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消えた門跡寺院

江戸時代の安永から天明(18世紀後半)のころに「都名所図会」「拾遺都名所図会」という京都の旅行案内書のようなものが出版されている。この本は国際日本文化研究センターのWebサイトに原文と図絵と翻刻文があるので、誰でも容易に読むことができる。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/index.html
都名所図会

京都に生まれ育ったので良く知っている場所を中心に読み始めると、いくつかの有名なお寺が消えているのに気づいた。

たとえば、「照高院」という門跡寺院が左京区に存在していたのがなくなっている。門跡寺院というのは皇族や摂家が出家する特定の位の高い寺院のことで、親王(天皇の子供、孫)または法親王(出家後親王の宣下を受けた皇子)が住職として居住するのは仁和寺、大覚寺、三千院など13の寺院しかない(宮門跡、あるいは十三門跡)のだが、そのうちの一つがこの「照高院」なのである。

このお寺はもともとは桃山時代の文禄年間(1592~96)に豊臣秀吉の信任が厚かった道澄上人が東山妙法院に創建した寺院であったが、方広寺鐘銘事件に関連して取り壊されてしまい、その後江戸時代の元和五年(1619)、後陽成天皇の弟・輿意法親王が、伏見城の二の丸松丸殿を譲り受け、門跡寺院として白川村外山(現北白川仕伏町)に「照高院」を再建されたのである。

「拾遺都名所図会」では、「照高院」については11行も記述され、照高院で詠まれた和歌なども紹介されているのだが、このお寺が今は存在しない。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7t/km_01_406.html

ではなぜこのような由緒のある「照高院」が明治時代に取り壊されるに至ったのか。

ネットでいろいろ調べると「照高院」の再建以来、道周・道晃,道尊,忠誉の四法主法親王を経て明和7(1770)年以降は寺領その他一切が聖護院門跡の支配にゆだねられ、それから約百年の間は法主が置かれなかったようである。
明治元(1868)年になって聖護院宮御法弟智成親王を照高院主に任じ復飾させたが、明治3年智成親王を還俗させて照高院を北白川宮と改称したという複雑な経緯が書かれている。
その後明治5年に智成親王は若くして薨去(17歳)され、遺言により御実兄能久親王が北白川宮のあとを継いだが、宮家が東京に移転し、能久親王は明治3年からプロイセンに留学のため日本を離れており、明治9年に帰国を命じられるまでにほとんど日本に居住していなかったことから、明治8年に照高院の堂宇は撤去されることになったらしいのだが、なぜ由緒ある立派な建物が撤去されなければならなかったのかが、これだけ読んでもよくわからない。

いろいろ調べていくと、明治維新のころの宗教政策に辿り着く。
中学や高校で日本史を学んで「廃仏毀釈」という言葉は知っていたが、詳しく調べるとその実態は私が想像していたレベルをはるかに超えていた。歴史あるお寺が沢山残っている京都や奈良ですらその破壊も相当なものであったが、佐渡、土佐、富山、津和野、薩摩藩などは特に激しく、薩摩藩では島津家の菩提寺であった福昌寺を含め1661ものお寺が破壊されていることをつい最近知った。 この時期に全国の寺院の約半分がなくなっているらしいのだが、歴史の暗い部分は、通史を読むだけではなかなかわからないものだ。

たとえば、薩摩藩では次のサイトで南日本新聞に連載された記事を読むことができる。
http://myoenji.jp/haibutukisyaku.html

何故明治3年に照高院を北白川宮と改称し、智成親王を還俗させたかは、明治政府の次の布告や施策と関係がありそうだ。

明治二年 寺院の宗旨人別帳を所属藩に提出させる(行政官布告)
      …国民の戸籍を政府が寺院から奪取
     寺院堂上から菊の御紋を禁止(行政官布告)
      …門跡寺院も紋章を使えなくなった
     明治天皇の東京奠都
     神祇官を太政官の上位に置き、祭政一致の体制を確立
明治三年 大教宣布の詔…廃仏運動が全国に広がる
     富山藩主が一宗一ケ寺の令を出し、領内大多数の寺院を廃毀

もし「照高院」が門跡寺院として残っていれば、北白川が観光地になっていたことはほぼ間違いないだろう。
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京都四条大橋の話

現在の四条大橋

京都市内を南北に流れる鴨川にはいくつもの橋があるが、祇園や東山を散策する際には四条大橋を行きか帰りに渡る人が大半だろう。 京都に生まれ育った私は何度四条大橋を渡ったかわからないが、最近インターネットでこの橋の歴史を調べて驚いた。

福本武久さんという方が祇園の花街で発行されている「ぎをん」という雑誌に寄稿された文章を引用させていただくことにする。
http://www.mars.dti.ne.jp/~takefuku/essay/es02/es0209.html

『…鴨川にかかる数ある橋のなかでも、四条大橋は、すでに明治の初めから特別あつかいされてきた。木造だった橋は、明治七年、最初の鉄橋として生れかわっている。
 京都で唯一の鉄橋を誕生させたのは、京都府と祇園の町衆だが、隠れた生みの親は廃仏毀釈という社会的現象なのである。
 仏教を排斥する廃仏毀釈は明治五年ごろからはじまっているが、そのきっかけは維新時にさかのぼってみることができる。明治新政府のスローガンは王政復古、祭政一致であるから、まず天皇の絶対性を確立しなければならなかった。明治元年の神仏分離令はその具体的あらわれである。それが引き金になって国家宗教として権勢をほこっていた仏教は、神道にひれふさなければならなくなった。
 廃仏毀釈は全国的なものだったが、仏教の本山をかかえる京都は大騒動であった。とくに 「神さん」と 「仏さん」が、ごちゃまぜになった神仏合体の神社は、きびしい選択を迫られた。
 たとえば北野天満宮は北野神社と改称、社内の仏像をとりはらい、二重塔をうちこわした。石清水八幡宮も男山神社と改称させられている。もともと 「八幡さま」をまつりながらも仏教的な色彩の強い神社で阿弥陀仏などの仏像が安置されていた。京都府はそれらをすべて撤去させ、諸坊のとりこわしを命じた。「祇園さん」も例外ではなかった。それまでは 「感神院」あるいは 「祇園社」とよばれていたが、八坂神社と改められた。社僧は俗名に改めさせられ、薬師如来などの仏像は移管された。神仏合体の神社はいずれも「仏さん」部門を切り捨てて命脈を保ったのである。
 廃仏毀釈というリストラの嵐のなかで、多くの寺院が廃寺に追いこまれ、本尊の仏像だけでなく仏具や什器類まで没収された。府庁に次つぎと運びこまれた金属製の仏具類、それが四条鉄橋の鉄材に再利用されたのである。…』(引用終わり)

なんと、四条大橋は明治七年に廃仏毀釈で強制的に供出させた仏具類を鋳潰して橋材に使われたのである。その後、市電の開通に伴う道路拡張のため大正2年に架けかえられたが、水害で再度架けかえられることになり、昭和17年に完成したのが現在の四条大橋である。

いろいろ古い写真をネットで探すと、明治時代の四条大橋の画像が見つかった。
四条大橋鉄橋

この時代の京都人は四条大橋が廃仏毀釈と関わりがあることを知っていたであろうが、今ではこのような事実を知っている人は少ないのではないだろうか。
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消えた鶴岡八幡宮寺大塔など

鎌倉鶴岡八幡宮に以前は薬師堂や護摩堂や経堂や大塔があったことを最近知った。
鶴岡八幡宮は、明治以前は「鶴岡八幡宮寺」という神仏習合の寺院であり、明治初期の廃仏毀釈で仏教施設がすべて撤去されてしまったということである。
鶴岡八幡境内図

上の写真は江戸時代に書かれた境内図、下の写真は現在の境内図だが、現在の社務所や幼稚園、研修道場などのあるあたり一帯に仏教施設が建てられていたことがわかる。
鶴岡八幡宮2008

幕末に来日したイギリス人の写真家フリーチェ・ベアトが江戸時代の「鶴岡八幡宮寺」の写真を残している。
鶴岡八幡大塔写真

上の写真はベアトが撮った大塔の写真と言われている。またこの時期に来日したスイス人の実業家エメェ・アンベールも、著書「絵で見る幕末日本」(講談社学術文庫)の中で、当時の大塔の細密画を残している。
鶴岡八幡宮愛染明王

4つめの写真は破壊された愛染堂に安置されていた愛染明王の写真である。(今は五島美術館にある)

今でこそ「八幡」といえば神社を連想するのだが、宇佐八幡宮弥勒寺、石清水八幡宮護国寺をはじめもともとは神仏習合の寺院で、この時期に仏教的な施設が撤去されたところが多いのである。

それにしても、鶴岡八幡宮のホームページにも、石清水八幡宮のホームページにも、神仏分離のことは一切記述にない。宇佐八幡宮のホームページには神仏習合のことが少しだけ書かれているが、神仏分離のことは書かれていない。

真実は、表の歴史だけではわからないものである。
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かみがもばなし

以前、四条大橋が明治初期の廃仏毀釈で強制的に取り壊されたお寺の鐘や仏具を溶かして橋材に使われたことについて書いた。

この時期にどれだけのお寺が取り壊されたかについては良く分からないが、京都でこれだけのお寺が無くなったのであれば、庶民の記録のようなものが何か出てこないのだろうかとネットでいろいろ探したことがある。

当時は神社と寺院が共存していたことをヒントに、有名な神社をいくつか調べていくと、「かみがもばなし」というサイトの中の「お寺の話」が見つかった。しばらく引用させて頂くことにする。
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/tyrannosaurus/kamigamo.html


上賀茂

(以下引用)
『三百年も続いた江戸時代も、終わりを告げ時代も「明治」と改められた頃、新しい国づくりがはじまりました。

ここ上賀茂の地にも、新しい時代な波が押しよせてきました。そんなある日のこと、

「えらいこっちゃ、お寺がないようになったで。」 「賀茂川に行ってみ、つぶしたお寺の柱やら燃してるで。」

と、村中は大さわぎになっています。きのうまであったお寺は、次々とこわされているのです。

そのこわした木材を賀茂河原に出して火をつけて燃しているのです。その火は数日続いていたといわれています。

むかしから、この明治になるまで、寺と神社はいっしょにまつられていました。

ところが、この時代になってから、神社と寺は別々にまつるように、
神社にある、あるいはその神社の社領地にある寺は、認めないということです。これを「廃仏令」といいます。

明治をむかえるまでの時代には、このような寺の目的は、神社を守るためとか、神社へ奉仕をするためにあったそうです。

ですから現在のように、おそう式をする寺ではないのです。

上賀茂は、むかしは、上賀茂神社の社領地でありました。ですから、このような「おふれ」にしたがい、つぎつぎと消えてしまったのです。』 (引用終わり)

「かみがもばなし」は上賀茂の歴史研究家である初田耕治氏が上賀茂小学校の育友会広報誌に寄稿されたもので、「お寺のはなし」は初田氏が大田神社の藤木さんという方から聞かれたことをまとめられたものらしい。

そこには明治に入るまでは上賀茂神社に8つのお寺があったことが記されていて、そのお寺が廃仏毀釈で全て毀されるか移転されて全てなくなってしまったということなのだが、そういえば子供のころになぜ上賀茂神社や下鴨神社の近くにお寺がないのか不思議に思ったことがあった。ネットで調べていくと、下鴨神社も同様に神宮寺というお寺がこの時期に取り壊されたことが分かった。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/kyo_kamosimosya.htm

以前紹介した石清水八幡宮もそうだが、八坂神社にも北野天満宮も多宝塔などの仏教施設があったのがこの時期になくなっているのだ。どれだけの仏像や絵画がこの時期に失われたか想像もつかない。

中学や高校の歴史で学んだ廃仏毀釈は明治維新の一事件という程度の表層的な理解であったが、詳しく調べれば調べるほど、想像の域を超える凄まじいものであったことがわかる。弾圧された側の仏教の立場からの記述や、庶民レベルの記述がほとんど見当たらないのだが、あれば読んでみたいものである。
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悲しき阿修羅像

阿修羅展

今年の春から秋にかけて東京と九州で開催された国宝阿修羅展は、それぞれ95万人、71万人という多数の入場者を集め大変な盛況だったそうだ。私も阿修羅像は大好きで、昨年の秋に正倉院展を見た後に、興福寺の国宝館の阿修羅像を鑑賞して帰った。

その時は興福寺の歴史を良く知らなかったのだが、興福寺は明治時代の初期に廃仏毀釈によって建物を壊されたり仏像仏具が消滅するなど甚大な被害を受けていることを後で知った。

今の奈良公園は廃仏毀釈以前はすべて興福寺の境内であったのだが、当時の奈良県知事が「往来の妨げになる」との理由で土塀を撤去させたらしい。そのために興福寺には今も門もなければ塀もない。正岡子規の俳句に「秋風や 囲いもなしに 興福寺」という作品があるそうだが、この経緯を知らなければこの句を理解することはできないだろう。

興福寺のホームページを見ると「古写真ギャラリー」があって、明治時代の19世紀後半に撮影された72枚の写真が公表されている。
http://www.kohfukuji.com/property/old_photo/index.html

悲しき阿修羅2

その中に腕の欠けた仏像の写真がいくつも出てくるし、破損した仏像ばかりを並べた写真もある。そして最後には二本の腕がぽっきりと折れている阿修羅像の写真が残されている。

「五等 東金堂集合佛體」などという表題が書かれた写真は無着・世親立像とともに阿修羅像などが無造作に並べられている。よく見ると阿修羅像の腕が折れているようだ。

興福寺集合仏体

興福寺のホームページには、これらの写真の経緯については何も書かれていないのだが、いろいろネットで興福寺の明治以降の歴史を調べると驚くことばかりである。

明治4年に「寺領上知の令」により、明治政府が古来からあったお寺の領地を全て取り上げたために、古都奈良ばかりでなく全国の由緒ある寺院の多くが一気に経済的基盤を失ってしまい、寺は内部から崩壊して、生きるために仏像や寺宝を売却する者が出てくることになった。そのために、かなりの文化財が日本各地の寺院で失われることになった。

NHKの「その時歴史が動いた」~岡倉天心・廃仏毀釈からの復興~に比較的詳しくその頃の経緯が書かれており、当時の興福寺の状況を知ることができる。
https://www.nhk.or.jp/sonotoki/2008_05.html

それによると興福寺の僧侶130人が春日大社の神官となり、明治5年には興福寺は廃寺となって、明治14年に再び住職を置くことが認められるまでは興福寺は無住の地であったらしい。

また、興福寺の五重塔をも明治政府は破壊しようとしたのだが、その費用がなかったので売却することとなり、五両で買った買い主は塔の金具を取ることが目的だったのでこれを火をつけて焼けおちるのを待って金具を拾おうと考えた。ところが、信仰の厚い付近の町家から猛烈な反対に会い、また類焼の危険があるという抗議が出たために中止されたという話が、「神仏分離資料」に残っているそうだ。

阿修羅像の腕の欠損は廃仏毀釈が原因とも、享保二年(1717年)の火災が原因とも言われているが、火災時に破損したとすれば奈良で最も石高の高かった興福寺で160年以上も破損したままの仏像を放置していたことになる。

いずれにせよ腕の折れた阿修羅像は岡倉天心らにより修復されるのだが、現在の阿修羅像と修復前の画像とを比較すると手の位置が微妙に異なっている事に気づく。破損された画像をよく見れば、どうやら一番下の左手は合掌している手の位置ではなさそうである。右手で何かを持っていて左手で支えていたという説もあるようである。

ところで、明治時代の一定期間、誰も僧侶がいなかった興福寺の仏像は、一体誰が守ったのだろうか。一部の仏像は海外に流出しているがそれでも多くが残された。阿修羅像は腕が折れていたことが幸いして興福寺に残ることができたのだろうか。
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外国人に無着菩薩立像(現国宝)を売った興福寺

遅くなりましたが、新年あけましておめでとうございます。
昨年の11月下旬に、生まれて初めてブログにチャレンジしてみましたが、予想を上回るアクセスをいただき大変励みになっています。拙い文章ではありますが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
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前回に興福寺の阿修羅像の事を書いたが、その中で興福寺のホームページの中に「古写真ギャラリー」というコーナーがあり、現在国宝にされている阿修羅像や無着菩薩立像、世親菩薩立像などが雑然と置かれている写真を紹介したが、今回も再掲しておこう。

興福寺集合仏体

このように雑然と置かれている状態がどれくらいの間続いたかはわからないが、信仰の対象であったはずの仏像がどういう経緯で野ざらし状態になったのかと、まず不思議に思う。

「五等 東金堂集合佛體」などという写真の表題も変だ。いかにも売るために等級をつけたような印象を受けるのは私だけだろうか。「佛體」という表現は、信仰の対象としての仏像に使う言葉とは思えない。

鎌倉時代に運慶が作った国宝無着菩薩立像は、現在興福寺の北円堂に安置されており、私も2年前に阿修羅像を見た日にしっかり鑑賞してきたのだが、この有名な仏像が以前は外国人が所有していたことを、昨年末にネットで知った。

無着像

アマチュアの仏像研究家で朝田純一さんという方が「埃まみれの書棚から」という素晴らしいホームページを立ち上げておられ、この経緯について次のサイトで、さまざまな古寺、古仏に関する書籍とともに紹介しておられる。
http://www.bunkaken.net/index.files/raisan/shodana/shodana9.htm

このホームページによると、岡倉天心らが明治22年に発刊した「国華」という美術研究誌の創刊号に興福寺の無着菩薩立像が「ビゲロー氏所蔵」と書かれているらしい。

ビゲロー氏とは、明治14年(1882年)に来日したアメリカ人で、日本滞在の7年間で仏画から浮世絵や刀剣、漆器、彫刻など1万数千点を収集し、明治44年(1911年)にボストン美術館に寄贈した人物である。

「名品探索百十年、国華の軌跡」(水尾比呂志著:朝日新聞社刊)という本には、

「挿話の伝えるところ、その折(明治21年、九鬼隆一に率いられ岡倉天心、高橋健三が関西の古美術調査を行ったとき)文部省美術顧問ビゲローに、奈良興福寺が運慶作無着像を十数円で売り渡した事実を知って憤激した、という。我が国古美術の危機を世に知らしめる早急な措置の必要が、一同に痛感されたに違いない。」という記述があるそうだ。

我が国文化の混乱期に、フェロノサやビゲローやモースが日本の仏教美術や古美術品の価値を見出してその世界的評価を高めたことは有難いことであったが、それらを安値で買い集めて海外に流出させた張本人という見方もあるようである。

しかしながら、王政復古・祭政一致の理念に基づく宗教政策や西洋世界に追い付くための富国強兵、欧風化政策が進められる中で、日本人自身が廃寺となった寺院の仏像などに価値を充分に見いだせていなかったこともあるのではないか。

明治30年に古社寺保存法が制定され、明治31年に岡倉天心が設立した日本美術院で仏像などの修復活動が本格的に始まるのだが、もしフェロノサやビゲローの活動がなければ、このような修復活動がもっと遅れて、この時期にもっと多くの文化財が失われたかもしれないのだ。
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寺院が神社に変身した談山神社

3年前に談山神社の紅葉を見に行ったことがある。

談山神社と明日香散策 021

事前にネットでこの神社を調べた際に十三重塔の写真を見て、「神社にこんな塔があるのは珍しいな」とは思ったが、その時はあまり深く考えなかった。

昨年来、明治時期の初期の歴史に興味を持つようになり、この、桜と紅葉の名所は廃仏毀釈までは多武峰(とおのみね)寺あるいは妙楽寺と呼ばれるお寺であったことを最近になって知った。

このお寺の歴史は古く、西暦678年に藤原鎌足の長男の僧定恵が、父の鎌足の墓をこの地に移して十三重塔を造立し、680年に講堂が創建され妙楽寺と号し、その後701年に本堂が建築され、平安時代になると藤原氏の繁栄とともに隆盛したが、天台宗に転じて叡山の末寺となってからは興福寺と争い、度々興福寺の焼き討ちにあったといわれる。

江戸時代には寺領3000石、42坊の堂宇が存在したそうだが、廃仏毀釈の時に寺院のまま存続するか神社として存続するかで意見が割れ、結局神社として存続することになり、談山神社と名前を変えて、多くの仏像・仏具・経典などがその時に二束三文で売却されたり棄却されたらしい。

談山神社の名前の由来は、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が蘇我氏を倒す談合をこの多武峰で行い、後世この場所を「談(かた)らい山」と呼んだことによるとされる。

tonomine21.jpg

寛永3年(1791年)に出版された「大和名所図会」に、江戸時代の妙楽寺の案内図が書かれており、これと最近の談山神社の案内図と見比べると面白い。妙楽寺の建物が、朱塗られたり一部改築されて神社の建物に使われているそうだ。

談山神社案内図

たとえば妙楽寺の聖霊院は神社の本殿に、護国院は拝殿に、講堂は神廟拝所に変わっている。十三重塔が、神廟十三重塔などと名前が変わっているのも面白い。

談山神社のように寺院が神社に変わったものは、探せばいくらでもあるようだ。以前、石清水八幡宮(京都)や鶴岡八幡宮(神奈川)の事を書いたが、有名なところでは宇佐八幡宮(福岡)、金毘羅大権現(香川)、大神山神社(鳥取)も廃仏毀釈の時に寺院が神社になったものである。

明治の廃仏毀釈は、日本全国の国家神道化をはかるクーデターのようなものだと最近思うのだが、神社のホームページを見ても寺院のホームページを見てもほとんどがこのことに触れられていないようだ。しかし、このことを知らずして、この時期になぜ多くの文化財が失われたかを理解することはできないと思う。
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次々に廃寺となった奈良の大寺院

江戸時代の奈良の寺院を石高順に並べると、興福寺が15,033石と圧倒的に多く、次いで多武峰寺3,000石、東大寺2,211石、一乗院1,491石、法隆寺1,000石、吉野蔵王堂1,000石、内山永久寺971石、大乗院914石と続くのだが、これらの大寺院の領地が明治4年の「寺領上知の令」によって没収され、明治7年には寺録も廃止・逓減され、かつての大名家からの寄進もなくなって収入源がほとんど断たれてしまった。いくつか聞きなれない名前があるが、それらはいずれも明治時代に姿を消した寺院である。

多武峰寺(妙楽寺)は前々回に書いたが、今の談山神社である。
一乗院は興福寺の門跡寺院であったが、廃仏毀釈により廃寺となり、跡地は奈良県庁となり現在は奈良地裁となっている。
大乗院も興福寺の門跡寺院であったが、同様に廃仏毀釈時に廃寺となり、跡地は現在奈良ホテルとなり、現在は大乗院の庭園だけが残っている。

内山永久寺は天理市杣之内町にかつて存在し、「太平記」に後醍醐天皇が一時ここに身を隠したと記されている寺院でもある。江戸時代には「西の日光」とも呼ばれた大寺院であり、芭蕉も若い時期に「うち山や とざましらずの花ざかり」という句を残しているが、こんな歴史のある寺も廃仏毀釈で潰されてしまった。今回はこの寺のことを少し書いてみたい。

内山永久寺記念碑

内山永久寺は鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第二世頼光が12世紀のはじめに創建し、後に本時垂迹説の流行とともに石上神宮の神宮寺としての性格を備えるようになり、興福寺大乗院の権威を背景に栄えた寺院である。

最盛期には浄土式回遊庭園を中心に、本堂、八角多宝塔、三重塔など50以上の堂塔が並ぶ大伽藍を誇り、建物だけでなく仏像などに見るべきものが多かったと言われている。

江戸時代寛政3年に出版された「大和名所図会」という奈良の旅行案内書に内山永久寺の絵図があるが、この図面だけでもかなり大きな寺院であったことがわかる。

大和名所図会内山永久寺

しかしながら明治の廃仏毀釈によりこの寺院の僧侶は全員還俗し、堂塔・坊舎はことごとく破壊されてしまった。

次の図面は、現在の地図に当時の伽藍を復元したものだが、これだけの建物が失われてしまった。

内山永久寺地図1

仏像・仏具などの多くは破壊されたり、焼却されたり海外に流出したが、東京美術学校長であった正木直彦氏の「十三松堂閑話録」に内山永久寺のこの頃の事が書かれているらしい。

その中には、永久寺廃寺の検分に役人が出向いた際に寺僧が還俗した証拠として、この役人の目前で本尊の文殊菩薩を薪割で頭から割ったことや、役人が仏像や仏具は庄屋中山平八郎に命じて預からせたが、年月とともに中山氏の個人所有になっていき、藤田(伝三郎)家で所有する藤原期の仏像仏画の多くは、中山氏の蔵から運んだものであったことや、金泥の経巻を焼いてその灰から金をとる商売が起こった話などが書かれているそうだ。

海外に流出したものも少なくなくボストン美術館蔵の「四天王図」は鎌倉時代を代表する作品で、日本にあれば間違いなく国宝と言われている。
石上神宮摂社・出雲建雄神社割拝殿(国宝)は内山永久寺の住吉神社拝殿を移築したものであるし、東大寺の持国天、多門天(いずれも重要文化財)、藤田美術館蔵の両部大経感得図(国宝)など国内に現存しているものの多くが重要文化財・国宝指定を受けている。 現在この寺院がもし残っていれば、超一級の観光名所になっていたことは確実であろう。

内山永久寺跡地の現状

現在では当時の敷地の大半は農地となり、ビニルハウスが一杯並んだ光景が悲しい。わずかに内山永久寺の石碑と案内図や芭蕉の句碑、後醍醐天皇が一時この寺院に身を隠された「萱御所跡」という碑が残されていることがネットで確認できる。

詳しく知りたい方は、次のサイトを参考にしてください。古い貴重な資料や図面や現在の写真などが満載です。

大和内山永久寺多宝塔
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_eikyuji.htm
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文化財を守った法隆寺管主の英断

前回、明治の初期に奈良の大寺院が次々に廃寺となったことを書いた。江戸時代に石高の高かった8つの大寺院のうち3寺院が完全に破壊され、1寺院が神社になったのだが、残りの大寺院はどうだったのか。

現存している大寺院は興福寺、東大寺、法隆寺、吉野蔵王堂の4寺院であるが、この時期にいずれの寺院も存亡の危機にあったことは間違いない。

興福寺は以前も書いたが、廃仏毀釈時に僧侶全員が春日大社の神官となって明治5年には廃寺となり、明治14年に再び住職を置くことが認められるまでの9年間は無住の地となり、五重塔も売却されたが近隣住民の反対で焼却されずに済んだ経緯にある。

では他の大寺院はどうだったのか。今回は法隆寺の事を書こう。

法隆寺

岩波新書に関秀夫氏の「博物館の誕生」という本があり、その中に法隆寺の当時の状況を伺い知ることのできる記述がある。

「戒律の厳しい奈良の唐招提寺や聖徳太子ゆかりの法隆寺では、堂宇や仏像の破壊は免れたものの、経済基盤である寺領を取り上げられたために、僧侶たちの日常生活もままならない状態に陥り、古くから伝えられてきた貴重な古文書を、かまどの焚きつけに使ってしまうという情ないありさまであった。奈良市内の旧家には、そのころ、法隆寺や唐招提寺、海竜王寺などから、寺僧が持ち出して酒代のかわりに使った、寺印のある一切経の片割れが多数伝わっている。」(75p) 「…法隆寺の荒廃もひどかった。寺領を失い、廃仏毀釈で堂宇を荒らされ、雨でも降ればあちこちに水が漏り、明治五年に調査が入ったときには、目を覆いたくなるほどの状態であった。」(81p)

法隆寺もこのような状況が長く続けば、老朽化していた伽藍や堂宇を棄却するか、売却するかの選択を迫られていただろう。佐伯恵達氏の「廃仏毀釈百年」という本には、「法隆寺は、仏像・仏具を廃棄して、聖徳神社にされそうに」なったと書いてある。
しかし、法隆寺は明治11年、管主の千早定朝師の大英断によりこの経済的危機を乗り越えることになる。

以前紹介した朝田純一氏の「埃まみれの書棚から」というホームページが、本の紹介とともに、この頃の経緯を詳しく記述している。

明治4年に寺領上知の令で法隆寺の境内地が没収され、明治7年に法隆寺の寺禄千石が廃止・逓減されて、法隆寺の収入源がほとんど断たれてしまった。

そこで明治8年、塔頭寺院のほとんどを取り畳み、寺僧たちは西円堂御供所で合宿生活を送るなど、倹約に勤めたという。今のリストラである。

「こうしたなか、宝物の多くを売りに出す大和の古寺も少なくない有様であったが、法隆寺では、貴重な宝物類を皇室に献納し、末永く保存されることを願うこととしたのである。寺僧協議を重ねた末、何某かの下賜金あることを期待してのことであった。」 「明治11年献納の儀が決定、1万円が下賜され、当面の維持基金とすることができた。」

この1万円で、法隆寺は息を吹き返し、8千円で公債を購入し、金利600円を運営維持費に充て、2千円を伽藍諸堂の修理費に充てたそうである。

法隆寺宝物館

この時に皇室に献納した宝物は300点を超え、これが東京国立博物館の「法隆寺献納宝物」と言われるもので、現在は東京国立博物館の敷地内にある法隆寺宝物館でほとんどすべてを見ることができるそうだ。

200px-Prince_Shotoku.jpg

ただし有名な「聖徳太子および二王子像」「聖徳太子筆法華義疏」などは皇室ゆかりの品としてそのまま宮内庁に留め置かれたため見ることができないとのことである。

【ご参考】朝田純一氏の「埃まみれの書棚から」の関連ページ
http://www.bunkaken.net/index.files/raisan/shodana/shodana19.htm
http://www.bunkaken.net/index.files/raisan/shodana/shodana20.htm

今の日本人で聖徳太子について悪いイメージを持つ人はほとんどいないと思うのだが、廃仏毀釈を行った側の考えでは、聖徳太子は仏教を擁護し天皇を蔑にした人物として糾弾する考えが強かったようだ。
この献納と下賜金がなければ、法隆寺も他寺と同じく、多くの宝物、仏像などが流出売却、あるいは棄却・焼却された可能性が高かったのではないか。

千早定朝

当時の管主千早定朝の大英断により聖徳太子にかかわる宝物の多くを、一番安全な皇室に献納することによって、法隆寺は国民の文化財を守り、自らも寺院として存続できる道を開いたのである。

しかしながら、1994年にフランスのギメ美術館で法隆寺にあった勢至菩薩像が発見されている。戒律が厳しく、管主のリーダーシップで立ち直った法隆寺ですら、仏像が流出したのだから、あとの寺院は推して知るべしである。
<ギメ美術館で発見された法隆寺の仏像>
http://www.photo-make.co.jp/hm_2/ma_20_4.html
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明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺

明治の廃仏毀釈によって、全国で10万ケ寺あった寺院が5万ケ寺に減ったという記事を読んだことがある。その中で、浄土真宗は明治維新直後の廃仏毀釈の影響をあまり受けなかったと言われているが、いったいどういう経緯があったのか。

西本願寺は江戸時代を通じ朝廷に忠誠を誓っており、明治に入っても巨額の寄付をしてきた経緯から、政府も手を出さなかったことは理解できる。

ところが東本願寺は文久3年(1863)には徳川幕府に1万両の軍資金を提供したり、元治元年(1866)年の蛤御門の変で堂宇が類焼した後慶応2年(1866)には逆に幕府から5万両の寄進を受けている。慶応3年(1867)の大政奉還の後も、末寺の門徒、僧侶による軍隊を編成して、幕府の指揮下に入ることを申し出ているなど、一貫して佐幕派であったが、さすがに、戊辰戦争がはじまった頃には時代の潮流を感じたか、当時の厳如上人は朝廷に一札を入れて勤王方に着き、御所の警護や討幕運動の資金調達に奔走し、多額の軍費や兵糧米を献納したようである。

しかし永年徳川幕府と親密であっただけに、慶応4年の年始に行われた宮中会議においては、東本願寺を焼き打ちにする案が出されたことがあった。その時は「叛意がない」旨の誓書を朝廷に提出して事なきを得たが、その後廃仏毀釈で全国の寺院がいくつも廃絶されるにおよび、東本願寺も薩長勢力を中心とする明治政府から冷遇、あるいは弾圧される危機を強く認識していたのである。

   この難局を乗り切るために、東本願寺がとった方策は、明治政府に平身低頭し、ひたすら忠誠を尽くすことであった。

一方、成立して間もない新政権にとってみれば当時ロシアの南下政策の脅威に対抗するために、北海道の開拓と移民の入植が急務であったが、その資金と労働力の調達が困難であった。

本願寺09204

そこで、東本願寺は北海道の開拓に協力することを自ら申し出て、新政府に協力する意思表示をするのだが、実態は明治政府からの圧力により協力させられたのだと思う。

明治2年(1869)9月に、政府は東本願寺に北海道の開拓を命じ、明治3年(1870)2月に、当時19歳の新門跡現如上人を筆頭に、僧侶や信徒178人が京都を出立し、悲願の旅が始まる。 一行は信者の寄進を呼び掛けつつ、越中、越後、酒田と北上し、「廃仏思想」の根強い秋田は船で進んで青森に上陸するなど苦労しながら、函館にようやく7月に到着している。

本願寺09205

東本願寺一行は尾去別(おさるべつ:現在の伊達市長和)を起点とし、洞爺湖の東側、中山峠を通り平岸(ひらぎし:現在の札幌市豊平区)を結ぶルートの道路建設を開始し、この道路は後に「本願寺道路」と呼ばれた。工事は、明治3年7月から明治4年10月にかけて行われ、長さは約103kmで、これが現在の国道230号の基礎となったと言われている。

本願寺道路地図

当時はもちろんショベルカーやダンプカーや電動機具のようなものはなく、すべて人力で土を掘り、石や土を運び、木を切り、根こそぎ掘るなどの作業がなされたことは言うまでもない。オオカミ等にも襲われながら大変な苦労をして出来上がった道路である。

現如上人像

上の写真は工事の最大の難所と呼ばれた中山峠に立つ、現如上人の銅像である。
実は、北海道の開拓はこの時期に東本願寺だけが協力させられたのではなかった。
佐伯恵達氏の「廃仏毀釈100年」によると、政府は、東本願寺だけでなく明治2年9月17日に増上寺にも北海道静内郡および積丹等の土地の開拓を命じている。また12月3日には、仏光寺に北海道後志、石狩の地の開拓を命じている。

つまり明治政府は、廃仏毀釈で廃寺になるかも知れない寺院の危機をしたたかに利用し、寺院や信者の寄進による金で、北海道の開拓をはじめたということだ。

その後廃仏毀釈が下火になると、明治政府も寺院の協力を得ることができなくなり、その後は囚人やアイヌに過酷な労働をさせて北海道の開拓が進められることになる。

明治政府がこれだけ北海道の開拓を急いだのは、前述したとおりロシアの南下政策に対抗して国土を守るためにやむを得なかった背景がある。ロシアは1860年の北京条約により沿海州の一部を清から割譲され、極東を征服する準備を整えていたのである。明治政府が何もしなければ、北海道は容易にロシアに占領されていただろう。(沿海州の最大の都市「ウラジオストク」の名はロシア語で「極東を征服せよ」の意)

通史を読んでもこれらの史実はほとんど書かれていないが、昔の人々がこんなに苦労して歴史ある寺院を現在に残していることや、国土を開拓した背景や努力は、いつまでも忘れるべきではないと思う。その先人の思いが理解できなければ、いつまでも我が国の文化や伝統を守ることも、ひいては国土を守ることも容易ではない。
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明治の初期に、鹿児島県で何があったのか

以前「消えた門跡寺院」という表題で安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」のことをブログに少し書いたが、その「都名所図会」が刊行されてから、全国で名所図会の出版がブームとなり、「江戸名所図会」「大和名所図会」「江戸名所図会」「木曽路名所図会」などが次々と出版された。
薩摩藩(現在の鹿児島県)についても「薩藩名勝志」という本が文化3年(1806)に出版されたが、この本は薩摩藩の名勝や神社仏閣の由来などを485もの絵図とともに和歌等を織り込みながら解説した、19巻19冊の和装本である。また、明治になってから出版されたが大隅藩、日向藩の名勝を書き加えられた「三国名勝図会」(三国とは「薩摩」「大隅」「日向」のこと)という60巻20冊の和装本もある。

三国名勝図会

江戸時代の薩摩の名所や旧跡についてこれだけの案内書があるのなら、今も鹿児島県に観光名所となるような有名な寺院がいくつあってもおかしくないのだが、今の鹿児島県には、建築物でも古いものがほとんどなく、わずかに室町時代に建築された神社の建物が2件と江戸時代以降に建築された神社と旧家の建物が数件重要文化財として残っているだけだ。仏教関係では建築物だけでなく、仏像や仏画なども文化財となるようなものは何もない。
その理由は簡単である。明治の廃仏毀釈で寺院が徹底的に破壊されたからである。現在鹿児島県に国宝が銘国宗の太刀1本だけしかないのは、明治初期の廃仏毀釈を抜きにしては語れない。

「神仏分離資料」によると、この時期に鹿児島県の寺院1066寺が一つ残らず廃され、僧侶2964人が還俗させられたということだ。

そもそも、薩摩藩累代の藩主は熱心な仏教信者であり厚く寺院を保護してきたのだが、藩主島津忠義の後見役の島津久光は決してそうではなかった。

佐伯恵達氏の「廃仏毀釈百年」によると、幕末期の薩摩藩において仏教を排撃せよとする平田篤胤の思想が流行し、「寺院に与えている禄高は軍用に充て、仏具は武器に変え、寺院の財産は藩士の貧窮者に分与し、若い僧侶は兵役に使う」との考えで、徹底的に寺院が破壊されていった。
また島津藩累代藩主の菩提寺も、島津久光自らがすべて神社にしてしまった。 すなわち浄光明寺を龍尾神社に、日新寺を竹田神社に、南林寺を松尾神社に、妙谷寺を太平神社に、妙円寺を徳重神社に、福昌寺を長谷神社とした。

福昌寺80

上の写真は、「三国名勝図会」にある福昌寺の図だが、この寺院は応永元年(1394)島津家七代元久が建てた名刹で日本三大僧録所と呼ばれた大きな寺院であったが、今は玉龍高校の敷地となり、その近くに歴代島津家の6代師久から28代斉彬までの当主の墓や家族の墓が残されているだけだ。

久保田収氏の「薩摩藩における廃仏毀釈」という論文には、島津斉彬の側近であった市来四郎の談として、次のような発言が記録されているそうだ。
「寺院を廃して、各寺院にあるところの大小の梵鐘あるいは仏像仏具の類も許多の斤高にして、これを武器製造の料に充て、銅の分を代価に算して、およそ十余万両の数なり」
「僧侶も真に仏教に帰依していた者はなかったようで、おおむね還俗することを喜んだそうな」
「仏像の始末については、石の仏像は打ち壊して、川の水除などに沈めました。今に鹿児島の西南にある甲突川という川の水当のところを仏淵とよびます。すなわち仏像を沈めたところでござります。木の仏像はことごとく焼き捨てました。」
「大寺の大門とか楼閣とかを打ち壊すに、大工人夫共が負傷でもすると、人気に障りますから、大いに念入りに指揮いたしました。大工人夫共の屋根から落ちて負傷したこともなく、滞りなく打ち壊しました。その頃の巷説に、昔の人は大寺だの大像だのを造立して、金銭を遣い、丹精もこらしたもので、それだけの効験があるものと思うたが、今日打ち壊してみれば、何のこともない、昔の人は大分損なことをせられたものだなどと言いました。仏というものは畢竟弄物みたいなものであったという気になりました」

こんな考え方の役人が全国にいたのだから、どれだけの文化財が無くなってもおかしくない。

園林寺の首なし像70

上の画像は小松帯刀が眠る園林寺跡の仁王像だが、インターネットで鹿児島県の廃仏毀釈の写真を検索するとこのような首のない仏像などがいくらも出てくる。しかし鹿児島ばかりが激しかったわけではない。他県では殺人事件もあったようだ。
「例えば、宮崎市古城の伊萬福寺の場合は、住持の僧が暴徒によって山上の崖から蹴落とされたという口碑があるし、隣県大分の国東の富貴寺の場合などは、僧侶を皆殺しにして土に埋めました。今にその供養碑が境内に残っています。(佐伯恵達氏:前掲書)」

通史では廃仏毀釈については「国学や神道の思想に共感する人々の行動が一部で非常に過激になり、各地で仏教を攻撃して寺院や仏像を破壊する動きがみられた」程度で淡々と書かれているが、このような文章では、この時代の空気を到底理解することはできないと思う。
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明治期の危機を乗り越えた東大寺

以前このブログで、明治初期に奈良の大寺院が次々と廃寺になって、石高が大きい寺院で今も残っているのは、興福寺、法隆寺、東大寺、吉野蔵王堂だという事を書いた。興福寺と法隆寺の事はすでに書いたので、今回は東大寺の事を書こう。

東大寺明治5年

ここに明治5年に撮影された、東大寺大仏殿の写真がある。重たい屋根を支えきれずに何か所が垂れ下がり、かなり屋根が歪んでいるように見える。崩れそうな屋根を支えるために、建物の外に木材が何本か組み立てられているのも写っている。「軒反り」といわれる軒先の 微妙な反りがほとんどなくなっている。現在の東大寺と比較すればその違いは明らかである。

東大寺

廃仏毀釈が吹き荒れた明治の初期の東大寺大仏殿がこんなに傷んでいて、大きな地震でもあれば倒壊してもおかしくない状況だったことを私が知ったのはつい最近の事だ。

当時の大仏殿は江戸時代の元禄期に再建されたもであったが、設計に狂いがあったために建築全体に歪みが生じ、建物全体が反時計回りに捻じれており、雨漏りもひどかったらしいのだ。

東大寺内の伽藍堂宇の造営修理に携わる勧進所が江戸時代の修理の際より東大寺塔頭の龍松院にあり、それ以来東大寺当局には大仏殿の管理権がなかったのだが、明治になって勧進職自体が廃止されてしまって、東大寺は大仏殿の修理のめどがつかなくなってしまった。

明治3年に東大寺は奈良県に、大勧進職の職名を復活することを嘆願したのだが、「大仏殿は東大寺全体で管理すべきものであり、寺禄により修理するように」との指示がなされ、次に明治政府に同様の申し出をしたが「全国で廃止している勧進職を復活することはできない」と突き放されている。

そして明治4年には寺領上知の令で土地が没収され、大きな収入源が断たれてしまい、各堂の賽銭などの収入では、堂宇の修繕どころか僧侶の日々の生活もままならない状態になった。

さらに大きな問題は、それまで大仏殿の管理権を持っていた龍松院側が東大寺当局に大仏殿を引き渡すことを拒んだことである。本来ならば、勧進職である龍松院は大仏殿を修理する手はずを整えなければならなかったのであるが、大仏殿の賽銭収入や信者や有志から修繕費用を集める利権や資金などは手放したくなかったのだ。

ただしこの問題は奈良県が通達を出して、明治5年に大仏殿の管理権がようやく東大寺当局に移ることになるが、勧進職の復活を認めてもらえないために、修繕費用を集めることもできない状態が長く続いた。

年数がたち、天竜寺や東福寺で勧進許可の前例が出て、明治15年になって東大寺は大阪府(以前のブログで書いたように、当時は奈良県は大阪府に吸収されていた)に、国の巨額の寄付と信者の布施と勧進により財源を確保して大仏殿を修理したい旨の願書を提出している。しかしながら大阪府は、国からの寄付を拒否し、信者の布施と勧進だけを許可している。要するに、寺の修理の資金は自分で工面せよという考え方であった。

ところが明治政府の対応に若干の変化が出てくる。10月に大仏殿修理に関する寄付勧進許可が出た際に、宮内庁から500円の下賜があった。

東大寺側も全国的な勧進と信者からの布施を集めるための大仏会が組織されて、資金集めを開始するのだが、当初はなかなか資金が集まらなかったようである。当初の予算は42700円であったが、明治16年から25年までに大仏会で集めた資金は4600円に過ぎなかった。

そこで東大寺は明治25年に大仏殿営繕費下賜願いを明治政府に提出したところ、今度は寺社局長から3500円、内務省から6500円もの助成金が与えられ、ようやく修理が進むかと思われたが、あいにく明治27年(1894)に日清戦争が始まり、物価騰貴のために予算が約4倍の18万円に跳ね上がり、工事が中断されてしまう。

それでも多くの人の資金協力により明治36年(1903)に修理準備工事に入るも、翌年の日露戦争開戦でまたもや工事が中止となり、一層の物価騰貴となる。

明治39年に、再度予算を687,221円88銭に改定し工事が再開されて、上棟式にこぎつけたのは明治44年(1911)で、工事が完成して大仏殿落慶総供養が行われたのはなんと大正4年(1915)のことであった。もっと早く修理を終えていれば、こんなに資金も要らなかったであろうに。

貴重な文化財を修理することには莫大なコストがかかるものではあるが、これを寺院の自助努力だけでは到底不可能である。明治初期の廃仏毀釈の嵐がすぎて、日本の文化が再評価され出してから日本政府が完全に方針が変わるのは明治30年の古社寺保存法の公布の頃だが、それまでの東大寺の苦労は並大抵のものではなかったはずである。

文化財を後世に残すためには当事者の努力が必要であることは言うまでもないが、信者や国民に守る意思があり、国にもその意思があってはじめて守れるものなのである。
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一度神社になった国宝吉野蔵王堂

吉野の桜 019

3年前の桜の時期にバス旅行で吉野に行ったことがある。有名な桜の名所だけに凄い人だった。

吉野の桜 010

ここを訪れる人の大半が、行きか帰りに、東大寺大仏殿に次いで日本で二番目に大きい木造建築物である金峯山寺(きんぶせんじ)の蔵王堂を参拝して休憩をとると思うのだが、この時はこの寺院の歴史を何も知らずにただ参拝しただけだった。

最近になって廃仏毀釈の事に興味を持つようになりいろいろ調べていくと、金峯山寺のホームページに「明治7年、明治政府により修験道が禁止され、金峯山寺は一時期、廃寺となり」と書いてある。たまたまカメラに収めた寺院の案内板にはもっと踏み込んで「神仏分離政策により、蔵王堂などが強制的に神社に改められる」と書かれてあるのを最近ようやく気がついた。この寺院も明治の初期に大変なことがあったのである。

今回はこの金峯山寺について書くことにしたい。

吉野山は古くからの修験の地であり、蔵王権現を祀る蔵王堂を中心に多くの社寺があり、以前は、山全体を金峯山寺と呼ばれていた。

吉野山勝景絵図

上の図は江戸時代後期に描かれた「吉野山勝景絵図」で、絵図の中央にある大きな建物が蔵王堂である。蔵王堂の近くに鳥居があるが、これが「銅(かね)の鳥居」と呼ばれる日本最古の銅の鳥居である。
修験者はこの鳥居に手を触れて巡り「吉野なる銅の鳥居に手をかけて弥陀の浄土に入るぞうれしき」との讃仏歌を3度唱えて入山するそうだ。
今でこそ鳥居は神社の象徴と誰でも考えるが、昔はそうではなかったらしく、その讃仏歌がこの鳥居に刻まれているらしい。鳥居の扁額は空海の筆によるものとされ、「発心門」と書かれているそうだ。要するにもともとは、鳥居は「門」であって、仏教的色彩が強いものであったのだ。

蔵王堂に祀られているのは蔵王権現だが、「権現」とは「仏や菩薩が人々を救うために、この世に仮の姿を現した者」という意味で、蔵王権現像は、右手を頭上に振り上げ、右足も蹴りあげて、憤怒の相をしているところに特徴がある。

蔵王権現像70

このような仏像は、インドや中国には例がなく、日本で独自に創造されたものだと考えられている。画像の蔵王権現像はパンフレットのものだが、残念ながら秘仏として普段は公開されていない。

この吉野全山に神仏分離令が適用されたのが、慶応4年(1868)6月のことで、それは蔵王権現を神号に改め、僧侶は復飾神勤せよというものだった。(復飾=僧が還俗すること)

もともと吉野は神仏習合の地であり金精明神などの神社も存在したが、圧倒的に仏教色の強い地域であった。この絶好の機会に全山に勢力を拡大しようとした神職身分の者もいたが、明治元年から三年の段階では彼らの策動は成功しなかった。

しかし、明治四年から六年にかけて、吉野の神仏分離を徹底し、山全体を金峰神社とせよとする明治政府の指令が繰り返され、明治七年には吉野一山は金峯山寺の地主神金精明神を金峰神社と改めて本社とし、山下の蔵王堂を口宮、山上蔵王堂を奥宮とすることに定められ、仏像仏具は除去されてしまう。山下の蔵王堂の巨大な蔵王権現像は動かすことができないのでその前に幕を張り、金峰神社の霊代として鏡をかけて幣束をたてた。また僧侶身分のものは、葬式寺をつとめる一部の寺院を除き全員還俗神勤したのである。

金峯神社

この写真は金峰神社だが、こんなしょぼい神社を吉野全山の本社と言われても、偉容を誇る蔵王堂とは比べものにならず、参詣者は鏡や幣束を無視して、口宮では蔵王像に、奥宮では行者堂に参詣したそうである。このような民衆の不満を背景にして、明治政府としても寺院への復帰を認めざるを得なくなり、明治十九年に二つの蔵王堂が仏教に復したのである。

同じ時期に神社にさせられた山形県の羽黒権現、香川県の金毘羅大権現、福岡県の英彦山権現などの修験の寺院は二度と寺院に戻ることはなかったが、吉野の二つの蔵王堂は寺院に復した珍しい事例である。

寺院に復することができたのは、金峯山という場所が7世紀に役小角(えんのおづぬ:山岳修行者)が修行中に蔵王権現が現れた由緒ある地であるとの修験者や信者の思いが強かったとか、門前町である吉野町民の運動の成果とも言われているが、修験者・信者・町民のすべての努力が咬みあった結果なのだろうと思う。
この時期に廃寺となったり神社になったり荒廃した寺院の多くは、そのいくつかが欠けていたのではないだろうか。以前書いた内山永久寺にしても、談山神社となった妙楽寺にしても、興福寺にしても、僧侶は政府の言うがままに全員還俗して神官となったが、法隆寺や東大寺や東本願寺や吉野蔵王堂は僧侶が容易に信仰を捨てずにいたからこそ、文化財を今に残すことができたのではないか。

いかなる時代も、まず当事者が理不尽なことには闘う姿勢がなければ、信者や民衆の支持も得られず、守るべきものが守れないのだと思う。
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明治の皇室と仏教

5年ほど前に京都東山にある東福寺の有名な紅葉を見た後に、すぐ近くの泉涌寺に立ち寄ったことがある。このお寺も紅葉で有名なので訪れただけなのだが、この時にこの泉涌寺で南北朝から安土桃山時代および江戸時代の歴代の多くの天皇の御葬儀がここで執り行われ、皇室とは縁の深いお寺であることをはじめて知った。

泉涌寺

暗殺されたとの説もある幕末の孝明天皇の御葬儀もここで行われたのだが、孝明天皇の次は明治天皇だ。明治以前は京都に都があって天皇家が仏教徒であったという当たり前のことに気付かされたが、その頃は歴史にそれほど関心がなく、それ以上深くは考えなかった。

昨年あたりから廃仏毀釈の頃に興味を持つようになっていろいろ調べると、明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」により、「上古以来宮中に祀られていた仏堂・仏具・経典等、また天皇・皇后の念持仏など一切を天皇家の菩提寺である泉涌寺に遷し、その代わりとして神棚が宮中に置かれて、宮中より仏教色を一掃しました。」(佐伯恵達「廃仏毀釈百年」p295)とある。

淡々と書かれているが、こんな重要なことが何の抵抗もなくなすことができたということに疑問を感じた。

皇室で仏教は1400年以上の歴史があり、江戸時代までは皇族は仏教徒であり仏教を保護してきたのだ。まして、明治天皇にとっては先代の孝明天皇は実の父親である。若いとはいえ、明治4年と言えば天皇は19歳だ。他にも皇族は沢山いたのに、そんな簡単に信仰が捨てられることに不自然さを感じるのは私だけだろうか。信仰の薄い私ですら、自分の先祖の墓を捨てて明日から神棚を祀れというのは耐えられない。

明治天皇や主要な皇族が抵抗すれば、いかなる策士といえどもこのようなことは強行できなかったと思うのだが、皇族すべてが抵抗せずに廃仏を受容したとすれば、脅迫などがあって皇族の誰もが抵抗できない環境に置かれていたか、主要な皇族全員が神仏分離が正しいとの考え方でほぼ一致していたかのいずれかなのだろうが、真相はどうだったのか。

色々調べていくと、明治天皇暗殺説まである。それくらいの事がなければ、皇族すべてが神仏分離に従うということは起こり得ないようにも思える。

meiji.jpg

明治天皇の即位の頃の写真が「幕末写真館」というサイトで見つかったが、この写真がもし本物で中心にいるのが明治天皇であれば、我々がよく目にする明治天皇の写真とはあまりにも異なる。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html

明治天皇2

即位前と後では顔も体格も字も教養も運動能力も全く異なるというのが事実であれば、すり替えられたと考えるのが自然である。すり替えで天皇となった人物の名前が南朝の末裔の大室寅之祐ということまでわかっているというのだが、皆さんは次のサイトを読んでどう思われますか。

古川宏という士族の末裔の方が「士族家庭史研究会」というサイトで、明治天皇の出自についてかなり詳しく調べておられる。
http://www8.ocn.ne.jp/~shizoku/meijitennou.htm
あるいは竹下義朗氏の「帝国電網省」の記事もすごく説得力がある。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/nanboku4.html
現在とは違って当時は天皇の顔を知る者はごく一部であったから、皇族を除いてはすり替えてもわかる人がごく一部しかいなかったことは確実で、こういうことができる条件は十分にあったのである。

さらにいろいろ調べると、皇族の中でも明治政府からの還俗の強要を敢然と拒否した女性がいたことを次のサイトで知ってほっとした。
http://d.hatena.ne.jp/ajita/20090416/p1

日榮尼

「中外日報」という仏教系の新聞に歴史家の石川泰志氏が寄稿したコラムだが、廃仏毀釈の荒波に抗して日本仏教を守り抜いた3人の皇族女性を紹介している。3人とは伏見宮邦家親王の娘で出家していた誓圓尼(浄土宗善光寺大本願住職)、文秀女王(臨済宗妙心寺派円照寺門跡)、日榮尼(日蓮宗村雲瑞龍寺門跡)だが、しばらく記事を引用すると、

「善光寺を善光神社に改めようとする画策に、誓圓尼は「一度仏教に固く誓った身であるから、たとえ如何なる迫害を受けようともこの度の仰せには従い得ない。我が身は終生仏弟子として念仏弘通の為に捧げよう」と決意、善光寺存亡の危機を救った。
 文秀女王も実家に連れ戻されたものの、戒律を遵守し仏弟子として振る舞ったため、父邦家親王が不憫に思い円照寺へ戻ることを許した。
 日榮尼は明治元年当時まだ十一歳ながら還俗を迫る使者に「日榮は仏道に入りし以上は行雲流水の身となり樹下石上を宿とする共還俗はいたしませぬ」と断言、不惜身命の勇気で廃仏毀釈論者の目論見を一蹴した。
 三姉妹の仏法護持の勇気は、皇室の仏教祭祀廃止にもかかわらずなお皇室と仏教の精神的結びつきを維持する上で大きな力となった。」と書かれている。

この時に男性の皇族はすべて還俗したそうだが、この3人の女性が日本の仏教の危機を救ってくれた貢献者であることは間違いがない。
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【ご参考】
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明治時代に参政権を剥奪された僧侶たち

廃仏毀釈絵

私が京都のお寺に生まれたことは何度かこのブログに書いたが、子供のころに何の理由もなく「くそ坊主」とか「洟垂れ小僧」などと罵られていやな思いをするようなことが何度かあった。
このようなことは私に限らずお寺で生まれた人は少なからず経験したとは思うのだが、私が時々このブログで紹介する「廃仏毀釈百年」という本の著者である佐伯恵達氏も宮崎県のお寺の息子で、著書の中で「毎日のようにののしられ…、学校に行っても、一人の先生を除いて他の先生はすべて寺院を軽蔑し、…学校へ行くのがつらく、中学時代は、自分が寺などにどうして生まれたのだろうと、自分の出生をのろったものです。」と子供の頃を振り返っておられる。

廃仏毀釈100年

この著書の中で佐伯氏は、このように僧侶を馬鹿にするような風潮は廃仏毀釈以降の事だと記されており目からウロコが落ちた。

少し長いがしばらく引用させて頂く。(同書p23-24)
「明治以来終戦まで、神職は官吏として国家から給料をもらって生活していました。一方住職は、もっぱら信者からの布施にすがって生きていかねばなりませんでした。聖職と言う名の乞食でした。生活の保障はなかったのです。しかも明治22年6月以来被選挙権は奪われ、同27年2月には選挙運動を禁止され、同34年11月以来、小学校訓導になることも禁止されてきたのです。」
「一夜にして神職は国家官吏となり、住職は(収入源を)剥奪されて乞食者となりました。これを明治百年の仏教弾圧と言わずして何と言えるでしょう。」
「寺院から菊の紋章を取り外し(明治2年)、寺領を没収し(同4年)、僧侶に肉食妻帯させて(同5年)、なまくさ坊主とはやし立て、上古以来の僧官を廃し、仏教修行の根本たる托鉢を禁止し(同5年)、傍らでは神職に給料制度をしき(同6年)、僧侶の口を封じて落語や講談にまで僧侶の失態を演じさせ(同6年)、学校から神道以外の宗教教育を締め出し(同39年)て、コジキ坊主、ナマクサ坊主とさげすまれて、百年の今にまで至っています。しかし、これはもう誰も知りません。教育とは恐ろしいものです。…」(引用終わり)

紹介した部分は、同書のサワリの部分で、本文にはもっと詳しく書かれている。

たとえば、
「明治27年(1894)日清戦争開始の年。
<僧侶の参政権剥奪>
○二月、(神官)僧侶の議員選挙に関するを禁ず。(内務省訓令)」
※…神官は国家的に保証された官吏ですので、この訓令も実質的には僧侶のみに発せられたものです。婦人参政権の事もありますが、僧侶は婦人なみに取り扱われたのです。僧侶は選挙運動もできなかったのです。…以来昭和20年まで約50年間それは続きました。(同書p311)」

佐伯氏のこの本には「明治政府がこんなことまでしたのか」と驚くようなことがいっぱい書かれており、しかも政府の通達の番号などの根拠まで明示されている。しっかりと事実を踏まえた寺院の立場からの歴史記述に、私の明治の歴史の見方を一変させてくれた。収入源を大きく断たれ、大変厳しい生活を余儀なくされ、社会的地位や基本的な権利も剥奪された僧侶が大変な思いをして、信者の力も得て、今の多くの寺院は守られてきたのである。

普通の歴史の書物には明治政府は廃仏毀釈とは関係がないような書き方がされており、私もこの本を読むまではそう理解していた。しかしよくよく考えると、いつの時代においても、いかなる国においても為政者にとって都合の悪いことは正史から消される可能性が高いのである。何故ならば、時の為政者を批判する歴史が正史であれば、国政が常に批判されて政治が安定するはずがないからである。(但し今の日本昭和史は例外)

しかし、今の時代に明治政府にとって都合の悪い事実を隠す理由がどこにあるのだろうか。太平洋戦争敗戦によって何もかもが変わってしまっている。
幕末から明治にかけての歴史を、いい面も悪い面もバランス良く書けないものであろうか。今のようなキレイゴトだけの正史で明治時代を理解することが続けば、いずれ文化財を博物館でしか守れない時代が来るような気がする。
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なぜ討幕派が排仏思想と結びつき、歴史ある寺院や文化財が破壊されていったのか

このブログで何度か明治初期に起こった廃仏毀釈のことを書いてきた。この時期にわが国の寺院が半分以下になり、多くの国宝級の文化財を失ってしまったのだが、そもそも廃仏毀釈が起こる前のお寺や神社がどのような姿であり、一般民衆は廃仏毀釈をどう受け止めたかについて調べていると、高村光雲の文章が眼に止まった。

高村光雲

高村光雲は上野の西郷隆盛像を制作した彫刻家で詩人の高村光太郎の父親でもあるのだが、仏師であった高村東雲の徒弟となったものの、明治維新以後は仏師としての仕事がなくなり、西洋美術を学んで日本の木彫技術の伝統を近代彫刻に繋げた人物だと評価されている。

幕末維新懐古

その高村光雲が口述し、昭和4年に出版された『幕末維新懐古談』という本があり、平成7年に岩波文庫で再刊されている。残念ながらその岩波文庫も今では絶版になってしまったが、有難いことに青空文庫で全文を読むことが出来る。
その中に「神仏混淆(こんこう)廃止改革されたはなし」という文章があり、これを読めば、廃仏毀釈以前のお寺や神社がどのようであったか、だいたい見当がつく。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000270/files/45960_24248.html

「明治八年は私が二十三で年季が明けて、その明年私の二十四の時、その頃神仏混淆であった従来からの習慣(しきたり)が区別されることになった。
これまではいわゆる両部混同で何の神社でも御神体は幣帛(へいはく)を前に、その後ろには必ず仏像を安置し、天照皇大神は本地(ほんじ)大日如来、八幡大明神は本地阿弥陀如来、春日明神は本地釈迦如来というようになっており、いわゆる神仏混淆が行われていたのである。
この両部の説は宗教家が神を仏の範囲に入れて仏教宣伝の区域を拡大した一つの宗教政策であったように思われる。従来は何処の神社にも坊さんがおったものである。この僧侶別当(べっとう)と称(とな)え、神主の方はむしろ別当従属の地位にいて坊さんから傭(やと)われていたような有様であった。政府はこの弊を矯(た)めるがために神仏混淆を明らかに区別することにお布令(ふれ)を出し、神の地内(じない)にある仏は一切取り除(の)けることになりました。
そして、従来神田明神とか、根津権現とかいったものは、神田神社、根津神社というようになり、三社権現も浅草神社と改称して、神仏何方どっちかに方附けなければならないことになったのである。これは日本全国にわたった大改革で、そのために従来別当と称して神様側に割り込んでいた僧侶の方は大手傷を受けました。奈良、京都など特に神社仏閣の多い土地ではこの問題の影響を受けることが一層甚(ひど)かったのですが、神主側からいうと、非常に利益なことであって、従来僧侶に従属した状態になっていたものがこの際神職独立の運命が拓(ひら)けて来たのですから、全く有難い。が、反対に坊さんの方は大いに困る次第である。
そこで、例を上げて見ると、鎌倉の鶴ヶ岡八幡に一切経(いっさいきょう)が古くから蔵されていたが、このお経も今度の法令によって八幡の境内には置くことが出来なくなって、他へ持ち出しました。一切経はお寺へ属すべきものであるからというのです。そこでこのお経は今浅草の浅草寺の所有になっております。」

鶴岡八幡宮

鎌倉の鶴ヶ岡八幡廃仏毀釈のことは以前このブログにも書いたが、昔の境内図にあった薬師堂や護摩堂や経堂や大塔が破壊されてしまった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-74.html

高村光雲はこう纏めている。
「…神仏の混淆していたものが悉(ことごと)く区別され、神様は神様、仏様は仏様と筋を立て大変厳格になりました。これは、つまり、神社を保護して仏様の方を自然破壊するようなやり方でありましたから、さなきだに、今まで枝葉を押し拡(ひろ)げていた仏様側のいろいろなものは悉くこの際打(ぶ)ち毀(こわ)されて行きました。経巻などは大部なものであるから、川へ流すとか、原へ持って行って焼くとかいう風で、随分結構なものが滅茶々々(めちゃめちゃ)にされました。奈良や、京都などでは特にそれが甚(ひど)かった中に、あの興福寺の塔などが二束三文で売り物に出たけれども、誰も買い手がなかったというような滑稽こっけいな話がある位です。しかし当時は別に滑稽でも何んでもなく、時勢の急転した時代でありますから、何事につけても、こういう風で、それは自然の勢いであって、当然のこととして不思議と思うものもありませんでした。また今日でこそこういう際に、どうかしたらなど思うでしょうが当時は、誰もそれをどうする気も起らない。廃滅すべきものは物の善悪高下によらず滅茶々々になって行ったものである。これは今日ではちょっと想像に及びがたい位のものです。」

正倉院展と興福寺 002

以前このブログでも書いたが、奈良の興福寺は明治5年に廃寺となって、明治14年に再び住職を置くことが認められるまでは無住の地であった。明治政府は現在国宝となっている五重塔を売却しようとし、五両で買った買い主は塔の金具を取ることが目的だったのでこれを火をつけて焼けおちるのを待って金具を拾おうと考えた。ところが、信仰の篤い付近の町家から猛烈な反対に会い、また類焼の危険があるという抗議が出たために中止されたことが『神仏分離資料』に残されているという。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-76.html

仏師の修行を積んできた高村光雲にとっては、寺院が破壊され仏像が破壊されていくのを見ることはさぞ辛かったことと思うのだが、わさわざ文章の表題を「神仏混淆廃止改革されたはなし」として「改革」という言葉を入れておき、内容も文化破壊の実態を一般的な表現にとどめて、政府批判と受け取られないように言葉を選んで書いているようにも読める。
廃仏毀釈の実態を詳しく書いた記録で出版されているものはほとんどないし、一般的な史書には明治政府が関与したことが何も書かれていないのだが、関与があったことは間違いがない。つまるところ、いつの時代もどこの国でも、政権側にとって都合の悪いことは記録に残さないものであり、公式記録だけを読んでも真実は見えて来ないものなのだと理解するしかない。

廃仏毀釈で実際どのような事が起こったかは、ネットなどで調べて断片的にわかるのだが、ではなぜ、明治初期に仏教弾圧と仏教文化破壊が火を噴いたのだろうか。

前々回の記事で少し触れたのだが、儒教・仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうという平田篤胤(ひらたあつたね)の思想が、尊王倒幕運動から明治維新につながる思想的バックボーンとなったと言われている。しかし、この説明では肝心なことがよく解らない。なぜ反幕府勢力が、わが国の貴重な文化財破壊につながる思想に飛び付いたのだろうか。

廃仏毀釈

この点について納得できる説明は、私が何度もこのブログで紹介した佐伯恵達氏の『廃仏毀釈百年』にある。ポイントになる部分を引用する。

「なぜ討幕と排仏論が結びついたかといえば、徳川幕府は家光の時、寛永十七年(1640)に宗教統制策をとり、国民をみんなどこかの寺院の檀家とさせるという『寺請(てらうけ)制度』を設立しました。それを登録する宗旨人別帳(しゅうしにんべつちょう)を作成し、宗門改め役がこれを検査しました。ここにおいては、諸大名も武士も名主も神主も町人も農民も、すべて仏教徒であったわけです。いわば寺院は区役所や市役所や町村役場的な存在であったのです。こうして徳川三百年の治安は保たれたのでした。『寺』という字は、もともと役所の意味を持っています。そこで討幕して民衆をにぎるためには、先ず寺院にある人別帳を押さえる必要があったのです。全国の寺院の人別帳を提出させることによって、幕府の財源なり生産力(農・工・商)を手に入れることができるのでした。そのために、幕府と一体になっている寺院をこわして人別帳を奪うことが、討幕派にとっては欠くことのできない必要条件でもあったのです。いうなればそれは、武力クーデターの先決条件であったといえます。
このような社会動乱の状勢に乗じたのが、国粋主義者としての平田篤胤です。彼はこの国粋主義によって、子弟多数をかかえ、その一派によって明治の仏教弾圧を決定的なものにしたのでした。」(『廃仏毀釈百年』p.55)

この文章を理解するために、江戸幕府の宗教政策をWikipediaの記事を参考に振り返っておく。
江戸幕府は慶長17年(1612)に禁教令を発布し、やがて民衆がキリシタンでないことを寺院に証明させる制度(寺請制度)を確立させ、寛永17年(1640)には幕府は宗門改め役を設置し、寛文4年(1664)には諸藩に宗門改制度と専任の役人を設置するよう命じて、次第に宗門改帳が各地で作成されるようになりこれが宗旨人別帳となる。寛文11年(1635)には武士・町民・農民など階級問わず民衆は原則として特定の仏教寺院に属することが義務づけられている。
当初はキリシタンの摘発が目的に整備された制度であったのだが、18世紀には宗教調査の意味合いが薄れて、宗旨人別帳が戸籍原簿や租税台帳の側面を強く持つようになっていったという。

この江戸幕府の施策は寺院にどういう影響を与えたか。Wikipediaにはこう書かれている。
「結果として仏教は幕府体制に取り込まれることとなり、やがて寺院は汚職の温床となって僧侶の世俗化などの問題を招く。明治になると尊皇思想の高まりや、神道国教化運動などによって神道優位の風潮が起こり、折からの仏教への批判は大きな物となっていき、やがて廃仏毀釈運動へと繋がっていく。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E9%96%80%E6%94%B9

いつの時代もどこの国でも権力と癒着した世界に腐敗は付き物だが、当時の仏教界の腐敗はWikipediaの記述の通りではなかったか。

世事見聞録

岩波文庫に文化13年(1816)に武陽隠士が著した『世事見聞録』という本があり、その「三の巻 寺社人のこと」を読むと、当時の仏教界の腐敗した状況がいろいろ書かれていて興味深い。著者は最後にこう書いている。

「…さて仏神の道は人欲を治め人心を清くし、慈悲を元として国家を守護するものなり。しかるに今右の如く数百万人の寺社人等、国々在々に誇りて驕奢安逸を百姓の上に極め、武士の上に至り、また強欲・非道・法外・人外を世界第一に尽せり。誠に神仏を邪悪の棟梁となし、国家を邪悪に汚すものなり。早々改正ありたきものなり。かくの如く邪悪数百万人このままになし置きては、天道も仏神も捨て置き給ふまじ。必ず天下災害の基とならんか。…」(『世事見聞録』p.172)
とかなり辛辣である。どの程度の割合でそのような腐敗があったのか、今となっては知る由もないが、廃仏毀釈が起きてもおかしくない要因が寺院側に種々あったが故に、仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうとする平田篤胤の思想が広まり、その仏教排斥思想に討幕派が飛び付いたと考えれば良いのだろうか。

「大政奉還」と「王政復古」によって明治新政府が出来たと単純に考えていた時期が長かったのだが、よくよく考えると国家の生産力や財源を把握せずして新政府の政策決定が出来るはずがなく、長期安定的な政権運営も不可能だろう。しかし、そのために必要な台帳は幕府や諸藩ではなく、寺に存在したということは重要なポイントであったはずだ。新政府は、それを寺から奪い取ることが必要だったのだ。
さらに新政府は、寺院の所領の多くを没収して寺院の収益源まで奪い取り、歴史ある建物の補修にも協力することなく、むしろ多くを破壊したのである。有名な寺院の廃仏毀釈の事例は、次のURLにこのブログの記事を置いてあるので、覗いて頂ければ幸いである。
http://history.blogmura.com/tb_entry101772.html

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歴史は勝者にとって都合よく書き換えられるものであることを、このブログで何度か書いてきた。廃仏毀釈は明治政府にとって都合の悪い史実であるために、いわゆる「通史」にはほとんど書かれていない。

たとえば『もう一度読む 山川の日本史』では
「政府ははじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民強化を図ろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのために一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた」(p.231)
と書かれているだけだが、この表現だと大多数の人は、廃仏毀釈は自然発生的に全国で起こったが、明治政府が意図したものではなかったし、規模も大きくなかったと理解することだろう。実態は「廃仏毀釈の嵐」が通り過ぎた後に、当時の寺院の約半数が廃寺になってしまったのだが、このような大事件であったことを誰も読み取ることが出来ないような教科書の叙述でいいのだろうか。

廃仏毀釈は明治政府にとっては都合の悪い史実なのかもしれないが、太平洋戦争敗戦によって何もかもが変わってしまった今の時代になっても、この史実を隠そうとする理由がどこにあるのか、私にはわからない。

我々の先人たちが、文化財を後世に残すことにどれだけ苦労してきたかをもっと伝えるべきではないのか。その先人たちの苦労が広く理解されずして、現在残されているわが国の文化財の貴重さをどうして伝えることができようか。
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奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか

前回は高村光雲の文章を紹介したが、この文章では廃仏毀釈の文化財破壊については「随分結構なものが滅茶々々にされました」といった表現にとどめていて、廃仏毀釈の事例として具体名を挙げて書いているのは興福寺の五重塔が「二束三文で売り物に出たけれども、誰も買い手がなかった」と言う話と、鎌倉の鶴岡八幡宮の一切経が浅草の浅草寺に移されたことが簡単に書いているだけだ。今回はもっと具体的な記録が残されている文章を紹介しよう。

東京美術学校(現東京芸術大学)の第五代校長を明治34年(1901)から昭和7年(1932)まで31年間も勤めた正木直彦(1862~1940)が、東京美術学校在職中に語った講話などを記録し校友会雑誌に連載された記事を抄録した『十三松堂閑話録』という本が昭和12年(1937)に出版されている。

古い本なので現物を手に入れることは難しいが、有難いことにGoogleブックスでその文章を誰でもパソコン上で読むことが出来る。
http://books.google.co.jp/books?id=Dw8eMMYFs-4C&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

その本の中に「廃仏毀釈、西洋崇拝、国粋保存と其推移」という文章があり、その中に廃仏毀釈に関するかなり具体的な記述が残されている。

正木直彦

正木氏は廃仏毀釈の思想的背景から書き起こしている。冒頭の部分から引用させていただく。(原文は旧字・旧かな)

「王政復古は国学者と密接な関係があった。平田篤胤は当時議論最も危激で、すべてのものを神代の昔に復さなければならぬと唱えていたが、その門人およびこの学派の中からは、沢山明治維新の功労者を出した。これらのいわゆる神道者流は新政府に勢力を得ていろいろ維新の改革をやったが、その中、平田流の福羽美静*や田中頼庸**らの議論が用いられて廃仏毀釈を最も激しいやり方で実行した。それまでの日本は両部神道で本地垂迹説の発達によって廬舎那仏は本地仏でその垂迹が天照皇大神宮である、釈薬地観は本地仏で春日四社明神が垂迹であるというふうにすべての神仏を旨い具合に習合させていた。それを明治政府ではかかることは仏が神を汚しているものであるとなし、仏を祭ってはならぬ、僧侶はやめてしまえ、皆神道にならなければならぬ等と稱(とな)え、そして本願寺や知恩院等にも仏壇の前に幕を引いて、新しく神を祀らせ祝詞を上げさせたこともあった。」

*福羽美静(ふくばびせい):元津和野藩士で、幕末から明治5年まで神祇事務局・神祇官の実権を握った人物。
**田中頼庸(たなかよりつね):元薩摩藩士で明治4年に神祇省に出仕し、明治7年に伊勢神宮大宮司となった人物。

本願寺や知恩院においても、仏壇の前に幕を引いて祝詞を上げさせたというのは驚きであったが、正木氏は続いて奈良の廃仏毀釈に言及し、興福寺五重塔のことを高村光雲よりもはるかに詳しく書いている。再び正木氏の文章を引用する。

興福寺五重塔

「新政府の役人はまたいたるところで寺に関係のあるものを焼き払ったり取り毀したりした。ことに面白いのは興福寺の五重塔で、時の県令四條隆平という人は非常に改革派の人であったから、春日の神鹿を売飛ばし、若草山から春日野一帯を牧場にして牛を放牧することにしたり、また興福寺の五重塔が目障りであるからとて入札払にしたところが、これが十五両で落札した。足場を掛けて毀すことにすれば沢山費用がかかるので、落札者は逃げて仕舞うた。そこで県令は綱を着けて万力で引き倒せと命令したが容易に倒れないので、されば火を掛けて焼き払えと命令し、柴を積んで日を期して焼き払うはずであったところが、これを聞いた奈良の町民は大いに驚き、嘗て(かつて)元興寺の高い塔が焼けて困った経験から興福寺の五重塔を焼き捨てることになるとまた大変だと言うので、町民は多数堅調に押し寄せて愁訴したから、断行もできず、彼是(かれこれ)するうちに県令が代わって五重塔は火難を免れたのである。」

「県令」というのは廃藩置県後の「県」の長官で、東京・大阪・京都の三つの「府」の長官は「知事」と称した。それまでは藩を治めていた大名に代わって、政府から派遣された役人が「県令」や「知事」となって地方行政を担ったのである。

「奈良県」は明治時代に何度も境界線が代わり、明治3年には吉野郡辺りは「五條県」であったし、明治4年の廃藩置県では、大和郡山、高取、柳生などの小県が出来たが、その年の秋に小県がまとまって大和全域を管轄する「奈良県」が成立し、その最初の県令に任命されたのが、公家出身の四條隆平(しじょうたかとし)という人物である。この四條と言う人物が、わずか30歳という若さで奈良県令の地位に就いたのだが、この人物が数々の仏教排除策を強行したことについては奈良県が発行した「青山四方にめぐれる国―奈良県誕生物語」の「第2章 文明開化のあしおと」にもいくつかの所業が書かれている。
http://www.kamarin.com/special_edition/index_2.htm

この四條という人物が奈良県令の地位にあったのはわずか2年程度のことなのだが、それにしては随分多くの歴史と伝統のある文化財の破壊を命じている。

内山永久寺

正木氏の文章の続きを読んでいくと、興福寺に続いて内山永久寺の廃仏毀釈のことを書いている。内山永久寺という寺については以前にもこのブログで紹介したが、鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第二世頼光によって12世紀のはじめに創建され、後に石上神宮の神宮寺として栄え、「太平記」には後醍醐天皇が一時ここに身を隠したと記されている。江戸時代には「西の日光」とも呼ばれた大寺院だったのだが、明治期の廃仏毀釈によってこんな歴史のある寺院も完全に破壊されてしまった。正木氏の文章をしばらく再び引用する。

「大和の一の宮布留石上明神の神宮寺内山の永久寺を廃止しようということになって役人が検分に行くと、寺の住僧が私は今日から仏門を去って神道になりまする。その証拠はこの通りと言いながら、薪割を以て本尊の文殊菩薩を頭から割ってしもうた。遉(さすが)に廃仏毀釈の人々も、この坊主の無慚な所業を悪みて坊主を放逐した。その迹(あと)は村人が寺に闖入(ちんにゅう)して衣料調度から畳建具まで取外し米塩醤豉までも奪い去ったが、仏像と仏画は誰も持って行き手がない。役所から町の庄屋中山平八郎を呼び出してお前は是を預かれと言う厳命、中山は迷惑の由を申し出て辞退をしたけれども許されず、ついに預賃年十五円を貰い預かることとなった。その後時勢が推し移り何時の間にやら預かった仏像や仏画が中山所有の姿になった。今藤田家に所有する藤原時代の仏像仏画の多くはこの中山の蔵から運んだものである。こんな有様であるから総べて古物は仏画でも何でも二束三文となった。金泥で書いた経文等も焼いた灰から、金を取るというような商売のおこったのも無理からぬことであった。」

藤田伝三郎

藤田家というのは、明治期の関西財界の重鎮で藤田財閥の創立者の藤田伝三郎とその長男藤田平太郎、次男藤田徳次郎を指している。この3人が集めた美術品・骨董品の数はかなり売却されたようだが、それでも現在の藤田美術館には国宝9件、国の重要文化財50件を含む5000点が所蔵されているのだそうだ。

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その国宝の中に『両部大経感得図』という仏画があり、これは内山永久寺にあったものであることが解っている。
また、奈良県天理市にある石上神宮(いそのかみじんぐう)摂社の出雲建雄神社割拝殿はもと内山永久寺鎮守の住吉神社拝殿で国宝に指定されている。
東大寺二月堂にある持国・多門天像も、もともとは内山永久寺にあった平安時代の仏像で、重要文化財に指定されている。
また海を渡って今はボストン美術館所蔵となっている鎌倉時代の仏画『四天王像』は、国内にあれば間違いなく国宝指定だと言われている。
他にも聖観音菩薩立像(鎌倉時代、東大寺二月堂)、不動明王坐像(鎌倉時代、正寿院)、四天王立像(鎌倉時代、、東京国立博物館他)、不動明王像及び八大童子像(鎌倉時代、世田谷観音寺)が国の重要文化財に指定されているというのだが、残されているものだけでも、これだけ多くの国宝や重要文化財があるというのは驚きである。
いまもしこの内山永久寺が残されていたとしたら、法隆寺や東大寺に匹敵する観光名所になっていたことは確実だろう。

京都や奈良は多くのお寺があるので、廃仏毀釈はたいしたことではなかったのではないかと勝手に解釈していたのだが、京都や奈良はもともと寺院の数が多かったので残された文化財も多かっただけのことである。

どんなに古い時代に制作された貴重なものであったとしても、毀されたり燃やされたり、奪われたりすれば文化財は一瞬にしてその価値を失ってしまうことになる。現在残されている文化財は、人々が貴重なものであると認識しているが故に、何百年も様々な危険から多くの先人たちの努力によって、長い間守られてきたものばかりなのである。

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昨年10月に対馬の観音寺にあった長崎県指定文化財の観世音菩薩坐像が窃盗団によって盗まれてしまった。観音寺はほとんど無人状態の寺だった。
窃盗団の目的は単なる転売目的であったようだが、韓国の浮石寺は、もともとこの仏像は浮石寺のものであり、1370年頃に倭寇によって強奪されたものであって、浮石寺に返還すべきであると主張している。
隣の国は常識が通用しない国だ。歴史を偽造して自分のものだと書かせ、盗んでおいて自分のものだから返さないと主張する。わが国の外務省が調査を要請すると、韓国側は国宝に指定して調査を拒んだとのことだ。

李氏朝鮮時代に、儒教を国教にして仏教を弾圧し自らが寺院を破壊し仏像を破壊した(「廃仏崇儒」)歴史がある。わが国の明治時代の廃仏毀釈に似て、この時期に高麗時代の仏教遺跡が破壊され、多くの仏像や文化財が海外へ流れたとされる。
普通に考えれば15世紀に李氏朝鮮の仏教弾圧により焼かれた寺から救出する目的で、誰かが仏像を対馬に持ち込んだものが残されたのだろう。

また彼らは、何を根拠に観音寺の仏像を「1370年頃に倭寇によって強奪された」と断言できるのか。
『明史』日本伝にはこう書かれている。倭寇の主体は日本人なのか。
「明が興り、太祖高皇帝(朱元璋)が即位し、方国珍・張士誠らがあい継いで誅せられると、地方の有力者で明に服さぬ者たちが日本に亡命し、日本の島民を寄せ集めて、しばしば山東の海岸地帯の州県に侵入した。」(講談社学術文庫『倭国伝』p.394)

また彼らの国の正史である『高麗史』には、高麗人が何度か対馬を襲い倭人を殺す記述があるのにもかかわらず、少なくとも倭寇は1375年までは高麗人を殺していなかったことが明記されている。
相手から襲われて家族が殺されても、敵を殺さなかった対馬の人々がどうやって李氏朝鮮の寺の仏像を奪えるというのか。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-47.html

李成桂が高麗を滅ぼし李氏朝鮮が建国された1392年以降は、倭寇のメンバーの8割は朝鮮の賤民だったと朝鮮王朝実録の『世宗実録』114卷二十八に書かれている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-48.html

彼らが自国に残した記録からは、倭寇によって仏像が奪われたという可能性を説明することは困難だろう。

勝手な歴史を作って、窃盗団を使って盗難して自国に持ち帰り、そのまま自国のものとすることの前例を決して許してはならない。
わが国の政治家は、相手が歴史を捏造するなら、中国や高麗や李子朝鮮国の正史に基づいて反論し、堂々と外交交渉してほしいものである。
地方には対馬の観音寺のような無人のお寺や神社がいくつもあるのだ。今回の事件で相手の圧力に屈するようでは、これから先わが国の文化財は守れない。
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廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ

前回の記事で奈良の最初の県令であった公家出身の四條隆平(しじょうたかとし)という人物の廃仏政策で、興福寺が多大な被害を受け、内山永久寺という大寺が破壊されたことを書いた。県令というのは大名に代わって地方行政を任された明治政府の役人である。
この四條隆平が奈良の県令の地位にあったのは、明治4年11月から明治6年11月とわずか2年のことなのだが、この県令による廃仏政策で興福寺の門跡寺院であった一乗院、大乗院が廃寺となり、内山永久寺のほかにも、大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺であった大御輪寺(おおみわでら)も姿を消してしまった。

古寺巡礼

和辻哲郎の『古寺巡礼』に、聖林寺にある国宝の十一面観音立像は天平時代のもので、かっては大御輪寺の本尊であり、この国宝仏がどのような経緯で聖林寺に移されたかが書かれている。
「…この偉大な作品も五十年ほど前には路傍にころがしてあったという。これは人から伝え聞いた話で、どれほど確実であるかはわからないが、もとこの像は三輪山の神宮寺の本尊であって、明治維新の神仏分離の際に、古神道の権威におされて、路傍に放棄せらるという悲運に逢った。この放逐せられた偶像を自分の手に引き取ろうとする篤志家は、その界隈にはなかった。そこで幾日も幾日も、この気高い観音は、埃にまみれて雑草の中に横たわっていた。ある日偶然に、聖林寺という小さい真言寺の住職がそこを通りかかって、これはもったいない、誰も拾い手がないのなら拙僧がお守りいたそう、と言って自分の寺へ運んで行った、というのである。」(岩波文庫『古寺巡礼』p.72)

聖林寺

ところが聖林寺のホームページでは、廃仏毀釈の前触れがあったので、慶応4年5月16日に十一面観音立像を大八車に載せてこの地に避難したと書かれている。
http://www.shorinji-temple.jp/about/about04.html
破壊される前に運ばれたか、破壊後に運ばれたかでは話が違いすぎるのだが、どちらの説が正しいかは今となってはよく解らない。
ただ、難を逃れるために事前に運んだにしては、頭上最上部にある10面のうち3面が失われており、特に光背は上の部分が大破して全体の形が不詳なのだそうだ。和辻氏には嘘を語る動機は乏しく、聖林寺にとっては路傍にころがしてあったという話は出来れば隠しておきたいとする動機があってもおかしくない。直感的には私は和辻説のほうが正しいような気がする。

四條隆平は多くの寺や仏像などの破壊を命じたのだが、私が探した範囲内では、仏像や仏画などを私物化して売却し、私腹を肥やすような話は見当たらなかった。
しかし、このような時期であれば、もし県の最高権力者である県令がその気になりさえすれば、寺院の美術品や工芸品を私物化したり、転売して私腹を肥やすことは簡単にできたと考えられる。そして実際にそのような県令が奈良にいたのである。

神奈川仏教文化研究所の朝田純一氏が、『埃まみれの書棚から』という奈良の古寺、古仏についての素晴らしいホームページを立ち上げておられる。その中で昭和2年の文藝春秋7月号に掲載された「柳田国男・尾佐竹猛座談会」と題し、芥川龍之介、菊池寛も座談に加わって語られた内容の記事の一部が引用されている。

尾佐竹猛

尾佐竹猛(おさたけたけき)という人物は明治文化社会史研究家で当時は大審院(今の最高裁)判事だった人物だが、彼の発言に注目である。
http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/raisan/shodana/shodana145.htm

「柳田:○○○事件ですか。それから一番ひどいのは○○子爵ですね?
尾佐竹:堺の県令をして居る時分に奈良の大抵の社寺の古物などを持って帰るのですね。 あれなんか県令の勢で強奪したり又はすり替へるのですからね。
芥川:さういふのは裁判沙汰にならなかったのですか。
尾佐竹:明治初年の県令といふものは大名の後継者の積もりで素破らしいものであり、司法権も警察権も有ってゐるといふ大したものでしたからね。
そして民間は奴隷根性が抜けぬ時ですからね。
柳田:奈良の古物といふものは、あの時分によほど多く無くなったといひますね。
尾佐竹:県令が御覧になるからといって取り寄せて返さぬ、又は、刀の中味などをすり替へて返す。
それはまだいいとして、属官が旅費を貰って出張して、古墳を堂々と発掘して、その地方の豪家に命令して泊まって、そして貴重品は県令様のポケットに納まるといふのですからね。
それで居て旧幕時代の奉行代官から見ると善政を施してゐるといふのですよ。
奉行代官から見るとそれでもまだズッと清廉潔白なんです、まるでレベルが違ひますからね。
芥川:さうですかね嫌になっちゃふね。
尾佐竹:まだいろんな事がありますね。けれども余り言ふといけないから。」

税所篤

「○○子爵」というのは、新政府で兵庫・堺・奈良の県令・知事を歴任した薩摩藩出身の税所篤(さいしょあつし)という人物のことである。
税所が「堺県令」であったのは明治4年(1871)11月から明治14年(1881)2月であるが、以前このブログでも書いた通り、明治9 (1876) 年4月に府県の統廃合が行われて奈良県は大阪南部にあった堺県に編入されてしまって「奈良県」が消滅してしまった。
その後「奈良県」が再設置されるのは明治20年(1887)11月であるから、11年半にわたり「奈良県」が地図から消滅したのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-90.html

奈良県が再設置されるまではいろいろドラマがあったのだが、詳しく知りたい方は奈良県が発行した「青山四方にめぐれる国 ―奈良県誕生物語―」がネットで読むことが出来て内容もわかりやすくて面白い。
http://www.kamarin.com/special_edition/index_0.htm

話を奈良県が堺県に編入された明治9 (1876) 年4月に戻す。その時点から、堺県令であった税所が現在の奈良県地区の最高責任者となり、先ほど引用した尾佐竹氏の言葉を借りれば、司法権も警察権も握ったのである。

彼が堺県令として具体的にどうやって奈良の寺院の文化財を手に入れたについて詳しく記されているような文章はネットでは見つからなかったが、彼を批判する文章は、先ほど紹介した朝田純一氏のホームページでいくつか引用されている。

例えば
「内山永久寺の廃寺と共に、権勢家であった税所篤が寺宝を収奪したのであった。」(森本和男「文化財の社会史」)
税所篤も、明治初年の混乱期にしばしば顔を見せる、いわくのある人物であった。」(由水常雄「廃仏毀釈の行方」)

朝田氏によると、明治21年に当時の美術行政を策定してきた九鬼隆一氏が大規模な宝物調査を実施し、寺社所蔵品や個人コレクションの目録作成が行われたそうだ。その時の宝物目録が東京国立博物館にあり、奈良県の個人コレクターのランキングが『文化財の社会史』という本に出ているのだそうだ。
http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/raisan/shodana/shodana145.htm

25-6-064-1.jpg

税所篤が集めた古美術品の優等品・次優等品はすべてが絵画だったそうだが、薩摩の下級武士出身であった税所篤が、なぜ奈良県の個人コレクターでダントツの1位となりえたのか。このランキングを見て、これらの逸品をこの人物がまともなルートで手に入れたと考える人は殆んどいないのではないだろうか。

先程紹介した昭和2年(1927)の文言春秋の座談会の記事は、税所篤がこの世を去ってから16年も経過しているのだが、それにもかかわらず文芸春秋は税所の名前を伏せている。薩長の藩閥政治が終焉したのは大正13年(1924)の護憲三派内閣成立により政党内閣の慣行が生まれてからだと言われるが、昭和に入っても明治政府に対する批判につながる発言がおおっぴらにはできなかった時代が続いていたと考えればいいのだろうか。

税所篤が寺院から古美術品を強引な手法で集めたかどうかについては、具体な記録が残されていないので想像するしかないが、税所は考古遺物についても収集癖があり、堺県令時代にいくつもの古墳を発掘して考古遺物を強引に手に入れたとの疑惑があることが、朝田氏のホームページに記されている。

朝田氏は税所県令が発掘に関わったものとして朝田氏は、松丘山古墳(大阪府柏原市)、長持山古墳(大阪府藤井寺市)、美努岡萬墓(奈良県生駒市)、仁徳天皇陵(大阪府堺市)の4つを挙げておられる。
http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/raisan/shodana/shodana146.htm

松丘山古墳は4世紀ごろの前方後円墳で、江戸時代に7世紀の船王後(ふなのおうご)墓誌が出土し、西琳寺という寺の寺宝になっていたのを、廃仏毀釈の時に税所篤県令の手中になったそうだ。その後県令は古墳群を掘り返して、古剣や鏡片などが発掘されたという。
長持山古墳、美努岡萬(みののおかまろ)墓は省略するとして、最後の仁徳天皇陵は誰でも知っている我が国最大の前方後円墳である。以前このブログでこの古墳のことを書いたが、最近の教科書では、被葬者が誰であるかが特定されていないため、『大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)』とか『大山古墳』とか『伝仁徳陵』などと呼ばれているようだ。ややこしいので、とりあえず、ここでは『仁徳天皇陵』と呼ぶことにする。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-123.html

税所篤はこの『仁徳天皇陵』の石室を発掘し、その副葬品を持ち出したという疑惑があるのだという。

img20120418234351359.jpg

以前このブログで、ボストン美術館に仁徳天皇陵から出土した「獣帯鏡、環頭太刀の把頭、馬鐸、三環鈴」が収蔵されていることを書いた。

この副葬品が発掘された経緯については、明治5年の秋に台風による土砂崩れのために仁徳陵の前方部が一部崩壊してたまたま石室が露出し、副葬品が持ち出されたものと長い間信じられていた。しかし、最近の研究では税所篤が意図的に発掘し盗掘したという説が有力なのだそうだ。
しばらく朝田氏の文章を引用させていただく。

「(税所篤が盗掘したという説が唱えられた)きっかけは、昭和48年、堺市の旧家に、堺県令、税所篤名の、このような文書が残されていることが、報告されたことによる。
『仁徳陵が鳥の巣窟になって汚穢不潔であるので、鳥糞を取り除く為に清掃を行なう伺い出したところ許可されたので、清掃を行なったところ、甲冑や剣、陶器ならびに広大な石櫃が見つかった。その検分の為に官員の派遣を要請する。』
という内容の文書で、教部卿宛に出されている。

この伺いへの回答文書も、併せて残されている。
その内容は、石室・石棺のことには一切触れておらず
『鳥糞の掃除は、即刻中止し差し止めること。墳丘内の仮小屋や小船も撤去すること。』
という厳しい口調の内容で、言外に発掘行為を事実上不能にさせるものであった。

仁徳天皇陵

この文書に着目した、考古学者・森浩一は、
『仁徳天皇陵の石室の発掘は、当時の堺県令・税所篤が、鳥糞の清掃等が必要という口実をつけて、計画的に大掛かりに発掘を行なったものに違いない。ボストン美術館所蔵の考古遺物は、このときこの石室から持ち出されたのがほぼ間違いないだろう。
明治5年の発掘経過を振り返ると、これらの遺物が、堺県令・税所篤によって持ち出された疑惑はやはり大きく、時間をかけて真相を明らかにする必要がある。』と、論じた。

この説にも、異論がないわけではないが、税所篤が、仁徳陵の石室を、口実を設けて計画的に発掘したという考え方が、現在では主流になっているといってよいようだ。」

ボストン美術館にある副葬品に税所篤がどこまで関与したについては証拠となる記録があるわけではないが、証拠がないので関与してないと断ずるのには違和感がありすぎる。
税所が仁徳天皇陵の石室を発掘したことは確実で、この男の所業化や収集癖からすれば、副葬品を発掘するために盗掘まがいのことを為したことを疑うのが自然だと思う。

また税所篤は大久保利通と子供の頃から仲が良かったらしく、Wikipediaで「大久保利通」の項目を読むと、何度か税所の名前が出てくる。ちょっと気になるのが、大久保利通が明治8年に麹町三年町に建てた白い木造洋館を建てた建築費用は「恩賜金と盟友税所篤からの借金で賄ったとされる」と書かれているところだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A
税所が大久保に貸した金額までは判らないが、洋館の建築資金ともなれば少ない金額ではなかっただろう。税所がこの金をどうやって捻出したかが問題なのだが、普通に考えれば、県令である税所の収入が大久保よりも多いはずがないではないか。

この税所篤が明治14年(1881)まで堺県の県令を勤め、明治20年(1887)に奈良県が再設置された時に再び奈良県の知事となり、同じ年に維新の功を認められて子爵になっており、彼の疑惑が追及されることはなかったようなのである。
明治政府の人材レベルはこの程度のものでしかなかったのか。あるいは、この程度のことは他にもいくつもあったなど処分できない事情があったのか。

徳川幕府も腐敗していたかもしれないが、明治の初期に山縣有朋や井上馨のひどい汚職事件がありながら、その後処分もされずに登用され続けていることを知ると、明治新政府も権力を掌握した早い時期から腐敗していたと思わざるを得ない。

討幕派と明治新政府を善玉とし徳川幕府と佐幕派を悪玉とするかのような単純な歴史叙述を、それが史実であると鵜呑みしていいのだろうかと疑問に思う事がある。ひょっとすると我々は、教科書や小説などを読み映画やテレビドラマなどを見ているうちに、いつの間にか「薩長閥にとって都合の良い歴史」に洗脳されてしまっているのではないだろうか。
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【ご参考】
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江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか

このブログで何度か明治初期の廃仏毀釈のことを書いてきた。
この廃仏毀釈のためにわが国の寺院が半分以下になり、国宝級の建物や仏像の多数が破壊されたり売却されたりしたのだが、このような明治政府にとって都合の悪い史実は教科書や通史などで記載されることがないので、私も長い間ほとんど何も知らなかった。

梅原猛氏は「明治の廃仏毀釈が無ければ現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と述べておられるようだが、ではなぜ明治初期に廃仏毀釈がおこり、数多くの文化財を失うことになったのか。

標準的な教科書である『もういちど読む 山川日本史』には、明治政府は「はじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民教化をはかろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのため一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた。」(p.231)と簡単に書いてあるだけだ。
廃仏毀釈の嵐」などというわけのわからない言葉を使って誤魔化しているが、このような文化財の破壊行為が犯罪にもならず取締りもされなかったことはなぜなのか。

前回の記事で、岐阜県安八郡神戸町にある日吉神社に三重塔や仏像が残されていることを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-338.html

柏原八幡三重塔

また以前このブログで兵庫県丹波市柏原町にある柏原八幡神社にも三重塔が残されていることを書いたが、このように神社の境内に仏塔が残されているケースはわずかだけで、数多くの塔がこの時期に破壊されてしまっている。上の画像は昨年撮った柏原八幡神社の三重塔であるが、このような神仏習合の景色が、廃仏毀釈で破壊される以前には、全国各地にあたりまえのように存在したはずなのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

柏原八幡

日本の風景を一変させた廃仏毀釈は平田篤胤の国学や水戸藩の排仏思想の影響が大きかったとよく言われるのだが、江戸時代の幕末にこの様な、過激な思想が拡がった背景についてわかりやすく解説している本を探していたところ、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』の中から、昭和18年に出版された菊池寛の『明治文明綺談』の文章が目にとまった。そこにはこう述べられている。

徳川幕府が、その宗教政策の中心として、最も厚遇したのは、仏教であった。それは、幕府の初期に、切支丹の跋扈で手を焼いたので、これを撲滅するため、宗門人別帳をつくり、一切の人民をその檀那寺へ所属させてしまった。
 そのため、百姓も町人も寺請手形といって、寺の証明書がなければ、一歩も国内を旅行することが出来なかった
。それは勿論、切支丹禁制の目的の下に出たものであったが、結局、檀家制度の強要となり、寺院が監察機関としても、人民の上に臨むことになったのである。
 しかも、この頃から葬式も一切寺院の手に依らなければならなくなり、檀家の寄進のほかに、葬式による収入も殖え、寺院の経済的な地位は急に高まるに至った。 
 僧侶を優遇するというのは、幕府の政策の一つなのであるから、僧侶は社会的地位からいっても、収入の上からいっても、ますます庶民の上に立つことになった。
 そして、このことが同時に、江戸時代における僧侶の堕落を齎(もたら)したのである
。江戸三百年の間、名僧知識が果たしてどのくらいいただろう。天海は名僧というよりも、政治家であり、白隠は優れた修養者というよりも、その文章などを見ても、俗臭に充ちている。しかも世を挙げて僧侶志願者に溢れ、…しかも彼らは、宗教家としての天職を忘れ、位高き僧は僧なりに、また巷の願人乞食坊主はそれなりに、さかんに害毒を流したのである。…
それだけにまた、江戸時代ほど僧侶攻撃論の栄えた時代はなく、まず儒家により、更に国学者により、存分の酷評が下されている。
堂宇の多さと、出家の多きを見れば、仏法出来てより以来、今の此方のようなるはなし。仏法を以て見れば、破滅の時は来たれり。出家も少し心あるものは、今の僧は盗賊なりと言えり。』(大学或問[熊沢蕃山の著書]) 

荻生徂徠も、
今時、諸宗一同、袈裟衣、衣服のおごり甚(はなはだ)し。これによりて物入り多きゆえ、自然と金銀集むること巧みにして非法甚し。戒名のつけよう殊にみだりにて、上下の階級出来し、世間の費え多し。その他諸宗の規則も今は乱れ、多くは我が宗になき他宗のことをなし、錢取りのため執行ふたたび多し』(政談)
と、その浪費振りと搾取のさまを指弾している。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/57

儒者の熊沢蕃山(1619-1691)や荻生徂徠(1666-1728)までが、当時の仏教界をこれほど厳しく批判していることは知らなかった。排仏論を唱えたのは平田篤胤(1776-1843)のような国学者ばかりではなかったのだ。さらに名君と呼ばれた藩主までもが、かなり早い時期から、仏教の堕落を批判している。わかりやすいように藩主の生存年を付記して菊池寛の文章を再び引用する。

「…学者の排仏論のほかに、政治家であって真先に排仏論を唱えたのは、水戸光圀(1628-1701)で、その死ぬときには僧を遠ざけ、儒法を以て葬ることを命じている。そのほか領内を調査して、いかがわしい淫祠寺院を破却し、破戒の僧尼をどし還俗させている。
 このほか、岡山の池田新太郎光政(1609-1682)、会津の保科正之(1611-1673)、さらに下って水戸の徳川斉昭(1800-1860)、当時名君といわれた藩主はみんな盛んに排仏をやっている。彼らの儒教的教養からみれば、仏教の堕落は、言語道断だったのであろう。こうした底流の下に、明治維新を迎えたのである。仏教が徹底的にやっつけられるのはやむを得ない形勢であったのだ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/59

仏教遭難史論

菊池寛は小説家だから、あまり信用できないという人もいるだろう。
以前このブログで伊勢の廃仏毀釈のことを書いたときに引用させていただいた、羽根田文明氏の『仏教遭難史論』という本がある。羽根田氏は仏教側の論客のようだが、この本の中で格式の高い寺院ほど腐敗していて、その仏教界の腐敗が廃仏毀釈を招いたと述べておられる。この本も、『近代デジタルライブラリー』で誰でもネットで読むことが出来る。

「…諸寺の寺領は、諸侯の知行よりかは少なく、公卿の家領よりかは多かった。即ち日光山輪王寺の壱萬三千石、増上寺の壱万石、比叡山延暦寺、三井園城寺の各五千石を最多とし、以下二三千石、または数百石、或は数十石を最小として、いずれも幕府の墨印、奉行の朱印が下付せられてあった。そして寺領の石高は、幕府より現米で渡るのではなく、領地から年貢米として、寺門に収納するのである。…各寺に役所があり、俗役人があって、各領内の行政、すなわち領民の願伺届、及び訴訟の事務を取り扱った。そしてこれらの俗務は、寺侍いわゆる俗役人の専務にして、僧徒は毫もこれら俗事に関係せず、所謂、長袖風にて金銭の価格、収支の計算等、すべて経済の何たるも知らず、却って之を卑しめ、識らざるをもって誇りとしておった。…

…将軍家、及び諸侯の菩提所、勅願書はじめ、由緒ある寺院は、寺領の外に、堂塔、坊舎の営繕費などは、またみな官費、公費を以て、支弁するのは勿論、臨時の風水害等のある場合は、直に屋君を派遣して、損所を修理せしめた。ゆえに是等特待の寺院は、素より多額の寺領を有して僧侶は、手許の有福なるに任せ、曾て人生艱難の何たるも知らず、常に飽食暖衣して、日夜歓楽に耽り、宗祖の辛苦経営も、済度衆生の行業も、更にこれを知らず、ただ識るものは、栄花と、権威を振るうことばかりであった。実に仏教の衰勢を招き、近く明治維新の大打撃を受くべき素因を、早くここに、作っておった。実に自業自得の結果、如何ともすること、能わぬぞ是非もなき。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/21

談山神社と明日香散策 021
【談山神社 十三重塔】

羽根田氏はこのような仏教界の腐敗があり、排仏説を唱える平田篤胤らの説に多くの人々が共鳴したのは自然の成り行きだとも書いておられる。

当時、世人の多くが、仏教界の腐敗に愛想をつかしおる矢先に、かかる耳新しき、日本的の説を聞いたのであるから、靡然として、人心の之(平田篤胤らの説)に向かうのは、自然の勢である。しかも、当時水戸あたりから、しきりに尊王攘夷の説の宣伝せられ、上下一般に、その説を歓迎せんとする、傾向のあるを好機に、排仏思想の儒者も、国学者も協心一致して、神道の力をもって、王室を復古し、もって神道を隆盛ならしめねばならぬ。神道を盛んにするには、まず第一に、廃仏毀釈の必要あるということに、儒者、神学者、国家者、みな同心一致して、その実施の機会を待っていたら、ほどなく幕府の大政返上となり、ついで王政復古の大号令となり、新政施行機関として、先ず神祇官、太政官、諸省の設置となり、人材登用の趣意により、右三者の有志家は、それぞれ官省に出仕して、国政に参ずる地位を得た。これが近縁となり、ここに各自理想の廃仏毀釈を、事実上に施行せんと企んだ。時に新政府は、内外の政務混乱して、緒に就かざる機会に乗じて、陽に朝威を借り、陰に私意を含み、無智、無学に、しかも惰眠に耽る僧界に対し、迅雷一声思いのままに、廃仏毀釈の暴挙を実行するに至った。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/33

名草神社三重塔
【名草神社三重塔】

神仏習合の神社においては社僧と呼ばれる僧侶がいて、社家の神主もいたのだが、社僧と神主との関係はどのようであったのか。羽根田氏はこう述べている。

「もっとも各神社に、社家の神主もあったけれども、みな社僧の下風に立ち掃除、または御供の調達等の雑役に従い、神社について、何らの権威もなかったのである。しかれども伊勢神宮を始め、その他に社僧なくして、神主の神仕する神社もあったが、いわば少数であった。
社僧の神社に奉仕するのは、僧徒が神前で祝詞を奏するのではなく、廣前に法楽とて読経したのであるから、社殿に法要の仏具を備え付けるは勿論、御饌(みけ)も魚鳥の除いた精進ものであった。神前に法楽の読経することは、古く詔勅を下して、之を執行せしめられたのである。…
…いずれの神社にも、神前に読経して法楽を捧げたものである。かかる情態(ありさま)であるから、遂にはかの八幡宮の如く、神殿内に仏像を安置して、これを神体とする神社が多くあった。大社が既にこの如くである故に、村落の小社は、概ね仏像を神体にしたのである。…
…堂作りの社殿に、極彩色を施し、丹塗りの楼門や二重、三重、五重の塔のある神社もあって、純然たる仏閣の如くであったのが事実である。故に神社の実権は、全く僧徒の占領に帰し、神主はその下風に立て、雑役に従事するのみ。何等の権力もなかったから、神人は憤慨に堪えられず、僧徒に対して怨恨を懐き、宿志を晴らさんとすれども、実力なければ、空しく涙を呑み、窃に時機の来たらんことを待っておった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/15

このような流れの中で、慶応3年(1867)10月に仏教を厚遇してきた江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が大政奉還したのち、維新政府は慶応4年(明治元年:1868)3月以降、神仏分離に関する命令をいくつか出している。
そのうちの幾つかを読み下し文で紹介したい。原文はいずれも漢文で、廃仏毀釈に詳しいminagaさんのホームページの次のURLに、明治政府の出した神仏分離に関する命令が集約されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/s_tatu.htm

3月17日神祇事務局達
今般王政復古、旧弊一洗なされ候につき、諸国大小の神社に於いて、僧形にて別当*、あるいは社僧など相唱え候輩(やから)は、復飾**仰せ出され候…」
*別当:社寺を統括する長官に相当する僧職
**復飾:僧侶になった者が、俗人に戻る事。「還俗」とも言う。

さらに3月28日には、2つの神祇官事務局達が出ている。
中古以来、某権現*、あるいは牛頭天王**の類、その外、仏語をもって神号に相唱え候神社少なからず候。いずれも、その神社の由緒、委細に書付、早々申出づべく候」
「仏像を以て神体と致し候神社は、以来相改め申すべき候こと。附り、本地***等と唱え、仏像を社前に掛け、或は鰐口、梵鐘、仏具等の類差し置き候分は、早々取り除き申すべきこと」

*権現:仏が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号
**牛頭天王:祇園社などの祭神。祇園精舎の守護神とも薬師如来の化身とも言う。
***本地:衆生を救うためにとる神などの仮の姿を垂迹と呼ぶのに対し、仏・菩薩の本来の姿を言う。

また4月24日には太政官達が出ている。
「このたび大政御一新につき、石清水、宇佐、筥崎等、八幡大菩薩の称号止めさせられ、八幡大神と称し奉り候様、仰せ出され候こと

四つ割りの南無阿弥陀仏碑
【苗木藩 常楽寺の四つ割りの南無阿弥陀仏碑】

維新政府の神祇官には国学者・平田篤胤の弟子で篤胤の婿養子となった平田銕胤(かねたね)や、銕胤の長男の平田延胤(のぶたね)や、平田篤胤の門人で苗木藩の全寺院を廃仏毀釈で破壊した青山直道の父親である青山景通がいて、神祇官の考えが「廃仏」に傾いたのは自然の流れであったと思うのだが、これらの維新政府の「達」には仏像や仏具などを「取り除き申すべきこと」とは書かれていても、「破壊せよ」とか「焼却せよ」とはどこにも書かれていないことは注目して良い

明治初期においては政府の権力は脆弱で、神祇官事務局達や太政官達にはそれほど強い強制力はなかったようなのだが、全国各地に平田派の国学者が多数任官されていて、それに影響された神官が数多くいたという。
それゆえ、維新政府が考えていた以上に破壊行為に走るケースが多く、実際に破壊行為に及んだのは地方の事務官や神官だったという

慶応4年4月10日の太政官布告では、仏像などの破壊行為を戒めている。意訳すると、
「…旧来、社人と僧侶の仲は善くなく、氷と炭の如くであり、今日に至り、社人どもが俄に権威を得て、表向きには新政府の御趣意と称し、実は私憤をはらすようなことが起きては、御政道の妨げになるだけでなく、必ずもめ事を引き起こすことになる。…」
とあるが、この布告は各地で極端な廃仏毀釈が行なわれたことを暗示している。

しかしながら、明治政府はその後も神仏分離を求め、寺院の収入源を断つような命令を出し続けて、仏像等を破壊する行為を厳しく取り締まることも処罰することもなかったのである。
税所篤

以前このブログでも書いたが、新政府で兵庫・堺・奈良の県令・知事を歴任した薩摩藩出身の税所篤(さいしょあつし)のように、廃仏毀釈で寺宝を強奪して売却することにより私腹を肥やしたとされる人物もいた。その意味では明治政府も共犯者である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

明治初期に大量の文化財が破壊されたことについては、明治政府や地方の事務官や神官に責任があった事は確実なのだが、仏教界にも問題がなかったわけではない。

江戸時代の長きにわたり仏教界が腐敗していた状態を放置し、改革を怠ってきたことが排仏思想を生むきっかけを作ったのだが、仏教を擁護してきた江戸幕府が倒れて明治維新が神仏分離の命令を出すと、多くの僧侶が抵抗らしい抵抗もせずに、信者を見捨てて自分の身を守るために還俗してしまった。そのことが廃仏毀釈時に多くの文化財を失うことに繋がってしまったのだが、このような時にこそ僧侶は体を張って、信者と力を合わせて文化財を護って欲しかったと思う。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。
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苗木藩の廃仏毀釈と、その史跡を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-179.html

寺院が神社に変身した談山神社
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-78.html

香住から但馬妙見山の紅葉と朱塗りの三重塔を訪ねて~~香住カニ旅行2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

伊勢の廃仏毀釈と伊勢神宮の式年遷宮に多大な貢献をした尼寺のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-314.html

日吉神社、大垣城、南宮大社から関ヶ原古戦場に向かう
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-338.html

【ご参考】
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水戸藩が明治維新以前に廃仏毀釈を行なった経緯

前回は、明治維新後に神仏分離令が出されて、各地で廃仏毀釈が起こった事情を書いた。

昔は出雲大社のような有名な神社にも三重塔などの仏教施設があったのだが、「神仏分離」とは神仏混淆の習慣を排し、神社と寺院とをはっきり区別させようという考え方だ。

出雲大社 寛永期

上の図は寛永期(1624~1645)の出雲大社の絵図だが、このように出雲大社においてさえ境内の中に三重塔があったことがわかる。

名草神社三重塔

この三重塔が、兵庫県八鹿町の但馬妙見山にある日光院という寺に移され、明治維新で名草神社の所有となったことを以前このブログで記事に書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

なぜ出雲大社が三重塔を手放したかというと、寛文の大造営の時に、宮司の千家尊光が松平直政と図り、両部神道から唯一神道に変換する方針で臨んで出雲大社の神仏習合は廃されることとなり、三重塔、経蔵、鐘楼が境内から撤去されることに決定したからである。
次のURLにそれぞれの建物や仏像仏具がどの寺に移されたかが記載されているが、この記事によると、出雲大社の梵鐘は福岡の西光寺という寺に今も残され、国宝に指定されているという。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/myoken42.htm

このように神仏分離」は神と仏を分離することであり、仏教施設や仏像仏具を徹底的に破壊する考え方ではないはずだ。しかるになぜ、明治維新期の「神仏分離令」に過剰に反応して、「廃仏毀釈」という異常な破壊行為が行なわれたのか。

いろいろ調べていくと、このような仏教施設などの破壊行為は明治維新で初めて行われたのではないようだ。
前回の記事で紹介した羽根田文明氏の『仏教遭難史論』には江戸末期の水戸藩の「廃仏毀釈」の経緯が記されているので引用させていただく。文章の中の「義公」は水戸藩・二代藩主で「水戸黄門」としても名高い徳川光圀(1628~1701)のことである。

1024px-Tokugawa_Mitsukuni.jpg

「義公が寺院を整理し、僧侶を淘汰せるは、寛文5年(1665)に始まる。この年、寺社奉行の新職を設け、阿原景隆、山縣元纜の二名をこれに任じて、国内の寺社、僧尼、巫祝(みこ)を調査せしめ12月始めて、寺社の法令を頒(わか)ち、翌6年(1666)8月の法令に曰く

 『総て諸宗とも、在々所々に至るまで、その所々に過て、小寺多く有之に付、檀方みな、分け散りて、古跡、大地、衰微に及び、由来ありし寺にも、渡世成り難く間、然るべき学僧は住居せず、況や其外の小寺共に、無智、無下の愚僧のみにて、法外の営仕る僧どもは、俗ともしらず、民を迷わし、国の費をなし、風俗の禍とも成り候に付、無益の小寺ども、このたびご穿鑿(せんさく)を遂げ、破却仰せ付らるものなり。…
右の通り、破却仰せ付らる小寺ども、家財の儀は、坊主に下され候。路錢にし、何方へも心次第に参り候とも、又還俗致したき候者は、渡世の品により、居所仰せ付けられ下され候事。寛文6年午8月』」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/34

徳川光圀公はこの改革で2千以上の寺院の整理を行ない、同時に神仏混淆をも禁じたという。

「…当時の神社は、いずれもみな神仏混淆の状態で、その神体が仏像であることが多かった。義公はこれを非なりとして、悉く改めて神鏡、又は幣を神体になさしめた。なお天満宮の社殿に、あらぬ装束したる木造の祀れるを改め、有職家に命じて、衣冠束帯の制を調査せしめ、さらに菅公(菅原道真公)の影像の伝われるを比較研究し、その宜しきに随い、新たに造作して、各社に安置せしめた。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/35

しかし、徳川光圀公は寺院を整理しただけではない。一郷一社の制を定め、正しき由緒ある神を祀ってその地の鎮守として、「淫祠」と判定された神社も3千以上整理している
一方、光圀公の生母、谷氏の墓のある久昌寺の移築や、祇園寺などいくつかの寺を新築しているし、仏像などを寄付したり修理したりしているという。

羽根田氏は徳川光圀公の宗教政策をこう纏めている。
義公の期するところは、決して廃仏ではなく、ただその神祇たり仏道たるを問わず、いずれもその純一ならんを欲し、その伝説の誤れるはこれを訂し、古式に反するはこれを復し、かくて迷信を排して、国民の信仰を純潔ならしめんとするにあるや、疑うべからずである。」
分かりやすく言えば、当時は新興のいかがわしい宗教施設が藩内の各地にあり、また堕落した仏教僧が少なからず存在したのでそれらを整理し、由緒正しい社寺を残したということなのであろう。

大日本史

また水戸藩は代々学問を尊び、徳川光圀公は『大日本史』の編集を始めたことが教科書にも書かれていたが、その後水戸藩が財政難に陥り、蝦夷地にロシア船が出没するようになると、次第に水戸藩の学問が藩内外の諸問題に意見を出すようになっていく。

水戸藩第9代藩主の徳川斉昭は、会沢正志斉や藤田東湖らを重用したというが、どちらも筋金入りの排仏論者であり尊王思想家であった。

藤田東湖
藤田東湖

例えば天保2年(1831)に藤田東湖らは藩主に対して「大筒など御指しつかえも御座候わば、処々濡仏、灯籠その他無用の仏具類御取り潰し、御張り立てに相成り候わば、一廉の御用に相成り候のみならず、民心の惑をも破り、旁(かたがた)一時の良策にもこれあるべし…」などと意見具申している。要するに、大砲を作るのに梵鐘や仏像などを鋳つぶして使えと言っているのだ。
この時は水戸藩内に於いて反対意見も出たようだが、のちに第9代藩主・徳川斉昭は、藤田東湖らの意見を取り入れて大砲を製造している。 

岩波文庫に山川菊枝が著した『覚書 幕末の水戸藩』という面白い本がある。そこに当時の水戸藩の廃仏毀釈の話がでている。

幕末の水戸藩

「 (藤田東湖の)この献策に基づいて天保13年(1842)、左の布告が出た。
水戸御領中、年々不作、折から御収納も相減じ、思し召すように御届き相成らず候に付き、よんどころなく、御領中寺院のつき鐘、銅仏をもって大砲に遊ばされたき思召』」 
 つき鐘は大郷は一村に一つ、小郷は数村に一つだけ残し、その他はお引上げと決定し、同時に淫祠、邪教と認められたもの二百余寺のお取りつぶし、不良僧侶、修験者等の放逐、還俗等が行なわれた
。また水戸東照宮から僧侶を放逐し、今まで神仏混淆であったのを、神道一方にした。」(岩波文庫『覚書 幕末の水戸藩』p.90-91) 

この時の執政・戸田銀次郎は、仏像の鋳潰しは斉昭公の評判を落とすことになると強く反対したのだが、斉昭公がこれを一同に諮ると、無用の濡れ仏は鋳つぶせということで衆論一致したという。

しかし、信仰の対象であった仏像・仏具を取上げることに対し村民の強い抵抗があったことは言うまでもない。にもかかわらず、寺社奉行の今井金衛門は徹底的に仏像・仏具をかき集めた。
奉行所の小役人どもは…銅鐘や銅の仏像仏具のみならず、大砲鋳造には何の用にもなさぬ木仏、石仏までとりあげた。仏を敬う村民の意向を汲み、自身仏罰を恐れもする村役人たちが、平身低頭、木仏石仏などの引き上げご猶予を嘆願に及んでも、今井らは御領主さまの仰せ付けという一言ではねつけ、おどしつけて、どんな仏像も片はしから荒縄でくくって車につみあげ、寺社奉行の役宅に運ばせた。…」(同上書 p.95)

そう言えば太平洋戦争の時にも、武器を作るために寺の梵鐘が集められたことがあったが、大小の仏像・仏具までをも取り上げようとする藤田東湖らの意図は、仏教排斥以外の何物でもないだろう。寺社奉行の役宅に運び込まれた仏像の内、木仏・石仏は使い道もないので、明治になってもしばらくは、その空き地に山のように積まれて雨ざらしになっていたという。

さらに天保14年(1843)6月に寺社改正令を発して、藩内の寺院に対し次のように布達している。
「近来、僧侶ども風儀よろしからず、不如法の者少なからず候うところ、めんめん承知奉り候う通り…宗法相守申すべき筈のところ、愚民を惑わし、金銭を貪り、或は肉食、博奕、女犯等の類も、少なからず候ようなり行き候う段、御政教の妨害に相成候うのみならず、本山宗門へ対しても、相すまざることにつき、この度それぞれ御咎仰せ付けられ候う。…」

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徳川斉昭

徳川斉昭公は200寺以上を整理し、大砲を作るために約600個もの梵鐘を鋳つぶしたというが、今まで神仏混淆であった水戸東照宮(主祭神:徳川家康)まで神道一方にしようとしたのはやりすぎであった。

水戸東照宮

水戸東照宮の僧侶を放逐し、藩祖・徳川頼房公が寄付した灯籠まで鋳つぶしたことが江戸幕府の耳に入り、弘化元年(1844)に、幕府は徳川斉昭に隠居謹慎を命じている。
その罪状は「一、無断で大砲を鋳造したこと。二、寺院を破却したこと。三、東照宮を神道化したこと」の三か条が含まれていたという。

羽根田氏は徳川斉昭の宗教政策をこう纏めている。
「(徳川斉昭公は)、信仰の念、乏しくして見るべからず。而して廃仏の志気盛んにして、毫も風流、雅趣の見るべきなく、心中おのずから狭量にして、寛宏大度の余裕なく、物を容るる余地なく、思い迫って行うところ、また極端に渉る。…盲人滅法界に、廃仏の一道に突進して、民怨を買い、民心を得ること能わず。剰え朋党の内争を醸しだし、為に維新の大業に関ずること能わず、いたずらに失敗の事績を、青史に止むるに終わったのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/50

しかしながら、このような水戸藩の廃仏が、薩摩をはじめとする明治維新を推進した勢力に大きな影響を与え、明治維新直後の神仏分離即ち廃仏毀釈の手本となったと考えられるのだ。

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なぜ討幕派が排仏思想と結びつき、歴史ある寺院や文化財が破壊されていったのか
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奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか
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廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
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寺院の梵鐘を鋳つぶして大砲を作れという太政官符に苦慮した江戸幕府

嘉永6年6月3日(1853年7月)、ペリーが米大統領フィルモアの親書を携え、艦隊を率いて浦賀に姿を現わしてから1年半が経過した安政元年12月23日(西暦1854年1月)に、こんな太政官符が出ている事が、羽根田文明氏の『仏教遭難史論』に紹介されている。

「それ外寇事情は、固より深く、宸襟を悩ませらるる*ところなり。…国家の急務、ただ海防にあり。よって諸国寺院の梵鐘を以て、大砲、小銃を鋳造し、海内枢要の地に置き、不慮に備えんと欲す。速やかに諸国寺院に令し、各時勢を存じ、本寺の外、古来の名器、及び報時の鐘を除き、其の他は悉く、大砲に鋳換え、皇国擁護の器と為すべし。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/23
*宸襟を悩ませらるる:天皇陛下の御心を悩ます。当時の天皇は攘夷派の孝明天皇(在位:1846~1867)であった。

この「毀鐘鋳砲(きしょうちゅうほう)の勅諚」が京都所司代から江戸幕府に届き、翌安政2年(1855)3月3日、老中阿部正弘は諸藩主に対し次のように公示し、相達したという。

阿部正弘

海岸防御のため、このたび、諸国寺院の梵鐘、本寺の外、古来の名器、および当節、時の鐘に相用い候分相除き、その余は大砲、小銃に、鋳換うべきの旨、京都より仰進せられ候。海防の儀専ら御世話ありの候、折柄叡慮の趣、深く感戴あそばされ候事に候間、一同厚く相心得、海防の儀いよいよ相励むべき旨仰出され候。もっとも右の趣寺院へは、寺社奉行より、申し渡し候間、其の意を得られ、取計い方等、委細の儀は、追って相達すべく候。」
同時に、大小目付に対しては次のように相達した。
「…右は武備、御充実の御趣意に候あいだ、このほか銅鐡はもちろん、錫、鉛、硝石など、いずれも必備の品につき右等にこれなき候て相済候品を、右の類にて相製し候儀、自近相成らず事に候。かつ又梵鐘を以て、鋳換え仰出され候程の儀につき、銅鐡等を以て、新規に仏像等、鋳造致し候儀相ならず候。仏器の儀も木製、又は陶器等にても、相済候分は、以来銅鉄を以て製造の儀、無用足るべく候。」

この時期には海防の備えを強化するため、江戸幕府をはじめ有力大名も大砲を鋳造し設置しているが、諸国寺院の梵鐘を鋳つぶして大砲を作れというのは、前回記した水戸藩・第9代藩主の徳川斉昭がやったことと同じである。

前回記したとおり、徳川斉昭は排仏施策をやりすぎて、神仏混淆であった水戸東照宮(主祭神:徳川家康)から僧侶を放逐し、藩祖・徳川頼房公が寄付した灯籠まで鋳つぶしてしまった。そのために弘化元年(1844)に江戸幕府により隠居謹慎を命じられたのだが、2年後には謹慎を解除され、嘉永2年(1849)には藩政に関与することが許されている。
そして嘉永6年(1853)のペリー来航に際しては、老中・阿部正弘が幅広く諸大名の意見を求めるために声がかかり、海防参与として幕政に関わることになったが、水戸学の立場から斉昭は強硬な攘夷論を唱えたという。
最初に紹介した「毀鐘鋳砲の勅諚」は、この徳川斉昭が関与していたことはほぼ確実だ。

もしこの命令がそのまま全国に徹底されていたら、この時期にわが国の多くの文化財が失われてもおかしくなかったのだが、有力者から強力な反対意見がでたことなどから、この命令は宙に浮いたのである。

井伊直弼

後に江戸幕府の大老に就任した15代近江藩主の井伊直弼は、当時溜間(たまりのま:江戸城で名門譜代大名が詰める席)の筆頭であったが、この施策に強く反対したという。
また法親王、諸門跡等も反対を表明したそうだ。
羽根田文明氏の『仏教遭難史論』に、輪王寺宮*が提出した口上書が紹介されている。
*輪王寺宮:承応3(1654)年から13代続いた皇族門跡の事で、出家した皇族の子息が日光日光山輪王寺の住職となり、歴代輪王寺宮の殆どが比叡山延暦寺の天台座主に着任し、東叡山(上野寛永寺)に住していた。

「…殊に諸国在々等にては、人家かけ放れおり候につき、出水火事、賊難、その他、非常、何事に依らず、梵鐘を合図に用い候趣にて、敢て報時のみの、用弁にこれなく候ところ、このたび、御取り上げに相なり候ては、以後、臨時手筈を失い、自然、不慮の災厄これあるべくやも計り難く、云々。
…万一、それぞれ寺院より差出候様にては、実に難渋は申すまでもこれなく、運送の儀は、河海の最寄にて、通船など便利の場所は、手段もこれあるべく候えども、山野辺土にては、容易ならぬ失費相かかり、とても行届かざる儀に、これあるべく候えば、当御配下の儀は、御断り仰入れられ候ほか、これなく云々。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/25

もう一度安政2年(1855)3月3日に出された、老中阿部正弘の諸藩主に対する相達文書には「取計い方等、委細の儀は、追って相達すべく候」と書かれていることに注目してほしい。
この文章では、幕府から詳細な命令が出るまでは各藩は動けなかったはずだ。

老中・阿部正弘(伊勢守)は有力者の反対のためにその実行をためらい、何度か水戸藩の徳川斉昭宛に書を送ったのだが、逆に斉昭公(水戸老公)からは、何度も早期の実行を迫られている。

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「(阿部伊勢守は)3月17日、水戸老公に書を呈して、実行を言明せるも、ただ一時老公の意を迎えんとする、一時気休めの窮策であった。その後水戸公は、数々、阿部伊勢守に、実行の発令を促したれば、伊勢守はその処置に苦しみ、11月21日、水戸老公に書を呈したが、両門主の申立にことよせ、決断の色が鮮明でない…」とある。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/26

老中・阿部正弘が水戸老公に毀鐘鋳砲を約束しておきながら、長期間にわたりその実行をためらったのは、ただ単に優柔不断な性格であったのかも知れないが、その前後の政治情勢をも考慮すると、阿部正弘は柔軟かつ粘り強く、国内の難局を乗り切って開国したことを評価することも可能だ。

ペリー来航1

嘉永6年(1853)にペリーが浦賀に来航し、その対応のために、松平慶永や島津斉彬らの意見をいれて攘夷派の徳川斉昭を海防掛参与に任命した。
嘉永7年(1854)にペリーが再来日し、同年3月に日米和親条約が締結されたのだが、条約締結に反対した徳川斉昭は、締結後に海防掛参与を辞任している。この時点で、阿部にとっては「毀鐘鋳砲」の実行の優先順位は低くなっていたと思われる。
安政2年(1855)8月に攘夷派の徳川斉昭*の圧力により、開国派の松平乗全、松平忠優を老中から罷免したことが、開国派の井伊直弼らの怒りを招き、孤立を恐れた阿部正弘は、10月に開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲っている。
*徳川斉昭:嘉永7年に海防掛参与辞任の後、安政2年に軍制改革参与に任じられていた。

老中阿部正弘は優柔不断だという見方もあるが、攘夷派と協調姿勢を見せながら、細心の調整で和親条約締結に漕ぎ着けた手腕を評価する説もあるようだ。

安政東南海地震

この時代の政治の舵取りの難しさは、日本の長い歴史の中でも特筆ものだと言って良い。外国船が来ただけでなく、大地震などの天災が相次いで起こっているのだ。
嘉永7年(1854)には3月に日米和親条約が締結されたのちに7月9日に伊賀上野地震が起きて1500人以上の死者が出て、さらに11月4日に安政東海地震、5日に安政南海地震が起き、両日とも津波を生じて合計1万人近い死者が出た。
そしてその翌月には日露和親条約が締結されている。

安政江戸地震2

また安政2年(1855)の10月2日には、江戸直下型の安政江戸地震が起き、15千件以上の家が倒壊し、多数の死者が出た。前回の記事で紹介した藤田東湖は、小石川の水戸藩邸でこの地震に遭遇し、倒壊した建物の下敷きとなり圧死している。
安政3年(1856)の安政八戸沖地震も数十人の死者が出た大きな地震だった。
もっと言うと、安政4年(1857)にはインフルエンザが流行し、安政5年(1858)にはコレラが流行して10万人以上の死者が出たというし、安政6年(1859)にははしかが大流行している。


話を「毀鐘鋳砲(きしょうちゅうほう)」に戻そう。
実は、安政江戸地震の5日前の9月27日に、阿部正弘は、大小目付に対して「毀鐘鋳砲」の決行を書状にしていたのだが、絶妙のタイミングで安政江戸地震が起こるのである。
羽根田文明氏の『仏教遭難史論』にはこう記されている。

仏教遭難史論

「同年(安政2年)10月2日、日本全国に亘って大地震あって、幕府の城郭、諸大名の邸宅より、士民の家屋に至るまで、崩壊するもの算なく、死者二十余万人*に及ぶという。幕府は令して、諸大名等の意に任せて、国に就くことを許した。一時救恤等に全力を注ぎて、他を顧る遑(いとま)がなかった。幕府が、漸く毀鐘鋳砲の実行を経営するにあたって、突然に全国にわたる大震災あって、これがために該件はおのづから中止となったが、幕府は、再びこれを経営する意思がなかったから、同6年(1859)2月に至り、閣老・間部下総守より、九条関白に依りて上奏し、ここに毀鐘鋳砲の太政官符のこと、永久に実行を延引することとなったが、その上奏の文書は、縷々数千言に及び、幕府がこの始末につき、大に苦心したる跡が、歴々としてあらわれている。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/27
*安政江戸地震の死者については諸説あるが、この数字は大きすぎる。「江戸市中の死者数1万人前後」という説が有力なようだが、他の地域の犠牲者は不明。

江戸幕府が九条関白に上奏した文書が羽根田氏の著書に一部紹介されていて、これがなかなか面白い。長くなるので割愛させていただくが、上記URLで誰でも読むことが出来る。その文章を読めば、毀鐘鋳砲の太政官符が徳川斉昭(水戸烈公)の建議によって発布されたことがわかる。

羽根田氏はこの毀鐘鋳砲の施策をこう評している。
「…梵鐘などを兵器に鋳換えんとするは、国内に銅鉄材等の払底して、国家危急の場合に、切迫したる時の処置である。…しかるに、当時は、未だ材料欠乏の時でもなけれども、極端な廃仏家たる、水戸烈公のより、梵鐘が無用の長物だと見たからこれを砲銃に鋳換えんと企てられたので、梵鐘の性質、民有物の奪取、人心の向背、利害の計算など、さらに顧るところなく、一意海防の急務を標榜して朝廷に迫り、終に太政官符の発布となるや、最初に幕府の有力家井伊掃部頭が大反対を唱えたから、随て閣老の賛同するは必然の勢である。ゆえに幕閣は、陽に勅諚を奉ずるも、その実の不利を認めて、陰にこれを中止せんことに努め、時日を経過する間に、不慮の大震あって、上下の人心、之に傾きまた梵鐘の件を顧みず、勅諚は宛然、孤立無援の姿となり、おのづから永久中止、即ち自然消滅に終わるの止むを得ざる情態に帰したのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/29

かくして、毀鐘鋳砲の勅諚は自然消滅となったのだが、このような勅諚が出ていたことや、江戸幕府が諸藩主に対しその勅諚の内容を伝え、さらに「取計い方等、委細の儀は、追って相達すべく候」と伝えていたのだから、諸国はいつ詳細が連絡されるのかを待っている状態が4年以上続いていたはずだ。
その毀鐘鋳砲の勅諚は、水戸藩で同じことを実行した徳川斉昭の建議によるものであることも知られていたのだから、江戸幕府から詳細が通知されたのちに、水戸藩の廃仏毀釈と同様のことが諸藩で実施されることは充分予想されていたことであろう。

前々回の記事で、全国各地の神社の社家の神主たちは、神社の実権を社僧に掌握されていて、その下で雑役に従事していたことを書いたが、この毀鐘鋳砲の勅諚が実行に移されれば、僧徒に対する永年の宿志を晴らす日が来ることくらいは充分に認識できたと思うのだ。
彼らは水戸藩の排仏思想や平田篤胤らの思想を学んで理論武装をし、彼らが神社の実権を掌握するチャンスを、長い間窺っていたのではなかったか。

毀鐘鋳砲の勅諚は江戸幕府では自然消滅となってしまったが、幕府が倒れて王政復古が宣言され、その直後に明治新政府が諸藩に神仏分離令を出している。
そして、この神仏分離令に過剰に反応して全国各地で仏教施設の破壊に及んだのだが、そのような過激な行動に走ったのは、安政元年(1854)に出された毀鐘鋳砲の太政官符が、安政6年(1859)にその実行を無期延期とされたことと、決して無関係だとは思えないのだ。彼らの僧侶に対する不満が長きにわたり蓄積していて、神仏分離令とともに一気に爆発したということではなかったか。

歴史に「もしも」はないことはわかっているが、もし阿部正弘が徳川斉昭を幕政に関与させていなければ、毀鐘鋳砲の太政官符が発されることはなかっただろう。そして、もしこの太政官符がなければ、幕末から明治にかけて廃仏毀釈のようなことが起こったとしても一部の地方の現象にとどまって、価値のある文化財をもっと数多く、各地に残せたのではないかと考えている。
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【ご参考】
このブログで、廃仏毀釈に関してこんな記事を書いています。
良かったら、覗いてみてください。


淡路島の東山寺に残された石清水八幡宮護国寺の仏像を訪ねて~~淡路島文化探訪の旅1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-50.html

明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-167.html

大迫力の閻魔大王像に魅せられて~~水無瀬から大山崎歴史散歩3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-322.html

京都四条大橋の話
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-73.html

文化財を守った法隆寺管主の英断
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-80.html



全寺院を廃寺にした薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期より始まっていたのではないか

以前このブログで薩摩藩の廃仏毀釈のことを書いた。
薩摩藩には文化3年(1806)に19巻の『薩藩名勝志』という書物が出版されたほど、歴史ある寺社が多数存在していたはずなのだが、廃仏毀釈で1066あったすべての寺院がひとつ残らず廃され、僧侶2964人が還俗させられてしまった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-83.html

薩藩名勝志

このような激しい破壊行為は明治維新直後の神仏分離令以降に行われたとばかり考えていたし、実際に多くの歴史書ではそう書かれている。

たとえば昭和8年に出版された『岩波講座日本歴史』では、「明治維新となり、神仏分離令も出て、廃仏の気勢は天下に漲った」と書かれていて、それまでは廃寺の準備がなされたとだけ書かれている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1217767/11

昭和16年に出版された維新資料編纂事務局の『維新史』も同様で、「神仏分離の令出づるや藩廳は…総て寺院を廃し、僧侶に悉(ことごと)く帰俗すべきを命じた。是において廃仏の気勢は忽ち藩内に漲り、仏像・経巻等を焼棄し、あるいは破却して、一藩の仏教は殆んど潰滅せんとするに至ったのである。」とある。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242382/270

このように普通の歴史書では、薩摩藩の廃仏毀釈は明治元年の神仏分離令以降に始まったことになっているのだが、実際はもっと早くから実行されていた可能性が高いことを最近知った。

仏教遭難史論

薩摩藩の廃仏毀釈を推進したメンバーの一人で、島津斉彬の側近であった市来四郎という人物が薩摩藩の廃仏毀釈を証言していて、その内容が、このブログで何度か引用してきた羽根田文明氏の『仏教遭難史論』に要約されて紹介されている。この証言を素直に読むと、薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期から始まっていた可能性が高いと考えざるを得ない。

羽根田氏が著書の中で、市来四郎の講話をまとめている部分を引用する。
「さて、鹿児島藩には、夙(つと)に平田篤胤の学風が流行したから、仏教排撃の議論が盛んであった。慶応元年(1865)の春頃であったが、私ども友達中の壮年者の諸論に、こういう時勢に立ち至っては、寺院および僧侶という者は、実に不要である。あるいは僧侶も、それぞれ国の為に盡させなくてはならぬ時節になった。先年水戸藩にても、寺院廃合の処分があったのは、眞に英断の処分であった。
 此時にあたり、当藩においても、之を断行して廃すべきであるという事となった。…(市来らが)建白者となり、家老の桂右衛門というに対し、時勢切迫の状況より、僧侶の壮年者が、ただ口辨をもって坐食しては相すまぬなど説き、その若い者は兵役に使い、老いたる者は教員などに用い、各々その分に尽くさしめ、寺院に与えてある禄高は軍用に宛て、仏具は武器に換えることとし、寺院の財産は藩士の貧窮者に分与するがよかろうという主意で建言した。(家老の)桂もかねて同論でもあり大いに賛成して、じきに忠義*、久光に披露せられた。ところが即日に決断せられ、久光は、拙者も積年の考えであった。わが国は皇道であるから、仏法の力を借るに及ばぬと言われたそうである。即日、桂久武を始め、みな寺院取調べ方を命ぜられたのは、誠に愉快なことであった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/50
*忠義:島津久光の子で薩摩藩第12代の藩主。藩主在任中は島津茂久を名乗り、維新後に忠義と改名した。
**久光: 島津家27代当主(薩摩藩10代藩主)島津斉興の五男。幕末の薩摩藩の最高権力者。

そして市来らは寺院の石高や僧侶数を地域別に徹底的に調べ上げたという。
その調査結果は、薩摩藩全体では、大小寺院の総数が1066寺、それらの寺院の石高が 15118石、僧侶数が2964名であったという。
さらに寺院の敷地や田畑、山林などは税金が免除されていて、堂宇の修繕や祭事などで毎年大きな金銀や米の支出があった。彼らの調査によれば、薩摩藩全体の寺院関係支出は、10万余石にもなると書かれている。
ちなみに幕末の薩摩藩は87万石と言われていたから、財政に占める寺院関連支出がかなり大きかったことは間違いがない。

平和な時代であればともかく、外国勢力と戦わねばならない時期が来るかも知れず、戦費の蓄積が急務であったにもかかわらず、薩摩藩に財政の余裕があるわけではなかった。
そこで、もし寺院を破壊すれば、その分だけ寺院関連支出が減るから、藩の財政収支が大幅に改善することは誰でもわかる。だからこそ藩主以下、排仏思想に飛び付いたのではなかったか。
市来は「寺院を廃して、各寺院にあるところの、大小の梵鐘、あるいは仏像、仏具の類も、許多の斤高にして、これを武器に製造の料に充て、銅の分を代価に算して、凡そ十余万両の数なり」と算盤をはじいている

市来は寺院を破壊した時期をあいまいにしているようだが、市来らが島津久光に廃寺を建言したという慶応元年(1865)には、薩摩藩ではとっくの昔に寺院の梵鐘などを寺院から取り上げていたのである。

前回の記事で書いた「毀鐘鋳砲(きしょうちゅうほう)の勅諚」が出された3年後の安政5年(1858)の夏に、薩摩藩11代藩主の島津斉彬が大小の寺院にある梵鐘を藩廳に引き上げ武器製造局に集めていたとの市来の証言がある。ところがこれらの梵鐘を鋳潰さないまま、その年に斉彬公が亡くなられてしまったという。

市来四郎はいつ梵鐘などを鋳潰したかについて明確には述べていないのだが、次の部分を読めば、江戸幕末に鋳潰したことはほぼ間違いないだろう。

300px-Nariakira_Shimazu.png

「…斉彬公も、詔に対し幕令に随い、梵鐘を引き揚げて、寺院の廃止を実行せられたのである。故に鹿児島藩の寺院処分は斉彬公から出たのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/54

仏具類、即ち梵鐘などは、兵器に鋳換えたのもあり、天保銭の料に用いたのもあり、天保銭に鋳換えるには、松平越中守が、寛永通宝を鋳造の時の訓諭などを引用して、衆生済度の主意に基づき、実際の餓鬼を救うなどと言いふらした。兎に角も、一大事変であるにもかかわらず、別に故障もなく行ったのは、むしろ怪しまるる程である。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/53

このように、市来は梵鐘などを鋳潰して、兵器だけではなく天保銭の原料にしたと証言していることは注目して良い。もちろん、当時においては通貨の発行権は徳川幕府にしかなかったので、市来の証言を普通に読めば薩摩藩は寺院の梵鐘などを溶かして贋金を作っていたことになる
天保銭は100文で通用し、製造コストは原料代と工賃込みで1枚10文前後だったというが、薩摩藩の場合は、集めた寺院の梵鐘を原料にしたのならば、もっとコストは低かったはずだ。

琉球通宝

薩摩藩は、藩の支配下にあった琉球の救済を名目に、文久二年(1862)に江戸幕府から3年の期限付きで鋳造を許可された「琉球通宝」の製造と併行して、天保銭を大量に密鋳したようだ。

Wikipediaの「琉球通宝」の解説によると、それまで薩摩藩は錢貨鋳造の経験がなかったので、島津斉彬は天保通宝鋳造経験のある人物を呼び寄せたことが『斉彬公御言行録』に記録されているという。そして文久三年(1863)の薩英戦争までに「琉球通宝」を30万両を鋳造し、戦後も日々7000両余鋳造したとされているが、それ以外に天保銭を大量に密鋳したのならば、討幕のための相当な軍資金が捻出できたはずである。
こういうことは公式には記録されずに秘匿されることなので、密鋳を裏付ける文書が存在するわけではないが、「薩摩天保」と呼ばれている密鋳銭が今も大量に存在している事実がある。

JpnTm018SatumaOukakuGyoukanTou.jpg

「薩摩天保」は本物の天保銭と比べて鉛の含有量が高くて黒みを帯びて品質も良くないそうだが、通貨コレクターの間では人気があり、今では本物の天保通宝よりも薩摩藩の贋金の方に高い値段がついているのは皮肉なものである。
http://1st.geocities.jp/mrf454_pp/HTML/iTempo.html

ところで、幕末に天保通宝を密鋳した藩は薩摩藩だけではなかったようだ。
Wikipediaによると明治時代に引換回収された天保銭は、本物の製造枚数を1億枚以上も上回っていて、2億枚程度が幕末に密鋳されていたと推定されている。
密鋳に関わっていた藩は薩摩藩のほかに、水戸藩、久留米藩、福岡藩、土佐藩、長州藩、会津藩、仙台藩など10を超える藩の名前が判明している
という。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E9%80%9A%E5%AE%9D

大乗院

市来四郎の廃仏毀釈の証言に話を戻そう。
市来によると、まず城下の寺院を「処分」したと述べている。最初に「処分」したのは、大乗院という真言宗の大寺で、その支坊、末寺が境内に十以上あったが、これらが「悉く廃毀された」とある。
城下寺院の処分が終わると、各郡村の寺院に移ったが、全てが終わるのに三四年も費やしたのだそうだ。

そのあと、神社の神仏混淆の分離にとりかかっている。市来の証言を読むと昔の神社がどのようであったかが分かって興味深い。

「寺院廃毀の後、神社の神仏混淆してあるのを分離することが至極面倒であった。各地巡回して、神社ごとに検査の上仏像仏具を取りよけたが、全く仏像を神体にしたるものがあった。これらは新たに、神鏡を作って取り替えたが、霧島神社をはじめ、鹿児島神社なども仏像で、即ち千手観音であった。三個国大小、四千余の神社を一々検査したのに、大隅国、々分郷のなげきの森という古歌にも見ゆるその神社の神体が古鏡であった。神仏混合でなかったのは、ただこの一社だけであった。」
と、4千以上の神社で神仏混淆でなかった神社は一つしかなかったというのは驚きだ。

廃仏毀釈

また市来は仏像の処理についてはこう述べている。
「…仏像の始末については、石の仏像は打ち毀して、川の水除けなどに沈めた。いま鹿児島の西南にある、甲突川の水当のところを仏淵と呼ぶ。すなわち当時、石仏像を沈めたところである。木仏像は悉く焼き捨てたのである。また大寺の堂塔とか、大門とかを打ち壊すに、大工、人夫等どもが負傷でもすると人気に障るから、大いに注意して指揮した。…
 その頃の巷説に、昔の人は大寺だの仏像だのと造立して金銭を費やし、丹誠を尽くしたもので、それだけの効験があるものと思ったが、今日打ち毀してみれば何のこともない。昔の人は、大分損なことをせられたものだなどと言い、仏というものは、畢竟(ひっきょう)、弄物のようなものであったという人気になった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/53

市来らはこのようにして寺院や仏像などを破壊していったのだが、その時期については述べていない。しかし、通説の叙述のように、明治維新後に拡がった「廃仏毀釈の嵐」によって、寺院や仏像が破壊されたというのはありえないことだろう。
もし通説が正しいとすると、安政5年(1858)に、島津斉彬が大小の寺院にある梵鐘だけを武器製造局に集めた後に、慶応元年(1865)に全寺院の調査を開始し、明治維新後の神仏分離令(1868)を待って、寺院の仏像仏具や建物を毀し始めたことになり、天保銭の密鋳は認めず、「琉球通宝」鋳造時にも寺院の梵鐘には手を付けなかったこととなり、どう考えても不自然すぎる。
市来四郎は島津斉彬の時代に梵鐘を溶かして天保銭を作ったと証言しているのだから、おそらくこの時代に、すべての寺院の梵鐘だけではなく金属製の仏像が集められて鋳潰され、木造の仏像や石仏などの破壊も同時になされたのだろう。

羽根田氏の著書にはあまり追究されていない部分だが、薩摩藩の徹底した廃仏毀釈については、その経済的動機を無視してはいけないと思う。仏教界の腐敗があったにせよ、それが廃仏毀釈の原因のすべてではなかったはずだ。薩摩は廃仏毀釈で財政支出を大幅に削減し、さらに通貨偽造で荒稼ぎができることを計算した上で、排仏思想に飛び付いたのではなかったか。

このブログで何度も書いてきたが、いつの時代もどこの国でも、為政者にとって都合の悪い史実は歴史叙述から外されて、為政者にとって都合のいい記述だけが編集されて国民に広められる。
幕末の段階で寺院の梵鐘や仏像を集め鎔かして贋金づくりをし、その資金で明治維新を果たしたというような、明治維新後の中心勢力となった薩摩藩にとって都合の悪い史実の数々は、明治以降の長らく歴史の叙述から削られてきたと思うのだが、この時代に限らず、勝者にとって都合の良いキレイごとばかりの歴史叙述では、本当に何があったかを知ることは難しい。
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【ご参考】
このブログで、廃仏毀釈に関してこんな記事を書いています。
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明治初期までは寺院だった「こんぴらさん」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html

「こんぴら」信仰と金刀比羅宮の絵馬堂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-70.html

数奇な運命をたどって岡山県西大寺に残された「こんぴらさん」の仏像
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-71.html


神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった

このブログで、岐阜県安八郡神戸(こうど)町にある日吉(ひよし)神社に三重塔が残されていることを先月書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-338.html

日吉神社三重塔

この日吉神社は弘仁8年(817)に伝教太師 (最澄)が近江坂本の日吉神を勧請したことにはじまると伝えられており、かつてこのあたりは比叡山延暦寺の荘園があって、その荘園を鎮守する神社として発展したという。

かつては「日吉」は「ひえ」と読み、比叡山を意味するのだそうだが、全国に日吉神を祀る神社は2000社ほど存在し、その総本社が比叡山の滋賀県側の麓にある日吉大社(大津市坂本)である。

神戸町の日吉神社には美しい三重塔が残されているのだが、その総本社である日吉大社については、明治維新時の廃仏毀釈で仏教施設や仏像仏具が徹底的に破壊されてしまっている。実は、この日吉大社廃仏毀釈は、慶応4年(明治元年)3月に神仏分離令が出されたのち、全国で最初に行われたものである。

この神社の廃仏毀釈のあらましについて述べる前に、簡単に日吉大社の歴史について振り返っておこう。
『古事記』には「大山咋神(おおやまくいのかみ)、亦の名を山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)。此の神は近淡海国(おうみのくに)の日枝(ひえ)の山に坐し」と書かれているが、この文章からも、比叡山がかなり古くから信仰の対象となっていたことがわかる。ちなみに、大山咋神は現在の日吉大社の東本宮の主祭神である。

社伝では第10代の天皇とされる崇神天皇の時代(3~4世紀頃?)に、比叡山の山頂から現在の大津市坂本の地に移されて、日吉大社が創祠され、その後、天智天皇7年(668)に大津京鎮護のため三輪山を神体とする大神(おおみわ)神社の大物主(おおものぬし)神が勧請されている。
そして延暦7年(788)に最澄(さいちょう)が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である日吉大社を天台宗・延暦寺の守護神として崇敬したという。
このようにして比叡山では山岳信仰と神道と天台宗が融合していって、鎌倉期には山王権現(日吉大宮権現)は釈迦の垂迹であるとする山王神道の教学が形成されていったようだ。

山王宮曼荼羅

奈良国立博物館に文安4年(1447)に制作され、 日吉山王権現が描かれた『山王宮曼荼羅』が残されている。廃仏毀釈に詳しいminagaさんのサイトにはほかにも数多くの日吉大社の昔の絵図が紹介されているので、興味のある方は次のURLを参考にして頂きたい。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/hosa_hiyosisya.htm

この日吉大社の廃仏毀釈については、多くの記録が残されているので、それらを参考にして、この時の出来事を記しておきたい。

日吉大社の廃仏毀釈を語る際には、維新政府の神祇官のメンバーがどのような人物であったかをまず知る必要がある。
このブログで何度か引用させていただいた、羽根田文明氏の『仏教遭難史論』にはこう書かれている。
「…王政維新の際、すべて世襲の官職を廃し、職員は人材登用となり、先ず最初に…神祇官の設置となった。この神祇官は古例のごとく、太政官各位の上位にある独立の官衙である。慶応4年すなわち明治元年2月、神祇官最初の総督は白川三位、大輔が亀井茲監(かめいこれみ:前に排仏主義を実行せる、津和野藩主)その他、正権判事も、みな排仏家の国学者、儒者であったから、神祇官は、あたかも排仏者の集合団体の如くであった。
さて、日吉山王権現の社司、樹下(じゅげ)、生源寺二家は、伝教大師以来親近の者であったゆえに、一山より扶持を給して家来の様にしてあったから、権現について何等の勢力もなく、法親王、座主宮に面謁することさえ憚る卑官であった。その樹下石見守茂国という人、年来、社僧の下風に立ち、下役に使われるのを憤慨していたが、なにぶん当時比叡山延暦寺は寺領5千石の領主にて、三執行代という政務所あって領内人民を支配し、地頭の権威を以て山王の全権を握っているから、如何ともすること能わず涙を呑み、窃に時機の至るのを待っていた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/69

日吉神社 鳥居

少し補足しておこう。慶応4年は西暦1868年で明治元年と同じ年であると考えて良い。
改元の詔書が出されたのは慶応4年9月8日(1868年10月23日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年とすると定められている。[以後は、改元前は慶応4年で統一することにする。]
そして日吉山王権現の社司であった樹下茂国は神祇官神祇事務局権判事に登用されていて、慶応4年3月以降に出された神仏分離令に関与していたのである。
羽根田氏の文章を続けよう。

「ここに、天運循環して王政維新の春を迎え、神祇官の再興となり、樹下茂国は神祇官権判事に登用せられた。時に神仏混淆禁止の朝令が発せられ、3月28日には、仏像を以て神体とする神社は以来相改め申すべき旨布告せられ、同時に大津裁判所(滋賀県の前身)より、山王社も相改め申すべしと、社司へ達せられた
ここにおいて茂国は、時こそ至れ、今ぞ年来の宿憤を晴らすべき時節到来せりと雀躍りして立った。さて山王権現とは、大宮、二宮、聖眞子、十禅師、八王子、客人子、三宮の七社*を併称して言うのである。そして七社とも、いずれも天台の一實神道で祭られ、みな仏式に依られている。ゆえに、仏像または僧形の木造の神体にしたものがあり、かつ七社とも、社前に鰐口がある社殿に仏影の扁額あって、経巻および仏器、法用具等が、神殿の内外に多くおいてあった。」
*山王七社(上七社):大宮、二宮、聖真子、八王子、客人、十禅師、三宮の七社を「山王七社」と呼んでいたが、明治以降は西本宮、東本宮、宇佐宮、牛尾神社、白山姫神社、樹下神社、三宮神社と社名が変更されている。

神仏混淆の状態を禁止する命令が出て、神祇官の権判事でもあった樹下茂国らは、日吉山王権現の仏像仏具などを徹底的に破壊するに至る。再び羽根田氏の文章を続けよう。

日吉神社 東本宮 楼門

「時は四月朔日(ついたち)、社司樹下茂国、および生源寺等の社司より、延暦寺三執行代に通知して神殿の鍵の引渡しを申し込んだ。執行代は、これを一山の大衆に通知したによりて、衆徒の大会議となったが、衆議沸騰して、たちまち一山の騒動となり、あまつさえ殺気を帯びるに至った。ゆえに委細を座主法親王宮に言上して、指図を仰ぐ事となり、双方ともに問答往復して、容易に解決するに至らなかった。
ここに社司方は、もはや猶予するに及ばず。武力を以て実行に着手せんとて、樹下茂国、生源寺社司、ならびに部下の祝部に同志の壮士、三四十名に槍、棒等の兵器を携えさせ、これに坂本村の人夫数十名を加えて一隊となり、山王権現の神域内に乱入し、神殿に昇り、神扉の錠を捻じあけて殿内に入り、神体なる仏像・僧像はもちろん、経巻、法器等、いやしくも仏に係る物品は悉く取り除きて、之を階下に投げ出した
七社ともこのごとくであるから、その取り除いた仏物は数多あったが、これを二宮社前*に積み上げ、あまつさえ土足で蹴り、或は槍の石突もて突き砕きなど、種々の乱暴狼藉の上、ついに火を放ちて一時に焼き捨てたが、その中には千年以来の法宝、珍器もあって、今より見れば貴重なる国宝となり、世界に誇るべき古美術、逸品もあったであろうに、何の容赦もなく、悉く灰燼に委してしまったのは、実に惜しいことであった
時に山僧の談に二宮社殿内にあった、紺神金泥の法華経は、八巻で余程の重みのあるほどに金泥の多く用いてあった経巻であったという。当時社司樹下茂国は弓矢を取り、仏像の面部を的に之を射貫き、大いに快哉を叫んだということである。…」
*二宮社:現在の東本宮


樹下茂国らが破壊焼却した什宝は「神仏分離資料」に数千点が列記されているのだそうだが、日吉大社の建物は2棟が国宝に指定され20棟が国の重要文化財指定に指定されている事を考えると、破壊された仏像や絵画や経典などのなかに国宝級のものがいくつあっても不思議ではない。

ところで3月28日に神祇省が出した神仏分離令を再掲すると、次のようなものであった。

【慶応4年3月28日付、神祇官事務局達】
「中古以来、某権現、あるいは牛頭天王の類、その外、仏語をもって神号に相唱え候神社少なからず候。いずれも、その神社の由緒、委細に書付、早々申出づべく候」
仏像を以て神体と致し候神社は、以来相改め申すべき候こと。附り、本地等と唱え、仏像を社前に掛け、或は鰐口、梵鐘、仏具等の類差し置き候分は、早々取り除き申すべきこと

神仏分離令

何度かこのブログで指摘したが、この神仏分離令には、神仏混淆の状態を改めて仏教的なものを「取り除け」とは書かれていても、「破壊せよ」などとはどこにも書かれていない。にもかかわらず、実際には徹底的に破壊されてしまったのである。
しかも、このひどい破壊行為を主導したのは、神仏分離令を出した神祇官事務局の現役の権判事であり、この廃仏毀釈が神仏分離令が出て最初に行なわれたものであることは、なぜか歴史の叙述から抹消されてしまっている

さすがに維新政府も、慶応4年4月10日に、仏像などの破壊行為を戒めるこのような「太政官布告」を出している。
「…旧来、社人と僧侶の仲は善くなく、氷と炭の如くであり、今日に至り、社人どもが俄に権威を得て、表向きには新政府の御趣意と称し、実は私憤をはらすようなことが起きては、御政道の妨げになるだけでなく、必ずもめ事を引き起こすことになる。…」

ところが、この「太政官布告」の日付では、公式的には太政官は存在していなかったのではなかったか。維新政府の官制は改廃が著しくてわかり難いのだが、次のサイトを見れば、「太政官」はなかったことになる。
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rekishi23.3.html
破壊行為を戒める布告が、当時存在していた「神祇官」からではなく「太政官」から出ていることに私は注目しているのだが、わずか1~2ヶ月程度で組織が変わるような政府では、政府全体をコントロールするようなことは充分にはできなかったのではないだろうか。

以前このブログで苗木藩の廃仏毀釈のことを書いたが、藩主・遠山友禄が重んじた青山景通(かげみち)も、慶応4年5月には神祇官事務局の権判事となっている。津和野藩で廃仏を目指した藩主の亀井茲監もそのブレーンの福羽美静も神祇官の重職に就いていたが、当時の神祇官は、羽根田氏が指摘している通り「排仏派の集合団体」だったのである。

では日吉大社の什宝を破壊焼却した樹下茂国はそれからどうなったのか。

羽根田文明氏の著書に、樹下茂国が書いた始末書の一部が紹介されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/71
これを読めばわかるが、事件の後すぐに厳しい処分を受けたようでもなさそうだ。
minagaさんの解説によると「明治2年12月樹下茂国および生源寺義胤はこの件の責任で処罰される」とあるので、解職されたのはこの廃仏毀釈事件から1年9カ月も後のことになるのだが、その期間に各地で廃仏毀釈が行なわれ、多くの寺院の建物や仏像仏具等が破壊されている。このことは樹下茂国と生源寺義胤に厳しい処分をすぐに行わなかった事と無関係だとは思えない。
もし明治政府が、樹下らに対してすぐに厳しい処分を下していれば、廃仏毀釈は全国に広がることはなく、局地的な現象で止まっていた可能性を感じている。
ネットで検索すると幕末の頃から樹下茂国は岩倉具視の命を受けて動いていたとあり、この事件が原因で解職された後、後半生は岩倉具視邸に身を寄せて、晩年には修史館につとめ『皇親系図』の編修にかかわったようなのだが、ひょっとすると廃仏毀釈も、岩倉が裏で糸を引いていたのかもしれない。

一般的な日本史の通史や教科書では、廃仏毀釈について「政府ははじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民教化をはかろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのため一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた(『もう一度読む 山川日本史』)」などと書かれているのだが、神祇官が神仏分離令を出したのち、多くの仏像や仏具の破壊を最初に主導した人物は神祇官の重職の中にいた、という史実とはあまりにギャップがありすぎる。
このような史実を明治政府が残したくなかったのはわからないでもないが、平成の時代になっても、明治政府にとって都合の良い歴史のままで、いつまでも国民を洗脳する意味があるとは思えない。
むしろ、国民にこのような史実を広く知らしめることが、わが国に残された貴重な文化財を後世に残すことの大切さを知らしめることに繋がるのだと思う。

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日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2

以前このブログで、滋賀県大津市坂本の日吉大社の廃仏毀釈が、慶応4年(1868)3月に神仏分離令が出て最初に行なわれたものであり、この時に仏像や仏画や経巻・法器などを徹底的に破壊したリーダーは神祇官権判事の樹下茂国であったことを書いた。
それまでの日吉大社は「日吉山王権現」と呼ばれ、いずれの社殿も南光坊天海が開いた「山王一実神道」で祀られていた。社殿には仏像や僧形の木像を神体にし、多くの経巻などが備えられている「神仏習合」の施設であったという。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html

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ところが日光東照宮をはじめとする日光の社寺も、当時は南光坊天海が開いた「山王一実神道」で祀られており、「神仏習合」の施設であったことは滋賀県の日吉大社と同じなのである。
今でこそ日光東照宮二荒山神社輪王寺の二社一寺に分かれているのだが、江戸時代までは日光全山の仏堂、神社、霊廟などすべてを含めて「日光山」あるいは「日光三所権現」と称していて、神仏習合の信仰が行なわれていたのである。

ではなぜ、同じ「山王一実神道」で祀られている神仏習合の施設でありながら、滋賀県の日吉大社では仏像や仏画や経巻などが徹底的に破壊され、日光山ではそうならなかったのだろうか。
また日光は徳川家の聖地でもある。江戸幕府が徳川家康や家光を祀る施設を手厚く保護したことは当然のことであるが、明治維新となって徳川家という大スポンサーを失った日光の社寺が、廃仏毀釈が吹き荒れた時代に、どうやって生き延びることが出来たのだろうか。

この点について疑問を感じていたのでいろいろ調べてみたのだが、日光山の神仏分離の頃の事を書く前に、それまでの日光歴史を簡単に振り返っておこう。

勝道上人

日光山は天平神護2年(766)に勝道上人によって開かれて四本竜寺が建立され、その後山岳信仰の場とし多くの行者が修行に訪れるようになった。
弘仁元年(810)に朝廷より満願寺の称号を賜り、後に円仁(えんにん)が来山し、三仏堂・常行堂・法華堂が建てられて天台宗の寺院となっている。
鎌倉時代には弁覚(べんかく)が光明院を創設して一山の本院として、天皇家から門跡(もんぜき)*を招く皇族座主の制度が始まったという。
*門跡:皇族・貴族が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職

戦国時代になると日光山は地方豪族の争いに巻き込まれ、さらに天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻略時に日光山の惣政所壬生氏が僧兵とともに北条氏に付いたことが豊臣秀吉の怒りを買い、日光山領66郷、18万石を没収されて一時衰退することとなる。

しかし、元和3年(1617)に徳川家康の遺言により日光東照宮が建てられ、寛永11年(1634)には南光坊天海の主導による日光東照宮の大造営がなされて、ほぼ現在の東照宮の建物が完成した。
承応3年(1654)には満願寺は水尾上皇の院宣により輪王寺の寺号を賜り、それ以降は輪王寺の住持は法親王(親王宣下を受けた皇族男子で出家した者)が務める事となり、関東に常時在住の皇族として「輪王寺門跡」あるいは「輪王寺」と称されたという。…

神仏分離の動乱

臼井史郎氏が著した『神仏分離の動乱』(思文館出版)という本に、日光山の神仏習合についてわかりやすく記されている。
「…こうした不思議な山が非常な権力をもって、明治までながらえたのである。
一つには、神体山と仰がれる、二荒山に対する山岳信仰と修験信仰
二つには、勝道によって開創された輪王寺を中心とする天台信仰。
三つには、久能山より移された家康の廟を中心とする東照大権現信仰。
 この三つが複雑にからみあって神仏がたくみに同居することによって、この不思議な山が栄えつづけた
のである。だから、社殿も仏殿も山中深く共存していた。仏像も神像も、経典も神具も、雑然と互いに相剋することなくながらえたのである。すなわち、山中一円が満願寺(輪王寺)の境内であって、その中に東照宮も二荒山神社もあったわけである。」(『神仏分離の動乱』p.78)

「山中一円が輪王寺の境内であった」というのだが、いろは坂を超えて華厳の滝や男体山、女峰山、太郎山までもが神域であったというからとんでもない広さである。
神域の中には多くの寺社が存在し、その頂点に立っていたのが輪王寺宮であり、輪王寺門跡が日光東照宮の住職であり、二荒山神社の別当は安養院、三代家光を祀る大猷院の別当は龍光院の住職で、日光山全てを僧侶が完全に支配していたことになる。

そんな中で徳川幕府が倒されて、維新政府の神祇省が神仏分離令を出した。そこにはこう書かれている。
【慶応4年(1868)3月28日付、神祇官事務局達】
「中古以来、某権現、あるいは牛頭天王の類、その外、仏語をもって神号に相唱え候神社少なからず候。いずれも、その神社の由緒、委細に書付、早々申出づべく候」
仏像を以て神体と致し候神社は、以来相改め申すべき候こと。附り、本地等と唱え、仏像を社前に掛け、或は鰐口、梵鐘、仏具等の類差し置き候分は、早々取り除き申すべきこと

この神仏分離令が、仏教を根本として神と仏が共存してきた日光山の宗教的秩序を根底から揺るがすことになる。

臼井史郎氏の解説を再び引用する。
「輪王寺門跡の廃止
 僧侶の神勤の廃止
 輪王寺の称号廃止

 一山衆徒百十ヵ寺の合併統合
 満願寺への改称
 各院坊の寺地奉還
 二荒山神社と東照宮の独立
 輪王寺門跡が主催した日光山は二社一寺に分裂・統合されたのである。…日光山は大きく分裂し、神と仏の支配下にそれぞれ所属をわかつことになってしまった。もともと二荒山神社は安養院、家光の霊廟大猷院は龍光院が、別当として神勤しており、東照宮は輪王寺門跡が直接奉仕していた。だから全山が法親王門跡の支配下にあったわけで、そういう意味で、日光門主は、文字通り僧侶であると同時に各宮の宮司でもあったわけだ。
 それがはっきりと二社一寺に分裂した
のである。
 ところで、こういう大変動に際して、輪王寺門跡公現法親王は、さっさと還俗*してしまい、北白川宮能久親王となってしまった。…」(同上書 p.83-84)
*還俗(げんぞく):僧侶であることを捨て、俗人に戻ること。

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輪王寺門跡公現法親王は江戸幕府の依頼を受けて徳川慶喜の助命と東征中止を嘆願した後、彰義隊に擁立されて上野戦争に巻き込まれ、その後仙台藩に身を寄せて奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されており、神仏分離令が出た時には日光にはいなかったと思われる。
9月に東北の戦いに敗れて、新政府に京都で一年間蟄居することを申しつられ、明治2年(1869)9月に還俗し、そして翌年にドイツに留学するまでの間熾仁親王の邸に同居している。輪王寺門跡現法親王が還俗したのは、新政府からの圧力があったと考えるのが自然だろう。

かくして、日光山は最高責任者不在のまま分裂騒ぎで収拾がつかなくなり、また徳川氏という大スポンサーを失ったために、百十ヵ寺の僧侶は無給で暮らさねばならなくなったという。八十余名の僧徒は満願寺(旧輪王寺)の本坊で合宿して暮らしたそうだが、明治4年(1871)5月にはその満願寺の本坊が全焼してしまっている。

経済的困窮は寺院だけではなかったという。神社側からもあいついで嘆願書が出されている。収入がなければ、宮司の生活も成り立たないことはいうまでもない。

臼井氏の著書に、当時どのような嘆願書が書かれていたかがいくつか紹介されている。

「(1)境内地の使用許可
 すべての土地はとりあげられてしまったが、境内地はのこされた。この境内地を、従来のように、手作物や蒔付などもして、菜園としての使用許可をあたえて欲しい。もちろん、税金は払い、村役のことも、ちゃんとお勤めをするから、何卒よろしく御配慮を願いたい、というものである。自給自足の道を講じなければならなかったことがわかる。
(2)宝物拝観の許可
 東京の日本橋と両国橋に、日光の宝物拝観が許可された、という立札がたてられた。敬神者への拝観を許可するということになっているが、宝物拝観の始まりである拝観料をどれほどとったものか、記録がないためわからないが、経済再建のひとつの方法として考え出されたものであろう。…
(3)伐木の許可
 広大な神域内の材木も伐り出されたようである。
 東照宮や二荒山神社の営繕のために、寂光神社境内の木が伐られ、それの代金四千両がこれにあてられたという記録があるが、山内の坊からも、材木の伐り出しを願う書類が出されている。…」(同上書 p.87-88)

このように、境内の樹木を売ってまでして僧侶や宮司の生活を成り立たせようとしたことが分かるのだが、こんな状態が長く続けば、風光明媚な日光の景観がとても維持できなかったと思われる。

では、この広大な歴史的空間はどういう経緯で守られたのだろうか。

臼井氏の著書に、輪王寺の寺院経済の破綻を救った人物として、彦坂諶厚(じんこう)の名前が出てくるものの、この人物が具体的にどうやって日光を守ったかについてはあまり記されていない。

ジャーナリスト・伊藤幸司氏の『がんばらない山歩き&発見写真旅』に、つぎのような解説が記されているのを見つけたのだが、この文章を読むと彦坂諶厚が新政府や日光県とどのような交渉をしたかを垣間見ることが出来る。

慶応4年(1868)4月、輪王寺護光院彦坂諶厚は、神仏分離の精神は結構であるが、日光は神仏混淆の長い歴史によって成立した所であるから、建築物に至るまでの分離は不可能であると主張して、日光県を初め東京の政府にまで出頭して意見を述べたが、容れられなかった。
 しかし日光における神仏分離は、なかなか行われなかった。江戸時代、東照宮は満願寺(輪王寺) 所有の徳川家康の廟所であり、独立した神社ではなかったことと、東照宮が創建以来、公的には満願寺の附属施設に過ぎず、神仏分離を徹底させれば、東照宮の建造物を除去することになり、政府としても躊躇せざるを得なかったことがその原因であろう。――
 つまり、神仏分離をすれば東照宮は消えてなくなってしまいますよ、ようござんすか? ということです。結局、東照宮と二荒山神社、輪王寺がそれぞれの境界を定めて2社1寺に分離した
のです。
 日本の多くの場所では、このような場合に乱暴な寺院の破壊がありました。それが日光で抑制されたのは、山奥の運命共同体的一体感のためでしょうが、「観光資源」という新しい価値観にもとづく保存の意識が強く働いていたことにも注目しなければならないようです。」
http://ito-no-kai.la.coocan.jp/300_index/311_national-park/19_nikko.html

当時35歳であった彦坂諶厚は、神仏分離令が出た直後に日光県を初め東京の政府にまで出頭して意見を述べたとあるが、彦坂はこの年に若くして日光山の総代となっている。日光山を代表して新政府や日光県と交渉したのは、彦坂諶厚のようである。
滋賀県大津市坂本の日吉大社ですさまじい廃仏毀釈が行なわれたことは、当然彼の耳に入っていただろう。
彦坂が書いたという嘆願書の内容をじっくり読みたいところだが、おそらく彼は新政府に対し、神仏分離の考え方には従うが、日光山の場合はどこまでやれば神仏分離をしたことになるのか、新政府の見解を何度も問うて時間を稼ぎ、資金不足を理由に相手の譲歩を引き出す作戦ではなかったか。

『わくわく!日光の社寺たんけん』という記事の中に『神仏分離にゆれた輪王寺』というレポートがある。
http://www.nikko-syaji-tanken.jp/futarasan_rinnoji/rinnoji2/01.html

それによると、寺と神社の境界が引かれて、「二荒山神社境内と東照宮境内とされた地域から、三仏堂、相輪橖(そうりんとう)、鐘楼、本地堂、五重塔、護摩堂、経蔵などを、輪王寺(当時、満願寺)へ移すよう命じられました」とあるが、日光山は神仏習合で仏教施設が二荒山神社や東照宮の近くにも散らばっていて、寺と神社の境界はそもそも存在していなかった。
それを輪王寺の境内と決めた場所に仏教的施設を移転せよというのだが、輪王寺は本坊が火災で焼失したり、諸大名に貸していた金が返済されず、移転の費用が用意できずに2度にわたって延期を申し出たらしいのだ。

輪王寺がこれらの施設をすぐに移転できなかったことが、結果として幸いした。
神仏分離令は各地で激しい廃仏毀釈に発展し、一方では日本文化が外国で高く評価されるに及んで、明治新政府も文化財保護の重要性を次第に認識するようになっていった。

IMG_6938_2_1-300x225.jpg

また近くの住民たちも、日光の歴史的景観を守るために立ち上がったという。
明治8年(1875)に町民総代の落合源七と巴快寛(ともえかいかん)の二人が中心となって県や国に対して日光山の現状維持を願い、一年余り奔走したのだそうだ。そして明治9年(1876)の明治天皇の奥羽御巡幸の際に、この二人が埼玉県草加に行在所に行って明治天皇に直訴したという。この時に明治天皇は「(日光山の)旧観を失うことなかれ」とのお言葉と、御手許金3000円を下賜されたと伝えられている。
落合源七は御巡幸のお迎えの直後に病に倒れ帰らぬ人となったようなのだが、日光総合会館玄関前には、日光の歴史的風景を守ろうと尽力した落合源七と巴快寛の二人の顕彰碑が建てられているという。
http://nikkonishimachi.web.fc2.com/yasukawa/j.html

また、明治12年(1879)には伊藤博文とともに日光を訪れた前米国大統領グラントが、日光の美観を称賛し、殿堂の保護を提唱したという。それがきっかけになって名勝・日光を守る財団のようなもの(保晃会)が作られ、152千円もの寄付が集まったことも大きかったようだ。

輪王寺三仏堂移築工事

上の画像は明治10年(1877)に三仏堂を移転した工事中のものだが、結局、輪王寺の境内に移築されたのは相輪橖とこの三仏堂だけとなり、日光は主要伽藍の大半を、維新前の堂塔のまま残されることとなった。このような大伽藍で、明治以前の姿を今も留めて例は数少ないのではないだろうか。

日光東照宮見取り図

当初の「神仏分離」のプランが一部しか実施されなかったので、日光東照宮の境内には本地堂(国重文)と経蔵(国重文)の2つの仏教施設が今も残されている。
Wikipedia「日光東照宮」によると、この2棟は東照宮と輪王寺との間で帰属について今も係争中で、財団法人日光社寺文化財保存会が管理しているのだそうだ。拝観料の配分で、ややこしい問題があるのかもしれない。

前回に続いて、明治初期の日光山の危機を書いてきた。
徳川家の聖地であり神仏習合の施設であった日光山が、戊辰戦争に巻き込まれなかったのは偶然的な要素もあるが、廃仏毀釈の嵐を乗り切ったのは大変な事だと思うのだ。
明治の廃仏毀釈によって日本の寺院の約半分が廃絶され、国宝級の文化財を数多く失ってしまっているのだが、日光山が破壊を免れたのは彦坂諶厚をはじめ、多くの人の努力が実を結んだものである。
文化財の貴重さを知るためには、文化財が護られてきた歴史を知ることも大切だと思う。
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【ご参考】このブログで、廃仏毀釈の破壊を免れたお寺の記事をいくつか書いています。良かったら覗いて見てください。

文化財を守った法隆寺管主の英断
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-80.html

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

明治期の危機を乗り越えた東大寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-84.html

明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-167.html


明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった

前回まで、奈良県の修験道の聖地などを周ってきたことをレポートしてきた。
修験道は仏教でも神道でもなく、日本古来の山岳信仰と、仏教の密教、道教、儒教などが結びついて平安時代末期に成立した宗教なのだが、霊験を得るために山中の修行や加持祈祷、呪術儀礼を行なう者を修験者、または山に伏して修行する姿から山伏とも呼ばれている。
修験道神仏習合の信仰であり、日本の神と仏教の仏(如来・菩薩・明王)がともに祀られてきたのだが、それが明治維新後に激変することになったのである。

山の宗教

仏教学者・五来重氏の著書『山の宗教 修験道案内』(角川ソフィア文庫)で、熊野信仰の解説の中の文章を引用させていただく。

「熊野は、神々の信仰の非常に卓越した修験道の霊所でした。したがって本地仏はあるが神として拝まれており、その結果、近世に入ると紀州藩の宗教政策もあり、神道を表に立てるようになります。
 ふつうは江戸時代に入っても、神社にはそれぞれ別当*がおり、別当の方が優越して、神主というのは、ただ祝詞(のりと)をあげるときだけ頼まれる、というのが実態でした。経済的なものはすべて別当か神宮寺が握っており、神主はあてがい扶持だったのです。しかし歴史的には、中世の中ごろから神主側の巻き返しがあり、いわゆる伊勢神道というのが出来、あるいは唯一神道、吉田神道というものになり、江戸時代に入って復古神道でもって仏教の地位を落していく。それが結果として明治維新の排仏毀釈になったので、山伏も一時なくなるわけです。」(『山の宗教 修験道案内』p.9)
*別当:神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺を神宮寺と呼び、その寺の社僧の長を別当と呼んだ。別当は神前読経など神社の祭祀を仏式で行っていた

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今では山伏の姿を見ることがめったにないのでこのような記述を読んでもピンと来なかったのだが、明治維新以前には全国で17万人もの山伏がいたという記述を読んで驚いてしまった。

愛知県清洲にある日吉神社の宮司・三輪隆裕氏はこのように述べておられる。
私の神社は、江戸時代、境内にお薬師様を斎っておりました。また、山王宮と称していました。山王とは、山王権現、つまり山の霊魂が神として出現したという程の意味です。…日本では、仏教が、聖徳太子によって正式に国の宗教として認められて以来、本来の伝統宗教である神道、そして仏教以前に大陸から入った儒教とともに、さらに儒教以前に大陸から入ったと考えられる中国の民間宗教としての道教、占いや呪い、そして仙人思想をもっている道教を合わせ、それらが、一千年以上の長い間に渡ってさまざまに習合してきたのです。
 江戸時代の民間の宗教的エートスはどんなものであったでしょうか?私はよくイメージが湧かないのですが、少なくとも神主が主役でなかったのは事実でしょう。仏教は、ご承知の通り、江戸幕府の手で戸籍管理を任され、檀家制度を整備しますので、大変強い力を持っていました。しかし、民衆の宗教的な情念は、私は、山岳信仰、修験に強かったのではないかと思っています。呪術、占い、修行による超能力の獲得、霊界との交流、こういったことを内容とする修験は、明治政府にとって近代化を妨げる迷信の源と見做されたのではないでしょうか。修験宗は明治になって政府の命令により廃止されますが、これは、逆に、修験が民間信仰のなかで如何に勢力を持っていたかの証ではないかと思います。この当時、修験の先達は17万人いたといいます。現在神職が1万2千人、お坊さんの数も、神職の数と大差無いはずですので修験者の多さが理解できます。」
http://hiyoshikami.jp/hiyoshiblog/?p=66

「修験の先達」というのは山伏のことだが、明治の初めには山伏が17万人いたというのはどう理解すれば良いのだろうか。
内閣統計局が昭和5年に公表した『明治5年以降我国の人口』によると、明治5年の人口数は3480万6千人だという。山伏は全員男性なので、単純に考えると、当時のわが国の男性のうち約100人に1人が山伏であったという計算になるのだが、これは半端な数字ではない。
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/14167501.pdf

その山伏が、慶応4年(1868)の神仏分離令に続き明治5年(1872)には修験禁止令が出されて、山伏の活動が禁止されだけではなく、信仰に関する建物や文化財の多くが破壊されてしまった。

内山永久寺 大和名所図会

前回まで5回に分けて書いた奈良旅行のレポートで、石上神宮の神宮寺であった内山永久寺や、琵琶山白飯寺(現天川弁財天神社)が明治初期の廃仏毀釈で徹底的に破壊されたことを書いたが、いずれの寺も修験道の聖地であった。このような明治維新期の宗教政策が、山伏達に多大な影響を与えたことは間違いないのである。

山伏

では江戸時代の山伏達はどのような仕事で生計を成り立たせていたのであろうか。
和歌森太郎氏の『山伏』(中公新書)にはこう書かれている。
「…江戸時代の山伏にもピンからキリまであったのであって、なお中世的な果敢な山岳修行にいそしもうとする、修行本位に生きる山伏もいたとともに、祭文語りからごろつきに転化したようなものまで、種々のタイプがあったのである。全体的にいえば、町や村のなかに院坊をもって、その近在の民家を檀家とし、招かれて祈禱に出かける、あるいは遠方への山参りなどの代参をしたり、代願人になる、そうしたタイプのものが、江戸時代には最も支配的だったのである。
…江戸時代の山伏は、…中世的な修行者という意味での行者ではなくて、祈禱者としての行者であった。だから平安朝以来、漸次民間にも浸透してきた陰陽師が、そうとうに祈禱者的な面をもっていたので、彼らの伝える陰陽道を、山伏も自然に受け持つほどになっていた。」(『山伏』(中公新書)p.21-22)

大峯天河社

ところが、近代化への道を急ぐ明治政府にとっては、このような山伏は不要であったようだ。
「山伏の道、修験道は今後いっさい廃止するとして、明治5年9月15日の太政官布達をもって全国にふれられたのであった。そうして、およそ18万人もいた山伏たちは帰俗を促され、あるいは天台、真言の僧侶になるか、あるいははっきりと神職に転ずるものもあったのである。」(同上書p.23)

和歌森氏の著書では、山伏の数は18万人とあるが、正式な統計がないのでどちらが正しいかはよく分からない。いずれにせよ、現在よりも山伏の数が桁違いに多かったことは同じである。
では具体的に政府からどのような布達が出されたのであろうか。次のURLに神仏分離に関するすべての布達等の原文が掲載されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/s_tatu.htm

重要なものだけ内容を簡単に意訳しておく
◎慶応4年(1868)3月17日 神祇事務局達
神社において僧形で神勤している別当・社僧は復飾せよ。つまり僧侶の身分を棄てて還俗することを命じて、その際に差支えがある場合は復飾のうえで神職となり、浄衣を着て神勤することを定めている。

◎慶応4年(1868)3月28日 神祇官事務局達
○○権現・牛頭天王などといった神仏混淆的な神号を一掃し、神号の変更を行なうこと。また、仏像を神体としている神社は、仏像を取り除いて神体を取り替えること。また神社から仏具である鰐口や梵鐘などをすべて取り除くこと

◎明治5年(1872)9月15日 太政官第273号 いわゆる「修験道廃止令
修験道を廃止し、本山派修験・羽黒修験は天台宗に、当山派修験は真言宗に所属するものとした。

「修験道廃止令」以降、公には山伏は存在しなくなり、真言宗、天台宗のいずれかに属するか、神官となるか、帰農するしかなくなったのだが、さらに追い打ちをかけるように明治政府は、山伏の収入源であった行為を禁止する命令を相次いで出している。

◎明治6年(1873)1月15日に出された教部省達第2号
狐憑きを落すような祈禱をしたり、玉占いや口寄せを業としている者が庶民を幻惑しているので、そのような行為を一切禁止する。

◎明治7年6月7日 教部省達第22号別紙教部省乙第33号
禁厭、祈祷等を行ない、医療を妨げ、湯薬を止めることの禁止。

◎明治13年7月17日 太政官布告第三十六号 … 旧刑法第427条第12号
妄りに吉凶禍福を説き、又は祈祷、符呪等を為し、人を惑わして利を図る者を拘留または科料に処す

◎明治15年7月10日 内務省達乙第42号別紙戊第3号
禁厭、祈祷等を行なって病人の治療、投薬を妨げる者がいれば、そのことを当該省に報告すること

具体的にどこまでが取締りの対象でなっていたかは定かではないが、明治以降山伏の収入が激減したことは言うまでもないだろう。

なぜここまで明治政府は山伏を徹底的に叩いたのかと誰でも思うところであるが、その理由を論じる前に、江戸時代に「山伏」の評判がどのようであったかを知る必要がある。

天保14年(1843)に江戸幕府が禁奢令を出し、当山派修験道の本山である醍醐寺三宝院から末徒に出された御触書にこのようなことが書かれていたという。
「『諸寺院ノ僧侶破戒不律之義ニ付、天明・寛政・文政之度追々取締方申渡』とはじまり、文中に『不如法之僧徒多有』『貪欲情ヲ断チ学徳ヲ相磨、寺務専一ニ可相心懸處、利欲之念深放逸無慙之輩不少歎ヶ敷く事ニ候』『略服美服ヲ着シ』などと戒めの文言があります。ここから、修験者たちは学問もせず修行もせず、利欲を求めて高価な衣服を着ていたという状況と、当然ながら世間から悪評されたことがわかります。(中条真善稿「当山派修験」『高野山と真言密教の研究』所収。四〇五頁)。」
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index227.htm

龍泉寺2

もちろん真面目に修行し励む山伏が多数いたとは思うのだが、一部のメンバーが評判を落とすような行動をとると、すべてのメンバーに悪評が及ぶことはいつの時代にも良くあることである。しかし、多くの場合はそのような悪評は意図的に広められて、特定勢力を徹底的に叩くために利用される。
明治政府は、中央集権的国家の確立を目的として、天皇を中心とした祭政一致国家の建設をはかろうとした。そこで形成されたのが「国家神道」で、その基盤となる尊王思想を普及させ、神社神道を国家の宗祀とするための政策が進められたのだが、そのためには神仏習合の山伏や修験道は不要な存在であって、山伏の悪評を最大限に利用して仏教施設や仏具ともども強引に修験道を消滅させようと考えていたのではなかったか。

以前このブログで、戦国時代から江戸時代にかけて、キリスト教の宣教師やキリシタン大名が寺社や仏像等を破壊し焼却した記録が残されていることを何度か書いてきたが、明治初期にも同様なことが起り、全国規模で激しい「廃仏毀釈」が行なわれたのである。

明治期に広められた「国家神道」は現天皇を現人神として崇拝し、天皇による祭・政・軍が一体化した国家体制であり、国家自体が「一神教」の教団と化したようなところがある。
一神教の熱心な信徒は過去において、自らが奉じる宗教や文化を広めるために、神の名のもとにテロ行為や他国の侵略や異教文化の破壊をはかる過激な局面が少なからずあったし、今もそれが世界の一部で続いているように思われる。このような原理主義的な動きを封じることが難しいところは、テロ行為や文化破壊を行ないながら、自分の行為を正しいと信じて疑わない信徒が少なからず存在する点にある。

しかしながら、本来の日本の神道は、自然現象を敬い八百万の神を見出す多神教であり、明治期の国家神道とは根本的に異なる。そして江戸時代のわが国においては、山伏は地域の人々の生活に欠かせない存在であったことは確実だ。

和歌森太郎

和歌森太郎氏は前掲書でこう書いておられる。
村の人にとって、その生業が豊かであることは絶対の願望であったから、稲作を中心にこれを妨げるような虫送りをするとか、水を迎えるための雨乞いをするとか、また天気祭りをするとか、いろいろな行事が臨時にも行なわれたが、その中心を占めるのはほとんど山伏であった。ことに雨乞いは古い信仰のなかに、山に入って大きな音を立てるとか、火を焚くとかいうことによって天に響かせ、その結果、雨を呼び起こすという観念があったから、最も山伏のかかわりやすいものであった。」(前掲書 p.172)

厳しい自然をともに克服しながら、地域の人々とともにみんなが豊かで幸せに暮らせることを祈る山伏が、地域の人々同志の連帯感を強めて、地域を住みやすくすることに役立っていたといえば言い過ぎであろうか。

公式には明治5年9月に山伏はいなくなったのだが、その後も峯入り修行の指導者としての山伏が存続した。
また、ネットで調べると、最近では一般人で山伏姿になって山伏体験をする人も増えているという。体験者のブログを読んでいると、自然の霊威を感じて心底から感動したという記録が多く、森羅万象に神が宿るという日本古来の自然観を私も体で感じたい気持ちが湧くのだが、残念ながら、この脚力で難所をいくつも登りきることは難しそうだ。

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【ご参考】
このブログで、戦国時代から江戸時代初期にかけてのキリスト教徒による文化破壊について何度か書いてきました。当時日本に来ていたイエズス会の宣教師の記録にも、わが国に残された文書にもかなり具体的に書かれています。
興味のある方は覗いてみてください。

戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのはキリシタン大名か、宣教師か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-136.html

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-372.html

島原の乱の最初にキリシタンは寺社を放火し僧侶を殺害した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-386.html


【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。



浄土真宗の僧侶や門徒は、明治政府の神仏分離政策に過激に闘った…大濱騒動のこと

前回の記事で、あまりにも強引な明治政府の宗教政策に反対して、浄土真宗の僧侶や門徒たちが一揆を起こしたことに少し触れたが、今回はそのことについてもう少し詳しく記すことにする。

浄土真宗は、既成教団からの迫害を受けながら熱烈な布教を続けてきた経緯から、寺と信者の結びつきは固く、『神仏分離令』が出た以降の教団の危機を僧侶だけでなく門徒も共有していたことが大きいようだ。

神仏分離の動乱

臼井史朗氏の『神仏分離の動乱』に、東本願寺が『神仏分離令』に対する統一見解を全国の末寺に通達していることが紹介されている。

「先般神祇省再興、神仏判然ノ御所分被為在候ハ、朝廷排仏毀釈コレツトムト申触ラシ、下民ヲ煽惑動揺セシムル由、素ヨリ彼等、斯好生至仁、億兆一視ノ叡慮ヲ奉戴セザルノミナラズ、即チ宗門ノ法敵トモ謂ツベシ、仍テ教育説諭、便宜ヲ以テ、民心安堵、方向相定メ、作業相励可申様、門末教育可致旨、御沙汰候事」(『神仏分離の動乱』p164)

この通達の日付が記されていないのは残念であるが、東本願寺では早い時点から「排仏毀釈」が行なわれることを警戒し、このような施策を推し進めようとしている明治政府を「法敵」と考えていたことが分かる。

そして本山が怖れていた通りに、全国各地で寺の建物や仏像仏具の破壊がはじまった。

そして明治3年(1870)9月に、熱心な門徒の多い三河国碧海郡南部の鷲塚(現在の愛知県碧南市)の地に、平田篤胤門下の服部純という役人が赴任して来た。

臼井史朗氏によると、この役人はこのような手法で自分の仕事を進めようとしたことが、特に浄土真宗の信者(門徒)たちの強い反発を招くこととなる。

「お前たちは、先祖代々信じている宗旨のことだから、家でかくれて念仏を申すのは、まあ大目に見てやるとしても、天子さまのほんとうの御思召(おぼしめし)は、敬神崇祖にあのだから、朝夕の御つとめのときには、ゆめゆめ怠ることなくこの祈祷文をよめ…と厳命したのである。…
各村々をまわって、村民を残らずお寺に呼び集め、仏像は穢らわしいといって、正面の金障子をぴっちりと閉めきって、その前には涼み台を持ってきて、その上で、自分は萌黄色の道服を着て、こうした厳命をつたえてまわったのである。
なおその上、藩政改革のための費用だからといって、頼母子講*(たのもしこう)の金をとりたてて歩いたのであった。地主から下農水呑百姓にいたるまで、資産によって上中下の十一段に階級をわけて、金をとりたてたのである。
こうした、神仏分離令の名をかりた暴政に対して、民衆たちは、だまってはいなかった。ようやくにして反抗の気構えをするようになった。
明治維新の新政になったというのに、仏教を破壊し、念仏を禁止し、あまつさえ、重祖苛税を背負わせ、砂をかんでも金を出せとは、残忍苛酷な暴政である。…」(同上書 p.166-167)
*頼母子講:講の組織による民間の金融組合の一種。講員が掛金を定期間に出し合い,入札または抽籤で毎回そのなかの1人が交代で所定の金額を受取る。全員に渡し終えた時点で講は解散する。出し合った金で家畜や家財道具などを買入れ,交代に分与する方法などがある。

この服部純という役人が門徒たちに対し、朝夕のおつとめに読むことを強要した「祈祷文」というのは、次のようなものであったという。
「ウブスナカミノ オホマヘニ ヤスキヲコヒノリマヲスノリト、コノサトヲ スベマモリタマフ ウブスナカミノオホカミノ ミマエヲツゝシミウヤマヒ ヨノマモリヒノマモリニマモリ サイハヘトカシコミカシコミモ ヲガミタテマツル、」(同上書 p.165)
夜の守りと日の守りを産土神に請えというのは、真宗の門徒にとっては現世の利益を忌み嫌う教義に反する内容であったのだ。門徒たちは頭を抱えた。

朝命に違背せざらんとすれば、祖師の教説に背き、地獄におちることとなり、祖師の教えを守ろうとすれば、朝命に背くことになる。一体どうせよというのだ…と、愚夫愚婦、無智文盲のわれらはどうすればよいのかと、檀那寺におしかける始末であった。」(同上書 p.167)

そして、明治4年(1871)2月に領内の寺院住職に対して召喚の命令が出されたという。集まった僧侶を前にして、服部純という役人はこう言い渡したという。

「本日、領内寺院一同を召喚したのは、外ではない。…大体において、寺院という所は、葬式を執り行うべき場所であって、坊主はその取扱人にしか過ぎないのである。
 ところがだ、当領内には、人民の割合にして寺が多く、したがって、坊主も多すぎるのだ。これはまったく無用のことであって…陛下の臣民にして、耕さずして食い、織らずして衣、遊手徒食致すことは、お上に対して、まったくもって恐入りたる次第である。したがって、領内の寺院は、夫々の方法を設けて、合併することに庁議で決した次第である。
 それについては、廃寺ヤ合寺ノ方法や坊主の取片づけに関して、庁議ばかりで一方的に決定しても迷惑もすることもあろうかと思って、皆を呼び出したのである。…」(同上書 p.168)

こう切り出してから12カ条御下問が発せられたのだが、内容は寺院の統廃合と僧侶の整理、檀家の配分が主な内容であり、住職たちに即決を求めたところ同意した寺院もあったというが、浄土真宗の住職たちのほとんどはこの場で即断することに強く抵抗したという。

そこでこの役人はこう切り返した。

「…この日本の六十余州を統治なされるのは、おそれ多くも畏くも、神の御末である天皇陛下なのだぞ…その陛下の勅諚でもって、廃寺合寺が仰せ出されているのに、本山に問い合わせねば返事ができないの、協議をしなければ、門徒に相談しなければ…とは何たることか。1カ寺の住職が、天皇の命令をうけるのに、本山も門徒もあるか…」(同上書 p.169)

真宗の僧侶たちは猶予して欲しいといくら頼んでも受け入れられず、3月20日を期限とし寺院の統廃合を実施することが厳達されたという。

僧侶たちはこの命令を不服として、3月8日に矢作村暮戸にある門徒の集会所に集まることとなったという。

石川台嶺

国立国会図書館デジタルコレクションに、昭和18年に出版された『桜井村史』が公開されており、PCで誰でも読むことが出来る。すこし引用させていただくが、ここに出て来る台嶺という人物は、この「大浜騒動(菊間事件)」の中心人物である蓮泉寺の石川台嶺である。

「…檄に応じて当日参会せる僧侶は百名程に達し、台嶺は菊間藩の廃仏を語ってこれが防止のため、同志の連判を求めたが三十余人の参加があった。そこで一同は白衣に墨染めの直綴を身にして、大濱の菊間藩出張所を指して暮戸会所を出発したのは翌九日の払暁近き頃であった。夜来の大雨で矢作川は叛乱し、行路困難なりしより道を転じて我が桜井村に到り、大字東町の法行寺に着いた時、数百人の門徒がこのことを探知し、蓑笠姿にて来集し、一行の僧侶を警護して大濱に随う情勢であった。更に米津の龍讃寺に着せし際には門徒の数は二三千人に達し、村内の竹藪はほとんど切尽されて竹槍が造られた。台嶺は形勢の不穏なるを見て同寺の本堂に立ち出で、廃仏の説明を尋ね之が延期を乞うを目的とし、一揆徒党に類する行動を慎むべきを説き、群衆の退散を求めた。然れども屡々(しばしば)達せられた維新以来の廃仏傾向の法令に脅かされ、少なからず不安を懐ける人心が計らずもここに爆発の機会に接したのであるから折角の説諭もその甲斐なく、鷲塚の蓮成寺に入りし頃には益々衆を加えて数千人の夥しきに至った。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042159/246

門徒たちの不穏な空気に驚いて、菊間藩の役人たちが鷲塚村の名主片山俊次郎宅に集まり、蓮成寺に何度か使者を送り出している。石川台嶺は菊間藩の反省を迫ったのだが埒が明かず、日没を迎えることとなる。再び『桜井村史』を引用する。文中の「杉山」という人物は、菊間藩の役人である。

大浜騒動

「…蓮成寺に待機の群衆は漸次殺気を生じて梵鐘を打鳴らすより僧侶は撞木の綱を断ちしも、忽ち繋いで乱打し、遂に片山方に押寄せて鯨波を挙げ垣を破って庭前に進出した。杉山等の五人は遂に抜刀して玄関に立ち出で忽(たちま)ち三四人に斬り付け、群集の開ける虚に乗じ、圍(かこい)を衝いて大濱に逃げ帰ったが、藩吏の藤間薫は後より逐える群集のため、背面より槍にて仆(たお)された。…菊間藩にては翌十日に四隣の各藩に加勢を請うるより西尾・岡崎・重原刈谷・西端は勿論、尾張藩よりも兵を出して鎮撫に力めしより、全く鎮静を告げた。
 小参事の服部純はこの騒動のため、事の容易ならざるを認むるとともに、最初の意気を失い、急使を京都の本願寺に遣わして鎮撫を請うた。十八日には…使僧が来たり、小参事より朝日を拝せしむることなく、神前の祝詞にして宗旨に背かば取やむべきこと、廃寺合寺を見合わすことを申し出たので、使僧等は此旨をもって国内を巡教せしより、廃仏毀釈の問題にして解決せる上は、他に何等の理由もなきこととて平静なるを得た。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042159/247

かくして廃寺合寺が中止され、僧侶・門徒たちの信仰は守られることになったのだが、民衆を扇動して権力に逆らい、役人の一人(藤間薫)を惨殺してしまったことの罪を免れることはできなかった。

後に首謀者たちは捕縛され、4月に岡崎城で裁判が行われ、12月28日に2名が死罪を宣告されたほか、僧俗あわせて40人に懲役刑などが申し渡されている。
そして、その翌日には、事件の中心人物であった石川台嶺は西尾町奥屋敷の刑場にて斬罪に処せられ、29歳の短い人生を終えたという。また、役人殺害の罪を一人で引き受けた榊原喜與七も37歳という若さで絞首刑に処せられた。

一方、長い間牢獄に繋がれて刑に服していた僧侶たちは、明治22年(1889)に大日本帝国憲法が発布されたことにともなう大赦によって、ようやく無罪放免されている。
その後、本願寺当局は大濱騒動の犠牲者たちを護法扶宗の功労者として讃え、その業績の顕彰に今も努めているという。

遠山友禄

以前このブログで苗木藩の廃仏毀釈のことを書いた。ここでは藩知事の遠山友禄が率先して廃仏毀釈を徹底させ、領内の全寺院(15か寺)が廃毀され、石像石碑にいたるまで仏教的なものを一掃し、全領民を神葬祭に改宗させたのだが、この廃仏毀釈が最も激しく行なわれた時期が明治3年で、今回のテーマである大浜騒動の原因を作った服部純が菊間藩出張所に着任した頃のことである。
そして服部純という人物は、苗木藩の遠山友禄と同様に平田篤胤の国学思想の信奉者であり、もし三河大濱で真宗の僧侶や門徒たちが立ち上がっていなければ、この地域の多くの寺が強制的に廃寺にされていたとしてもおかしくなかったのである。

明治の廃仏毀釈の激しさを知らなければこのような騒動を理解することはなかなか難しいところなのだが、三河以外でも多くの地域で浄土真宗の僧侶や門徒が明治政府の宗教政策に反抗したことが、廃仏毀釈にブレーキを掛ける一因となったことは記憶に留めるべきだと思う。

前回の記事で、白山信仰の重要な仏像群がほぼ無傷で林西寺に残されているのは、石川県が浄土真宗の強い地域であることと無関係ではないだろうと書いたが、それは三河地区などで、真宗の僧侶や門徒たちが命懸けで明治政府の宗教政策を正そうとしたことだけが理由ではなさそうだ。

以前このブログで書いたのだが、東本願寺は文久3年(1863)には徳川幕府に1万両の軍資金を提供したり、慶応3年(1867)の大政奉還の後も、末寺の門徒、僧侶による軍隊を編成して、幕府の指揮下に入ることを申し出ているなど、一貫して佐幕派であった。戊辰戦争が始まってからはさすがに維新政府に軍費を献納したものの、薩長勢力を中心とする明治政府から教団が冷遇、あるいは弾圧される危機を強く認識し、この難局を乗り切るために東本願寺は明治政府に平身低頭し、政府に忠誠を尽くしている。

本願寺09205

明治2年(1869)9月に、政府は東本願寺に北海道の開拓を命じ、明治3年(1870)2月に、当時19歳の新門跡・現如上人を筆頭に、僧侶や信徒178人が京都を出立し、ショベルカーやダンプカーや電動機具などがない時代に、人力で土を掘り、木を伐り、石や土を運んで、洞爺湖の東側から札幌に到る103kmにも及ぶ「本願寺道路」を完成させたのである。そして、その道路が、現在の国道230号線の基礎になったといわれており、工事の最大の難所と呼ばれた中山峠には、現如上人の銅像が建っているという。

浄土真宗は他の宗派よりも廃仏毀釈の被害が少なかったことを多くの識者が指摘しているのだが、この時代に教団を守るために僧侶も門徒も命懸けで努力した事実が通史などではスッポリ抜けてしまっているのは残念なことである。もしこのような努力がなされなければ、わが国はさらに多くの文化財や伝統文化をこの時期に失っていた可能性が高いと思うのだが、代々貴重なものとして守られてきたものを将来に残すために、命を懸けた人々がいたことをもっと知るべきではないだろうか。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

苗木藩の廃仏毀釈と、その史跡を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-179.html

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html

なぜ討幕派が排仏思想と結びつき、歴史ある寺院や文化財が破壊されていったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-175.html

奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-176.html


明治6年に越前の真宗の僧侶や門徒はなぜ大決起したのか~~越前護法大一揆のこと

前回は明治政府の強引な宗教政策に反対して、明治4年(1871)の3月に三河国碧海郡・幡豆郡(特に菊間藩飛領地域)の浄土真宗の僧侶や門徒が起こした『大濱騒動』のことを書いたが、今回は、『大濱騒動』よりもはるかに規模の大きかった明治6年(1873)の『越前護法大一揆』のことを記しておくことにしたい。

『大濱騒動』では、明治4年(1871)に服部純という役人が領内の寺院住職に対して寺の統廃合の話を持ちかけたことを書いたのだが、同様なことは全国の諸藩でかなり強引に実施されたものの、明治政府も神祇省主導による神道を基軸とする民衆教化の限界を知ることとなり、宗教政策の転換を迫られることとなる。

『福井県史』通史編5 近現代一の解説によると、
(明治)五年三月、神祇省を廃止し新たに教部省を設置したが、同省は神道・仏教をはじめ宗教界を動員して、統一的組織的な国民教化の新路線をめざしていた
 …
 教部省は五年四月二十五日、教導職を置いて大教正以下権訓導まで一四級に分け、まず神職・僧侶が任命された。敦賀県下の教導職は、神官が三三人(越前国一八人・若狭国一五人)、僧侶が七六〇人(越前国五一九人・若狭国二四一人)計七九三人を数えるが、全国平均では、神官が全体の約六〇パーセントであるのに対して、敦賀県では、僧侶が九六パーセントという圧倒的な比重を占める(「福井県史料」三四)。このことは、同県では、寺院側とりわけその過半を占める真宗寺院勢力の協力を得なければ、教導職体制が推進できないことを示しているといえよう。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-01.htm

では、教部省は真宗寺院の勢力を借りていったい何をしようとしていたかというと、相変わらず寺院廃合を推進しようとしていたのである。

越前護法一揆地図

今立町に派遣されたた元僧侶の役人がどのような動きをしたかについて、『福井県史』にはこう解説されている。

「今立郡定友村(今立町)の唯宝寺(本願寺派)出身で、教部省一一等出仕の石丸八郎(還俗前は良厳)が、明治六年(1873)一月、郷里に帰省した。そして地域の寺院廃合や小教院設置の急務を唱え、各寺院に『三条の教則』*を守るよう誓わせたことが、真宗寺院僧侶・門徒農民層の間に、意外な波紋をひき起こした。しかも『石丸発言』が、『耶蘇』の教法であると喧伝され、その情報が隣接の大野郡に及ぶと、友兼村の専福寺(真宗高田派)住職金森顕順、上据村の最勝寺(本願寺派)住職柵専乗、同村の上層農竹尾五右衛門らを中心に、同月下旬には、およそ六五か村の『護法連判』が行われた。石丸を『耶蘇宗の者』とみなし、『耶蘇』の侵入には、村ごとに『南無阿弥陀仏』の旗を押し立て、断固一揆の強硬手段で対抗することを誓い合ったのである。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-02.htm
*『三条の教則』:「一、敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事 一、天理人道ヲ明ラカニスベキ事 一、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事」

石丸八郎が郷里で発言した内容が、前回紹介した『神仏分離の動乱』(臼井史朗著)に出ている。
「今般奉伺候通、人民平均ノ趣旨ヲ以、広ク教育撰挙ノ法ヲ設ケ候際ニ当リ、独リ僧侶ニ限リ、従前ノ通リ度外ニ取計置候テハ、藩政改革ノ条理ニ於テ不都合ノミナラズ、一視同仁ノ御政体ニモ適当仕間敷ニ付、漸次平民ニ帰シ候様致シ度、尤苛酷排斥人心ニ関係候筋ニハ不相渉様可仕候間、其処置ハ当藩ノ適宜ニ御任セ相成度、尚処置ノ廉ハ、其節ニ御届可申上候、此段奉伺候、」(『神仏分離の動乱』p.175)

僧侶だけが従来と同様に処遇されるのでは藩政改革が困難であるので、漸次僧侶を還俗させて平民にすると述べているのだが、『大濱騒動』の原因となった服部純の発言内容は異なるものの寺や僧侶を減らすという点では一致している。そして彼の一連の発言が、民衆に非常な不安を与えることとなり、民衆が蜂起するになったようなのだ。

先ほど紹介した『福井県史』によれば「『石丸発言』が、『耶蘇』の教法であると喧伝された」とあるのだが、これはいったいどういうことなのか。
『耶蘇』とは『キリスト教』を意味する言葉だが、そもそも元僧侶であった石丸という人物が、なぜキリスト教と結び付けられてしまったのかと誰でも思う。

ネットで見つけた大日方純夫氏の『明治新政府とキリスト教』という論文を読むと、石丸八郎という人物は、越前に来る少し前に新政府のキリスト教禁止政策に基づき長崎に派遣されていて、キリスト教宣教師のもとに潜入して内部情報を収集する「異宗徒掛諜者」の活動をしていたことがわかる。
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/8566/1/80704_45.pdf
石丸八郎は幕末以来キリスト教排撃運動を展開した人物であり、彼の信仰が『耶蘇』であったはずはないと思うのだが、誰かが口にしたことで一気に『耶蘇』との噂が広がっていき、民衆がとんでもない暴動を起こすことになったのだ。この点については最後に触れることにする。

大野郡での攻撃目標
【大野郡での攻撃目標】

この一揆の激しさは『福井県史』に詳しい。
「三月五日、福井支庁から派遣された官員や邏卒らの官憲が、竹尾五右衛門ら五人を『護法連判』の主導者として拉致したのを発端として、まず大野郡下で大一揆が勃発する。翌六日には、おもに上庄・下庄両地区から一揆の大群が大野町に押し寄せ、旧足羽県支庁はじめ豪商・戸長・商法会社・教導職寺院・高札場などを破毀または焼き打ちし、また農村では、豪農の区・戸長宅を攻撃した。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-03.htm

三カ条の願書

福井支庁は官憲や旧藩士から募集したメンバーを送り込んで事態の収拾を図ろうとしたが、一揆勢の勢いを止めることはできなかったという。そして一揆勢は次のような「三カ条の願書」を福井支庁に提出したという。
一、耶蘇宗拒絶の事  一、真宗説法再興の事  一、学校に洋文を廃する事

明治維新以降人々は断髪して洋服を着るようになり学校では英語を教えるようになったのだが、その洋風化が仏教への弾圧に繋がり、耶蘇教を広めることに繋がるとでも考えたのであろうか。

今立郡での攻撃目標
【今立郡での攻撃目標】

ところが、8日の夕刻になり、この願書に対する県側の回答が遅れたことから、またもや一揆勢が集合したという。再び『福井県史』を引用する。

「一揆勢が集まり、『大野市中又騒然竹槍林立立錐ノ地モ無シ』という険悪な事態となった(富永良一郎家文書)。そのため官員は、一旦一揆側の『願書』のすべてを認めるということで、ようやく事態がおさまったのである。また、その場での窮地を脱するための謀計にすぎなかったとはいえ、一揆主導者の処刑は絶対にしないと確約することで、はじめて一揆の徒が退去した点からみて、官側が一揆の猛勢に対して、いかに脅威を抱いたかがうかがわれる
 その後本庁ではただちに、名古屋鎮台と大阪鎮台彦根営所に対し一揆勃発の事情を報告、ついで十一日、名古屋鎮台に至急出兵方を要請し、いよいよ「兵威」による一揆主導者の一斉摘発の準備を進めようとした矢先、同日から隣接の今立郡に大一揆が勃発する。同郡下では、小坂村はじめ近村の農民諸階層による同村戸長富田重右衛門宅に対する打ちこわしが発端となる。そして地域的には、莇生田・東庄境・野岡・粟田部・定友・岩本・大滝・松成・中新庄の諸村に及び、… 大野郡の場合とほぼ同様に、教導職寺院はじめ豪農商の区戸長居宅や土蔵などに対して、破毀焼却のかぎりを尽した。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-03.htm

県は断固武力弾圧の挙に出たことから13日になって一揆勢は四散するも、今度は坂井郡下でも九頭竜川以北の農民が各所で蜂起し、金津・兵庫・森田近辺に多数群集して、約一万人にふくれあがった一揆勢は、福井をめざして進撃したという。そして一揆勢は、大野郡と同様の「願書」を差出したが、それが拒否されると猛然と反撃したのだそうだ。
官側は砲撃による武力制圧で一揆勢の福井侵入を食い止め、さらに主要路を遮断し説諭に努めたことで、一揆勢はようやく四散したという。

県当局は政府に対し一揆鎮定の報告を行ない、大野郡では再発防止の態勢をとった上で、一旦容認した一揆側の『願書』を取り消すとともに、一揆参加者の一斉検挙を開始し、80余人が捕縛され、4月4日に判決で6人が即日死刑に処されている。
県全体では、8439人が処罰され、竹槍や棒などを持参し一揆に参加した者は3円、何も持参せずに参加した者には2円25銭の「贖罪金」が課されることとなり、合計で20,309円もの贖罪金が集まったのだそうだ。この当時の1円の価値については諸説あるが、今の8千円~2万5千円の中間をとっても、3億円を上回ることになる。

越前は古くから浄土真宗の信仰が盛んな地域で、一揆のあった地域では7割以上が浄土真宗の寺であったようだ。明治4年に政府は寺領上地を断行し、寺領を経済的基盤とする寺は大きな打撃を蒙ったのだが、浄土真宗の寺は門徒からの収入で寺の経営が成り立っていたので、経済的な側面からの打撃は他の宗派の寺よりも少なかったという。

ではなぜ、真宗の僧侶や門徒達はここまで激しく闘うことになったのであろうか。

真宗の場合は寺のほかに道場があり、多くの場合道場は、村に住む「道場守」によって維持管理されていた。その道場守に対して県は、正規に寺に所属するか、脱衣蓄髪して民籍に入るかの選択を迫り、道場も廃寺の対象にしたことから、宗教施設としての存続の危機に直面することになった。

足羽県地図

また明治5年3月から政府に教部省が置かれて、神官・僧侶を「教導職」として採用し、「教導職」を通じて敬神愛国、天理人道、皇上奉戴・朝旨遵守を説かしめ、国民教化を行なおうとした際に、たとえば足羽県(あすわけん:越前国北部)では僧侶による説教を禁止してしまっている。

以上の二点が、真宗の僧侶や門徒が不満を持つに至った理由と伝えられている。

『福井県史』の解説がわかりやすいので、再び引用させていただく。

天皇の絶対権威のもとに、西洋文明を範とする合理主義を唱える『開化』の立場からは、極楽往生という来世への安心を信仰の核とした真宗門徒の生活態度こそ、まったく否定すべき『頑民』『愚民』の『弊習』にほかならなかった。しかも、真宗門徒の間では法談・説法などの日常的な信仰活動がさかんであったことが、いっそう非難の的を大きくする結果を招いた。二十三年にまとめられた『福井県農事調査書』でも、真宗がさかんな坂井郡の農民について、『彼ノ約束説(極楽往生)ニ拘泥シ、甚タ活発ノ気象ニ乏シク……勤倹勉励ノ風、頗ル薄ク、夜業等、近時ニ至ルマテハ殆ント絶無ノ姿ナリシ』と評価を下し、真宗に帰依する生活態度を農業生産の向上を阻害する『欠点』としている。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-05-01-05.htm


撮要新聞

当時この地域で発行されていた『撮要新聞』には、仏教や僧侶の活動を公然と批判し、排仏の論調を鮮明にしていたという。このような論調は、政府や県の意向を反映したものではなかったか。
『福井県史』に、同紙のこんな記事が紹介されている。
「『数百年来、仏法蔓延』した越前において、僧侶は『此有難キ文明開化ノ秋ニ当テ……徒ニ愚民ヲシテ、益々愚ニオトシ入レ』」るものとして、特に勢力を保っていた真宗と日蓮宗に避難の矛先をむけた。」

明治政府は、西洋文明を模範としてわが国の西洋化を推進しようとしたのだが、その目的を達成するためには、仏教の教義や人々の信仰生活などは排除すべき存在であったのだろう。
教導職の石丸八郎は『耶蘇教』を奉じていたわけではなかったのだが、彼が故郷に戻って伝えようとした西洋的な考え方は、熱心な浄土真宗の僧侶や門徒が受けいれられるものではなかったようである。

明治維新後洋風化が進み、暦も太陽暦に改められ、税制も大幅に変わるなど人々の生活が一変し、伝統的な生活が壊されていくことの不安もあったと思うのだが、そんななかに石丸八郎が教導職として赴任してきて、さらなる西洋化を進めようとし、寺の説教までもが禁止されてしまった。
「(石丸八郎が)耶蘇ヲ勧ムルナリ」という噂が広められたのは、人々を糾合させるための方便であった可能性が高いと考えるのだが、彼が推し進めようとしたことは真宗の僧侶や門徒たちの伝統的な信仰生活を冒すものであったことは確実である。だからこそ、人々は村ごとに『南無阿弥陀仏』の旗を立てて、立ち上がったのであろう。
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【ご参考】
明治時代の初期についてこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html

明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html

江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html

明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-399.html

白峰地区の林西寺に残された白山下山仏と、破壊された越前馬場・白山平泉寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-458.html


神仏習合の聖地であった竹生島で強行された明治初期の神仏分離と僧侶の抵抗

長浜市の湖岸から6kmほど先に、周囲2km、面積0.14㎢の竹生島が琵琶湖に浮かんでいる。琵琶湖では沖ノ島に次ぐ大きな島で、ここに西国三十三所観音霊場第三十番札所の宝厳寺と都久夫須麻(つくぶすま)神社がある。
この島へは、長浜港から琵琶湖汽船の船に乗って25分程度で到着するのだが、余程風の強い日には竹生島港に接近することが危険なためにたまに欠航することがあるのだそうだ。この日は風が強くて、竹生島港の波が強くて接近できない場合は引き返すことがあるとの条件付きで長浜港を出港したが、予定通りの時間に竹生島に到着してホッとした。

竹生島クルーズ舟

島の観光のレポートをする前に、竹生島の歴史を振り返っておこう。
宝厳寺のホームページには、聖武天皇の命により神亀元年 (724)に行基が竹生島を訪れ、弁財天を祀ったのが起源と記されているのだが、承平元年(931)に成立した『竹生島縁起』には、行基の来島は天平十年(738)で、小堂を建てて四天王を祀ったのが始まりだと書かれているという。同縁起によれば、当初は本業寺(ほんごうじ)と称し、のちに竹生島大神宮寺と呼ばれて東大寺の支配下にあったが、平安時代前期10世紀頃から比叡山延暦寺の傘下に入り、それ以降この島は天台宗の僧の修行の場となったそうだ。
弁財天というのは仏教の守護神の一つであり、音楽・弁才・財福・知恵の徳がある女神であるが、この島が観音と弁財天信仰の島として栄えたのは平安時代末期頃からだと推定されている。

竹生島祭礼図
【竹生島祭礼図】

上の画像は東京国立博物館蔵の『竹生島祭礼図』で、室町時代に描かれた宝厳寺の蓮華会(れんげえ)という雨乞いの祭りの絵図である。

岩金山大神宮寺竹生島絵図
【岩金山大神宮寺竹生島絵図】

この絵には鳥居がないのでどこに都久夫須麻神社があるのかと誰でも思うところなのだが、江戸時代に描かれた『岩金山大神宮寺竹生島絵図』には建物の名前が記されている。この絵図を見ると、現在の都久夫須麻神社の本殿は「本社」と書かれていて、調べると昔はこの建物に宝厳寺の本尊である弁天像が安置されていて「本堂」あるいは「弁天堂」とも呼ばれていたようだ。

現在は宝厳寺都久夫須麻神社の二つが併存しているのだが、このように区別されるようになったのは明治初期の神仏分離令以降のことであり、それまでは竹生島では神仏習合の信仰が行われていた。そもそも明治初期の竹生島には「都久夫須麻神社」という名の神社が存在しなかったようなのである

『明治維新 神仏分離史料 第二巻』に所収されている「竹生島における神仏分離」という論文を紹介しよう。
文中の妙覚院とは宝厳寺の代表的な塔頭寺院で、覚以はその寺の住職である。当時の竹生島には妙覚院、月定院、一乗院、常行院があるのみで、専業の神職は存在しなかった。
また権大属(ごんだいさかん)というのは年給俸禄50石程度の役人で、知藩事の1割程度の年俸であったようなのだが、明治初期にはこのクラスの役人が寺院の生殺与奪の権限を有していたことを知るべきである。

明治2年 地方の職官表
【明治二年 地方の職官表 http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J069.htm 】

「明治二年某月、大津県庁より竹生島役者を召喚す。妙覚院住職覚以出頭す。
権大属田中久兵衛立会し、覚以に告げて曰く、『其の島に延喜式内都久夫須麻神社と申す神社のあるはずなり*。しかるに未だその届けもこれなく、甚だ不都合の至り。ついては、その島の縁起・古記等の写しを製し、早々差し出されるべく、なお口碑等もこれあり候わばせいぜい取り調べの上至急差出すべし。』
これにより覚以帰島のうえ、縁起二巻、儀軌一巻、並び古記集一冊を写して持参出頭の上、田中県属に面会し、之に白して曰く。『古記集内に貞永元年焼失勧進記の内に弁財天、島守大明神、小島権現の三社を書するのみにて、都久夫須麻神社と称する社殿は記さざるも、延喜式に都久夫須麻神社の社号記載あるを以て、島内に都久夫須麻神社とすべきものを考えれば、恐らくは島守大明神、小島大権現の内ならん。しかれども、現今にては確乎としてこの社なりと申し難し。』」(『明治維新 神仏分離史料 第二巻』p.544~545)
*延喜式:延長五年(927)にまとめられた『延喜式』巻九・十に、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧 (『延喜式神名帳』)があり、近江国の最後に「都久夫須麻神社」の記載があることを指している。

そしてその二年後に再び覚以が呼び出されて、次のような命令を受けている。
「明治四年二月に至り、更に呼び出して、山田権大属立会いの上、先に差出せるところの御宸翰縁起に五ヶ所の付箋を為し、之を示して曰く。『この如きの理由あるを以て、今般弁財天を浅井姫命(あざいひめのみこと)とし、弁財天社を以て、都久夫須麻神社とすべき』旨の仰せ出されなりと。
 覚似曰く、『これ一嶋の大事に関す。拙僧の独断にては御請け致し難し。かつ御口達のみを承りて引取りも、島内の僧侶は之を信ぜず。故に帰島の上、一山へ相示すべき証拠を御下付ありたし。』これにより山田属は、…左の如き達書を渡せり。

浅井郡竹生島役者
竹生島弁財天社、自今都久夫須麻神社と改称仰せ出されるべく候こと
明治四年辛未二月                    大津県庁印」(同上書p.545)

この命令に宝厳寺の僧侶たちは驚愕し、県庁に嘆願しても埒が明かず、本寺である総持寺とともに願書を奉呈することとなったのだが、この時の山田権大属の言葉は恫喝以外の何物でもなかった。

「今般竹生島弁財天を都久夫須麻神社として崇敬なされたく思召しにて、御達になりたるものなり。夫れを彼是と申せば、朝敵同様なり、明治初年4月阪本山王の馬場にて山王社の仏体仏器等を焼き捨てたるともあれば、万一左様の事に相成らんにも限らず、ここを能々考慮すべし。たとえ白きものを黒きと被仰出候共、朝廷よりの仰を背くとは出来ず、その方らさほどまでに仏法を信ずるなれば、元来仏法は天竺より来たりし法なれば、天竺国に帰化すべし。今県庁より達する通り御受けせざれば、如何の御処置に相成り候やも計りがたし。自然焼払などになれば、如何に致すや。」(同上書p.549)

「明治初年4月阪本山王の馬場」の件とは、日吉山王権現*の社司でもあり神祇官神祇事務局権判事でもあって神仏分離令に関与した樹下茂国が、日吉山王権現の仏像・仏具・経典などすべてを取り除いて焼き払ったことをさしている。この事件については以前このブログで記したので繰り返さないが、興味のある方は次のURLを参照願いたい。
*日吉山王権現:現在の日吉大社(滋賀県大津市坂本)
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html

総持寺と妙覚院は、これ以上抵抗して宝厳寺の貴重な仏像などが焼き払われてはたまらないと考え、「また時を持て上願することにして、数行の涙とともに御受する」しかなかった。

竹生島マップ

とはいいながら弁財天像は仏像であるのでこれを寺の管理とすることをその後も強く主張し、かくして弁財天社から本尊の弁財天像が取り払われて取敢えず観音堂に移されたのち妙覚院に仮安置されることとなり、弁財天社は名前を変えて都久夫須麻神社の本殿となり、そのたるに常行院覚潮は復飾して神勤することになったという。

ところで、『神仏分離史料』には「都久夫須麻神社」の名は竹生島では忘却されていたと記されているのだが、文化二年(1805)に出版された『木曽路名所図会 巻一』には、竹生島について次のように記されている。
「浅井郡湖中にあり。…長浜より六里。
 本社弁財天女 天降天女と号す。長立像七寸三分。一説に行基大士の作という。[延喜式] 都久夫須麻神社…」
と、この書物では弁財天堂を延喜式の都久夫須麻神社に比定している。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959914/76

同様な見解は享保十九年(1734)に記された『近江国輿地志略 巻之八十七』にも出ていて、竹生島神社の項には
当社は【延喜式】の神名帳に、いわゆる近江国浅井郡都久夫須麻神社と是なり。…
 嗚呼神道は我国の道なり、神社を以て仏寺に混ずるのみにあらず、神を以て仏とす。付会の甚だこの上なかるべし
。…」
と竹生島の神仏習合を批判している。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879446/148

総持寺と妙覚院は、弁財天堂が延喜式の都久夫須麻神社であるとする説があることぐらいは知っていた可能性が高いと思うのだが、竹生島の観光客の大半が弁財天と観音堂の参拝を目的に訪れていることや、当時の竹生島には僧侶しかいなかったことから弁財天をなんとしてでも寺側の管理下に置いて存続させようと努力したことは当然のことだと思う。

一方大津県は、弁財天を浅井姫命として都久夫須麻神社の御神体にしようとしたようなのだが、そもそも浅井姫命とはどういういわれのある神様なのだろうか。

奈良時代の初期に編纂された『近江国風土記(逸文)』に竹生島の由来について記されている部分がありそこに浅井姫がでてくる。Wikipediaに原文の読み下しがでているので引用しておこう。

「また云へらく、霜速比古命(しもはやひこのみこと)の男(こ)、多々美比古命(たたみひこのみこと)、是(こ)は夷服(いぶき)の岳の神といふ。女(むすめ)、比佐志比女命(ひさしひめのみこと)、是は夷服の岳の神の姉(いろね)にして、久恵(くえ)峯にいましき。次は浅井比咩命(あざいひめのみこと)、是は夷服の神の姪にして、浅井の岡にいましき。ここに、夷服の岳と、浅井の岡と、長高(たかき)を相競いしに、浅井の岡、一夜に高さを増しければ、夷服の岳の神、怒りて刀剣(つるぎ)を抜きて浅井比賣(ひめ)を殺(き)りしに、比賣の頭(かしら)、江(うみ)の中に堕ちて江島(しま)と成りき。竹生島と名づくるはその頭か。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

伊吹山と浅井岡の二つの山が高さを競い合って、浅井岡が一夜にして急に高くなったので、伊吹山の神が怒って剣で浅井岡の神(浅井姫)の首を切り落とした。それが琵琶湖に落ちて竹生島になったという伝承が存在するのである。

このような伝承に基づいて、かなり以前から浅井姫命が竹生島の神として祀られていたようだ。
冒頭で紹介した宝厳寺のホームページでは、行基がこの寺を開基したころから弁財天が祀られていたと記されているのだが、竹生島に関する記述で文献上最初に『弁財天』という文字が現れるのはもっとあとの事である。

竹生島弁才天信仰と名宝

佐々木孝正氏の『竹生島における神仏分離について』という論文にはこう解説されている。
「竹生島弁財天は、応永二十二年撰述の『竹生島縁起』に、延暦七年(788)、最澄が比叡山の仏教守護のため祀ったのにはじまると伝えるが、確かな文献上の諸県は、『江談抄』*に『島主弁財天』とみえるのがそれである。十二世紀初頭には、浅井姫命にかわり弁財天が島主であると語られるに至るのであり、両者の習合がすすんでいたことを示している。おそらく十一世紀までには、竹生島の住僧により、弁財天が浅井姫命の本地として唱え出されたものであろう。」
*『江談抄』:平安時代(院政期)の説話集。長治から嘉承にかけて(1104~1108年)成立したと考えられている。
http://jairo.nii.ac.jp/0541/00002211

竹生島 宝厳寺 鳥居

竹生島の港に着いて船から降りて入島料400円を払って島に入ると、二つの鳥居をくぐることになる。一つ目の鳥居の扁額には都久夫須麻神社の別名である「竹生島神社」と書かれていて、二つ目の鳥居には「厳金山(がんこんざん)」と書かれているが、これは「宝厳寺」の山号である。寺に鳥居があることはたまに見かけることがあるが、扁額に寺院の山号が書かれていることはあまり事例がないのではないか。

竹生島 宝厳寺本堂

急な165段の階段を登りきると、すぐ左に宝厳寺本堂(弁財天堂)がある。寺内最大の建物で、昭和十七年(1942)に平安時代様式で新築されたものであるが、この建物が完成することで明治四年(1871)以来仮安置されていた本尊弁財天像をようやくしかるべき場所に安置することができたのである。
我が国の三大弁財天は竹生島弁財天と宮島弁財天、江ノ島弁財天なのだが、江ノ島は明治初期に完全に神社に変質してしまい、竹生島は宮島と同様に大きな影響を受けながらも、寺院としての法灯を守ったということになる。

竹生島 宝厳寺 三重塔

弁財天堂の向かいに三重塔が建っている。冒頭で紹介した『竹生島祭礼図』には三重塔が描かれているが、この塔は江戸時代初期に焼失してしまい現在の三重塔は平成十二年(2000)に約350年ぶりに再興されたものである。


三重塔の近くにある宝物館を見学した後、階段を下りて宝厳寺の唐門に向かう。
唐門は宝厳寺の本尊の千手観音立像を祀る観音堂(国重文)の入り口にあり、檜皮葺で前後に唐破風をもち、随所に極彩色の彫刻や飾り金具が施された建造物で国宝に指定されているのだが、残念ながら唐門も観音堂も現在保存修理が行われており、覆屋の中で一部を観ることが出来るだけだ。工事が完了するのは来年末になる予定だが、完成したら豪華絢爛な桃山様式の建物を是非見に行きたいものであるし、秘仏の千手観音立像も、チャンスがあればいちど鑑賞したいものである。

竹生島 宝厳寺 舟廊下

観音堂を抜けると舟廊下がある。この廊下の終点までが宝厳寺の建物で、唐門・観音堂・舟廊下ともに慶長八年(1603)に豊臣秀頼が豊国廟から移築したものと言われている。
舟廊下屋根の梁には「国宝」と書かれているが、現在は国の重要文化財指定となっている。
昭和二十五年(1950)に文化財保存法が施行された以前は国宝と重要文化財の区別はなく、国指定の有形文化財はすべて「国宝」であったのだが、その頃の表示が今もそのまま残されている。

竹生島 都久夫須麻神社本殿

舟廊下を通り抜けると国宝の都久夫須麻神社本殿である。
神社のホームページには「今から450年前、豊臣秀吉が寄進しました伏見桃山城の束力使殿を移転したもの」とあるが、慶長七年(1602)に豊臣秀頼が豊国廟の遺構を移築して改修したという説もあり、どちらが正しいかはよくわからない。
内部の拝観は中止されているが、内部の柱や長押は総漆塗りで、ところどころに飾金具が施され、襖絵や天井画は狩野光信が描いたものと伝えられている。長浜市のホームページに内部の写真が掲載されている。
http://www.city.nagahama.lg.jp/0000000208.html

竹生島 都久夫須麻神社 竜神拝所

拝殿には琵琶湖に面し突き出たところに竜神拝所があり、琵琶湖の絶景を楽しむことが出来る。また、ここでは「かわらけ投げ」が有名で、2枚の土器(かわらけ)を300円で購入し、名前と願い事を書いて、湖面に突き出た宮崎鳥居に向けて投げて、かわらけが鳥居をくぐれば竜神様により願いが成就するというので挑戦してみたのだが、風に煽られて2枚とも失敗してしまった。地表がなんとなく白っぽく見えるのはすべてかわらけで、随分多くの観光客がチャレンジして失敗したことがよくわかる。

竹生島 小島

竹生島に入ってから75分で竹生島港に戻らなければならないので探索することは出来なかったが、竹生島の東北に小島という島がある。かつてはこの島を拝する拝殿が存在したという。明治の神仏分離を申し渡された際に、総持寺と妙覚院はこの小島が延喜式に記された都久夫須麻神社であると反論したのだが、その可能性はかなり高いと思う。

小島明神

いくら立派な建物であるとしても、都久夫須麻神社本殿は豊国廟の遺構を移築したものであり、神社の本殿を建てるのに古木を用いて、極彩色に装飾することは考えにくい。一方、永禄十年に建築されたという小島権現の棟札には清浄なる白木が用いられていることが明らかだという。『岩金山大神宮寺竹生島絵図』には小島が描かれ、その島に『小島明神』とかかれた社殿があり、竹生島側に拝殿があることが確認できる。

『明治維新 神仏分離史料 第二巻』にはこう記されている。
明治初年大津懸の達書等も、皆この弁財天の隆盛なるに眼眩み、当時流行せし唯一神道主義に心惑はされ、厳然たる神社在るにも拘はらず、弁財天の古堂を以て、恐れ多くも都久夫須麻神社の神霊を祭るに至れりなり」(同上書 P.578)

竹生島にどのような道があるのかわからないが、今度来たときは小島の見えるあたりを散策してみたいものだ。

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【ご参考】
このブログで明治初期の廃仏毀釈について多くの記事を書いてきました。一部の記事を紹介しますので興味のある方は覗いてみてください。

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

明治期の危機を乗り越えた東大寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-84.html

明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-167.html

奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-176.html

廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

伊勢の廃仏毀釈と伊勢神宮の式年遷宮に多大な貢献をした尼寺のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-314.html

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html






仏教伝来から神仏習合に至り、明治維新で神仏分離が行われた経緯を考える

前々回の記事で竹生島弁財天のことを書いた。
明治初期の神仏分離令が出るまではわが国のほとんどの社寺が神仏習合であったのだが、そもそも神仏習合はどういう経緯ではじまり、「本地垂迹説」が唱えられたのにはどのような背景があったのだろうか。

仏教遭難史論

以前何度か紹介した羽根田文明氏の『仏教遭難史論』(大正14年刊)の記述がわかりやすいので紹介したい。

惟神(かんながら)の道、すなわち神道は宗教ではなくただ祖先崇拝の人道で単純なるものであるが、仏教は之に反して世界的大宗教であるから、数千巻の経論あって美術工芸より深甚微妙の哲理を説き八萬四千の法門あって、国家の経営、社会の事業すなわち開拓、交通、文学、技術、医方、採集、衛星、救済等、あらゆる人生必須の要件、一も備わらざる事なければ、神道とは到底同日に論ずべきものでない。故に仏教渡来以後国内に伝播して、有識者の仏教教理研究する世となっては、おのずから仏教を重視するの深き、神道を軽視する傾向の生ずるのは自然の趨勢である。ここにおいて具眼者は国人が固有の神道を軽視するの弊の生ずるのは、国の不祥であると見たる卓見家、行基、伝教、慈覚、弘法らの諸師が、邦人の仏教を重視するあまり神道を軽視する弊風を矯正せんことを企てられた
 そは天台、法華経の本迹二門の説に依り本地垂迹説を立て、仏を本地とし神は本地の仏の垂迹である。本迹二門異なりと雖も、ともに一実の妙理である。ゆえに本地の仏を尊信するもの、また垂迹の神を敬すべしと言いて仏を信ずるとともに神を敬せよと教えて時弊を救われた。これが一実神道である。また真言の金胎両部の説に由り、仏を金剛界、神を胎蔵(たいぞう)界とし、金胎両部異なりと雖も、其の体同一なるがゆえに神仏また同一体である。ゆえに仏を奉ずるもの、また神を敬うべしと言いてまた神道を(たす)扶けられた。これが両部神道である。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/13

慕帰絵詞 巻七
【慕帰絵詞(14世紀) 玉津島の垂迹のしるしとされた古松に祈る僧侶】

仏教ばかりが重視されて神道が軽視されることがないようにと本地垂迹説の考え方が成立し広められたのだが、時代が進むにつれて仏教が重んじられるようになっていったという。羽根田氏はこう解説しておられる。

皇室の仏教御崇信の深まるにしたがい、一般国民の仏教に帰向すること、さながら草の風に靡くがごとく、終には朝廷の御儀式をも、仏法の式に依りて行わるる程の状態であるから、勢いの趨(おもむ)くところ、神道は仏教の次位に置かれ、神職は僧徒の下風に立つに至った
ここに於いて僧徒はその勢いを憑(たの)み、その機に乗じて自己の理想を拡充して、これを事実上に表現せんことを企て、終に権現号を公称するに至った。その権現とは字のごとく、本地の仏が衰弱して、権(か)りに神と現われたという意義である。…
 また神名に直接仏名を称えたのもある。即ち八幡大神を八幡大菩薩と言い、祇園大神を祇園牛頭天王と言った。仏徒はなおこの仏名で飽き足らず、これを実際上に公示せんとて神社境内に本地堂を設け、本地仏を安置して神の本地の仏なることを表明するに至った。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/13

さらには僧徒が神を勧請する事例も少なくなく、石清水八幡宮が宇佐八幡宮から勧請したのも僧侶であったという。羽根田氏の解説を続ける。

終には神に、社僧の別当職を置き、僧徒をして神社に奉仕させることになった。即ち石清水八幡宮に、法蔵坊はじめ数戸の社坊あり、北野天満宮に松梅院はじめ十二の社坊があった。その他祇園、多賀、山王、日光、宮島、金毘羅、彦山、高良山、白山をはじめ、大社はおおむね社僧別当であった。尤も各神社に社家の神主もあったけれども、みな社僧の下風に立ち掃除、または御供の調達等の雑役に従い、神社について何等の権威もなかったのである。然れども伊勢神宮始め、その他に社僧なくして神主の神仕する神社もあったが、…少数であった。
 社僧の神社に奉仕するのは、僧徒が神前で祝詞を奏するのでなく、広前に法楽として読経したのであるから、社殿に法要の仏具を備えつけるは勿論、御饌も魚鳥の除いた精進物であった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/15

続日本後記

なぜ全国の神社に仏具が供えられて読経までが行われるまでになってしまったのだろうか。羽根田氏によると、神社で経典を読むことを命じる勅書が何度も下されているのだという。一例として『続日本後紀』の仁明天皇承和三年*十一月の詔が著書に紹介されている。
*承和三年:西暦836年
「勅す、神道を護持するは、一乗の力に如かず、禍を転じ福を作(な)す。また修繕の功に憑る。宜しく五畿七道に僧、各一口を遣し、毎国内の名神社に、法華経一部を読ましむべし。…」

僧侶を遣わしてお経を読むこととなると、当然のことながら神社にも仏像や仏具が必要になってくる。時代が下がるとともに僧侶が強くなっていき、神仏分離令が出される前の神社の状態は以下のような状態になっていたという。

鰐口
【鰐口】

「かかる状態であるから、ついにはかの八幡宮の如く、神殿内に仏像を安置して、これを神体とする神社が多くあった。大社が既にこの如くである故に、村落の小社は概ね仏像を神体にしたのである。而して其の像は、弥陀、釈迦、薬師、大日、観音、地蔵、不動などであった。ただ神殿内に仏像を祀るのみでなくこれを外面に表示して、またかの八幡宮の如く、社殿の扉の上部に、弥陀、観音勢至、または釈迦、文殊、普賢の三尊像の額を掲げたる神社もあって、現に日吉山王権現の如きは、七社ともに神扉の上部に、円形の額面の直系三尺余に、弥陀三尊の雲に乗って来迎する像の浮彫に、地板は青色で、輪廓(ふち)は雲形の彫物で、極彩色のが掲げてあったのを実見したのを記憶している。
 八幡宮、日吉山王の大社が、既にかくの如くであったから、なお他にもこれと同様の体裁の神社も多くあったであろう。而して八幡、山王、愛宕、祇園、多賀、北野天満宮などの各神社は、神前に鈴はなく、鰐口に鐘の緒の下げであったのも実見した。かかる状況であるから、社頭の構造もおのずから伽藍風となり、堂作りの社殿に極彩色を施し、丹塗りの楼門や、二重、三重、五重の塔のある神社もあって、純然たる仏閣の如くであったのが事実である。故に神社の実権は全く僧徒の占領に帰し、神主はその下風に立て、雑役に従事するのみ、何等の権力もなかったから、神人は憤慨に堪えられず、僧徒に対して怨恨を懐き、宿志を晴らさんとすれども、実力なければ空しく涙を呑み、窃(せつ)に時機の来らんことを、待っておった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/16

柏原八幡本殿
【柏原八幡宮には今も鐘楼と三重塔が残されている】

本地垂迹説は、人々が仏教を重視するの余り神道を軽視する弊に陥らないようにと教え、そうすることで神道を守ろうとする考えであったのだが、いつの間にかご神体までもが仏像に変わってしまい、社殿も仏閣のようになっていったという。

しかるに僧徒が勢威に任せて、漸次に神道の色彩を奪い、本地堂に仏像を安置しながら神体を仏像にし、社殿を仏堂に模造し、神殿に仏像の扁額を掲げ、鈴に代わるに鰐口を以てし、而して僧徒が法衣して神殿に読経してこれを神祭というに至っては、実に神仏混交、社寺混同して、本迹二門の真意も、却って破滅するに至ったのである」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/16

なぜ明治初期に激しい廃仏毀釈が起こったか長い間疑問に感じていたのだが、羽根田氏の著書を読んでようやく納得できた次第である。明治初期に激しい文化破壊活動が行われたことについては仏教側にも責任の一端があったのだと思う。

江戸幕府は仏教を優遇してきたのだが、そのことが多くの僧侶の堕落を招いたことは疑いがない。その証拠に平田篤胤よりもかなり以前から仏教を厳しく批判する書物が多数出ている。

明治文明綺談

菊池寛は著書の『明治文明綺談』で、こう解説している。

「江戸時代ほど僧侶攻撃論の栄えた時代はなく、まず儒家により、更に国学者により、存分の酷評が下されている。
堂宇の多さと、出家の多きを見れば、仏法出来てより以来、今の此方のようなるはなし。仏法を以て見れば、破滅の時は来たれり。出家も少し心あるものは、今の僧は盗賊なりと言えり。』(大学或問*) 

荻生徂徠も、
今時、諸宗一同、袈裟衣、衣服のおごり甚(はなはだ)し。これによりて物入り多きゆえ、自然と金銀集むること巧みにして非法甚し。戒名のつけよう殊にみだりにて、上下の階級出来し、世間の費え多し。その他諸宗の規則も今は乱れ、多くは我が宗になき他宗のことをなし、錢取りのため執行ふたたび多し』(政談)
と、その浪費振りと搾取のさまを指弾している。」
*大学或問:熊沢蕃山の著した、経世済民論の書である。貞享4年(1687)成立
**政談:荻生徂徠が8代将軍徳川吉宗に呈した幕政に対する意見書。全4巻。成立は徂徠が吉宗に謁見を許された1727年前後と考えられる。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/58

徳川光圀
【徳川光圀】

仏教を批判したのは思想家だけではない。会津藩の保科正之、水戸藩の徳川光圀及び徳川斉昭など名君と呼ばれた藩主も盛んに仏教を排撃したのである。

仏教を擁護してきた江戸幕府が倒れると、明治新政府はかなり早い段階から仏教を叩こうと動いている。普通に考えて、政権の誕生期であり権力基盤が不安定な段階においては、どんな政府においても、国民から強く反対されるような施策が強行出来るはずがなく、むしろ国民が評価するような施策を優先して実行するはずである。少なくとも明治維新を推進した中心メンバーにとっては、仏教勢力を叩くことは多くの国民から支持されると考えていたのではないだろうか。

明治政府は慶応四年(明治元年)三月十三日に神祇官再興を布告し、次いで三月十七日には神祇事務局より神社における僧職の復飾(俗人に戻ること)を命じ、さらに三月二十八日には次のような命令を出している。

「一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰 勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地抔と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、右之通被 仰出候事」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/s_tatu.htm

これが『神仏分離令』で「権現」とか「牛頭天王」など、神号を仏号で称えている神社はその由来書を提出すること、また仏像をもってご神体としている神社は今後改めること、さらに本地仏ととして仏像を神社に置いたり、鰐口や梵鐘、仏具などを社前に置いている場合は早々に取り除けと命じているのだ。そしてこの命令が出た4日後の四月一日に日吉天王社に武装神官*が進入し、仏具や教典などを焼き捨てている。
*神仏分離令に関与した神祇官神祇事務局権判事であり日吉山王権現の社司であった樹下茂国が、最初に行われた廃仏毀釈を主導した。

当時は、全国の大半の神社でご神体が仏像にされていて、境内には仏教的なものが数多く存在した。それらを「早々に取り除け」というのは、建物ならば、破壊するか、移転するか、社殿として使うしかないだろう。仏像や仏具などは多くが焼かれたり、溶かされたり、棄てられることになったのだが、同時に大量の金属の使い道を考えることが不可欠となる。

薩摩天保
【薩摩天保】

以前このブログでレポートした通り、他藩に先んじて幕末に廃仏毀釈を実施した薩摩藩では、梵鐘などを溶かして大量の「薩摩天保」と呼ばれる贋金を密鋳して軍資金を捻出した。島津久光の側近で天保銭の密鋳に関与した市来四郎の証言が羽根田氏の著書に紹介されているが、それによると、徹底的に神仏分離を行った結果、神社のご神体はほとんどすべてが仏像であったと書いている。

「寺院廃毀の後、神社の神仏混淆してあるのを分離することが至極面倒であった。各地巡回して、神社ごとに検査の上仏像仏具を取りよけたが、全く仏像を神体にしたるものがあった。これらは新たに、神鏡を作って取り替えたが、霧島神社をはじめ、鹿児島神社なども仏像で、即ち千手観音であった。三個国大小、四千余の神社を一々検査したのに、大隅国、々分郷のなげきの森という古歌にも見ゆるその神社の神体が古鏡であった。神仏混合でなかったのは、ただこの一社だけであった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/53

薩摩藩でこんな状態であったので、どこの藩でも大量の梵鐘や鰐口が集まることとなる。
『明治維新 神仏分離史料 第一巻』に、寺や神社の多い京都の神仏分離についてこんな記録があるので紹介したい。

昔の四条大橋
【昔の四条大橋】

京都四条の鉄橋の材料は、仏具類が破壊せられて用いられたとのことである。鉄橋は明治六年に起工し、翌年三月に竣工し、同十六日に開通式が行われた。総費額一万六千八百三十円で、祇園の遊郭で負担したとのことであるが、時の知事長谷信篤は、府下の諸寺院に命じ、仏具類の銅製の物を寄付せしめた。古い由緒のある名器の熔炉に投ぜられたるものが少なくなかったということである。当時廃仏毀釈の余勢が、なお盛んであったことがわかる。
洛陽四条鉄橋御造架につき献上書云々とある文書が伝わってある。その一に紀伊郡第三区深草村寶塔寺、古銅器大鰐口丈八寸、縁二尺、目方十六貫八百目、銘に深草寶塔寺為覚庵妙長聖霊菩提、慶長十七年七月二十日、施主中村長次とあったことなど見える。この類の物が今の鉄橋になったのである」(『明治維新 神仏分離史料 第一巻』p.384)

四条大橋は幕末の安政三年(1856)に造られた橋が明治六年(1873)の洪水で破壊されてしまったために再建されることとなったのだが、全長90m以上もある大橋を造るために、鋳潰された梵鐘や鰐口はとんでもない量であったことだけは確実なことである。
その後、市電の開通に伴う道路拡張のためこの橋は大正二年に架けかえられ、その後水害で再度架けかえられることになり昭和17年に完成したのが現在の四条大橋なのだが、古い寺や神社の多い京都においても、明治初期に多くの文化財が失われたことを知るべきである。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

古き日光の祈りの風景を求めて~~日光観光その1
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但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて
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古代からの景勝の地であり和歌の聖地である和歌の浦近辺の歴史を訪ねて
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滋賀県に残された神仏習合の景観などを楽しんで~~邇々杵神社、赤後寺他
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-558.html

全寺院を廃寺にした薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期より始まっていたのではないか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-342.html

江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

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