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幕末の孝明天皇暗殺説を追う

前回は坂本龍馬の暗殺について2回に分けて書いたが、この前後の日本史の年表を見ていると、この時期に結構多くの志士が暗殺されている。

幕末英傑録」というホームページにはこの時期に暗殺された人物の名前が列挙されているが、文久2年(1862)から慶応3年(1867)の6年間で判明している志士の暗殺が41名というのは半端な数ではない。しかも遭難地は京都ばかりだ。

http://www.bakusin.com/eiketu/kill.html

もちろんリストの中には慶応3年11月15日に坂本龍馬と中岡慎太郎の名前があるが、その前年の慶応2年(1866)の 12月25日に「?」付きではあるが孝明天皇の名前が書かれているのに驚いた。

孝明天皇の暗殺説はかなり昔に読んだことがあるが、その時は「そんな説もあるんだ」程度であまり深くは考えなかった。 最近になって幕末から明治にかけての歴史に興味を覚え、先程紹介した暗殺された人物のリストに載っているのを見て何かありそうなので、孝明天皇について少し調べてみることにした。

孝明天皇

孝明天皇は天保2年(1831)に生まれ、弘化3年(1846)に父・仁孝天皇の崩御を受けて即位した第121代の天皇で、その次の天皇が明治天皇ということになる。

嘉永6年(1853)のペリー来航以来、孝明天皇は政治への関与を強め、大老井伊直弼が勅許を得ずに諸外国と条約を結ぶことに不快感を示し、文久3年(1863)には攘夷勅命を出して、これを受けて下関戦争や薩英戦争が起こっている。また異母妹の和宮親子内親王を14代征夷大将軍・徳川家茂に降嫁させるなど、公武合体運動を推進し、あくまで幕府の力による鎖国維持を望んだのだが、薩長を中心とする倒幕勢力は天皇を公然と批判するようになっていく。

第二次長州征伐の勅命が下されるも、坂本龍馬が仲介した薩長同盟により薩摩は出兵を拒否。慶応2年(1866)の6月に幕府艦隊の周防大島への砲撃が開始され長州征伐が始まるも、戦いのために上洛した将軍家茂は大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の若さで、大坂城で薨去されてしまう。

第二次長州征伐は9月に徳川幕府の全面敗北に終わるのだが、その後薩長が京都を制圧する前後に孝明天皇までもが36歳で崩御されるのだが、幕府の存在を認めていた天皇の突然の崩御は佐幕派の力をそぎ、勤王倒幕派の復活を招くという幕末史の大きな転換点になった。

徳川家茂

上の肖像画は将軍家茂だが、家茂の死因は典型的な脚気衝心で、ビタミンB1の欠乏により全身がだるくなり急激な心肺機能の停止を引き起こして死に至ったと解説されている。家茂は甘いものに目がなく、そのためにほとんどの歯が虫歯におかされていたことも遺体の発掘調査により確認されており、脚気衝心で亡くなったという説に異を唱える人はいないようだ。

しかし孝明天皇の死亡原因は、死亡直後から疱瘡による病死説と毒殺説が流布していた。

たとえば幕末から明治にかけて日本に滞在し外交官として活躍したアーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫:1960初版)には

アーネスト・サトウ

「噂によれば、天皇陛下は天然痘にかかって死んだという事だが、数年後、その間の消息によく通じているある日本人が私 (アーネスト・サトウ)に確言したところによれば、天皇陛下は毒殺されたのだという。この天皇陛下は、外国人に対していかなる譲歩を行う事にも、断固として反対してきた。そこで、来るべき幕府の崩壊によって、朝廷が否応無しに西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなる事を予見した人々によって、片付けられたというのである。反動的な天皇がいたのでは、恐らく戦争を引き起こすような面倒な事態以外のなにものも、期待する事は出来なかったであろう。」と書かれているらしい。

通史では病死説になっているが、毒殺説とは一体誰が毒を盛ったというのだろうか。

中公新書の「戊辰戦争」(佐々木克)では、
『…近年、当時孝明天皇の主治医であった伊良子光順の残した日記が一部公にされ、光順の子孫である医師伊良子光孝氏によって、孝明天皇の死は、光順日記で見る限り明らかに「急性毒物中毒の症状である」と断定された。やはり毒殺であった。
犯人について伊良子氏はなにも言及していない。しかし、当時の政治情況を考えれば、自然と犯人の姿は浮かびあがってくる。洛北に幽居中ながら、王政復古の実現を熱望して策をめぐらしている岩倉にとって、もっとも邪魔に思える眼の前にふさがっている厚い壁は、…親幕派の頂点孝明天皇その人であったはずである。…岩倉自身は朝廷に近づけなかったが…大久保は…公卿の間にもくい込み、朝廷につながるルートを持っていた。…直接手をくださずとも、孝明天皇暗殺の黒幕が誰であったか、もはや明らかであろう。』
と書かれており、岩倉具視と大久保利通が黒幕だとしている。

岩倉具視

孝明天皇が疱瘡を患ったことは史実ではあるが、「幕末入門」(中村彰彦:中公文庫)に「伊良子光順日記」のポイントが引用されている。
簡単に書くと、16日に天皇の体に発疹があらわれ疱瘡と診断されるのだが、疱瘡は患者が死に至らなければ、発疹が膨れ、発疹に膿が乗った後、膿が引いてかさぶたができて2週間以内で回復するそうである。
孝明天皇の病状は主治医が見立てた予定日のとおりに快方に向かい、24日には「天皇に御元気が出たことにはっきりと気づく。…女官達は静かな立居振舞の中で生色を取戻した」とあり、崩御された25日には「…少し食欲が出られた。御回復と表役所へ申上げてもいいくらいの御症状…」と書かれており、ほとんど平癒していたことになる。

ところが同じ25日、伊良子光順氏がほっとしてからわずか数時間後、天皇の病状は激変するのだ。
「七ツ時(午後4時)頃、御痰喘の御様子」となり天皇は血便を何度も洩らしになられて苦しまれ、その都度御治療申上げたが、夜の10時頃に崩御されたとのことである。

専門書によると死に至るほどの重篤な疱瘡は「出血型疱瘡」といい、激しい頭痛、背痛を伴う高熱ではじまり、発病後数日以内に眼瞼や血尿等を起こして死亡するそうなのだが孝明天皇の病状は明らかにこれと異なる。

疱瘡で法医学者の西丸與一氏はこのような末期症状はヒ素中毒によるものと判断され、伊良子光順氏の曾孫で医者の光孝氏も同じ見解を述べておられる。
「兎も角、天皇は…御回復が決定的になった。この時点で暗殺を図る何者かが、“痘毒失敗”を知って、飽くまで痘瘡による御病死とするために痘瘡の全快前を狙って更に、今度は絶対失敗のない猛毒を混入した、という推理が成り立つ」
「天皇は一日三回薬を服用されたから、二十五日の正午前後の御服用時に混入されたものと見て間違いないだろう」と伊良子光孝氏が書いておられるそうだ。

「痘毒失敗」という言葉は、孝明天皇暗殺犯はまず初めに天皇を「痘毒」に感染させ、それが不成功と知って砒素を盛ったという説から来ているらしい。
当時砒素は「石見銀山」として殺鼠剤に用いられ、容易に入手できたらしいのだ。

しかし誰がその毒を盛ったのか。そこには岩倉具視も大久保利通もいなかったはずだ。
しかしネットでいろいろ調べると、京都御所には岩倉具視の近親者がいたのである。

孝明天皇の側室で岩倉具視の実妹の堀河紀子(もとこ)の可能性が高いとする人が多いが、岩倉具視の孫で当時16歳になっていた具定(ともさだ)も孝明天皇の近侍だったので下手人であった可能性があると書いてあるのもある。

いろいろ調べると、岩倉具視はかなり怪しいとは思うのだが、動かぬ証拠があるわけではない。いつの時代も、またどこの世界においても、正史や通史として書き残された歴史の大半は、勝者にとって都合の悪いものが排除され、都合のよい解釈だけが残されたものなのだと思う。
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「明治天皇すり替え説」を追う

2年以上前にこのブログで「明治の皇室と仏教」という記事を書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-125.html

内容を簡単に振り返ると、明治政府は明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」により、上古以来、宮中に祀られていた仏堂・仏具・経典等、また天皇・皇后の念持仏など一切を天皇家の菩提寺である京都の泉涌寺に遷し、その代わりとして神棚が宮中に置かれて、宮中より仏教色を一掃することになった。その時に3人の皇族の女性が明治政府からの還俗の強要を敢然と拒否したことを記事の中で紹介したのだが、皇族の男性が反対したことがなぜか見えて来ないのである。

私はこの記事でこのように書いたのだが、その気持ちは今も同じである。
「皇室で仏教は1400年以上の歴史があり、江戸時代までは皇族は仏教徒であり仏教を保護してきたのだ。まして、明治天皇にとっては先代の孝明天皇は実の父親である。若いとはいえ、明治4年と言えば天皇は19歳だ。他にも皇族は沢山いたのに、そんな簡単に信仰が捨てられることに不自然さを感じるのは私だけだろうか。信仰の薄い私ですら、自分の先祖の墓を捨てて明日から神棚を祀れというのは耐えられない。」

明治天皇や主要な皇族が抵抗すれば、いかなる策士といえどもこのようなことは強行できなかったと思うのだが、皇族男性すべてが抵抗せずに廃仏を受容したとすれば、脅迫などがあって皇族の誰もが抵抗できない環境に置かれていたか、主要な皇族全員が神仏分離し仏教を捨てるべきだとの考え方でほぼ一致していたかのいずれかしか考えられないのではないか。直感的には前者の可能性が高いだろう。

2年以上前にこの記事を書いた際に、明治天皇暗殺説があることを少しだけ触れておいたのだが、それくらいの事件がなければ、皇族の男性全てが、1400年以上の歴史のある仏教をさしたる抵抗もなく捨て去ることはなかったのではないかとも思えるのである。
今回は明治天皇が暗殺されて別の人物にすり替えられたという説を、もう少し詳しく追ってみることにしたい。

meiji.jpg

以前紹介した記事に、少年期の明治天皇の写真と伝えられるものを掲載したのだが、今回も掲載しておこう。中央に立つ背の低い人物が明治天皇であると伝えられているのだが、この写真は我々の知る明治天皇とは別人にしか見えない。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html

実はこの写真は小学校の時に一度雑誌の記事で見たことがあるので、かなり以前から明治天皇の写真であるとして伝えられていたはずなのだが、ネットでいくら調べても、誰がいつ撮影したものであるかも、周囲の人物が誰なのかもよくわからなかった。

三浦芳聖

いわゆる、「明治天皇すり替え説」は古くからあったようだ。土佐藩出身の田中光顕元宮内大臣が昭和4年(1929)の2月に、三浦芳聖氏に語ったという話に注目したい。三浦氏は自らが南朝正統の皇胤であることを主張した人物で、三浦氏の『徹底的に日本歴史の誤謬を糾す』という著書にその内容が書かれているらしい。
この本は自費出版されたもので手に入れることは難しそうだが、次のURLに田中光顕(下画像)の証言内容が引用されている。
http://wiki.livedoor.jp/niwaka368/d/%B8%B5%B5%DC%C6%E2%C2%E7%BF%C3%C5%C4%C3%E6%B8%F7%B8%B2%BB%E1%A1%A2%CC%C0%BC%A3%C5%B7%B9%C4%CA%C5%B2%BC%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8%B9%F0%C7%F2

田中光顕

重要な部分を紹介しよう。
「斯様申し上げた時に、田中光顕伯爵は顔色蒼然となられ、暫く無言のままであられましたが、やがて、『私は60年来曾って一度も何人にも語らなかったことを、今あなたにお話し申し上げましょう。現在此の事を知っている者は、私の外には、西園寺公望公爵只御一人が生存していられるのみで、皆故人となりました』
と前置きされて、
『実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新と云う時に急に崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘中山慶子様で、御生れになって以来、中山大納言邸でお育ちになっていたと云う事にして天下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領し、 代々長州の萩に於て、この御王孫を御守護申し上げて来た。これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古維新を志した勤皇の運動である。
吉田松陰亡き後、此の勤皇の志士を統率したのが明治維新の元老木戸孝允即ち桂小五郎である。元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の間柄であったが、此の桂小五郎と西郷南洲とを引合せて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。
薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南洲に、『我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ』と云う事を打ち明けた時に、西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く感銘して之に賛同し、遂に薩摩藩を尊皇討幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。之が大政奉還、明治維新の原動力となった。』」

この証言内容をどの程度信じるかは、読む人によって異なると思うのだが、かなり具体的なことを語りながらも結構筋が通っていて、私にはあまり嘘っぽく感じられないのである。
このような重要なことを維新の元勲が軽々しく語るのはおかしいとも思えたりもするが、その点は読者の判断にお任せしよう。
田中の述べたことを要約すると、長州は南朝末裔の大室寅之祐を匿っていて、薩長は「南朝革命」を大義名分にして「薩長同盟」を結んだということである。

「南朝」という言葉がいきなり出てきて戸惑った人も多いと思うが、建武三年(1336)に足利尊氏が光明天皇を立て、後醍醐天皇が吉野に逃れて、京都の「北朝」と吉野の「南朝」に皇室が分裂してしまう。それから、それぞれが正当性を主張する時代(南北朝時代)が元中9年(1392)まで続くことになるのだが、その後も南朝の子孫がずっと生き延びていてそのうちの一人が、長州が匿っていた大室寅之祐だと述べているのだ。

北畠親房は南北朝時代に『神皇正統記』で、三種の神器の所在と皇統における「正統」概念をもって南朝正統論を唱えた最初の人物であるが、『太平記』が公家や武士の間に愛読されて南朝方に同情的な見方が次第に広まって以降、著名な学者が南朝正統論を唱えるようになる。
江戸時代に徳川光圀が編纂した『大日本史』は三種の神器の所在などを理由として南朝を正統として扱っていたそうだし、『日本外史』を著した頼山陽も、また幕末・維新の志士に大きな影響を与えた山崎闇斎も南朝正統論であった。

江戸末期に全国の藩校では南朝を正統とし、北朝系を天皇家とした足利尊氏を逆臣とした考えが教えられていたのである。維新後になされた施策を追っていくと、明治維新を成し遂げた志士たちが、南朝正統論の影響を強く受けていたことがよくわかる。
Wikipediaによると、
「1869年(明治2年)の鎌倉宮創建をはじめとする南朝関係者を祀る神社の創建・再興や贈位などが行われるようになった。また、1877年(明治10年)、当時の元老院が『本朝皇胤紹運録』に代わるものとして作成された『纂輯御系図』では北朝に代わって南朝の天皇が歴代に加えられ、続いて1883年(明治16年)に右大臣岩倉具視・参議山縣有朋主導で編纂された『大政紀要』では、北朝の天皇は「天皇」号を用いず「帝」号を用いている。なお、1891年(明治24年)に皇統譜の書式を定めた際に、宮内大臣から北朝の天皇は後亀山天皇の後に記述することについて勅裁を仰ぎ、認められたとされている(喜田貞吉『還暦記念六十年之回顧』)。」

田中光顕の証言が正しいとすれば、明治維新を成し遂げた志士たちは、北朝の天皇を廃し南朝の天皇を即位させたことになるのだが、そのことは南朝を正統と考えていた志士たちにとっては、その動機が充分にあったのだと考えられる。だから長州が南朝の末裔を匿って、「南朝革命」を大義名分にして「薩長同盟」を結んだという田中光顕の話も、決して荒唐無稽のものとは思えないのだ。

明治天皇肖像画

また田中光顕は睦仁親王(京都明治天皇)と明治天皇(大室寅之祐)との違いを次のように語っている。

睦仁親王は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に『あばた』は無かった。
明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。その結果、口の周りに『あばた』が残った。その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた『肖像画』を写真に撮らせて『御真影』とした。又、『あばた』を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。」

bookk1-2.jpg

明治天皇の即位に関する問題について詳しく研究された人が何人かいる。故人となられたが、鹿島昇氏の『裏切られた三人の天皇…明治維新の謎』という本に、暗殺され大室寅之祐にすり替えられた証拠となる話がいくつも紹介されているそうだ。

たとえば、学習院院長を務めた元宮中顧問官の山口鋭之助氏も「明治天皇は、孝明天皇の子ではない。山口県で生まれ、維新のとき京都御所に入った」と語ったという。
また長州出身の元首相・岸信介は「今の天皇家は明治天皇のときに新しくなった。実はそれまでの天皇家とは断絶している」と述べ、元公家の広橋興光氏も「睦仁と明治天皇は別人」との言葉を残しているそうだ。
また、明治天皇の正后を「昭憲皇太后」と呼ぶのはおかしな話で、普通なら正后なら「皇后」と呼ぶべきである。この疑問は「昭憲皇太后」が睦仁親王の正后であり、親王の死後は皇太后として処遇するしかなかったと考えれば納得ができる話だ。

この問題についてもっと詳しく知りたい人のために、れんだいこ氏のサイトを紹介しておこう。他のサイトに書かれている説などがよく整理され、リンクも貼られている。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/bakumatuootyokotaico/oomuroco.html

以前このブログでも書いた通り、明治天皇の本来の父親である孝明天皇は攘夷論者であり佐幕派であった。孝明天皇は慶応2年(1866)の 12月25日に崩御され、死因については表向きは病死だったが、倒幕派によって毒殺されたと言う説がある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-159.html

れんだいこ氏が、先ほど紹介したURLで睦仁親王大室寅之祐との人物の違いを纏めているが、睦仁親王は幼少より『虚弱体質』で運動能力に乏しく、16才になっても、宮中で女官と一緒を『遊戯』を好んだというレベルであり、とても政治力が期待できる人物としては育っていなかったという。
そこで倒幕派は、「北朝」系の孝明天皇に続いて慶応3年(1867)7月に睦仁親王を暗殺し、10月に「南朝」派の大室寅之祐に明治天皇になりかわり倒幕の密勅を出させて、徳川幕府による大政奉還の後、12月には王政復古の号令を出させ、翌慶応3年10月に正式に大室寅之祐を明治天皇として即位させたという流れになる。
これまで「北朝」系の天皇を支えてきた徳川将軍家や会津松平家が、明治天皇(「南朝」派)の逆賊となったという理解もできるし、「戊辰戦争」は「第2次南北朝戦争」であったという解釈も可能になってくる。

この様な説を「荒唐無稽」と切り捨てる人も多いのだが、これを切り捨ててしまうと、この記事の冒頭で私が書いた明治政府は明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」で、男性皇族全員が仏教を廃することに一人も抵抗しなかったことが非常に不自然に思えるのである。
もし三浦芳聖氏の著書の田中光顕の発言が正しいとすれば、「北朝」派の睦仁親王が暗殺されて、「南朝」の末裔とされる人物が皇室に「明治天皇」として乗り込んできたという異常な事態が起こったことになる。
しかし、これくらいの異常なことが起こらないかぎり、この時に皇室の男性の誰もがさしたる抵抗もせずに、1400年以上の歴史のある皇室における仏教の信仰を捨てることはありえなかったのではないだろうか。

ところで、大室寅之祐が本当に南朝の末裔であったかについては、それを否定する説もあるようだ。もしかすると薩摩や長州藩にとっては、幕府を倒すのに都合がよく英邁な人物なら誰が天皇になっても良かったということなのかも知れない。
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幕末の「ええじゃないか」は世直しを訴える民衆運動だったのか

学生時代に教科書や参考書をいくら読んでもピンとこない叙述はいくつかあったが、江戸時代末期の「ええじゃないか」は変な出来事だとは思いながら、「一般庶民が新しい世の中が生まれることを期待して自然発生的に起こった」という説明を鵜呑みにした記憶がある。

Wikipediaには『ええじゃないか』をこう説明している。
「日本の江戸時代末期の慶応3年(1867年)7月から翌慶応4年(1868年)4月にかけて、東海道、畿内を中心に、江戸から四国に広がった社会現象である。天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ、という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の『ええじゃないか』等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%88%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8B

簡単に、この「社会現象」が起こるまでの歴史を振り返ってみよう。
万延元年(1860)に大老井伊直弼が桜田門外で暗殺された後、江戸幕府は老中安藤信正を中心に朝廷の権威を借りて立て直そうとし公武合体を進めるのだが、文久二年には老中安藤信正が水戸浪士に襲われて失脚してしまう。(坂下門外の変)
その後、攘夷の気運が高まり外国人殺傷事件がしばしば起こり、長州藩は下関海峡を通過する外国船を砲撃したが、英米仏蘭4か国の報復攻撃を受けて攘夷が困難であることを悟り、藩論を攘夷から討幕に転換させていく。また薩摩藩も、西郷隆盛や大久保利通らの下級武士が藩政の実権を握り、反幕府の姿勢を強めていく。
慶応二年(1866)には、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎らの仲介で、薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結び、長州藩が農民・町人をも加えた奇兵隊などを動員して各地で幕府軍を打ち破る。その最中に、各地で「世直し」をとなえる農民一揆がおこり、江戸や大坂でも、生活に苦しむ貧民の打ちこわしが各地で起こる。その時期にこの『ええじゃないか』を連呼して熱狂的に踊る現象が起こったという。

おかげまいり

この『ええじゃないか』騒動の発端は、慶応三年(1867)の夏に東海道の御油宿に秋葉神社の火防の札が降下したのが始まりだとされ、その後東海道吉田宿(現豊橋市)で伊勢神宮の神符が降り、その後東海道、畿内を中心に30か国で同様な事件があり、人々は、このことを良きことが起こる前触れと考え、「ええじゃないか」とはやし立てながら、集団で狂喜乱舞をはじめたという。
空から降りてきたものは様々で、伊勢神宮、秋葉大権現、春日、八幡、稲荷、水天宮、大黒天などの神仏のお札や、仏像、貨幣のほか生首や手、足までも空から降ったと言われているのだ。
http://members.jcom.home.ne.jp/rekisi-butaiura/eejya.html

このような現象は、誰かがお札を撒くという行為をしない限りあり得ないことは言うまでもない。では、どういう勢力が、何のためにこのような事を仕掛けたのだろうか。

『ええじゃないか』には歌詞があり、それは各地で異なるようだ。最初に紹介したWikipediaの記述に各地の歌詞が掲載されている。

「例えば『今年は世直りええじゃないか』(淡路)、『日本国の世直りはええじゃないか、豊年踊はお目出たい』(阿波)といった世直しの訴えのほか、『御かげでよいじゃないか、何んでもよいじゃないか、おまこに紙張れ、へげたら又はれ、よいじゃないか』(淡路)という性の解放、『長州がのぼた、物が安うなる、えじゃないか』(西宮)、『長州さんの御登り、えじゃないか、長と醍と、えじゃないか』(備後)の政治情勢を語るもの、などがあった。」
とある。
地域により歌詞に違いはあるが、「ええじゃないか」と踊るところは共通していて、地域によっては「長州」の名前が出てくるところが気になるところである。

この『ええじゃないか』が広まって言った背景については、Wikipediaはこうまとめている。「その目的は定かでない。囃子言葉と共に政治情勢が歌われたことから、世直しを訴える民衆運動であったと一般的には解釈されている。これに対し、討幕派が国内を混乱させるために引き起こした陽動作戦だったという説や、江戸のバブル期後の抑圧された世相の打ち壊しを避けるために幕府が仕掛けた『ガス抜き』であったという説もある。本来の意図が何であったにせよ、卑猥な歌詞などもあったところを見ると、多くの者はただブームに乗って楽しく騒いでいただけのようでもある。」

どの説が正しいのか少し気になって、当時の記録で『ええじゃないか』を書いた記録が他にないかネットで探してみた。
あまり検索では引っかからなかったのだが、土佐藩出身の田中光顕が著した『維新風雲回顧録』に、『ええじゃないか』のことを書いた文章が見つかった。
http://books.salterrae.net/amizako/html2/ishinnfuuunnkakoroku.txt

維新風雲回顧録

最初に出てくるのは、京都の情勢を父に報告した内容である。上記URLでも読めるが、ミスタイプもあるようなので、河出文庫の『維新風雲回顧録』を引用する。

「この頃の京都の模様を国もとにいる父に報告した私の書面が残っている。その末節には、次のように記されている。

『薩長は、疑いなく大挙に到り申すべく候、土州もその尾にすがりつき、一挙出来申さずては、汗顔の事に御座候、さて先日以来、京師近辺歌に唱え候には、大神宮の御祓が天より降ると申して、大いに騒ぎ居申候、大国天、蛭子観音等種々のものが降り候趣き、近々はなはだしき事に御座候、切支丹にて御座あるべく存ぜられ候、過日はどこかへ嫁さまが降り候処、江戸の産の由に御座候、何がふり候やら知れ申さず候、ただただ弾丸の降り候を相楽しみ待居申候。』

 これは、お札踊(ふだおどり)の流行をさしたもので、京都を中心に、大坂に流行し、果ては、一時関東にも及んだくらいだった。
 天下は、今にも、一大風雲をまき起こそうとしている矢先、どこからともなく、お札が舞い下りてくる。
 京都市民は、吉兆だというので、お札の下りた家では、酒肴の仕度をして、大盤振舞いをした。そして、『ええじゃないかええじゃないか』をくりかえしながら、屋台を引き出し、太鼓をたたき、鉦をならしながら仮装して、町中をねって歩く。まるでお祭騒ぎである。
そういうから景気のどん底にかくして、薩長は、秘かに討幕の計をめぐらしていた。」(河出文庫:p.313-314)

さらに読み進むと、王政復古の大号令が出た慶応三年十二月九日に討幕派田中光顕らが高野山に向かう途中で、『ええじゃないか』のお祭り騒ぎのおかげで幕府の警備の中を掻い潜った記録がある。

ええじゃないか2

「具合のいいことには、大坂でも、お札踊りの真最中。
『ええじゃないかええじゃないか』とはやし立てて、踊りくるっていたため、ほとんど市中の往来が出来なかった。
『また、やってるな』
『大変な人出じゃないか』
そういっているうちに、いつの間にか、私どもも、人波に押しかえされていた。
鷲尾卿はじめ、われわれ同志は、この踊りの群れの中にまぎれ入って、そ知らぬ態で、ついうかうかと住吉街道から堺まで出た。
何が幸いになるかわかったものでない。」(河出文庫p.330-331)

鷲尾卿というのは幕末維新期の公家の鷲尾隆聚(わしのおたかつむ)で、高木俊輔氏『国史大辞典』の説明を読むとこの間の事情がよく解る。
「慶応三年(1867)十二月八日夜、岩倉具視の命令により紀州和歌山藩の動きを牽制する意図で、京都の激論家の一人であった鷲尾を擁し、香川敬三・大橋慎三らと陸援隊士約四十名が京都の白川邸を出発した。すでに鷲尾には朝廷の中山忠能(ただやす)・正親町三条実愛(さねなる)・中御門経之らから内勅が下されていた。一行は船に分乗して淀川を下り、大坂からは『ええじゃないか』の踊りに紛れて街道を進み、堺を経て同月十二日に高野山へ着いた。ここで内勅ならびに鷲尾みずからの達書が示され、ひろく同志を募った。」
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/daijiten-washinooke.htm

幕末期は討幕派の動きが幕府に警戒されていたことは当然である。討幕派の集合場所などが洩れてしまえば幕府役人や新撰組などによって一網打尽で捕縛されてしまってもおかしくないし、密書を送るにも場所を移動するにも、幕府役人の警備の目を掻い潜る必要があったはずだ。
京都や大阪など各地で『ええじゃないか』の踊りが行われていたことは、討幕派が幕府に隠密に活動をするには都合が良かったことは間違いがないだろう。
実際、『ええじゃないか』騒動の真っ最中に土佐藩が大政奉還を建白し、その後、大政奉還、王政復古の大号令と、討幕派の思い通りに歴史が展開していったのである。

しかしながら、『ええじゃないか』騒動が討幕派にとって都合がよかったからと言って、これを討幕派が仕掛けたという推論にはかなり無理がある。誰かが、それを仕掛けたという証拠が必要なのだが、あまり証拠らしきものがネットでは見当たらなかった。

そんな事を考えながら、本屋で並木伸一郎氏の『眠れないほど面白い 日本史「意外な話」』(王様文庫)を読んでいると、幕末の幕臣であり明治時代にジャーナリスト・作家となった福地源一郎や、佐賀藩士であり明治期に内閣総理大臣にもなった大隈重信が、この『ええじゃないか』騒動が、討幕派の仕業であると述べていることが書かれていた。

並木氏の本を衝動買いして、該当部分を引用してみたい。

「幕末から明治にかけて活躍した作家でジャーナリストの福地源一郎は、著書『懐往事談』でこう書き記している。
『京都の人々が人心を騒乱せしめるために施したる計略なりと、果たしてしかるや否やを知されども、騒乱を極めたるには辟易したりき』
尊王派として活躍した大隈重信も
『誰かの手の込んだ芸当に違いないが、まだその種明かしがされておらぬ』
という言葉を残している。」(同上書 p.250)

福地の言う『京都の人々』というのは討幕派を意味しているが、幕臣だった福地も討幕派であった大隈も、立場が違いながらも討幕派の仕業であると睨んでいたことは注目していいと思う。

次のURLを読むと、京都における『ええじゃないか』騒動は十月二十日からであり、大阪は十月十五以降のことのようだ。大政奉還があったのが十月十四日であるから、それからの話なのだ。岩倉具視らの陰謀により薩摩と長州に『討幕の密勅』が出されて、両藩はそれにより討幕の大義名分を得て国元から大軍を呼び寄せようとし、使いが京都を出立したのが十七日なのだそうだ。「岩倉具視らの陰謀」と書いたのはこの『討幕の密勅』は勅としての手続きを経ず、文書の形式も異なる文書であり、恐らく偽勅であったと考えられる。
http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/minaosu11.htm

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上記URLの記事に、岩倉具視の伝記である『岩倉公実記』にこの頃のことをどう書かれているかが紹介されている。興味深い部分なのでしばらく記事を引用する。

岩倉具視の伝記である『岩倉公実記』(一九〇六年)によると、王政復古の陰謀を行なっていた時、幕府や京都守護職・所司代の偵吏をくらますことができたのは、「天助アリシニ由ル」と述べている。その「天助」とは「あたかもこの時にあたり、京師に一大怪事あり」というもので、空中より神符がへんぺんと飛び降り、あちこちの人家に落ち、神符の降りたる家は、壇を設けてこえを祭り、酒淆を壇前に供え、来訪するものを接待し、これを吉祥となした。都下の士女は、老少の別なく着飾り、男は女装し、女は男装し、群をなし隊をなす、そして卑猥な歌を歌い、太鼓で囃し立てた「よいじやないか、ゑいじやないか、くさいものに紙をはれ、やぶれたら。またはれ。ゑいじやないか。ゑいじやないか」という。衆みな狂奔醉舞し、一群去ればまた一隊が来る。夜にはいると、明々と照し、踊りつづけた。そのお陰で岩倉らの挙動が、自然と人目にふれることはなかったというのである。」

福地源一郎

上記URLに、先ほど紹介した福地源一郎の名前が出てくる。これを読むと、なぜ彼が『ええじゃないか』騒動を討幕派の計略と考えたかが見えてくる。

「幕臣福地源一郎は、公用で海路江戸からやってきて、西宮に上陸したが、『ええじゃないか』の狂乱の渦にまきこまれ、人夫や駕篭を雇うこともできなかったと回想している。」
この騒動は、幕府の支配と交通・情報機能を至る所で麻痺させたのである。

このURLの記事で特に興味深いところは、『ええじゃないか』騒動は長州藩兵の移動と共に動いているという指摘である。再び記事を引用する。

「『ええじゃないか』は大坂から西宮神戸を経て、山陽道を東進した。また淡路島と四国に上陸し、阿波から讃岐、さらに伊予に広がっている。

 山陽道の要衝である備後国の尾道の御札降りは、十一月二十九日から始まっているとされるが、「ええじゃないか」が、十二月三日に始まっているとする史料もある。この日付には重要な意味がある。というのはその前日の十二月二日に上京途中の長州藩兵の一部が尾道に上陸し、暫時滞在しているからである。すなわち十月十四日の大政奉還のさいに討幕の密勅を受けた長州藩は、ただちに大軍を上京させる準備に取りかかり、十一月二十八日より三田尻港からぞくぞく出発させた。そして十二月二日にはその一部である鋭武隊、整武隊が尾道に上陸したのであり、その翌日の三日から御札降りが始まり、「ええじゃないか」騒ぎとなっているのである。ここには長州軍の移動を幕府に蔽い隠すためのなんらかの作為があったのではないだろうか。なお薩摩、長州と出兵盟約を結んでいた芸州藩も十二月一日一大隊を尾道に派遣している。尾道の「ええじゃないか」では、「ヱジャナヒカ、ヱジャナヒカ、ヱジャナヒカ、長州サンノ御登リ、ヱジャナヒカ、長ト薩ト、ヱジャナヒカ」と歌われ、上陸した長州藩兵も一緒に踊ったという。

 やがて長州軍は幕府の情報網をかいくぐって、西宮附近に上陸、大坂を迂回して入京し、鳥羽伏見の戦いで幕府軍を戦うのである。」

こういう文章を読むと、この『ええじゃないか』騒動が民衆による自然発生だとする説にはかなり無理があるような気がする。
30か国にも拡がったという『ええじゃないか』騒動の一部には政治的背景がなく、踊り狂うという楽しい行為が隣国から流行して各地に拡がっていったという可能性があることは否定しない。しかし、討幕派に仕掛け人がいなければ、長州軍の移動と共に『ええじゃないか』騒動が動いていくことはありえないことは誰でもわかる。少なくとも、大政奉還から王政復古までの狂喜乱舞の多くは討幕派によって仕組まれていたと考えた方が自然なのではないか。

このブログで何度も書いてきたように、いつの時代でもどこの国でも、歴史というものは勝者が都合の良いように編集し、都合の悪いことは正史に書かないものだ。
『ええじゃないか』騒動が、民衆による自然発生説が通説になっているのは、明治維新の勝者である明治政府にとって都合の良い歴史叙述に、未だに縛られているということなのか。
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「桜田門外の変」と、井伊直弼の死が長い間隠蔽された事情

万延元年(1860)三月三日、江戸城に入ろうとした大老・井伊直弼の一行が、桜田門のあたりで待ち伏せていた水戸・薩摩の浪士に襲われて、井伊大老の首が切られた事件があった。世に言う「桜田門外の変」である。

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この事件が起きるまでの経緯を簡単に復習しておこう。
安政5年(1858)4月に大老職に就いた彦根藩主・井伊直弼は、幕府の権威を復活させようとし、勅許をえないまま6月に日米修好通商条約に調印し、また、子供のいない十三代将軍家定の後継者問題については、譜代大名らの支持を得て、幼年の紀伊藩主である徳川慶福(よしとみ)を跡継ぎと定め、水戸藩主徳川斉昭の子の一橋(徳川)慶喜を推していた斉昭や、福井藩主松平慶永や薩摩藩主島津斉彬らの改革派に大弾圧を加えた。弾圧の対象は皇族・公卿・諸大名・藩士など百人を超え、徳川斉昭・松平慶永は蟄居処分となり、尊王攘夷派の活動家・思想家を徹底して粛清し、福井藩士橋本左内、長州藩士吉田松陰たちは刑死した。(安政の大獄)
このような井伊の弾圧的な処置は朝野の有志の強い反発を招き反幕的な空気を強めて、万延元年(1860)には、ついに「桜田門外の変」が起こり、井伊直弼は命を奪われ、幕府の威信が失墜したという流れだ。

幕末百話

篠田鉱造という報知新聞の記者であった人物が、幕末の古老の話の採集を思い立ち、明治35年に、『幕末百話』という本を出版している。その本は今では岩波文庫になって誰でも読むことが出来るのはありがたい。
誰が語った話なのか、名前が記されていないのは残念なところだが、「古老」の語ったという話はなかなか面白く、幕末の時代の空気がよくわかる。

西暦1860年に大老・井伊直弼が水戸浪士に襲われた「桜田門外の変」の現場に駆けつけた人物の話がこの『幕末百話』に出ているので、その文章をしばらく引用する。

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「八五 桜田門外血染の雪
大雪と御供
万延元年庚申(かのえさる)三月三日上巳(じょうし)の節句で、上下押なべて弥生(やよい)雛様の日ですから、娘子供は此日(きょう)を晴れと飾立て、遊びに出よう、お客様に聘(よ)び、聘ばれようと思うていたものを夜中からの大雪、土気色(つちけいろ)の雲は低く垂れまして、礫(つぶて)のような雪がトットと降る。朝眼が覚めて驚きました。私も御主人の供で本丸へ出ねばならぬ。コレは諸大名の御登城。サゾカシ御困難。供廻(ともまわり)の苦辛(くしん)は察しられる。自分も寒いこったと、何の気なしにソンなことを思っていました。卯の刻明け六つには諸大名総出仕の御儀式があるんで、主人の御供をせねばなりません。

赤合羽仲間
ソレゾレ用意をいたしまして、殿様は奥で御支度中だ。供廻は皆雪を蹶(け)って出掛けるばかり。かかる所へ供廻の仲間(ちゅうげん)で、赤合羽を着た男が、トットットッと、雪の間(なか)を転(まろ)びつ起きつ、駆け込んで来まして、慌(あわただ)しく『大(た)、大変、大変でございます』と顫(ふる)え声。『ナ、ナニが大変だ』と問いますと、『ただ今桜田御門外で、大老井伊掃部頭(いいかもんのかみ)様が水戸の浪士に首をお取とられ遊ばした。大変な騒ぎでございます』と顔の色を青くして、唇の色まで変えていうのです。『ナニを馬鹿なことをいうのだ。ソンな事があって耐(たま)るか。井伊様は御大老だ。ソウ胡瓜(きゅうり)やみなみ唐瓜(かぼちゃ)のように首をもがれてどうなるものか』

小脇に毛槍
誰しもこれを本統(ほんとう)にしませんでした。虚言(うそ)を申す奴だ。『気が違って居りはせんか。縛ってしまえ』と、赤合羽は頭に預けられたが、家老は血気の武士(さむらい)三、四名に申聞(もうしき)け、実地を見て来よとの命令に、私もその数へ加わり、マチ高袴にオッ取り刀で駆付けて見ますと、嘘じゃアない。桜田御門へ向っては馬上具足に身を固め、向う鉢巻(はちまき)の年配二十歳ぐらいの士(さむらい)、小脇に毛槍を抱込(かいこ)み来たるなんど、その顔の雪に映じて蒼味(あおみ)を佩(お)びた容子(ようす)、未(いま)だに眼に残っています。無事大平に馴れた人々も戦場へ望めばかくやあらんと今に思い出します。

雪は桜の花
さては本統かと呆れましたが、和田蔵御門に差懸(さしかか)ると、最早(もはや)見附見附はいずれも門を閉じ、通行は出来ません。いよいよ本統じゃ、帰ってお邸へ注進しようか。イヤイヤ前代未聞の椿事だ、一番往って見ようと、廃(や)めればよいのに、大廻りをして麹町に出て、参謀本部のところに参りますと、桜田御門の方は、水戸の浪士も引揚げた後らしく、雪は桜の花を散らしたように血染となっていまして、掃部頭をやったのは、以前陸軍測量部のあった所、その頃松平大隅守様の御門前でした。同邸の溝(どぶ)には赤合羽の仲間二名深手を負い惨殺されていました。ソレを見て好気持(いいきもち)はせず、急ぎ帰ってこの旨を御注進すると、邸の愕(おどろ)きは騒ぎとゴチャゴチャでした。…」(『幕末百話』p.225-226)
こういう文章を読むと、桜田門外の変が三月三日の雛祭りの日で、江戸は大雪の日であったことが誰でも自然に理解できるだろう。

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学生時代に「桜田門外の変」を学んだ際に、大老のような重要人物のまわりには井伊家の武士が大勢で護衛していたはずだし、江戸城の周りには辻番もいくつかあったはずなのに、なぜ大老の首級が奪われてしまったのかと疑問に思った記憶があるが、水戸浪士らによる襲撃が成功したのは、この日の「雪」と大いに関係があったことを最近になってようやく理解した。

京都市東山区の建仁寺の東に「京都井伊美術館」という小さな美術館があり、そこに井伊家の供頭をつとめた日下部三郎右衛門が身につけていた大小の刀があるという。
次のURLには実物の写真付きで紹介されていて、このように解説されている。
「季節はずれの大雪のため供侍は柄袋や鍔覆い、鞘革など刀を完全に防護して出立したため応戦できず、悲惨な状況となったことは周知の事実です。日下部の両刀は井伊家独特の鞘革に柄袋などが現存(柄袋には刀疵)した貴重なものです。日下三郎右衛門は水戸側に最初に襲撃(即死)された藩の上士です。」
http://www.ii-museum.jp/shiryo.htm

斬り込みに行く水戸の浪士たちは刀がすぐに抜ける状態であったのに対し、井伊家の武士たちの刀はすぐに抜ける状態でなかったのだ。

また季節はずれの雪で、大名行列の近くでカサをさし雨具の笠をかぶっていても、雪見の客と外見は変わらず、誰からも怪しまれることがなかったという。

桜田門外の変と蓮田一五郎

但野正弘氏の『桜田門外の変と蓮田一五郎』という本には、襲撃に参加した水戸浪士の蓮田一五郎の手記が現代語訳で紹介されている。しばらく一五郎の手記を引用してみる。

「三日朝、六時過ぎに宿を出て、芝愛宕山で各々支度をした。下駄をはきカサをさしている者もいれば、股引(ももひき)、草鞋(わらじ)の者もおって、思い思いの身支度であった。
そして四・五人ずつ組になって山を下り、桜田門外に着いたのは、八時頃であった。
明け方の空からは雪が降りしきり、風景はまことに素晴らしい。数人ずつあちこちに行き来したり立ち止まったりしていても、雪見の客そのもので誰も怪しまない。実に天が我々に味方し、襲撃を成功させてくれるかのようであった。
待つこと一時間ばかり経った頃、赤鬼(井伊大老)が、従者50人ほど伴って駕籠で屋敷を出てきた。
間もなく距離が縮まった。そこですかさず、それぞれカサを捨て、羽織をぬぎ捨てて、討って出た。

先方、すなわち井伊の従者達は、雨具を着たままゝ切りかかる者もあり、雨具を脱いで切りかかる者もあったが、戦いはほんのしばらくの間で、遂に井伊の首が切られ、一面に降り積もったまっ白な雪は、流れ、飛び散る鮮血で真っ赤に染まった。」(『桜田門外の変と蓮田一五郎』p.75-76)

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行列の供先が乱されて、大老の従者たちがそちらに走ったために、駕籠脇がにわかに手薄になったところを、水戸浪士の稲田重蔵、広岡子之次郎、有村次左衛門らが走り寄り、刀を突き入れ、直弼を引き出して首を切り落としたというのだが、誰が大老の首を討ち取ったのかは諸説がある。目的を果たし勝鬨を上げたものの、水戸浪士らの犠牲も大きかった。
稲田は闘死し、広岡、有村のほか3名が自刃し、3名が自首した後に傷や病で死亡し、7名が捕縛されて死罪となっていて、明治時代まで生きた人間は2名しかいない。
一方彦根藩は直弼のほかに闘死者4名、その後死亡した者4名、13名が負傷したが、多くの者が逃亡したようだ。
広島県歴史博物館に彦根藩の奉公人の記録が残されており、警固の武士の多くは逃げたことが記されているという。
http://blogs.yahoo.co.jp/yotakahacker/34237419.html
彦根藩では、直弼の警護に失敗し家名を辱めたとして、生存した者は2年後に軽症者は切腹、無傷の者は斬首などの厳しい処分が行われたという。

この桜田門外の変で面白いのは、事件後の彦根藩の対応である。
Wikipediaにはこう書かれている。
「襲撃の一報を聞いた彦根藩邸からはただちに人数が送られたが後の祭りで、やむなく死傷者や駕籠、さらには鮮血にまみれ多くの指や耳たぶが落ちた雪まで徹底的に回収した。井伊の首は遠藤邸に置かれていたが、所在をつきとめた彦根藩側が、闘死した藩士のうち年齢と体格が井伊に似た加田九郎太の首と偽ってもらい受け、藩邸で典医により胴体と縫い合わされた(といっても遠藤胤統は役目柄井伊の顔をよく知っており、実際には気付かれていた可能性が高い)。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89#cite_note-1

遠藤胤統という人物は近江三上藩の第五代藩主で、江戸幕府の若年寄を務めていた。この遠藤邸の門前で井伊大老の首級を持っていた有村次左衛門が自決した経緯から、大老の首が遠藤邸にあったようなのだ。
彦根藩は井伊の首を胴体と縫い合わして、直弼が死んだという事実を隠蔽しようとしたのだが、なぜそんなことをしたのだろうか。

その解答は、Wikipediaにこう書かれている。
「当時の公式記録としては、「井伊直弼は急病を発し暫く闘病、急遽相続願いを提出、受理されたのちに病死した」となっている。これは譜代筆頭井伊家の御家断絶と、それによる水戸藩への敵討ちを防ぎ、また、暗殺された井伊自身によってすでに重い処分を受けていた水戸藩へさらに制裁(御家断絶など)を加えることへの水戸藩士の反発、といった争乱の激化を防ぐための、老中・安藤信正ら残された幕府首脳による破格の配慮である。井伊家の菩提寺・豪徳寺にある墓碑に、命日が「三月二十八日」と刻まれているのはそのためである。これによって直弼の子・愛麿(井伊直憲)による跡目相続が認められ、井伊家は取り潰しを免れた。
直弼の死を秘匿するため、存命を装って直弼の名で桜田門外で負傷した旨の届けが幕府へ提出され、将軍家(家茂)からは直弼への見舞品として御種人蔘などが藩邸に届けられている。これに倣い、諸大名からも続々と見舞いの使者が訪れたが、その中には徳川慶篤の使者として当の水戸藩の者もおり、彦根藩士たちの憎悪に満ちた視線の中で重役の応接を受けたという。井伊家の飛び地領であった世田谷(東京都世田谷区)の代官を務めた大場家の記録によると、表向きは闘病中とされていた直弼のために、大場家では家人が病気平癒祈願を行なっている。」

藩主が跡継ぎを決めないまま横死した場合は家名断絶となってしまう。その事態を避けるために、すでに死んでいる井伊直弼を生きていることにしたという話なのだが、目撃者も多く、桜田門外で大老が暗殺されたことはすでに江戸中に知れ渡っていたようだ。
こんな戯れ歌が当時江戸で流行ったという。

「いい鴨を 網でとらずに 駕籠でとり」
「いい鴨」は「井伊掃部(かもん)」をもじっている。井伊大老は宮中行事の設営や殿中の清掃を司る「掃部寮」の長官「掃部頭(かもんのかみ)」でもあったのだ。

また死んでいるのに生きていることにしたことを皮肉った川柳もある。
「倹約で 枕いらずの 御病人」
「遺言は 尻でなさるや 御大病」
「人蔘で 首をつげとの 御沙汰かな」

徳川幕府最高の重職である大老がわずか18人の浪人に命を奪われたことによって、幕府の権威が失墜したと良く書かれるのだが、江戸庶民からも馬鹿にされるような見え見えの茶番劇をしたことも、幕府の権威を落としその凋落を早めた原因の一つになったのではないか。

徳川慶喜が大政奉還を申し入れし江戸幕府が終焉したのは、この事件からわずか7年後のことなのである。
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生麦事件は、単純な攘夷殺人事件と分類されるべきなのか

文久2年(1862)8月21日、4人の英国人が生麦村で薩摩藩の島津久光の行列と遭遇した。その時英国人は騎乗のまま行列を横切ろうとし、薩摩藩士はこれを止めようとしたにもかかわらず、それを無視してそのまま進んだので、激昂した藩士が英国人に斬りかかり、1人が死亡し2人が負傷したという事件があった。世に言う「生麦事件」である。

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学生時代にこの事件のことを学んだ時は、当時は攘夷の気運が高まり外人殺傷事件がしばしばおこり、その事例として「生麦事件」が説明された記憶がある。

通説では4人の英国人は島津久光の行列を「横切ろうとした」ことになっているが、当時英国公使館の通訳で、のちに駐日公使を務めたアーネスト・サトウの著書を読むと、英国人は決して隊列を横切ろうとしたのではないようだ。

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「(リチャードソン)は、香港のボラデール婦人およびウッドソープ・C・クラークとウィリアム・マーシャルという二人とも横浜に住んでいる男と一緒に、神奈川と川崎の間の街道を乗馬でやって来たところ、大名の家来の行列に出会い、わきへ寄れと言われた。そこで道路のわきを進んでゆくと、そのうちに薩摩藩主の父、島津三郎(久光)の乗っている駕籠が見えてきた。こんどは引返せと命ぜられたので、その通りに馬首をめぐらそうとしていたとき、突然行列中の数名の者が武器を振るって襲いかかり、鋭い刃のついている重い刀で斬りつけた。リチャードソンは瀕死の重傷を負って、馬から落ちた。…」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.60)

生麦事件

Wikipediaに事件当時の生麦村の写真が出ている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%BA%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

島津久光がこの時に率いていた軍勢は400人以上だったというが、こんな狭い道で島津久光の行列と遭遇し、4人の英国人は騎乗のままで久光の駕籠に近づいていったことになる。
当時のわが国では『公事方御定書』に、武士が「無礼」を受けた時は斬殺されても処罰されないことが定められていた。
しかしリチャードソンらのやったことは、ただ無礼なだけではなく、制止したにもかかわらず騎乗のまま藩主の父親である久光公に接近していったのである。現代でもパレードの最中に、中央にいる大統領や国王に向かって、制止されても接近していく人物がいたとしたら、国によっては射殺されてもおかしくない。
日本語が分からなかったのだろうと書いている人もいるが、ものものしい警護の行列で、何度も「止まれ」「馬を降りよ」と言われれば、日本語が理解できようができまいが、どうすればよいかは、場の空気で分かって当然ではないのか。

Wikipediaを読み進むと、このような記述がある。
事件が起こる前に島津の行列に遭遇したアメリカ人商人のユージン・ヴァン・リードは、すぐさま下馬した上で馬を道端に寄せて行列を乱さないように道を譲り、脱帽して行列に礼を示しており、薩摩藩士側も外国人が行列に対して敬意を示していると了解し、特に問題も起こらなかったという。ヴァン・リードは日本の文化を熟知しており、大名行列を乱す行為がいかに無礼なことであるか、礼を失すればどういうことになるかを理解しており、『彼らは傲慢にふるまった。自らまねいた災難である』とイギリス人4名を非難する意見を述べている
また当時のニューヨーク・タイムズは『この事件の非はリチャードソンにある。日本の最も主要な通りである東海道で日本の主要な貴族に対する無礼な行動をとることは、外国人どころか日本臣民でさえ許されていなかった。条約は彼に在居と貿易の自由を与えたが、日本の法や慣習を犯す権利を与えたわけではない。』と評している
また、当時の清国北京駐在イギリス公使フレデリック・ブルースは、本国の外務大臣ラッセル伯爵への半公信の中でこう書いている。『リチャードソン氏は…わが国のミドル・クラスの中にきわめてしばしばあるタイプで、騎士道的な本能によっていささかも抑制されることのない、プロ・ボクサーにみられるような蛮勇の持ち主である』

よく大名行列で通行人が土下座を強いられる場面を時代劇などでよく見るのだが、Wikipediaによると、土下座を強いられるのは徳川御三家の場合のみで、それ以外の場合は、通行人は脇に下がるだけで良かったのだそうだ。だから米商人のヴァン・リードは、道を譲り脱帽して敬礼するだけで問題がなかったということになる。

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また当時のわが国では、安全のために、武士であっても狭い市中での乗馬は禁止されていたそうだが、外国人は意に介さずに乗りまわっていたという。そのように外国人がやりたい放題にしていたのは、安政の不平等条約で治外法権が認められていたために、わが国には外国人を裁く権利が存在しなかったことが大きかったようだ。
しかしながら、治外法権を認めたということは、わが国は彼らに対して日本の法や慣習を犯す権利を与えたというわけではない。そう考えると、本来謝罪すべきなのはわが国の法律や慣習を無視して、騎乗のまま貴人の駕籠に向かっていったイギリス人にあったという考え方も成り立つのである。

またWikipediaは、事件直後に現場に駆けつけた英人医師のウィリス博士が、兄に宛てて書いた手紙の内容を紹介している。
誇り高い日本人にとって、最も凡俗な外国人から自分の面前で人を罵倒するような尊大な態度をとられることは、さぞ耐え難い屈辱であるに違いありません。先の痛ましい生麦事件によって、あのような外国人の振舞いが危険だということが判明しなかったならば、ブラウンとかジェームズとかロバートソンといった男が、先頭には大君*が、しんがりには天皇がいるような行列の中でも平気で馬を走らせるのではないかと、私は強い疑念をいだいているのです
*大君(タイクーン):徳川将軍の外交称号

当時、このような意見を持つ外国人がどれだけいたかはわからないが、彼等の振舞いに問題があったと指摘している外国人の記録が、このようにいくつも存在することは注目して良いだろう。

東禅寺事件

この事件が起きる1年前の文久元年(1861)に水戸藩脱藩の浪士14名が江戸高輪東禅寺のイギリス公使館内に侵入し、オールコック公使らを襲撃した事件(第1次東禅寺事件)や、文久2年(1862)に東禅寺警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺した事件(第2次東禅寺事件)があったが、外国人が狙われた単純な攘夷事件と、この生麦事件とは本質的に異なる東禅寺事件で襲撃されたイギリス人は、わが国の法律や慣習に照らして問題のある行為をしたわけではなかったが、生麦事件の場合は、もし同様のことを日本人が行なえば、確実に切り捨てられていた事案である。

しかしながらこの生麦事件は、わが国の通史においては、攘夷殺人事件の事例として分類されている。
この理由は、徳川幕府がイギリスとまともな交渉をしないまま、外圧に負けて賠償金の支払いに応じたことと関係があると考えている。
普通に考えれば、紛争の相手国に対して謝罪したり賠償金を支払うという行為は、自国の方に非がある事を、公式に認めたということになる。
ということは、その紛争に関する歴史記述において、自国側に非がある事を誇大に書かれたとしても、公式に認めた以上は文句が言えないことになる。
歴史にifは禁物かも知れないが、もし江戸幕府が生麦事件の賠償金を拒絶していたら、この事件が「攘夷殺人事件」に分類されることはなかったと思う。

ところで、江戸幕府に謝罪させて賠償金を手に入れたイギリスのやり方は、相当強引なものであった。いわゆる「砲艦外交」で江戸幕府に圧力をかけたのである。
翌文久3年(1863)に、イギリスは江戸幕府に対して生麦事件に対する謝罪と賠償金10万ポンドを要求し、薩摩には犯罪人の処罰と賠償金2万5千ポンドを要求することを通告し、さらに幕府に圧力を加えるため、英仏蘭米の4か国艦隊を横浜に入港させている

当時江戸幕府は、東禅寺事件の賠償金の支払いについて英国と交渉中であったのだが、2人のイギリス兵が斬殺されたこの事件の賠償金は、のちに生麦事件の賠償金と同時に支払われ、その金額は1万ポンドであったという。どう考えても生麦事件の幕府に対する賠償要求額の10万ポンドは高すぎる

当時、将軍徳川家茂は京都を動けない状況にあり、イギリスとの交渉にあたったのは老中格の小笠原長行だったが、この生麦事件の賠償金の支払いを巡って幕議は紛糾した。一旦は支払うことで決したのだが、将軍後見職・徳川慶喜が京都から戻り賠償金支払い拒否を命じたことから事態が流動化し、支払期日の前日になって支払延期が通告されたために英国が激怒。ニール代理公使は艦隊に戦闘の準備を命じたという。
しかし、再び江戸で開かれた評議においては、尊攘派の水戸藩が介入して逆に支払い拒否が決定されてしまう。
そこで江戸の閣老たちは、事態収拾のためにフランスの代理公使と司令官に調停を依頼したが、フランスは江戸幕府からの仲裁の依頼を拒絶してイギリスの要求に従うように勧告し、さらに横浜の防御をフランスの手に委ねるように要求したという。

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冒頭で紹介したアーネスト・サトウの著書の文章をしばらく引用しよう。
日本政府がフランスの当局者を説いて日本側のために仲裁に立たせようとしたことは、完全に失敗した。もっとも、この仲裁の依頼と同時に、外国人はみな直ちに横浜から退去すべしというばかげた要求が行なわれたのだから、仲裁のできるわけはなかったのだ。日本政府は、6月24日にニール大佐に通知書をおくり、賠償金を支払うから受領の時刻を知らせてくれといってよこした。これに対するイギリス側の回答は、分割払いという先般の協定は、日本政府の方で破ったのだからすでに無効であり、今日中にその全額を支払わねばならぬというのであった。
 これはその通りに実行された
。…」(同上書 p.98)

この賠償金支払いは老中格小笠原長行が幕府に無断で行ったという説と、将軍後見職の一橋慶喜の了解を得ていたという説があるが、いずれにせよ、責任ある立場にありながらイギリスと交渉らしい交渉もせず、相手の要求した全額を支払ったことは情けない話である。

江戸幕府が支払った賠償金は、東禅寺事件の賠償金と合わせて11万ポンドだが、当時の為替相場は1ポンドが2.5両だったと、次のURLに書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%88%E3%82%A6
とすると、11万ポンドは275千両。ちなみに通訳生として採用されたばかりのアーネスト・サトウの年俸は200ポンドで500両、新撰組の近藤勇の年俸は480両だったという。

ただ、江戸幕府はこの賠償金を無条件で支払うつもりではなかったらしく、アーネスト・サトウの著書によると、老中格小笠原長行は同じ日に、諸港を閉鎖して外国人をことごとく国外に追放せよという将軍の命令を伝達したというのだが、当然のことながらイギリスがそのような命令に応じるような国ではなかった。

同日付のイギリスの回答を読むと、その強圧的な姿勢に多くの読者が驚かれるのではないだろうか。ポイントとなる部分を紹介したい。
「…ただ今閣下を通じて行われた軽率な通告は、文明国と非文明国とを問わず、あらゆる国の歴史に類を見ざるところであります。それは実際上、条約締結国全体に対する日本自身の宣戦布告にほかなりません。直ちにこれを取り止めなければ、その結果は最も苛酷かつ最も効果的な懲罰によって、その罪を償わなければならぬでしょう。この旨、閣下より大君陛下の上聞に達せられ、さらに大君によって確実に天皇に奏上せらるべきものと愚考いたします。…」(同上書 p.102)
要するに、「賠償金は頂戴しておくが、国外に出ていけという命令を撤回しないならば、貴国との戦争が避けられない。その代償は高くつく。」と脅しているのだ。

アーネスト・サトウはこの著書の中で、この時期に江戸幕府がイギリスに接近してその支援を受けたり、横浜の防御をフランスに委ねていたとしたら明治維新は為し得なかったという意味のことを書いているので紹介したい。裏を返すと、幕末期においてはイギリスもフランスも、わが国の一部でも植民地化するチャンスを窺っていたということだろう。

イギリス側か大君に与えようという物質的援助…政策がうまく実行されれば、大君は祖先伝来の地位に安定し、その後継者を転覆させた1868年の革命は困難となり、おびただしい流血なしには成就しなかったであろうし、また日本国民は、外国の援助で日本の地位を強化した支配者を嫌悪するに至ったであろう。そうなれば大君は苛酷きわまる抑圧手段によらなくてはその地位を保ち得なくなり、国民は恐るべき永久の独裁政治下に屈服を余儀なくされたであろう。大君の閣老が、外国からの援助申し出を拒否するだけの充分な愛国心を持ち合わせたことは、まことに喜ぶべきことであった。かくして、日本人は自己の力で自分の救済を行なうようになり、革命が勃発した時も、生命財産の損失をわずかの範囲に食い止めることが出来たのである。…もし日本人がヨーロッパの某国人(訳注 フランス人)の提言を受け入れたとしたら、それは永久に阻止される結果になったかもしれない。」(同上書 p.102-103)

話を生麦事件に戻そう。
イギリスは生麦事件の賠償金を、江戸幕府からだけではなく、薩摩藩からも獲ようとしていた。
江戸幕府は、イギリスの要求する賠償金を全額支払ったのだが、薩摩藩の場合は、薩摩側には何も落ち度はないので、イギリスが要求した犯人の処罰にも2万5千ポンドの賠償金の支払にも応じるつもりはなかったのである
そこでイギリス公使代理のニールは、クーパー提督率いるイギリス東洋艦隊7隻を錦江湾に派遣して、砲艦外交によって薩摩藩からも賠償金を獲ろうとしたのである。

薩英戦争のことを書くとまた長くなるので次回に記すことにしたい。

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薩英戦争で英国の砲艦外交は薩摩藩には通用しなかった

前回は生麦事件における江戸幕府の対応を書いたが、今回は薩摩藩の対応を書くことにする。

イギリスは江戸幕府から、得意の砲艦外交により10万ポンドの賠償金の獲得に成功し、次いで鹿児島の錦江湾に7艘の大艦隊を回航せしめ、薩摩藩からも2万5千ポンドの賠償金を獲ろうと企てたのだが、薩摩藩は一歩も引かなかったのである。

国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で、薩英戦争に関する記述がありそうな本を探す。「薩英戦争」で検索すると、ネットで閲覧可能な26冊の古書がヒットする。
昭和16年に出版された『維新史第3巻』(維新史料編纂事務局)を読むと、薩摩藩がこの日の来ることを想定して、周到な準備をしていたことがわかる。次のURLにその該当部分がある。(原文は旧字旧かな。以下同じ)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242358/265

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「…生麦事件勃発以後は、早晩英国艦隊の鹿児島来襲を予想し、外夷屠(ほふ)らずんば已まずという意気を以て、愈々(いよいよ)武備を厳重にした。或は砲台を増築し、備砲を強化し、或は遠見番所、狼火(のろし)台を各地に設け、弾薬の製造を盛んにし、兵糧の貯蔵に力めた。英艦来襲を想定した模擬戦もまたしばしば行われ、藩主茂久はみずからこれを瞥し、一藩を挙げて日夜英艦撃攘の訓練を怠らなかった。されば6月27日、英国の大艦隊が鹿児島に迫るや、予(かね)てその事あるを期待していた事なれば、沿岸の狼火台は直ちに合図の狼火を打ち揚げ、警報は八方に伝えられて、各砲台守衛の士はもとより、城下の士卒はそれぞれ迅速に部署に就いた。」

薩英戦争の砲弾

薩摩藩の砲台は先代の島津斉彬の時代より錦江湾沿岸の要所に設置されたものだが、薩摩藩の大砲は砲弾が円くて、細長いイギリス艦隊のアームストロング砲と比べると射程距離が短く、破壊力も劣っていた。

徳富蘇峰の『近世日本国民史〔第50〕』に薩摩藩の砲台をみた英国側の記録が引用されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228685/121

「鹿児島付近の西岸、ならびに島嶼には砲台を構え、その砲台の多数は市街の前面に連接し、専ら市街防御を為し、守備頗る厳重だ。市街付近の高所には、陣地を卜(ぼく)し、柵を繞(めぐ)らし、薩藩の旗章を翻し、その周囲には、多数の兵士立ち並び、扇子を扇ぎて、艦隊の進航に注目するの挙動を察するに、必定一発の相図(あいず)あらば、一斉に砲火を開くもののごとし。」

薩摩藩主島津忠義は、軍役奉行折田平八らを旗艦に遣わし、その来意を問わしめている。
英国は折田らに国書を手交した。
かなり長文だが、その要求している内容は、生麦事件の犯人を捕らえて、英国将校12名の目前で死刑に処することと、2万5千ポンドの支払うことの2点であるが、「之を拒まば、その他軍艦の到着を待ちて、直ちに戦端を開くべし。」といった脅しの文句がいくつも書かれている。徳富蘇峰の前掲書に、英国の国書の全文が紹介されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228685/124

まず薩摩藩は、書面の往復は談判に不便であるとし代表者の上陸を求めたのだが、『近世日本国民史〔第50〕』の続きを読めば、次々と繰り出す薩摩藩の奇策に、多くの日本人は驚くことだと思う。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1118156/138

「『(ニール代理公使等が)上陸せば、城内の釣橋を引き揚げて彼等を捕虜となす可き設計は準備せられた。此れは確定せられた内議であった。若し此の奸計成功し、而して英艦より発砲するが如きことあらば、此の俘虜を斬首すべき旨を、艦隊に通告し、而して霧島の堅固なる牢屋に幽閉せられたであろう。』
と7月13日横浜発行の英字新聞に公表せられた。それは余りにも穿ちすぎたる想像説ではあるが、その実薩摩でも、若し代理公使、水師提督等が、藩の請求に応ぜざるに於いては、彼等を御春屋内に幽閉し、同所を焼き討ちする計画であったと言う。[男爵本田親雄談話]」

英国は薩摩の謀計を危惧してこの誘いには乗らなかったのだが、次に薩摩藩は決死隊を募り、1艘は返書を持参し、他は西瓜などを積んで売り込むように見せかけて艦隊にうまく乗り込み、合図とともに斬りこみをかけ、7艘の軍艦を奪い取ろうとしている
このことは、『維新史第3巻』や『近世日本国民史〔第50〕』にも書かれているが、その時に錦江湾の英軍艦に乗っていた通訳士のアーネスト・サトウの著書にも同様の記録を残している。これは、薩摩の使者に英国の要求書を手交した翌日の午後の出来事である。

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「…別の役人が数名旗艦へやってきて、回答の期限については何とも言明はできぬと言った。その際ニール大佐を訪れた重役の名前は伊地知正治といった。…この男とこれに従う40名の者が、イギリスの士官を急襲して重だった者を殺害せんものと、充分な計画の下に主君と別盃を酌みかわして来たのである。彼らは、こうした方法で、旗艦を奪取しようとしたのだ。それは大胆至極な考えではあったが、当方で前もって警戒していなかったら、あるいは成功したかもしれない。それらの者は2、3名しか提督の室に入ることを許されず、一方水兵たちは、後甲板に居残った者たちを警戒の目で中止していた。
 これらの日本人がまだ艦上にいる間に別の船が到着したが、それは援兵を乗せてきたものか、計画的殺戮の取消し命令を持ってきたものか、私には判断できなかった。」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.105)

『近世日本国民史〔第50〕』によると、40名は船に上がることが出来たものの、銃剣を構えた英海兵隊が整列して監視していたために、何もできなかったようだ。

またWikipediaによると、薩摩藩は桜島と沖小島の間に地上管制式の水雷3発を敷設したとの記録も残っているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E9%9B%B7%E6%88%A6

翌日薩摩藩はその回答書を届けている。その回答書は、かなり長文で挑戦的なものである。
内容については、犯人は捜しているが未だに捕まっていないことを記したうえで、生麦事件については薩摩には罪はない。このような国法があることを織り込まないまま条約を締結した幕府にこそ問題があると述べて、巧みに英国の要求を拒絶している。英国の砲艦外交は薩摩藩には全く通用しなかったのである
薩摩藩の回答書の原文は『近世日本国民史〔第50〕』に出ているが、英国をまるで相手にしていないような文章である。次のURLに回答書の原文とその解説があるが、回答の一部を紹介しておこう。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1118156/142

「…数年来頻りに探索すれども未だ捕獲せず。かつ人数も一人にあらずして、種々遁避の術を盡(つく)すと見えたり。固より江戸と京都を親睦のために往来する者にて、私意毛頭なければ、主人より命じたるにあらざるは疑いなかるべし。…」
「(貴国においても)我が国法の如く数多の従者を従えて往来する時は、兼て制禁あるにも拘(かかわ)らず、是を犯さば、衝き倒すか、または打ち殺すかせざれば其の国主の往来も成り難かるべし。…諸候を指揮せる江戸の政府にて、従来重き国法のことを条約に載せずして、猥りに諸候の過とするは、政府の不行届なるべし。」

薩摩藩はもちろん英人を斬った人物は分かっていたが、英国に差出す意思は全くなかった。
リチャードソンに最初に一太刀浴びせたのは奈良原喜左衛門で止めを刺したのは海江田信義であったとされているが、両名とも、7艘の英軍艦を奪い取ろうとした決死隊に志願したメンバーであったのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%BA%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
また、決死隊には、後に第二代の内閣総理大臣となった黒田清隆や陸軍大臣などを歴任した大山巌も参加していたようである。

アーネスト・サトウ22-23歳

もちろん英国はこんな回答で納得できるはずがない。アーネスト・サトウの著書で、英国側の反応が如何なるものであったかを述べている部分があるので引用したい。

「…(薩摩藩の)使者が到着したとき、わが方は使者に向かって、回答は不満足なものと考えられるから、もはや一戦を交えたあとでなければ日本人との交渉には断じて応じられぬと告げた。それから提督は、湾の上の方を暫時遊弋(ゆうよく)し、図面にあるウィルモット岬(訳注 大崎ノ鼻、図面省略)の沖合に投錨している外国製の汽船数隻を偵察し、また遥かかなたの湾頭で数回の測量を行なった。当方には砲台を即時攻撃するつもりはなかった。数隻の汽船を拿捕するという報復措置をとれば、薩摩人は前回持ってきたものよりも満足すべき回答を持参するに違いないと、提督は考えたようだ
 この計画にしたがって、…15日払暁(ふつぎょう:明けがた)汽船の拿捕を開始した。汽船に近づくにつれて、もちろん私たちは大いに興奮し、任務に従って各自忙しく立ち働いた。

われわれは、拿捕した船を艦の舷側につないで、桜島の下にある碇泊所へ帰った。…
しかし正午になると、突如一発の砲声が聞こえた。それと同時に、全砲台がわが艦隊に向かって火ぶたを切ったのである。」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.106-107)

薩英戦争戦闘図

攘夷の薩摩藩が先に英国に戦争を仕掛けたというイメージがあったのだが、薩摩は英国の敵対行為を確認してから砲撃を開始していることは注目して良いと思う。

そもそも英国が、その武力を背景に高価な汽船を拿捕する根拠はどこにあるのだろうか。英国がやったことは、相手にライフル銃を突き付けて「金を出せ。出さないなら命はないぞ」と言っても相手が動かないので、近くにいた家族をつかまえて「こいつの命が惜しけりゃ、俺の言う通りにしろ。」と言っているようなものである。当時のイギリスは、このような野蛮な方法で世界の多くの国を植民地化していったのだろう。

このように、戦前の本を探せば同様の論調の書物は容易に見つけることが出来るのだが、戦後出版された書物に、欧米諸国の世界侵略の真実を詳しく書いているものがどれだけあるのだろうか。

このブログで何度も書いているのだが、歴史の叙述はいつの時代もどこの国でも勝者にとって都合の良いものに書きかえられるものである。
特にわが国においては、第二次世界大戦の戦勝国にとって都合の悪い真実は、わが国の教科書などにはほとんど伏せられているのが現実で、たとえば『もう一度読む 山川日本史』では、
「1862年(文久2年)には神奈川に近い生麦で、薩摩藩士がイギリス人を殺傷する生麦事件がおこり、翌年イギリス艦隊がその報復として鹿児島を砲撃するという事態に発展した(薩英戦争)」
と書かれているだけだ。
こんな文章を読めば、薩英戦争にイギリスに正義がなかったことを理解することは不可能だろうし、薩英戦争は攘夷事件を起こした薩摩藩に責任があり、薩摩は薩英戦争で英海軍の前に完敗したとしか読めないだろう。

では、薩英戦争は、薩摩軍はどのように戦い、結果はどうであったのか。
実際には薩摩藩はかなり善戦したのだが、その点については、次回に記すことにしたい。

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【ご参考】
このブログで、「戦勝国にとって都合の悪い真実」について多くの記事を書いてきました。
いくつか紹介しますので、良かったら覗いて見てください。

盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html

アメリカはいかにしてスペインからフィリピンを手に入れたか~GHQが封印した歴史6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-181.html

第一次大戦以降、中国の排日運動を背後から操ったのはどこの国だったのか~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-238.html

カリフォルニア州の排日運動が、日露戦争後に急拡大した背景を考える~~米国排日1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-260.html

16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-191.html

【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。




薩英戦争の人的被害は、英国軍の方が大きかった

前回は、文久3年(1863)の薩英戦争は、英国艦隊が錦江湾に停泊していた数隻の汽船を拿捕したことから、薩摩軍が砲撃を開始したことを書いた。

薩摩軍が砲撃を開始したなら、英国軍も直ちに砲撃を開始すると誰でも思うところだが、英国軍がすぐに始めたのは、拿捕した汽船内に入って金目のものを掠奪することだった。その汽船は、英国が薩摩に要求していた賠償金よりもはるかに高価な汽船であったようだが、交戦命令が出ているのにもかかわらず、その船内の掠奪に1時間近くもかけているのは驚きだ。

この時に錦江湾に碇泊していた英戦艦アーガス号に乗船していたアーネスト・サトウはこう書いている。
「…正午になると、突如一発の砲声がきこえた。それと同時に、全砲台がわが艦隊に向かって火ぶたを切ったのである。雨が降り、風が台風のように吹いていたのだが、提督は直ちに交戦の命令を下し、また拿捕船を焼却せよとの信号をわが艦(アーガス号)と、レースホース号およびコケット号に向けて発した。この信号を受けるや、私たちはみな拿捕船内に突進して、掠奪を開始した。私は日本の火縄銃と円錐形の軍帽(陣笠)をせしめたが、士官連中の中には一分銀や渡金二分金などの貨幣を見つけた者も数名いた。水兵たちは鏡、酒瓶、古筵の切れ端など、持てるものは何でも掠めた。およそ1時間もこうした乱暴が行なわれた後、汽船に穴をあけて火を放ち、それから命令を受けるために戦線へ馳せつけた。…
 しばらくしてから、わが方も日本側の砲火に応じた。日本側の最初の砲撃に対して旗艦の応戦が遅れた(2時間)わけは、艦上にまだ賠償金が積んであったため、ドル箱の堆積(たいせき)が弾薬庫の戸を開ける邪魔になったからだという。第9砲台の直下に碇泊していたパーシューズ号は、錨(いかり)を切って、逃げ出さねばならなかった。この錨は数カ月後に薩摩の人々が捜しだして、わが方へ返してくれた。こうした遅滞のために、パーシューズ号は戦列の最後方に位置しなければならなくなった。」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.107-108)

江戸幕府からせしめた賠償金が邪魔になって旗艦の弾薬庫を開けるのに2時間近くかかったというのも笑い話だが、おそらくイギリスは薩摩藩との砲撃戦は想定せず、江戸幕府と同様に薩摩藩からも、脅せば容易に賠償金が獲れると甘く考えていたのであろう。
いずれにせよ、旗艦ユーライアス号の砲撃開始が遅れたのは薩摩藩にとっては幸運であった。この旗艦にはアームストロング砲が110ポンド砲5門、40ポンド砲8門、カロネード砲16門、その他22門と、他の艦を圧倒する数の大砲が搭載されていたのである。
この旗艦がたまたま射程圏内に碇泊していたので、薩摩藩は多くの命中弾を浴びせている。
また天候も薩摩軍に味方した。台風のような雨風で波は高く、英国軍はなかなか照準が定まらなかったのに対し、薩摩軍は予てから訓練を積んで砲弾の飛ぶ距離を熟知していた上に、旗艦だけでなく他の多くの英艦船が、薩摩藩の大砲の射程圏内に入っていたようである。

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引き続きアーネスト・サトウの文章を引用する。

「交戦を開始してから45分ばかりして、旗艦が艦首を転じたのが見えた。次いでパール号が、戦線を離脱してしまった。これは、ユーリアラス号(旗艦)のジョスリング艦長とウィルモット中佐が、第7砲台から発射された球形弾にあたって戦死したためであった。同艦は、知らず知らずのうちに、砲台と日本の砲手が平素用いていた練習目標との中間を進んでいたので、正しく先方の射程距離内に入っていたわけだ。ほとんど同時に、10インチの破裂弾が艦の主甲板でさく裂したと見るまに、7名の水兵が戦死し、1名の士官が負傷した。こうして、10インチから18ポンドの砲弾を持つ37の砲門の一斉射撃をあび、この堂々たる軍艦もすっかり窮地におちいってしまったのである。」(同上書 p.108-109)

英艦のアームストロング砲の射程距離は2kmから4kmまで諸説があるが、薩摩藩の大砲の射程距離はせいぜい1km程度しかなかったようだ。英艦は次第に薩摩藩の砲台から離れて、薩摩の大砲が届かないところから砲撃するようになり、そのために薩摩の砲台は漸次破壊されていったという。
さらに英軍は、工場地帯の沖合にかかっていた5隻の琉球船に火を放ち、鹿児島の町を焼き払うために矢箭(ロケット)を発射した。烈風が吹いていたので、すぐに火は拡がったようだ。

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両軍の損害については、Wikipediaによると英軍側は11名が戦死し、52名が負傷。艦船大破1隻、中破2隻に対し、薩摩軍は、5名が戦死したとある。
人的被害は英軍の方がはるかに大きかったが、鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館*、鋳銭局、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、民間船5隻が焼失し、薩摩藩の物的損害は甚大であったようだ。
これだけ多くの人家が焼失したにもかかわらず、薩摩藩の民衆の死者がなかったのは、薩摩藩が攻撃を開始する前に避難を命じていたからだという。
*集成館:島津斉彬が建設させた、近代洋式工場群。製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、大砲や武器弾薬も製造した。

英艦隊は7月4日(8月17日)に戦死者を水葬したのち、薩摩を撤退し横浜に向かっている。英軍内では、英国の要求を呑ませるために攻撃を続けるか、碇泊を続けるべきという意見も強くあったようなのだが、薩摩軍を圧倒するだけの石炭、糧食、弾薬がなかったことが退去の決断につながったものと思われる。
しかし、薩摩藩に一度も上陸を果たさないままに横浜に戻ったことは、当時の世界最強のイギリス海軍が事実上勝利をあきらめて横浜に敗退したと受けとめられたことは当然だろう。

Wikipediaにはこう記されている。
「ニューヨーク・タイムズ紙は『この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった』とし、さらに、『西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくいかないだろう』とも評している。
本国のイギリス議会や国際世論は、戦闘が始まる以前にイギリス側が幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への艦砲射撃は必要以上の攻撃であったとして、キューパー提督を非難している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4%BA%89

アーネスト・サトウも、薩摩の民家への艦砲射撃を著書で非難している。
「…すでにわが方は、砲台と町の大半を撃破した。そしてリチャードソン**の殺害のことなぞ何も知らぬ多数の無辜の人々を、この砲撃で殺戮したに違いない。その結果、初めの理由は公安破壊の罪に過ぎなかったのを、開戦の理由にまで拡大してしまったのだ。そういうことをやりながら、さらに再び多数の人命を奪ってまでも贖罪を迫ろうとするのは、決して正当ではないと私には思われた。」(同上書 p.114)
**リチャードソン:生麦村で薩摩藩の島津久光の行列と遭遇し、薩摩藩士に殺害された人物。

すでに記したとおり薩摩の人々は事前に避難していたので、アーネスト・サトウが心配していたように、英軍が矢箭(ロケット)を放って民家を焼き尽くしたことによって薩摩の民衆が焼死したわけではなかったようだ。しかし、英国艦隊が艦砲射撃で薩摩の民家を焼いたことは恥ずべき行為であると英下院で問題となり、成立はしなかったが、キューパー提督に対する非難決議が提出されたことは注目して良いと思う。

ところで英国艦隊は、薩摩を去って横浜に向かって最初に為したことは、再び江戸幕府を威嚇することだった。英国からすれば江戸幕府のほうが薩摩藩より交渉しやすいと考えたのだろうか。
『維新史 第3巻』には、こう記されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242358/270

薩英戦争の結果、英国側の企画は全く失敗に帰し、薩州藩の実力の侮るべからざるを知ったが、代理公使ニールは横浜帰港後もなお、表に強硬態度を粧って、頻りに幕府を威嚇した。即ち彼は8月12日、9月9日の両度にわたって書を幕府に送り、速やかに命を薩摩に下して事件を解決しなければ、再び艦隊を鹿児島に送るであろうと虚喝*した。」
*虚喝(きょかつ):虚勢をはっておどすこと

一方薩摩藩は、英艦の再度襲来に備えるため戦争準備を開始していたのだが、今回善戦できたのは悪天候により助けられた部分が大きく、普通に戦っていたならば、射程距離が圧倒的に長い英国のアームストロング砲相手では、勝負にならなかったとの認識があったようだ。
小松帯刀、大久保一蔵らは、無謀な攘夷を行なってはかえって国を危うくすると考え、藩主に薩英講和を説き、かくして薩摩藩は対英講和談判を開始することとなる。

重野安繹

第1回談判は9月28日に代理公使ニールとの間に横浜で行われている。
薩摩藩の交渉にあたったのはのちに歴史学で東大教授となった重野安繹(やすつぐ)だが、第1回、第2回交渉では、英国を相手に一歩も譲っていない。
『維新史 第3巻』をしばらく引用する。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242358/269

「…薩摩藩は談判の当初より、生麦事件の犯人処刑は承認するが、現在なお行方不明であり、償金の件は幕府の命に従って諾否を決すべしと言い、著しく妥協的態度を示したが、まず薩英戦争の理非曲直を明らかにしようと主張し、ここに開戦の責任について、彼我の間に議論が沸騰した。
即ち薩摩側は、英国艦隊が薩船拿捕の不法行為に出でたことを指摘して、開戦の責任を問うた。これに対して英国側は、元来幕府の了解を得て、鹿児島に回航したにもかかわらず、薩藩は敵意を示して英国の要求を拒絶した。薩船を抑留したのは薩摩の譲歩を促すための手段にすぎず、談判継続中に薩藩の砲台より砲撃を開始したのは甚だ不法であると反駁して、両々相譲らず談判は4時間余にわたって遂に決着しなかった。
 …第2回談判は10月4日に開かれたが、再び激論数刻にわたり、双方強硬に自説を固持して譲らず、ニールは更めて薩摩より犯人処刑を確約する詔書を入れることと償金支払いとの、2か条の講和条件を明示した。而してこの両度の談判にあたって、薩摩側は英国艦隊の威嚇的態度と藩船拿捕の不法行為とを指摘して、大いに開戦の責任を呼号し、終始巧みに応酬して、しばしば彼をして答弁に窮せしめたのである。」

ところが、江戸幕府は談判が決裂するのを恐れて薩摩藩を説得し、翌日の第3回談判において講和が成立することになる。薩摩藩は償金支払いと犯人捜査の承諾を与えるが、その交換条件として軍艦購入のあっせんを依頼し、償金の支払いについては幕府より借用して支払う事で決着した
重野らは島津久光に談判の経過を報告し償金支払いの許可を得たのだが、今度は江戸幕府老中板倉勝重が財政の逼迫を理由に、薩摩藩への貸出に難色を示す。

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薩摩藩は大久保一蔵を江戸に送り、老中板倉勝重と交渉させたのだが、大久保は「幕府がもしこれを許さなければ、対英談判は決裂して、しいては天下の大事となるであろう」と迫り、一方英国のニール代理公使も償金支払いの猶予期限を遥かに過ぎたことに圧力をかけて、江戸幕府は双方の圧力に屈して薩摩藩に貸し出しを実行し、11月1日に薩摩藩は、幕府から借りた金で英国に償金を支払ったのである。
そして薩摩藩は、結局この借入金を踏み倒したようなのだが、江戸幕府と薩摩藩とを比較しても、交渉力は薩摩藩の方が数段勝っていたようだ。

かくして薩摩藩は生麦事件から薩英戦争と続いた大問題を、藩の資金を使わずに解決したのだが、薩摩藩内では、薩英戦争に明確に敗れた訳でもないのに、講和談判において英国に償金を支払ったことにかなり非難があったという。

しかし、薩摩藩が善戦したのは、たまたま英艦が大砲の射程距離内に碇泊していたからであって、もし再び戦うことがあれば、英艦は薩摩藩の大砲の届かない地点から、アームストロング砲を打ち込めば、薩摩藩に壊滅的打撃を与えることは確実だ。射程距離にこれ程の格差がある限りは、再び戦って薩摩藩が勝てるはずがなかったのである。そして、そのことを薩英戦争によって認識できたことが、薩摩藩にとっての最大の収穫であったのだ。

一方英国は、薩英戦争に勝利したとは思っていなかったところに、薩摩藩から講和談判の申し出があり、償金を支払うとまで言ってきたことに驚いたようだ。
アーネスト・サトウは、「驚きながらも、愉快な気持ちでこれを迎えた」(同上書 p.113)と正直に書いている。

英国からすれば、少し圧力をかければ、いつも謝罪で頭を下げて金を払って問題を処理しようとする江戸幕府よりも、筋を通してギリギリの交渉をしてくる薩摩藩の方にこそ、日本の将来を見たのだろう。この戦争の講和を機に、薩摩藩と英国は接近することになったのである。

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【ご参考】
このブログで、「戦勝国にとって都合の悪い真実」について多くの記事を書いてきました。
いくつか紹介しますので、良かったら覗いて見てください。

占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-187.html

ソ連の『北海道・北方領土占領計画書』を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

中国人苦力を全員解放させた日本人の物語
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-113.html

パリ講和会議で人種差別撤廃案を提出した日本とその後の黒人暴動など~~米国排日5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-264.html

当時の米人ジャーナリストは中国排日の原因をどう記述しているか~~中国排日5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-242.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html


江戸幕末期にお金で武士身分を獲得する相場が存在した背景を考える

菊池寛の『大衆維新史読本』という本を電子書籍で見つけて読んでいると、面白いことが書かれていたので紹介したい。文中の「ペルリ」とは嘉永6年(1853)に浦賀沖に姿を現した、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーのことである。

甲子夜話

「甲子夜話*に『米澤の筆、鍋島の竹子笠、秋月の印籠(いんろう)、小倉の合羽の装束のごとき、みな下下細工をいたし、第一それに精をいだし、博奕(ばくえき)する隙なく、第二に身持堅気(かたぎ)になり、仕置も致し能(よ)く候』とあるが、これは各藩に於ける下級貧窮の武士の内職をあばいたものである。
 ペルリの来た年の井上三郎右衛門の上書(じょうしょ)にも、旗本**の貧困ぶりを叙して、
『旗本困窮仕(つかまつ)り候者、五百五十石にても、窮迫(きゅうはく)仕り候者共、夏の蚊帳(かや)調え候儀も行き届かず、冬の夜寒気を凌(しの)ぎ候夜具も無之(これなく)』
 という有様で、結局金のある婿養子でも探したほうが良いということになる。その金額は大体きまっており、百石***五十両、急養子は百石七八十両から百両という相場である。
 この株があるため、金を持っているものは金で株を買って武士になれるわけであり、そのため民間の偉材が武士になれるという拾い物もあるわけだ。伊藤博文なども、この持株の買い手で彼が百姓だったら、恐らくあれだけの仕事はできなかっただろう。」(『大衆維新史読本(上巻)』p.30~31)
*甲子夜話:江戸時代後期に肥前国平戸藩第9代藩主の松浦清(号は静山)により書かれた随筆集。
**旗本:幕府に直接、仕えるえる家来を 旗本・御家人といい、旗本は石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。
***石(こく):大人一人が1年で食べる米の量。1石=約180ℓ=約150kg。


洋行前の伊藤博文
          【伊藤博文

Wikipediaによると伊藤博文は百姓・林十蔵の長男として生まれ、「12歳ころから父が長州藩の蔵元付中間・水井武兵衛の養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名したため、十蔵・博文父子も足軽となった」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87

伊藤博文の場合は貧しい農家の生まれで、武士身分を得るにあたり誰がどの程度の対価を払ったかはどうかはよくわからなかった。長州藩のケースとは異なるとは思うが、菊池寛の叙述によれば徳川家の家臣である旗本身分を得るための相場は百石あたり50両~100両だったという。

金を払って武士身分となることができたことに興味を覚えて調べていくと、この時代に武士身分を得た人物には著名な人物が結構いる。

近藤勇
          【近藤勇

新選組組長の近藤勇はWikipediaによると、「武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)に百姓・宮川久次郎と母みよ(ゑい)の三男として生まれる。」とあり、嘉永2年10月に、剣豪・近藤周助の養子となり、「周助の実家である嶋崎家へ養子に入り、嶋崎勝太と名乗る。のちに正式に近藤家と養子縁組し、嶋崎勇と名乗ったのちに、近藤勇を名乗った。」と複雑な過程を経て武士となり、のちに幕臣となっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E5%8B%87

土方歳三
          【土方歳三】

新選組副長の土方歳三も武蔵国多摩郡石田村の農家に生まれ、天然理心流の剣術道場で近藤勇と出会い、新選組での活躍ののち慶応3年(1867)に幕臣に取り立てられている。

榎本武揚
          【榎本武揚】

箱館五稜郭に立てこもって明治新政府に最後まで抵抗した旧幕府軍のリーダーである榎本武揚も、父の円兵衛は備後国深安郡湯田村の庄屋の出で、代々の幕臣である榎本家の株を買って武士身分を得た経緯にある。

渋沢栄一
          【渋沢栄一】

また、第一国立銀行お東京証券取引所などの設立・経営に関わり「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一も武蔵国榛沢郡血洗島村の農家の出身で、交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により、一橋慶喜に仕えることになったという。

武士という身分を得るために対価を払ったとの事例が各地で記録されているようで、その相場は藩によって差があるようなのだが、金額の多寡により獲得できる武士の地位が違っていたというのは面白い。

大島高任

Google検索で「盛岡藩」「売禄」というキーワードで検索すると、半澤周三氏の著書『大島高任』(PHP研究所刊)の一部を読むことができる。大島高任は安政4年(1858)にわが国で最初の商用高炉を建造し、鉄鉱石製錬による本格的連続出銑に成功した人物で、明治期においても鉱業界の第一人者として活躍し「日本近代製鉄の父」と呼ばれている。父の大島周意は盛岡藩の藩医で、大島高任が父から聞いた話として盛岡藩の財政は北方警備の出費がかさみ、資金捻出にあたって、藩は身分を買える売禄制度を認可したことが書かれている。
「父の話によれば、この売禄なるものは嘉永元年ころから始まっている。百姓、町人でも十五両で一生名字帯刀、五十両で御与力格、九十両で御給人、すでに御給人であるものは三十両で御城下支配となれる。無禄の町医者も二十両で医格、さらに十両の上乗せで御役医である。」

盛岡藩の貧しさがよくわかる話だが、ではこの当時、現在価値にしてどの程度のお金があれば武士になることができたのであろうか。
日本銀行金融研究所の『貨幣博物館』というサイトによると、1両の価値についてこう解説されている。
「1つの目安として、いくつかの事例をもとに当時のモノの値段を現在と比べてみると、18世紀においては、米価で換算すると約6万円、大工の賃金で換算すると約32万円となります。なお、江戸時代の各時期においても差がみられ、米価から計算した金1両の価値は、江戸初期で約10万円前後、中~後期で4~6万円、幕末で約4千円~1万円ほどになります。」
https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/historyfaq/a5.html
幕府に仕えるか、どこかの藩に仕えるかにより金額は異なるようだが、幕末時期に武士の資格を得ることは、豪農や豪商にとってはそれほど難しいことではなかったようなのだ。

また、この『貨幣博物館』の解説を米価の推移という視点から考えると、江戸時代の後半期、特に幕末期に随分米価が高騰していたことがわかる。しかし米価が急騰したというだけでは武家が貧しくなったことの説明にはならない。

武士の俸給は石高をベースに米や現金で支給され、自家消費を除いた米は換金して様々な支払いに充てていたのだが、武士には俸禄に匹敵する軍役を義務付けられており、部下の雇用のみならず刀や弓矢などの多数の武器を備えておくことが必要であった。もし、米価が他の諸物価と比較して突出して高いという状態であったなら、武士はそれを換金することで今まで以上に豊かになっていただろうし、その逆のケースなら、武士の生活は困窮状態に陥ることになる。

次のURLに戦国末期から江戸幕末までの諸物価の推移がまとめられているが、例えば天保元年(1830)から慶応元年(1865)の35年間の間に、米価は2倍程度上昇したが、酒は4倍程度、砂糖は3倍程度、卵は5倍程度、木綿は10倍程度、木炭は6倍程度と生活必需品の価格が米よりもかなり高くなっていたことがわかる。
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J078.htm

菊池寛
             【菊池寛

菊池寛は武士の窮乏の原因についてこう解説している。
「それは一言で言うならば、米の経済の破綻なのである。すでに相当に高い程度に発達した貨幣経済の当時にあって、武士は相変わらず領主からその俸禄を米で支給され、これを貨幣に替えてその生活を維持しているわけである。しかも、米はその本質上価額が不定であり、他の物価が高くなる割には、高くならない。その差が全部武家経済の台所を脅かすにいたるのは当然である。
 封建社会の中堅ともいうべき武士が、こんな困窮の中に段々と追い込まれるとすれば、その社会が早晩大きな変革を要求するであろうことは、誰の目にも明らか
なわけである。」(同上書 p.32)

武士の内職

だから下級武士が、少しでも支出を減らそうと屋敷に畑を開き鍬を握って野菜などを作ったり、また現金収入を得ようと内職に励んだわけで、それが多くの地域で地元の名産品となっている。
『甲子夜話』に武士の内職仕事として「米澤の筆、鍋島の竹子笠、秋月の印籠、小倉の合羽の装束」が紹介されていたが、小田原提灯や大和郡山の金魚、山形天童市の将棋の駒なども有名なところで、幕府の旗本や御家人も、下谷の金魚、御徒町の朝顔、牛込の提灯などの稼ぎで苦しい生活をやりくりしていた。
あるいは金持ちの家から養子をとってその持参金を当てにしたということも多かったようで、その相場までもが存在していたのである。

一方、藩主や将軍の財政状況はどんな状態であったのか。引き続き菊池寛の文章を紹介する。

「また武士にこんな不自由をさせている領主や将軍はどんな生活振りかというに、これは台所が大きいだけ、その不足も目に立つわけである。
 経済禄に、
今の世の諸侯は、大も小も皆首をたれて、町人に無心を言い、江戸、京都、大阪そのほか処々の富商をたのんで、その続けばかりにて世を渡る
 とあるが、要するに領内の金持ちに、借金の相談ばかりで、寧日なしである。
 安政三年には、御三家の尾張大納言が領内の町人を集めて、直々の金銭を試みるという仕末である。
 諸侯貧しくして、幕府だけが独り富んでいるわけはない。幕府の財政も、一路その衰亡のコースを辿っている。これを数字でいえば、安政五年に、勘定奉行が大老井伊直弼に報告した財政状態は、文化八年から十年までの歳出入の不足分は金で二十二萬両、米で四萬石もある。それが天保五年から六年になると、赤字が金で五十九萬両にも達している。現代の人間から見るとたった五十九萬両と言うかも知れぬが、当時の幕府の総収入が百十五萬両であるから丁度その半分にあたる。もって幕府の困窮振りも察せられるわけである。
 武士階級の貧困化は、直ちに農民の上に掩(おお)いかぶさってくる。田祖の取り立ての過酷さとなって現れてくるのである
徳川幕府の対農民政策のモットーは、家康以来一貫しており、
『郷村の百姓は死なぬように、生きぬように』
『農民は五穀の価を知らざるを良農とす』
『農(のう)は納(のう)なり』
『胡麻(ごま)の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり』
等々の原則が厳として存在して、その人間的な再程度の要求さえ認められていないのである。脱胎、離村による農村人口の減少、田地の荒廃、そして農民の暴動など、農村の暗黒面はいよいよ封建社会の末期的症状の一つとなって表れてきているのである。
単純なる一揆の外に、天誅組や、水戸天狗党などに、その地方の農民が沢山加わっていたことなど、維新史の展開とともに、われわれの注意を惹(ひ)くものが多い。」(同上書 p.32~34)

米以外の商品の価格が高騰して最も困るのは、自家消費分を除いた米を換金することで部下の雇用や軍役にかかわる諸経費を支払い、その残りを生活費に回していた武士階級であろう。その影響が回りまわって農民や町人に及ぶことになるわけだが、多くの歴史書は幕府が農民を抑圧したという視点で江戸時代を描いていることに違和感を覚えるのは私ばかりではないであろう。「階級闘争史観」で単純に論じることは、この時代の本質をとらえているとは思えないのだ。

私には菊池寛のこの解説が分かりやすい。
武士や農民の貧窮化に比して、時代の寵児として、経済生活の上に浮かびあがってきたのは、町人階級である。しかしそれだけの筋力を要した商人や高利貸しが、傲然として社会生活の上に立っていたかというと、これがまた四民の最下位に置かれていたのである。農民より低いとされているのである。だから百二十萬両の巨富を得た淀屋辰五郎でさえ、わずかの欠点を指摘されて闕所(けっしょ)にされても、文句一つ言えない時代なのである。金力を以て、相当羽振りを利かせているだけに、政治的に無力化されればされるほど、彼ら町人の不平は大きいわけである。
 まず嘉永末期の日本は、ざっとこうした状態にあったのである。文字通りの四民困憊である。
 どの階級も現状不安であり、現状不満である。行き詰っているのである。
 武士の商人化、商人の僭上、それを取り巻いた一般的な下剋上の精神。現在から抜け出ようとする革新思想、復古思想など、かろうじて作られた三百年の封建の殻は、今や内部的に熟れ切って、一撃の下に、崩れ出しそうな時代
なのであった。
 そこへ、ペルリの率いた黒船が来たのである。かろうじて支えられていた、封建制度の鎖の一筋はたち切られたのである。徐々ではあるが、社会的の地すべりが始まった。断層がそこにも此処にも、不気味な肌をあらわにして来た。」(同上書 p.34~35)

徳川幕府は幕藩体制の財政基盤として徹底した米本位制度である石高制を実施し、藩の規模から武士の給与に至るまで、すべてが米の生産能力で換算され、それに基づいて年貢が課せられていた。各領主は自家消費分を除いた米を換金して必要なものを購入していたのだが、この制度は諸物価が安定していた時代にはあまり問題が生じなかった。
しかしながら、米の生産量が増え貨幣経済が発達して、米の相場以上に生活必需品の価格が高騰したことから、石高制の矛盾が露呈していくこととなる。

また公家も武士階級と同様な収入構造にあった。
中には和歌や書など学問の家元としての副収入のある者もいたのだが、多くの公家の収入は公家領から得られる年貢に依存していて、下級公家や新しい公家は下級武士並みの収入だったという。幕末の諸物価の高騰は公家の生活を困窮状態に陥らせたことは確実だ。

江戸幕府を倒し明治維新に導いた中心メンバーの多くは下級武士や公家であったのだが、なぜ彼らが討幕運動にのめり込んでいったのかというと、幕末に生活必需品の価格が急騰し、彼らの支給米では厳しい生活に追いやられていたことと無関係だとは思えない。
いつの時代もどこの国でも、普通の人々が普通の努力をして普通の生活を営むことが絶望的になったときに、若い世代を中心に、世の中を変革させようとするエネルギーが蓄積されていくのだと思う。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。


洋服に陣羽織入り乱れる鳥羽伏見の戦い
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-493.html

明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html

明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html

江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html


韓国皇帝が伊藤博文を「韓国の慈父」と呼んだ経緯~~~伊藤博文暗殺その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-233.html

伊藤博文を撃ったのは本当は誰なのか~~~伊藤博文暗殺その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-234.html

なぜわが国は安重根を犯人とすることで幕引きをはかったのか~~伊藤博文暗殺3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-235.html

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攘夷や倒幕に突き進んだ長州藩の志士たちの資金源はどこにあったのか

はじめて明治維新を学んだ際に若い青年が時代を動かしたことに驚いた記憶があるが、なぜ彼らは働きもせずに国事に没頭することができたのであろうか。何らかの方法で資金を捻出することが可能であったのか、誰かが彼らの活動資金を支援していたかいずれかなのだが、この点について解明している書物は少ない。

薩摩天保
【薩摩天保】

以前このブログで、『全寺院を廃寺にした薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期より始まっていたのではないか』という記事で、薩摩藩が寺院の梵鐘を鋳潰して天保銭を密鋳していたことを書いた。薩摩藩士で島津斉彬の側近の市来四郎の証言によると、安政5年(1858)の夏に、薩摩藩11代藩主の島津斉彬が大小の寺院にある梵鐘を藩廳に引き上げ武器製造局に集めて、兵器だけでなく貨幣にも鋳換えたのだそうだ。
阿達義雄氏の論文『薩摩藩密鋳天保通宝の数量』には290万両の密鋳を行い、その金額は薩英戦争の被害額を40万両も上回る水準という。

貨幣の密鋳は薩摩藩のほかに、盛岡藩や仙台藩、水戸藩など10以上の藩で行われたことが知られていており、長州藩でも行われたという説がある。古銭研究者が「曳尾銭(ひきおせん)」と呼ぶ、「通」のしんにょうの先が伸びている特徴のある天保銭が山口中心に発見されているのだそうだが、密造の規模は薩摩には大きく届かないようだ。では長州藩は、倒幕を実現するための活動資金を主にどういう方法で手に入れたのだろうか。

北前船主通り2
【河野浦 北前船主通り】

前回および前々回の記事に北前船で財をなした河野浦の右近権左衛門のことを書いたが、北前船で繁栄した地域は全国各地に存在し、山形県酒田市や石川県加賀市、新潟市などに船主の集落が残されていて、平成29年4月28日に「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」に30以上もの市町村が「日本遺産」に登録されている。
『日本遺産ポータルサイト』には船主集落のいくつかの画像が紹介されているが、これを観ると河野浦だけでなくそれぞれの寄港地が北前船による収益で潤ったことがよくわかる。


長州藩には下関、三田尻(防府市)、室積(光市)、上関、萩など北前船の寄港した港が多数存在し、なかでも下関は日本海、瀬戸内海、九州の各航路の結節地である重要な港で大変賑い、400軒もの問屋が軒を連ねていたという。

近松門左衛門の『博多小女郎波枕』には当時の下関をこう記している。
「長門の秋の夕暮れは、歌に詠むてふ門司が関、下の関とも名に高き、西国一の大湊、北に朝鮮釜山海、西に長崎薩摩潟、唐土阿蘭陀の代物を朝な夕なに引き受けて、千艘出づれば入船も、日に千貫萬貫目、小判走れば銀が飛ぶ、金色世界もかくやらん。」

六十余州名所図会 長門 下関
【六十余州名所図会 長門 下関

近松の表現には誇大な部分が少なからずあるとは思うが、下関は日本海、瀬戸内海、九州からの船が行きかう重要な港であったことは間違いなく、「西国一の大湊」であったことに嘘はない。下関の船主や廻船問屋が他の北前船寄港地と同様に巨額の利益を得ていたことは確実なのだが、残念ながら下関には船主集落や豪商の邸宅は残されていない。しかしながら、北前船で得た利益を惜しみなく勤王の志士に援助した人物が少なからずいて、なかでも廻船問屋・小倉屋の白石正一郎という人物は有名である。

昭和15年に出版された安藤徳器著『維新外史』にはこう記されている。この本は「国立国会図書館デジタルコレクション」で誰でもPC等で読むことが出来る。文中の「白石資風」は「白石正一郎」のことである。

「…地理的には九州四国対馬への関門であり、経済的には北廻船や越荷方の漁利を独占した良港――諸国の船舶商佔の出入りは志士密謀の策源地となり、脾肉の嘆を鬱散する幕末の歓楽境となった。就中勤王の侠商白石正一郎、大庭廉作等が、家産を蕩尽して草莽憂国の士を庇護したことは有名な話である。
 いま、白石資風日記を繙くと、『西郷月照滞在以来正一郎家内中ノ配慮混雑筆紙ニ尽シ難ク』とか、『平野次郎ヲ新地春風楼ニ潜伏サスル』『薩ノ大久保一蔵君上下四人来駕急ニ上京也』と見え、其の往来した志士の人名は、優に百余名に上って居る。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046663/87

白石が面倒をみたのは長州藩士だけではなく薩摩藩士や土佐藩士も同様で、白石がこういう金の使い方をすることで、薩長土の志士達がつながっていったのである。
同上書にはこう解説されている。文中の「馬関」とは「下関」のことである。

維新の元勲が置酒徴逐の間に策動した所、かの大西郷と木戸を握手させた、坂本龍馬の薩長連合も亦馬関に於てであった。…
 かく志士を庇護した反面に於て、彼等御用商人が資金運用を諮り、一種の利権問題の含まれていたことは今日の政商と異ならぬ
 白石資風日記文久二年十二月二日の條に『昼前大国船三艘ニテ廉作帰リ来ル。森山新蔵殿及波江野休左衛門(波江野ハカゴ島下町の商人廉直ノ者ニテ森山ハ素大久保利通等ノ使役スルモノナリ。当時町老寄ニテ産物商ノモノナリ。営業酒店又ハ古着商)用達金二萬四千五百両持チ帰ル。右ノ内三千金当家ヘ拝借被仰付二萬金ハ米置入之御手洗ノオ手当千五百両ハ早船十艘御造立御手当成。』とか、三年正月十七日の條に『長州様ヨリ千五百金御カシ渡可被仰候段御書付頂戴』などあるを見ても察知するに足りやう。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046663/88

このように『白石資風日記』には薩摩藩や長州藩に大金を渡したことが書かれているが、この資金は攘夷を実行するためのものであったと思われる。

馬関戦争図
【馬関戦争図】

孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂は文久三年(1863)五月に攘夷の実行を約束し、それにもとづき長州藩は馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して通告なしに砲撃を加えた。その報復として、半月後にアメリカ・フランス軍艦が馬関海峡に碇泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的な打撃を与えている。(下関事件)
その翌日に高杉晋作が白石正一郎を訪ね、その2日後に、外国艦隊からの防備のために奇兵隊が結成され、正一郎も弟の廉作もそれに参加し、白石邸に本拠地が置かれることになったという。

長州藩は新たな砲台を設置して海峡封鎖を続行したが、翌年にはイギリス・アメリカ・フランス・オランダの四国連合艦隊が下関を徹底的に砲撃し、砲台は占拠され破壊されてしまう。(四国連合艦隊下関砲撃事件)

その後長州藩は武力での攘夷を放棄し藩論を倒幕に転換させていく。同様に薩摩藩も次第に反幕府の姿勢を強め、両藩ともに軍事力充実の為にイギリスに接近していった。
一方幕府はフランスの指導による軍事改革を進め、慶応元年(1865)に第二次長州征伐が宣言され、薩摩藩にも出兵要請が出されたのだが、坂本龍馬などの仲介により慶応二年一月(1866)に薩長同盟が締結されたことから、薩摩は出兵しなかった。最新兵器で武装した長州藩の奇兵隊などは各地で幕府軍を打ち破り、このため幕府は、将軍家茂の病死をきっかけとして戦闘を中止した。

長州奇兵隊
奇兵隊

奇兵隊は武士のみならず農民や町民でも、志があれば参加できる民兵組織であり、この兵士たちの装備や生活支援の為に正一郎はかなりの私費を投じたようである。しかしながら、奇兵隊の隊員は次第に膨れ上がり、その資金負担は本業の資金繰りにも影響を与えることとなる。

慶応元年(1865)の正一郎の日記には白石の借金について噂がたっていたことが記されている。
「(十一月)十四日…林半七君曰ク、当家借財四五百金ニテ当分間ヲワタシ不申哉ト申聞候得共、夫ニテハ所詮間ニ合不申。然ルニ当節又々幕情勢相迫候由ニ承候。オノレ勘考スルニ、君上有テノ事ニ付、先々当分カリ主ヨリ責来不申様被仰付度。追討ノ一挙平穏ニ相成候上、此家屋敷御買上相成候様御周旋被成下度。夫迄ハ先ツ見合可申ト返答ニオヨブ。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935850/63

白石正一郎の巨額の借財があったにせよ、白石宅には入れ代わり立ち代わり志士たちが訪れては宿泊や酒席などの世話になっている。
慶応二年(1866)の日記にはこう記されている。
二月一日奇隊ヨリ惣官山縣君其外遠乗シテ来ル。井上聞多君、伊藤春介君、野村靖之助ナド芸妓召連来リ暫ラク大サワギ
*山縣君(山縣有朋)、井上聞多(井上馨)、伊藤春介(伊藤博文)、野村靖之(野村靖)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935850/64

洋行前の伊藤博文
【洋行前の伊藤博文】

井上や伊藤らの遊興費は外国商人からも出ていたようだ。『萩の落葉』という当時の風聞書に、このような記録があるという。
「…伊藤春助外夷より大金を貰ひ受け、稲荷町新地において湯水の如く遣捨て、其上妓婦両人受出し且又内々馬関を交易場に開港之唱有之候に付、奇兵隊其外慷慨の志士憤発誅戮可致哉。何れ大変不遠中に発し可申右等之趣に付、前條之町触有之候哉と申居候事」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046663/93

しかしながら、前掲の『維新外史』によると、長州志士たちの活動費や遊興費の多くは、藩が支出した銃艦購入費や洋行費から流用されたという。
「…高杉が独断に於て英商グラバより購入したオテント(丙寅丸)の三萬六千二百五十両の船価は、洋行費として千五百両の支給から手付を打つと称して費消したのであった。井上が要路に弁解した書中『谷氏(晋作変名)御勘渡金千五百両の處返納仕候様中来リ、然ル處崎陽ニテ遠行之仕度相調且舷買入雑費ニテ金モ遣ヒ候様子、然ル處大不平ニテ云々』と見える。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046663/95

長州藩の銃艦購入費や洋行費は、白石正一郎ら勤王の商人のほか、豪農など民間の有力者が攘夷軍用金として藩に献納したものなのだが、ほかにも長州藩には関ケ原の戦い以降蓄積されて来た巨額の資金が存在したという。軍事機密費が存分に仕えたからこそ、長州の志士たちは豪遊することが可能であったのだが、これだけ無駄な支出をしても、維新後に長州藩の資金が余り、七十万両を朝廷に献上したのだそうだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046663/97

その後江戸幕府が崩壊して明治の時代となるのだが、平和な時代が訪れると武力の重要度合が低下することは言うまでもない。
正一郎が面倒を見てきた奇兵隊は無用の長物となり、明治二年十一月に山口藩知事毛利元徳は、奇兵隊を含む長州諸隊5000余名のうち3000余名を論功行賞も無く解雇し、各地を転戦した平民出身の諸隊士は失職してしまった。解雇された元奇兵隊員ら約1800人がこれを不服として山口県庁を取り囲む騒動となる。(脱退騒動) 。
木戸孝允が明治政府の鎮圧軍を率いて脱退軍を撃退し、奇しくも奇兵隊創設者である高杉晋作の父高杉小忠太は山口藩権大参事として旧奇兵隊士を鎮圧する側で活躍したという。

白石正一郎が明治維新後も元奇兵隊の隊士の面倒を見たという説もあるようだが、詳しいことはよくわからない。政治に関与しすぎた正一郎はついに小倉屋を倒産させてしまうのだが、散々彼に世話になってきた連中は、彼に手を差し伸べようとしたのか、あるいは正一郎がそれを固辞したのか。いずれにせよ、新しき世を夢見て志士たちを支援し続けた正一郎にとっては不本意な結果となってしまった。

安徳天皇

明治以降の正一郎の日記には僅かの記録しか活字になっていないのだが、読み進んでいくと、明治十年(1877)に赤間神宮の宮司に就任したことが書かれている。赤間神宮は、文治元年(1185)の壇ノ浦の戦いで入水して果てた安徳天皇ゆかりの神社であり、奇兵隊の隊士が増加し白石邸が手狭となってからは、奇兵隊の本拠地となった場所でもある。

下関の海に生き、尊王の志が人一倍強かった正一郎は、最後に天皇家とゆかりがあり、自分が支援してきた奇兵隊の思い出が詰まった神社の神職となる道を選び、その三年後の明治十三年(1880)に六九歳の人生を終えたのである。

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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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