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葵祭りの由来について

5月15日は京都の三大祭りのひとつである「葵祭」(賀茂祭)のとりおこなわれる日だ。

都名所図絵葵祭_30

上の写真はこのブログで以前何度か紹介した江戸時代の安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」にある、「葵祭」の絵である。

都名所図会」は、国際日本文化センターのサイトにアクセスすれば、誰でも全文と翻刻文を読む事が出来る。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/c-pg1.html

絵の上の方に草書で「加茂のあふいまつりは四月中の酉の日なり。人皇三十代欽明天皇の御宇よりはじまる」と書かれているが、欽明天皇と言えば在位中に仏教伝来があったことを中学高校の日本史で学んだ。

朝鮮半島で新羅が強大化する形勢のもと、その圧迫を受けた百済が日本の軍事的援助を求めてきただけでなく、仏像と仏具と仏教の経典を欽明天皇に献上したのである。

日本書紀」によると欽明天皇は仏像と経典を見て欣喜雀躍されたそうなのだが、百済の使者に対しては自分一人では結論を出さずに群臣と相談するとされ、その時に蘇我稲目(そがいなめ)は「西の国の諸国は皆礼拝しています。日本だけが背くべきでしょうか」と賛成し、物部尾興(もののべのおこし)は「蕃神を拝むことになると、恐らく国つ神の怒りを受けることになりましょう」と反対した。
そこで天皇は蘇我稲目に仏像をしばらく礼拝させたところ、国に疫病がはやり、人民に若死にする者が多かった。
すると物部尾興が、このような事態となったのは仏教をとり入れたことが災いを招いたので、「今もとに返されたらよくなる」と天皇に奏上し、天皇の許しを得て、仏像を難波の堀江に流し捨て、また寺に火をつけて焼いたところ、天は雲も風もないのに、にわかに宮の大殿に火災が起きた…等々「日本書紀」の欽明天皇の時代は読んでいてなかなか面白い。

このような蘇我氏と物部氏の仏教を巡る対立は、それぞれの子の蘇我馬子、物部守屋の代にも引き継がれて半世紀近く続くことになる。

日本書紀」には葵祭のことは一切書かれていないが、仏教を受容するかどうかで国論が真っ二つに割れて、蘇我氏・物部氏との間で虚々実々のかけひきがなされている時期に葵祭が生まれたというのが面白い。

葵祭の由来に興味を持っていろいろ調べてみた。

「露草色の郷」というサイトに「本朝月令所引秦氏本系帳」という古書の「賀茂乗馬」というテキストがあるのをみつけた。これが葵祭のルーツになる記録である。
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/geography/fudoits1.html

原文をそのまま引用すると
「いろせ、玉依日子は、今の賀茂縣主等が遠つ祖なり。其の祭祀の日、馬に乘ることは、志貴島の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇(欽明天皇)の御世、天の下國擧(こぞ)りて風吹き雨零(ふ)りて、百姓(おほみたから)含愁(うれ)へき。その時、卜部、伊吉の若日子に勅して卜(うら)へしめたまふに、乃ち卜へて、賀茂の神の祟なりと奏(まを)しき。仍りて四月の吉日を撰びて祀るに、馬は鈴を係け、人は猪の頭を蒙(かがふ)りて、駈駆せて、祭祀を為して、能く祷(ね)ぎ祀らしめたまひき。因りて五穀(たなつもの)成就(みの)り、天の下豐平なりき。馬に乘ること此に始まれり。」

上賀茂神社のホームページによると「賀茂縁起」という書物にも同様な記載があり、それが賀茂祭のおこりであると記されている。
http://www.kamigamojinja.jp/matsuri/

欽明天皇の時代の544年(567年とも言われる)に五穀が実らなかったので、当時賀茂の大神の崇敬者であった伊吉の若日子に占わせたところ、賀茂の神々の祟りであるというので、若日子は勅命を仰せつかって4月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人には猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰となったということからこの祭りが始められたというのだが、当初は現在の優雅な貴族行列とは異なり、かなり荒っぽいお祭りであったようなのである。

その後弘仁10年 (819)には、「賀茂祭」を中祀に準じ斎行せよとの勅命が下り、この祭りは勅祭すなわち国家的な行事となるのだが、中祀として取り扱われたのは伊勢の神宮と賀茂社の祭りだけであり、その後貞観年間(859-876)に勅祭賀茂祭の儀式次第が定められ、壮麗なる祭儀が完成したとされている。

葵祭御所

平安時代の京都で「お祭り」というと、この「賀茂祭」を指したようである。(当時は「葵祭」とは呼ばれておらず「賀茂祭」という名前であった。)

しかしながら、応仁の乱(1467-77)の後、様々な理由で祭祀の経費が増大したため、文亀2年(1502)以降元禄6年(1693)までの長きにわたり中断されたが、将軍・徳川綱吉の後援や霊元上皇などの尽力により元禄7年に復興され、その時からこの祭りを「葵祭」と呼ぶようになったそうだ。

なぜ「葵祭」と言われたかについては諸説があり、昔カモアオイの花を頭に挿して行列したからだとも、祭りの前に葵かずらを将軍に献上したからだとも、祭りの復興に徳川幕府(葵の御紋)の多大な援助があったからだとも言われている。

しかし明治に入って都が東京に移り、一旦祭りはすたれてしまうが、明治17年(1884)から勅使行列が再開されるようになり、また太陽暦が採用されていたので祭日も5月15日に変更された。

その後第二次世界大戦に日本が参戦し昭和18年(1943)からしばらく中断され、葵祭行列協賛会等の努力で昭和28年(1953)に復興し、同31年には斎王代(さいおうだい)以下女人列が加えられ、現在我々が目にする葵祭の行列が固まったのは意外と最近のことなのである。

葵祭
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祇園祭の「祇園」とは

もうすぐ京都の祇園祭(ぎおんまつり)だ。

今日10日から鉾町で鉾が組み立てられ(鉾建て)、ついで12日からは山が組み立てられる。
そして山鉾巡行はいよいよ17日で、今年は土曜日だからすごい人出だろう。

山鉾巡行岩戸

京都には有名なお祭りがいくつかあるが、私は子供の頃から祇園祭が大好きだった。今でもあの祇園囃子の音色を聴くだけで気分が高揚してくる。

しかしながら子供の頃に、ふと疑問に思ったことがあった。祇園祭の「祇園」という地名についてである。

「祇園」という場所は、京都市内の東の方を南北に走る東山通り(正しくは東大路通り)と、市内の中心部を東西に走る四条通との交差点あたりを言うが、子供の頃なんとなくこの地名に違和感を覚えた。

京都の中心部は碁盤のように直角に道路が走っていて、京都の地名は、例えば南北を走る河原町通と東西を走る丸太町通との交差点を河原町丸太町などと呼ぶ。ならば、「祇園」は 東山通と四条通とが交差する場所なので、普通なら東山四条と呼んでも良さそうなのに、なぜか「祇園」と呼ばれているのが不思議だった。

京都市内の中心部のバス停の名前は、ほとんどのバス停は二つの通りの名前で地名を表しているのだが、例外となるケースは「○○前」などというように有名な神社仏閣や大学や病院があるようなケースが大半である。しかし、「祇園」はそれにも当てはまらない。すぐ近くに大きな神社があるのだが、「八坂神社」という名前だ。

八坂神社

上の写真は八坂神社の西楼門であるが、この神社に、祇園祭の山鉾などが収められている。しかし「祇園」という名前を連想させる神社仏閣などはどこにも存在しないのだ。

このあたりを昔から「祇園」と呼んでいたのだろうと長い間勝手に解釈していたのだが、学生時代に「祇園」という名前の由来となるお寺が以前は存在していたことを聞いた。しかし、どんなお寺がいつごろ創建されていつ頃なくなったかを詳しく知ったのは、つい昨年のことである。

安永9年(1780)に出版された「都名所図会」巻三には、この地に以前あった寺院の図絵が描かれている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/m_gionyasiro.htm

祇園社

説明には、この「祇園社(ぎおんやしろ)」と祇園祭についてこう書かれている。

「…清和天皇貞観十八年*、疫神崇をなして世の人疾に悩むこと以の外なり、曩祖日良麿洛中の男女を将て、六月七日十四日疫神を神泉苑に送る、しかりしより年々かたの如くしつけて、祇園会といふなり。神輿を置所をば八坂郷感神院といふ寺なれば、神殿もなきほどに、昭宣公の御殿をまゐらせられて神殿とす、祇園は尋常の殿舎造りなり、是を精舎といふ、後人又祇園の名を加へけり。」*貞観18年は西暦876年

ここには感神院を祇園祭の神輿の置き場所にしたが、神殿がなかったので昭宣公(藤原基経836~891:摂政関白太政大臣)の御殿を移して神殿としたと書かれている。図には多宝塔があり、薬師堂がありお寺であることは確実だが、神仏習合の時代であり神殿も作られていたのだ。

洛中洛外図屏風祇園

寛永三年(1626)に描かれた「洛中洛外屏風図」にも、祇園社が描かれている。では、今の八坂神社は何なのか。

空から見た八坂神社

今の八坂神社を上から見るとこのようになるが、今の八坂神社は以前は祇園社であったことがわかる。楼門がそっくりそのまま八坂神社の楼門になっていることも明らかだ。

Wikipediaによると祇園社の創建年については656年、876年など諸説があるが、古くから仏教の守護神である牛頭天王(ゴズテンノウ)とそれに習合したスサノオノミコトを祀る神仏習合の施設で、当初は興福寺、10世紀以降は延暦寺の支配を受けていたらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%9D%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE

慶応4年(1868)の神仏混淆の禁止により「感神院祇園社」の名称を「八坂神社」と改められ、薬師堂などの仏教施設は破壊されている。(多宝塔は江戸時代寛政年間[1789~1800]に焼失) 日本全国には、牛頭天王を勧請した祇園社が3053社あったそうだが、明治の廃仏毀釈によりすべて八坂神社(弥栄神社)に改名させられたそうである。
http://www.pauch.com/kss/g023.html

では、「感神院祇園社」の仏像はどこに行ったのか。
これは幸い大蓮寺というお寺に残されているが、十一面観音像以外は秘仏として直接拝観することはできない。祇園社本尊の薬師如来の写真が大蓮寺のHPに載っているが、本尊でありながら光背がないのはやや違和感がある。

祇園社本尊薬師如来
http://www.anzan-no-tera.jp/gion/index.html

大蓮寺の歴史については比較的次のサイトが詳しい。
http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1700/22365330.html

「八坂神社」から祇園祭の山鉾が立ち並ぶ四条烏丸あたりまで、大人が歩いて20分くらいだろうか。その途中で鴨川を渡ることになるが、その橋は「四条大橋」という。

この四条大橋については昨年11月にこのブログに書いたが、明治七年に作られた橋は廃仏毀釈で強制的に供出させた仏具類を鋳潰して橋材に使われたそうである。下の写真がその頃の四条大橋だが、明治の京都人は、どんな思いでこの橋を渡ったのだろうか。

昔の四条大橋
ご参考:「四条大橋のはなし」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-73.html

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二つの祇園祭の関係

前回は祇園祭の「祇園」の事を書いた。今度は「祇園祭」のことを書こう。

この祭りは大阪の天神祭、東京の神田祭とともに、日本三大祭の一つとされているのだが、八坂神社の祭礼でありながら山鉾巡行が八坂神社の前を通らないことを誰しも不思議に思う。

祇園祭山鉾巡行コース

上の図は、7月17日の山鉾巡行のコースだが、それぞれの山鉾は四条通に入って東進したのち、四条河原町で河原町通りを北上し、河原町御池で西進したのち元の場所に帰っていく。八坂神社へは四条河原町から東に歩いて10分はかかる距離である。

子供の時に、なぜ山鉾巡行が八坂神社を通らないのだろうかと思ったことがあるのだが、あまり深く追究しなかった。というより、当時は身近な大人に聞いてもわからないことは、どうしょうもなかった。

今ならネットで検索すればいろんな情報を掴むことができる。
たとえば、平安時代後期の祇園御霊会(今の祇園祭)の絵巻物が見つかった。
http://www.pauch.com/kss/g030.html#gion

年中行事絵巻祇園祭

上の絵巻物は「年中行事絵巻」(京都芸術大学蔵)の第9巻だが、ここに描かれているお祭りは今の山鉾巡行とはあまりに違いすぎる。山鉾巡行には神輿や牛車はないが、この絵巻物には描かれている。また絵巻物には山鉾巡行はないが列の先頭に鉾を担いでいる人物がいる。

「祇園祭」というとほとんど人が山鉾巡行や祇園囃子を連想してしまう。テレビでも放映されるのは山鉾巡行の映像ばかりである。重要有形・無形民俗文化財に指定されているのも山鉾と山鉾巡行などの行事である。

祇園祭神幸祭

しかしながら、祇園祭には山鉾巡行のほかに、その日に「神幸祭」の神輿渡御というのがある。先程の平安時代の絵巻物に描かれているのは、山鉾巡行と同じ日に行われる「神幸祭」とかなり似ていると思われる。私は「神幸祭」はじっくりと見たことがないので今年はぜひ見に行きたい。

この神幸祭では神輿が八坂神社から出発する。八坂神社のお祭りだから当然と言えば当然だが、この巡行ルートが面白い。

祇園祭神幸祭ルート

先程の山鉾巡行の図と見較べて頂くとよくわかるのだが、神輿が山鉾を設置している鉾町を通らないのである。

山鉾巡行も神幸祭もどちらも八坂神社のお祭りなのに、まるで別のお祭りがおこなわれているようでもある。なぜ、山鉾は八坂神社を通らず、神輿は鉾町を通らないのか。

まず今のような山鉾巡行が行われるようになったのはいつなのか。

都名所図会祇園会

もう少し調べると、江戸時代の「都名所図会」に祇園祭の絵が描かれている。二つの絵があっていずれも山鉾巡行の絵で、神輿のことは本文にルートのことが書かれているだけだ。

ルートは微妙に違うが、山鉾が八坂神社を通らず、神輿が鉾町を通らないのは同じである。

いろいろネットで調べると、山鉾を作って巡行させるようになったのは室町時代かららしい。その後応仁の乱があって中断したが、室町時代には祇園祭のクライマックスは山鉾巡行になっていたようだ。

では、なぜ山鉾巡行は八坂神社を通らず、神輿が鉾町を通らないのか。

この疑問を解くカギが、四条寺町にある八坂神社の御旅所である。四条寺町というのは、全ての山鉾の設置場所よりも東(すなわち八坂神社寄り)に位置している。

八坂神社御旅所

山鉾巡行は八坂神社の三基の神輿が7月17日に御旅所に渡御される前の露払いの役割ということのようだ。八坂神社に近い場所は神域なので露払いの必要がないということらしい。

そして、この御旅所に置かれた三基の神輿は一週間後の7月24日に八坂神社に戻る。これを「還幸祭」という。

祇園祭は、昔は「祇園御霊会」と言われていたが、「還幸祭」は御旅所を出た神輿が氏子の間を全部めぐって、ありとあらゆる災いの神を全部神輿に積んで持ち去ってくれるというお祭りであるから、本来の祇園祭のメインイベントは「還幸祭」ということになるのだろう。

山鉾巡行は室町時代に時の権力者が鉾を動かしてはいけないというお達しが出た時に「神事これなきとも、山鉾を渡したし」と町衆が抵抗して山鉾を動かした記録があるようである。それ以来町衆中心の山鉾巡行と、八坂神社の氏子中心のお祭りと二つに分かれたと理解すれば良いのだろうか。

いよいよ明日は、祇園祭の山鉾巡行だ。今回は「神幸祭」の神輿渡御を見逃さないようにしたい。
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祇園祭山鉾巡行と神幸祭を見に行く

学生時代に家庭教師をしていた生徒の親御さんから祇園祭山鉾巡行の特設席の切符を頂いたことがある。私が教えていた生徒の家は、祇園祭の頃は近くに山鉾が立ち並ぶ場所にあった。

特設席は御池通りの北側の京都市役所の近くで、その時に総ての山と鉾の巡行を鑑賞できたので、祇園祭のすべてを観終わったつもりになっていて、それから随分長い間山鉾巡行を観て来なかった。

5年前にたまたま17日が週末だったので家内と四条通と御池通りで山鉾巡行を見た後、実家に立ち寄ったのだが、その時に兄から新町通りに山鉾が地元に帰っていく場所での見学を勧められていた。

今年は山鉾巡行が土曜日だし、兄の話もあるし、神幸祭も観たいので、やや遅めに自宅を出て、新町御池をめざしていく。

もう一度山鉾巡行のルート図を載せておくが、山鉾は四条通を東進した後、河原町四条で左折し河原町通りを北上し、河原町御池(市役所前)で左折して御池通りを西進した後、新町御池で左折し新町通りを南に進んで地元に戻っていく。

祇園祭山鉾巡行コース

京都の人ならよく知っていると思うが、四条通りや河原町通り、御池通りと違い、新町通りは道幅5m~6m程度の狭い通りである。左右に電柱があり電線が張ってあって、大きな鉾がこの間を通れるかどうかと不安になるくらいの広さしかない。

新町御池に着いたのは10時40分ごろだったが、さすがにこの場所は早くから人が場所をとっていた。やむなくもう少し南の姉小路通りと三条通りの中間あたりで待つこととした。

それからもどんどん北に向かって人が歩いていく。警察の人が何度も「これ以上北に行っても、観るスペースがありません。下がってください。」と何度も連呼するのだが、「下がる」ということは京都では「南に行く」という意味なのだが、観光客には通用せずに苦労されていた。

長刀鉾

予定より10分以上遅れて、先頭の長刀鉾が見えてきた。
長刀鉾の屋根の幅は3.5mだそうだが、左右の電柱は道路の内側に建てられており、左右の電線は4mと少しばかり離れているだけである。その間をうまく車輪を滑らせて調整しながら鉾は道路のほぼ中央を進んでいく。鉾の高さは25mと言われ、ビルの5階くらいの高さがあるだろうか。車輪の高さが2m。そんな大きな鉾が目の前50~70cmくらいまで接近して通り過ぎていく。すごい迫力だ。

屋根の上にいる人は屋根方というが、前回紹介した江戸時代の「都名所図会」には屋根の上に人はいない。屋根方の仕事は、鉾の屋根の上で電線や電柱などの障害を調整することで、今では室町通りから始まると言って過言ではない。

32年前までは四条通りや河原町通りには市電が走っていたが、その頃は屋根方の仕事が楽なのは市電の路線がない御池通りくらいだったろう。
市電については面白い話がある。明治44年に市電を四条通りや河原町通りにも走らせようとした当時の京都市長が、京都の発展の妨げになるので山鉾巡行の廃止を命令したことがあったらしい。当然のことながら地元の大反対にあって、市長が命令を撤回したそうだが、そのような経緯もあって、四条通や河原町通り市電の架線は山鉾が巡行できるように空間を残して張られていたことを思い出した。

屋根方は命綱を握りながら、屋根が電線や電柱で破損しないように、時には電柱や電線に手をかけたり足を使って鉾を守る危険な仕事だ。昭和53年(1978)に市電が廃業した後は屋根方の仕事は随分楽になったとは思うが、新町通りに入ってからは今も緊張の連続だと思う。

菊水鉾

上の写真は菊水鉾だが、右の屋根方が電柱に手をかけて屋根を守っているのがわかっていただけるだろうか。狭い通りゆえ電線にも注意が必要で、電線と屋根との距離がわずかしかないのも注目していただきたい。

また、鉾町に近づくと囃子方などもだんだん調子に乗ってくるように感じられる。自分の家族や親族が近くにいると思えば気合いが入るのは当然だろう。
たまに知り合いがいて声がかかったり手を振ったりして微笑ましい光景が何度もある。

放下鉾

上の写真は昼食後に別の場所で撮影した放下鉾の写真だが、近くの家の二階から声を掛けられて囃子方の一人が手を振っている写真である。

祇園祭に限らずほとんどの祭りの原点は観光客を喜ばせるためではなく、地域社会が平和で繁栄することを願うところにあると思う。山鉾とそれにまつわる文化・伝統が地域の人に伝承され、地域が祭りを通してひとつになっている姿を見ることができるのは、巡行が終わって山や鉾が地元に戻る時だという5年前に兄が言っていたとおりだった。

山も鉾も元の場所に戻るとすぐに解体が始まる。写真は解体中の長刀鉾だ。

鉾解体

解体の現場ももう少し見たかったのだが、神幸祭の場所取りのために八坂神社に向かった。

喫茶店で休憩してから八坂神社に着いたのは3時くらいだったが、もうすでに多くの人が集まっていた。

三基の神輿

このように舞殿に三基の神輿が並べられていた。かなり大きな神輿である。
神幸祭を見るのは初めてなので、どこで観ようかと随分迷ったが、結局八坂神社の舞殿の近くで観ることとした。三基の神輿の差し上げが行われる西楼門の石段下にも早くから人が陣取りしていたが、どちらで見るかは悩ましいところである。

三基の神輿はすでに宵々山の15日に八坂神社でスサノオノミコト、クシイナダヒメ、ヤハシラノミコガミの御神霊を移す「遷霊祭」がとりおこなわれているそうだ。三つの神輿はよく似ているようで形が違う。
中央の神輿は「中御座」(なかござ)とよばれる六角形の神輿でスサノオノミコトの御神霊をうつしている。
右側の神輿は「東御座」(ひがしござ)呼ばれる四角形の神輿でクシイナダヒメ、左側の神輿は「西御座」(にしござ)と呼ばれる八角形の神輿でヤハシラノミコガミの御神霊をうつしているそうだ。

神事は4時頃から始まり、一般の参拝客は本殿の参拝が禁じられる。
遠くの方で雅楽の音色が聞こえてくるのだが、本殿の中の行事は観光客には見えないのでよくわからない。
神事なので観光客も全員立つように注意されてそれからずっと動かずに立っているのはかなり辛かった。

久世駒形稚児

その間久世駒形稚児と呼ばれる神幸祭の主役が白馬に乗って来る。久世駒形稚児は八坂神社と同じくスサノオノミコトを祀る綾戸國中(あやとくなか)神社の氏子から毎年選ばれているそうだ。この稚児さんが神輿の先導役となるそうだ。
また中御座、東御座、西御座と呼ばれる三基神輿のかき手がどんどん境内に集まってきて参拝をする。

神事が終了すると、いよいよ中御座神輿が舞殿から運び出される。かなり重たそうだ。
そして「ホイサ、ホイサ」という勇壮な掛け声とともに舞殿を一周すると南楼門から出ていく。

神輿渡御1

次いで東御座、最後に西御座が同様に南楼門から出ていく。途中で南楼門に場所を移動したのは正解で、境内全体と神輿の動きがよくわかった。

神輿渡御2

神輿がすぐ近くで見ることができるという点では、八坂神社の境内で神幸祭を見たことは良かった。

神輿渡御3

しかし、八坂神社西楼門の石段下で三つの神輿が揃う「神輿渡御出発式」も捨てがたい。
八坂神社境内の神輿がすべて出発した後に祇園石段下に向かおうとしたが、祇園の交差点近辺は南北方向西方向とも祭りを見る人で埋め尽くされていて全く身動きが取れなかった。

北門から随分遠まわりをして八坂神社の境内を出たが、石段下の神輿が遠くに小さく見えるだけだった。
今度観にいくとしたら祇園の西楼門の石段で場所取りをして「神輿渡御出発式」を見たいと思うのだが、何年後のことになるだろうか。
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天神祭と大阪天満宮とあまり知られていないお寺のこと

7月25日は日本三大祭りの一つである大阪天神祭の日で、随分久しぶりにこの祭りを見てきた。

天神祭1

若かりし頃大阪市中央区の北浜で勤務していた時に、先輩から「祭りを見に行こう」と誘われて、船渡御を少し見てからすぐ飲み屋に向かった記憶がある。そんなことがもう一回くらいあったが、二回ともすごい人だかりで、遠くでいくつかの船が大川を進んでいくのがわずかに見えただけだった。その時は、仕事が終わってから天神祭を見に行ったのでは、良い場所はほとんど陣取られていてとても見られないなと思った。

今年はたまたま日曜日なので、一度このお祭りをじっくり見てみようと思い立ち夫婦で出かけた。

4時過ぎに「竹葉亭」という店で鰻を食べてから大阪天満宮に向かうと、ちょうど玉神輿が神社から出るところだった。
天神祭神輿

こんなふうに凄い人だかりで、カメラを上に掲げて何とか神輿が撮れたのはよかったが、それから後はどこへ行こうにも人が多すぎて、どちらの方角も前に進むのが大変だった。

神輿を追いかけるのをあきらめて、南に進んで船渡御を見るための場所取りに行く。初めてなのでどこがいいかわからず、とりあえず天満橋を目指して進んでいった。

諸国名所百景天神祭

上の絵は安藤広重の天神祭の船渡御の絵だ。この絵は難波橋と書かれているが、今の船渡御のコースは難波橋を通らない。今なら、船渡御を橋近辺で見たければ天満橋か川崎橋で、花火も見たければ南岸で見るのが一番と誰でも考える。

船渡御ルート

やっと天満橋北詰に辿り着くと、警察が谷町筋を閉鎖して交差点から南方面と東方面の歩行者を遮断していたために、やむなく川べりに出て天満橋の下を潜ってから再び谷町筋に出て、天満橋を南に進む。天満橋の途中で場所取りをしようとしたが、橋からの見学が禁止されているらしく、やむなく橋の南側の付け根あたりで場所取りをしたが、暗いところでの撮影はなかなか難しく、今回は無難な写真だけを載せておく。
人が漕いで川を進んだ広重の時代とは違い、今の船はほとんどが内燃機関などで動き、スポンサーの大型の広告が載せられている。

天神祭の船

たまに昔と同様に手漕ぎで進む船もあるのだがもうすこし、このような船が多ければいいのにと思った。

行列の最後の方には奉安船に先程の神輿が載せられて大川を進む。急に鳴り物の音が止まって、人々は二礼二拍手一礼でお見送りする。花火の音だけが妙に大きく響き渡る。

天神祭船渡御

天神祭の話から大阪天満宮に話を戻そう。
半日歩いて途中から私が気になったのは、大阪天満宮は昔から純然たる神社なのかという点である。

「天満宮」という神社は、京都に「北野天満宮」という有名な神社があるが、この神社は江戸時代の「都名所図会」では多宝塔や経所等明らかな仏教施設が多数描かれており、明治の廃仏毀釈以前は神仏習合の施設であった。
「太宰府天満宮」も以前は「安楽寺天満宮」という、寺院を中心とする施設であったのだが、廃仏毀釈により仏教施設がことごとく破壊されている。
大阪天満宮もどこかに仏教施設の形跡があったのではないかと、家に帰ってから調べることにした。

いろいろネットで調べても大阪天満宮に関してはあまり詳しく書いたものが見つからなかったが、大阪天満宮に神宮寺があったことはいろんな人が書いているので間違いがないようだ。やはりここも神仏習合の施設だったのだ。(神宮寺とは、神仏習合思想に基づき神社に建てられた仏教寺院や仏堂のこと。)

豊臣秀吉のお伽衆に大村由己(おおむらゆうこ)という人物がいるが、この人物はWikipediaなどでは大阪天満宮の「別当」であったと書いてある。「別当」ということは、大阪天満宮に神宮寺があり、神社の管理権を掌握していた人物だったということだ。

大阪天満宮は何度も火災にあっており、江戸時代の記録に残っているだけでも七度も火災に遭遇している。有名なのは天保8年(1837)の大塩平八郎の乱によるもので、この時大阪天満宮は全焼している。
現在の本殿はその六年後の天保14年(1843)年に再建されたものだ。

さらに調べると、大阪天満宮の神宮寺にあった鎌倉時代の仏像が今でも残されていることが分かった。

大阪天満宮から北に300m程度行くと「宝殊院」(天満寺)というお寺がある。この場所へは大阪冬の陣、夏の陣の後の復興時に神宮寺が移ったらしく、移転後も相当大きな寺だったらしいのだが、詳しいことはわからない。その堂宇も太平洋戦争で焼失し、今の建物は昭和42年に再建されたモダンな建物である。
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/otera-1/newpage115.htm

大阪市のホームページには、大阪天満宮の神宮寺の時代からの鎌倉時代の仏像の写真が紹介されている。

宝殊院仏像

http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000008915.html

まだ行ったことのない寺だが、一度時間を見つけて行ってみたくなった。

大阪天満宮だけではない。八坂神社も金刀比羅宮もそうだが、大きな神社のホームページをいくら読んでも、神仏習合時代のことや廃仏毀釈のことがほとんど欠落してしまっている。これでは、歴史の真実が歪められて伝承されるだけだ。

我々の祖先が何代にもわたって大変な苦労をして文化財を守ってきたことや、時の為政者の軽薄な施策で多くの文化財を失ってきた事実をしっかり脳裏に刻んでこそ、文化財を守ることの重要さと意義を次の世代に伝えることができるのだと思う。

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戦国時代の祇園祭を見た宣教師の記録を読む

以前何度かこのブログで紹介したが、戦国時代の日本にイエズス会の宣教師として来日したルイス・フロイスが当時のわが国の記録を詳細に残しており、中公文庫の『フロイス日本史』でその日本語訳を読むことができる。

フロイスのこの著書の第1分冊に、今年ももうすぐ山鉾巡行が行われる京都『祇園祭』の記録を見つけたので紹介したい。イエズス会が我が国に派遣したポルトガル人宣教師ガスパル・ヴィレラについての1562年の記録の一節を引用する。

「この都の市内では、古来、神や仏に対する畏敬から盛大な祭りが行われた。それらのいくつかは、人々が語るように、華麗さ、外面的な費用においてはなはだしく以前に比べて劣るとはいえ、今なお行われていた。第六月の十五日には、祇園と称せられる偶像を敬う祭りが催されるが、それは、都の郊外に、多数の人が訪れる霊場を有し、次のようにして行われる。」(中公文庫『フロイス日本史1』p.146)

祇園感神院

今では、京都「祇園祭」は「八坂神社」のお祭りとして知られているが、「八坂神社」は明治の「廃仏毀釈」により神社にさせられるまでは「神仏習合」のお寺(天台宗)であり、「感神院祇園社(かんしんいんぎおんしゃ)」あるいは「祇園社」と呼んでいた。
歌川広重(1797-1858)の絵で「京都名所之内」より、「祇園社雪中」という絵があるが、この鳥居の扁額には「感神院」と書かれているのが読める。

祇園社

また以前私のブログで紹介したとおり「都名所図会」巻三には多宝塔や薬師堂などの仏教施設の絵が描かれている。ただしこの多宝塔は、「廃仏毀釈」とは関係なく、寛政年間に焼失したようだ。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/m_gionyasiro.htm

京都ガイドブックのサイトによると「祇園祭」のルーツは9-10世紀に始まった祇園社の御霊会「祇園会(ぎおんえ)」で、中世前期までは、三基の神輿、十三本の馬上鉾、五匹の神馬、獅子舞、巫女の神楽、田楽の行列が、旧暦の6月7日に祇園社からお旅所へ渡り、14日に祇園社に戻るという日程で行われていたそうだ。
http://kyoto.nan.co.jp/knowledge/gion.html

年中行事絵巻

以前私のブログでも紹介したが、平安時代の「祇園会」の様子が「年中行事絵巻」(京都芸術大学蔵)の第九巻に描かれている。この絵巻物には行列の先頭に鉾を担いでいる人物がいて神輿や牛車が描かれ、山鉾がどこにも見当たらないことに誰でも気づく。[絵をクリックすると拡大されます]

山鉾巡行が始まるのは14世紀の半ば以降のことで、応仁の乱(応仁元年[1467]~文明9年[1477])の前には山鉾の数は58基にもなったそうだが、応仁の乱後しばらく中断され、明応9年(1500)に山鉾38基で復活されたという。ちなみに現在の山鉾数は33基だ。

ガスパル・ヴィレラやフロイスらが日本にいた時代には、祇園祭の山鉾巡行は(太陰暦の)6月7日と14日の年2回行われていたはずなのだが、フロイスはどういうわけか祭りの日を6月15日と書いている。フロイスの記述では「祇園社」から神輿が出ていることから、7日に行われた祭りの日を間違えたものと考えられる。

明治5年の11月に明治政府が暦を太陰暦から太陽暦に変更することを発表し、明治10年以降は山鉾巡行の日程が7月の17日と24日に移されたのだが、昭和41年以降は人手不足から、7月17日の一回に変更されて現在に至っている。

フロイスの記述では「祇園と称せられる偶像を敬う」と書いているが、「感神院祇園社」が祀っていたのは「牛頭天王(ごずてんのう)」で、これはインドの釈迦の生誕地にちなむ祇園精舎の守護神であり疫病を防除する神と信仰され、「神仏習合」の考え方では薬師如来を本地仏とし、神道におけるスサノオ神と同体だと考えられてきた。
近世の神道家や国学者にとっては、記紀の中でヒーロー的存在であるスサノオと習合している「牛頭天王」は目障りであったらしく、明治政府は「神仏分離」政策を推し進める中で、「牛頭天王」を祭神とするすべての神社について、祭神をスサノオノミコトに代えさせているのだそうだ。

このような経緯で、明治時代の初めに「感神院祇園社」の仏教施設は撤去され、名前は「八坂神社」に改名されて、祭神はスサノオノミコトとされたのである。

フロイスの記録の続きを読んでみよう。

「祭りの数日前に、各町内とその職人たちに、祭りの当日持ち出さねばならない出し物が割り当てられる。次いで当日になると、朝方、無数の群衆が、この祭りを見物するために都に殺到して来る。また別の人たちは祭りに参加することを誓約したためにやって来る。
そして一同は行列のようにして繰り出す。その行列では、まず上部にはなはだ高い舞台が設けられた15台、またはそれ以上の車が行く。それらの車は、絹の布で掩われているが、すでに古く、長く使用されたものである。そして舞台の真中には非常に高い一本の柱がある。その車は二階、または三階で、その各階には高価な絹衣をまとった、都の市民の子供たちである大勢の少年がいる。彼らは楽器を携えており、そうした装いで演技したり大声で歌ったりする。その一台一台の後ろから、自分の職業の印を持った職人たちが進み、皆、槍、弓、矢、長刀、すなわち、はなはだよく作られた鎌の形の半槍のようなものを持ち、本当の兵士たちがそれに続いていく。これらの大きい舞台付の車が通過すると、他の、より小さい車が続く。その上には、立像によって日本の古い歴史上の幾多の故事や人物が表徴されている。[日本人は、それらを非常に上手に製作する。すなわち、彼らは万事において非常に器用であり、はなはだ完全で精巧な仕事をする。彼らは自然の偉大な模倣者であって、そのような仕事にたずさわるのである。]かくて彼らは、これらの車を曳いて朝方、この祭りを奉納する祇園という偶像のところに行き、そこで午前を過ごすのである。」(同上書p.147-148)

鶏鉾
フロイスが「一同は行列のようにして繰り出す」と書いているのは「山鉾巡行」のことであるが、「山鉾」が「鉾」と「山」に分かれているということは、当時の外国人宣教師には理解できなかったのかもしれない。
油天神山

「鉾」というのは屋根に長大な鉾を戴き、直径2メートル程の車輪が付き、2階にお囃子が乗っているもので、「山」というのは、鉾の代わりに松の木を戴き、山の上で出し物を演じる数人の者が乗ることはあっても、お囃子ほどの大人数は乗っておらず、「鉾」よりも一回り小さいものをいう。今年は142年ぶりに「大船鉾」が復活し、巡行する山鉾の総数は33となっている。

祇園囃子

フロイスは「楽器を携え…大声で歌ったり」と書いているが、「祇園囃子」のことを書いているのであろう。実際は鉦(カネ)と笛と太鼓で奏でられている。注意深く聞くと、同じ鉾の囃子には何種類かあり、また鉾によっては囃子の旋律やリズムが異なることがわかるのだが、西洋のような五線紙はなく、この伝統を何百年に亘り継承してきたことは大変な事なのだ。
http://w3.kcua.ac.jp/jtm/archives/resarc/gionbayashi/niwatoriboko/10.html

また、フロイスは「後ろから、自分の職業の印を持った職人たちが進み」と書いている。現在は町内単位の山鉾ばかりだが、昔は職業組合が出す山鉾もあったらしいのだ。
続けて「皆、槍、弓、矢、長刀、すなわち、はなはだよく作られた鎌の形の半槍のようなものを持ち、本当の兵士たちがそれに続いていく」とあるが、今では山鉾巡行の行列で武具を携えて歩く人はいない。

また、フロイスが「これらの車を曳いて朝方、この祭りを奉納する祇園という偶像のところに行き、そこで午前を過ごす」と書いているのは、事実を確認して書いたものとは思えない。重たいものでは12トンもあると言われる山鉾が人を乗せて坂を上ることは考えにくいことだしし、今もそうだが江戸時代の「都名所図会」の記録でも、山鉾のルートは「感神院祇園社」に行くことにはなっていない。

「祇園という偶像」と書いているのは「牛頭天王」の事だと思われるが、そもそもキリスト教は偶像崇拝を禁止する宗教であり、内心では仏像などに対する祈りの行為を認めたくなかったはずだ。

フロイスの文章は続いて山鉾巡行の後に行われる「神幸祭」の記述となる。しばらく引用する。

「午後、彼らは非常に立派に飾られた大きい輿(みこし)を持って神社から出る。多数の者がその輿を肩に担ぐが、その中にかの偶像があると言われる。民衆は皆頭を下げつつ、双手を挙げてこの輿を拝む。そしてその時には、たとえ酷暑であっても、輿が通過する間、誰も頭に帽子をかぶったり扇子を使ったりすることは許されない。なぜなら輿に先行している下賤の者がそうした人を見つけるとその頭を棒でなぐりつけるからである。その後方から別の一台の輿が来るが、人が語るところによると、それは祇園の妾の輿だと言われ、それから銃の一射程離れて一定の位置に、続いて祇園の正妻の輿と言われるものが来る。ここにおいて、正妻の妾に対する嫉妬と悲哀なるものを表徴して、幾つかの滑稽な儀式が行われる。彼らはこのような盲目的な愚行を演じて、その午後を過す。そして日本人は自負心が強く、また群集の数がおびただしいので、この行列の際には、ごく些細なくだらぬことから喧嘩や騒動が起り、その際通常は多数の負傷者が出、幾人かの死者も出る。」(同上書p.148)

神幸祭の神輿

「神幸祭」のことは2年前に見に行ってこのブログに書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-16.html
八坂神社から三つの大きな神輿が繰り出すのだが、最初に出発するのは写真の真ん中の「中御座」と言う六角形の神輿で、スサノオノミコトを祀っている。

次いで出発するのは「東御座」という四角形の神輿で、スサノオの妻であるクシナダヒメを祀っている。
最後に出発するのは「西御座」という八角形の神輿で、スサノオの8人の子供であるヤハシラノミコガミを祀っている。
フロイスの記述を評価する前に、廃仏毀釈で主祭神が変わったことを知る必要がある。

明治時代の廃仏毀釈以前の主祭神は以下の3柱であった。
(中の座) 牛頭天王 (ごずてんのう)
(東の座) 八王子 (はちおうじ)
(西の座) 頗梨采女 (はりさいにょ)
頗梨采女は牛頭天王の后神であることからスサノオの后であるクシナダヒメと同一視された。クシナダヒメは方角の吉方(恵方)を司る歳徳神(としとくしん)と同一と見なされていた事もあり暦神としても信仰された。八王子は牛頭天王の8人の王子であり、暦神の八将神に比定されていたのだそうだ。

神幸祭2

ここまで調べると、フロイスが「正妻の妾に対する嫉妬と悲哀なるものを表徴し」と書いているのは全く根拠のない偏見にすぎないことがよくわかる。

宣教師からすれば意味のない「偶像」が中に入った神輿を担ぐことが「滑稽な儀式」に見え、この神輿を見るために大勢の群衆が集まって盛り上がることは「盲目的な愚行」にしか思えなかったという事なのか。
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日本三大山車祭の一つ、長浜曳山祭の歴史と子ども歌舞伎

竹生島から長浜港に戻って、ホテルにチェックインしたのち長浜市の中心部に向かう。
この日(4月13日)の夕方は十三日番といって、長浜曳山祭の各山組に曳きだされた豪華絢爛な曳山の舞台で、化粧をした子ども役者が可憐に歌舞伎(曳山狂言)を演じる最初の日なのだ。この祭りは毎年4月9日~16日に長浜八幡宮の春季大祭にあわせて執行され、13日~16日は「曳山」が登場して子ども歌舞伎が演じられるのである。
この祭りは京都の祇園祭、岐阜高山の高山祭とともに日本三大山車祭の一つとされ、昭和54年(1979)に国の重要無形民俗文化財、平成28年(2016)にはユネスコ無形文化遺産にも指定されている有名な祭りで、一度この祭りをこの目で観たいと思っていた。

今回の滋賀の旅行記事で明治初期の神仏分離のことを何度か触れたが、長浜八幡宮もこの時期に神仏分離が強行されている。

長浜八幡宮古絵図

廃仏毀釈に詳しいminagaさんのサイトに『長浜八幡宮古絵図』が紹介されており、その中に三重塔が描かれている。このような仏教的な建物などは今では境内のどこにも見当たらない。Minagaさんは長浜八幡宮の歴史についてこう解説しておられる。

「延久元年(1069)源義家が後三条天皇の勅を奉じて石清水八幡宮より勧請。元亀・天正の兵乱に焼失。天正9年(1581)豊臣秀吉などによって再興。別当は新放生寺と号したが、 明治維新の神仏分離により、周囲にあった多くの社僧は廃絶し、仏教関係の什宝は、東の舎那院に移す
社殿は、明治18年雷火のため焼失、現社殿は明治22年に再建。なお北門前観音堂安置木像聖観音立像が伝来するようです。放生池も現存するようです。
 舎那院(真言宗豊山派)は弘仁2年(814)弘法大師の開基といい、秀吉により再興、明治維新前は八幡宮の学頭坊であった。本堂(愛染堂)は八幡宮本地堂 を移建という。また昭和14年八幡宮整備により、護摩堂(桁行3間、梁間3間、寄棟造檜皮葺。室町期)も移建されたという。」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/h20040803.htm

木曽名所図会 長浜八幡宮

文化2年(1805)に出版された『木曽路名所図会』にその頃の長浜八幡宮の境内が描かれている。この頃には三重塔は失われていたようだが、鳥居をまっすぐ進むと現在舎那院の本堂となっている本地堂があり、左には薬師堂も存在していたことがわかる。そして絵図の右端に舎那院が描かれていて、この寺が明治以降唯一残されて、仏像や資料類のほとんどがここに移されたのである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959914/80

また『木曽路名所図会』には、曳山祭について以下のような記載がある。江戸時代には秋にこの祭りが執行されていたようだ。
「…例祭は九月十五日にして、牽山(ひきやま)十二、町々より本社へ出してこれを飾り、其の山々の町より、わらわべに風流の狂言をおしえ、山の上にて舞わしむ。至って壮観なり。これを見むとて、遠近よりここに来って一二夜を泊し、群集すること稲麻(とうま)の如し。名にしおう長浜祭りとて世に名高し。この御旅所西の方にありて、例祭には神宝大刀、その外種々の神器あり。神輿は秀吉公の代営み給いしとぞ。このところには祭りの前日より、芝居・見世物、あるいは拍戸の店ありて、賑わいいはん方なし。まことに英雄の俊傑のはじめ置き給いしその遺風、今にありて目を喜ばしむること、鄙にはならびなき奇観なり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959914/74

『木曽路名所図会』にはこの祭りは豊臣秀吉が残した遺風だと書かれているのだが、『曳山博物館』の解説によると、
「秀吉は、天正2年(1574)頃、長浜城築城とともに長浜の城下町を建設しました。この時に、秀吉は、現在も曳山祭で執り行われる源義家の武者行列を模した『太刀渡り』という行事を行い、のちに男子出生を祝って町民に砂金を振る舞いました。それをもとに各町が曳山をつくり八幡宮の祭で曳きまわしたのが曳山祭の始まりと伝わっています。
 また秀吉は、長浜の町を年貢300石の朱印地(免税地)に定めました。江戸時代、町が、彦根藩下に置かれた際も朱印地は認められ、湖上交通や18世紀半ばから盛んになる織物業で長浜は栄えました。こうした背景をもとに、長浜の町衆たちは曳山を飾り立て、曳山祭はさらに発展していきます。」
http://www.nagahama-hikiyama.or.jp/presently/

当初は曳山を曳くだけの祭りであったようなのだが、江戸時代中期の頃から曳山の上で子ども歌舞伎(浄瑠璃)が演じられるようになったという。
長浜には「長刀山」と子ども歌舞伎が演じられる12基とあわせて13基の曳山があり、子ども歌舞伎が演じられる12基のうち毎年4基が交代で出番山となるので、3年に一度は出番が回ってくることになる。出演するのは5歳から12歳の男の子ばかりで、それぞれの町が代々保有する豪華絢爛な曳山の4畳半ほどの舞台で演じられるのである。

子ども歌舞伎がいつどの場所で演じられるかは、どの町の曳山がその年の出番山であるかによって異なるので、この祭りを見に行くには、「曳山博物館」のHPで毎年アップされる祭りのパンフレットを事前に入手されるのが良い。旅行を計画した当初は、うまくいけば十三日番で4つの曳山を鑑賞できるかと考えたのだが、1つの歌舞伎が40分以上かかるので全部の演目を楽しむことは不可能で、2日がかりで計画を立ててまわるしかない。。
http://www.nagahama-hikiyama.or.jp/image/matsuri/2018/01.pdf

長浜曳山祭 4月13日、14日スケジュール

2018年曳山祭のパンフレットによると、今年の十三日番で最初に演じられるのは壽山(ことぶきざん)であったので、簡単に夕食を済ませて黒壁スクエアの近くで場所取りをした。
パンフレットでは17時30分から始まることになっていたのだが、現地に行くと18時に変更されていた。なぜパンフレットの時間通りに上演されないかについて質問された観光客がいたが、「相手が子どもなのでいろいろあることをご理解賜りたい」との回答だった。確かに役者さんは子どもばかりなので、温かい目で待つしかない。

寿山 2

しばらくすると、化粧・着付けを済ませた役者さんが一人ずつ集まってくる。男役は比較的堂々として歩いてくるが、女役の場合は着付けや化粧を恥ずかしがって抵抗する子どももいることだろう。出演する子ども全員に化粧をし、着物を着せる裏方の苦労はたいへんなことだと思う。

役者さんが全員揃うまで、曳山の後方で笛・太鼓を用いて囃子(シャギリ)が演奏されるのだが、シャギリは、曳山の曳行時、八幡宮入場時などは別の曲が演奏され、各山組により微妙に異なるのだという。
http://www.nagahama-hikiyama.or.jp/category2/shagiri.php

壽山 役者さん全員集合

上の画像は壽山の役者さん全員が揃って曳山の舞台に集まった時のものであるが、今までに浴びたことがないような多くの視線をいきなり浴びるのに耐えられないのか、うつむいたり目を閉じている役者さんが少なくない。十三日番は初めての舞台なのでみんなそれぞれ緊張して当然のことなのだ。

寿山 十三日番

いよいよ演技がはじまった。太夫の語りと三味線が物語の展開をリードし、ポイントポイントで子ども役者のセリフや舞などが入るのだが、舞台進行とともに次第に役者さんの硬さがなくなっていって観ているほうが引き込まれていく。子どもの歌舞伎とはいっても、相当細かいところまで芸が指導されていて、何度も感心してしまった。壽山の出し物は山内一豊とその妻の物語『似合夫婦出世絏(ひきつな) 長浜 一豊の屋敷』なのだが、妻・千代役は女の子が演じているのではないかと思ったほどよくできていた。

十三日番猩々丸 

壽山の演目が終わったころは、高砂山も鳳凰山も歌舞伎が始まっていたので、一番遅い時間に上演される予定の猩々丸(しょうじょうまる)に向かう。外題は『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)熊谷陣屋の場』で、源義経の家来・熊谷直実が子を失い、戦乱の世の無常を感じて出家する物語である。

高砂山 2

次の日の朝は、朝一番に高砂山(たかさござん)に向かう。外題は『義士外伝 土屋主税』。で、赤穂浪士の大高源吾は吉良邸討ち入りの前日まで不甲斐なき不忠の武士を装いながら、討ち入りに参加し主君の仇を討つ物語である。

鳳凰山

次に祝町組の鳳凰山(ほうおうざん)に向かう。外題は『恋飛脚大和往来 梅川忠兵衛 新口村(にのくちむら)の場』で、飛脚問屋の亀谷忠兵衛が遊女梅川と恋仲となり、梅川を身請けするためにお屋敷のお金に手を付けてしまった。忠兵衛は親の顔を見たいと生まれ故郷の新口村まで来たのだが追手はこの村まで来ており、親子は悲しい別れを余儀なくされる物語である。

いずれの曳山の演目も、子どもにとっては内容を理解することすら簡単ではないレベルのものだとは思うのだが、結構長いセリフを暗記し、さらに狭い舞台で舞うために大変な努力を積み重ねてきたはずだ。



上の動画は長浜市が作成したものだが、1分20秒あたりから長浜曳山祭の練習風景が紹介されている。役者に選ばれた子供たちは春休みに入った3月20日頃から、4月12日まで毎日朝・昼・晩と厳しい稽古を繰り返すのだという。まずは台本を何度も読み、台詞の言い回しを徹底的に教え込まれてから立稽古がはじまり、大夫や三味線を交えての稽古はある程度たってからの事である。

高砂山 全員集合

4月14日の自町狂言を終えるとそれぞれの曳山が長浜八幡宮に向かう登り山の準備となる。その直前に町内で曳山祭の準備に関わった人々で集合写真が撮影される。上の画像は高砂山の関係者が勢揃いしたところを写したものだが、ここに集まったのは決して全員ではない。曳山の綱を引く男性はもっといるし、囃子(シャギリ)を演奏したり、子ども役者の着付けや化粧を行うメンバーや、ほかにも奉仕するメンバーがいると思うのだが、町内の多くの人々が老いも若きも伝統の祭りに参画できるということは素晴らしいことである。

猩々丸 曳山

長浜八幡宮に一番遠い猩々丸が長浜八幡宮に向かう登り山が始まった。
「ヨイサ」「ヨイサ」の掛け声とともに、曳山につながった綱をしっかり引っ張る人々の表情も、曳山の後ろで囃子を演奏するメンバーの表情もとても良い。長浜の人々が地域ぐるみで祭りを支えているのを見て、なぜか目頭が熱くなった。
昔は祭りや盆踊りなどで地域の人々が世代を超えて楽しめる機会がどこにでも存在したのだが、今は多くの地方がそのような機会を失ってしまっているのは残念なことである。

猩々丸 笛

祭りなどの地方の伝統行事は、子供に社会を学ばせるきっかけとなるだけでなく、世代から世代に伝統が継承されていくことで地域の人々の連携が強まると同時に各世代のリーダー格が育成されて、地域の問題解決能力を高める機能を果たしてきた。長浜ではこれらの機能が今も健全に働いているようだ。

郷土に誇るべき歴史と伝統文化があり、愛する郷土の為に尽くすことができる長浜の人々は幸せだと思う。
400年以上続いてきた曳山祭は、これからも世代から世代に引き継がれていくことだろう。また機会を作ってこの祭りを楽しみに行くことにしたい。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

天神祭と大阪天満宮とあまり知られていないお寺のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-18.html

大文字山の送り火のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-105.html

若草山の山焼き
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-140.html

大阪のてっぺん 浄瑠璃の里~~地域の文化を継承するということ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-184.html

淡路人形浄瑠璃と高田屋嘉兵衛と淡路特産玉葱の「七宝大甘」~~淡路島文化探訪の旅3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-52.html

暴れ川として知られる吉野川の流域を豊かにした阿波藍と徳島の伝統文化
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-553.html








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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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    同上 自由選書版

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    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















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    GHQが発禁にした日本近代化史