させ、昭和9年(1934)には三中井百貨店と改称。戦前には朝鮮半島・中国大陸に20余店舗を擁する大百貨店として隆盛を誇ったのだが、昭和20年(1945)の敗戦により対外資産の全てを失ってしまった。

中井家 小幡人形

中江家の中には、五箇荘が生んだ郷土玩具である小幡(おばた)人形と全国の土人形が多数展示されている。小幡人形は享保年間(1716~36)に初代細居安兵衛が作りはじめ、いまも伝統の技法が当地で受け継がれているのだという。
http://www.ayaha.co.jp/spe-b23.htm

中井準五郎邸 庭

中井家の庭は外村繁邸と同様に勝元鈍穴の作庭によるもので、よく手入れされていてなかなかいい雰囲気だ。

近江商人博物館の駐車場に戻り、藤井彦四郎邸(東近江市宮庄町681 ☎0748-48-2602)に車で向かう。ここには20台程度駐車できるスペースがある。

藤井彦四郎邸玄関

藤井彦四郎は明治40年(1907)に藤井糸店を創業。日本で最初にレーヨンを輸入し、手編み毛糸「スキー毛糸」の製造販売を手掛けて一代で財を成した人物である。上の画像は玄関である。

中に入るとすぐに総ヒノキ造りの客殿に案内される。
この客殿は昭和8~9年(1933~34)に京都から宮大工を呼び寄せて建築された建物で、釘は1本も使われておらず、どの部屋も細部にいたるまで手を抜かずに造りこまれているのに驚く。この建物と洋室が滋賀県の有形文化財に指定されている。

藤井彦四郎邸 客間1

客間は3つあり、最初の客間には三代の総理大臣の直筆の書が飾られている。上の画像の左から鈴木貫太郎、平沼騏一郎、田中義一が揮毫したものである。

藤井彦四郎邸 客間から見た庭

上の画像は客間からみた藤井邸の庭だが、琵琶湖を模した池を中心に作庭された雄大なもので、個人の邸宅でこれほど広くて美しい庭は少ないと思う。この庭は東近江市の名勝に指定されている。

上の画像は東側にある客間で、この部屋で賀陽宮恒憲王や徳富蘇峰らが接待されたという。

藤井彦四郎邸 庭

この家の敷地面積は8155㎡にもおよび、外村宇兵衛邸のほぼ3倍の広さがある。庭を歩いていると、どこかの有名なお寺の庭を散策しているような気分になる。

藤井彦四郎邸 山荘

客間から「山小屋」とも呼ばれている洋間に入ると、まるで一流ホテルのロビーのように重厚感がある。調度品のそれぞれが素晴らしいものばかりで、ピアノは大正時代の最高級の国産ピアノだという。
この素晴らしい場所で、毎年数回ピアノとフルートによるコンサートが行われるのだそうだが、一度生演奏をここで聴きたいものである。ネットで探すと2014年の6月に行われたコンサートがYouTubeで紹介されている。


日本のいちばん長い日

この藤井彦四郎邸は、昨年封切された『日本の一番長い日』のロケで、役所広司扮する陸軍大臣・阿南惟幾宅として用いられ、この部屋もロケで用いられたことが、映画の公式サイトの次のURLで確認できる。
http://nihon-ichi.jp/about/location.html

主屋には近江商人の帳場が再現され、台所用品や食器など生活資料の外に、この屋敷を訪れた皇室からの下賜品など展示品も随分見ごたえがあった。
五箇荘金堂地区から離れているために訪れる観光客は少ないようだが、読者の皆さんが五箇荘近辺に来られた際には、この藤井彦四郎邸にも立ち寄ることをお勧めしておきたい。

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【ご参考】古い街並みを歩くことが好きな方に、こんな記事はいかがですか。

五條市に天誅組と南朝の歴史を訪ねて~~五條・吉野の旅その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-11.html

鞆の浦周辺の古い街並みを楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-96.html

白骨温泉から奈良井宿、阿寺渓谷を散策のあと苗木城址を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-165.html

郡上八幡の歴史と文化と古い街並みを楽しんで
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-334.html

京都伏見歴史散歩~~御香宮から大倉記念館
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-37.html

又兵衛桜を楽しんだのち宇陀松山の街並みを歩く
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-443.html

また弓の名人・那須与一は平家滅亡後に頼朝と不和になり、浄土宗を開いた法然に弟子入りしたようです。よかったら覗いてみてください。

武士であることを捨てた弓の名人、那須与一
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-62.html


藤の咲く季節に、日野町の歴史と文化を楽しんで

先日、滋賀県蒲生郡日野町に行ってきた。日野町にはいろいろ行きたいところがあって、どうせ行くのならこの季節にと決めていた。桜や紅葉の時期も候補に考えていたが、この町には樹齢300年の有名な藤の咲く寺がある。その藤が見頃を迎えたので最初にその寺に向かうことにした。

正法寺の藤 2

その寺の名前は、正法寺(滋賀県蒲生郡日野町鎌掛(かいがけ)2145 ☎0748-52-4422)で、「藤の寺」とも呼ばれている

正法寺本堂と藤

正法寺は奈良時代に行基が開基したとされ、元禄5年(1692)に普存(ふそん)禅師が、近くの八坂神社にあった観音堂をこの地に遷して再興したと伝えられているが、この時に京都の仙洞御所から移されたという藤の苗が300年の歳月を経て今も見事な花を咲かせている

正法寺の藤

案内板によると「この藤は『ノダフジ』で、正法寺山をその昔、後光山と呼んでいたのでその名をとって『後光藤(ごこうふじ)』と呼ぶようになった。」とある。
毎年5月上から中旬に見頃を迎えるというが、今年はやや遅めのようだ。

正法寺の藤 3

境内に入ると藤の甘い香りが漂ってくる。
藤の花は今まで何度か見ているが、こんなに大きな藤棚で咲いているのを見るのは初めてだ。房の長さは、長いものは1メートルを越えるのだそうだが、うす紫色の藤が棚一杯に咲き揺れる景観は素晴しいの一語に尽きる。この藤棚を守るために、今まで多くの人々の苦労があったことだと思う。

正法寺 石造宝塔

正法寺の御本尊の十一面観音菩薩像は秘仏のため拝観できなかったが、境内に国の重要文化財である石造宝塔が残されていて、塔の背面に「正和二二年」と彫られているのが読める。案内板には「正和四年(1315)」と記されていたのが気になって自宅で調べると、「正和」という元号は六年で終っており、干支が「乙卯」なので正和四年しかありえないのだが、なぜ四年を「二二年」としたかはよく判らなかった。

日野地図

正法寺をあとにして、国天然記念物に指定されている鎌掛の屏風岩に向かう。地元の方に道を教えていただいて、歩いて15分程度で辿りつく。

屏風岩

案内板によると、「もともとは六曲屏風を立てたような巨大な岩だったが、鎌掛石の名勝で江戸期に建材用に切って搬出し、現在は約三分の一のみが残る」とある。この岩の右に、以前は直角の長い岩があと2列連なっていたということになる。

日野町鎌掛には花の名所が他にもあって、四月下旬から五月上旬にかけて花が咲くという、約4万平米に及ぶホンシャクナゲの群生地がある。ホンシャクナゲはツツジ科の常緑低木で、通常は標高800m以上の高所に自生するのだが、ここでは標高350m前後の山間に約2万本が自生していて、国の天然記念物に指定されている。もう少し早ければ斜面に大量の花が咲く景観を楽しめたのだろうが、そうなると正法寺の藤を見ることが出来ないのでどちらかを選択するしかない。
http://www.biwako-visitors.jp/event/detail/3576

屏風岩に向かう途中の道に咲く石楠花

正法寺から鎌掛の屏風岩に向かう途中で、たまたま自生のシャクナゲの花が咲いていたのでカメラに収めた。「ホンシャクナゲ群落」に行っても遅咲きの花が少しは咲いていたようなのだが、県道182号線沿いの駐車場から歩いて片道20分から30分程度かかると聞いていたので、今回は諦めた。
正法寺の藤とホンシャクナゲ群落の開花情報は、日野観光協会が次のURLに最新情報をアップしているので事前に確認された方が良い。(正法寺の藤の花房は5月20日に刈り取られる予定)
http://www.hino-kanko.jp/archives/category/flower

正法寺の駐車場から西明寺(さいみょうじ:蒲生郡日野町西明寺1238 ☎0748-52-2647)に向かう。

西明寺 本堂

この寺は奈良時代に創建され、その後何度か戦火に遭い荒廃してしまったのだが、仏像や典籍は守られ、江戸時代初期に再興されて永源寺の末寺となったとある。

事前に予約すれば拝観させて頂けたかもしれないが、本尊の十一面観音像は平安時代の仏像で国の重要文化財に指定されている。また大般若波羅蜜多経601帖が滋賀県の指定文化財だ。

西明寺の石仏群

寺の石垣の上に、近くの蓮台野から発掘されたという石仏が並べられている。(蓮台野石仏群)
案内板には「中世の大寺院であった西明寺の境内墓地蓮台野へ、近隣の庶民が火葬骨を葬って供養として造立した五輪塔や石仏であり、石仏のほとんどは阿弥陀如来像を半肉彫に陽刻している。鎌倉時代から室町時代にかけての中世庶民信仰を探る上で、この石仏群は貴重な文化財である。」と記されていた。

次に馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ 日野町村井711 ☎0748-52-0131)に向かう。

馬見岡綿向神社

社伝によると、欽明天皇の時代(545年)に綿向山の頂上に祠が建てられたのを始まりとして、延暦十五年(796)に里宮としてこの場所に遷されて以降、日野の人々の信仰の中心となってきた。鳥居の奥にある建物は拝殿で、日野商人中井源左衛門が享和三年(1803)に寄進したものである。

馬見岡綿向神社 絵馬

拝殿の西側には絵馬堂があり、ひときわ大きな絵馬が飾られているのに驚く。この絵馬は蒲生氏郷公が生まれたお祝いとして殊に盛大に行われた祭礼の絵を、文化九年(1812)に日野商人の中井源左衛門・正治右衛門が日野の絵師・谷田輔長(たにだほちょう)に描かせて寄進したものだそうだ。

馬見岡綿向神社 本殿

現在の本殿は宝永7年(1707)に氏子の寄進により建造されたそうだが、入母屋造・銅板葺で、正面に千鳥破風・軒唐破風をつけ、さらに唐破風造の向拝を設けた非常に立派な建物で、滋賀県の文化財に指定されている。

このような立派な社殿が、権力者ではなく地元の人々によって建てられたことだけでもすごいことなのだが、この神社を舞台に毎年5月2日、3日に行われる日野祭の曳山や神輿の豪華さも半端ではない。曳山が登場した時期は諸説があり、17世紀の中頃とも18世紀前半とも言われているが、いずれにしてもこれらは日野商人達の財力に支えられて、贅の限りをつくして作られたものだという。

ネットで探すと、今年の800年以上の歴史を持つこの日野祭の様子を多くの人がyoutubeで紹介している。
https://www.youtube.com/watch?v=3KjJUqak9wM

5月3日の昼頃には各町内より繰り出された十基以上の曳山が馬見岡綿向神社境内に勢揃いし、神輿も3基繰り出されて、日野の町は祭り一色となる。曳山は実は十六基あるのだそうだが、神輿の当番が回ってきた町は曳山を出さない決まりがあるのだそうだ。

https://www.youtube.com/watch?v=wZzdDZWlf4k

日野祭は神輿も曳山も豪華絢爛だが、お囃子がまたテンポが良くて聴くだけで気分が乗ってくる。
ネットで「馬鹿囃子」がアップされているが、曲目はほかにも「ヤタイ」「オオマ」などいくつかあり、各町から曳山が馬見岡綿向神社に向かう時(上り山)や、曳山を方向転換する時(ぎんぎり回し)、神社に宮入りする時、神社から各町に帰っていく(下り山)時など、場面によって囃子が変わるのだという。町特有の曲もあるようで、曳山を持つ町内では毎年子供からお年寄りまでが集まって、何度も練習を繰り返すことになる。
囃子方だけで16組で約180人がいるのだそうだが、メンバーそれぞれがすべての曲目を暗譜して、全員の息が合うまでは大変な苦労があると思うが、素晴らしい伝統文化であるからこそ、多くの人をひきつける魅力があるのだろう。私もいつか、祭りの時期にこの町を是非訪れてみたい。

馬見岡綿向神社から正明寺(しょうみょうじ:蒲生郡日野町松尾556 ☎0748-52-0227)に向かう。

正明寺参道

正明寺の参道横に略縁起が記されていた。
「戦国の兵火に焼失後、僅かな霊仏のみが守護されていたのを、江戸初期に郷人頓宮宗右衛門が古刹再興を発願して奔走。時の大本山永源寺管長であった一絲文守(いっしもんじゅ)国師に法援を懇請し、その旨が後水尾法皇に奏上されて叡慮を動かした。
時あたかも改築中であった禁裏御所の一棟と白銀が下賜され、正保4年(1647)の頃に正明寺再建が成就。直ちに黄檗宗の大徳龍渓大和尚を開山禅師として迎え、以後、檀信徒を始め近江日野商人達の篤き帰依を得つつ、黄檗専門道場の寺格を整え、近江における黄檗宗の中心寺院としての歴史を刻み、数多くの名僧を輩出してきた。」
この寺も、日野商人がこの寺の発展に寄与したことが読み取れる。

正明寺本堂

上の画像は本堂(国重文)だが、この檜皮葺きの建物は寺伝にあるとおり、時の京都御所の一棟の主要な部材を用いて仏殿風に建造されたものである。
本尊は鎌倉時代の十一面千手観音で、右脇に不動明王、左脇に毘沙門天があり、三体とも国の重要文化財に指定されているが、いずれも御開帳は33年に1度で次は2043年になるようだ。次のURLにモノクロの画像が出ている。
http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/topics/hibutu2011.html

鎌倉時代の木像大日如来坐像(県文化) が安置されている禅堂(県文化)や、一切経が収められた経堂(県文化)など多くの文化財を持つ寺だが、一般拝観を受け付けているかどうかがよくわからなかった。自宅にもどって調べると湖東霊場二十七名所に選ばれているようなので、電話予約すれば拝観ができたかもしれない。

お昼時になったので、ネットで評判の高いレストラン岡崎に向かう。車で3分程度走れば国道477号線沿いに大きな看板が見える。
https://tabelog.com/shiga/A2503/A250302/25001039/

近江牛を生産している牧場の直営店だが、お手頃なメニューの中から和風ソースのサイコロステーキを選択した。
口の中で溶けるような肉の柔らかさで、割安な価格で至福の時を過ごすことが出来たのだが、ワインが飲めなかったのが残念だった。

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【ご参考】このブログで地域の伝統や文化についていろいろ書いてきました。良かったら覗いてみてください。

郡上八幡の歴史と文化と古い街並みを楽しんで
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-334.html

「観音の里」長浜の桜と文化を楽しんだあと、徳源院や龍潭寺、井伊神社を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-384.html

大阪のてっぺん 浄瑠璃の里~~地域の文化を継承するということ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-184.html

京北の常照皇寺と山国隊の歴史を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-502.html

播磨の国宝寺院の神仏習合の景観を楽しんで~~朝光寺・浄土寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-357.html

後南朝の皇子にまつわる川上村の悲しい歴史と土倉庄三郎
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-455.html

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蒲生氏郷が生んだ日野商人の豊かさ

前回の記事で、馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)の春の例祭で八百年以上の歴史ある日野祭のことを書いた。
この祭りで引き出される曳山や神輿が豪華絢爛で、これらは日野商人達の財力によって贅の限りをつくして作られたものだという。
またこの神社の拝殿は日野商人中井源左衛門が享和三年(1803)に寄進したものであり、本殿も「氏子」の寄進により建造されたとある。

また日野町松尾ある正明寺(しょうみょうじ)に行くと、略縁起には江戸時代に「日野商人達の篤き帰依」により、寺が栄えたことが記されている。

清水町街並み
【清水町町並み】

日野町には他にも数多くの価値ある文化財が残されていて、古い町並みを歩けば大きな邸宅がいくつも残されていてこの地域がかつては相当豊かであったことがわかるのだが、この町の豊かさをもたらした「日野商人」はどのような活動をして富を蓄積していったのか。

日野商人像
【日野商人像(日野小学校)】

「日野商人」とは、近江商人の中で日野地方出身の商人を言うのだが、「近江商人」は近江(滋賀県)に本拠地をおいて近江国外に進出して活動した商人をいい、Wikipediaには大丸、高島屋、伊藤忠、住友財閥、日清紡、トヨタ、武田薬品などわが国の一流企業で近江商人にルーツがある企業が多いことが記されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%95%86%E4%BA%BA

「近江商人」についてもう少し調べていくと、出身地によって取扱商品も違えば活躍した時期も地域も異なるようだ。日野商人は他地域の近江商人と比べると、小型店舗で多数の店を出店したところに特徴があるという。

近江商人分布
【『三方よしを世界に広める会』サイトより】

『三方よしを世界に広める会』のサイトに「近江商人」の歴史がわかりやすくまとめられている。
「近江を本拠地として地元の特産品を中心に全国各地へ行商に出かけ活躍した商人を近江商人といいます。近江商人の起源は、鎌倉・南北朝時代にまでさかのぼるといわれていますが、戦国時代の終わり、近江を治めた織田信長による安土城下の「楽市楽座」をはじめとする商業基盤の整備が、のちの近江商人の繁栄に大きく貢献したといわれています。
楽市楽座は、城下町での商業誘致を進めるために自由営業を許可した制度で、蒲生氏郷ら近江の戦国大名たちは、信長にならって自分たちの城下町にも楽市楽座を開設しました。
信長は他にも、通行税を徴収していた関所を撤廃するなど、商人にとって恩恵のある政策を進めました。これら信長の経済政策は後の豊臣秀吉にも受け継がれ、近江の国の商業はこの時代に飛躍的に発展します

そして江戸中期になると商業で力を持ちはじめた近江を幕府が天領として直接治める事になります。幕府の直轄下に置かれた商人たちは「葵」の紋の入った通行手形で日本各地の関所を優位に通行できるようになり、各藩の御用商人としてあるいは幕府の御用商人として全国を股にかけ大躍進を遂げていったのです。近江商人は、地域ごとに活躍した時期や取扱商品等その特性が異なるため、出身地によって高島商人・八幡商人・日野商人・湖東商人とに大きく分けられます。」
http://www.sanpoyoshi.net/profile.html

蒲生氏郷
【蒲生氏郷】

この解説に登場する戦国大名の蒲生氏郷は、日野に生まれて日野城主となり、天正十二年(1584)に伊勢国松ヶ島に転封されたのだが、本能寺の変のあった天正十年(1582)の十二月に、十二ヶ条の掟を日野城下に出している。
昭和八年に出版された『伊勢松坂城及び其の城下町』という本に、その掟の全文が紹介されていて、その第一条が「当町為楽売楽買上者諸座諸役一切不可有之事」とあるように日野において楽市楽座の制度が敷かれ、その6年後に氏郷が、転封先の松坂においても同様な掟を出したことが記されている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1208513/27

蒲生氏郷は、今までの独占販売権、非課税権などの特権を持つ商工業者を排除して自由な取引市場をつくり、新興商工業者を育成して経済の活性化を図ろうとしたのだが、日野商人がいかに氏郷に感謝していたかは、馬見岡綿向神社の絵馬堂に行けばわかる。

馬見岡綿向神社 絵馬

前回の記事でも紹介したが、上の画像は文化九年(1812)に日野商人の中井源左衛門・正治右衛門が馬見岡綿向神社に寄進した絵馬で、蒲生氏郷公が生まれたお祝いとして殊に盛大に行われた祭礼の行列を描いたものである。

また、昭和十三年に出版された『土地及び聚落史上の諸問題』という書物には、蒲生氏郷が転封されても、その後を追った日野商人が少なくなかったことが記されている。
「それにしても日野商人はなお蒲生氏との旧縁を辿ってその進路を新にした。まず、先に秀吉の定書に、日野町民の松ヶ島移住を黙許した如く、彼らは松ヶ島に日野町の一街区を拓いて之に従い、のち氏郷奥州に転封せらるるや、また日野町民の相従うもの少々ではなく、かつまた絶えず町民は彼地に往返していた。かくしてこの両地への往返は、自然に彼等をしてその沿道に物資の供給店舗の開設等に関し、慧眼なる観察を怠らざらしめ、後年に至り彼等の勢力を扶持する地盤となった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281193/195

このように少なからずの日野商人たちは、蒲生氏郷が伊勢松ヶ島に転封されるとその地に移住したり商圏を広げ、さらにて天正十八年(1590)に陸奥国会津に転封されると、氏郷に相従ったと記されている。氏郷の人望の高さもあるのだろうが、彼の経済政策が日野商人たちに強く支持されたことがポイントだと思う。氏郷の国替えが結果として日野商人の商圏を拡大することに繋がり、利益を蓄積していったということなのだろう。日野町の豊かさは蒲生氏郷を抜きには語れないのだ。

日野まちなか観光マップ

日野町には日野商人の旧宅がいくつか公開されているので紹介したい。
日野町中心部の地図は日野観光協会が制作した『日野まちなか散策まっぷ』を確認願いたい。
http://www.hino-kanko.jp/html/map.html

馬見岡綿向神社から歩いて3分程度のところに近江日野商人ふるさと館(蒲生郡日野町大字西大路1264 ☎0748-52-0008)がある。
この屋敷は静岡県富士宮市で酒造業を営んだ日野商人・山中正吉の旧邸で、平成27年に日野町の有形文化財に指定されている。敷地面積は1300㎡とかなり広い邸宅だ。

一見、建物は質素に見えるのだが、内部の調度品が素晴らしく建築資材も簡単に手に入らないものを数多く用いているという。

近江日野商人ふるさと館 台所

上の画像は台所とオチと呼ばれる3畳の間だが、カマドは黒タイル貼りで火鉢は切り株を磨いたもののようだ。

近江日野商人ふるさと館 新座敷

上の画像は昭和になって増築された新座敷。
新座敷の東側には広大な庭園があり、仁正寺藩*主拝領の梅古木や、近江の石工小松嘉兵衛作の燈篭などが据えられている。寺の庭園を見ているような気分になる。
*仁正寺藩(にしょうじはん):近江国蒲生郡仁正寺(現在の滋賀県蒲生郡日野町)に存在した藩。元和6年(1620)に成立し、初代藩主は市橋長政。

本宅の座敷で、月に一度ランチを食べるイベントが開かれているようだ。入館料込み千円で手作りの伝統料理を戴けるのは随分魅力的だが、同館のHPにイベントの案内が出ている。
http://www.hinofurusatokan.jp/category/%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88%E5%91%8A%E7%9F%A5/

近江日野商人ふるさと館 洋間棟

この邸宅の洋室もまた素晴らしい。このまま映画のロケに使えそうな雰囲気の部屋である。

近江日野商人館 入口

昼食の後、車で近江日野商人館 (蒲生郡日野町大窪1011 ☎0748-52-0007)に向かう。
この建物は日野商人山中兵右衛門の旧宅で、初代兵右衛門は親戚から日野椀二駄を借りて行商に出たのち、御殿場をはじめ各地に支店を持つ大商人になったという。

近江日野商人館 内部

中に入るとすぐに日野椀日野合薬に関する展示があった。
400年ほど前の日野の特産物は漆器の「日野椀」が知られていて、日野商人により全国に販売されていたようだ。300年ほど前からは薬が作られるようになり「萬病感応丸」などの日野の薬が日野商人によって全国の商店や宿屋などの取次販売店に卸されたのだそうだ。
当時の薬の販売方法は、置き薬商法が一般的だったのだが、日野商人は、今日でいうところのフランチャイズ方式を先取りして販売網の拡大をはかったという。
展示物の解説には、この日野合薬の利益により、日野商人が成長し、庶民が潤ったと記されていた。近江商人の町で豪華な曳山があるのは、日野町だけなのだそうだ。

近江日野商人館 座敷と庭

近江日野商人館のパンフレットに初代山中兵右衛門が文化2年(1805)に記した家訓の一部が紹介されている。

・社会奉仕の実践を
 ・小口のお得意ほど大切に
 ・一攫千金を狙うな
 ・偽装をするな
 ・薄利多売の商いを
  など」

初代山中兵右衛門の言っていることは現代の企業においてもそのまま通用するものばかりなのだが、この家訓の精神を忘れてしまって信用を失って凋落した企業がここ数年間で少なくないように思う。
ひと昔前は大手企業が新聞やテレビの広告を用いて、実物以上の商品イメージを消費者に広めて拡販する手法が行なわれていたのだが、若者が新聞を読まなくなってその手法が通用しなくなっている。今ではSNSなどで会社や製品の良い話も悪い話もすぐに拡がってしまうようになっており、経営者はマスコミを用いたイメージ戦略が通用しなくなってきている。
大量生産・大量販売で大きく稼ぐことよりも、良いものをリーゾナブルな価格で提供することで時間をかけて消費者の評価を高めていくことの方が重要な時代に変わりつつあるように思うのだが、つまるところ近江商人の精神に戻ることが企業経営者に求められるようになってきたのだ。
ネット社会では、良いものを作って都会の消費者から評判を勝ち取れば、地方の中小企業にも十分チャンスがある。逆に、宣伝にコストをかけて大量に売りさばく方法で稼ぐことは、次第に難しくなっていくのではないだろうか。

日野まちかど感応館 外観

近江日野商人館から日野まちかど感応館(蒲生郡日野町村井1284 ☎0748-52-6577)に向かう。
萬病感応丸」の大きな看板のある建物がこの建物の目印で、日野商人を発展に導いた日野合薬の創始者が正野玄三である。玄三はそれまでは日野椀や茶などの行商で収入を得ていたが、18歳の時に京都の名医の診療で母の病気が治ったことから医師を志し、医師になったのちは、医薬に恵まれない山間僻地や日野商人の長旅用の道中薬として感応丸を作り、それが評判になったという。この建物は、江戸時代末期に建てられた正野薬店の店舗である。

日野まちかど感応館内部

内部には薬業に関する資料の展示があるほか、喫茶コーナーも設けられている。

西田礼三郎邸

さらに東に進むと古い街並みが残されているところがある。
上の画像は、新町街並の中心にある西田礼三邸。残念ながら内部公開はされていないが、案内板によると江戸時代の大庄屋の家で、西田家は関ヶ原の戦い直前に徳川家康公に日野鉄砲三百挺を献上したとの記録があるそうだ。日野鉄砲は近江日野商人館でも展示があったが、日野町は当時、鉄砲の一大生産地でもあったようである。

西田礼三邸の土塀の中央に窓のようなものがあるが、これは「桟敷窓」といい、日野祭の時はこの窓ごしに、曳山の行列を観賞するのだそうだ。西田邸に限らず日野町の古い屋敷には、たいてい「桟敷窓」が設けられている。

信楽院本堂

もう少し東に進んで右に折れると、蒲生家の菩提寺であった信楽院(しんぎょういん:蒲生郡日野町村井1500 ☎0748-52-0170)がある。たまたま檀家総出で落慶法要の準備をしておられたので御本尊に手を合わせて帰っただけだが、本堂の天井に描かれている「雲竜図」は一見の価値がある。この絵を描いたのは日野出身の高田敬輔(けいほ)で狩野派の絵師なのだそうだ。次のURLにその豪快な「雲竜図」を見ることが出来る。
https://blogs.yahoo.co.jp/pipo_satoshi/33400796.html

信楽院は、以前は日野城内にあったのだが、蒲生氏郷が天正十二年(1584)に転封したのちこの寺は一時荒廃し、蒲生氏旧臣の尽力により、慶長七年(1602)にこの地に再興されたのだそうだ。

日野の人々はよほど蒲生氏が好きなようだ。蒲生氏郷は転封された後元禄四年(1595)に病死し、その5年後の慶長五年(1600)には、かつて蒲生氏の居城であった日野城は廃城とされ、慶長十一年(1606)には破却されている。
にもかかわらず慶長七年(1602)には蒲生氏の菩提寺は再興され、さらに元和6年(1620)に仁正寺藩が成立して藩主が市橋家となり、その七代目市橋長昭が藩主であった文化九年(1812)には日野商人の中井源左衛門・正治右衛門が、蒲生氏郷公が生まれたお祝いとして殊に盛大に行われた祭礼の行列を描いた特大の絵馬を馬見岡綿向神社に寄進しているのである。日野の人々にとっては、藩主が蒲生家から市橋家に代わって約200年の時が過ぎても、蒲生氏郷は英雄的存在であったようなのだ。

信楽院から日野城址の地図

信楽院まで来ると、蒲生氏の居城であった日野城(中野城)阯まであと1kmだ。信楽院からの行き方は上の地図を参考にしていただきたい。
地図の右下は日野川ダムのダム湖である。湖畔に駐車場があり、そこから林の中に入れば日野城の石垣の一部が残されている。

日野城の石垣

この城は天文三年(1534)に蒲生氏郷の祖父である蒲生定秀(さだひで)が築城した平城(ひらじろ)で、定秀・賢秀(かたひで)・氏郷の三代が50年にわたって在城した。また、この城は本能寺の変(1582)のおり、織田信長の妻子が身を寄せた城としても知られている

江戸時代後期に編纂された『仁正寺由緒記』によると、日野城の規模は東西八丁、南北6丁で、城内には本丸、二の丸、馬場、上・下屋敷、矢倉などが配され、築城には三年の歳月がかかったという。

仁正寺藩邸跡

日野城が慶長十一年(1606)に破却されたのち、城址の北側の一角に仁正寺藩邸が設けられのだが、藩邸の建物の大半は大正六年に京都相国寺の塔頭・林光院に移築され今は石碑が建っているだけだ。

日野川ダム湖

残念なことに、昭和二十八年(1953)から日野川ダム建設が開始されて、日野城の遺構の大半が失われてしまっている。今は、わずかに残された石垣が、往事の名残をとどめているのみである。

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【ご参考】戦国武将についてこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

毛利元就の「三本の矢」の教えはいつの時代の創作なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-185.html

慈眼堂、滋賀院門跡から明智光秀の墓のある西教寺を訪ねて考えたこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-345.html

光秀は山崎の合戦で死んでいないのではないか…「光秀=天海説」を考える その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-346.html

大友宗麟はキリスト教に接近し、洗礼を受ける前から神社仏閣を破壊した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-437.html

島左近は関ヶ原の戦いで死んでいないのではないか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-425.html

宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-377.html

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滋賀県に残された神仏習合の景観などを楽しんで~~邇々杵神社、赤後寺他

以前このブログで、神社の境内の中に塔が残されている事例をいくつか紹介した。
奈良時代には仏教を広めるために日本古来の神道との融合策がとられ、神社に神宮寺が併設されたり、寺に鎮守社が建てられたりしたのだが、そのような神仏習合が平安時代になると仏が仮に神の姿で現れるという本地垂迹思想が広がり、神社に神の本地である仏を祀る本地堂を建てたり、神宮寺に仏教の祖である釈迦の舎利(遺骨)を祀る塔が建てられたりして、神社の境内の中に仏教施設が存在することが普通にあった。

しかしながら、明治維新期に神仏習合を否定する神仏分離令が出されて、そのために神社境内の仏教施設や仏像などはほとんど破壊されるか移されてしまったのだが、神仏分離の徹底度合いは地方により異なり、以前このブログでいくつか紹介した通り、今でも神仏習合時代を彷彿とさせる景観を残している寺社が少数ながら各地に存在する。

滋賀県の北部にいくつかそのような景観を残していそうなところがあるので以前から行きたいと思っていたのだが、長浜市に向かう旅程の中に組み入れて先日訪問してきた。

邇々杵神社 鳥居

最初に訪問したのは邇々杵(ににぎ)神社(高島市朽木宮前坊289)である。
上の画像はこの神社の鳥居で、どこにでもありそうな神社にしか見えないのだが、境内を進むと美しい多宝塔が見えてくる。

邇々杵神社 境内

『レファレンス協同データベース』にこのような解説が出ている。
「『滋賀県百科事典』によりますと、…古くは朽木(くつき)大宮権現と称し、そのまつるところを日吉大宮権現とし、市場の山神社とともに朽木谷の産土神である。新旭町井ノ口の大荒比古神社とおなじく佐々木氏の祖神をまつることから1875年(明治8)には河内社といった。その後、境内社瓊々杵尊(ににぎのみこと)、十禅師社を主殿として、今の社号にあらため、河内神社を境内社とした。『神宮寺縁起』に859年(貞観元)僧相応が葛川明王院を創立したとき、この神を勧請したという。(中略)神社の東隣りに相応を開山とする神宮寺があり、創建当時(平安時代)のものといわれる木造重層の多宝塔がある。(河原喜久男)」とあります。」
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000094462

「権現(ごんげん)」というのは日本の神の神号のひとつで、神々が仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたと考える本地垂迹思想に基づくものである。明治の初期には「権現社」「権現宮」「権現堂」の多くが廃され、「権現」の神号を用いることを一時禁止されたために、権現を祀る神社の多くは本地仏を廃して祭神(垂迹神)のみを祀るようになり、祭神の名前も記紀神話の神を比定したのである。その過程で神社の仏教施設の殆んどが失われてしまったのだが、どういうわけか朽木大宮権現では建物も仏像などもそのまま残されたようなのである。当時の村人たちにかなりの苦労があったのではないかと思うのだが、当時の記録をネットで発見することは出来なかった。

邇々杵神社 多宝塔

上の画像が邇々杵神社の多宝塔で、前掲の『レファレンス協同データベース』では平安時代のものと記されていたが、今の多宝塔は江戸時代に再建されたものであることが案内板に明記されている。
「多宝塔は、朽木神宮寺宝塔として神宮寺に属していたが、邇々杵神社の奥の院とも称し、古来から信仰厚く、宝塔内には木造釈迦如来像(藤原時代の作風を伝える鎌倉時代初期の仏像で胎内には朽木神宮寺の墨書銘がある)と二十三体の薬師如来像をまつっている。
創建は神宮寺と同じく貞観元年(859)に造営されたが、その後荒廃破損し、天保十三年(1842)五月十三日に再建したものであり、朽木村にとって貴重な文化遺産である。」

「朽木村」という村は安曇川の上・中流域にかつて存在し、京への木材の供給地として、また京都と若狭を結ぶ街道筋として栄えた歴史を持つが、平成十七年(2005)の市町村合併で高島市に編入されてしまい、「朽木村」の指定文化財であった多宝塔は、高島市の文化財に指定されているようだ。

以前はこの神社の東側に神宮寺があったのだが昭和二十六年(1951)に焼失してしまい、今では多宝塔と、火災後に建立された小堂が残されているだけである。

海津大崎

邇々杵神社をあとにして海津大崎に向かう。
ここの桜は「日本さくら名所百選」にも選定されていて、例年だと長浜曳山祭りが行われる頃にほぼ見頃を迎えるのだが、今年は満開の時期があまりにも早すぎた。ボタン桜の一部が咲いていたものの、ほとんどが散ってしまったあとだった。

海津大崎の桜は、昭和初期に滋賀県高島地方事務所の宗戸清七氏が自費で桜の若木を植え始め、その桜が咲きだすと村の青年団も協力するようになり、今の桜並木の原型が形作られたのだという。今では湖岸を走る県道557号線に約4kmにわたり約800本の桜の木が植えられていて、満開時には桜のトンネルのような状態になるというのだが、こんなに長い桜並木は見たことがないので、何年かのちの満開の頃に再チャレンジしたいところである。

大崎寺

海津大崎にある大崎寺(高島市マキノ町海津128)を訪ねる。この寺は近江西国三十三所観音霊場九番札所で、本尊の千手観世音菩薩立像はこの寺を大宝二年(702)に開基したとする泰澄の作と伝えられている。

大崎寺 阿弥陀堂

旧本堂(大崎観音堂)を修復する際に、豊臣秀吉が安土城落城の際に戦死した人々の血痕の残る城材を用いたことから、観音堂の天井は「安土の血天井」として有名であったというが、昭和四十一年(1966)の観音堂改修に際し、今度はその城材がこの阿弥陀堂に使われたという。どこに血痕があるのかよく見てもわからなかったのだが、案内板には今でも梅雨の頃になると血痕が滲みだして痕跡が現れると記されていた。

大崎寺からは、奥琵琶湖パークウェイを走って葛籠尾崎(つづらおざき)を経由して長浜に抜けるコースを選んだのだが、この道路沿いにも多くの桜が植えられている。残念ながら桜の季節は終わっていたものの、奥琵琶湖の景観は素晴らしかった。
このパークウェイは秋の紅葉も美しいことで知られており、四季折々の自然美が楽しめそうなので、また走ってみたいと思う。

奥琵琶湖

奥琵琶湖は険しい山が琵琶湖に沈みこんでいるような地形で、琵琶湖では最も水深の深いところでもあるのだが、人間の居住環境の痕跡がほとんど認められないにもかかわらず、縄文時代から平安時代後期までの数多くの土器が水深10~70mの湖底で大量に発見されている(葛籠尾崎湖底遺跡)。現在までに約140点がひきあげられたのだそうだが、その成因についてはいまだに結論が出ていないという。
http://www.pref.shiga.lg.jp/edu/sogo/kakuka/ma07/treasure_of_water/files/wot_16.pdf

長浜市に入り、予約していた赤後寺(しゃくごじ:長浜市高月町唐川1055 拝観予約090-3164-7486)に向かう。

赤後寺と日吉神社の鳥居

上の画像が赤後寺に向かう階段で鳥居の奥に見えているのが赤後寺の観音堂なのだが、仏教施設が神社の境内の中心にあるとは驚いた。
この観音堂の右に日吉神社の本殿があり、左に鐘楼がある。鳥居を潜りぬけてお寺に拝観に行くのは随分久しぶりの経験だ。

赤後寺と日吉神社

寺には住職はおられず、地元の方が交代で奉仕されて今日まで貴重な文化財が守られてきた。境内も綺麗に清掃されており、観音堂の内部もお供えがなされていて、この観音様が地元の人々にとても大切にされていることが良くわかる。
拝観は事前予約制で、当番の方から詳しく説明を受けることが出来る。

赤後寺の厨子

立派な厨子の中には平安時代初期に製作されたご本尊の木造千手観音菩薩立像と木造菩薩立像(伝聖観音立像)が安置されていて、いずれも国の重要文化財に指定されている。またご本尊は通称「コロリ観音」と呼ばれていて、災いを利に転ずる仏として親しまれてきたという。

案内の方に厨子の扉を開けていただいた。
十一面千手観音といっても42本の腕の内残っているのは12本で、手首から先は失われてしまっている。頭上にいただいていたはずの十一面も何もない。木造菩薩立像については掌だけでなくつま先も失われてしまっている。
とても痛々しいお姿ではあるのだが、凛とした包容力あふれる表情と、肉付きの良い堂々とした体躯に迫力を感じて、腕の破損が次第に気にならなくなってくる。残念ながら仏像の撮影が禁止されていたので紹介できないのだが、ネットで探すと次のURLにこの2躯の仏像の画像がでている。
http://butszo.jp/2014/03/2086/kannonnosato16/

赤後寺の創建は奈良時代の僧・行基と伝えられ、中世には神仏習合により日吉神社と一体のものとして人々の信仰を集めてきたという。
しかしながら戦国時代になって、近江は何度も戦場となり、村の人々はこの仏像をお守りするために寺から何度か運び出して、ある時は田の中に埋め、ある時は川底に隠したりしたそうだ。

赤後寺と御枕石

天正十一年(1583)に行われた豊臣秀吉と柴田勝家との戦い(賤ケ岳合戦)では寺が火災に巻き込まれたのだが、村人たちは夜間に仏像を運び出し、村に流れる赤川まで背負ったのち川底に沈め、さらに仏像が流されないように枕石を置いたという。しかしながらその際に川の増水のために仏像の宝冠や光背、手などが流されてしまったと伝えられている。境内にはその時に使われた枕石と伝わる石が置かれている。

昼食をとってから、次の目的地である安楽寺(長浜市細江町105)に向かう。この寺は特に神仏習合的な要素はないのだが、庭園などに見どころがありそうなので旅程に入れていた。

安楽寺 門

奈良時代はこの近辺は藤原不比等の荘園であったそうなのだが、この場所に安楽寺が創建されたのは弘安二年(1279)のことだという。
その後室町幕府を開いた足利尊氏より寺領三百石と長刀が寄進され、さらに二百石が加増され寺は隆盛を極め、大伽藍のほかに塔頭二ヶ寺、寺侍六軒を有する大寺院だったようだ。しかしながら元亀元年(1570)の姉川の戦いで多くの堂宇が焼失してしまい、それからしばらく荒れ地となっていたが、江戸時代になって彦根藩主が庇護し、第二代藩主井伊直孝公が龍潭寺開山萬亀和尚に命じ再建されて現在に至っている。

安楽寺 庭園

この寺の庭園は夢窓国師が作庭したと伝えられる池泉回遊式庭園で、中央の池は琵琶湖に見立てたものだという。奥様に淹れていただいたお茶を頂きながら、縁側に座って庭を鑑賞していると、時折小鳥が飛んで来て羽を休める。小鳥のさえずりを聴きながらゆっくりと時間が流れる。

仙厓禅師六曲屏風一双・山号額

本堂の脇に寺宝が収められている部屋があり、案内していただいた。海北友松の水墨画や白隠禅師の達磨画像、仙厓禅師六曲屏風一双・山号額、井伊直弼の掛け軸、足利尊氏画像など想定した以上に貴重なものがいろいろあるのに驚いた。

安楽寺の松と龍

帰り際に奥様から、「『龍』を見てください」と境内に案内されて、「このあたりからよく見えます」と言われて案内された松をよく見ると、枯れた枝が親子の龍が空を飛んでいる姿に見えるのである。
面白いのでいろんな角度からこの松を観てみたのだが、見る位置を変えると龍の姿にはならないところが面白い。

神仏習合の景観を残す竹生島に向かう船の時間調整で旅程に入れた安楽寺だったが、庭園や寺宝に見るべきものが多く、気さくな奥さんの案内で結構楽しく過ごすことが出来た。(つづく)
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【ご参考】
このブログで神仏習合の景観を残している寺や神社を幾つか訪ねてきました。よかったら覗いて見てください。

香住から但馬妙見山の紅葉と朱塗りの三重塔を訪ねて~~香住カニ旅行2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

日吉神社、大垣城、南宮大社から関ヶ原古戦場に向かう
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-338.html

播磨の国宝寺院の神仏習合の景観を楽しんで~~朝光寺・浄土寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-357.html

日本百名城の一つである小諸城址から龍岡城跡、新海三社神社を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-401.html

白馬落倉高原の風切地蔵、若一王子神社、国宝・仁科神明宮などを訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-404.html

東大寺二月堂に向け毎年「お水送り」神事を行う若狭神宮寺を訪ねて~~若狭カニ旅行1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-217.html

新緑の書写山・円教寺と、その「奥の院」と呼ばれる弥勒寺に残された神仏習合の世界
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-452.html









現存する唯一の忍術屋敷を訪ねて~~甲賀歴史散策その1

滋賀県の甲賀と言えば「忍びの里」を思い浮かべる程度だったのだが、調べてみるとこの地域には貴重な文化財や伝統文化が残されているのに興味を覚えて、週末に日帰りで甲賀市の名所旧跡を巡って来た。

甲賀流忍者屋敷

最初に訪れたのは『甲賀流忍術屋敷』(甲賀市甲南町竜法師2331 ☏0748-86-2179)で、この住居は甲賀忍者であった望月出雲守の旧宅であり、現存する唯一の忍術屋敷だという。

外見は一般的な平屋の日本建築で元禄時代に建てられた住居なのだが、内部は三階になっていて、随所に様々な工夫が凝らされている。そのような仕掛けのある住居であることを知られずに長い間使われてきたそうだが、昭和30年の調査により、紛れもなく本物の忍術屋敷であることが認定されたという。

忍術屋敷 門

この屋敷の面白さは、ガイドさんの説明を聞けばよくわかる。説明時間は約30分程度で1時間に1度は必ず説明しておられるのでその話は必ず聞いて帰るべきである。
待ち時間が15分程度だったので、ビデオ映像を見た後、手裏剣投げ(8投\300)が面白そうなのでチャレンジしてみた。
建物の外に出るとゴルフの練習で使うようなネットがあり、親指と人差し指で手裏剣を持って、中央の的をめがけて回転を入れて投げるのだが、ボールを投げるよりかはコントロールがかなり難しい。座敷で甲賀忍者秘伝の「健保茶」を飲みながら待っていると、ガイドさんの解説の案内があり、資料室に向かう。

ガイドさんの説明中は一切の撮影や録音が禁じられているので、屋敷のカラクリについて読者の方に詳しくお伝えすることが出来ないが、どんでん返しや隠し梯子、落とし穴や地下道など、侵入してきた敵から身を護るために様々な仕掛けがされていて、忍者衣装を着たガイドさんの説明が非常にわかりやすく、大人も子供も結構楽しめるのでお勧めしたいスポットである。

甲賀流忍者屋敷 からくり

上の画像は説明の後で撮影を許された落とし穴だが、どんでん返しの板壁の隣の部屋は簡単に床板を外すことが出来、床下はこのように深い穴になっている。どんでん返しの板壁は、180度回転すると同じ方向には回らない仕組みになっているので、敵はそのことが気付くまで何度も同じ方向に板壁を動かそうとするが動かない。ようやく反対側が回ることが気付いた時には、隣部屋の床板が外されていて床下の穴に落ちざるを得ない。
この穴は3mの深さがあるので侵入してきた敵は脱出することが出来ず簡単につかまってしまう。
あるいは自らこの穴に入り、床板を元に戻して、横穴を通って隣の同族の屋敷に逃げることも可能になっているという。

忍術屋敷2階

上の画像は隠し階段を上って到達する二階の部屋だが、天井が低いので普通の長い刀は振り下ろせない。2階に隠してある短刀を用いて戦うことも可能だし、3階に上って縄梯子で1階に行くことも可能だ。

手裏剣

ガイドさんの説明のあとは自由に撮影が可能となり、資料室の展示物などを見学する。
資料室には忍者が実際に使っていた手裏剣、撒き菱、忍法書、薬や火薬を作る道具などが展示されているほか、甲賀忍者の歴史や望月氏の歴史などが詳しく解説されていて結構読み応えがある。

仕込み杖、脇差鉄砲

ビデオやガイドさんの解説で、「甲賀」を「こうか」と読んでいることに途中で気が付いて、なぜ「こうが」と言わないのか気になっていたのだが、展示室に次のように解説されていて納得した。
「甲賀は古くは鹿深、甲可、甲香などと記されて『かふか』と呼ばれていたため、現在でも『賀』は濁らずに『こうか』と地元の人々は発音している。」

忍者の衣装など

資料室の解説などを参考に、簡単に甲賀の歴史を振り返っておこう。

甲賀は、東は鈴鹿山脈、西は笠木山脈にはさまれた山間の地にあり、京都・奈良の都に近いことから軍事的要衝の地として何度も戦禍を受けてきたために、武士だけでなく住民たちも自衛力を養ってきた歴史がある。
そして、長亨元年(1487)に『鈎(まがり)の陣』の戦いがおこり、その戦いがきっかけとなって、甲賀地域の武士たちが『忍者(しのびのもの)』と呼ばれるようになったという。では、この『鈎の陣』の戦いとはどのような戦いであったのか。資料室の解説にはこう記されていた。

足利義尚
【足利義尚】

「当時、実力にものをいわせていた社寺や公卿の荘園を横領して、幕府の命令を無視した六角政頼、高頼父子を討伐するために、足利9代将軍義尚は諸国の大名を率いて長亨元年9月に大津の坂本に本営をおき、六角氏の本城である観音寺城を攻め、六角氏は甲賀城に逃れた。
 10月になって、義尚は本営を坂本から栗太郡の鈎(現栗東市)の安養寺に移し、甲賀城を攻めて落城させた。六角氏は姿を消し、甲賀山中でゲリラ戦を展開した。この戦いは、将軍義尚が鈎の陣屋で延徳元年(1489)に死ぬまで3年近く続き、足利将軍の権威をかけたものだったが、逆に甲賀武士(甲賀忍者集団)の活躍ぶりを全国に知らせる結果となり、それ以後一躍日本の歴史に登場するようになった。
 この戦いで甲賀武士は将軍の本陣に度々夜襲をかけ火を放ち、義尚を困らせた。それに参加した甲賀武士を甲賀武士五十三家、その中でも特に功績のあったものを甲賀武士二十一家という(諸説あり)。その中でも望月出雲守は、自由自在に煙を操って敵を悩ませた。そのおかげもあり、近江の守護として六角氏は四百年近く蒲生郡安土城(現近江八幡市)の観音寺城を居城として、近江の南半分を支配した。」

室町幕府が六角高頼と戦ったのは長享元年(1487)と延徳3年(1491)の2度あり、総称して「長享・延徳の乱」と呼ばれているが、1度目の戦いで幕府軍は近江国栗田郡鈎(滋賀県栗東市)に陣を張ったことから、「鈎の陣」とも称されている。
この解説にあるように、六角氏は甲賀武士の支援によって命拾いをしたのだが、その後永禄11年(1568)に六角義賢は織田信長との戦いに敗れ、観音寺城を去ることとなる。六角氏が敗れたのは、この戦いで甲賀武士たちが六角氏を支援しなかったことが大きかったというのだが、再び資料室の解説版の文章を紹介しよう。

「実は、その裏面で家康が動いたと言われている。家康は早くから忍者たちに目を付け、永禄元年には伊賀忍者70名、甲賀忍者200名を雇い入れていたという。信長の義賢攻めに甲賀忍者が動かなかったのは、家康の手がのびて、義賢に加担しないことを条件に、甲賀攻めを回避したからだといわれている。かくして、天正2年(1574)、六角義賢は敗れ、天正9年(1581)に、信長は安土城に4万6千の大軍を集め、そして全滅作戦『天正伊賀の乱』を決行し、神社仏閣はもとより民衆もことごとく焼き払った。

以前このブログで、天正10年6月に本能寺で信長の接待を受ける予定であった徳川家康は、「本能寺の変」を知り、わずか34名の供回りで堺から三河まで戻ることために伊賀者らの援助を得たことが記録されていることを書いた(「神君伊賀越え」)。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-100.html

服部半蔵
【服部半蔵】

7年前にこの記事を書いたときは、家康一行を警護したのは服部半蔵ら伊賀者が中心だと理解していたのだが、実は多くの甲賀者も家康の警護に関わったようだ。
解説版にはこう記されている。

甲賀武士の好意的な援護を受け、宇治田原から信楽へ入り、信楽小川の城主で甲賀武士五十三家の一人である多羅尾家で一泊した。その先は服部半蔵らの伊賀武士等に守られ伊賀から加太(かぶと)越えし、伊勢の白子浜に着き、そこから海路で本拠三河まで危うく逃れることが出来た。」

Wikipediaには200人の甲賀武士が加太峠までの伊勢路を警護したという説が紹介されているのだが、信楽からは伊賀武士が中心になって家康を警護したとする資料室の解説とどちらが正しいかはよくわからない。いずれにせよ、家康がこの時の警護に感謝して、江戸開幕後に伊賀武士と甲賀武士を江戸に呼び寄せたことは史実である。解説版にはこう記されている。

伊賀の服部半蔵は、江戸麹町(現千代田区)に屋敷を与えられ、伊賀同心の頭目となった。
 いまに残る半蔵門は、彼の屋敷前にあった。神田に甲賀町(現千代田区)、四谷に伊賀町(現新宿区)、麻生に笄(こうがい)町(現港区)と名が示すように、甲賀忍者・伊賀忍者が多く住んでいたのである
。」
江戸に移り住んだ甲賀忍者たちは江戸城本丸と大手三門の警備、大名の諜報、鉄砲隊などを任されていたのだそうだ。

ではこの忍術屋敷を建てた望月出雲守とはどのような人物であったのか。
望月出雲守は甲賀五十三家の筆頭格で、昔は「伊賀の服部、甲賀の望月」と称されるほど大きな勢力を持っていた人物で、特に霧を自由自在に操る術に長けていたという。

薬と甲賀忍者

資料室の解説にはこう記されている。
「望月氏は、名前を本実坊といい、山伏姿で神社の御守り札を持ち、そして薬を売り歩きながら情報収集に務めた。伊勢の朝熊山の明王院の御札と万金丹を売り歩き、加持祈祷をして回るなど、お札くばりで生計を立てていたのである。
 明治17年、配札禁止令が出た後、薬の配置販売という甲賀売薬の先駆者となった。」
そして明治35年に、同志と共に近江製剤株式会社を創立したという。
この忍術屋敷は、現在は近江製剤株式会社の名義になっているのだそうだ。

近江製剤株式会社

近江製剤の会社プレートが展示されていたが、トレードマークは望月氏の家紋である九曜をベースにして、中央に「本」と彫られている。

話を甲賀忍術に戻そう。甲賀忍術は何のために考案されたものなのだろうか。
この施設のパネルにその解答が記されていた。
甲賀流とは『忍術とは国家を安平にして大敵悪党を滅ぼすの術なり』と要約されているが郡内の地勢は丘陵が起伏し、低地には農耕地があって、勤勉に耕せば住民は常に安楽に生活することが出来たのである。また郡内には甲賀五十三家と謂われる豪士が住んでいて、郡の指導的な役割を果たしていたのであるが、自救自衛の精神から、常によく団結し、事ある時には、断固として外敵を排除する目的を以て常に野外に忍者を派遣したり、…防御兵器として当時としては実に驚嘆に値する大器等を秘密裏に用意し、優れた戦法によって完全防衛の体制を整えていた。これを甲賀流と謂ったのである。
 だから甲賀流は侵略的な考えから行われたのではないのであって、平和を害する外敵に対して敢然として制圧を加えるために行われたものであった。」

萬川集海

資料室に展示されていた『萬川集海』という忍術の秘伝書(延宝4年[1676]編纂)には、忍術というものは使い方を誤ると、世の中を乱し、人道に背くことがありうるのだが、その様な行為を戒め、心の持ち方などの精神面の修養が大切とのことが書かれていた。

甲賀忍者は、「平和を害する外敵」に敢然と立ち向かい制圧を加えることによって、平和を実現しようとしたのだが、今のわが国にはその姿勢が欠けている。
わが国の周囲には平和を害しようとする国や、難癖をつけてはわが国の富や領土や資源を奪い取ろうとする国、明らかに人道に背く行為を行っている厄介な国が存在する。それらの国が、わが国において様々な工作活動を行っていることは、今の大手マスコミやそれに連動する勢力の動きを見れば明らかであろう。このような工作活動を野放図にして、これからもわが国の平和が守れるとは思えない。
どんな国でも、国家の安全保障や国益を脅かすスパイに対しては厳罰で臨むのが普通だが、わが国は世界で唯一「スパイ防止法」がない国であるために、スパイ行為を取り締まることが出来ないし、独自で海外の情報を集める能力も弱い。
まずは、「スパイ天国」と呼ばれているわが国の現状にメスを入れて、「平和を害する外敵」やそれに協力するメンバーを取り締まることができる普通の国にして欲しいものである。

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甲賀の総社・油日神社、平安仏の宝庫・櫟野寺などを訪ねて~~甲賀歴史散策その2

甲賀流忍術屋敷を楽しんだのち、油日(あぶらひ)神社(甲賀市甲賀町油日1042 ☏ 0748-88-2106)に向かう。

この神社は、平安時代に編纂された『日本三代実録』に、陽成天皇の元慶元年(877)に従五位下の神階を授けられたとの記録が残されている古社で、神社の東に聳える油日岳をご神体とし、油の神様として崇敬を集めてきたばかりではなく、「甲賀の総社」として甲賀武士の結束の中心であったという。

油日神社楼門

両脇に石垣が積まれた参道を進むと、永禄9年に建造された楼門と廻廊(ともに国重文)があり、いずれも檜皮葺の美しい建物である。

油日神社拝殿

楼門を入ると桃山時代に建てられた檜皮葺の拝殿(国重文)があり、その奥の一段高い玉垣には、明応2年に建てられた本殿(国重文)が立ち並んでいる。この神社は映画やテレビドラマのロケなどでよく利用されてきたそうだが、確かにこの神社の境内は、古い建物が古いままに美しく残されていて、なんとなくタイムスリップしたような気分になる場所である。

油日神社本殿

また本殿の左手前には、樹齢750年、樹高35m、幹回り6.5mのコウヤマキが聳えていて、滋賀県の自然記念物に指定されている。コウヤマキは高野山に群生しているが、これほどの巨木は高野山にはないのだという。

油日神社鐘楼

この神社は、明治の神仏分離によって『油日神社』という名前に変わったのだが、以前は『油日大明神社』と呼ばれていて、神仏習合の施設であった。神社の西鳥居の近くには鐘楼が今も残されており、神仏習合の時代の風景を彷彿とさせる。

油日祭 奴振

この神社の例大祭(油日まつり)は毎年5月1日に行われ、滋賀県無形民俗文化財に指定されている「奴振(やっこぶり)」 が5年に1度だけ行われるのだという。上の画像は駐車場に掲示されていた、「奴振」の写真であるが、次回の奴振りは2021年に行われる計算になる。

楼門の右手奥に甲賀歴史民俗資料館がある。
小さな資料館ではあるが、油日まつりの絵図や甲賀忍者の資料、永正5年(1508)に制作された福大夫面(県文化財)、油日神社改修時の棟札、神仏分離前に用いられていた大きな懸仏(かけぼとけ)などが展示されていてが結構見ごたえがあった。仏像の行方が気になったのでスタッフの方に尋ねると、近隣にある櫟野寺(らくやじ)などに移されたのではないかということであった。

油日神社から櫟野寺(甲賀市甲賀町櫟野1359 ☏ 0748-88-3890)に向かう。車で5分程度で到着する。

櫟野寺仁王門

上の画像は櫟野寺の仁王門だが、仁王像の前に国旗が掲揚されているのは、秘仏である本尊・木造十一面観音座像の三十三年に一度の御開帳が始まっていることによる。

櫟野寺本堂

上の画像は本堂で、その奥に宝物館があるのだが、中に入ると、最初に御開帳の本尊の大きさに圧倒されてしまった。平安時代に制作されとは思えないほど保存状態は良好で、目鼻立ちがはっきりしていて、穏やかな表情に引き込まれてしまった。
十一面観音で座像は珍しいのだが、座像でありながら像の高さは3.12mもある。お寺の方の説明によると、本尊は櫟(いちい)の一木造であり、しかも櫟の木は幹の直径が1m程度のものが多く、こんなに大きな木になることは珍しいのだそうだ。

kaityou01.jpg

宝物館にはほかにも貴重な仏像が数多く安置されていて、本尊を含めて20体もの平安時代の仏像が国の重要文化財に指定されている。そして、これらの平安仏が昨年の本堂改修時に寺外に持ち出されて、東京博物館で特別展『平安の秘仏―滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち』が開かれ、入場者が20万人を超えたのだそうだ。東京国立博物館のHPに、櫟野寺の平安仏の一部が画像付きで紹介されているが、この中に、神仏分離の際に『油日大明神社』から移された仏像があるのだろうか。
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1779#top

いずれも見ごたえのある仏像ばかりであるので、もし櫟野寺に行かれるなら、木造十一面観音座像の御開帳が行われる12月9日(日)までに拝観されることをお勧めしたい。

しかしながら、なぜ櫟野寺に20体もの貴重な仏像が集まったであろうか。
膳所藩士・寒川辰清が享保19年(1733)に完成させた『近江国輿地志略』には櫟野寺についてこう解説されている。
「櫟野村にあり。本尊観音。相伝、伝教大使櫟の生樹を以、観音の像を彫刻す。脇侍は薬師・地蔵・釈迦及び田村麿の像あり。天台宗。比叡山延暦寺の末寺なり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879446/26
同じコマ番号の40ページにある「油日大明神社」と比べれば、随分簡単に記されているが、この解説を読めば、櫟野寺に古くからあった仏像は5体程度で、他の仏像は神仏分離以降に神社や廃寺などから集められたか買われたと考えるしかないだろう。

以前このブログで、滋賀県は京都・奈良に次いで仏教文化財の宝庫であることを書いたことがあるが、なかでも甲賀市には多くの貴重な仏像が残されている地域である。
櫟野寺のパンフレットによると、甲賀市には国の重要文化財に指定されている仏像は約50件あり、県・市指定のものを含めると100件を超えるのだそうだ。櫟野寺以外にも国重要文化財に指定されている貴重な仏像が30体も残されているなら、また機会を作って甲賀の仏像をゆっくり巡りたいものである。

阿弥陀寺

上の画像は、櫟野寺の300mほど東にある阿弥陀寺(甲賀市甲賀町櫟野1172 ☏ 0748-88-3721)である。櫟野寺の末寺の1つなのだが、この寺の本尊・木造阿弥陀如来坐像も脇壇にある木造聖観音立像も平安仏で国の重要文化財である。この寺には他にも貴重な仏像が残されているようだが、拝観には事前の予約が必要なようだ。

阿弥陀寺から大鳥神社(甲賀市甲賀町鳥居野783 ☏0748-88-2008)に向かう。
この神社も昔は神仏習合の施設で、油日神社と同様に明治初期に名称が変えられたのだが、それ以前は河合祇園社・大原谷の祇園社・牛頭大明神河合社牛頭天王などと呼ばれていたようだ。そしてこの神社は、甲賀武士大原氏の氏神として信仰を集めたという。

大鳥神社のHPにその由緒が書かれている。
「陽成天皇の元慶六年(882)平安初期に伊賀国阿拝郡河合郷篠山嶽より大原中に勧請され、その後当地に移し祀られ、その当時は比叡山延暦寺の別坊が36院あったといわれ大原山河合寺と称され祭礼は坂本の日吉神社に準じていたと伝えられているが、大原祗園は神輿渡御に用いる千枚張に記されているとおり応永22年(1415)に始まったとされる。
 また、織豊時代に入っては社号を河合祗園社とも大原谷の祗園社とも称し牛頭大明神河合社牛頭天王といわれ現在でも氏子の人々から(てんのうさん)とも呼ばれ親しまれている。」
http://ootorijinjya.jp/html/000.html

案内板の解説では河合寺は神仏分離後廃寺になったと書かれていたが、大鳥神社のホームページによると、河合寺はその後も50年近く残されていたようである。ホームページには次のように解説されていて河合寺の仏像も櫟野寺に移されたことが明記されている。

「当神社の宮寺で当神社の勧請と同じころ円仁の開基と伝えられる。幕末まで神社と一体で運営されていたが、明治元年に神仏分離令で廃寺となる。建物等は大正5年の神社火災類焼によって焼失した。再建されずに仏像等は櫟野寺に移管された。」
http://ootorijinjya.jp/html/002-2.html

大正5年(1916)の火災はかなり大規模なものであり、大鳥神社の本殿を残して拝殿の一部と楼門、回廊、神楽殿、社務所、河合寺を消失してしまったのだそうだ。そして大鳥神社は、大正9年(1920)に氏子の総意の力で復興したのだが、立派な建物が建てられて、7棟(楼門・拝殿・神楽殿・神饌所・中門・祝詞殿・社務所)が平成14年(2002)に国登録有形文化財となっている。

大鳥神社

上の画像は鳥居と朱塗りの楼門だが、この楼門は京都の八坂神社の楼門を模して造られたものだという。

大鳥神社 拝殿

上の画像は拝殿だが、檜皮葺の屋根の軒反りが美しい。下の画像は中門、祝詞殿と本殿である。

大鳥神社 祝詞殿 本殿

神社のホームページには、河合寺は焼失したが再建されることなく、仏像は櫟野寺に移されたことが淡々と記されているのだが、河合寺が廃寺であったなら、誰が大きな仏像を火災から守ったのであろうか。明治初期に全国で激しい廃仏毀釈の動きがあり、多くの仏像が破壊されたり海外に売却された中で、甲賀の人々は貴重な仏像を守るために大変苦労されたと思うのだが、もしその様な記録が残されているのであれば、是非読んでみたいものである。

大鳥神社 大原祇園

ところで、大鳥神社には「大原祇園祭」という夏祭りがある。毎年7月23日に『宵宮祭』、24日に『本祭』が行われるのだそうだが、日程が似ているので京都の祇園祭のようなものか思うと内容は全く異なっていて、結構荒々しいお祭りである。

https://www.youtube.com/watch?v=2VXm2UVLuto
宵宮には、夜の9時から各集落の踊り番が紙で作られた祠形の灯篭を頭上に載せ、拝殿の前で輪を作り、「インヨーソーライ」の掛け声を繰り返しながら、互いに灯篭を激しくぶつけ合う。

https://www.youtube.com/watch?v=aDzYBr23OJY
本祭には各集落の太鼓を持った踊り子、花蓋(はながさ)、青竹を持った神輿担ぎが楼門の外に集まり、子どもたちは本殿や拝殿の前で、太鼓や鼓を叩きながら輪になってまわり、「インヨーソーライ」の掛け声とともに、輪の中心で太鼓や鼓をぶつけ合う。
楼門の外では、青竹を持った大勢の大人が2列になって並び、その間を2人が花蓋をもって駆けていくところを、花蓋が青竹によって激しく叩かれて倒されると、見物している人々が花を奪い合う『花奪(はなば)い』が行われる。説明するより動画で観た方がわかりやすいので、興味のある方には6年前の祭りのkyuta27さんの動画を見て頂きたい。
昔から、神花とよばれる花蓋の飾り花を家に持ち帰り神棚に飾ると疫病を免れると信じられていて、花の奪い合いが行われることとなり「喧嘩祭り」とも呼ばれるはその奪い合いの激しさからである。

https://www.youtube.com/watch?v=E6GXz_8Wrok
調べると『花奪い』行事は、岐阜県郡上市白鳥町長滝138にあるの長滝白山神社でも行われている。この行事は毎年正月6日に行われる「六日祭」の中で行われるのだが、6メートルの高さに吊るされた5つの花笠を人梯子を組んで落として花を奪い合う行事もなかなか面白そうだ。上の動画は8年前にChannelGoovieさんが紹介されているものである。

私ももうすぐ65歳となるのでそろそろ会社勤めを辞めて、自分の好きなことをしたいと考えているのだが、地方の面白そうな伝統行事や伝統芸能などを見て歩くことは、今後楽しみにしていることのひとつである。
読者の皆さんが薦めたい地方の伝統行事などがあれば、ご教示していただくと有難い。定年後もいろいろやることがあるのとお金もないので、思うようにはいかないかもしれないが、長期計画を組んでいろんな祭りなどを見て廻りたいと考えている。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

松尾芭蕉と河合曾良の『奥の細道』の旅の謎を追う
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家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変4
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誰が安土城を焼失させたのか~~安土城跡と近隣散策記
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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