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安土城を絶賛した宣教師の記録を読む

安土城は天正4年(1576)に織田信長によって琵琶湖東岸の安土山に築城された山城で、わが国で最初に大型の天守閣を持った城なのだが、建造後わずか6年後の天正10年(1582)に天守閣が焼失し、その後天正13年(1585)に廃城となっている。
下の図は大阪城天守閣所蔵の「安土城図」で、当時は琵琶湖に接していたのだが、昭和期に周囲が干拓されて今では湖岸から離れた位置に城址が残っている。

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前回の記事で紹介した『フロイス日本史』の第3巻に、安土城が焼失する前年の1581年に、イエズス会の巡察師ヴァリニャーノがこの安土城の天守閣を訪問した記録がある。
結構興味深いことが書かれているので、今回はこの内容を紹介したい。

「信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩しうるものである。事実、それらはきわめて堅固でよくできた高さ60パルモを超える―それを上回るものも多かった―石垣のほかに、多くの美しい豪華な邸宅を内部に有していた。それらにはいずれも金が施されており、人力をもってしてはこれ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄えを示していた。
そして(城の)真中には、彼らが天守と呼ぶ一種の塔があり、我等ヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。
事実、内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている。外部では、これら(七層) の層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられる漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上層はすべて金色となっている。
この天守は、他のすべての邸宅と同様に、我らがヨーロッパで知る限りのもっとも堅牢で華美な瓦で掩われている。それらは青色のように見え、前列の瓦にはことごとく金色の丸い取り付け頭がある。屋根にはしごく気品のある技巧を凝らした形をした雄大な怪人面が置かれている。このようにそれら全体が堂々たる豪華で完璧な建造物となっているのである。これらの建物は、相当な高台にあったが、建物自体の高さのゆえに、雲を突くかのように何里も離れたところから望見できた。それらはすべて木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰でつくられているかのようである。」(中公文庫『フロイス日本史3』p.112-113)

「パルモ」というのは掌を拡げた時の親指から小指の長さをいい、ポルトガルでは1パルモは約22cmであるから、石垣の高さが13メートルを超えていたことになる。
フロイスが、安土城をヨーロッパのどこの城と比較して書いているかはよくわからないが、この当時に建築された城を探すと、世界遺産のフランスのユッセ城は1485年から1535年に建築され、ヴァリニャーノ(1539-1606)やフロイス(1532-1597)の時代に近い建築物である。

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今ではこのようなヨーロッパの城に憧れる日本人が多いのだが、フロイスが安土城の天守閣を「これ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄え」と書き「内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営され」「全体が堂々たる豪華で完璧な建造物」と書いていることから、わが国の建築は世界でもかなり高い水準にあったことは間違いないだろう。

フロイスの文章は続く。

「信長は、この城の一つの側に廊下で互いに続いた、自分の邸とは別の宮殿を造営したが、それは彼の邸よりもはるかに入念、かつ華美に造られていた。我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭、数ある広間の財宝、監視所、粋をこらした建築、珍しい材木、清潔さと造作の技巧、それら一つ一つが呈する独特でいとも広々とした眺望は、参加者に格別の驚愕を与えていた。
この城全体が、かの分厚い石垣の上に築かれた砦に囲まれており、そこには物見の鐘が置かれ、各砦ごとに物見が昼夜を分かたずに警戒に当たっている。主要な壁はすべて上から下まで見事な出来栄えの鉄で掩われている。…」(同上書p.113)

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と、本丸御殿、二の丸御殿も素晴らしい出来栄えであったことがわかる。

以前このブログで書いたが、当時の宣教師の役割は単にキリスト教を広めることだけではなかった。彼らは侵略の先兵として派遣されていたことは、彼らが本国に送っている書状をみれば読めば誰でもわかる。
最初に日本に来たイエズス会のザビエルですら、ポルトガルのロドリゲス神父宛ての1552年4月8日付の書簡で、ポルトガルが日本を占領することは無理だと報告しているし、安土城を訪れたヴァリニャーノも、1582年12月14日付のフィリッピン総督あての書簡で「日本は…国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではない。」と書き送り、まずシナから征服することを進言しているのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html

宣教師に城の内部を公開することは、今から思えば、敵に軍事機密をオープンにしてしまうようなものであるのだが、信長は秀吉とは異なり宣教師に対しては無警戒に近かった。ヴァリニャーノは別の目的があって安土に来たのだが、信長がヴァリニャーノに安土城の内部を見せたのは、ヴァリニャーノ(下画像)から要請されたわけでもなく、信長からの招待によるものである。

ヴァリニヤーノ

「巡察師(ヴァリニャーノ)が安土山に到着すると、信長は彼に城を見せたいと言って召喚するように命じ、二名の身分ある家臣を派遣して往復とも随伴せしめた。なお信長は、修道院にいるすべての司祭、修道士、同宿たちにも接したいから、いっしょに来るように命じた。彼らが着くと、下にも置かぬように歓待し、城と宮殿を、初めは外から、ついて内部からも見せ、どこを通り何を先に見たらよいか案内するための多くの使者をよこし、彼自らも三度にわたって姿を見せ、司祭と会談し、種々質問を行ない、彼らが城の見事な出来栄えを賞賛するのを聞いて極度に満足の意を示した。事実、同所には、見なくても良いようなものは一つとしてなく、賞賛に値するものばかりであった。…
城から出ると、ようやく通過できるほどの異常な人出であった。キリシタンたちは、彼ら司祭らが、このように名誉ある慰め深い好意と待遇を受けたのを見て、喜びを隠すことができなかった。」(同上書p.115)

信長

読み進んでいくと、信長が宣教師に対して非常に好意的であったことがいろいろ書かれている。
ヴァリニャーノが安土に1か月ほど滞在したのち九州に行くこととなり、信長に別れを告げに来た際に、信長は餞別に安土城を描いた屏風を与えている。

「巡察師がまもなく出発することになったことを知ると、信長は側近の者を司祭の許に派遣し『伴天連殿が予に会うためにはるばる遠方から訪ね来て、当市に長らく滞在し、今や帰途につこうとするに当り、予の思い出となるものを提供したいと思うが、予が何にも増して気に入っているかの屏風を贈与したい。ついては実見した上で、もし気に入れば受理し、気に入らねば返却されたい』と述べさせた。ここにおいても彼は司祭らに抱いている愛情と親愛の念を示したのであった。
 巡察師は自らになされた恩恵を深く感謝し、それは信長の愛好品であるから、また特に安土山に関して言葉では説明しかねることを、絵画を通じ、シナ、インド、ヨーロッパなどにおいて紹介できるので、他のいかなる品よりも貴重である、と返答した。」(同上書p.117)

この安土城図は天正遣欧使節とともにヨーロッパに運ばれ、1585年3月にローマ法王グレゴリオ13世に献上されたことまでは分かっているようだが、今ではどこにあるかわからないのだそうだ。

フロイスはただ日本の木造建築技術を絶賛しているだけではない。このような素晴らしい建築物を造りだす大工の仕事を良く観察して、その手際の良さに感心している。

「日本の大工はその仕事にきわめて巧妙で、身分ある人の大きい邸を造る場合には、しばしば見受けられるように、必要に応じて個々に解体し、ある場所から他の場所へ運搬することができる。そのため、最初に材木だけを全部仕上げておき、三、四日間組み立てて打ち上げることにしているので、一年がかりでもむつかしいと思われるような家を、突如としてある平地に造り上げてしまう。もとより彼らは木材の仕上げと配合に必要な時間をかけてはいるが、それをなし終えた後には、実に短期間に組み立てと打ち上げを行なうので、見た目には突然出来上がったように映ずるのである。」(同上書p.114)

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フロイスが絶賛したわが国の木造建築技術は承継され、今もなお世界に誇れるものだと思うのだが、釘もボルトも使わずに頑丈な建築物を組み立てる高度な技術が次世代にうまく承継されているのだろうかと思うと心配になってくる。
大学では近代的な建築技術ばかりが教えられ、伝統的日本建築技術の承継は現場の宮大工に委ねられていて先細りしてはいないか。世界に誇れる日本の技術を次の世代に承継できずして、どうやって、各地に存在する素晴らしい木造建築物の価値を減じることなく未来に残すことが出来ようか。
宮大工ばかりではない。木造住宅の新築が減り、従来工法の大工も仕事が激減してきている。伝統芸能や工芸などの承継者は国や地方からの補助が出ているが、宮大工や大工は仕事がなければ生きていけない。
彼等の仕事がこれからも少なくなるようだと後継者を育てることが出来ず、各地に残っている古い街並みや地域の風情を残すことが次第に難しくなっていくのではないか。

これからのわが国は人口が減少していくのだから、高層マンションばかりを建てては空き地と空き家をあちこちに増やして、地域の景観を悪化させるばかりではなく治安の悪化にもつながっていくことになる。
これからは多くの地域で、土地の効率的利用よりも、空き地を減らしていく施策や、土地を広く使う大きな住宅建設を推進することの方が求められていくのではないだろうか。

富田林寺内町

その流れの中で、土地の価格が下がり庭付き一戸建ての家が増えて、伝統的工法が見直される日が来ないものだろうか。各地に今も残る日本らしい街並みや地域の風情を次世代に残していくためには、昔ながらの大工が忙しくなることが必要なのだと思う。
(上画像:富田林市寺内町)

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織田信長が「桶狭間の戦い」に勝利した戦略を考える

戦国時代の英雄といえば、わが国が統一される足がかりを作った武将として織田信長の名前を挙げる人が多いだろう。信長は主要な戦いのほとんどで勝利を収め、なかでも、東海道の覇者・今川義元をわずかな兵でうち破った永禄3年(1560)の『桶狭間の戦い』は、信長の主要な戦果の一つとしてほとんどの教科書に記されている。

織田信長

この戦いについては「『上洛』を目指して尾張に侵入した今川義元を、織田信長が迂回路を通って『奇襲』して倒した」と戦記物などで記されて、それが長い間日本人の常識とされてきたのだが、その『上洛戦』『迂回奇襲戦』であったとする説とは異なる説が最近では有力視されているという。

今川義元

今川義元は駿河、遠江、三河の3ヶ国を治める大大名で、背後にある甲斐の武田信玄、相模の北条氏康と相互に婚姻関係を結んで相互不可侵を約し、いよいよ上洛を目指して動き出したとなどという内容が書かれている書物が多いのだが、最近では、義元が上洛の準備を行なった形跡がないとし、上洛説を否定している研究者が多いようだ。

たとえば静岡大学教授の小和田哲男氏は著書でこう解説しておられる。
「永禄3年5月という時点を考えると、京都には将軍足利義輝がいて、義元が義輝にとって代わろうなどと考えたとは思えない。永禄8年に義輝が松永久秀らによって殺され、将軍空位の状態ならまただしも、永禄3年に、足利一門である義元が将軍にとって代わろうと考えるはずはないのである。
 それと、もう一つ、この時期、義元が、尾張より先の戦国大名である美濃の斎藤義龍、近江の六角義賢らと連絡をとっている痕跡が全くないというのも奇妙である。上洛するなら、その道筋にあたる斎藤氏や六角氏との間に事前の折衝があって当然であろう。それがないということは、義元は、尾張より先のことは視野になかったものと思われる。」(青春文庫『戦国時代はうらから読むとおもしろい!』p.75-76)
小和田氏は、そう述べたあと、北条氏の目的はズバリ尾張奪取にあったとしておられる。

少し補足しておくと、今川家は室町幕府の足利将軍家から御一家として遇された吉良家の分家にあたる名門である。その今川義元が、上洛して将軍家を助けるという動機があったとしても、京に至るまでには有力大名が目白押しであり、その根回しなしに、この程度の陣容で上洛することが可能とは思えないし、そもそも足利将軍家との書簡のやり取りも存在しないというのである。
今川義元は三国同盟を背景に三河進出に力を注ぎ、弱体化した三河国の松平氏を従属させたほか、同じく尾張の織田氏と「安城合戦」「小豆坂の戦い」などを戦い、三河から織田氏を締め出して鎮圧してからまだ日も浅かった。普通に考えれば、次に征服すべき国は尾張であろう。
将来的に上洛の意志はあったにせよ、永禄3年(1560)の時点で今川義元が一気に上洛しようとしたとする説は、真実を伝えているとは思えないのである。
義元の上洛が目的であったなどと書いている書物を辿って行くと小瀬甫庵の『信長記』(慶長16年[1611])、『改正三河後風土記』(天保8年[1837])など軍記物に辿りつくのだそうだが、いずれも桶狭間の戦いからかなり日数が経過して記されたものであり、かなり創作がなされていることは読めばわかるのだが、わが国の歴史叙述が軍記物の内容に基づいて記述されることはよくある話なのである。

では次に、桶狭間の戦いにおける両軍の動きを追ってみよう。

桶狭間地図

今川義元は永禄3年(1560)の5月12日に自ら大軍を率いて駿府を発ち、尾張を目指して東海道を西進した。5月17日、尾張の今川方諸城の中で最も三河に近い沓掛城に入った今川軍は、翌5月18日夜に松平元康(徳川家康)が率いる三河勢を先行させ、大高城に兵糧を届けさせている。

そして5月19日の早朝に沓掛城を出発した今川軍は大高城を目指して進軍し、丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始した。
清州城にいた信長は、その情報を得るや「敦盛」の舞を舞い、鎧兜をつけて出陣したと伝えられている。

沓掛城を出立した今川義元の本隊は、午の刻(正午頃)、桶狭間山に着陣して人馬に休息を与えていたという。ここで丸根・鷲津両砦の陥落の報告を受けた義元は謡に興じるなどし、一方、丸根砦、鷲津砦を攻め落とした松平元康(徳川家康)は、大高山で人馬に休息を取らせていた
今川軍の戦力については諸説あり、兵の数は2万5千とも4万5千とも言われているが、義元の本隊は5千程度であったと考えられている。
桶狭間に向かった信長の兵は2千に満たなかったようだが、信長は、今川義元の兵が桶狭間山で休息している今が好機と踏んだようである。そのために信長は中島砦方向に向かい、そこから桶狭間山に向かおうとする。

信長公記

信長の旧臣のであった太田牛一が著した『信長公記(しんちょうこうき)』にはこう記されている。
「信長は戦況を見て、中島へ移動しようとしたところ、『中島への道は両側が深田で、足を踏み込めば動きが取れず、一騎ずつ縦隊で進むしかありません。軍勢少数であることを敵方にはっきり見られてしまいます。もってのほかでございます』と、家老衆が信長の轡(くつわ)に取りついて、口々に言った。しかし信長は、これを振り切って中島へ移動した。この時、信長は二千に満たない兵数であったという」(新人物文庫『現代語訳 信長公記』p.100)

信長はこのタイミングを待っていたのである。そしてこのような檄を飛ばしている。

皆、よく聞けよ。今川の兵は、宵に腹ごしらえをして夜通し行軍し、大高へ兵糧を運び入れ、鷲津・丸根に手を焼き、辛抱して疲れている者どもだ。こっちは新手の兵である。しかも、『少数の兵だからといって多数の敵を恐れるな。勝敗の運は天にある』ということを知らぬか。敵がかかってきたら引け、敵が退いたら追うのだ。何としても敵を練り倒し、負い崩す。たやすいことだ。敵の武器など分捕るな。捨てておけ。合戦に勝ちさえすれば、この場に参加した者は家の名誉、末代までの高名であるぞ。ひたすら励め。」(同上書p.101)

義元が布陣していた桶狭間山の際まで軍勢を寄せた時に激しいにわか雨が降りだしたことは幸運だった。そのおかげで信長軍は今川軍に気付かれずに接近することが出来たのだ。そして、豪雨がやんだ頃合に織田方の急襲がはじまる。

桶狭間の戦い 2

空が晴れたのを見て、信長は槍をおっ取り、大音声を上げて『それ、掛かれ、掛かれ』と叫ぶ。黒煙を建てて打ち掛るのを見て、敵は水を撒くように後ろへどっと崩れた。弓・槍・鉄砲・幟(のぼり)・差し物、算を乱すとはこのことか。義元の朱塗りの輿さえ打ち捨てて、崩れ逃げた。
『義元の旗本はあれだ。あれに掛かれ』と信長の下知。未(ひつじ)の刻(午後2時頃)、東へ向かって攻めかかる
。敵は、初めは三百騎ばかりが丸くなって、義元を囲んで退いたが、二、三度、四度、五度と引き換えし、打ち合い切り合ううちに、次第次第に人数が減り、ついには五十騎ほどになった。
 信長も馬を下り、若武者どもと先を争うように、突き伏せ、突き倒す。頭に血がのぼった若武者ども、乱れ掛って鎬(しのぎ)を削り、鍔(つば)を割り火花を散らし、火焔を降らす。乱戦だが、敵味方の区別は、旗指物の色で知れた。ここで、信長の御馬廻り・お小姓衆の歴々、負傷・討死にした者、数も知れない。
 服部春安は義元に打ちかかり、膝口を切られて倒れ伏す。毛利良勝は、義元を切り伏せて首を取った。…
 今川勢は運の尽きた証拠だろうか。桶狭間というところは狭く入り組んで、深田に足を取られ、草木が高く・低く茂り、この上もない難所であった。深い泥田へ逃げ込んだ敵は、そこを抜け出せずに這いずりまわるのを、若武者どもが追いかけ追い着き、二つ、三つと手に手に首を取り持って、信長の前へ持参した。『首はどれも清州で検分する』と信長は言い、義元の首だけはここで見て、満足この上もなかった。」(同上書p.101~103)

太田牛一の著した『信長公記』は軍事的に正確で史料性が高いと評価されている書物だが、これを読むと信長は、中島砦から東に進んで義元の本隊を正面から攻撃したことになる
従来の説では、義元は桶狭間付近で酒宴を開いていて、信長は間道を通って山中を迂回して義元の本陣の背後に回ったことになっているのだが、普通に考えれば、信長軍がいつ攻めて来るかわからない状況で今川軍が酒宴を開くことはあり得ないだろうし、酒宴を開いていないのであれば義元の本隊は休息が終えればいずれ西に向かうことになる。迂回して義元の背後を衝こうとすれば、時間がかかりすぎて先を越されてしまうリスクがある。
中島砦から桶狭間までの距離は直線で3キロメートル程度であり、今川義元本隊に戦いを挑むのであれば、信長が最短コースを採ることは当然ではないか。

しかしながら、兵力では織田軍は今川軍の十分の一程度で圧倒的に不利な状況にあった。
にもかかわらず兵力の劣る信長軍が正面から今川の本隊に挑んで勝利することができたのだが、信長が勝利したポイントはどこにあったのか。
その点について、私にとって一番納得のいく説明をしているのは『本能寺の変 431年目の真実』で一躍有名になった明智憲三郎氏の論考である。

明智憲三郎

明智氏によると、信長のとった行動はきわめて理に適っているという。この戦いにおける信長の戦術について明智氏は、孫武・呉起の兵法とともにこう解説しておられる。

「『敵が多勢でも、それを封じ込めばよい』のです。…『平坦な場所は多勢の側が有利です。このような場所で戦うことは避け、少人数で戦うのに有利な狭い場所で迎え撃つのです。昔から「一つの力で十の敵を討つ最善の策は狭い道で戦うことであり、十の力で百の敵を撃つ最善の策は険しい山地で戦うことであり、千の力で万の敵を撃つ最善の策は狭い谷間で戦うことである」といいます。かりに少人数だとしても、狭い地形を選び、不意打ちをかければ、いかに相手が多人数であっても驚きあわてざるを得ません。』…沓掛城から鳴海城に至るまでは両側が小山で狭間(谷間)の道が続く、少し開けた場所も深い田になっていて道は狭い。千で万を討つには最適だ。」(明智憲三郎織田信長 四三三年目の真実』p.55-56)

織田信長四三三年目の真実

そればかりではない。信長はさらに勝ちを確実なものとするために、今川軍を分断させたのである。

「『先頭と後尾とが分断された敵は攻めやすく』なります。『敵が進みやすく、退却しにくい地形にいるときに誘い出す』ことにより敵を分断することができます。…後軍が桶狭間にいる間に、先陣を鳴海城や大高城のある海岸近くの平坦地まで誘い出す。…当然、(敵は)大高城・鳴海城の付近の砦を落としにかかるだろう。こちらが砦を守るために先に布陣してしまうのではなく、砦を攻撃させて敵を引き込んでから出陣する。…
敵は…駿府から40里を6日がかりで行軍してくれば、それだけでかなり疲れている。…
敵はこちらが鳴海城を攻めると考えるだろう。そう見せておいて、鳴海城を素通りして、桶狭間の義元本隊を攻める…。兵をかき集めて数を合わせようとするのではなく、むしろ精鋭を厳選し、死地に追い込み、激励し、速攻を加える…。4万5千のうち、桶狭間に陣取る義元本隊は2万とみて、わが方はその十分の1あればよいということだ。」(同上書 p.56-59)

信長はこの戦略の通りに今川軍先陣を誘い出し、松平元康に丸根砦、鷲津砦を攻め落とさせる。6日間も行軍した後に砦を奪い取ったあとは、大高山で人馬に休息を取ることとなるが、兵士たちは相当疲れていた。そのとき義元の本陣は桶狭間の高台にいて、先陣とは6キロ近く離れてしまっていた。
しかも桶狭間は西に進むにも東に戻るにも狭い道が続き、しかも少し開けた場所も深い田になっていて、いくら義元の兵の数が多くても軍列が長く伸びてしまうことになる。ということは、実際に織田軍と干戈を交えることができるのは列の前の方にいる一部の兵士だけなのだ。しかも、大将の今川義元は陣の比較的前方にいた。
だからこそ、軍の精鋭を集めた信長は、少ない兵の数でありながら、今川軍の本隊を正面から攻め、義元の首級を挙げて勝利することが出来たのである。

桶狭間の戦い

こうしてみてくると、今川義元の敗因はこのような狭隘な地形の桶狭間に着陣したことが大きいことになるのだが、ではなぜ義元がこのような危険な場所に陣取ったのであろうか

明智氏は「名将として知られる太源崇孚雪斎(たいげんそうふせっさい)に幼いころから訓育を受けた義元が兵法を知らないわけがない」と前置きした上で、次のように記しておられる。
「おそらく、義元は二つの理由で桶狭間で本隊を駐留させたのであろう。ひとつは兵の休息地として夏の日差しを避けられる日陰のある桶狭間が適当と考えたこと。もうひとつは高根山周辺の高地から戦況を一望のもとに見て、次の作戦を考えようとしたこと。孫子の兵法にも次のように説かれている。『起伏に富んだ地形では、先に視界良好で戦場を支配する高地を占領して、敵を待て』。義元の行動はこれに適っていた。また『隘路は先に占領し、隘路口を封鎖して敵を待て』とも説かれている。桶狭間の隘路を先に占領したが、桶狭間からの出口の封鎖が不十分だったのだ。そのため信長軍の突撃に対して、前陣がひるんで後退して一挙に全軍が崩れてしまった。こうして突き詰めてみると、桶狭間へ向かって進軍して来る織田軍の動きを把握できていなかったことと、隘路口の封鎖が弱かったことが義元の真の敗因といえよう。」(同上書 p.80-81)

義元は、孫子の兵法の教えの通りに見晴らしの良い場所に着陣したのは良かったが、谷間の細い道が長く続いていることの認識が乏しかった。尾張の地理に疎かったために、その認識が持てなかったのだろう。
一方の信長は、義元の本陣を桶狭間に駐留しているタイミングを虎視眈々と狙っていた。信長にとっては、今川軍の先陣ができるだけ本陣から離れることが望ましかった。丸根砦、鷲津砦を今川軍に勝利させて、18日に彼らが兵糧を運び込んでいた大高城にて休憩をさせることがベストであったはずだ。
信長の期待した通りに、桶狭間に義元の本陣が残された。そこを信長軍の精鋭が衝いたわけだが、わずかな兵で今川の大軍に勝利した信長の戦略、恐るべしである。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

本能寺で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-98.html

明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-99.html

「さくら道」を走って、織田信長が天下布武を宣言した岐阜に向かう
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-337.html

安土城を絶賛した宣教師の記録を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-237.html


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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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