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幻の映画、「氷雪の門」

8月20日、霧の深い早朝であった。突如ソ連艦隊が現われ、真岡の町に艦砲射撃を開始した。町は紅蓮の炎に包まれ、戦場と化した。この時、第一班の交換嬢たち9人は局にいた。緊急を告げる電話の回線、避難経路の指示、多くの人々の生命を守るため、彼女たちは職場を離れなかった。局の窓から迫るソ連兵の姿が見えた。路上の親子が銃火を浴びた。もはやこれまでだった。班長はたった一本残った回線に、「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」と叫ぶと静かにプラグを引き抜いた」(映画「氷雪の門」パンフレットより)

氷雪の門パンフ

「真岡というのは樺太西海岸にある地名で、この映画は、最後まで通信連絡をとり、若い命をなげうった真岡郵便局の電話交換手の乙女の悲劇を描いた真実の物語である。

8月8日に突如として対日宣戦布告したソ連は、9日には南樺太に侵入し、戦車を先頭に南下を続け次々と町を占領していく。8月15日の終戦の日になってもソ連は攻撃の手を緩めず、日本軍が何度も「国際法違反だ」と停戦を申し入れても「負けた国に国際法などない」と拒否され、兵器を捨てた無抵抗の兵士は銃殺される。

そして8月20日早朝、真岡の沿岸に突如ソ連艦隊が現われ、艦砲射撃を開始。上陸したソ連兵は町の角々で機銃掃射を浴びせ、一般住民を見境無く撃ち殺して、町は戦場と化していく…

樺太には40万人以上の日本人がいたが、映画のパンフレットによると「終戦の混乱期に10万人余の同胞を失った」とある。「九人の乙女」の話は聞いたことがあるが、樺太でこんなに深刻な被害があったことは映画を見て初めて知った。
当時のことを調べると、8月22日にはソ連軍は樺太から引揚者を乗せた船までも潜水艦で攻撃して二隻沈没させ、一隻を大破させ1708人が亡くなっている。
どうやら映画よりも現実の方がはるかに酷かったらしいのだが、非戦闘員を虐殺した明らかな国際法違反の史実がなぜ世に知られていないのであろう。ソ連軍の攻撃は樺太全土が占領される8月25日まで続いたとのことだ。

映画「氷雪の門」は昭和49年に完成し公開直前にソ連の圧力により葬り去られて、ずっと公開されなかった映画であるが、最近になってDVDが作られて各地で細々と上映会が開かれているようだ。私はインターネットで購入して鑑賞したが、見ていて何度も涙が出て止まらなかった。

興味のある人は、この映画の助監督であった新城卓氏のHPからDVDを購入することができる。
http://www.shinjo-office.com/hyosetsu.htmlしかし、新城卓氏が語っているように、映画よりも悲惨な現実があった。次のサイトを読めば、樺太の日本人がどのような目にあったかがわかるし、この映画の上映ができなかった新城氏の無念さがひしひしと伝わってくる。
http://sakurakaido.kt.fc2.com/shinjo.htm

たとえ、通史から消されたものであっても、長く語り継がれるべき史実があるのだと思う。

250px-Hyousetsu_no_mon.jpg

映画の題名である「氷雪の門」は昭和38年に北海道稚内市稚内公園に建てられた、樺太で亡くなった方の慰霊碑の名前である。同じ公園内にこの映画の主人公である「九人の乙女の碑」も建てられている。一度行ってみたいものである。

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占領軍の検閲は原爆を批判した新聞社の処分から始まった

昭和20年(1945)8月6日、米国は人類史上初の原子爆弾を広島に投下し、20万人以上の罪のない市民が虐殺された。

原爆ドーム

8月8日にソ連は日ソ中立条約を一方的に破って対日宣戦を布告し、満州・北朝鮮・南樺太・千島列島の侵略を開始した。
翌8月9日には米国は長崎に2発目の原爆を投下し、ここでも7万人以上の命が奪われ、この日に御前会議が開かれて、昭和天皇の聖断によって戦争終結が決まり、8月14日にわが国はポツダム宣言を受諾し、翌8月15日に昭和天皇による「終戦の詔書」が発表されて、戦闘行為を停止させた。

学生時代、太平洋戦争の終戦前後の歴史を学んだ時に、我が国に原爆が投下されたことは、早く戦争を終結させるためにやむを得なかったと説明されたのだが、釈然としなかった記憶がある。

原爆死没者慰霊碑

また、広島市の平和記念公園にある「原爆死没者慰霊碑」には「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれているのだが、この言葉にも強い違和感を禁じ得なかった。
その違和感は、「原爆を落とした側に罪はないのか」という漠とした思いから生じたものだったのだが、最近になって原爆を道徳的に批判することが、占領期におけるGHQ検閲により排除されていたことを知った。

このブログで何度か紹介した勝岡寛次氏の『抹殺された大東亜戦争』によると、そもそも占領軍の検閲は、原爆投下を批判した新聞社を処分することからはじまっているという。

「占領軍の検閲第一号となつたのは、広島長崎のかうした悲劇に対する、日本人の抗議の声であつた。九月十四日、同盟通信社は二日間の業務停止処分を命じられたが、その理由の一つになつたのが、『この爆弾は…野蛮人でなければとても使えなかった兵器である』といふ報道だつた。続いて九月十八日、朝日新聞も二日間の発行停止を命じられたが、その理由となつたのも鳩山一郎の次のやうな談話であつた。
『「正義は力なり」を標榜する米國である以上、原子爆弾の使用や無辜(むこ)の國民殺傷が病院船攻撃や毒ガス使用以上の國際法違反、戦争犯罪であることを否むことは出来ぬであろう。(九月十五日付『朝日新聞』)』」(『抹殺された大東亜戦争』p.409-410)

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このような、原爆投下を批判する論調は我が国だけでなされたのではなかった。当事者である米国でも時を同じくして現れ始めた。勝岡氏の著書p.410-411から、いくつか引用してみる。

「アメリカ合衆国は本日、野蛮、悪名、残虐の新しい主役となった。バターンの死の行進、ブーヘンバルトやダッハウの強制収容所…はどれも、われわれアメリカ合衆国の国民が原子爆弾を投下して世界中を陥れた恐怖に比較すれば、ティー・パーティのようにささやかなものに過ぎない」(原爆投下当日『タイム』誌に寄せられた投書)

「我々はこの罪を認めなければならない。10万人以上の老若男女に向けて恐ろしい武器を使い、あたかも致死量を超えたガス室に送り込むかのように窒息させ焼き尽くしたのだから。」(1945年11月23日付『ユナイテッド・ステーツ・ニュース』誌社説)

広島長崎への原爆投下は倫理的に弁護の余地はない…我々は神の法においても、そして日本国民に対しても取り返しのつかない罪を犯した。」(1946年3月6日付キリスト教会連邦協議会報告書)

このようなアメリカ国内の自責と贖罪の声は占領軍の検閲により遮断され、日本人の耳に届くことはなかったようだが、日本国内においても、わが国民が原爆を批判することは厳しく検閲されたようなのである。

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三鷹にある国際基督教大学(ICU)はアメリカのキリスト教徒が、我が国に原爆を落としたことの「反省と懺悔の念の現われ」として戦後設立されたのだそうだが、その設立の経緯すら日本国民には知らされなかった。このICUの初代学長に就任した湯浅八郎氏の講演の下線部分は、占領軍により削除されてしまった。
「私は、アメリカにおりました時、幾多の人々から、アメリカが日本の廣島、長崎に對して原子爆弾を投下したことについての、自責と謙虚から出た誠實のこもる告白を聞いたのであります、あるいは…アメリカのキリスト教會では、今度の戰爭に對する責任から、たゞ一つ日本に捧げようとする特別なる贈りものとして、キリスト教綜合大學の設立が話題にのぼっておりますのも、これはアメリカのキリスト教徒の良心的な反省と懺悔の念の現われであるのであります。」(『 同盟講演時報』第19・720号)

勝岡氏は続けて、アメリカがどういう方法をとってアメリカが非道な行為を行った事実を日本人に忘れさせたかを書いている。これは重要な指摘である。

「…次には占領軍は、南京やマニラで日本人の『虐殺』行為を捏造・強調することで、自らの贖罪意識を相殺せんとする挙に出たのである。
その典型的な事例が、有名な永井隆の『長崎の鐘』である。この書物は、カトリック教徒でもあった医師の永井が、長崎における自らの被爆体験を綴ったものであるが、長崎の原爆とは何の関係もない『マニラの悲劇』といふ百三十頁にも及ぶ連合軍総司令官諜報課提供の『特別付録』との抱き合わせで出版することを余儀なくされた。
占領軍の手になつた同付録序文はかう述べてゐる。
『…マニラ市民に加えられたこのような残虐非道な行為は、…野蛮人にもまさる蛮行だといえよう。(中略)或る一人の男が突然暴れだして、路上に行き會う誰彼を見境なしに殺して廻ったとしたら、警官は彼を摑 (つかま) えなくてはならない。これが、日本がアメリカと全世界に課した宿題であり、この無差別な殺傷行為を止め、戰爭を終結させるために、アメリカと全世界とが原子爆弾を使用せざるを得なかった所以(ゆえん)である。(中略) 日本が一九三七年盧溝橋において、また一九四一年真珠湾の謀略的奇襲において開始した戦いは、ついに日本自身にかえって、廣島、長崎両市の完全破壊をもつて終わったのである』」(『抹殺された大東亜戦争』p.411-412)

長崎の鐘

永井隆の『長崎の鐘』は当時のベストセラーになった書物で、今では「青空文庫」で誰でも読むことができる。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000924/files/50659_42787.html

この作品の中でアメリカを倫理的に批判するような文章はどこにもなく、長崎医科大での被爆体験、救護活動や長崎市内の被害状況などが科学者の目で淡々と書き綴られ、最後にキリスト教徒である永井は「ねがわくばこの浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえ」と世界の平和を祈るのだが、この作品に連合軍の諜報課がよけいな『特別付録』をつけた意図は明らかであろう。

この『特別付録』で書かれている「マニラ大虐殺事件」とは、1944年に日本軍がマニラで米軍と戦った際に山下奉文将軍はマニラを非武装地域としルソン島北部に撤退しようとしたが、海軍はマニラ死守を主張しマニラに立てこもり、その為マニラは市民を巻き添えとした戦場なって、市街戦で死んだ現地人が10万人いたと非難された事件である。この際に日本軍は玉砕しているので事実の確認の仕様がないが、日本人が虐殺したとする証言は日本人の殺し方とは考えられない方法で殺しており、またアメリカ軍も共産ゲリラと戦った際に多数のゲリラを殺戮したことは間違いがなく、アメリカが日本軍に罪を擦り付けた可能性もあり真相は闇の中だ。今はほとんど話題にあがらないことからしても、真実性はかなり薄いと思われる。

この付録に限らず、その後何度も繰り返しマスコミなどで日本軍の「悪行」があったことが伝えられ、教科書にも載せられて、一部の事件は日本人の常識となってしまっている。
占領軍が日本人に押し付けようとした歴史は、戦勝国が正しく日本人が一方的に悪いという類のものだが、実際はそんな単純なものでなかったことはこのブログで何度か書いてきたのでここでは繰り返さない。

日本人による「虐殺」行為を捏造・強調することで、自らの贖罪意識を相殺するとの考えについては、占領軍にこんな発言が残されている。占領軍の検閲を担当していたPPB(出版・演芸・放送)課長のスポールディングは、1949年2月10日付でこのように述べたという。
「ナガサキ・ヒロシマはマニラや南京で行った日本人の残虐行為と、たとえそれ以上でないにせよ、ちょうど同じくらい悪く、彼らの罪と相殺されるものである」(モニカ・ブラウ『検閲1945-1949―禁じられた原爆報道』)
この発言は、日本に『自虐史観』を拡げることがアメリカの国益にかなう事であると言っているのと同じようなものなのだが、これが彼らの本音なのであろう。 彼らのとんでもない罪を薄めるために日本はもっと悪かったという歴史を広めようとし、今は中国や韓国を使ってわが国にさらに圧力をかけて、『自虐史観』を日本国民に定着させようとしているのではないのか。

占領軍による検閲は、昭和20年9月からはじまり、占領軍にとって不都合な記述は、たとえ真実であっても、徹底的に排除された。次のURLに新聞雑誌などに適用された「プレスコード」の全項目が書かれているが、アメリカ・ロシア・イギリス・朝鮮・中国など戦勝国への批判は許されず、占領軍が日本国憲法を起草したことに言及することも許されなかったのだ。
http://www.tanken.com/kenetu.html

占領軍による検閲は昭和24年10月に終わっていることになっているのだが、いまだにテレビや新聞では「プレスコード」が生きているかのようで、原爆を批判するような主張をテレビや新聞で遭遇することはほとんどないと言って良いくらいだ。
そのことは日本だけの問題ではなく、原爆を落とした国であるアメリカにおいても、自由な言論が許されている訳ではないようだ。

スミソニアン国立宇宙博物館

1995年にスミソニアン国立宇宙博物館が終戦50周年を記念して広島に原爆を展示した「エノラ・ゲイ展」を計画したが、博物館が用意した展示台本や写真などが、政治的圧力によって展示を禁止されてしまった。

勝岡氏の前掲書に、オリジナルの展示台本『葬られた原爆展』を出版にこぎつけたフィリップ・ノビーレ氏が、その顛末を暴露した文章が引用されている。
「米国国立スミソニアン協会は、検閲行為に加担している。(中略)協会の基金引き上げをにおわせる威嚇が再三にわたって米国議会からあったため、スミソニアン協会会長I・マイケル・ヘイマンは…厄介な展示台本の発行を停止し、悲惨な映像と被爆品を展示から撤去するよう命令した。(中略)ビル・クリントン大統領は、4月に行われた記者会見の席上、トルーマンの原爆投下決定を是認する表明を行った。(中略)米国政府からの批判にさらされて3ヵ月、5月にハーウィット館長は辞任した。」(『抹殺された大東亜戦争』p.414-415)

その展示台本にはこのような日本人の手記もあったのだが、これらの文章は今我々が読んでも結構ショッキングな内容だ。しかし、世界で歴史上唯一原爆の被害を体験したわが国は、決してこのような真実を風化させてはならないのだと思う。

「私は道路で馬車を引いている人の死骸を見ましたが、その人は依然として立っていて、髪は針金のように逆立っていました。 (長崎・黒川ひで)

たくさんの生徒の目玉が飛び出ていた。彼女たちの口は爆風で引き裂かれたままで、顔は焼け爛れ、…来ているものは体から焼け落ち、…その光景はまさに地獄だった。(広島第一高女校長・宮川造六)

人々の皮膚はくろこげであった。髪も焼かれてなくなり、前から見ているのか後ろから見ているのかも分からない状態だった。腕を前に出して垂らし、皮膚は、腕だけでなく顔からも体からも垂れ下がっていた。…まるで歩く幽霊のようだった。(広島・八百屋店主)」

戦後50年もたった時点のアメリカにおいてすら、広島や長崎の真実を伝えようとすると、とんでもない圧力がかかってきて、展示が出来なかったという真実は忘れるべきではないが、わが国における言論弾圧はもっとひどかったと言わざるを得ない。占領期の検閲や焚書で、原爆問題ばかりではなく戦勝国批判につながる史実や論調の多くが封印され、占領期が終了してからも内外の圧力を出版社やマスコミなどにかける手法で、実質的に「プレスコード」が維持され、今もマスコミから戦勝国の犯罪行為を追及する姿勢は皆無に近い。

マスコミや出版社からすれば、内外の圧力のために番組をカットさせられたり、出版停止を余儀なくされるリスクを小さくしたいと考えることは経営として当然のことである。
だから、占領期の「プレスコード」に抵触する史実や思想は、マスコミ・出版社の「自主規制」により、戦後の長きにわたり排除されてきたのだろう。

そのために戦争の真実が風化してしまって、わが国には戦勝国にとって都合の良い歴史ばかりが広まり、原爆に関しては「戦争を終結させるためにやむを得なかった」という話しか聞こえてこなくなってしまった事は誠に残念なことである。この考え方では、原爆などの大量破壊兵器が廃絶されることはありえないのだ。

一瞬にして数十万人の無辜の民の生命を奪う兵器の使用は国際法違反であり、こんな兵器を使って自国の国益を追求しようとする国は「野蛮な国である」と、声を大にして叫び続けるべきではないのか。そのことを世界に発信し続けてこそ、国益実現のために原爆などの大量殺戮兵器を使うことを全世界で禁止することにつながっていくのだと思うし、そうすることが、世界で唯一原爆の被害者となったわが国の使命であると思うのだ。
日本人にとっては原子爆弾の記憶はつらい思い出を伴うものだが、過去の犠牲者の為にも、また未来の子孫のためにも、決して風化させることがあってはならない。
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占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由

前回の記事で、千島列島最北の占守島(しゅむしゅとう)で日本軍とソ連軍との激戦があり、日本軍が良く戦ったことを書いた。
占守島守備隊には停戦命令は出ていたが、ソ連軍の一方的な奇襲の報告を受けて、第五方面軍司令部の樋口季一郎中将が自衛のための戦いを決断し、ソ連軍を撃破した。日本側の死傷者600名に対してソ連軍は3000名以上の死傷者が出たとされ、日本軍が優勢であったのだが、その後日本政府の弱腰な対応で占守島守備隊は8月21日に停戦に追い込まれ、8月23日にソ連軍に武装解除されることとなった。

それでもこの千島列島最北の占守島で、7日間ソ連の第2極東方面軍を足止めにさせた意義は大きかった。ソ連軍が北北海道占領をあきらめたのは、トルーマンアメリカ大統領がソ連による北北海道占領に反対したこともあるが、日本軍がこの占守島と南樺太で抗戦しソ連の第1極東方面軍の侵攻を遅らせたことが大きかったのだと思う。もし、日本軍がソ連軍の侵略に無抵抗で、アメリカの先遣隊が来る前に北海道の占領が進んでいたとしたら、わが国も朝鮮半島と同様に国土を分割され、共産国家が誕生した可能性が高かったと思うのだ。

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ソ連にとって、占守島の戦いによる日本軍の抵抗の強さは想定外のものであったことは間違いがないだろう。当時のソ連政府機関紙イズベスチヤは「8月19日はソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である」と述べ、この自衛の戦いを決意した第五方面軍司令部の樋口季一郎中将について、スターリンは「戦犯であるのでソ連に引き渡してもらいたい」と連合軍司令部に申し入れている。よほど、スターリンは樋口中将が憎かったに違いない。

しかし、マッカーサーはソ連の要求を拒否し、樋口の身柄を保護した。マッカーサーの背後には米国国防総省があり、それを動かしたのはニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ協会であったらしいのだ。では、なぜユダヤ人組織が樋口中将の救出に動いたのだろうか。

第2次世界大戦中に、ナチスドイツによる迫害から逃れて難民となった多くのユダヤ人を救出した話は、リトアニア駐在官であった杉原千畝(すぎはらちうね)が有名だ。杉原はポーランドなどからリトアニアに逃れてきたユダヤ人に対し、外務省の訓令に反して大量のビザを発給して、6000人にものぼる避難民の命を救ったとされている。

杉浦千畝

この杉原の「命のビザ」の話はテレビでも何度か紹介され、新聞にも良く出てくるのだが、同様な事は杉浦千畝よりも2年以上前に樋口季一郎が実行していたのだ。しかも、樋口の時は、ユダヤ人の迫害問題に対するわが国の方針が定まる前に自己の責任において決断したものであり、もっと注目されても良い話だと思う。
私が樋口季一郎の話を知ったのはソ連の対日参戦のことを調べた時の副産物なのだが、今回は樋口季一郎のことを書くことにしたい。

1933年にドイツでナチス政権が誕生して以来、大量のユダヤ難民が発生した。当時はユダヤ難民を受け入れる国は少なく、英米でさえ入国を制限していた時代であった。

樋口季一郎は陸軍士官学校から陸軍大学校を経て高級軍人となってからは主に満州、ロシア、ポーランドの駐在武官などを歴任し、昭和10年(1935)8月に満州国ハルビンに赴任している。

アブラハムカウフマン

そして昭和12年(1937)の12月に、ハルビンのユダヤ協会の会長であったカウフマン博士が樋口に面会を求めてきた。
カウフマン博士が樋口を訪ねた目的は、ナチスドイツの暴挙を世界に訴えるため、ハルピンで極東ユダヤ人大会の開催を許可してほしいというものであった。
樋口はハルピンの前にドイツに駐在した経験があり、ユダヤ人の境遇に深く同情していたことから、これを即決し許可する。

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そして12月26日に第一回極東ユダヤ人大会が開かれ、樋口は来賓として招かれて、このような素晴らしいスピーチを行ったという。
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/seigi/seiginohito2.htm

「諸君、ユダヤ人諸君は、お気の毒にも世界何れの場所においても『祖国なる土』を持たぬ。如何に無能なる少数民族も、いやしくも民族たる限り、何ほどかの土を持っている。

ユダヤ人はその科学、芸術、産業の分野において他の如何なる民族に比し、劣ることなき才能と天分を持っていることは歴史がそれを立証している。然るに文明の花、文化の香り高かるべき20世紀の今日、世界の一隅おいて、キシネフのポグロム(迫害)が行われ、ユダヤに対する追及又は追放を見つつあることは人道主義の名において、また人類の一人として私は衷心悲しむものである。

ある一国は、好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。それを何処へ追放せんとするか。追放せんとするならば、その行先を明示しあらかじめそれを準備すべきである。

当然の処置を講ぜずしての追放は、刃を加えざる虐殺に等しい。私は個人として心からかかる行為をにくむ。ユダヤ追放の前に彼らに土地すなわち祖国を与えよ。」

「ある国」というのは、ドイツであることは言うまでもない。
ユダヤ人を好ましからざる分子として、行先も明示せず、その準備もせずして追放することは、虐殺にも等しいことであると、樋口は同盟国ドイツを強く批判したのである。

この演説が終わると集まったユダヤ人たちから歓声が起こり、万雷の拍手を浴びたと言われている。

しかし、この樋口の演説は国内外に大きな波紋を引き起こし、同盟国であるドイツを批難したことについて、関東軍司令部からも強く批判され、その懲罰問題が決着しない内に「オトポール事件」という事件が起こった。

オトポール事件」とはどんな事件であったのか、次のURLやWikipediaなどの記事を参考に、簡単に纏めておく。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h11_1/jog086.html

昭和13年(1938)3月8日、ナチスの迫害を逃れるためにドイツを脱出したユダヤ人難民が、ソ連と満州国の国境沿いにあるシベリア鉄道・オトポール駅まで辿りついたものの、満州国の外交部が入国の許可を渋ったために足止めにされていた。

オトポール地図

カウフマン博士から極寒の地オトポールの惨状を知らされた樋口は、手記でこのように回想しているという。

「満州国はピタッと門戸を閉鎖した。
ユダヤ人たちは、わずかばかりの荷物と小額の旅費を持って野営的生活をしながらオトポール駅に屯ろしている。
もし満州国が入国を拒否する場合、彼ら(ユダヤ難民)の進退は極めて重大と見るべきである。ポーランドも、ロシアも彼らの通過を許している。
しかるに『五族協和』をモットーとする、『万民安居楽業』を呼号する満州国の態度は不可思議千万である。これは日本の圧迫によるか、ドイツの要求に基づくか、はたまたそれは満州国独自の見解でもあるのか 」

当時わが国はドイツと同盟関係にあり、下手に動けばドイツを刺戟し外交問題に発展する可能性があった。また、満州国外務部を差し置いてユダヤ人を受け入れることを樋口が決断することは、明らかな越権行為に当たる。
とはいいながら、ユダヤ人の亡命を阻止すれば、これから多くのユダヤ難民が寒さと飢えで命を落とすことになる。そもそも満州国は「五族協和」を旗印にして建国した国ではないか。

樋口はカウフマンにこう告げたという。

「博士! 難民の件は承知した。誰が何と言おうと、私が引き受けました。博士は難民の受け入れ準備にかかってほしい。」

カウフマンは樋口の前で声を上げて泣いた。
それから樋口の行動は早かった。彼は大連の満鉄本社の松岡総裁に連絡をつけて交渉し、列車を動かしたのだ。

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その2日後の3月12日、ユダヤ人難民を乗せた列車がハルピン駅に到着する。担架を持った救護班が真先に車内に飛び込み、病人が次々に担架で運び出され、ホームは痩せこけた難民たちで一杯になったという。誰彼となく抱擁し、泣き崩れる難民たち。カウフマン博士は、涙でぬれた顔をぬぐおうともせず、難民たちに声をかけていたという。
凍死者十数名、病人二十数名ですんだのは不幸中の幸いであった。もし樋口の判断がもう一日遅れれば、もっと悲惨な結果になったと言われている。 

樋口の行為は、当然のことながらドイツとの外交問題に発展した。
ドイツのリッベントロップ外相はオットー駐日大使を通じて次のような抗議文を送ってきたという。

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「今や日独の国交はいよいよ親善を加え、両民族の握手提携、日に濃厚を加えつつあることは欣快とするところである。
然るに聞くところによれば、ハルビンにおいて日本陸軍の某少将が、ドイツの国策を批判し誹謗しつつありと。もし然りとすれば日独国交に及ぼす影響少なからんと信ず。
請う。速やかに善処ありたし。」
と、暗に樋口の処分を求めてきた。

東条英機

樋口は関東軍司令部に呼ばれて、当時参謀長であった東条英機をこう説得したという。
「私はドイツの国策が自国内部に留まる限り、何ら批判せぬであろう。またすることは失当である。しかし自国の間題を自国のみで解決し得ず、他国に迷感を及ぼす場合は、当然迷惑を受けた国家または国民の批判の対象となるべきである。
もしドイツの国策なるものが、オトポールにおいて被追放ユダヤ民族を進退両難に陥れることにあったとすれば、それは恐るべき人道上のであるとすれば、これまた驚くべき間題である。
私は日独間の国交の親善を希望するが、日本はドイツの属国でなく、満州国また日本の属国にあらざるを信ずるが故に、私の私的忠告による満州国外交の正当なる働きに関連し、私を追及するドイツ、日本外務省、本陸軍省の態度に大なる疑問を持つものである。」

そして、東條に対してこう言い放ったと言われている。
「参謀長、ヒットラーのお先棒を担いで弱い者いじめすることを正しいと思われますか」

要するに樋口は、日本国も満州国もドイツの属国ではないのであるから、独立国として主体的に判断すべきであり、非人道的なドイツの国策に協力する理由はないと東條に述べて了承を得たのである。

その後樋口はこの事件の責任を問われるどころか、樋口は参謀本部第2部長に栄転となる。
樋口がハルピンを去る日、ハルピン駅頭は2千人近い見送りの群衆が詰めかけて、樋口が駅頭に立つといっせいに万歳の声が湧きあがったという。

どれだけのユダヤ人が樋口の決断によって助かったかについては諸説あるが、この時の列車に乗っていた難民は100人から200人程度だったと言われている。その後、ソ連から満州経由で亡命したユダヤ人をすべて含めると、2万人程度ではないかというのが多数説になっているが、正確な統計があるわけではないのでよくわからない。

長い話になったが、樋口がソ連から戦犯にされようとした時に、樋口を救おうとユダヤ人組織が動いてマッカーサーが樋口の助命に動いたのは、オトポール事件で多くのユダヤ人の命を救った樋口を援けようと、世界ユダヤ協会がアメリカに働きかけたからなのである。

余談だが、多くの書物やブログでは、樋口季一郎はイスラエル建国功労者として、樋口の部下の安江とともに「黄金の碑(ゴールデン・ブック)」に「偉大なる人道主義者 ゼネラル・ヒグチ」と名前が刻印され、その功績が永く顕彰されることになったと書かれているが、これはどうやら誤りであるようだ。

指揮官の決断

『指揮官の決断』(文春新書)の著者である早坂隆氏は、実際にイスラエルに行って「黄金の碑(ゴールデン・ブック)」を確認に行っておられる。
早坂氏によると「ゴールデン・ブック」というのはJNF(ユダヤ民族基金)という組織に対する献金記録簿で、樋口の名前は第6巻4026番目に記載されているのだそうだ。そこには「偉大なる人道主義者」という文字はない。
ここに記載されることがユダヤ社会において特別に功績が顕彰されたことを意味するものではないのだそうで、極東ユダヤ人協会がJNFに寄付をして、樋口とカウフマンと安江の名前を刻んだというのが真相のようだ。(『指揮官の決断』早坂隆p.155-161を参考)

オトポール事件の9か月後に、わが国は「猶太(ユダヤ)人対策要綱」を策定している。
この原文及び口語訳は次のURLで読むことができる。
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/seigi/seiginohito2.htm

この要綱を素直に読めばわかると思うが、必ずしも人道主義で貫かれたものではなく、早い話が、技術や資金力など、ユダヤ人で利用できるものは利用しようという魂胆が垣間見えている。
この要綱を読めば読むほど、人道主義を貫いた樋口の行為が一段と輝いて見える。杉浦千畝の「命のビザ」の物語も良く似た話だが、樋口の2年以上も後の出来事である。

こういう史実を知ると、なぜわが国において、杉原の話は知られても樋口の話は広められなかっただろうかと、誰しも疑問に思うだろう。

よくよく考えると、第二次大戦時の日本軍人のいい話が、マスコミなどでほとんど伝えられていないことに気が付く。
樋口季一郎の話は彼が軍人であったので封印された一方、外交官である杉浦千畝が外務省の訓令に反してビザを発行した話ばかりが讃えられてきたことに、どこか世論誘導の臭いを感じるのは私ばかりではないだろう。

原爆投下やシベリア抑留という過去に例のない戦争犯罪に手を染めたアメリカおよびソ連にとっては、日本軍がよほど邪悪な存在でなければ、彼らの犯罪行為を正当化するストーリーを描くことができないのだ。もし、日本軍人に世界から尊敬される人物が何人も存在しては、アメリカやソ連の戦争犯罪をいつまでも封印することは難しくなってしまうということは、少し考えれば誰でもわかることだろう。
なぜ戦勝国が、戦後我が国に対して厳しい検閲をし、言論弾圧や焚書を行ない、その後も内外の圧力を使って言論をコントロールしようとする理由はそのあたりにあるのではないだろうか。

第二次世界大戦が終戦して67年にもなるが、未だにわが国は、戦勝国にとって都合の良い歴史を押し付けられたままである。
戦勝国が、戦後日本人を洗脳するために、どれだけわが国の歴史を封印してきたかをもっと知るべきであろう。その歴史を日本人が取り戻さない限り、この洗脳を解くことは難しいと思うのだ。
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ソ連占領下から引揚げてきた日本人の塗炭の苦しみを忘れるな

昭和20年8月15日の玉音放送によりわが国の降伏が国民に公表されたのだが、全面的な戦闘行動の停止が行なわれるまでには少し日数が必要だったようだ。

Wikipediaには、こう解説されている。
「1945年8月15日、大本営は陸海軍に対して『別に命令するまで各々の現任務を続行すべし』と命令し、8月16日に自衛の為の戦闘行動以外の戦闘行動を停止するように命令した。さらに8月18日には、全面的な戦闘行動の停止は、別に指定する日時以降に行うように命令、8月19日に、第一総軍、第二総軍、航空総軍に対して、8月22日零時以降、全面的に戦闘行動を停止するように命令した。支那派遣軍を除く南方軍等の外地軍に対しては、8月22日に、8月25日零時以降に全面的な戦闘行動停止を命令した。中国大陸や北方戦線では、ソビエト連邦や中華民国との戦闘が暫く続いた。ソ連軍は北方四島に上陸作戦を展開し、それを阻止するための戦闘が、中央の命令により現地陸軍守備隊によって行われた(占守島の戦い等)。また戦闘停止命令の届かなかった部隊などによる連合国軍との小規模な戦闘は続いた。さらに、外地の一般市民が難民と化し多くの犠牲者をだした。また、沖縄の久米島では現地の海軍部隊による住民の虐殺事件も起きている(久米島守備隊住民虐殺事件)。これらの戦闘は8月下旬になると概ね終結した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%82%E6%88%A6%E3%81%AE%E6%97%A5

終戦直後には海外にわが国の軍人・民間人が合計660万人以上いたとされるのだが、1946年末までに500万人を超える人々が海外から引き揚げてきたのだそうだ。

以前このブログで書いたが、わが国が受諾した『ポツダム宣言』には、連合国がわが国に提示した条件がいくつか記されている。
(9) 日本国の軍隊は完全に武装を解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的な生活を営む機会を得ることとなる。
(10) われわれは、日本人を民族として奴隷化しようとしたり、国民として滅亡させようとする意図を持つものではない。
…」

ところが、連合国側が戦後守らなければならないはずの、この『ポツダム宣言』をソ連は公然と無視し、50万人以上の日本人が抑留されてシベリアの極寒の地で強制労働に従事させられ、30万人以上が命を落としたことを前回の記事で触れた。

しかしひどい目に遭ったのはシベリアに抑留された日本人ばかりではなかった。
前回も書いた通りソ連参戦の後、関東軍は満州をソ連に差出しただけでなく、日本人居留民をおきざりにしたため、残された日本人はソ連の占領地域の各地で酷い目に遭っている

大本営朝枝参謀・関東軍停戦状況に関する実視報告

関東軍が居留民を置き去りにしたことは、大本営の高級参謀、朝枝繁春陸軍中佐の『関東軍方面停戦状況に関する実視報告』を読めば、大本営の方針であったことがわかる
「既定方針通り、大陸方面においては、在留邦人及び武装解除後の軍人はソ連の庇護下に満鮮に土着せしめて生活を営む如くソ連側に依頼するを可とす」、
「満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとす」
(『シベリアの挽歌』p.363-380)とある。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html

はじめから日本軍は、大陸の邦人を「棄民」にすることを決めていたようなのだ。ちなみにこの文書を作成した朝枝繁春陸軍中佐は、1954年に米国に亡命したKGB中佐・ラストボロフ証言によると、ソ連で特殊工作員として訓練を受けた11名の日本人のうちの一人である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-295.html
そして、さらに腹が立つことなのだが、8月11日未明から正午までに満州国の首都・新京にいた軍人関係家族や満鉄関係家族、大使館家族は38千人は18本の列車に優先的に乗って脱出し、しかも軍人家族脱出の指揮を執ったのは関東軍の総参謀長・秦彦三郎の夫人だったというからひどい話である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%AF%BE%E6%97%A5%E5%8F%82%E6%88%A6

引揚地図

関東軍に置き去りにされた日本人の話に戻そう。
昭和6年(1931)以降わが国は、現在の中国東南部・内モンゴル地区に国策として入植者を送り込み(満蒙開拓団)、昭和20年(1945)頃にはこの地域に27万人程度の日本人が居留していた。
ところが太平洋戦争末期の戦局悪化により、開拓団の若い男性4万7千人が根こそぎ軍に召集されてしまい、この地域に残されたのは大半が老人、女性、子供であったという。
そんな状況下で、8月8日にソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄してわが国に宣戦布告し、翌日午前0時を期にソ連軍が満州国境を越えて侵略を開始したのである。

関東軍は朝鮮国境近くまで退いていたため、開拓団の人々はほとんど無防備の状態で逃避行を開始することを余儀なくされたのだが、この逃避行で約8万人が死亡したと言われている。
敗戦時に旧満州にいた日本人は約155万人だったそうだが、死者20万人の4割が満蒙開拓団のメンバーであったことになる。

引き揚げる途中で多くの日本人が虐殺されたり強姦されたりしたのだが、こういう史実がわが国ではほとんど知らされていないのである。

戦後引き揚げの記録

若槻泰雄氏の『戦後引き揚げの記録』(時事出版社)にはこう記されている。

ソ連兵の日本婦人への暴行は、すさまじいの一語に尽きる。それが12、3歳の少女であろうと、70歳近い老婆であろうと、そして、人前でも白昼でも、また雪の上であろうとも、そういうことは全く頓着しなかった。樺太の場合同様、女性たちは丸坊主になり顔に墨を塗り男装して難を逃れようとしたが、彼らは一人一人胸をさわって女であることを確かめると引き立てて行った
 南満へ疎開した人たちが、終戦後また新京の自分の家へ帰る途中、公主嶺の駅で、進駐してきたソ連軍の列車とばったり出くわしたとき起こった事件は『誰知らぬ者もない事実だ』という。それはあわてて発車しようとする日本人の乗っている列車をソ連兵が止め、女は一人残らずプラットフォームに降ろされ、『白日の下、夫や子供や講習のまん前で集団暴行を受けた』のである。
 もとより日本女性のすべてが易々諾々とソ連兵の毒牙に身を任せたわけではない。凌辱に耐えかねて死をもって抗議する若い婦人、暴行から身を守ろうとみずから死を選ぶ人妻もいた。例えば敦化の日満パルプKKの社宅では、ソ連軍は命令によって男と女を分離させ、170人の婦女子全員を独身寮に監禁し、夜となく昼となく暴行の限りを尽くしたが、この際23人の女性は青酸カリによって自殺している。」(『戦後引き揚げの記録』p.123)

このような記録は枚挙にいとまがなく、ソ連の同盟国であった中国の徐焔(シュ・イェン)大佐ですら、『1945年 満州進軍 日ソ戦と毛沢東の戦略』(三五館)の中で、
ソ連軍が満州に入った時点から、その相当数の将兵は直ちに、横暴な行為を露骨に現した。彼らは敗戦した日本人に強奪と暴行を振るっただけでなく、同盟国であるはずの中国の庶民に対しても悪事をさんざん働いた。
特に強奪と婦女暴行の二つは満州の大衆に深い恐怖感を与えた
」と書いていることを知るべきである。
次のURLにソ連軍が日本人にどのような行為を行なったのかについて、他にも数多くの事例が紹介されているので、関心のある方は覗いていただきたい。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html

藤原作弥

元日銀副総裁の藤原作弥氏は子供の頃に満州からの引揚げを体験された方である。
その藤原氏が、今から10年前に『戦後60年 私の中の昭和史』という演題で、鳥取県で講演された原稿がネットで読める。
http://web.archive.org/web/20111026072111/http://www3.boj.or.jp/matsue/tottori/data/kouenkai1.pdf

藤原氏の家族は昭和20年8月10日の夕刻に、無蓋の加餅列車に乗って満州内陸部の興安を脱出し、3日後に北朝鮮との南満州にある国境の街・安東に必死の思いで辿りついたのだが、ソ連軍の進撃は思いのほか早く、そこから先は進むことができなかったという。安東で1年半余の難民生活を余儀なくされ、わが国に帰国できたのは昭和21年の秋だったのだそうだ。

藤原作弥氏引揚地図

しかし8月10日に興安を脱出できた藤原氏の家族は運が良かったとしか言いようがない。もし、この脱出が遅れていたら、家族がとんでもない事件に巻き込まれていたこ可能性が高かったことを知って藤原氏は衝撃を受けたという。どんな事件が起こったのか。

葛根廟事件

「人に知られた『葛根廟事件』であります。興安街東半部に住んでおられた日本人約1,200名が、避難のため、興安街から脱出しようと行軍中、追撃してきた15台のソ連戦車軍団により1時間半にも及ぶ無差別の機銃掃射を受け、実に1,000名以上の方が命を落とされました。大半が無防備、無抵抗の老人や婦女子で、実に痛ましい事件です。私は、当時興安街在満国民学校3年生でしたが、国民学校での私のクラスメートも、30名のうち20名もの方がこの事件で亡くなられておられます。国民学校全体でも、270名の生徒のうち、200名近くが亡くなられ、奇跡的に生き残った方はわずか60名程度であります。
事件日は、私ども家族が脱出した僅か4日後の8月14日です。何らかの見込み違いや手違いが発生し、私どもの出発が 1日でも遅れていたとしたら、私どもも何らかの形でその犠牲になっていたでしょう。そのことも改めて私を驚愕させました。」

藤原氏はさらに、こうも述べておられる。
それにつけても、日本人の歴史的怠慢には問題を感じます。この事件に限らず、これまで日本は、終戦時において無防備、無抵抗の日本人が 大きな被害に遭遇した歴史的事実を、正しく伝えて来ておりません。満洲の問題に限らず、第2次世界大戦全般を振り返り、総括する作業を、明らかに日本は怠ってきております
終戦時の満洲ではさまざまな悲劇が起こりました。なかでも、8月12日、ソ連機械化部隊に追撃され、日本人開拓団約1,300名のうち、400名の婦女子が集団自決に追い込まれた『麻山事件』。さらには、東京都港区乗泉寺信徒の開拓団680名が、ソ連機甲部隊の一斉射撃や暴民の襲撃で、わずか20名を残し、大量殺戮された『牡丹江事件』。これらの2つは『葛根廟事件』とともに、『満洲三大事件』と言われております。ジェノサイド(計画的集団殺戮)と呼ばずして、何と呼べば良いのでしょうか

満州だけでなく朝鮮半島の北緯38度線以北はソ連のが占領地となったのだが、ソ連が引揚事業の費用負担を先送りしたため、3万人以上の日本人が栄養失調や病気で命を落としたという。そのような状況下で約20万人が自力で38度線を越えてアメリカ軍による引揚げで帰国できたそうだが、正式にソ連が日本人の引揚を開始したのは1946年12月以降のことで、人数は約8000人なのだという。

塗炭の苦しみを味わったのは満州にいた日本人だけではなかった、朝鮮在住の日本人達も、強制連行や虐殺などで、祖国の地を踏むことなく無念のうちに斃れた者が多かったようだ。
特に女性は朝鮮人やソ連兵、中国人等に度重なる強姦を受け、それを苦にして自殺した者も少なくなかったという。

Wikipediaにはこう解説されている。
「在外同胞援護会救療部では、引揚船に医師を派遣し、引揚者の治療に当たったが、殊のほか女性の性的被害が多いことに愕然し、早急に専門の治療施設を作る必要があると上部に掛け合った。こういう経緯で、1946年(昭和21年)3月25日に『二日市保養所』が開設されることになった。医師は在外同胞援護会救療部員(旧京城帝国大学医学部医局員によって構成)が担当した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%97%A5%E5%B8%82%E4%BF%9D%E9%A4%8A%E6%89%80

二日市保養所

少し補足すると、「二日市保養所」は福岡県筑紫郡二日市町(現筑紫野市)にあった厚生省引揚援護庁の医療施設で、レイプ被害に遭った日本人女性(引揚者)に堕胎手術や性病の治療を行った場所である。

そして、施設にこのような記録が残されていることが上記URLに記されている。
二日市保養所の医務主任だった橋爪将の報告書によると、施設の開設から2か月間で強姦被害者の加害男性の国籍内訳は、朝鮮28人、ソ連8人、支那6人、米国3人、台湾・フィリピンが各1人だった。1947年の施設閉鎖までに500件の堕胎手術をおこなった。」
本土に生還し、二日市保養所で堕胎手術を決意した若い女性だけで500件なのだから、日本女性の犠牲者数はこの2桁あるいは3桁多くても驚くには及ばない。

加害男性に朝鮮人が多いのは、日本敗北の気配を読み取って朝鮮半島内に朝鮮共産軍が組織され、ソ連軍と呼応していたという。彼らは、逃走中の日本人を襲っては所持品を奪い取り、多くの女性が強姦された記録がいくつも残されている。

竹林はるか遠く

日系米国人作家のヨーコ・カワシマ・ワトキンズが、終戦時に家族とともに朝鮮半島を縦断する決死の体験記である『竹林はるか遠く』は韓国では発売禁止になったそうだが、アメリカでは優良図書に選ばれて、中学校の教材として多くの学校で使用されているのだそうだ。
韓国で発売禁止となった理由は、韓国にとって都合の悪い史実が書かれているからのようだが、韓国にせよ中国にせよ声高に反日を主張しわが国を貶め続けるのは、彼らの戦争犯罪を、わが国に擦り付けることによって、隠し通そうという意図があるのだろう。
わが国は、反日国家に対しては史実をぶつけて堂々と反論すべきであったのだが、藤原作弥氏が指摘しているとおり、戦後の長きにわたりわが国の歴史学者もマスコミも、「終戦時において無防備、無抵抗の日本人が 大きな被害に遭遇した歴史的事実を、正しく伝えて」来なかったのである

鳩山謝罪

そのために、わが国の無能な政治家が、彼らの圧力に屈して何度も謝罪してきたのだが、国際社会で謝罪するという事は、わが国が悪かったことを世界で公式に認めることを意味する。そのことによって、今までどれだけ多くの国富を奪われて来たことか

そろそろ日本人も、反日国家やそれに呼応する左翼マスコミが声高に主張する歴史は、嘘だらけであることに気が付かねばならない。
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「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
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中国兵が綴った「日中戦争」の体験記を読めば、『南京大虐殺』の真実が見えてくる
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陥落直前に無責任にも南京を脱出した中国軍の最高指揮官が栄転したのは何故か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-253.html


国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

『ポツダム宣言』を公然と無視し、国際法に違反した国はどの国か~~ポツダム宣言10
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昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか
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軍部や官僚に共産主義者が多数いることに気が付いた近衛文麿
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終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
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スターリンが朝鮮戦争に米国を誘導したことを示す極秘文書が発見されている
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-276.html


なぜ中国大陸に大量の日本人孤児や婦人が残されたのか

前回の記事で、ソ連が対日参戦したため満州(現在の中国東北地方)から引き揚げてきた日本人の悲劇の事を書いた。民間人を銃殺したり強姦したりしたソ連軍に非があることは言うまでもないが、日本人としては、関東軍がソ連の対日参戦直前に南方に移動したことが許せない。
なぜ関東軍は、満州国境で民間人を護らなかったのか。

ソ連対日参戦

ソ連が参戦した8月9日に日本陸軍が、最初に発した命令はこのようなものであった。

「大陸命第千三百七十四号
命 令
一 「ソ」連は対日宣戦を布告し九日零時以降日「ソ」及満「ソ」国境方面諸所に於て戦闘行動を開始せるも未た其規模大ならす
二 大本営は国境方面所在の兵力を以て敵の進攻を破砕しつつ速に全面的対「ソ」作戦の発動を準備せんとす
三 第十七方面軍*は関東軍の戦闘序列に入るへし隷属転移の時機は八月十日六時とす
四 関東軍総司令官は差当り国境方面所在の兵力を以て敵の進攻を破砕しつつ速に全面的対「ソ」作戦の発動を準備すへし
右作戦の為準拠すへき要綱左の如し
  左記
関東軍は主作戦を対「ソ」作戦に指向し皇土朝鮮を保衛する如く作戦す
此の間南鮮方面に於ては最少限の兵力を以て米軍の来攻に備ふ
… 」
*第十七方面軍:昭和20年に朝鮮軍の廃止に伴い創設され、朝鮮方面の守備を主な任務としていた。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/1945Tairikumei74_80.html

よく読めばわかるのだが、「対ソ作戦」などと名付けられてはいるものの、関東軍は満州国境を守るのではなく「皇土朝鮮」を守るために第十七方面軍とともに朝鮮半島を守れと命じており、わかりやすく言えば、ロシアの国境から朝鮮との国境付近まで後退することを意味しているのである。そして17方面軍に対して8月10日の6時に関東軍の戦闘序列に入れということは、その日までに関東軍は朝鮮国境付近に移動せよと命じていることと同じだ。

その当時旧満州には約155万人の日本人居留民がいたとされるが、彼らを守ってくれるはずの関東軍がソ連侵攻を前に突如姿を消したことを、彼らはどうとらえたのだろうか。

藤原作弥

子供の頃に満州興安からの引き揚げを体験された元日銀副総裁・藤原作弥氏の『満州、少国民の戦記』(新潮文庫)を取り寄せて読み進むと、興安で実際に起こった『葛根廟事件』の貴重な資料である佐村恵利氏の『ああホロンバイル---元満州国興安総省在留邦人終戦史録』の内容を紹介している部分がある。少し引用させていただく。

満州、少国民の戦記

「同史録によれば、ソ連参戦後の興安街在住邦人の疎開対策(俗称、興蒙対策)は、全邦人を、北方のオンドルにひとまず避難、集結させることを目的としていた。もちろん、この『興蒙対策』は関東軍や陸軍興安軍官学校学生隊による護衛を前提条件としていたが、興安地区在留邦人が唯一の頼りにしていた関東軍四十四軍三個師団は、新京司令部の命令により8月10日いちはやく、しかも秘密裡に新京、奉天方面に撤退してしまったのである。
 満蒙からの引揚者たちが、いまだに関東軍を恨んでいるのは、在留邦人の保護、救出もせず敵前逃亡したことと、それにより日本人民間人が随所で大惨劇に遭遇したことが最大の理由となっている
。もう一つの頼みの綱だった軍官学校学生隊は、ソ連侵攻とともに叛乱を起こし撤退した。」(新潮文庫『満州、少国民の戦記』p.323-324)

このように佐村恵利氏は、引揚者達が関東軍は敵前逃亡したと認識していたことを記しているのだが、藤原作弥氏もまたこのように述べている。

「実は、関東軍は、興安街の民間在留邦人や開拓民よりも一足先に、南方へ撤退したという。かねてから興安街は『防備が手薄になればホロンバイルの草原の中で陸のサイパンになる』と軍事上の危険が指摘されていたが、その怖れが現実のものとなった。興安街在住3500人のうち廃墟の無防備都市からの脱出が遅れた約千人が草原をさまよい、ソ連軍戦車の犠牲となったのである。」(同上書 p.66)

この事件が『葛根廟事件』で、避難のため興安街から脱出しようと歩いているところを、15台のソ連戦車軍団による1時間半にも及ぶ無差別の機銃掃射を受け、1,000名以上の日本人居留民が命を落としたのである 。

旧満州では同様な事件が他にもいくつかあり、多くの日本人がソ連軍の犠牲になり、満州からの引揚の途上で約20万人が命を落としたと言われている。
当時の満州は、若い男性が根こそぎ軍に召集されていたため、犠牲になったのは、無防備、無抵抗の老人や婦女子がほとんどであったという。関東軍はそのような事態になることを予測できなかったはずがないだろう。

ソ連軍の満州侵攻

前回の記事で大本営陸軍部の高級参謀、朝枝繁春陸軍中佐の『関東軍方面停戦状況に関する実視報告』の内容の一部を引用したが、今回はその冒頭の部分を紹介しよう。
「第一 全般概況
一、 満鮮方面対『ソ』停戦は、『ソ』側の絶大なる好意と、関東軍総司令部の努力とに依り、極めて順調に進捗し、8月26日現在、安東、錦州を除く全満及び北緯38度以北の朝鮮に於ける停戦ならびに武装解除は完了し、安東、錦州に於いては随時武器引渡しを実施し得る準備にありて…」
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html

と、満州に居住していた日本人がどんなひどい目に遭ったかを、何も知らないような書き方をしている。ちなみに、1000人が虐殺された『葛根廟事件』は8月14日、ソ連機械化部隊に追撃され、日本人開拓団約1,300名のうち、400名の婦女子が集団自決に追い込まれた『麻山事件』8月12日なのである。

そして朝枝参謀は、この文書の「第四 今後の処置」の中でこう書いている。

「一、一般方針
既定方針通り、大陸方面においては、在留邦人及び武装解除後の軍人はソ連の庇護下に満鮮に土着せしめて生活を営む如くソ連側に依頼するを可とす

普通に読めば、この大本営参謀は満州の日本人は初めからソ連に献上する方針でいたことになる。だからいちはやく関東軍が南下し、8月11日には朝鮮国境に近い通化に総司令部を構えたのだと理解できる。

関東軍がソ連と戦うつもりはなく、満州国領土と居留民を早々にソ連に差し出したことが史実であることを裏付ける証拠はソ連側にも残されている。

関東軍総司令部が1945年8月26日 にソ連軍に提出した「ワシレフスキー元帥二對スル報告」の中で、「軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の經營に協力させ、そのほかは逐次内地に歸還させてほしい。歸還までは極力貴軍の經營に協力するよう使っていただきたい」という正式な申し入れを行っていたというのだ。この文書は元関東軍参謀(作戦班長)草地貞吾大佐が数人の参謀と合議の上取りまとめ、山田乙三総司令官、秦総参謀長の決裁を受けてソ連側に提出したことが、近年の草地証言で確認されているという。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jarees1993/1994/23/1994_23_33/_pdf

ワシレフスキー元帥

またワシレフスキー元帥がモスクワに打った電文(8月20日付)も同様なことが記されている。
「関東軍参謀長秦中将は私ワシレフスキー元帥に対して、満州にいる日本軍と日本人ができるだけ早くソ連軍の保護下に置かれるよう、ソ連軍の満州全域の占領を急ぐよう要請し、同時に、現地の秩序を保ち企業や財産を守るために、ソ連到着まで武装解除を延期されたいと陳情した。…」

http://blog.goo.ne.jp/yshide2004/e/63b131d3e8a160d75230a4c62f6bf71d

このように、関東軍は満州としの居留民をソ連のために差し出そうとしたことは確実な事なのだが、このような史実は戦後のわが国では徹底的に封印され、一部の研究者が論文などで引用しておられるものの、ほとんどの日本人には知らされていない。それどころか、真実とは程遠い内容で伝えられているのが現状だ。

日本の証言

元伊藤忠会長で当時関東軍の参謀であった瀬島龍三氏は、平成14年(2002)に放送された『新・平成日本のよふけスペシャル』というテレビ番組で、インタビュアーの「昭和20年7月1日付けで関東軍参謀になられ、この時期の関東軍のおもな任務は『本土決戦に即応する』ことと『朝鮮の保衛』だったそうですが」という質問に対してこう述べている。

「この時期、日本とアメリカは4つに組んで、太平洋で死闘を繰り返していました。そんな時に、ソ連が満州に攻めてきたならば、日本は腹背に敵を受けることになるので、ソ連を押さえることが『本土決戦に即応する』関東軍の役割でした。外交的には日ソ中立条約を守らせるようにし、軍事的には関東軍がソ連軍に対する警戒と抑止にあたるということです。
 それに、当時の朝鮮は本来の領土、すなわち本土ですから、これの『保衛』も、関東軍司令官の任務でした。保衛とは軍事だけではなく、警察をもってする国内の治安の維持なども含まれていたわけですね。」(フジテレビ出版『日本の証言』p.127-128)

番組の司会の笑福亭鶴瓶や南原清隆あたりではこれ以上の突込みを期待しても仕方がないところだが、瀬島氏は肝腎なことを何も語っていない。
そもそもソ連が対日参戦した時期は、既に広島、長崎で原爆が投下された後でアメリカとの戦いはほとんど勝負がついていた。朝鮮半島には第十七方面軍がいたにもかかわらず、なぜ関東軍が朝鮮国境まで引き下がらなければならなかったのか。関東軍が急に南下したために、多くの日本人が犠牲になったことについて、何も語らないのは卑怯だと言わざるを得ない。

前回の記事で、1954年に米国に亡命したKGB中佐・ラストボロフが、ソ連で特殊工作員として訓練を受けた11名の日本人がいたと述べたことを書いたが、『関東軍方面停戦状況に関する実視報告』を書いた朝枝繁春陸軍中佐も、関東軍参謀の瀬島隆三中佐も、また終戦工作の原案でソ連に可能な限り領土を与えよと書いた種村佐孝陸軍大佐も、いずれもラストボロフ証言でソ連の特殊工作員として訓練を受けたと指摘された人物なのである。ちなみに種村陸軍大佐は戦後、共産党に入党していることを付け加えておく。

いつの時代でもどこの国でも同じことが言えるのだが、自国のためではなく他国のために動こうとする人物が政治や軍隊の中枢に紛れ込めば、国を滅ぼすことはそれほど難しいことではないだろう。
終戦直後のわが国において、わが国の領土の大半がソ連に占領されることを望んでいた者が軍の幹部に何人もいて、終戦工作を立案する立場にいたことを知るべきである
。そして満州にいた日本人は、そういう連中によって領土とともにソ連に差し出されたと言えば言い過ぎであろうか。

スターリン

1935年の第7回コミンテルン大会におけるスターリン演説を思い出してほしい。
ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

関東軍はスターリンの言葉通りに、「暴走」して蒋介石の中国との泥沼の戦いに巻き込まれ、その後の日米との戦いで国力を消耗させ、アメリカが広島と長崎に原爆投下した直後にソ連が参戦すると、ソ連に矛先を向けることなく朝鮮半島まで兵を引き、満州をソ連に差出したというのが真相ではないか。

前回の記事で、満州からの引揚者の多くが引揚途上で亡くなり、大変苦労して日本に帰国したことを記したのだが、生き残った日本人の中で少なからずの日本人が大陸に残されたことも書かなければならない。

Wikipediaではこう解説されている
「ソ連侵攻と関東軍の撤退によって満州における日本の支配権と、それに基づく社会秩序は崩壊した。内陸部へ入植した開拓民らの帰国は困難を極め、避難の混乱の中で家族と離れ離れになったり、命を落とした開拓民も少なくなかった。遼東半島にソ連軍が到達するまでに大連港からの出国に間に合わなかった多くの人々は日本人収容所で数年間にわたり収容、帰国が足止めされた。収容所での越冬中に寒波や栄養失調や病気で命を落とす者が続出した。1946年(昭和21年)春までその帰国をソ連が許さなかった為、家族離散や死別の悲劇がここにも生まれた。この避難のさなかで身寄りのなくなった日本人の幼児は縁故または人身売買により現地の中国人の養子(残留孤児)に、日本人女性は同様に中国人の妻となって生き延びることになった(残留婦人)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%AE%8B%E7%95%99%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA

満州からの集団引上げが1946年の春から開始されて、それにより100万人以上の日本人が帰国したのだが、その後国共内戦が再開したために残された日本人の多くが徴兵されたり、労働者として働かされたという。
その後1949年に共産党の一党独裁国家である中華人民共和国が誕生し、日本政府は同国と国交を結ばないまま1958年に集団引揚を打ち切っている。
そして文化大革命などの混乱期が過ぎたのち、1972年に日中国交正常化がなされたのだが、日中両政府とも中国残留日本人の問題解決に熱心ではなかったという。

山本慈昭

その後、長岳寺住職の山本慈昭を中心とした肉親の活動により、1981年からようやく中国残留孤児・訪日肉親捜しが開始され、6700人以上の日本人が帰国できたのだが、わが国政府の取組みはあまりにも遅かった。
帰国出来たとはいえ、孤児の多くは幼少の頃から充分な教育を受けないまま何十年も経過して壮年となっており、現在でも約9割が未だに日本語が習得できていない状況だという。当然のことながら日本での社会適応力は乏しく、帰国者の8割以上が生活保護を受けて、ボランティア団体の寄付金などで生活をしているのが現状なのだそうだ。

中国・樺太残留邦人

厚生労働省のホームページの中国残留邦人、樺太残留邦人の統計が纏められている。
これを見ると残留邦人が問題となったのは中国大陸がほとんどで、特に樺太では残留孤児問題がほとんど存在しないことがわかる。
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/bunya/engo/seido02/kojitoukei.html

ソ連占領前は南樺太に40万人の日本人民間人が居住していていたのだが、関東軍とは異なり樺太では、日本軍は19日に武装解除命令が出るまでソ連軍とよく戦ったのである。
そして、居留民は65歳以上の男性と41歳以上の女性、14歳以下の男女を優先的に船に乗せて北海道に避難させ、ソ連軍に占領されるまでに10万人以上が船で島外避難に成功している。

大津敏男

その後も樺太庁長官の大津敏男が、樺太住民の生命と安全を守るべく奔走したそうだが、樺太に残留孤児がいないのはそういう努力が実を結んだことによるという。ちなみに、樺太庁長官の大津敏男は、1945年12月30日にソ連軍によって逮捕され、ハバロフスク裁判を経て、ハバロフスクに抑留され、1950年に帰国のあと、1958年に心不全で亡くなったという。こういう人物の名前は永く記憶にとどめておきたいものである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E6%95%8F%E7%94%B7

樺太は満州よりも日本本土に近かったという地の利もあるが、軍隊も役人も、居留民の命を守るために必死に戦った事を知れば、満州における関東軍の異常さが誰でもわかると思うのだ。
日本軍の中枢がソ連と繋がっていて、関東軍は大本営の命令により、満州の土地だけでなく居留民をもソ連に差し出したという真実が、わが国で広く知られる日は来るのだろうか。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

幻の映画、「氷雪の門」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-138.html

「ドイツと日本を暴走させよ」と命じたスターリンの意図
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

ソ連の『北海道・北方領土占領計画書』を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

『軍国主義者』や『青年将校』は『右翼』だったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-279.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

『ポツダム宣言』を公然と無視し、国際法に違反した国はどの国か~~ポツダム宣言10
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-300.html

昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-224.html

なぜわが国は『シベリア抑留』の実態解明調査を怠ってきたのか

このブログで『シベリア抑留』について何度か書いたことがある。
『抑留』という言葉はわが国が旧ソ連に配慮した言葉と言って良く、実態は『捕虜』であり日本人が奴隷の如く酷使されたのであるが、終戦直後にはわが国の公文書や新聞などでも『捕虜』や『俘虜』という言葉がよく用いられていたことが確認できる。
しかし、最近の教科書では『抑留』という言葉ですら使っていないことに気が付いた。

シベリア抑留

たとえば、標準的な高校教科書である『もういちど読む 山川の日本史』では、太平洋戦争を総括してこう記されている。

「こうして6年にわたって、全世界に史上空前の惨害をもたらした第二次世界大戦は、枢軸陣営の敗北によっておわりをつげた。第二次世界大戦における日本の死者・行方不明者の正確な数字はわからないが、軍人と民間人あわせて約300万人、被災者合計約875万人と推定されている。なお、戦後、ソ連軍に降伏した日本兵ら約60万人がシベリアやモンゴルなどに連行され、強制労働に従事させられ、約6万人が死亡した。」(『もういちど読む 山川の日本史』p.314)

「連行」とか「強制労働」という言葉は使っているものの、歴史用語としての『シベリア抑留』がなくなってしまっては、いずれ日本人の記憶からこの史実が消え去ってしまうことになりかねない。

シベリア抑留』された人数と死者の数について、Minade Mamoruさんが詳しく調査されていて、以下のURLで豊富な資料とともに読むことが出来る。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/026s320212dai2gou.html

0809Tass20Nen.jpg

連行された日本人は「ラーゲリ」という強制収容所に送られ、厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられて多くの日本人が死に至ったのだが、終戦直後のソ連の昭和20年9月12日にプラウダ紙に掲載されたソ連情報局の発表数字は、捕虜が約60万で、戦死者8万、負傷者2万で、連行途上や収容所での死者や行方不明者については何も書かれていない。そしてその後のソ連は長い間、日本人捕虜の合計を60万人という数字を変えなかったという。

一方、昭和20~25年の復員庁/引揚援護庁の数字、およびGHQ/SCAP(連合軍総司令部)の数字はいずれも70万人であった。そして昭和24~25年頃の日本共産党は「抑留者数は70万人というのは反ソ感情を煽るためのGHQ/SCAPと日本政府がでっちあげた虚構の数字である」と連合軍司令部と日本政府を厳しく非難していたという。

しかるに昭和26年(1951)のサンフランシスコ講和会議でわが国が主権を回復し、連合軍総司令部によるわが国の占領が終わった後は、日本政府はなぜかシベリア抑留の実態解明調査を行なわないまま、昭和56年(1981)にはシベリア抑留者の数を57.5万人に減らしてしまっている
ソ連にとっては、当初の抑留者数を減らすことによって、死亡・行方不明者を実態より少なくすることができることになるのだが、日本政府が70万人を一気に12.5万人も減らしたのは、ソ連や国内の左翼勢力の圧力に屈したと考えるしかない。

東京新聞 76万人の新資料発見

ところがソ連が崩壊して18年後の平成21年(2009)に、ロシアの国立軍事公文書館で第2次大戦後に旧ソ連で抑留された軍人や民間人が、最大で76万人との新資料が発見されたことがわが国の新聞に報道されたのである

読売新聞 31万余の氏名判明

そもそもわが国は、昭和25年(1950)12月11日に37万人がソ連から未帰還であることを外務省が公式に発表しており、うち31万名は、氏名も判明しているとまで述べていたのだ
しかしながら、それからのちにわが国に帰還してきたものはわずかに2594人だそうで、それから後は、外務省もマスコミも未帰還者がどうなったかについて何も語っていないというのである。

日本に帰らずにソ連に残って生活をすることを決意した日本人がいたとしても、それは少数であろう。
普通に考えればソ連地域からの最終的な未帰還者は、戦死者も含めて30万人をはるかに超えていたと考えざるを得ず、死亡者が6万人という教科書の記述はありえない数字なのだが、こんな数字が教科書に出ていたらそのまま鵜呑みにする人が大半だと思われる。
『シベリア抑留』の問題に限らず、わが国の戦後の歴史教科書の記述において戦勝国に対する外交的配慮を優先させることはよくある話なのだが、なぜわが国の政府は、ソ連が崩壊した後も、『シベリア抑留』の被害者に対して冷淡でありつづけたのか。

シベリア抑留分布

『シベリア抑留』という言葉を聞くと、日本人が極寒のシベリアに連行され強制労働に従事させられたと理解してしまうところだが、実際にはシベリアだけでなくモンゴルや中央アジア、北朝鮮、カフカス地方、バルト三国、ヨーロッパロシア、ウクライナ、ベラルーシなど広範囲に及ぶ地域に送られて、その地域の労働に従事させられたようだ。
この『抑留』を経験した人々は、今ではほとんどが90歳を超えており生存者はかなり少なくなっているのだが、40万人以上の同胞が悲惨な体験をした出来事にしては、本人が綴った記録が思いのほか少ないことが気になるのである。

ネットで公開されている体験記の中に秀逸なものがいくつかあるが、第百二十六師団司令部の陸軍准尉であった伊藤常一氏の記録は某ローカル新聞に連載中に途中で圧力がかかり、死者が続出した描写のところで中断されてしまった。「あとがき」に、連載の中断理由について、本人の文章でこう記されている。
ソ連の実情をそのまま発表することを好ましく思わない読者か、或いは政治的左翼分子の人からか良く分からないが、筆者に対する嫌がらせや遂には脅迫的な文書が舞い込むようになり、家族の者の意見もあり、遂に一時ペンを置くこととなり、昭和三十六年六月二十五日の発行を最後に中断のやむなきに至りました。」
http://yokuryuki.raku-rakudou.com/index.php?%E3%81%82%E3%81%A8%E3%81%8C%E3%81%8D

氷雪の門パンフ

以前このブログで記したのだが、昭和天皇の『終戦の詔勅』の後にソ連軍が樺太の真岡の町を攻撃して、直前まで電話交換の業務についていた「九人の乙女」の自決を描いた『氷雪の門』という映画が昭和49年に完成したものの、公開直前にソ連の圧力により葬り去られた事件があった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-138.html

戦後の長きにわたり、わが国のマスコミや出版界に対して同様な圧力をかけ続けた勢力が国内外に存在し、そのために『シベリア抑留』の真実がほとんど戦後のわが国でほとんど伝えられなくなってしまったと考えているのだが、ネットで様々な情報が入手できる世の中になって、ここ数年でいろんな方が情報発信するようになってきたことは良い兆しである。

棄民のあしあと

昨年末に、夏梅誠一という「シベリア抑留」を経験された方が『“棄民”のあしあと』という手記を出版され、最近その本を入手した。
夏梅誠一氏は大正10年(1921)に京都で出まれ、昭和17年(1942)に陸軍に入隊し、満州国境守備隊要員として爆弾を抱えて戦車に体当たりする『挺身奇襲』の命令を受けて出征したが、昭和20年(1945)の8月15日の終戦をソ連国境近い黒河省孫呉で迎えることとなる。
その後ソ連軍に捕えられて捕虜となり、シベリア南部のアムール川沿いにあるブラゴエチェンスクで船の荷揚げの重労働を命じられたのだが、日々の食事はわずかの高粱粥だったという。

ブラゴエチェンスク

夏梅氏は、収容所の環境についてこう記しておられる。
俘虜たちが寝起きし、唯一のくつろげる場は板の間に敷いた肩幅だけの空間にすぎない。しかしその湿っぽい空間はホコリを吸い込み、蚤や虱やダニたちの格好の巣窟なってしまい、人間たちが爪先で押しつぶすくらいでは間尺にあわず、首筋や胸元や腕の内側に赤い発疹をつくる者が増えてきた。高熱にうなされる者も増えてきた。そんな症状が虱やダニの媒介による発疹チフスや回帰熱という伝染病だということを衛生兵から聞かされていたが、その伝染病患者と雑魚寝をした者が相変わらず労役にかり出されていたのだ。おまけに全員がひどい飢餓状態に陥り、胃腸は機能を失い栄養失調になっていた。…
 高熱を出して呻いている連中も、一人残らず氷点下30度の屋外点呼に引っ張り出されて以来『アレから間なしに何人かが死んだらしいぞ』という噂が流れてきた。それから数日後、労役を終えて帰ってきた私は、数人の仲間と一緒に亡くなった連中の遺体が置かれている別館へ行った。別館といっても屋根も窓枠も床もない煉瓦造りの廃屋であったが、その一区画の土間に十人ほどの死体が積み重ねられていた。彼等の軍衣は生きている連中が頂戴したとみえ、シャツとズボン下のまま、めいめいが思い思いの姿で硬直して絡み合っていた。…」(『“棄民”のあしあと』p.52-54)

それ以来何人もの死者を送り、死体置き場の死体は三重、四重にも重ねられるようになり、ある日三人がかりでこれらの亡骸を馬車に乗せて運んで、白樺林に掘られた大きな穴に放り込んだことが記されている。

その後夏梅氏は中国東山の炭鉱での堀進作業を経験したのち、最終的には中国医科大「教材課」で人体の絵を描く仕事に従事した後、昭和28年(1953)5月にようやく帰国となる。
日本に戻ってからは全日本損害保険労組の書記を勤めた後、昭和53年(1978)会社を設立して、昭和63年(1988)には社長をリタイアされたのだが、その5年後に報道された『シベリア抑留』についての新聞記事を読んで強い衝撃を受けることとなる。
著書のプロローグをしばらく引用させていただく。

「…1993年(平成5)8月13日付の各紙は、『旧満州などの民間人・将兵捕虜180万人の“棄民”化計画が『大本営報告書』によって判明した』ことを大きくとりあげていた。
『最近ロシア公文書施設で発見されたもので、同報告によると、捕虜となった180万人についてソ連指令下に移し、国籍離脱まで想定、病人を除き、現地に土着させ、事実上“棄民”化する方針を固めていた』
『旧満州で関東軍がソ連に捕虜の使役を申し出た昭和20年8月29日文書も最近明るみに出たが、それには、大本営報告書に『全面的に同意』した関東軍参謀長の『所見』も発見された』
それらは『結果的に60万シベリア抑留の伏線となった関東軍の使役申し出は、日本の国家意志であった可能性が極めて強くなった』
(毎日新聞)」(同上書p.11-12)

上記の『毎日新聞』の記事には、なぜ大本営や関東軍がソ連に捕虜の使役を申し出たのかについて書かれていないが、わが国の国体を守るためだとか、北海道を守るためだったなどとか諸説がある。

当時の史料を確認しよう。大本営高級参謀の朝枝繁春陸軍中佐は昭和20年8月26日付で『関東軍方面停戦状況に関する実視報告』を書いている。
この人物は戦後、瀬島龍三、種村佐孝、志位正二らとともに「第7006俘虜収容所」というソ連の特殊学校で共産主義革命のための特殊工作員として訓練を受けたガチガチの共産主義者
で、昭和24年(1949)帰国後ソ連のスパイとして活動していたが、昭和29年(1954)にKGBのラストヴォロフ中佐がアメリカに亡命した際に日本人エージェントとして自分の名前が明かされたために、警視庁に自首したという経歴がある。

報告朝枝繁春 関東軍方面停戦状況に関する実視

朝枝中佐の『関東軍方面停戦状況に関する実視報告』にはこう書かれている。

「一 一般方針 
内地における食糧および思想経済事情より考えるに、既定方針通り大陸方面においては在留邦人および武装解除後の軍人は『ソ』連の庇護下に満鮮に土着せしめて生活を営む如く、『ソ』連側に依頼するを可とす。」
 二 方法
  1.患者および内地帰還希望者を除くほかは、速やかに『ソ』連の指令により各々各自技能に応ずる定職に就かしむ
  2.満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとす
  3.以上満鮮に於ける土着不可能なる場合においては、今入冬季前に少なくも先ず軍隊400,000、傷病兵 30,000、在留邦人 300,000 計730,000を内地向け輸送せざるべからず。而してこれを輸送は船舶、鉄道の運用輸送間の給養等厖大なる仕事にして、一つに『ソ』側を通して連合側に依頼せざれば不可能なる問題なり。」(『シベリアの挽歌』)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html

この報告から大本営は、終戦直後にソ連に残った日本人を73万人と認識していたことが明らかだが、朝枝は73万人もの邦人を国内に戻すことは困難であり、ソ連の庇護下において定職に就かせて土着化させ日本国籍を離れさせても良いとまで書いている。これでは多くの日本国民を「棄てる」と表明したことと同じではないか。
ソ連からすれば、死者・行方不明の邦人が多数出たとしても、すでに「国籍を離れ」たことにしてしまえば、いくらでも「日本」の犠牲者の数を減らすことができることになるのだ。

朝枝はこの報告の中で、在留邦人や軍人たちをソ連に差し出すことが「既定方針」であったと明記しているが、ではこのような方針はいつ頃決まったのであろうか。

産経0811

以前にこのブログで書いたが、1945年6月に中国国民政府の陸軍武官が、日本政府の重要メンバーの多くがコミンテルン*に汚染されており、他国の共産党と連携しながらソ連に和平工作を仕掛けたことを、重慶に機密電報で打電した電文が米国に傍受されて、ロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAに残されている。
*コミンテルン:モスクワに創設され世界の共産主義革命を目指した国際組織。第三インターとも呼ばれる。

この年の4月に鈴木貫太郎内閣が成立しソ連に和平仲介を依頼するために、参謀本部が東郷外相を訪ね、その後に参謀本部が提出した、ソ連に仲介を依頼するに際して提出された意見書『対ソ外交交渉要綱』は、参謀本部第二十班(戦争指導班)班長の種村佐孝大佐が書いたものだが、このような厳秘資料が『アジア歴史研究センター』にアクセスすれば誰でもPCで読むことが出来る。この人物も朝枝繁春と同じく「第7006俘虜収容所」というソ連の特殊学校で共産主義革命のための特殊工作員として訓練を受けたガチガチの共産主義者である。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C12120293900?IS_STYLE=default&IS_KIND=SimpleSummary&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=%E5%AF%BE%E3%82%BD%E5%A4%96%E4%BA%A4%E4%BA%A4%E6%B8%89%E8%A6%81%E7%B6%B1&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=&

種村は、対米戦争継続には日ソ戦争を絶対に回避すべきであり、そのために日ソ同盟を結ぶべきと主張し、そのためにソ連に提示すべき条件として次のように記している。

対ソ外交交渉要綱

「…換言すれば『ソ』側の言いなり放題になって眼をつぶる。日清戦争後に於ける遼東半島を還付した悲壮なる決心に立ち換ったならば、今日日本が満州や遼東半島や南樺太、台湾や琉球や北千島や朝鮮をかなぐり捨て、日清戦争前の態勢に立ち還り、明治御維新を昭和の御維新によって再建するの覚悟を以て、飽くまで日『ソ』戦を回避し、対米英戦争完遂に邁進しなくてはならない。…
…帝国としては、この肚を以て、日『ソ』戦争を絶対に回避すべきであって、そこまで肚を極めて対『ソ』交渉に移るべきである。移った以上『ソ』側の言い分を待って之に応ずるという態度に出づるべきである。我より進んで以上の諸条件を展開することの適当ならざるは外交駈引上から言っても当然考慮せられるべき点である。」

種村は、『今後の対ソ施策に対する意見』でも、「(1)米国ではなくソ連主導で戦争終結 (2)領土を可能な限りソ連に与え日本を包囲させる (3)ソ連、中共と同盟結ぶ」と書いており、わかりやすく言えば、ソ連に戦争で疲弊したわが国を包囲させて、ソ連主導でわが国に共産主義革命を起こそうとしたのである。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C12120293800?IS_KIND=MetaDetail&IS_STYLE=default&

松谷大佐

また鈴木貫太郎首相の秘書官を務め「終戦処理案」をまとめた松谷誠大佐も4月に『終戦処理案』をまとめ、その中で「戦後日本の経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿り、この点からも対ソ接近は可能。米国の民主主義よりソ連流人民政府組織の方が復興できる」とし、戦後はソ連流の共産主義国家を目指すべきだと書いているようだ。
http://www.ac.auone-net.jp/~oknehira/NihonWoSekikaSunzenmadeOikondaHaisenKakumei.html

左傾学生の続出に文部省全く弱る

ではなぜ、日本の大本営の中枢に共産主義者が多かったのか。
このブログで何度か書いてきたが、昭和初期に学生の左傾化が社会問題になるほどに若い世代がマルクス主義思想に傾倒し、マルクスやレーニンの著作が飛ぶように売れた。
そして昭和3年(1928)にモスクワでコミンテルン第6回大会が開かれ、そこで採択された決議「帝国主義戦争と各国共産党の任務に関するテーゼ」にはこう書かれていた。

「帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。

…大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。…」

共産党の一味が重要なる某連隊に
【昭和3年(1928)4月14日付 神戸又新日報】

このような考え方は最初にレーニンが主張し、『敗戦革命論』と呼ばれているものだが、わが国の軍隊の中には、この第6回コミンテルン大会の決議通りにわが国で革命を成功させるために進んで軍隊に入隊し、国家を内部から崩壊せしめる力となり、自国政府の敗北を導こうと動いた連中が少なからずいたと考えればよくわかる。
だから大本営はソ連が8月9日に対日宣戦布告した時に、関東軍に対し朝鮮国境まで退却させ、関東軍は満州と日本人居留民を放置してソ連に差し出し、終戦の日にはアメリカ主導の終戦に反対し、ソ連がわが国を包囲するまで戦争を長引かせるために昭和天皇の『終戦の詔勅(玉音放送)』を吹き込んだレコードを奪い取ろうとしたのである。

ワシレフスキー元帥

極東ソ連軍の最高司令官であったワシレフスキー元帥がモスクワに打った、8月20日付の電文にはこう記されている。
関東軍参謀長秦中将は私ワシレフスキー元帥に対して、満州にいる日本軍と日本人ができるだけ早くソ連軍の保護下に置かれるよう、ソ連軍の満州全域の占領を急ぐよう要請し、同時に、現地の秩序を保ち企業や財産を守るために、ソ連到着まで武装解除を延期されたいと陳情した。」
関東軍は満州にいる日本人居留民を護ることなく撤兵し、すべてをソ連に委ねたのである。

また関東軍の参謀が「ワシレフスキー元帥に対する報告」という文書を8月29日にソ連側に提出している。文書作成の責任者は関東軍作戦班長陸軍大佐の草地貞吾で、筆跡は関東軍参謀陸軍中佐の瀬島龍三のものだという。
以前はネットで掲載していた人がいたのだが、今ではリンクが切れてしまっている。
ごく一部しか読めないのは残念だが、「シベリア抑留裁判」を戦っている方のHP『老いたる蟷螂の言い分』にポイントとなる部分が引用されている。
「…次は軍人の処置であります。これにつきましても当然、貴軍においてご計画あることと存じまするが、元々満州に生業を有し、家族を有するもの並に希望者は満州に留まって貴軍の経営に協力せしめ、その他は逐次内地に帰還せしめられたいと存じます。右帰還までの間におきましては、極力貴軍の経営に協力する如くお使い願いたいと思います。」
http://i-support.main.jp/k00/20000110v2.html

『シベリア抑留』の問題は、日本人の多くを死に至らしめたソ連の責任が大きいことは言うまでもないが、大量の日本人をソ連に委ねた大本営や関東軍の責任を問わないわけにはいかないではないか。しかしながら彼らは誰一人として処罰されることなく、戦後の世界を生き続けたのである。

彼等の誰もが処罰されなかったということは、わが国で革命がおこることを夢見てソ連に協力してきたメンバーが、終戦直後のわが国の中枢部で深く根を張っていたと考えるしかない。わが国の政府はシベリア抑留の事実調査をまったく行わなかったのだが、この問題に関係する5つの省庁の高級官僚たちが調査を拒否し、特に外務省が強く反対したことが次のURLで記されている。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Sengoshori.html

わが国に対するソ連の工作がその後も続いてそれに協力した連中がかなりいたのだろう。そして1991年のソ連崩壊後は、彼等自信の保身のために従来からの主張を変えなかったとでも考えなければ、戦後の長きにわたってソ連にとって都合の悪い多くの真実が隠蔽され、政府機関による「シベリア抑留」の実態解明調査が今もなされていない謎が解けないのである。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

学生や軍部に共産思想が蔓延していることが危惧されていた時代~~ポツダム宣言4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-293.html

政府中枢にいてソ連に忠誠を尽くそうとした『軍国主義者』たち~~ポツダム宣言5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-295.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-224.html

ソ連占領下から引揚げてきた日本人の塗炭の苦しみを忘れるな
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-407.html

共産主義に傾倒した陸軍参謀本部大佐がまとめた終戦工作原案を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-409.html

ロシア革命後、ソ連はいかにして共産主義を全世界に拡散させたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-411.html

スターリンの罠にかかって第二次大戦に突入したことをわが国から教えられた米国の反応

柴田秀利氏の『戦後マスコミ回遊記』の話題を続けよう。

柴田氏によると、終戦直後から日本共産党は「戦争反対を終始一貫主張し続けてきたのは我が党だけである」と宣伝していたのだそうだが、その主張が嘘であり、むしろ共産主義者たちがわが国を戦争に巻き込んだことを裏付ける論文などが当時は存在していて、三田村武夫氏が主張する「コミンテルンの世界革命計画に従って、わが国を戦争に巻き込み敗戦に導くことによって、一挙に暴力革命を達成しようという『敗戦戦略』の大ワナにわが国が嵌められた」という説は充分な説得力があったようだ。

柴田氏は同上書の中でこう述べている。
もしこの戦争が三田村論文通り、スターリンのタクトに振られて、踊らされていたものだとすれば、必ずやスターリンは、同じような罠を、敵国のアメリカ側にも張りめぐらしていたに違いない。今までに日本に指令されてきた占領政策の数々も、裏を返せばことごとく日本を弱体化させ、必然的に社会主義化させようとするものばかりだったと言っても過言ではない。受ける側の日本からすると一層それがハッキリ見えていた。日米ともに莫大な血の犠牲を払わされ、戦い終わってフタを開けてみたら、何のことはない、双方ともどもスターリンの手のひらに乗って、踊らされた阿呆同士だったじゃないか、ということになりかねない。」(中央公論社『戦後マスコミ回遊記』p.39-40)

当時柴田氏は、読売新聞記者としてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)を担当していたのだが、三田村武夫氏の論文をGHQ情報部長のウィロビー少将に見せることを馬場社長に進言して社長と二人で論文を届けたところ、半月ほどして少将から連絡があって、再び社長とGHQ情報部を訪ねた場面を引用する。

ウィロビー参謀二部長

「(ウィロビー少将は)『先日いただいた『敗戦謀略』の論文、つぶさに検討しました。全く驚き入った事実を教えられて、目の皮がはがれた思いがしました。そこで最高司令官以下、全員の意思で、本件の本格的調査、研究をする特別委員会を郵船ビルに設置することを決めました。ワシントンとも連絡し、委員長に専門家の将官が着任することまで決定したことをお知らせします。われわれにとって、実に得がたい課題を提供していただいたことを心から感謝します。』
 まことに決意にあふれた、丁重な挨拶であり、回答であった。…
 ウィロビーのやることは全く素早かった。昔の担当検事、特高、それに旧軍の情報担当幹部が続々と呼び出され、委員会はたちまち膨大な組織にふくれ上がっていった。しばらくして、ワシントンから着任したという専門家の少将に帝国ホテルで御馳走になり、これは必ずワシントンばかりか、世界中を驚かす調査になりますよ、といった。張り切った意気込みを聞かされ、私は非常な満足を覚えた。」(同上書 p.47-48)

以前このブログで、GHQの中にもソ連の工作があったことを書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-246.html

公職追放

終戦直後にGHQの民生局(GS)は、わが国の政治家、官吏、教員、財界、教員などの主要人物を中心に20万人以上の人々を強制的に辞めさせて公職に就けないようにさせている。
公職追放令』は占領軍民生局のホイットニー局長とケーディス次長が中心となり、その右腕だった外交官ハーバート・ノーマンらによって発せられたのだが、ホイットニーもケーディスも社会主義者であり、またハーバート・ノーマンはソ連の工作員であったことが今では明らかになっている
この時に公職を追放されたメンバーには松下幸之助や石田礼助、小林一三ら財界人から鳩山一郎、石橋湛山ら政治家、正力松太郎、菊池寛などがいて、決して「極端な国粋主義者」だけが追放されたわけではないのだが、そのあとで重要なポストに就いたのはいわゆる「左派」勢力がかなり多かった。
また労働組合が解禁され、治安維持法と特別高等警察は廃止され、戦時中にこれら罪状で逮捕・服役していた政治犯を釈放し、さらに農地改革によって大地主から強制的に土地を買い上げて小作人に分配し、財閥解体などが行われた。

赤旗 再刊第一号

これらのGHQの施策をわが国の共産主義者たちが大歓迎した記録が残されている。
昭和20年10月20日に発刊された日本共産党の機関紙『赤旗』の記念すべき再刊第一号の『人民に訴う』という論文の冒頭には、こう記してGHQに感謝しているのである。

ファシズムおよび軍国主義からの、世界解放のための連合国軍隊の日本進駐によって、日本における民主主義革命の端緒がひらかれたことに対して、われわれは深甚の感謝の意を表する
http://www.mcg-j.org/mcgtext/undousi/undousi.htm

この論文に書かれていることは、米占領軍を「解放軍」と賛美し、占領軍の支持と協力の下に「天皇制の打倒と人民共和政府の樹立」をめざしてブルジョア民主主義革命を遂行するというもので、翌年2月の第5回日本共産党大会では、この「解放軍」規定が敷衍化された「占領下平和革命論」が当面の綱領的方針として採択されていることを知るべきである。

1946年メーデー
【昭和21年復活メーデーで演説する徳田球一日本共産党書記長】

このように左傾化していたGHQの施策でわが国の経済は急激に落ち込んでしまい、アメリカがわが国に調査団を派遣し作成させたジョンストン報告によると、
このままいったら日本人を生き延びさせるためだけにも、毎年最低1億ドル以上の援助を続けなければならない。…占領2年間で見極めた当時の日本の工業生産指数は、昭和の初期、つまり1930年から34年の平均の45%、輸出に至ってはタッタの10%、輸入が30%という惨めさだった。その上にインフレである。物価はすでに終戦時の90倍という恐るべき猛威を振るっていた。そのため日本人全体の『疾病と不安の防止』のためという名目のガリオア援助資金だけでも、年間3億5000万ドルもの巨額を支出していた。日本がいかに崩壊に瀕していたか分かろうというもの…」(同上書 p.55-56)
と、わが国の経済は悪化の一途をたどっていたようだ。
にもかかわらずGHQの民生局は、さらに経済力集中排除法案を通して、大企業をいくつかの子会社に分割してバラバラにしようとしていたのである。

このような左傾化したGHQの施策を修正させるきっかけになったのが、柴田秀利氏がGHQ情報部長のウィロビー少将に持ち込んだ三田村武夫氏の論文だったのである。

前述のジョンストン報告では、「生産を阻害しないよう配慮し、企業の分割を全面的な競争を保証するために必要最小限にすることによって、解体化政策によって生ずる攪乱的効果を和らげるべきである」と結論されるに及んで、わが国企業の解体はわずか9社にとどめられて、300以上の大企業が解体を免れることが正式に決定されたという。

GHQの方針がガラッと変わっただけでなく、ワシントンにおいてもソ連のスパイ網の調査が開始されることとなる。

柴田秀利

柴田氏はこう記している。
「…東京から火をつけた調査の手が、実はワシントンの最高幹部の周辺に、すでに張りめぐらされていたのだった。雑誌タイムの老練記者だったウィッティカー・チェンバーズが、自らソ連の手足だったことを告白すると同時に、自分は縁を切ったが、クレムリンの指令に基づいて、赤い巧妙なネットワークが政府最高幹部の頭脳の中に潜入し、明日の世界地図を真赤に塗り替えようとしているという、重大な証言を下院の非米活動調査委員会で行い、一大センセーションを巻き起こしていた。なかんずく、彼が政府の最上層部に食い込んでいる指導的メンバー7人の名を挙げた中に、アルジャー・ヒスとディクスター・ホワイトの名前があった。ヒスは戦後世界の分割統治を決めた歴史的な米英ソ三巨頭によるヤルタ会談に、年老いて死期を目前にしたルーズベルトを連れ出し、その特別顧問として暗躍した。そしてスターリンの要求通り、満州と樺太、千島の権益をソ連に与えるという、戦後のアジアや日本にとって最大の問題となった案件を、巧みに飲み込ませてしまった張本人である。…そしていま一人のディクスター・ホワイト―――彼は何とヒスの右腕として、ルーズベルト時代の財務長官モーゲンソウの次官を務め、次いで極東委員会が構成され、…その事務局長として事実上の対日占領政策立案のすべてを掌握していたのだった。…」(同上書 p.58-59)

ハリー・ディクスター・ホワイト

以前このブログでアメリカ陸軍省の特殊情報部が1943年以降極秘裏に解読してきたソ連情報部暗号文書のことを記したが、戦後になってこの『ヴェノナ文書』の解読が進んだことにより、今ではディクスター・ホワイトという人物がソ連のスパイであり、わが国に開戦を決断させた「ハル・ノート」を書いた張本人であることがわかっている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-212.html

ヴェノナ

わが国の権力の中枢に尾崎秀実らがいたのと同様に、第二次世界大戦後もアメリカの権力の中枢にもソ連のスパイや協力者が多数いて、世界の共産革命に向けて高度な政治謀略が進行していたのである。

1949年に中国共産党が内戦での勝利を宣言し10月に中華人民共和国が成立した後、1950年6月に勃発した朝鮮戦争では北朝鮮軍は破竹の勢いで勝ち進んでいく。
米大統領のトルーマンは、GHQのマッカーサーに韓国の防衛を命じ、また国連も米国に国連の代理としての行動をとるように要請してマッカーサーを国連軍司令官に任命している。トルーマンにとっては、わが国でレッドパージを開始しただけでなく、米国政府周辺の赤狩りを東京から主張するマッカーサーは煙たい存在であったに違いない。

マッカーサー

北朝鮮軍はわずか2ヶ月で韓国領土の9割以上を制圧し勝利目前であったのだが、マッカーサーは戦況を一転させるために、9月に北朝鮮軍の補給路を断つ「仁川(インチョン)上陸作戦」を実行し勝利する。10月に国連軍は38度線を突破し、北朝鮮の平壌を占領し、破竹の勢いで鴨緑江近辺まで進軍したのだが、ここで868千人もの中国軍に遭遇する。この時点で国連軍の兵力は中国軍・北朝鮮軍の5分の1程度だったとのことだが、トルーマンはマッカーサーにそれ以上の兵を送らなかったという。
かくして国連軍は中国とのおおっぴらな戦争状態に突入し、圧倒的な兵力差から後退を余儀なくされ、12月には平壌、翌年1月にはソウルを共産軍に再び奪われてしまうのだが、たまたま2月以降共産軍に天然痘、腸チフスなどの伝染病が蔓延してその戦意が低下した。そして3月に国連軍は再びソウルを奪還し優位に立つのだが、翌月トルーマンはマッカーサーを突然解任し、彼のすべての指揮権を剥奪してしまうのである。

マッカーサー解任

ヴェノナ文書』の暗号解読により、ルーズベルト政権の時は常勤スタッフだけで2百数十名、正規職員以外で300人近くのソ連の工作員、あるいはスパイやエージェントがいて暗躍していたことが今では判明しているのだが、ルーズベルトの急死の後、副大統領から大統領に昇格したトルーマン政権も、同様なレベルでソ連に繋がるメンバーが存在していたことは確実で、世界の共産国化のための工作を継続していたと考えて良いだろう。

前述したとおり、ソ連寄りに偏っていたGHQやアメリカの対外政策を変えるきっかけを作ったのが三田村武夫氏の論文『大東亜戦争とスターリンの謀略』であり、柴田秀利氏がその論文をウィロビー少将に持ち込んだことが、朝鮮半島全体の共産化を阻止したマッカーサーが解任されるという大事件に繋がっていったのである。

柴田氏は著書でこう述べている。
「この解任を私は実に複雑な想いで受けとめなければならなかった。それをまた、自ら語らざるを得ない運命に置かれたことを、一層皮肉に思った。彼もまた帰国して、国会であの有名な『老兵は死なず、消え去るのみ』の演説をしたあと、3日間連続して軍事・外交合同委員会で詳細な証言を行なった。その時発行されたニューズウィークの特集号が、最大限の努力を結集して報道した中で、ハッキリと謳い上げたことがあった。それは、帰国に当たって、マッカーサーが日本から船で持ち帰った数々の宝物の中で、一番大切で、しかも大半を占めたものは、尾崎・ゾルゲ特別委員会が集めた、膨大な資料の山だったという指摘であった。」(同上書 p.62)

マッカーシー

アメリカでは1950年頃からマッカーシー上院議員らによって、政府やマスメディア関係者、学者などを対象に多くの共産主義者が告発されていったのだが、マッカーサーが日本から持ち帰った資料が少しは役に立ったのだろう。WikipediaによるとマッカーシーはFBIのフーヴァー長官から情報を入手していたと推測されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BC

ところが、マッカーシーの告発対象が軍幹部に及んだことから軍からの強い反発を招き、また今までの告発の手法が強引であったことからマッカーシーへの批判が急浮上し、テレビ番組で追及されるに至る。
1954年12月には「上院に不名誉と不評判をもたらすよう行動した」とするマッカーシー譴責決議案が提出されて可決され、彼は事実上失脚してその後は表舞台に出ることはなかったという。

しかしながら、1995年に「ヴェノナ文書」が機密扱いを外されソ連の暗号通信の内容が明らかになった結果、ソ連のスパイ行為はマッカーシーの見積もりよりもさらに大規模なものであったことが今では明らかになっているようだ。

大規模な「赤狩り」が行なわれたアメリカですら、ソ連に繋がっていた人物の告発は不充分に終わったのだが、翻って戦後のわが国ではどうであっただろうか。
ソ連に繋がってきた人物が告発されるどころか、戦後の長きにわたり官僚やマスコミ、言論界、教育界等の重要ポストに居座り続け、国内外の勢力などと連繋しながら、今も影響力を保持し続けていることを知るべきだと思う。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

朝鮮戦争の緒戦で北朝鮮軍が韓国領の9割以上を制圧できたのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-266.html

朝鮮戦争で、国連軍を勝たせないようにしたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-272.html

スターリンが朝鮮戦争に米国を誘導したことを示す極秘文書が発見されている
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-276.html

ソ連占領下から引揚げてきた日本人の塗炭の苦しみを忘れるな
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-407.html

なぜ中国大陸に大量の日本人孤児や婦人が残されたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-408.html

このブログで何度か紹介した三田村武夫氏の論文を収録した本が復刻出版されていることを読者の方から教えていただきました。ウィロビーの目にとまったのはこの本です。次のURLをクリックし、上から5冊目です。
http://www.kure-pass.com/%E5%BE%A9%E5%88%BB%E5%87%BA%E7%89%88/


日本共産党が在日朝鮮人と連携し武装闘争に走った時代を忘れるな

前回の記事で、昭和20年10月に再刊されたばかりの日本共産党の機関紙『赤旗』第一号の『人民に与う』という論文で、米占領軍を「解放軍」と賛美していたことを書いた。そして翌年2月の第5回日本共産党大会では、この「解放軍」規定が敷衍化された「占領下平和革命論」が当面の党の綱領的方針として採択されている。

その当時のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)にはソ連に繋がるスタッフが数多くいて、わが国を共産国化させるプログラムが裏で進行していたのだが、1948年9月には朝鮮半島北部のソ連占領地域で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立し、翌1949年10月には毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した。そして1950年2月には中ソ友好同盟条約が調印されて、いよいよ朝鮮半島全体の共産化が実行に移されようとしていた。

日本共産党の戦後秘史

元日本共産党員の兵本達吉氏の著書『日本共産党の戦後秘史』に当時の興味深い新聞報道が紹介されている。
「それは、1950年2月15日付のパリ発、ニューヨーク・タイムズ特派員ザルツバーガー記者の特電と、同日付のワシントン発、APのハイタワー記者の特電である。サザルツバーガー記者は、スターリンと毛沢東がモスクワで会談し、『中ソ友好同盟条約』を結んだこと、そしてその秘密のメモランダムをスクープした。AP通信のハイタワー記者は、米政府筋の情報として、中ソ両首脳が、朝鮮半島ないしは台湾海峡での有事を視野に入れて、日本共産党を武装させる合意に達したと伝えている。
そして1950年3月、金日成が訪ソしてスターリンから南朝鮮への侵攻への同意を得た
。」(『日本共産党の戦後秘史』p.81-82)

日本共産党史に詳しい宮地健一氏のホームページによると、ソ連崩壊後に発掘されたソ連共産党秘密文書などでスターリンは日本共産党に対し、以下のような指令を出しているという。その内容は
「(1)表面は、野坂参三を名指しにした占領下の平和革命論批判であり、そこには、武装闘争指令文言はない。しかし、(2)その裏側の狙いは、ソ連NKVD工作員野坂参三だけが判読できる暗号を含んでいた。その暗号内容とは、ソ連スパイ野坂にたいし、日本共産党を、朝鮮侵略戦争加担武装闘争路線へまるごと転換させよという指令だった。アメリカ占領軍も、この暗号内容を正確に読み取っていた。」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/busotoso1.htm#m41

このようなスターリンの指令のあと、さらに中国共産党も日本共産党の「占領下平和革命論」を批判したことから、日本共産党は武装闘争に進むかどうかで意見が真っ二つに割れることとなる。

マッカーサー

一方、マッカーサーは5月3日に、共産主義陣営による日本侵略に協力しているとして日本共産党の非合法化を示唆し、5月30日には皇居前広場において日本共産党指揮下の大衆と占領軍が衝突する事件がおきている(人民広場事件)。
そして6月6日に、マッカーサーは日本共産党中央委員24人の公職追放を指令し、その政治活動を禁止(レッドパージ)するなど、それまでのGHQの日本共産党に対する施策を急変させている。

そして朝鮮半島では、6月25日に北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始されて朝鮮戦争が始まり、一方わが国では7月には政府の出頭命令を拒否した9人の日本共産党幹部に対し逮捕状が出され、徳田球一、野坂参三らは中央委員会を解体し、意見の異なる宮本顕治ら7人の中央委員を排除して非合法活動に移行し、中国に亡命して9月に「北京機関」とよばれる機関を設立し、日本には徳田らが指名した臨時中央指導部を残している。

翌年の昭和26年(1951)2月に党分裂のまま開催された日本共産党第4回全国協議会(四全協)で、日本の暴力革命と朝鮮戦争下端武装闘争が決定し、その後反徳田派の首領であった宮本顕治は、スターリンの圧力に屈して派を解散し、主流派に復党したことで日本共産党は統一を回復した。
そして10月に開かれた第5回全国協議会(五全協)では、スターリン執筆の51年綱領と武装闘争方針が採択され、以後日本共産党は「軍事方針」と呼ばれる武装闘争路線を採ることとなり「山村工作隊」や「中核自衛隊」などの非公然組織が作られたのである。

Wikipediaに、五全協で発表された、『われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない』という文章の一部が紹介されている。
軍事組織の最も初歩的なまた基本的なもの、現在では中核自衛隊である。中核自衛隊は、工場や農村で国民が武器をとって自らを守り、敵を攻撃する一切の準備と行動を組織する戦闘的分子の軍事組織であり、日本における民兵である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%A0%B8%E8%87%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A

1950年代前半朝日 火炎ビン製法

それから後日本共産党は、わが国の各地で列車を爆破したり、交番を焼き討ちしたり、警察官へのテロ行為を実行に移したのだが、このような共産主義国や共産主義者にとって都合の悪い歴史は、今の日本人にはほとんど知らされていないと言って良い。

1950年代前半朝日 日本共産党

次のURLに日本共産党がこの時期にどのような活動をしていたかを伝える朝日新聞と日本経済新聞の9本の記事の紙面画像が紹介されているのだが、新聞の日付が明記されていないのが残念だ。いずれも1950年代前半の記事だと印されているが、これらの記事は日本共産党によるテロ事件のごく一部にすぎない。
http://ameblo.jp/gofujinnaidoru/entry-12160283566.html

次の『武闘の系譜』というサイトに日本共産党に関わる事件が約50件ほど記載されているが、これだけ多くの事件を起こしたことから、日本共産党は短期間で国民の支持を失うこととなる。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/9729/butou.htm

上記サイトで記されている事件に一通り目を通すと、在日朝鮮人が日本共産党と同様なテロ事件を多数起こしていることがわかる。その関連をいろいろ調べていくと、在日朝鮮人が日本共産党と連携していたことが見えてくる。

祖国防衛隊

上記画像は昭和27年(1952)3月30日の読売新聞の記事だが、ここには怖ろしいことが書かれている。文中の「日共」は「日本共産党」、「祖防」は「祖国防衛隊」(在日朝鮮人団体)の略語である。

金日成

「…北鮮政府主席金日成が、『在日朝鮮人は今後日共指揮下に行動すべし』との密令を出し…、その後共同闘争の建前をとったことは各地の日共関係暴力事件に朝鮮人が加わっていることからも明らかであり、『われわれが入らねば日本革命の武装蜂起は日共党員、労働者のみでは成功しない』と自負しているという。
 1月23日名古屋で行われた中部日本祖防隊長会議では『防衛隊は日共の新綱領を大衆に浸透させ、日共のスローガンの下に行動し、在日朝鮮人60万は日本民主革命の先鋒たれ』と決議、また昨年11月の長野における祖防委員会の席上では『金日成は在日朝鮮人を敵陣地に降下させた落下傘部隊であると激励した』と述べられたといわれる。
…人員は20代の青年約3万人からなっており、行動隊としてのテロの最先端分子、日共の中核自衛隊と同じように『祖防隊』などをもっているがこの『祖防隊』は中央総本隊、地方県本隊、支部支隊、分隊、班に分かれ、日共の五全協の軍事方針に従い共闘を行なっている。…」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%96%E5%9B%BD%E9%98%B2%E8%A1%9B%E9%9A%8A_(%E5%9C%A8%E6%97%A5%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E5%9B%A3%E4%BD%93)

ジャーナリストの林 玲氏が「『日本共産党史』から消された『朝鮮総連』結成秘話」という興味深い論文を書いておられる。次のURLに引用されているが、重要な部分を紹介しよう。
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid289.html

戦前から、日本共産党のもとに多くの在日朝鮮人が集っていた。例えば、共産党系の労働組合の全協(日本労働組合全国協議会)は、最盛時の1931年(昭和6年)ごろ、組合員数は3万人だったが、うち3割を朝鮮人が占めていた。」

このように日本共産党には戦前から多数の朝鮮人が加わっていて、終戦後に党が再建される際には、必要な資金の大半を当時の在日組織である朝連(在日本朝鮮人連盟)が提供し、昭和21年2月に開かれた第5回党大会当時の党員数はおよそ6000人。うち約1000人が朝鮮人だったという。
昭和25年に朝鮮戦争が勃発し、その翌年に在日朝鮮人統一民主戦線(民戦)が結成されているのだが、この民戦は共産党の民俗対策部の指導下にあり、在日朝鮮人は1951年2月の4全協(第4回全国協議会)で決定された“武装闘争”の前面に立たされることとなる。

ではなぜ、在日朝鮮人は日本共産党の武装闘争に積極的に加わったのだろうか。

その点については林 玲氏は
「実は、4全協では在日朝鮮人を、戦時下の日本政府にならったのかどうか、<日本のなかの少数民族>と規定したのである。
 この規定では、在日朝鮮人は外国人ではないことになる。つまり日本革命をなし遂げることなくしては、在日問題は何一つ解決しない、とされたのである。」
と書いているのだが、この解説はわかりにくい。

わが国の政府では昭和22年(1947)5月の外国人登録令で在日朝鮮人は外国人と見做されるようになり、昭和27年(1952)4月に発効するサンフランシスコ講和条約と併せて外国人登録法が施行され、在日朝鮮人は日本国籍を有しないこととされた。

保導連盟事件
【保導連盟事件:韓国軍と警察による処刑を待つ政治犯】

外国人と見做されれば朝鮮半島に送還されることになるのだが、この半島は1950年6月以降、韓国と北朝鮮の間で主権を巡る戦場となっており、しかも韓国の李承晩は反共主義者で、1950年6月に南朝鮮労働党関係者の処刑を命じ、韓国軍や韓国警察によって共産主義者の嫌疑をかけられた20万人から120万人に及ぶ民間人が裁判なしで虐殺されている。(保導連盟事件)
また、その2年前の1948年4月には、南北統一国家樹立を訴えるデモを行っていた済州島の島民に警察が発砲し島民6人が殺害されたことに反発して、南鮮労働党が島民を中心とした武装蜂起を起こしたことから韓国本土から陸軍が派遣されることとなり、島の人口の2割にあたる6万人の住民が虐殺される事件も起きている。(済州島4.3事件)
このような半島の情勢から多くの朝鮮人がわが国に密航してきたのだが、敗戦国であるわが国は武装が出来ず、一方朝鮮半島からの密航者は武装していたことから、密航船の検挙率は2割程度にすぎず、また韓国政府はわが国が摘発した朝鮮人密入国者の受け入れを拒否したという。

共産主義を奉じる在日朝鮮人の多くは、わが国で「外国人」とされて戦場の朝鮮半島に帰されるよりも、「日本の中の少数民族」とされて日本に残りながら、祖国の共産主義革命を支援しようと考えた。
彼等は日本共産党とともに、日本各地で韓国向けの輸送の妨害などを起こして北朝鮮が朝鮮半島で勝利することを導き、さらに日本の共産主義革命に協力し勝利に導けば、わが国で権力の一端を担うことも可能だと考えたのではないか。

血のメーデー事件
【血のメーデー事件】

ではこの時期にどんなテロ事件が起きたのか。再び林氏の論文を引用する。
共産党の軍事方針のもとで、いくつもの騒乱事件が起きた
1952年(昭和27年)の5月1日、第23回メーデーで、デモ隊と警官隊とが衝突したいわゆる“血のメーデー事件”がある。戦後、皇居前広場は“人民広場”と呼ばれ、たびたび集会場として使われてきたが、その日、政府は使用禁止とした。だが、メーデー参加者たちは広場に突入。在日朝鮮人はデモ隊の先頭で警官隊に対峙した。
この事件では在日朝鮮人から多くの逮捕者(1232名中130名)が出た。広場になだれ込んだ2万人のうち、5000人が在日だったといわれる
その年、大阪で起きた吹田事件(6月25日)、名古屋の大須事件(7月7日)でも、多数の逮捕者が出た。吹田事件の在日の逮捕者は250名中92名。大須事件では、269名中150名が在日だった
こうした騒乱事件の多発に対し、大須事件直後の7月13日、民戦中央本部は、実力闘争偏重を批判する。第一線の実行部隊が朝鮮人である場合が多かっただけに、切実だった。
一方、日本共産党は、12月中旬になっても全国軍事会議を開催し、武装闘争と日常戦闘との結合を強調するなど、極左冒険主義は改めそうになかった。」.

このように日本共産党は在日朝鮮人とともに武装蜂起し、「火炎瓶闘争」と呼ばれる暴力革命闘争を実施し多数の警察官が死傷したのだが、1952年に破壊活動防止法が施行されて、非合法闘争に対する当局の対策・取締まりが強化され、1953年に朝鮮戦争が停戦となり、日本共産党の徳田球一書記長も北京で病死して、非合法活動は次第に下火となっていく。

その後1955年1月1日に日本共産党は、ようやく機関紙『アカハタ』で「極左的冒険主義と手を切る」ことを表明する。それに伴い在日朝鮮人は路線を転換することとなる。

林氏はこう記している。
「1955年5月25日、…民戦解散の翌日、朝鮮民主主義人民共和国支持、日本の内政不干渉を掲げて、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が結成された。共産党に党籍のあった在日朝鮮人は一斉に離脱した。
 同年7月24日、共産党は民族対策部を解消。朝鮮人党員離党の方針を決定することで、これを追認した。
 戦前、戦後の最も苦しかった時代、共産党の中で最も困難な仕事を引き受け、党を支えたのは在日朝鮮人の人々であった。共産党の正史では、そのことに一言も触れられていない

このように「朝鮮総連」は、もともとは日本共産党に所属していた在日朝鮮人が結成した団体なのだが、戦前から続いている日本共産党と在日朝鮮人との深い関係が「朝鮮総連」が出来て消滅したのではなく、両者が「反日」で共闘している今は、その関係がむしろ強まっていると感じるのは私だけではないだろう。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。


特高警察の「拷問」とはどの程度のものであったのか
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特高が送り込んだスパイに過剰反応した日本共産党
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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